うみねこのなく頃に 全文解説

はじめに EP1 EP2 EP3 EP4 EP5 EP6 EP7 EP8

EP3: Banquet of the golden witch

オープニング

九羽鳥庵
 それは、とてもとても美しくて、価値と歴史のある素晴らしい壷でした。幼い私が見ても、その美しさにため息が堪えられないほどに。
 もちろんそれは、お祖父さまにとってもっともお気に入りのコレクションのひとつ。その儚き美しさが、間違って欠けてしまうようなことがないように、私には絶対触れてはならないと日頃から厳命されていました。
 ……でも、だから触れてみたかったのです。このような透き通るようで、だけれども気品があって、軽やかに見えながら物言わぬ重厚感があり。…そんな壷に触れたなら、どんな手触りなのか、試してみたかったのです。
 しかし、…それはお祖父さまが言われた通り、触れてはならないものだったのです。
 これほどの美しさは、触れてはならぬものだからこそ。触れれば壊れるほどに儚いものにしか宿らぬ美しさ。
 だからこそ、私如きの指が触れたなら、それはあっさりと。楽しい朝の夢が、ふぅっと消えて目が覚めてしまうように。……消えて、落ちて、砕け散ってしまったのです。
 私は、自らの愚かな好奇心が取り返しのつかないことをしてしまったことを悟りました。
 いくら後悔しても、いくら謝っても。砕けてしまった壷は元の姿に戻ってはくれません…。
 私はお祖父さまに叱られるでしょう。とても厳しく叱られるでしょう。それに怯え、私はしくしくと、仕舞いにはわんわんと泣き出すのでした…。
 すると、…………美しく、軽やかに舞う黄金の蝶が、ふわりふわりとやって来るのに気付きました。
 黄金の燐粉で幻想的に輝きながら、その美しき蝶が一匹、二匹と集まります。
 あぁ、ベアトリーチェです。頼もしき黄金の魔女、ベアトリーチェが来てくれたのです。
 蝶が次々と集まって群となると、そこには彼女の姿が…。
 彼女はいつだって私の味方。私が困っていると、いつだって現れて助けてくれるのです。
 EP3はベアトの夢からスタート。必ずしも事実とは限らないことに注意。
【先代ベアト】「御機嫌よう、お姫様。」
【少女】「ベアトリーチェ! ……ううぅ、ひっく、えっく…!」
【先代ベアト】「おやおや…。このような絶好のお茶会日和に、どうして姫様はそのように涙を零されているのですか…?」
【少女】「…お祖父さまが大切にしていた壷を、壊してしまったの…。うぅ、お祖父さまに怒られます。…どうしたらいいかわからなくて…。ひっく…。」
【先代ベアト】「それは困りましたね。これはお館様が大層お気に入りになられていた壷のはず。……ほほほほ、どのような折檻があるか、このベアトリーチェ、想像するのも恐ろしゅうございます。」
 お祖父さまはとても恐ろしい方です。そして、一度言い聞かせたことが守られなかった時は、地獄の堕天使も震え上がるほどに怒り狂うのです。私はそれを骨身に染みてよく知っていましたから、こうして震えながら涙を零すしかないのです…。
【先代ベアト】「零してしまった姫様の涙を掬う魔法は持ち合わせておりませんが、姫様がお館様から折檻を受けなくて済むようにする魔法なら、何とかなるかもしれません。」
【少女】「ほ、本当…?」
【先代ベアト】「姫様が私の力をお信じ下されば、でございます。魔法の力の根源は、信じる力。……奇跡は、それを強く信じる者の前にしか示されません。」
【少女】「し、…信じる…。ベアトリーチェの魔法を信じます。だからこの壷を直してください。お願いします…!」
【先代ベアト】「姫様がそれをお望みでしたら。……それではこのベアトリーチェに、お任せを。」
 彼女が人差し指を立てると、そこにふわりと黄金の蝶が止まり、彼女が愛用するケーンに姿を変えます。
 ただそれだけのことでも、私はベアトリーチェの素晴らしき、そして偉大なる魔法の力の一端を垣間見るのです。彼女は、砕けた壷にケーンを向け、まるで赤ん坊に子守唄を聞かせるように、魔法の言葉を語りかけます…。
【先代ベアト】「さぁさ、目を閉じて御覧なさい。そして思い出して御覧なさい。あなたがどんな姿をしていたのか。それはきっと、とてもとても美しい姿。どうか私に、あの姿をもう一度見せておくれ…。」
 それは言葉なのか、唄なのか。いや、魔法に違いないのです。
 だってほら、みるみると壷の破片が寄り集まり、…飾られていた場所にふわりふわりと戻っていって、……元の美しい姿に戻ったのですから。
【少女】「……すごい…。」
【先代ベアト】「ほら。これで元通りですよ。これでお館様にお叱りを受けずに済みますね。」
【少女】「ベアトリーチェはすごいね。壊れた壷を直すなんて、造作もないんだね。」
【先代ベアト】「そんなことはありませんよ。壊れてしまったものを、元に戻すのはとてもとても難しいことです。私の魔法は、一時、それを思い出させるだけに過ぎませんよ。」
【少女】「……? でも、壷はちゃんと元通りになったよ…?」
【先代ベアト】「そうですね。ですがそれは、壷が壊れたという運命を回避させたわけではありません。壊れた壷に、一時、壊れる前の姿を思い出させただけに過ぎません。壊れた運命を、元の姿に修復するほどの魔力は、このベアトリーチェにも未だ至らぬ遥かな高みなのです。」
 その時、お屋敷から使用人の甲高い悲鳴が聞こえました。
 何事かと行ってみると、……使用人たちが何人か集まり、砕けてしまっている壷の後片付けをしているところでした。使用人たちが言うには、どこからか紛れ込んできた黒猫が、壷によじ登って倒してしまった、と言うのです。
 私はベアトリーチェが言った意味を理解します。…私が壷を割ってしまった時点で、“壷は割れた”のです。
 ベアトリーチェは、壷を蘇らせて見せたが、それは仮のもの。“壷は割れた”という運命までも変えたわけではない。
 その結果、……壷は、本来の運命を思い出し、“割れた”。しかし、割ったのは私ではなく、迷い込んだ猫に代わった…。
 そう。ベアトリーチェは、壷を直しましょうとは言っていない。私が、折檻を受けずに済むようにしましょうと言ったのです。
 お姫様は紗音、先代ベアトは熊沢。
 ただし、熊沢が本当にベアトリーチェと名乗り、紗音のことを「姫様」などと呼んだというわけではない。
 ベアトがこういう夢を見ているというだけであり、背景が九羽鳥庵なのも、違うベアトの記憶が混ざっているため。
 壷が割れたという運命までは変えられなかったが、私が割ったという事実だけは、確かに変わった…。ベアトリーチェは、見事にその魔法で私の危機を救ってくれたのでした…。
【先代ベアト】「物を壊すことは、とても容易なことです。姫様が壷を割るのに、魔法を必要としなかったように。」
【少女】「…直すことは、とても難しいこと…?」
【先代ベアト】「はい。姫様が途方に暮れて泣き出してしまうほどに。」
【少女】「……魔法というのは、恐ろしいことをする時の方が容易いの? 壊したり、……殺したりすることは簡単にできるのに、直したり、蘇らせたりするのは、とても難しいと言うし…。」
【先代ベアト】「……そうですね。魔法は、殺めたり、壊したりすることの方がとても簡単です。ゆえに、誘惑に負ける弱き魔女たちは、安易に身に付けられる力に酔い、本当の魔法の修行を怠ってしまいます。……本当の魔法とは、直す力、蘇らせる力。散ってしまった幸せを呼び戻し、冷めてしまった愛をも呼び戻す。そして微笑を忘れてしまった姫様の顔に、笑顔を呼び戻せるのですよ。」
【少女】「なら、……壷を直すことができたベアトリーチェは、すごい魔女ということ?」
【先代ベアト】「私など、まだまだ修行の日々ですよ。壷が割れるという運命を、私の魔法ではほんの一時間も忘れさせることが出来なかったのですから。私に魔法を教えてくれたお師匠様ならきっと、永遠に。壷を元の姿に蘇らせることができたでしょうね。」
【少女】「壊れても壊れても、何度でも何度でも直せる…?」
【先代ベアト】「えぇ。その境地に達した時、無限の魔力が備わるでしょう。それこそが、魔女の達するべき無限の境地。私たちはその魔女を、最大の敬いをもってこう呼びます。」
【少女】「無限の魔女…。」
【先代ベアト】「そうです。……無限に直す力を持つ魔女にとって、壊れるという概念はもはや存在しない。失うという全ての悲しみから解放され、永遠の至福を約束されるのです。」
 確かに、人の世は離別と喪失の悲しみでいっぱいだ。その悲しみから逃れるために、神に祈り、それを試練だと信じて耐える力を乞う…。つまり、人の人生とは、悲しみを如何にして堪えるかを探る旅なのだ。
 だとしたら、万物を蘇らせることができる魔女は、この世の悲しみの全てから解き放たれている。……つまりそれは、永遠の至福…。
【少女】「私も、……ベアトリーチェみたいな魔女になって、永遠に幸せになれるかな。」
【先代ベアト】「姫様が、ですか…? ほっほっほ…、それはそれは長い長い、大変な修行となりますよ?」
【少女】「私、魔女になりたい。……幸せになりたい。ベアトリーチェの弟子になりたい。」
【先代ベアト】「……………。そのお気持ちに、些かの揺らぎもありませんか?」
【少女】「はい。私も、魔女になりたいです。」
【先代ベアト】「……わかりました。では、姫様がお飽きになるまで、私の弟子にして差し上げましょう。…私のことを、お師匠様と呼べますか?」
【少女】「はい、お師匠様。」
【先代ベアト】「良い返事ですね。ではこれからは私と一緒に、魔法の深淵を学んでいきましょう。私とて修行の身。共に魔法を正しく学び、至福の境地を目指して頑張りましょう。」
【少女】「はい、お師匠様…!」
魔女の喫茶室
【ベアト】「……………………。…夢、か。……懐かしい顔だ。」
 無限の魔女、か。
 かつては憧れた、最高の到達点の称号は今や、妾にとってほんの肩書きのひとつでしかない。いや、代名詞とすら言っていいか。
【ベアト】「…たまには、その呼び名に充足を感じるのも乙なものかも知れぬな。長き修行の日々の果てに得たものではないか。…たまには有難味を感じねば、少々勿体無いというものよ。……くっくくくくく。」
 緩やかに頭を振る。最高の到達点とは曰く、それ以上がないということ。永遠の行き止まり、永遠の退屈の始まりだ。
【ベアト】「お師匠様は言っていたな。全ての悲しみから解き放たれることが即ち、永遠の至福だと。……だからこそ、故に思う。お師匠様はその域に至れなかったとな。」
 永遠の至福とはつまり、永遠の退屈。…これは永遠の拷問の始まりなのだ。
 しかし、物は考えようか。永遠の退屈とはつまり、ページの尽きぬスケッチブックのようなものだ。好きに描き、好きに楽しむ努力がいくらでも出来るということだ。
 退屈は全ての魔女を殺す最悪の毒。……卿の称号を持つ大魔女とて恐れるほどの。永遠の至福に辿り着いた故に苛む、永遠の毒…。
【ベアト】「無限の魔女の名を得た今だからこそ、再びお師匠様と語らいたいものよ。……我等の修行の果てにあったのは、本当に“幸せ”だったのか。そして本当の“幸せ”とは何なのか、今こそ語り合いたいものよ。」
“修行に終わりはありませんよ。永遠の境地に辿り着いた、と思った時こそが、その未熟さを悔いる時なのです。”
 ……自分の言葉に答えるかのように、そんなことを言っていたのを思い出す。
【ベアト】「くくくく、はっははははははははは…。なるほど、……妾は未熟、か! それは良い、それは良い。くっくっくっくっく…!」
 黄色い耳障りな哄笑が聞こえてくる。妾の家具たちのものだ。…また玩具を壊したか。
【ベルゼ】「ベアトリーチェさまぁ。こいつ、また動かなくなっちゃいましたぁ。」
【マモン】「まだ私、全然遊び足りないのにぃ。情けない男ぉ。」
【レヴィア】「私なんか全然遊んでないのにぃー! 私にも遊ばせて遊ばせてぇー!」
【サタン】「お黙りなさい、屑どもが! お前たちが飢えた犬みたいにがっつくから、いくらベアトリーチェさまが直しても、すぐ壊しちゃうのよ。」
【ベルフェ】「サタン姉が一番壊してるよ。加減を知らないから。」
【ルシファー】「申し訳ございません、ベアトリーチェさま。愚妹どもをどうかお許し下さい。」
【アスモ】「早くこいつを直してー! 次は私、次は私ぃー!」
【ベアト】「静かにせぬか、やかましいッ!!」
「「「「「「「ひぃッ!!」」」」」」」
 一括しただけで、騒がしき七杭の姉妹は姿を消して隠れてしまう。好きなだけ騒いで、遊んで壊して。後始末だけは妾に押し付ける。…まったく退屈させない家具たちだ。
 家具たちが姿を消した後には、…ぐちゃぐちゃに壊れた玩具の残骸が残されている。もはや原型を留めてはいなかった。
【ベアト】「…このザマでは、妾とて元の姿を思い出すのも難しい。当の本人に思い出させるのが一番か。……やれやれ。」
 妾は黄金の煙管を振り上げる。そして告げる。詠う。思い出させる。
【ベアト】「……さぁさ、思い出して御覧なさい。あなたがどんな姿をしていたのか。…何しろ妾には、今のそなたは肉の残骸の山にしか見えぬのでな。どれが腕やら足やら見当もつかぬ。そなたが思い出してくれなければ、妾にはそなたの面影も思い出せぬ。くっくくくく!」
 哀れな肉片が、魔法の力によって、自分たちがどのような姿をしていたのか、思い出し始める。誰が誰と繋がっていたのか。どことどこがどう組みあがっていたのか。
 そうそう、その調子。…違う違う、お前は左手の指だろう。そちらは右手だ。そうそう、よしよし、くっくっく。
【ベアト】「…おはよう。目が覚めたか、右代宮戦人ぁ。もっとも、目が覚めた方が悪夢の中とは実に皮肉な話だがな。」
【戦人】「………げほ、…げほっ…。………っく、…痛ててて……。」
【ベアト】「妾を魔女と認めさえすれば、すぐにそなたの悪夢を覚まし、天国へ誘ってやろうぞ。妾こそは煉獄山の王。妾の許し無しにこの地獄より抜け出す方法はないのだ。」
【戦人】「へ、…へへへへ。この程度で地獄かよ、駄目だな。あぁ、全然駄目だぜ。」
【ベアト】「人ならば一度しか味わわずに済む死の苦しみを、もう両手の指では数え切れぬほど与えられたというのに、よくもそれだけの減らず口を叩けるものよ。くっくっく! だからこそ飽きぬ。そなたには飽きぬのよ。」
【戦人】「あぁ、全然飽きねぇぜ。何しろ、太股の眩しいデカ乳姉ちゃんたちが選り取り見取りのハーレム状態なんだからよ。お陰様でまるで退屈しねぇぜ。」
【ベアト】「くくくくく、くっくくくくくく! それはよかった。そうでなくては妾も退屈だ。それ、家具ども。直してやったぞ、また存分に遊ぶが良い。」
【マモン】「ありがとうございますぅ! きゃっはッ、私がいただきぃ!」
【レヴィア】「だからあんたは終わりよ終わり、次は私なのぉ! 退きなさいよ、わあん!」
【アスモ】「うっふふふふ。素敵よね、戦人くぅん? モテモテじゃない。」
【戦人】「モテる男は辛いぜ。畜生ども、順番に並びやがれってんだ。」
【ベルフェ】「虚勢など張らずに素直になれば、もっと楽になれるのに。」
【ベルゼ】「いいのよこれで。その方が悲鳴が気持ちいいもの。」
【サタン】「さぁ、今度は簡単に壊すんじゃないわよ。いいわね、返事は?!」
【ルシファー】「あんたが仕切るんじゃないわよ! さぁ、戦人くん。さっきの続きよ? マスターキーで朱志香ちゃんの部屋を施錠した後、どうやって室内の死体のポケットに鍵を戻したというの?」
【戦人】「……例えばよぅ。…そうさ、釣り糸か何かを使って、鍵だけを扉の隙間から室内に戻して…。」
【アスモ】「きゃっはははははははッ!! ハーズレぇ!」
【ベルフェ】「甘いな。六軒島に存在する全ての扉は、鍵が通り抜けられる隙間などない。」
【レヴィア】「ハズレたね、ハズレたねぇ?! さぁ今度は私よ、私の番なのよ! どぉこを貫いちゃおっかなぁ!」
【マモン】「私、手の甲!」
【ベルゼ】「ずるいぃ! じゃあ反対の手の甲!」
【ルシファー】「私は鼻の頭をもらっちゃおっと!」
【レヴィア】「何で何で、私にもやらせて、私にも貫かせてぇ! わあん!!」
【サタン】「レヴィア姉はトロいのよ、いつだって私たちは早い者勝ちでしょうが! じゃあ私は足の甲をいただいちゃおっと!」
【レヴィア】「わぁん!! 私も私もぉー! 私は肩をもらっちゃうからいいもん!」
【戦人】「け…。姉妹なんだろ、仲良くしやがれってんだ。……ぐぅおお、……ぉ、………ッ…。」
【ベルフェ】「……よくも堪えるものだな。お前のその痩せ我慢が、むしろ私たちを楽しませているだけだと、なぜ気付かない?」
【戦人】「生憎だなぁ。痩せ我慢と意地の張り合いは俺の十八番なんだ。お前らがどう俺を煙に撒こうとも、俺は絶対に魔女も魔法も認めねぇ…!」
【サタン】「人間とトリックで何も説明できないくせに? 馬ッ鹿じゃないの?! この身の程知らずが!」
【ルシファー】「いいのよ、無理に認めさせなくても。今に泣きながら認めたくなるわ。今だって、本当は哀れに土下座しながら許しを乞いたいくせにぃ!」
【戦人】「うぐぉッ、ぐごげげげがぎゃがッ…!!」
【アスモ】「あーん、もう壊しちゃったぁ! ベアトリーチェさまぁー!」
【ベアト】「……やれやれ。妾がいくらでも蘇らせられることを知っているから、家具どもも壊すことに躊躇がない。困ったものよ。」
 無限の蘇生は、無限の死をも自在にする。無限の魔女ベアトリーチェの前には、全ての生き死には意味をなさない。死すらも、妾の檻から逃れる鍵にはなり得ないのだ。
【ベアト】「さぁ、戦人。再び元の姿を思い出すがいい。何度でも弄んでやるぞ? なるほどなるほど、永久に遊べる玩具とは実に愉快よ。……なるほどな、これが無限の境地に至った魔女が得る至福の境地とやらなのか。
 なるほどなるほど。これは確かに愉快で至福だ。くっくくくくくくくく! わっははははははははははは!! 何度でも蘇らせてやる、何度でも殺してやるッ! さぁて、次なるゲーム盤ではどのような殺人劇を繰り広げよう? さぁ、新しきゲーム盤を持て。次なるゲームを始めようではないか、右代宮戦人ぁ!!」
 熊沢は、猫が壷を割ったということにして、紗音が金蔵に叱られないようにした。その口裏合わせが魔法となった。

少女時代
10月4日(土)

六軒島への船
【留弗夫】「やれやれ。姉貴の煙草嫌いにも参ったもんだな。」
【秀吉】「すまんなぁ。昨夜からカリカリしとるんや。気にせんでやってくれんか。」
 留弗夫と秀吉は甲板に出て、煙草を取り出す。
 絵羽が煙草の臭いを嫌うのは昔からのことだが、不機嫌になるとさらにそれが過敏になる。島に着くまでをのんびり喫煙して過ごそうとした二人はそれを咎められ、甲板に追い出されたのだ。
 秀吉はライターを灯すが、甲板の強風でうまく付かない。留弗夫は、洒落た仕草でジッポを取り出すと、秀吉に火を貸すのだった。
【留弗夫】「秀吉兄さんはいつ頃から煙草を?」
【秀吉】「戦後すぐや。最初は煙草を転がしとってなぁ。自分の売り物に手を付けてしまったわけや。わははははははは。」
【留弗夫】「じゃあ、姉貴と会った時にはもう吸ってたわけだ。姉貴には、ずいぶん止めろ止めろと言われたでしょう。」
【秀吉】「わしが聞く耳持たんもんだから、あれももうすっかり諦めよった。わはは、やはり男は強情でなくてはあかんな。」
 秀吉は豪快そうに笑って見せるが、留弗夫はくすりと笑う。絵羽に表で吸えと叱られて、一緒にすごすごと甲板に逃げ出してきたのだ。尻に敷かれているに、ほぼ間違いあるまい。
【秀吉】「…普段はあそこまで短気じゃないんや。……いいや、普段はもっと温和な、大人しい女なんやで。毎年毎年、この日になると人が変わりよるんや。」
【留弗夫】「そうなんですか? 俺らがよく知る昔っからの姉貴そのものに見えますがねぇ。」
【秀吉】「……そうや。右代宮家の絵羽に戻るんや。…でも、それはわしと一緒の絵羽とは違うんや。」
【留弗夫】「………………。まぁ、カリカリする気持ちもわかります。…今回の親族会議は面倒だ。」
【秀吉】「……そやな。…あの蔵臼兄さんから、カネを脅し取ろうっちゅう計画や。親族会議なんて名ばかりの、こりゃただの兄弟喧嘩や。」
 親族会議を前に、蔵臼を除く3人の兄弟は密約を結んでいた。彼らには互いに差し迫った状況があり、取り急ぎ莫大なカネが必要なのだ。そしてそのアテは、書斎に閉じ篭った金蔵に代わって、右代宮家の当主を代行する蔵臼しかない。
 蔵臼が、金蔵が財産に関心を失ったのをいい事に、それを私物化し摘み食いをしていることは、ずいぶん前から薄々と感付いていた。
 自分たちが軌道に乗っている時は、憎々しく思いながらも、見て見ぬふりをしていたが、…自分たちにもカネがいる今の状況では、それはとても黙認できるものではない。絵羽は、留弗夫と楼座に連帯を呼び掛け、それを突く事で蔵臼からカネを引き出そうと企んでいる…。
【秀吉】「………わしも、そして留弗夫くんも社長や。社員の生活を背負っとる身や。」
【留弗夫】「楼座も社長ですよ。まぁ、道楽ですが。」
【秀吉】「そうやな、失礼。……つまり、わしらは誰もが、背負うモノを持っとるっちゅうことや。」
【留弗夫】「…俺も、幹部連中の前で啖呵を切った以上、土下座しても、泥を啜ってでもカネを引っ張ってこなきゃならない。」
【秀吉】「お互い様や。…わしも、わしを信じて付いて来てくれた社員たちを裏切れん。……それこそ、蔵臼兄さんの首根っこを引っ掴んででも、カネを引っ張り出さんといかんのや。」
【留弗夫】「姉貴は、昔っから兄貴とは犬猿だ。…その兄貴と全面対決しなくちゃならねぇんだから。そりゃあカリカリもするだろうよ。」
【秀吉】「やっぱり、絵羽は蔵臼兄さんとは昔っから仲が悪かったんか…?」
【留弗夫】「本人、話しませんか? そりゃあもう、盛大に。」
【秀吉】「昔の話は、聞いても話してくれんのや。……思い出したい話がないんやろな。」
【留弗夫】「…姉貴は昔っから、要領も良くて頭が良かった。成績も良かった。それに比べ、兄貴は凡才だった。…ただ、側にいるだけでも充分にプレッシャーだったろうに、姉貴はわざわざそれを誇示してして兄貴を追い詰めていた。」
【秀吉】「……あほやなぁ…。何でそない敵愾心剥き出しで追い詰めるんや。そういうのは要領がいいとは言わん。」
【留弗夫】「ははは、確かに。………姉貴は、女に生まれたことを悔やんでた。…だから、男というだけの理由で、当主を継ぐことが決まっている兄貴が、多分、許せなかったんだ。…だからことあるごとに自分の方が優秀であると親父に誇示していたっけ。」
【秀吉】「お父さんは古いタイプのお人や。男女には差別的な価値観を持っとった。…自己顕示の強い絵羽は、少々嫌われてたんとちゃうか…。」
【留弗夫】「………………………。」
食堂
「女の学力は、紅茶の砂糖にも似ていると思わないかね? ないのも味気ないが、過ぎれば紅茶の味わいを大いに損なう。」
 …紅茶は、砂糖がなくとも飲めることを思えば、これはつまり、女に学問は不要だと言っているのとまったく同じだ。この腹立たしい言葉は、私が大学院を希望したが父に拒否され、失意の私に兄が吐いた暴言だ。
 私は、自分が右代宮家の長女として相応しい品格と教養を身につける上で、大学院進学は必要なものだと訴えた。しかし、父と兄の返事はどちらも要約するとまったく同じ。“女のクセに生意気だ”、だった。
 私は右代宮の家に生まれたその時から、その名を軽んじたことなど、一度もない。そしてそれ以上に、父である右代宮金蔵の名を軽んじたことなど、ただの一度もない。
 伝統ある旧家ではあるが、関東大震災であらゆる財産や事業を失い、一度は傾きかけた。それを父は天才的才能を発揮して、かつて以上に復興させて見せたのだ。その、偉大なる右代宮金蔵の娘であることの意味を忘れたことなど、ただの一度もない。
 だからこそ、それに相応しくあろうと私は常に努力してきた。右代宮家に相応しい品格。学力。立ち居振る舞い。そしてリーダーシップ。父には到底及ばなくても、金融や経済に学識を深め、いつでもその手伝いができるよう自分を研磨してきたはずだった。
 ……しかし、それが父に認められることはついになかった。父にとって、女は男を支えるものでしかなく、それ以上であることを許さなかったからだ。
 それを、私はいつ理解したのだろう。……少女時代にはもう、理解していたのかもしれない。…でも、それを本当の意味で受け容れるには、成人を待たなければならなかった。
 2つ年上の兄、蔵臼は、私に比べたらまったくと言っていいほど、右代宮家に相応しくあろうという努力をしているとは言えなかった。
 兄は、自分が男に生まれたというだけで、自分が父の後を継ぐのが当然であると、幼少の頃から何度も口にしてきた。…それが、私との絶対的な差であるとでも言うように、何度も繰り返してきた。
 私は悔しかった。兄よりも常に良い成績を残しているのに、兄は副会長止まりだった生徒会も、私は会長にまでなったのに、…それでも右代宮家の跡継ぎには男であるというだけの理由で、兄が相応しいとされていたからだ。
 確かに、男女差別が罷り通っていた時代だった。いや、それが美徳とさえされている時代だった。女は、生まれては親に従い、嫁いでからは夫に従い、老いては子に従えと言われた、蔑まれた時代だった。
 でも、だからこそ私は、それを覆したかった。……純粋に、自らがもっともそれに相応しくあるように努力を重ねたのだ。……しかし、結局、初めから認められない努力だった。
【蔵臼】「女の学力は、紅茶の砂糖にも似ていると思わないかね? ないのも味気ないが、過ぎれば紅茶の味わいを大いに損なう。」
【絵羽】「…それはどういう意味よ、兄さん。」
【蔵臼】「男には、男にしか勤められないことがあるように、女とて、女にしか勤められないことがあるんじゃないかね? 子を産み、育て、一家の主を支えるのは、女でなければ出来ぬ勤めだと思うがね。」
【絵羽】「女には、勉強や仕事をする必要がないと言いたいの?」
【蔵臼】「そこまでは言わんよ。無学な女など、話していても疲れるだけだ。…だが、あまり頭が良過ぎる女はもっと疲れる。お前のように、自己主張の激しい女では、未来の夫もさぞや苦労すると思うのだがね。」
【絵羽】「女は結婚して夫の影にいろと、そう言いたいの? 余計なお世話よ!」
【蔵臼】「お前が親父殿を尊敬していて、その娘として相応しくありたいと思う気持ちは、我が妹ながら見上げたものだよ。私にも尊敬できることだ。」
【絵羽】「気持ち悪い。何が“私”よ。この間まで“俺”だったくせに。もう当主気取りなの?」
【蔵臼】「当主は“私”が継ぐことに最初から決まっている。にもかかわらず、お前は自分も当主になれるかのように錯覚して、無駄かつ暴走した努力をしているに過ぎんのだよ。」
【絵羽】「暴走した努力ですって…?! 私が大学院に進みたいと言い出すのが、そんなにもおかしいって言うの?!」
【蔵臼】「あぁ、おかしいね。お前は確かに栄光ある右代宮家の長女だよ。やがてはその家紋を背負って、父にとってもっとも価値ある相手と婚約することになるだろう。…だが、そこで求められるのは過剰な学識ではない。夫を労わるやさしい気持ちと家事能力、そして一家の長を立てる控えめな態度だ。お前にはそれが完全に欠落している。それは右代宮家の令嬢として、果たして相応しいことなのかね?」
【絵羽】「私は深窓の令嬢のつもりなんかないわよ! お父様の仕事を手伝ってあげられる最高の人間でありたいと思っただけよ!」
【蔵臼】「なら、それは右代宮家令嬢として相応しくあるべきではないのかね…? お前と来たら何だね。いい年をして未だに男勝りで、家事炊事は愚か、男を喜ばせる化粧ひとつ身に付けていないじゃないか。最近は喧嘩の稽古までしてるというじゃないかね。」
【絵羽】「し、失礼なッ!! 喧嘩じゃないわよ、武道は心の修練に最適なのよ。それに、然るべき場に出る時は、充分、女として気を遣ってるわよ!! 何が言いたいのよ。女は男に仕える奴隷であれと、しゃしゃり出るなと、そう言いたいわけ?!」
【蔵臼】「それを認めるのはエレガントではないが、お前の勘違いを正すには、少々毒のある言葉も必要かと思うよ。だから言い切ろう。女は男に仕えるために存在する。そして男は女を養うために存在する。女の仕事は、男の背中を守り、家庭を守って子を育てることだ。
 それは本来、言葉で気付かされることではない。自ずと気付くことだ。…しかしお前は、いくつになってもそれを自覚しなかったな。だから社会に出る前に、兄である私がその誤解を解くのだよ。感謝して欲しいものだね。」
【絵羽】「そ、それは全ての女への侮辱よ…!! いや、…いいえ、…わ、私は自分のことを女だと思ったことなどないし、女だからと甘えたことなど一度もない!! 私のどこが兄さんに劣っているというの?! 成績も経歴も、何もかも私の方が勝っていて、ただ男である以上の何も持たない兄さんが、私の何を見下せるって言うのよ!!」
【蔵臼】「身の程を弁えているか否かだよ。私は次の当主としての心構えを日々養っている。それは将来、必ず必要になることだ。だがお前は違う。嫁ぎ、右代宮の籍を失うことが決まっているくせに、見る必要のない幻を見ている。
 ……何がそんなに不満なんだ。仮に男に生まれようとも、当主を継ぐのはお前ではないだろうに。お前は何がそんなにも不満で私に突っかかってくるのか。」
【絵羽】「何が不満か、ですってッ?!?! 兄さんはいつもいつも、……いつもいつもいつも…ッ! 自分は当主跡継ぎだからと、私を見下して、……そのくせ…、……ううううぅううううううぅッ!!」
 何が不満か、だって…? 百億の不満、恨み辛み、忘れえぬ屈辱がいくらでも脳裏を過ぎる。そしてそれらが一度にせり上がって来るものだから、喉の奥から出てくるのは情けない呻き声だけだった。
【金蔵】「……何事か、騒々しい。沈黙を尊ぶのは神だけではないぞ。」
【蔵臼】「お父さん。」
【絵羽】「お父様!」
 兄弟喧嘩を聞かれたのだろう。明らかに不愉快な顔をした父が入ってきた。
【金蔵】「蔵臼。また兄弟喧嘩か。お前にはなぜに弟や妹たちを率いる貫禄が宿らぬのか。情けない! 長男が聞いて呆れるぞ!」
 間髪入れずにその頬をびしゃりと打つ。…私も同じように打たれるだろうと身を固くしたが、私は打たれなかった。
【蔵臼】「も、……申し訳ありません。お父さん。」
【金蔵】「お前に足りぬのは貫禄だけではない。まだまだ足りぬ。何もかもが未熟だ! にもかかわらず一人前を気取っておる! それを語るには百年早いことを肝に銘じ、研鑽に努めよ! わしをこれ以上、息子の不出来で嘆かせるでないぞ…!」
【蔵臼】「はい。…お父さんの後を継ぐに相応しい人間になれるよう、さらに努力します…。」
 その言葉は、まるで私に当て付けるかのよう。父に怒られているその時さえ、自分は特別な存在、……跡継ぎであることを私に誇示しているのだ。
 私は堪らなくなり、とうとう胸の内を吐露してしまう。それが、右代宮家の人間として相応しいことではないと理解しつつ。
【絵羽】「お父様…!! 教えて下さい、私の何が劣っているというのですか!! 私はお父様の名に恥じない人間になれるよう、今日まであらゆる勉強と努力を重ねてまいりました…! どうか私にも、何が劣っているのかお教えください…! 私はこれ以上、何を身に付けたならお父様に認めていただけるのですか…!!」
【金蔵】「またその話かッ!! お前には何度言えばわかるのだ。お前に期待していることなど何もないッ! 女は女らしく、料理や裁縫を学んでおればいい!! 貴様には女の心構えがないのだ! 夫に仕えようとする気心が、男に尽くそうという甲斐甲斐しさがまったく感じられぬ!!
 何の為の女なのか! 右代宮家の令嬢であることを自覚しておるのか!! なのに、学びたがることは男の真似事ばかり! お前の役割は蔵臼の真似事ではないのだぞッ!! お前には自らの役割がわかっているのか!!」
【絵羽】「わ、私は右代宮家の人間として、お父様の名に恥ずかしくない、」
【金蔵】「えぇい、その時点でもう間違っておるわッ!! 貴様の役割は、家を出て嫁ぎ、わしにとって有益な男を連れてくることだ! そして夫に尽くし、子を産み、増やせ! 夫の一族に褒め称えられる良妻であれ!!
 お前に、男を喜ばせる何ができるというのか? 茶の作法があるというのか。料理の才能があるというのか。何もないッ!! お前がやっているのはみんな蔵臼の真似事ばかりではないかッ!! 右代宮家は蔵臼が継ぐ! お前がそれに不満を唱えるというのなら、それはこの私に逆らうということだ!!
 お前は我が娘でありながら、父の言うことを聞けぬというのかッ!!! 出て行け!! 勘当だ!! お前に右代宮など語らせぬ!! 勘当だ勘当だッ!! うーッ、ゲホゲホゲホゲホ!!」
【蔵臼】「お父さん、しっかり。落ち着いて下さい。……源次さん、水を持ってきてもらえますか?」
【源次】「……はい。ただいま。」
【蔵臼】「絵羽、席を外せ。本心ではないさ。私がなだめておく。」
【金蔵】「ゲホゲホ、ゴホゴホゴホッ!! 勘当だッ、私の言うことが聞けんなら勘当だー!! ゲホゲホゲホ、うーガハゴホガホ!!」
 すっかり咽こんでしまった父の背中を、兄がさすっている。…それが当然の義務であるかのように。今の私には、それを独占させることさえ悔しく感じた。
 今の父に無用心に近付けば、私もまた打たれるかもしれない。…しかし、私はそれを恐れず、父の背中に近付こうとした。
 それを源次が制する…。
【源次】「……絵羽さま、今は席をお外しになられた方がよいでしょう。お館様は今日はご機嫌が良くありません。」
【絵羽】「で、でも……。」
【金蔵】「ゲホゲホゲホン!! なぜに私の息子たちはこうも不出来なのかッ?! 蔵臼は貫禄が足りず、絵羽はいつまで経ってもじゃじゃ馬だ!! 男らしい男はおらず、女らしい女もいない! 私の育て方がいつどこでどう間違ったのか?! なぜだ源次、私は何をいつどこでどう間違えたというのかッ!!」
【源次】「……お館様は何もお間違えになってはおりません。蔵臼さまは逞しいご子息に、絵羽さまは麗しいご令嬢に成長されました。何もお間違えにはなっておりません…。」
【金蔵】「あれのどこがッ!! どこが麗しいというのか!! 淑女どころか、男の真似事ばかり!! ゲホゲホゴホゴホ!! 勘当だッ、勘当だー!! ゲホゲホゲホ!!」
【蔵臼】「お父さん、それは私からよく絵羽に言い聞かせたところです。絵羽もこれからは心を入れ替えて、レディとして振舞うと約束してくれました。どうかもう少しの猶予をいただけませんか。」
【金蔵】「何がレディだ!! ゲーホゲホゲホ!! 勘当だ勘当だ…、ゲホゲホゲホ、ウーッガハガハ!」
 早く行け、この場は貸しにしておいてやる。蔵臼はそんな目配せを送ってくるのだった…。
薔薇庭園
 ……私は、父や兄が言うように、道を間違えていたのだろうか。
 確かに私は、淑女になろうと学んだことはない。…父の手伝いができる人間になろうとだけ願い、学んできた。
 ………いや、それは本当にそうだろうか。幼少の頃から仲の悪かった兄に、ずっと対抗意識を燃やし、当主跡継ぎの座を奪い取ってやることで鼻を明かしてやりたいと思っていたのではないだろうか。
 ことある毎に兄に、男は男らしく、女は女らしくと言われた。生まれつきの、どうにもならない性別を理由に、理不尽な差別に苛まれた。
 私はそれに反発して、女であっても、何の遜色もない人間になって証明してやろうと今日まで勉強に励んできたのだ。…だとしたら、私の向学心の根底は、兄へのつまらぬコンプレックスだけではないか。
 父は私に、社交界へ連れて行っても恥ずかしくないレディを期待した。…それを私が裏切って、兄を脅かす成績を当て付け、幼少の頃の恨み辛みを晴らしていただけ…?
【エヴァ】「違うわ。私が右代宮家の跡継ぎになるんだって、あなたは私に誓ったわ。」
【絵羽】「………あんたは………。」
 囁き掛けてきたのは、………そう誓った日に私の心の中に生まれた、あの少女の日の私だった。
 …そう。“彼女”は、私の唯一の味方だった。
 私が辛い時、挫けそうな時、いつもそっと現れて私に味方してくれた。難問に躓き、頭を抱えた時には必ず現れて応援してくれた。私が成長し、少女時代を忘れるに従い、私は“彼女”との対話を次第に忘れていった…。
【エヴァ】「私、右代宮絵羽は、絶対に右代宮家の当主になるの。そしてあのムカつく高慢ちきな蔵臼を見返してやるの。…その為に一緒にがんばろうって、あの日、私たちは約束したわ。」
【絵羽】「……そうね。約束したわ。…私は右代宮家の当主跡継ぎになるって、あの日にね。」
 悲しみに沈み、何の為に生きるのかわからなくなったあの日、…あなたは私の内より現れて、私に力を貸してくれたわ。
【絵羽】「……お父様に認められたかった。兄さんの鼻を明かしてやりたかった。そうすれば、惨めな自分に決別ができると信じていたわ。」
 私の人生は、兄に見下されるためにあると本気で信じた日々があった。…それは思い出すだけで苦々しい日々。私の心に入った、傷の裂け目…。
 その傷の縫い方を、“彼女”は教えてくれた…。怒りを、努力に換えて自分を磨き、……兄よりも当主に相応しい人間になって、それをお父様に認めさせることで見返そうという、最高の形の復讐。
 女は当主を継げないことは薄々知っていた。でも、それを覆させるほどに自分を優秀にして見せれば、…きっとお父様も私を跡継ぎに選んでくれるだろう。
 そうすれば、……当主を受け継ぐのがさも当然であるかのように振舞ってきた兄さんを、最大最高最善の形で、復讐することができるのだ…。
【エヴァ】「うん。そうすれば私たちの心の傷は癒えるの。……その日までがんばろうって、誓い合ったわ。なのに、あなたはその約束を破るの? クズ。意気地なし。ヘソ噛んで死んじゃえば…?」
 少女時代の姿をしているとは言え、それはもうひとりの私。…何しろ、私なのだから口が悪い。
【絵羽】「…自分に言われても腹が立つわね。そこまでボロクソに言われる筋合いはないわ。」
【エヴァ】「ならば、その怒りを勉強に費やしましょうよ。……怒りを力に換えるのが私の魔法。この力で、何度もあなたの窮地を救い、あなたは成せないはずのことを成し遂げてきた。私の魔法がある限り、あなたに出来ないことなど有りはしないわ。」
【絵羽】「……そうね。怒りはいつも私の原動力だったわ。いつからそれを忘れてしまったのかしら…。」
【エヴァ】「私を思い出せたなら、あの魔法の力は再び私たちのもの。さぁ、その怒りを力に換えて、もっともっと勉強に励みましょう? きっと、私たちにはまだまだ勉強が足りないのよ。
 大学院に進んで、もっといっぱい勉強して、優れた成績を出して、蔵臼を追い詰めてやりましょう。あいつ、何でもなさそうな顔をしてるけど、きっと心は相当追い詰められてるわ。早く身の程を思い知って死んじゃえばいいのに。そうすれば、私たちが当主になれる。留弗夫は辞退してくれるわ。あの子は私には逆らえないもの。」
【絵羽】「………よして。…もう、これ以上、勉強しても、お父様は私を認めてくれないのよ。」
【エヴァ】「どうして…?」
【絵羽】「お父様は、私に女らしくしろと言っているのよ…。私がどれだけ頑張ろうと、女である限り、例え私が兄さんより先に生まれていたとしても、私に当主を譲ることはないのよ…。私がどれだけ努力を重ねようとも、……私は女以上の何者にもなれない。認められない。何の努力もしない兄さんを、超えられない。永遠に見下され続ける…。」
【エヴァ】「…お父様も蔵臼も、最低の男尊主義者だわ。早く死んじゃえばいいのに。」
 ……彼女は、私の代わりに悪態を付く。私には滅多なことでは口にできない言葉を、…彼女が私に代わって口にしてくれる。
 …内なるもうひとりの自分であるとわかっていても、…私にとっては、唯一同情してくれる味方なのだ。だが、同情は心を幾分か楽にしてくれるかもしれないが、現状を何も改善してはくれない。……結局、現実に落胆し、それを受け容れるのに必要な時間分だけ、心を慰めてくれるだけなのだ。
【絵羽】「……ありがとう。もう結構よ。…こうとなったら、お父様が驚くような淑女になってやるわ…。兄さんなんかとは比べ物にならない、立派な男を捜して…、」
【エヴァ】「駄目、そんなの。」
【絵羽】「…………。」
 “彼女”は、私のいじけた考えを一蹴する。…わかっているのだ。……“彼女”は私だからこそ、わかっているのだ。
【エヴァ】「お父様は、少なくとも“今”は、女に当主を継がせないと言っている。でも、それすらも所詮はお父様が決めたルールでしかないの。お父様が決めた以上、それを破棄出来るのもお父様。
 ………人の気持ちなど、浜の真砂が尽きるより遥かに早く変わるわ。蔵臼が愚鈍な男であることは、私たちが立証しなくても、やがてお父様も理解する。…その時、男女の境の下らない垣根は、それを設けたお父様によって取り払われるの。その日は必ず来るわ。」
【絵羽】「……どうして必ずなんて言えるのよ?」
【エヴァ】「それが私の、魔法だから。」
【絵羽】「…………………。」
【エヴァ】「あなたが信じてくれさえすれば、この魔法は必ず奇跡を呼ぶの。……私の魔法の源は、あなたの信じる心だけ。」
【絵羽】「………………………。」
 その魔法を使えば、……私はきっと永遠に、死ぬまで、自らがいつか当主になれる日が来ることを疑わずに済むだろう。…しかし、それは右代宮絵羽として、正しいことなのか、わからない…。
 お父様の期待するような、社交界に胸を張って出られる淑女を目指すべきなのではないだろうか。
 お父様も、生まれ変わった私を見直してくれるかもしれない。……兄は兄、私は私で、それぞれの生き方を見つけられるかもしれない。それに、あの頑固なお父様が、女でも当主を継げるようにして、しかも兄を飛ばして私を当主に選んでくれるなんて、……いくらなんでも考えられない。
【エヴァ】「………信じないの?」
【絵羽】「あ、…あのね、私、思ったの。………私には当主は継げないかもしれないけれど、私は女で、子を産むことができるわ。そして兄さんには未だ縁談もない。……もし兄さんに子どもができず、私だけが子どもを産めたなら、…兄さんの次の当主は私の子どもということになるでしょう? それはつまり、…私が兄さんから当主の座を奪うのと同じ意味にならないかしら…。」
【エヴァ】「…………本気で言ってるの?」
【絵羽】「え、…えぇ。本気よ。……少女時代からの決意を捨てるのは、確かにとても悲しいこと。…私の少女時代そのものであるあなたを裏切るのは、私も心苦しいわ。……でも、それが一番現実的なのよ…!」
【エヴァ】「夢を捨てるの? ……そして、私も捨てるの?」
【絵羽】「捨てるんじゃない。……私も大人になって、あなたと決別する日が来たということよ。」
【エヴァ】「そうね。絵羽はもう大人になったわ。魔法の使い方さえ忘れてしまった。……今は一児の母。自ら夢を叶える魔法を忘れ去って、その夢を息子に押し付けている。
…自らの人生を、お父様や蔵臼によって滅茶苦茶にされたくせに、あなたも自らの夢を息子に押し付けて、滅茶苦茶にしようとしているの。……それが大人というものなの?」
【絵羽】「じょ、譲治はどこに出しても恥ずかしくない自慢の息子よ…! 私には叶えられなかった夢を、譲治なら叶えられるかもしれない…! 朱志香なんて成績も品行も不良じゃない。それに女なのよ! 朱志香さえ辞退してくれれば、譲治が跡継ぎになることだって…!」
 言っていて胸が痛む。
 私は自らの無念を、譲治に押し付けているだけではないのか。朱志香を蔑む資格などありはしないのに。そして、自らを苛んだのと同じ言葉を彼女にぶつけるなんて、最低ではないか…。
 …わかっている。わかっている…。
 兄を見返してやりたいのは私だけの復讐だ。…それに譲治を使ってはいけないのだ…。
【絵羽】「……だから、私自らが復讐するわ。留弗夫と楼座を味方に、兄さんからカネをせしめようという計画があるの。きっと一矢報いることができるわ。…何しろ、兄さんがお父様の資産を摘み食いしているのは確かなんだから…。」
【エヴァ】「…つまんない計画。そんなのさっさとやめて、泣き寝入りでもしちゃえば…?」
【絵羽】「………………………。」
【エヴァ】「私たちは、右代宮家の当主になるの。……その夢を誤魔化さないで。だから絶対に叶えられると、私を信じて。私の魔法を、信じて。」
【絵羽】「…信じたら、魔法は力を持つのかしら。」
【エヴァ】「うん。私の魔法は、どんな願いも必ず叶えるの。」
【絵羽】「………………。……信じるわ。……信じるから、…その魔法で奇跡を起こして…。……そうでなくちゃ、……私の心の傷は、永久に癒されない……。」
【エヴァ】「うん。……なら、よく聞いて。私の魔法の言葉。……そしてそれを理解して。謎が解けたなら、私たちは右代宮家の当主になれるの。……だから耳を澄ましてよく聞いて…。」
 懐かしき、故郷を貫く鮎の川。黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ……。
船内
【霧江】「絵羽姉さん。そろそろ着くみたいですよ。」
 霧江に肩を叩かれ、絵羽は過敏に反応してまどろみから醒める。
【絵羽】「………ッ。………あ、……ごめんなさいね。寝惚けてたわ。」
【霧江】「驚かせてしまってごめんなさいね。」
【戦人】「絵羽伯母さん、ぐっすりでしたね。朝はだいぶ早かったんすか?」
【絵羽】「……まぁね。恥ずかしいところを見せちゃったわ。ごめんなさい。」
【朱志香】「眠れるくらい余裕があるのは大したもんだぜ? 戦人なんか、ずっと落ちるーだの沈むーだの! まったく退屈しないヤツだぜ。」
【戦人】「う、うるせーな。人間誰しも苦手のひとつやふたつくらいあるもんだぜ…!」
 戦人と朱志香は、はしゃぎながら出て行く。留弗夫も、大丈夫か? という表情を見せた。
【留弗夫】「しっかりしろよ。親父たちの顔を見れば、眠気もすっ飛ぶさ。せいぜいお互い、頑張ろうぜ?」
【絵羽】「…そうね。特に今年は、しっかりしないとね…。」
【留弗夫】「だな。…お互い、ケツの穴を引き締めて掛かろうぜ。」
 絵羽にしか聞こえない小声で、留弗夫は厳しめの言葉を掛ける。
 今回の親族会議では、負けは許されない。……自分たちの会社の命運がかかっているのだ。留弗夫の顔も、わずかに緊張しているように見えた。多分、絵羽の表情も、緊張しているように見えるだろう。
【譲治】「母さん、荷物を持つよ。甲板に上がろう。」
【絵羽】「…ありがとう。譲治は本当に気が利くわね。」
【譲治】「どうして急にお礼なんか。母さんらしくもない。」
【秀吉】「絵羽ぁ、譲治ぃ。到着やで。荷物をまとめるんや。」
【真里亞】「うー! 到着到着! きゃっきゃっきゃ!」
【楼座】「こら、真里亞! 転ぶから走るのをやめなさい!」
 真里亞は早くも興奮気味らしい。秀吉の周りを、ぐるぐる回りながら、取り押さえようとする楼座から逃げ回っている。
【絵羽】「…………………………。」
【譲治】「どうしたの、母さん。…具合悪いの…?」
【秀吉】「譲治。荷物を持って先に行ってなさい。母さんは貧血だろ、わしが肩を貸すわ。」
【譲治】「そう…。わかったよ、先に行ってるよ。」
 秀吉は絵羽の表情の微妙な様子から、良い寝覚めではないことを察し、譲治を先に行かせた。
 留弗夫一家も楼座一家も、甲板に上がっていき、船内には絵羽と秀吉だけが残される。絵羽は、未だに白昼夢から逃れられぬような、ぼんやりとした表情を浮かべているのだった。
【絵羽】「………………………。」
【秀吉】「…どないしたんや。神妙な顔して。」
【絵羽】「………私、…譲治を自分の復讐の道具にしてたんじゃないかしら…。…私の兄さんに対する子ども染みた敵対心のせいで、あの子の人生を自分の玩具にしてしまってはいないかしら…。あぁ、私は何てことを…、何てことを……!」
【秀吉】「そんなことあらへん。譲治はどこに出しても恥ずかしゅうない、わしらの自慢の息子や。仮に、絵羽の思惑が多少混じっとったとしても、結果オーライっちゅうもんやないか! 絵羽はなーんも悪ぅない。むしろ、譲治は厳しく躾けてくれたと感謝しとるくらいやで?」
【絵羽】「…本当に? ねぇ、本当?! 譲治は私のこと、嫌な母さんだと思ってないかしら…?! ねぇ、ねぇねぇねぇ?!」
【秀吉】「そんなこと、ただの一度も口にしたことはあらへんで。絵羽の杞憂や。」
【熊沢】「秀吉さま。皆様、下船なさっておりますよ。……おや、何か落し物ですか? お手伝いしましょうか?」
 二人が甲板に上がってこないので、熊沢が様子を見にやって来た。秀吉は、絵羽の表情を見られないようにその背で隠す。
【秀吉】「あぁ、すまんなぁ。ちょいとわしのネクタイピンがイカレてもうてな! もう大丈夫や、すぐ行くで。外で待っててや!」
【絵羽】「そうですか? ……ほっほっほ。それでは表でお待ちいたしております…。」
 そのよくわからない言い訳に、熊沢は何か事情があったことを察し、それ以上は構わず姿を消してくれた。これ以上、ここに留まっていると、他のみんなを心配させてしまうだろう。
【秀吉】「…そろそろ行こか。譲治たちを心配させてまうで。」
【絵羽】「……………私、……本当に譲治に恨まれてない……?」
【秀吉】「あぁ。恨まれてなんかあらへん。むしろ感謝しとるぞ。」
【絵羽】「…………………………。」
【秀吉】「…悪い夢でうなされたんか。また。」
【絵羽】「………………うん。」
 絵羽が悪夢に苛まされるのは、秀吉にとって珍しいことではなかった。そしてそれは、親族会議が近付くと、毎年顕著になるのだ…。秀吉は、絵羽が未だに蔵臼に対して、トラウマとも呼べるほどの確執を持っていて、子ども時代のそれを未だに決別できていないことを知っていた。
【秀吉】「それは夢や。…わしが一緒にいる。こうして手をぎゅーっと握っとったら、そんな夢もどっか行ってしまうで。な? ほら。ぎゅー。」
【絵羽】「……くす。痛いわ。…ありがとう。もう平気よ…。…降りましょ。」
【秀吉】「あぁ。降りよか。みんな待たせてるで。」
【絵羽】「…あの、………………ごめんなさい。」
【秀吉】「ん?」
【絵羽】「……さっき、……あなたの煙草の煙のこと、……怒鳴ってごめんなさい……。」
【秀吉】「普段ならそんなことで謝らんくせに。…悪い夢、見た後のお前は気弱でいかん。…気にするなや。お前に煙が届いてることを気付かんかったわしが悪いんや。」
【絵羽】「…………私のこと、嫌いになった…?」
【秀吉】「ならんならん。わっはっはっはっはっは。この程度で嫌いなんて言うとったら、三日持たんでぇ。ささ、立った立った。降りるで降りるで。」
【郷田】「秀吉さま、絵羽さま。大丈夫ですか? お体が優れませんか?」
 今度は郷田がやってきた。さすがに待たせすぎたに違いない。
 絵羽も、さすがに愚図らず立ち上がる。…これ以上、自分の不機嫌に夫を振り回し、迷惑を掛けることはできない。……それは“良妻”のすることではないのだから。
【郷田】「大丈夫ですか? 体調が気になられるようでしたら、南條先生をお呼びしましょうか?」
【絵羽】「ありがとう。ちょっと貧血気味でね。もう大丈夫よ。」
【秀吉】「婦人病っちゅうやっちゃ。気にせんといてや。わっはははははは。」
【絵羽】「もう…。そんなの人に言わないでよ、恥ずかしいわ。」
【秀吉】「おう、すまんすまん。」
 絵羽が肘で秀吉の脇腹を小突く。その時にはもう、いつもの表情に戻っていたので、秀吉は少し安心するのだった。
 表の強い日差しに、本当に立ち眩みを覚えそうになる。船着場との間に掛けられた下船用の橋板の前で、郷田が手を貸そうと、にこやかに微笑みながら待っていた。
【郷田】「どうぞ、絵羽さま。お手を。」
【絵羽】「ありがとう。」
【郷田】「六軒島へようこそいらっしゃいました。」
 おかえりなさい。
【絵羽】「……え?」
 船着場に降り立った時、………絵羽は少女時代の自分の声で、おかえりと言われたような気がした。
 気がした、じゃない。…「おかえりなさい」と“言われた”のだ。汚れた大人になってしまったから、…少女時代の声が、遠いのだ。
【絵羽】「…私は何のために生きてるの……? ……何をどうすれば、…私はこの妄執から解き放たれるというの……。」
 その独り言は秀吉に聞かれていた。秀吉は絵羽の肩をぐっと抱き寄せると、その力強さだけで、それ以上を語る必要はないと伝えるのだった…。
 台風が近付いているせいだろうか。いつもなら賑やかに迎えてくれるはずのうみねこの鳴き声が、まったく聞こえなかった…。
 EP3のみに登場する、絵羽の心の中の描写。少女時代の絵羽は、まだ魔女になっていないが、便宜上エヴァと表記する。

妾の準備はすでに万端よ
10月4日(土)14時00分

海岸
【戦人】「…6年前のことかぁ。何しろ6年って言ったら、小学校まるまるひとつ分じゃねぇか。覚えてろってのが酷な話だぜー?」
【譲治】「そうだね。特に、若かった僕たちにとっては大きな成長の6年間だったはずだからね。案外、自己紹介がなかったら思い出せなかったんじゃないかい。」
【朱志香】「そうかな。私は戦人だって、すぐにわかったぜ? 口を聞いて、さらに確信できたぜ。」
【真里亞】「うー。真里亞、初めて会った。6年前、わかんない。」
【紗音】「そうですよね。真里亞さまはまだ3つでしたものね。」
【戦人】「それを言われたら俺もだぜ。3歳の頃しか知らない真里亞が、こんなに大きく成長してるんだから、そりゃあわからねぇわけだぜ。」
 俺たちは昼食の後、浜辺へ出て散歩しながらのんびりお喋りを楽しんでいた。親たちがどうにもキナ臭く、積もる話もあったようなので、席を外すことになったのだ。
 …まぁ、当初からの予想通り、6年ぶりとなる俺に話題は集中した。
【譲治】「しかし、本当に背が伸びたね。僕も低いつもりはないけど、とにかくその身長には驚いたよ。」
【紗音】「そうですね。6年前の戦人さまをよく覚えておりますが、それでも驚くくらいでした。」
【朱志香】「だなぁ。6年前の戦人からは想像がつかないくらいだったぜ。」
【戦人】「みんな、案外、6年も前のことなんか覚えてるもんだな。俺なんか、かなり記憶があやふやだってのによ。」
【朱志香】「だろうな。私たちのことを思い出すのに、少し時間を掛けてたみたいだもんな。あれはちょっと傷付くぜー?」
【戦人】「いや、さすがに6年前だぜ? 覚えてろって方が無理があるぜ…!」
【紗音】「…6年前のことですと、あまり覚えてはおられないのですか? 私は、つい昨日のことのように鮮明に覚えておりますが…。」
【譲治】「紗音は記憶力がいいからね。6年前に、戦人くんがどんなことをしていたとか、言っていたとか、よく覚えてるんじゃないかい?」
【朱志香】「そういやそうだよな。紗音って妙なところで記憶力がいいんだよな。」
【真里亞】「うー。真里亞、覚えるの下手くそ。楽しいことはすいすい覚えるけど、つまんないのは全然ダメ。うー。」
 誰だってそうさと、みんなが笑う。
【朱志香】「紗音。ちなみに、6年前の戦人はどんなだったんだ? 何かエピソードを覚えてないのかよ?」
【紗音】「そうですね。……確か、お帰りの際はこう仰っていました。“また来るぜ、シーユーアゲイン。きっと白馬に跨って迎えに来るぜ。”」
【戦人】「ぎゃああああああああぁああぁあぁ、らめええぇえぇ、恥ずかすぃいいいいぃいいぃぃぃ!!」
【朱志香】「ぎゃーっはっはっはっはっはっは!! 言いそう言いそう! 確かにそんな感じだった、6年前の戦人はそんな感じのバカっぽいセリフばかり言ってたぜ! わーっはっはっはっはっは!!」
【譲治】「はっはっはっは。確かに当時の戦人くんがいかにも言いそうだなぁ。」
【真里亞】「うー。恥ずかしい?恥ずかしい?」
【戦人】「……あぁ。最高に恥ずかしいぜ…。真里亞もきっと、中学くらいになったら、そういう恥ずかしいことが口にしたくなるからな…。そういう時は、口に出す前にチラシの裏に書いて、三度読み直してから口にすべきかどうか考えるんだぞ。じゃねぇと、きっと後悔するからな…。
 いや、誰しもがそういう痛々しい時代を潜り抜けていくのだ…。そうさ、そうして身の程を知り恥を覚えて大人になるんだ。そうさ、これは大人への過渡期なら誰もが犯す青春の甘酸っぱくて恥ずかしい、消し去りたい記憶なんだ…。うおーぐおー…。」
 何しろ俺は、深く考えずにポンポンと喋るものだから、いちいち内容は覚えてない。でも、その内容は後で復唱されると非常に恥ずかしいものばかりだ。
 その弱点を近年、ようやく理解し、不用意な発言を慎むように努力してはいるのだが……。…どうにも軽口は生まれ持った癖らしく、何ともしようがない。
【朱志香】「紗音〜、他にも何か恥ずかしいことは覚えてないのかよ?」
【紗音】「えぇ、まぁ…。他にも色々と覚えておりますけれど、その…。……ご本人もお忘れになりたいことみたいなので、これ以上は遠慮させていただきたいと思います…。」
【戦人】「ぶっちゃけると、俺はもう何も覚えてないんだ〜。頼むから思い出させないでくれー。」
【真里亞】「…うー。紗音が戦人をいじめてる…? うー。だめー。いじめはいけないの。」
【譲治】「ははははは。別にいじめてるわけじゃないんだよ。この話はこれくらいにしようか。でも紗音、後で戦人くんのいないところでこっそり教えてね。何だか面白そうだから。」
【紗音】「はい、かしこまりました。」
【戦人】「そ、そりゃーねーぜぇ、紗音ちゃんよぉおおおぉ…!!」
 しばらくの間、譲治の兄貴は、紗音ちゃんから俺の恥ずかしい失言を聞きだそうとする素振りをして、俺をからかうのだった。
 譲治の兄貴は、紗音ちゃんとつるむ様にしてふざけているわけだが、……何というか、とても気さくでフランクな感じだった。
 彼は、いとこ相手にならフランクだが、使用人たちには節度ある紳士的態度で接していたはずだ。…それを思うと、何だかちょっぴり馴れ馴れしいようにも感じ、わずかの違和感を覚えた。
 真里亞が砂浜に棒で落書きを始め、それに譲治の兄貴と紗音ちゃんが加わるという形になり、俺と朱志香が浮いたので、それをこっそり聞いてみた。
【戦人】「……よぉ、朱志香。譲治の兄貴ってさ、……その、紗音ちゃんと付き合ってたりする?」
【朱志香】「おおお? 何々、何でわかったんだよ?! 戦人お前、見掛けより人を見てんなぁ。」
【戦人】「って、…えええぇ?! 俺、冗談で言ったつもりだったんだけど、…本当に付き合ってんのかよ?!」
【朱志香】「シー! 声が大きいって! …一応、内緒の付き合いってことらしいぜ? 特に絵羽伯母さんの耳には入れない方がいいよ。」
【戦人】「な、なるほど…。使用人との恋か…。……い、いやでも、いつの間に? はー、6年ってすげぇなぁ……。でも、確かに兄貴なら人間もできてるし、紗音ちゃんもやさしくて甲斐甲斐しそうだし、……お似合いかもなぁ。」
 実は6年前、ちょっぴり彼女を意識していたことを思い出す。そっかー、譲治の兄貴とじゃお似合いだよな、仕方ねぇよなぁ。…さらば、俺の6年前の淡い初恋…。
 ………ってことは、さっき紗音ちゃんが自重してくれた、俺の6年前の恥ずかしいセリフ集は、……それ関係って可能性が高いな…。うぉおおおおぉおぉおぉ、ケツが痒くなってきたぜ…。
【戦人】「兄貴たち、付き合って、どのくらいになるんだ?」
【朱志香】「どの段階から付き合ってると呼ぶのかにもよるだろうけど、確実に1年以上は続いてると思うぜ。双方片思い時代を含めると数年になるんじゃねぇのかな。」
 いつの間にか二人っきりモードになって、何かを語り合いながら浜辺を歩く、譲治の兄貴と紗音ちゃん。……その様子は落ち着きがあって、恋仲という軽い関係よりは、婚約を交し合ったような真面目な関係に見えた。
【戦人】「……6年か。でっけぇ月日だなぁ。俺にとってのこの6年は何だったんだ? 図体がデカくなっただけだな。親父との親子喧嘩で意地を張り合う内に6年も経っちまったってだけの、くだらない時間だったなぁ。」
【朱志香】「戦人の方こそどうなんだよ。彼女とか出来たのかよー?」
【戦人】「さぁてどうだろうな。一緒に遊ぶ女の子は何人かいるぜ。だけどオンリーワンって関係はまだねぇな。……俺がお子様なんだろうよ。誰かと二人っきりでいるより、みんな大勢でわいわいやってる方が楽しいように思えるんだ。」
【朱志香】「あー、そりゃ何とも戦人らしいぜ。でも、女友達との関係はちゃんとしっかりしておけよ。女の思い込みとコミュニティは怖ぇぜ? 勝手に戦人を巡って暗闘が繰り広げられて、勝手に誰かが泣いたり傷付いたりしているかもしれないぜ?」
【戦人】「おっかしーな。同じ忠告をつい先週、クラスの女から受けた気がするぜ。……何だってんだろうな。どうしてみんなで楽しく過ごせねぇんだ。そうまでして、つがいになりたいのかねぇ。」
【朱志香】「…戦人がまだ、そういう相手にあったことがねぇからだろうぜ。まぁ、追々そういう女に出会うこともあるだろうよ。気長に待つこったな!」
【戦人】「何だよ。まるでお前にはもうそういう相手がいるみたいな言い方じゃねぇかよ。お前はどうなんだよ。彼氏とか出来たのかよ。」
【朱志香】「え?! わ、私かよ?! いやその、わははははは……。」
【戦人】「なんつー、わかりやすい反応だよ…。見たところ、気になる男はいるけど、まだ告白もできてねーって、そういうところだろう。」
【朱志香】「いッ、いやその、そういうわけでは、あのその! う、うぜーぜ、私のことなんかどうでもいいだろ…!」
【戦人】「話を振ってきたのはそっちのくせに、何で俺が逆ギレされなきゃならねぇんだ。女って生き物は質問ばかりで、そのくせ、自分が質問に答えることは決してないんだよな。ズルイ生き物だぜ、まったく。」
【朱志香】「……ま、まぁそのよ。…告白はさ、…一度はしたんだよ。まぁその、盛大に空振りでさ。」
【戦人】「ごめんなさいってか?」
【朱志香】「いいやその、……。…まぁその、私がすごく一方的だったんで面食らわれたというのかな…。そういう対象だとも思われてなかったという雰囲気。」
【戦人】「そりゃあそうだろうよ。お前の言葉遣いは男勝りだからな。もうちょいお淑やかにしないと、男心をくすぐらないぜぇ?」
【朱志香】「やや、やっぱりその、……私みたいな言葉遣いじゃウケ、…悪いかな。」
【戦人】「…んん? まぁその、言葉遣いが全てじゃないだろうが、お前みたいな、普段の言葉遣いが悪いヤツが、急にまともな言葉で話すように努力し始めたらその、そういう気概みたいなもんでドキっと来ちまう男もいるかもなぁ。」
【朱志香】「そ、そうなんだ…? そうか……、……うん…。」
 朱志香は、急に神妙な言葉遣いになったかと思うと、ほんのりと頬を染めている。
 …なるほど、告白は空振りしたが、どうやら諦めちゃいないらしい。でもまぁ、わかるなぁ。譲治の兄貴と紗音ちゃんの仲が進展するのを目の当たりにしてたら、自分も恋人を作らなくちゃって気持ちになってくるだろうよ。
 6年か。…青春時代の6年ってのは重く、そして早いもんだ。台風が近付いているということで、空は灰色の度合いを強めているが、それでもなぜか、とても爽やかに感じられるのだった。…俺も、たまには異性のことを、おっぱいのデカさ以外で真剣に考えてみることにするか…。
【戦人】「ところで。譲治の兄貴は、使用人の紗音ちゃんと付き合ってるわけだが。……まさか、朱志香までってことはないよなぁ?」
【朱志香】「え、…ええぇッ?!?! どどどど、どうしてそう思うんだよ…?!」
【戦人】「そういや、薔薇庭園で挨拶した嘉音くんって若い子。口下手だからって朱志香、やたらと庇ってたよなぁ?」
【朱志香】「い、いやそんなことは…。わはははは、勘繰り過ぎだって…!!」
【戦人】「じゃあさ、これだけは教えろよ。今この瞬間。朱志香が狙ってる男は、半径1km以内にいるか?」
【朱志香】「い、いやそれはその、…どど、どうだろう…。」
 今、この島にいる男で、俺たちと恋仲になれそうなのは嘉音くんひとりしかいない。それでこの反応なんだから、ビンゴなんだろうなぁ。
 右代宮家を高貴な一族だなんて思っちゃいないが、…使用人との恋が二人か。ロミオとジュリエットが身近に二組もいるなんて夢にも思わなかったぜ…。
 譲治の兄貴と紗音ちゃんの恋路は、……絵羽伯母さんが障害になるだろうな。あの絵羽伯母さんに限って、眼に入れても痛くないひとり息子のお相手が紗音ちゃんだと知ったら、この使用人風情がー、泥棒猫ーと絶叫するだろう。
 そして朱志香と嘉音くんの恋路も同じく多難だろう。夏妃伯母さんも、そういうのにかなり厳しそうだ。……何しろ朱志香の旦那は、未来の右代宮家当主になるんだろうからな。それが、自分たちに仕えてた元使用人ってことになったら、……まぁその、複雑に違いない。
【戦人】「ま、人の恋路なんてそれぞれさ。一緒にいて楽しい相手とつがいになりゃいいじゃねぇか。つがいってのは、互いが互いを認め合う以外に何の許可も要りやしない。親がどうこう、家がどうこうなんて気にしたら負けだぜ。それを忘れるなよ。半端な気持ちで付き合うんじゃねぇぜ。」
【朱志香】「…ちぇ…。恋もしたことねぇくせに、達観したようなことを言いやがって。」
【戦人】「恋は損得勘定でするなよ。ハートでしろよ。俺が言いたいことはそんだけさ。んじゃな、シーユーアゲイン、ハバナイスディ。」
【朱志香】「……ぷ。…わっはっはっははははははははは!! 譲治兄さん、紗音〜、聞いて聞いてー! 戦人ったらこいつ、また面白いセリフを言い出したぜー!!」
【戦人】「何も言ってないって、何も言ってないって!! わーー、茶化すな茶化すな!!」
【真里亞】「真里亞聞いてた、真里亞聞いてた! シーユーアゲイン〜シーユーアゲイン〜!!」
 俺たちはしばらくの間、風が強くなってくるのも忘れ、浜辺ではしゃぎ合うのだった。
 ……この6年ですっかり成長し、青春を謳歌しているいとこたちとの出会いは、本当に新鮮。……俺は、今更だが、もっと早く鞘に収めて、右代宮の家に帰ってきても良かったかな、なんて思っているのだった…。
【戦人】「いとこ同士ってのも、たまにはいいもんだな…。」
【真里亞】「うー! 真里亞もいとこで集まるの楽しくて好きー!」
【戦人】「そうだな。俺たちももういい歳なんだ。別に親がいなくても会えるだろ。…たまにはいとこだけで集まって遊ぶのも悪くないかもしれないな。」
【譲治】「それはいい提案だね。いつかそういう機会を設けてもいいかもしれないね。」
【朱志香】「同感だね。私たちいとこは、いつまでもずっと仲良しがいいよ。」
【戦人】「おいおい、そこを強調するとまるで、普段の親戚同士の仲が悪いように聞こえちまうぜ?」
【譲治】「はははははは。」
 譲治の兄貴と朱志香は笑ってくれたが、ほんの少しだけ渇いたものを感じた。…余計なことを言ってしまったか。
 空港や船内で、時折、親父たちが見せる神妙な表情や、疲れきった表情に気付いていたなら、それを口にすべきではなかっただろう。
【戦人】「…そうだな。朱志香の言う通りだぜ。俺たちはいつまでも仲良しでいようぜ。」
【真里亞】「うー! 真里亞も一緒! みんな仲良し!!」
【譲治】「そうだね。うん。僕たちはいつだってみんな一緒だよ。みんな仲良しだよ。」
【朱志香】「へへ。私たち、何、恥ずかしいこと言い合ってんだろうな。何だか照れちまうぜ。」
【紗音】「でも、とても大切なことだと思いますよ。人は願わねば、いつまでも一緒にいることどころか、仲良くいることさえ難しい生き物なのですから。」
【譲治】「そうだね。みんなが仲良くいられることを、決して当り前なことだと思ってはいけないね。」
【真里亞】「うー。知り合いの魔女が言ってた。幸せは、みんなが信じなくちゃ叶わないんだって。」
【譲治】「確かにね。信じる力には魔法が宿るかもしれない。それを全員が信じたなら、きっと幸せを運んできてくれるだろうね。」
【朱志香】「よし。なら恥ずかしいことのついでだ。私たちはみんなで信じ合うと誓おうぜ? みんないつまでも仲良しで、いつまでも幸せでいようって。」
 親父たちのようになんか、なるものか。祖父さまの遺産を巡って腹の探り合いなんて、絶対にするものか…。
【戦人】「おう! 俺たちはみんないつまでも仲良しで幸せだ。それをみんなで信じようぜ。」
 俺たちいとこがどんなに楽しく懐かしく振舞おうと、六軒島には暗雲が近付いている。……俺たちがこの島を去る頃には、台風は通り過ぎ、清々しい空を見せてくれるだろうか。
 親たちの思惑なんか知ったことか。遺産も旧家とやらの面子も知ったことじゃない。
 俺たちはこんなにも青春し、旧交を温めあっているんだ。そして、みんながみんな、幸せになれると信じ合ってる。
 だから…、何もおかしなことは起こらず、平和に幸せに、穏やかに、今日と明日が終わって欲しい…。いや、…終わって欲しいじゃない。……終わってくれ……!
【ベアト】「終わるかよぉぉおおおおぉおッ? きっははっはっはっはははははははははははッ!!」
【戦人】「畜生ぉおおおぉッ!! お前は出るなよ、現れるなよ!! クソクソクソぉお!!」
【ベアト】「待たせたな。ようやく新しいゲームの用意が整ったぞ。さぁさ、始めようではないか、惨劇の物語を! 訪れよ、雨よ風よ台風よ! この島を現世より切り離せッ!! 異界へ魔界へ幻想界へ、六軒島を放り込めッ!」
 そして物語は三度繰り返す。もっとも、無限の魔女の前に、一度二度三度と数えることに何の意味があるのか。
 多分、何の意味も持たない。だってこれは、戦人が屈するか、魔女が屈するかの決着がつくまで永遠に繰り返される幻想の物語なのだから。
薔薇庭園
 そして空は暗く曇り、雨と風を呼び寄せて台風となる…。
 薔薇庭園には、降り始める雨を気にすることもなく、目印を付けたはずの一輪の薔薇を探し、うろうろと探し回る真里亞の姿が……。
【真里亞】「………ない…。ない……。目印を付けた、……真里亞の薔薇がない…。……うー。…………うー!!」
 真里亞は確かに記憶していた。その薔薇は、花壇のここのここにあった。なのにない。
 あるはずのものが見付からない苛立ちは、どこにもぶつけることができず、ただ恨めしく唸りながら、うろうろと同じ場所を行ったり来たりするしかない。
 まるで、異なる角度から見れば見付かるかのような振る舞いだが、そのようなことをしても、ないものが見付かるわけもない…。
 風はますますに強くなり、雨は冷たく大粒になっていく。真里亞とて、それが気にならないわけもない。
 しかし、ここで薔薇を見つけることができなかったら、それは永遠に消え去ってしまうに違いない。…真里亞はそう信じている。そんな気持ちが彼女を、見付かるはずもない薔薇探しに駆り立て続けていた…。
 その時、真里亞を苛む冷たい雨粒が、ふっと遮られた。
【真里亞】「………………うー?」
 真里亞は頭上を見上げる。…すると、開かれた傘が差し伸べられ、彼女を雨粒から守ってくれているのが見えた…。
 重要な手掛り。紗音は冗談めかして語っているが、心中穏やかでないだろう。
 その傘を差し出しているのは、………憧れる魔女、ベアトリーチェだった。
【真里亞】「ベアトリーチェ…!!」
【ベアト】「このような雨の中、何を必死になっているのやら。体を冷やせば風邪を引くこともあろう。魔女たるもの、自らの健康も気遣いたいものよの。」
【真里亞】「真里亞のね、…薔薇が…、見付からないの…。……うー。何度探してもね、……ここにあったはずなのに、…見付からないの…。」
 真里亞はベアトリーチェに、少しだけ元気がなくて気の毒だった薔薇があったことを話し、それに目印を付けていたはずだと話す。
【ベアト】「ほほぅ。それが見付からぬとな。………そなたも魔女の見習いならば、魔法にて薔薇を探してみると良い。目だけで探そうとする内は、それには遥かに及ばぬであろうがな。」
【真里亞】「……うー。……見つけられない。…真里亞もがんばって、魔法で探そうとしてるけど、見つけられない…。」
【ベアト】「魔法の修行にはちょうど良いかとも思うが、この風雨はそなたには少しきつかろう。……妾が特別に力を貸してやろう。弟子の身を案ずるのも師匠の役割だからな。」
【真里亞】「あ、…ありがとおぉ。ベアトリーチェ!!」
 さっきまで悲しみでいっぱいだった真里亞の顔が、ぱあっと破顔する。
 真里亞は知っているのだ。ベアトリーチェの魔法に、出来ないことはないと知っているのだ。だから、自分には見付けることのできない薔薇を、簡単に探し出してくれると確信していた…。
 ベアトリーチェは軽く目を閉じ、この風雨の中から何かを聞き取ろうとするような仕草をする。そしてそれを聞き取り、目を開けて言った。
【ベアト】「…………ふむ。諸行無常よの。残念だな、真里亞。…この風雨に、そなたの薔薇は耐えられなかったらしい。」
【真里亞】「うー……。それじゃ、真里亞の薔薇は………?」
【ベアト】「風雨に散り、すでにこの世のものではない。」
【真里亞】「………………うー……。」
 ベアトリーチェの言うそれが確かに妥当だった。…この強い風に、花が枝ごともぎ取られたとしても、それは何の不思議もない。…しかし、真里亞はそれを受け容れられず、恨めしげに低く唸り続けている…。
【真里亞】「……………やだ。」
【ベアト】「ほう?」
【真里亞】「……やだやだやだ! 真里亞の薔薇なの!! 真里亞の薔薇が帰ってこないと嫌だ! 真里亞の魔法で生き返らせる。ベアトリーチェ、魔法で薔薇を蘇らせるのを教えて…!!」
【ベアト】「は! 無限の魔法の秘術、そなた如き見習いにはまだまだ早いわ。身の程を知れい。」
【真里亞】「………………うううう。」
 真里亞は悔しそうに目元の涙を拭う。
 その憐れみを誘う表情に、ベアトリーチェは肩を竦めて、ふっと笑った。
【ベアト】「良かろう。薔薇を蘇らせる秘術、…妾が力を貸してやろうぞ。」
【真里亞】「本当ッ?!」
【ベアト】「うむ。……ではそなたの心の力を集中させるがいい。目を閉じ、雨を忘れ風を忘れ、彷徨する薔薇の魂を心の目で探すのだ。」
【真里亞】「……うー。」
 真里亞は目を閉じる。そしてベアトリーチェの詠うような言葉を復唱する…。
【ベアト】「さぁさ、思い出して御覧なさい。薔薇よ、そなたがどんな姿をしていたのか。」
【真里亞】「…さぁさ、思い出して御覧なさい。薔薇よ、そなたがどんな姿をしていたのか…。」
【ベアト】「見るな。聞くな。そして信じよ。……肉の檻に閉じ込められし魂の力を解放せよ。………………そうだ。……良いぞ…。」
 瞼を固く閉じて、心の力を集中する真里亞の周りに、小さな黄金の蝶々たちが舞い始める。……それこそ、真里亞の持つ魔法の力の顕現なのか。
【ベアト】「彷徨えし薔薇の魂よ。今一度集い、そしてその姿を思い出すがいい。……さぁさ、集えよ、思い出せよ…。」
 黄金の蝶たちは輝きを強め、数を増やし、そしてベアトリーチェが天高く指す、その指先に集まっていく…。
 それこそが、黄金の魔法の奇跡…。そして黄金の蝶たちは、眩しく輝く一粒の黄金に凝縮されていく。……それは金色に輝く一粒の種だった。
 それがベアトリーチェの指先に乗り、黄金の芽を芽吹かせ、黄金の葉を開く。そしてぽとりと指先から落ち、花壇の泥の中に潜り込み、ぐんぐんと成長していく…。
 …その幻想的な光景を、魔女と魔法に憧れる真里亞はさぞや見たいだろう。だが、見習いの真里亞にはまだ見る資格がない。
 …いや、見る為に目を開けば、心の力の集中力が途切れ、魔法が失われてしまうからだろう。だからこそ、その黄金の奇跡を目の当たりにすることが許されているベアトリーチェこそが、唯一の魔女にして、数多の奇跡の主人なのだ…。
 そして延びた薔薇は、大きな黄金の花を一輪、開花させる。それにベアトリーチェが、ちょんと指で突っつくと、まるで黄金のシャボン玉が割れるかのように金色の輝きは飛び散り、後には美しい一輪の薔薇が残るのだった。
【ベアト】「…ふむ。立派な花を思い出したようだな。……だが、このままでは他の薔薇たちに混じってしまい、区別がつかなくなってしまうというものよ。もうひとつサービスしておくか。」
 ベアトリーチェは、なおも唸り続けて集中を続けている可愛い見習い魔女のために、もうひとつだけ魔法を掛けることにする。
 パチンと指を鳴らすと、黄金の蝶が一匹現れ、ひらひらと舞い、蘇ったばかりの花に止まる。それは再び、パチンと弾けて姿を消すと、金色のモールになって目印となってくれた…。
【ベアト】「これで良かろう。……真里亞。もう目を開けても良いぞ。」
【真里亞】「………うー? 薔薇はどこ? ない。ない。」
【ベアト】「そっちではないぞ、こっちだ。…ほれ。金モールで印を付けておいてやったぞ。」
【真里亞】「わぁ…、本当だ…!! すごいすごいすごいすごい!! ベアトありがとう、ベアトありがとうッ!! 真里亞も早く魔女になりたい、ベアトみたいな大魔女になりたい!!」
【ベアト】「なれるとも。かつての妾もまた、そなたのように無邪気にそれを望み、至ったのだから。」
 真里亞は蘇らせてもらった薔薇に狂喜し、手を打って飛び上がって喜ぶ。…それを見て、ベアトリーチェもまんざらでもないというような笑顔を見せるのだった。
 今や、妾の手にかかれば薔薇に限らず、全ての魂は壊すも直すも、殺すも蘇らせるも思いのまま。さぁ、嵐の結界は六軒島を現世より閉ざした。今こそ、無限の魔女にして黄金の魔女、ベアトリーチェの降臨する時。
 ベアトリーチェは、懐より片翼の鷲の家紋の入った封筒を出し、それを真里亞に託す。真里亞は、魔女のメッセンジャーに選ばれたことに、はしゃいで喜ぶのだった。
【ベアト】「さぁて、金蔵。そなたの遊びに再び付き合いに来たぞ…。妾の準備はすでに万端よ。そなたの方はどうなのか? 今宵のゲームに賭けるコインの用意は充分であろうな…?」
金蔵の書斎
【金蔵】「無論、準備は充分であるぞベアトリーチェ…!! 駒はふんだんに用意したぞ。備えも心構えも充分だ! さぁ、アンティを支払おうではないか。そなたに授けられ、最後にはそなたに全て返すべきものだ。さぁ、受け取れい!!」
 金蔵は書斎の窓を開け放つと、指にはめていた大き目の黄金の指輪を抜き取り、それを荒れ狂う風雨の闇夜に投げ放つ…。
 その指輪は稲妻に打たれ、金色の瞬きを一瞬だけ見せた後、消え去るのだった。金蔵はそれを見届け、にやりと不敵に笑う。
【金蔵】「負ける気はせぬぞ。お前は私のものなのだ。永遠にッ!!」
 金蔵が投げた指輪は、一羽の黄金の蝶となり、ひらりひらりと風雨の中を舞い飛ぶ。
 それはまるで導かれるように、薔薇庭園を目指した。そして、黄金の魔女の姿を見つけ、舞い降りていく……。
薔薇庭園
 それがベアトリーチェの前までやって来た時。それは金色に爆ぜると、元の指輪の姿に戻り宙に跳ねた。
 それはそのまま、水溜りに落ちるかと思われたが、虚空でびたりと止まる。…まるで、姿の透明な何者かが受け止めたかのようだった。
 それはどうやら、ベアトリーチェにとっても意外なことだったらしい。しかし、それが何か、誰か、すぐに察しがつき、にやりと笑い返した。
 次第にうっすらと、それを受け止めた人影が姿を現していく…。それは片翼の鷲の紋章の刺繍が施された執事服を着た若い男の姿だった…。
 右代宮家に仕える使用人に、こんな男はいない。しかしベアトリーチェは懐かしむように笑った。
【ベアト】「ロノウェか。……ずいぶん久し振りになるな。妾のことを覚えておったとは。そなたはつくづく忠義に厚い男よ。」
【ロノウェ】「長いご無沙汰を頂戴しておりました…。このロノウェ、お嬢様にお仕えしていることを忘れた日など、ただの一日もございませんよ。それよりも、お嬢様にこそ、私をお忘れになられたのではないかと、冷や冷やしておりました。何しろ、お嬢様は大層忘れっぽくていらっしゃいますので。」
【ベアト】「くっくっくっく…! なるほど、確かに妾は忘れやすいようだ。そなたの皮肉を、聞くまで思い出せぬとはな。」
【ロノウェ】「お嬢様、これを。」
 そして、大袈裟なのに気品を残した仕草で、うやうやしくお辞儀をすると、先ほど受け止めた当主の指輪をベアトリーチェに差し出した。
【ロノウェ】「右代宮金蔵より返還されました、右代宮家当主の指輪でございます。指輪は再び主の下に。」
【ベアト】「うむ。金蔵によるゲームの開始宣言。確かに受け取ったぞ。」
【ロノウェ】「さて、今宵はどのようなお遊びになさいましょうか。さっそくルーレットをご用意いたしましょうか? それとも、まずは紅茶をご用意いたしましょうか。」
【ベアト】「どちらにしようか迷うが、とりあえず、そなたの挨拶が必要であろうな。あやつめ、開いた口が塞がらぬというような顔をしているに違いないぞ。なぁ、戦人ぁ?」
【ロノウェ】「初めまして。自己紹介をいたします。ベアトリーチェお嬢様のお側にてお仕えしております、ロノウェと申します。どうぞ、よろしくお願い申し上げますよ。」
【ベアト】「ほらな? 開いた口が塞がらないという顔であろう? くーっくっくっく!」
【戦人】「当り前だろ、またこんな訳のわかんないヤツが出てきやがった!! 山羊頭が盆踊りを始めるのかとぼやいたら、山羊頭がうようよ現れて、太もも姉ちゃんたちが7人も出てきてその上、今度は執事まで出てきやがった!! わけわかんねぇよ、もういい加減にしやがれよッ!!」
【ベアト】「ところで戦人。気付いていたか? こやつとそなたの対面だが、…これが本当の“悪魔の証明”であることを気付いたかな?」
【戦人】「あ、悪魔の証明だとぉ…?! どういう意味だよ…。」
【ベアト】「こやつは、こう見えても72柱に名を連ねる、生粋の悪魔でな。つまり、妾は悪魔を直接連れて来て、まさにその存在を証明して見せたわけだ。くっくくくくくくく!! ロノウェは地獄に爵位を持つ、序列27位の大悪魔よ。なかなかに使える男でな。高給で召し上げて、妾の世話をさせておるのだ。」
【ロノウェ】「ご紹介いただけまして光栄です。地獄の貴族に名を連ねど、今は卑しいニンゲンの分際で、悪魔も裸足で逃げ出すような大魔女であられるベアトリーチェさまの家具頭として仕える身ですよ。」
【ベアト】「くっくくくくくく。実に使える男なのだが、何しろ口の減らぬヤツでな。時に主への敬いを忘れるのが玉に瑕よ。」
【ロノウェ】「言葉遣いに関しましては、契約書から漏れておりましたもので。そのように契約を変更いたしますか?」
【ベアト】「妾も退屈せぬからそれでいい。くっくっくっく!」
 ベアトリーチェはけらけらと笑うと背を向ける。その背中に一礼した後、ロノウェは戦人に向きかえり、無邪気な笑顔を見せながら右腕を突き出した。普通に解釈するならば、それは握手を求めるものだったからだ。
【戦人】「……な、…何の真似だよ。」
【ロノウェ】「私もお嬢様のわがままに振り回されている身です。その意味では、私たちは良き友人になれるかと思いますよ。これは友情の握手です。……もちろん、悪魔の契約の締結を意味するものではありませんのでご安心を。」
【戦人】「悪ぃが、俺はあんたの主と大喧嘩の真っ最中でね。俺が敵と握手をするのは、雨の校庭でブチのめし合って、互いがボロボロになって交わす青春ドラマみてぇなシチュエーションの時だけさ。覚えておきな。」
【ロノウェ】「なるほど。戦人さまと握手を交わすには、充分な雰囲気作りと相応しい場、そして心に響く甘い言葉と肉体言語の交わし合いが必要ということですね。機会を見て、その場を準備いたしましょう。
 私めも、そういうシチュエーションはだぁい好きでございますよ? ぷっくっくっく…!」
 ロノウェがからかうように笑いながら、鼻先が触れ合うほどまでに顔を近づけてそれを囁く。戦人は、同性に顔を近づけられることに赤面しながら、ドンと押し返す。
【戦人】「き、気色悪ぃ野郎だぜ…。なるほど、ベアトの執事にぴったりのヤツだ…。」
【ロノウェ】「お褒めの言葉を賜れまして光栄です。私は、紅茶には自信がございますので、ティータイムを楽しみにしていらして下さいね。クッキーを焼くのが趣味でございますので、お茶菓子にも乞うご期待をお願いいたします。」
【ベアト】「さすがは同性同士だな。打ち解けあうのが実に早い。妬けるぞ。」
【ロノウェ】「これはこれは。お嬢様に嫉妬させてしまい、申し訳ございませんでした。お嬢様のお客人をこっそり摘み食いなどいたしませんよ。
 それでは、これより他の家具どもに、再び家具頭に着任いたしましたことを挨拶してまいります。しばしの暇をお許しください。」
【ベアト】「うむ。顕現しているのは雑用の山羊どもと儀式役の七姉妹だけだ。挨拶も楽に終わろう。」
【ロノウェ】「おや。あの賑やかな七姉妹たちですか。やんちゃ娘たちも、少しはお淑やかに成長したでしょうか。」
【戦人】「……いっひっひ。あれがお淑やかだってんなら、俺はお淑やかの定義を疑うぜ。」
【ロノウェ】「そうでございますか。七姉妹どもとは、もうお遊びになられたようですね。その表情から察するに、どうやら相変わらずのやんちゃぶりのようだ。ベアトリーチェさまにお仕えするに相応しい振る舞いをするようにと、いつも言っているのに。困った子たちだ…。」
【戦人】「その意味でなら安心しろよ。実に主にぴったりな、相応しい振る舞いだぜ…。」
【ベアト】「くっくっくっくっく! そなたも言うようになったな! しかし、会話は相手を認めるということだ。妾との雑談に応じるようになったということは、そなたが妾の存在を、徐々に認め始めている証拠。」
【戦人】「へっ。例え、お天道様が西から昇ることがあろうとも、絶対の絶対絶対ッ、お前を魔女だと認定などしねぇからな。泣いて俺の靴にキスしたら、もうちょい前向きに検討してやってもいいぜ。」
 戦人は、空威張りだったとしても、それでも不敵な表情を浮かべ、威勢よく言い放ってみせる。
 魔女とその執事は、客人が新しいゲームに臨むための充分な気力を回復していることを理解し、準備は万端であるとほくそ笑み合った…。ロノウェはベアトリーチェといくつか言葉を交わすと、戦人にも黙礼をし、黄金の蝶となって散って姿を消す。
【ベアト】「くっくっくっく。賑やかになるのは、実に嬉しいことだ。……この島にたったひとり閉じ込められ、己の力を取り戻せず、誰に話しかけることもできなかった日々の何と退屈だったことか。」
【戦人】「……あの気持ち悪いヤツが、お前に似合いの執事だってことはよくわかった。…だが教えろ。その執事が、なぜ今頃になって現れた? 顕現しているのは山羊と七杭の姉ちゃんたち…、とか何とか言ったな。どういう意味だ…?」
【ベアト】「うむ。そなたは抗っておるが、妾はれっきとした魔女だ。魔界に通じ、人ならざる数多の存在と交流を持っておる。」
【戦人】「だろうな。お前の関係にはロクな連中がいねぇぜ。山羊のバケモノに太もも姉ちゃんに、そして今度は悪魔の執事と来たわけだ。……まさかとは思うが、この調子でまだおかしな連中が増えるってんじゃねぇだろうな…。」
【ベアト】「はっはっはっは! 妾の荘厳なる黄金館に仕える家具どもと、そこへ遊びに来る悪魔たちがどれほどいると思っているのか? まだまだ訪れるぞ。いくらでも現れるぞ。
 黄金郷の扉を開き、全ての家具たちを呼び戻し、妾はこの六軒島に新たなる城を建てるのだ。そして、懐かしき友人たち全てを招き、三日三晩を飲み明かし、踊り明かしてやるつもりよ。
 ……無論、金蔵の一族たちも招くつもりでいるぞ? 望めばそなたもな。くっくっく…!」
【戦人】「……つまりこういうことか。お前は長いこと力を失っていたため、そいつらを呼び出せなかったと。…それで徐々に魔力が回復してきた為、次々バケモノを呼び出せるようになったと、そう言いたいわけか。」
【ベアト】「そういうことだ。そなたは最後の一線でこそぎりぎり踏みとどまっているが、その心はすでにグラつき、妾が魔女であることを否定できずにいる。その心のグラつきが、妾の魔女としての力を少しずつ蘇らせているのだ。」
【戦人】「あの気色悪い執事が現れたのは、……俺が屈しかけているからだと言うのかよ。」
【ベアト】「そうだ。そなたは少しずつ少しずつ妾に屈している…! 前回のゲームでは、あれほどの屈辱を受けてまで妾に屈服したではないか。そなたの背中は、妾の足を投げ出すには本当に良いものだったぞ? くーっくっくっくっくっく!!」
【戦人】「…ち、……畜生……。…俺は、お前を認めさえしなければ、現状は維持できると思っていた。…だがそれはどうやら誤解だったらしいな。」
【ベアト】「そうだ。そなたが屈服に近付けば近付くほど、ゲームは妾に有利に傾いていく。チェスだってそうであろう? 互いのキングを詰め合う過程で、妾たちは様々な駒を取り合っている。確かに妾は未だそなたのキングを追い詰めてはおらぬ。」
【ベアト】「……しかしそなたは、キングを逃すのに精一杯で、いくつもの大駒を失い、莫大なアドバンテージを失っておるわ。後の展開が妾に有利に傾くのは当然のことよ。」
【戦人】「………………くそ………。」
【ベアト】「そなたは恐らくこれからも、死に物狂いで妾のチェックメイトだけからは逃れるだろう。…だが、その間にも妾はそなたの大駒を次々に奪っていく。やがてはキング以外の全てを失い、どのような形でも逃れることの叶わぬ、本当のチェックメイトを受けることになろう。」
【ベアト】「……前回そなたは気炎を吐いたな? 妾を永遠に認めぬ以上、これは妾を苛む永遠の拷問だなどと。永遠を語るのは無限の域に達した魔女だけよ。そなたにその資格など初めからないわ。くっくくくくく、はっはっはっはっはっはっはっはッ!!」
食堂
【真里亞】「黄金の隠し場所については、すでに金蔵さまが私の肖像画の下に碑文にて公示されております。条件は碑文を読むことができる者すべてに公平に。黄金を暴けたなら、私は全てをお返しするでしょう。
 それではどうか今宵を、金蔵さまとの知恵比べにて存分にお楽しみくださいませ。今宵が知的かつ優雅な夜になるよう、心よりお祈りいたしております。——黄金のベアトリーチェ。」
 真里亞がベアトリーチェから渡されたという手紙を読み終えると、誰もがしばらくの間、言葉を失った。そして、その沈黙は一斉に破られる…。
【夏妃】「ば、馬鹿馬鹿しい。取るに足らない悪質な悪戯です!」
【蔵臼】「まったくだ。親父殿が当主の指輪を手放すなど、ありえるわけがないじゃないか。ベアトリーチェ? は! その名を語れば右往左往するだろうという、見え透いた悪戯だ。」
【留弗夫】「おいおい、このちょいとパンチの効き過ぎたデザートを仕込んだのは誰なんだ? 今なら、喝采で褒めてやるから正直に白状しろよ。楼座か?」
【楼座】「と、とんでもない…! お父様の名を騙る悪戯なんてしません!」
【留弗夫】「じゃあ、姉貴か?! 兄貴か?!」
【絵羽】「私?! 馬鹿言ってんじゃないわよ! 兄さんでしょう?! こういう悪趣味な仕掛けは!!」
【蔵臼】「愚弄する気か!! 私こそお前たちに問いたい! この性質の悪い悪戯は誰の仕業なんだ?!」
 蔵臼はテーブルを叩き、ぎょろりと全員を見渡す。…それには子どもたちも含まれていたため、大いに彼らを怯えさせた…。
【霧江】「…お父様から財産の全権を任せられたと称する謎の人物からの手紙。そして今日がそれを話し合うための親族会議であることを考えると、……悪戯だと決め付けるのも早計だと思うわ。」
【秀吉】「わからんで。まさにお父さんの、悪趣味な悪戯かも知れへん…。自分抜きで遺産分配の話をまとめようとしているわしらを、ちょいと驚かせたくて仕組んだことかもしれん…。」
【留弗夫】「こいつを仕組んだのが親父だってんなら、……今、真里亞ちゃんが読み上げた内容は冗談ってわけにはならねぇぜ…?」
【絵羽】「……そうね。文面通りに解釈するなら、…これはお父様からのテストね。魔女の碑文は、私たち誰にでも解けるように、ずっと広間に掲示されていた。告示期間は充分。最初に解けた人間に、家督と全ての財産を渡すと、そう言っているわけよね…?」
 ……ほら。私たちの魔法、叶ったわ……。
【夏妃】「そんな馬鹿な話はありません!! 右代宮家の次期当主が夫であることは、何ら揺るがない事実です!!」
【絵羽】「それを揺るがすのがこの手紙じゃない! この手紙は、お父様に財産の全てを全権委任された人物からのメッセージなのよ! もはや兄さんの当主継承権は白紙に戻ったわ。魔女の碑文を解いた者が、……ベアトリーチェの黄金を見つけた者が、右代宮家の次の当主になるのよッ!!」
【蔵臼】「馬鹿馬鹿しい…! その手紙の戯言を信用するのかね? その封蝋が本物だとでも? 信用などできるものか!!」
【絵羽】「なら、お父様に直接話を聞いてみましょうよ! もう、機嫌が悪いからとか体調が悪いとか、そんな次元じゃないわよ?! この手紙は、お父様の代理人であることを封蝋でちゃんと示してる! それを疑うなら、兄さんが証明しなさいよ。この手紙が、お父様の意思のものではないってッ!!」
【蔵臼】「よ、良かろう。お前の言う通りだ。もう親父の機嫌不機嫌の問題ではない…。上へ行き、直接問い質そうじゃないか。」
【留弗夫】「そうしようぜ。親父に直接聞こう。親父も親父だぜ、どうしてこんな回りくどい真似を? まぁそこが親父らしいんだがな!」
【楼座】「お、お父様の手紙だということを前提に話を続けてもいいのかしら…。」
【絵羽】「馬鹿楼座ッ!! お父様の手紙に決まってンでしょおッ?! あの手紙はお父様のなのよ!! 次期当主を、私たち4人の中から選ぶ為の公平なチャンスに決まってるじゃない!! 馬鹿ッ死ねッ知能ゼロッ!!」
 ホント、楼座って頭悪いわ。ヘソでも噛んで死んじゃえば…?
【楼座】「ご、ごめんなさい…! そそ、そうよね…、ごめんなさい…。」
 当初こそ手紙の信憑性について疑いあった大人たちだったが、当主継承争いは蔵臼以外の3人にとって無二のチャンスになることを理解した途端に、絵羽は口調を換え、手紙の正当性を主張し出した。留弗夫と楼座もそれを理解し、同調する。
【夏妃】「まったく!! そんな下らない悪戯に、大の大人がこれほどまで真に受けるとは…! お父様でなくても呆れたい気持ち、よくわかります!!」
【秀吉】「ままままま! 夏妃さん、それはお父さんに聞けば済む話やないか…! お父さんが、その手紙は知らんって一言言ってくれれば済む話やで。」
【絵羽】「兄さん。責任を持って、その手紙は知らないという一言を引き出すのよ。機嫌が悪そうだからってビビってる場合じゃないんだからね?!」
 いい歳してお父様が怖いなんて、馬っ鹿みたい。ヘソ噛んで死んじゃえば…?
【蔵臼】「あ、あぁ! はっきり白黒を付けようじゃないか。今頃は書斎で食事中だろう。一度、箸を休めてもらおうじゃないか…!」
【留弗夫】「決まりだな。行こう! 霧江はちょっと待っててくれ。真偽を確かめてすぐ戻る。」
【霧江】「……ありがと。郷田さんがデザートを持ってくるのを、のんびり待ってるわ。」
 4兄弟と夏妃と秀吉が、威勢よく席を立つと、どたどたと廊下へ飛び出していく。後には、あまりのことに呆然として言葉を失っている子どもたちと、居心地の悪そうな南條。そして肩を竦める霧江が残されるのだった。
 全ての渦中の真里亞は、大人たちの豹変に少し怯えているようだった。…しかしその様子を見る限り、自分が読み上げた内容が、どれほどのものなのか、理解できているようには見えなかった。
【朱志香】「…一体、……何事だってんだよ…。わけわかんねぇぜ…。」
【戦人】「……どいつもこいつもクソッタレだ。そんなに遺産が欲しいかよ…!」
【譲治】「…………みんな。これは親たちの問題なんだ。僕たちには関係ない。だから気にしちゃ駄目だ。」
【戦人】「そうは言ってもよ…。…ああもあからさまに…。」
【朱志香】「見損なったぜ…! 欲の皮が突っ張ってやがる…!」
【真里亞】「うー! みんなで幸せになるって信じ合わないと駄目ー! うーうー!」
【譲治】「…そうだね。僕たちはみんなで約束したもんね。ほら、戦人くんも朱志香ちゃんも…。」
【戦人】「…………はぁ。」
【朱志香】「……最悪の気分だぜ…。」
 俺たちは何も納得できないが、とりあえず矛を収める。
 …今回の親族会議が、どれほど泥臭いものかは薄々知っていた。…しかし、6年のブランクを思えば、それは衝撃的でないわけもない…。
 子どもたちがすっかり消沈してしまったのを見て、南條先生は居心地悪そうに咳払いをする。
【南條】「…大人の話です。お若い皆さんとは関係のないことですよ。忘れてしまいましょう。」
【朱志香】「それが出来りゃ、やってるぜ…!」
【霧江】「辛いのはわかるわ。でも、今は忘れてあげて。…あなたたちの将来を少しでも豊かにするため、みんなの両親は必死で戦っているのよ。そしてやがて傷付き帰って来るお父さんたちを、どうかそんな冷たい目で迎えないであげて。」
【戦人】「…………………。いくら霧江さんの頼みでも、……それは難しいぜ。」
【朱志香】「そう割り切れるなら、……子どもなんてやってねぇぜ……。」
【真里亞】「うー! みんな幸せー!! 暗くなるの駄目ー!! 信じてー! みんなで幸せになれるって信じないと、幸せが逃げちゃう! みんなで信じないと駄目なの! うーうーうー!!」
【霧江】「……いい話ね。私も信じるわ。私たちは幸せになれるわよ。」
【真里亞】「うー! 霧江伯母さん、ありがとぉ!! 戦人と朱志香お姉ちゃんも信じて! ベアトリーチェも、信じないと魔法が力を持たないっていつも言ってる。うー!」
 霧江さんは静かに席を立つと、真里亞のところへ行き、目線を合わせるように屈んだ。
【真里亞】「……うー。霧江伯母さんが信じてくれた。あと、戦人と朱志香が信じないと駄目。」
【霧江】「二人とも強いもの。すぐに元気になって、そうしてくれるわよ。」
【真里亞】「うん。」
【霧江】「それより、…………教えて欲しいの。」
 霧江さんがそう言うと、朱志香も譲治の兄貴も南條先生も、そして俺も、耳を傾けた。
 …親たちは遺産問題云々で祖父さまのことで頭がいっぱいだったようだが、俺たちはそんなことより、もっとシンプルなことを真里亞に聞きたかった。
【真里亞】「うー? 何?」
【霧江】「真里亞ちゃんにその手紙を渡したのって、誰…?」
【真里亞】「ベアトリーチェー!!」
【霧江】「肖像画に描かれている魔女の…?」
【真里亞】「うー! 傘と一緒にこの手紙もくれたの! そしてね、真里亞の薔薇が折れちゃってたのを魔法で直してくれたの! ベアトリーチェは何でもできるすごい魔女なの!!」
【霧江】「…………詳しく聞かせてくれるかしら…?」
 前回のようにベアトの変装をしてここに来たわけではないが、会話の内容は事実。そうでなければ、真里亞を含む幻想描写はルール上成立しない。

魔女の挑戦状
10月4日(土)20時00分

ゲストハウス・いとこ部屋
 俺たちはデザートを待つことも許されず、食堂を追い出された。
 結局、祖父さまは親たちに取り合ってくれなかったという。…まぁ、こう言っちゃ何だが、祖父さまグッジョブという気分だ。
 祖父さまは、自分の存命中から遺産問題に執心している息子兄弟に、怪しげな手紙でひと泡吹かせて、さぞや満足しているだろう。俺も、浅ましい親父たちが右往左往しているのは、ざまぁ見ろという気分だった。
 ……もっとも爽快な気分とはとても言い難い。不貞腐れたい気分だった。祖父さまは構ってくれなかったわけだが、手紙のことを否定することもしなかったらしい。
 魔女の手紙には、祖父さまの名が何度も出てくる。もし祖父さまが自分の名を騙られたと知ったなら、キャラクター的に考えて怒り狂うところだろう。
 しかし祖父さまは、手紙の内容を知ってもなお、涼しげに無視していたという。となると、これはもはや無言のイエスも同然ということなのか。
 絵羽伯母さんとウチの親父は、この手紙を自分たちに有利に解釈しようと、欲の皮をギチギチに突っ張らせていた。
 それだけならまだしも、大人たちは今度はその矛先を、手紙を受け取った真里亞に向けた。誰から受け取ったのかとしつこく何度も詰問した。
 真里亞は、ベアトリーチェにもらったと何度も繰り返すのだが、そんな謎の人物がこの島に紛れ込んでいるわけもない。…何しろここは、右代宮家以外誰も住まない小さな島なのだから。
 真里亞は何度聞かれてもベアトリーチェにもらったと繰り返すだけ。それを大人たちは、誤魔化していると感じたらしく、彼女が泣き出すまで詰問を決して緩めようとはしなかった…。
 真里亞は解放された時、泣き疲れてぐったりしていた。親たちは、真里亞を連れてゲストハウスに行っていろと一方的に命じると、自分たちは食堂に閉じこもり、ますますに遺産の話で盛り上がるのだった。
 どうやら、おかしな手紙のせいで、蔵臼伯父さんが次の当主になるという話が白紙に戻る可能性が出てきていて、それを認める見返りに親父たちが蔵臼伯父さんから大金をせしめる…、みたいな感じのようだった。
 憮然とした俺と朱志香は、喜んでゲストハウスへ移動することにした。カネのことで頭がいっぱいの、汚い大人たちと同じ屋根の屋敷にいたくなかったのだ。
 譲治の兄貴は、そんな親たちを理解してやってほしいと弁護する。
 …理屈ではわかる。金の話はどんなに汚くとも、目を閉じれば済む問題ではない。しかしそれでも、ああもあからさまにカネの亡者に成り下がれるものなのか…。
 真里亞は泣きつかれ、今はベッドに潜っている。さっきからぴくりとも動かないから、きっと眠ってしまったのだろう…。
【譲治】「………真里亞ちゃんは、一体誰にあの手紙をもらったんだろうね。」
【朱志香】「譲治兄さん。それはもう聞いちゃ駄目だぜ。真里亞がベアトリーチェにもらったっていうなら、それでいいじゃねぇかよ…。」
【戦人】「これ以上、真里亞を泣かせたくないしな。」
 ……そうは言ったものの。俺たちだって、もやもやしたものが晴れない。
【譲治】「この島には今、18人しかいないんだよ。そこに、この雨の中、未知の19人目が、真里亞ちゃんに手紙を託して、今もどこかに隠れているというのは、正直、現実的ではないね。」
【朱志香】「恐らく…、あの肖像画のドレスを、紗音辺りにでも着てもらって、うまく真里亞と口裏を合わせたってことじゃねぇのかな。
 …もっとも真里亞の場合、あのドレスを見たら、それだけでベアトリーチェだと信じちまいそうだけどな。」
【戦人】「誰が渡したかなんて、どうでもいい問題かもしれないな。大事なのは差出人だろ。…要は、祖父さまが黄金の魔女の名を騙って、ひと波乱起こしたかったってことなんだぜ。まったく、人騒がせなジジイだぜ。」
 オカルト被れの祖父さまが、同じ趣味を持つ真里亞に、芝居染みたやり方で手紙を持たせ、遊んでみたというのが真相だろう。……真里亞の迷惑を顧みず、迷惑なことこの上ないが。
【戦人】「ったく。真里亞の純真な心を弄びやがって…。手紙を渡したのが誰でもいいさ。真里亞がベアトリーチェにもらったって言うんだから、そういうことにしてやろうぜ。」
【譲治】「同感だよ。そうしよう。子どもにとってのサンタクロースみたいな存在が、真里亞ちゃんにとってはベアトリーチェなんだろうね。」
【戦人】「いない19人目もサンタクロースも、俺たちが認めてやれば、それは少なくとも真里亞の中では“い”るということになるわけだ。…なるほど、子どもの夢を守るためのウソって大事だなぁ。
 …………ん? どうしたんだよ朱志香。まだ腹を立ててるのかよ。」
 朱志香は、顎に手を当てて、何か腑に落ちないことでもあるかのようだった。俺に声を掛けられ、我に帰る。
【朱志香】「あぁ、……ごめん。いやさ、……実は。……真里亞が会ったのは、本当にベアトリーチェだったってことがあるんじゃないかな。」
【戦人】「…そりゃどういう意味だよ。この島に19人目の人間がいるって言いたいのか?」
【譲治】「真里亞ちゃんの言うことを心から信じたなら、そういう答えに行き着くだろうね。」
【朱志香】「いや、そういうのじゃなくて。……昔っからこの島には、俺たちの知らない誰かが住んでるんじゃないかって話はあったんだよな。」
【戦人】「住んでるって、どこに。」
【朱志香】「…森の中にさ。」
食堂
 食堂には、大人たちが集まり、ベアトリーチェの手紙に端を発する議論に延々と明け暮れていた…。
 蔵臼は、手紙はただの悪戯であると強く主張したが、金蔵が否定しないことこそ答えであるとの主張を覆せなかった。
 金蔵の性分を考えれば、自分の名を騙る手紙の存在を知れば怒り狂うはずなのだ。それを兄弟の誰もが知るからこそ、もはや蔵臼は自分の主張を収めるしかなかった。
 要約するまでもなく、この手紙の内容はシンプルだ。魔女の碑文を解いた者が、家督と財産を受け継ぐ。これは、家督を継ぐことが確定していると思われた蔵臼にとっては最大のダメージであり、元々諦めていた蔵臼以外にとって望外の朗報であった。
 しかし、気になる点もある。“碑文を解いた者”が、右代宮家に連なる人間に限定されていない点だ。
 原文通りなら、謎を解いた人間がどこの馬の骨であっても、右代宮家の家督を継承できることになってしまう。いや、それどころか、右代宮家の全ての財産を何者かに奪われてしまう可能性だってあるのだ。
 その意味においては、蔵臼以外の兄弟たちも、気が許せる状況では断じてなかった。この手紙はベアトリーチェを名乗る金蔵の刺客からなのか。…それとも、右代宮家から財産を奪い取ろうとする何者かの謀略なのか。真相は未だわからない。
 …しかし、ひとつだけ言えることがある。
 真里亞が問題の手紙を、今日、この島で受け取ったということだ。つまり、あの手紙について策謀を巡らせた人間が、今日、まだこの島にいるということなのだ。
 ……仕掛け人は、金蔵なのか、それとも4兄弟の誰かなのか。あるいは未知の何者かなのか。互いをいくら疑い合えど、結論など出るわけもない。
 彼らは罵り合いに疲れきり、ようやく、互いを疑い合うのは時間の無駄であるという、至極当然な結末にたどり着くのだった…。
【蔵臼】「……埒が明かんね。無駄な時間を費やしたものだよ。」
【絵羽】「そうね。兄さんが気付いてくれるだけで、これ以上を浪費しなくて済むわ。」
【夏妃】「手紙の差出人がお父様と確定したわけではありませんよ。会話の成り立たないあなたに主人が呆れ果てただけです。」
【絵羽】「会話が成り立たないのはどっちよ? 私が何か言う度にあなたは怒鳴ってばかり。そんな無様で右代宮家に相応しいと本気でお思いなのかしらぁ?」
【秀吉】「よさんか、絵羽。夏妃さんも。一度終わった話やで。」
【楼座】「い、一度ここで頭を冷やさない? 冷たいものでも持ってきてもらいましょうよ。」
【霧江】「そうね。頭を冷やした方が賢明そう。あなたも、そろそろ一服したくなってきたんじゃない?」
【留弗夫】「…姉貴の機嫌が悪そうだからな。一服の方は遠慮するぜ。だが冷たい方は賛成だ。楼座、誰かに水を持って来させてくれ。水差しごとな。」
【楼座】「うん、わかったわ…。」
 楼座は部屋の隅にある内線電話に向かい、使用人室に電話する。そして、今、留弗夫に言われたことを相手に伝えた。
 さっきまでの口汚い罵りあいがまるで嘘のように静まる。その静寂は、郷田が配膳を終えて退出するまで続くのだった…。
【郷田】「………他に、何かご入用のものはございますでしょうか。」
【夏妃】「ありません。もう下がりなさい。」
【郷田】「はい。…それでは失礼いたします。何かございましたら、いつでもお呼び下さい。」
 郷田の足音が遠ざかっていくのを聞き届けると、誰からともなく、緊張を解くようなため息が漏れた。
【霧江】「…本当にすごい雨ね。19人目の魔女は、今頃、薔薇庭園の東屋で雨宿りでもしているのかしら。」
【楼座】「ど、…どうかしらね。……雨は凌げるかもしれないけど、少し肩を冷やしそうね。」
【秀吉】「………謎の19人目の来訪者か。ちょいと推理小説っぽくて面白い話やな。普通、この手の話は、18人の中の誰かが騙ってるだけで、実際には存在せんと相場が決まっとるんや。」
【夏妃】「…私は源次たちが怪しいと睨んでいます。やはり、どんな難癖を付けてでも片翼の鷲の使用人たちは全て解雇した方が良かったんです。」
【蔵臼】「まぁ、そう言うな。長く勤めてくれた恩もある。…もちろん、気は許せんがね。」
【絵羽】「兄さんも、お父様の仕業かどうかはともかく、あの手紙を真里亞ちゃんに渡したのは、使用人の誰かだろうという点では同意するのね。」
【蔵臼】「うむ。何しろ、私たちは夕食までずっと“仲良く”団欒をしていたじゃないか。兄弟全員にアリバイがある。真里亞に手紙を渡せたのは使用人の誰かだけだ。」
【楼座】「…でも、使用人の人たちもみんな、ベッドメイクとかで忙しくて薔薇庭園の真里亞ちゃんのところへ行く余裕なんかなかったって言ってたし…。…………………。」
【留弗夫】「おいおい、じゃあ何だってんだよ。まさか、森の魔女、ベアトリーチェさまがお越しになって、本当に真里亞に手紙を渡したって言い出すのかぁ?」
【絵羽】「あっはっはっは。楼座、昔は信じててすごい怖がってたものねぇ? あんたまさか、いい歳してまだ信じてるのぉ? 森の魔女ぉ。」
 ……いるならぜひ現れて欲しいものよ。でも、どんなに願っても、一度も私の前には現れてくれなかった。私を苦境から助けてはくれなかった…。
【楼座】「ま、まさか…。でも、18人全員が自分は違うと言っている以上、本当に19人目がいるのかもって思っただけなの…。」
【秀吉】「そんなん、あらへんで。第一、船で来たのはわしらだけや。謎の乗船者なんぞ、わしらは姿も見とらん。まさか、この荒海を泳いで渡ってきたっちゅうんか? ちょいと考えられへんな。わっはっはっはっはっは。」
【霧江】「……理屈ではそうね。この隔絶された島に、招かれていない客が1人隠れているというのは、常識的に考え難いんだけれど…。…でも。………どうも、その可能性を捨てきれない人たちがいるみたいね?」
 秀吉は19人目などいるわけがないと笑い飛ばしているが、霧江は4兄弟たちの微妙な空気を敏感に感じ取っていた。
 常識で考えれば、この隔絶された小島に招かれざる来客などいるわけもない。一体どこからどうやってやって来てどこに隠れているのか。そしてなぜ手紙で自らを名乗るくせに、その姿を堂々と現さないのか。…何れの説明もつかない。
 しかし、4兄弟たちが秀吉の笑いに同調しない以上、19人目の可能性を、心のどこかで否定しきれずにいるのだ…。
【蔵臼】「霧江さん。誤解しないでいただきたいが、別に私たちはおとぎ話染みた魔女伝説など、これっぱかりも信じちゃいないさ。」
【夏妃】「……また、お父様を侮辱する話ですか。それを口にすること自体が、お父様への裏切りです。」
【絵羽】「くすくす。まぁねぇ。……でも、あのお父様ですもの。あるいは本当に、……ねぇ?」
【楼座】「……………わ、…私は何も知らないわ……。」
【秀吉】「何や何や。何を険悪になっとるんや…。どういうことや? …つまり、…魔女伝説は笑い話でも何でもなく、…事実だっちゅうんか? そんなアホな!」
【留弗夫】「はははは。もちろん、箒に跨って空を飛ぶ魔女なんて誰も信じちゃいないさ。……だが、あの肖像画の女。…ベアトリーチェは本当にこの島に存在したかもしれない。」
【霧江】「………秀吉さん。魔女とかの話じゃなくて、もっとシンプルな話みたいよ。…つまり、こういうことね。
 ベアトリーチェという名の愛人を、お父さんがこの島のどこかに隠れ住まわせていたのではないかとみんなは疑っている。……そういうことかしら?」
【夏妃】「お父様は自己を厳しく律する模範的な方です! そのような汚らわしい存在を島に連れ込むなど、到底考えられません…!」
 夏妃がさっそく噛み付くが、その夫の蔵臼も含め、4兄弟たちはそうは思っていないようだった。…むしろ、あの金蔵だからこそ、それくらいのことはしかねないと思っているようだった。
 金蔵を夢中にさせる愛人の存在は、それこそこの島に屋敷を構えた当初から囁かれていたのだ……。
【留弗夫】「……親父を尊敬してる夏妃さんにゃ悪いが、だいぶ昔からそういう噂はあったんだよな。親父は自分ひとりでこの六軒島の設備、全てを作り上げた。
 …屋敷の中には、親父しかわからない仕掛けや、隠し部屋なんかがあるんじゃないかって初めから疑われてたし、俺たちの知らない秘密の屋敷が、この島のどこかに隠されてるんじゃないかとも、ずっと囁かれてた。」
【霧江】「そうね。地図上は小さな島かも知れないけれど、…右代宮家だけが住むには広大過ぎる島だわ。……そして未開の森のどこかに、愛人を住まわせるための隠し屋敷を作ったかもしれないと、そう思われてたのね? ずいぶん、スケールの大きな話ね。」
【留弗夫】「最初はそれは、この屋敷の中じゃないかと言われてた。……秘密の地下とかがあったりして、そこに豪華な隠し部屋があり、あの肖像画の魔女が隠れ住んでるんじゃないかとかな。…親父の書斎の、凝ったオートロックの仕掛けとかを見てると、それも納得できるだろ?」
【蔵臼】「……何しろ、莫大な黄金をどこか秘密の場所に、秘密の仕掛けで隠したと吹聴する親父殿だ。この屋敷とて、未だ我々の知らぬ隠し部屋があったとしても、驚くには足りんね。」
【絵羽】「お母様は存命中、よくお父様の不在をついて屋敷内をしらみ潰しに探し回ってたわね。……留弗夫が言ったことを、お母様も疑ってたのよ。どこかに秘密の扉や階段があって、その中に金髪の愛人が隠れていると信じていたわ。」
 信じ難いことだが、浮気相手を数十年に亘って、屋根裏部屋に秘密に住まわせていたという実例が外国にある。増してや、これほど立派な屋敷を持つ金蔵なのだ。……秘密の部屋の存在などいくらでも疑えた…。
【霧江】「六軒島の魔女伝説って、…私の聞いてた話では、子どもたちが未開の森に入り込まないようにって言って作った、怖がらせるためのおとぎ話だったんだけど。…何だか、それだけじゃないって気がしてきたわ。」
【留弗夫】「まぁな。何しろ、右代宮の屋敷以外に何もない寂しい島だからな。俺や楼座がガキの頃は、そりゃあ、雷雨の夜に森から聞こえてくる木々のざわめきに怯えたもんさ。その木々の間から、不気味な何かが様子をうかがってるんじゃないかなんて妄想、ガキだったら誰でも考える自然なものさ。
 …だが、俺や楼座がそう訴えるのを聞いて、ガキの妄想だろでは済まさない連中もいたってことなんだろうな。…そうだろ、姉貴。」
【絵羽】「………えぇ。私や兄さんは、この島に隠れ住んでいる愛人が、人目を忍んで出歩いていたのを、偶然、あんたたちが目撃したのではないかと考えていたわ。もちろん、お母様もね。」
【蔵臼】「…古い使用人たちの中にも、深夜の屋敷内に肖像画の魔女が徘徊しているというような怪談が語られていた。私はそれを表向き、怪談として笑い捨てていたが、内心は秘密の愛人の存在を充分に疑っていたよ。」
【秀吉】「となると、………この島に19人目の何者かがいるかもしれないってのは、まったく馬鹿馬鹿しい話でもないっちゅうことなんか。…いや、むしろどこかにいるかもしれないわけか……?」
【霧江】「………よく留弗夫さんの言う、“悪魔の証明”というやつになったわね。…19人目がいることは証明可能だけれど、19人目が存在しないことは証明不能。……私たちは、ベアトリーチェという名の人物が島のどこかに潜んでいることを前提に議論を進めるべきなの……?」
【留弗夫】「危機管理の基本としては正しいな。…いるわけがないと思うよりは、いるかもしれないと用心する方がはるかにマシだろうよ。」
【秀吉】「そ、…そうやな。すまん、ちょいと無用心が過ぎたわ…。楼座さん、さっきは笑ってすまんかったな…。」
【楼座】「え、…あ、……別に気にしてないです。」
 秀吉は、仮にも会社社長を名乗りながら、危機意識が薄くて申し訳ないと深々と謝る。
 そこで再び一同は沈黙した。
 19人目の存在に備えるということはつまり、今この島に、未知の人物が隠れ潜んでいることを認めること。そしてその人物が、何か良からぬことを企んでいるかもしれないともなれば、若干の不気味さを伴うのは当然のことだった…。
【蔵臼】「……親父殿はかつて、不意に所在を知らせずに姿を消すことがあった。何しろ、静寂を好むお人だからな。わざと所在を知らせず、どこかの書庫に閉じ篭っているなどということは、別に不思議なことではなかったよ。
 ……しかし、魔女伝説が愛人説に摩り替わり、やがてそれは、こっそり愛人のもとへ通っているのではないかと囁かれるようになった。」
【留弗夫】「末期のお袋は疑心暗鬼の塊だったからな。突然大騒ぎして使用人たちに、緊急事態だから今すぐ親父を探せなんて騒ぎ始めることがあったっけ。」
【絵羽】「……あったわね。晩年のお母様はそんなことばかりだったから、未だにその怖い雰囲気が拭えないわ。…今だから言える。可哀想な人だったわ。」
【秀吉】「それで、…その大々的な家捜しの結果、どうだったんや。何か見付かったんか。」
【絵羽】「いいえ。隠し部屋は愚か、一度たりともお父様が発見されたことはないわ。そしていつも、それからだいぶ時間が経ってからひょっこりと、何処からか姿を現すの。どこかの書庫で昼寝していたとか、風に誘われて浜辺を散歩していたとか何とか言ってね。
 …でも、それらの場所は何れも使用人たちが必ず探している場所。……お父様がどこに行っていたのかは、いつもわからなかった。当時からお父様はオカルトに傾倒していることが有名だったから、一部の使用人たちは、蝶にでも化けて、薔薇庭園を舞っていたのだろうなんてうそぶいていたっけ。」
【霧江】「つまり、お父さんは、誰も知らないどこかへ姿を消すことが頻繁にあったのね。」
【留弗夫】「あぁ。どんなに屋敷中を探しても見付からないんだから、親父は屋敷の外へ行っているのだろうという見解になった。だが、屋敷の外ったって、それほど大した場所はない。……となると残るのは、広大な森だ。
 それで森の魔女伝説と融合して、出来た仮説はこうだった。親父は実は、森のどこかに隠し屋敷を作っていて、そこにベアトリーチェという名の愛人を住まわせていて、時折通っているんじゃないかってわけだ。」
【蔵臼】「…私も当時は若くてね。親父殿の浮気の現場を押さえてやろうと意気込み、表へ出る親父の後をつけようとしたことがある。
 …もちろん失敗したよ。親父は表へ出る時、異様に人目を嫌い、誰かに見られてないか警戒していた。それこそ異常なくらいにね。だから逆に確信したよ。家人に知られてはならぬ理由で出掛けているに違いないとね。」
【秀吉】「そら、愛人のところへ出掛けるんや。人目も忍ぶやろな。」
 秀吉がさも当然のように、ウンウン言いながら頷くのを見て、絵羽がちょっとムッとする。
【絵羽】「…まぁとにかく。西洋被れのお父様が、自分の夢を、まるでスケッチブックに描くみたいに実現したのがこの島なのよ。……全てがお父様の思い通りの島。愛人を住まわせる隠し屋敷があっても、何の不思議もない…。」
 絵羽のその言葉は、4兄弟がずっと思ってきたこと全てを代弁したようだった。しばしの間、室内は再び沈黙に支配され、一同は雨と風の音に耳を傾ける…。
 ……この島には誰も知らない隠し屋敷があり、そこにずっとずっと、金蔵の愛人が隠れ住まっている……? 誰もが勘繰り過ぎだと思い、長いこと口にすることをはばかられてきたが…。……全員が持つ共通の見解であったのだ。
 その話を、ずっと目を閉じて聞いていた霧江が、誰とはなしに問い掛ける。
【霧江】「…その、お父様の愛人の噂はいつ頃から?」
【留弗夫】「この島に引っ越してきた当初からだから、かれこれ30年くらい前だな。何しろ、隠し屋敷の工事なんて、俺たちが島に来ちまったら無理だろ。人とか機材の出入りがあるもんな。すぐにバレちまうさ。
 だから、可能だとしたら、俺たちが引っ越してくる以前。…多分、俺たちがまだ小田原に住んでいた頃に、この屋敷の工事と一緒に済ましていたんだろうよ。」
【絵羽】「お父様は、家族生活と愛人との生活の2つを両立させようと、最初から想定していたと考えるのが妥当なんでしょうねぇ。多分、愛人との関係は小田原時代にまで遡るでしょうし。」
【蔵臼】「だろうな。親父殿が言うように、右代宮家復興の軍資金となった莫大な黄金が、彼女によってもたらされたとするなら、小田原時代にはもう親交があったと見るべきだろう。……莫大な黄金を貸し付けられるだけの信頼関係だ。どれほどの古い縁か、想像もつかんね。」
【夏妃】「………恐らく、お父様が事業で成功する上で、何か貴重な助言をしてくれたのでしょう。それに恩を感じ、その人物が黄金を与えてくれたというような言い方をしたと考えるのが自然です。そうと考えれば、その後も親交があったのは当然でしょう。それは恐らく、愛人という爛れた関係ではなく、右代宮家の危機を救った恩人としてに違いありません。」
【秀吉】「……夏妃さんの言うのも、一理あるかもわからんな。だが、仮にそうでも、隠し屋敷を作って住まわせるってのは、ちょいと行き過ぎた話やろなぁ。恩だけでは量れん感情があったんとちゃうか。」
【留弗夫】「まぁ、全ては憶測だ。……第一、その隠し屋敷は誰も見つけたことがねぇ。…兄貴はこの島をリゾート開発する気なんだろ? その際にひょっこり見付かるかもしれねぇぜ? 案外、そこに黄金もあったりするかもな。」
【蔵臼】「…はははは。お前は六軒島を宝島か何かだとでも思っているのかね?」
【絵羽】「惚けないでよ。…兄さんがリゾート開発と称して、島の全域調査を計上しようとしてたのを知ってるのよぅ? 例のトラブルのごたごたで出来なくなっちゃったそうだけどね?」
【蔵臼】「何だか知らんが、誤解だな。島の調査はリゾート化の第一段階として、極めて当然のことだ。」
 蔵臼は惚けてみせるが、彼をよく知る兄弟たちにとってそれはとても白々しいものだった。
 …蔵臼は間違いなく、隠し屋敷の存在を確信しているのだ。それで、リゾート開発と称して島を詳しく調べ、黄金の隠し場所の手掛かりを見つけようとしているのだ。
 その確信は、単なる思い込みなのか、それとも具体的な証拠があってのことなのかはわからない。……しかし、悪知恵の働く蔵臼がそれを確信している以上、それに足る根拠があるに違いないと兄弟たちもまた確信していた…。
【秀吉】「……森に魔女が住んでるっちゅうのは、そのまんまおとぎ話やが、森の中に誰も知らない屋敷があって、金髪の姉ちゃんがひっそり隠れ住んどるっちゅうのも、充分、おとぎ話やな。」
【絵羽】「そうね。シチュエーションだけだったら、まるで童話か何かみたいねぇ。楼座、そういうの好きでしょう。」
【楼座】「……え、……ま、…まぁね…。」
【蔵臼】「この島に屋敷を建てた頃は、親父殿の特に全盛期だ。カネに物を言わせて、どんな妄想も実現しただろう。…森の中にひっそりたたずむ魔女の屋敷。……親父の好きそうなシチュエーションだ。」
【留弗夫】「……だな。オカルトチックというかメルヘンチックというか。…親父の趣味って気がするぜ。」
 右代宮家が30年にもわたって住まってきたこの島に、誰も知らない隠し屋敷がひっそりと建っていて、肖像画でしか知らない魔女が住んでいる…。にわかには信じられないこの話も、…全て金蔵の奇癖と莫大な財産があれば、決して妄想ではないのかもしれない…。
【霧江】「……お父さんがそういう夢を思い描いて、隠し屋敷を建てることは不可能じゃないかもしれない。……でも、現実的な話。その隠し屋敷に、愛する女性を不自由なく何十年にもわたって住まわせることなんて、可能なのかしら…?」
【絵羽】「……さぁ。愛さえあれば可能なんじゃない?」
【霧江】「愛する女性が健やかに過ごせるような設備よ。……それもお父さんなりのね。それは例え、規模が小さかったとしても、趣向を凝らした快適な邸宅に違いない。
 そしてそれを維持するには、電気、ガス、水道。あるいは身の回りの世話に人間も必要かもしれない。食事の世話だって大変でしょうね。衣服や化粧品、日用品。…女の身の回りは簡単じゃないわ。……それだけのものを、家人にも使用人にも悟らせずに維持することって、可能なのかしら。」
【留弗夫】「…………そこまで言われると確かに弱いな。…だがそれでも、親父ならやってのけるかも知れんという気持ちは残る。…何しろ、あの親父だからな。」
【絵羽】「そうね。…あのお父様だものね。」
【夏妃】「お父様は、やり遂げることは何があってもやり遂げます。…常人には難しいから無理だろうという理由は、お父様に関してだけは当てはまらないでしょう。」
【蔵臼】「うむ。親父殿に関してだけは、見くびらん方がいい。……親父の狂気は、常人の思考では理解にも及ばん。」
 “あの”金蔵ならやりかねない。…この枕詞が付く限り、どんな荒唐無稽な話にも少なからずの信憑性が宿った。
 しかし、それでも霧江の言い分は揺るぐものではない。こっそりと、親に内緒で段ボール箱に猫を飼うのとはわけが違う。人間ひとりを30年にもわたって秘密に世話するなんて、その手間は計り知れないくらいに膨大だろう…。
【秀吉】「……お父さんの黄金伝説は、六軒島を取得する前からや。となると、その愛人との縁は30年以上ということになるな…。ってことは、今はいくつなんや? 下手をしたら、わしらと同じかそれ以上の年齢とちゃうか?
 …体にもボロが出る年頃のはずや。どんな屋敷か知らんが、人目に触れんような、ほとんど軟禁に近い生活は、そう快適とは言えんやろなぁ…。」
【絵羽】「そうね。…お父様が語るベアトリーチェについての話が正しいなら、その縁は30年以上。……当時は魅惑的な若い女性だったかもしれないけど、今は私たちと同格の、タフな食えない女と考えるのが妥当でしょうね。手紙の内容からもそれは容易に想像できるわ。」
【蔵臼】「お前が言うか。くっくっく。」
 自分のことを棚に上げて、とでも言うように蔵臼が笑う。絵羽はもちろんカチンと来たようだが、買い言葉は返さなかった。
【留弗夫】「よせよ兄貴。……そして俺たちの想像が本当なら、親父の遺産問題に彼女は胸を張って参加したいはずなんだ。何しろ、…お袋と違い、相思相愛だった可能性が高いからな。本人には、愛人の自覚と同時に、正妻としての誇りもあるかもしれない。」
【夏妃】「………それはお母様への侮辱に当たりますよ。」
【留弗夫】「あぁ、すまん。…だが、親父とお袋が、親戚の長老たちによる政略結婚だったことは誰もが知ってる。…だからこそ、親父に愛人がいてもおかしくないと確信できるわけだがな。」
 関東大震災でお家が傾き、金蔵は望まずして右代宮家の当主に担ぎ出された。しかし、当初の金蔵は、それを傀儡にしようという親戚の長老たちの強い影響下にあり、操り人形も同然だった。自分では何も決めることが許されず、婚姻の相手すらも拒めなかった…。
 ……金蔵の黄金伝説は、そんな灰色の日々に、黄金の魔女ベアトリーチェに出会うことにより、急にドラマチックなものに彩られていく。それはつまり、…金蔵が本当に愛する女性に出会った、ということなのかもしれない。
 その経緯を彼女も知るならば、婚姻関係にはなくても、心の中では正妻の自覚を持っていたとしても何の不思議もない。…そして、戸籍上の正妻はもう死んでいる…。
【秀吉】「…となると、財産権どころか、家督争いにも食い込む気、満々ってことになるで。」
【蔵臼】「………なるほどな。この手紙の趣旨が少しだけ見えてきたよ。碑文の謎を解く者に家督を…。そういう意味か。」
【絵羽】「仮に、その愛人が右代宮家に序列を得ていたとしても、その序列はお父様の血を直接引かない以上、子どもに劣る。…つまり、序列は楼座より1つ下ね。とても家督争いに加われるようなレベルじゃないわ。」
【留弗夫】「そういうことか。…魔女の碑文を解けば、序列に関係なく家督が継げる。つまり、まったく可能性のないベアトリーチェにとってもっとも有利な条件ってわけだ。」
 右代宮家の復興は、ベアトリーチェが黄金を授けたことによって成し遂げられた。…つまり、彼女の手柄ということになる。
 自分と金蔵の二人で築いた財産なのだから、それを引き継ぐのは自分だと考えるのは自然な流れ…。愛のない妻から生まれた子どもたちに、ビタ一文譲るものかと考えるのも、これもまた自然な流れだろう。
【夏妃】「ず、図々しいにもほどがあります…! 仮に愛人が実在したとしても、当主継承権を争おうなど、身の程を弁えぬ暴挙です! 何という身の程知らず…!」
 夏妃は真っ赤になって握り拳を振るわせた。
 …彼女もまた、右代宮家への入籍は複雑な事情がある。それを知る人間たちは、亡き金蔵の妻の肩を持つ彼女の気持ちを、何となく理解できるのだった。
【絵羽】「…まぁ、その暴挙のお陰で私たちにも公平にチャンスがあるわけなんだけど、ねぇ? それに、お父様はこの暴挙を黙認されている。……右代宮家を継ぐのは愛人ベアトリーチェか、愛はなくとも血を受け継ぐ私たちか。それを争わせて確かめたいというのでしょうね。」
 絵羽が悪戯っぽくくすりと笑いかけると、蔵臼は肩を竦めて目線を逸らす。
【霧江】「……でも、その条件を向こうが出してきたということは、向こうは充分な勝算があるということじゃないのかしら。」
【秀吉】「そ、それもそうや。…第一、ベアトリーチェはあの手紙の文面通りなら、お父さんの顧問錬金術師。つまり、黄金の管理者や。その隠し場所を知っていても何の不思議もないやないか!
 こりゃひどい話やで。答えを知っているなぞなぞを出してきたも同じや! これでしゃあしゃあと現れて、これが答えや、家督はいただきやで、なんて言われたら、わしら、全てを掻っ攫われちまうわ!」
【絵羽】「……………………。…そうね。なぞなぞの出題者は、常に正解を知っているものよ。これは、私たちから全てを奪うために作られた罠の可能性が高いわ。」
【蔵臼】「…そこまで考えると、そもそも彼女が本当に黄金を持っているかどうかは怪しいと思わんかね? なぜ我々にその存在を教える。黙って着服すれば良いものを。」
【留弗夫】「確かに。…おかしな話だな。」
 確かにその通りだった。碑文が黄金の隠し場所を示しているなら、なぜそれを解いてみろなどと挑発を? 仮に解かれたら、黄金を奪われてしまうではないか…。
 ひょっとして、碑文を解くように焚き付けて、脇から掻っ攫おうと考えているのでは…。それは極めて妥当な想像だった。
【霧江】「…………いえ。チェス盤を引っ繰り返して考えれば、黄金を実際に持っている可能性は低くないかもしれない。」
【絵羽】「どうしてそんなことが断言できるのよぅ?」
【留弗夫】「…待て姉貴。……霧江、続きを話してくれ。どうしてそう思うんだ?」
【霧江】「だって、私たちは魔女の碑文なんて言うなぞなぞの答えを教えられたくらいで、本気で右代宮家の家督を明け渡す気? なぞなぞの答えに感服して降参を?」
【秀吉】「……そらまぁ、……それもそうやな。なぞなぞの答えを教えられたくらいで、わしらがあっさり降参して、家督をハイどうぞと渡すかっちゅうたら、そら甘い話やな。」
【夏妃】「当然です。右代宮家の家督を、そんな程度のことで譲ることがあるわけがない!」
【霧江】「そういうことよ。いくらベアトリーチェが一方的にこんなゲームを提案しても、そして見事その答えを示して見せたとしても。私たちは家督を素直に譲るわけもない。……つまり、私たちがこのゲームに対等な条件で挑まなくてはならないという、強制力がない限り、このゲームは成立しないのよ。」
【留弗夫】「そうだな。……負けた時、家督を譲ることに強制力を持たせなきゃ、このゲームは成立しない。」
【蔵臼】「その強制力というのはどういう意味だね? 我々を鎖で縛って、家督を譲るよう脅迫でもしようというのかね?」
【絵羽】「………なるほどね。わかったわ。……私たちが、喜んで家督を放棄したくなるようにすればいいわけね。なるほど。…ならば確かに、ベアトリーチェは10tの黄金を持っていなければならない…!」
【秀吉】「そ、そうか、わしにもわかったで! つまり、…取り引きっちゅうわけやな?!」
【夏妃】「え? ど、どういう意味ですか…。取り引き? 何を?!」
【霧江】「右代宮家の家督と隠し黄金をよ。…ベアトリーチェはきっと10tの黄金の所在を明かし、それで右代宮家の家督を買収するつもりなのよ。」
【夏妃】「ばッ、馬鹿馬鹿しい!!」
【夏妃】「栄光ある右代宮家の家督を、…お、お金でやり取りしようというのですか?! 冒涜です!! 右代宮家への冒涜ですッ!!」
【霧江】「……怒らずに聞いて。…その栄光ある右代宮家には今、どの程度の財産があるの? 私たちはそんなにも裕福なの?」
【夏妃】「ゆ、裕福の定義とは財産で決まるのではありません。心の持ちようで決まります! 私たちの財産状況が一体何の、」
 感情的にまくし立てる夏妃を、蔵臼が制する。今の状況では、彼女が感情的にまくし立てればまくし立てるほど、それは逆に聞こえた。
【蔵臼】「………私はともかく、お前たちの状況は芳しくないと聞いているよ。」
【絵羽】「あぁら、そう? 兄さんの財政状況だって、相当に芳しくないと聞いているわよぅ? 次々担保に入れて新しい博打の掛け金にして。負けを認めないために次々新しい博打に手を出して。…内情の話をしたら、この中で兄さんほど火の車の人間は存在しないわ。
 どれだけ損失を出してんのよ、兄さんは。才能ないのよ!」
【夏妃】「だ、誰の才能がないというのですかッ!! 言うに事欠き、火の車とは!!」
 再び夏妃が激昂するが、蔵臼もまた再び手を上げてそれを制した。
【蔵臼】「……多少の誤解があるようだ。ビジネスは経過で判断できるものではない。私のような長期的視野でのビジネスともなると、時に短い単位期間では一見、大きな損失を出しているようにも見えるものだ。」
【留弗夫】「兄貴。裏は取れてんだぜ。今は見栄を張ってる場合じゃない。……つまり霧江はこう言いたいのさ。……俺たちは全員が全員、カネに困ってる。そしてベアトリーチェは10tの黄金を持っている。」
【霧江】「……ベアトリーチェは、自分だけが在り処を知る10tの黄金で、私たちに家督を売らせるつもりなのよ。…10tの黄金の価値はどのくらい?
 ざっと見積もって…、20億? ………いえ、200億ね。これだけを積まれたら、私たちは狂喜して彼女を次期当主に認めるわ。」
 シンと静まり返る。いや、むしろ風雨の音が賑やかにさえ感じた。…それは多分、彼らの心の中を掻き乱す暴風の音でもあるかもしれない…。
【絵羽】「…………じょ、…冗談じゃないわよ。…多少お金を積まれたくらいで…、……どこの馬の骨とも知れない女に家督を譲るなんて……。」
【秀吉】「アホ抜かせ…! 元々お前に家督なんぞ行かんやないか…! わしらは何も失わずに、カネだけをもらえる話やで。そら、損得勘定は必要やろが、聞くに値する話や…!」
 右代宮家の財産は、かなりが蔵臼に食い潰されていることがわかっている。その残り滓の遺産分配と、ベアトリーチェが支払う“家督を認める対価”。残念だが、前者より後者の方が期待できるというのが本音だった。
【留弗夫】「…まぁ、四等分とはならねぇだろうな。次期当主を降りることになる兄貴に、取り分が多くなるのは止むを得ねぇだろうよ。…羨ましい話だぜ?」
【蔵臼】「………………………………。」
【夏妃】「あなた…! 金額の問題じゃないでしょう?! 不甲斐ない弟たちは、お金で右代宮家の栄光を売り払うつもりなのですよ?! ここで長男の威厳を示さずして何とするのですッ!」
【蔵臼】「………夏妃。しばらく黙っていなさい。」
【夏妃】「あなたッ?!?!」
【留弗夫】「……こりゃあ、くらっと来る話だぜ。……俺たちは兄貴から2億半ずつ引っ張ろうと思ってた。もし魔女さまが俺たちに、10tの内の1割も弾んでくれたなら…、……えぇと、」
【霧江】「20億ね。」
【留弗夫】「…あぁ。俺たちは当初の見積もりの10倍も弾まれちまうことになる。そんだけあれば俺たちは充分だぜ。……どうせ、右代宮なんて名前に未練はねぇんだ。喜んで売っ払ってやらぁ…。」
【霧江】「10t全てを提供してくれるかは、さすがに皮算用だとしても。………なるほど、私たちにとって魅力的な話になるわね。…私たちは、ベアトリーチェなどという余所者を弾き出すために兄弟同盟を組もうとしていた。
 ……しかし、彼女の目論みがこうならば、……私たち兄弟の団結はバラバラにされるわ。…えぇ、今こそはっきり断言できる。……ベアトリーチェの手紙の目的は、私たちの結束を掻き乱すことなのよ。」
 そもそも当主継承権と関係のない蔵臼以外の兄弟は、納得できるカネが支払われれば、喜んでベアトリーチェの当主継承を認めるだろう。本丸の蔵臼以外の堀は全て埋まるわけだ。
 そうなれば、交渉は彼女と蔵臼の一対一になる。強気を装ってはいるが、蔵臼の財政状況も非常に悪い。…兄弟たちの前では、虚勢を張っているが、内心は、金額次第では交渉に応じても良いと思っているだろう。
 蔵臼は損失を埋めるため、金蔵が引き篭もっているのをいい事に、金蔵の個人資産を着服していた。だから、金蔵が逝去して遺産分配になれば、その責任を追及されることになるだろう。
 しかし、ベアトリーチェに当主の座を譲るなら、同時に財産権も譲ることになり、その結果、兄弟たちに対する遺産分配は行なわれない。……つまり、蔵臼の着服は、兄弟たちに知られずに済むかもしれないのだ…。
 兄弟たちは、金蔵を恐れてこそいるが、父としての尊敬の念を今も持っているかは怪しい。今ではそれぞれが自分の家族を持ち、自分の財産も生活も持っている。金蔵の夢の残骸である六軒島と引き換えに、充分なカネが払われるなら、……彼らは右代宮家の名を手放す可能性が、充分にあったのだ……。
 つまり、この“ゲーム”は、すでにベアトリーチェの勝ちで決まっているのだ。“ベアトリーチェのゲーム”の勝者という意味ではない。…“金蔵のゲーム”の勝者という意味でだ。
 …金蔵は碑文を掲示した。そして今日まで誰も解けなかった。だからベアトリーチェが“解いた”。ならばつまり、これはゲームというより、ベアトリーチェの勝利宣言のようなものなのか…。
 しかし、霧江はまだ少し引っ掛かると考えていた。
 もし勝利宣言ならば、勝者らしく、黄金を堂々と示し、家督を買い取ると宣言すればいいだけの話だ。なのに、わざわざこの期に及んで、碑文を解いてみろ、解けたら家督と黄金を全て引き渡そうと、“新たなゲーム”を仕掛けてくる意味が、どこにあるというのか。
 霧江は何度かチェス盤を引っ繰り返して考えた。…どういう最善手ならば、その思考に至るのかを探った。…その末、…ひとつの結論に辿り着く。
【霧江】「……………驕り、…なのかしら。あるいは、……遊び……?」
【絵羽】「…何の話?」
【霧江】「魔女は、碑文を解いてみろと私たちに挑戦状を送ったわ。どうせ解けないだろうと、タカを括ってるでしょうけどね。……でも、何万分の一かの確率で、私たちが解いてしまう可能性もあるはず。
 何しろ、ここにはお父さんの血を引く子どもが4人もいるのよ? 出題者の血縁者が4人も揃い、財産を奪われまいと死に物狂いで知恵を出し合ったなら、偶然にも謎が解けてしまうこともあるかもしれない。」
 魔女が4兄弟に対し交渉で優位に立てるのは、彼女が唯一、黄金の隠し場所を知っているからだ。だがもし、その隠し場所を彼女以外の人間が暴けたなら、魔女の優位は崩れる。
【霧江】「つまり、魔女の手紙に書かれている挑発文は、ベアトリーチェにとってリスクにしかならないのよ。……確かに、兄弟の連帯を分断するという効果はあったけれど、それを狙うためだけに、わずかとは言えこのようなリスクを……? 私は無用心だと思う。
 …でもね、ある種の感情を念頭に置いた時、このリスクは理解可能になるのよ。」
【絵羽】「………………。…それが、驕りだというの?」
 EP1でも同じ推理があったが、肖像画のドレスなど着る必要はなく、ベアトだと名乗るだけで用は足りる。
 真里亞は、言われたことを何でも鵜呑みにしてしまう発達障害児だからである。
【霧江】「えぇ、そうよ。……圧倒的な優位に立つと、人は驕るわ。すると敗者に対し、その優位性をひけらかすために、微小なリスクをわざと背負うことがある。…適度なリスクは、勝利の喜びを引き立たせるスパイスだもの。リスクなき勝利ほど退屈なものはない。」
【絵羽】「……………わかるわ。私もそういうの、好きだもの。…よくわかるわ。」
【霧江】「ベアトリーチェの手紙の真意を、もっともらしく色々と解釈してみたけれど、……実はこれが真実かもしれない。……あの手紙の裏に潜む感情は、………驕りなのよ。」
【絵羽】「…………驕り。」
【霧江】「難解な碑文が、お前たちに解けるものかと、私たちを見下して威張り散らしたいのよ。…案外、ひょっとすると、碑文はお父さんじゃなく、彼女が作ったのかもしれないわね。」
【エヴァ】「……上等じゃないの。……碑文の謎が解けるか、ですって?」
 もしも解いたなら、私を当主にしてくれるのね…?
 …解いてやる…。魔女の挑戦を受けてやるわ。他の間抜けな兄弟たちに解けるものか。私ひとりが解いて、私こそが右代宮家を引き継ぐに相応しいということを証明してやるわ……。
【絵羽】「その挑戦、乗ったわ。……私が、……謎を解いてやる……。」
 霧江の考え方ではそういうことになる。魔法のリスクという概念は、霧江には理解できないだろう。

19人目の可能性
10月4日(土)21時00分

魔女の喫茶室
【戦人】「…なるほどな…。魔女じゃなく、ベアトリーチェという名の愛人が島に存在していたわけか…。……つまり人間は18人以上居得る! ということは、18人全員に不可能だから魔法犯罪である、という図式は崩せるわけだ。……これは大きい情報だぜ。」
【ロノウェ】「失礼いたします。戦人さま、紅茶とクッキーはいかがですか?」
 どこからともなく、あのロノウェとか名乗ったベアトの執事が現れる。手に持つ銀のトレーには、美味しそうに湯気を立てる紅茶とクッキーを盛り付けた皿が置かれていた。
 …どうもこいつの笑みは好かないぜ。何というのか、客を歓待する笑みじゃない。どこか小馬鹿にしたような、そんな笑いなのだ。…それが文字通り馬鹿にしているのか、それとも冗談程度のレベルなのかわからないのが、何ともイラつくが。
【戦人】「……いらねぇよ。俺は今、取り込み中なんだ。放っておいてくれ。」
【ロノウェ】「おやおや。それはそれは美味しく焼けたクッキーなのに、とても残念です。ニンゲン如きには勿体無いくらいに素敵に焼きあがった、それはそれは素敵なクッキーなのに。」
【戦人】「気が向いたら食ってやるぜ。その辺に置いて、とっとと失せな。」
【ロノウェ】「左様でございますか。それではそのようにいたしますよ。冷めてからお召し上がりになって、焼きたてを召し上がらなかったことを存分に後悔なされると良いでしょう。」
【戦人】「………いちいち、うるさいヤツだな。…まぁ、耳元で気色悪くケラケラ笑うベアトのヤツよりゃ数段マシだがよ。」
【ロノウェ】「いえいえまったく。お嬢様の笑い声は時折、実に品がありません。それを聞く度に、なぜ私ほどの高貴な悪魔が、あのような者を主にしなければならないのか、理解に苦しむのでございますよ。ぷっくっくっく…。」
【戦人】「……変なヤツだな。そんなに嫌なら仕えなきゃいいだろうが。」
【ロノウェ】「それでも尚お仕えするのが、家具の喜びなのでございますよ。それでなくては家具は務まりません。
 ……それはさておき。ゲームの方はいかがでございますか? 先ほど、良い情報を見つけたようなことを言われ、お喜びになられていたようですが。はてさて、どのような浅知恵が思いついたやら。」
 ロノウェはくすくすと小馬鹿にするように笑いながら、俺に言われた通りの文字通りに、適当なその辺に紅茶とクッキーを配膳する。
【ロノウェ】「……大方、19人目の存在に自信を深めたからでございましょう? よろしければ、ぜひご高説をお聞かせ願えますか?」
【戦人】「………………。……あぁ、いいぜ。どうせベアトの前で改めて言うしな。隠す必要もないさ。……いいか。この島に隠し屋敷があって、愛人を住まわせていたらしいんだ。となりゃ、俺を苦しめてきた18人なのか19人なのかって疑問は簡単に決着する。」
【ロノウェ】「戦人さまは魔女を否定するくせに、18人の中にも犯人を求められないダブルスタンダードの袋小路に、自らを追い込まれました。」
【戦人】「…魔女を否定するもっとも簡単な方法は、18人の誰かを疑うことだ。……18人全員のアリバイは、そう簡単には揃わない。常にひとりくらいはアリバイの脆い人間が生まれる。……俺はそいつを生贄にすることで、常に魔女を否定し続けることもできるだろう。」
【戦人】「しかし、それは断固拒否するッ!! あぁダメだぜ、全然ダメだ! 18人はみんな俺にとって親たちや親戚たちやいとこたち! そして真面目だったり面白かったりする頼もしい使用人の人たちだ。俺はその人たちの誰を生贄にすることも許せないッ!!
 かつて俺はその決意があやふやだった。だからその心の弱さをベアトに突かれたんだ。」
【ロノウェ】「……自らの弱点を認め、理解する。なかなか出来ることではありません。戦人さまは19人目が存在する説を槍にする。…槍というよりは楯、でしょうかな。
 何れにせよ、これまでのゲームでの無策と違い、戦い方に指針を持たれるのは、劇的飛躍と申せましょう。これで戦人さまは、敬愛する18人を疑わずに、存分に19人目を疑い、人間犯人説を追求できるわけでございます。」
【戦人】「そういうことさ。最初のゲームの、嘉音くんが殺されたボイラー室とか、…他にも他にも、19人目が存在していたなら、迷う必要なんかないトリックはいくつもある。」
 一番最初のゲームで、嘉音くんはボイラー室で殺された。普通に考えたなら、一緒にボイラー室に下りた熊沢さんが襲ったとか、あるいは死んだように見えた誰かが実は偽装で、ボイラー室で嘉音くんを待ち伏せたとか、何れにせよ、18人の誰かを疑わなければならない指し手だった。
 しかし、19人目が存在することをあっさりと仮定するだけで、このボイラー室の殺人について18人の誰も疑う必要はない。
【戦人】「つまり! 18人の誰にも無理だから=犯人は魔女、という図式だけは否定することができるわけさ。」
 この論法なら例えば、今回のゲームでもすでに問題提起されている、“真里亞に手紙を渡したのは誰か?”という問いも簡単に説明できる。18人全員にアリバイがあろうとも、ゆえに19人目の人物が訪れて手紙を渡したと、実に簡単に説明できるのだ。
【ロノウェ】「………ふむふむ。とても良い一手だと思いますよ。私だったらどう切り返しましょうか。
 ……例え戦人さまが理解されたとしても、未だに弱点は健在。“18人攻め”は有効は手でしょうね。戦人さまの守りがどの程度か確かめる意味でも、改めてそこを突くのも面白いかもしれません。」
【戦人】「ならどう来る。悪魔の執事…!」
【ロノウェ】「……戦人さまが指された、19人目の駒を迎え撃つのが妥当でございましょう。戦人さまは19人目にお会いしておりませんね? 19人目が存在する証拠をお願いできますかな?」
【戦人】「甘ぇぜ。もちろん、その指し手で来るだろうことは読んでいる…!」
【ロノウェ】「それはそれは。受け手をお願いいたします。」
【戦人】「魔女だの悪魔だの。お前らにこれほど相応しい一手はないぜ。……それがこいつっ、“悪魔の証明”さッ!」
 俺たち人間は、何かを示されると、必ず証拠を示せと反論する。それが人間の指し手だからだ。
 だが、俺は魔女と戦っている。人ならざる者との戦いに臨んでいる! だから、魔女とのゲームでしか使えない手がある。卑劣な一手がある! それがこの“悪魔の証明”。ゆえに、証拠は不要!
 六軒島には、右代宮家の屋敷以外にも秘密の屋敷があり、そこにベアトリーチェという女性が住んでいるという仮定。
 これを実証するには、その屋敷を見つけ、ベアトリーチェを実際に連れて来なければならない。それが人の世での実証だ。
 しかし、“悪魔の証明”に則るならば、例え何の証拠もなくとも、彼女の存在を否定できない。存在しないことは証明不能だからだ。
 ……そう、これまでに、さんざん苛まれてきた“悪魔の証明”を逆手に取ったことになる。ヤツらは常に“悪魔の証明”で魔女の存在を無理やり認めさせようとしてきた。
 魔女はいると自称するベアトに対し、俺は“魔女はいない”という証拠を示すことが物理的にできない。だからこそ、魔女は存在するという暴論を反撃不能で突き付けられてきた。
 だからここでチェス盤を引っ繰り返す! 魔女が存在することを否定できないならば、それはつまり、19人目の人間が存在すると俺が言い出しても、それもまた否定できないわけだ。
 つまり、問題の謎の愛人は狡猾に隠れているわけだから、どんなに探しても見付からないのは当然。だから、19人目が見付からないこと=19人目はいない、とはならないわけだ。
 ゆえに、19人目の否定は不可能。ベアトが自らの存在を否定不能とした“悪魔の証明”が、今度はそのまま俺の武器になったわけだ。
 この論法が罷り通るなら、19人目どころか、島には俺らの与り知れない人間が、それこそ10人、100人隠れていたとしても、その存在を否定することはできない。
 前回、前々回のゲームで登場した殺害現場の中には、非常に手の掛かる凝った現場がいくつか登場する。それらは単独の犯人が構築したと考えようとすると、非常に困難になってしまう。
 しかし、19人目どころか、10人も100人も隠れていたならまったく何の問題もない。全員で手分けして作業すれば、どんな作業も短時間にこなせてしまうだろう。
 それだけの大勢の人間が、あの屋敷内に気配もなく潜んでいたのかという疑問は当然、出るだろうが、これも“悪魔の証明”で決着できる。気配がなかった・姿を見なかった=屋敷内に100人いたことの否定、にはならないからだ。
 自ら口にしておきながら何て暴論だろうな、反吐が出るぜ! だが、そんなド汚ぇ一手だからこそ、魔女への一手に相応しいんだ。
 まぁ、想像だけにせよ、…山羊の仮面被った不審な男たちが、100人も物陰にササッと隠れてて……、何てのは、笑えるを超えて、ゴキブリみたいだよな。1匹見たら物陰には100匹隠れてるってわけだ。
【戦人】「……まぁ、屁理屈まみれの暴論だとは思うぜ。相手が人間だったなら、寝言を言うなと怒鳴られるところだろうよ。……だが、俺の相手は魔女だ。そして、俺たちがやってるのはそういう勝負なんだろう? どんな暴論であろうとも、人間で説明を付け、魔女を否定する!!」
【戦人】「……とにかく、この一手で俺は二度と親しい18人のみんなを疑わなくて済む。俺は二度とッ、前回の失敗は繰り返さないッ…!!」
【ロノウェ】「……なるほど。前回の失敗を学ばれているのですね。良いことですよ。さすがに三度もゲームを重ねると要領がよくなるものです。
 ………まずは自陣の守りを固める。実に堅実な初歩です。なかなかの妙手と思いますよ。」
【戦人】「まぁ、19人目の人物を仮定したとしても、マスターキーの本数などのように、何人、人間を増やしてもクリアできないトリックも残ってる。…しかし、とりあえずの初手としては悪くないはずだ。」
【ロノウェ】「戦人さまの切り札、19人目の人物という大駒。……証拠はあるのかとの私の一手に、戦人さまは“悪魔の証明”で反撃。……良い攻防です。お嬢様のおられないところで、勝手に手を進めてしまうのは申し訳ないのですが。………私も少し、面白くなってきてしまったところです。…お嬢様に代わり、さらに一手進めさせていただきましょうか。」
【戦人】「……来いよ。魔女だろうと悪魔だろうと、相手に不足はねぇ!」
【ロノウェ】「戦人さまの指された一手“悪魔の証明”。これは私ども悪魔の十八番でございますが、他にも私どもにはいくつもの手がございます。……“ヘンペルのカラス”という一手はご存知ですかな?」
【戦人】「ヘンペルのカラスぅ…?? 何の話だ?」
【ベアト】「…くっくっくっく。あっははははははははははははっはっは…!」
 その時、…あぁ、何度聞いても腹立たしいあの笑い声が木霊してくる。
 部屋が眩い黄金の蝶たちで満たされ、その金色の旋風の中に、あの黄金の魔女が姿を現す。
【ロノウェ】「これはこれはお嬢様。おはようございます。」
【ベアト】「妾のいないところで、何やら面白そうなことをしていると思えば。……“ヘンペルのカラス”か。何とも笑える懐かしい一手よ。よもや戦人に披露する日が来ようとはな。それは“悪魔の証明”に並ぶ古典的一手だ。
 ……ロノウェ、それは妾が指す一手ぞ。妾の楽しみを減らしてくれるな。」
【戦人】「出やがったな、ゲラゲラ魔女め。相変わらず下品に笑いやがって。……こいつもお前のこと、笑い方に品がねぇって陰口言ってたぜ。なぁ?」
【ベアト】「それは心外な。本当か。」
【ロノウェ】「滅相もない。心より尊敬申し上げているお嬢様に、この私めがどうしてそのような陰口を申せましょうか。」
【戦人】「…よくもしゃあしゃあと言えるもんだなぁ。お前とは仲良くなれそうにないぜ…。」
【ベアト】「くっくっくっくっく。まぁ良い。話を戻そう。“ヘンペルのカラス”は、実証を対偶的に行なってみせる。……つまりこういう手だ。カラスが黒いことを証明するにはどうすればいい?」
【戦人】「は? 何の話だ?? カラスが黒いことを証明って…。…カラスを捕まえてきて、色が黒いことを確認すりゃいいだけの話だろ。」
【ベアト】「その通り。“カラス=黒い”、を証明すれば良い。ということは、“黒くない鳥=カラスではない”、を証明しても、同じ論法になるのがわかるかな? 世界中の、カラスでない鳥を全て調べ、それらが黒くないことを証明すれば、それは結果的に、“ゆえに黒い鳥はカラスである”となるわけだ。これを対偶論法という。…そなたには難しいか?」
【戦人】「あぁまったく。…何言ってやがるのかさっぱりだ。」
【ロノウェ】「戦人さま。こういう例え話はいかがでしょう。2つの箱があり、片方はアタリでクッキーが入っているといたします。もちろん、もう片方はハズレで空っぽです。」
 例えば、ここに2つの箱があり、片方はアタリで中にクッキーがあり、もう片方はハズレで空っぽだとする。
 この時、“クッキーが入っている=アタリ”となり、同時に“アタリでない=クッキーが入っていない”ともなるわけだ。この関係にある時、後者を対偶と呼ぶ…。
 “AであるならB”である時、それは同時に“BでないならAではない”でもあるわけだ。
【戦人】「…そりゃ当然だろうよ。もし選んだ方がハズレだったなら、もう片方は自動的にアタリってことになる。
 …つまり、箱を適当に選び、アタリを引こうとハズレを引こうと、最初の一手でどっちの箱にクッキーが入っているか、特定できるわけだ。」
【ベアト】「その通り。開けた箱にクッキーが入っていたなら“悪魔の証明”を満たす。“この箱はアタリ=この箱にはクッキーが入っている”をまさに実証できるわけだ。
 しかし、開けた箱が空っぽだったなら、この時は逆に“ヘンペルのカラス”を満たす。“この箱にクッキーが入っていない=この箱はアタリではない”となるのだから。
 そしてそれは、箱が2つしかないことを前提としている限り、それはもう片方の箱が自動的にアタリであることを対偶的に示している。」
【戦人】「……まぁ、何となく理屈はわかったぜ。毒を制するには毒、屁理屈には屁理屈ってわけだ。…それで? 俺の、“島には19人目の人間が隠れているに違いないから、18人全員にアリバイがあっても、それは魔女を認めることにはならない”をどう切り替えしてくれるってんだ……?」
【ベアト】「良かろう。妾の手は教えよう。まずそなたは、“18人の中に犯人はいない=ならば犯人は19人目”としている。くっくっくっく! …ならば対偶として、こうなるわけだ。つまり、“犯人は19人目ではない=ならば18人の中に犯人がいる”!」
【戦人】「はぁ?! 何だと、そりゃどういう意味だッ?!」
【ベアト】「そなたの指し手を逆手に取っただけだがな。そう難しい話ではあるまいに。ロノウェ、説明せよ。そなたのさっきのクッキーの箱の例えは戦人にわかりやすいらしい。」
【ロノウェ】「それでは僭越ながら。先ほどの例え話でもう一度ご説明させていただきます。」
 先ほどの、2箱の宝箱があり、どちらかにクッキーが入っているという話をもう一度繰り返させていただきます。
 この場合、片方の箱は“18人”を示し、もう片方の箱は“19人目”を示します。ならばクッキーはつまり“犯人”を示すわけです。戦人さまは、18人の箱を開けられます。そしてクッキーがそこになかった為、“=クッキーは19人目の箱に入っている”と逆説的に証明されたわけでございます。
 ならばそれはさらに逆説的にこうも申し上げられます。つまり、19人目の箱が空っぽであることを先に示したならば、“18人の箱の中にクッキーが入っている”ことを同様に実証してしまうわけです。
 戦人さまが18人を疑わなくて済むために打たれた一手が、逆に“18人攻め”の布石に使われてしまった…!
【戦人】「……んな、……何だとぉ………。」
【ベアト】「くっくくくくくく! 妾が19人目の箱の中身が空っぽであることを先に証明すれば、そなたは自動的に、18人の箱の中にクッキーがあることを認めなければならないということになる。そなたは、それを逆の言い方で口にしたに過ぎんのだぞ?」
【戦人】「つまり、……俺の自信満々の一手は、同時に諸刃の剣でもあるってわけか。」
【ベアト】「その通りよ。そなたの19人目で全てを説明する一手は、それが破られた時、18人でしか説明できないことを認めざるを得ないリスクを背負っている。」
 なるほどな…。“ヘンペルのカラス”。……つまりは返し技ってことなのか?! …いや、よくよく考えれば、これは俺にばかりやたらと不利な返し技だ。
 クッキーという言い方がいけない。宝箱の中に爆弾というハズレが1つだけ入っていると考え直してみると、さらによくわかる。
 そして宝箱の数を2つではなく、18人分+19人目用ということで、合計19箱用意して考えれば、さらにわかりやすくなる。
 まず、人間犯人説は、必ずどれかの箱に爆弾が入っているという前提を成立させる。
 俺は、その爆弾を18人の誰の箱にも入れたくない為、“悪魔の証明”を使い、19人目の箱を生み出して、その中に爆弾を放り込んだわけだ。……ここまではいい。しかし、ベアトはこう返した。
 ならば、19人目の箱の中身が空っぽだったなら、その時点で自動的に、18人の誰かの箱の中に爆弾が入っていることが確定すると。
 俺は18人の箱の中身全てを調べ、どの箱にも爆弾が入っていなかったことを証明すれば、無事に18人の無実を証明できるだろう。これが可能ならば、俺は心強い! しかし、それは現実には限りなく不可能なのだ。
 ここには台風で警察が来られない。科学捜査も鑑識も何もない。つまり、何も確定的に示せない! 俺には18人が口々に主張するアリバイを鵜呑みにする以上の検証が不可能なのだ。
 ならば、俺個人が彼らの無実を完全に確認しきらなければならない。例えば、ずっと一緒にいて一秒も漏らさず監視してるとか。そういうことをすれば、その人物に関してだけは無実を、箱の中に爆弾がないと確認できたことになるだろう。
 …しかし、そんなことは現実的に不可能だ! つまり、俺にはたった1箱でも、その中身を確認するには膨大な手間を必要とするわけだ。しかもそれを18箱分も! つまり、18人全員を鎖で縛って監禁するくらいじゃなきゃ、全員の完全な空箱証明は不可能だ。
 しかし、ベアトは19人目の箱を、たった1箱だけ開けて見せ、それが空っぽだと証明するだけで、18人の箱に爆弾があることを証明できてしまう。(しかも、18人の“どの”箱に入っているかを実証する必要がない!)
 俺とベアトでは、持論を説明する手間が18倍も違うのだ……。
【ベアト】「世の中には、“悪魔の証明”がそうであるように、反論に膨大な手間が掛かり、事実上不可能であるケースが少なくない。しかし、“ヘンペルのカラス”はその問題を逆手に取り、容易に実証することを可能とする!」
【ロノウェ】「“ヘンペルのカラス”を使えば、様々な暴論が実証可能なのです。……例えば、“私以外の人間=愚かである”という命題があったとします。これを証明するには本来、私を除く全人類を調べ、愚かであることを証明しなければなりません。
 …しかし、何十億人も調べるなど、現実には不可能でしょう。戦人さまの18箱を開ける手間とまったく同じです。」
【ベアト】「くっくっく! しかし“ヘンペルのカラス”ならば、その命題は対偶的にこう変換される。つまり“私以外の人間=愚かである”を、そなた風に言うならば、チェス盤を引っ繰り返し、“愚かではない=私”として証明しても良いということだ。……つまりどういうことだと思う?」
【ベアト】「くっくっくっく! “妾が聡明である”という事実を知るだけで、全人類は愚かであることの何十億人分もの証明が直ちに終了してしまうわけだ。全人類が妾よりも愚かであることを、わずか1秒も掛けずに証明終了できる!!
 世界最強最速のQED。これぞ“ヘンペルのカラス”ッ!」
【戦人】「なッ、………何つぅ暴論だよ………!!!」
【ロノウェ】「これはとてもとても便利な一手ですよ。悪魔どころか、神々も好む一手です。“幸福である=神の僕”を命題とする時、対偶は“神の僕でない人間=幸福であってはいけない”となります。」
【ロノウェ】「つまり、神の僕がその加護によって幸福であることを実証する為には、その加護を受けぬ人々が不幸であることを実証すればいいわけです。
 ………そして彼らは、自らの神を信じない人々を不幸に突き落とすことで、自らの幸福を実証する。」
【ベアト】「人に幸福を与えるには莫大なコストが掛かる。…しかし、人を不幸にするのに必要なコストははるかに安上がりだ。くっくくくくくくくくく。つまり、“ヘンペルのカラス”を使えば、神々は実に低コストで信者に加護の喜びを与えられるわけよ。」
【戦人】「あ、……悪魔だ。悪魔の理論だ…。…滅茶苦茶だ…!!!」
【ベアト】「話が逸れてしまったようだな。そろそろ話を戻そうぞ。
 妾の反撃の一手は以上だ。……そなたの、“19人目が犯人だから、18人は無実で魔女も存在しない”への反撃は、“ならば、19人目が犯人でないことを証明できたら、18人か魔女のどちらかが犯人ということで確定するぞ?”との確認だ。」
 俺はしばらくの間、呆然となり開いた口を閉じることも忘れていた…。ヤツらの得意手を逆手に取って、してやったりと思ったら、その反撃は俺の想像をはるかに超えるさらに暴論…!
 やはり、…無理なのか…?! 18人しかいないこの島で、魔女を否定しつつ、にもかかわらず、18人の無実を信じるなんて、………そんなのは妄想なのか?! 現実逃避でしかないのか?!
 まだだ…。……悪足掻きを止めるな。
 何が“何たらのカラス”だ。おかしな豆知識で煙に撒かれるな…。こっちは“悪魔の証明”で仕掛けた。一度仕掛けた手に不安を持つな。繰り出した槍を信じろ。さらに力強く、……抉り出せ……!
【ベアト】「……まだまだ序盤だぞ。この程度で長考するつもりか?」
【戦人】「……………………。あ、……いや待て、確認するぞ。確かに俺は、わかりやすく19人目という言い方をしたが、“悪魔の証明”によって18人以上人間を増やせるなら、それは10人いるか100人いるかもわからない、不特定多数ということだ。お前が想定する人数より常に1人多い。…わかるか?」
 俺の屁理屈に、ヤツも飛び切りの屁理屈で返してきた。ならばそれに反撃できるのも、さらにぶっ飛んだ屁理屈だけなんだ…!
【ベアト】「ふむ、なるほど。………妾が19人目のアリバイを何らかの方法で証明したとしても。その瞬間にそなたは20人目を生み出し、犯人だと主張する。これを無限に繰り返すことによって、妾は永遠に彼らのアリバイの証明が終えられないというわけか。……なるほどなるほど、くっくっくっく! さながら蝗の大群を呼び出す魔王よな。さすがは金蔵の孫よ。召喚術の才能には恵まれていると見える。」
【戦人】「……つまり! 18人以外の存在Xは、常にアリバイを証明することが不可能なんだ! ……どうだベアト…! 屁理屈合戦だとわかれば俺も負けねぇぜ!」
【ベアト】「くっくくくくくくくくくくくくくく!! 愚かしいぞ…。妾を誰と心得る? 妾こそは無限の魔女! その妾に無限にて挑むとは片腹痛いわ。無限を操ることはつまり、無限を殺すこともできるということ。」
【ベアト】「……妾が19人目を斬れば、そなたは20人目を呼び、20人目を斬れば21人目を呼び、21人目を斬れば22人目を斬れば、23人目を呼び34人目を呼び64358223579673204人目を呼びッ、妾を永遠に翻弄できるとでも?!
 “無限後退”とは笑わせるッ、妾に無限は通じぬわ!!」
【戦人】「ほぅ、ならばどうやってこの俺の“無限”を殺すんだよ、見せてみろよ!!」
【ベアト】妾には真実を赤で語る力があろうがッ!!!」
【戦人】「…………………ッ!! ………来やがったなぁ…………。」
【ベアト】「妾が赤で語る時、そこには一切の幻想がない。妾がこの島には100人しかいないと一言赤で語れば、そなたにはもはや101人目を生み出すことは叶わぬのだ。
 くっくっくっく! ほぅら、戦人ぁ。今度はどんな真実を赤で語ってみせようか? どんな拠り所を叩き斬って、そなたを絶望に突き落としてやろうか? くっくっくっくっく! そら、いつもの怯えた顔を見せてみるがいい……。」
【戦人】「…………………………。」
【ベアト】「………………何?」
【戦人】「……いっひっひっひっひ。」
【ベアト】「…そなた、…笑うか…。」
 俺は今、どんな薄気味悪い顔で笑ってるんだろうな。赤は怖ぇさ。…こいつが飛び出す度に、俺は絶望の底へ叩き込まれる。しかし、……もう俺は気付いたのさ。…赤は、不必要に恐れる必要がないんだ。
【戦人】「………また抜きやがったな、伝家の宝刀だ。それで…? 今度はベアトリーチェさまは、何をどう赤で語って下さるってんだ?」
【ベアト】「……ほぉ。それはどういう意味か。急に余裕を見せおって…。」
【戦人】「悪ぃが、その真っ赤な宝刀は、俺も抜いてくれるのを待ってたんだ。……さて、お前は今度は何を赤で宣言してくれるんだ?
 “犯人は18人の中にいる”とでも言ってくれるのか? 言っとくが、そいつは自爆だぜ? その時点で、お前は魔女説を自ら捨てたも同然。まさに投了だ。」
 そうさ。赤は常にベアトの武器になるとは限らない。それどころか、誤って使えば、自らをも死に至らしかねないほどに危険なのだ。もし迂闊に使い、自らを否定するようなことを言ってしまえば、それはまさに自爆も同然。
【戦人】「確かに俺にとっても、18人の中に犯人がいると赤で言われることは、受け容れたくない悲しい事実さ。……例え誰が犯人であっても、俺はきっと辛い気持ちになるだろうぜ…。
 だが、それはそれ以前にお前の敗北も意味するッ! 人間が犯人だとお前が赤で語ることは、お前の投了宣言にも等しい!! お前が、俺と刺し違えても相打ちにしたいってんなら、それも面白い一手だろうぜ。だが、この勝負は俺の勝ちで終わるッ!!」
 ベアトリーチェの赤は、まさに伝家の宝刀。ヤツが赤で語ったことは証拠も反論の余地もなく、それが真実となって確定してしまう。それらは俺を何度も叩き斬り、わずかな心の拠り所をいつも真っ二つにしてきた。
 だが、迂闊に使えばそれは俺に真相を探る情報とされてしまうこともある。…俺は前回、特に礼拝堂の密室トリックの時、それを逆手に取り、一度はぎりぎりまで追い詰めたはずだ。
 だがヤツもなかなかに狡猾。それに懲り、以来、慎重に赤を使うタイミングを計るようになった…。この緊張感はまるで、文字通りの真剣勝負のようだ。
 …こいつは高度な知能戦。……いや、知能戦じゃない。やっぱり屁理屈だ。こいつは、世界で最凶最悪の屁理屈合戦だ…!!
【戦人】「さぁ、今度はお前の手番だぜ。……そうさ。お前の“ヘンペルのカラス”を使うには、まず、18人以外に何人の人間がいるのかを、赤で確定させる必要がある。その上で、それらの人間についてさらに赤で犯人でないことを宣言したならば、……なるほど、こいつは俺にとって致命傷になるだろうぜ。」
【ベアト】「………あれほど怯えていた赤を、もはや微塵も怯えぬとはな…。逞しいヤツよ。」
【戦人】「抜いてみろよ。伝家の宝刀。……バッサリ決まって、今度こそ俺を屈服できるかもしれねぇぜ…?」
【ベアト】「……くっくっくっくっくっく。…面白い。こうでなくてはな…。」
 煽る。挑発する。ヤツに赤で語らせるよう、追い詰めるんだ…。確かにヤツの赤は、いつも俺の一縷の望みをぶった斬ってきた。しかし、……それを恐れるな。
 この、虚偽と幻想で侵食された島で、たったひとつ信じることができるのが、ヤツが語る赤の情報だけなのだ。落ちれば奈落という、崖と崖の間に見出す唯一の活路。たった一本の綱渡り。
 ヤツの慈悲無き真っ赤な刃こそが、唯一の生きる道なのだ。…それは文字通り、綱渡りどころか、刃の上を歩くようなもの…。
 もちろん、俺は恐れている。俺の勝利条件である魔女否定は、ヤツの言う対偶では、=犯人は人間、となる。
 でも俺は、18人の中に犯人を求めたくない。…だからこそ、魔女も18人も同時に否定しなければならないという弱点を抱え、にもかかわらずそれを理解できず、そこを突かれて前回はボロボロに負けた。
 ……しかし、それでいい。突かせろ。攻めさせろ。上等だ…。古いチャンバラ映画で誰かが言ってたぜ。
「良い城には一箇所だけ、わざと弱い部分がある」ってな。敵はそこに群がる。誘き出される。そしてそこが決戦場となる。
 …俺が弱点を理解し、ヤツが俺のこの弱点を攻めたいと思う限り、……それはつまり、そう攻めるよう俺が誘導したのと同じことなんだ…。間合いを慎重に計りながら、…じりじりと後退するんだ。向こうに先に抜かせるんだ。
 ヤツが闇雲に赤を振り回せば振り回すほど、俺に反撃のチャンスは増える。赤に怯えるな。むしろ、赤で反論せざるを得ないよう、追い詰めろ……! ヤツがどんなに高圧に赤を語ろうとも、……そう、その赤こそは、ヤツの傷口より噴出す血潮も同じなのだ。
【戦人】「さぁ。…どうしたよ。……まずはこの島に合計で何人いるのか、赤で語ってもらおうじゃねぇか。さもないと、お前のカラスは俺に斬り込めないぜ……!」
【ベアト】「…………………ふ。…破れかぶれが、こうもやり難いとは。…捨て身というヤツは、いつの時代も侮れんな。……やはり金蔵の孫か。追い詰められれば追い詰められるほどに、…………不敵!」
【戦人】「…いっひっひっひ…。」
 ゴホンとロノウェが咳払いをする。
【ロノウェ】「膠着しましたね。せっかくの紅茶も冷めてしまいますよ、お嬢様。」
【ベアト】「………く。」
 味方のはずのロノウェが、主に悪戯っぽく次の手を急かす。ベアトは笑いを返し、余裕をアピールしたつもりだったろうが、……額に浮かぶ汗を隠せない。
 格下の相手を鼻であしらってやろうという余裕は、今や完全に失われていた。もちろん、ヤツもこの程度で追い詰められているわけではないだろう。…ただただ、…慎重なだけなのだ。
 これまでは俺が不慣れだった。戦い方がよくわからず、対戦相手として力量不足だった。しかし、俺が三度目のゲームともなり、手練れ始めていることに気付き、より慎重に、そして一手一手に熟考を始めたのだ……。
 あぁ、それでいいぜ、ベアトリーチェ。そして待たせたな。これで満足だろ…?
【戦人】「……面白くなってきたぜ……? ひっひっひっひ!」
【ベアト】「くっくっくっくっく! …戦人ぁぁぁ……。」
【戦人】「埒が明かねぇな…。なら、ズバっと気持ちよく、いつものヤツで行こうじゃねぇか。」
【ベアト】「……ほぅ。いつものヤツとな。…ならば頼もうではないか。あれを聞かぬと、やはり始まった気がせぬわ…。」
 初手は、俺からだ……。
【戦人】「行くぜベアト。復唱要求。……“この島には、18人しかいない”。」
【ベアト】「…………………。」
【戦人】「…こいつを赤で言われちまったら、俺は18人の誰かを疑わざるを得ない。……19人目の仕業にはもうできず、八方塞さ。………だが、俺は18人の中に犯人が絶対にいないと信じてる! あんな残酷な殺人を、18人の誰にも起こせるものか…!!」
【ベアト】「…………………。」
【戦人】「繰り返すぞ。復唱要求! “この島には、18人しかいない”。」
 “ヘンペルのカラス”の説明がおかしいと指摘する向きもあるが、それを言ったら“シュレディンガーの猫箱”はもっとおかしいのだし、あまり気にするべき問題ではない。
 魔女の世界ではそういうことになっているというだけの話であり、むしろ、学力のないベアトらしいと言えばらしい。
【ベアト】「…………………………。………拒否する。理由は明かさない。」
 ふぅっ…! 俺にとって、最悪の赤は回避された。もしこれを復唱されていたら、俺は魔女を認めるか18人の誰かを疑うのかの、最悪の二択を迫られ、前回の二の舞となってしまう…。
 だが、ベアトはこの究極最大の俺の弱点を、赤で宣言しなかった。突かない理由のない、よだれが出そうな弱点なのに、復唱を拒否した。王手飛車取りにも等しいこの一手を、赤で斬れなかった…! ……これは、俺にとってあまりに有利な幸先だ。
 そうさ。18人の中に犯人などいない。俺は誰も疑わない…! そして犯人は魔女でもないのだから、………つまりこの島に19人目が存在するということ。
 それがお前だ。祖父さまの30年来の愛人で、ずっとずっと森の中の隠された屋敷に、ひっそりと隠れ住まっていた人物。
“人間”の、ベアトリーチェ………!!
【戦人】「そうさ。お前は魔女なんかじゃない。……この島に何十年も隠れ住んできた、…ただの人間なんだッ…!」
【ベアト】「………くくくく。くっくっくっくっく…。…千年を経た無限の魔女の妾を、ただの人間呼ばわりしたか。……くっくくくくくくくくくくく!」
 ベアトリーチェはしばらくの間、小気味よく、あるいは悔し紛れに、気持ち悪く笑い続けた。
【戦人】「…いいか、続けるぜ。…続けて復唱要求。“この島には、19人以上がいる”!」
【ベアト】「…………………………。」
 ベアトリーチェは再び沈黙する。この島に存在する人間の数を確定することが、場合によっては何かの大きな不利になるかもしれなことを感じ取り、相当、慎重になっているのだろう。
 もはや、赤は俺にとって反撃の足掛かり。そこまでわかっているなら、赤は魔女にとってリスクあるものになる。
 しかし、もしこれを復唱できないなら、ヤツの“ヘンペルのカラス”は有効にならない。俺の“悪魔の証明”を打ち破るには、18人以外の人間の存在と人数を、事前に赤で確定する必要があるのだから。
 そう。19人目の存在は、赤以外では打ち破れない。俺はベアトを、赤を使う他ないように追い詰めた…!
 この魔女とのゲーム…、………戦い方は、……確かにあるッ!
【戦人】「拒否してもいいんだぜ。…お前が赤で言えないなら、この島の合計人数は18+Xってことになる。
 ……このXは、初手で許すには相当デカい大駒だぜ? 何しろ、以後、18人の誰にも不可能だった、という根拠のトリックは、全て18人以外の人間Xで説明可能になる。……全員アリバイ系の密室を、全て打ち破れる大駒だ…!」
 それはさながら、敵陣にわずかの隙間があれば鋭く食い込める、チェスのビショップのようなもの。同じ色のマスにしか効果を発揮しないが、その盤上の支配力は大きい。
【ベアト】「…………………………。………………く。」
 ベアトも、現在の窮状をよく理解しているようだった。これほどの大駒を、これほどの序盤に見捨てられるわけもない…。赤き宝刀を抜けば、それを救うことは難しくないだろう。
 ……しかしベアトは、むしろ俺がそれを待ち受けていることも、充分に察している。迂闊な赤き真実が、自らの首を絞めることになるかもしれないと怯えている…! なぜなら、…本来、魔女は赤で否定されべき存在だからだ。
 信じろ。疑うな! 魔女などいない! この世にそんなもの、存在するわけもない。それが存在できるのは、現実の狭間だけ。…その隙間にて、真実の暴風から必死に身を守って縮こまり、虚偽と幻想で食い繋いでいる時だけ、蜃気楼のように細々と存在できる脆弱な存在なのだ。
 つまり、魔女だけが使える赤は、自らを否定しかねない現実そのもの。……赤を振りかざせば振りかざすほどに。魔女はわずかずつだが、自らの凌げる現実の隙間を失っていく。
 だからこそ、あやふやな情報、……つまり、幻想の余地ある現実の隙間を、無用心に赤で失いたくないのだ。それが徐々に自分を追い詰めていくと理解しているから。
 もちろん、ヤツはそれを認めないだろう。それを認めれば、自分がこの世に存在してはならない虚数的存在であることを認めたも同然になってしまうのだから。
 怯えるな。強気でいろ…! ヤツが一番骨身に染みてわかってるんだ。赤き宝刀は、相当の覚悟がなければ容易には使えないのだということを…!
【戦人】「…どうしたよ。繰り返すぜ。……復唱要求! “この島には、19人以上がいる”!」
【ベアト】「……………………。……ふ。…拒否する。」
 ベアトは悩みに悩みぬいた末。……深いため息をひとつ漏らしながら、静かに拒否を宣言した。
 ……使うと思ってた。だがベアトは、序盤の勝ちを譲ってまで赤を使うことを拒否した。
【戦人】「拒否したな……? ということは、今後、俺は18人以外の架空人物Xを何人でも使い放題ってことになるぜ…?」
【ベアト】「好きにするがよい。…妾はそなたの復唱を拒否した。今はそれで充分であろう? ……拒否の理由は、………。…いや、今はまだ明かさぬ。いずれすぐにわかる。」
【戦人】「…いっひっひ。もったいぶりやがってよ…。」
【ベアト】「……敢えて使わぬ赤もまた、赤らしい使い方よ。そなたは赤き宝刀と呼んだな。愉快な例えよ。妾も使おう。……宝刀は抜かぬ内が花よ。むしろ抜かぬことによって醸せる畏怖というものもある。」
【戦人】「そうだな。…俺はお前がいつ赤で引っ繰り返してくるか、常に念頭に置いて戦わなければならない。こいつは偉ぇプレッシャーだ。
 ……それに、復唱を拒否される方が辛い場合もある。…何しろ、俺の読みが正しいから拒否できないのか、ミスリードにはまって泳がされてるのか区別がつかないからな。…そういう意味では、なるほど。抜かずの宝刀ってわけだ。」
【ベアト】「…………なぁに。同じ突き落とすなら、少しでも高いところに行かせてからに限る。…まだ始まったばかりよ。まだまだな…。
 この勝負は、今は妾がリザインする。…淡き勝利に今は酔え。……今はな。」
 その負け惜しみが、事実上、序盤戦のピリオドとなったらしい。にもかかわらず、まったく気は抜けない。…ロノウェが乾いた拍手の音を聞かせてくれるまで、俺の緊張感は緩まなかった…。
【ロノウェ】「……お見事です、戦人さま。まずは序盤は、戦人さま有利の展開でスタートというところでしょうか?」
【戦人】「さぁな…。この駒が、俺の手でもぎ取ったものなのか、取るよう誘導されたものかはまだわからねぇな。……どうせお前のことだ。俺が罠にはまり始めてるのを知ってて、白々しく拍手をしてるんだろ…?」
【ロノウェ】「まさか。序盤とは言え、お嬢様より一本を奪った手腕を純粋に祝福いたしております。…何しろお嬢様はすぐ増長するお方。たまにはこのような刺激も良い薬かと思いますよ。」
【戦人】「…お前んとこの執事、ホント口悪ぃな…。」
【ベアト】「であろぅ? たまに妾でもカチンと来るぞ。」
【ロノウェ】「それはそれは、大変に失礼いたしました。さぁさ、お嬢様に戦人さま。紅茶のお替りはいかがですかな? まだゲームは始まったばかりでございます。ゲームを彩るお茶とお菓子は、どうかこの私めにお任せを。どうぞお気兼ねなく、ゲームをお進めになってください。」
【戦人】「そうさせてもらう。先を進めるぜ。これからが本番だ。」
【ベアト】「…………ふ。良かろう。時計を進めようではないか。ロノウェ、紅茶を頼む。」
【ロノウェ】「かしこまりました。クッキーは?」
【ベアト】「いらぬ。ベルゼブブにやれば喜ぼう。…………しばし沈黙せよ。」
 悪魔の執事が紅茶を注ぐ音を聞きながら、魔女は浅く目を瞑り黙り込む。……しばらくの間、沈思黙考したが、やがて悪戯っぽい何かを瞳に浮かべた。
【ベアト】「よかろう。…………妾がどうして初手にて赤で語るのを拒否したのか、今よりわからせてやろうぞ。」
【戦人】「……何ぃ…? 上等じゃねぇかよ。お手並み拝見と行くぜ。」
【ベアト】「くっくっく…。やはり、見逃すには惜しい大駒よ。……拙速かも知れぬが、動かせてもらおう。赤は使わぬが、今よりそれを妾に代わって楼座が説明する。聞くが良い。」
食堂
【絵羽】「もちろん、私も同意よ。楼座もそうでしょう? ……………楼座?」
【楼座】「え、あっ、ごめんなさい…。わ、私も同じよ。同意するわ。」
【秀吉】「………どうしたんや、楼座さん。…あんたさっきからずいぶん大人しいなぁ。体調でも悪いんとちゃうか…?」
 楼座は、元々、兄弟喧嘩に進んで口を挟む性分ではない。…しかしそれにしても、ずいぶんと消極的で、今夜の会議ではまったくといっていいほど、発言していなかった。ずっと俯いて、何か他のことを考えているようだった…。
【絵羽】「あんた、さっきからぼんやりしてるわよ。そんなので遺産が守れると思ってるの? あんたも一児の母なんだから、もっとしっかりなさいよ。」
【楼座】「ご、ごめんなさい……。」
【蔵臼】「朝がだいぶ早かったんじゃないかね? 体調が悪いなら無理をしない方がいいだろう。」
【夏妃】「……客室にベッドの用意がありますよ。お休みになってはいかがですか? ご案内しますよ」
【楼座】「いえ、…大丈夫です。ありがとう。」
【留弗夫】「…どうしたんだ。何か心配事でもあるのか?」
【楼座】「………いえ、別に………。」
【霧江】「そう…? さっきからずっと、心ここに在らずという感じよ。…そしてそれは、今、私たちがしている議題と、何か関係があるんじゃないかしら…?」
 その言葉に、みんなが一斉に楼座に注目する。
 それに応えるように、楼座もびくりと肩を震わせた。霧江の指摘は間違っていないようだった。…楼座もまた、それを否定しない…。
【楼座】「………………いえ、あの…。……………………………。」
 何かを口にしようとしたが、それを飲み込み、再び沈黙してしまう。さすがに他の兄弟たちも、彼女の様子が普段と違うことに気付き始めた…。
【留弗夫】「どうしたんだ。…さっきからおかしいぞ。何か思うことでもあるのか…?」
【秀吉】「わしら全員で団結しようって誓い合ったばかりやないか。ひとりで悩むなんて、水臭い話やで。話したってぇな。」
【蔵臼】「……楼座。話しなさい。」
 男たちに次々と催促され、楼座は観念しおずおずと打ち明ける…。それはまるで、ささやかな悪戯が、重大な事態を招いてしまったことを告白するような、そんな雰囲気によく似ていた。
【楼座】「いえ、その……。……ベ、ベアトリーチェっていう、お父様の愛人って、……本当にその、………生きてるのかしらって思って…。」
【絵羽】「はぁ? そりゃ生きてるに決まってるでしょう。こうして手紙を送ってくるぐらいだもの。」
【留弗夫】「元気かどうかは別の問題だろうけどな。肖像画の美女も、今じゃきっといいお歳だろうぜ。」
【秀吉】「元気やと思うでぇ。カネのことで悪知恵働くヤツは、決まっていくつになっても元気や! 案外、悪巧みは最高の回春剤かも知らへんで。わっはっはっは。」
【楼座】「……生きてるはず、………ないの。」
【霧江】「え? ……今、何て?」
【楼座】「ベアトリーチェは、……死んでるのよ…。………わ、…私が殺した…!」
【留弗夫】「な、……何だって……?!」
【絵羽】「…ど、…どういうことよ、楼座…!」
【楼座】「で、でも、私が殺したわけじゃ…。……で、でも私があんなところに連れ出したから! …やっぱり私が殺したのよ…。あれは夢だと思い込もうとしたのよ!! ……でも、……やっぱりあれは夢じゃなかったのよ! だからこれは、……ベアトリーチェの亡霊からの手紙なのよ!! うわああああぁああぁああぁあぁ!!」
 突然のことに、誰もが言葉を失う。楼座は取りとめもないことを口走りながら、髪を振り乱しながら頭を抱えていた…。
【夏妃】「どうか落ち着いて…! 楼座さん…!」
【秀吉】「わ、わしには何が何やらさっぱりや…! もう死んどる? どういう意味なんや…!」
【霧江】「……2つの意味があると思うわ。まず1つ目は、…文字通りの意味。…そしてもう1つは、私たちの想像が正しかったことを裏付けるもの。」
【蔵臼】「ということは……。………楼座は、……ベアトリーチェに、会ったことがあるというのかね。」
【絵羽】「そ、そんな話、楼座の口からは一度も聞いたことがないわ。…楼座、いつよ? あなたは一体、いつベアトリーチェに会ったのよ?!」
【楼座】「昔よ! ずっとずっと昔よ!! まだこの島に引っ越してきたばかりで私は幼かった!! 私は悪くないの、私が殺したわけじゃ…!! うううぅうううぅ!!」
【留弗夫】「…落ち着け! 誰もお前を責めちゃいねぇぜ? まずは水でも飲め。な? 夏妃さん、水差しを頼む。」
【夏妃】「は、はい。………どうぞ、楼座さん。どうか落ち着いて……。」
【楼座】「……………………………………。」
 楼座が荒い呼吸の中に落ち着きを取り戻すまで、……誰も一言も発することはできなかった…。
 復唱拒否の理由は19人目がいるからではなく、その逆で、本当は18人より少ない人数しかいないから。

楼座と森の魔女

九羽鳥庵
【金蔵】「……ベアトリーチェ。先ほどから呼んでおる。聞こえなんだか…?」
【ベアト】「……む。そうであったか? すまぬ。ぼんやり考え事をしていた。許せ。」
【金蔵】「良い天気だな。…なるほど、陽気に心を奪われるのもわかるというもの。紅茶はここで飲むか…?」
【ベアト】「……………妾は、何者なのか。」
【金蔵】「……………………………。……今、紅茶を持ってくる。しばし待て。」
【ベアト】「紅茶は良い。妾の話に付き合え。」
【金蔵】「……良かろう。」
 金蔵は、紅茶を運ぶことを口実に、一度だけ話を切り上げようとした。…しかしそれはあまりに見え透いていた。
 妾はガーデンチェアに腰掛け、金蔵にも座るように勧める。金蔵は年齢相応のもったいぶった仕草で深々と腰を下ろした。しばらくの間、妾たちは沈黙を尊ぶ…。
【ベアト】「……妾は何者なのか。この問いに、今日まで応えてくれた者はおらぬ。……なぜか皆、目を逸らし、はぐらかす。」
【金蔵】「……………………。」
【ベアト】「……そなたとは長い仲だ。妾はそなたを、無二の友であり、そして父ですらあると思っておる。……だからどうか教えて欲しい。そなたは知っているはずだ。…妾が何者であるかを。」
【金蔵】「………………。…………なぜに、そのようなことが気になるのか。そなたはベアトリーチェ。この屋敷の主ではないか。……それ以上の何を知りたいというのか。」
【ベアト】「…………わからぬ。」
【金蔵】「何だ。……何が知りたいのか、自分でもわからぬというのか。それは不可解な。若き日には、出口無き思考の迷路にて遊びたくなることもある。そなたの悩みもそれであろう…。」
 金蔵は、些細なことだと笑ってみせる。…しかし、その仕草もまた、妾にこの疑問をこれ以上、抱かせないためのものにしか感じられない。
【ベアト】「………………………。…ふ。……やはり、…そなたもそれを語ってはくれぬのか。」
【金蔵】「語ることなど何もない。そなたはベアトリーチェだ。それで充分ではないか。」
【ベアト】「……いいや、違う。…………妾が知りたいのは名前ではない。妾が、何者なのか、だ。……妾は誰で、何で。…いつからここにいて、…そしていつまでここで日々を過ごせば良いのか。」
【金蔵】「……………………。…やはり紅茶を持ってこよう。せっかくの陽気が勿体無いとは思わぬか。」
【ベアト】「……………………………。」
【戦人】「………これは何の話だ…? どうやらお前の昔話のようだが?」
【ベアト】「そのようだな。…まさかここまで遡るとは。」
【戦人】「自分は誰なのか、とはまた、…えらく高尚な悩みをお持ちのようじゃねぇか。」
【ベアト】「……無理もないわ。当時の妾は、自分が何者なのか。何の為に生きているのかを理解できなかった。」
【戦人】「ま、誰でも思春期になると、自分の生きる意味とは何ぞやみたいな、哲学的な悩みに一度は囚われるものさ。お前にもそんな微笑ましい時期があっただけという話だろ?」
【ベアト】「…………………。…妾は生まれた時からその屋敷におった。そして屋敷の中だけで生きた。もちろん、庭には出られたが、敷地はとても高い柵で囲まれており、それを出ることは出来ず、また出てはならないと厳しく言われておった。
 ……妾はな、屋敷と庭は自由に歩けたが、その外へは、自らの意思ではたった一歩、出ることさえ叶わなかったのだ。」
【戦人】「……………そりゃどういう意味だよ。…物心ついた時から、ずっと篭の鳥だったって言いたいのか。」
【ベアト】「……そういうモノだと思っていた。何しろ、気付いた時からそういう生活だったからな。疑問にも思わなかった。」
【戦人】「お前、…………一体、何者なんだ。」
【ベアト】「それよ。それこそ、妾もまた望んだものだった。」
【戦人】「…………へ。どうせ、人間ではなくて、魔女でしたーって言いやがるんだろ?」
【ベアト】「いや、違う。まだ違う。……いや、かつてそうだったと言うべきか。……妾は、金蔵によって造られた、人間によって作られた人間だ。…いや、肉で出来た檻とでもいうべきか。」
【戦人】「何だよそりゃ…。…妙な話を言い出しやがって。」
【ベアト】「……どうせそなたは信じぬだろうがな。まずは聞け。………妾は千年を経た偉大なる魔女であった。しかしある時、金蔵によって呼び出され、…その秘術にて永遠の虜となるよう縛られたのだ。」
【戦人】「…………そりゃ、初耳だぜ。右代宮家で知られてる話では、お前は祖父さまに呼び出されて、悪魔の契約みたいなのを結んで、黄金を授けたってことになってるぜ。」
【ベアト】「うむ。それは正しい。…そして妾は黄金を授け、契約の終わる時まで姿を消すはずだった。しかし、………まぁ、モテる女の辛いとこよな。………金蔵は、こともあろうか、妾に恋をした。」
【戦人】「…祖父さまも近眼が進んでたんだろうよ。ついでに乱視だなぁ、いっひっひ。よりによってお前に惚れるとはよ。」
【ベアト】「………ふ。まぁ、妾にとっては迷惑この上ない話よ。…しかし、ニンゲンの力とは恐ろしいものでな。あれは恐ろしい力を発揮して、妾をこの地へ釘付けにしたのだ。…妾が首を縦に振らぬ限り解放せぬと言ってな。…何とも強引な男よ。」
【戦人】「すげぇじゃねぇかよ。祖父さまがオカルト被れなのは誰もが知るところだが…、…大魔女ベアトリーチェさまを釘付けにするほどの力があったとはな。……へ、馬鹿馬鹿しい。そんなおかしな話、信じると思うか?」
【ベアト】「…やはり信じぬか。」
【戦人】「俺が信じるのは、お前が森の中の秘密屋敷に隠居していたって事実だけだ。お前こそが六軒島の19人目なんだろう?!」
【ベアト】「……いかにも。そなたの想像通り、ここは六軒島の森深く。外界からは見つけることも叶わぬ隠し屋敷。その名も九羽鳥庵(くわどりあん)。」
【戦人】「……そういや、ゲストハウスの正しい名は、渡来庵だって聞いたな。…なるほど、ネーミングセンスは近いな。……そして、お前はそこに隠居していた祖父さまの愛人。そうだな?!」
【ベアト】「愛人、というのは正しくない。……金蔵の片思いであったというべきだろう。先ほども話したであろう? あれが勝手に妾に惚れた。そして妾に求愛したが、それを妾は拒んだ。」
【ベアト】「……そして、妾をこの隠し屋敷へ閉じ込めたのだ。………いや、屋敷に閉じ込めたというのは正しくないか。……この体に閉じ込めた、というべきか。」
【戦人】「…………最後が何を言ってるのかわかんねぇぜ。」
【ベアト】「どうせそなたは馬鹿にして聞かぬであろう? 何しろ、魔女も魔法も信じぬという。語れど聞く耳を持たぬというならば、それを口にするは愚の骨頂だ。」
【戦人】「………………………。……信じるかどうかは俺が判断するぜ。…聞かなきゃ話も進まねぇしな。話せよ。…お前の昔話を。」
【ベアト】「うむ。………金蔵は妾に求愛を拒まれたが、それしきでへこたれる男ではない。どうあっても妾の首を縦に振らせたかった。妾をこの屋敷へ閉じ込め、妾を口説き落とそうと永遠の時間を費やしたのだ。」
【戦人】「…強引なヤツだな。しつこい男は嫌われるだろ?」
【ベアト】「………くっくっくっく。求愛に応えるかどうかは別にして、男をそこまで必死にさせるのは、まぁ、女としてそう不愉快ではない。
 ……しかし妾は決して首を縦には振らなかった。何とかその戒めから逃れようとしたが、あれの結界は強固で破れなかった。」
【戦人】「……それで?」
【ベアト】「様々な抵抗を試みた結果、金蔵の結界から逃れるには、肉の体を捨てるほかないという結論に至った。……肉体というものは、魔法を語る上でとても制約の多い器なのだ。」
【戦人】「肉の体を捨てる……? 何だよそれ。幽体離脱みたいなものか?」
【ベアト】「まぁ、そんなものと考えれば良い。しかし、妾は精霊ではない。魔女ではあっても、元々は肉の体で生れ落ちた人間だ。その妾にとって肉体を捨てるということは、死を意味するほどではないにしても、それに準ずる覚悟が必要だった。」
【戦人】「それはつまり、……自殺することでしか解放されないと決意した、って意味なのか?」
【ベアト】「自殺ではない。あくまでも、肉の体を捨てるだけのことだ。……もちろん、魂だけになるのは心もとない。魂は肉の体を出れば、太陽の強い風に絶えず晒されてしまう。それによって吹き散らされないように、自らを維持するのは妾とて容易なことではない。」
【ベアト】「できることなら避けたい最後の手段だった。しかし、金蔵の結界から逃れるにはそれしかなかったのだ。……くっくく、何しろ妾は自由人。金蔵の生が果てるまで篭にて飼われるのはごめんというもの。」
 ベアトが口にする、肉の体を捨てる云々という話は、どう聞いても自殺以上の意味には聞こえない。祖父さまにしつこく求愛され、それから逃れるために、……自ら死を…?
【戦人】「……………それで、自殺したってのか? 何を言ってやがる。当のお前は、そこでのんびりガーデンチェアに腰掛けてるじゃねぇか。」
【ベアト】「……そうだ。それこそが、金蔵によって与えられた新たな檻だったのだ。」
【戦人】「…………檻? この屋敷のことか?」
【ベアト】「違う。そこのガーデンチェアにてくつろぐ妾の体のことだ。………金蔵は、魂となって抜け出そうとした妾を、それでもなお逃すつもりはなかったのだ。
 …いやいや、恐ろしいヤツ。普通は、片思いの女が死んで見せれば、百年の恋も醒めるであろうに。……だからこそあれも魔術師の端くれなのか。……くっくっく。」
【戦人】「さっぱりわからねぇ魔女っ子トークで煙に撒くな。…つまり何だってんだ。」
【ベアト】「金蔵は、魂となった妾すらも逃さなかったということだ。……人間の想いというやつは恐ろしい。これほどまでの魔力を発揮するとは…。死者の魂を繋ぎ止めるなど、それを専門に求道する魔術師でも、おいそれと至れぬ境地よ。妾はそれを知るからこそ、金蔵の恐るべき魔力に、その時初めて驚愕した。」
【ベアト】「…………そして金蔵は、妾の魂を捕まえ、連れ戻したのだ。だが、魂を捕らえておく檻は、鉄でも鉛でも作れない。……ただひとつを除いて。」
【戦人】「…………何だよ。魔法の檻だとでも言い出すのかよ。」
【ベアト】「違う。妾やそなたのような、この肉の体だ。…肉と血で出来た檻だけが、魂をこの世に繋ぎ止める。……金蔵は妾の魂を、妾と瓜二つに造り上げた肉の檻に再び閉じ込めたのだ。」
【戦人】「…………………。…要約するとこういうことか。祖父さまがしつこく求愛するんで嫌になり自殺したが、うまく死に切れなかったってことだろう? …回りくどい言い方しやがってからに。」
【ベアト】「いいや、違う。妾はホムンクルスの種子に魂を閉じ込められ、試験管の中より生まれ出でたのだ。」
【戦人】「はぁ?! 馬鹿馬鹿しい…! そんなのあるわけねぇだろ?!」
【ベアト】「生命を生み出す奇跡すらも、金蔵は成し遂げたのだ。妾の魂を閉じ込める檻にするためのだけにな。……己の恋心だけで、これほどの魔力を見せるとは。つくづく恐ろしいヤツよ。」
【戦人】「あー、もうさすがに馬鹿馬鹿しくなってきたぜ! 好きなだけ言ってろってんだ。俺は何も信じねぇぜ。勝手にやってやがれってんだ。」
【ベアト】「……………む。…何だ、その不愉快な態度は。」
【戦人】「へ。最初は何か重大なヒントが隠されているだろうと、多少の興味を示したが。聞けば聞くほどおかしな話になっていく。魔女を否定するゲームのはずなのに、いつの間にか魔女話を鵜呑みにさせられていく気がするぜ。」
【戦人】「悪いがこれ以上、耳を貸す気はねぇな。勝手に好きなだけほざいてろよ。耳クソでもほじってるからよー。」
【ベアト】「…………………。……ふ。」
 俺が素っ気無い態度を見せると、ベアトは珍しく気落ちしたような仕草を見せた。もちろん、表情はふてぶてしいままだが…、自分の身の上話に興味を持ってもらえなかったのが寂しい、というとてもわかりやすい感情が垣間見えた気がした。
 ……そのわずかの仕草が、どういうわけか気の毒に感じ、俺は投げ遣りな態度を崩さないまま、だけれどもちょっぴりフォローしてやる。畜生、ムカつく魔女だってのに、染色体がXXだってだけで俺も甘いもんだぜ…。
【戦人】「……ま、信じる気は毛頭ねぇけどよ。…………続けろよ。お茶菓子代わりに聞いてやるぜぇ?」
【ベアト】「妾の身の上話が茶菓扱いとはな。……そこまで扱き下ろされてまで、のこのこ語ると思うかぁ…?」
 俺のちょいと馬鹿にした仕草に、ベアトは敏感に反応する。人を馬鹿にするのは大の得意だが、人から馬鹿にされるのはまったく駄目だと見える。すると、急に俺の紅茶のカップが音を立て、びっくりした。
【ロノウェ】「……お嬢様の魂は捕らえられ、新しい生命の檻に吹き込まれました。それはつまり、お嬢様が再び人間として生を受けたということです。」
 いつの間に現れたのか、悪魔の執事が俺のカップを取り、紅茶を継ぎ足していた。
【ベアト】「ロノウェ。もうその話は良い。こやつは馬鹿馬鹿しくて聞けんと言うでな。妾も馬鹿馬鹿しくて話す気にもならぬ。」
【ロノウェ】「新しいクッキーを今、焼かせているところでございます。それまで、お茶菓子代わりにお嬢様の昔話がちょうどいいかと思いまして。ぷっくっく…!」
【ベアト】「も、…もう妾の話は良いというのに! 揃って不愉快なヤツらだ。妾は席を外すぞ! ロノウェ、給仕を済ませたらとっとと下がるのだぞ。戦人と無駄話などするでないぞ。」
【ロノウェ】「かしこまりました。努力いたします。」
 ベアトは女特有のよくわからない短気を起こし、体を黄金の蝶にして散らせながら姿を消す。後にはロノウェと紅茶の香りだけが残った…。
【戦人】「……何だか、俺が怒らせたみたいで気分が悪いぜ。」
【ロノウェ】「ご自覚があられるようですので、これ以上申し上げることはございませんよ。」
【戦人】「ちょっと待てよ。トドメを刺したのはお前だろうが。」
【ロノウェ】「ぷっくっくっく。はて、何のことやら。お砂糖とミルクはいかがですかな?」
【戦人】「…ミルクだけでいいぜ。…………あとお茶菓子も欲しいな。」
【ロノウェ】「………クッキーが焼けるにはまだ時間が掛かりますよ?」
【戦人】「茶菓の代わりがあるって言ったぜ?」
【ロノウェ】「……かしこまりました。ご静聴をいただけるのでしたら、続きをお話いたします。」
【戦人】「ホムンクルスが何とかって言ったな。…一応は知ってるぜ。あれだろ? 錬金術だかで作り出す人造人間のことだろ?」
【ロノウェ】「はい。お嬢様の魂はホムンクルスに閉じ込められ、再び赤子となって生を受けこの世に蘇ったのです。……しかし、赤子でございますから、金蔵さまが愛を語ろうとも、それは無駄なことでございます。」
【戦人】「……………………。………まさか。……祖父さまはその赤ん坊をこの隠し屋敷に、同じ歳に成長するまで閉じ込めたってのか?!」
【ロノウェ】「はい。そのまさかでございます。しかし、魂は同じと言えど、人間の魂はその器に強く影響を受けます。お嬢様は、かつての記憶を全て失われ、ごく普通の人間の少女として成長されました。」
【戦人】「それが、……そこのガーデンチェアに座ってるベアトだってのか?」
【ロノウェ】「はい。その通りでございます。まさに瓜二つに成長なされました。しかし魔女としての力は持ち合わせておりません。……あくまでも人間としてのお嬢様なのです。」
【戦人】「………………………………。」
 ガーデンチェアに座り、空を見上げるベアトは、再び同じ質問を口にしている。
 自分は何者なのか、と。…その言葉の意味がようやく繋がる。彼女は、自分がなぜここに閉じ込められて暮らしているのか、理解できないのだ。
 祖父さまは、ベアトリーチェの魂を捕らえ、肉の体に閉じ込め、さらに隠し屋敷にそれを閉じ込めた。しかし、生まれてからずっとそこで過ごしてきた彼女には、自分が何者なのかも、どうしてここに閉じ込められて生きているのかも理解できないのだ…。
 ……ま、…待て待て。そんな馬鹿話を真に受けるヤツがあるか。解釈を変えよう。…つまりこういうことなんじゃないか?
 祖父さまはベアトリーチェに出会った。そして恋をして求愛したが、相手は首を縦に振らなかった。それで逆ギレして隠し屋敷に閉じ込めてしまったわけだ。ベアトリーチェは逃げ出そうとしたが、どうやっても叶わず、……それでとうとう自ら死を選んでしまった。
 ……それで、………うーん。…ベアトリーチェには、生き写しの娘、…いや、赤ん坊がいたとか。
 それで祖父さまはその子を大事に育てたわけだ。しかし祖父さまは、その子を娘としては見ていなかったのではないだろうか。
“魂を肉の檻に再び閉じ込めた” この言葉の意味するところは多分、……その子を、彼女の子どもではなく、生まれ変わりだと信じた、という意味ではないだろうか。
 こう解釈すれば、おかしな話も一応の筋が通るかもしれない…。…いやいやいや。こんなの、ベアトが俺を煙に撒くために作ったデタラメかもしれない。
 何も鵜呑みになんかできるものか…! そもそも、…九羽鳥庵だっけ? 隠し屋敷が実在する保証などあるものか。ヤツがたった今、適当にでっち上げただけかもしれないじゃないか。
【ロノウェ】六軒島の森の中には、九羽鳥庵という隠し屋敷が実在します。それが、今、話をしていた場所です。」
【戦人】「………え? あ、…赤?!」
 ロノウェが、九羽鳥庵が実在することを赤で語る。…それはベアトが使う赤と同じ意味なのか?
【ロノウェ】「これでも悪魔の端くれでございますので。…お嬢様には内緒にしてくださいね?」
【戦人】「…あ、……あぁ!」
 俺が揚げ足を取ることを知っているベアトは、赤を使うのに今や非常に慎重だ。その赤を、まさかロノウェも使えたとは…。もっとも、食えない男の赤だ。どこまで鵜呑みにしていいかはわからないが、とにかく何かのヒントには使えるだろう……。
【戦人】「この、九羽鳥庵の庭でくつろいでるベアトと、…さっきの祖父さまとの会話は、真実なのか?」
【ロノウェ】「はい。真実です。かつて、実際にこの場所で、お二人はこのような会話をなされました。」
【戦人】「た、助かるぜ。さらに赤で頼む。あいつ、ホムンクルスから生まれたなんて言いやがったが、そんな非科学的な魔法的存在、実在するのか?!」
【ロノウェ】「その問い掛けにはお答えできません。理由は、ステイルメイトになるからでございます。」
【戦人】「……ステイルメイト?? 何だそりゃ。」
【ロノウェ】「チェスの用語で、千日手のパーペチュアルと同様に、それ以上のゲーム進行が不可能になる宣言です。これは、千日手とは正反対で、指し手がなくなる、ある種の手詰まりの状態を指します。パーペチュアルに同じで、チェスではこれを引き分けにしております。…ただし、お嬢様と戦人さまのゲームでは引き分けがございません。ですので、ステイルメイトになる質問には、赤でお答えすることができないのです。」
【戦人】「………よくわからねぇこと言って煙に撒いてるが、つまり、ホムンクルスなんて魔法的存在が実在するって、赤で言えないから誤魔化してるだけなんだろ?」
【ロノウェ】「仮に私が、赤で“魔女は実在する”と言ったら、戦人さまはどういたしますか?」
【戦人】「……………む。……それを信じるか信じないかで俺たちは大喧嘩してるんじゃねぇかよ。それを言われちまったら身も蓋もないぜ。ゲームオーバーだ。」
【ロノウェ】「“魔女は存在する”と赤で申し上げたなら、戦人さまには反論の余地がありません。しかし戦人さまは、その理由が示されない以上、それを受け容れないでしょう。しかし赤で語られる以上、反論の余地もなく証拠も示されない。」
【ロノウェ】「この場合、戦人さまは、敗北を認められないにもかかわらず、反論の手がなく、手詰まりとなってしまいます。チェックメイトされていないにもかかわらず、次なる指し手が存在しない。」
【ロノウェ】「戦人さまが次の一手を打てない以上、お嬢様に手番が回ってくることはなく、ゲームはそこで永遠に止まってしまう。その結果、お嬢様があなたを屈服させることもできない。……これが手詰まりの状態です。それを回避する為、このような形になるご質問には、赤でお答えすることができないのです。」
【戦人】「……早い話が、身も蓋もない質問は禁止だと、そう言いたいわけだな? まー、そりゃそうだよな。赤で、“魔女は実在する”って言われちまったら、俺はハナからお手上げだぜ。」
【ロノウェ】「ご理解いただけて助かります。他の形の質問でしたら、ご協力できるかと思いますよ。」
【戦人】「……ヤツがはぐらかした復唱要求には応えられるか? この島の人数だ。」
【ロノウェ】「お嬢様が保留されている復唱要求にも、もちろん応えられませんよ。お嬢様の家具でございますので、出過ぎた真似は出来かねます。」
 ロノウェはキザったらしい仕草で、忠臣ぶりをアピールする。実に白々しいヤツだ。
【戦人】「ちぇ。一瞬でも、使えるヤツと思ったのによ。……諦めて他の質問を探すか。…そうだ。大事なことを確認するのを忘れてた。………これはベアトの思い出話なんだろ? いつの話なんだ。まさか現在ってことはないだろ?」
【ロノウェ】「はい。ここは1967年の世界。19年前の世界でございます。」
【戦人】「…………ふーむ…。」
 もう一度、話を整理してみよう。多分、こういうことじゃないだろうか。
 祖父さまには、ベアトリーチェという片思いの愛人がいた。そして、この隠し屋敷へ監禁し求愛を続けていた。しかし彼女は頑として首を縦に振らなかった。
 やがて彼女はここから逃げられないことに悲観して…、多分、自殺してしまう。
 ……それで、……ホムンクルスに魂を……。駄目だ駄目だ、こいつを受け容れちまったら、魔女を認めたも同然だぜ。
 そこはこう解釈するんだ。死んだ彼女には多分、……忘れ形見の娘がいたんだろう。魂を新しい肉体に込めた…、みたいな話は多分、その子をベアトリーチェの生まれ変わりだと信じて育てた、という意味に違いない…。
 …だとしたらつまり、少なくとも19年前からベアトは19人目としてこの島に存在してて、……えぇと……。
【戦人】「……混乱してきたぜ。…いずれにせよ、憶測の域を出ない。確実に赤で言えることは、1967年の六軒島の隠し屋敷に、人間としてのベアトリーチェが存在した。それだけだ。」
【ロノウェ】「その通りでございます。1967年の六軒島の隠し屋敷に、人間としてのベアトリーチェさまが存在した。」
【戦人】「おう、サンキュ。助かるぜ。」
【ロノウェ】「おめでとうございます。これで戦人さまの19人目の駒は、その存在がはっきりしました。戦人さまが熱望された、18人以外に罪をなすりつけられる19人目の人間。
 ……如何なる罪をも擦り付けることのできる生贄の羊。それがお嬢様とは実に愉快。ぷっくっくっく。」
 ロノウェが不謹慎そうに笑う。何となく言い回しが気に入らなくて、俺は一緒に笑う気がしなかった。
【戦人】「……そうだ。楼座叔母さんは言った。……ベアトリーチェは死んだ? 私が殺した? どういう意味なんだ…?」
【ロノウェ】「それは私の口から語るよりも、実際に顛末をご覧になった方が早いでしょう。少々、時計を進めましょう。」
 ロノウェはポケットより、洒落た懐中時計を取り出し、その竜頭を弄ろうとする。するとその時、ロノウェの背後に黄金の蝶が集まり、人の姿を形作るのが見えた。
 …ベアトか?! すぐに別の人物であるとわかった。
 あいつだ。俺を甚振るのが三度のメシより大好きな、あの七杭の姉ちゃんたちの長女だった。……エロい太ももが拝めてラッキーだとでも思わなきゃ、連中の拷問ごっこには付き合いきれねぇぜ…。
【ルシファー】「ロノウェさま。まだこちらにおられましたか。ベアトリーチェさまが、至急お呼びです。」
【ロノウェ】「はて。至急のどのような御用やら。……少々、戦人さまとのお喋りが過ぎたようですね。
 それでは戦人さま、私めはこれで失礼させていただきます。どうか引き続き、お嬢様とのゲームをお楽しみ下さい。」
【戦人】「へいへい。せいぜい楽しむぜ。…あんたはベアトよりゃ話が弾むからな。赤も気前よく使ってくれるしよ。ぜひまたお喋りに来いよな。」
【ロノウェ】「…………戦人さま。私めも、こう見えてもお嬢様の家具。…お嬢様が望まぬことは出来ませんよ。私が語った赤は、本来ならお嬢様が自らの口で語るべきもの。…ヘソを曲げてしまわれたお嬢様に代わって赤き真実を披露したに過ぎません。」
【戦人】「やっぱあれ、ヘソを曲げてたよなぁ? いっひっひっひ!」
【ロノウェ】「ぷっくっくく。」
 俺とロノウェが訳のわからない意気投合をしているのを見て、七杭の姉ちゃんは首を傾げる。
【ルシファー】「ロノウェさま。ベアトリーチェさまをお待たせしております。お急ぎをっ。」
【ロノウェ】「えぇ、直ちに参ります。それでは戦人さま、後ほど。……ようやく仲良くなれてきましたね。やはり、よい友人になれる気がします。」
【戦人】「ベアトの陰口仲間ってことならなー。」
【ルシファー】「ロノウェさまっ!」
【ロノウェ】「はいはい。それでは失礼いたします。」
 俺と仲良くしてるのがよほど気に入らなかったのか、それともよほど急ぐように言われたのか。七杭の姉ちゃんが鋭く一括すると、ロノウェはへらへら笑いながら、逃げるように消えていった…。
【ルシファー】「……ふん。煉獄の七杭が長女のこの私が、この程度の用事で呼び付けられるなんて! …ベアトさまも、この程度なら他の暇そうな妹たちに言い付ければいいのに。もう…!」
【戦人】「何をカリカリしてんだよ姉ちゃん。腹減ってんなら、クッキーでも食えよ。最後の一枚をくれてやるぜ? いっひっひ!」
【ルシファー】「……ふーん? 気が利くじゃない。なら、ひとついただこうかしら?」
 最後の一枚のクッキーが残った菓子皿を、姉ちゃんの方にすいっと押し出してやる。
【ルシファー】「ありがと。」
 その言葉のピリオド代わりとでも言うかのように、鋭い音がテーブルを貫いた…。彼女の、三本の指から爪が鋭く伸び、菓子皿を押した俺の…、各指の間に紙一重で突き刺さっていたのだ。……あまりに一瞬の出来事で、…爪が伸びたのだということもしばらく理解できなかった。
 その鋭い爪の先端は、赤いマニキュアで彩られた刀身のよう。……指と指の付け根の間が、チリリと痛む。……そのカミソリのような刃が、俺の手の甲と、指と指の間に紙一重で打ち込まれているのだ…。その三本の刃に、迂闊な俺の右手は震わせることもできず、今頃になって、冷たい汗を一筋零すしかない。
【戦人】「…………ひゅう。…姉ちゃん、そろそろ爪を切った方がいいぜ。」
【ルシファー】「ルシファーよ。……それが誇り高き私の名。ベアトリーチェさまにお仕えする名誉ある家具、煉獄の七杭が長女。
 ………他の面汚しな愚妹どもとは訳が違うの。それに見合った敬意を示さないと、後悔することになるわよ。」
【戦人】「…どう後悔するんだか。俺には見当もつかねぇぜ。」
【ルシファー】「………ふっふっふっふっふ。馬鹿な子ね。…そんなに遊んでほしいの? そんなに忘れられないの? 私の杭を、思いっきり奥の奥までねじ込んで、たっぷり抉って楽しませてあげるわよ……? うっふふふふふふふふふふふふふふふ……!」
【戦人】「………クソッタレ。いつか押し倒して同じセリフを言ってやるぜ。」
【ルシファー】「あらそう? 楽しみにしてるわね? うっふふふふふふ……。…あっははははははははははははははははは…!!!」
食堂
 楼座はようやく落ち着きを取り戻す。男たちは早く話すよう急かしたかったが、それを霧江が制した。
 …本当に彼女が口にするような話なら、……それは思い出したくない忌まわしい過去だ。彼女は自らの胸に手を当てて何度か深呼吸をすると、何とか話す覚悟を決めたようだった…。
【楼座】「……あれはいくつの時だったのかしら…。…多分、中学生か、……よく覚えてない。とにかくそのくらいの頃だったと思うわ…。」
【留弗夫】「ってことは、…大体、20年位前ってとこか。」
【楼座】「あの頃の私は、あまり成績が良くなくて、いつもお母様に怒られてばかりだった。……私なりに努力していたつもりだったんだけど、お母様の期待には全然応えられなくて…。」
【蔵臼】「……母上は楼座にもずいぶん厳しかったな。当時は同情していたよ。」
【絵羽】「ふん。陰口ばっかだったくせによく言うわねぇ。」
【秀吉】「よさんか絵羽。それで? 楼座さんはどこでベアトリーチェに会ったんや!」
【霧江】「秀吉さん、今は急かしては駄目よ。……いいのよ、楼座さん。楽に話して。」
【楼座】「………ありがとう。…あれは、お母様に特にひどく叱られた日よ。」
 家庭教師が、内緒よと約束したはずなのに、…私が漏らした泣き言を、全てお母様に話してしまったらしい。
 お母様は、右代宮家に名を連ねる者が情けないと、私をひどく叱ったわ。……私も、もちろん自分なりには努力していた。でも、蔵臼兄さんのような貫禄は全然なかったし、絵羽姉さんのような立派な成績はとても取れなかったし、留弗夫兄さんのようなリーダーシップがあったわけでもない。
 …いつも目立たず、特に秀でることもなく、何の為に右代宮家に生まれてきたのか、私自身が聞いてみたいくらいだった。何の為に生まれてきたのかわからなくなって。…初めて頭の中が真っ白になるのを経験した、あの日のこと……。
 私は生まれて初めて、…物事には、立ち向かうことと屈することの他に、逃げ出すという選択肢があることを知ったの。
 逃げ出すと言っても、六軒島を出てどこかへ行けるはずもない。でも、とにかくお屋敷と今の自分から逃げ出したかった。……ある意味それは、家出でもあり、消極的な自殺でもあった…。
【楼座】「……いなくなりたかったの。…あるいは、いなくなることによって親を心配させたいという、子どもなりの反抗だったのかも…。………私は、森のはるか奥に行けば、右代宮の家から逃れられる、あるいは迷子になって心配させることで仕返しができると、子どもながらに思ったの。」
【霧江】「それで、……行ってはいけないと言われていた森に?」
【楼座】「……えぇ。浜辺へ出てから、海に沿うように。……特に理由があったわけじゃないけれど、……島をぐるりを回れば、その反対側には誰も知らない場所があって、私だけの隠れ家になるような気がしたの。」
【留弗夫】「浜辺からぐるっと、ってのは無理だな。途中で崖になっちまうだろ? あんなとこ、通れるわけがねぇぜ。」
【楼座】「…もちろんよ。だから、通れる方へ通れる方へ、とにかく奥へ奥へ進んだわ。……道なんかないひどい森だったけど、あの時の私にはそれが心地よかったの。…それほどの険しい森を抜けたなら、その分、右代宮家から逃れられるって、…そんな気持ちだったの。」
【絵羽】「………情けないわねぇ。成績で叱られたなら、その分、努力すればいいのに。」
【蔵臼】「それを言ってはいかんね。その代わり、楼座にはデザイナーとしての才能があったじゃないか。」
 言葉通りならこれはフォローになるが、楼座の会社がまったく儲かっていないことは誰もが知っている。
【留弗夫】「よせよ。今は嫌味を言ってる場合じゃねぇぜ。……そして、偶然辿り着いちまったんだな…? …ベアトリーチェの、…隠し屋敷に。」
 楼座は弱々しく頷いた……。
【秀吉】「どのくらい歩いたんや。地図で場所が示せるんか…? 夏妃さん、この島の地図はあるかいな。」
【夏妃】「いえ、今ここにはありませんが…。」
【楼座】「無理よ。適当に歩いただけだもの。地図を見せられたってわからないわ。……それに、あれから20年も経ってる。多分、森へ行っても二度と辿り着けないわ…。」
【秀吉】「………ふーむ…。」
 何人かが落胆のため息をつく。
 その隠し屋敷に、魔女の碑文に纏わるヒント、もしくは隠された黄金そのものが眠っているのではないかと、短絡的に考えていたのがありありとわかった。
【留弗夫】「六軒島は、この屋敷の周りが整地されているだけに過ぎねぇ。…他は完全に未開で、全島測量は、相当の手間が掛かるだろうな。」
【霧江】「でも、確かに存在するとわかっただけでも収穫よ。お金は掛かるだろうけど、例えば航空写真の会社に調査を頼むとか、このお屋敷を建設した業者に当時のことを聞くとか、調べる方法はあるかもしれないわね。」
【絵羽】「そうね。…あるかないかもわからないものを探すよりは、まだ方法があるはずよ。」
【蔵臼】「……うむ。さっそく調べる価値があるだろう。」
【絵羽】「その調査は兄弟合同でやるわよ。兄さんひとりではさせないわ。」
 その隠し屋敷に黄金が隠されていると決まったわけではないが、蔵臼と絵羽はさっそく火花を散らしあっているようだった。
【留弗夫】「兄貴たち、今はよせよ。…楼座、続きを話してくれ。」
【楼座】「………………うん。」
森の中
 闇雲に、でたらめに、どこまでも歩き続けたわ。突然、獣道のようなものに出た気がしたの。
 どれだけ歩いたかわからず、とても疲れていたから、その頃には自然と歩きやすい方へ向かうようになっていたわ。
 すると、………突然、目の前に、とてもとても高い柵が現れたの。それはゴシック調の素敵な装飾のされた柵。私は一瞬、ぐるりと回って、元のお屋敷に戻ってきてしまったのではないかと思ったわ。
 確かに、私たちが森へ入らないように、お屋敷でも柵はあった。でも、それとは装飾が違う柵だったし、……何より、とても高かったの。多分、2階までたっぷり覆うくらい。それが蔦に塗れていて、とても不思議な、荘厳な雰囲気を醸していたっけ…。
 私ね、……当時は森の魔女、ベアトリーチェの伝説を信じてたの。恐ろしい存在だと聞かされてはいたけれど、使用人の人は、敬いを持っていれば助けてくれることもあるって教えてくれて。……日々に自信を失いかけていた私には、彼女に助けてもらうことだけが、唯一の救いだと信じてたの。
 だから思ったわ。……これが、森の魔女、ベアトリーチェの館の柵だと信じた。ベアトリーチェに会えば、きっと私を救ってくれると思ったの。だから、中に入ってみようと思ったわ。
 でも、その柵はとてもとても高くて、越えられそうにはなかった。だから、柵にそってぐるりと回ることにしたわ。そうすればきっと門に辿り着けると思って。
 でも、そう簡単には行かなかった。その柵は高さに負けないくらい、とてもとても長くて、いつまで経っても角を迎えなかった。相当広大な範囲を囲んでいたのかもしれないし、…あるいは子どもの足だし、森は歩きにくかったからそういう印象を持ったのかもしれないわ。
 とにかく、なかなか門を見つけられなかったので、私は魔女に拒まれたような気持ちになり、悲しくなっていた…。
 するとやがて、大木が歪な根を大きく張り出し、柵を歪ませているのを見つけたの。お洋服を汚してしまうかもしれないけど、這えば潜り抜けられそうだった…。
【絵羽】「………そこが、隠し屋敷だったの?」
【楼座】「あれが私たちの言う隠し屋敷なのかはわからない…。でも少なくとも、私たちの知る場所ではなかったわ。」
 柵を越えたらすぐに庭というわけではなかった。その後もずいぶんと未開の森を進まなければならなかった。
九羽鳥庵
 すると、……急に森が開けたわ。そこに現れたのは信じられないくらいに…、………幻想的な光景だった。
 私たちしか住んでいないと信じていた六軒島に、…こんな素敵なお屋敷が隠されていたなんて…。
 お屋敷の前には、美しいお花畑が広がっていた。私たちのよく知る薔薇庭園とは、まったく装いの違うお花畑で、それはとても可愛らしかったわ。
 もちろん、お屋敷も素敵だった。…私たちのお屋敷に比べると一回りも二回りも小さいけれど、とても上品で、なのに可愛らしいお屋敷だった。
 そして、……………私は、彼女の姿を見た。お花畑を一望できるガーデンチェアに、優雅なドレス姿で腰掛ける彼女の姿を見たわ。それは、後に私たちが肖像画で知ることになる、あの黒い金刺繍のドレスよ。
 ……あんな上品なドレス姿なんて、おとぎ話かミュージカルの舞台でしか知らなかった。…それを普段着として着る人がいるなんて、それだけでもとても幻想的だったわ。
 その不思議な景色は、私の現実感を失わせるほどのものだった。それが夢だったと一言、言われたなら、私は素直に頷いて、朝のベッドで目を覚ますのを待ったかもしれないくらいに…。
 呆然として、姿を隠すことも忘れてしまった私を、やがて彼女は見つけるの。その表情は初め、とても気だるそうなものだったけれど、私の姿を認めると、それは大きく見開かれた。
 …無理もないわね、突然の見知らぬ来客なのだから。私は挨拶し、そして勝手に入ってきたことを謝るべきだと思い、思わず頭を下げたわ…。
【ベアト】「…………そなたは誰か。新しい庭師なのか。」
 それが彼女が私に掛けた最初の言葉。…ちょっぴり安心したわ。言葉が通じることがわかったから。おとぎ話の恐ろしい魔女のように、目が合っただけでカエルにされてしまわなかったから。
【楼座】「……ご、……ごめんなさい。…勝手にお庭に立ち入ってすみません…。」
【ベアト】「……………………。……そなたは誰か。名乗るが良い。」
【楼座】「う、…右代宮楼座と言います。」
【ベアト】「……右代宮。…………………ほぅ。…金蔵の一族の人間なのか。」
【楼座】「え? あ、…はい! 金蔵の娘です。こ、こんにちは…!」
 ちょっぴりだけ驚いたわ。…だって、お父様は誰にも恐れられる偉大な方。そのお父様を、呼びつけにしたのだから。だから急に恐ろしくなってしまったの。…だって、あの恐ろしいお父様を呼びつけにできるほど、彼女はすごい力を持った魔女に違いないのだから。
 彼女は私をじろじろと物珍しそうに見ると、こちらへ来るようにと手招きした。私は今更のように怯えながら、それに従ったわ。……だって、やっぱりカエルにされるんじゃないかと思ったから。…そして近付けば近付くほどに、その怯えは強まった。
 だって、…さっきから何度も口にしているけれど、…………彼女とドレスとお花畑とお屋敷と、……全ての調和があまりに現実離れしてるくらいに幻想的で美しかったから。彼女が本当に魔女であっても、私は何も驚かないに違いなかった…。
 そして本当に幸運だった。彼女は私をカエルにはしなかった。ぎこちなく立ち尽くしている私に、空いている椅子を示し、着席を勧めてくれたの。
【ベアト】「座るが良い。初めて訪れた者を庭へ招き、語らうのが妾の唯一の楽しみよ。………他に、何の楽しみもないがな。」
 そう言って、彼女は一瞬だけ悲しそうな笑顔を見せる。私は緊張と興奮の入り混じったおかしな気持ちだったので、不躾にも唐突な質問をしてしまった。
【楼座】「…あの、…………森の魔女、…ベアトリーチェですか……?」
【ベアト】「如何にも。妾がベアトリーチェである。」
食堂
【留弗夫】「やはりな。ベアトリーチェは実在したんだ…。」
【蔵臼】「…その姿は、まさに肖像画の?」
【楼座】「……えぇ。まさにあの肖像画の通りよ。」
【秀吉】「お父さんの想像の中の魔女じゃ、……なかったんやな…。」
【絵羽】「それで、あなたは彼女と何を話したの?」
【楼座】「…彼女はお茶を淹れながら、私のことを色々と聞いたわ。……まず、森を抜けてやってきたことを驚かれた。彼女は、柵の外には危険な狼がたくさんいると信じていたみたいだった。
 …だから私が森を抜けて辿り着いたと言ったら、とても驚いていたわ。どうやって、狼から逃れたのか、ビスケットを渡して許してもらったのか、それとも魔法の外套を被って…、なんて感じのことを言ってたっけ。」
【秀吉】「わっはっはっは。…そりゃあ、確かに魔女っぽいわなぁ。面白いお人や。」
【絵羽】「あなた、黙って。…………ずいぶん昔だけど、お父様は、森には狼が住んでいるから近寄ってはならないって、私たちを脅さなかった?」
【蔵臼】「あぁ、そんなこともあったな。馬鹿らしいね。日本の狼はとっくの昔に絶滅しているというのに。まさに子供騙しだな。」
【留弗夫】「記憶にねぇなぁ? そんな話、親父に聞かされたっけ…? 森には魔女だろ? 狼なんて話、聞いたことないぜ?」
【絵羽】「あんたがまだ小学校だった頃よ。覚えてない? そしたらあんた、むしろ狼を撫でてみたいなんて言い出すもんだから。お父様はすぐに狼の話を引っ込めて、魔女の話に切り替えたのよ。もうそのウソっぽいことと言ったら、あっははははは。」
【蔵臼】「はっはっはっは。当時の留弗夫には、狼よりも魔女の話の方が覿面だったね。よく覚えているよ。私の背中にしがみ付いた夜があったことを覚えているかね?」
【霧江】「…くす。留弗夫さんにも、そんな可愛らしい時代があったのね。」
【留弗夫】「うるせーなぁ。子どもの頃の話だぜぃ。」
【霧江】「……ま、とにかく。ベアトリーチェを閉じ込めていたのがお父さんなら、同じ狼の話をするのは道理ね。彼にとって六軒島の広大な森は、右代宮家と愛人の屋敷という、相容れない二つの異世界を分断する、越えてはならない壁だったのだから。」
【蔵臼】「柵の高さを考えると、どうやら親父殿は、庭ごと丸々を座敷牢にしたようだな。……さながら、二つの世界を分ける国境も同然だったのだろう。」
【夏妃】「…狼はともかく、野犬の類でもいたのではありませんか? その為の柵だったかも知れません。」
【絵羽】「六軒島に狼も野犬もいないわ。その柵は兄さんや霧江さんの言うように、ベアトリーチェと私たちの間の国境だったんでしょうね。」
【秀吉】「しかし、狼の話を素直に信じるなんて、何ちゅうか、純朴やなぁ。わしの想像していた魔女とはずいぶん違う感じやで。」
【楼座】「……そうね。それは私も感じたわ。…とても尊大で、確かに魔女のイメージ通りの人だったんだけど。…どこかとても子どもっぽくて、……何て言うのか、素直過ぎるというか、……世間知らずな印象を受けたわ。
 例えるなら、…本当におとぎの国の人みたいというか。……本当に不思議な人だったわ。」
【留弗夫】「……それからどうしたんだ。…親父の話とかは出たのか?」
【楼座】「えぇ。何日かに一度、約束されている日もあれば、突然の日もあったそうだけど、ふらりとお父様が訪れては、一緒にお茶を飲んだり、散歩したりしたんですって。私が訪れたその日は、たまたま彼女ひとりだったと言っていたわ。」
【蔵臼】「なるほどな。まさに愛人、といったところだ。…やれやれ。いくつ年下か知らんが、親父殿もやるね。」
【夏妃】「……如何わしい意味での交流はなかったと確信しています。」
【絵羽】「馬鹿ね、男と女の逢瀬に色気がないはずないじゃなぁい。それでどうしたの。それから何の話を?」
【楼座】「………私の自己紹介をしたので、逆に彼女のことを質問したわ。…そうしたら、急に雰囲気が落ち込んでしまったの。……何て言うのか、とても気だるそうな、寂しそうな。…私が初めて彼女の顔を見た時に浮かべていたのと同じ表情だった。」
【留弗夫】「まぁ、秘密の愛人だからな。好き勝手に歩かれてお袋に見付かっちまったらコトだ。……きっと軟禁に近い状態だったろう。
 綺麗なドレスに綺麗な屋敷や庭があっても、さぞや窮屈な思いをしてたんだろうぜ。そりゃ苦労もあったろうさ。………それで?」
【楼座】「彼女はきっと何か悩みがあった。……それを私に話したところで何の解決にもならない、というような雰囲気が読み取れて、私もとても悲しかったのを覚えてる。
 ………私と一緒にいることさえ忘れてしまったかのようで。…遠くをぼんやり見ながら、ずっとずっと無言でいたわ。…私はきっと失言してしまったに違いないと思ったんだけど、……謝罪の言葉すらも口にしていいような雰囲気じゃなくて…。……だから私も、彼女が私と一緒にいることを思い出してくれるまで、ずっとずっと黙ってた…。」
九羽鳥庵
 そしたら、……ふと彼女が呟いたの。
【ベアト】「………柵の向こうには、本当に狼などおらぬのか。」
【楼座】「…え? は、はい。狼なんて、動物園でも見たことないです。」
【ベアト】「動物園とは何か。」
【楼座】「あ、…色んな動物が飼われているところです。ゾウとかキリンとかパンダとか、珍しい動物がいっぱいいますよ。」
【ベアト】「…………………………。…動物園に、狼はいないのか。ならその、…怖くないかもしれんな。」
【楼座】「狼がいたとしても、動物はみんな檻に入ってますから安全です。だから安心して見学できるんですよ。」
 森の魔女ともあろうものが、どういうわけか狼は怖くて苦手みたいだった。それが、何だかとても滑稽に見えたっけ。
【ベアト】「………………。…それは妾とどう違うのか?」
【楼座】「…………え?」
 彼女は動物園のことも知らなかった。私は動物園が、如何に楽しいところかを説明するのだが、一度も行ったことのない彼女にそれを理解してもらうのはとても難しいことだった…。
 それどころか、それを説明する内に、彼女の表情はどんどん灰色になっていく。…彼女には区別が付かなかったのだ。高い柵に囲まれたこのお屋敷で、一見不自由なく優雅に過ごしながらも、檻に閉じ込められた動物たちとどう違うのか、区別がつかないようだった…。
【ベアト】「妾は何者なのか。……皆は私のことをベアトリーチェと呼ぶ。…それは確かに、そなたの言うように、偉大な魔女の名前らしい。
 ……しかし、それは妾ではないのだ。妾には魔法など何も使えぬ。……妾はその魔女の魂をこの身に封じられているだけなのだ。」
【楼座】「………………?」
 彼女はやっぱりどこか不思議な人だった。どこか世間ズレしているだけじゃなく、本当に魔法というものが実在すると信じているようだった。
 色々と不思議な話を聞かされた気がするけれど、細かくは覚えていないわ。ただ私が思ったのは、……この人は、可哀想な人かもしれないということ。
 彼女はこのお屋敷の中から自分の意思で出ることもできない、自覚なき囚人だった。……そして外の世界について何も知らず、自分が何者かであるさえ理解できていなかった。
 ……多分、彼女も自分が不憫であることを、薄っすらと理解している。でも、あまりに何も知らなくて、それが不幸であることにも気付けていないようだった。
 昔、篭の中の小鳥を可哀想だと姉さんに言ったら、こう言ったわよね。“篭の中しか知らない鳥は、外に憧れたりしない”って。
 でも、彼女は鳥じゃない。やっぱり、人間だった。篭の中にしかいなくても、それが世界の全てじゃないって、理解していた。だから、………私は誘ったの。
【楼座】「柵の外へ、……出てみますか?」
【ベアト】「………ほ、本当に狼はいないのか。」
【楼座】「いないですよ。絶対平気ですから。」
【ベアト】「…………………………。……出たいぞ。だが、いつも門は閉まっている。」
【楼座】「私が入ってきたところがあります。潜り抜けられる隙間があるんです。」
【ベアト】「……そこを抜ければ、外の世界があるのか。」
【楼座】「はい。」
【ベアト】「……………………狼は本当にいない?」
【楼座】「くす。はい、いませんよ。」
【ベアト】「…………………………。」
 私は、ちょっとした散歩に誘うくらいのつもりでいたけど。…彼女は何度かお屋敷に振り返り、真剣に迷っているようだった。そして、その覚悟の意味を知る。
【ベアト】「……………妾は、もうここは嫌だ。……外へ、出たい。そして妾が何者で、この世界はどうなっていて。…妾は何のために生まれてきたのかを、知りたい。」
 彼女がここでどんな生活を送ってきたかはわからない。そして、それは彼女にとって、一言では言い表せないものだったのだろう。辛いものだったなら、ここを逃げたいと一言、言えばいい。甘いものだったなら、ここにまだ居ると一言、言えばいい。
 それは例えるなら、冬の日の暖かな暖炉が、少しずつ空気を澱ませて頭痛を感じさせるようなもの…? このままここに居続けてはいけないと知りつつも、窓を開け寒風に身を苛むには、なお勇気が必要なのだ…。
 彼女は、いつまでもここにいてはいけないと気付き始めていた。いつかは外へ出なくてはならないと気付き始めていた。でも、外の世界のことを知らない彼女にとって、外へ踏み出す第一歩は想像を絶する勇気が必要だったに違いない…。
 その上で、彼女は決意した。外へ出たいと、きっと生まれて初めてに違いない決意を、口にしたのだ。
 …私は少しだけ戸惑った。彼女は、お父様によってここに住まうよう決められている。例えるなら、彼女はお父様が愛でる篭の中の小鳥。私が勝手に逃がしてしまったら、……私はお父様にひどく叱られるのではないか…。
【ベアト】「見たい。」
【楼座】「………え? 何を?」
【ベアト】「動物園が、見たいのだ。」
【楼座】「…………………ぁ。」
 彼女が、ようやく、とてもやわらかい笑顔を見せてくれたので、ちょっぴりだけ驚いてしまった。それはひょっとすると、…篭より旅立つ覚悟ができたからこその、達観なのか。それまでの暗い顔からは想像もつかないくらい、やわらかい笑顔だった…。
【ベアト】「……そなたと話すと、知らないことばかり出てくる。…妾は、学校なるものもわからぬし、動物園も知らぬ。映画館も知らぬ。遊園地も知らぬ。
 ………そしてそれを知りたいと、心の底から思う。…そなたは、妾をそこへ連れて行ってくれるのか?」
【楼座】「え、……う、うん。」
 …お父様に内緒でどうやって、という疑問は沸いたけど、…彼女があまりに嬉しそうに笑うものだから、私は調子を合わせて頷いてしまう。でも、彼女には私のそんな曖昧な笑顔の意味は伝わらないようだった。ここを出れば、私が本当にそれらへ連れてってくれると、信じたようだった。
 無垢で、純粋だった。……多分、誰からも騙されたことがないのだ。いや、……疑うことを教えられなかったとでも言うべきなのか。そんな笑顔が何だか眩しくて、だけれども痛々しくて。…私は何とか彼女のささやかな願いを叶えてあげたいと思った。
【ベアト】「妾は、…もうベアトリーチェは嫌だ。妾が何者なのか、知りたい。ベアトリーチェではない、新しい人間を始めたい。だから、ここから連れ出して欲しい。………もう、紅茶もいらぬ。ドレスもいらぬ。金蔵とも二度と会わぬ。……ここより妾を連れ出してくれ。楼座。」
 でもそれは、まだまだ子どもの私には到底背負いきれぬ責任。だけど、彼女の真剣な眼差しと、…まるで憑き物が落ちたような晴れ晴れしい笑顔を見ていると、……私の中にも小さな勇気が沸いて来るのを感じた。
 きっとこれは、とても怒られることに違いない。……でも、きっとこれは正しいことに違いなかった。どうなるかはわからないけれど……、……彼女を連れ出そう。
 お父様はもちろん、お母様にも相談できないだろう。
 ………お兄様かお姉様に相談を? うぅん、頼りになる源次さんか、…そうだ、困った時はいつも相談に乗ってくれる熊沢さんはどうだろう。きっと何とかしてくれるに違いない。
 今はとにかく、ここから連れ出してあげよう。彼女にとって、もはやここは望まざる場所なのだから。
 ……そして、私は柵の隙間から彼女を外へ連れ出したの。
森の中
 彼女は狼がいないかとびくびくしていたけど、その怯えがなくなってからは、うっそうとした森の中をただ歩くだけでも、どこか楽しそうだった。
 彼女は何かを見つける度に私にそれを尋ねたわ。それは本当にささやかな何かばかりだった。
 ……あの花は何? あの葉っぱは何? あの音は? あの匂いは? 彼女にとって、…本当にあの柵の内側だけが唯一の世界だったのよ。だから、世界の外側に出た彼女にとっては、…………。
 ……おかしなものね。私は最初、彼女のことを見た時、魔女の館でくつろぐ魔女そのものだと思っていた。でも、今は違った。むしろ正反対。……有限だと信じていた世界の外に出て、初めて世界が無限だと知った喜びでいっぱい。
 だから目に入るもの全てが新しい。……まるで、彼女の方がおとぎの国に迷い込んだかのよう。彼女がアリスなら、私はまるで時計を持ったウサギのような気分だったっけ……。
 彼女にとっては、そんなとても楽しい、刺激に満ち溢れた散歩だったろうけれど。…私は実は途方に暮れていた。……なぜなら、ここへはでたらめに歩いてやってきたから。だから、お屋敷への帰り道などわかるはずもなかった。
 森の中には灯りはないし、懐中電灯だって持っていない。このまま暗くなったら大変なことになるだろうと気付き、焦ったわ。彼女は無邪気すぎて、森の中で夜を迎えてしまうことがどれほど恐ろしいか、まったく理解できていないようだった。
 でも、外へ連れ出したのは私。…何とか責任を持って、この事態を解決しなくちゃ。だから考えたの。……とにかく海へ出ようって。そして海岸に沿って回れば、いつか必ず屋敷に戻れるはず。
 しかし、それは想像するより大変なことだったわ。…何しろ、私には地図もコンパスもない。未開の森はまっすぐ歩けるはずなどなく、方向感覚などすぐに失ってしまった。
 自分の来た道がどれだったか、もうさっぱりわからず、完全に迷ってしまっていたの…。このままでは、どこを歩いているかもわからないまま、夜を迎えてしまうに違いなかったわ。
 でも、泣き言なんて言っていられない。だって、後についてくる彼女はこんなにも無邪気で楽しそう。…だからこそ、私は彼女の笑顔のためにも、絶対にこの森の外へ案内してあげなければならないのだ。辛い顔を彼女に見せまいと歯を食いしばり、私は林を掻き分けながら道なき道を進んだわ。
 そして、色々と苦労したけれど、幸いにも海に出ることができた…。今、島のどこにいるのかは、相変わらず見当もつかなかったけれど、とにかく、こちら回りに進めば、必ずお屋敷へ帰れるとわかって、ちょっとだけ安心したわ。
 もっとも、海に出たといっても、私たちは岩壁の上にいた。海岸はずっと下だったわ。私はずっと森の中を歩いていて疲れていたから、たとえ岩浜であっても、開けた場所の方がずっと歩きやすいだろうと考えた。
 だから、何とかして岩壁を降りようと提案したの。…一応、危なそうだったし、他に案はないかと思って。
 でも、ベアトリーチェは私の提案に何の疑いもなく頷いた。……歳は向こうの方が上だろうに、…まるで私を親鳥だと信じるアヒルか何かの雛のように、本当に素直に従ったわ。

 私は岩壁を降りられる場所がないか探した。…そして、崖が崩れて斜面を作っているところを見つけたの。……ちょっと危なそうだけど、両手両足でしっかり這うようにして降りれば、多分大丈夫だと思った。
【楼座】「……ここを降りましょう。気をつけないと危ないけど、とにかく海岸に下りて、あとは沿って歩けば、もう迷わずに済むと思うの。」
【ベアト】「うむ。楼座がそうするのならそうしようぞ。妾は迷うとやらも楽しいぞ。とても愉快だ。」
 ………彼女には本当に危機感というものがなかった。何不自由ない生活をしてきたのは間違いないだろう。夜になったら暗くなるのはわかっていても、灯りのない森の中がどれだけ危険か、想像が及んでいないのだ。
 ついでに、崖から転げ落ちたらどれだけ危ないかも、想像がまったく及んでいないようだった。私は重ねて注意を促す。
 私は慎重に降りられる場所を窺った。…高さは、……相当高く見えたわ。多分10mくらいはあったんじゃないかと思う。
 下から見ればきっと、お屋敷の屋根よりも低かったのかもしれないわね。でも、上から見たら、まるで東京タワーの展望室から眼下を見下ろすような気分だった。
 でも、ベアトリーチェは相変わらず、全然怖がっている様子がなかったわ。…まるで、高いところは危ないということすら教えられていなかったような感じ。……いえ、彼女は自分が魔女だと信じていて、空が飛べるから危なくないと本当に信じていたのかもしれない。
【楼座】「気をつけてくださいね。…結構、高いから。」
【ベアト】「うむ。気をつけるぞ。下へ降りたら、海があるな。そこに水族館があるのか。」
【楼座】「いえ、この島には水族館はないですよ。でも海にはたくさんの魚がいると思います。」
【ベアト】「そうか。魚はいるのか。そなたが話してくれた、…えぇと、クジラとかイルカとかペンギンとかはいるのか。」
【楼座】「いえ、そういうのは水族館に行かないといないです。……水族館は島を出ないとないですよ。」
【ベアト】「そうなのか。……だが楽しみだ。クジラとはどんな魚なのか。」
【楼座】「えっと、…すっごく大きな魚で、あれ、哺乳類かな? それで潮を吹いたりします。」
【ベアト】「ほう。ならばイルカは。」
【楼座】「えっと、頭のいい魚で、あれ…、これも哺乳類だっけ? とても頭が良くて芸とかを覚えられるんですよ。」
【ベアト】「ほほぅ。ならばペンギンはどうなのか。」
【楼座】「えっと、…あれ、これは鳥類だっけ…。」
【ベアト】「何だ。水族館なのに、さっきから魚が出てこんぞ?」
【楼座】「えーとえーと…。ま、その、魚だけでなく、色々な海の生き物がいっぱいいるんですよ。」
【ベアト】「ほほぅ。それはとても楽しみだっ。………ん、」
 わ、ひゃっ。
 彼女が聞きようによっては滑稽な、…慌てた短い声、…いえ、多分それは悲鳴だったのかも。そんな声を唐突にあげた。
 ……彼女の体が岩壁から離れて、すぅっと落ちていった。
 私はすぐに言おうと思ったわ。だからあれほど注意して下さいって言ったのに!って。
 ……子どもの考えよね。何かが起こった時、真っ先にそれを怒ることで、自分に過失がないことを示そうとする言い逃れ。もちろん私も口にしたわ。大丈夫? だからあれほど注意しなさいって……。
食堂
【留弗夫】「…………………それで。…崖から落ちて、…どうなったんだ。」
【楼座】「………………………。」
【蔵臼】「……彼女はどうしたんだ。…楼座。」
 楼座は沈黙する。…足元に目線を落とし、…床の向こうに、何かおぞましい記憶を透かし見ているようだった…。
【絵羽】「死んだ、のね……?」
 絵羽のあまりに残酷なその一言は、楼座がもっとも避けたい一言だった。そしてそれを突きつけられ、……観念したように叫ぶ。
【楼座】「えぇ、死んだわッ!! 岩浜だったもの、尖った危険な岩がたくさんむき出しになっていた!! 目を見開いたまま、すごい血が溢れ出して…たちまち真っ赤な絨毯を広げていった…!
 声を掛けたわ、揺さぶったわ!! でも、彼女は返事は愚か、瞬きすらも、……いえ、瞼を閉じることさえしてくれなかった!! 私が悪いのよ! 彼女はドレス姿だったのよ?! あんな動きにくい格好なのを知っていたのに、私が岩壁を降りようなんて言ってしまったから!! 彼女はすごい素直だったから、私の言うことに何の疑いもせずに従って…!!」
【ベアト】「……いつまで死んでいるつもりか。いい加減に目を覚ませ。まったく、妾の与り知れぬところで勝手に肉塊に姿を変えおって。」
【戦人】「お前ぇのとこの太もも姉ちゃんとイチャついてただけだぜ。……それより、こりゃどういうことだ。」
【ベアト】「うむ。見たままよ。……妾は足を踏み外して転落し、“死んだ”。」
【戦人】「何だとぉ…。………19人目として登場しておきながら、……死んだだと……?
 ふざけるな、そんなわけはない…! 楼座叔母さんは子どもだったし焦ってた。医者がいたわけでもない。多分、死んだと誤解しただけで、お前は多分その、……仮死状態か何かで生きていたんだ。そうだろッ?!」
 そんなはずはないんだ。どうせ生きてるんだ。じゃなきゃこいつがここにいるわけがないじゃないか…!
 …子ども時代の楼座叔母さんが、泣きながらベアトリーチェの体を揺さぶっている。
 俺もその顔を覗き込むが、……………目は見開かれたままで、本当に死体そのもの。…仮死状態に違いないなんて曖昧なことで誤魔化したいが、……どう見ても、仮どころか、…本当に死んでいるようにしか見えない…。
 ベアトリーチェは、岩壁のあの高さから真っ逆さまに落ち、……あの尖った岩の先端で頭部を強打した。…………死ぬだろ、……あの高さで、……こんな岩じゃ……。
 だが、認めるわけにはいかない…。どんなに死んでるように見えても、……こいつは生きているはずなんだ…! そしてムカつくこのクソ魔女になった! それで全てのつじつまが合うんだ。
 こいつは祖父さまによって、ずっと隠し屋敷に軟禁されていたんだ。そしてその恨みを晴らすために復讐を画策し、……数々の残忍な殺人を引き起こすんだ!
 楼座叔母さんは死んだと思い込んでるだろう。だが本当は生きてて、楼座叔母さんが立ち去った後に奇跡的に息を吹き返したんだ。……そしてどうにかして今日まで生き延び、復讐劇の幕を開けるんだ。そうじゃなきゃつじつまが合わねぇ!!
【戦人】「……そう簡単には騙されねぇぞ。赤で復唱できるか?! 確かに死んだと!! どうせ生きてるんだろ?! 見え見えだぜ!!」
【ベアト】「それのどこが生きているように見えるというのか。間違いなく死んでいる!」
【戦人】「……………………………むぅぅぅ…。」
 19人目は祖父さまの愛人であり、そして人間であるベアトリーチェだ、という俺の仮説が、倒れる。…守勢から反撃に転じたつもりだったのだが……。
【戦人】「……なら、……お前は何者だってんだ。お前はたった今、死んだんだろうが! まさか魔法で蘇ったとか言い出すんじゃねぇだろうなぁ?!」
【ベアト】「くっくっくっく。すでに説明したと思うがな。……そこに倒れている妾は、確かに魂は妾だが、その体は妾を現世へ繋ぎ止めておく肉の檻に過ぎなかったと。そしてその肉の檻が、こうして壊れた。……それがどういうことかわかるか?」
【戦人】「……………もう、さっぱりだぜ。……好きなだけ魔女っ子トークに興じろよ。茶菓の代わりに聞いてやらぁ! 何だ、空っぽか。おい、紅茶のお代わりを頼むぜ。」
【ベアト】「くっくっくっく! ロノウェ。客人が紅茶をお望みだ。」
 ベアトが手をパンと叩くと、ロノウェが姿を現す。……執事ってのは便利なこった。
【ロノウェ】「お代わりですね。かしこまりました。どの程度お注ぎしましょうか?」
【戦人】「どうせ茶菓がボリューム満点だろうからよ。半分でいいぜ。」
【ロノウェ】「それでもなみなみとお淹れするのが英国式でございますよ。」
 喉を湿らす程度で良かったのに、たっぷりと紅茶を注がれてしまう。俺はベアトに背を向け、それを啜りながら沈黙した…。
 ベアトは、3人のベアトのエピソードを全部自分のこととして話した。
 戦人の解釈で概ね正解だが、隠し屋敷に閉じ込められたのは2代目。
海岸
【楼座】「ちょっと…、目を覚ましてよ…!! ベアトリーチェ…!!」
 楼座が妾、…………いや、かつて妾だったものの骸を揺さぶっている。それを、私は少し離れて見守っていた。
 あぁ、…私はあそこから転落して死んだんだな………。私はしばらくの間、そうだと信じた。…そして楼座が長い時間を骸の傍らで過ごし、駆け出していくのを見届けてから。……ようやく自分は、そこの骸とは別の存在の人格であることを理解する…。
【ベアト】「…………………そうか。妾は、……妾か。…ようやく、金蔵の戒めから逃れられたのか…。」
 ようやく記憶が戻ってくるのを感じる…。自分が千年を経た無限の魔女であること。そして金蔵によって呼び出され、長い時間、囚われの身であったことを思い出す…。
 肉の檻に囚われている間、妾の魔女としての記憶は完全に失われていた。しかし、楼座のお陰で、とでも言うべきか。事故で死ねたお陰で、妾は今、ようやく自らを取り戻したのだ……。
【ベアト】「……楼座。そなたは妾を死なせてしまったと後悔しているだろうが。妾にとっては感謝したいくらいよ。くっくっくっく…!」
 楼座の姿はもう見えない。医者を呼びに行ったのか、恐ろしくなってこの場を逃げたくなったのか。
 …今更どうでもいいことだ。魂の抜け殻に、今更何の価値もないのだ。しかしそれにしても、……今の自分の何と脆弱なことか。このうららかな昼間の太陽ですら、今の自分には苦痛だ。
 私は人の姿を崩す。そして数匹の黄金の蝶に姿を変えた。……うむ、今の私の弱々しい魔力では、この程度の姿の方が楽でいい。
 そして日の光を少しでも逃れるため、私は風に乗ってふわりと岩壁を越える。森の中なら多少は涼しいだろう。とにかく、ゆっくり時間を掛けて養生し、元の力を取り戻そう。……これまでの借りを、金蔵にどう返してやるかを思案しながら。
 ひらりと宙を舞いながら、もう一度だけ海岸を見下ろす。岩浜に、かつての妾が、……そして、やがて妾が取り戻そうとしている姿が、横たわっている。
 肉体を捨てた妾が、あの姿を取り戻すには、…多分、百日、二百日では及ぶまい。…それこそ千日、あるいはさらにを必要とするだろう。
 だが、妾は無限の魔女。千年を経し黄金の魔女。数えることのできる月日を待つなど、造作もないこと。
 くっくっく、金蔵よ。今この場にいないことを悔やむがいい。もう妾を捕らえることはできぬぞ。…くっくっくっく!
【戦人】「………それで、お前は黄金の蝶に姿を変え、森の中に潜んで魔力が回復するのを待った、ってのか?」
【ベアト】「そういうことだ。そなたを嘲笑するためにこの姿を取るが、本来は蝶たちの姿でいた方が魔力的には楽なのだ。」
【戦人】「無理しねぇで楽な格好でいやがれよ。ムカつく笑い声を聞かずに済むぜ。」
【ベアト】「くっくっくっく。蝶に姿を変え、森に紛れた妾を探し出すことなど、もはや金蔵には不可能なこと。……だが、金蔵も指をくわえているわけではなかった。しかし、妾を捕らえる方法はすぐに用意は出来ぬ。
 その為、まずは妾をこの島から逃がさぬ方法、そして、妾が力を取り戻すことがないよう、即座に手を打ったのだ。………やれやれ、とにかく金蔵の執念深いことと言ったら、想像を絶する。…あれに惚れられるのも、なかなかに辛いものだぞ。くっくっく!」
【戦人】「蝶になったお前を逃がさない方法? 何だよ、森全体に蚊帳でも張ったってのか?」
【ベアト】「うむ。それを魔法的に行なったのだ。………そなたは知っておるか? 船着場の先の洋上に岩礁が浮かび、そこに小さな東洋魔術の祠があることを。」
【戦人】「……あぁ、あれか。今年はなくなってたけどな。昔、修験者が作ってったとかいう祠なんだろ?」
【ロノウェ】「六軒島は元来、歪みのある島でございます。魔力的な存在や、それに類した存在を引きつけます。……お嬢様も、そんな内のおひとりでございましょうね。紅茶のお代わりはいかがですか?」
【ベアト】「くっくっく、いただこうぞ。……それらは人間たちに害をなし、恐らく数々の不気味なる伝承を残してきたであろう。それを聞きつけた東洋魔術師が、古代に設けたのがあの祠なのだ。長い時間を経て、その力は失われておった。金蔵はそれを修復することで、島の結界を蘇らせ、妾を再び島に縛り付けたのだ。」
【戦人】「……西洋魔女のお前に、東洋の魔法なんて通じるのかよ。」
【ベアト】「本来は相性が悪い。しかし、妾を封じたいという目的においては、ある意味、都合が良かっただろうな。
 妾も、西洋魔術であれば心得がある。どのような結界であっても、何かの手が打てたであろう。しかし東洋魔術は専門外よ。妾が飲まんとするスープに対し、スプーンではなく箸を与えられたようなものだ。」
【ロノウェ】「東洋魔術が強く支配する空間では、西洋魔術はひどく力を失います。ただでさえ千日は掛けたであろう力を取り戻す時間を、さらにさらに長く掛けねばならなかったのです。」
【戦人】「……それで、約20年掛けて魔力を取り戻し、今こうして蘇ったって言いたいのか。」
【ベアト】「辛く長い年月であった…。妾は黄金の蝶の姿のまま長く日々を送り、金蔵の屋敷を見つけ、やつの日常を見守った。どのように仕返しをしてやろうか、それを思案することだけを日々の楽しみに生きてきた。
 ……妾にとって幸運だったのは、その間の20年間。金蔵は妾を探し出し捕らえるあらゆる秘術にことごとく失敗した点だったか。人間に起こせる奇跡の数などたかが知れている。妾をあれだけ長く捕らえていただけでも、充分に身に過ぎた奇跡だ。そう何度も捕らえられては堪らぬわ。」
【戦人】「………祖父さまが、前のゲームだかで言ってたな。魔法は確率的奇跡に宿る、みたいなことをよ。」
【ベアト】「うむ。金蔵は妾を再び捕らえる秘術を探る内に、そこに行き着いたのだ。……………そして、13人の生贄を捧げることで妾を再び蘇らせる儀式を、ついに編み出したのだ。」
【戦人】「13人の、……生贄…。」
【ベアト】「それが、魔女の碑文。生贄の唄でございます。……第一の晩に6人。第二の晩に2人。そして第四の晩から第八の晩にかけて5人。合計13人の生贄を捧げる、禁じられた儀式…。その生贄はランダムに決められ、儀式を執り行う金蔵自身も例外にはなりません。」
【戦人】「馬鹿野郎ぉ…。この島で起こったあの凄惨な殺人が、全部、おかしな儀式だって言うのかよ!!」
 薄々はその可能性もあるかもしれないとは思っていた…。でも、魔女と悪魔にそれが真相だなんて言われて、はいそうですかで鵜呑みになんかできるものか!
【ベアト】「六軒島には18人いる。13人が生贄に捧げられ、5人だけが生き残る。そして妾は蘇る。……つまり、金蔵が妾に再び会える確率は大体、三分の一と言ったところか。その確率に自らの命を賭し、残りわずかな寿命の最後の一瞬に、妾との再会を望んだのだ。」
【戦人】「………そのふざけた儀式のために、俺たち親族が集められたってのかよ?! ふざけやがってッ!! いい加減なことを抜かすんじゃねぇッ!!」
【ベアト】「元より契約の通りだ。金蔵の生を終える時、貸し与えた黄金と、そして金蔵が生み出した財産の全てを妾が貰い受けることになっておる。……金蔵にはさんざん煮え湯を飲まされたが、今となってはこの千年でも稀な時間だった。何しろ、魔女の天敵は退屈よ。それから逃れることのできる数十年間を提供した金蔵には、なるほど、それも含めて借りがあるやも知れぬ。
 妾は金蔵のゲームに乗ることにした。そしてまず、金蔵は右代宮家当主の指輪を妾に返却する。妾の黄金で復興させた家だからな。………そして13人の生贄を気まぐれに決めるのだ。そしてその過程で、お前たちが右往左往し、妾に立ち向かおうと様々な人間模様を見せてくれることは、妾にとって非常に愉快なことだ。妾はこの金蔵のゲームを、実に気に入っている! くっくっくっく。」
【戦人】「ああああぁあ!! そんな魔法話は絶対ぇ信じねぇぞ! ……じゃあお前は誰なんだ! お前は崖から転落して死んだんだろうが! 魂が抜け出して蝶になって森へ? そんなのあるわけねぇだろうが!!
 だがお前はここにいる! 誰だってんだ!! お前こそが19人目じゃねぇのかよッ?!」
【ベアト】「そうであるな、妾こそが19人目であろうな。くっくっくっく! だが駄目だぜ? 全然駄目だぁ!!」
 楼座の回想に、ベアトが幻想描写を付け加えている。これによって読者は、楼座の回想全部が幻想描写だったかのように錯覚するという仕掛け。
【ベアト】この六軒島に19人以上の人間は存在しない!」
【戦人】「んなッ、……………何だとぉおおぉ……。ってことは18人+Xの、……Xは存在しないってのかよ?! 俺が取った駒、Xは、…存在しないってのかよぉおおおぉ?!」
【ロノウェ】「ぷっくっくっく…。そういうことになります。実にご愁傷様ですよ。…しかしお嬢様も手がお早いですな。もう少し泳がせて、最後に引っ繰り返すものとばかり思っておりました。さて戦人さま、紅茶のお代わりはもう結構ですか?」
【戦人】「いッ、いらねぇよ畜生!! 俺は信じないぞ! 18人の中に犯人がいるわけねぇ! じゃあお前は何なんだよ、どうしてここにいるんだよ!! 19人目が存在しないってんなら、お前は18人の誰かの変装だって言うのかよ?!」
【ベアト】「くっくっく! そなたにとって、渋々とではあっても、18人の誰かを疑うことが最後の逃げ道、キャスリングとなるであろうな。………しかし、妾はここからが難しいのだ。そなたは形振りさえ捨てれば、18人もの人間を自在に犯人に仕立てあげられる! その18人の駒を潜り抜け、妾を認めさせチェックメイトに至るのは、………実に難しいことよ。」
【戦人】「そんなことするもんか!! 18人の誰も疑わない! 疑いたくない!! またここに追い込まれちまったのか…?! 畜生ぉ、畜生畜生ぉ!!」
【ベアト】「三度に及んだそなたとのゲームも、いよいよ終盤戦のようではないか。もう逃げ場はないぞ? くっくっく! お前の大好きな18人を疑いたくないだろぉ? 妾がそれを被ってやるぞ? なのになぜ妾を拒むのか?
 序盤は本のように、中盤は魔術師のように。そして終盤は機械の様に指せとな。これより詰めるぞ。ゆっくりじっくり、…確実にな。いいやそれとも、そなたに相応しく一気に畳み掛けるのが良いのか?
 そなたにはそれが似合うだろう、そうしよう。すでにそなたの苦手とする攻め方も知り抜いておるわ! くっくくくくくっひひひひひひひひひひ!!」
 戦人が要求した「この島には18人しかいない」は赤では言えない。したがって、言い換えに気付かれないように、この赤は時間を置いてから出す必要があった。
 なお、この時点で読者が金蔵の不在を疑えているのであれば、18人目を未知の人物Xと仮定した論法が依然として有効。この点はEP4にて追求される。

儀式の開始
10月5日(日)0時00分

金蔵の書斎
【金蔵】「………………………さて。この度のゲームはどう転ぶのか。…委ねるもよし、抗うもよし。……いずれにせよ、わしに残されたわずかの命を賭すに値する、実に楽しい宴よ。」
 金蔵は薄暗い書斎で、時折、稲光に照らされながら、ぶつぶつと独り言を口走っては、それにひとり、笑う。
 机の上に置かれた、凝った意匠の施されたアンティークの時計は、重なっていた2本の針を右に傾かせ、ずらし始めている。24を数えた時の刻みが0に戻り、再びそれを数え直していた…。
【金蔵】「……時の刻みとは残酷なものよ。24を数えるために一日を掛けて辿り着き、そして再び0に戻る。……23時59分までは確かに数えただろう。しかし、24時に辿り着くことはできたのだろうか? ……辿り着けず、再び0時に戻ったと考えれば、それは何とも虚しいことよ。」
 いや、それこそが人の生涯か。完全な24を目指して生き、そこに辿り着いた刹那、0に戻る。故人は24に辿り着けたと人々は讃えるだろうが、それは断じて24ではない。………所詮は、0なのだ。
【金蔵】「わしは違うぞ。……わしは生きて24に辿り着く。そここそが黄金郷。…ベアトリーチェの住処なのだから。」
 金蔵は先ほどからずっと、タロットカードを弄っていた。そして己の勝負運を占っては、その結果が気に入らない度にやり直しているように見えた。
 タロット占いでもっとも禁じられている行為は、同じことを二度占うことである。それは占いの結果に対する冒涜であり、タロットを通じて神託を与えてくれる、人より上位の存在への冒涜ともなるのである。
 しかし、金蔵は知っている。タロットが二度占ってはならないのは、これが単なる乱数発生器でしかないため、二度占えば異なる結果が出るのは当然だからだ。……だから、タロットの結果に神秘性を持たせるために、二度の占いを禁じているに過ぎないのだ。
 …しかし、だからといって金蔵がタロット占いを馬鹿にしているわけではない。金蔵の解釈によるタロット占いは、まったく別のやり方だった。それは、自分の得たい最高の結果が出るまで、一切の妥協なく、何度も何度もタロットを繰り返すことだ。
 最高の結果がどの程度のものかの定義にもよるが、厳密な意味での最高の結果を求めたなら、それは単なる算数的奇跡を求める運のルーレットと同じになる。……しかし、数字の奇跡こそを魔力の根源とする金蔵にとって、それは充分、魔法の儀式となり得た。
 つまり、自分の望む結果が完全に出るまで、延々とタロットを繰り返すその手間と信念、心の気持ちが祈祷に通じ、それが天に届いた時、結果となって昇華されるという、金蔵独自の魔法解釈だ。だから、金蔵が扱っているタロットは、世間一般のタロットとまったく同じものだったが、そのやり方がまったく異なっていたのだ…。
【金蔵】「……………………………。…今宵は、……思い通りにならぬな。」
 金蔵は一度手を止める。
 …なかなか思い通りの結果が出ないようだった。それどころか、そうそう出るはずのない悪いカードが繰り返し現れ、金蔵の求める奇跡を妨害し続けていた。
【金蔵】「………………ふ。…そういうことなのか。」
 普段とは違う流れに、金蔵は何かの神託を得たらしい。しかし、不吉なカードたちが机の上に散らばる様を見る限り、その神託が良き報せであるとは考え難かった…。
 金蔵はしばらくの間、固く目を閉じ、何かを思案した。
 そして雷鳴に何かを決断し、受話器を取りダイヤルする。
【金蔵】「…………わしだ。源次はおるか。至急だ。」
玄関前
【紗音】「………………はぁ。」
 紗音は玄関前で、冷えた空気に火照った顔を冷ましていた。
 …譲治からの求婚は、……きっといつかあるだろうと思っていた。
 心の準備はなかったわけではない。そして、応える形で頷いてしまった。若さゆえの無謀だったのだろうか? もっと将来のことは真剣に考えた方が? 即答したせいで、むしろ安っぽい女だなんて思われはしなかったろうか。
 …せめて明日の朝まで保留したほうが、真剣に考えてる雰囲気をアピールできただろうか。譲治に、もう指輪をもらった後の今になって、ああすれば良かったこうすれば良かったと、紗音はひとりもじもじと照れ隠しを続けているのだった。
 そこへ、ばたばたと水溜りを踏み散らしながら駆けてくる足音を聞く。紗音はすぐに浮かれた気持ちを追い出した。
【紗音】「……源次さま? 嘉音くんも…! す、すみません、すぐに戻らなくてその…、」
 譲治との逢瀬に時間を割きすぎたことを叱られるに違いないと、身を固くした。
【源次】「紗音。お館様が至急、書斎へ来るようにとの仰せだ。急ぐぞ。」
【紗音】「……え? は、はい、かしこまりました…! 一体、何事なの…?」
【嘉音】「不吉な予感がするってさ。……自分で儀式を起こしておいて、都合のいい話さ。」
【源次】「郷田に気取られぬよう、裏から入る。足音に気をつけろ。」
【嘉音】「はい。………姉さん、注意して。姉さんは賑やかだから。」
 嘉音は特に、気配を殺せるように出来ている。…例えるならば猫。誰にも気取られることなく、いつの間にかそこにいて、いつの間にか立ち去ることができる。だから例え、水溜りを踏むことになろうとも、その音は水溜りを叩く雨音よりも遥かに小さい…。
 源次もまた、そういう力を持ち合わせていた。…いや、本来、家具とまで呼ばれる使用人はそうあるべきなのだ。家人が机や戸棚に対して何の気配も感じないように、使用人もそうであり、彼らが必要とする時にさりげなく現れるのが最大の美徳なのだ。
 そこへ行くと、紗音の足音はまだ自己主張が強い。…彼女なりに足音を潜めているつもりだが、嘉音たちのそれに比べれば、なるほど、賑やかとは言い得ていた…。
 やがて裏口に辿り着き、3人は屋敷の中に入った。
 すぐに、………何かを感じた気がした。嗅覚とは違うけれど、…鼻の奥底で感じるような、……勘とでも言えばいいのか、形容し難い感覚が、いつもと違う何かを知覚した。
【嘉音】「…………源次さま。」
【源次】「…うむ。急ぐぞ。」
 その知覚は、緊迫した何かが迫っていることを感じさせる。3人はそれを理解し、足音を殺したまま、階段を駆け上がり金蔵の書斎を目指した。
 階段を駆け上がると、…金蔵の書斎特有の甘い毒の臭いが鼻を突く。
【源次】「…………………む。」
【紗音】「いかがなさいましたか、源次さま…。」
【嘉音】「……結界が、死んでいる。」
【紗音】「え? ……………あ。」
 嘉音に言われて、書斎の扉を見る。そのドアノブには、サソリの紋様が刻まれている。強力な魔除けだ。金蔵の身を守る、最後の結界。それが破られていた。
 もちろん、見た目にはそのドアノブに何の変化もない。しかし、人には知覚できぬものを理解できる彼らには、その劇的変化が理解できた…。
【源次】「……お館様。お館様…! 源次でございます。ここをお開け下さい。」
 源次が数度ノックしてそう声を掛けるが、書斎から返事はなかった。
【源次】「紗音、背中を守れ。嘉音、室内を探れ。」
【紗音・嘉音】「「はい…!」」
 嘉音は扉に耳を当て、書斎の中の気配を探る。紗音は扉に注視する二人の背中を守るため、背を合わせるように逆を向き、不測の事態に備えた。
【嘉音】「…………お館様はいらっしゃられるはずです。…ですが、静か過ぎます。」
【源次】「ご無事だということか。」
【嘉音】「いいえ。静かが過ぎます。」
【紗音】「…まさか、…………そんな。」
【源次】「お館様。扉を失礼させていただきます。」
 源次は懐より、黄金の鍵を取り出す。金蔵が持つ以外に、唯一存在する書斎の鍵だ。
 鍵穴にそれを刺し、重い手応えで捻る。……一見、それは確かに厳重な施錠を示した。
 しかし、結界が破られているということは、魔力ある者にとって、この扉はすでに開きっぱなしと同じ意味だ…。ゴトリと重い音がして、人間にとっても、扉が開かれたことを示す。
【源次】「……失礼いたします。」
 源次はうやうやしく頭を下げながら、そして嘉音は緊張感を張り巡らせながら、そして紗音はおろおろとしながら書斎へ入る…。
 金蔵の姿はすぐに見つけられた。……応接ソファーに背を向けるようにして座っていた。
 源次はその向かいに座る人物に気付き、再び頭を深々と下げる。
 嘉音もその人物に気付き、……彼は頭を下げなかった。両手を広げて紗音の前に出て、その背で庇った。だから紗音はもう、その人物の顔を見なくてもおおよその想像がついた…。
【源次】「…お越しでございましたか。ベアトリーチェさま。」
【ベアト】「源次か。なかなかに早いな。やはり家具は、主の呼び掛けに素早く応える方が良い。こやつとは大違いだ。」
【源次】「……………………。……ロノウェさまもお越しでしたか。」
 ベアトリーチェの右後ろの何もないはずの薄暗闇に、源次が会釈する。
 そこに誰かがいるようには、嘉音にも紗音にも、思えなかった。……しかし、暗闇はすぐに答え、源次の眼力を讃えた…。
【ロノウェ】「相変わらず、さすがです。だいぶの久し振りになりますね。………それにしても老けましたね。それだけの齢を重ねましたか。」
【源次】「充実した日々を過ごしております。…ロノウェさまにおかれましても、ますます充実されておりますよう、お見受けいたします。」
【ロノウェ】「えぇ。お陰様です。………そして紗音も久し振りですね。君はずいぶんと美しくなった。そして、ずいぶんと強くなったようですね。良いことです。」
【紗音】「…………ありがとうございます。」
【嘉音】「……姉さん、あいつは一体…。」
【ロノウェ】「嘉音くんとは、会うのは初めてになりますね。……私は、ベアトリーチェさまの家具頭を任されております、ロノウェと申します。……源次さんの古い馴染みですよ。あなたと同じに、私も家具です。仕える主は異なりますが。」
 嘉音の表情からは決して緊張の色は消えない。……家具は仕える主が違えば、やさしくも残酷にも如何様にでもなる。…彼が嫌悪するベアトリーチェに仕える家具だと名乗ったならば、彼もまた嫌悪すべき存在に違いないのだ…。
【ベアト】「くっくっくっく! 妾もすっかり嫌われたものだ。坊主憎ければ袈裟まで何とかとはよく言ったものよ。」
 ベアトリーチェは、嘉音の嫌悪感に満ちたその顔を露骨に嘲笑う…。
 そして嘉音はようやく知った。ベアトリーチェと金蔵は応接ソファーに向かい合い、チェスを興じていたのだ。
 しかし、金蔵は微動だにしない。両手で自らの頭を抱え、固く目を瞑り…、次の手を黙考しているのだ。……いや、苦悩しているのか…。
【紗音】「………お館様………。」
【ベアト】「妾が金蔵に伝えたのは2つ。良い報せと悪い報せだった。……良い報せは、儀式を終えずして妾と再会できる幸運を得たこと。悪い報せは、金蔵が儀式の一番最初の生贄に選ばれてしまったことだ。
 くっくっくっく! こればかりは妾にもどうしようもない。実に気まぐれにルーレットにて決めたのだから。」
【嘉音】「…う、嘘を吐け。ただの快楽殺人者のくせに……。」
【紗音】「よして、嘉音くん……。」
【ベアト】「……さて、金蔵。そろそろ負けを認める気になったのか? ……くっくっく、これにて、妾との長きに亘る勝負は決着だな?」
【金蔵】「……………………………。」
 ぱっと見る限り、混迷したチェス盤を一望しただけでは戦局は見えない。…しかし、金蔵の苦悩とベアトリーチェの悪意ある余裕を見る限り、すでにそれは決しているように見えた…。
【金蔵】「…………是非もなし…。…これもまた一興か。」
【ベアト】「妾もだ。……そなたとの勝負に決着がつくことは、万感の思いあれど、もはや恩讐を越える。…楽しかったぞ。退屈しない数十年であった…!」
 ベアトリーチェがクイーンを進め、最後の一手を指す。……それで、決まりだった。
【ベアト】「チェックメイト。………これが妾からそなたへの手向けだ。心置きなく、…眠れ。」
【ベアト】「ふっふっふ、……ふっはっはっは、はぁっはっはっはっはっはっはッ!!」
 金蔵はがばっと立ち上がると、満場の客座に向かって両手を広げるオペラ歌手のように振る舞い、…まるで百年の計を成し遂げたかのように笑う。
 その笑いが、……紅蓮を吹く。紅蓮の炎が内より溢れ出し、口、耳、鼻を問わずに吹き出して、たちまちの内にその身を業火で包んだ…。
 しかし金蔵は笑い続ける。笑えば笑うほどに、全身から業火が噴出し、その身を焼き焦がしていく…。その炎は眩しい灯りとなり、室内の様々な魔法具を煌々と照らして、その歪な影絵を壁に踊らせて見せた。
 …その影絵はまるで、燃え盛る金蔵に狂喜する地獄の亡者たちにも見えた…。そしてそれは、魔女と契約を交わし、その契約を終えた者が辿る、…極めて正当な末路だった…。
 しばらくの間、猛火の中で吼えるように笑い続けた後、まるで糸の切れた操り人形のように、金蔵はばたりと倒れる。
 あれほど燃え盛っていた炎は、まるでもう全てを焼き尽くしたかのように消え、後には焼け爛れ、目を背けたくなるような遺体が残されただけだった…。
【嘉音】「…………………惨い…。」
【ベアト】「ふ。お前が言うか。相応しい死に方だと思っているくせに…。」
【嘉音】「……なぜお前が姿を現している…? 僕たちに何か用だとでも言うのか…。」
【紗音】「よして嘉音くん。……ベアトリーチェさまを挑発しては駄目。」
【ロノウェ】「すっかり怯えさせてしまいましたね。ぷっくっくっく。」
【ベアト】「妾はつくづく、嘉音とは仲良くなれぬようだ。そう嫌いでもないというのにな…?」
 ベアトリーチェはニコリと、あるいはニヤリと微笑む。嘉音は乱暴に視線を逸らし、あからさまな不快感を示した。…その仕草は、彼の思惑とは異なり、魔女とその執事を笑わせた。
【源次】「嘉音。……ベアトリーチェさまの御前であるぞ。言葉遣いに気をつけなさい。」
【ベアト】「あぁ、構わぬぞ源次。好きに言わせてやれ。妾は寛大である。」
【嘉音】「……何が寛大だ…!」
【ベアト】「妾は死に行く者には、いつだって寛大である。くっくっくっく…!」
 その薄気味悪い笑いに、嘉音ははっとする…。ベアトリーチェがここにいるのは、金蔵の命を奪うだけではないのだ。第一の晩に必要な生贄は6人。金蔵だけではまだまだ足りないのだ。…そしてそこへ、自分たちがのこのこと訪れている…。
【ベアト】「くっくくくくく! 安心せよ、嘉音。……そなたらがここに訪れたから生贄に選ばれるのではない。……生贄に選ばれているからこそ、ここに呼ばれているんじゃあないか…!」
【嘉音】「………何だと………!」
 勘のいい彼らはすぐに察した…。第一の晩に必要な生贄は6人。金蔵の1人に、あといくつを加えたら6人になるのか。……この屋敷で5人という数字は、彼らにとって真っ先に使用人の人数を想起させた…。
【源次】「……………それが、お望みですか。」
【ベアト】「うむ。…感謝せよ、家具どもよ。そなたたちの苦難の日々は今宵、ようやく終わりを迎えた。それを告げに訪れた妾に感謝せよ。」
【源次】「………かしこまりました。それをお望みでしたら。」
【嘉音】「…げ、……源次さま…。」
 魔女の伝える無情の宣告にも、源次は眉一つ動かさず、いつもの仕草で頷く。
【源次】「お館様亡き後は、ベアトリーチェさまが我等の主。その求めに応じるのが、我等の最後の務めだ。
 ……紗音。嘉音。今日までよく仕えた。その労苦もこれにて終わりだ。」
【ロノウェ】「……源次はさすがですね。同じ家具として、あなたを誇りに思いますよ。」
【源次】「紗音。……異論はないか。」
【紗音】「……はい。」
【源次】「………譲治さまに指輪を贈られたそうだな。それでもなお、未練はないか。」
【紗音】「はい。……家具の身に過ぎた幸福でした。…指輪を頂戴しただけで、私の想いはすでに達せられております。」
 紗音は、源次に比べるとまだ達観の境地には達していなかった。本当はまだ心の中に未練があっただろう。…想い人の譲治と、もう少し温かな時間を過ごしたかっただろう。
 ……でも、それから自分を、解き放つ。深く静かな吐息をひとつ零した後には、淡白な表情を浮かべた彼女がいた。
【源次】「……………それで良い。」
【ロノウェ】「紗音がそこまでの落ち着きを得るとは、少し驚きでした。あなたも家具として達観したようですね。」
【ベアト】「惚れた男と夜も共にできず、少しは悔し涙を零さんのか。退屈な女よ。」
【紗音】「…………。………ベアトリーチェさま如きに、この気持ちはわかりません。……私たちの命をご所望でしたら、どうぞお受け取り下さい。私たちは謹んでそのお勤めを全うします。」
【源次】「……それでいい。よくぞ言ったな…。」
【ロノウェ】「ぷっくっくっく。ベアトリーチェさまの苦手なタイプのようで。」
【ベアト】「最近、こやつめはだいぶ達観しよった。…どうも前回、苛め過ぎたようだ。それを言ったら戦人もか? …ふーむ。妾はまだぬるいのか? それとも追い詰め方が下手なのか? 何れにせよ、面白みのないヤツよ。
 ………しかし、お前はまだ妾を楽しませてくれそうだよなぁ? 嘉音ぉぉん?」
【紗音】「…………嘉音くん…。」
【嘉音】「………………。」
 達観の境地に達した二人に比べ、…嘉音の表情には苦々しい苦悶が浮かぶ。唐突に現れた魔女に、終焉を告げられて、何の未練もなく受け容れるには、嘉音はまだまだ若かった…。
【ベアト】「……嘉音。妾は退屈を何より嫌う。そして、お前を除く二人が素直に死を受け容れるもので、面白くない。……だからそなたには、妾の期待を裏切らないでもらいたいものだ。」
【嘉音】「…………僕を慰み者にしようというのか…。」
 嘉音は、自らが挑発されていることを自覚する。…だが、どのような怒りに駆られたところで、相手は魔女。自分は家具。勝ち目など元よりない。それでも魔女は、自分が悪足掻きをして、のた打ち回ることに期待し、それを楽しもうとしている…。
 ……それを思えば、腸が煮えくり返るほど悔しい。姉たちのように、敢えて抵抗しないことによって、魔女を拍子抜けさせるのも、唯一魔女に報いることができる一矢なのか…。
【ベアト】「煉獄の七姉妹が長女、ルシファー。出でよ。」
【ルシファー】「……傲慢のルシファー、ここに。」
【ベアト】「嘉音。家具に魔女と戦えというのも酷な話よ。そなたがいくら怒りに駆られようとも、勝算のない戦いでは希望も持てまい。無論、勝ち目のない戦いでは妾も退屈というもの。
 ……ならば家具は家具。家具同士で決着をつけてはどうか? それならば勝てる希望も持てるであろう…?」
【ルシファー】「………………。…恐れながらベアトリーチェさま。私がそのような出来損ないの家具に劣るようなことがありましょうか? こんな可愛い子に、私が万一にも負けるようなことなど…。うっふふふふふふふふふふふ。」
【嘉音】「……………………………く。」
【ベアト】「我が家具、煉獄の七杭を打ち破って見せよ。見事打ち破って見せたなら、………そうだな。13人の生贄を逃れることのできる5人をそなたに自由に決めさせてやろう。そなたの推薦する5人を、妾は無条件にて黄金郷に迎え入れる。…それならばどうか。」
 嘉音は、自分が挑発されていることを理解している。……しかし、魔女の出す条件はあまりに誘惑的だった。
 嘉音にとって、魔女たちが執り行おうとしている邪悪な儀式は、それ自体が今更どうこうというものではない。……むしろ、生き残って黄金郷へ招かれ、…そこでベアトリーチェによって願いを叶えてもらえることの方が重要な意味を持っていた…。
【ベアト】「そなたは家具は嫌だと泣いたなぁ…? そなたの望み、叶えてやろうぞ。枕を濡らしてまで望んだ、人間の体を与えてやろうぞ。どうだぁ…? そうすれば朱志香とも結ばれるぞ? おぉ、丁度良い。黄金郷へ招ける5人に朱志香とそなたを推薦すれば良い。
 ……自分だけが幸せになることに抵抗があるならば、さらに紗音と、その想い人である譲治を加えれば良い。義理があるならばさらに源次も加えれば良い。ほぅ! これで5人だ。充分ではないか、嘉音。………これだけのご褒美があれば、……くっくくくくく! そなたは妾を退屈させはしないよなぁぁ…?」
【紗音】「……どうせ戯れよ。耳を貸す必要はない。」
【嘉音】「ぼ、……僕は嫌だ。姉さんはそれでいいの?!」
 その言葉に、ベアトリーチェは邪悪な笑みを隠せない。
【嘉音】「僕は嫌だ。幸せになりたい! 家具なんてもう嫌だ。人間になって、……普通の恋がしたい…! 僕も姉さんのように、…海が青いってことを知りたいんだ!」
【ロノウェ】「…………若いですね。羨ましい。」
【ベアト】「だから若者は好きなのだ。……源次、紗音は下がれ。嘉音、ルシファーは前へ。」
【ルシファー】「仰せのままに。」
【嘉音】「…………………………。」
【ルシファー】「…うふふふふふふふふふふ。気に入らないわぁ。…ベアトリーチェさまは無理でも、私にだったら勝てるかもしれないという見下しが、……最高に気に入らないわぁ。」
 ルシファーにとって、それは恐らく屈辱的なことなのだろう。…しかし同時に、この可愛らしい獲物を独り占めできる幸運にも喜びを感じていた…。
【嘉音】「………来い、魔女の家具。………いつまでも僕を見くびることができると思うな…!」
【ベアト】「さぁさ、戦人ぁ。楽しい見世物の時間であるぞ? くっくっくっく!」
【戦人】「………くそ。また、おかしなことになりやがった…。魔法バトルなんて認めてたまるかよ…!」
【ベアト】「ほらほら、目を瞑らずにちゃんと見ろよォ。ほらほら、ほらほら! 魔法だよォ家具だよォ、そなたがどんなに妾や魔法の存在を否定しようとも、ほらほら、ほらほらほらほらァ!
 こうして目の前でブォンブォンカキンカキンやられちゃあ、台無しだよなぁああぁ? ほらほらほらほら、もう思考なんて止めちまえよォ、魔法はあるんだって! これはファンタジーなんだッて! 目を閉じるなよ、しっかり見ろよ、ほらほらほらほらほらァ!!」
【戦人】「畜生、畜生畜生畜生…。魔女を認めない、魔法を認めない…! でも、こんなにあからさまにやられちまったら、何だって言やぁいいんだ?! ……………くそ、くそくそくそ!」
【ベアト】「ほらぁ、目を背けるなよ、しっかり見ろよォオオォ?? 魔法はあるんだよ、ファンタジーなんだよ、推理ごっことか止めちまえよ。知ってんだよ、モノを考えンの本当は苦手なんだろォ?? 止めちまえ止めちまえェエ、くっくっくっく! ほらほらどうせファンタジーどうせファンタジー、くっひひひゃひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃあぁああぁ!!」
【戦人】「うるせえうるせえぇうるせええぇえええぇ…!!! 俺に話し掛けるんじゃねええぇええぇ…!!」
【ルシファー】「………こいつ、意地になっちゃってぇ。…私になら勝てるなんて思いあがりをしたことを、今すぐ床に這いつくばって謝ってごらんなさい…? そうしたら、特別に許してあげてもいいわよぅ…?
 生きながら生皮を剥がして、絶命するまで全身を鞭打ってのた打ち回らすのを、特別に許してあげてもいいわよぅ。ふっふふふふふふふふふふ!
 可愛い子なんだから、謝っちゃいなさいよ…。 そうしたら、あなただけは、最高にステキな気分の中で、やさしくやさしく逝かせてアゲル……。」
【嘉音】「黙れ、魔女の家具。…お前と問答するつもりはない。」
【ルシファー】「わっ、……私なんか眼中にないと言うのね…? ふっふふふふふふふふふッ、気に入らないわぁ、畏怖を感じないその眼っ、本当に気に入らないわぁああッ!!」
【紗音】「…………嘉音くん……………。」
【源次】「………………………。」
【ベアト】「……あやつ、サタンの時よりも筋がいいではないか。」
【ロノウェ】「だから人間は恐ろしいのです。たまに魔女にまでなり、悪魔を執事扱いにしたりいたしますよ。」
【ベアト】「ぷっくっくっくっく! 妾はどちらを応援すれば良いというのか。」
【ルシファー】「…こいつっ、………私と互角に渡り合うと言うの…!」
【嘉音】「………僕を見くびるな。お前にその驕りがある限り、僕には決して勝てない。」
【ルシファー】「わ、私が、…この、煉獄の七姉妹が長女、ルシファーを指して、決して勝てないと?! こ、この、思いあがりがっ!!」
【ルシファー】「…なッ………………、」
 嘉音には、死に物狂いでも生き残り、人間になりたいという強い願いがあった。でもルシファーには、軽く遊んでやろうという気持ち以上に強いものは、何もなかった。
 ……だから、それが必然の結果になって現れる。その結果を示せるのが、人の力。…心の力。
【嘉音】「……………これまでだ。お前は僕に、決して勝てない。」
 嘉音の腕より閃く赤き軌跡が真っ直ぐに伸び、……ルシファーの喉元を指し、顎の先端をぴったりと捉えていた…。
【ルシファー】「な、……何よこれぇ…?! この私が、……こんなの、何かの間違いよっ…。」
 歯軋りをしながら悔しがりながら、目の前の現実を拒否しようとする。…しかし、どんなに彼女が自らを優位であると信じようとも、目の前の事実は変わらない。
【ベアト】「ほぉ。…やるな、嘉音。見事だ、妾を退屈させなかった。……それに比べ、妾の家具の何と情けないことか。くっくっくっく!」
【ロノウェ】「……ルシファー。お嬢様を退屈させていますよ? やはりあなたには荷が勝ちすぎた相手でしたか…?」
【ベアト】「失望するぞ、七杭の長女ォ? くっひひひひひひひひひひひ…!」
 それはわからぬ者には単なる詰りでしかない。しかし、魔女に仕える家具には、その詰りの裏側にどれほどの辛辣な仕打ちが約束され、そして語ることを端折っているのか理解できる…。
【ルシファー】「ぅうぅぅぅぅぅぅぅぅっ!! この、……出来損ない家具があああああぁあぁッ!!!」
 彼女は吼えた。…最後のプライドを投げ出し、自らの人の姿を弾かせ、真の姿を曝け出す。それは、部屋中の壁に乱反射して飛び交う、悪魔の杭の姿…。
【ルシファー】「よくも私にここまで恥をかかせたなっ!! 殺すっ殺す殺す殺す!! このノロマが! 私の姿をもはや追うこともできないくせにっ!! もう遊ばないよ、本気で怒ったわよっ、お前の心臓を一撃で貫いてやるよっ!! ぶっすりざっくり貫いて、真っ赤な血の噴水を天井にまで届かせてやるよっ!! 死ねぇええええええええええぇええええぇえぇッ!!」
【紗音】「か、嘉音くん………ッ!!」
 人の目では捉えることの出来ない領域にまで踏み込んだ速度で、ルシファーは存分に撹乱した後に、嘉音のその心臓に喰らい付く…。
 ルシファーは確かに感じたその甘い舌触りに、嘉音の血を確信した。…しかし、すぐに気付く。…彼女は嘉音の心臓を貫けたわけではないのだ…。
【ベアト】「…………ほぉ。くっくっくっく!」
【ロノウェ】「これだから人間は恐ろしい。…紅茶はいかがですかな?」
【ベアト】「今は良い。紅茶もいらぬほどに、面白い…!」
【紗音】「……か、…………嘉音くん…………。」
【嘉音】「驕ったな……。……だから、お前は僕に勝てないんだ……。」
 床をボタボタと溢れる血が汚す。…その血は確かに嘉音の血だが、……胸からは流れていなかった。嘉音は心臓を守る代わりに、自らの左手を捧げたのだ…。
 ルシファーは傲慢だった。自らを追い詰めるほどの相手であることを理解する時間が与えられていたはずなのに、それでもなお、取るに足らない相手だと驕った。油断した。……だから予告通りに心臓を貫こうとその胸を狙ってしまった。
 彼女が傲慢だったからこそ、予告した以外の部位を狙おうなどと思わなかった。…いや、少しは思ったかもしれない。…しかし、他を狙うことは彼女のプライドが許さなかった。なぜなら彼女は、………傲慢のルシファーだったから。
 嘉音は苦痛に堪えながら、左手に深々と突き刺さり貫いている悪魔の杭を、右手でしっかりと握り締め、…引き抜く……。骨を抉る音と、さらに血が零れる音が聞こえた。紗音は思わず目を背ける。抜いた手の甲には、はっきりと向こうを覗くことが出来るほどの無惨な風穴が残されていた…。
 苦痛に満ちた表情を浮かべる嘉音だが、……今この瞬間。彼は間違いなく、勝利していた。
 右腕で握り締めた悪魔の杭が、再びルシファーの姿に戻る…。それはちょうど、嘉音が彼女の喉を握り締めている形になった。
【ルシファー】「………が、…………ぐ、………………っ…、」
【嘉音】「…僕の勝ちだ。………ベアトリーチェ。」
 嘉音は喉を握り締める力を、決して手加減はしなかった。……一度はついた勝負を、彼女が重ねて挑んだのだ。嘉音に手心を加える義理はない。
 しかしそれでも、嘉音は魔女の家具を解放した。……彼の甘いヒューマニズムか、家具同士の憐れみか、それとも魔女への最後の敬意かはわからない。何れにせよ、解放されたルシファーは床に突っ伏し、嘔吐するような仕草をしながら、喉の苦しみに呻いていた…。
【ロノウェ】「お見事ですよ、嘉音。……あなたの奮闘により、金蔵の研究の正しさがひとつ、実証されました。」
 ロノウェがパチパチと手を叩く。…左手に、塞ぐこともできぬほどの傷を負って、辛い勝利を収めた嘉音にとっては、白々しくしか感じられない。
【ベアト】「……人の心はあらゆる可能性を秘める、か。………いやはや、これだから人間は恐ろしい! 天晴れであるぞ嘉音。そなたは勝利した。見事だ!」
【嘉音】「……はぁ、……はぁ、……はぁ……。」
【紗音】「大丈夫?! 嘉音くん……。」
 紗音が駆け寄り、ハンカチで鮮血を迸らせ続けている左手を包む。
【ベアト】「見事であるぞ、嘉音! 実に見事である。妾も少しは番狂わせを期待した。それを裏切らぬとは、そなたは誠に素晴らしき家具であるぞ。くっくっくっく! 見直した。正直、見直したぞ!」
【嘉音】「や、……約束を忘れてはいないだろうな…、ベアトリーチェ…。」
【ベアト】「うむ。もちろん忘れてはおらぬぞ。魔女も悪魔も非道ではある。だがしかし契約に限っては人間など及ばぬほどに高潔だ。
 妾は反故にはせぬ。そなたが勝利したなら、13人の生贄を逃れることができる5人を自由に決める権利を保証した。」
【ルシファー】「……ベ、ベアトリーチェさまっ。私はまだ、敗れたわけではっ…、ひぎッ!!」
 ベアトリーチェが煙管をくるりと回すと、ルシファーにだけ天地が逆転する。……だからひどく当然の結果として、彼女は天井に“墜落”した。
 床に立つ者にとって、天井はそう高くは感じない。…しかし、真っ逆さまに頭から墜ちる者は、そうは感じまい…。
【ロノウェ】「お嬢様。さすがにやり過ぎでは。」
【ベアト】「くっくくくく! それもそうであるな。許してやるか。」
 もう一度ベアトリーチェは煙管を回す。すると彼女に掛けられた魔法は解かれた。……だからひどく当然の結果として、彼女は床に、再び極めて正当に“墜落”した。
【ルシファー】「…………く、…………ぅ、…ベアトリーチェさま、…お、…お許しを…………。」
【ベアト】「何を怯えておるか。妾はもはや許したぞ? くっくっく! さて嘉音。続けようではないか。」
【嘉音】「………何をだ。…まさか彼女に止めを刺せとでも言うつもりなのか…!」
【ベアト】「あぁ、違う違うゥ。まだ終わっちゃいないだろがァ?」
【嘉音】「………何をだ。…はぐらかすな…!!」
【ベアト】「妾は確かにそなたと約束したぞ? 妾の家具、煉獄の七杭を打ち破ったなら、となぁああぁ?
 さぁさお出でなさい、煉獄の七杭。不甲斐なき長女の6人の妹たち!」
「「「「「「きゃっははははははははははははははッ!!」」」」」」
 空間が黄色い笑い声と共に爆ぜ、黄金の飛沫を飛び散らせながら、煉獄の七姉妹の残り6人が姿を現す…。
 左腕を捧げてようやく1人を倒せた七杭の姉妹が、全員揃う…。嘉音は今になって、魔女の勝負に乗った浅はかさを悔いる。…魔女のゲームが対等であるなどと思いこんだ自分が、愚かだった……!
【アスモ】「…………ダッサぁ。お姉様、どうして床に這いつくばってるのぉ?」
【ルシファー】「お、…お前たち……………、ぐ……。」
【マモン】「だからお姉様は駄目なのよ。長女を偉そうに名乗るくせに、上っ面だけなのよ。」
【サタン】「えぇ、まったく! ルシファーお姉様一人の醜態が私たちへの評価を下げるのよ! 恥を知りなさいな! この未熟者が!」
【ルシファー】「……………く、………ぐ……。」
【ベルゼ】「嘉音くぅん、すごいすごい。でも、いい気にならないことよ? ルシファーお姉様なんて、威張ってるだけで、姉妹の中じゃ大したことないんだからぁ。」
【ベルフェ】「…だからルシファー姉は何もしなくていいといつも言っている。お姉様は威張ってだけいればいい。荒事は全て、優秀な私たちで片付けるのだから。」
【レヴィア】「お姉様、どうするぅ? 私たちはお姉様のプライドを尊重して、そのボロボロの体で再び挑むのを期待して、手出しをしないつもりなんだけれど…。
 ……でも、嘉音くんは強いわよねぇ? 今のお姉様じゃ、もうどう足掻いても勝ち目はないわよねぇ…?」
【ルシファー】「……お、………お前たちぃ…………、」
【ベアト】「くっくっくっく! やれやれ、いつも賑やかな姉妹たちであるな。今は仲違いをしている場合か。そなたらは7人揃ってこその煉獄の七姉妹であろうが。仲良くして妾の仕事を遂行せよ。迅速にな?」
【レヴィア】「ねぇ、ルシファーお姉様ぁ。私たち妹の力が借りたいならぁ。言ってよ? お姉様の口から助けを求める言葉が聞きたいの。」
【ルシファー】「く、…………私を、これ以上愚弄する気かぁ………!」
【レヴィア】「“愚かで。ひ弱で。見苦しくて。情けなァい! この長女のルシファーを、どうか妹の皆様、お助け下さぁい”って。……ねぇ、聞かせてよぅ。それを聞かせてくれたら助けてあげる。それでいいわよねぇ? みんなぁ?!」
【ルシファー】「……お前たちっ………、………お、……おのれぇえぇ……。」
 煉獄の七姉妹たちは、口々に不甲斐ないと姉を詰る。罵る。…それは、ついさっきまで命をやり取りしていた嘉音にとってすら、正視に耐えない…。
【ルシファー】「わ、わたっ、……私が、……そのようなことを、……口にできるものかぁ……っ。」
【ベアト】「早くせよ。どうせお前一人では埒が明かぬわ。早く七姉妹にて嘉音を討て。」
【ロノウェ】「ぷっくっくっく…。そら、どうしましたか、ルシファー? お嬢様の命令ですよ?」
【紗音】「…………ひどい。」
 ルシファーは何度も歯軋りを繰り返し、妹たちに呪いの言葉を投げ掛けた後、……………わなわなと震えながら、……妹たちの要望に応じる…。
【ルシファー】「…お、…………愚かで、……ひ弱で、………見苦しくて…。…ぅうッ…!」
【マモン】「情けなぁい!!」
【ルシファー】「な、…情けない、……この長女ルシファーを、……どうか、………ううううぅうううぅッ!! うわああぁあああぁぁあぁぁぁ…!!」
 屈辱の言葉を口にすることに、とうとう耐え切れなくなり、…傲慢の名を持つ彼女は泣き崩れる。しかし6人の妹たちは、冷酷にくすくす笑い続けるのだった。
【アスモ】「ちょっとー! 泣いて誤魔化さないでー! まだ言い切ってないぃー!」
【ベルフェ】「もう充分だろう。さぁ姉妹たち、我等の力を見せてやろう。」
【マモン】「私は全部聞かなきゃ満足しないわよぅ?! ほらほらお姉様、続けてよぉ!」
【サタン】「もう充分よ! さぁ、この屈辱は姉妹全員の屈辱! 生かして帰しはしないわよッ!」
【レヴィア】「さぁて、哀れな家具をどのように遊んでやろうかしら。素敵な提案はあるぅ?」
【ベルゼ】「はぁい、はい! ベルゼはぁ、仲良く七人でぇ、嘉音くんをわけっこしたらいいと思いまーす!」
【ベルフェ】「良い提案だな。……それでなら、姉妹でみんな仲良しだ。」
【マモン】「なら私、頭部ね! 手足や内臓はあんたらにあげるわー!」
【レヴィア】「やだやだ、駄目ぇえええぇ!! 私が頭なのぉー!!」
【サタン】「そんな約束、意味があるわけないでしょ?! 早い者勝ちに決まってるわ!」
【アスモ】「くひひひひ!! どんな殺され方がいいか、嘉音くんも提案があったら教えてね? 七姉妹で飛びっきりの殺し方をしてあげる!」
【嘉音】「………………………くそ……。」
【ルシファー】「……くぅうううぅっ!! ここまで恥をかかせたんだものっ!! 八つ裂きでも足りない!! 百裂きにしてくれるッ!! 行くよ、お前たちッ!!」
「「「「「「はぁい、お姉様ぁッ! きゃっはははははははッ!!」」」」」」
 7人の姿が一斉に爆ぜる。遊ぶ気も驕る気も何もない。今度こそ主の命令に純粋に従う。…嘉音を討て。迅速に!
 七姉妹たちは目にも留まらぬ速度で室内を跳ね回り、嘉音をどう殺そうかと吟味する。残酷なくすくす笑いと、ちょっかいを出すように時折かする彼女らが嘉音を苛む。
 …腕、肩、頬などが、チリチリとかすられ、削られ、彼の体は次第に赤い一文字の模様が次々刻まれていく…。
 その時、紗音が彼の背中に駆け寄り、その身を少しでも庇おうと抱きついた。
 それと同時に、天より射した一条の光のような、赤き円筒が二人を包む。その円筒は、嘉音を苛む邪悪たちを弾き返した…。
【レヴィア】「何ぃー!! ずーるいー! あんたは関係ないでしょぉー!」
【アスモ】「きっとこれはアレよ。私たちと一緒に遊びたいのよぅ。」
【マモン】「きゃっは! なら私がもらうわー! いぃただきぃ!!」
【ルシファー】「ベアトリーチェさまっ。紗音を私たちの獲物にしても…?」
【ベアト】「ん? あー、構わんぞ好きにしろ。お前たちの悪食には嘉音ひとりでは足らなかろうしな。」
【ベルフェ】「ありがたき幸せ。さぁ、しゃしゃり出てきたことを後悔させてやろう!」
【ベルゼ】「どっちがどっちか、わからないくらいの肉片にして、混ぜて混ぜてミンチにしてハンバーグにしてあげるぅ!」
【サタン】「馬鹿ね、それよりあの結界を破る方が先でしょうが! 食い意地より先に仕事しなさいッ!」
「「「「はぁい、お姉様ぁッ!!」」」」
 七姉妹は、ひどく当然の最初の作業として、紗音が生み出した結界を破り始める。…確かに紗音の結界は非常に強力だ。ベアトリーチェが、一目置くほどの力はある。…脆弱な家具ならば、触れただけで塵にされてしまうほどに強力で、深々と根を下ろす大樹のように磐石だ。
 しかし、どんな大樹も、いつかは斧と鋸に屈する。七姉妹たちにとって紗音の結界を“切り倒す”のは、面倒ではあっても不可能なことではないのだ。
 甲虫が跳ね回って飛び回るような音が、さらに激しくなって部屋を満たす。赤い結界を斧で鋸で、いや、今やチェーンソーのように切り刻み、侵食していく…。
【ロノウェ】「…………愚かな。君の結界ではその子たちを防ぎきれないことは知っていたでしょうに。なぜ…。」
【紗音】「………見過ごせないからです。」
 紗音は、もう精根が尽き果ててすっかり床に崩れ落ちてしまった嘉音を庇いながら、毅然と言い返す。
【ベアト】「しゃしゃり出なければ、眠るような死を与えてやったのに。なぜわざわざ七姉妹の前に身を晒すのか。……死は同じではないぞ? 苛烈な死は、死して尚、苛むぞ? くっくくくくくくく!」
【紗音】「…………どうぞ、お好きなように。あなたがしたいことを好きにするように、私もしたいことを好きにしたまでです。」
【ベアト】「……………………。……ふぅむ。どうにもそなたはこのところ面白みに欠けるな? 恋というヤツは、達するかどうかの辺りが一番面白い。
 達してしまった後の女は、さながら産卵を終えたシャケの如しか? そなたにはもう飽きた。」
【紗音】「ありがとう。魔女から聞ける言葉で、もっとも嬉しい言葉です。」
【ベアト】「……ふっふふふふひひははは。なら、せめて最後に、妾を思いっきり喜ばせる死に方をして見せろよ。七姉妹よ、聞こえたな?! 紗音の殺し方、お前たちの残虐の限りを見せてみよ!!」
【源次】「……………紗音…。」
【紗音】「……申し訳ございません。やはり私には、源次さまの高みには至れませんでした。」
【嘉音】「………姉さんは馬鹿だ…。僕なんか放っておけば、…姉さんまでひどい目に遭うことは…。」
【紗音】「うぅん、いいの。…譲治さまに指輪をもらって、女として生きられた。あなたを庇って、姉として生きられた。私の生は、全てこれで未練なく全うした。」
【ベアト】「……んんんんぁあああぁあああぁあぁ、イライラするぜェ。その達観が本当にイラつくぜぇえぇ?! だから家具なんだよ、お前からは人間の臭いがしねぇえんだよぉおおお!!
 妾を見ろよ、妾こそ人間だろぉが?! 家具のくせに、妾よりも完成されたかのような、達観したかのようなことを言うんじゃねええええぇえええぇッ!!」
【紗音】「…………醜い。その未練が、あなたの正体なの?」
【ベアト】「未練じゃねぇえええぇえ、それが生きるってもんだッ!! 指輪もらったから死んでもいいとかッ! あああぁ理解できねぇ、さっぱりがっかり愕然呆然ッ、全然駄目だぜええええぇえ!!」
【ロノウェ】「……お嬢様、少し品がないかと。」
【ベアト】「うるさいわ家具がッ!! 紗音ぉおおおんん、楽に死なせてもらえると思うなよぉおおおおぉ?! 舌を噛むなら今の内だぁあああッ!!」
【紗音】「…………憐れね。もしも私の眼にあなたのその姿が映って、それが見えるなら。己が醜さに慄くといい。」
【ベアト】「安心しろよ、てめェはそれよりさらに滅茶苦茶グチャグチャに生きながら醜く潰してやるからよぉおおおおおおおッ!!!」
 その時、………赤き結界に、源次がすっと入った。その結界は敵意を持たない者には障壁とならないのだろうか。そして源次は、…そっと紗音を後から抱き締め、……右手で彼女の目を覆う。
【紗音】「…………源次さま…。」
【源次】「もう充分だ…。………先に休みなさい。」
【紗音】「…………はい。………ありがとうございます、源次さま…。」
【源次】「………うむ。」
 それから源次は、左手を、彼女の鎖骨の辺りにやさしく押し当てる…。……すると、その左手を押し当てたところから、……真紅の染みがやさしく広がる。
 源次がその手を離すと、………そこには真っ赤な鮮血が湧き出していた。それは最初の一瞬だけ、真紅の薔薇模様にも見えた…。
 そして紗音の目を覆っていた右手を離すと、………紗音は眠るような安らかな表情を浮かべていて。……そして、ふわりと、…音もなく倒れて、………眠った。
 もう、悪意ある魔女やその家具たちが、どれほどの邪悪で彼女を苛もうとも、決して届かない世界へ、彼女の魂は送られていた…。
 ベアトリーチェと七姉妹たちはその光景に呆然とする。…ロノウェだけが笑みの中に神妙なものを浮かべていた。そして源次は床にうずくまる嘉音に屈み込む。
【源次】「………よく頑張った。お前ももう休むといい。」
【嘉音】「……………………………。…………はい。ありがとうございます、源次さま。」
 源次は紗音にそうしたように、嘉音の目を手でやさしく覆った後、もう片方の手で、同じように鎖骨の辺りをやさしく覆う。……そしてその手を、まるで羽を思わせる軽さで取り払うと、…そこには真紅の薔薇模様が。
 でもその薔薇模様はすぐに真っ赤な溢れ出す血の染みと化す…。
【ルシファー】「な、…………何よ、それぇ……。」
【ベアト】「……つまらぬヤツ。…生命の風船は、針にて突き、威勢よく割るから面白いのだろうが。」
【ロノウェ】「見事です、源次。…………それでこそ、家具です。」
【源次】「……ありがとうございます。…それではベアトリーチェさま、ロノウェさま。これを以って私の最後のお勤めとし、お暇をさせていただきます。」
【ベアト】「…………ち。妾の楽しみを勝手に奪いおって。この二人をギッタギタのグッチャグチャにしたかった分、そなたがそれを代わるのであろうなぁ??」
 ベアトリーチェは不満の表情を向けるが、ロノウェは安らぎを感じさせる笑顔で、静かに源次に告げた。
【ロノウェ】「ご苦労でした。あなたは私の最高の僕です。……これまでの労をねぎらうに値する安らかな眠りを、あなたへの最後の褒美として取らせましょう。」
【ベアト】「ちょっ?! おいッ勝手な真似を…!」
 ロノウェがパチリと指を鳴らすと、……源次がもしも操り人形だったなら、その糸が切れて崩れ落ちたと錯覚するくらいに、…あっさりと、だけれどもやさしく。彼は床に、崩れ落ちて、魔女たちには呼び戻せない眠りに落ちた…。
 それは、彼が紗音たちに与えた眠りと同じくらいに、やさしさに溢れたものであった…。
【ベアト】「……何だよォ、ロノウェぇ。……拍子抜けでつまらぬぞ。」
【ロノウェ】「お嬢様は偉大なる大魔女ではございませんか。この程度、気に留めるほどにもございませんよ。……紗音ごときの挑発で頭に血を上らせるなど、らしくもない。」
【ベアト】「………………………。…ふん。」
 ベアトリーチェは何が気に入らないのだろうか。…紗音の言葉の棘が、今もなお抜けないというのか。
 ロノウェは、人間と女の心の複雑さを嘆くように薄く笑うと、七姉妹たちに行けと命じる。……何しろ、第一の晩の生贄はまだ2人残っているのだから。七姉妹たちは狂喜して姿を消すのだった…。
 ここで語られている魔法解釈は、延々とゲームを繰り返すベアトの動機に通じる。
 金蔵が「この度のゲームは」というメタ発言をしており、タロットの結果が思い通りにならないのは、EP3はベアトにとってイレギュラーが発生する物語であるということを暗示している。

マダム・ベアトリーチェ
10月5日(日)0時21分

廊下
 郷田は、夜の見回りをしていた。そもそも、六軒島には右代宮家以外は存在しない。だから戸締りやその確認には、それほど意味があるわけではない。
 しかし、夏妃がそれを無用心だと咎めて以来、夜回りは使用人たちの日課に組み込まれた。……そもそも、夏妃が夜回りを命じたのは、時折起こった、魔女騒動のせいだった。
 この島に出入りする者なら誰もが知る、森の魔女ベアトリーチェの伝説。それはこの島独自の怪談として根付いていた。だから時折、誰もいないはずの屋敷内に、不気味な音や人影が…、というような話は、自然と起こったものだった。
 しかし、それが少々騒ぎを大きくし過ぎて夏妃の耳にも届き、不審者が出入りしているのではないかと騒がれたのだ。何でも、使用人全員を叩き起こして、屋敷中を確認させるという大騒ぎもあったという。
 これらの魔女騒ぎについては、何れも郷田がやって来る前のことなので、郷田は古参の使用人たちから聞かされただけだ。この手の怪談はどこの職場にもある。かつて郷田が勤めていたホテルにだって、レストランにだって、その手の怪談は事欠かなかったものだ。
 だから、この島でその話を聞かされた時、あぁここにもやっぱりそういうものがあるんだなと苦笑したものだ。苦笑はするが、それを蔑ろにしないのが、郷に入りては郷に従えというもの。郷田も上辺は合わせたが、内心は子供だましだと思っていたものだ。……最初は。
【郷田】「…………これは確かに不気味ですね。なるほど、過去の使用人たちが、色々と騒ぎたくなる気持ちもわかるものです。」
 こんな不気味な夜の夜回りで、もしも閉め忘れた窓から入るそよ風がレースのカーテンを揺らしたなら、幽霊を見たと信じたくなる気持ちを充分に理解できた。
【郷田】「肖像画の魔女を馬鹿にすると、祟りがあるか。……大怪我をして辞めた使用人もいるらしいし。…怪我は勘弁だなぁ。俺もこの歳だ。二度とこんな厚遇の職場にゃ恵まれねぇだろうよ…。あー。肖像画の魔女さま。真面目に働きますんで、ひとつ穏便に頼みます。」
 郷田は神社でそうするように、肖像画に向かって手を合わせて拝む仕草をする…。
 その時、…何か音が聞こえた気がした。厨房? 金物か何かが床に落ちる音だったろうか。
 まさかネズミかゴキブリでも出て、食器を落としたのだろうか。いやいやまさか。普段から清潔は徹底している! 郷田はとにかく音の正体を確かめようと厨房へ入った。
 厨房の明かりをつける。……すると不思議な音が聞こえた。
 カタカタカタカタカタカタ。……料理人である郷田は、その音が圧力鍋か何かが蓋を震わせる音のように感じた。
 まさか、人のいない厨房で鍋をかけているわけもない。仮にガスを使っていたとして、その側を離れるなど、何と物騒な。…郷田は念のため、ガス台の回りを点検することにする…。
【郷田】「……………何ですか、これは…。」
 すると、ガス台の脇に、…確かに想像の通りに圧力鍋が置かれていた。しかしそれは火をかけられてはいない。…にもかかわらず、蓋をカタカタ言わせている…。
 何かが発酵してガスでも出している? …まさか。……じゃあネズミでも入ってるとか? …まさか、馬鹿馬鹿しい…。
 郷田は、人前では体格どおりの豪胆そうな性格を装っているが、……実際は、案外臆病な一面も持っていた。その中に何が入っているのか、恐ろしくて、迂闊に確かめられない…。
 彼は臆病にも、…近くのすりこぎを取り、それで圧力鍋の側面を、コン!と少し強く叩いてみた。
 すると、カタカタ言わせていた音はぴたりと止まる。…止まって安心のはずなのだが、…叩いたら止めた、という点がかえって不気味で、その中身の正体をさらに疑わせた…。
【郷田】「…………ん、…ごくり。………この世に、怪奇現象なんて存在しませんとも。えぇ、そんな魔女も魔法も、そんなもの存在するわけがない。全ての現象は科学的に説明できるんです。……オバケも魔女もいてたまるもんですか…!」
 自分を勇気付けるように何度もそれを繰り返す。…その言葉の意味するところと逆に見えるのが、何とも滑稽だった。
【郷田】「何が魔女だ、何が魔法だ祟りだ…。……そら、……正体を見せてみろ…! っそりゃ!」
 圧力鍋の蓋を、……取り払う。
 そこに晒されるのは、…ピカピカに磨かれた銀色の鍋底。……彼が想像した、恐ろしい何かはまったく存在しなかった。
【郷田】「……………ふぅ。…はははは、そりゃ当然です。…中に何も、いるわけがない。」
 郷田は今頃になって、自分が小心者であったことを自覚する。
 ……ならばなぜ、蓋が鳴っていたのかという疑問ももちろん湧いたが、…ちょっとした角度とかの問題、などと抽象的に考え、深くは悩まないことにした。
 そして手に取った蓋を、……そうっと元通りに置いてみる。……大丈夫、音は鳴らない。……当然だ。魔女も魔法もあるもんか…!
 カタ。カタカタカタカタ。
【郷田】「……………え…?」
 カタカタカタカタカタカタカタカタ。カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ!
【郷田】「ひッ、……ひっぃいいいいぃ!!」
 厨房中の鍋が、食器が、一斉にカタカタと音を鳴らし始める。それはさらに一層強くなり、とうとう一部の鍋は蓋を落としてしまうほどにまでなる…!
 そして、……蓋を落とした鍋の中からは、………ぬぅぅっと、白く細い腕が、伸びだす。次々に他の鍋も蓋を落とし、ぬぅぅ。ぬぅぅ。ぬぅぅぅ…。
【郷田】「ひいいいいい!!! 魔女なんかッ、魔女なんかいるもんかぁああぁあ!! 信じるもんかああああぁああああ!!」
 その腕の数は7本を数えた時、黄色い哄笑が空間を叩き割る。
【ベルゼ】「がっかりぃ! これほどのオイシイお料理が作れる人が、こんな小物なんて本当ォにがっかりぃ!!」
【マモン】「あんた、いんないなら私がもらうわぁッ、いっただきィ!!」
【レヴィア】「ちょっとォ、駄目だってばぁあああぁ!! 私がもらうんだからぁッ!!」
【郷田】「えッ?! えッえッ?!?! ひゃああああああああああぁああぁああぁ!!」
「「「「きゃっははははははは!!!」」」」
 さぁ、探そう、あとは1人だ。おいぼれのババアだ! どこにいるの? 屋敷じゃないよ、ゲストハウスかな? くっひひひひ、早い者勝ちだよね、早い者勝ちだよね?!
 さぁ、探せ探せ、見つけろ見つけろ…! 食堂の親族たちには気付かれるな? ゲストハウスの子どもたちには気付かれるな?
 静かに探せ、静かに殺せ! 何たってまだまだ第一の晩!
 ゲストハウスにはいない。でも屋敷にもいなかったよ?
 おいおい、見つけた見つけた、薔薇庭園だよ。こいつ、傘も差さずに何をぼんやり?
 観念したんだよ、いただきいただき、いっただきぃ! ノロマなあんたたちはぼんやり見てればいいのよ! だから駄目ぇえええぇ、今度は私がもらうのぉおおおおぉおお!! さぁ、これ以上時間を掛けたらベアトリーチェさまに折檻されるよ! 一気に片付けてやる!
【熊沢】「…………………………………。」
 さぁ、見つけた取り囲んだ! さぁ仲良く一度に行くよ?! 死ねえええええええええええぇえええッ!!!
【アスモ】「………えぇ…? ………あれぇ?」
【ルシファー】「なっ、……何よ、…これぇ…。」
【熊沢】「…………ほっほっほっほ。やんちゃなお嬢さんたちだこと。…あの子のお友達かしら…?」
【レヴィア】「…何こいつ、…………バ、ババアのくせに…!」
【サタン】「何かの間違いよ!! もう一度ッ!!」
【ベルゼ】「……こいつ、どうして私たちを防げるの?!」
【マモン】「どいてッ! もう一度よッ!!!」
【ベルフェ】「…………何度やっても無駄だ。この御仁、…出来る。」
【熊沢】「……………私はあの子を待っているのです。どうか呼んできてはくれませんか?」
【ルシファー】「そ、そのような丁稚奉公、私たちがすると思うッ?!」
【ベアト】「その必要はない。」
【ルシファー】「ベアトリーチェさま…!」
【ロノウェ】「…………私が顕現するほどでございます。…必ずやお目覚めと思いました。」
【熊沢】「ロノウェ。久し振りですね。……えぇ、本当に久し振りです。」
【アスモ】「こいつぅ、ロノウェさまを呼びつけに……!」
【熊沢】「………………そして。あなたもお久し振りですね。…ベアトリーチェ。」
【レヴィア】「こ、こいつ、ベアトリーチェさままでもを呼びつけにぃ…。」
【ベアト】「良い。そのお方をどなたと心得るか。……ベアトリーチェとはそもそもそのお方の名。妾はそれを受け継いだに過ぎぬ。……そのお方こそは妾の師匠。先代ベアトリーチェ卿だ。」
【ルシファー】「先代、……ベアトリーチェ卿……。」
 薔薇の園から一匹二匹と現れた黄金の蝶たちが、次第に熊沢の周りに集まり始める…。そして黄金の輝きとなって彼女を包んだ後、弾けて消えると、そこには熊沢の姿はなかった。
 …代わりにそこにあったのは、………ベアトリーチェにかつて、無限の魔女の道を説き、生涯でただひとり、師匠と呼んだ、もう一人の黄金の魔女の姿だった。
 髪は長く美しく、瑞々しいほどに若々しく、そして優雅なドレスをまとう姿からは、老女の姿はまったく想像できない…。いや、まったく熊沢と別人の姿だった。
【ベアト】「………これはこれはお師匠様。再びお会いできる日が訪れるとは、夢にも思いませんでした。」
【先代ベアト】「えぇ、私もですよ。…よもやまた、眠りを妨げられるとは夢にも思いませんでした。」
【ベアト】「まったく厄介なところでお目覚めになられる。……いつもの通り、お休みであられたなら、第一の晩を何もてこずることなく終えられるのに。…いいや、むしろ歓迎すべきですかな。…………少々、退屈しておりましたところで。」
【先代ベアト】「……相変わらず、悪趣味な遊びで、罪もない人々を弄んでいるようですね。……無限の魔女の力は、決して人に迷惑を掛けることに使ってはならないと、何度も教えたはずですよ。」
【ベアト】「そういうなよォ、お師匠様。退屈は私たちの天敵じゃありませんか。それから逃れる為の、ちょっとしたスパイスに過ぎませんよ。
 ………ち。侵食が進めば進むほどに、妾の力は強くなり、妾の眷属は呼び出しやすくなる。…しかし、それは同時にお師匠様の封印を解くことにもつながったとはなぁ…。」
【先代ベアト】「それを予見していたからこそ。私はこうして、あなたのすぐ近くで眠りについたのですよ。……願わくば、二度と起こされぬことを夢見ながら。
 …こうしてあなたと再会してしまったのは、私にとってはとても悲しいことです。」
【ベアト】「………………相変わらず、お師匠様は食えないなァ…。くっくっく…。」
【先代ベアト】「ロノウェ。家具の子たちを下げなさい。家具は主に仕えるだけです。全ての罪は主が背負います。」
【ロノウェ】「………かしこまりました。マダム・ベアトリーチェ。」
【先代ベアト】「その名はもう、その子に譲りました。……さぁ、下がりなさい。家具の娘たち。……私は一度聞かぬとしても、二度言います。しかし、三度目は口にしませんよ…?」
【ロノウェ】「……下がりなさい、煉獄の七姉妹。巻き添えになれば塵と化しますよ…。」
【ルシファー】「さ、……下がれみんな…。」
 ロノウェと煉獄の七姉妹は退く。
 後には、不敵な表情を崩さないベアトリーチェと、悠然と笑顔を湛えた、名前を譲った師匠のベアトリーチェがいる…。
【ベアト】「さぁって。……お師匠様。久し振りの再会にはどんなお茶のご用意が良いかなぁ?」
【先代ベアト】「そうですね。箒星の訪れよりも久しい再会です。持て成してもらいましょうか。………粗相があるようならば、我が名と無限の魔女の称号。……返してもらいますよ?」
【ベアト】「くっくっくっく! 無限の魔女にも、免許更新制度があったとはなァ。……仰せのままに、お師匠様。あなたの弟子が、どれほど立派になったか。そして、とっくの昔にどれほどあなたを凌駕したか、とくとご覧に入れましょう…!」
 二人のベアトリーチェを中心に、空中を火花が爆ぜたように見えた。ただ二人がにらみ合っただけで、空間の霊的存在が一掃される。…それを見て、七姉妹は戦慄する。…もう三歩も、二人の側を遠退かなかったら、それだけで塵になっていたに違いないからだ。
【先代ベアト】「さぁ、いらっしゃい。ベアトリーチェ。…あなたにその名を譲ったことが、私の生涯でただ一度の後悔です。その過ちを、今、自らの手で修正しましょう!」
【ベアト】「くっくっくっくっく…。…ちっちっち。……そりゃあ違うぜ、お師匠様ァ。私のただ一度の過ちは、この程度の力を学ぶのに、あんたに弟子入りしちまったことだぜぇええぇ?
 何が魔法だ。何が無限の魔女だ。……こんなの、気付くだけの力じゃねぇえかよォ。それをもったいぶって偉そうによぅ。お前の出番はとっくに終わってんだよ、お師匠様よぉおおおおおおおおおおぉ!!」
【戦人】「………も、……も、もう訳がわからねぇ……! 一体、目の前で何が起こってんだ…!」
【先代ベアト】「……可哀想に。私の弟子が迷惑を掛けていますね。謝ります。」
【戦人】「あ、…あんた…、何者なんだ。熊沢のばあちゃんが、どうしてこんな姉ちゃんに化けるんだ?! つーか、あんた誰だよッ?! 訳がわからねぇ?! これは何の特撮なんだ?! 俺は頭がどうにかなっちまいそうだッ!!」
【先代ベアト】「私は、あの子の魔女の師匠です。かつての名はベアトリーチェ。あの子が私を継ぐ時に、その名を贈った為、今は名を持ちません。」
【戦人】「あんたがすでに言い切っちまってるが、俺はあんたの弟子のせいで大いに迷惑しているぜ! 頼むから責任取って何とかしてくれッ! じゃなくてッ!!
 俺はこんなの信じねぇぞ!! 魔女も魔法もあるもんか!! こんな滅茶苦茶バトル、俺は認めねぇぞ! くそったれ、俺は何を信じりゃいいんだ!!」
【先代ベアト】「ほっほっほ…。あなたらしい、とても短気な持て成しですね。」
【ベアト】「…くっくっくっく。さすがお師匠様。この程度じゃ、馬鹿馬鹿しくて瞼を開く気にもならないらしい…! 島ごとぶっ壊す気でなきゃ、無理らしいぜぇええぇ? さぁさお出でなさい、双肩の戦塔!!」
 ベアトリーチェの呼びかけに応え、凄まじい地響きと共に薔薇庭園が裂ける。そして彼女の双肩を挟むように、天を突く二基の巨大な戦塔が生える。その高さは100メルテにも及び、銃眼の数は片方だけで360を越える。それこそが、古代英雄たちが束になっても神域を侵すことを許さなかった、神々の兵団の戦塔。
 ベアトリーチェはその巨大な双頭の塔の狭間に優雅に浮かびながら、師匠を見下ろし、絶対の優位に嘲笑う。巨大なる塔を双肩に並べる魔女はあまりに小さく見え、まるで大樹の間を舞う蝶のように見えた。
【ベアト】「ひっひゃっひゃっひゃあああぁ!! 蝶に化ければかわせるとか思うなよぉ? 双子塔の弾幕密度じゃあんた、虫ピンの昆虫標本どころか、滅多刺しの針刺し人形だぜェ…?」
 双肩の塔の720を越える銃眼が開き、神兵たちが連装式バリスタを構える。
【先代ベアト】「それであなたの手番は終了ですか?」
【ベアト】「ちっ、それが遺言かよッ!! ぶっ放せええええええぇええええぇッ!!!」
 一斉に放たれる軽く千を超えるバリスタ弾が、美しい幾何学模様で死のカーテンを描く。それらの弦が奏でる無骨な音は、多分、死神が鎌を振るうその音よりも、重い。
【先代ベアト】「さぁさお出でなさい、墜落せし塔よ。一なる言語を爆ぜ、その罪を知らしめよ。」
 空は灼熱の赤に染まり、雲間から燃え盛る巨大な塔が真っ逆さまにり落ちる。その墜落する巨大塔とその瓦礫は、数千にも至るバリスタ弾を飲み込み、呼び出した魔女の身にたった一本も近づけない。そう、天の神秘には何人たりとも近づけないのだ。それこそが墜落せし塔の真実。
【ベアト】「さすがお師匠様ァ! いちいちやることがデケェや!! くっひひひひひゃっひゃっひゃ!!」
【先代ベアト】「私の手番は終わりませんよ。さぁさお出でなさい、イヴァルディの息子たち。我に相応しき槍を与え給えっ。」
 墜落する紅蓮の巨大塔は黄金色の凄まじい爆発を起こすと、その爆炎の中より、塔のように見上げなければならぬほどの巨大な槍が姿を現す。
 …その大きさは巨人の手にもまだ余る。先ほどの墜落する塔がそのまま槍になったかと錯覚するほどに巨大な、そして神々しく美しい神の槍。如何なる者も逃がさぬ必勝の槍。
【先代ベアト】「無用の双子塔ですね。自ら左右の退路を絶つとは愚かしいっ。一本の槍をもお前は防げない!」
 彼女が指を鳴らして命じると、塔の如き巨大槍は、一条の稲妻のように、ベアトリーチェを目指す。左右の塔の狭間にて蝶のように舞う黄金の魔女の、心臓のど真ん中の中心のさらにさらに中央を、超が七つ付く精密さで狙い、稲光のようにまっすぐ宙を駆け抜ける。
【ベアト】「はッ!! こんなところでグングニルが引けるとはッ!! やっぱりお師匠様はすげェなああぁあ!!
 爆ぜろ、役立たずの塔! 出でよ、巨人兵の戦列よ。その楯と胸で、神なる槍を防ぎきれ!!」
 双肩の戦塔は黄金色の大爆発を起こす。それは何億もの黄金の蝶たち。
 その蝶たちが7人の巨人装甲兵を模る。それぞれが50メルテもの見上げるばかりの身長を持ち、そびえ立つ風車のような大きさの巨大楯をかざしてベアトリーチェの前に並んで主を守る。
 その巨大さは山脈さえも連想させる。その向こうに隠れる魔女は、さながら山の向こうに隠れる小さな月のようだった。
 巨人たちが構える巨大楯は、かつて巨人連隊全員が連なって構えた時、ヴィルヘルム王の居城を矢だけでなく、風雨からすら守り、天に向けてかざした時には雨粒の一滴すらも許さなかったという。
【先代ベアト】「愚かな。神聖への敬いを忘れた魔女の憐れなことです。神の槍を巨人如きで防げるとお思いですか!」
【ロノウェ】「……道理ですね。人間の金属でいくら武装しようとも、神の槍は防げません。マダムの見事なエポレットメイトです。」
【ルシファー】「そんなっ?! ベアトリーチェさまッ!!」
【ベアト】「もちろん忘れませんとも、お師匠様ァ! さぁさお出でなさい、ヘパイストスと弟子たち。我に相応しき楯を与え給えぇえ!!」
 巨人兵たちの足元より黄金の旋風が巻き起こる。それは無数の黄金蝶たちの群。…それらが金箔のように巨大楯に張り付くと、まるで黄金の鏡のようにぎらぎらと光る。
 それこそは主神が女神に与えた絶対の防御壁。アイギスの楯。
 彗星の如く威厳ある尾を引いた神なる槍がその黄金楯の山脈に激突した時。凄まじい轟音が鳴り響いた。それは天空を支える柱たちが一斉に軋む音。
 神槍はぐるぐると回りながら日の沈む方角へ弾き飛ばされる。
【ベルフェ】「ありえない…。し、神槍を防いだ…!!」
【ロノウェ】「いいえ違います。神なる槍がよけたのです。絶対の槍と絶対の楯は争ってはいけないのが神々の掟。それはつまり、防いだのと同じことですがね。」
【先代ベアト】「………………このような荒事ばかり腕をあげましたね。」
【ベアト】「むしろお師匠様はこういうお遊びが相変わらず苦手なようで。妾からのお返しだ。法典に則り槍には槍でお返ししましょうぞ。」
 神槍を防ぎきった巨人兵の戦列は、神なる黄金の楯を手放す。楯は大地に倒れ、地響きを上げた。
 すると再び黄金の旋風が巻き起こり、7つの黄金の楯を、7つの大地に横たわる巨大な稲妻槍に姿を変える。
 巨人たちは一斉に片足を大きく振り上げると、その柄の先端を強く踏みつける。
 轟音と地響きが鳴り響き、7つの稲妻槍が美しく回転しながら巨人兵たちの頭上に飛び上がった。…それが黄金の飛沫を撒き散らしながら彼らの前に落ちてくる。身構えた巨人たちは、それを渾身の脚力で蹴り砕く。
 砕けた破片はそれぞれきっかり30を数え、原型とまったく同じ大きさの稲妻槍となり、それが7人で210本となり、それらは一斉に爆ぜて、さらに各々が30本の棘に分裂して6300本となり。美しい幾何学模様を描いた弾幕の雷雲となり、さらにそれが全て三叉の稲妻に姿を変え18900本の雷撃となって先代のベアトリーチェを撃つ。
【アスモ】「決ったぁああぁ!! ベアトリーチェさまぁッ!!」
【ロノウェ】「さすが、やりますね。……マダムは。」
 2万にも届きかねない稲妻の束は確かに師匠の体を塵に変えたはずだった。しかし手応えがない。ベアトリーチェは一杯食わされたとすぐに直感する。
 その時、日が沈むはずの方角より、ありえない日の出の光を感じた。眩しき一条の光が彼女の横顔を照らす。それはさっき弾かれたはずの神の槍を掲げる師匠の姿。…太陽の如き輝きを背負い、暗黒の化身を一条に照らす。
 …そこより見たベアトリーチェは、巨人兵の戦列で出来た縦の袋小路に自らを追い込んだ袋の鼠。今、先代ベアトリーチェは巨人兵の戦列を真横から捕らえていた。
【先代ベアト】「これでお遊戯の時間はおしまいですよ、ベアトリーチェ…!」
【ベアト】「………こ、こンの私が、…側面を許しただとぉおぉッ……?!」
 終始不敵な表情を崩さなかった彼女が始めて表情を歪ませる。
 そしてベアトリーチェが舌打ちするより早く、先代ベアトリーチェは神なる槍を放つ。それは空間で一度跳ねて飛び上がると、再びその姿を変えた。
【先代ベアト】「さぁさお出でなさい、ドヴェルグの兄弟たち。我に巨人を砕きし天の鉄槌を与え給え!」
【ベアト】「巨人兵どもッ、妾を守れッ!!! 何をしているかノロマどもッ!!!」
 それはもはや槍でなく、暴風のような音を立てながら飛んでくる巨大なる鎚の旋風。
 それは霜の巨人の王を震え上がらせた伝説の鎚。ゆえに巨人兵たちはその恐怖から逃れられない。だからいくら主が命じようとも、その鎚の進路を遮ることができない。
【先代ベアト】「バックランクメイト! 安らかに眠りなさい。」
【ベアト】「…ちッくしょおおぉおおおぉ………!!!」
 巨大な鉄塊の旋風の前に、ベアトリーチェなど一粒の豆に過ぎない。その旋風がベアトリーチェを飲み込もうとした瞬間、ベアトリーチェの姿が巨大な戦塔に変わる。
 鉄槌は戦塔を砕き、凄まじい瓦礫を撒き散らすが、その後へと逃れていた彼女には届かなかった。
 しかも噴煙が収まってみると、戦塔は巨大鉄槌を飲み込んだまま崩れず立ちはだかっている。巨人を砕く鉄槌でも、魔女を守る最後の塔は打ち砕けなかったのだ。
 しかし、この戦塔は実は魔女の最後の切り札だった。危機をたった一度だけ救ってくれる変わり身の戦塔だったのだ。でも、この塔は鉄壁。如何なる武器でも打ち砕けない。
 その時、月が消えた。ベアトリーチェは、巨人兵たちの戦列と戦塔の影に潜みながら、空を見上げる。
 すると月の中に、巨大な馬とそれにまたがる戦と死の神の姿が。彼と共に馬上にある先代ベアトリーチェの姿が。
 彼のマントは月を遮り不気味な影で月を食んでいた。そしてその手には再び神の槍が…。それはつまり、巨人兵の城壁と戦塔を飛び越えて、天空より襲い来る神の騎兵。
【ベアト】「……くっくっく…。ぃやられたァァ…。」
【先代ベアト】「スマザードメイト。楽しかったですよ、ベアトリーチェ!」
【ベアト】「うッをおおおおおおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉおおおぉッ!!!」
 同じ名を名乗った魔女たちの死闘に、決着がつく。
 天空より放たれた槍が大地を貫く。巨人兵の戦列と戦塔が無数の黄金蝶に分解され、辺りを金色の嵐で包んだ。
 そして稲妻の音。……そして降りしきる雨と風の音。
 気付けばそこは、何事もない薔薇庭園。…二人の魔女が対峙し、その執事たちが見届けている。………しかし、ベアトリーチェだけが違った。
 彼女は一本の槍に、右肩と首の根元から左の臀部までをまっすぐに貫かれ、地に足を付けることもできぬまま、…虫ピンで止められた憐れな蝶のように、風雨に苛まれて無様を晒されている…。
【ルシファー】「………ベ、ベアトリーチェさま…。」
【ロノウェ】「…………………。さすが、…恐ろしいお方です。」
【先代ベアト】「これで決着です。ベアトリーチェ。」
【ベアト】「……く、……ひひひひ、……痛ェ…ぇ…。」
 ベアトリーチェは痩せ我慢のように苦笑いを浮かべるが、口元からは血の泡が浮き、その憐れさを引き立たせた。
【先代ベアト】「無限の魔女の称号と力。そしてベアトリーチェの名を、今こそ返してもらいましょう。…無限の魔女を語るには、お前は未熟が過ぎます。」
【ベアト】「…………止めてェ…。許しておくれよ、お師匠様ァ…。ちょっとふざけただけじゃねぇかよぉ……。」
【先代ベアト】「あなたから我が名を奪います。元の姿に戻してあげましょう。過ぎたる力を手放し、己に相応しい生を全うするが良いでしょう。
 ………さぁさ、思い出して御覧なさい。あなたがどんな姿をしていたのか。」
 先代ベアトリーチェが力ある言葉を詠い始める。すると串刺しのベアトリーチェの周りに、小さな黄金蝶たちが集まり、そして彼女に群がり始める。
 蝶たちは花の蜜を舐め取るように。…ベアトリーチェの魔力を舐め取り始める。そしてそれは、彼女に辛い苦痛を与えているようだった。ベアトリーチェの口から苦痛の声が漏れる。彼女にはそれに抵抗する力はもはやない…。
【先代ベアト】「さぁさ、目を閉じて御覧なさい。思い出して御覧なさい。あなたがどんな姿をしていたのか。
 ………さぁ、ベアトリーチェ? あなたも私と一緒に復唱なさい。一緒にお唄を歌いましょう。そうすればすぐに終わりますよ。あなたの苦痛が、少しでも早く終わります。」
【ベアト】「…くひひひ、……は、…はは…。……そうだなぁ…。お師匠様と一緒にお唄を歌うなんて、………どれくらいぶりかなァ……。」
【先代ベアト】「さぁ、一緒に。………さぁさ、思い出して御覧なさい。あなたがどんな姿をしていたのか。」
【ベアト】「……さぁさ、思い出して御覧なさい。あなたがどんな姿をしていたのか…。」
 二人が同じ唄を詠い始めると、黄金の蝶たちはますますに舞い上がり、ベアトリーチェに群がっていく…。
【先代ベアト】「………大丈夫ですよ、お嬢様。あなたは私の弟子であることを失いますが、私の仕えるお嬢様であることに変わりはありません。
 …そうしたら、また一緒にご本を読んで差し上げましょう。リンゴのパイを焼いて差し上げましょう。昔のように。……さぁさ、思い出して御覧なさい。」
【ベアト】「……はははははは…。あぁ、思い出して御覧なさい。…そろそろ思い出せてきたかなぁ…。…………なぁ、お師匠様。
 あんたの後にあるそれ、……思い出したかなァ…?」
【先代ベアト】「…何ですか…? …………………………………これは。」
 先代ベアトリーチェが後を振り返ると、…………そこには不気味な針鼠がうずくまっていた。
 違う。…それは、……彼女自身だった。先代ベアトリーチェがもうひとりいて、全身にバリスタ弾をびっしりと喰らって、……まるで、針刺し人形のようになって横たわっているのだ…。
【ベアト】「……さぁさ、思い出して御覧なさい。あなたがどんな姿をしていたのか。……違うか。
 ……さぁさ、思い出して御覧なさい。あなたがどうやって殺されたのか。……くっひひひい、くっひゃっひゃっひゃっはあああぁああぁ!!」
 呆然とする先代ベアトリーチェ。…次第にその姿が薄くなっていく…。
【先代ベアト】「これは……、……いつの間…に…………。」
【ベアト】「最初に呼んだのは双肩の塔ではない。四つ子の塔だったのよ。お師匠様の左右遥かに潜んだ隠し塔が描く、セブンスランクルークの死の境界線を、お師匠様はのこのこと踏み越えてきてくれた。
 ……チェックの発声が遅れてしまったことだけはマナー違反。率直に謝ろうぞ。…くっくっくっくっくっく!」
 戦いは、一番最初に決していたのだ。双肩の塔に挟まれたベアトリーチェを討つために、先代が身を乗り出し神なる槍を構えた時。…左右に潜んでいた隠し塔は、左右から720の銃眼にてバリスタ弾の暴風を浴びせ、彼女をすで挟み殺していたのだ。
 しかし、ベアトリーチェはそれで決したくなかった。師匠の次の手を続けさせて、ゲームのリレーを続けたかったのだ。即座に彼女を無限の力によって蘇らせ、…さも当然のようにゲームを続けさせていた…。
 そして彼女は自らがすでに殺されていたことを徐々に思い出し、……姿を完全に消していく。するとベアトリーチェを貫いていた槍も姿を消した。
 ベアトリーチェはようやく大地に降り立つ。…傷跡など、わずかほども残っていなかった。
【ベアト】「………楽しかったぞ、お師匠様。また遊びたくなったら、いつでも蘇らせてやるよ。それで適当に遊んだら、死体だったことをまた思い出させてやるからさぁ。
 な? ちゃんとあんたの言いつけは守ってるぜ…? 玩具は、遊び終わったらちゃんと玩具箱にしまいましょうってなぁ? くっくっくっく、はっはははははははははははははははははははッ!!」
【ロノウェ】「……楽勝、でございますかな?」
【ベアト】「愚かなッ、辛勝だッ!! …………四つ子塔で騙せてなかったら死んでおったのは妾の方よッ! ……さすがはお師匠様。………だがこれで胸が張れるというもの。
 …妾は今こそ、お師匠様を完全に超えたとな。ロノウェ。お師匠様の亡骸をもう少しマシにしておけ。……妾もそこまで敬意を失ってはおらぬでな。」
【ロノウェ】「かしこまりました。今宵の第一の晩は、少々派手に暴れすぎました。少しは片付けも必要でしょう。すぐに取り掛かります。
 山羊たちよ、お片づけの時間ですよ。」
 ロノウェが指を鳴らすと、闇や影に爛々と輝く眼がぱちくりぱちくりと現れ、山羊頭の従者となって、次々ぬぅっと現れる。それらは無言で畏まりながらロノウェの背後に次々並んだ。
【ロノウェ】「この度は、6人の遺体をどのようにいたしますか? また密室形式に?」
【ベアト】「……妾は今、それを考える気分にない。ロノウェに任す。…戦人を悩ませるような、飛び切りの密室を頼むぞ。」
【ロノウェ】「かしこまりました。それでは飛び切りのを。」
【ベアト】「くっくくくくく、はっははははははははは…!! そぅれ、戦人はどこだぁ? 戦人ぁああぁ、妾の大活躍、見ィたぁあぁあああぁぁ??」
【戦人】「………畜生ぉおおぉおぉ…。今の滅茶苦茶な魔法の嵐を見せ付けられて、俺は何を否定すればいいんだ?!
 魔女はいるも何も! あんなどっかんどっかん、凄まじいファンタジーを見せ付けられて、今の俺は何を否定すりゃいいんだよ!! もうわかんねぇッ! 前回もそうだが、このイカス素敵なマジカルバトルをどう否定すりゃいいんだよッ?!」
【ベアト】「だぁ〜よなぁ〜?! こんなの見ちまったらもう言い逃れは出来ねェもんなぁああぁ??? さぁ戦人ぁ、トンデモ推理を聞かせてくれよォ、くっひひゃっひゃっひゃっひゃッ! うっひぇっひぇっひぇっひゃああぁあぁッ!!」
【ロノウェ】「お嬢様、笑いに品がございませんよ。」
【ベアト】「おお、これは済まぬ。しかし妾の責任ではないぞ。何しろ戦人に、キュゥっと両目を硬く閉じてキリキリギリギリ歯軋りする、なぁんとも悔しそうなその表情を見せられると、自然と妾の口から零れてしまうものでなぁああぁ…。くっひひっひゃっひゃっはァ!!」
【ロノウェ】「さぁ、戦人さま。挫けずにテーブルへお戻りを。お嬢様は戦人さまの反撃を期待されておりますよ…?」
【戦人】「ふざけるなッ!! 何をどう反論すりゃいいってんだッ?!
 まず、あの塔が地面から生えてきた辺りからもう滅茶苦茶だろうがッ!! 実は六軒島の地下に、超合金の合体ロボの秘密研究所でもあって、ボタンひとつでおかしな塔が生えてくるってのか?! あぁそれならあのデケェ巨人どもはきっとロボットだぜ、あるいは悪の秘密結社のメカ怪獣かもな?!
 わけわかんねぇえよ!! 俺に話し掛けるんじゃねええええぇええぇ、うおおおおぉおおおおおおおぉおッ!!!」
【ベアト】「ほらほらほらほら、泣くなよォ?? 魔法でどっかんどっかんッ!! そなたが望むなら、月だって砕くし、彗星を雨のようにだって降らすさぁ! お前好みの巨乳姉ちゃんで島を埋め尽くしてやってもいいんだぜぇええぇ?? ひっひっひっひ!!
 さぁさぁ、ほらほらほら、妾の手番は終わったぜえええぇえ?! 受け手を指せよ、反撃しろよ!! 出来ねぇだろォオオォ? 出来ねぇのは千兆も承知よォ!! お前、こういうのダメだもんなぁあぁあぁ? こういうファンタジー、本当は大好きなんだもんなああぁ??
 知ってんダヨ、今時こんなの巷にいくらでも溢れてるじゃねぇかァ?! 漫画に小説、アニメに映画ッ! 10代くらいのガキンチョたちがおかしな特殊能力いっぱい持ってて、世界の命運かけてドッカンバッカンやるやつぅ!
 お前も大好きだもんなァッ?! 知ってんだよ隠すなよ、大好きじゃねぇえかよぉ、ひーひゃっひゃっひゃッ!! その、お前の大好きなヤツがちょいと目の前で披露されただけじゃねぇえかよォ?
 どうして漫画やアニメのそれは信じてくれるのに、妾のだけ信じてくれねぇんだよぉおお?? 信じろよ信じろよ、信じちまえよ! 反論なんかできねぇさ、こうして見せられちまったんだからなぁあああ?
 ほらほらほらほら、返事をしろよ、思考はいらねぇ、素直にごめんなさいベアトリーチェさまって言やぁいいんだよ! ほらほら言ってみろごめんなさいベアトリーチェさまって言ってみろ言えよ言えよ恥ずかしがるなよ、くっききききかっかかかかっひゃっひゃああっはっはっはっはっはっひゃああぁッ!!」
 ベアトの意図は「ここまで極端にやればさすがに嘘だと気付くだろう」というところだろうが、戦人もなかなか頭が固い。

ワルギリア
10月5日(日)06時00分

食堂
 朝の訪れを知るには、カーテンを開けてわずかに明るくなった曇天を見上げるほかなかった。清々しい朝ではない。昨夜からずっと降り続く雨と、唸る風の音が聞こえるだけだった…。
【霧江】「……とても朝とは思えないわね。私たちの心をそのまま示した、ひどい天気よ。」
【留弗夫】「ならずいぶん穏やかじゃねぇか。雨は降れど、槍が降らねぇだけマシだぜ。」
【秀吉】「わっはっは。雨が降ろうと、槍が降ろうと、どんと来いっちゅうとこやな。………もう6時かいな。ふぁぁあぁ…。これで充分とちゃうか。あとは、謎の19人目、ベアトリーチェが動いて来んことには、手を打ちようもないわ。」
【蔵臼】「そういうことだ。……だが、向こうが打って来るだろうほとんどの手は想定できたはずだ。」
【絵羽】「そうね。兄弟の中に裏切り者さえ現れなければ、私たちは大抵の事態に対応できるはずよ。」
【楼座】「……もうこの話は終わりにしましょ? 結局、徹夜しちゃったわね。…眠いわ。」
【夏妃】「そうですね。朝食を取ったら、一度お休みになられてはいかがですか?」
【蔵臼】「…良い提案だ。この歳に徹夜は堪えるよ。」
 彼らはめいめいに伸びをすると、清々しくない朝を満喫するのだった。
【留弗夫】「顔でも洗ってこようぜ。きっとひでぇツラさ。」
【霧江】「………………? 何、このひどい臭い。」
 廊下へ出た途端、霧江が露骨に嫌な顔をした。
【夏妃】「…どうしましたか?」
【霧江】「ねぇ、何かひどい臭いがしない…?」
【秀吉】「………ん。…何やこの臭いは。こら堪らんで…。」
 そう騒ぐので、何事かとみんなが廊下に顔を出した。…それは薄っすらとした臭いだったが、臭う臭うと騒がれれば、はっきりとわかるものだった。彼らはその奇怪な臭いがどこから漂ってくるのか、それぞれの嗅覚を頼りに廊下に出る…。
【夏妃】「一体、何事でしょう。源次に対応させましょう。きっと、もう使用人室に来ていて朝の準備をしているはずです。」
【蔵臼】「うむ、頼む。まさかあの郷田に限って、こんな臭いをさせる朝食を作っているとは思い難いのだがね…。」
 留弗夫たちは臭いの元がどこかを探り、それが地下から、ボイラー室からすることを突き止めた。しかし鍵が掛かっていて、中を確かめることはできなかった。
 一方、夏妃たちは使用人室へ誰かを探しに行く途中、客間の異変に気付く。
【夏妃】「……何ですか、これは…!」
【楼座】「ひ、ひどい悪戯だわ…。誰がこんなことを…。」
 客間の扉には、血を想起させる不気味な赤い塗料で、奇怪な…、魔法陣のようなものが描かれていた。
【絵羽】「厨房にはまだ誰も来てないわ。……な、何よ、それ。」
 臭いの元が厨房だと思った絵羽たちは、誰もおらず、朝食の準備も始まっていないことを確認した上で、戻ってきた。……そして客間の異変に気付く。
【留弗夫】「駄目だな、ボイラー室は鍵が掛かってる。ボイラーの故障とかそういうのだとまずいんじゃないのか? 使用人は誰かいたかぁ?」
【霧江】「………! その悪趣味な落書き、ここにもあるの? ボイラー室の扉にもあったのよ。」
【秀吉】「何やて?! この薄気味悪い落書きが、ここだけじゃなく、他にもあるっちゅうんか?! はは、まさか、森の魔女ベアトリーチェの宣戦布告っちゅうわけやないやろな。」
 秀吉はそう茶化すが、風雨の音を聞きながら眺める不気味な魔法陣は、まさに魔女からのメッセージを思わせる。…滴る真っ赤な塗料は容易に血を連想させ、ますますにその不気味さを引き立たせた。
 秀吉が試しに扉を開けようとするが、施錠されていた。…客間は、原則、施錠することはない。わざわざ誰かが閉めたのだ。
【楼座】「……これはどういうこと…? 私たちが食堂で話し合いをしている最中に、誰かがこっそりとこの落書きを残したというの? 客間とボイラー室の扉に?」
【絵羽】「…どうせ使用人の仕業よ。私たちはずっと一緒だったのよ。全員にアリバイがある。……恐らく、お父様に何かおかしな指示を受けて、こんな悪戯をしたのよ。」
【留弗夫】「………昨日の真里亞ちゃんの手紙の件も含めて。使用人連中が親父の手先になって何かを企んでる可能性は充分、疑えるからな。……とにかく、みんなどこに居やがるんだ? まさか隠れん坊ってわけでもねぇだろうに。探そうぜ。」
【楼座】「そ、…それより私は子どもたちが気になるわ。無事よね? 私、確かめてくるついでに、ゲストハウスに使用人の人がいないか見てくるわ。」
【留弗夫】「なら手分けだな。ゲストハウスにガキどもの様子を見に行く間、俺たちは屋敷の中を調べてみよう。
 ………考えたくはねぇが、こんな薄気味悪ぃ落書きが、ここだけってことはねぇかもしれねぇ。」
【蔵臼】「……親父殿の、おかしなゲームに巻き込まれているのかもしれんな。…私は親父殿のところへ行って、事情を聞いてみよう。……まぁ、素直に話を聞いてくれるとは思えんがね。」
 大人たちは手分けする。その結果、ゲストハウスの2階の、通称、いとこ部屋に子どもたち4人が無事なのが確認された。
 どうも昨夜、かなり夜更かしして遊んでいたらしい。4人とも高いびきだったので、楼座は起こさないようにする。
 また、昨晩は早々に戻って休んでいた南條も無事だった。早寝早起きが信条らしく、爽やかな朝を迎えていたようだった。
 その間に、霧江と秀吉が使用人の姿を探す。だが見付からない。…ゲストハウスの使用人室も空っぽだった。
【楼座】「……子どもたちは無事よ。みんな夜更かしのし過ぎね。」
【秀吉】「使用人室は空っぽや。…勤務表を見ても、早番は6時からってことになっとる。もうお勤めをしてなきゃならん頃や…。」
【霧江】「仮眠室も空っぽよ。布団を抜け出した跡はあるけど、温かくはなかったわ。」
【秀吉】「こらぁ、…蔵臼兄さんたちの想像が当たったんとちゃうか。……多分、お父さんの指示で仕組んだゲームなんや。あの不気味な落書きを残して、どこかに姿を隠して、わしらに何かをさせたいに違いないんや。」
【霧江】「……遺産や家督を誰が引き継ぐに相応しいか、確かめようって言うことですか? …いくら何でも、それは…。」
【楼座】「いいえ…。…お父様だったら、そういうことをしてもおかしくないかもしれない。」
【秀吉】「何しろ、お父さんは大仕掛けが大好きや。……例の碑文を大広間に掲げた時から、練りに練った計画だったのかも知れへんで。」
【霧江】「…なら、ゲームの開始宣言、もしくはゲームの説明などがあったりはしないのかしら。……真里亞ちゃんに渡したような、紋章入りの封筒が出てきても良さそうだけど。」
【楼座】「…………そうね。ひょっとすると、屋敷で兄さんたちがそれを見つけたかもしれないわね。」
【秀吉】「南條先生。あんた、何か聞いてませんか。」
【南條】「……も、申し訳ありませんが、私にも何が何だかさっぱりです。ただ、……なるほど、金蔵さんが何かを企んで大仕掛けを打つことは、私にも容易に想像できます。」
【秀吉】「…一度、屋敷に戻らんか。何か向こうで見つけたかも知れんで。」
【南條】「お邪魔でなければ私もご一緒いたしましょう。」
【楼座】「わ、私はここに残るわ。…上に真里亞たちが寝てる。何が起こってるかわからないんだもの。子どもたちを放っては行けないわ。」
【霧江】「……そうね。私も楼座さんとここで留守番してるわ。うちの人に、そう伝えていただけませんか。」
 楼座と霧江はゲストハウスに残る。秀吉は南條を連れ、再び屋敷に戻るのだった。
 一方、屋敷では…。
 信じ難いことに、…あるいは嫌な想像は当たると言うべきなのか…。留弗夫の予感は的中していた。…客間の扉とボイラー室の扉に書かれていたのと同じ魔法陣の落書きが、屋敷内から他にも複数、見付かったからだ。
【留弗夫】「兄貴…! 親父の方はどうだ?」
【蔵臼】「いや、駄目だ。何の反応もない。一応、扉に耳も当ててみたのだが、何の気配も感じなかった。」
【夏妃】「…使用人の姿はどこにもありません。…一体、どこへ姿を消したのやら…。」
【絵羽】「冗談じゃないわ。お父様も使用人も姿を消し、屋敷中のあちこちにおかしな魔法陣だらけ。……一体、何が起こってるっていうのよ…!」
 魔法陣はボイラー室の扉と客間の扉だけではなかった。2階の扉に2つ。3階の扉に1つで合計5つ。何れも同じ魔法陣で、皆、施錠されていて中を確かめることができなかった。
【留弗夫】「…とにかく、まずはボイラー室を何とかしよう。何かの故障で、火事になったりとか爆発したりとかしたら大変だ。…となりゃ鍵だな。」
【夏妃】「使用人室にキーボックスがあったはずです。」
 彼らは使用人室でキーボックスを漁る。マスターキーは使用人たちが個々に持っているため、収められてはいない。しかし、個別の鍵なら全て収められているはず。
【蔵臼】「…………よくもこれだけぎっしりと鍵があるものだよ。」
【絵羽】「…ないわ。何度探してもボイラー室の鍵が見付からないわ。」
【留弗夫】「見ろよ、姉貴。……例の、魔法陣の書かれた部屋の鍵だけが、綺麗にぽっかりと抜けてるぜ。」
【夏妃】「……本当ですね。…これは困りました……。」
【絵羽】「まるで、魔法陣の部屋に入ってほしくないかのようね。……いいえ、わざわざ魔法陣でアピールしてるんだから、入ってほしいのかしら…?」
【留弗夫】「俺は後者だと思うぜ。…扉をブチ破るのは、映画じゃあるまいし無理だろう。窓を破れば何とかなるかもな。」
 窓を破るほどの事態なのかどうか、蔵臼はしばらく判断に困った。
 そこへ秀吉と南條が戻ってくる。ゲストハウスに異常はなく、子どもたちは無事。楼座と霧江は留守番に残ったことを伝えた。
【南條】「おはようございます。…何やらおかしなことになったそうですな。」
【蔵臼】「おはようございます、南條先生。…早朝から起こしてしまったようで申し訳ありませんな。」
【秀吉】「何や。手紙の類は見付からんのか? わしはてっきり、そういうのが見付かったとばかり思っとったんや…。」
【絵羽】「……そうね。私もこれは、お父様の壮大な冗談か、何かのゲームだと信じてる…。でもそうなら、必ずそれを伝える手紙があるはずよね。真里亞ちゃんに手紙を与えたように。」
【留弗夫】「ゲーム開始宣言は、まさにあの真里亞ちゃんの手紙だったのかもしれねぇぜ? 碑文の謎を解いてみろと、すでにゲームの内容は示されてるさ。」
【蔵臼】「なら、屋敷から5つも見付かった魔法陣にはどんな意味があるというのかね。…姿の見えない使用人もだ。」
【絵羽】「……夏妃姉さん。使用人って、今日は全部で何人いたかしら…?」
【夏妃】「え? ………源次に郷田に、……5人ですが何か?」
【留弗夫】「……使用人が5人。魔法陣も5つか。……偶然だろうが、気になるな。」
 絵羽と秀吉は昨日のうちに買収されている。ずっと一緒だったと言っているが、会議が始まる前に買収していれば問題ない。
【絵羽】「…兄さん。窓を破りましょう。中を確認するべきだわ。」
【蔵臼】「…………仕方ないな。綺麗に頼むよ。」
 蔵臼は決断し、窓を破る許可を与える。そして最初に破る部屋は、容易に窓に回れる1階の客間に決まった。
 窓から中が覗けるかと期待したが、カーテンが掛かっているため、うかがい知ることはできなかった。
 留弗夫は、庭をうろつき、ガラスを破れる適当な何かがないかを探した。やがて、握り拳よりも大きい石を見つけ、戻ってきた。
【絵羽】「全部割ることはないわよ。鍵が回せる程度に開けてくれれば充分。」
【留弗夫】「あまり期待には添えないかもしれないぜ?」
 留弗夫は石を振り上げ、ガラスに何度も叩き付けた。
 やがて、外から鍵を開けることのできる程度に、上手に穴を開けるのに成功した。…留弗夫はハンカチで手を庇いながら、その穴に手を突っ込み、慎重に鍵を開ける。
【留弗夫】「あとでガムテープで塞いだ方がいいだろうな。雨が吹き込んじまうぜ。」
 窓をがらりと開けると、風雨にカーテンが乱暴に舞い踊った。カーテンを横へ薙ぐ。…そこには彼らのよく知る客間があった。
 少しだけほっとする。……ひょっとしたら、室内も怪しげな魔法陣や、もしくは不気味な儀式の痕跡でいっぱいではないかと思ったからだ。とりあえず、雨の中にいつまでもいたくないので、蔵臼、夏妃、絵羽、秀吉、留弗夫、南條の6人はぞろぞろと客間の中に入る。
【南條】「……特に、…変わったところはないようですな…。」
【蔵臼】「………むっ、」
【夏妃】「ど、どうしましたか、紗音…?!」
【絵羽】「ちょっとちょっと、大丈夫なの?! どうしたのよ、あんた?!」
【秀吉】「血や、血や!! なな、南條先生、見たってや!!」
【留弗夫】「おい、紗音ちゃん! 大丈夫か?! 返事をしろぃ!」
【南條】「ゆ、揺さぶってはいけません…。今、容態を診ます…。」
 ソファーの影だったので、部屋に入るまで気付かなかったのだ。そこには、胸元を血で真っ赤に染めた紗音が横たわっていた……。
【ベアト】「お〜〜いぃ。戦人ぁ、どーこだぁあぁ? ほらほら、紗音の死体が出てきたぞ〜〜〜? もうイジメねぇから出て来いよぉ。
 ……んん? おぉ、いたいた。そんなところで頭抱えて、なぁにしてんだよォ。」
【戦人】「…………………………。」
 戦人は頭を抱えてテーブルに伏していた…。何も見たくない、何も聞きたくないという意思が露骨に伝わる痛々しい姿だった…。
 ベアトリーチェの嘲るような声は聞こえているのだろうか。…聞こえないのか、あるいは聞こえないフリをしているのかは、わからない。しかし、心を貝のように閉ざしてしまっているのは間違いなかった…。
【ロノウェ】「ぷっくっくっく…。……少しお嬢様が苛めすぎたのではないでしょうか。あれだけのものを見せ付けて反論を迫っては、塞ぎこみたくなる気持ちもわかろうというものですよ。」
【ベアト】「なぁ、戦人ぁ。反論がないんならリザインを頼むぜェ? お前の手番なんだ。何か指すとかパスするとか、さもなきゃ降参するとかしてくれねぇと話が前に進まねぇよォ。」
【戦人】「…………………………れ。」
【ベアト】「……え? 何々ぃ? 聞こえないぞォ?」
【戦人】「黙れッっつってんだッ!! あああぁうるせぇうるせえうるせぇええぇええ!! 何が魔女だ何が魔法だ! 好き勝手にやればいいじゃねぇかよ、俺は信じねぇ何も信じねぇ、くそくそくそくそッ!!
 俺に話し掛けるな、何も見せるな、消えろ消えろ消えちまえッ!! 俺にそのムカつく顔を近付けるなあああああぁああああぁッ!!!」
【ベアト】「……………………ッッッ!」
 戦人の突然の激昂に、ベアトリーチェは思わずたじろぐ。
【ベアト】「……そ、そうは言うがな? お前の手番が終わらんと妾の手番も来ぬ。あまり妾を退屈させるなと言いたいのだが…、」
【戦人】「知るかよ黙れよッうるせええんだよッ!! お前のゲームなんか知るかよ、付き合ってらんねぇえんだよぉおおぉ!! 俺の番が終わらねぇと手前ェの番が来ねぇってんなら、永遠に待ってやがりゃあいいだろうがッ!! あぁ知らねぇ知らねぇわからねぇええ!! 魔女も魔法も認めねぇ、あんな滅茶苦茶も認めねぇ!! うおおおおおおおおおお、俺に話し掛けるなっつってんだぁああああああああああぁああぁッ!!!」
 ……もう、何が何だかわからねぇ。あんな滅茶苦茶を見せられて、なおどう抗えってんだ…。
 俺はぼんやりと薔薇庭園を歩く。……雨は降っていて風は苛むのだが、俺の体が濡れるわけじゃない。…でも、傘も指さず風雨の真っ只中にいるという、荒涼感だけはあった。
【戦人】「………………俺はひょっとすると、…あいつのゲームにとっくの昔に負けているのかもしれねぇな。」
 …実は前回のゲームで、もうはっきり決着はついてしまっていたのではないだろうか。何しろ俺は、一度は屈服したのだから。だから世界は魔女と魔法で染まったのだ。
 ……今や六軒島では、魔女が堂々と闊歩し、おかしな魔法をバンバンぶっ放す異世界だ。…認めるとか否定するとかそういう域ですらない。
 俺はベアトと互角なゲームをしていると誤解していたのかもしれない。すでに前回敗北して、…これはその、降伏の調印式なだけなのかもしれない。
 さっき、この薔薇庭園で凄まじい戦いが繰り広げられた。俺はそれを目の当たりにした。
 地面を蹴る。……当然だが硬い。そして水溜りがばしゃりと跳ねる。この地面を割って、高層ビルのような塔が何本もにょきにょきと生えだしたのだ。
 ……こうして地面を蹴れば蹴るほどに、………そんなことがありえるわけがないと実感できる。だが、だからこそ、もう魔法だとしか説明できないのだ……。
【戦人】「……密室に鍵が閉じ込められて、とかってヤツなら、よくある推理小説の延長だろってことはわかるさ。
 ……でも、……あれはなぁ…。あのどっかんどっかんってのはなぁ……。くそぉおぉぉ………。」
【先代ベアト】「……………私の弟子が、ずいぶんと迷惑をかけているようですね。」
【戦人】「…え? ………あんたは…。」
 不意に話しかけられたので、振り返ると、…薔薇庭園の東屋に、……ついさっき、ベアトリーチェに倒されたはずの、先代ベアトリーチェの姿があった。
【戦人】「………てっきり死んだと思ったぜ。生きてたのか。」
【先代ベアト】「いいえ、死にましたよ。…今の私は、取られた駒がチェス盤の外でくつろいでいるだけに過ぎません。」
【戦人】「あんたはベアトの師匠なんだろ。ってことはつまり、あんたも魔女ってわけか。」
【先代ベアト】「……えぇ、そうですよ。」
【戦人】「ちぇ。ってことはつまり。……やっぱり魔女はいるってことで決まりなわけだろ? そしてあいつを倒せるのは俺じゃない。スゲエ魔法を使えるあんたの方じゃねぇか。…俺はもうお役御免さ。俺に出来ることなんてもう何もねぇ…。」
【先代ベアト】「…………おやおや。すっかり屈服してしまいましたか?」
【戦人】「屈服も何も! あれをどう説明すりゃいいんだよッ?! 塔が生えたり落ちてきたり!! でっけえ巨人が楯を構えたり槍を投げたり!
 ああぁ思い出すだけでも気が変になりそうだぜッ、もう推理もヘチマもあったもんじゃねぇ!! トリックとか人間犯人説とか、そんな領域をとっくに超えてるだろ!! ああああぁあぁ、畜生畜生畜生畜生!!」
【先代ベアト】「落ち着いて。……私はあの子のゲーム盤の駒に過ぎない。こうして盤外へ取り除かれてしまえば、もはや何もできない存在。しかしあなたはあの子の対戦相手。あなたが自ら投げ出さない限り、あなたには常にあの子に一矢報いる力があるのだから。」
【戦人】「うるせえ! あんただっておかしな呪文を唱えて、塔だの槍だのを呼び出してたじゃねぇかよ!! 何を一矢報いるってんだよ! 俺にも魔法を教えてくれて、あいつとあの大魔法バトルを繰り広げろって言うのかよッ!!」
 紗音の死体が最初に発見されるようにするため、絵羽が窓を破ることを提案。
 絵羽、秀吉、南條の3人が協力者であるため、他の人をなるべく死体に近づけないようにすれば、死んだフリが見破られないようにすることは難しくない。
【先代ベアト】「……あなたが望むなら。あなたに魔法の一端を教えてあげてもいいですよ。」
【戦人】「そりゃあ願ったり叶ったりだぜ! あいつの胸板にズドンと打ち込んでやれるような、すっげぇ魔法を一発頼むぜ…!! はッ、舐めんなってんだ!」
【先代ベアト】「日本の魔法に、雨乞いの儀式というものがあるそうですね。ご存知ですか?」
【戦人】「雨乞いぃ? バンバン火をくべて、演舞を奉納して雨を祈るっていうあれか? ……あれは魔法じゃねぇだろ。火で上昇気流が出来て、その結果、雨雲が集まるって言う、れっきとした科学現象のはずだぜ。」
【先代ベアト】「おや。…私は東洋魔法のひとつだと信じていましたが。魔法ではないのですか。天に聖なる火を捧げ、敬いの演舞を捧げることで、神々の心に雨乞いの嘆願が届くものと信じておりましたよ。」
【戦人】「大昔の連中はそうだったろうよ。でも、その手のオカルトは大抵科学的に説明がつくもんだ。」
【先代ベアト】「物が燃えるのはどうしてですか? 物質にフロギストンが含まれているからでは?」
【戦人】「……いいや、物が燃えるのは酸化反応だ。フロギストン説はラヴォアジェが否定したはずだぜ。」
【先代ベアト】「物に熱が伝わるのはどうしてですか? 物質にカロリックが含まれているからでは?」
【戦人】「……そいつは確か、ジュールが否定したはずだ。熱はエネルギーであって物質じゃない。」
【先代ベアト】「よくお勉強していますね。正しい知識ですよ。」
【戦人】「…ちょいとした雑学レベルだがな。」
【先代ベアト】「フロギストンもカロリックも、果てはエーテルも神の愛さえも。……科学的な説明の前には無力ですね。私はかつて、木からリンゴが落ちるのは、人に食を与える為の、神の愛のお陰だ、と聞かされましたよ。」
【戦人】「重力すらも神の愛なのか? …まぁ、科学より宗教が万物を説明した時代の名残だろうぜ。」
【先代ベアト】「その通りです。人類はかつて、自らの知識の限界を、……いいえ、無知そのものを“魔法”と呼んだのです。…先ほどの雨乞いの話はまさにそれでしょう。
 太古の人々が、火が熱を生み上昇気流を生み出して雲を呼ぶことを科学的に理解していたでしょうか? 理解せずとも、そういう結果になることだけは知っていた。」
【戦人】「……そういうのは結構あるかもな。先人たちの知恵ってヤツさ。理由はわからずとも、長い経験で、そういう結果が得られることを知っていた。…原理を理解できない現象は、多分、彼らにとっては魔法も同然だったろうなぁ。」
 さっきこいつが言ったように、原理が理解できない太古の人々は、雨乞いによって、天に願いが届き雨を降らせたと信じていただろう。それは彼らにとって紛れもなく魔法なのだ。上昇気流というものを理解しない限り…。
【先代ベアト】「電気のスイッチを押せば灯りがつく。……子どもは電球がなぜ発光するのか、その科学的原理を知らず、結果だけを知っていてスイッチを押す。原理を知らずとも結果を得られるならば、それは彼らにとって“魔法”なのではありませんか?」
【戦人】「……………面白ぇ話だな。…まぁ、理屈から言やぁそうだ。…例えば俺たちはテレビのブラウン管にどうして画像が映るのか、理屈はさっぱりわかってない。でも、テレビに物が映るのは当り前だと思ってる。ブラウン管の原理を知らなくても、“スイッチを押せばテレビが見られる”ことだけは知っている。…上昇気流を理解せずに雨乞いをするのとまったく同じだ。……つまり、原理を知らないならば、テレビだって“魔法”も同然、いや、魔法そのものだろうってわけか。」
【先代ベアト】「あなたは、ブラウン管の構造がどうなっているか知っていますか? 分解してその中身を見たことは?」
【戦人】「……ねぇよ。本か何かで構造を読んだ気もするが、難しくてさっぱりだったな。確か、電子が蛍光物質にぶつかる時、発光してどうたらこうたら…。」
【先代ベアト】「それは偽書です。真実は、ブラウン管の中に、グレムリンという小人が閉じ込められていて、魔法で仕事をしてくれているからなのですよ。」
【戦人】「はぁッ?! 馬鹿なこと言うなよ、そんなわけねぇだろ…!」
【先代ベアト】「ブラウン管の中を覗いたこともないのにどうして否定を?」
【戦人】「……覗いたことはねぇが、絶対にそんな小人はいないと断言できるさ!」
【先代ベアト】「ここにブラウン管がない以上、実証は不能ですよ。」
【戦人】「た、確かに今この瞬間は実証不能だが、…後でどこかのテレビをバラして見せればすぐに論破できるさ!」
【先代ベアト】「ということは。ブラウン管の中にグレムリンが閉じ込められていて、その魔法で映像を映し出しているという私の“魔法説”は、ブラウン管の中身を検証するまで否定不能ということになりますね?」
【戦人】「………む、………何だよ、アレか? “悪魔の証明”だって言いてぇのか? お前たち魔女の十八番だぜ。」
【先代ベアト】「“悪魔の証明”は消極的事実の証明が不可能であることを逆手に取った詭弁です。しかし、今のブラウン管の話は違う。テレビをたった1台分解すれば済むだけの話ですよ。」
【戦人】「……そうだな。確かに“悪魔の証明”とは異なるな。」
【先代ベアト】「あなたの提唱する科学的説明と、私の提唱する魔法的説明。…そのどちらかが真実です。そしてそれはブラウン管の中を覗いた時に確定する。しかし、それを確かめる瞬間の直前まで、私たちは互いの説を否定できないのです。
 つまり、真実は1つであるにもかかわらず、ブラウン管の中を覗く直前までは、相反する真実が同時に2つ存在することができる。……1つしか存在してはいけない真実が、2つ同時に存在できる異空間。」
 箱の中の猫は、生きているのか死んでいるのか。箱を開ければ答えがわかる。真実がわかる。しかし、箱を開けるまでは、猫は生きているとも死んでいるとも主張できる。
 そのどちらもが主張する彼らによるならば、それぞれ“正しい”真実であり、双方は相反するにもかかわらず、箱を開けない限り相手を論破できない。
 つまり、真実が2つ同時に存在できるのだ。猫が1匹しか入れない箱なのに、生きた猫と死んだ猫の2匹を詰め込めてしまう、奇妙な異世界。
 これこそが、今の六軒島。……今のこの島は、科学説と魔法説が同時に存在できる異世界なのです。…科学の世界の住人であるあなたには、一見、この島は魔法の世界に飲み込まれてしまったように感じるでしょう。
 それは正しくもありますが正確ではない。厳密には、科学の世界から、科学と魔法の世界の中間に移ったのです。だから、あなたには一見、世界が魔法側に傾いたように見える。……しかし実は、2つの相反する世界にとって限りなく公平な位置に、今のこの島はあるのです。
【戦人】「……よくわからねぇ…。現実と魔法の中間? 限りなく公平な世界? どこがだよ。俺に圧倒的に不利な展開ばっかりじゃねぇかよ…!」
【先代ベアト】「ならばこう考えるといいでしょう。これは裁判です。あなたとベアトリーチェが、相反する主張を繰り広げている法廷だと考えるのです。ブラウン管裁判でもいいでしょう。
 あの子は、ブラウン管の中には小人が入っていると主張している。そして、中に入っている小人がどのような生態で、どのような姿なのか、どのような魔力を持っているのかを次々に説明する。……そしてあなたは?」
【戦人】「……まぁ、図書館で勉強して、ブラウン管の構造を説明して反論するだろうよ。」
【先代ベアト】「この瞬間、法廷には、あなたの主張とあの子の主張が同時に存在する。……もしも、あの子の主張に耳を傾けたならば、それはあたかも真実に聞こえてしまうかもしれない。見えてしまうかもしれない。あなたはまさにそれを見せつけられた。」
【戦人】「………………………。」
【先代ベアト】「今この瞬間の六軒島には、確かに魔女も魔法も真実として存在するかもしれない。…しかしそれは、猫の箱が開かれる瞬間までの不確定な波動関数の世界。全ての状態が同時に説明できる。しかし、真実はひとつです。
 それは観測されることによって収縮し、無数の真実が淘汰されてたったひとつの真実になる。法廷で例えるならば、これは裁判長による判決行為にも似ているでしょう。検察側、弁護側がそれぞれに主張する2つの真実は、判決によって収縮し、1つとなるのです。」
【戦人】「………あんたの言葉を借りるとつまり、……今のこの島は、ブラウン管の中を覗く直前の世界ってわけなんだな…? だからこそ、科学説も魔法説もどちらも否定できない。…否定できないってことはつまり、」
【先代ベアト】「どちらも真実として存在できる。だから魔女も魔法も存在し得る。…しかし同時に、それを否定するあなたの意見もまた真実として同時に存在できる。
 ………相反する2つが同時に存在できる世界。そして相反する真実が、互いを否定する理由にできない世界。………理解できてきましたか…?」
【戦人】「………………つまり。……ベアトがどんなすげぇ魔法を俺に見せようとも。…それは“魔法説”の主張でしかなく、俺を否定することには当たらない。
“ベアトがどんな魔法を俺に見せようとも、この世界ではそれを以って魔法が存在する証拠にはなり得ない”ってことか。」
【先代ベアト】「そうです。あの子は木からリンゴが落ちることすらも、魔法で説明しようとするでしょう。あの子は一見、杖を振るって魔法にてリンゴをもぎ取り、大地に落としたかのように“主張”するかもしれない。
 しかしそれは、あの子の主張のひとつに過ぎないのです。あの子の如何なる主張も、あなたの主張する機会を拒むことはできない。……その意味において、この世界は双方にあまりに“公平”なのです。」
【戦人】「………なるほど、な…。……だがよ。その論法で言ったなら、たとえ俺が“科学説”で正論を示したところで、ヤツの“魔法説”と正面衝突を起こすだけで、俺もまたヤツを論破出来ない。しかも、そのファイナルジャッジは、ブラウン管を覗かない限りつかない。
 ………この世界のブラウン管はどこにあるんだ。…俺たちに議論なんて必要ないってことになる。……俺たちは仲良くブラウン管の中身を覗けばいいだけの話じゃねぇのか?
 中に小人が本当にいたら俺の全面敗北だ。いなかったら逆に俺の勝ち。……俺たちはブラウン管を覗かずに、どうして論争を繰り広げなくちゃならないんだ?」
【先代ベアト】「それこそが、あの子があなたに挑んだ“ゲーム”なのです。裁判ではなく、チェスと例えるべきでしょう。勝敗は裁判官が決めるのではない。戦っているあなたたち自身が決めるのです。」
【戦人】「……真実が同時に存在できる滅茶苦茶な世界で、相手を論破なんてできるのかよ?」
【先代ベアト】「現に、あなたは論破されて、今こうして屈服していますよ…?」
【戦人】「……………へ。…へっへっへ。」
【先代ベアト】「今、私に助言できるのはここまでです。もしもあなたが望むなら、時折助言を与えましょう。」
【戦人】「……あぁ。ありがとう、助かるぜ。……あんたの仇も、俺が取ってやる。」
【先代ベアト】「ほっほっほ、ありがとう。期待していますよ。」
【戦人】「あんた、名前は?」
【先代ベアト】「…ベアトリーチェはかつて私の名でしたが、譲ってしまった今、私は名前を持ちません。………ならば仮の名でも名乗りましょう。……ワルギリアス。…いえ、ワルギリアではいかがです?」
【戦人】「ワルギリア。ワルキュリア? 神話の女神の名前だっけか。」
【ワルギリア】「いいえ。ベアトリーチェの元へ導く者、という意味です。……煉獄山の頂上にて待つあの子の元へあなたを導く。その案内人に相応しい名前でしょう。」
【戦人】「魔女を否定する俺が、魔女の助けを借りるとはな。……なるほど。異なる主張が同時に存在できるこの矛盾した世界なら、それもアリってわけだ。…いっひっひっひ、笑える話だぜ。」
【ワルギリア】「あの子の言葉を借りるけど、本当にあなたは不死鳥のような人ね。……戦う気力がもう蘇ってきた。…さぁ、心の準備がいいなら、あの子の元へ、……あの子の座するチェス盤の正面へお戻りなさい。……私の弟子とどこまで戦えるか、楽しみにしていますよ。」
【戦人】「あぁ、見てろよ。…………もうあいつの寝言には耳を貸さねぇ。とことん冷静に俺の戦いを貫いてやる。もうあいつの挑発には絶対に乗らねぇ。」
【ワルギリア】「では戻りましょう。戦いの席へ。」
【ベアト】「…お、……おお、戦人…! そなた、どこへ姿を消しておったのか。くっくっく! 負け犬は二度と姿を現さないかと思ったぞ?」
【戦人】「……待たせたな。頭を冷やしてきたぜ。」
【ベアト】「それでェ? 妾とお師匠様の愉快痛快爽快大喝采のステキファンタジーバトルへの回答は出たのかぃいいぃ? あんなの、ファンタジー以外じゃ説明不能だろぉ? ひっひゃっはははははははははははぁ?!」
【ロノウェ】「…お嬢様。さっき親切で上品にするとお誓いになられたばかりですよ?」
【ベアト】「あっひゃははははは、いけねぇいけねェ。戦人の顔を見てるとついつい上機嫌になってしまうものでなぁ? ほれほれほれ、それで戦人、さっきの戦いだが、どういう反応を示して見せるよ? んんん?」
【戦人】「……………………………………。…バトルぅ? 何があったって?」
【ベアト】「……何ぃ?」
【戦人】「この薔薇庭園のどこに。お前らがにょきにょき生やした塔が、槍が。どこに転がってんだ。…………ねぇじゃないか。……つまり、こいつがブラウン管の中身ってわけさ。」
【ベアト】「……ブラウン管の中身、とな?? くっくっく、一体、何の話を始めるやら…。」
【戦人】「今この瞬間。薔薇庭園には何もない。…さっきまでは魔法で塔が生えていたかもしれねぇさ。だが、それはブラウン管の中を知るまでだ。……魔法バトルはお前の解釈、主張に過ぎない。今この場に何もないのがその証拠だ。
 俺はさっきの魔女の戦いにこう反論する。今、この場に何もないのは、何事もなかったことの証明だとな…!」
【ベアト】「………………。……ははは、はっはっはっはっは! あのなぁ、さすがに第一の晩から大暴れは出来ぬし、妾もこの薔薇庭園は気に入っているのでな? 被害を及ぼさないため、結界の中で戦っておったのだ。だから現実には何の影響も与えていないのは当然のことよ。」
【戦人】「……それがお前の“主張”だな? あぁ、それもありだろうな。
 だがッ! 今この瞬間の薔薇庭園に何もない。だから魔法などなかったという俺の主張を何ら妨げるものではないんだ!!」
【ベアト】「お、おいおい、そんな滅茶苦茶で妾の魔法を否定できるのかァ?! 魔法が“ない”は証明不能! “悪魔の証明”であるぞ!!」
【戦人】「今この瞬間の、この薔薇庭園が真実だ! 覗いた瞬間にブラウン管の中の小人は蒸発する。そしてここには何の魔法の痕跡もない! だからお前らの魔女の戦いは“行なわれなかった”ッ!!」
【ベアト】「な、……何だ、そ、その返し手は……?! その力は、…も、もしや…?!」
【ロノウェ】「…お忘れですか、お嬢様。多層世界収縮術です。無限の魔女の力と対になる、有限の魔女の力。無限の魔女にしか悟ることができず、そして無限の魔女にとってもっとも強力な効果を発揮します。」
【ベアト】「シュ、“シュレディンガーの猫箱”かッ?! ………あ、……あの老いぼれ魔女め…、余計な入れ知恵をッ!!」
【戦人】「時間をロスった。使用人5人と祖父さまで6人の死体! 状況を確認させてもらうぜ。俺がモタモタしてて時間を無駄にしちまった。ここからはサクサク行くぜ?
 席に着け、ベアトリーチェ!! ようやく第一の晩じゃねぇか、本番スタートだぜ。ドンと来やがれッ!!!」
 魔法バトルの種明かし開始。本来は解答編で明かすような内容だが、語り種となっている難易度調整の一環と思われる。

前哨戦
10月5日(日)07時00分

ゲストハウス・ロビー
 ……親たちの思惑はともかく。少なくとも俺たち子どもにとっては、いとこたちと親睦を深め合うだけの、楽しい二日間のはずだった。しかし、目が覚めてみれば、待ち受けていたのは信じ難いほどに残酷な現実だった…。
【朱志香】「…………ひっく、……えっく……!」
【譲治】「………………………………。」
 譲治の兄貴と朱志香は、それぞれ紗音ちゃんと嘉音くんの死に涙を零していた。
 ……ゲストハウスの1階ロビーには、今、生きている全員が集まっていた。その人数は、12人。…信じられるだろうか? 昨日まで18人いたんだ。…その三分の一が、一夜にして、命を失った…。
 俺は、ようやく興奮が醒めて、早朝に起こされた寝不足感が入り混じってきて、ほんの少し現実感を失いかけているところだった。……何かの悪い夢だと思いたい…。俺のチープな現実逃避は、さっきからそうであると延々と主張し続けている。
 真里亞は楼座叔母さんの座るソファーで、再び寝直してしまった。…肝が据わっているというよりは、純粋に寝足りなかったのだろう。
 大人たちは祖父さまのコレクションとかいう、ショートバレルのウィンチェスター銃をいじっていた。…西部劇被れだった時代の名残らしく、そっくりな銃が4丁もあった。
 それを蔵臼伯父さん、絵羽伯母さん、ウチの親父、楼座叔母さんの4兄弟で分ける。机の上には弾丸の詰まった紙箱が置かれ、4兄弟たちは黙々と弾丸を装填していた。
【留弗夫】「………何だか怖ぇや。こいつに触ってると、今でも親父に、触るな!って怒鳴られてぶん殴られるような気がするぜ。」
【蔵臼】「なら良かったな。…いくら触っても、もう殴られることはない。」
【楼座】「…………信じられないわ。…あのお父様が、…………こんな最期を迎えるなんて…。」
【南條】「金蔵さんに限って、普通に床で亡くなるようなことはないだろうと思っていましたが、……それにしても、……惨すぎる…。」
【絵羽】「ねぇ。あれは本当にお父様なのかしら…? 私は、別人の死体で誤魔化した替え玉を疑ってるんだけど…。」
【夏妃】「……いいえ、あれは間違いなくお父様です。足の指をご覧になったでしょう? 世間広しと言えど、両足の指が6本の人間はそうはいませんよ。」
【霧江】「でも、…………いないとも言えない。多指症は珍しくない病気だと聞いたわ。大仕掛けの大好きな方なんでしょう? ……どこかで両足の指の数が自分と同じな遺体を手配したかもしれないわ。」
【夏妃】「馬鹿馬鹿しい。そんなこと、何のためにするというのですか…!」
【秀吉】「……普通の人にならわしもそう言うわ。…しかしあのお父さんや。霧江さんの話も、まったくの荒唐無稽とは言い切れんのやないか。」
【留弗夫】「…………焼死体は身元の確認が難しいという。だが、歯形とか骨格とか、色々調べる方法はあるはずさ。警察が調べれば、一発で身元なんかわかるに決まってる。」
【蔵臼】「問題は、警察より先に電話技師が必要だという点だがね。」
【楼座】「……この台風じゃ、船は来られないでしょうね。…なら、明日になるのかしら。」
【夏妃】「恐らく、明日の9時にもう一度船が来てくれるでしょう。そこで警察に連絡できると思います。」
【絵羽】「……私たちも。そして犯人も。…つまりは台風が通り過ぎるまで、この島に閉じ込められたってわけね。」
 ………親たちの会話だけで、おおよその流れは理解できるだろうが、一応、状況を説明する。
 まず早朝。祖父さまと使用人全員の合計6人の死体が、屋敷中の各所から相次いで見付かった。
 まず、祖父さまはボイラー室で火にくべられ丸焼けに。
 使用人たちは屋敷内のそれぞれの場所で、魔法陣の描かれた部屋に閉じ込められて死んでいた。使用人たちの死因は正確には不明だが、南條先生の見立てでは、槍のようなもので突かれたか、……もしくは銃で撃たれた可能性が高いという。大人たちがウィンチェスター銃で武装を始めたのはその為だ。
 さらに事態を混迷に追い込んだのは、電話が使用不能になっていたことだった。落雷で故障したのか、犯人が破壊したのかはわからない。とにかく外部に連絡がつかず、警察へ連絡が取れなかった。
 つまり、台風が通り過ぎ、外から船が来てくれる明日の朝まで、自分たちで自衛をしなくてはならないのだ。何しろ、今の六軒島は台風で隔絶されている。俺たちが島に閉じ込められているように、犯人だって閉じ込められているのだから。
 大人たちは、昨夜まるまる徹夜して、屋敷の食堂で親族会議に明け暮れていたらしい。そして事件は、にもかかわらず屋敷内で起こっている。……つまり、大人たちがカネの話で大いに盛り上がっている真っ最中に、殺人犯は同じ屋根の下で殺人を犯していたわけだ…。
 夏妃伯母さんは夜間の戸締りを厳重にさせていたという。にもかかわらず、屋敷の中を不審者が出入りした。…大人たちは、屋敷内は広すぎて安全ではないと判断し、銃を引っ張り出して、俺たちのいるゲストハウスへ移動してきたのだ。
 ………そして現在に至る。譲治の兄貴たちは、紗音ちゃんの遺体を一目みたいと懇願するが、大人たちは警察が来るまで駄目だと突っぱねる。それは現場保全のために全ての部屋を封印したというだけの意味ではない。
 …何しろ、6人も殺した犯人が徘徊した屋敷なのだ。今の右代宮家にとって、本宅であるはずの屋敷は、未知の殺人犯が出入りしている危険地帯も同然なのだ…。何しろ屋敷は広い。死角や暗がりも多く、完全な安全を保証するには人数に対し広大過ぎた。
 そこへ行くと、ゲストハウスは屋敷に比べればはるかに小さい建物だ。地上2階建て。部屋数は10ちょっとくらい? ……元々、この島のリゾート化を見越して、ペンションにするために建てたらしい。だから全体の把握がしやすく、安全も確保しやすい。篭城に向くというわけだ。
 ……そして。この6人もの大量殺人が、“ゲーム”である可能性が極めて高い。犯人がそれを、手紙にて宣言してきたからだ。
 真里亞が昨日、ベアトリーチェにもらったと自称したのと同じ、紋章入りの洋形封筒が、祖父さまの死体が発見されたボイラー室内で見付かったという。その手紙の中身はこうだった。
 誤解なきように。私が求めるゲームは、皆さんが碑文の謎を解けるかどうかであって、私を捕まえられるかどうかではありません。碑文の謎を解かなければ、哀れな生贄はさらに増えるでしょう。時間は、私の姿を探すより、碑文の謎解きに割いた方が賢明です。碑文の謎が誰にも解けないならば、誰も生き残れない。
 見事、碑文の謎を解けた人間が現れたなら、黄金郷の全ての黄金を与え、右代宮家の家督と、我が力の全てを与えるでしょう。金蔵さまより右代宮家の家督を引き継いだのは、私。そして、私より家督を引き継ぐのは誰なのか、楽しみにしています。——黄金の魔女 ベアトリーチェ。
 …碑文の謎ってのは、例のアレだ。屋敷の大広間に掲げられた魔女の肖像画のところに書いてある怪しげな碑文。祖父さまが書かせたもので、それを解いた者に家督を譲るとか、隠された黄金を譲るとか騒がせた例のアレだ。
 何年か前に掲げられて以来、親族たちは口では馬鹿にしながらも、影ではこっそりその謎に挑戦していたという。しかし、誰も解けずに今日に至っている。その難解な謎を、解いてみろと再び突きつけ、しかも解けなければ皆殺しだと脅迫している。……これを“ゲーム”と言わずして何というのか…。
 敷地内を捜索して犯人を探し出そうという勇ましい意見も、一度は出た。しかし、向こうは武装している可能性が高い上、しかもひとりとは限らない。また、…彼らは6人以上を殺せたかもしれないのに、それを6人に留めた
 犯人を迂闊に刺激せず、大人しく警察の到着を待って安全地帯で篭城すべきだという意見が、最終的には支配したのだった…。
 大人たちは、ゲストハウス内の戸締りを厳重に確認した後、このロビーを砦に見立てる。そして銃を弄って緊張を紛らわしながら、まだまだ始まったばかりの長い一日に、早くも疲労の表情を見せるのだった…。
 俺には、何もできることはない。もし万が一、…銃が余るようなことが起こった際に備え、銃の使い方を教えてもらうことくらいしか、今はできない……。
 ……それでいい。そこで大人しくしててくれよ、俺たち
【戦人】「……………また、最初は6人か。しかも今回は祖父さまと使用人が全部まとめてと来たもんだ。」
【ワルギリア】「恐らく。あの子は前回のゲームでのあなたの指し手を慎重に研究したのでしょう。そしてあなたが最初に疑うと高い確率で推定される駒を、最優先で奪ったに違いありませんよ。」
【戦人】「……筋だな。…前回も前々回も。屋敷に精通し、マスターキーを持ち歩く使用人たち全員は、常に最高順位で疑わしい人物だった。
 ……前回のゲームの、例えば朱志香の密室がいい例だ。使用人が犯人であることを認めさえすれば、あんなのは密室でも何でもない。」
【ワルギリア】「故に。……あの子はそこを真っ先に切りに来た。あなたがやがて逃げ込むであろう退路を、真っ先に塞ぎに来たのでしょう。」
【戦人】「ベアトはすでに赤で、この島には19人以上いないと宣言している。…それはつまり、………諦めろってことだ。……もう俺は、18人の誰かを疑わざるを得ない。」
【ワルギリア】「……あの子は、その18人の駒を全て奪いきった上で、存在しないはずの19人目として降臨し、あなたに自らが魔女であることを認めさせる手で来るでしょう。……魔法を見せ付けることで強引に屈服させる、恫喝的手法がもはや通じない以上、あの子に指せるのは正攻法だけなのですから。」
【戦人】「……上等だ。もうハッタリは通用しねぇぜ。」
【ワルギリア】「気をつけて。まやかしは魔女のもっとも得意とするところ。…あの子が何を言おうと何を見せようと。あなたが信じる真実を、決して脅かすことなどできないのです。それを忘れないで。」
【戦人】「………おう。そう何度も同じ手が通用して堪るかってんだ。………出て来いよ、ベアトリーチェ。おッ始めようぜッ!!!」
【ベアト】「すでに勝負のテーブルに着席しておるわ。妾の手番もすでに終了しておる。」
【ロノウェ】「……マダムを敵に回すことになるとは。厄介ですね、お嬢様。…手の内をだいぶ読まれますよ。」
【ベアト】「構わん。お師匠様の指し手など、すでに時代遅れの古典よ。恐れるに足りぬわ。」
【ワルギリア】「…あなたが、私の教えた古典以上の何を指せるのか。期待していますよ、ベアトリーチェ?」
【ベアト】「……くっくくくくくく。いいのか、戦人ぁ? 魔女を否定するそなたが魔女を軍師につけても…。」
【戦人】「下らねぇ挑発は無用だ。こいつは俺の相談役、いや、セコンドだ。ガチンコで殴りあうのは、俺とお前だってことには何の変化もない。」
【ベアト】「わかっておる。……ヨチヨチのお前には自転車にも補助輪が必要だろう。好きにするが良い。さぁ、始めろ!! お前の手番だッ!」
【戦人】「事件現場の再構築から始める。……ワルギリア、さっそく頼む!」
【ワルギリア】「最初の遺体発見は紗音から。屋敷内の1階客間より発見されました。扉と窓は施錠され、密室を構成していました。」
【戦人】「……ベアトに説明要求。密室の定義を再確認。」
【ベアト】「ふむ。密室の定義は、内外の出入りが一切隔絶された室内を指す。当然、内外からの一切の侵入・脱出は愚か、干渉もできない。それは包括的に、隠し扉の否定、外部干渉の余地一切の否定を含む。……以後、この定義を“ベアトリーチェの密室定義”と呼称する!」
【戦人】「細部確認。……外部干渉の余地の定義とは。」
【ベアト】「外部から、釣り糸やら長くて細い棒やら等を使って直接的に干渉するあらゆる余地だ。つまり、扉や窓にはそのような小細工を混ぜる隙間すらもないと判断せよ。」
【戦人】「どうかな? 仮に隙間がなくても、リモコンなどの電波は干渉できるはずだぜ?」
【ベアト】「良かろう。電波など、それに類する遠隔操作技術も干渉不可能であると定義に追加する。」
【戦人】「客間には内線電話もあるぜ。それと連動した仕掛けは遠隔操作にはならねぇのか?!」
【ベアト】「電話はすでに使用不能だろうが。…あぁ、もう面倒だ。それも含めようぞ。直接、間接のあらゆる方法で、室外よりの密室内への干渉は不可能だ。」
【戦人】「声やノックは? 密室に入らずに外部から干渉できるはずだぜ?」
【ベアト】「………密室であっても、声を掛けることやノックは不可能ではなかろう。意思疎通の可否は密室の定義に反しない。」
【戦人】「つまり、外部との伝達方法までは途絶していると定義できないんだな?」
【ロノウェ】「そうなります。」
【戦人】「了解したぜ。………紗音ちゃんの客間はその“ベアトリーチェの密室定義”を満たすってんだな?」
【ベアト】「その通りだ。」
【戦人】「………密室定義、了解した。ワルギリア、続けてくれ。」
【ワルギリア】「はい。………紗音の遺体はマスターキー1本を所持。発見した親族がこれを回収。」
【戦人】「ベアトに復唱要求。今回のマスターキーの本数は?」
【ベアト】「…ふ。前回と同じ。各使用人が1本ずつで5本だ。
【戦人】「ってことは、密室にはまだならねぇってわけさ。マスターキーはまだ4本余ってる。紗音ちゃんを殺害後、4本の鍵の何れかで施錠するだけの話だ。」
【ロノウェ】「その通りでございます。………そして、見付かったのはマスターキーだけではありませんよ。」
【ワルギリア】「はい。……遺体のすぐ傍らに、紋章入りの洋形封筒が。中に手紙はなく、2階客室の鍵が入っていました。」
【戦人】「……2階客室の鍵…。それは、2階客室の扉を、マスターキー以外に唯一開けることができる鍵だ、という定義でいいのか?」
【ベアト】「うむ。問題ないぞ。そして、マスターキーと違い、その1本しかない。」
【ロノウェ】「つまり、ある特定の部屋を開けるには、マスターキー5本に加え、その1本しかないというわけです。」
【戦人】「……これはつまり、次は2階客室へ行け、というメッセージなのか? となると、大人たちは2階客室へ移動したな?」
【ワルギリア】「はい。2階客室の扉もまた施錠され、魔法陣が描かれていました。……親族は紗音の遺体脇より入手したその鍵によって開錠。室内にて熊沢の遺体を発見。室内は密室。定義は“ベアトリーチェの密室定義”に準拠。
 熊沢はマスターキー1本を所持。これを親族が回収。そして紗音同様に遺体の傍らに洋形封筒を発見。中には3階控え室の鍵が。親族は3階控え室へ移動。」
【戦人】「そして3階控え室の扉にも魔法陣で、さらに施錠されていて?」
【ワルギリア】「はい。室内にて郷田の遺体を発見。室内は密室。“ベアトリーチェの密室定義”に準拠。郷田はマスターキー1本を所持。これを親族が回収。そしてこれまで同様に紋章入りの洋形封筒を発見。中より2階貴賓室の鍵が。親族は2階貴賓室へ移動。」
【戦人】「………何なんだこいつは…? てめぇ、何を企んでやがる…?」
【ベアト】「くっくっくっく。そう睨むほどのものでもあるまい? 密室ではあるが、それを開けるマスターキーはまだ何本もあるではないか。律儀にマスターキー以外の固有の鍵も進呈している。」
【戦人】「……気に入らねぇ展開だぜ。……だが展開は読めてきた。この調子で6人、続いてくってわけか?」
 蔵臼と夏妃の視点では、金蔵の死体が出ている時点で容疑者が使用人たちに絞られる。彼らの狂言を疑っているものの、その意図を図りかねている。
【ワルギリア】「はい、その通りです。2階貴賓室にて源次の遺体を発見。マスターキー1本を回収。地下ボイラー室の鍵を発見。地下ボイラー室へ移動。地下ボイラー室にて金蔵の遺体を発見。礼拝堂の鍵を発見。礼拝堂に移動。礼拝堂にて嘉音の遺体を発見。マスターキー1本を回収。1階客間の鍵を発見。……以上で6名の遺体発見の再構築を終了します。」
【ロノウェ】「追記です。金蔵の遺体の傍らで発見された洋形封筒には、礼拝堂の鍵と一緒に手紙が同封されておりました。手紙の内容はすでにご確認の通り。碑文の謎を解くよう改めて催促する内容です。」
【戦人】「………ってことは。……何だよこれ。最後の嘉音くんのところに、一番最初の紗音ちゃんの客間の鍵があったってことは…。密室が6つ、数珠繋ぎになってるってことなのか?」
【ベアト】「その通り! 6つの密室が数珠繋ぎになっておる。それぞれを開錠する鍵は、それぞれ隣り合う密室によって閉じ込められている。
 つまり、6つの密室が1つの巨大密室を形成し、その中に全てのマスターキーと、固有鍵全てを閉じ込めてしまっているのだ…!
 ちなみに、6つの部屋の扉や窓はいずれも普通。オートロックのような、鍵を使用せず施錠できるような仕掛けは存在しない。くっくっくっく、どうだよォ、綺麗なモンだろおぉおおおぉ??? うっひゃっひゃっひゃああ!」
【ロノウェ】「ですからお嬢様、その辺りに品がございません。」
 ロノウェがたしなめると、ベアトは悪びれた様子もなくペロリと舌を出す。
【ベアト】「うっひっひっひ、悪ぃ悪ぃ。ついつい戦人と遊んでると上機嫌になってしまうのでなァ。くっくっく、それで戦人ぁ? お前の指し手はどうなんだよぅ? 特に思いつかないんなら、妾が山羊たちに遺体を運ばせて、魔法にて全ての扉を封じるところを特別に見せてやってもいいんだぜぇえぇ?」
【戦人】「好きにしろ。お前の主張する“魔法説”として拝聴しとく。だが、俺はお前の主張とはまったく異なる“人間説”を、お前の主張に一切干渉されることなく主張することができる。
 それはつまり! お前の戯言に耳を貸す必要は何もないってことさッ!! 好きに魔法の杖でも振るって七色の魔法で扉を閉めるところでも実演してろってんだ。隣でその内、ガマの油と万能包丁の実演も始まるぜ!
 ワルギリア、事件現場を再構築! 粗を探すぜ!! 全員は間違いなく死亡してるのか? 誰かが死んだふりしてんならこんなの密室でも何でもねぇ!」
【ワルギリア】「南條は全員の死亡を確認。ただし誤診率の否定は“悪魔の証明”により不可能。……つまり、誰かが生きているのを南條が見逃した可能性をゼロにすることはできません。」
【戦人】「来たな、“悪魔の証明”か。だが、そいつをぶった切る剣は存在する…!」
【ベアト】「な、何だよォ、あいつら。……妾を除け者にして楽しそうだなぁ。妾は対戦者であるぞ…? 少しは構えと言うのに…。」
【ロノウェ】「本来、チェスを対戦するのに当たり、相手とのコミュニケーションは不要です。……お嬢様は指し手以外のコミュニケーションによって煙に撒いていた。…それに惑わされないということはつまり、こういうことなのでしょう。」
【ベアト】「……………むぅ。……なぜだか納得が行かぬ。」
【ロノウェ】「お嬢様はチェスを挑んでいるはずではないのですか?」
【ベアト】「それもそうだが。……むぅ!」
 ベアトリーチェは、理由もなく面白くない!という表情で頬を膨らます。
【ワルギリア】「警察未介入の現場につき、人間側からの検証は限界があります。厳密な死亡確認の為、復唱要求することを推奨します。」
【戦人】「よっしゃ、ここで叩くぜ、復唱要求だッ!! “被害者6人は全員死亡している”!!」
【ロノウェ】「……お嬢様、復唱要求が出ておりますよ?」
【戦人】「おいッ、ぼんやりするな!! 復唱拒否か?! ここからが戦闘開始だッ!!」
【ベアト】「ふぇッ?! おわったったったぁ!! くっくくく、済まぬ済まぬ、いいぞ応じるぞ。
 金蔵、源次、紗音、嘉音、郷田、熊沢の6人は死亡している!
【戦人】「何をぼんやりしてるんだか。…よし。まずはひとつ引き出したぞ。死んだフリって王道はまず否定されたな。」
【ベアト】「くっくっく! もはや手加減などせぬぞ、好きなだけ来るが良い。次々斜め切りにしてくれるわ!」
【戦人】「続けて復唱要求! 6つの部屋には誰も隠れていない! 俺たちが認識していない人物の存在を否定してみせろ!」
【ベアト】「応ずる。6つの部屋には誰も隠れていない!」
【戦人】「よし。これで6人だけの缶詰は確定だな。そして死んだフリもない。」
【ベアト】「……どうするどうするゥ? 人間にはもはやどうしようもないであろうがぁ。大人しく妾がステキな魔法で鍵を自由自在にするところを跪いて拝見しろよぉおぉ?」
【戦人】「寝言言ってろ。さらに復唱要求だ。“6人の死亡は即死である”!」
【ベアト】「即死ぃ? ほぅ、どういう意味だ、それは?」
【ワルギリア】「……犠牲者の1人が瀕死の状態で部屋まで逃げ延び、内側から施錠して密室を作った後、息絶えた可能性もある、ということですよ。」
【ロノウェ】「…ふ。密室殺人の古典ですか。致命傷を与え、しばらく後に死ぬことを確実とした場合。犠牲者が殺人者から逃れるために部屋に篭り、施錠後に死亡したなら、予期せずして密室が構成されることはありえます。」
【ワルギリア】「その可能性を否定するには、赤き真実にて“6人は即死であった”ことを宣言する必要がありますよ。」
 皆が他の部屋を回っている間に嘉音に変装し、礼拝堂に先回りすることができる。
 紗音と嘉音はただの死んだフリだが、ベアトの理屈上は、彼らの人格が密室内にて殺されたということにしている。
【ベアト】「くっくっくっく! 良かろう良かろう、赤き宝刀にて切り伏せよう! 6人は即死であった! 即死とはつまり、攻撃を受けて即座に行動不能になったという意味だ。
 まぁ、完全な意味での死亡には数秒、もしくは数分をかけたかもしれん。だが何れにせよ、自らの意思で何かの行動を取ることは完全に不可能であった。その意味において、即死と断言できる!」
【戦人】「…ここまでは古典の確認だ。お前との密室対決はここからだぜ…? 犯人は内側にいないなら、外にいる。そして外からどうにかして彼らを殺したんだ。」
【ベアト】「くっくっくっく! 何を血迷うか。“密室=外部からの殺害は不可能”であろうが! ゆえに魔法殺人しかありえない!」
【戦人】「いいや違うね。“殺人は現に起こった=密室ではない”が正しいのさ! お前がどう煙に撒こうと、これは断じて密室じゃない! 密室に見えるだけの、紛い物だッ!」
【ロノウェ】「しかし戦人さま。室内には犠牲者しかおらず、それ以外の人物は室内には存在しておりません。そしてお嬢様の密室定義により、外部からの遠隔殺人も明確に否定されておりますよ?」
【戦人】「待ちな。遠隔殺人の定義は広大だぜ? 何も、部屋の外から釣り糸を引っ張って、室内の犠牲者を絞め殺したとか、そんなのばかりじゃねぇ。例えば、……トラップだって立派な遠隔殺人だ!」
【ベアト】「トラップぅ? ほぅ、それは何か!」
【戦人】「一例だが、彼らに予め決められた部屋に入り、内側から施錠して自ら密室を作り出すように指示を出す。そして室内には、彼らがそれとは知らないトラップが仕掛けられており、それによって彼らは殺された。……どうだッ?! これなら矛盾は生じない!」
【ワルギリア】「……問題ありません。現状と整合します。」
【ロノウェ】「…当方も問題ありませんよ。お嬢様の密室定義にも抵触しません。」
【ベアト】「くっはっははははははははは?! 何だそのマヌケな推理はァ?! 何れの室内にも不審なものは発見されなかったぞ? そのトラップはどのような形状なのか?! どこに隠してあってどう作動したというのか?! それを6人分、客間、客室、控え室、貴賓室、ボイラー室、礼拝堂の6つで説明してみせよ、どうだぁ? 出来まいッ?!?!」
【戦人】「反論拒否ッ!! それを説明する必要はねぇ!! にもかかわらず俺の主張は揺るがない!!」
【ベアト】「なッ、何だとぉおおおぉおぉ…?!?!」
【ワルギリア】「ベアトリーチェ、“悪魔の証明”ですよ。そのトラップの形状を説明できないことが即ち、トラップ否定の理由にはなり得ない!」
【ロノウェ】「…………うまい。強引ながら見事な一手です。」
【ベアト】「…くッ!!! こいつ、すっかり手馴れおって……!!」
【戦人】「チェック。発見できていない殺人トラップXにより、この密室殺人は成立可能だ。」
【ベアト】「……あ、赤き真実にてそのチェックを斬る!! 6人はトラップで殺されてはいない!」
【戦人】「トラップの定義は?!」
【ベアト】「う、…えっと、…あれだ! 犠牲者が勝手に引っ掛かって発動するヤツとかだ。あー…、それだけじゃない! リモコンで発動するとか、タイマーで発動するとか、……そういうの諸々全部含めたヤツだ!」
【ロノウェ】「ぷっくっく…。仕掛け人が直接関与することなしに殺人を遂行できる全ての仕掛け、という定義でよろしいかと思いますよ。」
【ベアト】「どッ、どうだ?! 切り返したぞッ!! 人間にこの密室が破れて堪るか!!」
【戦人】「………………。…………お前も、勝つ為に必死だな。」
【ベアト】「…何ぃ…?! どういう意味だ…?」
【戦人】「……お前は自分の存在を俺に認めさせようと必死に戦ってる。今まで俺は、一方的にお前に弄られてるだけだと思ってた。
 …しかし実際は違った。お前もまた、俺の切り替えしに必死に抗い、自分の存在を示そうと戦っ;ている…! 俺はよ、…今ようやく実感してるぜ。」
 これは、俺が屈服するか否かを問う、俺に科せられた拷問じゃない。
【戦人】「俺とお前の、対等な戦いなんだ!! ……さぁて面白くなって来たぜ? 6人は密室で死に、部外者は中に誰もいない。そして外部からはちょっかいは一切出せず、トラップもないと来た。これまでの俺だったら、これはもう魔法の仕業しかありえねぇだろうと思うだろうよ。
 ……このタイミングで、お前におかしな魔法を実演されたら、そりゃあ屈服もしてただろうさ。………これがお前の得意戦術だ。…俺の指し手を全て迎撃し切り、俺が万策尽きたと膝を付く、心の防御力が弱るその瞬間に、これ見よがしにおかしな魔法を見せ付けて一気に勝負を持っていく!!」
【ワルギリア】「………昔から短気な性分で。勝ちの目が見えると焦る悪い癖は相変わらずです。」
【ロノウェ】「ぷっくっく。お嬢様はお預けができない性分ですから。」
【ベアト】「えぇいうるさいうるさいぞ!! 戦人の手番であるぞ?! そなたが進めたトラップの駒は妾が赤にて斬り捨てた! 次は何を繰り出すのか? 存分に来るが良いッ!!」
【戦人】「おうッ!! トラップまで潰され、一見、こいつは完全な密室犯罪に見える。……だからこそここで、チェス盤を引っ繰り返すぜッ!!」
【ベアト】「…来たな、そなたの得意技よ! 何をどう引っ繰り返せるというのか?! 見せてみろぉおおおお!!」
【戦人】「あぁ、見せてやる!! 如何にして密室の中の6人を外から殺すかを考えるんじゃない! あぁ、駄目だ駄目だ、全然駄目だッ! そうさ、どうやって外から殺すかじゃない。どうやって中で死んで密室にするかなんだ!
 ……そうさ、これが答えなのさッ!! 犠牲者6人の中に犯人が含まれていたと考えれば、この密室は極めて容易に説明できる!」
【ベアト】「なッ、何ぃいぃ?! 馬鹿な! その6人は死んだとはっきり妾は赤で言ったはず……!!」
【戦人】「死んだのは6人。犠牲者は殺された5人。もう1人は、自殺だったと仮定すればこの密室は打ち破れるッ!!」
【ロノウェ】「……確かに。犯人が最後の密室に自ら入って施錠し、自らの命を絶てば、この連鎖密室は成立します。」
【ワルギリア】「犯人の自殺。…普通では考えられない一手ですが、考えられないから存在しない、は存在しない。……そしてその動機を立証する義務は彼にない。魔女とのチェスでしか使えない、実に力強い一手…!」
【ロノウェ】「……まぁ、動機がないとは言い切れませんね。…例えば、金蔵は余命があとわずかと宣告されています。残りわずかの生を惜しまず、自らの死をメッセージとした、…という動機付けも不可能ではないかもしれません。………お嬢様。こちらの手番ですよ。」
【ベアト】「う、…うむ! まさか、死者の尊厳を踏み躙ってまで犯人を生み出してくるとはな…! こやつ、血も涙もない男よ…!」
【戦人】「死者を犯人に仕立て上げる。…この畜生にも劣る一手は、前回のゲームでお前が嘉音くんを陥れた一手だ。……この手でお前に一矢報いることが、ゲームは異なるが、あの時の嘉音くんへの手向けだ。
 今ッ、俺はあの時の嘉音くんの無念を晴らしたッ!!」
【ベアト】「く……、くぅううぅぅ……ッ!!」
【ワルギリア】「ここで手を休める義理はありませんよ。全員の死因が自殺でないことを確認すべきです。復唱の要求を推奨します。」
【戦人】「あぁ!! だが、自殺なんて甘い言い方じゃ追い詰められねぇぜ!! ベアト、こいつで詰めだ!! 復唱要求ッ!! “6人は全員他殺である”!!」
【ロノウェ】「…………………これは痛いですね。」
【ベアト】「うぐッ…!! ……………………く、ぉぉ…!」
【戦人】「あぁん? どうしたよ、6人が殺されたんだろ?! もっとも単純な一番最初の前提の確認でしかないぜ? 復唱できねぇのか?!」
【ベアト】「ふ、……復唱を拒否する。…り、理由は特にない。」
【戦人】「ここでの復唱拒否はリザインと同じ意味だぜ?!
 チェックメイト!! 6人の中に犯人がいて、密室構築後に自殺を図った! 以上だッ!!」
【ベアト】「…ま、待て! いやその、……言う言う! 望み通り赤を行使するぞ! 6人は誰も自殺していない! どうだ?! これで満足かッ…?! くっくくくかっかかかかか! 切り返したぞ、切り返したッ!!!」
【戦人】「ちッ、……何だよ、言えるじゃねぇかよ…。…だがおかしいな。何であんなに狼狽してるんだ…?」
【ベアト】「……きき、気のせいよ。妾も今回は必死でな? そうそう心にゆとりもないのだ。深く気にするでない…。」
【ワルギリア】「……要求した復唱が改ざんされていますよ。誤魔化されないように。」
【ベアト】「………………くぅぅぅぅぅうぅう…。」
【ロノウェ】「ぷっくっくっく…。駄目みたいですよ、お嬢様。」
【戦人】「そ、そうか! “6人全員他殺”とは言ってない。“6人全員自殺に非ず”とこいつは言い換えた! ということは、他殺でも自殺でもない人間が混じっているということだ。………ああぁあぁあ、わかったぜわかったわかったッ!! これが真相だ!」
【戦人】「6人の中に潜む犯人Xは5人を殺害後、密室を構築した。……そしてそこから何かの方法で逃れるか、隠れるかするつもりだったんだ。
 ところが、事故ったッ!! 本人すらも想定しない理由により事故死し、自ら望まない密室殺人を構築したんだ!! これで決まりだぜベアトリーチェ!! チェックメイトだ!!!」
 病死の金蔵を「即死」と言って通るかは際どいところであるため、「自らの意思で何かの行動を取ることは完全に不可能であった」という意味だと補足している。
【ベアト】「く、……くそぉおおッ!! その程度で妾が追い詰められると思うか!! この程度でリザインを叫ぶものかッ!! その愚かなチェックメイト、妾の赤き宝刀にて何度でも叩き斬ってくれようぞ!! 6人の中に事故死は、
 むがッ?! ふががが、はにをふるッ、ふがふが!」
【ロノウェ】「失礼。当方、ここで作戦タイムを所望いたします。しばしのご猶予をお許しください。」
【ワルギリア】「……正当な要求です。問題ないかと。」
【戦人】「おう!! 許可するぜ! 俺も今までさんざんそいつをもらってる。今度はお前がそれを使う番だぜ…!!」
【ロノウェ】「ありがとうございます。さぁ、お嬢様、……こちらへ。そして心の中で静かに数字を百数えましょう。」
【ベアト】「ふがふがふが!! ふのへへ、ふのふぇー!! ふがー!」
 狼狽し、興奮しきったベアトの口を、ロノウェは急に手で覆い、勝負を中断させた。そして作戦会議と称してベアトを奥へ引き摺っていく…。
【戦人】「……くそ。あの悪魔の執事め。ベアトが熱くなってる今が追い込む絶好のチャンスだったんだが…。」
 ベアトは普段、優雅そうに振舞ってるヤツだが、実際は、案外と短気で怒りっぽい。……普段の知性は、興奮し出すと鳴りを潜める。
【ワルギリア】「ロノウェは冷静ですね。…おそらくあの子に頭を冷やす時間を与えたのでしょう。……あの子はあなたのチェックを外すことに意地になり、いくつかの大駒を易々と見捨てようとしていた。…第一の晩など、所詮は前哨戦。……あの子は引き際を誤り掛けた。」
【戦人】「……つまりどういうことだよ。俺のチェックメイトは成立したのか、しないのか。」
【ワルギリア】「あの子は赤を宣言し掛けていました。チェックメイトにはまだならないでしょう。……しかしおそらく。頭を冷やしたあの子は、リザインを宣言するに違いありません。」
【戦人】「…まさか。あの負けず嫌いがか…?」
【ワルギリア】「えぇ。負け戦は一秒でも早く兵を引き上げ、如何に損失を減らすかが肝要です。……難しいのは、それが負け戦であるかどうかを計ること。…あの子の執事は、それを冷静に判断したようです。」
【戦人】「……やれやれ。つまり、あと一息のところで逃げられたってわけだな。……びし!っと、俺がチェックメイトを決めてトドメを刺すって流れには、簡単にはならねぇんだな。」
【ワルギリア】「でも、これはあなたの勝ちだと判断して良いでしょう。向こうはぎりぎりで大きな損失を踏み止まったようですが、それでもかなりのダメージを与えたに違いありません。……その傷の深さは、あの子の狼狽ぶりから充分理解できたはずですよ。」
【戦人】「だな。いっひっひっひ、これ以上いじめたら泣き出しちまいそうだぜ。」
 そんな話をしていると、神妙な顔をしたベアトとロノウェが戻ってきた。…いつもの不敵そうな笑みはないが、もう頭に血は上ってないようだった。
【戦人】「………よう。お前の手番だぜ。次の一手は決まったかよ?」
【ベアト】「リザインだ。……この場はお前に勝ちを譲る。」
 ベアトは淡白にそう告げる。笑いたくば笑えというような達観も感じられた。……何となく興醒めして、追い討ちをする気も薄れた。
【戦人】「ま、お前がリザインしたってのは、結局のところ、俺の説もお前の説も、互いが相手を否定できないイーブンって意味だからな。負けってよりは引き分けって意味で受け取っとくぜ。」
【ベアト】「……気持ち悪い同情などいらぬわ。この場は妾の負けだと言っておる。…そなたには雨に濡れた犬を、さらに棒で叩く趣味があるというのか。」
【戦人】「ねぇよ。お前と違ってな。」
【ベアト】「…………………………。」
 俺が敗色濃厚な時はさんざん嘲りまくってくれたくせに、自分が逆になるとこのザマと来た。何だか卑怯なヤツだなとは思うが、そこは勝者の貫禄で飲み込んでおくことにする。
 ……ベアトがリザイン。それだけが第一の晩の結果だ。
 俺の、“6人の中に犯人がいて、その人物は事故死した”という一手に対し、ベアトリーチェはそれを受け切れなかった。
 …いや、多分、受けられたのだろうが、何らかの戦略的判断により、そこで投了したわけだ。勝ったというよりは、あと一歩のところで逃げられた、という気持ちの方が強い…。
 魔女とのチェスは、説明不要のXという駒だけで戦いを進められる。“悪魔の証明”のお陰で、俺はいくつでもおかしな架空を生み出し、議論を戦わせることができるわけだ。
 …しかしそれは、魔女とのチェスにおいてだけの話だ。……俺たち人間の世界では、そんな抽象的な話では物事は説明できない。
 今回の第一の晩の6つの連鎖密室。…確かに人間には可能かもしれない。ベアトはそれを全て否定はしきれなかった。
 しかし、誰が、何の為に、そして実際にはどうやって犯行に及んだのか、さっぱり見当も付かない…。勝っておいて何だが。……いっそ、人間には不可能だと、ベアトリーチェに言い切られた方がなぜかすっきりしたような気がした。
 俺はXなどという抽象的な駒で誤魔化すが。…………何か、知ってはならない不気味な意思が、…確かにこの屋敷の中には満ちていることを否定できないのだ…。
 「6人の中に事故死はいない」と言ってしまうと、「では病死か?」と追求され、金蔵の件がバレてしまう恐れがある。

黄金郷の鍵
10月5日(日)09時00分

ゲストハウス・ロビー
 篭城の真の敵は、姿の見えぬ犯人への恐怖より、それを延々と持続させることができるかどうかの方かもしれない。
 真里亞は退屈なのでテレビを見たいと騒ぎ出す。テレビはロビーにないため、2階のいとこ部屋へ戻ることにした。
 真里亞だけをひとりぼっちにしたくない思惑もあるのだろう。大人たちは、子どもは全員、2階のいとこ部屋にいるようにと言い渡した。
 婚約者を失い傷心した譲治は、それに抗う気力もなく、いとこたちを率いて2階に上がった。
 南條は初め、ロビーで本を読んでいたが、親族たちが内々にキナ臭い話をしたがっているらしい様子を察知すると、「お邪魔なようですな…」と言い残し、2階の自分の部屋へ戻っていった。
【留弗夫】「………腹ぁ、減ったな。ぼんやりしてると、それ以上に眠気が来るぜ。」
【楼座】「無理もないわよ。私たちは昨夜、寝てないんだから。」
【蔵臼】「…きっちり24時間をここで篭城することになるだろう。無理をせず交代で仮眠する方が賢明かもしれんね。」
【夏妃】「そうですね。私と主人がここにおりますので、辛い方は無理せずお休みになって下さい。」
【絵羽】「相手はそれを期待してるかもしれないわよ? この人数では崩せなくても、いくらか減ったら、その隙を突いて来るつもりかも。」
【霧江】「ここには7人いるわ。2人ずつ交代で3時間くらい休むとか。……明日の朝は遠いわよ。今はまだ体力があるからいいけど、今夜は辛そうね。」
【秀吉】「そやな。眠いもんはおるか? 無理せんと休んでや。」
 秀吉が、先に寝たいのは誰かと一同を見回すが、立候補者はいなかった。
 …皆、眠いのは同じだが、今すぐ寝られるほどの豪胆さはない。……眠いのと同じくらいに、未知の犯人への恐れがあるのだ。
【秀吉】「……おらんかいな。ま、みんな、無理はせんでな。」
【絵羽】「眠くなったらその時に考えるわ。……確かに眠いけど、今はそういう気分じゃないの。」
 絵羽はそう鋭く言うと、ボイラー室で見付かったベアトリーチェからの2通目の手紙を読み返した。
 ベアトリーチェは2通もの手紙を送りつけ、繰り返し、碑文の謎を解いてみろと催促している。そして、解ければ財産も家督も全て譲るとまで挑発している…。絵羽は、手帳を取り出すと、碑文を写したページを開いた。
【霧江】「…………例の碑文、ですか?」
【絵羽】「えぇ。……犯人の言いなりになるのは癪だけど。どうせ時間は腐るほどあるわ。退屈凌ぎには丁度いいと思って。」
【蔵臼】「…悪くない時間潰しだ。兄弟で仲良く挑戦してみようじゃないか。」
【霧江】「……借りてもいいかしら? もう少し大きく書き直すわ。夏妃さん、もう少し大きな紙はないですか?」
【夏妃】「使用人室に紙くらいあるでしょう。取ってきます。」
 すぐに夏妃は、使用人室からB4ほどの無地の紙を持ってきた。
 霧江は絵羽の手帳を借りると、そこに碑文を書き出し、テーブルの上に置いた。それを一同はさっそく覗き込む。…自然と人垣が出来た。
【秀吉】「話には聞いとったが。…こらぁ、難儀な謎やなぁ。何を言っとるのか、さっぱりや。」
【楼座】「私も一時、がんばって挑戦したんだけれど、同じくさっぱりだったわ。」
【留弗夫】「わかってたら、のこのこと金策には来ねぇさ。何しろ10tの黄金だからな。」
【霧江】「…………真面目に読むのは初めてなんだけど。……大雑把に言って、3部分に分かれてるのかしら?」
【蔵臼】「…昨夜から思っているが、霧江さんはだいぶ頭が切れるようだ。ひょっとすると、私らでは解けなかった謎を、いとも簡単に解いてしまうかもしれんね。」
【留弗夫】「あぁ。霧江は鋭いぜ。……変な先入観を与えない方が、面白い捉え方を出来るかもしれないな。」
【絵羽】「………そうね。霧江さん。率直に、この碑文を読んだ感想を聞かせてくれないかしら。」
【霧江】「多分、皆さんのお役には立てないと思うわ。みんな買い被りすぎよ。」
【留弗夫】「いやいや、思いつきや適当でいいんだ。お前の話を聞かせてくれ。……俺が悩んだ時は、いつだってお前のヒントが助けてくれたんだからな。」
【霧江】「あら、役に立ってたのね。今更だけど嬉しいわ。」
【留弗夫】「よせやぃ、いつも感謝してるぜ?」
【楼座】「仲がいいのね。羨ましいわ。」
【絵羽】「ぜひ私たちにもヒントを授けてほしいわ。いいのよ、どうせ時間潰しなんだから、リラックスして?」
 霧江は、妙なところで祭り上げられてしまったと困惑する。…だが、時間はいくらでもあるのだ。これがある種の暇潰しであることを理解し、その役を買って出ることにする…。
【霧江】「……きっと見当外れなことを言っちゃうと思うけど、…じゃあ、私の考えで進めてみるわね。」
【蔵臼】「うむ。……最初に言った、大雑把に言って3部分に分かれる、とはどういう意味かね?」
 えっと、…そのままの意味よ。碑文は大体、3つのパーツに分けることができると思うの。
 まず最初の“そこに黄金の鍵が眠る”までの5行。ここまでが鍵の在り処を示した最初の部分。
 そして第十の晩までの11行が、黄金郷そのものの場所を示した部分。
 そして残りの6行は、黄金郷に辿り着いてからの部分ね。
【夏妃】「そうですね。鍵と、黄金郷。そして黄金郷の宝の話の3つに区分けできますね。」
【蔵臼】「その程度なら、我々だって把握しているさ。鍵と扉、そして宝を示す3つの区分だ。」
【絵羽】「…兄さん、余計な口を挟まないで! 霧江さんに自由な発想で発言してもらうのよ。」
【留弗夫】「霧江。続けてくれ。……俺たちもそれについては同じ認識だ。それで?」
【霧江】「……最初に出てくる“懐かしき故郷”というのはどういう意味なのかしら。普通に考えたら、お祖父さまの故郷を指すのかしら? 懐かしきとわざわざ断るところを見ると、とても思い入れのある故郷のように思えるわね。……お父さんは小田原の出身だったかしら?」
【絵羽】「………生まれは確かに小田原だけど、お父様が懐かしむ故郷は、多分、小田原のことじゃないわ。それについては、多分、兄弟たちは全員、同じ場所で認識してるわね。」
【楼座】「…そうね。多分、小田原じゃないわね。聞いた話では、とても楽しい少年時代だったそうよ。」
【留弗夫】「はっはは。…親父の人生で最大の不幸は多分、右代宮家の当主にさせられたことだろうよ。」
【蔵臼】「……恐らくな。親父殿は右代宮家の当主になど、本当はなりたくなかったのだ。」
【霧江】「それはどこなのかしら? そしてそこに鮎の泳ぐ川は?」
【絵羽】「……当時はあったんじゃないかしら。今はだいぶ開発が進んだでしょうから、鮎はいなくなってるかもしれない。お祖父さまが少年時代の当時に鮎がいた、と言われると非常に調べるのは困難ね。」
【蔵臼】「川も一本ではないだろう。地理的な意味では我々もそれぞれにかなり調べたつもりだ。……絵羽に至っては、現地まで直接調べに行ったんじゃないかね?」
【絵羽】「あくまでも旅行としてよ。……でも、町並みは当時と完全に変わってる。何しろ戦争を挟んでるのよ? お父様がどこに住んでいたのかさえ、正確な場所の把握は不可能よ。…多分、お父様が自ら現地へ足を運んでも、今となっては、どこに住んでいたか特定できないでしょうね。」
【留弗夫】「あちらさんもずいぶん目覚しく復興したって話だからな…。」
【霧江】「…………鮎の川、と言われて、はっきりとした地名は出ないの?」
【留弗夫】「そりゃあなぁ。何しろ、鮎だぜ? 水が綺麗な川に住むってんだから、それこそ心当たりの川は無数だったろうさ。親父が無邪気に鮎釣りをした小川も、その後の開発で埋められたりもしただろう。戦前の地図、もしくは戦前の現地に詳しい人でもいりゃあ話は別だが…。」
【霧江】「……多分、そういう話ではないわ。」
【蔵臼】「どういうことだね…?」
【霧江】「………懐かしき、故郷を貫く鮎の川。黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ。…ここまでの2行で、一度改行してるのよね。…この2行だけで、何かの提示が成立するのよ。その何かに基づいて次の3行が続くんじゃないかしら。」
【秀吉】「何かの提示って何やろな…?」
【霧江】「……わからないわ。とにかくその2行だけで、どの川かわからないとか、そんなあやふやじゃなくて。はっきりとこの“川”という特定ができるのよ。
 ……ひょっとすると、水の流れる“川”ではないかもしれないわね。…“鮎の川”は何かの比喩かもしれない。……鮎という言葉にはどんなイメージがあるのかしら。」
【秀吉】「………鮎はシャケみたいなモンや。淡水魚だが、生まれてすぐは海に出るんや。そして大きくなると川に戻ってきて生活し、そこに産卵して生涯を終えるんや。ま、一度は家を出るが、大きくなって戻ってきて卵を産むってな辺りは、一族繁栄的なイメージがあるかもしれんな。」
【留弗夫】「へー。淡水魚なのに海水でも生きられるのかよ。知らなかったぜ。川魚だから海には出られないと思ってたぜ。」
【夏妃】「鮎は香りが良いことから香魚とも呼ばれるとか。私は食べたことがありませんが、塩焼きにするととてもおいしいそうですよ。」
【秀吉】「なんや、夏妃さん! 鮎の塩焼き、食ったことあらへんのか! うまいでぇ! 今度、ご馳走したるわ!」
【蔵臼】「庶民の料理だ。君の口には相応しくない。」
【楼座】「……これは私の妄想なんだけど。…実は私、鮎の川のイメージから、家系図を疑ったことがあるの。鮎は一度海へ出るけど、また生まれた川に帰ってきて産卵するんでしょう? ………まるで私のことみたいだなって思って。」
【絵羽】「……そうね。今だから白状するけど、私もあなたと真里亞ちゃんのことを指してるんじゃないかって疑ったことがあるわ。」
【蔵臼】「なるほど。……川を下れば、やがて里あり。家系図を下ってくと見付かる“里”は、真里亞の名に含まれる“里”の字だけだ。」
【楼座】「でしょう?! ……でも、みんなも知っての通り、お父様は真里亞のことを毛嫌いしてて、ほとんど言葉を交わしたこともない。それに、お父様はかつて真里亞に全然違う名前をつけるように言っていたの。それを私が勝手に真里亞にした。お父様はそれをとても怒っていたわ。……その経緯を考えると、財産や家督を引き継ごうという大切な碑文に、真里亞の名を引用するとはとても思えなくて。」
【霧江】「真里亞ちゃんに碑文を読ませたことは?」
【楼座】「え、えぇ。もちろんあるわ。でも、さっぱりみたいだった。……魔女の復活の儀式、みたいな相変わらずのオカルト話ばかりで、さっぱりだったわ。」
【蔵臼】「…………親父殿と真里亞の接点。…確かに両者にオカルト趣味はあるが、まったく交流はなかった。…私も、真里亞のことを指しているとは思えんね。」
【霧江】「……懐かしき、とわざわざ冒頭に付けているのが私は気になるわ。……さっきみんなが言っていたように、お父さんにとって右代宮家の当主となることが不本意だったとしたなら。それを懐かしんだりするかしら。…それは右代宮本家を示す小田原ではないと思うの。
 ……私には、この“懐かしき”という冒頭の一語が、お父様にとってとても大切な思い出深い場所を示しているに違いないと信じているんだけれど。」
【留弗夫】「……………ふーむ。…まぁいいさ。当時の地図もさっぱりだから特定は困難だが、とにかく、親父の少年時代の故郷に鮎が泳げる川は何本かあったろうさ。」
【絵羽】「水の流れる川なら、ね? それから? 続けてよ霧江さん。」
【霧江】「……川を下ればやがて里あり、からの3行はちょっとよくわからないわ。…これは多分、鮎の川の2行に連結してる。鮎の川の正体がわかれば、多分、自然と意味が繋がるものなのよ。…それがわからない限り、この3行を先に解こうとしても無駄でしょうね。」
【留弗夫】「“鮎の川”の正体がわからねぇとお手上げか…。しかも文字通り、河川を指した保証もねぇと来た。…ったく。鮎ってのは何なんだ? 親父の好物か? それとも何か特別な意味があるのか? 深読みしても仕方ねぇのか?」
【絵羽】「…ミクロとマクロの2つの視点を持たないと、視野が狭まるわね。……深く考えすぎないで、魚が泳いでる川、あるいは流れ、…下るもの、上るもの、そのくらいの抽象的なイメージにしておいた方が発想が柔軟になっていいかもしれないわ。」
【楼座】「そして、“鮎の川”の答えが、続く3行を経て“黄金郷の鍵”に辿り着く…。」
【霧江】「こうして考えると3つの区分、というのは間違いかしら。正確には4つの区分ね。……“鮎の川を下り”、“黄金郷の鍵を見つけ”、“黄金郷へ旅立つ”、“そして黄金郷の宝”。」
【蔵臼】「ふぅむ…。……実に面白い。せっかくだ。続けて、碑文のもっとも中心的な部分である、黄金郷に辿り着く第十の晩までの見解を聞かせてくれんかね?」
【楼座】「……この碑文の中でもっとも象徴的で、…そして物騒な部分ね。」
【絵羽】「生贄なんて単語が連発するから、ついついお父様のオカルト儀式と関係があるんじゃないかと思ってしまうけど…。………霧江さんならどう見るかしら?」
 霧江は、何度か腕の組み方を変えると、碑文を書き写した紙のさらに奥を透かし見るような遠い目をする…。
【霧江】「………………………。………これは、とても難しいわね。…“鍵を手にせし者は”から始まるということは多分、鍵を理解していないと話が進まない。…お手上げではあるけれど、一応、挑戦してみるわね。」
【絵羽】「……“鮎の川”が水の流れる川とは限らないように、その“鍵”もまた、本当に鍵の形状をしたものなのか、疑わしいわね。」
【霧江】「そうね。暗号とかキーワードの可能性もあるわ。……だってこの鍵は、鍵穴に差すものじゃない。第一の晩に6人の生贄を選ぶためにあるんだもの。その意味においては、この鍵は黄金郷の扉を開くものじゃないと言い切れるわね。」
【夏妃】「……しかし物騒な鍵です。6人もの生贄を選ぶ鍵なんて…。」
【秀吉】「鍵がどうやって選ぶんや。…ルーレットみたいに、くるくる回すんかいな…?」
【霧江】「この鍵が、ある特定の6人を指し示す。……いえ、ある特定の6つを指し示す、というべきね。……もしこれが、文字通りに生贄を捧げろという意味でないならば。…例えば、アナグラムかもしれないわ。」
【蔵臼】「アナグラム? 文字遊びのことかね…?」
【霧江】「えぇ。さっき楼座さんが家系図の話で、真里亞ちゃんの名前に里が含まれて、という話をしていた時からずっと考えてるの。
 ……例えば留弗夫さんは、懐かしき故郷という単語からずっと、地形的・座標的なものを想定しているようだけど、そうじゃないかもしれない。これはある種のなぞなぞ、…あるいは文字遊びかもしれないって。」
【夏妃】「……ごめんなさい。文字遊びとは何ですか?」
【留弗夫】「あぁ、カモメカモメカチンカチン、みたいなヤツさ。“カ”を抜いたらなぁに? みたいな。夏妃さんは育ちがいいから知らねぇだろ。」
【夏妃】「…カモメカモメ?? “カ”を抜くと、え? ???」
【蔵臼】「よしなさい。君には相応しくない品のない遊びだ。」
 夏妃だけがついていけず、きょとんとしている。ただ、留弗夫や絵羽の失笑の雰囲気から、とりあえず答えが品のないものに違いないということだけは察したようだった。
【楼座】「あ、…夏妃姉さん、こういうことです。真里亞のなぞなぞブックにあったんですけどね? タヌキの手紙っていうのがあるんです。
 タの文字がいっぱい混じった暗号みたいな手紙があるんだけど、“タ”の文字を“抜く”と、そこに正しい文章が浮かび上がる、みたいな、そんな遊びがあるんですよ。」
【夏妃】「あ、……あぁ、なるほど。………??」
 夏妃は今頃になって、留弗夫の出した品のないなぞなぞの答えを知り、赤くなりながら俯く。
【絵羽】「……………その“抜く”、というのが、案外、“殺す”というのに転じるかもね…?」
【霧江】「えぇ。私もそれを思ったところなの。黄金郷の鍵とはひょっとすると、6文字の単語かもしれない。」
【秀吉】「つまり、…タヌキの手紙の“タ”が、6文字あるっちゅうわけか…? ふぅむ、…これはややこしいこっちゃなぁ…。」
【蔵臼】「文字遊びか…。……ふむ。日本では子どもの遊びという印象が強いが、特に英語圏では知識人の小洒落たユーモアでもあるらしい。…親父殿が関心を示すことは、充分に考えられるね。」
【霧江】「……ただ、ここで急にわからなくなるの。ここまでの流れは、謎に満ちていながらも非常に順番的だった。
“鮎の川”、“それを下れ”、“そして鍵を見つけろ”と、非常に順番的。そしてその結果、6文字の鍵を手に入れたと仮定するんだけど、……そうすると、“何から”6文字を殺すのか、わからなくなるの。」
【留弗夫】「そういやそうだな。6文字を、何から引くんだ? その提示がないな。」
【霧江】「…第二の晩に、“残されし者は”とある。……ということは、少なくともその“何か”は有限の文字数なのよ。そこから6文字を抜いて残った文字で話を進めろと読み解けるわ。
 ………なのに、最初に提示があるべき“何か”がわからないの。…やっぱり文字遊びという仮定が間違っているのかしら…?」
【秀吉】「…………………うーむ…。」
 そこでみんな腕組みをして黙り込んでしまう。これまでに至れなかった斬新な見解に辿り着けそうなのだが…、あと一歩のところで躓いてしまう。
 その時、秀吉が豪快にお腹を鳴らした。それまでの沈黙が笑いによって打ち破られる。
【秀吉】「すまんすまん。珍しく、普段使わん頭を回したもんで、すっかり空腹になってしもうた。やはり朝食抜きは堪えるわ…、なははははは。」
【蔵臼】「夏妃。ここには何かないのかね?」
【夏妃】「軽食の備え程度があったはずです。用意しますね。」
【留弗夫】「俺も腹ペコだ。上のガキどもも腹ペコだろうよ。…しかし18人分も、そして3食もここに備蓄があるのかは、ちょいと疑問だなぁ?」
【秀吉】「そうやな。明日まで長丁場や。一度、屋敷に戻って、厨房で缶詰の類でも漁った方がええかもしれんな。」
【夏妃】「クラッカーとおつまみくらいしかありませんが、それで良ければ準備できます。でも、この人数ではお昼の分も残らないかも…。」
【蔵臼】「今はそれでいい。すまんが準備してくれんかね。」
 男たちはすっかり思考を食い意地に奪われてしまったようだった。場の空気は和み、碑文検討会はそれで一度解散となった。だが、絵羽は穴が空くほどに碑文が書かれた紙を睨み続けている…。
【霧江】「…………文字遊びはあくまでも私の仮説。それが間違ってる可能性もあるわ。絵羽さん、あまり根詰めないで…?」
【絵羽】「………ありがとう。私の勝手でやってるの。放っておいてくれないかしら。」
 絵羽は素っ気無くそう言い放つ。
 …霧江はそれ以上を構わず、夏妃の朝食準備を手伝いに行くのだった。
【楼座】「姉さん。私たちも朝食の準備、手伝った方が良くない?」
【絵羽】「じゃあ、あんたが手伝いなさいよ。私はこれを解くので忙しいの!」
【楼座】「ご、ごめんなさい…。じゃ、じゃあ私、手伝ってくるわね…。」
【絵羽】「………まったく。何であなたはそんななの?」
【楼座】「……え?」
【絵羽】「この碑文を解いた人間が右代宮家の家督を譲られるのよ。あなたは関係ないと初めから諦めているようだけど、もしも解ければ楼座にだって家督を引き継げるチャンスがある。
 ……あの兄さんから全てを奪うチャンスなのよ。どうしてその千載一遇のチャンスを、あなたは真剣になって挑めないの?」
【楼座】「…え、………えっと、……それは……。」
 楼座は何と答えればいいかわからず、困って俯いた。…不機嫌な姉に無用心に話しかけてしまったことを久々に後悔する。
【絵羽】「あんたも、何か気付いたことがあるんなら言いなさいよ。私や霧江さんは真剣に推理してたのに、あんたは相槌ばかりだったじゃない。ほら。何か気付いた点はないの? ほら!」
【楼座】「………え、………えっと、………。……これ、…不思議よね。」
【絵羽】「…不思議? 何が?」
【楼座】「えっと、……黄金郷っていう単語よ。何度も出てくるわよね、黄金郷って単語。」
【絵羽】「それが何よ。黄金郷を文字分解すると何かキーワードにでもなるの?」
【楼座】「え、えっとそうじゃなくて。……ほら、この第十の晩だけおかしいでしょ?」
【絵羽】「……………え? ……ぁ。」
【楼座】「みんな“黄金郷”なのに、なぜかここだけ“黄金の郷”なの。わざわざ“の”が一文字混じるのよね。どうしてここだけ言い方が違うのか、漠然と気になってて…。………ぁ、その、…別に意味なんてないわよね。お父様のことだもの。ちょっとした言葉のあやでたまたま言い方を変えただけかもしれないしね。」
【絵羽】「……………………………………。」
魔女の喫茶室
【ベアト】「………つまらん。」
【ワルギリア】「おや、何がつまらないのですか…?」
【ベアト】「………つまらん、つまらん。」
【ワルギリア】「はてさて。この子が何をぼやいているのかさっぱりですよ。」
【ロノウェ】「恐らく、マダムが戦人さまに色々と入れ知恵をしたのが不満なのでしょう。」
【ベアト】「……べーつにぃ。そんなの不満ではないぞ。不甲斐ない戦人がようやく妾に釣りあうレベルになったのでむしろ満足してるくらいだぞー。」
【ワルギリア】「ほっほっほ…。少し、戦人くんと仲良くし過ぎましたか? 若い子同士に任せて、老人は退散した方がいいのかしら。」
【ロノウェ】「ぷっくっくっくっく…。」
 ワリギリアとロノウェがくすくすけらけらと笑うと、たちまちベアトリーチェのイライラメーターは限界を振り切る。
【ベアト】「えぇい、揃いも揃って妾を笑い者にしおって! ロノウェ、しばし姿を消せ! 消えろ消えろー!」
【ロノウェ】「かしこまりました。それではしばしのお暇をいただきます。ぷっくくくく…。」
 ロノウェは、笑いを混じらせたまま頭を下げ、姿を消す。あとにはカリカリとイラついているベアトリーチェと、涼しげに紅茶を嗜むワルギリアの姿が残った。
【ワルギリア】「……………“この島に19人以上いない”と言った、あの赤が、むしろあなたを追い詰めました。」
【ベアト】「………やっぱりなぁ…。…………ちょっと早いかなぁとは思ったんだが…。……やっぱ早かったかなぁ……。」
【ワルギリア】「彼をもっと迷走させてからならともかく。まったくにもって無駄な切り札でしたよ。むしろ彼を奮起させてしまいました。」
 戦人は魔女を否定するという本来の勝利目的に加え、18人の誰も疑わずに解決したいという異なる勝利目的も持っていた。その相対する2つの目的に翻弄されている時こそが、彼のもっとも弱い瞬間だったはず。
 しかし、ベアトリーチェが軽々しく赤を使い、19人以上いないと宣言してしまった。
 …その為、戦人は18人を疑わざるを得なくなり、………それを受け容れる覚悟が、徐々に出来始めている。
 戦人は頑固だが、だからこそ脆い部分を突いた時、まるで壊れかけた瀬戸物のように、一気に亀裂を走らせてしまう。そここそが最高のウィークポイントだったはずなのだが…。
【ベアト】「………くぅぅぅ。……前回、圧勝だったんで、ちょいと油断が過ぎたかなぁ……。」
【ワルギリア】「えぇ、油断が過ぎましたね。…前回は戦人くんにとって難易度の高いゲームでしたが、どうやら今回は、あなたにとって難易度の高いゲームになりそうですよ。」
【ベアト】「……割れた壷は決して元に戻ることはない。…未練がましく欠片を拾うより、他の手を考えた方が建設的というもの。
 ………しかし、すっかり知恵を付けた戦人にどう仕掛ければ良いというのか…。」
【ワルギリア】「ほっほっほ。ロノウェのクッキーより、あなたが困っている顔の方がお茶菓子にぴったりですよ。」
【ベアト】「……うー。戦人もお師匠様もロノウェまでも妾を茶菓扱いだ。…妾は決して甘くはないというのにィ。」
 ベアトリーチェは、決して戦人の前では見せないような子ども染みた情けない顔で、テーブルの上にごろごろと頭を転がす。
【ベアト】「…………お師匠様ぁ。………せめてヒントをー。」
【ワルギリア】「おや。何のヒントですか?」
【ベアト】「戦人をぎゃふんと言わせて、妾を認めたくなるような上手い指し手を、ズバリ教えろとは言わないからその、…せめてヒントだけでもぉ。」
【ワルギリア】「ほっほっほ、駄目ですよ。私は今、戦人くんの味方をしていますから、あなたに利することは教えられません。」
【ベアト】「…そんな固いこと言わずにさぁ…。弟子が困ってるというのにぃ…。」
【ワルギリア】「師匠を超えたと散々豪語していた気がしますが?」
【ベアト】「………うー…。年寄りらしく、老獪な知恵を一発、授けてくれよぉ…。頼むよぉ…。戦人にばっかりずるいってよぉぉ…。」
【ワルギリア】「もう。相変わらずの駄々っ子ですねぇ。
 ……でも、確かにちょっと戦人くんにヒントを与えすぎたかもしれませんね。あなたのお灸にはなったけど、フェアなゲームとしては少し肩入れをし過ぎたかもしれない。」
【ベアト】「そうであろう、そうであろう…? 頼むよお師匠様ぁ、せめて今後のヒントだけでもぉ…。」
【ワルギリア】「………………ヒントだけですよ。意味は自分で考えるのですよ?」
【ベアト】「うんうん! 自分で考えるからさぁ、頼むよぉ! 戦人をけちょんけちょんに出来るヤツを頼むよ、お師匠様ぁ。」
 戦人の前ではさんざん大魔女ぶっているくせに、その戦人の姿がないと実に情けない。ワルギリアは、いつまで経っても子どもなんだからと小声でため息を漏らす。
【ワルギリア】「ではヒントだけ。……イソップ寓話の、北風と太陽というお話を知っていますか?」
【ベアト】「もちろん。旅人のマントを奪う為に、北風と太陽が勝負する話であろう?」
【ワルギリア】「そうです。乱暴かつ性急な方法が、常に最善の選択肢とは限らないということです。」
【ベアト】「……言われなくてもわかっておるわ。妾が勝ちを焦りすぎたことはすでに反省しておる。」
【ワルギリア】「……………。意味はよく考えることですよ。それから。……戦人くんも少々誤解があったようですが、あなたにも誤解があるようです。
 あなたは、このゲームの勝利条件を理解していますか?」
【ベアト】「…戦人を屈服させることの他に、何があるというのか。」
【ワルギリア】「………ほぅら。その時点でもう間違っていますよ。」
【ベアト】「妾が何を間違えたというのか。」
【ワルギリア】「あなたの勝利は、戦人くんを屈服させることではありませんよ。……戦人くんに、あなたという存在を認めてもらうことではありませんか。」
【ベアト】「……何と。戦人にゴマをすって、妾を魔女と認めて下さい、お願いしますぅと頼み込めというのか! 愚かなっ! そこまで妾は落ちぶれてはおらぬ!」
 がるるるるる…と、まるで機嫌の悪い犬のように、ベアトは唸る。
 ワルギリアは肩をすくめ、相変わらず短気な弟子に失笑した…。
【ワルギリア】「ヒントは出しました。あとはあなたがよく考えることですよ。………何れにせよ、戦人くんにこれまでの手は通用しません。相当の戦略転換が必要になるでしょう。」
【ベアト】「…言われずともわかっておる。……北風と太陽の話は、何が言いたいのかさっぱりだが、とにかく、方針を変えねばならぬことはわかった。……お師匠様もあっと驚くような奇策を披露して見せるぞ…!」
【ワルギリア】「ほっほっほ…。それは楽しみですね。戦人くんはそれにどう挑むのかしら。……あなたの健闘も祈っていますよ。」
【ベアト】「戦人のついでに、であろう? ふん…。」
ゲストハウス・ロビー
【エヴァ】「………もう投げ出して降参? そんなに眠いなら、お布団かぶって眠っちゃえば…?」
 …意識を朦朧とさせ、睡魔と戦うと称しながら、ソファーに少しずつ沈んでいく自分を、“私”が詰る。
【エヴァ】「……あんなにも、蔵臼から当主の座を奪ってやりたいって、夢見てきたんでしょう…? そのチャンスを私の魔法が与えたのに、あなたはもう放り投げちゃうの…?」
 そうは言うけれど…。…………この謎は本当に難解よ。知恵の輪の方がまだマシだわ。…解けるってことが絶対に約束されているもの。でもこの碑文の謎は、それすらも約束されているかわからない。……私は、挑むだけ無駄な勝負を挑んでるのかもしれない。
 …私は朦朧としたまま、ずっと持ち続けている手帳を見る。そこには、幾百の夜、穴が開くほど見たかわからない、碑文のページが開かれている。
 ……それこそ、まさに扉。その向こうに、私が子どもの頃から辿り着きたいと願い、どんな努力も惜しまず、…そして辿り着けなかった“黄金郷”がある。
 私は、その扉にこうして両手を掛け、ページ、…いや、扉を開いているというのに、その向こうへ未だ至れないと言うのか。
【エヴァ】「…そうよ。あなたは扉に手を掛けている。さぁ、それを力いっぱい開くの。そして、その扉に書かれた文字を読むのよ。」
【絵羽】「………力いっぱい、開く。…扉に書かれた文字を、読む…。」
 目を凝らす。……手帳に書いた碑文の、もっと向こうにあるものを透かし見る…。
【エヴァ】「…“懐かしき故郷”は、私たちの想像をきっと裏切らないわ。……お父様が唯一懐かしむ過去は少年時代だけだもの。」
 そうね……。なら、“鮎の川”は? それが泳ぐ川は複数あるし、お父様が住んでいた場所のすぐ近くにあったかは怪しい。…鮎の生息するどの川が地図上、距離的に近いか…、何て話になると急に曖昧になって特定ができなくなる…。
【エヴァ】「……自分で言ったじゃない。水の流れる川かどうか、わからないって。……鮎という言葉がそんなにもややこしいなら忘れてしまえば…?
 川で考えるの。川で。“家系図”という連想は悪くないわ。その要領で川から連想するものを、他にも考えてみて……。」
 ……川じゃなくて? 川じゃなかったら鮎は泳げないのに? あぁ、でも、鮎が泳げるってことは海まで繋がってるのかしら……。川魚だけど、海に出るってうちの人も言ってたし…。……………。
 …………………………………。……………海まで。……………………いえ、…でも、………。……え…?
【エヴァ】「……気付いた? でもうろ覚えなの。ここには書庫があったはず。調べれば確認できるわ。」
 ……それが“鮎の川”なら、………。………そして鍵は6文字の単語かもしれないなら。…………………鍵が本当にその川に眠ってるというの?
 わ、わからないわからない。…とにかく地図帳を調べなければ…。でも、それがわかったとしても、“何から”6文字を間引くかがわかってないじゃない…。
【エヴァ】「……本当にわからないの? よく考えて。………私たちは下手に頭がいいから発想が硬いのよ。
 碑文の謎なんて大層に考えないで、子どものなぞなぞだと思って。……男なんて、いくつになったって子どもなの。お父様が老境に差し掛かったとしても、心の中の本質的な部分は子どもと何も変わらない。
 ………お父様への畏怖を捨てるの。…真里亞が船の中で突然出してくるような、下らなくて低脳ななぞなぞ遊びだと思って。」
 ……なぞなぞ。……下らない、低脳な。
 ……………………。…………………え、………ぁ。………あれは確か、…何だっけ、……えっとえっと……。
 …確か、私の記憶が違っていないなら、……多分あれはえっと…。ううん、あやふやな記憶で確かめなくていい。それもきっと書庫で調べればすぐにわかる。
【エヴァ】「………私たちは多分、もう答えに気付いてるわ。…後はそれが正しいか調べるだけよ。
 さぁ、絵羽。誰にも気付かれないように、書庫へ。……あそこには、お父様の書斎から溢れ出した硬い本が山積みよ。…きっと、私たちの疑問に答えてくれる本が見付かるわ。………急いで。これが生涯で最初で最後の、私たちの夢の叶うチャンス。」
 夏妃がブランケットをそっと掛けようとすると、絵羽はがばっと飛び起きた。
【夏妃】「…ごめんなさい。起こしてしまいましたね。」
【蔵臼】「……絵羽。眠いなら無理をしなくていいぞ。お前から休みなさい。」
【絵羽】「あ、……ありがとう。ちょっとお化粧室に行って顔を洗ってくるわね。」
【秀吉】「無理をせんと休んだ方がええで。…また体に障るで?」
【絵羽】「本当に大丈夫だってば! すぐ戻るわね。」
 私はそれだけを言い残し、足早にロビーを出る。扉で仕切られたロビーだから、廊下に出れば私の姿は彼らから見えなくなる。
書庫
 ……書庫は使用人室の隣にある。お父様は元々、大量の蔵書を持っていたが、オカルト趣味に傾倒するようになってからは、さらにその手の蔵書が増え、一般的な書斎に相応しい真っ当な蔵書を圧迫し書斎から溢れ出させてしまった。
 そういう、まともな本を保管しているのがこの書庫なのだ。知識人ぶった百科事典全巻みたいな硬いものばかりだが、調べ物がしたい今の私にはとても好都合だった。
 そっと中に入り、……念の為、銃を構えたまま室内を確認し、不審者がいないことを確認する。
 そして内側から鍵を閉めた。殺人犯が潜んでいるかもしれないなんて、実はそんなに思ってはいない。…私が恐れたのは、これからする調べ物を、兄弟の誰かに聞かれはしないかという怯えだった。
 心臓が、いつの間にかバクバクと飛び跳ねている……。…私はさっきまで寝惚けていたから、自分がどれほどのことに気付けたかを理解できていなかった。しかし、覚醒してくるに従い、……その心臓はもはや爆発寸前となった。
【絵羽】「………これ、…他の兄弟たちは誰も気付いてないのかしら……。」
 蔵臼と留弗夫は気付かないと思うわ。……でも、霧江はわからない。あいつ、おかしな勘が鋭いわ。………あとは楼座もわからない。
【絵羽】「楼座も愚鈍よ。昔っから呆れるくらいにね。」
 そう…? あなたに愚鈍と思い込ませて、不必要な恨みを買わない程度には賢いと思ってる。
【絵羽】「………あった。…これになら載ってるかしら。」
 私はその本を抜き出すと、ばらばらとページを捲る……。
【絵羽】「……………う。………これ、………“鮎の川”…?」
 なるほど…。鮎の川とはそういう意味なのね。……もたもたしないで、さらに調べて。
【絵羽】「え、えぇ、わかってる…。川を下ればやがて里あり…。里って町や村って意味? 人口密集地だもの、そんなのいくらでもあるわよ…。」
 どうして思考を停止するの! 嫌ならやめちゃえば…? 右代宮家の当主は霧江に譲っちゃえばぁ?!
【絵羽】「い、…嫌よ…。私が当主になるの。…これがその、最初で最後のチャンスなのよ…。……里って何? 里ってどういう意味?! この“川”を下ると里なんてあるの……?! …………ぁ、………ぁあぁぁぁ……!!」
 ……その里にて、二人が口にし岸を探れ。……“岸”よ。わかってる?
【絵羽】「う、…ごくり…。わわ、わかってる…! 岸、……岸………!」
 全然意味のわからなかったピースが、……目の前で勝手に、……ぱちり、ぱちりと組み合わさっていく……。
 開いた口を閉じることも思い出せない。…喉がからからに渇いていく…。これ、……本当にこれが答えでいいの? ほ、本当に? 本当になのッ…?!
【絵羽】「…でも、これは全然6文字じゃないわ。……これが答えに間違いないって断言できるけど、これは全然6文字に満たない…!」
 また思考停止? なら、それを6文字で読める方法を考えなさい。思いつかないなら調べなさい。……きっと答えはある。それを疑っては駄目。それが信じられないなら、とっとと泣き寝入りでもして、ヘソでも噛んで死んじゃえば…?
【絵羽】「…………1、、、、、…。……うぅ、…ろ、……6文字…。……み、……見つけた。…これが、………黄金郷への、か、……鍵………ッ!!」
 えぇ。それが、黄金郷への。……私たちの子どもの頃からの夢への、鍵。
 ……その鍵を挿す鍵穴は、あそこしかない。生贄に捧げるのは、きっと、あれ。もう、わかるよね……………?
【絵羽】「う、…………うううううぅううぅッ…!!!」

戴冠式
10月5日(日)10時00分

暗闇
【絵羽】「………こっち? ……こっちへ回れってことよね…………? こいつらが、……私をこっちへ回れと、誘ってるもの………。」
 ……ッ!!! 心臓が飛び上がる。…そこには、…………ぽっかりと、……不気味な暗黒が口を開けていたからだ。
【絵羽】「な、………何よこれ…。何なのよこれ……?!」
 暗がりに目を凝らすと、灯りのスイッチを思わせるものがあった。……他にも、開閉と書かれたスイッチもある。
地下階段
 迷わず、灯りのスイッチを入れると、まるで炭鉱か何かを思わせるようなな灯りが点々とつき、地下へ伸びる階段をぼんやりと浮かび上がらせる…。灯りがついたはずなのに、むしろその薄暗さを引き立てているようで不気味だった。
 灯りのスイッチ以外にも、開閉と書かれたスイッチもあった。…これで、多分、開け閉めができるのだろうが、もし万が一、開けるの方が壊れていたら、私はこの不気味な地下に、永遠に閉じ込められてしまうかもしれない…。
 だから私は、とりあえず、開閉のスイッチには触れず、……銃を構え直して、ゆっくりと階段を下りていく。
 天井の高さはたっぷりあったため、息苦しさはない。むしろ、冷たい風が吹き上げてくるような気がして、その不気味さに霊気さえ感じた…。銃を構え、慎重に先をうかがいながら、……私は階段を下りていく……。
 壁や階段、灯りは皆、かなり古臭い。…この島に屋敷が建てられた当時に作られたものなのは、疑いようもないかもしれない。天井にはひびが入り、雨水が壁を伝って、さらさらと流れ落ちている。
 その水は階段脇に設けられた側溝に落ちて、地下の闇へ静かに早く流れていく。早く先へ進めと私を急かすかのようだった…。
 階段は何度か折り返した。どの程度を降りたかわからないが、地下1階よりはもっと深く降りたと思う。
 するとやがて、…………無骨な金属製の扉が姿を現した。そしてそこには赤黒い塗料で文字が書かれていた。…書かれたのはだいぶ以前だろう。
第十の晩に、旅は終わり、黄金の郷に至るだろう。” 爆発寸前の心臓が、その真っ赤な文字を認めた途端、さらにどきりと跳ねる…。
 間違いない…。こここそが終点。………お父様の、……黄金郷…!!
 高鳴る心臓を落ち着かせ、何とか冷静さを取り戻し、再び銃を構える。…でも、両手で銃を構えていては、結局、扉が開けられないので…。……私は銃を下ろし、慎重に息を殺しながら、その扉を開く……。
地下貴賓室
【絵羽】「………………こ、……ここ、……は……?!」
 その部屋を見た第一印象は、……屋敷のどれかの部屋に繋がっていたのではないかというものだった。
 そう、これは2階にある開かずの貴賓室の雰囲気にそっくりだった。でもここは地下だから窓はない。あるのは、荘厳なシャンデリアの厳かな灯りだけ。しかし、そのわずかな灯りによって照らし出されるインテリアの気品は、息を飲ませて余りあるほどのものだった。
 天蓋付きのベッドに、ゆったりと座れそうなロッキングチェア。贅沢なソファーに絨毯。女の子なら誰もが一度は憧れる夢のような部屋…。
 にもかかわらず、窓がなく、地下にある秘密の部屋というイメージは、どちらかというと、魔女の隠れ家とでもいうような雰囲気だった。
 森の魔女ベアトリーチェの伝説を鵜呑みにしたことは一度もない。しかし、……この部屋を見せられたなら、……彼女は実在し、そしてこの部屋に住んでいたことを、…何も疑うことが出来なくなってしまうに違いない。
【絵羽】「………誰か、………………いる…?」
 私はそんな部屋に度肝を抜かれながらも、慎重に、…いや、臆病に銃を構えながら室内を探るのだった。
 そして、……部屋の奥に、それを見つける。
【絵羽】「……………ひッ、……………。」
 私の息を呑む音は、まるで子ウサギが窒息するような変な声。…だって、……これを見てしまったら、…誰だって、そんな間抜けな声しか出せないに決まってるのだ…。
【絵羽】「あった……。……ほ、……本当にあった……ッ…。……お父様の、……黄金……ッ!!」
 天蓋ベッドの向こう側に、それはうず高く積み上げられていた…。山と成す、黄金のインゴットの山ッ!!
 もちろんそれは部屋の気品を損ねるような無様な積み方はされていない。その黄金の山には緋色の美しい繻子織りの織物が掛けられ、赤と黄金、そして深き闇の黒の美しき三色で彩られていた…。
 それはまるで、魔女がこのベッドで眠る時、さながら黄金はその側にうやうやしく控える侍従か何かのように。気高く、高貴に、優雅に、美しく。威風堂々としていながら、それでいて畏まったように積み上げられているのだ…。
 黄金のインゴットをひとつ取ろうとし、その重さに驚く。……多分、10kgくらいはあるだろう。……このインゴット1つで多分、一千万以上の価値が余裕であるに違いない。
 そこには、右代宮家の紋章である片翼の鷲が薄っすらと刻印されていた。磨耗しているのか、そもそもの刻印がいい加減なのか、鮮明とは言い難いが、紛れもなく片翼の鷲の紋章だった。
 そのインゴットが一体、ここに何本積み上げられているというのか? でたらめに辺と辺を掛けて、それに高さを掛けただけでも、きっと数百を超えるだろう。もう頭が真っ白でまともな計算も出来ない。……控えめに数えても、十億円を余裕で上回るだろう。
【絵羽】「そりゃそうよ…、そうに決まってるわよ…。…だって、10tの黄金よ…? 時価にして200億円の黄金よ…? み、…見つけたわ、……誰よりも早く、………私が見つけたわッ!! あはは、わははははははは、あっはっはっはっははははははははははははは!!」
 私は黄金の山を前に、両手を広げて天井を見上げる。品の欠片もない笑い声が、全身から溢れ出してくる。こんなおかしな笑いなんかするつもりは毛頭ないのに、…でもでも、全身が泡立つほど嬉しい気持ちを抑えられない。
 ……この黄金の山を見つけたからと言って、すんなりあの兄が負けを認めたりはしないだろう。…しかし、私が一番最初に見つけたという事実は、今や動かしようがない…!
 私が右代宮家の当主を奪うには、まだいくつかの繊細な駆け引きが必要になるだろう。でも、それはこれまでの日々を考えればまったくにもって些細な問題。仮に右代宮家の家督云々の話を抜きにしたって。…今や、200億円の黄金は私ひとりのものなのだからッ!!
【絵羽】「はははは、あっはっはっはっはっは!! お金なんて、何て下らないものだろうって思ったことがあるわ。世の中にはお金で買えないものなんていくらでもあると思ってた。…でも、そんなのは嘘っぱちだって、今、理解したわ! そんなのは持たざる者の自分への言い訳だったのよ!!
 この黄金の山を前にして、私はやっとそんな当り前を理解したわ…!! この世の全ての幸せは、この黄金を溶かすことで生み出すことができる! このお金があれば、夫の会社はもう大丈夫。私たち家族はずっと幸せ。そして譲治にも莫大なお金を遺してあげることができる…!!
 他の親戚たちなどやがては没落して消えるわ。その時、譲治はこの黄金を使って、失われた右代宮家の威光を、まるでお父様がそうしたように復興させてみせるのよ…!! その時、誰も異論を挟めないわ。……譲治こそが、右代宮家の本当の跡継ぎなのよッ!!」
 成ったッ!!! 叶ったッ!! 右代宮絵羽としてこの世に生まれ、願った夢は今この瞬間、全てが叶った…!! 私も夫も、永遠に幸せになれて。そして一人息子の譲治にも永遠の幸せを贈ることができる!!
 下らない快楽になんか浪費するものか!! 兄が食い潰し傾かせた右代宮家は、私と譲治が復興させるのよ! それこそが、右代宮家の当主を、本当の意味で私たちが継承したという意味なのよッ!!
【絵羽】「成し遂げたわ…。やったわ、…あなた…、譲治…。……私は、……母さんは、……ついに成し遂げたわよ…。……もうこれで、誰にも脅かされない…。ううぅう、ううううううぅううううぅッ!!」
 そうよ、これでもう私たちは、二度と悲しい夜に咽ぶことはない。
 おめでとう、私。おめでとう、右代宮絵羽。…私たちの悲しい半生は、今ここに全ての念願が叶って昇華されたわ。
【絵羽】「あなたのお陰よ…。あなたの魔法があったから、このチャンスに恵まれた。このチャンスがあったから、私はここに辿り着くことができた…!」
 …ありがとう。でも私の魔法は、私たちが互いに信じあわなくちゃ叶えることができなかった。
 だから、私の魔法の力だけじゃない。私たちの勝利よ。だからこそ、おめでとう。“私たち”。
【絵羽】「ありがとう、私…。ありがとう、右代宮絵羽…。……今日まで挫けなくて良かった。悲しみに溺れ、足掻くことを忘れなくて良かった…。………いいえ、これは私の魔法。私たちの魔法! あなたの魔法は本物だったわ。森の魔女ベアトリーチェなんてすでに幻想。あなたこそが本当の魔法が使える本当の魔女。……そうよ。あなたこそが今や、黄金の魔女、ベアトリーチェなのよッ!!」
 絵羽は一度、そこを立ち去ることにした。そして再び階段を登り、この秘密の場所を出ようとした時。……不気味な人影がゆらりと立ちはだかったのが見えて、夢見心地が吹き飛ぶ。
地下階段
【絵羽】「…………………誰ッ?!」
 この部屋の真の主、…本当のベアトリーチェが現れたのだと、一瞬信じた。
 向こうも銃を持っていたらしい。二人は銃を構えあう。そしてようやく、お互いは相手が誰かを知る…。
【絵羽】「………楼座………?」
【楼座】「…姉さん…。………こんなところで何をしているの…?」
【絵羽】「お互い様よ。あなたこそこんなところへ何の御用?」
【楼座】「……姉さんにヒントをあげるんじゃなかったわ。そうだったなら、ここに辿り着いたのは、きっと私が一番だった。………残念よ。」
 楼座には、この階段がどこに続き、そしてその先に何が待ち構えているのか、理解できているようだった。
【絵羽】「言うわね。………私より遅く辿り着いたくせに。」
【楼座】「………鮎の川に悩みすぎたわ。鮎なんて大した意味、ないじゃない。」
【絵羽】「そんなことないわよ。立派なヒントだったじゃない。まぁ確かに、鮎である必要はなかったかもね。…でも、鮎が海に出る魚だと聞いて、私はそれで気付いたの。」
【楼座】「……この奥には何が?」
【絵羽】「自分の目で確かめたら? あなたの想像をきっと裏切らないわ。」
【楼座】「……………………。……怯えないで、姉さん。私は元々、当主が誰になるかなんて興味ない。右代宮の籍だって興味ないしね。……本音を言うと、自分が当主になるんだってずっと威張り散らしてた蔵臼兄さんから、姉さんがその座を奪うなら、かえって小気味がいいくらいよ。」
【絵羽】「…………本気で言ってるの?」
【楼座】「もちろんよ。私は右代宮兄弟のはぐれ者。……仮に私が当主跡継ぎだとお父様に指名されたとしても、それを兄さんたちが認めてくれるわけもない。そこまで甘い夢は見てないつもりよ。」
【絵羽】「……………………。」
【楼座】「私にも見せてよ。姉さんの勝利の証を。……私は、兄弟で取り決めした正当な取り分さえもらえれば、むしろ姉さんがこの“ゲーム”の正当な勝利者だと積極的に認めるつもりよ。」
【絵羽】「…………私を撃っちゃえば、この黄金は楼座の独り占めになっちゃうわね?」
【楼座】「それは同じよ。姉さんが私を撃てば、この黄金は姉さんの独り占め。」
【絵羽】「…………………………………。」
 姉妹は互いに銃を向けあったまま、緊迫の時間を過ごした。やがて、互いの眼光を充分に値踏みしながら、二人は銃を下ろす。
 …絵羽が、引き金から指を外し、銃を逆さに持つ仕草をする。すぐには撃てない持ち方だ。それを見て、楼座も同じ持ち方に従う。
【絵羽】「……そうね。相手を撃って、黄金を独り占めにしようという提案は、お互いにとって魅力的ね。…でも、台風で隔絶したこの島から、突然、失踪すれば、絶対に大騒ぎになる。……ここに死体を隠せば、簡単には見付からないだろうけど、それも絶対ではない。」
【楼座】「………何百億円の黄金があろうとも。殺人の罪を犯すリスクには、割が合わないわ。むしろ、それをダシにされて、蔵臼兄さんたちに搾り取られるのがオチね。」
【絵羽】「同感よ。……ここに現れたのが、兄さんや留弗夫であるくらいなら、……あんたであったことは不幸中の幸いかもしれない。…私は兄弟で、あんたを一番信用してるもの。」
【楼座】「…………ありがとう。私も姉さんのこと、兄弟で一番信用してるわよ?」
【絵羽】「………………………………。」
【楼座】「…………私も黄金が見たいわ。」
【絵羽】「見る? 私ももう一度見たくなったわ。この目で見たにもかかわらず、まだ現実感が湧かないの。…あなたと一緒に見て、確かに存在することをもう一度確かめないと、霧になって黄金が消えてしまいそうな気がするわ。」
 絵羽は再び階段を降り出す。……しかし、無用心に楼座に背中を晒したりはしない。楼座も、一見は警戒心を解いているように見えるが、決して油断は見せなかった。
 ……そして、再びあの魔女の部屋へ至る。楼座もまた、息を呑み、莫大な黄金に絶句するのだった…。
薔薇庭園
 ……絵羽たちは薔薇庭園を、放心しながら歩いている。ゲストハウスをこっそりと出てきたのだから、戻る時にも細心の注意が要る。そろそろ緊張感を取り戻さなくてはいけない。
【楼座】「……おめでとう、姉さん。」
【絵羽】「ありがと。」
【楼座】「姉さんが決めたのよね? 右代宮家当主跡継ぎの肩書きに5割って。……ここで効いて来るとはね。今やそれは蔵臼兄さんのことではない。…だから姉さんの取り分が5割とその四分の一で125億。
 すごい取り分じゃない。…私は25億で満足よ。留弗夫兄さんだって文句は言わないわ。文句を言うのは蔵臼兄さんだけでしょうね。」
【絵羽】「……えぇ、そうね。…何しろ、六軒島の実質的管理者は兄さんだもの。そしてその敷地内に黄金があった以上、第一発見者が私でも、うまく事を運ばないと、ややこしいことになりそうよ。」
【楼座】「ならないわよ。そこまでをも想定して、私たちは昨夜、さんざん議論を尽くしたんじゃない。」
【絵羽】「…………果たしてそううまく行くかしらね。私はもう、すっかり興奮は醒めてるわよ。ここからの調整の方が、むしろ問題ね。」
【楼座】「…それは、新しき右代宮家当主の問題ね。姉さんが楽しむべき問題よ。私には関係ないわ。」
【絵羽】「ふん、言うわね…。」
【楼座】「……第二発見者として、姉さんに協力するから。どうか例の前払い分。私の1億5千万だけは3月までにお願い。」
【絵羽】「えぇ、いいわ。……私に協力するなら、それくらい気前良く払うわ。私は兄さんじゃないもの。」
【楼座】「とりあえずは兄さんたちを驚かせましょ? 実際の場所は伏せるにしても、早く蔵臼兄さんの驚く顔が見たいわ。」
【絵羽】「……………。…………ちょっと待ってよ、楼座。それをみんなに伝えるのはまだ待って。」
【楼座】「………………え? …どうして?」
【絵羽】「…馬鹿ね、決まってるでしょう。…相手はあの尊大な蔵臼兄さんに、狡賢い留弗夫なのよ。やがては発表するにしても、今はまだ早いわ。
 どうやって話を進めるか、慎重に検討してからじゃないと、せっかく見つけた黄金を全て兄さんに掠め取られることもありえるわよ。」
 絵羽は、至極当然のことを言ったつもりだった。…なのに、急に楼座が不機嫌そうに表情を曇らせるのを見て、少しだけ驚く。
【絵羽】「……何か不満なの? 蔵臼兄さんたちの性分は、あんただってよく知っているでしょうが。」
【楼座】「……………。姉さん、それはルール違反よ。」
【絵羽】「何の話よ。」
【楼座】「……私たちは、誰が黄金を見つけてもすぐに報告するというルールになっていたはずよ? それを渋れば、ルールの根底が崩れて、後で何かの火種になるかもしれないわ。…蔵臼兄さんが狡猾であるならばあるほどに。そのルール違反は後で拗れるわ。」
【絵羽】「馬鹿言わないで。ここは兄さんの島なのよ。そしてさっきの黄金はキャッシュじゃない。10tもの莫大な換金物の山なのよ?
 運び出して現金化するには相当の手間を掛けるわ。そしてそれは、この島を実効支配している兄さんに、あらゆる面で有利に働くわ。そんなこともわからないの、あんたは!」
【楼座】「…………………そういう腹の探りあい、私は好きじゃないの。私は自分の取り分の25億をはっきり確定させたいだけ。
 もちろん、姉さんが私に現金25億を今すぐ渡してくれるなら、後は姉さんがどう交渉しようと勝手よ。でも、私の取り分が手元に入るまでは、私は兄弟のルールを遵守するわ。」
【絵羽】「何を甘いことを…。あんた、兄さんの狡賢さを何もわかってない!」
 ……楼座とて、兄たちの狡猾さを理解していないわけではない。その意味においては、実際のところ、楼座は絵羽の慎重さに一定の理解を示してはいた。
 しかし、楼座は内心、それ以上に、絵羽が黄金を自分だけの独り占めにしてしまうのではないかという疑いが晴らせなかった。……蔵臼たちが狡猾である以上に、絵羽もまた狡猾であることを知っていたからだ。つまり楼座は、早く黄金発見の報を兄弟に知らせることで、絵羽が独り占めする可能性に対し、楔を打ちたいと思っている…。
【絵羽】「………………。……楼座。悪いけど、今だけは私の言うことを聞きなさい。」
【楼座】「………言うことを聞かないと、1億5千万は用意できないってこと?」
【絵羽】「……………………。…そういう言い方をしているつもりはないわ。…でも、あなたが本当にそのお金を必要としているなら、私に協力した方が現実的よ。……兄さんたちに話せば、その当然の取り分すらも、なくなってしまうかもしれない。それは嫌でしょう?」
【楼座】「……………………。」
 楼座はしばらくの間、姉に一度も見せたことのないような、シビアな表情を浮かべた。
 そこには妹としての遠慮は微塵ほどもない。……ただただ、莫大な財産をやり取りする、ひとりの人間としての冷酷さ、いや、真剣さがあるだけだった。絵羽は、ふっと笑いながら茶化す。
【絵羽】「……やれやれ。物騒な殺人事件が起こったばかりで、その犯人がまだ島の中にいるかもしれないってのに、こんなところで立ち話なんて、私たちもつくづく無用心ね。」
【楼座】「どうせ使用人たちの茶番でしょ。この島で殺人事件なんて、元々起こってないのよ。」
 絵羽は買収されているので、自分が碑文を解いてしまった今、計画はどうなるのか確認しに行かなくてはいけない。
【絵羽】「……あら。やっぱりそう思う?」
【楼座】「6人の死亡状況ではっきり説明がつくわ。あの6人の密室は、外部犯行では絶対に作れない。
……南條先生は、全員死んでるって言ったけど、あれもウソね。これは全て、お父様が仕組んだ手の込んだお芝居よ。使用人たちはみんな、死んだフリをしているだけよ。…元々殺人なんか起こってない。殺人犯なんかうろついてるわけがないのよ。」
【絵羽】「…へぇ。あんたがそれに気付くとは意外ね。割と怯えてるように見えたから、そこまでは気付いてないと思ったのに。」
【楼座】「……私、そういう場の空気は読む方なの。お陰様で鍛えられたから。」
 そう。気付けば、使用人たちは“死んで”、この島には今、右代宮家の人間しかいないことになっている。そして南條は、使用人たちの“死亡”を宣告した後、親族たちが碑文の謎を議論し始めたら、邪魔をしないとでも言う風に2階へ姿を消した…。
【絵羽】「全て。私たちに碑文を挑戦してもらおうというお芝居よ。……だからこそ。姉さんが勝利者であるという宣言が必要なのよ。
 あの焼死体が本当のお父様のわけがない。……足の指の数が同じ死体をどこかで調達して、わざわざ悪趣味に焼いて見せたのよ。」
【楼座】「……きっとどこかに隠れて、私たちがどう振舞うかを監視してるわ。…姉さんが黄金郷に至ったこともきっと、すでに知るところよ。
 ……だからこそ、早く姉さんが勝利者であると宣言すべき。きっとお父様がどこからともなく現れて、手を叩きながら姉さんこそが跡継ぎだと宣言してくれるわ。」
【絵羽】「…………………………。……………………。」
【楼座】「…まぁ、でも。……私は姉さんから1億5千万を無心しなくてはならない以上、何も逆らうことなんかできないわね。」
【絵羽】「………私の言うことを聞いて、兄さんたちには黙っている、ということね…?」
【楼座】「………………………………。」
【絵羽】「……そこをはっきりさせなさい。…楼座。」
【楼座】「……………私は話したいわ。ルールを定めたのはつい昨夜よ。それを反故にすべきではないわ。」
【絵羽】「もちろん、必ず兄弟の前で発表はするわ。…でも、その前によく状況を確認したいのよ。10tの黄金の運び出し、そして換金。公平な分配。
 ……それを兄さんに出し抜かれずに行なえる裏付けが取れるまで、しばらく考える時間が欲しい。それまで発表を待ちたいというだけの話よ。………決して、独り占めしたくて内緒にするわけじゃないわ。」
【楼座】「………………。…やがてはきっとみんなに発表するのね?」
【絵羽】「…えぇ、もちろんよ。私だって、早く兄さんの鼻を明かしてやりたいもの。」
【楼座】「………姉さんの言う、考える時間というのはどの程度のものなの?」
【絵羽】「そんなの、考えてみなくちゃわからないわ。」
【楼座】「…………一晩あれば、それは充分?」
【絵羽】「一晩って、そんなの約束できないわよ…!」
【楼座】「次期当主の姉さんに敬意を表して、一晩は姉さんに協力するわ。……今年の親族会議は、台風が通り過ぎて船が迎えに来る明日の朝まで。…そうね、うみねこのなく頃には、お開きになる。……そこまでは私も黙ってることにする。
 それ以上の考える時間が必要だというのなら、…その時に改めて相談しましょう? ………私は姉さんの立場を、最大限汲み取って協力するわ。」
【絵羽】「………………………。……あんた、……食えないわね。…びっくりよ。それだけの逞しさがあったなんて。」
【楼座】「……女は子を持つと強くなるって本当ね。真里亞を産んで、私はそれを強く自覚したわ。」
【絵羽】「……………。わかったわ。とりあえずはあんたの協力に感謝するわ。…明日の話は明日すればいいことよ。」
【楼座】「えぇ、そうね。……姉さんが黄金を独り占めにするなんて考えない、公平な当主跡継ぎだと信じてるわ。」
【絵羽】「…もちろんでしょ!……ちゃんと黄金は兄弟で山分けするわよ。」
 嫌よ。これは私が見つけた。私が、私たちが碑文の謎を解いたんだから! だからこの黄金は全て私のモノだってば…!!
【エヴァ】「誰にも譲らないわ! 私が右代宮家の当主なのよ! 私が、“私”がッ!!」
 絵羽の中の魔女が、声高らかに全ての占有を宣言する。…もちろんそれは楼座の耳には遥かに届かないし、絵羽の耳にすら届かないだろう。
【ベアト】「……うむ。妾がそれを認めようぞ。そなたこそ、魔女の碑文に選ばれし、正当なる右代宮家の当主よ。今こそそれを、我が名において認めようぞ。」
地下貴賓室
【エヴァ】「…あ、………あんたは………? その格好、まさか、……本当に、…ベアトリーチェ……?」
 ベアトリーチェは、絵羽が自分の名を呼んでくれたことが嬉しかったのかもしれない。小気味良くからからと笑う。
 その笑いに呼応して、室内に金粉の嵐が巻き起こるように、黄金の蝶たちが湧き上がり、室内を黄金色で照らし出した…。
【ベアト】「如何にも。妾が黄金の魔女、ベアトリーチェである。……くっくっくく、そう怯えることはないぞ。妾はそなたの偉業を讃えておる。…本当に素晴らしい。あの碑文の謎を、見事解いて見せたとは…。妾を感嘆させるに値する…!」
【エヴァ】「…あの手紙の差出人はあなた? なら私は全ての黄金と右代宮家の家督を引き継げるのよね…? あなたはそう、あの手紙に記したわ。そして私はその挑戦に打ち勝った…!」
【ベアト】「うむ。妾はそれを認めようぞ。今やこの積み上げられた黄金の全て、右代宮家の全てをどうしようもそなたの自由ぞ。何しろ、今この瞬間より、そなたはもう右代宮家の当主なのだから。」
【エヴァ】「ほ、……本当に? 本当よね? 本当よね?!」
【ベアト】「興奮するでない。妾はそなたを率直に褒めておる。その証に、そなたにこれを授けよう。」
 ベアトリーチェは自らの指にはめていた指輪を抜き取ると、それを絵羽に突き出す。恐る恐るそれを受け取ると、……それが指輪であることがわかった。
【エヴァ】「……こ、……これ………、まさか…………。」
【ベアト】「うむ。金蔵より返還された、右代宮家当主の証である黄金の指輪だ。今よりそれはそなたのもの。それを指にはめ、兄弟たちの前で高々と掲げるが良い。そなたが今や右代宮家の家督を継いだことに、誰も疑いを挟めぬであろうぞ。」
 絵羽はその指輪をしげしげと見つめる。…断じて贋作などではない。…紛れもなく本物。その指輪をいつの日にか受け継ぐことを夢見て、何度も何度も凝視してきた自分だからこそ、間違いなく断定できた。
 その指輪が、今や新しい主として自分を指名し、……手渡されている……。それを、恐る恐る、…自分の左手の中指に通す…。
 その瞬間、……背中を、それまでに体験したことのない感動が込み上げるのを感じた。頭が真っ白になる。両目が見開かれる。自分の指に、…あの指輪がはめられている。夢ではなく、現実として…………!
【ベアト】「その指輪も喜んでおろう。それほどまでに、指に通すことを夢見ていたそなたの元へ行くことができたのだから。」
【エヴァ】「……指輪…。……お父様の……指輪……………!」
【ベアト】「そなたはそれを、そのようにして自らの指に通すことを、どれほどの夜に夢見てきたのか。……その想いの強さがそなたの魔法に通じ、それを実現させたのだ。そなたは今や、立派な魔女を名乗る資格があろうぞ。」
【エヴァ】「…………あ、…あなたは何者なの。…本当に、……ベアトリーチェなの……。」
【ベアト】「くっくっくっく。我こそは黄金の魔女ベアトリーチェ! 右代宮家顧問錬金術師! 金蔵との契約に従い、そなたに今こそ全てを受け継ごうぞ。…金蔵に託した全ての黄金。そしてそれにより築き上げた全ての財産。そして右代宮家の家督と名誉。そして、我が力と無限の魔女の称号をそなたに引き継ごう。」
【エヴァ】「……魔女の、……称号……。」
【ベアト】「妾の全ての魔力と、無限の魔女にして黄金の魔女の称号をそなたに引き継ぐ。……先代に従い、称号と共に妾の名、ベアトリーチェもそなたに譲り渡す。……今こそそなたが名乗るが良かろう!」
 絵羽はごくりと喉を鳴らす。薄暗いと思っていたシャンデリアの灯りが、今はむしろ眩しすぎるくらい。
【ベアト】「我が名において、これより黄金の魔女の継承を執り行おうぞ…!」
謁見の間
 ベアトリーチェがそう宣言した瞬間、黄金の輝きは全てを埋め尽くし、……謁見の間を思わせる荘厳な空間に様変わりさせていた。謁見の間には、千年ぶりの継承式を祝福しようと、無数の黄金蝶たちと、ベアトリーチェの眷属たち、同胞たちが人垣を成していた。
 見ればベアトリーチェは無限の魔女のみが座すことを許される玉座にて、黄金の杖を持ち、眩しささえ感じさせる貫禄で君臨していた。絵羽は誰に命じられるわけでもなく、自然に跪き、頭を垂れた…。
 山羊の従者がうやうやしく、片翼の鷲を模った黄金の杖をベアトリーチェに差し出す。
 ベアトリーチェは立ち上がってその杖を受け取ると、その先端を絵羽の肩に載せるようにして宣言する。それは千年ぶりの宣言。
【ベアト】「右代宮絵羽。そなたは魔女の碑文の謎を見事解き、この黄金郷へ辿り着いた。……その偉業を讃え、そなたに無限の魔法の全てと、無限と黄金の両魔女の称号を引き継ぐ。
 そなたはこれより、我が名、ベアトリーチェを名乗るが良かろう…! さぁ、面を上げよ。そして立ちてこの杖を受け取れ…!」
【エヴァ】「あ、……有り難き幸せ…。」
 絵羽は立ち眩みのようにふらふらと立ち上がり、ベアトリーチェの手より黄金の杖を受け取る。その手はかすかに震えていた。
 その杖を握った途端。……彼女は眩き黄金の輝きに包まれた。自らの内より黄金の蝶が湧き出すかのよう。
 黄金の魔女を継承した瞬間に、絵羽は自らの魂の奥底から何かが生まれ変わるのを感じた。それは一言で例えるならば、エネルギー。黄金色をしたエネルギー。
 まるで、それまでの自分が生まれた時からずっと寝惚けていて、……生まれて初めて目を覚ましたかのような覚醒感。瞳の奥にある本当の瞳が、生まれて初めて目を覚ますのを感じた。
【ベアト】「………うむ。黄金の魔女に相応しき美しき装いよ。さぁ、一堂の者たちにそなたの姿を見せてやるが良い。そなたこそが今や新しき魔女であることを知らしめてやるが良い…!」
 絵羽は、……いや、新しきベアトリーチェは恐る恐る振り返る。すると、広大な謁見の間を埋めていた魔女の眷属たちが、まるで潮騒のようにさえ聞こえる、盛大な拍手で讃えた……。
【ベアト】「さぁ、皆の者。ベアトリーチェの肖像画を、全て新しきベアトリーチェに差し替えよ! 新しきベアトリーチェに祝いの言葉を奉げよ…!!」
【ワルギリア】「新しきベアトリーチェよ。黄金の魔女の継承、おめでとう。…あなたが一日も早く、誇り高き黄金の魔女として、そして無限の魔女として一人前になることを願っていますよ。」
【エヴァ】「は、………はい、…がんばります…。」
【ワルギリア】「やんちゃな先代と違い、あなたには無限の魔女に相応しい落ち着きを期待していますよ。ほっほほほほほ。」
【ベアト】「お師匠様ぁ、今は真面目な儀式中なんだから、そういうのはナシで頼むよぉ。」
【ロノウェ】「黄金の魔女の継承、おめでとうございます。新しきベアトリーチェさま。……私はロノウェと申します。黄金の魔女さまにお仕えを許されている七十二柱の悪魔でございます。
 これより、常にお側に控えております。何か不自由がございましたら、いつでもお申し付けください。」
【エヴァ】「……あ、……ありがとう……。」
【ベアト】「ロノウェは口は悪いが頼れる男だ。魔女としての新しき日々への戸惑いは、その男に相談すれば晴れるであろうぞ。」
【ロノウェ】「………そして、先代ベアトリーチェさま。ようやくこうしてお会いできたのに、これ以上のお仕えを許されずとても残念です。……この千年間、とても楽しく過ごさせていただきました。深く感謝いたします。」
【ベアト】「うむ。……そなたとの千年、退屈はなかったぞ。…新しき魔女の世話、どうかよろしく頼むぞ。」
【ロノウェ】「はい。先代ベアトリーチェさまの最後のご命令、…このロノウェ、しかと聞き届けました。」
【ラムダ】「感謝しなさいよ? あんたの魔女継承の推薦人にサインしてあげたんだからね? つまり、私がサインしなかったらあんたは魔女になれなかったってわけぇ。だから少しは感謝なさいよねぇ?!」
【ベアト】「こちらは絶対の魔女、ラムダデルタ卿。そなたの無限の魔女継承には元老院の魔女の推薦が必要なのだ。ラムダデルタ卿はそなたを推薦され、後見人となって下された。」
【エヴァ】「ど、……どうも……。」
【ラムダ】「……ちょっとー、ベアトー! この子、感謝が足りないわー! やっぱ推薦やめるー!」
【ベルン】「推薦人は子どもの使いじゃないでしょ。サインしたなら、きっちり責任取りなさいよ。」
【ベアト】「ラムダデルタ卿は、絶対の魔女でもあられる。……絶対の魔女は、運命を強固にする絶対の運命を好まれる。そなたの今日までの努力を、とても気に入り高く評価して下されたのだ。」
【ラムダ】「まぁ、不遇の少女時代と、報われない努力にね、ちょーっとだけ同情しただけなんだから。別に可哀想だからとか思ったわけじゃないわよ、自惚れないでよねー! ツーンだ!」
【ベルン】「……私から見ればあなたの継承は、まぁ、奇跡というよりは偶然ね。私が推薦するには値しない。」
【ベアト】「くっくっく。こちらはベルンカステル卿。とても気難しい御仁でな。だが、こうして参列し、祝福してくれただけでも僥倖というものよ。」
【ベルン】「………千年ぶりの珍しいイベントだから来ただけよ。おいしいお酒も出るそうだし。」
【ルシファー】「新しきベアトリーチェさま。ぜひ私たちにもご挨拶させてくださいっ。」
【エヴァ】「え、…あ、…どうも初めまして…。」
 煉獄の七姉妹たちが揃って並ぶ。長女のルシファーが一歩、歩み出て跪く。
【ベアト】「こやつらは、妾に仕えし家具たち。継承祝いに、そなたに遣わそう。……そなたには、黄金の魔女を継承した後、自らの復活の儀式を執り行ってもらわねばならぬ。その儀式において、煉獄の七姉妹たちは欠かせぬ役割を果たす。……曲者揃いだが役には立つぞ。手足とするが良い。」
【ルシファー】「常にベアトリーチェさまのお側にっ。何事もお命じください。必ずや遂行してご覧に入れます…!」
 その後も、様々な貴人や眷属たちが訪れては新しき魔女に祝いの言葉を述べた。それらに、しどろもどりになりながらも返事を返す彼女は、頭の中が酸欠で希薄になってしまったような気持ちだった。
 ……これが現実のものか、非現実のものなのか、区別もつかない。でもひとつだけわかることがある。今や自分が、黄金の魔女を名乗ることが許されたという達成感。…これだけは絶対に理解できる真実だった…。
【戦人】「…………これは、……どういうことなんだ。もちろん鵜呑みにするつもりはねぇが、…一体、どういう意味なんだ?! 絵羽伯母さんが新しいベアトリーチェに? 魔女になっちまったっていうのか? ……そんな馬鹿な…!!」
【ベアト】「妾も驚いておる。まさかあの碑文を解く者が現れるとはな。……しかし、そういうルールだ。妾はそれに則り、黄金の魔女の座と我が名を引き継がねばならぬ。」
【ロノウェ】「驚かれるには値しますまい。お嬢様は元より、そういうルールを手紙に記されて公示されております。……絵羽さまがそれを最初に成し遂げた。それだけのことでございます。」
【戦人】「……ワルギリア、いるか?!」
【ワルギリア】「はい、おりますとも…。」
【戦人】「この茶番が意味するところは何だ?! おかしな魔女たちが次々と現れる描写はあいつの戯言だとしても…! ……これじゃあまるで、絵羽伯母さんが魔女になっちまったみたいじゃないか!」
【ワルギリア】「落ち着いて。“黄金の魔女”という称号が継承され、あるいは以後、自称するだけに過ぎません。……この継承式はそれをあの子の“解釈”で演出したものに過ぎないに違いない。同じ手に何度も掛からないで。」
【戦人】「そ、…そうだな…。この盛大な式典は全てまやかしだ。だが、絵羽伯母さんが碑文の謎を解いたことまでは事実。……そしてそれは同時に、右代宮家の家督を受け継いだことも指す。
 ……そして10tの黄金を得たということは、……絵羽伯母さんが“黄金の魔女”を自称してもいい…、ということなのか…? くそ、相変わらずややこしいことをしやがって…!!」
【ベアト】「…やれやれ。無粋なるニンゲンには式典の荘厳さを解することもできぬか。……まぁ良い。空気を読めぬのがニンゲンというもの。そなたを憐れには思うが責めはせぬぞ。」
【戦人】「くそ…。可哀想な人を見るような目で見やがって…。………だが、とりあえず確認をする必要はある。
 それはあの、若返った絵羽伯母さんみたいな分身、…つまり、新しいベアトリーチェとかいうやつの定義についてだ。……あれは何なんだ?!」
【ベアト】「妾がそれを語ろうとも、どうせそなたは、魔法は信じぬ、魔女は信じぬの一点張りであろう? だから妾から説明することは特にない。そなたが思う通りに信じれば良い。」
【戦人】「……俺が思う通りだとぉ…?! じゃ、じゃあどう解釈すりゃいいんだ…?!」
【ロノウェ】「右代宮絵羽の内面的別存在の視覚化、と今は捉えていただき、差し支えないかと思いますよ。」
【ワルギリア】「…もちろん、鵜呑みにはできませんが、今はそう理解するのが妥当でしょう。」
【戦人】「…………つ、つまり、絵羽伯母さんも彼女も、同じ人物だと理解すべきなんだな? ……くそ、…何だか気持ち悪い展開になったぜ…。」
【ベアト】「そういうわけで、これよりベアトリーチェは妾の名ではないぞ。右代宮絵羽に引き継いだからな。……というわけで妾は名無しだ! 戦人ぁ、何か妾に適当な相応しき名はないものか。そなたの推薦を受けるぞ! 何か上品で気品溢れて、できればちょっぴりキュートな名前はないものか…!」
【戦人】「…お前なんかベアトのまんまで充分だぜ。ベアトとベアトリーチェで充分区別付くだろ。」
【ベアト】「む、…むぅ。ベアトのままか…。違和感はないが、なぜだかつまらぬ。むぅ。」
【ロノウェ】「ぷっくっくっくっく…。紅茶の温度と女心はいつの時代も難しゅうございます。」
【ワルギリア】「………戦人くん。とにかく、以後は冷静に。この子がベアトリーチェだった時に比べれば、現在の彼女は、右代宮絵羽と判別が付くだけ、私たちに状況は有利です。」
【戦人】「……だからこそ、…かえって気に入らねぇんだがな。……何を考えてるんだ? ベアトのヤツめ………。」
 向こうでは魔女たちが、今やベアトリーチェの名を持つ若き日の姿をした絵羽伯母さんを祝福し続け、長い行列を作っている。
 それはさながら、魔女の戴冠式。黄金の蝶が無数に羽ばたき、黄金色に輝く幻想的な空間を演出している。それら全てが彼女を讃えていた。
 俺はそれを遠目に見ながら、少しだけ照れたような表情で笑みを浮かべている新生ベアトリーチェを見る。……初めは戸惑っていた彼女の表情には、ようやく自覚できてきた喜びが溢れているようだった。
 その表情には、黄金を前に狂った笑い声を上げたような狂気は一切ない。ただただ、喜びを噛み締める初々しさがあるだけだった。
 魔女を否定する俺には、魔女の継承式で喜びの表情を見せる彼女を受け容れることはできない…。……しかし、あの無邪気な笑顔を見ていると、…今だけは祝福したいような、そんな気持ちにさせられる。
 どんなものであれ、努力が達せられて報われた瞬間は美しい。ずっとずっと当主跡継ぎに憧れ、小さい頃から報われない努力を重ねてきた絵羽伯母さんは、……碑文の謎というチャンスを見事に掴み、…そしてその座をとうとう手に入れた。
 少女時代からの夢をついに叶えた人間の笑顔の、何と神々しいことか。
 俺は魔女を絶対に認めない。でも、……戦人は両手を合わせ、少しだけ音を立てる。
 ぱちり。ぱちり。……それは彼女の耳には届かないけれど、…祝福するものだった。
【戦人】「………おめでとうよ、絵羽伯母さん。」
 あんたは見事、一番乗りで碑文の謎を解いたな。文句なしにあんたの勝ちだ。…………黄金の魔女云々は認めないが、右代宮家の新しい当主ってのは、俺も認めて素直に祝うぜ。
【ベアト】「……………ふ。」
 戦人の拍手に釣られるように、ベアトも手を叩く。
 …ちょっぴりだけ不思議な光景。敵対している戦人とベアトが並んで、同じ相手に拍手を送っているのだから。
【戦人】「魔女に拍手してるわけじゃねぇぞ。…絵羽伯母さんのこれまでの努力に拍手してんだぞ。」
【ベアト】「妾もだぞ。あの碑文を見事に解いた絵羽に対し、率直に祝福の拍手を送っておる。」
【戦人】「………ふむ。…お前と一緒に拍手してるってのが気に入らねぇが。…ま、今は気にしねぇことにするぜ。…たまにゃ、お前と一緒に拍手してもバチは当たらねぇか。」
【ベアト】「ふむ。たまにはオツであるな。……しかし、拍手って楽しいなァ。成し遂げたのは妾ではなく絵羽であるというのに、なぜかこっちまで嬉しくなってきおるわ。」
【戦人】「祝福するってことは、その喜びを共感する、共有するって意味だからな。」
【ベアト】「なるほど。では、このわけもなく嬉しい気持ちは、そなたとも共有できているというわけか。……互いを屈服させようとする敵同士でありながら、これは奇異な体験よ。」
【戦人】「まぁ、……今だけは休戦で手を叩こうじゃねぇか。」
 ベアトは悪戯っぽく笑うと、拍手の音で戦人に負けまいと張り切ったのか、より大きな音が出るようはしゃぎながら手を打った。戦人も付き合い、より大きく手を打つ。
 すると何かの儀式を終えたのか、そこで一堂は大きな拍手で新生ベアトリーチェを大きく讃えた。それはまるで戦人たちの拍手が、彼女の承認に必要な最後のものであったかのようだった……。
 絵羽と秀吉は、昨夜の事件を狂言だと聞かされており、紗音と嘉音だけではなく全員が生きていると思っている。
 ちなみに楼座の推理は間違いで、発見者の中にいる協力者が、死体から鍵を見つけたフリをしていても成立する。

新しき魔女
10月5日(日)10時30分

ゲストハウス・ロビー
 ロビーに楼座が戻ってくる。彼女はまだ休んでいい事になっていたが、その表情の雰囲気から、緊張して熟睡できないという風に見えた。
【留弗夫】「……無理してでも横になってろよ。後で堪えるぜ?」
【楼座】「ありがとう。どうしても寝付けなくて。……シャワーだけ浴びさせてもらったから、私はもう充分よ。次の人、休んでもいいわ。」
【夏妃】「霧江さんたちはいかがですか?」
【霧江】「……どうする、留弗夫さん? 休ませてもらう?」
【留弗夫】「霧江は休んでいいぜ。俺は起きてる。それくらいしか男らしいことが出来ねぇ。」
【霧江】「じゃあ起きてるわ。夫と一緒に起きてるくらいしか、女らしいことが出来ないから。」
【夏妃】「……くす。本当に仲のおよろしいことで。」
【霧江】「夏妃さんこそね。くす。」
【蔵臼】「絵羽と秀吉さんはぐっすりみたいじゃないか。やはり楼座と違い、歳には勝てんね。」
 その言葉に呼応したかのように、ガチャリと廊下の扉が開いた。絵羽と秀吉が客室から戻ってくる。
【絵羽】「余計なお世話よ。…あら楼座、もう休んでなくていいの?」
【楼座】「姉さんこそ。無理しないで休んでたら?」
【絵羽】「…………何だか寝付けなくてね。シャワーを浴びたら眠気が醒めちゃったわ。留弗夫たち、良かったら休んでいいわよ。」
【留弗夫】「おう、サンキュ。今は気持ちだけでいいぜ。兄貴たち、先に休んだらどうだ?」
【蔵臼】「ありがたいね。だが先に休むわけにはいかん。それくらいしか長男らしいことが出来ないのでね。」
【夏妃】「私たちは最後まで起きていますのでご心配なく。」
【霧江】「……くす。………それより絵羽姉さん。大丈夫? 少し顔色が悪いわ。」
【秀吉】「……そういやそうやな。……んん? ちょいと熱っぽいで?」
 秀吉が絵羽の額に手を当てる。…どうも体調を崩しているようだった。
【留弗夫】「言わんこっちゃねぇ。…歳のくせに生活リズムを崩すからだぜ。……風邪か?」
【蔵臼】「…夏妃。上の南條先生を呼んできてくれんかね。」
【夏妃】「は、はい。」
【絵羽】「…いいわ、そこまで大袈裟じゃない。常備薬は持ってるから大丈夫よ。……疲れるとすぐ熱に出るの。心配しないで。」
【楼座】「……姉さん、無理しないで?」
【絵羽】「………ありがと。…私抜きで兄弟が集まってると、私の陰口でも言われてるような気がしちゃってね。…昔からの被害妄想なの。ごめんね?」
【楼座】「……………私は何も言わないわよ。姉さんのいないところで姉さんの嫌な話なんて。」
【絵羽】「…………………………………。」
【楼座】「……どうしたの? 姉さん、さっきから変よ? もう少し休んだら?」
【絵羽】「…………そうね。3月までの金策を考えたら頭痛が酷くなって来ちゃったわ。」
【楼座】「それは良くないわね。休んでて。…姉さんの頭痛が酷くならないよう、私も自重してるわ。私だって頭痛、さっきから辛いし。」
【絵羽】「………ありがと。……じゃあ私、お言葉に甘えてもう少し休ませてもらうわね。」
【秀吉】「どうしたんや、絵羽。急にヘソ曲げて。……すまんな、わしらもうちょい休ませてもらうわ。すまんな、すまんな…。」
 秀吉は何度も拝んで謝るような仕草を見せてから、絵羽の後を追い、ロビーを出て行った。
【蔵臼】「…………空気が悪いな。どうにもギスギスしている。」
【霧江】「無理もない。……早朝に殺人事件。それからずっと、ここで銃を抱きながら缶詰ですもの。…ストレスが溜まって当然ね。」
【楼座】「上の子たちも、だいぶストレスが溜まってるんじゃないかしら。……真里亞が心配だわ。こういう時は癇癪を起こしやすいの。」
 するとその時、2階で、どたどたどたっという慌しい足音が聞こえた。ゲストハウスは安っぽい建物ではないので、普通の足音なら聞こえるわけもない。
 踵で地団太を踏むような、そんな音だった。すると間髪入れずに、2階廊下へ走り出たらしい音と、真里亞のうーうーうーと連呼する不機嫌そうな声が聞こえてきた。
 楼座は髪を振り乱しながら頭を抱え、声なき声で苦悶の唸りをあげる…。大人たちはその仕草にさりげなく背を向け、気付かぬフリをしてやるのだった。
 ドタドタドタと賑やかな音が2階から降りてきてロビーに飛び込んでくる。
 泣きじゃくる真里亞と、それに付いてきた子どもたち、そして南條だった。…つまり、真里亞の大騒ぎのせいで、2階の全員が降りてきてしまったというわけだ。
 楼座は自分の娘が掛けている迷惑の規模に、再び眩暈が起こるのを隠せずにいた…。
【朱志香】「ご、ごめん楼座叔母さん…。私たちもなだめたんだけど、どうしても聞いてくれなくて…。」
【真里亞】「うーうーうー!! うーうーうー!! うわあああぁあぁああぁん!!」
【楼座】「…どうしたの、真里亞。少し静かにしなさい? みんな見てるわよ?」
【戦人】「例の薔薇庭園の真里亞の薔薇…。あれが急に心配だと言い出して。」
【譲治】「……寝惚けたみたいなんです。急にがばっと起き出して、薔薇が心配だ薔薇が心配だって言い出して。………真里亞ちゃん、落ち着いて。それは夢なんだよ…。」
【真里亞】「うーうーうーうー!! あれはベアトリーチェと真里亞の薔薇なのー!! だから大切にしないとベアトリーチェに怒られちゃうのー!! また折れちゃってるかもしれない! うーうーうー! うーうーうーうー!!」
【楼座】「……はぁッ。…だから少し静かにしなさいッて言ってるでしょおおおッ?!?!」
 楼座が急に声のトーンを上げたので子どもたちは仰け反るくらいに驚く。しかし真里亞はますますに泣き声を大きくして、癇癪を激しくするだけだった。
【南條】「ろ、…楼座さん。子どもを頭ごなしに叱ってはいけませんぞ…。…こういう時は、温かい牛乳などを与えると良いものです。」
【蔵臼】「……ここにあるかね?」
【夏妃】「さっき、朝食代わりに出した牛乳で空っぽです…。」
【留弗夫】「誰か子ども用の鎮静剤とか持ってるか…? ほら、あの銀の粒みてぇなヤツとか。」
【楼座】「持ってるわよッ!! あぁ、今探して飲ませるからッ!!」
 楼座は不機嫌を隠すことなく、ソファーに置いてあったハンドバッグを取り、中の常備薬を漁る。……真里亞の癇癪用に、小児用の鎮静剤を持ってきているようだった。
 それを見つけ瓶を傾けるが、どうも空っぽらしい。楼座はイライラしながら瓶を何度も振るが、空である事実は変わらなかった。…その間にも、真里亞はますますに泣き声を強めていく…。
絵羽たちの客室
 絵羽と秀吉は、二人で客室に引っ込んでも怪しまれないように、絵羽が熱を出したことにする。黄金の件は情報共有済み。
 その頃、絵羽はベッドに横になり、布団を被っていた。水で濡らしたハンカチを畳みながら、秀吉が洗面所から戻ってくる。
【秀吉】「……こら、ずいぶんひどい熱や…。……きっと、親族会議の毒気にやられてもうたんやな…。……今はもう、他の親族たちのことは全部忘れるんや。…な?」
 秀吉はやさしい言葉を掛けながら、火照った絵羽の額に濡れハンカチをそっと置いた。その手に、絵羽は自らの手を重ねる。
【絵羽】「………あなたの手。…ひんやりして気持ちいい。」
【秀吉】「わしの手が気持ちいいようじゃ、だいぶ熱が出とるな…。安心せい、すぐに薬が効いてくるわ。それにな、わしの手は魔法の手なんや。こうして絵羽の額に手を当てとるとな? どんな熱もたちどころに治ってしまうんや。」
【絵羽】「そうね。……あなたの手で、私の熱が引かなかったことは、一度もないものね…。」
【秀吉】「そうや。わしの手があれば医者要らずやで。安心して目を瞑るんや。……すぐにわしの魔法でグングン熱が下がるからな…。」
【絵羽】「うん、知ってる…。……あなたの魔法、感じるもの。」
 秀吉は、そういうのをプラシーボ効果と言うんやで、と口にしようと思ったが止めた。……絵羽が自分の手から魔法を感じると言ってくれるなら、今はそれでいいのだ…。
【絵羽】「…………魔法って、本当にあるのかしら。」
【秀吉】「あぁ。あるでぇ。信じる者にしかわからへんけどな。…そういう魔法は、案外世の中にたくさんあるもんや。」
【絵羽】「…魔法が実在するなら、……やっぱり魔女も実在するのかしら。」
【秀吉】「うん? 森の魔女ベアトリーチェのことかいな? 信じる者にはおるやろな。神様と同じや。信心深い人の前にしか姿を現さんのや。」
【絵羽】「……………私もね? …昔、魔法が使えたの。」
【秀吉】「ほぅ。ほんまかいな。じゃあお前も魔女やったんやな。」
【絵羽】「……私がね、絶対に叶えたい夢があって。それを強く願って努力すると、それは必ず叶ったの。……私はその魔法で、いつも成績は一番だったし、生徒会長にだってなったし、入りたい大学にも実力で入れたし。……いつだってどんな願いだって叶えてきたわ。」
【秀吉】「そうやな。お前の魔法はいつだって大したもんや…。お前は確かに魔女や。…そして誰にも負けん努力家や。……わしはよーぅ知っとるで。」
【絵羽】「……………私ね。子どもの頃から、ずっとずっと心の中に、もうひとりの自分がいて、いつも私を励ましてくれたの。…そしてその自分は魔女だったわ。
 ………森の魔女ベアトリーチェなんて信じなかった。もし六軒島に魔女がいるとしたら、それは私の心の中の魔女のことだってずっと信じてきた。………その魔女の自分に、私はすごい感謝してる。…あなたに出会わせてくれて良かったなぁって、……いつも感謝してる…。」
【秀吉】「…………病気の時のお前はいつも気弱過ぎや。…今は何も言わんでええ。……熱が下がるまで、ずーっとこうしてるからな。」
【絵羽】「……うん。……絶対に手を、……離さないでね。………何だか私、……自分が自分でなくなるような気がして、……さっきから怖いの。…私の中の魔女が、……ベアトリーチェに触発されて、どんどん強くなるような気がして。…何だか私を飲み込んでしまいそうな気がするの。」
【秀吉】「大丈夫や。わしが一緒にいる限り、なぁんも恐れることなんてあらへん! ほら、ちょいとヤバめな国に旅行に行った時、バスごと強盗にあったことあったやろ? わしが撃退したんやで!」
【絵羽】「…あなた、金時計を渡して拝み倒しただけだったじゃない。……格好悪いけど、…格好良かったわ…。
 …………この手。…絶対に離さないでね…。……眠っても、絶対に離さないでね。……そして何か不気味なものが忍び込んできても、…私を守ってね…。」
【秀吉】「おう、任せとかんかい。……だから今は安心して眠るんやで。すぐに薬と、わしの魔法が効いてくるからな…。」
 絵羽はようやく心を安らかにして目を瞑る。
 ……その時、ロビーの方で、荒々しく扉が開く音がした。そして、真里亞が癇癪を起こしているらしい、うーうーという叫び声と、それを叱責する楼座の怒鳴り声が聞こえてきた。
 …それがよほど耳障りなのだろう。あるいは頭痛に堪えるのかもしれない。絵羽は苦しそうに呻き、布団を被った。
 おおよその想像はつく。真里亞が何かの理由で癇癪を起こし、下のロビーに降りてきて、それを叱る楼座と口論になったのだろう。…そして他の親族たちの目が痛々しかったので、廊下へ真里亞を連れ出した、というところなのか。
 ……楼座と真里亞の問題に干渉する気は、秀吉にはまったくない。…でも、絵羽が体調を悪くしている今だけは、その騒ぎは他所でやってほしいと思った。
【秀吉】「…ちょいと待っとれや。静かにするよう、お願いしてくるわ。」
【絵羽】「………は、早く戻ってきて…。」
【秀吉】「大丈夫や、この部屋から出んて。」
 秀吉はチェーンを外すと扉を開け、廊下に顔を覗かせた。すぐに楼座と目が合う。
【秀吉】「…大丈夫かいな、楼座さん。」
【楼座】「ごめんなさい、うるさくして起こしちゃったかしら…。」
【真里亞】「うーうー! うーうーうーうー!!!」
【秀吉】「…真里亞ちゃん、ごめんなぁ。絵羽伯母さんな、具合が悪くて寝とるんや。すまんが、ちょいと静かにしてもらえるか…?」
 秀吉が頼んだところで、真里亞が声のトーンを下げるわけもない。繰り返し、うーうーと叫び、真里亞の薔薇、真里亞の薔薇と連呼した。
 楼座はその頬をぴしゃりと叩いた後、真里亞の口を塞ぎながら抱え上げ、せめて秀吉たちの部屋から遠ざかるよう、玄関の方へ真里亞を連れて行った。
 …まだしばらくは賑やかだろうが、一応の釘は刺した。秀吉は楼座の母親ぶりに期待しつつ扉を閉める。
【絵羽】「………また真里亞ちゃんの癇癪なの?」
【秀吉】「そうみたいやな。…楼座さんも大変や。……それを思えば、うちの譲治は出来過ぎや。親が感謝したいくらいやで。」
【絵羽】「……………そうね。………ん。……手。」
【秀吉】「おぉ、すまんすまん。……ほら、魔法の手やで。」
 再び絵羽の額に手を載せる。
 ……その手には本当に魔法の力が宿っているのかもしれない。絵羽は、本当に安らいだ表情を浮かべると、少しずつ眠りの世界へ入っていく。秀吉は約束通り、ずっと手を額に当て続けているのだった……。
ゲストハウス・玄関
 玄関では、真里亞の口を押さえたまま、楼座は途方に暮れていた。ロビーでみんなの視線に耐え切れず、子どもたちには2階へ上がれと怒鳴りつけ、ロビーを飛び出してしまった。
 そして廊下に出れば、秀吉たちにうるさいと言われてしまった。私はどこへ行けばいいというのか。……この癇癪持ちの娘を連れて、どこへ行けばいいというのか。
 悔し涙が溢れそうになった…。未だ、叫ぼうともがき続ける真里亞の耳元に口を寄せ、楼座はなるべく落ち着いた声で諭すように言う。
【楼座】「………真里亞は、そんなにも薔薇が見たいのね…?」
 真里亞は、うーうー唸りながら、何度も首を縦に振る。
【楼座】「…どうしてそんなに薔薇が見たいの? お母さんが聞いてあげるから、静かに話して? 叫んだら殴るわよ。」
【真里亞】「…………真里亞の薔薇…。ベアトリーチェに蘇らせてもらったの。……また折れちゃってるかも…。…真里亞はそれが心配…。確かめないと眠れない…。」
 どうやら、昨日、目印をつけた薔薇についてまだ騒いでるらしい。楼座は再び頭痛が疼くのを感じたが、とりあえず真里亞が叫ぶのだけはやめてくれたので、一安心する。
【楼座】「とにかく、今はみんな大変なの。だからママたちに迷惑を掛けないで。……薔薇の話は、明日、雨が上がったら好きにしていいから。だから今は聞き分けなさい…!」
【真里亞】「やだ。…やだやだやだやだ。真里亞のベアトリーチェの薔薇…。…ううぅ…、うーうー。うわあああぁあああああぁあッ!!」
 楼座は反射的にその口を塞ぐ。口調を少し厳しくし過ぎたので、また興奮してしまったのだ…。それが半ば自分のせいであることを自覚し、楼座は自己嫌悪の意味で舌打ちをする。しかし真里亞はそれが自分に対してのものだと思い、ますますに泣き声を荒げた…。
【楼座】「…お願いだから静かにして…。どうしたらあなたは泣き止むの? どうしたらあなたはママの言うことを聞いてくれるの?」
【真里亞】「………。」
 ぴたりと。真里亞が不自然なくらいに泣き止んだ。……すると振り返り、ぽつりと言った。
【真里亞】「…………真里亞の薔薇を見たら、ちゃんと明日まで静かにしてるよ。」
【楼座】「本当?」
【真里亞】「うん。…薔薇庭園に行って、真里亞の薔薇を見たら、もう大人しくする。」
【楼座】「………………。」
【真里亞】「本当だよ、ママ。」
【楼座】「………………………………。」
 楼座は、この風雨の中に出掛けることさえ、とりあえず真里亞が静かにしてくれるなら、お安い御用だと思った。
 一応、少しだけ無用心ではないかと考えてみる。…………しかし結局、殺人事件など何も起こっていない。
 朝から起きているどたばたは全て、金蔵たちが仕組んだ茶番なのだ。あの連鎖密室をよく考えれば、彼らの自作自演であることをこれ以上なく物語っている…。
【楼座】「……本当に、薔薇を見たらもう大人しくする?」
【真里亞】「うん。本当だよママ。……きひひ。」
【楼座】「……………………………。」
【真里亞】「あ痛。」
 気持ち悪い笑い声を見逃さず、軽いゲンコツを落とす。そして降参するかのように肩をすくめた。
【楼座】「……わかったわ。一目見たら納得するのよ。いいわね?」
【真里亞】「うん、ママ。約束する。……きひひひひひひひひひひひひひひ。」
 楼座は銃の重みをもう一度確かめる。……大丈夫。どうせ茶番。殺人犯など元からこの島にはいたりしない…。
【戦人】「くそッ、待てよ楼座叔母さん…!! 楼座叔母さんと真里亞が……、第二の晩の犠牲者なのか?! くそくそくそッ、誰か気付けよ、呼び止めろ!! 居間の親父たちや俺たちは何をしてるんだ!!」
【ベアト】「うむ。楼座親子の痛々しい関係に気を遣って、わざわざ話題を変えておるぞ。そなたらも2階へ上がり、テレビを見ながら話題を変えておる。」
【戦人】「くそったれぇ!! 誰か気付けよ! 一番近くにいるのは誰だよ、秀吉伯父さんか?! 頼むよ、玄関から二人が出て行くのを気付いてくれよ、うおおおおおおおぉおおお!!」
【ベアト】「届かん届かん、くっくっく! 二人のささやかな時間を邪魔してくれるな。ふっははははははは…!」
 秀吉は絵羽の額に手を当てながら、ずっとやさしく語りかけている。玄関から表へ出る楼座たちの気配になど、気付きもしない。
 ならばさらに離れたロビーにいる人間たちにだって気付けるわけもない。2階のいとこ部屋ではとてもとても…!
【ベアト】「そなたは何を慌てておるのか。第一の晩にて、犯人は事故死したとの大胆な指し手にて妾を打ち破ったではないか。
 …ならばもうこの島に犯人はおらぬことになるぞ…? くっくくくくく、何を心配する必要があるというのか…。」
【戦人】「うるせえよ、白々しいんだよッ!! 誰か引き止めろ、二人が殺されるんだッ!! 誰か止めろォおおおおおおぉおおおおおぉ、うっをおおおおおおおおぉおおおッ!!」
薔薇庭園
 ……戦人の声無き叫びが、楼座たちに届くわけもない。二人の姿は薔薇庭園にあった。
 雨は相変わらずひどいが、風は少しだけ収まっているのが幸いだった。……いや、幸いだったかはわからない。もしも、もっとひどい風だったなら、楼座は表へ出ることを躊躇ったに違いないのだから…。
【真里亞】「……うー、うー、うー…。…………あった…!」
 真里亞は金モールのついた自分の薔薇を見つけ、愛おしそうに眺める。一目見たら納得するという約束ではあったが、下手にケチって後でまた愚図られては堪らないと、楼座は真里亞が満足するまで、付き合うことにするのだった。
 ……犯人などいないと信じているが、もしもそれが勘違いだとしたら、自分たちは今、非常に危険な場所にいる。楼座はそれをわずかながらに自覚する。
 いざという時は、傘を放り出して銃を構える。…楼座は無邪気に喜ぶ真里亞を尻目に、四方を用心深くうかがうのだった。
 ………………………………? ……目が疲れているのだろうか。誰もいるはずのない風雨の、そして暗黒の薔薇庭園で、何かが煌いたような気がした。
 …黄金色……? 気のせいに決まっている。楼座にはそれが、黄金の蝶が薔薇の茂みの間を舞ったように感じられたからだ…。
絵羽たちの客室
【秀吉】「……大丈夫か、絵羽…。…無理せんで、やっぱり南條先生を呼んで来んか…?!」
【絵羽】「だ……、……大丈夫だから…。……この手を離さないで……。…お願いだから、……離さないで……。」
 絵羽の息は荒い。額にも汗の玉が浮いている。
 確かに昨夜は徹夜だし、今朝も早朝から慌しい。体が参ってしまったとしてもおかしくない。……そう理屈ではわかっていても、この絵羽の急な発熱は、何か良くない病気の発症ではないかと疑ってしまう。
 秀吉は何度か南條を呼ぼうと提案したが、絵羽はそれを頑なに拒み、…それより、自分の手を離さないでほしいと懇願する…。
【秀吉】「わかった…。でもな、お昼になったら必ず南條先生に診てもらうんやで。それを約束できるなら、ずっとここにいて、お前の手を握ったるからな。こうして、ぎゅっとな。」
【絵羽】「……ありがとう…。……大丈夫よ…。あなたの手の魔法で、……必ずこんな熱なんか下がっちゃうから……。」
 そうは言いつつも、絵羽の呼吸は荒いままで一向に収まらない。
【秀吉】「……はぁ、……はぁ、……はぁッ…。……離さないで、…離さないで……、はぁ、……はあッ、…………ぅああああああああああぁああああああッ!!」
薔薇庭園
【楼座】「だ、…………誰…?!」
 薔薇の茂みの向こうに、傘が動くのが見えた。楼座は傘を投げ出して銃を乱暴に構える…。すると茂みの向こうの人影が、……姿を現した。
【真里亞】「………うー? ……絵羽伯母さん…………。………?」
【楼座】「…びっくりしたわ。姉さんなの? …………何か御用? …さっきの話の続きなの?」
【絵羽】「…………………………。…えぇ、そうよぅ。お父様の黄金の話よ。」
【楼座】「……お願いだから真里亞の前では遠慮して。ちゃんと約束は守ってるわよ? 姉さんの悪巧みの邪魔はしないわ。」
【絵羽】「……………悪巧み? 何それ。」
【楼座】「………姉さんが何を考えていても勝手よ。私は邪魔する気なんてない。だから真里亞の前では許して。私は分け前さえもらえれば充分なの。」
 絵羽は客室の窓から出て屋敷に行く。そして、自分が碑文を解いたことを紗音に知らせ、当主の指輪と悪魔の杭を受け取る。
 買収された際に大体の説明を受けているため、時間はかからない。
【絵羽】「分け前? ふふふふふふふ、あっはははははははははははははははは。」
 絵羽が気色悪い声で笑い始める…。楼座はぎょっとするが、真里亞はきょとんとしている。
 ………そして真里亞は一言、言った。
【真里亞】「………うー……? …………おばさん、…………誰…?」
【絵羽】「はははははは、あっはっははははははははははははははははッ!! 分け前ぇ?! 誰がお前にやるものか…! あれは全て私のもの! この黄金の魔女、ベアトリーチェのものよッ…!!!」
絵羽たちの客室
【絵羽】「うあああああああぁあああああぁッぁぁぁぁっ…ッ!」
【秀吉】「絵羽、大丈夫か絵羽! 絵羽っ! 絵羽!!」
【絵羽】「握っていて…!! 離さないでッ!! 私が私じゃない誰かに連れ去られないように…!! 私の手を握っていて…。離さないでぇええええぇ…ッ!!!」
薔薇庭園
【エヴァ】「お前が何を努力したの?! 何も努力してない! いつも私たちの影に隠れてのらりくらり! いつも戦わずに影から影へと逃げ回っていたお前に、右代宮家の黄金を無心する資格など本当にあると思っているの…?!
 あれは全て私のもの! 右代宮家当主にして新しき黄金の魔女、ベアトリーチェの名を継承した私だけのものッ!!」
【真里亞】「………ベアトリーチェ。……………ベアトリーチェだ!! ママっ、ベアトリーチェ!」
 真里亞が狂喜しながら母親に飛びつく。…楼座はそれを邪険にしながら銃を高々と構えた。
【楼座】「……ね、……姉さんよね……? ……姉さんなのよね……?」
【エヴァ】「違うわ。…私はもはや、あなたの姉であった存在ではないの。」
【楼座】「じゃああんた、誰なのよッ!! ベアトリーチェだとでも言うのッ?! そんなはずはない! あんたは19年前に死んだのよッ!!!
 えぇ、確かに死んでいたわ、だって私、あなたの頭が割れているところをはっきり見たもの。その中身が溢れ出しているのを、昨日のことのように思い出せる! そのあんたがどうして生きててここに居るのよぉおおおおッ?!?!」
【エヴァ】「黄金の魔女に死の概念などないの。黄金の魔女とベアトリーチェの名は永遠に受け継がれてゆくわ。
 お前が知っていたベアトリーチェは死を迎えたかもしれないが、今やそれは私の名である…! ゆえに無限! ベアトリーチェに死の概念はないのッ!!」
【楼座】「………あの黄金に、気が触れたとしか思えない。……憐れね、姉さん…!」
【エヴァ】「もはや私はお前の姉ではないというのに。……さて、新しきベアトリーチェとして、自らの復活の儀式を引き継ぐわ。
 ………ロノウェ! 私はどうすればいいの?!」
【ロノウェ】「ご随意のままに。もはやベアトリーチェさまには、どのような思い通りをも実現できる力がおありです。少し扱えば慣れるでしょう。」
【エヴァ】「……不甲斐なき元妹よ。私が魔女として初めて奉げる最初の生贄に選ばれたことを、光栄に思うがいい。第二の晩に、寄り添う二人を、私がこの手で引き裂く…!!」
 新しきベアトリーチェが、最初に願った、……いや、最初に使おうと思った魔法は、人として制約を超えることだった。…それは重力。その束縛から解放されることで、自らが魔女になった自覚を得たいと思ったのだ。
 魔女と楼座の二人をそのままに。……大地だけが眼下に遠退いていく。今や二人の足は大地に付いてはいない。
 楼座はようやく、大地が眼下に遠退いたのではなく、自らと魔女が雨天の空へ吸い上げられたのだと知る。
【楼座】「…………ぇ…? ……………ひッ…?!」
【エヴァ】「お、………おおおおおおおおぉ……。すごい……!」
 重力によって束縛された人間にとって、足が大地に付かないことは、この上なく不安なこと。……しかし、新しき魔女として重力から解放される喜びを知ったベアトリーチェは、歓喜に全身を震わせる。
【エヴァ】「……ねぇ、楼座。昔、小さい頃、魔女になって空が飛べたらなって話したことあるの、覚えてる? ……叶ったよ? 私が本当の魔女になって叶えてあげたわ。」
【楼座】「や、…………やめてよ、………夢なら醒めて……。」
【エヴァ】「あなた言ったわ。夢の中で空を飛んだって。そして醒めたくなかったとも言ったわ。起こした私を恨んだともね?……安心して。今度は醒めないわよ? ふっふふふふふふふふふふふふ!!」
 さぁ、私と雨天の大空を踊ろう。狭くて退屈な六軒島から、うみねこのように飛び立って空に逃れたいと、私たちは共に願ったんじゃなかったっけ…?
 その夢を、今、私が叶えてあげるの。だからこの喜びを、他の誰でもない、あなたと共有したい…!
【エヴァ】「あっはははッあっはははははッ!! 楽しいね楼座、楽しいねッ!! 見てご覧、眼下を! 私たちのお屋敷ってあんなにも小さいわ。あんな小さな場所で、私たちはどれほどの長い時を過ごしたのかしら。…その狭さとちっぽけさに、今こそ本当に呆れるわ。
 だからこそ感じて。楽しんで。喜んで…! 私たちが憧れた、大空を自由にする力を! さぁ踊ろうよ楼座! 雨の中を、風の中を! 私たちは踊るように飛び回ろう! 稲光が私たちを照らして祝福してくれるわ!! あっははははははははははははははははははッ!!」
 魔女と楼座は、まるで旋風の中を舞う木の葉のよう。雨粒の拍手を全身に受けながら、時に稲光に照らされ、大地から解放された喜びに打ち震える。…もっともそれは魔女だけの話。楼座は自らの頭を抱え込み、声無き叫びを上げ続けていた。
【楼座】「やめてぇえええぇぇえぇ!! 許してぇええぇ、私を下へ下ろしてええぇ!!」
【エヴァ】「……そうね、ニンゲンは大地を這うのがお似合いね。なら地上にお帰りなさい?」
 自分と同じ喜びを共有してくれないことに、魔女は少しだけ不愉快の表情を浮かべる。そして、元妹の願いを聞いてやることにした。
【楼座】「…………ッ?! ………ぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ!!」
 楼座を舞わせていた旋風が弱まり、そして止む。
 それはつまり、楼座がニンゲンとしての重力の制約に再び縛られたということ。……本来の正しい法則に従い、楼座は真っ逆さまに大地へ降りていく。いや、落ちていく。
【エヴァ】「いけない…。そうか、ちゃんと下ろしてあげないと、こういうことになるのね!」
 魔女は楼座を墜落させるつもりなどなかった。しかし、まだ魔法の使い方に慣れていなかったのだ。
 薔薇の茂みに100m近くから墜落した楼座は、とてもとても当然の結果として、即座に絶命した。
 しかし魔女に殺すつもりはなかった。だから死ぬなと念じた。すると楼座の体に黄金蝶たちが纏わり付いて、その命を望んだ通りに蘇らせる。
 放射状に鮮血の絨毯を敷いたはずの楼座の体が、みるみる元に戻っていく。折れたりひしゃげたりした骨が元に戻っていく。裂けたり潰れたりした肉が元に戻っていく。
 ……世の中、壊すことがどれほど簡単で、直すことがどれほど困難なことか。命を奪うことなんて、誰にでもできる。
 でも、失った命をよみがえらせることなんて、ニンゲンには誰にもできない! その不可逆を超えたことは即ち、ニンゲンを超えたことの証明。……それはきっと、空を飛べたことよりもはるかにはるかに、自身が魔女になったことを彼女に実感させるのだ。
【エヴァ】「………すごい…。死んだ命をも、……私は蘇らせられるの……!」
【ロノウェ】「もちろんですとも。ベアトリーチェさまはすでに無限の魔女であらせられますよ。……生きることも死すことも。生かすことも殺すことも、全ては無限に繰り返される。その輪廻を支配する女王こそが、無限の魔女であられるベアトリーチェさまなのです。」
【エヴァ】「あはは、あは。金魚鉢を落としたことがあるわ。涼しげな美しい鉢が割れてしまって、二度と元に戻らなかった。床に叩き付けられた可愛い出目金は二度と泳ぐ姿を見せてくれなかった。
 ………私がいくら泣いても使用人たちは、壊れたものと死んだものは蘇らせないと首を横に振ったっけ。
 …あの時、学んだのよね。モノは壊しちゃいけない、ヒトは殺しちゃいけないって。だって、直せないんだもん!!」
【エヴァ】「じゃあ、直せるなら、……壊しても怒られないということでしょ…? はは、あはははは、………すごい…。すごいすごいすごい…!! あっはははははははあははははははあっははっはっはっははッ!!」
 魔女はしばらくの間、自らが受け継いだ力の恐ろしさと素晴らしさに酔いしれた。その笑いは無垢で無邪気で、そして残酷。
【楼座】「………うううぅ、……ぁぅ……。」
 楼座は蘇ったとは言え、墜落の痛みに苦悶の声をあげていた。そこへ魔女は降り立ち手を差し出す。
【エヴァ】「ははははははは、済まないわね楼座。空を飛ぶのがこんなに楽しいとは思わなかったわ。ごめんなさい、本当にごめんなさい。
 そしてニンゲンがこんなに脆く死ぬとも知らなかったの。でも生き返らせてあげたからもう平気。だから起きて? 私ともっと遊びましょう? くすくす、うふふあははははははははははははははははは!!」
 あなたは子どもの頃、どんな夢を私に語ってくれたっけ…? 遠慮せずにその全てを教えて御覧なさい。今の私には、それがどんなに荒唐無稽なことであっても叶えてあげられる…!
 あなたをゼリーの海で溺れさせてあげることも! ケーキの山で飲み込んであげることも! 蝶の羽を生やしてお庭を散歩させてあげることさえね?! 順番に叶えてあげるわ、まずはゼリーの海からね…?!
【楼座】「や、やめて、……………ふぐッ!!!」
 楼座は再び雨天の空へ高く放り上げられる。しかし雨天の空は雨粒ではなく、オレンジジュースの雫で満たされていた。
 眼下を見て、楼座は目を疑う。薔薇庭園は消え去り、パステルカラーのジグソーパズルのような大地が広がっていた。
 ……それは彼女が小さな頃に夢見て話した、ゼリーの海。黒はコーヒーゼリー。赤はイチゴ、黄色はパイン、緑はメロン。白は何だろう、リンゴかしら…?
 ………そんなこと、楼座に思考する余地があったのかどうか。楼座はその色とりどりの海に目掛けて墜落していく。
 ……そして紫色のグレープ味の海に深々と沈んだ。
 それは本当にゼリーの海。底などない。楼座は沈みながら、グレープゼリーの海の中を泳ぐ透明な魚の群を呆然と見ていた。それは多分、葡萄の果肉で出来ているに違いない。
 そしてどこまでもどこまでも深く深く沈んで行き、マリアナ海溝くらい沈んで行き、……ゼリーの海の水圧でぎゅうぎゅうに押し潰されて、肋骨がぱきぽき、背骨がばきぼき。…最後は小ちゃなぐずぐずの肉団子になってしまった。
【エヴァ】「あっはははははははははッ! ゼリーの海で溺れ死ねるなんて、本当に素敵な体験よね…!! 誰にも真似できない夢! 私が叶えてあげたッ、あっひゃひゃひゃひゃ!!」
 楼座だった肉団子は、私が指を鳴らすと瞬時に大空へ打ち上げられる。
 そして黄金色の輝きに包まれた後は、再び元の姿に戻っていた。乾燥ワカメを元の姿に戻すのと同じくらいに簡単お手軽、誰でもできる。魔女になら!
 放心する楼座のその表情は多分、子どもの頃に見た、叶わぬと諦めていた夢が現実となったことへの喜びによるものに違いない。きっと。多分。
 次はケーキの山。空が瞬時に覆われ、白と黒のチェス模様になった。透き通るような白は、大好きなレアチーズケーキ。上品な黒は、ほんのりビターなガトーショコラ。
 それが天井となって、山となって、……数億個のケーキが楼座目掛けて振り落ちてくる。そのケーキの山はきっと、積み上げればエベレストより高い。だから重さは多分、………よくわからないけど、日本中のケーキを全部合わせたよりは重いと思う。
 それが落ち来る天井として楼座を飲み込んだのだから、……とてもとても当然の結果として、楼座は圧死した。1秒にも満たないわずかの時間で、全身の骨が砕けて内臓が全て潰れてはみ出して、ぷちゃぐちゃぶちゃあ。
 それでもなおすごい数のケーキが積み上がるので、…楼座はケーキの間に挟まれたジャムの地層と成り果ててしまった。髪の毛程度の厚みになって、多分、テニスコートくらいの広さに潰れて広がっただろう。
 そのケーキに飲み込まれた世界が再び黄金色の輝きに飲み込まれる。
 するとそれが夢であったとでも言うように、楼座は再び蘇っていた。
 ……もちろん夢では断じてない。死んだ後、再び蘇ったのだ。この時点で楼座は、ニンゲンに生まれたなら一度だけしか味わわなくていい死の経験を、すでに二度も味わったわけだ。つまり、ニンゲンには味わうこのとできない、二度の死という貴重な経験を味わったのだ。
【エヴァ】「あっはははははははは、きゃっはっはははははははははははははは!! 楽しいね楼座、楽しいねッ! 次は蝶々だよ、ほら…!!」
【楼座】「も、もう許して……ッ、………ああああぁあぁッ!!」
【エヴァ】「駄目ぇ! もっと遊ぼうよ、もっと遊ぼう…!! きゃひひひはははははははははははッ!!」
 許しを懇願する楼座に、無邪気に笑いながらその黄金の杖を向ける。すると楼座は黄金色に輝きながら見る見る縮んでいく。
 本当の蝶々くらいの大きさにまで縮んでいく。そして背中には黄金の羽が生え…、黄金蝶たちの仲間に加わった。
 でも、人の身には耐えられる風でも、蝶の身には辛いもの。黄金蝶となった楼座は、暴風たちに次々とダンスを申し込まれては、薔薇庭園をくるくると舞い踊った。
【楼座】「もう嫌、…嫌ぁあああああぁああああぁ!! ………ぁッ…、」
 ダンスに疲れた彼女を、やさしいベッドが受け止めてくれた。それは東屋の屋根の影に編まれた天空の柔らかなハンモック。
 …そのハンモックの主が、のっそりと姿を現し、嵐の晩に迷い込んだ珍客を出迎えた…。手の平で握り潰せるほどの大きさのはずのその主は、今の楼座から見れば、天蓋ベッドの屋根より大きい。
【楼座】「ぎやああああああああああああああああああぁああああああああああああああああああああああああああああぁあああああッ!!!」
【エヴァ】「きゃっはははきゃっはははははは! ドジね、蜘蛛の巣に引っ掛かってる! あっははは、あっはははははは!!
 今度は蜘蛛とダンスなのね。懐かしいわね、蜘蛛の巣を見つけては石粒を投げつけて遊んでたの、覚えてる? 蜘蛛って獲物をかじるんじゃなくて、毒液を挿して、中身をどろどろのスープに溶かしてから啜るんだって聞いたことがあるわ。
 ……ねぇ楼座、覚えてる? わざと蝶々を蜘蛛の巣に放って、どう蜘蛛が襲うか眺めて遊んでた時のこと、覚えてる?
 きゃっははははははは、覚えてないわね、あなた小学校に上がる前だったと思うもの…!! 今度はよく見れるわよ? しげしげとね。きゃひひははははははきゃーははははははははははははははははッ!!」
【楼座】「嫌ぁああああああああああああああぁあああぁあああぁ、許して姉さん、助けて姉さんッ!! ひぃいいいいいいいいがあああああああぎげえええぐぽぎゃわがあチぺるトぴヤわがぎゅギげガが・が、がッ…、がッ……、ぎゅぼッ!!」
【ベアト】「あいつ、やるなぁ、実に自由に魔法を使いこなす! ひぃっひゃっはははははッくひひぇひぇひゃひゃひゃッ!! 面白い面白い、面白い面白いッ! 戦人も笑えるだろぉおおぉ?!」
【戦人】「ふざけんなッ!!! もう止めろぉおおおおおおおぉ!! 何が楽しいんだよ、狂ってるッ、狂ってやがるッ!!! こんなことをして何が楽しいってんだッ?!?!」
【ベアト】「あんなに楽しそうじゃなぃかよォ。無理もない、魔法は楽しいもんなぁ!! 思い出すよ、私も魔法が使えるようになった時はすっごくはしゃいだもんさ! …あぁ、わかるぜわかるぜ、あのはしゃぎっぷりが心の底からわかるさ!
 ……この喜びや感動、戦人には共感できないんだろうなァ、あぁ残念残念!! 戦人だって、妾を認めればいつだって魔法を教えてやるぞ?! ニンゲンの束縛を逃れた瞬間の喜びは筆舌に尽くし難い!
 そなたに教えてやりたいよ、あの喜び、あの感動ッ! そなたの生み出す魔法の世界も、ぜひ一度見てみたいものだ! きっひひひっひっひ、ひゃっひゃっはははははははははは!!
 楽しくなってきただろ? 魔法が使いたくなってきただろ?! 魔女もなかなかに楽しいものであるぞ?! そなたには特別に教えてやる! 一緒に空を飛ぶ喜びとか、一緒に海を潜る喜びとか!
 ニンゲンの制約を超えた瞬間に知る、世界がどれほどに広かったのかという感動をそなたにも教えてやる! そしたら楽しいだろうなぁ、わっひゃっひゃはっはははははははははははッ!!」
 ベアトの表情に邪気はなかった。…信じられないことだが、この残酷なショーを、彼女は純粋に楽しんでいるのだ。そしてそれを、戦人と一緒に鑑賞しているつもりなのだ。……その異常に、絶望的なまでの価値観の違いに、戦人は驚愕する。
【戦人】「狂ってやがるッ!! もう止めろ畜生ォオオオォ!! ワルギリアッ、この狂った茶番を止めさせるんだ!! どうすりゃいいんだ!!」
【ワルギリア】「………私たちは盤外の存在です。盤上には触れられません。」
 ワルギリアは申し訳なさそうに首を振る。…彼女はすでに“殺された”身だ。何の干渉もできないということなのか…。
 戦人は、狂ったように面白がり続けるベアトの胸倉を掴みあげて吼えた。
【戦人】「止めろ止めろ止めろぉおおおおおおぉおぉッ!!! いい加減にしろ魔女めッ!! あれが絵羽伯母さんだってのか?! 有り得ないッ!! 俺の知ってる絵羽伯母さんは、確かに意地悪なとこも少しはあったけど、こんな残酷なことをする人じゃ、断じてありえないッ!!
 全てお前のまやかしだ!! 楼座叔母さんを弄ぶな!! 絵羽伯母さんを弄ぶな!! 今すぐこの茶番を止めさせろぉおおおおおおおおぉ!!」
【ベアト】「だから楼座と遊んでいるのはもう妾ではないと言うに。新しきベアトリーチェだと言うにぃ。
 そんなにぎゃあぎゃあ喚くほどに残酷かぁ? そなたもこういうの、実は結構好きだろうが! 実はちょっぴり魔法に興味を持ってきて、………あ痛っ! な、何をする…、」
 戦人は初めてベアトの頬を叩いた。
 …なぜそんなことをされるのかわからず、ベアトはきょとんとした表情を浮かべる。その表情がなお許せなくて、戦人は吼え猛った。
【戦人】「あああああぁ?! これが面白いだああッ?! お前の頭はどうなってんだ!! 死ねッ! 頭を輪切りにしててめえで覗いてみろ、絶対ぇに中身がごっそり抜けてるぜッ!!! 今すぐ止めさせろ、この悪趣味な茶番を止めさせるんだ!! 俺はお前を許さないッ!! よくもこんな残酷なことをッ!! お前のこと、少しでも笑えるヤツだと思ったこともあったが、俺はもう二度と勘違いしないッ! お前はただ残酷なだけの怪物だッ!!! 俺の前に現れるなッ!! 二度とだ!! お前を認めない、お前と話さない、お前の顔など見たくもないッ!! 聞こえたかッ!! 俺の前に現れるな!! お前なんか消えてしまえええええええええぇえええええぇッ!!!」
 戦人が叫んだ刹那、魔女を拒否する力が赤い壁となってベアトを弾き飛ばし、尻餅をつかせた。
【ベアト】「……痛ててて…。…何だと言うのだ、面白い見物ではないかよぉ…。」
 言い訳めいた言葉を口にするが、その言葉の相手である戦人の姿はない。いつの間にか、戦人の姿は闇の中に消えていた…。…だがベアトは口を尖らせながら、なおも言い訳するような言葉を続ける。
【ベアト】「……そ、そりゃあ、確かにちょっとアレかなとは思うが、…こんなの無邪気な悪戯程度であろう…? どう殺そうが、結局は生き返らせておるではないか。…ニンゲンは終わりさえ良ければ何でも良い生き物ではなかったのか……?!
 の、のぅ、お師匠様。そこまでヘソを曲げられるものでもあるまいに…!」
 同意を求めるが、ワルギリアは淡白な表情を向けるだけ。…むしろ呆れ顔の方が、今のベアトにとっては幾分、マシだったかもしれない。
【ワルギリア】「…………私から特に言うことはありません。あなたが楽しいと思うなら、いつまでも見続けていると良いでしょう。…終わったら呼びなさい。それまで私も姿を消します。」
 戦人に続きワルギリアも闇に姿を消す…。ぽつんと残されたベアトは、何が何だかわからず、自分が悪者にされたような気分だった。
【ベアト】「…………………………。……何だよォ。面白いショーじゃないかよぅ…! ちょ、ちょっとは悪趣味かもしれないけど、……割と面白いじゃないかよう…!! なぁロノウェ…?! あそこまで怒るほどじゃないよなぁ…?!」
【ロノウェ】「ぷっくっくっく。……お嬢様の面白いが、戦人さまにも面白いとは限りませんよ。」
【ベアト】「妾は、…そんなにも嫌われておるか? ……そりゃあ確かに、対戦相手だから敵同士ではあるが、…座興を笑い合えぬほど、妾たちは不仲だというのかぁ…?! ………戦人と一緒に拍手できたように、一緒にげらげら笑い合えると思ったのに…。……その程度のことすら、妾は拒絶されるというのかよぉ…。
 …魔女だと認めぬのはいいさ。それを競い合うゲームなんだから。でもよぉ、顔も見ない、話もしないって、……無視はいくらなんでもないだろぉ…。妾はそんなにも嫌われ者なのかよぉおおぉ……!」
【ロノウェ】「これまで、お嬢様は充分に嫌われるだけの指し手を致しました。悪魔の私でさえ、戦人さまの気持ちが、少しはわかろうというもの。
 ……それが理解できぬのは、お嬢様が特に鈍感が過ぎるのではないかと。ぷっくくくくく。」
【ベアト】「う、うるさいうるさいうるさいうるさいッ!! お前も消えてしまえ!!」
【ロノウェ】「はい、畏まりました。……それでは失礼いたします。」
 ロノウェまでもが闇に姿を消し、後にはベアトがたったひとり。雨天の薔薇庭園にたったひとり。
 ひとりぼっちの魔女は、誰も遊んでくれない。誰も遊んでくれないからこそ、ひとりぼっちの魔女。
【ベアト】「…………………。……何だよぉ。…何で妾と誰も遊んでくれないんだよぉ…。………そんなに妾は変かよぉ、残酷かよぉ…。…………誰か返事しろよぉおおォ!!」
薔薇庭園
【エヴァ】「きゃっははははははは、楽しいね楼座、楽しいねッ! さぁ、次は何をして遊ぶ? もちろん、真里亞も一緒に遊んであげるわ? みんなで仲良くお散歩しよう? 煮えたぎるチョコレートの鍋を泳いで、ケーキ膨らむオーブンの中をピクニックしよう! あははは、あきゃきゃきゃきゃきゃきゃッ!!」
【ベアト】「………の、のう、新しきベアトリーチェ。」
 狂乱の宴を続ける魔女の後に、ベアトは姿を現す。
 …その表情はとても珍しい。何だか、遠慮するような、何とも頼りない、情けないものだった。
【エヴァ】「あら、これは先代ベアトリーチェさま。ご覧下さりましたか? 魔法の力は本当に素晴らしい! 魔女に生まれ変わることができたことを、今ほど楽しいと思ったことはありません。まるでいつまでも終わらぬお遊戯の時間のよう…! さぁ、先代さまもご一緒に遊びましょう…!!
 その前にちょっとお待ちになってくださいね! 二人はオーブンの中で焼け焦げて死んでしまったから、また蘇らさないと! まるでイーストで膨れるパンみたいに! オーブンの中で膨れるクッキーみたいに! きゃっきゃっきゃっきゃッ!!」
【ベアト】「は、話を聞けというのに…。……そのだな。第二の晩の生贄には、もう充分であろう? …確かに殺し方については指定がないが、その、……それ以上を弄ぶことはあるまいに…。」
【エヴァ】「何を仰います先代さま。さっきロノウェから聞きましたよ? 先代さまの魔法はもっともっと素敵で残酷で狂っていたってッ!
 6人のお腹からお菓子が溢れ出すハロウィンパーティなんて本当に素敵ッ! ならば私はアリスのお茶会を演出しようかしら…! 何でもない日を祝うお茶会にみんなを招待して、私が魔法で次々お持て成しするの!
 先代さまみたいに素敵にできるかしら? 個性的に残酷にポップにキュートにできるかしら?! 今思うとおとぎ話とかってどれも残酷でしたよね? そのおとぎ話の魔女に自らがなってみて、ようやく理解しました。きゃっははははくきゃひゃふひゃはははははッ!!」
【ベアト】「……………わ、妾もその、…以前までのは少しやり過ぎたかなァと、…少しは思っておるのだ。……まぁ、黄金の魔女たる者、少しは気品があっても良いかと思うてな…。」
【エヴァ】「………………??? 先代さまが何を仰ってるのかわかりません。でも、ひとつだけわかります。今の私がどれほどを尽くしても、先代さまの残酷さには到底及びません。もっともっとがんばらなくちゃ。もっと残酷になって、立派な黄金の魔女にならなくちゃ…!」
【ベアト】「だ、だからそれはもう充分だと言うに…! と、とにかく妾の、先代としての命令だ。第二の晩はもう充分だ。妾が少し手本を見せる。下がって見ておれ…。」
【エヴァ】「はい、先代さま。どんな無惨で残酷でおぞましい殺し方を見せてくれるのか楽しみです。」
 新しき魔女は、スカートの両脇を摘んで優雅にお辞儀をすると、期待の眼差しを浮かべながら後ろへ下がる。……自らを超える、より残酷な魔法を期待しているのだ。
【ベアト】「…………まぁそのだな…。そういう殺し方しかできない内は半人前なのだ。…妾が上品な、黄金の魔女らしい殺し方を見せようぞ…。」
 ベアトが煙管を振るうと、七色の煙が噴出し、楼座と真里亞を蘇らせる。……先ほどまでの新しきベアトリーチェのそれに比べると、少しだけやさしかった。…あるいは、それまでの自らのそれと比べても。
 楼座は幾度も繰り返された死の痛みに、すでに意識を朦朧とさせていた。…そしてそれでも、娘のために許しを哀願する…。
【楼座】「……もう……許して……。…せめて、……真里亞だけでも……許して……。」
【真里亞】「わぁあああぁああぁん、ママ、ママぁあぁ!!」
【ベアト】「………すまぬ。我が弟子がその、…少しハメを外しすぎたようだ。…その、………許せ。」
【真里亞】「ベ、ベアトリーチェぇえええぇええぇ!! わあああああああぁ、わぁああああぁああぁあん!!」
 真里亞が、本当のベアトリーチェの姿を認めて飛びつく。
【真里亞】「…ベアトは約束したよね?! 真里亞を黄金郷へ連れてってくれるって約束したよね?! そこではママとも仲良しになれて、みんなずっと笑い合えるの…! そこへ連れて行ってくれるって、約束してくれたよねッ?!」
【ベアト】「………そ、…そのだな。…その約束はもう、…守れぬ。………碑文の謎を解く者が現れたから、……妾はもう、黄金の魔女ベアトリーチェではないのだ。……だからすまぬ。…そなたとの約束はもう守れぬ……。」
【真里亞】「なんで…? どうして…? ベアトは約束してくれた…。」
【ベアト】「……すまぬ。…本当にすまぬ…。………だからせめて、約束を守れなかった詫びに…。」
 …………本当に静かな。そしてもう乱されぬ眠りを与えてやるから…。真里亞を、ベアトは慈しみの表情で抱き締める…。
 すると、………すぅっと、赤い痣が真里亞の首に浮いた。それはとてもやさしい痣。
 …それが少しずつ赤みを増し、…くっきりと手の形を浮かび上がらせた時。……真里亞はコテンと首を傾ぐ。…眠ってしまったように、安らかに。
【楼座】「ま、真里亞……。…真里亞ぁああああぁああぁッ!!」
【ベアト】「……すまぬ。……そなたが第二の晩の生贄であることは謝らぬ。そういう運命なのだから。しかし、その奉げ方が悪趣味であったことは謝らねばならぬ…。……これが最後の眠りだ。…もう二度と妨げられることはない…。」
 ベアトが、すっと指をやさしく立てて、虚空の鼻先を触れるような仕草をする。…すると、ふわっとした風が湧き上がって、楼座の体を羽毛のようにやさしく舞わせた。
 すると楼座の体はふわっと浮いて、……そこには先端を槍状にしている庭園の柵が。
 その柵の槍が、楼座の延髄を貫いた。……慈悲深く、弄ぶことなく、一撃で。ぷっつりと楼座の生を奪い去る。
 それまでの無邪気かつ残酷なそれに比べたら、その最期はあまりに呆気ない。…楼座の姿をした人形が柵にもたれかかっているだけにしか見えない。…でも、絶命していた。
【ベアト】「………ま、…まぁ、ざっとこんなものよ。」
 ベアトは得意げ風に装うが、新しき魔女の表情は淡白で、拍子抜けとでも言う風だった。そしてそれを、率直に口にする。
【エヴァ】「何だか地味です…。……ロノウェに聞いていた先代さまのそれとはずいぶん違います。」
【ベアト】「…そのだな、…魔法は上品に使わねばな…? あまりその、…品がないのはエレガントではないのだ…。」
【エヴァ】「………………………………………。……せっかく素敵なことが無限にできる魔法なのに。……つまらない。」
【ベアト】「これ、愚痴るでない…! 黄金の魔女の道は一日にしてならずだ。そなたとて、第十の晩を終えるまでは半人前よ…。今は黙って妾の指導に従うのだ。…良いな……?!」
【エヴァ】「…………………………………。」
【ベアト】「へ、返事はどうした。返事は…!」
【エヴァ】「………………………。……………はァい。」
【ベアト】「…それで良い、それで。……まぁ、まだ復活の儀式の先は長いぞ。あと5人も殺さねばならないからな…。あまり弄ばずに、綺麗に上品に、…少しあっさり目でいいからな…? ロノウェがそなたに教えた妾のやり方はその、……悪い例だ。模範にしてはならぬ。よく心に刻んでおけぃ。」
【エヴァ】「…………はい、先代さま。」
【ベアト】「良い返事だ。……ロノウェ、煉獄の七姉妹よ、出でよ…!」
【ロノウェ】「……はい、お嬢様。ロノウェ、ここに。」
【ルシファー】「傲慢のルシファー、ここにっ。」
【ベアト】「…これまではだな、その、妾も色々派手にやってきたわけだが。……その、……まぁ、黄金の魔女としての威厳も大事であり、まぁ、そのだな…、」
 ベアトが、らしくもなくしどろもどろしながら言うのを、ロノウェはぷっくっくと笑いながら聞き、それを要約した。
【ロノウェ】「畏まりました。以後は黄金の魔女の名に相応しい、気品に気をつけるように致します。……煉獄の七姉妹も、これまでのような悪ふざけは改め、以後は最短の手順で任務を遂行するように。……ということで、よろしいですか? お嬢様?」
【ベアト】「う、うむ。つまりはそういうことだ。皆、肝に銘じよ! 良いな…!」
【ルシファー】「はいっ。畏まりましたっ。」
【ベアト】「妾が言いたいのは以上だ。……もう引き上げて良いぞ。」
【ロノウェ】「畏まりました。それでは失礼いたします。」
【ルシファー】「失礼いたしますっ。」
【エヴァ】「……………………………………。」
【ベアト】「ま、…妾が言いたいのはそれだけだ。それでは引き続きしっかりな? 黄金の魔女らしく、貫禄を持って、…その、自重気味にな? ……頑張るが良いぞ。そなたを見守っておる。」
 ベアトは最後まで要領悪そうにしながらそれだけを伝え、黄金の蝶の群となって、虚空に姿を消す。間が持たないので、そそくさと消えたという方が相応しいかもしれない。
 後には、雨に打たれながら横たわる真里亞の遺体と、柵にもたれかかりながら空を見上げている楼座の遺体。……そして魔女の姿が残るだけだった。
【エヴァ】「…………………自重しろ……、………か。」
 その表情は、少しだけ退屈そうだった。爆ぜるような音がする。…それは多分、彼女の舌打ち。
【エヴァ】「…………………………………………。………………………つまんないヤツぅ。」
 その捨て台詞を残し、彼女もまた、虚空に姿を消すのだった……。
 絵羽は楼座を殺すつもりはなかったが、突き飛ばした弾みに柵が突き刺さって死んでしまう。それを見て騒ぎ出した真里亞も衝動的に絞殺。

生贄の予告
10月5日(日)11時00分

絵羽たちの客室
【絵羽】「…………………………すぅ…。」
【秀吉】「………………ふぅ。…ようやく落ち着いてくれたようやな…。」
 秀吉は自身の額を拭う。…一時期、絵羽はだいぶ辛くうなされていたが、ようやく寝付いたようだった。
 約束どおり、絵羽と手は握ったままだ。…そろそろ離してもいいかと思ったが、彼は律儀に手を握り続ける。時折、手が疲れ、右手と左手を入れ替えたりはしたが、それでも約束通り、彼女の手を離しはしなかった…。
 その時、ドンドンとノック。やっと絵羽が寝付いてくれたのにと、秀吉は一瞬だけ眉をしかめた。
【留弗夫】「……姉貴、秀吉さん、すまねぇ。楼座はそこにいるか…?」
 留弗夫の声だった。…何事だろう?
 秀吉は絵羽を起こさぬよう、そっと足音を殺しながら扉へ向かった。
 ……留弗夫の声であることは間違いないが、念の為、チェーンをしたまま扉を開ける。
廊下
【秀吉】「何や。楼座さんがどないかしたんか。」
【留弗夫】「楼座と真里亞ちゃんの姿が見えないんだ。一緒にいるかと思って。」
【秀吉】「…廊下で叱っとったのは聞こえたで。その後、静かになったから、ロビーに戻ったと思うとったんだが、……ちゃうのか…?」
【留弗夫】「…………あの馬鹿…。」
 留弗夫は舌打ちをする。
 廊下には他の人間たちの姿もあった。楼座が廊下に出てからずいぶん戻らないので、心配になったのだ。玄関の扉前では、夏妃が外れたチェーンを指差している。
【夏妃】「……チェーンは開いてますし。やっぱり薔薇を見に、表へ行ったのでしょう。」
【蔵臼】「鍵を開けっ放して出て行くなど、無用心が過ぎるな。困ったやつだ。」
【霧江】「…それより、今は楼座さんと真里亞ちゃんの身が心配よ。」
【留弗夫】「だな。……おいガキども。真里亞ちゃんの薔薇ってのは、どこにあったんだ?!」
【朱志香】「確かあれは…、薔薇庭園の真ん中の花壇だったと思います…。」
【譲治】「あの二人がそこにいるなら、行けばすぐにわかるはずです。」
【戦人】「……親父、すぐに連れ戻した方がいいだろうぜ…?」
【留弗夫】「当り前だ。二人とも連れ戻してお尻ペンペンしてやるぜ。俺が一っ走り行って来る。俺が出たらすぐに鍵をしろよ。」
【戦人】「…親父、俺も付き合うぜ。」
【留弗夫】「馬鹿抜かせ。ガキはママとお留守番って相場が決まってらぁ。」
絵羽たちの客室
【絵羽】「…………どうしたの…。何かあったの……?」
【秀吉】「すまんな、起こしてしまったか…。…楼座さんが、真里亞ちゃんを連れて表へ出たらしい。…何とも無用心なこっちゃ。」
【絵羽】「楼座と真里亞ちゃんが、……表へ…? 薔薇庭園へ……?!」
【秀吉】「そうや。…あぁ、聞こえとったか? 真里亞ちゃんは薔薇が見たいと騒いどったからな。」
【絵羽】「……だ、……駄目よ、……薔薇庭園に行っちゃだめ…! 楼座を呼び止めて…!」
【秀吉】「よ、呼び止めるも何も、もうずいぶん前に出て行っとるようや。……まったく、無用心な話やで。」
【絵羽】「………違うの…。…薔薇庭園は駄目…。…あそこには魔女がいる…、……そして生贄を待ってる…! 楼座、行っちゃ駄目…、……ううぅううぅぅ…。」
 …絵羽は頭を抱えながら再びうずくまる。……見れば顔色がひどく悪い。
【秀吉】「どうしたんや。熱にうなされて、何か悪い夢でも見たんか。」
【絵羽】「…………夢、……よね…。…………薔薇庭園で魔女が、楼座たちを……。………そうよね。…夢、……よね…。」
【秀吉】「落ち着くんや。この部屋にはわしもおる。チェーンも掛かっとる。窓かて鎧戸が下ろしてあるし、銃まであるんや。この部屋はさながら要塞やで。なーんも恐れることなんかあらへん。」
 秀吉は安心しろと胸を叩くが、絵羽の不安そうな表情は消えない。…絵羽はさっきまでのグロテスクな悪夢がただの夢であってほしいと、布団の中でただただ祈り続けていた…。
薔薇庭園
【ワルギリア】「留弗夫が薔薇庭園中央にて、楼座、真里亞の遺体を確認。その後、ゲストハウスに戻って応援を呼び、両名をゲストハウスに運び込みました。
 南條の検死を信頼できるならば、楼座の死因は延髄部への柵の先端部分による刺突。真里亞については素手による絞殺と考えられます。ただし“悪魔の証明”により誤診率は否定できません。」
【ベアト】「……妾が赤にて語る。楼座と真里亞は死亡した死因は南條の見立て通りだ。……蜘蛛にも食われておらんし、ケーキの山に潰されたわけでもない。安心せよ。」
【戦人】「…………あれだけ死を弄び、死体が綺麗だからいいだろうって論法かよ…。俺は絶対に許さねぇぞ。
 …あの、楼座叔母さんに対する無惨な仕打ちの数々、絶対に忘れねぇし許さねぇからな…。」
【ベアト】「…だ、だからあれは妾ではないと言うに……。…あやつの仕打ちに比べたら、はるかに安らかな死を与えたはず…。」
【戦人】「うるさい黙れ。お前とは口を聞かない。
 ………18人しか島にいないと言い切られ、すでに8人が死んでいる以上、容疑者は10人に絞られる。その中の誰かが殺したってんだろ。
 …あるいは事故死かもな? 真里亞が癇癪を起こし、それを泣き止まそうとした楼座叔母さんは力の加減を誤ってつい殺してしまったとか。それで動転して、滑って転んで、柵に倒れて運悪く死んでしまった。
 ……どうだよ。これで魔女も魔法も出番なしだ。」
【ベアト】「……あー、そういうわけではないぞ。実はだな、楼座と真里亞は…、」
【戦人】「うるさい。お前とは口を聞かないと言っている。目障りだから消えろ。バケモノめ。」
 戦人は激昂せず、…だけれどもひどく冷たい声でそう言い放った。
 …その違和感を、ベアトも最初から感じていた。喧嘩ならばどちらも遠慮なくできる。しかし、喧嘩の土俵にすら乗ってくれていない。そんな冷たさを感じていた。
 ベアトはそれが面白くない。…それを食って掛かろうかとも思ったが、堪えた。無邪気なる彼女の幼稚の中にも、喧嘩すべきでないことを悟る程度の理性はあったのかもしれない。
【ベアト】「……………………。………………そうかよ。なら姿を消すさ。…ロノウェ、続きを引き継げ。」
【ロノウェ】「畏まりました。…よろしいですか、戦人さま。」
【ワルギリア】「………問題のない申し出です。戦人くんがベアトの顔を見たくないと言うなら、それもありかと。」
【戦人】「好きにしろよ。…そのバケモノの顔を見なくて済むなら何だって構わないぜ。」
【ベアト】「……なぁ、ちょっと待てよォ。…さっきからバケモノバケモノと、妾は酷い言われようではないか。……なぜに妾はそこまで戦人に毛嫌いされねばならぬというのか。あれらは全て妾ではなく、妾の弟子の仕業であろうが…。」
【戦人】「………別に俺は、さっきのことだけで腹を立ててるわけじゃねぇぜ。一番最初からだ。」
【ベアト】「なぁ、戦人ぁ。誤解するなよ…? 妾とそなたはゲームを通して対峙し合うプレイヤー同士なだけではないか。…互いに相手を苦しめるために指し手を探るが…、」
【戦人】「勘違いするな。俺はお前が、魔女を認める認めないのおかしなゲームのライバルだから嫌ってるんじゃない。……お前の無意味に残酷なところが、どうしても許せないだけなんだ。」
【ベアト】「そりゃあ、連続殺人を通してのゲームだからな…。多少は残酷になるのは止むを得まいだろうに…。」
【戦人】「さっきのことだけじゃない。前回だって、前々回だって。……みんなの腹を裂いてお菓子を詰め込んだり、顔面を耕したり。それに何の意味があったってんだ。」
【ベアト】「………………それは、…まぁ…、」
【戦人】「密室殺人だのトリックだのアリバイだの。そこまでは百歩譲ってやる。お前は魔法殺人だと主張したいんだから、そういう手の込んだ事件を起こさざるを得ないことを、百歩譲って理解してやってもいい。
 ……しかし、あれらのグロテスクな殺人に、一体どれほどの意味があるというのか。」
【ベアト】「…………それはその、……………別に…。」
【戦人】「そうさ。何の意味もない。お前はただ悪ふざけで死者を切り刻んで面白がっているだけだ。それは魔女だからとか、魔法じゃなきゃできないからとか、そういうのじゃない。
 ただお前が面白半分に残酷の限りを尽くしているだけなんだ。それはお前が魔女だからとか、そういうことじゃない。ただただ、人として許せないものがあるからだ。」
【ベアト】「………な、……何だよ、その人としてってヤツは…。」
【戦人】「例えば。……今回のゲームの第一の晩の6人。…まぁ、祖父さまの黒焦げはともかく、他の5人の死体は、不要に死者を辱めない普通の殺し方だった。…凶器が槍だか銃だかははっきりしないが、とにかく、殺しの中じゃ、まだ許容できるマシなものだった。前回、前々回の第一の晩での非常識なグロテスクさ、残酷さに比べれば、はるかにマシだった。」
【戦人】「そして今回の6つの密室をつなげた連鎖密室。……まぁまぁ面白かったぜ。
 あれをお前とやり取りしてる時は、今だから白状するが、少しだけ楽しいと思った。
 …自分の存在を認めさせようと必死になるお前と、それを否定しようと必死になる俺。……どっちも必死で全力だ。」
【戦人】「おかしな話だが、俺はお前との間にささやかなスポーツマンシップさえ感じたものさ。…俺とお前は相容れない存在だが、まったく理解できない存在でもないかもしれないとわずかに思えた。
 ………だが、その気持ちは、ついさっき、微塵も残らずに吹き飛んだ。」
【ベアト】「だっ、だからそなたは誤解しておる…! あれは妾ではなくっ、」
【戦人】「違う。俺はそういう話をしてるんじゃない! ……お前は楼座叔母さんが酷い殺し方を何度も何度も繰り返されるのを見て、面白い見世物だと嘲笑った。」
 ………それを見て、俺は深く失望した。お前が今回、少しはマシな殺し方を選んだのは、何かのちょっとした気紛れなんであって、…本来の残酷な性分には何の変わりもないんだとわかって、深く失望した。
 それどころか、お前は残酷な死を純粋に楽しんでさえいる。俺に意地悪をするためだけに残酷を尽くしてるんじゃない。…お前は本当に純粋に、残酷を楽しんでいる。楽しめる性分なんだ。
 お前は楼座叔母さんが何度も惨たらしく殺されているのを俺に、楽しいだろうと言った。嫌味で言ったんじゃない、心底から楽しくて、それを俺にも共感してほしくて楽しいだろうと言ったんだ。
 ……その瞬間、俺は失望し、悟った。
【戦人】「お前が魔女だとかそうでないとか、そういうことが問題なんじゃない。……俺は、お前のその残酷さが許せない。そして理解できない! 許すこともできない! だが、魔女を認めるか否定するかというゲームは続ける。自ら降りて敗北を認めたりはしないさ。」
【戦人】「だが、そのゲームにお前の無意味な残酷さは何の必要もない。だから俺は、お前を対戦相手として認めないことにする。ロノウェの方が百倍マシだ。お前のような残酷趣味はない。あったとしても、俺の前でそれをひけらかす悪趣味はない。
 ……そうさ、お前は悪趣味だ。残酷で心がなく、だから理解することができない。相手として不快だ。だから俺はお前の顔を、二度と見たくない。」
 一方的に戦人に捲くし立てられ、ベアトはしばらくの間、呆然としていた。何を言われているのか理解できなかったのかもしれないし、懸命に理解しようとする努力の表れだったのかもしれない。
 しばらくの間、怒るような表情や悔しがる表情、不敵な表情をいくつも繰り返し、……自分がどのような態度を取るべきかなのかさえ、わかりかねているようだった。
 その末、何だか憑き物の落ちたような淡白な表情を作り、疲れたとでも言いたげに肩をすくめた。
【ベアト】「……………………。………なら、好きにすれば良い。妾は以後、ロノウェを通してゲームを続けることにする。……妾が姿を見せないのであれば、文句ないであろう?」
【戦人】「……取り合えずはな。だが、お前の重ねてきた残酷な行為の数々を、俺は絶対に許さない。だから絶対にお前を認めない。その為にも、お前に売られた喧嘩を俺から降りない。そして絶対に負けない。…それだけだ。」
【ワルギリア】「……………ベアト。これ以上、言い訳を重ねても彼の心証は変わりませんよ。…後で話があります。それまで下がっていなさい。」
【ベアト】「…………………う、…うむ…。…わかった。…それでは呼ばれるまで姿を消している…。」
 ベアトは寂しそうな背中を向けると、姿を消す。
 …戦人はそれを見て、少し面白くなさそうな表情を浮かべる。正論を言ったつもりなのに、なぜか気分は晴れなかった。
【戦人】「……あいつは、…馬鹿だろ。」
【ワルギリア】「………そうですね。馬鹿で、素直です。」
【戦人】「あの馬鹿は、楼座叔母さんが残酷に殺されるところを俺と見て、満面の笑みで振り返りやがった。……あの残酷ショーを、本気で俺と笑い合えると信じてやがったんだ。…俺とその感情を共有できると、本気で信じてやがった…。
 あの無邪気な笑顔を見て、俺は最低な気持ちになったぜ。……むしろこれまでのように、意地悪な面で言われた方がずっとマシだった…。…畜生…。」
【ロノウェ】「お嬢様は、友達というものを持った試しのない方です。……それどころか、あれほど強く物を言われたことさえなかったでしょう。
 私もマダムも共に付き人。何を申し上げても、お耳には届きません。お嬢様にはこれも、」
【戦人】「ふざけるな。俺はあいつの友達になった覚えはないぞ。」
【ロノウェ】「……そうでございますね。失礼いたしました。」
【ワルギリア】「…………………。……ひとつだけあなたに感謝を。…あの子のゲームを降りないでくれて、ありがとう。」
 その言葉は感謝を述べてはいたが、なぜか戦人は不愉快そうな顔をする。それから、そんな自分に嫌悪するように、ふっと笑った。
【戦人】「魔女やら悪魔やらに礼を言われるようになっちゃ、俺もお仕舞いだな。……ゲームを再開しようぜ。もちろん手心を加えるつもりはないからな。」
【ロノウェ】「望むところです。お嬢様と違い、私は熱くはなりませんよ。」
【戦人】「……俺の手はすでに指したぜ。楼座叔母さんが犯人で事故死と仮定すれば魔女は否定できる。……楼座叔母さんを疑いたくはないが、ベアトをぶっ潰すために、今は敢えてそうだと仮定する。」
【ロノウェ】「赤で否定を行います。楼座と真里亞の二人は他殺です。」
【戦人】「よし。…そこから始めようじゃねぇか。……………クソ、盛り上がらねぇぜ。」
ゲストハウス・ロビー
 楼座と真里亞が殺されたことにより、殺人犯が今もどこかに潜んでいて、さらに連続殺人を重ねようとしていることが明白となった。留弗夫は涙を零しながら、何度も楼座の遺体に無用心だと罵り続けたが、楼座がそれに応えることは二度とない。
 二人の遺体は客室の一室に安置され、警察が来るまで封印されることになった…。この第二の殺人、…いや、第二の晩の殺人は、一同に強い衝撃を与えた。それは一部の人間の楽観であるところの、“実は事件は起こっておらず、全ては金蔵と使用人たちの茶番でゲーム”という想像を吹き飛ばしたからだ。
 譲治と朱志香は、互いの想い人を失った悲しみを紛らわせようと、朝からずっと、あらゆる可能性を話し合ってきた。
 ……そして、実はこの殺人は全て芝居なのではないか。紗音も嘉音も死んだフリをしているだけではないのか、と仮定することで、心を紛れさせていたのだ。
 それを、再び起こった殺人は打ち砕き、……二人の想い人は間違いなく殺されたのだということを、もう一度突きつけることとなった…。一度は枯れ切ったはずの涙を再び零す二人に、戦人は掛ける言葉を思いつくこともできなかった…。
 その後、念には念を入れて、大人たち全員が全部屋の安全確認と戸締りの確認を行なった。窓は全て鎧戸が下り施錠されていることを確認し、不審者が潜んでいないことを確認する。
 その上で改めて武装を再確認し、不審な人影を見掛けた場合、先制射撃を行なうことも辞さないとする心構えを確認し合った。
 また、現場には楼座が持っていた銃が残されていた。
 わざわざ残されていたのだから、何かの罠ではないかとみんな疑ったが、秀吉が火掻き棒を器用に使って空撃ちを試してみたところ、問題なく発砲できた。
 その結果、装填されている5発全てが問題なく発砲できた為、それには再び弾丸が装填され、成人男性で唯一武装していなかった秀吉に渡されることとなった。
 しかし、5発を発砲できてしまったことは、ある疑心暗鬼を生み出すことになった。
 このショートバレルのウィンチェスター銃の装弾数は5発。つまり楼座は、1発も発砲しなかったのだ。にもかかわらず、彼女らの死因はおそらくは素手によるもの。これが意味するところは、顔見知りによる犯行の可能性である…。
【霧江】「……最初の殺人が起きた時。私は内心、これが全て芝居である可能性を考えたの。…南條先生には悪いけど、実は南條先生もグルで、使用人たちが死んだ、ということにして、何かお父様が凝りに凝った大芝居を打った可能性もあると思った。
 ……だって、彼らの密室状況は彼らの自作自演を想定しない限り、生み出せないのだもの。」
【譲治】「…僕たちも、……それを疑いました。…いえ、…今もそうであって欲しいと信じてます。」
【南條】「……………申し訳ないが、……それはありません。…私も老いぼれです。誤診もあるかもしれない。……しかし、生き死にを間違えるようなことは絶対にない…。」
【朱志香】「わかってるよッ! わざわざそれを口に出すなよ、南條先生…!」
【南條】「……すみません…。」
 彼らには与り知れないことだが、ベアトは赤で、彼ら6人の、…いや、今回、すでに出ている犠牲者全員の死亡を宣言している。全てが茶番で、犠牲者たちは実は生きているという淡い夢は、……気の毒だが、ありえないのだ…。
【留弗夫】「……となりゃこの島に、屋敷に精通した何者かが潜んでいて、練りに練った犯行を実行したと考える方が自然だろうよ。つまり、この島には台風が来て外界と途絶された時点で、18人以上の人間がいたんだ。」
 そしてこれももちろん与り知れないこと。留弗夫のこの主張もまた、赤で否定されている。この島には18人を超えた人間は存在しない…。
【霧江】「こう考えると少しは辻褄が合うのかしら。……つまり隠れ潜んでいる何者かは、本来は今、島にいるはずのない人物。にもかかわらず、楼座さんが油断するような顔見知りの人物である可能性よ。」
【夏妃】「……そ、それは例えば、この二日間のシフトに当たっていない使用人など、ですか…?」
【蔵臼】「ふむ……。…それを言われると弱いな。我々は勤務を終えた彼らが離島するのを、切符切りのように確認しているわけではない。数日前のシフトの使用人が、離島したフリをして島内に留まっていたかもしれないと仮定したら、否定するのは難しいね…。」
【秀吉】「……楼座さんもアホちゃうと思うで。いるはずのない使用人がひょっこり姿を現したら、普通は警戒バリバリや…。」
【絵羽】「……………顔見知りの犯行と決め付けるのもどうかと思うわ。…暗がりから突然楼座が襲われて、銃を奪われそうになった。そしたら楼座が転んで柵に頭を打ち、動かなくなった。ゲストハウスが近かったので、銃声を嫌い、素手で真里亞ちゃんを殺した…、とか。」
 窓から戻ってきた絵羽は、楼座と真里亞を殺してしまったことを秀吉に告白。
 このままでは警察に捕まってしまって黄金どころではないため、話に聞いていた爆弾で島ごと吹き飛ばすことを相談。
【留弗夫】「……そういう可能性もあるな。…ただ、そうだとしてもだ。現場にわざわざ楼座の銃を残していくだろうか。犯人が何を武装しているか知らねぇが、こちらの銃は不安要素のはずだ。…その一丁を間引けるチャンスだったはずだぜ? なぜわざわざ現場に残したんだ。」
【霧江】「私は初め、その銃を罠だと思ったの。……チェス盤思考だとそうなる。わざわざ残した以上、私たちの誰かに手に取らせたい。そして引き金を引かせたいに違いない。…てっきり暴発して大怪我を負わせるような、危険な仕掛けがされてるに違いないと思ってたわ。」
【秀吉】「でも、現に大丈夫や。……恐らく、犯人も焦っとったんとちゃうか。今頃、銃を奪うチャンスを逃したことを後悔しとるに決まっとるで…!」
【戦人】「………何だか不愉快だな。銃なんか怖くもないって言う、魔女のメッセージみたいでムカつくぜ。」
【夏妃】「…しかし、いずれにせよ恐ろしい相手ですね。楼座さんが銃を持っていることは傍目にもわかったはず。にもかかわらず、襲い掛かるとは。……銃を恐れないという点を、私たちは軽視するべきではありません。」
【蔵臼】「うむ…。夏妃の言う通りだ。……これまで以上に用心すべきだろう。」
【霧江】「念の為なんだけど…。………楼座さんたちが外に出たと思われる頃。みんなはどこにいたのかしら…?」
【蔵臼】「私と夏妃、そして留弗夫と霧江さんはここで一緒だった。私がアリバイを保証する。」
【秀吉】「わしと絵羽も一緒だったで。わしが保証するわ。」
【戦人】「俺と譲治の兄貴、朱志香も一緒だったぜ。……楼座叔母さんに、2階へ戻ってろと怒鳴られ、すごすごといとこ部屋へ引き返したさ。」
【朱志香】「……あの時、…真里亞を行かせなければ…。」
【譲治】「それを言っても、もうどうしようもないよ…。」
【絵羽】「…………南條先生は?」
【南條】「わ、私は2階の部屋で本を読んでおりました。……ひとりでおりましたので、誰にもアリバイは証明できませんが、子どもたちと一緒に2階へ戻ったのは、皆さんも見ているはずです。」
【留弗夫】「…これを言い出したら切りがないが、窓から飛び降りて楼座を襲って、雨どいでもよじ登ってまた戻ってきたとかな…?」
【南條】「めめ、滅相もない…。この老体に、2階から飛び降りたり、よじ登ったり等という芸当、できるわけもありません…。」
【夏妃】「……やめましょう。互いを疑うのは…。それよりも、互いを信頼し合って、子どもたちの為にも、ここの安全を死守することの方が先決です。」
【留弗夫】「そうだな…。…夏妃さんの言う通りだ。………今は、内部を疑い合うのを止めよう。」
【霧江】「そうね。…犯人探しなんて、私たちには無用かもしれないわ。……ただ明日まで生き残り、警察に通報してその指示に従うだけ。犯人が誰かなんて、警察が必ず暴き出してくれるのだから。」
【秀吉】「………どうしたんや、絵羽。…まだ体調が悪いんとちゃうか…?」
【譲治】「か、母さん、どうしたの。大丈夫…?」
【絵羽】「…ごめんなさい。…まだ熱が高いみたいなの。大丈夫だから放っておいて…。」
 見れば、絵羽が再び呼吸を荒くして俯いていた。…緊急事態ということで一時的に気丈に振舞えたようだが、やはり体の具合は芳しくないらしい…。
 絵羽が楼座の銃を現場に残した理由は、秀吉の手に渡ることを期待したため。
【エヴァ】「えぇ。あの二人は私が殺した。これで黄金のことを知っているのは、私たちだけ。他の兄弟たちには、カケラひとつだって譲りはしないの。」
【絵羽】「…………何てことを……! あれだけの莫大な黄金なのよ?! 楼座たちに分け前をあげたって、まったく問題はなかったでしょうに…!」
【エヴァ】「あるわよ。…あれは右代宮家の当主だけが引き継げる黄金なの。だからこそそれは、全て丸ごと当主の栄誉そのものなの。
 ……それにわずかほどでも傷をつけることは、この私、新しき黄金の魔女、ベアトリーチェが絶対に許さないわ。……くすくすくすくすくす!」
【絵羽】「…あなたは魔女の碑文通りに殺人を続けるつもりなの…? まさか、あと5人も人殺しを続けるつもりなの…?」
【エヴァ】「えぇ。その面倒な儀式を終えないと、私の魔女としての力は完全なものにならないらしいの。
 ……ねぇ“私”。…この魔女の力は本当にすごいわ。私たちが妄想してきた全てが、本当に実現できる。夢が夢でなくなる力なの…! この力を知ってしまったら、もう魔女はやめられない。儀式を完全に終えて私の力が完全なものになれば、きっとそれをあなたにも教えてあげられるわ。くすくすくす、くっくくくくくくくくく!」
【絵羽】「馬鹿なことは止めて…! 魔女ごっこはもう充分でしょう? 私たちは黄金を見つけたわ。そして次期当主の座だって約束されてるわ。ほんの少しの綱渡りは必要だろうけど、もうそれは絶対に叶う夢。……なのにこれ以上、あなたは何を望むというの…?!」
【エヴァ】「私は魔女になりたかったわ。」
【絵羽】「私、そんな夢なんか知らないわよ…!」
【エヴァ】「そうよ。その夢を持ち続けてるから、私はこの歳のままで生き永らえているの。……あなたはその夢を、大人になることで捨てたわ。
 ……いくら待てども、時計を持ったウサギなど訪れないし、ハンプティダンプティにも会えはしない。もちろんトランプの国に招かれたりも絶対にない。あなたはそう、諦めてしまったから、大人になったのよ。
 だからもう、魔女になりたいなんて思わない。…それが本当の自分の夢であったことも忘れてしまったの。」
【絵羽】「……とにかくやめて! 私はもう、2つの夢を手に入れている! 黄金と当主の座。それでもう充分なの! だからお願い、あんたの夢なんて知ったことじゃない! 大人しくしてて…ッ!!」
【エヴァ】「………嫌ぁよ。魔法、面白いもの。………それに、あなたの2つの夢は、私の魔法のお陰で叶ったのよ。なのに私の夢は叶えてはいけないなんて不公平よ。」
【絵羽】「あなたの魔法には感謝してるし、あなたこそが本当の魔女だと私は認めてるわ。……だからもう、大人しく私の胸の中に帰って! そして二度と現れないでッ!!」
【エヴァ】「嫌ぁ。……私たち、お互いに勘違いしてるわね。そうよ、私はもう、あんたじゃないの。あんたは右代宮絵羽。私は黄金の魔女ベアトリーチェ。だから、あんたの胸の中に帰る義理はないの。……さながら、あなたという殻を脱皮して蝶になったような気分かしらぁ。」
【絵羽】「…………はぁ、……はぁ……。…く、……熱で、…意識が朦朧とする……。」
【エヴァ】「私の魔力が未熟な分を、あなたの生気で補ってるの。私が儀式を終えて完全な魔女になるまで、あなたに負担を掛けるかもね。それくらいは、2つの夢を叶えてあげた対価ってことにしてもらうわよ。
 ……大丈夫、安心して? 残る5人の生贄については、あんたの家族は外してあげるわ。
 そうね、留弗夫、霧江、蔵臼、夏妃。…あとは老いぼれの南條なんかどう? ちょうどいいわ、この5人を殺すわね。くすくす、あなただけに明かす殺害予告ってところかしらぁ。くすくすくすくす!!」
 とうとう絵羽はしゃがみ込んでしまう。慌てて秀吉が駆け寄り、肩を貸す…。
【秀吉】「……大丈夫か。…無理せんと休もう!」
【蔵臼】「大丈夫かね…。南條先生、絵羽を…!」
 南條と譲治が近寄ろうとすると、絵羽はそれを制するような仕草をする。
【絵羽】「…ありがとう。大丈夫よ、南條先生。薬なら飲んでるの。……こんな非常事態で申し訳ないけど、…もう少しだけ休ませてもらうわ…。」
【譲治】「母さん…、僕も肩を貸すよ…。」
【絵羽】「ありがとう。お父さんが見ててくれるから平気よ。……あなたは2階のいとこ部屋に戻って、決して出てこないように。…いいわね…。何があってもゲストハウスを出ちゃ駄目よ……。…外には、……あの、魔女が……、ううぅ…。」
【秀吉】「もう喋るなや…! みんなすまんな、わしは絵羽を部屋で看病しとる。何かあったら呼んでや。」
 秀吉と絵羽はロビーを退出する。
 …もっとも、体調が悪いのは絵羽だけではない。昨夜から一睡もしておらず、朝からずっと緊張を強いられている。…家族を守るために気力を振り絞っているが、わずかでも気を緩めれば、きっと誰もがダウンしてしまうに違いなかった…。
 準メタ世界、初出。戦人とベアトがゲームをしている階層よりも、ゲーム盤に近いメタ世界。
ゲストハウス・玄関
【ベアト】「……ここまでは順調であるが、ここからが難しいぞ?」
【エヴァ】「難しい、とは…?」
【ベアト】「うむ。大抵の場合、儀式が進行するにつれ犠牲者が増えると、彼らは守りを固めるようになり、多くの場合、一所に固まって動かなくなるのだ。それは我らにとって非常に都合が悪い。」
【エヴァ】「…それは、私たち魔女が群れたニンゲンに劣るということですか…?」
【ベアト】「魔女がニンゲンに劣ることはない…。ただ、時代が変わり、ニンゲンが毒を持つようになったというべきか…。……大昔の、魔法が信じられていた時代は問題なかったのだが、現代人はあの小憎たらしい戦人がそうであるように、基本的に魔法を否定する。
 つまり、存在自体が反魔法的なのだ。その結果、彼らはいつの間にか体内に、魔法を否定する毒素を有するようになった。」
【エヴァ】「つまり、ニンゲンの数が多ければ多いほど、その反魔法の毒素が強くなって、私たち魔女には不利だと仰られるのですか。」
【ベアト】「……彼らの魔法を否定する心の力、即ち対魔法抵抗力の合計値が、そのまま魔法力の分母となるわけだ…。わかるか? そなたにはちと難しいか…?」
【エヴァ】「ご冗談を。実に簡単にわかります。…つまり、魔法を信じない人間が多ければ多いほど。そしてその意思が強ければ強いほど、魔法は効果を劇的に除算されると仰っておられるのですね。……なるほど、そのような計算式ならば、攻め方を考え直さなければなりません。」
 魔法は本来、絶大な力を持つ。天上より火の雨を降らすこともできれば、海を割ることも、失われた命を蘇らせることさえ不可能ではない。
 しかし、その力を拒絶する毒素に極めて弱いのだ。そしてその毒素は、ニンゲンたちが神聖なるものへの敬いを忘れた頃から体内に蓄えられるようになり、…ついにはこの大地を、魔法の奇跡が示せぬほどの毒素で覆い尽くしてしまった。
 その為、世界中の魔女たちは住処を追われた。…魔法を捨て、ニンゲンとして生きるか、ニンゲンの毒素の及ばない僻地に隠居するかを選ばなければならなかった。
 その意味においては、魔女たちにとって人口が十数人程度しかいない六軒島は非常に好都合だった。そしてそれ以上に好都合なのは、六軒島の森には魔女が住まうという怪談の存在。
 …つまり、魔女が存在するかもしれないという恐れがある程度浸透しており、ニンゲンたちの反魔法の毒素が弱まっていたことだ。
 少ない人口と、魔法的存在を認めうる余地。即ち、低い反魔法的精神。…この2つの狭間だけが、現代の魔女が生きていける場所なのだ…。
【エヴァ】「なるほど…。……つまりその計算式によるならば、魔女が効率よく力を振るうにはいくつかのルールがあることになりますね。
 1つは演出。ニンゲンの仕業とは思えない殺人を演出し、オカルト的な装飾を施して、彼らに魔女の存在を強くアピールし、浸透させることによって、彼らは魔女の存在を信じるようになり、その結果、反魔法力が減少して魔法力の分母の減少も図られる。……なるほど、第一の晩の不気味な魔法陣の演出などは、これに当たるわけですか。」
【ベアト】「そ、そうよ、その通り…! 毎回の第一の晩のドギツイ演出は全て、その為のものなのだ。別に決して、妾が残酷なのが好きで面白半分でやっていたわけではないのだぞ…。」
【エヴァ】「…だとしたら先代さま。今回のは失敗ですね。殺し方が非常に地味でした。ただのミステリーにしか見えません。
 ………ロノウェに聞いていますが、前回や前々回のように、遺体をもっとグロテスクに損壊して、ファンタジーに見せ掛け、彼らに恐怖心を植え付けるべきでしたね。」
【ベアト】「………ま、…まぁそのだな。…毎回それでは芸がないと思ってな…? 深く考えるでない、気紛れだ…!」
 実際、それは本当に彼女の気紛れだ。戦人にあのようなことを言われた後ではもはや口にはできないが、ほんの気紛れで決めた殺し方に過ぎない。
 いや、適当にロノウェに決めさせたと言った方が正しいか。今回の第一の晩の密室は、彼に一任させたのだから。しかしもしも、ベアトに残酷なアイデアがあったなら、前回をはるかに超えた残虐非道を尽くしていたに違いない…。
【エヴァ】「………………………。楼座と真里亞の殺し方についても、先代さまは自重するように仰られましたが、それも私たち魔女に利する行為ではありませんね?
 実際、彼らは現時点では、魔女が実在するなんて、これっぽっちも信じてません。ファンタジーでなく、完全にミステリーだと確信しています。私たち魔女にとって失敗した展開です。……先代さまが、どういうわけかヌルいやり方を繰り返したせいです。」
【ベアト】「あー…、そ、そのだな、若い内の苦労は買ってでもしろというではないか…! 先代からそなたへの、これは試練である。謹んで挑むが良いぞ。わっはっはっは…!」
 ベアトは豪快そうに笑ったつもりだが、何かを誤魔化すための空笑いであることはとっくにバレバレで、新しき魔女はため息混じりに肩を竦める。
【エヴァ】「……………………。…この段階から、演出によって反魔法力を減ずるのは、多分、手遅れでしょうね。…となれば、もう1つの手。ニンゲンの分散が良いでしょう。」
【ベアト】「うむ、それがもっとも効果的であろうぞ。ニンゲンの人数が少なければ少ないほど、分母の数は減るわけだ。その結果、魔法力は覿面となる。…つまり、この篭城状態を如何に崩して、少人数に分散させるかがここからのポイントとなるわけだな。
 しかし、彼らはもはや用心深い。容易には篭城を崩せぬぞ…? 前々回の金蔵の書斎での篭城、前回の客間での篭城、何れも手強かった。増してや今回は、老獪な大人勢がほとんど残った状態での篭城となっておる。
 状況はこれまで以上に困難であるぞ? ……そなたが望むなら、特別に助言を与えてやっても良いのだがな…。」
 クローズドサークルで最初の殺人事件が起これば、必ず生存者たちは一堂に集まり、安全確保と相互監視のために篭城する。……それを崩すのが殺人犯とミステリー作家の悩みなのだろうが、それの対極に位置するはずの魔女が、まったく同じ悩みを共有しているというのは、何とも滑稽な話だった。
 新しき魔女は、しばらくの間、立てた人差し指を頬に当て、思案するような仕草をした後、言った。
【エヴァ】「………………………。……いいえ、結構です。試練ですから。……先代さまの手は借りません。」
【ベアト】「む、…そうか…? …しかしだな、篭城を崩すのはなかなかに難しいぞ…?」
【エヴァ】「すでに手は打ってあります。きっと引っ掛かるはずです。頭のいいヤツなら、むしろ必ず。」
【ベアト】「そ、そうか……。そなたは優秀であるな…。手の掛からぬ弟子で、妾は嬉しいぞ。」
【エヴァ】「私、人に聞く前に自分で勉強するがモットーなので。……それでは失礼します。獲物がのこのこと誘い出されるのを、待たねばなりませんので。」
【ベアト】「うむ。…それではしっかりな。」
 新しき魔女は淡白に頭を下げると、黄金の蝶になって姿を消した。……ベアトはどうもちょっぴり面白くない様子。自分がまったく頼られないのが寂しいようだった。
【ベアト】「……………どいつもこいつも、妾のことなど構いもせぬわ。………ふん。魔女見習いめ、天狗になりおって。…今に手痛いミスをして泣き言を言うに違いないぞ。
 その時こそ、ようやく妾の偉大さを理解し、教えを乞おうとするに違いないのだ! くっくっく、それまで妾は高みの見物よ。」
 高笑いを装うが、聞く者のない笑いなど、掘った穴にロバの耳を叫ぶより意味のないことだ。ベアトは虚しくなり、すぐに笑うのを止める。…それを見計らった頃に、ロノウェが姿を現した。
 エヴァとベアトはこれまで、幻想描写の中でのみ会話していたが、ここからさりげなく準メタ世界に上がってくる。
【ロノウェ】「失礼いたします、お嬢様。……戦人さまとの第二の晩のゲームが終了いたしました。」
【ベアト】「……む、…そうか。ご苦労であった。首尾はどうであったか。」
【ロノウェ】「申し訳ございません。リザインさせていただきました。……戦人さまの、“楼座が真里亞を絞殺、その後に事故死”は、赤にて“両名他殺”で切り替えしたのですが。…絵羽を主犯に据えられた一連の指し手を切り返せませんでした。」
魔女の喫茶室
【ベアト】「絵羽は秀吉にずっと看病されて部屋で寝ていたであろうが。」
【ロノウェ】「…秀吉も共犯で、両名でアリバイを作った可能性を提示されました。」
【ベアト】「秀吉まで疑うか…! 殺害時には客室にいたと赤にて叩き斬ってやれば良いではないか。」
【ロノウェ】「……それも考えましたが、何れにせよ、数手先でいくつかの大駒を奪われてしまうかもしれません。…それに、この手が新しきベアトリーチェさまが打たれた布石の可能性もありますので、それを尊重することと致しました。…申し訳ありません。」
【ベアト】「布石か。………あやつ、頭が切れるようだからのぅ。…ふん、好きにさせておくが良い。どこまでやれるか見物だ。」
【ロノウェ】「ぷっくくくく。そう仰ると思いました。……弟子が可愛くないので、ご機嫌斜めとお見受けしますよ。」
【ベアト】「余計なお世話だ。あやつめ、ここからの篭城をどう崩していくつもりなのか。妾もじっくり拝見させてもらうとするぞ。……………あー、それで…。…ば、…戦人の機嫌の方はどうなのか。」
【ロノウェ】「落ち着いておられるように見えました。やはりお嬢様が相手でないと盛り上がらないと仰っておいででしたよ。」
【ベアト】「そ、そうか、そうであろうそうであろう! 第四の晩以降は、やはり妾が復帰しないと戦人も寂しかろうな…!」
【ロノウェ】「ぷっくっくっく…。それでは私はこれで失礼させていただきます。…美味しいクッキーを焼かねばなりません。せめてお嬢様と戦人さまのお話が弾みますように。」
【ベアト】「うむ! あいつ、お前のクッキー、ぼりぼり食ってたなぁ。やはり男の子だからお腹が空くのであろう。多めに焼いてやれ…!」
【ロノウェ】「畏まりました。クッキーでテーブルを埋めてご覧に入れましょう。」
【ベアト】「それが良いぞ…!」
 メタ視演出は発生しないが、話の内容から別階層と判断可能。ゲーム盤とメタ世界の境界を曖昧にしているのは、ラストのどんでん返しの準備である。
ゲストハウス・玄関
【留弗夫】「……何だよ、どうした。話って何だ…?」
 霧江が留弗夫を廊下へ呼び出す。他の人間たちに聞かれたくない話をしようとしているのは明白だった。
【霧江】「あのね、私。」
【留弗夫】「おう。」
【霧江】「………表へ出たいの。」
 霧江は留弗夫に、秀吉が絵羽のアリバイを偽証している可能性が高いことを打ち明ける。そのため霧江は、秀吉を絵羽から引き離して問い詰めたい。

ホールの死闘
10月5日(日)13時00分

ゲストハウス・ロビー
【蔵臼】「……確かに、わずかばかりの朝食では体が持たないが、しかし…。」
【留弗夫】「もちろんわかってるさ。だがな、時間を置けばどんどん暗くなってくる。多分、今が一番明るい。今が一番都合がいいんだ。」
【夏妃】「楼座さんたちが襲われてから、まだ1時間も経ったかどうかですよ。いくら何でも無用心です…!」
 夏妃が無用心だと叫ぶのも無理はない。…留弗夫が、屋敷に食料を取りに行くと言い出したからだ。確かに彼らは疲労に加え、空腹感にも苛まれていた。
 初めの内こそ、ほどよい空腹感は眠気と戦えてちょうど良かったが、今は逆に意識を朦朧とさせ、まだ昼だと言うのに、もう体力の限界を感じさせている。屋敷の厨房へ行き、何か食料を持ってこようという話は、確かに魅力的だった。
【夏妃】「私は反対です。多少は辛いでしょうが、断じてここを出るべきではありません。」
【蔵臼】「……私たちはいい。だが子どもたちにひもじい思いをさせるのは心が痛む…。親として責任を負わねばなるまい。」
【夏妃】「あ、あなた…! お父様が亡くなられた今、右代宮家の当主はあなたです。そのような危険を冒すことは許されません…!」
【霧江】「………そうね。夏妃さんの言う通りよ。蔵臼さんはリーダーとしてここに残るべきね。」
【蔵臼】「……なら、誰が屋敷へ行くんだね?」
【留弗夫】「俺と霧江、あと秀吉兄さんの3人で行こうと思う。俺と秀吉兄さんは銃を持ってる。そう簡単に向こうも手出しはできないはずだ。」
【夏妃】「楼座さんも銃を持っていましたが襲われました。…危険ではありませんか?」
【留弗夫】「…楼座たちの様子を確かめに出た時、銃を持っていたが俺はひとりだった。だが襲われなかった。……男が相手なら、向こうも慎重なのかもしれないぜ。」
【霧江】「男性が二人。そしてさらに銃も2丁。二人には護衛役に徹してもらって、荷物は台車で私が運ぶわ。楼座さんの時とは状況が明らかに異なるはずよ。」
【秀吉】「わしを男と見込んでの話なら、喜んで協力させてもらうで。こう見えても、屋台を引いて鍛えた体や。力仕事は任せてな!」
【霧江】「男性は護衛役に徹してくれていいの。使用人室に折り畳み式の台車があったから、それを使えば私ひとりでも充分に食料が運べるわ。……もちろん用心はする。そして、この冒険を一度だけ成功させれば、もう二度と、私たちはここを出る危険を冒す必要はないの。」
【夏妃】「…………何とか考え直せませんか。皆さんに空腹を強いるのは心苦しいですが、…ですがしかし、今の外は何が起こるかわかりません…。」
【秀吉】「用心するで。……それに絵羽はだいぶ体調が悪いんや。空腹には出来ん。胃袋が空っぽじゃ、飲める薬も飲めんわ。絵羽の為にも、わしは出掛けにゃならんのや。」
【蔵臼】「絵羽の具合はどうなんだね。」
【秀吉】「ようやく寝入ってくれたとこや。…熱も高い。しばらくそっとしたってや…。」
【蔵臼】「……妻の体調があっては、座してもいられんか…。………わかった。外出を許可しよう。」
【留弗夫】「じゃあ、俺たちはさっくりと行って来るぜ。スピード勝負だ。缶詰はOKだよな? 缶切りくれぇこっちにあるよな?」
【夏妃】「は、はい。缶切りと栓抜きはあります…。」
【霧江】「ゲストハウスに水道があるから、飲み物は不要よね。10人分もあるんだから、好き嫌いは言わせないわ。」
【秀吉】「よっしゃ。ダダッと走ってって、さっさと持って来ようやないか。傘なんて差してる暇、あらへんで…!」
【留弗夫】「じゃ、兄貴。留守番を頼むぜ。」
【蔵臼】「……気をつけてな。…本当ならば自分も行きたい。…男に生まれながら、このような急場で力を貸せぬ長男の肩書きが恨めしい。」
【留弗夫】「こういう時くらいしか俺らには見せ場がないのさ。たまには譲って兄貴はのんびりしてろい。じゃな、夏妃さん。タオルの準備でもして待っててくれ。傘はささねぇから濡れ鼠で帰ってくるぜ。」
【夏妃】「わ、わかりました。…お気をつけて。」
 留弗夫と霧江、そして秀吉の3人は、それぞれに勇ましい言葉を残し、ロビーを出て行くのだった…。
薔薇庭園
 楼座たちが表に出た時に比べると、再び風は強くなっていた。留弗夫たち3人は、傘をささず、銃や折り畳んだ台車を抱え、小走りに薔薇庭園を駆け抜けていく。
 もしも雨も風の音もしない静寂だったなら、3人は耳を澄まし慎重に行動したかもしれない。しかしこの雨では、近くに不審者が潜んでいたとしても、その気配を気取ることは困難だ。それならばむしろ、危険地帯を駆け抜けた方が良いだろうという留弗夫の提案だった。
 ……相手が銃で武装している可能性があるならば、固まってゆっくり歩くのは的にしてくれと言っているようなものだ。迅速な行動はおそらく正しい判断だろう。
【秀吉】「………薔薇庭園や。鴨がネギ背負って来たと思うとるかもしれんで…!」
【留弗夫】「頼むぜ、誰も出てきてくれるなよ…。」
 留弗夫と秀吉は、走り続けながらも、神経質にきょろきょろしては辺りを警戒した。
 楼座と真里亞の死因は飛び道具ではない。……しかし、使用人たちの死因はそれを疑えるものだった。
 暗がりから飛び掛って来るか。それとも狙いを済まして闇から狙撃してくるか。……いずれにせよ、緊張感を解くことは一瞬たりともできない。
 しかしそうではあっても、屋敷の玄関の軒下に辿り着き、雨粒から逃れられると、ほーっと安堵の息が漏れるのを感じるのだった。
【秀吉】「まずは問題なしやな。……楼座さんの時とは違う。迂闊に手は出せんやろ。」
【留弗夫】「そう信じたいね。霧江、俺たちが見張ってる間に鍵を開けてくれ。」
【霧江】「えぇ。SPが二人もついてお屋敷に帰宅だなんて、実にエグゼクティブな気分よ。」
【秀吉】「わっはっはっは。赤絨毯で召使のお出迎えがあれば完璧や。」
【留弗夫】「お出迎えか。…あるかもな。用心しようぜ。」
 二人が用心深く辺りを警戒する中、霧江は預かったマスターキーで玄関を開錠する。
【霧江】「開いたわ。」
【留弗夫】「秀吉兄さん。先頭を頼めるか。俺は背後を警戒するぜ。」
【秀吉】「了解や。霧江さん、わしの影から出ないようにな。……ほな、突入するで!」
【留弗夫】「後方了解、援護するぜ…!」
 絵羽はこの会話を盗み聞きしている。3人がゲストハウスから出て行った後、しばらくして後を追う。
玄関ホール
【霧江】「……男の人って嫌ぁね。この状況をちょっぴり楽しんでるでしょ。」
【留弗夫】「諦めろよ、それが男ってモンだぜ。……しかし、相変わらず酷ぇ臭いだな。」
 …屋敷内の空気は、重苦しい静寂で澱んでいるように感じられた。そしてそれ以上に、ボイラー室からの金蔵の焼死体の異臭は未だに濃厚で、頼まれなくても屋敷を出たい気持ちに駆られた。
【秀吉】「前方、問題ないで。厨房まで一っ走りや。」
【留弗夫】「とっとと済ませて引き揚げよう。スーツが親父の臭いで燻蒸されちまうぜ。」
 3人は厨房へ向かって駆けて行く…。
 そして彼らが姿を消した後の玄関に、……新しき魔女が姿を現す。
【エヴァ】「まんまと誘い出されたわね。……私の罠に、まんまと引っ掛かってくれた。」
 魔女はにやりと笑う。
 ……今にして考えれば、いくら耐え難い空腹感があったとはいえ、楼座たちが襲われて命を落としてから数時間も経っていない。
 にもかかわらず、なぜ彼らは無用心にもゲストハウスを出なければならなかったのだろう…。その疑問が埋められない内は、魔女の魔法の力で呼び出されたということにする他ない…。
【エヴァ】「無用心なヤツら。……もう生きてこの屋敷から出しはしないわ。閉じよ、鍵よ。屋敷よ!」
 そう宣言した瞬間。屋敷は異空間に切り取られた。……もう、彼女が結界を解かない限り、誰も屋敷からは出られない、入れない。
【ロノウェ】「……お見事です。無限の魔女を継承してから、まだ半日も経たないのに、それほどまでに魔法を使いこなされるとは。……その才能に驚きます。まるであなたは、生まれながらにしての魔女のようだ。」
【エヴァ】「だって私、生まれた時から魔女だもの。……あなたは瞬きの仕方を誰かに習うの? 私が魔法を使えるのは、そういうことよ。」
【ロノウェ】「…………………。…恐ろしいお方だ。」
 魔女の顔が残忍に歪む。……再び命が弄べるのが楽しみで仕方ないのだ。
【エヴァ】「さてさて。……くふふふふふふひっひひひひひひゃひゃ! まずは留弗夫と霧江なわけだけど、どんな残酷な殺し方をしてやろうかしら…!」
【ロノウェ】「……失礼ながら。先代さまより、不必要な残酷なる殺害は控えるようご指示を賜っております。そして、第四の晩以降は、生贄の捧げ方に作法がございます。それには煉獄の七姉妹の力を借りねばなりません。」
【エヴァ】「……あら、そうだったの? そういえばそうだったわね。好き勝手に遊べるのはさっきの第二の晩までなのね。………………つまんないわ。また楼座の時みたいに思い切り遊べると思ったのに。
 ……でも、それは最後の殺し方、という意味でしょう?」
【ロノウェ】「と、申しますと…。」
【エヴァ】「私が何度、どれほどの殺し方をしようとも、生き返らせて、最後に碑文の殺し方に沿えばいい訳でしょ?
 ……つまり、私がどう遊ぼうと、結局は問題ないってことになるわ。……こんなに面白い力、誰が大人しくなんかするもんか…! くっひひひひひひひひ!」
 彼女の暴論は、無限の魔女としては極めて正論。第四の晩以降の生贄は、“頭を抉れ”に代表されるように殺し方の作法が決まっている。しかし、それは最終的な死に方を示したものだ。
 つまり、……それまでの過程でどう甚振り、どう殺そうとも、自由。何度でも蘇らし、最後の殺し方だけルールに従えばいいのだろうという話なのだ。その無邪気な残酷さに、ロノウェは魔女の才能の一端を感じつつも、彼女の生来の残忍な一面に気付き始めるのだった。
【ロノウェ】「……魔女は見習いがもっとも残忍と申しますが、本当のようですね。………ご随意に、と申し上げたいところですが、ここはやはり自重なさった方が賢明でしょう。彼らは銃を持っています。銃のような反魔法力の高い武器は、魔女や悪魔の天敵です。」
 意外にも銃を恐れる悪魔の執事に、魔女はきょとんとした表情を浮かべる。
【エヴァ】「………話が違うわ。魔女は弾丸なんか射掛けられても、へっちゃらじゃないのかしら?」
【ロノウェ】「いいえ。普通のニンゲンとまったく同じように致命傷となります。…その弱点を気取らせない為に、多くの魔女は厳重に防御結界や家具の守備によって身辺を固めるのです。」
【エヴァ】「私に、その防御結界というのはあるの?」
【ロノウェ】「……銃弾をも無効にする結界の構築には、充分な準備と儀式が必要です。残念ながら、今のベアトリーチェさまにはございません。また、銃弾を防げるほどの家具の召喚も、現在はその準備がありません。」
【エヴァ】「これほどの魔力を持つ大魔女になりながら、それでもやはり鉛弾に怯えなければならないのね。………不愉快だけど、仕方がないわ。となれば、家具を呼び出して私の手足とすればいいわけね?」
【ロノウェ】「はい。危険に身を晒さず、家具に全てを任すのもまた、魔女の優雅なる嗜みでございます。ここは家具に任せ、ベアトリーチェさまは安全なところへお隠れを。」
【エヴァ】「……………わかったわ。…煉獄の七姉妹。誰でもいいわ、適当に2人…!」
 その呼び出しに、レヴィアタンとベルフェゴールが応じる。
【レヴィア】「嫉妬のレヴィアタン、ここに。」
【ベルフェ】「怠惰のベルフェゴール、ここに。」
【エヴァ】「あんたたちの力を見せてもらうわ。標的は留弗夫と霧江。秀吉はダメよ。……さぁ、あなたたちがどれだけ残酷な家具なのか、私に見せてみて。」
【ベルフェ】「……恐れながら。先代さまより、不要なる残酷行為は控えるようご命令を賜っております。」
【レヴィア】「でもぉ、先代さまのご命令の範囲内で、甚振ることはできると思います。それでもよろしいですか?」
【エヴァ】「ふん。わかった、それで妥協するわ。……簡単に殺しては駄目よ。徹底的に追い詰めて、死の恐怖を味わわせてから殺すのよ。……それでいいのかしら、ロノウェ?」
【ロノウェ】「はい。程度をお考え頂ければ問題ないかと思います。」
【エヴァ】「……………なら、お行きなさい!」
【レヴィア・ベルフェ】「「はいっ、お任せを…!」」
【ロノウェ】「相手は銃で武装しています。…あなたたちほどの者ならば、かわすことは容易いでしょうが、…もしも当たれば致命傷ですよ。くれぐれも用心を。」
【ベルフェ】「ご心配なく。そのような無様は晒しません。」
 煉獄の七姉妹の二人は姿を消す。ロノウェも一礼してから姿を消す。
【エヴァ】「………殺し方にまでルールがね。………何で私が先代さまに気兼ねしなくちゃならないの? …………窮屈でつまらない。」
 魔女はホールに掲げられた先代ベアトリーチェの肖像画を見上げながら、悪態をつくのだった…。
厨房
 3人はすでに厨房に到着し、食料を集めていた。毒が混ぜられているかもしれない可能性も考え、魅力的な野菜や果物の類を諦め、安全な缶詰だけをダンボールまるまる一箱分集めた。かなりの重量だが、台車に積めば何とか運べる。
 これだけあれば、10人なら明日の朝食まで余裕が持てる。船を待つにはそれで充分だ。男2人は護衛役に専念のはずだったが、この重さの荷物では台車であっても霧江には辛い。力自慢を自称する秀吉が台車役を代わり、護衛役は留弗夫夫妻が勤めた。
【秀吉】「これだけあれば、譲治たちも満腹やろ。帰るまでが遠足や、行くで…!」
 秀吉が威勢よく出発を宣言した時、霧江が表情をしかめ、遠くを見るような目をした。
 ……その方向には壁がある。…いや、視線が貫けるならば、その向こうにはホールがある…。
【留弗夫】「………どうした、霧江。」
【霧江】「…チリチリするの。………嫌な予感がするわ。」
 霧江は足を止め、なおも目を細めるような仕草をする。
【留弗夫】「………女の勘か?」
 こういう時の霧江の勘は、理屈抜きに当たる。…留弗夫はその勘を信じた。
【霧江】「えぇ。多分、私たちは待ち伏せされてる。……さっきまではその気配はなかったの。…でも、たった今、感じたわ。……たった今、私たちは、待ち伏せられた。」
【留弗夫】「……なら、来た道を戻る義理はねぇな。そこに勝手口があるじゃねぇか。そっちから出よう。」
 留弗夫は勝手口の扉の鍵を開けようとする。厨房への荷物の運び込みは、家人たちが出入りする屋敷内を決して通りはしない。だから、勝手口の外には搬入用のスロープもあるだろう。きっと台車はここから出られる。
【留弗夫】「……何だこりゃ。…固ぇ。…クソ、どうなってんだ。」
【霧江】「開かないの?」
【留弗夫】「あぁ。壊れてんのかな。びくともしねぇぜ…。」
 留弗夫は、力任せにしたり、あるいは宥めすかしたり、色々と試すのだが、鍵は岩のように固まり、びくともしなかった。
【秀吉】「…無理せんと、玄関から出ようや。モタモタ時間を潰す方が、今は惜しいで。」
【霧江】「…………………………。」
【留弗夫】「……これが罠だってのか?」
【霧江】「…わからない。用心して。」
 3人は緊迫の面持ちで、再びホールへ戻り、玄関を目指す…。
【留弗夫】「だ、……誰だッ!!」
玄関ホール
 ホールに出た途端に、留弗夫が真っ先に不審な人影を認めて叫んだ…。その瞬間、金箔の嵐が巻き起こり、黄金の蝶たちが空間を黄金色に染めた。
【ベルフェ】「…………信じられん。ニンゲン如きが、我らの待ち伏せを予見したか。」
【レヴィア】「わ、私のせいじゃないわよ。気配は消してたもん…!」
【霧江】「躊躇しないでッ!! 撃ってッ!!!」
 二人の銃が火を噴く。鉛の弾丸は二人が持つ魔法防御を、濡れた障子紙のようにあっさり撃ち抜きながら迫るが、……そこにあったはずの二人の姿は掻き消える。
 確かに銃は彼女らにとっても恐れるものかもしれない。…しかし当たらなければ怯える必要はない。彼女らにはそれをかわせるだけの素早さがあった。
【レヴィア】「ちょっとぉ! 名乗りも上げさせないつもりぃ?! これだからニンゲンは嫌なのよぅ!」
 レヴィアタンは、本来いたはずの場所から10m以上も離れた、階段の影の柱からひょっこりと顔をのぞかせて抗議する。
【ベルフェ】「ベアトリーチェさまのご命令により、貴様らを討つ! 時間を掛けて甚振れとのご命令だ。抵抗は自由、されど無駄と知れ…!」
 その声は頭上から。ベルフェゴールの姿はホールのシャンデリアの上にあった。優雅に見下ろしながら、残酷な笑みで処刑を宣告する。
【秀吉】「……な、……何なんや、この姉ちゃんたちは…?!」
【霧江】「台車は忘れてッ!! 相手は二人よ、散開すれば全員を追うことはできないわ!」
 3人は全員、屋敷内には精通している。それぞれに逃げて、窓を破るなり勝手口を出るなりしてゲストハウスへ逃げ帰ることで、緊急時の打ち合わせは済んでいる。戦いは厳禁。……逃げ切れる限り。
【留弗夫】「はっははッ、三十六計、逃げるが勝ちだぜ…!!」
 3人は屋敷の奥へ一目散に逃げ出す。家具の二人は悠然とその背中を見送る。
【レヴィア】「……私は女の方を殺るわ。あんたは男を!」
【ベルフェ】「了解した。」
 柱の影とシャンデリア上の2人の家具は、人の姿を弾けさせ、飛び跳ねる甲虫が壁にぶつかるような音だけを残しながら、各々の標的を追跡する。その速度は圧倒的で、容易に彼らの退路を断ってしまうのだ。
【エヴァ】「…………家具のお手並み、拝見させてもらうわ。楽しませてくれるといいのだけど。」
【ロノウェ】「ベアトリーチェさま、濫りに姿を現されない方がよろしいかと…。」
【エヴァ】「キングは濫りに中央を動かないものよ。それが王者の、…魔女の貫禄よ!」
2階廊下
 大胆にも2階へ逃れようとした留弗夫の前には、もうベルフェゴールが立ち塞がっていた。
【ベルフェ】「抵抗も、そして逃走も無駄だ。……お前は何も考えなくていい。ただ目を閉じているだけでいい。私が全て、やさしく終わらせてやる。」
【留弗夫】「あんた、いい嫁さんになれるな。疲れて帰ってくる旦那はそういうの喜ぶぜ。」
【ベルフェ】「この期に及んで不埒な話をする余裕があるとは…! 良き獲物っ、ベアトリーチェさま、感謝します! 死ねッ!!!」
 先制射撃は留弗夫。しかし、その銃弾が着弾するより、ベルフェゴールが留弗夫の背後を取る方が早い。そこには腕より伸びる紫色の奇跡を振り上げる姿が。
 しかし、その腕が留弗夫の首を撥ねるより、信じられないことに、留弗夫が背後に銃を振る方が早い。ソードオフ銃を片手でリロードするアクションからそのまま、銃口が背後へ伸びていた。それはぴったりとベルフェゴールの胸元に突きつけられている…。
 チン、カランコロン…! それはリロードで排莢された空薬莢が今更壁を叩く音だった。つまりそれはすでに次弾装填が終了しているということ。
 振り返りもせず、ベルフェゴールの胸元に完全に銃を突きつけている留弗夫はニヤリと笑う。
【ベルフェ】「………やるな………。…中年男の分際で…ッ!!」
【留弗夫】「西部劇世代を舐めるんじゃねぇぜ? ガキどもにレバーアクションの渋みは語らせねぇ。」
1階廊下
 留弗夫と同じように霧江もまた、1階廊下にて悪魔の杭と対峙していた。
【レヴィア】「間抜けなヤツね。夫と一緒に逃げればよかったのに。さっきのが今生の別れになったわよ…? くすくすくす!」
【霧江】「大丈夫よ。ウチの人、こういうのとても得意なの。すぐに白馬で迎えに来てくれるわ。私が困った時、彼が助けに来てくれなかったことはないんだから。……明日夢さんがいた頃であってもね? ふふ。」
【レヴィア】「ふっふふふふふふ! 本当に仲の良い夫婦ね。嫉妬するわ。………私は嫉妬のレヴィアタン…! 嫉妬こそ我が力。我が怒り、我が源泉!」
【霧江】「同感ね。嫉妬は女の力の原点よ。…それが力だと言うなら、あなた如きお嬢ちゃんになんか負けないんだから。」
【レヴィア】「はっははははははははは! 嫉妬を司る私によくも言えたわね! お前たち夫婦を再会などさせるものか…!! あっははははは、悲劇的な別れを与えてやるわッ!!」
 レヴィアタンの振る腕は紫色の軌跡を引く。それは悪意で切断する魔法の刃。霧江はそれを銃で庇い防ぐ。
 ……魔法抵抗力の極めて高い「銃」は、鉄であってもバターのように切断するはずの魔法の刃を、まるで丸めた新聞紙のチャンバラを受け止めるように防ぐことができる。素早く二度三度。それを全て防ぎ切る。
 そしてその紫の軌跡が、大振りに振りあがった隙を逃さず、霧江の踵がレヴィアタンの下腹を蹴り押す。レヴィアタンはまるで羽のように軽く、舞うように吹き飛ぶ。
 …悪魔の杭の足が、再び地に着ける前に。もう霧江の銃口は空中にてレヴィアタンを完全に捕らえていた。その中空で、嫉妬は力だと言葉を交し合った二人の女の目線が交差する。
【レヴィア】「……う、撃てるぅ? その引き金…!!」
【霧江】「私、夫のいないところでは残酷よ?」
玄関ホール
【留弗夫】「うわったたたたたッ!!」
 階段をごろごろと留弗夫が転げ落ちてくる。ベルフェゴールに徐々に追い詰められ、元のホールへ再び押し戻されたのだ。
【エヴァ】「………先代さまの家具もなかなかやるわね。派手さに欠けるけど!」
【ベルフェ】「ベアトリーチェさま…! まだ終わっていませんっ、姿を現されては危険です…!」
【留弗夫】「……………………お前、……まさか、絵羽なのか。」
【エヴァ】「それはかつて私の名だった。でも今は違うわよ、留弗夫。」
【留弗夫】「言わなくてもわかってるさ。黄金の魔女、ベアトリーチェだって言うんだろ?」
【エヴァ】「ふっふふふふふふ、あっははははは! どうしてわかったの?」
【留弗夫】「……楼座が殺された時から、想像はついてたさ。………楼座、許しな。お前の地獄に、お前の大嫌いな姉を送っちまうことをよ…!!」
【ベルフェ】「ベアトリーチェさまッ、危ない!!!」
 留弗夫が容赦なき銃口をかつての姉を名乗る魔女に向ける。しかしベルフェゴールはそれを許すまじと猛然と襲い掛かる。
 飛び掛れば消えて留弗夫の背後に。その一撃をかわせば再び留弗夫の背後に。次々に姿を消しては留弗夫の死角に瞬間移動する。
 それはまるで妖精のよう。瞬くように姿を消しながら、ベルフェゴールは間断なく留弗夫を攻め立てるのだ。
【エヴァ】「これはこれで楽しいかもしれない。留弗夫、あなたの健闘がどこまで続くか、ゆっくり見物させてもらうわぁ。くっくくくくくくくくくくくくく!」
 その時、鈍い引き裂く音と留弗夫の苦悶の声が混じった。襲い来る紫の軌跡とのダンスに、ついに留弗夫の反応が遅れ、脇腹を薄く裂かせることを許してしまったのだ。
 ひとつの傷はひとつの行動を遅らせる。それは新しい傷を呼び、新しい行動を遅らせる。
 ベルフェゴールのダンスが、留弗夫を飲み込み始める…。次第に体を切り刻まれていく留弗夫を見て、かつての姉は高らかに笑うのだった。
1階廊下
 レヴィアタンは、一向に致命傷を許そうとしない霧江に苛立ちを隠せなくなっていた。
【レヴィア】「………私は本当に愚鈍よね。…七姉妹の中で、いつも一番成長が遅かったわ。いつも私が遅くて、弱くて、間抜けだったわ。
 ……その劣等感が嫉妬となり、それを力として変換した時、私は姉妹の誰にも負けない力を得たのよ。」
【霧江】「少女時代の程よい劣等感は大事よ。女に化粧と努力を教えてくれるわ。」
【レヴィア】「ニンゲン如きに、その力の限りを尽くすのは気に入らないけれど。……夫に全幅の信頼を寄せるあなたへの嫉妬を、私は力に変える。
 ……気に入らないのよ。何で命のやり取りをしてるのに、あんたはそんなに余裕なの?」
【霧江】「……くす。どうしてかしらね?」
【レヴィア】「…………わかってるのよ。必ず夫が助けに来てくれて自分を助けてくれるって、信じきってるのよ。………すごいじゃない、その信頼。嫉妬に値するわ。」
 私たち姉妹にどんな信頼が? 弱り目に祟り目を徹底的に扱き下ろしてやろうと、いつも姉妹たちは互いを見下げあっている…!
【レヴィア】「いつも姉妹たちに虐められてきたわ。誰かひとりだけでも味方になってほしいとずっと思ってたわ。……だから、そのひとりだけの味方がいて、全幅の信頼を寄せることができるあなたに、私は最上の嫉妬を感じるの…。
…………あぁ、その夫を信じきった余裕ある表情…! 嫉妬が力を与えてくれるのを感じるわ…!! ………これは超えちゃうかもね。音速ッ!!!」
 レヴィアタンが杭に姿を変え、襲い掛かる時の飛翔速度は、その嫉妬の力に比例する。
【レヴィア】「姉妹たちに見下されたあの日。私は成長の早い他の6人を心の底から嫉妬した! 七日七晩をかけて嫉妬したわ!! その末に得た私の力と速度を見るがいい…!! 死ねッ、右代宮霧江ええええぇッ!!!」
 悪魔の杭がその本来の姿を晒し、凄まじい速度にて跳ね回る。壁を打ち反射する音はまるで機関銃の音にも聞こえた。霧江の目にはもはや、それが1本の杭なのか、群れ飛び弾け回る甲虫の群なのか、識別が付かないだろう。レヴィアタンは100%を超えた絶対の勝利を心より確信する…!
 すると霧江が、信じられないくらいに落ち着いた声で言った。
【霧江】「………留弗夫さんと、最初から付き合っていたのは私だったのよ。……明日夢さんが、白々しく間に入り込んできて、…ちゃっかりと懐妊したのよ。
 ……留弗夫さんは悪くないわ。あの女が、体を武器にして誑し込んで、さらに嫌らしく立ち回って、留弗夫さんに婚約せざるを得ないよう追い詰めたのよ。」
 明日夢さんは戦人くんを身篭ってたわ。そして同じ頃、私もまた男の子を身篭ってた。…運命的なことに、私たちの出産日は共に同じ日だったわ。
【霧江】「そして明日夢さんは戦人くんを出産したわ。…だけれど私は流産したの。………思ったことがあるわ。もし流産したのが明日夢さんで、出産したのが私だったなら。……留弗夫さんは婚約を解消して、私と結婚してくれたかしら? ……でも私は子どもを産めなかった。だから明日夢さんが死ぬまで。そして縁寿を懐妊するまで、私は明日夢さんを呪ったわ、嫉妬したわ。」
 明日夢さんなんか死んでしまえ。そして私と再婚してほしいって、ずっとずっと嫉妬して呪って、そしてやっと明日夢さんが死んだ。
 私は確信したわ。私には魔法の力があって、それが呪いとなって明日夢さんを殺したんだって確信したわ。
 でも、私の嫉妬の炎は治まらない。内緒よ? 戦人くんを見る度にね、あの女を思い出しちゃうの。そして戦人くんを見る度にね。…もし私の子が生まれていたら、同じ歳だっただろうなって思ってしまうの。私は今でも彼女を嫉妬し、苛まれてる。今も、これからも。未来、永劫にね。
【霧江】「七日七晩、姉妹を嫉妬したですって…?」
【レヴィア】「そ、……そうよ…。」
 笑わせるなよ小娘が。
【霧江】「………てめぇに男を寝取られて、年間嫉妬し続ける女の狂気がわかるかよ…ッ!!」
【レヴィア】「ぅ、……うぉあわああああああぁあああああああああぁああぁッ!!!!」
 レヴィアタンの力が、24時間×7日で168時間分の速度を持つならば。霧江の積み重ねた力は、日が24時間で、それが365日で1年で、それがさらに18年で……。
 閏年をカウントしなくても、157680時間。…それはレヴィアタンの力と速度の、938倍を超える。つまり、レヴィアタンが仮に音速1225kmで飛翔していたとしても、……霧江の目にはその938分の1にしか見えない。
 つまりつまり、1225÷938は、…………時速、1.30km。…人の歩行速度が時速4kmと言われるのだから、その半分すらも下回る。これは赤ん坊が床を這うのとほぼ同じ速度。つまりつまりつまり…!
 宙を舞う埃の数を、完全に数え切れるくらいに鈍りきった鈍足の単位時間の中で、霧江は憐れむように悪魔の杭を見る。
 自分に向かってくる、その遅さを憐れむ。
 そして面倒臭そうに銃口を向けた。まるで、銃口で悪魔の杭を飲み込もうとするかのように。
【霧江】「恋も嫉妬も、あなた全然足りないわ。……出直してらっしゃい、お嬢ちゃん。」
玄関ホール
【エヴァ】「留弗夫、先ほどまでの威勢はどこへぇ? 生き造りは魚が跳ねてる内がいいわ。死んだら面白みも何もない。もう充分よ。殺しちゃえばぁ?!」
【留弗夫】「………く、……畜生……。」
【ベルフェ】「そこまで刻まれて、よくぞここまで堪えた。……もう充分だ。後は何も考えなくて良い。痛みなく生を奪い去ってやる…!」
【留弗夫】「待ってくれ…、頼みがある。最後にアレがやってみてぇ…。」
【ベルフェ】「……アレとは何か。」
【留弗夫】「西部劇名物のアレだよ。背中を向け合ってから三歩歩いてズドンってヤツ。」
【ベルフェ】「…………決闘か。良かろう。それにて今生の未練が尽きるならば受けてやる。」
 留弗夫は傷だらけの体を起こし、背中を向ける。ベルフェゴールもそれを受け、背中を向かい合わせる。…ベルフェゴールには魔女の家具らしくない律儀さがあった。
【ベルフェ】「言っておく。例え、私の眉間に銃口を付きつけたとしても。私はお前が引き金を引き、私の頭蓋骨に弾丸が至るよりも早く、瞬間移動することができる。」
【留弗夫】「……あぁ、そいつはもう骨身に染みてるぜ。…お前は銃弾より速い。」
【ベルフェ】「それを知りつつ決闘を挑むお前の度胸に敬意を表し、付き合うのだ。感謝せよ。」
【留弗夫】「……お前は律儀なヤツだな。いい女だ。惚れそうだぜ。」
【ベルフェ】「始めるぞ。3歩で良いのだな? ………まずは1歩。」
【留弗夫】「……そして2歩。」
【ベルフェ】「……3歩だ。これでいいのか?」
【留弗夫】「あぁ。……そして、3歩も歩いてまだ気付かねぇなら。……俺の勝ちだな、お嬢ちゃん。」
【ベルフェ】「何ぃ……ッ? ………………………あ…ッ…!」
 留弗夫が振り返り、銃弾を放つ。……もっとも、ベルフェゴールにとって、そんな弾丸など、速度も軌道も全て見切れている。かわすことなんて造作もないはずだった。
 しかし鮮血の飛沫が飛び散る。……ベルフェゴールにも充分な魔法的防御結界が張られている。しかし反魔法力の結晶である銃弾の前には何の意味もなかった。
【エヴァ】「………何やってんのよ。何、当たっちゃってんの…!」
 ベルフェゴールの胸部に、弾丸は命中していた。…その鉛の痛みと、魔法を否定する痛みに、彼女は顔を歪める…。
【留弗夫】「……許せ。俺は卑怯な男だ。」
【ベルフェ】「………………く、……………ぅ…。」
【エヴァ】「きょ、…興醒めだわ。魔女の家具ともあろう者が、ニンゲンに敗れるなんて…! 恥を知りなさいよ。情けない、見っとも無い…! 勝手に這いつくばって死んじゃえばぁ?!」
【留弗夫】「………やめな、姉貴。…こいつはかわせたんだ。だがかわさなかった。
 ……射線上に姉貴がいることに気付いたのさ。だから律儀なこいつは、かわさずに受けて、姉貴を庇ったんだ。王手飛車取りに、最後に気付いたんだ。」
【ベルフェ】「み、………見事…………。」
【留弗夫】「悪く思うな。…お前が3歩歩く間にそれに気付けたら、俺は観念するつもりだったんだ。」
【ベルフェ】「…………あの3歩は、…私への、…手心だったか…。………考えようともしなかった。……私は、……怠惰だ、…った………。」
【留弗夫】「……お前はいい女だったぜ。先に天国で化粧して待ってろ。きっと口説きに行くからな。」
 ベルフェゴールはゆっくりと倒れると、…人型を形作る力をも失い、砂金のように細かくなって、宙に溶けていく…。
 そこへ霧江が駆け込んでくる。どうやら、自身の追っ手を自らの手で倒したらしい。銃口を真っ直ぐに魔女に向けながら、傷だらけの留弗夫の元へ駆け寄った。
【霧江】「……大丈夫? 今、誰か口説いてなかった?」
【留弗夫】「あぁ、いい女だったぜ。…もちろんお前の次程度にさ。…………悪いな、姉貴。チェックメイトだぜ。」
 二人の銃口が魔女を捉える。
【エヴァ】「…………情けない家具たちね。…ニンゲン相手に遅れを取るなんて。…情けない。下らない。…つまらない…!」
【ロノウェ】「ベアトリーチェさま、ここは退くべきです。……銃弾を防ぐ結界も家具もここにはありませんよ。」
【エヴァ】「ふっふふふ、……くっくくくくっくっくっく!」
 魔女はくぐもった笑い声を漏らし始める。
 …それは留弗夫や霧江だけでなく、ロノウェをも驚かすものだった。………2丁の銃を向けられた今の状況は、例え魔女であっても断じて笑い飛ばせるものではないからだ。しかし魔女は愉快だと笑う。
【エヴァ】「………そりゃあ、先代さまの使い古しの家具じゃ無理で当然ね。……私には私に相応しい、新しい家具じゃないと駄目よ。私、義理で使ったけど。……元々、お古は嫌いなの。」
 そう言い放ちながら、もはや砂金の山と成り果ててしまったベルフェゴールの遺骸を汚らわしく見下ろす。
【留弗夫】「何の話をしてるかわからねぇぜ。大人しく両手を上げやがれってんだ。」
 …すると魔女は素直に手を上げた。しかしそれは銃を突きつけられて両手を挙げるという仕草よりは、まるで指揮者がオーケストラボックスに向けて指揮棒を振り上げる時の仕草によく似ていた。
【エヴァ】「さぁさお出でなさい、私に相応しき家具たち…!! あんな安っぽい家具じゃなくて、もっともっと強力な! 残酷なッ!! あっはははははははははひゃっひゃっっひゃッ!!!」
【霧江】「妙な真似は止めて…! 引き金を引くわ…!」
 魔女の呼びかけに応じ、再びホールが金色で埋め尽くされる。それはあまりにも眩しい黄金蝶たちの乱舞で、…まるで金箔の海に飲み込まれたようにさえ感じた。
 その魔力の高まりに、ロノウェは呆然とする…。それはかつての主さえも遥かに超えるからだ。その目も眩む黄金の輝きの中、銃声が聞こえた。留弗夫か霧江のどちらかが発砲したのだ。
 ……そして、その黄金の輝きが収まった後には、少なくとも平然とした魔女の姿があった。弾は? 霧江は確かに撃ち込んだはず。しかしそれは魔女の体のどこにも撃ち込まれてはいない。
 あった。…弾は魔女の胸の直前で虚空に縫い止められていた。
【ロノウェ】「ぼ、……防弾結界ッ………。」
 先代ですら充分な準備を必要とした結界を、瞬時に…。ロノウェの顔は今や驚愕に歪む。そして、その驚きはそれだけに留まらない……。
 黄金の蝶たちの群が、2つの人型を生み出す。……それは家具の召喚。
 蝶たちが剥がれ飛び、その下より、少女たちを模した家具が姿を現す。
【ロノウェ】「………………シエスタの姉妹兵…。………先代さまでも、……おいそれと呼び出せなかった、ペンドラゴンの記念兵を、いとも容易く…!」
【410】「シエスタ410。ここにぃ。」
【45】「シエスタ45。ここに。」
【エヴァ】「…私に相応しい家具なんでしょうね、あんたたちは?」
【410】「絵本の朗読から同伴デートに隕石撃墜まで、幅広くお応えしますよ。にひひ。」
【45】「おっ、お応えしないと竜王さまに怒られます…! 何卒ご命令を、大ベアトリーチェ卿!」
【霧江】「………留弗夫さん。逃げましょう。こいつらは駄目だわ……!」
【留弗夫】「お、………おうッ!」
 煉獄の七姉妹の待ち伏せを予見したのと同じ直感が、悲鳴にも似た警鐘を鳴らすのを霧江は確かに聞いた。霧江たちは躊躇することなく逃げ出す。
 魔女はその背中を優雅に見送りながら、新しき家具たちに命ずる。
【エヴァ】「…命令よ。逃げた2人を殺して。そして死体をここへ持ち帰りなさい。そしたら生き返らせて、何度も遊ぶのよ。…くっくくくくくくくくく!!」
 魔女の表情が邪悪な笑みで歪む。その表情を恐れながらも、ルシファーが現れて進言する。
【ルシファー】「お、…恐れながらっ。…先代さまよりそのような残酷行為は慎むようにと…、」
 魔女がぎょろりと恐ろしい目で睨みつけると、ルシファーは閉口する。
 …不満なのだ。自らの持つ力と、自らの持つ残酷さを存分に解放できないことが退屈なのだ。……それを自重しろという先代の家具は鬱陶しく、彼女の不満は頂点だった。
【410】「傲慢のルシファーちゃんじゃない。お久し振りにぇ、元気ぃ? また今度一緒に遊びましょうね。にっひひひひひひ!」
【45】「よ、410、私語は駄目です、怒られます…! 大ベアトリーチェ卿のご命令を迅速に遂行を…!」
【410】「にひ。お仕事の時間だにぇ。……410了解。追撃狙撃戦準備。」
【45】「地形データ収集、射撃用データ収集。410へデータリンク。」
【410】「410データ受領。標的を捕捉。地形誤差修正。射撃曲線形成、制御点補正完了。45へデータリンク。」
【45】「45データ受領。危険区域確認、……あ、そこはダメです!」
【410】「後ろ邪魔だよルシファーちゃん、バックファイアで焼けるよ? にひ!」
【ルシファー】「………う…、」
 シエスタの姉妹は相互測量により、瞬時に屋敷内の地形と標的の座標、そしてそこへ至る射撃曲線を計算する。
 …そう、彼女らの射撃は曲線を描き誘導できる。如何なる者も逃れることはできない。煉獄の七姉妹の精密誘導能力は、彼女たちの能力の廉価版でしかないのだ。
【45】「45、射撃準備完了。弾種選定、装填。」
 彼女たち二人が向かい合うように。そしてまるで、ひとつの弓を互いに引き合うように。…そこに眩い黄金の矢が構えられる。
【410】「410、にひ。射撃。」
 彼女たちが射撃を宣言すると、二人で一本の矢が放たれる。
 黄金色に輝く光の蛇が美しい曲線の軌跡を描きながら、それは留弗夫たちが逃げた方へ高速で追跡していく。廊下を曲がり、床を這い、美しい曲線を描きながら追って行く。
 シエスタ姉妹の誘導弾は誰も防げない。逃れられない。そして物理的魔法的なあらゆる防御を強力に貫通できる。……それはあまりに無慈悲な必殺の誘導兵器。
 しかし、神話級の兵士ならば、誰もが割りと持つ武器なのだ。彼女らにとってはあまりに平凡で、…そして俗世にある者にとってあまりに非凡。
【留弗夫】「な、何だ…!?」
 何かが高速で追ってくることに気付き、振り返った時。
 その黄金の蛇によって、留弗夫は心臓の位置を正確に撃ち抜かれた。一瞬の出来事だった。
【霧江】「る、留弗夫さん……?!」
 黄金の蛇は留弗夫を貫いた後、美しい螺旋を描きながら床に舞い降りて、霧江の足に絡みつくようにして胸まで這い登る。
 そして留弗夫と同じく心臓の位置を正確に撃ち抜いた。…それは何れも一瞬の出来事。留弗夫を貫き、霧江を貫く。だから二人はほぼ同時に絶命し、同時に膝を落として同時に倒れた。
【エヴァ】「……何これぇ? 圧倒的じゃない、あっははははははははははは! 馬鹿馬鹿しいくらいにあっさりね。くっひひひゃひゃひゃひゃひゃ! 私にはこういう家具が向いてるわ。先代さまの中古家具とは大違い!
 さぁ、二人の死体をここへ。飽きるまで何度でも蘇らせて、思いつく限りの残虐な殺し方を試してやるの。あぁ、魔女がこんなにも楽しいなんてッ、命を奪うことがこんなにも楽しいなんてッ、あっははははははははははは!」
 ……人間として生まれたならもっとも疎まれるべき行為が、人間殺し。その禁忌を破ることに、どんな悦楽があるかなど、人の身に理解できなくて当然だ。
 ……しかし彼女はもはやニンゲンではない。魔女なのだ。…だから魔女にしか理解できない悦楽がある。
 彼女は今やそれを知り、どっぷりと浸りきっていた。…禁断の壷の中身が蜜であることを知ってしまったら、もうそれなしには生きていけないのだ。……いや、禁断とされるからこそ中身は蜜となるのか。
 とにかく彼女は、ニンゲンを惨たらしく、そして何度も殺すことに、今や麻薬的な悦びを感じている。
 魔女が笑い転げている間に、先ほど放った黄金の蛇がずるずると手繰り寄せられるように戻ってくる。その先端には、二人が縫い止められていて引き摺られていた。
 魔女の命令は遂行された。…留弗夫と霧江は即座に殺され、その遺体は運ばれた。
【45】「シエスタ45、410、命令遂行を完了しました。大ベアトリーチェ卿の次の命令を待ちます。どうかご命令を…!」
【410】「赤ん坊のお守りからネトゲのお相手、スペースシャトル撃墜まで何でもお応えしますよ。にひひ!」
【エヴァ】「…………こいつらは第四の晩と第五の晩の生贄らしいの。だから最後には、役立たずの七姉妹、…あぁ、もう五姉妹か。こいつらを額と胸に刺して抉らなくちゃならない。
 ……でも、それを最後にすればいいんであって、それまでを私がどう遊ぼうと勝手よねぇ? うっふふふふふふふふふふ!」
【ベアト】「待て待て待て待てぃ。…そなたは妾の言っていたことをもう忘れたのか!」
【エヴァ】「おや、これは先代さま。何か文句でもおありですか?」
【ベアト】「あるに決まっておろうが…! そなたはやりたい放題ではないか! なぜに妾の言い付けが聞けぬのか!」
【エヴァ】「やりたい放題で何の問題があるのですか、先代さま? それに私は、儀式のルールを逸脱しようなんて気持ちはこれっぽちもありません。
 ちゃんとこの二人の死体はあとで綺麗にして、額と胸に杭を打ち込んでおきますから。」
【ベアト】「そ、そういう問題ではないというに…! あまりに品がなかったり残酷だったりするとだな、…その、気を悪くする者もおるかもしれぬし…。」
【エヴァ】「…………………………。……先代さまがどこかで戦っているとかいう、ゲームの相手、ですか? ロノウェに聞きました。」
【ベアト】「……あ、あのお喋りめ。………まぁ、正直に言うとそういうわけだ。ちょっと目に余るとその、…抗議を受けてな?」
【エヴァ】「先代さまにわざわざ伝言などさせず、直接抗議にいらっしゃればいいのに。…臆病な方です。」
【ベアト】「………こことはその、異なる世界の住人だからの。私を介さねばならぬのだ。まぁとにかくだな、」
【エヴァ】「……………………。……ということは、その方は私に何か干渉したくても出来ない。そして私も干渉したくても出来ない。それくらいに遠い世界の、無縁な方との認識でよろしいですか?」
【ベアト】「う、うむ。……例えるならとても近い2本の平行線の世界とでも言おうか。とても身近な世界なのだが、平行線ゆえに2本の線が交わることは決してない。そんな世界と、とりあえずは認識してくれれば良い。」
【エヴァ】「交わらない。ということは、…………私とは関係ない世界のこと、ということです。…もしその方の代弁で私に自重しろと仰られてるのでしたら、その方にこうご伝言をお願いします。」
【ベアト】「あやつにか? 何と伝える…。」
【エヴァ】「余計なお世話だよ、消えろよババア。ヘソでも噛んで死んじゃえばぁ…?」
【ベアト】「………………んな…、」
【エヴァ】「…あぁ、失礼しました。先代のお友達でしょうから、多分、女性だろうと想像しただけです。ババアと言っても、決して先代さまのことではありませんからぁ、どうかご容赦ください。くっくくくくくくく…!」
 明らかに魔女は、ベアトの目を見ながら言い放っていた。…それはその場に居合わせた誰が見てもわかることだった。
【エヴァ】「…………先代さま。とても不思議に思うことがあります。…どうして先代さまは、その別世界の方とゲームをして、魔女だと認めてもらわなければならないのですか?」
【ベアト】「それはだな、…全ての人間に魔女の存在を認めさせることが、完全なる支配に繋がるからである。ひとり頑固者がおってな、どうあっても妾を魔女とは認めんのだ。」
【エヴァ】「………どうして、そのニンゲンの認可が必要なのですか? 魔女が魔女であり、魔法を振るうことに、どうしてニンゲンに認められる必要があるのですか?」
【ベアト】「…む、………だからな、前にも話した通り、魔法というのは…、」
【エヴァ】「私は魔女です。別に誰の認可がなくとも魔法が使えますが、何か……?」
【ベアト】「この世界ではな? しかしだな、それをあやつが認めない以上はその、…うむむ、何と説明すれば良いのか…。」
【エヴァ】「……説明、いりません。だって、決して交わることのない別世界の話じゃありませんか。それはつまり、無い世界も同じということです。
 ……………別世界でゲームで戦っていると、先代さまが妄想を語っていることと、なぁんにも変わりません。……重ねて言います。私と関係ない話です。そして、私はもう魔女です。」
【エヴァ】「先代さまは、どうやらその何者かに認めてもらえないと魔女になれないようですが、私は違います。誰に認められずとも、もう立派な魔女です。………先代ということで、あなたに形式的な敬意は奉げますが、それは私の好意であって義務ではありません。
 ……もう私は、あなたの助言など求めていないし、これからどうすればいいか、どう遊べばいいかはっきりわかってます。
 ………だから13人殺しの儀式までは、あなたへの最後の敬意だと割り切って行ないます。しかし、そのやり方や、その後のことについては、あなたに口出しされる謂れはまったくありません。………………そういうことでひとつ、よろしくお願いします。」
 言葉は一見大人しいが、それにははっきりとした決別が含まれている。…もう世話になることは何もない。だから遊びの邪魔をするなと、これ以上なくはっきり言っている。ベアトはそれを理解し、…これ以上、何を説明しても理解を得られぬだろうと落胆する。
【ベアト】「…そ、…………そうか…。ならば妾はもう知らぬぞ…。魔法は敬いの気持ちなくして存在できぬことを、身をもって知るがいい。」
【エヴァ】「……あなたがこれまでに縦横無尽に暴れてきたそれが、どう敬いがあったのか教えて欲しいものです。」
 それを言われるとベアトも言い返せない。……師匠に、まったく同じことを言われた覚えがあるのだから。
【エヴァ】「さ。シエスタの姉妹? 先代がお帰りよ、お見送りを。」
【410】「にひひひひ。先代さま、どうぞこの場はお引取りを。」
【45】「で、でないと私たちが叱られます…!」
 ベアトは全身に、シエスタの姉妹たちの目に見えぬ何か、形容するなら圧迫感を感じる。……恐らく、射撃測量を開始しているのだ。それは銃を抜き、撃鉄を起こす行為にかなり近い。
 たとえベアトといえども、何の準備もなくシエスタの姉妹の攻撃からは逃れられない。…かつて、最高の信頼を置いていたからこそ、身に染みてその恐ろしさがわかっている。
【ロノウェ】「………先代さま、お引取りを。………これ以上、ベアトリーチェさまのご機嫌を損ねられるのはお勧めできません。」
【ルシファー】「……先代さま…。」
【ベアト】「わ、………わかった。…妾はこれにて退場する。……そなたがどのような顛末を辿るか、ゆっくり鑑賞させてもらおうぞ!」
 それは限りなく捨て台詞に近い。…だからベアトが姿を消した後、魔女とその家具は笑い転げた…。
【ベアト】「…………まぁ、わかる。無限の力は楽しい。…有限の極みである命を、自在に弄ぶ快楽は、味わったことのない者には説明できぬ。……その麻薬にも似た快楽に取り憑かれる気持ち、わかろうというものよ。」
【ワルギリア】「……さぞや楽しかったでしょうね。かつてのあなたのはしゃぎぶりを見る限り。」
【ベアト】「あれが、かつて何度も諭そうとしたお師匠様と、それに耳を貸さぬ妾の姿だというのか…。」
【ワルギリア】「………なぜ、あの子の行為を咎める気になったのですか?」
【ベアト】「む、……それはその。……………………。」
【ワルギリア】「…あなたには、あの子と大きな違いがひとつあります。あの子はすでに魔女かもしれない。もちろんあなたも魔女です。ゲーム盤の上の世界では。
 ……しかし、ゲーム盤の外の世界で魔女だと認められるには、ゲームの対戦者である戦人くんに認めてもらわなくてはならない。……あなたはそれを理解してゲームを始めたはずです。」
【ベアト】「……魔女である証拠を暴風のように見せつけ、妾を拒否する気持ちを吹き飛ばし屈服させれば、………妾を魔女と認めると思った。…前回、うまく行き掛けたので、もう一息だと思ったのだ…。」
【ワルギリア】「実際は逆です。戦人くんはあなたの残忍さに呆れ果てていました。そしてゲームの対戦者として登壇したのは、あなたを対等な対戦相手だと認めたからではない。残忍な魔女の存在を一切認めないという強い敵意に基づいてです。」
【ワルギリア】「………愚かなあなたは、戦人くんが対戦者の自覚を持ってくれたことを、自分を魔女だと認めさせる第一歩のように感じていたのでしょう。でも、実際はまったくの逆。」
【ワルギリア】「戦人くんは、あなたを魔女だと絶対に認めないために、あなたのゲームに挑んだのです。……浅はかな北風がいくら吹きつけようと、旅人はマントをより深く着込むだけ。あなたは大きな間違いを最初から犯しているのです。」
【ワルギリア】「…………このゲームは、戦人くんを屈服させる拷問などではない。あなたが戦人くんに認めてもらうために努力する、試練なのです。」
【ベアト】「…………………。…う、……薄々はよゥ、…気付いてたさ…。」
【ワルギリア】「前回は戦人くんにとって辛いゲームでした。しかし、もう気付いたようですね。……今回は、あなたにとって辛いゲームです。」
【ベアト】「わ、…妾は、これからどうすればいいのだ。」
【ワルギリア】「あなたが自分で考えるのです。……幸いにも、あなたはもうゲーム盤の駒を降りて、新しき魔女に委ねました。じっくりと自らについて思案する時間があるでしょう。」
【ベアト】「…………戦人はもう敵意の塊じゃねぇかよぅ。魔女は認めない、そして妾も認めない。……それで、どうやって戦人に認めてもらうんだよゥ…。北風で駄目なら、…今からのこのこ太陽で照らせって言うのか…? この妾が、今更……。」
【ワルギリア】「今は10月。ハロウィンの季節ですね。………太陽が死に、再び蘇る再生の月です。蘇ったばかりの弱々しい太陽は冬の木枯らしに遠く及ばないでしょう。
 しかし、じっくりと成長し、やがては春の訪れを告げることができる。…その時、旅人はマントを畳むこともあるかもしれない。」
【ベアト】「………妾は、……間違っているというのか………。」
玄関ホール
 …右代宮家の屋敷の美しきホールは、金箔のような黄金の輝きと、…べったりとした返り血で真っ赤に染まっていた。
 留弗夫と霧江に与えた死の数は、とっくに足の指を含めても数えられなくなっている。魔女が肩で息をしているのは疲れたからではない。…まだ醒めぬ興奮に、荒い呼吸を隠せないだけだ。
【エヴァ】「あっはははははははははははははッ!! 人の生き死にを自由にすることの何と楽しいことか! 無限の魔女の力の前には、私が思い描く無限の全てが実現するわ! どんなにぐちゃぐちゃに磨り潰してやったってッ、私は指をひとつ鳴らすだけで元通りにして蘇らせることができる。そして最後に、申し訳程度に碑文に沿った死体に戻せばいいんだからね。あっははははははははははははははははは!!
 ……ねぇ、あんたたち、ぬいぐるみのお腹を裂いたことって、ある?」
【410】「ないです、にひ。45は?」
【45】「い、いえ…! やったことありません、申し訳ありません…!」
【エヴァ】「当然よ。普通ないわ。……増してや、お気に入りのぬいぐるみだったら尚更よね。でも、ずっと思ってた。
 こんなにも大好きでふかふかのぬいぐるみの中には何が詰まってるんだろう、いつか覗いてみたいって、ずっと思ってたわ。」
 裂いて中身を見たら、その好奇心は収まるかもしれないけど、ぬいぐるみは壊れてしまう。……だから見たいけれど見られない。そんな気持ちって、わかるでしょう?
【エヴァ】「……無限の魔女の力は、まさにそれを叶えてくれる力なの。…今の私は、好きなだけぬいぐるみを裂くことができる。
 ……なのに、魔法ひとつでそれを元通りに蘇らせることができるわ。…それはつまり、この世のあらゆる制約を打ち破ったということ。……今の私には躊躇することも思い止まることも何もないの。
 その悦び、……あぁ、誰にもわからないでしょうね。無限の魔女の私以外、誰にもわからない!!」
 魔女は狂ったように雄叫びをあげながら、再び留弗夫と霧江を蘇らせ、それを自覚させるより早く、直ちに殺して見せた。……二人の中には綿でないものが詰まっていることを知らしめながら。
【秀吉】「…よ、…………よさんか、絵羽……!」
【エヴァ】「え? ……あぁ、あんた。いたの。」
 惨劇のホールに、銃を構えた秀吉が姿を現す。
 魔女が屋敷を結界にて閉ざしたのだから、秀吉には逃げ場などどこにもないのだ。…留弗夫か霧江の銃を拾い、戻ってきたのだろう。
 本来は恐れるべきその銃も、魔力に満ち溢れた彼女にとっては、もはや取るにも足らないものらしい。不敵な表情はわずかほども歪まなかった。
【秀吉】「………何で、楼座さんや真里亞ちゃんや、……留弗夫くんや霧江さんまで殺さにゃならんのや……!」
【エヴァ】「はぁ? 私は右代宮家の当主にして六軒島の魔女よ。この島では何を起こそうと全ては自由自在。…今だけの一瞬を切り取って、その生き死にを問うなど、私には無意味なこと。」
【秀吉】「……お父さんの黄金を見つけて、………お前は気が触れてしまったんや…! どんだけ高く積まれた黄金やったやろな。わしには想像もつかん。お前の正気を失わせるほどのものだったんやろ…。
 ……だがな、そんなにもたくさんの黄金やったなら、……なして気前よく分けっこしたろって思わんかったんや…!!」
【エヴァ】「誤解してるわ。…………あれは全て黄金の魔女のものよ。私以外の誰にも触れる資格はない。くすくすくす、あっははははははははははははははは…!!」
【秀吉】「……お前は何や。…昔聞かせてくれた、……少女時代の、魔女だった絵羽だとでも言うんか。」
【エヴァ】「そうよ。あなたの妻の右代宮絵羽の胸の中にずっと住んでいた、少女時代の私。…そして魔女なの。………絵羽は私を忘れることによって大人になったわ。だから魔法が使えない。」
【秀吉】「…誰だって子どもの頃には、無邪気だけれど残酷な妄想に頭を膨らませることはある。わしかて小さい頃、蟻を踏んで回ったり、トンボの羽を毟ったりして遊んだことがあるわ。………しかし、命の大切さを学んで、そんな残酷な幼年時代から卒業するんや。
 ……今のお前は、まさに幼年時代そのものやで! …絵羽が卒業したはずの人格なんや! それは絵羽やない。別の人間や!!」
【エヴァ】「そうよ。私、右代宮絵羽じゃない。黄金の魔女、ベアトリーチェだもの。楽しいわよ、何の制約もしがらみもなく、生き死にを自由にできるこの悦楽は本当に素敵…! 割った金魚鉢を謝らなくていい、そして好きなだけぬいぐるみを裂いていい! 私は、」
 乾いた音。…それは秀吉が魔女の頬を打った音だった。
 この真っ赤に返り血で染まった鮮血のホールを見れば、魔女の恐ろしさは想像がついたはずだ。でも秀吉は恐れず、躊躇もせず、つかつかと早足に歩み寄って、その頬を打ったのだ。
【エヴァ】「…………………っ。」
【秀吉】「アホぅ!! 残酷ぶるなや、ほんまは臆病者の弱虫のくせにッ! わしがまた更正させたるわ、この性悪が!! このアホ! アホッ!!」
【エヴァ】「痛、……痛い、…ちょっと…!」
【秀吉】「命の大切さとか、儚さとか、そういうのがわかる女やったろが! わしが思い出させたる…!! 何が魔女や、アホぬかせ!! お前はわしの女房の右代宮絵羽や! 冷蔵庫の残り物でチョイチョイと、気の利いたつまみを作れる台所の魔女が関の山や!! 目を覚まさんかい、このアホンダラが…ッ!!」
【エヴァ】「だから右代宮絵羽じゃないって、…言ってるでしょうが……!」
【秀吉】「アホぬかせ!! この! このっ!!」
 秀吉は涙をぼろぼろと零しながら魔女の頭を叩き続ける。
 銃など、もう突きつけてもいなかった。だから。その銃声は秀吉の持つ銃のわけもない。
 ……留弗夫の遺体の脇に落ちていた銃が宙に浮いていて、…その銃口から紫煙をたなびかせている。
 銃弾は? ………秀吉のベストの胸部が、じわりと赤い染みを広げる。銃口に対し背を向けていたのに、…銃弾は秀吉の胸部に打ち込まれていた。
【秀吉】「………絵、…羽…………。…………ぅぅ…。」
【エヴァ】「…だから私は絵羽じゃないと言ってるのに。馬鹿でウザイ男ね。……あんたしつこいから、第六の晩の生贄に変更してあげるわ。…どこかのベッドの下に隠れて震えてでもいたなら、見逃してやるつもりだったのに。……わざわざ戻ってきて。本当に馬鹿な男だわ。」
 どすんと…。秀吉が床に倒れる鈍い音がした。
 死ねばその苦痛から逃れられるのに、最後の一秒までそれを拒み、魔女の目をじっと見つめ、…息絶えた。目を閉じずに死んだ為、しばらくの間、魔女は絶命したことに気付けずにいて、その眼差しに射抜かれたままでいるのだった。
【410】「こいつも新しい玩具にして遊びます? にひ。」
 その言葉で、ようやく魔女は秀吉が死んでいることを察する。
【エヴァ】「………ん、…あぁ。…そうね、どうしようかしら。」
 シエスタの姉妹たちが指示を待つ。内心は、主のより残忍な命令を想像していた。しかし魔女は興が醒めたというような表情を浮かべる。見下ろす秀吉の死に顔は、涙にまだ濡れていた…。
【エヴァ】「……この男のせいですっかり興醒めだわ。もう止ぁめた。………ロノウェ、いる?」
【ロノウェ】「はい、ここに。」
【エヴァ】「後片付けをお願い。…先代さまもうるさいしね。あのババアが納得する程度に綺麗にしておいてちょうだい。……一応、先代さまへの義理で儀式のルールには従うわ。この3人の死体を第四の晩から第六の晩ってことでお願いね。ルシファー、出番よ。」
【ルシファー】「傲慢のルシファー、ここに。」
【エヴァ】「その3人の死体、ほじくって抉っといて。」
【ルシファー】「し、…死体をですか。」
【エヴァ】「そうよ。何か不満?」
【ルシファー】「い、…いえ…。」
 煉獄の七姉妹にはささやかなプライドがある。それは、自らの仕留めた獲物を抉るという、狩猟者としてのプライドだった。…しかし、他者が仕留めた死体を抉れというのはそれに反する。もちろん魔女にその意図はなかったが、七姉妹たちにとっては酷く屈辱的なことだった。
 …しかし、姉妹の2人が敗れるという失態をすでに犯しており、それを言い返す資格はなかった。ロノウェだけがそれを汲み取り、察するように肩に手を載せる。
【ロノウェ】「……ベアトリーチェさまのご命令ですよ。ルシファーは3人を選び、儀式の作法に従い処理をするように。あと、できましたら私のお片付けにも手を貸してください。」
【ルシファー】「畏まりました……。」
 魔女は、何となく微妙になった空気は、全て秀吉のせいだとでも言いたげにその死体を見下ろす。
【エヴァ】「………馬鹿な男ね。死なずに済んだのに。」
絵羽たちの客室
【絵羽】「あなた……ッ!!! あああぁあああぁああぁあぁ!! あなた、どこ?! いるわよね? 返事をしてッ!!」
 大きな落雷の音が、絵羽の悪夢を覚ます。もしもその時、秀吉が手を握っていてくれたなら、彼女の怯えた心は直ちに癒されただろう。しかし、片時も離れないと誓ってくれたはずの秀吉の姿は室内になかった。
【絵羽】「あなた、…返事をして…、………あなた…!! ううぅうううううぅう!!」
 屋敷に入ってすぐ、留弗夫と霧江は、絵羽のアリバイについて秀吉を問い詰める。
 秀吉は、絵羽を守るために殺人を決意。まず留弗夫の額を撃って殺害。霧江は咄嗟に距離を取るが、腹を撃たれる。即死ではなかったので、留弗夫の銃で秀吉の胸を撃って殺害。3人相討ちとなる。
 陰からその様子を見ていた絵羽は、3人が撃たれた箇所が碑文と一致していることに気付き、それぞれ悪魔の杭を打ち込むことで魔女の仕業に偽装する。

魔女の定義
10月5日(日)13時30分

ゲストハウス・玄関
 …留弗夫たちがゲストハウスを出てから、すでに30分は経過していた。いくらなんでも、戻りが遅すぎる。…玄関で待ち続ける蔵臼と夏妃の焦燥も限界に来ていた。
 扉にはチェーンが掛けてある。それは、留弗夫たちが万一襲われ、マスターキーを奪われた場合に備えたものだ。その為、彼らの帰りをこうして玄関で待つ必要があった…。
【夏妃】「……さすがに遅すぎます。彼らの身に何かあったのでは…。」
【蔵臼】「……………うむ…。」
 蔵臼は時計と扉を見比べながら、冷静さを装うことに徹していた。
【夏妃】「もし、…彼らが戻らないようなことがあるならば……。」
【蔵臼】「…辛い想像だが、その覚悟を始めた方が良さそうだ。……やはり、無用心だったのだ。」
【夏妃】「わ、私はそうだと申し上げました…! なぜ彼らはこれほどの危険を承知で外に…! 愚かなことです! 楼座さんが襲われたばかりだというのに、なぜに外へ…!!」
【蔵臼】「………それを言っても始まらん。…とにかく、これでゲストハウスに大人は3人。私と夏妃、……そして高熱で寝込んでいる絵羽だけだ。」
 その時、廊下から勢い良く開く扉の音と、絵羽の金切り声が聞こえてきた。…その声は秀吉の名を呼び続けている。……高熱にうなされた彼女が、何か悪い夢でも見て夫の名を呼んでいるように見えた。
【夏妃】「絵羽さん…、どうしましたか、大丈夫ですか…?」
【絵羽】「う、…うちの人はどこ?! うちの人がいないのッ!! ずっと一緒にいるって約束してくれたのに! ずっと手を握ってくれてるって約束したのにッ!!」
 …蔵臼の前で絶対に見せることのないその姿に、蔵臼は呆然としたが、夏妃はその気持ちを理解した。
【夏妃】「……お、落ち着いて…。秀吉さんは留弗夫さんたちと一緒に、今、表へ出ています。」
【絵羽】「表へッ?!?! どど、どうしてよ、私とずっと一緒にいてくれるって約束したのに、どうして表になんか行ってるの?! 表へ出ては駄目、表には魔女がいるわ、行っては駄目、殺されてしまうッ!! わあああああぁあああぁあぁ…!!」
【蔵臼】「…絵羽、落ち着きなさい。……秀吉さんは、留弗夫たちと一緒に屋敷へ戻っているのだ。」
【絵羽】「どうして屋敷に行かなくちゃいけないのよ!! ここなら安全なのに、どうして表になんか出したのよ!! どうして屋敷なんかに戻ったのよッ!!」
【蔵臼】「………………。……明日までの食料を取りに行くことになったのだ。…秀吉さんは、お前の体調が悪いことを気にしてて、その為にもと言って…。」
【絵羽】「いつ戻ってくるの?! いつ戻ってくるのよ?! 表は駄目よ、薔薇庭園は駄目、屋敷は駄目!! 魔女がいる、黄金の魔女が歩き回ってる! 見つかったら殺されてしまう、絶対に殺されてしまうッ!! うちの人はいつ戻ってくるのッ?!」
【夏妃】「………30分前にここを出ました。私たちは帰りを待っています。」
【絵羽】「さ、30分ッ?! そんなのおかしいじゃないッ、屋敷に行って食料を取って帰ってくるのに、どうしてそんなに時間が掛かるのよ?! それであんたたちは何でここでぼんやりしてるのよ?! 迎えに行かなきゃ!! 早くあの人のところへ行かなきゃッ!! ひぃいいいいぃいいいいいいぃ!!」
 絵羽は余程の悪夢を見たのだろう。…そして目が覚めてもまだそれが続いていることに、とうとう錯乱を隠せなくなってしまう。夏妃は落ち着かせようと試みるが、むしろ絵羽の感情をますますに弾けさせるだけだった。
 ……その騒ぎが聞こえたのだろうか。ロビーの扉が細く開き、2階に行っているはずの戦人たちが顔を覗かせる。
 蔵臼、夏妃、絵羽。そして戦人、譲治、朱志香、南條。…ゲストハウスの全ての人間が、玄関に集い、現状を把握した。
【譲治】「母さんの意見に同感だよ。父さんたちの様子を確かめに行くべきだ。」
【戦人】「あぁ、そうだな。荷物が大きくなって手間取ってる可能性だってあるぜ。人手は歓迎のはずさ。」
【南條】「……ろ、楼座さんが襲われてすぐですぞ。…二次遭難の可能性もあります。ここはひとつ慎重に…、」
【絵羽】「馬鹿を言わないでッ!! 慎重に何よ?! 助けを求めてるかもしれない主人を見殺しにしろと言うのッ?! 私が様子を見に行くわ、臆病者はここで待っていなさい!!」
 絵羽は興奮した様子で、銃を構える。その形相を見る限り、もはや誰が引き止めても無駄だろう。…それを最初に察した譲治が顔を上げる。
【譲治】「僕も行こう。戦人くんも来るだろう? 人数が多い方がいい…!」
【戦人】「お、おう!! 絵羽伯母さん、来るなって言ったって付いてくぜ。」
【朱志香】「…わ、私も行くよ…! 私だけ安全なところに隠れてなんかいられないぜ…!」
【夏妃】「朱志香は出てはなりません!! ここに私と居るのです。良いですね?!」
 それは暗に、彼らはどうせもう殺されているから、表に出るのは無意味だと言っているようなもの。絵羽の心を大きく抉ったことを夏妃も察するが、朱志香の母としてその言葉を強く言い切った。
【絵羽】「………………そうね。それがいいでしょうね。兄さんたち一家はゲストハウスで留守番してて。これはうちの家族と、戦人くんの家族の問題よ。あと南條先生も来てもらえるかしら。万が一のこともあるかもしれないから。」
玄関ホール
【ワルギリア】「………戦人、絵羽、譲治、南條の4人は屋敷のホールにて、留弗夫、霧江、秀吉の3人の遺体を発見。」
【戦人】「………第四から第六の晩ってことか? なら死体には、額、胸、腹にそれぞれ、例の悪魔の杭が?」
【ワルギリア】「はい。……留弗夫の額に一本。秀吉の胸に一本。そして霧江の腹部に一本、悪魔の杭が打ち込まれています。
 3人には争ったか、あるいは逃げ回るかしたと思われる着衣の乱れがあります。3人の遺体は寄り添ってはおらず、犯人と遭遇後、ある程度の抵抗を試みたと推定されます。」
【戦人】「………杭で、額と胸と、腹をとか。……相変わらず、惨ぇ…。」
魔女の喫茶室
【ロノウェ】「……………………………。」
 ロノウェは蛇足と知りつつ、戦人に伝えるべきかと思った。
 …本当は魔女は、彼らをもっともっと惨たらしく殺したのだ。……ベアトがそれを控えるようにと魔女に進言したから、この程度の死体で済む。あの新しき残忍な魔女は、杭で抉るというのさえ合っていればいいのだろうと、……ニンゲンの形さえ留めない肉塊に杭を立てることさえやったかもしれない。
 特に楼座と真里亞の死体が顕著だろう。…黄金の魔女が望んだ通りに殺したならば、どれほどに死体は凄惨な姿を曝したことか。それをベアトが戦人の言うところの“まだマシな”殺し方に改めた。
 そのベアトのささやかな気遣いを評価してもらいたくて、戦人にそれを伝えようかとも思った。…しかし、そんなのは戦人にとっては五十歩百歩でしかないだろう。人間にとっては、生か死かの隔たりはあまりにも大きい。
 マシな死に方に改めたから、お嬢様の気持ちを汲み取ってほしいなど、悪魔には酌量の余地があっても、……ニンゲンにはその余地など、あるわけもない。そこまでを理解し、ベアトのささやかな努力を知りつつ、敢えてロノウェは沈黙する…。
【戦人】「いつも通り、死体の死亡確認からさせてもらうぜ。……ロノウェ、赤で宣言を頼む。」
【ロノウェ】「………………………………。」
【戦人】「おい、聞こえないのか? …赤で宣言を頼む。復唱要求だ。“留弗夫、霧江、秀吉の3名は死亡している”。」
【ロノウェ】「……………申し訳ございません。復唱を、拒否させていただきます。」
【戦人】「何だと…? いきなり、どういうつもりだ…。」
 もはや、犠牲者の死亡を赤き真実で宣言するのは、彼らの戦いの前提でさえある。それを拒否するというのは、まるで不戦敗にも近い行為だ。…だから戦人はこの初手からのロノウェの拒否に、少し唖然とする。
【ロノウェ】「申し訳ございません。私めの、お嬢様の代行者である資格を、これを以って返上させていただきます。…よって、“私には”、それを赤で復唱することができません。……それを復唱する資格があるのは、…お嬢様ただ一人だけでございます。」
【戦人】「……………………。」
【ワルギリア】「…正しい言い分です。ロノウェはベアト側の代行者でしかありません。……ロノウェが代行の役を降り、かつ戦人くんがベアトを相手として認めないならば。…新しい代行者を立てる必要があります。」
【ロノウェ】「……新しき代行者はおりません。……どうか戦人さま。お嬢様を再び対局の相手とお認め下さい。」
【戦人】「…………悪ぃが。そいつは聞けねぇ相談だぜ。……あの不愉快な残酷野郎を、俺は絶対に対局者だなどと認めない。…それを認めないために、俺はこのゲームを降りないんだ。」
【ロノウェ】「不愉快な点につきましてはお嬢様に代わりまして謝罪します。また、お嬢様には二度と不愉快な言動を取らぬよう誓約させます。」
【戦人】「…………………………。……どうだかな。」
【ワルギリア】「…戦人くん。…あの子の師匠として私も謝罪します。よく言って聞かせますので、どうか一度だけ許してやってはくれませんか。」
【戦人】「……おいおい、よしてくれよ。まるで俺が悪者みてぇだぜ。…それにあんたらにいくら謝罪の言葉を聞かされても、俺の耳には届かない。……そいつを、ベアトが自分の口で言えるってんなら。…………まぁ、耳を貸さねぇこともないぜ。」
【ワルギリア】「…………わかりました。それがあの子を再び認めてもらう唯一の条件ならば、あの子に謝罪をさせましょう。………ロノウェ。あの子を呼びなさい。よろしいですね、戦人くん…?」
【戦人】「……………ちぇ。…好きにしろよ。だが、俺が許すと期待するな。……呼べよ、あのムカつく魔女を。」
【ロノウェ】「…ありがとうございます、戦人さま。………ただいま、お呼び致します。……お嬢様、戦人さまがお呼びでございます。」
 数心拍を置いてから、虚空に黄金の蝶が群れ集まり、ベアトの姿を形作る。…それまでの彼女の登場に比べると、幾分、大人しげなものだった。
【ベアト】「…………呼んだか、ロノウェ。」
【ワルギリア】「…話は聞いていたはずですよ。……あなたの口から、何か言うことはありますか…?」
【戦人】「………………………………。」
【ベアト】「…………………………。」
 戦人の冷たい目つきに、あのベアトが少しだけ萎縮しているように見えた。
 ベアトは何度か言葉を口から発そうと努力したが、それはなかなか叶わず、……まるで凍てつく冬に、凍えた指でマッチを擦るかのような不器用さがあった…。
 そうしている間にもゲーム盤は進行する…。ホールでは、発見された新しい犠牲者の遺体に、彼らが泣き崩れているところだった…。
玄関ホール
【戦人】「……親父、……霧江さん…、…うぉおおおおぉおおぉ…、うおおおぉおおおぉぉぉ…。」
【絵羽】「あなた、…あなたぁぁ…、うううううぅううううぅぅうぅぅぅ…!!」
【譲治】「…母さん、……しっかりして……。……僕だって、……悔しい、……悲しい……!!」
【南條】「……………………恐らく、即死だったでしょう。…例え、彼らが倒れた直後に我々がここに訪れたとしてもきっと、手遅れだったに違いありません…。」
【絵羽】「いいえ、違うわッ!! きっと生きてたわよ!! 胸にこんなものを刺されて…! うちの人はもがき苦しみながら死んでいったに違いないのよ…!! もっと早く来ていれば、…きっと助かった! きっと助かったのよッ!! ううううわぁああぁああぁぁぁぁ…。」
【譲治】「……戦人くんも…、辛いだろうけど、………しっかり……。」
【戦人】「……………大丈夫だよ、…大丈夫だぜ、兄貴…。…もうちょっとだけ泣かせてくれ…。……俺が一番マシなんだ…。俺が一番悲しくないはずなんだ…! だからもうちょっとだけ泣いたら、……大丈夫だから…。」
【譲治】「そんなことないよ…。……両親を失った心の痛みはよくわかる…。…僕には母さんがまだいる。…戦人くんよりはるかにマシだ…。」
【戦人】「いいや、違うぜッ!! 譲治の兄貴が一番辛いはずなんだ…。……わかってんだよ兄貴…。…譲治の兄貴が、…俺たちの中で一番悲しくて辛いんだッ!! 俺はそれをわかってる…、だからこれ以上、めそめそなんて泣いちゃいけねぇんだ…!! ううううぅうううぅ!!」
【譲治】「……どうして、……僕の方が辛いなんて……。」
【戦人】「俺にとっちゃ親父も霧江さんも、……成人して独り立ちしたら、いつかは別れる人間さ。親である以上、子どもより先に死ぬのは宿命だ。…それが少し早くなっちまっただけの話だぜ…!
 ………だが兄貴は違うぜ。いつか別れる親だけじゃない。………これからの人生をずっと一緒に生きていくはずの、…………紗音ちゃんまで失ったんじゃないかよ…!!」
【譲治】「…………………………………。」
【戦人】「人の命に重さなんかねぇさ。赤ん坊の命だって年寄りの命だって、同じくらいに尊いだろうよ…! ……だがよ、それからの人生が長ければ長いほど。…一緒に築いてく未来が長ければ長いほど、…………その死ってのは悲しいものなんじゃねぇのかよ……!!
 兄貴は紗音ちゃんと婚約したんだろ? これからの人生と家庭を、一緒に築いていこうって約束したんだろ?! ………その未来のデカさが、…幸せのデカさがよ、……俺の痛みなんかとは比べ物にならねぇ…ッ!!
 ………だから兄貴はもっともっと泣いても許されるはずなんだ…!! なのに、…俺たちいとこの兄貴格だからって、………無理に冷静を装って……!!」
【譲治】「………………やめてよ、…戦人くん。」
 譲治は落ち着いた笑顔を浮かべているつもりだった。……しかし、もう、………熱い雫が一筋、尾を引くのを止められなくて。
【譲治】「……悲しくないわけが、………ないじゃないか…。………僕は紗音と一緒に、たくさんの未来を思い描き合ったさ。きっと百年の人生では叶え切れないくらいの夢を語り合ったさ。……その夢の、一番最初の、…………籍を入れることさえ叶えられなくて、………悲しくないわけが、…………ないじゃないか………。」
【戦人】「それに比べたら俺なんか、……俺なんか…ッ!! だから俺にはこれ以上、泣く資格なんかねぇんだ! 兄貴だって堪えてるのに、俺にこれ以上の涙を流す資格なんてッ!!」
【譲治】「……同じだよ。…親しい人を失えば悲しいのは僕も戦人くんも同じだよ。………だから戦人くんが僕より涙を流してはいけないなんてルールはない。
 ………そして。……僕だって、…もうこれ以上、涙を堪えなければならないなんてルールも、…ないんだもんね。」
【戦人】「…兄貴、……兄貴ぃ…!!! うおおおおおぉおおおおおぉおぉ!!」
【譲治】「未来を語りあった紗音が死んだ。父さんも死んだ。………悲しいなぁ、……悲しいなぁ…。……ううううぅうううううううぅううう!!」
 戦人と譲治は固く抱き合いながら、互いの肩越しに、それぞれの大切な人への涙を滝のように零した…。
【戦人】「…………どうして俺が、譲治の兄貴が一番辛いって言ったか、わかるか…?」
【ベアト】「き、……聞いていたからわかる。……その後の人生を共にする時間の長さに悲しみは比例するとな…。」
【戦人】「……もちろん、それだけじゃ量れねぇけどな。………俺たちニンゲンは、お前ら魔女とは違う。……生きてから死ぬまでという、有限の時間を、その力の限り生きている。
 ………それを蔑ろにするヤツは許せない。……増してや、嘲笑い弄ぶようなヤツは、絶対に許せない。…お前のような、死の概念も滅茶苦茶なヤツには理解もできねぇだろうがよ。」
【ベアト】「…………………………………。」
【戦人】「……これから生きる時間の長さだけじゃない。……一生懸命に生きているヤツの人生を嘲笑うこと。これが一番、…俺には許せねぇんだ。
 譲治の兄貴は、がむしゃらに頑張って人生を生きてた。…紗音ちゃんと結婚するために、悲壮な覚悟をしてこの日に臨んでいたはずなんだ。……俺みたいに、久しぶりにいとこと会えるなんて浮かれてたヤツとは訳が違う。」
【ベアト】「…し、………しかしだな…、」
【ワルギリア】「ベアト。今は黙って聞きなさい。」
【ベアト】「…………う、…うむ。」
【戦人】「………お前の言い分にも、一定の理解はする。…お前には、自分の復活の為に、おかしな碑文に沿った殺人を続ける必要があるってんだろ。
 ……だから、その範囲内でのお前の殺人は、……お前の立場の事情を汲み取る限り、ぎりぎりの理解は出来る。……それがお前にとっては必要な行為だからだ。……なら、それ以上の不要な行為は全て、お前の無意味な残酷趣味ということになる。
 ……つまり、第一の晩に6人を殺すことまでがお前にとっての“必要な行為”ならば、…顔を砕くとか、腹を割いてお菓子を詰め込むなんて真似は全て、まったく不必要な、お前の残酷趣味だってことになる。………俺はお前のこの点について、断じて許すことができないんだ。」
魔女の喫茶室
【ベアト】「……………………う、…む……。」
【戦人】「お前は楼座叔母さんがひどい殺され方を繰り返された時。……結局は最後には生き返らせるのだから、どう殺したっていいじゃないか、…みたいなことを言ったそうだな。ワルギリアに聞いてるぜ。」
【ベアト】「………それは、……まぁ、…その………、」
【戦人】「最後には生き返るなら何度殺してもいいという考えは、命を弄ぶだけのまったく不必要な行為ではないのか。
 ………殺すなら一思いに殺せ! 弄ぶな!! 殺さないなら甚振るな!! お前は人の命を自在に操れるのをいいことに、命の尊厳を忘れてしまった。だから俺は認められないんだ…! 命の重みを、そして失った時の悲しみを知らないヤツを、俺は対戦相手だと断じて認められないッ!」
【ワルギリア】「……………無限の魔法が邪法と言われる所以です。…無限の魔女に有限の概念はない。……壊す・殺すという、有限と終焉の概念がないのです。
 …それゆえに、無限の魔女は時に、生と死の狭間をゴム跳びで遊ぶかのように、その行き来を遊びだすようになります。………それはとてもとても恐ろしいことです。だから私は無限の魔女として自ら望み、あなたの域まで達しなかったのです。」
 ワルギリアはそれをベアトにずっと伝えてきたつもりだった。しかし、それに大人しく耳を傾けるには、ベアトは若すぎた。奔放すぎた。…その、忌むべき快楽に取り付かれてしまった。
【ベアト】「……壷を割ってはならぬと言われてきた。……でも、だからこそいつか割ってみたいと思っていた。………そして無限の魔法を得て。…いくら壊しても好きなだけ元に直せると知った時。……妾は壷を壊すことがこれほどまでに楽しかったのかと驚いたものだ…。」
【ワルギリア】「それを禁忌の蜜と呼びます。人はその中身に惹かれるのではない。それを封ずる錠前に惹かれるのです。………実に嘆かわしいことです。」
【戦人】「………ワルギリアに聞きたい。無限の魔法なんてものが、どうしてあるんだ。…それは何の為にこの世にあるんだ。」
【ワルギリア】「無限の魔法に限らず。…魔法は全て、人の世に幸福をもたらすために存在するのです。……今更戦人くんには信じ難いでしょうが、……私たち魔女は、人の世に恵みを与えるために、人と人ならざる者たちとの架け橋になるべく、修行を重ねているのです。」
【戦人】「……死者を繰り返し蘇らし、何度も虐め殺すことで、どう人の世に役立つってんだ。」
【ワルギリア】「大切な形見の壷が割れてしまった時。それを直すことで、誰もが笑顔を取り戻すならば、私は何度でも魔法にて直すでしょう。しかしそれは、壊すために直すのではありません。……人に幸福を与えるために、蘇らすのです。」
【戦人】「だとしたら。…………ベアト。お前は無限の魔女、失格だな。」
【ベアト】「…………………………う、……む…。」
【戦人】「……今、俺は漠然と思ったことがある。………どうして俺がお前と、こんなおかしなゲームを延々と続けてるのかだ。
 ……これは俺を屈服させるためのゲームじゃない。……お前が、本当の意味で、無限の魔女に認められるための試験ではないのか、ってな。」
【ベアト】「…し、………知らぬわ。…妾がそなたにゲームを申し込んでいるのはその、……単なる暇潰しだ…。誰の思惑でもないわ。」
【戦人】「俺は今、ワルギリアから魔女の定義を聞いた。それによるならばベアト。お前は魔女ですらない。その修行の途中で、自らの力を誤解した見習いってことになる。
 ……これは魔女と人間の戦いのはず。ならば魔女でないお前に、俺の相手としての資格はない。………わかるな?」
【ベアト】「……妾がまだ、…………見習い風情だと、……申すか……。ならば、妾はいつ、そなたの対戦相手だと再び認められるのか。……いつ、このゲームを再開できるというのか。」
【戦人】「………………さぁな。…それは少なくとも、今じゃない。……お前が俺の言った話をちゃんと理解出来て、本当の魔女になった時。…俺はお前を再び、ゲームの対戦相手だと認めるだろうよ。」
【ベアト】「そ、そのような抽象的な言い方ではわからぬ…。どうすればお前の許しを乞えるのか、はっきりと聞かせよ…。」
【戦人】「いいや、これで十分だ。あとはお前が考えろ。………俺が言いたいのは以上だ。…理解ができないなら、ワルギリアやロノウェに相談してみろ。…お前みたいなガキンチョは、まず大人の言葉に耳を傾けるところから始めやがれ。
 ………ワルギリア。ゲームは一度中断する。ロノウェが代行を降りた以上、あとはベアトが対局者として相応しい資格を持つのを待つしかない。」
【ワルギリア】「……了解しました。……ベアトが、その資格を得たと認められるまで、ゲームを対局者不在のまま進行させます。ベアトもそれでよろしいですね?」
【ベアト】「…い、……異論はない。………妾は時間と、ゆっくり考えられる場所が欲しい。…これにて席を外しても良いか。」
【戦人】「………あぁ、いいぜ。」
【ベアト】「…それでは、また、な。」
【戦人】「待てよ。……そうショボくれた顔をすんな。」
【ベアト】「……………………それは済まぬな。妾は胸の内が全て顔に出る性分。偽れぬ。」
【戦人】「なら、まだ更正の余地はあるってことだぜ。………ひとつだけ約束する。俺はお前とのゲームに、勝つかもしれないし負けるかもしれない。…お前が戻って来なけりゃ不戦勝ってこともあるだろうよ。」
 そこで戦人は一度言葉を切る。…そして、力強く言った。
【戦人】「………しかし、絶対に俺からは降りない。お前を不戦勝にだけは、絶対にしない。……お前が再び、俺の好敵手としてそこに座るのを、俺はずっとここで待っているぞ。」
【ロノウェ】「……戦人さま…。」
【ベアト】「……………ありがとうな。戦人。…妾はきっと、そなたに認められて戻ってくるぞ。」
 ほんの少しだけ望みのある笑顔を見せ、ベアトは姿を消す。…その表情を見て、彼女は自らの表情にウソをつけぬことを、戦人は固く信じるのだった…。
ゲストハウス・ロビー
 7人の生存者たちは、再びゲストハウスに戻る。表へ出た者が生きては帰れないことは、今や明白だった。
 留弗夫たちは2丁の銃と1つのマスターキーを持って出掛けた。しかしそれらは紛失していた。犯人にこれらが奪われたことは、もはや明白だった。
 窓は鎧戸で閉ざしている為、例えマスターキーがあったとしても開けはしない。玄関や勝手口などの外へ通じる扉は全てチェーンで閉ざし、さらにはソファーやテーブルなどの什器で塞ぐ。万が一、乱暴な方法で突破しようとしても、簡単には行くまい。
【蔵臼】「……台風が、今となってはむしろ幸いかもしれんな。もしも晴れていたなら、ゲストハウスに放火するという手もありえたかもしれん。」
【絵羽】「そもそも台風でなかったなら、午前中に船が来てたわ。それを不幸中の幸いと言えるかは微妙ね。」
【夏妃】「……絵羽さん、体の具合はいかがですか? 無理をされないようにしてください。」
【絵羽】「ありがとう。…熱はまだ感じるけど、そんなことを言ってる場合じゃないわ。……子どもの為にも、今は寝込んでる場合じゃない。」
 あれほどに秀吉の遺体の前で涙を流した絵羽は、今では母の強い自覚を持ち、強い意志を感じさせる表情を浮かべていた。
 …実際には、彼女の熱はまだ引いてはいない。それは彼女も自覚している。自らを奮い立たせなければ、熱で再び朦朧としてくるのを感じていた。
 1階はもはや、蔵臼と夏妃と絵羽による最終防衛線だった。子どもたちと客人の南條には、迂闊に1階に降りてきてはいけないと強く言ってある。
 梯子などを用いれば、2階から襲うことは不可能ではないだろう。しかし、厳重な鎧戸をその不安定な足場から打ち破ることは、容易なことではない。2階は1階に比べて安全なのだ。
 戦人や譲治は、自分たちも1階にいて、万一の際には戦いたいと希望したが、絵羽が一蹴した。
 彼女にとって、譲治はもはや唯一の家族。1階に下りるという危険さえ冒させたくないらしい。その気持ちは、蔵臼夫妻にとっても理解できるものだった。
ゲストハウス・いとこ部屋
 ……そして、その篭城から、短くない時間が経過した。2階のいとこ部屋では、戦人と譲治と朱志香の3人が、付けっ放したテレビに耳も傾けず、ぼんやりと放心していた。
 しばらくの間、南條も一緒にいてくれて、彼らを励ますような言葉を掛けてくれたのだが、それはむしろ逆効果かもしれないと気付き、同じ2階の自室に姿を消していた。
 譲治は手帳に挟んでいた写真を、ずっとぼんやりと見続けている。……それは以前、紗音と一緒に行った、沖縄旅行の時のもの。紗音の楽しそうな笑顔が写真に収められている。
 ……譲治には、それらの写真を撮った時の、気温や湿度、風の温かさや強さ、そしてどんな会話を彼女としていたかさえ、昨日のことのようにはっきりと思い出せた。だからそれは、単なる写真ではなく、譲治にとって、温かな記憶を蘇らせるための入り口でもある…。
 譲治は確かに今、この部屋で台風の音とテレビの音を耳にしているはずなのに、……彼女と過ごした沖縄の風景と彼女の笑い声を、目にし耳にしている…。
 譲治は、紗音と出会ったことで、生まれ変わろうと決意した。
 雰囲気に押し流されやすくて、頼まれると断れず、都合よく周りに使われてしまう気弱な自分と決別しようと誓った。……彼女の人生を、より幸福にするために、強い男になろうと決心したのだ。
 だから。…もしも紗音との出会いがなかったなら、……右代宮譲治という男は、もっと別の、異なった人生を送っていただろう。そしてその人生における彼は、今の彼ほど立派な男ではなかったに違いない。
 紗音のために、今の自分がいるのに。……なのに、その紗音がいなくなったなら、…自分はなぜいるのか。何の意味もないのではないか。…自分自身が空虚になってしまうような、深い深い悲しみ。
 その気持ちは、ずっと彼を苛んでいたはずだ。 ……しかし、戦人にさっき言われるまで、自覚できずにいた。……自分は、もっともっと泣いても良かったんだって、…やっと思い出せたのだ。
 だから泣いた。彼がそうするように、自分も枯れるまで涙を流した。……今はもう、目が真っ赤に腫れ上がり、それ以上の涙は零せない。だから譲治はがんばって思考を変えようと思った。
 今の自分は無意味なのではなく、…紗音にこんな自分を与えてくれたことに感謝しようと思った。
 死んだ命は蘇らない。最愛の人との別れを、彼は乗り越えなくてはならない。
 自分が紗音の後を追って自殺するようなことがあったなら、彼女はきっと深く落胆するだろう。……逆だって同じだ。自分が死に、それを追って紗音が自ら命を捨てるようなことがあったなら、自分で自分が許せなくなってしまう。
 ……だから彼は、悲しんだり、怒ったりする感情をはるかに超越して、………感謝することにしたのだ。紗音と出会え、豊かな日々を与えてくれて、…そして自分に、人のために努力することの意味を教えてくれた。
 その結果、自分の憧れた姿の自分を与えてくれた。…それに感謝しようと思った。そうすることで、悲しみを和らげようとしたのだ。でもその度に、彼女の笑顔が蘇ってしまう…。
 ………理屈ではわかってる。これ以上、悲しむことは、むしろ天国の彼女を悲しませてしまうだけだと理解しているのに、……悲しみを止められないのだ…。
【戦人】「何で、………人が死ぬってのはよ、……こんなに悲しいんだろうな…。」
 戦人がぽつりと呟く。…それは、全ての人間を代弁するかのようだった。それは誰に問い掛けたものでもなかったろうが、朱志香が答えた。
【朱志香】「……別れはどんな形でも、いつも悲しいさ。…でもそれが、例えば老いであるとか、何かの時間であるとか、…予め約束されていて、いつか訪れる別れであるとわかっているものは、…その悲しみを、長い時間を掛けて予め薄めておくことができる。……それを許されないから、…突然の不幸は、悲しいんだろうよ…。」
【戦人】「……………なるほどな。…そりゃ、病気にでも掛かって、病院で寝たきりになってりゃ、少しずつ心の整理もついてくだろうけど、…ある日突然じゃ、その暇もねぇもんな。」
【朱志香】「…本来なら、数年を掛けて薄めるべき悲しみが、一度に押し寄せる。………そりゃあ辛いわけさ。……時には、人の生涯に傷を残すほど、深い悲しみを与えることも、あるかもしれない…。」
【戦人】「……生涯に傷を残すほど、…か。」
【朱志香】「……祖父さまのオカルト趣味もさ。そう囁かれてたんだよな。……例のベアトリーチェって愛人を大昔に亡くして、それが悲しくて悲しくて立ち直れなくて。……それで死者を蘇らせるためのオカルトの研究に残りの人生を全て捧げるようになったのではないかって。……そう囁かれてた。」
【戦人】「だとしたら、祖父さまは最後の土壇場でその奇跡を成し遂げたな。……犯人は蘇ったベアトリーチェで、祖父さまは殺される瞬間に再会できたってことになるぜ。……自分で蘇らせて、それに殺されるとは皮肉な話さ。」
【譲治】「…………それでも、お祖父さまは、会えたんだろうね。…人生の半分を賭して、もう一度会いたいと願った女性に、わずかなひと時とはいえ、再会できたんだろうね。」
【戦人】「…丸焼きにされちまったけどな。人生の半分を掛けた研究にしては、ちょいと割りの合わない成果だろうぜ。」
【譲治】「そんなことはないよ。………たとえほんのひと時であったとしても。……愛した女性に再会できたお祖父さまは幸せだったはずさ。
 ………仮に、生命の摂理に逆らった罪を神に咎められて、その身を焼かれ、地獄に落とされたとしても。…その見返りの再会が、ほんのわずかな時間だったとしても、ね…。」
【朱志香】「譲治兄さん……。」
【譲治】「……神の怒りに触れて、この身を焼かれようとも構わない。………わずかな時間でもいいから、……紗音を再び蘇らせてくれるなら。………………僕は残りの人生全てを、お祖父さまと同じ研究に捧げるよ。……5分でいいから、……紗音ともう一度言葉を交わしたい…。……1分でもいいから……。……それと引き換えに、…全ての人生を捧げても、……僕は構わない……!」
【戦人】「………兄貴……。」
 戦人と朱志香は、自分たちの下らない話が、譲治に辛い思いをさせてしまったことを悟り、口をつぐむ他なかった…。
 ……譲治は、金蔵の生涯に思いを馳せる。彼は誰の理解も得られない研究に半生を捧げた。……そして、その人生の最後の日に最愛の人を蘇らせ、……恐らく最後の瞬間に、再会を果たすことができただろう。
 どれだけの時間を共に過ごせたかはわからない。…1時間を許されたのか、…それともたったの5分だったのか、…わからない。しかし、……その瞬間に彼が研究に捧げた月日は、全て報われたはずだ。…数十年の月日を掛けて得た、そのわずかな時間で、十分に彼の心は報われたはずだ。
 僕は今日まで、オカルトも魔法も、何も信じなかった。お祖父さまの研究だって、…道楽だと心のどこかで馬鹿にしていた。しかし、……もう馬鹿にしない。…いや、それどころかその存在を強く信じる。
 …その信じる力が奇跡に通じるならば、僕は今日まで習ってきた全ての学問を投げ出し、今日より残り全ての人生を掛けて、魔法を学ぶだろう。
 ………僕に魔法の力を。…そして、紗音に再び出会える奇跡を…。
【譲治】「………………………………。……はは、…は。…ごめんよみんな。僕もどうかしてる。……魔法で死者が蘇るくらいだったら、……世界中の人々が魔法を学ぶだろうね。…でも、現実にはそんなことはない。誰も学ばない。………死者が魔法では蘇らないって、…知っているから。…………ごめんよ、妙なことを言い出して。僕のせいで、おかしな空気になっちゃったね。…みんなだって辛いだろうに、気を遣わせてごめん。」
 …悲しさを紛らわすためとは言え、おかしなことを言ってしまったかもしれない。僕がこれ以上おかしな話を続けることは、彼らの悲しみを癒すことに、きっとならないのだから…。でも、だからといって、…僕はこの沈黙には耐えられそうもない。
【譲治】「……僕は下に行って、もう一杯、コーヒーをもらってくる。……うちの母さん、コーヒーの淹れ方にはこだわりがあるんだよ。みんなもお代わりはいるかい?」
 戦人くんと朱志香ちゃんは、軽く首を横に振る。僕はそれ以上をしつこくせず、マグカップを持って部屋を出た。
 廊下の窓にまで全て鎧戸が下ろされている為、廊下はとても薄暗い。
 一応、南條先生の部屋も訪れ、コーヒーのお代わりはいるかと聞いたが、こちらもいらないと言われてしまった。……母さんの本格的な淹れ方のコーヒーは、どうも一般受けしないらしい。
 一度、紗音にその淹れ方で飲ませてあげたことがあったが、……おいしいけど、少し濃いですね。と言われたことがあったような…。
 …………紗音………。
 駄目だ…。……気分を変えるために部屋を出たのに、…僕の頭の中をいっぱいに満たす紗音の面影は、わずかほども薄れない…。彼女との楽しかった日々が、繰り返し鮮明になり、…………未だ、彼女の死に顔すら見させてもらえないことが、悲しかった。
 親たちの話によれば、銃か槍のようなもので殺されたらしいという。…もちろん慰めだろうが、……とても綺麗で安らかな死に顔だと言っていた。
 彼女はその指に、…僕が昨夜贈った、あの婚約指輪をしてくれているだろうか。……僕の婚約を受けてくれたなら、左手の薬指にしているはず…。
 昨夜は僕たちものぼせ上がっていて冷静じゃなかった。紗音は半ば勇ましく婚約を受けてはくれたけど、頭を冷やしたらそれが勇み足だったと後悔しているかもしれない。指輪を外しているかもしれない。
 ……彼女は今、指輪をしてくれているだろうか。……せめて、それだけでも確かめたい。紗音の最後の気持ちが、知りたい……。しかし、……それを確かめたからと言って、…彼女が蘇るわけでもない。
 ……………彼女の遺体は、どうなるのだろう。多分、検死などを経て、……迅速に火葬されるだろう。もう、彼女の顔を、…死に顔さえも、永遠に見ることができなくなるのだ…。
【譲治】「………………。………はは、…僕は、紗音を失ったショックで、……少しおかしくなってるのかな…。」
 紗音の遺体を、……焼かれたくない。焼かれれば灰になって、……彼女は二度と、蘇れない
 西洋の習慣では火葬は嫌われているという。……復活の日に、蘇るべき体がなくなってしまうからだ。だから、西洋の歴史的な大罪人は、多くの場合、懲罰的な意味で処刑後に火葬されて、川などに散骨されることが多いらしい…。
 つまり、西洋人にとって、死は復活までの間の眠りでしかない。死後にも体を残しておくことが重要なのだ。
【譲治】「つまりそれは、……西洋人は、……死者が蘇る奇跡の存在を、…知っていたからなんだ。………でも日本にはその奇跡がなかったから、焼いてしまうんだ。」
 今こそわかる。…なぜお祖父さまが西洋のオカルトに傾倒したのか。最初から全て、その為だけなのだ。…愛しい人を蘇らせるためだけに、…お祖父さまは生涯の残り全てを西洋オカルトの研究に費やした。
 ………今、僕たちを取り巻く状況は異常だ。お祖父さまは愛しいベアトリーチェを蘇らせた。…そして、そのベアトリーチェは恐ろしい連続殺人事件を、魔法でも使わなければ考えられない連鎖密室にて行なった。
 ……黄金の魔女、ベアトリーチェ。西洋オカルトの奇跡を具現した存在。………そして、紗音を殺した犯人でもある……。憎い存在のはずなのに、…………なのになぜか、彼女にすがりたい気持ちがある。
 お祖父さまが、生涯讃え続けたその奇跡の魔法で、…紗音を蘇らせてはくれないだろうか…。右代宮家の伝説によるならば、お祖父さまは昔、彼女に出会い、莫大な黄金を授けられたという。
 …ならば僕も彼女に出会い、……黄金ではなく、紗音の命を授けてはくれないだろうか。その見返りに、どのような悪魔の契約を課せられてもいい。その為に、残りの生涯の全てを奉げることになってもいい…。
 その譲治の、…声無き願いを、……彼のすぐ後で、…その当人の魔女が聞いていたなんて、彼には信じることも気付くこともできないだろう。
 ベアトリーチェは、譲治たちの話を、さっきのいとこ部屋からずっと聞いていたのだ。……戦人に、人の命の重みを知らないと言われ、……彼女なりにそれを理解したくて、こっそりとここへ訪れ、彼らの話に耳を傾けていたのだ。
【ベアト】「……………………。……それが、願いだというのか…? それを叶えれば、妾は魔女だと、認められるのか…?」
 ベアトは自分の両手の手の平を見る。
 …かつての迸るような魔力は、無限の魔女の名を新しき魔女に継承した時に、ほとんどを受け渡してしまった。もちろん、今だって魔女の名に相応しい魔力を持ってはいるが、…それはだいぶ見劣るものだった。
【ベアト】「……ふん。無限の魔法などなくとも、妾は千年に名を轟かす大魔女であるぞ。死者を蘇らすなど、造作もないことよ。」
 頭の中で、死者を蘇らすいくつかの魔法的手段を思案する。
 ……かつては容易に出来たはずの魔法も、今の魔力では難しくなっている。思いついては舌を打つ、を数度繰り返す。
 その末、……ようやく、ひとつの魔法を思いつく。しかしそれは、彼女ひとりでは使えない魔法。力の弱い魔女が使う、他者の助けを借りる魔法だ。
 …かつて、ベアトはそういう類の魔法を見下していた。なので、それ以外に可能な魔法はないのかと、必死に思案してみたのだが、………結局、思いつかず、肩を落として自嘲する。そして、……なるべく驚かさないように、そっと声を掛けた。譲治の心に、そっと…。
【ベアト】「………右代宮譲治よ。…妾の声が聞こえるか…?」
【譲治】「……聞こえるとも。……あなたは誰だい…? 本当に魔女のベアトリーチェ…? …それとも、僕の悲しみが生んだ幻想なのか…。
 ………もしも前者だったなら、僕の願いを聞いて欲しい。…そして後者なら、僕をそっとしておいてほしい…。」
 精神的な世界での会話は、夢の中でのそれによく似ている。現実に存在したら荒唐無稽なものでも、夢で見ている時には、さも当り前であるように受け入れているという経験はないだろうか?
 ……この世界での会話は、それに似る。だから、魔女が現れて譲治に話し掛けてきたとしても、彼はそれを驚きはしないのだ…。
【ベアト】「うむ。……妾が、黄金の魔女、ベアトリーチェである。………本来、妾とそなたはこうして会話を交わすことなど出来ぬ。…しかし、そなたが妾のことを強く意識し、会話を望むから、…こうして互いのチャンネルを合わせることができる。」
【譲治】「……………紗音を殺したのが、あなたなのか、あなたを名乗る何者かの仕業なのか、……僕はどうでもいい。……ただあなたが本当の魔女として存在しているならば。
 …………どんな対価にも応じる。…僕の命を望むなら、今すぐに奉げてもいい。……どうか紗音を、生き返らせて欲しい…。………それが無理ならせめて、わずかの間、話をさせてくれるだけでもいい……。……お願いだ………。」
【ベアト】「………対価は要らぬ。その願い、叶えて遣わそう。」
【譲治】「…本当に……? 本当に紗音を………?」
【ベアト】「うむ。……だが、反魂の魔法を扱うには、今の妾には魔力が足りぬ。…だから、そなたの手を借りねばならぬ。」
【譲治】「………僕に出来ることならどんなことでも。…それが、僕の心臓を今すぐこの場で取り出すことであったとしても、僕は躊躇しない…。」
【ベアト】「…そんなもの要らぬというのに。…………妾は魔法を唱える。さすれば冥府の扉に隙間が出来よう。
 …だが、今の妾にはその隙間より紗音の魂を連れ出せるほどの力はない。………しかし、紗音のことを強く想うそなたなら、その想いを魔力に変えて、彼女の魂を必ずや連れ戻せるだろう。
 ……どうだ。妾を手伝うか…?」
【譲治】「…手伝うとも。………紗音の命が蘇るなら、……僕は何を失うことも恐れない……!」
 譲治は静かに両の手を握り締め拳を振るわせた。
 …そして意識がゆっくりと覚醒する。彼は廊下の窓辺でマグカップを持ったまま、ずっと放心していたのだ…。
 すると……、…………その夢の中の魔女は、……まだ、そこにいた。
【譲治】「そ、……そんな、………ゆ、夢じゃ、……ない………。」
【ベアト】「……静かにせよ。今の妾はとても脆い。この上、さらに他のニンゲンまで現れたら姿を保ち切れぬ。…そなたの願いは叶えるから、今は沈黙せよ。…良いか?」
 譲治は自らの口を両手で押さえ、何度も力強く頷いた。その拍子に、手に持っていたマグカップを落としそうになる。譲治は慌ててそれをお手玉しながらキャッチする。
 …もし、それを床に落として大きな音を立てたなら、シャボン玉が弾けるように魔女の姿も消えてしまうかもしれないと恐れたのだ。
 床にそっとマグカップを置き、…正面の魔女をもう一度凝視する。………姿は消えない。夢ではないのだ……。
【ベアト】「さぁ、紗音が眠る客室へ行くぞ。そなたの想いの力にて、彼女の魂を連れ戻すのだ。」
 紗音は、屋敷からゲストハウスの南條の部屋に電話。指示を受けた南條は、紗音が実は生きていることを譲治に伝え、ゲストハウス脱出を手助けする。
 幻想描写が「紗音を蘇らせる」という内容になっているのは、生きていることを知らされたという現実を反映している。
【譲治】「い、行くって、どうやって…。下には母さんたちがいる。表へ出るのを許してくれるわけがない。……それに、あなたはさっき、他のニンゲンが現れたら姿を保てないと言わなかったかい?」
【ベアト】「……そう言えばそうだったな。下には蔵臼たちがおったか。…それでは確かに下へ降りられぬな。……ならば、1階へ降りずに、屋敷へ行けばいいではないか。簡単な話よ。」
 まるで、愉快な悪戯でも思いついたかのようにベアトは笑う。
 ……そして黄金の煙管で、鎧戸が閉ざす窓を軽く叩いた。すると、煙管から3匹の黄金の蝶が現れ、窓の鍵を、溶かすように開けてしまう。
 そして音もなく窓をすうっと開いた。その向こうの鎧戸もまったく同じ。留め金が、同じく音もなく外れて、すぅっと静かに開いた。
 窓が開き、風雨の屋外が晒される。…そこは向きや建物の構造上の関係なのか、風が吹き込まなかった。そのせいで譲治は、しばらくの間、外への入り口が開かれたことを夢か幻のように感じてしまい、実感することができなかった。
【ベアト】「さぁ、行くぞ。ついてまいれ。」
 ベアトはふわりと浮き上がる。それはまるで、ダイバーが水中散歩を楽しむような自然な仕草。
 ……彼女のように振舞ったなら、空中を、まるで水中のように泳ぎ、浮かぶことができるのではないかと信じてしまいそうだった。
 …いや、譲治は信じた。……だから思わず、彼女がそうしたように、自分も…、…ふわりと、……水の中を泳ぐように、足を……。
【譲治】「……ぁ、…………ああぁ………っ。」
【ベアト】「ほお。…やるではないか。妾が説明するよりも早く、空を舞うことを覚えたか。」
 譲治は自らが宙を、泳ぐように浮かべることに驚愕する。…もちろんベアトも、魔法に通じぬはずの譲治が、直感だけでそれを身につけたことに驚いていた。
【譲治】「………空が、……飛べるなんて、……泳げるなんて……。」
【ベアト】「…理屈を考えてはならぬ。それが自然なことであると受け入れよ。……ニュートンとかアインシュタインとか、ニンゲンたちの教義を思い出してはならぬぞ。
 特に、高き空を飛んでいる時はな。…墜落する未熟な魔女も時におる。」
【譲治】「…あ、…あるがままを、受け入れる…。あるがままを、受け入れる……。」
 譲治はその言葉を何度か繰り返した。……魔法を断じて否定してはならないのだ。
 それを否定することは、紗音を蘇らせる最初で最後かもしれないこのチャンスを、自ら捨てることと同じなのだから。
 しかし、煙のように優雅に漂うベアトのそれに比べると、譲治のそれは明らかに水中での動きに似ていた。…だから、足で水を蹴るような仕草を時折しないと、少しずつ重力に引かれてしまう。
【ベアト】「妾が初めて空を舞った時よりは、上出来であると褒めておこう。……行くぞ。ついてまいれ。」
 ベアトは譲治を誘うと、ふわりと風雨の空へ飛び立つ。
 ……それはまるで、おとぎ話の一幕のよう。その光景に、譲治は目の前の光景は全て夢の延長のように感じられた。
【譲治】「……空を飛べるのは、……すごいけど、……すごい風と雨だ…。」
【ベアト】「何だ、雨と風に苛まれるのか…? ……それを防ぐ魔法を教えても良いが、今のそなたには早いし、今はそれを習う時間を割くのも惜しかろう。」
【譲治】「……………………えぇ。…僕が必要としている魔法は、それじゃない。」
 譲治は風雨に負けず、強い意志を持った眼差しを見せた。
【ベアト】「見えてきたぞ、屋敷だ。…もう少し頑張れよ。今、落ちれば薔薇の茂みだぞ。」
 魔女と譲治の眼下には、風雨に波打つ薔薇庭園が広がっている。その幻想のような光景に、もはや譲治は驚かない。その目には、次第に近付きつつある屋敷だけが映っている。
【譲治】「紗音、………待ってて…。……必ず君を、蘇らせて見せる……!」
 その頃。……新しき残酷な魔女の姿は、それとは別の場所にあり、ゲストハウスを凝視していた。
【エヴァ】「……………後、残すは第七、第八の晩だけね。あと2人で、先代のババアの義理はおしまいだわ。………蔵臼と夏妃を殺す。夫婦仲良くね。」
【410】「にひ。標的はどうかにぇ?」
【45】「……ゲストハウス1階ロビーにて、標的2名と右代宮絵羽を補足。反魔法力測定。410へデータリンク。」
【410】「410データ受領。反魔法力は極めて小。絵羽さえ席を外せば、まな板の上のマグロにアワビです。にひひひひ…!」
【45】「いかがしますか、大ベアトリーチェ卿。ご命令を頂ければ、すぐにも狙撃いたします…! どうかご命令を…!」
【エヴァ】「…ほぉんとにあんたたちは便利な家具ね。死体をほじるしか能のない、中古家具どもとは大違いだわ。ねぇ?」
【ルシファー】「…………………………く…。」
【エヴァ】「シエスタ姉妹、またあなたたちの手際を見せて頂戴。…攻撃準備よ! くすくすくすくすくす! 死体はまた運び出してね。たっぷり遊んであげるんだから。文句はなしよ、ロノウェ?」
【ロノウェ】「……はい。畏まりました。」
【エヴァ】「ん……。」
 その時、魔女は何かに気付く。……何かの気配が去っていったかのような、……気のせい……?
【エヴァ】「………今、何か気配を感じなかった? 誰か感じた人いる?」
【45】「もッ、…申し訳ありません、私は何も気付きませんでした…、お許しを……!!」
【410】「私たち、ゲストハウスを観測中でしたから、周辺監視はオフにしてます。にひ。…ルシファーちゃんはぁ? 何か気配感じた?」
【ルシファー】「………ん、」
 ルシファーは一瞬だけ目線をロノウェに送り、正直に答えるべきかどうかを問う。それにロノウェは、小さく頷いて応えた。
【ロノウェ】「いいえ。…申し訳ございません、ベアトリーチェさま。私たちは何も。………中古家具ゆえ、愚鈍なことをお許しください。」
【エヴァ】「………………………。」
【ロノウェ】「………………………。」
【エヴァ】「………………………。……そう。大悪魔のあなたがそう言うなら、きっと私の気のせいなんでしょうね。」
 魔女は、気配の消え去った方角を執念深く凝視する。
 ……それは薔薇庭園の方角。そしてその向こうには、雷光に黒いシルエットを浮かび上がらせる屋敷が見える。……釈然としない気持ちを押さえ、再びゲストハウスに向き直るまで、彼女は短くない時間を掛けるのだった。

本当の魔法
10月5日(日)17時44分

ゲストハウス・ロビー
 ゲストハウスのロビーは静寂に包まれていた。蔵臼、夏妃、絵羽の3人はもはや緊張感の糸も弛み、疲れきって、意識を朦朧とさせている。彼らは時折、席を立ち、無意味に歩き回ったりすることで眠気と戦っているようだった。
【夏妃】「………大丈夫ですか、絵羽さん。…やはり無理をせず、休んでいてください。」
【絵羽】「大丈夫だって言ってるわ……。…もう、大人は私たち3人しかいないのよ…。休んでる暇なんかないわ…。石にかじりついてでも、ここを死守するわよ……。……はぁ、……はぁ……。」
 勇ましい台詞を口にするが、荒い息は隠せていない。…一度は薬で落ち着いた熱だったが、再びぶり返してきたらしい。絵羽の体調が悪いのは一目瞭然だった。
【蔵臼】「無理はするな。せめて目を閉じていたまえ。もし、起こさねばならぬ時は必ず起こしてやるから。」
【絵羽】「だから平気だって言ってるわ…! 放っておいて……!!」
【夏妃】「…………………………。」
 もはや意地になっているようだった。……今の彼女には、これ以上、何を言っても耳に届かないだろうことを、蔵臼たちも悟る。だからそれ以上は何も言わず、そっとしておくことにした。
 今の絵羽には、そんな口論すらも負担になっている。口を閉ざし、ただ静かに座っているだけの方が、まだ体に楽だろう。実際、絵羽はもう眠気に挫けようとしている。…短気に言い返すのは、自らを鼓舞して眠気を飛ばすためなのかもしれない。
 時計は、もうじき午後の6時を指そうとしている。眠気を誤魔化すために、何度も間食を取ったせいで空腹感はなく、むしろ寝不足のせいで、午後どころか明け方の6時のようにさえ感じられた。
 ……明日の朝の9時にぴったりに船が来てくれると仮定しても、……まだ12時間以上たっぷりある。…気の遠くなるような時間だった。
 …………長い。………辛い……。……熱い…。時計の音さえ、今はこの身を苛む。
 こんな時はいつだって、……あの人が私の額に手を当ててくれれば、たちどころに熱が引いたのに。…でももう、あの人はいない………。
 絵羽は朦朧とした意識の中で、再び深い悲しみに囚われていた…。もう涙は枯れ果てた。それでも最愛の夫を失った悲しみが、尽き果てない…。
【絵羽】「……………私は、……間違っていたんだわ…。」
【エヴァ】「…どうして?」
 元々、新しき魔女は絵羽と一なる存在。…絵羽が話しかければ、いつだって返事を返す…。
【絵羽】「……私は右代宮家の当主の座さえ得られれば、…それで満足のはずだった。……それが、あの黄金の山を見た途端に、欲が増えたの。…………あの黄金の山を、独り占めしたい気持ちに駆られた……。」
【エヴァ】「それは恥じることでも何でもないわ。だって、右代宮家の当主として、当然の権利じゃない。他の誰にも、黄金の一欠けらだって譲るものかってのよ。」
【絵羽】「…………私がその誘惑に囚われたから、…あなたが生まれてしまったんだわ。……あなたは私の少女時代の心であると同時に、……自分勝手でしかない、私の邪まな心でもあった。……そのあなたが、あの黄金の山によって芽生えた、私の愚かな欲望のせいで、……私の胸という卵の殻を破り、…この世に生まれ出てしまった…。………あなたを生んだのは私の責任……!」
【エヴァ】「なら、私が殺した楼座と真里亞も。そして留弗夫と霧江と秀吉も、あなたの責任ってことになるわ。」
【絵羽】「どうしてうちの人まで殺したのよ…! どうして……!! うううぅううぅううぅ!!」
【エヴァ】「…秀吉を殺す気はなかったわ。だってうるさくてしつこかったんだもの。…その意味では私たちの、いえ、あなたの責任ね。あんなのを旦那に選んだあなたの責任だわ。」
【絵羽】「あなたみたいな子どもに、あの人の良さはわからないわよッ!! ううぅううぅぅぅうう…、あなた………、うううぅぅ!」
【エヴァ】「………何よ。私たちは魔法で夢を叶えたのよ? 碑文の謎を解いたわ。そして黄金を見つけ、当主の指輪を手にしたわ。全ての夢を叶えきったわ? それが何で不満なの…?」
【絵羽】「それだけが全ての夢なんかじゃないわ…!! あの人と素敵な人生を歩んで、譲治に素晴らしい人生を託す…! 妻として、母として、…私にはまだ叶えなければならない夢がたくさんあるのよ…!! それなのに、……それなのに……!」
【エヴァ】「…それは、あなたが大人になってから、勝手に増やした夢だわ。私たちの夢じゃない。」
【絵羽】「だからあなたは子どもなのよ…!! 自分さえよければいいの?! ……そうよ、全て私が悪いのよ…!! あの時、楼座の言うことにどうして私は反抗したの? どうして兄弟みんなに、黄金を見つけたと発表できなかったの…? ……全て私が醜いから!! 黄金を独り占めしたくて芽生えさせた邪まな心が、……あなたを孵化させてしまった!!」
【エヴァ】「………ひどい嫌われようだわ。私たちは二人で右代宮絵羽なのに。」
【絵羽】「いいえ、もう違うわ。そしてそれはあなたが言ったのよ。私は右代宮絵羽。そしてあなたは黄金の魔女、ベアトリーチェよ…!! だからもう消えて! 魔女なんておとぎ話の中にしか存在できない妄想よ、幻想よ…!! あなたなんか消えてしまえッ! 二度と私の前に現れないでッ!!」
【エヴァ】「…あぁ、……そう。…わかったわ。あなたの前から消えてあげるわ。…そして私はもう右代宮絵羽じゃない。これからは黄金の魔女ベアトリーチェよ。…もう好き勝手に遊んでやるんだから。
 あんたなんて知らないわ。ヘソでも噛んで、勝手に死んじゃえばぁ?!」
 如何にも子どもらしい癇癪を起こして、かつてもうひとりの自分だった魔女は姿を消した。……闇の中には絵羽だけが取り残される。そして自らに問う…。
【絵羽】「私なの……? 私が、……彼らを殺したの……? あの人を、殺してしまったの……? ……私が、……殺して…しまったの…………?」
 その問い掛けに、もはや自らが答えることはなかった……。
【絵羽】「…っ、ごほごほごほッ!! ごほっごほごほッ!!」
 半分眠りこけて、舟を漕いだ拍子に唾が気管に入ってしまったらしい。…唐突に絵羽は咽こんだ。
【蔵臼】「大丈夫か、絵羽。…夏妃、水を頼む。」
【夏妃】「は、はい…。」
【絵羽】「だ、……大丈夫だってば…。げほげほげほ! げーっほげほッ!! ちょっと、…咽ちゃっただけなんだから……! げほげほげほんッ!」
 絵羽は、背中を擦ろうとする夏妃の手を払い除け、よろよろと立ち上がる。
 前章が13時30分なので、4時間以上の空白があり、その間に蔵臼と夏妃は殺害されている。この時点で二人が生きていたと考えると時間的に間に合わないし、紗音の行動にも矛盾が生じる。
【絵羽】「………顔を洗ってくるわ。…ごめんなさいね、寝ちゃってたわ。……戻ってきたら、またコーヒーを入れるわね。………特に濃い、明日の朝まで眠気が来なくなるようなやつを。」
【蔵臼】「うむ、頼む。……郷田の淹れるコーヒーより、お前が淹れるコーヒーの方が私の好みに合うからな。」
【絵羽】「お世辞でも嬉しいわ…。ごほごほッ! ………すぐ戻るわ。」
 絵羽はロビーを出て、化粧室へ向かった。その弱々しい背中を、蔵臼と夏妃が見守る…。
【夏妃】「……あなたも、あれだけ犬猿の仲だった絵羽さんに気を遣うこともあるのですね。」
【蔵臼】「……………………。…本来、兄とはこういうものではないのかね…?」
【夏妃】「……えぇ。それで正しいと思います。」
【蔵臼】「絵羽に限らん。……留弗夫にも、楼座にも。…私がした兄らしいことと言えば、それを横柄に語り、彼らを苛めただけだ。
 ………父のようになりたくて、私なりに必死だった。…だが、いつもそれは及ばず、そのはけ口を彼らに向けてしまった…。しかし、それは言い訳にならん。…絵羽にも、未だ傷が癒えぬほどに、深い心の傷を負わせてしまっただろう。……悔いているが、今更それを詫びたところで、その傷が癒えるわけもない…。」
【夏妃】「………あなたがその気持ちを、今だけでなく、持ち続けることで。…その気持ちはきっと、他の兄弟たちにも伝わりますよ。」
【蔵臼】「……今となっては、他の兄弟も絵羽を残すのみだがね。」
【夏妃】「……………もし、あなたとあなたのご兄弟が生まれた家が、右代宮家でさえなかったなら……。……もっともっと普通な、楽しい兄弟の関係であったでしょうに…。」
【蔵臼】「…それを言ってはならん…。………絵羽は生涯、私を憎み続けるだろう。そしてその資格がある。…私は、それを甘んじて受け止めるつもりだ。」
【夏妃】「…………………あなた……。」
【蔵臼】「……絵羽、………すまん。……もちろん、許さなくていい…。」
 もちろん許さないわ、何を今更。
【エヴァ】「悪いと思ったなら、今すぐヘソでも噛んで死んじゃえばぁ?! やっちゃえ、シエスタ姉妹!!」
【45】「45、射撃許可受領。射撃曲線再確認、気候誤差修正。410へデータリンク。」
【410】「410データ受領、射撃許可確認。にひひひひ、射撃!」
 姉妹が二人で引く魔法の弦を放つ。黄金の矢が美しい尾を引き、美しい曲線を描きながら飛んでいく。それはさながら、黄金の蛇。
 それは器用に木立を避けて飛び、ゲストハウスの玄関を目指す。そして扉の鍵穴に飛び込むと、何の問題もないかのようにゲストハウス内に侵入した。
 廊下をするすると、だけれども矢の如き素早さで黄金の蛇が疾駆する。その正面にはロビーの扉。その鍵穴に飛び込んだなら、そこにはもう蔵臼と夏妃が…。
 蔵臼は、扉の鍵穴が一瞬、金色に輝いたような気がした。しかし、それが何かと目を細めるのと同時に、その輝きが鞭のようにしなって襲い掛かり、蔵臼の首にぐるぐるっと巻きつく。
【蔵臼】「……………がッ、………ッ、ッ、」
 見ただけなら、黄金の蛇はとてもしなやかそう。しかし、蔵臼の首はまるで、針金で締め上げられるかのようだった。
 そしてその蛇は蔵臼を締め上げたまま、さらに伸び、夏妃の首をも締め上げる。二人は悲鳴すらあげられず、白目を剥いて痙攣し、がくりと脱力する。
【45】「45、命中及び死亡確認。牽引曲線形成、補正点修正。410へデータリンク。」
【410】「410データ受領。死体牽引開始。二匹も釣れたにぇ、にひ!」
 黄金の蛇は、蔵臼と夏妃の二人の死体をずるずると引き摺り始める。……廊下への扉をすり抜けて死体を引き摺り、次第に速度を上げて、あっという間にゲストハウスの外へ引っ張り出していく。
 だからロビーは、まるで何事もなかったかのように静寂だった。
 …初めから蔵臼も夏妃もいなかったかのよう。雨と風の音だけが、ここには自分たちだけしかいなかったと、素知らぬ顔をして居座っていた……。
【絵羽】「……ごめんなさい、もう大丈夫よ。…今、コーヒーを淹れるわね。」
 化粧室より絵羽が戻ってくる。しかし、ロビーには誰もいない。
 咽込んで化粧室に行ったその瞬間まで、彼らはそこのソファーにいたはずなのに、まるでそれが幻であったかのようにいなくなっていた。
【絵羽】「…無用心ね…。……二人揃ってどこに行っちゃったの?」
 探偵小説の真似事っぽく、絵羽はソファーに手を当てる。
 ……ついさっきまで彼らが座っていたことを示す温もりが感じられた。見回りにでも行っているのかもしれない。絵羽はとりあえず腰を下ろし、彼らの戻りを待つのだった…。
客間
 屋敷の客室には、ベアトと譲治の姿があった。譲治は紗音の遺体の脇に、祈るように跪いている…。その表情は真剣そのもので、額には汗さえ浮いていた。
 しかし、それはベアトも同じだった。自らの名を譲り渡した彼女には、かつての魔力のほとんどが失われている。…もちろん、それでも充分に魔女と呼べる魔力はあるが、かつてを思えば、あまりにささやかなものだ。
【ベアト】「……いいぞ。声を掛けるな、手で触れるな。…心の声で呼べよ、心の手で求めよ。…そなたの強き想いだけが、紗音の失われた魂に妾の魔法を届かせる。」
【譲治】「……………………………っ。」
 譲治はひたすらに念じ続ける。愛しき人の魂を呼び戻そうと、心の中で必死に叫び続ける。…自らの肉体より魂だけが抜け出して、冥府に迷い込んだ彼女を探すところを強くイメージした。
 ……その強い力を、ベアトは魔力に変換し、自らの魔法に加える。かつては誰の助けも借りずに、片手間で出来た魔法だ。…しかし今は、助けを借りなければ、成功は愚か、詠唱を終えるには至らない。
【ベアト】「………数百年近くも忘れておったわ…。………魔法とは、……反魂とは、…こんなにも辛い魔法であったか……。」
 ベアトは、譲治以上に辛い表情を浮かべている。
 …彼女はまだ失念しているが、本来、命を蘇らせる魔法は究極の秘術だ。それを指を鳴らすだけで何度でも扱えたかつての魔力の方が逸脱しているのだ。だから、彼女が感じる肉体と精神への強い負担は、本来、極めて正当なもの…。
【ベアト】「……しかし、………こやつめの力、…魔法を知らぬと言うのに、かなりのもの。……なるほど、さすがは金蔵の孫といったところか…。」
 譲治より注がれる強い力は、魔力としても通じるほどの大きなもの。
 …ベアトは初め、それは魔術師であった金蔵の血によるものだろうと思った。……しかし、多分、それは違う。…戦人に、それを教えられたような気がする。
 譲治の、想い人の死を悲しむ力は、……それまでの彼の一生懸命だった人生と、紗音との温かな時間、そして将来を誓い合った夢の大きさから生まれるのだ。
 人は、たったひとつの命に、ここまでも真剣に生きるものなのか。
 ……当然だ。自分にとって命というものは、オセロの表と裏程度の意味しかない。黒が死を示すなら、また裏返して白にすればいいだけのものとしか思わなかった。
 しかし、あの割れた壷と同じ。……二度と元の姿に戻せない、魔法のない世界の人間ならば、……そのたったひとつの命に、全身全霊を賭けるのは、とてもとても当り前なことなのだ。
【ベアト】「………生死すら自在にする無限の魔女が、……死の山さえ越えられぬ有限のニンゲンに、劣ることもあるというのか……。」
 魔女は、今こそ認める。命の価値を理解できない魔女には宿せない魔力を、彼は持ち得ている。
 ……無限の魔法とは、何のためにあるんだったか。…妾は、無限の魔女を名乗りながら、無限の魔法の意味を、…千年間も忘れていたのではないのか………。
 譲治の表情を改めて見る。………迸る真剣さは稲妻のよう。…今の譲治なら、たとえその身を焼かれようとも、滝に打たれようとも、気にもせず、気付きもせず、愛する者への祈りを続けるだろう。
 魔女は初めて、…その力に敬意を表した。だからその瞬間、全ての魔法抵抗が失われ、譲治の膨大な想いの力が完全な形で魔力に変換される……。
九羽鳥庵
 それは、とてもとても美しくて、価値と歴史のある素晴らしい壷でした。幼い私が見ても、その美しさにため息が堪えられないほどに。……でも、だから触れてみたかったのです。
 しかし、壷はあっさりと落ちて割れて粉々に。…割れてしまったシャボン玉がそうであるように、形あった時のそれがまるで幻であったかのように感じてしまう。それくらいにあっさりと儚く、……失われてしまった、命。
 私は、自らの愚かな好奇心が取り返しのつかないことをしてしまったことを悟りました。いくら後悔しても、いくら謝っても。砕けてしまった壷は元の姿に戻ってはくれません…。失われた命は、どのようなことがあっても、元に戻らない。
 私は自らの軽率な行為が、軽率であるにもかかわらず、…二度と蘇れない形で命を奪ってしまうことに恐怖しました。そして、失われた命を哀れんで、泣きました。失わせた自らに恐怖して、さらに泣きました。
 お祖父さまも、大切な壷が失われたことを、きっと泣くでしょう。それを見て、お祖父さまを大切に思う人たちもみんな、きっと泣くでしょう。たったひとつの命が失われただけで、世界中はこんなにも悲しみに染まるのです。……その恐ろしさに、私はさらに泣きました。
 ベアトリーチェが現れて、言いました。
【ワルギリア】「ならばお嬢様。この壷を、魔法で蘇らせましょう。それで皆が幸せになれるなら、壷も魔法も精霊たちも、喜んでその為に力を貸し、元の姿を取り戻すでしょう。さぁさ、お嬢様。目を閉じて、私と一緒にお唄を詠いましょう…。」
客間
【ベアト】「さぁさ、目を閉じて御覧なさい。そして思い出して御覧なさい。あなたがどんな姿をしていたのか。それはきっと、とてもとても美しい姿。どうか私に、あの姿をもう一度見せておくれ…。」
 力ある言葉が、冥府の扉を力強く叩く。
 かつての彼女の魔法も、同じように冥府の扉を力強く叩いた。……しかし、それはひどく乱暴で、…安らかに眠る死者たちのひんしゅくを買うものだった…。
 しかし、今は違う。…とても力強いのに、…とてもやさしくて慈しみのあるもの。
 扉の近くの死者たちが目を覚まし、……戻ってくることを呼び掛ける声があることを、他の死者たちに呼び掛ける。
 …死者たちは、外より呼び掛けるその声の悲しさに胸を打たれ、一刻も早く応えてやろうと、紗音の失われた魂を探す…。
 そして、………見つける。安らかに眠る紗音の棺を見つける。それはまさに、死者の国に眠る紗音の魂そのもの。……霜と凍った薔薇の花で埋められた棺の中で、安らかに眠っている…。
 死者たちはその棺を静かに担ぎ上げる。…それは一見、葬送行列に似ていながら、意味はまったく異なるもの。
 厳かだけれど、喜びに満ちていて。…忘れ去られて久しい死者たちに、自分たちは死してなお、愛され続けていることを思い出させてくれて、……彼ら全てに温かな安寧を与えるのだ……。
 そして…、天上よりの温かな光に招かれるように、…棺より紗音の体が、浮かび上がる…。死者たちはそれを見送る。……その温かな光に目を細め、死者への愛を変わらず持ち続けてくれる、見知らぬ生者に敬意を送るのだった…。
 紗音の体が、天上の光の中に、飲み込まれて消えていく…。死者の国の漆黒の闇の中に、わずかに黄金の蝶が瞬いたのが見えた。…それは、彼らが忘れて久しい、やさしい夜空の星を思い出させた…。
【譲治】「……………………っ!」
 譲治は、声を出してはならないと言われていることを思い出し、慌てて自らの口を塞ぐ。しかし、喉から心臓が飛び出そうだった。……紗音の瞼が、わずかに震えたのを見たからだ。
 そして、…ゆっくりとその瞼が開く。そこには紗音の瞳があったが、まだ死者の国の霜が降りたままだった。
 しかし、……人の世の、…いや。……彼女の魂を呼び戻した想い人の温かさで、ゆっくりと溶かされていき、………次第に、輝きを取り戻していく。そして、………その瞳が動き、…譲治の姿を認める。
【紗音】「……譲治……さん……………。」
 紗音が、弱々しく唇を震わせ、……確かにそう言った。それは言葉としてはあまりに弱々しい。普通なら耳にも届かないほどに。……しかし、譲治にははっきりと聞き取れた。
 ………死んだはずの想い人が、婚約者が、もっとも愛しい人が、再び自分の名を呼んでくれたのを聞いた…。
【譲治】「紗音、………紗音…………、僕が、……わかるかい………?」
【紗音】「……譲治さ…ん……。……………これは、……夢なの………?」
【譲治】「いいや。これは夢じゃないよ。……だからほら、……抓っても、醒めないよ。」
 譲治はそう言い、紗音の頬をやさしく抓るような仕草をする。
 ……それはかつて、紗音が何かを驚き、夢かと問う時に必ず譲治が返した仕草。紗音は、自分の頬に触れた譲治の指の温かな感触に。……そして譲治は、愛しい人の頬に、すでに生きる者の温もりが戻っていることに。……二人は涙する。
 …死別した愛し合う二人は、その再会をどんな言葉で祝しあうのだろう。……それを祝いあう言葉は、人の世の狭き言葉では足りない。つまり、人の世の言葉など、二人には何の必要もない…。
 譲治は、上体を起こした紗音と、ただ言葉もなく抱き締め合った。紗音の力はまだ弱々しくて、譲治の背中に手を回すのが精一杯だったから、……譲治はその分、きつく抱き締めた。
 彼女が二度と自分の手の届かないところに行ってしまわないように、きつくきつく、だけれどもやさしくやさしく、抱き締めた……。
 譲治の背中に回す紗音の指には、……その薬指に、譲治が贈った婚約指輪が確かに光っていた。その強い輝きは、決してダイヤの輝きだけではない。……愛する二人にしか感じ得ない魔力が、確かにあった。その強い輝きがあったからこそ、…死者の国で、彼女の棺は見つけてもらえたのだ。
 ベアトは理解する。……その指輪が、……いや。…………指輪の形をした、二人の想いが、この奇跡を実現させたのだ。
 譲治はあの瞬間、確かに魔法を使った。ベアトはその手助けをしたに過ぎない。その魔法には、命の大切さと一生懸命を知る者にしか宿しえない魔力があった。無限の魔女には知ることのできない、……有限の力にしか起こせない、奇跡の力。
 今こそ認めざるを得ない。……本当の魔法とは、魔力とは。…大魔女を名乗った彼女と、もっとも遠く離れたところにあったことを、認めなければならない。
【紗音】「………ベアトリーチェ…さま……。」
【譲治】「……彼女が君を生き返らせてくれたんだ…。ありがとう、ベアトリーチェ…!」
【ベアト】「いいや。妾は何もできなかった。……紗音を蘇らせたのは、そなたの魔力。そなたの魔法。…………奇跡を成し遂げる右代宮の血、…確かに見届けさせてもらったぞ。」
【紗音】「………譲治さんが、……私を……?」
【ベアト】「…うむ。………妾など足元にも及ばぬほどの、凄まじき魔力であったぞ。……妾など、まだまだ見習いの域を出ぬか。…今こそ身の程を知ろうぞ。」
 ベアトはふらりと後へよろめく。…明らかに体力を消耗しきっていた。譲治の力だけで蘇らせたと謙遜しているが、ベアトも全身の魔力と体力を使い切っていた。
 …そして、かつて、自由自在に弄んでいた命を、たったひとつ蘇らせるだけで、これほどの重みがあるのかと、…それを噛み締めている。
 二人はいつまでも、力強く抱擁を交し合う。…百億の言葉でも伝えられない気持ちを、そうして伝え合っていた…。
【譲治】「ありがとう、ベアトリーチェ。…君は僕たちの恩人だ…。」
【紗音】「…ありがとうございます、ベアトリーチェさま。……再び譲治さまに会わせて下さったこのご恩を、…決して忘れません。」
【ベアト】「……よせよせ。愛し合う二人に感謝されては、外道の極みと恐れられた妾にはくすぐった過ぎるというものよ。……妾のことは、…気にするな。…存分に、………再会を、祝い合え………。」
 壁に背中をもたれ掛けるベアトは、そのままずるりと壁を背負ったまま、座り込む。こんなにも魔法で疲労したのは何百年ぶりなのか。
 ……多分、初めて魔法を成し遂げた時以来。………その時は、お師匠さまが褒めてくれたっけなぁ。
 あぁ、でも、褒めてくれるお師匠様は、自分で殺しちまったんだっけ。……甘えんなよ、ベアトリーチェ。…モノを殺すってのはつまり、そういうことじゃねぇかよォ…。
 絵羽はコーヒーに睡眠薬を入れることが可能だったという手掛り。二人を眠らせてから絞殺し、死体を外に運び出した。
 絵羽視点では、自分が犯人だと譲治にバレずに他の人間を全員殺し、譲治と二人で九羽鳥庵に避難するのが最善。そう考えれば絵羽の行動の理由が見えてくる。
【ワルギリア】「……ようやく。…魔法の使い方を、思い出したようですね。」
【ベアト】「……………頭ン中、酸欠でカラカラで、……思い出すもヘチマもねェぜ…。…それよりアンタ、…殺したじゃねぇかよ。現れるんじゃねぇよ…。」
【ワルギリア】「あなたが未だに私を生かしていますよ。だからこうして現れられます。……もっとも、あなたの頭を撫でに来たわけでもありませんが。」
【ベアト】「……無様な妾を、わざわざ嘲笑いに来たかよ。……それに、隠居までした魔女が、…今更頭なんか撫でられちゃ、他の魔女の笑い者だぜ……。」
【ワルギリア】「そうですね。……一人前どころか、現役を退いたと豪語するあなたなのに、今頃になって魔法の使い方を覚えたなど、恥ずかしくて誰にも言えませんね。」
【ベアト】「…………だなァ。……内緒にしてくれよォ、お師匠様…。」
 ベアトは心地よい虚脱感の中、抱き合う二人を見つめるのだった。
【ベアト】「愛、かァ。……………勝てねぇなァ…。」
【45】「45データ受領。射撃準備完了。弾種選定、装填。」
【410】「410、射撃。にひ!」
 準メタ世界にワルギリアが初登場。メタ世界であれだけ話していたくせに、今さら「殺したじゃねぇかよ」のセリフが、ゲーム盤の中である証拠。
 シエスタ姉妹の放つ、黄金の蛇の矢が、薔薇庭園の茂みを縫い、垣根を縫い、石段を登って屋敷の玄関を、その鍵穴を目指す。それは廊下を縫い、客間の扉の鍵穴に飛び込む…!
【ベアト】「……ああああああぁああぁッ?!?!」
 一瞬の出来事だった。…疲労しきったベアトに、それを事前に気付けというのは困難な話だった。
 ベアトの眼前で、鍵穴より飛び込んできた黄金の蛇が、愛し合う二人をぐるぐるっと取り囲んで、二人の心臓を瞬時に貫通した。……しかも律儀に、紗音の胸の穴にもう一度、黄金の蛇を貫かせた…。
 二人は黄金の蛇に、…いや、新しき残忍な魔女の家具の、黄金の縫い糸によって、心臓を打ち抜かれて、………蘇らせるのに掛けた手間と、あまりに見合わないほどの一瞬で…!
 呆然とするベアトの目の前で、二人は倒れ、床に横たわる…。
【ベアト】「………じょ、……譲治……、………紗音……………。」
【譲治】「……ありがとう、…ベアトリーチェ……。…わずかの間でも、…会わせてくれて、……ありがとう………。」
 譲治は最後の息を、ベアトに感謝することに費やし、愛しき人と肩を並べて絶命する。
 その二人を今尚縫い止めたままの黄金の蛇は、大きく渦を巻くように、ぐるぐるっと客間内を旋回する。………さらなる室内の獲物を探っているのだ。
 そしてその蛇の先端とベアトの目が合う…。ベアトはその瞬間、死を覚悟した。
 その時、ワルギリアがその前に立ちはだかり、両手の指で印を描く。その瞬間、黄金色の金箔が客間の中を埋め尽くした。それはさながら黄金の吹雪…。
【ワルギリア】「ベアト、今の内に逃げてッ!! シエスタの黄金弓からは誰も逃れられないッ!!!」
【410】「410、標的失探!! にひゃっ、魔法欺瞞紙ッ!!」
【45】「45了解…! 索敵変更、対人画像追尾方式。標的再補足、410へデータリンク。」
【410】「410データ受領。すっトロいにぇ、先代さまぁッ!! 来た来た来たぁ、…着弾ッ!!」
 シエスタ姉妹の黄金弓は、狙った獲物を逃さない。防がせない。…魔法的なあらゆる障壁も、多層でなければ防ぐことを夢見ることさえ許さない。
 ワルギリアが放った欺瞞魔法により、一瞬だけ混乱したその隙だけが、ベアトが逃げ去るチャンス。そして、姉妹がワルギリアをベアトと誤解する唯一のチャンス。
 両手を広げて愛弟子を庇うワルギリアの心臓の位置を正確に、黄金の蛇が打ち抜く…。
 鍵穴より侵入し、譲治と紗音の二人を撃ち抜き、さらにワルギリアまでも撃ち抜いた黄金の蛇は、その瞬間に逃げ去ったベアトについては完全に気付けなかった…。
 ワルギリアは、ベアトが逃げ切れたことを見届けると、事切れる。……がくりと脱力し、その姿をさらさらと風に飛ぶ砂金のようにして、姿を消していった…。
 ベアトは魔力の痕跡を完全に消し去り、黄金の蝶になって、壁をすり抜けて風雨の戸外へ逃げ去る……。
【ベアト】「………………くそ、………くそくそ…。……おのれ、……おのれぇええぇぇぇッ…!!」
 ベアトは心の底から悔しがる。何に? 新しき魔女に襲われたから?
 多分、違う。師匠を失ったことももちろん悔しい。そしてそれ以上に、再会できた愛し合う二人の逢瀬を無粋に奪った蛮行に、ベアトは憤った。
 ……二人を再会させるために、ベアトは魔力のほとんどを注ぎ込んだ。…その末に至った奇跡なのに、……それを奪い去る時間はあまりに一瞬…! その呆気ないまでの蛮行の残酷さに、ベアトは打ち震える。
 ……そしてそれは、自らが犯してきた行為の正体でもあるのだ…。だからベアトは、新しき魔女を憎むのと同じだけ、かつての自らを嫌悪した。
 だが、今は逃げなければ…。……次に狙われれば命を落とすだろう。チェスのプレイヤーが、神様気取りで降臨し、駒に討ち取られたなんて、笑い話にもならないのだから。
【45】「45、着弾確認、標的四散。……ま、間違いなく、先代さまを撃破しました…!」
【410】「まぁた私たちの撃墜記章が増えちまうにぇ。にひ!」
【エヴァ】「愛し合う二人、……何だっけ? 引き裂いて一度、会わせて二度、もう一度引き裂いて三度楽しめる、だっけ? くっくくひひひひひっひひ!
 そのついでにあのクソ五月蝿いババアまでさよならできて、最高にご機嫌よ。……ロノウェ、文句ないわよね?」
【ロノウェ】「……ございませんとも。ベアトリーチェさま。」
【エヴァ】「あいつは、魔女の碑文の儀式を妨害したのよ? 第一の晩の生贄を勝手に蘇らせて、私の儀式を妨害したわ。文句言われる筋合いなんか、なぁんにもないわよ。
 くっひひひっひゃひゃひゃひゃ…! しかしズルイなぁ、あいつは死体を残さないのね。……あのババァも、思いっきり何度も無限に虐め殺して遊んでやろうと思ったのに。くっひひひゃひゃひゃ…!!」
【ロノウェ】「……………………。」
ゲストハウス・ロビー
【絵羽】「じょ、譲治が…?! 来てないわよ、いつ降りたのよ?!」
【戦人】「……い、いつって…。あれは何時位だったっけ…?」
【朱志香】「確か、…4時か5時くらいだったかなぁ。…最低でも1時間以上は前だよ…。」
【戦人】「俺たち、眠くなってその後は多分、居眠りしてたし…。でも多分、朱志香の言う通りだと思うぜ。1時間か2時間くらい前だった。」
【南條】「わ、私もそのくらいの頃だと記憶しています。コーヒーのお代わりはいるかと聞かれましたからな…。」
 信じ難いことが起きた…。絵羽伯母さんが、ちょっとお手洗いに行っている間に、蔵臼伯父さんと夏妃伯母さんがいなくなってしまったというのだ。
 どこかに隠れているわけもない。もちろん、戸締りは全て厳重で、内側から鍵が掛けられている。破られているものはひとつもない。それは1階だけじゃない、2階も同様だ。また、全ての扉や窓について、その構造上、外からは掛けられない形の鍵を有している。
 …つまり、蔵臼伯父さんたちが外へ出たわけもないのだ。……にもかかわらず、その姿がない。そして、姿を消したのは二人だけではなく、……何と譲治の兄貴もだった。
 譲治の兄貴は、コーヒーのお代わりを取りに行くと言い残し、1時間以上は前に、下へ降りていったきりだ。きっと、絵羽伯母さんたちと会話が弾んでいるのだろうと思い込んでいたのだが、……ずっとロビーにいた絵羽伯母さんは、誰も降りてこなかったと話す。
 全ての扉と窓が内側から施錠されている以上、…彼らが外へ出て行ったとは考えられない。……しかし、この完全な密室と化した篭城のゲストハウスから、人間が3人も蒸発したのだ……。
 このような状況下で、驚かすなんて悪戯のために、彼らが隠れん坊をする理由など考えられない。……事件に巻き込まれたと考えるのが妥当だろう…。
 絵羽伯母さんは、一人息子が失踪していたことを知り、半狂乱になって、部屋から部屋へ大声でその名を呼びながら駆け回っている。…そして、唐突に両親を失った朱志香も後に続く。
 ゲストハウスの中には、譲治譲治という声と、父さん母さんという声が、いつまでも木霊し続けている…。
 譲治の兄貴は、紗音ちゃんの死に顔を見たい、というようなことを口にしていたと思う。……こっそりとゲストハウスを抜け出して、屋敷へ行ったと考えるのが妥当だった。
 …だが、蔵臼伯父さんたちについてはわからない。…それを察して、屋敷へ探しに行ったのだろうか…? 絵羽伯母さんに声も掛けずに…?
 このままでは、ゲストハウスを出て彼らを探しに行こうという話になるのも、時間の問題だろう。………この期に及んでは、俺もそれに賛成だ。
 ゲストハウスに閉じ篭ってれば安全だと言って、俺たちは今朝、12人もの大所帯でここに閉じ篭ったはずなんだ。なのにそれが、今やここには4人しかいない。……つまり、ここにいることが安全を意味したりはしないのだ…。
 だが、…その前に忘れてはならないことがある。全ての扉と窓が内側から閉ざされているということだ。……ここは密室なのだ。どうやって彼らはここから姿を消したというのか。
 俺たちは徹底的に探し回った。しかし、誰かが隠れている痕跡は見つけられなかった。…ほぼ間違いなく、彼ら3人はゲストハウスの外へは連れ出されている。
【南條】「………どうやってでしょう…。まさか、……隠し扉とかがあるとか。」
【戦人】「隠し扉…?」
【南條】「…扉も窓も、外から閉めることは構造上、不可能です。釣り糸の類を使っても、この構造では無理でしょうな。となれば、扉や窓以外から出たと考えるのが妥当でしょう…。」
【戦人】「………確かに。そういう論法にもなるだろうよ。……隠し扉が存在しないなんて断言は誰にもできない。
 …しかし、そういう発想に飛躍する前に、俺はもっとシンプルな可能性も疑ってる。」
【南條】「と、…申しますと……?」
 戦人はさっきから、窓を開け、鎧戸を開けては外を確かめる仕草をして、それを次々に繰り返していた。
【戦人】「………ん。…この窓は静かだな。…なるほど、この窓は他と違って建物の構造上、風が吹き込まないわけか。」
【南條】「そのようですな…。こんなにも外は風雨なのに、雨も風も入ってこないとは不思議な気持ちです。」
【戦人】「南條先生。…今、窓を開けた時、音を感じたかい?」
【南條】「え? ……いえ、気にはなりませんでしたな…。よく油が効いてると思います。」
【戦人】「つまり。誰も見ていない廊下の窓から、ひょろっと抜け出すことは可能なわけだ。しかも、この窓なら風も吹き込まないから、風圧でカーテンや扉が音を立てることもない。……静かなもんさ。」
 戦人は身を乗り出し、下の地面を見る。…譲治が飛び降りたかもしれない跡を探しているのだ。……しかし、降りしきる雨の中の芝生には、一見、そういう痕跡は残っていないように思えた。
【戦人】「……こういう窓が、1階にもあるのかもしれない。誰にも気付かれずに表へ出ることは可能だぜ。」
【南條】「しかし扉は愚か、窓は全て施錠されて鎧戸まで閉まっていましたぞ…? 出ることは可能でも、閉めることは不可能だ…。」
【戦人】「閉められるぜ? こうやって、カチャンとな。」
 戦人は、何を当り前なことをという仕草で、開いた窓を閉め、施錠する。
【南條】「…………ま、……まさか、戦人さんは……………。」
【戦人】「最後に、中の人間が鍵を閉めれば、こんな密室は朝飯前だ。」
【南條】「し、しかしそれでは、………それでは、……おおおぉぉ……。」
 南條は青ざめながら首を何度も横に振る。…戦人が口にしたそれは、想像するのも恐ろしいある事実を突きつけているからだ…。
【戦人】「……俺の想像したトリックならな? しかし、こんなトリックを使えば、怪しまれる人物は極めて限定される。」
 南條の前でそれを口にしたくないが、…戦人とずっと一緒にいた朱志香を除けば、…それが出来るのは南條と、…絵羽しかいない。
 紗音が譲治を殺害。絵羽は譲治を連れて逃げようとしているので、譲治を黄金郷に連れて行くために優先的に殺した。
 紗音は絵羽たちによる事件の進行を把握しており、「第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない」のルールに従っている。魔女が蘇ったため、碑文が解かれたら儀式を止めるという約束は無効になった。
【南條】「わ、…私はそんなことをしませんぞ…! え、えぇ、誓ってもいい…!!」
【戦人】「……となると、絵羽伯母さんと南條先生のアリバイ合戦ってことになる。…俺たちは、二人とも怪しんで、それぞれを別々に監禁すればいいだけの話。
 ………逆に言えば、このトリックは、もっと生存者が多ければ有効かもしれないが、これだけ人数が減った状況下では、大して有効ではないんだ。」
 …いや、それどころか、自分の首を絞める可能性だってある。……むしろ、外に犯人がいるように見せ掛けるため、わざと鍵を開け放したり、窓を破ったりした方が好都合なはずなのだ…。
【戦人】「…………もしこの失踪劇が、今日の昼にでも起これば、俺は自信満々にこの説を発表しただろうよ。…だが、この段階に至っては全然自信が持てないぜ。…………何なんだ、こいつは。…一体何を意味してやがるんだ。………この“密室”はよ……。」
【南條】「や、……やはりその………。」
【戦人】「ん? 何だい、南條先生。…思いつきでもいいから言ってくれよ。」
 何かを思いついたようなのに、その言葉を飲み込んだように見えた為、俺はそれを促す。南條先生は、いえいえ下らない話ですと何度か断った挙句、ようやく口にした。
【南條】「……いえその。…………やはりこれは本当に、……魔女の仕業ではないのか、と…。」
【戦人】「ば、…馬鹿馬鹿しい。魔女なんているわけがねぇぜ。」
【南條】「……魔女は、私たちに訴えたいのです。…人間には出来ないことをやってのけるからこそ、…自分を魔女だと認めさせたいに違いないのです。…私はこのゲストハウス全体の密室からの失踪は、……そういう、魔女からのメッセージだと感じています……。…………考えてはならないのです。意味なんてきっとないのです。…おぉ、……わ、…私は恐ろしい……。」
 南條先生はわなわなと震えながら、沸き起こる恐ろしい想像を次々に掻き消しているようだった。
 ……下へ降りると、絵羽伯母さんと朱志香は憤り、それぞれの家族を探すためにここを出ようと気炎を上げていた。
 家族の姿が見えなくなれば、駆られて当然の欲求だ。絵羽伯母さんは、俺と南條先生にここに残るように言うが、俺は首を横に振り、歩み出た。
【戦人】「………もう、引き篭もりはたくさんだぜ。…俺も外の空気を吸いたくなってきた。」
【朱志香】「あぁ、行くならさっさと行こうぜ…!! もうこんなところに閉じこもってるのは真っ平さ…!! 早く父さんや母さんや、譲治兄さんを探しに行こう…!!」
 朱志香はすっかり頭に血が上ってしまっている。…喘息の発作にならなければいいのだが。
【絵羽】「残りたい人は勝手に残ってればいいわ。とにかく私たちは表を探してくるわ…!」
【戦人】「南條先生はどうする…? ひとりで留守番してるかい…?」
【南條】「い、いえ…。私もご一緒させてください…。」
 安全がまったく保証されていないゲストハウスにひとりで篭るくらいなら、危険地帯ではあっても4人一緒の方がまだマシだろう。絵羽伯母さんは銃を持っている。彼女と行動を別にするのは、自分を次の犠牲者にしてくれと名乗り出るようなものだ。
 こうして俺たち4人はゲストハウスを出ることになった。
 ……ここに篭城すれば安全と言って俺たちは篭り、……そして8人を失った。それはまるで、生贄を順番に殺すための控え室でしかなかったかのようだ。
 チェーンを外し、鍵を開けて玄関の扉を開く。もう辺りは真っ暗だ。表には、一応、外灯があり、足元をそこそこには照らしてくれるが、……不審者が潜んでいそうな暗闇を照らし出すほどの力はない。
【絵羽】「行くわよ…! 遅れても知らないんだからね…?!」
 絵羽伯母さんが、銃を構えたまま、傘も差さずに飛び出していく。朱志香もその後に続く。俺と南條先生は顔を見合わせてから、二人のあとに続き、駆け出すのだった。
 …一体、この屋敷では、この島では、何が起こってるっていうんだ。俺はいとこみんなで、昨日からずっとゲストハウスのいとこ部屋に篭っているだけだ。だからその外のことは何もわからない。
 一体、俺の知らない、部屋の外では、屋敷では、そしてこの島では何が起こっているっていうんだ。……俺に与り知れないうちに全てが起こり、全てが進み、…そして、全てが終わろうとしている。
 俺は心のどこかで、すでに諦め始めていた。…俺たちはおそらく、……誰一人、明日の朝を迎えられはしないだろう。うみねこのなく頃に、誰も生き残れはしない…。
 EP3時点では南條を疑うより、絵羽が蔵臼たちの死体を運び出している隙に出ていったと推理する方が自然。

魔女法廷
10月5日(日)18時03分

薔薇庭園・東屋
【朱志香】「父さん…、……母さん……!! 誰がこんなことを…!! ううあああああぁああぁあぁあ…!!」
 朱志香の悲しい声が、薔薇庭園に木霊した…。
 やはり、この島に住んでいる人間の勘なのだろう。…朱志香は薔薇庭園の、楼座叔母さんたちが倒れていた場所を見て、何もないことを確かめると、次に東屋を見に行った。
 東屋は、本来なら天気の良い日に薔薇を愛でながらお茶をするのに最高のロケーションだろう。……案外、あの蔵臼伯父さんと夏妃伯母さんにも、そこで二人でお茶を飲んでくつろぐ日もあったのかもしれない。
 ……その東屋に、蔵臼伯父さんと夏妃伯母さんの遺体が横たわっていた。楼座叔母さんたちの時と違い、せめて雨曝しになっていないのだけが幸いだろうが、そんなこと、今の朱志香に口にできるわけもない…。
【戦人】「……どうなんだ、南條先生。」
【南條】「こ、…絞殺ですな。…ほら、御覧なさい。首に、くっきりと何か細いもので絞めた跡が残っている。」
【戦人】「だな。……まさかこっちが、主たる死因のわけはねぇだろうよ。」
 …そこに転がる2本のオカルト意匠の施された杭状の凶器は、発見時には、蔵臼伯父さんの太股付近に、夏妃伯母さんのふくらはぎ付近に、それぞれ打ち込まれていた。親父たちの額やら胸やらに突き刺さっていた時は、警察が来るまでの現場保全のためにと、抜くことさえ許されなかったが、……もはや朱志香はそんなことは構わず、痛々しい姿の二人のために、すぐに抜き取った。
【絵羽】「……これで、頭、胸、腹、膝、足の5つを抉られた死体が出たわけね。」
【朱志香】「ううぅううぅうぅ、くそくそくそ!! 犯人め、殺してやるッ、殺してやるッ!! うわああぁあぁぁぁぁ…!!」
【絵羽】「……第八の晩まではこれで終わったわ。…続くは第九の晩なの? ……魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。」
【朱志香】「上等だぜ…。……魔女が蘇るってことは、…犯人が堂々と姿を現してくれるってことなんだろ?! 何が誰も生き残れないだ…。……私が殺してやる…! 父さんと母さんを殺した犯人を、この手で絶対に殺してやる…!!」
 朱志香は感情をむき出しにして吼え猛る。……悲しみに押し潰されないためには、怒りでそれに抗う他がないのだ。
【絵羽】「………まだ、…譲治が見つかってないわ。…朱志香ちゃんたちは、ここにいたければいるといい。私は屋敷へ行くわ。」
【南條】「え、絵羽さん、バラバラに行動してはいけない…!! みんなで一緒に行動しなくては危険です…!」
【絵羽】「兄さんたちはもうどうしようもないわ。でも譲治はまだどこかで生きてるかも知れない…! ここで時間を潰してる暇はないのよ…!!」
 絵羽伯母さんがそう叫ぶと、朱志香はぎょろりと睨みつける。
 …彼女にはもはや、死者にこれ以上構う暇はないのだ。まだ姿の見えない一人息子の安否の方が気がかりなのだ。
【絵羽】「朱志香ちゃんはここでお父さんとお母さんの傍にいるといい。私はちょっと屋敷に行ってくるわ。戦人くんも南條先生もここにいてくれていい。」
 絵羽伯母さんは、それだけを一方的に言うと、東屋を飛び出していく。
 俺が、待てよと声を掛けるが、足を止めるわけもなかった。…しかし、この状況下でひとり孤立することは、今や死を意味する。
 黙って行かせれば、それは見殺しを意味するのだ。絵羽伯母さんが足を止めない以上、俺たちは彼女を追うしかない。……それに、残酷ではあるが、蔵臼伯父さんたちはすでに死んでいて、これ以上できることは何もない…。
 結局、俺たちは、朱志香を慰めて、全員で屋敷に行く他なかった。…幸い、朱志香は立ち上がってくれた。悲しみに一区切りがついたのだろう。……しかし、代わりに浮かべている形相はまるで鬼のそれだ。
【朱志香】「…私がこの手でぶっ殺して、……必ず仇を取ってやる………。……行こうぜ、戦人。犯人を見つけたら邪魔をするなよ。私が絶対に殺す…!!」
【戦人】「………俺も親父たちの仇があるんだ。悪ぃが早い者勝ちだぜ。」
【朱志香】「…あぁ、…そうだな…。……ぶっ殺してやろうぜッ!」
 俺の言葉に、ようやく朱志香は自らの気持ちを共感してもらえたことを感じたのだろう。物騒な表情ではあるが、少しだけ朱志香が正気に戻るのを感じた。
 俺たちは駆け出す。絵羽伯母さんの後を追う。薔薇庭園を駆け抜け、石段を駆け上がり、……稲光にその大きな黒い影で威圧するような、屋敷をまっしぐらに目指す。
 ……これで、碑文の殺人は第八の晩を終えた。そして続く第九の晩に、魔女は蘇る。…誰も生き残れはしない。
 俺は命を、恐らく失うだろう。……だがせめて、真相をこの目に焼き付けたい。それだけが、今の自分を動かす原動力だった。
 俺たちは、玄関で鍵開けに苦闘している絵羽伯母さんに何とか合流できた。絵羽伯母さんは相当頭に血が上っているようだ。それが指を不器用にさせてしまっているのだろう。ただ鍵穴に鍵を差し込むだけでも、うまく出来ないようだった。
 …すると軽やかな音。鍵の開く音がする。まるで、全ての生き残りが揃ったのを見計らって開いたかのよう。
 ……悪意ある屋敷が、残った人間全てを一度に飲み込もうとしているかのように、俺には見えるのだった…。
屋敷
 扉を開けた途端に中より噴出した異臭は、…果たして臭いだけで説明できるものだったのだろうか。
 祖父さまの焼け焦げた臭いだけじゃない。……多分、使用人の人たちや親父たちなどの、何人もの死者たちの無念のようなものも含まれていたのではないかと思う。
 …それがぶわっと溢れ出し、俺たちを仰け反らせたのはどういう意味なのか。……入るな、という死者たちの叫びなのか。
 しかし、絵羽伯母さんはそんなものには怯まない。……そして、彼女の背中を追わなければならない俺たちは、そのメッセージを受け取りつつも、屋敷に踏み入らねばならない…。
【絵羽】「譲治?! 譲治!! 聞こえたら返事をしなさいッ! 譲治ぃいいぃ!!」
 絵羽伯母さんはあらん限りの声で叫ぶ。……状況を考えれば、生きていると考えるのは、あまりに楽観が過ぎるだろう。
 絵羽伯母さんに習って、俺たちも大声で譲治の兄貴の名を呼んだ時。…絵羽伯母さんが何かを見つけ、足を止めた。そこは客間の扉の前だった。
【絵羽】「………これは………? な、南条先生、ちょっと来てもらえるかしら……。」
【南條】「な、何事ですかな……。」
 大人たちから、客間の扉などに、不気味な魔法陣が書かれている、という話は聞いていた。……血を想起させる真っ赤な塗料で書きなぐられ、だらりと滴り落ちるように描かれたそれは、不気味という言葉で言い表す他がない。
 しかし、それは朝から描かれていたはずだ。……すでにそれを見ているはずの絵羽伯母さんが、改めて不審に思う何があるのかと、俺と朱志香は扉を凝視した…。
【南條】「……確かに、………こんな数字が、書かれていた記憶はありません。」
【絵羽】「えぇ、なかったわ。……不気味な魔法文字みたいなのは書かれていたけど、数字は書かれていなかった。」
 二人が言うには、朝の時点では、魔法陣だけが描かれていたという。しかし、今そこの魔法陣には、その上辺りに、8桁の数字が新たに記されていた。
 07151129。…何の意味があるのかわからないが、何を思い、この数字を記したのか、想像したくもない。
 魔法陣を描いたのと同じ塗料だろうが、…明らかについ最近、記されたものだ。魔法陣の部分と乾き方や色の具合がまったく違った。
【朱志香】「………へっ。どうせ、魔法的な意味があるんだろうぜ。深く考えたって、意味なんかあるわけもないさ。」
 朱志香は、不気味さを一蹴するかのように、わざと吐き捨てて言う。
【南條】「ま、…魔陣、というものかもしれませんな。……ある種の数字遊びに魔除けが宿るという考え方です。どの列を足しても同じ数字になる、みたいなものを、皆さんも見聞きしたことがおありでしょう…。」
【絵羽】「あれは、四角形の中に埋めた数字の話じゃなかった? これは横一列だもの。何の意味があるのかさっぱりだわ。……多分、朱志香ちゃんの言うのが正解よ。私たちが深く考えたところで、意味なんか何もないわ…。」
 そうはいいつつも、ひょっとすると何か意味があるかもしれないと訝しがっているのだろう。絵羽伯母さんは、ポケットの中の古レシートか何かに、その数字を短いボールペンで器用に記していた。8桁の数字では、何か規則性でもない限り、ちょっと暗記では難しいだろうから。
 ……………………………。
【戦人】「……これ、……日にちとか、……な。」
【絵羽】「日にち…? 何の話…?」
【戦人】「いや、…偶然だろうけどな。俺の誕生日、7月15日なんだ。…0715が7月15日を示すのかなって思ったら、1129もほらその、11月29日って読んだら、ちょうどゴロがいいかなって思ってよ…。」
【朱志香】「…………何で戦人の誕生日がこんなとこに書いてあるんだよ。そして11月29日って何だよ…。」
【戦人】「俺が知りてぇぜ…。まぁその、…たまたまの偶然だろうけどな。そう考えたら何だか不気味になっちまったぜ。……11月29日が、誰かの誕生日だったりとかするのか? うちの家族は違うぜ、親父も霧江さんも縁寿も違う。もちろん俺のお袋もだ。」
【南條】「心当たりがありませんな…。…金蔵さんの誕生日でも、源次さんの誕生日でもないはずだ。」
【絵羽】「うちの家族も違うわよ。楼座や真里亞ちゃんでもないわ。」
【朱志香】「うちの家族だって違うぜ…。嘉音くんも違うし、紗音も違う。……私、使用人の人の誕生日にはちゃんとプレゼント渡してるから、みんな知ってるけど、11月29日に誕生日の人間なんて知らないぜ…。」
 無意味だと思っていた8桁の数字も、日にちが二つ書いてあると思い込めば、そういう風にも見えてくる。……しかし、実際の意味は全然違うかもしれないし、意味なんかないかもしれない。とにかく、心当たりがない以上、これ以上をここで悩んでも仕方ないだろう。
 ……それよりも重要なのは、この客間の中だ。今朝、魔法陣が描かれた6つの扉の中には、いずれも犠牲者の遺体が横たわっていた。…そして、新しく数字が書き加えられた客間には、何が新しく増えているのか
 絵羽伯母さんが開けようとすると施錠の手応え。すぐにマスターキーを取り出し、それを鍵穴に当てる。
客間
 扉を開けると、……すぐに絵羽伯母さんが鋭い悲鳴をあげて、中に駆け込んだ。もう、それだけで、室内の状況は理解できた…。俺は南条先生と顔を見合わせ、首を小さく横に振りながら客間に入る…。
【絵羽】「譲治!! 譲治ぃ!! しっかりして…!! 譲治ぃいいいぃ!! 南條先生、早くッ!!」
 譲治の兄貴は、紗音ちゃんの遺体と一緒に倒れていた。胸が真っ赤に染まっている。そして見開いたままの瞳からは、…絵羽伯母さんには悪いが、……生きている気配を感じることはできなかった。
 南條先生は脈を取るような仕草をした後、…首を横に振り、もはや死んでいることを無言で告げる。それを押しのけ、絵羽伯母さんは再び譲治の兄貴にしがみ付くと、あらん限りの声を張り上げて泣き叫んだ…。
 この、…兄貴の死で、ひとつ確実にわかったことがある。殺人は、第八の晩まででは終わらない。第九の晩の、“そして誰も生き残れない”までを含めて、全て完全な形で実行されるのだ…。
 俺はもう何が何やらわからなくなる。…絵羽伯母さんの半狂乱な泣き声が、なぜかかえって、俺を冷めさせた…。
 …がっくりと脱力した俺は、どさりとソファーに腰を落とし、どっかりと足をテーブルの上に投げ出した。
 何度も繰り返される殺人に、俺の心は麻痺してしまったんだろうか。……恐ろしいというよりも、訳がわからないという気持ちの方が強い。
 親父も霧江さんも死に、使用人の人たちを皮切りに、次々、次々に殺された。…そりゃあもうすげぇ勢いでだ。最初の殺人が何時の時点で始まったか知らねぇが、…それこそ、時速1人くらいのスピードで殺されてるんじゃねぇだろうか。
 明日の9時くらいに、船が迎えに来てくれると俺たちは信じている。……それまで、まだ12時間以上もたっぷりあるんだぞ。…あと、魔女の生贄が何人いてくれりゃ、俺たちは生き残れるってんだ…。俺たち4人じゃ、1時間に1人で、…4時間しかもたない。今夜の24時だって、もはや迎えられるかわからないのだ…。
 ……昨日、この客間には、昼飯の後に入った。
 楼座叔母さんが買ってきたとかいう紅茶を淹れようという話になった辺りで、ちょうど俺たちは散歩に行こうって話になったんだ。
 ……真里亞がはしゃいでたな。…紗音ちゃんが、クッキーを持ってきてくれたっけ。熊沢さんが焼いたとか言ってたな。
 ……サバの焼いたのでも本当に入ってりゃあ笑えたのになぁ。…………そっか、熊沢の婆ちゃんのサバネタも、もう聞けねぇんだなぁ。…おっと、熊沢の婆ちゃんのことだけしか思い出さなかったら、他の人たちに申し訳ねぇや…。
 …………親父も霧江さんも、…どうして表になんか出たんだ。一日くらいメシを抜いたって死にやしないさ。…なのに、何で食い意地を出して、食料なんか取りに出たんだ。
 ……どうせ、怖い者知らずの親父が、腹が減ったと騒いだに決まってるんだ…。霧江さん、あんたは猪突猛進な親父のブレーキ役だったはずだろ…。どうして止めてくれなかったんだ。
 ………それに、あんたらの娘の縁寿はどうするんだよ…。…まだ6歳なんだぞ。まさか俺に託すつもりじゃないだろ…? 今じゃ俺だって、生きて島から出られるか怪しいってのに………。
【南條】「や、やめなさい…!! こんな時に争ってどうするんですか…! 朱志香さん、やめなさい…!!」
 ……何だかさっきから騒がしい。
 何事かと見ると、いつの間にか朱志香と絵羽伯母さんが取っ組み合いをしていた。……いや、朱志香が掴みかかっているというべきか。
【朱志香】「……絵羽叔母さんが父さんたちを殺したんだ!! 他に説明がつかないッ!!」
【絵羽】「何を馬鹿なことをッ!! あんたのお父さんたちなんか知るわけないでしょッ?!」
【朱志香】「ゲストハウスの1階にいたのは誰だよ?! 絵羽叔母さんだ!! 1階のロビーには父さんと母さんと、そして絵羽叔母さんがいた! 生き残ったのは誰だ?! 絵羽叔母さんだけだ!! どうして?
 あんたが犯人だからに決まってるじゃないかッ!! 父さんと母さんを殺して、外へ運び出して白々しく鍵を閉めて、魔女の仕業なんかを装いやがったんだ…ッ!!」
【絵羽】「じゃあ譲治はどうしていなくなったのよッ?! 1階には降りてきてないのよ?! じゃあ2階でいなくなったっていうの?! 2階には誰がいたのよ?! あなたたちがいたんじゃないッ!! あなたは知ってたんでしょう?! 譲治がこっそりゲストハウスを抜け出すのを!! それを自分は何も知らないような顔をぬけぬけとッ!! あんたが譲治を止めててくれれば、譲治は、……譲治はッ!!!」
【南條】「やめなさいと言うのに…! 朱志香さんはずっといとこ部屋にいました! そして絵羽さんもずっと1階のロビーにいました! そして二人とも何も悪くない! ただ家族を失って悲しいだけなんです…!! 犯人なんか誰もいない、どこにもいない…!! ただただ、………魔女のせいなだけなんです!! だから、お二人で憎みあうのは止めなさい…!!」
 ……魔女のせい、か。そういう仲裁が、今は良いのだろうか。あぁ、…ゲストハウスから3人もの人間が蒸発し、全ての鍵が内側から閉ざしてあった意味が、今、ようやくわかった…。
 これが狙いだったんだ。……犯人は内部にいると思わせて、…こうして醜い憎みあいにさせることが、……犯人の、……魔女の目的だったに違いないんだ。
 …………でも、だったなら、どうやって犯人は、外から施錠したってんだ…?
 親父たちが襲われた時点で、確かにマスターキーは奪われている。…しかしゲストハウスの扉や窓は、外部からはどうやっても施錠できない構造になっていた。だからマスターキーはあのゲストハウスの密室に意味をなさないはずなんだ…。
 ……肉親を失った悲しみを、目の前の人間に怒りとして押し付けあう、朱志香と絵羽叔母さんたち。
 それの間に割って入ろうとする南條先生。
 ……そして、ソファーに投遣りに座って天井を見上げ、……疲れ切った表情で、今更どうでもいいことを考える俺。
 …………昨日の昼の、台風の直前にほんのひと時訪れた、あの温かな客間と、ここが同じ部屋だなんて、…とても信じることができなかった……。
【朱志香】「ぎゃああああぁああぁあ……、ぅわああぅぅうあうううぅぅぅ…!!」
 突然の銃声に、俺の寝惚けた意識は吹っ飛ぶ。
 …絵羽伯母さんが抱く銃の銃口から、紫煙が立ち上っている。朱志香が両目を覆いながら床を転げまわっていた。それを、呆然としながら、絵羽叔母さんと南條先生が見下ろしている…。
【南條】「だ、大丈夫ですか、朱志香さん…! 朱志香さん…!!」
【朱志香】「うぁああぁああぁああ、痛ぃ痛い痛ぃ…、ううぁああああああああ…ッ。」
【絵羽】「わ、……私のせいじゃないわよ…。あ、……あんたがよせっていうのに突っ掛かってくるから…ッ!」
【戦人】「お、…おいおい、どうしたってんだ、何事なんだ…!」
 朱志香が、絵羽伯母さんに掴み掛かって、取っ組み合いになって…。それで絵羽伯母さんが持っていた銃が奪い合いみたいな形になって? それで何かの拍子に引き金が引かれてしまったということなのか…。
 弾丸がかすったのか、発砲炎で火傷したのか、詳しいことはわからないが、とにかく朱志香は両目を覆って、痛い痛いと叫びながら床を転げ回っている。
【南條】「……大丈夫、落ち着いて…! 大した怪我ではありませんぞ、気をしっかり…!」
【朱志香】「目が痛い、痛い…ッ、…見えない、…見えない……!!」
 南條先生は朱志香に肩を貸し、使用人室で手当てをすると言った。……この屋敷の使用人室にはベッドや救急箱があり、保健室的な機能があるとのことだった。
【朱志香】「くそおぉお!! 父さんと母さんの仇ぃ!! 殺してやる…、殺してやる……!!」
【絵羽】「わ、……私じゃないわよ…、私じゃない……!!」
【南條】「朱志香さん、傷に障りますから、それ以上、騒がないで…! さぁ、使用人室に行きましょう…。」
 朱志香はなおも、絵羽伯母さんを両親の仇だと罵っている。絵羽伯母さんは、過失とはいえ、引き金を引いてしまった事実に、動揺を隠せない様子だった。
【絵羽】「…私のせいじゃないわよ…、あの子が掴み掛かって来たからこんなことに……。……私は殺してなんかないわよ…。……それより、…譲治は誰が殺したの? そうよ、譲治は誰が殺したのよ!! 譲治、譲治ぃいいいぃッ!! 私は悪くない、私は悪くない…!!」
【戦人】「ま、待てよ絵羽伯母さん…!! ひとりになるなッ!!」
 絵羽は、買収された際にキャッシュカードを受け取っている。暗証番号は成功報酬という約束だったが、譲治の命と引き換えに教えることにした。
 絵羽伯母さんは、自分の過失に耐えられなくなったのか、それとも一人息子を殺した犯人への怒りに身を任せたのか、…それらがぐちゃぐちゃに混ざったのかわからない。…とにかく、怒鳴りながら恐れながら、喚きながら廊下を駆け出していく。
 朱志香の容態も気になったが、とにかく今は絵羽伯母さんをひとりにさせてはいけない。よりにもよって、この屋敷の中でひとりになるなんて、自殺行為もいいとこだ…!
 南條先生は朱志香を伴って使用人室へ。…俺は絵羽伯母さんを追って、屋敷の奥へ駆けて行く……。
使用人室
 南條は使用人室のベッドに朱志香を座らせると、目を擦ってはいけないと何度も言い聞かせ、患部の様子を診た。
 銃口に目が近かったのだろう。発砲の時の炎で、角膜を傷付けた可能性がある。
 …命に別状はないだろうが、一刻も早く、然るべき医者に見せる必要があるだろう。南條は応急手当を行ない、患部をガーゼで覆って包帯で巻いた。その結果、朱志香の視界は完全に失われてしまった…。
【南條】「いいですかな…? 傷が痛んだり疼いたりするでしょうが、絶対に掻いたり揉んだりしてはなりませんぞ。明日になったらすぐに、眼科の先生のところへ行きましょう。」
【朱志香】「……あいつめ、…本当は私を殺すつもりだったんだ…。ほんのちょっと角度が悪かったら、今頃殺されてた…。絶対にあいつを警察へ突き出してやる……!」
【南條】「…絵羽さんはそんなことはしませんぞ。あれは事故です。」
【朱志香】「事故なもんか…! あいつが父さんと母さんを殺したんだ。この島には19人目も魔女もいるわけがない…!! あいつが全ての犯人なんだ。ゲストハウスの1階にはあいつだけがいた!
 父さんと母さんを殺し、それを見てしまった譲治兄さんも口封じに殺したに違いない!! 祖父さまや使用人の人たちだってそうさ。きっとあいつは、昨夜の親族会議の途中でこっそり抜け出し、みんなを殺したに違いない…!!」
【南條】「……も、もしそうならば、警察が調べればすぐにわかることです。警察はすごいですぞ、鑑識の手に掛かればわからぬことなどありません。……私たちは誰かを疑ったり、恨んだりする必要などないのです。全て警察が解決してくれます。
 だから朱志香さんは、今は体を休め、目を楽にすることに専念するのです。…あまり眉間にしわを寄せては、目にはもちろん、美容にもよくありませんぞ。」
 実際、朱志香が絵羽のことを罵り感情を高ぶらせれば、自然と睨みつけるような仕草になり、目を圧迫するため、傷を痛ませた。朱志香もその内、喋れば喋るほど傷が痛むことに気付き、絵羽への疑いを解いたかどうかは別にして、とりあえず落ち着きを取り戻すのだった…。
【朱志香】「………あいつが殺したんだ…。……父さんや母さんを。……紗音や、…………嘉音くんを…。……………嘉音くん………。」
 嘉音は礼拝堂の中で殺されていたという。…朱志香はまだ、死に顔も見ていない。今の朱志香には、失明するかもしれない恐れよりも、目が見えない内に嘉音の死体が警察に運び出され、その顔を見ることもできず、お別れすることになるかもしれない方を恐れていた。
 犯人への怒りと、好きだった人の死への悲しみ。…その入り混じった感情が、彼女の涙腺を刺激する。
 しかし今の彼女にとって、むしろ涙は痛むものであり、在りし日の彼の面影をのんびり思い出すことさえ許してはもらえなかった…。朱志香は痛みを堪えながら、ベッドに腰掛け、俯くことしかできなかった…。
【南條】「………………。…さて、今度は絵羽さんの方が心配です。気に病まれていなければ良いのですが。」
 南條は、朱志香がとりあえず大人しくなったことに一息つくと、彼らが戻ってくる様子がないかどうか見るために、廊下に顔を出した。
【南條】「……………っ。」
 絵羽は紗音が死んだフリだと知っているが、絵羽視点での紗音は「譲治と結婚したがっていた女」であるため、この時点で譲治を殺した犯人とは考えていない。
 廊下を駆け出したのは、第一の晩の6人殺しを狂言だと思っているので、より疑わしい他の使用人を探すためである。
 それと、目が合う。南條は、その人物が誰かわからず、一瞬、困惑する。
【エヴァ】「視力を失った人間って、反魔法力も、対魔法抵抗力もゼロになるんですって。つまり、今のあんたはアイソレーテッドポーン。意味がわかるかしらぁ?」
【南條】「……んな、……何ですと……?」
 目の前にいる人物が何者なのか、南條には理解できるわけもない。…増してや、彼女が何を口にしたのか、さらに理解できるわけもない。
【朱志香】「………南條先生? どうしたんです……?」
 目の見えない朱志香は声だけでしか状況がわからない。…でも、南條が、不安そうな声を出したのが聞こえた為、何か良からぬことが起こったのかと身を硬くした。
【南條】「や、……やめてくれ……! 殺さないでくれ…!! わしには病弱の孫がおる…! ここでは死ねんのだ…! 頼む、見逃してくれ…ッ!! ヒイィ!!!」
【朱志香】「…南條先生…? 南條先生ッ?!」
 朱志香はベッドの上から、呼び掛けるしかない。…声の加減を聞く限り、南條は廊下にいて、何者かと対峙しているのだ。そして怯えている。彼がたった今、生命を脅かされているのは間違いなかった。
【南條】「よせ、やめろッ!! ヒィイイイイイィイイ!!!」
【エヴァ】「第九の晩に魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。くっひひひひひひひひひひひひひ!!」
 魔女は黄金の杖を先を南條に向ける。…何をするつもりかわからなくても、南條にはそれが、自分の命を奪おうとしている行為に違いないと想像がついた。
【朱志香】「南條先生!! 南條先生!! そこに誰がいるんだよ?! 返事をしろよ!!」
【南條】「やめてくれええええぇえええぇえ、ぁひぃいいいぃッ!!」
 バンッ!という鋭い音が響いた。
 その音の鋭さに負けないくらいに、黄金の杖の先端が鋭く尖って伸びて、南條の額に突き刺さっていた…。
 耳でしか状況を探れない朱志香には、何が起こったのかまったくわからない。…しかしそれでも、その音によって南條が絶命したことだけは理解できた。
 そして、その人物は今や使用人室前の廊下にいるのだ。…しかもその上、自分は目が見えず、抵抗どころか逃げることさえ叶わない。…朱志香は自分が絶体絶命の袋の鼠であることを知って戦慄した…。
【エヴァ】「……あぁ、朱志香。可哀想にね、目を怪我しちゃったのね。…なら、あなたは逃げることもできないわね。くすくすくす。…今から、南條の死体でたっぷり遊ぶわ。…それに飽きたら、次はあなたを殺してたっぷり遊んであげる。
 ……いいえ、せっかく目が見えないんだもの。……殺してからだけじゃない。殺す前にも、たっぷり遊んであげるわね。…くっひひゃひゃひゃひゃ…!! そこでしばらく、震えながら待ってなさいね? 南條の死体で、私がどんな風に遊ぶのかをたっぷり想像しながらッ!!」
【朱志香】「ひ、…ひぃいいいいいぃいいいぃッ!!!」
 朱志香は恐怖に駆られ、か細い悲鳴をあげる。
 ……本当は、誰かに助けを求めるためにも、もっと大きな声で悲鳴をあげたかったのだ。でも、できなかった。本当の恐怖に取り付かれた時、人は喉が恐怖で詰まってしまうのだ…。今の朱志香には、自分の呼吸さえ自由に喉を通すことができなくなっていた。
【朱志香】「た、……助けて…、……助けて………!! ひぃいいいいぃい!!」
 何とか逃れようと、手探りで辺りを探る。しかし、よく知るはずの部屋は、目が見えなくなっただけで、暗黒の密室も同然だ。棚か何かにぶつかってしまい、その上に積んであった菓子缶や瓶のようなものが降ってきて、彼女の頭にぶつかる。
 …今の彼女には、それを防ぐために頭を守ることすらおぼつかない。…視界を失うだけで、人はここまで無力なのかと痛感する。もちろん、そんなことに感心している暇はない。
 彼女はとにかく這い回って、その場を逃げ出そうとするのだが、よくわからないモノに次々にぶつかり、色々なモノが降ってきてはぶつかって、まるで部屋全体が生きていて、彼女を逃がすまいと意地悪をしているように感じるのだった。
 すると廊下の気配が足音を立てた。
 そして喋る。……恐らく、朱志香が賑やかにしているので部屋を覗き込んでいるのだろう。
【エヴァ】「賑やかねぇ。レディなら大人しく、ベッドに座って待っていなさい。令嬢に相応しい、素敵な真っ赤な死に装束を与えてやるんだから。……あなたを見つけた人が、失神してしまいそうになるくらいのを、ね? くっふふふふふふふふふふふ!!」
【朱志香】「ひぃ、ひぃいいぃいいいぃいいぃ!!」
 ついさっきまで、彼女は犯人に会ったらきっと殺してやると胸に誓っていたはずだ。…しかし、今の彼女はあまりに無力。弱々しい悲鳴をあげ、床を這い回ってはベッドや机の脚に頭をぶつけることしかできない。
【朱志香】「助けて…、助けて……! 誰か助けて……!! 父さん、……母さん…! 戦人ぁあぁ……! 誰か来てよぉおおぉ…!! ………助けてよ、……嘉音くん………!!」
 魔女が廊下にて、南條の命をどう弄ぶか思案している時。……その光景を、廊下の角からこっそりうかがう黄金の蝶が1匹いた。
 …命からがら、一度は逃れたベアトである。
 黄金の蝶は、すぅっと人の姿に戻る。…その姿は薄く、レースのカーテンのように向こうが透けていた。人としての姿を保つだけの魔力も、もはや乏しくなっているのだ。そのすぐ隣に、ロノウェも姿を現す。
【ロノウェ】「……朱志香も生き残れはしないでしょう。…元より、誰も生き残れはしませんが。」
【ベアト】「………………あやつは、嘉音に恋心を寄せておった。……妾はそれを弄んだこともある。…………しかしそれは、魔女として恥ずべきことであった。」
【ロノウェ】「……愛とは一なる元素。恋心はそれ以上に純粋で、尊いものでございます。…なぜかお嬢様はとてもそれを嫌われますが。」
【ベアト】「……………………………。……お師匠様は言った。…魔法とは、人を幸せにするためにあるとな。…妾も、かつてはそれを知っていたはずだった。
 ……そして、それを忘れた時から、妾は魔女ではなくなっていたのだ。……だから妾は、…戦人の対戦相手の資格を失っていたのだ…。」
【ロノウェ】「…………まさか、お嬢様。……朱志香を助けるおつもりですか。危険です。」
【ベアト】「わかっておる…。どうせ助けても、黄金郷の扉が開けば魔女の宴の慰み者よ。……しかしそれでも、…あやつの殺し方に比べれば数段慈悲深い。…魔女の宴は恐るべき方法にて命を奪うが、二度は奪わぬ。生死を弄ばぬ。
…しかし、あやつは違う。何度でも殺す。面白半分で殺す! そこにはわずかほどの慈悲もない。………妾はせめて朱志香を、そのような残酷な運命から救いたいと思う。」
【ロノウェ】「……確かに、それを行なうことは、良き魔女として讃えられることでしょう。……しかし、新しきベアトリーチェさまは、すでにお嬢様のことを敵視なされています。…もう一度姿を見られることがあったなら、……今度は逃れる術はありませんよ?」
【ベアト】「…………………………………。……譲治を紗音に会わせた時。………妾はようやく、魔女とはどういうものなのか。そして魔法とはどういうものなのかを理解したのだ。
 ………妾は魔女だ。魔女であらねばならぬ。そして戦人に対戦相手だと認められ、……今度こそ戦人に魔女だと認めさせなければならぬのだ。
 ……その為の道は長く険しいかもしれない。…しかし、今ここでその一歩を踏み出さねば、……妾は魔女を名乗れぬのだ。」
【ロノウェ】「お気持ちはわかりますが、どうやってお救いになるつもりです? 今のお嬢様の身に使える魔法は多くありません。紗音を蘇らせる時ですら、譲治の力を借りたではありませんか。」
【ベアト】「……うむ。…だからこそ、朱志香だけは救えるかもしれぬのだ。……今、あやつは嘉音に助けを求めている。……その想いの力を借りれば、妾の魔力にてもう一度、冥府の扉を叩けるかもしれない。」
【ロノウェ】「叩けはするでしょう。しかし、魔力を使い切ります。……新しきベアトリーチェさまにもし見付かったら、本当に逃れる術はありませんよ。…私はすでにお嬢様の執事ではありません。……いざという時、お助けすることはできませんのでご了承を。」
【ベアト】「…承知しておるわ。………妾はこれまで、数えることも出来ぬほどの命を弄び、奪ってきた。…ならばその罪は、同じ数だけの命を救うことでしか贖えぬのかもしれぬ。
 ……元より、妾に失うものなどないわ。…名も魔力も引き継ぎ、今や魔女とも認められぬただの黄金の蝶よ。」
【ロノウェ】「………戦人さまはどうなさるのですか。ゲームの途中です。彼は、お嬢様がお戻りになるまで待つと仰いました。…ここで果てるようなことがあっても良いのですか。…お嬢様には、戦人さまの向かいの席に戻る、義務があるのですよ。」
【ベアト】「だからこそだ…! 妾にしか救えぬ命があるならば、妾はそれを救う。そして魔女と認められるぞ。……妾は魔女にならねばならぬのだ…! これが試練であるならば、これまでの悪行に見合わぬ幼稚なものよ。
 ……さぁ姿を消せ、ロノウェ。かつて黄金の魔女と呼ばれた一匹の蝶の、最後となるかもしれぬ魔法を見るがいい…!」
【ロノウェ】「……畏まりました。……黄金の魔女の名に恥じぬ魔法、……拝見させてもらいます。……願わくば、それが最後の魔法とならぬことを。」
【ベアト】「行け、我が友よ。…もしインクが足りるなら、我が愚かなる生涯を記して、同じ道を歩もうとする愚か者に手渡せ。さらばだ、ロノウェ…!」
【朱志香】「嘉音くん、……どこにいるの…、どこにいるの……。…助けて、……助けてよ…、…うううぅううぅぅ…。」
 ………お嬢様。僕はいつだって、お嬢様のすぐ側に控えております。
【朱志香】「か、……嘉音くん……? 嘉音くん……?!」
 朱志香は今、嘉音の声を聞いたような気がした。そして見えぬ目で周りを見回すが、もちろん何も見えるわけがない。…それどころか、その拍子にまた頭を机にぶつける。
【朱志香】「……嘉音くん、………嘉音くん……。……助けて、………助けて………。」
 はい、お嬢様。…僕が、お助けします。
【朱志香】「か、……嘉音くん…?! い、生きてたの…?!」
 今度ははっきりと彼の声を聞いた気がした。朱志香は飛び上がって驚き、再び机に頭をぶつけた。
 ……お嬢様、どうか心を落ち着けてお聞きください。…残念ながら、僕は生きてはいません。
【朱志香】「………え……、」
 僕はすでに、死んでしまっています。……ですが、…あの魔女が、お嬢様の危機を僕に知らせに来ました。
 …そして、わずかの間だけ、お嬢様に手助けできる時間をくれました。どうか、心をもっと落ち着けて。そうすれば、……お嬢様にも僕の姿が見えるようになります…。
 朱志香はその言葉に従う。頭から雑念を全て追い出し、呼吸を落ち着けた。……本当は、死んだと思っていた想い人の声に心臓が爆発しそうだった。それを懸命に抑えた。
 ……すると、……自分の正面に嘉音くんが確かにいてくれるのを感じた。……目が見えないはずなのに、……はっきりとそれを感じることができた。
【嘉音】「……僕が、見えますか。お嬢様…。」
【朱志香】「あぁ…。見えるぜ、……確かに嘉音くんが見えるよ…。」
【嘉音】「………僕は魂だけの存在です。だから、お嬢様に触れることはできません。こうして言葉を掛けることしかできない。……それだけしかできないか弱い存在ですが、…それでもお嬢様の力になれるはずです。」
【朱志香】「……言葉だけ、……なの……? 嘉音くんに、……触ることはできないの……?」
【嘉音】「僕は今、蝋燭の煙よりも儚い存在です。…生者であるお嬢様に触れられれば、たちまち掻き消えてしまうほどに。……だからどうか、触れようとしないでください。…僕も、……お嬢様に触れたい気持ちを、……抑えているのですから。」
【朱志香】「あ、………う、…うん…。」
【嘉音】「それよりお嬢様。……よく聞いて下さい。………新しい黄金の魔女は、残酷な心の持ち主です。…必ずやお嬢様を酷い目に遭わせようとするでしょう。……この部屋から逃げ出し、隠れなければなりません。」
【朱志香】「ど、…どうやって…。私は、目が見えない……!」
【嘉音】「静かに…。……僕がお嬢様の目になります。僕が掛ける言葉に従って動いて下さい。……まず、そのまま3歩を這い出て、それから立ち上がって下さい。今、お嬢様がいるのは机の下です。そのまま立てば頭をぶつけます。」
【朱志香】「…つ、机の下だったのか…。わかったよ…、1、2、3…。…立つぜ…。」
【嘉音】「お上手です……。次は時計で言う、9時の方向を向いて下さい。………はい、お上手です。」
【朱志香】「は、……はは…。何だか、…恥ずかしいぜ…。……あ、…つつつ、…痛ててて…。」
【嘉音】「大丈夫ですか、傷が痛みますか…?」
【朱志香】「い、いや、…平気だぜ…。次は……?」
 朱志香は、これが夢なら醒めないでほしいと思った。…そして、もし許されるなら、目を塞いでいる包帯を取ってその姿を見たいと思った。…しかし、それをしたら、嘉音はきっと本人が自称する通り、蝋燭の煙のように儚く消え去ってしまうだろう…。……それに怯えた。
 だから、彼の言葉を再び聞けたというだけで満足し、彼を抱き締めたいとか、その姿を見たいという気持ちをぐっと抑えた。
 だから、今、彼女の目を痛ませているのは、感涙の涙。……この、奇跡のような時間を与えてくれた神様か、…はたまた魔女への、感謝の涙。
【朱志香】「…大丈夫なの…? こんなにしゃべって、あいつに気付かれない? 声を聞かれない…?」
【嘉音】「……隠密の結界を張っています。大きな音や声を出さなければ、誰も気付きません。……だから誰も、僕の気配には気付けない。」
【朱志香】「…な、…何だかわからないけど、…とにかく静かにしてれば大丈夫ってことなんだな…。……つ、次はどうするんだ…?」
【嘉音】「そのままゆっくり10歩ほどを歩いて下さい。ソファーに触ります。それに沿って進んでください。……ゆっくりと。……落ち着いて。僕の言葉を信じて。」
【朱志香】「あ、……あぁ。…………へへ、…不思議だぜ…。……目が見えないってのはあんなにも怖いものだったのに、………嘉音くんと一緒だと、全然怖くないよ…。」
【嘉音】「………そう、それがソファーです。左になぞりながらゆっくり進んで…。すぐ左にテーブルがあります。脛をぶつけないように気をつけて…。」
 ……それは、とてもとても奇妙で不思議な共同作業。恐ろしい魔女に気取られたなら、たちまちのうちに殺されてしまうのに、……今の朱志香の心に恐れはない。
 二度と会えないと思っていた嘉音が、自分を守ってくれて、先導してくれる。…それは多分、今だけの奇跡に違いないけれど。……それでも朱志香は、その奇跡に深く感謝した。
 多くを望めば、きっと消えてしまうに違いない、この儚い奇跡を壊さないように。そして、今を永遠に心に刻むように、ゆっくりと、ゆっくりと、…嘉音の声に従って足を進める…。
【嘉音】「……さぁ、さらに10歩を歩けば、使用人室から出ます。そしたら9時の方向を向いて、ゆっくりとずっと歩いて下さい。右の壁に手を置き、それに沿って、ずっとずっと。…僕が、安全な部屋までお連れします。」
【朱志香】「…………そこに行ったら、…嘉音くんは、………帰っちゃうの……?」
【嘉音】「………………………。」
 嘉音は答えなかった。…しかし、答えずとも、それが事実であることを教えた。
【朱志香】「……なら、……嫌だ。………行きたくないよ…。」
【嘉音】「ここにいれば、魔女に殺されます。」
【朱志香】「いいよ…。殺されれば嘉音くんのいる世界へ行けるもん…。」
【嘉音】「……お嬢様。どうか聞き分けてください。……死者である僕には、人の世は眩しくて辛過ぎる…。だから長くは留まれません。
 だからお嬢様、……僕に許された時間で、……お嬢様を安全な場所まで導くことを、どうか許してください。…………そしたら、………時間が尽きるまで、ずっとお嬢様と一緒にいますから。」
【朱志香】「………それが、嘉音くんにできる精一杯なの……?」
【嘉音】「…はい。………その代わり、一秒でも長くお嬢様の側にいるようにします。……ずっと、お嬢様といて、……お話をします。」
【朱志香】「どんな、…お話…?」
【嘉音】「………………どんなお話がいいですか…?」
【朱志香】「…嘉音くんが聞かせてくれるなら、どんな話でもいいよ…。」
【嘉音】「……では…。…………勇気のない、臆病な使用人の少年の話を。………太陽のように眩しいお嬢様に恋心を抱き、…同じ気持ちを打ち明けられながらも、……臆病さに負け、ついに生ある内に、自分に素直になれなかった、愚かで憐れな少年の話を。」
【朱志香】「……………うん…。なら、…私もしたいよ。………大好きな男の子にね、……もっともっと大好きだよって、……勇気を振り絞れなかった臆病な女の子の話を。……そして、……その男の子に再会できる奇跡を神様が下さって、…………その勇気を振り絞る機会を、もう一度与えてもらった女の子が、………勇気を振り絞る話を。」
【嘉音】「………僕も、……その話を聞きたいです。……だから、その為にも行きましょう。……安全な場所まで。」
【朱志香】「……うん…。嘉音くんと一緒なら、いつまでだって、どこまでだって歩くよ…。もう目なんていらない。嘉音くんが踏み出せというなら、崖の先へだって一歩を踏み出すよ。」
【嘉音】「ありがとう。…さ、お嬢様。参りますよ。最初の10歩を。」
【朱志香】「ううん、嫌だ。…………朱志香って呼んでくれなきゃ、…嫌だ。」
【嘉音】「……わかりました。…………………では、朱志香。…最初の10歩を踏み出して。」
【朱志香】「うん。嘉音くん……。」
廊下
 朱志香と嘉音が、静かに静かに、ゆっくりと使用人室を抜け出す。
 そのすぐ脇では、南條の死体を残酷に見下ろす魔女の姿があったが、魔女はその気配に気付きもしない。
 しかし、その後に控えるロノウェは、嘉音と目が合った。…嘉音は、しまったと思い、表情を歪めその背中に朱志香を庇う。
【ロノウェ】「……………………。」
 しかし、ロノウェはそれを主に知らせない。
 彼の姿を見咎めたこと自体が気のせいであったかのように、素知らぬふりをする。……いや、ふっと笑ったように見えたかもしれない。
 そのロノウェが後ろ手に組む指から、1匹の小さな黄金蝶が現れ、嘉音の前を先導するように飛んでいく。それは、彼の仕える主に気付かれぬものだった。
 嘉音は、その蝶の持つ魔法に驚く。それは、嘉音が持つ隠密結界よりも、遥かに強力なそれだったからだ。
 …彼は知らないかもしれないが、もともとこの力はロノウェのものなのだ。…それを、金蔵が模倣して与えたものが、嘉音の持つそれなのだから。
 その、隠密の魔法の蝶は、金の鱗粉を散らしながら、少しずつ小さくなっている。…多分、しばらくしか持たないだろう。……しかしそれでも、残酷な魔女から遠ざかるだけの時間を充分に与えてくれるに違いない。
【嘉音】「さぁ、お嬢様…。その壁に沿い、ずっと歩いていきましょう。…ずっと。ずっと。」
【朱志香】「あぁ。……嘉音くんと一緒なら、……どこまでも、ずっと、ずっと…。」
 小さな黄金蝶に導かれ、守られ、…生と死の壁を挟みあう二人が、ゆっくりと廊下の向こうへ歩み去っていく…。……その二人の逃避行に、邪悪なる魔女が気付ける魔法など、あるわけもない。
 二人の姿が廊下の向こうに消え去るまで、魔女は朱志香が姿を消したことに気付かないのだった…。
客間
 ロノウェが飛ばした黄金蝶が完全に消え去ってしまった頃、…朱志香は客間に辿り着いた。目が見えていればすぐに辿り着けたはずの場所でも、今の朱志香にとっては、長い長い冒険だった。
【嘉音】「……さぁ、お嬢様。客間に辿り着きました。これからお嬢様を、窓際のカーテンの束のところまでお連れします。…その中に隠れれば、きっと安全です。」
【朱志香】「カーテンの中か…。うまいな。私も昔、よくそこに隠れたもんだぜ。」
 目の前の人物はベアト人格の紗音。南條を殺す理由は、絵羽に朱志香を殺させたくなかったためと思われる。
【嘉音】「………ベアトリーチェさま…。」
【朱志香】「…え?」
 嘉音が魔女の名を呼ぶ。朱志香は驚いて辺りを見回すが、目の見えない彼女にその姿を見つけることは、当然できない…。
 ベアトは、再び薄っすらとした姿を現していた。嘉音は邪悪なる魔女の姿に身構えるが、ベアトの表情は穏やかで、…むしろ憐れみのあるものだった。
【嘉音】「…………どういう気紛れで僕を蘇らせてくれたのか、…僕にはあなたの気持ちがわからない。」
【ベアト】「……気紛れに過ぎぬ。……いや、……魔女とは、こうあるべきなのだ。…妾がそれを気付くのに千年を掛けた。…それだけの、愚かしい話だ。」
【朱志香】「だ、……誰?! 誰がいるの…?!」
【嘉音】「…お嬢様、お静かに。……彼女は魔女、…ベアトリーチェ…。………僕をお嬢様にもう一度会わせてくれた、……恩人です。」
【朱志香】「…………魔女…、……ベアトリーチェ……。」
【ベアト】「…妾のことなどどうでも良い。それより、早くその女をカーテンの陰に隠すが良い。………そなたに残された時間も長くないであろう。朱志香と最後の語らいに費やすがいい。
 …カーテンの束の中で密会とは、…そなたらもなかなか味な真似をする。くっくっくっく…。」
【朱志香】「あ、あの、…………ありがとう、ベアトリーチェ…!! 嘉音くんに会わせてくれて、ありがとう……!!」
 朱志香はベアトがどこにいるのかわからないので、見当違いの方向を向いて言った。それが滑稽だったのか、ベアトはわずかに失笑する。
【ベアト】「あとは愛し合う二人にこの部屋を譲る。邪悪なる魔女に恋話は不要でな。退出させてもらおう。」
【嘉音】「……ベアトリーチェさま…。…ありがとうございます。」
【ベアト】「ふ…。………礼など要らぬ。こんなのでは償い切れぬほど、悪行を重ねておることは、そなたがよく知っておろうに。」
【嘉音】「良き魔女には感謝を餞別とします。…今までがどうであったか、そしてこれからがどうであるかは知らない。……しかし、今この瞬間。…あなたは間違いなく、良き魔女だ。」
【ベアト】「……おべっかが過ぎるぞ、家具めが。次に会う時は、期待を裏切らぬ悪しき魔女であるかもしれぬぞ。……それではさらばだ。」
廊下
 ベアトは客間を出て、その扉を閉める。そして、残った最後の魔力の全てを振り絞って、その扉を封印する。
 いずれ二人がここに逃げ込んだことは気付かれる。…それに、第九の晩を迎えた以上、どう足掻こうとも逃れられぬ運命はもう決まっている。しかし、その最後の瞬間まで、二人には恋を語り合う時間が許されるべきなのだ。
 魔女は、その時間を守るために全ての魔力を注ぎ込む。……最後の瞬間まで、二人きりの時間を誰にも穢せぬよう。
 その時、…ベアトは知覚した。……自分の体を魔法的な探索術が探知したことを。…残酷な魔女の家具が、ここを嗅ぎつけたのだ。
【ベアト】「…………無粋なるは魔女の所以か。若き二人に恋を語らせる気もなしとは…。……くっくくくくくくくくくく…!!」
【45】「45データ受領。標的照合、先代ベアトリーチェ卿と確認。客間防御壁を解析。多層防御壁72層、攻性防壁及び魔法反応装甲。客間への狙撃は不可能。410へデータリンク。」
【410】「410データ受領。にひ! じゃあ先代さまを先に*しちゃえばいいだけの話だにぇ。大ベアトリーチェ卿、攻撃許可を!」
【エヴァ】「撃ってちょうだい。…あぁ、急所は外してね。ババァに聞きたいことがあるの。」
【410】「410、射撃。にひ!」
 シエスタ姉妹の黄金弓が、黄金の蛇を放つ。……それは使用人室前から廊下を這って、蛇のような柔らかい曲線の軌道を描きながら客間を目指し、…ベアトの胸を貫いた。
【ベアト】「………………ぐはッ……!!!」
 そこに黄金の蝶たちが集まり、残酷なる魔女とその家具たちが姿を現す。
【ロノウェ】「……先代さま。二度もの妨害、もはや許されませんぞ。」
【ベアト】「……ぐ……ぅ………、許されようとも思わぬわ…。……しかしシエスタ姉妹も腕が落ちたものよ。妾を仕留め損なうとはな。…それも二度も…!」
 ロノウェは、魔女の執事として相応しい口上を述べる。ベアトは苦痛を押し隠しながらニヤリと笑って言い返した。
【45】「も、申し訳ありません、先代さま…! 急所を外せとのご命令です…!」
【410】「ご指示があれば、すぐにでも貫きますとも。ピアスの穴でもおへその穴でも、お好きな穴を。 にひ!」
 ベアトを貫いた黄金の蛇は、そのまま伸びて朝顔の蔦が描くような螺旋を描き、次の命令を待っていた。…残酷なる魔女が命じれば、すぐにでも急所を貫く用意があるということだ。
【ベアト】「………残忍にかけては妾も一歩劣るそなたが、急所を外させるとは、どういう風の吹き回しか。新しきベアトリーチェ…!!」
【エヴァ】「聞きたかったのよ。…どういう術で逃れたのか知らないけど、私たちはあんたを仕留めたつもりでいたのよ? そのまま隠れていれば逃れられたものを、どうして危険を冒してまた現れたの? ……まさか若い二人を庇うためだけに戻ってきたわけぇ?」
【ベアト】「……さぁて、…な。……くっくっくっく…!」
【エヴァ】「さっきだってそうよ。どうして恋人たちを蘇らせて再会なんて、甘い真似を? …聞けば聞くほどに、あなたは私なんて足元にも及ばない邪悪の権化。そのあなたが、どうして急にそんな生温いことを始めたのかって。……それを聞きたかったのよ。」
【ベアト】「………くっくっくっく! 残忍ゆえに妾は気紛れなのよ。それを問うことに意味などあろうか。」
【エヴァ】「シエスタ姉妹。縫え。」
 それを命じると、螺旋を巻いて宙に留まっていた黄金の蛇が、文字通り獲物を狙う蛇のように素早く動き、ベアトの体を何度か前後から貫いて、その黄金の尾で×字を描く。
 残酷なる魔女の命じたそのままに、ベアトの胸にクロスステッチを描く。黄金の縫い糸は、ぎしぎしと音を立ててベアトを苦しめた…。黄金の蛇は、獲物を狙うそれではなく、まるでベアトを縫う縫い針であるかのように、空中に待機する。
【エヴァ】「あんたに限って、気紛れなんてあるわけがない。……あんたのことを聞いたわ。そして知ったわ。あんたは、私ですら足元にも及ばない邪悪の権化よ。私は、そんなあなたに実に相応しい後継者だと思ったの。
 ……なのにあなたは邪魔ばかり。温いことばかり言って私を呆れさせる。……何があなたを変えたの? 千年間、邪悪の限りを尽くしたあなたに、その千年を翻すような何が起こったのか、それだけを知りたくて生かしたのよ。」
【ベアト】「……知りたくば、そなたも千年を費やすが良いぞ。くっくくくくく!」
【エヴァ】「縫え。」
【ベアト】「ぐおッッ!!! っくっか、……がッ!!」
 再び、ベアトの胸に黄金のクロスステッチが縫われる。それは再び引き締められ、ベアトの胸から鮮血を搾り出させた。それは見た目の美しさと相容れぬほどの激痛を強いる。
【エヴァ】「………あんたもひょっとすると、死ぬと消えちゃって死体が残らないタイプかもしれないわね。だから、あなたをゆっくりと殺すわ。でも、私の質問に正直に答えられたら、楽に殺してあげる。先代さまにぴったりの華麗で豪華でやさしい死を与えてあげる。水を張り、薔薇で埋めた棺桶に沈めてあげるわ。素敵でしょう? …それでも話せないの? あなたの心変わりの理由。」
【ベアト】「くっくっくっく…!! 聞かれたことを答えぬもまた、邪悪なる魔女の愉悦よ。」
【エヴァ】「縫え。二つ。」
【ベアト】「ぎゅおッ、ぐはッッ………!!」
【エヴァ】「もちろん答えてくれなくていいの。だって、そうやって虐めてるんだもの。くっくひひひひひひひひひひ!!
 無限の魔法は本当に素晴らしいわ。…思えばこの世はすべからく有限。人の世に無限などありはしない。それは神が無限であるがゆえに、人の世を見下すため、全ての無限を取り上げたからよ。
 …なればつまり、無限の力とは神の力! 遊べば遊ぶほどにさらに楽しい遊び方を見つけられる素敵な力! その力を千年も思うがままに使い、暴れまわったあなたが! なぜ今頃になって心変わりをしたの? まさか、私に譲ったから惜しくなって、とかじゃないわよねぇ?」
【ベアト】「惜しいものか。そなたがそうだと信じている無限の魔法など魔法にあらず。…真の魔法の力とは、そなたなどでは到底至れぬ深淵にあるのだ。」
【エヴァ】「それに気付いたから……? それは、…何?」
【ベアト】「くっくくくくく! それに気付けず千年を彷徨え、愚かな魔女よ。」
【エヴァ】「縫え。今度は三つ。」
【ベアト】「ぐおッ、ぎゅおぉ、…ぐッ…!!!」
 ベアトの胸に黄金の糸で刺繍が刻まれていく。それらはさらにぎちぎちと締め付け、ベアトをさらにさらに痛めつける…。
【エヴァ】「……ま、いいわ。死に損ないのババァが何を達観したかなんて、もう興味も何もない。もう飽きたから、あっさり殺してあげるわ。あんたを殺せば、客間の結界は解ける。
 ……そしたら嘉音と朱志香もたっぷり虐め殺してあげるわね。……愛し合う二人を同時に玩具にできるなんて、……これは楽しそうよねぇ? くっひひっひっひひひっひひひひひ!!
 殺せ…!!!」
 黄金の縫い糸が、寸分違わずベアトの心臓を打ち抜く…。その激痛は、それまでの激痛を全部合わせても足りないほど。ベアトは千年もの間、忘れていた、死ぬという実感をようやく思い出す…。
 しかし、………死ねない。死んではならない。死ねば、客間の二人を残酷なる魔女に差し出すことになる。だから断じて死ねない。死ぬことを…断固として拒否する…!
【ベアト】「………新しきベアトリーチェよ…。…頼みがある。………客間の二人の逢瀬は、短い時間のものだ。………砂時計で計れる程度の時間で、…嘉音は冥府へ消えるだろう。…その程度の時間を、どうか許してはくれぬか…。」
【エヴァ】「いやぁよ。愛し合う二人を引き裂くのって、楽しいんでしょう? あなたが言ったわ。だから私、やってみたいの!」
【ベアト】「……くっくくくく…。ならばその快楽、貴様に味わわせるわけにはいかぬ…。くっくっくっく、楽しいぞぉ、恋人たちを引き裂くのは。」
【エヴァ】「そうよね? きっと楽しいわよね? だから邪魔しないで!! もっと縫え! 縫え縫え縫えッ!!」
【410】「にひ! 410了解ぃ!!」
 無慈悲なる黄金の縫い針が、何度も何度もベアトの心臓に黄金の糸を縫い通す。……しかし、いくら縛り上げようとも、その心臓は止まろうとしない…。
【ベアト】「く、……ぉおお…、まだまだこの程度では足りぬな…。この程度では死んではやれぬ…!!」
【エヴァ】「何をしてるの。このババァのお喋りを止めなさい。早く殺すのよ!」
 朱志香は、エンドロールにて「第十の晩に死亡」と表記されている。これは、絵羽には殺されず爆弾で死んだことを意味していると考えられるので、カーテンの中に隠れるまでは事実と推定できる。
 一方、ベアト登場まで事実と仮定し、朱志香の前で一人二役の演技をしたと考えると、嘉音が客間に残らなければならない。この後ベアトは絵羽に殺されることになるので、実際には、嘉音として朱志香に別れを告げて客間を出たのだろう。
 朱志香はこの後死ぬまで誰とも会わないため、EP2の楼座や真里亞と同じ理屈で幻想描写に入れることができる。
【45】「こ、…殺してます…!! 何度も心臓を縫い止めてるのに、……こいつの心臓、…と、止まらないんですぅ…!!」
【エヴァ】「……あんた、不死身なの?」
【ベアト】「まさか。……そなたに無限は譲り渡したわ。鼓動を刻める数など、残すところもたかが知れている。
 …だが、それをひとつ余計に刻むことで、この部屋の二人にわずかでも長い時間を与えられるなら、……その程度の抵抗を、永遠に続けようぞッ!!」
【エヴァ】「縫え!! こいつの心臓が動きを止めるまで縫い続けよッ!!」
【ベアト】「ぐうッ、ぐおおおッ、ぐああああぁあああああぁッ!!」
【410】「…な、……何でこいつ、死なないの! ありえない…!!」
【45】「心臓を、……縫い縛ってるのに…、……何で、止まらないの?!」
【410】「ならいいや、心臓を内側から爆破してやるにぇ…! 可哀想に、逆らわなければ綺麗に死ねたのにぃ!!」
 そう言いながら、何度も何度も黄金の針と糸が往復するのに、ベアトはまだ息絶えない…。その異常さに、ようやく残酷なる魔女は表情を青ざめる。
【エヴァ】「…………お前、……一体、何者なの…。」
【ベアト】「……くっくくくくく。……そなたにはわからぬだろうなぁ。……妾にもわからなかったさ。……だがな。…どうやら、これが本当の魔法というものらしいぞ。………つまり、……妾は今こそ、……成った。…本当の魔女に、……成ったッ!!」
【45】「心臓内部で爆心固定。信管準備良し!」
【410】「爆破ッ!!!」
 凄まじい音がして、………黄金の蝶たちの群と、金箔が辺りに撒き散らされた。ベアトの胸が、…ばっくりと内側から開き、……そこから、黄金の蝶と金箔が噴出して、辺りを金色に染めているのだ…。
 そして、ベアトの肉体が崩れ落ちる。操り人形の糸が千切れて、…くたりとしゃがみ込むように、崩れ落ちる。……しかし、宙には、黄金の縫い糸に縛られた黄金の心臓が浮き、なおも鼓動を続けている…。
【45】「………そ、………そんなッ、………ひぃいぃ…。」
【410】「バ、……バケモノだ…、…ひいいいぃいぃ…!」
 シエスタ姉妹はそれを見て、驚愕しながら尻餅をつく。
 ……何とベアトは、……心臓だけになっても、まだ鼓動を続けて、客間の結界を守り続けているのだ。…それは計りきれないほどの莫大な魔力。…測定不能。即ち、無限。
【エヴァ】「………む、無限の魔女は私でしょう…? ………何でこのババァ、……こんなになっても、……生きてんのよ……!! シエスタ姉妹!! あの心臓を砕くのよ!! 早く!!」
【45】「む、無理です、申し訳ありませんッ! 私たちには出来ません!!」
【ロノウェ】「…………無理でしょう。何人たりとも、あの心臓を打ち砕けはしません。…竜王陛下の兵士風情ではとてもとても。」
【エヴァ】「なら。無限の魔女である私になら打ち砕けるということでしょう? 私の力は、神の力だものッ!!」
【ロノウェ】「恐れながら。あなた様の力では、ベアトリーチェさまの無限には、傷一つ付けられません。」
【エヴァ】「……それは、…どういう意味よ……。」
【ロノウェ】「影を知らずして光がないように。……有限を知らずして無限もまたなし。………ベアトリーチェお嬢様の、真の無限の力の前に、あなた様の脆弱な魔力ではとてもとても及びません。」
【エヴァ】「何よ、………それ……。…うッ、」
 残酷なる魔女は驚き、後退る。
 レースのカーテンよりも薄い姿だけれど…。……ベアトの姿が、…いや、ベアトリーチェの姿が、まだそこに立ちはだかっていた。
 このような無惨な姿を晒してなおも、……邪悪にこの扉を譲ろうとしないのだ。その時、……そのベアトリーチェの後に、同じくらいに薄い人影が立つ。嘉音だった。
【嘉音】「………ベアトリーチェさま。…ありがとうございました。…このご恩は、忘れません。」
【ベアト】「……ふ。…恩の数が、恨みの数を超えたらその言葉をもう一度聞こうぞ。……もう良いのか。」
【嘉音】「はい。………本当にありがとうございました。……そしてベアトリーチェさまも、……もう、…大丈夫です。……どうか、……お楽になさってください…。」
【ベアト】「……そうか。……もう、…良いのか……。………く、……くっくくくくくく…。」
【エヴァ】「何よ…。……何であんたたちは、先代のババァをベアトリーチェと呼ぶのよ! ベアトリーチェは私の名前でしょう?! 新しき黄金の魔女、そして無限の魔女である私の名前のはずよ?!」
【嘉音】「…………無礼な。ベアトリーチェさまの名を騙るな。」
【ロノウェ】「恐れながら。……ベアトリーチェさまの名は、無限の魔女を冠せられるお方が名乗られるべきもの。今や、先代はあなた様を指すものでございますよ。…ぷっくくくくく。」
【エヴァ】「な、……んだと……。」
【ベアト】「………さらばだ、嘉音。……どうせすぐに出会うさ。新しき悪夢でな。」
【嘉音】「………新しい夜の悪夢にて、再びベアトリーチェさまのお供を…。……これで、…失礼いたします……。」
 嘉音の姿が薄れていき、……虚空に消え去った。それを見届けてから、…ベアトリーチェの姿も薄れていき、……消え去る前に、床に崩れて倒れる。
 すると、……ぼたりと音がした。宙に浮いていた黄金の心臓は、…輝きを失い、血塗れの肉塊となって床を転がっている。
 …それの、何と弱々しきことか。ずたずたにされて穴だらけにされている。…でも、さっきまで、あんなにも輝いて、力強く鼓動を繰り返していたのだ。
 その心臓は、まだ辛うじて鼓動を続けている。……しかし、止まるのは時間の問題だった。
 線香の煙のように儚く薄い姿となったベアトリーチェは床に倒れ、……自らの心臓をぼんやりと見ている…。そこへ、残酷なる魔女の姿が…。
【エヴァ】「…な、…何が無限よ…。現にこうしてぶっ倒れてるじゃない?! 有限のある無限なんて、そんな矛盾、存在するわけもない! これがあんたの魔法の限界なのよ! 有限は無限に劣る!!」
【ベアト】「………………………………。」
 ベアトリーチェには、すでに言い返す気力も無い。…いや、それどころか、残酷なる魔女の言葉が耳に届いているかも怪しかった…。
【エヴァ】「あんたが本当に無限の魔女なら立ち上がってみなさいよ!! どう? 立てないでしょう?! どうして立てないと思う?! あんたが無限の魔女じゃないからよッ!!」
 残酷なる魔女は、爪先でベアトリーチェの心臓を小突く。ベアトリーチェはその挑発に返す言葉など何もない。
 ……だが、…言葉の代わりに、表情をひとつ返した。……それは、残酷なる魔女にとってのみ屈辱的に見えた。
 口を緩やかに曲げて、……笑っていたからだ。
 ……そこへ、近付いてくる足音があった。聞き違えるわけもない。…この荒々しく踵を鳴らす音は、戦人の足音だ…。
【ベアト】「………戦人か………。………く、……くくくくくく…。…偉そうなことを言っても、…妾はこのザマよ……。」
【戦人】「………………………………………。」
【ベアト】「…………そなたの言う、……本当の魔女というのを、………妾なりにがんばってみたぞ……。」
【戦人】「…あぁ。……見てたぜ。」
【ベアト】「……なァ、……これで私は、………魔女に、……なれたかなぁ……。……そなたの対戦相手の資格、……できたかなぁ……。」
【戦人】「駄目だな。」
 戦人は信じられないくらい淡白に言い放つ。ベアトリーチェは、苦しい息の中、それを見て、それも当然だと自嘲する。
【ベアト】「…………く、…くっくっく…。…そうか。……本当の魔女への道は、まだまだ険しいなぁ…。
 ……だが、…妾は屈しぬぞ…。……そなたが、妾の拷問に決して屈しなかったように…。………必ず、……本当の魔女になって、……そなたの対戦相手に、…認められて……やる……。」
【戦人】「あぁ、駄目だな。全然駄目だ。お前は俺の対戦相手じゃない。」
 残酷なる魔女が高々と足を振り上げる…。…その下にはベアトリーチェの弱々しい心臓が。
【エヴァ】「死ねよババァ!! ぐちゃっと潰れて、それでも無限が示せるってんなら示してごらんなさいよ!! 魔女は私よ! 黄金の魔女ベアトリーチェは私なのよッ!!! 死ねぇえええええええええぇッ!!」
【戦人】「あああぁ駄目だッ全然駄目だああああああぁああああッ!!!」
魔女の喫茶室
【エヴァ】「んな、………何だ、……これは……。…こ、………ここは……。」
【戦人】「席に着け。俺の対戦相手はベアトじゃない。………てめえだ。」
【エヴァ】「……ば、…戦人…?! これは何の魔法なの?! どうでもいいわ、知ったことじゃない!! シエスタ姉妹ッ!!」
【45】「45了解、各個射撃!!」
【410】「410了解、死ね戦人ッ!!」
 シエスタ姉妹がそれぞれバラバラに黄金の弓を構え、黄金の矢を放つ。
 二人で同時に弓を引くのは精密に誘導する時だけだ。目の前の敵が相手なら、二人は同時に弓を放てる。そして威力は普段のそれと変わらないのだ。
【410】「なッ、………はは、弾かれたッ?!?! 結界はないよ、抵抗だけで弾いた…。よ、45、標的測定!!」
【45】「45了解…。…………ぇ、……ええぇ…?! こ、これは、……私が故障しているの? 狂っているの……? た、対魔法抵抗力、エンドレスナイン…。ひょ、標的は神話級魔法攻撃でも通用しませんッ!!」
 黄金弓の弾頭は、相互浸食によって如何なる魔法装甲をも貫通する。対魔法抵抗力でそれを防ごうとした場合、8桁あっても貫通は免れない。
 …ちなみに、神話に出てくる著名な神々の抵抗力でも、9桁に達する者はそう多くない。その為、それを計るには9桁あれば常識的に考えほとんどの数値は表示できる。…その9桁を、戦人は全て9で埋めてしまう……。
【ロノウェ】「……愚かな。本気の戦人さまの前に、魔法の矢など、髪の毛を揺らすことさえ及ばぬのに。」
 シエスタ姉妹が呆然としながら黄金の弓を落とす…。…当の戦人は、トンボが2匹、自分の脇を通り過ぎて行った程度にも思っていない。
【戦人】「…………何やってんだ、てめえら。遊んでるのかよ。」
【410】「…ひぃいいぃ…、…バ、……バケモノ……。」
【戦人】「雑魚は下がっていろッ!! 席に着け、この似非魔女めッ!! てめえのバケの皮は俺が剥ぐッ!!!」
【45・410】「「ひ、…ひいいいいぃいいい!!」」
 戦人の凄みに、シエスタ姉妹は恐怖を隠せず、弾かれるように後へ下がる。その光景を、ベアトリーチェは呆然と見ていた……。
【ベアト】「こ、……これは戦人、……何の、……真似なのか……。」
【戦人】「見ての通りさ。俺の対戦相手は、お前じゃない。そいつだッ!! そこにいる、お前の名前を騙る偽者さッ!!!」
【エヴァ】「ぐ…ッ!」
【戦人】「……俺は魔女と戦っている。…そして対戦相手に魔女を名乗る者を据え、そいつを打ち破ることで魔女を否定する。……てめえの傍若無人はたっぷり見させてもらったぜ。」
 そこで戦人は刃物のように鋭い目つきに変わり、残酷なる魔女を見据える。
【戦人】「……何が魔法だ。何が魔女だ。てめえは魔女じゃないッ!! 俺がバケの皮を剥いでバラバラにしてやるぜッ!! ワルギリア、戦闘準備だッ!!」
【ワルギリア】「了解しました。準備よし、いつでもどうぞ。……ベアトリーチェ。あなたは下がって休みなさい。」
【ベアト】「う、…うむ……。」
 ベアトは恐る恐る戦人を見る。…自分はまだ対戦相手だと認められていない。ゲーム盤を観戦する資格があるのかどうか…。
【戦人】「ベアト、下がって見てろ!! 俺が剥ぐッ!! この似非魔女を徹底的に分解してやるッ!! こんなヤツを魔女とは名乗らせられねぇ!! お前は本当の魔女の名誉を守ったッ!」
【ベアト】「わ、…妾は、その……、」
【戦人】「何も言う必要はない。黄金の魔女の名は決して安っぽくないってことを、お前に代わって教えてやらあッ!!」
【ベアト】「………ば、………戦人…。」
【ロノウェ】「大まかなルールは以上でございます。」
【エヴァ】「…………ありがと、ロノウェ。大体のルールはわかったわ。…なるほどね。魔法では勝てないから、魔法以外で決着できる世界で、私に一騎討ちを挑んで来たわけね。
 ……愚かな連中。屁理屈で私に勝てると本気で思ってるのねぇ?!」
【戦人】「あぁ思ってる。てめえの屁理屈を、俺が全て叩き潰してやるぜ、絵羽伯母さんよぉッ!!」
【エヴァ】「わ、私は絵羽ではないわ…!! それは私の古い抜け殻の名よ。私は彼女の内に生まれた本当の魔女…!!」
【戦人】「誤魔化すなッ、てめえの正体は魔女でも何でもない、生身の人間だ。人間の犯人だ、右代宮絵羽だ!!! ワルギリア、第二の晩を再構築ッ!!」
【ワルギリア】「了解。第二の晩は、薔薇庭園にて楼座と真里亞が殺されました。当方はそれを絵羽犯人説にて初手。」
【エヴァ】「はぁ? ばっかばかしい! さぁさ、お出でなさい、思い出して御覧なさい! 右代宮秀吉がどんな姿をしていたのかッ!!」
【戦人】「何ぃ? 何の真似をしやがった。」
【ベアト】「……死者の召還だ。魔女は証言台に、死者を立たせることも容易い…。」
 向こう側の透けて見える秀吉伯父さんが呼び出される。
 …まったく魔法っての便利なもんだぜ。ただ、こちらの状況は見えていないようで、まるでテレビの向こうの人物のようだった。
【エヴァ】「証人喚問。右代宮秀吉の証言よ。さぁさ秀吉、お話なさいな…!」
【秀吉】「……わしは部屋でずっと絵羽の看病をしとったんや。もちろん、絵羽が部屋を出るわけもあらへん。」
【戦人】「絵羽伯母さん。ここじゃ、赤くねぇ証言は屁の役にも立たねぇぜ。赤で再度の復唱を要求するッ!!」
【エヴァ】「あぁ、そうだったわね。いいわよ、赤で言ってあげなさい!」
【秀吉】わしはずっと部屋におったで事件の前後の時間帯は全てや。」
【エヴァ】「さぁほら。これで絵羽が犯人ってことはありえなくなったわよぅ?! どう返してくれるのかしら?」
【戦人】「馬鹿馬鹿しい。下らなさ過ぎて、欠伸が出る一手だ。……ベアトは一度たりとも、こんな子ども騙しな一手を打ったことはない。」
【ベアト】「………戦人…。」
【戦人】「復唱要求ッ!! “絵羽伯母さんも、事件前後の時間帯は全て部屋にいた”!! 秀吉伯父さんはただのアリバイ工作員だ。あんたは伯父さんに留守番をさせて、こっそり部屋を抜け出していたんだ。……そうでないなら、こいつが赤で言えるはずだぜッ!!!」
【エヴァ】「ふ、復唱拒否…! 秀吉の証言だけで充分よ!! それを復唱する必要はないでしょう?!」
【ワルギリア】「……降りてきましたね。容赦は無用です。これでチェック。」
【戦人】「あぁ、いただきだぜ、チョロイ相手だッ!! チェック!! 秀吉伯父さんは終始部屋を出なかったろうさ。しかしあんたを看病していたというのは、真っ赤な嘘だ!
 よって、あんたのアリバイは存在しない!! あんたには部屋を抜け出して楼座叔母さんたちを殺すチャンスがあった! かわせるってんなら、赤で“絵羽伯母さんは部屋から一歩も出ていない”と宣言してみろッ!! 出来ねぇだろ? チェックメイトだッ!!!」
【エヴァ】「な、………何よそれ……! わ、……わけがわかんない…!!」
【戦人】「悪いな伯母さん。……例えルールに不慣れであっても、全力で叩き潰すのがこのゲームの流儀だぜ。……なぁ、ベアト?!」
【ベアト】「う、…うむ…。」
【ロノウェ】「魔女側、リザインでございます。次のゲームに進みましょう。続きますは、第四から第六の晩でございます。」
 魔女は勝手がまだわからないらしく、イライラと落ち着きなくしている。訳がわからない内に一本取られたことにも、腹を立てているのだろう。…だが、俺は一切の手加減をしない。ヤツが、犠牲者たちに一切の手加減をしなかったように、俺も一切の手加減をしない…!!
【戦人】「ワルギリア、次の事件だ! 親父たちの事件を再構築!!」
【ワルギリア】「了解。留弗夫、霧江、秀吉の3人は、屋敷へ向かい、そこで殺されました。」
 ベアトの心臓とは、事件の核心の暗喩。この描写は、絵羽が紗音(ベアト)に詳細を問い詰めていることを暗示している。
 絵羽は、この時点では紗音が譲治を殺したことを察しており、意図的に急所を外して撃つことで痛めつけ、動機等、洗いざらいを聞き出そうとした。
 しかし紗音は、絵羽が生還しても魔女であり続けるため、痛めつけられてもなお、真相の自白を拒否した。
【戦人】「俺からの指し手は変わらない。絵羽伯母さん、あんたが犯人だッ!! 今度は秀吉伯父さんのアリバイすらねぇぞ!! あんたはたったひとりで部屋で寝ていたと主張している。しかしそれは虚偽だッ!!! 赤で宣言できるものならしてみやがれッ!!」
【エヴァ】「……拒否するわッ。…なら教えてよ! 絵羽はただの女よ。そして殺されたのは、銃を2丁も持つ大人が3人よ? 彼女がたった1人でどうやって殺したというの? 凶器の杭でどうやって? 話によく出る、杭の射出機ってどんな構造をしているのよ?!
 それを説明してよ!! それが説明できない限り、絵羽にアリバイがないとしても、絵羽に殺人が可能だったことにはならないわよ!」
【戦人】「説明拒否ッ!! “悪魔の証明”だ! 説明不能だからといって、未知の殺害方法、もしくは未知の凶器の存在を否定できない!!
 つまりッ!! 俺が杭の射出機の構造を説明できなくても、その存在を否定することにはならない!!」
【エヴァ】「なッ、何よそれぇ!! そんな滅茶苦茶って通るの?!」
【ロノウェ】「……“悪魔の証明”、有効です。」
【ワルギリア】「同じく。“悪魔の証明”、有効です。……戦人くんは、その射出機の構造を説明する義務を負わずに、その存在を主張できます。魔女側はこの手を反論できません。」
【ベアト】「……や、やるではないか…。何と強引な…。」
【戦人】「へ! どこぞの性悪魔女に、たっぷり鍛えられたからな。これでチェックだぜ?! 絵羽伯母さんが、部屋から一歩も出てないと赤で言ってみろ!!
 そうさ、言えるはずはないのさ! 言えないならば決まりだぜ、チェックメイトだッ!!」
【エヴァ】「……な、……何て暴論………! こんなの、…滅茶苦茶よ…!」
【ロノウェ】「そういうルールのゲームでございますので。…まずは紅茶でもいかがですかな? おいしいクッキーもございますよ。」
【エヴァ】「いらないわよそんなの!! あぁ、イライラするわぁ…! 魔法で勝てないからって、こんな卑怯な戦いで…!!」
【戦人】「イラつくなよ。紅茶でも飲めよ。俺はストレートでもらうぜ。ベアトは?」
【ベアト】「わ、…妾は良い…。………それより戦人、油断するな。向こうがルールに不慣れなだけだ。…向こうが要領を掴んでからが本番だぞ…。」
【戦人】「だが潰す。徹底的に潰す。なぜならヤツは魔女ではないからだ。
 あいつを魔女だと認めたら、……お前の通した意地が通らない! 如何なる暴論であろうと屁理屈であろうと、俺が全身全霊で叩き潰すッ!!」
 続けて戦人側は、蔵臼と夏妃の、第七〜第八の晩についても、まったく同様に絵羽犯人説で貫き通す。
 当時、ゲストハウスの1階には絵羽と犠牲者しかいなかった。…例によって、絵羽のアリバイを証言できる人間はいない。当時の絵羽は、化粧室に行っている間に彼らが失踪したと主張するが、それを裏付けられるものは何もなく、魔女側も赤でそれを復唱できない。
 魔女側は、射出機の構造を聞いてきたのと同じ論法で、単独の絵羽が、如何にして二人を同時に絞殺できたのかとその方法を問い返すが、戦人はもちろんこれを“悪魔の証明”にて豪快に説明拒否で切り返す。
 戦人の疾風怒濤の勢いの前に、魔女側は完全に飲み込まれ、ルールを把握しようとするわずかの間に、三度ものリザインを喫してしまう…。
【エヴァ】「………くっひひひひひゃっひゃっひゃ…。ふん、なるほどねぇ! ようやくコツがわかってきたわ。もうあんたの思い通りにことは運ばせないわよ! 今度は私から仕掛けさせてもらうわ。ロノウェ、第四〜第六の晩を再構築! 右代宮霧江をピックアップ! ……ここで一度、第四〜第六の晩の、留弗夫、霧江、秀吉の殺人に話を戻させてもらう。」
【ベアト】「……あ、…あやつめ。一度はリザインした局面をなぜもう一度。」
【ワルギリア】「なるほど…。…あなたが指さない、珍しい攻め手です。注意して。」
【エヴァ】「当時、生存者たちはゲストハウスへ篭城していたわ。食料がなかったけれど、彼らは安全を考え、翌日まで食事を抜く覚悟さえあった。……けれど、結局、3人は食料を求めて外へ出るわ。」
【戦人】「………そうだな。結局、3人は食料を取りに表へ出る。」
【エヴァ】「面倒だから赤を交えて語るわよ。霧江は食料はいらないと考えてた。一日くらい食事を抜いても死なないのだからと、ゲストハウスを出ないべきだと主張していた。にもかかわらず彼女は自ら、食料を取りにゲストハウスを出ようと提案する。………これは矛盾しない?」
【ロノウェ】「はい、見事に矛盾します。霧江の行動式に矛盾します。」
【エヴァ】「その矛盾は、“私が魔法で作り出したの”! つまり、私が魔法で霧江を操って、そう言い出させて生贄たちが外出するように誘導した!!」
【戦人】「ば、馬鹿馬鹿しいッ! そんな魔法、あるわけがねぇ!!」
【エヴァ】「“悪魔の証明”よぅ?! 戦人くんが知らない魔法だからと言って、存在を否定することにはならない! そしてその魔法を、私は実演する義務も負わない。それでいて、さらにあなたには反論の余地もない!! ………くすくすくす! こういう戦い方でよろしいのかしらぁ。」
【ロノウェ】「はい。実にお見事な一手です。……戦人さま、受け手をお願いいたします。」
【戦人】「おかしな論法に持ち込んで来やがったぜ。…つまりどういうことだ。」
【ワルギリア】「右代宮霧江の行動式に対して駒を打って来ました。…すでに説明がある通り、霧江は食料を屋敷に取りに外へ出るべきではないという行動式を持っていました。にも、かかわらず、彼女は率先して、食料を取りに行こうという矛盾した行動を取ります。この矛盾が説明できない限り、それを魔法であると主張する暴力的な手です。」
【戦人】「…そりゃ、最初は霧江さんもそう考えてたんだろうよ。しかし多分その、…途中で色々と考えて、やっぱり食料は必要だろうと心変わりしたってことなんだろ…。いざという時、空腹で力が出ないってんじゃ意味ないだろうし、…まぁその…。」
【ワルギリア】「……その心変わりが魔法によるものだと主張しているのです。つまり、…非常に困難なことですが、霧江が心変わりした理由を説明しなければならないのです。」
【戦人】「な、……何だって…。…そんなの、霧江さんの頭の中の話だろ…。こっちにも、霧江さんの霊を召還して質問するとか出来ないのかよ?! ベアト! お前、霧江さんを呼び出したりできないのかよ?!」
【ワルギリア】「出来ません。それは魔女側のみに許されている手です。」
【ベアト】「す、……すまぬ…。」
【戦人】「……ああぁぁ、クソ!! 多分だな、その、……俺たち子どものことを考えてその、…やっぱり食料は必要だろうと総合的に考えて…。」
【ワルギリア】「それを客観的に主張しなければなりません。…霧江が、ある理由により食料がやはり必要であると心変わりした具体的な証拠が必要です。……例えば、そう証言したのを誰かが聞いたとか、何かに書き残したとか。」
【エヴァ】「残念だけど、その心変わりの理由は、誰にも語られておらず、また記されてもいない! よって、霧江の頭の中で何があったのか、あんたには憶測することしかできないの! つまり証明は不能ッ!! 私の手に対し、あなたは一切の反撃の一手を持たない! 今度はあんたがリザインする番なのよぅ、戦人くぅん…?!?!」
【ワルギリア】「……心変わりの理由など、無限に想定できる。そして、その無限の可能性を全て潰しきることは不可能。」
【ロノウェ】「憎々しいほどに、見事な一手でございます。………戦人さまにこれを切り返す方法があるとすれば、…多分、あの手だけかと。」
【ベアト】「そ、……その手とは何なのか…?」
【ロノウェ】「……さて。どのような手でございましょうね。お嬢様の得意な手だったような気もしますが、私は思い出せません。」
【ベアト】「………………く…。ケチケチしないで話せ…!」
【ワルギリア】「ベアトリーチェ。自らの思考を停止させる者に与えられる答えはありませんよ。…考えなさい。あなたなりの考えで!」
【エヴァ】「とっととリザインしたらぁ? ついでにさらに赤で追い詰めてあげるわ。霧江はね、死ぬ最後の瞬間まで“食料を取りに行かない=屋敷に行かない”という行動式を維持していたわ! にもかかわらず、率先して屋敷へ向かったわ。台車を押して食料を運ぼうとしたわ。その矛盾はなぜ?
 ……私が魔法で操ったからッ!!! これこそが私の魔法が実在し、私が魔女である証拠なの!!」
【戦人】「……………うるせえ黙れ…!! こ、…心変わりでさえないって言うのか?! ……霧江さんは、死ぬまでずっと、食料はいらない、屋敷には行かないと思ってた? なら、何で自分から進んで食料を取りに行こう、屋敷に行こうなんて言い出すんだ…!!
 魔法で霧江さんが操られていたって言うのか?! そんな馬鹿な…!! どうやって、…どうやってこの魔法を打ち破ればいいんだッ?!
 …霧江さんがここにいてくれて、一言、心変わりの理由を言ってくれれば…。いや、心変わりすらしてないと、ヤツに赤で言われちまった…! どうすりゃいいんだ…!! 人間側には反撃できる一手がねぇ!!」
【エヴァ】「このゲームって、知れば知るほどに魔女に有利なルールよねぇ? たとえ、いくつの局面で負けたとしても、たったひとつだけ勝てれば、それだけで魔女は存在を誇示できる。」
【エヴァ】「……つまり、戦人くんには完全勝利以外に魔女を否定する方法はないの! ここまで私のことをさんざん絵羽呼ばわりして追い詰めてきたつもりのようだけど、あなたの尊敬する霧江さんひとりの頭の中の話だけで、全てが引っ繰り返っちゃうなんて、実に滑稽よねぇ?!
 くっくくくくくくくく、あっはははははははははは!! しちゃいなさいよぅ、リザイン!! 認めちゃえば? 負けちゃえばぁ?!」
【戦人】「………くそぉおおおぉおぉぉ…。人間には証明不能だ…。死者が何を思って行動したのか、なんて推測の域を出ない。しかも、推測程度じゃ魔法を否定できない。…魔法を打ち破るためには、霧江さんがどうして心変わりしたのか客観的な証拠を…。
 ……でも畜生、どうして食料が欲しいと心変わりしたのか、その証拠は存在しないと赤で言われちまってる…。……どうすりゃいいんだ、畜生畜生…!!!」
【ロノウェ】「………戦人さま。リザインで、よろしいですか?」
【戦人】「………………………く………ッ。“食料を取りに行かない=屋敷に行かない”。でも実際には矛盾したこの霧江さんの考えを、どう理解すればいいんだ……!」
【エヴァ】「理解なんかできないわよ!! 理解不能、解釈不能!! その闇は全て魔女のものだもの! さぁさ、考えても無駄よ、おやめなさい?! あなたに魔女を否定することなんて出来やしない! だって私はこうして存在するんだもの。
 私こそは黄金の魔女!! そこにいる元の魔女から、名前を奪い取った!! あなたに私がベアトリーチェであることを否定など出来ないのよッ!!!」
【戦人】「くそっぉおおおおおおおぉおぉぉぉ…!!! その名を語る資格は貴様にねぇ…! ……なのに、……それを否定する手が思いつかねぇ………!!!」
 勝ち誇ったような、狂った笑い声をあげる魔女に、もはや戦人は反撃が出来ない…。諦めたくないが、手が出ないのだ。ばりばりと歯軋りしながら、両の拳を握り締める。……だが、それでもなお反撃の妙案は出ない…!
【ロノウェ】「戦人さま。……制限時間を切りますが、リザインでよろしいですか……?」
【戦人】「くっ、……うおおおおおおぉおおおおぉぉぉ……!!!」
【ワルギリア】「………人間側、受け手がありません。リザインをしま
【ベアト】「待て! ……は、反撃の手は、……ある。」
【戦人】「な、……何だって…。」
【エヴァ】「へぇ?! どんな手があるっていうのよ、先代さまぁ?! このベアトリーチェの魔法を、どんな手で否定できるのか、教えてくださるぅ? できないわ、そんなこと不可能よ!!」
【ベアト】「……“食料を取りに行かない=屋敷に行かない”という命題を、それ単体で説明できないなら、……妾はそれを対偶で説明する。つまり、“それでも屋敷に行った=食料以外の目的で”とも説明できるのではないか。
 ……こ、これは妾の得意手の“ヘンペルのカラス”というよりは、……戦人の得意手の“チェス盤思考術”よ。……霧江が食料を目的に屋敷に行くことがありえないなら、それでもなお霧江が外へ出る、他の目的があったと説明するしかない。つまり、その目的が証明できれば、魔法は否定できる…!」
【戦人】「な、なるほど…。食料を目的に屋敷には行かないが、他の目的があって、それを偽るために、食料を取りに行こうと言い出したわけか…。
 ……た、…確かにそれなら説明がまだ可能かもしれない。……しかし、……どうやって?!」
【ベアト】「お師匠様、霧江の死亡現場の再構築を…! 霊の召還は出来ぬが、死体の検証は人間側の権利のはず…。」
【ワルギリア】「えぇ、問題ありませんよ。右代宮霧江の死亡現場を再構築します。私たちは霧江の霊を呼び出すことはできないけれど、霧江が何を残したかを知ることで、それを武器にできるかもしれない。」
【エヴァ】「は、ははははははははは!! いいわよぅ、好きなだけお調べなさいよ!! 何もわかるわけがない! さっきも赤で言ったわよ。霧江は何も書き残してはいない! 何を見つけたところで、何もわかるものか!!」
【ベアト】「………何も見付からないかもしれない…。……でも、……戦人は歯を食いしばって、そなたを打ち破る一手を思いつこうと戦っておる。………妾に出来ることは、こんな程度しかない……。」
玄関ホール
 ベアトは再構築されたホールに降り立ち、倒れている霧江の遺体に近付き、うろうろと観察する。
【ベアト】「ニ、ニンゲン側の戦い方は今ひとつ勝手がわからぬ…。………確か、物証が必要だったか…。……なれば、何を探せばいいのか。」
【エヴァ】「大ベアトリーチェ卿ともあろうお方が、床に膝を付けて、這い回って! みっともなく死体漁りとはねぇ? くっくくくくくお似合いな姿だこと…!!」
【ベアト】「…何とでも言うが良い…。……妾にはこれくらいしか出来ぬ…。……何を蔑まれようと構わぬ…。………だが、妾の名誉のために戦うと言った戦人を、妾は捨て置けぬ…。……地を這い、死肉を漁ることになろうとも、……その義理に応えねばならぬのだ…。」
 ベアトは魔女の嘲笑を浴びながら、霧江の屍を漁る。……ポケットを漁り、中の物を取り出して床に並べていく…。床に並んだのは、……ハンカチ。化粧紙。自宅の鍵。航空券の半券。ライター。煙草の吸殻。百円玉が1枚…。
 特別、不審なものはない…。ベアトが四つん這いになって、嘲笑われながら見つけたものはそれで全てだった。
【エヴァ】「あっはははははははははははは!! なぁにその貧相なガラクタはぁ?! それでどうやって私の魔法を打ち破るって言うの?! 下らない下らない馬ッ鹿みたぁい!! 勇ましいことを言って割り込んでおきながら、その体たらくは何なのぉ?! あぁ情けない恥ずかしい!! ヘソ噛んで死んじゃえばぁ?!」
 魔女はげらげらと笑い転げてベアトを詰る。…ベアトは屈辱に耐えるように俯く。
【ロノウェ】「…お嬢様。検証は充分ですか?」
【ベアト】「………う、……うむ…。…これ以上、……何も見付からぬ…。」
【ワルギリア】「以上の物証から、何か反論の一手は出ますか? 出なければ、人間側、リザインせざるを得ません。」
【ベアト】「……………………くぅ………。」
【エヴァ】「当り前でしょ、何も反論の余地なんてないのよ!! 私は魔女だもの。私の魔法は打ち破れない!! あんたはもはや元魔女でしかないのよ。ベアトリーチェを名乗ることも許されなくなったただの負け犬なのよ!! さぁ、そのゴミやガラクタを好きに積み重ねて、私の魔法を打ち破って御覧なさい!!
 …出来ないでしょう? 出来ないわよねぇ? くっひひひひひッ、それはなぜ? 私が魔女だからよ。…あんたは名前さえ持たない負け犬だからよ!! くっひっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃッ!!!」
【ベアト】「………何か、…………何かあるはずなのだ……。………挫けぬ…。……挫けぬぞ……。どれほど嘲笑われようとも……、妾の名誉のために戦う戦人の、……戦人の名誉のために、…挫けるものか………。」
 ベアトは浴びせ掛けられる屈辱の言葉に、涙を堪えながら、他にも何か霧江が持っていないか、……戦人の窮地が救える何かが見付からないか、……懸命に探す。…しかし、もう何も出てこない……。
【ベアト】「……………くそぉ……。……頼む、……右代宮霧江……。そなたの息子の窮地を、そなたが救わぬわけがない……。………頼む、……死してなお、あやつのために力を貸してくれ……。」
 だが、霧江の遺体がそれに応えることはない。……死体が黙して語らぬのは当り前。無限の魔法を失ったベアトに答える死者など存在したりはしないのだ…。
【エヴァ】「無駄よ、無駄無駄あぁ〜。 死者を弄べるのは魔女だけの特権よ。魔女でもなく、そしてニンゲンですらないあんたに、力を貸してくれる者なんて、どこにも存在しないッ!!
 あんたは永遠にひとりぼっち!! 魔女にもニンゲンにも味方はなく、誰もあんたを助けてなんてくれないの! 悔しければ泣いちゃえばぁ?! 役に立てなくてごめんなさいって、詫びちゃえばぁ?! あっはははははははははははッ!!」
【ベアト】「……………すまぬ、…戦人………。…妾では、……何もそなたの力に、…なれぬ……。」
【戦人】「…………………………。……いいや、充分だ。……ありがとうベアト。お前の努力を、俺は無駄にしない…。」
【ベアト】「な、慰めなどいらぬわ…! このガラクタの山で一体、何を反論できるというのか…!! あやつに嘲笑われてまで掻き集めたこのガラクタが、どうやって一矢報いれるというのか…!」
 戦人は床に四つん這いになったまま、霧江の遺品の山を握り拳で叩き付けるベアトの前に、自らも屈む。そして、……労うようにその肩を叩いた後、……その手を、床に向け、煙草の吸殻を摘み、空にかざすように突き上げる。
【ベアト】「………その、ゴミが何だと言うのか…。」
【戦人】「霧江さんは煙草を吸わない。」
 しかし霧江はライターまでも持っている。確かに煙草の箱自体を持ってはいないが、それはとても自然で、一見すれば霧江に喫煙の習慣があるように見える…。
【戦人】「…親父は吸ったが、霧江さんは吸わなかった。…でも、親父の煙草に火をつけるために、ライターだけは持ち歩いてたんだ。」
【エヴァ】「はッ! だから何だと言うのぉ? 夫が煙草を吸うんなら、たとえ吸わなくても妻が煙草を持ってたとしても不思議はないわぁ。あるいは、喫煙マナーの悪い夫の捨てた吸殻を拾っただけかもねぇ? それが何だって言うの? 私の魔法とどう関係があるっていうの? 何もありゃしないッ!!!」
【戦人】「さらに言おう。…こいつは、親父の吸ってる煙草の銘柄と異なる。……すまないがベアト。親父の遺体の懐を見てくれるか。」
【ベアト】「………………う、…うむ。……これか…?」
【ワルギリア】「……銘柄を確認。吸殻と銘柄が異なります。…霧江が持っていた吸殻は、留弗夫の吸う煙草の銘柄ではありません。」
【エヴァ】「だからどうしたというの? 霧江は綺麗好きのいい子だから、落ちてる吸殻を許せず拾っただけかもしれないじゃないぃ? 私は嫌だけど!!」
【戦人】「……ベアト、すまんがもう一人頼む。…秀吉伯父さんの懐だ。………親族で煙草を吸うのは親父と秀吉伯父さんだけなんだ。」
【ベアト】「あ、……あったぞ…! これか……?」
 ベアトが秀吉の懐より煙草の箱を見つけ、その中身の一本を抜いて差し出す。
【ワルギリア】「……銘柄を確認。吸殻は秀吉の吸う煙草の銘柄と認めます。」
【エヴァ】「だッ、だから何だと言うの!! 秀吉の吸殻が霧江のポケットから見付かると、私の魔法がどう破られるっていうのよぉおおおおおぉお!!」
魔女の喫茶室
【戦人】「……………そうさ。この吸殻が霧江さんのメッセージだ。いや、……この吸殻こそが、霧江さんがゲストハウスを離れた理由なんだ。ベアト、ありがとう。……お前がこいつを見つけてくれなかったら、俺はここで屈していた。
 …………ワルギリア!! 状況を再構築! 第二の晩、楼座叔母さんたちが殺されたことが発覚した後のゲストハウスだ!!」
【ワルギリア】「了解。再構築します。……楼座、真里亞の死亡後、残った生存者はゲストハウス内全ての戸締りを再確認。バリケードを構築。篭城の結束を再確認。」
【エヴァ】「何も不審なところなんかないじゃなぁい。何が言いたいの。第四の晩以降の話をしているのに、何で第二の晩の直後を蒸し返すのよ…!」
【戦人】「親父は携帯吸殻入れを持ち歩いてる。霧江さんが、わざわざ自分のポケットに吸殻を入れる理由が、ようやく見えてきた。
 …………その吸殻に意味があるからさ。その吸殻こそが、霧江さんが俺たちに残したメッセージだ…!!」
【エヴァ】「き、聞こうじゃない!! その吸殻1本で! どうやって私を否定してみせるというの!!」
【戦人】「……聞いての通りだ。第二の晩以降、ゲストハウスでは全ての部屋の点検が行なわれた。………この時、霧江さんは、あってはいけない場所に、あってはいけないものを見つけたんだ。」
【ベアト】「あ、……あってはいけないもの…? ……とは、何なのか。」
【戦人】「こいつさ。この吸殻さ。こいつが、秀吉伯父さんのいた客室の灰皿に置かれていたんだ。」
【エヴァ】「はぁッ?!?! 灰皿に吸殻があって、どうおかしいってのよぅ!! おかしいのはあんたの頭の方じゃないのぅ?!」
【戦人】「絵羽伯母さんは大の煙草嫌いだッ!! その伯母さんが体調を崩して寝込んでるのに、吸殻があるわけがないんだッ!!!
 しかし、灰皿には吸殻があった。それを見た霧江さんはすぐに気付いたんだ。……秀吉伯父さんは嘘をついている。本当は絵羽伯母さんは寝込んでなんかいなかった、…部屋を抜け出していたんだと気付いたんだッ!!
 復唱要求ッ!! “この吸殻は絵羽伯母さんたちが休んだ部屋の灰皿で揉み消された!”」
【エヴァ】「………きょ、……拒否するわ…!」
【戦人】「ようやく掴んだぜ………。ありがとうよ、ベアト。」
【ベアト】「わ、……妾は、……役に、…立てたのか…?」
【戦人】「ああ、そうさッ!! 剥ぐぞッ、俺たちで似非魔女のバケの皮を剥いでやるッ!!!」
 霧江はその吸殻から、秀吉が絵羽の偽のアリバイを作っていることに気付いた。秀吉はアリバイ作りを頼まれて留守番をし、…その間、その緊張感に耐えかねて、煙草を吸ったのだ。
 そして霧江はそれを留弗夫に打ち明けた。絵羽が犯人で、秀吉がその片棒を担いでる可能性が高いと打ち明けた。
【戦人】「………そして霧江さんは、食料を取りに行こうと提案する。そして秀吉伯父さんにその手助けを頼むッ!! これが意味するところはただひとつだ。
 霧江さんは、秀吉伯父さんを隔離して、真相を問い詰めるつもりだったんだッ!!」
【ロノウェ】「“ヘンペルのカラス”、有効です。魔女側は、この一手を迎え撃てない限り、霧江を操ったと称する魔法の存在が否定されます。」
【エヴァ】「なッ、何ですってぇえええぇええぇ?!?! ひ、否定するわよ、とにかく否定するわよ…!! 私じゃないわ、ううぅん! 右代宮絵羽じゃないわ、絵羽は部屋で寝てたのよぅッ!!!」
【戦人】「ならば言ってみろ。あぁ言えやしないさ! 今度だって言えやしないさッ!! 復唱要求ッ!! “右代宮絵羽は、その時、部屋から一歩も出ていない”!!」
【エヴァ】「何なのよこれぇえぇ?! 攻めていたのは私でしょう?! 何で私が攻められる側になってるの?! いつの間に攻守が逆転してるのよ?! 問い詰めてるのは私なのよッ?! この魔女である私が、なぜにぃいいいいぃッ!!!」
【戦人】「繰り返すッ!!!! 復唱要求ッ!! “右代宮絵羽は、部屋を出ていない”!! 言えるわけがねぇんだ、チェックメイトだああああぁあああぁあッ!!」
【ロノウェ】「魔女側、受け手、ありませんか?」
【ワルギリア】「……あるわけがない。虚実にて着飾った偽の魔女に、受けられる真実など、ありはしない。」
【戦人】「本当の魔女を、貴様に名乗る資格はないッ!! 貴様は黄金の魔女じゃない! 貴様は人間! 右代宮絵羽だぁああああああぁあああ!!」
【エヴァ】「ううおおおおおおおおおおおおぉおおおおぉおおぉぉぉぉ!!」
 魔女は咆哮する。己の魔術と存在を否定する凄まじき熱量に全身を焼かれ、竜の如き咆哮で吼え猛った…。
 その体は明滅を繰り返し、時折、絵羽の姿と魔女の姿を重なるようにちらつかせた。しかし、咆哮はその明滅を飲み込み、…再び元の、残酷なる魔女の姿を取り戻させる。
【エヴァ】「……くっくくくく、…くっひっはっははははは…。…いいわぁ。…私のことを、右代宮絵羽と呼びたければ呼べばいいのよぅ…。
 ……そうよ、確かに私は右代宮絵羽が犯人であることに対する指し手の全てを、撃退することができない。……私は黄金の魔女を引き摺り下ろされ、…今や、右代宮絵羽と呼ばれているかもしれない…。
 ……でもね、だからって魔法と魔女の存在が否定されたわけじゃない!! …私が今から教えてやるわ…。私が右代宮絵羽などではなく、ニンゲンなどではなく、……本当の魔女であることを、今から教えてやるわ…!!! 見なさい、この赤き事実を!!」
 魔女が手を打つと、ゲーム盤の世界の時が進行する。
 朱志香の名前を呼びながら、戦人と絵羽が客間の前に駆けてくる。…彼らは使用人室へ行き、南條の死体を見つけたため、姿の見えなくなった朱志香を探していたのだ。
【戦人】「………それが、どうしたってんだ。……何が言いたい。」
【ベアト】「ま、………まさか…。……まずい……。」
 ベアトが青ざめる。…邪悪なる魔女が打とうとしている一手が、ベアトをして青ざめるほどのものであることを物語る…。
 戦人の推理でほぼ正解だが、あの場に絵羽が突然現れた場合、留弗夫と霧江に警戒されてしまうため殺害は困難。
【エヴァ】「今度こそ。……言い逃れの出来ぬ、致命的な一手をあなたに。…いえ、あなたを応援する全てのニンゲンどもにくれてやるわ。心して聞きなさい、私の一手を。」
【ベアト】「や、……やめよ…、その一手は………!」
【戦人】「ベアト、下がれ…!! 俺は受けるぞ! 来い、似非魔女めッ!!」
【エヴァ】朱志香負傷後。絵羽は常に戦人の監視下にあった。戦人は犯人でもなく共犯者でもない。よって、絵羽の完全なアリバイを証明できる。」
【戦人】「な、……何ぃ……………。」
【エヴァ】「あんたを。ニンゲンを。……絶対に逃れられぬ赤き結界にて封じて殺す。さらばだニンゲンどもよ。出口なき絶対の魔法密室にて、永遠に眠るがいいわ。……さぁ、心して聞きなさい。赤き真実を。」
 この島には19人以上の人間はいない。謎の怪人物が隠れていて犯行を、等という愚かしい考えは捨てなさい。
 …でも、こういう言い方をすると、動物の犯人も疑えるわね。殺人を仕込んだオランウータンは人間にはカウントされてないなんて屁理屈を言われちゃ敵わない。なら、こう言い換えるわ。
 人間以外の生命は一切、このゲームに関係がない。というわけで。次に、この島に存在する18人の状況を全て説明するわ。
 金蔵は死亡している蔵臼は死亡している夏妃は死亡している秀吉は死亡している譲治は死亡している留弗夫は死亡している霧江は死亡している楼座は死亡している真里亞は死亡している源次は死亡している紗音は死亡している嘉音は死亡している
 郷田は死亡している熊沢は死亡している南條は死亡している以上、15人は死亡
 そして。戦人は生存している絵羽は生存している朱志香は生存している。これで18人全員!
【エヴァ】「よって、最後の犠牲者である南條の死亡時、戦人と絵羽と朱志香の3人だけが生きていたことはわかるわよね?」
【戦人】「………な、……何だと…。……き、……貴様、…まさか…………。」
【エヴァ】絵羽はあなたとずっと一緒にいたわ。だから犯行は不可能。もちろん戦人くんは犯人じゃないわ。アリバイ偽装なんてしてないし、彼女が犯人の可能性も考慮していたから、その行動は用心深く見張ってた。彼女には、不審なことをできるあらゆる可能性が存在しなかった! つまり、犯行時の使用人室には、南條と朱志香しかいなかったのよ。」
【エヴァ】「……となると、読めてるわよ。あなたの一手はこうよね? 朱志香が犯人の可能性もあると! しかし残念ねぇ、先に赤で叩き斬ってあげるわよぅ!!」
【エヴァ】右代宮朱志香は殺人を犯していない! 南條殺しにかかわっていない!! 彼女の目は完全に塞がれている。その彼女に殺人を行なうことは不可能よ! さらにオマケしてあげるわ。絵羽と戦人も南條を殺していないし、かかわってもいないッ!!」
【戦人】「ちょ、ちょっと待ちやがれ!! それじゃあおかしいじゃねぇか!! 3人しか人間がいなくて、それで殺人が起こって、……その3人がかかわってないなんて、そんなのおかしいッ!!」
【エヴァ】「はっきり断言してあげるわぁ。南條を殺した犯人は、戦人でも絵羽でも朱志香でもない!! つまり、生存者の中にはいないということよね。おわかりぃ?」
【戦人】「いやその、………そ、そうだ! 二重人格とかはどうだ…! 元々お前が絵羽伯母さんのもうひとつの人格であったように、……例えば、朱志香にもうひとつの、魔女的人格があって、それが“朱志香以外”を名乗って南條先生を殺したとか…!!」
 屈指の難問、南條殺し。ベアトは青ざめる演技をしているが、実際はエヴァもベアトの駒であり、意図して言わせている。
【エヴァ】「愚かね。すでに赤で語っているわ。朱志香の目は完全に塞がれていて、彼女に殺人は不可能! 彼女にどんな人格が憑依しようとも、彼女の肉体では殺人を行なえないの! それともこう言えば満足するかしら? 朱志香の身体が起こした如何なる動作も、南條の殺人には関係・影響しない! この適用を戦人と絵羽にも広げるわ。つまり、どう足掻こうが解釈しようが! 朱志香と戦人と絵羽は、南條を殺した犯人ではない!」
【戦人】「ふ、…ふざけるなッ!!! だって、他はもう全員、確実に死んでるじゃねぇかよ!! なら……あとは残るのは、……南條先生の自殺説だけじゃねぇか! あとトラップ説! 犯人はすでに死亡しているが、過去に仕掛けておいたトラップが発動して…。」
【エヴァ】南條は他殺よ。…もちろん、トラップではなく、直接的な殺害方法よ凶器を構え、それにて真正面の至近距離から殺した! 犯人は、南條の目の前に堂々と現れ、そして互いに顔を見合わせながら、殺害したのだ…!!」
【戦人】「だから待てよッ!! 生存者は3人しかいない! それ以外は全員死んでることはお前が赤で語ってる! つまり、18人全員の生死が確定してる。しかも19人目は存在しないと予め赤で否定済みだ…!!」
【戦人】「つまり、生存者3人以外には存在できないッ!! なのに、その3人以外の4人目が、南條先生の前に現れてる!! 19人目は存在しないのに、どうして俺たち以外の人間が現れて、南條先生を殺害できるんだッ?!?! おかしい!! お前は嘘をついている!! 赤字で嘘をついているッ!!!」
【エヴァ】赤は真実のみを語るッ!!! それを疑うことは即ち、貴様の後で妾に怯え萎縮しその背に隠れる、その魔女の名誉を裏切ることになるわよぅ?!」
【戦人】「く、………くそ…………!!!」
【エヴァ】「はっきりと。今こそ、言い切るわ。……南條の前に現れし私こそ。魔女なのよ。……18人の人間では説明できない、黄金の魔女なのよッ!!」
【戦人】「ワ、ワルギリア! ロノウェ…!! 状況は矛盾していないのか?! やつは本当に赤で真実を語っているのかッ?!」
【ロノウェ】「……はい。“赤き真実”、有効です。」
【ワルギリア】「…………何という、……緻密かつ精密な詰め……。」
【戦人】「こ、……こいつを、どう手を打ちゃいいんだ…。ワルギリア…! 何か手はないのか……?!」
【ワルギリア】「………………私には、…何も思いつきません…。」
【戦人】「…ロノウェは?!」
【ロノウェ】「……………………。………申し訳ありません。……しかし、この千年。…これほどまでに、……精密なる美しい盤面を見たのは、…初めてです。」
【ワルギリア】「…………悔しいですが、……………美しい………。……何て、……美しい赤による、……チェックメイト……………。」
 魔女の師匠と悪魔の執事は、ともに呆然とした、…それでいてどこか恍惚とした表情を浮かべる…。
 ………降参どころか、…感服する他ない、完璧なチェックメイトだと、…感嘆しているのだ…。人は、心の底から敗北を認める時…。そこには未練も屈辱も生まれない。……ただただ尊敬の念しか生まれない…。
 俺には、………もう、何が何だか、……わからない。ヤツの赤には、一切の隙がない。
 15人全員の死亡を赤で語った。18人以外に存在しないと赤で語った。つまり、俺と朱志香と絵羽伯母さんの3人しか、存在しない。
 そしてその3人全員が犯人ではないのに、南條先生が殺された。そして南條先生は間違いなく他殺で、真正面から堂々と“そいつ”に殺害された…! そして“そいつ”が、魔女だと、……言うのか………!!
【エヴァ】「南條を殺した犯人は、動物などの類ではないわよ。それはすでに赤で宣言済みよ? 人間以外は一切、考慮から外しなさい。ロボットなんかも駄目よ。
 人間以外の一切の要素は、このゲーム盤に関与しない! ゆえにこうも言えるわね。南條を殺したのは、確かに人間である
 地に足の付いた人間が、凶器をかざし、それにて殺した! 眼前にて! ただし、その人間は魔法が使えたかもしれないわ。……それは即ち、魔女だったということ。
……それがつまり、この私。黄金の魔女、ベアトリーチェ!!」
 ……戦人は、…歯軋りをしながらも、………がくりと、膝をつく。魂はまだ屈服を拒否している…。……しかし、…膝はもう、……屈服を受け入れ始めているのだ……。
【エヴァ】「くっひっひひひひひひひひひ! 跪いたわね…? そうよ、あなたはもう理解し始めている。……黄金の魔女が存在することを。………そして、その黄金の魔女、ベアトリーチェが、私であることを…!!
 さぁ、讃えなさい。本当の魔女の復活を、今こそ讃えなさい。黄金の魔女、ベアトリーチェの復活を、今こそ讃えなさいッ!! 第九の晩に魔女は蘇り、誰も生き残れはしない……!!!」
【戦人】「くっそぉおおぉぉぉ………。……俺には、……わからねぇ……! ここまで、…徹底的に赤でがんじがらめにされたら、……俺にはもう、……さっぱりだ……!」
【ベアト】「ば、……戦人……。く、挫けるな……。…妾とそなたは、再び戦いあう約束を交わしたではないか……。ここで、そなたは屈服するのか…?! 妾と再び戦う前に、このようなところで消え去るのか……?!」
【戦人】「その約束を破りたくはねぇ……。…………しかし、……俺には、ヤツを否定する手が、まったく思いつかねぇ…!! これはそもそも、…問題にさえなってない! 容疑者以外は存在せず、その容疑者は全員シロ! 赤でシロだって言われてんだぜ?! それでいて、しっかり他殺で、犯人は人間で、ちゃんと目の前に現れて南條先生を殺したという! もうお手上げだ、どうにもならねぇ…ッ!!!」
【ベアト】「頼む戦人、諦めるな挫けるな……! ……思考を止めれば自動的にそなたの負けとなる。…頼むから挫けるな…。……妾も応援しておる、……負けたりするな……!」
【戦人】「もう、何も思い付かねぇんだ…!! どうせあいつは魔女だから、魔法とかでやったに違いない、考えるだけ無駄だぜって思っちまう…! 駄目だ、頭が痛い、脳が疲れる…。考えたって無駄だから止めちまえって、考えちまう…!!」
【ベアト】「戦人、聞け…。………チェスというゲームは、相手を負かそうと互いが尽くすから、一回のゲームに長い時間を掛ける。……しかし、どちらかが最初から勝ちを捨て、自分に損な手を進んで指せば、あっという間にゲームを終えるのだ。……これを、フールズメイトという。」
 フールズメイトは、つまり、如何に早く負けるかということを念頭に置いた、おかしなチェスの指し方。
 …自らのキングの前を開け、相手のクイーンを誘い受ける。一回の平均対戦時間が数時間にも及ぶチェスが、わずか4手で決着してしまうのだ。
 ……つまり、戦いとは、互いが勝とうとすれば苦しく、長い時間を強いられるが、…片方が負けようと思ったなら、いつでも、呆気ないくらい簡単にゲームを終えられるのだ…。
【ベアト】「……人間側は、思考を停止させることによって、目の前の問題を魔女に譲り渡し、木からリンゴが落ちることさえ、直ちに魔法の仕業ということで決着できてしまう。
………そしてそれは魔女側も同じことだ。…魔女は赤き真実を使う。……それにて、魔法の正体が人間で説明できてしまうことを示せば、直ちに敗北することができる。」
【戦人】「…………言われなくてもわかってるさ…。……考えを止めるなって言うんだろ…? しかし、………あいつのあの完璧な真っ赤な手に、どうやって反撃すればいいんだ…。俺には、……人間には、………もう無理だ…………。」
【ベアト】「………無理、………か…? ……戦人には、……無理なのか……? ……頼む…、挫けるな………。」
【戦人】「………………すまん………。…俺にはもう、………無理だ………。」
 戦人は床を掻き毟りながらぼたぼたと涙を零す。
 ……ベアトはそれを苦渋の面持ちで見つめる…。そして立ち上がり、魔女に言った。
【ベアト】「…………妾が、そなたの手に、反撃の一手を指そうぞ。」
【エヴァ】「へぇ? この完璧なるチェックメイトに、あなたはどう切り込んでくれるというのかしらぁ? ニンゲンには決して破ることのできないこのチェックメイトを、あなた如きがどう破るというのぅ?!」
【ワルギリア】「………ベ、ベアトリーチェ、あなたまさか…。」
【エヴァ】「うむ。…ニンゲンに指せぬ一手なら。……妾が、魔女であるがゆえに指せる一手で、そなたを迎え撃ってやる…。」
【戦人】「魔女であるがゆえに指せる一手……? ……お、…お前、何をする気だ…。」
【エヴァ】「妾が、赤にて。魔女を否定する。」
【ワルギリア】「ベアトリーチェ…!!」
【ロノウェ】「お、お嬢様…!!」
 師匠と執事が、ともにぎょっとする。
 ……すぐにその意味は俺にもわかる。魔女だけが使える赤で。…赤で魔女を否定する。それは、自らの剣で、自らの喉を掻き切るも同じことだ。
【エヴァ】「は、…………はぁ…?! あ、……あんた、何を言ってるの? 赤で魔女を否定…? ………ば、…馬鹿言ってんじゃないわよ。そんなことしたら、…あんたも無事じゃ済まないわよ……!!」
【ベアト】「………そなたは魔女にあらず。そして妾もまた魔女ではない。…真の魔女への道は険しく、まだまだ長い…。
 ………なれば好都合。今この場に、元より魔女など存在はしないのだ。妾が自ら、そのまやかしを剥ぎ取ってやろうぞ。」
【エヴァ】「私もあんたも、しっかり堂々とした魔女でしょうがッ!! 赤が使えることこそ魔女の証! あんたにとって魔女の定義がどういうものか知らないけど、あんただけは無傷で済むなんて勘違いをしているなら今すぐ、」
【ベアト】「勘違いなどしているものか。それで良いのだ。」
【エヴァ】「な、………んですってぇ……。」
【ベアト】「妾は元より魔女になどなれていなかった。……真の魔女になるために、ようやくその道のりを歩き始めたに過ぎん。…もし今の妾が魔女だというのなら。…それは力に溺れただけの、そなたに同じ、偽りの魔女に過ぎぬ。
 ……そのようなみすぼらしい姿なら。未練などない。そなた諸共、妾のこの姿も消し去ってくれようぞ…!」
【エヴァ】「しょッ、…正気ッ?!?! や、やめなさい…! 私はまだ魔女でいたいのよ、ニンゲンは嫌なのよ…!!」
【ロノウェ】「………魔女様、どうかご着席を。人間側の受け手を、どうかご着席の上、お受けください。」
【エヴァ】「なッ、何をするの?! は、離してッ!! その女に赤を使わせないでッ!! 止めさせて!! 離せぇええええええぇえええぇッ!!」
 席を立ち上がり、ベアトに飛び掛ろうとした魔女を、ロノウェは両肩を押さえつけて無理やり着席させる。そして、それでもなお、その両肩から手を離さなかった。
 魔女を否定することは即ち魔法を否定するということ。……それは悪魔であるロノウェも含む。しかしロノウェは逃げず、ただゲームの進行役として、…そして、主のためにその責務を全うすることを選んだ。
【ワルギリア】「……ベアトリーチェ。………後悔は、ないのですね。」
【ベアト】「お師匠様こそ。……ごめん。……いっぱい楽しい魔法や、幸せな魔法を教えてもらったのに、………全然、上手に使えなかった。………だから、ゼロから修行、…やり直してくる。…その馬鹿弟子の不始末に巻き込んで、………本当にすまなかった。」
【ワルギリア】「……良き弟子を最後に持てました。……あなたの信じるままに、お行きなさい。」
【戦人】「………お、お前らが何の話をしてるのか、俺にはさっぱりだ…。…だが、これだけはわかる。そして言える…。……ベアト、何をしようとしてるのか知らねぇが、…これからやろうとしてることを止めろ…!」
【ベアト】「そなたに手はない。しかし妾に手はある。……この一手、逃せばあやつは魔女として真の意味で復活し、今度こそこの島の全てを支配する。…全ての悪夢はあの女の自由自在となり、この島は永遠に、邪悪なる魔女の妄想を繰り返す無間地獄に落ちるだろう。
 ………そなたは、それを許せるというのか。…親しい家族たちが、永遠にあの魔女の悪夢に弄ばれても良いと、そういうのか。」
【戦人】「だ、だが、……お前が犠牲になることなんてないだろ…。こ、これは俺とやつのゲームだ。お前が身を犠牲にして手を指すことなんてないッ! お、俺が考える! 起死回生の一手を必ず考えるから…!!
 だから早まるなッ!! うおぉおおおおおおお、畜生ぉおおおおおおおおお、絶対に思いつくから、……だから早まるんじゃねぇええええぇえぇえ!!」
【ベアト】「………このゲームは残酷であるぞ。すでにそなたの長考に制限時間を使い切っておるわ。………もはや妾しかおらぬ。…安心せよ、戦人。………妾が討つ。……あの残酷なる魔女を、妾が自らの手で討つ…。」
【戦人】「ま、待て、ベアト!! やめろッ、よせ!! お前が自分を犠牲にする必要なんて、何もない!!」
【ベアト】「妾を否定するために、そなたは戦っていたのだろうが。……おかしなヤツだ。はははははははは。」
【ワルギリア】「……あの子の好きに、させてあげて下さい。そしてどうか、見届けてやって下さい。」
【戦人】「し、…しかし……、」
【ベアト】「戦人。……ひとつだけ、頼みがある。……耳を、塞いでくれぬか。」
【戦人】「耳を……? どうして…?」
【ベアト】「………妾はこれより、赤にて魔女を否定する。あやつの赤で敷き詰めた盤面を切り裂いて見せる。……さすれば、………妾もまた魔女の姿を失うだろう。……そなたも妾が語る赤き真実を聞けば、妾の正体を、理解することになる。
 ………そなたひとりが耳を塞いだところで、真実は何も変わらぬ。……だが、…それでもそなたにだけは、耳を塞いでほしい。………………そなたの前だけでは、…魔女で、いたいのだ。……頼む。」
【ロノウェ】「……ベアトリーチェさま。…魔女側、問題ありません。どうぞ、指し手を。」
【エヴァ】「離せぇええええええぇえぇえッ!! あんたもただじゃ済まないのよ?! あいつは狂ってる!! 私たちを巻き込んで自分も死ぬ気よ?! やめて、否定しないで!! やめてぇえええええぇえええええぇッ!!!」
【ベアト】「……仮にも黄金の魔女が見苦しいぞ。…………さぁ良いか。…戦人に代わり、そなたのチェックメイトを外す。15人が死に、3人しか残らぬチェス盤にて、何が起こったのか。…妾がこれより赤にて暴く。その赤き真実にて、……偽りの魔女二人を、共に貫いて殺す!」
 ベアトが振り返り、戦人に笑みを見せる。……あれだけ残酷の限りを尽くした魔女が、最後に戦人に見せて残そうとした表情が笑顔だったなんて、誰も信じないだろう。
 そしてその笑みは、耳を塞いでほしいという最後の願い…。赤で魔女を否定することは即ち、……彼女のみすぼらしい姿を知ることになるということ。
 戦人は、両の手を自分の耳に当てる…。……彼女の最後の、…魔女としての名誉を守るため、自らの耳に手を当て、…真実を拒否する。
 そして、吼えた。彼女が語ろうとすることが、わずかほども耳に染み込まぬように。
 あとは、戦人にとっては何も聞こえぬ世界。ベアトが赤にて、何かを語っている。その辛辣な内容に、邪悪なる魔女までもが耳を塞ごうとする。
 ……それは、赤き真実。力ある言葉。……自らの存在を否定する言葉。魔女にしか使えぬ、魔女を否定する唯一の言葉。
 ベアトは語る。赤き真実にて、魔女が放った真っ赤な盤面を切り裂く。人間には解けぬ難題を、魔女にしか解けぬ一手で、説明し、追い詰めていく。
 戦人には聞くことを許されない“真実”。もしも戦人が約束を破り、それをこっそり盗み聞いたなら。……たちまちの内に戦人は、ベアトとのゲームの勝者となり得るだろう。
 ……この島の全ての謎を理解し、全ての魔法とトリックと、密室と呪いと祟りと伝説と、…怒りと悲しみの物語を全て理解するだろう。しかし、……それを知るのは、戦人が自らの手で真相に至った時だけなのだ。
 そう。…ベアトリーチェは、……その真相に、戦人が自ら至ってくれることを、最初から願っている。それは、教えられて至るのではない。戦人が自らの力で、辿り着かなくてはならない、真実。
 ベアトと邪悪な魔女の中央に、眩い光が集まり、どんどんと強くなっていく…。それは…、真実の力。
 ………太陽のような眩しさと熱が、闇に隠れて誤魔化そうとするまやかしを、全て照らし出して、……焼き尽くす。
【エヴァ】「ぐぉおおおおあああああぁああぁあああぁあああッ!! なぜッ?! なぜあんたは死ねるの?! こんなすごい力を持ちえながら、…どうして命を捨てられるの?! 黄金も、魔法も、全てを自在に操れる力を持つあんたが、……どうしてそれをあっさりと投げ出せるの?!」
【ベアト】「……山を成す黄金であろうと。海を割く魔法であろうと。手に入らぬものがあることを知れ。………さぁ、姿を現すがいいぞ。その正体を現せ、……右代宮絵羽ッ!!!」
客間
 太陽が破裂し、全てが吹き飛ばされた時…。……そこには銃を持った絵羽の姿があった。
【戦人】「あ、………あんたが犯人なんだ…。絵羽伯母さん……ッ!!!」
【絵羽】「くっくくくくくく……、あっははははははははははッ!! 気付くのが遅いわよぅ、戦人くぅんッ!!」
 絵羽は何の容赦も躊躇もなく、銃を構えるとその引き金を引く。…破裂した音が聞こえ、戦人は心臓を撃ち抜かれて、床に倒れる。
 少しの間だけ痙攣し、…口から血を垂らして、…戦人は絶命した…。でも、最後の瞬間に、…紛れもなく彼女が殺人犯であることを理解した。自分を殺したことだけでなく…。
 ………一体、どうやって行なったのかわからぬ殺人も、いくつかはある。しかし、……それらの全てを、俺が耳を塞いでいる間に、……ベアトが赤で暴き、全ての魔法を打ち破って見せた。
 …それはつまり、………俺にはわからなくとも、……魔法は全て人間で説明できるという証拠に他ならないのか。
 ………ベアトは俺に耳を塞がせた。…だから、俺自体は全ての真相を、一応は知らない。
 …しかし、………赤で否定できた以上、“全ての魔法は否定可能である”という、あまりに俺たちにとって、アンフェアな事実を、……知ってしまう。それはつまり、…………………。
 ……いや、……それを考えてはいけない。………それを考えたら、…俺は耳を塞いだことにならないのだ。
 悔やむなら、自分を悔やむしかない。…もし俺があの時、魔女の最後の一手に、何か逆転の一手を思いついていたなら、ベアトは自らを犠牲にする必要など、なかったのだ。俺が、……不甲斐なかったから、……招いた結末…。
 別人格が憑依するという理屈自体はアリだということを暗に認めている。
 もし、ここで戦人が「その適用を死者にも広げろ」と言えればチェックメイトだった。EP6の戦人曰く「まぐれ当たり一発で、それが致命傷となる」。

魔女幻想

暗闇
 …真っ暗で、何も見えない世界なのに、……なぜかすぐ近くに、ベアトがいるような気配を感じた。
 ……だから呼び掛けてみる。…言葉を交わすことは、魔女でも人間でもできる。……だから、魔女が否定された世界でも、……言葉をかけることは許されるはずなんだ…。
【戦人】「……………ベアト……。」
【ベアト】「……戦人か…。……………やったぞ。……妾は、…やった。」
【戦人】「…あぁ。……聞こえはしなかったが、………俺はお前の姿を、…最後まで見ていたぜ…。お前が、邪悪な魔女に毅然と立ち向かうところを、……ちゃんと見てたぜ…。」
【ベアト】「…………これでもう、…妾は魔女ではない。……………だが、必ず、妾は再び魔女になるぞ…。……そして、……再び黄金の魔女と呼ばれるに至って、………再び、……そなたの対戦相手だと認められに、…………帰ってくるから………。」
【戦人】「いや。………お前は、魔女だったぜ。」
【ベアト】「……………え……。」
【戦人】「…俺は、見てたぜ。………お前が、あの邪悪な魔女を、……すっげえ魔法で吹き飛ばして、その正体を暴き出すところを、…俺はちゃんとこの目で見ていたぜ…。」
【ベアト】「あ、…あれは魔法ではなく、……赤き、」
【戦人】「いいや、魔法だったぜ。………お前は確かに、黄金の魔女だった。………お前自らが否定しようとも。………俺が認めてやるよ。…………“お前は確かに、…黄金の魔女だ”。」
 ………戦人がその言葉を口にした時。真っ暗だった世界に、…ぽっと一粒。…小麦の種のように小さな黄金の一粒が眩く光った。それは…小さいけれど力強く黄金色に輝く。
 そして、……背中を寄せ合って座っていた二人を照らし出す…。だから、二人は互いに自分の姿を自覚する。
 …自分たちは、意識だけの存在ではない。……体を持った、ちゃんとした存在であることを自覚する。…いや、体という存在が、与えられたというべきか。
 戦人は自分の姿を見ても、そう驚かなかった。…しかしベアトは、自分の姿を見て、少し驚く。……戦人が見ても、いつもの彼女の姿だと思うのだが、……彼女はその姿をしばらくの間、驚いていた…。
【ベアト】「………これは…………。……どういうことなのか………。」
【戦人】「あの光粒の輝きが、……どんどん強くなる…。」
 その麦粒はもう黄金色どころか、太陽の光のよう。
 そして、それがすぅっと、………ベアトの胸に近付いていく。
 その太陽の粒が、……その胸の中に飲み込まれた時。……世界は真っ青な大空に包まれ、次に眼下は真っ青な海で敷き詰められた。
 島が隆起し、木々が生えて森を成し、塀が俺たちを囲んで屋根が俺たちを飲み込んだ。それはどんどんと装飾されていき、……右代宮家の屋敷の、…ホールであることを気付かせる。
玄関ホール
 黄金の蝶たちがたくさん羽ばたく幻想的なホールの中、…パーティー会場のように、白いクロスを掛けたテーブルがたくさん並び、美しい料理や果物が飾られた。…そしてそこには、……大勢の姿が。笑顔で談笑するみんなの姿が。
【戦人】「み、…………みんな………。」
 それは、親父に霧江さんに、蔵臼伯父さんたちに楼座叔母さんに、もちろん絵羽伯母さんたちまで。……譲治の兄貴に朱志香に真里亞に、…いやいや、紗音ちゃんに嘉音くんに、郷田さんも熊沢さんもいる。
 みんなみんなパーティー会場にいて、手を叩きながら、俺たちが帰ってきたのを祝福してくれた…。
【戦人】「ど、…どうしてだ…。みんな死んだのに…! どうして生きてるんだ…?!」
【ワルギリア】「……黄金郷では、全ての死者の魂を蘇らせることができるのです。……お帰りなさい、ベアトリーチェ。そしてようこそ、戦人くん。黄金郷へようこそ。」
【ベアト】「…………妾は、…至ったのか。…黄金郷への扉に、…至ったのか。」
【ロノウェ】「はい。……お嬢様はついに、全員を黄金郷へお招きできたのです。…ようこそ戦人さま、黄金郷へ。」
【金蔵】「戦人。………ようやくここへ辿り着いたか。」
【戦人】「じ、祖父さま…。………俺は、…一体…。」
【金蔵】「…お前はわしの、…魔法と相容れぬ血を、もっとも濃く受け継いでしまったのだ。…ゆえに、この黄金郷にお前だけが辿り着けず、ずっとベアトリーチェはそなたを探していたのだ。…そなたをここへ連れて来るために、あらゆる手を尽くしておった。」
【戦人】「…………何だって……。」
【郷田】「さぁ、戦人さまもお席へ。今宵の料理はこの郷田めの最高傑作を尽くしました。どうかぜひご賞味ください。」
【ベルゼ】「あんた光栄に思いなさいよね!! 本当は私が全部食べるところを、お情けであんたらの分も残してあげてるんだからね!」
【戦人】「……七杭の、姉ちゃんたち…。」
【ルシファー】「黄金郷では、意思ある者全てが公平だ。……ここで我ら家具とて、ニンゲンとて魔女とて区別はない。」
【紗音】「…戦人さま。お待ちしておりました。そしてようこそ、黄金郷へ…。」
【戦人】「紗音ちゃん、……譲治の兄貴…!!」
【譲治】「……僕もまだ、これが夢じゃないかと疑ってるよ…。僕たちは死んだはず。……でも、…生きてる。そして全員が全員、ここにいて、……幸せなんだ。…信じられない。」
【絵羽】「そうよ、どうせここは夢の中の世界なのよー! だから譲治がメイドの女と仲良くしてたって、どうせ夢なんだからぁ! うわぁん!」
【秀吉】「よさんか絵羽。今は黙って若い二人を祝福せなあかん。黄金郷は至福の都や。ここではいがみ合いは一切なしやで…!」
【マモン】「ここでは、愛し合う者たちは全てが自由。…誰にもはばかられることはない。」
【アスモ】「朱志香ちゃん、嘉音くん、素敵ぃ! 妬けちゃうわー!」
【朱志香】「……い、いよう、戦人…。何だかその、わははははは…。」
【嘉音】「戦人さま、ようこそ。そしてお帰りなさいませ…。」
 朱志香は多分、嘉音くんと手をつないでいることを恥ずかしがっているのだろう。そして嘉音くんは使用人らしく畏まって頭を下げたいのだが、二人は互いに手を離さないので、うまく頭が下げられず、何だかちょっぴり滑稽な光景だ。
【夏妃】「使用人の子となんて…!! 駄目です、うちの朱志香がやれるわけありません…!!」
【蔵臼】「いいじゃないかね。好きな相手くらい、自由に選ばせてやるといい。」
【夏妃】「駄目です駄目です、あああぁあぁ、朱志香ぁああぁあぁ!」
【絵羽】「うちも駄目なのよぉおおぉ、譲治ぃいいいぃいぃ!」
 …夏妃伯母さんと絵羽伯母さんが抱き合いながら、可愛い子どもに未練の涙を流し合っている。……犬猿の仲の二人がだ。…何とも不思議な光景。
【楼座】「……いいじゃないですか。誰が誰を好きになったって。」
【霧江】「そうよ。親が子離れしてない証拠ね。」
【留弗夫】「戦人ぁ。俺はお前が、どんな女を連れ帰っても、生温かぁく受け入れてやるからな?」
【霧江】「この人に紹介しちゃ駄目よ? すぐ手を出すから。とっとと駆け落ちしちゃうのよ。」
【真里亞】「…………戦人。やっとここへ来た。きっひひひひひひひひ。」
【戦人】「真里亞…。………お前は最初から、………ここへ来ることになると、…知っていたのか……?」
【真里亞】「うー! だから真里亞は何も怖くなかった。みんなは臆病でびくびく。面白かった!」
【戦人】「……何てこった。…一番ズレてると思ってたお前が、…実は最初から真相を知ってたなんてな。」
【45】「ぶっ、無礼です…! マリア卿に対してそのような口の聞き方、とても許せません!」
【410】「射撃曲線形成、攻撃準備よし。マリア卿、いつでも攻撃できます。にひ!」
【真里亞】「きっひひひひひひひひひひひひひひひひひひ…! あ痛!」
【源次】「…お静かに。ベアトリーチェさまの御前です。」
【ロノウェ】「まぁ、硬いことを言わずに。今ははしゃいで喜び合いたい気持ちを察しましょう。それより、乾杯の準備を始めようではありませんか。」
【熊沢】「さぁさ、自慢の鯖料理の準備は充分ですよ。いつでも配膳できますよ。」
【サタン】「ほら!! みんな! 少しは家具らしく働きなさいよ!!」
【レヴィア】「やーだー!! もっとつまみ食いするのー! うーあー!」
【ベルフェ】「さぁ働こう。お客人方を待たせるな。私たちはあくせく働き、奉仕をしよう。お客人たちに何もさせるな。不精にさせて怠惰にさせて、ころころと豚のように肥えさせろ。あっははは!」
【ワルギリア】「……ベアトリーチェ。戦人くん。こちらへ。」
 階段の踊り場の上に、祖父さまとワルギリアがいて、手招きをしている。
 俺とベアトは何事かと顔を見合わせてから、二人で階段を登った。
 そこは、ホールから見るとまるで、とても高いステージの上のようだった。そこには小さなテーブルが用意され、そこに羊皮紙と、古風な羽ペンが用意されていた。
 見れば、怪しげな魔法文字と日本語が併記されている。…そしてその下には、大勢の名前が書かれている。
 その数は17。……筆頭は祖父さまで、みんなの名前がそれぞれにぞろりと自署されている。多分、黄金郷に辿り着いた人間たちが、順々にそれをサインしていったのだろう。
【金蔵】「戦人。お前で全てが揃う。心して聞くが良い。」
【ワルギリア】「黄金郷は、魔女の力だけで保たれている世界ではありません。そこで幸福を享受する全ての人間による協力と承認が必要なのです。その為に、ここには全員のサインが揃わねばならないのです。」
【金蔵】「前回。黄金郷の扉がようやく開いたが、お前はサインを拒んだ。……記憶にはないだろうがな。お前がサインを拒んだ為、この世界を再び闇に閉ざしてしまったのだ。」
【戦人】「……それだけを聞いてると、…何だか俺ひとりが頑固で、みんなに色々と迷惑を掛けたように聞こえるな…。」
【ベアト】「そなたの頑固は折り紙つきであるからな。金蔵から受け継いでいるのは血だけではないらしいぞ。」
 ベアトが人懐っこそうに笑う。一応、俺が馬鹿にされているはずなのだが、思わず釣られて笑ってしまうような笑顔だった。
【ベアト】「魔法とは即ち、奇跡。……奇跡は全員が信じあわねば完成せぬ。……そして、最後のそなたが信じてくれることで、この奇跡は、…黄金郷は完成するのだ。」
【戦人】「………………何だか、色々迷惑を掛けちまったみたいだなぁ。…それで、俺はどうすりゃいいんだ…?」
【ワルギリア】「まず、ここにあなたのサインを。次に、ベアトリーチェはここにサインを。」
【戦人】「……羽ペンって使い辛いな。…うわ、弾いた。」
【ベアト】「下手くそめ。インク弾きは縁起が悪いのだぞ。自分の名前くらいとっとと書け。ミミズがのたくるようにな。くっくくくくくくくくく…!」
【戦人】「お前こそ、何だよ…! カタカナで書くなよ! ベアトリーチェなんて洒落た名前なんだから、ちゃんと筆記体で書けよ! 羽ペンと名前が泣いてるぜー!」
【ベアト】「う、うるさいな、筆記体はテストの時は使うなと、授業で言われなかったか。」
【金蔵】「これ、厳かな儀式であるぞ、沈黙せよ。」
【ワルギリア】「結構。二人のサインが揃い、誓約書の書式が揃いました。……二人には宣誓を。まずはベアトリーチェから。誓約書に手を添え、誓約を。
 ……“ベアトリーチェは良き魔女として、人々の幸福のために今後も修行を続けることを誓います”。…さぁ。」
【ベアト】「……う、……うむ…。……な、何だか恥ずかしいぞ。……ベ、ベアトリーチェは良き魔女として、人々の幸福のために今後も修行を続けることを誓います。……これで良いか。」
【金蔵】「よろしい。次は戦人だ。」
【ワルギリア】「戦人くんも同様に。誓約書に手を添え、誓約を。……“右代宮戦人は黄金郷の一員として、自身と隣人の幸福のために奉仕することを誓います”。」
【戦人】「うー、…右代宮戦人は、黄金郷の一員として、自身と隣人の幸福のために奉仕することを誓います。……俺も恥ずかしいぜ…。」
【金蔵】「聞け、皆の者…!! 今ここに、黄金郷を認める、18人の人間全員の誓約が揃った…!!」
 金蔵がそう宣言すると、一堂は一斉に拍手で俺たちを讃えた。……俺ひとりが頑固なだけで迷惑を掛けたのに、一番祝福されてるようでむしろ申し訳ない。
【ワルギリア】「それでは、古式に則り、最後に誓約した戦人くんに、黄金郷への招待状のサインを求めます。……これは、黄金の魔女、ベアトリーチェを黄金郷へ招くためのもの。黄金郷は、それを認めた人間たちの総意によって黄金の魔女を招き、そして完成するのです。」
【金蔵】「戦人、読み上げるぞ。しっかり聞け。…………“我々18人は、黄金の魔女をベアトリーチェと認め、黄金郷へ招きます”。」
【戦人】「何だよお前、俺が招待状を送らないと招かれないのかよ。」
【ベアト】「そういう儀式らしい。妾とて肩が凝るぞ。さっさと終わらせようではないか。妾はさっきから腹が減ってかなわぬのだ。」
【戦人】「……そういや俺も、缶詰をちょいと突っついただけでロクなもんを食ってないぜ。さっさとサインを済ませちまおう。
 何々? “あなたを魔女と認めます”。………あれ? ずいぶんシンプルだな。祖父さまめ、誇張して読みやがったな。」
【ベアト】「ほらほら早く。」
【ワルギリア】「そこに、サインを。」
【戦人】「…………ぇ…?」
【ベアト】「早く。」
【ワルギリア】「サインを。」
 ……何だか二人が、妙に気持ち悪い笑顔で、俺にサインを強請って来て…。
 その時、ホールにガラス窓をぶち割ったようなものすごい音が響き渡り、賑やかな喧騒がシンと静まり返った。
 何事かと、俺は羽ペンを落とし振り返る。
 すると、……………どこから現れたのだろう。…さっきまで、明らかにいなかった人間が、ホールの真ん中にいて、…俺たちを見上げていた。
 誰だ……。……女? 俺や朱志香と同じくらいの年頃だろう。……しかし、知らない顔だった。俺以外の全員にとっても知らない顔だった。
【ベアト】「……なッ、……何だ貴様は?! 何者だ?! どこから現れた?! 妾のパーティーに招待状なき客は必要ない。家具ども、摘み出せッ!!」
【ルシファー】「仰せのままにっ!! 囲め!!」
 煉獄の七姉妹は七方向から取り囲み、紫色の軌跡を描く魔法の刃を出して牽制する。
 さらにどこからともなく、わらわらと山羊頭の使用人たちが大挙して現れ、その女を取り囲んでしまう。
 その上、シエスタ姉妹はベアトの前に壁のように立ち、黄金弓を構え、弦を引き絞る…。
【縁寿】「…………………………………。」
 しかし女はまったく動じない。…それどころか、まったく気にもせず、相変わらず踊り場の俺たちを凝視している。
 ……誰を見ているんだ…? ベアト? 祖父さま? …………まさか、……俺………?
 そうだ。…女は、俺の目をじっと見つめ、…睨んでいる。そして、俺と目が完全に合ってから、叫んだ。
【縁寿】「それにサインしては駄目ッ!!! 自ら敗北を認めるの?! 魔女に騙されないで!!!」
【戦人】「……え? 魔女に、……え?!」
 その時、俺の襟首がものすごい力で掴みあげられる。
 …な、何事…?!
 そして後に振り返させられると、……そこに、不気味な笑顔を浮かべたワルギリアと、そして屈強な山羊のバケモノたちの姿が…。俺は、身長が2mはありそうな山羊のバケモノの、丸太のように太い腕で掴み上げられている…!
【ワルギリア】「ほっほほほほほほほほほほほ…。招かれざる来客に耳を貸す必要などありませんよ。さぁ、あなたはサインをするのです。この宣誓書に。“右代宮戦人は、魔女の存在を認める”と。さぁ、この宣誓書にサインを…!!」
【戦人】「い、…いでででででででででででッ!! ち、畜生、離せッ!!!」
 山羊のバケモノたちが、万力のような力で俺を締め上げながら、無理やり俺に羽ペンを握らせる。…俺は抵抗は愚か、床に足を付けることさえ出来やしない…!
【ベアト】「戦人ぁ、何で抵抗するんだよぉ? さっきは、ころっとサインしてくれそうだったじゃないかよォおぉ…? 今更心変わりなんてするなよォおおぉ。魔女を認めてもいいかなァ…って、一瞬思っただろ? 思ったんだろォおおおぉ? くっきききっかっかかかかかかかかかかッ!!」
【戦人】「…………お、……俺は、……だ、……騙されてたっての…か……? そんな馬鹿な………、ベアトは、そんなヤツじゃ…、」
【ベアト】「…………………………。」
【ベアト】「……ひ、……ひっひはっはっははぁあああぁあァア!! 悪ィなぁ戦人ァ、こんなヤツでよぉおおおおぉ!! あぁもう駄目だ、甘ったるい浪花節はやっぱ妾の肌にゃ合わねぇやああぁあぁ!! お師匠様ァ、力尽くで頼むぜぇ!! 地味ィな役回りだったんで、すっかり退屈してたんだッ!
 何者か知らねぇが、女ァ!! たっぷりグチャグチャのネチャネチャに、糸が引くほどぶっ殺してやるぜぇえええぇええ?! 女に生まれてきたことを後悔させてやるよォオオォ、ひゃっはあああああぁああぁああぁッ!!」
 ベアトが黄金の煙管を振り上げると、ホールの天上の巨大なシャンデリアがバリバリと帯電して、そこから凄まじい紫の落雷が落ちる…! それは、真下の女に直撃し、消し炭にしてしまうはずだった。しかし、……髪の毛一本、焦がせていない。
【ベアト】「ほぉ…!! 飛び入りするだけのことはある…!! 聞こう! 名を名乗れ!!」
【縁寿】「あんたに名乗る名前なんてないわ。………それより。……馬鹿ッ!!! いつまで騙されてるのよ!! このお人好し!! 早く気付いて!! これが全て全て魔女の罠であることに!!」
 その言葉は俺に掛けられているものだ。……これらが全て、…魔女の罠だって…? そんなはずはない…。ベアトは、改心して良い魔女になろうと誓って……。
【戦人】「…………………ベアト……………。…罠なんて、……嘘だよな……? 嘘だと………、言ってくれ……。」
【ベアト】「……悪いなァ、戦人ァ。結構面白かったぜぇ。…しかしお師匠様の言う通りにしてみたんだが、本当に結構、いいとこまでイケたなぁ!
 何でも、ツンツンと残虐を尽くした後に程よくヘタれてデレて見せると、好感度ってヤツが大幅アップするんだろー?
 デレてヤンでる悪役が最近はイケてるって聞いたぜええぇ? これでもよォ、最近流行りの漫画とかアニメとかギャルゲーで結構、勉強したんだぜー?
 そうしたらお前、案の定、お涙頂戴でコロリだよ!! ひっひゃっはっははははははははははははは、バーカ、本当に単純なヤツぅ!! これぞ名付けて“北風と太陽作戦”というわけよ。くーっくっくっくっく!!」
【戦人】「……そんな、…………。…………く、…………くそ……、てめぇ……。よくも騙しやがったな…!!」
【ベアト】「………………………………。……あぁ、その表情が一番お前には似合ってるさ。お前の気遣うようなあの表情な、妾にはやはり合わぬわ。背中が痒くなって、それを堪えるので必死であったぞ。くーっくっくっくっくっくっく!!
 残念でしたァ、魔女はァ、改心なんてしませェん☆ ひゃあっはっはっはっはぁああぁあああああああ!!! サインを頼むぜお師匠様! 飛び入り客は妾の獲物よッ!!」
【ワルギリア】「さぁ、あなたはもう、このサインを拒めませんよ。……さぁ、ほら。サインをして、身も心も魂も、奉げてしまいなさい…!!」
 ワルギリアが顎を上げて合図すると、山羊のバケモノがさらに万力のような力で、俺の腕を無理やり羊皮紙に近付けようとする……! 痛ててて…、こいつら、俺の腕をへし折ってでも、無理やりサインさせる気だ……。
 その時、真っ赤な光が俺を中心に弾けて、魔女たちと山羊のバケモノを弾き飛ばす。あの女が、俺を助けたのか……?! し、しかし一体誰なんだ、心当たりがない!
【縁寿】「こんなところで、いつまで遊んでいるつもりなの…? いい加減にして。あなたが羨ましいわ、私は。」
【戦人】「…………た、助けてもらって何だが、酷ぇ言われ様だぜ。…すまねぇがあんた、どちらさんだ…?」
【縁寿】「…………………。……………六軒島の魔女ッ!! 彼は返してもらうわよ!!」
【ベアト】「くっははははははははッ!! 誰が返すか愚か者ッ!! 戦人は妾の玩具だ。妾のお気に入りの、世界で一番の玩具だ…!! 飽きぬぞ捨てぬぞ、誰にも渡さぬぞ!! 戦人とて、今を精一杯楽しんでおる。妾と一緒に、こんなにも楽しく遊んでおるのだ。そなたが何者であろうとも、それを邪魔立てはさせぬ…!!」
【縁寿】「ええ、本当に楽しそうね、腹立たしいくらいに羨ましいわッ!! こんな素敵なところで、みんなでわいわい楽しく賑やかにげらげらと!
 たくさんの美人の魔女たちに囲まれてちやほやされて、さぞや楽しくて帰りたくないでしょうよ!!」
【戦人】「……お、…俺に言ってるのか…? おいおい、そりゃ誤解だ…! 俺だって迷惑してる! 何が楽しいもんか、俺の苦労を知りやがれってんだ…!」
【縁寿】「何が苦労よッ!!! お父さんお母さんと楽しく過ごして、いとこみんなできゃっきゃと遊んで。愉快な魔女たちといつまでも永遠に遊んで過ごせる! なんてあなたは幸せなの?! あなたたちが羨ましいわよ、わかってる?! 私も混ぜてほしいくらいッ!!」
【ベアト】「くっくくくくくく!! 生憎だがそれは断るぞ。妾は手持ちの玩具で満足しておる。そなたのような粗野な玩具は、妾の玩具箱に相応しくない!」
【縁寿】「えぇ、わかってるわ。誰があんたなんかと遊ぶものですか。……でも少しだけ感謝するわ。……こうして、みんなに会わせてくれて。」
【戦人】「……お前、………誰なんだ…。…………………まさか…、」
【ベアト】「なるほどそうか…。………あぁ、わかったぞ、そなたの正体が! …なるほどな、ベルンカステル卿の送り込んだ駒とはそなたなのか。気に入ったッ!!
 改めてそなたを妾のパーティーに招こうではないか!! たっぷり歓迎してやるぞ…!! 戦人共々、仲良く遊んで、壊して殺して潰して灰にしてパン生地に混ぜてふっくらと焼き上げてくれるわッ!! ふっはははははははははははっぁああああぁ!!」
【縁寿】「………あぁ、駄目ね、全然駄目だわ! あんたにそれは出来やしない! 1986年の六軒島で。…何があったのか、私が全て白日の下に晒してやるわ!
 あんたなんて、真実という春に怯える霜柱でしかないことを教えてやるッ! 覚悟なさい、黄金の魔女ッ! ベアトリーチェ!!!」
 EP4で明かされるが、紗音は実際、真里亞の日記にカタカナでベアトリーチェとサインしている。間接的ではあるが、ベアトの人物像を特定する手掛りになる。

お茶会

魔女の喫煙室
【ベアト】「はっはっはっは、わっはっはっはっは! まさか、最後の最後でベルンカステル卿の駒が乱入してくるとは…!」
【ベルン】「……あんたとのゲームに相応しい駒を、ずいぶんあちこち探し回ったの。……きっと気に入ってもらえると思うわ。」
【ラムダ】「何よあの駒! 誰よあいつ、何者よ! 名乗らないなんてズルイわよ!! ねぇ、あんたもそう思うでしょ?!」
【ベアト】「…妾は大体察しはついておるが。……というか、普通、わかるであろう。」
【ラムダ】「普通?! わかんないわよぅ、初登場のキャラでしょ?! 名乗らなかったら私もプレイヤーもみんなわかんないわよ、ねぇ?!」
【ベルン】「…………ベアト、教えてあげなくていいわよ。ね? 面白い子でしょ?」
【ベアト】「う、…うむ。……ラムダデルタ卿の天真爛漫にして天然なところは、実に貴重で面白いものである。……くっくっくっく!」
【ラムダ】「何よ何よ、何で私にだけ教えてくれないのよ、意地悪ぅー!! じゃあ、私だけが気付いた、取って置きの秘密を特別に教えてあげるわ! だから教えなさいよ!」
【ベアト】「……ほぅ。取って置きの秘密とな! 聞きたいぞ聞きたいぞ…!」
【ラムダ】「べーだ! 教えて欲しかったら、先にあの女の正体を教えるのよ! 私の知った秘密はスゴイわよぅ?! 何しろ、サンタさんの正体が実はお父さんだったってくらいスゴイんだからぁ! あら?くす! 言っちゃったぁ☆ ごめんなさいねぇ、天地が引っ繰り返るくらいびっくりしちゃったでしょう?! をーっほっほっほっほ!」
【ベルン】「………ラムダのとこには、お父さんが来てたの?」
【ラムダ】「来てたの、ってどーゆう意味よぅ。」
【ベルン】「…サンタクロース卿は、心の綺麗な子どものところへしか訪れないのよ。あんたのとこには来なかったのね?」
【ベアト】「まぁ、サンタクロース卿は寛大であるからな。よーっぽどの大悪党でもない限り、プレゼントを恵んでくださるぞ。何しろ、妾にもくれたくらいだからな!」
【ベルン】「………成長して心が荒んでくると来なくなるのよね。ベアトのとこにはいくつくらいまで来てたの?」
【ベアト】「うむ。12歳くらいまでは来ておったぞ。乙女心に目覚めると、急にサンタ卿が来るのが、何だか恥ずかしくなってな。
“これまでありがとうございました、もう結構です。だから最後のプレゼントは奮発してください”と手紙を置いたら、来なくなった。うーむ、ちょっぴり期待したのだがな! ベルンカステル卿はいつくらいまで来ていたのか。」
【ベルン】「………私、荒んでたし。…結構早かったっけ。確か9歳頃ね。…何か、あのヒゲが無性にムカついて、ちょん切ってやろうと、布団の中で裁縫バサミ構えて待ってたの。…………痛いお年頃よね。」
【ベアト】「で、……ラムダデルタ卿には、物心ついてからサンタクロース卿がおいでになったことがない、と。…………普通は小学校高学年から中学校くらいの間までは来るものであるぞ。」
【ベルン】「…ある意味、お医者で見てもらった方がいいわよ。早熟すぎると心身の成長に悪影響があるらしいから。…あぁ、確かに出てるわね。悪影響。」
【ラムダ】「んなッ、な、何の話をしてるのよアンタたちはー!! むがーー!!」
【ベアト】「くっくくっくくくくくくく! わっはっはっは、魔女も3人集まれば実に姦しい!」
【ベルン】「……この程度のレベルの秘密じゃ、聞く価値もなさそうね。私、もう行ってもいい? 次のゲームの準備をしなくちゃならないから。」
【ラムダ】「ちょッ、ちょっと待ちなさいよぅ! あの女の正体を教えなさいよー!!」
【ベルン】「……じゃあ、あなたの取って置きの秘密を先に教えなさいよ。見合うものだったら教えてあげるわ。」
【ラムダ】「ほっほっほっほ!! いいわよ、教えてあげるわ、取って置きの秘密なんだからぁ! ……ほら、今回のゲームで、黄金を見つけて新しい魔女になった子がいたでしょ?」
【ベアト】「うむ。あやつに、一体どんな秘密があるというのか?」
【ラムダ】「うっふふふふふ! あの子の正体にね、私、気付いちゃったの。みんなにはわかるかしらぁ? くすくす! ヒントはね、喋り方にあったのよぅ。
 ほら、あの子、よく口にしてたでしょ? ナントカしちゃえばぁ〜?って! そう、この語尾がポイントだったのよ! えばぁ〜? えばぁ〜? そう!
 あいつの正体は、右代宮絵羽だったのよ!! どう?! 驚いちゃったかしらぁ?! をーっほっほっほっほ!!」
【ベアト】「ほぅ…! それは気付かなかった! …むぅ、そのようなところにヒントがあったとはな。」
【ベルン】「……ベアトって付き合いがいいのね。その子、増長するから程々になさいよ。じゃあね、私は席を外すわ。」
【ラムダ】「ちょっとちょっと! 私の秘密だけ聞いて、あんたは喋んないなんてズルイわよ!! あんたもあの女の正体を話しなさいよー!!」
【ベルン】「……あんたの秘密が凄すぎて吊り合わないわ。…じゃあ代わりに、私も取って置きの秘密を教えてあげるわ。『ひぐらしのなく頃に』ってゲームの、犯人の名前を教えてあげる。」
【ラムダ】「ぎゃーーーーーッ、言わないでぇ!! 私、今プレイしてるとこなのーッ!!」
【ベルン】「……あっははははっはっはっは…。じゃあね、ベアト。紅茶美味しかったわ。あと、お茶菓子のクラッカーだけど、ジャムのレパートリーが足りないわ。たまにはコチジャンでも用意しなさい。ロシアンティにもぴったりだし。じゃあね。」
【ベアト】「そうか、わかったぞ。試してみよう。次のゲームの準備が整ったら呼ぼうぞ。それまでゆっくり戦略でも練るが良い。」
【ベルン】「えぇ、そうするわ。今回のゲームはなかなか面白かったわよ。じゃあね。」
【ラムダ】「ちょっとー、待ちなさいよ、教えなさいよー!!!」
【ベアト】「くっくっくっく。いやいや、本当にお二人は仲が良い。」
【ラムダ】「…………………………。……えぇ、そうよ。…あぁ、大好きよベルンカステル。愛してるとさえ言ってもいいわ。……あの瞳を抉り出して、私以外を映さないようにしてやりたい。……あぁ、それは本当に素敵よね。紅茶に沈めても素敵かもしれない。アハ!」
【ベアト】「ラムダデルタ卿をここまで夢中にさせるとは。……妾も責任重大であるな。しかし今回は実に惜しかった! あと一息で戦人をコロリと行けたものを。」
【ラムダ】「………………ベアト。一個聞いていい?」
【ベアト】「何であるか? あの女の名前は教えぬぞ。くっくっくっく!」
【ラムダ】「…いつまでチャラけてんのよ。…あんた、勝つ気あんの?」
 ラムダデルタが、決してベルンカステルの前では口にしたことのない、低い声で凄む。…それは直前までの、穏やかな空気を全て吹き飛ばした。
【ラムダ】「………私はね。ベルンカステルに勝てる魔女ってことで、あんたに肩入れしてんのよ。…あんたに、ベルンカステルに勝てる力がないってんなら、いつだって私はあんたなんか見捨てるんだからね……?」
【ベアト】「……………これは手厳しい。妾の何がご不満なのか。…卿もご存知の通り、妾のゲーム盤は完璧だ。ベルンカステル卿には決して勝てはせぬ…。」
【ラムダ】「えぇ、そうよ。あんたのゲーム盤は実に見事よ。ベルンカステルが、百年は愚か、千年を費やそうとも絶対に勝つことのできない、実に見事で完璧なゲーム盤よ。
 ……だから私はそれを借りることの引き換えに、あんたを魔女にしてやったのよ。………私があんたの後見人を辞めれば、あんたはすぐにニンゲンに逆戻り。…どんなにすごい魔力を持っていても、…あんたは仮初の魔女でしかないことを、……決して忘れないことよ。」
【ベアト】「わ、……わかっておるわ。…そなたには感謝しておる…。」
【ラムダ】「タメ口聞かないでよ。ベルンカステルがいる時は許すけど、いない時は許さないわ。あんた、最近、私の恩を忘れてるでしょ。」
【ベアト】「そ、そんなことは、………あ、…あり、……ありません……。」
【ラムダ】「…あー、やっぱ気持ち悪いわ。いつもの喋り方でいい。でも、口の聞き方には注意してよ。……私、案外短気よ?」
【ベアト】「う、……うむ……。」
【ラムダ】「話を戻すわ。…あんたのゲーム盤は実に完璧。……ベルンカステルを容易に負かすことができるでしょうよ。…しかしあの子は簡単に屈服しない。何度でも挑んでくるわ。」
【ベアト】「問題はない。…ラムダデルタ卿のお墨付きではないか。……妾のゲーム盤は完璧だ。」
【ラムダ】「えぇ、そうよ、完璧よ。…………プレイヤーである、あんたも完璧ならね?」
【ベアト】「………それは、どういう意味か…。」
【ラムダ】「どういう意味? 私が聞きたいくらいよ。………あんたのゲームには、遊びが多い。…それは時にベルンカステルを煙に撒くから、あんたなりの策略なんだと、私も最初は思ってた。
 …………でも、何だか違う気がするの。あんた、勝てる試合を弄んでるんじゃなくて、……勝っても負けても、どうでもいいって思ってるんじゃないの?」
【ベアト】「ば、……馬鹿馬鹿しい…。そんなこと、あるわけもなかろうが…。」
【ラムダ】「いいこと? あんたの役目は、ベルンカステルを屈服させることよ。つまりゲームに、永遠に勝者でいること。……あなたが“絶対”の勝者であり続けようとする限り、私は絶対の魔女として、あなたに力を与えるわ。…………でも。
 もしもあなたが、自らの敗北の可能性を否定しないような戦い方をしているなら、…話は変わるわよ。」
【ベアト】「もちろん、これはゲームである…。妾が勝てばベルンカステル卿が負けるように。…向こうが勝てば妾が負ける日もあるだろう。常に敗北の可能性はありうる。だからこそ妾は、」
【ラムダ】「……………だからアンタは使えないのよ。あんたはゲーム盤である必要なんかない。ベルンカステルを、永遠にここに閉じ込める鳥篭でさえあればいいの。
 …鳥篭の役目は? 中の小鳥を絶対に逃がさないことよ。……たまに抜け出せてしまうような、隙間のある鳥篭に何の価値が?」
【ベアト】「………む、無論、ゲームは勝つ為のもの。そして妾が負けることはありえぬ。…ゆえに妾は勝ち続けようぞ……。…お望み通り、永遠に…。」
【ラムダ】「良い返事よ、それでいいわ。……策略としての遊びやフェイクは許す。…今回、有効だったところもあるしね。
 …………でもね。もしあなたが、勝ち以外を望むような指し手をしたら、…………その時は、素敵な覚悟をなさいよね?」
【ベアト】「そ、そのようなことはせぬ…。誓うとも…!」
【ラムダ】「…………元々、魔女ですらないあんたが、本当はどんなにみすぼらしい存在だったか、いつだって思い出させてあげるんだから。…………私の期待を裏切ったら。その時は楽しい楽しい罰ゲームが待ってるわよぅ。
 …百億のカケラ世界の中から、……もっとも惨めなカケラにあんたを送り込んで封印してあげる。………あんたは、元々が惨めだから、惨めなカケラも実に選び甲斐があるわ。…くすくすくすくすくすくす。」
【ベアト】「………………………………。」
【ラムダ】「あぁ、愛してるわベルンカステル。…ベアトリーチェの鳥篭で、好きなだけ足掻いて、もはや逃れられないことを千年かけて知りなさい。
 ……そしてあなたが屈服したら、…私の手の平でしか鳴けないように、たっぷりと仕込んであげるんだから。
 …………くすくすくすくすくす、あっははははははははははははははははは…!!」

????

12年後・病室
 単調な電子音が、ずっと繰り返されている。衛生的、という名の無感情な白が、その部屋の基調。…そこは、とある大学病院の病室だった。
 庶民ではとても一夜のベッド代さえ払えないその個室が、彼女の最後の部屋となることは、医師も本人も疑いはなかった…。
 ベッドの上にいるのは、…………絵羽なのだろうか。そうだと言われなければ、信じられないくらいに彼女は老け込み、やつれていた。
 扉の脇に控えていた体格の良いスーツ姿の男が、インカムで外部と小声でやり取りをしている。…絵羽の身辺を固める護衛だった。
 インカムの相手に待機するように伝えると、ベッドの絵羽に近付く。
 …絵羽は、さっきから起きてはいる。……しかし、何もない空中の一点をじっと見ていて、意識がここにないかのようであった。
「……縁寿(えんじぇ)さんが下のロビーに到着しました。お通ししてよろしいですか。」
【絵羽】「……………………………。」
 絵羽はしばらくの間、返事をしない。しかし、少しずつ目の焦点が戻ってくると、小さく頷く仕草をして、呼んで構わないことを示した。
 …呼んだのは絵羽自身だ。時間もぴったり。今の絵羽は、事前にアポイントがなければ、誰の面会も拒んだ。
 部屋が薄暗いのは、まだ明るい時間なのにカーテンを閉め切っているせいだ。…室内には常に1人、そして廊下とロビーに、さらに3人の護衛が控えている。それらは全て、絵羽の身辺を守るためのもの…。
 やがてノックの音がした。インカムからも、客人のボディチェックが終了し、問題がないことの連絡がある。鍵を開け、扉を開くと、………そこには高校生くらいの女の姿があった。
「会長。縁寿さんがいらっしゃいました。」
 絵羽が反応し、顔を来客に向ける。もっとも、護衛の呼び掛けに反応したというよりは、縁寿の化粧の匂いに反応したというべきだろう。……絵羽はこの部屋に閉じ篭って長く、わずかの匂いの変化にも敏感だった。
【絵羽】「……………………。来たわね。……縁寿。」
【縁寿】「……来たわ。呼ばれたから。」
 絵羽の顔に、姪を歓待する表情は見られない。…そして縁寿の顔にも、伯母との面会を喜ぶ表情は見られなかった。
 絵羽は枯れ枝のように細くなった腕を振り、護衛に出て行けという仕草をする。護衛は黙礼してから廊下に出た。
【縁寿】「……暗い上に空気もひどいわ。カーテンでも開けたら…?」
【絵羽】「……………そうすると、あんたの依頼した殺し屋が、窓越しに撃ってくるって寸法なのかしらぁ……?」
【縁寿】「………あんたの暗殺依頼なら私が受けたいわ。家でのんびり、ほんのひと月も過ごしてれば、勝手に任務が終わるもの。」
【絵羽】「…ふっふっふっふ、はっはっはっはっは……。」
 伯母と姪にしては物騒な会話を交わしあう。…しかし、互いに冗談めかすような様子はない。……少なくとも、絵羽は自分が命を狙われていると信じていた。
 右代宮家の莫大な財産は、その全てが右代宮絵羽によって占有されている。…その財産には、かの右代宮金蔵が隠し持っていたと囁かれる、10tの隠し黄金も含むと言われていた。
 その莫大な財産は、老獪で狡猾で猜疑心の強い絵羽の手元にあってはどうしようもないが、……小娘に過ぎない縁寿に相続されれば、自在に掠め取れるのではないかと目論む者たちがいると噂される。
 今や、金蔵の子孫たちは絵羽と縁寿の2人だけ。……絵羽が死ねば全ての財産は縁寿に相続される。…そしてさらに縁寿まで殺されることがあれば、……その財産は、縁寿の母である霧江の実家に相続される。
 その意味においては、絵羽だけでなく縁寿もまた、…正体不明の何者かにいつ命を狙われてもおかしくない立場にいた。
 ……そして絵羽は、縁寿を長く憎んでいた。大切な一人息子の譲治を失い、……自分の財産の相続人が、12年前のあの日、親族会議を欠席して生き残った彼女だけだということを知ったからだ。
 絵羽は縁寿を疎み、嫌い、そして憎悪さえした。彼女を特別な学校へ隔離し、人並みの幸福や青春から遠ざけ、生涯を飼い殺すつもりであった。
 ……しかし、絵羽は不治の病を患い、その余命は皮肉にも、…12年前の親族会議で、金蔵に宣告されていたのと同じものになっていた…。
 絵羽も縁寿も、…互いを憎しみあっている。最後の肉親同士だというのに、…早く相手が死ねばいいのにと、憎しみあっている…。
【縁寿】「………それで? わざわざ呼び付けて何の用…?」
【絵羽】「……私はもう長くないわ。……藪医者どもは、未だに私が盛られた毒が何かも検出できない。………わかってるの。きっとソ連のKGBで使われてた秘密の暗殺薬なのよ。…あぁ、私は殺されるのよ、殺されるのよ…!! 良かったわね、もうじき死ぬわよ、そうすればさぞやあなたの胸がすくでしょうねぇ…!」
【縁寿】「……………………………。…可哀想な人。」
 いつものことだ。……本題からすぐに逸脱して、物騒な話に捻じ曲がる。猜疑心で肥大化した絵羽は、自身が常に命を狙われていると信じていた。
 実際、彼女は右代宮家の莫大な財産を相続した後、金蔵がかつてそうしたような荒っぽい方法で、手段を選ばない利殖を繰り返し、たくさんの敵を作っている。莫大な資本で、急成長し始めた企業に買収攻勢を仕掛け、手打ちと称してそれを高額で買い戻させる。
 ……それは皮肉にも、12年前に彼の夫の会社が受けた行為の裏返しだった…。そんなことを、ひたすらに繰り返した12年だった。……恨みも山ほど買っている。
 もしあの世の夫が聞いたなら、家族を失った寂しさの裏返しだと擁護するかもしれない。……しかし、今の彼女を知る者で、擁護する者は誰もいない。
 絵羽はしばらくの間、自分の命が如何に狙われているかを雄弁に語り、自分に恨みを抱いているであろう人物の名を次々に挙げては、自分がまだ殺されずにいることを嘲笑う。縁寿はその中に自分の名が含まれても、特に表情も変えず、彼女が言い疲れるのを淡々と待った…。
【絵羽】「………私はね、…………憎いのよ。あんたが。」
【縁寿】「光栄ね。私もよ。」
【絵羽】「………譲治のために築いた未来だった。……それを、あんたに掠め取られるなんて。…留弗夫の娘に奪われるなんて…。………私は悔しい。……子も残せず、…財産すらも奪われるなんて、………それが私には、……許せない…………!」
【縁寿】「……だったら財産全部、お布施にでもしちゃえば? お百度踏んでた宗教系の連中はどうしたのよ。」
【絵羽】「…………くっくっくっくっく! 連中はみんな言うのよ。…多すぎる財産が私の負担になっているって。決まって、だから預けて清める必要があるとか言い出すのよ。……あっははははははははは! それで思いついたのよ。寄付はやめたわ!」
 絵羽は一時期、心の安寧を求めたのか、おかしな新興宗教の教祖たちをずいぶん招き入れた。…だが結局、彼らは彼女の心に救いを与えられず、むしろ猜疑心をさらに肥大させる結果となった…。
【縁寿】「………お金が余ってるなら、サラブレッド買い占めてコンビーフでも作れば?」
【絵羽】「それよりもっと面白いことを思いついたのよ。……くっくくくくくくくく! 色々悩んだわ。どうやればあなたを酷い目に合わせられるかをね。
 ……殺してしまおうとも思ったわ。あるいは全ての財産を消し去って、あなたを無一文にして人買いにでも売ってしまおうかとも思ったわ。素敵でしょ? 両手両足をブツ切りにされて死ぬまで客を取らされるのよ。あぁ、それも実に素敵だわ、くっくっくっくっくっく!!」
【縁寿】「…………楽しい?」
【絵羽】「楽しいわ。あなたを怯えさせるのはね…。……でももうじき私は死ぬわ。…だから、私が死んだ後も、どうやってあなたを苦しませ続けるか、考えたの。………そうしたら、……くっくっくっく! 案外、単純なことだったわ。……それをあなたに話したくて呼んだのよ。」
【縁寿】「…………………そろそろ中間、近いんだけど。手短にね。」
【絵羽】「…あなたに。全ての財産を相続することにしたわ。」
【縁寿】「………………………………。…へぇ。」
【絵羽】「それどころか、……私が死ぬ最後の一日まで、…どこまでも財産を増やして、膨れに膨らしてあなたに相続することにしたのよ。…くっくっくっく、それがどういうことか、想像がつくかしら…?」
【縁寿】「……わかんないわ。馬鹿だから。」
【絵羽】「うっふっふっふ、くっくっくっくっくっく!! そうよねぇ、わかんないでしょうねぇ…! 楽しみにしてなさいよぅ、本当に楽しいわよ、お金持ちは…! 毎日、日本中の妖怪が朝から晩まで遊びに来るわよ。
 あんたの私生活はこれからは全てワイドショーと週刊誌が覗き見してくれるわ。何をしてもしなくても、マスコミは必ず私を批判する! 施せばブルジョワだと叩かれ、渋れば守銭奴だと罵られる。あぁ、本当に素敵な毎日よ? そんな日々に、若くて先の長いあなたを、ぜひ招待してあげようと思いついたの。本当に素敵でしょう?」
【縁寿】「………あんたのしてきたことに対する、世間の正当な評価でしょ。」
【絵羽】「くっくっくっくっく!! そうねぇ、そうでしょうねぇ。…いいわ、好きなだけ私を罵るといいわ。そしてその評価を、あなたが背負うのよ。……清貧が善人、金持ちは死ねというのが日本の文化。あんたはやがて、何をしてもしなくても、日本中から妬みと恨みの象徴に祭り上げられていく。…くっくっくっくっく!
 そんな生活の中で生きていくあなたのこれからの人生は、どんなにも歪なものなのかしらね…? あんたの味方は誰もいない! あんたの悩みなど誰も聞かない。あなたを罵ることは公然としたスポーツになる。そしてそれを誰も止めない!
 あぁ、縁寿! うっふふふふふふふふ、あぁ、本当に楽しみよ。…あんたはどんな人生を送って、どう終えるのかしら…! 世界中の誰も信用できず、誰も愛せず、誰とも語り合えない人生をたっぷり満喫しなさい…!! その苦労話を持って地獄へ墜ちてくるのを、私はのんびりと待っているわ。うっふふふふ、あはっはははははははは、わーっはっはっはっはっはっはっはっは、がはッ、げほげほ、がはッ!!」
 狂った笑いは、苦しい咳の声に変わる。縁寿は表情ひとつ変えずに、ただただ淡白に、……六軒島の唯一の生き残りを見つめていた。
 咳き込む声に不審を感じたのか、短いノックと同時に護衛が飛び込んできた。
 縁寿はじろりとそれを見て、無言で、自分はここから一歩も動いていないとアピールする。……自分に、絵羽殺しの濡れ衣を着せるための、何かの罠さえ縁寿は覚悟していた。しかし、幸いにもそれは杞憂。
 護衛は絵羽の背中を擦りながら、魔法瓶の白湯をマグカップに注ぐ。その間にも苦しそうに絵羽は咳を繰り返していた。縁寿は、これが自分が見ることのできる六軒島の魔女の最後の姿だろうと思った。
 ようやく喉を潤して呼吸を整える。…しかし瞳の奥のぎらぎらした狂気はまったく収まらない。
【絵羽】「くっくくくくくくくくくくくく!! あの呪われた莫大な黄金と右代宮家当主の家督、……そして、…………黄金の魔女、ベアトリーチェの名を、…今こそあなたに譲るわ。…………魔女の名に相応しい、狂って歪んだ生涯を楽しみなさい…!」
【縁寿】「そんなのいらないわ。それより教えて。……あの日、六軒島で何があったの。………事故があったなんて、私は信じない。あの日に何があったのか、父さんと母さんと兄さんがどうして死んだのか、本当のことを教えて……!!」
【絵羽】「くっくっくっくっく…! あぁ、それが一番の嫌がらせよねぇ? ……あの日に何があったか? 1986年の今日、何があったのか…? ……何て言葉を残して3人が死んだのか、……知りたいわよねぇぇ…?
 ぉ教えないわよォおおおぉ、あーっひゃっひゃっひゃっひゃッ!! 呪われた黄金は残す! でもね、あんたが望む真相は、私が地獄まで持って行くわ…! それがあんたに出来る一番の嫌がらせよォ!!
 悔しい? 聞きたければ地獄まで行って、あんたの家族に聞いてみるといい! なら今すぐ死なないとねぇ?! あっははははは、今すぐヘソでも噛んで、死んじゃえばぁッ?! わーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはッ!!」
 その笑いは、再び咳き込むまで続く。そしてその咳は、彼女が呻きだして痙攣を始めるまで収まらないのだった……。
 1986年10月4日。六軒島で、右代宮家恒例の、そして最後の親族会議が開かれた。
 そしてその翌日の10月5日。“とても不幸な事故”が起こり、右代宮家一族は全滅した。
 “幸運にも”右代宮絵羽はこれを逃れ、右代宮家のほぼ全ての財産を相続することとなった。
 しかし、右代宮家を取り巻く不穏な噂の数々と、その後の絵羽の振る舞い、“不幸な事故時”の不自然な行動などから、遺産の独占を狙った陰謀ではないかと世間で騒がれることになる。
 世論に押される形で、検察は何度か捜査を試み、マスコミは六軒島疑惑と名付けて陰謀の輪郭をなぞり出していったが、この“不幸な事故”が、犯罪であることを立証できるだけの証拠は、ついに見つけることができなかった。
 しかしマスコミはその後も六軒島疑惑を、絵羽の陰謀であると印象付けていった為、世論は彼女こそが真犯人であると信じていった。…もちろんそれには、その後の彼女による、莫大な財産を運用した、社会的に批判されやすい数々の強引な経済活動からの悪印象も影響している。
 彼女が何かをして取り沙汰される度に、ワイドショーは六軒島疑惑を蒸し返しては、彼女こそが犯人であり、それを逮捕できないのは警察すらも買収されているからだと司法を糾弾した。そしてますますに、彼女が大悪党であるという印象を強めていった…。彼女の心はやがて荒み、…皮肉にも、世間が期待するような人間に変貌させていく…。
 今や絵羽には、心を許せる友人も、家族もいない。……最愛の夫、秀吉はすでに過去の人で、ワイドショーは夫の会社を時に取り上げ、乱暴な経営であったと、その過去の業績を批判し穢している。
 最愛の一人息子、譲治についても、世間が期待する通りのステレオタイプである“大金持ちのドラ息子”という形に脚色され、…彼が如何に素朴で素直な人格であったかなど、誰も知ろうとはしない。…それらが如何に絵羽を傷つけ、荒ませていったか、…誰も興味がない。
 世間はただただ、親族を皆殺しにまでして大富豪となった悪女が、どんな気の毒な晩年を送るかということだけに、好奇の関心を寄せているだけである。
 だからどんどんと。…そしてやがて。…絵羽は、狂人呼ばわりされる性格に変貌していった……。彼女は時に、かつて自分が憧れていた父、金蔵の晩年もまったくそれと同じであったことを思い出し、自らを嘲り笑ったと言われている…。
 そして、その最後の親族会議の日。右代宮留弗夫の娘、縁寿は体調を崩し、母親の実家に預けられていた為、参加しなかった。
 当時6歳だった彼女は家族を失い、絵羽を後見人として迎えることになる。
 絵羽は、唯一の肉親となった縁寿を、“とても大切にした”。何かの危害に遭うことがないよう、常に身辺には物々しい護衛が付けられた。……彼女は友達と遊ぶことや、一緒に登校や下校すること、そうしながら四季を味わう権利さえ奪われてしまった。
“快適な生活と充実した学校生活を送るため”、全てが世話された気品溢れる全寮制学園に送られ、世俗から完全に切り離された。彼女は年頃の少女たちが口ずさむかもしれない、流行りの歌さえ知らない。
 友人たちとウィンドゥショッピングを楽しんだり、クレープを頬張ったり、ましてや胸が高鳴るような異性との出会いさえ、…一度も与えられなかった。
 縁寿に、友人はひとりもいない。縁寿と不用意に親しくすれば、護衛か、あるいは教師に咎められる。……やんごとなき右代宮家の令嬢に、卑しい人間を近づけないよう、彼らは皆、厳命されている。
 右代宮絵羽はその頃、ワイドショーを常に賑わせ、数々の経済的悪行で常に取り沙汰されていた。……その“娘”であると知る周囲は、自然と彼女を敬遠していく。
 …彼女は今や、学園においても魔女と呼ばれ、何か良からぬことがある度に、彼女の意を汲んだ学校側が何か工作をしたのだと、証拠もなく真実のように囁かれている。
 環境が、人を作る。今や彼女は、周囲が恐れる通りの荒んだ心を持っている。…誰にも心を許さず、信じようとしない。誰も愛さず、愛そうとしない。
 しかもその上、絵羽が不治の病に掛かると、それもまた陰謀説がささやかれ、今度はその黒幕に縁寿が祭り上げられていく…。
 魔女の娘は魔女だと、誰もが囁く。ワイドショーも週刊誌も、そうだと囁く。…だから縁寿も、きっと、いや、どうせそうなのだろうと、それを受け入れた。
 だから、自分をすでに魔女だと信じている彼女に、今更、黄金の魔女の名を譲ると言われても、何を今更という気持ちにしかならない。
 しかし、彼女はこれだけは確信している。自分が引き継いだこの魔女の肩書きは、きっともう誰にも世襲されることはないだろう。自分が、最後の右代宮家当主で、最後で孤独な、黄金の魔女なのだ……。
屋上からの夜景
 縁寿の姿は、高層ビルの屋上にあった。
 強く冷たい風は、彼女がこれまでに浴びてきた世間の風に比べれば、生温くて微笑ましいくらいだった。眼下には美しい夜景と、赤と白の光の大河が煌々と流れている。
 今夜は晴れのはず。…だから本当は、無数の星が広がっているはずなのだ。…しかし、地上の灯りが眩しすぎて、それらが見えることは決してない。…縁寿には、その見えない星明りの中にこそ、自分が本当に求めるものがあるように思えてならない。
 眼下の現実の世界も、ここからなら遠く見える。…自分が本当にいるべき世界に、ここが一番近い場所だと思えた。
 …………縁寿が呪うものはひとつしかない。どうして12年前のあの日、自分は親族会議に行けなかったのか。もし一緒に行けていたら、家族といつまでも一緒にいられただろうに。
 …このところ、繰り返し繰り返し、…家族の夢を見るのだ。
 12年前の私が、必死に呼び掛けて、親族会議に行かないようにと訴えるのだ。しかし、お父さんにもお母さんにも、遠くて手が届かない。
 私のことを、とても可愛がってくれた戦人兄さんの、私を撫でてくれるその手に、………あとちょっとで届きそうなのに、それさえも届かない。そんな夢を、なぜか繰り返し見るようになっていた。
 ……私は同じ夢を見る度に、さらに力強く手を伸ばそうと、夢の中で無駄な努力を繰り返すのだ。
 せめて戦人兄さんだけでも、生きていてくれたなら。………私はこの冷たく寂しい現実を、せめて二人で支えあいながら生きていけるのではないか。でも、その手はいつも、届かない。
 だから私は、こんなにも高いビルの屋上に上っても、……みんなからは遠く離れている。
 ……夢の中に現れる、謎の少女が私に訴えかける。12年前に何があったか、その真実に辿り着きなさいと、夢の中の少女が訴える。
【縁寿】「……………………。……父さんたちにあの日、…何があったのかを知ることができたなら、…………帰ってきてくれるの? せめて誰かが…!」
 その言葉に、…答える者が、いるわけがない。
 わかってる。………この世に、私の家族も友人も、何もいないのだ。だから、…………行こう。…帰ろう。……家族のところへ。
 縁寿の姿は、…柵を最初から越えていた。眼下の景色はとても遠くて美しくて、むしろ幻想的でまったく恐怖感を感じさせない。
 下を向いてたら、きっと下の世界へ連れて行かれてしまうだろうから。
 ……私は上を向く。上の世界へ、家族のいる世界へ連れて行ってほしいから。
 ………何が莫大な財産よ。何が呪われた黄金よ。何が黄金の魔女ベアトリーチェよ。私が本当に欲しいものは、山成す黄金であろうとも、手には入らない…。その為に必要なのは、一歩前へ踏み出す、たったそれだけの勇気。
 98年世界、初出。EP3本編の続きのように見えるが、実は作中で現実とされている世界。EP4とEP8にて、ここから分岐する物語が語られる。
 …………その時。…私は確かに声を聞いた。その声を、私は知っている。ずっと、……私を夢の中で呼んでいた声…。
 私の目の前に、……つまりそこは漆黒と夜景の中空なのだけれど。……そこに、夢の中で見たあの少女の姿があった…。彼女は夢の中で聞いたのと同じ声で、もう一度言った。
【ベルン】「………あなたの助けが必要なの。」
【縁寿】「…私の、…………助け……? 誰が……?」
【ベルン】「………あなたの家族がよ。…あなたの家族は、永遠に12年前の今日から明日に閉じ込められているわ。」
【縁寿】「そ、…それを救えば、……私の家族は帰ってくるの?!」
 私がもっとも尋ねたかったことを問うと、少女は残酷に言葉を切り、俯く仕草を見せる。
【ベルン】「……それは約束できないわ。敵は黄金の魔女ベアトリーチェ。…強大な相手よ。私には太刀打ちできない。……でも、同じ黄金の魔女なら何とかなるかもしれない。」
【縁寿】「…………な、何の話か、わからないわ。」
【ベルン】「……1986年のベアトリーチェに太刀打ちできるのは、年の、最後のベアトリーチェだけ。………つまりあなたよ。縁寿。……………エンジェ・ベアトリーチェ。」
【縁寿】「12年前の魔女が、……私の家族を奪ったの………?」
【ベルン】「そう。あなたの仇に当たる。…………あなたに常に孤独な未来を強いる元凶よ。」
【縁寿】「…………………………。……私の、……家族の、………仇。」
【ベルン】「……見返りに、あなたの望むもっとも理想的な世界、家族の帰ってくる世界のカケラを探してあげるわ。………でも、必ず希望が叶うと約束は出来ない。…1986年のベアトリーチェのゲーム盤はあまりに完璧。
 ……今日の手土産に、その理想のカケラを持参しようとしたんだけれど、未だに見つけられないの。…………かなりの強固な運命よ。ラムダデルタと戦った時以来のね。」
【縁寿】「………………………………………。な、……何を言ってるのか、…わからない。」
【ベルン】「………あなたに、復讐のチャンスを。…見返りに、あなたが享受できる可能性の中で、もっとも幸せな結末を探して持ってくることを約束するわ。」
【縁寿】「…………………………復讐……。」
【ベルン】「……徒労になるかもしれない。仮に復讐を成し遂げられたとしても、家族が帰ってくる絶対の保証はない。奇跡的確率で、せいぜい1人を連れ戻せるかどうかよ。」
 …縁寿は、あの夢の意味を理解する。……あと少しで、せめて戦人兄さんには手が届きそうな、あの夢を。
【縁寿】「奇跡的な確率でも、……それはゼロよりは高いのよね…? 1%くらい…?」
【ベルン】「……あらゆる可能性の数値は、結果の前に無力よ。だからその数字を、私には語ることができない。」
【縁寿】「でも、私が何もしないよりは、絶対にわずかの可能性がある。」
【ベルン】「えぇ。あなたが希望を捨てない限り。…ただし覚悟して。それは遥かにゼロに近い。」
【縁寿】「………………いいわ。乗るわ、その話。」
【ベルン】「……いいのね? 多分、もう二度とここへは帰って来れないわよ。」
【縁寿】「ここは、私のいるべき世界じゃないわ。……そして、私のいるべき世界は、私が自分で探す。あなたの名前を聞かせて。」
【ベルン】「奇跡の魔女、ベルンカステル。そして我が名において、あなたを黄金の魔女、エンジェ・ベアトリーチェだと認めるわ。……今こそ、あなたは本当の魔女よ。」
 彼女が私のことを魔女であると宣言した瞬間。…私の中で何かが大きくかわるような、そんな眩暈を感じた。
 その時、バタンという音が聞こえた。…屋上へ通じる階段室の扉の開く音だ。絵羽伯母さんのところの護衛どもだった。
 …護衛とは名ばかり。私を閉じ込める、もっとも身近な檻じゃないか。私がすでに柵を越えている姿を見つけ、仰天しながら駆けてくる。
「20、マル対発見。屋上、応援求む。」
「縁寿さん…! 探しましたよ! そこは危ないですから早くこちらへ!」
【ベルン】「………なぁに、あれ?」
【縁寿】「……ファンクラブよ。…私、結構モテるの。」
【ベルン】「捕まる必要はないわね。………行きましょ。」
 ベルンカステルは、さも面倒臭そうに言いながら踵を返す。…その漆黒の中空で。そんな当り前の仕草だから、私もまた、さも当然にその後を追う。
「縁寿さん!!! 待ちなさい! 早まるなッ、危ないぃいいぃぃぃ!!」
【縁寿】「あぁ駄目ね、全然駄目。じゃあまたね、シーユーアゲイン。迎えにはリムジンをよこして頂戴。みんなも一緒だから。じゃね。」
「縁寿さああああぁああああああああぁあああんッ!!!」
 98年メタ世界、初出。縁寿が空想の人物と会話する場面は、メタ視演出の有無にかかわらず一律に扱うものとする。