金蔵の書斎
【南條】「…………また。…お酒を嗜まれましたな?」
聴診器を外しながら、年輩の医師は溜め息を漏らす。埃と甘ったるい異臭の入り混じった薄暗い書斎に、年輩の男たちの姿はあった。
書斎と呼ぶにはとても広い部屋の一角には高級そうなベッドがあり、診察を受ける男と、それを診察する医師。そしてそれを見守る使用人のように見えた。
【金蔵】「酒は我が友だ。お前に負けぬ友人であり、そしてお前よりも付き合いが長い。」
聴診器のために胸をはだけさせていた男は、着衣の乱れを直しながら、悪びれる様子もなくそう言う。
【南條】「…………金蔵さん。…あんたの体が一見調子がいいのは薬が効いてるからだ。だが、そんな強い酒を飲み続けては薬の意味もなくなってしまう。…悪いことは言わん。酒は控えなさい。」
【金蔵】「忠告の気持ちだけはありがたくいただいておく。我が友よ。………源次。もう一杯頼む。心持ち薄めでな。南條の顔も立ててやれ。」
【源次】「………よろしいのですか。」
源次と呼ばれた老齢の執事は、酒を求める主と、それを止める主治医の双方を見比べた後、無言で小さく頷き、己の主の命令に忠実に従うのだった。
彼が酒棚で準備をするのを眺めながら、主治医の南條は再び深い溜め息を漏らす…。
室内を満たしているその匂い。…心も、そして魂も溶かしてしまうような、毒のある甘い匂いは、主人の愛して止まないその毒々しい緑色の酒の匂いだったのだ。
【金蔵】「……南條。お前は私の長きに渡る親友だ。今日まで私を永らえさせてくれたことを、深く感謝する。」
【南條】「私は何も。……医者としての忠告など、金蔵さんはまったく聞いてくれませんからな。」
【金蔵】「はっはっはっは…。お前とて、指し間違えた手を待てと言っても聞かぬではないか。ならば相子というものだろう。」
【源次】「……お館様。」
【金蔵】「すまぬ。……薬は切れても死にはせんが、こいつが切れては死んでしまうでな。」
諦めの表情を浮かべる南條を尻目に、金蔵は源次に差し出されたグラスを受け取る。…いっぱいに満たされたその毒々しい色を見て酒だと連想できる者は少ないだろう。
【金蔵】「………南條。正直に話せ。私の命はあとどの程度持つ?」
【南條】「さぁて…。どのくらいと申し上げれば、そのお酒を控えてくれますやら。」
南條はもう一度、諦めの溜め息を漏らす。そして、結局はグラスを煽る金蔵を見ながら言う。
【南條】「………長くはありませんな。」
【金蔵】「…どの程度に長くないというのだ。」
【南條】「……このチェスで例えましょう。金蔵さんの詰めもなかなかですが、私のキングを追い詰めるには至りますまい。」
南條の目線の先には、サイドテーブルがありそこには重厚なチェスセットが置かれていた。駒を見る限り、ゲームはだいぶ終盤に入っている。
黒のルークやビショップが敵陣深く食い込んでいた。白のキングはすでにキャスリングして追い詰められており、素人目に見てもそう長い時間を掛けずに決着がつきそうに見える。
このチェスは、南條が診察に訪れる度に数手ずつを進め合ってきたものだ。それを指して、決着に至るより金蔵が永眠する方が早いだろうと断言する。…それは医者としてというより、長年の友人としての言葉だった。
【南條】「…………普通の患者になら、遺言を書くよう勧める頃です。」
【金蔵】「……遺言とは何だ、南條。私の屍をどのように食い散らせとハゲタカ共に指南する書置きなのか。」
【南條】「いいや違いますぞ。……遺言は、意思を残すことだ。遺産分配のことだけを書くものじゃない。」
【金蔵】「ほう。……遺産分配以外に書くこととは何なのか。」
【南條】「…………心残りや、遣り残し。受け継いで欲しいことや、……伝えたいこと。……何でもいいんです。」
【金蔵】「……ふ。………受け継いでほしいことや、伝えたいことだと? 馬鹿馬鹿しい。この右代宮金蔵、後に残したいことも伝えたいこともただのひとつもないわッ!! 裸一貫で生まれた。そして裸一貫で死ぬ! 馬鹿息子どもに残したいものなど何一つないわッ!! もしも訪れる最期が今日だとしても、今だとしても! 私は何も恐れることなくその死の運命を受け容れようではないか!! 全てを築き上げた。富も! 名誉も! 全てだ!! それらは私とともに築き上げられ、私とともに失われよう。後に残してやるものなど何もないわッ!! 何もないッ!! あとは野となれ山となれ! 墓も棺も何も望まぬわ!!
それが魔女と私の契約だ! 私が死ぬ時に全てを失う! 初めからその約束だからこそ、何も残らぬのだ。何も残せぬのだ!!」
そこまでを一気に捲くし立てると、金蔵は急にがっくりと肩を落とした。…その表情は、まるで憑き物が落ちたように弱々しいものだった。
【金蔵】「………………だが未練はある。残すものは何一つないが、残したまま逝けぬものが、ひとつだけある…。」
【南條】「………それを書き記せばいい。もちろん、生きている内にこなせればそれでいい。だが万一の時、残された者がそれを引き継いでくれる。自分に万一があっても、必ずその心残りが解決できるように残していく。 ……それが遺言というものです。」
南條がやさしく肩を叩こうとすると、急に激昂した金蔵が南條のその手を払いのける。
【金蔵】「駄目だ駄目だ駄目だ!! 私が生きている内でなくてはならぬ、私は死ねば魂はすぐに契約の悪魔に食らわれて消え去ってしまう! 死後の世界も安らぎも私にはないのだ! だから全ては私が生きている内でなければならぬ!! だから遺言状など私には必要ないッ!! そのようなものを書く暇があったなら……、あったならッ!! …私は見たい。もう一度見たい! ベアトリーチェの微笑む顔がもう一度見たい!! あぁ、ベアトリーチェ、なぜに私をこれほどまでに拒むのか!! 今こそお前に与えられた全てを返そう、全てを失おう!! だから最後にもう一度だけお前の微笑を見せてくれ…。
ベアトリーチェ、頼む後生だ、聞こえているはずだ、お前はそういう女だ! 頼む、姿を見せてくれ!! いるんだろう?! 聞こえていながら姿を消し、今もこの部屋のどこかで私を嘲笑っているのだろう?! 私の前にもう一度現れてくれ、そして微笑んでくれ!! なじってくれてもいい、望むならお前の手で私の命を奪ってくれてもいい!! このままひとりで死にたくないッ!! お前の微笑みを再び一目見るまでは絶対に死ねないのだ!! あぁ、ベアトリーチェ、ベアトリーチェ!! この命はくれてやる、お前にくれてやる!! 後生だ、ベアトリーチェぇぇえぇえぇッ!!!」
調布空港
【戦人】「へー。時代ってやつは進歩してんなぁ…。たったの20分で着いちまうってんだから驚いちまうぜ…。」
頭を掻きながら時代の進歩を驚く他ない。かつては船だった。新島に着くまでで半日もたっぷりは揺られなきゃならなかったんだからな。便利な時代になったもんだぜ。
しかし、あんな小さな飛行機には乗ったことがない。でっかいジャンボジェット機ならあるんだが、こんなスモールサイズは初体験だ。
…やっぱ揺れるんかなぁ。船なんかも小さい方が揺れは大きいって言うし、やっぱ飛行機もそうなんだろか。…はー、勘弁願いたいぜ。
【譲治】「はっははは、大丈夫だよ、戦人くん。船に比べたら全然揺れは少ないよ。」
【戦人】「おわぁッ、じょ、譲治の兄貴かよ! へっへー、急に勘弁してくれよ、今ので寿命が3年縮んじまったぜ。つーか、揺れって何すか? いっひっひっひ、別に俺ぁ飛行機も揺れんのかな、まさか墜ちたりしねぇかなぁ〜なんて、夢にも思っちゃいないぜ〜?」
【譲治】「ごめんごめん。もう小さい頃とは違うよね。あれから6年も経ってるんだし。もう戦人くんも子供じゃないか。はっはははは。」
【戦人】「ちぇー、兄貴はタバコも酒もOKってかよ。タバコは興味ねぇけど、酒は飲んでみたいよなぁ、ひっひっひ! 兄貴なんか、叔父さんの遺伝子あんなら、相当飲めちゃいそうだけど?」
【譲治】「僕の場合は、好きで飲むというよりは仕事で飲む方が多いからね。日本のビジネスは酒抜きでは難しいよ。」
【戦人】「いっひっひー! そ〜っすよねぇ?! だから俺も日頃から予習復習を欠かさないんすよ〜!」
【譲治】「だ、駄目だよ、戦人くんはまだ未成年じゃないか! 未成年の飲酒は発育に悪影響を及ぼす可能性が…、って、う〜ん。」
【戦人】「こんだけ立っ端がありゃー俺の発育は充分っすから〜! むしろちょいと身長縮めた方が服が探しやすいくらい!」
俺は得意げに胸を張ってみせる。
成長期を迎えるまでは、俺の身長はクラスじゃ真ん中よりは前の方だった。それが、あれよあれよという間にでかくなり、今じゃ180cmは超えてる。これも、弛みない筋トレと怪しげな通販の筋力増強剤のお陰だろうなぁ。早々に身長が伸びきった譲治兄貴を10cmも超えて見下ろせる日が来ようとは、夢にも思わなかったぜ。
……あぁ親戚連中に、戦人ちゃん大きくなったわね〜って言われるんだろうなぁ。…アレ、恥ずかしくてたまんねぇから、勘弁願いたいんだけどなぁ。しかし、俺の名前の戦人って、…なんつーか、すげぇ名前だよな。
付けた親のセンスを疑うぜ。初対面でちゃんと読めるヤツはまずいないな。一番多いのはセントくん。残念、そいつぁハズレだぜ。
俺の名は、右代宮戦人。読めるか? 苗字は“うしろみや”。こりゃまだマシだよな。
問題は名前だ。………戦人で“バトラ”って読む。
右代宮戦人(うしろみやばとら)。すげぇぜ。名付けた親もすげぇが、受理したお役所の窓口もすげぇぜ。…そのどっちも、俺の必ず殺すリストの筆頭さ。
んで、彼は俺の従兄にあたるお人だ。名前は右代宮譲治(うしろみやじょうじ)。
俺より5つ上だから、今年で多分23のはずだ。右代宮のいとこは男2人、女2人なので、兄貴とはいっつも一緒に遊んでた。その名残で今も兄貴と呼んでるわけさ。
【秀吉】「しっかし、戦人くんは大きゅうなったなぁ。男子三日会わざれば刮目して待つべしとは、よう言うたもんや。」
【絵羽】「やっぱり血かしらねぇ。留弗夫も高校くらいまでは身長、そんなになかったのよ? 成長期が遅いほうが最終的には伸びるのかもねぇ。」
【戦人】「んなことないっすよ。男は中身も伴わなくっちゃぁ!」
【秀吉】「そうや! 戦人くんはわかっとる! 男は中身で勝負なんや! 常に己の鍛錬を忘れたらあかん。そして虎視眈々とチャンスを待ってドカンと開花させるんや! わしも、まさか今日、会社社長なんて一国一城の主になれるとは思わんかった…。そうや、あの無一文の焼け野原がわしの原点なんや…!」
この恰幅の良さそうな小太りのオヤジは、譲治兄貴の父親の、秀吉(ひでよし)伯父さん。俺の親父の姉の旦那に当たる。つまり血の繋がってない伯父ってわけだ。とても気さくで子供にやさしく、しかもついでに小遣いのはずみもいい、最高の伯父さんってわけさ。
印象的な怪しい関西弁風の方言はオリジナル?のもので、本人は生粋の関東人だ。何でも、ビジネスの世界では印象付けが大事とかで、他の人とは毛色の違う言葉を狙って話すことで自分をより印象付けようという演出らしいんだが。……もっとも、本場の関西人の前では恥ずかしいので、標準語に戻すんだとか。…よくわからんが面白い人なのは間違いない。
【絵羽】「すーぐ自分の自慢話に入っちゃうのが玉に瑕なのよねぇ。およしなさいな。戦人くん、耳にタコが出来ちゃってるんだから。ねー?」
【戦人】「そんなことねぇっすよ、ひっひっひ! でも、いいじゃないすか。語れる武勇伝があるってのは男としてかっこいいことだと思いますよ。俺なんか、語るような話は何もないっすからねぇ。」
【絵羽】「あら、そーぉ? 戦人くんなんか、そのルックスでいっぱい女の子を泣かせてそうだから、さぞかし武勇伝が多そうだと思ったんだけどぉ?」
【戦人】「わたたたッ、じょじょ、冗談じゃないっすよ! そんな妙な武勇伝、あるわけないじゃない〜! むしろ紹介してほしいくらいっす〜!」
【絵羽】「あらぁ、あるんでしょ武勇伝。…くすくす、伯母さんにも後で教えてね。譲治ったらそういう浮ついた話がぜぇんぜんないんだから。うふふふ…。」
この叔母さんは、譲治兄貴の母親の、絵羽(えば)伯母さんだ。俺の親父の姉に当たる。秀吉伯父さんともども、ひょうきんなお人で、昔っからよく俺をからかってくれたもんだぜ。そのせいで、小さい頃、少々苦手だったこともある。…いや、今でも苦手であることを現在進行形で確認中だがなぁ。
まぁでも、譲治兄貴の家族は、何だかんだで面白くてみんな仲は良さそうだよな。……やれやれ、ウチの家族とは大違いだぜ。
【霧江】「戦人くん。留弗夫さんを見なかった?」
【戦人】「え? さっきお手洗いに行くのを見ましたけど? まぁだ出てこないんすか? こりゃあ、ぽっくり逝っちまったかなぁ、ナムナムナム。」
【霧江】「自分のお父さんにそんな言い方はないでしょ。まぁ、あの人のお手洗いが長いのは今に始まったことじゃないしね。」
【戦人】「あ〜、あんにゃろは昔っからそうです。雑誌持ってトイレに入るのやめてほしいんすよね。何の雑誌持ち込んでな〜にをしてんだか! いっひっひ!」
【霧江】「あら、そんな心配は全然不要よ? 私と一緒にいる以上、そんなことひとりでさせやしないもの。」
【戦人】「ひっひっひ! なぁんの話か、後でじっくり聞きたいっすねぇ〜! 親父め、タマまで握られてグゥの音も出ないわけだ。」
【霧江】「握っとかないとどういうことになるか、よーくわかってるでしょ?」
【戦人】「いやいやまったく。あのクソ親父の手綱は霧江さんにしか無理っすよ。実の息子の俺も、喜んで譲っちゃいますわ。」
【霧江】「えぇ、任せてちょうだい。そういうの、得意なのよ?」
この人は、俺の親父の奥さんに当たる人。名は、右代宮霧江(きりえ)。会話を少し聞けばわかるだろうが、俺の実の母親じゃない。いわゆる継母ってヤツさ。
俺の本当のお袋は6年前に死んだ。その後に親父が再婚したのがこの霧江さんってわけだ。俺もさすがにこの歳だ。今さら再婚の相手をお袋とは呼べない。向こうだって、こんなデカくて血も繋がってない連れ子を息子とは呼びたくないだろう。
お互いガキじゃない。喧嘩したって得はないさ。そんなわけで、無理に家族ごっこはしないってことにした。家族でなく、近所のお姉さんというような感じで、比較的フランクに接しあうことにしている。
無理して互いに気持ち悪い思いをするよりは、他人と割り切った方がよっぽど気楽ってもんだ。霧江さんもその辺りは非常にさばさばした人だったので、お陰で俺たちは何とかうまくやれてるわけだ。
そうして、トイレでいない親父の悪口で盛り上がっていると、当の本人がハンカチで手を拭きながら帰ってきた。
【留弗夫】「んん〜? 戦人ぁ。」
【戦人】「何だよ親父ぃ。…いててて! 耳つねんな、耳ぃ!」
【留弗夫】「まぁた、母さんと俺の悪口を言ってたろぉ。なぁんでお前には父親に対する尊敬の念ってやつが沸かねぇんだ〜?」
【戦人】「いてててていてててて! 痛ぇよクソ親父! 俺の耳、伸ばしたって空は飛べねぇぞ、痛ぇ〜〜!!」
【留弗夫】「ほれほれ。上上下下左右左右。お父様、失礼なこといってごめんなさいって言ってみろぅ。」
【戦人】「冗談じゃねぇぜ、そういうのは会員制のお店でやりやがれってんだ。痛ててて、だからは〜なぁせーって!!」
……このクソ親父が俺の親父だ。俺の身長もなかなかのもんだと思うが、親父も同じくらいの立っ端がある。絵羽伯母さんが、俺の身長を見て、親父の血だなと言うのも納得できるだろう。
ちなみに、親父譲りなのは身長だけじゃない。名前の酷さもさ。
親父の名前は右代宮留弗夫。……読めるか? 留弗夫だぞ留弗夫。これで“ルドルフ”って読むんだぜ。たはは…、さぞや、この名前を付けた祖父さまを恨んだだろうよ。だからって俺にまでその妙なネーミングセンスの伝統を受け継ぐんじゃねぇってんだ。
クソ親父が俺の耳をつねり上げて遊んでいると、さらにその後から、親父の耳を絵羽伯母さんがつねり上げる。
【絵羽】「こらこら留弗夫ぅ? 息子を虐待してるんじゃないのぉ。」
【留弗夫】「いててて、痛ぇよ姉貴…。」
その構図は、例え図体が大きくても、いたずらっこな弟にお仕置きする姉という関係そのものだ。
【霧江】「絵羽姉さん、そのくらいにしてあげてください。同じ分、後で反対の耳を私が引っ張って伸ばしておきますので。」
【絵羽】「あら、ごめんなさいね。霧江さんの引っ張る分も残しておかなくっちゃぁ。留弗夫ぅ? 後でたっぷり霧江さんにお仕置きしてもらいなさいねぇ?」
【留弗夫】「ったく姉貴こそ弟虐待もいいとこだぜ。秀吉兄さんもこんな姉貴を拾ってくれて本当にありがとうございます。兄さんの寛大さがなかったら、今でもまだ売れ残ってますよ。弟として申し訳ないです。」
【絵羽】「…ん〜?! だぁれが売れ残るってぇ?」
絵羽伯母さんが2、3歩、ステップで間合いを取ると、相変わらず惚れ惚れしちまう上段後回し蹴りを、親父の鼻先ビッタリ1cmのところで止めてみせる。
美容だか何だかで太極拳を始めて、そこから中国拳法に興味を持って、それで空手だテコンドーだカポエィラだと渡り歩き、…最近は何を習ってんだっけ? …まぁとにかく、絵羽伯母さんが、女の武器は下半身とかいう時は、言葉通りの意味を持つってわけさ。
【絵羽】「留ぅ弗〜夫ぅ〜? 側頭部直撃だと一発で昏倒するわよぅ? この間、演武でミスって相方、泡吹いちゃったんだからねぇ?」
【留弗夫】「…はー、いやいや。足癖の悪い姉貴で本当に申し訳ないです。」
親父は、まったく動じない風で、肩をすくめて秀吉伯父さんに苦笑いを送る。
【秀吉】「わっはっはっは、わしには兄弟がおらん。だから絵羽と留弗夫くんのじゃれ合いを見とると、胸がぽかぽかしてくるんや。兄弟や家族はホンマにええもんやなぁ。」
【霧江】「あら、譲治くんに弟を作ってあげるという話はないんですか? もう譲治くんも立派な大人になって手も離れたでしょうから、次の子がいてもいいでしょうに。」
【留弗夫】「おいおい、霧江ぇ、生まれてくる子の苦労も考えてやれよ。よくこの性悪姉貴から生まれて、譲治くんはあんなにも真っ直ぐ育ってくれたもんさ。本当に譲治くんは偉いな。ウチのボンクラに今度、爪の垢をわけてやってくれよ。」
【霧江】「そんなことないわよ。絵羽姉さんの教育が間違ってなかったから、譲治くんはあんなに素直ないい子になったんだから。ですよねぇ、姉さん。」
【絵羽】「あらあら、そんなぁ、うふふふ、どうかしら…! うちの譲治もまだまだ頼りなくって。そうそう、それよりお宅の縁寿ちゃんはどんな具合なの? 吐いちゃったって聞いたけど?」
【秀吉】「そうやそうや! 久しぶりに顔が見れると思って期待してたんやで。大丈夫なんか!」
【霧江】「いつも季節の変わり目に風邪を引くんです。どうも弱くって…。本当は連れてきたかったんですけど、今回は私の実家に面倒見てもらってます。」
【絵羽】「それが賢明よぅ? 本家の毒気に当てない方が治りは早いもの。大人の都合より子供の病気の方が大事よ?」
【秀吉】「わしな、吐く風邪によーぅ効く薬、知っとんや! 帰ったらすぐ送るさかい、使ぅてくれや!」
【霧江】「ありがとうございます、秀吉兄さん。いつもお世話になりっぱなしで…。」
…なぁんて話にいつの間にか発展しちまうと、俺ら子供の出番なんてありゃしないわけさ。親父につねられた耳の分は絵羽伯母さんがきっちり仕返ししてくれたんで、とりあえず納得することにするか。
【譲治】「まだ、天候調査中がなくならないね。」
譲治兄貴がカウンターを指差す。俺たちが乗る予定の便の、出発予定時刻の脇には相変わらず「天候調査中」の札が付いたままだった。
兄貴が言うには、小型機というものは、風などの天候の影響を強く受けるらしく、天候次第で便の発着時間に大きく影響があることはザラにあるらしい。……おいおい、本当に揺れないんだろうなぁ…?
こうして地上にいる分には、ただの曇天で風があるようには感じられない。…まぁ、飛行機が飛ぶ上空は話が違うのかもしれねぇな。
【絵羽】「ちょっと天気が怪しいものねぇ。」
絵羽伯母さんが待合ロビーのテレビを見ている。そこには天気予報が映し出されていて、関東地方に台風が近付きつつあることを教えてくれていた。
【留弗夫】「また台風か。……親族会議が毎年10月ってんじゃ、これは宿命だぜ。もうちょい時期を選んでくれりゃあいいのによ。」
【絵羽】「同感ねぇ。私もお盆の時期にやってくれればっていっつも思うわよ。なら留弗夫、それ、今回の会議でお父様と兄さんに提案してみればいいじゃない。」
【留弗夫】「…冗談。姉貴が言えよ。俺が何を言っても兄貴は聞かねぇよ。」
【絵羽】「嫌ぁよ。私は別に10月でも困らないもの。留弗夫が、台風が嫌だからって言うから、提案したら?って言っただけよぅ?」
【留弗夫】「俺は台風が来るのはいつものことだなって言っただけだろ。お盆の時期がいいって言い出したのは姉貴だぜぇ?」
【絵羽】「あらぁ、去年留弗夫も言ったわよぅ? お盆の時期なら仕事のスケジュールとも合わせ易いのにぃって!」
【留弗夫】「言ってねぇだろ、そんなことよ。」
【絵羽】「言ったわよぅ。私、そういうのは絶対忘れないもん!」
【留弗夫】「いいや言ってねぇよ、言ってんのはいつも姉貴だよ!」
【絵羽】「知ってるぅ? 寸止めって高等技術なのよぅ?」
【留弗夫】「ちぇ、いい歳した女がはしたなく股ばっか開いてんじゃねぇぜ!」
親父と絵羽伯母さんのやり取りを見ていると、まったくのガキの喧嘩にしか見えないな…。
【譲治】「普段は父親や母親として振舞っていても、こうして親族会議で、元の兄弟に出会うと、子供の頃の自分に戻っちゃうからだろうね。」
【戦人】「と、冷静に分析できる譲治兄貴の方がずっと大人に見えるぜ。……俺は将来、あんなクソ親父みたいにはなりたくないねぇ。なるなら、兄貴みてぇな知的な大人になりたいもんだぜ。」
【譲治】「僕かい? 僕なんかまだまださ。社会経験が全然足りないし社交性も度胸も足りない。…戦人くんには、それらのいくつかがすでにあるように思うよ。だからきっと、成人したら僕なんかすぐに追い抜いちゃうさ。」
譲治兄貴は照れ隠しのように頭を掻きながら笑う。だがもちろん、それは謙遜だ。
兄貴は、大学に入ると同時に秀吉伯父さんの会社に見習いとして入り、学業とビジネスの帝王学を平行して学んだ。そして大学を出てすぐに伯父さんの側近として会社に入り、さらにバリバリと勉強に励みながら、様々な社会経験を重ねている。やがては独立して自分の城を持ちたいという、立派な夢も持っている。それに向かって努力を怠らない兄貴は、まさに男の鑑だ。掛け値なしで尊敬できるぜ。
そこへ俺と来たら。兄貴とは雲泥の差さ。のんびりぼんやりとモラトリアム高校生活を満喫中ってザマだ。
将来の夢なんか全然ナシ! 楽してカッコよく荒稼ぎしてウハウハしたいが、そんなうまい話、あるわけもねぇさな。…兄貴は同じ歳の頃、すでに立派な目標を掲げ勉強中だったんだから、俺なんか足下にも及ばねぇわけさ。
クソ親父は、お前も俺の会社で修行するか、まずは便所掃除からだけどなーとか言いやがる。畜生、絶対にあのクソ親父の世話にはならねぇぞ。俺は俺の人生を切り開いてやる! ………って、威勢だけは一人前なんだが。
巷で流行の自分探しの旅ってヤツでもやってみるかぁ? ……そんなゼニ、かじれるスネもねぇけどな。
その時、秀吉伯父さんが大きな声を上げた。伯父さんは基本的にいい人なんだが、声のボリュームってやつをコントロールできないところだけが玉に瑕だ。
見れば、遅れてやってきた楼座叔母さんたちを出迎えているところだった。
【秀吉】「おーおーおー!! 楼座さんやないか! 真里亞ちゃん、久しぶりやのー!!」
【真里亞】「久しぶりー! うー!」
【楼座】「真里亞! お久しぶりです、でしょ? 言ってごらん?」
【真里亞】「うー。お久しぶり、です…。」
【秀吉】「そうや! よく言えたなぁ! ご褒美に飴玉あげよなぁ! ……っとと、あれ? どこにしまったんや…。」
【霧江】「楼座さん、お久しぶりです。真里亞ちゃんもお久しぶり。」
【楼座】「ご無沙汰してます、霧江姉さん、秀吉兄さん。…と、……あら、戦人くん?! 大きくなったわね…!」
【戦人】「いやぁ〜、はっはっはぁ…。今日は会う度に言われてて恥ずかしいっすよ…!」
【留弗夫】「おう、楼座。遅かったな。飛行機がダイヤ通りだったらギリギリってとこだったぜ…?」
【楼座】「ごめんなさい。列車の接続がうまく行かなくて。何、また天候調査中なの?」
【絵羽】「ボヤかないボヤかない。船で6時間も揺られるくらいなら、飛行機でほんの30分の方がずっとマシよぅ。例え、1時間余計に待たされたって、全然早いんだからぁ。」
【秀吉】「真里亞ちゃんも大きくなったでー!! 今、身長いくつあるんや!」
【真里亞】「うー! 身長いくつあるんやー!」
秀吉伯父さんの質問をオウム返しにして、真里亞は母親に聞く。自分でも今の身長がいくつかよく覚えてないらしいな。育ち盛りの真っ只中だろうから、身長なんて毎月変わってるだろう。もう数年もすりゃ、一気に女らしくなるんだろうよ。
【楼座】「えっと…、この間の身体測定でいくつって出たっけ。これでも少しずつは伸びてるんですよ。ねー?」
【真里亞】「うー!」
【霧江】「去年よりもずっと成長したと思いますよ。えっと、今年で9歳でしたっけ?」
【真里亞】「9歳。うー。」
【譲治】「そうだね、9歳だね。真里亞ちゃんも元気そうでよかった! よいしょ、…んん、もう高い高いをするにはちょっと重くなってきたかなぁ…。」
【戦人】「うわ、譲治兄貴、そりゃあレディに失礼だろ。ほれ、俺がやってやるぜ、高い高い〜。」
【真里亞】「……うー。」
兄貴に代わって彼女を抱き上げてやろうとすると、真里亞はそれを拒絶するように身を固くし、俺の顔をしげしげと見て訝しがる。…あーそうだよな。何しろ6年ぶりってことは、前に会ったのは真里亞が3歳の時だ。俺の顔を覚えてるわけもねぇな。
【霧江】「真里亞ちゃん、覚えてる? 戦人くんよ。一緒に遊んでもらったの忘れちゃった?」
【真里亞】「………うー。」
【留弗夫】「無理だろ。最後に戦人と会ったのは3つの時だぜ。3つの時の記憶なんか残ってねぇよ。」
俺以外とは毎年会ってるから面識もあるだろうが、俺は6年ほど右代宮の家とは縁がなかった。だから、9歳の彼女の記憶に残ってないのも無理はない。俺だって、3つの頃の泣き虫な彼女の記憶がおぼろげに残ってるだけだしな。
【楼座】「真里亞。戦人お兄ちゃんよ。留弗夫兄さんの息子さん。…わかる?」
【真里亞】「…………兄さんの息子さんが。兄さんが息子さん。…………?? ……うーーー!!」
そのうーという声は多分、ややこしい説明が理解できなくてパンクした音なんだろう。ちょっと説明がややこしかったもんな。
【譲治】「真里亞ちゃん。彼は戦人くん。僕と同じ従兄だよ。」
【真里亞】「……譲治お兄ちゃんと同じ? ………………………戦人? 従兄? ……うー。」
【譲治】「そう。よくできたね。」
こういう辺り、兄貴は本当にうまいなぁというか、大人だなぁと思う。未婚のくせに子供のあやし方が完璧過ぎる。さぞや将来、子煩悩な父親になるだろうな。
【真里亞】「…戦人お兄ちゃん?」
その呼び名でよいのかという風な目つきで、真里亞が俺をじっと見ている。
【戦人】「おうよ、俺が戦人だ。よろしくな、真里亞!」
【真里亞】「うー! 戦人!」
【楼座】「こら、真里亞! 呼びつけじゃ駄目でしょ、戦人お兄ちゃんと呼びなさい…!」
【戦人】「いいっすよ楼座叔母さん。細かいことは気にしないっすから。なー、真里亞ぁ! 俺とお前は名前を呼びつけ合う仲だもんなぁ?!」
【真里亞】「戦人戦人ばとらー! うーうー!」
【戦人】「おうよ、真里亞真里亞まりあー! うーうー!!」
6年のブランクを埋め合うように、しばらくの間、俺たちはくるくるとじゃれ合った。彼女にとっては、未だ初対面のデカい兄ちゃんという域を出ないだろうが、その辺はゆっくり交流していけばいいさ。
いやしかし驚いたな。俺の中に残っていた6年前の彼女の記憶とまんま変わらない。やっぱり人間はそうそう変わるもんじゃないんだな。イメージ通りのままの無垢な彼女でいてくれて少し嬉しい。
彼女の名前は、右代宮真里亞。…真里亞は読めるよな? “マリア”と読む。亞の字が十字架っぽいのがちょいとオシャレな感じだ。感情をあまり顔に出さないので、何を考えてるのかわかりにくいが、それはあくまでも表情だけの問題だ。内面は人懐っこい普通の女の子と変わりない。
そして、真里亞の母親の、楼座叔母さん。ウチの親父の妹に当たる。楼座でローザと読む。…これじゃ丸っきり外人だぜ。失礼だが、ウチの親父の留弗夫と双璧を成すとんでもないネーミングさ…。にも関わらず、親父と違って捻くれなかった叔母さんは偉い。
…思えば、親兄弟の名前はみんな外人めいたものだ。祖父さまの趣味なんだろうか。そのお陰で孫の俺らまで迷惑してるんだけどな。その癖、祖父さまの名前は普通に日本人っぽかったりするから腹立たしいぜ?
しかし、楼座叔母さんは他の親類と比べ、ほっとするところがある。クソ親父や絵羽伯母さんには、人をからかったりおちょくったりしようとする、妙な性分があるが、同じ血を引くにも関わらず楼座叔母さんにはそういうところはない。親兄弟の中では一番の常識人なのだ。
秀吉伯父さんと同じで、いつも子供の味方でいてくれるやさしい叔母さんだ。……ただ、教育的には厳しいのか、秀吉伯父さんのように小遣いの気前が良かったりはしないのだけが残念だぜ。
さて。これで飛行機に乗る親族は全員揃った。
まるでそれを見届けたかのようなタイミングで、ロビーに放送があった。
「お待たせしました。新島行き201便の搭乗をこれより開始いたします。ご搭乗のお客様はカウンター前の、白線前に2列でお並び下さい。」
【留弗夫】「楼座、搭乗手続きまだだろ、急げ急げ。」
【楼座】「いけない…! 真里亞、いらっしゃい!」
【真里亞】「うー!」
滑走路に出る前に金属検査を受ける。国際線のような物々しさはなかったが、小型機とはいえ一応は飛行機だ。金属探知機を持った職員にボディチェックを受ける。
並んだ全員がチェックをクリアすると、職員の先導で滑走路に出た。
その行列を見てみると、何だ何だ、右代宮一族しかいないぜ。これじゃまるで、貸切のチャーター機みたいじゃないか。
飛行機の搭乗口前で行列は停まる。先導の職員は振り返り、名簿を見ながら言った。
「それではこれよりご搭乗となります。名簿をお読み上げいたしますので、前方の座席右側から順に、右、左、次の列の右、左と詰めてお座りになってください。それではお読み上げいたします。右代宮秀吉さま!」
【秀吉】「わしからか! はい! …そうだ絵羽、飴玉あるか? さっきから探してるんだが見付からないんや。」
「右代宮絵羽さま。」
【絵羽】「ハンドバッグの中よ。機内に入ったら出すわ。」
離着陸の時の気圧の変化で耳が痛むのの予防に、飴玉がいいとかいう噂を聞いたな。それのことだろう。
【戦人】「…俺の席、窓際だといいなぁ!」
【譲治】「ははは、大丈夫だよ。窓際席しかないもん。」
譲治の兄貴が言うには、座席が2列しかないらしい。さっすが小型機…。………本当に揺れねぇだろうなぁ…?
「右代宮譲治さま。」
【譲治】「はい。大丈夫だよ戦人くん。あんまり揺れないから。」
「右代宮戦人さま。」
【戦人】「あ、兄貴、あんまりってどのくらいだよぉ?! 船から落ちても泳げるからいいが、飛行機は墜ちたらそれでおしまいなんだぜー?! もちろん客席にはパラシュートがあるんだろ? え、ねぇのッ?!」
「右代宮留弗夫さま。」
【留弗夫】「おら、戦人、感動してねぇでとっとと奥行け。」
【戦人】「痛ぇよ親父! 押すなって! パラシュートがねぇんだよ!」
「右代宮霧江さま。」
【霧江】「ほら、仲良くジャレてないの。進む進む。」
【留弗夫】「痛ぇよ霧江! 押すなって! ボンクラが進まねぇんだよ!」
「右代宮真里亞さま。」
【真里亞】「うー! 進む進む!」
「右代宮楼座さま。」
【楼座】「こら、真里亞! 静かにしなさい…。」
「こちらは機長の川畑です。本日は新東京航空201便をご利用いただき、誠にありがとうございます。新島空港までは約20分のフライトの予定です。上空の気流が乱れているとの報告が入っています。多少の揺れがあるかもしれませんので、離陸後もシートベルトは外さないようにお願いいたします。」
【戦人】「あ、兄貴ぃ、シートベルト外しちゃいけない揺れって何だよ?! ジャンボ機なら、離陸後はシートベルト外せるぜぇ?! それが外しちゃいけないってどんな揺れだよ〜お?! くそー、騙されたぁ、何が揺れないだぁ! パラシュートはどこだよ?! やっぱり俺は船がよかったああぁあぁー!!」
【南條】「…………また。…お酒を嗜まれましたな?」
聴診器を外しながら、年輩の医師は溜め息を漏らす。埃と甘ったるい異臭の入り混じった薄暗い書斎に、年輩の男たちの姿はあった。
書斎と呼ぶにはとても広い部屋の一角には高級そうなベッドがあり、診察を受ける男と、それを診察する医師。そしてそれを見守る使用人のように見えた。
【金蔵】「酒は我が友だ。お前に負けぬ友人であり、そしてお前よりも付き合いが長い。」
聴診器のために胸をはだけさせていた男は、着衣の乱れを直しながら、悪びれる様子もなくそう言う。
【南條】「…………金蔵さん。…あんたの体が一見調子がいいのは薬が効いてるからだ。だが、そんな強い酒を飲み続けては薬の意味もなくなってしまう。…悪いことは言わん。酒は控えなさい。」
【金蔵】「忠告の気持ちだけはありがたくいただいておく。我が友よ。………源次。もう一杯頼む。心持ち薄めでな。南條の顔も立ててやれ。」
【源次】「………よろしいのですか。」
源次と呼ばれた老齢の執事は、酒を求める主と、それを止める主治医の双方を見比べた後、無言で小さく頷き、己の主の命令に忠実に従うのだった。
彼が酒棚で準備をするのを眺めながら、主治医の南條は再び深い溜め息を漏らす…。
室内を満たしているその匂い。…心も、そして魂も溶かしてしまうような、毒のある甘い匂いは、主人の愛して止まないその毒々しい緑色の酒の匂いだったのだ。
【金蔵】「……南條。お前は私の長きに渡る親友だ。今日まで私を永らえさせてくれたことを、深く感謝する。」
【南條】「私は何も。……医者としての忠告など、金蔵さんはまったく聞いてくれませんからな。」
【金蔵】「はっはっはっは…。お前とて、指し間違えた手を待てと言っても聞かぬではないか。ならば相子というものだろう。」
【源次】「……お館様。」
【金蔵】「すまぬ。……薬は切れても死にはせんが、こいつが切れては死んでしまうでな。」
諦めの表情を浮かべる南條を尻目に、金蔵は源次に差し出されたグラスを受け取る。…いっぱいに満たされたその毒々しい色を見て酒だと連想できる者は少ないだろう。
【金蔵】「………南條。正直に話せ。私の命はあとどの程度持つ?」
【南條】「さぁて…。どのくらいと申し上げれば、そのお酒を控えてくれますやら。」
南條はもう一度、諦めの溜め息を漏らす。そして、結局はグラスを煽る金蔵を見ながら言う。
【南條】「………長くはありませんな。」
【金蔵】「…どの程度に長くないというのだ。」
【南條】「……このチェスで例えましょう。金蔵さんの詰めもなかなかですが、私のキングを追い詰めるには至りますまい。」
南條の目線の先には、サイドテーブルがありそこには重厚なチェスセットが置かれていた。駒を見る限り、ゲームはだいぶ終盤に入っている。
黒のルークやビショップが敵陣深く食い込んでいた。白のキングはすでにキャスリングして追い詰められており、素人目に見てもそう長い時間を掛けずに決着がつきそうに見える。
このチェスは、南條が診察に訪れる度に数手ずつを進め合ってきたものだ。それを指して、決着に至るより金蔵が永眠する方が早いだろうと断言する。…それは医者としてというより、長年の友人としての言葉だった。
【南條】「…………普通の患者になら、遺言を書くよう勧める頃です。」
【金蔵】「……遺言とは何だ、南條。私の屍をどのように食い散らせとハゲタカ共に指南する書置きなのか。」
【南條】「いいや違いますぞ。……遺言は、意思を残すことだ。遺産分配のことだけを書くものじゃない。」
【金蔵】「ほう。……遺産分配以外に書くこととは何なのか。」
【南條】「…………心残りや、遣り残し。受け継いで欲しいことや、……伝えたいこと。……何でもいいんです。」
【金蔵】「……ふ。………受け継いでほしいことや、伝えたいことだと? 馬鹿馬鹿しい。この右代宮金蔵、後に残したいことも伝えたいこともただのひとつもないわッ!! 裸一貫で生まれた。そして裸一貫で死ぬ! 馬鹿息子どもに残したいものなど何一つないわッ!! もしも訪れる最期が今日だとしても、今だとしても! 私は何も恐れることなくその死の運命を受け容れようではないか!! 全てを築き上げた。富も! 名誉も! 全てだ!! それらは私とともに築き上げられ、私とともに失われよう。後に残してやるものなど何もないわッ!! 何もないッ!! あとは野となれ山となれ! 墓も棺も何も望まぬわ!!
それが魔女と私の契約だ! 私が死ぬ時に全てを失う! 初めからその約束だからこそ、何も残らぬのだ。何も残せぬのだ!!」
そこまでを一気に捲くし立てると、金蔵は急にがっくりと肩を落とした。…その表情は、まるで憑き物が落ちたように弱々しいものだった。
【金蔵】「………………だが未練はある。残すものは何一つないが、残したまま逝けぬものが、ひとつだけある…。」
【南條】「………それを書き記せばいい。もちろん、生きている内にこなせればそれでいい。だが万一の時、残された者がそれを引き継いでくれる。自分に万一があっても、必ずその心残りが解決できるように残していく。 ……それが遺言というものです。」
南條がやさしく肩を叩こうとすると、急に激昂した金蔵が南條のその手を払いのける。
【金蔵】「駄目だ駄目だ駄目だ!! 私が生きている内でなくてはならぬ、私は死ねば魂はすぐに契約の悪魔に食らわれて消え去ってしまう! 死後の世界も安らぎも私にはないのだ! だから全ては私が生きている内でなければならぬ!! だから遺言状など私には必要ないッ!! そのようなものを書く暇があったなら……、あったならッ!! …私は見たい。もう一度見たい! ベアトリーチェの微笑む顔がもう一度見たい!! あぁ、ベアトリーチェ、なぜに私をこれほどまでに拒むのか!! 今こそお前に与えられた全てを返そう、全てを失おう!! だから最後にもう一度だけお前の微笑を見せてくれ…。
ベアトリーチェ、頼む後生だ、聞こえているはずだ、お前はそういう女だ! 頼む、姿を見せてくれ!! いるんだろう?! 聞こえていながら姿を消し、今もこの部屋のどこかで私を嘲笑っているのだろう?! 私の前にもう一度現れてくれ、そして微笑んでくれ!! なじってくれてもいい、望むならお前の手で私の命を奪ってくれてもいい!! このままひとりで死にたくないッ!! お前の微笑みを再び一目見るまでは絶対に死ねないのだ!! あぁ、ベアトリーチェ、ベアトリーチェ!! この命はくれてやる、お前にくれてやる!! 後生だ、ベアトリーチェぇぇえぇえぇッ!!!」
調布空港
【戦人】「へー。時代ってやつは進歩してんなぁ…。たったの20分で着いちまうってんだから驚いちまうぜ…。」
頭を掻きながら時代の進歩を驚く他ない。かつては船だった。新島に着くまでで半日もたっぷりは揺られなきゃならなかったんだからな。便利な時代になったもんだぜ。
しかし、あんな小さな飛行機には乗ったことがない。でっかいジャンボジェット機ならあるんだが、こんなスモールサイズは初体験だ。
…やっぱ揺れるんかなぁ。船なんかも小さい方が揺れは大きいって言うし、やっぱ飛行機もそうなんだろか。…はー、勘弁願いたいぜ。
【譲治】「はっははは、大丈夫だよ、戦人くん。船に比べたら全然揺れは少ないよ。」
【戦人】「おわぁッ、じょ、譲治の兄貴かよ! へっへー、急に勘弁してくれよ、今ので寿命が3年縮んじまったぜ。つーか、揺れって何すか? いっひっひっひ、別に俺ぁ飛行機も揺れんのかな、まさか墜ちたりしねぇかなぁ〜なんて、夢にも思っちゃいないぜ〜?」
【譲治】「ごめんごめん。もう小さい頃とは違うよね。あれから6年も経ってるんだし。もう戦人くんも子供じゃないか。はっはははは。」
【戦人】「ちぇー、兄貴はタバコも酒もOKってかよ。タバコは興味ねぇけど、酒は飲んでみたいよなぁ、ひっひっひ! 兄貴なんか、叔父さんの遺伝子あんなら、相当飲めちゃいそうだけど?」
【譲治】「僕の場合は、好きで飲むというよりは仕事で飲む方が多いからね。日本のビジネスは酒抜きでは難しいよ。」
【戦人】「いっひっひー! そ〜っすよねぇ?! だから俺も日頃から予習復習を欠かさないんすよ〜!」
【譲治】「だ、駄目だよ、戦人くんはまだ未成年じゃないか! 未成年の飲酒は発育に悪影響を及ぼす可能性が…、って、う〜ん。」
【戦人】「こんだけ立っ端がありゃー俺の発育は充分っすから〜! むしろちょいと身長縮めた方が服が探しやすいくらい!」
俺は得意げに胸を張ってみせる。
成長期を迎えるまでは、俺の身長はクラスじゃ真ん中よりは前の方だった。それが、あれよあれよという間にでかくなり、今じゃ180cmは超えてる。これも、弛みない筋トレと怪しげな通販の筋力増強剤のお陰だろうなぁ。早々に身長が伸びきった譲治兄貴を10cmも超えて見下ろせる日が来ようとは、夢にも思わなかったぜ。
……あぁ親戚連中に、戦人ちゃん大きくなったわね〜って言われるんだろうなぁ。…アレ、恥ずかしくてたまんねぇから、勘弁願いたいんだけどなぁ。しかし、俺の名前の戦人って、…なんつーか、すげぇ名前だよな。
付けた親のセンスを疑うぜ。初対面でちゃんと読めるヤツはまずいないな。一番多いのはセントくん。残念、そいつぁハズレだぜ。
俺の名は、右代宮戦人。読めるか? 苗字は“うしろみや”。こりゃまだマシだよな。
問題は名前だ。………戦人で“バトラ”って読む。
右代宮戦人(うしろみやばとら)。すげぇぜ。名付けた親もすげぇが、受理したお役所の窓口もすげぇぜ。…そのどっちも、俺の必ず殺すリストの筆頭さ。
んで、彼は俺の従兄にあたるお人だ。名前は右代宮譲治(うしろみやじょうじ)。
俺より5つ上だから、今年で多分23のはずだ。右代宮のいとこは男2人、女2人なので、兄貴とはいっつも一緒に遊んでた。その名残で今も兄貴と呼んでるわけさ。
【秀吉】「しっかし、戦人くんは大きゅうなったなぁ。男子三日会わざれば刮目して待つべしとは、よう言うたもんや。」
【絵羽】「やっぱり血かしらねぇ。留弗夫も高校くらいまでは身長、そんなになかったのよ? 成長期が遅いほうが最終的には伸びるのかもねぇ。」
【戦人】「んなことないっすよ。男は中身も伴わなくっちゃぁ!」
【秀吉】「そうや! 戦人くんはわかっとる! 男は中身で勝負なんや! 常に己の鍛錬を忘れたらあかん。そして虎視眈々とチャンスを待ってドカンと開花させるんや! わしも、まさか今日、会社社長なんて一国一城の主になれるとは思わんかった…。そうや、あの無一文の焼け野原がわしの原点なんや…!」
この恰幅の良さそうな小太りのオヤジは、譲治兄貴の父親の、秀吉(ひでよし)伯父さん。俺の親父の姉の旦那に当たる。つまり血の繋がってない伯父ってわけだ。とても気さくで子供にやさしく、しかもついでに小遣いのはずみもいい、最高の伯父さんってわけさ。
印象的な怪しい関西弁風の方言はオリジナル?のもので、本人は生粋の関東人だ。何でも、ビジネスの世界では印象付けが大事とかで、他の人とは毛色の違う言葉を狙って話すことで自分をより印象付けようという演出らしいんだが。……もっとも、本場の関西人の前では恥ずかしいので、標準語に戻すんだとか。…よくわからんが面白い人なのは間違いない。
【絵羽】「すーぐ自分の自慢話に入っちゃうのが玉に瑕なのよねぇ。およしなさいな。戦人くん、耳にタコが出来ちゃってるんだから。ねー?」
【戦人】「そんなことねぇっすよ、ひっひっひ! でも、いいじゃないすか。語れる武勇伝があるってのは男としてかっこいいことだと思いますよ。俺なんか、語るような話は何もないっすからねぇ。」
【絵羽】「あら、そーぉ? 戦人くんなんか、そのルックスでいっぱい女の子を泣かせてそうだから、さぞかし武勇伝が多そうだと思ったんだけどぉ?」
【戦人】「わたたたッ、じょじょ、冗談じゃないっすよ! そんな妙な武勇伝、あるわけないじゃない〜! むしろ紹介してほしいくらいっす〜!」
【絵羽】「あらぁ、あるんでしょ武勇伝。…くすくす、伯母さんにも後で教えてね。譲治ったらそういう浮ついた話がぜぇんぜんないんだから。うふふふ…。」
この叔母さんは、譲治兄貴の母親の、絵羽(えば)伯母さんだ。俺の親父の姉に当たる。秀吉伯父さんともども、ひょうきんなお人で、昔っからよく俺をからかってくれたもんだぜ。そのせいで、小さい頃、少々苦手だったこともある。…いや、今でも苦手であることを現在進行形で確認中だがなぁ。
まぁでも、譲治兄貴の家族は、何だかんだで面白くてみんな仲は良さそうだよな。……やれやれ、ウチの家族とは大違いだぜ。
【霧江】「戦人くん。留弗夫さんを見なかった?」
【戦人】「え? さっきお手洗いに行くのを見ましたけど? まぁだ出てこないんすか? こりゃあ、ぽっくり逝っちまったかなぁ、ナムナムナム。」
【霧江】「自分のお父さんにそんな言い方はないでしょ。まぁ、あの人のお手洗いが長いのは今に始まったことじゃないしね。」
【戦人】「あ〜、あんにゃろは昔っからそうです。雑誌持ってトイレに入るのやめてほしいんすよね。何の雑誌持ち込んでな〜にをしてんだか! いっひっひ!」
【霧江】「あら、そんな心配は全然不要よ? 私と一緒にいる以上、そんなことひとりでさせやしないもの。」
【戦人】「ひっひっひ! なぁんの話か、後でじっくり聞きたいっすねぇ〜! 親父め、タマまで握られてグゥの音も出ないわけだ。」
【霧江】「握っとかないとどういうことになるか、よーくわかってるでしょ?」
【戦人】「いやいやまったく。あのクソ親父の手綱は霧江さんにしか無理っすよ。実の息子の俺も、喜んで譲っちゃいますわ。」
【霧江】「えぇ、任せてちょうだい。そういうの、得意なのよ?」
この人は、俺の親父の奥さんに当たる人。名は、右代宮霧江(きりえ)。会話を少し聞けばわかるだろうが、俺の実の母親じゃない。いわゆる継母ってヤツさ。
俺の本当のお袋は6年前に死んだ。その後に親父が再婚したのがこの霧江さんってわけだ。俺もさすがにこの歳だ。今さら再婚の相手をお袋とは呼べない。向こうだって、こんなデカくて血も繋がってない連れ子を息子とは呼びたくないだろう。
お互いガキじゃない。喧嘩したって得はないさ。そんなわけで、無理に家族ごっこはしないってことにした。家族でなく、近所のお姉さんというような感じで、比較的フランクに接しあうことにしている。
無理して互いに気持ち悪い思いをするよりは、他人と割り切った方がよっぽど気楽ってもんだ。霧江さんもその辺りは非常にさばさばした人だったので、お陰で俺たちは何とかうまくやれてるわけだ。
そうして、トイレでいない親父の悪口で盛り上がっていると、当の本人がハンカチで手を拭きながら帰ってきた。
【留弗夫】「んん〜? 戦人ぁ。」
【戦人】「何だよ親父ぃ。…いててて! 耳つねんな、耳ぃ!」
【留弗夫】「まぁた、母さんと俺の悪口を言ってたろぉ。なぁんでお前には父親に対する尊敬の念ってやつが沸かねぇんだ〜?」
【戦人】「いてててていてててて! 痛ぇよクソ親父! 俺の耳、伸ばしたって空は飛べねぇぞ、痛ぇ〜〜!!」
【留弗夫】「ほれほれ。上上下下左右左右。お父様、失礼なこといってごめんなさいって言ってみろぅ。」
【戦人】「冗談じゃねぇぜ、そういうのは会員制のお店でやりやがれってんだ。痛ててて、だからは〜なぁせーって!!」
……このクソ親父が俺の親父だ。俺の身長もなかなかのもんだと思うが、親父も同じくらいの立っ端がある。絵羽伯母さんが、俺の身長を見て、親父の血だなと言うのも納得できるだろう。
ちなみに、親父譲りなのは身長だけじゃない。名前の酷さもさ。
親父の名前は右代宮留弗夫。……読めるか? 留弗夫だぞ留弗夫。これで“ルドルフ”って読むんだぜ。たはは…、さぞや、この名前を付けた祖父さまを恨んだだろうよ。だからって俺にまでその妙なネーミングセンスの伝統を受け継ぐんじゃねぇってんだ。
クソ親父が俺の耳をつねり上げて遊んでいると、さらにその後から、親父の耳を絵羽伯母さんがつねり上げる。
【絵羽】「こらこら留弗夫ぅ? 息子を虐待してるんじゃないのぉ。」
【留弗夫】「いててて、痛ぇよ姉貴…。」
その構図は、例え図体が大きくても、いたずらっこな弟にお仕置きする姉という関係そのものだ。
【霧江】「絵羽姉さん、そのくらいにしてあげてください。同じ分、後で反対の耳を私が引っ張って伸ばしておきますので。」
【絵羽】「あら、ごめんなさいね。霧江さんの引っ張る分も残しておかなくっちゃぁ。留弗夫ぅ? 後でたっぷり霧江さんにお仕置きしてもらいなさいねぇ?」
【留弗夫】「ったく姉貴こそ弟虐待もいいとこだぜ。秀吉兄さんもこんな姉貴を拾ってくれて本当にありがとうございます。兄さんの寛大さがなかったら、今でもまだ売れ残ってますよ。弟として申し訳ないです。」
【絵羽】「…ん〜?! だぁれが売れ残るってぇ?」
絵羽伯母さんが2、3歩、ステップで間合いを取ると、相変わらず惚れ惚れしちまう上段後回し蹴りを、親父の鼻先ビッタリ1cmのところで止めてみせる。
美容だか何だかで太極拳を始めて、そこから中国拳法に興味を持って、それで空手だテコンドーだカポエィラだと渡り歩き、…最近は何を習ってんだっけ? …まぁとにかく、絵羽伯母さんが、女の武器は下半身とかいう時は、言葉通りの意味を持つってわけさ。
【絵羽】「留ぅ弗〜夫ぅ〜? 側頭部直撃だと一発で昏倒するわよぅ? この間、演武でミスって相方、泡吹いちゃったんだからねぇ?」
【留弗夫】「…はー、いやいや。足癖の悪い姉貴で本当に申し訳ないです。」
親父は、まったく動じない風で、肩をすくめて秀吉伯父さんに苦笑いを送る。
【秀吉】「わっはっはっは、わしには兄弟がおらん。だから絵羽と留弗夫くんのじゃれ合いを見とると、胸がぽかぽかしてくるんや。兄弟や家族はホンマにええもんやなぁ。」
【霧江】「あら、譲治くんに弟を作ってあげるという話はないんですか? もう譲治くんも立派な大人になって手も離れたでしょうから、次の子がいてもいいでしょうに。」
【留弗夫】「おいおい、霧江ぇ、生まれてくる子の苦労も考えてやれよ。よくこの性悪姉貴から生まれて、譲治くんはあんなにも真っ直ぐ育ってくれたもんさ。本当に譲治くんは偉いな。ウチのボンクラに今度、爪の垢をわけてやってくれよ。」
【霧江】「そんなことないわよ。絵羽姉さんの教育が間違ってなかったから、譲治くんはあんなに素直ないい子になったんだから。ですよねぇ、姉さん。」
【絵羽】「あらあら、そんなぁ、うふふふ、どうかしら…! うちの譲治もまだまだ頼りなくって。そうそう、それよりお宅の縁寿ちゃんはどんな具合なの? 吐いちゃったって聞いたけど?」
【秀吉】「そうやそうや! 久しぶりに顔が見れると思って期待してたんやで。大丈夫なんか!」
【霧江】「いつも季節の変わり目に風邪を引くんです。どうも弱くって…。本当は連れてきたかったんですけど、今回は私の実家に面倒見てもらってます。」
【絵羽】「それが賢明よぅ? 本家の毒気に当てない方が治りは早いもの。大人の都合より子供の病気の方が大事よ?」
【秀吉】「わしな、吐く風邪によーぅ効く薬、知っとんや! 帰ったらすぐ送るさかい、使ぅてくれや!」
【霧江】「ありがとうございます、秀吉兄さん。いつもお世話になりっぱなしで…。」
…なぁんて話にいつの間にか発展しちまうと、俺ら子供の出番なんてありゃしないわけさ。親父につねられた耳の分は絵羽伯母さんがきっちり仕返ししてくれたんで、とりあえず納得することにするか。
【譲治】「まだ、天候調査中がなくならないね。」
譲治兄貴がカウンターを指差す。俺たちが乗る予定の便の、出発予定時刻の脇には相変わらず「天候調査中」の札が付いたままだった。
兄貴が言うには、小型機というものは、風などの天候の影響を強く受けるらしく、天候次第で便の発着時間に大きく影響があることはザラにあるらしい。……おいおい、本当に揺れないんだろうなぁ…?
こうして地上にいる分には、ただの曇天で風があるようには感じられない。…まぁ、飛行機が飛ぶ上空は話が違うのかもしれねぇな。
【絵羽】「ちょっと天気が怪しいものねぇ。」
絵羽伯母さんが待合ロビーのテレビを見ている。そこには天気予報が映し出されていて、関東地方に台風が近付きつつあることを教えてくれていた。
【留弗夫】「また台風か。……親族会議が毎年10月ってんじゃ、これは宿命だぜ。もうちょい時期を選んでくれりゃあいいのによ。」
【絵羽】「同感ねぇ。私もお盆の時期にやってくれればっていっつも思うわよ。なら留弗夫、それ、今回の会議でお父様と兄さんに提案してみればいいじゃない。」
【留弗夫】「…冗談。姉貴が言えよ。俺が何を言っても兄貴は聞かねぇよ。」
【絵羽】「嫌ぁよ。私は別に10月でも困らないもの。留弗夫が、台風が嫌だからって言うから、提案したら?って言っただけよぅ?」
【留弗夫】「俺は台風が来るのはいつものことだなって言っただけだろ。お盆の時期がいいって言い出したのは姉貴だぜぇ?」
【絵羽】「あらぁ、去年留弗夫も言ったわよぅ? お盆の時期なら仕事のスケジュールとも合わせ易いのにぃって!」
【留弗夫】「言ってねぇだろ、そんなことよ。」
【絵羽】「言ったわよぅ。私、そういうのは絶対忘れないもん!」
【留弗夫】「いいや言ってねぇよ、言ってんのはいつも姉貴だよ!」
【絵羽】「知ってるぅ? 寸止めって高等技術なのよぅ?」
【留弗夫】「ちぇ、いい歳した女がはしたなく股ばっか開いてんじゃねぇぜ!」
親父と絵羽伯母さんのやり取りを見ていると、まったくのガキの喧嘩にしか見えないな…。
【譲治】「普段は父親や母親として振舞っていても、こうして親族会議で、元の兄弟に出会うと、子供の頃の自分に戻っちゃうからだろうね。」
【戦人】「と、冷静に分析できる譲治兄貴の方がずっと大人に見えるぜ。……俺は将来、あんなクソ親父みたいにはなりたくないねぇ。なるなら、兄貴みてぇな知的な大人になりたいもんだぜ。」
【譲治】「僕かい? 僕なんかまだまださ。社会経験が全然足りないし社交性も度胸も足りない。…戦人くんには、それらのいくつかがすでにあるように思うよ。だからきっと、成人したら僕なんかすぐに追い抜いちゃうさ。」
譲治兄貴は照れ隠しのように頭を掻きながら笑う。だがもちろん、それは謙遜だ。
兄貴は、大学に入ると同時に秀吉伯父さんの会社に見習いとして入り、学業とビジネスの帝王学を平行して学んだ。そして大学を出てすぐに伯父さんの側近として会社に入り、さらにバリバリと勉強に励みながら、様々な社会経験を重ねている。やがては独立して自分の城を持ちたいという、立派な夢も持っている。それに向かって努力を怠らない兄貴は、まさに男の鑑だ。掛け値なしで尊敬できるぜ。
そこへ俺と来たら。兄貴とは雲泥の差さ。のんびりぼんやりとモラトリアム高校生活を満喫中ってザマだ。
将来の夢なんか全然ナシ! 楽してカッコよく荒稼ぎしてウハウハしたいが、そんなうまい話、あるわけもねぇさな。…兄貴は同じ歳の頃、すでに立派な目標を掲げ勉強中だったんだから、俺なんか足下にも及ばねぇわけさ。
クソ親父は、お前も俺の会社で修行するか、まずは便所掃除からだけどなーとか言いやがる。畜生、絶対にあのクソ親父の世話にはならねぇぞ。俺は俺の人生を切り開いてやる! ………って、威勢だけは一人前なんだが。
巷で流行の自分探しの旅ってヤツでもやってみるかぁ? ……そんなゼニ、かじれるスネもねぇけどな。
その時、秀吉伯父さんが大きな声を上げた。伯父さんは基本的にいい人なんだが、声のボリュームってやつをコントロールできないところだけが玉に瑕だ。
見れば、遅れてやってきた楼座叔母さんたちを出迎えているところだった。
【秀吉】「おーおーおー!! 楼座さんやないか! 真里亞ちゃん、久しぶりやのー!!」
【真里亞】「久しぶりー! うー!」
【楼座】「真里亞! お久しぶりです、でしょ? 言ってごらん?」
【真里亞】「うー。お久しぶり、です…。」
【秀吉】「そうや! よく言えたなぁ! ご褒美に飴玉あげよなぁ! ……っとと、あれ? どこにしまったんや…。」
【霧江】「楼座さん、お久しぶりです。真里亞ちゃんもお久しぶり。」
【楼座】「ご無沙汰してます、霧江姉さん、秀吉兄さん。…と、……あら、戦人くん?! 大きくなったわね…!」
【戦人】「いやぁ〜、はっはっはぁ…。今日は会う度に言われてて恥ずかしいっすよ…!」
【留弗夫】「おう、楼座。遅かったな。飛行機がダイヤ通りだったらギリギリってとこだったぜ…?」
【楼座】「ごめんなさい。列車の接続がうまく行かなくて。何、また天候調査中なの?」
【絵羽】「ボヤかないボヤかない。船で6時間も揺られるくらいなら、飛行機でほんの30分の方がずっとマシよぅ。例え、1時間余計に待たされたって、全然早いんだからぁ。」
【秀吉】「真里亞ちゃんも大きくなったでー!! 今、身長いくつあるんや!」
【真里亞】「うー! 身長いくつあるんやー!」
秀吉伯父さんの質問をオウム返しにして、真里亞は母親に聞く。自分でも今の身長がいくつかよく覚えてないらしいな。育ち盛りの真っ只中だろうから、身長なんて毎月変わってるだろう。もう数年もすりゃ、一気に女らしくなるんだろうよ。
【楼座】「えっと…、この間の身体測定でいくつって出たっけ。これでも少しずつは伸びてるんですよ。ねー?」
【真里亞】「うー!」
【霧江】「去年よりもずっと成長したと思いますよ。えっと、今年で9歳でしたっけ?」
【真里亞】「9歳。うー。」
【譲治】「そうだね、9歳だね。真里亞ちゃんも元気そうでよかった! よいしょ、…んん、もう高い高いをするにはちょっと重くなってきたかなぁ…。」
【戦人】「うわ、譲治兄貴、そりゃあレディに失礼だろ。ほれ、俺がやってやるぜ、高い高い〜。」
【真里亞】「……うー。」
兄貴に代わって彼女を抱き上げてやろうとすると、真里亞はそれを拒絶するように身を固くし、俺の顔をしげしげと見て訝しがる。…あーそうだよな。何しろ6年ぶりってことは、前に会ったのは真里亞が3歳の時だ。俺の顔を覚えてるわけもねぇな。
【霧江】「真里亞ちゃん、覚えてる? 戦人くんよ。一緒に遊んでもらったの忘れちゃった?」
【真里亞】「………うー。」
【留弗夫】「無理だろ。最後に戦人と会ったのは3つの時だぜ。3つの時の記憶なんか残ってねぇよ。」
俺以外とは毎年会ってるから面識もあるだろうが、俺は6年ほど右代宮の家とは縁がなかった。だから、9歳の彼女の記憶に残ってないのも無理はない。俺だって、3つの頃の泣き虫な彼女の記憶がおぼろげに残ってるだけだしな。
【楼座】「真里亞。戦人お兄ちゃんよ。留弗夫兄さんの息子さん。…わかる?」
【真里亞】「…………兄さんの息子さんが。兄さんが息子さん。…………?? ……うーーー!!」
そのうーという声は多分、ややこしい説明が理解できなくてパンクした音なんだろう。ちょっと説明がややこしかったもんな。
【譲治】「真里亞ちゃん。彼は戦人くん。僕と同じ従兄だよ。」
【真里亞】「……譲治お兄ちゃんと同じ? ………………………戦人? 従兄? ……うー。」
【譲治】「そう。よくできたね。」
こういう辺り、兄貴は本当にうまいなぁというか、大人だなぁと思う。未婚のくせに子供のあやし方が完璧過ぎる。さぞや将来、子煩悩な父親になるだろうな。
【真里亞】「…戦人お兄ちゃん?」
その呼び名でよいのかという風な目つきで、真里亞が俺をじっと見ている。
【戦人】「おうよ、俺が戦人だ。よろしくな、真里亞!」
【真里亞】「うー! 戦人!」
【楼座】「こら、真里亞! 呼びつけじゃ駄目でしょ、戦人お兄ちゃんと呼びなさい…!」
【戦人】「いいっすよ楼座叔母さん。細かいことは気にしないっすから。なー、真里亞ぁ! 俺とお前は名前を呼びつけ合う仲だもんなぁ?!」
【真里亞】「戦人戦人ばとらー! うーうー!」
【戦人】「おうよ、真里亞真里亞まりあー! うーうー!!」
6年のブランクを埋め合うように、しばらくの間、俺たちはくるくるとじゃれ合った。彼女にとっては、未だ初対面のデカい兄ちゃんという域を出ないだろうが、その辺はゆっくり交流していけばいいさ。
いやしかし驚いたな。俺の中に残っていた6年前の彼女の記憶とまんま変わらない。やっぱり人間はそうそう変わるもんじゃないんだな。イメージ通りのままの無垢な彼女でいてくれて少し嬉しい。
彼女の名前は、右代宮真里亞。…真里亞は読めるよな? “マリア”と読む。亞の字が十字架っぽいのがちょいとオシャレな感じだ。感情をあまり顔に出さないので、何を考えてるのかわかりにくいが、それはあくまでも表情だけの問題だ。内面は人懐っこい普通の女の子と変わりない。
そして、真里亞の母親の、楼座叔母さん。ウチの親父の妹に当たる。楼座でローザと読む。…これじゃ丸っきり外人だぜ。失礼だが、ウチの親父の留弗夫と双璧を成すとんでもないネーミングさ…。にも関わらず、親父と違って捻くれなかった叔母さんは偉い。
…思えば、親兄弟の名前はみんな外人めいたものだ。祖父さまの趣味なんだろうか。そのお陰で孫の俺らまで迷惑してるんだけどな。その癖、祖父さまの名前は普通に日本人っぽかったりするから腹立たしいぜ?
しかし、楼座叔母さんは他の親類と比べ、ほっとするところがある。クソ親父や絵羽伯母さんには、人をからかったりおちょくったりしようとする、妙な性分があるが、同じ血を引くにも関わらず楼座叔母さんにはそういうところはない。親兄弟の中では一番の常識人なのだ。
秀吉伯父さんと同じで、いつも子供の味方でいてくれるやさしい叔母さんだ。……ただ、教育的には厳しいのか、秀吉伯父さんのように小遣いの気前が良かったりはしないのだけが残念だぜ。
さて。これで飛行機に乗る親族は全員揃った。
まるでそれを見届けたかのようなタイミングで、ロビーに放送があった。
「お待たせしました。新島行き201便の搭乗をこれより開始いたします。ご搭乗のお客様はカウンター前の、白線前に2列でお並び下さい。」
【留弗夫】「楼座、搭乗手続きまだだろ、急げ急げ。」
【楼座】「いけない…! 真里亞、いらっしゃい!」
【真里亞】「うー!」
滑走路に出る前に金属検査を受ける。国際線のような物々しさはなかったが、小型機とはいえ一応は飛行機だ。金属探知機を持った職員にボディチェックを受ける。
並んだ全員がチェックをクリアすると、職員の先導で滑走路に出た。
その行列を見てみると、何だ何だ、右代宮一族しかいないぜ。これじゃまるで、貸切のチャーター機みたいじゃないか。
飛行機の搭乗口前で行列は停まる。先導の職員は振り返り、名簿を見ながら言った。
「それではこれよりご搭乗となります。名簿をお読み上げいたしますので、前方の座席右側から順に、右、左、次の列の右、左と詰めてお座りになってください。それではお読み上げいたします。右代宮秀吉さま!」
【秀吉】「わしからか! はい! …そうだ絵羽、飴玉あるか? さっきから探してるんだが見付からないんや。」
「右代宮絵羽さま。」
【絵羽】「ハンドバッグの中よ。機内に入ったら出すわ。」
離着陸の時の気圧の変化で耳が痛むのの予防に、飴玉がいいとかいう噂を聞いたな。それのことだろう。
【戦人】「…俺の席、窓際だといいなぁ!」
【譲治】「ははは、大丈夫だよ。窓際席しかないもん。」
譲治の兄貴が言うには、座席が2列しかないらしい。さっすが小型機…。………本当に揺れねぇだろうなぁ…?
「右代宮譲治さま。」
【譲治】「はい。大丈夫だよ戦人くん。あんまり揺れないから。」
「右代宮戦人さま。」
【戦人】「あ、兄貴、あんまりってどのくらいだよぉ?! 船から落ちても泳げるからいいが、飛行機は墜ちたらそれでおしまいなんだぜー?! もちろん客席にはパラシュートがあるんだろ? え、ねぇのッ?!」
「右代宮留弗夫さま。」
【留弗夫】「おら、戦人、感動してねぇでとっとと奥行け。」
【戦人】「痛ぇよ親父! 押すなって! パラシュートがねぇんだよ!」
「右代宮霧江さま。」
【霧江】「ほら、仲良くジャレてないの。進む進む。」
【留弗夫】「痛ぇよ霧江! 押すなって! ボンクラが進まねぇんだよ!」
「右代宮真里亞さま。」
【真里亞】「うー! 進む進む!」
「右代宮楼座さま。」
【楼座】「こら、真里亞! 静かにしなさい…。」
「こちらは機長の川畑です。本日は新東京航空201便をご利用いただき、誠にありがとうございます。新島空港までは約20分のフライトの予定です。上空の気流が乱れているとの報告が入っています。多少の揺れがあるかもしれませんので、離陸後もシートベルトは外さないようにお願いいたします。」
【戦人】「あ、兄貴ぃ、シートベルト外しちゃいけない揺れって何だよ?! ジャンボ機なら、離陸後はシートベルト外せるぜぇ?! それが外しちゃいけないってどんな揺れだよ〜お?! くそー、騙されたぁ、何が揺れないだぁ! パラシュートはどこだよ?! やっぱり俺は船がよかったああぁあぁー!!」
EP1は事件もわかりやすく、読者の理解度が最も高いエピソードと思われる。
この金蔵の場面については、1984年以前の描写と考えれば矛盾はない。
この金蔵の場面については、1984年以前の描写と考えれば矛盾はない。