うみねこのなく頃に 全文解説

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EP4: Alliance of the golden witch

オープニング

新島空港
【秀吉】「わっはっはっは、大丈夫か、戦人くん…! もう地上やで、これ以上は落ちへんでぇ、わっはっはっは…!」
【真里亞】「うーっきゃっきゃっきゃ! 落ちるー落ちるー、きゃっきゃっきゃ!」
 新島空港のロビーを、興奮した真里亞が駆け回る。機内での戦人の騒ぎがよっぽど面白かったのだろう。
【楼座】「こら、真里亞! いい加減にしなさい! …ごめんね、戦人くん。気を悪くしないでね。」
【留弗夫】「なっさけねぇ男だなぁ、お前はぁ。でけぇ図体して、相変わらず乗り物はダメなのかよ?」
【戦人】「うるへー…。人間誰しも苦手なモンの一つや二つ、あるもんだぜ…。」
【絵羽】「戦人くん、今度伯母さんと一緒に海外旅行に行きましょうよ。ヨーロッパとか行かない? 半日も飛行機に乗ってればきっと克服できるわよぅ。くすくすくす!」
【譲治】「…お母さんもよしなよ。戦人くんの乗り物嫌いはきっと遺伝だよ。」
【霧江】「あぁ、明日夢さんの?」
【留弗夫】「……あいつ、どーいうわけか乗り物系がダメでなぁ。自転車と車以外はほぼダメだったぜ。どこか遠出しようとすると、アレはダメだコレはダメだ、怖い怖い落ちる落ちるぎゃーぎゃーとうるせぇ女だったさ。」
【譲治】「子どもは、親が苦手がるモノを危険だと学ぶものです。きっと戦人くんは、明日夢さんのそういうところを見て、乗り物は怖いものだと覚えてしまったんでしょうね。」
【霧江】「くすくす。明日夢さんの遺伝子ってわけかしら?」
【留弗夫】「さぁな。だとしたら迷惑な遺伝子だな。………明日夢の話はよせ。今、ここにいるのはお前だ。そうだろ?」
【霧江】「…そうね、ごめんなさい。」
【秀吉】「おーい、ハイヤーが来たでぇ! ちょうど3台や。乗るで乗るで!」
【真里亞】「落ちる落ちるー!! パラシュートどこーパラシュートどこー!! うーうーきゃっきゃっ!!」
【戦人】「こんにゃろ〜!! 待て待て待ちやがれー! 幼女くすぐりの刑に処してやる〜!!」
【絵羽】「うっふふふふ。元気でいいわ。戦人くんと真里亞ちゃんがいてくれなかったら、機内の空気はさぞや硬かったでしょうねぇ。」
【留弗夫】「ありがとよ。言葉通りの意味で受け取っとくぜ。……おら、ガキども! タクシー来てるぞ! お遊びは後にしろぃ。」
【真里亞】「うーうー!! タクシータクシー!! 真里亞一番乗りー! きゃっきゃ!!」
【楼座】「コラ! 真里亞も戦人くんも、もうはしゃがない! 人にぶつかるわよ!」
 楼座叔母さんの声色が、ちょっぴり怖くなる。戦人も、さすがにはしゃぎ過ぎたかなと思ったら、案の定、人に肩をぶつけた。
【戦人】「あ、すんません…。」
【譲治】「戦人くんたちはあっちの車だよ。待たせちゃってるよー。」
 譲治に急かされ、戦人はぶつかった人に拝む仕草を送りながら、早く来いと呼ぶ両親のもとへ駆けていく。
 3台のタクシーは、次々にバンバンっと扉を閉め、港へ向けて出発していった……。
 EP4は、複数のシナリオが同時進行する独特の構成。ゲーム盤の外側に重点が置かれており、事件部分は短い。
 ……彼らのタクシーが走り去ると。世界の全てが急に鈍りだし、……緩やかに停止した。
 声も風も、音も。……何もかもが止み、動き動こうとする者すべてが、写真に撮られた瞬間でそのまま凍りついたかのように、……停止する。
 人も機械も時計の針も、風に舞う砂埃も、凍り付いている。歩いてる途中の人が、片足を上げたまま、凍り付いている。風に舞う紙くずが、空中に縫い止められ、凍り付いている。
 ……その、止まってしまった世界に立ち尽くすはずの人影がひとつ、動く。
 それは女。さっき、戦人が肩をぶつけた女だった…。
 動いたといっても、それは本当にわずか。目線を落とし、ほんの少し肩を下げてため息をつく。…それだけ。
 普通の世界でだったら、動いた内にも入らないだろうそれも、この静寂の世界では大いなる違和感を見せた。
 …すると、今度は別のものが動く。タクシー乗り場の近くの影でまどろんでいた黒猫だった。
 それは女のすぐ後までやってくると、……ゆるりと、ニンゲンの姿を模して形を変えた。
 猫ではない。魔女だった。もちろん、女の方だって、魔女なのだ。立ち尽くす魔女は、目線を落としたまま、呟く…。
【縁寿】「………みんなが六軒島へ行くのを、……私は、止められないのね。」
【ベルン】「止められないわ。1986年10月4日に、あなたはここにいない。」
【縁寿】「……私がここにいたなら、みんなを止めることも、不可能ではなかったの…?」
【ベルン】「6歳の女の子が、どう立ち回れば彼らを引き返させることが出来るのか、私には想像もつかないけれど。……そうね。もしこの場に居たなら、確率はゼロではなかったわ。ゼロでない確率ならば、私は奇跡を探し出せる。」
【縁寿】「………私が体調を崩して、…置いて行かれなければ………。」
 俯いた魔女は、両手の握り拳を固くする…。…それは少しだけ震えていた。
 演出は幻想描写風だが、ここでは内容を重視して縁寿メタ世界に分類した。
【ベルン】「あなたが寝込んだのは1986年10月3日。そしてベアトのゲーム盤は10月4日から切り取られている。……あなたには体調を崩さない可能性が与えられていない。…つまり、あなたは本来、絶対にゲーム盤に上がれない存在なのよ。」
【縁寿】「恩着せがましくてありがとう。……わかってるわ。……こうして、お父さんやお母さんや、………お兄ちゃんの元気そうな姿を、……見られただけでも、……これはとても素敵な奇跡なんだって、………わかってるもの…。」
 縁寿は、家族の前に立ち塞がり、空港の外へ、……六軒島へ行かせまいとしたはずだった。…しかし、1986年10月4日に存在し得ない彼女に、それは出来ないこと。
 兄に肩をぶつけられ、謝罪の言葉をもらえただけでも。…そして自分が妹だとわかってもらえなくても、……涙が溢れるほどの、……奇跡……。
【縁寿】「…………嫌味を言ってごめんなさい。私はあなたにもらった奇跡を、無駄になんかしないわ。」
【ベルン】「頼もしいわね。……さぁ、彼らと一緒に行きましょう。六軒島へ。駒たちがもうすぐ全て揃う。……第4のゲームが幕を開けるわ。ベアトも戦人も、もう席についてる頃よ。」
【縁寿】「……六軒島へ……。…………私の、…いや、……みんなの運命を変えた、1986年10月4日の、…六軒島へ………。」
 …あの日に、何があったというの? 私はそれを暴く。知る。そして取り戻す…!
 縁寿は両拳を握り締めたまま、きっと天を仰ぐ。瞳の淵に溜まった涙の雫が一粒、宙に零れ落ちる。
 そして二人の魔女の姿は、時が動き出す時に吹く暴風に飲み込まれて瞬時に消え去った。
 10月4日から切り取られているのは、あくまでもベアトのゲーム盤。ベルンが後にそうするように、ゲームマスター次第でもっと大きく切り取ることは可能。

新しき客人

地下貴賓室
【ロノウェ】「おはようございます、お嬢様。これはこれは、上機嫌なご様子。快適なお目覚めのようですな。」
【ベアト】「快適な目覚めどころか…! ワクワクして一睡も出来なかったぞ。何しろ、楽しい楽しい第4のゲームの幕開けだからな…!」
 興奮して一睡も出来なかったのは、どうやら本当らしい。にもかかわらず寝不足そうな様子もないのは、若さゆえにか、精神年齢が幼いゆえにか。ロノウェはそれを口には出さず、かわりに、ぷっくっくと笑う。
【ベアト】「前回は戦人のヤツを徹底的にケチョンケチョンにしてやった! あの、まんまとダマサレターという、戦人の顔! 実にザマぁなかったぞ! それにしてもあやつめ、まだヘコんでるのではあるまいなぁ?」
【ロノウェ】「ヘコんでいる、と申しますと…?」
【ベアト】「ん、まぁ、そのだな。…あやつめ、いい年してちょっと素直過ぎるトコとかあるだろう?」
【ロノウェ】「ございますな。そこが魅力とも申しますが。ぷっくっく…。」
【ベアト】「くっくくくくく! そうであろう、そうであろう? まぁ、それでだ。前回のアレ、あやつめ、コロっと引っ掛かってくれたであろう?」
【ロノウェ】「えぇ、コロっと豪快に。…生まれてから、ただの一度も人に騙されたことのない無垢な、薔薇の蕾にも似た純粋さを、お嬢様が存分に蹂躙を。…………冬の朝、美しき新雪の平原を存分に駆け回って、踏みにじり尽くす喜びにも換えがたいでしょうな。
 お嬢様は戦人さまの純粋な心を、実に痛快に、豪快に、無残に無慈悲に無教養に実はちょっぴりやり過ぎちゃったんじゃないかなァ…? なあんて不安になってしまうくらいに、陵辱の限りを尽くされましたとも。普通ならヘコむでしょうなぁ。ぷっくくくく、それはもう、二度とお嬢様の顔も見たくないくらいに。」
【ベアト】「わ、わかっておるではないか…! 妾はそのだな、いよいよ第4のゲームが始まるというのに、もしもあやつが意気消沈していて卓に着かないというようなことがあったら、また面倒だなァと思い、そうならば先に対策を準備した方が良いかと思い、お前に先にそれを問うたわけだ…!」
【ロノウェ】「ふぅむ…。でしたらやはり、対策をご用意された方がよろしいでしょうな。残念ながら、戦人さまはお嬢様の例の『北風と太陽作戦』でかなりショックをお受けになったようです。」
【ベアト】「ほ、ほぅ…。……ショックというと、どのくらい…?」
 ベアトは声を少し潜め、恐る恐る聞く。ロノウェもそれに調子を合わせ、同じように声を潜めた。
【ロノウェ】「……実は、膝を抱いてうずくまられて、もうだいぶになります。何度かお声をお掛けしたのですが、お返事をされません。お食事もお運びしたのですが、手を触れた様子もありません。」
【ベアト】「…そ、それは…難儀だな……。あやつ、そこまでヘコんでおったか……。」
【ロノウェ】「ぷっくくくく。無理もありますまい。…何しろお嬢様が、徹・底・的ッにおやりになられましたからな。普通なら人間不信になりましょうな。」
【ベアト】「ほぉ、ニンゲン不信なら好都合! ニンゲンなど見限って魔女を信じると良いぞ、わっはっはっは……。……………あ、…あぁ、コホン。済まぬ、ふざけが過ぎた。」
 ベアトは茶化したつもりだったが、どうやら状況はかなり深刻らしく、さすがに空気を読んで笑いを潜める。
【ベアト】「……そんなにも深刻なのか…? だ、第4のゲームの開始はもう少し待ってやった方が良いか…?」
【ロノウェ】「ベルンカステル卿のお客人もお出でになっておりますので、第4のゲームは速やかに開始された方がよろしいでしょう。ただ、お嬢様は戦人さまに多少、気を遣われても良いかもしれませんな。」
【ベアト】「気! 気とな?! どう遣えば良いのか…! あやつは落ち込んでいるのだから、…そ、そうだな、元気付けてやるとか?!」
【ロノウェ】「心を暗く閉ざした者に、暗く接しても無駄なこと。その暗闇に負けないほどの明るさで照らし出す他ないでしょうな。」
魔女の喫茶室
【戦人】「ちっくしょおおおおおお、いい加減にしやがれぇえええぇ…!!!」
【ベルゼ】「きゃーっはっはっは!! 戦人くぅん、こ〜ちらー! あんた如きにロノウェさまが焼いてくれたクロワッサンなんて勿体無いもーん! 私が美味しく食べちゃおっかなぁ?」
 香ばしいクロワッサンの香りに思わず空腹の音を鳴らせてしまう戦人。朝食の皿は空っぽだが、戦人が平らげたわけではない。…煉獄の七姉妹で一番の食いしん坊、ベルゼブブがロノウェが立ち去るのを待って、食事を摘み食いしに来ていたのだ。
 戦人にそれを見つかってしまい、さっきからドタバタと実に賑やかだった。ベルゼブブも、さっさと返すか、さもなくば自分の口に放り込んでしまうかすればいいのに、わざと戦人をからかってクルクルと逃げ回っている。
【戦人】「俺の朝飯、返しやがれぇええぇ!! 今返したらデコピン1発で許してやる。もしも食ったりしてみろぉ!!」
【ベルゼ】「代わりにオマエを食べてやるぞ〜って?! きゃっはァ! 私が食べられるものなら食べてごらんなさいよ、きっとパンケーキのハチミツのように甘いから。ッきゃ!」
【戦人】「捕まえたぁ!! 今はてめえの太腿よりそのパンが食いてぇんだ。大人しくそいつを返しやがれぇええええ、フガギギギギ…!! こいつ、最後まで抵抗をおおおお…!!」
【ベルゼ】「うぐぐぐぐ!! ダメよダメよあげないもん〜!! クロワッサンも、私に食べて欲しいって思ってるもん〜〜!!!」
【ベアト】「イ、イェ〜イ、やっほおおおおはよおおお戦人あああ〜っ!! こいつ、朝っぱらからまだクヨクヨしてるのかあ〜?!?! 新しい一日とゲームの始まりであるぞォ、元気出してイってみよおおぉおおおぉぉぉおぉ!!」
 …威勢良く扉が開き。某キャラメルの箱に書かれたマラソンの人みたいに、両手を高々と上げて、馬鹿みたいに明るそうに振る舞いながら、……ベアトが登場する。なぜだか、万国旗やら紅白の紙吹雪が舞い散り、実におめでたい雰囲気満点だった。
 ……クロワッサンを取り合って床で取っ組み合いをしていた戦人たちは、争いも忘れて絶句してしまう。
【ベルゼ】「きゃ、…きゃはははは! おはようございます、ベアトリーチェさまぁ! それでは私はこれで! ハイ、戦人くん、あ〜んしてぇ!」
【戦人】「むがッ!! ふがふが、もぐもぐ、…ごくん。…………………。……い、いよお、おはようベアト…。……朝から絶好調なようで何よりだ。」
 ………………………………。ベアトと戦人の目が合う。…互いに相手の状況が理解できていないようだ。
【ベアト】「ば、……戦人ぁ……? どど、どういうことだロノウェぇええぇ、元気そうじゃねェかよォおおおおぉおぉ!! 膝抱いてないしッ! 返事してるしッ! というか食事中だったしッ!!」
【ロノウェ】「ぷっくくくくく!! いえいえ、毛布の中で、膝を抱くようにぐっすりお休みでございまして。お目覚めの時間をお知らせしたのですが、まるでお起きになられず。食事をしようにも、悪戯猫が迷い込んでそれどころではなかったようで。ぷっくっく、ぷーっくっくっくっく!」
【ベアト】「ふ、………ふがあああああぁああぁぁ…!!! 騙されたああぁあぁあぁ…!!」
【戦人】「ちぇ、よく言うぜ。てめぇこそ、前回はでっかく騙してくれやがったじゃねぇか。事情はさっぱりだが、朝からいい気味だぜ。
 …とりあえずロノウェ、朝からナイス。」
【ロノウェ】「ぷっくくく、恐れ入ります戦人さま。」
 男同士で勝手に何かが通じ合ったみたいに親指を立て合い、二人はくすくすげらげらと笑う。ベアトはしばらくの間、恥ずかしさを誤魔化すために大層賑やかに騒ぎ立てているのだった……。
【戦人】「へっ。俺をあんまり舐めるんじゃねぇ。まさか俺が膝を抱いて、まぁだいじけてるとでも思ってたのかよ?」
【ベアト】「くっくっく。前回、あれだけ悔し涙を流しておったのはどこの誰だと言うのか。あの涙をたっぷりと小瓶にでも集め、化粧水にすれば良かったわ。」
【戦人】「う、うるせぇや。あれはその、てめぇの下手くそな芝居の超展開にちょいと驚かされちまっただけだ。見っとも無えトコを見せちまったが、二度と同じ手が通用すると思うなってんだ。」
【ベアト】「無論よ。同じ手に何度も引っ掛かって妾を失望させるなぁ? くっくっくっく!」
【戦人】「いっひっひ、あぁ、見てろよ。俺は挫ける度に強くなる男だってことを教えてやるぜ。
 …………だがな、ベアト。」
【ベアト】「うむ、何だ?」
【戦人】「二度とするな。」
【ベアト】「ほぉ? 何でだぁ? やはり搦め手は苦手かぁ?」
【戦人】「…………俺とお前は敵同士で、絶対に手を取り合うことはないってことを、…俺はもう、はっきりと理解した。……だからもう二度と、それを勘違いさせるような、不愉快な真似をするな。」
【ベアト】「くっくくく! そうは言うがな、そなたの弱点と知って、………。」
 ベアトはまだ茶化しているつもりだったが、…戦人の表情からはそういうものはいつの間にか消え去っていた。その瞳は、冷めてしまった紅茶の液面にも似ているとベアトは感じる…。
【戦人】「いいな。二度とするな。」
【ベアト】「………………。……わからんぞォ? 忘れた頃にまたやるかもなァ…?」
【戦人】「二度とするな。」
【ベアト】「…………ん、……………。」
 有無を言わせない強い眼光に射抜かれ、ベアトは軽口を噤む。
 しばしの沈黙を、きっと戦人が笑って破ってくれると彼女は思っていたかもしれない。…でも、戦人の真面目な表情はわずかほども変わらない。だから、その沈黙を破るために、ベアトは自ら笑い出さなければならなかった。
【ベアト】「くっくっく、はっはははははははははははははは…!! それで良い。そなたと妾は好敵手。どのように良好な関係になろうとも、敵同士であることの一線を越えることはない。そなたがそれを勘違いしなかったなら、妾はそれで十分だ。」
【戦人】「…そうだな。お前が敵であることを、一瞬だけ忘れかけた。二度と同じ醜態は晒さない。……お前の搦め手に掛かることは二度とない。二度と…!」
【ベアト】「………………………。…ふっ! はっははひゃっはっは!! 第4のゲームが待ちきれないのは、どうやら妾だけではなかったらしい。嬉しいぞ、戦人。さあ席に着け。」
【戦人】「…おう。望むところだぜ。……もう小手先の騙しは効かねえぞ。」
【ベアト】「粋がるな。前回のゲームの最後の謎、南條殺しの謎も降参したままのくせに…!」
【戦人】「………今はまだ答えを保留するさ。だがな、挫けたわけじゃねぇぞ。必ずお前の“真っ赤な真実”を破り、魔女を否定して見せる…!」
【ベアト】「ふ。良い心意気だ。やはりそなたは不死鳥の如き男よ。妾の見込みを裏切らぬ! それでは第4のゲームの幕を開けよう。だが、その前に。我らは新しい客人を迎えなければならないようだ。」
【戦人】「客人……。」
【ベアト】「そなたも覚えておろう? 前回のゲームの最後で、招待状もなく現れ、余興を台無しにした謎の女よ。」
【戦人】「……あいつか………。」
【ベアト】「妾たちのゲームに加わりたいというのでな。正式に招待状を送り、この席へ招かせていただいた。ロノウェ、客人を呼べ。」
【縁寿】「……その必要はないわ。もういるわよ。」
 ベアトの呼び掛けに応える声が、部屋の隅の暗がりからする。
 戦人が驚き振り返ると、いつの間にかそこに謎の女の姿があった。
【ベアト】「おやおや。そなたも人が悪い。来ていたならば挨拶のひとつもすれば良いものを。」
【縁寿】「私、殴る前に挨拶する習慣ないの。でも殴り終わったならするわ。」
【ベアト】「ほお、何とする?」
【縁寿】「グンナイト、ハバナイスドリーム。」
【ベアト】「くっくくくはっはっははははははは! 笑える、実に笑える…!」
 ベアトは手を打ちながらゲラゲラと笑う。だが、それはベアトだけで、戦人の表情には苦笑いしか浮かばなかった。
【戦人】「……ひゅう。あんた、武闘派だな。」
【縁寿】「…………………………。」
 戦人は女と目が合い、肩を竦めながらそう言う。だが、女の返事はなく、代わりに冷めた眼差しを与えられるだけだった。
【戦人】「……前回は土壇場で世話になったな。礼を言うぜ。」
【縁寿】「礼なんていらない。あなたがブッ弛んでただけよ。私は目を覚ませと言っただけ。」
【ベアト】「くっひゃっひゃっひゃ! そうだなァ、戦人はブッ弛んでるなァ、ひゃっひゃっは!」
 ベアトは同調するように笑うが、女の耳には届いていない。ただただ、冷め切った瞳で戦人を凝視するのみだった。
【戦人】「……………どうやら、俺は嫌われてるみてぇだな。」
【縁寿】「あなたが本気で戦ってないからイラついてるだけよ。」
【戦人】「俺が本気じゃないだと……?」
【縁寿】「まさか、あの体たらくが本気だったとでも? ……馬鹿にしないで。いつまで、こんな魔女の茶番に付き合ってるつもりなの。」
【戦人】「…俺は俺なりにベアトと戦ってる。もちろん本気でだ。」
【縁寿】「本気で? ………笑わせないで。魔女といつまでも永遠にお茶を飲んで談笑しているだけのあなたが、本気で戦っている? 冗談は髪型だけにして。」
【戦人】「……そりゃあ、俺も最初はこの魔女のゲームに不慣れで、散々な目に遭わされてきたさ。だがな、ようやく戦い方やそのコツが見えてきたところだ。…俺のこれまでの無様さが、あんたには本気でないように見えたのなら、それは誤りだぜ。」
【縁寿】「………そう?」
【戦人】「確かに、俺がベアトの胸倉を掴みあげるのに必要な距離は、まだかなりあるだろうと思う。しかしその距離はどれほど長大であろうとも有限だ。そして俺はゲームを重ねる毎に、一歩一歩確実にその距離を詰めている!
 時間は掛かろうとも、あの魔女を追い詰め、必ずチェックメイトする。……それにはヤツがよく口にするように、千年をかけるかも知れねぇ。…だが、それでもいつか必ず打ち勝つ。なぜか? 俺が絶対に負けを認めないからだ。絶対に立ち止まらない、追い詰め続ける! だからつまり、言えることはただひとつ。
 ……俺はいつか必ず、あの魔女に勝つ!ってことだ。」
【縁寿】「気の長い話ね。あなた勝つ気あるの? 有限も、その扱いを間違えれば無限と化す。今のあなたはすでに、亀すら追い越せないアキレスなのよ。………なるほどね、私が必要なわけだわ。こんなザマじゃ、何億年を掛けようとも、無限の魔女に勝てるわけがない。」
【戦人】「……お前は何者なんだ。名前くらい聞かせてくれたってバチは当たらねぇだろ。」
【縁寿】「……………………………。」
 女はそこで沈黙し、戦人の目を真正面から見据える。戦人は初め、その眼力に負け少しだけ目線を泳がせたが、なおも自分の目を見つめ続けるその瞳に次第に飲み込まれる。……そしてその奥に、いつか見た輝きを見る…。
 戦人は、この場に決しているはずがない少女のそれにとてもよく似ていると直感したが、……それは断じてありえないことだった。
【戦人】「…そんな馬鹿なとは思うんだが、……なぜかそんな気がするんだ。でも、そんなことあるわけがない。……まだ、あいつは6歳のはずだ。…………お前、まさか、…………縁寿、なのか…………?」
【縁寿】「……………………。そうだ、…と言ったら、あなたは信じるの?」
【戦人】「ん……………。」
【縁寿】「言い方を変えるわ。“私はあなたの味方よ、だから信用して”、と言ったら。あなたは信じるの? 初対面の正体不明の女が、自分の知人に何となく似ているからという理由だけで、あなたは無条件に信用してしまうの?
 ……そんなお人好しだから、前回のゲームであっさり騙されて、悔し涙をぼろぼろ零すことになるのよ。……あなた、自分で言ったわ。その子は6歳なんでしょ? 私が6歳に見える? にもかかわらず、私がその子だと自称したなら、それを鵜呑みにするの?」
【戦人】「……それを言われると、…弱ぇな。…すまん。そうだな、俺はお人好しだ。そいつを、前回のゲームで思い知らされたはずなのにな。……お前が言う、俺が本気じゃないってのは、そういう意味か?」
【縁寿】「そうよ。あなたは魔女と戦っているつもりでしょうけど、ただ馴れ合って遊んでいるだけ。……チェスで仲良く戦って遊んでいるだけなのよ。
 あなたたちにとってそれは真剣勝負でしょうけれど、それを離れて見ている私には、仲良くルールに守られて、ただ遊んでいるようにしか見えない。」
【戦人】「…………………。……いっひっひっひ。キツイな。」
【縁寿】「でも、そのお遊びに勝てない限り、あなたはここから解放されない。……だから私が来たのよ。このゲームに決着をつけるためにね。……今のあなたは、魔女を追い詰めていると称しながら、車輪の中を延々と走り続けるハムスターみたいなもの。」
【ベアト】「くっくっくっく! アレか、夜な夜なくるくると車輪の中を走り続けるアレか。」
【縁寿】「車輪の中を走り続けることは一見、無限のように思えるかもしれない。……無限の魔女ベアトリーチェ。まるであなたのことね。そして、その車輪の中で、戦ってるつもりで滑稽にいつまでも走り続けているのが彼。
 ……これはゲームじゃない。彼を永遠に閉じ込めているだけの籠でしかない。」
【ベアト】「ほう。……妾の無限を、ネズミが遊ぶ車輪風情に呼ばわるか。面白い面白い、くっくっく…。」
【縁寿】「ある次元における無限は、より高次元において無限を成さないものよ。メンガーのスポンジが無限の表面積を持つのは三次元未満の世界での話。三次元の現実においては、質量ゼロ。無限どころか、存在さえ出来ない。」
【ベアト】「くっくくくく…! 威勢のいい女よ。妾の敵を名乗る程度の資格はあるらしい。」
【戦人】「…………あんた、何者なんだ。」
【ベアト】「私はあなたの味方。そして魔女の敵よ。………もちろん、信じなくていい。私が本当にあなたの味方であるかなんて、誰にも証明できない。むしろ、私のことを胡散臭いと思うくらいの警戒心の方が望ましいわ。」
【戦人】「………そうだな。前回、酷ぇ目に遭わされたんだ。そのくらいの用心深さは必要だな。…俺も、もう二度と騙されるのはごめんだぜ。」
【ベアト】「くっくくくくくくくくくくくく……!」
 ベアトは実に小気味よく、そして戦人にとってのみ屈辱的であるように笑う。
【縁寿】「人はいきなり騙されたりはしない。自らの確認を怠り、それを他人に委ねた時、騙される。……他の人が渡り始めたからもう信号は青になったと思った、じゃ、事故の言い訳にはならないってこと。わかる…?」
【戦人】「あぁ…、わかるぜ。……与えられた情報を鵜呑みにするんじゃなく、自分の頭で考えろ、ってことだろ。………俺はベアトに見せられた魔法を鵜呑みにしていた。考えることを止めていた。だから、駄目だったんだ。」
 戦人は自分の苦々しい敗北の数々を思い出して表情を歪める。…それを見て不敵そうに魔女は再び笑う。
【縁寿】「私はあなたが有利になるように助言する。もちろん、あなたは私のそれを鵜呑みにすべきではない。私が味方であることの絶対の保証なんて、誰にも出来ないのだから。」
 前回、味方だと信じたワルギリアは、やはり魔女の仲間だった。……頼もしいとさえ思った彼女が最後に見せた、不気味な笑い顔が今も戦人の脳裏を離れない。
【縁寿】「だから私を無条件で信用なんてしなくていい。ゆえに私の助言も参考意見程度に留めてもらって大いに結構。だって、……魔女とのゲームを戦っているプレイヤーは、あなたなんだから。」
【戦人】「…そうだな。外野の指し手に従って打ったから負けた、なんて情けねぇ言い訳だもんな。」
【ベアト】「そうとも! 妾の相手は戦人よ。そなたなど外野に過ぎぬわ。それを弁えているとは良いことだ。くっくっく!」
【縁寿】「いいえ、外野じゃないわ。ベアトリーチェと右代宮戦人。…そしてそれを俯瞰する私が、まるで三角形のような形になって戦うのよ。一見、これは共闘ではないけれど、一緒に戦うばかりが共闘ではない。」
【ベアト】「ほぅ。珍妙なことを言い出す。」
【縁寿】「さっき彼は戦うことを、あなたとの距離を詰めると表現した。でも、ひとつの目では距離は測れない。ふたつの目があって初めて物事は立体的に見え、その距離も測れる。……そして二つの視点があっても、同じ場所からでは意味がない。離れている方が、魔女を正確に測ることが出来る。」
【戦人】「……異なる立場から異なる角度で討つ。…十字砲火ってことだな。へへ、面白いぜ。」
【縁寿】「異なる立場から、異なる角度で、討つ。……だから私は誰とも馴れ合わない。自分の立ち位置をずらし、魔女を挟み撃ちにするために。」
【ベアト】「………いいのか、戦人ぁ? その女は実は、妾が差し向けた伏兵かも知れぬぞ? もっともらしいことを言って、そなたを信用させようとしているだけかも知れぬぞ…?」
【戦人】「……かもな。こいつは、さっきからそれをずっと重ねて言っている。…だからこいつの助言は、もちろん鵜呑みになんか出来ないだろうさ。だが、それが信用に値するものか否か、俺は自ら考えて、取捨することが出来る。俺が自ら考えることを止めない限り、俺はもう誰にも騙されない…!」
【ベアト】「くっくくくくく!! 大した自信だぞ、右代宮戦人ァ! そこまで言い切ったそなたを、コロリと! また騙してみたいぞ…? そして再び騙されたことを知った時のそなたがどんな顔を浮かべるのか、妾は見てみたい! 気に入った、くっははははははは!!」
【戦人】「…………あんたは俺の名を知ってるようだが、俺はあんたの名を知らない。…名前を聞かせてくれ。」
【縁寿】「……………………………………。」
 女はしばらくの間、表情ひとつ変えずに沈黙する。…まるで、名乗るべきかどうか迷っているような、あるいは、名乗る名前をこの場で決めているかのように見えた。
【縁寿】「……グレーテル。」
【戦人】「グレてる? お前がか?」
【縁寿】「馬鹿ね、名前よ。私のことはグレーテルと呼んで。」
【戦人】「じゃあ、俺はヘンゼルとでも名乗った方がいいか? いっひひひ、冗談さ、俺は右代宮戦人! 戦人と呼んでくれ。」
【縁寿】「…………よろしく。…握手は嫌い。気を悪くしないでね。」
【戦人】「…そうだな、悪い。お前が味方と決まったわけじゃないしな。……警戒心を持てって言われたばかりなのにな。」
 戦人は差し伸べた右腕を引っ込める。
 苦笑いはすぐに消え、四度目を数える新たなゲームへの強い決意を表情に浮かべた。
【縁寿】「戦人。……あなたはどうして魔女に勝たなければならないのか、よく考えて。……気に入らないからやっつけるなんて、抽象的なものでは駄目。……絶対に魔女を打ち倒してこの世界から抜け出すという、強い信念を持って。
 ………あなたの帰りを待っている人が、………必ずいるから。……その子のためにも、…………………………。」
 何か思うことでもあるのだろうか。グレーテルは胸元に握り拳を作ると俯き、しばらくの間、言葉を失い沈黙した。
 その沈黙を打ち破るように、ベアトが威勢のいい声で宣言する。
【ベアト】「よし、これにてグレーテルとやらの自己紹介も十分であろう! さぁさ思い出して御覧なさい、10月4日に何があったのか! くっひひひひひひひ、第4のゲームの幕開けであるぞ!!」
 その声と同時に、1986年10月4日に巻き戻された時計が、どっと吹く突然の暴風のように、……動き出す。
 魔女のお茶室にいながら、私たちは眼下に青く灰色な海と、緑色の六軒島、……そして航跡を引きながらそこへ向かう船を見る。大空はすでに曇り、台風の結界がもうじき島を閉ざそうとしている。
 船が船着場に接岸し、………待っていた郷田が、下船の介添えをしているのが見える。
 そして、……船は全ての客を降ろし、………島を離れていく。島に、親族たちが飲み込まれていく。
【朱志香】「あっはははは! 真里亞は相変わらず元気だなぁ。」
【譲治】「真里亞ちゃん、気をつけないと転ぶよ。気をつけて…!」
【真里亞】「うーうーうー!! 落ちるー落ちるー沈むー沈むー、きゃっきゃ!」
 …懐かしく、そして大好きだったいとこたちが、浜辺を駆け抜け、……屋敷へと続く森の小道に飲み込まれて消えていく。そしてその中には無論、お兄ちゃんの姿も。
【戦人】「……くっそ〜!! 待て待て真里亞ぁあぁ!! こンの、すばしっこいヤツめ!」
【真里亞】「きゃっきゃ! うーうーうー! きゃっきゃっきゃ!」
 大好きだった真里亞お姉ちゃんが駆け抜け、その後をお兄ちゃんが追っていく。森の中に飲み込まれていく。
 その後を追って、お父さんもお母さんも飲み込まれていく。
 親族のみんなも飲み込まれていく…。……私だけを置いて、飲み込まれていく…。
 馬鹿……。いつまでこんなところで魔女と戯れて遊んでいるのよ……。早く帰ってきてよ、……お兄ちゃん……! 私をひとりぼっちにしないで…!
 そして気がついて。残された私がどれだけ辛く寂しい世界で孤独を強いられるかを…。

縁寿と真里亞

聖ルチーア学園
「御機嫌よう。」
【縁寿】「………ご、…御機嫌よう。」
 “御機嫌よう”は、ここでは標準的な挨拶言葉。何年をこの挨拶で過ごしても、未だに強い違和感を覚える…。
 そんな違和感を噛み殺して返した挨拶なのに、挨拶してきたクラスメートは、きょとんとしたような表情を見せる。
「……え? くすくすくすくす。」
「えー、何なにぃ? 違うわよねぇ、くすくす…。」
 彼女らの言葉遣いや振る舞いなどは、確かにお嬢様学校らしいものだが、本質的な部分はみんな歳相応に無邪気で残酷だ。……私が、自分に掛けられた挨拶だと誤解したことが面白かったらしい。いや、その逆かもしれない。
 …私みたいな根暗な子に突然挨拶をされて、対応に困った、というべきか。いや、クラスメートたちが肩越しにこちらをうかがいながらヒソヒソと囁きあう眼差しを見る限り、爽やかな朝が台無しになったとでも言わんばかりの子もいる。
 ……私は、暗い。嫌われてるから。だからこれ以上、クラスメートたちの朝の爽やかさに迷惑を掛けないよう、身を屈めて教室に入った。……まるで、上映中の映画館で通路を横切る時みたいに。
 ここは、全寮制の学園、聖ルチーア学園。試験を受ければ誰でも入れるという学校ではない。…知る人ぞ知る、各界の著名人の一部の間だけでその存在が知られる、隠れたお嬢様学校だ。
 それは、自分の娘を聖女のように育てたいと本気で願う、雲上の貴人たちにとって、世俗の穢れから娘を守れる理想的な学園だろう。
 ……しかしそれは同時に、貴人にとって表沙汰にしたくない娘を幽閉するにも都合がよかっただろう。世俗の穢れから隔離するこの学園は同時に、監獄学校としても優秀な機能を持っていたのだから。
 私はまさにその後者として、聖ルチーア学園に幽閉され、………気の遠くなるような月日を経ることになる。
 もちろん、私のような生徒はそう多くないし、それは一見しただけでは区別できない。
 でも、そうだと名乗らなくても、大抵はその様子で想像がついた。…彼女らは決まって、いつも俯き、この世の全てに見捨てられたような表情を浮かべていたから。
 そして、そういう子はどのクラスにも1人か2人はいて、彼女らが打ち明けなくても、そうであることが想像できた。
 だから。私がそうであることは、私が打ち明けずとも、いつの間にかクラスの誰もが知っていた……。
 病室では自分の掛かった病の重さがステータスになるように、ここでは生まれの高潔さがステータスとなる。公の場に出ることが許されない存在など、汚らわしいものでしかないのだろう。そういう生徒にかかわると、自分までもが穢れてしまうとでも思っているに違いない。
 ある生徒についてそういう噂が立つと、潔癖な彼女らは手の平を返したようによそよそしくなり、あらゆるコミュニティから追放した。お陰で私は、こうしてひとりで静かに学園生活を送れている…。
 もっとも、ひそひそと聞こえる陰口や、私の私物がいつの間にかなくなっていたり、壊されていたりしても、誰もが知らん振りをする日常を、静かな学園生活だと呼べるならの話だが。
 朝から私は疲れ切った表情を浮かべているに違いない。……清々しい朝を迎えた他のクラスメートがそんな私の顔を見て舌打ちのひとつもしたくなる気分もわかろうというもの。私はなるべく、クラスメートのそんな朝を汚さないように意識しながら、そっと着席する。
 ……すると珍しく誰かが話し掛けてきた。クラスリーダーの子だった。
「御機嫌よう、右代宮さん。……朝からご機嫌斜めなご様子ね。ちゃんと睡眠は取られてる?」
【縁寿】「…………何か御用ですか。」
「学年発表会のアンケート、まだ提出してないの、右代宮さんだけよ? 昨日までが提出日だったの、お忘れ?」
 …確かそんなものがあるという話は先週辺りに聞いた気がする。でも、そのアンケート用紙の配布はまだだった気がする。詳細はそれに記されているから、配られてから思い出せば充分な程度の話だったはず…。
【縁寿】「……アンケート用紙、もらってないですけど…。」
「そんなはずありませんよ。寮長から全員にちゃんと配布されてるはずです。なくしてしまったならそうと素直に仰ればいいのに。」
【縁寿】「…………なくしました。今すぐ書きますから、用紙をいただけますか。」
 まただ。……誰かが私の分を紛失したか、わざと私に知らせなかったかのどちらかだ。
 でも、それが誰の仕業なのかなんて、わかりようもない。結局のところ、私がぼんやりしていたことにしてしまう方が、丸く収まるし話も早い…。
「書いたらご自身で生徒会室のアンケートポストに投函されるように。うちのクラスだけですよ、昨夜までに全員のが揃わなかったのは。」
 クラスリーダーの小言に頭を垂れていると、その様子を見てくすくすという笑い声と陰口の囁きがどこからともなく聞こえる…。
 また右代宮さんが。あの人、ぼんやりしているから。この学校に相応しくない人。品格がない、マナーもなっていない。
 ……人格への理不尽な攻撃に対しては、彼女らには悪いけど鍛えが違う。私は心を凍らせて、そんな嘲りの矢をやり過ごしながら、急ぎアンケートを記すのだった…。
 お父さんとお母さんとお兄ちゃんと、そして親族たちがみんな死んでしまったとの報せを、私は当時、預けられていた母方のお祖父ちゃんの家で知った。
 事故の唯一の生存者は、右代宮絵羽。……絵羽伯母さんだけだった。
 当時から、絵羽伯母さんのことはあまり好きではなかった。一見、やさしくしてくれるけど、お父さんたちのことをどこか馬鹿にしてるような雰囲気が幼い私にも透けて見えていて、それが苦手だった。
 だから、絵羽伯母さんが私を引き取ることになると決まった時、何となく嫌だった。やさしかった秀吉伯父さんや譲治お兄ちゃんも一緒ならともかく、絵羽伯母さんと二人きりで暮らすことになるなんて、嫌だった。
 私はお祖父ちゃんに率直にそれを話し、祖父宅に身を寄せることを望んだ。
 しかし、絵羽伯母さんは私を引き取ることに強く固執した。絵羽伯母さんには再婚の意思はなく、右代宮家存続のためには跡継ぎの私が不可欠だというのだ。
 絵羽伯母さんは、右代宮の家をとても重んじる人。私に、跡継ぎに相応しい教育と生活を与えるためにも、直ちに引き取りたいと強く要求してきたそうだ。
 弁護士を立てての難しい交渉も行なわれたようだった。…でも結局、私は絵羽伯母さんのところへ行かなくてはならなくなった。
 私を引き取った絵羽伯母さんは言った。
 あなたは右代宮家の栄光と歴史の全てを背負わなければならない。そしてそれを背負うに相応しい次期当主となるために、死に物狂いで勉強に励むのがこれからの人生となる。右代宮家のために、残り全ての人生を捧げなさい。……そう言い切った。
 初めの内、私はそれを言葉通りの意味だろうと思った。しかし、すぐにそれは違うと気がついた。
 絵羽伯母さんにとって今なお。もっとも次期当主に相応しいのは、亡くなった譲治お兄ちゃんだったからだ。
 私は初めての食事でテーブルマナーについて、厳しい指導と詰問を受け、その躾を怠ったとしてお父さんとお母さんへの悪口まで聞かされなければならなかった。
 初めてのパーティでのマナーについても、同じように厳しい指導を受け、その無様さを公衆の面前で罵倒され、お父さんとお母さんへの侮辱にも耐えなければならなかった。
 そういうことが何度か繰り返されて、私はようやく理解した。絵羽伯母さんは私を次期当主にしたいのではない。本当に次期当主に相応しいのは譲治お兄ちゃんであり、……にもかかわらず、私が次期当主に決まっていることが、許せないのだ。
 だから、大勢の前で私を罵倒する。辱める。そして、私が如何に譲治お兄ちゃんに劣っているかを、内外に知らしめて、……亡き息子のことを供養、いや、…未だに亡くなったことを悔やみ続けているに違いない。
 ……しかし、それは私にとってはたまったものではない。私は絵羽伯母さんとは到底一緒に生活をすることは出来ない。
 ……私は生涯を亡き息子に当てつけられながら、飼い殺される。それを、まだ小学生の私ですら、理解した。
 私は右代宮の家を逃げ出し、母方のお祖父ちゃんの家へ行こうとした。
 しかし、それはとっくに絵羽伯母さんに見透かされていた。…いや、今になって思えば、私が逃げ出すよう、誘導されていたのかもしれない。
 私は護衛たちに捕らえられて連れ戻され、………右代宮の家紋に泥を塗り、その名を捨て去ろうとした卑怯者として、………思い出すだけでも未だに全身が震えて悪寒が走るほどの、………罰を受けた。
 私を罰する絵羽伯母さんを何という言葉で例えればいいだろう。狂乱? 嬉々として? ……最愛の息子を失った怒りと悲しみと、息子が継ぐはずだった家督を私に奪われることになる恨み辛み。そしてそんな感情を私にぶつけて発散できる黒い喜び。……そんな、負の感情のありったけをぶつけられた。
 そして私は自由な行動と時間の全てを奪われ、四六時中を監視下に置かれた。豪華な屋敷に住み、高価な衣服に身を纏っていたかもしれないけれど、…私は心と尊厳を踏み躙られる、右代宮家の奴隷、…家畜だった。
 そんな生活に比べれば、ここでのクラスメートの冷笑など涼やかなもの。……私の心に、堪えるわけもない…。
 私はアンケートのほとんどの欄を、特になしと書いて埋めると、折り畳んで自分のポケットに入れた。……机の中だと、また“紛失”するかもしれないから。
 昼休みにそれを生徒会室のポストに投函すると、いつものように一人で昼食を済ませ、ひと気のない校舎裏に向かった。
 ……ひとりきりの時間だけが、私を冷笑と陰口から守ってくれる。嫌われていて、友達などただの一人もいない私には、ひとりきりの時間が、一番自分にやさしい。
 私は周囲の茂みに、陰湿なクラスメートが潜んでいて、私の静かな時間を脅かすことがないかどうか調べて回り、本当の静寂を手に入れたことを知ってようやく全身の緊張を弛緩させた。
 そして、はぁ…っと零れるため息。…まるで、今日初めて吐き出す息であるかのように澱み、重かった。前にお気に入りの場所だった菜園倉庫の裏は、クラスメートにバレて悪戯されるようになってしまったので、ここが新しい私の昼休みの隠れ場所だった…。
 校舎裏には座れるところなどない。私は茂みの影の壁に寄りかかるようにしてしゃがみ込みながら、鞄を開き、一冊の凝った古めかしい装丁の本を取り出す…。
 一見したならそれは、まるで中世頃に書かれた宗教書か何かにでも見えるだろう。
 しかしこれは本ではない。日記だ。もちろん、私の日記ではない。………私の日常に、記すべき特別なことなど何もない。
 ただただ毎日が灰色で、…冷たく乾いているだけ。何も変わらない日々に、記すべき変化など何もない。これは、……大の仲良しだった真里亞お姉ちゃんの日記。
 3つ年上の、ちょっぴり不思議な人だけど、とても温かい、素敵ないとこのお姉ちゃんだった。いつも私の手を引っ張って楽しい遊びに加えてくれた。……親族の集まりで一番楽しいのは彼女に会えることだったことを思い出す…。
 日記を開けばそこには、小学生にしてはという前置きをすれば、なかなか達筆な文字が、一行飛ばしではありながらもびっしりと書かれている。彼女はメモ魔ならぬ日記魔だったのだろうか。……多分、違う。
 日々を日記にして書き記すことが、彼女にとってはもうひとりの自分との対話みたいなものだったのだろう。だから真里亞お姉ちゃんの日記は、日々の出来事を書き残したというよりは、もうひとりの自分に今日の出来事を手紙で伝えるような、そんな文体で記されている。
 この日記帳は、彼女の遺品の中から見つけて私が密かに持ち帰ったもの。最初は人の日記を読むなんて無粋だろうと思い、ただ身近に置いておくだけで満足していたが、……ついついページをめくり、少しずつ読み進めてしまった。
 そして、………彼女は今や、私の唯一の友達となった
 私はしおりを挟んだページをやさしく開く。
【縁寿】「……真里亞お姉ちゃん、お待たせ。……また、お姉ちゃんのお話を聞かせて…?」
 するとその時、……とてもとてもやさしいそよ風が吹いて、ページをくすぐった。
 そして、開かれた日記帳が、ほのかに輝いた気がする。……今日は天気がいい。真里亞お姉ちゃんは素敵な日差しが大好きだ。だからきっと、機嫌がいいのだろう。
 開かれた日記の上に、…いや、日記の世界に、真里亞お姉ちゃんが姿を現す…。
 彼女の享年は確か9歳。……だからその姿はすでに私よりも幼い。でも、私は彼女をお姉ちゃんと呼ぶし、彼女も私を縁寿と親しみを込めて呼んでくれる。
【真里亞】「うー。縁寿、今日は来るのが遅かった。お昼、混んでた……?」
【縁寿】「……うん。いつも混んでるわ。仲良しグループたちが席を陣取ってる上に、食事を終えた後も席を塞ぎ続けてるから。食堂に行くのが遅くなると致命的ね。……今日は片付けの当番だったから。」
【真里亞】「……うー! 真里亞、ご飯食べるの速い! 早く食べ終わるとその分、いっぱい遊べるの! うー!」
 押し付けられた当番のせいで、昼休みが少し短くなってしまったことを、私が根に持っているのを察してくれたのだろう。真里亞お姉ちゃんは、話を明るくはぐらかしてくれる。
 私はその気遣いに感謝しながら、自分は食べるのは遅い方だと返事する。真里亞お姉ちゃんは、早食いのコツを伝授する、みたいなことを言って私を和ませてくれた。
 日記で読んだ。いや、真里亞お姉ちゃんに聞いた。学級新聞の早食いランキングで女子で一番だったことがあるらしいのだ。彼女はそれを誇らしく思ったが、それを母親の楼座叔母さんはあまり褒めてくれなかったのがちょっぴり残念だったらしい。
【真里亞】「うー! じゃあ、今日のお話を始めるね。昨日はどこまでお話をしたかな? うー?」
【縁寿】「えっと……。ここまでよ。真里亞お姉ちゃんが、さくたろをプレゼントしてもらったところまで。……さくたろの話を聞かせてくれる約束になってたわ。」
【真里亞】「うー! さくたろのこと話すよ! さくたろはね、とっても可愛いぬいぐるみなの! 縁寿もきっと気に入るよ! うー!」
【縁寿】「うん。そのお話を聞かせて。……真里亞お姉ちゃんにお話を聞かせてもらえる昼休みだけが、学校で一番心を許せる時間だもの。」
【真里亞】「うー! 真里亞、話す! さくたろはね、えーっとえーっと!」
 いつも上機嫌な真里亞お姉ちゃんを見ていると、こっちまで心が温かくなってくる。私は彼女の物語に耳を傾けながら、彼女の世界に没入していくのだった……。
 縁寿学園編、開始。
深夜のファミレス
【楼座】「ハッピーバースデー、真里亞。ごめんね、帰りが遅くなって。」
【真里亞】「うー! ママもお仕事お疲れ様ー! 真里亞、ママが忙しいの知ってるから、遅くなっても泣かないで待ってた。大人しくテレビ見て待ってた!」
【楼座】「うん、真里亞は偉いわね。お行儀良く待ってたご褒美に、今日は何でも好きなものを注文していいわよ。もちろん、食べきれる分だけだけどね?」
【真里亞】「うーうー! 今日はコーンスープをオニオングラタンスープに変えてもいい?!」
【楼座】「えぇ、いいわよ。」
【真里亞】「うーうー! 200円高くなるけど、プロシュートピッツァに変えてもいい?!」
【楼座】「えぇ、いいわよ。本当に食べられるならね。……でもいっか。誕生日だしね。ちゃんとお行儀良く待ってたいい子の真里亞にご褒美もないとね。」
【真里亞】「うーうーうー! じゃあじゃあデザートにエンチェラーダチーズケーキも付けていい!? あとねあとね、シェフの気まぐれフルーツサラダにキッズフライドポテト! メロンソーダも飲みたい! うーうーうー! 真里亞はいい子、真里亞はいい子! ママに褒められた、うーうーうー♪」
【楼座】「くす。ちょっとはしゃぎ過ぎよ。もう少し静かにしないと他のお客さんに迷惑よ。」
 楼座がやさしく諭すと、真里亞はぺろりと舌を出してテンションを少し抑える。…でも、久しぶりの母との外食で興奮はなかなか抑えられないようだった。
 今日は真里亞の誕生日。楼座は彼女の誕生日を、必ず素敵なレストランで過ごすようにしていた。
 真里亞がまだ幼稚園の頃は、近所のお友達を招いてホームパーティーをしたこともある。楼座が腕によりを掛けた、手作りの素敵なケーキやお菓子、室内のレイアウトなどをして、とても盛大に祝ったものだ。
 ただ、引越しの関係で、近所に友人を持たなくなってからは奮発した高級レストランがそれに変わるようになった。
 しかし、今日、彼女らがいるのは普通のファミリーレストランだった。時間も、真里亞のような子どもが訪れるには親と同伴だとしても少し遅い。
 本当は、真里亞もきっと喜んだに違いない、ファンタジックなお店が予約してあった。もちろん、真里亞の名前が書かれた素敵なケーキの準備もあった。……でも、楼座の仕事がどうしても片付かず、キャンセルせざるを得なくなってしまったのだ。
 それで近所のファミレスということになったので、楼座はちょっぴりの負い目を持っていた。なので、何を頼んでも許そうと今夜は少し甘いのだ…。
【縁寿】「……真里亞お姉ちゃんってあんまり食べないんじゃなかった? こんなに頼んで大丈夫なの?」
【真里亞】「うー。あんまり食べられないけど、いっぱい並ぶのが好きなの。お誕生日のテーブルはね? 赤、青、緑に黄色、いっぱい色とりどりだと幸せになれるの!」
【縁寿】「…そうね。お誕生日のテーブルって、カラフルだと幸せな気持ちになれるわね。……うちの誕生日は真里亞お姉ちゃんのところにはだいぶ負けるけど、駅前の不三家で買ってくるケーキがいつもとても華やかだったっけ…。」
 縁寿は自分の誕生日を思い出し、懐かしむ。
 お父さんは多忙なのに、私の誕生会のためだけに帰宅してくれて、そのまま会社にとんぼ返りすることもあった。その当時は悲しかったけれど、お父さんは私のことを大切に思ってくれていたんだなと、今ならわかる。
 もちろん、お母さんも私をすごく大切にしてくれたっけ。特に誕生日のプレゼントにはいつもすごくセンスを使ってくれていて、私のために何ヶ月も前から手配してくれているようなこともあった。
 戦人お兄ちゃんにはいつも招待状を送るのに、お父さんが苦手とかでいつも来てくれない。……だから来てくれた時はすごい嬉しかったっけ。…四人家族が全員揃った時のお誕生会は生涯忘れられない楽しい思い出だ…。
【真里亞】「う〜。縁寿のお誕生日もとても楽しそうだね。戦人と留弗夫伯父さんがすごく賑やか。わいわい、きゃっきゃ。戦人、コーラ掛けられてる、あはははは。」
 真里亞お姉ちゃんに、私の幸せな記憶を覗かれる。お父さんが余興で折ってくれた折り紙の兜を被ってちょこんと座る私が、何だか恥ずかしい。手には、戦人お兄ちゃんが折ってくれた紙鉄砲。…そしてそれを記念撮影してくれるお母さん。私の一番幸せだった瞬間だ。
【縁寿】「でも、真里亞お姉ちゃんの誕生日だって負けてないよ。それで、今日もらえるんでしょう? さくたろは。」
【真里亞】「うー! すっごく楽しみだった。ママの鞄の脇にあるプレゼントの包みを、早く見せてもらえないかなと、ずっとわくわくしてた。」
 “さくたろ”とは、真里亞お姉ちゃんが今日プレゼントしてもらえることになっているぬいぐるみの名前。楼座叔母さんは、今日の誕生日のプレゼントに、ずいぶん前からぬいぐるみを作っているとのことだった。
 それは可愛らしいライオンのぬいぐるみだそうで、真里亞お姉ちゃんは、まだもらってもいないにもかかわらず、もう、さくたろという名前を付けていたのだ。彼女にとって今日の誕生日は、自分の誕生日よりもさくたろと会えることの方が楽しみだった。
 楼座叔母さんは洋服のデザイン会社をやっている。一応、ブランド名もあるらしい。……何だっけ、アンチローザだったっけ…?“昨日までの自分が、許せない”、がキャッチコピーらしい。
 …残念ながら、そのブランド名を知っている人間には会った事がない。あまり有名ではないのだろう。
 だから叔母さんはかなり手先が器用。彼女の着る洋服の中には、自ら作ったものもあるそうだ。だからぬいぐるみを作るくらい、きっとお手の物だったに違いない。
【縁寿】「……手作りのぬいぐるみなんて、ちょっと素敵。ところで、さくたろって名前、どういう意味で付けたの?」
【真里亞】「うー。本当は“さくら”って付けたかった。でもオスライオンのぬいぐるみだから、男の子の名前にしなさいって言われたの。だから、男の子っぽく太郎を加えて“さくたろう”。最後の“う”は、いつの間にかなくなっちゃった!」
【縁寿】「何で“さくら”なの?」
【真里亞】「うー! カードマスターさくらの主人公〜!」
 当時、テレビで大人気だったアニメの主人公の名前だ。……好きなキャラクターの名前をそのまま拝借する辺りが、何と言うか、歳相応に素直で可愛らしい。
【真里亞】「うー! ママ、ママ! さくたろまだ? さくたろも一緒にお誕生日混ぜてあげたい。」
【楼座】「プレゼントはいつも最後でしょう? 今広げると汚しちゃうわよ。食事が終わるまで我慢しなさい。」
【真里亞】「じゃあ早く食事を終わらす! うーうーうー!」
 そう宣言すると、がっつくように食事を急ぎ始める。みっともない真似をしないようにと楼座叔母さんが怒る。すぐに想定できた事態らしい。私も、真里亞お姉ちゃんの単純さなら、きっとそうするだろうと思ったので、予想を裏切られなくて何だか微笑ましくなった。
 結局、期待できらきらさせている娘の瞳に負けて、楼座叔母さんは、机の上を片付けさせて、お待ちかねのプレゼントの包みを出してくれた。
【楼座】「ハッピーバースデー、真里亞。……なかなか時間が取れなくて、あまり上手に作れなかったんだけど…。」
【真里亞】「うー! ママの手作りなら何でも嬉しい! うーうーうー! さくたろ〜、さくたろ〜うーうー!」
 楼座叔母さんはちょっぴり謙虚そうにそう言うが、真里亞お姉ちゃんは包装を開ける前から大喜びだった。……その気持ち、よくわかる。出来の問題じゃない。手作りのプレゼントというのは、それだけで何よりも嬉しいのだ。
【真里亞】「開けてもいい? 開けてもいい?!」
【楼座】「本当はお家に帰ってからにしてほしいんだけど、……ちょっとだけよ? ちょっと見て挨拶したら、一度しまうのよ? ちゃんと挨拶するのはお家に帰ってからにするのよ? ここはお外なんだからはしゃいじゃ駄目よ? 約束できる?」
【真里亞】「うー! 約束するする! だから開けてもいい? 開けてもい〜い? ママぁ。」
【楼座】「はいはい、ちょっとだけよ?」
【真里亞】「わああああぁぁぁぁ…☆」
 楼座叔母さんが言い終わらない内に、さっそく包装を開き始める。
 するとすぐに、……黄色と橙色がのぞく。そこに現れたのは、つぶらな瞳と白いお腹が可愛らしい、ちょっとのっぺりとしたライオンのぬいぐるみだった。
 大きさは小さな枕くらい。背の低い真里亞お姉ちゃんが持つとそこそこの大きさに見えるけど、多分、そう大きくはないだろう。
 何も知らない人が見れば、百貨店か何かで売っている安物だと思うだろう。でも、真里亞お姉ちゃんにとっては、世界でただひとつの、何物にも変えられない母親の手作りのぬいぐるみなのだ。
【真里亞】「さくたろ〜、さくたろ〜!! きゃっきゃっきゃ!! 可愛い可愛い、すっごく可愛い…! ママありがとう、ママありがとう、お仕事で忙しいのに、こんなに可愛いぬいぐるみを作ってくれて本当にありがとう…!!」
【楼座】「…そんなに褒められるとかえって恥ずかしいわ。全然時間が取れなくて、大したものを作れなかったの。本当は、抱えきれないくらい大きなのを作るつもりだったのにね…。」
【真里亞】「うぅん、これでいい! このくらいの大きさなら、いつも一緒にいられるもん。一緒にお出掛けできるもん。さくたろ〜、お姉ちゃんだよ〜、うりゅ〜☆」
【縁寿】「本当に可愛らしいぬいぐるみね。この子が、真里亞お姉ちゃんの一番のお友達のさくたろなのね。」
【真里亞】「うー! 学校には一緒に行けないけど、お家ではいつもいつも一緒にいる一番のお友達なの。さくたろはね、とっても無垢で可愛らしくて、そしていつも真里亞にやさしくしてくれるの。真里亞に元気がない時には励ましてくれて、真里亞が元気な時は一緒にいっぱい遊んでくれるの!
 だから真里亞はもう寂しくなんかない。ママが仕事で忙しくてひとりぼっちでも寂しくないし、学校で誰も遊んでくれなくても全然寂しくないの。ねー、さくたろ〜、うりゅ〜☆」
 ……学校における真里亞お姉ちゃんは、今の私と同じような境遇だった。真里亞お姉ちゃんは、クラスの子たちと比べて、いつもテンポがひとつ遅かった。感受性も、ものの考え方も少し特徴的で、……彼らに溶け込むには、少し個性的過ぎた。
 成績もかなり低く、それでいて得意とするオカルト分野には饒舌だったものだから、クラス中から奇人扱いを受けていた。真里亞お姉ちゃんに触られると呪われる、みたいな話になって。クラスのみんなが彼女を気持ち悪がったり、馬鹿にしたりして避けているらしかった。
 真里亞お姉ちゃんと肩をぶつけた男子は、その部分を他の男子に擦り付け合ったりして、穢れ扱いしたり。彼女の私物をまるで汚物みたいに摘み上げて、それを避けようとする男子を追い掛け回してみたり。
 女子は彼女と口を利くのも嫌だという雰囲気らしく、徹底的に無視をしては、彼女が何かをミスする度にくすくすと嘲笑するという有様だった。
【縁寿】「…………いじめって、いつの時代も似たようなものなのね。人間って本当、進化しないの。滅べばいいのに。」
【真里亞】「……真里亞はいじめられて悲しいけど、でも仕方ないと思うの。」
【縁寿】「仕方ない…? どうして…?」
【真里亞】「だって、クラスにはひとり、いじめられっこがいないといけないって、ルールなんだもん。」
【縁寿】「……最低なルールね。それを作ったヤツの後頭部を煉瓦で殴ってやりたいわ。もちろん角で。」
【真里亞】「もしも真里亞がいなくなったら、きっと真里亞のかわりに、新しい誰かが新しいいじめられっこに選ばれる。真里亞が我慢することで、真里亞はその子を庇ってあげられるの。」
 そう言って、薄っすらと微笑んで見せた。…………真里亞お姉ちゃんの考え方は、本当に変わっている。
 彼女が言うには、学校という場所には元々、魔女が住み着いているのだという。いや、人が集う場所には必ず魔女がひとり住み着いているのだという。
 魔女は生徒たちの魂を、病死や事故死の形で奪い取ろうとする。あるいは魂を堕落させたり、悪の道に引き込んだりするという。それを見過ごせず、天使様がやって来たという。
【真里亞】「……天使様はね、魔女をやっつけようとした。でも魔女は強大で、戦いは七日七晩に及んだけど、それでも決着しなかった。疲れきった魔女は休戦しようと言って、こう提案したの。」
【縁寿】「前に聞いたわ。……“私はこれまで、クラスの生徒の半分を、病気にしたり怪我をさせたりしてきました。でも、その代わりに、残りの半分の生徒は病気と怪我から守ってきました。だから、もしもクラスの1人を私への生贄に、『いじめられっこ』にしてくれるなら、その他全員の生徒を、病気や怪我から守りましょう”、………だったっけ。」
【真里亞】「うー。天使様は考えたの。クラスの半分が不幸になることに比べたら、クラスの1人だけが不幸になることの方がずっと良い。それに、魔女はその強力な力で他全員の生徒の安全を守ってくれると言う。」
【縁寿】「クラスに40人の生徒がいるとして。……20人の犠牲者が1人に減って、19人が助かるというわけね。……実に合理的な提案。」
 このおとぎ話は、何かモチーフでもあるのだろうか。9歳の少女に過ぎない真里亞お姉ちゃんの創作だとしたら、なかなかの出来だった。
【真里亞】「天使様はその提案を飲むことにした。だから、1人の生贄によって、19人は救われた。……だから真里亞の役割は大切なの。魔女は19人を、守ってる。」
【縁寿】「……私たちが生贄になることによって? ………その19人に、感謝された覚えはないけれど。」
 …真里亞お姉ちゃんの考えは、慈悲深過ぎる。私と彼女の境遇の不幸さはとても近い。……にもかかわらず、ものの考え方ひとつで、心の安らぎは違うというのだろうか。
【縁寿】「それで、真里亞お姉ちゃんは悲しくないの…?」
【真里亞】「うー。悲しくなんかないよ。だって、これからはさくたろが一緒だもん。ね? さくたろ?」
【さくたろ】『うりゅー! 真里亞と一緒ならボクも元気〜!』
【縁寿】「ほら、さくたろも元気って言ってるよ。うー☆」
 真里亞お姉ちゃんは、さくたろのぬいぐるみを抱え上げ、一人二役でそう会話してみせる。
 私にはわからない。……でも、だからこそ、真里亞お姉ちゃんの境地に達したいと思う。…だから、彼女の物語と言葉に、私は強い関心を持ってしまうのだ。
【真里亞】「縁寿は、ひとりぼっちだから辛い……?」
【縁寿】「……辛いわ。でも、真里亞お姉ちゃんとこうしていられる時間だけは別。ひとりぼっちじゃ、ないから。」
【真里亞】「なら、さくたろもお友達になれば、もっと楽しくなるよ。うー! じゃあ今日から、さくたろも縁寿の新しいお友達だよ! ね、さくたろ〜?」
【さくたろ】『うりゅ? ボク、縁寿のお友達…? うりゅー、縁寿〜!』
 真里亞お姉ちゃんは、まるでパペットのようにぬいぐるみを器用に動かし、さくたろの感情表現をしてみせる。
 彼女が操っているわけだが、愛くるしく短い手を振ったり小首を捻ったりする仕草は、確かにそこにさくたろという新しい友達の存在を感じさせた。もちろん、冷めた目で見ればそれは、ぐずる私を真里亞お姉ちゃんが、ぬいぐるみであやしているだけの光景だ。
 ……でも、そのぬいぐるみには、確かに魂が吹き込まれている。真里亞お姉ちゃんの、愛という魂が。だから私はそのぬいぐるみの中に、さくたろという存在を認める。
【真里亞】「ほら、縁寿もさくたろに挨拶して。ほら、さくたろもご挨拶〜☆」
【さくたろ】『うりゅ……? 縁寿、……怖い人……?』
 さくたろは、私をおずおずと見るような仕草をしながら、私と不意に目が合い、驚いて真里亞お姉ちゃんの背中に隠れるような仕草をする。……真里亞お姉ちゃんって、本当にぬいぐるみ遊びが上手だ。
【真里亞】「大丈夫だよ、さくたろ。縁寿は怖くないよ、とってもやさしい女の子だよ〜。うー☆」
【さくたろ】『…ど、どうも。さくたろうです…。……うりゅ……。』
【縁寿】「くす。……初めまして、さくたろう。縁寿よ。新しいお友達になれて嬉しいわ。」
 私が握手を求めるように右腕を出すと、さくたろの短い手がこちらに出され、私の人差し指にちょこんと触れる。何しろ人間とぬいぐるみの握手だからサイズが違う。この、指で触れ合うような挨拶が、私たちの握手なのだ。
【真里亞】「うー☆ これでもう、縁寿とさくたろはお友達だよ! 一人よりは二人、二人よりは三人の方がもっと楽しいよ。うー!」
【さくたろ】『うりゅ〜!』
 真里亞お姉ちゃんは、誕生日にもらえることになっていたこのぬいぐるみに「さくたろう」という名前を与え、ずっとずっと心の中でその存在を温めて膨らませてきたのだ。だから、出会う前からその存在は人格にまで昇華されていた。出会ったその時からもう、彼女と彼はお友達だった。
 確かに、さくたろうほどにまで人格化されて愛された存在はないだろうが、真里亞お姉ちゃんにとってそれは特別なことではない。彼女は自分の持ち物をとてもよく愛し、まるで友人やよく懐いたペットのように扱った。
 楼座叔母さんにペットを飼うことを許してもらえなかったこともあるかもしれないし、物を大切にするという気持ちもあったかもしれない。……身近に友人を見つけなければならないほど、彼女が孤立していたこともあったかもしれない。そんな様々な事情から、彼女にとってこのようなことは特別なことではなかったのだ。
 それでも、さくたろうは、……いや、真里亞お姉ちゃん風にさくたろと呼ぶべきか。さくたろは何よりも、いや、誰よりも愛されたぬいぐるみ、…いや、友達であったことは確かだ。
電話
【楼座】「もしもし…、ママよ。上機嫌ね、お友達が来てるの?」
【真里亞】「うー! さくたろと遊んでるの! さくたろったらね、きゃっきゃっきゃ!」
 もう夜の9時を回っている。お友達がいてもいい時間ではないので驚いて聞いたのだが、考えてみれば、遊びに来てくれるような友達なんていなかったっけ…。
 それにしても、ぬいぐるみとここまで楽しそうに遊んでくれるなんて。楼座は、誕生日プレゼントがとても気に入ってもらえてよかったと思うのだった。
【楼座】「ごめんね。ママ、どうしても仕事が片付かなくて…。来期のラインナップが難航してるの。ようやく少しずつ注目され始めたみたいで、何とかここで期待に応えられるインパクトを与えたいのよ…。」
【真里亞】「今夜もお泊まり? うん、いいよ。頑張って、ママ!」
【楼座】「そ、そう? ありがとうね、真里亞…。ママのお仕事のことをわかってくれてありがとう…。」
 あまりにあっけらかんと、家に帰れないことを納得してくれたので、楼座はとても驚く。
 楼座にとって、帰宅が遅くなったり、泊まりになったりすることを真里亞に伝えるのは大きな負担だった。真里亞が電話先で寂しい寂しいと泣き出し、なだめるのに大きな時間と労力を払うことになるからだ。
 その真里亞が、こんなにも上機嫌に納得してくれるなんて…。これも、さくたろうのお陰だろうか。…楼座は重ねて、良いプレゼントをしたと喜ぶ。
【楼座】「明日のこの時間には帰れるようにするわ。明日は一緒に夕食を取りましょう。真里亞は夕食はまだよね? コンビニでお弁当を買ってきて食べてね。お菓子は駄目よ、ジュースも駄目よ。お釣りと一緒にレシートも入れておくのよ、わかった?」
【真里亞】「うー! さくたろとお買い物、さくたろとお買い物…!」
【楼座】「こ、こら! さくたろは駄目よ、お留守番させなさい!」
 真里亞の口調から、自分の与り知れない内に、あのぬいぐるみと一緒に買い物に出たことでもありそうな気配を察する。楼座は眉間にしわをよせながら、それだけは絶対駄目だと口をすっぱくして伝え、電話を切るのだった。
真里亞の部屋
【真里亞】「うー…。さくたろとお買い物、駄目だってママに言われた…。」
【さくたろ】『うりゅー…。真里亞とお買い物にいけない…。ひとりでお留守番、寂しい…。』
【真里亞】「何でママ、さくたろとお買い物行っちゃ駄目なんて言うんだろ…。うー…。」
【さくたろ】『うりゅ…。……きっと、ボクが真里亞と一緒にいるのを見られると、恥ずかしいんだよ…。』
【真里亞】「……恥ずかしい? 何で?」
【さくたろ】『ママはよく、ボクをお外に連れて行っちゃいけないって言うし。真里亞のことをよく、もう何歳になったんだから駄目とか、そういう言い方をするし…。』
【真里亞】「うー? 真里亞はさくたろと一緒で全然恥ずかしくないよ?」
【さくたろ】『ボクはライオンだけど、…ぬいぐるみだし。』
【真里亞】「ライオンでぬいぐるみだけど、真里亞のお友達だよ。だから一緒にお出掛けしよ☆ ママがいない時だけ内緒で。うー? ひょっとしてさくたろも恥ずかしい?」
【さくたろ】『ボクは恥ずかしくないけど……。…うりゅ、…ちょっとお外の人が怖い…。』
【真里亞】「そっか! じゃあさくたろが怖くなくて一緒にお出掛けできるようにする! 真里亞に任せて、便利なのあるの…!」
 真里亞はごちゃごちゃの部屋の中を漁り始める。楼座によく片付けるようにと言われるのだが、どうにもお部屋の片付けは苦手だ。
 でも、真里亞自身には何がどこにあるのか大よそわかっている。むしろ、勝手に片付けられてしまうと、所在がわからなくなってしまうので困るくらいだ。
【真里亞】「あった! ほら見て、さくたろ。ナップザック〜!」
 真里亞は、それを高々と威張るように掲げる。さくたろは、ぱっくりと開かれたナップザックを見て、まさか…と身じろぎする。
【さくたろ】『うりゅ……、真里亞、もしかして……、』
【真里亞】「うー! これなら一緒にお買い物に行けるし、さくたろも怖くないよ!」
 真里亞はさくたろを抱え上げると、ぎゅうぎゅうとナップザックに詰め込み始める。最初は頭から突っ込もうとしたが、それでは逆さまで窒息してしまう。なので引っ繰り返して足からもう一度押し込む。
【さくたろ】『うりゅー…! きついー、狭いー、暗いー。うりゅー! もがっ。』
【真里亞】「ほら、大丈夫だよ。頭を出せば、狭くないし、暗くないから怖くないよ。景色もいいよ。うー!」
【さくたろ】『うりゅ、本当だ。……これなら、真里亞と一緒にお買い物に行っても大丈夫…?』
【真里亞】「うん、大丈夫だよ! 今日のお夕食は何がいいかな! さぁさ、お出掛けしよう、さくたろ! うー!」
【縁寿】「くす。真里亞お姉ちゃん、楽しそう。」
【真里亞】「うん、とっても楽しい。ひとりだったら寂しくてつまらないことでも、さくたろが一緒なら何でも楽しい。どんなニンゲンのお友達だって、夕方になったらお家へ帰らなきゃならない。
 でも、さくたろは帰らないし、いつまでも一緒にいてくれる。一緒にテレビも見るし、お布団の中だって一緒だし、雷が怖い夜には手だって握っていてくれる。クローゼットやベッドの下のオバケだって追っ払ってくれるんだよ。さくたろ、頼もしい!」
【さくたろ】『うりゅ。真里亞を怖がらせるオバケは、ボク、ライオンだから勇気を出して追い払っちゃうよ。うりゅー、がおー。』
 それは、ちょっと嫉妬するくらいの仲の良さ。
 年齢的には、私は真里亞お姉ちゃんよりも上になったつもりでいる。でも、やっぱり真里亞お姉ちゃんはお姉ちゃんで、私は未だにお姉ちゃんの境地には辿り着いていない。…私にも、さくたろのような身近な友達がいればいいのに。
【真里亞】「真里亞もさくたろも、縁寿の身近なお友達だよ? いっつも真里亞たちは縁寿のすぐ側にいる。でも、縁寿の魔法が弱いから、こうして真里亞の日記を開かないと知覚できないだけ。」
【縁寿】「……知覚? 真里亞お姉ちゃんは難しい言葉を知ってるね。」
 彼女に言わせれば、この世は魔法や霊でいっぱいらしい。たとえばそれは、ちょっとしたそよ風くらいに自然で身近なものだとか。
【真里亞】「風って、普段は気にもしないし見えもしないけれど、お線香の煙とかが棚引くと、それを見ることが出来るんじゃない?」
【縁寿】「……そうね。そしてそれは、見えなくても普段から私たちの身近にあるものだわ。」
【真里亞】「そういうこと。真里亞もさくたろも、いつだって縁寿のすぐ近くで一緒なんだよ。神様や精霊、守護霊も、私たちのすぐ身近にいるの。でも、意識しないと存在を感じられない。目では見えない風のように。でも、それは確実に私たちの身近にあって、魔力という煙が棚引けば、誰にだって見えるものなの。」
 私は、この日記を開いた時にだけ真里亞お姉ちゃんに会えると思っている。しかし、彼女が言うにはいつも一緒にいて、私が真に望むならいつだって会えるというのだ。
【真里亞】「真里亞は自分の日記に、日々の記録と一緒に、自分の魂のカケラを残しておいたの。だからこの日記には、真里亞の魔法の力が宿ってるの。でもそれはとても微弱なもので、縁寿以外の人には誰も感じ取れない。」
【縁寿】「……私にだけは、わかるの?」
【真里亞】「うん。だって、縁寿は真里亞と同じで、魔女の力を宿しているもの! 縁寿だって、ちゃんとお勉強すれば、きっと将来、立派な魔女になれるんだよ。」
【縁寿】「………魔女。それは楽しいのかしら。」
【真里亞】「うー! 楽しいよ。そうすれば、日記を開かなくても、真里亞やさくたろが、いつも身近にいるのがわかるようになるよ。そしたら毎日がとっても楽しくなる! そしたら縁寿に、真里亞は他にもたくさんのお友達を紹介できるよ。そしたら毎日が忙しくて、とっても賑やかになるよ。」
【縁寿】「それは楽しいかもしれない。……真里亞お姉ちゃんが残した魔導書も持ってるわ。今度、真面目に読んでみるわね。……そしたら、私もひとりぼっちじゃなくなる、かな。」
【真里亞】「うー!」
【さくたろ】『うりゅー!』
 真里亞お姉ちゃんとさくたろは同時にそう言って、私が魔女の世界に関心を持ってくれたことを喜んだ。
深夜の商店街
 真里亞は、さくたろが半分顔をのぞかせたナップザックを背負って、深夜の商店街を意気揚々と歩いている。
 何しろこの時間だ。商店街には、シャッターを下ろすお店の店主や、家路を急いだり、あるいは千鳥足だったりする会社員ばかりだ。
 そんな中、まるでハイキングのように上機嫌な真里亞はとても浮いて見えただろう。時折すれ違う会社員が、場違いなものを見たような目で彼女の後姿をちらりと見る。OLは、ナップザックから顔をのぞかせる可愛いぬいぐるみにくすりと笑っていた。
 この時間にはスーパーはとっくに閉まっている。しかし、最近、流行のコンビニエンスストアは深夜まで営業している。母の帰宅が深夜を越えることも多い真里亞にとってはとても便利だった。
 真里亞はナップザックを背中から降ろし、抱っこで抱えるようにしながら、菓子パンのコーナーにいる。彼女が食べたことのある菓子パンを指しては、さくたろに、これが美味しかった、これもなかなかと説明している。
 さくたろはとても楽しそうだった。
【真里亞】「真里亞は三色パンにするー! これひとつでね、餡子とクリームとイチゴジャムが食べられるの! でも、たまにうぐいす餡だったり白餡だったりするの。餡子は一種類でいいー。」
【さくたろ】『うりゅー! 色々入ってて面白そう。うりゅ〜!』
【真里亞】「あとは真里亞はフルーツヨーグルトにするー! フルーツ入ってるけど、お菓子じゃないよね? うん、きっとママも大丈夫。さくたろもどれかほしい?」
【さくたろ】『うりゅ? いいの……? お金は大丈夫?』
【真里亞】「うー、全然平気〜! ほら、聖徳太子なのー、うー! だからさくたろにも好きなものを買ってあげられるよ。一緒に食べよう! さくたろもヨーグルト食べる?」
 真里亞が同じフルーツヨーグルトをもう1つ取ろうとすると、さくたろはちょっぴりだけ困ったように小首を傾げる。
【さくたろ】『うりゅ…。でも、ボク、大きいのは食べられないから小さいのでいい。』
【真里亞】「うー。じゃあ、この小さいお菓子ヨーグルトは? 30円だね。安い。」
【さくたろ】『うりゅ! ボクはそれでいい。真里亞と一緒にヨーグルト!』
【真里亞】「さくたろと一緒にヨーグルト! うー!」
 真里亞は、買い物籠に三色パンと大小のヨーグルトを入れてレジに持っていく。昨年までこの場所にあったタバコ屋のおじさんが、レジを打ってくれる。
「お嬢ちゃん、この時間によく見掛けるね? 偉いけど、今度からこの時間のお買い物にはお母さんと一緒においでね?」
【真里亞】「ママがいいって言ったから大丈夫! ママはいつもお仕事で帰りが遅いけど、真里亞たちは寂しくなんかないの。ね、さくたろ?」
【さくたろ】『うりゅー!』
「そっか、そりゃ大変だね。ほら、ジュースを一本、オマケしてあげるよ。」
 お店のおじさんは、売れ残りか何かのジュースを一本、レジ裏から持ってくると、一緒に袋に詰めてくれた。
【真里亞】「おじさん、ありがとー! うー! よかったね、さくたろ!」
【さくたろ】『うりゅー!』
 ジュースを買っては駄目だと言われているので、家に持っては帰れない。だから飲みながら帰って、空き缶を持ち帰らないことにする。
 菓子パンの入ったビニール袋を肘に掛け、その腕でさくたろの入ったナップザックを抱きながら、ジュースを飲みながらの家路を歩く二人…。
【真里亞】「……うー。柚子胡椒ソーダって微妙…。さくたろも飲んでみる…?」
【さくたろ】『うりゅ? ………うりゅうりゅうりゅ、うりゅー!! ぷあっ。…うりゅぅぅ、真里亞ひどいぃ…。まじゅい……。』
【真里亞】「だよねぇ、うーうー。」
 もちろん、本当にぬいぐるみにジュースを飲ませたわけもない。さくたろの口に缶を付け、ちょっと傾けた真似をしただけだ。でも、真里亞はタダでもらえたけど微妙なジュースだったその味をさくたろと共有できてとても楽しかった…。
 空には大きなお月様。時にはその月を、楼座が会社に泊まることに駄々をこね、母親に叱られた涙に曇らせたこともあったはず。でも、その月はとても温かで、二人きりの楽しい家路をそっと見守るかのようだった…。
 真里亞とさくたろ。……縁寿は二人の後姿を見送る。
【縁寿】「……………………。」
 何て、…温かい後姿だろう。
 真里亞お姉ちゃんとさくたろの二人の背中からは、母が帰ってきてくれなくて涙を零す長い夜が何度もあったことを思い出すのは、とても難しい…。
 ……真里亞お姉ちゃんには言えないけれど、…私が同じ立場だったなら、ぬいぐるみにさくたろうという名前を与えたとしても、…それはぬいぐるみ以上でも以下でもないだろう。
 寂しさを紛らわすだけの関係なら、誰だって出来る。でも真里亞お姉ちゃんのそれは違う。さくたろうはぬいぐるみという玩具なんかじゃない。……ちゃんとした友達で、寂しさを紛らわせるどころか、母の帰らぬ夜を、むしろ二人きりでいつまでも遊んでいられる楽しい時間に変えてしまった…。
 さくたろうが特別なぬいぐるみだから? 母の手作りだから? それともとても可愛らしいから?
 ……多分、違う。
 もしも秘密があるのなら、それはさくたろうの方ではない。…多分、真里亞お姉ちゃんの方にその秘密があるのだと思う。
聖ルチーア学園
【縁寿】「………これが、真里亞お姉ちゃんの言う、魔法の力、なの…?」
【真里亞】「うー。魔法を知るということは、今まですぐ側にいたのに気付けなかった、たくさんの友達に気付けるということ。まるで、新しい玩具屋さんが近所にたくさん出来るみたいに楽しいことー!」
 ……誰も友達がいない学園に閉じ込められた私にも、…真里亞お姉ちゃんのような力があれば、日々にわずかでも潤いを与えることが出来るだろうか。泣きたい夜に素直に涙を零し、灰色の夜に笑みを浮かべることも出来るようになるだろうか。
【真里亞】「うん。出来るよ。縁寿は出来る。だって、縁寿にだって魔女になれる資格があるもん。」
【縁寿】「………魔女になる、資格。」
【真里亞】「真里亞も魔女になれる資格、あるんだよ。だからまだまだ勉強中の修行中なの。きっと素敵な魔女になって、箒でお空を駆けて、ケーンで虹を描いて飴玉を空から降らせるの。真里亞はきっと出来るよ。そしたら縁寿にも見せてあげるね。きっとそれは素敵な夢の中のような光景だから。」
 真里亞お姉ちゃんはそう言い、その笑顔で絶対だよと約束してくれる。
 ……魔女になんか、なれるわけがない。なのに、真里亞お姉ちゃんがそう言うと、本当に魔女になっちゃうかもしれないと、信じられる。だって現に、……笑顔の花なんて一輪も咲きようのない荒んだこの夜に、彼女の魔法は確かに笑顔を生み出して見せた。
【縁寿】「……魔女に、…………なれるかな。」
【真里亞】「なれるよ。……縁寿は少し年齢を重ねちゃったから、魂が少し重力に引かれちゃってる。だから真里亞よりも修行は大変かもしれないけど。でも、きっとなれるよ。だってもう、縁寿は魔法の一端に触れてるもの。」
【縁寿】「私が? ……魔法を…?」
【真里亞】「うん。だってほら、もうこの世にはいない私をこうして呼び出して、語らっているよ。」
【縁寿】「………これは、魔法なの…?」
【真里亞】「うん。私が日記に残した魂のカケラを、縁寿は魔法で膨らませて私を蘇らせてる。さっきも言ったよね? こうして私と再会して会話が出来て、時に笑顔を見せられるんだから、縁寿は魔法の才能がきっとあるんだよ。真里亞お姉ちゃんが保証する。うー!」
【縁寿】「…お姉ちゃんはさっき言ったわ。私は日記を開いた時にしか会えないと思ってるけど、本当はいつも身近にいるって。……私に魔法の力がもっとあれば、それを見て、…今こうしているように、……お姉ちゃんと会話が出来る…? いつでも…?」
【真里亞】「うん。いつでもお話出来るよ。朝のおはようの時だっていつも側にいるし、授業中だって側にいる。退屈な授業は私とお話して気を紛らわせようよ。食事の時には話し相手になれるし、お昼休みだってこれまでのようにいつも一緒にいようよ。
 放課後だって一緒にいるし、もちろん寮に帰ってからだって私はいつも側にいる。……日記を広げた時にしか、私を視てくれないだけ。」
【縁寿】「…………日記を閉じても、…真里亞お姉ちゃんは私の側に、…いてくれるんだよね?」
【真里亞】「うん。いるよ。だから縁寿が私を視ようとして、そして話そうとしてくれれば、私はきっと応えられるよ。……しっかりと視て、話そうとしてくれれば。」
【縁寿】「…………私、………やってみる。」
【真里亞】「簡単じゃないよ? いきなりうまくなんて、きっと行かないよ?」
【縁寿】「………わかってる。きっと簡単じゃないと思う。……でも私、………真里亞お姉ちゃんみたいになりたい………。」
【真里亞】「うー。わかった。………じゃあ、私を、よく見て。しっかり見て。」
【縁寿】「……うん。」
【真里亞】「ゆっくり目を閉じたり、開いたりして。…いきなり長く瞑っちゃ駄目。私の姿を瞳に焼き付けては、それを瞼の裏に染み込ませて行くつもりで…。」
【縁寿】「………うん、……やってる。」
【真里亞】「瞼を閉じても私をイメージできるようになったら、………そのまま、ゆっくり柔らかく目を閉じていて。………どう? まだ私が視えている?」
【縁寿】「う、……うん。…多分、見えてると思う…。」
【真里亞】「じゃあ一度目を開いて。………いよいよ本番。心を落ち着けたら、日記を閉じて。……その時、一度、真里亞の姿は消えてしまうかもしれない。でも焦らずに心を落ち着けて。……そして、瞼の裏に染み込ませた私を、逆に瞳に染み込ませて行くつもりで。…ゆっくりと虚空に私をイメージして。……私を虚空に、視て。」
【縁寿】「…………………。……うん、大丈夫。…………じゃあ、………閉じるね、日記。」
【真里亞】「うー。」
 ゆっくりと………、…日記を閉じる。
 日記を閉じれば、……無味の空気に満たされた灰色の現実が広がっている。もちろん、真里亞お姉ちゃんの姿は、消え去る。
 ……がんばって、勇気を持って。…魔女の世界への第一歩を踏み出して。心の中で真里亞お姉ちゃんが応援してくれてるような気がした。
 応援? 本当に? 私がそう思い込んでるだけじゃないの…?
 いや、違う。そう思い込んでしまうから、視えないんだ
 真里亞お姉ちゃんはいつだって私の側にいる。そして今だってきっと側にいて、私にがんばれとエールを送ってくれている…。それは私の耳に、届いているのだ。だから気のせいだとか、私の内なる心の声だとかで無視してはいけない……。
 ……そこに、真里亞お姉ちゃんがいると、…信じるんだ。
 疑っちゃ駄目。…信じてる。お姉ちゃんはいつも側にいると言ってくれた。それを疑っちゃいけない…。
 でも、何もない虚空に、何もない校舎裏の外壁に、この無情なまでに退屈な日差しの中で、彼女の名を呼び掛けるのは、簡単なようで難しい…。今日まで私にこびり付いてきた常識なる鎖が、虚空に声を掛ける行為など馬鹿馬鹿しいと嘲笑するのだ…。
 まるでそれは、眼下に光の海を見下ろす高層ビルの屋上から、一歩を踏み出せと言われているようなもの。
 ……真里亞お姉ちゃんは言ってくれてる。……大丈夫、縁寿なら出来るよと言ってくれてる。落ちるかもしれないとか、屋上から足を踏み出すなんて愚かしいことだとか、そんな常識の鎖から自分を、……解き放て……………。
【縁寿】「………………すぅ………。………はぁ、……………。…………………うん…。」
 呼吸を整える。精神を集中する。
 目の前の虚空に、瞼の裏に鮮明に見えている真里亞お姉ちゃんの姿を、浮かび上がらせろ。………魔法を理解し、……お姉ちゃんを、視るんだ……。
【縁寿】「…………真里亞、…お姉ちゃん………っ!」
「え?! 誰かいるのぉー?!」
 その時、茂みががさつく音と頓狂な声に応えられ、私は我に返る。
 どうも校舎裏にいたのは私だけじゃなかったらしい。いや、日記の世界に没頭していたので、人が来たのに気付かなかったのだ。
 茂みの向こうに三人組の姿を認める。…うちのクラスの子たちだ。
 雰囲気から見て、誰かの陰口か、内緒話かをするために校舎裏へやって来たという感じだった。
 私はそそくさとその場を立ち去る。私がこんなところにひとりでいて、ブツブツと独り言を言っていた、なんて知られたら、また面倒だろうから…。
「……言ったよね?言ったよね? マリアお姉ちゃんとか言ったよね?!」
「ヤバくない? 心霊とか見えちゃってンじゃないの、あれぇ。」
「ぷーくすくすくすくすくす! 右代宮さんって、おッもしろ〜い…!」
 黄色い哄笑が後から聞こえてくる。私は、真里亞お姉ちゃんを馬鹿にされたような気持ちにイラつきながら、早足で、そして角を曲がってからは小走りでその場を立ち去る。
 ……もう少しで、お姉ちゃんの世界へ辿り着けたかもしれないのに……。
 悔しい、腹立たしい…、何でみんな私を邪魔するの…。私はみんなを邪魔したことなんて一度もないのに……! 走っても走っても、彼女らの黄色い笑い声が聞こえてくるような気がした……。
 真里亞編開始。縁寿学園編と真里亞編は同一色で表示する。この二編はメタ世界を共有しており、そこで縁寿と真里亞の対話が行われる。

12年後の未来

会議室
【小此木】「噂じゃ、縁寿ちゃん。あんた、ビルの天辺から飛び降りたんだって?」
【縁寿】「追っ掛けがウザかったんで、ちょっと撒こうと思って。」
 広大で近代的な会議室に、縁寿と、上等なスーツを着た老紳士が二人きりでいた。
 プレゼンテーション用のあらゆる最新機材が準備され、それでいて上品で落ち着いた雰囲気を損なっていないその会議室は、ただそれだけで、この会議室の主である企業の格を知らしめ威圧している。
 もっとも、縁寿にはどうでもいいことだ。何千万もの年収を取るだろう役員たちが座る高級椅子にぞんざいに座り、飄々とした様子だった。
【縁寿】「下の方の階で、改装工事してて転落防止ネットがあるの、知ってましたし。」
 縁寿はあっけらかんとした様子でそう言い放つが、実際には奇跡中の“奇跡”だ。改装工事中の転落防止ネットを何層も突き抜け、アトリウムの宙を飾っていた色とりどりの横断幕に受け止められては滑り落とされ、…最後の横断幕1枚にふわりと受け止められて無傷で地上に降り立ち、すたすたとその場を後にしたなんて…、香港映画顔負けだ。
【小此木】「いくらネットがあるの知ってた、たってぇ、高さ200mの超高層だよ? もしも思い通りにならなかったら、今頃、大変なことになってただろうよ。」
【縁寿】「……死んだら死んだで、それまでってことでもいいかなって思いまして。まぁその、ちょっとした運試しです。若気の至りってことで。」
 縁寿は、その話はもういいとでも言うように、素っ気無く肩をすくめる。その様子に、ブラインドの隙間から眼下の下界を見下ろす老紳士はからからと笑った。
【小此木】「運試しと来たか…! いやはや、やっぱり金蔵さんのお孫さんだねぇ。運否天賦に命を預けてもけろりとしてる、その度胸。…会長も博打に平気で命を賭けられる人だったが、これも右代宮の血なのかねぇ。……やっぱりあんた、将来大物になるよ。悪いことは言わない。家出ごっこはこの辺で切り上げて、須磨寺の家に戻ったらどうだい。」
【縁寿】「お母さん、実家と仲が悪かったって聞いてます。お葬式で初対面の人の家になんて、行きたくないです。」
 須磨寺家は母の実家だ。京都のちょっとした旧家で、お母さんのフランクな様子からは想像もつかないくらいに厳格な一族だ。
 私が唯一、須磨寺家で仲が良かったのは、隠居という名の別居をしているお祖父ちゃんだけだった。母も、お祖父ちゃんとだけは交流を持っていたが、他の親族には険悪なまでに一切、関わり合わなかった。私も、須磨寺家で遊びに行ったのはお祖父ちゃんの家だけだ。
 幼い私は、当時はよくわからなかったが、お祖父ちゃんは入り婿で立場も非常に弱く、お祖母ちゃんとの仲も悪かったという。…むしろ、お祖母ちゃんに嫌われ、蟄居させられていたとすら、言い切れたかもしれない。
 そんなお祖父ちゃんにだけ心を許していたということは、恐らく、母も、須磨寺家には嫌われていただろうことは、想像に難くない。
 その娘である私も、さぞや嫌われていたことだろう。にもかかわらず、お母さんたちのお葬式の時に初めて現れて、大きくなったわね、何てしゃあしゃあとのたまって、よくも今さら親族面が出来るものだ…。
 絵羽伯母さんが死んだ後、右代宮家の全ての財産は私が相続している。それが目当てでなかったら、あんな虫唾が走るような言葉を口になんか出来るものか。
【小此木】「……まぁ、ひとりぼっちになっちまって、自暴自棄になりたい縁寿ちゃんの気持ちも、わからなくもないなぁ。」
【縁寿】「自暴自棄とかじゃないです。小うるさい絵羽伯母さんもやっとくたばったんで、久し振りに伸び伸びと散歩してるだけじゃないですか。……周りが大袈裟に騒ぎ過ぎなだけです。」
 どうせみんなの目当ては、私が背負ってる莫大な右代宮家の財産なのだ。私の後見人になれば、財産を自由に出来ると思ってるに違いない。私の親代わりになろうと言って近付いてくる連中がどれだけ大勢いることか。
【小此木】「縁寿ちゃんも、辛いことがあったら、俺で良かったらいつでも相談してな? 縁寿ちゃんのこと、実の孫みたいに思ってるんだからさ。」
【縁寿】「………………………はぁ。…当面はノーサンキューということで。…それより、話を戻して下さい。」
【小此木】「縁寿ちゃん。何度聞かれたって、俺が隠してることは何もないよ。あの日の六軒島の唯一の生き残りが会長なんだ。その会長が、何も語らずに逝っちまった。俺だって何もわからないよ。全ては闇の中、だ。」
 老紳士は、絵羽亡き後、彼女が築き上げた企業グループを任された重鎮の一人だった。彼が会長と呼ぶのは、前会長、右代宮絵羽のことだ。
 彼の会社はかつて、秀吉の会社と友好的な関係にあり、秀吉や絵羽とも親密な交流があった。その為、秀吉を失った後の絵羽が、唯一本音を漏らせる人物だったともされる。
 家族を失った絵羽が心を病み、縁寿に辛く当たるようになると、彼はその間の緩衝材的な役割も担ってくれたため、心が許せるほどではないが、縁寿にとっても訪ねやすい人物だった…。
【小此木】「あの事件は、…いや、事故か。事件なんて言っちまったら怒られちまうなぁ。…そりゃ俺も世間やワイドショーと同じ程度の疑問は持ったさ。」
【縁寿】「……どうして絵羽伯母さんは事故当時、屋敷から2kmも離れたところに、たったひとりで? それも嵐の晩に。」
【小此木】「当時、金蔵さんは次の跡継ぎに誰を選ぶかで迷われていた。……表向きは長男の蔵臼さんってことになってたんだが、蔵臼さんはあまり信頼されていなかったんだ。」
【縁寿】「……それで、親兄弟4人の中から公平に跡継ぎを決めるため、碑文の謎というゲーム染みた試練を課した…?」
【小此木】「それは表向きだなぁ。……恐らく金蔵さんは、初めから絵羽さんを当主跡継ぎにするつもりだったんだ。長男が跡継ぎだという自らのルールを撤回してでも、蔵臼さんと違い、非常に勤勉で優秀だった絵羽さんに家を任せたかったんだ。
 …碑文の謎を解いた者に家督を引き継ぐなどという新ルールは、蔵臼さんから次期当主の肩書きを奪うためだけの茶番だったんだろうな。」
【縁寿】「茶番って、どういう意味ですか?」
【小此木】「あの碑文は誰にも解ける必要はなかったのさ。適当に掲示期間を経た後、本当に金蔵さんが跡を継がせたかった絵羽さんを呼び出し、その答えを与えるだけでいい。つまり、それこそが当主継承の証ってわけさ。」
【縁寿】「………………それはワイドショーでは言われていない話ですね?」
【小此木】「まぁ、当主継承が云々なんて話をしたら、余計、陰謀説が優勢になっちゃうからねぇ。俺も馬鹿じゃないからさ。誤解を招くようなことはわざわざ口にしないよ?」
 彼の話はこうだった。当時の右代宮家では、余命わずかと宣告された当主の金蔵が、跡継ぎ問題に頭を悩ませていた。
 本来なら跡継ぎは、自らが定めた長男の蔵臼に決まる。…しかし、晩年の金蔵は、絵羽の方が当主に相応しいと思い始めていたというのだ。しかし自らにも頑固な金蔵は、自ら蔵臼に与えた次期当主という肩書きが邪魔で、蔵臼を飛び越えて絵羽を次期当主に選ぶことの出来る建前を探していた。
 その建前が、碑文の謎。
 本来の当主跡継ぎは蔵臼だが、もしもその謎を解く者が現れたなら、そちらを当主跡継ぎに選ぶという新たなルール。そして金蔵は、恐らく自分にとって最後になるであろう親族会議の日に、その謎を自ら絵羽に伝えた。……それはつまり、絵羽こそが次期当主であるという宣言にも等しいわけだ。
【小此木】「絵羽さんは、あの日、金蔵さんに呼ばれ、それを打ち明けられたんだ。そして、当主を引き継ぐため、当主だけが知る隠し館である九羽鳥庵に絵羽さんを呼びつけたのだ。」
 縁寿未来編、開始。
 基本的には、EP3ラストの話の続きと考えて問題ない。
【縁寿】「………で、一足早くその隠し館で待っていた絵羽伯母さんは、そのお陰で事故の難を逃れた、と? 絵羽伯母さんが、全ての財産を奪うために、事故を装ってみんなを殺し、自分だけ難を逃れただけかもしれない。」
【小此木】「大衆紙はそう騒いでるなぁ。だが、俺は絵羽さんを信じてるよ。……信ずるに足るポイントが、いくつかあると思ってる。」
【縁寿】「例えば…?」
【小此木】「今、縁寿ちゃんが指に通してるその、右代宮家当主の指輪だよ。その指輪は金蔵さんが特別に作らせた世界に1つしかない指輪だ。そして、今、縁寿ちゃんが指にしているものは、間違いなくそれだと、作った細工師も認めてる。」
 右代宮家、当主の指輪。黄金の重みがあり、片翼の紋章の入ったその指輪には、台座の部分にダイヤがあしらわれ、重厚感と金持ち的な悪趣味さを兼ね備えている。
 それは、金蔵が一時も外すことなく指にはめていたものだ。それを絵羽が持つということは、金蔵が当主跡継ぎと認めた証に他ならない、というのだ。
【小此木】「その指輪を確かに絵羽さんが持つからこそ。そして、実際に絵羽さんが優秀で、蔵臼さんにはビジネスシーンでの数々の醜態が知られていたことを加味すると、絵羽さんの話はまったくの作り話とは思えないんだ。」
【縁寿】「…………その指輪を奪うために、お祖父さまを殺害した可能性だってあるけれど。そして絵羽伯母さんは、何らかの細工をして、事故に見せ掛けて一族を皆殺しにした。」
【小此木】「そうだなぁ。大衆紙は財産の独り占めが目当てで一族を皆殺しにした、なんて言ってるようだなぁ。確かに、絵羽さんはここ一番ではずいぶん思い切ったこともしちゃう人だよ。あるいは、……右代宮家の財産を独り占めできるチャンスに、生涯でただ一度の殺人を犯したかもしれない。…………だがね、俺はそうは思わない。」
【縁寿】「そう信ずるに足るポイントの2つ目は?」
【小此木】「絵羽さんのご家族だよ。秀吉さんに譲治くん。……縁寿ちゃんはにわかには信じ難いだろうけど、絵羽さんはあれでかなり家族を大事にする人だったんだ。」
 ……確かににわかには信じたくないし、認めたくはない。でも、薄々はわかっている。
 確かに絵羽伯母さんは、家族をとても大切にしている人だった。彼女の歪んだ人格の根底にあるのは、最愛の夫と息子を失った悲しみがあるだけなのだ。
 それを紛らわせるために八つ当たりされてきた私には、まったく同情する気持ちはないが、……それでも、彼女の人格を変容させるほどのショックを、家族全滅が与えたことは想像できなくもない。
【縁寿】「……家族を愛した絵羽伯母さんが、夫と息子を見捨てるわけがないと?」
 殺人事件が起こったかもしれないのに証拠が見つからず、遠く離れた隠し館にいなければ逃れられないような事故とは何かと考えれば、その答は限定される。
【小此木】「そうだ。もし本当に絵羽さんが犯人で、一族を事故に見せ掛けて皆殺しにしたならば。……夫と息子が、絶対に生き残ってるはずなんだ。
 偶然、自分の家族だけが隠し館にいたと、屁理屈をこねてね。もし、秀吉さんと譲治くんも無事だったなら、さすがの俺でも、絵羽さんの陰謀を疑ったろうよ。
 ……俺は、秀吉さんの葬儀で見せた、絵羽さんのあの号泣を演技だなんて到底思えんねぇ。」
【縁寿】「………どっちも状況証拠的ですね。絵羽伯母さんの潔白を、物理的に示すには至らない。」
【小此木】「はっはっはっは。それを言っちゃおしまいだよ。生き残ったのは絵羽さんのみ。その彼女がそれが真実だ、と言うんだからさ。」
【縁寿】「でも、彼女の潔白は誰にも証明できない。」
【小此木】「あぁ、そうさ。そして彼女の犯行も、誰にも証明できない。」
【縁寿】「…………………………。」
【小此木】「そして信ずるべきポイントの最後が、警察だ。何しろ、派手な事件だったからね。陰謀説を騒ぐ世論に後押しされて、警察がずいぶんと絵羽さんを調べたはずさ。」
 絵羽だけが隠し館に逃れていたために、偶然、事故を逃れた、とする点に不自然さを感じることも出来るだろう。また、当時、秀吉の会社は乗っ取り騒ぎの真っ最中にあり、大株主の買収のために、多額の現金を欲しがっていた。その点に動機を見出すことも、難しくはないはずだ。
 しかし、親族会議に向かう絵羽の身辺は、まったくにもって普通だった。一族を事故に見せ掛けて虐殺するような、あらゆる不自然な準備が見つけられなかったのだ。当日は非番で難を逃れた使用人たちも、彼女を含め、全ての関係者について不自然な様子が見られなかったと証言した。
 それらを総合的に判断する限り、右代宮絵羽は普段の親族会議と何ら変わることなく、六軒島に向かい、事故に遭遇したと結論するしかないのだ…。
【小此木】「警察が、あれだけ散々調べて、事件性を見出すことが出来なかった。……警察がそう断じた。それで六軒島疑惑は決着じゃないのかなぁ。」
【縁寿】「……それは単に、警察は事件性を発見できなかった、ってだけの話じゃないんですか?」
【小此木】「それを言い出したらキリがないなぁ。悪魔の証明になっちまうよ。犯罪を暴くには証拠を見つければいい。でも、無実を示すには何を見つけりゃいいんだい? 消極的事実の証明は不可能だ。」
【縁寿】「……絵羽伯母さんが、犯罪を犯したか、否か。それを判断する材料が見付からないから、そのまま真相は迷宮入り、ということですね。」
【小此木】「………そうだな。縁寿ちゃんの期待する言い方にするとそうなるな。絵羽さん自身にだって、自分の無実は証明不能なのさ。あの島で不幸な事故があった。そしてたまたま絵羽さんが生き残った。しかもそれ以上のことは何もわからない!
 つまるところ、唯一の生存者である、絵羽さんの話を、信じられるか否か、ってことになるわけさ。……俺は信じたよ。指輪の話や、彼女の尊敬できる家族愛。そして葬儀で見せた涙。それらを加味して考えて、彼女の話を信じようと思ったんだ。」
【縁寿】「……でも、私は信じない。指輪なんて奪う気なら方法はいくらでもあるだろうし、家族仲が本当に良かったかなんて誰にもわからない。葬儀の涙が本物かなんて証明不能。
 ……というか、私はそもそも絵羽伯母さんなんて大嫌い。だから私は彼女の話を信じようなんて思わない。」
【小此木】「はっはっはっは…。事件の真相をどう見るか。俺と縁寿ちゃんで真っ向から対立しちまったなぁ。俺たちに与えられてる情報はまったく同じなのに、まったく異なる見解を持っちまう。
 ………こういうこと、政治や経済でもよくあるんだ。同じ事業をやっても、必ず評価は分かれちまう。どうしてかわかるかい?」
【縁寿】「………いいえ?」
【小此木】「愛があるかどうか、さ。……相手に愛を感じてるかどうかで、ものの見え方はまったく違うってことなんだ。好きな人が貧しい人に施しをすれば、尊敬できるだろ? でも嫌いなヤツが施しなんて始めたら、売名行為だとかバラ撒き行政だとか、非難轟々さ。
何をしてもしなくても、愛があれば感謝し、愛がなければ非難する。それが世の中ってもんなんだ。」
【縁寿】「絵羽伯母さんのことを、信じられるか信じられないか、……それだけの違いってことですか?」
【小此木】「彼女を疑う人間には、彼女が何をしてもしなくても、それは実に不自然に見えるだろうさ。逆も然り。……俺はね。世の中には真実なんてものは、よっぽどのことがない限り、存在しないんじゃないかと思うね。
 いや、仮にもし。真実が存在したとしても、それを信じるか信じないかは、愛があるか否かで決められちまう。……絶対性の宿らない真実なんて、真実と呼べるのかい? 絵羽さんが物理的なアリバイを示したとしても、君はそれを信じられたかい?」
【縁寿】「………………………。」
 それを言われると弱い。…私は絵羽伯母さんが大嫌いだから、彼女に利するあらゆる情報は否定するし、中立的なあらゆる情報は悪意を以って解釈するだろう。……つまり、私の中で、もう真実は決め付けられているのだ。にもかかわらず、なおも満たされずに探す“真実”とは一体、何物なのか…。
【小此木】「そういうことさ。つまり、俺から何を聞こうとも、縁寿ちゃんが絵羽さんを未だ疑っている以上、何を聞いても今さら何も変わらないってことなのさ。少なくとも、今の縁寿ちゃんじゃ、仮に未知の新事実を掴んだとしても、真相に至ることは出来んと思うねぇ。」
【縁寿】「………私では真相に、…至れませんか。」
【小此木】「だって。縁寿ちゃんは、どんな新情報や新証拠が見付かったって、絵羽さんが犯人だってスタンスは変えないんだろ? なら、これ以上、何を調べたって意味はないじゃないか。君の中の真相はすでに決まっているわけさ。」
【縁寿】「………………………。」
【小此木】「だが、もし。縁寿ちゃんがそれを真相と思わずに、さらに奥深くの本当の真相に辿り着きたいと願うなら、一個だけ方法があるよ。もう話したつもりなんだけどな。何だかわかるかい。」
【縁寿】「……愛、ですか? よく意味がわからないです。」
【小此木】「縁寿ちゃんは今、絵羽さんを犯人だと仮定し、物を考えている。でも、それじゃ片目で物を見てるようなものなんだ。片目じゃ、どんなに目を凝らしても物を立体的に見ることは出来ないだろ? だから、もうひとつ目がいるんだ。もちろん、今の目とは別の立場での。」
【縁寿】「…………絵羽伯母さんが、犯人ではない、…あるいは、本当に事故であるという仮定にも基づいて、物事を見ろと…?」
【小此木】「そうそう、その通り。物事を考える時には、異なる立ち位置から見るようにするんだ。そうじゃないと、本当のことは何もわからない。
 新聞だってそうさ。ひとつの新聞だけじゃ、その記事を書いた記者の目線ひとつでしかものが見られない。複数の新聞を読むことで初めて、立体的かつ冷静に分析が出来ることもある。
 ……愛がなければ真実は視えない。………ん〜、いいねぇ、わっはっはっは。」
 キザったらしい言葉が口を出たのが面白かったのだろう。しばらくの間、楽しそうに笑っていた。……それは同時に、知っていることは全て話した、この辺で引き上げてくれないかという意思表示でもある。私はそれを理解し、腰を上げた。
【小此木】「俺にも縁寿ちゃんの気持ちがわかったよ。あんたが納得するように、しばらく好きにしたらいい。
 ……当時、君は6歳だった。わけがわからない内に家族を失い、未だに心の整理がつかない気持ち、よくわかるんだ。」
【縁寿】「………………………。」
【小此木】「真相はわかるかもしれない、わからないかもしれない。絵羽さんは犯人かもしれないし、犠牲者かもしれない。……縁寿ちゃんが信じる“真実”が見つけられるのを、祈ってるよ。若い内の旅も、貴重な経験かもしれない。」
【縁寿】「ありがとうございます…。……お忙しいところ、お邪魔して本当に済みませんでした、小此木さん。」
【小此木】「いいって、いいって。これからどうするんだ?」
【縁寿】「まぁ、適当に。……事件関係者や、その道の専門家ってやつに何人かアポを入れてるので、そちらを当たるつもりです。」
【小此木】「そうか。納得のいく答えが見つかるといいな。」
 その時、小此木社長の秘書が入ってきて、メモを一枚、肩越しに手渡した。それを読み、私の顔と見比べる。
【小此木】「……縁寿ちゃん。旅に出てごらんと言った矢先で申し訳ないんだが、耳に入れといた方がいい情報だ。……君、今だいぶヤバイらしいね?」
【縁寿】「私のカネを狙ってる連中ですか? だからお金なんて下らない。」
【小此木】「だからって、財産丸ごと売っ払って、全額を福祉に寄付しようなんてしたら、縁寿ちゃんの財産で皮算用してる連中が、目ン玉、飛び出しちまうよ。」
【縁寿】「あぁ、須磨寺の家ですか。あいつら、何を偉そうに保護者面して。」
 絵羽伯母さんの前例がある。誰が須磨寺の家に世話になんかなるもんか。それこそ、絵羽伯母さんがよく脅していたように、両手両足をブツ切りにされて、蔵か何かに放り込まれて、右代宮の財産をしゃぶり尽くすつもりだろう。
【小此木】「須磨寺家の使いがここに来るそうだ。君を引き渡せと、いやいや、保護したいと言ってるな。」
【縁寿】「使いって?」
【小此木】「君の叔母だよ。霧江さんの妹さんだ。君の事を妹のように思っていると前に話してたな。」
【縁寿】「ご冗談。せめて孫と言ってよ、あのババア。」
【小此木】「文脈から見るに、君の意思は聞く気がないようだ。地下2階の駐車場に車が待たせてある。行きなさい。」
【縁寿】「……須磨寺の家から引き渡せって言われてるんでしょ。いいの、私を行かせて?」
【小此木】「縁寿ちゃんはきっと将来大物になるよ。この貸しは、その時の出世払いってことにしとこう。…行きな、早く…!」
 縁寿は無言で深く会釈をしてから、早歩きにその場を退出した。彼女が出て行ったのを見届けてから、秘書の女性が眼鏡を直しながら囁く。
「須磨寺家からは足止めをしておくように言われていますが…。行かせてよろしいのですか?」
【小此木】「足止めならしたよ、充分に。それに間に合わないのは須磨寺の過失だね。……縁寿ちゃんには逃げろと言ったし。須磨寺には縁寿ちゃんが来てるよと通報したし。捕まっても捕まらなくても双方に恨まれない。
 ……世の中はすべからく、愛、だねぇ…。大丈夫、逃げ果せるよ。何しろ、追っ手撒くためにビルから飛び降りられる子だからねぇ。」
 ……小此木はブラインドの隙間から再び下界を見下ろし、さすがに俺には無理だなぁと呟くのだった。
3階
 縁寿も馬鹿ではない。エレベーターから降りる彼女だが、そこは地上の3階だった。
 地下2階にタクシー? ご丁寧すぎて気持ち悪い。ここは辞退した方がいいだろう。だが、敵も馬鹿じゃない。地下駐車場だけでなく、1階ロビーも抑えられているだろう。
 これだけの巨大なビルなのだ。焦って外へ脱出せず、中でやり過ごした方がいいだろうか。
 いや、駄目だ。この近代的なビルは彼らがセキュリティルームを掌握してしまえば、私の逃げ場などなくなる。このビル全体が、巨大な袋小路も同じなのだ。
 3階は業務フロア。小娘の私は、明らかに目立つ存在だ。
 これ以上、不要に目立たぬよう、早足で歩きながら非常階段を探す。……できればその階段が、外階段であれば理想的。
 非常階段の扉を見つける。その重い扉を開けると、期待通りの外階段だった。
 サボリで煙草を吸ってた社員風の男とばったり出くわす。ぎろりと睨みつけると、そそくさと煙草を揉み消して姿を消す。
 下には誰もいないように見える。…逃げ出すなら今しかない…!
 そう思った時、タイヤをすごい音で鳴かせながら、黒い乗用車が真下に滑り込んで急停車する。……タイヤの音から、他にも数台お仲間がいて、ここを塞ぎに1台来た、という感じだった。
【縁寿】「……霞叔母さん、やるじゃない。非常口から出てくる妹にまで送迎車を送るなんて。」
 バンバン!と威勢良く車の扉が開き、3人の黒服が飛び出してきて、この非常階段を見上げる。……いっけない、目が合った。
「12、マル対発見。北西側非常階段3階、応援送れ。」
「縁寿さま! そこを動かれませんように! ご無礼を失礼します…!!」
 3人がどかどかと非常階段を駆け上がってくる。……無礼を働くと予告済みだ。かなりまずい。息さえしてれば、腕の一本くらい引っこ抜けても構わないくらいに命じられてるのだろう。
 どかどかどかどか!! 彼らの重く激しい足音が螺旋になって階下から昇って来る、近付いてくる…!
玄関ロビー
 ビルの玄関ロビーには、黒服の護衛を7人も従えた婦人が、悠々と歩みを進めていた。その物々しい様子に、ビルの警備員が駆けつけ、アポイントはおありでしょうかと尋ねる。
【霞】「………これだから東京人は。名乗らせなければ相手の格もわからない…?」
「し、失礼いたしました…。当社ではご来賓の皆様にはフロントにてセキュリ、」
【霞】「……下がれ下賎が。私はお前たちの社長に呼ばれて来たんだよ。小此木鉄郎を呼んでおいで。呼びつけておいて出迎えもないとはね、これだから東京人は…。」
【小此木】「これは失礼。ようこそ右代宮グループへ、須磨寺霞さん。」
 小此木が秘書を従え、エレベーターから颯爽と現れる。双方に不敵な笑みがありながらも、火薬の臭いを連想させる緊張感が張り詰めていた…。
【霞】「………縁寿はどこ? 姉さんの可愛い可愛い姪を、迎えに来たのよ私は。」
【小此木】「右代宮グループでは時間厳守がモットーでしてなぁ。時間を守れない人間は契約も守れないってのが先代会長のお言葉でして。」
【霞】「……東京まで呼びつけて、何てザマなの? 逃がしたわね。」
【小此木】「逃げられた、と言ってもらいたいですなぁ。これでもずいぶん足止めはしたんです。さすがに気取られましてね。須磨寺さんが、時間通りに来てくれれば問題はなかったのですが。
 これだから地方人はルーズで困るんです。わっはははははははは!」
【霞】「…………今何と……? この私に何と…?」
 霧江の妹、霞の面影に霧江の気さくさはまったく感じられない。表情に浮かぶのは、没落した右代宮家に対する歴史ある須磨寺家の嘲りと、……にもかかわらず、右代宮家の財産を無視出来ない程度に斜陽を迎えていることを気取られたくないプライド。縁寿が、この叔母を毛嫌いする理由が、一見しただけで納得できるというものだった…。
 わずかの侮辱にも耐えられない彼女は、笑顔のまま眉を引きつらせる。その時、後の黒服が霞に囁く。
「縁寿さまを発見しました。対応中です。」
【霞】「……あら、間に合って良かった。……ありがとうね、小此木。ようやくやんちゃな姪を連れて帰れそうだわ。……私、あの子と一緒に、ゆっくりとお茶室で語らいたくてお道具まで準備して待ってたんだから。うっふふふふふふふ…!」
非常階段
 どかどかどかどか……!! 音の暴力が螺旋を描きながら、私を階下から飲み込もうと迫ってくる。
 無論、戦っても勝ち目はない。さりとてビル内に逃げ込んだところで、自ら袋小路に飛び込むようなものだ。時間と共に敵の応援は増える。この場をどうにか出来ないなら、もう私に逃げるチャンスはない。
 そして3人の屈強な黒服たちが階段下に姿を現す。1、2、3。3人だ。つまりそれは車から降りてきた全員。
 せめて1人だったなら、出会い頭に思い切り飛び蹴りでもブチかませば、何とか出来たかもしれない。……でも、さすがに3人じゃ無理だ。いや、3か…。……3くらいなら何とかなる…。……やれる……!
【縁寿】「すぅ………。…………はぁああああああ!!」
「んなッ?! ば、馬鹿やめろ!! 危ないいいい!! うわあああああああ…!!」
「01より12、確保したか、応答されたし。……どうした?! 応答しろ!」
「な、……何てヤツだ…、くそ……。」
 ………つつつ…。……痛たた…。ほらね、…何とかなったでしょ。たった3だもんね。もっと高いところを経験してるもの。3階くらいなら飛び降りられると思った…!
 やつらが乗り付けてきた車が真下にあったのが幸いした。快適なトランポリンとは行かないまでにも、私をそこそこにやさしく、そこそこに厳しく受け止めてくれた。
【縁寿】「……失礼しちゃうわ。ここまでへこむこともないだろうに。」
 車の屋根は私を受け止めて、私の体に沿ってべっこりとへこみを残している。案外、車の屋根って華奢なのね。私の体重のせいじゃないと思うわ。
 階段の上の3人は、私が飛び降りるなんて想定はなかったらしい。出し抜かれたと知り、大慌てで階段を駆け下りてくるようだ。
 今のうちに走って逃げなければ。私が体を起こすと、屋根がベコンボコンと音を立てた。
 しかし、甘かった。彼らが、この場所に1人も残さずに全員が階段を駆け上るはずはなかったのだ。
 私を受け止めた車の運転席には黒服が1人残っていた。扉より顔を出し、落下物の正体が私だとわかると飛び出して来る。
 慌てて屋根から飛び降りるが、黒服の対応はあまりに素早い。……よほど私に賞金が掛かってるのか、取り逃がした際のお仕置きが苛烈なのかのどちらかだ。
「15、確保、確保…!」
【縁寿】「痛たたたた……!! くっ、気安く触らないで、離してッ!!」
 アスファルトの上に容赦なく組み伏せられる。私はうつ伏せに潰され、上から覆い被さるように圧し掛かられた。エレガントさの欠片もない捕まえ方だが、実に合理的で抵抗の余地はまったくない。
 私は何かの抵抗手段を求めて両手で抗おうとするが、がっちりと押さえ付けられ、自分の体をアスファルトから引き剥がすことさえ出来なかった。
 そこへさらに一台の車がタイヤを鳴かせながら滑り込んできて急停車する。万事休すか。
「ぎゃッ!!!」
 私を押し潰していた男が鋭い悲鳴をあげる。……私の耳の近くで叫ばれたものだから、左耳がキーンとする。一体何事?!
 その黒服ごと、私たちはごろんと転がされる。仰向けにされて最初に目に入ったのは、私の目の前にずいっと突き出された腕だった。
【縁寿】「………天草…? あんた、どうしてここに…。」
【天草】「その話は撒いてからにしましょうぜ。お嬢、車へ早く…!」
 天草は私の腕を掴むと、軽々と引き起こし、自身を重心に私をグルリと振り回す。ちょっぴりだけダンスみたいと思ったのも束の間、開け放たれた運転席へ私を放り込んだ。
天草の車
 私はサイドブレーキを乗り越え、助手席へ潜り込む。天草も私を押し込むようにして運転席へ乗り込んでくる。四つん這い状態のままで急発進されたので、私は椅子の上でしばらくの間、引っ繰り返された亀のようにジタバタしなくてはならなかった…。
 天草はバックミラーに追跡車両がないことを確認するが、わずかもスピードを落とさずに、大都会の動脈に飛び込んでいく。
 すいすいと縫うように、次々車両を追い越していく。まるっきり、アクション映画そのままのカーアクションだ。……ひどい運転に揺らされ、私はなかなか座り直すことが出来なかった。
【天草】「お嬢、お怪我は?」
【縁寿】「問題ないわ。人間って案外頑丈よ。私、次からは降りのエレベーターを逃したら、窓から飛び降りることにするわ。」
【天草】「ひゃっははは、お嬢の趣味はエアダイブらしいや。ただ、次からは落下傘をつけることをお勧めしますぜ。」
【縁寿】「飛び降りた後に思い出せたらね。」
【天草】「ひゃっははははは、クールッ!」
 げらげら笑いながら、ハンドルを叩く。この軽薄そうな喋り方をする男について説明がいる?
 彼の名は天草十三(あまくさじゅうざ)。元々は絵羽伯母さんの護衛の一人。軽口とお喋りが過ぎて伯母さんには嫌われてたっけ。
 護衛たちの中では一際若いが、見掛けの軽薄さとは裏腹に、自衛隊第一空挺からフランス外人部隊をハシゴして、海外の民間軍事会社や高級警備会社に次々身を置くなど、なかなか優れたユニークな経歴を持つ。……ただ、自衛隊とフランス外人部隊はいずれも脱走だそうで、彼はフランスに入国すると逮捕されるんだとか。これもまた彼らしい軽薄なエピソードだ。
 護衛たちは私に対し、余計なお喋りをしないように強く言われていたらしいが、彼はそんなのお構いなしに私にちょっかいを出してきたっけ。その辺を特に嫌われて、絵羽伯母さんが死ぬ直前頃に解雇されたはずだ。
【縁寿】「その軽口が懐かしいわ。クビになった後はどうしてたの?」
【天草】「ブラックウォーターでエクササイズの指導を。休暇で帰国したら小此木社長に高給を提示されまして。」
【縁寿】「……んで、また脱走? こんな男、何の役に立つのかしら。」
【天草】「来週までに帰りゃ脱走にはなりませんので。話があったのは昨日です。お嬢が厄介な連中を呼び込むかもしれないと言われまして。」
【縁寿】「まさにその通りで申し訳ないわね。」
【天草】「お嬢と面識があって、ドタバタの経験も豊富ってことでご指名が来たんでしょうぜ。お嬢のお陰で、ハッピーな休暇と小遣い稼ぎになりそうです。」
【縁寿】「……小此木さんがあんたを、私の護衛に雇ったってこと?」
【天草】「お嬢に恩を売りたいんでしょうぜ。……クビの後、小此木の社長には色々と世話になってましてね。色々と弱みを握られてンで、逆らえんのですわ。ヒャッハ!」
【縁寿】「……小此木さんの世話になると、後々で高く付きそうね。……で、あんたは私をどこに連れて行くつもりなの?」
【天草】「どちらへでも。週末までは雇われてます。それ以降は別料金で。」
【縁寿】「一日いくら?」
【天草】「5万で手を打ちます。経費は別ですぜ。」
【縁寿】「軽口を叩かないなら倍払うわ。雇用期間は未定。何週間かになるかも。」
【天草】「…そりゃ大変だ。ボスに休暇の延長を電話しねぇとなりませんぜ。」
【縁寿】「私、どうしてもあの日のことが調べたいの。」
【天草】「……あぁ、例の六軒島の?」
【縁寿】「そうよ。12年前にあの島で何があったのか。……私の手で、納得が行くように調べたいの。」
【天草】「そんな昔のことを今さら調べて、今さら新しい発見がありますかねぇ…?」
【縁寿】「そうね。だからこれは、私の自己満足のための旅なのよ。……それを終えたら、ネギでも背負って須磨寺の家に行くわ。……霞叔母さん、私にお抹茶をご馳走したいとか言ってたっけ。角材の上に正座させられて、石でも抱かされながらのお茶かしら。」
【天草】「そりゃおっかねぇや、ひゃっはははは…!」
玄関ロビー
「申し訳ございません、見失いました…。仲間と思われる男が1人、脱出を援護。スタンガン所持、運転技術その他から見て、素人ではありません。」
【霞】「…………そう、ありがとう。………残念よ、小此木。これがあなたのお返事だということでよろしいかしら…?」
【小此木】「逃がしたのはあんたのヘマだ。俺の知ったこっちゃないねぇ。」
【霞】「…………あなたにもぜひ今度、お抹茶をご馳走したいわね。京都にお出での際には、ぜひお立ち寄りなさいな。………行くわよ。」
【小此木】「あれ、もう帰っちまうのかい。お茶漬けでも食ってけばいいのに。」
【霞】「………………くっくっくっく。…ほっほっほっほっほ…!!」
 霞は小此木に背を向けたまま、軽やかに、そして徐々に甲高く憎々しく声色を変えて笑い、それを捨て台詞の代わりとする。笑い終えると同時に、その形相は般若のように豹変するが、背を向けられた小此木にその表情が見えることはなかった。
 小此木はそれを涼しげに笑いながら見送る。その肩越しに、彼の秘書が囁きかける。
「……よろしいのですか? 縁寿お嬢様は我が社の筆頭株主です。須磨寺家が後見人になれば…。」
【小此木】「知ってらぁ。だがな、ウチも天下の右代宮だ。舐められてたまるかってんだ。……しかし、あいつ、うまく立ち回ってくれたようだな。……あとは縁寿ちゃんの好きにさせるさ。頼むぜぇ、天草ぁ。」
「……霞さま。逃走車両はレンタル。提示した免許証は偽装とのこと。明らかにプロです。恐らく車両は放棄するでしょう。追跡は困難です。……警察に追わせますか。」
【霞】「…………そうね。家出娘の捜索願でも出そうかしら? 税金納めてるんだもの、警察にもたまには役に立ってもらわなきゃ。ほっほっほっほ…………。
 母上に、私にお任せをと啖呵を切ってお屋敷を出て来たんですよ? あなた、私にさらに恥をかかせるおつもり……? あんたらまとめて、お抹茶を振舞った方が良さそうねぇ? ……地下のお茶室は狭いから、順番待ちの行列になっちゃうかしら……?」
「い、いえ…。全力で捜索します。」
【霞】「……あぁ、本当に可愛い子ねぇ、姉さんに本当にそっくり。……自分勝手で自由奔放な辺りが本当にそっくり。……あぁ、もう姉さんにしか見えなくなってきたわ。あぁ、本当に楽しみよ。姉さんの娘をお茶室にお招きできるなんてね……? ほっほっほっほっほ……!!」
天草の車
【縁寿】「……須磨寺家、動きが早かったわね。私、小此木さんに売られた…?」
【小此木】「ご冗談を。俺のクライアントですぜ。お嬢を売ったなら、俺を雇ったりはしませんぜ…?」
【縁寿】「………………………。…それもそうね。」
【小此木】「……あぁ、だから3階でエレベーターを降りたんですか。」
【縁寿】「地下駐車場に車が待ってるなんて、手際が妙に良過ぎたから。小此木さんに売られたかもしれないって思って。……駐車場に待ち伏せがいたかどうかは、今となっては証明不能だけどね。」
【小此木】「なるほどねぇ、社長め、気の毒に。お嬢に信用されてないらしい。その地下の車って、俺のことです。」
【縁寿】「え……? 天草のことだったの…?」
【小此木】「着いたエレベーターが空だったんで焦りましたぜ。連中の無線を盗聴できてなきゃ、今頃どうなってたやら。」
【縁寿】「………………つまり何? 私が素直に小此木さんを信じて、駐車場に行ってれば、私は3階から飛び降りるなんて真似、する必要もなかったってこと…?」
【小此木】「そうなりますなぁ。まぁ、結果オーライですがね。」
【縁寿】「……………………。」
 ………何てことだろう。もしも私が小此木社長を疑わなかったなら、……窮地に陥ることもなく、のんびりと脱出できていたのだ。
 “小此木社長は私を売ったかもしれない”。いや、売ったことを想定した方がいい、という疑心暗鬼が、“彼は私を売った”と仮定し決め付けた。彼を信じられなかったから、彼の真実にもかかわらず、私の真実は“彼が私を売った”となった……。
 小此木社長の言葉が蘇る。
 絶対性のない真実なんて、それを真実と呼べるのかい…? 真実なんて、愛があるかないかでいくらでも変わる。
 結局のところ、……真実などというものは存在しないのかもしれない。それを語る人の人数分だけ、各々の解釈の真実が生み出されるだけなのだ。
 そんな不定形なものを真実だと認められないのなら、……私が本当に見つけたいと思う真実は、どこに存在するというのか。……そしてそれは、目で見えるものなのか。案外、…目の前にこれが真実だと突きつけられても、……私には視えないモノなのかも知れない…。
【縁寿】「……愛がなければ視えない、か。」
【ベルン】「………あなたのカケラはずいぶんと賑やかね。退屈しないわ。」
【縁寿】「あなたは言ったわ。12年前の真実を探れと私に命じた。……でも、何だかわからなくなってしまった。」
【ベルン】「何が?」
【縁寿】「……真実って何? 人の数だけ真実がある。人の数だけ解釈がある。そしてそれは主観によって歪められ、いくらでも姿を変える。……真実ってものは、そんなにも不定形であやふやなものなの?」
【ベルン】「そうよ。……真実は不定形。粒子のようであり、波のようでもあり、相反する形状を同時に持つ。箱の中の猫が、生きていると思おうが死んでいると思おうが自由。……でも、真実はとても繊細。それは観測されただけで姿を変えてしまうわ。」
【縁寿】「シュレディンガーの猫箱とかいう話? ………寝言よ。箱を開ければ真実はわかる。開ける前の議論なんて、机上の空論もいいところ。」
【ベルン】「そうね。にもかかわらず、その空論を否定するには箱を開ける必要がある。……開けられない箱の中身についてのあらゆる想像は否定不能。つまりは真実ということ。」
【縁寿】「………真実は、否定されない限り、その形状を維持する。」
【ベルン】「そう。真実は、観測されない限り、その形状を維持する。」
【縁寿】「つまり、暴けなきゃどんな妄言も真実たりえるわけね。」
【ベルン】「えぇ。……無限の想像は、それらが互いに矛盾していたとしても否定されず同時に真実として存在できる。」
【縁寿】「………家族みんなが、六軒島の魔女に捕らわれて、永遠に12年前に閉じ込められているという、滅茶苦茶な話すら、12年前に何があったかわからない限り、真実として存在できる…。」
【ベルン】「ベアトリーチェという魔女は、12年前の六軒島に“無限”の想像の余地を抉じ開け、そこを猫箱として全てを飲み込んだ。……開かれぬ箱の中の全ては真実。」
 そう。あの島で何があったかわからないから、無限になる。
【縁寿】「……閉まったままならね。私が抉じ開ければいいだけの話。………でも、その箱は12年前に閉じられ、どこにあるのかもわからない。……仮に六軒島に訪れたとしても、私は荒れ果てた島で、12年前の何を知ることができるというの?」
【ベルン】「さぁ。何を知ることができるのかしら。………いずれにせよそれは、1998年という12年後の未来を自由に闊歩できる、最後の魔女、エンジェ・ベアトリーチェにしかできないことよ。」
【縁寿】「……………………。」
【ベルン】「ベアトリーチェのゲーム盤は1986年10月4日から5日の2日間。つまりそれは、あなたが彼女のゲーム盤の外へ自在に動ける駒だということ。……そして、ベアトリーチェですらこのゲーム盤を超えた未来へは干渉できない。」
【縁寿】「……そうやって言われると、私って、かなり優秀でズルイ駒だわ。」
【ベルン】「あなたが身を置く12年後という未来は確かに遠いわ。しかし、駒は未来に位置すれば位置するほど、強い力を持つの。……言ったでしょう? 真実は、観測されると姿を変えると。」
【縁寿】「そう言えば、こんな話を聞いたことがあるわ。……ある日、突然、ケンタウルス座の恒星が爆発してしまっても、その爆発の光が地球に届くには、4.4光年だから4年半の月日が必要になる。」
【ベルン】「そうね。つまり、ケンタウルスの太陽がすでになくなっているとしても、地球人は4年半の間、その事実を知覚できない。……光より早く知覚する手段は存在しないのだから。」
 ケンタウルスの太陽の爆発を知った時。私たち地球人は4年半前の歴史を新しい真実で塗り替える。4年半前に爆発していたと、歴史を新しい真実で修正する。
 しかし、4年半を経てそれを知るまでの間、すでになくなっているにもかかわらず、ケンタウルスの太陽がまだ存在しているという誤った真実は、真実として存在できた。
 未来の真実は、過去の真実に、勝る。
【縁寿】「………そうよ。元々、六軒島の事故は、ただそれだけならば、絵羽伯母さんと右代宮家の財産を巡る陰謀疑惑でしかなかった。……しかしそれが、後年。オカルトによって脚色され、陰謀は魔女伝説として塗り替えられる。」
 事件当時は陰謀として騒がれたのに、後年、それらは魔女の仕業だったとするおかしなオカルト説が蔓延し、1986年10月5日の真実を塗り替え始めた…。
 陰謀説は時間と共に忘れられていくだろう。……そして、奇異で印象深い魔女説だけが、迷信的に残り続け、最後には陰謀説を、塗り潰す。
【ベルン】「そう。恒星爆発の光が地球に届くまでの間の虚偽の真実が、陰謀説という人間説だったかのよう。………数年後に漂着した手紙入りのワインボトル、『メッセージボトル』が、それをオカルト説という魔女説に遡って塗り替え始めた。
 ……そうよ。魔女なんて、1986年の時点では存在しなかった。その数年後に、メッセージボトルによって私たち未来の人間に“観測”されたから、魔女が六軒島を支配した…!」
【縁寿】「……少し修正が必要よ。1986年の時点でも魔女は存在出来たわ。無限に存在できる数多の可能性の中のひとつとしてね。」
【ベルン】「確かに。観測されたら消えてしまう、猫箱の中に縮こまってね。……だからメッセージボトルは悪質なのよ。
 …魔女は、箱の外に出ようとした。自らを観測させて、魔女説以外の可能性を淘汰した。……つまり、自らを否定できないように、魔女説以外の全ての可能性を否定したということ。
 ………何てこと。つまりベアトリーチェは、悪魔の証明を正攻法で成し遂げたのよ。そして、それは初めから魔女の計画に組み込まれていた。」
【ベルン】「メッセージボトルは1986年より未来に観測される情報ね。………ベアトリーチェにも戦人にも観測できない。…エンジェ・ベアトリーチェにしか観測できない。」
【縁寿】「……本当はメッセージボトルのことなんて調べたくなかった。…だってそれを読むことは、魔女の言い分を聞くのに同じ。魔女説なんて妄言を無視してる私には、時間の無駄でしかないと思ってた。
 ……でも、小此木さんに言われたわ。片方の目だけじゃ、物事を立体的に見られないって。」
【ベルン】「魔女否定の視点と同時に、魔女肯定の視点も必要ということ? ……それは正しい考え方よ。視点の数は分母に同じ。視点の数が1では、分子である謎はわずかほども減らない。しかし、視点の数が増えれば増えるほど、謎は割り算されていく。」
【縁寿】「わかってるわ。……事件の数年後、近隣の島に流れ着いたメッセージボトル。それは好事家の手に渡った。アポイントは、一応取ってあるの。」
 …小此木さんから、絵羽伯母さんの言い分は聞き取ることが出来た。次は、魔女の言い分。聞いてやろうじゃないの。ベアトリーチェの言い分を…!
 絵羽が犯人だと仮定しても、何かのイレギュラーで秀吉と譲治が死んでしまった可能性は考えられる。EP3のような場合。

赤き真実、青き真実

食堂
【絵羽】「余命3ヶ月。南條先生がそう仰ったのは去年の話よぅ?」
【南條】「……わ、私は、その時の健康状態から総合的に判断してお話しているだけです。その結果、今年もたまたま、」
【留弗夫】「年を越せるかも怪しいってことになってる親父殿は、今も意気軒昂でオカルト研究に没頭されてるというわけだ。それでも余命3ヶ月ってわけかい、先生?」
【南條】「で、ですから、金蔵さんの、」
【蔵臼】「敬愛する親父殿が、未だお元気でおられるなら素晴らしいことじゃないか。親孝行なお前たちは、親父殿に挨拶がしたくてしたくて仕方がない。なので会ってもらえないので納得が行かないと、そういうわけだ。」
【夏妃】「…日も沈まぬ内から、遺産分配の皮算用を始める皆さんのことを思えば、お父様の会いたくないという気持ちもわかろうというものです。」
【楼座】「そ、それは誤解よ、夏妃姉さん。……ただ、私たちはその、」
【留弗夫】「親父とて不死身じゃねぇ、いつかは死ぬさ。死ねと言ってるんじゃない。いつかは死ぬと言ってるだけさ。それに備えての話し合いだってだけの話じゃねぇか。」
【夏妃】「それが不敬だと言っているのです!!」
【蔵臼】「よしなさい。また君の頭痛に障る。」
 興奮して席を立ち上がってしまった夏妃に、蔵臼は座れと制する。
 一気にキナ臭くなった空気を、取り繕うように秀吉が愛想笑いを浮かべ、まままま…、と全員をなだめるような仕草をする。
【秀吉】「……夏妃さん、誤解せんといてや。立つ鳥跡を濁さずっちゅう諺があるやろ? これはその見送る側の話や。やがては必ず旅立つお父さんを、綺麗に見送るための相談なんやで。」
【蔵臼】「はっはっは…。さすが秀吉さんだ。同じ話をするにしても、実に知性的だ。」
【絵羽】「えぇ、そうよ。兄さんと違ってね。」
【留弗夫】「よせやい。話が進まねぇ。………それでだな、兄貴。俺たちは遺産の話云々は抜きにしてもだ。たとえ親父に殴られても構わねぇ。
 早い話が、親父に直接会って、挨拶がしてぇんだ。親父が嫌だと言ってもだ。書斎に閉じ篭ってるなら、源次さんに鍵を借りてでもな。なぁ、楼座?」
【楼座】「…え、…まぁその、…無理やりってわけじゃないけれど…。……だって、かなり長い間、私たちはお父様にご挨拶していない。余命わずかだと言うなら、もう二度と会えなくなる可能性だってある…。……今日がお父様と言葉が交わせるかもしれない最後の機会だし…。」
【絵羽】「そうそう、楼座の言う通りよぅ。余命3ヶ月ってことは、いつ亡くなってもおかしくないってことなのよ? それなのに私たちに最後のお話をする権利さえないと言うの? ……それはいくらなんでも、あんまりな話じゃないのかしらぁ…?」
【夏妃】「……あなたたちのしたい話というのが、本当に挨拶ならお父様も喜んでお会いになられるでしょう。
 しかしお父様は皆さんがどのような不敬な話に及んでいるか、すでに聞き及んでおいでです! お父様でなくとも、会いたい気持ちになるわけがない。お父様がお会いになられないのは他でもない、皆さん自身のせいではありませんか?」
【蔵臼】「くっくっく。まったくだな。どうして親父殿がお前たちの顔を見るのも嫌か、自分の胸に手を当てずともわかるのではないかね? 親父殿は、諸君らの逼迫している経済状況も全てお見通しだ。」
【絵羽】「………それ、何の話よ。…兄さんが何の話をしてるのかさっぱりだわ。」
【蔵臼】「くっくっくくく! 私が諸君らの内情を知らないとでも思っているのかね…?」
 絵羽たちは、自分たちが火の車であることを見抜かれていると気付き、最初は虚勢を張り、最後には論点を戻して反論し、金蔵に会わせろ会わせろと押し問答になった。
 …せっかく楼座が買ってきた紅茶の良い香りは、もはや台無しだ。彼女がせめて良かったと思うことは、この場に子どもたちがいないでいてくれたことだけ。……彼らが昼食後すぐに、浜辺へ遊びに行ってくれたのが唯一の救いだった。
 絵羽は蔵臼に取っ組みかかろうとしていて、その間に秀吉と霧江が入り、双方をなだめている。……すると霧江が大きくため息をつきながら言った。
【霧江】「…………ごめんなさいね、蔵臼兄さん。部外者だけれど、一言いいかしら。提案があるの。」
【蔵臼】「何だね、霧江さん。」
【霧江】「……まず、うちの人も含めてなんだけれど、私たちは長年、お父さんと一緒に暮らして、そのお世話をしてきた蔵臼兄さんの苦労を、あまりにも軽んじているわ。…そうでしょう?」
【留弗夫】「………そりゃ、まぁ。…俺たちは外に出て気楽でいいが、何十年もお守りをしてきた兄貴は、そりゃ苦労はしたろうな。……それは認めるが、それが何だってんだ、霧江。」
【霧江】「私たちは、蔵臼兄さんがお父さんの世話人であることを認めざるを得ないのよ。……だってそうでしょう? 私たちはお父さんをずっと恐れてきて、その世話を蔵臼兄さんに押し付けてきたわ。その苦労は誰もが認めるはず。ですよね? 絵羽姉さん?」
【絵羽】「…………………。……だからそれが何? 兄さんがお父様の世話人? あんた、部外者のくせに勝手なこと決めないでよ!」
【秀吉】「ま、…まぁまぁ。……霧江さん、あんた、何の話をしてるんだ?」
【留弗夫】「……………………………。……霧江、続けてくれ。」
【霧江】「私たちは蔵臼兄さんと夏妃姉さんに、もっと感謝すべきなのよ。……いつもお父さんの世話をしてくれてありがとうって。私たちにその感謝の気持ちがないから、こんな不毛なすれ違いになるの。……そうでしょう、蔵臼兄さん。」
【蔵臼】「………これは驚いたね。実の兄弟たちにも顧みられなかった私たちの苦労が、まさか霧江さんに理解してもらえるとは思わなかったよ。」
【夏妃】「……右代宮家当主跡継ぎとして、当然の務めです。」
【霧江】「そうね。当主跡継ぎとしての、責任よね。……お父様を世話しているからこそ、当主跡継ぎとして、私たちは認めざるを得ない。」
【絵羽】「あんたッ!! 何を勝手に話を進めてんのよ!! あんた部外者の分際で、」
【留弗夫】「待て姉貴ッ!! ………そうだな。霧江の言う通りだ。親父の世話をしているからこそ、兄貴は跡継ぎなんだ。お前の言う通りだ。」
【楼座】「………………あ、」
【絵羽】「……………ん、」
 楼座が気付き、それに続いて絵羽も気付く。
 絵羽の、勝手に話を進める霧江に対して吼え猛る様子はぴたりとなくなり、代わって蔵臼たちを凝視するようになる。……夏妃はその突然の変化が理解できず、わずかにうろたえた。
【霧江】「蔵臼兄さん。……ほんのいくつかの条件さえ飲んでくれれば、私たちはお父さんが亡くなるまで、二度と会わせろとは言わないわ。もちろん、死に目に会わせろとも言わない。……何ならお葬式にさえ欠席してもいいわ。」
【蔵臼】「……ほぅ? ………何の話やら。だが、一応は聞こうじゃないか。その条件を言ってみたまえ。」
【霧江】「一つ。……当主跡継ぎとは、現当主、右代宮金蔵の世話人を指す。」
【蔵臼】「………ふむ。それから?」
【霧江】「一つ。世話人の責務は、右代宮金蔵の終生の世話をすること。……早い話が、最期を看取るまでが仕事ってことね。蔵臼兄さんには、元よりその覚悟はあるから問題はない。」
【蔵臼】「当然だ。そこまでの条件には何の異存もないね。元より、私が実行していることだ。」
【霧江】「一つ。世話人が、万一、その監督責任を怠った場合、世話人の権利は剥奪される。」
 その一言に、蔵臼の表情から余裕が消える。…夏妃だけはまだ、その意味がわかりかねていた。
【蔵臼】「……ほぅ。世話人の監督責任とは、……どんなものかね?」
【霧江】「お父さんが、寿命の限りを健やかに過ごせるよう監督するということよ。……もっと詳細に言うわ。お父さんが自然死以外の理由で死亡した場合、世話人の権利は剥奪され、当主跡継ぎの権利を失う。その際の当主跡継ぎには、次の序列である絵羽姉さんを選ぶこと。」
【夏妃】「………な、んですって……。そ、そんな世迷言、よくもしゃあしゃあと!!」
【蔵臼】「ほぅほぅ。これはこれは、世話人は責任重大だ…。しかし、人の死因は数多ある。例えば、老衰した老人が食事を喉に詰まらせて亡くなることもあるだろう。本来ならそれもまた広義の意味での老死となるに違いない。
 しかし、その論法で行くと、これは事故死になり、私は監督責任を負わされることになる。……これは私にとって不当に不利な話だ。」
【霧江】「そんな屁理屈をつけるつもりは毛頭ないの。私が想定しているのは、世話人がしっかり世話をして見張っていれば未然に防げた程度のレベル。
 食事を口に運ぶところまでは世話人の仕事でしょうけれど、飲み込むことにかんしてはさすがに責任外。蔵臼兄さんのケースでは、私はまったく問題にしないわ。」
【蔵臼】「………ほぅ。ならば、霧江さんが想定する、世話人が過失を問われるケースとはどのようなものなのか。」
【霧江】「例えば、……失踪よ。」
【蔵臼】「…………………。……………ほぅ?」
【霧江】「お父さんは、今はお心もしっかりしているようだけれど、ひょっとすると痴呆が始まるかもしれない。
 ……目を離した隙に徘徊して、何か事故を起こしたり、……あるいはふらりと森に迷い込んで、そのまま行方不明になってしまうこともあるかもしれないわ。……こういうケースは、明らかに世話人の責任じゃないかしら…?」
【夏妃】「お父様はお心も健康でいらっしゃいます! 痴呆などと、言うに事欠いて…!」
【霧江】「お父さんがある日突然、森の中に入っていくのを見た。後を追ったけれど、姿が見えない。警察も呼んで探したけれど、その後、7年間探しても見つからなくて失踪宣告。それを以って死亡扱い、というのは認められない、って言いたいの。」
【蔵臼】「…………………………………。」
【霧江】「お父さんが亡くなられた際には必ず検死を行ない、常識の範囲内で想定される一般的な老死であることを確認すること。……それ以外のあらゆる理由によっての死は、世話人の責任とすること。……………ね? 今日まで蔵臼兄さんがご苦労なされてきたことの範囲内。おかしな条件でも何でもないでしょう…?」
【夏妃】「ば、馬鹿にしています、屈辱的です!! なぜ主人がこのような辱めを受けるようなルールを強要されなければならないのか、理解に苦しみます!!」
【霧江】「………私、実は去年から疑ってるわ。いえ、多分、ここにいるみんなもそう。絵羽姉さんも、秀吉兄さんも。留弗夫さんも楼座さんも。みんなずっと疑ってるけど、あまりに恐れ多い想像で口にしなかっただけ。」
【蔵臼】「ふ。……ふっふっふっふ、はっはっはっはっは…!! なるほど、お前たちはこう言いたいのかね? ……親父殿はもうすでに死んでいて、私がそれを隠しているのだと!」
【戦人】「……あぁ、そうなんだ。これは、前回のゲームの最後の謎を解く鍵として考えた、俺のひとつの仮説なんだ。」
【縁寿】「………前回最後の、南條先生を殺したのは誰か、という謎のこと?」
【戦人】「そうだ。……確かに魔女は赤で宣言したさ。…18人全員の名前を挙げて生死を宣言し、それ以上の人間は存在しないと言い切ってみせた。……だが、この仮説なら、その間隙を縫える…!」
【縁寿】「…………………。……なるほど。その2つを矛盾させない解答のひとつというわけね。………なるほど。」
【戦人】「俺の言ってる意味がわかるのか? …お前、なかなか察しがいいじゃねぇか。説明が省けて助かるぜ。」
【縁寿】「この島に19人目は存在しない。にもかかわらず、未知の新人物Xが混じりうるカラクリ。……つまり、“18名全員の名前”と“在島者18人”が一致しなければいい。」
【戦人】「そういうことさ…! 魔女は赤で18人の名前を次々に挙げ、生死を宣言した。さらにその上、島には18人を超える人間はいないとも宣言したわけだ。……ここにはひとつの錯覚があった。」
 それは、18人分の名前=在島者18人、とは保証されていないこと。
【戦人】「18人の名前を全て挙げてその生死を宣言する時。犯人Xの名を伏せ、代わりにこの島にいない人間の名前を混ぜる…! そうすれば犯人は、島にいるにもかかわらず、18人の生死リストからは零れることが出来る! 混ぜられた人物は、在島しないのだから在島者の足し算には加わらない。
 よって、在島者18人の人数の中に加わりながらも、名前が登場しないことが可能! 2つの赤字宣言はそれぞれが単独なんだから、この仮説は矛盾しないんだ……!」
【縁寿】「その、犯人の名を誤魔化すために使う人物名には、いくつかの条件があるわ。……まず、在島していないにもかかわらず、私たちが在島していると信じている人物。……そうでなくては騙せない。
 そして、その人物は死んでいることが好ましい。……なぜなら、死ほど完璧なアリバイは存在しない。あの時点での謎は、18人全員が犯行不能であることに立脚しているのだから。…………そんなところ?」
【戦人】「あぁ、そうさ…! そして、その人物が、………祖父さまなんだ。……今、霧江さんが言わんとしていることはただひとつ。……実は、部屋に閉じ篭ってて誰にも会わないと言っていることになっているが、……祖父さまはすでに死んでいて、蔵臼伯父さんが、それを生きてると嘘をついてる可能性があるってことなんだ…!」
 そうさ。祖父さまはずっと部屋に閉じ篭っていて誰もその顔を見ていない! すでに死んでいるのに、まるで生きているかのように、蔵臼伯父さんたちが口裏を合わせて騙そうとしているだけかもしれないんだ…!!
【縁寿】「………………金蔵が死ねば遺産分配が発生する。…しかし、金蔵が死ななければ、……いえ、金蔵が死んでも、それを告知しなければ、遺産分配は発生しない。」
【戦人】「つまり、蔵臼伯父さんは祖父さまの財産を全て独占できる…! そうさ、動機は充分なんだ!」
 この島に19人目の人物Xは、確かに存在しないだろう。しかし、人物Xは存在した。……そしてそいつは18人目だったんだ!
【戦人】「つまり、この島の本来の人数は18人じゃなく17人だったんだ。そこに未知の人物Xが隠れ潜んでいて、犯行を行なったんだ。……どうだベアトッ?! 出て来い、前回の最後の、最大の謎は今、解けたぞ!!」
魔女の喫茶室
 戦人が力強くそれを言い切ると、どこからともなく乾いた拍手の音が聞こえてきて、周りが明るくなり、いつもの魔女の喫茶室になった。
【ベアト】「くっくっく、くっはははははは…! ブラヴォー、ブラヴォー。そなた如き無能にしては、ようやくの感は否めぬが、兎にも角にも、ひとつの解答を出してみせた。思考停止ならコンクリートの塊でも出来る! つまり、そなたはようやく今、ようやく知性ある存在に進化できたわけだ。
 ……ただ涙を流し、歯噛みしながら妾の靴を舐めるだけの存在から、ようやく一歩を踏み出したと言えようぞ。くっくっくっく!」
【戦人】「……こんな下らない言葉遊びで前回は翻弄されてたとはな。俺も自分の情けなさに腹が立つ!
 さぁベアト、復唱要求だ!! 在島者18人の中に祖父さまは含まれてると、宣言できるものならやってみろおおおおぉ!! あぁ、出来やしねぇさ。すでに死んでるんだからな。てめぇのまやかしはこれで終わりだあぁあああああぁ!!」
【ベアト】「くっくくくくくくく、あっはははははははははは…!! さぁてどうしたものか。………赤き真実にて一刀両断に叩き割ってやろうか? いやいや、わざとここは焦らして保留するのも良いかもしれぬ。突き落とすならより高みに誘ってからの方が面白いというもの。くっくっく!」
 ベアトはいらいらするような嘲笑を漏らしながら、より俺をイラつかせる表情を探しているようにさえ見える。まるで、俺がようやく至った答えが、あまりにも馬鹿馬鹿しいとでも言うかのように。
 魔女のそんな様子に苛立つ俺に比べ、グレーテルは淡白かつ冷静な表情を浮かべている。…まるで、魔女がそういう態度に出てくることを予想できていたかのようだった。
【縁寿】「……………………。なるほど。…戦人が学んで成長するように、魔女も学んで成長するのね。」
【戦人】「どうしたよベアト! もったいぶるんじゃねぇ!! 復唱できるってのかよ! 答えろ!!」
【ベアト】「くっくっくっくっく…。」
【縁寿】「……よしなさい、戦人。魔女は安易に答えないわ。……自らが利すると思わない限りね。」
【戦人】「何?! どういうことだ……。」
【縁寿】「これまでのゲームで、あなたが赤き真実とやらで翻弄されていたから、魔女は何度もそれを繰り出してきた。でも、今や状況は違う。あなたは赤き真実を誘い出し、むしろそれを武器に使っているわ。そんな状況で、魔女が濫りに赤を連発するわけもない。………でしょう?」
【ベアト】「グレーテルとやら。…そなたは戦人と違い、なかなかに頭が冴えるようだ。妾も恐ろしい敵を迎えたものよ。その通り! 戦人が妾の赤き真実を期待する場面で、なぜに期待に応えてやらねばならぬ義理があるというのか?!
 ないッ! 妾にはそなたが喜ぶことをする義理など、今朝食ったクロワッサンのパン屑の一欠けらほどもないぃぃ!!」
【戦人】「こ、この野郎……ッ…!!」
【ベアト】「そうそうそうそう、その顔ォおおぉ! 妾が赤き真実などという遊びを始めたのは、そなたのその顔を見たかったからこそよ! その表情が拝めぬというなら、妾にはこんな遊びをする理由がない…!」
【戦人】「……へへ。負け惜しみだろ? 俺の復唱要求に応えられないからって、適当なこと言って誤魔化そうたってそうは行かねぇぞ!!」
【ベアト】「自惚れるな!! その程度の答え、造作もなく斬り捨てられるッ!! だが、それを妾はわざわざ赤で言わぬ。そなたが求めるから言わぬ。なぜだかわかるか?」
【縁寿】「…………さっき言ったわ。一番美味しいところで突き落としたいって。その性悪な魔女はね、あなたが求めるところではもう赤は使わないって言ってる。つまり、復唱要求なんていうお遊びにはもう付き合わないってことよ。」
【ベアト】「くっくくくく! その通りその通り! 戦人と違い、この女は話が早い、説明が要らぬ! 妾は妾の望む時、妾が好むように赤き真実を語る!」
【縁寿】「そうね。赤き真実とはつまり、魔女が自由に行使できる権利。人間側が望んだ時に行使しなければならない義務ではない。……………ただし、内容によるわ。」
【戦人】「……内容……? どういうことだ…。」
【縁寿】「魔女はあなたの復唱要求に応える義務はない。ただし、あなたの主張によって、魔女説が打ち破られてしまう時のみ、義務が生じる。なぜなら、この裁判官なき法廷では、反論されないことは即ち“真実”だから。
 ……あなたが思考停止に陥り、魔女の主張する魔女説を反論できなければそれが直ちに真実となって来たように。」
【戦人】「じゃあ、…俺の今の推理に反論がない以上、正解だということでいいわけか?! 犯人は18人目の謎の人物Xで、祖父さまはすでに死んでいるという推理で正解だというわけか?!」
【縁寿】「……少なくとも、魔女が反論するまではね。真実は、より未来の新しい真実に負ける。……厄介なのは、その反論のタイミングすらも魔女に委ねられているという点よ。
 …つまり、今のあなたの推理が正解しているのか、それとも間違っているにもかかわらず魔女がその反論を保留しているのか。……さもなくば、そもそもその推理自体が魔女説を揺るがすことにならないため、魔女が無視しているかの何れかか、現時点では判断がつかないということよ。………そんなところ?」
【ベアト】「くっくっくっく、くーっくっくっくっく! ベルンカステル卿め、つくづく厄介な駒を送り込んでくれたものよ。お陰で妾の出番がさっぱりない!」
【縁寿】「魔女はあなたの復唱要求に対し、タイミングをずらして答えることを覚えたのよ。……ディレイとでも呼べばいいのかしら。」
【戦人】「……ふ、ふざけた真似を……。…じゃあ俺は、間違った推理を掲げたとしても、ベアトはわざと否定せずに俺を泳がせ、さらに壮大に推理を広げた最後の最後に、その根元をチョンと断ち切って、全てを引っ繰り返してくる可能性さえあるってわけなのか……!」
 ひとつの推理が次なる推理を結ぶ架け橋となる。俺は復唱要求によって、着実に足場を固め少しずつ前進してきた。ところがベアトのヤツが、ディレイなんておかしなことを覚えたせいで、……俺の推理は確証が取れなくなってしまった。
 これじゃまるで、真っ暗闇を探るためにようやく手に入れた杖を取り上げられたようなもの。……もう、お手上げじゃないか……!!
【ベアト】「こらこら戦人、そんなに絶望的な顔をしちゃア、妾の涎が止まらなくなっちまうじゃあなィかい♪ その杖は元々、不甲斐ないそなたに妾が与えたものに過ぎぬではないか。ようやくこれでハンデなしの対決になるだけだぜぇ? くっひひひひひひひ!」
【縁寿】「……でも、だからと言って、復唱要求が戦人の反撃手段の一つであることに変わりはないわ。すでに言ってる通り、魔女は、魔女説を打ち破る致命的なものに限り、反論の義務、即ち、赤き真実を語ることが義務となる。……反論のタイミングこそ魔女の自由ではあるけれども、それは必ず履行されなければならない。………そうよね?」
【ベアト】「ふむ、そうなるであろうな。ゲームの終了時までに妾が戦人の提唱する“人間によるトリック”を否定出来なかった場合、戦人はそれを理由に妾を否定し、勝利を宣言することが可能となろう。」
【縁寿】「………それは、人間側が提示する“トリック説”、即ち復唱要求は必ず、そのゲーム内(エピソード内)に反論されなければならないという、魔女側の制約という認識でいいのかしら?」
【ベアト】「そうなろう。……戦人の目的は、妾がこの島で繰り広げる愉快なゲームの全てを、人間で説明し妾を否定して見せることだ。それを戦人が成し遂げたなら、その時点で戦人はゲームの勝者となるであろうぞ。」
【縁寿】「ルール確認。……ゲーム終了時とは、ゲーム内の六軒島時間で1986年10月5日24時00分という認識でいい?」
【ベアト】「問題ないぞ。」
【縁寿】「そのゲーム終了時に人間側が、全ての謎についてトリック説を主張できていて且つ、魔女側から反論がない場合、人間側は勝利を宣言できるものとする。……問題ない?」
【ベアト】「………もう少し詳細としよう。ゲーム終了時に、魔女側には反論の機会が与えられるものとする。」
【縁寿】「時間を切ってもらうわ。1分よ。1分以内に反論が行なわれない場合、勝利は宣言されるものとする。」
【ベアト】「ならば同じルールをそちらにも課させてもらおうぞ。ゲーム終了時に、人間側は与えられた謎に対し1分間の反論時間が与えられる。その時間内にたった1つであっても反論されない謎が残った場合、魔女側の勝利となり、そのゲームは終了する。……長考を理由にゲームを止められては興を削ぐのでな?」
【戦人】「…………くそったれ。俺を抜きで話が進んでやがるぜ…。だが、話は大体わかった。俺の復唱要求は、即座でなくとも、必ず反論されなくてはならないわけだ。」
【縁寿】「えぇ、そうよ。……そしてそれは、10月6日00時01分までに必ずなされる。……ただ、注意して。魔女はあなたの復唱要求を、たったひとつ斬り捨てるだけでいい。全ての謎を解き明かさない限り、あなたに勝利は宣言できないのだから。」
【ベアト】「妾が赤を使えるように。戦人、今よりそなたには青を使うことを許そう。
 そなたは、妾の魔法殺人を人間とトリックで説明する際に、青で宣言することが出来る。妾はゲーム終了までの間に、そなたの青を赤にて反論する義務を持つ。」
【戦人】「青……。……つまり俺は、復唱要求を“青”で語るということか…。」
【ベアト】「少し違うぞ。復唱要求はどんな些細なことでも可能だった。しかし青はもう少し厳しいぞ。それ自体が魔女を否定しない限り、成立しない。」
【戦人】「………………………。」
 難しい話になってきたが、…つまりこういうことだ。
 例えば、過去の謎で俺が復唱要求してきたことの1つ。
「マスターキーの本数は5本である」。これは、5本しかないと主張するマスターキーが、本当に5本であることを確認するためのものだ。
 しかしこれだけでは、魔女の否定にはならないから青で宣言は出来ないのだ。だから、青で語るにはこう言わなくてはならない。
“実はマスターキーの本数が5本を越えていた。犯人はその余剰の鍵で密室を出入りした!” ……と、こうなって初めて、魔法で密室殺人を行なったと主張する魔女に、反論する義務が生まれるわけだ。つまり、推理の前提を確認するような復唱の要求には使えない。………それは、俺に相当の不利を強いることになるだろう。
 畜生…。これまでのゲームでベアトが俺を弄るように宣言してきた赤が、今じゃどれほど慈悲深いものだったのかと誤解しちまうほどだぜ……。
【戦人】「…くそ。仮に俺がある密室について仮説を立て、それを青で語ったとしても、ベアトがそれを最後の最後で否定してきやがったら、俺には次の仮説を立てる時間すらもねえってことじゃねぇか…! このルールは最悪だ、俺にばかり不利だ…。」
【縁寿】「………また戦う前から屈服? 落ち着きなさい。ひとつの謎に対して、青は一度しか使えないとは言われてないわ。それがどういう意味かわかる?」
【戦人】「い、いや。……どういう意味だ…?」
【縁寿】「これまでのあなたは、仮説をひとつ立てては魔女の顔色をうかがい、それが駄目だったらその時、改めて別の仮説を立てるという情けない戦い方だった。それじゃ魔女は追い詰められない。」
【戦人】「じゃあ、どうやって戦うんだ……。……………まさか…、」
【縁寿】「えぇ、そうよ。……謎に点で挑むんじゃない。面で襲い掛かるのよ。あなた、以前のゲームで、推理の姿勢はそうあるべきだと自ら言ったわ。」
 面で、襲い掛かる。そうさ、前に俺は自らそう言った。
 推理し謎を暴く行為は、遠くの的に矢を射るのに似ている。これまでの俺の戦い方は、矢を一本へろへろと放っては、当たったかどうか魔女に尋ね、外れていると言われては改めて弓を構え、再びへろへろと放つようなものだった。
 そんなんじゃ、当たるわけはねぇんだ…。矢と例えるより、弾丸と例えた方がいいかもしれない。遠くの的に拳銃をパンパン撃っても、簡単には当たらないだろうさ。
 ……なら、どうやって当てる? 拳銃で駄目なら、……散弾銃さ! 単発の弾丸じゃなく、無数の弾丸を一度にぶっ放す“散弾”でブチかましてやるんだ…! 散弾は散るから広範囲に着弾する。だから、鳥のような素早く小さい標的を撃つにはとても最適なんだ。
 そうさ、推理はピストルを単発で撃つかのように、1つずつしかしてはいけないなんてルールはない。……1つの仮説を立てたからといって、それだけで命中を期待するのは思考停止もいいところなんだ。大量の弾丸を、推理を一度にぶっ放し、面で着弾させ、それが一発でも的にブチ当たれば充分。
【戦人】「…………青、か。……なるほどな。お前の赤き真実が切れ味鋭い日本刀みたいなもんだとしたら、俺の青はどうやら、散弾銃。いや、……火力で魔女を蜂の巣にする機関銃だぜ。」
【ベアト】「下手な鉄砲、数撃ちゃ何とやらか。くっくっくっく! そなたらしい、粗野な例えよ。」
【戦人】「推理小説なんかのクライマックスはいつもこうだった。……名探偵が容疑者を一堂に集め、たったひとつの推理を披露して、それを華麗に当てて見せるんだ。まるで、一本の矢で見事にリンゴを射抜くウィリアム・テルのようにだ。だからこそ、それが美徳みたいに誤解しちまってた。」
 ……そりゃあ華麗だろうさ。一本の推理だけで華麗に真相を射抜けたら。だが、そんなのは現実的じゃない。
 現実の戦争を見てみろ。まさか、みんな塹壕から長い銃を出して、よーく狙って一発ずつ応酬してるとでも? 違うだろ?! 連射する、撃ちまくる、弾幕で圧倒する!
 推理だってそうだったんだ。おかしな美徳のせいで、一つしか推理しちゃいけないような価値観に捕らわれていたんだ。
 俺たち人間には、あらゆる推理を、可能性を、無数にぶっ放すことが出来る! 弾丸は想像力。思考停止は弾詰まりも同然だ…! これまでの俺の情けない推理っぷりはまるで豆鉄砲。ひょろひょろと撃ってはベアトに赤で否定してもらい、次の弾をもらって込め直すような無様さだ。
 魔女が語る幻想の的を、……人間とトリックこそが真相であるとする、俺の“青き真実”が、想像力と火力で圧倒する…! それが俺の、右代宮戦人の戦い方…!!
【戦人】「………お前のお陰で、俺の本当の戦い方がわかってきたぜ。ありがとうよ、グレーテル!!」
【縁寿】「どういたしまして。」
【戦人】「これまでの俺が情けなく思えてくらぁ。……あぁ、ベアトの言う通りだぜ。これまでの俺はハンデをもらって来た。そいつを認めるぜ…!! 新ルール、了解した!! 俺には俺の戦い方があるッ! そいつを見せてやるッ!!」
【ベアト】「くっくくくくくく!! その意気や良し、気に入ったぞッ! ならばさっそく使ってみるがいい、そなたの青き真実とやらを…!!」
【戦人】「……ああ、使ってやるぜ。この青き真実でお前が主張する、全員にアリバイがあるから魔女の犯行しかありえないという魔女説は打ち砕けるッ!!
 これが俺の真実だ! 右代宮金蔵はすでに死亡している。よって島の本当の人数は17人! そこに未知の人物Xが加わることで18人となっている。この人物Xの存在の仮定によって、17人全員にアリバイがあっても犯行は可能になるッ!!」
食堂
【霧江】「……つまり、私たちはこれ以上、お父様への面会を拒まれるならば、以下の仮説を立てなければならないの。つまり、お父様はすでに亡くなっている。しかし、遺産を分配したくない蔵臼兄さんがそれを隠してる、ってね?」
【蔵臼】「………………………………。…馬鹿馬鹿しい。」
【夏妃】「そ、そうです、馬鹿馬鹿しいにも程があります!! これほどの侮辱は初めてですッ!!」
【霧江】「私たちは、警官立会いの下で強制的にその生死を確かめることさえ可能よ。ねぇ、絵羽姉さん…?」
【絵羽】「……え、……えぇ…。そうよ、兄さん。話は何とでもでっち上げられるわ。兄さんが、第三者の立会いの下にお父様を面会させなければならない状況になんて、簡単にお膳立てが出来るわ…!」
【霧江】「でも。それは右代宮家にとってとても不名誉なことだと思うの。だから私はこの提案をしている。世話人の義務と責任。万一の際のペナルティ。これを承諾してくれれば、私たちはお父様を無理やり引き摺り出すなんて真似は控えることができる。」
【留弗夫】「…あぁ、そうだぜ、兄貴…。さっき言ったじゃねぇか…。兄貴は世話人として当然の義務を果たしてる、ってな。霧江の条件は大したことじゃねぇはずだぜ? なぜ過剰反応する?
 ……親父が自然死以外の理由で死んだ場合、次期当主から引き摺り下ろされるってのが、そんなにも気になるのかよ?」
【絵羽】「それともなぁに? お父様が自然死以外の理由で亡くなるような心当たりでもあるのかしら…?」
【蔵臼】「そんな心当たりなどあるわけもない。……なるほど、私にも親父殿の気持ちがわかってきたよ。死に方ひとつ自由にさせてもらえないとは、実に気の毒な晩年だよ。」
【霧江】「えぇ、本当に気の毒な晩年ね。……その晩年が、実はもう過去のことじゃないのかと、私たちは疑っているの。
 ……この疑惑は、私たちをお父様に面会させてもらえるだけで、あっさりと解けるわ。…ここまで私たちに侮辱されても、…それでも面会は許されないんですか、蔵臼兄さん………?」
【蔵臼】「……………………………。」
【霧江】「お父様は多分、すでに亡くなっているわ。恐らく遺体は極秘の内にどこかに処分したでしょう。……そして、お父様の代理ということで財産を独占した後、失踪したことにして7年掛けて、お父様を死体なき死者にする。
 …………ごめんなさいね、気を悪くしないで? これはあくまでも私の推理ごっこだから。」
【夏妃】「ぶ、……無礼極まりないッ!! あなたにこの屋敷に留まる資格はありませんッ!! 即刻退場なさい!! 二度と当家の敷居をまたぐことを許しません!!」
【霧江】「去年通用した手が、今年もまた通用すると思ったのが運の尽きね。……お父様はご機嫌斜めだから面会できない? 去年の時点で充分不審だったのに、今年もだなんて。
 お父様の代理を騙り財産を乗っ取るなら、もっとスピーディーにやって、今日の親族会議を待たずに失踪させるべきだったわね。さすがに甘いわよ、蔵臼お兄様……?」
【蔵臼】「…………君が何のことを言っているのか私にはさっ、」
【霧江】「でも! ……お父様がご機嫌斜めなのは事実で、蔵臼兄さんが世話人としての責務として、私たちの面会を拒んでるのだとしたら、それはとても立派なことよね。なら、私の出した条件を飲んでくれれば、この場は収まるわ。
 ………何しろ、お父様のことをこんなにも大切にする蔵臼兄さんですもの。お父様に、検死されて困るような死に方が、あるわけがない。
 いずれにせよ、お父様は病院嫌いなんだから書斎で亡くなるでしょうね? いずれにせよ必ず検死は行なわれるわ。……検死を逃れて殺すには、失踪しかない。」
【絵羽】「………霧江さん。兄さんをいじめるのは、それくらいにして下さらないかしら…?」
 絵羽が、気色悪いくらいにやさしい声で霧江をたしなめる。…それは状況的に考えてありえないこと。だからこそ、あまりに気色悪かった…。
【絵羽】「兄さんにも色々と都合やプライドもあるはず。兄さんにとって当然の義務であっても、それを文書化して、その上、ペナルティまで課せられたんじゃ、…そりゃ不愉快なはずよ。ねぇ、楼座……?」
【楼座】「……えぇ、そうね。………蔵臼兄さんの長男としてのプライドを軽んじ過ぎたかもしれないわ。……霧江さんの言うような、世話人の責務についての覚書にサインというのは、さすがに気の毒かもしれない。」
【留弗夫】「そうだな。兄貴はよくやってくれてる。そこを汲み取り、おかしな書類にサインとか、万一の時はペナルティとか、そういう話を抜きにして兄貴に全部一任することを、考えてもいいかもしれねぇな。」
【蔵臼】「お、…………お前ら…………、」
 絵羽だけでなく、留弗夫や楼座までもが、示し合わせたかのような薄気味悪い笑顔を浮かべて蔵臼を追い詰める。彼らは今や、霧江がどうやって追い詰め、どこを落とし所にしているか完全に理解していた…。
【霧江】「……世話人の責務についての覚書。これにサインすることなく、私たちがお父様への面会を生涯求めないことにも出来るわ。……覚書などなくとも、蔵臼兄さんが世話人に相応しいという保証をしてくれれば。」
【蔵臼】「私に、………その保証金を支払えというのかね? ふっふふふふ、はっははははははは…! これはおかしい! わっはははははははははは!」
【霧江】「保証金は、絵羽さん、留弗夫さん、そして楼座さんの3人に、1人、30億円ずつ。手付金として、その1割の3億円ずつを、今年度中に振り込んでもらうわ。」
【蔵臼】「90億だと?! そんなカネはないッ!!!」
【霧江】「お父様がお亡くなりになった後なら捻出できるはずよ。私たちも、その程度には下調べは済んでる。手付金の9億円だって、蔵臼さんの財産状況なら何とかなるはず。
 それこそ、お父様に借りることだって可能でしょう? …白々しい演技は不要よ。」
【蔵臼】「…………ふ、不愉快だ。実に不愉快な話だ…!!」
【夏妃】「ま、まったくです!! お父様の遺産の話だけでも充分、不敬だというのに! お父様はもう死んでいる? 主人がそれを隠していて財産を独占している?! もううんざりです!! あなたたち全員に、もはや右代宮を名乗る資格などありませんッ!!」
【秀吉】「落ち着いてや、夏妃さん…! みんなももう話はこれまでや! どうや、この場の話は一旦、ここまでにせんか…?! 規模がデカイ上に唐突な話や。わしらも興奮してるところがあるかもしれん!
 ここは一旦、休憩を挟んで頭を冷やさんか? 蔵臼兄さんにも、ちょいと時間が必要やろ。な、蔵臼さん?」
【蔵臼】「………………時間…? そんなものが、なぜ私に必要なのかね。」
【秀吉】「まままま! わしらかて、本音じゃ物騒なことなんぞ考えとらん! どうしてもお父さんに会わせてもらえんから、ちょいと嫌味が言いたくなっただけなんや…! それに蔵臼さんが、売り言葉に買い言葉で頭に血が上ってしまったのも、よーぅわかっとる…!
 蔵臼兄さんかて、本当はそこまで言うんなら、会わせてやってもいいと思っとるんや! な? そうやろ? ただ、ついつい意地になってもうたんで、今さら会ってもいいなんて言えなくなってしまっただけや。そうやろ? な?な?」
【夏妃】「……た、…確かに主人も皆さん同様、少々冷静を欠いてしまったところもあるでしょう。……私たちはお父様の、皆さんに会いたくないという意志を尊重して頑なに断っていたに過ぎません。」
【蔵臼】「…………………。……うむ、そうだな。つい、昔のような兄弟喧嘩になってしまい、私も意地になってしまった。………頭を冷やそう。…お前たちが親父殿にどうしても会いたいという強い気持ちはよくわかった。…私もそれを伝える。………何とか面会してもらえるよう、親父を説得しよう。………それでどうかね。」
【楼座】「……そうね。蔵臼兄さんに、説得の時間を与えてもいいと思うわ。」
【留弗夫】「そうだな。……頼むぜ、兄貴。俺たちに会ってくれるよう、よく説得してくれ。何しろ、親父の世話人なんだからよ。」
【絵羽】「その説得だけど、今夜中って制限を設けさせてもらうわよ? 明日になったら、私たちは書斎の扉を打ち破ってでも、お父様の安否を確認するわ。………それでいいわよね? 兄さん…?」
【蔵臼】「……好きにするがいい。なるほど、説得すらも大して時間は掛けられないようだ。……夏妃、行こう。せめて晩餐にはご一緒していただくよう、お願い申し上げよう。」
【夏妃】「は、はい…!」
 蔵臼は夏妃を伴うと客室を出て行く。二人の足音が聞こえなくなると、秀吉が深いため息を漏らして、にやっと笑いながらソファーにどかっと腰を下ろした…。
【秀吉】「…………霧江さん。…あんた、恐ろしい人やな。」
【霧江】「勝手な口出しをしてごめんなさい。謝るわ。」
【留弗夫】「……いやいや、当初の計画にはなかった追い詰め方だが、結果は上々だ。…相変わらず、お前ってヤツには頭が下がるぜ…。」
【楼座】「でも、…9億円も用意できるのかしら……? 蔵臼兄さんの財政状況ギリギリで、7.5億が限界と私たちは計算したはず…。……9億はさすがに吹っ掛け過ぎじゃない…?」
【霧江】「無理なら無理でいいのよ。蔵臼兄さんの顔を立てて7.5億に減額、とかやれば譲歩したっぽく見えて収まりやすいでしょう? 本当に9億出てきたなら大成功だし。」
【絵羽】「兄さん、今頃、夏妃さんと作戦会議中でしょうね。……あのプライドの高い兄さんが、どんな言い訳をしながら屁理屈をこねてくるか、本当に見物だわ。」
【霧江】「お父さんを説得……? 出来るわけがない。」
 居もしない人物の説得なんて、出来るわけがない…!
金蔵の書斎
【蔵臼】「………………兄弟たちも、年に一度の親族会議に、それぞれの都合を合わせてやって来ています。」
 蔵臼と夏妃の姿は、薄暗い金蔵の書斎にあった。時折、雷鳴が聞こえ、薄暗い部屋を明滅させるかのように照らし出す。……嵐が島を閉ざすのはもうじきのようだった。
【夏妃】「……お父様…! どうか今一度、不敬な彼らに、当主様の威厳をお示し下さい…!」
【金蔵】「駄目だな………。」
 窓辺に立ち、威厳ある背中を向ける大柄な人影が、静かだけれど力強く、…そう答えた。
 少しだけ俯き、震える仕草を見せる。…やがてその肩越しに聞こえてきたのはくぐもった笑い声であった。
【金蔵】「くっくくくくくくくくくく、はっはっはっはっはっはッ!! 駄目だな、全然駄目だ…!! わっははははははははははッ!!」
 ………余命3ヶ月…? 後先短い老いぼれ…? それは誰のことを指して言ったのか。
【金蔵】「愚か者がァ!! 弟たちに恫喝されてノコノコやって来たか。恥を知れいッ!!」
 金蔵が振り返りながら払ったマントは、澱んだ部屋の空気を力強く一閃する。その風圧は、まさに右代宮金蔵の威厳と気迫をそのままに表していた。その風圧に吹き飛ばされるかのように、蔵臼が尻餅をついてしまったとしても、何の不思議もなかった。
 半ば腰を抜かしたようにも見える蔵臼に気遣うように夏妃も腰を落とす。そこに金蔵の、……ずしり、……ずしりと、貫禄を示す重みある足音が近付く。
【蔵臼】「お、……お父さん………、」
【金蔵】「馬ァ鹿があぁあぁぁ……!! 嘉音に聞いておるわ、貴様が弟たちに、どれほど情けなく手玉に取られたかをなぁ?!?!」
【夏妃】「お、お父様…! 夫はお父様の名誉を守るために懸命に…、」
 夏妃の言葉に耳も貸さず、金蔵は尻餅をついている蔵臼の襟元に手の平を差し伸べる。
 …いや、人差し指を残してぎゅっと握り、その人差し指一本を………、蔵臼の襟元にぐぃぃと押し当て、……ねじり、………………ゆっくりと、高々と、……蔵臼を指一本で持ち上げる。
【金蔵】「…情けないヤツだなお前はァぁあぁ。……妻に自分の弁解をさせるのか? 言い訳くらい自分でして見せよッ!!」
【蔵臼】「ぐくく、…………………っがはッ……!!」
 蔵臼の爪先は宙をもがく。金蔵の隆々とした指が喉を締め上げているのだ。喋るどころか、口を聞くことさえ出来はしまい。
 もっとも、口を開くことが許されたとしても、今の蔵臼に、金蔵を納得させられるような言い訳など、思いつくわけもないのだが…。しかし、……何という力なのか…。金蔵のこの怪力を見て、誰が老人だなどと呼べたものか…。
【夏妃】「……お父様…!! 夫は夫なりに戦いました…!! どうかお許し下さい…!!」
【金蔵】「…………夏妃ィ。……戦いというのはな、勝つまでの過程を言うのだ。……負けるまでの過程は、戦うとは言わぬ。
 それはただ一言、見っとも無いと言うのだああぁッ!! わっはははははははは、これが私の跡継ぎだと言うのか、わっははははははは、わっはっはっはははははははっはぁああああ!!」
 金蔵は雷鳴と共に、これほど愉快なことはあろうかとでも言うように豪快に笑う。
 そして笑いの最後に、不甲斐ない息子をまるで紙くずのように放り投げ、壁に叩き付ける…。
【蔵臼】「ぐはッ、……ううううぅぅ……。」
【夏妃】「あなた、あなた…!! しっかり……。」
 壁からずり落ち、苦しそうに喉を擦る蔵臼…。夏妃は駆け寄り介抱する…。
 しかし金蔵はそんな二人には何の興味も示さず、最初からそうだったかのように、再び窓辺に戻り、不吉な雷雲を見上げる。
【金蔵】「…………ベアトリーチェにさえ会えれば、我が人生には何の悔いもないと思っていたが、どうやらそういうわけにも行かぬらしい。……魔女より得たものは何も残せぬのが初めからの約束。しかし、右代宮の名は魔女のものではない。……その名を継ぐのが誰に相応しいか。どうやらそれだけは、わしが自らの手で解決せねばならぬようだ。……喜べ蔵臼!! 気が変わったぞ。」
【蔵臼】「………お、お父さん…。………では……?」
【金蔵】「貴様ら腑抜けどもと食事をする気など起きぬ。だが、その後の親族会議には出席する!」
【夏妃】「お、お父様…。ありがとうございます……!」
【金蔵】「私はその席上で、当主継承についての重大な発表をするであろう。お前たちの下らない争いは、私自らが解決してやるッ!! うっははははははは、わーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはッ!!!」

縁寿の回想

玄関ホール
 バタンと勢いよく扉が開けられると、真里亞を連れた楼座が飛び込んでくる。
【楼座】「源次さんか誰かいない…?! 誰でもいいの、バスタオルを持ってきて…!!」
 外はもうすっかり台風で、大雨が降り始めている。そんな中、傘を差していたとはいえ、真里亞はずっと薔薇庭園で風雨の中にいた。肩はすっかり冷えてしまっていた。
 真里亞は楼座と薔薇庭園で些細な喧嘩をし、ずっとそこにいなさいと言われたのだ。……真里亞はその言いつけ通り、雨が降り出してもずっとその場に留まり続けていたのである。
 確かに楼座も少し感情的に怒ってしまったが、真里亞の頑固なわがままの方が確かに悪いだろう。……そのやり取りを見てしまったいとこたちは、親子が寄り添う姿を見て、ほっと胸を撫で下ろすのだった。
客間
 楼座はタオルで真里亞の頭をごしごしと拭く。娘が風邪を引かないかと心配でならないようだが、当の真里亞はケロリとしていた。
【楼座】「大丈夫? 寒気とかしない? やっぱり一度戻って着替えさせた方がいいかしら…。」
【真里亞】「うー、全然平気ー! それよりお腹空いたから、着替えよりご飯がいいー、うー!」
【戦人】「はっはっはっは。大丈夫そうだぜ、楼座叔母さん。こんだけ元気ならきっと大丈夫だよ。」
【譲治】「傘があって本当に良かったよ。……ひょっとしたらずぶ濡れかもしれないと思ってたからね。傘を持ってたのは、不幸中の幸いだったよ。」
【朱志香】「でもよ、真里亞! いくら傘があっても、こんな大雨になったらちゃんと雨宿りしなきゃ駄目だぜ? 女の子は体を冷やしちゃ、絶対にいけない。」
【真里亞】「………うー。」
【楼座】「いいのよ、朱志香ちゃん。……ママがそこにずっといなさいと言ったのが悪いの。本当にごめんね、本当にごめんね…!!」
【真里亞】「うー! 真里亞いい子? ママの言う通りにしてたからいい子? 寒くてもずっといた、ママが来るまでずっといた! うーうー!」
【楼座】「えぇ、真里亞は本当にいい子よ。ママの言いつけをちゃんと守ったわね…。本当に偉いわ。でも、次からはママの言いつけであっても、あんな大雨になったらちゃんと雨宿りをするのよ。いいわね…? ママと約束よ。」
【真里亞】「うー。ママと約束。……うー☆」
 楼座は、真里亞をやさしく抱きながら、小指を絡めあってそれを約束し合う。一本の小指を通しての親子の触れ合いで、真里亞の体に温もりが戻っていくのが、見守る戦人たちにもよくわかるのだった。
【楼座】「嘉音くん、タオルをありがとう。助かったわ。」
【嘉音】「……それでは失礼いたします。」
 嘉音は、礼を言われるほどのことはしていないという淡白な表情で頭を下げると、客間を出て行った。
【楼座】「……さ、もうお夕飯よ。みんなも行きましょう。……偉い真里亞には、あとでママの分のデザートも分けてあげるわ。」
【真里亞】「うー! 本当、ママ?! うーうー、デザートもらえる、うーうーうー♪ ママ大好き、ママ大好き!」
【楼座】「こら、真里亞、はしゃがないの。ママも真里亞が大好きよ。真里亞大好き、真里亞大好き。」
【真里亞】「真里亞もママ大好き、ママ大好き! うーうーうーうー!」
【楼座】「うーうーうーうー♪」
 楼座と真里亞は、仲睦まじい姿を見せる。それを見て戦人たちも、何だか懐かしいような温かみが胸に込み上げてくるのを感じる。
【戦人】「……このくらいの年頃が、親と一番仲がいいのかもしれねぇな。」
【朱志香】「うちはそうでもなかったぜー。母さんとか、いっつも勉強勉強とうるさかったなー。」
【譲治】「子どもを愛していればこそだよ。親の愛はやさしさや甘やかしだけじゃないんだよ。僕の母さんも厳しかったけど、僕を大事に思ってくれたからこそだって、今ならわかるよ。」
【真里亞】「うーうーうー! ママ大好き、ママ大好き!」
【楼座】「真里亞大好き、真里亞大好き♪ さ、食事に行きましょう? お手々つないで仲良くね。」
【真里亞】「うー! お手々つないで仲良く! ママと真里亞、仲良し仲良し♪」
【楼座】「えぇ、そうよ。ママと真里亞は仲良しよ。いつまでもずーっとね。愛してるわ、真里亞…。」
【戦人】「……………何だよ突然。…どうした?」
 突然の音は、グレーテルが手にしていたティーカップが落ちて割れた音だった。
魔女の喫茶室
【縁寿】「………ごめんなさい。ぼんやりしてたわ。落としちゃってごめんなさい。」
 床のカップは粉々に砕けていた。……手から落としたくらいで、あそこまでの音を立てて、しかも粉々に砕けるだろうか。
 鈍感な戦人でも、それが何かの不機嫌を表すものだろうと察したが、なぜ突然、彼女が機嫌を悪くしたのか理解できなかった。屈んでカップの欠片を拾おうとすると、どこからともなく現れたロノウェが、それを制する。
【ロノウェ】「お怪我をなさいますよ。お片付けは私どもにお任せを。紅茶のお代わりをお持ちしましょうか…?」
【縁寿】「……いらないわ。………どうも悪魔の紅茶は口に合わないみたい。」
【ベアト】「ほぉ。ロノウェの紅茶でも口に合わぬ者がおったとは。そなたの肥えた舌には敬意を表するぞ。」
【縁寿】「………退屈してきたんで、ちょっと席を外すわ。」
【戦人】「退屈ぅ? おいおい、いよいよこれからだろうが。多分、この時点で真里亞はまた、傘と手紙をベアトリーチェから受け取ってるって言い出すんだぜ? ここからが重要だってのに…、」
【縁寿】「失礼するわ。ごめんなさいね、後片付けをお願い。」
【ロノウェ】「お任せを。」
 それだけを言い残し、グレーテルは一方的に姿を消す。文字通り、虚空に姿を溶かして消えた…。
 彼女の表情には、確かに不機嫌が浮かんでいた。しかし、戦人もロノウェも、もちろんベアトも含めて、なぜ突然に機嫌を悪くしたのか理解できない。後には、彼女が零した紅茶の香りだけが残っていた…。
謎の空間
 ………不愉快だった。いや、さらに言葉を選ばないなら、虫唾が走ったとさえ言っても良かった。
【真里亞】「うー…? ……何で縁寿はイラついてるの……?」
【縁寿】「何でって! 決まってるでしょ…?」
【真里亞】「うー。…真里亞にはわからないよ……?」
 きょとんとした表情を見せる真里亞お姉ちゃんにも、…イラつく。
 私が虚空に、手の平を上にしてかざすと、そこにどこからともなくストンと、一冊の本が乗っかる。………真里亞お姉ちゃんの日記だ。
 私がページをめくらずとも、風もないのにページがばらばらとめくれ、真里亞お姉ちゃんの世界への扉を開いていく。
【真里亞】「……どうして縁寿は、真里亞が幸せじゃないと思うの?」
【縁寿】「…………客観的に判断してよ。」
【真里亞】「客観的に、縁寿の主観で、だね?」
【縁寿】「…………………。……真実は、私にとってと真里亞お姉ちゃんにとってで、異なると言いたいの?」
【真里亞】「真実は、観測者によって形を変えるよ。そして、未来の観測者が常に、その形状を上書きする。………縁寿は、真里亞の幸せを、どうしたいの…?」
【縁寿】「…………………………。」
 日記のページがますますにすごい速度でめくれていく…。そして日記の奥深くより眩い光が溢れ出し……、全てを飲み込んで白で塗り潰した。
楼座の家
【楼座】「………ごめんね、真里亞。ママね、緊急に片付けなきゃならない仕事が山積みで、ちょっと会社に缶詰にならなきゃならないの。……多分、明後日の深夜まで家に帰れないわ。」
【真里亞】「……うー。……じゃあ、日曜日の一緒に映画を見に行く約束は……?」
【楼座】「映画…? えっと、」
 楼座の口調からは、明らかにその約束を忘れていた様子がうかがえた。しかし、それに対する真里亞の返事は、それを聞いたことを詫びるものだった…。…………ごめんなさい。それを聞いて母を困らせてしまったことを、真里亞は謝る……。
【真里亞】「………真里亞、お留守番してる。ちゃんとお行儀良く待ってる。……毎日お風呂に入って新しい肌着にするよ。…お金の場所もわかってる。………毎日違うお店に行くようにする。あんまり遅い時間に出掛けないようにする。お巡りさんに聞かれたら、ママのお使いですって言うようにする。……ちゃんとママに言われた通りに言うようにする。」
【楼座】「………………………。……そうね。ちゃんといい子にしてるのよ。そしたら、お土産を買ってきてあげるわ。いい? 夜は9時までに寝るのよ。ママが帰ってこないなんて、先生にも大人にも言っちゃ駄目よ。いいわね……?」
【真里亞】「………………うん。……だからママ、お仕事がんばってね。……がんばってお仕事終わらせて……、少しでも早く帰ってきてね…。真里亞、……もう夜中に泣いて、近所の人に迷惑なんか掛けたりしないから……。……だから、早く帰ってきてね………。」
【楼座】「………………。……じゃ、忙しいので切るわよ。……いい子にして待ってるのよ。余計なことはしちゃ駄目よ。じゃあね。」
 ブツリ。……楼座は、切り上げるような口調で、真里亞の返事を待たずに電話を切った。
 真里亞は受話器を行儀良く戻すと、ソファーに戻る。そこには、さっきまで一緒にテレビを見ていた、さくたろのぬいぐるみがあった。
 さくたろはテレビのリモコンを抱いている。……電話だからテレビを一度切ったのだ。早くテレビが見たいからまたスイッチを入れてくれという仕草だろう。
【真里亞】「……………さくたろ。……テレビ、…見たい?」
【さくたろ】『……うりゅ? 真里亞はもう見たくないの…? 芸人チーム、全問正解したら逆転かもしれない。うりゅ〜!』
【真里亞】「………うん。………もうテレビ、いいや。」
 また、……ママは仕事が忙しくて、帰ってこない。
 普段から残業の多いママは、深夜まで帰ってこない。……お付き合いがあるとかで、強くないのにお酒をいっぱい飲んで帰ってきて、真っ青な顔をしながら、そのままシャワーを浴びて床に入ってしまうのがいつもだ。
 そして週末も残業だとかお泊まりだとか言って、ほとんど帰ってきてくれない。……最近は大きな仕事を控えてるとか言って、頻繁にそういうことがある…。
 ……図工の時間にがんばって描いて、みんなに笑われたけど、ママにだけはちゃんと見て欲しかった絵が、また見てもらえない。みんなに押し付けられた掃除だけど、ひとりでちゃんとがんばって、先生に褒められた話とか。
 お買い物に行ったら、お店のおじさんがいつも感心だねって言って、缶コーヒーをオマケしてくれた話とか。いっぱいお仕事がんばって帰ってくるママを励ましたくて、書いておいたメッセージカードが、こっそりママの枕の下に隠してあるとか。
【真里亞】「……………他にも、…いっぱい、……お話したかった。」
【さくたろ】『………ママは、お仕事をいっぱい頑張ってくれてるんだよ。毎日のご飯のために、一生懸命働いてくれてるんだよ。』
【真里亞】「……お仕事、やだ。……ママ、お仕事なんかやめちゃえ。」
【さくたろ】『お仕事は、大人の大切な仕事なんだよ。……真里亞にご飯を食べさせて、お洋服を買って、学校の給食費を払って、サマーキャンプの積立金を払って。……それはみんなママが働いてお金を稼いでくれるからなんだよ。』
【真里亞】「…………………………。…ご飯いらない。お洋服もいらない。給食もいらないしサマーキャンプなんか行きたくない。…どうせ真里亞をどこの班も混ぜてくれないもん。」
【さくたろ】『うりゅ……。……ママはさっき電話で、お仕事から帰ってきたら、お土産を買ってきてくれるって約束してくれたよ? ママは真里亞のことが大事で、寂しくさせてることを申し訳ないと思ってるから、そういう約束をしてくれたんだと思うよ。』
【真里亞】「………そうかな。」
【さくたろ】『うりゅ! 面倒臭かったり、嫌だったりしたら、そんなことはしないもん! ……ママだって、真里亞の側にいつだっていたいんだよ。…それが出来なくて、ママも辛くて悲しい。…………ママが泣きながら、ずっと真里亞の隣にいて夜を過ごしてくれた日を、ボクは覚えてるよ。』
【真里亞】「………うん。…何でママが泣いてるのかわからなかったけど、……悲しむママが悲しくて、…ただ真里亞は黙ってママの側にいることしか出来なかった。」
【さくたろ】『あの時、最後にママが言ったのを、ボクは覚えてるよ。……真里亞に、ありがとうって言った。………ただ側に居てくれるだけで、真里亞だけが世界でただ1人の味方なんだよって、ママは言ってくれた。……うりゅ、覚えてる?』
【真里亞】「うん…。………真里亞が世界でただ1人の味方なんだよって、……ママ言った。」
 さくたろは、リモコンをテーブルに置くと、よちよちとソファーを這い上がって、私の膝に乗って、…私の瞳を見ながら言った。
【さくたろ】『……ママも、きっと真里亞と同じなんだよ。………ママの描いたデザインだけが、クライアントに笑われて。……ママの会社だけが、他の会社から面倒な仕事を押し付けられて。ママは社長だから、自分ひとりで片付けなくちゃならなくて。……ママの会社だけが、いつも他の会社の仕事に混ぜてもらえない。………ママの味方は、真里亞だけなんだよ。……その真里亞が、ママにお仕事なんかやめちゃえなんて言ったら、……ママの味方は、世界中の、どこにいるの………?』
【真里亞】「……………ぅぅ…。………さくたろ……。」
【さくたろ】『ボクには、世界中でただひとり、真里亞がいる。……ママには、世界中でただひとり、真里亞がいる。………真里亞には?』
【真里亞】「……ママもいるし、さくたろもいる…。」
【さくたろ】『だから真里亞は寂しくなんか、ない! うりゅ!』
【真里亞】「………うー。」
【さくたろ】『ママはお仕事が忙しいから、なかなか真里亞と一緒にいられないけど、真里亞はどうかそれを責めないで。……その代わり、ボクはいつも一緒に、そしていつまでも一緒に真里亞の側にいるから。……………だから泣かないで…? ………うりゅ…。ボクが一緒じゃ、………悲しみを止められない……?』
【真里亞】「…………ぅぅ、……うううぅううぅ、さくたろ…。……うううぅううぅぅ!! うわああああぁああああぁあう、わぁあああああぁあぅ…。」
 ………真里亞は、がんばって塞ぎ続けてきた心の隙間から、…悲しみの雫をとうとう、零してしまう。……ぽたりぽたり。……ぽたぽた。……しくしくぽたぽた、ぽろぽろぽろ。
 ママが帰って来れない週末なんて、珍しいものじゃないはずなのに。……この夜が、普段の夜に比べて、特別、辛くて悲しかったわけじゃないのに。……真里亞は涙をぽろぽろと零す。
【さくたろ】『うりゅー…! 真里亞、泣かないで…。ボクがずっと一緒にいるから…。真里亞が泣いても、ボクは泣かない。ボクはライオンの子だから寂しくても泣かないよ。……ボクだって泣きたいけど、ボクは泣かないんだもん…!』
【真里亞】「どうして、さくたろは泣かないの…? こんなに寂しくて涙が堪えられなくても泣かないの…?」
【さくたろ】『うりゅ。だってボクが泣いたら、誰が真里亞を慰めるの…? だからボクは泣かないよ。だって、真里亞に元気を出してもらいたいから。』
【真里亞】「元気を出したら、……ママは帰ってくるの……?」
【さくたろ】『ママが帰ってきた時、元気な真里亞で迎えてあげたら、……ママはきっと喜ぶと思うな。うりゅ。』
【真里亞】「……ママは、喜ぶ……?」
【さくたろ】『うりゅ。そしたらきっと、お仕事の疲れもきっと癒されると思うよ。そしたらきっと、いつもより早く元気になってくれて、真里亞ともいっぱい遊んでくれると思うな。』
【真里亞】「…………………………。」
【さくたろ】『真里亞がママの待ってるお家へ帰ってきた時、ママが上機嫌で台所にいたら、すごく幸せな気持ちになるでしょ? ママもきっと同じだよ。』
【真里亞】「……真里亞がご機嫌でお留守番してたら、……ママも幸せになるかな。」
【さくたろ】『うりゅ!』
 さくたろは、その大きな頭で深々と頷いた。真里亞の目からは、もう新しい涙は零れない。……泣きはらした顔でママを迎えたら、きっとママも悲しむだろうから。
【さくたろ】『真里亞は知ってるよ。笑顔を呼ぶ魔法は、自分も笑わなきゃ出来ないってこと。』
【真里亞】「……うん。……真里亞は知ってるよ。だからもう、泣かない。」
【さくたろ】『ねぇ、真里亞。ボクから楽しく過ごす提案があるよ。……うりゅ、聞いてくれる?』
【真里亞】「……なぁに?」
【さくたろ】『ママが日曜日の深夜まで帰って来ないから。だから、ママに内緒のパジャマパーティをして遊ぼうよ。』
【真里亞】「パジャマパーティ…?」
【さくたろ】『今夜は眠くなるまで、ベッドの中でお菓子を食べたりジュースを飲んだりしながら、ボクと遊ぶの。』
【真里亞】「パジャマパーティ。……うん、楽しそう。…9時に寝なくていいの? 寝ないとママに怒られない?」
【さくたろ】『ママがいない時だけの、ボクと真里亞の秘密。だから今夜は、真里亞が眠くなるまで、ずっとボクたちで楽しく過ごそう。ジェリービーンズを食べながら、次は何の色を引くか当てっこして遊ぼう。ピーナッツを割って、どっちがお爺さんか当てて遊ぼう。クローゼットの中を宝探ししよう。他にも他にも! コーラとメロンジュースを合わせたらどんな味になるかな。』
【真里亞】「うー。いっぺんやってみたかったけど、ママにやっていい?って聞いたら駄目って怒られた。」
【さくたろ】『うりゅー! ママに内緒で実験してみよう♪ 今夜はいっぱい遊んでいっぱい笑って、涙を元気で吹き飛ばしちゃおう。大丈夫、ボクと一緒だから絶対に楽しいよ! ボクが絶対に真里亞を幸せにしてあげるから。』
【真里亞】「うん、うん。さくたろと一緒なら絶対に楽しいよ。絶対に幸せになれるよ。ありがとう、さくたろう。もう泣かないね。飛び切り楽しく二人で過ごして、思い切り元気になってママをお帰りなさいって迎えちゃおう。」
【さくたろ】『うりゅー! 今夜はいっぱい遊んでいっぱいご機嫌になっちゃおう♪ ママがいない夜にしか遊べない、秘密のパーティでいっぱい遊ぼう。ボクたちが賑やかにしてたらきっと、鏡の国や不思議の国から、たくさんの友達が遊びに来るよ。そしたらもう、ボクたちはお友達でいっぱいで、退屈なんか出来なくなっちゃう。うりゅー!』
【真里亞】「うりゅー!!」
 ……そして真里亞は、さくたろと二人きりのパジャマパーティを開いて、深夜まで楽しく遊んだ。ジェリービーンズを、袋を見ないで手を突っ込んで、何色を引くか当てて遊んだ。……さくたろは勘がよく、結構正解した。真里亞も途中、4連続で当てるという快挙を見せた。
 ピーナッツを割ってどっちがお爺さんになるかを当てる遊びは、ジェリービーンズの色当てよりも簡単でいっぱい正解できた。塩まみれになった指をしゃぶるのが、お行儀は悪いけど一番美味しかった。
 コーラもメロンジュースもそれぞれ大好き。
 そんな大好きなジュースを混ぜたなら、まるで錬金術みたいにピカーっと光って、誰も味わったことのない新しいジュースが生まれるんじゃないかと期待した。すごく美味しく出来たなら、それをさくたろジュースと名付けて販売しようと盛り上がった。
 でも、案外期待外れの微妙な味だった。色も何だかくすんで冴えない。…黒いのと緑のを混ぜたらやっぱりこんな色になってしまうか。……ピカピカ光るパイナップル色を想像していただけに、残念。
 でも、すごいすごい楽しい夜だった。これだけ楽しくしていたなら、ママも思わず帰って来たくなって、ひょっこりと帰宅してくれるかもしれない。……だから、急にママが帰ってくるような気がして、何度か玄関を見に行ったけど、仕事で忙しいママが帰ってこられるわけもなかった。
 でも、それは寂しいという気持ちじゃなく、こんなにも楽しい真夜中のパーティにママを加えてあげられなかったという、残念な気持ちだった。
 今度はママがいる時に開催して、ママも混ぜてあげよう。ママは真里亞にとって美味しくないものでも美味しいというから、さくたろジュースもすっごく美味しいと言ってくれるかもしれない。ママが疲れて帰ってきたらご馳走してあげよう。
 そして何よりも。……この楽しい夜をせめて手紙に書いて、ママに伝えたいと思った。
 こんなにも幸せな気持ちが、ママにも届きますように。いつもお仕事で大変で、疲れてぐったりして帰ってくるママに、この幸せがお裾分けできますように。
 日曜日の深夜にぐったりして帰ってくるに違いないママが、この幸せのお裾分けで、ちょっぴりでも元気になってくれますように……。
 その手紙を、ママの机の上にそっと置く。“ママへ。今日もお仕事お疲れさま☆ 幸せのおすそわけ。——真里亞より”
 そして、こんな素敵な夜を提案してくれたさくたろに、真里亞は贈り物をすることにした。クローゼットの宝探しの時に見つけた、小さな赤いマフラー。
 まだ真里亞がものすごく小さかった頃、ママが編んでくれた小さな小さな赤いマフラー。毛糸の刺繍でマリアと書いてある。
 ……そのマフラーをさくたろにそっと巻いてあげる。それは黄色い彼に、とてもよい赤いアクセントとなって似合った。
【さくたろ】『………うりゅ。…似合う……?』
 さくたろは、生まれて初めてもらったプレゼントをつけて、恥ずかしそうにしている。……うん。とってもよく似合ってる。
【真里亞】「うー。さくたろ、いつもいつも本当にありがとう。こんなにも楽しい夜になったよ。どうして真里亞は泣いてたのか、もう思い出せないくらい。……これからも一緒にいようね。そしていつも楽しく遊んで笑っていようね。」
【さくたろ】『うりゅー! 真里亞、大好き!』
【真里亞】「真里亞もだよ。さくたろ、大好き。」
 真里亞のお部屋は、こんなにも賑やかに遊んだので、しっちゃかめっちゃか。ちょっと楽しく遊び過ぎたかも。
 ……でも、今日は眠いから一緒に寝よう。そして明日、一緒にお片付けして、綺麗なお部屋でママをお迎えしよう。……ね? さくたろ? うりゅー♪
【真里亞】「……ね? 真里亞は、うぅん、真里亞とさくたろは、こんなにも幸せだよ?」
【縁寿】「……………………。これが、真里亞お姉ちゃんの幸せなの…?」
【真里亞】「うん。真里亞は、幸せ。」
【縁寿】「……楼座叔母さんは、あんなにも楽しみにして、絶対だよと約束した映画の約束を完全に忘れてた。」
【真里亞】「お仕事で忙しかったから、たまたま忘れちゃったんだよ。……仮に覚えてたとしても、お仕事じゃどうしようもない。覚えてても覚えてなくても、どちらにせよ、ママはお仕事でお泊り。映画には行けなかった。………約束を覚えてたかどうかなんて、些細な問題だよ。」
 ……些細な問題のわけはない。だって、……楼座叔母さんが電話の向こうで「映画?」と応え、完全に約束を忘れていたことは明白だった。そして、それを聞いた時、真里亞お姉ちゃんは、間違いなく表情を曇らせたのだから。
【縁寿】「確かに、……真里亞お姉ちゃんの言うとおり、楼座叔母さんが約束を覚えていたとしても、結局、映画には行けなかった。……でも、それでも。……お母さんとのささやかな休日を過ごす約束を、一方的に忘れられていたなんて、…悲しい。私なら怒る。」
【真里亞】「…………………………。…うん。悲しかったよ。たとえ覚えててくれたとしても、映画には行けなかったわけだから。……でも、私はその後、さくたろととてもとても楽しく夜を過ごした。縁寿も、パジャマパーティがすっごく楽しそうだって、思ったはず。」
【縁寿】「………………………。楽しいわけなんかない。…だって、この夜の真里亞お姉ちゃんのはしゃぎぶりは、……お母さんが帰ってこなくて寂しくて、それを忘れるために、わざと空騒ぎをしただけじゃない。」
【真里亞】「違うよ。さくたろと、本当に楽しくパーティをしたんだよ。」
【縁寿】「いいえ、違う! お姉ちゃんは悲しくて悲しくて、約束を忘れてたお母さんが憎くて憎くて、部屋で暴れただけじゃない…!!」
【真里亞】「……………そんなこと、真里亞の日記のどこに書いてあったの?」
【縁寿】「書いてはいない! でも、……この一行飛ばしで書いてある行間から、お姉ちゃんの気持ちがわかるの! お姉ちゃんはこの夜を楽しくなんか過ごさなかった! それで、言いつけを破って夜更かしをし、おやつの時間以外には食べてはいけないと厳しく言われていたルールを破ってお菓子を食べ、……それでも悲しみが埋められなくて、部屋の中で暴れて、………散らかしただけじゃない…!! そして部屋中を散らかして、疲れ切って、………そのままベッドのシーツを掻き毟りながら泣き疲れて眠っただけ…!」
【真里亞】「………日記には確かに、ママが映画の約束を忘れてたらしいこと、そして私が夜更かしをしてさくたろとパジャマパーティをして、……宝探しで部屋を散らかしてしまったと書かれてるね。」
【縁寿】「えぇ。それはつまり、………そういうことじゃない! 真里亞お姉ちゃんは、楼座叔母さんの愛に飢えていた…! そして楼座叔母さんは自分の仕事や世間体ばかりを優先して、いつもお姉ちゃんを後回しにしていた…!
 だから虫唾が走るのよ! 楼座叔母さんの、お姉ちゃんのことを愛しているという言葉が、どれほど上辺だけのものか、知っているから!! お姉ちゃんだって知ってるはず!
 なのに、……何で自分は幸せだなんて言えるの?! 真里亞お姉ちゃんの、……その辺りが私にはわからない!! この歳になっても、さっぱり理解できない…!! どうして悲しくないの? どうして不幸な現実を知りながら、自分は幸せだなんて言えるの?! 私には出来ない、わからないッ…!!」
【真里亞】「……………縁寿は、悲しい子だね。」
【縁寿】「わけわかんないッ!! どうして私が憐れまなければならないの?!」
【真里亞】「………私の日記には、こんなにも楽しくパジャマパーティの“事実”が記されているのに。………同じ“事実”も、異なる人間が観測すると、異なる姿になってしまうんだね。」
 ベルンカステルと、そんな話をしたことを思い出す。真実は不定形なもので、観測される度に姿を変えるもの。一つの真実は、その捉え方によって、…つまり人によって異なる真実となる。そして過去の真実は、未来の真実で塗りつぶされる……。
【真里亞】「真里亞はこの日記で、この夜の出来事を、とてもとても楽しかったと記した。」
【縁寿】「……真里亞お姉ちゃんはこの夜の出来事を、とても幸せだったと記述した。」
【真里亞】「なのに、日記を読んだ縁寿は、この夜の出来事を、とてもとても悲しかったと読んだ。」
【縁寿】「……真里亞お姉ちゃんは幸せだと記述したのに、私はそうではないと読み解いた。」
【真里亞】「やめて。」
【縁寿】「……………………………。」
【真里亞】「これは、幸せな夜を記したものなの。………これが、この夜の“真実”。お願いだから、その幸せな真実を、…………新しい、そして異なった真実で塗り潰さないで。」
【縁寿】「…………真里亞お姉ちゃんにはこれで、……幸せなの?」
【真里亞】「うん。幸せ。………だから、同じ境遇の時、幸せに感じられない縁寿が、可哀想。」
 ………友達もなく、孤独な境遇は、今の私も当時の彼女も同じ。そして縁寿は、……孤独な真実を、孤独な真実のままに受け入れる。しかし彼女は、……孤独な真実を、幸せな真実に塗り替えた。
 右代宮真里亞は、悲しい真実を、……幸せに変えたのだ。そここそが、……私と真里亞お姉ちゃんの、唯一にしてあまりに大きな、…違い。そして、それを受け容れられないと思いつつ、……その力を羨む自分もいる。
【縁寿】「うん。……そうなの。それは“力”なの。……その力がある真里亞は幸せになれて。その力がない縁寿は、幸せになれない。」
【真里亞】「その………力は、…………何なの…………?」
【縁寿】「真里亞も、その力を何と呼ぶか、わからなかった。……この時点ではね。…やがて、その正体を教えてもらうの。……後に話すよ。後のページで。………そしてそして、日曜日の深夜。ママは約束どおりお土産を持って、帰ってきた……。」
【楼座】「………ただいま。」
【真里亞】「ママー、お帰りぃいいぃ!!」
【さくたろ】『うりゅー!! ママ帰ってきた、ママ帰ってきた!』
 疲れ切っての帰宅となった楼座を出迎えたのは、さくたろを抱きながら、信じられないくらいに上機嫌の真里亞だった。
 楼座の疲れ切った表情は、実際の疲れもあっただろうが、……数日間の留守を経て愚図る真里亞に、ぶーぶーわーわーと泣きつかれるのがウンザリだというものも含まれていただろう。しかし、それが信じられないくらいに杞憂で、……信じられないくらいに元気な真里亞に迎えられ、楼座は驚きを隠せなかった。
【真里亞】「ど、……どうしたの真里亞…。とてもご機嫌ね…?! 誰か来ているの…?!」
 まるで、お友達が上がっていて、楽しく遊んでる最中に自分が帰ってきたのではないかと思ってしまうくらい。
 しかし玄関に他の靴はない。……真里亞はこんなにも上機嫌だけど、たったひとりで留守番をしていたのだ。
 楼座は初めこそ、理由のわからない上機嫌に、何かロクでもない理由があるのではないかと訝しがったが、それは本当に杞憂で、……とにかく本当に上機嫌で留守番をしてくれていたのだ。
 ………岩のように冷え切り、硬くなった心であっても、…こんな笑顔で迎えられたら。楼座はその笑顔を素直に受け止められるようになり、自然と自分の顔も笑顔になっていった。
 ……そこには数日の間、帰宅できなかったという疲労感はまったくなくなっていた。真里亞は、ぬいぐるみのさくたろと、如何に楽しく遊んで留守番をしていたかをいつまでも話し続ける。
 楼座は自分の贈ったぬいぐるみが、ここまで気に入ってもらえるとは思わず、嬉しい驚きを隠せずにいた。
【楼座】「そう。さくたろうと一緒に仲良くお留守番していたのね。偉いわ真里亞。そんな偉い真里亞とさくたろうにお土産があるわよ。」
【さくたろ】『うりゅー! お土産!お土産!』
【真里亞】「うー! 何だろうね、何だろうね!」
 真里亞はさくたろと二人してはしゃぎ合う。
 お土産は2つあった。片方は洋菓子の詰め合わせ。中身はスコッチケーキ。上等な品らしかった。
 でも、真里亞の興味はもう片方に寄せられる。もう片方はさらに大きな箱で、重みも結構あった。
【楼座】「開けてご覧。真里亞とさくたろうの、新しいお友達になれるかもね?」
【真里亞】「わああああああ…! 何これ! 何これ?!」
 中には、チェスの駒が収められるような感じで、陶製の小さな動物の人形が20体くらい入っていた。りす、うさぎ、小鳥、犬や猫。それらはみんな楽器を持っている。
 それらに加えて、パノラマ状の背景板も入っていた。そこに描かれているのは、森の中の風景。開けた広場を森の小動物たちが囲んで楽しそうにしている。
 楼座がテーブルの上にそれを広げて立てる。……そして駒のような陶製の人形たちをその前に並べていくと、………それは、森の動物たちの音楽隊になった。
【楼座】「素敵でしょ? お店のショーウィンドで見て、一目惚れしちゃったの。これを、良い子でお留守番してた真里亞にプレゼントするわ。」
【真里亞】「うーーー!!! ありがとう、ママー!!! すごいね、さくたろ! お友達がこんなに増えちゃったね…! さくたろの言う通りだった! 楽しく賑やかに過ごしてたら、お友達が増えちゃうって本当だった…!」
【さくたろ】『ね、言ったとおりでしょ? ほらね、お友達が増えた、ほらね、お友達が増えた! うりゅ〜♪』
 楼座は、お土産を気に入ってくれたことに安堵すると、数日間の疲れがどっと溢れ出してくるのを思い出すのだった…。
【真里亞】「ママ、本当にお疲れ様…! シャワー浴びてくるといいよ。あったかいの浴びると、きっと疲れが取れるよ。湯船にする? 真里亞が今日は入浴剤を選んであげるね!」
【楼座】「ありがとう。でも、もう遅いから真里亞は寝る支度をなさい。ママも疲れたから、シャワーだけ浴びてすぐ寝るわ。明日も早いし。」
【真里亞】「うん、わかった! はい、ママ、コート脱がしてあげるー。」
【楼座】「大丈夫だってば…。…あぁ、ありがとう。」
【真里亞】「ママのコート、お外の匂いがいっぱいする。……うー? あ、ごめん、何か落とした。拾うね?」
 楼座のコートを抱え込んだ時、ポケットからレシートか半券のようなものが、ぽとりと落ちる。…ママのポケットに入っているものだから大事なものだろう。真里亞は慌ててそれを拾う…。
 それは、新幹線かグリーン車か何かの切符に見えた。…………熱海? 温泉とかで有名なとこかな…?
 その時。…剃刀のように鋭い音がして、温かな空気を割った。
 ついさっきまでいた、娘とお土産を楽しみ、数日振りの帰宅で疲れの溜まった楼座ではなく、………容姿はそっくりだけど、まったく別の、恐ろしい形相を浮かべた人物がそこにいた。
 …その手には、真里亞が拾いかけた半券がある。…真里亞の手から瞬時に奪い取ったものだ。
 真里亞は数瞬だけ遅れてから、…手を叩かれた痛みと、母の形相から、自分がいけないことをしたに違いないと悟った。
 ただ、自分が何をして怒られているのかだけがわからない。……多分、あの半券みたいなもののせい。触っちゃ、……いけなかった………?
 せっかく、楽しく幸せにママをお迎えしてあげたのに、…ママの大切なものに勝手に手を触れて、その空気を台無しにしてしまった…。……だから真里亞はすぐに謝る。
【真里亞】「ご、………ごめんなさい………。」
【楼座】「…………っ。………………。」
 謝罪の言葉は届いたはずなのに、むしろ楼座は、表情を歪ませる。…望まぬ言葉だったのだろうか。
 真里亞はどうすればいいかわからなくて、母の出方をじっとうかがう…。
 すると、そんなにも大事な半券のはずなのに、ぐしゃっと握り潰しながら、自室の方へ足早に去っていった…。真里亞には、……何がいけなかったのか、よくわからない……。
【真里亞】「………うー……。……真里亞きっと、………余計なことをしたんだね……。…あの紙はきっと、ママのお仕事の大切なものだったんだね。それに勝手に触っちゃったから…。」
【さくたろ】『うりゅ……。…真里亞は悪くないよ………。…だから、今夜だってこんなにも幸せ。』
【真里亞】「うん。…幸せ。」
【さくたろ】『ママだって、お風呂に入ってすっきりしたら、いつものやさしいママに戻ってくれるよ。だから、気にしちゃだめ。うりゅ。』
【真里亞】「そうだね……。ママだって疲れてるんだもんね。……うー、気にしちゃだめだね。今夜だって、真里亞たちはこんなにも幸せ。」
【さくたろ】『うりゅ。』
【縁寿】「………………もうやめてよ。…見てられない。」
【真里亞】「……縁寿は、幸せの見つけ方が間違ってると思うよ。」
【縁寿】「間違ってるのはお姉ちゃんでしょ!! これのどこが幸せだってのよ…!! もう…、痛々しくて見てられないッ!!」
【真里亞】「何が…? ママが急に怒り出したこと? ………人間、疲れてれば、そういうこともあるものだよ。……一時の感情のすれ違いだけで相手を全否定するのって、縁寿は大人じゃないと思うよ。」
【縁寿】「……9歳の真里亞お姉ちゃんに言われるとはね…。でも、そんなことじゃないでしょ、問題なのは! お姉ちゃんが拾ったあの半券、明らかにおかしいじゃない!」
【真里亞】「何が? 何もおかしくないし、今夜の幸せと何も関係ないよ…?」
【縁寿】「楼座叔母さんは仕事で会社に泊まり込むって電話してきたんでしょ?! 何で熱海?! それって旅行でしょ?! 真里亞お姉ちゃんを置き去りにして、旅行に行ってたってことでしょ?! しかも普通、旅行って言ったら一人では、」
【真里亞】「あれが仮に熱海行きの券だったとしても。だからって、ママが嘘をついて旅行にいった証拠にはならないよ…?」
【縁寿】「電話で嘘をついて、あんなにも形相変えて奪い取って! 何よりの証拠じゃない…!!」
【真里亞】「………昔の仕事で出張した時のものかもしれないよ? あるいはゴミか何かをたまたまポケットに入れちゃっただけかも。部下の人が出張した時の領収書かもしれないね。…だったら仕事の大切なもの。玩具じゃないんだから、ママが取り上げたのも頷けるよ。……縁寿の言う証拠なんて、単なる状況証拠。想像と妄想。………どうして、真里亞とママの仲が悪くなるように解釈するのか、わからないよ。」
【縁寿】「どうしてお姉ちゃんが、そこまで楼座叔母さんの都合がいいように解釈できるのかの方がわからない!!」
【真里亞】「………やっぱり、縁寿は可哀想な子。………君を幸せにしてくれるカケラは、こんなにもたくさん、身の回りに落ちているのに、それを見つけられない。
 ……なのに、不幸せなカケラばかり見つけてしまって、傷付き続けている。……だから縁寿は傷付くことに怯え、……傷付けるものが身の回りにないかどうか、それを確かめ終わるまで、幸せ探しすら始められない。」
【縁寿】「………………お姉ちゃんと話をしてると、おかしいのがどっちかわからなくなってくるわ。」
【真里亞】「あのね? 幸せのカケラも、不幸せのカケラも、どちらもいっぱいあって、世界を満たしてるの。だから、身近の幸せが見つけられない人は、どこまで探しに行っても見つけられない。……チルチルとミチルが青い鳥を探したみたいに。」
【縁寿】「…………そうね。そういう教訓の話だった。」
【真里亞】「縁寿はその正反対。……不幸せなカケラがまったくない世界を探してる。でも、それだって青い鳥と同じなんだよ。だから、永遠に縁寿は自分の幸せを、見つけられない。…………戦人はヘンゼルなの? 青い鳥なんじゃないの……?」
【縁寿】「……もういい加減にして。………何れにせよ、幸せな夜が、コートから落ちた一枚の紙切れで台無しになったことはよくわかったわ。」
【真里亞】「怖いね。一枚の紙切れで。……なら、幸せを取り戻す力も、一枚の紙切れに宿れるかもしれないよね?」
 せっかく、真里亞と久し振りに心を通わせることが出来たのに……。楼座は怒りと悲しみと激しい自己嫌悪で、顔をくしゃくしゃにしながら、自分の部屋に飛び込み、扉を閉める。
 ………真里亞のごめんなさいという言葉が、どんな刃物よりも鋭利に、胸に突き刺さっている。
 その時、……書斎机の上に、可愛らしい封筒が置かれているのに気付く。少女雑誌の付録か何かの封筒だろう。
 ………ママへ。幸せのお裾分け、とある。
 それを手に取り、………躊躇ってから開封し、…中身を読む。………………………………。
 そして、大粒の涙を2つ、紙面に記した後、………部屋を飛び出し、洗面所に向かっていた真里亞に後からしがみ付いて、………娘の背中に顔を埋めて、……泣いた。
 そして、真に謝るのは自分の方であることを自覚し、…………謝罪した。どうしてママが謝るの…? という問い掛けには、答えずに……。
【真里亞】「………ほら。もう、仲直り。………あんなの、ママと真里亞の仲良しの前には、全然気にすること、ないんだよ。」
【縁寿】「……………………。………私には、真里亞お姉ちゃんの幸せは、…辛すぎる。」
【真里亞】「……縁寿の気持ちも、一応は理解するよ。……真里亞だって、この“力”に気付くまでは、…今の縁寿と同じで、不幸なカケラしか見つけられない気の毒な子だったから。」
【縁寿】「…………その“力”って、何? 私になくてお姉ちゃんにはある。…そして、それがないから私は不幸で、お姉ちゃんは幸福だと言うの? ………“力”という抽象的な表現でしか理解できない“それ”は、一体どんな力なの……?」
【真里亞】「うん。縁寿はそれが知りたいんだよね。……だから、私の物語を、ここまで読み進めてきたんだもんね。…………もちろんだよ。教えてあげる。この力の秘密を。……そして私は昔、幼い縁寿にちゃんと教えてあげたんだよ…? 忘れちゃってる…?
 大丈夫、思い出せるよ。……今から私が、……ううん、彼女が。教えてあげる。」
【縁寿】「…………彼女……? って、誰。」
【ベアト】「妾がそれを、マリアに代わって教えよう。」
【縁寿】「………ベ、…………ベアトリーチェ……………。」
【ベアト】「マリアにはあって、そなたにはない“力”。」
【真里亞】「うん。真里亞にあって、縁寿にない“力”。」
 ——それが、魔法。
 真里亞とベアトは、口を揃えて言った。そして綺麗に揃ってしまったことを、互いにくすくすと笑い合う。……何だかベアトらしくない、無邪気な仕草だった。
九羽鳥庵
 のんびりとした庭園のテーブルには紅茶が並び、ベアトと真里亞と、そして膝の上にはさくたろうがいて、楽しく談笑している…。
【ベアト】「…………ほぉ。そうか、さくたろうと申すか。そなたの一番の友人とな!」
【さくたろ】『うりゅ…。初めまして、さくたろうと申します…。』
【真里亞】「うー、さくたろは人見知りするから緊張してるの。大丈夫だよ、ベアトリーチェも、真里亞の素敵なお友達なんだよ…!」
【さくたろ】『うりゅ。真里亞の友達は、ボクも友達…?』
【真里亞】「うん!」
【さくたろ】『うりゅ。……じゃあ、ボクもベアトリーチェの友達?』
【真里亞】「うん!」
【さくたろ】『うりゅー!』
【ベアト】「……真里亞にとっては、このようなことは日常においてよくあることなのか?」
【真里亞】「うー? 何が?」
【ベアト】「このように、無機物に魔法の魂を込め、生を宿らせることは、そなたの日常においては茶飯事なのか?」
【真里亞】「……うー。さくたろは無機物じゃないよ、ライオンの子だよ。」
【さくたろ】『うりゅー!』
【ベアト】「ふむ……。……ぬいぐるみは依り代として優秀だ。ゆえに、毒を持たぬ無垢な子どもが話し掛けることによって、それに応えようとする精霊が宿ることが少なくない。」
 ベアトリーチェが言うには、いわゆる子どもの頃のお人形遊びなどは、本当に人形が意思を持って対話をし、自らの意思で動くことさえあるという。
 しかし、その依り代に宿らせる力は、無垢ゆえにとても弱い。人形が喋るわけがない、動くわけがない、というニンゲンの常識の毒がわずかでも入り込むと、たちどころにそれは、物言わぬただの人形に逆戻りする……。
【ベアト】「しかし、……そなたのその、さくたろうというぬいぐるみは違う。」
【真里亞】「うー! さくたろはぬいぐるみだけど、ぬいぐるみじゃないー!」
【さくたろ】『うりゅー! ライオンの子ー! が、が、……うりゅー!』
【真里亞】「さくたろはライオンの子だけど、まだ子どもだから、時々、がおーって言えないの。うりゅうりゅうりゅ♪」
【さくたろ】『うりゅうりゅうりゅー!』
 さくたろと、お茶の乗ったテーブルではしゃぎ合う真里亞を眺めながら、ベアトリーチェは感嘆のため息を漏らす。
【ベアト】「………何と言うことか。…さくたろうとやらは、その布地と綿の依り代を核に、完全に人間界に顕現している。自らの人格を持ち、召喚者と自在に対話をし、しかも自らの意思で動いている
 ……しかもさらに驚くべきは、それが異界の人物を名指しして呼び寄せたものではなく、真里亞がゼロの海から生み出したものという点だ。」
 真里亞はその後、自分の友達はさくたろうだけでなく、家に帰れば他にもたくさんいるとベアトに自慢した。他にも、同様のぬいぐるみや人形が、さくたろう同様、自らの意思で話せ、動けるというのだ。
 それは真里亞にとっては当然のこと。ぬいぐるみが自らの意思で話し、動き、友達になってくれるのは当然のことなのだ。……それを、当然のことと言ってのける真里亞に、ベアトリーチェは魔女として、畏怖に似た敬意すら覚えるのだった。
【ベアト】「…………真里亞。そなたのその力は紛れもなく、魔法である。」
【真里亞】「魔法なの……? 真里亞はまだ魔女見習いだから、魔法なんて使えないよ…?」
【ベアト】「いいや、魔法だ。………それを自覚して使えぬから未だ見習いなのであろうが、……それにしても大した魔力! そなたの友人、さくたろうの顕現こそが、その立派な証であるぞ。」
【真里亞】「顕現って…?」
【ベアト】「うむ。そなたの場合は、創造と呼んでも良いであろうな。……他人の手にあっては何の魂も持たぬ無機物が、そなたの魔法によって魂を吹き込まれている。
 しかも、それを強力な力で人間界に留めている。……これほどまでに魔法を否定する毒気に満たされた現代において、一個の生命体たりえるほどに顕現できる魔力は、妾とて容易なことではないわ。」
 魂のない存在なら、いくらでも生み出すことは難しくない。しかし、魂ある存在を生み出すのは、とても難しいこと。…ベアトはそう言い切る。
【真里亞】「………ベアトが言うのがよくわかんない。さくたろがすごいってこと…?」
【ベアト】「さくたろうとそなたが、共に素晴らしいということだ。……誇ってよい。…なるほど、金蔵のもっとも欲したものは、そなたに一番濃く宿っているらしい。」
【真里亞】「何でベアトにそんなに褒められるのかさっぱり。ね〜、さくたろ。」
【さくたろ】『うりゅ〜!』
【ベアト】「……真に驚嘆すべきは、ぬいぐるみに魂を宿したことだけではないのだ。それにより、自己の世界観まで変化させた。……そなたは無より有を生じる力が群を抜いている。
 ……1を100にすることは容易い。しかし、0から1を生じることは容易くはない。…そなたが一人前の魔女になったなら、妾と双璧どころか、妾とて一目置かざるを得ない大魔女に成長するであろう。
 原初の魔女、か。………そなたの将来が、妾にとっても楽しみだ。」
【真里亞】「うー! ベアトに魔女の才能あるって褒められた〜!」
【さくたろ】『良かったね真里亞! うりゅ、ベアト…、真里亞を褒めてくれて、ありがとう。』
【ベアト】「くっくっくっく! 礼には及ばぬぞ、さくたろう。その赤いマフラーは実に似合っているぞ。そして、そなたのような友人を生み出せる、そなたの主人の才能に嫉妬する。」
【さくたろ】『うりゅ〜! マフラー褒めてくれてありがとう。これ、真里亞にプレゼントしてもらったの。ボクのお気に入り。』
【ベアト】「まさに、そなた専用のマフラーになるために生まれてきたようなサイズであるな。……これは、妾も新しき友人に何かプレゼントを贈らねばなるまい。」
【真里亞】「うー? ベアトがさくたろにプレゼント……?」
【ベアト】「魔女の贈り物は魔力あるものと決まっておる。ならば、そなたの友人がいつまでもそなたの友人でいられるよう、そして、そなたともっと楽しく遊べるように。さくたろうに妾の魔力を贈ろう。それにより、さらに強く顕現することが出来るだろう。」
【真里亞】「うー? さくたろともっともっと楽しく遊べるようになるの…? どうやって?」
【さくたろ】『うりゅ……? 何だろ、真里亞…。それって怖いこと……?』
【真里亞】「大丈夫だよ。ベアトは怖いことなんて何もしないよー。ね、ベアトリーチェー!」
【ベアト】「うむ。必ず気に入ってもらえるはずだ。………さて、より強く顕現するには、より強いイメージが必要であるな。………さてさて、どうしたものか。うむむむむ…。」
 ベアトは、どうすればより喜んでもらえるか、腕を組んで思案する。
 するとそこへ、………もうひとりの魔女の姿が。ベアトの師匠、ワルギリアだった。
 ワルギリアはまさに大魔女。…真里亞が大魔女だと思っているベアトが、さらに大魔女と呼ぶのだから、大々魔女に違いない。ベアトの話によると、その魔法の力はベアトですら未だに足元にも及ばないという。
【ワルギリア】「おやおや。賑やかな声が聞こえてくると思ったら。楽しそうなお茶会ですこと…。」
【ベアト】「おお、お師匠様。ちょうどいいところへ。このライオンの子を見てほしい。真里亞の新しい友人だそうだ。」
【ワルギリア】「ほっほっほ。可愛らしいライオンさんですね。……ご挨拶は出来るのかしら? 初めまして、こんにちは…?」
【さくたろ】『う、うりゅー! さ、さくたろうと申します。』
 さくたろは、真里亞の膝に降り、テーブルの縁から顔を半分だけのぞかせて挨拶をする。…ベアトがお師匠と呼ぶほどの魔女なので、かなり緊張しているようだ。
【ワルギリア】「ほっほっほ。可愛らしい名前だこと。……上手な挨拶が出来たご褒美に、お菓子をあげましょうね。」
 ワルギリアは、手をひらひらさせてから、手の平を上に向け、空気を軽く掴み取るような仕草をする。そしてその握り拳をさくたろの前に差し出す。
 …………そして拳を開くと、そこには一粒だけパックされたタイプののど飴があった。
【さくたろ】『うりゅー?! 飴だよ、真里亞、すごいすごい…!!』
【真里亞】「うー! 良かったねさくたろ! ちゃんとお礼を言ってね。」
【さくたろ】『うりゅ。飴をどうもありがとうございます。…ぺこり。』
 ワルギリアは、大々魔女であるにもかかわらず、ぬいぐるみのさくたろうに対しても上品に挨拶を返して見せるのだった。
【ベアト】「しかしお師匠様ァ、のど飴とはまぁたババ臭い…! せめてイチゴミルクのキャンディーとか出ないのかよ〜。」
【ワルギリア】「これはひどい。もうあなたには飴をあげませんよ?」
【ベアト】「くっひゃっひゃっひゃ、悪ィ悪ィ。………さて、真里亞。そなたの魔導書を出すがよい。もちろん筆記用具もな。」
【真里亞】「うー? うん、出すよ。何か書くの?」
【ワルギリア】「……おや、何を始めるのですか?」
【ベアト】「お師匠様に習った魔法を使うのだ。………依り代に異界の住人を顕現させる魔法。あれの応用で、この真里亞の友人を顕現させる力を、より強めることが出来るのではないかと思ってな。……それを、真里亞と真里亞の友人への贈り物としたい。」
【ワルギリア】「なるほど。…すでに顕現している存在なら、そう難しいことではないでしょう。それは素敵な贈り物になりそうですね。では、私もささやかですが協力しましょう。」
【ベアト】「お師匠様が立会人にサインしてくれる魔法なら、心強い…! 喜べ真里亞。これは素晴らしい贈り物になるぞ…!」
【さくたろ】『うりゅ…? 何が始まるの…? 怖くない?怖くない…?』
【真里亞】「わかんない。でも怖くないと思う。……何だろうね、楽しみだね。」
 ベアトは真里亞の手提げから、魔導書を借りると、バラバラバラッとページを華麗にめくる。……そして様々な魔法陣が記されたページの途中に空きページを見つけ、そこを押し広げる。そして、ニヤリと笑ってさくたろうを凝視してから、一気にペンを走らせた。
 ……それは、魔女が高位世界に対して記す宣言書のようなもの。ベアトリーチェが記し、ワルギリアが立会人にサインすることで効力を発揮する、魔法。最初は何を書いているのか理解できなかった真里亞も、途中からその書面の素晴らしき魔力を理解し、瞳を輝かせ始める…。
【さくたろ】『うりゅ?! うりゅ?! どうしたの真里亞、何を描いてるの?! うりゅうりゅ?!』
 さくたろうは膝の上なので、テーブルの上で何が書かれているのかわからないのだ。……もっとも見たところで、さくたろうにはわからないだろうが。
【真里亞】「すごいよさくたろ!! 待ってて、もうすぐだよ、もうすぐだよ! ベアトすごいベアトすごい!!」
【ワルギリア】「………力ある書面の筆記において、この子の才能は素晴らしい。あなたになら魔界の書記官すら務まりそうですよ。」
【ベアト】「これでどうか…! まずまずであろう…!」
 ものすごい集中力で書かれていたそれが完成し、ベアトは書面を遠目に改めて見直す。……まんざらでもない出来らしい。そしてそれを覗き込んだ真里亞も感嘆の声をあげる。
【真里亞】「……すごいよベアト!! 可愛いー!! うーうーうー!!」
【ベアト】「黄金の魔女、ベアトリーチェの名において、マリアの子、さくたろうをここに認める。………お師匠様、立会人にサインを頼むぜ!」
【ワルギリア】「はいはい。……我が名において、この宣誓に立ち会い認めるものなり。………出来ましたよ。」
 ワルギリアがサインし、その宣言書は完成した。
 それは、さくたろうが人間界に確かに顕現することを、上位世界の存在に宣言する力ある書面。真里亞より生まれたさくたろうは、ベアトリーチェとワルギリアの2人の魔女に推薦され、たった今、上位世界にその存在を認められたのだ。
 ……それこそが、大いなる顕現の魔法。ベアトの話によると、ワルギリアがこの場にいてくれたのはとても僥倖なことらしい。
 上位世界への宣言書は、サインしてくれた魔女の人数や格によって、宿る力がまったく変わるからだ。特にワルギリアは、上位世界に友人がとても多いので、彼女のサインは宣言書において、ベアトのそれとは比べ物にならないほどの力を持つ。
【ベアト】「この宣言書により、汝、さくたろうを自我ある一個人と認める。そしてその存在をマリアージュ・ソルシエールの条約に従い、友人として迎える。今よりさくたろうは、我ら共通の友人だ。
 それに相応しき姿を、贈り物としてそなたに贈ろう。受け取るが良い。」
 その宣言書の書かれたページを開いたまま、向きを変えて真里亞に手渡す。真里亞はそれを膝の上のさくたろうに見せる。さくたろうがその宣言書を認めた時、…………布地と綿で出来た体に、熱くて眩しい何かが宿り始めるのを感じた。
 生まれて初めて経験するそれに戸惑い、おろおろする間にもその力は強まり、……やがて眩しい光が完全に彼を飲み込んだ…。
【さくたろ】『うりゅ……? うりゅうりゅうりゅうりゅ……!』
 そしてその光が消え去った時。…………そこには、真里亞の友人さくたろうが、新しい姿を持って、存在していた
【真里亞】「うーうーうー! 可愛いよ、さくたろ! すっごい可愛いよ!」
【さくたろ】『うりゅ…? うりゅー…。本当に似合ってる? 恥ずかしくない……?』
【ワルギリア】「ほっほっほっほ。とても可愛らしい姿ですよ、さくたろうちゃん。」
【ベアト】「マフラーがチャームポイントだと思ってな。あとは耳だ! 獣耳はいいぞォ、実に可愛い! あとで妾にもかじらせよ。くっくっく!」
【真里亞】「ありがとう、ベアトリーチェー!! 素敵なプレゼントを本当にありがとう!!」
【ベアト】「礼には及ばぬ。そなたの素晴らしき魔法と友人に敬意を表したまでよ。………そして、この域にまで達したそなたは、もはや見習いをいつ卒業してもおかしくない。今日より、さらに新しく楽しい魔法を伝授してやろう。……これより、原初の魔女見習いのマリアと名乗るが良い。」
【真里亞】「原初の魔女って…?」
【ベアト】「うむ。造物主の道を求める魔女の称号よ。今は身の回りの小物に魔力を吹き込む力しか持たぬ、エンチャンター(付与魔術師)でしかない。……しかし千年の修行を経たならば、その胸の内より魔法大系はおろか、銀河を生み出すことも夢ではあるまい。」
【ワルギリア】「……原初の魔女の才能はとても稀少。幼き日には誰もが持つのに、誰も持ち続けることが出来ない。……この称号は、あなたが穢れなき心を失わなかったことの証でもありますね。」
【真里亞】「うー!! 原初の魔女、すごい! なる! 真里亞、原初の魔女見習いー!」
【さくたろ】「真里亞、すごいねすごいね…! 原初の魔女、すごいすごい、うりゅー!」
【ベアト】「やがては一人前の原初の魔女、マリア卿を名乗ることになろう。……さくたろうだけでなく、そろそろそなたも、その格に相応しい身なりをしても良い頃であろうな。………それ。見習いとはいえ、魔女の名を語るに相応しき服装を与えよう。」
 ベアトがケーンである煙管を振るうと、どこからともなく現れたたくさんの黄金の蝶たちが真里亞に群がり、素敵なドレスを与えた。
 それは確かに、原初の魔女をやがて名乗る彼女に相応しい、可愛らしさと荘厳さを併せ持ったものだった…。
【真里亞】「すごい…!! すごいすごいすごいすごい!! 可愛い可愛い! このお洋服、ママにも見せたい…!! だめ?」
【ベアト】「魔女の正装は濫りに見せてはならぬぞ。もったいぶった方が価値が出るというもの。くっくっく!」
 そして、大魔女と魔女と魔女見習いと新しき友人さくたろうは、賑やかにお茶を楽しむのだった……。
【真里亞】「………ね? 私はこんなにも、幸せだよ。そしてこんなにも楽しい。」
【縁寿】「………………………。」
【真里亞】「幸せになることを、どうか恐れないで。幸せになるというのは、今の不幸を受け容れるという意味じゃないの。今の不幸の中に、幸せを新しく生み出すということなの。それが、原初の魔法。」
【縁寿】「……私は、今の自分の世界を、認めたくなかった。……こんなにも孤独で辛い世界を肯定するのが許せなかった。…だから、真里亞お姉ちゃんの世界に惹かれながらも、……最後の一線で、受け容れられなかった。」
【真里亞】「…………教えてあげる。真里亞の、原初の魔法を。いいえ、教えたことがあったはず。そしてあなたにも使えたはずなんだよ。忘れちゃった……?」
【縁寿】「………………………。」
【真里亞】「縁寿だって、マリアージュ・ソルシエールに名を連ねる、魔女の見習いだったでしょう?」
【縁寿】「…………えぇ。そうだったわね。………マリアージュ・ソルシエール、…懐かしいわね。……私も、そこに名を連ねていることがあったっけ。」
 ゲーム盤のメタ世界からさらにメタ視演出が発生し、真里亞編のメタ世界に飛ぶというトリッキーな場面転換。気をつけて読んでいないと構造を見失ってしまう。

マリアージュ・ソルシエール

レストラン
【大月】「えぇ、あれは忘れもしない。1987年4月のことです。私は友人から、ある奇妙な依頼を受けました。……とある大富豪の遺品である蔵書が大量に競売に掛けられていて、その一部に、民俗学的にも考古学的にも、あるいはオカルト的な意味でも極めて価値の高いものが含まれていると思われる、その価値を内密に見て欲しいというのです。」
【縁寿】「………………87年。六軒島での事件の半年後。」
【大月】「左様です。それらの蔵書は、六軒島での難を逃れたものと説明されていました。それを、島の所有者である右代宮絵羽氏が競売に出したというのです。」
 そこは高級なレストランのようだった。奥まって離れた静かな席に、初老の男と縁寿は向かい合って座っていた。天草の姿はレストランの入り口にある。須磨寺家の追っ手が来ないか見張っているのだろう。
 縁寿の向かいの、学識ありそうな男は、丁寧な口調ながら熱っぽく語っていた。手元の料理には一切手をつけておらず、どれほどの熱弁を奮っているか想像できる。
 彼は某大学の教授で、特に西洋の民俗学の権威として知られていた。しかし、それは彼のライフワークの中で、もっとも外面の良いものに過ぎない。
 彼の本当のライフワークは、神秘学、西洋魔法、錬金術、それら全てを内包するオカルト、そして悪魔学。つまり、金蔵の研究内容をもっとも理解できる立場にある人間のひとりであった…。
【大月】「まず、蔵書を鑑定してわかったことは、右代宮絵羽氏には民俗学的な教養はまったくなく、そしてその蔵書の本来の持ち主である右代宮金蔵氏は、日本で五指に入る悪魔学の権威であったことは、間違いないということです。」
 1987年4月。都内の大手古物商が、歴史的価値が高いと思われる大量の古文書を入手する。これは、右代宮絵羽が競売に掛けるよう依頼して預けたものであった。
 当時、絵羽は唯一の生き残りとして右代宮家の家督を継承し、全ての財産を独占したかに思われていた。しかし、当時は事故から半年しか経ておらず、危難失踪が成立していなかった。
 その為、絵羽は家族の生命保険さえ降りず、経済的にかなり困窮していたと思われる。絵羽は金目のものは何でも売り払おうとしたらしく、彼女が難を逃れた時に所在していた九羽鳥庵に収められていた蔵書も、この対象となったのだ。
 そして、後に「右代宮蔵書」と呼ばれるそれら古文書は、古物商によって鑑定のために集められた権威たちの度肝を抜いた。
【大月】「少なくとも神秘学の見地から言えば、その発見が世界に与えた衝撃は死海文書発見にも匹敵するものでした。
 『右代宮蔵書』には、なんと千年以上にも亘る間、その存在だけが知られているにもかかわらず、発見されていなかった数々の極めて重要な文献さえ含まれていたからです。」
 錬金術に代表されるような、いわゆる夢のあるオカルトは、常に好事家を魅了して止まない。未だに全世界には、未公表の歴史価値ある「魔法書」が大量に残されていて、オカルトを愛する大富豪たちが秘密に所持しているのではないかと囁かれているのである。
 好事家の中でもとりわけ人気の高い、レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿などがその最たるものと言われる。手稿は約五千枚が現存し、一万枚以上が紛失していると言われるが、この紛失分の数割が、特定の大富豪や好事家によって独占されている可能性があると一部の研究者は見ている。
 その為、今もなお、求めて止まない好事家が、死蔵されて眠っている未公開手稿を求め、金に糸目をつけずに探し回っているという…。
 右代宮金蔵もまた、そんな類の好事家であったことは、疑いようもないだろう。金蔵がどのようにしてそれらを収集したかはわかっていないが、その莫大な富を湯水のように使い、同じ趣味を持つ同士の大富豪から買い取ったことは間違いあるまい。
 そんな、好事家たちが死蔵して独占欲を満たしたくなるほどに価値ある蔵書が20世紀末に大量に発見、公開されたことは、全世界に大きな衝撃を与えた…。
【大月】「この一件により、Rokkenjimaの名は全世界に知れ渡ることになります。そして同時に、六軒島の事故によって、未発見のさらに価値ある蔵書が大量に失われた可能性が高いことも、全世界に衝撃を与えました。
 …これにより、六軒島と右代宮蔵書の名は、我々にとって生涯忘れ得ないものとなったのです。」
 ……我々にとって。その我々とはつまり、金蔵と同じ趣味のオカルト界隈のことだろう。この一件により、六軒島の名は、オカルトの世界で重要な意味を持っていくことになる。
 六軒島の事故は、確かに大きく報道されたが国際的なものではなかった。しかし、この一件は世界を駆け巡り、六軒島のイメージを、伊豆諸島の小さな島から、謎と疑惑とミステリーとオカルトの入り混じった悪魔的な島へと塗り替えていった。
 つまり、絵羽によって金蔵の蔵書が世間に流出されるまでは、六軒島は、誰の記憶にも留まらない無名の島に過ぎず、……そこは断じて、魔女の島ではなかったのである。しかし、右代宮蔵書が世界的に知れ渡り、六軒島のイメージは一気にオカルト的になる。
【大月】「そして、そこへ起こるのが例のメッセージボトル事件です。これがあの島を、魔女の島に変えた。伊豆諸島の無名の小島が、オカルトの島へ、そして謎の魔女、ベアトリーチェの島へと変遷していったのです。
 右代宮蔵書とメッセージボトル、このどちらが欠けても、六軒島魔女伝説は成り立たなかったと言えます。」
【縁寿】「……メッセージボトル。」
【大月】「はい。空の瓶に手紙を封印し海に投じるという、不特定対象への通信方法です。
 無人島からSOSを発信する、というのが有名ですが、海外の有名推理小説の影響で、自らの死後に真実を告白するという、時間差的な遺書としても知られるようになりました。六軒島メッセージボトル事件は、まさにこの後者だったのです。」
【縁寿】「……近くの島の漁師が拾っていた、というやつですね?」
【大月】「左様です。式根島の若い漁師が、手紙入りのワインボトルを拾っていたことがわかったのです。この若い漁師は興味本位からそれをたまたま保管していました。それが、右代宮蔵書で六軒島が世界的注目を浴びた為、公表したというのです。」
【縁寿】「その漁師による捏造の可能性は?」
【大月】「もちろんその可能性も否定できませんでした。ワインボトル内のノート片には、右代宮家のとある人物の署名がされていました。右代宮真里亞という少女です。しかし、彼女の遺品の肉筆から、別人の筆跡であることが確認されました。」
【縁寿】「………別人の筆跡……?」
【大月】「左様です。少なくとも、少女より達筆で年齢のある人物によって書かれたことは疑いようがないでしょう。彼女の名を騙った、何者かが執筆した可能性が極めて高かったのです。よって、この時点ではノート片の内容の信憑性は薄いと考えられました。」
 ところが。後に、同様のメッセージボトルが、事故当日に警察による遺留品捜索で周辺海域から回収されていたことが判明し、センセーションを巻き起こす。
【縁寿】「警察は現場の状況とボトルの封印状況から、捏造の可能性は低く、事故直前の数日以内に投棄したものと判断したようです。 また双方の筆跡は一致しました。これにより、漁師の発見したノート片の信憑性が増すこととなりました。
 メッセージボトルの内容については、週刊誌などが繰り返し報道しているようですが、説明がいりますかな?」
【大月】「……いいえ。一応、知っていますので。」
 2つのワインボトルの中には、ノート片が何枚もぎっしり詰められていた。それは、右代宮真里亞を名乗る本人以外の何者かによる、事故前日から当日を日記風に記した膨大な手記だった。
 そしてこの内容こそが、「魔女伝説連続殺人事件」、そして「黄金の魔女ベアトリーチェの謎」の始まりだったのである。
【大月】「この奇妙な日記風手記には、台風で島に釘付けにされた右代宮家の親族たちが、魔女復活の儀式に巻き込まれ、次々に不可解な方法で殺されていく様子が記されていました。
 そして最後に黄金の魔女ベアトリーチェが蘇り、全てを黄金郷に飲み込む。……まるで、それこそが当日の全容であるかのように記されていました。
 また、当時の島の状況についても非常に詳しく描写されており、右代宮家に勤務したことがある元の使用人たちは、間違いなく内部に詳しい人間が書いたに違いないと証言しました。」
【縁寿】「……その、おかしな幻想小説と右代宮蔵書以降のオカルトブーム、そして、結局は真相は闇の中という3つが合わさり、六軒島の魔女伝説を生み出したと…?」
【大月】「左様です。すでに10年以上が経過した事件ですが、未だに世界のオカルトマニアの関心を集めています。
 いや、むしろ時間を経て、ますますに神格化されたと言っていい。上陸禁止になっている六軒島に、密かに上陸しようというマニアも未だに多いとか。……未だ未発見のメッセージボトルがあるのではないか。そしてあの日、あの島で本当は何があったのか。未だに議論は尽きませんとも。」
 男はそこまでを一気に捲くし立ててから、ようやく思い出したように水を一口飲む。……ポタージュは冷めているが、男の食欲はすでに吹き飛んでいるようだった。
【縁寿】「……確か、漁師のノート片と、警察のノート片で、内容がまったく違うと聞きましたが。」
【大月】「左様です。このせいで、六軒島ミステリーはさらに面白みが増したのです。2つのボトルの中身は、どちらも事故前日から当日までを記した日記風の手記です。しかし、その内容は、ともに前日から当日を記した内容であり、にもかかわらず、内容はまったく異なったのです。
 まるで、どちらかが真実で、どちらかが虚偽のように。あるいは両方とも虚偽なのかもしれない。…しかし、始まりと終わりだけは一致するのです。始まりは、親族たち18人は台風で島に閉じ込められた。そして終わりは、全員が死に、黄金の魔女が蘇り、全ては黄金郷に飲み込まれる。」
 2つのメッセージボトルの中身は、共に事故前日から当日を記したものだった。しかし、その内容がまったく異なったのである。
 2つの日記は、どちらも魔女の碑文に沿った連続殺人を描いているのだが、犠牲者の順番も死に方も、“二日間の物語”さえも違う。しかし、どちらも最後は全員が死亡し、魔女が復活するという同じ顛末を描いている。
【大月】「あの島で何があったのか、唯一の生存者である右代宮絵羽氏が沈黙していた以上、あの2日間の出来事は全てが闇の中です。
 この2つの日記は、その闇を埋める仮説を、こともあろうか、2つも提示して見せたのです。どちらの日記でも、二日間を説明できる。しかし、どちらが正しいのか、あるいは正しいことが含まれているのかさえわからないのです。」
 ——シュレディンガーの、猫箱。否定されなければ、虚実すらも、真実。そのノート片はマスコミによって、もちろん絵羽にも見せられたが、彼女が沈黙を破ることはついになかった……。
【縁寿】「誰が、何のためにメッセージボトルを?」
【大月】「事件10周年特集を組んだ雑誌が、以前、大々的に取り上げたでしょう。あの仮説が、今日ではもっとも支持を集めているようです。しかし面白みには欠ける。……あの島であの日、何が起こったのか。それを考えるのが、ウィッチハントの醍醐味なのですな。」
【縁寿】「ウィッチハント…?」
【大月】「あぁ、六軒島ウィッチハントとは、この事件の真相をオカルトの側面から説明しようと試みるマニアの集いのことです。右代宮蔵書から謎の2日間、そして黄金の魔女の伝説など、六軒島にかかわる謎は今でもマニアの間で盛んに議論されているのです。
 10周年の時には、ニューヨークで国際コンベンションも開かれました。私も日本の代表として参加してきましてね! 海外の熱心なウィッチハンターと様々な交流をしてきましたよ。海外では魔女はとても人気のあるカテゴリーでしてね。参加者の年齢幅も下は小学生から、上は著名な文化人まで実に幅広い! 日本でも近年ようやく、」
 ……もう説明はいらないだろうが、彼は、日本でもっとも有名な六軒島ウィッチハンターのひとりだ。あとは聞いてもないのに、興奮しながら話を勝手に続ける。私は、ポタージュに張った薄膜をスプーンでぐちゃぐちゃにしながら、肩を竦めてため息を漏らすのだった。
 ……やはり、メッセージボトルのことを調べても時間の無駄だったろうか。
 いや、ひとつ収穫があったとすれば、真里亞お姉ちゃんが記したとされるそれは、彼女の名を騙る別の人物が書いたらしいこと。そして、オカルトな物語を勝手に書き上げ、それが真相だと言わんばかりに瓶詰めにして海に放り込んだこと。
 …疑問はある。なぜ、わざわざ大量の文章を記す手間を掛けてまで、そのような怪文書を用意したのか。メッセージボトルでは、それが確実に人の手に渡る保証がない。
 下手をすれば、海に沈んで誰の目にもつかないかもしれない。あるいは、誰かが拾ったとしても、気にも留めずに捨ててしまうことだってあるかもしれない。
 メッセージボトルの中身は「日記風の手記」。誤解が多いポイントだが、我々読者が読んでいるEPのような内容がそのまま書かれているというわけではない。
 もちろん、主人公も戦人ではない。あくまでも、EP1やEP2とプロットが似ている別物であると推測される。
 ……このような不確かな方法で、なぜ真相の告白を海に託したのか。そして、なぜ異なる物語を複数、書き上げたのか。もしもメッセージボトルが1つだったなら、それこそが真相だと言い切ることも、乱暴であるが不可能ではないだろう。
 しかし、2つあるせいで、そのどちらもが疑わしくなってしまっている。謎の二日間を、魔女の仕業にしたい何者かの仕組んだこととするならば、まさに蛇足なのだ。
 そして、2つ存在するということは、未発見の3つ目、あるいはそれ以上がある可能性すら示唆する。……つまり、2つの内容をますますに鵜呑みに出来なくしているわけだ。
 しかし、にもかかわらず、2つの内容は魔女を語る物語という点で一致する。つまりは、そここそが、筆者の伝えたいことだというのだろうか………? ……魔女幻想を生み出したい何者かの、愉快犯的犯行としか思えない。
 しかし、絵羽伯母さんを除く17人もの人命が失われ、莫大な遺産と、あるいは10tもの黄金さえもが闇で動いたのだ。その結末の告白が、こんな魔女の幻想だなんて、どうしても腑に落ちない。
 週刊誌の推理を待たず、メッセージボトルが本当に日記であるかは大いに疑わしい。……何しろ、文章量が膨大だ。実際に連続殺人の渦中にあった人物が、冷静にそれらを記せたとは考え難い。
 だとすると、この日記は、事故前日までにゆっくり時間を掛けて執筆されたという方が現実的だろう。だとしたら、………六軒島の全ては、長い時間を掛けて準備された「計画的犯行」ということになるのだろうか…?
 …絵羽伯母さんが、何も語らずにこの世を去ったことが、恨めしい。
 死の床で彼女は確かに言った。私に真相を語らないことが、最大の嫌がらせである旨、確かに言った。
 ……あぁ、今になって痛感する。絵羽伯母さんが私にしたあらゆる嫌がらせの中で、これが最後にして最たるものだったろう。
 ……………しかし、こう考えると、絵羽伯母さんが本当に犯人なのかは、疑わしい。もちろん、メッセージボトルの筆跡が絵羽伯母さんと違うから、などというわけではない。……発見された2つの物語は、どちらも絵羽伯母さんが犠牲者の中に含まれているからだ。
 もし、この日記の筆者が犯人であるならば。……絵羽伯母さんもまた、殺される標的のひとりだったのではないか。それが、どこかで狂い、絵羽伯母さんは生き残った。
 ………私は絵羽伯母さんを憎悪していたから、彼女こそが犯人に違いないと信じてきた。しかし、メッセージボトルの存在は、………彼女よりさらに深遠の、未知なる人物こそが黒幕なのではないかと疑わせるのだ…。
 私は時計を見る。聞きたいことは十分に聞いた。もう潮時だ。
 まだ熱弁を振るっている彼に、これでお開きにしたい旨を申し出る。男も、自分が興奮してしゃべり過ぎたことは自覚しているようだったので、あっさりとそれを受け入れてくれた。
【縁寿】「今日は本当にありがとうございました。貴重なお話が聞けたと思います。」
【大月】「……いえいえ。ウィッチハントの新しい仲間に、若いお嬢さんをお迎えできて、本当に楽しかったです。今日は河岸を変えてしまったのでお見せできなかった、貴重な資料がいくつもあります。次の機会の時には、ぜひそれをお見せしましょう。」
【縁寿】「ありがとう、先生。…………最後に、聞いてもいいですか?」
【大月】「はい、何でしょうか?」
【縁寿】「先生は、どうして魔女に、いえ、神秘学や悪魔学に興味を?」
【大月】「それを言われるとお恥ずかしい。……不思議な力が使えたなら、意地悪なガキ大将にも負けないのに、という子どもの頃の妄想が、そのままライフワークになってしまっただけです。未知なる力への憧れというプリミティブな願望は、今も昔も普遍的ですからな。」
【縁寿】「先生は、なれるものなら、魔女になりたいですか? 思うがままに魔法を使ってみたいという夢を、今も?」
【大月】「もちろんですとも。この歳になり、そういうものが実在しないと理屈ではわかっていても、それでもなお、空を飛んでみたい、鉄屑を黄金に変えてみたいという子どものような夢は、忘れられずにいます。……ははは、学生たちにはどうか内密に。」
【縁寿】「………私が、実は魔女だと言ったら。お信じになります?」
【大月】「はっはっはっは。女は魔女である、というのが、私のささやかな女性経験からの持論です。」
 縁寿は、女性経験と無縁そうな、学問一筋だったに違いない老教授をふっと笑う。
【縁寿】「そうそう。最後にもうひとつだけ質問を。……先生は、メッセージボトルの実物をご覧になったことは?」
【大月】「ありますとも。」
【縁寿】「では、その筆跡についてもお詳しいですか?」
【大月】「もちろん。その道の専門家ではありませんが、メッセージボトルの筆跡に関してだけは、日本でもっとも詳しいと自負していますとも。」
 縁寿はそこで、机の上にずしりと本を置く。
【大月】「…………これは? 初めて見るものです。」
 六軒島に関する全ての文献を知り尽くすと自負する彼は、初めて見る装丁に目を白黒させる…。
 縁寿はそれに構わず、無言でページをめくり、その内の1ページを開いて示した。そのページには、“親愛なる見習い魔女へ”から始まる手書きの文書が記されていた。……そして末尾には、カタカナでベアトリーチェとのサインが。
【大月】「そっ、それは…………?」
 一目見た瞬間。男の顔面は蒼白になる。……聞かずとも、もう答えはわかっていたが、縁寿は口に出して問う。
【縁寿】「このページに記されている文章の筆跡は、メッセージボトルの筆跡と一致しますか…?」
【大月】「い、いやその、……も、持ち帰って詳しく調べないことには…。…し、失礼だが、この本は一体?! どこで?!」
 男は手を伸ばすが、縁寿はひょいとそれを引っ込める。…汚い手で触るなとでも言う風に。
【縁寿】「ありがとう。その反応だけで結構です。今日はありがとうございました。……これ、お約束の謝礼です。」
 縁寿は、真里亞の日記を抱え立ち上がると、テーブルの上に帯封のされた壱万円札の束をひとつ、無造作に放り出した。
 背を向けて立ち去ろうとする縁寿に、男はすがり付く様に声を張り上げる。しかし縁寿が足を止めることはない。
【大月】「お、お願いだ…!! その本は一体ッ?! 謝礼はいらない、その本を見せてくれ…!!」
【縁寿】「……私とあなたはウィッチハントの同士だけど、求める深さが違うみたい。あなたが楽しんでるのは、猫箱の外側。そして私が知りたいのは猫箱の内側。……そしてこの一冊は、その猫箱を開く鍵ね。あなたには過ぎてるわ。じゃね。グッバイ、ジェントルメン。ハバナイスディ。」
【大月】「ま、待ってくれ…!! 須磨寺さん…!!!」
 その声は届かない。もう、天草と合流し、車に乗り込んでいた……。
天草の車
【天草】「収穫はありましたか?」
【縁寿】「……最後の最後にね。やっぱりそうだった。…メッセージボトルを記したのは、ベアトリーチェ本人だった。」
【天草】「そいつぁクールだ。魔女は実在するで決着で?」
【縁寿】「さぁね。………寝ていい? あのお喋り教授、きっと講義では自分の世界に入っちゃって、寝ちゃう子、続出だと思うわ。」
【天草】「どうぞどうぞ、お休みを。」
【縁寿】「………しかし、うまく行くもんね。あいつ、私のこと、須磨寺だと最後まで信じてたわ。」
 須磨寺家は、縁寿がコンタクトを取りそうな人物に予め網を張っていた。もしも右代宮縁寿が現れたら身柄を確保してほしい、謝礼を払うと。それを先読みして、掻っ攫った
 自分が須磨寺だと名乗り、自分の部下が待ち伏せるからとまんまと騙し、男を連れ出したのだ。
 だから、須磨寺家の追っ手たちが教授宅に出向いた時には、すでに誰もいなかった…。
大月の家前
「家人の話では、午前中に須磨寺を名乗る若い男女が訪れ、教授を連れ出したきりまだ帰宅しないそうです。……裏をかかれた可能性が。」
【霞】「………………いけない子ねぇ、縁寿ちゃんは。……そういう悪知恵、姉さんの血なのかしらねぇ。……あんなに名乗るのは嫌だと言ってた須磨寺の名を、気安く名乗ってくれちゃうなんて…。
 ……………ほっほっほっほっほ。…その内、教授もお戻りになるだろうさ。そしたら、粗茶でも振舞わないとね…。」
「…は、…はっ。了解しました。」
【霞】「………………私を手玉に取ったつもりかしら。やんちゃな子なんだから。…………くすくすくす、……ほっほっほほほほほほほ!!」
 霞は、般若のような形相をしながら踵を乱暴に踏み鳴らす。
ホテル
 教えてあげる。真里亞の、原初の魔法を。
 いいえ、教えたことがあったはず。そしてあなたにも使えたはずなんだよ。忘れちゃった……? 縁寿だって、マリアージュ・ソルシエールに名を連ねる、魔女の見習いでしょう……?
【縁寿】「………私も、魔女に、加えてもらったんだっけ。」
 真里亞お姉ちゃんの日記を閉じ、ごろりと高級感溢れるベッドに身を横たえる。車中でずいぶんと深く眠ってしまった為、普段よりも眠気が訪れるのが遅く、それを待とうと、ずっと日記を読んでいたのだ。
 ここは都内の超高級ホテル。…著名人や富豪が使用することも多いような高級ホテルは、彼らの事情に配慮し、非常に守秘義務が強い。その為、追っ手から逃亡している縁寿にとってはとても都合が良かった。
 逃亡者は隠れるように安宿に泊まる、というのは庶民の考えだ。……右代宮家の財産の全てを持つ縁寿にとっては、実に快適な逃亡生活だった。
 もちろん、護衛とはいえ、男の天草は別室。スイートルームの寝室を縁寿が使い、居間のソファーに天草は横になっている。…天草曰く、今の自分のベッドより、ここのソファーの方が快適だとか。気の毒な話だ。
 時計を見ると、……深夜の2時を間近にしている。
 まだ眠くならない。…………はぁ、っとため息を漏らす。その時、風もないのに、真里亞お姉ちゃんの日記が、ぱらりと捲れた気がした。
 ……そして、お姉ちゃんが姿を現す。その姿はもう、私が知るいつもの姿ではない。…ベアトリーチェに、魔女としての格を認められて与えられたドレスを身に纏っている。
【真里亞】「………もう寝ないと、明日が辛いよ?」
【縁寿】「私も、魔女なら。……魔法が使えるのよね。」
【真里亞】「…うん。使えるよ。教えてあげたでしょ? 使い方。……昔は使えたはずだよ。」
【縁寿】「……………覚えてる。……使いたくなった。」
【真里亞】「寂しくなった…?」
【縁寿】「………………別に。……毎日、枕が違うくらいのことで辛くなんてならないわ。」
【真里亞】「………魔法の最初の一歩は、寂しいからとか、退屈だからとか、そのくらいのささやかな理由でいいの。」
【縁寿】「眠くなるまでの暇潰しだとしても?」
【真里亞】「うん。縁寿がもう一度魔法のことを思い出してくれて、真里亞は嬉しい。」
 …………………………。
 ……魔法を使うのは、ずいぶん久し振り。一時、真里亞お姉ちゃんの手解きで、……その一端に触れ、扉をわずかに開けたことがある。だから、……まだあの感覚は覚えているはず。
【真里亞】「……今の縁寿は、かなり魔法の力は衰えてる。…基本に忠実じゃないと、難しいよ?」
【縁寿】「うん。……………四方を確認。静かな空間を確保。」
【真里亞】「天草さんは?」
【縁寿】「…………………。…………寝てるわ。」
 居間の扉を細く開けると、ソファーで毛布の芋虫が、ごろりと寝返りを打つのが見えた。
【真里亞】「……今の縁寿の弱い魔力では、反魔法力の影響を受け過ぎる。……人の姿だけじゃない。声も音も気配さえも、縁寿の魔法の邪魔をする。……それらを完璧に絶って。古代魔術師たちが、アトリエを閉ざして孤独を守ったように。」
【縁寿】「覚えてるわ。……ニンゲンの存在自体が、魔法を妨げる。…ゆえに、人に魔法を見せるということそのものが、とても高位な魔女の証だったわね…。」
 静かな、自分だけの空間を得る。……魔法を使うための場の準備は、これで充分だろう。
【真里亞】「………次に、依り代。…今の縁寿には自転車の補助輪、…いえ、チェーンくらい大事。」
【縁寿】「………………………。………これは、…………当然、無理よね…。」
 縁寿は、自分の頭を撫でる。…そこには、ピンクの珠のついたヘアアクセサリーがあった。縁寿のセンスにしては、少々幼過ぎるように感じるそれを、彼女は一日たりとも外したことはない。
【真里亞】「………………うん。………今の縁寿にはとても無理。…あの日から、一日も休むことなく修行していたなら、あるいは今頃は、呼び出すことが出来たかもしれないね。」
【縁寿】「……………………。今から修行したら、どのくらい掛かるの?」
【真里亞】「………魔女の修行は、幼き日の1年が、老いの10年と同じ価値があると言われてる。相当の覚悟がいるよ。」
【縁寿】「それこそ、右代宮金蔵くらいに? ……………ピアノもバイオリンも魔法も、幼い頃からの英才教育が大事なのね。」
【真里亞】「今の縁寿は、初めて魔法を使えた時よりも、その力が落ちている。…無理をしないで、基本に忠実に。」
 私は未練がましくもう一度、頭のそれを撫でてから、諦める。そして、ごそごそとナップザックの中身を漁る。…何か適当な、依り代になりそうなものはないか。
【縁寿】「…………これなら、依り代にはぴったりじゃない?」
【真里亞】「懐かしい。……うん。それならば、今の縁寿でも召喚できると思うよ。…それには今、主がいない。縁寿が新しい主になるのも可能なはず。」
 依り代になりそうなものの中で、もっとも強い魔力を有するだろうと思うそれを、ゴトリと、ベッド脇のサイドテーブルに置く。
 それは、……オカルト的な装飾を施された、物騒な杭状の武器。“煉獄の七杭”と呼ばれる、魔女が生贄を捧げるための杭だ。
 警察は遺留品捜索の際、大量のガラクタを収集。それらは律儀にも捜査終了後、右代宮家に返却された。……その中に、真里亞の日記に記されていた挿絵で見たことのあるものを見つけ、持ち帰ったのだ。
【真里亞】「………煉獄の七杭は、元々、7本で一揃いだった。……気の毒にね。今はもう、彼女1本だけ。」
 お姉ちゃんは寂しそうに微笑む…。
 私はナップザックから、もう一冊の本を取り出す。……これまた古めかしい、見るからにオカルト的な本。
 しかしこれも中身は無地のもの。真里亞お姉ちゃんの凝ったノートの内の一冊だ。こちらは日記ではない。……彼女が魔女として記した、魔導書。
 煉獄の七杭は、ベアトリーチェの家具。彼女が生み出し、彼女のためだけに使役される。
 でも、ベアトリーチェは、マリアージュ・ソルシエールの魔女でもあるから、同盟の魔女であるマリアにも使役できる。その為、真里亞お姉ちゃんの魔導書に、煉獄の七杭たちの召喚方法や、その取り扱いなどが事細かに記されているのだ…。
 そして。…同じ同盟に名を連ねる私にも、使役は許されているのだ。
【縁寿】「………この杭は、…………七姉妹の誰?」
【真里亞】「真里亞の魔導書に、彼女らの特徴がよく記されてるよ。…七杭の姉妹は、名前を間違えられることをとても嫌う。召喚する前に、よく彼女らの名前を思い出して。」
 煉獄の七杭のことを記した膨大なページ。…七人の姉妹のことを事細かに記述してある。
 ……そう。ずいぶん昔には、このページのことをほとんど丸暗記していたような気がする。読めば読むほどに、思い出されていく…。
 魔導書に記された挿絵と特徴から、私の手元にある杭は、「マモンの杭」であることがわかる。かつての私は、杭を持ったことがないから、彼女らを依り代なしで呼び出していた。……だから、マモンに限らず、しっかりと七杭を見るのは初めてなのだ。
【縁寿】「マモン。5女。七つの大罪の強欲を司る。……凄い子よね。」
【真里亞】「強欲は、向上心、上昇志向、生きる強さなども司る。決して悪い意味だけではないんだよ。……口は悪いけど、とてもがんばり屋さんな子だし。」
【縁寿】「……そうね。欲がないってことはつまり、生きてる理由がないってことだし。」
 しばらくの間、集中力を高めて、マモンについて記された情報を読み取る。
 ……召喚者は、呼び出す対象について詳しく知れば知るほどに良い…。知識は魔力に結びつく。……マモンの知識を頭に満たし、召喚に必要な魔力を高めていく。
【縁寿】「……魔導書って、ちょっとだけ面白いわね。下手くそな小説を読むより、よっぽど面白いかもしれない。……何だか懐かしい気持ちになるわ。」
【真里亞】「魔導書は、ただ文字を読み取るだけじゃなく、行間から世界を膨らませたり、挿絵から世界を生み出したりと、様々な創造を要求されるの。……生み出す力。これを持つ縁寿になら、どんな本よりも魔導書は面白いはずだよ。…縁寿になら理解できるって、真里亞はずっと知ってたもの。」
【縁寿】「…………マモンの知識、これで十分だと思うわ。………うん。大体、蘇った。…やってみる。」
【真里亞】「しっかりね。……いざという時に備えて、私の護符を。……今の君は同盟の条約に守られてない。マモンは少し喧嘩っ早いところがある子。…あるいはまだ恨んでるかも。注意して。」
【縁寿】「うん。…身に着けることにする。」
 煉獄の七杭は、生贄の儀式用の家具で、武具よりは劣る存在とされている。しかしそれは、悪魔たちの間での話。ニンゲンにとっては、家具とて恐ろしい存在だ。
 私は再びナップザックを漁り、真里亞お姉ちゃんに昔もらった、サソリのメダルのついたブレスレットのお守りを取り出し、それを腕に付ける。……昔はこんなもの、必要なかった。でも、保険は必要だ…。
【真里亞】「………大丈夫。それには、まだ十分な魔法防御が備わってる。それを身に着けている限り、絶対に大丈夫。」
 真里亞お姉ちゃんの、特にお守りに込められる魔力はベアトリーチェが感嘆するほど。……魔法のことが理解できない人間が見たなら、安っぽいものにしか見えないに違いないそれの魔法的価値は、計り知れない。
【縁寿】「…………………………。さぁさ、お出でなさい。罪を赦しなさい。…煉獄の七杭が一つ。強欲のマモン。」
 …………………。
 精神を集中する。自分の体内に満たされた反魔力の毒素をゼロにする。
 穢れなき広大な空間をイメージ。……疑いと常識は全て魔法抵抗。抵抗をゼロにし、魔力に対する負荷を消し去る……。
 …………………………。……頭の中に、広大な空間のイメージが。
 それは、自分が宙に浮いていて、地上のネオンの星々が輝く夜景の世界。天を覆うべき星は地上の明かりに掻き消され、大地を覆っている世界。
 遮られるもののない広大な夜景の世界の空で、……自由に吹き抜ける風をイメージ。その時、……風が吹くはずのない室内に、……自由なる夜景の風が、渦を巻く。
 久しぶりの感触が、全身を駆け巡る。…………魔法を行使する時の、独特の高揚感。
 私の手にかざされるマモンの杭が、次第に青白い光を感じさせていく。杭を中心に渦巻く旋風。……重みのある杭が、わずかに宙に浮く。
【真里亞】「…………見事だよ。…ブランクは君から才能を奪わなかったね。」
【縁寿】「……さぁさお出でなさい。罪を赦しなさい。煉獄の七杭が一つ、強欲のマモン。……その姿を私に見せなさい……。」
 私がかざす手を徐々に高め、頭より高く掲げると、まるでそれに吸い寄せられるように、マモンの杭もまた、宙高く浮かび上がり、……徐々に震え始める。その振るえが次第に早くなり、………弾けた。
 目にも留まらぬ速度で室内の壁を乱反射しながら飛び回る。……跳ね回る凄まじい音が、私を怯ませようと威圧する。……しかし、精神の集中を乱してはならない。
 そして、ものすごい速度で飛び回っていた杭は、ようやく制止して私と対面してくれた。……私の眉間のほんの数センチ直前の空中で、サソリのお守りによる防御結界に食い止められながら。
 防御結界を破ろうと、ものすごい力で食い込んでくるが、真里亞お姉ちゃんの結界はこんな簡単には破れない。
「……………無理か…、食い破れない……。」
 杭が憎々しげに呟く。
 ……サソリのお守りのお陰で助かったと言えるだろう。これがなかったら今頃、眠気が訪れるまでの暇潰しが、永遠の暇潰しに変わるところだった。
 マモンの杭は、私をえぐることが出来ないと悟ると、素直に降参し、杭から人に姿を変えた。相変わらずの、私じゃとても表を歩けないすごい格好で。悪魔的という意味では、らしくて良いのかもしれないが。
【マモン】「………………縁寿さまなの? …………ずいぶんとみすぼらしい魔力だけど。…本当に縁寿さま?」
【縁寿】「お久しぶりね、マモン。……元気にしてた?」
【マモン】「………………………。…てっきり、もうお役御免の家具は、納戸で朽ち果てるだけだと思ってました。……それで、これはどういう余興で? まさか、私の所有者が縁寿さまだとでも仰るつもりで…?」
【真里亞】「………うん。縁寿が君の主人だよ。」
【マモン】「マリア卿…。………これはお見苦しいところを。先ほどの結界はマリア卿の?」
【真里亞】「うん。今の縁寿じゃ、ひょっとしたら君にやられてしまうかもしれないって思ったから。護符を貸したの。」
【マモン】「…………………。……マリア卿に、私の主人が縁寿さまだと言われたんじゃ、断りようもありません。………縁寿さま、何なりとご命令を。私が必要とされるということは、新しい儀式を? 新しい生贄を…? もっとも、私を使いこなし、自らの手を汚す程度の覚悟がおありならの話ですが。」
【縁寿】「………その役割は、私はもう求めてないわ。………昔同様に、ただ話し相手になってくれるだけで十分よ。」
【マモン】「………………………………。」
【縁寿】「……………………。」
【マモン】「………ふふ。…えぇ、それがお望みでしたら。家具は使われてこそ家具。お呼び出しいただいただけで光栄ですとも。縁寿さま。」
 マモンはわずかに複雑そうな笑いを浮かべる。
 ……真里亞に言われたので新しい主人と認めたが、魔力の脆弱な縁寿に仕えるのに、まだ不服が抜けないように見えた。あるいは、それ以外にも縁寿を嫌う理由があるのかもしれないが、……とりあえず、不服はありながらも縁寿には逆らえないようだった。
【マモン】「………それで? 私は何をすれば?」
【縁寿】「わからない。………適当に賑やかにしてくれればいいわ。昔みたいに。」
【マモン】「お言葉ですが。多分、縁寿さまが仰る賑やかさとは、私たち姉妹の騒ぎのことだと思います。私ひとりでは難しいかと。……お忘れで?」
【真里亞】「……そうだね。七姉妹は、みんなが揃うと本当に賑やかだったもんね。……でも、今の縁寿の魔力じゃ、マモンを呼び出すのが精一杯だと思う。他の6人の杭も紛失してる。」
【マモン】「恐れながらマリア卿。私の杭を経由し、七姉妹に語りかけ呼び出すことは不可能ではないかと。……私を使役されるのでしたら、その程度の力は、縁寿さまにはお持ちいただきたいところですが……?」
 マモンはにやりと笑う。
 ……どうやら、依り代なしで他の姉妹も呼び出して欲しいらしい。なるほど。自分だけが呼び出されただけでは満足できず、他の姉妹の召喚までも願うわけか。…なるほど、強欲だ。そう、確かに彼女はそうだったっけ……。
 ………家具にとって、使役される時こそが至福。どんなに酷使されようとも、使役されることは家具の喜びなのだ。むしろ逆に、どんなに丁寧であろうとも、仕事を与えられないことの方が、彼女らには苦痛。
 マモンは、挑発するような口ぶりでいるが、他の姉妹を何とか呼び出し、虚無の世界から救ってやりたいと思っているのだ。………なら、素直にそうして下さいと言えりゃいいのに。悪魔って連中は本当に素直じゃない。
【真里亞】「………縁寿。無理しないで。マモンを呼び出せただけで、リハビリには十分だよ。」
【縁寿】「あら、1人だけでリハビリになっちゃうの? どうせ暇潰しよ。………いいわ、マモン。乗りかかった船だわ。呼べるところまで呼んであげる。」
【マモン】「本当に……?! さっすが縁寿さまぁ! さぁさ、早くっ、早くっ!」
 マモンは、言ってはみたものの、本当に頼めるとは思ってなかったらしい。ぴょんぴょん飛び跳ねながら、縁寿に他の姉妹たちの召喚をせがむ。
 ……マモンを呼ぶだけで、体力と魔力の消耗は著しい。…さらに6人は、かなり難しいだろう。……こんな姉妹を、指一つ鳴らすだけで自在に呼び出せるのだから、魔女と呼ばれる域の連中の魔力は恐れ入る。
【真里亞】「マモン、縁寿に無理をさせないで。縁寿はまだ本調子じゃないから…。」
【マモン】「えぇー?! 縁寿さまはみんなを召喚してくれるって言いましたぁ!」
 呼べるところまで呼ぶとしか言ってないのに。……やっぱり強欲ね。
【真里亞】「無理しないで、縁寿。もう今日は休んだ方がいい。君は十分疲れてるよ。」
【縁寿】「いいわよ。どうせ暇潰し。ばったり寝込めるくらいに疲れさせてもらうわ。」
 ……今度は依り代はない。魔導書の知識だけからイメージを強め、それだけで顕現しなくてはならない。
 虚空に両手をかざし、マモンを呼び出した時の感触を再び頭の中に再現する……。七姉妹とは全員と面識があるじゃないか。……かつて、言葉を交わした時のことを、……思い出せ………。
 再び、……魔法の力が満ち始める。それは両手からほのかに、そしてはっきりと青白い光となって放たれる……。
【マモン】「縁寿さまっ…! しっかりしっかり、がんばって…! ねぇ、マリア卿。縁寿さまは必ずみんなを呼び出して下さいますよね? また七姉妹は再会できますよね? ね?!」
【縁寿】「うん、きっとね。……でも、それが今夜という保証はないよ。」
【マモン】「縁寿さまなら出来ますって…! 縁寿さま、お願い…! 末っ子の、アスモから…!」
【縁寿】「………アスモデウス。7女。……………わかった。末っ子から順番に呼ぶわ。」
 額から、熱い汗がどろりと一筋、零れ落ちる。……やはり、かなりの負担が掛かる。空間の青白い光が、……ぼんやりと少女の輪郭を形作り始める…。
【縁寿】「………さぁさ、お出でなさい。煉獄の七杭が一つ、色欲のアスモデウス…。」
 依り代はない。……しかし、そこに間違いなく存在するのだという、強い信念を核とし、……そこに姿を結晶させる…。輪郭がはっきりとし、………七姉妹の末っ子、アスモデウスの姿をついに生み出す。
【アスモ】「色欲のアスモデウス、ここに……。………ここはどこ? 私は生きてるの……?」
【マモン】「アスモ…!! 良かったぁ!!」
【アスモ】「マモン姉さん! ……ここは一体? 私を呼び出したのは誰なの?」
【マモン】「縁寿さまが…! 縁寿さまが私たちをみんな蘇らせてくれるって…!」
 …言ってない。
【アスモ】「縁寿さま、ありがとう! 次はベルゼを…!! ベルゼをお願いします…!」
【縁寿】「……ベルゼブブ。6女。……暴食のベルゼブブ。さぁさ、お出でなさい…。」
 この流れで、……どこまで呼び出せるか。集中を欠いたら、…多分もう無理。
 青白い光が輪郭を作り、………ベルゼブブを形作る。
【ベルゼ】「暴食のベルゼブブ、ここに……。」
【アスモ】「ベルゼー!!」
【マモン】「縁寿さま、すごいすごい!!」
 ベルゼブブにマモンたちが飛びつき、再会を喜び合う。
 ……3人同時召喚。…ずきりと頭が痛む。休まず、次を呼び出す。
【縁寿】「……さぁさ、お出でなさい。煉獄の七杭が一つ、怠惰のベルフェゴール…。」
【ベルフェ】「怠惰のベルフェゴール、ここに。………何と、…私がまだ必要とされるとは…。」
【ベルゼ】「ベルフェ姉ぇえぇ! お腹空いたぁ! じゃなくて、また会えて嬉しいぃ!!」
【アスモ】「また七姉妹みんなが再会できるなんて…。縁寿さま、本当にありがとうございます!」
【マモン】「この調子で次はサタン姉を! レヴィア姉もルシ姉も…!!」
【縁寿】「………えぇ、…わかってるわ。……だからお願い、あまりうるさくしないで。……4人同時は、……結構、きつい…。」
【真里亞】「縁寿、もうそれ以上、無理をしないで。これだけ久し振りなのに、よく4人も召喚できたよ。」
【ベルフェ】「…よせ、マモン。今の縁寿さまには我らの召喚は負担を強いている。縁寿さま、どうかご無理をなされませんよう…。」
【マモン】「私は嫌! 縁寿さまは約束したもん! また私たちみんなと遊んでくれるって!」
 …言ってな、…。
【マモン】「ね! 縁寿さま! みんなとまた会えるって! すぐに会えるって約束した!」
【縁寿】「……………………。………そうね、………約束したわ。……すぐにが、いつのこととは約束しなかったけど、……確かに私は、約束したわ。」
【マモン】「だから守って! じゃないと、私は今日までそれを忘れていた縁寿さまを許さない…!」
【縁寿】「………………。……さぁさ、お出でなさい。煉獄の七杭が一つ、憤怒のサタン…。」
 意識が白濁してくる…。……でも、呼ぼう。
 忘れてしまった日々だけど。悲しさと寂しさしかないと思ってた日々だけど。……確かに、彼女らと過ごしたわずかな時間は、……紛れもなく、楽しい時間だったのだから。
【サタン】「憤怒のサタン、ここに。…………何やってるのよあんたたちッ!! 私たちが井戸端会議をするだけで、どれだけ縁寿さまに負担を掛けてるかわかってんの?!」
 現れてすぐ、状況を察しているらしいサタンが大声を張り上げ、妹たちを叱り飛ばす。……その大声に私の意識は再び遠退きかける。
【サタン】「私たちはベアトリーチェさまより休むことを許された、役目を終えた家具なのよ! 再びお役に立てる機会を賜るどころか、新しい主人の負担になるなんて、そんなの家具の名折れッ!! 早く姿を消しなさいッ!!」
【ベルフェ】「うん、サタン姉の言う通りだ。姿を消す。お前たちも姿を消せ。それがこの瞬間、一番、縁寿さまのお役に立てる。」
【マモン】「私は嫌よ。みんなを呼び出してもらえるまでは嫌!」
【ベルゼ】「私も嫌ー! お腹空いたー! じゃなくて、やっと再会したばかりなのに、もう帰るなんて嫌あ!」
【サタン】「わがまま言ってんじゃないわよ!! ほら、とっとと姿を消す!! ほら、アスモ! さっさと消えなさい!!」
【アスモ】「わぁん、サタン姉さんがいじめたあ…! いつも末っ子からなんてずるぅい!」
【縁寿】「………あぁ、実に賑やかね。……退屈………しない……。」
【真里亞】「もう充分だよ。今の縁寿には限界を超えてる。」
【縁寿】「……そう、……ね…。……………………。
 5人も召喚し、彼女らが好き勝手に騒ぎ合うという状況は、貧弱な魔力しか持たない今の私には、あまりに負荷が重過ぎる……。……もう、……………駄目……。
 私は意識を遠退かせながら、ベッドに倒れこむ。
 ……ベッドって、こんなにも柔らかかったっけ……。……………………。
 姉妹たちは、まだ好き放題に罵り合っているようだ。……睡魔が迎えに来てくれるまでの暇潰しには、……充分…………。
 私は、姉妹たちの賑やかさに、どこか懐かしい温かさを感じながら、深い眠りの世界へ沈んでいく………。
 そんな私を夢の世界の入り口で、真里亞お姉ちゃんと、……さくたろうが受け止めてくれた気がした。
【真里亞】「……………。お疲れ様。……そして、がんばったね。」
【さくたろ】『うりゅ。…お帰り、縁寿…。』
 ……お帰り、か。じゃあ返事はこうだわ。…………ただいま………。
 後にさくたろうが語る、不確実である方が面白いという魔女の美学。事件の計画自体にも共通する点である。

幻想への誘い

 そう。私はかつて一度だけ、魔女の世界に足を踏み入れるべく、修行をしたことがある。聖ルチーア学園での辛く悲しい日々から私を救ってくれる力が、魔法だけだということを受け入れ、真里亞お姉ちゃんにその手解きを受けたのだ……。
【縁寿】「……………広大な空間を、イメージ……。……峠のドライブインから麓を見下ろした時の風景……。………こう……?」
 私はその思い出の中の風景を、心象世界に投影した。
 ……魔法少女に憧れるなんて、普通の女の子なら小学校で卒業する。だから、こんな歳にもなって、大真面目に魔法の修行をしてるなんて、……我ながら恥ずかしい。でも、その恥ずかしいという感情すらも、今の私には微笑ましいものだった。
 私は今、真里亞お姉ちゃんに魔法を使うための精神集中を習っている。だが、なかなかうまく出来ない。……まるで、耳を動かせる人に、こうやって動かすんだよと実演されても、どうしようもないのによく似てる…。
 魔法を使うための精神集中には、広大な空間のイメージが欠かせないらしい。なので私は、幼い頃に家族で出掛けた小旅行で、峠のドライブインの展望台から麓を見下ろした時のことを思い出し、その光景で心象世界を描いてみたのだ。
【真里亞】「うぅん、まだまだ狭い。もっともっと広い空間をイメージして。そして、縁寿だけの心象世界を作り上げるの。まだまだイメージが霞んでる。空気に温度もないし、風もない。匂いもない。まだまだ世界が希薄。……それらは後でもいいから、今はとにかく、もっと広い世界をイメージして。」
【さくたろ】『うりゅ。……どうして広い空間のイメージが必要なの?』
【真里亞】「ニンゲンの体内には、生まれながらにして魔法を妨げる毒素があるんだよ。その毒素を浄化しないと、魔法はうまく使えないの。…その為に有効な方法の一つが、広大な空間をイメージすることなんだよ。」
【縁寿】「………さっきは、飛行機の窓から見た世界を思い描いたけど、それも駄目だったわ。……もっと広大な世界なんて、……見当もつかない。」
【さくたろ】『なら、真里亞の持つ広大な世界を縁寿にも教えてあげればいいよ…! そしたら縁寿にもイメージがしやすくなるんじゃない? うりゅ!』
【縁寿】「……そうね。私も、お姉ちゃんはどんな世界をイメージして魔法を使ってるのか、興味があるわ。…私もそれを参考にする。」
【真里亞】「うー、駄目だよ。心象世界は広大で、そして孤独じゃないといけないの。自分以外に一切遮るものがない世界。……だから、その世界を人に教えたら、その世界は孤独ではなくなってしまう。だから心象世界は誰にも明かしちゃ駄目なの。だから縁寿も、上手に心象世界を描けたら、それは自分だけの秘密の世界にするんだよ。」
【さくたろ】『うりゅ…。真里亞けちんぼ…。』
【縁寿】「ありがと、さくたろ。修行に近道なしってわけだわ。……努力してみる。大丈夫、ヒントは充分もらえてるわ。」
【さくたろ】『うりゅ…! 縁寿、がんばれ…!』
 魔法なんかで救われるわけがないと、思ってきた。だって、この世には魔法なんて存在しない。そんなものは、幻想、妄想、白昼夢に過ぎないはず。
 ……でも、真里亞お姉ちゃんは、私には持ち得ない力で、自らの世界を幸せで満たして見せた。私はその幸せを、虚しい幸せだと見下してきた。……魔法なんて認めないから、そこから生まれた幸せも認めないと、全てを否定してきた。
 でも、真里亞お姉ちゃんの世界はどんどん、どんどん、幸せになっていく。
 かつて私はそれを、痛々しくて見てられないと扱き下ろした。しかし、……それは妬みに過ぎなかったのかもしれない。私は、それを認めなければならなかった。そしてそれこそが、私の幸せ探しの第一歩だったのだ…。
 広大な空間。何物にも遮られずに吹き抜ける乾いた風。……その風が自分の髪を散らすのを感じよう。
 ……そうか、大地さえも、今の私には妨げるものなのかもしれない。じゃあ、大地なんていらないや。…………大地を押しのけて、下方の彼方へ、彼方へ。
 それはつまり、………私が大地から遠く離れて、浮かび上がったのと同じこと。どんどん大地を下方に押しのけると、…地上が霞んで淡くなり、……初めて大空を感じるようになる。
 ………そして私は広大さを知る。その瞬間、鮮烈な風が、自分の体すらも突き抜けて、つまり妨げられずに吹き抜けるのを感じた。
【真里亞】「………………………………。……そう。その感覚を、維持して。」
【縁寿】「……えぇ、わかる。……全ての妨げから、解放されてるのが、……わかる。」
【さくたろ】『やった縁寿、やった縁寿…! 魔女の世界への、最初の第一歩を踏み出した…!』
【縁寿】「………………これが、…魔女の世界……?」
【真里亞】「うん。じゃあ、縁寿がずっと望んできた魔法を、練習してみよう。………お友達を、呼び出す魔法。……縁寿を寂しさから救い出してくれる味方をつくり、それによって幸せになる魔法を。」
【さくたろ】『縁寿にも、ボクみたいなお友達が呼び出せるの?! うりゅうりゅ!』
【真里亞】「……今の縁寿には、ゼロの海からさくたろほどの友達を呼び出すには、まだまだ早いね。……最初は、呼び出しやすい友達から練習しよう。」
【縁寿】「…………………。…最初は何を…?」
【真里亞】「縁寿はマリアージュ・ソルシエールの魔女だから、同盟の魔女が使役する存在は、縁寿もまた使役することが許されてる。……例えば、さくたろは私の友達だけど、同じ同盟の縁寿にだって友達で、そして召喚することが出来る。……今度、試しにさくたろを呼び出してみて? 寂しくて寂しくて辛い時、さくたろがきっと元気付けてくれるよ。」
 そっか。さくたろはお姉ちゃんが使役する存在とも言える。そして、お姉ちゃんと同じ同盟に属する魔女の私は、さくたろを召喚することも可能なわけだ……。
 さくたろと目が合う。……寂しい夜に、ちょっと話し相手になってほしい時に、彼が私の枕の脇にちょこんといてくれたら、どれだけ嬉しいことか。
【縁寿】「……私が呼び掛けたら、あなたは現れて、……話し相手になってくれる……?」
【さくたろ】『うりゅー! 縁寿が呼び出してくれるのを、楽しみにしてる! うりゅうりゅうりゅ!』
 さくたろは嬉しそうにしながら、猫のように、私にその頭を押し付けてくりくりしてじゃれ付いてくる。
 こんな可愛らしい弟が突然出来てしまって、……困惑するような恥ずかしいような嬉しいような。………なんでこの気持ちに素直になれなかったのか、わからなくて、目頭が熱くなるのを感じた。
【縁寿】「うん。……お姉ちゃん、私がんばるわ。」
【真里亞】「じゃあ、練習をしてみよう。………同じ、同盟の魔女、ベアトリーチェの家具を、呼び出してみよう。」
【縁寿】「…………ベアトリーチェの、…家具。」
 ベアトリーチェの名を出されると、少しだけ微妙な気持ちになる。六軒島の事件は世間では、魔女が生贄の儀式で云々かんぬんと騒がれていた。
 ……そして、その魔女がベアトリーチェなのだ。だから、もしあの事件の犯人が魔女であるならば、……つまり、家族を奪った犯人は彼女、ということになるのだから。
 しかし、真里亞お姉ちゃんはベアトリーチェは良い魔女だという。ベアトリーチェに対しネガティブな感情を私が持つと、へそを曲げてしまうし、ひどいと喧嘩になって、しばらく口も聞いてくれなくなる。
 ……今の私には、お姉ちゃんがたったひとりの親友だ。…だから、親友の機嫌を損ねないためにも、ベアトリーチェのことは、お姉ちゃんの魔法の師匠以上には考えないことにしていた…。
 ……それに、私はあの事件は、絵羽伯母さんの仕組んだ陰謀だったと信じている。……いつか絶対にそれを暴いてやる………。
【真里亞】「縁寿。また体内に妨げが混じってるよ。」
【縁寿】「………ごめんなさい、集中を欠いたわ。…もう一度…。」
 さすがはお姉ちゃん…。私が雑念に囚われたことをすぐに察する。私は一度だけ頭を振ってから、再び広大な大空の吹きぬける風をイメージし直した…。
【縁寿】「…………煉獄の七姉妹? 何だか物騒な名前ね。」
【真里亞】「でも、とっても賑やかで楽しい子たちだよ。縁寿の新しいお友達になってくれるかもしれない。……まずは私が呼び出してみせるね。見てて。」
 真里亞お姉ちゃんが、両手を顔の高さに掲げ、静かに精神を統一する。……私が、長い時間を掛けて瞑想しなくては至れない境地に、わずか数回の低い呼吸で至ってしまう。
 すると青白い光が手の平に集い始め、………次々に、少女たちが姿を現していく。
 1人、2人、3人。4人、5人、6人、7人…。次々に召喚されて並んでいくその様子は圧巻だ。
 ……すごい。お姉ちゃんの魔導書の挿絵そのままの、……煉獄の七姉妹だ…。長女のルシファーが、妹たちを従え、お姉ちゃんに敬礼する。
 縁寿未来編のメタ世界から、学園編のメタ世界に遷移。
【ルシファー】「煉獄の七姉妹、ここにっ…! マリア卿、ご無沙汰を申し上げております。」
【真里亞】「うん。久し振りだね。みんなも元気…?」
【ルシファー】「我ら家具は、使役されてこそ家具。久し振りのお呼び出しを、心より光栄に思いますっ!」
【アスモ】「きゃー♪ さくたろー! お久し振りー!」
【ベルゼ】「相変わらず美味し、じゃなかった、可愛い〜!!」
【マモン】「私が一番〜!! きゃー、今日もふかふかプニプニしててかーわいい〜!」
【レヴィア】「あ〜ん!! 私にも抱かせて私にも抱かせてぇええぇ〜!」
【さくたろ】『う、うりゅー! 苦しい〜! ボクは逃げないから離してみんな〜!』
【サタン】「こらアンタたちッ!! マリア卿の家具を壊す気?! とにかく離れなさいよッ、抱き締めるの禁止!!」
【ベルフェ】「……そう言ってる、サタン姉が、一番抱き締めたがってるよ。くすくす。」
【サタン】「んなッ!! わ、私は別に、あんなふかふかのプニプニのわふわふなんて、きょ、興味ないんだからあ!」
【ルシファー】「こら!! マリア卿と縁寿さまの御前よ、静かになさい、この愚妹ども!!」
 何と賑やかなことか…。現れて早々の大騒ぎに、私は唖然としてしまう。そしてそれ以上に、無垢なさくたろが、七姉妹たちと仲がいいのに驚いた。
【縁寿】「……意外。さくたろが、あんな物騒な連中にこんなに可愛がられてるなんて。」
【真里亞】「同じ同盟の仲間たちだもん。怖くなんかないよ?」
【縁寿】「でも、万が一、彼女らの機嫌を損ねちゃったら、さくたろ、あっという間にやられちゃいそう…。」
【真里亞】「大丈夫。同盟の魔女とその家具は、みんな仲良しなの。だから、さくたろも安心して遊べるの。……それはもちろん、私や縁寿も同じだよ。」
 マリアージュ・ソルシエールの条約の一つ。「相互不可侵、不干渉」。
 所属の魔女は、互いの魔法とその創造物を尊重し合わなくてはならない。本来は、とても好戦的で物騒な彼女らも、同盟の仲間には友人として接するのだ。
 だから、七姉妹にとって、さくたろうは共通の友人。七姉妹の誰からも愛され、むしろ奪い合いさえされている。もみくちゃにされて可愛がられるその光景は、ちょっぴり微笑ましいくらいだ。
【縁寿】「……なるほど。マリアージュ・ソルシエールの仲間同士なのね。」
 さくたろののんびりした雰囲気と、七姉妹の物騒な雰囲気は、一見しただけなら水と油。絶対に相容れないように見える。なのに、こんなにも当たり前のように仲良く交流している……。この素敵な同盟で、世界の全ての人々を結んだなら、……世界中はすぐに友達になれるのかな。
【マリア】「七姉妹のみんな、聞いて。今、縁寿は魔法の修行中なの。だから、みんなの力を貸して欲しいの。」
【ルシファー】「畏まりました、マリア卿っ。…しかし、具体的には何を?」
【真里亞】「君たちを顕現させる魔力を、私から縁寿に移すの。その状態で、いつも彼女の身近にいてあげてほしいの。彼女の話し相手になったりしてあげるだけでいい。」
【ルシファー】「………恐れながら。縁寿さまの魔力では、私たち七姉妹全てを、四六時中、呼び出し続けるのは容易なことではないかと…。」
 長女のルシファーが、遠慮がちな様子で私の顔色をうかがいながら進言する。…つまり、今の私には荷が重いだろうと言っているのだ。
【真里亞】「そういう修行なの。縁寿は、みんなが想像しているより才能と魔力があるよ。ちょっぴり辛いかなとは思うけど、今の縁寿なら挑戦する価値はあると思う。
 ……縁寿。今から彼女たちを顕現させる魔力を、君に切り替える。……つまり、縁寿が呼び出したのと同じ状態になるの。」
 真里亞お姉ちゃんが言いたいのは、つまりこういうことだ。七姉妹を顕現させ続けるには、かなりの魔力を継続的に強いられ続ける。……重りの入ったリストバンドを身につけてのトレーニングみたいなもの、とでも言えばいいのだろう。
【さくたろ】『うりゅ……。七姉妹、全員はかなり大変……。縁寿、いきなりは厳しくない…?』
【縁寿】「ありがと、さくたろ。でも、魔女になるための修行だしね。やれるところまでやってみるわ。」
 ……確かに騒がしそうな7人ではある。でも、彼女らが修行のためとはいえ、私と一緒にいてくれるのは、ちょっぴりだけ私の寂しさを紛らわせてくれるに違いない。試練は承知で、まずは挑戦してみたかった。
【真里亞】「もしも辛かったら無理をしないでね。みんなも、縁寿が辛そうだったら加減してあげて。」
【ルシファー】「畏まりましたっ。わかったね、あんたたち?!」
「「「「「「はーい、お姉様ぁ!」」」」」」
【ルシファー】「それでは縁寿さまっ。これより我ら煉獄の七姉妹は縁寿さまの家具となります。………マリア卿、お願いいたしますっ。」
【真里亞】「うん。……じゃ、縁寿。始めてもいい?」
【縁寿】「……いいわ。…ちょっと緊張する。」
【さくたろ】『うりゅ…。いきなりは辛いかも…。頭痛になりそうだったら、すぐに魔力を減らしてね……。』
【真里亞】「じゃ、魔力ソースを縁寿に移すよ…………。…………………。」
【縁寿】「……………ぅ…、」
 途端に、頭の中がずしりと重くなる。……これは……、なるほど、………辛い…。
 私の頭は、私ひとりのためだけに使われてきた。それがまるで、さらに七人分のためにも使われるよう。……彼女らがただそこにいて、瞬きをして、あるいは吐息をひとつ漏らすだけでも、それは私の頭に重圧となって圧し掛かる…。
【ベルフェ】「……マリア卿。恐れながら、やはり、一度に七姉妹全員の負荷は重過ぎるかと。」
【縁寿】「だ、……大丈夫………、……く………。」
【真里亞】「…うーん…。やっぱり駄目かな。顕現に全精力を使っちゃってる。日常生活と両立できないほどの負荷じゃ意味がない。何しろ、魔女としてこれじゃ、ちょっと優雅じゃないね。」
【さくたろ】『うりゅ…。だからいきなりこんなに大勢は無理だって言った…。みんな、少し姿を消してあげて…。』
【ルシファー】「そうね。人数を減らした方が良さそう。……アスモ、姿を消しなさい。」
【アスモ】「また私ぃ? 末っ子イジメ反対〜!! たまには上から消えてよ〜!」
【レヴィア】「それじゃあ、私が2番目に消えなきゃならないじゃない! やだやだやだー!」
【サタン】「アスモもレヴィア姉も騒がないの!! そういう騒ぎが余計、縁寿さまの負担になるのよ!!」
【ルシファー】「あんたが騒ぐのも負担になるのよ、馬鹿サタン!!」
【サタン】「ひぅッ!」
【縁寿】「………ぁつ、…………く……。……ぐ………、」
 誰が先に姿を消すかで、七姉妹が口喧嘩を始める。……その喧嘩のエネルギーは全て負荷となって、縁寿にさらなる頭痛を強いる…。
 彼女らは結局、ジャンケンで順番を決め、1人、2人、3人と姿を消していった。しかし、その程度ではまだまだ縁寿は楽にならない。
 結局のところ、6人が姿を消したところで、ようやく呼吸を落ち着けることが出来たのだった。私の魔力では、七姉妹どころか、1人が限界なのだ…。
【マモン】「……あ〜あ、これじゃあ七姉妹じゃなくて私ひとりじゃないですか。縁寿さま、ちょっと頼りないです。」
 ジャンケンを勝ち抜き、最後まで残ることを許されたマモンが悪態をつく。
【さくたろ】『うりゅ…。マモン、そんなこと言っちゃだめ…。縁寿はまだまだ修行中。……大丈夫、縁寿? 頭痛大丈夫…?』
 さくたろがぴょこぴょこと背伸びしながら、縁寿の頭を撫でようとねだる。
 その様子を見て、真里亞はぽりぽりと頭を掻き、いきなりの修行には厳しすぎたことを認める。
【真里亞】「うー。ちょっと荒行過ぎたかな。真里亞、これくらいじゃ全然平気だけどな。友達、いっぱいいればいるほど楽しいし。」
【縁寿】「………お姉ちゃんの凄さを改めて思い知るわ…。」
 真里亞お姉ちゃんクラスになると、オーケストラが演奏できるくらいの人数を一度に呼び出すことさえ出来るという。それで、魔女見習いというのだから恐れ入る…。
【マモン】「大丈夫ですか? 縁寿さまぁ?」
【縁寿】「……………ごめんなさいね…。私にはあなたひとりを呼び出すのがやっとみたい。」
【マモン】「ま、私はこれでもいいかな。だって、七姉妹で私だけが縁寿さまの家具を独り占めだし。……いかがですか、縁寿さま。私ひとりなら負荷にはなりませんか?」
【縁寿】「えぇ、あなた一人なら何とかね…。」
【マモン】「良かったぁ! なら、いっぱい修行して、いっぱい魔力を養って下さい。そして、いつかきっと七姉妹で揃ってお仕えさせて下さい。約束ですよ?」
 マモンは、とりあえず自分の顕現だけは問題ないことを確かめると、すぐに上機嫌に戻り、私にさらなる努力を約束させようとした。なるほど、確かに強欲だ。…でも、前向きとも言えるかもしれない。
【縁寿】「……えぇ。約束するわ。…そのくらいは、いつか出来なくちゃね。」
【マモン】「ありがとう、縁寿さま! この強欲のマモン、その日まで必ず縁寿さまにお仕えします…!」
 ようやく頭痛が治まり、私は頭を抱えていた両手を解く。するとマモンが手を差し出し、立ち上がるのを手伝ってくれた…。
【さくたろ】『うりゅ? ……あ。……真里亞、縁寿、もうこんな時間だよ。もうお部屋に戻らないと、叱られる。』
【縁寿】「………え? …………あ…。」
 さくたろが時間の話なんかするものだから。
 ……私は現実に引き戻される。
 広大な世界は、明かりが消えてしまうかのように、ふっと闇に沈み、………私は狭い狭い、トイレの個室に、便座に座っている…。膝の上には、お姉ちゃんの魔導書が開かれていた。
 時計を見る。……消灯時間の20時は間近だった。消灯前点呼に遅刻すると、色々うるさいだけでなく、ルームメイトやフロアメイトにも迷惑を掛ける。……迷惑を掛けること自体はどうでもいいが、彼女らにうるさく干渉されるのはごめんだ…。
 はぁ…………。私だけの、今日の自由な時間は、もうおしまい。寝て、起きれば、明日が始まり、長い長い灰色の一日が再び繰り返される。
 私は魔導書を閉じ、のろのろと便座から立ち上がる…。
 その時、お姉ちゃんがもう一度現れ、言う。
【真里亞】「……ほら、縁寿。修行を忘れてるよ。…………マモンを連れて行って。」
 忘れてた。…現実に戻った拍子に、マモンの顕現を止めてしまった…。もう一度、マモンの存在を強くイメージする…。
【マモン】「もう、縁寿さまったらひどいです。いきなり私を消すなんて…! そんなんじゃ、七姉妹を全員呼ぶなんて、なかなか出来ませんよー!」
【縁寿】「…………ごめんなさい。うっかりしてたわ。」
【マモン】「人間界に顕現するのはすごい久し振りなので、何から何まで興味深いです。ちょっぴりわくわくしてます。ここはどこですか?」
【縁寿】「………聖ルチーア学園の寮。ここはその共用トイレの個室。……各部屋にトイレはあるから、ここには誰も来ない。静かで、本を読むにはちょうどいいの。」
【マモン】「ここの寮は、本を読むにも、トイレの個室に隠れなきゃならないの? 焚書でもやってるんですか?」
 ………………。
 部屋は2人部屋だから、ルームメイトが常にいる。関係は険悪で常に無視されている感じ。……空気が悪いから、とても落ち着けたものじゃない。彼女だって、私さえいなければ、大手を振って友人を呼んでおしゃべり大会が出来るのだ。消灯直前まで私が戻らない方が、向こうにだって都合がいい。
 図書室もあるけど、そこを溜まり場にしてるグループは私のことをいつも陰口ばかり言ってる。だから図書室にも行きたくない。
 ……昼休みは校舎裏の茂みの中。夜は寮の共用トイレの個室の中。そこだけが、私に安らぎを与えてくれる、唯一の隠れ家なのだ…。
 私は個室の扉を開け、……出る。
 振り返り、マモンにもついておいでと目で合図する。
【マモン】「…………よくわからないけれど、縁寿さまにとって、とても快適とは言い難い場所だってことがわかったわ。早く表に出ましょ。ここの空気、嫌い。」
【縁寿】「そう? ………ここの空気が、一番まともなんだけどね。」
 トイレを出て廊下に出ると、消灯時間が近いため、他の部屋に遊びに行っていた子たちが、ぱたぱたと自室に駆け戻っている。
 消灯時間には、私たちが囚人服と呼んで嫌う、規定の寝巻きに着替えて、廊下で整列して寮長先生の点呼を受けなければならないのだ。……これに万一遅れるようなことがあると、連帯責任を取らされ、フロアメイト全体に奉仕活動という名の懲罰が課せられてしまう…。
 これさえ気をつければ、彼女たちは冷酷に私を無視はするけれども、干渉だけはしない。……私にはそれだけで充分なのだ。
 マモンは、すれ違う子たちや寮内の設備などを興味深そうに見ている。……私はそんな彼女には特別の関心を払わず、自分の部屋への帰りを急ぐ。
 私の部屋の前では、すでに囚人服に着替えたルームメイトと隣室の子たちが談笑していた。
 私が早足で戻ってきたのに気付くと、あからさまに話題を変える。私を盗み見ながら、ひそひそと声を潜めた。私はそれに気付かぬふりをして、部屋に入り、着替える。そして大急ぎで廊下に出る。
 すでにみんなは整列をしていた。
【マモン】「………何これ、おっかしい。ここって、お嬢様学校じゃないの? 刑務所みたい。馬鹿みたい。」
【縁寿】「やっぱりそうよね。私もそう思ってるわ。刑務所よりさらに厳しい点は、素行が良くても刑期が短くならない点かしら。」
 ……悪態をついてから、気付く。悪態を聞いてくれる相手がいることは、……案外、気持ちがいい。
 マモンの姿は幸いにして、召喚者である私にしか見えない。もちろん、その会話も、口に出す必要はない。心の中で会話をすればいいのだから、他の誰にも聞かれない。………魔法と、それによって生み出された友人も、……案外、悪くないものかもしれない。
【マモン】「こいつら、揃いも揃ってモヤシみたい。生きてないって感じ。きゃははは。」
【縁寿】「やめなさいよ。万一、姿を見られたら大変よ…?」
【マモン】「夢も希望もカケラほどもないニンゲンなんて、反魔法の塊だもの。私の姿なんて、絶対に見えるわけがない。見ることも出来ない、下等生物どもが。くすくすくす!」
【縁寿】「………あなたは、その反魔法の毒素を持つニンゲンたちがこれほどいる中でも平気なの?」
【マモン】「縁寿さまが私を顕現させて下さる限りは平気です。……ただ、私を顕現するために常に集中しなければならないでしょうから、日常生活が疎かになる可能性がありますよ。……ほら、同室の子に呼ばれてません?」
【縁寿】「……え? ………あ、」
「右代宮さん、聞こえてる? 来週からの週番なんだけどさ、ちょっと相談があってェ。」
 ……また、私にいくつかの労務を押し付ける話だろう。普段は私に目など一切合わせもしないルームメイトが、気色悪く微笑みかけてくる。
 しかし、二人で週番をやらされるよりは、押し付けられて一人で作業をする方が気楽でいい。それを引き受けることで、引き続き私を無視してくれるなら、お安い御用…。
 なのに彼女は、白々しい言い訳から、なぜか論点が摩り替わって、私が率先してそれをやるべきであるというような、立場の逆転に固執している。……ものの頼み方を知らない子が多いのが、この学園の特徴だ。
【マモン】「……何この子。ムカつくー。眉間に思いっきり私の杭をねじ込んでやりたい。」
【縁寿】「そうね。ぜひ今度、お願いするわ。」
 ………………………。……うん。やっぱり、悪態を聞いてくれる友達が常に身近に居てくれるのは、……思った以上に、嬉しい。
 七姉妹はみんな揃うと本当に賑やかだった。……きっと、ただ彼女らがじゃれ合っているのを見るだけでも、とても楽しいだろう。
 ……早く、七姉妹を全て召喚できるだけの魔力を身に付けよう。そしてもっともっと修行して、………私が本当に呼び出したいものを、……召喚する。
【マモン】「………? 縁寿さまが本当に召喚したいものって、何ですか?」
 マモンが、私の心の中の独り言を察し、きょとんと問い掛けてくる。私は話そうか迷ったが、隠すことでもないと思い、それを告げた。
【縁寿】「………………家族よ。………お父さん。お母さん。お兄ちゃん。」
【マモン】「それってつまり、死者の魂…? 異界の住人を呼び出すのは召喚だけど、死者の魂を呼び戻すのは反魂で、それはまったくの別物。……反魂はかなりの大魔法のはずですよ。」
 知ってる。……真里亞お姉ちゃんでも、まったく出来ないほどに。でも、それが私が魔法で呼び出したい、一番のもの。……それがとても難しい大魔法であるとは脅されてる。…下手をすれば、生涯を掛けての修行で、辿り着けるかどうかの保証も出来ないとさえ。
 しかも、依り代もない。依り代は、召喚でも反魂でも、魔法を成功させる重要なものとなる。それがないのだから、………ただでさえ難しい魔法は絶望的になる。
 そう。私には、お父さんを偲ぶものも、お母さんを偲ぶものも、何もない。
 でも、……何という偶然。お兄ちゃんを偲ぶものだけは、私は持っていた。それが、………これ。
【マモン】「……そのピンクの珠の頭飾り? 何それぇ、言っちゃ悪いけど、縁寿さまにはちょっと安物っぽい。」
【縁寿】「昔、お父さんに内緒で、お母さんと一緒にお兄ちゃんに会って、遊園地に遊びに行ったことがあるの。……そこのクレーンゲームの景品。」
 安物であることなんて知ってるし、私の雰囲気に合わないことも、子どもっぽ過ぎることも知ってる。……でも、このヘアアクセサリーは、私が戦人お兄ちゃんを身近に感じられる、唯一の品なのだ。
 ガラスケースの中には、楽しそうな小物のいっぱい詰まった、プラスチックのカプセルがいっぱい満たされている。それらカプセルの中には、それぞれに可愛らしい小物が入っているようだった。それをクレーンで取るゲームなのだが、……幼い私には難し過ぎて。何度挑戦しても全然駄目だった。
 お母さんは、どうせ中身は安物だし、何が入ってるかわからないんだから、あまり意地になっても意味がないわよと言った。
 でも、安物かどうかが問題なんじゃなくて、……幸せを、自らの手で掴み取るという、そのプロセスが、私にはとても大切で、神聖なものに感じられたのだ。だから、その安物の何かが入っているそれが、どうしても欲しかった。
 そしたら鉄砲で兵隊をやっつけるゲームを終えた戦人お兄ちゃんがやって来て、……私の代わりに挑戦してくれた。
 …私には届かない幸せに、お兄ちゃんが私より長い手を伸ばして、掴み取ってくれたのだ。
 ……お兄ちゃんは本当に器用だった。よくお友達とゲームセンターで遊んでいたらしい。ほんの1〜2回の挑戦で、私には触れることもできない、ガラスケースの向こう側のそれをクレーンで掴み、………取り出し口に放り込んでくれたのだ。
 そのカプセルを、ぽんと私に放り投げてくれたお兄ちゃんの姿が、とてもとても頼もしいものだったことを覚えている。
 数日の間、そのカプセルを開けるのも勿体無い気がした。そして、ある日、ようやくその中身を開く。……すると中から現れたのが、このピンクの珠のヘアアクセサリーだったのだ。
 その日以来。これは、お兄ちゃんの象徴。
 私は、戦人お兄ちゃんを含めた4人の家族が集まれることが、幸せな家族の前提だと、幼いながらに考えていた。だから、早くお兄ちゃんとお父さんが仲直りしてほしいと考えていた。
 ……このヘアアクセサリーは、私なりの、家族全員を揃えるおまじないだった。だからいつも身に付けていた。頼もしくて面白い、素敵なお兄ちゃんを、いつも身近に感じて、お家に居させてあげたかったから。
【縁寿】「でも、……お兄ちゃんの記憶は、あまりに遠い。……真里亞お姉ちゃんが、ライオンのぬいぐるみからさくたろうを生み出したようには、簡単に出来ない。……私は、死者の魂を蘇らせる大魔法をいつか必ず身に付ける。そして、それを成功させられる唯一の鍵が、依り代が、これなの。」
【マモン】「………………………。……なるほど。その頭飾りに、ものすごい魔力を感じてたけど、そういうわけなのね。」
【縁寿】「魔力…? お兄ちゃんのこれに、魔力が宿ってるの…?」
【マモン】「縁寿さまが宿らせている、というべきかもね。……縁寿さまの、兄を呼び出したいという強い想いが魔力を与えている。……確かに反魂は大魔法だけど。縁寿さまはその魔法のために、無意識の内に、着実に階段を登っているのは間違いない。」
【縁寿】「…………嬉しいわ。私以外の人に、それを認めてもらえるのは。」
 自らの努力というものは、自らには観測できない。
 その意味において、……この、七つの大罪のうちの一つを司るという物騒な悪魔少女であっても、……私に掛けてくれたその言葉はとても嬉しいものだ。
【マモン】「反魂の魔法に至るのと、寿命を全うするのとどっちが早いかだけは、私には保証できないけれども。……でも、挑む山の高さが高ければ高いほど、魔女としての力も比例していく。縁寿さまは挫けることがなかったなら、きっといつか、私たちの元の主、ベアトリーチェさまに匹敵するほどの大魔女になれると思います。」
【縁寿】「……なれるかしら。大魔女になって、お兄ちゃんを、……ううん、家族を蘇らせることが出来るかしら。」
【マモン】「反魂の魔女、エンジェ卿…! きゃー、素敵! 反魂の魔女はかなりレアな魔女です。そんな魔女がご主人様なんて、ちょっと鼻が高いです。っていうか、むしろそうなって欲しいものです。家具の価値も、主の格に比例しますので!
 もうベアトリーチェさまさえ抜いちゃって、天下無双の大魔女になって下さいね! 煉獄の七姉妹を代表して、心より応援申し上げまーす! きゃは!」
 ……………私にも魔法の友達が現れるなら、さくたろうみたいな可愛い子がいいと思ってたけど。この七つの大罪を司る、物騒な七姉妹の五女ひとりだけでも、私の心はこんなにも安らぐ。
 ……真里亞お姉ちゃんは多分、こんなことはとっくに知っていた。だからこそ私に、あんなにも繰り返し繰り返し、魔女の世界を勧めてくれたのだ。それを私が頑固に拒否し続けたから……。もっと早く素直になって、魔女の修行を始めれば良かった。
 幼き日の一年が、老いの十年に匹敵する、だっけ…。ぐだぐだと不満だけを口にして、その貴重な時間を無駄にしたかつての自分が、今となっては憎らしい。
 マモンは、消灯しベッドに潜り込んだ私の枕元でも、ずっとお喋りをしていてくれた。
 ……約束する。
 いつか必ず、七姉妹を呼び出せる魔力を養おう。そして姉妹を賑やかに楽しく過ごさせてやろう。
 彼女らは7人で1組。……欠けさせてはいけない。家族は、一緒でなきゃ。必ず、……揃えてあげなくちゃ………。
謎の空間
【縁寿】「………………………………。」
 私の意識が、ゆっくりと戻ってくる。
 楼座叔母さんと真里亞お姉ちゃんの関係が見るに耐えなくて、……ベアトとお兄ちゃんのゲームから、私は逃げ出したんだっけ。
 ……戻らなくちゃ。戻って、お兄ちゃんをサポートして、早くこんなおかしな魔女のゲームの世界から、連れ戻さなくちゃ。ここにいる限り、……私は縁寿だと名乗ることが許されないのだから。
 ……その時、ふと、人の気配が。
 振り返ると、………そこには、マモンの姿が。
【マモン】「グレーテルさま。そろそろお戻りになられないと、ゲームの進行に差し支えるとベアトリーチェさまが仰せです。速やかにお戻りになられますようにお願い申し上げます。」
【縁寿】「…………ありがと。…もう戻るわ。」
【マモン】「良かったじゃないですか。」
【縁寿】「何が…?」
【マモン】「戦人お兄ちゃんに、出会えて。」
【縁寿】「………………皮肉?」
【マモン】「そう聞こえるなら、そういうことにしてもらってもいいですけど?」
【縁寿】「………ごめんなさい。言葉通りに受け取るべきね。…えぇ、そうよ。こんな狂った世界であっても、お兄ちゃんに出会えて、心底に嬉しいわ。」
【マモン】「そして、お兄ちゃんのために、ベアトリーチェさまに打ち勝つ…?」
【縁寿】「えぇ。……いつまでもこんな世界で遊ばれてちゃ困るもの。……そろそろお家へ帰る時間なのよ。だから私が呼びに来たわ。」
【マモン】「……………せいぜい頑張ってください。私、今の主は、ベアトリーチェさまですので、応援は出来ませんが。」
【縁寿】「知ってるわ。1986年10月5日までは、…あなたはベアトリーチェの家具よ。そしてやがては、私の友人になるわ。」
【マモン】「そしてやがては、その友人を捨てるわけですが。何しろ、……ッ、………ぐ…、」
 マモンが舌を噛んだように呻き、胸を押さえながらよろめく。ルールはどうやら、私以外にも適用されてるようだ。
【縁寿】「大丈夫? それ、結構、辛いわよ。」
【マモン】「…………………。……失礼しました。グ、…グレーテルさま。」
【縁寿】「いいえ。ありがと。」
【マモン】「………?」
【縁寿】「嬉しいわ。お兄ちゃんに出会えて。あなたの最初の問いへの答えよ。………じゃ、戻りましょ。私があまり愚図ると、あなたが今の主人に怒られるわ。」
【マモン】「はい。ご理解いただけて助かります。それではこち
【縁寿】「………………マモン? …………え?」
 マモンはきっと、「それではこちらへ…」、と言い掛けたはずなのだ。それが、……そこでフィルムが千切れてしまったように、ぴたりと止まってしまう。彼女が突然凍りついたように見えた。
 …そして気付く。凍りついたのは彼女だけではない。……空気や、舞っていた埃までが虚空に凍り付いている。まるで、時間すらも凍りついたような世界。……そう。それは、ベルンカステルが現れる時の前兆に見えた。
 しかし、どこか空気が違う。そして理解する。
 ………ベルンカステルじゃない。…もう1人の魔女の方だ。
【ラムダ】「調子はどうかしら、縁寿…?」
【縁寿】「……………ラムダデルタ。……あなたにはルールの適用はないのね。」
【ラムダ】「当り前でしょ? ルールは他人を縛るためにあるのよ。自分をそれで縛る馬鹿はいないわ。」
 ベルンカステルは私に肩入れしてくれる魔女だが、……彼女は違う。ベアトリーチェに肩入れする魔女。…つまりは、私の敵方の存在だ。
 しかし、ベアトリーチェとは何かが違う。ベルンカステルも含め、ラムダデルタの存在はどこか掴み所がない。……何と言うか、…自分より次元の高い存在とでも言うべきなのか…。
 いずれにせよ、私は彼女にどう接していいか、未だに戸惑っている。……ただひとつ確実なのは、私の敵であるという一点だけだ。…いや、それだけわかっていれば十分かもしれないのだが…。
【縁寿】「それで、……私に何か御用?」
【ラムダ】「まぁね。あなたたちの会話に耳を傾けてたら、ちょっと面白い話になったんでね。あなたにちょっと、良い話を聞かせてあげようと思って。」
【縁寿】「あなたは私の敵のはず。そのあなたが私に得する話を聞かせる理由が思いつかないわ。……つまり、耳を傾けた時点で負けということだわ。じゃあね、シーユーネクストタイム。」
【ラムダ】「誤解しないで。私の相手はベルンであって、あなたじゃないわ。……つまり、私とあなたが共に得をする話は有り得るということよ。」
【縁寿】「…………………悪いけど。私には聞く気がないわ。」
 ……そうは言ったものの、ラムダデルタが納得しない限り、この凍った時間からは解放されないだろう。……それこそが、私より高次の存在である証かもしれない。私には、彼女の話を聞かないという選択肢が与えられていないのだ。
 出来るのは、何を言われても動揺しないように、心理面での防御を固めるくらい。恐らく彼女は、私が不利になるような何かを吹き込んでくるか、脅迫してくるに違いないのだ…。
【ラムダ】「くすくすくす。そんなに身構えなくてもいいってば。私は、あなたの誤解を解きに来ただけよ。……いいえ、ちょっと違う。ベルンカステルがあなたに吐いた嘘を、教えてあげようと思ってやって来たのよ。」
【縁寿】「………ベルンカステルが、………嘘?」
【ラムダ】「あなたはベルンに、ベアトを倒せば兄が帰ってくるような、そんな言い方をされたんじゃないの?」
【縁寿】「………………。さぁ。…あなたに話す気はないけど。」
 兄が帰ってくる、なんて。そこまで夢のある約束はされていない。運が良ければ1人くらいは…、なんていう、かなり望みの低い約束だった。
 でも、私にとってはそれで充分。……永遠の孤独が約束された私には、わずかではあってもゼロでない確率は、それだけで眩しいくらいに光り輝いているのだから。
【ラムダ】「ある意味、ベルンのその約束は嘘ではないわ。……ベルンがそう約束したのならきっと、あなたがベアトを倒せば、戦人も両親も解放されてあなたのところへ帰ってくる。」
【縁寿】「何の問題もないじゃない。」
【ラムダ】「…………本気で? ………あの子は案外、残酷よね。わかってて、騙すなんて。」
【縁寿】「………私がどう騙されてるというの。」
 まずい…。向こうのペースに乗せられた。
 …しかし私は、彼女の話に耳を傾けない限り解放されないのだ。…ならば、いずれは聞かねばならぬ話…。私は罠に落ちかけているかもしれないと自覚しながらも、その先を促してしまう。
【ラムダ】「今は何年?」
【縁寿】「……このゲーム盤の世界のこと? …ならば、1986年10月4日よ。」
【ラムダ】「その通り。ならば、あなたがベアトに打ち勝ったなら、台風が去った10月6日に、島に囚われていた人々は帰還する。……1986年の10月6日にね?」
【縁寿】「……………だから何。」
【ラムダ】「あなたの1986年の10月6日はどうだった? …………親戚の家に居たんじゃなかったかしら?」
 ……母が唯一心を許していた、須磨寺の、お祖父ちゃんの家にいて。………連絡を受けた。
 畳の部屋で積み木遊びをしている時に、その連絡を受けた…。
 私がそれを思い出したらしい様子を見届けてから、……ラムダデルタは、嫌らしく笑いながら、……言う。
【ラムダ】「ネェ。アナタノ1986年10月6日ニ、戦人オ兄チャン、帰ッテキタァ?」
【縁寿】「………………………………っ。」
 何を言われてるのかわからないのに、顔中から嫌な汗がじわりと滲み出すのがわかる…。……あぁあぁ、わからない。ワカラナイ。……この魔女は、……何を言ってるの………?
【ラムダ】「いい? あなたがベアトを倒せば、戦人は確かに解放されるわ。そしてお家へ帰るでしょうね。1986年のお家に。だってそうでしょう? 戦人は1986年の10月4日から5日に閉じ込められてるんだもの。解放されたらその翌日に帰るのは当然でしょ? ……そしてあなたは? 1998年の人間。戦人が帰ってこなかった1998年の右代宮縁寿。意味、わかるゥ?」
【縁寿】「…………何、言ってるのあんたは。………10月6日に家族が家に帰ってくるなら、…素敵じゃない。私はすぐにお祖父ちゃんの家から帰るわ。そして私たちは出会う。……めでたしめでたし…。」
【ラムダ】「えぇ。右代宮縁寿は家族に再会できるでしょうね。……1986年に6歳の右代宮縁寿はねぇ……?」
【縁寿】「………私って誰。」
【ラムダ】「右代宮縁寿よ。18歳の。………いいえ、違うわ。右代宮縁寿じゃない。……そういう名前の、魔女の駒なのよ。厳密には、エンジェ・ベアトリーチェという名の、まったくの別人。……意味、わかるゥ?」
 よく、わからなくなってくる……。
 ………え? ……え? ……私って、………誰? …………え?
【ラムダ】「……だぁから、ベルンは残酷だなぁって思うの。いいえ、意地悪だなぁって思うのよね。そういう経験、なくもないくせにね。」
【縁寿】「………私…………、……何か、………騙されてる………?」
【ラムダ】「あぁ、でもどうかベルンを責めないでね? だって、考えようによっては、あの子は嘘を吐いてない。……ベアトを倒せば家族が帰ってくる。右代宮縁寿のところへ。……でも、その右代宮縁寿が、あなたのことだとは言ってないだろうけどね…?」
 そうだっけ、そうだっけ……。私、ベルンカステルに、何て言われたんだっけ……。
 あなたの助けが必要よ。……あなたの家族が。ベルンカステルはそう言いながら語り始めた。
 そして私は言った。それを救えば、私の家族は帰ってくるの? ……それに、ベルンカステルは何と答えたっけ……?
 えぇと、えぇと……。“……それは約束できないわ。”
 え、えぇと……! あの子は私に約束してくれたわ。この戦いに挑む見返りを…! そうよ、こう言った!
“見返りに、あなたの望むもっとも理想的な世界、家族の帰ってくる世界のカケラを探してあげるわ。”
 …………えぇ、そうよ。……探すとしか言ってない。見つかるとは言ってない。……でもそれは、…初めから覚悟の上。でもそれでも、……諦めない限り、わずかの可能性があるとあの子は約束してくれた……。
 そして、……最後にこう言ったわ。
“あなたに、復讐のチャンスを。…見返りに、あなたが享受できる可能性の中で、もっとも幸せな結末を探して持ってくることを約束するわ。”
【縁寿】「…………………。……初めから、辛い賭けになることは承知よ。……だって、私の1998年には家族はいない。絶対のゼロが揺らぐわずかの可能性と引き換えなら、……私にはそれだけで価値がある。仮に復讐を成し遂げても、徒労になるかもしれないと事前に脅されてるわ。……だから、………その…………、」
【ラムダ】「えぇ、その部分に嘘はないわね。ベアトのゲーム盤は完璧よ。あんたが立ち回ったところで、ベアトが敗北する可能性なんて、生涯に一度のみ夢見ることを許されるかどうかくらい、ほんのわずか。
 つまり、限りなくゼロと見なせるほどに絶対に、その勝率はほとんどゼロ。だからベルンがそういうお茶を濁した言い方になるのは仕方がない。」
【ラムダ】「……でも、あなたに夢を持たせた点についてだけは、騙してると言い切れるわ。だって、天文学的な確率を乗り越えてあんたが勝利できたとしても。家族が帰ってくるのあんたのところじゃない。この1986年に存在する6歳の、正しい右代宮縁寿のところへよ。アンタのところにじゃない。
 ……ベルンはそれでも百億のカケラを巡り、あんたに一番マシな世界を探すでしょうねぇ。そしてその彼女が言ったんじゃないの? 手土産に持参するつもりだが、見つけられなかったと。」
【縁寿】「…………言ったわ……。」
【ラムダ】「うっふふふふふ、くすくすくすくす…!! そろそろ気付いてきた…? あんた、この戦いにご褒美が用意されてないのよ。いえ、それどころか、ベアトを打ち破ればゲーム盤は消え去る。そしてその駒であるあんたも消え去る
 ………あんたに享受できるゴールは、完ッ全に、………いいえ。私の名において宣言するわ。この絶対の魔女、ラムダデルタの名において! “絶対”にないと宣言する…!」
【縁寿】「…………………そんな………、」
【ラムダ】「それがベルンの嘘よ。……煙に撒いたというべきぃ? あんたに救いがあるかのように、誤解させた。私はそれを解きに来たのよ。」
【縁寿】「……………つまり、……私はどう戦い、どう勝利を収めようとも。……私のところに、家族は帰ってこないの………?」
【ラムダ】「えぇ、帰ってこない! “絶対”にィ! をっほっほっほっほっほ!! 絶対の魔女が絶対にィって言ってるの! これって凄いことよ? 私に絶対が与えられたくて、歴史的建造物を捧げた古代の王たちが何人もいたのに! 私はそれを気前良くあんたにはプレゼントしちゃうの。これってばとってもステキでキュートでマーベラスなことなのよ? をーっほっほっほっほっほ!! でもォ! ひとつだけ良い提案があるの。」
 ………いけない。…もう完全に、私は飲み込まれている……。耳を貸しちゃ駄目なのに、……魔女ラムダデルタに、飲み込まれ始めている……!
【ラムダ】「私の相手はベルンであって、あんたじゃない。私とあなたが共に得をする話は有り得ると、さっき言ったはずよ。最初から、私はそういう話をすると言っているわ。だから耳を貸しなさい。貸すしかないのよ、あんたには…!」
【縁寿】「………………聞くわよ…、聞いてやるわよ……。……聞けばいいんでしょおッ!!」
 私の感情は、とうとう堪えきれなくなって内側より爆ぜる。
 もう、何が何だかわからない。……私は、自分が縁寿だと信じてた。なのに、私はいつの間にか縁寿じゃなくなっていた。
 そう、私はエンジェ。縁寿じゃない…! 私は誰? お父さんたちの娘でも、お兄ちゃんの妹でもない。………ただの魔女のお遊戯の、……駒…!
【ラムダ】「そこまで悲観することはないわ。……だってよく考えて? 今、あんたは戦人お兄ちゃんに出会えているわ。確かに、自らの名を名乗ることは出来ないけれど、それでも少なくとも、魔女と戦うゲームの味方同士という位置にいて、……いつまでも永遠に一緒にいることが出来る。……意味、わかるゥ……??」
 ………悔しいが、………わかる…。
 つまり、………このゲームは、お兄ちゃんが引き分け続ける限り、永久に繰り返される。引き分け続けるということは、永久にゲームが続き、私という駒は、お兄ちゃんと一緒にいられるということ。……でももし、お兄ちゃんが勝ったり、あるいは負けたりして、ゲームが幕を下ろしたなら。
【ラムダ】「駒である、あんたは消える。」
【縁寿】「…………………………。」
【ラムダ】「ゲームの駒の幸せは何? ……ゲームで遊んでもらうことだけよ。押入れに仕舞われて埃を被ることじゃないわ、そうでしょう?」
 ……かつて、煉獄の七姉妹が言っていた。家具の幸せは使役されることで、仕舞われることじゃないと。そう。……私は今やもう、…………魔女の、………家具。
【ラムダ】「話を少し変えるわね? ……実は私、このゲーム、永遠に引き分け続けてほしいと思ってるの。終わらないゲームは永遠の檻。……ベルンを今度こそ屈服させる未来永劫に開かれることのない絶対密室よ。
 ……ベアトはね、一応は勝つ気があるの。戦人を屈服させるという勝利ね。でもね、実はそれも私には困るのよ。
 だって、ゲームが終わっちゃったら、密室が崩れてしまうもの。……だから私、戦人が屈服することだけはないように、ある程度の手心は加えてるの。安心して? 戦人が屈服し掛けると、私は彼の味方になったりもしてるのよ。」
【ラムダ】「………ただね。どうもベアトのやつ、それに薄々気付き出してる気がする。……このゲームに、自分の勝ちは永遠にないんじゃないかって、気付き始めてる気がする。
 でもそこはさすが、無限の魔女。ベアトは馬鹿だから、それでもいつかきっと勝てる、それまで延々と無限にゲームを繰り返せばいいと楽観してるわ。金髪の女は大抵バカと決まってるものよ、くすくすくす!」
【縁寿】「………この魔女のゲームには、………勝利も敗北も、ないってことなの……。」
【ラムダ】「私が勝たせない。そして負かせない。絶対に! ……ベルンはそれに気付いてる。そして、それを破るためにもっとも強力な駒としてあんたを見つけ、送り込んできた。このゲームを終わらせるためにね?」
【縁寿】「………このゲームを、終わらせる……。」
【ラムダ】「終われば駒の役目は? ………はっきり断言する。あんたは、存在が矛盾してるのよ。……自らの存在理由が、自らを闇に葬り絶望するため…!」
 私の目的は、ベアトを倒し、囚われている家族を解放すること。……なのに、それが成し遂げられても、私は報われない。
【ラムダ】「負けられない。そして勝っても報われない。……だから私は第3の選択肢をあなたに持ってきたの。そしてその選択肢は、私とあなたの利害を一致させるわ。」
 …………永遠に、引き分け続けること………。
【ラムダ】「そう。……永遠に引き分け続ける限り、この世界は崩壊しない。……この世界は何? ………魔女とのゲームの世界。ベアトと戦人が永遠に戦い続ける世界。……そして同時に。あなたが永遠に戦人と一緒にいられる世界なのよ……!!」
【縁寿】「…………………う、…………う……ぁ…………。」
 頭がぐちゃぐちゃになる。その混沌が熱い汁になって、目から溢れ出すのがわかる…。その熱さで……、顔を火傷してしまいそうなくらい…。
【ラムダ】「ねぇ……? エンジェ・ベアトリーチェぇえぇ…?? ゲームを終わらせ、あなたと戦人の交流できる世界を終わらせようとするのが目的のベルンカステルに、味方する理由がどこにあんのォ…?
 ……あの子はあんたを騙してたのよ? 自分の駒になれば、あんたが救われるかのように誤魔化してね。でも、私はそこを誤魔化さない!
 ……だから言うわ、エンジェ。私の駒になりなさい。私はベルンのように、絶対にもらえない嘘のご褒美なんてちらつかせないわ。私の駒となり、このゲームが“絶対”に終わらないように私に協力する限り。私はあんたに、この世界が“絶対”に続くことを我が名において“絶対”に約束する!
 それだけじゃないわ。ボーナスも付けてあげる。あなたに課せられている、ルール。………それを取り払ってあげるわ。まぁもちろん、私の駒になると誓ってもらった後にだけどね?」
 自分の喉が、……ごくりと、重くて大きな音を立てる……。あぁ、聞かなきゃ良かった……。聞かなければ、私は兄の勝利を祈る、純粋な妹でいられたのだ。
 ……でも、もう私は違うかもしれない。…お兄ちゃんの側にいられればいいだけの、………魔女の家具に、成り下がっているのかもしれない……。
【ラムダ】「……兄を裏切れと言ってるわけじゃないんだからね? 戦人が負けそうになったら、全力で助ければいい。……逆に、戦人がベアトを追い詰めすぎたら、少し加減を変えてあげてほしいと、……その程度のお願いをしてるのよ?
 大丈夫、戦人を裏切るほどの必要はないわ。……戦人ひとりじゃ、ベアトには勝てない。だからベルンはあんたを送り込んだんでしょ? ……あんたが手を貸さない限り、戦人は永遠にベアトには勝てない。
 ね? とってもカンタンでしょォ? ……くすくすくす、ほっほほほほ、あっはははははははっはっはっはっはっはッ! かっはっはっはっはっは、きゃーっはっはっはっはっはっはっはっは!!」
 縁寿が召喚した煉獄の七姉妹は、EP3で描写されたよりも性格が穏やかである。同じキャラクターでも、縁寿とベアトではイメージが異なることを意味している。

私の世界

街角
【レヴィア】「ちょっとー!! それ、私のー! かーえーしーてぇー!!」
【ベルゼ】「やだやだ、私が食べるの〜! アスモ、アスモ、パース!」
【アスモ】「きゃーはははは! レヴィアお姉様、こっちこっちぃ〜!」
 どこからくすねて来たのだろう。ドーナツか何かを争って、実に賑やかに戯れている。
【サタン】「こらあああ!! 縁寿さまは読書をなさってるのよ、少しは静かに出来ないのッ?!」
【ルシファー】「そう言ってるサタンが一番うるさいのよ、沈黙なさい!! この愚妹が!」
【サタン】「ル、ルシファーお姉様の方がうるさいです!! も、文句がおあり?!」
 長女と三女の口喧嘩ももうお馴染みだ。二人とも怒りんぼのくせに、少し腰が引けているっぽいところが何だか面白い。案外、似た者同士なのかもしれない。
【ベルフェ】「くっくくく。賑やかにしていろとの仰せでしたが、これではさすがに。少しボリュームを下げさせますか?」
【縁寿】「…………気にしないで騒いでてくれていいわ。教室の黄色い笑い声より百倍心地良いもの。」
【マモン】「縁寿さまぁ、早く次のページぃ! 縁寿さまは読むのが遅いぃ!」
【縁寿】「マモンは読書が好きなの? 地味なことが一番苦手そうに見えるのにね。」
【ベルフェ】「マモンが司るのは強欲。……知識欲にもそれは通じます。ただし、独占したがるので、本を与えると人に読ませまいと、読書後に焼いてしまうこともあるのでご注意を。」
【マモン】「私は、誰も知らないことを、私だけが知っているのが好き。誰も出来ないことを、私だけが出来るのが好き。だから勉強は好き、練習は好き。私だけが、誰も知らない英知を、独り占めしたいから。」
 マモンはそう言い、目を輝かせながら、今開かれているページをもう一度読み直すように凝視する。同じページを、私以上に貪り尽くしてやろうという強欲さが現れていた。
 見ての通り、私の魔力は初めて彼女らを呼び出した日に比べ、ずっと強くなっていた。今では、煉獄の七姉妹を同時に呼び出しながら、こうしてのんびり読書が出来るまでになっている。
 ここは、どこだか思い出せないけれど、のんびりとした静かな街並のベンチ。私は幼かったから、ここがどこなのか、覚えていないのだ。
 ……しかし、ここを歩いた日が、とても楽しかったことは覚えてる。お父さんとお母さんと、…そしてお兄ちゃんも揃った、本当に全員が揃ったとても珍しくてとても幸せな日の記憶…。
 時折、道往く人々は私たちの姿には気付かない。ただ、心地良く無視して、普通に通り過ぎてくれるだけだ。
 七姉妹たちのすごい格好も、別に誰かに見られているわけでもないのだから、恥ずかしくも何ともない。というか、割と慣れた。私が着させられるわけでない限り。
 私はお洒落なベンチに腰掛け、世界史の年表を暗記中だ。……何でも連帯責任になる学園の校風は、落ち零れをやさしく許容なんてしてくれない。
 何でも、私がクラスの平均点を著しく下げているらしい。極めて理知的な彼女らの話によると、私ひとりが改善されるだけで、大幅に平均点が上がるらしい。
 ……ご丁寧にも、B4の画用紙にカラフルなペンでそれをグラフにしてまで示してくれた。…その書く手間を考えるだけでも、おぞましい。でも、そういう愚痴はもう全て吐き出した。……腸が煮えくり返るような怒りや悲しみは全て彼女らに吐き出した。
 七姉妹たちは、ある時は憤り、ある時は同情し、ある時は私と一緒に悲しんでくれた。……そういう感情を共有してくれる友人がいてくれることが、本当に嬉しかった。
 彼女らは本来は、ベアトリーチェの残酷な生贄の儀式を行なうための家具だったという。……私を不快にさせる、オカルトメッセージボトルによるならば、…彼女らの何人かは、私の家族を手に掛けてさえいるらしい。
 しかし、私はそれを信じないし、彼女らにそれを詰問しても無駄なことだ。彼女らは家具なのだから、主のリクエストに応えるだけなのだ。もし本当に彼女らが私の家族に手を掛けていたとしても、彼女らを憎むことは出来ない。
 ……私が本当に憎むのは、……黄金の魔女ベアトリーチェ。………もしくは、六軒島疑惑の張本人、絵羽伯母さん。
【マモン】「……縁寿さまぁ、早くっ、次のページっ。」
【縁寿】「あぁ、ごめん。………疲れたわ。少し休憩させて?」
【アスモ】「きゃはは! 縁寿さま、休憩だって!」
【ベルゼ】「遊ぼ遊ぼ! 縁寿さま、遊ぼー!!」
 私が勉強を中断したことに気付くと、一番賑やかな末っ子たちが群がってくる。
 それだけではない。真里亞お姉ちゃんにさくたろまで姿を現す。私のすぐ近くにいたのだろうが、勉強の邪魔にならないように姿を消していてくれていたに違いない。
【さくたろ】『うりゅー! 縁寿〜! お勉強どう?お勉強どう?』
【マモン】「きゃー!! さくたろー!! 元気ぃいいぃ?!」
【レヴィア】「ちょっとお! 私にもモフモフさせてええ!!」
【ルシファー】「早い者勝ちだっていつも言ってるでしょう?! きゃー、可愛い可愛い!」
【さくたろ】『うきゅーー、潰れちゃうよー! うりゅーー!』
【ベルフェ】「七姉妹が揃ってる時に現れたのが運の尽きだ。大人しく、モフモフされてもらおう。」
【サタン】「もう! いっつもこんなにしてしまって!! 愚昧な姉と妹どもが申し訳ありません…!」
【真里亞】「あははははは。さくたろもみんなに会えて喜んでるよ。……どう、縁寿? お勉強の調子は。」
【縁寿】「ありがと。まぁ、そこそこには。ご丁寧にも、他のクラスで先にあった小テストのプリントが回してもらえたの。麗しい連帯感に涙が出るわ。……とりあえず、年表を頭に入れるだけでも、まぁ、多少はマシかしら。」
【さくたろ】『うりゅ。縁寿お勉強偉い。いっぱい点数取れるよ、うりゅ〜〜。』
【真里亞】「お疲れ様。真里亞、お勉強は全然駄目だったから、ちゃんと勉強すれば点数が取れる縁寿が羨ましいよ。」
【縁寿】「ご冗談を。英語、ラテン語、オカルトの知識。そんなのを丸暗記出来てるお姉ちゃんの方がよっぽどすごいわ。」
【真里亞】「真里亞は魔法のお勉強は何でも覚えられるけど、つまんないお勉強は何も覚えられない。だからテストでも何も役に立たない。」
【縁寿】「確かにオカルトの知識はどうかと思うけど、英語なんかは成績に結びつくんじゃない?」
【真里亞】「小学1年生の時、国語のテストで、鉄砲のイラストの脇に四角が4マスあって、そこに名前を書きなさいって問題があった。ライフルって書いたらバツだった。」
【縁寿】「どうして? 合ってるじゃない。」
【真里亞】「“てっぽう”が正解だって。カタカナは小学1年生では習わないから駄目だと言われた。……真里亞はよくわからないから、その日以来、テストでは全てひらがなで書くようにしたよ。でも、なぜかママには怒られる。先生にも怒られる。」
【縁寿】「…………………。…お姉ちゃんは多分、生まれる国を間違えたわ。」
【真里亞】「なら真里亞、魔女の国に生まれて、魔法学校に入りたかった。うー。」
【さくたろ】『そしたら、もっともっと素敵な魔法の友達がいっぱいいたかもね! うりゅー!』
【真里亞】「うー♪ でも、別に今は何も気にしてないよ。だって、魔法はいっぱい使えるし、魔法のお友達もたくさんいる。真里亞には、さくたろがいれば充分だもの。」
【さくたろ】『ボクだけじゃないよ! さくすけもさくきちも、動物の音楽隊も、アザラシの下田くんもウサギの早苗さんも子豚のピグ夫くんも、他にもいっぱい!』
 ……すごいな。お姉ちゃんの友達は増える一方だ。聞く度に友達の名前が増えていく。でも、さくたろが一番の友達であることは間違いない。…そんな親友がちょっぴり羨ましい。
【真里亞】「……どう? 七姉妹は。仲良くやれてる?」
【縁寿】「本当に賑やかな姉妹たちよ。……たまに物騒なことを言い出すけど、悪くないわ。…本当はさくたろみたいな、可愛い子が良かったんだけど、今は彼女たちと一緒でも、充分いいかなって思ってる。」
【真里亞】「くす。もっと私の原初の魔法を学んだなら、きっと縁寿の好みの友達を生み出せるようにもなるよ。今の縁寿に創造はまだちょっと難しいね。」
【縁寿】「創造と召喚は違う。……そして、反魂もまた違う。」
【真里亞】「……………。やっぱり、一番の願いは、家族を蘇らせること…?」
【縁寿】「うん。…………依り代は持ってるよ。これ。」
【真里亞】「そうだね。…その頭飾りなら、いつかきっと、戦人を呼び出す鍵になるよ。……あとは縁寿の修行次第だね。」
【縁寿】「それが、いつまで掛かるのかわからないのが泣けるけれども。」
【さくたろ】『うりゅ…。辛くてもしっかり…。縁寿が諦めなければ、絶対に絶対にいつか叶うよ…。』
【縁寿】「絶対に叶うという保証を、誰かがくれたなら、きっと心も休まるでしょうにね。」
【さくたろ】『うりゅ! ならボクが保証するー! 縁寿はいつかきっと、必ず願いを叶えられるよ!』
【縁寿】「……ありがと。気休めでも嬉しいわ。」
【さくたろ】『気休めじゃないよぅ、うりゅー。』
【真里亞】「駄目だよ、縁寿。そういう感情は反魔法の毒素になるよ。夢は必ず叶うって気持ちが、一番よく芽吹く魔力の種なんだよ。」
【縁寿】「…………。……そうね、ごめんなさいお師匠様。」
【マモン】「縁寿さまは少し強欲さが足りないのよ。欲しい物のためにはどこまでも! 手に入れるまで絶対に諦めないという、根性が足りない!」
【さくたろ】『うりゅー! そんなことないよ、縁寿はがんばってるよ…!』
【縁寿】「ありがとう、さくたろ、マモン。泣き言なんて何の足しにもならないもんね。私にはただがんばるしか道はないのよ。努力するわ。歯を食いしばってね。そして必ず夢を叶えるわ。絶対に。」
【さくたろ】『うりゅ! 縁寿偉いよ、がんばろう! ボクもマモンも応援するー!』
【マモン】「えぇ、応援します。主が強欲であればあるほど、私たちの価値も上がるというもの。」
【ベルゼ】「それより縁寿さまぁ! せっかく10人も集まったんだしー!」
【アスモ】「みんなでしりとりでもして遊ぼうって提案がありましてぇ!」
【ベルゼ】「負けたら罰ゲーム! 私に耳をかじらせて〜!」
【サタン】「もうッ、あんたの頭には食欲以外ないの?!」
【ルシファー】「愚妹どもの愚かな提案をお許しください…。そろそろ勉強に戻られなくても大丈夫ですか?」
【レヴィア】「やだやだやだぁあああ!! ずっとお勉強終わるの待ってたのに、遊んでもらえないなんてやだぁああぁ!」
【ベルフェ】「悪くない提案と思います。たまには遊ぶのも、良い頭の柔軟になるかと。」
【縁寿】「…………ベルフェが司るのは怠惰だっけ? もっともらしいことを言ってるけど、うまいことを言ってるわね。」
【ベルフェ】「ふ。失礼しました。……縁寿さまは勤勉でおられる。」
【真里亞】「縁寿さえ良ければ、私もみんなで遊びたいな。みんなでわいわい。きっと楽しい。」
【さくたろ】『うりゅー! 縁寿縁寿、遊ぼう遊ぼう! みんなでしりとりをやろー!』
【ルシファー】「では、さくたろの“うりゅー”からスタートで。………この場合、何からになるの? “りゅ”? “ゆ”?」
【真里亞】「“うりゅー”から? ……………何だろね。やっぱり、“りゅ”?」
【縁寿】「……こんなおかしな語尾の単語が出てくるなんて滅多にないし。」
【マモン】「じゃあ私が一番!! “りゅ”から行くね! 時計のネジの“竜頭”〜!」
【レヴィア】「私が一番に言いたかったのにぃ! “リュート”の方が素敵ぃ!」
【縁寿】「“ず”? 何だかさっきから難しいのばっかりね。…というか、順番どうなってるの? 次は誰?」
【さくたろ】『うりゅ。誰でもいいと思うよ。思いついた人順でいいよ。』
【真里亞】「何それ、面白いね。いっぱい言えた人が勝ち? 早口しりとりだね!」
【ベルゼ】「じゃあ私行くね! “ズッキーニ”! “ニンニク炒め”! “芽かぶのパスタ”〜! どれも美味しそう! きゃは、3つも言っちゃったぁ!」
【ベルフェ】「ベルゼ、3点獲得っと。……接続詞はありなのか?」
【サタン】「“の”がありになったら、何でもありになっちゃうわ!! 最後のは駄目よ! 1点減点!! “め”からよ。」
【真里亞】「じゃあ真里亞ね。“メレンゲ”〜!」
【さくたろ】『“げ”?? …う、…う、……うりゅー!』
【ルシファー】「“下水道”、“埋立地”、“地下室”。ざっとこんな感じ?」
【レヴィア】「お姉様、何だか品のない単語ばっかりー、くすくす!」
【ルシファー】「な、何よ、じゃあ品のいい単語で続けてみなさいよっ!! とにかく私、3点ね。次は“つ”よ、“つ”!」
【真里亞】「こんな変なしりとり初めて。うーうー! 面白い!」
【さくたろ】『うりゅー! 全然わかんないけど面白い。うりゅー!』
 普通のしりとりをしたことはあるけれど、こんなおかしなしりとりは始めての経験だ。ただでさえ賑やかな七姉妹に、真里亞お姉ちゃんにさくたろに、私。こんな楽しい仲間たちに、私は今や囲まれている。
 ……魔法の世界、魔女の世界を受け容れる勇気。…それを持つだけで、私は相変わらず学園に閉じ込められていて、クラスにはたったひとりの友達もいないことに変わりはない。にもかかわらず、こんなにも楽しく賑やかに過ごせている。
 ………私も、真里亞お姉ちゃんのような、魔女になろう。そしていつの日にか、この楽しい輪に、家族も加えよう。
 お父さん、お母さん。そしてお兄ちゃん。……もし許されるなら、譲治お兄ちゃんや朱志香お姉ちゃんも。他の親戚たちも。みんなみんなここに呼んで、誰一人欠けることなく、…みんなで集まろう。
【縁寿】「……それが私の、夢。……そうよ。私はそれを叶えるまで、絶対に挫けない。」
【マモン】「縁寿さまはきっと大魔女になられます。あなたがそうだと信じるだけで。我ら煉獄の七姉妹は、その日まで常にお側にお仕えするでしょう。」
【縁寿】「いてくれる…? いつまでも。……私の力になってくれる?」
【マモン】「当然。だって私、縁寿さまの友達じゃないですか?」
【縁寿】「……………………。……えぇ、そうね。常に全員揃って、みんなで遊びましょう。今も、これからも、ずっと、ずっと。」
【マモン】「縁寿さまが夢を叶えられる日まで。」
 10人での賑やかなしりとりが、いつまでも温かな日差しの時間のまま切り取られた明るい街並みの中で、いつまでも続けられるのだった……。
聖ルチーア学園
「………マジ、本当、どーゆうわけぇ、右代宮さぁん?」
【縁寿】「…………………………。」
 ……結局。私はテストで、大した成績を取ることは出来なかった。私なりに暗記をしたつもりだったが、そんな一夜漬け程度でどうにかなるなら、誰だってテストで悩んだりしない。
「予め問題がわかってたら、普通、楽勝じゃない? 楽勝ぉ!」
「さすがの私たちも、空欄に答えまでは書き込みませんでしたわ。その程度はお勉強してくれると信じてましたからぁ。」
「何これ?! ちょっとマジこれ、信じらんなぁい! ほとんど駄目じゃない? あんた本当にちゃんと予習したわけぇ?!」
【縁寿】「………………一応…。」
「一応ってレベルじゃありませんことよ、右代宮さん。……ここまでひどいと私、眩暈すらしそうですわよ?」
「おぉ、神よ。こんなカンタンなテストすら無残な成績を残し、クラス全体の平均点をガタ落ちさせる彼女をどうかお許しください…!」
「くすくすくすくす、けらけらけらけら、あははははははは。」
 ……同じテストが、先に他のクラスで行なわれた。そのテスト用紙が入手されていたので、今回のテストの平均点は非常に高かった。私のささやかな点数アップなど霞む位に。
 しかし、……言い訳の余地のない部分も、若干はある。あの日一日を、死に物狂いで勉強していたなら、あるいはもうちょっとは点数が取れていたかもしれない。
 ……しかし私はそこまではしなかった。だってあの日はあの後、…七姉妹とさくたろとお姉ちゃんと、……楽しくしりとりをして過ごしてしまったのだから。
 優勝したのはやっぱり真里亞お姉ちゃん。色々な雑学知識を持っているから強かった。罰ゲームはさくたろだった。
 みんなの解答を、きゃっきゃと褒めてるばっかりで、自分が解答するのをすっかり忘れてたから。……そんなわけで七姉妹に揉みくちゃにされて、耳をはむはむされまくっていたっけ。
「ねぇっ、聞いてる右代宮さん?!」
【縁寿】「………………………。」
 彼女らは私を取り囲んだまま、小鳥のように囀る。うるさくて、臭い。
 その輪の外にマモンがいて、呆れた表情を浮かべている…。
【マモン】「相変わらずおかしな学校ね。自分の成績が良かったなら万々歳じゃないの?」
【縁寿】「………連帯責任とやらのせいでしょ。彼女らにとって、自分の成績がどうこうじゃなくて、クラスの平均点が低くて恥ずかしい方が問題なのよ。あるいは、その結果、罰則として与えられる奉仕活動が嫌で嫌で仕方ないのかもしれない。」
【マモン】「それってつまり、成績を良くしたいから勉強してるとかじゃなくて、連帯責任や奉仕活動が嫌だから勉強してるって意味?」
【レヴィア】「……妬ましくて恥ずかしいのよ。誰かより劣りたくない、辱められたくない。そんな気持ちだけが、彼女らを勉強に駆り立ててる。」
【ルシファー】「勉強がしたければ勝手にすればいいのに、騒がしいやつら。」
【ベルフェ】「つまるところ。連帯責任も奉仕活動もなければ、彼女らは勉強などする気もないわけだ。……勉強の意味も知らず勉強することの、何と愚かしいことか。」
【サタン】「しかし、本当にこいつらはうるさくて馬鹿馬鹿しいッ! 縁寿さまの貴重な昼の一時を邪魔するなというのに!」
【アスモ】「わあん、こいつら嫌いー!! 早くどっか行っちゃえー!!」
【ベルゼ】「お腹空いたぁあぁ!! 早く消えちゃえぇ、わあああん!!」
【縁寿】「………………。………ごめんね、みんな。ニンゲンってのはどうしてここまで浅ましいのかしらね。」
【マモン】「自分で努力するより、縁寿さまに努力させる方が、楽で強欲に平均点を稼げるってことでしょう。……ニンゲンなんて、みんな強欲。そしてより楽なようにそれを強いる。
 …こいつらとはやがて、煉獄の山で再会するわ。第五冠を抜ける時は、せいぜい己が足元に注意することね…。」
 マモンは、天国へ至る山、煉獄山の第五冠を司る。……彼女がこう約束してくれた以上、彼女らの死後、のんびりと天国へ旅立てることは断じてないだろう。…いや、むしろ、地獄へ堕ちろ。
聖ルチーア学園・教室
 クラス委員会は生徒会に対し、昼休みと放課後の教室使用を申請した。
 使用目的は、クラス勉強会。私ひとりを囲んで勉強させるための、ありがたくて涙が出る催しだった。私は毎日、昼休みの全てと放課後の3時間を、奪われることになったわけだ。
 生徒自治をモットーとする学園と生徒会は、生徒による自主的なこの微笑ましい活動を、二つ返事で承認した…。つまり私は、放課後に逃げるように教室を後にすることが、出来なくなったわけだ…。
 放課後に、さっそく第1回のクラス勉強会が開かれた。教科書を開いて、私にもわかるように懇切丁寧に教えてくれる? そんな甘い幻想はさすがにない。
 放課後の教室に、私の席を取り囲むように十数人のクラスメートがいた。
 まず、勉強を始める前に。なぜ私の成績が悪いのか。その理由は何なのか。それをはっきりさせて、自覚、反省をしてもらわないことには始まらない、ということになった。
 ……もちろん、そんなことを聞かれても、私には答えられるわけもない。
 彼女らは私を忌み嫌ってきた。そしてコミュニティに私を加えないよう、拒絶して遠ざけてきた。だから私も、彼女らのコミュニティを避けるようにしてきた。そこに、両者の衝突はないはずだ。
 だから、彼女らがクラスの平均点を上げようと意気込むそのコミュニティにも、当然、私は足を遠ざけた。私がそのコミュニティに加わろうとしても、彼女らはそれまで常にそうしてきたように、私を無視しただろう。
「言ってくれれば私たち、いくらでも教えてあげたよ? ねーーー?!」
「「「ねえーーーーッ!!!」」」
 彼女たちはそう息巻く。……彼女たちの後付けの偽善はもううんざりだった。
「右代宮さんの悪いところはね、協調性がないところなのよ。自分さえ良ければいいって思ってるその考えがいけないのよ。」
「聖ルチーアの学び舎に集う者は協調の心を持つように。ちゃんと生徒手帳にも明記されてましてよ?」
「協調性があれば、クラス全体に貢献するために一緒にお勉強しようという意思も生まれると思うの。そここそが右代宮さんに、お勉強以前に欠けている部分だと思うんだけど、どう思うかしらぁ?!」
「ねーぇ、さっきから私たちの話を聞いてるゥ?! 貴女のために私たちはわざわざ放課後に残ってこうしてお話しているのよー?!」
 …………………。ありがたくて、涙が出る。
 もちろん、それを咎められた。“これではまるで、私たちが虐めてるみたいじゃない”と、さらに叱責された。幸い、涙なんて普段から絞り尽くしてる。泣くなと言われたなら、堪えることだって出来るさ。
 私はまず、反省文を書かされて、発表させられることになった。もちろん、今日の話だ。
 クラス委員長が律儀に生徒会と職員室に、教室使用の延長を申請してくれた。……あっさり受理されたらしい。つまりこれで、私は今からたっぷり5時間以上もここで自己批判を強いられるわけだ……。
 ——右代宮縁寿は、テストの成績が低くて、クラスメートに迷惑を掛けました。
「違うでしょぉーッ?!?!」
「成績が低くて迷惑を掛けたってのは、根本じゃないでしょお?!」
「協調性でしょ、協調性!!」
「もーッ!! 何で右代宮さんの反省文の書き方まで私たちが指導しなくちゃならないのよー!」
 彼女らの口汚い罵声が次々飛び交う。
 私は彼女らの“指導”に従い消しゴムを入れた。——右代宮縁寿は、協調性がなくて、クラスメートに迷惑を掛けました。
「ねぇ、ちょっとお、私たちが言ったのをそのまま書いても意味ないのよ?!」
「あんた、反省って意味、わかってんのー?!」
「自分の言葉で書かなくちゃ意味がないじゃない、自分の言葉で書かなくちゃッ!」
「右代宮さんって、ちょっと不思議な子だなって思ってたけど、やっぱり変わってるよねー! くすくすくすくす!」
 彼女らの指導に従っても、あまり罵声は変わらず、むしろ嘲りも増えた感じだった…。
 私はそうして数時間もの間、休むことも、お手洗いに行くことも許されず、当然、夕食さえも許されずに、延々と罵倒されながら。……自らを辱める文章を書き上げることを強要され続けた……。
 そして夜も9時を回り、……私はそれを起立して読み上げるように言われた。その文面は、……涙の跡と消しゴムの跡で真っ黒にくすんでいた。
 確かに私の筆跡だけれど、……まるで内容に覚えのない、魂の篭らぬ文字が列挙されている。
 それらは全て彼女らが指導したものを書き写したものだ。だから、たとえ私の文字で書かれたとしても、私の言葉ではない。
 それを書き取ることを強要され、さらに発表することを強要される。………私は、人の虐め方には、無視や、物を隠すだけでなく、こういうものもあるのかと今さらながら驚かされる……。
「ほらあ! 早く読み上げなさいよー!!」
「右代宮さんのために、これだけの人間がこんなに遅くまで付き合ってるのよ? 少しは感謝したら?」
「そこで感謝の気持ちがわかないという時点で、もう協調性が欠片ほどもないのよね?」
「大丈夫よ、右代宮さん。これからは私たちがいつも一緒にいてあげるから。一緒にお勉強して、生まれ変わりましょう? ね?」
「くすくすくす「あははははは「きゃっひゃひゃひゃひゃひゃ!!」」」
 私は彼女らに囲まれたまま、席を起立し、……その黒ずんだページに目を落とす。そして……その辱めの言葉を口にするが、すぐに、よく聞こえない、もっと大きな声でと罵声が飛んだ。
 ……………読めない。自らの口で、自らを辱める文章を読まされることが、こんなにも辛いことだなんて、知らなかった。喉が震える。指先も震える。……自らの筆跡で書かれた屈辱的な文章が、瞳の奥を熱い液体が焼く。
 だから世界が潤んで歪んだ。私を取り囲む彼女らがみんな歪んで見えた。……私が彼女たちに持っていた印象そのままの姿に歪んで見えた。だからそれはつまり、……正しい視界だった。
 その歪んだ人垣の向こうに、……私の友人たちの姿が見える。皆、瞳には同情を浮かべていた。
【真里亞】「………縁寿、………しっかり…。」
【さくたろ】『うりゅー………。』
 真里亞お姉ちゃんとさくたろが、悲しい目で私を見ている。安っぽい同情の言葉すらも、私を傷つけると知っているからだろうか。……何かを口にしようとしては俯くことを、繰り返す。
【アスモ】「何なのよ、こいつら…!!」
【ベルゼ】「最低のヤツら! 腸が煮えくり返るわよ! 縁寿さまを寄って集って嬲り者にして、何が楽しいわけッ?!」
【レヴィア】「妬ましくても吐き出せない怨嗟。誰でもいいのよ、吐き出せればね。最低のヤツら。」
【サタン】「縁寿さまッ! ここはご自身の名誉のために怒り狂うことが許される場面です!! 怒りは正当な感情で正当な反応! ここで怒らなかったら、どこで怒るんですかッ!!」
【ルシファー】「やめなさいよ、安っぽく縁寿さまを怒らせないでっ!! それが出来たらもうやってるわよ縁寿さまはっ!!」
【ベルフェ】「……………怒って状況が改善できるならそうすべきだ。だが、客観的に判断して、それはますますに状況を悪化させるだけだろう。……屈辱的だが、今は耐えるのが賢明だ。」
【マモン】「あっは! さっすがベルフェ姉は怠惰やってます! ふざけないでよ、私は耐えられない!! こいつらが許せないッ!!」
【さくたろ】『…み、みんな騒がないで…。縁寿の負担になっちゃうよ…。』
【マモン】「負担?! なに言ってんのよ、ここは騒ぐところでしょ?! 私たち家具は、主が侮辱されているのを見て冷静で居られるほど残酷じゃないッ!!」
【サタン】「縁寿さまッ!! そんな侮辱の文章を読む義務はありません! 怒りの声を上げられないなら、せめてその屈辱の文面を床に叩きつけて!!」
【マモン】「口汚く罵らなくていい、仰け反らせるほどの大声をあげなくていい! ただ渾身の力でそのノートを床に叩きつけて…!! それだけのことで、縁寿さまは強い意思を示すことが出来る!!」
【ルシファー】「勝手なことを言わないでっ!! 言ってるでしょ?! それが出来るもんなら縁寿さまだってとっくにやってる!!」
【ベルフェ】「一時の感情の爆発は何も解決しない。むしろ、縁寿さまに対する風当たりを悪くするだけだとなぜわからん!」
【アスモ】「わああああああん!! 縁寿さまは悪くないのに何でこんな目に遭うのお?!」
【ベルゼ】「夕飯も食べさせてもらえないで、放課後からずっとこんななんて嫌ぁああああ!!」
【サタン】「今夜だけじゃないわ、今日も明日も明後日も!! いい加減にして、こんな屈辱耐えられないッ!!」
「ねえ!! 私たちの話、本当に聞こえてるッ?!」
 私の髪が、ぐいっと引っ張られる。……私は無惨な現実に引き戻された。…七姉妹たちが私の胸中を代弁してくれるその言葉に耳を傾けることさえ、もはや許されなかった。
 掴み上げられ、片方の髪飾りが取れ、床にコツンコツンと落ちて転がる音が聞こえた。
 ……誰も拾わない。むしろ、何か汚いものでも転がってきたかのように、さりげなく避けた。私がそれを目で追おうとすると、再び髪が掴み上げられた。
「何で私たちがこんなに真剣に話してるのに、いっつも聞いてないわけ?!」
「右の耳から左の耳ってヤツぅ? それとも馬の耳に念仏かしらぁ?! あんた、いい加減にしてよね?!」
「私たち全員に迷惑掛けてるって自覚、本気であるの? 私たちに言われてるから嫌々、書いたとか言い出すんじゃないでしょうね?!」
「あんたが本当に自分の意思で反省できるまで、マジで終わんないからね? 今日だけじゃないよ。明日も明後日もマジで続くからね? あんまり舐めてんじゃないわよッ?!?!」
「つーかさぁ、何でまだ生きてんの? 生きてられる普通? 私なら死んじゃうね!」
「生きてられないよねー?! だってさ、生きてるだけで迷惑掛けてるだけでしょ? 私だったら絶対に生きてられない!」
「うんうん、私だったら死ぬね。その方が世の中のためになるなら、すぐにでも死んじゃうよー! ねええー!!」
 ……じゃあ死んでよ。
【マモン】「縁寿さま……。」
【縁寿】「こいつら全員、今すぐ殺してよあんたたちッ!! ルシファー、聞こえたッ?!」
【ルシファー】「えっ、……あ…。」
【縁寿】「あんたたち煉獄の七姉妹は、ニンゲンなんかあっという間に皆殺しに出来るすごい家具なんでしょ?! あんたらいつも私にそう自慢していたわッ!! ならやって! 今すぐこいつらを皆殺しにしてッ!! 今すぐこの場でッ!!」
【ルシファー】「………それは……………、」
 ルシファーはなぜか口篭る。
 ……何で? どうしてよッ?! 目にも留まらぬ速度で飛び回って、魔女の敵の心臓を即座に貫く、必殺の家具でしょう? そしてそれを主である私が命じてる!! 今すぐ実行しなさい! 殺して!! こいつらをみんな殺せええええぇええぇえぇッ!!
【ルシファー】「……………………え、縁寿さま……。…どうか、落ち着いて……、」
 もしも彼女らが私の残酷な命令に直ちに従い、私を中心に屍を累々と並べて見せたなら。……私は人の命をあっさりと奪ってしまった自分の暴挙を、悔いて後悔し、彼女らが望んだように自ら反省するつもりでいた。その覚悟があった。
 なのに、ルシファーは戸惑いの表情を見せるだけで、私の命令を実行しようとはしなかった。
 ………………わかってた。わかってたさ。……薄々は。いや、違う。……最初っから知ってたんだ。だから私は……、……魔法なんて虚しいって、わかってたんじゃないか……。
【縁寿】「……何が煉獄の七姉妹よ…。……下らない、下らない…。…………私、最初っから知ってたんだから……。」
【ルシファー】「…………え、……縁寿さま…。…………ッ、ッッッッ……!!!」
 不甲斐ないルシファーの瞳をぎょろりと睨みつける。…するとその凝視は、どうやら痛みを伴ったらしい。ルシファーは凄まじい頭痛に襲われたかのように、自らの頭を両腕で抱え込む。
 しかし、私の凝視から目は剥がせないらしい。……だからますますに激痛が彼女を襲う。
【縁寿】「…………………………………。」
【ルシファー】「ぐぐぐ、あ……がが、が………ッ!! はがッ!!!」
 役立たずが役立たずが……!! あんたなんて大嫌いッ!! 消えてしまえ…!! あんたなんて所詮、私の中の妄想じゃない…!!!
 絶望と失望。諦めと夢の終わり。厳冬の湖で、氷結した湖面が立てるような亀裂音が一度だけ響く。その音と同時に、激痛に苦しむルシファーの姿が、そのままの姿で硬直し、白濁した。
 ……まるで、美しく磨かれた窓ガラスが、無残に叩き割られ、無数のひびによって真っ白になってしまうのに、よく似ていた。
 そしてそれは、正しい表現だった。ルシファーの姿は、ルシファーの姿をしたガラス製の置物に、いつの間にか代わっている。
 それは内側より無数の亀裂を走らせて、頭や腕などを瓦解させながら崩れ落ちた。
【アスモ】「ひいィッ?!!」
【ベルゼ】「ル、ルシ姉…ッ!!」
【縁寿】「…………次女は誰…? レヴィアタン? 私の命令を実行して。今すぐにこいつらを皆殺しにしてッ!!」
【レヴィア】「い、いえあのッ! ……そ、その縁寿さま…。……どうかお気を静めてお聞き下さい…。私たちはその、………ッッッ、んぐグぐぐぐがッッ、がはッ!!!」
 私が聞きたいのは言い訳でも口答えでも返事でもない。……ただ迅速に、私を辱める彼女らを抹殺する命令を受領する言葉だけだ。それ以外を口にするならば、最後までを聞く必要はない。
 レヴィアタンもまた、全身を大量のひびで白濁させると、仰け反るような姿のまま倒れて、首や腕、腰などの華奢な部分を分断させた。
 粉々に砕けて原形を留めない方が、むしろ残酷さは感じさせなかっただろう。だから、しっかりと彼女らの姿を中途半端に残したところが、大いに残りの妹たちを震え上がらせた…。
【縁寿】「……どうして私の命令を聞いてくれないの…? どうして? どうしてよッ!!」
【サタン】「おッ、畏れながら…!! げ、現在のこの場は、反魔法力が、ひ、非常に強く…ッ、」
【縁寿】「何よそれ。ニンゲンがいるから駄目って、どういう理屈? ニンゲンを殺すのがあんたたちの役目でしょ?! それが出来ないなら、あんたたちは何の為の家具なのよッ!! 死ねッ!!!」
【サタン】「ひぃッ!! お、お許し下さい縁寿さまぁぁ……ッ、ッッッ、くぐ、ぎ、かッ!!」
 サタンも両腕で頭を抱えながら、白濁してうつ伏せに倒れた。やはり首が一番華奢らしい。頭がごろりともげて、ベルフェゴールの足元に転がる。
【縁寿】「ニンゲンが多いから駄目なの? じゃあ私が、後でこいつらを一人ずつ物陰に呼び出せたなら、あんたたちはきっちり全員を血祭りに出来るというの?」
【ベルフェ】「……現在の縁寿さまの魔力では、私たちと会話する程度は容易いでしょう。しかし、この場にいる全てのニンゲンの前で顕現するには、まだまだ魔力の錬成が足りません…!
 お怒りは深く理解できますが、例え我らを攻撃に使えたとしても、この場の全員を殺害することは、かえって状況を悪くするだけです…! 屈辱的とは思いますが、どうかこの場は怒りを納められて…、……ッッ、あが、……くぐぐぐッ、がッッッッ!!」
【縁寿】「……………あとの3人も同じ答えなの…? 反魔法力が高いから出来ないって言う? 私に魔力が足りないから出来ないって言う? ……なら全員を殺せとは言わないわ。たった1人でいいから殺してみなさいよ。今すぐこの場で…!!」
 睨み付けられたアスモデウスとベルゼブブは、抱き合いながら竦み上がってしゃがみ込む。……もしも私の命令に従えたなら、直ちに実行しただろう。にもかかわらず、彼女らはしゃがみ込む。
 ……虚しい。悲しい。そして情けない……。そうさ、わかっていたさ。彼女らには、現実に指一本だって触れることなんか出来やしない……。
【アスモ】「ぃ、…嫌だぁ嫌だぁ…!! ベルゼ怖いよベルゼー!!」
【ベルゼ】「縁寿さまぁ、許して下さい、許して下さい…!! 死にたくないぃいいぃ!!」
【縁寿】「死になさいよ、使えない家具ッ! どうして生きてるの、あんたたち? 生きてる価値がないのに、何で生きてるわけ? 死ねばいいじゃん。死になさいよ。というかむしろ死ねッ!! 使い道のない家具を置いとく馬鹿がいると思うッ?!」
【アスモ・ベルゼ】「「ひィイイィ!! ッッッッ、がッ!!!」」
【マモン】「や、やめてください、縁寿さまッ!!」
【縁寿】「……なぁに、マモン。あなただけは私の命令を遂行してくれるの? そうよね。私の一番のお友達だもんね。…………あなただけは、やってくれるわよね。こいつらを!」
【マモン】「…………い、今の縁寿さまには、……私たちを使役しても、人殺しは出来ません!! 主に出来ることを手伝うのが家具の役目…! 主にすら出来ないことを、私たちにはすることが出来ない…!! 縁寿さまはこいつらが憎いですか? 憎いですよね?
 殺したくなる気持ち、よくわかりますッ!! えぇ、どうぞ、ならば殺しましょうよ、縁寿さま! 縁寿さま自らがその手を血に染めるならば、我ら煉獄の七姉妹、どこまでもお供しましょうとも! どこまでもッ!!」
【縁寿】「……私に、……出来ないから、………あんたたちに頼んでるんでしょう……。……私に出来ないことを出来るから、あんたたちは家具なんでしょお!!」
【マモン】「えぇ、家具です。使われてこそ家具です…!! どうぞ我らを使って殺して下さい! 殺すのは貴女です、縁寿さまッ!! 縁寿さまが殺したいというならどうぞご自由に! 躊躇うことはありません、どうぞ今すぐにそれを実行を!!
 そこまでの覚悟が伴って初めて! 自らの手を汚す覚悟があって初めて、我らはそれをお手伝いいたしましょう! でも縁寿さまはそれに至っていないんです!!」
【縁寿】「ふっ、………くっくっくっく、あっはっはっはっはっは…。あっはっはっはっはっはっはっは、語るな家具が。妄想がッ!! もうわかってるわよ、皆まで言わせないでよ。…あんたたちには何も出来ない。あんたたちは所詮、私の妄想、幻想、白昼夢…! 私には初めから友達なんて一人もいないわ。孤独な私が心の中に生み出した、お友達ごっこの幻影でしょう? 知ってたのよ、最初ッから!!!」
【マモン】「あっはははははははははははッ!! えぇ、そうですよゥ! 縁寿さまの頭の中の幻想ですけど何かァ? ハイ、そうですゥ! 私たちは友達のただ一人もいやしない、寂しい寂しい縁寿さまの心を慰めるためだけに生み出されたお友達ごっこの脳内妄想ですが何かァ? 見たければ現実を見るといい、私たちなんか見ないで、あそこで囲まれて罵声を浴びせられてるあなたに戻るといい!!
 ほらほら戻りなさいよ、お帰りなさいな現実にッ!! 都合のいい時だけ私たちを呼び出してお友達ごっこで、自分の手を汚す覚悟もないくせにそれをけしかけ、駄目とわかったら否定して消し去る! えぇ、どうぞお楽しみ下さいよ、縁寿さまが期待されるような苦悶の声と悲鳴をあげて退場しますとも!!
 縁寿さまがたった今、浴びせられている罵声を、私たちにも同じように浴びせ掛けて胸の内をスゥっとさせるがいいです。それもまた家具の役目!! ムカついて床に叩き付けられることもまた、椅子の大事なお役目ですからァ!! その程度のことで主の不機嫌を一時でも受け止められたなら、家具としてこれほどの栄誉はありません。殺しなさいよッ、否定しなさいよ、あなたの最初で最後の友達をぉおおおッ…!!!」
 マモンは最後に、嘲り笑いの表情を浮かべたけれど、……なぜか涙の粒を散らしたように見えた。マモンと、ベルゼブブとアスモデウスの3人は砕け散り、床に転げた……。
【さくたろ】『………う、……うりゅ………………。』
【真里亞】「………………。こっちへおいで、さくたろ。今の縁寿は、少し冷静じゃないだけ。……だから、近寄っちゃ駄目だよ。」
【さくたろ】『みんなは? 七姉妹のみんなは生きてるの? 死んじゃったの…?』
【真里亞】「……大丈夫だよ。とても無残な姿だけど、あれは人間界を強制退去させられて残された、依り代の残滓。抜け殻だよ。……だから大丈夫。とても傷ついただろうけど、無事だよ。みんな生きてるよ。きっといつか、また会えるよ。」
【さくたろ】『うりゅ…。……良かった………良かった…………。』
【真里亞】「……縁寿はマリアージュ・ソルシエールの条約に違反した。……同盟の魔女は、互いを敬い認め合わなくちゃならないのに、……こんな酷いことを……。みんな縁寿の大切な、お友達だったのに……。」
【縁寿】「そんな魔女の同盟なんて関係ない。魔法のお友達? いい加減にして。………私が殺したわ、消し去った。私が七姉妹を、砕け散らせた!」
【さくたろ】『うりゅ……、そんなの酷いよ……、酷いよ………。』
【縁寿】「……もう、魔女ごっこはいい加減にして。……お願いだから。真里亞お姉ちゃんもさくたろも、自ら消えてほしい。………私が殺して消したなんて、……妄想の中ですら、したくないから。」
【さくたろ】『ボ、…ボクたちは妄想なんかじゃないよ……。縁寿のお友達だよ…、うりゅ………!』
 さくたろは真里亞お姉ちゃんの背中に身を隠しながら、そう言って涙ぐむ。
 ………さくたろなんて存在しない。さくたろもまた、お姉ちゃんが寂しさを紛らわすために生み出した、妄想なんだ………。
【さくたろ】『う、……うりゅ、………痛い、……痛いよ、真里亞……。……何で?何で…? うりゅ………うりゅ………。』
【真里亞】「やめて。私のお友達を否定することだけは、許さない。」
 七姉妹たちを砕いたのと同じ力が、さくたろをも蝕もうとしているのだろう。……だが、真里亞お姉ちゃんが何らかの力でそれを庇っているらしい。だから、さくたろの姿は砕け散らない。
 お姉ちゃんは鋭い目で私を睨みつける。……初めて見せる厳しい表情だった。
【真里亞】「さくたろは私の家具。縁寿には消せないよ。……なのに、否定しようとするのは魔女にとって最大級の侮蔑も同じだよ。」
【縁寿】「さくたろなんて、最初から存在しないわ。ただのライオンのぬいぐるみ。それをお姉ちゃんが、あたかも存在するかのように脳内で妄想して、人格化した、ただの幻なのよ!」
【真里亞】「うーッ!!! そんなことないよッ!! さくたろは真里亞のお友達なの!! 元はぬいぐるみだけど、今はぬいぐるみじゃないのー!!」
【縁寿】「いいえ、ぬいぐるみだわ。布と綿で出来たぬいぐるみ! 自ら喋れも動きもしない! お姉ちゃんはそれを、腹話術みたいにして喋ってるだけじゃない!それが魔法? それが魔女?! それが、……友達?! そんなの、私は認めないわ!!」
【さくたろ】『……………………うりゅ……。………ボクは、………ボクじゃないの……? ……ボクは……ただのぬいぐるみで、…本当は喋れなくて…、………真里亞の、……お友達じゃ、……………ないの…………? う……りゅ………、』
 さくたろが、高熱にうなされるかのように、少しずつ衰弱していく。お姉ちゃんの体にすがり付きながら、何とか立ち続けようと頑張るが、……少しずつ体がずり落ちていく…。
 お姉ちゃんはそんなさくたろを抱き、涙を零しながら私に叫んだ…。
【真里亞】「うーーッ!! やめてェ!! 反魔法の毒でさくたろを焼かないでッ!! 虐めないで!! 侮辱しないでッ! 否定しないでぇええ!!」
九羽鳥庵
【縁寿】「きゃっきゃっきゃ!! 真里亞お姉ちゃん、変なのー!! さくたろなんかいないよー! ぬいぐるみはぬいぐるみだもんー! 布と綿で出来てるってママに習ったもんー!! 歩いたり喋ったりなんか出来るわけないよー!! きゃっきゃっきゃっきゃ、きゃーっきゃっきゃっきゃっきゃ!!!」
【さくたろ】『………うりゅ………………、………ぅ…ゅ………………、』
【真里亞】「さくたろ!! さくたろー!!! ぬいぐるみじゃないもん、ぬいぐるみじゃないもん、友達だもん!! うーー!!! わぁああぁあああああああーーー!!!!」
【縁寿】「きゃっきゃっきゃっきゃ!! きゃーッきゃっきゃっきゃっきゃっきゃ!! ぬいぐるみ遊びなんかより、みんなでお外で遊ぶ方がいいー!! ぬいぐるみもう飽きたー!! きゃっきゃっきゃっきゃ!!」
【真里亞】「縁寿なんかもう知らない!! うー!! 何でそんなこと言うの、嫌い嫌い嫌い嫌い!! 大っ嫌い!!」
 絶交だ、絶交だ!! もう魔女の仲間になんか入れてあげないッ…!!
 原初の魔女見習い、マリアの名において、魔女見習いエンジェをマリアージュ・ソルシエール魔女同盟より除名とする……!!
 ………それで。…私の穏やかだった日々は、白昼夢ということになって、終わった。
 今となっては検証不能だ。あれが本当に魔法で、そして私の友人たちだったのか、それとも白昼夢に過ぎなかったのかは、誰にも検証できない。……唯一の観測者である私が彼女らを、白昼夢だと断じたから。……それが真実となった。
 私は後の未来に再びこれを観測し、その時はこれを夢ではなく、……七姉妹たちは本当に友人で、真里亞お姉ちゃんもさくたろも、孤独な私のために尽力してくれていたと、認めるのだろうか。
 ………………そんなあやふやなの、真実でも幻でも、何でもない。今、ここにある現実だけが、本当の私の世界なんじゃないか。本当の私はどこにいるの?
聖ルチーア学園・教室
 壊れたガラスの彫像のような残骸を晒している彼女らの中央に立ち、荒い息で肩を上下させているのは私ではない。
 私がいるのは、……あそこ。
 人垣に囲まれ、罵倒を浴びせられ続け、…目を真っ赤にしながら俯く、私………。……あそこにいる私こそが、………本当の私じゃないか……。
 もう、夢なんか、見ない。逃げる場所なんか、どこにもないのだから。
 私は、帰る。……肉で出来た檻に、自ら戻る……。
「ねぇ!! 話、聞こえてますかしらぁ?! いつまでも俯いていても、何の解決にもなりませんわよー?!」
【縁寿】「…………………………。……聞こえてるわ。」
「あ、やっと返事した。このまま黙ってれば終わるとか、泣けば許してもらえるとか、そういうこと考えてるんじゃないのー?! あんた、自覚あるかって聞いてるのよ! 自分が周りに迷惑掛けてるって自覚があるのかって聞いてんのよ…!!」
 ………私は、…ゆっくりと頷く。…それを認めた。
 私は白昼夢の世界に入り浸り、クラスから疎遠であろうとしたことを認める。……それを認めることによって、あれだけ頼もしい言葉や優しい言葉を掛けてくれたのに、この、本当に助けて欲しい今になって、何も助けてくれなかった彼女らを穢すために、決別するために、……それを、認める。
【縁寿】「……私、右代宮縁寿は、協調性がなくて、クラスメートに迷惑を掛けました。それは、勉強が出来ないため、クラスメート全体に対し、過度の劣等感を持っていたからに他なりません。私は、…………………………。
 …………生きてても仕方ありません。」
 そこからは、彼女らが書けと言った文章にはない。……私の、即興。そして、胸の内。彼女らも、それが予定されていないものであることに気付くが、眉をひそめながらも、口出しはしなかった。だから私は続ける。
【縁寿】「……そうです。私は生きてても仕方がなかった。……1986年のあの日に、私も連れて行ってもらうはずだったんです。……なのに、私だけが連れて行ってもらえなかった。
 ……どうして、私はここにいるのでしょう。…ここは、…私のいる世界じゃない。…………誰も助けてくれません。…一時、……私の中に生まれた架空の友人たちだけが、私を助けてくれるような気がしていました。でも、友人たちは所詮は妄想で、……助けてなどくれなかった。だってここは妄想の世界じゃなくて、現実の世界だから。
 ………だからつまり、……私は今日までずっと、……白昼夢を見続けてきたわけです。…現実のクラスメートを嫌い、妄想の友人たちとの交流の中だけに生きた。………その友人たちとは、さっき決別しました。だから私がここにいます。
 …………家族もいません。友人も捨てました。……もう私には、何も残っていません。……どうして死なないの? さっきそう聞いた人がいました。…その通りだと思います。どうして私は、………生きてるんでしょう。………………1986年に私は、…………死んでいるはずだったんです。…いえ、きっと死んだんです。
 なのに、…………私の殺された魂は、未だにこの肉の檻に閉じ込められている。だから、誰かに求めよう。それに誰も応えてくれないなら、……自分でしよう。
【縁寿】「誰か私を、…………………死なせて下さい。」
 その一言を口にし、周りを見渡す。
 唖然とした子。呆然とした子。何を言ってるのこの子、という顔の子。そして、やや遅れてから、この子大丈夫〜? という顔の子が増えていく。
 ひそひそ。ざわざわ。そして、くすくす。…………殺せと命じて、白昼夢の友人たちには出来なかった。
 ならばと。現実のニンゲンたちに殺せと頼んだが、……やはり彼女たちにも出来ない。
 ……ということはつまり、白昼夢も現実も、どちらも同じ。この世界も含めて、全てが全てが。…………白昼夢だということじゃないのか。なら、……それでいいじゃないか。
 だって私は、……家族を全て失ったあの日に、もう死んでるのだから。……その後に続く全ての日々が、……死に損なった私の、走馬灯のような妄想だったのだ。
 それを理解したら、……………周りの全ての景色が、わずかに歪み始めた気がした。
 ………あぁ。…やっと私は、………覚めるんだな。…この白昼夢の世界から、解放されるんだな。
 ふぅっと、気が遠のいていく気がする。……それでいい。どこまでもどこまでも遠のいて、…………私を家族のところまで連れて行って……。
 だから、歪んで色褪せた世界で何が起こっても、まったく気にならなかった。
 人垣が押しのけられて、教師が割り込んでくるのが見える。おかしな騒ぎになっているのを、たまたま見回りの教師が見つけた、ということかもしれない。教師は盛んに何かを怒鳴りながら、私を庇うような仕草をしていた。
 ……それを見て、私はたった1人とはいえ、味方が現れてくれたことを知り、少しだけ意識が戻るのを感じる。
 ………………。……現実の世界で私を助けてくれるのは、…現実のニンゲンだけなんだ。
 もう二度と。……白昼夢などに救いを、求めるものか。
 ………ここはニンゲンの世界。ニンゲンを助けてくれるのは、ニンゲンだけなんだ……。
【真里亞】「………………………。……そうだね。縁寿がそう思ったなら、それが縁寿の世界。」
【さくたろ】『……縁寿は、……これで幸せになれる………?』
【真里亞】「………縁寿が、それでしか幸せになれないと信じたなら、もうそれしかない。…籠の中にいる青い鳥を、そうだと認められないなら、…どこまでも探しに行かざるを得ない。」
【さくたろ】『うりゅ……。…真里亞と縁寿はもう、……絶交なの………?』
【真里亞】「…………………………。……絶交なんかじゃないよ。縁寿がそれを求めたから、そうしただけ。……私たち魔女は、時に迫害を受けるけれども。でも、常にみんなの身近にある。……そしてきっとその助けを求められる。」
【さくたろ】『……縁寿も、………またボクたちと遊んでくれる日が来る……?』
【真里亞】「来ないで、そのまま忘れてしまうこともあるかもしれない。…人の世ではそれを、成長や決別と呼ぶから。…………でも。」
 縁寿さえ思い出してくれれば、私たちはいつでも、側にいられるよ。……それまで私たちは、……待ってるから。

さくたろ

真里亞の部屋
 ……………………………………。
【さくたろ】『……………………うりゅ…。………真里亞、…返事して……?』
【真里亞】「………………………。」
【さくたろ】『………うりゅ…。……やっぱりボクは、……ぬいぐるみなの…? ……布と綿で出来てるから、……しゃべれるわけ…ないの……? ……だから、……真里亞とはおしゃべりできないの………?』
 さくたろが悲しそうに真里亞を見上げる。
 真里亞の表情は、泣き腫らし、悲しみの感情さえ失ったように見えた…。
【真里亞】「…………うー。……聞こえてるよ、さくたろ。……さくたろは、布と綿で出来たぬいぐるみなんかじゃないよ。………真里亞の、お友達だよ。………………縁寿なんか嫌い。……うううぅううぅぅぅ……。」
【さくたろ】『うりゅ…、真里亞ごめんね、真里亞ごめんね……! うりゅ……!』
 さくたろは後悔する。真里亞は心を凍らせることで、ようやく悲しみから逃れられていたのだ。…それを、声を掛けて呼び戻してしまったから、また悲しみに囚われてしまった…。
 さくたろは、よちよちとした仕草で、真里亞にしがみついては離れてみたり、様子を見てはうろうろしてみたりと、どうすれば真里亞を元気付けられるか戸惑っている。……その様子がどこかちょっぴりユーモラスだったのかもしれない。結果的にそれは、真里亞の気持ちを悲しみから逸らすことが出来た……。
【真里亞】「ごめんね。………もう泣いても仕方ないもんね。」
【さくたろ】『縁寿とは喧嘩しちゃったけど、真里亞にはまだたくさん友達がいるよ…。ボクだけじゃない。………みんなもいるよ。さくすけもさくきちも、動物の音楽隊も、他にも他にも……。』
 真里亞は枕の周りで井戸端会議でもしているかのように集まっている、たくさんのぬいぐるみたちを見る。
【さくたろ】『……みんな、真里亞のこと、心配してるよ? どうしたら真里亞が元気になってくれるかなって、ずっとずっと相談しているよ……?』
【真里亞】「………………………………。……みんなは、……縁寿みたいに、いなくならない…?」
【さくたろ】『ならないよ。ボクたちはいつだって一緒だよ。』
【真里亞】「………本当に? さくたろたちは、家でしか一緒じゃないよ。ママと一緒にお出掛け出来ないし、学校にも一緒にいけないよ。」
【さくたろ】『ボクたちは学校に行っちゃいけないから、先生に見つかったら怒られちゃうもん。でも、見つからないなら、いつだって一緒にいていいんだよ。』
【真里亞】「……さくたろ、大きいから見つかっちゃうね。」
【さくたろ】『だったら、小さくて持ち歩ける子と一緒に行けばいいよ。……例えば、ほら。森の音楽隊の仲間たちなら、……ほら、小さいから真里亞のポケットに隠れて一緒に学校に行けるよ。』
【真里亞】「………音楽隊いっぱいいるよ。ポケットに入りきらないよ。」
 ベッドの上に、ごちゃっと散らばる森の音楽隊の駒たちをかき集める。チェスの駒くらいの数があるそれを全てポケットに入れていくのは無理だろう…。
【さくたろ】『なら、特に仲良しのお友達だけを連れて行くといいよ。……森の音楽隊の中で、一番、真里亞と仲良しの、うさぎの四人組を連れてくといいよ。』
【真里亞】「……4つならポケットに入る。……うん。これなら見つからないね。」
【さくたろ】『だから真里亞はこれで、学校でもひとりぼっちじゃないよ。ボクが一緒に行けないところでも、この子たちなら一緒にいてくれるよ。』
【真里亞】「……………うん。……なら、…寂しくないかも。……お家に帰ってくるまで、……我慢できるかも…。」
【さくたろ】『ママと先生にさえ見つからなければ、ボクたちはいつだって一緒にいられるんだよ。そしていつまでも一緒にいよう、遊んでいよう。ボクたちは真里亞を、絶対にひとりぼっちになんか、させないから。うりゅ!』
 真里亞の表情がようやく、わずかに明るさを取り戻す。
 ……そう。元々考えてみれば、真里亞の世界に縁寿はいなかったのだ。縁寿がいなくても、みんなが一緒で楽しかった。
 なのに、最後に入ってきた縁寿が抜けただけで、急に悲しくなるのはおかしい。…縁寿が入る直前の世界に戻っただけじゃないか。……なら、悲しいわけなんかないんだ。
【真里亞】「……うん。寂しくないよ。さくたろも、みんなも一緒だもん。」
【さくたろ】『うりゅー! 真里亞、だーい好き…!』
【真里亞】「もうニンゲンなんかに、真里亞の世界には、誰も立ち入らせないよ。……マリアージュ・ソルシエールは、真里亞とベアトリーチェだけの二人きりの同盟。……元々、ベアトも、縁寿を加えるのには反対してたし。………これでいいんだもんね。縁寿はまだ幼過ぎたんだよ。」
【さくたろ】『……縁寿のことは、また仲良しになれるまで、当分は忘れていていいと思うよ。真里亞がまた元気を取り戻せたら、一緒に遊べばいいよ。それまで、ボクたちみんなが、ずっと側にいるからね。』
【真里亞】「………ありがと。……さくたろ、……みんな。」
 そして、真里亞は再び元の世界を取り戻す。大勢の友達に囲まれた、寂しくない世界を取り戻す。
 学校では相変わらず、ニンゲンの友達はいないけれど、魔法の友達はいつも一緒にいる。
 ポケットに忍ばせたうさぎの音楽隊は、授業中にもポケットの中でくすくすと楽しそうにお話をしている。それに耳を傾けるだけで、寂しい授業時間がとても彩られた。
 ママと先生にさえ見つからないなら、他の友達とも常に一緒にいるようにした。ママに、お外で遊んできなさいと言われた時は、こっそりカバンにさくたろやさくすけたちを詰めて行って、図書館とかで一緒に遊んだ。
 ママの帰りが遅くて、お夕飯のお買い物なんかに行く時も、常にさくたろたちと一緒に行った。コンビニのおじさんたちも、さくたろに優しくしてくれた。真里亞とさくたろにって、2つ分のオマケをくれたこともあった。
 ママにそれを見つかると、さくたろたちを連れてきちゃ駄目と怒られる。先生にそれを見つかると、おもちゃを学校に持ってきちゃ駄目と怒られる。きっと、ママと先生は毒素が強いんだ。だからさくたろたちが、ただのぬいぐるみに見えちゃうんだ。
 だって、コンビニのおじさんたちは、さくたろにも挨拶してくれるよ。………ニンゲンみんなが駄目なんじゃない。縁寿やママや先生と違って、私みたいに魔法の友達と挨拶が出来る人だって大勢いるんだ……。
深夜のコンビニ
「真里亞ちゃんかい。いらっしゃい。今夜もママは帰りが遅いのかい…?」
【真里亞】「うん。……でも、さくたろたちも一緒だから、寂しくないの。ね、さくたろ?」
【さくたろ】『うりゅー。今日はね、さくたろだけじゃないんだよ。他のお友達も一緒なんだよ。』
「おや、他のお友達かい。今日はどんなお友達が一緒なんだい?」
【真里亞】「今日はね、森の音楽隊のうさぎさんたちも一緒。……ほら、ポケットに入ってるの。」
 真里亞は、陶製のうさぎの人形を4つ、レジの上に並べ始める。
 店長のおじさんはそれを微笑ましそうに見ると、アルバイトに顎で合図を送る。すると、もうひとつのレジの、準備中という札が下げられ、お待ちの方こちらにどうぞーと声が掛けられた。
 真里亞の後に並んでいた人たちは全員、そちらに並び直す…。
「そうかそうか。真里亞ちゃんにはお友達がいっぱいだねぇ。ママも早く帰ってきてくれればいいのに。」
【真里亞】「うー。ママはまたお仕事が忙しくて、会社にお泊りなの。最近はよく忙しくなるの。……真里亞と電話でお話しする時間も全然取れない。でも寂しくないよ! 真里亞にはさくたろたちがいるもん! ねー!」
【さくたろ】『うりゅー!!』
【真里亞】「うさぎの音楽隊のみんなも一緒だもん。ほら。きゅーきゅー♪」
「うさぎの鳴き声って、きゅーきゅーだったっけ? はて、そういや聞いたことないなあ。」
 真里亞は、ナップザックから顔をのぞかせるさくたろに微笑みかけながら、レジの上のうさぎの音楽隊を、戯れあうようにいじって遊ぶのだった。店長はその様子を微笑ましく眺めながらも、少しだけ気の毒そうな表情を浮かべる。
 ……どうも母子家庭らしく、母親が激務でなかなか家に帰れないらしい。その上、友達もいる様子がない。なのに、こうしてぬいぐるみたちと楽しく遊んで、寂しくないと言い張る少女に、ささやかな同情を感じずにはいられなかった。
 実はこれは、彼に限ったことではない。この商店街では、真里亞のことはとても有名になっていたのだ…。
「真里亞ちゃん、たまにはおでんも食べなさい。卵とか練り物とか食べないと、大きくなれないよ。」
【真里亞】「うー? クリームパンじゃ駄目…?」
【さくたろ】『うりゅ。いろいろ食べないと大きくなれないよ。今日はおでんにしよ?』
【真里亞】「うー。……じゃあおでんにする。」
「うんうん、そうしなさい。おじさんが多めに入れておくよ。カラシいる?」
【さくたろ】『うりゅー。辛いのは苦手……。』
「そうかそうか。じゃ、零さないように持って帰りな。温かい内がおいしいよ。」
【真里亞】「うー。ありがとう。」
 いつものように菓子パンの夕食にするつもりだったが、おでんを勧められたため、今夜はおでんになった。
 メニューを人に決めてもらうと、意外な食事になって、面白い。……真里亞は自分ひとりで夕食を決めなければならないことが多かったので、メニューも偏りやすい。だから、そういう予期せぬ食事に楽しさを感じるのだった…。
【さくたろ】『うりゅー! おじさん、オマケしてくれてありがとう!』
「お家にいる他のお友達たちにもよろしくねー。途中で摘み食いしちゃ駄目だよ。まっすぐお家へ帰ってから食べるんだよ。」
【真里亞】「うー! おじさん、ありがとー!!」
 真里亞は、おでんの容器の入ったレジ袋を高々と上げるのだった……。
【真里亞】「……………………………。………あれ……?」
【さくたろ】『……うりゅ? どうしたの、真里亞?』
【真里亞】「………ポケットに鍵がない。」
 自宅の扉の前で、真里亞はぱたぱたと全身を探る。……家の鍵がないのだ。
 いつも几帳面に同じポケットに入れる。だから他のポケットに入れてしまったわけはないのだが、念のため全身を探る。……やっぱりなかった。
【さくたろ】『お財布を出した時に落とした……?』
【真里亞】「うぅん。お財布を出してしまう時には、ちゃんと手応えがあったもん。途中でポケットを探った時にもちゃんと手応えがあった。……途中まではあったの。落としてなんかいない! うーうーうー…!」
 家に帰れば暖房があると思えばこそ耐えられる晩秋の外気も、鍵をなくし、途方に暮れる真里亞には堪えるものだった。
 しかし、いくら探しても鍵は見つからない。全てのポケットを引っ繰り返し、着ていた上着を脱いで叩いてもみたが駄目だった。……もちろん、さくたろの入っているナップザックだって引っ繰り返してみたが、鍵が出てくることはなかった。
【真里亞】「………うー。………うーうーうー!!!」
 あるはずのものが、あるべきところにない。自分は悪くないのに、なぜか鍵がない。……何でないの?! どうしてッ! どうして…ッ!!!
 真里亞は寒くて悔しくて腹立たしくて、地団太を踏む…。足の裏がジンジンするが、それでも悔しいのが収まることはない。……その内、ぽろぽろと悔し涙まで零れ出す。
【真里亞】「……うー。……うー!! うーーー!!」
 自分は悪くない。だから誰かが悪い。でも、その誰かが誰かわからなくて、真里亞は怒りの唸り声を上げ続ける他なかった。
【さくたろ】『……うりゅ……。きっと途中で落としたんだよ…。探そう? 来た道を戻って探そ…?』
【真里亞】「……うー…。せっかくおでん買ったのに、……卵とかオマケしてもらったのに……。温かいうちに食べられない……。………うーーーー!!!」
【さくたろ】『…真里亞……、悔しいけど探そ…? 誰も悪くないよ…、探そ…。』
 真里亞はさくたろの言葉にようやく耳を貸し、来た道をとぼとぼと戻り始める。……さっきまでより、風が冷たく、意地悪に上着の隙間から入り込んでくるように感じた…。
【さくたろ】『うりゅ…。しっかり足元を見て探そ…? そして早くお家に帰って、暖房で温まりながら、おでんを食べよ? きっとおいしいよ。』
【真里亞】「………うー。……ない。……うー。……ない…。」
 さくたろに励まされながら、鍵を探す真里亞…。
 しかし、おでんを買ったコンビニまで戻ってきてしまう。……見つからなかったのだ。念のため、コンビニのおじさんに、鍵の落し物がなかったか聞くが、見つかっていないとのことだった。
 ……もう一度、足元に注意しながら、家へ戻る。しかし、やはり見つからなかった。
 もう地団太を踏みたくなるような悔しさはない。……でも、熱い涙がぽろぽろ零れた。
 おでんはすっかり冷めてしまっている。…温かいうちがおいしいよと言ってくれたのに、食べられなかった。……おじさんに色々オマケしてもらったのに……。
【さくたろ】『……うりゅ……。泣かないで……。……ママは今夜、帰ってこないんだよ。……頑張って探そ……。』
【真里亞】「………何で見つからないの…。……ううぅ……、……うううぅぅッ!」
【さくたろ】『真里亞、泣かないで…! 頑張って探そ…! ………真里亞……。』
 真里亞はもう、涙を堪えることは出来なかった。しくしくと泣きながら、さくたろを抱いて、おでんの袋を持って、もう一度来た道を戻る。
 深夜になり、灯りを消した家や店が増えたせいか、より暗くなり、探しにくかった。……そして、また鍵を見つけられないまま、コンビニに戻ってきてしまう。
「真里亞ちゃん、……鍵、まだ見つからないのかい…?」
【真里亞】「…うー…。……鍵、……ない…。」
「お母さん、今日は泊まりだっけ? 鍵ないとお家入れないの?」
【真里亞】「うー……。……入れない……。」
「そりゃ困ったねぇ…。交番には行ってみた? 届いてるかもしれないよ。」
【真里亞】「……………ママが、お巡りさんに話し掛けられても、お話しちゃ駄目って言った。」
「ええ? そりゃまた、どうして?」
【真里亞】「……………………………。」
 楼座には、真里亞のような幼い子を、ひとりで留守番させていることに負い目があったし、社会的にそれが許容されるものではないことを知っていたのだろう。
 だから真里亞に、大人に目を付けられないよう、買い物をする店をなるべく変えろとか、お巡りさんに話し掛けられても、挨拶以上のことはするなと吹き込んできたのだ。
 真里亞は、それらに素直に従った。どうしてそうしなくてはならないかを考えるよりは、母がそう言うのだから従わねばならないという素直さの方がはるかに上回った。
 だが、それを聞いたコンビニの店長はそうは思わなかっただろう。……元々、このような幼い子が、ひとりで留守番を強いられ、しかもそれが頻繁にあることが気になるのは、当然のことだった……。
 ……そして。再び家とコンビニを往復し、三度目にコンビニに訪れた時。…そこにはお巡りさんが来ていた。
「あの子です。……真里亞ちゃん、鍵、見つかったかい?」
【真里亞】「………うー…。……見つからない……。」
「お嬢ちゃん、お名前は?」
【真里亞】「……………………。」
 お巡りさんが名前を聞くが、真里亞は答えない。
「お母さんに、お巡りさんとお話しちゃいけないって言われてるの? んっふっふー! 大丈夫だよ、おじさんは怖くないよ。お嬢ちゃんは晩御飯は食べた?」
【真里亞】「…………買ったけど、お家に入れないから、食べられない。」
「お母さんはどうしてるの? 今日は帰ってこないの? お仕事?」
【真里亞】「………………うー。」
「お母さんの会社の連絡先、わかるかな?」
【真里亞】「……………………。」
 真里亞は力なく俯く。
 ……自分がどうしてお巡りさんに怒られているのかわからない。いや、怒られているわけではないだろうが、母の耳に入ればきっと怒られるに違いないのだ。どうして怒られるのかという理由はわからなくても、それだけは理解できた。
 しかし、お巡りさんは真里亞を解放してはくれなかった。それに空腹で頭もくらくらしてきた。それにお巡りさんも気付き、交番で食事をしながら話を聞こうということになった。
 ……真里亞は交番に連れて行かれた。電子レンジでおでんを温めてもらい、熱いお茶と塩大福まで出してもらった。
 お巡りさんとは話をしちゃいけないと言われていたけど、……さくたろのことを聞かれて、答えているうちに、悪い人じゃない気がしてきて。
 …それに、このままじゃお家に帰れないし、どうすればいいかわからなくて。………誰にも教えちゃいけなくて、本当の本当に大変な時にしか掛けちゃ駄目だよと言われた、……ママの仕事先の電話番号を教えてしまう。
 交番の奥の畳の部屋で、火傷しそうなくらい熱くなったおでんを食べながら、お巡りさんが電話するのを見て、……あぁ、私は怒られるだろうなとぼんやり考えていた。
【真里亞】「…………真里亞、…ママに怒られるかな………。」
【さくたろ】『……うりゅ………。』
 だいぶ長くコール音を聞いているのだろうか。お巡りさんは受話器に耳を当てたまま、時計を見上げてぼやく。
「…………営業時間終えちゃってるから出ないのかなぁ。……んーー。……あ? もしもし? もしもし? 有限会社アンチローザさんで? こちら、小松川警察署千本桜駅前交番でございます。えぇっと、ウダイカン、…じゃないや、右代宮社長さんはいらっしゃいますか? …………はい。……えぇ? 休暇中ぅ?」
「はいー。社長は昨日から3日間、休暇になってますー。あの、どういったご用件で…?」
「あいやいやいや。それで、どちらにおられるかわかりますかねぇ? 連絡先とか聞いてたりしませんかねぇ。」
「あー、……ちょっとお待ちいただいてよろしいですか? ……………ねー、誰か社長の旅行先、聞いてるー? 連絡先ー。」
「彼氏と札幌カニ食い放題って聞きましたァ。いいなァ、寒いとこだと、自然と二人の距離も縮まるのよねェ〜。連絡先は聞いてないよォ。」
「うん、了解ー。……あー、もしもしー。札幌に行ってるそうですけど、連絡先まではちょっとわかりません。……ご伝言しますかー?」
「んー、そうですかぁ、参ったなぁ。じゃあ、もし連絡がつきましたら、こちらから電話があったとお伝えできますか。えぇ、はい。」
 ……その後、私は、もっと大きい警察署に連れて行かれ、そこで一晩を過ごすことになった。そして、私のことを色々と聞かれた。
 民生委員のおばさんと名乗る人がやって来て、色々と話を聞かれた。そして、可哀想にね、と言われた。それを聞いて初めて、私は知った。
【真里亞】「…………真里亞って、………可哀想だったの……?」
【さくたろ】『……うりゅ……。そんなことないよ…、真里亞は幸せ……。』
【真里亞】「……………うー…。」
楼座の家
 そして、……楼座は帰ってきた。真里亞は部屋にいなさいと言われていたが、……トイレに行った帰りに、居間の入り口の脇に隠れ、そのやり取りに耳を傾けていた。
 訪れたのは、あの日、真里亞から色々と話を聞いた民生委員の婦人だった。
【楼座】「そういう押し付けは困りますッ!! 真里亞は心が純粋過ぎて繊細だから、無神経な子がいたら、傷つけられてしまうんです!! 余計なお節介は止めてください!!」
「でもね、お母さん。そんなに繊細な子なら、何でひとりで家に放置しておくの? お母さんが一緒にいてあげるべきなんじゃないですか?」
【楼座】「なるべく一緒にいるようにしています!! そんなこと、あなたに指図される覚えはありません…!!」
「そうですか? この辺のご近所ではとても有名ですよ。お宅のお嬢さんが夜、頻繁に買い物や食事に来るって。みんな気にしてて気を遣ってくれてたんですよ。」
【楼座】「どうしてうちの子だとわかるんですか!! 子どもなんて町中にいくらでもいるじゃないですか!! 勝手にうちの真里亞だと決め付けないで下さい!! 夜に出歩く子どもだってたまにはいるでしょ! それらが全てうちの子だという証拠でもあるんですか?!」
「ライオンのぬいぐるみを抱いた女の子が、よく夕食を食べに来る、買いに来るって、商店街でもとても有名だったんですよ。みんな真里亞ちゃんのことを思って大切にしてくれてました。時には、夜道は危ないからと、自宅まで送ってくれる方もいたんですよ?」
【楼座】「ラ、ライオンのぬいぐるみなんてどこにでもあります!! 自宅まで送るなんて余計なお世話ですッ!! 真里亞を誘拐するつもり?! 真里亞に構わないで!! 真里亞は私の子です。私が育ててます! おかしな施設に入れるつもりもまるでありません!! 余計なお節介は止めて!!」
【さくたろ】『う、……うりゅ……。ライオンのぬいぐるみって、……ボクのこと……?』
【真里亞】「……大丈夫だよ。怒られるのは真里亞だよ…。さくたろは関係ないよ……。」
 真里亞はさくたろを抱き締め、怯えながら母の様子をうかがい続ける…。
【楼座】「わ、私も真里亞と毎日一緒にいられたらと思います! でも、シングルマザーですから働かなくちゃならない! 私はこう見えても会社の社長ですから、社員の生活も背負っている!! 一年中仕事で忙しいんですよ、休む暇だってないんですッ!!」
「そうぉ? でも、この三日間、お休みだったんでしょ?」
【楼座】「や、休みなんかじゃありません! 私はずっと会社で泊り掛けで仕事をしていました!! 他の頼りない社員では片付けられない案件が私には山積みなんです!!」
「どうしてそんなウソ吐くの。あなたの会社の人が、三日間お休みを取ってますって言ってるのよ? 彼氏さんと北海道に行ってきたんでしょう? 娘さんを三日間も置いて…!」
【楼座】「かッ、彼氏なんて知りませんッ北海道なんて知りませんッ!!! どうしてそんなデタラメ言うの?!どうしてどうしてッ?!なんか証拠でもあるの?!何よあんた勝手に人の家のことに口を出さないでよ!!私は真里亞を愛してるのよ私には私なりの愛し方があるのよ勝手に口出さないでよ!!私は旅行になんて行ってないわよ仕事してたのよずっと!!
 真里亞に一秒でも早く会いたくて仕事を少しでも早く片付けようと一生懸命一生懸命!!会社に泊まりこんでずっとずっとずっとずっと、ずっとずっとずっとずっと!!知らない知らない北海道なんて知らないわよ勝手なこと言わないでうあああああああああああぁああああぁああッ!!!もう帰ってッ!!帰ってよおおおおおお!!何なのよあんたはああああ!!帰ってッ!!帰ってええええええええッ!!!」
 楼座は髪を振り乱しながら激高する。立ち上がった時の勢いでティーカップが倒れ、その音よりも遥かに大きい音で何度もテーブルを両手で叩いた。白目を剥いて錯乱している、という表現すらも充分に妥当と思えるその激高ぶりに、民生委員の女性は仰け反らずにはいられない。
 ……それは、廊下からこっそり様子をうかがっていた真里亞でさえも。母が激高するところを何度も見てきた。でも、こんな怒り狂う様を見るのは初めてだった。
 それを見て真里亞は確信する。……それはもはや、母親ではない。母親の体に憑依した、邪悪なる別の存在だ…。
 そして、その邪悪なる存在が、自分の姿を見つけてしまう。真里亞は邪悪な存在の瞳に、自分が映っていることを知った。頭が真っ白になり、視界が遥か彼方に遠退いてしまうような錯覚を感じる……。
 楼座は、猛然と真里亞に迫ると、その小さな両肩を容赦ない力で叩き、……真里亞が抱いている、さくたろのぬいぐるみに目を落とした。
【楼座】「………真里亞。あなた、あれだけお外にそれを持って行っちゃ駄目って言ったのに、……持って行ったのね?」
【さくたろ】『う……、うりゅ………。ま、真里亞は悪くないよ……。ボクが付いて行くって言ったの……。』
【真里亞】「ち、違うよ……! 真里亞が寂しいから勝手にさくたろを連れてったの…! だからママ、さくたろは悪くないの…!!」
【さくたろ】『うりゅ……、真里亞………。』
【真里亞】「さくたろは悪くないよ!! さくたろは悪くないよ!!」
 楼座の怒りは真里亞より先に、その抱いているライオンのぬいぐるみに向けられていた。……ライオンのぬいぐるみをいつも持ち歩く子が、深夜に買い物に来る。そのせいで、商店街では有名だったのだ…。
【楼座】「ぬ、……ぬ、…ぬいぐるみ持ってっちゃ駄目って言ったでしょおおぉおおぉッ!!! どうして!! あんたはッ!! ママの言うことが聞けないのよ!! どうしてッ?! どうしてどうしてよ?! どうしてママの言いつけがちゃんと守れないのよあんたはあああああッ!!」
 それらの一言一言の度に踵を踏み鳴らし、壁をバンバンと激しく打ち付ける。……確かにそれは、真里亞に対し直接は振るわれなかったろう。しかし、激しい音は、確実に音の暴力となって真里亞を打ち付けた。
「お、お母さん……、お止めなさい……!!」
【楼座】「離してよ!! 離せって言ってんでしょおおおおぉおおぉッ!!」
 我に返った民生委員の女性が楼座を羽交い絞めにする。しかし、触れられた途端、電気が走ったかのように楼座は暴れ、彼女を激しく突き飛ばす。
 ……テーブルにぶつかり、床に転げた。テーブルの上のティーカップが激しい音を立てて床に散らばった…。
【さくたろ】『ま、……真里亞は悪くないよ……! ボクが悪いの! だから真里亞を叱らないで……!!』
【真里亞】「さくたろ連れてったのは真里亞…!! さくたろは悪くないの!! さくたろは悪くないの!! だからさくたろをそんな怖い目で見ないで!! 見ないでええええぇえぇえぇ!!」
【さくたろ】『真里亞を叱らないで…! 真里亞を叱らないで…!! うりゅーー!!!』
【楼座】「……………………あ、………あんた…。さっきから何をやってるの? あんた、そのお人形さんごっこ、……外でもやってたの? お店の人の前でもやってたの……? ……………………。だから覚えられちゃうんでしょおおおぉお、馬鹿ッ死ねッ知能ゼロッ!! 何であんたは馬鹿なのよおおおおおぉおおおおおッ!!!
 正直に仰いな。お外でお買い物をする時、ママに内緒でいつもそのぬいぐるみを持ち歩いてたのね?」
【さくたろ】『………う、……うりゅ………。』
【楼座】「その変なぬいぐるみ語をやめなさいッ!!! ぬいぐるみじゃなく、あなたの言葉でしゃべりなさいッ!!!」
【真里亞】「さ、さくたろはぬいぐるみじゃないよ!! 真里亞の友達だよ!! ぬいぐるみって言わないで……。言わないでぇえええぇええ!!」
【楼座】「はいはいわかったわ、さくたろうだったわね、名前! ママに内緒で、そのさくたろう人形を持って、いつもお買い物に行っていたのね?」
【真里亞】「う、……うん……………。」
 真里亞は正直にそれを認める。自分が認めなければ、さくたろが罪を被るようなことを口にしてしまうから、真っ先に自らが認めることで、小さな友人を庇おうとした。
【楼座】「さくたろうだけ? 他には? ……まさか、学校にも何か変なのを持っていってるんじゃないでしょうね…?」
「……お、お母さん!! お嬢さんは悪くないでしょう! その詰問をお止めなさい!」
【楼座】「あンたは黙ってなさいッ!!! 私と娘の話でしょおお!!! ……ほら真里亞、ママの目を見て話をしなさい。ママの質問にお返事は?」
【真里亞】「う、……うー……。……さくたろだけじゃないの。……うさぎのみんなも一緒……。」
【楼座】「………今も持ってるの……?」
【真里亞】「うー………。」
 真里亞はポケットをごそごそと漁り、……あの、陶製のうさぎたちを4匹、その小さな手で掴み出して見せる…。
 うさぎたちは、さくたろの代わりに学校にも一緒について来てくれる、大切な友達だった。しかし、それを見て楼座は、眩暈を覚えたかのように首を浅く振る…。
 学校の連絡帳で、真里亞が玩具を持ってきて遊んでいるらしいので、そうしないよう家庭で指導してほしいと書かれていたのだ。
 しかし楼座は、それは教師の難癖だと一蹴し、むしろ逆に学校に抗議の電話をしていた。自分の娘が玩具など学校に持っていくわけがないと。自分の娘に言い掛かりをつけるのは止めてくれと小一時間にもわたり、教頭を怒鳴りつけたのだ。
 ……学校側は、真里亞が不憫な子であることを、ある程度、把握していた。持ち込んでいる、その小さな玩具だけが友人であることを知っていた。……だからこそ、あえて見て見ぬふりをするつもりだった。
 しかし、他の生徒の目に触れてしまったため、玩具を持ち込んでずるいずるいと一部の男子が騒ぎ始め、収拾に苦慮していたのだ……。それをやんわりと母親経由で注意したつもりだったが、楼座が過剰に反応したため、それ以後は先生も見て見ぬふりをしていたのだ。
 ………しかし楼座は知ってしまう。間違っていたのは自分の方で、…娘は本当に玩具を学校に持ち込んでいたのだ。………学校に玩具を持ち込んで、それだけを唯一の友人として寂しく一人遊びする醜態を、学校側に知られてしまっていたのだ。
 楼座にとって、一般の子たちと少し違う自分の娘が、その特異な面を晒し、それを見咎められることが何よりも耐えられなかった。
 ………だから吼える。激高する。再び民生委員の女性が、真里亞と楼座の間に割って入ろうとするが、楼座の逆鱗に再び触れるだけのこと。
 楼座は再び、般若のような形相で女性を突き飛ばし、それだけではまだ怒りが収まらないと、床を踏み抜かんばかりの勢いで何度も地団太を踏んだ。
 そして、一瞬だけ我に返った表情をしてから、………荒い息を急に凍らせて、真里亞に聞いた。
【楼座】「……………………。……真里亞。そのうさぎの音楽隊は、真里亞の大切なお友達?」
【真里亞】「う、………うー………。」
【楼座】「そう。4人もお友達がいて良かったわ。」
 楼座はそう言いながら、真里亞の手からうさぎの1つを摘み取る。そして、よく見せ付けるように真里亞の眼前に突き出した。
 ……可愛らしい、トランペットを持ったうさぎの、駒のような小さな人形。それがゆっくりと、掲げるように高く上げられる。……もちろん、真里亞とさくたろの目はそれを追う……。
 そしてそれは、目で追えない速度で壁に叩き付けられた。
【真里亞】「ひいッ!!!!」
【さくたろ】『……………!!!』
 半ば、その最悪の想像はしていた。だから、何をされたのかすぐに理解できた。……だから真里亞は短く、絶望の悲鳴を上げた…。
 粉々だった。小さく頑丈だったそれは、激高する母の怒りを受け止められるほどではなかった。
【楼座】「………ママの言うことをちゃんと聞かないから、ひとつ壊れちゃったわ。今後、ママの言うことを守らない度にまたひとつ、壊すからね。……覚えておきなさいッ!!!」
「あなた……、そんなことするなんて、母親ですか!! そんなことして、お嬢さんが傷つかないと思ってるんですか?!」
【楼座】「真里亞が傷つく?! 私も傷ついているのよ?! 私の傷は誰が責任取ってくれるのよ?! えええ?! 誰があああぁあぁッ!!! あんたは黙っててって言ってるでしょおおお!!!」
【真里亞】「や、やめてママ……! 悪いのは真里亞…! おばさんを怒らないで……!」
【さくたろ】『真里亞は悪くないよ…、ボクが悪いの……! 真里亞を怒らないで…! うりゅ、うりゅうりゅうりゅ、うりゅーー!』
【楼座】「そ………、そのぬいぐるみごっこを止めろって言ったでしょおおおおぉおおぉ!! 大体ね、気持ち悪いのよ、ぬいぐるみがお友達ってあんた今年でいくつよ?! 何歳よ?! ええぇえッ?!
 こんなの布と綿の気持ち悪いヘタクソなぬいぐるみじゃない!! こんなのしか友達いないのあんた?! こんなバケモノのぬいぐるみとお友達ごっこしてる暇があったら、ちゃんとした人間の友達を作りなさいよ!!
 何であなたにはいつまでもお友達が出来ないのよ!! そんなだからいつまでもクラスで変わり者扱いされて馬鹿にされてッ!! もう本当しっかりしていい加減にしてッ!! こんなぬいぐるみ遊び、もう卒業しちゃってよ!!」
【さくたろ】『うりゅ……、うりゅ………。』
【楼座】「だからそのぬいぐるみごっこを止めろって言ってるでしょおおおおおぉおおぉ!!」
【真里亞】「ああッ!! ママ、ママ!! 返して! さくたろ、返してええぇええぇ!!」
【さくたろ】『うりゅー!! うりゅーー! うりゅうりゅー!』
 ママがさくたろの頭を鷲掴みにして、私から奪い取る…。そして………、何度も何度も、壁に打ち付けて。
【さくたろ】『うりゅー!! 痛いよ痛いよ、痛い痛い痛い痛い…!!』
【楼座】「やめろっつってんのよッ!! そのぬいぐるみごっこを止めろっつってんでしょおおおお!! こんなぬいぐるみがあるからッ!! だからあんたはいつまでも友達を作らないのよ! だから一人だけクラスで浮いてて、おかしな子扱いされるんでしょうが!! こんなぬいぐるみあげなきゃ良かった!! こんな気持ち悪いぬいぐるみあげなきゃ良かったッ!!」
【真里亞】「やめてええええぇええ!! さくたろ返してッ、さくたろ返してッ!! わあああああぁああああぁあぁぁあ!! さくたろは真里亞のお友達なの!! 親友なの!! さくたろさえいれば、他には何もいらないッ! だから返して!! 返してえええぇえぇぇ!!」
 ……その、私の必死の頼みは、なぜかむしろ、ママの怒りに油を注いだ……。
 ママは、さくたろを奪い返そうとさくたろを引っ張る私の腕を振り払い、異様な感じで両手の爪を立ててさくたろをぐしゃぐしゃに捻りあげる……。
 毎日、丁寧に巻きなおしてあげていた赤いマフラーが解けて床に落ちる…。
 ……大切に大切にしてきたさくたろう……。それが、あんなにぐしゃぐしゃに歪んで、捻られて、爪を立てて引っ張られて……。痛そうに歪んでる…、表情を歪めて、悲しんでる………。
 そしてママの爪が、……首の縫い目の部分を……裂いて…。……両手の爪で……引き裂いて…………。
 その一瞬で、………さくたろが、黄色い布地と、………内側の綿が弾けるように飛び出す……。それはまるで、湿気った綿飴みたいに見えた……。
【さくたろ】『……う、……………りゅ…………………、』
【真里亞】「…くたろ…………?」
【さくたろ】『……ま……りあ………。』
【真里亞】「………さくたろ…………。」
【さくたろ】『う……りゅ……———』
【真里亞】「……………くたろ…………。」
【さくたろ】『——……‥‥・  」
【真里亞】「………た…ろ………、」
【さくたろ】『』
 ずい、っと。………黄色いぐしゃぐしゃの布地と溢れ出た綿飴が、私の眼前いっぱいに突きつけられる。そして、……ママの表情を通して、邪悪な存在が、はっきりと断言した。
【楼座】さくたろうは、死んでしまいました。」
 まばがぎゅりいを、ゆがべだ。ぎくぐきぃ……くたろ……さくた…ぉ…ぐびぢった………。……ううぅ。うわあああああううぅうぅうぅ……。うわああああぁああぅうううぅうぅうぅ……。ぐだろ……、さぐだろ……、……うわああぁああああぁあうううぅうぅぅぅ……………。
【ベアト】「マリア……、……マリア………。…泣くんでない……。」
【真里亞】「ベアトリーチェ、ベアトリーチェ…!! うわああああぁあああぁあぁう!! うわああああぁあぁうう!!」
【ベアト】「さくたろうは良き友人であった…。そなたがそれを忘れぬ限り、常にそなたと共にある…。だから泣くんでない…。」
【真里亞】「生き返らせて!! ベアトはいろんな魔法が使えるんだもんね!! さくたろだって生き返らせられるよね?!」
【ベアト】「…………そ、それは……。…無論、さくたろが妾の家具だったなら、それも容易い。しかし、さくたろはそなたの家具だ。……妾にそれは難しい。」
【真里亞】「難しいってことは無理じゃないんだよね?! 生き返らせて!! 無限の魔法で生き返らせてええぇえぇ!」
【ベアト】「………んむ…。……実はな…。さくたろうの依り代は、楼座の手作りのぬいぐるみであったろう…? その楼座が、さくたろうを否定した。……母にその生を許されなかった命は、存在できぬのだ…。」
 ベアトリーチェのその言葉は弱々しい。…どんな言い訳であったとしても、真里亞を慰め、納得させることなど出来ないとわかっていたからだ。
 でも彼女は、弟子であり親友である真里亞に、辛い真実を伝えなければならない。………自らの魔法を尽くそうとも、……さくたろうを蘇らせることが出来ないという、その事実を。
【ベアト】「そなたがさくたろうの存在を強く信じる限り、その魂が消え去ることはない……。だからマリア…、どうか悲しむな…。
 今もほら、…すぐそこでさくたろうが微笑んでいると信じるのだ……。」
【真里亞】「嫌だ!!! 嫌だ嫌だ嫌だ!! さくたろを生き返らせてくれなきゃ嫌だ!! 嫌だ嫌だ嫌だ! うわあああぁああぁあぁあぁああう!!」
【ベアト】「諦めよ…!! さくたろうを蘇らせる魔法はない…! そして、それでもなおさくたろうがそなたの親友であり続けることを強く信じよ…!! その力が魔法となる…!」
【真里亞】「そんなの魔法じゃない魔法じゃない!! さくたろが生き返らなきゃ嫌だ…!! ママの手作りだから駄目なの? どうしてママはさくたろを作ったの? 真里亞にプレゼントするためじゃないの? 真里亞のお友達にするためじゃないの? なのに何で、ママは自分で作って、自分で壊したの? どうしてママは、自分で生んで、自分で壊そうとするの? わかんないわかんない!!」
【ベアト】「ママが憎いよ、ママが憎い…!! 悔しい悔しい悲しい悲しい…!! さくたろがそうされたように、ママをねじり上げてやりたい…! 爪を立てて引き裂いて、布地と綿にしてやりたい!! わあああああああああぁあああぁあん!! 悔しいよ、悔しいよベアトリーチェええぇ!! わあああああああああぁあああん、さくたろおおぉおおおおお!!!!」
 真里亞の背後の暗闇より、巨大な漆黒の二本の腕がぬうっと現れ、怒りに泣きじゃくる真里亞に絡みつく。そして巨大な爪を真里亞の胸と腹に突き立てる……。
 それは真里亞には見えていない。……しかしベアトには見えていた。
 ぶつけ方を知らぬ怒りと悲しみは、自らを引き裂く。……ベアトはそれを知っていた。見えていた。
 そう。……つまりはその巨大な腕は、真里亞自身のものなのだ。その爪が、めりりと彼女の胸と腹に食い込んでいく……。
 ……その腕のあまりの大きさと強さは、真里亞を容易に引き千切り、ばらばらにしてしまうだろう……。
 しかし、当の真里亞はそれに気付けない。自らの涙の海に溺れ、……自らの腕が自らの胸を引き裂こうとしていることに、気付けない……。
【真里亞】「悔しい悔しい…!!! さくたろがどうしても生き返らせられないなら、……真里亞は復讐したいッ!! ママを同じ目に遭わせてやりたい!! さくたろと同じ目に遭わせてやりたいの…! ベアトリーチェ!! そのための魔法を教えて!! ママをやっつける魔法を教えて…!!」
【ベアト】「……………………………。……その言葉は本心か。」
【真里亞】「ママを殺す!! 殺してやる!! ううん、あれはママじゃないよ! ママに取り憑いた悪い魔女だ! ママの魔女を殺してやる!! ううううぅうぅううううぅう!!」
【ベアト】「……………………。……良かろう。その力を、そなたに与えよう。……心美しきそなたが自らに引き裂かれるくらいならば。……そなたにその苦しみを与えた、心無き母こそがよほど引き裂かれるに値する。
 ……………教えようぞ、そなたに。……魔女の世界の、光差すことなき深淵の奥底を……。」
【真里亞】「ううぅううぅ、さくたろさくたろ…!! みんな嫌い嫌い大ッ嫌い!! ママも嫌い、縁寿も嫌い!! みんなみんな大ッ嫌い!! うぅううぅううわああああぁああああぁあああぁ……!!」

魔女の島へ

新島への船
 転寝しているつもりだったが、……やはり船の揺れが酷い。
 私は寝ることを諦め、上の甲板に上がった。眩しい太陽と、強い潮風が私を迎える…。
 甲板では、天草が柔軟運動をしていた。……彼も多分、暇なのだろう。新島まではまだ数時間掛かるのだから。
 飛行機で行けばものの数十分でつけるが、須磨寺家が新島空港に網を張っている可能性がある。多分、港も同じだろう。その為、事情を一切聞かないで、港を避けて上陸させてもらえるよう、船を手配した。
 たまたま陽気な船長が見つかり、気前良く弾んだら、面白がって協力してもらえることになったのだ……。
【縁寿】「まだだいぶ掛かるの?」
【天草】「さっき船長に聞いたら、あと2時間はたっぷり掛かるそうです。まぁ、贅沢は言えねぇですな。」
【縁寿】「………いいお天気ね。焼けちゃいそう。」
【天草】「甲板で読書ですか? 本が痛みますよ。」
 私が小脇に、真里亞お姉ちゃんの日記を抱えていたので、天草はそう思ったらしい。寝入りばなに読んでいたので、そのまま抱えて上がってきてしまったのだ。
【天草】「どうですか。真里亞さんの日記から、六軒島の真相は探れそうですかい?」
【縁寿】「…………さぁ。あの島で何があったかなんて、どこまで調べても仮説でしかない。メッセージボトルもお姉ちゃんの日記も、魔女が闊歩するおとぎ話が記されているだけで、何も真実を語らない。……お手上げよ。」
【天草】「新島での、関係者からの聞き込みに期待するしかないですな。」
【縁寿】「ウィッチハンターどもが、さんざん質問攻めにしてるでしょうから、きっと新事実なんて見つからないわよ。」
【天草】「へっはは…! そこまで期待してないのに、半日も船旅をして新島に行こうなんて、実に気まぐれなことです。」
【縁寿】「………調べた、っていう自己満足のための旅みたいなものよ。本気で12年前の真実が解き明かせるなんて、私も甘えてるつもりはないわ。」
【天草】「その自己満足が終わったら、どうするつもりで?」
【縁寿】「さぁ。考えてないわ。………新島に行って、関係者に話を聞いて。…最後に六軒島に行って花でも捧げたら、私の旅はおしまいね。」
 ………この旅も、すでに始まってから数日を経ている。
 あのビルの屋上でベルンカステルに、12年前の真実を探れと言われ、雲を掴むような旅に出た。
 あの時は神秘的な何かを感じ、この旅の果てには、何かの奇跡を掴み取れそうな気がしていた。……しかし、数日を経れば興奮も収まる。
 あの日、ビルの屋上に立った私は、完全に心が追い詰められ、死んでいた。……だから、体の檻から解放されて、空へ上りたいと心の底から思い、……死ぬためにフェンスを越えたのだ。
 その、死のうという気持ちと、実際に足を踏み出して身を投げた体験が、私の頭に何かの神秘体験を起こし、魔女からお告げをもらったような、そんな気にさせたのかもしれない。………飛び降りの興奮が薄れ、正気に戻れば戻るほどに、この旅の意味は、失われていった。
 でも、だからといって、私はこの旅を中断しようとも思わなかった。もし旅を止めたら、あの魔女のお告げを、幻だと認めたことになる。
 それは即ち、魔女がしてくれた約束、家族が誰か帰ってくるかもしれない可能性すらも、捨て去ってしまうことのように思えたからだ。だから、あの時の幻を信じたいがために、旅を続けている。
 この旅で何かを変えられるなんて、本気で信じちゃいない。……いつ旅を終わりにするかも自由。どこを終着点とするかも、自由なのだ。結局、この旅は、私の自己満足のためでしかない……。
【天草】「…………自己満足か。聞こえは悪いですが、そいつが実は、人生ってヤツではないかと思ってます。」
【縁寿】「……へぇ。傭兵稼業で死線を潜った末に至った答えだったなら、なかなか味わい深いじゃない。」
【天草】「茶化さんでください。俺が言いたいのは、自己も何も、自分を認められるのは世の中で自分だけしかいないってことです。」
 天草は柔軟運動を続けながら言う。悔しいぐらいに爽やかに。
 教師みたいな言われ方をされると、ついつい反抗したくなるが、彼が言っていることは至極まともだった。
【縁寿】「…………………。……そうかもね。人は、誰かに認められたくて努力をするわ。……多くの場合、それは親ね。親に褒められたくて、子どもは努力を覚える。………だから私は、覚えなかったわけだけど。」
【天草】「すんません、そういうつもりで言ったんじゃないです。……俺が言いたいのは、自己満足、大いに結構ってことなんです。誰に褒められたって、それを納得できなきゃ意味がない。……逆を返しゃ、誰に褒められなくったって、自分が納得できりゃそれでいいってことです。」
【縁寿】「………自己満足と向上心って矛盾するから、普通は悪いことって教えられるわよね。天草の論法は何だか新鮮よ。」
【天草】「誰かに認めて欲しくて、だけれど何を努力すればいいのかわからないのが、人の世の苦しみです。俺にもそういう頃があった。誰かに認められたくて、でも何を認められればいいかわからなくて。そして、何をどこまで努力すれば、誰に認めてもらえるかわからなくて、ずいぶんと無茶苦茶をやってきたもんです。」
【縁寿】「それで天草が至った答えが、……自己満足だっていうの?」
【天草】「聞こえは悪いがそういうことです。吾唯(われただ)足るを知る、っていうヤツですわ。
 ………俺がこれでいいと思った人生なら、それはとやかく言われてどうこうってもんじゃない。縁寿さんの人生も、この旅も同じです。縁寿さん以外の誰にも、とやかく言う権利なんてない。
 旅の意味と成果は、縁寿さんだけが決める。縁寿さんにとって有意義な旅になったなら、それで充分なんですよ。」
【縁寿】「………………………。………あんたってチャラけてる男だと思ってたけど、たまに変なこと言い出すのね。そういうこと、たまに言うとモテると思ってるでしょ。」
【天草】「まさかまさか。そんなつもりで言ったんじゃありません。………どうやら、お一人になりたいようだ。私は船長のところへ行っていますぜ。どうぞごゆっくり。」
 天草は私の機嫌が悪いと判断したらしい。……そういうつもりはなかったのだけれど。あるいは、一通りの柔軟を終えて、日陰で涼みたくなったのかもしれない。潮風は強いけれど、日差しを和らげてくれるほどではなかったから。
 天草は姿を消す。後には私だけが残った。
【縁寿】「………自己満足こそが人生、か。」
【マモン】「そんなのつまらないです。人生はどこまでも強欲でなくっちゃ。」
 気付けば、いつの間にかマモンがいて、舳先で豊かな髪をなびかせていた。
【縁寿】「強欲な人生は確かに楽しいわ。でも、あなたと違ってニンゲンには寿命がある。永遠に強欲のままだったなら、人は死ぬ最後の瞬間にも欲があることになる。欲があるということはつまり、欲しいということ。持っていないということ、満たされていないということ。
 ……自分が満たされていると思えないまま死ぬのはきっと辛いことよ。だからきっと、自己満足って必要なんだわ。」
【マモン】「………なるほど。寿命ある存在には、そういう妥協点も必要ってことですか。私たちの主は、やたらと寿命の長いお方ばかりだったんで、考えたこともなかったです。」
【縁寿】「ニンゲンってのは、満たされるために生きてるのかしら。……だとしたら、無欲が一番、人生にやさしいことになるわ。…なるほど、七つの大罪のひとつが強欲になるのも納得ね。」
【マモン】「くすくす。お褒めに預かり光栄です。」
 マモンにとっては褒め言葉になったらしい。彼女は身を翻し、優雅にお辞儀をして見せた。
【マモン】「縁寿さま。ニンゲンは、死の瞬間に満足であるために生きてるんですか?」
【縁寿】「……死の瞬間に何かが満たされていないのは、きっと辛いんじゃない?」
【マモン】「だとしたらニンゲンは、満足な死を迎えるためだけに、生きてるわけですね。より良い死のために生きてる。死ぬために、生きてる。」
 …………この子はすごいことを言い出す。…なるほど、さすがは悪魔の杭。
 しかし、それは真実かもしれない。人は、満たされないからこそ苦しみ、満たされるためだけに生きている。それはつまり、満たされながら死にたいという願望も同然なのかもしれない。
【縁寿】「言い返せないわ。……人は満たされるために生きてる。そして満たされたまま死にたいと願ってる。だから、その満たされ方がわからないのは、とても辛いことだわ。」
【マモン】「どうやれば満たされるんです? ニンゲンの人生は。」
【縁寿】「………認めてもらうことよ。お前は幸せだ、ってね。」
【マモン】「誰が認めてもいいものでしたら、私が認めてあげますよ。」
【縁寿】「そうよ、そこなのよ。………誰に認めてもらえばいいのか、わからないのよ、人は。」
【マモン】「その認めてくれる人を探すのが、人生の旅なんですか? へぇー。」
【縁寿】「おかしな話ね。認めてもらおうと認めてもらわなかろうと、自分の境遇に変化はないはず。……にもかかわらず、認められれば満たされ、認められないから満たされない。…まるで青い鳥だわ。……籠の中にもう青い鳥はいるのに、それに気付けないから、どこまでも探しに旅立たなければならない。」
【マモン】「何ですか、それ。きゃっははは。ニンゲンの人生って馬鹿ですね。」
【縁寿】「そうね。天草は本当にいいことを言ったわ。……吾唯足るを知る、か。何の諺か知らないけど、味わい深いわ。……つまるところ、誰かに認めてもらわなければ満ち足りないとは即ち、自らを認められないということ。……究極の自己実現は、まず、自分を自分で認めることだったのよ。」
【マモン】「そりゃそうです。自分が満ち足りてるって自覚できるなら、誰にも認めてもらう必要なんかないですから。その小さなことに気付くだけで、ニンゲンの下らない人生の旅は簡単に終了ですね。残った時間を有意義に遊んで過ごせます。ニンゲンの人生って馬鹿馬鹿しー、きゃっはははは!」
 マモンの言葉は悪いが、それがきっと真実なのだ。もし、ニンゲンの人生のほとんどが、満ち足りた死を迎えるために、誰かに自分を認めて欲しいと願う旅ならば。
 ………それを認めるのは誰かではなく、自分自身なのだと気付く時点で、その無駄な旅を終えられる。その旅を終えた人間は、残りの人生を胸を張って自由に生きていくだろう。……それの何と気高く、誇り高いことか。
【縁寿】「天草ってさ。親とはかなり仲が悪いらしいのよ。……そりゃそうよね。真っ当な親なら、足を洗わせたいと願うような商売だもの。」
【マモン】「別にいいんじゃない? 本人が楽しいなら。」
【縁寿】「………まったくよね。結局はそういうことなのよ。他人が観測した自分の評価なんかどうでもいいこと。自分の存在を、自分自身がしっかり認められたなら、それで十分なのよ。……自分に自信を持って生きられるなら、どんな生活だって受け容れて納得できるに違いない。
 天草はきっといつか、戦場で流れ弾を食らって大怪我をするでしょうよ。…あるいは死ぬことさえあるかもしれない。でも、天草はそれを理不尽とは思わないと思う。それも人生と、あいつはけらけら笑ってるような気がするの。」
【マモン】「いい生き様じゃない。惚れるわ。」
【縁寿】「……自分で自分を認められない哀れなニンゲンは、生涯それを求めて彷徨い、何も受け容れられず、不平不満だけを口にし、満たされないまま死んでいく。……哀れだわ。何の目的もなくだらだらと生きてる連中に比べたら、やがて野垂れ死にするかもしれないけれど、自分の人生に胸を張っている天草の方がよっぽど高潔なのよ。」
【マモン】「人生、悟った者の勝ちってことじゃない? 少しでも早く悟れれば、その分、有効に残りの人生が過ごせておトクよね。」
 ………そのマモンの言葉に、……私はようやく、ある事実を受け容れる。
 私は、……変わっている子、ちょっとおかしな子などと、それを形容してきた。しかし、……違ったのだ。彼女はその旅を、………誰よりも早く終えて、自らに胸を張っただけなのだ。
【縁寿】「…………………だから真里亞お姉ちゃんは、…凄かったのかもしれない。彼女は、小学校低学年になるかならないかという年齢のうちに、それに至ったのよ。」
 彼女の人生は、私たち他者の目から見て、お世辞にも幸福だったとは言えない。しかし、彼女の日記帳には、そんな日々が刻まれながらも、……常に楽しい一日だったと締めくくられていた。
 娘を愛していない片鱗が見え隠れするのに、彼女はそれでも、母は自分を愛してくれていると信じた。存在しない母の愛を自ら生み出し、世界を愛で満たしたのだ。
 他者は彼女を、満たされない可哀想な子として観測したが、……彼女は自らは満たされていると、自らを認めていたのだ。だから、それで幸せだったのだ。
 それを、哀れで悲しいことと観測するのは容易い。しかし彼女にとってはそんなのは他人の評価で、どうでもいいことなのだ。“自分にとって幸せかどうか”、それだけが大事だったのだ。
 都会に住む人たちが、田舎の人の暮らしを指して、勝手に不便さを嘆き同情を寄せるのは、実に余計なお世話だというのと同じこと。そこに住まう彼らがそれで満たされているならば、それで充分なのだ。
【縁寿】「………私、ようやく気付いたわ。…今、気付いた。……真里亞お姉ちゃんに、酷いことをしたのよ。………あの日に、あなたたちにも、さくたろうにも。」
【マモン】「……………………………。」
【縁寿】「魔法があるか、ないか。……それを決めるのは他人じゃないわ。自分よ。真里亞お姉ちゃんにとって魔法があるかないかは、真里亞お姉ちゃんが決めるべき問題で、私が決めることじゃない。
 ……なのに私は幼いあの日、口にしてしまった。魔法なんてあるわけないって、……彼女を傷つけてしまった。」
 私にとって魔法が存在しないのは、私の世界の話。だからといって、お姉ちゃんの世界までを否定するのは、まったくのお門違いなのだ。
【縁寿】「マリアージュ・ソルシエールは、真里亞お姉ちゃんの作った魔女同盟。私はそれに誘われて、一緒に魔女になろうと言われたの。
 新しい面白い遊びだと思って、私はしばらくの間、それに付き合ったわ。……でも、幼さゆえの残酷さ。途中で飽きてしまった。そして、……鋭利な言葉で彼女の、純粋無垢な心を切り裂いてしまったの。
 ……あの時、大喧嘩をしたはず。私はすぐに忘れてしまったけれど、彼女には忘れられないものだった。……なぜなら、彼女にとって魔法は、確かに存在する自然な力で、それは私とも共有できると信じていたから。
 ……真里亞お姉ちゃんにとって魔法は、世界を幸福に解釈できる、……いえ、全てを幸福に出来るまさに魔法の力だった。それを私にもお裾分けしたかっただけ。その気持ちを、幼い私が引き裂いた。……だから彼女は、誰とも魔法は分かり合えないと、殻の中に閉じ篭ってしまったのよ。」
【マモン】「………だとしたら、マリア卿もやはり、人生の旅は終わってないわけね。自分に納得出来てるなら、縁寿さまに否定されたくらいでへこむ必要なんてないわけだし。」
【縁寿】「お姉ちゃんは幼かった。天草みたいな達観にはまだ至ってなかったのよ。……あぁ、だからこそわかるわ。マリアージュ・ソルシエールという魔女同盟がなぜ必要なのか。」
 ——お互いが魔女であることを、互いに認め合う同盟。
【縁寿】「…そうよ、それが確か、マリアージュ・ソルシエールの取り決めの第一条だった気がする。……同盟の魔女は、互いを魔女と認め、尊敬し合うこと、って。それこそが、魔女同盟の一番の、そして唯一の意味なのよ……。」
 魔法という、世界を幸せにする秘密の法則を、私と共有したかった真里亞お姉ちゃん。しかし私は幼くて。そして彼女も幼くて。……無垢な残酷さが傷つけてしまい。
【縁寿】「………私はあの日に言ったわ、暴言を。あなたたちや、さくたろうに。存在するわけがない、って。」
【マモン】「失礼しちゃうわ。私たちは私たちが存在するって、自らを認めてる。魂が寝ぼけてるニンゲンどもとは訳が違うのよ。……“我思うゆえに我あり”。魔法を認めようと否定しようと、私たち煉獄の七姉妹という魔法が存在することは、ゆえに事実。……縁寿さまの言葉を借りるなら、私たちが自らをそう認めている限り。」
【縁寿】「それを、他者である私が否定するのはまさに暴力だわ。………それはきっと、実の母に、お前なんか生まれてこなければ良かったと、いいえ、消えてしまえと怒鳴りつけられるくらいにね。」
 ……それらの言葉をぶつけられてもなお、……真里亞お姉ちゃんの魔法は、………母の愛を信じさせたのだ。魔法の友人であるさくたろうは常に彼女を励まし続けた。
 ……母は愛してくれている、帰りが遅いのは仕事のせいだ、きっとお土産を買って帰ってくる…、そう励まし続けた。本当は仕事ではないという事実を知ってしまっても、なお、そう信じさせ続けた。
 そして母は自分を愛していると信じることで、自ら認めることで、自分の世界を、平和に、穏やかに、愛で満たして、……完全に確立し切ったのだ。
【縁寿】「12年前に何があったのか、…私の家族がどうなったのか。……それを探る旅じゃ、なかったのよこれは。」
【マモン】「…………なら、この旅は何なの?」
【縁寿】「真里亞お姉ちゃんに、……あの日のことを、謝る旅だったのよ。」
【マモン】「…………………………。」
【縁寿】「どうしてかわからないけど、そう思うの。……あの日、彼女を傷つけなければ。………12年前の事件は起こらなかったんじゃないか、って。……そう思うの。」
 根拠はない。お姉ちゃんが傷ついたら、それがどう、その数年後の怪事件に結びつくのか、見当もつかない。でも、なぜか、私は無関係に思えなかった。
 この事件は魔女が起こした。そして犯人は、黄金の魔女、ベアトリーチェ。
 そしてベアトリーチェは、マリアージュ・ソルシエール魔女同盟に所属していた。その同盟の、もうひとりの魔女を、私は酷く傷つけた。魔法なんて存在しないと傷つけた。
 ………だからその数年後、魔女による怪事件が起こり、魔法以外で説明の出来ない二日間が、メッセージボトルによって、私に突きつけられる。
【縁寿】「……きっと、私は無関係じゃないのよ。………わからない。偶然かもしれないし、運命かもしれない。………なぜか、この旅で私はそう思うようになったわ。」
【マモン】「根拠は?」
【縁寿】「ないわ。勝手にそう思ってるだけ。」
【マモン】「ふーん……。日本人って面白いわね。被害者であっても、自分に非があったように感じて、勝手に謝り出す。……家族を奪った、ベアトリーチェさま憎し!っていうなら理解も出来るけど、勝手に非を感じて謝りたくなってくるなんて、本当に変わってるわ。」
【縁寿】「もちろんベアトリーチェは憎いわよ。その気持ちがなければこの旅は続かないわ。でも、旅にもう一つ目的を見出してもいい。12年前の魔女に復讐する旅に、さらに昔の罪を謝罪する目的を加えたっていいんだわ。六軒島に行って、あの日の暴言を詫び、花を手向けることくらいは出来る。
 ……いえ、………花よりもっといいものがあるわ。そしてその方が、お姉ちゃんには相応しいと思う。」
 私は立ち上がり、潮風に散らされる髪の毛を気にせず、精神を集中する……。手の平を顔の高さに掲げ、……広大な空間をイメージする……。
【マモン】「…………縁寿さま、……………。」
【縁寿】「……静かに。……………………。……さぁさ、お出でなさい。……我こそは魔女見習い、エンジェ・ベアトリーチェ。……破門にされてはしまったけれど、かつて同じ同盟に所属し、私と遊んでくれた懐かしき家具よ。我が呼び掛けに応じよ………。」
 日中だからわかりにくいけれど、私の手の平に薄っすらとした青い光が集まる。………そして、………さくたろうの姿を蘇らせる。
 それは本当に懐かしい、あの姿。可愛らしい耳に、真っ赤なマフラー。……すぐ解けるので、お姉ちゃんはいつもマメに巻き直してたっけ…。
【マモン】「……さくたろ……。……わかる? 私たちがわかる…?」
【さくたろ】『…うりゅ……? うりゅ……? マモン…? 縁寿………?』
 さくたろうは、長い眠りから覚めたような寝ぼけた声で、周りをきょろきょろしながらそう答える。
【縁寿】「お久しぶりね、……さくたろう。あなたを私の力で呼び出すのは、きっとこれが初めてだわ。……そして今や、私にしか呼び出せない。」
【さくたろ】『………………うりゅ……。』
 それは少しだけ残酷な言葉だったかもしれない。さくたろうは表情を曇らせる…。
【縁寿】「かつての私は、あなたを否定した。………その私があなたを呼び出したということは、……あなたの存在を、私が認めたということ。」
【さくたろ】『………いいの……? ボクは…縁寿の世界に呼び出されてもいいの……?』
 その瞳はわずかに怯えている。……無理もない。今まで仲良く遊んでいた私が、ある日、突然否定して、反魔法の毒で焼き尽くそうとしたのだ。怯えるのも無理はない……。
【縁寿】「謝るわ。あの日のことを。………マモンにも。そしてみんなにも。」
 甲板の上に、……他の七姉妹たちも、いつの間にか揃っていた。いや、いつだっている。いつも側にいるのだ。そこに居て良いと認めさえすれば、いつだって姿を現すのだ。
【縁寿】「あなたたちは確かに存在するわ。ルシファーも。レヴィアタンも。サタンも。ベルフェゴールも。マモンも。ベルゼブブも。アスモデウスも。……そしてさくたろうも。」
【ルシファー】「……よろしいのですか? 縁寿さまはベアトリーチェさまに挑もうというお方。…魔女を否定される立場にあられるお方が、我らを認めてもよろしいのですか?」
【縁寿】「私の世界にとって、魔法が存在するかどうかは、悪いけど保留させてもらうわ。私自身が魔法の存在を認めたわけじゃない。」
【レヴィア】「……なのに、我らを認めるという矛盾は、どういうことです?」
【縁寿】「魔法は、信じる人には存在する、ってことよ。私が信じなくても。誰かが信じたなら、その人の世界には魔法が存在するわ。
 それは、私が魔法を信じたって信じなくたって、何の干渉も受けない。いいえ、受けてはいけないのよ。その誰かは、胸を張って自らの魔法を信じればいいのよ。そして私はそれを認める。だから、あなたたちが存在しても、全然おかしくはないのよ。」
【サタン】「………なかなかの詭弁ですが、面白い解釈かと。」
【ベルフェ】「縁寿さまのそれは、悪魔の証明そのものでしょう。」
【縁寿】「悪魔の証明……?」
【ベルゼ】「だって! 悪魔の存在を証明するには悪魔を連れて来れば良いけれどォ。」
【アスモ】「悪魔の存在を否定することだけは不可能だからァ。」
【マモン】「きゃっは! そして私たちはここにいる。つまりそれは、縁寿さまが魔法を信じようと信じまいと、私たちの存在は揺るがないということ。」
【さくたろ】『……うりゅ? 縁寿から、…………反魔法の毒が、……消えていく……。』
【マモン】「ほ、本当だわ……。……魔法を否定する立場なのに、……どうして……。」
【縁寿】「それは多分……。……尊重し、認めるという心を知ったからだわ。今の私になら、……真里亞お姉ちゃんの、……そしてベアトリーチェの魔法の深遠も、理解できるかもしれない。」
 かつての私は、魔法など信じない、あるはずがないと、まるで硬く目を瞑って何も見えないかのように振舞っているだけだった。しかし、今の私は違う。魔法というものをしっかりと見据えて、その本質に迫ることが出来る気がする……。
【サタン】「……惜しいわ。この現代に、これだけ反魔法の毒素の抜けたニンゲンなんて本当に稀よ。魔女に向いた、稀有な才能なのに。」
【レヴィア】「そうね。……今の縁寿さまが魔女を目指して下さったなら、……ベアトリーチェさまに及ぶかもしれない大魔女に成長されたかもしれないのに。」
【ベルフェ】「それでも、我らの存在を認めて下さった、我らの主である。……恐らく、縁寿さまが我らの最後の主となるだろう。最後の奉公と思い、尽力しようではないか。」
【ベルゼ】「……ぶー。なのに、縁寿さま自身がまだ魔法を信じてくれないのが納得いかない〜。」
【アスモ】「……縁寿さまぁ、ついでに魔法も認めてくださいよ〜。せっかくの主なのに魔女じゃないなんて、何だかもったいない〜。」
【マモン】「最高の魔女になれる逸材なのに、その目的が魔女を討つことだなんて。惜しいです。……ま、それも縁寿さまの人生で、生き方で、そうと決めた世界ならば、それは私たちにとやかく口出し出来ることではないわけですが。」
【縁寿】「私を理解してくれて、ありがとう。そうね、魔法が私にとって存在するかどうか。それは私が決めることだわ。世界のどこかに魔法が実在したとしても、しなかったとしても、ね。」
 思えば、世界というのは、何て広く、……そして狭いのか。
 地球には何十億人もの人間が住んでいる。でも私は、その内の1%の人とも出会うことはないだろう。にもかかわらず、私は世界を語るだろう。世界の1%すら知らずに、“私の世界”を。
【縁寿】「私が知らない世界の法則を、私に否定する資格なんてない。……だから私の世界に魔法が存在しないからといって、私の知らない世界に魔法が存在することまでを否定することは出来ない。まさに悪魔の証明というわけだわ。いえ、郷に入りては郷に従え、というべきかしら。」
 自分の知る世界に自信を持っていい。だから、自分の世界を知るはずもない赤の他人に否定されても、何も気にすることはない。そして同じように、自分が知らないからといって、自分の知らない世界を否定する資格もないのだ。
【縁寿】「だから。私は、自分の世界に魔法があるかないかを問わずに。……真里亞お姉ちゃんが教えてくれた魔法を、否定することなんて出来やしない。」
【さくたろ】『うりゅ! だって、見たことがなくても。……魔法は存在するんだもん!』
【縁寿】「えぇ。だから、すでに言っているとおり。……魔女同盟、マリアージュ・ソルシエールの友人であるあなたたちの存在もまた、私にも、そして誰にも否定することなんて出来ないわけ。」
 一番重要なその一言を、私は重ねて宣言する。
 …………潮風と波を砕く音が賑やかなのに、静寂な時間。さくたろうも、煉獄の七姉妹たちも、……私の言葉を噛み締めている。そして、多分、私も。
 魔法が存在するかどうか。魔女が存在するかどうか。私の世界における答えを不問にしながら、……私はその存在を認めるという矛盾を、これだけ堂々と宣言したのだから。
【さくたろ】『ありがとう、……縁寿。』
【ベルフェ】「そこまでお認めになったなら、魔女もお認めになって……。…いえ、愚問でした。その問いに対する答えを、すでに縁寿さまは明確にお持ちだ。」
【縁寿】「ごめんね。魔女がこの世界のどこかにいるかもしれないことを、私は認めるけれど。でも私の世界は揺るがない。」
【マモン】「……魔女も魔法も、認めない。六軒島の真実は、必ず暴いてみせる。……でしょ?」
【縁寿】「えぇ。それが私の世界よ。仮に本当に魔女が存在したとしても、私の世界では認めないわ。当の魔女に、どれだけ言い寄られたとしてもね。」
【ルシファー】「縁寿さまのお立場は魔女を討つこと。……そしてそのお気持ちに些かの揺るぎもないこと、よくわかりましたっ。我らは縁寿さまの家具、煉獄の七姉妹…! いつでもお側に。お役に立てる日が来るのを、いつまでもお待ち申し上げております…!」
【レヴィア】「縁寿さまが魔法を信じてくれない以上、話し相手くらいにしかなれないけれど。」
【サタン】「今は十分よ。私たちに存在できる余地を残してくださった。それだけで、私たちは縁寿さまに感謝し、認めるべきだわ。」
【ベルゼ】「つまり! 私たちはァ!」
『また、みんなといられるんだね……。うりゅー!!』
【アスモ】「きゃーッ!! さくたろー! モフモフさせてぇえええぇ〜!!」
 感極まってさくたろうが涙を零すと、七姉妹たちがどっと押し寄せて彼を揉みくちゃにした。
 ……彼女らも、久しぶりの再会を喜び合っているのだ。その存在を許されたから、彼女らは確かにここに存在することが出来る。
 いや、私が許さなくたって、彼女らは存在出来るのだ。私が認めたから、彼女らは再会の喜びを、私にも見せてくれたのだ。
 私はその光景を見守りながら、………私の旅にどんな意味があるのか、噛み締めていた。
【縁寿】「………これで、みんなには許してもらえたかしら。」
【マモン】「充分ですよ。私たちは家具。呼び出してもらえるだけで。お傍にいることを許されるだけで、嬉しいのですから。」
【さくたろ】『うりゅ…! 縁寿、本当にありがとう……!』
【縁寿】「……そう言えば、どうして私にはさくたろうが呼び出せたのかしら。……いいえ、逆ね。…どうしてお姉ちゃんには、さくたろうが呼び出せなかったのかしら。」
 真里亞お姉ちゃんは、さくたろうは死んでしまったと思い、絶望した。それはつまり、もうこうして召喚できなかったという意味だ。
 召喚には依り代がある方が有利だと、かつてお姉ちゃんは言っていた。しかし、依り代は補助輪のようなもので、絶対必要なものではないはず。……つまり、さくたろうの依り代であるライオンのぬいぐるみが存在しなくても、召喚は可能のはず。
 ……いや、それを言ったら、そもそも召喚物に、生死という概念があるのかさえ、少々怪しい。
 増してや、真里亞お姉ちゃんにとってさくたろうは特に大切な友達のはず。もう一度呼び出そうと努力できたはずだ。確かに依り代であるぬいぐるみ本体を引き裂かれたのは悲しいことだろうが、なぜ“死んでしまっていて”、再召喚が出来ないのか……。
【さくたろ】『…それは、…真里亞があの時、ボクのぬいぐるみが破れたのを見て、ボクが死んでしまったと、決めてしまったから。』
【マモン】「魔法の存在と同じなんです。……マリア卿の世界で、さくたろうが死んでしまったことになったなら、彼女の世界ではさくたろうは存在できない。」
【さくたろ】『…………うりゅ……。』
 大好きだったぬいぐるみを引き裂かれたショックは、無二の親友を二度と呼び出せないくらいの傷を、心に残してしまったのだ。真里亞お姉ちゃんにとって、さくたろうは死んだ。だから、私にとってさくたろうがこうして存在出来ても、彼女の前では存在できない。
【さくたろ】『ボクは……いつも真里亞と一緒にいたんだよ……。……泣いてる真里亞のすぐ近くで、泣かないでって、ずっと言ってたんだよ……。……でも、真里亞にはボクの姿も、声も、……何も届かなくて……。』
 さくたろうは悲しそうに俯く。
【縁寿】「……マリアージュ・ソルシエールは、あの事件の後、急に性格を変えていくの。それまでの同盟は和やかなものだった。でも、事件後は、憎い誰かを如何にして呪うかという物騒なものばかり。……お姉ちゃんの日記はあからさまに様変わりしていくの。」
 日記はそのまま、自らの心を映し出す鏡。それは、真里亞という一人格が死に、邪悪なる魔女としてのマリアという人格に生まれ変わったことを示すだろう。
 憎しみと悲しみで日記を埋める彼女の心は、……きっと、満たされていなかっただろう。満たされていなかったから、憎しみと悲しみで埋めざるを得なかったのだ。そして満たされないまま、彼女は死を迎えた。
 ……満たされない彼女の魂は、今も悲しみで胸に穴を空け、涙を零して、さくたろうの名を呼びながら彷徨い続けているのだろうか……。……………………………。
【縁寿】「……………あなたが、……お姉ちゃんには必要なのよ。」
【さくたろ】『うりゅ………。』
【縁寿】「どうしたらあなたを、真里亞お姉ちゃんの世界で蘇らせられるの? その方法がわかれば、私はお姉ちゃんを救うことが出来る。……それが、私に課せられた贖罪の方法なのよ。どうすればさくたろうは蘇るの?」
【さくたろ】『……真里亞にとって、ボクの依り代は特に重要な意味を持ってたから……。』
【縁寿】「依り代。……つまり、ライオンのぬいぐるみを、蘇らせることが出来れば。」
【さくたろ】『でも……。……ボクのぬいぐるみは、楼座ママの手作りだから、楼座ママにしか作れない……。』
 日記の中でも、真里亞お姉ちゃんはベアトリーチェにそれを求め、それを理由に断られている。たった一つの、手作りのぬいぐるみであることの、魔法的意味はとても大きいのだ。
 なら、同じものをもう一度作れば……。しかし、楼座叔母さんはすでに他界している。二度と同じものは作れない。
【縁寿】「……同じぬいぐるみをもう一つ作ってあったとか、そういうことはないの?」
【マモン】「彼は、マリア卿の誕生日プレゼントのために作られた、世界でたった一つのぬいぐるみ。……手作りで、たった一つの依り代なんです。だから、大きな魔力を秘めているんです。そして、……失われたら、もう二度と手に入らない。蘇らない…。」
【さくたろ】『………うりゅ………。』
 ……それを知っていたから、真里亞お姉ちゃんは、その世界でたった一つのぬいぐるみを引き裂かれるのを見て、………絶望したんだ。
 買い直せばいいとか、そんな妥協を許さない、世界でたった一つのぬいぐるみだからこそ、……心の底から絶望したんだ……。
【縁寿】「……でも、さくたろうはここにいるわ。依り代なんかなくてもここにいる。私がそれを認めているから、私の世界では確かに存在する。………真里亞お姉ちゃんが認めなくても、それは否定できない。そうよね…?」
【マモン】「理屈ではそうですが。……同じ理屈で、マリア卿にそれを認めさせることも、また困難かと思います。」
【さくたろ】『……真里亞………。……ボクは死んでないよ…。ここにいるのに………。……うりゅ……。』
【縁寿】「きっと六軒島で。……真里亞お姉ちゃんに私は再会できると思うの。そして私は、……何が何でも、お姉ちゃんの中のあなたを蘇らせて、再会させるわ。」
【さくたろ】『出来るの……?』
【縁寿】「難しいでしょうね。……魔女同盟に誘われた私が、意味を理解できず拒絶してしまったのと同じように。彼女もまた、あなたの存在を拒絶するかもしれない。
 ………でも、やるしかないわ。それが私に出来る、唯一の罪滅ぼしなのよ。」
【マモン】「…………縁寿さま……。」
【縁寿】「六軒島で何が待つのか。そして何が起こるのか、何が出来るのか。……あるいは何も起こらないのかもしれないけれど。」
【さくたろ】『……………………。』
【縁寿】「全ての始まりであるあの島こそが、この旅の終着点なのよ。………私はあなたたちを連れて、魔女の家具であるあなたたちの主として、……魔女の島へ、六軒島へ 帰らなければならない。」
 あんなに日差しが強かったのに、いつの間にか雲が垂れ込めている。頬に当たる飛沫は、波を砕いたものだけではないかもしれない。
【天草】「縁寿さん。軽く一雨来そうですぜ。下へ降りた方がいいんじゃないですか?」
 天草が、まだいたんですかという表情で声を掛けてくる。
 気付けば、島影がだいぶ大きくなってきていた。もうじき到着なのかもしれない。
 天気予報で、時折雨粒が混じると言っていたのを思い出す。空も、雨雲というほどは暗くない。ひと時だけのものだろう。
 気にするほどでない小雨であっても。……島に近付いたら雨が降り出したというのに、何か運命を感じずにはいられない。
 1986年10月4日も、雨が降っていただろう。私は距離的な意味だけでなく、……あの日の六軒島に近付きつつあるのだ……。
 私は天草と一緒に下に戻る。天草は、やたらと大きくて重そうなゴルフバッグみたいなものを担いでいた。天草と別行動した日に、どこぞから持ってきたものだ。……中身を詮索はしないが、平和的なものであるとは想像し難い。
【縁寿】「………中身は敢えて聞かないけど、重そうね。」
【天草】「どうしてこう、こいつらは重くて敵わないのか。フランス人の教官が面白いことを教えてくれました。何でも、こいつらは重くあるべきだそうなんです。………何しろ、人の命は地球より重いんですから。こいつらはもっと重くて然るべきなんだとか。」
【縁寿】「………使う機会がないといいわね。」
【天草】「ないといいですなぁ。」
 ズシリと、天草はゴルフバッグ風の荷物を傍らに置くのだった。
新島空港
 滑走路に双発プロペラ機が降り立つ。天候の都合上、快適な空の旅とは言えなかったに違いない。この便以降は、天候調整中になっていた。
 小雨を肩で切り裂きながら滑走路を横断し、黒服2人を護衛に連れた須磨寺霞がロビーに入る。ロビー内で待機していた黒服4人が立ち上がり、うやうやしく頭を垂れて迎えた。
「「「お疲れ様です…!」」」
【霞】「プロペラ機ってのは揺れるわねぇ……。二度と乗りたくないわ。」
「お車を用意しております! どうぞこちらへ。」
 レンタルした高級車2台に、彼らは分乗していく…。
【霞】「……縁寿は六軒島へ向かうはずよ。無人島とは、実に都合が良いわね。………お道具は、用意できてるんでしょうね?」
「は……!」
 助手席の黒服が、足元に置いていたずっしりと重いバッグを膝に上げ、そのチャックをがばっと開き、中身を霞に見せる。
 中には、アルミホイルで厳重に包まれた銀色の塊がごろごろと入っていた。
 ……そのひとつを剥いて見せる。黒く無骨な自動拳銃が、顔を覗かせた……。

右代宮金蔵

 時間は、もう夜の10時を間近としている。すでに台風は六軒島を包み込んでいた。昼間、あれだけの美しさを見せてくれた薔薇庭園も、今は暴風に耐え、その花を飛ばされまいとうねり、必死の抵抗を続けている…。
 そんな薔薇庭園を、紗音を先頭に、傘を差した戦人、朱志香、眠っている真里亞を背負う譲治がゲストハウスへ向かっていた。
【戦人】「ゲストハウスくらい、俺たちだけでも行けるってのに。いいんだぜ、紗音ちゃん、戻って休んでてくれよ。」
【紗音】「いいえ、お送りするのも仕事ですので…。」
【朱志香】「親族会議中は、うちの母さんとか源次さんもぴりぴりしてるからなー。下手に私たちが気を利かせると、紗音がサボってると勘違いされちゃう。」
【譲治】「そうだね。素直にお世話になった方が、むしろ迷惑を掛けないだろうね。…ありがと、紗音。」
【紗音】「いいえ。……確かにお嬢様の仰られますとおり、今日のお屋敷はぴりぴりしています。だから、私も皆さんとご一緒して外の空気が吸えるので、ちょっと肩が楽です。」
【戦人】「親族会議、か。………わざわざ俺たち子どもを追い出すくらいだから、相当、性質の悪い話をするんだろうぜ。」
【譲治】「だろうね。僕たちはきっと、何の力にもなれない。せめて邪魔をしないようにするのが、一番の協力だと思うよ。」
【朱志香】「へ……! どうせまた、カネカネカネ!って話だろうぜ。…普段、さんざん金持ちだと吹聴してるくせに、いざとなったらもったいぶりやがる。ぱーっと気前良く、みんなで山分けすりゃあいいのによ。」
【戦人】「いっひっひ。そりゃあ豪快な話だぜ。俺にも分け前がもらえりゃいいのによ。もし俺にももらえたら、そん時ゃ紗音ちゃんにも分けてやるからなー。」
【紗音】「ど、どうもありがとうございます…。お気持ちだけで嬉しいです。」
【譲治】「紗音は欲がないね。年頃の女の子なら、買いたいものがいっぱいあるだろうに。」
【紗音】「そうですね。でも私、欲しいものの中に、お金で買えるものがありませんので。」
【戦人】「ひゅう! 無欲だな! 俺なんか、欲しいモン全部並べたら、金がいくらあっても足りねえぜ。」
【朱志香】「お金で買えるものには、だぜ。紗音の言う、金で買えない欲しいモノって何かなぁ〜。譲治兄さんは心当たりあるぅ?」
【譲治】「さ、さぁ、何だろうねぇ? 紗音じゃないとわからないねぇ。」
【紗音】「わ、…私にもわかりませんっ。」
 譲治と紗音は顔を赤くして俯く。
 戦人も事情は聞いていたので、朱志香が何を言ってからかっているのか理解できた。
【戦人】「譲治の兄貴は、俺にとっても尊敬できるお人だ。紗音ちゃんは、本当にいい人と巡り会えたと思うぜ。」
【朱志香】「だな。私も、譲治兄さんなら安心して紗音を任せられるぜ。」
【譲治】「か、からかうのは止してくれよ。僕たちにとっては真面目な問題なんだ。それより、朱志香ちゃんの方だってどうなんだい? 嘉音くんと、少しは仲良くなれたのかい?」
【戦人】「えええぇええぇ! お前、嘉音くんとそういう仲なのかよー?!」
【朱志香】「え、たっ、とっと!! き、汚いぜ、譲治兄さん、そういう話の切り返し方は汚いぜー!」
 そんな甘酸っぱい話に花を咲かせながら、戦人たち子ども4人は、ゲストハウスに向かっていくのだった……。
 年に一度の親族会議は、右代宮家にとってとても重要なものだが、今年の親族会議は特に重要なものらしかった。何でも、当主の金蔵から直々に、極めて重大な発表があるらしく、大人以外は全員、屋敷から出て行くように厳命されたのだ。
 戦人は6年間、親族会議にかかわらなかったからピンと来なかったが、朱志香に言わせると、今夜はかなり緊張した空気があるらしく、例年のそれとはまるで違う様子だという。
 ……常識的に考えて、余命幾ばくの金蔵が、当主の継承や財産の相続などについて、何か重大な発表をしようとしていることは明白だった……。
【戦人】「しかし驚いたな。………まさか、本当に祖父さまが登場するとは……。」
【縁寿】「……なるほど。これが魔女の反撃というわけね。」
【ベアト】「くっくくくく! 金蔵というジョーカーはもう少し伏せていたかったところだが、そろそろ切るのが頃合であろう。切り札は切るためにある。くっくっくっく!」
【戦人】「くそ。祖父さまは最初から死んでて、その代わりに謎の18人目が紛れ込んでるっていう俺の推理は、……ここに来ていきなりバッサリってわけか。」
【ベアト】「いつかはそなたが金蔵を疑いに来ることは読めておったわ…! さぁさぁ、これでそなたの推理は再びゼロに戻ったぞ?
 金蔵は最初から死んでいて、その代わりに妾が18人目として紛れ込んでいたという推理は、これでパーだ! くーっくっくっくっく!!」
【戦人】「………くっそう…。だが挫けねぇぞ。ひとつの推理が外れただけだ。嵐のように、暴風のように襲い掛かってやる……。」
【ベアト】「くっくっくっく! そうでなくてはな、そうでなくてはな! まだまだ第一の晩さえ始まっていないぞ。屈服にはあまりに早過ぎる。」
【縁寿】「そうね。そして、赤い真実で否定されたわけでもない。………今この瞬間の時点で、まだ戦人の説は破られたわけではない。勝ったつもりになるのも、早過ぎるわよ。」
【戦人】「ん、そうだな。……確かにあっさり鵜呑みにするにはまだ早いな。…祖父さまがいよいよ登場する、ということにはなってるが、やっぱり体調が悪くなった云々言って、現れない可能性だってある。
 ……祖父さまは本当は死んでいるという事実を、蔵臼伯父さんがぎりぎりまで苦し紛れで引き伸ばしているだけかもしれない。」
【ベアト】「は…! なるほどなるほど、そういう考え方もあるか。好きにするが良い。すぐに決着する。すぐにな…。くっくっくっく……!」
食堂
 食堂には、親族たち全員と南條の姿があった。
 南條はひとり、窓から静かに外の風雨を眺めていた。
 蔵臼は自分の序列の席に座り、夏妃がその脇にじっとしている。それ以外の兄弟たちは、長いテーブルの反対側辺りに集まり、ひそひそと囁き合っていた……。
【留弗夫】「……そりゃ、本当か。」
【楼座】「えぇ。……真里亞は、傘をくれた人物を、……お父様だと言うのよ。」
【秀吉】「何ちゅうことや…。ということはつまり、わしらの作戦は根底から崩れたっちゅうわけか…!」
【絵羽】「作戦も何も。お父様が健在で、自ら発表があると言った以上、もう兄さんとの下らない駆け引きは一切不要だわ。」
【留弗夫】「だな。……クソ親父め。もったいぶらずにとっとと現れてくれりゃ良かったんだ。お陰で俺たちは兄貴と無駄に揉めただけだ。」
【霧江】「…………それを試したかったのかもね? 血のつながってない私が言うのも何だけど、あなたたちのお父様、かなり頭はいいわよ?」
【絵羽】「日中のやりとりは多分、使用人の誰かに聞かれて、お父様に報告されてたのよ。………何てこと。お父様の遺産が目当てで騒いでることは、もうバレバレってことじゃない…。………あぁ、何てことよ…。」
 絵羽は頭を抱えて、らしくもなく消沈する。
 霧江の言うとおり、これが最初から金蔵の目論見どおりで、自分たちの本心を探り出すための、一年以上を掛けた大仕掛けだったとしたならば、自分たちはまんまと引っ掛かったことになる…。
【秀吉】「……お父さんの耳に入ったと、まだ決まったわけやない。」
【絵羽】「いいえ、入ってるに決まってるわ! ……兄さん以外の全員が、お父様は死んでいると言い切り、お父様の健在を信じなかった…! あぁ、もう終わりだわ……。……お父様は宣言するのよ。兄さんこそが跡継ぎで、私たちには片翼を身にまとう資格もないと宣告するのよ……。……あぁ、私は…………。」
【楼座】「姉さん……、しっかり……。」
【霧江】「……楼座さん。真里亞ちゃんは本当に、お父様に傘をもらったのかしら?」
【楼座】「え? どういう意味……?」
【霧江】「……真里亞ちゃんはお父様に会ったかもしれない。でも、私たちは会ってないわ。真里亞ちゃんがそうだと主張しているだけよ。」
【楼座】「そんな……。……真里亞が嘘を吐いているというの?!」
【留弗夫】「落ち着けよ、楼座。……真里亞ちゃんが嘘を吐くとは言ってねぇ。だが、真里亞ちゃんは素直な子だろ?
 ……例えばだが、源次さん辺りが、“この傘はお祖父さまから真里亞さまに渡すように言われました”みたいなことを言ったら、真里亞ちゃんは親父に会ったわけでなくても、お祖父さまに傘をもらったーって言うかも知れねぇぜ?」
【絵羽】「そ、……そうね。その手が考えられるわ…!」
【秀吉】「だがな、真里亞ちゃんはこう言ったんやろ? お祖父さまがやって来て、傘を渡してくれた、と。」
【楼座】「えぇ、そう言ったわ。お祖父さまから直接受け取ったとはっきり言ったわ。」
【留弗夫】「……直接、か。お手上げだな。」
【霧江】「………………………。下手な考え、休むに似たりとはよく言ったものだわ。ちょっと考えてみたら、傘がどうこうなんて、どうでもいい問題だわ。」
【絵羽】「どうしてよ? 真里亞ちゃんが兄さんに買収されて、あたかもお父様が健在であるかのように、嘘を頼まれたかもしれないでしょ?! 傘が確かにお父様から渡されたなんて証拠、どこにもありはしない…!」
【霧江】「真里亞ちゃんが誰から傘をもらっていようとも。あるいは傘なんかそもそももらっていなかったとしても。お父様はもうじき現れる。現れたお父様の前に、傘の問題なんてまったくどうでもいいこと。
 ………つまり、傘の問題が取り沙汰されるのは、そうでない場合ということよ。」
【留弗夫】「そうでない場合ってのは何のことだ?」
【秀吉】「…………そうか、…わかったで。……霧江さんが言いたいのはこういうことやろ。………お父さん、もうすぐでやって来ることになっとるが、また難癖をつけて、結局、現れん可能性がまだ残ってる、っちゅうことやろ……?」
【絵羽】「そ、………そうか。そうよね…。私たちの追及に、兄さんが苦し紛れの時間稼ぎで、お父様が現れると出任せを言ったのかもしれない。やっぱりお父様はすでに亡くなっていて、兄さんは今なお、まだ健在であると嘘を吐き続けている…!」
【霧江】「つまり、お父様が現れれば、全ての策は通用しない。考える必要もない。私たちは俎上の鯉。運を天に任せて、お父様との直接交渉に臨むしかないわ。それこそ、土下座とゲンコツを覚悟して、お金を無心するしかない。
 ……でも逆に、お父様が現れなければ、私たちの当初の作戦は何も揺るがない。」
【楼座】「………なるほど。つまり、どっちに転ぼうとも、今さらあたふたする必要は何もないってことね。」
【霧江】「そういうこと。お父様が現れれば、本来の親族会議が行なわれるだけの話。………現れなければ、私たちは引き続き蔵臼兄さんを追及すればいいだけの話なのよ。」
【秀吉】「お父さんの機嫌が急に悪くなって…、みたいな、蔵臼さんの言い逃れを、決して許さんようにせんとな。」
【絵羽】「……どうやら、私たちが本当に検討すべきは、兄さんがどんな策を弄して、この場を誤魔化そうとしてくるかよ。往生際の悪さは私が一番よく知っているわ。」
【楼座】「お父様がお元気なら、……私たちは土下座してお金を無心し。……蔵臼兄さんの茶番だったなら、私たちは醜い兄弟喧嘩を再開し。………今年も素敵な親族会議になりそうね。」
【留弗夫】「だな。下手な考え、休むに似たりってわけか。もうじき22時だな。……兄貴に催促してみるか。」
 留弗夫たちは、蔵臼の様子をうかがう。
 どっかりと腰を下ろし、悠然と、金蔵が来臨するのを待っているように見える。……それが、悠然となのか、自らの嘘をどのように帳尻を合わせようと策を巡らしているのかは、わからない。
【夏妃】「……………あなた……。」
【蔵臼】「……落ち着きなさい。もう今さらじたばたしても始まらん。………源次さんに任せよう。」
【夏妃】「もうじき、……10時ですね。」
 それは、今夜の親族会議の開催として定められた時刻だった。そして同時に、右代宮家当主が現れなければならない時刻でもある……。
 その時、廊下から足音が近付いてくるのが聞こえた。それも複数。夏妃は、はっとして顔を上げる……。
 しかし、ノックの音だったため、その表情には失望が浮かぶのだった。なぜなら、金蔵だったなら、ノックなどしないだろうからだ。
【郷田】「……失礼いたします。戸締りの見回りが終わりました。」
 郷田と熊沢だった。
 体力のある郷田ならともかく、老体の熊沢がこの時間にまだ勤務を強いられているのはとても珍しいことだった。もちろん、それを蔵臼もわかっているようだった。
【蔵臼】「うむ。ご苦労だった。………こんな時間まで申し訳ないね、熊沢さん。」
【熊沢】「いいえぇ。こう見えても、まだまだ夜更かしは得意でございますので。ほっほっほっほ…!」
【夏妃】「……熊沢についてだけは、立会いを外させてもよいのでは。さすがに体に堪えるでしょう。」
【蔵臼】「…………使用人も全員揃えろとの命令だ。逆らえん。」
 今夜の親族会議は、例年の親族会議とは明らかに違った。例年ならば、親族会議は親族以外、出席できない。使用人が居合わせるなど、ありえないことだ。
 だが今年は違った。使用人全員を親族会議に出席させろというのだ。もちろん発言権はない。………立会人としてである。
 使用人5人に立ち合わせてまで、一体、何があるというのか。……蔵臼にも、わかっていなかった。
【熊沢】「ほっほっほ。徹夜はこう見えても強いんですよ。旦那様も鯖をもりもり食べれば、夜ももっとたくましくなれますよ。」
【蔵臼】「はははは。なるほど、まだまだお元気でおられる。百歳になっても元気でお勤めに違いない。」
【郷田】「奥様。勝手ながら、軽食の準備をさせていただきました。いつでも配膳できますので、ご指示を頂戴できればと思います。」
【夏妃】「ありがとう。やはりあなたは気が利きますね。……他の皆さんにコーヒーのお代わりを勧めて下さい。」
【郷田】「かしこまりました。」
 郷田は会釈してから、テーブルの向こうでたむろしている親族たちの方へポットを持っていくのだった。
 するとまた廊下から足音が近付いてくる。……ひとりの足音。それは軽い。ノックを待たずに、誰か想像がついた。
【紗音】「失礼いたします……。お子様方をゲストハウスへお送りいたしました。」
【夏妃】「ご苦労でした。今夜は特別な晩です。緊張感を欠かさないように。」
【紗音】「は、はい。かしこまりました、奥様……。」
 源次は嘉音を伴い、金蔵を迎えに行っている。……まだ戻ってくる様子はない。
 時計の針は、22時を少し過ぎようとしていた。それを確認した上で、絵羽が蔵臼に言った。
【絵羽】「……兄さぁん? もう時間だけれども。親族会議、まだ始まらないのかしらぁ?」
【蔵臼】「…………主賓の到着が遅れている。しばらく待ちたまえ。」
【絵羽】「いつまで? 悪いけど、時間を切ってもらうわよ。お父様がなかなか来ない、何てのを延々と続けて、夜明けまで待たされたら堪らないわ。」
【蔵臼】「親父殿のお越しになる時間を、私が約束など出来るものか。何を焦っているのだね。まずはコーヒーでも飲んで落ち着かんかね…?」
【留弗夫】「兄貴、俺たちは親族会議のために集まってるんだ。茶番じゃない。あと30分は待つ。だが、それで駄目なら書斎に押し掛けさせてもらうぜ?」
【夏妃】「お、押し掛けるとは物騒な……。当主様への敬いに、あまりにも欠ける行為です!」
【絵羽】「そうよねぇ、ごめんなさい? あと30分は大人しくしてるわ。うっふっふっふ……。」
【蔵臼】「…………………ふっ。」
【絵羽】「………………………。30分後にも、同じ笑いが浮かべられるか、楽しみだわ。」
【蔵臼】「……親父殿が死んでいると、本気で信じているのかね?」
【絵羽】「それを今さら議論する気はないわ。お父様がここにやってくればいいだけの話。兄さんを言い負かす必要なんて、何もないもの。」
【蔵臼】「右代宮家当主は、正当なる人間へ、正当なる手続きを以って継承される。……お前が何の策を弄したところで、何も抗えんよ。もちろん、私もな。」
【絵羽】「何をわけのわかんないことを。……今までさんざん、自分こそが次期当主だと威張ってきたくせに…!」
【蔵臼】「お前の言葉をそのまま返そう。それを今さら議論する気はないね。親父殿がやって来て、自らの口でそれを宣言すればいいだけの話だ。お前を言い負かす必要など、どこにもない。……だったかな? くっくっくっく!」
 蔵臼は、流暢に絵羽の言葉をお返しする。もちろんそれは絵羽の怒りに油を注いだ。しかし発火はしなかった。なぜならその瞬間、とても大きなノックの音が響き渡ったからだ。
 源次も嘉音も、ノックをする時はとても控えめだ。こんな乱暴なまでの強さでは叩かない。……まるで、静粛にと言いながら打ち鳴らされる裁判官の槌のようだった。だから、一同はシンと静まり返った……。
 扉が細く開き、……源次が姿を見せる。そして、普段とは違う厳かな口調で言った。それは彼が職務を遂行する時の口調ではない。……彼が、金蔵の言葉を代弁する時の口調だ。だから源次がその口調をしただけで、兄弟たちには緊張感が走るのだ。
【源次】「皆様、ご着席を。」
 その言葉に、食堂は完全に沈黙し、みんな慌てて自分の序列の席に戻る。
まるで、ホームルーム直前まで騒いでいた生徒たちが、先生が来て大急ぎで席に戻るような、そんな滑稽さも感じられたかもしれない。……しかし、そうだと茶化せる人間など、いるはずもなかった。
 ベアトの場合と異なり、紗音が金蔵と名乗ったと考えるのは少々無理がある。これは「金蔵から傘を受け取った」と言うように指示されたと考えるのが妥当だろう。
 全員が整然と着席し、紗音、郷田、熊沢も壁際に整列し背筋を伸ばす。
【源次】「……栄光ある右代宮家の当主にして、金色に輝ける六軒島の領主。右代宮金蔵卿の、御成りであります。」
 食堂への観音開きの扉を、源次が内側から右の扉を、そして左の扉を外側から嘉音が開く。
 ……そしてその二人の最敬礼に迎えられながら、威圧感でローブをなびかせながら、…………金蔵が姿を現す……。金蔵の足取りは貫禄ある重みがあり、とても余命幾ばくを宣告されたとは思えないものだった。
 源次が金蔵の席を引き、着席を促す。しかし金蔵は座らず、源次に下がれという風に顎で合図する。
【金蔵】「くっくくくくくくくくく、ふっはははははははははは…!! ようこそ諸君、六軒島へ。何を怯えた顔をしておるのか、絵羽ァ。」
【絵羽】「い、いえ、そんな怯えてるなんて…! お、お父様が大変お元気そうなので、ほっとしただけで……。」
【金蔵】「わっはっはっはっはっは…!! 絵羽ァ、お前は相変わらず面白いなぁ? 蔵臼との賭けに負けて悔しいと素直に言えばよいのに。……くっくくくく、言えないよなァ。くっくっくっく!!」
 絵羽は、やはり金蔵に日中のやりとりが筒抜けであることを理解し、赤くなりながら俯く。
【金蔵】「さぁってと、我が息子たち娘たち、そしてその伴侶の諸君! お前たちの執心している我が財産と当主の継承について、今宵は重要な発表をしようと思う。
 まず最初に! 私はひどく失望していることを伝えようと思う。それは、今日まで誰にもあの碑文の謎を解くことが出来なかったということだ。」
 金蔵は失望という言葉を口にはしながらも、貴様ら如きに解けるものかとでも言うような見下した笑みを浮かべ、ぎょろりと一同を見渡す。
【金蔵】「………私は、あれを解けた者に、全てを譲り渡すつもりでいた。しかし、今日までに誰も解くことが出来ず、我が全ては誰にも継承されることなく、ここに至っているわけだ。
 情けない…!! お前たちの中に、それを受け継ぐ資格を持つ人間が現れなかったことが、私は心底残念であり、そして情けなく、ザマぁないと思っている!! わっはっはっはっはっはっは!!」
 兄弟たちは黙って俯く。もちろん、解けるものなら解いていた。チャンスを棒に振ったと言われればそれまでだが、しかしそれでも、あまりに難解だった…。
【金蔵】「よって。私は碑文の謎にて我が継承者を選ぶことを、ここに中止することを宣言する。つまりはタイムオーバー! ゲイムオーバーというわけだ。……残念だったなぁ、お前たち。お前たちには、等しく公平にチャンスがあったはずなのに、それが今、ここに潰えた! ………んっふっふっふっふっふ!!」
 それはまさに、金蔵の勝利宣言のように聞こえた。
【金蔵】「ならば、当主は長男の蔵臼に継承されるのか…? くっくっくっく! 答えはノーである!!」
【絵羽】「え…?!」
【蔵臼】「…………………。」
【金蔵】「……わかっているよなぁ、蔵臼ぅ? お前には確かに次期当主という肩書きを与えた。だが、お前はそれに溺れただけだ…。次期当主というのは、どういう意味かわかるかぁ……?」
【蔵臼】「………お父さんの後を継ぐ、という意味です…。」
【金蔵】「違あああぁうッ!! 次期当主というのは、当主が約束されたものではなぁああいい!
 ………いいか、蔵臼ゥ。二度と教えないからよく聞けよ。次期当主というのはな? 自分以外にも当主を狙うヤツがいたら、その鼻を徹底的にへし折って、二度と逆らえないようにしてやるヤツのことを言うのだ。
 これは何も、当主だけのことではない。カネについても言える! 金持ちというのは、カネを持っているヤツのことではない。自分よりカネを持っているヤツ全てを叩き潰し、そして誰よりもカネを掻き集められるヤツのことを言うのだ。」
【金蔵】「才能も同じ。天才とは才能に秀でたヤツのことではない! 自分より秀でたヤツ全てを叩き潰し! 自分を天才と全ての人間に呼ばせることを力とカリスマで強要できるヤツを指して言う!! お前はその全てにおいて勘違いしているのだよ。……だから次期当主の器ではないのだよゥ。くっくくくっくくくくくく!!」
【蔵臼】「……………べ、勉強になります…。」
 それはまさに、金蔵の哲学なのかもしれない。金蔵は今日まで、その暴言とも聞こえる自らの哲学を忠実に実行した結果、右代宮家をここまで繁栄させてきたのだ……。
 近年のオカルト被れの金蔵からは想像もつかないだろうが、この凶暴なる強引さこそが、右代宮金蔵のカリスマであり、オーラでもある…。
【金蔵】「このような不甲斐ない蔵臼に、右代宮家の全てを継承する資格などない。ならば、絵羽、留弗夫、楼座の3人にはあるのか?
 これもノーである!! 碑文の謎を解けず、さりとて蔵臼を引き摺り下ろす策も弄せず! お前たちに出来たのは3人寄せ集めで共同戦線を張って、蔵臼からカネをせびろうとしたことだけ。しかもその策も浅はかそのもの! 蔵臼一人を追い詰めることさえ出来やしない! ………情けないことこの上なしッ!
 次期当主の座をどんなことをしてでも奪い取ろうという貪欲さが足りぬ!! 欲しいもののためには如何なる犠牲も払い、どこまでも貪欲となるべし、強欲となるべし…!! 幸運の女神は貪欲なる者にこそ微笑む!! その野生の精神がないお前たち3人に、蔵臼同様に継承の資格などありはしないッ!!」
 絵羽たちに返せる言葉はない。そして、金蔵が何を語ろうとしているのか、計りかねている…。
 金蔵はまさか、誰にも当主を継がないとでも宣言するつもりだろうか? もしそうならば、それは絵羽たちにとって利することになる。結局のところ、金蔵の死後に兄弟で改めて調整し、遺産を山分けすればいいだけの話だからだ。
 むしろ、具体的に個人名を挙げて、誰かに継承を宣言される方が厄介に違いなかった。……しかし、ここまで四兄弟を扱き下ろした金蔵が、その誰かが得をするようなことを言うだろうか。
【絵羽】「……まさか、誰にも引き継がないからと、財産を全て慈善団体にでも寄付するとか言い出すつもりじゃないでしょうね……。」
【楼座】「………お父様ならやりかねないという恐怖はあるわ。」
【留弗夫】「頭に血が上ってるだけさ……。しばらくは聞き流すしかねぇ。」
【蔵臼】「で、…ではお父さん。次期当主については、どういうお考えをお持ちですか。」
【金蔵】「ふ………。お前たちに完全に失望した以上、私は誰に引き継ぐ気も失った。よって、右代宮家はこれで終わる。私の代で終わりだ。」
【蔵臼】「……そ、そういうわけには……。」
【金蔵】「右代宮家など、あの震災の時にとっくに滅んでおるわ。今の右代宮家など、私が束の間だけ見ている黄金の幻想に過ぎぬのだ。……私が夢より覚めれば、終わる程度のもの。ふっふっふ! この世など全ては夢、幻。…生など、死という目覚めの前には白昼夢と同じよ。あぁ、そうだ、元よりそうだったのだ!! 私が死ぬ時に全てを失うのが、ベアトリーチェとの契約、そして呪い! ふっはっはっは!! そうは行くか、ベアトリーチェ! お前を捕らえるのはこの私だ!! 今宵、それは現実となるだろう。くっくくくくく! わっははははははははは!!」
 金蔵はしばらくの間、白目を剥きながらげらげらと笑い転げる。ベアトリーチェのことを語る時はいつも、彼は雄弁でそして狂気的だった……。
【金蔵】「お前たちのような愚かなる息子たちなど、まさに白昼夢!! 初めからいなかったも同然よッ!! 消えろ!覚めろ!! 真実の私のまどろみと共に消え去ってしまえ…!! 私を継承するに値する何物も築き上げてこなかった出来損ないどもめッ!!」
【南條】「き、金蔵さん。よろしいかな……。」
【金蔵】「何か。我が友よ。」
 南條がおずおずと挙手し、発言を求める。金蔵はそれを認めた。
【南條】「金蔵さんの気持ちもわかる。子どもたちを愛するがゆえに、大きな期待を寄せ、それゆえに期待を裏切られたような気持ちになる親心、同じく子どもや孫を持つ身として、よーくわかります。
 ……しかし、金蔵さんは非凡だ。天才だ。そんな金蔵さんに追い付いて当然と言うんでは、ちょいと酷過ぎるんじゃないかね…? それでも、そんな金蔵さんに追い付こうと、蔵臼さんも絵羽さんも、留弗夫さんも楼座さんも、そしてその伴侶の皆さんも、よーく頑張っています…。」
【金蔵】「ほほぉおおおぉ??? よォく頑張って、どの程度のカネを稼ぎ上げたというのかァ。事業にことごとく失敗して借金を抱え、未だに私のすねをかじろうという間抜けどものどこがよォく頑張っていると言えるのかぁあああ…!!
 この世の全てはカネとして結晶しているのだ。それが掴めぬということは、この世を掴んでおらぬということ! 魂がこの世をしっかり掴んでおらぬということは、生きるに値せぬということだッ!! 消えろ!! 我が生と現実から消え去ってしまえ!!」
【南條】「……それは暴論です。その理論から言ったら、私だって生きていてはいけないことになる。……そんな私でも、金蔵さんと過ごしたチェスの時間は、共に価値あるものだったと信じていますぞ…。……世の中、お金で買えないものもたくさんあることを、金蔵さん自身が誰よりもご存知のはずだ。」
【金蔵】「…………む。……ふむ。」
 兄弟たちはじっと頭を垂れながら、南條に心の中で声援を送る。激高した金蔵に意見できる兄弟はいないが、親友である南條にだけはそれが許されていた…。
 金蔵はあれだけ激高していたのに、南條に諭され、納得したかのように小さく何度も頷く。……案外素直な一面を可愛らしくも思うが、それを笑える者はいなかった。
【南條】「確かに息子さんたちは、金蔵さんほどの財は築き上げられなかったかもしれない。……まぁ、それでも私から見れば羨ましいほどのお金持ちではありますがな。
 しかし、お金だけでなく、お金では買えないたくさんのものを築き上げました。それについて言えば、金蔵さんにも負けないくらいです。」
【金蔵】「ほぅ。金で買えぬ何を積み上げたというのか。」
【南條】「幸せです。家族です。……彼らは素晴らしい伴侶を見つけ、子を産み、それぞれの幸せな家庭を築かれています。あなたの一族を繁栄させ、そして孫を連れ帰ってきてくれました。
 孫は良いですぞ。私たち年寄りは、私たちには見ることもかなわぬ新しき時代を生きるだろう若き孫に、無限の未来を想像するのです。……それは、老境の唯一の楽しみではありませんか。
 思い出しなさい、金蔵さん。彼らが初めて孫を連れて帰ってくれた時の喜びを…! 息子さんたちは、そして孫たちは、金蔵さんの偉業を後の世まで伝え、模範としてくれることでしょう。それは、お金がいくらあろうとも、孤独なる身には成せぬことです。」
 ウンウンと同意の頷きをする兄弟たち…。確かに、金蔵とても生まれたばかりの孫に、目尻を下げた日もあったのだ。……まだ多少は正常な心が残っていた頃には。……しかし、金蔵の心に、ニンゲンとしての温かみなど、今もまだ残っているだろうか……。
【金蔵】「それはつまり。私が成した巨万の富の代わりに! カネを儲ける代わりに、孫を儲けたと、そういうわけか。」
【南條】「い、いえいえ、そういう意味では…、」
【金蔵】「私が稼ぎ上げた数百億という財産の代わりに、息子たちは1人ずつ孫を儲けたというわけか!!
 はっはははははははははは!! それは素晴らしい! つまりは百億を投じて命をひとつ生み出したと! そういうわけだ! これは面白い、錬金術的に考えて実に面白い例えではないかァ…?!
 ほぉう、何と価値ある孫たちなのかッ! 素晴らしい、……素晴らしい!! わっはっはっはっはっは!! そうなのか、蔵臼? ……お前の娘には百億の価値があるというのか……?」
【蔵臼】「………………………。」
 蔵臼は即答出来ない。……娘に自信がないという意味ではなく、金蔵が何を試したくて問い掛けているのか、まったく見えないからだ。しかし、続いて返事を求められた夏妃は、それを自分なりに解釈し、蔵臼の沈黙を破って答える。
【夏妃】「……は、はい。朱志香は百億のお金を積まれても手放せない娘です。その意味において、お金では数えられない価値があると信じてます。」
【金蔵】「ほぉ。百億の価値があると言い切るか。ほぅほぅ! 絵羽はどうか? お前のところの譲治はどうだ……?」
 夏妃がそう答えたなら、絵羽の答えも自ずと決まっている。……このような挑発的な問いには、答えるべきではないと知っているはずの絵羽も、同じく返事をする。
【絵羽】「えぇ、お父様。譲治には百億の、……いいえ、それ以上の価値があります。それはお金で買えないという抽象的な意味ではありません。譲治は必ずや、自らの価値に等しいだけの財産を築き上げるでしょう。お父様の偉業を継ぐに相応しい孫となるはずです…!」
 してやったりとでもいうかの表情で秀吉と夏妃をちらりと見る絵羽。……それを聞き、夏妃も我が娘にさらに評価を加えようかと思ったが、蔵臼に睨まれそれを飲み込む。
【金蔵】「ふむ、なるほど。………ならば留弗夫はどうか? お前のところの戦人はどうだというのか。」
【留弗夫】「ウチの戦人は、……譲治くんに比べられちゃ、威張れることは何もねぇ。誘拐されて身代金を百億よこせと脅されたら、ノシをつけて進呈したい程度のヤツではある。」
【霧江】「くすくすくす……。」
【留弗夫】「さらに、馬鹿で無鉄砲だ。偉そうな夢や、出来るわけもねぇことを語り出す。……その一点においては、馬鹿百億人分に匹敵する大馬鹿だろうさ。
 だが、馬鹿も出来ねぇ凡人どもが、百億人束になっても出来ねぇことを、きっとあいつはやり出すだろうよ。まぁ、俺はどうせコケるだろうとは思ってる。世の中は甘くねぇ。
 ……しかし、百億の凡人を眺めるよりは、ヤツの人生は観賞して愉快なものになるだろうことだけは、疑ってねぇぜ。」
 金蔵の好みそうなうまい言い方をすると、絵羽は舌打ちする。留弗夫自身も狙って言ったらしく、にやりと笑い返した。
【金蔵】「……真里亞はどうか?」
【楼座】「ま、……真里亞は私の可愛い、たったひとりの娘です。お金の価値で量れるものではありません。……それだけです。」
【金蔵】「ふむ。…………なるほど。夢と未来、奇跡と可能性は我が魔力の源泉だ。希望なくして如何なる魔法も力を持ちはしない。
 ……ふっ、すでに凡百であることを証明してしまったお前たちには何を期待することも叶わないが。なるほど、孫たちには未来の可能性があり、魔法的奇跡を期待する価値はあり得るというわけか。
 それを以って、百億以上の価値と言ってみせるなら、ふむ、わからぬでもない。……ふむ、ふむ……。」
 金蔵は激高すれば誰にも口答えを許さないが、にもかかわらず、自分でひとり怒鳴り続けながら、勝手に何かに納得して、自分の意見を翻す時もある。……兄弟たちはそんな気配を感じ取っていた。
 どうやら金蔵は、出来の悪い息子たちに呆れ果て、家督も遺産を譲る価値はないと切り捨てていたが、孫についてはどうだろうと考えているらしい。
 ……この流れだと、遺産は、兄弟ではなく、孫たちに与えると言い出すかもしれない。兄弟たちは、気まぐれで短気なる父が、突然何を思いついて何を言い出すのかに怯えながら、その一挙手一投足を慎重に見守った…。
【金蔵】「……ふむ。……考えを少し改めよう。お前たちに我が全てを継承する気はまったくない。
 しかし、孫たちの誰かにその資格があるかどうかを問うのは、なかなかに面白いことだ……。いつまでも子どもだと思っておったが、ひょっとすると、私を驚かせるような原石の煌きを見せてくれるかもしれぬ。
 そしてそれを期待し試すのは、……なるほど、我が余生最後の道楽としても捨てがたい。……ふぅむ、……さて、これはどうしたものか…。」
【絵羽】「じょ、…譲治なら、お父様の後を継ぐに相応しいと、私は自信を持って推薦できます!」
 絵羽が直ちにそう主張する。
 夏妃もそれに釣られそうになるが、蔵臼が堪えろという風に目配せしたので、それを飲み込んだ。
【金蔵】「ふっふふふふふ! 勇ましいではないか。……では、こうしよう。右代宮家の家督と財産の全てを受け継ぐ資格があるかどうか、孫たちに個別に問おうではないか。」
【絵羽】「…お父様……、」
【金蔵】「しかァしッ!! ………それはお前たちの誰かに間接的に家督を引き継ぐという意味ではない。お前たちにはすでに失望しているのだ。お前たちに与えるものは、今や何もない。何もな! 私が問うのは孫たちだ。そして引き継ぐかもしれないのも孫たちだ。……それを決して勘違いするな……?」
【蔵臼】「………お父さんの判断に従います。」
【留弗夫】「同じくだ。親父の決定に従うぜ。……なぁ、姉貴?」
【絵羽】「も、もちろんよ。……お父様が賢明な判断をされると信じています。」
【楼座】「わ、私もお父様の判断に従います……。」
【金蔵】「孫たちをどのように試すかは考えよう。そしてそれは、お前たちには今さら関係のない話だ。当主継承とお前たちは、もはや何の関係もないのだから。……だからこの場では、お前たちに関係のある、もうひとつの話をしようではないか。」
【蔵臼】「もうひとつの話、とは……?」
【金蔵】「うむ。それこそが今宵の、そして右代宮家最後の親族会議の本当の理由だ。……くっくっくっくっく!! お前たちに求めるのは、議論でも意見でもない。我が儀式にッ! 協力を求めるためだ。」
【留弗夫】「…………儀式ぃ…?」
【絵羽】「静かに…! お父様がお話をなさっている最中よ…!」
 儀式というオカルト的な言葉に、思わず留弗夫たちは眉をひそめてしまう。また何か、ベアトリーチェ復活を巡る、怪しげな儀式でも始めようというのだろうか……?
 それに協力を求める…? 一体、何を始めるつもりだというのか。
 過去にも、そうだと称して、おかしな香を焚き始めて、屋敷中に異臭を漂わせたりと、数々の奇行を行なったことがある。兄弟たちにとって、儀式は、老いた金蔵の迷惑な趣味のひとつでしかない。
【蔵臼】「お父さん…。儀式とは一体………?」
【絵羽】「私たちに協力できることなら、何でもご協力します。ねぇ、楼座。」
【楼座】「え、えぇ……。でも、一体、何を…?」
【金蔵】「私が碑文に刻んだとおりの儀式だ。……ベアトリーチェを蘇らせ、黄金郷の扉を開く儀式である。肉体の檻を逃れ、私の指の隙間を嘲笑うようにすり抜けるあの魔女を、今度こそ捕らえ、屈服させる、私の最大の秘術だ。………そのために、13人もの命を生贄に捧げねばならぬがな。
 ……ふっふふふふふ! 13人もの生贄は容易には集まらぬ。しかし、今宵は親族会議! これだけの大人数が六軒島に集まった。この儀式が行なえるのは、今日をおいて他にないのだ。」
 それは、言葉通りに受け取ったなら、物騒な儀式の生贄になって死んでくれと言っているようにしか聞こえない。
 そんな馬鹿な。これは何かの比喩表現…? しかし何の話を喩えて言っているのかさっぱり見当がつかない。兄弟たちはひそひそと、金蔵が何を言い出しているのかと囁き合う……。
【留弗夫】「……親父は何を言ってるんだ? いつもの悪い病気か…?」
【蔵臼】「だろうな。しばらく黙って聞いてやれ。」
【楼座】「………………………。」
【絵羽】「ごめんなさい、お父様…。どういう意味で仰られているのか、わかりかねます。」
【金蔵】「何がわかりかねるというのか。私は至極単純に話している。ベアトリーチェを蘇らせる儀式のために、この島にいる人間から13人を選び、生贄に捧げようと言っている。何の価値もないお前たちも、我が儀式の生贄としてなら大いに役に立てるというわけだ。わっはっはっはっは!!
 ……聞けッ!! これは冗談でも何でもない。私が人生の最後に欲する、最後の賭け、最後の儀式である! この島には今、13人を超える人間がいる。つまり、この膨大な数の生贄を容易に満たせるだけの頭数が存在するというわけだ! お前たちは我が儀式の生贄となれッ!!」
【南條】「……金蔵さん、……あんた、まさか……。あの話は本気だったのかね…?! 冗談ではなく……!!」
 南條が、珍しく血相を変えて立ち上がり叫ぶ。13人を生贄に、などという物騒な話は、南條にとって初耳ではなかったらしい。
 源次と紗音により、この場にいる全員の買収が行われる。
 まず、絵羽たちが疑っていた通り、金蔵がすでに死亡していることを認める。
 次に、紗音が正当な当主であり、200億相当の黄金を保有していることを説明。狂言殺人に協力すれば、兄弟4人に十分な謝礼を支払った上、金蔵の孫たち4人のいずれかに当主を譲ると持ちかける。
 全員の同意を得た後、シナリオの詳細説明と打ち合わせが行われる。
【金蔵】「すまんな、我が友よ。あれは冗談でも何でもない。我が生涯を賭して、最後に挑む儀式であり、ゲームなのだよ。
そう、これはゲームだ! お前たちにとって、我が財産を得て島を出ることがゴールならば、それを達する方法は2つしかない! 13人の生贄から逃れ見事生き残り、今さらながら碑文の謎を解いて儀式を止めてみせるか、……私を殺しッ! この儀式を止めてみせるか。この2つしかない!!」
 もはや一同は、ひそひそという囁きではなく、ざわざわという賑わいになっていた。さすがの兄弟たちも、金蔵が常軌を逸し始めていることに気付いている…。
【蔵臼】「……お父さん、少しお疲れなのでは? 源次さん、お父さんは少し酒を?」
【源次】「……………いいえ。お館様は聡明であらせられます。」
【留弗夫】「悪ィけど、親父。何を言い出すのかさっぱりだぜ……。親父が、愛する魔女を蘇らせるために、どんな怪しげな儀式をおっ始めてもそりゃ自由だぜ。親父の趣味なんだからな。だが、そいつに巻き込まれて、……たはは、生贄にされるのはまっぴら御免だぜ。」
【絵羽】「留弗夫、お父様の話に口を挟む気?!」
【留弗夫】「何言ってんだ、姉貴! こんな物騒な話に、はいそうですかで頷けるわけねぇだろ?!」
 金蔵の口にする“儀式”が、言葉通りの物騒なものなのか、次期当主を選ぶための何らかの試練なのか。留弗夫は言葉通りの物騒なものとして受け取ったようだが、絵羽はそれでも、これは次期当主を見極めるための、試練や審査のようなものだと信じているようだった。しかし金蔵はそれに対し、明快な答えを返す。
【金蔵】「さて、私からの話は以上だ。異議も意見もなァんにも必要はなぁい…!! 4人の不出来なる息子たちがいたという私の夢が覚めるだけの話なのだ。お前たちにとって、これより目の前で起こることはまさに夢、幻、あるいはこの世のものと思えぬ理解に及ばぬ世界だろう。
 しかしそれこそが我が現実!! お前たちという出来の悪き浅い夢は今こそようやく覚めるのだッ!!
 さぁ、もうゲームは始まっているぞ? これだけいては、誰から命を奪えばいいものやら…!! さらばだ、出来の悪き息子たちよ。そして生涯でただ一度、そして最後に、私の儀式のために役に立て…!! 出でよ、ペンドラゴンの記念兵たちよ…!!」
 金蔵がオペラ歌手のように両手を高く掲げて、まるで満場の観客にそう叫ぶように言うと、空間がガラスのように割れ、………この島に招かれていないはずの人影が、3人もそこに姿を現す……。
【45】「シエスタ45、ここに…!」
【410】「シエスタ410、ここにぃ!」
【00】「シエスタ00、ここにであります。」
 3人の奇怪なる姿の少女たちが金蔵の後に突如、現れる。どこから? いつの間に? 誰? どちら様?? ……ニンゲンたちは目を白黒させて頭を真っ白にする。そんな思考に時間を費やしたため、彼らは生き残る最後のチャンスを失った。
【金蔵】「お前たちには6人の射殺を許可する。標的は自由だ。攻撃開始。」
【00】「自由射撃了解であります。良き標的に感謝。各個、自由射撃開始。」
【410】「にひ! 一番乗りだにぇ!! ヒャッハッ!!」
 410が宙を指で掻くと、虚空に黄金の弓が現れ、その弦を引く。
 そこに構えられた黄金の矢は何の躊躇いもなく放たれ、室内をでたらめな黄金の軌跡を残しながら飛び回り、………親族会議のテーブルに座した一同の中から、夏妃を選び、その顔面の左半分を粉砕した。
 肉片と真っ赤な血飛沫が辺りに撒き散らされ、親族たちの顔と真っ白なテーブルクロスに真っ赤な飛沫を大量に残す。
 シン、……としていた。
 一同は、テーブルクロスに真っ赤な斑が大量に残されても、なお、この異常な、………夏妃が頭部を半壊させて、腰掛けたまま居眠りをするように頭を垂れるのを、………何が起こったのか理解できずに、沈黙して見守っていた。
 ……夏妃より右側に座っていた者たちは比較的長く沈黙していたが、左側に座っていた者たちはそうはいかなかった。……そちら側に座っていた人々は、彼女の頭部が叩き割られた西瓜か石榴のようになっている、その内側まで見せ付けられていたからだ……。
【蔵臼】「な、……つひ…………、」
【金蔵】「……まずは1人。夏妃か、最後まで運のない女だ。……次ッ!」
【00】「00、射撃。」
 00も同じように虚空を掻いて黄金の弓を構えると、放つ。410の放った黄金の矢同様、でたらめな軌跡を描いて室内をぐるぐると高速で飛びまわった後、……夏妃を呆然と見ていた、留弗夫を、同じように頭部を半壊させて即死させた。
 今度はみんな、思考停止には陥らなかった。恐るべき殺人が、金蔵の言葉通りに目の前で実行され出したことを理解する。そして、金蔵はさらに殺すだろうことを理解する……!
「「うわああああああぁあああ!!」」
「「きゃああぁああああああぁあああッ!!!」」
 鋭い悲鳴が沸き起こる。
 それでもなお、彼らはどうすればいいかわからなかった。だから、悲鳴をほとばしらせたままに口を大きく開けて、金魚のようにぱくぱくとさせ続けるしかなかった……。
【絵羽】「お、……お父様……、これは何の真似です……?」
【秀吉】「…あ、阿呆ぅ!! はよ逃げるんやッ!!」
 呆然としながら、金蔵にそう問い掛ける絵羽を、誰よりもいち早く正気に戻って立ち上がった秀吉が、後から腕を掴み引っ張る。
 しかし、無慈悲なる運命は3人目の生贄に、………秀吉を選ぶ。
 秀吉の頭部もまた、それまでの2人と同じく綺麗に半分、……その時、たまたま向けていた右側側頭部が、……西瓜か石榴のように中身をぶちまけて吹き飛ばされた。だから秀吉は、絵羽を掴んだまま、……ぐらりと後へ仰け反って倒れる。絵羽は最愛の夫に抱かれたまま、一緒に後へ転げて倒れる。
【絵羽】「あなた……? あなた…?! ひいいいぃいいいいいいぃいッ!!!」
 絵羽は絶叫する。
 …無理もない。そこに求めたはずの秀吉の面影が、……半分失われていて、砕けた頭蓋骨、ぐちゃぐちゃになってはみ出た脳髄、砕けた歯茎を剥き出しにしているのだから……。
【45】「45、着弾、命中…!」
【金蔵】「見事だ。続けて撃て。残りは3人であるぞ。」
【蔵臼】「おッ、お父さん…!! こここここッ、これはこれはッ、何の真似です?!?!」
 蔵臼が威勢良く立ち上がり、金蔵に食って掛かろうとすると、それを00に制止される。……華奢そうな体をしながら、右腕の手の平だけで蔵臼の体躯を押し留める。
 それでもなお、抗い、金蔵に組みかかろうとするので、00は蔵臼の襟首を掴み上げ、親指を喉仏に捻りこむ。それはとても堪えたらしく、蔵臼は悶絶して苦しがった。
【蔵臼】「ぐ、おぉおおおおお……!!! みんな、…逃げろ…!! 警察を……! 救急を…!! 早く……ッ!!」
【南條】「皆さん、逃げましょう!! 逃げるんだ!!」
 南條の鋭い一言に、ようやく一同の、腰が椅子から剥がせない呪縛が解けた。
 郷田と熊沢が、我先にと食堂から逃げ出そうとすると、410がそこに瞬間移動して現われ、退路を塞ぐ。
【410】「にひ! すっトロいにぇ〜。逃ィがすと思ったかにぇ〜♪」
【熊沢】「ひィえええぇえぇえ!!」
【郷田】「おッ、お助けぇえええええぇ!!」
【霧江】「郷田さん、伏せてッ!!」
 霧江の鋭い声に、郷田はわけもわからずにとにかくしゃがむ。……するとその頭上を重い風が切る。
 霧江が、椅子を大きく横振りにして薙ぎ払ったのだ。しかし、410は人を馬鹿にしたような笑みのまま、その大振りの椅子をぱしりと片手で容易に受け止める。
【霧江】「……ち!」
【410】「おっかない女だにぇ。旦那の後がそんなに追いたいぃ?」
 椅子を受け止めている腕の袖口から、光る黄金の蛇のようなものが現れて、……椅子にぐるぐるっと絡みつくと、それをバリンッ!!っと爆ぜさせてしまう。万力どころではない、恐ろしい力だった。
 霧江は目の前の一見少女に見える存在が、ニンゲンには到底、太刀打ち出来ない人知を越えた存在だと知り、内より湧き出す壮絶な警鐘で頭を満たされる…。
 そんな光景を目前にしても、冷静に壁際に直立不動で立ち続ける、源次、紗音、嘉音の、片翼の鷲を許された使用人たちの姿はとても異様で不気味だった。
 霧江は一瞬、彼らのその余裕は、彼らが敵側であり、自分たちは殺されないという保証によって成り立っていると考えた。……しかし、そう考えた瞬間に源次の側頭部が吹き飛ばされるのを目の当たりにする。
【南條】「げ、源次さん……。」
【45】「45、着弾、命中…!」
【金蔵】「……ほほぅ、源次め、これは運が悪い。……安らかに眠れ、我が友よ。くっくくくくくく、そなたの死は無駄にはならぬぞ。我が愛しき魔女復活の重要なる13の鍵のひとつとなるのだから。ふっはははははははは……。」
 源次に半分だけ残された表情は、……いつもと同じように淡白なものだった。ぐらりと傾き、……どさりと倒れて、真っ赤な飛沫を床に飛び散らせた……。
【紗音】「………源次さま……………。」
【嘉音】「…………僕たちなんて、…所詮は魔女の駒なんだ。………所詮…、………所詮……。」
 紗音と嘉音の、神妙そうな、…そして悔しそうな、いや、……諦観さえ漂う表情には、自分たちは助かるなどという甘い期待は感じられない。
 そう。金蔵は本当の本当に、………ランダムに殺人を行なっているのだ。誰が助かり、誰が殺されるか、……本当の本当に、ゲームのように殺しているのだ。
【410】「さァて、つゥぎは誰を狙おうっかにぇ〜。にっひひ!!」
 410は一瞬だけ霧江を見た。だからその瞬間、……霧江は自らの死を覚悟した。だが宙に黄金の弓を構えた時、410は霧江の頭越しに別の誰かを見た。……だから霧江は不謹慎にも、自分は助かったと直感する……。
 再び、室内に砕けて爆ぜる醜い音が響き渡る。
 ……今度は誰が? 霧江が音をした方向を振り返ると、………そこには、血を噴水のように迸らせながら、夫の胸元に倒れる絵羽の姿があった。…もちろんその顔は、夫と同じく半分を砕かれたものだった……。
 410は無慈悲にも、夫の遺体にすがり付いて泣きじゃくっていた絵羽を標的としたのだ。
【楼座】「に、兄さんを離して…!! 兄さんを離しなさい…!! もう止めてお父様!! こんな残酷なことはもう止めてッ!!」
【蔵臼】「……逃げろ楼座……。ぐ、く、………!」
 楼座の抗議は、血飛沫に染まる食堂で高笑いを続ける金蔵には届かないし、00に襟首を掴み上げられている蔵臼の苦痛を和らげることも出来ない。だから楼座は実力を行使するしかない。傍らの椅子を振り上げ、警告する。
【楼座】「お父様…!! 兄さんを離すように命令して! もうこんなことを止めさせて!!」
【金蔵】「出来ぬな。それを望むならば、お前の自らの力で阻止するが良い。……自らの運命は自らの手で切り開け。常に誰かの背に隠れ、怯えてきたお前に宿る、人生最後の克己を見せてみよ…!! ふっははははははははは!!!」
【楼座】「お、……お父様……。………うわああああああああぁあああ!!」
 楼座はその振り上げた椅子を、………自分の生涯に、畏怖の対象として君臨し続けた父親に対し、振り下ろす。それは楼座の人生で最大の、そして最後の勇気、そして克己。
 金蔵の言う通りかもしれない。……その勇気をもっともっと早くに持てたなら、彼女の人生はもっと自由で、何者にも束縛されなかったかもしれない。
 そして、バンッと爆ぜる音。……楼座の椅子が激しく金蔵を打ち付ける音であるはずは、…なかった。椅子を振り上げたまま、………頭部を綺麗に半分失い、ばたりと倒れる。
 蔵臼を片手で掴み上げたまま、……00がもう片手を楼座に突き出していた。その腕より放たれた黄金の蛇が、楼座を螺旋状に締め上げ、……頭部を食い破ったのだ。
【00】「……防衛射撃。至近弾の無礼をお詫びするであります。」
【金蔵】「構わぬ。む、これで6人であるか。」
【00】「はい、ゴールドスミス卿。これで6人であります。」
 それを淡白に告げると、00はずっと掴み上げていた蔵臼を放り投げる。
【金蔵】「うむ。第一の晩の生贄は、絵羽に留弗夫に、楼座、夏妃、秀吉、そして源次であるか。くっくくくくくく!!」
 それは、あっという間の虐殺。食堂内は血飛沫によって汚され、……6人の不運なる犠牲者が、無残な頭部を晒して転がっている。その異常な空間に相応しい、金蔵の異常な笑い声だけが木霊していた……。
【金蔵】「はっはははははは、わっはははははははははははッ!! いよいよに幕を開けたぞ! ベアトリーチェを蘇らせる儀式の始まりだ…!!
 運良く第一の晩を逃れた者たちに、我が友人たちを紹介しようではないか。出でよ、我が友よ! ロノウェ…!!」
 金蔵がロノウェの名を呼ぶと、うやうやしく最敬礼をしながら、虚空に悪魔の執事が姿を現す……。
【ロノウェ】「皆様方、初めまして。そしてご無沙汰の皆様におかれましては御機嫌よう。ぷっくっくっく…! これはまた派手に散らかされましたようで。」
【金蔵】「良いわ。我が白昼夢の如き日々を覚ますには、この程度の刺激が必要だ。
 紹介しよう、我が友人であり、頼れる執事であり72柱の大悪魔である、ロノウェだ。」
【ロノウェ】「以後、お見知りおきを。」
 それは誰に対しての紹介なのか。
 ……尻餅を付いたままの蔵臼も霧江も、南條も郷田も熊沢も、呆然としながら初対面の中年紳士を見上げる他なかった……。紗音と嘉音だけは面識があるようで、深々と頭を下げる…。
【ロノウェ】「……源次には挨拶が叶いませんでしたか。せめて、苦痛なく役目を終えられたなら良いのですが。」
【45】「頭部直撃弾にて即死でした…! 苦痛を味わう暇もありません。」
【ロノウェ】「そうですか。結構です。」
【金蔵】「続けて友を紹介しよう。出でよ、我が友、ワルギリア…!!」
 再び虚空に、親族たちにとって未知なる人影が現れる。それは優雅なドレス姿で上品に挨拶をしながら現れる。
【ワルギリア】「………召喚を感謝します、お館様。許されるならば、このような血生臭き場に呼び出されたくはありませんでしたが。」
【金蔵】「こやつも紹介しよう。我が友であり頼れる相談役でもある、ワルギリアだ。……偉大なる有限の魔女であるお前の力を我が儀式に借りたい。その力を貸せぃ!」
【ワルギリア】「……お断りしようにも、あなたの強力な召喚隷属下にある身ではそれも叶いません。御意に、お館様。」
【ロノウェ】「…………それにしても、恐ろしいお方だ。シエスタの姉妹兵を3人も召喚し、私に加え、さらにワルギリアさままでも召喚せしめるとは…。……召喚という能力においてのみとはいえ、お嬢様をも遥かに上回るとは、……恐ろしい。右代宮の血に戦慄を覚えます。」
【金蔵】「ベアトリーチェ復活の儀式を執り行うために、私は召喚師としての全てを尽くすだろう。まだ足りぬな。この度の儀式の完璧なる遂行のために、さらに召喚しよう。
 ペンドラゴンの記念兵にロノウェにワルギリア…。……まだ呼べるぞ…、我が魔力なら、まだまだ呼べる……!! 我が召喚に応えよ……、柱が1人、ガァプよ!!」
【ワルギリア】「ガァプを…? あれまでも顕現できるというのですか……。」
【ロノウェ】「さらにこの島の侵食が進んだということでしょう。……私たちが顕現できているほどです。今さら、どんな大悪魔が呼び出せたとしても、驚くには値しますまい。」
【ワルギリア】「もはや六軒島は完全に、異世界に飲み込まれているということですか。…………彼が屈服しないと良いのですが。」
【ロノウェ】「………前回、たっぷり入れ知恵をなされたでしょう? この程度では今さら屈服しますまい。恐らく、ですがね? ぷっくっく! ………さて、私たちはこの舞台を楽しもうではありませんか。今回の主人公はどうやらお館様のようだ。お嬢様とは一味違った脚本に期待しましょう。」
 金蔵が魔力を強く集中すると、……空間に青白い光が集まり、歪み、……真っ赤な光で魔法陣が描かれていく。
 そしてそれがガラスのように砕け散った時、………そこには新しき悪魔の姿があった。
【金蔵】「……よくぞ我が呼び掛けに応えた。……72柱の大悪魔が一つ、ガァプよ…!」
【ガァプ】「…………すごいところに呼び出されたものね。この血まみれの部屋を掃除するために、私は呼び出されたのかしら? ゴールドスミス…?」
 毒々しく、禍々しい装束に身を包んだ、文字通りに悪魔的な女が、凄惨で目を覆うべきはず光景に、にやりと口元を歪めてみせる……。
【ロノウェ】「そのためだけにあなたを呼び出すとしたら、それはまるで、カシミアのマフラーで雑巾掛けをするようなものですよ。」
【ワルギリア】「お久しぶりですね、ガァプ。……あなたのような大悪魔が、とうとうこの島に現れてしまうなんて。……いよいよこの島も幻想に沈むのでしょうか。」
【ガァプ】「部屋の惨状よりも、この豪華キャストの方が驚くべきね。………シエスタ姉妹が3人もいて、大悪魔ロノウェに大魔女ワルギリアに私まで。
 これは何事? ここはパンデモニウム? 地獄の演奏会でも始めるつもりかしら。………なるほど、そこで指揮棒が振るえるのは、あなたぐらいしか思いつかないわ、ゴールドスミス。」
【金蔵】「そなたには、ベアトリーチェを蘇らせる我が儀式遂行のための進行役として協力してもらう。我が召喚契約に異存はないな…?」
【ガァプ】「異存も何も。天下の大魔女、ベアトリーチェを使役した伝説の大召喚師、ゴールドスミス卿の召喚隷属に、私が抗えるわけもない。
 ……協力はするわよ。もちろん見合ったお代もいただくけどね。……で? 最初の仕事は?」
【金蔵】「第一の晩を免れた間抜けどもを捕らえよ。幸いにも、ここにはまだ7人いるではないか。南條に紗音に嘉音、郷田に熊沢、霧江に蔵臼…!
 ほぉ、この7人を丸々生贄に捧げればちょうど13人だ! 第二の晩以降を実行するタイミングが訪れるまで、生贄の檻に放り込んでおくが良かろう、くっくっく!!」
【ガァプ】「…………カシミアの雑巾掛けね。了解したわ。」
 ガァプは肩を竦めながら、未だに尻餅を付いたままの蔵臼を見る。睨む。
 そして指をパチンと鳴らすと、……まるで床に丸く落とし穴でも開いたかのように、蔵臼が床に飲み込まれる。
【蔵臼】「う、わああぁぁ………、」
【ガァプ】「一丁上がり。」
 床に穴などない。しかし確かに蔵臼は穴に飲み込まれて消えたように見えた……。
【霧江】「…………ッ!!」
 次の獲物を狙い、ガァプの目線が霧江と交差する。パチンと指が鳴る。
 霧江は、弾かれたように床を飛び退く。
 直感は当たった。直前まで自分がいた場所に、蔵臼を飲み込んだのと同じ、丸い漆黒の落とし穴が現れたからだ。
 しかし、姿勢を直す前に、さらに現れた落とし穴が彼女を飲み込んでしまった。……いくら霧江でも、ガァプの捕縛から逃れる術はないのだ。
【南條】「うわぁ……!!」
 再び指がパチンと鳴らされ、呆然としてた南條が床に飲み込まれて消えた。
 さらに指が鳴らされると、410が、ひゃっと短い悲鳴を上げて飛び退く。今度は少し大きな落とし穴が開き、扉の脇に整列していた紗音と嘉音の二人を飲み込んだ。
 しかし、410が扉の前を飛び退いたお陰で、退路が開かれた。
 次は自分たちの番だと直感した郷田がその扉から外へ飛び出す。もちろん熊沢も、脱兎の如く逃げ出し、郷田の後を追う。
 ガァプの指がパチンパチンパチンと数度鳴らされ、彼らの逃げるすぐ後を、丸い漆黒の落とし穴が次々開いて追い掛けた。
 しかし、形振り構わずに逃げ出す二人を追い立てるに留まり、うまく飲み込むことは出来なかった。郷田たちはあっという間に逃げ出していってしまう……。
【ガァプ】「………鈍ったわ。二人逃した。」
【00】「ご安心を、逃走目標を捕捉中であります。」
【410】「データリンクよし。にひ! 狙撃しますか?」
【ロノウェ】「いいえ、それは許可できませんよ。貴重な生贄です。お館様の許可を待つように。」
【45】「大ゴールドスミス卿…! 指示を待ちます…!」
【金蔵】「第二の晩の訪れにはまだ早いと、……我が魔力の源泉が囁いておるわ。今はならぬ。好きにさせてやれ。どうせこの島からは逃げられぬわ。」
【ワルギリア】「お館様の魔力の源泉とは即ち、ノイズとリスクと運試し。……ほっほっほ、つまりは気まぐれ、というわけですか。」
【金蔵】「くっくっく、そうとも言うかも知れぬ。ガァプ、ご苦労であった。儀式はこのまま着実に進めよう。
 ………さて、それはそれとして。次は我が孫たちだ。………次期当主たる資格があるかどうかを試す。はてさて、どうやってその資質を確かめたものか。くっくっくっく…!!」
【ワルギリア】「その資格があると判断されたなら、……ベアトの復活を断念されるおつもりで?」
【金蔵】「無論だ。にもかかわらず試す。……ふっ、女の身にはわからぬであろうな、この矛盾、我が狂気など。くっくっくっく…。」
【ガァプ】「………相変わらず、男ってどこか変ね。リスクを遊ぶという概念、わかりかねるわ。」
【ロノウェ】「おやおや、あなたはそういうのが大好きかと思っておりましたが?」
【ガァプ】「もちろんよ。男に、危険なリスクと一緒に恋を囁かれたらキュンキュンしちゃうわ。…ただしイケメンに限る!」
【ロノウェ】「ぷーっくっくっくっくっく…!」
【ワルギリア】「お静かに。私語は慎むようにっ。」
【金蔵】「ふっ、実に姦しいヤツらだ。だが少なくとも退屈はせぬ。……これだから召喚は愉快なのだ。そなたらには、我が儀式のノイズとリスクの天秤の片側を担ってもらうぞ。その働きに期待している…!」
 食堂内には6人の惨殺死体が転がり、凄惨な装飾で赤く汚されている……。そこについさっきまで、13人もの人間が整然と座っていたなど、もはや想像することも出来ない。
 金蔵は、名だたる悪魔とその配下たちを並べ、圧倒的なる虐殺の夜の幕開けを高らかに宣言し、必ずやベアトリーチェを蘇らせ、黄金郷の扉を開くことを自らに誓うのだった……。
【ベアト】「待たせたなァ!! これにて第一の晩、いよいよ開幕、開幕ゥ!! くっくっく! 金蔵め、相変わらず派手を好む男よ。付きまとわれればしつこいことこの上なき男も、舞台の上ではこれほどまでに映えるというのか。」
【戦人】「くそ……。相変わらずグロい殺し方ばかりしやがって……。頭部半壊だぁ?! てめぇら魔女ども悪魔どもの悪趣味には相変わらずウンザリさせられるぜ…!」
【縁寿】「頭部半壊……、なるほど。これまでのゲームで、一番理想的な殺し方がこれだと気付いたわけね。」
【戦人】「理想的? このグロい殺し方がどう理想的だってんだ?!」
【ガァプ】「……実に理想的じゃない。一番最初のゲームを思い出してみるといい。」
【戦人】「お前は……! さっき登場しやがった、新しい悪魔とかいうヤツか…。くそ、また魔女の侵食が進んで、ロクでもないヤツが増えたというわけなのか…?!」
 ……魔女の侵食が進めば進むほどに、六軒島は異界側に傾いていく。次々とおかしな、そして狂ったヤツらが増えていくというわけだ。
 この島は台風に閉ざされ、ニンゲンは島から出ることはもちろん、新しく増えて登場することも出来ない。しかし魔女や悪魔どもは、侵食されればされるほどに、いくらでも登場できる。次々に増えていく。
 今やこの狂った物語の登場人物は、ニンゲンより悪魔の方が多いのではないだろうか。……ヤツらの人数こそが、その狂いの侵食を示す数字そのものかもしれない。
 あぁ、きっとそうだろうな。そしてどうやら、侵食されてるのは人数だけじゃなく、服装センスもらしいぜ。これ以上、侵食が進んでさらにおかしいヤツらが登場したなら、一体、どんな格好になるんだろうな。………俺ぁ、おっかなくて想像も出来ねぇぜ…。
 ……あぁ、マジで勘弁してくれ…。これ以上、おかしな連中を増やさないでくれ…!!
【ベアト】「くっくくくく! そうはいかんぞ、まだまだ増やすぞォ!! ニンゲンどもの語る、クローズドサークルなる間抜けなルールを妾がいくらでも汚してやろうぞ…! よく来たな、我が優雅なるゲームへ! ガァプよ!」
【ガァプ】「………お久しぶりね、リーチェ。お元気だった? …というかずいぶん元気そうじゃない。あなた、若返った? 私が知ってる頃より、2、300歳は若々しいわ。…………あぁ、なるほど。」
 祖父さまにガァプと紹介されて呼び出された悪魔は、俺を一瞥してから、勝手に何かを納得したかのようににやっと笑う。……率直に、嫌らしい笑いだと感じた。
【戦人】「ベアトの友人らしいな。……ってことは輪を掛けてロクでもねぇヤツってわけだ。しかし、クローズドサークルが何とかって言ってやがったが、どういう意味だ?」
【縁寿】「今の六軒島のような、外界から途絶された場所で起こる連続殺人ミステリーは、クローズドサークルとも呼ばれるわ。外界からの途絶、つまりは閉じられた輪の世界というわけ。……ゆえに、登場人物と容疑者は限定されるのが一般的。
 にもかかわらず、新しい容疑者候補が次々に輪の外から追加されていくのは、ミステリーの作法に反する。……つまり、ニンゲンとミステリーに対する、魔女の冒涜ってつもりなんでしょうよ。」
【ガァプ】「………あなたがグレーテル? なるほど、賢い子みたいね、……くす。そういう子は好きよ。……舌が甘くてとろけるから。」
【縁寿】「気色悪い。……冗談は服だけにしておいて。」
【ガァプ】「デヴィリッシュプリティの最新作、ジャックザリッパー・クリスマスブラッド。……ニンゲン界の田舎娘には理解できないセンスでごめんね?」
【縁寿】「……通気性がいいのだけは理解できたわ。ついでに頭にも切れ目をいれたら? 脳みその通気性もよくなるかもね。」
【ベアト】「ガァプは魔界の流行にいつも敏感でな! しかし今年の流行りも実に大胆だ。妾も一度ぜひ取り寄せてみるとしよう…!」
【ガァプ】「リーチェにはアリグレがお勧めね、アリスアンドザグレイブヤード。今度一緒に666にお洋服見に行きましょうよ。たまには魔界にもいらっしゃいな。」
【ベアト】「このゲームを終えたら、ぜひそうしようぞ。くっくっくっく!」
【ガァプ】「………それにしても。リーチェの対戦相手のお二人はなかなか可愛いわ。
 この子なら、頭部半壊死体にどういう意味があるか、察しが付きそうね。………わかるぅ、お嬢ちゃん……?」
【戦人】「……さっきこいつは、一番最初のゲームを思い出せと言ったな。……どういう意味だ…?」
【縁寿】「言葉通りの意味よ。……一番最初のゲームの第一の晩を思い出して。……大人たちの死体が魔法陣の描かれた園芸倉庫の中で発見された時のことよ。覚えてる?」
 エピソード1。第一の晩。蔵臼、留弗夫、霧江、楼座、紗音、郷田の6人が、それぞれに頭部を粉砕されて死亡していた………。
【縁寿】「あの時、あそこには2種類の死体があったわ。それは、顔面を粉砕された死体と、側面を粉砕された死体の2種類。」
【ベアト】「そうだ。顔面粉砕は、留弗夫、霧江、楼座、郷田の4人。側頭部粉砕は、蔵臼、紗音の2人だった。……妾も、あの時点では気まぐれに生み出した2種類の死体であったが、より残忍な死体である前者の方が、妾にとってむしろ不利であることに気付いたのだ。」
【戦人】「……ベアトにとって不利……? …………そうか。そういうことか。」
 そうなんだ。一見残酷な顔面粉砕。……しかしそれは、本人確認を難しくしているのだ。
 例えば、あの時の蔵臼伯父さんと紗音ちゃんは、頭部は半壊だった。それ自体も、もちろん残酷ではあるが、顔が半分残っていたため、容易に本人確認が出来た。
 しかし、親父たち4人は違った。顔面が全壊だったため、実の息子の俺でさえ、服装などから親父に違いないと類推するしかなかった。……つまり、本当にあれが親父の死体だったのか、ついにはうやむやのままだったわけだ。
【戦人】「第一のゲームの時にも、もしも推理バトルが行なわれてたなら、俺は多分、親父たちの死体を、本人確認不能のため、偽装死体の可能性もあると主張していたかもしれない。……何しろ、あのゲームの時にはベアトは一切、赤での発言もしていない。」
【ガァプ】「お上手よ。それで正解。………偽装死はミステリーの基本の一つ。たとえ医者に検死をさせたとしても、犯人とグルを疑われればその結果は信用できない。つまり、確実な死を保証できない死体は常に、魔女サイドを不利にするということ。」
【縁寿】「あらゆる死体について偽装死を疑い、その後の事件の犯人に想定することが出来る。……戦人の嫌う手だけど、魔女に対するもっとも初歩的な一手ね。」
【戦人】「あぁ、そうだ。だからベアトは赤を使い出した。……赤き真実で、完璧な検死を行なうようになったんだ。」
 EP4はイレギュラーなケースであり、いつもの魔女の手紙が読まれない。代わりに口頭で、今からでも碑文が解けたらその人物に全てを譲ると説明しておく。
 今回のような場合でも、殺人を中止する条件は設定されていなくてはならない。
【ベアト】「くっくくくくく! そういうことだ。本来ならば、この第一の晩の惨劇に対し、妾はすぐにでも赤き真実にて、この度の6人の死亡を確定させるところである。しかし、知ってのとおり、今回の妾の戦法はこれまでとは正反対の、赤き真実の兵糧攻めと言ったところ…!
 そなたが反撃の拠り所にしようとする以上、妾は容易には赤を使わぬ。必要最低限の赤にて、たった一箇所だけ綻びさせればいい! つまり、妾は究極的に言えば、そなたのあらゆる密室の推理について、あらゆる暴言を許せども、その内のひとつを、たった一回の赤き真実にて打ち破るだけで良いわけだ。」
【戦人】「いっひっひ! さんざん俺をいたぶってきやがったくせに、俺が反撃に使い出したら、今度は引っ込めやがったってわけだ。ふざけやがってよ。」
【ベアト】「とにかく赤を使いたくない、ケチりたい! 戦人をいじめてやりたァい!! しかし、赤を使わずに確実なる死を保証するにはどうすれば良いのか。妾は悩みに悩んだわけだ。……そのアイデアをガァプがくれた! 実に簡単な方法だったのだ。くっくくく!」
【ガァプ】「……当たり前なことを言ったらリーチェが閃いただけよ。私は、誰にでも容易に、身元の判別と完全なる死が理解できる死体を用意すればいいと言っただけ。」
【ベアト】「くっひひひひ! つまりはその2つを合体させたわけよォ! 身元の判別に必要な顔と、完全なる死の象徴である、魂の器たる頭部の粉砕! この2つを左右ぴったり綺麗に合体させたら、アラ不思議! この頭部半壊死体がパーフェクトであるという答えが出たわけだ!」
【戦人】「お前、絶対、二色パンとか二色アイスが好きだろ。欲張りな子ども趣味丸出しだぜ…。」
【縁寿】「………いずれにせよ。たとえ頭部が半壊していたとしても、現時点では彼らが死んだと見なすべきではないわ。」
【戦人】「わかってる。……ベアトがもったいぶって赤での宣言を拒む以上、全ては疑って掛かるべきだな。……もちろん、シエスタの太もも姉ちゃんたちの魔法虐殺だって鵜呑みになんか絶対ぇしねぇぜ。」
【ガァプ】「くす。本当に慎重になったこと。……最初のゲームの頃だったなら、何でもかんでも鵜呑みにしてくれていたのにね。」
【ベアト】「くっくっくっく! 好敵手は、こうでなくては面白くないというものよ。今は赤がないことを幸いに、自由な想像を広げ好きに推理を重ねるがいい。一番最後の、一番美味しいところで、バッサリと赤き真実にて叩き切ってくれようぞ…!」
 今回は、共犯者の源次を最後まで生かさないと成立しないため、6人死亡の赤は出せない。しかし、出そうと思えば出せるような言い方をして煙に巻いている。
 これまで赤を頼りに推理をしてきた読者は、EP4が難しいと感じるかもしれないが、実際は案外シンプルである。

甘美なる魔女の世界

暗闇
【楼座】「………………あ、……………ぅ………、」
 静寂。真っ暗。冷たい。痛い。楼座は少しずつ意識を取り戻す……。そして最初に考えたことは、意識を取り戻さなければ良かった、だった。
 だって、こんなにも体が冷えていて痛くて、……意識が戻れば戻るほどに辛くなるから。暗闇の中、冷え切った大理石の上でずっとうつ伏せになって寝ていたような感じ。
 ……あぁ、だからいつも自分に言い聞かせてるのよ。たとえ仮眠であっても、せめてソファーの上へ行こうって。ちょっと目を閉じるだけ、なんて甘えて、フローリングの上や書斎机の上に突っ伏して眠ってしまうと、後で体が痛くなって辛い思いをするって、いつも知ってるのに……。
 こんなにも冷たくて硬い床で眠っていたから、骨まで冷え切ってしまった。こんなにも硬くて冷たい床で眠っていたから、押し付けていた顔半分がとても痛い。
 ……今、鏡を見たら、きっとみっともなく跡になっているだろう。撫でたくらいでその跡が消えるとは思わないが、とりあえず、取り繕うように痛む顔半分をさすった…。
魔女の喫煙室
 ……ここは、………どこだろう。
 真っ暗闇だと思っていたが、そうではないようだった。なぜなら、薄っすらと自分の体を見ることは出来るからだ。
 ……光源があるに違いないのだが、天井を、……あるいは空を見上げても、真っ暗闇が広がるだけで、それらしい灯りは見えない。
 自分の体がほんのりと照らされているだけで、それ以外の物は全てが暗闇に沈んでいる、……そんな世界。
 それはまるで、楼座だけが、忘れられた世界に置き去りにされてしまったかのようだった。意識がはっきりしてくると、どうしてこんな寂しいところに独りぼっちでいるのか不安になってきた。
 ……誰かいませんかと、声を張り上げようとした時、……ぺた、…ぺた、と足音が近付いてくるのが聞こえた。か弱い足音だったので、子どもだろうと思った。不気味な気配はなかったので怯えはしなかった。
 しかし、真里亞の足音でもないので、一体、このような暗闇で誰だろうと、足音の聞こえてくる方向をじっと見た。………すると、……薄っすらと近付いてくる人影が見えてくる。
 それは、……真里亞よりずっと幼い子どもに見えた。……誰だろう。知らない子だった。
 でも、浮かべている表情はまるで、親とはぐれてしまった迷子の子のよう。…娘を持つ親として、胸が掻き毟られる感情を覚える…。
 楼座が殺された直後に挿入されるので紛らわしいが、真里亞編に飛んでいる。
 なお、真里亞編はこれが最終章。黒真里亞の人格がどのようにして生まれたか、という物語だったわけである。
【さくたろ】『……………………うりゅ。』
【楼座】「……あツ、…………、」
 その子が幼児言葉のようなものを呟いた瞬間、……冷たい床で痛んだ顔の左半分が、細くて硬くて長い針でぷすりと貫かれたような痛みを感じた。思わず手で、痛んだ側の顔を押さえてしまう。
【さくたろ】『……大丈夫……? まだ痛い……?』
【楼座】「…ありがとう、僕。………ここはどこ…? すごく、……寒いわ。」
【さくたろ】『……こっちへ来て……。ここにいちゃいけない……。』
 その子は私のもう片方の手を取ると、悲壮な表情で引っ張った。
 ……何が何だかわからない。でも、子どもの素直な表情はそれ一つで、大人の口先だけの百の言葉よりも、真実を語ることが多い。事情はわからないが、とにかく楼座は手を引かれるままに一緒に駆け出す…。
 しかし、自分たちの姿以外は真っ暗で何も見えない世界。本当に自分が走って前へ進んでいるのかさえ、実感できない。……走っているのに風すら感じられない。まるで、まだ悪夢の中にいるかのような、そんな非現実感…。
 だから、走っているにもかかわらず平衡感覚が保てず、私は足をもつれさせて転んでしまう。……現実感のない世界ではあっても、硬く冷たい床に顔をこすり付ける痛みは現実そのものだった。
【さくたろ】『うりゅ……、大丈夫……?』
【楼座】「うっ、………ッ…。……ごめんなさいね、頭が痛むの。」
 ……その子が、その、……“うりゅ”とかいう幼児言葉を口にしたら、また頭に針を刺す痛みが走った。二度起こっただけなのに、その子のその言葉が私の痛みを起こす切っ掛けになっているとなぜか理解できた。
 ……だから率直にそれを口に出す。
【楼座】「ごめんなさい。その、“うりゅ”という口癖を止めてもらえる…?」
【さくたろ】『うりゅ……。』
【楼座】「ツ、……ちょっと、止めてって言ってるでしょ…。」
【さくたろ】『う、…ぁう、…うー! ごめんなさい……。』
 その子の謝罪の言葉で、今度は眉間に鋭い痛みを感じた気がした。
 ………何なの、この子は……? 悪意がないのはわかってるんだけど、……この子にかかわると、……頭が辛い……。
【さくたろ】『……大丈夫……? 早く行こ……。ここはいちゃ駄目……。』
【楼座】「どうしてここにいちゃ駄目なの…? ねぇ、ここはどこ……? あなたは誰? あなたのママはどこ…?」
【さくたろ】『………ボクを作ってくれたのは、……ママだよ…?』
【楼座】「……え……?」
 その子は、つぶらな瞳で、私をじっと見る。
 ……この子のママが、………私……? ……誰? 誰、この子。全然記憶にない。
【さくたろ】『ボクのこと、……忘れちゃった……? ママがボクを作ったんだよ……?』
【楼座】「……ちょっと、冗談は止めて。…私の子どもは真里亞だけよ。………そう、真里亞はどこ? 真里亞はどこなの?! 真里亞……?!」
 私は急に、真里亞がいないことが不安になる。どうして私はこんなところに独りぼっちでいるの? 真里亞はどこなの?! 真里亞がいてくれるから、私は私でいられるというのに…!
【さくたろ】『…真里亞はいるけど、……今は真里亞じゃない。今は会わない方がいいの。その方がママのためだし、真里亞のためなの。………真里亞のためにも、逃げて。』
【楼座】「え……? 何を言ってるの? 真里亞はどこ? 真里亞?! 返事をしてー!!」
【さくたろ】『真里亞に見つかっちゃう…! 早くこっちに来て、ママ…!』
 その子は再び私の手を引っ張る。……恐らく、引っ張る方向は真里亞と逆の方向だ。だから私は踏み止まる。
【楼座】「離してよ…! 大体、あなたは誰よ…! あなたにママなんて言われる覚えはないわよ…!」
【さくたろ】『……ボクを作ってくれたのはママだよ…。忘れちゃったの……? 真里亞のバースデープレゼントにするために、……ボクを手作りしてくれたの、忘れちゃったの……?』
【楼座】「……………………あなた、……まさか……。………真里亞の、……さくたろう…………?!」
【さくたろ】『うん………。ママに作ってもらった、ライオンのぬいぐるみだよ…!』
【楼座】「ぎゃッ!!」
 鋭い激痛が走る。それは、彼に手を握られている手の平からだった。
 思わず手を弾いて、手の平を見ると、………そこには親指大の穴がぽっかりと開き、どろどろの真っ赤な血を噴出していた。…向こう側が覗けるくらいの、大きな穴だった……。
【さくたろ】『う、うりゅ……! 大丈夫?! 大丈夫?! どうしたの…?!』
 さくたろうも私の傷に気付き、慌てる。……その様子を見る限り、なぜ私の手が大怪我を負ったのか理解できないようだった。
 しかし、私の目には、彼が私の手を握ったから、このような怪我を負ったように感じられた。悪気があろうとなかろうとも、……この子は私に害を与える存在だと理解し、急に不気味になる……。
【楼座】「あっちへ行って……!! あなたなんか知らないわ…! さくたろうは、気持ち悪い下手くそなぬいぐるみでしょ…!! 私は知らないわよ、ママなんかじゃないわよ…!! あっちへ行って…! 消えてッ!!」
【さくたろ】『………う、………………ゅ………。』
 ゆっくりと、……さくたろうの首元が、…一文字に裂けていく。
 ばっくりと開き、漆黒の内側が覗ける。……血は噴出さなかった。ただただ、虚無の漆黒が覗けるだけだった。
 そして、………その裂け口の内側から…、綿雪をぶわっと噴出し、……綿埃を散らしながら、くしゃりと倒れた。
 そこには、……黄色いくしゃくしゃの布地と、湿気って潰れた綿飴のような綿の塊の残骸があるだけだった。
 ………ライオンの、ぬいぐるみ。間違いない。あの日に私が感情に任せて引き裂いた、さくたろうのぬいぐるみの、残骸だった。
 それを私が認めた時、…………鋭く長く、そして鼓膜を破るほどに大きな金切り声が、世界を切り裂いた……。
【楼座】「うわあああああぁああああああああああぁああぁああぁぁッ!!! さくたろぉおおおお、さくたろおぉおおおおおお、うわああああぁああああああああう!! わあああぁああああああぁあああう!!」
 堰を切った洪水のように、あるいは壊れたテレビのように。……真里亞は甲高い声で泣き叫ぶ。………その、耳をわんわんと苛む真里亞の声に、二つの感情が揺さぶられた…。
 一つは、あぁ、感情に任せてとんでもないことをしてしまった…、という後悔。今すぐ跪いて真里亞の頭を抱いて、一緒に泣き喚いて謝罪したいという母の気持ち。
 ……実際、私はすぐにそうした。真里亞の頭を抱いて、私も泣きながらそれを謝った。
 しかし真里亞は泣き止まない。それどころか、一番の仲良しの友人を引き裂いた私を拒絶し、両手で強く押しのけた。
 不自然な格好で膝を付いていた私は、呆気なく後へ転ぶ。真里亞は黄色い布切れと綿屑を掻き集め、……それに顔を埋めて、さらに泣いた…。
 それを見て、もう一つの感情が膨らむ。みるみる膨らむ。……そしてはち切れる。
 だって、謝っても機嫌直さないし、もうどうしようもないし、そもそも真里亞が悪いし…!! いつまでもこんなぬいぐるみ遊びにかまけているから友達が出来ないわけで、変人扱いをされてるわけで…!! これはいい機会、教育的指導! 私だって甘やかしてばかりいるわけじゃないんだから…ッ!!
 物はやがて壊れる、奪われる、壊される! 私だって玩具や宝物を、兄さんや姉さんやお父様やお母様にたくさん取られた、壊された、馬鹿にされた、捨てられた…!!
 でも私、それに対し泣いたことも、……ちょっぴり涙を零したことはあったかもしれないけど……、ここまでわんわん泣いて親を困らせたり、駄々を捏ねたり、機嫌を損ねたり、床をどんどん叩いてばんばん蹴って騒がしくしたことなんて一度もない…!!
 そうしたいといつも思ってたけど、したらもっと怒られると思って、ずっとずっと我慢してきた。我慢してきたからコンナニ立派ナ大人ニナレタノニっ!!!
 その時、ぼろっと変な手応えがした。乱暴に道具を扱っていたら、とうとう壊れて、根元からぽっきり逝ってしまった時のような手応え。
 しかし、私は道具なんか何も使ってない。自分の両手で真里亞の頭を叩き続けていただけだ。
 だから、……自分の手を見る。
 ……私の両手の手首から先が、折れて、欠けて、……なくなっていた。まるで私の腕の、その部分だけが、陶製になってしまったかのよう。……いや、まさに私の手首から先がいつの間にか陶製になっていて、壊れて落ちているのだ。
 真里亞を叩き過ぎたから、ひびが入って割れて落ちてしまったのだ。……だからほら、…私の両手首は、足元に砕けて落ちてるじゃないか……。
【楼座】「ひ………? ひいいいぃいいいいいいぃいぃぃ…!!!」
 痛みはない。しかし、自らの両手首から先が欠けてなくなってしまうという衝撃的な光景が、私に絶叫を強いらせる……。
【楼座】「な、何これ?! 何これッ?! 私の手、……手、手…!! ひぃいいいいいぃいぃぃいッ!!!」
【真里亞】「…………………………。………これでもう、……真里亞を叩けないね。」
 私の混乱を他所に、……真里亞はとても冷たい声で、そう言いながら、……私の乱暴から頭を被っていた両手をゆっくりと解く……。
【楼座】「……何よこれ?! 私の手、私の手…!! 何をしたのよ真里亞、これは何なのよ、何これ何これッ…?!」
 真里亞の後に、いつの間にか黒い人影が立っている。……大人の人影だった。…………誰?!
【ベアト】「………娘の頭を撫で、絵本をめくり、温かい食事を作ることの出来る腕ならば、……残しても良いかと考えた。」
【真里亞】「ママは真里亞の頭を撫でるより、叩く方が多いよ。……絵本なんかめくってくれない。ご飯だって作ってくれない。……真里亞が自分で買いに行くの。
 ……でも、同じお店に何度も行っちゃいけないし、顔を覚えられてもいけない、お巡りさんに話しかけてもいけない…。………何で? どうして? 真里亞が悪いの?
 真里亞はママに撫でてもらったり、絵本を読んでもらったり、一緒にご飯を食べたりしちゃいけないの…? どうして? どうして?! 真里亞、悪くないよッ!! 真里亞悪くない、ママが悪い!! ママが悪いッ!!」
【真里亞】「ママは一緒に遊んでくれないけど、さくたろは一緒に遊んでくれた! 本も読んでくれた、テレビも見てくれた、一緒にご飯も食べてくれた!! ママよりッ、もっともっと大切な友達だったのにッ!!!」
【楼座】「…わ、……悪かったと思ってるわ…! でッ、でも仕方ないでしょ?! ママは仕事で忙しいのよ、仕事で!! ママの仕事が忙しいのは知ってるでしょ?! 仕方ないのよ!! 仕方ないッ!!」
【ベアト】「そうだ。これは仕方なきこと。そなたの娘が傷つき、心を引き裂かれ、涙に血を浮かべることさえ、これは仕方なきこと…! なれば今この場にてこのようなることになるもまた、全ては仕方なきこと…!!
 さぁ、マリア…! 母を名乗った女の言い分は以上だぞ。許せるか、否か…?! 無罪か、はたまた有罪かッ?!?!」
【真里亞】「許せないッ!! ママは有罪だッ!! さくたろにママがしたのと、同じ目に遭わせてやる…!! ママを、……首の縫い目のところから、……引き裂いて、中の綿をぶちまけてやるッ!!」
 ……真里亞の瞳が、青く、禍々しく光った。その瞬間、目に見えぬ巨大な腕が爪を立てて楼座の全身を強く握り締めた。全身の骨がポキポキと小枝を踏み折るような音を立てながら、簡単にひびが入り、折れていく。
 ………楼座は薄っすら理解していた。その巨大な腕は多分、……さくたろうを引き裂いた時の、自分の腕なのだ。ぬいぐるみから見れば、自分の腕はきっと、これくらいに巨大だったに違いない。
 だから、後は想像が付いた。……鋭い爪が私の首の根元に強く立てられ、……びりびりと皮膚が裂けていく音を自らの耳で聞く。
 そして、二人の魔女が見守る前で、楼座の肉体は首から上と下に、分けられた。
 さくたろうが引き裂かれた時には、綿埃がまるで粉雪のように舞い散った。しかし楼座の時には、黒く粘度のあるコールタールのようなものがぶちまけられ、辺りに汚らしく飛び散った。
 血の赤など、わずかほどもない。……ドス黒くて汚らしい、どろどろの何かだった。それは多分、血も涙もない人間が、その代わりに体内に溜め込んでいる何かに違いなかった。
【ベアト】「これは凄い。醜いッ! 何と汚らわしき中身か…! 見事であったぞマリア。さぁどうか、そなたの復讐はこれにて充分か? そなたは母を許せるか、否か? 無罪か、有罪か…!!」
【真里亞】「許せないッ!! まだまだ許せない、有罪だッ…!!!」
 ベアトリーチェが煙管のケーンを振るうと、黄金の蝶たちが湧き出して、楼座の砕けた肉体をあっという間に再生してしまう…。
【楼座】「………く、……がはッ! げほげほッ……!!」
【ベアト】「ひとつの命で償えぬほどのそなたの大罪、身をもって知れ。そして、自らの深き罪を思い出せ…! さぁさ、思い出して御覧なさい…!! そなたがどれほどの罪を犯したのか…!!」
 ………もしもし。……ママなの? ……ママは何時に帰ってくるの?
【楼座】「ごめんなさいね。今日も仕事が忙しくて、泊まりになってしまうの。」
 ……また、お仕事でお泊り………? ……ママのお仕事、今日も大変だね…。
【楼座】「うん、ごめんね。本当に忙しいの。もうずっと会社に缶詰よ。外の空気も吸えやしないわ。ママの仕事は早く終わらすだけじゃ駄目なの。より良いデザインをあげないと、次から仕事をもらえない、大変な仕事なのよ。だからどうしても時間が掛かっちゃうの。」
 …うん。わかってるよ。………真里亞、いい子でお留守番してるから、お仕事いっぱいがんばって、早く終わらせて、お家に帰ってきてね……。
【楼座】「ママのお仕事をわかってくれて、ありがとう……。明日、美味しいケーキを買って帰ることを約束するわ。」
 ケーキいらないよ。……ケーキ屋さんに寄って遅くなるより、その分、ちょっとでも早くママが帰ってくる方が嬉しい。
【楼座】「大丈夫よ。早く帰ってくるわ、約束する。だから美味しいケーキを二人で食べて。美味しい紅茶を二人で飲んで。一緒に新しい絵本を読みましょう。この間、買った、狼と羊のパズルで遊びましょうね。二人で一緒に。……約束よ。」
 ………うん、約束。待ってるね。…………お仕事、頑張ってね、ママ……。
【ベアト】「ほほぅ。寂しい話ではあるが、互いを思い合う、良き親子愛ではないか。何か問題があるというのか、真里亞。そして楼座よ。」
【楼座】「…………………………。……そ、その約束は、……私はちゃんと守ったはずよ。次の日の夕方に、約束通り、ケーキを買っていつもより早い帰宅をしたはずよ。」
【真里亞】「うぅん、真里亞は知ってたよ……。………あの日の夕方ね。ママ宛てに着払いの荷物が来たけど、お財布の中のお金が足りなかったから、ママにどうしようって相談したくて会社に電話したの。……特別な時以外は掛けちゃ駄目って言われてたけど、……ママのお仕事の大切なものだったら悪いしと思って…。電話したの。」
【楼座】「………………………………。」
【真里亞】「………そしたら、ママはお休みだって言われた。…その日はずっと前からお休みに決まってて、………遠くへ遊びに行っているって言われたの。…………真里亞は知ってたよ。ママが嘘を吐いてるって、………ずっとずっと知ってた…!」
 でもね、……さくたろがそうじゃないって真里亞を叱ってくれたの。
 ママは毎日、お仕事でとても大変。真里亞を放っておいて遊んでるはずなんてないって。ママはお休みって言った人は、きっと何か勘違いして言ってしまったんだよって…!
 さくたろがそう言うんだもん。真里亞は信じたよ。……真里亞は信じた! ママ大好き、ママ大好き…! もちろんママだって真里亞を愛してる、愛してるって!!
ホテル
【楼座】「……………えぇ。私もよ。愛してるわ、真里亞……。」
 楼座はふぅっと深いため息を漏らす。……自らの言葉に重みを感じてるのだろうか。そして、ベッドサイドの電話機に受話器を置く。
 薄暗い室内は、窓際からの地上の星空をより美しく際立たせてくれていた。そのテラス前のテーブルには、よく冷えたワインクーラーが置かれ、グラスを交わした相手が、眼下の光景を眺めていた…。
「………娘さんに、旅行って話してないんですか?」
【楼座】「行くって言って、前にうるさかったんで、以来、言わないことにしてるんです。その方が面倒がなくていいんで。」
「……娘さんが気になるなら、無理に日程を組まなくても良かったじゃありませんか。」
【楼座】「でもそれじゃ、いつまで経っても予定が合わないし…。それは気にしないでって言ったでしょう。」
 純白のガウンをまとった細身の中年男性は、小さくため息を漏らす。そのわずかな仕草に楼座は敏感に反応した……。
【楼座】「もう! 娘の話はなしにして。せっかくの上等なワインが台無しよ。」
「…………私はあなたに、一人の人間としても女性としても魅力を感じています。ですが、だからこそ、あなたの親子の事情に無理を強いてまで、こうして時間を割くのは申し訳ないと感じています。」
【楼座】「私と娘の事情は気にしないで下さいっていつも言ってるじゃないですか…! あなたと二人きりの時に、娘の話はしないようにしてるでしょう? 電話だって、下のロビーでうるさい酔っ払いが馬鹿笑いしてなければここでは掛けなかった…!」
「楼座さん。こういう唐突な日程での旅行は、娘さんのためにも、今後は少し考えませんか…? 互いの日程が合った時だけでいいじゃありませんか。」
【楼座】「それじゃ全然日程が合わないじゃないですか……! 私はっ、……いつだって一緒にいたいのに……!」
「それは子どもの恋愛の仕方です。大人同士の恋愛は、もう少しストイックであるべきですよ。……楼座さんと一緒にいられる時間が長く取れないことは、僕も寂しいです。ですが、その限られた時間と機会で、僕たちは充分に大人の恋愛を楽しめていると思いますよ。」
【楼座】「それは、もっと娘と一緒にいろと。……女でなく、母でいろ、ということですか。」
「……あなただって望んでいることでしょう? 娘さんと一緒にゆっくり過ごしたいとあなただって思っているはずだ。僕は逃げません。僕との時間を優先するために、娘さんを犠牲にするのは気の毒だと申し上げたいのです。」
【楼座】「…………………………………。……奥さんとの寄り、戻したんですか。………別れるのが嫌になったんですね。」
「妻の話はしたくない。あなたが娘さんの話をしたくないのと同じです。」
【楼座】「……子連れの女は面倒だって、思ったんでしょう。」
「そんなこと、今までに一度も言ったことはありませんよ。」
【楼座】「………みんな、子連れだとわかると手の平を返す。……あの子の養育費は気にしなくていいからと言っても、みんな手の平を返す…。………あなたは、…娘のことを理解してくれてると思ったのに、………やっぱり子連れだと嫌なんですね……。」
「そうは言っていません。楼座さんのことを嫌いになってなどいませんよ。私が言いたいのは、娘さんをもっと大事にしなさい、あなた自身もそれを望んでいるはずだ、だから娘さんに嘘を吐いて自らを傷つけて欲しくない。そう言ってるだけなんです。」
【楼座】「嘘吐きッ!!! 私のことが面倒になっただけ、そうでしょうッ?!」
「そんなことは言っていない…!」
【楼座】「いいえ、わかるの、私にはわかるわ。あの子を理由に何度も捨てられた私だからわかるの、雰囲気でわかるわ、そうよ、あなたもそう、他の男たちと一緒!! 子連れの女は嫌なのよ、バツイチは嫌なのよ、面倒なのよッ!!
 知らない男と作った子どもの親になんかなりたくないんでしょう? えぇ、そうよね、その気持ち、すっごいわかるわ!! 子連れの男と付き合ったことがあるけど、その気持ち、すっごいわかったの…!! だから、……娘を理解してくれるあなたとなら、一緒になれるって信じたのにッ!!」
魔女の喫煙室
【楼座】「がはッ!! げほっ、……げほんッ……。……そうよ……。あんたなんて、……邪魔だったのよ……。」
【真里亞】「…………………………っ。」
【楼座】「……あんたさえいなければ、……私はとっくに、女としての幸せを掴めたのよ……。あんたの存在が、……私の幸せをいつも邪魔するのよ……。」
【真里亞】「…………マ…マ………、」
【楼座】「………私だってあんたなんか生みたくなかったわよ…。いいえ違うわ。……あんたと一緒に幸せな家庭を築けたらと思ったわよ…。……でも、あんたが生まれる直前にあいつは蒸発したわ。私と温かい家庭を築くと言って私を騙し、永遠に私の前から消え去ったわ…!!
 残ったのはあんただけ。愛も思い出も何もない!! あの男は今どこへ? 私との日々を温かな思い出に勝手に変えて、新しい恋に出会ったかもしれない。そして今度こそ幸せな家庭を築けたかもしれない…!! そして私は?! あんたがいるッ!! 恋も探せない!!
 男は好きに女を渡り歩いて武勇伝気取りッ! なのに女には、私にはッ!! あんたがいる!! あんたという重石がいるのよ、あんたのせいで私は恋を探せない、愛が得られない、一人で生きていくしかない!!
 いいえ、それさえも許されてないわ、私には一人で酔い潰れたい夜さえ許されていないッ!! あんたは誰?! 何者ッ?! 私の人生を台無しにして、私の新しい人生さえ許してくれないあんたは、私の人生の何者なのよ?! 死ねッ消えろッ、あんたなんか生まれて来た時から大嫌いッ!! あんたがお腹の中にいた頃から、大ッ嫌いだったッ!!! それを前向きに受け容れようと、頑張って良き母を演じてきたわ。えぇ、私は頑張った!! 同世代の女性たちが、独身を謳歌し、時に恋に遊び、あるいは愛に結ばれるのを横目に見ながら、私は女と母の二足のわらじを履き続けたわ…!! その私の苦労を、誰がねぎらったの?! 誰も褒めない、讃えないッ!!
 自業自得? 中古品? バツイチは死ね? 処女じゃなきゃ嫌ぁ?! こっちから願い下げよ、ケツの青い童貞のクソガキどもがッ!!! 必死だった私はさぞかし簡単に抱ける女に見えたろうさ、えぇ、必死だったわよッ!! まだまだ恋をしたい年頃の私が、日々を仕事と育児で忙殺されていき、このまま老いてこのまま人生を終えるだろうと悟った時、どれほど必死だったか想像もつかないでしょうよッ!!
 あんたの本当の父親ももちろん憎いわよ! でも、破局を迎えた責任は私と彼に半々だわ。私にも、逃げられるだけのしつこさがあったのかもしれない! でも、その後の破局は全部あんたのせいッ!! 私はあんたにそれを詰ったことはあった?! ないでしょおおおぉッ?!
 男に逃げられて酔い潰れたいその次の日があんたの授業参観ッ!! 泣き腫らした目を厚化粧で誤魔化して、あんたが的外れな発言をしてクラス中から失笑されてた時の私の気持ちなんて、あんたどころか、世界中の誰にもわからないでしょうよッ!! あんたが嫌い、大ッ嫌い…!!! そしてこれまでにあんたを本当に愛したことなんて、ただの一度もないッ!!! うおああああああぁああああああああぁおおおあああああぁあああぁああああああああああぁあぁあぁぁぁぁああぁッ!!!」
 真里亞の顔は、引きつったままだった……。言葉が本当に刃だったなら、…真里亞は今頃、噴出した血で全身を真っ赤に染めていただろう。
 魔女としての力を手に入れ、さくたろの復讐を目論む決意をしたはずの彼女ですら、……母の口から出る、自分を呪う言葉には抗えなかった…。
【真里亞】「…………マ………マ………………、……ううぅわぅ……、うううううううぅ!!!」
【ベアト】「醜い。あぁあああぁ、肉欲に溺れた女のなんと醜きことか…!! これがこの女の本性よッ!! 邪悪を極めし千年の魔女の妾とて、見るに耐えぬことこの上なし!!
 あぁ、マリアよ、今こそ決別の時!! そなたの母を名乗った醜き肉の塊を打ち砕け…!! そなたの無垢なる魂が、親子なる鎖にてこれ以上束縛される意味はなし! 自らの魂を自らの手で! 今こそ解放せよッ!! そなたは自らを守る牙と爪を、今こそ手に入れたのだッ!!」
【真里亞】「うううぅううううぅッ!! 真里亞を苦しめてきた日々を、今こそ思い知らせてやる…! 苦しみの日々を、今こそ復讐してやる…!!!」
【楼座】「あっはははははははははッ!! その私を苦しめてきたのはあんたじゃない?! 私が復讐したいくらいよ…!! あんたが生まれる前にそうすればよかった!! あんたなんか生まなければよかったッ!! 消えてしまええええぇええ、うおおおおああああああぁあああぁぁああああぁッ!! ……がぎゃッ。」
 咆哮する楼座の上半身が、ぐしゃりという表現でしか説明できないほどに、ひしゃげ、あっという間に絞られた血塗れ雑巾のようにしてしまう。
【真里亞】「潰れてしまえ。許せない、……許せない…!!」
【ベアト】「くっはっはっは……!! 屑が。相応しい姿よ…!」
 ……楼座の腰から下は普通に直立しているのに、上半身だけが捻り潰され、その極端な差があまりに異様だった。そしてばたりと倒れるが、倒れた途端にすぐに肉体は再生された。
【楼座】「ごほごほッ! げほッ!! ………死になさいよ、あんたが。……くっひひっひっひっひ……!」
【ベアト】「さぁ、真里亞。そなたの怒りと悲しみはこの程度のものなのか? 今こそ復讐の時! 怒りと悲しみの清算の時…!! ぶつけろ、吐き出せッ!! そなたの胸に打ち込まれた楔を全て、押し出し、跳ね返せッ!!!」
【真里亞】「うがあああああぁあおおおおおっぉおおおおおおッ!!!」
 真里亞の咆哮が、肉と骨を同時に砕く醜い破砕音で彩られる…。大の字に倒れたまま、口汚く罵っていた楼座の胸部が、まるで透明な象にでも踏み潰されたように、綺麗に真円に切り抜かれて潰された。
 心臓も肺も肋骨も、まったく区別がつかないほどに、無慈悲に踏み躙られている。……それは真里亞の今日までの心の痛みをそのまま示したものかもしれない。
【ベアト】「さぁ、真里亞。そなたの気はこれで晴れたのか? 母の罪が許せるか? 否か? 無罪か? 有罪かッ?!」
【真里亞】「許せないッ!! まだまだ全然許せないッ!! ママは有罪だ、有罪有罪有罪、許せないッ!!!」
【ベアト】「無論だとも、そなたの苦渋の日々がこの程度の処刑で見合ってなるものかッ!! 思い知るがいい、楼座! さぁさ、思い出して御覧なさい、そなたがどんな姿をしていたのか! 殺されるために蘇れ!! 己が罪を禊ぐために殺されよ、何度でもッ!!!」
 ベアトがケーンを振るうと、再び肉体は再生し、楼座は苦しそうに咳き込みながら上体を起こす…。そして再び、真里亞を拒絶する呪いの言葉を吐き出す。
【真里亞】「………お前はママなんかじゃない。魔女だ、真里亞とママを苦しめる魔女だッ!! ママの姿をしているからって許さない! 許さないッ!!」
【楼座】「……魔女はあんたでしょ……。気持ち悪い本ばかり読んで、魔女ごっこにかぶれて…!! 消えるのはあんたの方よぉおおおおおぉッ!! あんたのせいで私まで変わり者扱い! あんたのせいで、あんたのせいでぇえええええええええええッ!!! お前なんか生まなければよかったッ!! お前なんか生まれてくるな…!! 生まれてくる前から、大ッ嫌いだったのよぉおおおおおおおおおぉ!!!」
【真里亞】「うわああああああああああぁああああああああああ…!!!」
 ………真里亞は絶叫する。怒りと悲しみに堪えきれなくて? あるいは、形容できぬ感情に捕らわれて……? それはきっと、絶望の咆哮。
 にもかかわらず、受けいれなければならない現実。真里亞だって知っていた。自分が邪魔に思われていることを知っていた。でも、それを自ら知りつつ、自ら信じなかった。自分は母に愛されていると信じ、それを疑わせるに足る様々な出来事を、精一杯、好意的に解釈して、母の愛を信じ、すがって来たのだ。
 でも、………自分にはママしかいない。それでもやはりママが好きで、………ママが自分を愛してくれていると信じていられた日々に、戻りたいのだ……。
 だから吼える…。全てをなしにする。認めない。否定する。こんなことを言う母を、言わせる黒き魔女を、そして、………そんな母を許せない自分を、否定する……!!!
 でも否定できない! これが現実、真実、真相、解答。見紛うことなき、絶対の、……現実!!
 真里亞は楼座を、何度も肉塊に変える。何度も何度も、彼女の胸中を投影した暗闇の世界に、耳を覆いたくなるような肉と骨を砕き割る醜い音が響き渡る……。
 その度にベアトリーチェは楼座を蘇らせる。死してなお逃さぬ、無限の拷問の世界に、彼女を引き摺り戻す。これこそ、無限の魔女ベアトリーチェの生み出せる、まさに無間地獄。
 しかしベアトリーチェの意思では、この世界を無限にしてはいない。……なぜなら、楼座が肉塊に変わる度に、真里亞に同じ問いを繰り返していたからだ。
【ベアト】「くっくくくく! 気は晴れたか、マリア! そなたの怒りは母を許せるか!」
【真里亞】「許せるものか、許せるものかッ!! 許さない許さない!! 真里亞の苦しみの全てを教えてやる…!! もっともっと教えてやる…!! まだまだ足りない、全然足りない…!! 生まれた時から、生まれる前から…ッ!! 蔑まれてきたこの怒りと悲しみが、どうしても消せないの……!!」
【楼座】「………ふひ、ははは……。……あんたなんか大嫌い、大ッ嫌い…。ふひひは、はは……。」
【真里亞】「うがああああぁあああああぁあああああッ!!!」
 何度でも蘇らせる。何度でも肉塊に戻す。
 様々な方法で、砕き、潰し、叩き付けて、引き千切る。飛び散る血飛沫と肉片で、真っ暗闇だった世界は、今や黒と赤の入り混じった世界となっている。
 真里亞の怒りは、まだまだ収まらない。それはまるで、生まれて来てから今日までの、抑圧された怒りの全てを吐き出すかのよう。
 それらが心にとって毒なるものならば。この何度も繰り返される母の虐殺は、彼女の魂を浄化することになるのだろうか…。この、不毛なる虐殺でも、わずかほどに彼女の魂は救われるのだろうか……。
 彼女の報われぬ悲しき生に、…この無限の拷問は、わずかの慰みになったかもしれない。なぜなら、……彼女はようやく、笑みを取り戻せるようになってきたから。
【真里亞】「思い知れ!! 真里亞の不幸の根源めッ!! 思い知れ!! 私の痛みがこの程度ではないことをッ!! きっひひはっはははは!! どうしたの? もう笑わないの?! 笑って見せろよぉおおおおお!!」
【楼座】「……ふひ、ふひひひ……。ぎゃぼッ…!!!」
 頭蓋骨を頭の半分ほども陥没させる。飛び出る目玉、噴出すドス黒い脳漿。飛び散る歯の欠片。
【真里亞】「ほら、蘇りなよ…!! 笑って見せなよ…!! ほら、ほらあああ!!」
【楼座】「…………ひ、……ひ。……がぎょッ!!」
 胸が内側から肋骨ごとめくれ上がり、汚らわしい臓物をあたり一面にぶちまける。それらは個々にのたうち、不浄な生き物にさえ見えた。
【真里亞】「ほらほらほら!! 蘇って!! まだ笑える? まだ笑える?! きっひひひひひ?!」
【楼座】「…………………………。」
 もう楼座は笑い声はあげられない。……でも、表情は笑っていた。望まぬ娘を拒絶する悪意に満ちた歪んだ笑いで、いっぱいだった。
 笑い声は消し去った。次はその笑い顔を消してやる。消してやる、潰してやる、引き千切ってやる…ッ!!
【真里亞】「笑えよ、笑って見せてよママ…!! きっひひひひっははははははははは?! どうしたのママ、起きてよ、絵本を読んでよ、お散歩に行こうよ…!! 愛してるって言ってよ、次の日曜日の約束をしようよ、お買い物に行こう、映画に行こう…!! そしてその約束をどうせ破るんだよッ!!
 きっひひひひひひひひひひひひひ、楽しいねママ、楽しいねママ、真里亞は今、ママと遊んでるんだねッ!! きっひっはっははははははははははははははははははははははははははははははッ!!!」
【ベアト】「そうだ、そなたは今、母と遊んでいるのだ、じゃれているのだ…!! どうか、今の感情は! 怒りでも悲しみでも苦しみでもないはず…!」
【真里亞】「うん、そうだね、わかるよベアトリーチェ…!! 私は今、すっごく楽しいよ…、ママと遊んでるんだもん、すっごく楽しいッ!! そしてママを何度も何度も殺してるのに、魔法ひとつで好きなだけ生き返らせられるッ!! 玩具は壊したら直せないから大事にした…!! でも、直る玩具なら何度でも壊したいッ!! きっひひひひひひひひひひひひ!! ひひひひひひ、ひひ………。」
【真里亞】「……でも、…………さくたろは直らないんだね。…直せないんだね………。………作ったママが、……生んだママが、……認めないから。」
【ベアト】「…………………………。」
【真里亞】「私もママに、認められてないんだね。………だから壊れた真里亞も、…もう直らないんだね。…………………………。………きひひひ。きっひひひひひひひひひひひッ!! きっははははひゃっひゃっひゃっひゃッ!! あああぁああぁ楽しいな、楽しいよママ…!! こんなにも楽しくなったら、なぜかママが許せる気がしてきたの…! ねぇ、ベアト、これはとっても不思議な感情…! どうして? どうして真里亞はママを許せる気持ちになってきたの?!」
【ベアト】「それは生き死にを自由に出来る力を得た魔女のみが辿り着く、達観の境地よ。……いつでも殺せる。必要なら蘇らせる。面倒ならまた殺せばいい…! それをいつでも指一本鳴らすだけで出来ることを知ったなら、人の世の戯言など、その全ては聞き流すに等しい虫の声以下よ…!
 そなたに母を許そうという感情が芽生えたのは、そなたが母の愛に目覚めたからではない。そなたが今こそ! 真の魔女の世界の入り口に立ったからだ…!! ようこそ真里亞、深遠なる、そして甘美なる魔女の世界へッ!!」
【真里亞】「成ったんだ…!! 真里亞はもう、真里亞じゃない…!! まだ見習いかもしれないけれど、ニンゲンの世界を超えた…! 私はもう、原初の魔女見習い、マリアなんだ……ッ!!! もう私は、何も悔しくない、悲しくない!
 ママ、許してあげるよ。きっと私はママを許せる! もうちょっとしたら許せると思うのッ!! だって魔女だからッ!! き、……ひっひひっひっひっひっひっひ! きっひひひッ!!!」
 やがて真里亞は、母を許すだろう。……数え切れない虐殺の末に。寛大に。
ゲストハウス・いとこ部屋
【戦人】「………お、でけぇな今の落雷は。近いんじゃねぇか?」
【譲治】「みたいだね。いくつになっても、落雷にはびくっとさせられるね。」
 戦人がカーテンの隙間から闇夜をうかがっている。時折、青白い稲光が照らし出し、それを面白がっているようだった。
【真里亞】「…………………………………。」
【朱志香】「……お? 何だよ、戦人が騒がしくしてるから、真里亞が起きちゃったじゃねぇか。ごめんな、真里亞。戦人が騒がしくて…!」
【戦人】「何だよ、俺のせいかよ。悪ぃな、真里亞。寝てていいぞ。お休みな。」
 真里亞は、とろんとした目でぼんやりとしている。……まだ寝ぼけていて、思考もはっきりしないのかもしれない。
【真里亞】「…………………うー。……もういい。寝ない。」
【戦人】「いいから寝てろって。まだ寝ぼけてるぜー。いっひっひ。」
【真里亞】「……寝ぼけてない! …………うー!!」
【戦人】「何だよ、もろに寝ぼけてるじゃねぇか。寝てろ寝てろぃ。」
【真里亞】「寝ぼけてない! 寝ぼけてない!! うーうー!! うーうーうーうー!!」
【朱志香】「よせって、馬鹿戦人…! あー、もー、寝起きの子の機嫌を悪くするなんて、馬鹿だなぁ…!」
【真里亞】「寝ぼけてない! 寝ぼけてないもん! うーうーうーうーうーうーうーうーうー!!!」
【譲治】「わかってるよ、真里亞ちゃん…。寝ぼけてなんかないよ。だから落ち着いて……。」
【真里亞】「寝ぼけてないもん寝ぼけてないもん!! うーッ!! うーうーうーうーうーうー!!」
 寝起きの、微妙な精神状態のせいなのか、突然、真里亞が癇癪を起こしてしまう。
 戦人もちょっとからかっただけのつもりだったが、あまりに過剰に反応されたので、面食らってしまう。譲治は慰めるように頭を抱くが、真里亞の癇癪はなかなか収まらなかった。戦人と朱志香は、お前が悪い、お前も悪いと責任を擦り付け合っている。
【譲治】「こら、二人とも静かにして…! 朱志香ちゃん、ポットにまだお湯があったよね? お茶でも入れてあげてくれる? ………落ち着いた? 真里亞ちゃん。」
【真里亞】「……………うーーー。」
 少しずつ癇癪は収まってきたようだが、自分を馬鹿にした戦人に対し、相変わらず険しい目で睨みつけている。
【譲治】「戦人くんも、ふざけて言っただけなんだよ。真里亞ちゃんが寝ぼけてるなんて思ってないよ。だから落ち着いて。ね? ……………………?」
【真里亞】「………………………………。」
 譲治は気付く。……真里亞が、凄い目で戦人を凝視していることに。
 そして、……このような感情を示した後にはとても不釣合いに、……小声で笑った。
 きひひひひひひひひひひひひひ。笑い声、というよりは、“ひ”を一文字ずつ吟味しながら呟いている、もしくは数えているというような印象だった。“ひ”を一文字、口にする度に、残酷な何かを繰り返しているように。
 譲治は、何か不気味なものを一瞬だけ感じたが、……少女の瞳の奥にわずかの間だけのぞいた狂気にまでは、気付けない。わずかの間だけ呆然としていると、真里亞は奇怪な小声の笑いを止め、離せというように譲治の腕を振り解いた。
【真里亞】「………うー。許す。」
【譲治】「そ、そう? 真里亞ちゃんは偉いなぁ。……戦人くん、真里亞ちゃんが許してくれたよ。仲直りして。」
【戦人】「あー、悪いな、からかって。許してくれ…。」
【朱志香】「ほら、真里亞…。仲直りの印に、カフェオレ作ってやったぜ。砂糖いっぱい入ってるから甘いぜ。」
【真里亞】「いらない。でも許すよ。…………魔女だからね。…きひひひ。」
 真里亞はもう一度、薄気味悪く小声で笑う。でも、それは本当にわずかの間だったので、戦人も朱志香も深く気には留めなかった。
 ……多分、稲光が一瞬、彼女の頬を青白く照らした時、そう見えてしまったのだろうと、そう思うことにしたのだった。
 その時、ばたばたばたばたばたっ、と騒々しい足音が廊下から聞こえてきた。時間は、もう深夜の10時半くらい。深夜といって差し支えない時間だ。そんな時間にこのような足音は、あまり穏やかではない…。
 そして、明らかに不穏なる激しい連続のノック音を伴って、郷田と熊沢の声が聞こえてくる。……それは明らかに異常事態を告げていた。
 なぜさくたろうが生きているのかと疑問に感じた読者もいるかもしれないが、このさくたろうは楼座にだけ見えている。真里亞の中で生き返ったわけではない。
【郷田】「お子様方…!! いらっしゃいますか?いらっしゃいますか?! 郷田でございます!」
【熊沢】「熊沢でございますよ、ご無事でございますか、皆さん?! ああぁあぁ、どうしたものやらどうしたものやら…!」
 譲治が扉を開けると、全身びしょ濡れの二人が転がり込んできた。傘も差さずに屋敷から駆け込んできたという風だった。
【朱志香】「ど、どうしたんだよ、二人とも……。何があったんだ……?!」
【郷田】「そっ、それがそれが…!! おッおッお館様が旦那様が、皆様方がッ、あわあわあわあわあわあわあわあわ
 郷田と熊沢が、シナリオ通りにゲストハウスへ移動。この後、園芸倉庫に閉じ込められたら首を吊ったフリをするように、というところまで指示されている。

地下牢

地下牢
 ……そこは……、真っ暗な部屋だった。窓はなく、弱々しい電球によって、辛うじて様子がわかるだけ。埃臭く、ごたごたと何かの家具が粗雑に押し込まれた、忘れられた地下倉庫のように見えた……。
 しかし、わずかな灯りでも、そこが多分倉庫ではないことだけは理解できる。……なぜなら、その部屋は鉄格子によって閉じられていたからだ。
【霧江】「……ここは、どこなの………?」
【蔵臼】「わからん…。……ここは、屋敷の地下なのか……? 食堂の真下に、……こんな部屋があったのか……?」
 彼らは落とし穴のようなものに落とされ、この部屋に落ちてきた。ならばこの部屋は、食堂の真下にあると考えるのが妥当だろう。
 ……しかし、長年、食事を楽しみ、親しんできた食堂に落とし穴の仕掛けがあり、その真下に、こんな地下牢のような部屋があるなんて、………蔵臼にも信じられないことだった。
 しかし、見上げた天井は無骨な石造りで、………そこのどこから落ちてきたのかも、理解できない。いや、ここに落とされた5人は、誰もが思っていた。
 落とし穴に落とされた、という自覚がありながらも、……食堂に落とし穴があるわけがない、その食堂の真下にこんな地下牢があるわけがない。……でも、現にここに落とされて閉じ込められている。……と、…混乱していたのだ。
【南條】「……あの高さから落ちて、誰も怪我をしなかったのは幸運かもしれませんな…。」
【蔵臼】「………紗音、嘉音。君たちはこんな部屋の存在は知っていたかね…?」
【嘉音】「……いいえ。僕たちも、このような部屋のことは存じかねます。」
【霧江】「………………本当に…?」
【紗音】「ほ、本当です……。本当にこんな部屋、……知りません……。」
 霧江は、屋敷の秘密の仕掛けについて、若いとはいえ、片翼の紋章を許された使用人の彼らが知っていてもおかしくないと考えていたようだった。
 彼らの返事を値踏みするかのような沈黙が、しばらくの間、続いた…。
【蔵臼】「……いや、紗音たちが知らないのは事実だろう。何しろ、綺麗好きの紗音だ。彼女がこの部屋を知っていたなら、もっとピカピカに磨き上げているだろう。この部屋の汚さが、君たちがこの部屋を知らないことの証だ。……今はそんなことより、これからどうするかの方が先決だと思わんかね。」
【南條】「そ、その通りです……。警察に、い、いえいえ、それから救急にも早く電話をしなければ……。」
 南條の言葉は弱々しい。
 …無理もない。食堂で6人が殺された。殺される瞬間を、全員が目撃した。それも、頭部を半壊されるという、誰が見ても一目で即死が理解できる致命的な損傷によってだ。救急に電話することが、もはや何の意味もないことを誰もが理解している……。
【霧江】「ありがとう、南條先生。……私たちは、伴侶がもう生きてはいないことを理解できてる。………気休めでも、救急と言い添えてくれて、ありがとう。」
【蔵臼】「………夏妃……。…………………………。」
 重苦しい沈黙が再び支配する。しかし蔵臼は首を大きく何度も横に振り、妻を失った悲しみを今だけ忘れ、自分たちの置かれている立場を理解することに専念した。
【蔵臼】「みんな、聞きたまえ。……………親父は、………もう駄目だ。…口で言って、理解や説明が求められる段階に、…もうない。」
 誰も返事はしない。……何の問答も容赦もなく、6人が瞬く間に殺されたのだ。
 そして、13人殺しの儀式のための生贄になれと、あれほど盛大に宣言したのだ。……ここに閉じ込められている以上、自分たちもやがて、次なる儀式の生贄とされるだろう。
 この頃には、暗さにもわずかに目が慣れ、この地下牢の中の様子が少しずつわかるようになっていた。
 ……この地下牢の中に、ごたごたと置かれていると思った家具は、家具ではなかった。それは、……人間ひとりを閉じ込める小型の檻や、拘束台、あるいは、……拷問台。……いずれにせよ、ただの牢屋以上の不気味さで満たされていることは明白だった。
 それらは錆付き、埃にまみれているため、忘れられたものであることは間違いない。……例えるなら、封印されて忘れられた金蔵の狂気とも言えるかもしれない。
 しかし、その部屋に、今や自分たちは閉じ込められている。………ここに閉じ込められた人間が、無傷で解放されることを期待するには、それらはあまりに穏便ではないのである…。
【蔵臼】「……とにかく、ここを抜け出そう。私たちは伴侶や友人を失い、涙を流すことに時間を費やしたいが、今はそれ以上に、……子どもたちの身が心配だ。」
【紗音】「………お、…お子様方はご無事でしょうか……。」
【蔵臼】「祈るしかない…。……そう言えば、熊沢さんと郷田さんはここにはいないな。」
【紗音】「ひょっとすると、…無事に逃げ延びられたのかも…。」
【南條】「かもしれませんな。子どもたちと合流しててくれれば心強いのですが…。」
【紗音】「郷田さんはいざという時、頼りになるし、熊沢さんは経験豊富で落ち着いてるし…。きっと力になってくれると思います…。」
【蔵臼】「……はははは。そうだと良いがな。」
 紗音と蔵臼は、ちょっぴりだけ苦笑いする。しかし、すぐに不謹慎と気付き、咳払いをしてそれを止めた。
【嘉音】「………楽観は出来ないよ、姉さん。僕らに続いて、もう襲われてしまってる可能性だってある。」
【霧江】「同感ね。お父様が食堂で執行したのは、……魔女の碑文の第一の晩の6人殺しなんでしょう?
 なら、第二の晩は“寄り添いし2人を引き裂け”。……逃げ隠れて寄り添っている郷田さんと熊沢さんが、もう殺されている可能性だって否定できないわ。………きっとゲストハウスに合流してて、子どもたちを守ってくれているなんて楽観、現時点ではまったく出来ないわよ。」
 霧江は冷酷に、最悪のケースを分析する。彼女にとっても、最愛の夫を失ったのは悲しいことだ。……しかし今は、その夫の息子である戦人と、他の子どもたちを狂気の当主の生贄から守ることが大事だ。
 悲しみを、子を守る親としての使命感で乗り越える。……霧江も蔵臼も、ともに悲しみを今だけは忘れる強さを持っているようだった…。
 涙は後でも流せる。……今は子どもたちを守るためにも、まずは行動を起こさなければならない。
【蔵臼】「とにかく、ここを脱出しよう…。相当古い牢屋のようだ。何とか鉄格子を破れないだろうか? 室内をくまなく探して、脱出手段を探してみよう。」
【霧江】「おかしな拷問用の檻に混じって、拷問道具とかも落ちてないかしら。武器にもなるし、鉄格子を破る道具にもなるかもしれない。」
 霧江はポケットからライターを取り出す。自分は煙草を吸わないが、留弗夫の煙草に火を付けるために懐に忍ばせていたのだ。……この薄暗い地下牢を探索するには、極めて重要な光源だった。
【蔵臼】「紗音は霧江さんを手伝い、室内を探索してくれ。嘉音は私と一緒に鉄格子の具合を確かめてみよう。これだけ古い牢屋だ。ひょっとするとガタが来ているかもしれない。」
【南條】「わ、私は何をお手伝いしましょうかな……。」
【蔵臼】「体力を温存していて下さい。……やがてここに親父殿が現れるだろう。親父殿に言葉が届くのは南條先生だけです。ある意味、南條先生に我々の命は握られているかもしれない。」
【南條】「……私の言葉など、…もう届きはせんでしょう。申し訳ないが、そのお役には立てそうにない……。」
【霧江】「なら、南條先生のお医者としての知識を貸してください。………人間を即座に昏倒させるような毒って、存在するのかしら。」
【紗音】「……人間を即座に昏倒させる毒……? どういうことですか……?」
【霧江】「私たちは落とし穴に落とされて、この地下牢に落ちてきたと信じている。……あの混乱している場で、私たちはそうだったろうと信じたわ。
 ……でも、この地下牢の広さを測ってみてわかった。この地下牢が、あの食堂の地下というのはありえないことなのよ。」
【紗音】「どうして、ありえないってわかるんですか…?」
【嘉音】「…………姉さんは馬鹿だな。この地下牢は、食堂に比べて狭過ぎる。」
【霧江】「その通り。1番目に落とされたのは蔵臼兄さん。2番目が私。蔵臼兄さんはこの部屋に落ちてきた時、その場を動いたかしら?」
【蔵臼】「……お恥ずかしいながら、落下の痛みで呻いていたよ。そのすぐ傍らに霧江さんが、すぐに落ちてきたんだ。」
【霧江】「食堂での蔵臼兄さんと私の立ち位置と、落下時の落下場所の距離が、明らかにおかしいのよ。」
【南條】「た、…確かに言われてみればその通りです。……その次に落ちたのは私だから、お二人の位置関係はよく覚えている。……食堂でのお二人の間の距離は、この部屋よりもあったかもしれない。」
【霧江】「私たちは、落とし穴に落ちて、ダイレクトにここに落下したわ。……集合する下水道管みたいに、一度集められてから、ここに落ちたわけじゃない。落下は一瞬だったでしょう? そんな凝った配水管みたいな穴を転がされた覚えはないわ。」
【蔵臼】「…………確かに、落とし穴では説明がつかんな。…おかしな話だ。」
【紗音】「それと、……霧江さまの仰る、人間を即座に昏倒させる毒というのは、どう関係があるんですか…?」
【嘉音】「………………………。……霧江さまは多分、食堂に落とし穴なんかなかったとお考えなんじゃないかな。」
【蔵臼】「しかし、現に私たちは落ちたぞ。」
【霧江】「落とし穴に落ちたような気がする、が正解よ。……無理もないわ。そうとしか例えられない体験だったから。」
【南條】「な、なるほど……。つまり、こう仰いたいわけですな…。……私たちは落とし穴に落とされたのではなく、……例えば、毒矢のようなもので撃たれ、瞬時に意識を失い、…その倒れて床に突っ伏す瞬間の記憶を、まるで落とし穴に落ちたようと、思い込んでしまっているのかもしれない、と……。」
【蔵臼】「…………なるほど。食堂に無数の落とし穴が仕掛けられていて、我々がそれに何十年も気付かず食事をしていたとするよりは、よほど説得力のある話だ。」
【嘉音】「……姉さん。時計はある?」
【紗音】「え? ………う、うん。懐中時計があるわよ。………えっと、22時40分くらいね。」
【嘉音】「………うん。僕の時計もそうなってる。…つまり僕たちは、食堂での大騒ぎから、十数分も時間を経過させてないってことになる。」
【蔵臼】「私の時計も同様だ。…………我々が昏倒させられて、どこかへ担ぎ込まれたと仮定するには、時間の経過が短過ぎる。………時間だけを見るなら、やはり我々は食堂の真下へ、落とし穴で落とされたと考えるのが妥当だ。」
【霧江】「時計の針なんていくらでも弄れるわ。……私たちが気絶している間に、全員の時計を巻き戻したのかもしれない。その可能性がなかったことは、証明不能よ。」
【南條】「………………………。落とし穴にせよ、昏倒させる毒にせよ、……私たちは用心するに越したことはないというわけですな…。」
【霧江】「……それで、南條先生? 昏倒させる毒は存在するんですか?」
【南條】「それは、…………。……霧江さんの論法と同じですな。…私の知らない未知の毒物に、そういう効用のものがないとは証明できません。」
【霧江】「……用心に越したことはない、ということね。…ごめんなさい、無駄な質問だったわ。ただ、私の仮説により、この地下牢が食堂の真下とは限らないという可能性は、示唆できたと思う。」
【蔵臼】「なるほど…。………広大な森の中のどこかに隠されていると噂される、親父殿の隠し屋敷の地下牢に運び込まれている可能性もある、ということか。……ここを脱出して外へ出ればそれもわかる。それを詮索するのは、ここから出てからでもいいだろうな。」
【霧江】「その通りね。本当にごめんなさい。さっきから無駄な質問と詮索ばかりだわ。」
【蔵臼】「いいや、とても頼もしいよ。今後も何かに気付いたら教えてくれたまえ。ここを脱出する何かのヒントになるかもしれない。
 ………留弗夫からいつも聞かされていたよ。君の発想にはいつも驚かされ、時には重要なヒントにもなるとね。……君がここにいてくれたのは、不幸中の幸いだ。」
【霧江】「……ありがとう。私も留弗夫さんに聞いてるわ。蔵臼兄さんは、普段は威張っているけれど、いざという時は責任感に溢れる、頼り甲斐のある兄だ、って。」
【蔵臼】「はははは…、さすがにそれは世辞が過ぎるね。………くそ、それにしても頑丈な鉄格子だ。嘉音の方はどうだね。」
【嘉音】「………いいえ、こちらもまったく。」
 蔵臼と嘉音は、全ての鉄格子を色々と弄ってみる。
 ……何本かの鉄格子は、ねじれたり、あるいはわずかにガタガタと揺らせる程度の隙間を感じられたが、それでも人力で破壊できるようなものではなかった。……しかし、何かの道具を梃子のように利用すれば、まだ望みもあるかもしれない。諦めるにはまだ早かった。
 子どもの命が掛かっているのだ。……望みがなくても、彼らは足掻くことを止めはしないだろう。
 そして、彼らもそうしている方が良いのだ。……それを止めたなら、…伴侶を失った悲しみに再び囚われ、膝を抱いてしまうに違いないから……。
【蔵臼】「霧江さんたちの方はどうかね。何か見つかったかね?」
【霧江】「………握って隠せる程度の石ころは見つかるわ。こんなものでも、武器にはなるかも。さすがに、鉄格子を削り取ることは無理でしょうね。紗音ちゃんはどう…?」
【紗音】「いいえ、何も。………あ、これ、…………電話です。」
【霧江】「繋がってるわけもないわ。……でも、コードは何かを縛ったり武器にも使えるかも。壊して分解すれば金属部品を取り出せるわ。蔵臼兄さん、鉄格子を開ける鍵穴は、もちろんあるわよね?」
【蔵臼】「あぁ。だいぶ鍵穴の大きい、大時代的なものだがね。……針金のようなもので弄れば、騙せるかもしれないな。」
【霧江】「電話の金属部品で、何か代用できるかもしれない。……その電話、武器になるわね。」
【蔵臼】「投資と同じだよ。情報は武器だ。」
 電話をまったく通信手段として考えない用途に、蔵臼たちはくすりと笑い合う。
【嘉音】「…………何やってんの、姉さん。」
【紗音】「あ、……その、…電話、つ、繋がってるかなって思って……。」
【嘉音】「…………馬鹿だな、姉さんは。(ぼそり)」
【紗音】「え…? ………あれ?」
 すると紗音が突然、驚きの声を上げる。
【紗音】「き、霧江さま……! ……この電話、繋がってます。」
【霧江】「何ですって…。」
 その電話は、まるで引っ越して何もかも空っぽになった無人のオフィスに、電話機だけが取り残されているような、そんな感じで牢の片隅に置かれていたのだ。
 コードはとぐろを巻き、その先は壁に飲み込まれていて、一見すると通じてもおかしくないようには見えていた。……しかし、本当に繋がっていたとは…。
 霧江が紗音から受話器を奪い、耳に当てる。確かに、ツーという電子音は耳慣れたもの。……この電話は、確かに生きていた。
【南條】「な、何という幸運…! 警察へ連絡しましょう…!」
【蔵臼】「待ちたまえ…! 話が上手過ぎる。盗聴されてるんじゃないのかね…?!」
【霧江】「そんな細工するくらいなら、普通は電話線を切断するわ。……連中が本気で見落とした可能性が高い。気付かれたら今度こそ電話線を切断されるかもしれないわ。警察への通報を盗聴されて、何も困ることはないのだし。」
 ……確かにそれもそうだ。盗聴は、何か重要な情報を聞き出すために行なうが、今の彼らが外部とするだろう会話の中に、聞かれてまずいことは何も考えられない。霧江は即座に、これは罠であるよりも、金蔵のミスである可能性が高いと判断したのだ……。
【南條】「た、確かに一理あります……。外線は確か、0番からだ……。」
【霧江】「嘉音くん、私は電話するから、あなたは外の様子をうかがってくれる? 誰かが近付いてくる気配があったら知らせて。」
【嘉音】「は、はい……!」
 嘉音は鉄格子へ駆けて行き、息を殺し耳を澄ます……。霧江は一同に見守られながら、110番をダイヤルする…。
 しかし、何度かフックボタンを押し直し、ダイヤルをやり直す。……うまく行かないようだった。
【霧江】「………外線は0番から? 110番は0110じゃないの? うまく掛からない…。」
【蔵臼】「貸したまえ、私が掛けよう……。……………………………。」
 蔵臼が受話器を代わり、色々と試す……。
 だが結局、警察に通報することは出来なかった……。
 確かに電話自体は生きているのだが、やはりどこかの回線が切断されているのだろう。……そう甘くはないということなのか。
【紗音】「……やっぱり、無理ですか……。」
【霧江】「敵も甘くはないってことね…。……………………。」
 霧江は、はぁっと深い息を吐き出すと、壁にもたれ掛かって、しばらくの間、俯いた。シビアな彼女であっても、一瞬、電話が繋がるという甘い期待を持ったのかもしれない。……そんな甘えを一瞬でも持ったことを、自嘲気味に苦笑いする。
 そしてそれから、……一体、今、ここで何が起こっているのか、思い起こした。
 ……正直なところ、…あれだけ、眼前で見せ付けられたにもかかわらず、……いや、だからこそ……。……あの凄惨な虐殺を、未だ現実のものとは思えない…。信じられないというより、信じたくなかった。
 右代宮金蔵が、親族たちを6人も殺した。
 おかしな、魔女のような、悪魔のような者たちを、……何人も空中から呼び出して……、………魔法のようなもので、……次々に殺し………。………………………。
 めちゃくちゃだ。……確かに見たのに、その光景を、到底受け容れられない……。
【霧江】「………そんなこと、あるわけがない。………あれはきっと、お父様の友人か何か。…それが、予め食堂のどこかに隠れていて、手品的に突然姿を現して私たちを驚かせただけなんだわ。………そう考えなくちゃ、あのめちゃくちゃを説明できない。」
 しかし、6人の頭を砕く時に、黄金の矢が室内をぐるぐると飛び回った。……あれはまるでまさに、……魔法に見えた。
 あれも何かの見間違いだというのだろうか。魔法のわけがない。きっと仕掛けがあるのだ。……頭を砕くくらいだから、きっと爆発物に違いない。
 例えば、駄菓子屋で売っているようなスチレン製の飛行機の玩具を金色に塗り、その先端に強力な爆発物を搭載してあったとか。
 ……しかし、一見、ランダムに飛んで見せたが、6回それを放ち、それらが完璧に犠牲者の頭部に次々命中するなんて、考えられない。まさか、コンピューター制御で獲物を探して飛翔し命中する、それこそ誘導ミサイル並のハイテクスチレン飛行機だったとか……?
【霧江】「………そんな馬鹿馬鹿しい仕掛けを、膨大な私費を投じて作らせたと? ……あの、狂った余興のために……? “お父様ならやりかねない”って……?」
 謎の人物が何人も突然に虚空から姿を現し、……6人が謎の金色の飛行物体によって頭を粉砕され、……私たち5人は、謎の落とし穴か、さもなくば昏倒する毒矢か何かで眠らされ、謎の地下牢に閉じ込められている……。
 親族会議が始まったのは22時ちょっと過ぎから。……それから30分ちょっとが経過したに過ぎない。多分。そのわずかの間に起こった出来事が、……自らが目撃したにもかかわらず、理解できず、整理も出来ない。
 仮に警察に電話が繋がったとしても、自分たちが見たことを正確に伝えることは、誰にも不可能だろう……。ついさっき見た光景にもかかわらず、……もう頭の中はぐちゃぐちゃで、自分が何を見たのかさえ、自信がない…。
 霧江は混乱に飲み込まれそうな自分を何とか奮い立たせ、正気を保つのに精一杯だった……。
【蔵臼】「くそ、……どうなってるんだ、……くそ、…くそ…!」
 蔵臼は自棄になって、フックボタンを何度も押してはダイヤルをし直す。
 ……蔵臼も、一見冷静を装っているが、混乱は隠せていない。ダイヤルを繰り返せば繰り返すほどに、冷静さのメッキは剥がれていった…。
 何が何だか、わからない……。 霧江は、さっきの出来事が夢であってほしいと、祈らずにはいられなかった…。
 ………その時、蔵臼の様子が突然変わった。
【蔵臼】「う、お、……お…! 呼び出してる、呼び出してるぞ…! コール音がする…!」
【南條】「ほ、本当ですかっ、蔵臼さん…!」
【蔵臼】「なるほどな、親父め、浅はかな…! 警察に連絡されまいと外部への電話線は切断したらしいが、内線は切断し損ねている…!」
【霧江】「内線? 蔵臼さんはどこに掛けているの…?!」
【蔵臼】「ゲストハウスだ。朱志香たちの部屋の内線番号に掛けている…! ……あッ?! もしもし! もしもし?! 私だ…! お前は誰か…! 郷田か?! 朱志香はいるか、無事か…!!」
 蔵臼、霧江、南條の3人は、1階奥の客室へ移動。紗音、嘉音とともに地下牢に監禁されたことにするので、しばらく出ないようにと命じられる。
ゲストハウス・いとこ部屋
【郷田】「だ、旦那様……!! ご無事で良かった…!! はい! 朱志香お嬢様たちも皆さんご無事です…!」
【朱志香】「父さん!! 父さんなの?! 無事で良かった……!! 母さんは無事なの?! そこにいるのッ?!」
【蔵臼】「………か、……。」
 蔵臼はそこで言葉に詰まる。
 ……夏妃が目の前で頭部を粉砕され、殺されるのをまざまざと見せ付けられた……。いつかは朱志香にもそれを話さなければならないだろう。
 ……しかし、今この瞬間、それを伝えるべきか、蔵臼は悩み、言葉を失った。……しかし、それすらも、この場合は答えのひとつとなった……。
【蔵臼】「……母さんはわからない……。……無事を祈ろう。…今はお前だけでも無事でよかった。」
【朱志香】「………………………うん。……わかってるよ。………聞いて、……ごめん。」
 朱志香の声が涙ぐむ…。……蔵臼は確信した。ゲストハウスに合流した郷田たちから、一部始終は聞かされているのだ…。
 恐らく、朱志香たちは6人もの人間が殺されたことを教えられ、食堂に行こうと息巻いていたに違いない。………彼らが屋敷に向かう前に電話できてよかった。蔵臼は不幸中の幸いのタイミングに胸を撫で下ろす…。
【蔵臼】「ここには今、霧江さんと南條先生、それに紗音と嘉音がいる。地下牢のようなところに閉じ込められているが、心配するな。こっちは父さんたちで何とかする。」
【朱志香】「地下牢? どこ?! 助けに行く…!!」
【蔵臼】「生憎、私たちにもここがどこだか検討もつかん。食堂の真下だと思っているが、そうでないかもしれない。………とにかく朱志香。そこを出てはならん。郷田たちから経緯は聞いているか?」
【朱志香】「うん……。……祖父さまが、………みんなを、……ッたって……。」
【蔵臼】「お祖父さまは今、正常な状態にない。出くわせば危険だ。殺されるかもしれない…! 私たちを助けに来ようなどと、絶対に思ってはならんぞ…! こっちはこっちで何とかする。」
【朱志香】「じゃ、じゃあ私たちはどうすればいいの?! 祖父さまめ、よくも母さんたちをッ……! あの死に損ない、ぶっ殺してやる…!!」
【蔵臼】「朱志香、そんな言葉を使ったら母さんが悲しむぞ。レディはそんな言葉を使うもんじゃない。」
【朱志香】「ううぅうぅ……、ううぅぅ……!!」
【蔵臼】「とにかく、お前たちは身の安全を最優先にしろ。ゲストハウスを戸締りするんだ。……しかし過信は出来ない。1階のラウンジの大窓は破られるかもしれない。その部屋に留まり、ベッドを立てかけてバリケードにするんだ。その部屋にはトイレも冷蔵庫もあるな? 明日の朝までは篭城できるはずだ。……いいな、くれぐれも物騒なことは考えるな。母さんの仇を取ろうなんて絶対に考えるんじゃないぞ! 相手を刺激せず、隠れてやり過ごすことだけを考えるんだ。」
【朱志香】「うん……、うん……!! わかったよ、……父さん……! ううぅううぅ!!」
 その後、受話器は郷田が代わり、大人として子どもたちをよく監督してほしいと念を押される。……郷田は、顔いっぱいに脂汗を浮かべながら、ハイ!ハイ!と過剰に緊張した返事を連呼するのだった。
 それから受話器は霧江に代わり、戦人も話し、紗音や嘉音が出れば、譲治や朱志香が出て、ならついでに南條も熊沢も、と双方全員が代わる代わる受話器に出て、所在不明ではあっても、とにかく現在は無事であることを確認し合い、励まし合い、双方の置かれている状況を完全に疎通し合った。
 いつまでもずっと話をしていたかったが、今は無駄話に花を咲かせている場合ではない。蔵臼は一度電話を切ることを伝え、ゲストハウス側も了解した。
【蔵臼】「また何かあったら連絡する。すぐに受話器を取れるように待機していてくれ。くれぐれも用心してな。無茶なことは絶対にするんじゃないぞ…!」
【朱志香】「う……、うん、わかったよ……。父さんや、……嘉音くんたちが無事だっただけでも、……儲けモンってヤツさ……。…私たちもがんばる。父さんたちもどうか無事で…!」
【蔵臼】「あぁ、もちろんだ。それでは一度切る。用心しろ。」
 それで電話は終わった。
 郷田以下の男子は、迅速に階下に降り、鎧戸を閉め、厳重な戸締りを行なった。
 しかし、蔵臼が心配したとおり、1階ラウンジの見晴らしの良い広大な窓はどうしようもなかった。ここを破られたら、簡単に中に入られてしまう。
 殺人をもはや躊躇しない金蔵ならば、1階部分に侵入することは難しいことではないのだ。
【譲治】「……お祖父さまたちは武装している可能性が高い。部屋に閉じ篭るのが最善かつ、唯一の篭城方法になるね。……自ら密室に閉じ篭らざるを得ないのは苦しいところだけど、相手が銃を持っていたら、それしか方法がない。」
【郷田】「お、お館様は実銃のコレクションをお持ちとの話です。………そう、…あれは銃だ、銃だったんだ…。だとしたら、……恐ろしい威力の銃だ…! と、とても太刀打ちは出来ません…!」
【戦人】「…………頭を砕くなんて、すげえ威力だぜ? マグナム弾とか、そういう類のヤツかもな。下手な扉なら平気で貫通するかもしれねぇな。」
【譲治】「だとすれば、ますますに部屋に篭城するべきだね…。ベッドを立てかけて、窓も塞ごう。……そこまですれば、いくら銃を持っていても、踏み込むことはできないはず。」
【戦人】「くそ、……そんな受け身な防戦一方しかねぇのかよ。…畜生、うちの親父に上等キメてくれて、霧江さんまで捕まえたなんて、……こいつは高くつくぞ、クソジジイめ…!」
【郷田】「むむむ、無理です、あんな連中に太刀打ちできるわけがありません…!! しかもお館様だけでなく手下も何人も! あ、あるいはあんな連中がもっといるかも…! ………あいつらは一体……、何なんだ……。」
 戦人は留弗夫の仇を取りたいし、霧江を救い出すためにもここを飛び出したい気持ちでいっぱいだった。……しかし、郷田の怯えようを見るだけでも、それが蛮勇であるに違いないと思わされる…。
【戦人】「……兄貴だって、……悔しいだろ。なのにここで篭城なんて、……畜生……。」
【譲治】「もちろんさ、僕だって悔しいよ。……両親を殺されて冷静でいられるわけがない。でも、だからこそ冷静にならなくちゃいけない! 僕たちが無駄に命を落とすようなことを、殺された親たちが望むと思うかい? 思うわけがない! せめて子どもだけは逃げ延びてほしいと願ってるはずだ。
 だから僕は生き残るよ。そして警察に通報し、全てを暴く。仇は法廷が取る。それが僕の復讐だ。……刺し違えてでも仇を取ってほしいなんて、…親たちが望んでいるわけもない。そうだろ…?」
【戦人】「………………………。……そうだな…。兄貴の言うとおりだぜ…。……畜生、クソジジイめ、何が儀式だ…! 俺たちがそのための生贄だって言うなら、意地でも逃げ切って、その儀式を台無しにしてやるぜ……。」
【譲治】「それでいいよ。……それに、戦人くんにはまだ霧江さんがいる。僕にだって紗音がいる。とにかく慎重に行動して、チャンスを待とう。僕たちの不用意な行動は、捕らわれの彼らに不利益を与える可能性だってあるんだから。」
【戦人】「……人質、……か。………でも、祖父さまはきっと、霧江さんたちを生贄にするために捕らえたわけだろ?! 俺たちが助けなきゃ、殺されるのを待つだけじゃないのか?!」
【譲治】「彼らが捕らえられている地下牢がどこにあるかもわからない…! 紗音も嘉音くんも、もちろん、郷田さんも熊沢さんも知らなかった。お祖父さまだけしか知らない秘密の場所にある可能性が極めて高い。…そんな状況下で、うろうろと歩き回るのは自殺行為だよ!」
【戦人】「……わ、……わかってるよ…。………それでも、……クソ……、俺たちはここで何かが起こるまで引き篭もってるしかねぇってのかよ……。」
【郷田】「ば、……戦人さまのお気持ちはわかりますが…。……ここは安全第一で参りましょう…。……旦那様の話では、相当古い牢屋らしいので、何とか鉄格子を破れるかもしれないとのことでした。……今は信じて待つ方が賢明です。」
【譲治】「お祖父さまの手下が何人もいて、みんな武装しているんだよね…?」
【郷田】「え、……えぇ、そうです。………そして多分、…みんな武装を……。」
 郷田は、金蔵に仲間がいたとは話せたが、……若い女性ばかりで、魔女みたいで、おかしな魔法で殺人を行った、……とまでは言えなかった。
 そんなことを話せば、正気を疑われるのがオチだ。…いや、それどころか、自分自身でだって、自分は何を見たのか未だに理解できず、自らの正気を疑っているのだから。
 ……しかし、性別がどうであれ容姿がどうであれ、……魔法であれ銃であれ。彼女らが金蔵の命令に従い、6人を瞬く間に殺したことだけは、動かしようのない事実なのだ……。
 あの連中がゲストハウスにまで襲ってきたなら、……どうなるのだろうか。この程度の戸締りなど、きっと何の意味もないだろう……。
 郷田も、……そして熊沢も。あの食堂の大虐殺を目の当たりにした二人は、自分が見たものをどう受け止めて良いかさえわからず、頭を抱えるより他なかった…。
【真里亞】「………熊沢さん、大丈夫……? お茶飲む……?」
【熊沢】「ほ、ほほほほほ…。ありがとうございますね、えぇ、ありがとうございます…。…申し訳ございませんが、しばらくそっとしていただけますか………。」
 真里亞が気遣うが、熊沢は未だ混乱を拭えないようだった。
【朱志香】「……真里亞、気を遣ってくれてありがとうだぜ。熊沢さんは休ませてやってくれ。」
【真里亞】「……うー。」
 朱志香も、惨劇の目撃にショックを受けているに違いないと熊沢を気遣うが、……熊沢が見てきた信じ難い光景にまでは、想像が及ぶわけもない…。
 しかしそれでも、母を殺され、父が捕らわれの身になっている現状に、朱志香も落ち着けるわけがない。不安や悲しみを、金蔵に対する怒りで蓋をし、室内をいらいらと歩き回るのだった。
【朱志香】「…………熊沢さん。母さんは本当に、………死んじゃったの?」
【熊沢】「……え、えぇ……。……あんな酷い死に方を私は…、見たことがありませんとも……。」
【朱志香】「ひょっとするとまだ生きてて、………手当てをすれば助かるなんてことは、……ないんだよな……?」
【熊沢】「………………………。……あ、………頭が、あんなことになって生きていられるわけが、………ありません……。」
【朱志香】「……………………………。……そりゃそうだぜ…。……頭が砕けちまったら、……手当てなんて必要ねぇよな、普通……。」
 ゲストハウスに飛び込んできた郷田は、興奮のあまり、食堂の虐殺を、包み隠さず全て話してしまった。……彼ら自身が未だ信じきれない、魔女や魔法の話だけは除いて。
 それはつまり、夏妃たちの無残な死に様さえ包み隠さず話してしまったということだ。……今さらではあるが、熊沢は、きっと自分たちは失言したに違いないと後悔していた……。
 しかし朱志香は、軽く小首を振りながら、苦々しくはあっても笑いながら言った。
【朱志香】「……いや、むしろ話してくれたお陰で冷静になれたぜ。………頭を砕かれちまった、ってところを伏せられてたら、…私はひょっとすると生きてるかもしれないって言って、屋敷へ向かい祖父さまに出くわして、……ひょっとすると殺されてたかもしれない。……一抹の希望が、命取りになった可能性だってあるわけさ。………その意味では、感謝してるよ。」
【熊沢】「……本当に申し訳ございません……。言葉をあまりに選ばなかったことはお詫びします…。」
【朱志香】「今はいいよ。母さんはもうどうしようもないけど、……父さんはまだ生きてる。嘉音くんも紗音も、霧江叔母さんも南條先生もね。……何とか彼らを助けたいし、彼らに負担を掛けないためにも、余計なことをするべきではない。……電話の前で待機してることが、今は一番の協力になるかもしれないし。」
 ひょっとすると、脱出のために陽動を掛けてくれ、という電話があるかもしれない。もしくは、所在がわかり、救出に来てくれという電話もあるかもしれない。……その時、迅速に行動するためにも、朱志香はここで待つことが、今できる唯一のことだと理解していた…。
 下の戸締りと確認を終えた、譲治、戦人、郷田の3人が戻ってくる。3人とも、手には色々と荷物を抱えていた。
 譲治はラウンジや倉庫から見つけてきた、飲み物や缶詰、クラッカーなどの軽食、そして救急箱。篭城する上で欠かせない消耗品ばかりだった。
 郷田は、大きな折りたたみ式の梯子と大工道具。万一の時は、扉を内側から打ち付けて封印するためだ。梯子は、その際に窓から脱出するためのものだ。
 戦人は、刃物や棒物などの武器になるものを持ち込んだ。包丁は言うに及ばず、分解したテーブルの足は棍棒に使えるし、帽子スタンドを分解して作ったという身の丈ほどもありそうな棒は、穂先がないとはいえ、槍のように使えるに違いなかった。
 ……相手が銃などで武装している可能性が高いため、役に立つかどうかは怪しい。しかしそれでもないよりはマシだし、それによって少しでも安心できるなら、精神安定効果も期待できるだろう。
 そして、室内のベッドやソファーを立て掛け、扉を封鎖する。釘で打ちつけてまでは封印しない。……蔵臼たちが脱出し、合流してくる可能性も残っているからだ。
 彼らは階段上にもバリケードを設けてきたらしい。賑やかに音がするように仕掛けをしたので、警報代わりにもなるという。戦人の発案らしかった。
 その為、テレビは消す。………1階のガラスを破られた時、その音がわかるように。スイッチを切れば、あとは不気味な静寂。
 ……暴れる雨と風の音。こんな、不安感で押し潰されそうな中で、今夜を過ごさねばならないというのだろうか。
 船が迎えに来るのは、明日の朝ということになっている。しかし、天気予報を見る限り、明日いっぱいは台風で船は出せないだろう。
 ……明後日の朝には台風は通過するとしている。つまり、船がやってくるのは明後日の朝、……即ち、10月6日の朝。
 そして今は、10月4日の深夜。
 ………殺人鬼と化した金蔵が、不気味な仲間を連れて徘徊するこの島で、彼らは30時間以上を過ごさねばならないのだ……。
 窓の鎧戸を閉めていても、きっと灯りはわずかに漏れている。ここに隠れていると知らせているようなものかもしれない。
 ……灯りも消すべきではないかと戦人は提案した。しかし、テレビを切っただけで、これだけ不気味な気配に支配されてしまったのだ。……その提案を真っ向から反対する者こそいなかったが、同意する者もまた、ひとりもいなかった………。
【真里亞】「……うー。テレビ駄目なの?」
【戦人】「あぁ、悪いが我慢してくれ。……敵の侵入の音を聞き逃すわけにはいかない。」
【真里亞】「……………………。……つまんない。」
 母親が死んだことを伝えられているにもかかわらず、真里亞だけは、どこか危機感がない。テレビを消され、それを不満に思っているようだった。
 ………このような異常事態を目の当たりにしていても、危機感を共有できないのだろうか? ……幼いゆえに? 幼子の、そんなわずかの違和感にさえ、今の戦人には、真里亞がとても不気味な存在に感じるのだった……。
地下牢
【霧江】「とは言ったものの。………万策、尽きたわね。鉄格子は何とかなりそう?」
【蔵臼】「……残念だが、想像以上に堅牢だ。いつ頃に作られたものか知らんが、耐用年数も文句なし。実に優良な物件だよ。」
 くすくすと霧江は笑う。……打つ手なしの状況下ではあるが、少しだけ和んだ。
【南條】「……さながらここは、取られた駒を置く、駒置き場ですな。……打つ手は、もはやありませんか……。」
【霧江】「まだよ。諦めるには早いわ。思考の停止は鼓動の停止に同じよ?」
【蔵臼】「だな。……チェスの駒置き場に意味はないが、将棋ならば大きな意味を持つこともある。駒置き場の一枚の歩が、相手にプレッシャーを与えることだってあるはずだ。」
【南條】「なるほど…。しかし、この鉄格子はどうしようも……。」
【霧江】「私たちにはね。………でも、ここの場所を特定し、郷田さんに連絡することが出来れば、助けに来てもらうことは出来るかも。」
【南條】「なるほど…。しかし、郷田さんに、危険を強いることになりますな……。その場合、成人男性が不在になるゲストハウスのお子さんたちも不安です…。」
【蔵臼】「リスクを恐れるなら、事態が好転するまで塩漬けにするのも悪くない。……もっとも、損切りを恐れれば、紙切れ同然になるかもしれんがね。……我々の命がだが。」
【霧江】「親の沽券もね。……私たちで何とかするから大人しくしなさいって、偉そうに電話して、その舌の根も乾かない内に、助けを求めるなんて。実に格好悪いわね。くすくす。」
【蔵臼】「この期に及んでは、下らんプライドなどとっくに紙切れだ。………知恵を絞ろうじゃないか。ここはどこなんだ? 本当に食堂の真下なのだろうか? それとも、屋敷とは異なる別の場所だろうか…?」
 蔵臼は、霧江と南條の3人で、今後のことを話し合うのだった。
 嘉音は鉄格子の前にしゃがみ、じっと気配をうかがっている。……それを命じられたままだからだ。
 紗音もその傍らに来て、一緒にしゃがみ込むのだった。
【紗音】「…………気配は感じるの?」
【嘉音】「………うん。……こちらに意識は向けていないけれど、比較的近くに、誰かいる。」
【紗音】「それはニンゲン…?」
【嘉音】「…………山羊たちだと思う。あいつらの吐息は、実に賑やかだよ。」
 嘉音の気配を察する力は、ニンゲンのそれをはるかに上回っている。嘉音は賑やかと称するが、蔵臼たちにはわずかほども気取れないだろう。……だからこそ、それを素直に報告したところで、彼らは嘉音の耳を疑うだけに違いない。
【紗音】「……………捕まっちゃったね。」
【嘉音】「…………………。……珍しいよ。殺されないで、捕まるなんて。」
【紗音】「今回はベアトリーチェさまがお越しにならないし。お館様が書斎を出られるし。……何が何だかわかんないね…。」
【嘉音】「わかるさ。………何が起ころうと変わろうと、全てあの魔女の気まぐれと余興。結果は何も変わらないのさ。」
【紗音】「今回は黄金郷に、………行けるかな。」
【嘉音】「さぁね。僕たちは脱落率が高いから。」
【紗音】「…………そう言えば、二人で第一の晩を生き延びたのって、ずいぶん珍しいね。……儀式が始まってるのに、こうして二人でお話できるなんて、何だかすごく珍しい気がする。」
【嘉音】「そうかもね。……でも、それもまた、魔女の余興だろうさ。僕たちがいつもすぐに脱落するから、今度は少し生き延びさせて、からかってやろうくらいにしか思ってないよ。」
【紗音】「また、………黄金郷には、辿り着けないのかな。」
【嘉音】「どうせそうさ。……下手な期待を持つと、また付け込まれる。」
【紗音】「くす。そうだね。前回は嘉音くんが付け込まれたもんね。」
【嘉音】「……僕は馬鹿だ。」
 嘉音は口を尖らせてそっぽを向く。紗音はくすりと笑い、謝るように肩を寄せた。
【紗音】「でも、……お嬢様が無事でよかったね。」
【嘉音】「……第一の晩を逃れただけさ。……それ以降の晩に、より無残な方法で殺されるのを待たされているだけかもしれない。それを言ったら姉さんこそ。……譲治さまが無事でよかったじゃないか。二人で黄金郷に辿りつけるといいね。」
【紗音】「………ありがと。同じことを嘉音くんとお嬢様にも。」
【嘉音】「ぼ、僕は期待はしてないよ。………姉さんの言うとおりだ。あの魔女は、ご褒美をぶらさげて、相手が右往左往するのを見て楽しんでるだけなんだ。………どうせ誰も黄金郷に行けやしない。……僕がお嬢様と黄金郷に辿り着きたいと願ってしまったなら。………あいつはそれこそ面白がって、絶対に僕たちを辿り着かせたりはしないさ。」
【紗音】「……そうだね。………ベアトリーチェさまは、より面白くなるように、生贄の順番を考えてる。」
【嘉音】「無作為に選んでるなんて、大嘘だ。あのペテン師魔女め…。……どうせ、黄金郷に辿り着けばあらゆる願いが叶うなんてのも、嘘っぱちに決まってる。」
【紗音】「………………そんなことはないよ。黄金郷は、……素晴らしいところだよ。」
【嘉音】「行ったことあるの?」
【紗音】「………ちょっぴりだけね。それすらも、ベアトリーチェさまの戯れだったのだろうけど。」
【嘉音】「……………どんなとこなの、そこ。」
【紗音】「うん。………素晴らしいところだよ。…うまく説明できない。安らかな夢の中みたいな世界。」
【嘉音】「薔薇が咲き乱れてて、美しい蝶が舞ってるような、極楽みたいな感じ?」
【紗音】「……そういう具体的なイメージのところじゃないの。本当に、夢の中みたいなところなの。そこにいる時は、とても穏やかで安らかで、……いつまでも眠ってることを許されてる、まるで休日の早朝のお布団の中みたいな感じ。
 ……カーテンの隙間から日が差してきて、そろそろ起きないと、と思うんだけど、今日は休日だから起きなくてもいいんだって気付いて、もう一回お布団の中に潜り込む時みたいな、そんな気持ちになれる場所。」
【嘉音】「僕なら損したと思うな。休日なのに勘違いして起き出すなんて、姉さんくらいだ。………それで?」
【紗音】「うん。そこにいた時はね、満たされてて、とても穏やかだった。でも、元の世界に戻ってくると、つい直前までそこにいたはずなのに、うまく思い出すことが出来ないの。ついさっきまで見ていた夢が思い出せないのに良く似てる。…でも、とっても穏やかで静かな世界だったことだけは覚えてるの。」
【嘉音】「………それだけ? 何だ、あいつが偉そうに言う黄金郷なんて、大したことないな。……何でも願いが叶う場所だと思ってたのに。」
 蔵臼が客室からゲストハウスに電話。シナリオ通りの内容を喋る。
 その後、紗音と源次は、食堂の5人(絵羽、留弗夫、楼座、夏妃、秀吉)を殺害。
【紗音】「その通りだよ。何でも願いが叶う場所。………少し違うかもしれない。何も願わなくてもいい場所、が正解かもしれないね。
 ……例えば嘉音くんが、寒くて上着が欲しいと願った時、上着をもらえればとても幸せなことだけど、そもそも温かい部屋にいられたなら、上着が欲しいなんて願う必要さえもないでしょ?
 ……黄金郷はそういうところなの。大抵の願いは、願う必要さえなくなる。全てから解放された、何もかもが穏やかな世界なの。
 与えられて幸せ、という概念さえも超越した、全てから解放された世界とでも言えばいいのかな。」
【嘉音】「……………………。……何だか宗教っぽい世界だな。」
【紗音】「そして、そこでは全てが平等なの。意思ある存在は全てが平等。……ニンゲンも家具も魔女もない。……そこでの私は誰とも対等で公平。もう家具だからと、何も自分を恥じる必要がない。
 ………全てのニンゲンとも、そして魔女とさえ対等な、本当に幸せな世界だったの。うまく思い出せないけど、そこでは私、ベアトリーチェさまとさえ対等な関係で、良い友達でいられた気がする。」
【嘉音】「…………あの魔女がいるなら、ろくな理想郷じゃないよ。………で、その幸せな黄金郷に、姉さんは譲治さまと一緒に行きたいわけだ。おかしな話だね。黄金郷は全てが満ち足りた理想郷なわけでしょ? 譲治さまがいなくても、充分に満たされてそうだけど?」
【紗音】「…………………。…黄金郷はね、とても穏やかで安らかで全てが対等で公平だけれど。……幸せだけ、実は抜けてるの。」
【嘉音】「幸せな世界じゃないの?」
【紗音】「もちろん、安らかで穏やかで公平というだけですごい幸せな世界だよ。……でも、それは例えるなら、全ての悩みというマイナスから解放されたゼロの世界なの。人の世はマイナスで満ちてるから、もちろんゼロというのはものすごい幸福なわけだけど、……それでもゼロなの。くす、贅沢だよね。
 ……それはこういう感じ。穏やかな休日の朝のまどろみの時。……最愛の人も隣にいてくれて、手を握っててくれたなら、もっともっと、素敵な幸せになれる、………みたいな。…ごめん、姉さんは例えが下手くそだね、馬鹿だから。」
【嘉音】「……つまり。姉さんにとっての最高の幸せとは、譲治さまと一緒にその世界に辿り着くこと、ってわけだ。」
【紗音】「うん。そしてきっと、嘉音くんにとっては、お嬢様と一緒にその世界に辿り着くことだよ。」
【嘉音】「公平な世界で、二人は悩みから解放され…? ………何だかおかしな宗教を吹き込まれてるみたいだ。僕はもっとこう、俗物的な。……魔法の薬を与えられると、ニンゲンに生まれ変われるとか、そういう感じの世界を想像してたよ。」
【紗音】「………行けばわかるよ。ベアトリーチェさまが本当に気まぐれな方なら、いつかきっと、嘉音くんにも垣間見させてくれるに違いない。……そうすれば、姉さんの例えがよくわかるようになるから。」
【嘉音】「………………………………。ま、過剰な期待はしないことにしとくよ。……いずれにせよ、今回の僕たちはこれでゲームオーバーみたいだし。別の機会に期待するさ。」
【紗音】「……そうだね。おかしな期待を持つと、ベアトリーチェさまにまた付け込まれる。………何も考えず、ただ運命に身を任せるのが、私たちには一番かもしれない。」
【嘉音】「………僕たちはただ、チェスの駒であればいいんだ。……何を考えても考えなくても、どうせ魔女のチェス盤からは逃れられない。後のお役目は、どういびり殺されるか、ただ待つことだけさ。……そんな僕らに、黄金郷の夢なんて虚しすぎる。」
【紗音】「………………そう、…だね。……ごめん……。」
 嘉音は肩を竦め、お役目の邪魔だからそっとしておいてくれと言い放ち、紗音を遠ざける。紗音は、不適当な話題を口にして、かえって嘉音を傷つけてしまった自分の浅はかさに気付き、俯いて下唇を噛むのだった…。
 紗音もそれ以上はしつこくしない。ひとり壁際に行き、しゃがみ込んだ。
【嘉音】「…………………ん、」
 その時、嘉音がぴくりと反応する。微かな物音に反応する猫の耳みたいだった。
【紗音】「どうしたの。」
【嘉音】「……しっ。………旦那様、誰か来ます。」
【蔵臼】「何!」
 蔵臼たちは会話を止め、耳を澄ます。……しばらくの間、何も聞こえなかったが、やがて、ぞろぞろという複数の人間が歩く気配が聞こえるようになる…。
【霧江】「……おいでなすったわね。」
【蔵臼】「年貢の納め時か、さもなくば、最初で最後のチャンスか。」
【南條】「………私が金蔵さんと話しましょう。…何とか、ここの場所を聞き出してみます。」
【霧江】「期待してるわ。………………………。」
 霧江は、さっきのゲストハウスの電話で、向こうの時間を聞いていた。……すると、霧江の時計と同じで、その結果、彼女らの時計は巻き戻されていないことがわかったのだ。
 ゲストハウスの壁掛け時計だけではない。譲治や郷田などの複数人の時計とも一致した。
 ……だとすると自分たちは、食堂での虐殺から、ほんの数分ほどでこの地下牢に移されていることになる。昏倒させてから運び出すほどの時間は経過していない。
 ならばやはり、あれは落とし穴で、ここは食堂の真下なのだろうか……? 南條がうまくこの場所を聞き出せることを祈るしかない…。
【嘉音】「……来ます。多分、人数は4人。……お館様、並びに食堂に姿を現したうちの3人かと。」
【蔵臼】「もう充分だ。君も後に下がりたまえ。あとは私たちで応対する。」
【霧江】「紗音ちゃん、申し訳ないけど、電話のところに座ってもらえる? スカートで電話を隠して。」
【紗音】「あ、……はい…!」
 ぞろぞろとした気配が近付き、……廊下の向こうで重い扉が開けられる音がする。そして彼らが持つらしい光源が、薄暗い廊下を照らし出し、カミソリのように鋭い影で壁を撫で回した。
 そして、彼らの持つランタンの灯りが、鉄格子越しに蔵臼たちを照らし出す。……鉄格子の鋭い影が彼らを縦に微塵切りにする。人影は4人。………金蔵と、…………ロノウェ、ワルギリア、ガァプだった。
【ロノウェ】「右代宮家当主、ゴールドスミス卿の御成りでございます。皆様、ご静粛に。」
【霧江】「……………ゴールドスミス?」
【蔵臼】「親父殿のペンネームだ。怪しげな魔導書を書く時、そういう名を署名しているようだ。」
【霧江】「金蔵を英語風に? それならゴールドウェアハウスが正しいんじゃないの?」
【金蔵】「………はっははははははははは。ウェアハウスは倉庫、ただ溜め込むに過ぎぬ。しかし私は金を生み出し、細工し、さらに価値を高めるのだ。スミスの方がより相応しいと思わんかね?」
【霧江】「…………確かに。無駄口を失礼しました。」
【南條】「金蔵さん……。……これは、どういうことなんだね? ここは一体どこなんだ…。」
【金蔵】「おや、我が友よ。思い出せんかね? さすがにその牢の中に入った経験はないだろうが、この廊下を歩いた記憶はあるはずだ。」
【南條】「………え、…………え? ……………ま、まさか………、」
【霧江】「……心当たりがあるの?」
【南條】「いやしかし、………考えられない。……第一、私たちは落とし穴に落ち、しかも、ほんの数分でここに閉じ込められたのですぞ…。……そんなことは、物理的に、距離的にありえない……。」
【ガァプ】「ニンゲンにはね? くすり。」
【蔵臼】「お父さん…、ここは屋敷ですか? 屋敷にこんな地下があったとは……。」
【金蔵】「蔵臼ぅ。お前たちがその存在を囁き、何度か私の後を付け回して探ろうともしたではないか。………それがここだよ。いや、正確には、そこの地下、というべきか。くっくっくっく…!」
【南條】「まさかここは、…………九羽鳥庵の、……地下ですか……!」
【ロノウェ】「……ご賢察のとおりです。こちらは九羽鳥庵の地下でございます。」
【蔵臼】「九羽鳥庵……。……まさか、…噂の、親父殿の隠し屋敷なのか……。本当に実在したのか……。」
【金蔵】「我が最愛の魔女、ベアトリーチェのためだけに建立した屋敷である。地上部分は美しき上品な屋敷なのであるが、そこを案内できず、実に残念に思うぞ。」
【霧江】「………こんな牢屋があるお屋敷で二人きりなんて素敵ね。どうもお父様とは性癖が合わないみたいよ。」
【ワルギリア】「……霧江さん。……無礼な発言はお控えになった方が賢明ですよ?」
【ガァプ】「くすくす。でも同感よ。……私も、贈られた屋敷にこんな地下牢があったら、百年の恋も醒めて、金目の物だけ頂いてトンズラするわ。」
【ロノウェ】「ぷっくっく。おや、そういうご趣味はございませんか。てっきりキュンキュンしちゃうとばかり。」
【ガァプ】「うふふ。………もちろんキュンキュンしちゃうわよ。誕生日のプレゼントに首輪なんかもらっちゃったりしたらね。……ただしイケメンに限るっ。」
【ロノウェ】「ぷーっくっくっくっく!」
【ワルギリア】「お静かに! ……首輪より猿ぐつわが必要ですか?」
【ガァプ】「あら、あなたはそっちもイケちゃうの? リーアって好き嫌い無いのね。くすくす……。」
【ワルギリア】「か、勝手に人の名前を略さないで下さい…!」
【金蔵】「えぇい、やかましいぞ、女たち! お前たちも同じ牢に閉じ込められたいと言うのか?」
【ワルギリア】「こ、これは失礼いたしました、お館様…。この老体に、このような寒い牢獄では身が持ちませぬ…。」
 ワルギリアはすぐに謝罪するが、ガァプはロノウェと一緒にそれをくすくす笑う。まるで、自分だけは捕らわれない、あるいは、捕らえられようとも無意味であるとでも言わんばかりだった……。
【金蔵】「牢とは、捕らえ逃がさぬこと。それは即ち、生涯手放さぬとの強い意志と愛である。逃げても諦められる程度の女ならば、愛を語るに値しない。
 鎖で縛ってでも逃したくないと思うほどに狂おしくなる女。そこまでに至ってこそ、我が生涯を捧げるに値する愛である。………お前にそれをわかれとは言わぬよ。」
【ガァプ】「………私は誰にも縛れない、縛られない。愛されたいんじゃないの、愛したいの。私もゴールドスミスと同じよ。だからよくわかるわ、あなたの愛の狂気。」
【蔵臼】「愛と狂気は紙一重、というわけかね。実に傍迷惑な話だ。」
【霧江】「………しかし、あっさり所在地がわかったのは大きいわ。詳しい経緯は後で聞くけど、南條先生はここをご存知なのね?」
【南條】「は、はい……。……そこの廊下が九羽鳥庵の地下通路ならば、………あの先をまっすぐ行けば、長い地下道になり、……それをずっと歩けば屋敷に戻れるはずだ。」
【霧江】「……この鉄格子さえ何とかできれば、屋敷に帰れるってことね。」
【蔵臼】「お父さん…。私たちをどうするつもりですか。」
【金蔵】「すでに宣告したとおり、お前たちは後の晩のための生贄である。都合よく人数も5人。抉りて殺す5人の人質にぴったりであろう。」
【蔵臼】「……なるほど。…私たちも、年貢の納め時というわけですか。」
【金蔵】「やがてはな。だが今はそのために訪れたのではない、安心せよ。それに、言ったはずだ。……もしも孫たちの誰かが、我が全てを継承するに相応しいと認められたなら、この儀式は中断する。つまり、お前たちは命拾いをするというわけだ。」
【南條】「……お、お子さんたちに、何をするつもりですか。」
【金蔵】「次期当主に相応しいかどうか。テストを与える。その結果、私を唸らせる者が一人でもいたならば、儀式は中断する。」
【蔵臼】「………相応しい者がいなかったら、……子どもたちはどうするつもりですか。」
【金蔵】「くっくくくくく! それを心配する必要はない。どうせ先に生贄とされるのはお前たちだ。その後のことなど、知ったことではなかろうに。お前たちは、自らの命運を自らの子どもたちに委ねるのだ。……お前たちが生み、教え、育ててきた結晶が子どもたちだ。お前たちの命運を委ねるに実に相応しい存在のはず…! くっくくくく! そう心配そうな顔をするなよ蔵臼ぅ…。お前の自慢の、百億の価値のある娘を信じろよぉ。ふっふふふ、ふっははははははははは…!!」
【霧江】「………まったくね。子どもは親の結晶よ。親の命運を預けるに相応しいわ。お父様にとってもね?」
【金蔵】「……ふっ、はっははははははは! 肝の据わった女だ、留弗夫にはもったいない! わっははははははは…!!」
【南條】「…霧江さん、……あまり挑発しない方がいい。」
【蔵臼】「同感だ。今は耐えよう……。」
【霧江】「そうね…。……どうせ私たちはまな板の上の鯉よ。今さら、何も出来やしない。」
【金蔵】「私に対し威勢のいい口を叩くことは出来るがな。嫌いではないぞ、そういう女はァ? ベアトリーチェも初めはそういう女だった。くっくっくくくくくく!!」
【ロノウェ】「…………お館様。そろそろ本題を。さっきから脱線しまくりです。」
【金蔵】「おお、そうであったな、すまぬすまぬ我が友よ。それでは本題に入ろう。その為に電話を用意しておいたのだ。……紗音、知恵が回るな。もう隠さなくても良いぞ。それは私が用意させたのだ。くっくっくっく…!」
【紗音】「し、失礼いたしました……。」
【嘉音】「……………………。」
 紗音がそそくさと退くと、電話機が照らし出される…。
【金蔵】「蔵臼よ。ゲストハウスの孫たちに電話を掛けるが良い。そして我がテストを、試練の始まりを彼らに告げるのだ。」
 ロノウェが、どうぞとでも言うような仕草で、蔵臼に受話器を取るよう促す。
【蔵臼】「……………嫌だと言ったら?」
【金蔵】「ほほぅ、取引の余地がどこにあるというのか。お前が電話をせぬというなら、孫たちにはチャンスさえも与えぬ。右代宮家はこれにて終わり。お前たちは直ちに生贄だッ!!」
【ガァプ】「直ちに生贄なら幸運よ。……あなたたちの眼前で、子どもたちを先に生贄にされた方が辛いと思うけれど…?」
【ワルギリア】「……ガ、ァプ。生贄の順番はお館様が決めます。勝手なことを言わないように。」
【ガァプ】「リーア、今、私の名前を縮めようとして詰まったでしょ。」
【ワルギリア】「しっ、してません! だから勝手に人の名前を略さないようにっ…!」
【金蔵】「……女は実に。」
【ロノウェ】「姦しいですな。ぷっくっく!」
 黄金郷は死後の世界のことだと遠回しに言っている。現世の苦しみから解放されてしまえば、もはや何も願う必要がない。

私の使命

新島・南条診療所
 かつて、南條が開業し、その息子に引き継いだ診療所は、今も新島に存在している。高齢の医師は、南條の息子ではあったが、その雰囲気はあまり似つかなかった。
【雅行】「わざわざお越し下さり、誠に申し訳ないのですが、特にお話することはありません。」
 南條の息子は、とても淡白にそう言い放った。
【雅行】「……あの島の事故が、民放で非常に不謹慎に取り上げられて以来、右代宮氏の主治医であり、友人でもあった父にも、大変心外な関心が多数寄せられました。そのいずれもが何の根拠もなく、また、父のそれまでの業績を汚すものでした。私はそれら全てについて、未だに強く憤慨しています。」
【縁寿】「…………無理もないことと思います。私も同じようなものですので。私など、6つの時から延々です。」
【雅行】「そうでしたね。これは失礼。」
 医師はようやく、縁寿もまたそういった好奇の目に晒されてきた犠牲者であることを思い出す。
【雅行】「そんなあなたなら、当時の件にもうかかわりたくないという私どもの気持ちもおわかりでしょう。……あれは不幸な事故でした。それを事件だと騒ぎ立てたがるのは、無責任なテレビと雑誌だけです。彼らの態度には心底、うんざりさせられますよ。」
 ………右代宮金蔵の数少ない友人ということで、南條は注目を浴びた。その為、その遺族である息子にもウィッチハンターやマスコミの執拗な取材攻勢があったのだろう。……医師は、延々とマスコミ批判を口にし、ひとり憤慨するのだった。
【縁寿】「お気持ち、よくわかります。私生活に至るまで監視を受け、プライバシーも肖像権も、果ては人権さえも認められてたかわからない私ですから、そのやり場のないお怒り、よーくお察しできます。
 ………だからこそ、私の人生をここまで台無しにしたあの事件は一体何だったのか、どうしても知りたいのです。それでここへ来ました。………私も、あなたと同じ当事者です。雑誌記者でもインタビュアーでもありません。そこを誤解しないで下さい。
 私は道楽でこんなところまで来たんじゃない。……私を見下すのもいい加減にして下さい。あの事件で狂わされた人生の傷跡比べをするならば、私とあなたでは比べ物にもならない。」
【雅行】「…………ん、……。」
 縁寿はぴしゃりと言い切る。まさか、これほどの強い口調で言い返されるとは思わず、医師は閉口せざるを得なかった。
 ……縁寿からすれば、医師の泣き言など実に下らないのだ。
 いい加減、自分を見下して欲しくない。どれだけの日々を経て、この島まで来たのか、そろそろ理解してもらってもいい。医師は失言を理解し、しばらくの間、気まずそうに閉口するのだった。
【縁寿】「当時のことを思い出すのは苦痛でしょうが、ご存知のことがあったら、何でも教えて下さい。もちろん口外はしません。
 私は、私の人生に決着をつけるために、今日、ここへ訪れています。……私は18です。あの事件は、私の人生の12年を奪った。そしてこれからも奪い続けるでしょう。……私は6歳のあの日から、ずっと暗闇に放り込まれたままなんです。そんな私でも、知る権利がないと仰るんですか…?」
【雅行】「………いや、…失敬。性質の悪い連中ばかりが来ていたので、私もつい身構えてしまったようです。失敬したのをお詫びします。……わかりました。他言無用を誓っていただけるなら、何でもお話します。」
【縁寿】「ありがとう、先生。……ではお願いします。何でも結構です、話して下さい。」
【雅行】「……知ってのとおり、父は右代宮氏の主治医であると同時に、チェスを通じた友人同士でもありました。その親交は、右代宮氏が六軒島に移り住んできた当時からの、とても長いものでした。」
【縁寿】「どのくらい仲が良かったのですか?」
【雅行】「相当、だったようです。チェスの縁で、先方の屋敷に厄介になることも少なくなかったようです。……私の口から言うのも何だが、右代宮氏は非常に気難しい方でした。そして父はそんな人間と付き合うのに長けた、非常に大らかな人だった。孤独な右代宮氏にとって、稀な友人であったことは想像に難しくないでしょう。」
【縁寿】「当日は親族会議でした。……右代宮家の親族会議は、資産やその運用などについて厳しく問われる、さながら経営会議のようなものだったとされています。そのような席にまで出席を求められるほどに、南條先生は信頼を得ていたわけですね…?」
【雅行】「父は純朴な医師であり、右代宮家のような富豪の財産運用について助言できるような立場にあったとは思えません。恐らく、当時の右代宮氏は健康状況が優れられなかったでしょうから、その介添えとして呼ばれていたのでしょう。……親友の父なら、おそらく口も硬く、親族会議上の秘密もきっと漏らさないと信頼されていたに違いない。」
【縁寿】「……当時の右代宮金蔵はかなり健康状態が悪かったのでしょうか? カルテが残っていたりはしますか?」
【雅行】「事故の当日はカルテを持参していたのでしょう。右代宮氏のカルテは、残念ながらフォルダごと失われています。父のクランケですし、私も詳しいことはわかりません。」
【縁寿】「事件の前後。何か気になるようなことはありました?」
【雅行】「…………………。……あるにはあります。……ですが、非常に誤解を招きそうなので、あまり言いたくはありません。」
【縁寿】「……何ですか? それを教えて下さい。」
 医師はしばらくの間、もったいぶったが、そこまで口にしてしまった以上、縁寿はどんなはぐらかしにも誤魔化されない。やがて根負けし、他言無用をもう一度誓わせた後、それを教えてくれた……。
【雅行】「実は、あの事故の数日後に、私の自宅に郵便が届いたのです。」
【縁寿】「………郵便?」
【雅行】「それはとても奇妙な郵便でした。差出人が私になっているのですが、それは身に覚えのないものでした。何者かが、私の名を騙って出したということです。
 宛て先は北海道の礼文島。……北方領土の話を抜きにすれば、日本の最北端の島です。その宛て先人が何と、礼文島の住所ではありますが………、父の名前だったのです。
 ……しかし、送付先住所が間違っているらしく、住所不明の付箋が貼られて、差出人である“私”のところへ戻ってきたわけです。」
 それは、本当に奇妙な話だった。差出人は、南條の息子である彼の名が記されている。……しかしそれは彼が出した郵便物ではないというのだ。つまり、何者かが彼の名を騙って郵送したことになる。
 そして宛て先は、北海道礼文島の“南條輝正”。しかし存在しない地番が記されており、現地の郵便局は配達できず郵便物を“差出人である南條の息子”に返送してきたわけだ……。
【縁寿】「……中身は何だったんですか?」
【雅行】「………………………。……本当に他言無用でお願いします。私も、非常に迷惑しているんです。かといって、捨てるわけにも行かず……。」
 医師は立ち上がると本棚に向かう。そこには何十巻もの、観賞用だとしか思えない辞典群がずらりと並び、自分はインテリであるとこれ以上なく主張していた。
 その内の中ほどから何冊かを抜き出すと、その奥に大判の茶封筒が隠されていた。それを取り出し、机の上に放る。セロテープで厳重に封印されており、その変色と乾き具合から、12年間封印されてきたことをうかがわせた……。
【雅行】「くれぐれも、………他言無用でお願いします。」
 しつこいくらいに念を押しながら、医師は高級なペーパーナイフで封印を解く。……そして封筒を傾けると、なかから開封済みの郵便封筒が滑り出してきた。封筒には重みがあり、手紙以外のものが入っていることを想像させた。
 ………宛て先人は、確かに南條輝正。これだけを見ると、……あまりに衝撃的だ。
 あの事件で、南條は死体が発見されず、危難失踪によって死亡の扱いになっている。……にもかかわらず存在する、北海道の南條に宛てた手紙。それはまるで彼が、自らを死んだと偽って、北海道に逃亡したという風にさえ読み取れる。
【縁寿】「……南條先生は、本当に北海道に存在を? あるいは、同姓同名の人物が北海道に?」
【雅行】「父が、何かの事情で事故を逃れ、北海道で存命していたのだとしたら、私たち家族にとっては、事情にかかわらず嬉しいことです。私も初めはその可能性を考えました。……しかし、この封筒の送付先住所は存在しないのです。つまりこの封筒は、届くはずのない郵便なのです。」
【縁寿】「…………送付者が、正しい住所を書き損じた可能性は?」
【雅行】「もちろん否定はできません。ですが、住所の番地を見る限り、どうもそうは思えないのです。」
【縁寿】「………北海道礼文島礼文郡礼文町、1−2−34−567。…………………。」
 礼文町まではいい。…しかしその後の数字は、1234567と連番で、少々の不真面目感は拭えない。まるで、子どもがでたらめな住所をでっちあげたかのような、そんな印象を持った。
【雅行】「恐らく、明らかに存在しない住所をでたらめに書いたのでしょう。この封筒は初めから、存在せず届くはずのない住所に送付されたと考えるのが自然だと思います。」
 送付先住所が存在しなければ、郵便物は通常、差出人に返送される。ただ、不完全な住所ではあっても、現地の郵便局の好意的努力により、可能な限り、差出人が意図した送付先が存在しないか調査されることが多い。それでも見つからない場合、数日の調査を経て返送されるケースもある。
 この封筒もそうだったらしく、切手の消印は、10月3日になっていた。消印は新島内だ。新島から礼文島は遠く離れている。その上、住所もでたらめ。……返送には1週間以上の期間を経ていた。
 ……つまりこの封筒は、不定期間を経て差出人に返送されることを、初めから目論んでいた可能性が極めて高いということだろう。何のためにそんなことを………? 何が送られてきたのかを問う以前の段階でさえ、この封筒は謎に包まれている……。
【縁寿】「………………中身は?」
【雅行】「どうぞ。」
 医師に許可をもらい、すでに口の開いている封筒を傾ける。
 すると中から、畳まれた小さな手紙と、ナンバープレートの付いた小さな鍵。それと磁気カードが溢れ出てきた。鍵のナンバープレートにはA112と刻印されている。……何を指すのかはわからない。
 磁気カードは真っ黒で、金文字が刻印されている。英語で、メンバーズと記されていた。漆黒に金文字のカードデザインは、かなりの高級感を感じさせる。……しかしもちろん、それだけでは何のカードなのか見当もつかない。
 ……折り畳まれた手紙を広げる。そこには非常に簡潔に、以下のことだけが記されていた。
 07151129。そして、誰もが知る日本の某巨大銀行の名が記され、本店とも書かれていた。……それだけだ。
【縁寿】「これは………?」
【雅行】「……………。………貸し金庫のカードと鍵、そして暗証番号でした。それも普通の貸し金庫ではない。特別な顧客のみに許されているらしい、不気味な貸し金庫でした。」
 医師は、父の葬式後の身辺整理を終えた後、銀行本店を訪れた。……暗証番号と鍵と磁気カード。何か重要なものが預けられていることは間違いなく、それが何であるか、関心を持ったのは当然のことだった。
 初めはどうすればいいかわからなかった。……本来、自分の所有するものではないカードだ。勇気を出して行員にカードを見せると、明らかに格のある行員に対応が変わり、地下4階の大金庫室に案内された。
 そこに至るまでのセキュリティは厳重。医師も、不動産の謄本などの重要なものを貸し金庫に預けた経験があるが、ここのそれはまったく格が違っていた……。
【雅行】「……私の使っている貸し金庫の手続きと違い、カードと暗証番号、そして鍵を持っているならば、本人確認は行なわれないというシステムでした。……ですが、とにかく厳重な金庫室で、その物々しさに怯えました。……こんなところに預けざるを得ない、どんな物騒なものが待ち受けているのか、と。」
【縁寿】「…………それで?」
【雅行】「カードをリーダーに通すと、暗証番号の入力を求められました。そして、そこにある8桁の数字を入力すると認証され、金庫室への入室が認められました。……すごい光景でしたよ。まるでSF映画のような世界だった。薄暗い銀色の広大な部屋に、びっしりと金庫の扉が埋め尽くされているのです。」
 その部屋に、行員を伴い入場した。カード認証の時点で、権利のある金庫は確定しているらしく、開けられる金庫には緑ランプ、開けられない金庫には赤ランプが点灯していた。
【雅行】「A112は、それらの金庫のうちの1つを示すものでした。……ちなみに、それ以外の金庫にもずらりと緑ランプが点灯していました。20個以上はあったと思います。あるいは他の一角にももっとあったのかも。……いずれにせよ、私の鍵はA112のみ。他の金庫の中身を確かめる術はありませんでしたが。」
 医師は行員が立ち会う中、開錠し扉を開く。すると大き目のキャビネットのような金庫の引き出しが開き、……中から高級感あるジュラルミンケースが姿を現した…。それは別室に運び込まれ、そこで初めて行員は退室し、その中身と対面することとなった……。
【縁寿】「中身は………?」
【雅行】「……………………。…………現金でした。」
【縁寿】「現金? どれほど?」
【雅行】「新札の百万円の束はちょうど厚みが1cmになると聞いたことがあります。それが、………これだけのジュラルミンケースの中に、びっしり詰められていたのですから…。……多分、1億はあったでしょう。数えたわけではないからわかりません。手すら触れませんでしたから。私はすぐに直感しました。これは危険な金だと。」
 1億ものかさばる現金を、そのままカバンごと金庫に預けることは普通しない。……口座に入金して、数字に変えてしまった方がはるかに取り扱いが楽だ。それが出来ない時点で、何か良からぬ事情のある現金であることは明白だった……。
【雅行】「……私は頭が真っ白になり、すぐに関わり合ってはならないと直感しました。」
【縁寿】「それで一切、手を付けなかった?」
【雅行】「はい。そのまま施錠し直し、元の金庫に預けて立ち去りました。……この鍵やカードも捨てようと思いましたが、何が起こるかわからない。その為、誰にも内緒で12年もの間、本棚の裏に隠し続けてきたのです。………あれが何の金だったのか、私にも未だにわかりません。」
【縁寿】「……この封筒をお借りすることは出来ますか?」
【雅行】「いいえ。この場で見るだけにして下さい。」
【縁寿】「…………………。……わかりました。ではちょっと失礼します。調べ物を。」
 私は下ろしていたナップザックからお姉ちゃんの魔導書を取り出す。……そしてベアトリーチェがお姉ちゃんに記した文章のページを開き、その筆跡と照らし合わせる……。
【縁寿】「……………………………………………。」
 …………特長ある筆跡は、間違いない。この一億円の現金を送りつけたのは、…………ベアトリーチェ自身だ……。
 でも、………何だろう。何かが引っ掛かる……。何だろう………。何だろう………。
熊沢の息子の家
【鯖吉】「………え、……えぇ。そんな郵便物が確か、届いた気がしますわ。かーちゃん、あれはどこにしまったっけなぁ?!」
 同じ封筒と内容物は、かつて熊沢と同居していた息子にも届けられていた。ただ、日々が忙しく、ばたばたとしているうちに、そのまま忘れてしまっていたようだった。しかし、その奇妙な中身は記憶に留まっていたらしく、縁寿がそれを告げるとすぐに思い出してくれた……。
 しばらく待っていると、お前さんはすぐにしまった場所を忘れる、と愚痴を言いながらへの字口の奥さんが、例の封筒を探し出してきてくれた……。
 差出人と宛先人の手口は南條の息子のものとまったく同じ。差出人が熊沢の息子になっており、宛先人は熊沢チヨ。そして送付先住所は沖縄県。沖縄県八重山郡与那国町、1−2−34−567。
 与那国島は日本の最西端。そして地番はまったく同じ、適当そうな連番。……これで確信する。確実にこの封筒は、差出人に返送されることを目論んでいるのだ。
 中身もまったく同じ。暗証番号と銀行の本店を記した手紙。磁気カード。ナンバープレート付きの鍵。
 ナンバープレートの刻印はA113。……南條の息子に送られた鍵と連番になる。
 恐らく、金庫の中には同じようにジュラルミンケースがあり、1億円の現金が詰められているのだろう……。
【鯖吉】「……死んだお袋が冥土から送ってきたような気がしてねぇ。中身もよくわからんし、薄気味悪いんで、ずっと放ったらかしにしてて、今日まですっかり忘れてたんですわ。
 ……お嬢さんはこれが何か、ご存知なんですかね? ひょっとして、あんたんとこにも同じものが…?」
【縁寿】「…………………………………ぅ。」
【マモン】「……どうしたんです、縁寿さま。」
【さくたろ】『うりゅ…、頭痛?頭痛…?!』
【縁寿】「…………ごめん、頭が痛い……。……刺さってる…、………知っている……。」
【さくたろ】『知ってるって、何を……?』
【マモン】「まさか、……この封筒、……縁寿さまのところにも…?」
 ………思い出した……。……思い出した……!! 私のところにもおかしな封筒が届いたんだ…、12年前に…!!
 家族を全て失い、塞ぎこんでいた。…でも、本当におかしな郵便物だったので、わずかに記憶に残っていたのだ。
 それは、出した覚えもないのに、自分が差出人になっているおかしな郵便。宛先の住所は忘れたが、宛先人は右代宮留弗夫。私のお父さんになっていた。
 死んでしまったお父さんからの手紙だと思って、中を開けたら、よくわからない鍵とかカードが出てきて、困惑したのを覚えてる。私はがっかりし、それをどこかに放り出してしまったはず…。
 あの封筒はどこにやってしまっただろう? あの後のゴタゴタでどこかに紛失してしまっているだろう。今となっては、その内容を確かめる術もない。
 しかし、何となく察しはつく。……きっと中身は同じ。暗証番号のメモと鍵とカードが入っていたに違いないのだ……。
【縁寿】「……ベアトリーチェ……。……これは何のつもりよ…? あいつは、全ての遺族にこんなふざけたカネをばら蒔いたというの? ………死んだ後も愚弄するなんて、……許せない………。」
【さくたろ】『うりゅ…、うりゅ……、縁寿………。』
 さくたろがおろおろする。……その心配そうな顔を見ているうちに、少しずつ興奮は冷めて行った…。
【縁寿】「ごめんなさい…。ベアトリーチェ憎しは今に始まったことじゃないわ。……あの6歳の日に、もうすでにあの魔女と縁があったことに、驚きと怒りを感じただけよ…。」
【マモン】「………この12年間。縁寿さまはずっとベアトリーチェさまの呪縛に捕らわれてきた。…これがその、まさに呪縛の証となるのかもしれません。ですが、どうかしっかり。それを打ち破るための旅でもあるはずです。」
【縁寿】「そうね……。頭に血を上らせたって、何の役にも立たないわ。冷静に考えなくちゃ。………これはどういうことなの? 遺族に1億円をばら蒔く意味は何? 挑発だとでも言うの……? ベアトリーチェめ………。」
『縁寿……、落ち着いて……。……うりゅ……。』
 さくたろが、私のお腹に顔を埋めながら、冷静になるよう促す。……私はもう一度深く深呼吸し、思考を働かせた。
【縁寿】「………この封筒の送付はつまり、ベアトリーチェによる事件の、計画性を裏付けるものかしら。」
【マモン】「消印は親族会議の直前。そして、わざと時間を掛けて返送されてくるように仕組まれている。」
【さくたろ】『……事件の後に届くようにしたかった、ということかな……?』
【縁寿】「うん。そうなるわ。………でも、少し疑問もあるの。なぜこんな不確実な方法で?」
【マモン】「不確実?」
【縁寿】「えぇ。だって、何日で郵便が戻ってくるかなんて、事前には想像もできないじゃない。……郵送先の郵便局が調査し、送付先不明と判断し返送するまでの期間なんて、普通は想像も出来ない。」
【さくたろ】『そう言えばそうだね……。ちゃんと到着の期日を決めて、そういう郵便で出した方が確実なのにね……。うりゅ…。』
【マモン】「……まぁ、でも。前日に投函したんなら、どんなに早く戻ってきても、きっと月曜日以降の到着になったでしょうし。死者からの手紙を気取りたかったんじゃないかしら。」
【縁寿】「……死者からの手紙、か。……確かにね。あれは驚くし、嫌な気持ちになるわよ。……死んだ家族の名前が表に大きく書かれている郵便物が、物々しい付箋付きで郵便受けに放り込まれているんだから。……でも、私は何か腑に落ちないわ。私だったら期日指定郵便にする。ひょっとしたら、想定しない日に届くかもしれないという不安定さが、私にはどうしても理解できないの。」
【さくたろ】『…………………うりゅ。……でも、確かにそういうの、ベアトらしいかなって思う。』
【縁寿】「え? あなた、ベアトのことわかるの?」
【さくたろ】『……ちょっとしかお話したことないけど。……でも、ベアトならこういうことをするかなぁってのが、何となくわかるの。………マモンも、何となく想像がつかない? ベアトって、こういう悪戯、好きだよね?』
【マモン】「………………。………確かにそうかも。……ベアトリーチェさまなら、死者からの手紙、みたいな悪質な悪戯は、やりかねないと思います。」
【さくたろ】『うぅん、それだけじゃなくて。………絶対確実な方法じゃなくて、ちょっぴり不確実な方法の方を、ベアトリーチェは面白がるの。』
【縁寿】「………不確実な方法を、面白がる…?」
 真里亞お姉ちゃんの日記を思い出す…。……ベアトリーチェと遊んだ記述も結構ある。その中でベアトは真里亞と一緒に、親族の大人たちに何かの悪戯を仕掛けることがたまにあった。
 しかしその悪戯は、いつもちょっとした魔女の美学があった。それは、………不確実である方が面白い、というものだ。
 ある日、真里亞お姉ちゃんたちは、持参したゼンマイ式の小さなミニカーを悪戯に使うことにした。ミニカーをバックさせると車輪のゼンマイが巻かれ、放すと勢い良く走り出すという、当時流行った玩具だ。
 そのミニカーを、ゼンマイを巻いた状態でミルクポットの影に置いた。……つまり、ミルクポットを持ち上げると、勢い良くミニカーが走って飛び出し、相手は驚くという悪戯だ。
 この悪戯に誰かが引っ掛かって欲しいと、お姉ちゃんとベアトは、物陰からずっと大人たちのティータイムを見守っていた。誰が引っ掛かるかと楽しみにしていたが、とうとう誰も罠のミルクポットを手に取らず、悪戯は不発に終わってしまった……。
 その時、「絶対に誰かが引っ掛かる場所に仕掛ければ良かった」とぼやくお姉ちゃんに、ベアトはこう言ったらしい。
「誰が引っ掛かるかわからず、引っ掛かるかどうかさえわからない罠の方が、ハラハラして面白い」と言うのだ。
 ……絶対に引っ掛かる罠では、確かにそういう興奮はないかもしれない。……そういう記述は複数箇所あり、ベアトリーチェという魔女は、わりとランダムなスリルを好む気まぐれな性分があることが推察できた……。
 気まぐれとは、何とやりにくい相手なのか。12年前の魔女が何を企んでいたのか、……チェス盤が引っ繰り返せない。
 縁寿は、それらを吟味しながら、そわそわと視線を躍らせた。
 すると、ふと壁に興味を示す。そこには、写真の入った額がたくさん掛けられていた。それらは熊沢家が親族で集まったり、遊びに行ったりした時の記念写真が多く、熊沢を写したものも多かった。
 今にも、ほっほっほ…、と快活な笑い声が聞こえてきそうになるその笑顔。……遠い記憶だが、確かにこんな雰囲気の元気のいいおばあちゃんだったことを覚えてる…。
【縁寿】「熊沢さんは、事件の直前に変わった様子はありましたか…?」
【鯖吉】「いいやぁ。いつも通りに見えたなぁ。……親族会議はぴりぴりするから、辛い辛いと漏らすのはいつものことでしたし。」
【縁寿】「…………? ……これは?」
 たくさんの額の中に、人物写真ではないものが含まれていた。
 それは洋館か何かの扉かレリーフを拡大して撮影したものだった。……特に面白い被写体にも見えず、むしろなぜわざわざ撮影したのかが気になった。近付いてみると、ペンで何か文字が記されているのに気付く。
【鯖吉】「……あぁ、それはお袋の形見分けでもらってきた写真ですわ。多分、例の黄金伝説に関係したヤツではないかと。」
【縁寿】「魔女の碑文ですか? 10tの黄金の隠し場所を示すと噂される…。……熊沢さんも挑んでおられたんですね。でも、これは碑文じゃない。……初めて見るものです。」
 洋館風の扉の上にアーチがあり、そこにレリーフがある。そこに英文が刻まれていて、写真はそれを捉えたものらしい。ペン書きは、それを訳したもののようだった。
【縁寿】「…………………。“この扉は千兆分の一の確率でしか開かない。あなたは千兆分の一の確率でしか祝福されない”。………知らないわ。こんな文章、碑文にもお姉ちゃんの日記にも出てこない。」
【鯖吉】「お袋の遺品の中に、碑文の謎解きに挑戦してると思われる写真やノートが、結構出てきたんですわ。お袋も案外、そういうのが好きだったんだなぁ。何でも10tの金塊が隠されてたって噂だ。そりゃあ、お袋も夢中になるはずですわ。」
 真里亞お姉ちゃんの日記帳にも魔導書にも、魔女の碑文についての記載はある。
 曰く、黄金郷の扉を開く儀式であり、ベアトリーチェ復活の儀式であり、ベアトリーチェ継承の儀式であり。云々。興味深いのは最後の、継承の儀式、という行だったろうか。
 ベアトリーチェが言うには、もし魔女の碑文を解き明かすことが出来たなら、10tの黄金と右代宮家の家督だけでなく、自らの魔法の力と名前、黄金の魔女の称号までもを引き継ぐという。
 魔女の碑文は、当時の右代宮家では、解けた者を次期当主に選ぶために当主金蔵が用意した難解なクイズ、という認識だった。
 しかしマリアージュ・ソルシエールの解釈では、その出題者はベアトリーチェ自身で、自らの後継者を選び出すための出題でもあったという。……両者の解釈は細部で微妙に食い違っている。
 いずれにせよ、その物騒な内容は血生臭い連続殺人を想起させ、2本のボトルメッセージは双方ともそれに沿った事件を描いている。魔女の碑文を、12年後の今であっても解くことが出来たなら、当時の何かの陰謀を解き明かすことが、出来るのだろうか……。
 私も何度か挑戦したが、さっぱり意味がわからなかった。ウィッチハンターたちも大勢が挑戦しているらしい。私の読んだ本にも、江之浦漁港説とか、ラプラタ川説とかが登場する。しかし、いずれの説も決定的ではない……。
【縁寿】「他にも資料が?」
【鯖吉】「あると思うけど、兄弟で適当に分けたからなぁ。誰が何を持ってるやら、さっぱりですわ。申し訳ない。」
【縁寿】「………この、熊沢さんが撮影した英文だけ読むと、滅多に開かれない開かずの扉という印象を受ける。……でもこれは屋敷の何処かしら。光の具合から、屋外みたいだけど。……熊沢さんは、この中にその黄金が隠されていると睨んでたのかしら。」
【鯖吉】「さぁ。いずれにせよ、六軒島の屋敷のどこかでしょうな。……お袋の預金口座には、残念だが、黄金を発見したと思えるようなお金は入ってませんでしたよ。うはははは、さすがに見つからんかったんでしょうなぁ。」
 ……10tの黄金を金蔵に授けた、黄金の魔女ベアトリーチェ。即ち、魔女こそが黄金の真の所有者。右代宮家の莫大な財産の全ては、ベアトリーチェこそが所有者なのだ。
 その莫大な富を持つ魔女が、あの日の六軒島の人間を皆殺しにし、…戯れかのように遺族に大金を送りつける。……何が死者からの手紙だ。これは、死者への冒涜。
 私は再び確信する。……あの日に島で死んだ家族は、死んで成仏などしていない。今も魔女に捕らわれ、永遠に冒涜されながら苛まれ続けているのだ……。
マルフク寝具店
 縁寿が最後に訪れたのは、住宅地と小売店が混在する地域の、マルフク寝具店というを掲げた一軒の店だった……。
 そこには、当時、六軒島への連絡船の船長をしていた男が住んでいた。……かつては海の男として活躍した彼も、大きな病気をして体調を崩してからは引退し、息子夫婦の家で世話になっていた…。
【船長】「よーく覚えてる…! あんた、まだこんなに小さかった。立派になったな…! そして、さぞや辛かっただろう。お前さんの気持ち、よくわかるぞ…!」
 元船長は、引退の理由が何だったかよくわからないくらいに元気だった。記憶も鮮明らしく、10年以上前のことをよく覚えており、当時の縁寿のことさえも記憶しているようだった。
 話が弾み、縁寿としてはとても助かったが、……同時に、最後の親族会議のこともよく覚えていて、船上の戦人の“落ちる落ちる騒ぎ”のことまでも詳細に記憶していたことは、逆に縁寿には辛かった。
 当時もだが、現在も六軒島に渡る公的移動手段は存在しない。渡航には、船の所有者に個人的に頼む必要があった。六軒島への船は今だ手配が出来ず、彼に断られたら、六軒島への渡航はもはや絶望的と思われた……。
【船長】「わかってる。今、あの島に行きたがる船なんぞ、簡単には見つからんだろ。……今じゃ六軒島と呼ばず、古い名前の悪食島と呼ぶ者までおる。この辺りの船乗りじゃ、首を縦には振るまいな。」
 元々、漁民たちの間では六軒島は不吉の島と恐れられていた。そして、12年前のあの事件で、それは頂点に達した……。彼らは海を尊敬し、畏怖し、そして信心深い。呪われた島に船を出そうとする船乗りはほとんどいなかった。
 その為、ウィッチハンターの多くは六軒島へ渡ることが出来ず、せいぜい、島の周りを周遊するのが限界だった。……皮肉にも、そのせいでますますに六軒島の神秘性が増し、彼らが喜ぶようなおかしな魔女話が増殖する結果となるのだが…。
【縁寿】「………船は、出してもらえるでしょうか。」
【船長】「うむ。明日だけ返してもらう約束になっとる。最近はエンジンがだいぶご機嫌斜めらしいがな。かっ飛ばしてやるわい!」
 元船長は、明日、前職に復帰し、六軒島まで船を出してくれることを約束してくれた。
 これで、六軒島への渡航手段は確保できた。新島で出来ることは、これで全てだろう。あとは、明日。六軒島で、……12年前に遡る旅は、終点を迎える。
【さくたろ】『よかったね…。これで島へ行けるようになったね…。』
【縁寿】「そうね。……船を見つけるのは難しいと聞いていたから、船長が協力的で助かったわ。」
【マモン】「………縁寿さまほどではないにしても。船長にとっても12年前の事件は、未だ抜けない棘なんでしょうね。」
【さくたろ】『……うりゅ。……船長さんも、心の整理がつかなかったんだね。ずっと。』
【マモン】「そりゃそうでしょ。……約束通り10月5日に、あのじいさんが船を出してくれれば、大勢が助かった可能性がある。ちょっと風が強いからといって、船を渋らなければ…。」
【さくたろ】『うりゅ…、そんなこと言っちゃ駄目だよ…。船長さんもそれを今日まで、ずっと苦しんできたはずだよ……。』
 10月5日は、まさに台風の真っ只中だったそうだ。船長に言わせると、10月4日に六軒島へ向かえば、確実に台風に閉じ込められることはわかっていたという。
 しかし彼らは、予め決定された親族会議の日付に強く固執した。……無理もない。親族の誰もが過密なスケジュールを持ち、予め日程を調整した上で親族会議に訪れている。台風が近付いているから翌週に変更、と簡単には言えない事情もあっただろう。
 ……船長の責任ではない。しかし、台風のせいにしてしまえるほど、彼は無責任ではなかった、ということかもしれない。
 確かに船長はマモンたちの言うとおり、ずっと12年前を引き摺ってきたに違いない。……そして、最後の右代宮一族である私を島に送り届け、それを無事に連れ帰ることで、過去に決着をつけようとしているのかもしれない…。
【船長】「船は昼過ぎに帰ってくることになってる。それからあんたを六軒島へ案内するから、到着は夕方前になるだろう。電気も灯りもない島だ。あまり長居は出来んぞ。……その程度の上陸で、あんたの気は済むかね?」
【縁寿】「…………………。長居したから何かの気が済む、というものでもありませんし。船を出してもらえるだけでも感謝します。」
【船長】「うむ、すまんな。わしが船を手放していなければ、ケチなことを言わず、好きなだけ島へ案内してやれるんだが…。」
 六軒島で何かをしたいという目的があるわけじゃない。滞在する時間帯は、夕方頃か…。
 ……昼と夜という異なる世界を跨ぐ夕方は、まるでこの世とあの世、もしくは、1998年と1986年の境目のような気がして、六軒島を訪れる時間としてもっとも相応しいようにも感じられた。
 ……島で何かをするわけじゃない。ほんの数時間の滞在でも、私の心の整理がつくならば充分だろう。
 その時、障子が小さくノックされ、天草が顔を出し、腕時計を叩くような仕草をする。私も頷き返し、明日の船は確保できたことを教えた。
【天草】「それは良かった。……そろそろ参りましょう。船長、明日はよろしくお願いします。」
【船長】「おう、任せておけ! お前さんたちの難儀な事情も聞いとる。わしも、当時のワイドショーを見ていて、面白半分に事件を掻き回す連中に虫唾が走っとったもんだ。協力は惜しまんよ。」
【縁寿】「ありがとうございます。……それでは明日、お昼に。あの、これ。船代に。」
 縁寿は懐より帯封付きの壱万円札の束を取り出す。その厚みは、確かに船長にも見えたはずだ。しかし船長はまったく興味を示さず、首を横に振った。
【船長】「……わしはお前さんに感謝しとるよ。これは天のお導きだ。あんたを、六軒島へ連れて行き、そして無事に連れ帰る最後のチャンスを下さったんだ。わしは金蔵さんに任されていた最後の仕事を、今、ようやく終えることが出来る。だからあんたには感謝してる。カネは、当時の金蔵さんからたらふくもらってる。あんたから取れんよ。」
【縁寿】「…………………ありがとうございます。」
【船長】「階段、足元に気をつけてな。急だぞ。」
 ……バリアフリーという言葉と確実に対極にある、急勾配の階段を下る。上の部屋にあった、テレビやタンスの存在が信じられなくなる。
 一階の大部分は寝具店の店舗となっていて、たくさんの布団が山と積み上げられていた。その狭い布団売り場を抜け、見送ってもらう。天草は用心深く表の様子をうかがってから先に飛び出し、車を回してくる。
【船長】「孫の部屋が空いとる。泊まっていっても構わんのに。見ての通り、布団なら有り余っとるぞ。」
【縁寿】「ありがとうございます。……万一の時、ご迷惑は掛けられませんので。」
【船長】「………事情は知らんが、相当な厄介に巻き込まれてるようだな。胡散臭い連中が、人探しをしていると噂になっとる。あんたのことじゃないのかね?」
【縁寿】「…………………。……さぁ。」
 縁寿はとぼけるが、船長は察してくれているようだった。
【船長】「わしは、六軒島を目指す客人を送り届け、……そして迎えに行き、連れ帰ることが仕事だった。……その仕事を12年前に中断したまま、まだ終えていない。だからわしは、あんたのお陰でその仕事を、ようやく終えることが出来るんだ。」
【縁寿】「…………………。」
【船長】「だから。………わしにその仕事を終えさせてくれよ? わかってるな?」
【縁寿】「………………。……えぇ。別に私は、死にに行くんじゃない。」
 でも、あの島で死ねたなら、きっと家族のところへ行けるだろうという気持ちは、ある……。私もようやく自覚した。……私はひょっとしたら、あの島で、……死ぬつもりだったのかもしれない。
 死に場所を求めて遥々と、六軒島を目指して来たのかもしれないのだ。それを船長も察している。だからこそ、死ぬなと重ねて言う。
【縁寿】「………えぇ、死にません。約束します。………そもそも私。どうして六軒島に行かなくてはならないかの目的さえ、未だにあやふやなんですから。」
【船長】「いいや、目的はきっとある。あんたにないなら、…それは彼らにあるんだ。島があんたを呼んだ。だからあんたはここまで来たんだ。」
【縁寿】「………そうかも、知れませんね。…私は、……呼ばれたのかもしれない。」
 呼ばれた。何のために? 彼らのために。お父さん。お母さん。戦人お兄ちゃん。……そして、真里亞お姉ちゃん。………あるいは、黄金の魔女。ベアトリーチェ。
 六軒島で、何があるんだろう。そして私は何を成すんだろう。いよいよ明日を控えているのに、私は未だに自らの使命を理解できていなかった……。
 店の前に車が止まる音がして、短いクラクションが聞こえた。
【縁寿】「それでは明日。失礼します…。」
【船長】「うむ。」
 狭い店内の布団の山を抜け、私は店を出ようとする。…………その時、足が止まった。
【船長】「……どうしたね?」
【縁寿】「………………………あ、……………あの、あれは……?」
【船長】「うん? あれ? はて? 何の話だね?」
 碑文解読の手掛り。注意深い読者なら、EP2の真里亞の台詞を思い出し、礼拝堂の扉の写真だと気付くようになっている。
 私はわなわなと震えながら、………それを指差す。しかし船長はいくら目を凝らしても、私が驚くような何が指の先にあるのか、さっぱり理解できなかった。
 ……そんなことって、…………そ、……そんなことって…………。
【マモン】「…………あ、ありえない……。…ど、どうして…………?」
【さくたろ】『う、………うりゅ………。……縁寿、……どうして? どういうことなのこれは……?!』
【縁寿】「……わ、………私にだってさっぱりだわ……。そんな馬鹿なことってあるの……。これは魔法なの? 奇跡なの……?
 ………えぇ、多分これは運命よ。……私は今、……理解したわ。…………これが、……私の使命だったのよ。」
【さくたろ】『…………うりゅ……………。』
【マモン】「私には、………何が何だか…………。」
 私は震えながら、店内の薄暗がりを指差し、固まっている……。
【船長】「ど、どうしたんだね? 何があるんだね?! わからん、…わしにはわからん…。あ、あんたには何が見えてるのかね…?!」
【縁寿】「ありがとう、船長。……全部全部、……これは運命だったんです。ここに私が訪れることさえ、……運命だった。…………これが、………私が六軒島へ行く、目的で、使命なんです………。」
【天草】「…………縁寿さん? どうしました、トラブルですか?」
【船長】「わ、わしにもさっぱりわからん…! お嬢ちゃんが暗がりを指差したまま、固まっちまったんだ…!」
【天草】「縁寿さん……? 大丈夫ですか? 何が見えるんですか……?」
【縁寿】「あなたたちには見えないの? それよ、それ。……見えないの?!」
【天草】「見えるのは、ただの陳列棚です。誰もいやしませんぜ…?」
【さくたろ】『うりゅ……、……縁寿……。……ボクには何が何だかわからないよ……。……これは、……夢なの? 魔法なの……? どういうことなの……? ……………? …………縁寿……………?』
 さくたろうが、縁寿の顔を見上げる……。その瞳から、……ぼろりと、……一筋の涙が零れ落ちる。
【マモン】「………縁寿さま………………。」
【縁寿】「……理解したわ。お姉ちゃん。……そして、……………ベアトリーチェ。」
【さくたろ】『………うりゅ………。』
 これが、…………魔法なのね…………。
 さくたろうのぬいぐるみ。本当は楼座の手作りではなく、量産品だった。

最後の親族会議

ゲストハウス・いとこ部屋
【朱志香】「………テストって……?」
【蔵臼】「……う、うむ。よく聞きなさい……。」
 再びゲストハウスに蔵臼たちから電話が掛かってきた。 ……そして告げられたのは、……金蔵が孫たちに、次期当主の資格を問うテストを行ないたい、とするものだった。
【蔵臼】「………当主様は次期当主を、お父さんたちの兄弟からではなく、孫たちの中から選びたいと、そう、……仰っている…。」
 蔵臼の抑圧されたしゃべり方から、娘である朱志香は、そう話すよう強要されていることを理解する。そして、父親たち人質は今も危険に晒されていて、テストとやらを断れば、人質に危害が加えられる可能性があることまでも理解せざるを得なかった。
【朱志香】「そ、……それで……。私たちは、どうすればいいの。」
地下牢
【蔵臼】「……う、…うむ。待て…。」
 蔵臼は受話器を離し、鉄格子の向こうでにやにやと見ている金蔵を見る。 そして金蔵は次なる連絡を命じた。
【金蔵】「テストの前に、無関係な者を排除しなくてはならない。………郷田と熊沢がそこにいるのであろう? テストに干渉されては邪魔なのでな。彼らをゲストハウスより追放せよ。」
【蔵臼】「………追放、…ですか……。」
【金蔵】「薔薇庭園に園芸倉庫があったはず。そこへ郷田と熊沢を閉じ込めて施錠せよ。ふむ、まずはそれからだ。直ちに遂行するように伝えよ。………我が武具たちが監視する。疑わしい行為に及べば、テストは直ちに中止し、お前たち全てを生贄として処刑する!」
【蔵臼】「……わ、……わかりました……。……もしもし朱志香…。今から父さんの言うことをよく聞きなさい……。」
 蔵臼は朱志香に、郷田と熊沢を閉じ込めるようにとの指示を伝える……。
【霧江】「……どんなテストを、なさるつもりですか。」
【金蔵】「んん? あぁ、実に簡単なテストだとも。孫たちの覚悟を見せてもらうだけだ。さて、どんな結果を見せてくれるのか。……くっくっくっく。」
 霧江は、子どもたちに電話している蔵臼を苦々しそうに見ている。……悔しいが、今は命令を拒むことが出来ない。
 この地下牢での小さな反抗は何の意味も持たない。下手に挑発し、自分たちを殺させるような事態に追い込んでしまったら、もう殺人鬼に歯止めなど効かない。
 ……彼のルールにとりあえず従い、興奮させないようにしながら、チャンスを待つしかないのだ……。
 しかし、金蔵の命令に従順に従い続ければ、テストと称する何かに子どもたちは襲われ、命を失うことさえあるかもしれない。………従順を装おうとも、反抗しようとも、……状況を改善できないのだ。
 とにかく、最後の一瞬までチャンスを見逃さないよう、目を凝らしていることだけが、今できる抵抗なのだ。……霧江はそう自らに言い聞かしながら、金蔵の命令を伝えている蔵臼を見守るのだった……。
【南條】「………霧江さん。ここは、辛抱しましょう……。」
【霧江】「わかってるわ。……悔しいけれど、今は待つしかない。この鉄格子さえ何とかできれば、私たちは屋敷へ戻ることができるんだから……。」
【南條】「……何とかここを出られれば……。……た、試して見ましょう。……………金蔵さん、頼みがある。」
【金蔵】「む、何か、我が友よ。」
【南條】「金蔵さんが子どもたちを試したいというのはよくわかった…。……金蔵さんの納得の行くようにするといい。
 金蔵さんの力がなければ、とっくに潰れていたかもしれない右代宮家だ。その担い手を慎重に選びたい気持ち、よぉくわかる…。それに、その為の親族会議だ。私らは邪魔はせんよ…。」
【金蔵】「ふむ。お前の理解が得られて助かる。そうだ、これは親族会議なのだ。私が次期当主を選び決定する、最後の親族会議なのだよ。ふっはっはっははははは…!」
【南條】「それでだが金蔵さん…。……ここはあまりに冷え過ぎる。あんたのテストの邪魔はせんから、もう少し温かい場所に移してもらうことは出来んかね……。」
【金蔵】「………………。」
 南條のその一言で、金蔵のわずかにだけ機嫌を良くしたかに感じられた気配が、吹き飛ぶ。値踏みするような険しい目で睨みつける沈黙が、南條にぶつけられる……。
【ワルギリア】「……確かにここは冷えますね。老体にはお辛いでしょう。……お館様。上の部屋に移し変えても良いのでは……。」
【金蔵】「それは出来ぬッ!! 甘いぞ、南條ぉおおおぉ…? お前は一手猶予を与えるような素振りで、実に華麗に布石を打つではないか。その手には乗らんぞぉぉお…? 凍えるというなら、真っ赤に焼けた石炭でも敷き詰めてやればよいッ!!」
【ワルギリア】「も、申し訳ございません……。」
 ワルギリアも助け舟を出してくれたが、結局、金蔵が聞き入れることはなかった…。
【ガァプ】「……………あなたたちは大人しいのね。…その気になれば、こんな鉄格子、簡単に破れるでしょうに。」
【嘉音】「………………………。」
【紗音】「……ここを破ったとて、何もなりません。」
【ガァプ】「確かに。……ここを破ったなら、ゴールドスミスのゲームが終わることを意味する。……あなたたちも、そしてゲストハウスの人間たちも即座に、金蔵の儀式の生贄となるでしょうね。
 ……でも、案外、あなたたちだけかもしれないわよ? この状況を打開できる力を持っているのは、……ね?
 ………黄金郷に辿り着きたいんでしょう? 叶えたい夢がいっぱいあるんでしょう…? くすくす……。」
【嘉音】「…………………………。」
【ロノウェ】「ガァプ。挑発はいけませんよ。……これはあなたのゲームではない。お館様の、そしてお嬢様のゲームです。」
【金蔵】「………どうした、ロノウェ?」
【ガァプ】「いえいえ、何も。……捕虜とおしゃべりをしていました。お許しを。」
 ガァプは最後に、挑発的な笑みを嘉音に送ると、背を向けた。嘉音は下唇を噛みながら、両拳を震わせるしかない……。
【嘉音】「…………………。……くそ………。」
【紗音】「……よくがんばったね……。よく我慢したよ……。」
【嘉音】「僕たちは、無力だ……。家具だから……。」
【紗音】「そうだね、……私たちは無力。……でも、家具は、必要とされることだって、…そして愛されることだってあるよ。……今の私たちは、暗い地下室にしまわれているだけ。……きっといつか、誰かが愛してくれる。必要としてくれるから。……だから今は挑発に乗らないで、堪えよう…。……ね?」
【蔵臼】「……お父さん。郷田たちを倉庫に閉じ込めるよう、指示をしました。」
【金蔵】「良かろう。電話を切って良い。……シエスタ姉妹。孫たちが郷田と熊沢を閉じ込めるのを監視せよ。もしも不審な動きがあるようならば、……その時点で次期当主を選ぶテストは終了だ。」
 金蔵が命じると、シエスタ姉妹が背後に整列して現れる。
【00】「了解であります。……斥候は私がやる。556と410は両翼支援。45は全周警戒。」
 郷田と熊沢を閉じ込めるようにとの指示を朱志香に伝える。譲治と朱志香には事前に話を通してあるため、ここで反対されることはない。右代宮の籍を捨てた戦人へのドッキリだとでも説明しておけば、二人の協力を取り付けることは可能だろう。
【45】「00…。556は……。」
【00】「ん、…………そうだった。すまない。」
【45】「いい子でした……。」
【410】「……だから私は嫌いにぇ。…いいヤツは。」
【金蔵】「何をしているか、シエスタ姉妹! 我が命令を遂行せよ!」
【00】「……………失礼しました。では、監視に向かうであります。……出撃!」
 シエスタ姉妹たちは一斉に姿を消す。その、瞬間移動のように姿を現し、そして姿を消す瞬間を南條と霧江は目撃していたが、暗がりより現れ、暗がりに姿を消したため、瞬間移動のように見えてしまったのだろうと解釈し、目をごしごしと擦ることしか出来なかった…。
【金蔵】「……さて。私はテストの準備をしよう。ロノウェ、ガァプ。お前たちには試験官を頼む。ワルギリアはこやつらを監視するように。………何しろ我が家具が2人いる。一応は警戒せよ。」
 じろりと紗音と嘉音を見る。紗音は硬く目を瞑りながら黙礼し、余計なことはしませんと無言で答えた……。
【ワルギリア】「……かしこまりました。注意します。」
【ガァプ】「リーアの老体には寒くて辛くない? 湯たんぽでも持ってくる…?」
【ワルギリア】「うるさいです。早くお行きなさい。ガプっ。」
【ロノウェ】「ぷっくっくっく…! さてさて、テストとは、そして試験官とは、今回のゲームは変わった試みですね。………お嬢様を楽しませる展開になると良いのですが。」
【ワルギリア】「……さぁさお出でなさい、山羊の従者たち。」
 ワルギリアが暗がりに呼び掛けると、そこより、ぬうっと、山羊頭の大柄な従者が3人現れる。
【ガァプ】「ベアトの眷属ね。便利だわ。しかも温かそうだし。あぁ、湯たんぽの代わりね。なら山羊より羊の方がいいんじゃない?」
【ワルギリア】「カシミア雑巾のくせにうるさいですよ。……彼らは賢くはありませんが、命令に忠実で強靭な頼れる従者たちです。」
【金蔵】「うむ、任せるぞ。我が友、ワルギリアよ。……残りの者は私と来い。」
 金蔵は貫禄ある仕草でマントを翻す。その後に、ロノウェとガァプも続き、……召喚されたばかりの3人の山羊の従者までも続いていこうとする。
【ワルギリア】「……あなたたちは私と残るのですよ。ついていかないように。」
 ビクっと驚いて立ち止まり、とぼとぼと戻ってくる山羊たち。そのやり取りに、呆然と見ていた霧江もさすがに噴出す。
【霧江】「くっくっく……。愉快な部下ね。」
【ワルギリア】「ゴ、ゴールドスミス卿より、私語の許可は与えられていませんよ。」
 …多少は恥ずかしかったのだろう。ワルギリアは冷たそうにそう言い放つが、霧江にはそれが見え見えで、しばらくの間、くぐもった笑いを抑えられずにいるのだった。
 しかし内心は、一体、金蔵には何人の仲間がいるのかと驚いていた。少なくとも、金蔵を含めて、すでに10人もの敵を目撃しているのだから…。
 ……今、自分たちが閉じ込められている地下牢は、九羽鳥庵という秘密の屋敷の地下だという。この屋敷の存在は、囁かれながらも、今日まで蔵臼さえも知らなかった。
 そんな風な、金蔵以外に知らない施設がいくつも六軒島には存在し、金蔵しか知らない、未知の手下が何人も潜んでいたというのだろうか…? 一体、この台風で閉ざされた六軒島には、今、何人の人間がいるというのか…?
 いや、むしろ。この島にいる人数は18人なんて思い込んでいるのは、自分たちだけなのではないか……?
 ベアトリーチェはいるのか、いないのか、などと悩み、19人目の存在程度で頭を悩ませていた自分たちは、この島ではまさに井の中の蛙ではないのか…? いやいや、それどころか…。今や、敵の方がこちらよりも人数が多いのではないか…?
【霧江】「…………何が起こってるの、一体……。魔女? 悪魔? 魔法? ……それを信じろというの? おかしいのは私の目? それとも頭なの? …頭がどうにかなりそうよ………。」
 魔法にて繰り広げる大虐殺。宙より姿を現し、宙に消える悪魔たち。敵の人数がどうこうよりも、目の当たりにさせられている数々の、この世の常識では説明できない現象を、どう解釈すればいいというのか。
 ……霧江は何が何だかわからなくなり、全てを投げ出して降参したくなる気持ちと必死に戦いながら、正気を保とうと歯を食いしばるのだった…。
薔薇庭園
 当然だが、郷田も熊沢も、薔薇庭園の園芸倉庫に閉じ込められるなど、まっぴらごめんだった。……しかし逆らえば、人質たちの安全は保証されないと脅されている…。
 彼らはなかなか納得してくれなかったが、園芸倉庫に閉じ込めた後、窓の隙間からその鍵を彼らに託すことによって、むしろ彼らの安全が保証できるのではないかと考えるに至り、……毛布、食料を運び込むことでようやく納得してもらえたのだった。
【熊沢】「………ここは寒々しいですねぇ…。私たちはいつまでここに閉じ込められていればいいのでしょうか……。」
【譲治】「……下手をすると、月曜の朝まで、丸々一昼夜はいてもらうことになるかもしれない。……本当にお二人には申し訳なく思うよ…。」
 譲治は戦人と一緒に床の一部を片付け、そこに毛布を敷く。そしてそこに、運び込んだ缶詰やクラッカーなどの軽食を置いた。
【戦人】「月曜の朝までを二人でこの量じゃ、辛いな…。せめて厨房に寄れたなら…。」
【朱志香】「余計な場所には行くなと言われてる。……私たちは監視されてるらしいしな。………クソ。」
【郷田】「……何もお力になれないことを、申し訳なく思います……。こんな時に皆さんのお側にいてこその、私どもなのに………。」
【譲治】「仕方ないです。……それより、熊沢さんをよろしく頼みますね。…何が起こるかわからない。いざという時は臨機応変に助けて欲しい。そして何よりも、無事でいて欲しい…。」
【郷田】「…えぇ、わかっています。……皆さんこそ気をつけてくださいね。今のお館様は、……まるで人の命を、チェスの駒のように奪います。…気をつけて下さい。」
 郷田は俯き、未だに何が起こったのか信じられない、あの食堂での虐殺を思い出し、その恐ろしさを伝えきれずにいる自分の不甲斐なさに俯く。
【譲治】「ありがとう。………くれぐれも注意して下さいね。熊沢さんも。」
【熊沢】「……譲治さんたちも、くれぐれもご用心なさって下さいね……。もう、私には何が何やら、さっぱりわかりませんとも……。」
【譲治】「それじゃ、……僕たちは行きます。行こう、戦人くん。朱志香ちゃん。……ほら、真里亞ちゃんも。」
【真里亞】「…………うー。」
 閉じ込められる二人の痛々しい表情を見ていると、シャッターを下ろすのが辛くなる。しかし、逆らえない。……自分たちは監視されているのだ。
 シャッターを下ろし、施錠する。そして譲治は、倉庫の脇の小さな窓へ向かう。
 それは格子が入った小さな窓で、明かり取りと換気くらいしか出来ないものだった。まるで牢屋を思わせ、ますますに不憫な気持ちになるが、……逆に彼らを、金蔵とその手下たちから守ってもいると考えたい…。その窓を開け、呼び掛ける。
【譲治】「……大丈夫ですか、寒くないですか。」
【熊沢】「えぇ。毛布をこんなにいただきましたからねぇ。……包まっていればきっと平気ですよ。」
【戦人】「石油ストーブとかを持ってくれば良かったな……。」
【譲治】「……ここじゃ換気できないからね。辛いだろうけど、今は仕方がない。……僕たちは人質を取られている。逆らえない…。」
【戦人】「………畜生…。……何とか、霧江さんたちを救出することが出来れば……。」
 シエスタ姉妹と、真里亞のウサギ人形との関係を匂わせる描写。楼座に壊された人形が556ということになっている。
【譲治】「しっ。……聞かれてるかもしれないよ。………郷田さん、これ。そのシャッターの鍵です。」
【郷田】「……確かに。お預かりします。」
 郷田は鍵を受け取り、熊沢にもそれを見せた後、自らのポケットにしまう。
 園芸倉庫のシャッターの鍵はひとつしかない。それを、閉じ込められた彼らに持たせるわけだ。鍵を子どもたちが持てば、万一の時、奪われでもしたら、倉庫の彼らの命をも危険に晒しかねないのだから。
 それに、郷田たちに鍵が与えられても、内側から開くことは出来ない。金蔵の要求は満たす。
 だが、外側からももはや如何なる方法でも開けることが出来ない。これは彼らの安全を守る。金蔵に命令されての監禁だが、……この寒々しい密室が、この二人を守ってくれると信じるしかない。
 真里亞の手を握りながら、それを見守る朱志香は、真っ暗な薔薇庭園の茂みを見渡す。……この暗がりのどこかに何者かが潜んでいて、自分たちが命令に従っているかどうか監視しているのだ。
 もちろん、懐中電灯を向けたところで、そこに不審な人影が浮かび上がることはない。でも、きっと何者かが潜み、監視しているのだ。
 その何者かに怒鳴りつけたい衝動に何度も駆られる。……しかしそれを理性でぐっと抑え付けるのだった。子どもたち4人は、何度も振り返りながら、その場を後にする。
 園芸倉庫内の頼りない電球の灯りが、わずかに漏れている。……この狂った事件が何らかの形で決着し、……あの二人と再会することは、あるのだろうか。
 ……譲治は、自ら閉めたあのシャッターの手応えが、…二人を自らの手で殺してしまったかのような、そんな風に感じられるのだった。
【戦人】「………それでも、……俺たちは逆らえないんだよな……。」
【朱志香】「テストだと…。……クソジジイめ、ふざけやがって……! それで母さんたちが殺されて、父さんたちが捕まって……。理解できねぇぜ、ぶっ殺してやる…!」
【真里亞】「……大丈夫だよ、朱志香お姉ちゃん。悲しくなんかないよ……。」
【朱志香】「………真里亞……。」
【真里亞】「もうすぐ魔女は蘇る。………すぐに黄金郷で会えるよ。…きひひひひひひひひひひひ…………。あ痛。」
【戦人】「不謹慎なことで笑うんじゃねぇぜ。……何が魔女復活の儀式だ。……妄想は祖父さまの頭の中だけにしときゃいいものを、……大勢巻き込みやがって。………こいつは高くつくぜ、…畜生め……。」
【譲治】「………ゲストハウスに戻ろう。…お祖父さまから電話があった際に不在だったらまずい。」
 譲治に促され、一同はゲストハウスへと歩き出す……。その時、グルッと朱志香は振り返り、暗闇の薔薇庭園に向かって吼え猛った。
【朱志香】「………………おいッ!! 誰か見てんだろ?! ジジイに伝えとけ…!! 絶対にブチ殺してやるってなッ!! 行こう…!!」
 もちろん、誰かが返事を返すことはなく、風雨の唸り声があるだけだった……。
 子どもたちはゲストハウスへ戻る…。これから自分たちを何が待ち受けるのか、怯えながら。
 彼らが立ち去った後、………まさに朱志香が吼え猛った暗闇から、ぴょこっとうさぎの耳が生える…。
【45】「……ごめっ、ごめごめごめんなさぁいい…! バレてましたぁあぁ…!!」
【410】「45がすっトロいからバレたにぇ〜。に〜ひひひ〜、竜王さまに怒られるぅ〜♪」
【45】「ごめんなさいごめんなさい、竜王さまに言い付けるのは許してくださいいいぃい!」
【00】「黙れ静かに。どうせハッタリだ。…郷田と熊沢の監禁は確認した。任務完了。報告に戻るぞ。」
【45】「や〜い、や〜い にひひひひひひひひひひひひひひ! あ痛。」
【00】「連帯責任でニンジンと水だけの刑になりたいか。……行くぞ。」
 譲治が渡した鍵は「園芸倉庫」というプレートがついた偽物。事前にそうしろと指示を受けている。譲治はこの事件が狂言だと聞かされているため、外の人間が鍵を持っていたら危険だという発想はない。
ゲストハウス・いとこ部屋
 彼らが監視を受けているのは、確かに事実のようだった。いとこ部屋に戻り灯りをつけて、ベッドの上に横になったらもう電話が鳴ったからだ。
 これまでは、朱志香の家ということもあり、朱志香が受話器を取っていたが、今度は最年長者ということで譲治が受話器を取った。
 電話の相手は、今度は霧江さんだった。気を遣い、その受話器を戦人に譲る…。
【戦人】「………もしもし。霧江さんか? そっちは大丈夫なのか…?!」
【霧江】「心配をありがとう。…今のところは快適よ。…………………ごめんなさい、私語は慎めと命令されてる。今から伝えることをよく聞いて。」
 彼らが人質であるという事実は、何も変わらない。この電話だって、金蔵かその手下に聞かれているだろう。戦人は、色々と話したい気持ちをぐっと抑えて、霧江の話を促す。
【霧江】「テストは、朱志香ちゃん、譲治くん、戦人くん。そして真里亞ちゃんの順で行なわれるそうよ。………順番に呼び出すから、それまでその部屋を出ないこと。呼び出された者は、ひとりで指定された場所に向かうこと。」
 戦人はそれを復唱し、周りで聞いているいとこたちにもわかるようにした。
【戦人】「……朱志香、兄貴、俺、真里亞の順で、呼び出しがあるまで部屋にいろ、だな。……わかった…。……真里亞もなのかよ? 9歳の子にまで、クソジジイは何を強いる気なんだ、畜生め…。」
【霧江】「……………右代宮家の命運は、あなたたちに握られてるわ。……頑張って。」
【戦人】「……ん。……………あぁ。」
 戦人は、霧江の言葉の微妙なニュアンスに気付く。血が繋がっていないとはいえ、短くない縁から理解できるものだった。
 この期に及んで、右代宮家の心配など場違いだ。……霧江が伝えたいのはそういうことではないだろう。恐らく、“自分たちには地下牢から脱出する方法がなく、救出を待つ他ない。命は預けた”。……そういう意味なのだ。
【戦人】「あぁ、任せてくれ。どんなテストか知らねぇが上等だぜ。受けてたってやらぁ。………本気のテストなんだよな? …マジにやっちまって、……いいんだよな?」
【霧江】「……えぇ。本気のテストよ。お祖父さまも本気で試すつもりでいるわ。」
【戦人】「駄目だな、全然駄目だぜ。……死に掛けの老いぼれが、俺と本気? 寝言は棺に入ってから言いやがれ。そこにいる、ジジィに言っとけ。次期当主は俺だ。その最初の仕事は、てめぇの面に鉄拳ブチ込んでやることだってな…!」
地下牢
 その戦人の力強い宣戦布告は、霧江が復唱せずとも、金蔵の耳に届く…。
【金蔵】「ふっはははははははは!! 戦人ぁあぁ、それは実に楽しみであるぞぉ! 一度は右代宮の名を捨てた男が、何を身に付け、何の境地に至って我が前に現れるというのか、楽しみにしているッ!! そう伝えよ…!」
 残念ながら、金蔵のその声は受話器には拾われなかった。だから霧江が代弁する。
【霧江】「大いに上等だそうよ。……いい、戦人くん。手加減は不要よ。………あなたは留弗夫さんの息子。……いいえ、私の息子よ。誰に自慢しても恥ずかしくないところを、私にも見せて頂戴。………あなたに全てを託すわ……。」
【戦人】「了解だぜ、カーチャン。………後は任せておけ…!」
【霧江】「………私たち全員は当主跡継ぎの資格を失っている。……もう私たちは、取られてゲーム盤から外された駒も同然よ。だからあなたたちだけで、戦って。」
【戦人】「……………霧江さん………。」
 その言葉のニュアンスは………、“私たちはもう、諦めている。 …私たちのことは気にしなくてもいいから”。
 ……だが、………だからこそ、俺は諦めない……。絶対にテストとやら、ブチ壊しにしてみんなを救ってやる…!
【霧江】「それでは、……一番最初の、朱志香ちゃんへのテストの指示よ。……自分の部屋へ行け、ですって。」
【戦人】「自分の部屋?」
【霧江】「お屋敷の、朱志香ちゃんの自室って意味のようね。」
【戦人】「………朱志香に代わる。直接伝えてやってくれ。……朱志香。」
【朱志香】「も、もしもし……。…………はい、…わかりました…。」
ゲストハウス・いとこ部屋
【朱志香】「…………私からか…。……もう覚悟決めたぜ。行ってくるぜ!」
 朱志香だって、本当は年頃の少女として怯えたい気持ちもあるはず。……しかし、彼女はその気持ちを押し殺し、覚悟を決めた。
【譲治】「用心、……してね。」
【朱志香】「……私たちは監視されてんだろ。余計なことも出来ない。言いなりになるしかないさ。」
【戦人】「………食堂で、ジジイは何の躊躇いもなく、瞬く間に6人を殺したという。……それは、俺たちに対しても同じかもな。」
【朱志香】「わかってる。…………返り討ちにしてやるぜ。」
【譲治】「無茶は駄目だよ。………危険だと思ったら、自分を最優先にして。……蔵臼伯父さんが、自分のために娘が犠牲になったことを知ったら、胸が張り裂けてしまうに違いないから。」
【朱志香】「逆も同じだぜ。………父さんと母さんが殺されて、私だけが生き残ったら。私の胸だって張り裂けるぜ。」
【譲治】「…………………………。……戦人くん。さっきの話は、本当だよね……?」
【戦人】「あぁ。………霧江さんたちはもう、……覚悟を決めている。」
【朱志香】「なら、…なおのこと上等だぜ。……みんなの命は私たちの双肩に掛かってるってことだ。人質みんなは、囚われの身で何も出来ない。なら、私たちが何とかするしかねぇんだぜ。」
【譲治】「………もし、何かあったらゲストハウスに逃げ戻って。その時点で、僕たちがお祖父さまのゲームに付き合うのは終了だ。」
【戦人】「兄貴………。」
【譲治】「その時点で僕たちは宣戦布告。………どこかに閉じ込められている彼らを救い出し、お祖父さまには然るべき処遇を与える。」
【戦人】「……いいのか、兄貴。……紗音ちゃんもいるんだろ。」
【譲治】「……………………。……だからと言って、僕は座して、婚約者が殺されるのを待ちはしないよ。………僕が恐ろしいのは、お祖父さまに紗音が殺されるかもしれないことに怯えることじゃない。
僕の婚約者に恐怖を味わわせたクソジジイを、君らが僕より先にブン殴っちまうことだけさ。」
【朱志香】「なるほどな…。……確かにこいつは、次期当主を誰が決めるかってテストらしいぜ。」
【戦人】「だな。……クソジジイの顔面に、一番最初に拳をお見舞いしたヤツが、次の当主だぜ。」
 譲治、戦人、朱志香の3人は力強く頷き合い、拳をぶつけ合う。
 そして朱志香は、指定された自分の部屋へ、ひとり向かっていく……。彼女の姿が、暴風に揺れる暗闇の薔薇庭園に消えていく。……それを見送り、譲治と戦人は握り拳をさらに硬くし、震わせるのだった……。
 2階に残った真里亞は、窓から朱志香の背中を見送っている。その表情はきょとんとしたもの……。
【真里亞】「……みんなは何を息巻いてるのかな。………ベアトリーチェが蘇れば、みんな生き返らせてもらえるのにね。」
 もう、朱志香の姿は闇に完全に飲み込まれてしまっている。
 ……その時、再び電話が鳴る。戦人たちにも聞こえ、どたばたと大急ぎで戻ってくるが、それを待たずに真里亞が受話器を取る。
【真里亞】「……………もしもし。」
【紗音】「ま、……真里亞さまですか…? 紗音です。……譲治さまに代わっていただけますか。」
 今度の電話は紗音からだった。そしてその電話は、次の順番である譲治に、向かうべき場所を伝えるものだった……。
 霧江に電話させ、朱志香を自分の部屋に呼び出す。

次期当主

廊下
 朱志香は生まれてからずっと、……当たり前だが、この屋敷で育ってきた。いとこたちがお屋敷と呼んで萎縮するその洋館が、自分の家だった。
 なのに、今日ほどそのいとこたちの気持ちがわかったことはない。……そして同時に、自分がよく見知った自宅が、これほど別の場所に感じたことはなかった……。
 自分の、………部屋。そこはかつて、この広大な屋敷で唯一心を許せる、自分だけの隠れ家だった。しかし、……今ほど、その扉に威圧感を感じることはない。
【朱志香】「………テストだって…? ちぇ、一体、何が待ち受けてやがるんだ……。まさか、私の机とか、引っ掻き回してねぇだろうな……。」
 自らを騙すために、悪態をつく。……自分は何も恐れていないのだと、信じさせるために。覚悟を決め、自分の部屋の扉を開く。
朱志香の部屋
【朱志香】「………………………………。」
 ……幸いなことに、部屋が荒らされてるようには見えず、ほっとする。
 誰も、……いない。……もちろんだ。人が隠れられる場所など、あるわけもない。朱志香は咄嗟に、後手で施錠してしまう。……これで、この部屋は安全だ。
 ベッドの下もクローゼットも覗くが、もちろん誰も隠れていない。
【朱志香】「……な、……何だってんだ。……はは、…はは…!」
 時計を見る。……23時10分、ちょっと過ぎ。緊張が抜けて、全身に疲労感が蘇ると共に、今日一日がどれほど狂っているかを知った。
 まだ、23時なのだ。……いとこのみんなが集まって、楽しく遊んで、夜はみんなで色々な話に花を咲かせるつもりだった。
 本当だったなら、今頃まさにそうしていただろう。それが、……どうしてこんなことに……?
【朱志香】「………全部、あのクソジジイのせいだ……。……よくも、母さんを……。みんなを………。」
 怒りと悲しみで、頭がぐるぐる回る……。しかし、その矛先を向けるべき相手は、ここにはいないのだ。
 ……施錠によって、この部屋の安全は確保された。それをもう一度思い出すことにより、朱志香は何とか冷静を取り戻す……。
 もし、このまま何も起こらないなら。食堂に行き、母の死に顔を見たいと思った。……郷田から絶対に見るべきではない惨いものだと、あれほど念を押されていても、それでもなお、最後に母の顔が見たかった…。
 だが、余計なことをすれば人質に危害が及ぶと重ねて警告されている。……ひょっとして、鍵を掛けるのもルール違反に入るだろうか……? ここに閉じ篭っていれば、自分だけは助かるかもしれない。
 ……でも、開けなければきっとルール違反で、父さんや嘉音くん、紗音、霧江叔母さんに南條先生が、…殺される。…………5人の命と自分1人の命なんて、天秤が釣り合うわけもない。
 朱志香は、自分だけ生き残れれば良いではないかと囁く、もう一人の自分の声を硬く目を瞑って耐え、……扉に向かい、鍵を外そうとした。
 ……その時。パチ、パチ、パチ……。乾いた拍手が響き渡り、朱志香の心臓を飛び上がらせた…。
【ロノウェ】「鍵を掛けたままなら、ルール違反ということになり、人質たちにも危害が及ぶかもしれません。……しかしそれでも、自分の命だけは助かるかもしれない。
 しかしあなたはその誘惑に耐え、自ら鍵を開けようとした。そのあなたの勇気は賞賛に値しますよ。」
【朱志香】「だ、誰……………、」
 この部屋に、人間が隠れられる場所など、ないって、……この部屋の主である私が調べたはずなのに、………この、男は、どこから。
 ………ニンゲンが隠れられる場所はないけど、……ニンゲンじゃない存在なら、隠れられたのかな………。
 その、大柄な中年の男は初対面のはず。……片翼の鷲の紋章があしらわれた、執事のような姿をするその男に、面識はなかった。
【ロノウェ】「初めまして、朱志香さま。………私はお館様より家具頭を任されております、72柱の27位。ロノウェと申します。」
【朱志香】「……ろの、うえ……? …………源次、さん…………?」
【ロノウェ】「……あぁ、…源次は、私の弟のような存在。あるいはこの世界における、私の正しい姿だったのかもしれません。……依り代だった、と言ってもよいでしょうな。」
【朱志香】「………何を、言ってんだ、こいつ…………?」
【ロノウェ】「おっと、これは失礼しました。ニンゲンには話しても理解できぬ話。………それでは本題に移りましょう。」
【朱志香】「クソジジイの言う、……テスト、とかいうヤツだな………。」
【ロノウェ】「左様でございます。こちらが、お館様が朱志香さまに賜れました、テストでございます。」
 ロノウェが優雅に、まるで、料理の配膳を命じる執事のような仕草をすると、どこからともなく、たくさんの黄金の蝶が舞い上がる……。
【朱志香】「んなッ?! 何だよ、これ……?!」
 黄金の蝶の群は、小さな渦を作るようにぐるぐると回りながら一箇所に集まる。
 ……するとその蝶の小山は、木枯らしに吹かれて消え去る枯葉の山のように消え、……そこには片翼の鷲の紋章が箔押しされた、洋形封筒が置かれていた……。
 ロノウェは、どうぞという仕草で、それを拾うよう促す。朱志香はおずおずと、それを拾い上げ、中の手紙を開いた……。
【朱志香】「…………………何だ、これ……。」
【ロノウェ】「非常にシンプルな、次期当主の資格を探るテストでございます。……そこに記されている問いに、どうか右代宮家を担う次期当主としての心構えで臨んでいただき、答えと、それに至ったお考えをお聞かせ下さい。」
【朱志香】「……ば、…………ばっかやろう……………、」
 朱志香はわなわなと震えながら、文面とロノウェの顔を何度も比べるのだった……。
 朱志香はシナリオ通りに動いているだけであり、怖がっている描写も含めて全て幻想。朱志香の部屋には、しばらく待機するようにとのメモでも置いておけば、時間を稼ぐことができる。
薔薇庭園・東屋
 ……その頃、朱志香に続いて呼び出された譲治の姿は、薔薇庭園の東屋にあった。
 本当なら、今夜の今頃、ここで紗音に婚約の証である指輪を渡すつもりだったのだ。…しかし、今、譲治の前にいる女は、紗音ではない。
【ガァプ】「……読みなさい。それがゴールドスミスからあなたに与えられるテストよ。」
【譲治】「…………………………。」
 譲治は、かつて紗音と紅茶を飲んだこともある、そのテーブルに置かれた、洋形封筒を拾い、その中身を読む……。内容は短いのだろう。一目見て、すぐに譲治の目が厳しくなる。
【譲治】「…………何だい。これは。」
【ガァプ】「うっふふふふ。……見ての通りよ。それがあなたに与えられる、次期当主の資格を探るテスト。……次期当主としての資格を自らに問いながら、その問いに答えなさい。」
【譲治】「………何て、馬鹿な問題だ。」
【ガァプ】「そうね。本当に馬鹿な問題ね。………なら、ゴールドスミスにとっての右代宮家の家督なんて、その程度のものなんじゃない? ……ふふふ。」
 譲治は再び手紙の文面に目を落とし、その内容を検める……。譲治と朱志香。……二人に与えられたテストは、わずかの違いはあるものの、限りなく同じものだった。
【譲治】「……“以下に掲げる三つの内。二つを得るために、一つを生贄に捧げよ”。」
【ガァプ】「簡単な三択じゃない。………どれを見殺しに選ぶか、自ら決めなさい。
 選択を拒めば、テストは中断。私の手で、あなたをこの場で殺してしまってもいいって許可をもらってるわ。………それさえも選択肢に含めるなら四択ね。私、君みたいな子と遊ぶのはずいぶん久しぶりだから、それも嫌いじゃないわよ。」
【譲治】「………この三択は、あくまでもテストなのか。それとも、選択は結果を伴うのか。」
【ガァプ】「何を甘えてるの。……君が選択した者は、必ず命を落とす。」
【譲治】「…………………………………。」
 以下に掲げる三つの内。二つを得るために、一つを生贄に捧げよ。一.自分の命 二.紗音の命 三.それ以外の全員の命 何れも選ばねば、上記の全てを失う。
【譲治】「……………どうして、紗音の名がここにあるんだ。」
【ガァプ】「二番目の選択肢には、その者がもっとも必要とする、愛する者の名が。……朱志香へのテストの二番には、嘉音って書かれているはずだわ。」
【譲治】「………この馬鹿な問題を、朱志香にも出したのかい…。」
【ガァプ】「くすくすくす。……朱志香のことなんかどうでもいいでしょう。今、試されているのはあなたよ。実に簡単な三択だわ。他の二つのために、どれを捨てられるかということよ。……簡単でしょう? それでも決まらないなら、コインでも貸してあげようかしら……?」
【譲治】「……コイン? 二面しかないものでどうやって三択を?」
【ガァプ】「自分の命を捨てられる者が、いるわけがない。……となれば自ずと残る選択肢は2つになる。愛する者のために、全ての人間を諦めるか。ひとりでも多くを救うために、愛する者一人を諦めるか。
 どっちにも、もっともらしい大義名分が付けられるわ。だって、今やこの六軒島は悪魔の島ですもの。
 ……ニンゲンの世界の、甘ったるい馴れ合いなんて必要ないの。誰も責めないわ。あなたの心の趣くままに。……右代宮家の家督を継ぐに相応しい資格が自らにあるかを問いながら、
 いいえ、自らが右代宮家当主であると思って選択なさい? うっふふふふふふふふ……。」
【譲治】「……………………………………。」
朱志香の部屋
【朱志香】「………馬鹿に………しやがってッ…………。」
 朱志香は手紙をぐしゃぐしゃにすると床に叩き付ける。
【ロノウェ】「お怒りはごもっともと思いますよ。……私も、非常にお気の毒で、それでいて実に滑稽な出題だと思います。……ぷっくっくっく。」
【朱志香】「自分から死にたいと願う人間なんて、いるもんか。そして、あ、…愛する人の命を見捨てて生き残りたいと思う人間なんて、いるもんか。……そして、……自分たちだけ良ければ、他の人間全てを見殺しに出来る人間なんて、……いるもんか…ッ…!」
【ロノウェ】「いいえ、朱志香さま。居ても良いのでございますよ。ここは六軒島、悪魔の島! 今やニンゲンの世界から完全に切り取られ魔界にどっぷり、チーズフォンデュのように沈んでおります。人の世の価値観など、次の燃えないゴミの日に出してしまいますとも。
 ぷっくっく! ですからどうか。朱志香さまが心より欲するものを、順にお選び下さい。その結果、残ったものが、この狂った今宵に相応しき朱志香さまの回答となりましょう。」
【朱志香】「ふざけるなッ!! こんなの、……どれも選べるものかよ!!」
【ロノウェ】「“何れも選ばねば、上記の全てを失う”、も、立派な第四の選択肢でございます。それを選ばれるのもまた、一興でございましょう。
 ただ、それを選び結局自らの命を落とされるなら、潔く一番の“自分の命”を選び、他の2つを救われた方が賢明かと思いますよ。……全ては朱志香さまの選択に委ねられます。
 どうぞ、右代宮家の跡継ぎに相応しい回答と、その信念をお聞かせ下さいませ……!! このロノウェ、お館様の血を引きし末裔に相応しき、素晴らしい回答を心より期待いたしておりますッ!!」
【朱志香】「ち、……畜生ぉおおおおぉおおおおお……。」
書斎
 その光景は、金蔵の持つ魔法の水晶玉で観察されていた。
 金蔵はとうとう堪え切れなくなり、両手を広げて天を仰ぎながら、割れんばかりの声で大笑いし始める……。
【金蔵】「ふははははははは、わあっはっはははははははははッ!! 何を迷うか、愚かなる孫たちよ、我が末裔たちよッ!!
 即答できる簡単な問題ではないか。朝のトーストに、バターを塗るかジャムを塗るかより迷わぬ選択であるというのに!! ……お前たちには正しい答えがわかるか?」
 その後で控えていたシエスタ姉妹にぎょろりと振り返る。
【45】「い、いいえいいえッ、申し訳ございません、私にはわかりません、ゴールドスミス卿!」
【金蔵】「愚か者めッ、選べもせぬとはな、ゲームオーバーああぁあッ!!! 自らの生きる理由も目的も見出せん愚かなうさぎめッ…!!
 貴様など誰にも気付かれずに踏み潰されて生を終えるアリ1匹ほどの価値もないわ!! 死ね!潰れろ!!私が瞬きしている間に消えてなくなれッ!! ……お前はどうか。」
【00】「……私は1番の、“自分の命”を生贄とするであります。武具は戦い、散ってこそであります。そして武具は、敵を打ち滅ぼし、味方を守るためにある。愛する者たちを守って死ねるなら本望であります。」
【金蔵】「ほお。武具らしい実に見事な模範解答よ。即答、大いに結構。……そう答えればニンジンが1本余計にもらえると教えられてきたのか? ふっふふふふ違うよなぁああぁ? それすらも違うよなぁあああぁあ…?
 そう聞かれたらそう答えよと、お前はただ吹き込まれた通りに答えたに過ぎなぁあい!! お前も今のうさぎと同じだ。自分の生きる理由と目的を、未だに見出せずに生きている…!! 生きる価値なきクズめッ…! 貴様など潰されて他の家畜の餌にでもなるのがお似合いよッ!!」
【00】「……………ッ。…はっ! か、家畜の餌、光栄であります……!」
【金蔵】「違うだろぉおおおぉ? もう誰も死ぬところを見たくないんだろぉおお? それがなぜ認められぬのか。認めろよ、お前の古傷の奥の奥が未だに膿んで腐っていることを…! あぁ、腐臭にて鼻が曲がりそうであるわ、愚かなる腐れうさぎめッ!! お前にはこれが褒め言葉であるッ!!」
【00】「………あ、ありがとうございます、であります……。」
【金蔵】「さぁて、最後のお前はどうか。この三択から何を選ぶ…?」
【410】「にひ。迷うことなく当然、2番であります。」
【金蔵】「ほぉ…。2番か。“愛する者”を生贄に捧げることを胸を張って選べる者は多くない。訳を聞かせよ。」
【410】「愛する者は、いつかいなくなるからです。愛する者がいなければ、傷つかないし、いなくてもいつか、また誰かを愛せるかもしれない。だから。今、愛してる者なんて、大した価値はないのですにぇ。……にひ!」
【金蔵】「くっくくくくくく。なるほど、それでそういう回答になるわけか、愛に傷ついたがゆえに臆病になったうさぎよ……。うさぎは寂しさで死ぬと聞いたが、お前の心は一体いつ殺されたというのか…?
 ならばうさぎよ、問いを変えよう。2番の選択肢を、“愛する者”ではなく、“そなたが愛した者の思い出”に変えようではないか。
 ……どうか。これでももう一度選べるかぁ? 何が愛してる者に大した価値はないだ、愚かなうさぎよ…! 自らの愛の深さにも向かい合えぬクズめッ!! 選んでみよッ、愛した者を忘れられると、選んでみよぉおおおおおッ!!
 選べるだろ?選べるものなぁあああぁ?ほおおら選べるって言ってみろよおおぉおおおおッ?!?!」
【410】「え、…え、選べるであります…。選べるであります…!! にひ、………にひひひひひひひひひいひぃ……。」
【45】「ゴ、ゴールドスミス卿…! それくらいでどうかお許しを……!!」
【410】「ひひぃひぃ…。……ひぃいいいいぃいいぃん…!!」
【金蔵】「もう良いわッ、クズうさぎどもめッ!! お前たちはワルギリアのところへ行き、地下牢の見張りを手伝うのだ。消えよ!!」
 シエスタ姉妹たちは、それぞれの心の古傷を抉られ、逃げ出すように姿を消す。後には、誰も聞く者はないのに金蔵がひとり、演劇を続けるかのように話を続ける…。
【金蔵】「……と、このように愉快なテストなわけだ。実のところを言えば、これが正解という選択肢はない。むしろ、どの答えであろうとも、澱みなく、素早くッ、そして確固たる信念と揺るがぬ強き自らの意志で選べるかどうかッ!!
 その理由と意思の方が重要なのだ。………私はそれを知りたいのだよ。あぁ、我が末裔たちよ、お前たちはどのような答えを見せてくれるのか、実に楽しみだッ!!
 …………んん? 私か? くっくくくくくくく! あぁ、もちろん同じ問いを突きつけられたことがあったとも。その悪魔の問いに見事答えたからこそ、私は黄金と名誉と、あの魔女を我が物とすることが出来たのだよ。私が選んだ答えはどれかぁあぁ? ………言うまでもないよなぁ。わっはっははははははははははははははははははははは…ッ!!!」
朱志香の部屋
【ロノウェ】「さて。そろそろ答えは決まりましたでしょうか……?」
【朱志香】「……………………………。」
 朱志香は、握り潰されて床に転がる手紙をじっと見ながら、……ずっと俯いて黙っていた。
 部屋を満たすのは、風雨の音と梢の擦れるざわめきだけ。それはどれだけ賑やかであっても、むしろ静寂を引き立てるのだった。
 ロノウェは朱志香の答えを待つ。……しかし、朱志香は答えない。それが沈思黙考なのか、思考停止なのか、ロノウェには区別がつかない。
 ……いや、…本当はわかっているのかもしれない。だが、ロノウェは、悪魔らしく意地悪に、……それを朱志香に口にするよう促す。
【ロノウェ】「………どれも選べないというなら。……そのお命、せめて痛みがないよう、安らかに頂戴させていただきますが、…さて……?」
【朱志香】「……………………………。………せよ。」
【ロノウェ】「……はい? 聞こえかねました。もう一度、お願いできますかな……?」
 朱志香はゆっくり顔を上げて、……ロノウェの目をまっすぐ見る。……どうやら答えは、決まっているようだった。
【朱志香】「…………殺せよ。」
 朱志香はもう一度、……はっきりとそう言った。
 ロノウェは、その答えを初めから想像していたのかもしれない。……驚くことなく、薄く笑って頷く。
【ロノウェ】「……朱志香さまなら、そのお答えを選ぶと思っておりました。……さて、このテストは、どの選択肢が正解・不正解というものではありません。重要なのは、どのような考えを経てその答えに至ったか、という部分です。
 さぁ。朱志香さまの、そして次期当主としての心構えをもって、それをお答え下さい。」
【朱志香】「…………別に、死にたくて一番目を選んだわけじゃないさ。……二番の、嘉音くんを死なせること。こんなの、もちろん論外。だから除外。……三番の、その他みんなの命。こんなのも、もちろん論外。だから除外。……そしたら、一番目の選択肢しか、残らなかった。」
【ロノウェ】「消去法、……ですか。積極的にお選びになったわけではない、と……。」
 ロノウェは、薄く、ふっと笑ってから目線を落とす。
 ……悪魔が期待した答えがどのようなものなのか、ニンゲンには想像もつかない。……少なくともわかるのは、ロノウェの期待するものよりは少し劣るものだったらしい、ということだ。
【ロノウェ】「……悪くはありませんが、良くもない回答です。……60点、というところでしょうか。……少し、失望しましたよ。」
【朱志香】「自信を持って選べと言っておいて、そうしてやったら失望とは、自分勝手な野郎だぜ。」
【ロノウェ】「………消去法、というだけではないようですね。…いずれにせよ、落第点ですが、……もう少しお考えがあるようだ。うかがいましょう。」
【朱志香】「死にたくないさ。……だから一番なんて、誰だって選びたくない。……人は、幸せに生きたくて、生の限りを足掻いてるんだぜ。だから本当は、まず一番目なんてありえないはずなんだ。」
【ロノウェ】「………しかし、あなたは一番目の選択肢。自分の命を捨てることを選んだ。その選択肢しか、残らなかった。」
【朱志香】「一応、……それぞれの選択肢を選んだ後の未来のことを、考えてみたぜ。」
【ロノウェ】「……ほぅ。いかがでしたか…?」
【朱志香】「まず、………嘉音くんを、死なせてみた。………私は、自分の大好きな人を見捨ててまで生きる残りの生涯を想像してみた。」
【ロノウェ】「それはどんな生涯でしたか…?」
【朱志香】「生きるにも値しない、最低の女だった。いつまでも自らの選択を悔やみ、ただ後悔だけのために生きるみすぼらしい女だった。……大好きな人を見捨てて生きることを選んだ、最低の女なんて、私には許せない。……私が自ら引導を渡してやる。」
【ロノウェ】「ふふ、勇ましい。………では、三番目の選択肢も考えられたのでは?」
【朱志香】「……あぁ。私と嘉音くん以外の全員を死なせてもみた。……嘉音くんは、そんな私を好きになるはずはない。
 そして私もまた、いくら嘉音くんがいても、そのために見捨てた大勢の命が、生涯十字架となって圧し掛かってきた。……そしてその十字架は、嘉音くんにまで圧し掛かった。
 ………私は、嘉音くんに十字架を背負わせるために、愚かな選択肢を選んだりは、しない。もしそんなことをする私がいたなら、………私はその未来の私を許さない。…その女にも、私が引導を渡してやる。」
 朱志香は思い描いたのだ。三つの選択肢それぞれの向こうにいる未来の自分を。
 三人の朱志香がいた。……三人の内、二人は後悔していた。一人だけが、胸を張って、嘉音に微笑むことが出来た。
【朱志香】「……私さ、生意気にも、嘉音くんに説教をしたことがあるぜ。……自分の人生を、思い切り生きてみろ、みたいなことを。」
【ロノウェ】「自分の人生を思い切り生きる。……味わいある言葉ですね。それは意外に、とても難しいものです。」
【朱志香】「だからさ。私が胸を張って、嘉音くんに見せなきゃならないんだよ。………胸を張って、お天道様を真正面から見て、思い切り笑顔でいられる生き方ってやつを。」
【ロノウェ】「……あなたの自己犠牲を、嘉音は受け容れられるでしょうか? あなたの身勝手な選択が、余計に彼を傷つけてしまうことには、思いが至りませんか…?」
【朱志香】「だから、伝言を頼みたい…。」
【ロノウェ】「ほぅ。……お聞きはしますが、何しろ私は悪魔です。…約束は守らないかもしれませんよ?」
【朱志香】「………守って! 約束!」
 朱志香はあっけらかんと、そう言う。これから命を奪おうとする悪魔に伝言を頼み、それが裏切られると、微塵も思っていないのだ。
 ……その、あまりに無垢な笑顔に、ロノウェは薄く目を閉じ、肩を竦めた。
【ロノウェ】「ふっ……。………いいでしょう。それで? 彼に何と伝えればよろしいですか…?」
地下牢
『……嘉音くんの、思い切りの人生を、生きて。……うぅん、ちょっと違う。嘉音くんの、じゃない。……本当の名前は未だに教えてもらえないけど。本当の嘉音くんの人生を、思い切り生きて。………そう伝えて。』
【嘉音】「……………お嬢…様……。」
【蔵臼】「……朱志香……、……お前というやつは…………。」
【ワルギリア】「ロノウェは気まぐれですから、伝言をしなかった可能性もありました。……幸運でしたね。私がこの光景を見せていて。」
 鉄格子の向こうには、古ぼけた三面鏡が置かれ、……朱志香の光景が映し出されていた。隣の鏡には、同様に譲治の光景も映し出されている。
 黄金の蝶が群れ集まって三面鏡が現れたとか、なぜ鏡に朱志香や譲治の光景が映し出されているのか、彼らはいちいち疑問には思わなかった。……大切なのは、映っている光景だったからだ。
【蔵臼】「…………そこまで…。……こいつのために、……命をも投げ出せるというのか………。」
【嘉音】「……………………………。……申し訳、……ありません…。」
 蔵臼は苦笑いの混じる複雑な表情で嘉音を見る。……嘉音は目を合わせられなかった。
【嘉音】「……ワルギリアさま。……お嬢様が命を落とされることはありません。……僕を殺して下さい。二番目の選択肢に、変えて下さい。……それで、全ては丸く収まるはずです。」
【ワルギリア】「ほっほほほほほ…。その願いを、私に叶えることは出来ませんよ。……これは朱志香の選んだ自らの選択なのですから。」
 その時、突然、空間が割れて、シエスタ姉妹が出現し、ワルギリアの胸に飛び込んだ。
【410】「ワルギリアさまぁああぁあぁっ! ひいいぃいいいぃん!!」
【45】「ひどいんですひどいんです、ゴールドスミス卿がひどいんですぅうぅ、うわあぁああん!」
【00】「私だって……、がんばってるのであります……。潰して家畜の餌とか、あんまりであります。……ううううううううぅうぅ!!」
 泣きじゃくるシエスタ姉妹に揉みくちゃにされ、ワルギリアは何が何だかさっぱりわからない。
【ワルギリア】「は、はいはい、大丈夫ですよ大丈夫ですよ、泣かないで泣かないで……。美味しいお紅茶を淹れてあげますからね……。……お前たち、ここの見張りを任せます。不審な真似をしたら、すぐに知らせるのですよ…!」
 山羊の従者たちは、互いに顔を向き合わせ、ウンウンと頷いた。
 ワルギリアはシエスタ姉妹を伴い、立ち去っていく。階段を上がる音が聞こえたから、上の階へ行ったのだろう。
【霧江】「………チャンスだわ。……この山羊頭どもは頭が悪いみたい。……うまく騙せないかしら…。」
 霧江はチャンスの到来を悟るが、それでも鉄格子を破る方法は思いつかなかった……。
 三面鏡に映る朱志香は、観念するかのように、目を閉じる。……両手をポケットに突っ込むその姿は、最後くらいは突っ張っていたいという、彼女なりの美学かもしれない。
【朱志香】「…………私の言い分は以上だ。………殺せよ。」
【ロノウェ】「……わかりました。…………それでは。……ご安心をあなたへの死は、どんな眠りよりもやさしく、慈悲深いものにいたしますよ。」
 ロノウェは手の平を掲げながら、……ゆっくりと朱志香に近付く……。
【蔵臼】「くそおぉおおおぉ!! うお!! うが!!」
 蔵臼は娘が殺されることを察し、半狂乱になりながら鉄格子に体当たりを繰り返す。山羊たちは、ニンゲン風情に鉄格子が破れるはずがないと嘲笑っているように見えた。
 確かに、蔵臼のその無駄な努力は滑稽だっただろう。……しかし、蔵臼は、思い切りだった。朱志香の父として、彼女を救うために、思い切り、今を生きていた。
 ………嘉音は両手をぐっと握り締める。自分の呪われた力を使えば、鉄格子を切り裂くことも出来るかもしれない。
 ……しかし、山羊が3人もいる。…瞬時に3人を倒すなど出来ない。すぐに通報され、ワルギリアにシエスタ姉妹までもが駆けつけるだろう。
 鉄格子を破ることは出来ても、……そこまでなのだ。……無駄なのだ。……そういう無駄な努力を、あの魔女は嘲笑っているのをもう知っているから、……嘉音は蔵臼の繰り返す体当たりを、ただじっと見ているしか出来ない…。
【紗音】「……あ、…………譲治さま……。」
 三面鏡を見ていた紗音が声をあげる。
 …見れば、ずっと沈黙していた譲治が顔を上げている。……譲治もどうやら、答えを決めたらしい…。
薔薇庭園・東屋
【ガァプ】「…………決まった? 君の答え。」
【譲治】「あぁ。………決まったよ。」
【ガァプ】「それは揺るぎ無い答え…?」
【譲治】「あぁ。揺るぎ無いね。」
【ガァプ】「なら、聞かせてもらうわ。………あぁ、ちなみに。朱志香はどうも“自分の命”を差し出すことを選んだようよ。まさか、優柔不断な君も、同じ答えを選んだって言うんじゃないでしょうね……?」
【譲治】「……朱志香は、朱志香の答えを出したのさ。……それがどの選択であろうとも、それは朱志香の答えだ。僕の答えに何も干渉しないよ。」
【ガァプ】「そう。なら改めて聞くわ。…………以下に掲げる三つの内。二つを得るために、一つを生贄に捧げよ。一.自分の命。二.紗音の命。三.それ以外の全員の命。………あなたが選んだのはどれ? まさか朱志香と同じ一番?」
【譲治】「………違うね。」
【ガァプ】「へぇ……。」
 ガァプは少しだけ驚く。……気弱そうな男がどうせ選ぶ選択肢はそれしかないだろうと思っていたからだ。
【ガァプ】「…………………。……なら良かったわ。私にとって一番退屈な選択肢が外れてくれて良かった。……じゃあ、まさかとは思うけど、……二番? 紗音の命を、見捨ててみせる……?」
【譲治】「………まさか。今夜まさに婚約指輪を贈ろうという相手を、どうして僕が?」
【ガァプ】「……………………。………これは大胆だわ。それが君の答えなの……?」
【譲治】「………そうさ。……僕の答えは、……三番さ。」
 譲治が選んだのは、………三番目の選択肢。……“それ以外の全員の、命”。その答えを、さすがのガァプも想像できなかった。
 ……どうせ朱志香と同じで一番だろうと思っていたのに……。だからこそ、なぜその答えに至ったのか、興味を持った。……72柱の33位の悪魔である自分の想像を裏切る答えに、どう至ったのか。
【ガァプ】「聞かせてほしいわ。………自分と愛する婚約者だけが無事で、それ以外の全てを犠牲に出来る境地というのを、聞かせて欲しいわ。……あなたも朱志香と同じで、消去法というやつ?」
【譲治】「違うね。はっきりこれしか、僕には選択肢がないのさ。」
【ガァプ】「……………自分さえ良ければいいと? 愛する女と引き換えに、世界を犠牲に出来ると…?」
【譲治】「君は、何を言っているんだい。」
【ガァプ】「…………何………。」
 悪魔に向かって、まるで呆れるかのように、譲治はそう言い放つ。
【譲治】「……僕は今夜、ここに。紗音を呼び出し、婚約の証である指輪を渡すつもりだった。………僕と紗音の婚約を祝福しない者も、きっと多いだろう。僕は彼女との婚約を宣言することで、親族全てを敵に回すと、覚悟していた。
 僕にはあるんだよ。この島に訪れたその時から、………いや、違う。………彼女に婚約したいと打ち明けたその時からね。」
【ガァプ】「…………結婚さえ出来れば、他の何もかも犠牲に出来る、と……?」
【譲治】「結婚とは。……自分は生涯、妻の味方であり続けるということだ。………僕にはその時点で。……彼女のために、世界の全てを敵に回す覚悟があるんだ。」
地下牢
 その言葉を、三面鏡越しに、……紗音も耳にする。そしてその決意を、目にする。
 ………紗音は確かに今夜、婚約指輪を渡される約束をしていた。そしてこのような事件が起こってしまい、指輪を受け取ることが出来なかった。
 しかし、今。………指輪の形を成さないだけで、……それ以上の何かを、紗音は受け取る。
 ……その証拠に、……ダイヤと同じ輝きの涙が一粒、…零れたから。
薔薇庭園・東屋
【ガァプ】「ふ、……うふふふふふふ……! それは何とも奮った答えだことね。………なるほど、よく考えたら、君にこれは気楽な選択肢だわ。
 だって、君の両親は、第一の晩に、すでに殺されちゃってるんだもんね? 今さら君にとって、死んで困る人間は誰もいない。
 はっははははははは、なるほどね、これは簡単な選択だったわ。あはははははははは……。」
【譲治】「何とでも言うがいい。これが僕の、……そして、僕の次期当主としての覚悟と、選択だ。」
 譲治の目に光る輝きは眩しく鋭い。…その中に、一瞬だけ金蔵と同じ凄みを感じ、ガァプはわずかに気圧される。
【ガァプ】「………なるほど。……ゴールドスミスと同じ答え、というわけ……。……君も、あどけなさそうな顔して、……将来はとんだ悪魔になるわけね。……何だ、私たち、とてもうまくやれそうじゃない。
 君がゴールドスミスの後を継ぐ。そしてやがては私は召喚され、君に仕えることもあるかもしれない。……それも案外、面白いかもしれないわね。………ふふ。」
 ガァプは譲治に対する認識を改める必要があった。……この男には、外見からは想像もつかない決意と覚悟を、今この場でなく、……すでに最初から背負っているのだ。
【譲治】「僕には、今すぐ当主を継承する覚悟がある。………いや、違うね。君はこのテストを、当主として考えろと言った。だから僕は自分が当主であると前提して答えたんだ。
 ………いや、それすら違う。当主そのものとして考えた。……僕は今、右代宮家の当主なんだ。」
【ガァプ】「…………………………………。うっふふふふふ……。見事だわ、そこまで言えるなんてね。君はどうやら、かなりの大物だわ。……戦人と真里亞のテストはまだだけど、私は君が合格でいい気がする。
 …………でも、その答えが、掛け値なしの本当のものならね?」
【譲治】「…………僕の覚悟を、疑うというのか。」
【ガァプ】「君が選んだ選択肢を、実行できる? 今すぐ自らの手で、この島に存在する全ての命を生贄に捧げることが出来る……? 自らの手でよ…?」
【譲治】「出来るね。その覚悟はあると、僕は何度も言っている。」
【ガァプ】「は、…………はははははは! ならば今すぐゲストハウスに戻り、戦人と真里亞を殺しなさい! それが終わったら他の人質たちも連れてきてあげる。君の手で紗音以外の全員を、その目の前で処刑して見せるのよ! 出来るんでしょう?!」
【譲治】出来るね。僕の覚悟は、君程度のそれとは、レベルが違う。」
【ガァプ】「………………………くっ。ならば実行しなさい! 全てに死を! 新しき右代宮家の当主として、この血塗られた儀式の遂行を…!!」
【譲治】「……了解したよ。実行する。僕は今やもう、右代宮家の当主だ。」
【ガァプ】「えぇ、そうよ! 自らの手でその玉座を赤く染めなさい…! 君は悪魔たちを統べる魔界の王となる…!!」
 ガァプは確信する。この男こそ金蔵の狂気を受け継ぐに相応しい…!
【ガァプ】「吹けよ嵐、鳴らせよ雷鳴!! 新しき魔王の誕生を祝うがいい!! 悪魔の島は今っ、新しい王を迎えた…!!」
 悪魔の呼び掛けに応え、ますますに暴風は荒れ狂う。そして巨大な稲妻が落ち、そのつんざく轟音と眩い光で一瞬だけの静寂を感じさせた……。
【譲治】「でさ。…………その殺害の順番だけど。僕が決めていいわけだよね。」
【ガァプ】「どうぞご自由に、新しき六軒島の魔王陛下。あなたの御心の趣くままに…!」
【譲治】「………とりあえずさ。その一番目が、君になるわけだけど、いいかな。」
【ガァプ】「…………………………え?」
 一陣の風が吹き、……譲治のジャケットを、まるでマントのように煽る。それはまさに当主が羽織るマントのよう。その貫禄を、確かに感じさせた……。
 ……その時、……ガァプは確かに嵐が掻き消え、真っ白で巨大な満月が空を覆ったのを見た。満月を背負う、新しき当主を名乗る男が、悪魔を嘲笑う。
【譲治】「右代宮家親族の全ての命さえも、……今や僕の財産だ。それに損害を出してくれた賠償。安くは済まないよ。
 ……まさか、僕の両親に、夏妃伯母さん、留弗夫叔父さん、楼座叔母さん。そして源次さんの命を奪っておいて、この僕が見逃すと本気で思ってるのかい。」
【ガァプ】「ほ、………ほほォ…………生意気を……。」
 ロノウェは、その手の平を朱志香の胸に当て、心臓を停止させるつもりだった。しかし、その直前で、手は止まっていた……。
 ……二人の足元の絨毯に、……小さな赤い花が、ぽとりぽとりと、一輪、二輪と花開く。その花の種子は、……高く高く、…天を突くかのように高く突き上げられた、………朱志香の拳から。
 ロノウェの鼻が、噴出した血で真っ赤に染まり、……その雫が絨毯に零れていたのだ。
【朱志香】「………ちなみに、さっきのは乙女としての回答な。……次期当主としての回答は、別だぜ。」
【ロノウェ】「お伺いしますよ……。」
【朱志香】「……大好きな人も、家族も親族もみんなみんな!! 私が守る。私が当主なら、それは私の責務だッ! お父さんは威張ってるだけじゃない。私や母さんを守ってた!! ……右代宮家を受け継ぐ重圧ってヤツと、……何十年も戦ってたッ!!
 だからわかるぜ。……次期当主ってのはな、軽くねぇんだよ。……だからさ。捨てられるんだよ。……自分の命くらい、簡単に賭けられちまうんだよッ!!」
 朱志香は知っている。家族を守るために、父親が虚勢を張りながら孤独に戦い続けていることを知っている。その背中が物語ってきた何かを、朱志香は理解している!
 左ストレートが再びロノウェの顔面に打ち込まれる。……その凄まじき一撃はメリケンサック使用によるものだけではない。それこそが、守るために何もかもを捨てられる者の、当主たるものの、一撃。
【朱志香】「父さんが次期当主の資格を失ったなら。順当に次の当主は私が継承するぜ。……右代宮家当主、右代宮朱志香ッ!! これ以上を好きにさせるほど腑抜けちゃいねえぜッ!!」
【ロノウェ】「…………素晴らしい回答です。先ほどの点数を改めましょう。その回答に10点プラス。……見事な左ストレートに10点プラス。」
【朱志香】「ってことは、あと20点プラスで100点満点だな?」
 ロノウェは後方に宙返りして飛び退くと、鼻より噴出している血を、乱暴に拭い捨てる。……それは血ではなく、赤い薔薇の花びらになっていた。
 顔の血は拭われ、……代わって、何百年ぶりに感じたかも思い出せない歓喜に、にやりと笑う表情が現れる。
【ロノウェ】「朱志香さまの覚悟。満点に値するかどうか、このロノウェ、試させて頂きますよ……?」
【朱志香】「うぜえぜッ!! 掛かって来やがれえええぇえぇぇッ!!!」
薔薇庭園
【ガァプ】「おいで、奈落へ…!」
【譲治】「うッわ?!」
 譲治の足元に突然、漆黒の落とし穴が大口を開ける。もちろん譲治に抗えるわけもない。それに飲み込まれた譲治は、東屋の天井に開いた漆黒の穴から落ちてくる。その落下してくる譲治の下腹部に、狙い澄まされた蜂の一撃のような鋭いピンヒールによる後回し蹴りが打ち込まれる…!
 東屋から吹き飛ばされた譲治は、薔薇の茂みに飲み込まれるかと思った瞬間。そこに再び漆黒の穴が開き譲治を飲み込む。すると今度はガァプの目の前の足元に漆黒の穴が開き、そこから無防備な譲治を吐き出す。……その時にはガァプはすでに次の後回し蹴りの予備動作を終えている。
【譲治】「ぐッ、……これ……は…、」
【ガァプ】「お帰りなさい。くす!」
 右側頭部。右脇の下。右膝側面。まるで小さな竜巻のようにガァプはくるくると舞い踊りながら、右足左足右足左足で連続回し蹴りを次々に叩き込む。四連撃目は足払いとなって譲治の足を刈り取り転倒させるが、もちろんそこに床はなく、漆黒の穴が開いていて、またしても譲治を飲み込んでしまう。
 ガァプは再び小さい竜巻のように舞い踊る。譲治もまた、再び東屋の天井より吐き出された。
【ガァプ】「………食らって噛み締めなさい、奈落の終点が一撃。……死ね……!!」
 鋭き女王蜂の一撃は、昇る竜巻のように、天を刺す。それは天井より落下する譲治の腹部を蹴り抜いた……。
 そのまま、……時間が凍る。譲治はガァプの蹴り上げた足一本で、宙に打ち止められていた……。
【譲治】「が、………ふッ………。」
 譲治は宙に縫い止められたまま、呻く……。
 そしてガァプは、譲治を足一本で吊り上げたまま、……にやりと笑う。
【ガァプ】「………認めてあげるわ。君の態度だけは一人前よ。でも、力が伴わなきゃ駄目だわ。……知ってる? この世を統べるには3つの力が必要だそうよ。ひとつは権力。ひとつは財力。最後は何か知ってる?」
【譲治】「本で読んだよ。……暴力、だろ……?」
【ガァプ】「正解。君にはそれが足りないわ。」
 ガァプはようやく譲治を解放する。そのまま再び上へ蹴り上げ、もう一度回し蹴りを加えて柱に打ち付けることによって。
【ガァプ】「権力を伴わない王者にも、財力を伴わない王者にも、そして暴力を伴わない王者にも、人は誰も恐れない。金蔵はその3つを兼ね備えたわ。だからこそ暴君として君臨した! ……君も金蔵の後継者を名乗るならば、その貫禄を見せて御覧なさい?
 ……ほぉら、いつまで寝ているの? 立ちなさい? じゃないとまた、落ちるわよ?」
朱志香の部屋
【ロノウェ】「ぷっくっくっく。悪くない動きですよ。しかし、レディには少々相応しくないかと存じますよ。」
【朱志香】「ぃ野郎ぉおおおおおぉ!! ひょろひょろと、ちょこまかと!! 反撃して来ねぇのかよ……、舐めてんのかッ、うぜぇヤツッ!!」
 ロノウェは、巧みに身をかわし、飛び退り、朱志香の鉄拳をかわしているが、自らはまだ反撃していない。まるで、強風になびく旗のような素早い身のこなしに、朱志香の拳は触れることさえ叶わないのだ。
 朱志香は血の燃えたぎるような感覚の中に、攻撃的冷静さを取り戻す。個室としては広いこの部屋も、いつまでもそんな大袈裟にかわし続けるには狭い。……それを冷静に理解し、拳だけでなく、足を使い始める。
【ロノウェ】「……ほう。……ボクシングは腕でやるだけの内は半人前です。腕は熱く吼え猛る獅子のように。そして足は冷たく獲物を狙って追い詰める蛇のように。」
【朱志香】「蛇に足はねーぜ!」
【ロノウェ】「ぷっくっく、確かに。」
 朱志香はロノウェを正確なフットワークで壁際に追い詰めていく。回り込ませない。……ロノウェの華麗な回避は、見た目には派手だが、充分な足場がいる。追い詰めればもうかわせはしない…!
 朱志香は自分の装備するメリケンサックという武器の特性をよく理解していた。その強力な武器の特筆すべき特長は、相手に防御さえ許さない点だ。
 腕で防ごうとも、その腕に直にダメージを与える。……下手な受け方をすれば骨だって折れるだろう。だから追い詰める。逃げ場をなくし、……この悪魔を、この拳で、削り取るッ!!
【ロノウェ】「おっと…! おや、いつの間に。」
【朱志香】「ようやく追い詰めたぜ……? みんなを捕らえている場所はどこだ。クソジジイのいる場所はどこだ。洗いざらい喋ったら、そのヒゲを毟り取るだけで勘弁してやるぜ?」
【ロノウェ】「それは困ります。これでもセットに毎朝、1時間を掛けているのですから。」
【朱志香】「ギプスの世話になったら、それも出来ねえなッ?!」
【ロノウェ】「…………おっと。…………………ぐッ。」
 朱志香が繰り出した拳を、ロノウェは初めて腕で防ぐ。余裕を装ってはいるが、かなり痛いはずだ。
 ……朱志香はニヤリと笑う。ロノウェも同じように笑うが、わずかに引きつっている。
【ロノウェ】「……なるほど。これは確かに痛いですね。」
【朱志香】「最終勧告。泣いて詫びろ。」
【ロノウェ】「それは出来ませんね。キャラが崩れます。」
【朱志香】「なら、お前が崩れ落ちるといいぜ。釣瓶打ちだああああああぁあああッ!!!」
 朱志香の左右の鉄拳がロノウェに打ち込まれる。しかし、そうとは思えぬ手応えとガラスを割るような音に朱志香はぎょっとする。
 朱志香の拳を、ロノウェは一見、手の平で受け止めたように見えた。……少し違う。
 ロノウェが手の平を開くと、そこに紫色に薄く光る、ガラスの楯のような障壁が現れ、紙一重のところで攻撃を止めてしまうのだ。
 気を取り直し、朱志香は再び左右の鉄拳を繰り出すが、ロノウェは実に華麗な仕草で、それを全て、受け止めてしまう……。
【ロノウェ】「悪魔ですので。この程度の魔法くらいは。………それにしても、なかなかやりますね。ニンゲンだったら、私はここで降参だったでしょう。悪魔だから、まだ戦い続けることが出来る。」
【朱志香】「お、……おかしな真似を………!」
【ロノウェ】「それで終わりですか? ……攻撃を繰り出すばかりで、ご自身の防御が疎かではありませんか?」
【朱志香】「え?! ……うわッ!!」
 ロノウェは手の平を朱志香の下腹部に、寸止めのように打ち込む。朱志香は紫の楯に弾き飛ばされ、後に転がり、ベッドに頭をぶつける。
【ロノウェ】「ニンゲン如きに、私のシールドは破れませんよ。もう二度と、私の体に触れることが出来ると思わぬことです。」
【朱志香】「……ならよ、……そのシールドごとブチ抜いてやるぜ……!!」
【ロノウェ】「不屈な方だ。その根性、なるほど、次期当主として実に相応しい。……もう少しお相手させていただきましょうかね。これも試験官の役得です。………ぷっくくくくくく!」
【朱志香】「砕けろおおおおぉおおお、うおおおおおおおおおおぉおおッ!!」
 ガァプが譲治を見下ろし、嘲笑う。譲治は薔薇庭園の園路で、水溜りに突っ伏していた。容赦なく雨は打ちつけ、天すらも嘲笑っているように見える…。
【ガァプ】「………あっははははははは。立ちなさい? また落ちるわよ?」
【譲治】「………………………。」
 譲治はよろよろと立ち上がる。……精神は挫けていないようだが、肉体のダメージはかなりのもののようだった。
【ガァプ】「命乞いなさい。君のしていることは、何も選ばない四番目の選択肢に同じ。……君が選んだのは三番目の選択肢でしょう? 両手両膝を付いて詫びれば、私への非礼を許してあげるわ。
 そしたら、君を地下牢へ案内してあげる。そこで君は、愛する紗音と非力な自分のために、他の人質たちを一人ずつ殺していくの。……出来るわよね? その覚悟はあると、君は豪語したわ。……くすくすくすくす。」
【譲治】「…………………………。」
 譲治は返事をしない。……しかしその眼差しは未だに強情に、屈服を拒んでいた。
【ガァプ】「……あまり強情が過ぎると、今度こそ奈落の底の底まで、落ちるわよ…? くっくくくくく。」
 ガァプの強さは歴然としていた。……それは多分、当の譲治よりも、それを三面鏡越しに見守っている紗音たちの方が理解しているに違いなかった…。
【紗音】「………譲治さま……。……もう、………止めて………。…私なんかのために……。」
【嘉音】「姉さん……。」
【紗音】「……私のことなんて、好きにならなければ、……譲治さまは誰とも戦わなくていいんでしょ…? なら私なんて捨てて下さい……。忘れて下さい……。」
 その声が譲治に届くはずもない。……しかし、なのに。……譲治はそれに答えた。
【譲治】「嫌だね。…………僕は、屈服しない。」
【ガァプ】「……へぇ。どうして……?」
【譲治】「…………それが、僕の、覚悟だからだ。……僕は紗音のために、全てと戦う。そして全てに認めさせ、……全てに僕たちを祝福させる。」
【ガァプ】「ねぇ、聞かせて? どうしてあの紗音とかいう家具のためにそこまで言えるの? ………あんなの、ただの出来損ないじゃない。給仕ひとつ満足に出来ない、ガラクタ家具だわ。」
【譲治】「…………愛する女性への暴言を、僕はそれ以上許さない。」
【ガァプ】「だったら何? ひ弱なボクちゃんが、私にどう抗うというのかしら…?」
【譲治】「人を愛するとは強さだ。……それを知ったから、僕は強くなれた。………“紗音、僕は君を愛している”。その言葉だけで、僕は何度でも立ち上がれるんだ。」
【ガァプ】「紗音は地下牢よ? 私に愛を語られても。」
【譲治】「いいや。伝わった。……それが愛だからだ。紗音には今、僕の言葉が聞こえているよ。そうだと信じられることこそが、愛だ。」
【ガァプ】「………………こいつ…、……。」
地下牢
【譲治】『紗音。君は家具なんかじゃない。……家具だったとしても、世界でただひとつの、僕だけの家具だ。生涯、僕と寄り添って欲しい。……僕には君が、永遠に必要だ。』
【紗音】「………じょ、……譲治さま……………。」
【霧江】「……妬けるわ。口説きならウチの人を越えたわね。」
【南條】「わ、……若さですな。」
薔薇庭園
【ガァプ】「あっはははははははははは…!! 愛が強さ? なら坊やはどうしてそんなにひ弱なの? その弱さがつまり、君の愛の程度なわけね? くすくすくす! 婚約者への愛もひ弱。両親の呆気ない死に様もひ弱。君の人生は何から何までひ弱だわぁ。」
【譲治】「……………紗音は僕に愛と強さを教えてくれた。もし君が、僕の強さだけで紗音への愛を確かめようというのなら、……僕の愛を、教えよう。」
【ガァプ】「くす、言うわね。……なぁるほど。何度も蹴り倒されて転がされ、それでも立ち上がるのが紗音からもらった強さだと。
 なら、呆気なく殺されたあんたのお父さんとお母さんからは何をもらったの? ………?」
 その時、停電した。……屋外で?
【ガァプ】「………ち、……違う。………こ、れは…………。」
 ガァプの視界を遮るのは、……………譲治の、靴の、…裏…。
【譲治】「…………足刀蹴り。鼻骨骨折。」
 それはガァプの鼻先で完全に寸止めされていた。
【譲治】「母さんにもらったものはこの蹴りだ。」
 ガァプは数瞬遅れて飛び退く。もちろん遅過ぎる。譲治が止めなければ、宣言したとおりのダメージが与えられただろう。
【譲治】「そして父さんにもらったのが、……忍耐力。」
 低い沸点の怒りは真に恐れるべきものではない。……本当の怒りは、忍耐によって練り上げられる。
【譲治】「………君の暴力的意思表示は理解した。……また、婚約者と両親への名誉毀損も理解した。そして、それを撤回する気がないんだね……?」
【ガァプ】「……こ、いつ……。」
【譲治】「君の攻撃は、もう充分に理解したから。…………そろそろ、いいかな。反撃しても。」
【ガァプ】「ほっ、ほざくな、坊やの分際で……!!」
 譲治の足元に漆黒の落とし穴が口を開く。しかし、譲治は素早く足を開き、その穴を跨ぐように立つ。同じ手は、通用しない…! 上半身は微動だにしない、あまりに軽やかな身のこなしだった。
【譲治】「忍耐とは、熱くならず、冷静に相手の出方を研究することだ。………何のために? 決まってるじゃないか。わかるかい?」
【ガァプ】「わ、わ、わかんないわよ……。」
【譲治】「反撃して、きっちり借りを返し、二度とちょっかいを出したくないと思わせ、涙と鼻水で顔面をぐちゃぐちゃにしてそれを拭うのを忘れて額を地面に擦り付けて何度も謝りたくなるほどに完膚なきまでに完璧に徹ッ底的にッッ!!! ……叩きのめすためだよ。」
 譲治が駆ける。次々に漆黒の穴が開くが、譲治は二度とそれを踏みはしない。そして、それに固執したから、ガァプは二度捉えられる…。
【譲治】「………後回し蹴り。顎部骨折。」
【ガァプ】「……………ッッッ!」
 それは、ガァプの繰り出したそれよりも美しく、力強く伸びる。そしてもちろん、ガァプの顔面を完全に捉えつつも寸止めだった。
 この至近では落とし穴にも頼れないのだろうか。ガァプは譲治の脛を牽制のように蹴り、譲治がそれに対応しようとした一瞬の隙を突いて、その腹部に蹴りを狙う。
 それはピンヒールによる蜂の如き一撃。……しかしそこにはもう譲治がいなくて空を切る。
【譲治】「………上段踵落とし。鎖骨骨折。」
【ガァプ】「…………んなッ、」
 ガァプの側面で。譲治を足を振り上げたまま、冷酷にそう伝える。その王者の踵が振り下ろされていたなら、鎖骨骨折では控えめが過ぎるだろう。
【ガァプ】「こッいつ、………至近じゃ、私より強いの……?! 距離を……ッ、」
 大きく距離を取るように飛び退く。後ろへ飛んで飛んで跳ねて後方宙返りまでして距離を離す。
 華麗なはずなのに、なぜかそれは怯えている小動物のそれによく似ていた。距離を開けば、得意の落とし穴と蹴り技を混ぜての、自分の得意な間合いで戦える…!
【ガァプ】「馬鹿が…、私を倒せるチャンスを三度も逃した傲慢、奈落の底で後悔なさいッ!! ………………えッ?」
 華麗に後方に着地し、落とし穴を狙おうとした時、かまいたちのような鋭い風が、ガァプの前髪を斬った。…そう、斬った。それは二度。……今度は寸止めではなく、その風圧で彼女の前髪を散らす……。
【譲治】「………アルマーダ・コン・マルテーロゥ。……第一撃で眼底骨折。第二撃で脳挫傷。」
【ガァプ】「………………ッッッ…!!!」
 ガァプは呆然として言葉も出せない。あれだけの間合いを譲治は瞬時に詰め、恐るべき身軽さで空中二段蹴りを放ったのだ。……しかもそれは剃刀の如き切れ味と正確さで、彼女の前髪数本だけを斬って見せた。
【譲治】「空手で蹴りの威力を。テコンドーで速度を。カポエイラでは自在の間合いを学んだ。……母さんが色々と移り気でね。でも色々と特長を学べて勉強になったよ。」
【ガァプ】「な、……なぜ当てない……? ……私が女だからだとでも言うのかッ!!」
【譲治】「……君は、王者の力として3つ目に暴力と言ったね。君はどうやらまだ、その暴力の意味を誤解しているようだ。……この場合の暴力とはね、短絡的に振るわれる乱暴のことを言うんじゃない。………敵対すれば、無傷では済まないという、抑止のことを指すんだよ。」
【ガァプ】「抑止……、だと……。」
 つまりはそういうこと。これまでの譲治の攻撃が全て寸止めなのは、そういうことなのだ。
 直撃させるよりも困難とされる寸止めを、これほどまでに華麗に披露した。…また、その何れも譲治が望んだなら、一撃でガァプを撃破しただろう。それを、敢えて、やらない。
【譲治】「君も言ったろ? 暴力は統べる力だと。………暴力で相手を破壊してしまったら、統べられないじゃないか。王者の暴力とはね、見せるだけなんだよ。破壊しない。……屈服させて、自らの財産とするんだからね。
 君に泡でも吹かれたら、みんなの捕らわれてる場所に案内させられないよ。」
 ガァプは認めざるを得ない。譲治が完璧な意味で、暴力を理解していることを認めざるを得ない…!
【譲治】「みんなのところへ案内してもらうよ。抵抗はお奨めしない。………もう寸止めはしないよ。」
【ガァプ】「…くッ!! ………ごめんねリーア、あんたの兵隊、借りさせて。私ひとりじゃ手に負えないわ、こいつッ!!」
 空中に大きな漆黒の穴を開くと、ドン、ズン、ドスンと、3人の屈強な山羊の従者が落ちてくる。それらは譲治を囲んでいた。
【譲治】「………増援かい? それは僕がひ弱であることを撤回したと受け止めていいのかな。」
【ガァプ】「み、……認めるわ。……あんたの、…ニンゲンの力を侮ってたわ……。」
【譲治】「違うね。これが、愛を覚えた男の強さなのさ。」
【ガァプ】「ほ、ほざけ…、臭いことをしゃあしゃあとッ!! さぁ、山羊たち! その男を潰して肉団子にしてやりなさい!
 くすくす、この山羊たちは馬鹿だけど、パワーだけはあるみたいよ。あんたの死体、婚約者にも見分けがつかなくしてあげるわ!」
【譲治】「降伏拒否、並びに継戦の意思、了解したよ。……以後は、君の攻撃に等しい分だけ、君に実害が及ぶことを宣言する。
 僕をまだ攻撃するつもりなら、相応の損害を受けることになると、覚悟するがいいよ。」
 譲治がそれを宣言した時、……譲治の回りに、薄っすらと赤い魔法陣が浮かび上がる。しかしそれは譲治には見えていないらしい。しかし悪魔であるガァプには見えた。
【ガァプ】「ま、……魔法?! どうしてこいつが防御結界を…?! しかもそれ、……反撃特化…ッ?! それが、……あ、あんたの抑止という意味ッ……?!」
 悪魔たちから見れば、そういう魔法だったかもしれない。しかし譲治にしてみればそれは、決意。
 これ以上の戦いを望むならば、誰であろうとも容赦しない、そして相応の反撃を覚悟してもらうという絶対の決意。絶対の決意が、魔法になる。
朱志香の部屋
 ロノウェは的確に、シールドで朱志香の鉄拳を防いでいた。……しかし、違和感。確実にシールドで受け止めているはずなのに、腕が軋み、痛むのを感じる。
 物理ダメージは断絶されているはず。……しかし、鉄拳のダメージがわずかずつ腕に伝わり、蓄積しているのだ。ロノウェはそれを気取られまいと平静を装う…。
【朱志香】「へ、へへ…!! 私はバテねぇぜ。どうしたよオッサン。ちっとは堪えて来たかよ…!」
【ロノウェ】「……いくら攻撃しようとも無駄ですよ。私のシールドはあなたには砕けないと、どうしてわからないのです?」
【朱志香】「砕けないからってよ、殴るのを止めはしないぜ。………どんな硬い心にだって、言葉はわずかずつ響き、やがてはひびを入れることだって出来るんだ…! 私は信じてる!! この世に無駄な努力なんて存在しないってなッ!!
 だから生きるんだろ、思いっきりッ!! 言葉だっていつか通じるなら、拳だって同じってことだぜ…!! 私の辞書には、諦めるって文字は書いちゃいねえんだぜッ!!」
 それは多分、嘉音に語り掛ける言葉…。朱志香の言葉を一見拒絶する嘉音。……だが、その頑なな心に、少しずつ染み透っているのを、朱志香は知っている。
 そしてきっと、心が通じて、彼が自らを家具と呼んで卑下しなくなる日が来て、……彼の新しい人生を踏み出してくれることを信じている。だから朱志香は諦めない。へこたれない…!
【朱志香】「馬鹿みてえだろ? 男には理解できねえだろ? 恋する乙女ってのはな、無駄だから諦めるって考えがねぇんだぜッ!!」
 その時、ロノウェは確かに見る。朱志香の両拳が赤く熱のような光を帯びるのを。
【ロノウェ】「………これは、……参りました。……エンチャントですか。…浸透付与とは、……厄介な。」
 諦めない拳と決意には、必ず成し遂げる力が宿る。それは悪魔から見れば、魔法。絶対の決意が、魔法になる。
【朱志香】「な? 無駄なんてことはねぇだろ? …通ってんだろ、私の拳。腕を庇ってるぜ、オッサン。」
【ロノウェ】「……………もう少し本気を出さざるを得ないようですね。…仰るとおりのようです。……この世に、無駄なことなど、ない。」
【朱志香】「そうさ…! 無駄なんて諦めたら、そこで人生が終わっちまうぜ…! 通じるんだよ。……絶対に…!!」
 私は馬鹿だからこんな生き方しか出来ないけど、それでもきっと、嘉音くんの人生に、新しい世界を教えてあげるくらいのことはいつか出来ると、……信じてる!! だからこんなところで挫けない…!! 絶対にお前を打ち倒しッ、みんなを救い出してみせる!!
地下牢
【蔵臼】「くそッ!! 何とか、隙間を……、うおおおおおぉおおおお!!」
 蔵臼は、何とか鉄格子の間に隙間を開けようと、無駄な努力を繰り返している。
 ……無駄。………無駄なことなどないんだ。 無駄なことなど。
 見張りの山羊たちが、例の黒い落とし穴に飲み込まれて消えてしまった。……今は千載一遇のチャンスなのだ。今だけが鉄格子を破るチャンス……。
【南條】「よ、よせ、無茶だ、蔵臼さん! 素手でどうにかなるもんじゃない! 道具を探しましょう、無茶をするんじゃない…!」
【蔵臼】「無駄と諦めたらそれまでと、娘に言われてしまった。……私の体は無理でも、小柄な紗音か嘉音が抜けられれば……!!」
【霧江】「……この段階に至っては、出ない知恵を絞るより行動あるのみね。力を合わせましょ、私もやるわ…! ……嘉音くん、男の子でしょ、手を貸して…! ……嘉音くん?!」
【嘉音】「…………旦那様。下がってください。」
【蔵臼】「何? 何をする気だ……?」
【嘉音】「……いいよね、姉さん。………もう一度だけ、足掻いても。」
【紗音】「…………うん。……私も、…もう一度だけ足掻くよ。……ううん、一度だけじゃない。…何度でも。」
 朱志香の声は、嘉音に届いた。冷たい岩のような彼の心に、確かに浸透したのだ。そして譲治の声も、紗音に届いた。彼が示す愛が強さで体現されるなら、自分も同じ形で応えなければならない。
 ものすごい金属音が鳴り響いた。………最初の一閃は鉄格子数本を横一文字に切断し、次の一閃でさらに横一文字に切断され、鉄格子数本が刀で切られた竹の子のようにばたばたと倒れる。
 蔵臼も霧江も南條も、一体何が起こったのか、さっぱりわからない……。
【嘉音】「……南條先生。お屋敷へは廊下をどっちに……?」
【南條】「あ、………あぁ! 左奥だ…、左奥……!」
【紗音】「参りましょう、旦那様方。……すぐにワルギリアさまに気付かれます。」
【霧江】「あんたたちは、………一体何なの……。」
【嘉音】「…………僕たちは……。」
 嘉音が少し俯き口ごもると、紗音がその肩を叩き、にっこり笑い、そして言った。
【紗音】「私たちは、ニンゲンです。」
【45】「ワ、ワルギリアさまぁ!! 警戒網に反応ッ、脱獄です! なぜか見張りの山羊がいません…!!」
【ワルギリア】「……えぇ?! どうしてです?! ……………ガァプですね。人の召喚物を勝手にィ!! ……ガプ!ガプガプ!!」
【00】「……交戦規定確認。脱走者への射殺許可を申請であります。」
【ワルギリア】「おやりなさい…! 殺っちゃいなさいっ、きぃー!! ガプガプガプ、ガブッ、ぎゃ!!!」
【00】「了解であります。45、410、追撃狙撃戦準備。弾種、集束誘導弾。……ワルギリアさま、逃亡阻止結界を。」
【ワルギリア】「痛たたたた……。そ、そうでしたね。ほっほほ、ここから逃がしはしませんよ。……痛たた、ガプガプ言ってたら舌噛みました…。」
 地下道を走る一行の前方が、再び鉄格子で遮られている。扉は無論、施錠されていた。……しかし、今の彼らには問題はない。
【蔵臼】「嘉音、また鉄格子だ! 頼む…!」
【嘉音】「ハイ、旦那様…!」
【霧江】「……しかしすごいわ。…一体、どういう原理なのかしら。」
【蔵臼】「原理なぞ興味ないね。大事なのは、彼に鉄格子が切断出来て、ここから脱出できることだけだ…!
 気にするな嘉音、やれ!」
【嘉音】「お任せを……!」
 再び嘉音が赤い軌跡で鉄格子を斬る。しかし、激しい異音がするだけで、鉄格子にはわずかの傷がつくだけだった。
【南條】「な、何と、……これは頑丈な……。」
【嘉音】「違う。……エンチャントされてる! ワルギリアさまの魔法錠だッ。」
【紗音】「切断できる?」
【嘉音】「もちろん。でも時間を掛けるよ。」
【蔵臼】「3分間、待ってやる…!」
 嘉音は大きく息を吸い、精神を集中させてから、再び赤い軌跡の剣を伸ばす。それを鉄格子に力強く押し当てると、まるでバーナーで焼き切っているかのように火花が迸った。
【蔵臼】「切断は出来そうだが、……てこずりそうだな。」
【紗音】「………旦那様。敵に捕捉されました。下がってください。」
【霧江】「え? 追っ手? 誰も来てないわよ!」
【紗音】「私の後に下がってください。狙われてます…!!」
【45】「45データ受領。標的を捕捉。地形誤差修正。射撃曲線形成、制御点補正完了。410へデータリンク。」
【410】「410データ受領。危険区域確認、問題なし。」
【00】「00、子弾装填48発、個別誘導F&F。集束誘導弾、準備完了。」
【45】「45、射撃準備完了。集束誘導弾、装填っ。」
【410】「410、にっひひひひ! 射撃いッ!!」
 金色に輝く黄金の矢が、黄金の尾を引いて放たれる。それは弧を描き、扉を抜けて鍵穴を抜けて、階段を降りて、地下道へまっしぐら……!
【南條】「な、何か光りましたぞッ!!」
【紗音】「……黄金の矢はシールドで防げない。嘉音くん、迎撃体制。リンクしよう。」
【嘉音】「ゲートキーパー了解。………姉さんと一緒に戦うのは久しぶりだ。ドジらないでよ。」
【紗音】「うん。本気でやる。」
【嘉音】「なら、問題ない!」
 嘉音は鉄格子切断を止め、紗音の前に立つ。紗音はその後で目を閉じ、暗黒の地下道の先の先へ精神を集中する……。
 集束誘導弾は子弾を束ねた特別な矢。それは途中で炸裂し、48発の小型の矢に分裂する。
 それぞれの威力は低いが、あらゆるシールドを貫通し、対人なら完全な殺傷力を有する。しかもその上、48発の全てが個別目標に自律誘導する。
【嘉音】「………光った。…分裂した…。」
【紗音】「集束誘導弾、分裂確認。子弾46、7、8、…48、全弾捕捉。迎撃管制。嘉音へデータリンク。」
【嘉音】「嘉音データ受領。……姉さんの能力はすごいな。48発全部、視える。」
【紗音】「迎撃優先順位に注意。姉さんを信じて。」
【嘉音】「もちろんさ。僕は目を開ける必要さえない。」
【紗音】「迎撃開始。」
【45】「も、目標健在!! げっ、迎撃されました…!!」
【410】「にひゃあッ?! 48発全部?!」
【ワルギリア】「ほっほっほ……。紗音と嘉音は元々一組の家具ですからね。揃うと手強いこと。…あ痛たたた。…これ、口内炎になっちゃうかしら…。」
【00】「落ち着け、再装填。……弾種を変更。精密光速狙撃弾。精密狙撃戦準備。」
【410】「そりゃいいにぇ!、迎撃不能の超高速弾! ゲートキーパー如きじゃ防御不能だにぇ!」
【45】「精密狙撃戦了解。精密射撃用データ収集開始っ………。」
【南條】「い、一体、今のは何なんだ……。」
【霧江】「安心して、私にもさっぱりよ…。ひとつわかるのは、二人に頼らなきゃ死んでたってことね…。」
【紗音】「嘉音くん、ありがとう。鉄格子に戻って。多分、次のは迎撃できない弾が来る。」
【蔵臼】「そんな攻撃をどう防ぐんだ…?!」
【紗音】「撃たせません。……嘉音くん、霊子戦防備。」
 その言葉に、嘉音は目を硬く閉じて歯を食い縛る。……紗音を中心に、人ならざる者にしか感知出来ない重圧と衝撃が襲い掛かる。
【45】「……あれッ?! 射撃システム、エラー!! 駄目だ、再起動…。あれあれ?!」
【00】「霊波妨害ッ! 霊子防護、急げ! 何をしてるか、早く耳を塞げ45!!!」
 見えず聞こえずの衝撃がシエスタ姉妹に襲い掛かる。00と410は両耳を塞いでしゃがんだが…、45は間に合わない。……棒立ちのまま、目を白黒させている。
【45】「うきゅッ…?!?! …きゅぅ? きゅー! きゅーきゅーきゅ〜ッ!!」
【410】「45、損傷…! IMEがイッちゃったよ…!! ……う、ぎゃ、……私も、ノイズがひどい、にぇ……。」
【00】「45、、……そして00、損傷…。狙撃戦を断念。……く、リンクで、もろに来た……。さ、再起動しないと…。」
 精密射撃のために霊子の感受性を高めていたのが裏目に出る。紗音の放った霊子の衝撃波をまともに全て受けてしまい、直撃を受けた45は愚か、リンク中だった00と410までもダウンしてしまう。
【ワルギリア】「大丈夫ですか?! ……後でまた美味しい紅茶を淹れてあげますからね、しっかり!」
【00】「も、……申し訳ございませんであります……。再起動を掛けます。数百秒ほどお待ちを……。」
 シエスタ姉妹は全員が倒れてしまう。やがて立ち直るだろうが、しばらくの間、戦線復帰は難しいようだった。
【ワルギリア】「家具が武具を、一時的にとはいえ退けますか。………なるほど、あの子の面白がる筋書きは、実に大番狂わせが多いこと!」
 ワルギリアは大きな身振りで虚空を裂き、扉を開けるような仕草をする。
【ワルギリア】「さぁさ、お出でなさい、山羊の従者たち…! お仕事の時間ですよ。脱走者たちを殺して捕らえなさい。死体でいいのですよ、どうせ蘇生できるし!」
 空間に金色の扉が開き、筋骨隆々の肉体を持つ巨漢の山羊たちが無数に顔をのぞかせる…。
【ワルギリア】「さぁさ、急ぎなさい。脱走者は5人いるから五等賞までの早い者勝ち! 素敵なご褒美がありますよ、さぁさ頑張って頑張って!」
 ワルギリアは促すようにパンパン!と手を叩く。
 ご褒美?! その言葉に顔を見合わせた後、山羊たちは一斉に扉から出ようと殺到し、その出入り口はまるで朝の山手線か東西線くらいギュウギュウになる。我先に出ようとするから誰も出られないのだ。……ワルギリアは、あーもう…と頭を抱える。
 その頃、嘉音はどうにか隙間を抜けられる程度に、鉄格子を切断して隙間を作る。大柄な蔵臼とウェストが致命的な南條がかなり苦労したが、それでも何とか全員抜けられた。
 しかし、抜けてほっとしたのも束の間。すぐに同じような鉄格子が再び目の前を阻んでいる。
【霧江】「厳重ね。……よっぽどここの人を逃がしたくなかったんでしょうね。」
【蔵臼】「嘉音、すまんがもう一度頼む。……辛いだろうが、頼む…!」
 嘉音の額には汗が浮かんでいる。魔法で堅牢さを増した鉄格子の切断に、かなりの体力消耗を強いられているのは一目でわかった。
【嘉音】「……ハイ、お任せを旦那様。」
【蔵臼】「お前にしか出来ん! どうか頼む…!」
 自分にしか、出来ない。……その言葉を強く飲み込み、嘉音はもう一度、精神を集中して再び鉄格子の切断に臨む。
【紗音】「………後方、敵が来ます。複数。」
【霧江】「えぇ、今度は私たちにもわかるわ。……すごい地響きね。とんでもないバケモノが殺到してくるのがわかるわ。」
【紗音】「ご安心を。今抜けた鉄格子を、私が魔法錠で封鎖します。山羊たち如きには破れません。」
 紗音は抜けてきた鉄格子に手をかざす。……しかし、すぐにそれを止めた。
【南條】「ど、どうしましたか…。」
【紗音】「ワルギリアさまが、霊波妨害の中和を開始…。破られるとまずい、シエスタ姉妹の再起動後のイニシアチブを奪われます…!」
【ワルギリア】「可愛いうさぎたちをいじめてくれたお返しは、たっぷりとさせていただきますよ。
 この、小賢しい霊子で優位に立とうというなら、それを丸ごと剥ぎ取って、私が奪ってあげます。」
【嘉音】「姉さんは霊波妨害に集中して! あの山羊たちにその鉄格子の隙間は狭過ぎる。しばらくは食い止めてくれるはず…!」
【蔵臼】「何を言っているかさっぱりだが、」
【霧江】「だいぶヤバイってことだけは理解できたわ。」
 霧江は、さっき嘉音が切断した鉄格子を拾い上げる。蔵臼に武器はないが握り拳を揉んで、二人は地響きの迫ってくる地下道の奥を睨む。
【南條】「……この鉄格子で遮るものはおしまいのはずだ。」
【蔵臼】「ここから屋敷までどのくらいあるんです?」
【南條】「かなり歩く…。道は平坦だが、30分は歩いた記憶が……。」
【霧江】「全力疾走ならその半分ってことだわ。」
 三面鏡はないからわからないが、それだけの時間、譲治や朱志香たちが悪魔相手に無事でいられる保証はない。
【霧江】「……歩く2倍の速度で走れば15分。さらにその2倍で走れば8分を切るわ。」
【蔵臼】「さらにその倍の全力疾走なら5分掛からん。問題ない。」
【南條】「む、無茶苦茶な計算ですな…。ですが、火事場の計算式はそういうものです…!」
【嘉音】「……申し訳ございません、旦那様方。後を頼みます…!」
【蔵臼】「任せたまえ。嘉音は一秒でも早く鉄格子を。紗音はワルギリアとかいう魔女への妨害に専念したまえ。追っ手は私と霧江さんで防ぐ…!」
 そして闇の向こうから獣たちの咆哮が轟き、爛々と輝く真っ赤な目がいくつも浮かび上がる。見張りをしていた山羊たちよりも、さらに数段巨漢の山羊たちが、ものすごい勢いで殺到してくるのだ。
 彼らの立てる地響きはまるで地震。それは凄まじい迫力と恐怖だが、むしろ霧江は安堵に笑う。……その巨体では鉄格子の隙間は抜けられない!
 山羊たちの群は、まるで電車が行き止まりに衝突したような激しい音を立てて鉄格子に激突した。天井からばらばらと土くれが落ち、鉄格子がへこむように歪んでいるのがわかる。
 ……その突進力はまさに電車そのものだったろう。鉄格子がなかったら、5人を丸呑みにして一瞬で押し潰していたはずだ。
 鉄格子に押し付けられた山羊の群は、5人がすぐそこにいるのを認めると、凄まじい唸り声を上げながら威嚇する。……威嚇なのか、押しくら饅頭で苦しいのかわかりかねるが。
 その中の冷静な一匹が、鉄格子をどうにかすればいいんだと気付き、その豪腕で二本を掴み、観音開きにするようにたわませ始める。
 その一匹の急所に、霧江の鉄棒が鋭く突き立てられる…! 山羊の苦悶の咆哮。さぞ痛かったろうが、でもそこまで。ダウンさせるほどではない…。
【霧江】「蔵臼さん…!!」
【蔵臼】「うおおおおおああああああぁああッ!!」
 霧江は突き立てた鉄棒を持ったまま、その反対側の先端を蔵臼に譲る。そこに蔵臼は渾身の力で走り込み、飛び上がって全体重と全脚力で蹴り込む…! 全ての破壊力が鉄棒一本に集められ、穿つッ!!
【南條】「……だ、大丈夫ですかな。患部は揉まないように。お薬はあとで処方しましょう。お大事に…。」
 急所にパイルバンカーを食らった山羊は、涙目でのた打ち回りながら、こくこくと頷く。
【霧江】「私たちのリンクも結構イケるじゃない。紗音ちゃんたちには負けられないわ。」
【蔵臼】「当然じゃないか、私たちは仲良し一族だからね。」
【霧江】「二人掛かりでならイケるわ! 次ッ、右側のアイツ!」
【蔵臼】「了解だ…! いい嫁さんじゃないか、留弗夫め、少し愚痴が多かったんじゃないか?」
【霧江】「へー、後で聞かせてもらうわ。留弗夫さん、天国で青くなっても手遅れよ?」
薔薇庭園
 山羊の巨体が薔薇の茂みに沈む。いくら脚力が腕の3倍あると言ったって、その威力は常識を超えている。あの巨体が顎を蹴り上げられて、宙を舞うなんて、壮絶過ぎる! 譲治も少しは驚いているようだった。
【譲治】「……僕の蹴りがバケモノにも通用したとはね。驚きだよ。」
【ガァプ】「……………あんたの反撃特化結界のせいよ。……グレイズした攻撃力をそのまま自らに上乗せしてる。……あんたの蹴りには、そのバケモノどもの怪力が加算されてるのよ…。」
【譲治】「へぇ……。…よくわからないけど、僕にぴったりじゃないか。……誰であろうとも、攻撃してくるなら、等しい反撃を覚悟してもらう。専守防衛。僕のポリシーそのものだ。」
 だからガァプは容易に手出しが出来ない。反撃特化結界に防御力はない。しかし、その反撃的特性のため、攻撃を躊躇させることで防御能力を発揮する。
 山羊たちは愚かだから気にせずに攻撃してしまうが、ガァプにその効果は充分発揮されていた。
【譲治】「こいつらは単調だね。パワーが互角であるならば、小柄な方が有利だ。」
 丸太のような豪腕を軽々とかわす。その豪腕が譲治を守る結界に触れると強く赤く光る。……そして反撃の足刀の先端が同じ輝きを宿し、山羊自身の怪力が上乗せされる。
 2匹目の山羊が前のめりになってわずかに宙に浮く。さらに続いて繰り出された譲治の回し蹴りは、つんのめった山羊の頭上を空振りした。
 ……一瞬、命拾いしたと山羊は期待する。でも、ダメ!! そのまま後頭部に踵が落とされ、地面にキスを強要される。
【譲治】「……上段回し蹴りからのネリチャギは基本だろ? たまにやると結構当たるよ。」
【ガァプ】「こいつ、……厄介だわ、…マジで厄介だわ……!!」
【譲治】「何が悪魔だ。何が魔女だ。………六軒島の主人は、この右代宮家だよ。それを、体で教えてやるよ。」
【ガァプ】「………こいつぅうぅ………!!」
 反撃特化結界に身を包んだ譲治を葬るには、反撃を許さないことしかない。……次に奈落に飲み込んだら、蹴って落として蹴って落として蹴って落として、そのまんま蹴り殺すしかッ!!!
 しかし、譲治はガァプの落とし穴の出現の軽微な前兆を、もはや完璧に読みきっている。……もし、その落とし穴を飛び越えられたなら、……今度こそ、暴風のようなその蹴りは、わずかほどの手加減もなく、ガァプの頭部を、……彼の両親に強いたように粉砕するだろう。
 彼女にはその光景をありありと想像できた。ガァプはとんでもない島に呼び出されてしまったものだと、金蔵を今さら恨む…!
朱志香の部屋
 ロノウェはシールドを張るのに、とうとう両手を使うようになる。より強力なシールドでないと、もう朱志香の鉄拳を防ぎ切れないのだ。
 朱志香の鉄拳へのエンチャントは、戦えば戦うほどに付与されていく。浸透付与はすでに幾重ともなり、他にも衝撃付与、貫通付与、速度付与が与えられ、悪魔と互角に戦うに相応しい拳となっている…。
【朱志香】「………どうしたよ! へばって来たんじゃねぇのかよ?! 動きが鈍ってきてるぜ!!」
【ロノウェ】「いいえ。朱志香さまの動きと思考、動体視力が飛躍的にエンチャントされているのです。………私の動きは最初から変わっていませんよ。……あなたの動きが、私を捉えつつあるのです。」
【朱志香】「それでも反撃はしねぇわけか…!!」
【ロノウェ】「これが私のこだわりですので。……しかし、このままというわけにも行きますまい。そろそろ本気で終わりにさせてもらいますよ……ッ!!」
 ロノウェの顔が始めてみせる形相になる。それは実に悪魔的で、朱志香にとって敬意溢れるもの。彼を本気にさせるほどの敵にだけ与えられる表情なのだから。
【朱志香】「うおあッ?!?! 何だこれッ?!」
 ロノウェは、優雅とは言えない全身の仕草で壁ほどの大きさと厚みを持つシールドを全力で張る。その頑強さは楯ではない。文字通り壁そのもの。
 しかもそれはロノウェの渾身の魔力で、わずかずつ朱志香を押し戻していく。……壁まで押し込み圧殺しようというつもりか。
 朱志香は左右の鉄拳で壁を打ち破ろうとするが、硬い。……掛け値なく、硬い!
【朱志香】「これがお前の本気かよ…!! 上等だぜッ、打ち砕いてやらぁああああ!!」
【ロノウェ】「今度はそうはさせませんよ。この壁は一味違います。……どれ、私もエンチャントさせていただきましょう。」
 ロノウェが、まるで忍者のように魔法の印を結ぶと、壁は一瞬だけ赤く光り、何かの禍々しい力を宿す。それはすぐに朱志香にも身をもって理解できた。
 拳を壁に打ち付ける度に、ガラスの破片が飛び散って全身に当たるような痛みが跳ね返るのだ。
【ロノウェ】「攻撃反応装甲を付与させていただきました。朱志香さまの攻撃を相殺することで威力を減退させ、のみならず反応破片で反撃まで出来る優れ物です。
 ……殴り続けるのは大いに結構ですが、それは自らにも及びますよ。」
【朱志香】「へ、…へへ! つまり、お前の壁と私の我慢比べってことかよッ!! 上等だッ!!」
【ロノウェ】「朱志香様が膝を付くのが先か、壁に押し込まれるのが先か。……見物させていただきましょう。」
【朱志香】「打ち破って、この壁ごとお前の横っ面をブッ飛ばす方が先かもな?! 見てやがれええぇええええぇえ!!」
 朱志香は構わず、左右の鉄拳を打ち付ける。 その度に大量の破片が飛び散り、全身を苛んだ。すぐに幾筋もの赤い切り傷が全身に浮かび上がる…。
 その激痛に表情は歪むが、目は闘志に燃え上がり、唇は痛みとは真逆にニヤリと笑っていく…!
地下道
【蔵臼】「嘉音、まだかね?! 私たちは平気だが、……ヤツらを防ぐ鉄格子が平気ではなさそうだ…!」
【嘉音】「もう、……少しです……!」
【霧江】「こいつら、きりがないわ…。押しくら饅頭だけで、鉄格子を破りかねない!」
 鉄格子が山羊たちの群にぎしぎしと泣く。何本もの腕が鉄格子を掴み、その怪力で歪める。……しかし、同じ格子を別々の手が逆方向に引っ張り合っているのもある。やっぱり頭は悪いらしい。
 そんな無数の腕の鉄格子の掴み方が、……たまたま噛み合う。2本の鉄格子を掴む何本もの手が、それぞれに左右に開くように綺麗に力を合わせてしまう。金属のひしゃげるすごい音が聞こえ、その隙間を、少しずつ広げていってしまう…!
 その山羊たちの腕を一本一本攻撃するが、埒が明かない。左右に広がる隙間を止められない…!
 その時、背後でも大きな金属音。嘉音がようやく切断を終えたのだ。
【嘉音】「早く!!」
【蔵臼】「霧江さん、レディーファーストだ。南條先生も続いて!」
【嘉音】「旦那様、ここは僕に任せてください…! ん、……これは?!」
 鉄格子を切断してきた嘉音の赤い刀が消える。
【紗音】「……ごめん! ワルギリアさまの霊子戦影響下に入った!! 私たちの魔力が中和されてる!」
【ワルギリア】「ほっほっほ。よくも、大魔女と呼ばれた私にここまで抗ったものです。もはや、その地下道ではあなたたちの魔法は使えませんよ。」
 ワルギリアを中心に、魔法陣の円柱が複雑な魔法方程式を描く。……ここまで本格的な魔法を使われては、紗音の力は到底及ばない。むしろ、よく耐えたというべきだった。
【ワルギリア】「霊子優勢を確保。さぁ、シエスタ姉妹。今度こそあなたたちの出番ですよ? って、まだ再起動してるんですか?! 何で最近の子は寝起きが悪いの…!」
【00】「も、申し訳ありませんであります…!! 私たち全員、バージョンが違ってて…。」
【410】「何でバージョン変わる度に、ショートカットとプルダウンがしっちゃかめっちゃかになるにぇ…! 前回、不正な終了がありました? 管理者権限?? 何これワケわかんないいいい!!」
【45】「うきゅ〜〜!! うきゅ〜〜!!(早く直して〜!! わぁん!)」
【00】「近衛隊トラブルシュートにコール! 何? ユーザーコードがないと教えないッ?!」
【410】「ユーザーコードは45が管理してるにぇ。」
【45】「うきゅー!! うっ、きゅっ、きゅっ、きょ、うきゅっ、きゅー!!!」
【00】「きゅ、9999にしか聞こえん……。紙に書かせろ。」
【410】「IME再インスコ出来ないから文字も書けないにぇ。」
【ワルギリア】「………………………。お、お前たちはゆっくり修理していなさい…。私が行って来ます…。」
【410・00】「「ごめんなさいいい〜!!」」
地下道
 細い地下道は、ぎゅうぎゅうの山羊たちで、まさに朝の通勤列車状態だった。その渋滞ぶりにワルギリアは二度呆れる。
【ワルギリア】「何をやってるんですか…!! え? ご褒美が欲しいから一番乗りがしたい? 他の山羊にご褒美を奪われたくないから邪魔をし合っている? このお馬鹿山羊たちがぁああぁーーー!!! 私が行きますから道を開けなさい!!
 何?! 嫌ですって?! ワルギリアさまがご褒美を奪うつもりだ?!
 何でスクラム組んでるんですか!! えぇいキツイ狭い!! いつからここは山羊専用車両に?! うぎゅ〜〜!! 今、お尻触った子、次の駅で降りなさぁ〜〜いッ!!!
 ………ん? 何、あなた。コッチへ来いって??」
 蔵臼たち5人は全力で地下道を駆け抜ける! こんな地下でもたもたは出来ないのだ。早く、地上の子どもたちと合流しなくては! 全員が揃えば、もう何も憂いはない!
 その時、凄まじい地鳴りが追い上げてくる。追っ手がとうとう鉄格子を抜けたのか?! しかし振り返るがその姿は見えない。
 しかし地鳴りと、天井からばらばらと土埃が落ちるのはどんどんと追い上げ、とうとう、彼らを追い抜いてその先まで行ってしまった。まるで幽霊にでも追い抜かれた気分だ。
 拍子抜けしたと思った次の瞬間、前方の天井がドスンと抜けて、一匹の山羊が立ちはだかった。……その肩にはワルギリアが座っている。
【ワルギリア】「賢い子が近道を知っていました。偉い子ですね、一等賞ですよ。あとで手作りの鯖のカレー煮をご馳走してあげますよ。」
 その微妙なご褒美でもやはり嬉しいのだろうか。巨漢の山羊は、両手を組んでクネクネと身悶えして喜びを表現した。
 ワルギリアは飛び降り、今度こそチェックメイトだと笑う。
【嘉音】「……くそ……、駄目だ…。……魔力が完全に殺されてる…。」
【紗音】「…まだよ…。……魔法がなくても、私たちにはまだこの体がある…。」
【南條】「む、無茶だ…! あんなバケモノに、あの不思議な力がなくて戦えるわけがない…!」
【蔵臼】「……こ、子どもたちは下がっていたまえ…。私が何とかするから、その隙にあのバケモノの両脇を駆け抜けるんだ…!」
【ワルギリア】「させませんよ。ほっほほほほほ!」
 ワルギリアが手をパンと打つと、その背後に紫色の魔法障壁が現れ、蔵臼の賭けたわずかの望みさえ奪ってしまう。
【蔵臼】「万事、休すか……。…い、いや、まだだ。……朱志香も戦った。私が戦わんわけにはいかん…。」
【霧江】「ほ、本気なの?! 無理よ、あんな巨大なバケモノに…!」
【南條】「無茶苦茶だ…! 蔵臼さん、他の方法を考えましょう……。」
【蔵臼】「思いついたら提案してくれたまえ。それまでは、私が何とかするしかないようだ…。……さぁ、下がりたまえ。」
【霧江】「……気をつけて。」
【ワルギリア】「ほほほほ…、ほっほほほほほほほほ! おやおや、蔵臼。あなたひとりでこの子と戦うつもりですか?」
【蔵臼】「……………………く…。わ、わからんぞ。戦いには、まぐれ当たりの一発だってありうる…。」
【ワルギリア】「ほっほほほほ。まぐれでも勝てるつもりとお思いですか…? 身の程知らずのあなたのために、私が状況を整理して差し上げましょう。」
【蔵臼】「何ぃ……。」
【ワルギリア】「ほほほほ…。あなたが100%の力を発揮したとして、あなたの戦闘力はせいぜい6。対してこの子の戦闘力は1000。つまり、あなたが100人束になっても、絶対に勝てないということです。
 まぁ、確かに戦いには不確定要素もあります。その戦闘力に多少の倍率が掛かることも認めましょう。しかしそれでも、あなたがこの子を倒せる確率は、0.00001%というところでしょうか。おわかりかしら? あなたには万に一つの勝ち目もないということです。ほっほっほっほ…!」
 ワルギリアと山羊は一緒にげらげらと笑う。
【蔵臼】「く、…くそ……。万一ということは、配当は一万倍ということではないかね。……良い大穴だ。そういう馬券は好きだよ、買いたくなる…。」
【ワルギリア】「ほっほっほっほ! それを買うコインはあなたの命、1枚しかありませんよ? しかし、それでもその奇跡に運命を託したいというあなたの気持ち、よくわかります。
 ……ですので、恐れずに立ち向かうあなたの勇気を讃え、ひとつハンデを差し上げましょう。この子は左腕一本で戦います。まぁ、それでもあなたに負ける気はまったくしませんが。
 …………それにしても何かしら、さっきからピンポンピンポンと。」
【蔵臼】「よ、……よかろう。その勝負、受けて立ってやる……。左腕だろうと何だろうと、どうせ私は一撃で殺されるだろう。……私のチャンスもまた、一撃しかないのだ。それに全て賭けるしかあるまい。」
【南條】「無茶苦茶だ、蔵臼さん…! あ、あんたがボクシングをやってたことは知っているが、それでも大学時代のはず…。いやいや、仮にプロのボクサーがいたとしても、あんなバケモノ、一撃で倒せるはずもない…!」
【霧江】「……リングの上での試合なら確かにね。でも、蔵臼兄さんが望みを賭けるチャンスが、わずかだけどあるわ。……彼は、それに全て望みを賭けている…。」
【嘉音】「ま、まさか……。しかし、そんなの、うまく行くわけがない…。」
【紗音】「……旦那様………。」
【蔵臼】「み、見ていろ…。一撃で決めてやる……。」
 ほっほっほっほ…。浅はかな。お前たちの狙いはわかっていますよ。二人の距離は、10m以上は離れている。山羊も蔵臼も、一撃で勝負を決めるために全力で踏み込めば、その威力は普段の2倍。それが激突するのだから、相対的に4倍となる。
 さらに、奇跡的に急所に命中しクリティカルヒットとなったとしても、その威力は2倍止まり。………つまり、蔵臼の最大戦闘力は6の8倍で48がせいぜいというところ。そのまぐれ当たりの一撃を20回繰り返してようやく勝てるかどうかというところ。
 ほっほほほほほ、一撃食らわす度にあなたは殺されて、それでもダメージを累積させて、……そうね、エピソード24くらいまで行ったらようやく勝てるのかしら?
 ほっほっほっほ、そこまでこの連載、長引いてると良いのですけれど…!! いずれにせよ、万に一つの勝ちもない! ……もう、さっきから何なのよ、このピンポン?
【蔵臼】「私も、一撃に全てを賭けさせていただく…。山羊くんも、遠慮することはない。本気で来たまえ…。」
【ワルギリア】「ほほほほ、全力を要望ですよ。本気の一撃で粉砕し、肉片に変えてやりなさいな。」
 山羊は興奮して胸を何度も叩きながら、短距離走のような構えを取る。
 ほっほっほっほ、これでお望みどおりかしら? あなたの最大の戦闘力に望みを賭けて、それでもまったく届かないことに絶望なさい! また鳴った! イライラする、何ですかこれ?!
【蔵臼】「行くぞ……。いいかね?」
 山羊も吼えて応える。
 そして、対峙した男たちにしか分かり合えぬタイミングの一致を見て、……二人は撃ち出された砲弾のように飛び出す。男たちの咆哮、全身の肉体の力がそれぞれの腕一本に集約される。
 山羊の爛々と光る瞳には、はっきりと蔵臼の顔面が捉えられている。……どのタイミングまで踏み込み、どのタイミングで殴り抜き、吹き飛ばし、完全に勝利するか、そのビジョンが完全に見えていた。
 山羊の脳裏に、今日までの辛く長かった日々が蘇る……。先輩たちにいびられながらの鍛錬の辛い日々…。そんな日々に、わずかに垣間見えた先輩たちの温かな気遣い。そして初めて実力を認められ、仲間として認めてもらえた日の喜び…!
 ずっと親不孝だった。……そうさ、実は俺、今回の仕事を終えたら足を洗って、故郷に帰るつもりだったんだ。ごめんな、妹の山羊子、お兄ちゃん、迷惑ばかりかけてたな。それに俺、…じ、実は幼馴染がいて、帰ったら結婚することになってるっすーーー!!!
【ワルギリア】「ぎゃーーーッ!!! ダメぇえええぇえ!! 負けフラグ立て過ぎちゃらめええぇええええぇえ!! そのパンチは駄目よ、避けてえええぇええ!!」
 それはまさに二人が激突し、互いのパンチが交差する直前の瞬間だった。
【霧江】「愚かね、ワルギリア。冷静な判断を欠いたようよ。」
【ワルギリア】「そのパンチを受けてはなりませんッ!! 弾きなさい!!」
【山羊】「ッ?!?!」
 山羊の左ストレートと蔵臼の右ストレートが交差するその瞬間! 山羊は超反射神経でワルギリアの命令に従い、ストレートを引き戻して蔵臼のパンチを弾く!
【蔵臼】「………むッ、」
 そう、ワルギリアの判断は賢明だっただろう。何しろ負けフラグの数は、相手の戦闘力にそのまま倍率となって掛かる!
【ワルギリア】「危ないところでした、こんな負けフラグ立てまくりの状態で食らっていたら、どれほどの威力に倍率が掛かっていたことか…!!
 さぁ、そこでがら空きの右側面に右ストレートを叩き込んでやりなさい!! 何? 左腕一本で戦う約束? ほっほっほ!! 約束は破るためにあるのでしょうがー!! ぎゃー、また立ったあああぁ!!」
【霧江】「失望よ、ワルギリア。あなたはやはり冷静を欠いていたわ。」
【ワルギリア】「何ですって……?! 直前に気付いて避けさせた私のどこが冷静でないと…!」
【紗音】「ど、…どうしてですか霧江さま…? あのまま激突していたら、旦那様の勝ちだったのでは……。」
【嘉音】「………はッ、そ、そうか…、負けフラグの数が20でも、……まだ足りないんだ!」
 蔵臼と山羊の2倍の踏み込みで4倍。奇跡が味方してクリティカル確約でさらに2倍で8倍。その上、立てた負けフラグの数だけ倍率が掛かって20倍で160倍。
 一見、すごい倍率だが、それでも蔵臼の戦闘力は6。160倍しても、戦闘力960。山羊の1000にはギリギリ届かない…!
【霧江】「だから冷静じゃないと言ったのよ。あなた失敗したわ。そのまま激突していれば、あなたの勝ちだったのよ。」
【ワルギリア】「ほ、ほっほっほっほ!! たとえそうだったとしても、この右ストレートで蔵臼の頭を砕けば同じこと!! 死ねッ、右代宮蔵臼ッ!!!」
【蔵臼】「……食らいたまえ、ボクシング界、最強の一撃を。」
 蔵臼の右ストレートを弾き、がら空きになった蔵臼の右側面に山羊の右ストレートが襲い掛かる…。しかしそこに、蔵臼の左ストレートが交差する…。
 二人のパンチが交差し、互いに相手の顔面を捉えたまま時間が制止した……。
【ワルギリア】「ほ、………ほほほほ。まさかこのタイミングで相打ちに持ってくるとは! しかし、戦闘力は160倍止まりで960!! うちの子の1000には及びませんでしたよ…!」
【南條】「………いいや。ワルギリアさん。……あんたの負けだ。」
【ワルギリア】「どうして?!」
【南條】「あんた、最初のクロスカウンターを弾かせちまった。……確かに、その次に繰り出した右ストレートが当たれば、蔵臼さんは粉々にされていただろう。
 …しかし、そいつをクロスされてしまった…。……こりゃあ、駄目だ。悪いが、あんたんとこの山羊さんの完敗だよ。」
 クロスカウンターは4倍の破壊力。これはボクシングの常識だ。そしてそれを弾き、右ストレートが叩き込めたならダブルクロスカウンターで8倍の破壊力。これもボクシングの常識だ。
 それをクロスされてしまったら……。トリプルクロスは、てこの原理で破壊力12倍! これもまた、どうしようもないくらいにボクシング界の常識!! 民明書房の本にだって載っているッ!
【霧江】「………蔵臼さんの戦闘力は6。」
【嘉音】「双方2倍の踏み込みで4倍。」
【紗音】「ク、クリティカルヒットで8倍。」
【南條】「負けフラグの立て過ぎで160倍。」
【蔵臼】「……そして、トリプルクロスカウンターでさらに12倍。」
【ワルギリア】「せ、……1920倍……。」
 戦闘力、11520…!! 今の蔵臼のパンチなら、最初の頃の天下一武道会なら余裕で優勝できる威力…!!!
【南條】「……これは、勝利を最後まで諦めなかった蔵臼さんの執念と、……あんたの慢心が招いた結果だ。どちらが欠けても、この威力にはならなかった…。
……あんた、よく戦ったよ。………もう、倒れてもいいんだぞ…。」
 南條が、ポンと山羊の肩を叩く…。
 ……お、……お兄ちゃん、がんばったよ……。山羊は目からキラキラする粒を撒き散らしながら、ふわぁっと仰け反り、ワルギリアを下敷きにして倒れた。
【ワルギリア】「うぎゃー!! 重いぃいいぃ、退きなさいぃ!」
 華奢なワルギリアにとって、山羊の巨体は重すぎる。下敷きになったままじたばたするが、逃れられそうにない。その拍子に、ワルギリアが閉ざしていた結界が破れる。
【蔵臼】「悪く思うな。てこの原理を侮ったのが君の敗因だ。」
【霧江】「……どうしてあのカウンターでてこの原理が働くのかしらねぇ。永遠の謎だわ。」
【南條】「今のうちに逃げましょう…!! 山羊さんも、お大事に…!」
【紗音】「そ、それでは失礼します、ワルギリアさま!」
【嘉音】「………ぺこり。」
【ワルギリア】「待ってぇええぇー!! 待ちなさぁい!! これ退けてぇええぇ!! きーーー!! ガプガプガプガプー!!!」
 あとは、彼らを遮るものは何もない。……地下道をひたすらに駆け抜ける…!
朱志香の部屋
 朱志香はとうとう、壁を背に追い詰められてしまう。……ロノウェの魔法障壁はじわじわと迫り、やがては壁に押し潰すだろう。間合いから考えて、鉄拳を繰り出す、これが最後の一撃だった。
 朱志香は何発もの鉄拳を食らわしてきた。……壁は無敵じゃない。もはやひびが入り、いつ砕けてもおかしくない。
 しかし、朱志香もまた、その反射するダメージにより、全身を切り刻まれ、ぼろぼろにされていた…。
【ロノウェ】「……もうおよしなさい。あなたを押し潰すつもりはありません。あなたの処遇はお館様が決めますからね。……しかし、朱志香様のナイスファイトは、私からも特に申し上げるつもりですよ。」
【朱志香】「ふ、………ふざけるんじゃ、……ねえぜ…。……まだだ……。まだ、……終わっちゃいねえぜ………。」
【ロノウェ】「……あなたは満身創痍。立っているのもやっとではありませんか。……あなたは最後の一撃に、全ての力を込めるつもりでいるようだ。しかし、その最後の一撃は、むしろあなたにとって命取りになりますよ。」
 ロノウェの魔法障壁のダメージ反射は攻撃力に比例する。朱志香の渾身の一撃は、そのまま自らにも跳ね返るのだ。……渾身であればあるほど、朱志香には自殺的になってしまう。
【朱志香】「わ、わかってるぜ……、そんなことはよ………。」
【ロノウェ】「警告します。もうお止めなさい。それがあなたのためです。」
【朱志香】「強がるなよ。お前の壁が、もう破れかかってるんだろ…? 殴ってきた私には、手応えでわかってるんだぜ………?」
【ロノウェ】「……………………。」
 それは、事実。ロノウェの壁は確かにもう壊れかかっていた。しかもその上、朱志香の鉄拳には、もはや想像もつかないくらいの魔法攻撃力が付与されていて、その破壊力は想像を絶する。
 ……下手をすると、障壁を貫き、さらにロノウェを打ち砕いて、この部屋と隣の部屋を繋げる拡張工事になりかねない破壊力を持つだろう。……だが、そのダメージは朱志香にも跳ね返る。無事では済まない!
【ロノウェ】「もう一度だけ言います。お止めなさい。あなたのためを思って言っています!」
【朱志香】「やかましいぜ……。………覚悟しやがれ。」
 朱志香が吼える。……全ての力を込めた最強最後の破壊力が拳に込められて、咆哮する……。
薔薇庭園
 とっくの昔に山羊3人は打ち倒されている。譲治は呼吸一つ乱さずに、慎重にガァプとの距離を詰めている。……狙っている。一撃で仕留めるつもりだ…。
 ガァプもまた、一撃を狙っている。………そのチャンスを逃せば、今度こそ殺される……。
【譲治】「……落とし穴は、使わないのかい。」
【ガァプ】「…………く……。」
 落とし穴を開ける時のわずかの隙でさえ、今の譲治相手には命取りになる。……ガァプは慎重に間合いとタイミングを測るが、その間にも譲治は間合いを詰めてくる…。
【譲治】「………来ないなら、行くよ。」
【ガァプ】「……き、……来なさいよ…。今さら小細工も何もないわ。……私のこの蹴りで、……決着をつけてやる!」
 譲治の体がぶれたと思った瞬間、……その虚空には譲治のジャケットだけが漂っていた。
 あッ、と思った瞬間には、薄暗闇がガァプを覆っていた。踵を大きく振り上げた譲治が、天空から襲い来る巨大な龍の姿にさえ見えた。
【ガァプ】「か、掛かったわね……。………これで私の勝ちよ、右代宮譲治ッ!!」
【譲治】「何。」
 ガァプは自分を中心に巨大な落とし穴を開き、自らごと譲治を飲み込む…!! 二人は落とし穴に飲み込まれ、東屋の天井より吐き出される。
 しかしそれは狙い通りだから、ガァプだけは軽やかに着地する。……しかし、譲治の着地点には再び落とし穴が。
【ガァプ】「うっふふふふふふ、あぁっはははははははははははッ!!! もらったわ、右代宮譲治ぃいいいいぃ!!
 面白かったわよ死になさい、あんたみたいな上等、右代宮家の当主なんてもったいないわ、今この場で私が喰ってあげるッ!!! うううぅうぅおおおおおおおおおおおおッ!!」
 譲治は再び東屋天井から落下する。多分、二階建ての屋根くらいから落とされたのと同じはずだ。空中では如何なる姿勢制御も出来ない。抵抗も防御も回避も不能ッ!!
 ガァプは竜巻のように舞い踊りながら鋭いピンヒールの先端に全ての気を集中させる。……これが引導を渡す、最後の一撃。本当の奈落へ叩き落す、天を穿つ女王蜂の最後の一撃ッ!!
【ガァプ】「ようこそ奈落へッ!! ここがあんたの終着点よッ!!!」
 獲物を捉え、天空へ足を打ち出す。
 ……その時、譲治の顔を見た。………空中であるにもかかわらず、右手の中指で眼鏡を、直す余裕を浮かべていた。
 そして、その姿勢は踵落としのまま維持されている。いささかの狂いもなく、ガァプの額目掛けて……。
【譲治】「………君がその手に出ることは、想定済みだったよ。」
【ガァプ】「…………な、にぃ………、」
【譲治】「僕が、地上の君に飛び踵を食らわせるために飛んでいたなら、僕の姿勢はとっくに崩れていただろうさ。………しかし、僕の姿勢はいささかも崩れない。なぜかわかるかい。」
【ガァプ】「……ま、……さ、…か……、」
【譲治】「僕は初めから、……2フロア下の君に踵を食らわせるつもりで、飛んでいるッ!!!」
【ガァプ】「う、……ううぅううううをおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉおぉおおおおおおッ!!!」
【譲治】「君の負けだ、お嬢さんッ!!!」
【ガァプ】「ピンポーン。」
朱志香の部屋
【朱志香】「うッおおおぉおおおおお、食らえぇええええええええええぇッ!!!」
 朱志香の振り上げた最後最強の一撃が、壁に、……飲み込まれる。壁に突如開いた黒い大穴に飲み込まれてしまったのだ。
【ロノウェ】「だから、………お止めなさいと忠告したのに。」
【朱志香】「こ、………れは…………、」
【譲治】「……ぐ、…………ぁ……、」
薔薇庭園
【ガァプ】「実は。………ぜぇんぜん、ピンチでも何でもなかったの。ごめんなさいねェ…。」
 ……朱志香の鉄拳は、譲治の腹部を捉え、……譲治の踵落としは、朱志香の頭部を捉えている。
 朱志香の鉄拳に込められた驚愕の破壊力は、譲治の内臓を砕き、腹部を飛び散らせる。譲治の踵落としの同じ位に驚愕の破壊力は、朱志香の頭部を半壊し、その中身を同じように飛び散らせた……。
【ガァプ】「ぷっ、…あっはははははははははは…!! だぁってぇ。魔女は演技力なんでしょぉぉおお? ねぇねぇ、ベアト、どうよ、見ててくれたかしら…?」
メタ視
【ベアト】「わっはっはっは、わああっひゃっひゃっひゃ、あーっきゃっきゃっきゃ!! やるなァ、筋書き通り! やっぱガァプはわかってるじゃアん!! いえーい!!」
 ベアトとガァプは軽やかにハイタッチを決める。
【戦人】「……う、……ぉ、…………うをおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!」
薔薇庭園
【ガァプ】「ありがと、ロノウェ。こっちで美味しくいただけた。朱志香の死体はそっちに返すわ。……二人で寄り添う死体を、引き離す。……これで第二の晩は出来上がり?」
 ガァプは落とし穴に朱志香の死体を落とし、朱志香の部屋に肉片ごとばらばらと、まるでゴミ捨て場に放り込むかのように無造作に放り込む…。
朱志香の部屋
 朱志香の死体と肉片が、天井から朱志香の部屋にどさどさぐちゃぐちゃと降り注ぐ。そのあまりに惨い変わり様に、ロノウェは小さく首を横に振った。
【ロノウェ】「…………申し訳ございませんね、朱志香さま。ご忠告は申し上げたのですよ。
 もっとも。…この結末を予見し、聞き入れないとわかっている忠告を重ねる悪魔の醍醐味は、ニンゲンにはわからないでしょうがね。……ぷっくくくくくくくくくく!」
薔薇庭園
【ガァプ】「本当に面白かったわ、坊や。……でもあんた、ちょっと言葉遊びが過ぎるわよ。……“そろそろ反撃してもいいかな”、が最高傑作? うふふ、あなたどこかのラノベか何かにかぶれ過ぎよ? くすくすくすくす!」
 ガァプは、譲治と朱志香の肉片と血が飛び散った凄惨な装飾の東屋で、しばらくの間、高笑いを楽しむのだった…。だがすぐに、いくら何でもちょっと汚し過ぎで品がないと気付くと、指を鳴らす。
 すると、辺り一面から黄金の蝶の群が湧き上がり、肉片や血の汚れに張り付いて、それを落としていった。……そして、それらはどんどん譲治の死体に戻り、内臓をブチまけた無残な死体を、眠っているような綺麗な死体に直してしまう。一応なりとも、好敵手に対する死後の礼儀…………?
 ぬぅっと、天が割られる。……ガァプがその足を、天に向かって高々と突き上げたからだ。
【ガァプ】「じゃあね、色男。これが本当の、ゲームオーバー。」
 ぐしゃりと。……容赦の欠片もなく、その足が踏み下ろされ、……譲治の額に打ち込まれる。凶器のように鋭いピンヒールの踵が、譲治の額を貫いていた。
 それを、……ごぽりと音を立てて、引き抜く……。それは、確かにガァプが自らの手で仕留めたという、証の刻印のようでさえあった……。
朱志香の部屋
 ロノウェも、朱志香の死体をもとの姿に戻していた。……しかも譲治と違い、その命まで蘇らせていた……。
【朱志香】「…う、………ぐほ、げほっ……、……これは、………一体……。……夢……?」
【ロノウェ】「いいえ、違います。……朱志香さまは確かにお亡くなりになりました。最期の瞬間の記憶を、よくご存知のはずだ。」
 朱志香の脳裏に焼き付いている。……なぜかどこかへ飛ばされ、譲治の踵に頭部を砕かれたことを、……覚えてる……。
【朱志香】「私は、……生きてるのか……。」
【ロノウェ】「いいえ、死んでいます。私の魔法でほんの3分ほど、それを先送りにしているに過ぎません。3分が過ぎれば魔法が終わり、あなたは無残な頭部半壊の死体に戻ります。」
【朱志香】「な、……んだと………。……へ、………へへへへ……。」
【ロノウェ】「死は残酷です。多くの場合、心の整理さえ与えない。……しかし私は、ここまで健闘したあなたを讃え、その時間を与えることにしました。その3分間で、この世の未練を、よく整理されるといいでしょう。」
【朱志香】「その3分で、……お前を道連れにするという手もあるぜ……。」
 しかし、朱志香の体からは、さっきまで燃え盛っていたあの力は完全に失われている。……朱志香も、自覚していた。自分はもう、死んでいるのだ。
【ロノウェ】「それでは私はこれにて。失礼いたします。……楽しかったですよ、朱志香さま。」
 ロノウェはその姿を黄金の蝶の群に変え、消え去る。
 後には、風雨の音と壁に寄りかかりながらしゃがみ込む朱志香の姿だけが残されていた……。
 朱志香は悟る。多分、本当に3分で自分は元の死体に戻るだろう。
 ……その3分で、何か自分に出来ることは………。立ち上がり、ふらふらとした足取りで、……机の上の、電話を取る…。
ゲストハウス・いとこ部屋
【戦人】「も、……もしもし。……朱志香か? 朱志香?! どうしたッ、無事かッ?!?!」
朱志香の部屋
 紗音は、薔薇庭園にて譲治を殺害(6人目)。その後、譲治から回収した本物の鍵で園芸倉庫のシャッターを開け、首を吊ったフリをしている郷田と熊沢を銃で撃って殺害(7人目、8人目)。
 なお、郷田と熊沢については、小窓から撃ち殺したと考えた読者も多いはず。その推理が不正解である理由は後述する。
【朱志香】「………へ、……へっへへへ…。……やられ、ちまったぜ……。」
【戦人】「大丈夫か?! 怪我をしてるのか?! 今助けに行く!!」
【朱志香】「いや、……もう遅いぜ。私さ、……もう死んでるんだと…。あははは、戦人が来た時にゃ、私は頭を半分ブチまけた死体だよ。」
【戦人】「畜生おおおぉ、クソジジイめ!! 待ってろ、今そこに行くからなッ!!」
【朱志香】「聞けよ戦人ッ!!! いいかよく聞け…。………郷田さんたちが、どうして食堂で6人が殺された時のこと、歯切れが悪いのか、よくわかった。………あいつらな、………ニンゲンじゃ、…ねえんだぜ。」
【戦人】「は、…はあ?! 何を言ってんだ………、」
【朱志香】「見ちまったんだ、仕方ねえだろッ!! あいつらさ、ワープしたりバリヤー張ったり、あっはは、やりたい放題だぜ…? どこの漫画だよ、アニメだよ、……いや、マジでかなわねぇぜ。
 ……あっはっはっは……。…最初っからさ、戦うとか、無理なんだよ……。戦人が自慢してた、帽子掛けの槍程度で、とてもどうにかなる相手じゃねぇぜ…。」
 朱志香の額から、すうっと、血が一筋、零れ出す……。
【朱志香】「譲治兄さんも駄目だった。ありゃあ、即死だ…。………へへ、次のテストは戦人だなぁ。………お前のテストも私たちと同じになるのかなぁ……。………用心しろよ、……そして、間違えるな。」
【戦人】「テ、テストをか…?」
【朱志香】「違う。………敵はどうせニンゲンだと、……間違えるなよ。………敵は、ニンゲンじゃない。…おっそろしい魔法を自在に扱える、……悪魔なんだ。そこを絶対に、……間違えるんじゃねぇぜ……。げほッ、げほげほ!!、用心、しろ……よ……。」
 朱志香の口元からも血が一筋、零れ出す。……頭の左半分がきりきりと痛み出す。朱志香は、自分が元の死体に戻るのが近いことを悟る。
【朱志香】「……………13人死ねば、黄金の魔女が、蘇る。母さんたちが殺されて6人。これで第一の晩。……そして私と譲治兄さんが死んで、第二の晩。……あと5人殺されれば、儀式は完成で、……魔女が蘇るってわけだ。
 ………父さんたち、無事だといいなぁ…。……もし無事じゃなかったら、………お前をテストするのは、復活したての、ベアトリーチェ自身ってことになるかもしれねぇぜ…。」
 戦人にはもはや、朱志香が何を言っているのかわからない。しかし、その声色から、死期を悟っていることは理解できる。だから事情はわからずとも、頑張れと励ます。
【朱志香】「……はは、私はもう死んでるんだって。………じゃあな。もう時間みたいだ。……テスト、がんばれよ。お前が当主に、なれるといいな。………………………。」
【戦人】「朱志香? 朱志香?! おい、返事をしろッ!! 朱志香ぁあああああぁあああ!!」
 宙ぶらりんとなった受話器から、戦人の悲痛な声が聞こえてくる。
 ……その脇の壁に寄りかかるようにしゃがみ込んで。……朱志香の頭部は、半分砕けていた………。
森の中
【霧江】「ここは……?」
【蔵臼】「…これは、井戸なのか……? ここはどこなんだ…。」
 霧江が井戸から顔を出し、続いて蔵臼も姿を現す。木立の向こうに屋敷の裏手が見えることに気付き、蔵臼は大体の場所を理解した。……まさかこんなところにある井戸に、秘密の地下道が隠されていて、隠し屋敷につながっていたとは……。
【南條】「ろ、老体にはやはりこれは辛いですな……。……普段は別の場所から、ちゃんと階段で上がれるのです。鍵さえ開けば…。」
【蔵臼】「……南條先生には、後で色々とここの構造についてお教え願いたいものだ。……紗音、大丈夫かね? 掴まりたまえ。」
【紗音】「だ、……大丈夫です。嘉音くん、早く。」
 井戸を偽装した竪穴から、嘉音が梯子を登ってくる。……相当深いのだろう。下を見下ろして初めて、ずいぶんと昇ったことに気付く。
【410】「にひ。射撃。」
 ボンッ、と。…………ようやく井戸から這い出そうとした嘉音の胸に、バスケットボール大の大穴が開く。……その場にいる全員が、嘉音の胸に空いた大穴越しに、その向こうの景色を見てしまう……。
【紗音】「か、………嘉音くんッ!!!」
【嘉音】「……ね、……えさ、……………。」
 嘉音はぐらりと後へ仰け反り、……井戸の奥深くへ飲み込まれていった……。
【紗音】「み、みんな逃げてッ!! シエスタ姉妹!! 捕捉されてます、回避できない!! 走ってッ!! ひとりでも生き残って…!!!」
 その時、蔵臼も霧江も南條も、井戸から黄金の曲線が現れて、……紗音の頭を真横に縫ったのを確かに見た………。
【蔵臼】「紗音ッ!!!」
 頭部貫通。打ち抜かれた反対側が、ぐしゃっと吹き飛ぶのまで、完璧に3人は目撃した。紗音は膝を付き、………頭の両端から血を噴出して、どさりと倒れる。
【南條】「う、うわああああぁああぁひゃああああぁあ!!」
【霧江】「私たちは狙われてる!! 走ってッ!! 殺されるわよ!!」
【蔵臼】「…は、走れ…、走れ走れ走れッ!!!」
 紗音の死に様に驚き、腰を抜かしてしまった南條を、シエスタ姉妹は逃さない。
 井戸より再び黄金の曲線が現れ、それは瞬時に南條の額から後頭部にかけてを貫き、縫ってしまう。……どさり。それで南條は、絶命した。
【蔵臼】「何なんだ、どうしてなんだ…!! 敵はどこからッ?!」
【霧江】「狙撃されてるのよ!! どこか知らないけど、私たちを完全に捉えてる!! 屋敷へ逃げ込むのよ、視界を遮るのよ!!」
 二人は屋敷の裏口に駆け込む。
 そして蔵臼が後ろ手にドアを閉めようとした瞬間、……黄金の曲線が四度現れ、蔵臼の後頭部から額にかけてを貫き、額をも砕いてしまう…。
【蔵臼】「…………ぐ、………おお…………。」
【霧江】「ひいい!! ひぃいいいいいいい!!!」
 ぐらりと蔵臼の体が傾き、ばったりと倒れて、頭の中身で綺麗な放射線を描いた…。
 霧江は廊下を滅茶苦茶に走り、どこかの部屋に飛び込み鍵を掛ける。………しかし、それで自分の命が助かるなどと、到底思えなかった。自分は多分、もう死ぬ!
 そこは客室のひとつのようだった。……その時、霧江の目に、サイドテーブルの電話が映る…。
 紗音(または嘉音)は、朱志香に電話でシナリオ通りの内容を喋らせる。その後、嘉音の人格を殺してから(9人目)朱志香を殺害(10人目)。以上で、嘉音が9人目の犠牲者だとする赤を抜けられる。
ゲストハウス・いとこ部屋
 朱志香からの電話を切り、まさに戦人は駆け出そうというところだった。その瞬間に再び電話が鳴った。
【戦人】「も、もしもしッ!!! ……………え? 霧江さん?!」
【霧江】「……ハイ、戦人くん。……ラッキーだったわ。何とか地下牢を脱出できたの。本当についてた。」
【戦人】「そこはどこだ?! みんな無事なのかよ?! こっちは朱志香と譲治の兄貴がどうやら、」
客室
【霧江】「聞いてッ!!! 私の命は多分、もう長くは持たないわ。」
 その時、施錠した扉の鍵穴が黄金色に光ったかと思うと、そこから螺旋を描いた黄金の曲線、……いや、黄金の縫い糸がものすごい速度で侵入してきて、霧江の足元の床に穴を穿った。
 ……おや、珍しい。4人を次々と見事な腕前で狙撃した敵も、さすがに部屋に篭って隠れた私の眉間を、一撃で貫くのは難しかったらしい。しかし、次の一撃は当ててくるだろう……。
 霧江は、今になってようやく、最初の食堂の虐殺を思い出す……。……そうだ……。……留弗夫たち6人を殺したのは、コレなのだ……。
【霧江】「……聞いて、戦人くん。私が見たことを、ありのまま話す。…戦人くんは、きっと私の頭がどうにかなってしまったんだろうと思うに違いない。……えぇ、思ってくれていいわ。私だって、何を見たのか、未だに整理がつかない。
 ………今日。戦人くんたちがゲストハウスに帰ってから、食堂で親族会議が始まって、……そして何が起こったかを、全て話すわ。口を挟まないで最後まで聞いて。…………途中で急に電話が切れるかもしれない。そしたらその時は、私が殺された時よ。」
【戦人】「………霧江……さん……。」
 そして霧江は、………金蔵が来て、親族会議が始まり、……6人が殺され、自分たち5人は監禁され。……何とか脱走し、ここまで逃げてきたが、とうとうみんな殺されてしまったことを、淡々と見たままに、脚色なしに語った。
 ……自分を除く全員が殺され、その全ての死ぬ瞬間に立会い、……今まさに、自らも殺されようとしていることまでも。
【霧江】「…………実は。この話をしている間にも、…もう三度、攻撃を受けている。鍵穴からおかしな黄金の糸みたいなのが飛び込んできて、くるくる回りながら私を狙ってくるの。最初は足元。……次は、肩の近く。……さっきのは、耳をかすったわ。……狙いがだんだん正確になってくる。そろそろ、私の眉間にズドンと来そうね……。」
ゲストハウス・いとこ部屋
【戦人】「に、逃げろ、霧江さん…!! 逃げてくれぇええええぇ!!!」
【霧江】「どこへよ。……私、…ここまで逃げ延びてきて、……部屋に閉じ篭って、鍵まで掛けてるのよ……? ………それでもなお狙われてる私が、………どこに隠れるのよ、……ねぇ……。」
【戦人】「き……り…え、……さん………。」
【霧江】「ねぇ、戦人くん…。朱志香ちゃんと譲治くん、……まだ生きてる?」
【戦人】「…………………。……さっき、…朱志香から電話が…。………何か、……駄目みたい…だった……。」
【霧江】「………やっぱり。……うん、私たち5人が次々殺される時、何か予感していたの。……ひょっとして、13人殺しの儀式は、第二の晩を終えて、私たちの晩にまで至ったのかなぁって。………つまり、私が死ねば、13人。これで儀式は完成。……黄金の魔女、ベアトリーチェが復活する。
 ………一体、どういうことになるのかしら。……こんな、悪魔だらけの魔女だらけ、山羊のバケモノがうじゃうじゃいるこの島に、……さらにそいつらの親玉である黄金の魔女まで現れて、………一体どうなっちゃうというのかしら…。……もう、私には、………何が何だかわからない。」
 霧江さんの声は、……完全に、自らの命を諦めきっていた。戦人にはそれがわかるからこそ、……涙が止められない……。
【霧江】「……ひとつだけ、助言できることがあったわ。」
【戦人】「何…?」
【霧江】「………もし。あなたの前に悪魔やら魔女が現れても。」
【戦人】「あぁ…。」
【霧江】「その正体を、疑う必要は何もないわ。……そういうものだと、理解して。」
【戦人】「……………………。」
【霧江】「何か仕掛けがあるはずだとか、正体があるはずだとか。……そんなことを考える余裕があったら、……相手の機嫌を損ねないことを考えた方が、よっぽどに建設的。……間違っても、…なら魔法を見せてみろなんて言っちゃ駄目よ…。……その証拠を、彼らはこの上なく残酷な方法で、……見せるでしょうから。」
【戦人】「……信じ、……らんねぇよ……。……霧江さんの口から、……そんなこと言われるなんて、……信じらんねぇよ………。」
【霧江】「わかってる。信じられないのは。……だから、それこそが私に出来る助言。……信じて。」
【戦人】「………ベアトリーチェと、悪魔と魔女とバケモノどもを、信じろ、と……?」
【霧江】「私たちは多分。……あれほどまでに、この世ならざるものをありありと見せ付けられても、……多分、何も信じることが出来なかったと思うの。……今の私もそう。…さっきから襲ってきて、私の額を撃ち抜こうとするものの正体さえ、……私には理解できず、………信じられない。
 だから、……あなただけは信じ、理解して、………私たちに受け止め切れなかった存在を、……受け止めてほしいの。そうしてくれたなら、私たちの死は、無駄にならない。………私も、こうして電話をした甲斐があったというものだわ…。……あツ…!」
【戦人】「き、霧江さん?!?!」
【霧江】「……まだ大丈夫よ。かすったけど、また外したわ。……さすがに、………今度はもう、駄目かもね。………ありがと。そしてさよなら、戦人くん。……あなたのこと、明日夢さんの息子だからと、冷たくしたこともあったの。……その日のことを、許して。」
【戦人】「許すも何も、今は霧江さんが俺にとって、の母親だろうが!!」
 受話器の向こうで、凄い音が聞こえた気がした。そして、ガラガラゴトゴトと賑やかな音。……まるで受話器が落ちて転がったような。
【戦人】「霧江さんッ?!?! 霧江さん!!! うおおおおおぉおおおおおおおおおぉ!!」
 ………霧江さんは二度と、……電話には、………応えなかった………。
 源次が、霧江に電話をかけさせる。戦人の行動を制御できないと計画が失敗するため、うまく連携してタイミングを計らなければならない。そのためには、霧江のいる客室の電話を一回だけ鳴らす等の合図を決めておけば良い。
 その後、朱志香の部屋から戻ってきた紗音が、蔵臼と南條を勝手口まで連れ出して殺害。残った霧江を源次が殺害。

惨劇の原因

ゲストハウス・いとこ部屋
【真里亞】「……どうして戦人が怒ってるのか、わかんないよ。」
【戦人】「わかるだろ?! みんな殺されたんだぞ!! あのクソジジイに! ベアトリーチェ復活の儀式とかわけのわかんないことを言って!!」
【真里亞】「なら、これで13人が生贄に捧げられて、……もうベアトリーチェは蘇った頃だよ?」
【戦人】「あぁ、なら上等だ!! ベアトリーチェもまとめて一緒に、ブチ殺してやるッ!!」
【真里亞】「…………真里亞たちは儀式を生き残った。だからベアトリーチェに、黄金郷に招待してもらえるんだよ……? そこでは願いは何でも叶う。家族を殺されたのが辛いなら、生き返らせてもらえばいいのに。……真里亞はそうするつもりだよ。黒い魔女に取り憑かれていない、本当にやさしい本当のママを蘇らせてもらうの。
 ……だからママは、もうずっと真里亞と一緒。………お仕事とかで残業も休日出勤も何もないの。…ずっと真里亞と一緒にいてくれて、真里亞のことだけを考えてくれて、きっひひひ、真里亞のために恐ろしい敵といつも戦ってくれるの。きっひひひひひひ…!」
【戦人】「……お前、どうかしてるぜ。……何でこの状況で、そんなワケわかんねえことを言ってられるんだ…!」
【真里亞】「…………戦人は今、霧江に言われたはずだよ…? ……魔女を、信じろと、……言われたはずなのに。」
【戦人】「…………………く、くそ。こんなとこで真里亞と口喧嘩してる場合じゃねぇぜ…!! もう人質も何も誰も生き残っちゃいねぇんだ! もうクソ下らねぇ、おかしな儀式もゲームもおしまいだぜ…!!
 ここからは俺の好きにさせてもらう。まだ生きてるヤツがいるかもしれない。あるいは隠れてるヤツがいるかもしれない! 片っ端から調べて、見つけ出し、ブチのめしてやるぜッ!!」
 戦人は息巻いて、帽子掛けの槍を持つと、部屋を飛び出していく。それを、真里亞は退屈そうに見送る…。
【真里亞】「………ベアトリーチェがすぐに願いを叶えてくれるのに。……戦人はばか。……きっひひひひ。」
 その時、再び電話が鳴り響いた……。真里亞は立ち上がり、受話器を取る。
【真里亞】「うー。もしもし。……うー? うー!!!」
 もちろんその電話の音は、ゲストハウスを飛び出そうとしていた戦人の耳にも届いていた。猛烈な勢いで引き返し、いとこ部屋に飛び込んでくる…。
【戦人】「ま、真里亞……! 電話って、……誰からだッ…?!」
 戦人は凄まじい形相で、電話をしている真里亞に叫ぶ。
 それも当然のこと……。今のこの島で生き残っている人間は、自分と真里亞と、郷田と熊沢。しかし2人は園芸倉庫に閉じ込められているから電話を出来るはずもない。
 ……となると、………もう1人。金蔵しかいない。
 真里亞は電話の相手と楽しそうに談笑しながら、そのままゆっくりと戦人に振り返る。………そして、薄気味悪い顔で、きひひひひひひひと笑う。……まるで、電話の相手と、戦人のことについて談笑しているような、そんな感じだった。
【戦人】「真里亞…、電話の相手は誰だ。……祖父さまか……?!」
 戦人はそうとは思えなかった。…なぜなら、真里亞と金蔵が親しげに話をし、……そんな不気味な笑顔で、戦人のことについて談笑するなど、考えられなかったからだ。
 真里亞にそんな顔で談笑させるような、………どんな相手が受話器の向こうにいるというのか。
 ………その時、脳裏に、霧江の言っていた言葉が蘇る。たとえ魔女が現れたとしても、疑う必要はない。……ただ、………その存在を、信じろと……。
【真里亞】「うん。戦人、今、帰ってきたよ。せっかちだよね。きひひひひひひひひひひ……。」
【戦人】「真里亞ッ!! その電話の相手は誰だ?! 誰なんだッ?!?!」
【真里亞】「……代わる? うん。…………ハイ、戦人。」
 真里亞は電話の相手の同意を得て、受話器を戦人に差し出した…。
【真里亞】「………………ぅ。」
【戦人】「ハイ。」
 真里亞はほら、と、……当たり前のように受話器を差し出す。
 その受話器を取ることに、戦人はほんのわずかだけ躊躇を覚える。……なぜなら、………電話の相手の存在を認めることで、…………自分は、認めざるを得なくなってしまうからだ。
 ………霧江は言った。……その存在を疑う必要は、……もはや、……ない、と。
 戦人は受話器を受け取る。すると真里亞はすたすたと部屋を出て行く。
 受話器の相手が誰かを確かめることにわずかの恐怖を覚えていた戦人は、電話に出る前に、真里亞に問い掛ける。
【戦人】「お、おい! どこへ行くんだよ…?!」
【真里亞】「真里亞のテストの場所だよ。……右代宮家の当主は戦人か真里亞か、どっちだろうね。きひひひひひひひひひひひひ。」
【戦人】「………い、行くな!! 殺されるぞ!!」
【真里亞】「殺されないよ。儀式はもう、終わってるもの。…それに殺されても、蘇らせてもらえるし。……当主になってもなれなくても、もう私たちは黄金郷に招いてもらえる。じゃあね、お先に。」
【戦人】「待てよ!! 真里亞…ッ!!!」
 戦人は去っていく真里亞の背中に手を伸ばすが、……握り締めている受話器のコードが、まるで鎖のように戦人を引き止めるのだった。
 ……覚悟を決める。…戦人は受話器を耳に当てた……。
【戦人】「……………も、……もしもし……。」
【ベアト】「コングラッチュレーショーーンズッ!! アぁンド、アイムファィ〜ン!! エーンドユぅううううぅッ?! あああぁッひゃっひゃっひゃっひゃああああぁッ!!!」
 狂った、ふざけた英語が耳をつんざく。……知らない女の声。……誰……、頭の中が、霜柱でいっぱいになっていく……、…………誰……………。
【ベアト】「誰ぇ…は、ないであろう、右代宮戦人ァぁあぁ…。返事は普通、イエ〜ス、アイムファイン! であろぉ?? 懐かしいなぁ、中学でやっただろ? 二人一組になってやるヤツゥ! うっひゃひゃひゃひゃひゃひゃあああぁ!!!」
【戦人】「イ、…イカれてやがる……。てめえは誰だッ!! 答えやがれッ!!!」
【ベアト】「英語で言えよォ。お前、そういうの得意だったろぉおぉおお?」
【戦人】「……ふ、ふざけんじゃねえよ……。てめえは誰だッ!! クソジジイの手先か?!」
【ベアト】「手先とは酷い言い様ではないか。むしろ虜と言ってやれ。……金蔵こそ妾の虜ォ! だろ〜〜? わっははははははははは…。」
 最後の笑い方は戦人に向けたものではない。……まるで、電話のすぐ側に金蔵がいて、ゲラゲラと大笑いしているかのようだった…。
【戦人】「……な、……名を名乗りやがれッ!!! てめえは誰だ! 何者だッ!!!」
金蔵の書斎
【ベアト】「当ててみろよォ、ハワイへご招待するぜぇ? あっひゃっひゃっっひゃああぁッ!! ぃやっとだ。やっとッ!! んんんん、長かったぜええぇええぇ、本ッ当ぉおおぉに今日まで長い日々だった…!! マジで千年は待ったぜ、今日という日をよおおぉおお?? お陰様を持ちましてッ! 私、大復活ッ!! サンキュー金蔵ォ! 特別に、さっきの“待った”、聞いてやってもいいぜ〜!!!」
【金蔵】「……やれやれ、上機嫌にも程があろうが。もう少しは淑女らしく振舞わんか。」
 金蔵とベアトリーチェは、応接席のチェスに向かい合い座っていた。テーブルの上には、高級なチーズなどの酒の肴。そして、数本のワインの空瓶が並んでいた。
 ベアトリーチェはみっともなくソファに転げ回りながら、ワイングラス片手に、上機嫌に、……あるいは大層酔っ払っていた。
【ベアト】「今日は最ッ高にご機嫌だから、大サービスだ!! おいおい金蔵、シャトー・ペトリュスなんか飾ってんなよォ! 1947年ものかよッ?! 今日開けなくていつ開けるつもりだ! それを浴びせっこして遊ぼうぜぇええぇ! 空き瓶で殴りっこもしよう! うっひゃっひゃっひゃ!!」
【金蔵】「はっはは、それは愉快だ。浮かれ過ぎであるぞ。ハメの外し過ぎだ。」
【ベアト】「金蔵だってぇええぇ! 妾に再会出来て嬉しいだろぉおお? あぁ、シャバだ!現世だ!! 妾の肉体万歳ッ!!」
ゲストハウス・いとこ部屋
【戦人】「……お前、……さっきから何を騒いでるんだ………。…お前が、……ベ、…ベアトリーチェだとでも言うのかよ…。」
【ベアト】「イ〜エぇええええぇス、アイアぁああぁムッ!! 金蔵の13人殺しの儀式のお陰で、ようやく妾は復活したぞ…!! 口があるといい、舌があるといいッ! こうしてそなたと話せることの何と楽しいことかッ! そう言えば、お前とはあれだけ何度も何度も憎まれ口を叩き合ってきたのに、こうしてゲーム中に盤上で会話をしたのは初めてだなァ。何やらとても新鮮だッ!!
 お、今のポンッって音、聞こえたか?! あいつ、開けたぞ、マジでシャトー・ペトリュスを開けやがった!! 1本いくらするか知ってるか?! 10kgのインゴット丸々と同じくらいするんだぜぇえええぇ?!?! ひぃーっはっはっはっはっは!!」
【戦人】「ふ、ふざけるな…!! 何がベアトリーチェだ…ッ!! 黄金の魔女だと?! いい加減にしろ!! どこに居やがる! そこにクソジジイも一緒にいるのか?! てめえらまとめてぶっ飛ばしてやるッ!! 今どこに居やがるんだ?! 答えやがれッ!!」
【ベアト】「なぁんだ、妾に会いたいのかァ? うっひひひ、モテる女は辛ぇやぁ! でもよ、金蔵がいる時に口説くのはよせよぉ? こいつ、マジで妬くから性質悪いぜー? ………金蔵のいない二人きりの時なら、こっそり内緒で愛してやるからよ…? うひゃーっひゃっひゃっひゃっひゃ あーっきゃっきゃっきゃっきゃっきゃ!!!」
【戦人】「く、狂ってやがるぜ………。」
 紗音はベアトに変装した後、真里亞を礼拝堂に呼び出す。
金蔵の書斎
【ベアト】「金蔵ォ、気が変わった。真里亞のテストに妾は行かない。そなたが行け。」
【金蔵】「何と気まぐれな。ではお前が戦人をテストするというのか。」
【ベアト】「いいだろ〜?! あいつさ、お前の若い時に似てるからさ、キュンと来ちゃうんだよぉ。安心しろよ、浮気なんかしないってぇえぇ。あいつと二人きりになるのは今だけ。……ベッドの中ではいつだってお前と二人きりだろぉぉ…? だがもうベッドに首輪で縛るのは勘弁しろよ? くっひゃっはっはははははは…!!!」
【ベアト】「というわけだ、戦人ァ! そなたのテストは妾、黄金の魔女、ベアトリーチェが自ら執り行ってやろう! 場所は、そうだな。この屋敷の正面玄関にてだ! 戦人ぁ、次期当主のテスト、マジで頑張ってくれよぉ? ……どうせ金蔵なんてすぐに寿命でポックリ逝っちまう。戦人が次期当主になってくれりゃ、お前がこの島の全ての新しい主だ。……お前になら、……妾を独り占めにさせてもいいんだぜ……? 金蔵がしたみたいに、……妾を支配しておくれよォ……? くっひひひひひひひひ、うっひゃっはっははははははは!」
ゲストハウス・いとこ部屋
【戦人】「や、屋敷の玄関だな……。上等だ…!! このクソッタレな酔っ払いめ!! 俺がてめえの酔いを醒ましてやるぜ。迎え酒には俺の熱いパンチをくれてやる!! 首を洗って待ってやがれ!!」
 衝動で戦人は受話器を叩きつけてしまう。あとは受話器越しに話す必要はない。……直接会って、決着をつけてやるッ!!
 俺は帽子掛けを分解して作った槍を持ち、傘も差さずに表へ出る。……ベアトリーチェを名乗る若い女が、ひとりで待ち受けているとは思い難い。…郷田さんたちの言っていた、手勢を引き連れて待ち受けていると見ていいだろう。ひとりで行くのは、無謀が過ぎる…。
 成り行き上、真里亞と戦人の呼び出しが同時になってしまったため、真里亞の対応を源次に任せる。
園芸倉庫
【戦人】「郷田さん、熊沢さん…! 俺だ、戦人だ…!」
 俺は先に園芸倉庫に向かった。
 今の俺にはわずかでも味方が必要だ。郷田さんは体格もいいし、戦力として期待できる。熊沢さんは古参の使用人としての知識や土地勘が大きな武器になるだろう。二人ともマスターキーを持っているし、屋敷についても自分より詳しい。……かなり頼もしい味方だった。
 シャッターを叩きながら開けてくれと呼び掛け、中の彼らにはどうしようもないのだということを思い出す。彼らに鍵を返してもらい、開けてやらねばならない。
 脇に回り、小さな格子窓をノックし、そこを開ける。
【戦人】「郷田さん、熊沢さんのばあちゃん…! 戦人だ…!! おい、起きろって………、……お…い………。」
 薄暗い電球に照らし出された倉庫内の光景は、………あまりに、……奇怪……。
【戦人】「……郷田…、さ…ん……。……熊沢……さ、………ん………、」
 天井の低い梁に、………太いロープが2本吊るされ、……それぞれに、……郷田さんと熊沢さんが、…………首を、…吊るされているのだ……。
 薄暗いし、色々と荷物がごちゃごちゃ置かれている狭間からなので、その様子はそれ以上詳しくはわからない。……しかし、声を掛けてもぴくりとも反応せず、完全に首のロープに全ての体重を預けきっている様子から、生きている気配を感じ取ることは出来なかった……。
【戦人】「そんな……、………嘘……だろ…………。……どうして………。」
 シャッターは閉まったままなのだ。……そして鍵はひとつしかなく、郷田さんが預かったはず。なのにどうやって犯人は、……シャッターを開けて、中の二人を殺したんだよ……?
 いいや、殺されたとは限らない…。これは自殺なんだとしたら……。……密室のつじつまは合うけど、二人が首を吊って自殺する意味がわからない…!! 俺は力なく、…その場にへたり込む。
 これで、この島に生きてる人間は、……俺と真里亞と、……クソジジイだけ。………じゃないや、あのイカれた、ベアトリーチェとか名乗る女もだ…。
 真里亞は初めから魔女の味方のような素振り。そしてジジイは魔女を蘇らせた張本人。そして、魔女本人。……何だよ、………もう、この島には、…………俺ひとりしかいないも、……同然じゃないかよ…………。
 俺は棒切れを杖代わりに、力なく立ち上がる。……クソ、こんなのじゃ駄目だ…。みんなの仇を、俺が取らないと……。
【戦人】「畜生ぉおおぉぉ……、こんなんじゃ駄目だ…。あぁ、駄目だぜ、全然駄目だ…。畜生おおおおぉぉ………。」
 今の内に、泣いておく…。弱々しい気持ちを全て涙と一緒に、搾り出しておくために…。
 それから俺は、……背筋を伸ばし、屋敷のある方角の暗闇を見た。
 ………屋敷の玄関に、魔女が待ち受ける。行って、……ケリをつけてやる。このおかしなおかしな、狂った夜の元凶を、……俺の手で、ぶっ潰してやる…!
薔薇庭園
 土砂降りの雨の中、……俺は傘もなく、濡れるに任せて、薔薇庭園を歩く。
 ……向こうに東屋が見えた。朱志香の話では、譲治の兄貴も殺されたらしい…。どうせ、今さら人質の命も何もない。……俺は、道を外れ、東屋を目指す。
 そして、…………譲治の兄貴の死体が、雨曝しになっているのを見た…。
【戦人】「……………兄貴……。…………畜生…………。」
 死体は、東屋の前にあった。せめて東屋の中で死ねたなら、雨曝しにだけはならずに済んだろうに…。
 兄貴の額には、まるで銃で撃たれたかのような穴がぽっかりと開いていた。雨が全て洗い流してしまったせいか、顔面が血塗れということはなく、……そのせいで、眠っているようにさえ見える。
 …しかし、服は真っ赤に染まり、大量の血が流れた痕跡を未だに残していた…。
 眠っていたり、あるいは死んでいるフリをしていたなら、どんなに嬉しいことか…。……しかし、雨が吹き付けるにもかかわらず、兄貴の目は見開いたまま。……そして、……額の穴は、冗談抜きで、……本物だった…。
 さっきの園芸倉庫の首吊りは、……ひょっとすると郷田さんたちの悪趣味な冗談かもしれない可能性も、わずかにはあった。しかし、その甘えた可能性は、完全に否定される。
 そして、この死体を見て、完全に確信する。かつて郷田さんは言っていた。……敵は、チェスの駒を奪うかのように、命を奪ってくると。
【戦人】「………あぁ、……間違いない。……クソジジイと魔女は、………俺たちの命なんて、本当にその程度にしか思ってないらしい……。」
 …あの魔女め、電話でこう言いやがったな…。俺たちのことを、“ゲーム盤の上”で、みたいに……。
【戦人】「…上等だぜ……。……そうかよ、こいつはゲームのつもりかよ……。なら、…お前らがみんなをゲームみたいに殺したように、………俺がお前らをゲームのように殺してもいいわけだよな……? …………首を洗ってやがれ……。……ベアトリーチェ………。」
 稲光に屋敷の巨大な影が浮かび上がる。……いよいよ、屋敷、……だ。見えてくるその巨大な姿に、人影はない。俺の歓迎のために、手下どもがぞろりと待ち受けている、ということはないようだった。
 ………霧江さんの話によると、山羊の頭をした従者、という連中が相当大勢いるらしい。そんな大勢が、ぞろぞろと隠れていて俺をうかがっている、というような気配は、とりあえず今のところ、感じられない…。
 何だ……? 玄関の屋根の下に、………何か置かれている。
【戦人】「……何だよ、これは。………箱…か?」
 それは女の子なんかがよく、小物を収めていそうな感じの小箱に見えた。……あるいは応接室なんかにある、ご大層なシガーケースの類かもしれない。
 何れにせよ、ここにあるべきものには見えない…。それはあからさまに、……俺に開けろと言われているように見えた。しかし、ハイどうぞと開けるのはなぜか癪に障る。……しかし、開けないことには話が進みそうもない。
 まさかひょっとして、開けると爆発するような罠でも仕掛けられているのではないか……? そんなことを考えながら、屋根の下に入ることも忘れ、俺は雨に打たれるまま、その小箱を睨み続けていた。
 すると、………雷鳴に混じり、何か、……音楽? …のようなものが聞こえてきた。……それは、24時を報せるホールの大時計の音色。
 10月4日という、狂った一日がようやく終わりを告げ、……そして10月5日という、もっともっと、最高に狂った一日の始まりを告げる音でもある。
 その音が静まり、…………薄気味悪い笑い声が、どこからともなく聞こえてくる……。その声が、天より聞こえた気がして、……俺は空を見上げた。
 ……するとそこには、………、見たことのない女が。いいや、見たことがないわけじゃない。……今日、一度見ている。そう、屋敷の中での、肖像画で……。
 服は違うが、……その顔は、あの肖像画の魔女にそっくり……。あぁ、白々しいぜ、俺はヤツが誰か、もうわかってる…!!
【戦人】「……て、……てめえがベアトリーチェかッ!!!」
【ベアト】「やっほおおぉおい、戦人ぁあああぁあああぁああぁ…!!」
 2階のバルコニーから、……傘を差しながら身を乗り出し上機嫌に手を振っているのは、……紛れもなく、……肖像画の魔女、…ベアトリーチェ………!!
 親玉は高みの見物で、俺は山羊の手下どもに嬲り殺しって寸法か…?! 俺は槍を構え直し、周囲の物陰や玄関の扉から、どどっと山羊どもが溢れ出して俺を取り囲むのを想像しながら、全方向に身構えた…。
【ベアト】「あっははッ、安心しろよ、ここには私とお前以外の誰もいねぇぜ? 山羊の家具どももいなければ、悪魔の執事もお師匠様も、我が親友の悪魔もいない。
 そして、我が肉体の組成を手伝う黄金の蝶たちもいなければ、魔法陣もない、召喚者の立会いもないッ!! ……その意味が、そなたにわかるかなぁ?」
【戦人】「さっぱりだぜ。寝言言ってろ…。」
【ベアト】「そなたとは確かにこの世界でも何度か会えては来たのだ。まるですれ違うかのようにな。……知ってのとおり、このニンゲンどもの世界は、ただ貴様らが存在し、妾を疑うだけで、それは膨大な毒素となる。
 まるで、そなたというキングに対して守りを固める堅牢な城壁のようよ! それを私は、何度もゲームを重ね、駒をひとつずつ進め、切り崩し、追い込み、じわじわとそなたの城壁を切り崩して行った。
 そしてようやくわずかの隙間を開き、そこから妾はビショップを送り込み、そなたのすぐ近くに近付けるようになった。………しかし知っての通り、ビショップは死角ある駒だ。黒のビショップは、そなたが黒きマスに留まる限り絶大な影響力を発揮するが、そなたがひょいと白きマスに一歩逃れれば、妾はそなたの隣に隣接することは出来ても、接触することは叶わぬのだ。
 だから妾は、そなたが白きマスに留まれぬよう、様々な駒を送り込み、そなたの隣の黒きマスを支配する妾の前に弾き出されるようにゲームを進めてきたのだ。
 しかァし!! 今やそなたの城壁はぽっかりと穴を空け、妾はビショップではなく、とうとうクイーンを送り込むことが出来たッ!! クイーンがどういう駒か、知っているか?」
【戦人】「飛車+角だろ。……言いてぇことはこうかよ。…今やお前は、黒い魔女幻想のマスだけでなく、白い人間世界のマスにまで自由に侵食できるようになったと…!」
【ベアト】「その通りッ!! そなたは妾の眷属である黄金の蝶たちが存在するマスのことを、魔女幻想と呼び、観測者なき非現実と仮定して否定してきたのだろうォ…? くっくくくく、知っておるぞぉ……!!
 だからこそ、妾はこうしてとうとう白きマスへ降臨したッ!! 安心しろよ、黄金の蝶も山羊たちも、悪魔も魔女もあとでいっぱい呼んでやるぜ! そなたが望むなら妾の黄金郷へ招待してやる!! そこで何でも願いを叶えてやろうぞ…!! わっはははははははははは…!!」
【戦人】「……どうやら、この島のチェス盤は、インク壷でもぶっかけちまったみたいだな。」
【ベアト】「なるほど、それも愉快な表現よ…! くっくくくく、すぐにそなたもそのインクに染まるぞ。やがては真っ黒に染まり、必ず黒きキングになる…! そなたは今や、インクの海に溺れる哀れな存在であるなぁ?」
【戦人】「いいや、違う。島がてめえのインク壷で、全て真っ黒に染まっちまったことは認めるが。……白いマスはまだ、残ってるぜ。」
【ベアト】「ほう、どこに…!!」
【戦人】「俺の、足の裏にだぜ。………お前の魔法のインクが島中を覆い尽くそうと、俺が踏みしめる足の裏までは覆えない。…一見、この島が真っ黒に染まろうと、俺は俺だ。白いマスを、こうして踏みしめて立っている!!」
 不思議なもんだ…。さっきまではびくびくしていた。……だが、こうして目の前に堂々と現れてくれたお陰で、むしろ恐怖が薄れた。
 面白いもんだ。幽霊ってヤツは、気配しかない内の方が恐ろしい。姿が見えて、ぶん殴れる横っ面があるってんなら、何も怖くはねぇ…!!
 ……しかし、あいつは決して、面白いヤツでもフレンドリーなヤツでもない。……きゃっきゃと笑い転げながら、指をひとつ鳴らすだけで、俺をすぐに殺してしまえるのだ。
 指を鳴らすと、魔法が飛んでくるのか、部下が現れて俺を撃ち殺すのか、どちらの解釈でも関係ない。
 ……とにかく、ファンタジーであろうとミステリーであろうと、俺を指一つ鳴らせば殺せるポジションに、あのクイーンはいる……! …なるほどな、……それこそが、………白と黒の二つのマスに君臨したる、…この島の女王という意味なのか……?!
【ベアト】「さぁて。この雨の中、そなたが風邪を引くまで待つのも面白いが、そろそろ本題に入ろう。………そこに箱があるのがわかろう? そなたへのテストはその中に入っている。」
【戦人】「待ちな。……俺はもう今さら次期当主が誰かなんて下らねえゲームには興味ねえぜ。
 俺のゲームは、クソジジイとお前と、……みんなを殺したヤツら全員にそれぞれジャイアンパンチをブチ込むことだ。顔面が陥没するアレな。」
【ベアト】「ほう。妾のこのバルコニーまで、空を飛び上がってくるというのか。それは良いそれは良い、くっくっく! ならばほら、早く来いよォ、ほらほら、パンパン!」
【戦人】「……絶対安全な場所にいやがるからって余裕ぶっこきやがって…。今からそこに行くぞ、首を洗って待ってやがれッ!!」
【ベアト】「あー、ダメダメ。鍵が掛かっているぞォ。もちろん窓も全て鎧戸を下ろしてある。そなたが単騎で切り込めるほど、妾の城はもろくはない!」
 試しに玄関の扉を開こうとするが、……なるほど施錠されていた。周りを見ると、確かに窓に鎧戸が閉められている。……普段はあんなもの閉められていないはずだ。
【戦人】「……ち。用意周到なヤツだぜ。……鍵はどこだ?!」
 郷田さんと熊沢さんがマスターキーを持っているだろうが、彼らは園芸倉庫という密室内。……今はお手上げだ…!
【戦人】「くそ……。……ヤツも馬鹿じゃねぇってか。」
【ベアト】「そんなに妾のすぐ隣に来たいのかぁ? いいぞ、そなたがテストに見事合格できたら、謁見を許そうではないか。合格ということはそなたこそが次期当主、そして妾の次なる主。……妾の肉体も魂も、どう扱おうとそなたの自由よ。妾は所詮は、右代宮家の家具なのだから! あっはっはっはっはっは!!」
【戦人】「…………どうやら。テストってヤツを、どうしてもやらせたいらしいな。……いいぜ。受けて立ってやらあ。…合格したら、最初のご褒美はてめえに顔面パンチだぜ。」
【ベアト】「それは怖い怖い…。だが暴力に支配されるのも嫌いではないぞぉ? 妾の頭をこう、鷲掴みにして! 苦痛に表情を歪めさせ、鷹がその爪で獲物を引き裂き、掻き毟るように妾を蹂躙してくれよ…!!
 あぁ、若き日の金蔵を、もう一度思い出させておくれ…!! 妾にこの千年の生涯でただ一度! 支配され屈服し家具に落ちる悦びを教えてくれたあの日のことを思い出させてくれよぉおおおおおぉ!! うひゃーっひゃっひゃっひゃっひゃ!!」
【戦人】「……酔っ払いめ、埒が明かねぇ。」
 馬鹿笑いする魔女を無視し、俺は小箱を拾い上げる。
【ベアト】「そうだ。それを開け。中に手紙がある。それを読むのだ。」
【戦人】「……………………。」
 開く。……薄っすらと煙草の匂いが香る。どうやら本当に元はシガーケースらしい。しかし中には煙草も葉巻もない。
 代わりに、片翼の鷲の紋章が描かれた洋形封筒が。さらにそれを開くと、……手紙が入っていた。
 魔女を見上げる。ニヤニヤと見下ろしていた。……俺が、その内容にどういう反応を示すか、楽しみに待っているという風だ。
 ……クソ、上等だ。その内容は、こんな感じだった…。
 以下に掲げる三つの内。二つを得るために、一つを生贄に捧げよ。一.自分の命 二.__の命 三.それ以外の全員の命 何れも選ばねば、上記の全てを失う。
【戦人】「………何だこりゃ。ずいぶんと物騒なことが書かれてるぞ。それより、二番目が空欄になってて、誰の命かわかりゃしねぇ。」
【ベアト】「うむ。その二番には、その者のもっとも愛する者の名が入る。朱志香のテストには嘉音の名が、譲治のテストには紗音の名が入った。……彼らについては、想い人がはっきりしていたから予め名前を記入してやれもしたが、そなたの想い人を、妾は知らぬ。だから誰の名を書けばいいやらわからず、空欄とさせてもらった。」
【戦人】「そいつぁ丁度いいや。愛してるぜ、ベアトリーチェ。お前の名前をここに突っ込んでやる。だから俺が選ぶ選択肢は二番だ。これでいいか?」
【ベアト】「おいおい、茶化すな茶化すな。なぁ頼むよ戦人。お前の想い人の名を妾に教えてくれよぉ。じゃないとテストにならぬではないか。」
【戦人】「悪ぃな。俺に特定の女はいねぇぜ。仮に居たって、誰がお前なんぞに話すもんか。」
【ベアト】「そういうことでは、このテストはそなたに成立せぬ。ふぅむ、残念残念。そなたの想い人がどのような女か、好みくらいは気になったのだがな! くっくくく!」
【戦人】「………俺が黒髪長髪のロリ貧乳がいいって言ったら、どうするよ。お前とはひとつも一致しねぇぜ?」
【ベアト】「嘘を吐け、このおっぱいソムリエがー! 金髪のボインボインがいいんだろぉ? 妾がまさに理想の体現ではないか、くっくっくっく!」
【戦人】「お前のバストを当てるのが次期当主のテストだってんなら、喜んで挑戦してやるぜ。」
【ベアト】「そうそう。次期当主のテストであったな。そなたと喋るのが楽しくて、ついついさっきから脱線してしまうわ。
 ………それでは次期当主のテストを始める。そなたに、右代宮家次期当主としての資格があるかどうかを問う。心して答えるが良い。」
 さっきまで、酔っ払いのようにふざけていた魔女が、その威厳を取り戻す。……その姿はまさに、あの貫禄ある肖像画から抜け出してきたかのようだった…。
【ベアト】「………我こそは右代宮家顧問錬金術師、黄金の魔女にして無限の魔女、ベアトリーチェ。……右代宮家の家督と我が黄金の全てを継承する資格があるかどうか。それを妾が問う。………そなたの名を名乗るが良い。」
【戦人】「…………右代宮、戦人だ。」
 先ほどまでの様子からは想像もつかないその貫禄に、俺は何の迷いもなく、返事をしてしまう。……それくらいに、……その姿はなるほど、……本当の意味で、この島の女王と名乗るに相応しかった。
【ベアト】「よろしい、右代宮戦人よ。………しかしそなたはその右代宮の名をこの6年、捨てたであろう…? それはなぜか…?」
【戦人】「………ん、…………。……クソ親父に愛想が尽きたからさ。」
【ベアト】「知っている。父親の再婚が、そなたの敬愛する母親の死を冒涜したように感じたからであろう…?
 なるほど、新しき母はそなたと何の血の繋がりもない。そなたがその母を受け容れられぬ気持ちはわからでもない。……しかし、父親が誰と再婚しようとも、そなたとの血の繋がりは変わらぬのではないか?」
【戦人】「…………何が言いてぇ。」
【ベアト】「父親の再婚に反対するという、父親を独占したいがゆえのそなたの幼稚も、多少の理解はしよう。
 しかし、それに反抗するために、右代宮の名を捨てるは、家と血に対する冒涜ではないのか。………そなたは右代宮に生まれ、育まれてきたのではないか。その恩を忘れ、右代宮の名を捨てる資格が、そなたにあったというのか。」
【戦人】「……お前には関係ねぇ。俺と親父の問題だ…!」
【ベアト】「右代宮の名はお前と父親だけのものではない。お前は知らぬ女に父親を奪われることを許せず反抗しただけの幼稚だ。……右代宮家の籍を捨て去ったこの6年間は、そなたが右代宮家に泥を塗りし短からぬ年月。その罪深きを知るがいい。」
【戦人】「………………幼稚で悪かったな…。」
【ベアト】「しかし。祖父母の死を境とは言え、よくぞ右代宮に籍を戻した。よって、その罪を自ら禊ぐ機会をそなたに与えよう。今こそそなたの、6年前の罪を贖う時。
 さぁさ、思い出して御覧なさい、自らの罪を。それを思い出し、告白し、懺悔せよ。…………それこそが、妾がそなたに与えるテストである。」
 ……その時、大きな落雷が轟き、俺の頭を真っ白にした。
【戦人】「…………………………。……懺悔せよって、…何だよ。………謝れって言いたいのかよ。」
【ベアト】「………もうテストは始まっているぞ。そなたの好きに考えるが良い。」
 魔女の表情に、難問を突きつけ嘲笑うような様子はない。……真剣に何かを問う、静かな気迫さえ感じられた。戦人は雨に打たれながらも、その眼差しから目を離せずにいる。
 ……魔女は傘を、捨てる。雨に打たれるのに任せる。
 戦人が、その問いに答えるまでの間、雨に打たれているように。……彼女もまた、彼がその答えに至るまでの間、一緒に雨に打たれることを選んだのだ。それを、戦人はなぜか理解する。……しかし、でも、……わからない。
【戦人】「い、……いや、…まぁ。……それを言われりゃ、幼稚だったとは思うぜ…。何のかんの言ったって、親父に育ててもらった恩は、親父が再婚したからってチャラになるもんじゃねぇ。
 ……親父は、養育費は常に送り続けてくれたそうだし、……学校の行事にも参加したいと言っててくれたそうだ。………それを俺が、絶対に来させるなと祖父ちゃんたちに言ってたから、……来させなかっただけで……。」
【ベアト】「…………………………………。」
【戦人】「……た、確かにそりゃあ、……俺の幼稚な反抗だったと、バッサリ言われりゃそれまでだぜ。………でもよ、…ならよ。……お袋の、……右代宮明日夢の無念は、誰が晴らすんだ…?! お袋はあんなにも献身的に俺たち家族に尽くし、頑張ってくれたんだぜ…?!
 なのに親父は霧江さんと浮気もしていた。縁寿を身篭らせてさえいた…! それで出産に合わせて、駆け込むかのように籍を入れたんだ。……それがお袋への裏切りでなくて何なんだよ?! お袋の、無念はッ! 誰が!! 晴らすんだよ?!
 ……だが、お前の言うとおりでもあるさ。浮気は事実でも、俺を育ててくれた恩は確かにあった。
 なら、それを相殺して、俺が家を出て行くというので、充分問題ねぇじゃねえかよ!! そうさ、俺にはお袋の代わりに親父をブン殴る権利が、……いや、義務があったはずなんだぜッ?!
 それを俺は許した! 何も言わずに出て行って、初めから俺なんていなかったことにしてやった!! 親父も俺のことなんか忘れて、霧江さんや縁寿と新しい家族を始めた! それで丸く収まってるじゃねえか!!」
 でもそれから6年を経た。……時間は怒りを癒した。
 霧江さんも、俺の怒りを理解していて、それでもなお交流しようと、心を砕いてくれた。縁寿は何も事情を知らず、俺のことを別居してはいるけど、本当の兄だと信じて慕ってくれた。
 ……親父はけろっとして、いつでも帰って来いなんて言ってやがる。
【戦人】「だんだん馬鹿らしくなってきたんだよ!! そろそろ俺も頭を冷やしてもいいかなって思ったんだ。だから俺は、親父が謝ったら全部水に流すと言ってやったんだ。祖父ちゃんの葬式の日に! そしたらあいつ、本当に畳に両手をついて詫びやがったよ…!! 信じらんねぇくらいに情けない格好だった…! あの格好つけた親父が、本気で頭を下げやがったんだぜ…?! ……それを見たら、何だかもう、馬鹿らしくなっちまった。
 きっと、お袋もそう思っただろうぜ?! お袋は、俺と親父が喧嘩をするといつも笑いながら仲裁してくれて、何だそんな下らないことで喧嘩をしていたの?と笑ってくれた。……俺はお袋が、そう言って笑っているのを感じたんだよ…!!
 だから、……許すとまでは言えなかったけど、………もう一度、ゼロから始めてもいいかなって思ったんだよ。それで、6年前に全てを巻き戻すことにした。………それで右代宮家に籍を戻したんだよ…!! 俺も6年間、泣き、怒り、悩みぬいた!
 ひょっとするとそれは親父もそうだったろうし、死んだお袋もそうだったかもしれない。あるいは霧江さんや縁寿もそうだったかもしれない。……だからゼロに戻し、右代宮戦人に戻ったんだッ!!! それは俺たち家族の問題であって、……右代宮家とかそんなのは何も関係ねえッ!!
 それを罪だと断じる資格はお前にないし、それをお前に懺悔する義務も俺にはないッ! もし、それを本当にすべき相手がいたとしたら、それはお前がもう全員殺したッ!! だから俺は何も謝らない! 懺悔しないッ!!! それが俺の、このテストへの答えだッ!!!」
【ベアト】「……………………………………。……それだけか…?」
【戦人】「何………? ………………。」
 俺は、半ばヤツの挑発に完全に乗り、胸の内の、誰にも見せたくなかった部分を、全て吐き出してしまったはずだ。魔女も、それを期待していたはず。……なのに、魔女は淡白な表情をわずかほども変えることはない。
 俺の、幼稚で愚かしく、情けない過去を、げらげらへらへらと、嘲笑うに違いないと思っていた。なのにそれどころか、まるで期待外れだとでも言うような、……そんな呆れさえ感じられた。
【戦人】「………それだけも何も、……俺は洗いざらいをブチまけたぜ? 何が不満なんだよ。」
【ベアト】「まだ、罪の清算が足りぬ。」
【戦人】「清算? ……何だよ、親父みたいに、ここに土下座して謝れってのかよ…?!」
【ベアト】「…………違う。お前たち家族の、お前の家での話になど興味はない。ここはどこだ? 六軒島だ。右代宮本家の本宅である。……この場所に相応しい、そなたの思い出すべき罪が、あるのではないか……?」
【戦人】「…………他に、……俺に罪が、あるってのかよ……。」
【ベアト】「……思い出せ、右代宮戦人。………そして、それを思い出せぬことがそなたの罪。だからこそ、許そう。それを思い出せたなら許そう。………それを思い出すことが、そなたへの、贖罪のテストである。」
【戦人】「………思い出せ、……って言われてもよぅ……。」
【ベアト】「…………思い出せ。……だからこそ罪なのだ。」
【戦人】「…悪ぃがベアト。……俺には身に覚えがさっぱりだ。
 ……何だか6年前の俺が、お前に迷惑を掛けたみたいな雰囲気だが、俺はお前とは今回の親族会議が初対面のはず。確かにお前の伝説は6年前の当時にも存在していたが、俺との面識は当時にはなかったはずだ。」
【ベアト】「……無論である。6年前の六軒島において妾はまだ顕現していない。」
【戦人】「なら、俺に何の罪があるってんだ。……俺に、……お前に対する罪が何かあるってのか…?」
【ベアト】「同じことを二度言わせるな。妾は6年前には顕現しておらぬ。そなたと面識など、あろうはずもない。そなたという世界において、存在しないも同じだ。」
 ……ベアトの冷めた目は、……何かの罪を追求しているように感じる。俺がした何かの仕打ちを未だに恨んでおり、それを責めているように、一見、感じられるのだ。
 しかし、……俺には当然、何の心当たりもないし、それはベアト自身だって言ってる。6年前の俺たちには何の縁もない。俺の6年前に、ベアトリーチェなどという人物は存在しないのだ。
【戦人】「………ヒントくらい出せよ。……その罪とやらは、俺とお前に、……関係がある……?」
【ベアト】「妾は6年前にはそなたと縁がない。妾のことは、いい加減に考えから外せというのだ。……なぜ、妾への罪だと思うのか?」
【戦人】「………お前の、……目さ。」
【ベアト】「目…? …………ほぅ。」
【戦人】「お前の目がさ、……詫びろって、俺に囁いてくるんだよ。……だが、俺はお前なんか6年前に縁はねぇし、それはお前も認めたはずだ。
 …………本当なのか? ……本当に俺とお前の問題ではないのか……?」
【ベアト】「………違うというのに。妾とそなたの問題などまったく関係ないわ。」
【戦人】「だがよ、……お前の目が、そうだと言ってるんだよ。…………だから俺にはさっぱりわからねぇ。
 ………赤で言えるか? お前が思い出せと言っている罪が、俺とお前の間のものではないと宣言できるか?」
【ベアト】「………………………。……よかろう。」
 源次は礼拝堂にて真里亞を毒殺。真里亞については安らかな眠りを与えるように命令を受けているため、屋敷へ連れ帰る。玄関に呼ばれている戦人と鉢合わせしないよう、勝手口から食堂へ。
 妾が今、そなたに思い出すことを要求している罪は、右代宮戦人とベアトリーチェの間のものではない。
【戦人】「………なら、なぜそんな目で俺を見る……?」
【ベアト】「わからぬ。………妾はそなたを、こうして淡々と見つめているだけだ。それをそなたがそう感じるというのならば、……それはそなたに、そう感じる何かがあるのではないか。」
【戦人】「………………………。………俺に、何の罪があるってんだ。」
【ベアト】右代宮戦人には、罪がある。」
【戦人】「……どんな罪だってんだ。どうせ、叩いたとか誤魔化したとか、下らねぇ罪だろ。」
【ベアト】そなたの罪で、人が死ぬ。
【戦人】「う、嘘吐け…! 俺は誰も殺してなんかいない…!! じゃあ言えよ! 俺が誰を殺した?! いつ? 誰を? どうやって?!」
【ベアト】そなたの罪により、この島の人間が、大勢死ぬ。誰も逃さぬ、全て死ぬ。
【戦人】「は、………はぁッ?!?! な、何をワケわかんねぇこと言ってんだッ?! 俺がみんなを殺したっていうのかよ?! 俺は殺人鬼かッ?!」
【ベアト】「そなたが直接手を下すわけではない。………しかし、そなたが罪を犯したからこそ、6年にもわたる歯車の狂いにて、歪みが生じ、……今夜、これだけの人命が失われるのだ。そなたは、この惨劇の原因の一つである。」
【戦人】「……い、……いい加減にしろ!! 俺が原因だ?! じゃあ何だ?! 俺が6年前に右代宮の籍を捨てたから、13人が死んだってのか?! 俺が6年ぶりに右代宮家に帰ってきたから、13人が死んだってのか?!
 ふざけるな、いい加減にしろッ!!! 俺はこの6年間、もっとも右代宮家から遠ざかっていた男だぜ?! その俺が、何に、何の、どんな影響を与えたってんだ?!
 俺だって好きで親族会議に来たわけじゃねぇぞ?! 6年ぶりに寄りを戻したから、これまでの期間のケジメってことで、渋々と六軒島まで来たんじゃねぇか…!! 別に俺は今日ここへ来る義理なんてなかったんだ!
 その俺が帰ってきて、それが理由で虐殺が起こった? じゃあ何だ?! 俺が帰ってこなけりゃ、誰も死なずに済んだってのか?! 赤で言えよ!! 俺がもし帰ってこなかったら、この虐殺事件は起こらなかったと、赤で言えるのかよ?! ……言えるわけねぇさ、お前が全ての犯人なんだからな!!
 復唱要求ッ!! “右代宮戦人がもしも六軒島に戻ってこなかったら、事件は起こらなかった”。言えるものなら言ってみろ…!! ……言えねぇだろ? 言えやしないのさッ、犯人はお前なんだ、俺じゃないッ!! 勝手にその責任を俺に擦り付けるんじゃねぇええええぇ!!!」
【ベアト】「…………………………………。」
【戦人】「……答えろよ、赤で!! 復唱してみろってんだ…!! 出来やしない! 事件に俺の存在なんか関係ないのさ。
 ワケのわかんねぇことを言って、俺を混乱させるんじゃねぇぇええぇえぇぇッ!!!」
 叩き付ける雨粒が、冷たかったことを、思い出し始める。……それまでの雨は、ただ痛いだけだったが、……今や俺はその雨粒に、苛むような冷たさを感じている……。
【ベアト】「……………………………。……何も、思い出すことはないのか。」
【戦人】「………悪いが。俺にはさっぱり心当たりがねぇ。」
【ベアト】「…………………………。」
【戦人】「……おい。……俺は少しイラつき始めてんだぜ。……言いたいことがあるなら言えよ。俺に恨みがあるなら、堂々と言えばいい。……思い出せなんていやらしい言い方をするんじゃねぇ。」
【ベアト】「…………もう一度聞く。……何も、罪を、思い出せぬか。」
【戦人】「あぁ!! 何にも思い出せねぇな…!!」
【ベアト】「………何も、……思い出せぬと、言うか。」
 これにて、未練は尽きたか……?
【ベアト】「………………………。……………う、む…。」
 望み無き賭けも、賭けねば未練が残ろう。……それで良いのだ。賭けることに意味がある。
【ベアト】「………そうかも知れぬな。…ならば、これにて。妾の未練も、ゲームも、終わりだ。」
 そなたはどうする…?
【ベアト】「…さぁな。………妾はもう、何の興味もない。……すまぬが、妾はこれにて、ゲーム盤を降りさせてもらいたい。」
 …………………………。……そうか。……わかった。
【ベアト】「あとのゲームは妾が引き継ぐ。………そなたは休め。」
【ベアト】「……うむ。……………。」
【ベアト】「後のことは、全て妾が終わらせる。………そなたは全てを忘れて枕に顔を埋めよ。羽の布団は、そなたを全てからやさしく守ってくれるだろう。」
【ベアト】「………後片付けを、……頼む。」
【ベアト】「任せよ。……あとのことは全て任せ、眠れ。」
 戦人に問い掛けをしていた魔女は姿を消し、後より現れたもうひとりの魔女が、残る。確かに瓜二つの、同じ魔女だったが、………その表情はどこかとても淡白で冷め切っていて、……それまでの悪酔いした風とはいえ、元気のよかった彼女からはかけ離れていた。
【戦人】「……………おいッ!! 聞いてるのかッ?! テストとやらはもう充分だろう?! 合格だろうと不合格だろうと、どうでもいいぜ! お前の横っ面をブン殴ってやらなきゃ気が済まねぇ!! 降りてきやがれ!! さもなきゃここの扉を開けやがれ…!!」
 魔女は何も答えない。冷え切った戦人の肩と同じくらいに、彼女の瞳も、冷め切ってしまっている。……あのバルコニーから姿を現した時とは、明らかに別人だった。
 魔女は俺の目をじっと見据えて、……小さく首を二度振った。言葉はなくとも、それは何かへの失望を示すものに見て取れた…。魔女は何も言わずに踵を返す。
 あとには、冷たい雨に打たれるままの、戦人が残るだけだった………。
金蔵の書斎
 書斎は賑やかなパーティの真っ最中だった。
 何か下らないことの揚げ足を取って、ガァプがワルギリアをからかっているらしい。…リアリアリア、ガプガプガプ、と互いに唾を飛ばし合っている。それを肴に、金蔵とロノウェが新しいボトルを開けていた。
【金蔵】「おぉ、戻ったか。どうであったか、戦人のテストの結果は! 真里亞のテストは文句なしに合格点であったぞ? あやつを小娘小娘と、わしは長いこと侮っていたが、これはこれはどうしてどうして、いやはやいやはやなかなかなかなか! わっはっはっはっはっは!!」
 どうやら、金蔵もすっかり出来上がっているようだった。戻ってきたベアトに対し、テストに出掛けて行った時と同じテンションで笑い掛ける。
 …しかし、ロノウェやワルギリアはすぐにその温度差に気付く。ガァプも表情を凍らせ沈黙した。
【金蔵】「わっはははははっはっは、どうしたベアトリーチェよ、我が最愛の魔女よ。酒が足りぬか?肴が足りぬか? 土砂降りを浴びながら牛でも丸焼きにしようか、おお、悪くないッ!
 ロノウェ、さっそく準備をせよ! ベアトリーチェよ、戦人のテスト結果は後だ。まずはスペアリブで乾杯と行こうではないか、うわっはっはっはっはっはっはッ!!」
 ベアトが思い出すことを要求している罪は、右代宮戦人と紗音の間のもの。
【ベアト】「………………お前が丸焼きになるが良い。」
【金蔵】「っはっはっはっは、……何?」
 素っ気無く言い放った魔女は、上機嫌に笑い転げている金蔵の脇を、冷たく通り過ぎる。……すると魔女の背後で、………老いた召喚師の体が突如、燃え上がった…。
【金蔵】「ぎゅおおおぉッ!!!! ぐお、が、……ぎゃ………、な、ぜ、か…………ッ?!」
 目、口、鼻などの全身のあらゆる穴から紅蓮の炎を噴出しながら、金蔵は転げ回る。……それは恐ろしい業火であるにもかかわらず、金蔵以外の何物も焦がすことはなかった。
 金蔵は何が何やらわからない。……あれほど上機嫌だったベアトリーチェが突然に、なぜにこれほど冷酷になったのか理解できず、転げ回る……。
 その転げ回る巨大な松明が生み出す、魔女と悪魔たちの踊るような影絵は、その火炙り刑に興奮する観衆にも見えた。しかし、それを見守る悪魔たちの瞳は冷ややかなものだった……。
 やがて金蔵が動かなくなると、火は消え、そこには真っ黒な死体が残る。室内は静寂という名の、雨音に支配されるのだった……。
【ロノウェ】「……どうなさいましたか、お嬢様。」
【ベアト】「興が、醒めた。………その邪魔な燃えカスを片付けよ。」
 ベアトリーチェの表情は、……信じられないくらいに冷淡。…機嫌を損ねれば、自分たちも金蔵と同じ末路を辿らされかねない冷たさがあった。
【ガァプ】「…………え、えぇ。私が片付けるわ…。」
 ガァプは漆黒の落とし穴に金蔵の燃えカスを飲み込ませる。…それを早く実行しなければ、ガァプもまた燃やされるかもしれない。そんな殺気さえ感じた。
 いや、殺気という表現さえ妥当ではない。……人が歩く時、アリを踏み潰すことに特別な感情など抱かないように。……それくらい、無意識に無慈悲に、今のベアトには行きずりの何者かを葬りかねない残忍なる空虚さで満ちていた…。
【ワルギリア】「……ど、どうしたのです、ベアト。」
【ベアト】「答えたくない。……………いや、答えるのも、もはや面倒臭い。」
【ガァプ】「………どうしたのよ、らしくもなく。……何かあったの? 戦人が何か言っ、…………く、が、ギュ、」
 ベアトリーチェは、返事もしていない。無視さえしたはずだ。しかし、ガァプに変化が起こる。
 足元から、メリメリパキパキと、薄氷を割るような音が上り、……瞬く間に、ガァプをガラスの彫像に変えてしまう。
【ワルギリア】「ガ、……ガァプ…、」
【ベアト】「…………しばらく、消えろ。大変に不機嫌だ。」
 ベアトリーチェは、本当に冷たい、……聞くだけで心までも凍えさせてしまうような声で、そう言い放った。
【ロノウェ】「……かしこまりました。それでは私どもは、これでお暇させていただきます。………何かございましたら、いつでもお呼びを。」
 ロノウェは一礼してから、黄金の蝶の群に変わり、姿を消す。
 ワルギリアは、彫像に変えられてしまったガァプを黄金の蝶の群にして消し去ってから、自らも蝶の群になり、それに混じり合って姿を消した。
 …………飲み散らかされた、書斎に、……ベアトリーチェはひとり、立ち尽くしている。その表情は、戻ってきた時から、わずかほども変わらない…。……しかし、転がったワインの空き瓶や散らかったチーズの皿などに気付くと、少しだけ不快そうに眉をひそめた。
 そして一言、消えろと呟くと、その瞬間、部屋は瞬き、何事もなかったかのように片付いた。
 応接席は綺麗に整い、ワインもチーズもない。零した汚れも、散らかしたゴミもない。……それどころか、空気さえも冷え切り、この部屋についさっきまで、あれだけの人数が賑やかにしていたことさえも疑わせるほどに、………静かな書斎に戻った。
 ………その、沈黙の、……空気さえも凍ってしまった寒々しい書斎に、ベアトリーチェは立ち尽くしていた…。そして、呟くように呼ぶ。
【ベアト】「………………戦人。いるか。」
【戦人】「……さっきからいるぜ。………何なんだ、一体お前は。さっきから変だぜ。」
【ベアト】「変に見えるか。それは済まぬな。」
【戦人】「…………あれだけ上機嫌に酒を酌み交わしていたクソジジイをいきなり焼き捨て、お前の友人の悪魔女もガラスの彫像。……悪魔の執事もお師匠も、消えろの一言でさっさと出てけだ。……お前、どんだけ気まぐれでわがままなんだか。」
【ベアト】「戦人。もう止めた。」
【戦人】「何を。」
【ベアト】「…………妾はもう、飽きた。」
【戦人】「はぁ? ………そりゃまぁ、お前がおっ始めたゲームだぜ。へっ、飽きてくれて助かるってもんさ。つまるところ、投了ってわけだな?」
【ベアト】「投了などではない。ただ、終わるだけだ。いや、終わりもしない。このまま、ゲームが永遠に放棄されるだけだ。」
【戦人】「そういうのを投了って言うんじゃねぇのかよ。……いや、飽きて放り出すって言葉が、お前にはぴったりだな。」
【ベアト】「その通りだ。飽きたから、放り出す。後は知らぬ。そのまま放置されて、好きに埃でも被ればいい。」
【戦人】「……………………。……お前どうしたんだ。何だかさっきからやりにくいぜ。
 ……まださっきのワケのわかんねぇテストのことで尾を引いてるのかよ? 俺に恨みがあるなら、はっきり言えばいいじゃねぇか。お前は赤で、自分とは関係ないなんて言ってみせたが、どうせ言葉遊びだろ? お前の顔に書いてあるぜ。俺を恨んでるってな。」
【ベアト】「お前に恨みなどないと、何度言えばわかるのか。妾はそなたが罪を残したその当時に、存在しておらぬ。」
 ベアトはカチンと来たような表情で、さらに不愉快そうに表情を歪めてそう言い放つ。気まぐれ。移り気。気分屋。天気屋。……わがままで無邪気で、残酷。しかしそれでも、こんなおかしな表情を見せたことは今まで一度もなかった…。
【戦人】「…………ま、お前が吹っ掛けてきたゲームだ。俺も決着がつかねぇのは残念だが、気が向いたらぜひまた誘ってくれよな。
 そん時ゃ、謹んでご辞退させてもらうけどよ? へっへっへ。」
 わざとおちょくるような口調で話し掛けるが、ベアトがそれに反応を示すことはない。……戦人は俯き、舌打ちをする…。
【戦人】「何度も何度も10月4日と5日をぐるぐる過ごしたわけだが、ようやくこれでお役御免だな。……これで明後日には船が来る。
 …そうさ、そして船着場にはうみねこも戻ってくる。……俺はようやく、六軒島名物の、あのニャーニャーいう鳴き声を聞けるわけだ。何しろ、島に来た時は天気のせいか、全然いなかったからな。
 ………うみねこのなく頃に、全ては終わる、ってわけだ。……終わり終わり、おしまいおしまい。清々すらぁ。」
【ベアト】「…………何を、そなたは勘違いしておるのか。」
【戦人】「ん? 何をだって?」
【ベアト】「………何も終わらぬと、妾は言ったぞ。これにて全ては放置される。ゲームは忘れられ、盤上の駒はそのままに放置される。進みも戻りも、取りも取られもしない。勝ちもなく、負けもなく、引き分けすらもない。ただ、放置されるのだ。」
【戦人】「…………つまりはおしまいってことだろ。」
【ベアト】「違う。妾の手番にて永遠にゲームが止まる。そなたの番は来ない。だから勝ちも負けも引き分けもない。
 ………かつての妾は、そなたにそうされるわけには行かなかった。そなたに勝つという目的があったからだ。しかし、それに興味を失った。だから、これ以上、手番を進める意味が、もう何もない。」
【戦人】「…………俺に手番が来ないというのは、どういう意味なんだ…。」
 俺は、ベアトがゲームに飽きることで解放され、六軒島を脱出できるつもりでいる。しかし、ベアトが繰り返し言う、ゲームの放棄とゲームの勝敗は違うという意味が、……なぜか頭に引っ掛かる…。………こいつはさっきから何に不機嫌で、…何を言っているんだ……?
 その時、俺の後から突然、声が聞こえた。振り返ると、……どこかであった記憶があるような、ないような…。……瞳に光を宿さない、謎の少女が立っていた。
【ベルン】「………その子が言っているのは、こういう意味よ。……このゲームが、駒をそのままに、蓋を閉じられるということ。ゲームは終わらないまま、永遠に留め置かれる。」
【ラムダ】「あんたが元の世界へ戻ることの出来る唯一の方法は、ベアトに勝利することだけ。………つまり、ベアトがゲームを放棄しちゃうってことは。……わかるぅ?」
 いつの間にか、別の場所にも、真っピンクのドレスを来た少女がいた。……彼女にもどこかで会ったような気がするが、思い出せない。
 それより、彼女の言った言葉の意味。……ゲームが放棄されるということは、……え?
【ベルン】「………そういうことよ。勝負は敵味方が揃わなきゃ決着しないわ。………あなたには、もう永遠に、勝利してこの世界から抜け出すことが、出来ないということよ。」
【ラムダ】「差し詰め、……あなたを閉じ込めた檻の鍵を、ハトの首輪にでも括り付けて飛ばしてしまうようなものかしら。
 …………冗談じゃないわ、ベアト。そんなつまらないゲームを見に、私たちは遥々ここまで来たわけじゃないのよ。これでゲームはお開きなんて、冗談じゃないわ。」
【ベルン】「………ラムダに同じよ。私は戦人を勝利させ、あなたを敗北させてのた打ち回らせるためにやって来たのよ。まだその目的を達していない。……こんなところでゲーム放棄されて、逃げ出されたんじゃ堪らないわ。」
【ベアト】「卿らを失望させるゲームの幕切れとなったことは認めよう。……しかし、この茶会のホストたる妾は何しろ気まぐれ。興が醒めれば、持て成す術など知らぬ。……元より、それが妾の、魔女たる所以のはず。何も問題はなかろう…?」
【ベルン】「…………………………。……確かに。あなたの教義には反しないわ。」
【ラムダ】「私は認めないわよ…。……ふざけんじゃないわよ、あんたにどんだけ肩入れしたと思ってんのよ…。ここまでお膳立てさせて、これでハイおしまい? ふざけんじゃないわよ…!!」
【ベアト】「妾は飽きたと、そう言っている。それ以上も以下もない。」
【ラムダ】「そうは行かないわよ…。あんたにはこのゲームを続けてもらうわ。戦人に勝利したいんでしょう? 勝って屈服させたいんでしょう?! もう一息じゃない! ね〜?!」
【戦人】「………そ、そこで俺に振るんじゃねぇ。……ただ、俺にも意見はある。言わせてくれ。」
【ベアト】「…………何か。」
【戦人】「こいつは、お前に売られた喧嘩だ。俺はお前とはっきり白黒をつける覚悟がある。……何度か屈服しかけたが、途中で逃げ出して、勝負をうやむやにして逃げるつもりだけはさらさらねぇ。
 ……俺がここにいて、戦う意思を見せている以上。……逃げるんじゃねぇ、ベアトリーチェ。」
【縁寿】「…………同感だわ。戦人を巻き込んでおいて、勝ちも負けも与えずに立ち去るなんて、無責任にも程がある。」
 いつの間にか、グレーテルまでもがいた。……そして誰もが、ベアトのことを無責任だと罵った。
【ベアト】「ほう。………どうやら妾が無責任だと罵られる最大の理由は、戦人が対戦相手として留まっているからということらしい。………ならば戦人。お前もまた、私と同様に対戦相手を降りてくれぬか? それでなら、妾は批判されることもない。」
【戦人】「俺が降りると、六軒島を出られるのか…?」
【ベアト】「出られるわけもなかろうが。勝手に埃を浴びて肩にでも積もらせよ。」
【縁寿】「………ふざけないで。なんて無責任な人なの。あんたはこれだけ大勢の人間を殺した。しかも、魔女の力によって、何度も何度も。惨たらしい殺し方で! ………その責任を取らず、逃げ出すなんて、絶対に許せない…!」
【ベアト】「責任。……ほぅ、妾はどのようにして、その責任とやらを取ればいいのか。」
【縁寿】「決着をつけるまで戦いなさい。戦人は正面の席に座り、あなたに打ち勝つまで決して諦めずに戦う。だからあなたも、負かされるまで戦いなさい。それが嫌なら、戦人を負かせてみせなさい…!!
 許さない、全てをうやむやにして、戦人をこの席に放り出して、……永遠に閉じ込めて帰さないなんて、………許さない……!!」
【戦人】「……グレーテル。」
 正直なところ、グレーテルがどういう立ち位置で俺を助けてくれているのか、よくはわからない。……しかし彼女の言葉には、俺をこの狂ったゲームの世界から、何としても救い出したいという、強い意志が感じられた。だから、俺もそれに応えた。
【戦人】「ベアト。こっちを向け。」
【ベアト】「…………………。」
【戦人】「俺は、ここにいる。お前の正面の、ライバルの席だ。……わかるな? 俺がここに座り続ける限り。お前に逃げは、許さない。……だから逃げるな。戦え。
 お前が始めた戦いだろうが。これだけ何度も何度も上等を決めやがって、しっちゃかめっちゃかにやってくれたんだッ! 今さら飽きたで終わらせられるかよ!! 俺はお前の対戦相手だ!! 俺がここにある限り!! 逃げるなんて許さねえぞッ!!
 聞いてるのかこの無責任魔女めッ! 何とか言ってみろってんだぁあああああああぁあぁぁあぁぁ!!!」
 俺が怒鳴りつけると、……しばらくの間、ベアトは沈黙していた。俺の言葉が届いたのか、それともまったく別のことを考えているのかは、わからない。
 でもしばらくの間、沈黙し、……何とも感情の読めない表情で俺を凝視し、……それに気付かれたと知って、目線を逸らせた。そして背を向け、……こう言った。
【ベアト】「戦人が対戦相手を辞めてくれぬ以上、このゲームを放棄することは認められぬと、……卿らは仰るわけか。…………ならば、問おう。そもそも、そこにいる男に、妾の対戦相手たる資格があるのかどうかを。」
【縁寿】「………資格?」
【戦人】「…どうせ、さっきのテストとやらのことだぜ。」
【ベルン】「……………何をする気…?」
【ラムダ】「…あ、…あんたまさか…、」
【ベアト】「これより、そなたに妾の対戦相手たる資格があるかどうか、それを問う。………良いか、戦人。その資格が認められれば、妾は席に留まり、ゲームを続けよう。そして、勝敗の決着がつくまで、永遠に戦い続けることを約束しよう。」
【戦人】「へ! 俺には元よりその覚悟はあるぜ。」
【ベアト】「…………しかし。その資格がなかったなら。……そなたは消えよ。対戦相手が消えれば、ゲームもない。妾は堂々とここを立ち去れる。………卿らもよろしいか。口出しは無用。」
【ベルン】「…………………………。……どうぞ、お好きなように。」
【ラムダ】「………ば、…戦人…。あんた、……しっかり答えるのよ…。」
【戦人】「資格があるからこそ、俺はここにいるんだろ? へっ、何も怯えることなんざねぇぜ…!」
【縁寿】「…………………。………ま、……まさか……。」
 グレーテルが突然青ざめる。……冷静沈着なヤツだと思ってただけに、その表情は俺を驚かせた。
【ベアト】「……それでは戦人。赤で復唱してもらおう。」
【戦人】「お、俺に復唱要求ってか? へへ…、俺の十八番を奪いやがって。……しかし、赤き真実って俺でも出来るのか? どうやるんだ…?」
【ラムダ】「……………そ、そうだと念じれば出来るわよ。簡単よ。」
【戦人】俺の名は右代宮戦人。……お、……おお、こりゃ面白ぇや。」
【縁寿】「やめてッ!! あんたの狙いは読めてるわ…!! でもそれは止めて! 彼は……!!」
 グレーテルが叫んだ時、キッとベアトが睨む。するとその姿が瞬時に掻き消された。
【ベアト】「うるさい。そなたはしばらく席を外せ。卿らもであるぞ。口出しをするならば容赦せぬ。」
【ベルン】「……………邪魔はしないわ。どうぞご自由に。」
【ラムダ】「ベ、ベルン、まずいでしょうが!! あいつ、消す気よ、戦人をッ!!」
【戦人】「……何だと……? あいつ、……何を企んでやがる……。」
【ベアト】「それでは、資格を問うぞ。…………面白いな。普段のゲームが、攻守が逆になった。これは最後の最後で、とても貴重な体験だ。………良いか、心してまずは聞け。まずは妾が赤で語る。」
 妾は黄金の魔女、ベアトリーチェ。 そして右代宮金蔵の孫、右代宮戦人と戦うためにこのゲームを開催した。
【戦人】「……そんなことは知ってるぜ。だから何だ。」
【ベアト】「復唱要求。………“右代宮戦人の母は、右代宮明日夢である”。」
【戦人】「はあ?! …そこで何でお袋の名が出てくるんだよ……?」
【ベアト】「無駄口は要らぬ。ただ、赤で復唱せよ。」
 ベアトは相変わらずの冷淡な口調で、それを俺に強いる。
 ……しかし、ヤツが何をしたいのかがさっぱりわからない。……俺には突っ込まれて困るようなやましいことも、隠し事も一切ない。復唱を要求されて困るようなことなんて何もない。……なのに、なぜこんなことを…?
【戦人】「いいぜ、復唱する。右代宮戦人の母は、右代宮明日夢である。……赤は便利だな。戸籍抄本を持ってくる面倒もねぇ。」
【ベアト】「無駄口は要らぬ。続けるぞ。“そなたの名は、右代宮戦人である”。」
【戦人】「……おう。俺の名は右代宮戦人だ。」
【ベアト】「右代宮戦人は、右代宮明日夢から生まれた。」
【戦人】右代宮戦人は、右代宮明日夢から生まれた。
【ベアト】「そなたは、右代宮明日夢から生まれた。」
【戦人】俺は、右代宮、……、……ふぐ、…………っ?! ……?!?!」
 その時、突然、息が詰まる…。急に窒息したような息苦しさに襲われた。
 ど、………どういうことだ……? も、……もう一度……。
【戦人】「俺は、右代宮明日夢から生まれた…。…クソ、俺は右代宮明日夢から生まれた…。…………な、何だ? さっきまでは簡単に出来てたのに、急に赤がうまく出来なくなったぞ…?!」
【ベアト】「……………………復唱を拒否するのか?」
【戦人】「拒否なんかじゃねぇ…!! なぜかうまく行かねぇんだ…!! 俺は右代宮明日夢から生まれた…!! 何でだッ?! 畜生、何で赤が使えないんだ?! そんな馬鹿なッ?!?!」
【ラムダ】「………………く…。」
【ベルン】「………………………。」
 俺のお袋は右代宮明日夢だぜ?! 何でその真実が、赤で言えないんだッ?! どういうことだよ…?! こ、れは……ぐッ、!!
【ベアト】「語れぬ赤を無理に語ろうとすると窒息するぞ。無理をしなくて良い。………以上の事実から、妾はそなたを青で追及させてもらう。……覚えているな? 青は相手を否定する仮説を宣言するのに用いる。それは赤での否定が義務付けられ、それがない場合、勝利となる。………では参るぞ。」
 以上の復唱要求、並びに復唱拒否から、妾はそなたに対戦相手の資格がないことを宣言する。 なぜなら、ベアトリーチェは、“右代宮金蔵の孫である右代宮戦人”と戦うために、ゲームを開催したからだ。
 よって対戦相手であるそなたには、“右代宮金蔵の孫である右代宮戦人”であることを赤で宣言する義務が生じる。 それに対する復唱を、そなたは拒否した。 これは資格の喪失を意味するものである。
【ラムダ】「……あ、……赤でそれの何かを否定するのよ…。…早く!!」
【戦人】「あ、あぁ…。お、俺は右代宮戦人だ…! それを赤で復唱できている以上、俺はお前の対戦相手のはずだぜ!!」
【ベアト】「そなたが右代宮戦人の名を持つことは事実であろう。しかし、人名は独占されたものではない。複数の人間が、右代宮戦人を名に持つことは可能である。
 即ち、こういうことだ。……そなたは右代宮明日夢の息子、右代宮戦人と同姓同名の別人である。
【戦人】「なッ、……何だと……!! 馬鹿なことを言うんじゃねぇええええ!! 俺はお袋の子だぞ!! 右代宮明日夢の子だ!! 俺は右代宮明日夢から、ッ、ふぐ、……んんんぐ……!!! ……………ぐはッ!
 畜生!! なぜだ?! なぜ、俺がお袋から生まれたと言えないんだ?! こんな馬鹿なことがあるというのか?!」
【ベアト】「苦しむことはない。妾は遊ばぬ。……これにてチェックメイトだ。そなたは、右代宮明日夢の息子ではない。」
 ……………んな、……………、
【戦人】「そんな………、馬鹿……な……………。」
【ベアト】「そなたは誰か。右代宮戦人を名乗る、何者なのか。」
【戦人】「ちょ、…ちょっと待てよ…。……俺は、…右代宮戦人だ……。俺は右代宮明日夢から生まれた、親父とお袋の息子だ…!」
【ベアト】「いいや。妾の対戦相手たる右代宮戦人であるはずが、ない。その証拠に。」
【戦人】「証拠だと?!」
【ベアト】「そなたは、6年前の罪を、知らない。」
【戦人】「………う、………そ、それは…………。」
【ベアト】「いいや、真の右代宮戦人ならば、罪など犯さない。だが、結果的に罪は起こり、6年の月日が空白となって、当時を何も知らぬ男が、右代宮戦人を名乗って六軒島へ姿を現した。…………その真相は、こうだ。」
 6年前に、……妾の対戦相手たる本当の右代宮戦人は、すでに死んでいたのだ。そなたは、遺産分配を巡る何らかの事情で留弗夫が陰謀を巡らせ、成り代わらせた、右代宮戦人の替え玉なのだ。
【戦人】「そ、……そんな馬鹿なことがあるもんか………。………そんな……馬鹿な、……ことが……………。」
【ラムダ】「……ば、戦人……! しっかりしなさい…!!」
【ベルン】「………………………ま。…言い返せないなら、仕方がないわ。…戦人にその資格はなかった。そういうことよ。」
【ラムダ】「ベ、ベルンそれでいいの?! それを認めちゃったら、あんたも負けちゃうのよ?!」
【ベルン】「あんたは勝っちゃうんでしょうが。……なんで戦人の肩を持ってるの……?」
【ラムダ】「ん、…………んん…。」
【ベルン】「残念よ、戦人。………あなたに、ベアトリーチェの対戦相手たる資格がなかったなんて、とても残念。私も迂闊だったわ。資格のない駒に張ってたなんてね。…………私の完敗だわ、ベアトリーチェ。」
【ベアト】「……負けも勝ちもない。ただ、対戦相手が消えるだけだ。元からいなかったと言うべきか。」
【戦人】「じゃあよ……、俺は、………誰なんだよ……。俺は、……親父やお袋の子じゃ、ないのかよ……?! 俺は誰なんだ……、何なんだ……。…………お袋の子じゃないってんなら、……何だよ、捨て猫みたいに、どこかから拾われてきた子だとか、そう言い出すのかよ?!」
【ベアト】「それならば、金蔵の血は引いていないことになるな。いずれにせよ、そなたにこのゲームの対戦資格はない。」
【戦人】「……………馬鹿な………、………馬鹿な……………。」
【ベアト】「もう良い。……元々そなたが右代宮戦人でない可能性も、多少は承知していたのだ。……だから、問わねばならなかった。本当の戦人なら知っていることを、聞かねばならなかった。
 …………残念だ。そなたがひょっとしたら本当に右代宮戦人であるかもしれないと、妾も千兆分の一の奇跡に、賭けたのだ。だが、やはりそなたは同姓同名の、別人だった。」
【戦人】「…………く、……ぅぅ…………。」
 戦人の姿が、……少しずつ、闇に霞んでいく…。いや、むしろ逆かもしれない。……戦人だけを残して、全ての世界が闇に霞んでいくのだ…。
 戦人は床に両手両膝を付け、うなだれて自問を繰り返している。……しかし、それに答えが与えられることはない……。闇に染まる世界で、ベアトが何かを語り、ラムダデルタが駆け寄り、何かを早口に叫ぶが、もうそれはとても遠くのことのようで、戦人の耳には届かない…。
 …………そして“彼”は、………自分が誰かわからなくなって、…………姿を、…消した…………。
【ラムダ】「戦人ぁあああああぁああぁ……ッ、……ぅ、く………。」
【ベアト】「これで対戦相手は消えたな。……それではこれで妾は失礼する。卿らも、旅支度を整えられるが良い。我が領地にて、もう何も催しは予定されていない。それでは御機嫌よう。……さらばだ。」
 ベアトはそれだけを言い残し、自らの姿も闇に霞ませ、その姿を消してしまう……。
【ラムダ】「あ、………あんた、……これでいいわけぇ?! 戦人、……き、消えちゃったわよぅ?! 負けず嫌いのあんたが、この結末でいいわけぇ?!」
【ベルン】「………………あんたは私の負けに張ってたんでしょう? なら万々歳じゃない。おめでとラムダ。じゃあ、またどこかの世界で会いましょう?
 まぁ、無限のカケラ世界のこと。どこかでまたご縁がある確率は、それこそ千兆分の一よりも少ないでしょうけれど。…………じゃあね、楽しかったわ。バイバイ。」
【ラムダ】「あっ、…待ってよ、ベルン…!!!」
 先に消えたベルンカステルを追うように、ラムダデルタもまた、姿を消す…。そして誰もが消え去って、………書斎には誰もいなくなった。
 まるで、初めから誰もいなかったかのように、静まり返る。……誰も、元々ここにいなかったのだ。沈黙の書斎は無言でそれを語り、雨と風の音で、少しずつ部屋を満たしていくのだった……。
 何もかもが闇に沈んだ世界で、ベアトは自問する。
【ベアト】「……やはり、…………魔法は初めから、マリアージュ・ソルシエールの中だけで、使うべきであったな。」
【真里亞】「…………そうだね。…真里亞も、……縁寿の時に、そう思ったよ。」
【ベアト】「魔女同盟は、妾とそなた。その二人で始めた。……他の者を混ぜようというのが、そもそもの間違いであったのだ…。」
【真里亞】「………こんなにも楽しいから。…真里亞たちはその輪に、親しい誰かを加えたかったよね。
 そうして、魔女同盟がどこまでも大きくなって、みんなで楽しく魔法が使えて、幸せになれたらと願った。」
【ベアト】「だが、………魔法を理解できるのは、やはり妾とそなたの二人だけだった。」
【真里亞】「私たちは、奇跡が巡り合わせた、……この世界でたった二人しかいない魔女なんだよ。………真里亞はもう、ベアトさえいれば、他には誰もいらないよ。」
【ベアト】「…………妾もだ。そなたさえいれば、もう誰もいらぬ。」
【真里亞】「マリアージュ・ソルシエールは、結成したその一番最初の時点で、……もう、完成していたんだよ。」
【ベアト】「…………………そうで、あるな。まさに、そうであるな……。」
 みんなで、魔法で幸せになるための、魔女同盟だった。……それが、どこでこんな滅茶苦茶になってしまったんだろう。
 自分が何をしたくて、このゲームを始めたのか。……それさえも、何だか思い出せない。いや、覚えてるのかもしれないけれど、…今やそれは忘却の彼方に、自ら投げ込みたい気持ちだ。
【真里亞】「………いいよ。何もかも、忘れてしまおう? 二人だけの、マリアージュ・ソルシエール。……私たちは互いを認め合う。そして、誰にも傷つけられない。だからもう傷つかない。泣かない。全て、忘れよう。…………ね、ベアト。……私たちは、永遠だよ……。」
【ベアト】「…………………………真里亞……。…………ううぅ、………ううぅうぅッ…!!」
 紗音は、ボイラー室にて金蔵の死体の焼却を始める。続いて食堂にて源次を殺害。
 最後に、ベアトの変装を解いて紗音の姿に戻り、井戸の近くで自殺。自殺に使った銃は井戸に落ちるように細工する。

旅の終着点

六軒島への船
【縁寿】「天草、それ切ってくれる?」
【天草】「おっと、そりゃ失礼。M・ザッキーはお嫌いで?」
【縁寿】「今が気分じゃないだけ。」
 天草がラジオを切る。陽気な音の世界はたちまち潮騒に飲み込まれ、海の灰色で塗り潰してしまった……。
【船長】「………見えるかい。あの辺が当時の船着場だ。」
【縁寿】「…………………………。」
 船長が指差すが、12年も前の光景は、なかなか蘇らない。……てっきり、こういうものは見る見る溢れるように当時のことを思い出せるに違いないと信じていたが、…一向に当時の記憶は戻らない。
 あの事件以来、島は封印され荒れるに任されている。……それも無理からぬことだろうと、自分を納得させないと、…なぜか悲しくて辛かった。
 ………あぁ、でも、これだけは覚えてる。海ならどこでも同じだろうと言われればそれまでだが、……これだけは覚えてる。
 うみねこの、鳴き声。これだけは、覚えている。
 ……幼かった私にとって、海は滅多に行かない場所。…だから、海にかかわる記号の全ては、六軒島と親族の集まりを意味した。早い話が、……家族でお出掛けという幸せの記号だったわけだ。
 もっとも、今となっては、その幸せ、というのも疑わしい。幼い私には気楽な家族旅行気分だったが、両親たちの当時の都合から想像するならば、遺産分配で火薬の臭いが立ち込める、さぞや世知辛い旅行だったに違いない。
 親の気持ちなど知りもせず、きゃっきゃと浮かれていた当時を、思い出す…。
【天草】「六軒島、……ですかい。全ての始まりで、全ての旅の終着駅ってわけだ。」
 天草は、私の胸中を代弁したつもりになって、格好付けた言い方をする。
 船はゆっくりと島を回りこんでいく。……角度が変われば、当時の島影の記憶が少しは戻るだろうかと期待したが、結局、その入り江が完全に崖に隠れても、何も思い出すことは出来なかった…。
【縁寿】「……船長、さっきの。もう一つの船着場の話を聞かせてください。」
【船長】「うむ。………六軒島には、船着場は一つしかないことになっとる。だがそれは表向きだ。」
【縁寿】「島裏の、もうひとつの隠された船着場。………六軒島そのものね。誰も知らない2つ目の、もう一つの顔がある…。」
【船長】「…………六軒島は、右代宮家の領有する島だ。だが、金蔵さん個人が所有する島、というもうひとつの顔がある……。」
【天草】「一つの島、二つの船着場、二つの屋敷、……ですかい。愛人を囲うためだけに、ずいぶんとカネを掛けたもんだ。」
【縁寿】「もう一つの船着場のことを知る人間は…?」
【船長】「限られとる。金蔵さん、執事の源次さん。わしら、船の関係者、高齢の使用人がほんの数人だ。……南條診療所の先代先生も熊沢のバアさんも知っとった。数えりゃ結構いるような気がするが、とにかく知っている人間はわずかだった。」
【縁寿】「その、もう一つの屋敷について教えて下さい。」
【船長】「……九羽鳥庵、っちゅう名前のお屋敷があるとだけは聞かされとった。わしは船を離れることを許されんかったから、一度も見たことはないが。」
【天草】「船着場からは見えないくらいに遠いということですかい?」
【船長】「わからん。……ただ、隠し屋敷だからな。外からは見えん場所に建ててあったろうな。…とにかく、九羽鳥庵については、あの島の最高の秘密だった。」
【縁寿】「九羽鳥庵に、ベアトリーチェが住まわされていた、あるいは幽閉されていた、という説がありますが、船長はどう考えますか。」
【船長】「……わしは九羽鳥庵への雑貨も運んでおった。その中に、女しか使わんような、それも高級なもんが含まれることも多かった。……わしもその説を確信しとる。」
【天草】「では、船長はベアトリーチェって女を、直接見たことはないわけですかい。」
【船長】「ない。二十年近く出入りをしたが、一度も見たことはない。」
【天草】「二十年…! ひゅう、ってことは最低でも年齢プラス20ってわけだ。こりゃあ、マドモアゼルは期待できねぇな。」
【船長】「だが、九羽鳥庵への出入りは、ある日を境に、ぷっつりとなくなっちまった。今から大体30年前だから、……昭和43年頃だったと思う。」
【縁寿】「ぷっつりと? 突然?」
【船長】「……食料やゴミなどの運搬往来で、わしらは決められた日程で裏に行っとった。……あぁ、裏っちゅうのは、九羽鳥庵側の船着場のことだ。」
【縁寿】「わかります。…それで?」
【船長】「ある日、源次さんから急な連絡があった。別の指示があるまで、裏には行かなくていいって言うんだ。」
【天草】「別の指示とは?」
【船長】「特にはなかった。早い話が、ある日突然、裏には今後、定期便はいらない、食料も届けなくていいと言われたわけだ。……わしは最初、クビにされたのかと思ったよ。だが、すぐに気付いた。……それに、九羽鳥庵のことを知る使用人たちの様子からも、何となく察しが付いた。」
【縁寿】「………ベアトリーチェが死んで、食料を届ける必要も、世話人を送る必要も、なくなった?」
【船長】「わしはそう考えとる。それっきり、裏へ船を出せという指示は受けてない。しかし、裏については死ぬまで何も喋るなと、その後、源次さんが直接わしのところへ来て、偉く強く念を押した。」
【縁寿】「その、20年間も放置されていた隠し屋敷に、………どうして絵羽伯母さんが?」
 右代宮絵羽は、12年前のあの日。……なぜかひとり、屋敷から2kmも離れた隠し屋敷にいて、難を逃れた。20年間も忘れられていた隠し屋敷に、どうして彼女が………。
【船長】「ワイドショーで見たよ。わしにも何が何だかさっぱりわからん。絵羽さんを裏へ案内したことは一度もない。どうして、どうやって九羽鳥庵を知り、辿り着いたのか、わしにはさっぱり見当もつかない。」
【縁寿】「裏の九羽鳥庵に、陸路で行くことは不可能だったのかしら。」
【天草】「……もしも話どおりに、未開の密林だとしたら。おめかしした奥様風情に踏破できるもんじゃありませんぜ。」
【縁寿】「じゃあ海路? モーターボートみたいなものがあったとか。」
【船長】「まさか。あの二晩の台風は、そりゃあ酷いもんだった。船なんぞ使えるわけもない。」
【縁寿】「じゃあ、屋敷と九羽鳥庵を直通する、……例えば地下通路のようなものがあったとか。愛人の家へ出入りするのに、毎回、船の用立てが必要なんて、面倒でしょう…?」
【天草】「全長2kmの六軒島の、対角線上に存在する屋敷を繋ぐために、そんだけの長い地下トンネルを…?
 …と、馬鹿にしてえところだが、愛人のために隠し屋敷まで作っちまう大富豪だ。それも否定できんところですな。……どうなんですか、船長。」
【船長】「わしは海の人間だ。穴のことはわからん。だが、硫黄島で日本軍は25kmのトンネルを掘ってみせたぞ。あの金蔵さんなら2kmくらい掘ってみせても、わしゃ何も驚かん。」
【縁寿】「…………………やっぱり、狂った島ね。私たちはこの島のことを、未だ誰一人、何も知らない。」
 船が接岸する。お屋敷へは少し歩かなければならない。
【船長】「……わしはここで待っている。屋敷は向こうだ。当時の道が残っているだろうが、草木で覆われてしまってるはずだ。迷わんように気をつけてな。」
【天草】「ほんじゃ、行きましょうかね。」
【縁寿】「ありがとう、天草。あんたもここで待ってて。」
【天草】「………まぁ、そう言い出すんじゃないかと思ってましたぜ。」
【縁寿】「届け物をするだけよ。あなたが一緒だと向こうが迷惑するの。あんたの毒素、強そうだから。」
【天草】「毒素? はて。」
【縁寿】「すぐに戻るわ。今日の本命は九羽鳥庵の方だもの。……届け物をしたら、すぐに戻ってくるわ。」
 縁寿はナップザックを背負い、手向けの花束を持つ。
【船長】「察してやれ、若いの。……行ってこい、お嬢ちゃん。あんたの家族が待っている。」
六軒島
 こんな道は初めてだったが、方角的に問題ない。このまま真っ直ぐ歩けば、私を全ての終着点へ導いてくれるだろう。
 確かに草木がものすごく、ぼんやりしているとどこが道なのかわからなくなる。……でも想像していたよりは、遥かにマシな道が残されていた。
 それでも悪路であることに変わりはない。……私は地図上の距離とは裏腹に、だいぶ歩かなくてはならなかった……。
 ……森は深く、暗い。当時の私は、この森には魔女が住んでいるから近付くなと脅されていた。
 その怯えはさすがに今はないが、………でも、感じる。黄金の魔女、ベアトリーチェの気配、……霊気のようなもの、私だから感じることが出来る…。
 あちこちに奇岩となって転がる巨大な岩塊と生い茂った木々と蔦。……鳥たちと虫たちの声。あぁ、感じるわ。………魔女が、いるのを、感じる……。
 前方に、蔦に絡まった工事現場の柵と警告板みたいなものが立っている。“立入禁止、東京都”。そう書かれていた。
 あぁ、そうか。東京というとついつい都会みたいなイメージがあるけれど、六軒島も住所上は立派な東京都だ。……失礼な誤解だったと看板に謝りながら、私は柵を越える。
 その先の急斜面を越えると、…………急に視界が開けて、鮮烈な海の風が、ざあっと私の髪を散らした……。
 そこはさながら、ちょっとした丘の上だった。
 ……眼下には、島の広大な眺望が。私には荒れ果てた森と岩場が広がっているようにしか見えない。……でも、何となく、あの辺りが屋敷だろうと察しが付いた。
 その丘からの急な下り坂は、12年間の風雨で土砂が崩れてしまったのかもしれない。
 緩やかな崖といってもいいような岩だらけの斜面になっており、転げ落ちるのは簡単だが、登るのはかなり難しくなっているようだった。………どうやら、これ以上を進むのは、無理なようだった。
 これ以上を進めば、戻れなくなる。つまりは、………ここが、境。
 ここが1986年と1998年。そして、あの日と今日。彼岸と此岸の、境目。
【縁寿】「…………ここが、……この旅の、終着点みたいね。」
 マモンもさくたろも、強い風に髪を散らしながら、丘から眼下を見下ろしている…。
【マモン】「……ここからじゃ、さっぱりわからないわ。お屋敷はどこ? もっと近付きましょうよ。」
【さくたろ】『うりゅ、…無理だよ。戻って来れなくなっちゃうよ。』
 ……戻って来れなく、なる。…か。そうね。……ここは1998年で、……私はたったひとり取り残された右代宮縁寿。
 初めは死ぬための旅だった。でも、今は違う。何かを成し遂げる旅に変わっている……。
【縁寿】「うん。……だからごめんね、二人とも。あの日の私なら、何も躊躇わずにこの崖を降りるだろうけれど。」
【マモン】「ビルの屋上から飛び降りた右代宮縁寿が、情けなァい。」
【縁寿】「ごめんね。」
【さくたろ】『ここでも同じだよ。………あの日の風が、感じられるから。』
【マモン】「………………。……こんな、風だったっけ。」
【さくたろ】『うん。もうすぐ、来てくれるよ。………………みんな。』
 さくたろが、さも当たり前のようにそう言う。……そして、私はそれを信じた。
 お父さん。お母さん。お兄ちゃん。親族のみんなに、楽しい使用人の人たち。そして、…………真里亞お姉ちゃん。
【縁寿】「私よ。……縁寿よ。……………私は、帰ってきたわ。」
 12年前を暴く私の最後の旅は、初めはその目的も抽象的で、わからなかった。しかし、……今は私は、疑わない。
 この旅は、…………12年を経て、様々な思いや運命によって誘われたもの。私、右代宮縁寿にとっての、終わらせる旅。そして、マリアージュ・ソルシエールの最後の魔女としての、終わらせる旅。
 私は右代宮家の最後の娘として、そして、最後の魔女として、ここへやって来た……。
【縁寿】「……お父さん、お母さん、お兄ちゃん。…ごめんね。先に、真里亞お姉ちゃんとの挨拶をさせてね。」
 強い追い風が相槌を打つ。
 その追い風が、私の体の中から魂だけを抜き出して、……眼下の広大な森林へ。そしてここからは見えないけれど、あの日のお屋敷へ、みんなへ、真里亞お姉ちゃんのもとへ飛ばしてくれると信じる。
 だから私は、……体は丘の上にいて強い風に吹かれながらも、………魂は今、確かに、その空を舞っていた……。
 それはとてもとても広大な六軒島の空。………眼下にいっぱいの木々の緑。
 でも、わかる。家族や親族、使用人のみんなの気配を、理解できる。………そして、真里亞お姉ちゃんも。魔女としての真里亞お姉ちゃんも、……理解できる。
 それは私が今までイメージしてきた、どんな広大な空間よりも、広大なもの。
【縁寿】「………真里亞お姉ちゃん。聞こえる……? 聞いて……!!」
 縁寿はあの日の真里亞に叫ぶ。
 長い旅を経たこと。そしてようやく、あの幼い日に彼女を、どれだけ傷つけたかを知ったこと。魔法を理解し、今なら真里亞が見せたかった世界が全てわかる。
 それはとても温かくて、慈しみと幸せに溢れていて。……そんな世界を共有することで、もっと幸せになりたかった彼女の気持ちを、なのに私は、踏み躙った。
【縁寿】「だから私、今こそ全部理解したの。………魔法を、理解した…! 私たちの魔法はきっと、とてもささやかで身近に溢れてる。……でも、それは誰の目にも見えるものではないのよ。……………魔法とは。……えぇ、はっきり言えるわ。」
 ——愛がなければ、視えない
 ごめんね、お姉ちゃん。……もう私は魔女同盟を破門になった身だけれど。今になって、その素晴らしさを理解してる。
 そして、………私が傷つけてしまったあの日から、マリアージュ・ソルシエールが、……お姉ちゃんが本当の意味で望んでいたものとは違うものに変貌してしまったことを知っている。
 ………あの日々のお姉ちゃんには、人を呪うことで怒りを吐き出す魔法も、大切だったかもしれない。お姉ちゃんの境遇は、それが許されるだけの悲しいものだった。
【縁寿】「でも。………もう、そんな悲しい日々は、終わったよ。……だから、……お姉ちゃんの魔女同盟を、………元の、やさしいマリアージュ・ソルシエールに、戻そう。」
 いつの間にか手に持っていた魔導書。……それが強い風で次々と素早くページが捲られていく……。
 最初はやさしい世界だった。
 どうやったら、空からお菓子が降ってくる魔法が生まれるか。どうやったら、明日の晩御飯がクリームコロッケになる魔法が生まれるか。どうやったら、明日のお出掛けがお天気になって、楽しい一日になる魔法が生まれるか。
 新しい幸せな魔法が次々に生まれて、彼女の世界をやさしく彩っていった…。そんな日々が次々に捲られていき、………どんどんと月日が、走馬灯のように駆け巡っていく…。
 カラフルだったイラストのページは、次第に黒いインク一色のページに様変わりしていく……。
 ……不気味な魔法陣や、悪魔の召喚術。人に害を為すための邪悪なる魔法。
 どうやったら、クラスのいじめっこが風邪を引く魔法が生まれるか。どうやったら、クラスの誰それが大怪我をして死んでしまう魔法が生まれるか。どうやったら、いじめっこ全員の乗ったバスが崖から落っこちる魔法が生まれるか。
 陰湿な魔法が次々に生まれて、……ページと彼女の心を、埋め尽くしていく…。
【縁寿】「私が、お姉ちゃんを傷つけたから。マリアージュ・ソルシエールは、こんなになってしまった。………お姉ちゃんは黒き邪悪な魔女じゃない。……白き、……無垢で無邪気な、……やさしい魔女だったのよ……。
 ……私が、元に戻してあげる。元の、みんなを幸せにする魔法を世界中に振りまいていた、……真里亞お姉ちゃんに戻してあげる。……その為に、私はここへ来た。運命に導かれてきた。…………お姉ちゃん、聞こえてる……? その姿を、………私の前に見せて………!!」
 その声は、さらに強い風に乗って、12年前に届けられる……。そして、……ゆっくりと風は止み、………沈黙が訪れた……。
 じゃり、じゃりりと。……小石を踏みしめる音が、聞こえた。私はその足音を聞き、その奇跡に驚く。……それは紛れもなく、真里亞お姉ちゃんの足音だった。
【縁寿】「…………ま、……真里亞お姉ちゃん………。」
【霞】「霞よ。………ようやく見つけたわよ、縁寿ちゃん………?」
【縁寿】「……………………。」
 ……真里亞お姉ちゃんとは、似ても似つかない霞叔母さんと黒服たちが、いつの間にか7人も、私を取り囲むように、そこにいた。
 真里亞お姉ちゃんに、もう少しで声が届きそうだったのに……。…こいつらの毒素のせいで、………魔法が途切れてしまった…。縁寿はそれを舌打ちするが、霞にはそういう意味には聞こえなかったろう。
【霞】「…………ふぅん。そのお花は、亡くなった家族への? ……偉いわぁ。それ、投げるんでしょ? いいわよ、それまで待ってあげる。」
 ……何を待つというのか。…だが、縁寿には大体察しがついていた。
 黒服たちの、不自然にポケットに突っ込んだ手などは、明らかな拳銃の所持を想起させる。………ここは無人島。これほど都合のいい処理の場所はあるまい。
 須磨寺家のお家事情などまったく興味はない。…しかし、私が死ねば、ごろりと全ての財産は須磨寺家に転がり込むのだ。私と違い、大いに興味も関心もあるだろう。
 もちろん、一方の右代宮グループも、私の保有する大量の株が、ごろりとそちらに行ってしまうのは色々とまずいらしく、私を奪い合って、勝手に暗闘を繰り広げているらしい。……小此木社長が私に天草という護衛を付けてくれたのも、そういう意味のはず。
 …………天草を船に待たせてしまったのは、痛恨のミス…。
【縁寿】「叔母さん、いつからここで待ち伏せを……?」
【霞】「早朝からよ。お陰で、すっかり待ちくたびれちゃったわ。何しろ喫茶店もお化粧室もないからねぇ。」
【縁寿】「トイレもないから、お上品に木陰でひり出してたわけね。………ぐッ、」
【霞】「仮にも、須磨寺家の血を半分引いてる淑女が、そんな汚らしい言葉を使うんじゃないわ。………やっぱり須磨寺霧江の子ねぇ? 気品の欠片もありゃしない。」
 私は髪を掴み上げられ、無理やり顔を寄せられる。そして唾を吐きかけられた。……私の言葉も汚いが、こいつの唾も負けていない。
【縁寿】「………叔母さんが私のことを話すと、いつも母さんのことばかり。…私、そんなにも母さんに似てますか。」
【霞】「えぇ、似ているわ。……………その生意気そうな目つき。鼻も口もそっくりよ。……自由奔放で無責任。……歴史と伝統ある須磨寺家の重みなど何も考えず、自分勝手に家を飛び出したわ。お陰で私の人生はずっと、その尻拭い…!」
【縁寿】「まさにあんたの人生、クソまみれね。」
 頬を打たれた時、耳を強打され、一瞬、頭がキーンとなった…。………そして、髪を引っ張って振り回され、私は地面に転がされる。それから間髪を入れず地面を蹴られて砂を掛けられた。
【霞】「あぁ、本当に姉さんに似てきたわぁ。その目つき! その、どこか小馬鹿にした目つきよ。あぁ、思い出すわ、色々と!」
【縁寿】「………哀れな人ね。きっと幼い頃から、何かにつけて母さんに比較されて蔑まれてきたんでしょうに。……そしてあんたは一生、その惨めさから解放されやしないわ。」
【霞】「お前みたいな小娘にはわからないわよ。……あんたのお母さんはね、何もかもを投げ出して須磨寺家を逃げ出した負け犬なのよ…? その負け犬のせいで、私がどれほど…、どれほど迷惑したことかッ!!」
【縁寿】「あんたの迷惑なんか私の知ったこっちゃないわ。私の生まれる前の話をされても困るわよ。………あんたの人生は、いつ始まるの? ……始まりゃしないわ。いつまでもいつまでも永久に、死んだ母さんに嘲笑われ続け、そのまま死ぬのよ。……というか死ねば? 何で生きてるの?」
【霞】「このションベンガキが…!! あんたたち…! ちょいとお茶をしてやりなさいな。」
「へっへっへ…。お任せを…。」
「口の聞き方も知らねぇ、クソガキが。少し勉強させてやるぜ。」
 黒服が、ささっと駆けて来て、私の襟首を乱暴に掴み、引き摺り倒す。
【霞】「私が一服終えるまでに適当に。可愛い姪にちょいと身の程を教えてあげなさい。」
 須磨寺霞か。思えば可哀想な人だった。
 須磨寺家の女は、表向きは男を立てて一歩引いた位置にいるように躾けられている。……しかし実際は、下々の全てを取り仕切る強い指導力が求められる。文字通り、女将のような役割を求められるのだ。
 伝統ある須磨寺家を取り仕切るのは、並大抵の貫禄では出来ない。それは想像を絶する重責だ。それは本来ならば、霧江に求められるものだった。
 霧江にはその厳しい修行が。そして霞は妹としてのんびりしていれば良かった。いやむしろ、重責を課せられた霧江を嘲笑い、のんびりと裕福でわがままなお姫様生活をしていた。
 ……ところが。突然、霧江が勘当されることになった。親の設定した許婚を蹴り、右代宮留弗夫の愛人として妊娠していたのだ。
 須磨寺家から見た右代宮家は、莫大な財産は持っていても、すでに没落した格下の家と見られていた。しかもその家の次男坊の、正妻ならまだしも愛人とは…。
 本来なら、これほどの不名誉ならば、本家の娘とて容赦はされない。棒を立てて、右に倒れれば太平洋、左に倒れれば日本海に、簀巻きにされて放り込まれているところだ。
 ………しかし、霧江への処分は勘当のみで、信じられないくらいの温情判決だった。その後、須磨寺家は右代宮グループの一部において、優遇的な措置を受けるようになる。……何らかの裏取引があったのは間違いない。
 つまり霧江は、右代宮家からの経済支援をダシに、堂々と須磨寺家を出て行ったわけだ。霞は呆然とそれを見送った。いや、不名誉な姉を負け犬と罵りさえした。
 ……しかし、やがて。霧江が背負っていた重責の全てが、自分に引き継がれることを知り、その時、初めて、出し抜かれたことに気付いたのだ……。
【霞】「あんたの母親のせいで、私の人生はめちゃめちゃにされたわ。……いいえ、一度殺されたと言ってもいい。あの日に私は一度殺されて、地獄のような日々に突き落とされたのよ…。」
【縁寿】「…………それまで人生舐めてきたツケじゃない? ……ぎゃふッ!………ごほっ、ごほ……。」
「口の減らねぇ小娘だぜッ! うぉら!」
 黒服に下腹を殴られ、うずくまる。しかしすぐに襟首を掴まれ、立ち上がらせられた。
 霞はそれを冷酷に見下ろしながら、煙草を吹かす……。彼女の脳裏に蘇るのは、霧江が出て行った後の辛い日々。
 それまでは自由奔放、天真爛漫なただのお嬢様でいられた。……厳しく躾けられるのは長女の霧江だけで、次女の自分はただのお姫様でいられたのだ。
 それが、突然、人生が転落するほどに全てが引っ繰り返って……。
【霞】「私の人生も、生活も、生き方も、……何もかもを奪われたわ。………事情を知らない親類からは、姉さんの不名誉を理由にどれだけ蔑まれたことか…。……呪ったわ。あなたのお母さんを血を吐くほどに呪ったわよ…。」
【縁寿】「そりゃ嬉しいわ。これからもよろしく。………がふッ!!」
 這いつくばった縁寿の脇腹に、蹴りが入る。縁寿はもう立ち上がらなかった。……だから芋虫のように転がされたまま、減らず口を叩く度に、蹴られる。
【霞】「……姉さんを、右代宮グループのパーティで見かけたわ。……あいつ、旦那と一緒で、………とても幸せそうに、……笑ってやがったわ。……私に、……全部を押し付けて、……自分だけ、………幸せに………。」
【縁寿】「………だから何? 私に八つ当たりすると、どうあんたが幸せになるってわけ? 私に八つ当たりすると、時間が巻き戻って歴史が変わったりしてくれるわけ? ………うぐぐぐ、………がッ、………ごほッ……!!」
【霞】「あんた、さっき言ったわねぇ…。私の人生はいつ始まるの?って。………いくら恨んでも八つ当たりしても、時間を巻き戻すことなんて出来ない。……じゃあ私は死ぬまでこうして、死んでもなお姉さんを恨み続けて?
 冗談じゃないわ。……いつまで私は姉さんの亡霊に苛まれてなきゃならないのよ。だから考えたのよ。…………これを成し遂げたら、全ての恨みを忘れて、やり直せるってね。」
 縁寿は憎まれ口を叩いて、それに答えようとしたが止めた。…答えればまた蹴られるからだ。
 ……霞がそれ以上を語らなくても、どうせ想像はつく。霞は、霧江の娘の縁寿に復讐することで、その恨みに終止符を打とうと考えているわけだ。………何と傍迷惑な。
【霞】「ほら、立ちなさいよ。そんなにこの島が大好きなら、しっかり深く埋めてあげるわよ。………その若さで死にたくないでしょ? 母が迷惑を掛けてすみませんでしたとか、言ってみたくはならない?」
【縁寿】「………誰が、……言うもんか。………ぐはッ、………ぐッ、……!!」
【さくたろ】『うりゅー!! 縁寿ッ、縁寿ぇえぇ…!!』
【マモン】「縁寿さま、ダメ…! こいつらを挑発しちゃ駄目です…!! ここは表向きだけでも、調子を合わせて時間を稼ぐべきです…!」
【縁寿】「………下らないプライドは、…燃えないゴミの日に出しとけって、…よく言うわね……。」
【さくたろ】『あ、天草さんは…?! 天草さんが来てくれれば、きっと……!』
【マモン】「……駄目、あいつの姿は見えないわ…。……縁寿さまの馬鹿…! どうして天草を置いて来たんです…!」
 マモンに言われるまでもない。……今、まさに後悔の真っ最中だ。だいぶ歩いた。森もかなり深かった。……ここでの騒ぎは絶対に船まで届かないだろう……。
 私は、霞が煙草一本を、のんびり丸々吸い終えるまでの間、いいように黒服どもにいたぶられ続ける。
 頭を抱えた拍子に、悪い形で誰かに頭の天辺を蹴られ、頭の中に星がいっぱいに広がった……。この灰色に歪んだぐにゃぐにゃの世界に星がちらつく感じ、……私はよく覚えてる。
 私も、須磨寺霞と辿った人生はよく似ていた。
 右代宮家の跡継ぎらしくあれと、教育や躾と称した様々ないじめに、ずっと苛まれてきたからだ。そう。こんな感じで頭の中に星がいっぱい散らばる感じを、よく覚えてる。
 私が間違えたらしい何かのマナーについての叱責は、いつものように、右代宮家の次期当主として相応しいだの相応しくないだのという話になり。……右代宮家の名誉だの何だの、その重みがどうこうどうこう。
 ……そういう話にまで至るころには、そもそも私が、何の失敗をして咎められているのか、それすらもわからなくなってしまう。
 いや、実際、絵羽伯母さんもそうだった。だって時折、「えぇと、それで何だったっけ?」と、自問していたから。
 …でも結局、それは思いだせず、
「私が怒っているということは、きっと縁寿が何か悪いことをしたのだろう。なら、その悪いことが問題なのであって、何をしたかなんて、今さら思い出せなくても問題ない。」
 …みたいなすごい理論になって、私への罰は続けられたから。
 そう。絵羽伯母さんの罰は、私が何かを学ぶか、誤りを認めるか、謝罪するかまで続けられるのではない。………絵羽伯母さんが、止めたいと思うまで続くのだ。だから、こんな暴力だって、反吐が出る意味で、懐かしい。
 ……目を開ければ、……ほら、そこに絵羽伯母さんがいる。煙草を吸いながら、私を嘲笑う霞のすぐ隣に、まるで一緒に笑っているかのように、絵羽伯母さんの姿が見えた。
 思えば、絵羽伯母さんの人生も、同情に値するものなのかもしれない。……あいつが私に口にしてきた、右代宮家の人間としての責任や重圧は、全て自らが苦しんできたことなのだ。人は、自らに浴びせられた悪口しか、口に出来ないのだから……。
 それは多分、楼座叔母さんも同じだったろう。……栄光ある右代宮家の末っ子として、色々と辛い目にあってきたに違いない。
 だから、絵羽伯母さんが私に対してそうであったように。そしてまさに今、須磨寺霞がそうであるように。……楼座叔母さんもまた、…そうであったに違いない。
 人は、背負わされた苦しみを誰かに押し付ける。そうしなければ、いつまでもその苦しみから逃れられないのだ。……そうして延々と、永久に永遠に、苦しみと悲しみの連鎖が、終わらない。
 だからこそ、…………真里亞お姉ちゃんの魔法は、……すごかったのだ。彼女はその魔法で、……楼座叔母さんからの苦しみを、背負わなかった。
 押し付けられはしただろう。彼女をその重みで苦しめはしただろう。……でも、お姉ちゃんはそれを自らの肩には背負わなかった。………それを綺麗に祓い、世界を幸せで満たした。
 だからきっと。……真里亞お姉ちゃんが将来、子どもを持っても。その子どもに代々押し付けられてきた苦しみを押し付けることはないだろう。
 ……一体、どれほどの長きにわたって受け継がれ、押し付けられてきたかわからない苦しみと悲しみの連鎖を、………真里亞お姉ちゃんの魔法は、断ち切ったのだ。
【エヴァ】「…………なぁに? 私に何か文句でもあるのぅ?」
【縁寿】「…………………………………。」
 かつての私なら、その売り言葉に買い言葉を返した。……そして彼女の憎しみに対し、私も憎しみをぶつけて相殺してきた。
 …いや、相殺はしていない。しっかりと、私の肩にも、その押し付けられたものは背負わされている。未だにこうして、……彼女を憎んでいるように。
 だから、私は、…………魔法を知り、……右代宮絵羽という人間を、もう一度見る。
 ………そこに透けて見えたのは、……私と何も変わらない、家族を失い、心に深い傷を負った悲しい人間の姿だった。
 その裂けた心の傷の痛みに耐えかね、まるで苦痛に泣く獅子のように、子どものように、悲しい声で吼え猛っているだけなのだ。……右代宮絵羽も、同情されるべき存在だったのだ。
 その辛く悲しい少女時代を誰かに理解され、………六軒島の事件をたった一人生き残り、世間の全てから好奇の目を向けられ、公然と中傷され、傷に塩を塗られ続けた彼女にも、……誰かの同情が必要だったのだ。
 その彼女の痛みと悲しみをわずかの間だけ忘れさせるために、…………楼座叔母さんに取り憑いたのと同じ、黒き魔女が、……魔法を教えたのだ。
 それは、さくたろうを引き裂かれて嘆き悲しんだ真里亞お姉ちゃんに、ベアトリーチェが教えたのと同じ、怒りと悲しみの魔法。……同じ魔法は、魔女は、きっと楼座叔母さんにも宿っていただろう。
 …………だから、右代宮絵羽を憎んではいけなかったのだ。…ひょっとすると、………私だけは世界でただ一人理解して、味方になってあげなくてはいけなかったのだ。
 ……幼かった私は、たった一人生還した彼女に、どんな言葉を掛けたのだろう…? ひょっとして、………まるで彼女が私の家族を殺し、一人だけ帰ってきたかのような、………そんな態度を、取ってしまったのではないだろうか……?
 ………………………。……信じられない。…私の人生において、憎悪の対象と代名詞でしかなかった絵羽伯母さんが、………理解できる「人間」に、…変わっていく……。
 だから。………絵羽伯母さんのすぐ隣に、……彼女に黒き魔法を教えた、黒き魔女の姿を視る……。
 絵羽伯母さんは、…泣いていた。
 無理もない。………夫と息子を一度に亡くしたその悲しみを誰にも理解してもらえず、……唯一の親族である私にまで、お父さんとお母さんを返してと、……罵られたのだ。
 ………私はそれを、幼さゆえの無慈悲だったと言い訳することも出来る。…しかし、……あの時の彼女にそれは、最後の心の糸を断ち切るほどの、残酷さがあっただろう。
 ………………連日、ワイドショーや週刊誌が、彼女を公然と中傷した。亡父の事業も人格も、最愛の息子のことまで、否定された。彼女には、もう、何も残らなかった。
 痛みと悲しみを、わずかの間でも忘れるために、……泣きながら吼えるしかなかった。吼えている間だけは、わずかに解放されたからだ。
 だから、………黒き魔女が吼え方を教えた。
 私が憎むのは、その黒き魔女。黒き魔法は、ひと時の間だけ、確かに苦しみから解放はしただろう。……しかし。その重みを肩から下ろしてやることは決してない。
 それどころか、その重みを次なる犠牲者にも強いて、………世界を憎しみの重みで、いっぱいにしてしまう。……………もしも絵羽伯母さんに、白き魔法を知る、正しい魔女が近くにいてくれたなら。
 ……それ、…………私のはずじゃ、……ないか………。
 私は真里亞お姉ちゃんから、幸せにする魔法を習っていたはずなんだ。………その魔法で、……彼女を救えていたら、……………私たちは、まったく違う関係の未来を、……築けていたのではないか。
 私は今までずっと、………絵羽伯母さんを憎み続けてきた。…だから、その隣にいる、黒き魔女に、気付けなかった。
 ……愛がなかったから、視えなかった。私は彼女に対し、……愛が、なかったのだ……。だから今こそ。………本当に憎むべき魔女を、……睨む。
【エヴァ】「……あら。………なぁに。私のことが視えるの? うっふふふふふ…!」
【縁寿】「………………視えるわ。……私が憎むべきは、絵羽伯母さんじゃなかった。……あんたよ。」
【エヴァ】「すごいじゃない。ニンゲンの分際で、魔女の私が視えるなんてね。……それで? その目つきは何だと言いたいわけぇ? 私が憎い?」
「……………憎い? ……えぇ、憎いわ。……でも、少し違う。……ただ、悲しく思える。」
【エヴァ】「悲しい? ……くすくす、あっはははははは! 何言ってんのッ、いいじゃない、怒れば! 思いっきり憎んじゃえばぁッ?!」
【縁寿】「……憎まないわ。……あんたを憎むことは、………絵羽伯母さんの憎しみをそのまま受け継ぐだけ。……私は、憎しみを断ち切る。……絵羽伯母さんの苦しみを受け止め、………それを、祓って、捨てるの。」
【エヴァ】「あっはははははははは!! 何、悟ったようなこと言ってるわけぇ? こいつ頭大丈夫ぅ? っていうかヘソでも噛んで死んじゃえばぁ?! きゃっはっはっはははははは! あんたら、もっともっと蹴ってやりなさい? 顔とかはダメよ。気の毒な顔がマシになっちゃったらつまんないから!」
【縁寿】「ぐふッ! …………がはッ!! ……………ぐ、……。」
 黒服たちは執拗に私の腹や背中を蹴る。……黒き魔女に命じられたかのように。
【霞】「……やれやれ、堪えないねぇ……? …………私をじーっと見ちゃって。私が憎い? 憎いでしょう。私もよ。くすくすくす……。」
 霞は私を嘲笑う。……でも、なぜかその表情の裏では、泣いているような気がした。
 私と同じに、理不尽な人生に強いられた痛みが、いつまでもいつまでも癒えない。……抜けぬ棘の痛みに喘ぐ悲しみの獅子が、吼え続けている…。
 屋敷を繋ぐために地下通路を作ったのではなく、戦時中に作られた地下基地の通路を再利用した。
【エヴァ】「ほら、須磨寺霞、見て御覧なさい? かつてのあんたがそこにいるわぁ。……気分が晴れるでしょう? かつてそこにいたあなたが、今度はこっち側にいるのよ? うふふふ、愉快でしょう? 立場が逆になるのは!」
【霞】「……………えぇ、本当に、………愉快だわ………。あっははははは、何でそんな顔が出来るのよ、縁寿…! 泣きなさいよ、泣きたいんでしょう?!」
【エヴァ】「きゃっははははははは!! そうそう、泣きたいに決まってる! 泣かせちゃいなさいって。あの時のあんたは泣かされちゃったじゃない。だからこいつも泣かせてやりなさいよ。くすくす、縁寿もいいのよ? 泣いちゃえばぁあぁ?! きゃーっはっはっはっはっは!!」
【霞】「…あは、…あははははははは!! 泣きなさいよ、縁寿ぇ! あんたの泣き顔が見たいのよ! 泣いて、ごめんなさい霞叔母さんって言ってごらんなさいよ…!!」
【エヴァ】「そう、その言葉を言わせるのよ。……あの言葉、辛いでしょ? 自分のせいじゃないことを謝らせられるのって、……本当に辛かったでしょう……? 同じ思いをさせてやるのよ…。そうすることで、あなたの痛みは和らげることが出来るの。……うっふふふ、そうよ、それでいいのよ。もっと自分に素直になりなさい? もっともっといっぱいに、自分の感情を吐き出しちゃえばぁあああぁあ?!」
 ……黒き魔女は霞を煽る。霞も、その黒き感情に身を委ねていく。……深い悲しみを悪い酒にして無理やり溺れ、束の間だけ忘れようとしているのと、何も変わらない。
 霞が私を罵る言葉が、………そのまま、……悲しい。そして、その霞の悲しみに付け込む、黒き魔女が、許せない………。
 ………私がぐったりとしたので、黒服たちも私を蹴る張り合いがなくなったらしい。…あるいは、蹴る方もそろそろ疲れたのかもしれない。霞が止めろと命令したわけでもないが、いつの間にか、暴行は中断されていた。
 しかし、霞の瞳には私が映り、その私を憎悪の炎で焼いている。……そうすれば痛みが和らぐと、黒き魔女にそそのかされて。
【エヴァ】「………須磨寺霞。まだよ。まだまだ踏み躙りなさい? あなたの人生は、こんなほんのちょっとの乱暴で許せるのぉ?」
【霞】「…許せないわよ。……まだ、これくらいでは許せないんだから。」
【エヴァ】「でしょう? 許せるわけがない! もっとよ! もっと憎悪の炎を! 憎しみの炎でしかあなたは暖を取れないの。怒りと悲しみの雪原で凍えるあなたを温められる炎は、憎しみだけなのよ…!! ほら、言って? 叫んで?! 憎しみの咆哮で、自分を燃やし尽くしちゃえばぁあああああッ?!」
【霞】「う、……右代宮縁寿ぇえええぇええぇッ!! あんたを憎まなくちゃ、……私は生きてられないの!! うっふふふっはっはははははははははははッ!!」
【エヴァ】「須磨寺霞、あの花束を。………これぇ、死んだ家族への花でしょ、縁寿?」
 黒き魔女は、ニヤリといやらしく私に笑うと、顎で霞にそれを拾えと指示する。
 霞は私が落とした手向けの花束を拾い、………わざわざ持ってきて、私の前に落とし、これ見よがしに踏み躙ってみせる…。
 その表情は、憎しみと、……それだけでは説明できない、必死な形相でいっぱいだった。…それを何度も踏み躙らねば、自分の悲しみがこみ上げて来てしまうとでも言わんばかりに。だから踏み躙るその音が、ただただ悲しかった。
【エヴァ】「………あら、この程度じゃ堪えない? ならこっちは堪えるかしら。須磨寺霞! こっちを使いなさい。」
【縁寿】「……だ、………だめ……。…それは………、」
 黒き魔女が指し示したそれは、………真里亞お姉ちゃんの魔導書。霞もそれに気付き、見掛けよりも重いその本を拾いあげる…。
【霞】「なぁに、これ?」
【エヴァ】「くすくす。……読んじゃえばぁ? うっふふ、お腹が捩れちゃうかもねぇ?」
 霞は魔導書を開き、……その内容を斜め読みし、鼻で嘲笑った。
【縁寿】「返して……、それは……、お姉ちゃんの…………。」
 もちろん、手が届くわけもない。……私は再び黒服に下腹を蹴られ、うずくまる…。
【エヴァ】「ほらね? この本は縁寿にとっての大切なものでしょう? 大切なものを貶してやりなさい? こういう子には、殴る蹴るよりもそっちの方が効くんだから。……あなたがそれを、一番よく知っているでしょう…?」
 霞は何か辛いことでも思い出したのか、一瞬だけ表情を歪ませる。……しかしすぐにそれは消え、私を冷笑するものに変わる。
【霞】「くすくす。なぁに、この気持ち悪い本。……あんたが書いたのぉ………?」
【縁寿】「……やめて……、返して………。」
【エヴァ】「くすくすくすくす、ぷーっくすくすくす!! 見てよあの顔…! もっと貶してやりなさい、貶めてやりなさい…! 尊厳を踏み躙られる苦痛を教えてやるのよ、そうすることでしか、あなたの苦痛は和らがないの…!」
【霞】「う、うふふふふふ、何これ、恥ずかしい本…。…………少女の時代に、多少は占いの真似事に興味を持つこともあるけれど。
 これはちょっと行き過ぎじゃない? やだ、魔法だって。……あんた、アレでしょ。アニメとかの、何とか何とか〜って呪文を言いながら魔女に変身するやつ。あぁいうの、好きなんでしょ? ………痛々しいわぁ。くすくすくす。」
 霞はへらへらと笑いながら、適当なページを開いて、黒服たちに見せる。黒服たちもそれを見て、げらげらと笑った。
 その嘲笑に、私は傷つかない。……でも、許せなかった。…だってその嘲笑は、真里亞お姉ちゃんを嘲笑うものだから。
 霞は憎くない。……霞の癒えぬ怒りと悲しみに付け込む、……黒き魔女が、許せない…。
 その黒き魔女は絵羽伯母さんを、須磨寺霞を、そして楼座叔母さんを蝕み、……傷を癒すことを許さず、永遠に苛み続ける。
 ………許せない……。……黒き魔女が、………許せない……。
【霞】「何これ、傑作…! ………お空から、飴玉を降らせる魔法、……ですって!! あっははははは…! 何々? お日様で清めたお水に、お砂糖を溶いて…? 魔法の杖を浸して、呪文を、………うっくくくくく、あっはははははははッ!! 何これぇ?! あっはははははははは…!! 痛ァああぁいッ!!」
 黒服たちもげらげらと笑い転げる。
 すると、黒き魔女が霞にニヤニヤと何かを耳打ちする。……すると、霞は私をニヤリと睨んでから、……そのページを、
【さくたろ】「……あッ…、」
 霞はそのページを鷲掴みにし、破り取るとぐしゃぐしゃに潰して……放り捨てる……。
【さくたろ】『ひ、……ひどいよ、……それは、真里亞の魔法………。』
【エヴァ】「あらそうなのぉ? うっふふふ、それはお気の毒。」
 ……それは、さくたろうと一緒に真里亞が作った、……幸せを呼ぶ魔法のひとつ。砂糖水を作って絵の具で染めて、窓際にお供えしたって、……飴が降るわけがないと、誰だって知ってる。
 でも、それを毎日繰り返していたら、……学校から帰ってきたある日。そこに、飴玉が数粒、ばらまかれていたのだ…。
 ………どんなに、真里亞お姉ちゃんがその奇跡を喜んだことか。……その飴を大切にして、さくたろうと二人きりの夜に味わって食べて、寂しさを紛らわせたことか。
 その、……お姉ちゃんが生み出した魔法が、…………破り捨てられて、…消えた……。その魔法が生み出した幸せの奇跡ごと、……破り捨てた……。
【霞】「これも傑作だわ…! 晩御飯をクリームコロッケにする魔法? あっはははははは!! ……次は何? ピーマンが美味しく食べられる魔法? これもイカすわ、馬鹿馬鹿しい! あっはっはっはっはっは…!!」
【エヴァ】「それも破いちゃいなさいよ。うっふふ!! どんどん破いちゃえばぁああぁあッ?!?!」
 黒き魔女は残忍に高笑いしながら、……真里亞お姉ちゃんの魔法を、次々に破かせていく……。幸せの魔法を、嘲笑っては、……破り、……捨てていく……。
【マモン】「やめろ…、やめろ……!! マリア卿の魔法を、……汚すな…!! 汚い毒素で、……汚すんじゃない…!!」
 マモンが泣きながら叫ぶが、……霞に届くわけもない。
【エヴァ】「いいじゃない、汚されちゃえばあぁ?! 魔法の奇跡? 幸せにする魔法? ないない、そんなのないってばぁ! 痛みと苦しみはね、他人に押し付けてしか癒せないのよぅ。……あんたは確か、魔法のお友達とかいうヤツだったわよねぇ?
 くっくくくくく! 須磨寺霞、こいつのページを開きなさい。」
【霞】「これは何? 魔法のお友達ですって。…………煉獄の七姉妹? あっは、物騒な名前ぇ! くすくす、すごい速さで飛んで、敵をやっつけてくれるんですって。あっははッ、縁寿、あなたこんな魔法が使えるなら、今すぐ使った方がいいんじゃない? ………あっはははははは。下らない!」
 煉獄の七姉妹のことを記されたページも、無残に破かれる。……ページ自体はただの紙。マモンの依り代というわけではない。
 でも、破き否定するという毒素が、マモンを内から焼く……。その熱さと痛みにマモンの表情が歪む…。
【マモン】「………ぐ、……………くッ、………。」
【さくたろ】『大丈夫、マモン?! しっかり……!!』
【マモン】「……これくらい、……平気…。……私より、……縁寿さまの方が、………辛い………。」
 しかし、マモンの表情は耐え難い苦痛と屈辱に、歪んでいる……。
【さくたろ】『やめろ、黒き魔女……!! どうして君はそんなことをするんだよ?! どうして、……魔法を幸せのために使えないんだよッ!!』
【エヴァ】「……あぁ、あんたも、魔法のお友達ね? くすくす、あんたも汚してあげるわ。須磨寺霞、こいつのページも探しなさい?」
【霞】「こっちは何? 何このへたくそなライオンの落書き。……さくたろう? 変な名前! 一番大好きなお友達だって。そうなの? これがあんたの友達? 親友? このライオンが? ねぇねぇ?」
【エヴァ】「あっはははははは!! 本ッ当にヘタクソな落書きぃ。こんなブサイクなライオンがあんたなのね。
 こんなのを友達にしてるなんて、右代宮真里亞って子の、頭の可哀想さに呆れて、ヘソでお茶が沸いちゃうわ〜。………バッカみたいぃ。ヘソ噛んで、死んじゃえばァぁああぁ……?」
【さくたろ】『う…りゅ……。………真里亞を……ばかにするな……。』
【縁寿】「………………や……め……て………。…破かないで………。」
【霞・絵羽】「「だめえ。」」
 絹を裂くような音がして。………そのページが、汚く破り取られる…。お姉ちゃんが書いた、……さくたろうの絵が、乱暴に、……真っ二つに………。
【エヴァ】「ヘッタクソな絵ぇ〜。きゃっははははははははははは…!」
【霞】「お前たちも笑いなさい? あぁっははははははははは…!」
 黒服たちも二人に従い、下品に笑い、……破り捨てられたそれを、無残に踏みつけた……。
【さくたろ】『うううぅぅううぅッ、……ひっく! ……うううぅうぅぅぅっ……。』
【マモン】「……さくたろ、……しっかり………。」
【さくたろ】『ボクは…悲しくなんかないよ……。…ただ、……悔しい……。……真里亞のことを馬鹿にされて、………何も言えない自分が、……悔しいっ……。』
【マモン】「……………………。……私たちは、……視えないニンゲンには、……いないも同然…。……私たちは、必要としてくれるニンゲンとしか、交流できない。…………だから、………家具………。」
 さくたろうとマモンは、……互いに支えあうようにしながら、……すすり泣き、…崩れるようにしゃがみ込む…。
 悔しいのは私も同じだった……。……魔法の世界の素晴らしさは、視える人間にしか、理解できない。
 理解できない人間に説明できない。だから貶される。………見せることが出来れば…。……でも、出来ない……。
 魔法は、反魔法の毒素で満たされた、魔法を理解できないニンゲンたちの前では、………使えないのだから……。
【霞】「本当にワケがわかんないわ。この妄想日記、頭がおかしいとしか思えない。……あんたのお花畑な頭の中が垣間見えて本当に面白いわぁ。キモチワルイ子ぉ。」
【エヴァ】「あんたも、真里亞も。……そこのぬいぐるみと家具もね? ぷーっくすくすくすくす!! あっはははははははははは!」
【霞】「あぁ、可笑しいわぁ。あんた、友達、いないんでしょ? いっつもひとりぼっちで、ぬいぐるみがお友達なんでしょ? 可哀想な子ぉ。うっふふふふふふふふふ…! 大丈夫、私にもわかるわよ。そういう生活、わかるもの。………だから私が認めてあげるわ。あんた、本当に可哀想な子よ? うっふふふはははははははははは!」
 ……………あんたには、可哀想な子に、……見えるのね。
 そうでしょうよ。お姉ちゃんの日記と魔導書は、百人が読めば、百人がきっとそういう感想を持つでしょう。……かつての私もそうだった。
 でもね、………真里亞お姉ちゃんは、……それでもそれを、……幸せな世界と呼んだの。………その魔法と、幸せを、………否定しないで……。
【エヴァ】「頑固な子ね、あんたは。……いいわ。これで最後よ。あんたと真里亞の信じた、本当に下らない魔法の根源を、引き裂いてあげるわよ。須磨寺霞、そのページを読みなさい?」
【霞】「なぁに、このカラフルなページは……? …何々? ………大好きなママと、……いつまでも仲良しでいられる魔法ぉ…?」
【さくたろ】『やッ、やめてぇええええぇ!! そのページだけは……!!』
【霞】「へー。この魔法、すっごく簡単じゃない。私でもすぐ出来そうだわ。………こんなに短い呪文なら、私にだって覚えられちゃう。やってみようかしら。」
【エヴァ】「くすくす、本当に簡単な呪文よねぇ? いいわよ、やってあげなさい、みんなも噴出しちゃうからぁ!」
 黒き魔女と霞は、心の底から馬鹿にした表情で、……口を、ひょっとこのように、尖らせ。…………それを口にした……。
【霞】「うーうー。」
 黒服たちがきょとんとして、それは何の真似ですかと聞く。すると霞はげらげらと笑いながら答えた。
【霞】「これがね、呪文なんだって。おっかしい…! あっははははははは…!!!」
【エヴァ】「ほら、あんたたちもやってみればぁ? うーうーうー。」
 黒服たちもふざけた様子で、その唸り声を真似る……。
 ————“うーうー。” それが、大好きなママと、いつまでも仲良しでいられる魔法の、呪文。
【霞】「何この、馬鹿みたいなの…!! うーうー言うだけで家族仲がよくなるなら、世界はずっと平和だわ。あっはっはっはっはっは!!」
【エヴァ】「うーうーうー! 馬鹿な唸り声ぇ! こんなの連呼してたら頭の可哀想な子と思われるのがオチよォ! ばぁッかじゃない?! うあっはっはっはっはっは、わーっはっはっはっはっは!!」
【さくたろ】『やめろぉおぉ……、その魔法だけは……、貶さないでぇえぇぇぇ……。』
 …………真里亞お姉ちゃんと楼座叔母さんの二人きりのピクニックの日。それは彼女の人生の中でも五本の指に入るほどの幸せな日だったと記されている。
 そしてお姉ちゃんは、ママに習ったばかりのお歌を歌って聞かせた。
 ……とても喜んでくれた。でも、途中で歌詞がわからなくなって。でも、こんなにもママが喜んでくれてるから、最後まで歌い続けたくて。うーうーうー、と。
 ……歌詞を誤魔化して歌ったんだけど、それをママはとても喜んでくれて……。それ以来、“うー”は彼女にとって、ママと楽しく幸せに過ごした日の、思い出の呪文となって残った。
 最初は面白がってくれたその呪文も、さすがに聞き飽き、楼座叔母さんは後にそれを言うと叱るようになるが、……お姉ちゃんにとって、それはいつまでも忘れられない、楽しい日の思い出なのだ……。
 だからそれは、多分、真里亞が生み出した魔法の中で、もっとも古い、一番最初の魔法……。霞はそのページにも爪を立てる……。
【縁寿】「……やめて、…………破かないで……。そのページだけは、………許して………。」
【霞】「うっふふふふふふふふ! だめえッ!!」
 …………絹を裂く音が、少女の幸せな世界を、消し、た。
【エヴァ】「うーうーうー! ああっはっはっはっはっは、あーっはっはっはっは!! これがあんたらの、幸せな魔法なわけぇ? 笑っちゃう笑っちゃう…!!
 幸せになる魔法なんてね、あるわけないでしょお?! 魔法はね、怒りとね、憎しみで出来てるのよぅ?
 幸せってのはね、自分の背負わされた憎悪を人に全て押し付けた時にのみ与えられる開放感を言うのよ。あんたたちの言う幸せなんて、絵本の中にしか出てこないまやかしなのよッ!!」
 霞は笑い転げながら、魔導書を地面に叩きつけ、踏み躙る。
【エヴァ】「悔しい? ねぇ、悔しい?! 幸せの白き魔女さんたちぃ? そんなに悔しかったら、見せてみればぁ?! あんたたちの魔法!! あるなら使って見せればいいじゃないぃ? ………魔法が使えない魔女なんて魔女じゃない!! つまり本当の魔女は私たち。あんたたちなんて、魔法の夢で現実から逃避しているだけの、クソガキどもなのよッ!!」
 ……………じゃあ、………魔法を私が見せることが出来たなら、……お姉ちゃんの魔法を、………信じてくれるの………?
【エヴァ】「え? きゃっははははは、ええ、えぇ!! 信じるわよぉ? 魔法を使って見せることが出来たならねぇ〜!! ならやって見ろよこのクソボケガキャぁあああぁッ!!」
 ………………………。………。私は、……音もなく、ゆっくりと立ち上がる。……体の痛みという、狭い世界の感覚は、実に下らなく感じられた……。
【霞】「あら、まだ立てる元気はあったのねぇ、大魔女さん? くすくすくす!」
【エヴァ】「立ち上がって、何をして見せるの? 見せてみなさいよ、魔法ォ…!」
【縁寿】「…………………魔法は、あるわ。」
【霞】「はぁ? この子、何を言い出すかと思えば…! あんたたち、今の聞いたぁ?!」
【エヴァ】「静かにッ!!! …………へぇ、面白いじゃない。…反魔法の毒素を理由に、あんたたちはいつも奇跡の力を拒んできた。………白き魔女マリアの弟子。見せてみなさいよ、魔法を…!!」
【縁寿】「………………………。」
【エヴァ】「……一体、どれだけの人間が、その奇跡を信じて、裏切られていったか知っている? ………くすくす。誰もが信じ! 誰もが裏切られて絶望した! そして、本当の魔法は、私たち黒き魔女の力でしか得られないことを知るのよ…!!」
【縁寿】「……………憎しみを誰かにぶつけるのは、ただの罪。そんなのは魔法じゃないわ。………本当の魔法を、私が見せてやる。」
【エヴァ】「……………こ、いつ……………、」
 黒き魔女はわずかにたじろぐ。しかし、霞はなおも私を嘲笑った。
【霞】「なら、見せて御覧なさいよ。それで、あんたはどの魔法を見せてくれるの? 飴玉を降らせる魔法? それともクッキーを増やす魔法? …………うわッ?!」
 私が目を見開くと同時に、凄まじい風が巻き起こった。
【霞】「なッ、……何、突然………?!」
【縁寿】「さぁさ、お出でなさい、煉獄の七姉妹。」
【エヴァ】「………何ぃ……、」
 私の背後に閃光が走り、瞬時に上級家具7人が揃う。それは私の全盛期の魔力をはるかに超える力。真里亞お姉ちゃんや、ベアトリーチェにさえも及ぶほどの力。
【ルシファー】「煉獄の七姉妹、ここに…!!」
【マモン】「……え、縁寿さま……!」
【縁寿】「あなたはかつて言ったわ。……私に魔力と、その覚悟がないから、……あなたたちを使役できなかったのだと。…………私をいじめるクラスメートに仕返しがしたいなんて、そんな安っぽい感情じゃない。
 …私は、真里亞お姉ちゃんの、………マリアージュ・ソルシエールの世界を守るために、……今こそ、魔法の奇跡を見せることを命令するわ。」
【マモン】「む、無理です…。いくら何でも、これだけ大勢の毒素の前では………、」
 七姉妹たちも、かつてのあの教室のことを覚えてる。……もしも、縁寿の命令に従えるものなら、従っていた。
 ……しかし、……ニンゲンの濃厚な毒素の中で、魔法の奇跡を見せることは出来なかった。……そしてそれが、縁寿をひどく傷つけたことを、よく覚えているのだ……。
 でも縁寿は、とても静かに言った。
【縁寿】「なら。あなたたちも信じて。」
【マモン】「……え?」
【縁寿】「…………マリアージュ・ソルシエールは人を幸せにするために生まれた。…そしてそれは、黒き魔女と戦うためでもあった。
 その創立者のひとり、原初の魔女、マリア卿が生み出した世界を否定する愚かなる黒き魔女に、……その奇跡を見せ、……その世界を守るために、………信じて。魔法を。魔女を。今こそ、奇跡を…!」
 霞が黒服に指示を出すと、一人が銃を抜き、縁寿に向けて構える。
【霞】「魔法を見せてくれるんでしょう? なら見せて頂戴。魔法で、火の玉でも稲妻でも撃ち出して、この男を倒して見せなさいよ。チャンスは一度。………3つ数える内にやってお見せなさい? 出来なければ、覚悟してもらうわよ? うっふふふふふふ!」
【縁寿】「………………………。………………撃ちなさいよ。」
「何だ、このガキ。へっへへ、狂ってやがるぜ。」
 銃を向けた黒服が、縁寿の達観を笑う。
【エヴァ】「あっはははははは!! 本気?! こいつ、頭の中までお花が咲いてやがるゥ! なら撃たれなさいよ、死んじゃえばぁあああぁ?!」
【さくたろ】『縁寿…!! ……む、無理! 銃弾は魔法では防げないよ……!!』
【縁寿】「いいえ。何も恐れることはないわ。…………私の魔法は、煉獄の七姉妹は、銃弾など、物ともしない。」
【マモン】「え、縁寿さま………。」
 マモンは縁寿の絶対の信頼に、戸惑う。……応えられるものなら応えたかった。あの日にも。でも、……何も出来なかったから、縁寿を傷つけて………。
「へっへへ、ガキめ。魔法が使えるってんなら、早く見せてみやがれってんだ。」
「どうしたよ? 早く魔法を見せてみろってんだ!!」
「ほら、遠慮はいらねぇぜ? 俺にバビョーンと! 魔法ってヤツをお見舞いしてくれよぉ!! ひっへっへっへ!」
 黒服たちが囃す。しかし縁寿はただ静かに、精神を集中していく……。
【エヴァ】「撃っちゃえばぁ?! 撃ってみろって言ってるのよ向こうは!」
【霞】「……この子、恐怖でもう、頭がどうかしてるんだわ。バイバイ、縁寿ちゃん。……天国で好きなだけ魔女ごっこをしてなさい。……撃て。」
「へへ、いいんですか?」
【霞】「お撃ち! 死ね、縁寿ッ!!」
【エヴァ】「やれるもんならやってみなさいよッ、あんたの魔法をッ!!!」
 黒服は撃鉄を起こし、嘲笑しながら引き金を、引く。
【縁寿】「……………………………。」
 銃声が鳴り響き、………世界が、停止した。
 赤い飛沫が飛び散り、………肉片が飛んだ。
【マモン】「…ぇ、……………あ……。」
【ルシファー】「何をしてるの、マモン。……銃弾如き無粋な石ころを、縁寿さまに許すつもり?」
 ルシファーは、完全に銃弾を捉え、一刀のもとに、……切断していた……。
 そして、……銃を撃ったはずの黒服の胸に、……握り拳大の、大穴が…。
【レヴィア】「………たまには。私が一番乗りでもいいわよねぇ。」
 半身を血に染めたレヴィアタンが、冷笑を浮かべる。……そして、ゆっくりと………、彼女が仕留めた哀れな獲物が、倒れる。
【マモン】「つ、……貫いた、ニンゲンを……ッ!!!」
【サタン】「馬鹿ねッ! まだあんた信じてないの?! 私たちの主の魔力を…!!」
【エヴァ】「ば、……か、…な………ッ?!?! これだけのニンゲンの前で、…け、顕現したって言うのッ?!?!」
【霞】「な、………何よ、…何?!」
 霞たちはうろたえる…。確かに銃を撃ったはず……。しかし、……それは縁寿には当たらず、………どうして、……撃った本人が、…逆に……?!
【縁寿】「……これが、魔法。……見事よ、レヴィアタン。」
【レヴィア】「光栄の至り…!! 我らが主に逆らう愚かなるニンゲンどもよ! 今こそ平伏せ、審判の時ッ!!」
【エヴァ】「ど、どうして……!!! ニンゲンの世界に魔法は持ちこめないはずなのに…ッ!! 魔法は視えないはずなのに、触れられないはずなのに!! ……どうしてッ!!」
【縁寿】「…………これが、本当の魔法だからよ。」
【エヴァ】「……ぅ、……ぅおおおおおぉおおおおおおおお…!!」
【霞】「な、何をしてるのよお前たち?! こッ、殺せ殺せッ!!!」
 ようやく正気に戻った黒服のひとりが銃を抜き、構、
【ルシファー】「我らが主に、銃口を覗かせる無礼を、私が許すと思ったか……。死ねっ。」
 その言葉が、引導。……男はすでに、瞬時に傲慢の杭となったルシファーにその胸板を貫かれていたのだ。
 どさり! 二人目が倒れる音は、黒服たちに、自分たちが今確かに、命を脅かされていることを理解させる…!!
「う、うわあああッたたッ、助けて……!!!」
 腰を抜かした黒服が、その場から逃げ出そうと踵を返した瞬間に、……怠惰の杭が……、
【ベルフェ】「…………我が主への狼藉に対する報い、これしきで済んだことに感謝せよ。死ねッ!!」
 右目に胡桃大の大きさの風穴が開き、頭部を砕く。返り血を浴びるベルフェゴールは、その真の力を振るえる喜びに、その表情を悪魔的に歪める…!
「う、わぁあああ?! 誰だ?! 誰がいるんだッ?! どこにいやがるッ?!」
 以下、縁寿編の中での幻想描写だが、霞との会話はほぼ現実のままと考えられる。
 黒服たちはうろたえ、四方八方に銃を向ける。しかし何が起こっているのかわからない。恐ろしい存在がどこかから自分たちを狙っていることだけはわかるのだが、それがどこからかわからない…!!
【エヴァ】「馬鹿!! て、敵はあんたたちのすぐ目の前にいるわよッ! 魔女の家具があんたたちを狙ってるッ!!!」
 しかし視えない…!! 魔法を信じられないから、視えない…!! 黒き魔女が言うとおり、サタンは黒服の真正面に、不敵にも立ちはだかっている。しかし黒服にはそれがまったく視えない…!
【サタン】「くすくす…! ニンゲンに私たちの姿が見えるとでも? 捉えられるとでも? あっはははははは、間抜けなニンゲンが!! 魔法に対する畏怖を忘れたる愚かの代償を払うがいいッ!!」
【霞】「ひ、ひいいいぃッ!!! 何よこれ?! 何が起こってるの?!」
【縁寿】「………あなたには視えない。愛がないから。」
【エヴァ】「……ありえないッ!! これだけのニンゲンがいて、反魔法の毒素をばらまいてるってのに、……どうして魔法が顕現できるの?! あんた、…何者なのッ?!?!」
【縁寿】「…………魔女よ。あんたと違って本物の。」
【エヴァ】「う、うおおぉおおおおお、畜生ぉおおお、このアマぁあああぁああ!!」
 四人目の犠牲者を立候補するかのように、黒服の一人が縁寿に銃を向ける。……そして引き金を……。縁寿は冷酷に睨み、ただ、命じる。
「しッ、死に晒せぇえええええええぇッ!!」
【縁寿】「次。サタン。」
【サタン】「憤怒のサタン、すでにここにッ!! のろまがッ!! 今の縁寿さまと私たちに、銃弾如きが当たると思うかッ!!!」
 憤怒の杭が、……黒服の放った銃弾を貫いて砕き、そのまま真っ直ぐ、男の顔面を、
【サタン】「………己が愚かさを知り、地獄で後悔せよッ!! 死ねっ!!」
 凄まじい破裂音と共に、男の頭部の上半分が砕け散る。ばらばらと飛び散る肉片と血を浴びながら、縁寿は静かに、もう一度問う。
【縁寿】「…ねぇ、霞叔母さん。………まだ、魔法。信じる気にならないの?」
【霞】「こっ、こんな、馬鹿なこと、……あるわけないでしょ…!! み、認めないわ…!! 魔法なんて、あるわけがない……!!!」
【エヴァ】「えぇ、そうよ…。魔法なんてあるわけがない…!! 魔女なんているわけがない!!」
【さくたろ】『ま、……魔法はあるよ!! 魔女はいるよ……!! うりゅー!!』
【マモン】「………そうよ。魔法はあるのよ。魔女はいるのよ。……そして、この怒りと悲しみで満ちた世界に、幸せの世界への扉を開く鍵に出来るの…!! あんたなんかに、……それを否定させないッ!!」
【さくたろ】『幸せな世界への鍵は、みんなの手に握られてるんだ…! それを、……奪う資格は誰にもないんだ……ッ!!』
【縁寿】「それを理解できぬ哀れなニンゲンよ。………そなたの人生に魔法の力があったなら、もっと違った、穏やかなものになっていただろうに。
 そなたがその生涯において、本当の魔女と出会えなかったことを、……私は哀れむ。」
【霞】「ひぃ、……ひぃいいいいいいいいいいいぃいいいッ!!!」
 霞が金切り声のような悲鳴を上げる。それと同時に黒服の二人が私に組みかかり、銃を私の頭に突きつけた。
 ……目に視えぬ何者かに対し、人質にでもしているつもりなのだ。………こんなことは、今や武具の域にまで達した上級家具、煉獄の七姉妹に対して、まったく何の意味もない。
「畜生、どこにいやがるんだ?! 攻撃をやめねえと、このアマの命はねえぞッ!! 姿を現しやがれ!!」
【ベルゼ】「きゃっははははははは!! 何言ってんの、こいつぅ! おいしそうな腸をしてるくせにィ。………縁寿さま、次は私にお任せをッ!」
【縁寿】「許す。殺せ。」
【ベルゼ】「ありがたきッ!! しッあわせぇえ!! 死ねえッ!!!」
 男の腹部が砕け、内臓を溢れ出させる。……その凄まじい死に方に、もう一人の男は完全にパニックを起こす。
 しかし、その背中にはもう、アスモデウスの姿があって、後から首を抱き締めて、……淫靡に微笑んでいるのだ……。
【アスモ】「可愛い子。……ねぇねぇ、どこを貫いてほしい? くっくくくくくく、縁寿さま、ご希望はございますかァッ!!!」
【縁寿】「頭。」
【アスモ】「かしこまりました、我が主ィ!! 死ねッ!!」
 最後の黒服は色欲の杭に頭部を砕かれ、その中身を散らしながら、捻れるように倒れる。6人が血の海に倒れる凄惨なる世界に、………魔女と、ニンゲンが対峙する。
【縁寿】「………須磨寺霞。そなたの哀れなる人生に、私は心の底より同情する。……その埋め得ぬ心の穴を、塞げる魔法を授けても良い。そなたがその魔法を信じるならば。」
【霞】「ば、馬鹿なこと、……言わないで……!! こんなッ、こんなの、…私は認めないッ!! ひいいぃいいいいいいいぃいい!!」
 腰が抜けた霞は、じりじりと後退りしながら、……誰かが落とした拳銃を拾う。そして、震えながらそれを縁寿に向ける…。
【エヴァ】「そうよ、霞…! その銃で撃ちなさい…!! あんたの憎しみを、銃弾に変えて放ちなさい…!!」
【霞】「ひい、ひい…!! 殺してやる…、殺してやる…ッ!! あんたを殺さなきゃ、私の人生は報われないのよ……!!」
【エヴァ】「そうよ、殺して! 引き金を引いてぇ!! あいつにあんたのみすぼらしい今日までの全ての怒りを、悲しみを!! 全部叩きつけてやるの!
 そうでなきゃ、あんたは痛みと苦しみから解放されないのよぉう!!」
【縁寿】「…………やめて、霞叔母さん。……黒き魔女に耳を貸しては駄目。」
【霞】「殺してやる……、殺してやる……! あんたの母親のせいで、……私の人生は、……滅茶苦茶……!!」
【縁寿】「なら、私の魔法でその人生をこれから、少しずつ明るく穏やかなものにも出来るかもしれない。あなたが魔法を信じ、心を入れ替えさえすれば、あなたに新しい世界への扉を開いて上げられるの。」
【エヴァ】「そんなものはないわッ!! あいつの言う救いなんて、どうせおとぎ話の中だけよ! あんたの人生はもはや死ぬまで棘まみれ…!! その苦痛の叫びをあいつに聞かせてやりなさい!! 失ったものは何も取り返せないのよ…、そうでしょう?須磨寺霞ぃいいいぃ?!?!」
【縁寿】「そうね、何も取り返せないかもしれない。でも、きっと新しく何かを生み出すことが出来る。だから霞叔母さん。その銃を捨てて。………霞叔母さんにも、幸せな世界を、教えてあげられるかもしれない。」
【霞】「ひぃ、……ひぃいいい……!! わ、………私はね、……!! あんたの母親が逃げたせいで、………あんたの母親の許婚と、身代わりに結婚させられたのよッ…!!
 将来を誓い合った男がいたのよ?! 別れさせられたのよ?! あんたの母親の代わりに嫁がされて、……話もろくにしたことがない男に抱かれた私の気持ちがわかるってのッ?!?!
 殺してやりたかった!! なのに姉さんは勝手に死んだわ! だからあんたを殺すの!! そうでなきゃ、私の棘まみれの人生は、終わらないのよぉおおおおぉ!!」
 ……霞の瞳から、激情の涙が零れる。
 可哀想に…。……この人の涙だって、こんなにも澄んでいて綺麗だったのだ。でも、だからこそ、……悲しい痛みに耐え切れず、黒き魔女の誘惑に耳を貸さざるを得なかった…。
【縁寿】「………………可哀想に。……ならばせめてあなたを、…あなたの魂を永遠に解放し、怨嗟の鎖から解き放ってあげるわ。………それが、今の私に出来る、唯一の施しかもしれない。」
【霞】「死ィねぇえええ、右代宮縁寿ぇえええええぇ!!!」
【縁寿】「さようなら、霞叔母さん。………静かな世界で、ゆっくりと休んで。」
 もはや、あなたには怒りも憎しみも感じない。ただただ、静かに、魂を休ませてあげたい。
 霞の拳銃が火を噴く。その銃弾が、極限まで凍った世界でゆっくりと……、エンジェの額目指して進む。
【縁寿】「マモン。」
【マモン】「……は、……は!! 強欲のマモン、ここに…!!」
【縁寿】「ありがとう。」
【マモン】「……え?」
【縁寿】「あなたたちとさくたろうに出会えたから、私は全てを理解できた。」
【さくたろ】『……縁寿……。』
【縁寿】「さくたろうは後を向いていなさい。………マモン。その女を解放してあげて。そして、マリアージュ・ソルシエールの名誉を守れ…!!」
【マモン】「は、………はい!! ……覚悟せよ須磨寺霞ッ!!」
 凍った世界にもかかわらず、強欲の杭は稲妻のように閃き、………霞の背後に、もう抜けている…。
【マモン】「貴様に多少の徳があるならば、再び煉獄の山で会いまみえようぞッ!! ………死ねぇえええええぇッ!!!」
 須磨寺霞の頭部、上半分が、砕け散る。……彼女の肉の檻が破られ、……ようやく彼女は、解放されたのだった……。
【縁寿】「………あとは、あんたね。…………黒き魔女。……今となっては、あなたに絵羽伯母さんの面影を見ていることさえ、彼女に申し訳なく思うわ。」
【エヴァ】「ふ、……ふっふふふふふ。…私の姿が、未だに右代宮絵羽に見えているなら、それはあんたの中で、未だに“私”が許せてないということだわぁ。
 わかっているのよ、縁寿。…………あんただって棘まみれの人生から解放されたくて、仕方がないのを。」
【縁寿】「………………………………。」
【エヴァ】「なら、……面白いことを思いついたわ。私も、あんたに魔法を見せてあげる。………あんたを殺すのは私じゃないわ。」
 黒き魔女は最悪の笑顔を浮かべると、その姿を、黒い霧のように、…あるいは大量の黒い羽虫の群に変えると、私を中心に渦を巻き始める。
 そしてその黒い霧は少しずつ集まり、……人の姿を模っていく。
【縁寿】「…………………何の真似……。」
 うっふふふふふ! 薄々は想像がついてるくせに! あんたが、もっとも憎み、恨んだ、あの女よ! そして女もあなたをもっとも恨み、憎んだ…!
 黒い霧が晴れると、………そこには、…………在りし日の、……絵羽伯母さんの姿が。……その手には、銃を持っていた。
【縁寿】「……………絵羽伯母さんは、……死んだわよ。」
【絵羽】「くすくす、お久し振りねぇ、縁寿ぇえぇ。……あんたを殺すために、地獄から戻ってきたわよぅ! くっくっくっく!!」
 絵羽伯母さんは狂った笑いで私を睨む。
【縁寿】「でも、……あまり驚かないわ。絵羽伯母さん、そういう人だったし。」
【絵羽】「私のお葬式はさぞや気分が晴れ晴れしたでしょう? 私も晴れ晴れしていたわよぅ、あんたの面を二度と見なくて済むようになるんだからねぇ…! でもたったひとつだけ心残りがあったわ。
 それがこれよッ!!」
【縁寿】「………私を、殺すこと? …………それが最後の遺言だったの?」
 哀れね。……死んでもなお、……伯母さんは苦しみから、解放されなかったのね……。
【絵羽】「黒き魔女の力こそが私の魔法の源泉だったわ。怒りと憎しみが、私に努力と不屈を教えてくれた。それはあんたの言う、現実逃避の魔法とはまったく違うの!」
【縁寿】「……あんたの言う魔法なんて、ただの八つ当たりによるストレス解消だわ。……私たちの魔法は違う。世界そのものを作り変えるの。………あんたの性悪魔法とは、まったく格が違う。」
【絵羽】「くすくす!! なら、黒と白のどちらが勝つか、この場で決着をつけてあげる…!! 死してなお、黒き魔法で復活してあんたをこうして銃口で狙える私の奇跡に、あんたの白き魔法はどんな奇跡で対抗を?
 反魔法の毒素であなたを取り込んだわ。七姉妹はもう二度と呼べないわよ。さっきの奇跡はもう起こらない…!!」
【縁寿】「……………それでも起こるから、魔法って言うんだわ。……いいわよ。マモン。私に力を貸して。」
 ……しかしマモンは応えない。現れない。確かに彼女が言うように、灼熱の太陽に干上がる荒地と例えられるくらいに、反魔法の毒素が、全てを焼き尽くしている…。………少し、辛いかもしれない。
【絵羽】「呼び掛けても無駄よぅ。もう二度と! 煉獄の七姉妹は応えない!」
【縁寿】「だから。それでも呼べるから、魔法なのよね?」
【絵羽】「……………………。……哀れね、縁寿。さようなら。あんたとのささやかな日々は、そこそこに楽しかったわ。これでお別れよ。……良かったわね、あんたの終着駅がここで。」
【縁寿】「えぇ、まったくよ。気が利くわね。」
【絵羽】「ありがと。それじゃ、お別れね。」
 銃口がゆっくりと上がって、……その奥底が覗ける。そして、………引き金がゆっくりと………。
 天草が遠方から狙撃している。
 その時、……銃が、爆ぜた。
 …発砲したという意味ではない。……破裂したのだ。
 …………馬鹿、な……。……絵羽は呆然と、凍った空間で、……破裂した銃を見ている。時間が溶ければ、それらの破片は一斉に、彼女の顔面を打ちつけるだろう…。
【マモン】「……強欲のマモン。ここに。」
【絵羽】「……………………ばか、な…、」
 絵羽の背後に、マモンは立つ。………すでに、私が与えた標的は、貫通している。……それが、銃だった。
【縁寿】「これで、……魔法は充分? …………絵羽伯母さん。」
【絵羽】「……え、………縁寿ぇぇ………。」
 そして、時間が溶ける。破裂した銃の破片と火薬ガスが、彼女の顔を焼いた。鋭い悲鳴が上がり、彼女は顔を覆って転げ回る……。……哀れだった。
【縁寿】「……運がなかったわね。……これでゲームオーバーよ。絵羽伯母さん。」
 私はマモンに合図する。顔を焼かれてのた打ち回る苦しみから、すぐに解放してやるために。
【縁寿】「…………ありがとう、マモン。…あの日の教室で、あなたたちの無力を罵ったことを、今こそ心の底より、そして再び謝るわ。あなたたちは魔女を守るための、優秀な家具だった。」
【マモン】「………こちらこそ、感謝します。……良き魔女に、良き主に最後に出会え、家具の本分を尽くせたことを、心より光栄に思います…!」
 マモンは理解していた。これが、私が彼女に与える最後の仕事であることを。
 マモンが静かに、歩み寄る。そして、彼女を見下ろす。
【縁寿】「……絵羽伯母さん。今日まで付き合ってくれてありがとう。これでお別れよ。ハバナイスドリーム。シーユーヘル。」
【絵羽】「クール。」
 そして、……その額を穿つ、軽い音が轟き渡る。
 ……硝煙と狂乱と、……白と黒の魔法の戦いが、終わる。
 長い、………本当に長い旅だった気がする。そして、ゆっくりと世界が……闇に沈んでいった………。
屋上からの夜景
 瞬くはずの星が、………空でなく、眼下に散らばっている。……真珠とルビーが白と赤の河を作っているのを認めた時。それは、眼下に広がる広大な夜景であったと気付く…。
 私はその夜景の空に、立つでも飛ぶでもなく、……ただ漂うように、浮かんでいた。
 ……どこからともなく、ぱちぱちぱちと、実に味気ない拍手が聞こえてきた。わかってる。……私に旅立てと命じた、……ベルンカステルだ。
【ベルン】「……………おめでとう。無限の魔女、エンジェ・ベアトリーチェ。あなたは旅路の末に、魔法の全てを理解したわ。」
【縁寿】「……えぇ。………私は今や、…魔法の全てを、理解した。………私は、魔女よ。……マリアージュ・ソルシエールが生み出した魔法世界を継承した、最後の魔女。」
【ベルン】「………あなたにしか、ベアトリーチェの世界を、切り裂けない。」
【縁寿】「魔法を知るからこそ、………それに抵抗も覚えるわ。」
【ベルン】「……………………………。」
【縁寿】「……魔法は、愛と悲しみと怒りで出来ている。……ベアトリーチェが、どんなに残酷な魔女であったとしても。その魔法の源泉はまったく同じ。
 ………だからこそ、彼女のその世界を、本当はそっとしてあげたい。……少なくとも、彼女にとってその世界は、完成しているのだから。」
【ベルン】「…………あなたが家族を諦められるならね。」
【縁寿】「…………………。……そう。だから申し訳ないけれど、私は戦わなければならない。………家族を取り戻せるかもしれない、わずかの確率に賭けて、……魔女となる旅に出たのだから。」
【ベルン】「ベアトリーチェを殺さない限り、あなたには孤独な世界しか存在しない。……それを、百億のカケラを旅した私が保証するわ。」
【縁寿】「…………わかってるわ。……同情してる余地なんて、私にはないのよ。……心を鬼にして、………彼女の心を、切り裂かなくてはならない。」
【ベルン】「……その気持ちが揺るぎ無いならよかったわ。同じ魔女同士、情が移って、志を挫くんじゃないかと心配したわ。」
 およそ表情を浮かべたことのない彼女に言われると、ちょっぴり白々しい。ベルンカステル。……私をこの旅に誘った、謎の魔女。………………………………。
【縁寿】「私、あなたが嘘をついてたんじゃないかと、疑ってたことがあったわ。」
【ベルン】「…………………どうして?」
【縁寿】「……私は1998年の縁寿だから、家族を救っても、それは1986年の縁寿が救われるだけ。……この私が救われるわけじゃない。だから騙されていると思っていたことがあるの。」
【ベルン】「……………………。……そのとおりよ。私はあなたを騙したわ。」
【縁寿】「……でも、今は感謝してる。………だって。あなたは私に、家族の取り戻し方を、結局は教えてくれたもの。」
【ベルン】「…………私は何も教えてないわ。……それを知ったのだとしたら、それはあなたが魔女として自ら至った境地だわ。それは私のそれとは違う境地。………私に理解は出来ないけれど、もしもそうならば、おめでとう。」
【縁寿】「私はこのゲームのプレイヤーではなく、駒だと。あなたは私に言ったわよね?」
【ベルン】「…………えぇ、言ったわ。」
【縁寿】「その役割を、今こそ完全に理解した。……………駒に、感情はいらない。ただ、勝利のために、最善を尽くせばいい。」
【ベルン】「…………えぇ。そのとおりよ。ゲームは最善手を指し合うものでしょう? 躊躇や戸惑いで指し手をおかしくしてたら、対戦相手も混乱するわ。」
 ………………ごめんね、ベアトリーチェ。でも、恨まないで。……“右代宮縁寿”には、まだ家族が必要なの。
 だから私にはそれを取り返すために、あなたと戦う権利がある。そして、あなたは私に戦いを挑まれる義務がある。………だから、恨まないでね。
 その代わり。もしもこのゲームに、あなたが勝ったなら。私もそれを祝福してあげるから。
 さぁ、行こう。………私という駒の、いよいよ本当の出番。ごめんね、ベアトリーチェ。あんたにお兄ちゃんは、譲れないのッ…!!!
 絵羽として描写されているのは天草。彼に殺されることを事前に察知した縁寿は、拳銃が暴発するように細工していた。

右代宮縁寿

黄金郷
 世界が真っ白に染まる……。それは白ではない。…極限まで眩い黄金の色。
 そこは、……右代宮家の美しき薔薇庭園だった。
 しかし、薔薇の花は全て黄金。……蜜も黄金色。それに集まる蝶たちも、また黄金。
 …………ここが、黄金郷…………。マリアージュ・ソルシエールの魔女たちが、やがて導かれる約束の地…。そこでは全ての願いが叶い、全ての魔法と夢が生まれ出す。
 …………その、黄金の薔薇の園に、……………二人の、そして二人だけの魔女がいた。私という招かれざる客人が現れ、その不穏に天気が揺らぐ。
 ………ざぁっと、彼女らにとって不吉な風が、黄金の薔薇をうねらせた。その風が散らす黄金の花びらによる、あまりに美し過ぎる光景は、紛れもなくこの世ならざるものだった……。
 黄金の薔薇の小道を散策していた二人は私の姿に気付き、驚く。
【真里亞】「……縁寿……? ………ベアト、縁寿だ……!!」
【ベアト】「……………どうやってここへ…? ………引き取られよ。妾はもはや、ここへは誰も招かぬのだ。」
 ベアトは冷たく言い放つ。………かつて不敵に嘲笑って見せた彼女とはまるで別人のよう。心を閉ざし、真里亞お姉ちゃんと二人だけの世界に閉じ篭っているのだ。
 仲良しの真里亞お姉ちゃんといつまでも二人きりで、魔法談義をしながらお茶を飲んでいられる世界。
 ……誰にも急かされず、何にも拒まれない。傷つけるかもしれないような誰一人すらも、彼女ら以外に存在しない世界。そう、それは二人にとって完成された、もはや小さな宇宙……。
【縁寿】「………悪いわね。……あんたに、ここに引き篭もられちゃ困るのよ。………私たちは、あんたが戻ってこなきゃ、ゲームが進まないの。」
【ベアト】「妾は飽きたから止めたと言った。もうゲームには戻らぬ。」
【真里亞】「……………ベアトはね、ずっとここで真里亞と一緒にいるの。ここで一緒にお茶を飲んでね、色々な遊びを考えるの…! 縁寿も一緒に遊んでいいんだよ。」
【ベアト】「……マリア。それはならぬと言ったはず。妾にはそなただけがいれば良い。
 だからそなたも、妾だけがいれば良いと、言っておくれ。」
【真里亞】「…………………。……うん。……ありがとう。真里亞を、そこまで必要としてくれる人は、ベアトだけだよ。なら、ベアトと一緒にいる。二人きりでいい。」
【ベアト】「………マリア……、……すまぬ……。…………ありがとう………。」
 ベアトは真里亞を深く抱き、その組み合った腕の中に温かな宇宙さえ生み出していた…。………多分それは、世界でもっとも小さい宇宙の誕生。…互いを必要とし合う二人が生み出せる、世界でもっとも小さい宇宙…。
 それはどんなに小さくても、完成された世界。…………でも、私は切り裂かなくてはならない。…………………。
【縁寿】「……悪いけど。………そういうわけにはいかないの。私はこの、マリアージュ・ソルシエールの黄金郷を、ぶっ壊しにやって来たわ。」
【ベアト】「…………なぜ、……妾の世界を、……壊すのか………。こ、この世界が妾と真里亞以外の誰に迷惑を掛けたというのか……?!」
【縁寿】「あんたが始めて、終わらせずに放ったらかしたゲームで、お兄ちゃんがずっと待たされてるッ! あんたが席に戻らなくちゃ、勝負は永遠に終わらないのよ…!!」
【ベアト】「………ははははは、は…! あのゲームに、もはやプレイヤーはひとりもおらぬわ。戦人は消え去り、妾もまた消え去りここにいる。あのゲームはもはや終わったのだ。」
【縁寿】「終わってないッ! あんたの始めたゲームでしょう!! 最後まできっちり責任を持って終わらせなさい! 戦人を打ち負かし、あなたが本当に望んだ世界を生み出すか! あなたが打ち負かされ、あなたの魔法に飲み込まれた全てを解放するか!! しっかり最後まで責任を取りなさいッ!!」
【真里亞】「……………駄目だよ、縁寿。ベアトはこの世界で、真里亞と永遠に二人きりで過ごすの。……真里亞も、ベアトさえいれば、他には何もいらないの。……ここでは全ての願いが叶う。全てがある。」
 …………この黄金郷は、真里亞お姉ちゃんとベアトリーチェの二人の想いの結晶だけで作られている。……この世界からベアトを引き摺り出すには、……この世界を、……破壊しなくてはならない………。
 ………………ベアトリーチェにとっての、最後の安らぎの世界に違いないこの黄金郷を、………破壊する……。
【縁寿】「お姉ちゃん。それは違う。この黄金郷は嘘つきだわ。お姉ちゃんの、本当に叶えたい願いを、叶えてくれていない。」
【真里亞】「………そんなことないよ!! ここでは何でも叶うの! 見て、ここにはやさしいママだっている!!」
 真里亞の後に黄金の蝶が集まり、やさしく微笑む楼座叔母さんを形作った。………そして私ににっこり微笑むと、ざあっと黄金の花びらになって崩れ落ちる。
【真里亞】「ここでは何だって生み出せるの。縁寿だって生み出せるよ、戦人だって、譲治お兄ちゃんだって、朱志香お姉ちゃんだって…!!
 いくらでも呼び出せるよ、みんなやさしくしてくれるよ…!! 縁寿もおいでよ、一緒に遊ぼ……!!」
 …………ごめん、お姉ちゃん…………。
【縁寿】「さくたろうは……?」
【真里亞】「………っ。」
 さくたろうの名に、お姉ちゃんは窒息したような表情を浮かべる。
【ベアト】「よせ……。その名を口にするな……。」
 ベアトもまた血相を変える。そして真里亞の肩を庇うように抱いた。………未だにさくたろうの名は、お姉ちゃんの禁句なのだ。
【縁寿】「どうして口にしちゃいけないの? 真里亞お姉ちゃんの、一番の親友の名前よ。……どうしてその親友を、この素敵な黄金郷に招いてあげないの? どうしてこの何でも願いの叶う黄金郷では、さくたろうだけ呼び出すことが出来ないの?」
【ベアト】「そ、…それは……。……良いのだぞ、マリア? さくたろうのことを思い出さなくても…、」
【真里亞】「…………さくたろは、ママに殺されたんだよッ!!!!」
 真里亞お姉ちゃんがものすごい表情で激高する。その声に驚き、庭園中の蝶たちが一斉に舞い上がり、……まるで花びらの台風のように吹雪いた。
【縁寿】「えぇ、知ってるわ。楼座叔母さんが、……大切なさくたろうのぬいぐるみを、引き裂いたわ……!!」
【真里亞】「ぎやああああああぁあああああああああああああぁああああああッ!!!」
 真里亞の絶叫が、嵐となって黄金の花びらや木の葉を乱暴に散らす。それはまさに、黄金の暴風。
【ベアト】「やめよ…!! やめよやめよやめよ…!!! なぜマリアの心の傷を再び引き裂こうとするのか…?! 妾と真里亞の、大切な親友の眠りを汚すなッ…!!」
【縁寿】「なら、どうして、その大切な親友を、あなたの魔法で蘇らせてあげないの?」
【ベアト】「それが出来るものならやっている…!! しかし、あのぬいぐるみは、楼座による手作りの品! そのたった一つが引き裂かれた魔法的意味は、」
【縁寿】「誤魔化さないで。どうしてさくたろうが蘇らせられないか? 答えはひとつだわ。あなたが、本当の魔女じゃないからよ!」
【ベアト】「………蘇らせられるとも…!! 妾の魔法でいくらでもこうして蘇らせられるとも!! さくたろうでこの庭園を埋めることだって出来ようぞ…!!」
【縁寿】「えぇ、出来るでしょうね、あなたの魔法では! でも、あなたの生み出したさくたろうは決してお姉ちゃんには見えない!
 …………どうしてかわかってるでしょう? もう一度言うわ。あなたが本当の魔女でないからなのよ…!!」
【真里亞】「やめてぇえええぇ!! どうして縁寿はそんなひどいことばかり言うの…?! ベアトはたくさん魔法が使えるよ…! とても素敵な魔女なんだよ…!!
 さくたろだけは蘇らせられなかったけど、……他のことなら、何だってできるの…!! だから、さくたろだけは……がまん、…できるの……。」
【縁寿】「うぅん、お姉ちゃん、それは違うわ。………魔女に出来ないことなんてないの。それが出来ない時点で。ベアトリーチェは本当の魔女じゃないわ。」
【真里亞】「そ、それは違うよ……!! さくたろの依り代のぬいぐるみは、ママの手作りの特別なものだから、」
【縁寿】「だから蘇らせられないの? ベアトリーチェの、あなたの魔法はそんなにも不便なの?」
【ベアト】「く、………な、……ならば、……そなたなら、さくたろうを蘇らせられるというのか?! そなたの魔法ならばそれが出来るというのか?!」
【縁寿】「出来るわ。」
【ベアト】「………何だと………、」
【縁寿】「真里亞お姉ちゃん!! 私が本当の魔法を見せてあげるわ。私がさくたろうを蘇らせてあげる!!」
【真里亞】「……ほ、………本当……? ベアトリーチェも出来なかったんだよ……? …ほ、………本当に……?!」
【縁寿】「えぇ、出来るわ! その代わり約束して。私がさくたろうを蘇らせてあげたなら。」
【真里亞】「うん…!」
【縁寿】「この黄金郷から、出ていきなさい。」
【真里亞】「…………ッ、」
【ベアト】「そ、そんなことは許さぬ…!! ここは妾とマリアの世界!! マリアがいなくなったら、……壊れてしまう…!!」
 ニンゲンが宇宙を生み出すための最少人数は、2人。それが崩れれば、世界は滅ぶ。黄金郷に引き篭もった魔女を引き摺り出すには、この世界を滅ぼさなければならない…!
【縁寿】「……そう、それこそがあなたが魔女でない証拠よ。……本当の魔女ならね、宇宙は1人で生み出せるのよ。マリアージュ・ソルシエール魔女同盟! ……この同盟の存在自体が、あなたが魔女でないことの証になっている…!!」
【ベアト】「い、嫌だ…!! マリアは渡さぬ…!! そなたは嫌いだ、今すぐに帰れ…!! ここから出て行けぇえええぇえぇぇ!!」
【縁寿】「勝手にみんなをゲームに引き摺り込んでおいて、自分は機嫌一つで飽きたり追い出したり!! なんて自分勝手なの? 見なさい、ベアトリーチェ!! そして真里亞お姉ちゃん!! これが、本当の魔法なのよ………!!!」
【真里亞】「ほ、……本当にさくたろを蘇らせられるの…?!」
【ベアト】「出来るわけがない!! ここは妾と真里亞の二人だけの黄金郷…! 部外者のそなたに使える魔法などひとつもない! 今のそなたには、蝶一匹生み出すことさえ叶わぬわッ!!」
【真里亞】「静かにして、ベアトッ!! 縁寿を邪魔しないで…!!」
 真里亞が叫ぶと、……暴風はぴたりと止み、あたりはシンと静まり返った。………吹き上げられた大量の黄金の花びらが、静かに舞い降りてくるその光景は、……まるで、黄金の雪が降るかのように幻想的だった……。
 真里亞は、まさかひょっとしての奇跡に、無意識の内に両手を組んで祈るような仕草をしてしまう。
 ……ベアトはそんな真里亞を見て、はらはらしている。………もし万が一ということがあったなら…、真里亞は、……この世界は……。
 でも、……考えられない……! 絶対に不可能…。
 あの、世界でたったひとつのぬいぐるみは引き裂かれて捨てられて、糸くずさえも残っていないのだ。蘇らせるなど、絶対の絶対に不可能……!!
 ここは妾の黄金郷…! 妾以外の魔法は絶対に存在できない世界!!!
【ベアト】「で、……出来るものなら、……やってみろぉおおおお、右代宮縁寿えええぇえええええええぇええッ!!!」
 ベアトの悲鳴のような叫びに、世界が音を失う。
 私はゆっくりと、本当の魔法を、呪文を、唱える……。
【縁寿】「……………さぁさ、思い出して御覧なさい。真里亞の親友のさくたろう。
 ………あなたがどんな姿をしていたのか、思い出して御覧なさい。
 ………あなたがどんなに愛くるしいぬいぐるみだったのか、思い出して御覧なさい。」
【真里亞】「え、………………ぁ、…ぁ………、」
【ベアト】「………………………………ッ、」
 ……二人が、驚愕の表情を浮かべる。そして、……ベアトの肘を弾いて、真里亞が駆け出す……。
【真里亞】「………くたろ………、………さくたろぉ………!!」
 そして、私ごと、………しがみつく。
【縁寿】「……大丈夫。さくたろうは、消えないよ。…………『うりゅ、真里亞。ただいま。』」
【真里亞】「さくたろ、……さくたろ……、……ううぅうううううぅ、うわああああぁあぁうう!! さくたろぉおおぉ……、会いたかった……、…よぉぉ……………。」
 それは紛れもなく、………あの、ライオンの、……さくたろうのぬいぐるみ。そのやわらかさを、生地も縫い目も何もかも、………真里亞は忘れていた。でも、………ぬいぐるみを抱いた瞬間に、その全てを鮮明に鮮明に思い出す……。
【さくたろ】『うりゅ。真里亞、……ただいま。』
【真里亞】「さくたろ、さくたろ…!! 体は平気なの? どこも痛くない? あんなに、……ひどいことされたのに、どこも平気なの……?!」
【さくたろ】『うりゅ…! 縁寿が魔法で蘇らせてくれたから、全然平気なの…!』
【真里亞】「よかった……、よかった……。お帰りさくたろ……、ううぅううううぅッ!!」
【さくたろ】『もう、真里亞といつまでも一緒だよ。永遠に一緒だよ。……だからボクを、離さないでね………。』
【真里亞】「うん、……離さないよ……。……永遠に…………………。」
 そして、さくたろうを抱き締めたまま、涙をぼろぼろ零した瞳で私を見上げた…。
【真里亞】「……ありがとう、縁寿…! ………縁寿の魔法はすごい……。……どうして? どうしてさくたろうを蘇らせることが出来たの?! ベアトにも出来なかったのに…!」
【ベアト】「………………ありえぬ…。……ありえぬ……。……どうして? ……どうして妾の黄金郷で、妾以外の人間が魔法を使えるのかッ?!?! こんなことは、………断じてありえぬ………!」
【真里亞】「何をうろたえているのよ、ベアトリーチェ。………………これが、魔法でしょ?」
【ベアト】「魔法のわけがない…!! ここは妾の黄金郷!! 妾以外の魔法は絶対に存在できない世界!! そして妾の魔法でさくたろうを蘇らせることは出来なかった…!!
 縁寿メタ世界のベアトが、ゲーム盤メタ世界のベアトとリンクしている。
 出来るはずがないのだッ!! そのぬいぐるみは特別なぬいぐるみ! 楼座が娘の誕生日のために作った、世界でたった一つの
 ………あ、………………ぅ、……………あ……、」
【縁寿】「…………………ね、…魔法でしょう?」
【ベアト】「う、……お……、……あ、………あぁぁ、…………ぁぁぁぁぁぁ……。」
 ベアトは到底受け容れることの出来ぬ奇跡に、………私の魔法の全てを、理解する……。そして、無邪気に戯れあう真里亞とさくたろうを見て、……私を見て、………それから、………膝を落とし、……両手までも地に付いて、……………泣いた。
【真里亞】「ベアトリーチェ…! これは本当に魔法なんだよね…?! 魔法なんだよね?! ベアトリーチェ…!!!」
【ベアト】「……………うむ………。……魔法であるぞ……。……それこそが、………本当の、………魔法であるぞ………。」
【真里亞】「どうしてベアトにも出来ない魔法を縁寿が使えるの?! どうして?! どうしてッ?! 縁寿すごい、縁寿はすごい魔女! 真里亞なんかよりもずっとずっとすごい、本当の魔女だよ……!!!」
【縁寿】「えぇ、そうよ、お姉ちゃん。……………私は、反魂の魔女エンジェ。……私に蘇らせられないものはないわ。」
【真里亞】「すごいよすごい!! 反魂の魔法って、一番難しいってベアトも言ってたのに!! エンジェはすごい!! 本当の本当の、大魔女なんだ……ッ!!!」
 その時、真里亞とさくたろうの姿が黄金色に瞬き、……二人の姿が黄金の花びらに変わって、崩れ去った……。二人は黄金の風になって混じりあいながら、………ここではない、別の安らぎの地へ、去っていく。ベアトは真里亞を、……約束どおり、黄金郷から追放したのだ。
【縁寿】「……さよなら、…真里亞お姉ちゃん。そしていつまでも、お幸せに。…………大丈夫よ、お姉ちゃんの世界にも必ずあなたはいるわ。でもそれは、あなたのことじゃない。」
【ベアト】「……………よかったな、……真里亞……。……妾はそなたの親友として、………その再会を、心より祝福するぞ………。」
 ベアトの表情には、……おそらく人間が浮かべることの出来る、全ての表情が入り混じっていた。それは、喜びであり、怒りであり、哀しみであり。
【縁寿】「………それが、魔法の根源よね。…………愛がなければ。悲しみがなければ。怒りがなければ。…………魔法は、視えない。」
 大地が、震える。……地震。………それは次第に大きな地割れを呼び、ベアトリーチェの最後の楽園を、引き裂き始める。
 黄金の蝶たちは逃げ惑うが、どこにも逃げ場などない。…そして、ベアトリーチェも。
 黄金郷は崩れ去ってゆく。大地はまるで抜け落ちる床のように崩れ落ち、………ベアトリーチェを漆黒の闇の底へ飲み込んでいく。
魔女の喫煙室
 そして無慈悲に漆黒の床に叩き付けられた。
 ……そこは、とても薄暗い、喫煙室。出ることの出来る扉はなく、窓はあれど光も差さぬ、……薄暗きベアトリーチェの喫煙室。
 ベアトはその冷たく硬い床に叩き付けられた痛みに呻きながらも、ふらふらと立ち上がる……。
 そこには席が。……彼女が退席したままの形で残っている、……ゲームのテーブルが。ゲーム盤もまた、ベアトが放置した状態で残されている。
【縁寿】「そこがあなたの席よ。座りなさい。」
【ベアト】「……………妾に座るべき席は、………ここしかない、ということなのか………。」
 ベアトは自らの席に手を付き、……悲しく笑う。
【縁寿】「勝つか、負けるか。あなたに与えられるのはそれだけよ。それに行き着く過程での引き分けは許されるでしょう。
 ………でも、中断して投げ出すことだけは許さない! 勝って生き残るか、負けて消え去るか、そのどちらかになるまで、あなたはその席を立つことなんて許されない!! それが魔女のゲームのホストである、黄金の魔女ベアトリーチェの唯一の務めでしょう…!!」
 ベアトは力なく笑いながら、その席に、……座る。……そして肘を付き、両手で顔を覆って、………口だけはせめて笑って見せた。
【ベアト】「………勝てぬゲームを逃げることは許されぬか。………ならばよかろう。……妾が負けるまで、……繰り返そうではないか……。」
【縁寿】「何を気弱な! 勝ちなさいよ。あなたの最善手を尽くしなさい…!! あなたが始めたゲーム! あなたには最善手を指す義務があるッ!! いい加減に優柔不断にふざけるのはやめて!」
 その時、激しい音がした。……ベアトは足に冷たく痛々しい感触を覚える。
【ラムダ】「……つゥかまえたァ…! やっと捕まえたわよ、ベアトぉ〜?」
【ベアト】「おや、大ラムダデルタ卿ではないか…。………まだおられたとはな。」
 ベアトの足には、凍え切った鋼鉄の足枷がはめられ、……自らの座る椅子に括り付けられている。……もう、この席から逃げることは出来ない。
【ラムダ】「をーっほっほっほ! もう逃げられないんだからね? 私、こう見えてもしつこいの、意外でしょぅ?」
【ベアト】「…………自覚がなかった方が意外であるわ。」
【ラムダ】「あんたには中座も中断も許されてないのよ。永遠に戦うのよ、勝つためにね? ………負けたくはないでしょう? 負けたらどんな素敵な世界に叩き落されるか、ちょっぴりだけ覗いてみたいぃ?
 ダイジョウブよ。勝てるわよ、この大ラムダデルタ卿が、あんたが勝つまで、付きっ切りで永遠に面倒を見てあげるから…!!」
【ベアト】「……………………………。……ふ、……ははははは。………しかし、戦いたくとも、妾の向かいに対戦相手はおらぬぞ……?」
【ベルン】「………大丈夫よ、戦人を見つけてきたわ。」
 ベルンカステルが現れて、手をパンと打つと、宙より戦人が現れて、どさりと向かいの席に落ちる。戦人は目を薄っすらと開けてはいるが、輝きはなく、まるで人形のようだった。
 自分の魂を確立する柱の一本を欠き、…………暗闇の底の底まで落ち、ずっと漂っていた。……そのまま、霧のように散って消えてしまうはずだった。
 それをベルンカステルが掻き集めてきた。よくも人の形にまで戻せたものだ。
 しかし、肉体は戻っても、魂がまだ戻ってこない。……ベアトリーチェに存在を否定されて吹き飛ばされた。容易には戻らない。
【ベルン】「……………戦人もこの戦いを逃げないわよ。あんたに勝つまでね。……勝ち目がなくなってきたからって、全て投げ出して逃げるなんて、そんな無粋を許しはしない。彼だって、そんなことを望んではいないわ。…………でしょう、右代宮戦人…?」
 戦人は答えない。……心がまだ、死んでいる。問い掛けに、わずかに目を震わせるが、返事は出来ない。
【縁寿】「戦人…! しっかり! あなたはここにいるわよ。そして敵は目の前にいる…! 戦って! 勝つために!!」
 戦人はぼんやりとそれを、うわ言のように復唱する。………戻ってきた。
 魂に負った傷は浅くない。それは無理からぬこと。ベアトリーチェに赤を織り交ぜ、否定された。敬愛していた母親が、生みの親でなかったことを知り、………自分が誰なのかわからないのだ。
 ……自分は右代宮戦人では、……ない…………。
【縁寿】「馬鹿なこと言ってんじゃないわッ! あんたは他の誰でもない、右代宮戦人よ! 誰が認めようと否定しようと、あなたがそれを信じなさい…!! あなたの世界はね、あなただけが作れるのよ。あなたが右代宮戦人である世界を、失わないで!」
【戦人】「……………じゃあ、…………俺は、……誰なんだよ………? お袋の子じゃないんだぜ……? 俺はどこから生まれてきたんだよ……?」
 戦人は輝きの戻らぬ瞳で、ぼんやりと天井を見たまま、それを問う。もちろん彼女は即答する。
【縁寿】「えぇ、そうね。ベアトが赤き真実で宣言したわ。……だから私も宣言する。右代宮戦人は右代宮明日夢の息子ではないわ。
【ベアト】「………ふっ、……なれば、我がゲームの対戦相手の資格はないではないか…。」
【縁寿】「ベアトリーチェに復唱要求。“右代宮戦人は右代宮金蔵の孫ではない”。」
【ベアト】「…………………………。」
 ベアトが眉間にしわをよせながら、……辛そうに苦笑いを浮かべる。
【縁寿】「復唱拒否ね。ベアトが宣言した2つの赤き真実、“戦人は明日夢の息子ではない”、そして“金蔵の孫である戦人にしか対戦相手の資格がない”。これに矛盾せずに戦人に資格を認められるのは、以下の仮説よ。これが私の青き真実、聞きなさい…!」
 ベアトの対戦相手の資格は、“金蔵の孫である右代宮戦人”であって、“明日夢の息子”であるか否かは問題ではない。即ち、あなたは明日夢の息子でなくても、金蔵の孫であることは出来る。留弗夫の息子でさえあるならば!
【ラムダ】「フン、下らない言葉遊びよね?」
【ベルン】「……………青き真実、有効よ。ベアト、赤き真実での反論は? 赤き真実で受けられないなら、戦人の対戦資格は何の問題もない。」
【ベアト】「……………………………。」
 ………戦人はまだぼんやりしている。彼女が何を言ってくれたのか、まだよく理解できないのだ。……しかしそれでも、少しずつ魂が戻ってきている…。
【戦人】「………………じゃあ、…………俺は、………誰なんだよ……?」
【縁寿】「しっかりなさいッ! あんたは右代宮戦人! 確かに明日夢お母さんがあなたを生んだわけではないかもしれない。でも、だから何?! あなたにとって母親であることに、何も変わりはないでしょう?!
 ………例えば、あなたにとって右代宮縁寿は何? 血は繋がってないかもしれないけど、それでも妹でしょ?! 血じゃないでしょ、絆でしょうッ?!」
【戦人】「…………そりゃ、そうさ……。……縁寿は、……血が繋がってなくても、………妹だ。」
【縁寿】「赤で言って! 縁寿は妹だって言って!!」
【戦人】「………縁寿は、……俺の妹だ。…………ぁ、…………言えた。」
 まだぼんやりして、椅子に全身を預けている戦人を、後から強く抱き締める。痛いくらいに。
【縁寿】「どういう事情で、明日夢お母さんがあなたの生みのお母さんじゃないかはわからない。でも、あなたは今日まで、そして今でも母親だと信じてるでしょう?! 世の中にはね、母親さえ、……家族さえいない人だって大勢いるのよッ!!
 明日夢お母さんはあなたを寂しがらせたことがある? ないでしょ?! あなたの平和だった家族を簡単に捨て去らないでッ!! あんたは6年も家族のもとから離れてたから家族の絆が希薄過ぎるのよ!!
 もっともっと、家族の絆を強く感じて! 思い出して!! 明日夢お母さんのためにも、こんな下らない魔女の妄言で、愛情を失わないでッ!」
【戦人】「………………………。………そうさ……。……お袋は、……いつだって俺の味方だったんだ……。……………ここはどこだよ……? ……暗ぇよ……、……帰りてぇよ……。俺の家族は、みんなは、……どこなんだよ………。」
 戦人の目にまだ光は戻らない。でも、……涙が浮かぶ。
【縁寿】「お家であなたの妹が帰りを待ってるわ。せめてあなただけでも帰ってあげないと、……彼女はいつまでも独りぼっち…! 妹のためにも、どうか魔女のゲームに勝って…!!」
【戦人】「…………縁寿……、俺の、……妹………。……でもよ、………わからねぇんだ…。………どうして、俺はベアトと、こんなわけのわかんねぇ、残酷なゲームを永遠に繰り返さなきゃならねぇんだ……? ………もう、……嫌だ………。」
【縁寿】「なら、早くこんなゲームに決着をつけて、お家へ帰りなさいッ!! 右代宮戦人、いつまでこんなところで遊んでいるのッ?! 妹が帰りを待ってるわよッ!!!」
 ………そう。戦人は気付いた時にはもう、このおかしなゲームに巻き込まれていた。そして、何のために戦うかさえもわからないまま、ずっとずっと、魔女のペースに飲み込まれて、遊ばれ、戦わされてきた。
 それはもっとも素朴な、最初の疑問であるべきなのだ。……そこが理解できてないから、戦いの目的を喪失してしまう…!! だから私の声が、戦人の耳に、届かない…!
 魔女に勝つためとか、許せないとか、そんなあやふやな目的じゃなくて。……彼には、必ず勝つための目的を自覚しなくてはならない。
【戦人】「………そうだ……。……帰りたい……、……親父やお袋、……縁寿のところに帰りたい……。………もう嫌だ、……ここは嫌だ……。……もう魔女は嫌だ、ゲームも殺人も嫌だ……、……嫌だ、嫌だ……。」
【ラムダ】「戦人の魂が、…戻り掛けてる。」
【ベルン】「……………でも、あとちょっとが、届いていない。」
【縁寿】「もう嫌でしょう?! なら、家族のもとへ帰るためにも戦って!! ベアトリーチェを打ち破って、帰ってきて!!」
【戦人】「嫌だ、……もう魔女は嫌だ…! ベアトも嫌だ、…どいつもこいつも嫌だ、お前も嫌だ、お前だってどうせきっと、魔女の仲間だ…。いつまた裏切るかもわからない…!!
 何も信用できない、赤くない言葉は何も信用できない…!! 俺に構うな、構うなぁあああぁあああぁ!!」
 戦人の魂が吼える。それを、彼女は後から痛いくらいに強く、その頭を抱き締める。
【縁寿】早く帰ってきて、お兄ちゃんッ!! 私を独りぼっちにしないでッ!!!
【戦人】「……………え、……。………お前、………、……誰……。」
【縁寿】私よ、縁寿よ…!! お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、誰も帰ってこないッ!! 寂しいよ!! お願いだからッ、早く帰ってきてッ!
【戦人】「……え、………縁寿……。………お前、………縁寿だったのか…………。」
【縁寿】そうよ、縁寿よ!! 誰も帰って来ない世界の右代宮縁寿…!! ………私の家族は全て、あの日の六軒島から帰って来ない…!!
 目の前のあの魔女が、家族を全て、お兄ちゃんさえも奪い取ってしまった…! ………お兄ちゃんだけが、あいつをやっつけられる!! あいつをやっつけて…!!
 そして、家族を取り戻して!! そして、………私のところに帰ってきて……!!!
【戦人】「……………ベアトが、……俺の家族を………。」
【ベアト】「……ふ、…………そうとも。逃げも隠れもせぬわ。……妾が右代宮縁寿から家族を奪った。
 戦人は妾の玩具よ! その父親も母親も全て玩具よ。……そなたには返さぬわ。……永遠に独りぼっちで、帰らぬ家族の帰りを待って、彷徨い続けるがいいわ……!」
 抱き締める縁寿の腕から、…………たった一人残された妹の、……あまりに辛く悲しく、寂しい日々が、戦人の中に流れ込んでくる……。
 ……自分がこんなところで遊んでいたせいで、…………ひとり残された妹は、………こんなにも、…………辛い日々を……………!!
【戦人】「…縁寿、………縁寿………!! くそ、……俺は、………何をやってたんだ………!! ありがとうな、縁寿…。お兄ちゃんは、……大切なことをずっと忘れていた……!」
 戦人は振り返ろうとするが、縁寿はものすごい力で戦人の頭にしがみ付いていて、振り返ることが出来なかった。
 ……汗? 熱い雫がぼたりぼたりと戦人のうなじを濡らす。
 ……それの正体を、自分にしがみつく縁寿の腕を抱いていて、知る。………戦人の手を、指を、赤く染めたから。
【戦人】「………血…、……え、縁寿?! だ、大丈夫か?! お、おい……?!」
 それは、ぼたりぼたりと、ぼたぼたと。何が何やらわからない。戦人には振り向けないからわからないが、きっとこの背中全体に染みるこの熱い雫は全て、……血なのだ。
【縁寿】「…………お兄ちゃんを助けるために、ここに来るために、唯一守らなきゃいけないルールが、……あったの…。…………それが、…………これ。………お兄ちゃんに、…………私が縁寿だと、………知られてしまう、……こと………。」
 ……辛かったよ………。お兄ちゃんが目の前にいるのに、……それを口に出来ないなんて………。
 このルールさえ守れば、……ずっと永遠にお兄ちゃんの側にいられるはずだった。………お兄ちゃんと一緒に、…魔女と戦うゲームを、……永遠に遊べるはずだった……。
【縁寿】「でも、………それじゃ駄目。…………お兄、……ッ、………ちゃんは、……帰らなきゃ。………お家で、……あなたの妹が待っているもの……。………それは私のことではないけれど、…………それで、あなたの妹は、…救われる………。」
【戦人】「縁寿?! 縁寿!! こんなに血が…!! こんなに、こんなに!!」
 振り向きたいが、縁寿に力強く頭を抱えられ、振り向けない。しかし、その溢れ出す血と縁寿の辛そうな息遣いで、彼女が今、大変なことになっていることは理解できた。
【縁寿】「…………気に…しないで………。……私は所詮、……駒だから……。………あのね、チェスではね、……サクリファイスって、言うんだって……。」
【戦人】「サクリ、……何だって?! そんなことはどうでもいい!! 早く手当てを!! この手を一度離すんだ、縁寿…!!」
【ベアト】「……………サクリファイスとは、捨て駒のことよ。戦略的展望のために、わざと損を承知で駒を見捨てることを言う…。」
 チェスにおいての至上目的は相手に勝利すること。……だから、最終的にそれに結びつくならば、個々の駒の犠牲は問題にならない。
 縁寿は、冷静に判断したのだ。………繰り返し、自分はプレイヤーではなく駒だと教えられてきた。……駒らしく振舞い、戦人を救うには、今、自らが捨て駒とならねばならないのだ。
 …………戦人は、知らなければならない。この魔女のゲームの目的は、魔女をやっつけるなんて抽象的なものであってはならない。ゲームに打ち勝ち、自らを解放し、家族を連れ帰らなければならないのだ。
 なぜ? ………帰りを待っている、妹という家族がいるから。
 右代宮縁寿の声を届けるために、生み出された存在。それが私、エンジェ・ベアトリーチェ…!!
 私という駒を生贄に、お兄ちゃんに戦う意思を、目的を! 私の目的はお兄ちゃんと永遠に魔女のゲームで遊ぶことじゃない! 私は右代宮縁寿の嘆きと悲しみを、あなたに届けに来たッ! それこそが私の揺るぎ無い目的!
【戦人】「………縁寿!! 縁寿!! うおおおぉおおおおおおぉ!!」
 戦人を抱き締めるその白くか細い腕は、……まるで蝋のように白く透き通っている。…なのに鮮血が、あまりにも残酷に、それを染めている……。
【縁寿】「…私は………、…もう消えちゃうけれど……。……お兄ちゃんは、がんばって戦って、………きっと、私のところへ………帰ってきてね………。…………待ってるよ、…………ずっと……………。……お兄ちゃんをもっといっぱい、手助けしてあげるつもりだったのに、……何も出来なかった。……ごめんね…………………。」
【戦人】「い、いいんだ……!! お前は俺に、……教えてくれたじゃねぇか……! どうして俺が、勝たなくちゃならないか…! そして俺が、…絶対に勝って、お前のところに帰ってやらなくちゃ、って……!!
 俺は、………何をこんなところでぼんやりと遊んでいたんだ……!! あぁ、もうこんなところで遊んでなんかいないぞ…!! 帰るからな、帰るからな!! お土産持って、きっと帰るからなッ、約束する……!!!」
【縁寿】「…………いらないから、…………ひとつだけ約束して……。」
【戦人】「何だよ、何でも約束する…ッ!!」
【縁寿】「……この手を、今から離すね……。痛かったでしょ……? ぎゅっとしてて、………ごめんね………。………私は大丈夫だから、……振り返らなくていいから…。 ………だから最後にお兄ちゃんの、……一番かっこいいところを、……見せて………。……席を立って、……目の前の魔女を指差して、……ゲームの再開を宣言して………。」
 縁寿の手が、……するりと、………後へ消える。そこには、彼女の爪から滲んでいた血の指の跡がくっきりと残されていた…。
 しかし俺はすぐに振り返る。縁寿の怪我を手当てするために…!
【戦人】「縁寿ええぇえぇッ、ぇぇぇ…ぇ………、……………………。……縁寿…?」
【ラムダ】「あ〜あ、振り向いちゃ駄目って、約束したのにィ…。」
【戦人】「……え、……縁寿……………。ぁ、ぅ、…ど、どこへ……、」
 俺の椅子の後には、………まるで、……血の詰まった西瓜をまとめて十個くらいを、……叩き潰したような、……ぐちゃぐちゃぼきゅぶぎゃの、……山があった…。そしてその血と挽き肉の山の周りに、……縁寿の着ていた服や靴が、……脱ぎ捨てたようにぐしゃぐしゃに潰れていた…。
 ……まるで、人間の中身だけを、磨り潰して捨てたかのように。……ついさっきまでそこに立っていた縁寿をそのままに、潰してしまったかのように………。
【戦人】「縁寿……? え、……縁寿はどこだよ……? 縁寿はどこに消えたんだよ……? お、おい! 縁寿はどこに消えたんだよ?!」
 幼そうな二人の魔女は何も言わず、ただ無言で、………その血と肉と服の山を見ている。
 でも、……俺は認めたくない。……絶対に認めたくないッ!!!
【ベアト】「………………妾は、そなたの正面で。………ずっと見ていた。そなたの後で、縁寿が、………どうなっていくかを。」
【戦人】「……お、……お前は知ってるのか……? ………縁寿は、…どこへ行ったんだ………。」
【ベアト】「………生きながら。焼けたでっかいペンチで、ひと摘み、ひと摘み、……親指大の大きさに、全身の肉を引き千切って、……捨てていくんだよ。………妾は見ていた。魔女の窯で真っ赤に焼かれた無数の残忍な工具が、縁寿を後から、ひと摘みひと摘み、……肉を啄ばみ、捻り、引き千切り、……細切れにするのを見ていた。
 …………縁寿は誇っていい。兄と最後の言葉を交わすために、……その苦痛の喘ぎを、最後まで堪えたことを、……誇っていい。」
 ……そんな、馬鹿なことがあっていいものか……。でも、……その肉と服の山の上に、……ちょこんと転がるのは、…………間違いなく、あいつが頭に付けていた、ピンクの珠の…髪飾りだ。
 正直、彼女にはちょっと子どもっぽ過ぎてあまりに似合ってないなと思っていた…。……だからよく覚えてる。
 ……………縁寿は何だって、こんな安っぽい髪飾りをずっと……? じゃなくてじゃなくて、……これが縁寿だなんて、……そんな、……、う、うぅうううぅぅ…!
【ベルン】「…………………ベアトも正直ね。」
【ラムダ】「戦人には見えてなかったんだから、蝶々になって飛んでいったとか言って、誤魔化しちゃえばいいのに。」
【戦人】「……お、…お前らも、………そ、……それを、………見ていたのか……? え、……縁寿が、……ばらばらに引き千切られていくところを、………見ていたのかよ…? 見てて。………そんな、……平然とした顔を、……してたのかよ………?!」
 ベルンカステルもラムダデルタも、そしてベアトリーチェも、何も答えず、じっと俺を、……ある者は憐れみ、…ある者は嘲笑うように、……見ている………。
 今までは、……グレーテルと名乗ってたから、前回のワルギリアのこともあって、ひょっとするとベアトの手先かもしれないと思って、味方ではあっても心を許さないように気をつけていた…。
 そして、…………実は縁寿だったとわかったら、……その顔を見ることが許されなくて、………振り返ったら、……こんな、………こと、………なんて、…………ぅううぅおおぉ………!
【ベアト】「良いではないか。………妹のことなど。」
【戦人】「……な、……んだと…………。」
【ベアト】「どうせそなたは、永遠にここから帰れなどせぬわ。………そなたが帰らぬ世界の妹など、どうなろうが知ったことではなかろうが。そなたがここで遊んでいる限り、無数の世界の縁寿が孤独となり、今の最期と同じ苦痛を、十年以上にもかけて薄めて、強いられる。
 ………だが、そんなことはどうでもいいことではないか。ここにいるそなたには視えない。観測できない。観測できない真実は、赤き真実を用いねば立証できない。
 だから、縁寿のその後の不幸は、そなたの杞憂かも知れない。…………案外、留弗夫の遺産で、のんびりと生涯働かずに暮らせてたりしてなぁ? くっくっくくくくくくく…!」
 ……それは、…嘘だ。
 縁寿の腕から、その後の全ての悲しい世界が俺に、あの一瞬で流れ込んできたから。俺が、………こんなところで、………いつまでもぼんやりと、………遊んでいるから………!!
 ……俺は、俺一人のことしか考えてなかった……。
 こいつを倒し! 家族を取り返して、……俺は留守をしている、縁寿のところへ、………一秒でも早く帰らなければ………! こうして魔女に付き合っている間にも、縁寿の心は、悲しみで細切れにされ続けているのだから…!!
【戦人】「…………縁寿、……お前が見たかったのは、………これだよな……?」
 俺は、……縁寿の無残な最期を淡々と語った、その残忍なる魔女をゆっくりと、……だけれども、……渾身の力で、……指差す……。
【戦人】「………ベアトリーチェ……。」
【ベアト】「うむ。」
【戦人】「…………ゲームの、再開だ。………もう俺は逃げねぇし、……お前も逃がさない。」
【ベアト】「望むところよ。妾はもはや、逃げも隠れも出来ぬわ。………妾とそなたの決着を、確実につけようぞ。
 ………どちらかが勝つ。どちらかが敗れて、滅ぶ。それ以外の結末は、存在しない。」
【戦人】「………俺は勝つ。どれほどの時間を掛けようとも、絶対にお前を打ち破る…!! この勝負にもう妥協も中断も不戦敗もないッ!! 俺は逃げない! 逃がさない!!
 俺を本気で倒しに来いよ…!! 下らない騙しも誤魔化しも、おかしな交流も馴れ合いも一切必要ないッ!! お前と俺は敵同士…!!! 一秒でも早く決着をつけて、………俺は縁寿のところへ家族を連れ帰らなきゃならないッ!!!」
 ……揺るぎ無き決意。…絶対の意思。ニンゲンの絶対なる意思は絶対の魔力となる。……それは奇跡に通じ、それを約束する。そう、これは、約束された、絶対の奇跡
 ………………妾の勝ちは百億にひとつも、いや………、ひとカケラの奇跡も絶対になく、ありえぬということか。
 妾の足にはいつの間にか、音もなく、もう片方の足にも冷たく頑丈な鎖が絡みつき、この椅子に縛り付けている…。
 …………妾に残されたる運命は、戦人に殺され敗北することか、それを拒み、永遠に引き分けを繰り返すことのみ。……いや、殺されるための心の整理がつくまで、引き分けを繰り返すの間違いか。
 いずれにせよ、妾は。………敗れるためだけに、戦わねばならぬ。
 もう永遠の鎖は妾を縛り付けた。そして戦人もまた、妾を逃さない。
 ……みっともなく許しを乞うか…? 同情を乞うために、憐れみの心に訴えかけるか…? 形振り構わず土下座して?
 鎖のせいでそれも叶わぬわ。……チェックメイト。これは完全なる詰めだ。
 ……………………………だが。
 妾は、黄金の魔女、ベアトリーチェ。
 黄金郷に君臨したる黄金の魔王。敗れるための戦いであっても、妾には相応しき態度がある。そして、妾には、妾に相応しき散り際を飾る権利がある。
【ベアト】「………妾とて同じよ。そなたに我が魔法を、存在を認めさせてこの島に黄金郷の扉を開く。そなたはその最初の茶会の主賓となるだろう。
 そなた以外は全員がすでに揃っているぞ? 主賓の到着が遅れているから、いつまでも茶会が開けない。
 そなたの父親も、母親も、いとこたちもみんなみんな、お前の到着を待ちくたびれているぞ。」
【戦人】「あぁッ、上等だぜ、まったくにもって上等だッ!! 何が魔法だ、何が魔女だ…!! お前との遊びはこれまでだ!! 行くぞ、ベアトリーチェ…!!!」
【ベアト】「存分に来るがよいぞ、妥協も中断も不戦敗もない。どちらかが勝ち、どちらかが滅ぶ。お前に負ける意思がないというなら、妾を倒すしかない、殺すしかない。 しかし、妾もむざむざと殺されはしない。妾に相応しき最期をそなたが用意できるまで、抵抗を繰り返すことが出来る。
 そなたにそれが出来るか? ……いや、出来るだろう。必ず出来るさ。来いよ、殺しに。………………。
 …………………やりにくいか? ならばいつもの調子で行こう。…………………。
 ひゃっははッ!! 殺されるかよ、せめて勝てなくても、お前に勝ちを譲らない程度の嫌がらせは出来るんだぜぇえええぇ?!
 ほぉ、いい面構えだ! ……くっくくくくっく、うっひゃっはははははははは、あーっきゃっきゃっきゃっきゃっきゃ!!
 殺してみろッ、殺してみろよォ、右代宮戦人ァあああああああぁあああぁああああああぁあうおおおおおおおあああああああああぁああぁぁあっぁぁあぁぁッ!!!」
 さくたろうが楼座の手作りでないことはベアトも知らなかった。「語れぬ赤を無理に語ろうとすると窒息する」。

お茶会

厨房
 ………何が何だか、俺にはさっぱりだ。誰か俺にもわかるように、昨日何があったのか説明してくれ。
 俺は屋敷の厨房で、勝手にメシを頂戴している。でかい業務用冷蔵庫を開けりゃ何でもある。何でも食い放題の飲み放題。……台風が一週間は明けなくても、俺は充分食っていけるぜ。
 俺はワインを片手に、切り分けた生ハムをいただいてる。ワインもハムも、一体いくらするんだろうな。あんたら食材もツイてないぜ。郷田さんに料理してもらえたなら、はるかにすごい料理に生まれ変われただろうに。
 時計を見る。もうじき、24時になる。10月5日が、二日目が終わる。
 ………昨日の、狂った10月4日が嘘のようだ。…それくらいに、……俺へのテストとやらの後、何も起こらなかった。
 何も起こらない。電話も来ないし、手紙も来ない。誰も来ないし、誰にも襲われない。何にも起こりゃしない。
 緊張してた分の時間と体力を返しやがれと悪態をつきたくなるくらいに、………その後、丸一日、かっきり24時間。……なぁんにもなかった。そしてきっと、この後も何も起こらないだろう。
 ………まさにかっきり24時間前。…俺はベアトリーチェに、屋敷の玄関前に呼び出された。
 そこで、当主跡継ぎを決めるとかいうおかしなテストを出された。俺は俺なりに真面目に答えたのだが、どうにも向こうと噛み合わない。
 ベアトリーチェは、勝手にヘソを曲げて黙り込んでしまった。俺が、ウンとかスンとか言ってみろと怒鳴っても、何も答えやしない。
 真里亞はどこだと言ったら、礼拝堂へ行けとだけ答え、引っ込んでしまった。
 まったくにもって、拍子抜けだった。……曲がりなりにもテストだったんなら、せめて合否くらい教えろってんだ。ご苦労様です、結果は後ほど郵送いたしますってか? ……ふざけやがって。
 とにかく俺は礼拝堂へ向かった。
 ……テストにしくじって、譲治の兄貴も朱志香も殺された。真里亞まで殺されるわけにはいかない。……それに、真里亞を殺そうとしている何者かを、とっ捕まえるチャンスかもしれない。
 礼拝堂は、近付いたら怒られると幼かった頃に朱志香にさんざん言われていたので、行ったことはないが、場所だけは知っていた。
 そこに人の気配はなく、………その扉の前に、鍵束だけが落ちていた。それで礼拝堂の扉を開けろという意味なのかと思ったが、どれを試しても合わない。
 真里亞の名を叫ぶが、返事はまったくなかった。礼拝堂の周りも探すが、真っ暗な中、懐中電灯で探すには無理もあった。
 俺は、この鍵束がマスターキーの束で、屋敷の扉も開けるのではないかと気付く。
 真里亞の気配もなかったので、屋敷に戻った。
 屋敷は静寂に包まれていた。そして、酷い異臭も。
 しかし、人間の慣れってのはすごい。本来なら、この屋敷中にその臭いはまだ立ち込めているはずなのだ。
 しかし、もうすっかり慣れちまって、気にならなくなってしまった。どっかの家がおかしな焼肉を焦がしたくらいにしか感じない。
 最初は俺もその臭いに面食らったが、とにかく、食堂へ向かい、……郷田さんたちが詳しく話すのを躊躇うほどの、気の毒な死体の数々を見つけた。
 一番最初の犠牲になった夏妃伯母さんたちの遺体だった。見事に全員が頭部を半分、ぶちまけられていて、俺に検死の知識がなくても、100%の死亡を宣告できる惨いものだった…。
 ……しかもその上、顔の残り半分はちゃんと残ってるんだから、身元確認まで容易に出来る。…実に至れり尽くせりな死体だった。
 そして、その6人の遺体だけでなく、もう1人、遺体が増えていた。
 7人目の遺体は、…………真里亞だった。楼座叔母さんの遺体の傍らに、並んで眠るように、横たわっていた。
 ……………泣いたさ。無邪気な幼子の死に。そして、親父たちの無惨な死に様に。帽子掛けの槍を振り回して、屋敷中を駆け回り、出てきやがれと叫んださ。
 ……しかし、人の気配はまったくない。
 ……どこかに隠れていて、俺の背中から襲いかかろうって魂胆だろうと、隠れ場所を探し回ったり、慎重になったり、わざと隙を見せてみたりと色々試してみたが、猫の子一匹、現れりゃしなかった…。
 そして、朝が来た。……緊張感と疲労感、そして眠さが入り混じった、最悪の夜明けだった。
 人間ってすげえもんだ。……殺人犯がどこに潜んでるかわからねぇってのに、自分の命の心配より、眠気と疲れを優先しやがる。
 ……その頃にはもう、何だか馬鹿馬鹿しくなり始めていた。夜が明けるまで、6時間もたっぷり、俺は屋敷を歩き回り、姿を見せやがれと怒鳴って回っていたのだから。
 丹念に探したし、疲れて隙も晒した。それでも、誰も襲いかかっては来ない。もう俺は呆れ果て、好きにしやがれとなったわけだ………。
 船は台風が通り過ぎるまで来ない。台風は明日には抜けるとテレビで言っているから、今日も丸一日時間がある。ぼんやりとしているのも面白くなく、……俺は、きっと警察に怒られるだろうことを承知で、探偵ごっこを始めた。
 まず、一番最初の殺人が起こった、食堂。
 最初に殺された6人は、とにかくお気の毒だ。……恐らく凶器は銃。マグナム弾とかショットガンとか、そういう強力なもので頭を砕かれたのではないか。妥当な推理だった。
 それに比べたら、7人目の遺体である真里亞は、遥かにマシな綺麗な死に方をしていた。
 一見したところ、外傷はなく、どうやって殺されたのかはわからない。しかし、口元から泡を吐き出したような痕跡があり、それはテレビドラマなどで見るような、典型的な毒殺の死体のように見えた。
 真里亞は、礼拝堂に呼び出されてテストを受けたのでは…? ……それがどうしてこの死体だらけの食堂にいて、母親の脇に並んで、死んでいるのか……?
 もし仮に毒物が死因だとしたなら、……それは誰に与えられたのか。
 着衣に乱れはない。無理やり押さえつけられて、毒物の注射を受けたとは考え難い。………毒のカプセルか何かを与えられ、飲まされたと考える方が妥当だろう。
 しかし、この部屋に散らばる乱暴に破壊された死体に比べれば、真里亞の死体は綺麗過ぎる。銃なら引き金を引くだけでいい。しかし毒殺は、飲ませるにしろ注射するにしろ、はるかに手間が掛かる。犯人の凶暴性から考えても、明らかに真里亞の死だけは別格の扱いを受けているように思われた。
 なぜ真里亞にだけ、眠るような死が与えられたのか。………殺されたという意味においては、気の毒であることは間違いないのだが、……なぜか真里亞だけ、その殺し方が、とても丁寧なような印象を受けた……。
 真里亞の手は、死者がそうするかのように、お腹の上で両手を組まれている。……死ぬ間際に真里亞が自らそうしたのだろうか……? ……普通、こういうのは、死後に誰かがするものではないのか……?
 頭部を半分砕かれた母親と、添い寝をするように、安らかに眠る真里亞。……その対比は、なぜかとても気になった。
 死因も含めて、真里亞の死は多くの謎に包まれているだろう…。
 そして何よりも。この食堂で最大の謎は、……「落とし穴」だった。……蔵臼伯父さんたちも、そして郷田さんたちも口にした、「落とし穴」だ。
 6人が殺された後、さらに5人が「落とし穴」に落ちて捕らわれた。………落とし穴って何だ。がばっと開いて落ちる、あれだよな……?
 床にはしっかりと、くたびれてはいるが貫禄ある絨毯が敷かれている。……どう見ても一枚物だ。
 落とし穴が開くってんなら、ちゃんとそこだけ切れ目が入れてあるってことになる。……それに、落とし穴なんて細工があったら、あるけばギシギシとか、音を立てるんじゃないか??
 いくら歩き回り、絨毯を撫で回してみても、とても落とし穴が隠されているとは思えない。
 第一、ひとりの人間を落とすならともかく、5人も落としてる。……彼らの話を総合する限り、彼らの落下地点はそれぞれ違うわけで、少なくとも5ヶ所は落とし穴が隠されてることになる。……………ってことは何だ。
 この部屋は実は、全ての床が落とし穴に出来るようになっていて、ボタンひとつで好きな場所に落とし穴が開けるとか、……そういう構造なのか?? 忍者屋敷もびっくりの、とんでもないカラクリだ。
 ……それでもこの話を親父たちが聞いたなら、“祖父さまならやりかねない、作りかねない”ということになるのだろうか。
 ……とにかく、食堂ではそれ以上の、何もわかりはしなかった。
 落とし穴は存在しないのか。それとも、存在しているけれども、素人の俺には発見できないだけなのか。その判断はつかない。彼らが、あったと主張する以上。……俺に発見できなくても、その存在を無視することは出来ないのだ……。
 その次に殺されたのは、朱志香と譲治の兄貴だ。譲治の兄貴については、俺のテストで呼び出された時に発見している。
 薔薇庭園の東屋に呼び出され、……多分、銃で、眉間を撃たれた。
 朱志香は屋敷の2階の、自分の部屋に呼び出された。
 朱志香の部屋には鍵が掛かっていた。しかし、俺にはマスターキーがあるから何も問題はない。
 そして室内は、………ひどい有様だった。…でも、食堂でもうお馴染みの死体だから、……多少は免疫もあった。
 受話器が外れて、ぶら下がっている。……俺との電話中に、殺されたのだろうか。朱志香はすぐその脇の壁に寄りかかるようにして、……頭部を半分、ブチまけている。
 この状況を見る限りなら、……まるで、電話中に殺されたように見える。なら、犯人は目の前にいたのだろうか? ………電話の向こうの朱志香の声には、そのような感じはなかった。
 朱志香は確か、……「やられちまったぜ。」と、そう言った。電話の時点で、すでに瀕死の重傷を負っていたと見るのが妥当だろう。
 そうだ、そしてこうも言った。
「戦人が来た時には、私は頭を半分ブチまけた死体だよ。」、そうだ、そう言った。
 ………朱志香の死体を見る限り、頭部損壊以外に外傷はない。死を覚悟するような重症を負い、電話の最中に死亡したと?
 しかし電話の口調では、朱志香はとりあえず、難を逃れていたように思う。目の前に犯人がいたら、のんびり電話なんか出来ないはずだ。
 では、電話中に犯人が来て、朱志香を殺した…?
 ………いや、それはない。なぜならこの部屋が施錠されていたからだ。
 ……いや、そんなこと当てになるものか。……犯人が犠牲者の誰かから、マスターキーを奪っていたなら、施錠なんて何の意味もないのだから。
 しかし、頭部以外に外傷はない。………となれば、死を覚悟する外傷と、実際に頭部を損壊させた外傷は異なるもので2回あり、それらがいずれも同じ部位に対して行なわれた、……と考えるべきだろうか。
 つまり、朱志香は頭を強烈に殴られ、ものすごい大怪我をした。そして俺に電話を掛け、……そのまま気を失ったか、あるいは死亡した。そこへ犯人がやってきて、改めて頭部を破壊した、とか。
 この部屋に呼び出された朱志香はここで犯人に襲われ、大怪我をした。そして、犯人は殺したと思い、一度は立ち去る。
 ……しかし朱志香は奇跡的に息を吹き返し、俺に、まさにダイイングメッセージとなる電話を掛ける。
 そして殺し損ねていたことに気付き、犯人が大慌てで戻ってきて、大量出血で意識を失った朱志香にトドメを……。……………それで一応の筋は通る。朱志香がなぜ、そのトドメによる死因を正確に予見できたのかを除けば。
 そして、朱志香からの電話にはもうひとつ、気になる部分があった。
 朱志香はこう言ったんだ。
「譲治兄さんも駄目だった。ありゃあ、即死だ。」と。
 ……まるで、譲治の兄貴が殺されるところを目撃したかのような言い方だった。
 しかし、朱志香の部屋の窓からは、確かに薔薇庭園は見えるものの、譲治の兄貴が呼び出された東屋は、………屋根を認められはするものの、かなり遠い。台風の夜であったことを加味すれば、この窓から東屋での一部始終が目撃できたとは、とても思えない。
 ……そして何よりも。朱志香は譲治の兄貴より先に出発している。だから、譲治の兄貴のテストが東屋で行なわれたことを、知らないはずなのだ。
 どうして朱志香は、譲治の兄貴が殺されたことを、……知っていたんだ……?
 …………そして、屋敷全体の捜索の中で、霧江さんの死体も見つけた。
 一階の奥の、古い客室の一室だった。かつてゲストハウスが建てられる前は、親族たちはここに泊まっていた。
 ……霧江さんの状況も、朱志香とそっくりだった。
 俺との電話中に殺されたのだろう。受話器がだらしなくぶら下がり、……その脇に霧江さんが、倒れている。しかし、殺され方が朱志香のそれとは大きく異なった。
 頭部を砕かれてはいない。……その代わりに、額に、オカルトめいた装飾の、杭のようなものが打ち込まれている。……あまりに惨く、……俺はそれを引き抜いた。
 後で警察に怒られるかもしれないとは、抜いてから気がついた。だから今さらのようにではあるが、霧江さんの脇に、それを置く。
 その先端は鋭く、脳まで完全に届くほどに、血に塗れていた。何の金属で出来てるか知らないが、文鎮並の重さもあった。確かにこんなもので思い切り刺されたら、大怪我をするかもしれない。
 ………この杭の意味を、俺は多分、理解していた。……これは、あれだ。魔女の碑文の、第四の晩以降の殺し方。……杭で抉りて殺せ、というヤツだろう。
 しかし、人間の頭蓋骨は頑丈だ。………いくら思い切り力を込めたからといって、こうも鋭く貫けるだろうか……?
 違う。……俺の推理では、この杭は死因ではなく、死後の死体損壊に使われただけだ。
 おそらく、譲治の兄貴と同じで、銃か何かで撃たれて殺されて、………その銃痕の穴に、この杭を捻じ込んだのではないか。……そう考えた方がすっきりとした。
 しかし、……霧江さんは、本当に銃で殺されたのだろうか。
 電話でも言っていたが、霧江さんは、施錠して部屋に閉じ篭っていたにもかかわらず、攻撃を受けていた。
 実際、この部屋は施錠されていた。……そして、……鍵穴から、黄金の糸のようなものが飛び込んできて、襲ってくるというようなことを言っていた。
 確かに霧江さんの死体の周辺には、四ヶ所ほど、その攻撃によるものと思われる穴が開いている。…………しかし、……鍵穴から、………黄金の糸が襲って…?
 霧江さんの目線から、扉を見る。よく、古いミステリー映画に出てくるような、向こうが覗けるというタイプの古い鍵穴だったなら、何かが突き抜けてくるかもしれないというのはわかる。
 しかし、この屋敷の扉は、いくら古めかしいとはいえ、鍵は一般家庭でお馴染みの、平均的なシリンダー型だ。……つまりその構造上、貫通はしていない。
 だから鍵穴から、どんなに細い何かであったとしても、外から貫いて何かが襲ってくることは考えられないのだ。
 ………シリンダー錠。………鍵穴………?
 それでも霧江さんは、鍵穴から黄金の糸のようなものが飛び込んできて、……くるくる回りながら狙ってくる、攻撃してくると、……確かにそう言った。“鍵穴から襲ってくる黄金の糸”。………それが何を意味するのか、……俺にはまったく理解できない。
 いや、でも。……霧江さんは多分、俺がこれらを理解できないだろうと、予見していた。
 それは霧江さんだけじゃない。朱志香の電話でも言っていた。……いや、遡れば、一番最初の、郷田さんたちの話と蔵臼伯父さんたちからの電話でも、みんな一貫して同じことを言っている。
 ………祖父さまが魔女や悪魔を呼び出し、魔法で人を殺している。それをまさに目の前で見せ付けられた。何の誤魔化しもまやかしもない。信じるほかない。……彼らは異口同音に、そう言った。
 俺も、あのベアトリーチェと名乗った謎の女が現れた時には、ヤツが本当に魔女で、山羊のバケモノを次々に呼び出すのではないかと、かなり信じていた。
 ……しかし、丸一日も放置されて、緊張感がすっかり解けてしまうと。そんなバカなことが絶対にあるわけがないと思えるのだ。
 命が危険に晒された異常な状況下で、ちょっと頭が混乱して、魔女が魔法で襲ってきたかのような、そんな勘違いをしてしまったのではないか。
 …………しかし、複数の人間が同じように証言し、その上、全員の意見が食い違わない。……ひとりだけの発言だったなら、何かの見間違いだろうと疑うところなのだが、………それがあまりに、難しい……。
 そして、裏口扉のすぐ近くで、頭部を半壊している蔵臼伯父さんを見つけた。
 ……九羽鳥庵の地下牢から逃げ出してきて、秘密の地下道から何とかここまで逃げ延びたのに、……殺されてしまった。
 その半壊した頭部の、残酷な断面に、……霧江さんの額に打ち込まれていたのと同じような、オカルト装飾の杭が捻じ込まれている。さすがにこの状況では、この杭が凶器だとは到底思えない。
 ……食堂の6人と同様の、強力な銃器などで殺し、その死後に霧江さんのように、この杭を突き刺したのだ。
 霧江さんの言う、黄金の糸が、蔵臼伯父さんにも襲い掛かったのだろうか。内視鏡のようなものすごく細いけれども、自在に動かせるような道具でも存在するのだろうか………? しかもそれで人を襲えるような……? 馬鹿な。そんな道具、聞いたこともない。
 しかしそれでも、……それを親族の誰かに打ち明けたなら、「祖父さまなら作りかねない」ということになってしまうのだろうか…。
 自在に動かせ、人を襲える黄金の糸Xの存在を否定できない以上、その摩訶不思議な凶器を認めるか、さもなくば、……魔法殺人を認めざるを、得なくなる。
 次の死体を見つけるには、勝手口から出て、表を少しだけ探し回る必要があった。
 裏手の、ほとんど森に飲み込まれた荒れ果てた茂みに、古い井戸のようなものがあり、……そのすぐ近くに、南條先生と紗音ちゃんの死体があった。
 二人の死体も、頭部を砕かれている。
 ……そして、突き刺さってこそはいなかったが、損壊した頭部のすぐ近くに、杭がそれぞれ置かれている。……惨いのは誰も一緒だが、紗音ちゃんの可愛らしい顔が半分吹き飛んでいるのを正視するのは、とても辛かった……。
 そして、井戸だ。その奥に、謎の屋敷、九羽鳥庵への秘密の地下道があるという。…この頃には、ひょっとするとベアトリーチェ一味は、この地下道を使って、九羽鳥庵に立ち去ってしまっているのではないかと思い始めていた。
 10人以上はいると思わしき連中が、これだけ影も形もないのだ。……別の場所へすでに脱出していると考えるのが極めて妥当だろう。
 この台風だ。海へは出られない。森だって同じだ。こんな深い未開の森を、徒歩で横断など出来るわけがない。
 となれば、連中の行き先はひとつ。謎の隠し屋敷、九羽鳥庵。……井戸の底の秘密の地下道だ…!
 ……敵に出くわせば殺されるかもしれないという恐怖感は、この頃には完全に失われていた。
 ふざけやがって…! 今度は俺が貴様らの屋敷に乗り込んでやる…!
【戦人】「………あ……、…な、何だこりゃ…?! ち、……畜生ッ…!!」
 その古井戸には、頑丈な蓋がされていた。その蓋は鉄格子で出来ている。格子の隙間は20cm四方あるかどうか。中を覗きこむことは出来るが、とても人間が通り抜けられるようなものではなかった。
 何も知らなかったなら、単なる転落防止用の蓋にしか思わなかったろう。……しかし俺は、霧江さんに聞かされているから、この奥にある秘密の地下道への侵入者を防ぐためのものだと知っている…!
 しかしその蓋は非常に頑丈に固定されていて、どんなに押しても引いても、決して外すことが出来ない。
 一見、施錠らしきものは見当たらない。ひょっとすると、何かの仕掛けで閉ざされているかもしれない。
 しかし、いくら調べても、それを解除するような何かは見つけられなかった。………霧江さんが、最期の瞬間を賭して俺に伝えてくれた最大の情報が、この井戸の地下道なんだ…!
【戦人】「こんな蓋程度で俺を阻めると思うんじゃねぇぜ…! こいつをブチ壊してやる…! その道具を探そう…!」
 心当たりはあった。……郷田さんたちを園芸倉庫に閉じ込めた時、そこに色々な工具がしまわれていたのを、見ていたから。
 しかし、園芸倉庫のシャッターは閉ざされている。その上、鍵は中で死んでいる郷田さんに預けられている。
 ……つまり、この園芸倉庫は密室。外から開く方法はないのだ。
 なら、シャッターを、破らなければならない。そのための工具がどこかにないものか。……何だか本末転倒な話だ。
 そしてそれを探す途中で、屋敷にずっと漂っていた異臭の発生源が、地下のボイラー室であることを知った。
 ボイラー室は薄暗く、蒸し暑く、凄まじい臭いで、その上、ものすごく薄気味悪かった。
 しかしそこには大型の工具の類が多数あり、防火斧や巨大な番線カッターなどを見つけることが出来た。そして、…………祖父さまの死体も。
 いや、厳密には、多分、祖父さまと思われる人物の焼死体を発見した、というべきだろう。ボイラーの燃え盛る炎の中に、誰かの死体が詰め込まれていたのだ……。
 しかし、偶然にも俺は、その死体の足の指の数に気付くことが出来た。……両足とも、6本の指を持っているのだ。
 ……そう、俺は昔どこかで親父に聞かされていたかもしれない。祖父さまは多指症で、足の指が多い、みたいな話を。
 右代宮家の古い習慣では、指が多い人物には吉があるとかで、縁起が良いとされていたらしい。……何でも祖父さまは、そのせいで、次期当主に抜擢されたとか何とか………。
 しかし、足の指の数だけで、祖父さまの死体だと確認しても良いのだろうか。何しろ、祖父さまは犯人グループのリーダー格のはず。それがこんなところでボイラーにブチ込まれて死んでるなんて、さっぱり理解が出来ない。
 炎の中で凄まじい臭いを吐き出しながら焦がされる、謎の死体。……その正体が祖父さまであるならば、…………犯人グループのリーダーは、祖父さまではなく、やはりあの、ベアトリーチェ……?
 祖父さまは都合よく使われ、最後に切り捨てられた、ということなのだろうか。………残念ながら、祖父さまにその釈明の機会は、与えられそうになかった…。
 工具を得た俺は、さっそく井戸の蓋の破壊に挑戦しようとしたが、その前に園芸倉庫のシャッターを破ることにした。
 ……どうせ時間は腐るほどある。郷田さんたちの死体の状況も、確認しておくべきだと思ったのだ。
 斧で殴りつけてシャッターを破り、その隙間から番線カッターを突っ込み、ジョキジョキと鋏の要領で穴を開ける。
 そして、郷田さんと熊沢さんの死体と、俺は再び対面した……。
 紗音は真里亞に、黄金郷へ連れて行くと約束した。同じ「宇宙」を共有する大切なパートナーであるため、その最期を安らかなものにしようとした。
 真里亞は前回のEP3でも殺されているが、手を下したのは絵羽であるため、今回のように丁寧な扱いはされていない。
 その結果、新しい事実がわかる。まず、二人は首を吊って死んでいるのではなかった。二人の足はちゃんと床についている。……そして二人の額には、銃で撃たれたような跡があった。
 ロープの長さは一般的な首吊りを考えると、かなり長めに取られている。その上、二人の身長に合わせて長さが変えてあった。
 つまり、背の高い郷田さんも背の低い熊沢さんも、どちらもちゃんと地面に足がつくことが出来るギリギリになるように、長さが調整してあったということだ。
 また、そのロープに体重を預けて俯いている二人は、どちらも膝から下が少し余っている。これは二人がこのロープを首に掛けて直立したなら、長さが余ることを意味している。つまり、首を吊るためのロープとしては、少々不適格だということだ。
 多分、直接の死因は頭部への銃撃。惨いものだ。その深い穴からはどろりと未だに中身が溢れ出し、二人の顔を真っ赤に汚している。そしてそれを首吊りのようにして引っ張り上げ、晒し者にした、と考えるのが妥当だろう。
 ……もし、銃で撃たれたなら、床に突っ伏しているだろう。……そうだったなら、窓から覗いても、死んでいることがわからない。荷物の山が邪魔で、横になられたら隠れてしまうのだ。
 中に入れない俺たちに、この二人の死を知らしめるには、こうして吊るし、外からわかるようにしなくてはならない。………これは、……鍵を預ければ二人は安全に違いないと思っていた俺たちへの、……当てつけ……?
 彼らの安全を保証したはずの、郷田さんに預けたシャッターの鍵はどこにあるのだろう…。
 その鍵は、………彼のズボンのポケットに入っていた。ご丁寧にも、園芸倉庫の鍵とプレートまで付いている。つまり、やはりこの園芸倉庫は密室だったわけだ。
 そして、それはさらなる疑問を生む。……なぜなら、首吊りが説明できないからだ。
 彼らが自殺したわけでなければ、この首吊りロープは犯人の細工だ。……銃撃は窓からでも可能かもしれないが、この梁にロープを二人分も結びつけるのは外部からではとても出来るとは思えない。
 しかもその上、重い死体の吊り上げなど、出来るわけもない。つまり、これらの作業のために、この中へ入らなければならないのだ。
 しかしその鍵は郷田さんのポケットに入っているし、シャッターは施錠されたままだった。つまり園芸倉庫は密室だったのだ。
 このシャッターの鍵はひとつしかないと郷田さんは言っていた。……しかし本当は複製があり、……それを犯人が所有していた、ということはありえないだろうか……?
 郷田さんが知らなかっただけで、実は園芸倉庫の鍵が複数あった、とする仮定さえ許されるなら、これは密室でも何でもない。
 ………しかしそれでも、他の死体のほとんどは、みな銃殺されて、ほぼそのままの形で放り出されているにもかかわらず、なぜこの二人の死体だけは、わざわざ吊るし上げられているのか。そこにわずかの違和感を覚えなくもなかった……。
 これで、ボイラーの中の謎の死体を祖父さまだと仮定すれば、……16人の死体が確認されたわけだ。
 この島には18人いた。俺がいて、死体が16。嘉音くんの死体だけが、まだ確認できていない。
 霧江さんの話では、彼は井戸を登っている時に殺されて、そのまま井戸の底に転落している。だから、こうして井戸を閉ざされてしまったら確認は不可能なわけだ。
 格子の間から懐中電灯で、井戸の底の暗闇を照らしてみる。だが、漆黒の闇は、その程度の灯りでは、俺に深淵を教えるつもりはさらさらないようだった…。
 やはり、この格子蓋を破壊しなくてはならない。俺は、ボイラー室や園芸倉庫から引き摺ってきた斧などで、井戸の蓋の破壊を試みた。
 だが、金属製の格子の非常に頑丈なもので、破壊は容易なものではなかった。……斧で何度も殴りつけ、手の方がおかしくなってしまい、とうとうその破壊を諦める……。
 ……無理だ。せめて木製だったなら、破壊も出来ただろう。しかし、金属製じゃなぁ…。
 そう、鉄格子を人間の力でバターのように切断など、出来るわけがないのだ。……嘉音くんの鉄格子切断の話も、……まったく理解できないものだった。
 腕から、赤いレーザー光線のような光を伸ばして、それで鉄格子を、バターでも切るように切断してみせたという。鉄格子を、バターでも切るかのように…?
 ……赤いレーザー光線とは何だろう。バーナーのようなものをこっそり持っていて、それで焼き切ったという意味ではないのだろうか……?
 しかし、鉄格子をバターを切るように、とは………一体、どんなレーザーなのか。…まるで、俺が子どもの頃に大好きだった、ロボットアニメに出てくるようなレーザー光線そのものじゃないか。
 そんなものが、本当に実在するのか……? そして嘉音くんはどうやってそのレーザー光線を……?
 それを聞きたくても、彼はすでに殺されている。それどころか、死体すらも、この蓋の奥、井戸の底だ。
 鉄格子を切断できた嘉音くんなら、きっとこんな金属製の蓋だって一撃だろう。
 ……何だか、さっきの鍵を持ってる郷田さんが園芸倉庫の中に閉じ込められているという密室にそっくりだ。扉を開けられる唯一の人物が、にもかかわらず、中に閉じ込められている……。
 ……俺にも、嘉音くんのその力があれば、この蓋を何とか出来るのに……。……………………………。
 嘉音くんは何者だろう。まさか本当に、……不思議な力が使えるニンゲン外の存在なのだろうか。霧江さんも魔女を信じろといったし、そうだと名乗るイカレた女にも会っている。
 …嘉音くんはひょっとして、……魔女側の人間…? ……むしろ、………犯人?
 …………何てこった。……死体が発見できないだけで、…犯人扱いだなんて。
 ほぅ、……死体がないだけで犯人扱い…? 疑わしきはシロだとほざいたのは誰だったやら……。
 ………良かろう、嘉音に全ての犯行を押し付けて人間犯人説にされては敵わぬ。妾が赤にて保証する…。
 嘉音は死亡している。 霧江たち5人の中で、一番最初に死亡した。つまりは、9人目の犠牲者というわけだ。
【戦人】「……死体がない以上、……嘉音くんが死亡しているとは、…断言できない。」
 妾が赤で囁いたところで、駒であるそなたには届かぬか……。………そなたには、届いたよな………?
 一見、魔法としか思えない不思議な何かによる、大量殺人。……鍵穴から襲い来る黄金の糸。いや、食堂での6人殺しの時も、黄金の何かが飛び回っていたという証言がある。ひょっとすると両者は同じ凶器かもしれない。
 そして、園芸倉庫の密室殺人に、鉄格子を切断するレーザー光線。……それだけではない。
 他にも他にも、山羊のバケモノの群とか、落とし穴を指を鳴らすだけで生み出せる魔女の話とか、黄金の糸を打ち出したうさぎみたいな悪魔たちとか。他にもあった気がするが、………どれも滅茶苦茶な話ばかりだった。
 到底、受け容れることは出来ず、何かのトリックと何かの勘違いを疑わざるを得ない。……しかしそれらがみんな、異口同音に同じことを言っていて、証言に矛盾がないのは、一体どういうわけなのか…。
 魔法だけじゃない。
 真里亞の謎の死。譲治の兄貴が殺されたことをなぜか知っていた朱志香。本当にクソジジイかどうか確認も出来ない謎の焼死体。……他にも他にも。
 ワケのわからないことだらけだ……! 俺はぐびりとワインの瓶を傾け、喉を鳴らす。
 ……何が何やら、俺にはさっぱりわからない。昨日の夕食後、子どもたちはゲストハウスに帰っていろといって屋敷を追い出され、………その間に食堂では大虐殺。
 霧江さんたちは落とし穴に落とされて捕まって。そして朱志香と譲治の兄貴はテストとやらに呼び出されて殺されて。
 霧江さんたちは地下牢を何とか脱走できたのに、結局みんな殺されてしまって。そして最後の最後に真里亞までもが殺されて、俺はひとりぼっちで残されている。
 ………つまり、俺はゲストハウスに閉じ込められてただけなんだ。その間に、いつの間にか大事件が起こっていて、そしていつの間にか終わってたってわけなんだ。これをワケがわからないと言わずして何と言う? もう、何が何だかさっぱりだ!
【戦人】「もう俺はただの酔っ払いなんだぜ。俺だけ生き残らせるつもりかよ…? とっとと姿を現して殺しに来いってんだ。もう面倒だからこっちからは探さねぇぞ。そっちから正体を見せやがれってんだ……! 俺は逃げも隠れもしねぇぞ、矢でも鉄砲でも持って来やがれ…!」
 昨日からまったく寝てないから、眠くてしょうがない。殺したきゃ勝手にしろ。
 俺はゲストハウスに戻り、堂々とベッドで休むことにした。
玄関ホール
 ……厨房を出て、ロビーを通り掛ると、………あの、魔女の肖像画が目に入った。
 大時計が目に入る。……まさにちょうど、24時を指すところだった。
 そして鳴り響く、24時を知らせる鐘の音……。それを聞きながら、……ベアトリーチェの肖像画を見上げる。
 ぴったり24時間前、俺はお前と会った。お前は何が言いたかったんだ…? そしてどこへ行った?
 お前は一体、何者なんだ………? 黄金の魔女、ベアトリーチェ。お前を巡る謎は、何一つ解けちゃ、いないんだ……!
 姿を見せやがれ…。………そして俺と勝負しろッ…!!
 そして、……魔女が姿を現す。いよいよ主賓が姿を現したかのように、大階段の上の踊り場に、その姿を現す……。
【戦人】「ようやく姿を現しやがったな……。……丸一日、退屈させられてたところだぜ。」
【ベアト】「……………そうだ。丸一日を与えた。ニンゲン側の権利行使は充分か。」
【戦人】「あぁ。退屈だったんでな。存分にやらせてもらったぜ。」
【ベアト】「…………縁寿は、良い駒であったな。」
【戦人】「縁寿の名を、……お前が口にするんじゃねぇ。」
【ベアト】「………あれは奇跡によって現れ、自らを生贄にして、そなたに絶対の勝利の執念を与えた。」
【戦人】「縁寿の名を、口にするな。」
【ベアト】「…………あの無残な死は、そなたにとって必要なものだった。あの死を見なければ、そなたは本気にならない。縁寿の幸薄き未来を自覚しなければ、そなたに勝利の執念は生まれない。」
【戦人】「縁寿の名を口にするなと言っている…!!」
【ベアト】「…………つまりは、必要な生贄だったというわけだ。そうでなくては、そなたに妾を殺すほどの怒りは生まれない。妾とそなたの拮抗が崩せない。
 ベルンカステル卿め、これは駒ではないわ、切り札と呼ぶが相応しい。……駒はどれほど活躍しようとも盤上を離れることはない。しかし切り札は、どんな力を発揮しようとも、切れば確実に捨てられる。
 縁寿は、そなたにとって実に良き切り札だったのだ。」
【戦人】「縁寿の名を、口にするんじゃねええええぇえええええぇッ!!!」
 戦人の怒号の叫びに、ベアトはようやく口を噤む。
【戦人】「……俺はな、こんなところで遊んでる暇はもう一切ねぇんだ。……引き分けすらも、縁寿を待たせてる。…………俺はな、お前を打ち破り、……家族を連れて、……家に帰るんだよッ!! てめえと魔女ごっこで遊んでる暇は、一秒たりともありはしないッ!!」
【ベアト】「ならば、どうすれば良いか。わかっているな。」
【戦人】「あぁ! お前をぶっ倒す!! 魔女も魔法も幻想も妄想も、全て俺がぶっ飛ばすッ!! さぁ、おっ始めようぜッ!!! もう二度と誤魔化させない!! ゲーム再開だぜ? お前という嘘っぱちを覆う、魔女のベールを俺が引き裂いてやるッ!!!」
【ベアト】「長いわ。素直に一言、妾を殺してやると言えばよい。」
【戦人】「ああ。その言葉をお望みなら、……言ってやるさ。俺が聞いてやるお前の望みで、最初で最後のものだ。」
【ベアト】「…………感謝する。」
【戦人】「お前を、………………、」
【ベアト】「………………………。」
【ベアト】「ならば良し!! 始めようぞ、戦人…!! さぁ、魔女狩りの時間だ…!! 妾を追ってみろ、追い詰めてみろ、殺してみろッ、妾はそなたに期待しているッ!! 妹の最期がそなたに何を与えたのか、それを妾に見せてみよ…!!」
【戦人】「上等だあああぁあああああぁあああああああッ!!!」
 ……戦人の叫びが世界を真っ白な光で焼く。そして、眩しさの中に目を開けると、……二人の姿は薔薇庭園にあった……。
薔薇庭園
【ベアト】「………先手はどちらから?」
【戦人】「俺だ。」
【ベアト】「潔し。」
 美しい薔薇の花びらが舞う、薔薇庭園。その薔薇の花びらの色は、赤。
 それはつまり、この美しき薔薇庭園に二人が対峙していることこそが、赤き、唯一の真実だという、証なのか、訴えなのか。………だからきっと、薔薇は赤い。
 しかし、薔薇の花言葉は、情熱。……真実ではない。真実を花言葉とするのは、勿忘草。その花は、……青い。
【戦人】「俺の青き真実で、全てを穿つ。………全ての、一番最初から。一番最初のゲームから始めるぜ!」
【ベアト】「良かろう。そなたのお手並みを拝見しよう。…来い。」
【戦人】「行くぜ………。すでに宣言済みだがもう一度言う。……こいつは前回のゲームの南條先生の殺人だけじゃないぜ。一番最初からのあらゆるゲームのあらゆる場面を切り裂ける…!!
 右代宮金蔵はすでに死亡している! よって島の本当の人数は17人! そこに未知の人物Xが加わることで18人となっている。この人物Xの存在の仮定によって、17人全員にアリバイがあっても犯行は可能になる。これにより、人間の数18人を満たしつつ、にもかかわらず、一見、18人全員にアリバイがあっても、犯人Xの存在と犯行は可能になる!!
 エピソード1のあらゆる殺人は、未知の人物Xの仮定で打ち破れる。
 また、金蔵がレシートで封印された密室から蒸発したとする謎も、初めからそこに金蔵はいなかったと大胆に仮定することによって、説明が可能になる。
 ベアトが赤き真実でこれに反論しない以上、エピソード1の魔女幻想は、完全に打ち破られている。………青き真実は有効だ。
 戦人の放った青き真実の楔が、ベアトの右足の甲に鋭く突き刺さる。……そこより溢れ出す赤き血は、彼女の赤き真実での抗弁なのか…。
 ベアトは自らを否定する青き真実の楔の、耐え難き苦痛に片方の瞼を硬く瞑って堪える。
【ベアト】「ふむ、悪くない。……だが、まだまだ妾は否定されてはおらぬ、殺されてはおらぬ。……この程度では、足りぬわ。………続くゲームではそれだけで説明できぬ謎があるぞ?」
【戦人】「……どの謎だ。」
【ベアト】「第2のゲームの終盤で。譲治が郷田と紗音を引きつれ、夏妃の部屋に立て篭もり、殺された。夏妃の部屋を開錠した鍵は室内に閉じ込められ、残る全ての開錠可能な鍵は楼座の手にあった。犯人Xが存在しようとも、密室構築は不可能なはず。」
 ベアトを貫く青き楔がぶるぶると震える。対抗するベアトがそれを、押し出そうと抗っているのだ。
【戦人】「いいや、俺の青き真実は揺るがない。犯人Xがマスターキーを入手していれば、あれは密室でも何でもないんだ。」
【ベアト】「いいや、入手は不可能だぞ。マスターキー全ては楼座が管理した!
【戦人】「だが、楼座叔母さんが共犯であったなら何の意味もない! 楼座叔母さんは犯人Xに何らかの方法で鍵を渡し、密室殺人を幇助した! そしてその後、同様の方法で鍵を回収したんだ! 甘いぜ、ベアト!! こんなのは当時の俺もすでに推理しているッ!」
【ベアト】「……くっくっく…、そうであったな……。…ッぐああぉッ…!!! ………ぐ、……く、」
 輝きを少しずつ失い、抜けるかに見えたその楔は、戦人に重ねられた青き真実によって再び強い青を取り戻し、ベアトの足に再び食い込むように捻じ込まれた。
 その苦痛に、ベアトは苦悶の声を漏らす。
【ベアト】「…………ぐ、……ぉ……。…………まだだ…。まだ堪えぬわ……。まだだ、………まだだぁああ!!」
【戦人】「さらに続けて第3のゲームだ。六連結の連鎖密室、楼座叔母さんと真里亞の殺人、親父たちのホールでの死亡、蔵臼伯父さんと夏妃伯母さんの殺人、その全ては絵羽伯母さんを犯人に仮定することで説明可能だ。
 これは当時すでに論破済み。それに対しお前がエヴァを通して出題してきた最後の難題、南條先生殺しも18人目の未知の人物Xで説明可能。これで第3のゲームまで全て打ち破ったぞ!!! 反論はあるかッ!」
【ベアト】「ぐ、ぅ…!! ……む、無論……! この程度で、……堪えはせぬわ……っ! ならば、ゲストハウスからの譲治の失踪はどう説明するというのか? 赤き真実を追加しよう。譲治はゲストハウスの階段を降りてはおらぬ。窓から飛び去ったのだ!」
 第3のゲームの終盤にて、譲治がゲストハウス2階より忽然と姿を消す。
 1階にいた絵羽は誰も降りてこなかったと証言するが、青き真実により、蔵臼たちの死体を外へ運び出していたなら、その隙にこっそりと1階に下りて脱出した可能性があった。
 しかしベアトはそれを赤き真実を追加することで否定してみせた。一階への階段を下りずに外へ出るには、窓から出る他ない。しかし窓は全て内側から施錠されていた…!
【戦人】「だから何だ。お前の言葉通りだぜ。窓から飛び去ったんだろ? 下へ飛び降りても芝生じゃわからないし、あの大雨だ。多少の痕跡なんて消えちまう。」
【ベアト】「赤き真実を繰り返す。外部へ通ずる窓も扉も全て内側より施錠されていたぞ。しかもそれらの施錠は全て、外側からは不可能! 譲治には施錠する術はない…!」
【戦人】「青き真実を繰り返す。当時の俺も言っているぜ。ならば譲治の兄貴が窓より脱出後、誰かがそれを施錠すればいい! 何も難しいことはないッ!!」
【ベアト】「ぐおッぉああぁああぁ…!! ぐぅう……、この程度では、……足掻けぬか、足掻けぬか……。」
 ベアトの足に打ち込まれた青き楔は抜けない。ますますに強い青で、偽りの魔女を焼く……。
【戦人】「第3のゲームまでの全てにおいて、青き真実は未だ揺るがない。……なら、お前が魔女であることを証明する唯一のゲームは、……今回の第4のゲームだけってことになる。」
【ベアト】「……妾が赤き真実にて反撃していない以上、そういうことになろう。この度のゲームでのみ、魔女を証明せねばなるまいな。………よかろう。存分に来るが良い。」
【戦人】「食堂の6人殺しについて不審な点はない。18人目のXが銃を乱射してみんなを殺した。落とし穴については、実際に落とし穴が本当に隠されていた可能性もあるし、霧江さんの仮説である、瞬時に昏倒させる毒矢の発射装置Xの仮定でも説明可能。譲治の兄貴、朱志香、そして地下牢から脱出したメンバーの殺害も、食堂と同じで銃によるもの。不審な点はない!
 だがわかってるぜ、反撃があるんだろ? 来いよッ!!」
【ベアト】「そなたの最大の刃である18人目のXは、金蔵がすでに死んでいるとの仮説に立脚している。そう来ることは妾もわかっていた。だから、金蔵を書斎より出した。その金蔵を、親族会議の全員が迎えたぞ? 親族会議に居合わせた全員が、金蔵の存在を認めた!
【戦人】「そうだな。だが祖父さまはずっと死線を彷徨って寝込んでいた重病人ってことになってるぜ? やつれてて別人に見えちまっても、みんな気にしないかもな?
 俺はこう返す。その祖父さまは別人の替え玉だ。親族たちが祖父さまと見間違えた別人だ!
【ベアト】「ならば妾はこう返す。全ての人物は右代宮金蔵を見間違わない。いかなる変装であったとしても、右代宮金蔵を見間違わない!
【戦人】「ならばこう返す。お前は第1のゲーム時では、5本以上存在することになっていたマスターキーの本数を、第2のゲーム時に赤き真実で5本と宣言することで、以後のゲームの設定変更を行なっている。同じことで、第4のゲームにおいて、金蔵の生死の設定が変更されている可能性がある。
 よって、第4のゲームの金蔵の存在をもって、それ以前のゲームでの金蔵の存在を証明することにはならない…! よって、食堂での6人殺しは、祖父さまが自ら執行したと仮定しても何の矛盾も生じない!

【ベアト】「ならばこう返そうぞ。4つのゲーム開始時の金蔵の生死設定は全て同一である。第4のゲームのみ設定が異なることはない…!
【戦人】「復唱要求。“各ゲームの開始時に金蔵は生存している”!」
【ベアト】「復唱拒否。答えぬよ、戦人。妾はそなたに望まれて赤き真実を答えはせぬ…!」
【戦人】「……クソ、……ジジイめ、俺の前に立ち塞がりやがる…!! 我が最愛の魔女ベアトリーチェを守るために、体を張ってやがるってのかぁ?!」
 ゆらりと、クソジジイが姿を現す。……へっ、背中にベアトを庇って、ナイトさま気取りってわけかよ…!
【金蔵】「くっくくくくくく、戦人よ。お前にこのわしが超えられるかな…?
 至らせぬ、至らせはせぬよ、……黄金の魔女の高みにはなぁあああぁ?! ふっはははははははははは!! お前の浅はかな推理など、私ひとりを超えることも出来ぬわッ! 死ねぃ!!!」
 金蔵の漆黒のローブが世界を飲み込むかのように広がり、俺を一口に飲み込もうとする巨大な黒竜の顎となって襲い掛かる。……その黒竜の咆哮の前に、俺は低く呼吸を落ち着け、浅く目を閉じる……。
【金蔵】「お前なぞ一息に飲み込んでくれるわッ!! 消え去れ、未熟者めええぇえぇッ!!!」
【戦人】「…………黙りな、死に損ないの亡霊め。」
【金蔵】「ほぅ、わしを亡霊呼ばわりしてみせるか。あくまでもわしはすでに死んでおるとする仮説を貫くか!! それがお前の命取りよ!! 第4のゲームの第一の晩にて、闇に飲み込まれて消え去るが良いッ!!」
 黒竜の巨大な口が、顎が、牙が、戦人を丸呑みにする…!!! その刹那、戦人が一気に目を開く!
【戦人】「ありがとうよ、ベアトリーチェ。お前の第3のゲームが俺の反撃の足掛かりとなる。」
【ベアト】「何っ…?」
【戦人】「あばよクソジジイ。こいつでお別れだぜ。………俺は金蔵死亡説が第4のゲームでも主張できる根拠として、以下の仮説を提唱する!」
【金蔵】「よかろう、存分に来るが良い、我が末裔よッ!!」
【戦人】「行くぜ、クソジジイ!! 金蔵の名は右代宮家当主の称号として引き継がれているという仮説だ! 右代宮金蔵はすでに死んでいる。そして“その名”を誰かが継承した! 全員が承認した!! それにより、“親族会議に居合わせた全員が、金蔵の存在を認めた”!!
 祖父さまの変装をする必要さえもないのさ。一同が新しい“金蔵”を認めたのだから! よって“見間違えるわけもない”!! 以上の仮説が否定されない限りッ、お前が死んでいるという事実はッ、変わらない!!!

 これでトドメだぜ。クソジジイ、お前に復唱要求だ。“全人物の中で、異なる複数の名前を持つ人物は存在しない”!!」
 二人のに銃創があり、窓から覗いた時にはそのことがわからなかった。これは、死体は窓の方を向いていないということを意味する。したがって、窓から撃ち殺したというパターンの推理は否定される。
【金蔵】「で、…出来、ぬ…………!! ぐ、ぐおおおおおおおおおおおおぉおおおおおおおおッ!!」
【戦人】「安らかに眠りな、クソジジイ。感謝しろよ、お前、やっと死ねたんだぜ。こいつが引導だ、食らってくたばりなッ!!
 右代宮金蔵はすでに死亡しているッ! そうさ、あんたは気の毒だよな、その死体が見つかる場合、いつも丸焼けだ。それは、死後が経過している死体であることを悟られないための工作なのさ!! そしてその名を誰かが受け継いだ!! 以上の仮説で“てめえ”は死亡しているにもかかわらず、“金蔵”は親族会議に登場することが出来るッ!!!
 どうだよ、これでッ、チェックメイトだああぁあああ!!

 青い何十本もの杭が金蔵の亡霊を穿つ。その凄まじき破壊力は、二度と亡霊に再起を許さない……!!
【金蔵】「……ベ、……アト、リーチェ………、」
【ベアト】「………金蔵…。今日までありがとう。……安らかに、…眠れ……。そなたとの日々は、……忘れぬ………。」
 黒き竜の影とともに、黄金の花びらを散らしながら霧散して、……右代宮金蔵は黄金色の旋風となってその姿を消した……。死してなお、愛した女のために、戦った。……お前の愛と狂気は、紛れもなく、本物だったぜ……!
【ベアト】「……………く、…………戦人…………。」
【戦人】「恨むな。……死者は眠らせろ。起こすな。……次こそ、お前だぜ。これでお前も最後だ。」
 ベアトの足を貫く青き楔は未だ抜けない…。ベアトは死期を悟る…。
【戦人】「お前にはずいぶんと付き合ったぜ。お前の遊び相手としての義理は充分果たしたはずだ。……だが、そろそろお片付けの時間だぜ。家で寂しがり屋の妹が待ってるんだ。
 ……家族揃って、お暇させてもらうぜ…!!」
【ベアト】「……ならば殺せ。……ならば妾を殺してみせよ! ……逃げも隠れもせぬ、今や避けることも叶わぬわッ!! 来いいいいいぃいいいい右代宮戦人ぁああああああああああッ!!!」
【戦人】「おうッ!! 金蔵死亡説による18人目のXにより、残り全てを貫く!
 第4のゲームにおける譲治の兄貴と朱志香の死もXが犯人で説明できる!! 地下牢から逃げて殺された5人も、園芸倉庫の2人も、最後の真里亞も! 全て18人目のXで説明できる!! 何もおかしなことはないッ!!
 以上にて全てのゲームにおける犯人の説明を人間にて完了するッ!! ベアトリーチェ、……これで、チェックメイトだぁああああああああああああぁああッ!!」
【ベアト】「う、……うおおおああああああぁああああぁああぁあああぁ……ぁ…ッ、」
 避けられぬベアトの胸に、何本もの青い杭が打ち込まれ、串刺しにする……。ベアトはその杭を握り、何とか引き抜こうとする…。
 ………あぁぁぁ、……食らっちまったぁ……、………痛ぇよォ………。…こりゃ、………死ぬな………。……こいつを引き抜かなきゃ、………死んじまう……。痛いのは嫌だ……、……辛いのは、………嫌……だ………。
 ベアトは両手でしっかりと、……青い杭の一本を握り締める。
 ……当然、青き真実の魔女を否定する力が彼女の両手を焼く。…その苦痛に涙さえ隠せず、ベアトは吼え猛りながら、渾身の力で杭を引き抜こうとする……。
 これが抜けなきゃ、………死んでしまう………。……これが、………最後の反撃……………。
【ベアト】「なら戦人……。……我が魔法の数々を、………どう、説明するのか……。………一番最初に登場したのは、……第2のゲームにおいて、妾が真里亞のカボチャのマシュマロを直してやった時だ。この時、楼座はその魔法を確かに目撃している。」
 確かにあの時、楼座は黄金の蝶たちが群れ集まり、魔法の奇跡でマシュマロを直すところを目撃している。
【ベアト】「……くっくくく…。……楼座ひとりの目撃では信憑性がないであろう…? だから妾はその目撃者を極限まで増やしたのだ。……それこそが、……今回のゲームよ……。
 我が眷属たちの召喚! そして魔法による虐殺! それらの全てを大勢の人間たちに目撃させた…!! それこそが……、我が魔法の存在する証明…!! これを、……どう説明するのか、右代宮戦人ぁあああぁあああぁぁぁ………!!!」
【戦人】「………ステイルメイト。」
【ベアト】「……………な、……にィ……。」
【戦人】「“魔法があるから魔法はある”、そういう論法には出来ないってのが、俺たちのブラウン管裁判のルールのはずだぜ。」
【ベアト】「………そ、……う…だったな………。……く、………くく、…ぐ…。」
【戦人】「誰が!! 何人!! 魔法を目撃しようとも! それは魔法の存在の証明にはならないッ!!
 俺はお前が見せてきた全ての魔法の、存在するしないの如何にかかわらず、その全てを無視して、ニンゲンで説明することが出来る。それは俺の不可侵の権利である。……違ったか?」
 その言葉で、青き杭が一層に眩しい光を放ち、私の手を弾き飛ばす。……やはり、………抜けぬか………、…………ぐぅ………。
 今の戦人に、個別に魔法を引き合いに出して説明を求めたとしても、如何なる手を用いてでも全てを否定してしまうだろう。……楼座に見せたマシュマロの魔法だけに限らず、…魔法の奇跡の全てを。
 マシュマロ程度を如何にして直したかを問い合わねば、もはや妾は魔女であると主張さえ出来ぬのか…。そのような瑣末を争わねばならぬほどに、劣勢……。
 妾は、………無理かも知れぬ………。
 ……わかっている…。元より、勝ちの無きゲームだったのだ。…なれば、いつか敗れる日が来るのは当然のこと。
 妾は、戦人に敗れるためだけに、今日までを、………戦ってきたというのか………。
 …………勝てるかもしれないと、…始めたゲームだった。簡単には勝てなくても、無限に繰り返すゲームの中で、いつかは奇跡が起こると信じてた。……何しろ、妾には絶対に勝つという、絶対の意思がある。
 ……しかし、今やその奇跡は完全に失われた。
 そして、絶対の意思は戦人に宿り、………私には万一の奇跡も絶対にない。いや、奇跡も絶対ない、が正しいのか……。
 勝利はなく、引き分けによる終了もない。……唯一許された決着、……敗北を与えられるまで、………延々と抗うだけの、……ゲーム……。
 そうさ、私は、………戦人に殺されるためだけに、………戦っている………。
 ……戦人の、瞳を見る。その中にいるのは、私ではない。………彼の帰りを待つ、妹と、…連れ帰るべき家族の姿が映っている。
 私の存在などもはや、……彼にとっては一人の存在でさえない。…当然だ。彼は最初から、私という個人を否定するために戦っている。
 …………あぁ、…前回のゲームは、…面白かったなァ……。ちょっと騙しただけだったけど、……ほんのわずかの間だけでも分かり合えたような感じになって、……面白かったなぁ……。
 ……そうだよ、……あそこで手を打っておけばよかったんだよ…。戦人がコロっと騙されたまま、永遠に騙し続けてれば良かったんだ…。
 …………でも、………駄目なんだよなァ…。………あれじゃ、…本当の勝ちじゃないんだよなぁ………。
【戦人】「…………これで、……チェックメイトか? ベアトリーチェ。」
 ベアトは何本もの青き杭に打ち抜かれ、立ったままの姿で大地に、滅多刺しの串刺しにされている。そのため、倒れることさえ許されず、………空を仰ぐような姿勢のまま、……縫い止められているのだ……。
 その無残な姿は、18人の命を無限に弄び、幾百幾千と殺し続けた残忍なる魔女の末路に、……相応しいかもしれない。
 しとしとと、……誰かが何かを悲しむような雨が、降り始める。……その雨の中、ベアトは雨曝しとなって、……磔にされていた……。
【戦人】「……終わりなのか、ベアト。」
【ベアト】「……………ぐぅの音も、………出ぬわ………。」
【戦人】「まだだろ。お前はこの程度で、終わる女じゃねぇだろ。」
【ベアト】「……………………。………無茶を、………言う……。………この姿がどう見たら、………終わっていないように、………見えるのか……。……早く、トドメを刺せよ………。」
【戦人】「……………………………………。」
【ベアト】「…言っちまえよ。…お前の、青き真実で。…………“以上により、……魔女は存在しない”、…って……。………言っちまえよ………。………その一撃で、……私の息の根を、……………止めてしまえ………。」
【戦人】「駄目だな。」
【ベアト】「…………ほぅ……。………妾にこれ以上、……生き恥を、………晒せというのか…。すでに決着はついておろうに……。」
【戦人】「立てよ。俺たちの殴り合いは、まだ終わってない。」
【ベアト】「………………まだ、……とな………。」
【戦人】「お前のそれは、負けじゃない。もう止めたと、投了しているだけだ。」
【ベアト】「………いいでは…ないかよ……。……投了で…。……それでそなたの勝ちだろうが。………とっとと、……妹のところへ、…帰るがいい……。妾などこの場に、………打ち棄てていけ………。」
【戦人】「俺は言ったはずだ。逃げない。そして、お前を逃がさないとな。」
【ベアト】「……………………………。」
【戦人】「お前は、何者だ。そして一体、何が望みだったんだ。」
 それが知りたくば、……そなたの十八番でも試せば良い……。
【ベアト】「……………いいではないか…。…ただの、……妄想、……幻想……。それで、……いいではないか……。」
【戦人】「全然駄目だぜ。俺はお前を、逃がさない。」
【ベアト】「…………………………………。」
【戦人】「俺はお前を、打ち破る。このまま逃がしてなるもんか。」
【ベアト】「……………………………。」
【戦人】「お前をうやむやにしたまま、幻想の暗闇に逃げ帰らせはしない。………打ち破る。完全にな。だから立て。弱々しいふりなんかするな! お前はまだ何手か隠してる! 俺にはわかる!」
【ベアト】「……………………なぜ、……大人しく見逃してくれぬのか……。」
【戦人】「親父を、お袋を、そして縁寿を。いとこのみんなや親族のみんなを。そして使用人のみんなを。お前はあれだけ弄んで殺した…!! その非道を、俺は絶対に忘れない、許さない!
 俺の肩にはよ、……まだ縁寿の、腕の感触が残ってるんだよ…!! 俺はッ、お前の非道を、許さないッ…!! だから、そんなことで、逃がさない…!!!」
 戦人の目が憎悪の炎に燃える…。……弱々しい仕草に同情を得られたのは、もう遠い過去の話だ。……一度騙された戦人は、二度と妾に情けなど掛けない。
 狼と羊のパズルどころか、………これじゃア、狼少年だなぁ……………。…………どうすればいいんだよ、妾は………。………どうすれば…………。
 ……負けを認めぬためだけに、無限に戦うのも、……無限の魔女に相応しき無限の拷問か。……………戦人に勝利を与えぬために、無限に嫌がらせを繰り返すのもまた、無限の魔女なのか………。
 ……………悲しいなぁ……。………こんなのが、………無限の魔法なのかぁ………。
 もう、………嫌だ………。魔女たちに、………無限に玩具にされるなんて、…………もう、……嫌だ……。
 勝ちはなく、引き分け終了もない。……ならば、妾を解放してくれる結末は、ひとつしかない。……ふ、……ははははははは……。
 魔女の道に堕ちた時から。悪魔と契約をしたその日から。………末路は悲劇であると、約束されていたではないか………。
【戦人】「どうしたッ!! 黄金の魔女、ベアトリーチェッ!! 六軒島の支配者ならば、最後もそれに相応しい貫禄を見せてみろぉおおおおおおおおおぉぉ!!!」
 落雷。……世界が白く潰れる。………六軒島の支配者に相応しき、最期を。
 はは、………はっははははははははは………。
【ベアト】「はっはははははは……、わっはっはっはははははははははははははは…!!!」
【戦人】「………………………。」
 ベアトは青き杭に貫かれたまま、……雨空に向かい、笑い声をあげる。そしてゆっくりと顔を上げ、……戦人を見据えた。
【ベアト】「………愚か者め。……そなたの健闘を讃え、勝ちを譲ってやろうと思ったのに…。………慢心したな、後悔するぞ……。」
【戦人】「それは譲られるものじゃねぇ。お前から奪い取るものだッ!! お前だってそうだろうが!! 俺が、魔女はいてもいいかななんて言い出す、そんな甘っちょろい勝ち方が納得できなかったから、前回はわざとああして最後にぶっ壊してくれたんだろうが…!!! そうさ、俺は前回、お前に一度情けをもらってたんじゃねぇか!!
 だからその借りを、これで返す! 立てッ!!! 俺の敵、俺の黄金の魔女ッ、ベアトリーチェッ!!!」
【ベアト】「はっははは……。馬鹿が。………馬鹿があああぁあぁ、っはっはははははははははははッ!! ゥ愚か者がぁ…!! 二度とチャンスがあると思うなァ?! うおあああぁあああああッ!!!」
 ベアトが叫ぶと、胸を貫いていた青き杭が砕け散って消える。……しかし、足を貫いている一番最初の青き楔は消えない。
【戦人】「まだ抜けてないぜ。18人目のXの青き真実が抜けていない…!!」
【ベアト】「そなたの復唱要求の一つに応じる。そなたの推理通り、全ゲームの開始時に金蔵はすでに死んでいる! しかし、ならばつまりは1人を抜かせば良いこと!! 妾はこれまで、この島には19人以上の人間は存在しないと宣言してきた。それを、金蔵の分、1人減らす!!
 この島には18人以上の人間は存在しない!! 以上とはつまり18人目を含めるぞ。つまり、18人目のXは存在しないッ!! これは全ゲームに共通することである!!!
【戦人】「そら見ろ。やっぱりまだ、とんでもねぇ奥の手を隠してやがったぜ……。17人しか人間のいない島が18人と偽られてきた。それが1人減って17人になり、ようやく正しい数になったってわけだ。…………これで、お前をブチ抜いていた楔が抜かれたな。戦いはゼロから仕切り直しってわけだ…!」
 ベアトを縫い止めていた青き楔が砕け散る。………もう、ベアトを貫くものは何もない。
 彼女の体の傷痕も完全に消え去っている。そこには、戦人が望んだ通りの、……貫禄ある六軒島の支配者である黄金の魔女の姿があった。
【ベアト】「……さぁ来い、戦人。もう一度最初からだ。全てについて、青き真実で打ち抜いてみよ。妾ももはや遊ばぬ、逃げもせぬ、隠れもせぬ。
 そなたが不甲斐ないならばこの勝負、この場にて決着してくれようぞ。妾の譲りし勝利にて妥協しなかったことを永遠に後悔させてくれるッ!!! さあ第1のゲームからだ!」
【戦人】「おうッ!! 第1のゲーム、第一の晩からだ!! 最初の園芸倉庫で見つかった親族6人の殺人に不審な点はない! アリバイのない誰にでも犯行は可能だった!!
【ベアト】「有効だ。続けるぞ、次の絵羽夫婦の密室殺人はどうか! チェーンまで掛かった密室であったぞ! 赤き真実を追加する。二人は他殺である! 密室構築後に片方を殺害の後に自殺したのではない! また、殺人は執行者、犠牲者が共に同室して行なわれた! 執行者が室外から殺害する手段は存在しない!
【戦人】犯人には、アリバイのない人間を想定する。それは死者だ! 最初の6人の死体の中には、顔面粉砕による身元不明死体が含まれる。これが実は偽装死体で、犠牲者のふりをして姿をくらました犯人Xが二人を殺したとの仮説は可能だ! そして犯人は密室殺人構築後、ベッドの下に隠れ、俺たち全員をやり過ごしたんだ!!
【ベアト】「よかろう、次だ! ボイラー室に至った嘉音が殺されたな? 赤き真実を追加する。全ての生存者にアリバイがある! さらに死者も含めようぞ!! つまり、島の如何なる人間にも死者にも、嘉音は殺せなかった!
【戦人】誰にも殺せないなら、自分で殺したということはあるかもな!! なら嘉音くんは自殺かもしれない。
 復唱要求!“嘉音くんは自殺ではない”!」
【ベアト】嘉音は自殺ではない。」
【戦人】「重ねるぜ。復唱要求“嘉音くんは他殺された”。」
【ベアト】「復唱を拒否する。」
【戦人】「その拒否で、他殺を認めることも可能だが、お前はすでに赤で誰にも殺せなかったと宣言している。つまり、他殺ではないんだ。これは第3のゲームの連鎖密室と同じなのさ。
 嘉音くんは自殺でも他殺でもない理由で死亡したんだ。状況は不明だが事故死というわけさ。
 胸に杭がブチ込まれて死んでしまうような、どのようなドジを踏んで事故死に至ったかについての説明は、悪魔の証明により説明拒否ッ!!

【ベアト】「ほほぅ、悪魔の力を身につけたそなたは今や敵なしだな! 有効であるぞ!
 ならば、その後の客間にての、源次、南條、熊沢の3名の殺人はどうか! 無論、同室していた真里亞は殺していないぞ! そしてもちろん三人は他殺だ!
【戦人】殺人を実行したのは、身元不明死体で姿をくらました犯人Xで説明できる。そもそも、あの3人の顔面も粉砕されていた。どれかが替え玉死体の可能性は充分にある!
 「金蔵の名前を持つ人物は1人しか存在しない」ならば言えるが、そのように言い換えたら理由を突っ込まれて藪蛇。
【ベアト】身元不明死体について、その身元を全て保証する。即ち、替え玉トリックは存在しない!
【戦人】ならば相打ち殺人で説明できる。3人はそれぞれに銃を持って時計回りに突きつけ、同時に相手の顔面を吹き飛ばした! その後、真里亞がその銃を回収して隠した!! これならどうだッ!!!」
【ベアト】「なッ、……何と言う暴論ッ!!! き、気に入ったァ…!! ならば最後の夏妃は?!
 身元不明死体について、その身元を全て保証しているが、そもそも死体がなかった可能性は否定されていない。
 赤き真実を追加! 夏妃は他殺である! 身元不明死体は一切なく、生存者も全員がアリバイがある!
【戦人】トラップXによる間接殺人で説明できる! 夏妃伯母さんの銃に細工がされてたんだ。あの銃は、構えて撃った人間の、ちょうど眉間に弾をくれてやるように作られた、罠の銃だったとすれば説明できる!!
【ベアト】夏妃の額に埋まりし銃弾は、夏妃の銃から放たれたものではない!
【戦人】夏妃伯母さんは、内容不明の手紙により誘き出された可能性がある! そしてホールに呼び出された。そして特定の時刻に特定の場所に立つように強いられて、予め設置してあった銃を利用したトラップXにより殺害されたんだ!!
【ベアト】「素晴らしいッ!! そなたの暴論はもはや心地よくすらある! 敬意を表し、第一のゲームをそなたに譲ろうぞ…!! 感服したわッ!! …………がはッ!!!」
 ベアトが第1のゲームの敗北を認めた瞬間、青き真実の杭が再び、ものすごい音を立てて彼女の胸板を貫く…。
【ベアト】「……く、……ぐぉ、……………がああぁッ!!! これくらいでは、堪えぬわ、……まだまだぁ!! 来いッ、第二のゲームだ!!」
 ベアトは胸に突き刺さっていた杭を、辛うじて引き抜くが、……さすがに穴は開いてないとはいえ、おびただしい血を流す大怪我をしているようだった。そして、それに見合った激痛に苛まれている…。
 しかしベアトは歯を食い縛りながらニヤリと笑い、次のゲームを促す。
 だが同情はしないぜ。……ヤツがただそこに存在しているだけで、俺たちは何度も殺され、甚振られ、………縁寿は孤独な未来を強いられるんだ…!!
【ベアト】「そうとも、妾がここにいて、ただ笑うだけでも、永遠の地獄は続く…!! そなたを妹に返しはしない…! 妹は帰らぬ家族に千年の間、泣き続ければ良い…!!」
【戦人】「畜生があぁああああぁ!! 情けも容赦もしねぇぜ、第二のゲームだ、行くぜ!! まずは最初の事件だ! 6人が殺された礼拝堂での密室殺人については、当時の俺がすでに看破している。真里亞の鍵を、何者かが密かに拝借し、事件終了後に密かに真里亞のカバンに戻したんだ!!
【ベアト】真里亞の鍵は、真里亞受領後から翌日の楼座開封の瞬間まで、誰の手にも渡っていない!!
【戦人】ジジイの書斎と同じ構造で、礼拝堂の扉がオートロックだった可能性がある。つまり、事件前に開錠しておいて、扉が閉まりきらないように石でも挟んでおいた。そして鍵を真里亞に預けた。施錠はオートのため、鍵は必要なかったとの仮説もありえる!
【ベアト】金蔵の書斎以外にオートロックの扉は存在しない!
【戦人】扉は犠牲者たちが内側から閉めたんだ。6人の中に犯人がいて、5人を殺し、死んだふりをしていた!!
【ベアト】6人は発見時にすでに全員死亡していた! 全員が他殺だ! 6人は全員が純粋な犠牲者であり、相互の殺人には関与しない! 相打ち殺人は存在しない!!
【戦人】熊沢さんを始め、当時アリバイがない人間が存在した。そんな誰かが6人を殺し、内側に隠れていたと仮定すれば問題ない!
【ベアト】あの礼拝堂には誰も隠れていなかった。よってその、引き篭もり密室は通用しない! どうしたよ、右代宮戦人ぁ、それで終わりかぁ?! 第2のゲームからは甘くないぜぇええぇ?!」
 凄まじき赤と青の真実の応酬。俺から放たれて次々に襲い掛かる青き真実の杭や楔を、ベアトは次々に赤き真実こと、赤き宝刀で切り伏せ、叩き落していく。
 しかし、第一のゲームを落とした際の出血がひどいのだろう。その激しい運動は彼女にさらなる負担を強いていた。
 呼吸の荒さも見える。だからこそ、俺はここで手を休めない! ……あの魔女を追い詰める!
 今度こそ打ち破ってやるッ!
【戦人】「まだだぜ、あぁ、駄目だ、全然駄目だ!! 俺の屁理屈は終わっちゃいねぇぜ!! ならばこれはどうだ!!
 彼らに与えられた飲食物に小型爆弾が入っていて、腹の中で爆発した。つまりトラップXによる犯行の可能性! 気付かずに飲み込んで腹をブチまけるような爆弾の詳細については悪魔の証明ッ! 説明拒否ッ!!
【ベアト】「ぶッ、っはっはっはっはっはっは!! 何だよそりゃあああぁああ?! 小型爆弾んん?! わあっはっはっはっはっは!!」
 しかし、その変化球のように歪に飛ぶ青き楔を、ベアトは叩き落し損ねる。
 それは、ドカッという重い音を立てて、彼女の左肩に深々と突き刺さった。
 しかし、そのあまりの変化球ぶりに、食らっておきながら笑いが止まらないらしい。……あぁ、そうだろうな、俺も何て滅茶苦茶な推理だろうと思うぜ…!!
【戦人】「ハッ、好きなだけ笑いやがれ!! 文句があるのかッ!!」
【ベアト】「無しッ!! その暴論や、心地よしッ!!! 次なる朱志香と嘉音の密室は!」
【戦人】「問題ないッ! 使用人の誰かが犯人であればマスターキーを使える。密室ですらない!
【ベアト】「その後、使用人室で嘉音らしき謎の人物が襲い掛かり、南條と熊沢が殺されたな?! 嘉音の死亡はあの時刻以前に赤で宣言済みだった。ならばあの嘉音は何者だというのか?!」
【戦人】嘉音くんの死亡は赤で宣言済みならば、生きているわけがない。よって、襲われた彼らが、嘉音くんと誤認するような何者かの変装の可能性がある!
【ベアト】彼らは異なる人物を嘉音と誤認することは絶対にない!
【戦人】ならば金蔵の名の世襲と同じに、嘉音の名が世襲された可能性がある。嘉音くんが殺され、別の人物がその名を受け継ぎ、彼らを襲ったと仮定できるッ!!
 西瓜が押し潰されるような音が響き渡り、ベアトの左の脇腹に青き楔が深々と打ち込まれる…。
 場所が悪かったのか、かなり効いたらしい。しばらくの間、屈み込んで呻いた後、……へっちゃらだとでも言うようにげらげらと笑い捨てた。
 あぁ、わかってるぜ。すっげえ痛かったんだろ…!!
【ベアト】「ひゃっはああああぁ!! またしても事も無げに、ニンゲンの誰かを犯人に仕立ててきやがったぜぇ!! ゲーム盤上では口が裂けても言えぬことを、実にしゃあしゃあとのたまう!!
 しかし有効だッ! その暴言ッ、心地よし!! ……心地よいぞ。………これは痛みではない、……心地よさだぁあ!!」
 ベアトが吼えると突き刺さっていた楔が弾き飛ばされる。しかし傷口は残り、激痛で苛み続ける。
【戦人】「いいのか、続けて行くぜ? 第二のゲームの最後の殺人、夏妃伯母さんの部屋で死んだ3人についての青き真実は、18人目のXを否定されても有効のはず! 赤で反論はあるか?! なければ第2のゲームも俺のものだッ!」
【ベアト】「あぁ、ないぞ!! そのような瑣末で戦うのもつまらないッ!! くれてやるッ、第2のゲームなぞ貴様にくれてやるわッ!! ぐおあああぁがッ!!!! ………ふ、……ぐおおおおぉおおおぉおぉ………!!」
 第2のゲームの敗北を認めた瞬間に、今度は2本の青き杭がベアトの胸を抉り貫く…! 魔女の肺を抉り、腸を抉る。魔女が苦悶に表情を歪める。身を捩り、激痛に喘ぐ。
【戦人】「痛ぇのか……?」
【ベアト】「痛いぃぃ? ……いやいやぁ、くすぐったいくらいよ。うっひゃっひゃひゃっひゃあああぁああぁ!! 全身を細切れにされて屑肉の山にされた、お前の妹に比べればなァあああぁ?! お前も屑肉にしてやるぞ、兄妹仲良く混ぜて合挽きにしてくれるわァ、あーっきゃっきゃっきゃあああぁああああぁ!!」
【戦人】「う、……うぉおおおおおおおおぉおおおお!! ブチ殺してやる、お前を同じ細切れにしてやるッ!! 次だ! 第3のゲームだ!! いつまでへばってやがる!! てめえを地獄に叩き落してやるのはこれからだッ!!」
【ベアト】「……ぐ……、が、……うおおおああぁッ! 無論よ、これくらいでへばるものかッ!
 そうとも。まだまだこれからよ! さぁ第3のゲームを始めようぞ、まずは最初の六連結の連鎖密室! 本来ならこの密室はそなたが当時に看破している。しかし、そなたは金蔵を殺してしまった…!!」
 俺は当時、ジジイが犯人で、他の5人を殺して部屋の鍵をそれぞれ数珠繋ぎにした後、自分の密室をボイラー室に構築、そこで、何らかの工作を行なう最中に事故死して、ボイラーで焼け死んだと仮定した。
 しかし俺は、ジジイはすでに死んでいると宣言しちまった。つまりは、自分で自分の説を否定しちまったわけだな。皮肉な話だぜ…! だがッ、
【戦人】「問題ないッ! ジジイ以外にも犯行可能な人間は大勢いる! 親族会議中だった大人たちが、全員グルで犯行に及んだとさえ言い切れる!
【ベアト】マスターキー5本は全て、5人の使用人の懐よりそれぞれ発見された! 個別の鍵は死体の傍らの封筒の中に! つまり、連鎖密室にかかわる全ての鍵が、連鎖密室内に閉じ込められていたわけだ!! ドアの隙間だの窓の隙間だの通気口だのッ、そんなところを使って密室外から鍵を戻すことなど出来ぬぞ!!
【戦人】なら毒ガスで殺したんだ! 鍵は通らなくてもガスなら通るぜ?! 密室の外から殺人を実行したんだ!!
 文脈上、ここでの「生存者」とは「表向き生き残っていることになっている人物」という意味になっている。犯人は死者。
【ベアト】彼ら全員には致命傷となった銃創と思わしき傷痕があったぞ! 室外からの殺害は不可能だぞ!! さらに赤を重ねようぞ! 金蔵を除く5人の殺人の際、殺人者は必ず同室していた! 自殺者がいないことは当時に赤で宣言済みだ!!
【戦人】犯人は全員をそれぞれの部屋で殺害後、連鎖密室を構築した。しかし、最後の部屋の鍵だけは、どうしても密室内に戻せない。だが戻すことは出来たぜ。死体の第一発見者が、鍵を見つけたふりをして、誰かの死体のポケットから取り出して見せればいいからだ!!
 その青き楔の応酬を防ぎきれない…! ベアトは次々と繰り出される青き楔に押され、ついに弾き漏らし再び深手を負う。
【ベアト】「ぎ、ぎぎ、……ぐああああぁッ!!」
 激痛に咆哮しながら、右腕に突き刺さった青き楔を引き抜く。
 ……ベアトの全身は、何度も何度も青き楔や杭、そして刃に切り裂かれ、貫かれ、今や全身を血塗れにしていた。
 しかしそれでも、ベアトはニヤリと笑う。さも愉快であるようにげらげらと笑う…!
【ベアト】「ふっはっはっはぁああああぁ!! 縁寿に、親を連れ戻して帰宅すると約束した男が、どの口で親を犯人にした説を語るというのか?
 いいぜ、それでもいいんだぜぇえぇ? 家族で仲良く大量殺人に手を染めて、決して落ちぬ血に塗れながら縁寿のところに帰れよぉおおおッ!! それでこそ、魔女の島からの生還者にお似合いだぜぇえええぇ? 屑肉縁寿にぴったりだぁああああああひゃっはああぁあああああぁッ!!!」
【戦人】「うおおおおおおぉおおお黙りやがれええええぇええええ!! てめえを殺すッ!! バラバラにして殺すッ!! 命乞いの必要はねぇぜ、絶対にこの手で、最悪の死を与えてやるッ!!」
【ベアト】「あぁ、そなたなら出来るだろうよ…!! 千年の果てに残虐の限りを尽くしきった妾に、それに見合う最期を与えてくれるだろうよ…!!
 あぁ、それは痛いのか? 辛いのか? それともくすぐったいのかなぁあああぁああぁ?!
 これくらいで堪えるかよ、来いよ右代宮戦人ぁああぁ、まだ謎は残ってるぜぇええええぇ!!」
 ベアトはすでに、俺の最初の強力な一手、18人目のXを、島の人数を17人にすることで切り返している。
 だが、17人に制限したところで、絵羽伯母さんという犯人を仮定した説は覆らない。第3のゲームの殺人のほとんどは、この説で撃破できるのだ…!
 全身から血を滴り落とす黄金の魔女……。それを、今こそ完膚なきまでに、容赦なく追い詰める俺。
 これは、勝ち負けを決めて遊ぶゲームではない。……そうさ、遊びじゃないんだ。
 ここでこうして戦って遊んでいるだけでも、………帰りが遅れてるんだ。孤独な縁寿が、悲しみと寂しさで心を切り刻まれ続けてるんだ…! 一秒でも早く、俺は縁寿のところへ帰ってやらなければならないんだッ!!
【戦人】「…………ボロボロだな。虫の息ってヤツか?」
【ベアト】「……くっくっくっく。……まだまだ、……堪えぬわ……。……これくらい、………っ。……くっくくくく、こそばゆいわぁ…!!」
【戦人】「いらねえようだな、容赦。」
【ベアト】「元よりそのつもりもなかろうが。」
【戦人】「存分に行くぜ。」
【ベアト】「そうせよ。逆の立場だった時、妾は容赦しなかった。だからそなたもそのチャンスがあったならそうするべきであろうが。
 じゃないと、また別の世界の孤独な縁寿を呼んで、今度は四肢を引き千切って槍に刺して炙り焼きにしちまうぜぇええええぇ?? うっひゃっはあぁあああああああ!!」
【戦人】「黙れぇえええええぇ!! もう二度と!! 俺の家族も! 親族も! そして使用人のみんなも!! お前の玩具にはさせねぇぜ!!
 ……俺はすでに第4のゲームの謎も全て青き真実で打ち破っている。………残る謎は、第3のゲームの一番最後。……南條先生の殺人だけだぜ。」
【ベアト】「……おや、………妾はもうそんなところまで追い詰められていたか……。……くっくくくく、妾も風前の灯であるなぁ…。……いぃっひっひっひっひ、……がはッ、ごほごほッ!」
 咳き込み、血反吐を吐き出す。……あれだけ何度も内臓をブチ抜かれたんだ。当然だ。
【戦人】「ということは、この南條先生殺しの謎だけが、お前が魔女であることの、最後の防衛線ってことになるな……?」
【ベアト】「…………そうなるな。これを破られたなら、妾は全ての謎を破られたことになる。………そなたの真実のいずれかを新しき赤き真実で反論するか、新しき謎を提示しない限り、妾は、死ぬ。」
【戦人】「……………………。……追い詰められて、風前の灯火って感じには見えねぇぜ。……まだ、何か隠し球を持ってやがるな……?」
【ベアト】「さぁて、どうかな…? 妾はもはや、千年の長過ぎる生涯に飽いている…! その果てに巡り合ったそなたという好敵手によって、生涯を閉じるのも悪くないと思い始めている。
 くっくくくく、そなたなら、やれるよなぁ? やってくれよ。……頼むよ、殺してくれよぉおおぉ。殺してばっかりでさァ、殺された試しがねぇんだよぉおおお!
 お前ら18人を幾百と殺してはきたけれど、殺された試しは一度もねぇから、一回くらいは経験してみてえんだよぉおおおおお、うっひひひひひひい!!」
 それは先ほどから変わらぬ、品のない強がり。……しかし口から血を零し、美しかったドレスを穴だらけにされ、全身から血を流すその姿は、その態度からかけ離れている。
 脇腹に食らった一撃が未だに堪えているのだろうか、無意識にそこを押さえる姿勢に、優雅さは微塵もない。
 ……しかし、同情の余地はないのだ。この魔女に情けを掛ける限り、ここから俺や家族は開放されない。……こいつを倒さない限り、俺たちは家へ帰れないんだ…!!
 世の中、敵対する人間であっても、状況が変わればわかりあうことも出来るだろう。しかし、絶対悪というものが存在する。それは、ただ存在するだけで不幸を強いる邪悪であり、如何なる妥協も許されない。ただ存在し続けるだけで、………悪ッ!!
【戦人】「お前を哀れには思わない。お前が、俺たちの誰にも哀れまなかったように…!」
【ベアト】「………そうともさァ。お前らなんてゲームの駒だぜェ! 毎回毎回、最初の6人は誰を殺そうかなぁ、次の2人はどう殺そうかなぁ、もっともっとグロい殺し方はねぇかなぁあって考えるのは最ッ高に楽しいぜぇえええぇ??
 なぁ戦人よぉ、少し改心するから今回も許してくれよぉお。そしたらさ、もうちょっとマシな殺し方に変えてやるからよぉ? 誰をどの順でどんな風に殺すか、お前の希望も聞いてやるからよぉおおお?
 楽しいぜぇええぇ、人の命を弄ぶってのはよぉおおおおおおお!! お前なら考え付くよ、縁寿をもっともっと屑肉にしてやる方法をよぉおおおおおおお!! 来いよ戦人ぁあああ!! 南條殺し、暴いてみろォオオオオオオオオッ!!」
 18人目のXは破られている。だが、俺は屈しない…!! 魔女の息の根を、止めるッ!!
 第3のゲームのラスト。あの時点での生存者であった、戦人、絵羽、朱志香、そして南條の4人はいずれも南條殺しに関係ないと赤で宣言されている。また、目の前で直接的に殺害したとも宣言している。
 それ以外の人物については、赤で死を宣言されるという最強のアリバイも持っている……。…………18人目のX以外の方法で、これを…打ち破る……!
 考えろ、思考を停止させるな……!! ヤツの赤は俺を縛るだけじゃない、ヤツの弱点にもなるはず…! 何とか逆手に使うんだ………!
 …………そうだ、……まだ、隙間はある……! そうさ、……これで、打ち破る。これでベアトリーチェの魔女伝説はおしまいだ。
【戦人】「……確かに、他の連中は死亡だったろうさ。だが、赤で死亡を宣言されたのは、南條先生が死んだ瞬間ではない。厳密に言えば南條先生の死体が見つかった後の俺とエヴァの戦いにおいてだ。つまり、南條先生を殺した時点では生きていた何者かが、エヴァの死亡宣言までの間に死亡していれば、その間隙は縫えることになる!! つまりはこういうことさ。
 エヴァの死亡宣言で初めて死亡とされた人物の中に犯人がいて、その人物は最初、うまいこと死んだふりをして俺たちをやり過ごした…! そして赤での死亡宣言がないまま、俺たちには死んだと思い込ませた。そして南條先生を殺し、……その後に何かの理由で死んだ! そしてその後にエヴァが赤で死亡宣言を出す!!
 以上の仮説でも、南條先生の事件は説明できるッ!!」
 どうだッ、ベアトリーチェッ?!
 そう強く問い掛けた時、……圧搾としか例えられない凄まじい音がして、黄金の魔女を、丸太のような太さの青き杭が、……地中より現れてベアトを串刺しにし、宙に吊るし上げた……。
 ぐしゃ、ぼぎゃッ、という醜い音が響き渡り、その音の度に、……ベアトリーチェの体を、青き杭が、楔が、現れては貫いていく。
 ……やがて、それが終わった時。そこには、全身を十本を超える杭や楔で滅多刺しにされて血を滴らせ、………磔にされて吊るし上げられた無残な姿が、晒されていた……。
 ……そこに、死者の尊厳を嘲笑い、生者を幾百も弄んで殺した残虐なる魔女の、威厳はない。いつしか降り始めた雨は、……静かに磔の魔女を、苛む……。
 戦人は肩で息をしながら、黄金の魔女が何かを答えるのを待つ…。……黄金の魔女が、まだ生きている気配を見せるには、長くないとはいえ、少しの時間を掛けた……。
【ベアト】「……………痛ぇ……、……痛ぇよォ……………。」
【戦人】「……自業、…自得…だぜ。……お前が殺めてきた人々の痛みの一部を、思い知れ……。」
 そうは言い放つが、そのあまりに痛々しい姿に、戦人はわずかに気勢を削がれているようだった。……例え敵とはいえ、女がこんな無残な姿を晒しているのを、正視できるわけもない。
 しかしそれでも、………ベアトリーチェを滅ぼさない限り、戦いは、終わらないのだ…。
【ベアト】「…………戦人ァ、………頼むよぉ……………。……えっく…。」
 え……? ……ベアトは、嗚咽を漏らした…。
【ベアト】「……痛ぇよ…………。……すげェ………痛ぇよぉぉ………。………終わらせて……、………終わらせてぇ………。……これでもまだ、………死ねねぇんだよォ……。…ひっく……。………こんなに痛ぇのに、………まだ、……死ねねぇんだよォ………。………うっく…!」
【戦人】「…………俺に、……何を、……求めやがる…。」
【ベアト】「……………終わらして…、………。………この苦痛から、………解放して…………。」
 ベアトの表情は、……血と涙で、ぐしゃぐしゃだった。
 戦人は確かに一度、彼女に騙されていた。……だからこの表情も、涙さえも、演技だろうと疑うことができただろう。しかし、………戦人はその涙を、信じた。
 ………なぜなら、その涙は、真実の赤が、混じっていたから。
【戦人】「……どうすりゃいい。どうすれば、お前の痛みを終わらせられる…。」
【ベアト】「…………今から、…………全て…を、晒すから。………それが、………妾の、心臓。」
【戦人】「…心臓…………。」
【ベアト】「………ろし……て。」
【戦人】「……………ベアト…。」
【ベアト】「……殺…し……て……。…………もう、………死な…せ……て…………。……ひっく、…………ぅぇええぇぇぇ………。」
 その涙は、痛みと辛さによるものか、……それとも。いずれにせよ、あまりに痛々しいその表情は、………あれだけ怒りに燃えていた戦人であっても、見るのが辛い…。
【ベアト】「……早く、………縁寿のところに、……帰ってあげ……て………。」
【戦人】「帰るためじゃない。………お前の痛みを止めるために、お前の願いを聞く。」
【ベアト】「……………あり…ぁとぉ……。………戦人ぁぁ………、…うぅぅぅぅぅ…。」
 ベアトは虫の息で、残った力の全てを振り絞り、何とか、両手の拳を、握り締める……。その握り拳に、赤い光が集まっていく。
 ……そして両腕を上げ、………天に何かを願うように、掲げる……。
【ベアト】「……戦人なら、………殺せるから…。………私の全て…。…心臓……。………潰して。…………貫いて。…………ね……?」
 その両腕の赤い光が、どんどん強まっていく……。
【ベアト】「…………おね……が………………………。」
 そこまでを口にし、……彼女の顔が、少しだけ斜めに傾ぐ。そして、右腕が光を失って、どさりと落ちた。……しかし左腕だけは光を失わず、そのまま天に差し出されていた。
 すると、…………戦人の目の前に、カーテンのように透けた、希薄な姿のベアトがもうひとり、現れる。
 ……磔にされているベアトはもう気を失っている。しかし、新しく現れた希薄なベアトは、無表情な瞳で、……静かに俺を見て、…………そして、言った。
【ベアト】「………右代宮戦人。今から私が、あなたを殺します。
【戦人】「………………それで…?」
【ベアト】「………そしてたった今。この島にはあなた以外誰もいません。この島で生きているのは、あなただけです。島の外の存在は一切干渉できません。
 ……俺は、理解する。これは、……ベアトリーチェが魔女でいることが出来る、……“最後の謎”なのだ。
 それを、ベアトは俺に差し出そうとしている。俺に、……最後の謎を解いて、殺してくれと、……懇願している……。
【戦人】「来いよ………。お前の最後の謎、……俺が受け取ってやる。」
【ベアト】「………この島にあなたはたった一人。そしてもちろん、私はあなたではない。なのに私は今、ここにいて、これからあなたを殺します。
【戦人】「南條先生殺しの謎の強化版ってわけか……。………それで……?」
【ベアト】「…………私は、だぁれ…?」
【戦人】「それが、……………お前の最後の出題なのか。」
【ベアト】「……私は、……だぁれ………?」
 「銃創と思わしき傷痕」は、紗音と嘉音の人格死を主張する上で厄介。しかし時期が特定されていないので、最終的に絵羽に射殺されたとすることで抜けられる。
 そして、……ゆっくりとベアトリーチェは俺に近付き、無表情のまま、………抱き締める……。
 ………あぁ、わかったぜ、ベアト。お前を、………殺してやるからな…………。
 俺も、ゆっくりと彼女の頭を、抱き締める。……………そして、駒としての俺は、ゲーム盤を降りた……。
 ここはあくまでもゲーム盤。プレイヤーとしての戦人とベアトがどうなったのかは語られないまま、EP4は終幕する。

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魔女の寝室
 大きなベッドの上は、色とりどりの可愛らしいジェリービーンズや、お弾きのようなチョコレートが散らばっていた。
 プレゼントボックスの中から覗いているショートケーキにはフォークが刺さり、サイドテーブルには、様々な色のジュースの入ったデカンターが並んでいる。
 しかし、コップの中に注がれている飲みかけのジュースの色は、その何れでもなく、毒々しい。色々混ぜて遊んだのだろう。味はともかく、それはとても楽しいこと。
 ふかふかのベッドの上には、カラフルで大きな夢いっぱいのクッションもたくさんある。
 その、まるで子どもの夢の国のような大きなベッドの上に、ベルンカステルはうつ伏せになって、ラムダデルタは仰向けになってクッションを抱きながら、くつろいでいた……。
【ラムダ】「あっははっはっはっは、今回はなかなかハラハラしたわねぇ〜。ベアトがゲーム止めるとか言い出して、かな〜り焦ったわぁ。」
【ベルン】「…………………これだけのゲームを始めておいて、投げっ放しで終えようとするなんて、失礼な魔女よね。」
【ラムダ】「縁寿、いい駒だったじゃない。トンズラしたベアトを引きずり戻して、ゲームを再開させてくれたわ。戦人をやる気にさせ過ぎちゃったのは、さすがに参ったけどねぇ。」
【ベルン】「………………戦人は情に弱いってわかってたから。」
【ラムダ】「確かに。あいつ、敵であるベアトにも手加減しかねない雰囲気があったわねぇ。」
【ベルン】「……………前回の流れから、下手するとベアトに同情して、おかしな方向にゲームを流すかもしれないって、危惧してたの。………縁寿は、戦人がゴールを誤解した時に再誘導するための切り札よ。………本当はもっとサポートさせて、それから切りたかったんだけどね。いきなり切らされたわ。仕込みにずいぶん掛かった駒なのに、勿体無かった。」
【ラムダ】「うっふふふ! 例の名乗っちゃ駄目ルール、枷にしておいてよーかった! あれを設けなかったら、兄妹タッグ大活躍で、ベアトはあっという間に飲み込まれてゲームエンドだったわ。」
【ベルン】「…………一気に畳み掛けるチャンスかと思ったんだけど、あんたのマークがキツくて、上手く活かせなかったわ。……あぁ、勿体無い駒だった。」
【ラムダ】「当然でしょ、あんなズルい駒、とっととリタイアしてくれないと困るわぁ。まぁ、結果的に、ゲーム中断を阻止する活躍をしてくれたし、それは私にとっても助かることだった。互いの利害が一致する活躍をしてくれた、という意味においては、本当に素晴らしい駒だったわよ。」
【ベルン】「………………戦人と同じで単純な子だったから、簡単に私の言いなりになってくれたわ。………駒にするなら馬鹿か直情型よね。……あぁ、本当に惜しい駒だったわ。」
【ラムダ】「その子も今じゃ挽き肉! ねぇ、あとで一緒にそれでハンバーグ作りましょうよぅ☆ あ、餃子の方が好きだっけ? 妹味ってどんな味かしら、くすくす、笑えるゥ!」
【ベルン】「………………あんた、そんな余裕でいいの? 縁寿のお陰で戦人は奮起。ベアトを猛追し始め、今や、だいぶ私が有利なゲーム展開だと思うけど…? というか戦人、今回でこれまでのほとんどの謎を解いちゃったんじゃない?」
【ラムダ】「はぁ? と〜んでもない! 戦人の青き真実なんて、ほとんどハズレてるわよ! ベアトのヌルい赤なんて隙間だらけだもの。多少は知恵の回る子だったら、適当に屁理屈並べりゃ簡単にすり抜けられるわ。……あぁ、本当にイライラしたわよ。私だったら、どれもこれも、徹底的に赤で斬り返してるわぁ。」
【ベルン】「…………あら、そうだったの? 私はてっきり、あれらが正解だと思ってたわ。……小型爆弾を飲み込ませて云々は、さすがにどうかと思ったけど。」
【ラムダ】「戦人の青き真実だって、全部が有効になってはいないわ。……ベアトは、第1のゲームにおいて、身元不明死体について、その身元を全て保証する、とはっきり明言している! これにより戦人の、絵羽・秀吉の密室殺人の犯人は、偽装死体を演じた何者かという推理は破られてるのよ。
 次に、ボイラー室の嘉音は事故死だったろうとしてるけど、くすくす! 自分の胸に杭が突き刺さっちゃう事故って何よ? バッカじゃない? 私が赤き宝刀とやらで斬ってやるわよ。
 嘉音は事故死ではない! その次の客間での源次たち3人の殺人の、時計回りに同時に射殺して死に合ったとかいう、相打ち殺人も滑稽だわ。源次、熊沢、南條は殺人者ではない
 最後の夏妃殺しのトラップXも馬鹿馬鹿しいわ。夏妃を射殺したのはトラップじゃなく、ちゃんと銃を構えて引き金を引いてしっかり射殺したのよ! くすくす、ご愁傷様…!」
【ベルン】「……あんた、駄目よ。そんなこと赤で言っちゃ。あの子、夏妃の銃弾を魔法で跳ね返して殺したってことにしてるんだから。」
【ラムダ】「をっほっほっほ、あらあらいけない、そうだったわねぇ…! 第2のゲームの青き真実だって甘すぎよ。礼拝堂での6人の殺害時、犯人は礼拝堂内にいたわ! あいつ、何でもかんでもトラップXで説明しようとするわよね。トラップXって何よ、ヘンなミステリー小説のお約束ゥ?
 使用人室で南條と熊沢が殺された事件の、嘉音の名前を世襲したとかいうのも滑稽だわ。嘉音の名を名乗ることが出来るのは本人のみ! 異なる人間が名乗ることは出来ない!
 夏妃の部屋の、楼座からマスターキーを借りたという推理もダメダメ! 楼座がマスターキーを管理して以降、それら全ては一度たりとも彼女の手を離れていない! 夏妃の部屋を開錠した時に戦人に貸し出した際を除いてね。まだまだ続くけど、ざっと軽く見てもこんな感じかしら?」
【ベルン】「…………軽くも何も、あんた、第1と第2のゲームにおける戦人の青き真実、軒並み否定しちゃったじゃない。………あらあら、何てこと。戦人がそれを聞いたら卒倒しちゃうわね。」
【ラムダ】「……ね? ベアトは全然追い詰められてなんかいないのよ。………あの子、やっぱりなかなかの役者だわ。きっと、今回のゲームでは、一見追い詰められたフリをして見せて、次のゲーム辺りでバサー!っと赤で一刀両断にして、戦人をびっくり仰天させる作戦でしょうよ。
 くすくす、それできっとまた大笑いしながら言うんだわ。“魔女はピンチになんかなりましぇ〜ん”って! ぷーくすくすくすくす!!」
【ベルン】「……………じゃあ、あのベアトの追い詰められたみたいな悲壮感は全部、演技なの?」
【ラムダ】「そーに決まってるじゃない! あいつ本当に大女優よね! 全然追い詰められてなんかいないのに、最終回顔負けのクライマックス感だったわ! 今年の助演女優賞はあいつに決定ね!! あ、もちろん主演は私だけど〜! ベルンでもいいわよ〜!」
【ベルン】「…………“私を殺して”、みたいなことを言って、最後に大きな謎を出したわよ。それを解かれたらベアトは今度こそおしまいの、背水の陣じゃないの?」
【ラムダ】「くすくすくす…! やぁだぁ、ベルンまで騙されてるのォ? あんなの背水の陣でも何でもない! ベアトはね、まだまだドギツイ奥の手を温存してるわ。……最後の謎を出すために両腕を突き出した時、右腕だけ下ろしたの、気付いてた?」
【ベルン】「……あぁ、そう言えば。………あれはそういう意味だったわけ。」
【ラムダ】「そーいうわけ! あの子はまだまだ奥の手を残してる! そして何も謎は解かれちゃいない…! それをまるで、全て看破されて次回最終回ッみたいなテンションにしちゃうなんて、つくづくあの子は演技の天才よ。あぁ、早く戦人をドン底に叩き落すところが見てやりたいわ!
 あの子、前回のゲームの“北風と太陽作戦”で、すっかり味をしめちゃったんじゃない? 戦人、きっとまたベアトに同情してコロッと引っ掛かるわよ…! 女の涙は一粒で男を騙せるからね、実に安上がりでお得よね!!」
【ベルン】「……………戦人、またその手に引っ掛かっちゃうかしら。二度と同情しないように、私も戦人を焚きつけないと。……当分は、縁寿の挽肉で焚きつけられそうだけど ね。」
【ラムダ】「縁寿味のハンバーグでパワーアップ? をっほほほほほほほ! もちろん、こっちも負けないわよ。ここから、戦人と拮抗するくらいに盛り返せるよう、ベアトを徹底的にサポートするもの。……負けないわよベアトは。負けたら、素敵な罰ゲームがあるわよって、キッチリ脅してるもん♪」
【ベルン】「………………あんたの罰ゲーム、本気で洒落にならないから、少し加減した方がいいわよ。」
【ラムダ】「ベルンに次に罰ゲームを出来る時はこうしようって決めてるのがあるの。聞きたい?聞きたい?」
【ベルン】「いやよ。」
【ラムダ】「も〜〜、聞いてよぅ☆ あのねあのね? ベルンを、素敵な素敵なお城に閉じ込めてあげるの。そのお城は、真っ白な純白の城壁に囲まれていて、一辺は12km。高さは10mあるの。魔法とズルは禁止! とても飛び越せないわよね?」
【ベルン】「14億4千万立米? ………話のオチが読めたからもういいわよ。」
【ラムダ】「うふふふふ! そこをね、毎日一粒ずつの宝石で埋めていくの! それで城壁いっぱいに貯まるまでベルンを閉じ込めて、その宝石で埋め殺すの。素敵な、ロマンチックな罰ゲームでしょう?」
【ベルン】「………………一辺を5倍にしていいから、高さを10分の1にしてくれたら、今から閉じ込めてもいいわよ。」
【ラムダ】「ホント?! 36億立米になるわよ?! 罰ゲームが倍以上の期間になるわよ?! あぁん、そんなにも長い間、虜になってくれるのね?! ベルン大好き、愛してるゥ〜♪」
 ベルンカステルはじゃれ付いて来るラムダデルタの顎下を、猫をあやすみたいにいじると、退屈そうに欠伸した…。
【ラムダ】「ベルンは、戦人の勝利に賭けててぇ。私は、二人が永遠に引き分けになるのに賭けてるぅ。…………それで、誰かベアトの勝利には賭けてないのぉ?」
【ベルン】「…………………賭けないわよ。勝率ゼロだもん。」
【ラムダ】「をっほっほっほ! 奇跡の魔女に、奇跡ゼロって言われるのも本当にお気の毒ゥ! 私も賭けないけどね? 絶対!」
【ベルン】「……………絶対の魔女に、絶対ダメって言われるのもお気の毒ね。」
 二人は珍しく、一緒にくすくすと笑う…。
【ラムダ】「このゲーム、どういう決着に終わるかしら…?」
【ベルン】「……………さすがに、それだけは読めないわ。…だから楽しいわけだし。」
【ラムダ】「もう、逃げも中断も許さない。絶対にゲームを続けさせる、逃がさない…! これからどんな風に展開していくのか、想像もつかないけれど、絶対にありえない決着の仕方だけはわかるわ。」
【ベルン】「…………………ベアトが勝って終わることだけはないわね。」
【ラムダ】「だってぇ。私もベルンも。どっちもベアトの勝利に賭けてないんだもん! つまり、ベアトが勝ちそうになったら、私たち二大魔女を敵に回すことになる…!」
【ベルン】「………そういうことね。私たちの力がもっとも均衡するのは、引き分けと戦人有利の中間で均衡している場合のみ。ベアト有利に傾き過ぎれば、私たちは共に同じベクトルに団結して、ベアトを引きずり戻す。」
【ラムダ】「つまり、ベアト優勢になった瞬間、……私たち二人をまとめて敵に回す、ってことよ。………うっふふふふふ! ベルンと共闘、たっのしい〜〜♪」
【ベルン】「………ありがと。……でも金平糖のお風呂には一緒に入らないわよ。」
【ラムダ】「えぇ〜、金平糖のシャワーを浴びながら、とろけたマシュマロを塗りたくってあげるのにィ。」
【ベルン】「………気の毒に。あの子は、私と遊ぶためにラムダが捕まえてきた生きた玩具、お人形だわ。」
【ラムダ】「私、お人形遊びは上手なの。……ホント、上手に遊べるのよ? 飽きずにひとつの玩具で何百年も遊べるのが自慢なの。」
【ベルン】「…………ある時は味方し、ある時は敵対し、永遠に弄び続ける。……可哀想にね。あの子はもう、私たちのお人形。」
【ラムダ】「うっふふ、そういうことよ、あの子は私たちのお人形。私たち二人の望む末路しか用意されてない。つまり、私によって永遠に引き分けが繰り返されるか、ベルンによってベアトが敗北して滅ぼされるか、でしか終わらないと断言できる。…………うふふ、…ベアトが勝って終わるようなことは、」
【ベルン】「……………奇跡の魔女として宣言するわ。」
【ラムダ】「なら私は、絶対の魔女として宣言するわ。」
【ベルン・ラムダ】「「ベアトは絶対に勝利できない。そして奇跡は絶対に起こらない。」」
【ベルン・ラムダ】「「あっはははははははははははは……!!」」
 演技ではない。ただし、それは追い詰められたからではなく、戦人が罪を思い出さなかったため。