うみねこのなく頃に 全文解説

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EP8: Twilight of the golden witch

オープニング

礼拝堂
 礼拝堂の中には、……二人の人影。それは、兄と、妹の姿。
 12年前の過去より戻らぬ兄と、それを孤独に待つ12年の未来の妹。しかし、兄は全てを理解し、全てを知っている。そして、妹は全てを知らず、何も知っていない。
 だから、妹はいつまでも経っても、12年前の少女のまま。いつまでも永遠に、6歳の少女のままだった……。
 兄の胸に顔を埋めていた妹の嗚咽が、ようやく収まる……。そして、兄の次の言葉を静かに待つ。
 兄はその頭をやさしく撫でてから、自分の懐をまさぐる。そして、……それを取り出してみせた。
【戦人】「いいかい、縁寿。これを大事に持つんだ。」
【縁寿】「………これ、何…? ………鍵…?」
 戦人は懐より、首飾りに繋がった大きな鍵を取り出し、縁寿に差し出す。
 それは戦人の手の平いっぱいの大きさがあり、幼い縁寿には一握りしても余るほどの大きさが感じられた。
 金色に輝き、凝った意匠が施された美しい鍵。その重みだけで、さぞ大切な鍵に違いないとわからせてくれた。戦人はその鍵のついた首飾りを、縁寿の首に掛ける。
【戦人】「これは縁寿だけの、大切な鍵だ。」
【縁寿】「何の鍵なの……?」
【戦人】「使うべき時は、すぐに来る。そして縁寿が、自分で決めるんだ。……わかるね?」
 ……戦人が何を言っているのか、わかるはずもない。でも、この鍵を大切にしろという話だけはわかる。だから縁寿は、それについてだけ、頷いて見せた。
 手に持った時は、ずしりと重いと思ったのに。首に掛けてみると、普通の首飾り程度の重さにしか感じられなかった。とても不思議だった。
【戦人】「さぁ。行こうか。」
【縁寿】「どこへ……?」
 てっきり、兄は腰を下ろすものだと思っていた。兄はついさっき、あの日、六軒島で何があったのかを話そうと言ってくれたのだ。それを、ここで語ってくれるのかと思っていた……。
【戦人】「あの日、あの島で。何があったのか。」
【縁寿】「お兄ちゃんがそれを、聞かせてくれるんじゃないの…?」
【戦人】「聞かせるとも。話して、縁寿に、聞かせる。……でもそれは、縁寿にはただ話を聞いているだけには、感じられないかもしれない。」
【縁寿】「………それはどういうこと…?」
【戦人】「縁寿が本当に望んでいるのは、あの日、あの島であったことを、知りたいんじゃない。」
 ……やはり、……兄は、わかっていてくれた。あの日、あの島で何があったのか。それを知ろうとすることが、私に出来る限界だから、敢えてその程度を望んだのだ。
 ……もし、許されるなら。私は、……行きたい。
 あの日、あの島へ。私が行けなかったあの日の六軒島へ、右代宮本家のお屋敷へ。
 お父さんやお母さん。いとこたちや親戚たち。みんな、みんな。私は、あの日のあの島へ、……帰りたいのだ。
 だから、私はいつまでも、あの日の私のままなのだ。6歳のまま、私の心と魂を、永遠に留めてしまっている…。
【縁寿】「……帰りたいの、私は。」
【戦人】「わかってる。」
【縁寿】「お父さんとお母さん、お兄ちゃん。みんな。………私は、みんなのところへ、……帰りたい……。」
【戦人】「だから、……招くことにしたんだ。」
【縁寿】「………え…?」
【戦人】「お兄ちゃんはもう、ゲームマスターなんだ。ゲーム盤の全てを知る者だけが、ゲーム盤を開き、駒を招くことが出来る。……だから俺は、縁寿をゲーム盤へ、招待する。」
【縁寿】「私を、……あの日の六軒島へ、……連れていってくれるの……。」
【戦人】「あぁ。縁寿を、1986年の六軒島へ、招待しよう。」
【縁寿】「会えるの? みんなに……。」
【戦人】「もちろん。」
【縁寿】「私、……もう記憶もおぼろげで、……みんなの顔、はっきりと思い出せないのに…。」
【戦人】「すぐに思い出すさ。…そして、縁寿にとっては12年ぶりの再会でも。……俺たちにとっては、しばらくぶりでしかないんだ。……みんな歓迎する。12年の、遠い未来からようやく帰ってきた縁寿を、みんな歓迎してくれる。」
【縁寿】「私は、……いつまでもそこにいられるの……?」
 これで、永遠に私は、……みんなと一緒にいられる。そここそが、私の辿り着くべき場所……。
【戦人】「縁寿、よくお聞き。」
 しかし戦人は、諭すように言う。それは叶わぬ夢だと、釘を刺すかのように…。
【戦人】「六軒島の親族会議は、一泊で終わる。あの日は台風だったから、船の都合で二泊だったけれどね。」
【縁寿】「それが過ぎたら、……私は島から、帰らなくてはならないの…?」
【戦人】「……少し違う。それを決めるのも、縁寿なんだ。」
【縁寿】「……………………。」
【戦人】「縁寿が、それを決める。」
 ……もちろん、わかってる。あの日、あの島に、私はいない。その私を、あの日のあの島に招いてくれるだけで、……これは、奇跡なのだ。
 台風が過ぎ去るまでの、ほんの二日間。その、ほんの二日間をくれるだけでも、それは得がたい、二度とない、奇跡。
 それ以上を欲張ったら、そのわずかな奇跡が、爆ぜて消えてしまうかもしれない。……そうは思っても、6歳のまま止まった私の幼い心は、そのわずかな時間の奇跡に満足しようとしない…。
【縁寿】「帰りたくない。」
【戦人】「………わかるよ。」
【縁寿】「いつまでも、みんなと一緒にいる。家族で一緒にいる。お兄ちゃんが、もう帰らなくちゃって言っても……、私は六軒島に残る。」
【戦人】「残るのが正しいとか、帰るのが正しいとか。そういうのじゃないんだよ、縁寿。」
【縁寿】「……それでも、それを私が選ぶの……?」
【戦人】「そうだよ。その為の鍵が、それなんだよ。」
 戦人は、縁寿の胸元で金色に輝くそれを、そっと撫でる。
【縁寿】「私の答えはもう、決まってるよ。」
【縁寿】「今は選ばなくていい。選ぶべき時は、すぐに訪れるから。……その時の、縁寿の素直な心で、その鍵をどう使うか、選びなさい。」
【縁寿】「………………………。」
【戦人】「お兄ちゃんの言うことなんか何も聞かなくてもいい。縁寿のわがままなように、答えを決めても構わない。…………でも。もしも縁寿が良い子で、お兄ちゃんを信用できるなら。」
【縁寿】「……信用できる、なら……?」
【戦人】「お兄ちゃんの言うことは、すべて信じなさい。」
【縁寿】「すべて、……信じる…。」
【戦人】「それが縁寿にとって、一番良い選択になるから。お兄ちゃんの言葉に耳を傾け、そしてすべてを信じなさい。……出来るかい?」
【縁寿】「…………わかんない。」
【戦人】「それでもいい。信じたいものだけを信じればいい。それも、縁寿が決めていいんだよ。」
【縁寿】「……お兄ちゃんを信じないと。……この夢は、醒めてしまうの…?」
【戦人】「そんなことはない。だから安心していいよ。」
 縁寿は何となく、兄を疑い、怯えていた。彼女の希望は、あの日のあの島に、永遠に留まり、家族といつまでも一緒にいること。
 ……奇跡の二日間を得たなら、それに納得し、12年後の未来にひとりで帰れと、……兄がそんなことを言い出しはしないかと、彼女は怯えていた。
【戦人】「さっきも言ったと思う。……残るのが正しいとか、帰るのが正しいとか。そういうのはないんだよ。それを、縁寿が決める。そしてそれは、今すぐ決めなくていい。」
【縁寿】「そのどちらかの選択を、誰も強要しない…?」
【戦人】「もちろん。」
【縁寿】「お兄ちゃんは私に、未来へ帰れなんて、………言わない……?」
【戦人】「………お兄ちゃんは、縁寿に選んでほしいある選択がある。……それを縁寿が自発的に選んでくれることを望んでる。だから望んではいるが、縁寿の選択は尊重したい。」
【縁寿】「私もさっき言った。私の答えは、もう決まっているよ。」
【戦人】「俺もさっき言った。今は、それを選択する時じゃない。」
【縁寿】「それはいつ?」
【戦人】「その鍵がいずれ、教えてくれるよ。」
 縁寿の首に掛かる、大きな金色の鍵。それを、縁寿の小さな手が、ぎゅうっと握り締める……。
 ………その時、礼拝堂の祭壇の上に置かれた、一冊の本が目に入る。その本は、自らに錠前を掛け、鍵がなければ読めないように封印されていた。
 縁寿は、自分の胸元の鍵と、祭壇のその本を、じっと見比べる。
【縁寿】「………あの本は、この鍵で開くの?」
【戦人】「あの本は駄目だ。」
 ぴしゃりと言われ、縁寿は少し面食らう。戦人は、縁寿を怖がらせてしまったことに気付き、表情を和らげて言う。
【戦人】「さぁ、行こう。………1986年10月4日に、縁寿を招待するよ。」
【縁寿】「うん。」
 戦人が手を伸ばすと、縁寿は固くそれを握る。そして二人は、歩き出す。
 礼拝堂の扉の向こうには、眩い光が。目が潰れそうになるほどの光が、扉の隙間から鋭く入ってくる。……その向こうに、二人は歩いていく……。
 お帰り、縁寿。そしてこれで最後なんだ。このゲーム盤を、縁寿のために、……最後にもう一度だけ開く……。
 丸々一話を使った壮大なエピローグ。
 このEPについては、ベルンの出題以外にほとんど謎がなく、それに関しては戦人とベアトが作中で解説しているため、追加の解説は不要と判断した。
 したがって、ごく一部を除き、解説を入れていないのでご了承願いたい。

六軒島へ

六軒島への船
【戦人】「のわぁあああああぁああぁあ!! 落ちる落ちる落ちるぅうううぅぅッ!!!」
 六軒島へ向かう川畑船長の連絡船は、今日も快速、絶好調だった。
 そう。1986年10月4日の物語はいつだって、騒がしい戦人の声から幕を開けるのだ。
 でも、それがいつもと一つだけ違うところがある。戦人の大騒ぎに、もう一つの大騒ぎが重なっているのだ。
 戦人のそれは悲鳴。もう一つのそれは、大はしゃぎ?
【戦人】「落ちる落ちる落ちるぅううぅうう!! あひぃよぉおおおおぉおぉお…!!」
【縁寿】「面白い面白い面白いぃーー!! きゃっきゃ、きゃっきゃきゃっきゃ!!」
【真里亞】「戦人、変なカオ、変なカオ!! きゃっきゃ、きゃっきゃきゃっきゃ!!」
 手すりにしがみ付き、いい年をしてぎゃーぎゃー喚く兄と、同じく手すりにしがみ付き、まるで遊園地で遊ぶかのようにはしゃぐ妹たちの対比に、譲治たちは思わず噴き出さずにはいられない。
【譲治】「6年を経ても、戦人くんは本当に賑やかだねぇ。」
【朱志香】「縁寿も真里亞も、今年は一際賑やかだぜ。」
【譲治】「いとこ5人が全員揃うのって、ひょっとしてこれが初めて?」
【朱志香】「あれ、そうかな? なるほどね。今年はこれまでになく、最高に賑やかってわけだ。」
【戦人】「じょ、譲治の兄貴ぃいいぃ!! これ、速すぎねぇかぁ?! 頼むよ、船の人に言って、スピードを下げてもらってくれぇ!!」
【真里亞】「きっひはははははは! こんなので速すぎなんて、戦人情けない、戦人情けない!」
【縁寿】「縁寿、もっと速いのがいい!! もっともっと! きゃっきゃっきゃ!!」
【戦人】「これ以上速くなったら、お兄ちゃん、船から落ちちゃうぞ?! いいのか、落ちて?! 落ちるぅううぅううぅうぅぅ!!」
【譲治】「ははは。多数決の結果、戦人くんの速度を下げるという提案は、」
【朱志香】「却下みてぇだぜ? あっははははははは。」
【縁寿】「ほらほら、お兄ちゃん、落ちちゃうよ落ちちゃうよ? あっはははははは!!」
【真里亞】「怖がりの戦人はくすぐりの刑だー!! きっひひひひひー!!」
【戦人】「よ、よせやめろ、真里亞!! 縁寿もやめろッ! ら、らめぇえええぇええぇええぇぇ!!」
【霧江】「よかった。縁寿の体調、心配だったんだけど。」
【留弗夫】「ひとりだけ留守番じゃ気の毒だしな。無理にでも連れてきて良かったぜ。」
【絵羽】「直前に大きく体調を崩したって聞いてたけれど?」
【霧江】「それが今朝になったらケロリよ。子供って本当にすごいわ。」
【秀吉】「緊張が体調に出るタイプなんやろな! そういうのは、いざ当日を迎えるとけろっと治ることもあるもんや。」
【楼座】「いとこ5人ではしゃぐのが、楽しくて楽しくて仕方ないんでしょうね。」
【熊沢】「ほっほっほ。子供たちが楽しそうにしているのを見ていると、こっちまで元気になってきますねぇ。」
 子供たちの大はしゃぎを眺めながら、大人たちは微笑み合う。
 体調を大きく崩し、一時は欠席を予告されていた縁寿は、奇跡的に体調を回復。本人の強い希望もあり、親族会議についてきたのだった。
 こうして。いとこ5人が、初めて同時に揃う。初めての、1986年10月4日となった。
 船着場から薔薇庭園へ至る道を、子供たちが駆け上っていく。元気盛りの彼らには、もはやのんびり歩くことすら退屈なのだろう。
【戦人】「わっはははは! 見たかー! 一番〜!」
 ゴールの薔薇庭園に、一番で飛び込んだのは戦人だった。船での汚名を返上するため、陸の上では負けないとばかりに張り切ったようだ。
 だいぶ遅れて、縁寿と真里亞がデッドヒートを繰り広げながら辿り着く。
【真里亞】「真里亞が2番ー!! 縁寿より速い〜、うーうーうー!!」
【縁寿】「違うよ、真里亞お姉ちゃんはズルしたもん!! 縁寿が2番だもんー!!」
 育ち盛りの年頃で、縁寿と真里亞の3つの歳の差は大きい。真里亞の方が速いのは当り前なのだが、スタートの時に肩がぶつかった云々で、縁寿は納得が行かないようだった。
 真里亞お姉ちゃんはズルをしたからビリ! 学校の先生がズルしたらビリだって言ってたもん! と抗議している。
【朱志香】「ほらほら、喧嘩するなって。それにしても、二人とも本当に速ぇなぁ…!」
【譲治】「こんなに走ったのはずいぶん久しぶりだよ……。あぁ、風が気持ちいいね。」
【戦人】「譲治の兄貴は運動不足じゃねぇのー? 毎朝の遅刻レースに鍛えられてりゃ、誰だって足腰は強くなるもんだぜー?」
【譲治】「つまり、その足の速さは朝寝坊の証ってわけだね。」
【縁寿】「お兄ちゃんはお寝坊なの! 今朝も起きなかったから、縁寿が起こしたんだよ! ねー!」
【戦人】「ストンピングからフライングエルボー。最後のトップロープからのボディプレスは強烈だったな。」
【朱志香】「起きるどころか、永遠に起きれなくなりそうな目覚めだぜ…。」
【真里亞】「面白そう! 真里亞もやる、真里亞もやる!」
【縁寿】「お兄ちゃん、きっと明日も寝坊するよ! 今度は真里亞お姉ちゃんと一緒に起こすよ、きゃっきゃ、きゃっきゃ!」
【譲治】「……今夜は、夜更かしは大概にした方が良さそうだね。」
 ようやく、大人たちがやって来るのが見える。いとこたちが、早く早くと手を振る。縁寿と真里亞は、待ちきれなくて興奮しているようだった。
 いとこが5人揃うだけで。縁寿がただ加わるだけで。今日という日は、ここまで賑やかになるのだった。
屋敷
【紗音】「失礼いたします。親族の皆様方が、ご到着いたしました。」
【蔵臼】「無事に着いたかね。では、私は親父殿に伝えてくるとしよう。」
【夏妃】「皆さんは、今はゲストハウスに?」
【嘉音】「はい。荷物を置かれましたら、こちらへ挨拶に来られるとのことです。」
【夏妃】「わかりました。嘉音は皆さんのご案内を。紗音は紅茶の準備を急ぐように。」
【紗音・嘉音】「「畏まりました、奥様。」」
金蔵の書斎前
【蔵臼】「お父さん。蔵臼です。そろそろご準備をお願いします。」
 ノックしながらそう告げると、内側からがちゃりと扉が開いた。
【蔵臼】「おや、南條先生。親父殿は。」
【南條】「ご安心を。もう着替えておりますぞ。ただ、少し緊張されているようですな。」
【金蔵】「誰が緊張しているというのかッ!! えぇい、お気に入りの片翼のネクタイピンが見つからぬ! だからいつも夏妃に言っているのだ! 勝手に物の場所を動かすなと…!」
 金蔵はネクタイ1本、ネクタイピン1つ選ぶだけで、さっきから大騒ぎらしかった。当主としての威厳を何よりも重んじる金蔵は、その身形も相応しくあるべきだと、いつも大騒ぎしているのだ。
【蔵臼】「……何とかなりそうですかな?」
【南條】「もうしばらく時間をいただけますかな。準備が出来たら下へ参りますので。」
【蔵臼】「わかりました。南條先生、よろしくお願いします。……お父さん。そのネクタイピンでも、よく似合っていますよ。」
【金蔵】「そのネクタイピンとは何か、“その”とは!! 年に一度しかない親族会議の日であるぞ! えぇい妥協など許せんぞ、あのネクタイピンでなくては駄目だ! どこだどこだどこだ…!!」
【南條】「金蔵さん、その引き出しはさっき調べたでしょうが……。それに、素晴らしいネクタイピンをいくつもお持ちのはずだ。今日というお日柄に合わせて、相応しいものをセレクトするのも、お洒落の見せ所ですぞ。」
【金蔵】「う〜む、そうであるか? 片翼の鷲じゃなくても良いのか…? うむむむむ……。」
 金蔵をなだめる南條を見ながら。蔵臼はどうしてこの人が自分の母親でなかったのか、理解に苦しむのだった。
 まぁ、いつものことだ。こうして、見えないところでは大騒ぎしながらも、本番になればバッチリ決めてみせる。遅くともランチまでには必ず降りてくるようにお願いしますと南條に伝え、蔵臼はそっと書斎を出る…。
厨房
【郷田】「どうです? いい香りでしょう! そして珍しいでしょう!」
【紗音】「パンプキンティーなんて、初めて飲みました…。ほんのり甘くて美味しいですね。」
 客人たちに振舞う予定の紅茶を、郷田は先に紗音に振舞っていた。紗音はそれまで、使用人たる者は、家人や客人と同じ物を口にするなどとんでもないと思っていた。しかし、郷田に言わせるとそれは違うらしい。
【郷田】「お客様にお出しする物を、味も知らずに出すことは出来ません。……例えば、訪れたレストランで。初めて知る料理に興味を持った時、ウェイターを呼び止めたならこう聞くでしょう? この料理はどんな味ですか、と。」
【紗音】「そうですね…。そこで、食べたことがないから知りませんでは、何だかおかしな話ですものね……。」
【郷田】「そういうことです。給仕に携る者ならば、お客様にお出しするお茶やお料理の味については、熟知していて当然なのです。」
【熊沢】「ほっほっほっほ。それに、自分で飲んで美味しかったお茶なら、お出しする時にも、自然と嬉しくなってしまうものですしねぇ。」
【紗音】「その通りですね。こんな美味しいお茶なら、ぜひ皆さんにも飲んでもらいたいって気持ちになります。」
【熊沢】「だからこそ! 私たち使用人は、あらゆるお料理の味に熟知しなければならないのです。だから私が、ひょいと摘み食いをしてしまったとしても、それも使用人の務め務め…、ほっほっほ。」
【郷田】「役得であり、仕事であるわけです。わかりましたか?」
【紗音】「はいっ。」
【源次】「……準備ご苦労。お茶の方は問題ないか。」
【郷田】「あぁ、源次さんもぜひ飲んでみて下さい。ハロウィンらしく、今日はカボチャの紅茶ですよ。」
【源次】「後でもらおう。もうじき親族の方々がお屋敷にいらっしゃられる。……お子様方もご一緒しそうな雰囲気だ。」
【紗音】「はい。カップの用意も万全です。」
 その時、厨房の内線電話が鳴る。
 すぐ近くに立っていた源次は、コール音を二度鳴らせず、素早く受話器を取る。紗音たちは源次のそれを、いつも、まるでお侍の居合い斬りみたいだと思っていた。
【源次】「……わかった。粗相のないようにご案内を。」
 短くそう告げ、源次は受話器を置く。
【源次】「嘉音からだ。今から、親族方がこちらにお出でになる。お子様方もご一緒とのことだ。紗音と熊沢はお出迎えを。郷田は紅茶の準備を急ぐように。」
【郷田・紗音・熊沢】「「「はいっ。」」」
 使用人たちにとって最大のイベント、親族会議。これを今年も結束して乗り越えようと、彼らの士気は上々だった。
客間
【嘉音】「失礼いたします。親族の皆様をお連れしました。」
【蔵臼】「おぉ、よく来たね。道中、問題はなかったかね?」
【絵羽】「兄さん、儲けてるんでしょ? そろそろ自家用ジェットを買いなさいよ。」
【秀吉】「わはははは。今回の機内も、右代宮家しかおらんかったからな!」
【夏妃】「縁寿ちゃん。来られて良かったですね。体調が悪いから欠席するかもしれないと聞いて、心配していたのですよ。」
【霧江】「ご心配をお掛けしました。今朝になったら急に元気になりまして。」
【縁寿】「お腹痛いのどっか行っちゃったー! お腹をぐるぐる時計回りにさするの!」
【真里亞】「うーうー! お腹痛いのが治る、魔法のおまじないなの!」
【楼座】「こら、真里亞、少し静かにしなさい…。」
【蔵臼】「おぉ、そっちは戦人くんかね…! 大きくなった!」
【夏妃】「6年ぶりですね。本当に立派になりました。」
【戦人】「いやぁ……、いっひっひ。お陰様で背ばっか伸びまして…。」
【朱志香】「肝っ玉の方は相変わらずみてぇだけどな!」
【譲治】「むしろ、相変わらず戦人くんでいてくれて、僕は安心したけどね。」
 わっははははははは。体格は立派になっても、やはり戦人は戦人だと、みんな笑い合う。
【留弗夫】「こいつは飛行機でも船でも、落ちるの何のと相変わらず賑やかでなぁ。」
【霧江】「明日夢さんの血でしょ?」
【留弗夫】「多分アレだぜ。こいつが小さい頃、遊園地で激し目なのばっか乗せて回ったからだ。」
【絵羽】「身長制限で乗れないんじゃないのぅ?」
【留弗夫】「いやいや。ティーカップとか、足漕ぎボートとか色々あるだろ? そういうのを、ちょいと激し目に付き合せたのがまずかったみたいだ。」
【楼座】「留弗夫兄さんは、昔からそういうの、やり過ぎる性質だから。」
【夏妃】「それはそれは……。可哀想に。」
【蔵臼】「はは、戦人くんには同情するよ。」
【絵羽】「でも安心したわ。乗り物嫌いでこそ、戦人くんって感じだものね。」
【縁寿】「お兄ちゃんは乗り物が嫌いなんじゃないの。落ちるから嫌いなのっ。」
【真里亞】「落ちるー落ちるー!! うーうーうー!!」
【楼座】「こらっ、走り回らないの…! 真里亞! お姉ちゃんでしょ? お手本を見せなさい!」
【紗音】「失礼します。お茶の配膳に参りました。」
 良い香りと共に、紗音が配膳台車を押しながらやって来る。はしゃぎ回っていた縁寿と真里亞も、飲食があるとわかれば素直にソファーに座る。
【留弗夫】「ところで、親父はどうしてんだ?」
【蔵臼】「もうじき降りてくるだろう。ネクタイ一本選ぶのに、朝から大騒ぎだよ。」
【絵羽】「相変わらず、当主として威厳ある服装がどうのこうの?」
【楼座】「お父さんって、昔からネクタイにはやたらうるさいわよね。」
【夏妃】「こだわりがあられるのでしょう。お洒落なのは良いことです。」
【蔵臼】「その割りに、結局いつも同じネクタイで現れるがね。」
 親族たちは大笑いする。郷田特選のパンプキンティーの良い香りが客室いっぱいに広がり、和やかな空気を一層、盛り上げてくれるのだった。
【真里亞】「ママ見てママ見て! パンプキンのクッキーだよ、ハロウィンだー!!」
【楼座】「あら、本当ね。この甘い匂いはカボチャなのかしら?」
【紗音】「はい。今日のお紅茶は、珍しいパンプキンのフレーバーなんですよ。とっても美味しいですから、最初はぜひストレートで召し上がってみて下さい。」
【嘉音】「姉さん、袖。気を付けて。」
【朱志香】「へー。カボチャの紅茶なんてあるんだー。郷田さんはよくこんなのを見つけてくるよなー。」
【譲治】「美味しいね。なかなかいいよ。カボチャの自然な甘味が感じられるね。」
【戦人】「カボチャを紅茶にねぇ。でもよ、カボチャと言ったら天ぷらが一番だよな!」
【真里亞】「うー! カボチャじゃないの、パンプキンなのー!」
【縁寿】「パンプキンはカボチャじゃないの! パンプキンなのー!」
 真里亞はニュアンスの違いにこだわって言ったようだが、縁寿の方は心の底から、パンプキンとカボチャは別の存在だと思っているようだ。
 一同は大笑いするが、縁寿にはなぜ笑われたのかわからず、納得いかない顔で小首を傾げている。機嫌を損ねてグズるかと思ったが、真里亞がクッキーゲームなる遊びを教えると、すぐにそれに夢中になってしまった。
 その時、廊下から、ズカズカズカと踵を効かせた足音が近付いてくるのが聞こえた。それが誰の足音であるか察しが付いている親族たちは、ピンと背筋を伸ばす。
 早足な足音は客間の扉の前で一度止まる。……まるで、大きく息を吸って、タメを作っているかのような間。そして、バーンと破裂するかのように扉を開け、源次と南條を従えた金蔵は開口一番に叫ぶ。
【金蔵】「んんんんハッピーハロウィーン!! エぇえぇンド、トリック・オア・トリィイイイイィィートッ!!」
【真里亞・戦人・朱志香】「「「トリック・オア・トリーート!!」」」
 いとこたちも威勢良くそれに応える。大人たちは、照れ臭そうに俯きながら応える。
 縁寿だけは、何事かわからず、ぽかんと口を開けてしまう。
【金蔵】「よくぞ来たぞ、我が孫たち!! お菓子をくれなきゃ、イタズラしてしまうぞであるーー!!」
【楼座】「ほら、真里亞。」
【真里亞】「お祖父さま、ハッピーハロウィーン!! 今年はすごいの、驚いて驚いて!!」
 真里亞がソファーの陰に隠してあったプレゼントボックスを取り出す。気付けば、親族たちもみんな、同様のものをいつの間にか手にしていた。
【霧江】「ほら、縁寿も。これをお祖父さまに渡して。」
 霧江も縁寿に、素敵な包装のされたプレゼントボックスを持たせる。
【金蔵】「おおおおぉ、真里亞ぁあぁあ、いつもありがとぉおおおぉ!! お祖父ちゃんは嬉しいぞぉおおおぉおおぉ!!」
 真里亞のプレゼントボックスを受け取った金蔵は、破顔しながらそれに頬擦りをする。
【源次】「………お館様。威厳をお忘れでございます。」
【金蔵】「むむっ、そ、そうであったな。……嬉しいぞ、我が孫、真里亞よ。お菓子をくれたので、今年はイタズラは勘弁してやろうぞ。」
【真里亞】「今度はお祖父さまの番ー!! お菓子をくれなきゃ、イタズラしちゃうぞー!!」
【金蔵】「うむうむ、心得ておるぞ。源次…!」
【源次】「こちらを。」
 源次は、サンタクロースのように担いでいた大袋の中から、真里亞宛てのプレゼントを探し出し、それを金蔵に手渡す。
【金蔵】「ほぅれ、真里亞〜!! お祖父ちゃんからのプレゼントであるぞぉおおぉ!! これはなぁぁ、んんんん可愛いぞおぉおぉお!! 真里亞にあげるのが惜しいワイ♪」
【源次】「………お館様。威厳。」
【金蔵】「んぬぉぉぉ…。こ、これは右代宮家当主からの、真里亞へのプレゼントである…。これはその、可愛い、……んん、ゴホンゴホンッ。う、右代宮家の貫禄に相応しい品であるぞ。こ、心して受け取るが良い……。」
【真里亞】「ありがとう、お祖父さまぁ!! だ〜い好き!! チュッチュッチュ!」
【金蔵】「ぬッ、ぬほぉおおおおぉおおぉ…!! おぉおぉ真里亞ぁあぁあぁ、我が可愛い孫よぉおおおお!! ちゅっちゅっちゅ〜〜〜〜〜!!!」
【源次】「……………………。」
 さすがの源次も、金蔵にそれ以上、威厳を保たせるのを諦める。それでも、今年の当主の威厳は、普段より10秒ちょっとはもったようだ。
【譲治】「お祖父さま。ハッピーハロウィン。これは僕からです。」
【朱志香】「ハッピーハロウィン。これは私から。気に入ってくれるといいんだけど。」
【金蔵】「おおぉおおぉ、譲治に朱志香。今年もありがとう。私は、……私は嬉しいぞぉ…。」
 金蔵はぼろぼろと涙を零しながら、譲治と朱志香の二人を抱き締める。
【金蔵】「おぉ、そして戦人か。……よく戻ってきたな、右代宮家に。……寂しかったぞ、この6年間…。」
【戦人】「……いや、……まぁ、その…。………ハッピーハロウィン。気に入ってくれるかわからねぇけど…。」
【金蔵】「良いのだ……、良いのだ、戦人よ……。言いたいこともあろう、聞きたいこともあろう。……だが今はそれはなしだ。」
【戦人】「祖父さま……。」
【金蔵】「よく、………右代宮家に戻ってきてくれたな……。……私は、……嬉しいぞ……。」
 金蔵はゆっくりと、……戦人を抱き締める。戦人は最初、面食らったが、やがて金蔵の気持ちを理解し、同じように抱き締めた。
 その光景を、……縁寿は呆然と見ていた。右代宮金蔵って、…………こんな人だったっけ……?
【留弗夫】「縁寿。次はお前の番だぞ。」
【霧江】「ほら、それをお祖父さまに渡して。」
【縁寿】「…………ぁ、………うん。」
 縁寿は、何が何だか、……よくわからない。母に持たされたプレゼントボックスを持って、……おずおずと前へ出る。
 ……それまで、あんなにも上機嫌に顔を綻ばせていた金蔵の顔が、なぜか縁寿が歩み出た途端に、一際険しくなったように感じられた。
 いいや、険しくなったんじゃない。その表情こそが、………縁寿が想像する金蔵が、いつも浮かべているもののはずなのだ。
 それこそが、右代宮金蔵。いつも険しい表情をしていて、短気で気紛れ。……右代宮家で、最も恐ろしい人間…。
【縁寿】「………………………。」
【金蔵】「……………………………。」
 私の時にだけ、世界が静まり返った気がする。……どうして? どうして私だけ?
 でも、なら、……これがむしろ、正しいのでは? これが、私が期待、……いや、理解する右代宮金蔵なのでは……?
 まるで、お茶を運ぶカラクリ人形のように。私はプレゼントボックスを突き出すように持ちながら、呆然と歩き、……金蔵の前で止まった。金蔵は表情一つ変えずに、ゆっくりとプレゼントボックスに触れる……。
【金蔵】「んんんんん縁寿ぇえええぇえぇええぇぬぇええぇえぇえぇぇッ!!!」
 途端、プレゼントボックスごと激しく抱擁。金蔵はその白ヒゲを、縁寿の頬にぞりぞりと押し付ける。
【金蔵】「お祖父ちゃんはッ、お祖父ちゃんは嬉しいぞぉおおぉおぉぉ!! 私はこんなにも可愛らしい孫たちを持てて嬉しい!! 嬉ちい!! 嬉ちくて涙が止まらん、止まらぬぅううぅぅぅうぅぅううう!!」
【源次】「………お館様。鼻水が。……ついでに威厳もお忘れなく。」
【金蔵】「うむッ、源次、すまぬ!! あひおふあふぅううぅううぅぅぅぅッ!! ずびびー!!」
 ハンカチで鼻をかむその姿は、孫たちからの贈り物に感涙を浮かべる、ただの好々爺にしか見えない。
【金蔵】「ありがとう、縁寿。聞けば、体調が悪いのに無理をして来てくれたそうだな…。お祖父ちゃんは本当に嬉しいぞ…! さぁ、お前にはこれだ。」
 縁寿の胸に、大きなプレゼントボックスを押し付ける。……今になって気付いたが、金蔵からのお返しのプレゼントは、包装も箱の大きさも、全員違うものだった。
【戦人】「縁寿には何だろうな。毎年、祖父さまが誰に何を贈るか、自分で考えてるそうだぜ。これだけの大人数を、よくやるもんだよな。」
【縁寿】「………毎年。……自分で。…………。」
 毎年。……何を? 自分で。……何を? この、おかしなセレモニーが、……毎年。
 いとこたちは、今年のハロウィンプレゼントは何かなと嬉々としてはしゃぎ合っている。
 真里亞が、プレゼントの重さ比べをしようと言ってきたが、縁寿はなぜか、ぼんやりしてしまう。
 その後、大人たちも次々にプレゼントを渡していき、金蔵はそれらにも皆、返礼を渡し、体を気遣う言葉や、近況を問う言葉を掛けるのだった。
 そして全員とのやり取りが終わる頃を見計らって、郷田が現れ、ランチの準備が整っていると告げた。
【金蔵】「そうか、準備が出来たか…! さぁ、一同諸君! 郷田自慢のランチに舌鼓を打とうではないか。さぁさぁ、食堂へ移動しよう!」
【郷田】「どうぞ、皆様。ご案内いたします。」
【紗音】「プレゼントは私どもで、ゲストハウスのお部屋へお運びいたします。」
【嘉音】「どうぞ、置いたままでお食事に向かわれて下さい。」
 親族たちはプレゼントボックスをテーブルやソファーに置いたまま立ち上がり、金蔵の後を追って客間を出て行く。
 ……縁寿だけが、金蔵からのプレゼントボックスを抱いたまま、……いつまでもぼんやりと立ち尽くしていた…。
 郷田のランチは、一度だってその期待を裏切ったことはない。これが楽しみで親族会議に来ているんだと秀吉が言うと、みんなも大笑いしながら頷きあった。
 美味しい食事は、自然と会話も弾ませる。大きくなったわね。最近の調子はどう? ぼちぼちでんな。互いの近況を尋ね合い、笑い合う楽しい食卓だった。
 右代宮家の食卓は、序列に従った特殊な座り方になっており、金蔵と親族兄弟、いとこたち、そしてその母親たちがそれぞれグループになるようになっている。だから、ますます自然に会話が弾むのだ。
 縁寿は、いとこたちのおしゃべりからちょっと抜け、周りの様子をうかがってみた。……金蔵と親族兄弟はどんな様子だろう?
 和気藹々と、楽しそうだった。
 親族兄弟たちは、普段はそれぞれの家庭で父親や母親を務めている。しかし、金蔵の前で兄弟たちだけで集まる時には、それらの責務を肩から下ろして、まるで子供の頃に戻ったかのように、若々しく、楽しそうにしているのだ。
 普段は飄々としながらも貫禄のある父親の留弗夫も、そのグループではまるで、戦人がもう一人いると錯覚するくらい、陽気で楽しげだった。
 金蔵だって、和気藹々としている。カネがどうのこうの、遺産がどうのこうのなんてことは、一言だって口にしない。
 それどころか、兄弟たちを無能だの何だのと罵りさえしない。年に一度の、自分の家族の勢揃いに喜ぶ、右代宮金蔵という名の、ただの上機嫌な老人のように見えた。
 母親たちのグループも、同じく和気藹々だった。
 子供の教育問題から家庭の話、家族の健康問題まで、母親らしい話題が次々に飛び出している。秀吉も南條もその輪に加わり、楽しそうに話をしていた。
 そして、いとこたちのグループは? ……こんな楽しげな食卓で、楽しげなグループに囲まれて、……賑やかでないわけもない。
 真里亞は絶好調で、ハロウィンにまつわるウンチク話を続けている。
 それに譲治や朱志香が相槌をうち、戦人がボケては、真里亞に笑われる。
 私が望めば、その輪には自然に加われ、私がデザートに興味を移せば、自然と輪から抜けることが出来る。
 そんな、……楽しくて、それがとても当り前に感じられる幸せ。……まるで、春の日差しの中でまどろみを覚えているかのような気持ちにさせられた。
【金蔵】「天気予報によると、今夜辺りからだいぶ崩れるらしいな。」
【留弗夫】「台風らしいからな。こりゃ、今年も一泊じゃ済まなさそうだぜ。」
【金蔵】「私は一向に構わんぞ、一泊と言わず、いつまででも泊まっていくがいい。可愛い孫の顔が何日でも見られるなら、私は毎日、雨乞いをしても良いぞ。」
【絵羽】「よしてよ、仕事があるんだから。」
【楼座】「お父様が島を出ればいいんじゃない? そうすれば、もっと好きな時に孫の顔を見られるでしょうに。」
【蔵臼】「はっははは。確かに。風情はあるが、離島の暮らしはそろそろ堪えるんじゃありませんか?」
【金蔵】「……都会はうるさい。私の家族だけしかいない、静かな島が一番だ。私はここを気に入っている。」
【楼座】「でも、六軒島じゃ、いざという時、お医者様を呼ぶのにも時間がかかるわ。」
【絵羽】「同感よ。もうお父様も歳なんだから、せめて新島に引っ越すべきだと思うわ。」
【金蔵】「……私はもう、老いた。家族だけに囲まれて、静かに暮らしたい。……そして私は幸せ者だ。それを実現できる、この島があるのだから。」
【蔵臼】「お父さん……。」
【金蔵】「む……。しんみりさせてしまったな。諸君、これで郷田のランチは終了だ。孫たちよ、明日からはずっと雨らしい。晴れているのは今しかないぞ。薔薇を愛でて、それから浜辺を散歩してはどうか。」
【譲治】「そうですね。じゃあ、みんな。そうさせてもらおうか。」
【真里亞】「うー! 薔薇を愛でて、浜辺を散歩するー! 貝殻拾いして、ガラス拾いもするー!」
【戦人】「ガラス拾い? 何だそりゃ、危ないな…!」
【朱志香】「ガラスの欠片が、波に洗われて丸くなって、綺麗な石になって流れ着いてるんだよ。忘れたかよ、戦人。昔、一緒に拾ったろ?」
【戦人】「あぁ……、あれ、ガラスの欠片だったのか。俺はてっきり、そういう綺麗な石なんだと思い込んでたぜ。」
【真里亞】「縁寿はガラスの石、見たことある?!」
【縁寿】「……ない。」
【真里亞】「じゃあ行こう!! 真里亞が教えてあげるよ!! 行こう行こう! でも早い者勝ちだよ! 真里亞が全部拾っちゃうー!」
【朱志香】「へへっ、なら私も負けないぜ。誰が一番綺麗で大きなガラス石を拾えるか、競争しよう!」
【戦人】「やれやれ! ここは一つ、童心に戻るとするかな! 負けねぇぞー!」
【譲治】「じゃあ、僕たちは浜辺へ行って来ます。」
【金蔵】「うむ。いとこ同士、のんびりしてくるが良い。」
 いとこたちは席を立ち、賑やかに食堂を出る。縁寿は真里亞にぐいぐい手を引っ張られて、走らされる。
 でもその表情は、真里亞の満面の笑顔と違って、どこか上の空のような表情をしていた……。

6歳の縁寿

海岸
 いとこたちは、波打ち際を散歩しながら、色々と遊んだ。
 波で研磨された、宝石のようなガラス石を探したり。それぞれの近況を語り合ったり、茶化したり。
 砂に文字を書いてみたり。返す波を追ってみたり、寄せる波から逃げてみたり。いとこだけの、楽しい時間が過ぎていった。
【戦人】「待て待て、真里亞ー!! 今度は許さねぇぞー!! わっはっはっは!」
【真里亞】「きゃっははははは!! やだやだやだやだ、きゃっはっはっは!」
【譲治】「転ぶとケガをするよ。二人とも気を付けて。」
【朱志香】「風が強くなってきたかな。そろそろ引き上げた方がいいかもしれねぇぜ。」
【譲治】「そうだね。空も曇ってきた気がするよ。………戦人くん、真里亞ちゃん! そろそろおしまいにして、一度ゲストハウスに戻ろうか。」
【真里亞】「うー? やだー! もっと遊ぶー!!」
【戦人】「こらこら、聞き分けろぃ。じゃあこれでおしまいだ。ほら、俺のガラス石やるよ。」
【真里亞】「うー!! 本当?! ありがと戦人!! これで一番数が多いのは真里亞だから優勝だね! うーうーうー!!」
【朱志香】「縁寿ー、大丈夫か?」
【縁寿】「…………うん。」
【戦人】「どうした、縁寿。少し元気ないぞ。」
【譲治】「疲れたんだよ。さ、みんなで戻ろう。」
 確かに、縁寿の表情は、疲れたようにも見えただろう。でも戦人にだけは、少し違うものに見えた。
【戦人】「何かあったのか。話してごらん。」
【縁寿】「…………何でもない。」
 口ではそう言うが、何か納得がいかないと表情が物語っているように見えた。
 縁寿がそれを口にせず、戦人にそれが思い当たらない以上、彼にそれ以上を察することは出来ない。だから、その小さい手をそっと握って、いつでも話していいよと、無言で伝えることにするのだった…。
林道
 さっきまではあんなにも暖かな陽気の一日だと思っていたのに。空の色は鈍くなり、風も心地良さより意地悪さを感じさせるようになっていた。ぼやぼやしていれば、その内、雨粒さえ混じり出すかもしれない。
【朱志香】「これで、あとはずーっと大雨ってわけか。何だかゲンナリするぜ。」
【譲治】「でも、短い時間だったけど、童心に戻れて楽しかったよ。」
【真里亞】「このガラス石、早くママに見せてあげるの! 真里亞が優勝したってママに教えるの!」
【戦人】「いっひっひ。俺が見つけたヤツを譲ったんだけどなー。」
【真里亞】「うー! 真里亞がもらったから、真里亞のものなの! だから真里亞が優勝なの! うーうーうー!!」
 縁寿は、兄に手を引かれながら、ぼんやりと歩いている。きっと朝が早くて、もう眠いのだろうと譲治たちは思っていたので、特に言葉はかけなかった。
 林道を抜け、薔薇庭園の景色が広がる。強い風に、薔薇の茂みがうねるのが見えた。
【真里亞】「ママー!! 見てー!! 真里亞が優勝したのー!!」
 真里亞が手を振って叫びながら駆け出す。見ると、ゲストハウスの前で楼座が手を振っていた。
【朱志香】「私は一度、自分の部屋に戻るぜ。そしたらすぐ、いとこ部屋に行くよ。」
【譲治】「うん、わかったよ。じゃあ、後ほどね。」
 朱志香も屋敷の方へ駆け出していく。譲治が、僕たちも行こうかと振り返る。
 でも、縁寿が気難しそうな顔をして、立ち尽くしているのに気付き、何か事情があって機嫌を悪くしているのかもしれないと察する。
【譲治】「……大丈夫かい?」
【戦人】「あ、あぁ、大丈夫だよ。悪ぃけど、先に行っててくれねぇかな。」
【譲治】「うん、わかったよ。じゃあ、後で。」
 譲治もゲストハウスへ向かう。薔薇庭園には、譲治に手を振る戦人と、……その戦人と手を繋ぎながら、ずっと俯いている縁寿が残った。
 どうした縁寿? ……という言葉は、さっきからずっと掛けている。お腹が痛いとか、明白な理由があって不機嫌であるとか、……そういうのでないことはわかっている。
 でも、幼い少女には、彼女にしかわかりえぬ理由で機嫌を崩すことだって、時にはあるはずだ。戦人はそれを理解しているから、急かすことは一切せず、妹の手を握り締めたまま、美しい薔薇庭園の景色を眺めているのだった。
【縁寿】「…………お兄ちゃん。」
【戦人】「……どうした。」
【縁寿】「どこ。…………ここ。」
 縁寿は問う。全てが銀幕の向こうの出来事かのように。戦人は、その問いの意味を理解しながらも、素っ気無く言った。
【戦人】「どこって。六軒島だろ。」
【縁寿】「違うわ。」
【戦人】「違わねぇさ。」
【縁寿】「これのどこが、六軒島だっていうのよ。」
【戦人】「1986年10月4日の。……お前が知りたがってた六軒島だ。」
【縁寿】「嘘よ。」
【戦人】「どうして。」
【縁寿】「こんなの、………嘘っぱちだわ。」
 縁寿は兄に握られていた手を払う。その手が茂みの薔薇を叩き、はらりと花びらを散らせた。
【戦人】「俺は嘘なんか吐かねぇ。」
【縁寿】「これのどこが真実だって言うのっ。」
 縁寿がそう吐き捨てる。しかし戦人の表情は、静かな落ち着いたものだった。
【戦人】「……何が気に入らない?」
【縁寿】「右代宮金蔵って! あんな人のわけないでしょう?!」
【戦人】「孫たちとしばらくぶりに再会したなら。………どこの祖父さんだって目尻を下げるだろうぜ?」
【縁寿】「少なくとも右代宮金蔵は、そういう人じゃなかったでしょう?! 右代宮金蔵ってのはッ…!」
【戦人】「厳格で気難しく、短気で怒りっぽい?」
【縁寿】「わかってるじゃない!! 何よ、あれ!! あれのどこが、右代宮金蔵なのよ?! ハロウィン? プレゼント交換?! 何よ、それッ!! こんなの、右代宮金蔵じゃない、六軒島じゃない…!!」
【戦人】「………縁寿は、覚えてないのか。」
【縁寿】「何がよ…!」
【戦人】「こんなのは、いつも恒例だったじゃねぇか。」
【縁寿】「恒例…? これが?!」
【戦人】「そうだよな。お前が親族会議に来たのは、6歳より前なんだもんな…。……なら、覚えてなくても無理はない。」
【縁寿】「覚えてなくてもって、…………。」
 縁寿は、兄が言おうとしていることを理解はする。……でも、それを受け容れることは出来なかった。
【戦人】「右代宮金蔵は、確かに厳しい人だったさ。若かった時は、相当、キツく息子たちに当たっていたらしい。……それが半ばトラウマになって、クソ親父たちが未だ、祖父さまのことをおっかながっていることは、……まぁ、確かにハズレじゃない。」
 金蔵の右代宮家復興を巡る豪腕の物語は、彼を厳格で恐ろしい人物であると修飾するには、充分なものだった。それに、金蔵は投資家でもある。彼をより神秘的に見せる数々の伝説や武勇伝は、そのビジネスに有利に働いただろう。
 ……金蔵も、自分の存在感をより高めるため、望んで彼らが期待する人物像を演じたところも、あったかもしれない。だから、世間が右代宮金蔵を語る時、それは厳格で短気で怒りっぽく。そして気紛れで豪胆で理解し難い奇人であるかのように語られた…。
【戦人】「でもそれは、……祖父さまの外の顔だ。右代宮家で、親類一同、水入らずで過ごす時の顔じゃない。」
【縁寿】「……あの、目尻を下げて孫たちを溺愛する、涙腺の緩んだ老人が、……右代宮金蔵の、本当の姿だっていうの。」
【戦人】「縁寿だって、遊んでもらったり、頭を撫でてもらったりしたことがあるはずだ。本当に覚えてないのか……?」
【縁寿】「…………………………。」
 そう言ったことが、……あったかもしれない。しかしそれは、金蔵のちょっとした気紛れで……。
 いつも両親に言われてた。……お祖父さまはとても厳しい人だから、粗相がないようにって。……怖い人だから、くれぐれもって、……いつも、……いつも……。
【縁寿】「………だから…。………怖い人なのよ…。」
【戦人】「幼いお前は、親の言い付けを過剰に聞いて鵜呑みにする、よく言えば素直な、……悪く言えば思い込みの激しい子だった。……親父たちは、行儀よくしてるようにと念を押していただけなんだ。」
【縁寿】「……私、……見てたもん! 知ってたもん! 右代宮金蔵は恐ろしい人だ、って! 怒鳴ってるところを見たことがあるもん!! 私は覚えてる、忘れない!!」
【戦人】「さっきも見た通り、祖父さまは唐突なお人だ。……ひょっとすると、何かを驚かそうとしたのかもしれない。あるいは、親たちとの真剣な議論の中で、つい怒鳴ってしまったこともあったかもしれない。」
【縁寿】「それを、私が勝手に怯えて、……勝手にそうだと思い込んだって言うの?」
【戦人】「………………………。」
【縁寿】「そんなはずないわ、そんなはずない! だって私は覚えてるもの、忘れない! ちゃんと見たわ、右代宮金蔵が怒鳴ってる恐ろしいところを! 父さんも母さんも怯えていたわ、だからわかるの、私はわかる!!」
【戦人】「………幼いお前が抱いた祖父さまの印象は、そのまま残り、お前の成長と共に膨らんだ。」
 縁寿は金蔵に何度出会ったというのだろう? 最後に出会ったのは、いくつの時だったというのだろう?
 緊張して体調を崩しやすかった縁寿が、何度も六軒島へ行けたとは思えない。そして、6歳の親族会議は欠席したのだから、その前に出会ったとしても、それは5歳の頃の記憶だ。
【縁寿】「お、……お兄ちゃんだって、6年間、右代宮金蔵には会ってないじゃない。」
【戦人】「そうだな。でも、6年ぶりに帰って来て、……祖父さまは6年経っても、まったく変わってなかったって知ったぜ。」
【縁寿】「金蔵は、……気紛れで何を考えてるかわからなくて、……不気味なオカルト趣味の奇人で……。」
【戦人】「オカルト趣味なのは間違いない。余生の趣味にしちゃ、ちょいと珍しいものだったのは事実だ。……その不気味な収集品で孫を怖がらせてからかう、悪い趣味があったことは、俺も認める。」
 戦人もかつて金蔵に、からかわれたことがある。おかしな杭が7本も詰まったアタッシュケースを見せられ、……これは中世の昔に、魔女が生贄の儀式で、心臓を抉るのに使った杭だ、みたいなことを。
 脅された当時はそこそこに怖かったが、今にして思うと、文字通りの子供騙しだ。祖父さまは孫とじゃれ合いたくて、……怖がらせてからかっていただけなんだ。
【戦人】「祖父さまはきっと、……お前にも同じことをしてからかったと思う。幼いお前が、それに怯えて、祖父さまを不気味で恐ろしい人だと思い込んだとしても、無理もない話だと思う。」
【縁寿】「………お、……お兄ちゃんが何を言ってるのか、……わからないっ……。」
 縁寿は下唇を噛みながら俯く。何を言ってるかわからないと言っておきながら、……理解し、それを受け容れまいと、抗っているようだった。
【戦人】「さっき、客間でハロウィンのプレゼント交換があったな。」
【縁寿】「……何よ、あれ。あんな甘ったるいこと、右代宮家でやるわけがない…!」
【戦人】「お前は、……まるで覚えてないんだな。」
【縁寿】「私もかつて、プレゼントをもらったことがあるというの?! 覚えてない!! そんなのあるわけがないッ!」
【戦人】「……オカルト好きで西洋かぶれの祖父さまが、ハロウィンをやらないと思うか? ……祖父さまのハッピーハロウィンは、もう親族会議の挨拶みたいなもんだったぜ。……縁寿だってもらってるはずだ。」
【戦人】「………幼いってのは残酷だな。祖父さまが心を込めて選んだろうプレゼントも、……お前の心にはまったく残らなかった。」
【縁寿】「私が幼かったから覚えてないだけで……、あれが、……あれがッ、……真実の10月4日だというのッ?!」
 あの日も、6年前と何も変わらず、祖父さまはハッピーハロウィンの声とともに客間にやって来たよ。
 そして、俺との6年ぶりの再会に涙を零してくれながら、……俺とプレゼントの交換をした。……祖父さまは、縁寿が来れなかったことを残念がっていたよ。
 だから、縁寿にぜひ渡してくれと、霧江さんにプレゼントボックスを預けていた…。
【縁寿】「そんなプレゼント、私は知らない、受け取ってない…!!」
【戦人】「……そうだな。……お前に届けることは、出来なかったな…。」
【縁寿】「私は信じないッ!! あんな右代宮金蔵なんて、信じない! じゃあ親族会議はどうなの?! 遺産分配のためのきな臭いものじゃなかったの?!」
【縁寿】「親族兄弟たちはみんな資金繰りに困っていた! そのために金蔵の遺産を渇望していた…!」
【戦人】「…………縁寿はそんなことを、どこで知った?」
【縁寿】「どこって、……そうでしょ?! それが真実でしょう?!」
【戦人】「幼い縁寿に、親父が自分の会社の経営が苦しいなどと相談すると思うか…? 親父だけじゃない。蔵臼伯父さんや絵羽伯母さん、楼座叔母さんが、……幼い縁寿に、資金繰りに困っているから早く遺産がほしいなんて話を、……仮にするにしても、お前がいる前ですると思うか…?」
【縁寿】「だ、だって、……でも本当でしょう?!?!」
 結論から言えば、事実だ。縁寿の言うことに、間違いはない。留弗夫だけでなく、蔵臼も秀吉も楼座も、みんな会社の資金繰りに困っていた。
 ……六軒島爆発事故が、まことしやかに陰謀説を囁かれるようになり、……世間が妄想したミステリーで島を覆うようになり。週刊誌やテレビ番組が、親族兄弟たちの当時の内情を調べ、縁寿のいる未来に、それを発表したからだ。
【戦人】「………お前がそれを知ったのは、………1986年よりも、後のことだ。」
【縁寿】「でも、事実でしょう?! 事実は真実ッ!」
【戦人】「だから、六軒島での親族たちは遺産を巡ってギスギスしていたってわけか? …………そこに、縁寿の幼い頃の、親族会議では粗相がないように、行儀よくしているようにと、親に重ねて言われて緊張した記憶が重なる…。」
【縁寿】「わ、……私の知っている六軒島が、……右代宮家が、………間違ってるって言うの……?!」
【戦人】「………………………………。」
【縁寿】「間違ってるのはお兄ちゃんよ!! あんなのありえない、あるわけがない!! 私は認めないわ、あんな右代宮金蔵ッ。断じて断じて、あんな右代宮金蔵を受け容れることなんて出来ないッ!!」
【戦人】「縁寿は、信じないのか。」
【縁寿】「えぇ、信じない!! お兄ちゃんがどういうつもりでこんなものを見せているのかわからないけれど! だって、これはお兄ちゃんのゲーム、いえ、ゲーム盤じゃない!」
【戦人】「……………………。」
【縁寿】「ベアトだのベルンだの! 何人もの魔女が、私の運命を嘲笑い、そのゲームで屈服させようとしてきたわ。でも、私は真実を求めている! 魔女たちのまやかしなんか通用しない! ……なるほどね、魔女たちめ。最後の刺客に、お兄ちゃんを送り込んできたってわけだわ。」
【戦人】「……そうだな。……これは、俺のゲームだ。だから確かに、これは俺の物語であり、俺が紡いでいる。だからこそ、もしもお前が島に来ることが出来たならという、IFを混ぜることが出来る。」
【縁寿】「ほらッ! お兄ちゃんの物語じゃないッ!! 全部お兄ちゃんの、……嘘っぱちの作り話じゃない!!」
【戦人】「…………………そうだな。……これは全て俺の、作り話だ。」
【縁寿】「ほら!! 認めたわね? 認めたじゃない!! やっぱりこれは、お兄ちゃんの嘘なのよ…! どうして嘘を吐くの?! どうして私に、真実を教えてくれないの?!」
【戦人】「……真実より。……もっと大切な。……どうしても伝えたいことがあるからだ。」
【縁寿】「真実より大切なこと……?! 何それ、わけわかんないッ。」
【戦人】「それをわからせるためのものが、俺のゲームだ。」
 かつてベアトのゲームが、戦人に魔女の存在を信じさせようとすることが目的だったように。戦人のゲームは、……縁寿に、真実より大切な何かを、伝えることを目的とする。
 ゲームは、いつだってその結果を強制しない。ベアトだって、戦人が自ら認めない限り、永遠に勝つことは出来ないゲームだった。
 戦人のゲームも同じ。縁寿が自ら認めない限り、……戦人に勝つことは出来ないゲームなのだ。
 だから戦人は、かつてのベアトのようにゲームを進める。信じるかどうか。納得するかどうかは、全て対戦相手が決める。
 その為に、……戦人は自分の幻想で、縁寿を包み込もうとしている……。
【縁寿】「ようやく理解したわ。………これは、私とお兄ちゃんのゲームなのね。」
【戦人】「縁寿。俺はお前とゲームをしているつもりはない。」
【縁寿】「いいえ。これはゲームだわ。……私は1986年10月4日の真実が知りたいと願った。そしてお兄ちゃんは私にそれを見せると言って、このゲームへ招いたわ。そして、おかしな幻想を見せて、それが真実だと私に信じ込ませようとしているッ。……お生憎ね。私、魔女たちとのやり取りは慣れてるの。お兄ちゃんが、やさしそうな顔をして私を騙そうとしてることなんて、百も承知なんだから…!!」
【戦人】「…………………………。」
 感情を昂らせる妹には、どのような言葉も無意味であることを、兄は知っていた。
 だから、ただ静かに縁寿の言葉に耳を傾けていた。しかしそれでも、……それが縁寿には気に入らない。
【縁寿】「もう下らない茶番は飽き飽きだわ。お兄ちゃんに、真実を話す気がないというなら、もうおしまいにして! 私は私の真実を自分で探す! お兄ちゃんには頼らない…! ………そうよ。元々、頼るべき人間なんて、……私にはいなかったじゃない…。……私は、……いつだって、……ひとりぼっちだったわよ……。」
【戦人】「悪いが。このゲームから降りることは、許さない。」
【縁寿】「……あぁ、そうだったわね。ゲームマスターが負けを認めない限り、ゲームは永遠に終わらないんだったっけ。」
【戦人】「そんなつもりはないさ。……黙って話を聞けってだけのことだ。」
【縁寿】「……あぁ、そう。なら黙ってることにするわ。……プレイヤーがいなくても、駒は勝手に動き、ゲームは進む。……そうだったわよね。」
【戦人】「………………………。……そうだな。プレイヤーを離れ、少し傍観者になるといい。そして、また戻って来たい時に、戻ればいい。」
【縁寿】「そうさせてもらうわ。これは根競べよ。………お兄ちゃんが真実を誤魔化すことを諦めるまでのね。」
【戦人】「………………………。」
【縁寿】「真実より大切なこと? ……意味わかんない…! そんなもの、あるわけがない…!」
【戦人】「あるんだよ。縁寿。……仮に、俺の物語が真実でなかったとしても、あったとしても。……お前は大切なものを、この島でなくしているんだ。」
【縁寿】「お父さん、お母さん。そしてお兄ちゃん。……私がなくしたのは家族と、そして全てよ。」
 それ以上の問答は何の意味もないと吐き捨て、縁寿はそっぽを向く。そんな仕草にさえ、戦人の表情は穏やかなままだった。
【縁寿】「勝手に進めなさいよ。じゃあね、お兄ちゃん。」
【戦人】「………物語だけはちゃんと見ていろよ。聞くだけでもいい。」
【縁寿】「気が向いたらね。……じゃ。」
 縁寿の目が、ぼんやりと曇る。そして一際強い風が、ざぁっと吹いて、彼女の髪を大きく散らした。その風が埃を運んだのだろう。縁寿は鼻をむずむずさせてから、大きなくしゃみをする。
【縁寿】「………ぅぅぅ。……お兄ちゃん…?」
【戦人】「何だい。」
【縁寿】「……いつまでここにいるの…? 何かお天気、変…。……ゲストハウスに帰ろうよ。」
 もう、縁寿の瞳は曇っていない。しかし、先ほどまでの縁寿とは、どこか瞳の色や雰囲気が、違うように見えた…。
 縁寿は幼い少女特有の仕草で、飽きたからもう行こう行こうと催促する。その縁寿は紛れもなく、6歳の縁寿だった。
【戦人】「そうだね。……じゃあ、縁寿はゲストハウスに戻ってるといい。お兄ちゃんはまだここにいるよ。」
【縁寿】「どうして…? もうすぐ雨が降ってくるよ。」
【戦人】「そろそろ来るはずなんだ。だから俺は待ってるよ。」
【縁寿】「待ってるって? ………誰? ……………え?」
 その時、縁寿の目には、強い風に混じって、金箔が飛び散ったように見えた。いや、見えていたに違いないのだが、……それを自分でも正しく形容できなくて、風に舞う金箔のように感じたのだ。
【戦人】「来たか。……ずいぶん待ったぜ。」
 まるで風に語りかけるように。……戦人は誰の姿もない薔薇庭園に、そう告げる。
 そんなはずはない。だって兄のその口調は、紛れもなく、目の前にいるかのような誰かに向けたものに違いなかったからだ。だから縁寿は、自分の目にだけは見えないのかと思い、ごしごしと両目を擦る。
 そして目を大きく見開いた時、再び、ざぁっと大きな風が吹いた。
 咄嗟に目を瞑り、………恐る恐る開いた時。薔薇庭園の向こうに。そう、それは船着場から至る階段に。……人影が現れるのを見た。
 まるで金箔の風と共に現れたように、縁寿の目には見えた……。
【戦人】「遅ぇぞ、ベアト。」
【ベアト】「そうか? むしろ早いぞ。」
【戦人】「たまにはお前も一緒に船に乗ればいいんだ。」
【ベアト】「柵に掴まってお前と一緒に叫ぶか?」
【戦人】「いいぜ、叫ぼうぜ。落ちるー落ちるーってな。」
【ベアト】「くっくっくっく! なるほど、それも悪くなかった…! 認めよう、どうやら妾が来るのは遅かったらしい。」
 二人は自然と歩み寄り、抱擁を交わす。それは、数年来の親友との再会のように見えた。
【縁寿】「………………………。」
 縁寿は、見知らぬ女の姿に驚き、隠れる物陰を探す。
 しかし、ベアトと目が合ってしまい、逃げ損ねてしまう…。
【ベアト】「おお、そなたは縁寿か。」
【縁寿】「………………っ。」
 見知らぬ女に突然、自分の名を呼ばれて驚く。
【ベアト】「こやつも6歳の頃は、なかなかに可愛かったではないか。」
【縁寿】「……お、……お兄ちゃん。……この人、……誰……?」
【戦人】「お兄ちゃんの友人だ。」
【ベアト】「友人ぃぃいぃん?! それはあんまりであろうがぁあぁ!」
【縁寿】「……お兄ちゃんの、……友達………?」
【戦人】「こいつはベアトリーチェ。お祖父ちゃんから聞いたことないか? 右代宮家に黄金を授けてくれた、黄金の魔女の話を。」
 そんな話も、……あっただろうか。黄金の魔女。……思い出した。
 六軒島でお泊りの時、親の言うことを聞かなかったり、いつまでも夜更かししていたりすると、森にさらっていってしまう、恐ろしい魔女のことだ。
【縁寿】「雨の夜。……真っ暗な森を窓から眺めてると、……魔女と目が合って、さらわれてしまうかもしれないって、……お母さんに言われた。」
【ベアト】「ということは。妾は夜更かしの子供を見張るため、寒い雨の中、窓をひとつひとつ覗き込まねばならぬというのか。それはあまりに無体な…!」
【戦人】「わっはははは、確かに。縁寿、それはお前に夜更かしをさせない為の、親の作り話だ。彼女はそんなことはしない。」
【ベアト】「よかろう、名乗ろうぞ! 妾は黄金の魔女ッ、ベアトリーチェ!」
【戦人】「の、お孫さんだ。」
【縁寿】「孫………?」
【ベアト】「お、……お孫さんとは、何ともしまらぬ呼び名であるな。」
【戦人】「だってそうだろ。祖父さまに黄金を授けて、黄金の魔女と呼ばれたのは、お前の祖母さまの話だろうが。」
【ベアト】「む、むむむ、確かにそうではあるが。……黄金の魔女の孫、か。……ううぅむ、そのキャッチコピー、もう少しマシなものにはならぬのか。」
【縁寿】「……この人、魔女なの……?」
【戦人】「あぁ、そうだよ。今日の親族会議に招かれたお客さんだ。」
【縁寿】「……怖い魔女じゃないの? 暗い森に私をさらったりしない…?」
【ベアト】「おのれ、留弗夫に霧江め。一体、妾を何だと思って吹き込んだのやら! 妾はそんなことはせぬわ…! 後で厳重に抗議する! ぷんぷん!」
 ……何だか感情の激しそうな人だが、……縁寿がそれまでずっと抱いていた、黄金の魔女の不気味なイメージとは、かなり掛け離れた人だった。
 いちいちオーバーアクションで、賑やか。……千年を生きた魔女とか、魔界の様々な悪魔を使役し……、等と真里亞お姉ちゃんが教えてくれたイメージからは、あまりに離れている。何と言うか、お母さんの友達にいてもおかしくなさそうな、元気なお姉さんという感じだった。
 兄と魔女は、気心の知れた友人同士のように、楽しげに会話している。犬などは、初対面の人間には心を許さない。しかし、飼い主が親しげにしているのを見ることで、安心できる人物であると判断するという。多分、縁寿の心にも似たものが作用しているに違いない。
 ちょっと強引そうで気性の激しそうな、魔女と名乗る彼女が兄と親しげに話す様子を、縁寿は傍らからじっと見守っているのだった…。
【ベアト】「…………その鍵は?」
 ベアトが、縁寿が首から下げる金色の鍵に気付く。縁寿は思わず、守るように鍵を握り締めてしまう。
【戦人】「縁寿の、大切な鍵だ。」
 その曖昧な言葉に、魔女は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべる。しかしすぐに、その意味を理解したようだった。
【ベアト】「………なるほど。そういうことか。」
【戦人】「すべきことを、明確にした方がわかりやすいだろうと思ってな。」
【縁寿】「………………………。」
【ベアト】「安心せよ、縁寿。そなたの大切な鍵を、奪ったりなどせぬぞ。」
【縁寿】「………本当に……?」
【ベアト】「もちろんであるとも。それはそなたの鍵であり、そなたが決めることである。戦人も、そして妾たちも、そなたを導く道標の役にしか過ぎぬのだから。」
【縁寿】「……………?」
 兄に、とても大事な鍵だから大切にするようにといって渡された。縁寿自身には、何の鍵なのかさっぱりわからないが、……どうやら、ベアトには、それが何なのかわかっているようだった。
 しかし、兄がそうであるようにベアトもまた、謎めいた言い方をするだけ。それが縁寿にはもどかしかったが、とりあえずは、黄金の魔女がこの鍵を奪うつもりはないと言ってくれたので、小さく胸を撫で下ろすことにした。
【縁寿】「……あなたは、この鍵が何に使うものなのか、……知っているの…?」
【ベアト】「もちろんであるとも。だが、それを教えるわけにはいかぬ。」
【縁寿】「どうして……?」
【ベアト】「その鍵をどう使うかは、そなたが自分で決めねばならぬからだ。」
 魔女も、兄と同じことを言う。二人は頷き合うが、私にはちんぷんかんぷん。まるで、みんな答えを知っているのに、私だけ答えを知らないなぞなぞを出されて、笑われているかのように感じた。
【ベアト】「やがてわかる。無理に考える必要はない。」
【縁寿】「…………………。」
 縁寿は鍵をぎゅっと握り締める。意味が自分だけわからなくとも、……これは大切にしなさいといって兄にもらった、自分の鍵なのだ。
 幼さゆえの疑り深さを持つ彼女は、使い方を教えてやるから貸すが良いと魔女が言い出さないか、怯えていた。無論、その胸中は表情で丸わかり。魔女は、そのあけすけな表情に思わず笑ってしまう。
【ベアト】「安心せよ。そなたのその鍵は、誰にも奪うことは出来ぬのだ。」
【縁寿】「……誰にも奪えない…?」
【ベアト】「そういう魔法が込められているとでも理解せよ。とにかく、安心するが良い。妾も戦人も、そして島の誰も、そなたから鍵を奪うようなことはせぬ。」
【縁寿】「本当に……?」
【戦人】「あぁ。本当だよ。そういう魔法が掛かってるんだ。」
 鍵は首飾りのように、普通に掛かっている。縁寿が望むなら、今すぐにでも外せるし、大人が力任せに奪おうとすれば、それはあまりに簡単なことのように思えた。しかし、兄と魔女は口を揃えて、誰にも奪えない魔法が掛かっていると言う…。
【縁寿】「………魔法なんて、…………本当に…あるの…?」
 6歳の縁寿とて、魔法という言葉は知っている。しかし、実際には魔法は存在せず、……ある種のおまじないの時に、それを魔法と称することがあるというくらいは、もう理解していた。しかし、兄と魔女は素直な意味で、魔法と口にする。
【戦人】「あぁ。魔法は存在する。」
【縁寿】「……本当に…?」
【ベアト】「真里亞もよく妾のことを話しているであろう? 魔女はいると。魔法は存在すると、そなたによく語ったはずだぞ。」
 確かに、真里亞はよくそれを語ってくれた。遊びの中でのことならば、縁寿も一応は信じていた。しかし、幼くして彼女はどこか醒めているところがあり、……真里亞が上機嫌に魔法のことを語るのを聞きながら、そんなものが本当にあるわけがないとも思っていた。
【縁寿】「なら、見せて。」
【ベアト】「うん?」
【縁寿】「見せて、魔法! じゃなきゃ信じない…!」
【戦人】「おいおい…。ベアトは島に来たばかりで、まだ屋敷に挨拶にも行ってないんだぞ…。」
 戦人が取り繕うように言う。それを聞き、やはり魔法など存在しないのだと縁寿は確信する。
【縁寿】「魔女なんて嘘っぱち…! 縁寿は知ってるもん!」
【戦人】「おい、よすんだ。ベアトが気を悪くする……。」
【ベアト】「よいよい。魔女に会えば、誰だって同じことを問うだろう。いつもならば、このような幼子の挑発に付き合いはせぬのだが、戦人の妹であるからな。特別に披露してやってもよい。」
【戦人】「いいのか…?」
【ベアト】「よいよい。では見せよう、縁寿。」
【縁寿】「う、……うん。」
 やれるものならやってみろと挑発しておいて、いざ見せられるとなると、ちょっと臆してしまう。
 ごくりと唾を飲んでから、魔女の顔をじっと見上げる。魔女は、そっと左手を差し出し、縁寿の顔に近づけた。そしてゆっくりと手の平を開いてみせた。
 縁寿は、まさか自分に、カエルになってしまう魔法を掛けたのではないかと怯える。しかし、しばらくの間、歯を食いしばって待っていても、一向に何も起こる気配はない。だから、怯えた分、不機嫌になりながら反論する。
【縁寿】「何も起こらないよ。」
【ベアト】「早とちりするでない。まだ魔法を使ってはおらぬぞ。ほれ、妾の手の平をよく見るが良い。タネも仕掛けもないな?」
 あぁ、そういうことか……。ようやく意味を理解し、縁寿は魔女の手の表と裏を確認する。
【縁寿】「……うん。何もないよ。」
【ベアト】「よく見ておれ。こうして握る。……そして人差し指を立てる。」
 人差し指を立て、ゆっくりと縁寿の目の前に突き出してくる。退いたら負けだと思った縁寿は、指の先端に集中しながら、その場に踏み止まる。
【ベアト】「人差し指の先を、よぉく見ておれ。行くぞ? 早いぞ。」
 魔女は、その人差し指を素早く振り上げ、天を指差す。縁寿が天を指す指を見上げた時には、逃げるように指は下へ振り下ろされる。
 そんな調子で、上、下、左、右、また左と、まるであっち向いてホイでもされてるような感じになる。指先を目で追えなかったら負けになるような気がして、縁寿は真剣に顔をぶんぶん振る。
 縁寿は幼い頃から、とても負けん気が強かった。大人には絶対に負けたくなくて、どんな下らないゲームでも真剣にやってしまう。
 魔女の手の動きもどんどん早くなる。縁寿も負けない。
 そして、天を指した指が一気に振り下ろされた時。……人差し指は握られ、ただの拳になっていた。まさか、その拳の中から、何か出てくるというのか…?
 縁寿は、そんなこともあろうかと、ずっと指を追っていた。空っぽだった手に、何かを握る隙などなかった。
【縁寿】「………………………。」
【ベアト】「よいか? 手を開くぞ…?」
 魔女はゆっくりと、その右手の拳を開く……。すると、………そこには……。
【縁寿】「…………え? ………え?! ………どうして?! どうして、お兄ちゃん?!」
 魔女は、可愛らしく包装されたその飴玉を、縁寿にプレゼントする。縁寿はそれを受け取り、何か仕掛けがあるはずだと躍起になるが、それは何の変哲もない、本当にただの飴玉だった……。
【縁寿】「どうして?! 手品でしょ、お兄ちゃん?! お兄ちゃん!!」
【戦人】「いいや。魔法だよ。縁寿も、ずっと見てただろ?」
【縁寿】「ん、………んんんんん…………!」
 ずっと見ていたはずなのに、……どうして……。納得は行かないが、少なくとも魔法でないとは、見破れなかった。眉を歪めて下唇を噛む妹に、兄は、魔法だってばと、もう一度やさしく言う。
【ベアト】「そろそろ、屋敷へ挨拶に行く。戦人も付き合うが良い。妾一人では窒息してしまうわ。」
【戦人】「そうか? じゃあお供させてもらうかな。……縁寿はどうする。ゲストハウスに戻ってるか?」
【縁寿】「…………お、お兄ちゃんと一緒がいい。」
 未だに納得は出来ない。でも、……ひょっとすると本当に……。
 表情は相変わらず不機嫌なままだけど、………魔女にわずかの、興味も湧いてきたようだった。
【ベアト】「さぁ、では行こうではないか。黄金の魔女の帰還であるぞ…!」
【戦人】「黄金の魔女の、孫の帰還だけどな。」
【ベアト】「そのキャッチコピー、もう少し何とかならぬものか…!」
 兄と魔女は、本当に仲良し。漫才コンビのように意気投合しながら、歩き出す。
 縁寿は、自分のことを兄に忘れられないように、兄の服の裾をずっと握っているのだった…。

黄金の返還

貴賓室
 貴賓室には、パンプキンティーの甘い香りがいっぱいに広がり、笑顔と笑い声で満たされていた。
【金蔵】「うっははははははは!! それは良い。元気そうで何よりだ…!」
【ベアト】「そなたも元気そうで何よりだ。余命幾ばくとは片腹痛いわ。」
【金蔵】「そなたに元気をわけてもらってるだけだ。書斎に戻れば、枯れ果てた年寄りが窓辺で呆けているだけよ。」
【ベアト】「そなたの死ぬ死ぬ詐欺にはもううんざりしている! もう諦め、百まで元気に生きると誓ってしまえぃ。」
【戦人】「俺も、祖父さまには6年ぶりに会ったけど、全然変わってねぇんで、驚いたもんな。」
【金蔵】「わはははは、戦人め。この6年で世辞まで学んだか! 残念だが、それは節穴というものよ。しっかりかっきり、老いぼれておるわ。」
【ベアト】「金蔵が百歳になってピンピンしているのに、千円賭けるぞ。」
【戦人】「あぁ、俺も。百歳になっても祖父さまは今と変わらないさ。」
【金蔵】「わっははっはっは! これ以上褒めても何も出ぬというのに!」
 金蔵は上機嫌に笑う。ベアトも戦人と席を並べ、朗らかに笑っていた。
 縁寿は窓際にぽつんと立ち、……あの肖像画の魔女が、お祖父さまとどういう関係なのか理解しようと、じっと様子を凝視していた。
 ドンドンとノックがある。
【金蔵】「源次か? 入るが良い!」
【源次】「……失礼致します。蔵臼さまと夏妃さまがお越しでございます。」
【蔵臼】「お父さん、おぉ、戦人くんも一緒かね。」
【夏妃】「ご無沙汰しております、ベアトリーチェさん。御変わりはありませんか?」
【ベアト】「相変わらずであるわ。さぁ、座れ座れ。縁寿も、どうしてそんな窓際にいるというのか。こっちへ来て座るがいい。」
【戦人】「縁寿。こっちにおいで。」
【縁寿】「………ここで見てるからいい。」
 縁寿は、ベアトにもらった飴玉を握り締めて、まだ警戒を解かない眼差しで、じっと凝視を続けている。源次が椅子を勧めるが、縁寿は首を横に振るだけだった。
【金蔵】「好きにさせてやりなさい。さぁ、蔵臼も夏妃もそこに座るがいい。」
【戦人】「……何か重要な話でも? 俺と縁寿は席を外した方がいいかな。」
【ベアト】「おいおい、そなたが帰ったら妾は誰に相槌を打たせればいいというのだ…! 金蔵、戦人がいても構わぬであろう?」
【金蔵】「隠す話でもない。構わぬ。」
 しかし、黄金の魔女ベアトリーチェのいる貴賓室に、蔵臼と夏妃を呼び出したのだ。金蔵の話が、気楽なものとは思えないのだが……。構わぬと言われ、ベアトも居てくれと頼んだので、戦人も付き合うことにする。
 話の邪魔をしないようにと戦人はソファーを立ち、窓際の縁寿のところに行く。縁寿は、ようやく戻ってきてくれた兄を、もう放さないとばかりに、その胴にしがみ付いた。
【ベアト】「あぁ、なるほど。どうして妾が縁寿に嫌われているか、わかったぞ。」
【戦人】「え? どうしてだ? 縁寿は別に、お前のことを嫌ってなんかないだろ?」
【ベアト】「くっくっく。これだから戦人は女心がわからぬのだ。」
 ベアトは縁寿に微笑みかけるが、縁寿はプイっとそっぽを向く…。
【ベアト】「くっくっく! 女は幼くとも女であるなぁ。」
 ベアトが笑い終えると、そこで一度話題が仕切り直しとなった。一体、金蔵は蔵臼たちを貴賓室に呼び出して、何の話を始めるというのか。自然と一同は沈黙した。
【金蔵】「黄金の魔女ベアトリーチェよ。滅ぶ運命にあったはずの右代宮家を救ってくれた大恩、一日たりとも忘れたことはないぞ。」
【ベアト】「くっくっく! 感謝せい、感謝せい。」
【戦人】「祖父さまが感謝してるのは、お前の祖母さんの方だからな。」
【ベアト】「えぇい、やかましいっ。」
【蔵臼】「いいや、同じことです。莫大な黄金を、三代にもわたり、右代宮家に貸し付けてくれました。それも無償で。」
【夏妃】「……本当に、いくら感謝してもしたりません。」
【ベアト】「黄金など、妾にはレンガも同じよ。置き場もないから金蔵が預かっててくれて助かる。」
【戦人】「ひゅう。死ぬ前に一度は言ってみたいセリフだぜ。」
【縁寿】「………黄金の魔女って、お金持ちなの…?」
【戦人】「ん? そりゃそうだな。何しろ10tもの黄金を、ほいっと祖父さまに貸し出したんだからな。」
【金蔵】「そうだ。必ず返すと約束し、もう数十年も借りている。その恩は、もはや返しきれないほどだ。」
【夏妃】「当家が感謝の気持ちを忘れたことはありません。ねぇ、あなた。」
【蔵臼】「無論だとも。三代にわたりベアトリーチェさんたちが気前よく貸してくれなかったら。右代宮家はとうに滅んでいましたとも。辣腕のお父さんとて、軍資金がなければ何も出来なかったのですから。」
【金蔵】「もはや、カネがカネを呼び、黄金の軍資金は静かに眠るのみだ。………蔵臼。私が何を話そうとしているか、わかるか。」
 その言葉の意味するところを、蔵臼は呼び出された時から、予感していた。借りたものはいつか返す。その日が訪れたのだ。
【蔵臼】「……はい。わかっています。お父さん。」
【金蔵】「ベアトリーチェよ。私はもう、老い先はわずかだ。おそらく。……今日のこれが、私とお前が会うことの出来る、最後の親族会議になろう。」
【ベアト】「何を気弱なことを。そんなことがあろうはずもない。」
 ベアトはひとり笑う。
 戦人も求められたので一緒に笑うが、金蔵と蔵臼たちは笑わない。どうやら、金蔵には健康上の大きな懸念があるらしかった……。
【金蔵】「無論、来年すぐに死ぬつもりもない。しかし、来年会おうと絶対の約束をすることは、恐らく出来ぬ。私は、いつ如何なる時でも、出来ぬ約束をした試しは一度もない。」
【ベアト】「そのようなことを胸を張って言われると、妾も返す言葉がないぞ。……本気で言っているのか。」
【金蔵】「ベアトリーチェよ。もう、しっかりとけじめを付けたいのだ。私がこうして元気である内にな。だから私は今日、それを決心することとした。」
【縁寿】「………お祖父さまは何の話をしているの…?」
【戦人】「静かに。………祖父さまは今から、……とても大事な話をする。」
 もう戦人にも、金蔵が何を切り出そうとしているか、わかっていた。多分、ベアトもわかっている…。
 かつて、鷲のように雄大に空を支配した右代宮家は、関東大震災をきっかけに滅びかけた。鷲は片翼をもがれて地に這い、死にかけたのだ。
 それを、黄金の魔女が、黄金の奇跡によって救った。黄金の魔女に守られながら、鷲は長い時間を経て傷を癒し。ようやく、魔女のもとから巣立つ日が来た、ということなのだ……。
【金蔵】「そなたの祖母より借り受けた黄金を全て。そなたに返還する。………蔵臼、異論はないな? 元より、あの黄金は右代宮家のものではないのだ。」
【蔵臼】「無論です。何の異論もありませんとも。」
【ベアト】「良いのか、蔵臼。そなたは投資家であろう? カネはいくらあっても足りぬであろうが。金蔵から黄金を譲り受けたいと思っていたのではないのかぁ?」
【蔵臼】「はははは…。それを言われれば、確かに否定は難しい。しかし、元より父とあなたの契約であり、そして元々あなたの黄金です。」
【夏妃】「主人は仮にも次期当主。お父様が一代にて当家を復興させたように。主人も一代で当家を繁栄させるでしょう。そしてそれは、主人と私で成し遂げることです。」
【金蔵】「むぅ。よくぞ言った。その意気であるぞ。」
【ベアト】「……10tの黄金に未練はないというか。やれやれ、大したものよ。黄金の魔法が効かぬ相手には、魔女も形無しであるな。」
【金蔵】「そなたに黄金を返還する。だが、黄金の魔女ベアトリーチェが、右代宮家にとって最大の恩人であることは未来永劫変わらぬぞ。」
【ベアト】「…………………………………。」
 黄金の魔女より貸し与えられた黄金を返還する。単純にして明快な話だった。
 しかし、当の黄金の魔女は、少しだけ寂しげな表情を浮かべる。縁寿には、それがどうしてかよくわからなかった。
【ベアト】「………返すというものを、要らん、やるとも言えぬしな。やれやれ。」
 ベアトはソファーを立つ。そして窓際に立ち、風にうねる薔薇庭園を見下ろすのだった。
【金蔵】「蔵臼よ。我が遺産についても、私が生きている内にお前たちに贈与することにした。」
【蔵臼】「お、お父さん……。」
【金蔵】「私が死ねば、葬式で大忙しな上に、遺産はどうするのかと絵羽たちががっついてくるであろうが。今から分けておけば、葬式が気楽になるというものよ。……蔵臼、メモを取れ。源次も書記を頼む。これより、財産の分け方を説明する。」
 金蔵はさっそく、遺産の分配方法について説明を始めたようだった。戦人は、その話が、自分が耳を傾けるべきものではないと察し、窓際にたたずむベアトのところへ行く…。
【戦人】「よう、大金持ち。黄金が余ってるなら少しは引き取るぜ。」
【ベアト】「黄金など、薪に変えて炉にくべれば、シチューを煮る程度の使い道はあるというものよ。」
【戦人】「どうしたよ。何だか、つまらなそうな顔をしてんな。」
【ベアト】「とうとうこの日が来たか。………寂しいものよな。」
【戦人】「………そうか?」
【ベアト】「妾の魔法で、右代宮家は蘇り、そして六軒島は生まれた。……その右代宮家が、もう妾の黄金の力には頼らぬという。妾の魔法から、巣立つということだ。」
【戦人】「そうだな。……そういうことになるな。」
【ベアト】「妾は六軒島を、魔女の島と、妾の島と呼んできた。」
【戦人】「………そうだったな。」
【ベアト】「その六軒島が、妾に黄金を、魔法を返すという。………六軒島が、魔法から目覚める日が、来たということだ。」
【戦人】「………………………。……そうだな。」
【ベアト】「最後のゲームと、わかってはいたさ。……しかし、こういう形ではあっても、それを切り出されると、………意外に堪えるものよ。」
【戦人】「お前って、結構サッパリしてそうに見えて、未練たらたらなタイプなのな。」
【ベアト】「残忍で執拗なタイプは、大抵は寂しがり屋で未練がましいものよ。」
【戦人】「そうだな。お前はそういうヤツだもんな。」
【ベアト】「…………妾と、そなたのためのゲームだった。」
【戦人】「楽しかったぜ。お前が6年の間に、練りに練った、愉快なゲームだった…。」
【ベアト】「かつて妾はそれを、互いを苛む永遠の拷問と称したっけな。」
【戦人】「……永遠が、永遠であると信じられる内が一番幸せなのさ。物事には、全て終わりがある。そしてそれを自覚しなければならない。」
【ベアト】「目を背けずに、な。」
【戦人】「昇らぬ日はないように、沈まぬ日もねぇってことさ。」
【縁寿】「……………………………。」
 縁寿には、兄と魔女が何の話をしているのか、わかるはずもない。……しかし二人から、とてもとても長い時間を共に過ごし、互いのことを理解しあった、まるで夫婦と呼んでもいいくらいの雰囲気を感じることは、幼い彼女にも出来ないことではなかった…。
 そんな彼女の様子に、ベアトは気が付く。
【ベアト】「………縁寿。妾たちはかつて、互いのためにゲームを紡いだ。しかし、それはもう終わった。このゲームは今、妾たちのためでなく、そなたのために紡がれているのだ。」
 また、謎めいたことを言われる。胸元の鍵を握り締めながら、縁寿は兄の顔をうかがう…。
【戦人】「今日という日の猫箱の中身を、俺たちは縁寿に届けなくちゃならない。……お前に持たせたその鍵は、猫箱を開くための、鍵なんだよ。」
【縁寿】「…………猫箱、………って…?」
【ベアト】「今日という日のことだ。」
【戦人】「縁寿があれほど辿り着きたいと願った今日に。お兄ちゃんは魔法の奇跡で縁寿を招いた。………縁寿は、最後の魔女として、今日という日を語り継がなくちゃいけない。」
【縁寿】「それは、…………私がここに残ってはいけないということ…?」
 縁寿の口調が、少し乾く。兄の言葉の意味を理解し、眉を歪める。
【縁寿】「私は1986年の六軒島へ辿り着きたくて、どれほど長い間、苦しんだことか…。そして私はやっと辿り着いたの! なのにそれを、追い出すの…?! お兄ちゃんは言ったわ、私が自分で決めていいって!」
【戦人】「そうだな。確かにそう言った。」
【縁寿】「帰らないわよ、私は。そして、まるで私を甘やかすかのような、このおかしな作られた物語もやめて…! 私は今日という日の真実を知りたいの!!」
【ベアト】「12年を経ても遡りても、気難しい女であるな。」
【縁寿】「うるさいわね、あんたには聞いてないわよ…! それにあんたこそ何よ、そのザマは…! 黄金の魔女は、復活の儀式のためにやって来たんじゃないの?! 雷鳴と共に島に現れ、これから13人もの人々を生贄に捧げようとしてるんでしょう?! そのあんたが、何でこんなにものんびり団欒してるのよ! わけがわかんないッ。」
【ベアト】「わけがわからぬのは、そなたの方であるぞ。何だ、そなたは。妾に、そんなにも人殺しがしてほしいのか。」
【縁寿】「あんたは、それを物語に記してメッセージボトルに封じて海に投じたわ! 後の世界にはその内の2本が伝わってる…! どちらも酷い連続殺人の物語じゃない!」
【ベアト】「2本しか流れ着かなかったとは残念残念…! 一番の力作だった『Land』が人目に触れなかったのは残念なことだ。」
【戦人】「前から聞きたかったんだが、あのメッセージボトルは何なんだ?」
【ベアト】「そなたとのゲームを練りながら、その過程で生み出した派生の物語のようなものよ。一つのゲーム盤から、異なる複数の物語を無限に紡ぎ出せることに気付き、面白くなってしまってな…!」
【戦人】「いつか俺に読ませようと、書き溜めてたわけか。」
【ベアト】「うむ! あまりの力作に、そなたを待つのが惜しくなってな…! アガサ・クリスティーに倣い、妾もそれを瓶に封じて海に投じてみたのだ。ミステリアスであろう?!」
【縁寿】「馬鹿にしないで…!!! あれはあんたの犯行計画書よ! あなたは黄金の在り処をちらつかせながら親族の不和を煽り、残酷な連続殺人事件を目論むのよ…!!」
【ベアト】「やれやれ。1998年では、妾はそういうことになっておるのか。……なるほど、無理もないことであるな、くっくっく。」
【縁寿】「はぁ?! 何を開き直ってんのよ…!! 私を拍子抜けさせようと目論んでるの?! 私は騙されないわよ、ベアトリーチェ! お兄ちゃん!! 私に魔女はいると屈服させたいんでしょう?! その手には乗るもんですか…! 私はお兄ちゃんの手なんか借りなくたって、ひとりで真実に辿り着いてみせる!」
【ベアト】「ここが、その真実であるというのにか? そなたはかつて、グレーテルと名乗ったが、どうやら、ミチルと名乗った方が相応しいようだぞ。」
【縁寿】「いい加減にしてッ!!!」
 縁寿はベアトの頬を引っ叩こうとする。しかし、身長の差が激しく、その手は届く前に、ひらりとベアトにかわされてしまう。
【縁寿】「馬鹿馬鹿しい……。馬鹿馬鹿しい……! 私は認めないわよ…。こんな茶番が真実なんて、………絶対に認めないんだから…!!」
 そう吐き捨てると、縁寿の瞳が曇る。すぐにそれは晴れる。その時にはもう、縁寿は6歳の彼女に戻っていた…。
【ベアト】「…………そうだな、縁寿。それが、妾が残した罪であり、最後の物語を用意する理由なのだ。」
【縁寿】「………………………?」
 話がわからず、きょとんとする縁寿の頭を、ベアトはやさしく撫でる。
【ベアト】「そうとも。この物語は茶番である。真実であろうはずもない。……しかしそれでも。……いや、そうしてでも。……そなたにはどうしても伝えたいことがあるのだ。」
【戦人】「ベアト。それはもう、俺が伝えてる。それ以上は、無理強いしたくない。」
【ベアト】「そうか。」
【縁寿】「……………お兄ちゃんたちが、何の話をしているのか、わかんない。………縁寿、もう眠いよ。」
【戦人】「そうだな。俺たちはお暇した方が良さそうだ。」
【ベアト】「金蔵よ。妾はまだここに居なければならぬのか。」
【金蔵】「すまぬ、そなたはもう少しここにおれ。……続けるぞ蔵臼。それでだな、福音の家への援助については蔵臼が右代宮家当主の義務としてこれを継続し…、」
【ベアト】「……やれやれ。すまんな、戦人。妾は送ってやれぬようだ。……源次よ。この二人をゲストハウスまで送ってやってくれぬか。」
【源次】「かしこまりました。……戦人さま、縁寿さま。ご案内いたします。」
【戦人】「ありがと。……じゃあな、ベアト。あとで。」
【ベアト】「うむ! そなたとは語りたいことが山ほどだ。それに今夜は水入らずで過ごしたいぞ。たまには夫婦らしいこともせぬとな…!」
【戦人】「な、何だよ、夫婦らしいことって。いっひっひ…!」
薔薇庭園
 縁寿は退屈してしまったせいで、すっかり眠くなってしまっていた。少し昼寝をするといいかもしれない。風の強い薔薇庭園を、彼女の手を引きながら、戦人は歩いていた。
 案内の源次と話をすると、……彼は以前から、金蔵が黄金をベアトに返還して、遺産問題を早々に決着したいと願っているのを知っていたことがわかった。
【源次】「……お館様は、人生を終えるという最後の仕事の準備を、お始めになったということでございます。」
【戦人】「自分が死んだ後のことなんて、人は普通、考えないぜ…。……はー。やっぱ祖父さまはスケールがひとつ違うぜ。」
【源次】「今日は、右代宮家が黄金の魔女の庇護から飛び立つ、新しい飛翔の日なのでございます。」
【戦人】「………確かに。へへっ、カッコいい言い方だな。」
 今夜は豪華なハロウィンパーティーが開催されることになっており、郷田さんたちにはその準備が命じられているそうだ。
 しかしそれは、ただのパーティーじゃない。ベアトリーチェへの黄金の返還式なのだ。
 夕食の冒頭に、祖父さまはそれを発表し、拍手とともに三代にわたるベアトリーチェの恩に感謝する。そういう筋書きでもう準備が進んでるんだそうだ。
【戦人】「親父たちには、まだそれは秘密なんすか?」
【源次】「一応は秘密にしております。……ただ、お館様のお考えは、唐突に今日、思いついたものではありません。もう何年も前から、今日という日について考えを重ねられ、時にご兄弟の皆様に相談もされておりました。恐らく、今宵の発表に驚かれる方はいないでしょう。」
【戦人】「うちのクソ親父。どうやら会社のことで、カネの工面が大変そうだし。祖父さまからのちょいと早い遺産のプレゼントに、舞い上がっちまうかなぁ?」
【源次】「むしろ、大きな責任に奮い立たれるでしょう。……留弗夫さまは島を出られ、大成し見事な成功を収められました。しかしそれは、お館様の財産によって支えられたものです。」
【戦人】「……それが、唐突に遺産をドンと出され、これからはお前の力だけで頑張るのだぞとなるわけか。………へへ、かえってプレッシャーがあるかもなぁ。」
【源次】「ご兄弟の皆様は、お館様というあまりに偉大すぎる父親に、もう何十年も苦しんできました。……偉大すぎる親は、ただ存在するだけで、子には重石になるものなのです。」
【戦人】「それが今夜。……本当の意味で、一人前になって巣立つってわけだ。」
【源次】「お館様は今宵を、黄金の返還式とお呼びになるようです。……ですが最初は、生前葬と呼ぼうと考えておいででした。」
【戦人】「生前の葬式じゃあ、何だか落ち込んじまう。新しい出発の日、巣立ちの日って方が、確かに右代宮家にはぴったりだぜ。」
【縁寿】「……………お兄ちゃん、……眠い……。」
【戦人】「ほら、もうゲストハウスにつくよ。お母さんの部屋へ行くか? それともいとこ部屋に?」
【縁寿】「どこでもいい……。……晩御飯まで、…………寝てる……。」
 縁寿は、兄の手を握ったまま、しゃがみ込んで眠ってしまいそうになる。
 そんな彼女を戦人は担ぎ上げる。温かくて頼もしい兄の背中をいっぱいに感じながら、縁寿はまどろみの中に沈んでいくのだった……。
謎の空間
 あの日、何があったの……? 1986年、10月4日から5日の間の2日間に、一体、何があったというの?
 六軒島爆発事故は、そのあまりに大規模な爆発により、何時何分に起こったか、ほぼ正確に特定されている。それは、10月5日24時00分。この、揃い過ぎた数字は、この事故が人為的であることを示している。
 後に、生前の右代宮金蔵を知る者から、以下の証言が得られるようになる。
 右代宮金蔵が生前、24時丁度に島を爆発させる仕掛け時計なるものを作らせていた、というものだ。
 それは彼の秘密の書斎にあるらしい。彼が自分を精神的に追い詰め、妙案を紡ぎ出したい時、その仕掛けを作動させ、24時が迫る緊張感から何かの閃きを得ていたらしいという話だ。
 生前は、奇人、右代宮金蔵のホラ話だろうくらいに思われていたが、……六軒島爆発事故が24時丁度に起こったことは、これを裏付けるものとなった…。
レストラン
【縁寿】「……クレイジーな話だわ。」
【大月】「その狂気の狭間に、魔法めいた力を求めたに違いありません。精神的な瞬発力とでも言えば、そう眉唾な話でもないでしょう。」
 大月教授は熱っぽく語り続けている。
 ウィッチハンター。六軒島を巡るイカレたファンタジーを弄ぶ好事家たち。
 自分の家族の死を面白おかしく脚色する彼らを、縁寿が愛するわけもない。しかし、あの日に何があったかを知ろうとする縁寿にとって、彼らが島についてもっとも詳しい人間たちであることは、皮肉の極みと言えただろう。
【縁寿】「その仕掛けを使えば、島を跡形なく吹き飛ばすことが出来る。……後には何も残らない。あそこで何があったとしても、なかったことに出来る。」
【大月】「右代宮絵羽氏が何某かの陰謀の首謀者であるとする説は、早くから囁かれてきました。しかし、あれだけの大爆発を如何にして起こしたのかが説明できずにいました。」
【縁寿】「その仕掛け時計により、それが可能であったことが証明された…。」
【大月】「左様です。右代宮絵羽氏は、24時に爆発すること、そしてその爆発半径について、充分に理解していた上で、九羽鳥庵に避難していたと考えられます。」
【縁寿】「……財産を独り占めにするために、みんなを殺して、爆発によってその痕跡を消した…。」
【大月】「そう考えると、六軒島のミステリーはもっとも筋が通ります。絵羽氏が、あの日あの島で何があったのか、語ろうとしないことにも合点が行くわけです。」
 その仕掛け時計がどこにあり、そして絵羽が如何にしてそこに至ったか。それについては、数々の偽書が推測している。私が考えを巡らすまでもない。
 絵羽は仕掛け時計を作動させ、爆発を逃れるため、九羽鳥庵まで非難し、自分ひとりだけ生き残った。それが全てであり、答えであり、何もかもを雄弁に語っている。
 ……私が絵羽に引き取られた当初。私たちはまだそれほど、険悪な関係にはなかった。
 私は彼女に何度も聞いた。あの日、あの島で何があったのか。彼女の答えは後に全て、覚えていないに統一される。
 しかし、彼女も混乱していたのだろう。一番最初だけは、私の問いにこう答えたのだ。
 何も、話すことは出来ない、と。彼女は口を滑らせたのだ。彼女はあの日、何があったのか、知っている。そして彼女は真実を何も語らぬまま、この世を去った。
 真実を猫箱に閉ざし。その鍵を抱いたまま、この世を去ったのだ。答えは一つしかない。
 全ての犯人は、彼女なのだ。彼女は全ての財産を独占し、大富豪となった。
 そしてその後、それを愛息子に受け継がせることが出来なかったことを悔やみ、私を呪った。……あのクソババアのことは、思い出すだけでも反吐が出る。
 あの日、何があったのか。それを知ること。私を未だ生き永らえさせる、唯一の目的。しかし、それは抽象的であったことを、私は後に認めなければならない。
 なぜなら、あの日に何があったのかはわからなくとも。あの日、“誰”がしたのか。フーダニットはすでに、明白だからだ。
 右代宮絵羽。彼女が犯人。それは最初から動かない。
 そう。私が知ろうとしているのは、あの日、何があったかじゃない。あの日、右代宮絵羽は何をしたのか、なのだ。
 それを解明できれば、死後であっても、絵羽の悪事を暴ける。それが、私の本当の目的なんだ。
 警察も事件性を疑い、捜査を重ねた。しかし、全てが跡形なく吹き飛んだ六軒島のクレーターをいくら探しても、何も見つけられはしなかった。
 世論やウィッチハンターたちは、数々の状況証拠で絵羽を追い詰めたが、物的証拠は何一つ見つけられず…。限りなく黒に近い灰色のまま、右代宮絵羽の犯罪を暴くことは出来なかった……。
 私の目的は、あの日、何があったか知ること、……なんて曖昧なものじゃない。あの日、右代宮絵羽が犯した罪を暴き、復讐することなんだ。
 右代宮絵羽の犯罪が暴けないから、あの島の出来事は、黄金の魔女なんていうおかしなものの仕業ということにされてしまった。黄金の魔女を打ち破るとは即ち、右代宮絵羽の犯罪を暴くという意味なんだ。
 私は右代宮絵羽を許さない。絶対に、……絶対に…………。彼女を憎み、家族の復讐をする。それが、右代宮縁寿の、唯一無二の、生きる目的……。
天草の車
【天草】「はっはははは。それだけ嫌われりゃ、会長もあの世で笑いが止まらねぇでしょうぜ。」
【縁寿】「……うるさいわね。あのクソババアの罪を暴くのよ。……全て吹き飛ばして完全犯罪なんて、私は認めない。絶対に。」
【天草】「つまりお嬢の旅は、家族のための復讐の旅ってわけだ。」
【縁寿】「悪い?」
【天草】「まさか。生きる目的があるの、大いに結構ですぜ。」
【縁寿】「……それ切ってくれる?」
【天草】「おや。M・ザッキーはお嫌いで?」
 天草がラジオを切る。代わりに無機質なエンジン音が、車内を満たすBGMになってくれた。
【縁寿】「おかしい? 弔い合戦なんて。」
【天草】「別に。それを生きる目的にしてる連中に、戦地じゃよく会いましたから。」
【縁寿】「……あんた、傭兵で戦場に行ったことあるのよね。」
【天草】「まぁ、ほどほどには。」
【縁寿】「家族の仇を取るために戦っている人って、強い?」
【天草】「そりゃあ、強いですぜ。……家族の仇を取るために、体に爆弾を巻きつけて自爆するヤツだっている。人は、仇討ちのために死ねる生き物ですぜ。」
【縁寿】「……そうね。私も死ねるわ。」
【天草】「少年兵ってヤツを、ご存知で?」
【縁寿】「子供の兵隊?」
【天草】「そうです。親を亡くした身寄りのない子供たちが、武装勢力に拾われて兵士になるんです。……パンと銃を与えられ、復讐の方法を教えられる。……所詮は子供、使い捨てですがね。引き金さえ引けりゃ、戦場じゃ誰だって兵士になれる。」
【縁寿】「私がそれだって言いたいの?」
【天草】「復讐は、生きる目的になります。そして、兵士になれるほどの力も与えます。……親の亡骸にすがって泣くことしか出来なかった少女が、一夜にして兵士に生まれ変われるほどの奇跡を見せてくれる。……復讐ってヤツほど、パワーを与えてくれるものはありませんぜ。」
【縁寿】「そうでしょうね。それがまさに、私だわ。」
【天草】「少年兵問題ってのを、ご存知で?」
【縁寿】「知らないわ。」
【天草】「銃を与えられ、復讐の仕方を習った少年兵は、それを生きる目的とします。いや、少し違う。それを、銃を撃つ理由にします。…………しかし、復讐ってのは、終わりがない。いつしか、銃を撃つのに、理由がなくなってくるんです。」
【縁寿】「……どういう意味?」
【天草】「復讐のために、銃を撃っていた。それがやがて、理由もなく、銃を撃つようになるんです。」
【縁寿】「復讐を忘れてしまうということ?」
【天草】「出来もしない復讐に、やがて疲れ果て、その目的を忘れちまうんです。そして、手元には銃しかない。やがてメシを食うために、銃を撃つようになる。」
【縁寿】「……復讐のために銃を取った少年兵は、やがて野盗か何かに成り果てるってこと?」
【天草】「何しろ、学校にも通わず、職も学ばせてもらわなかった連中です。」
 習ったのは、銃の撃ち方だけ。そして褒められたのは、相手を殺した時だけ。
【天草】「やがて、自分の生きる目的は、復讐のためでなく、その手段のためだけに成り果てていく。……気の毒なことです。」
【縁寿】「私もやがては復讐に疲れ果てて、……えーと、私の場合だと何だってのよ。」
【天草】「真実を暴くことに疲れ果て。お嬢はやがて、右代宮絵羽を憎むだけの人生に成り果てていく。」
【縁寿】「すでにそうだけど、何か?」
【天草】「ヒャッハ…! そういえば、そうでしたっけ。」
 天草が何を言いたいのか、わからない。どうせ、私を不愉快にさせる何かだろう。ならば興味なんてない。
【縁寿】「………復讐なんて下らないことだ。そう言いたいんでしょう?」
【天草】「お嬢の人生はまだまだ長い。何だって出来る若さがある。……その貴重な若さを費やすには、ちょいとこの旅は勿体無いんじゃねぇかなぁと思いましてね。」
【縁寿】「余計なお世話よ。……私ね、ほら、飛び降りたでしょ? ビルから。」
【天草】「せっかく、九死に一生を得たってのに。」
【縁寿】「あの時ね。私は死んだのよ。だから私はもう亡霊ってわけ。家族の仇を討つために、あの日の真実を暴くことだけを目的とした、ね。」
【天草】「……やれやれ。お嬢は大した鉄の意志をお持ちだ。」
【縁寿】「あんたみたいな軽薄な男に、私の気持ちなんてわからないわよ。」
 そこまで言われては、天草はもう、口を閉ざすしかない。肩を竦める素振りを見せるが、縁寿の目に映りはしなかった。それでも天草は、もう一度だけ口を開く。
【天草】「お嬢とこの旅を始めた一番最初の日。……お嬢は言いました。あの日、あの島で何があったか知りたいと。」
【縁寿】「今だってそうよ。何か変わった?」
【天草】「今はこう言ってます。右代宮絵羽の罪を暴くため、あの日、あの島で何があったか知りたいと。」
【縁寿】「まったく同じじゃない。」
【天草】「……まぁ、そうですが。」
【縁寿】「私、眠いからもう寝るわ。少し黙っててくれる? 着いたら教えて。」
【天草】「へい、了解です。」
 別に眠くはなかった。話が不愉快だから、そういうことにしただけだ。
【天草】「ならないで下さいよ。少年兵には。」
 狸寝入りを決め込み、縁寿は無視する。しかし天草は続けた。せめてそれだけは聞いてほしくて。
【天草】「お嬢の旅は最初、真実を知る旅でした。それがだんだん、復讐の旅になっている。………真実を暴くことで、復讐する旅だ。しかしお嬢もわかってる通り、六軒島にはもう、何も残ってやしません。何の跡形も残ってやしない。……真実を暴くことは、並大抵のことじゃないかもしれませんぜ。」
 ……天草が何を言いたいのか、わかってる。事故当時、警察があれだけ調べて、右代宮絵羽が犯人であることを示す物的証拠を見つけられなかった。
 さらにあれから、12年も経っている。……小娘に過ぎない私が、札束だけを武器に、関係者にちょっと聞き込みをして回ったくらいで至れる真実なら、とっくに誰かが暴いていただろう。
 私は、真実に辿り着けないかもしれない。するとやがて、………真実を暴きたいという、最初の気持ちは薄れて消えていくだろう。
 そして後には、絵羽を憎むという気持ちだけが残る。少年兵たちが初心を忘れ、生きるために銃を撃ち始めるように。私も初心を忘れ、生きるために憎むようになる。
 ただ右代宮絵羽を憎み、……さりとて、真実を暴くという復讐にも挫折し、……それでもただただ、右代宮絵羽を憎み続けるだけの、人生。
 ……復讐のために銃を撃つのと、生きるために銃を撃つのに、何か違いが? 引き金を引けば、誰かが死ぬのは同じだ。
 私の場合は? 真実を暴いて絵羽を憎むのと、それを諦めて絵羽を憎むのに、何か違いが? 何も変わらない。結局、真実に至ろうと至らなかろうと、私は死ぬまで、絵羽を呪って呪って呪い抜くのだ。
 …………何て、クソッタレな人生。でも、それがもう、私の全てなの。右代宮絵羽が、私の家族を奪った。だから復讐する。……彼女の罪を暴いて告発することによって。
 ……私の意識は少しずつ、まどろみに沈んでいく……。
 お兄ちゃんは、どうしてこんな変な六軒島を見せるの…? これが真実だっての?
 いい加減にして、こんな茶番。どうしてお兄ちゃんまで、私に真実を隠すの? お兄ちゃんたちの仇を取りたいから、暴こうとしてるんじゃないの。
 ………それとも、お兄ちゃんも、天草と同じことを言い出すの? 復讐なんて、何の意味もないから、やめてしまえと。だからこうして、……あやふやに誤魔化して、私を煙に巻こうとしているの……?
 ………余計なお世話よ。お兄ちゃんたちのためだけに、私は復讐しようとしてるんじゃないの。
 私のために、私は復讐しようとしてるの。だって、そのためだけに、私は生きてるんだから。
 生きるために、復讐しようとしている、私 …………………………。
 お兄ちゃんが何を考えてるのか、……わからない。

ハロウィンパーティ

ゲストハウス・いとこ部屋
 外はすっかり雨になってしまっていた。しかし、いとこ部屋はとても賑やか。たとえ、雨が降ろうと槍が降ろうと、彼らの楽しいひと時にはなんの差し支えもなかった。
【戦人】「いっひっひーー!! 俺、フルハウス〜!! ドーン!」
【譲治】「うわっ。ブラフじゃなかったか…!」
 ベッドの上で車座になり、いとこたちは大盛り上がりしていた。
【朱志香】「戦人がデカく張る時は、役なしのことが多いと思ってたんだがなぁ…!」
【戦人】「そう思わせるために、ここまで負けてきたんだぜぇ? 最後に勝つ為に負けを布石する男、右代宮戦人! いっひっひ!」
【真里亞】「うー、戦人すごい、戦人すごい…! 真里亞、またコインなくなっちゃった。」
【朱志香】「私のコインを分けてやるよ。一緒に戦人をぶっ潰そうぜ!」
 トランプがあるだけで、いとこたちは何時間だって楽しく過ごせる。彼らの元気さの前には、時折の落雷も、ちょっとしたアクセント程度にしかならなかった。
【譲治】「そろそろお腹が空いたね。夕食はまだかな。」
【朱志香】「さぁ。そろそろじゃないかな。今夜は郷田さんたち、ずいぶん張り切ってたなぁ。」
【戦人】「へへっ、ってことはずいぶんと期待できそうだぜ。俺の6年ぶりの再会を祝してかなぁ?」
【譲治】「さっき紗音に聞いたけど、ハロウィンパーティーがあるって言ってたよ。ホールで立食形式でやるそうだよ。すごいね。」
【真里亞】「ハロウィンパーティー?! すごいすごいすごい、うーうーうー!!」
【朱志香】「ん? はーい、どちら様ぁ?」
 ノックがあり、扉が開くと、縁寿がいた。あの後、縁寿は両親の部屋で寝ていたのだ。
【戦人】「おぉ、縁寿か! 起きたか?」
【縁寿】「あのね、晩御飯だからお屋敷、行くって。準備しなさいって。」
【真里亞】「うーうーうー!! ご飯だご飯だ〜!! お腹空いた〜〜!!」
 一番元気にはしゃいでいた真里亞が、一番空腹だったのだろう。飛び上がって喜び、ベッドから跳ね降りる。彼らがぞろぞろとベッドを降り、靴を履き始めると、霧江たちも姿を見せた。
【留弗夫】「おら、ガキども。メシだぞ、行く支度をしろぃ。」
【霧江】「今日は何だか素敵みたいよ。楽しみね。」
【真里亞】「うー!! 真里亞知ってる! ハロウィンパーティー!」
【縁寿】「……ハロウィンパーティー?」
【真里亞】「きっひひひひひ! 真里亞だけ知ってて、縁寿は知らない。きっひひひひひ。」
【縁寿】「お母さん、ハロウィンパーティーって何ぃ?」
【霧江】「さぁ、何かしらね。行ってのお楽しみね。」
ゲストハウス・廊下
【秀吉】「みんな、えーかぁ? そろそろ行くでー。」
【嘉音】「皆様、お揃いでしょうか。ご案内致します。」
【楼座】「真里亞、こっちいらっしゃい。襟が変よ。」
【絵羽】「あぁ、お腹空いちゃったわー。親族会議の一番の楽しみは食事よねぇ。縁寿ちゃんは、お腹空いた?」
 絵羽が縁寿に微笑みかける。
【縁寿】「………うん。空いた。」
【霧江】「縁寿。空きました、でしょう?」
【絵羽】「くすくす。いいのよぅ。そうよねー、お腹空いたわよねぇ。伯母さんもお腹ぺこぺこよぅ。」
【留弗夫】「よし、出発するぞー。表は風も強いみたいだからな。傘を飛ばされるなよ。」
【嘉音】「皆様、傘をお持ち下さい。」
【絵羽】「はい、縁寿ちゃん。傘。」
【縁寿】「ありがとう、絵羽伯母さん。」
【絵羽】「くす。……あぁ、やっぱり女の子は可愛いわねぇ。今度、伯母さんのお家にも遊びにいらっしゃい? 約束よぅ?」
【戦人】「……絵羽伯母さんって、縁寿のこと、気に入ってるんだ?」
【譲治】「うん。母さんは本当は、娘が欲しかったらしいんだよ。」
【朱志香】「あー、聞いたことあるぜー。小さい頃、私もずいぶん可愛がってもらった気がする。」
【真里亞】「うちのママは、本当は男の子が良かったって言ってたよ、うー!」
【楼座】「元気に生まれてきてくれれば、性別なんてどうでもいいのよ。真里亞は大切な大切な、神様からの授かり物なんだから。」
 表へ出ると、ちょっとだけ風雨が強い。縁寿とすっかり打ち解けた絵羽は、一緒の傘で行きましょうと誘っていた。何の話で盛り上がってるのかわからないが、わずかの時間でもう意気投合してしまっている。
 戦人はそれを見ながら、傘を広げる。自分にじゃれ付いてくる妹も可愛いが、誰かに上機嫌な笑顔を見せる妹だって、同じくらい可愛く、微笑ましい。
 風雨は強いけれど、これも夕食の味をさらに盛り上げる、ちょっとしたスパイスにぴったりに違いなかった……。
玄関ホール
 ホールは、素敵な飾りつけによって、ハロウィンパーティーの会場に生まれ変わっていた。右代宮家での食事は、いつも食堂だ。ホールで立食形式でのパーティーなど、初めての経験だった。
【ベアト】「いよぉ、戦人ぁ! おぅ、真里亞! 久しぶりであるな…!」
【真里亞】「ベアトー!! ハッピーハロウィーン! トリックオアトリート…!!」
【ベアト】「くっくっく。お菓子はあるが今はやらぬぞ。食事の前であるからな。」
【楼座】「くす。ありがとう、ベアトリーチェさん。相変わらずお美しいわね。」
【ベアト】「楼座こそ! 子持ちとは思えんぞ。わっはっは!」
【戦人】「お前、少し出来上がってねぇか? 耳が少し赤いぞ。」
【ベアト】「んー? あの後、ちょいとそのだな、うっひっひー! 金蔵が珍しい酒を手に入れたというのでな、まぁその、ほんのチョビっとだ…! わっはっははははは!」
【戦人】「食事の前のお菓子は自重するのに、飲酒は自重しねぇんだな…。」
【紗音】「失礼致します。ベアトリーチェさま、お館様がお呼びでございます。」
 肖像画の前にいる金蔵が、こっちへ来いと手招きをしているのが見えた。
【ベアト】「やれやれ。セレモニーとは、金蔵も形式にこだわる男よ。」
【戦人】「例の、黄金の返還式云々ってことなんだろ。右代宮家にとっては、一つの大きな節目なんだ。付き合ってやれよ。」
【ベアト】「ちと寂しい気持ちもあるがな。」
【戦人】「右代宮家顧問錬金術師であることは、これからも変わらねぇさ。」
【ベアト】「であるな。ではちょっと行ってくる。後ほどな? 源次の話によると、今日のパーティー、ちょっとした趣向があるらしいぞ。楽しみにしておれ…!」
【戦人】「用意したのはお前じゃないだろーが。」
【ベアト】「わっははははは、いちいち細かい男よ…! では後ほどな!」
【縁寿】「……お兄ちゃん、今日は何かあるの? 何か特別な日……?」
 縁寿も、それを感じ取っているようだった。意味もなく緊張してしまっているらしい。
【戦人】「右代宮家にとっては、特別な日だ。だが、縁寿とは関係ないから、気楽にしてていいんだぜ。」
【縁寿】「うん。……あ、そうだっ、ねぇねぇお兄ちゃん聞いた? さっき絵羽伯母さんからね、すごい秘密を聞いたの…! 真里亞お姉ちゃんも知らない秘密、お兄ちゃんにだけ教えてあげるねっ。」
【戦人】「ほぉ? 秘密って何だ何だ。」
【縁寿】「うん、あのね! アーモンドが入ってたら、当たりなんだって…!」
【戦人】「当たりって? クジ引きか何かの話か?」
【縁寿】「んーーーー…。とにかくっ、アーモンドが当たりなのっ。」
 縁寿が口をぷーっと膨らませる。取って置きの秘密を教えたのだから、褒めて欲しかったらしい。しかし、アーモンドが当たりってだけじゃ、何の話かさっぱりだ。
【戦人】「わかったわかった。大切な秘密を教えてくれてありがとうな。」
【縁寿】「んーーーー、お兄ちゃん、嫌いっ。せっかく秘密を教えてあげたのにー!」
 縁寿は膨れっ面のまま、また向こうの絵羽伯母さんのところへ行く。
 よっぽど意気投合したんだな。まぁ、伯母さんに懐くならいいか。これがクラスメートのスカした男子だったら、たとえ小学生であっても許さんぞっ。異性交遊はお兄ちゃんがいいと言うまでいけませんっ。
 その時、源次さんの声が聞こえた。次第にざわめきは収まり、今夜が雨であることを、もう一度思い出させてくれた。
【源次】「皆様、ご静粛に願います。」
 シンと静まり返る。親族一同も、今夜の催しが、ただのハロウィンパーティーではないことは、薄々想像がついているようだった。
 戦人はすでに、知っている。右代宮金蔵からベアトリーチェへの、長年にわたり借り受けてきた黄金の、返還式なのである。まず、金蔵によって、それが宣言された。
 右代宮家は復興のみならず、かつてない隆盛を極めたと。よって、大恩人ベアトリーチェより借り受けた黄金を、今こそ返還すると。真っ赤なリボンで飾られた、ずっしりとしたインゴットを、金蔵の手から、ベアトリーチェの手へ返還する。
【金蔵】「………三代にわたる、黄金の魔女ベアトリーチェの恩。右代宮家は未来永劫、忘れることはないであろう。」
【ベアト】「やれやれ。しまう場所もないが、特別に引き取ってやろう。」
【源次】「………ベアトリーチェさま。」
【ベアト】「ん、んんっ、ゴホンゴホン。」
 あのベアトが、源次に発言で注意を受けるとは。思わず笑ってしまう。
【ベアト】「右代宮家顧問錬金術師ベアトリーチェである。今宵をもち、10tの黄金の貸し出し契約の終了を受け容れるものである。……我が祖母の代より数十年。片翼をもがれた鷲は、再び飛翔の時を迎えた。妾はそれを見守り、子々孫々までの未来永劫の繁栄を心より祈るものである。」
 拍手がホールを包んだ。せっかく貫禄のあるスピーチが出来たのに、終えた途端にペロリと舌を出して苦笑いを浮かべている。ベアトの真面目モードは長続きしないらしい。
【金蔵】「黄金の魔女ベアトリーチェは、名を受け継ぐことで、千年を永らえる魔女である。よって、彼女の子々孫々に至るまで、その全てがベアトリーチェであり、その全てが当家の顧問錬金術師なのである。右代宮家子孫一同は、ベアトリーチェの恩義を永遠に讃え、子々孫々に永遠にそれを伝えるのだ。………ベアトリーチェは、未来永劫、右代宮家の恩人であり、尊い絆で結ばれた家族なのである。」
【源次】「………ご承認いただける方々は、拍手をもって承認をお願い致します。」
 源次がそう促すと、親族たちは顔を見合わせてから、一斉に拍手した。
【金蔵】「ありがとう、諸君。………ベアトリーチェよ。そなたは右代宮家の一員だ。それは血より尊き絆によるものだ。」
【ベアト】「わっはっは、カネの貸し借りの縁は、血より大切であるからなー。」
【源次】「……ベアトリーチェさま。」
【ベアト】「んが、んっん…!」
 その後は、金蔵の小難しいスピーチが続いた。
 今夜をもって、金蔵は右代宮家の当主を引退するということ。そして、財産分与を今夜、さっそく発表すると宣言した。金策に困っていた親族兄弟たちは、金蔵の死を待たずに転がり込む遺産に、どよめく。
【金蔵】「お前たちがそれぞれ、カネに苦労しているのは知っておる。それらの問題は全て、これで解決できるであろう。……ただし心せよ。これは、死を待たずして与える遺産である。私はお前たちを厳しくも、常に見守ってきた。しかし今宵をもって、お前たちの父はそれをやめるのだ。………私は雲上から見守るかの如く、お前たちが飛翔するのを眺めているだろう。もはや、何の口出しもせぬ。……そなたたちの生きたいように生きるが良い。」
【留弗夫】「お、………親父……。」
【楼座】「お父様……。」
【絵羽】「わかりました…。……私たちは、必ずや飛翔してみせます。」
【蔵臼】「兄弟で力を合わせ、右代宮家をますますに繁栄させることを、兄弟一同、ここに誓います。」
【秀吉】「そやで…! わしらは力を合わせたら、向かうところ敵なしや…!」
 秀吉がおどけるが、源次に諌められてしまう。しかし、彼が浮かれたい気持ちもわかった。
 ……親族兄弟たちは、遺産を巡って、ギスギスといがみ合って来たのだ。しかし今宵。……遺産は綺麗に分配され、彼ら全員の金策が解決された。そうなればもう、兄弟同士、何もいがみ合う理由はないのだ。むしろ、手を取り合い、ますますに互いを繁栄させていくべきなのだ。
 絵羽と楼座は、涙を浮かべながら鼻を啜っている。……それは留弗夫もだった。こんなにもいい歳になって、……彼らは今日。……ようやく、巣立ちを迎えたのかもしれない。
 六軒島という、魔女の魔法で編まれた巣から、右代宮家の鷲たちが今宵、それぞれに旅立っていくのだ。……力強く、己の力で。
 金蔵は思う。初めからこうしていればよかったのだ。
 ……遺産問題を、自らがもっと早くに解決していたなら、子供たちはいがみ合う必要はなかったのだ。それを、不機嫌を装うことで、彼らに全て任せきりにし、兄弟たちの関係を冷めたものにしてしまった。
 そう。全ては自分の責任だったのだ。今や、絡まった縄は解かれた。それはまるで、金蔵の体を締め付ける、目に見えぬ縄のようでもあった。それが今や解かれ、彼は久しく開放感を覚えるのだった…。
 兄弟4人は前に歩み出て、新しい当主、蔵臼をみんなで支え、ますますの繁栄を金蔵の前で誓い合う。彼らの顔は、不思議な若々しさに溢れていた。
 当然だ。彼ら4人が、こんなにも自然な気持ちで結束したことなんて、………子供の頃以来なのだから。子供の頃の瑞々しい気持ちに戻り、彼ら兄弟は再び、結束するのだ。
 蔵臼が宣言を終えると、ホールは温かな拍手で溢れた。いとこたちも、使用人たちも、……いつまでもいつまでも、拍手を惜しまなかった。
 縁寿は、……呆然とそれを見ていた。
 …………親族兄弟4人は、子供の頃から、ずっといがみ合って来たはず。そしてさらに、それぞれが金策に悩み、金蔵の遺産を目当てに不毛な鍔迫り合いを繰り返していたはず。
 ……その、私が認める“真実”の世界さえも、……この黄金の返還式によって、書き換えられる。彼らが本当に仲良しだろうと、あるいは私が信じるように、いがみ合っていたとしても。……それは今日、この場で、全ては乗り越えられたのだ。
 信じちゃ駄目。………こんなの、お兄ちゃんの茶番。それがわかっていても。………父親たち兄弟が、涙を浮かべて微笑みながら、肩を抱き合うその光景に、……彼女は熱いものが目に浮かぶのを感じずにはいられない。
【縁寿】「信じないわ……。………これも全部、……お兄ちゃんの茶番なんでしょ………。」
【戦人】「お前は、何を見たら、聞いたら。信じることが出来るんだ…?」
【縁寿】「………赤で。…………赤き真実で言ってくれたら。」
【戦人】「赤で言えなければ、全ては嘘なのか?」
【縁寿】「……信じない…。……私は、……こんなの………。」
 縁寿は俯き、黙り込んでしまう。
 ゲームマスターである戦人には、赤き真実を使うことも出来る。しかし、赤き真実というルールは、魔女のゲーム盤にだけ出てくるものだ。
 ニンゲンの世界に、赤き真実など、存在しない。自らが見て、聞いて。……信じるに足ると、自らが信じたものを、赤き真実として受け入れるのだ。縁寿が認めない限り、どんな真実も、真実たりえない。
 それに、気付いて欲しいと戦人は願ってる。赤き真実という、ゲームのルールで真実を押し付けても、何の意味もないのだ。縁寿は、自分の力で、自分の心で。真実を真実として、受け容れなければならないのだ。
 それは、縁寿が決める。誰にも無理強いできない。だから縁寿がこの光景を、茶番だと断じてもいい。
 しかし、ならば、………縁寿が今、零している熱い雫は、一体どういう意味があるのか。……縁寿は誰にも教えられずに、それを考えなくてはならない……。縁寿は一度だけ鼻を啜り、目を擦った後には、6歳の彼女に駒を譲った。
 その後は、和気藹々とした楽しいひと時となった。美しく彩られた料理が次々に運び込まれ、シャンパンのコルクが気持ちの良い音を聞かせる。
 いくつも置かれた小さなテーブルにはそれぞれ、テーマが設けられていた。そうすることで、いくつものテーブルを巡りながら、どれを食べようかと迷う、立食パーティーの一番の楽しさを演出した。
 このような演出に関しては、郷田は天才的だ。彼を手放したホテルは、それを改めて後悔した方がいいだろう。
 もちろん、熟年には立食パーティーは少々、疲れる。なので椅子も用意されている。
 しかし新しい料理が運ばれてくる度に、それを見に席を立ち、自然といくつかのテーブルを巡ることが出来る。その過程で、新しい輪と交流でき、そしてその輪は流動的に散っては混じり、動き回った。
 人は面白い。輪のメンバーが代わると、がらりと話題まで変わる。そんな万華鏡のような、楽しく賑やかなハロウィンパーティー。
 壁に飾られた、折り紙の鎖飾りなどが童心を呼び起こしてくれる。そこでは誰もが、子供の頃に戻ったかのような気持ちで、楽しく過ごしているのだった……。
 縁寿にとってもそれは、夢のような時間だった。いとこたちと、楽しくお喋りした。伯父さんや伯母さんたちとも、楽しくお喋りした。
 ベアトは魔法と称して、色々な手品を見せてくれた。真里亞はそれを魔法だと主張し、縁寿はそれを手品だと主張し、ますますに盛り上がった。
 幼い二人があまりに盛り上がるので、大人たちも、自分が知る手品を披露しては、二人を大いに驚かせた。やがて、互いが互いに、こんな手品知ってる? と見せ合うようになり、ハロウィンに相応しいマジックパーティーとなった。
 手品に限らず、クイズやなぞなぞ、様々な遊びが、彼らの子供時代の思い出を刺激する。給仕をしている使用人たちも、その輪に引き摺り込まれ、ホールは今や、大賑わいだった。
 幼い縁寿にとって、どの手品もクイズもなぞなぞも、知らないものばかり。彼女の知的好奇心が刺激されて、わくわくが止まらなかった。その上、美味しい食事にジュースが、よりどりみどりなのだからまるで夢の中だ。縁寿はふわふわと、まるで雲の上を歩いているような気持ちだった……。
【留弗夫】「縁寿…、お前、これを飲んじゃったのか?! これ、お父さんの飲み物だぞっ。」
【縁寿】「……縁寿も大人のブドウジュース、飲みたかったの。だからいいのー。」
【戦人】「少し顔が赤いぜ? 大丈夫かー?」
【霧江】「ちょっとしか飲んでないから大丈夫とは思うけれど……。」
【縁寿】「……縁寿、大丈夫だよ。子供じゃないもん……。……うぃ…。」
【絵羽】「くすくす。縁寿ちゃんは、こっちを飲みなさい? 留弗夫お父さんが飲んでるのは、悪い飲み物だから、もう飲んじゃダメよー?」
【戦人】「そうだな! 悪いのを飲んでると、縁寿も悪い大人になっちまうぜー? いっひっひ!」
【縁寿】「縁寿、悪い大人にならないもんっ。お姫様になるもんっ。」
【霧江】「そうよ。縁寿は私たちみんなのお姫様よ。」
【留弗夫】「そうだな。縁寿は家族みんなのお姫様だ。」
【絵羽】「私にもお姫様よぅ。ぜひ今度、伯母さんの家にも遊びに来てね、絶対なんだから…!  いっぱいいっぱい歓迎してあげるんだから!」
【縁寿】「うんっ。ありがとう、絵羽伯母さん…!」
 みんなが、すごくやさしくしてくれる。まるで本当にお姫様になったみたいな気持ち。浮かれ過ぎて、この催しが私を楽しませるために主催されてるんじゃないかと信じそうにさえなった。
 その輪を戦人は外れる。遠目に、幸せそうに笑う縁寿を見て、彼も微笑んだ。
【ベアト】「………ああして幸せに笑えば、名前負けもせんのにな。惜しい娘よ。」
【戦人】「そうだな。天使の名に相応しい笑顔だと思うぜ。」
【ベアト】「あの笑顔が、駒でなく、本当の縁寿のものであれば良いのだが。」
【戦人】「……仮に違っても、あいつはこれを見てるさ。そして、自分で考えればいい。」
【ベアト】「そなたと縁寿のゲームは、慈しみに溢れているな。妾からすれば、もどかしいほどにな。」
【戦人】「もどかしくて何の問題がある? 誰の邪魔もない。妨害も駆け引きも何もなしだ。」
【ベアト】「そうだな。このゲームは、もはや戦いでさえない。」
【戦人】「言ってみれば、片付けなんだ。……俺たちのゲームの。」
【ベアト】「…………妾の気紛れなる行為が、あやつに及んだ罪は、償い切れぬ。」
【戦人】「俺たちのゲームの責任だ。俺たち二人で償う。……だから俺たちで、縁寿に最後のゲームを送る。」
【ベアト】「縁寿は、あの鍵を正しく使えると思うか…?」
【戦人】「……俺たちが正しいと思う方へ、無理やり引っ張ることも、もちろん考えたさ。」
【ベアト】「それは意味なきことかも知れぬな。……強制された選択は、正しくとも生涯受け容れ難い。」
【戦人】「そういうことだ。………縁寿は、自ら考え、自ら選ばなければならない。それが、俺たちから見て正しくない選択であったとしても、……俺はそれを祝福しようと思う。」
【ベアト】「……ふむ。………ゲームマスターはそなただ。妾はもはや、何も口を挟まぬ。今宵をただ楽しむだけだ。」
【戦人】「縁寿にとっては意味あるゲームだ。だが、俺たちにとっては、お疲れ様パーティーみたいなもんさ。」
【ベアト】「そろそろやって来る頃合だな。しかし、良いのか? 縁寿にまた誤解されるぞ?」
【戦人】「大丈夫さ。それに、むしろ必要なんだ。……お前が、そういう姿を見せたように。みんなもな。」
【ベアト】「……………ふむ。ならば我等も、この千秋楽祝いを楽しませてもらうとしよう。これほどの長きゲームにて皆、それぞれの役を見事、演じきってきたのだから。」
 その時、パンパンと景気良く手を叩く音が聞こえた。
【郷田】「さぁさぁ、皆様。お集まり下さい。本日のとっておきでございます…!」
 手を叩いているのは郷田だった。一同は、何だ何だと集まる。
 彼の前に置かれた配膳台車の上には、切り分けられた大きな1ホールのチョコレートケーキが置かれていた。
【郷田】「本日は、今夜のハロウィンパーティーの目玉として、この特製ザッハトルテをご用意させていただきました。ご覧の通り、チョコレートにて片翼の鷲の紋章の封蝋を付けた、右代宮家だけの一品でございます!」
 その見事なケーキに、一同は感嘆のため息を漏らす。
【南條】「これは立派なケーキですな…! 目玉に相応しいものです。」
【郷田】「いえいえ。ただのケーキではございませんよ。今夜のこのケーキには一つ、秘密がございます。……お館様っ、どうかそれを皆様にお話し下さりますよう、よろしくお願い致します!」
【金蔵】「うむ。これはささやかなゲームであるぞ。このケーキには1つだけ、当たりのものがあるのだ。」
【縁寿】「アーモンドだ…!」
 縁寿が威勢良く叫ぶ。金蔵は、その通りだと目を細めて笑う。
【金蔵】「このケーキの中の1切れだけに、アーモンドが1粒、入っておる。そのケーキを選んだ者が、今夜の王様であるぞ。」
【留弗夫】「ひゅう。王様ゲームなんて久しぶりだぜ…!」
【霧江】「あなたのは、悪い王様ゲームよね?」
【蔵臼】「はっはははははは。さて、王様になるとどんなことがあるのですかな?」
【金蔵】「王様は願いを一つ、口にすることが出来る。それを皆で叶えようではないか。」
【朱志香】「へー! 面白そうだぜ…!」
【真里亞】「うー。王様は男がなるんだよ。女の子はなれないよ。」
【譲治】「女の子が当たりだったら、お姫様になれるんだよ。」
【縁寿】「アーモンド! アーモンドが当たり! ね? ね?!」
【戦人】「あはははは、そうだな。縁寿はすごいな。」
【秀吉】「こういう時はクジ運が物を言うんや。負けへんでー!」
【絵羽】「お待ちなさいよ。小さい子から順に選ぶといいわ。」
【夏妃】「それがいいですね。縁寿ちゃんからどうぞ。」
【楼座】「こら、真里亞はお姉さんでしょ?! 縁寿ちゃんを先にしなさい。」
【真里亞】「うーうーうー! 縁寿が当たりを引いちゃったらどうするのー、うー!」
【縁寿】「縁寿が当たりを引く! アーモンドが当たりっ、アーモンドが当たり!」
【南條】「私たち年寄りは、残り物に福があることを祈りましょう。」
【ベアト】「若い順ということは、ビリは金蔵であるよな?」
【金蔵】「わっははははは、そなたは千歳であろうが。」
【ベアト】「な、納得ゆかーん!!」
 みんな大笑いする。実際の彼女は年齢不詳だが、とりあえず自称は19歳なのだから。
 縁寿の前には、人数分に切り分けられた、大きなケーキがある。この中の1つにだけ、当たりがあるのだ。
【郷田】「さぁ、縁寿さま? どのケーキになさいますかな? どれを選んでも、ほっぺたが落っこちるほど美味しいですよ。」
【縁寿】「やだ。当たりのじゃないと嫌だ。」
【戦人】「じゃあ、一発で当ててみせるしかないな。ほら、選べ選べ。」
 戦人が縁寿の小さい背中をケーキの前に押し出す。
【縁寿】「…………どれに、……しようかな…………。」
 15個にカットされた、チョコレートケーキ。……アーモンド入りを当てて、お姫様になりたいっ。
 一体、どれに当たりのアーモンドが入っているのだろう…? 私から選ぶことになったけど、……何だか不利な気がする。
 だってそうでしょ? 私が当たりを引く確率は15分の1。当たるわけがない。
 そして私の次の真里亞お姉ちゃんは、それから1個減って、14分の1の確率で当たりを引ける。その後の人は13分の1、12分の1、……最後には、絶対に当たり??
【縁寿】「お兄ちゃん、これずるい…! 最初に選ぶ人の方が不利…!」
 みんなが笑う。どうやら、私の計算が間違ってるらしいが、納得いかなかった。
【郷田】「さぁ、縁寿さまから運試しっ。どうぞどうぞ、お選び下さい…!」
【縁寿】「……うーん! うーん……!!」
 こんなにたくさんの中から1つじゃ、当たるわけなんかない。……でも、なぜだか今夜の私は、いきなり当たりを引けそうな気がするの。根拠ないけど、私が上機嫌の時には、幸運の女神さまが、絶対に幸運を運んでくれるの。
【戦人】「ほら、決まったか?」
【縁寿】「うん。………決まった。これが、当たり。」
 私は、指先に念を込めて、……15個のケーキの中の1つを指差す。そのケーキは…………。
【縁寿】「………これっ。」
【郷田】「これでございますね? よろしいですか?」
【縁寿】「もう決めたのっ。これがいい…!」
 これで本当にいいのかと念を押されると、ちょっとだけ不安になる。でも、そういう時は初心を貫徹した方がいい。幼い彼女が、短い社会経験の中で学んだ、数少ない哲学の一つだ。
 郷田は選んだケーキをお皿に取ると、フォークを添えて渡してくれた。
【真里亞】「次は真里亞ね、真里亞!! うーうー、どれにしようかな!」
 次は真里亞の番。自分が当ててみせると大はしゃぎする。
 私はその輪を、自分だけ抜ける。……すぐにフォークでケーキを切り開いて、当たりのアーモンドが入ってないか確かめたい誘惑に駆られた。しかし、私はそれを思い留まる。
 最初にケーキを調べたら、当たる確率は15分の1だ。しかし、他の人がケーキを開くのを待ち、外れる人を確認していけば、その数だけ当たる確率が増える。
 つまり、今すぐアーモンドを探すより、少し待って、外れる人が現れてから探した方が、当たりの確率はアップするのだ。
 でも、うかうかしてて、他の人に当たりを引かれてしまったら、私のケーキは当たりの確率がゼロになってしまう。そのタイミングの見極めが難しい。
 なるべく、ぎりぎりまで外れの人が増えるのを待ち。だけれど、誰かに当たりを引かれる直前に自分のを調べることが出来れば、一番、当たりの確率が高いはず。
 うん、このゲームの必勝法っ。………………………。
 …………??? 何だか不思議な考察。……何かおかしいような?? 目の前にある私のケーキには、誰の指も触れられないのに。私以外の人のケーキが、当たったり外れたりすることで、私のケーキの中の、当たりのアーモンドが、現れたり消えたりするのだ。
 ………?? 私の、上機嫌過ぎてふわふわした思考では、どこがおかしいのか、よくわからない。でも、何となくおかしいのはわかる。
 ……猫箱の中の真実は、常に一つ。猫箱の外で何があったって、……それは真実を揺るがしたりはしないはず。なのに私は、……猫箱の外での事象に左右されて、その中身の観測に影響を及ぼそうとしている。
 ……………………………。自分で、何を言ってるのか、よくわからない。私の中のもう一人の私が、そう口にするのだが、……難し過ぎてわからない。
 ぼんやりする……。上機嫌に浮かれ過ぎて、眠くもないのに、意識が希薄な感じ。お父さんの大人のジュースを飲んじゃったせいかもしれない……。
 私は結局、一番にケーキを選んでおきながら、一番最後に調べることにした。全員が外れたことを確認すれば、当たりの確率は100%になるからだ。
 ……私の思考の矛盾を探したけれど、よくわからなかったので、考えるのをやめた。15分の1よりは、100%の方がすごいのだから、それに賭けることにしたのだ。私は、大切な宝箱を開くのを惜しみながら、みんながケーキを選び終わり、その中身を調べ終えるのを待った。
【夏妃】「どうですか。当たりの出た方はいますか。」
【真里亞】「うー! 真里亞の入ってなかったぁ。」
【朱志香】「私のもハズレだぜ。お姫様になり損ねちまった…!」
【譲治】「ハズレでも、本当に美味しくて美しいザッハトルテだね。食べずに飾っておけるものなら、そうしたいくらいだよ。」
【留弗夫】「どうだ? アーモンド、あったか?」
【霧江】「私もダメね。秀吉兄さんはどう?」
【秀吉】「わしもハズレのようや。会社に嫁に、もうわしの運は使い切っとるからなぁ。」
【絵羽】「もう、それってどういう意味よぅ。」
【蔵臼】「南條先生は如何ですか。」
【南條】「今、調べてるところです。たまにはこういうのも楽しいですなぁ。」
【金蔵】「うむ。駆け引きなしの、純粋な博打も実に面白い。ベアトはどうであったか。」
【ベアト】「残り物に福があるなどと言った嘘吐きは誰だー! がるるるるる…!」
【戦人】「縁寿はどうだ。アーモンドはあったか?」
【縁寿】「今、調べてる……。」
【戦人】「何だ、まだ手を付けてなかったのか?」
 私なりの確率論に基づいてのことだが、……お兄ちゃんにうまく説明できないと思うので、それは黙ってることにする。
 あるかな、アーモンド。当たれば、私は今夜のお姫様。……当たれば嬉しいけど、当たらなくても、今夜はすごく楽しいからそれでもいい。
 このケーキのゲームのせいで中断しちゃったけど、さっきまでみんなで、手品やクイズ、なぞなぞでものすごい盛り上がってた。このゲームも楽しいけれど、早くみんなでさっきみたいに盛り上がりたい。………………あれ?
【戦人】「どうした、縁寿。………お?」
 その、ころりとした粒を、私はフォークに乗せてまじまじと見つめてから、兄にも見せる。
【縁寿】「これ、……アーモンドだよね…?」
【戦人】「お、おお!! 縁寿のに入ってたのか! すごいぜ、縁寿…!!」
 その時、向こうの一角でもどよめきが起こった。
【絵羽】「あったわ、私のに当たりが入ってた…!」
【金蔵】「ほぅ! 絵羽が当てたか…!」
【郷田】「これはこれは! おめでとうございます、絵羽さま…!!」
【縁寿】「違うー!! 縁寿が当たりなのー! 私がアーモンドなのー!!」
 私はアーモンドを摘んで掲げて、大声で叫ぶ。絵羽を囲む人垣が割れ、みんなが私のそれを凝視して驚く。私も驚いた。彼女が手に持つそれもまた、紛れもなくアーモンドだからだ…。
【留弗夫】「何だ何だ…? こりゃどういうことだ…?」
【蔵臼】「郷田。アーモンドが2つ入ってるようだが、……どちらも当たりなのかね?」
【郷田】「はて、………そんなはずは……。」
【南條】「どちらかが、勘違いということでしょうか…?」
【紗音】「縁寿さまのは間違いなく、アーモンドです。……嘉音くん、そっちは?」
【嘉音】「絵羽さまのも間違いなく、アーモンドです。」
【熊沢】「ほっほほほほほほ。では二人とも当たり、ということではありませんか。」
【源次】「…………お館様。」
【金蔵】「ふっふふふふふ…! これは奇異なこともあるものだ。どうしたものか、郷田よ。」
【郷田】「え、あ、……その、……これはちょっとした手違いでございまして……。その、……ジャンケンでもしてもらって……。」
【ベアト】「ケチ臭いことを言うでない。2つのアーモンドが現れ、女王と姫が選び出されただけの話ではないか。」
【金蔵】「そういうことだ。2人が当たりということで良いではないか。」
【郷田】「はぁ、まぁ、しかし………。」
 郷田はちょっぴり渋っている。実は、王様には特別なデザートが1品、用意してあったのだ。
 それはとても綺麗に飾られているため、2人でわけるには向かない。だから、王様が2人では、ちょっと都合が悪いのだ。郷田がそのことをごにょごにょと言っているのを聞き、絵羽は肩を竦めて笑いながら言った。
【絵羽】「じゃあ、縁寿ちゃんがお姫様になりなさい。」
【縁寿】「お姫様っ。縁寿はお姫様なの…?!」
【絵羽】「私はその付き人よ。ね、これならいいでしょう?」
 悪いわけもない。縁寿はひょっとしたら、言い出すのが遅かったので、当たりは絵羽になるものと思っていた。だから、それを譲ってくれるとは夢にも思わなかった。
【縁寿】「でも、いいの…? 絵羽伯母さんも当たりなのに。」
【絵羽】「いいのよ、縁寿ちゃんの付き人になれたもの。さぁ、お姫様。あなたが叶えて欲しい願いはなぁに…? 考えてちょうだいな。」
【縁寿】「縁寿はっ、………願い事、もう決めてあるの……。」
【絵羽】「あら。それは何? 伯母さんに教えて?」
 この楽しい時間の中に、いつまでもいたい。……永遠に。私の心の中に浮かんだ願望を、幼い私が代弁する。
【縁寿】「さ、……さっきまでの楽しいが、ずっと続いて欲しいのっ。」
 少しニュアンスが変わってしまった気がする。それでも、それが私の偽らざる願いだった。
【絵羽】「さっきまでのって。……あぁ、手品とかクイズとか?」
【縁寿】「うんっ。」
【絵羽】「じゃあこうしましょう。みんな聞いて。お姫様の命令よ。ついさっきまでみんなが盛り上がっていたように。手品やクイズなどで、縁寿ちゃんを楽しませてあげてちょうだい。」
【留弗夫】「おいおい。もう手品のネタも尽きちまったぜー?」
【霧江】「ならクイズや、なぞなぞね。」
【蔵臼】「つまり、みんなで色々なクイズで縁寿ちゃんに楽しんでもらうようにすればいいわけかね。」
【夏妃】「お姫様に楽しんでもらえるクイズを、みんなで献上するのですね。」
【蔵臼】「なるほどね。了解したよ。」
【金蔵】「わっはっはっは! なるほど、面白いではないかっ。では縁寿よ、こうしよう。みんなにクイズやなぞなぞを出してもらい、それに挑むが良い。見事解ける度にそなたにメダルを1枚与えよう。」
【縁寿】「メダルって?」
【戦人】「記念メダルってことだろうな。いっぱい正解できれば、いっぱい集められるんだろうぜ。」
【熊沢】「ほっほほほほほ。ただ集めるだけではつまりませんねぇ?」
【金蔵】「うむ。集めたメダルの枚数に応じて、私から素敵なプレゼントを贈ってやろう…! どうだ、俄然、やる気が出たであろう?!」
【絵羽】「すごいじゃない。ご褒美まであるんですってよ…!」
【霧江】「くす。良かったわね、縁寿。」
【縁寿】「う、……うん…!」
 みんなが私を囲み、微笑みながら、どんな問題を出そうか思案している。私と遊ぶために、私のことだけを考えてくれる。それを独り占めできるだけで、お姫様になれた喜びははちきれんばかりだった。

クイズ大会(前半)

 私はハロウィンパーティーのお姫様になり、私のためだけのクイズとなぞなぞ大会が開かれることになった。
 正解する度に、メダルがもらえるらしい。いっぱいもらえば、お祖父さまから素敵なご褒美があるらしい。よし、がんばる。
【縁寿】「誰からクイズをもらえばいいのかな。」
【絵羽】「誰からでもいいそうよ。好きな人に話し掛けてごらんなさい。」
【留弗夫】「今の内に、何か取って置きの問題を考えておかないとなぁ。」
【楼座】「真里亞ー、あなた、クイズの本を鞄に入れてなかった?」
【真里亞】「うー! あるよー! きっひひひひひひ、意地悪な問題で縁寿をいじめるの…!」
 真里亞お姉ちゃんがすっごく意地悪そうな顔で笑う。みんな、私をいじめる気だ。きっとすっごく難しい問題を出してくる。
【絵羽】「大丈夫よ、伯母さんが助けてあげる。」
【縁寿】「本当…?」
【絵羽】「えぇ。だって伯母さんは、お姫様の付き人じゃない。だから二人でがんばって、いっぱいいっぱいメダルを集めちゃおう。」
【縁寿】「うん…!」
【郷田】「さぁさぁ、縁寿さま。誰からでも結構でございますよ。この郷田も、いつでも挑戦をお受けいたします。」
【金蔵】「まぁ待て待て。最初に姫君に謁見する栄誉はこの私のものだ。縁寿よ、まずは私の挑戦を受けてみよ…!」
【縁寿】「は、はいっ。」
 思わず緊張してしまい、お腹がきゅうっと痛くなる。すると絵羽伯母さんがやさしく手を握ってくれた。
【絵羽】「大丈夫よ。一緒にがんばりましょ!」
【縁寿】「う、……うんっ。」
【金蔵】「では行くぞ、縁寿よ。これは、クリスマスの日の話、12月25日の話だ。」
【縁寿】「クリスマス…?」
 まだ10月だというのに、唐突にクリスマスの話をされる。クリスマスは何日かという問題だろうか? そんなの知ってる。12月25日だ。
【金蔵】「クリスマスの日。夜空を見上げながら、女は言った。『やがて夜が明けて朝になるわね。そしてまた日が沈んで夜になっても、またクリスマスだったらいいのに』。すると男は言った。『いいよ。その夢を叶えてあげるよ』と。そんなことが、果たして可能だろうか…?」
【縁寿】「クリスマスの次の日は26日で普通の日だもん。そんなの無理。」
【絵羽】「夜が明けてもまだクリスマス……。あ、伯母さん、わーかった。」
【縁寿】「え? どうして?! どうしてクリスマスの次の日がまたクリスマスなの?!」
【金蔵】「わっははははは。縁寿も考えてみるがよい。」
金蔵の出題
 クリスマスの日。
 夜空を見上げながら、女は言った。
「やがて夜が明けて朝になるわね。そしてまた日が沈んで夜になっても、またクリスマスだったらいいのに。」
 すると男は言った。
「いいよ。その夢を叶えてあげるよ。」
 そんなことが、果たして可能だろうか…?
選択肢2つ。「可能」「不可能」
不正解の場合(「不可能」)
【縁寿】「クリスマスの次の日はクリスマスじゃないもん。そんなの絶対ありえない。」
【金蔵】「くっくっく。残念であるな、ハズレだ。」
【縁寿】「えー、どうして…!」
【絵羽】「縁寿ちゃん、一日の始まりは何時から?」
【縁寿】「真夜中の午前0時。」
【絵羽】「ほら。午前0時は夜じゃない。」
【縁寿】「……あっ。」
 そうか。最初の夜とは、12月25日の午前0時直後くらいの話なのだ。つまり、前日が終わって、クリスマスになったばかりの時間。確かにそれもクリスマスの日だし、夜なんだ。
【縁寿】「そして、25日の朝が来て、また夜になったら、それも25日の夜……。」
【絵羽】「そういうこと! よく出来たわね。」
【金蔵】「ほっほっほっほ! もう少し早く思いつくことが出来ればよかったがのぉ。」
 お祖父さまはサンタクロースのような声で笑う。
 絵羽伯母さんは、答えをちゃんと思いついたのだから正解にしてあげたらと訴えたが、お祖父さまは首を横に振る。
【絵羽】「もう…! ケチなお祖父ちゃんねぇ?」
【縁寿】「でも、要領はわかった。次をがんばる。」
【金蔵】「むむ。その意気込みであるぞ。それでこそ我が孫である。」
【縁寿】「ありがとう、お祖父ちゃんっ。もう大丈夫。これからはいっぱい正解するっ。」
【金蔵】「うむ。がんばるが良い。お祖父ちゃんも素敵な景品を用意して待っておるぞ。」
 私はお祖父さまに頭を下げてから、絵羽伯母さんと共にみんなの方へ駆け出すのだった。
正解の場合(「可能」)
【縁寿】「あ、そうか。可能だ…!」
【絵羽】「そうそう。1日の間に夜って、2回あるのよね。」
【縁寿】「うん! 12月25日は真夜中の午前0時から始まる。午前0時は夜だから、それが最初の夜。それから、朝になってまた夜になっても、夜中の12時まではまだ同じ日!」
【絵羽】「そういうこと。そのどちらの夜も、確かにクリスマスの日の夜よね。」
【縁寿】「えへへへへ。縁寿すごい? 縁寿すごい…?!」
 絵羽伯母さんは最高の笑顔で、私の頭をいっぱい撫でてくれた。
【金蔵】「わっはっはっは! 見事であるぞ、縁寿。難しい問題のつもりだったのに、あっさり解かれてしまったわい。」
【源次】「おめでとうございます、縁寿さま。……これが、第1問正解のメダルでございます。」
 源次さんが金色のメダルを差し出す。受け取るが良いと、お祖父さまは微笑んだ。
【縁寿】「あ、ありがとうっ。」
【金蔵】「その調子で、がんばるが良い。さぁ、私の出題はおしまいだ。向こうへ行き、好きな人に話し掛けてクイズを出してもらうが良いっ。」
 ずっしりと重い、金色のメダル。いっぱい正解していっぱい集めたら、ポケットが破けちゃうかも? 破けるくらい集めて、みんなに自慢しようっ。
 私はお祖父さまに頭を下げてから、絵羽伯母さんと共にみんなの方へ駆け出すのだった。
メダル獲得
 そんな縁寿の姿を、金蔵は温かい眼差しで見送るのだった。
【金蔵】「ちょいと、簡単過ぎたかな…?」
【源次】「いいえ。ちょうど良かったと思います。」
【金蔵】「…………源次。私は良いお祖父ちゃんを、演じられただろうか…?」
【源次】「無論でございます。」
【金蔵】「縁寿は幼い。そして、体調を崩し、六軒島へ来ないことも多かった。……私をよく覚えては、いないだろう。」
 幼き子には、特有の酷薄さがある。それは、やさしさに対して、当然に享受できるものであると思い込んでいること。だから、人のやさしさが当り前過ぎて、……それを記憶に留めない。
【源次】「………親の恩と同じです。それを理解するには、縁寿さまもお年を重ねられる必要があるでしょう。」
【金蔵】「やがては。………私のことを、面白いお祖父ちゃんだったと、思い出してくれるだろうか。」
【源次】「……はい。必ずです。」
【金蔵】「………………………………。」
 金蔵の表情が、少しだけ曇る。……やがて縁寿も年を経れば、右代宮金蔵が、世間でどのような評判を持つかを知るだろう。
 世間が知る右代宮金蔵と、孫に接する金蔵は、まったく違う。それを知る時。……縁寿は右代宮金蔵を思い出して、世間の知る暴君の一面と、微笑んだ笑顔のどちらを思い出してくれるだろう。
【金蔵】「………出来るなら、私の笑顔を思い出してほしいが、……それは高望みであろうな。」
【源次】「……………………………。」
【ベアト】「仕方あるまい。子供とはそういうものだ。」
【金蔵】「ベアトか。」
【ベアト】「子供はやさしさに飽食し、それを決して記憶に留めぬ。あれが12年を経れば、右代宮金蔵がどれほどの奇人変人であったかを知るだろう。それに塗り潰され、そなたの笑顔など、忘れ去られる運命よ。」
【金蔵】「………であろうな。いくら甘やかせど、報われぬ愛である。」
【ベアト】「だが。親の恩を思い出すのに、長い時間を掛けるように。……縁寿もやがて、きっと思い出すだろう。……そなたが孫に、どのような笑顔で接していたのかをな。」
【金蔵】「ふっ……。忘れても良い。ただ一時、私に向けて微笑んでくれただけで、私には何よりもの冥土の土産になるのだ。これが、無償の愛の境地である。」
【ベアト】「祖父とは、報われぬ存在であるな。」
【金蔵】「報われておるとも。先ほどの縁寿の微笑みが思い出せれば。私は今夜、お迎えが来ても一向に構わんぞ。わっはははははははは……。」
 金蔵は寂しく笑うと、マントを翻す。彼が祖父として縁寿に施す愛は、もう充分だ。
 記憶に残って欲しい気持ちはあるが、それを願ってはならない。それが、無償の愛の境地。そんな金蔵の後姿を見てから、ベアトは再び縁寿の後姿を見つめる。
【ベアト】「…………縁寿。……それでもいつか、思い出してやれ。……金蔵がそなたに、どんな笑顔を見せていたのかを、な。」
合流地点
 さぁ、今度は誰にクイズを出してもらおうかな。どんどん挑戦して、どんどん正解してメダルをいっぱいもらって、素敵なご褒美をもらってみんなに自慢しよう。
 あそこには蔵臼伯父さんと夏妃伯母さん。こっちを見ながら微笑んでる。きっと、面白い問題の用意があるのだろう。
 あっちでは秀吉伯父さんが手招きしてる。面白い伯父さんだから、きっと面白い問題を出してくれるだろう。
 むこうにはお父さんとお母さん。たくさん楽しんでおいでと手を振っている。
 ……お父さんって結構、意地悪な問題を色々知ってそう。手強いかもしれない。
 そこには楼座叔母さんと真里亞お姉ちゃん。二人でクイズの本を読んで、問題を探してるみたいだ。
 時折、真里亞お姉ちゃんが私をちらりと見て、きひひひひと笑う。たまにお姉ちゃんは意地悪だから、問題もきっと意地悪なのに違いない。
 その奥には、戦人お兄ちゃんと譲治お兄ちゃんと朱志香お姉ちゃん。
 ……戦人お兄ちゃんは普段はやさしいけど、たまにすごい意地悪なことを言って、私を困らせて遊ぶことがある気がする。……きっと意地悪な問題を出す。そんな気がする。
 意地悪じゃなさそうな問題を出す人はいないだろうか。頭の回転が本調子になるまで、出来ればやさしい問題から挑戦したい。
 あそこには源次さんと南條先生がいる。この二人は意地悪なことをしないと思う。
 それから、紗音と嘉音。紗音は色々なクイズやお伽噺を知ってる。きっとユニークなものを出してくれるだろう。
 そして、お茶の配膳をしてる、郷田さんと熊沢さん。熊沢さんは手強いかもしれない。……何だか、すっごい煙に巻くような問題を出しそう。
 ……結構、みんな手強いかもしれない。うーん………。
【秀吉】「縁寿ちゃん。取って置きの問題を用意したで…! こっち来てやー!」
 秀吉伯父さんが呼んでいる。……どうしよう。挑戦してみる?
【絵羽】「秀吉伯父さんのところ、行ってみる?」
【縁寿】「うん。順番なんて関係ない。だって私は全員に挑戦するんだから。」
 私は腕まくりをしながら、秀吉伯父さんのところへ向かう。
【秀吉】「わははははははは、よく来たなぁ。わしのは難しいでぇ。」
【絵羽】「あなたが出す問題ってどんなのかしら。あまり難し過ぎるのを出しちゃ駄目よ?」
【縁寿】「難しくてもいい。解くもん。」
【秀吉】「おぉ、頼もしいことや…! ほな、行くで!」
 秀吉伯父さんはコホンと咳払いをしてから、問題を語り出す…。
【秀吉】「わしのはな、なぞなぞやで。えぇか、よく聞いてや。桃太郎の話は知ってるやろ?」
【縁寿】「川から桃がどんぶらこ?」
【秀吉】「そや。しかしな、その川には甘栗が流れてきたんや。」
【縁寿】「甘栗??」
【秀吉】「そや! そしたら次の日にはな、いよかんが流れてきたんや!」
【縁寿】「いよかん、酸っぱいから嫌い。」
【秀吉】「その次の日にはな、今度は、瓜が流れてきたんや! その次の日には枝豆が。その次の日にはオクラが。その次の日には柿が流れてきたんや!」
【絵羽】「くすくす。変な話よね。上流に八百屋さんでもあるのかしら。」
【秀吉】「さて、問題や。その次の日には、何が流れてきたと思う?!」
【縁寿】「え…?!」
【絵羽】「伯母さん、わーかった。縁寿ちゃんはわかる?」
【縁寿】「わかんない。」
【絵羽】「じゃあヒントをあげるわね。流れてきたものには、ちゃんと順番があるのよ。何の順番か、わかるかしら?」
【秀吉】「わはははは! そら大ヒントやな…!」
秀吉の出題
 ある日、川に甘栗が流れてきた。
 次の日には、いよかんが流れてきた。
 次の日には、瓜が。
 次の日には、枝豆が。
 次の日には、オクラが。
 次の日には、柿が流れてきた。
 その次の日には、何が流れてきただろう…?
選択肢3つ。「キャベツ」「レタス」「トウモロコシ」。
不正解の場合(「キャベツ」以外)
【縁寿】「………全然、わかんないっ。」
【秀吉】「わっははははははは。ちょいと難し過ぎたか…!」
【絵羽】「伯母さんはその次の日に流れてくるのもわかるわよ? きっと栗が流れてくるのよね?」
【秀吉】「そや。そして、その次の日には多分、……け、………け…。……けで始まる野菜が思いつかんなぁ!」
 ちょっとよくわからない。うーん、残念。
正解の場合(「キャベツ」)
【縁寿】「わかった! キャベツ!」
【絵羽】「そう、正解よ。選択肢にはなかったけど、キュウリでもきっと正解ね。」
 これは五十音順だったのだ。甘栗の“あ”。いよかんの“い”。瓜の“う”。こんな感じで、あ・い・う・え・お・か、と続いていたのだ。となれば、“か”の次は“き”だ。だから正解は、“き”で始まるものということになる。
【縁寿】「ありがとう、伯母さんのヒントで解けたっ。」
【絵羽】「くすくす。縁寿ちゃんが自分で解いたのよ。すごいわ。」
【秀吉】「いやいやっ、お見事や! ほな、正解のメダルをあげような…!」
 秀吉は金色のメダルを取り出すと、それを私の手の平に置いてくれた。ずしりとした手応え。うん、勝ったって感じがする。この調子でがんばろう!
メダル獲得
【秀吉】「わしな、絵羽の分もなのか、もう1枚メダルをもらっとんのや。しかし、問題がもう思い付かんのや。」
【絵羽】「じゃあ、私が縁寿ちゃんに出題しちゃおっかなぁ?」
【縁寿】「え? 絵羽伯母さんが?」
【絵羽】「そうよ。お姫様への、付き人からのクイズ♪ ちょっと面白いクイズが思いついたから、ぜひ挑戦してほしいのよぅ!」
 絵羽伯母さんは上機嫌に笑う。メダルは1枚でも多い方がいいし、そのチャンスももちろん多い方がいい。
【縁寿】「うんっ、挑戦する。」
【絵羽】「くす。その意気よ。じゃあ、出題するわね。」
【絵羽】「伯母さんは旅行が大好きだって話は、したことがあったかしら?」
【縁寿】「うん。絵羽伯母さんはよく、海外旅行へ行くって言ってた。」
【絵羽】「そうよ。だから旅行の問題を出すわね。あるところに旅人がいたの。」
【縁寿】「旅人?」
【絵羽】「その旅人は、まず北へ5km歩いたわ。」
【縁寿】「……その問題、紙に書いた方がいい?」
【絵羽】「大丈夫よ。そんな難しい問題じゃないから、聞くだけでOK。」
【絵羽】「旅人は、まず北へ5km歩いた。そして次に東へ5km歩いた。そして次には南へ5km歩いたの。」
【縁寿】「…………北へ5km。東へ5km。南へ5km。……コの字みたいに歩いたの?」
【秀吉】「そういうことやな! スタート地点から東に5kmの地点にいる計算になるで。」
【絵羽】「そのはずでしょう? ところがなんと、旅人はスタート地点に戻ってしまっていたの。……こんなおかしなことって、ありえると思う?」
【秀吉】「わはは、そんなことあるわけないで! 方位磁石がイカレたんとちゃうか。」
【絵羽】「そんなのじゃないわよ! うふふふふ、縁寿ちゃん、わかるぅ?」
【縁寿】「方位磁石のせいじゃないの? ……これはなぞなぞ?」
【絵羽】「いいえ、ちゃんとしたクイズよう? ヒントはね、地球儀でよく考えてみて?」
絵羽の出題
 あるところに旅人がいた。
 旅人は北へ5km歩いた。
 次に、東へ5km歩いた。
 次に、南へ5km歩いた。
 そしたらなんと、スタート地点に戻ってきてしまっていた。
 この場所は実在するのだが、そこはどんなところだろう…?
選択肢3つ。「とても暑い場所」「とても寒い場所」「実在するわけがない」。
不正解の場合(「とても寒い場所」以外)
【縁寿】「…………わかんないっ。」
 海外旅行なんて全然行ったことない。ひょっとすると世界のどこかには、コの字に歩いても元の場所に戻ってきてしまうおかしな場所があるのかもしれない。……バミューダトライアングルとか、何とか…。
【絵羽】「うーん……。縁寿ちゃんには、ちょっと難しかったかしら。」
【縁寿】「北に行って東に行って南に行ったら、元の場所に戻ってくるところなんて、あるわけない。」
【絵羽】「それがね、あるのよ? 地球上のある場所にね。お家に地球儀があったら、それを見ながら色々考えてみてね。どうしてもわからなかったら、お父さんに聞いてみなさい?」
【縁寿】「うん、聞いてみるっ。だから正解、教えて…!」
【絵羽】「くす。正解は、とても寒〜い場所よ? 寒い場所って地球のどこかしら? よく考えてみてね。わかったら、縁寿ちゃんもクラスのみんなに出題してみるといいわよ。みんなきっと驚くわよ。」
 寒いところってどこだろう。……北海道? 北海道だって、北に行って東に行って南に行ったら、そこはスタート地点じゃないと思う。……うーん。わからない。降参。
【秀吉】「さ、これでわしらの問題はおしまいや! 他の人に問題を出してもらうといいで!」
【絵羽】「行きましょ! 次は誰に挑戦しようかしらね!」
 こんな難しい問題を知ってるんだから、きっと絵羽伯母さんはクイズとか得意だろう。伯母さんと一緒なら、きっとメダルもいっぱい集まるに違いない。今度は誰に問題を出してもらおうかな…!
正解の場合(「とても寒い場所」)
【縁寿】「わかった…! とても寒い場所! うん、そこはすごい寒いよ、絶対!」
【絵羽】「大正解! すごいわ、縁寿ちゃんの歳でわかるなんて、本当に天才よぅ。」
【秀吉】「南極点がスタート地点だったなら、北に進み、東に進んでも、それは南極点に対して円を描いて回ってるのと同じや。だから南へ進めば、また南極点に戻るだけの話っちゅうわけや。」
【絵羽】「取って置きの難しい問題のつもりだったんだけど、縁寿ちゃんは本当にすごいわ。」
【秀吉】「おめでとさんや! ほな、これが、もう1枚のメダルや。」
 金色の、ずしりと重いメダルをもらう。よしよし、やったやった…! 絵羽伯母さんとガッツポーズ。
【秀吉】「さ、これでわしらの問題はおしまいや! 他の人に問題を出してもらうといいで!」
【縁寿】「うん、ありがとう、秀吉伯父さん…!」
【秀吉】「絵羽伯母さんは賢いで…! 二人一緒なら、メダルもざっくざくや!」
【絵羽】「えぇ、そうよ。ざっくざくよ!」
【縁寿】「うん。一緒にがんばろ、絵羽伯母さん。」
 私は駆け出す。今度は誰に問題を出してもらおうかな…!
 秀吉伯父さんは、いってらっしゃいと微笑みながら、手を振ってくれるのだった……。
メダル獲得
秀吉と絵羽の問題に正解の場合
 次の出題者を求め、嬉々と走り出す縁寿を、秀吉と絵羽が見守っていた。
【絵羽】「………あんなにも可愛らしい笑顔を浮かべられる子なのに、……私が、………それを奪うのね…。」
【秀吉】「絵羽……………。」
 絵羽は俯く。目元には、涙が一粒、光っていた…。
【絵羽】「彼女の気持ちを考えれば、それは当然のことなのよ。……でも、私はそれを受け止め切れなかった……。」
【秀吉】「しゃあない。お前かて人間やで。そうそう人間、割り切れるもんとちゃう。」
【絵羽】「それでも、私が悪いのよ…! 仮にも一児を育てた母だったのよ?! ………あの子の母親に、私はなるべきだった。……なのに、私は悲しみに溺れ、それをしなかった…。」
【秀吉】「しゃあない。しゃあない…! お前だけが悪いわけとちゃうで…! そんなに自分を責めたらあかん!」
 もう絵羽は、嗚咽を止められなくなっていた…。大粒の涙をぼろぼろと零しながら、俯いて震える…。
【絵羽】「私は、何て罪を……。………悲しいのは私もあの子もまったく同じだった…! なのに私は自分の方が悲しいと決め付けて、……あの子の気持ちをまったく受け止めなくて……。………私は母失格なんだわ…。あの子の母になって、………あげられなかった………。」
【霧江】「いいえ。……あなたはがんばってくれたわ、絵羽姉さん。」
【絵羽】「霧江さん…。」
 いつの間にか、絵羽の後ろに霧江がいた。留弗夫もいた。
【霧江】「あなたが縁寿と打ち解けようと、色々な努力をしてくれたことを知っているわ。」
【留弗夫】「……姉貴はよく堪えてくれたぜ。そんな姉貴の苦労も知らず、うちの娘が本当に迷惑をかけたな。」
 六軒島の事故の後。ひとり六軒島より生還した絵羽は、当日を欠席して生き残った縁寿を養子に迎えた。
 ……後に、互いを傷つけ合うような悲しい関係になる二人も、最初からそうだったわけではないのだ。
 絵羽は縁寿の新しい親として、最後の唯一の肉親として愛情を注ごうと努力したのだ。自身の悲しみを懸命に堪えて。
 しかし縁寿はそれを受け容れなかった。唯一生還した絵羽を、自分の親を奪ったと罵ったのだ。
 ……6歳の幼子の傷心を理解し、絵羽はそれでも耐えた。歯を食いしばって、報われぬ愛情を縁寿に注いだのだ。しかし、………絵羽だって、深く深く傷付いていた。
 彼女の悲しい努力はついに報われず、…………続く未来は、悲しいものとなる。
【霧江】「あなたは縁寿に、譲治くんに注いだのと同じ愛情を、与えようとしてくれたわ。」
【絵羽】「でも、……それは私だけの独りよがりで、……縁寿ちゃんにはまったく届かなかった…。」
【留弗夫】「それを受け止めなかったのは縁寿だ。姉貴のせいじゃない。」
【絵羽】「6歳の縁寿ちゃんにそれを求めるなんて酷よ…! それでも私は気持ちを伝えられるよう、もっともっと……、堪えなければならなかったのに…!」
【霧江】「絵羽姉さん。これだけは信じて。」
【絵羽】「………………………。」
【霧江】「私たちはあなたを、……責めてなんかいないのよ。」
【絵羽】「……霧江さん……………。」
【霧江】「縁寿のために、深く深く傷付いてくれて、ありがとう……。………あの子に人の心があるなら、いつか必ず、あなたが注いでくれた愛情に気がついてくれるはず。」
【留弗夫】「ありがとう、姉貴。俺たちは、いつまでも感謝してるんだぜ……。」
【秀吉】「…………良かったな、絵羽……。……お前のがんばりはな、……ちゃんと、……認められとんのやで……。」
【絵羽】「ううぅ……、うううぅぅぅぅ………っ…。」
合流地点
【郷田】「如何ですか、縁寿さま。よろしければ、ぜひこの郷田にも挑戦していただけませんか。」
【熊沢】「ほっほっほっほ。この熊沢も、難し〜い問題を用意しましたよぅ?」
【縁寿】「難しい問題でもへっちゃら。縁寿ひとりだけじゃないもん。絵羽伯母さんと一緒に解くもん!」
 郷田と熊沢が挑戦しないかと誘ってくる。どうせ全員に挑むのだから、誰から先だって関係ないのだ。
 絵羽伯母さん早く〜と、手を振ると、伯母さんが駆けてきた。
【絵羽】「今度はこの二人が出題? どっちから挑戦する?」
【縁寿】「じゃあ、郷田さん。」
【郷田】「はいはい、畏まりました。それでは問題を出させていただきます。」
【熊沢】「ほっほほほほほ。難しいですよぅ?」
【縁寿】「それでも解く。コツはもう、わかったもん。」
【絵羽】「縁寿ちゃんを甘く見ちゃ駄目よ? ねー!」
【縁寿】「ねー!」
【郷田】「それはそれは。…それでは、郷田らしく、台所とお料理の問題を出させていただきます。」
【絵羽】「今度は共闘しましょ。わからない時は伯母さんを頼ってね? 何かヒントを出せるようにするわ。」
【縁寿】「……ヒントもらうとメダルはもらえない?」
【絵羽】「メダルとは関係ないから、じゃんじゃん頼ってね!」
郷田の出題
 魔女の家には、魔法のキッチンがありました。
 毎日、決まった時間に帰ってくる魔女を、出来立ての晩御飯を作って迎えてくれるのです。
 ある日、魔女は仕事で帰りがとても遅くなりました。
 帰ってくると、料理たちが魔女を出迎えました。
「お帰りなさい、魔女さま。今日は野菜のシチューを用意しました。」
 と、お鍋のシチューは言いました。
「お帰りなさい、魔女さま。早く僕をシチューに浸して食べて下さい。」
 と、カチカチのパンは言いました。
「お帰りなさい、魔女さま。喉が渇いたでしょう。僕を早く飲んで下さい。」
 と、白ブドウのワインは言いました。
「お帰りなさい、魔女さま。僕を食べれば今日の暑さも忘れますよ。」
 と、デザートのアイスクリームが言いました。
 さて、この中に嘘吐きがいるのだが、それは誰だろう…?
選択肢4つ。「シチュー」「パン」「ワイン」「アイスクリーム」。
ヒント
【絵羽】「伯母さん、わーかった。ヒントはね、魔女の帰りが普段よりとても遅くなったってところよ?」
【縁寿】「……普段より遅いと何かあるの?」
【絵羽】「よく考えて? いつもの決まった時間に出来立てのご飯を作っておいたのよ? ということは、それよりずっと帰りが遅くなったら、……どうなっちゃうかしら?」
不正解の場合(「アイスクリーム」以外)
【縁寿】「………わかんない。食べ物が喋るなんておかしいもん。」
【郷田】「いやいえ、これはそういうお伽噺の問題ですので……。」
【熊沢】「ほっほほほほほほ…。どうやら、おわかりにはならなかったようでございますねぇ。」
 私が適当に選んだ選択肢は、どうやら外れていたらしい。……残念。
【縁寿】「じゃあ、正解を教えて。絵羽伯母さんはわかったんでしょ? 教えて!」
【絵羽】「いいわよ。答えはね、」
【郷田】「絵羽さま、それはどうかお許しを…! レシピとなぞなぞの答えは、秘密である内が華と言うものでございます。」
【絵羽】「そうぉ…? うふふ、なら郷田さんのいないところで、あとでこっそり教えてあげるからねー。」
【縁寿】「うん、約束っ。」
 しかし、後になって答えを教えられても、ハズレはハズレ。仕方ない。気を取り直して、今度は熊沢さんの問題に挑戦してみよう。
正解の場合(「アイスクリーム」)
【縁寿】「アイスクリーム! 魔女は帰りがすごく遅かったんだから、その頃にはもう溶けちゃってる。だから食べられない!」
【絵羽】「さすが! どぅお? 縁寿ちゃんは本当に賢いでしょう?」
【郷田】「おめでとうございます、縁寿さまっ。感服いたしました。この郷田の、腕によりを掛けた難問が、こうもあっさり解かれてしまうとは…!」
【縁寿】「全然簡単だったもん。絵羽伯母さんの問題の方が難しかった。」
【絵羽】「くすくす、ありがと。」
【郷田】「おめでとうございます。こちらが、私の問題に正解したご褒美のメダルでございます。」
【縁寿】「ありがとう!」
 よしよし、こんなの楽勝楽勝。次は熊沢さんの問題に挑戦してみよう。
メダル獲得
【熊沢】「次は私でございますねぇ。では取って置きの、難し〜い問題で縁寿さまを試してみましょうね。では参りますよ?」
【縁寿】「難しいって、どのくらい?」
【熊沢】「ほっほほほほほほ。それは挑戦してみてのお楽しみ。それでは私はサバのデザートの問題を出しましょう。」
【縁寿】「サバのデザート…?」
【絵羽】「熊沢さんのこと、きっとおかしな問題に違いないわ。注意してかかりましょ。」
【縁寿】「うんっ。」
熊沢の出題
 コックは困ってしまった。
 ディナーはデザートを残すのみなのだが、材料がサバしかないのだ。
 その時、コックはあることを閃いた。
 ひらがなを一文字足せば、サバがデザートになるのだ。
 その文字とは一体何だろう?
選択肢4つ。「あ」「か」「く」「ろ」
ヒント
【縁寿】「伯母さん、わかった?」
【絵羽】「一文字を足せばって言うんだから、ダジャレみたいな答えに違いないわ。サバに一文字を加えて、デザートにならないか考えて……。……あ、わーかった!」
【縁寿】「え?! 何? 何?!」
【絵羽】「とにかく、語尾に一文字を足してみて? それがまさに、答えそのものだから。」
不正解の場合(「く」以外)
【熊沢】「ぶっぶー。ハズレでございますよー。」
【縁寿】「えー?! わかんない! 全然わかんない…!」
【熊沢】「ほっほほほほほほ、ハズレはハズレでございます。ちょっと縁寿さまには難しゅうございましたでしょうか。」
【絵羽】「もう、熊沢さんったら。いやらしい問題ねぇ…。」
【縁寿】「こんなのおかしい! サバがデザートになんかなるわけない! 答えは何? 教えて!」
【熊沢】「ほほほほほ、それを教えたら面白くございません。早く答えを見つけないと、……本当にデザートがサバになってしまいますよぅ? いっひひひひひひひひひ……。」
【縁寿】「答えー、教えてー。」
【熊沢】「だぁめでございますよ。」
 熊沢は朗らかに笑っているが、頑として譲らない。いくら粘っても、答えは教えてくれないだろう。
【郷田】「以上で、私どもの問題はおしまいでございます。他の方も縁寿さまが挑みに来るのを心待ちにしているでしょう。さぁ、次の方へぜひ挑戦を。」
【熊沢】「縁寿さまのご武運をお祈りいたしておりますよ。」
【縁寿】「うんっ。もっともっとがんばって、いっぱいメダルを集める!」
【絵羽】「そうよ、挫けない挫けない。まだまだがんばりましょ!」
 私たちは駆け出す。さぁ、次は誰に挑もうかな…!
正解の場合(「く」)
【縁寿】「わかった! 足す文字は“く”! サバに“く”を足して、サバク!」
【熊沢】「ほっほほほほほほ、正解でございますよ。」
【絵羽】「サバクはつまり“砂漠”のこと。砂漠は英語でデザートって読むものね…!」
【縁寿】「縁寿、英語知ってた。すごい? すごい?!」
【絵羽】「さっすが縁寿ちゃん、賢ぉい! 頭なでなでしてあげる…!」
【縁寿】「んーー。伯母さんに撫でてもらうの、気持ちよくて好き。」
【熊沢】「サバに“く”を足したらデザートにもなるなんて。本当にサバはすごいですねぇ。」
【郷田】「そんなダジャレでデザートをサバにした日には、私の首が飛んでしまいそうです……。」
【縁寿】「縁寿もやだ。デザートはアイスがいい。」
【絵羽】「あっはははははは、確かに。大丈夫よね? 今日のデザート。」
【熊沢】「をっほほほほほほほ……。厨房で、サバのフルーツパフェが、皆さんを驚かそうと待ち構えておりますよぅ?」
【縁寿】「そんなの嫌ぁ!!」
 みんなが大笑いする。私はしばらくの間、サバが綺麗に盛り付けられてパフェになっているという恐ろしい想像に、苛まれ続けるのだった…。
【熊沢】「これは残念……。縁寿さまに素敵なご褒美をあげないよう、邪魔をしてやろうと、知恵を絞った問題がこんなにもあっさり解かれるとは。」
 とは言いながらも、熊沢は朗らかに笑う。彼女のしわしわの手に、金色のメダルが輝いている。縁寿はそれを受け取った。
【熊沢】「さぁ、これで私たちの問題はおしまいですよ。」
【郷田】「この調子で、どんどんメダルを手に入れて、お館様から素敵なご褒美を獲得して下さいね!」
【縁寿】「うんっ。ありがとう。もっともっとがんばるね…! やったね、絵羽伯母さん!」
【絵羽】「うふふ! この調子でどんどん行きましょ!」
 私たちは駆け出す。さぁ、次は誰に挑もうかな…!
メダル獲得
郷田と熊沢の問題に正解の場合
【熊沢】「霧江さまの陰に隠れて、おどおどしていた幼子が、いつの間にかあんなに元気になって…。」
【郷田】「……親族会議を重ねる度に、若者の成長を感じるものです。あと数年も経てば、縁寿さまも恋を覚え、化粧を覚え、やがては一人前のレディに成長されるのでしょうね。」
【熊沢】「そうですねぇ……。普通に、年月を重ねて下さったなら…。」
 残酷な運命は、……縁寿という雛に、ひとりぼっちの未来を強いる。
 卵は温めなければ、孵らない。彼女という卵は、誰にも温められず、孵ることもなく…。
【郷田】「縁寿さまは冷え切った卵のまま、孤独な未来を迎える他ないのでしょうか…。」
【熊沢】「……卵の殻は、いつだって内側から破られるもの。……冷え切った殻は、とてもとても硬いでしょうが、それでも破れぬものではありません。」
【郷田】「縁寿さまに、その強さがあるでしょうか。」
【熊沢】「それを、得ることが出来るか否か。それがこの最後のゲームと聞いています。」
【郷田】「私たちはもっと、メッセージを送るべきではないでしょうか。……せめて温められぬ卵なら、殻が割りやすいよう、少しでも外から叩くとか。」
【熊沢】「自らの殻を割る力もない雛を、無理に卵の外へ出せば、寒風に耐えることは出来ないでしょうね。縁寿さまは、その力とたくましさを、自ら得なければならないのです。」
【郷田】「……ですから、その力とたくましさを、私たちは何とか伝えることは出来ないんでしょうか。」
【熊沢】「言葉とは、与えられるものでなく、受け止めるものです。……私たちが何を与えようとも、縁寿さまが受け止めなければ、何の意味もない。」
【郷田】「…………そうですね。私たちが何を伝えても、縁寿さまが耳を貸さなければ、意味がない。」
【熊沢】「ほほほほ……。見守るしかないんですよ、私たちには。馬を水場に連れて行くことは出来ても、飲ませることは出来ないのですから。」
【郷田】「縁寿さまが、より良い未来を自ら選択してくれることを、……祈るしかありませんな。」
【熊沢】「縁寿さまが、諦めと悲しみを紛らわせるためだけの怒りに身を任せず。……本当に縁寿さまが求めておられる、たった一つの願いに純粋であってさえくれれば。彼女は絶対に、自分の一番の願いを叶えることが出来るでしょう。」
【郷田】「皮肉なものです。……その一番の願いを、自ら一番最初に、否定されているのですから。」
【熊沢】「笑う門に福来る。泣きっ面に蜂。信ずる者は救われる。……人の思いが、その強さが、自分の未来を自ら生み出すのです。」
【郷田】「せめて、その言葉だけでも掛けてあげたいものですが……。」
【熊沢】「戦人さまも厳しい。……そのような言葉さえも許さず、縁寿さまが自分の力だけで気付いてくれることを願っている。」
【郷田】「………私たちには、見守ることしか出来ないのですね。」
【熊沢】「だから、せめて祈りましょう。彼女が、最も望む未来を、その手に掴めるように。」
合流地点
【南條】「おや、私どもをご指名ですか。」
【縁寿】「うん。どうせ全員に挑むもん。ねー、伯母さん!」
【絵羽】「ねー! さぁ、私たちに問題を出してちょうだい。サクサク解いちゃうんだから!」
【南條】「はっはっはっは。そうですかそうですか。では、取って置きの問題を出さないといけませんな。」
【金蔵】「源次。お前も何か出題してやるがいい。取って置きをな。」
【源次】「畏まりました。……それでは、取って置きを。」
 うわ。源次さんならシンプルな問題を出してくると思ったのに、取って置きとか言い出す。怖い。
 でも、いずれは倒す相手。怖いとか言ってらんない。
【南條】「では、私から参りましょう。私はお医者さんですからな。救急車の問題でも出すとしましょう。」
南條の出題
 「?」に救急を足すと、赤いランプの救急車になる。
 130から「?」を引いても、赤いランプの車になるが、救急車ではない。
 「?」に入る数字は何だろう…?
選択肢5つ。「5」「10」「15」「20」「25」
ヒント
【縁寿】「“?”は数字なの? でも“救急”は文字でしょ? 数字+文字なんて計算できないよ?」
【絵羽】「救急ってのが、何だかダジャレっぽいわねぇ。ほら、キューキューって“99”とも聞こえない?」
【縁寿】「つまり、?に99を足すと救急車になるってこと?」
【絵羽】「?+99で出てくる数字が、どうして救急車になるのかしら。…………あ、わーかった!」
【縁寿】「え、本当?! 何々、どうして?!」
【絵羽】「ヒントね。救急車じゃない赤いランプの車とは、パトカーのことよ? くすくす、もうわかったんじゃない?」
不正解の場合(「20」以外)
【縁寿】「え、……んーー……、……わかんない…。」
【南條】「おやおや、わかりませんかな? 簡単な問題のつもりだったんですがな。」
 わからなかった問題にそう言われると、カチンと来る。しかし、悔しいけれど、カチンと来ようがゴチンと来ようが、答えはさっぱりだった。
【絵羽】「んーー、惜しいわねぇ。いいところまで思い付いてたと思うんだけど…。」
 絵羽伯母さんは答えがわかってたらしい。私に同じものが閃かなくて残念そうだった。
【金蔵】「………むむむむ…? あぁ、なるほど、わかったぞ! 救急車から2を引き、さらに60を足すと、天気までわかるな。」
【南條】「お見事だ、金蔵さん。では、このメダルは金蔵さんに渡さなくてはなりませんな。」
【金蔵】「わはははははは。悪いな、縁寿。このメダルはお祖父ちゃんのものだ。」
【縁寿】「………悔しくないもん。」
 南條の手から、金色のメダルが金蔵に渡される。あのメダルは私のものになるはずだったのに……。悔やんでも手遅れだ。
 救急車から2を引き60を足して…? それがどうして天気がわかることに…??
【絵羽】「天気予報を教えてくれるダイヤルは何番だっけ?」
【縁寿】「…………???」
 やっぱり、さっぱりわからない。気を取り直し、源次の問題に挑戦することにしよう。
正解の場合(「20」)
【縁寿】「20! 20に救急(99)を加えると、119。救急車を呼ぶ番号!」
【絵羽】「130から20を引くと、110。こっちはパトカーを呼ぶ番号ね。」
【南條】「お見事! 正解だ。やはり縁寿さんは頭が柔軟ですな。」
【金蔵】「おぉおおおぉ、やるではないか、縁寿ぇええぇえぇ! さすが賢いぞ、我が孫よ!」
【南條】「おめでとう。これはあんたのメダルだ。」
 南條の手に光る、金色のメダルは今や縁寿のものだ。よし、この調子で源次も打ち破って、もう1枚をいただこう。
【絵羽】「そうそう、その意気よ。どんどん、解いていっちゃいましょ!」
メダル獲得
【南條】「では源次さん、どうぞ。」
【金蔵】「我が友は、黙して語らぬがこう見えて博識だ。どんな問題が飛び出すやら、私も興味深いぞ。」
【源次】「それでは縁寿さま。お覚悟を。出題させていただきます。」
 ……クイズを出すのに、お覚悟を何て言われたのは初めてだ。無駄に緊張してしまい、お腹が痛くなる…。
【絵羽】「大丈夫よ。しっかり!」
 絵羽伯母さんがぎゅっと手を握ってくれると、お腹の痛みがちょっとだけ和らいだ。
【源次】「……縁寿さまは、割り算は出来ますか?」
【縁寿】「う、うん。塾で習った。」
【絵羽】「すごいわね、まだ6歳なのに?」
【源次】「では問題なさそうです。出題させていただきます。」
 困ったな…。割り算は一応習ったけど、かなり不得意……。
源次の出題
 5cmの長さの火のついたロウソクがある。
 このロウソクは1時間ごとに、その時の長さの半分まで燃えていく。
 そうして、長さが1cm以下になると火は消えてしまう。
 3時間後に火は消えていたが、この時、ロウソクの長さは何mmあるだろう?
選択肢5つ。「0mm」「約3mm」「約6mm」「約8mm」「約10mm」
ヒント
【絵羽】「1時間ごとにその時の長さの半分が燃えるのね…? 最初の1時間で5cmの半分。それが次の1時間でさらに半分。そして3時間目でさらに半分……。」
【縁寿】「……電卓ないとよくわかんない。伯母さん、わかる?」
【絵羽】「あ、……わーかった。くす、意地悪な問題だわ、これ。」
【縁寿】「意地悪って?」
【絵羽】「これ、割り算は関係ないわ。よく問題の文章を読み返してみて?」
 ……えっと、……何だったっけ……。
不正解の場合(「約10mm」以外)
【源次】「申し訳ございませんが、ハズレでございます。」
【縁寿】「えー?! どうして?! 縁寿、ちゃんと計算した…!」
【絵羽】「この問題はね、計算の必要はなかったのよ? んー、すっかり騙されちゃったわねぇ…。」
【金蔵】「わっははははははは。残念であるな、縁寿よ。南條はわかったか?」
【南條】「えぇ、もちろん。割り算は不要ですな。これは縁寿さんでも解ける、やさしい問題でした。」
 絵羽伯母さんだけでなく、みんなに計算の必要はなかったと言われる。せっかく割り算がんばったのに……。
【源次】「私からの問題は、以上でございます。他の方も、縁寿さまが挑みに来るのを、心待ちにしておられるでしょう。さぁ、ぜひ次の方へ挑戦を。」
【南條】「がんばれ、縁寿さん。あんたの武運を祈ってるよ。」
【絵羽】「そうよ。こんなところでへこたれてなんかいられないわ! ここから挽回よ。」
【縁寿】「うんっ。もっともっとがんばって、いっぱいメダルを集める!」
 私たちは駆け出す。まだまだ問題をくれる人は大勢いる。メダルをもらえるチャンスだっていっぱいある。さぁ、次は誰に挑もうかな…!
正解の場合(「約10mm」)
【縁寿】「……5cmが1時間で2.5cmになって、また1時間で1.25cmになって、また1時間で0.625cmになって……。」
【源次】「………………………。」
【絵羽】「縁寿ちゃん。計算は必要ないのよ。問題をよく思い出してみて…? ロウソクは、……何cmになったら消えちゃうんだっけ…?」
【縁寿】「あ! 騙されるとこだった…! 長さが1cmになったら消えちゃうんだから、どう燃えても関係ないんだ!」
 このロウソクは、長さが1cmになったら火が消える。つまり、1cm未満には絶対にならないのだ。だから正解は5番目の「約10mm」だ…!
【絵羽】「その通り…!」
【源次】「正解でございます。」
【金蔵】「おお、素晴らしいぞ、縁寿! よく惑わされなかった!」
【縁寿】「割り算なんか必要ない問題だった。引っ掛かるところだった…!」
【絵羽】「源次さんも意地が悪いわぁ。割り算は出来ますか、何て聞いておいて。あれが引っ掛けだったわけね?」
【源次】「はい。申し訳ございませんでした。」
【南條】「はっははははは。源次さんはたまに表情一つ変えずに引っ掛けてきますからなぁ。」
【源次】「おめでとうございます、縁寿さま。こちらが、私の問題を正解したことの証である、メダルでございます。」
【縁寿】「ありがとう! えへへ、絵羽伯母さん、またメダルが集まった…!」
【絵羽】「うふふ、いい調子ね!」
【縁寿】「まだまだ集める。いっぱい集めて、お祖父さまに素敵なご褒美をもらうの!」
【金蔵】「うむ。張り切るが良いぞ、我が孫よ…!」
【南條】「がんばれ、縁寿さん。あんたの武運を祈ってるよ。」
【源次】「他の方もお待ちでしょう。さぁ、ぜひ次の方に挑戦を。」
【縁寿】「うんっ。ありがとう。もっともっとがんばるね…!」
 私たちは駆け出す。まだまだ問題をくれる人は大勢いる。メダルをもらえるチャンスだっていっぱいある。さぁ、次は誰に挑もうかな…!
メダル獲得
南條と源次の問題に正解の場合
 縁寿と絵羽が駆け出したあと、……その様子を見守っていた戦人がやって来る。
【戦人】「縁寿の調子はどうかな。」
【金蔵】「戦人か。調子はわからぬが、楽しんではおるようだぞ。」
【戦人】「源次さんの問題、聞いてたぜ。俺もうっかり騙されちまうところだったぜ。」
【源次】「恐縮でございます。」
【戦人】「しかし意外だぜ。源次さんが、こういうフェイクっぽい問題を出すなんてな。もっと素直な、わかりやすい問題を出すとばっかり思ってたぜ。」
【金蔵】「はっははははははは。我が友は無口であるから、そう思われがちであるが。……こやつめ、こう見えてなかなかの策士。」
【南條】「ですな。源次さんとチェスを戦えば、それがよくわかりますぞ。」
【金蔵】「私とて時折、騙される。この真面目そうな顔で、しゃあしゃあと私を引っ掛けるのだ。昔からそうであるぞ。なのに何度騙されても私は引っ掛かる。わっはっはははははははは。」
【戦人】「そういえばさ。………源次さんと祖父さまって、どういう縁なんだ?」
 金蔵が一瞬だけ、源次の表情をうかがう。源次がわずかでも首を横に振れば、それに触れるつもりはなかったらしい。しかし、源次は今さら隠す話でもないと、自ら口を開いた。
【源次】「……私とお館様はかつて、台湾にてご縁がありました。」
【金蔵】「わっはっは、ご縁とはよそよそしい…! 悪友であるわ! こやつも私も、金持ちの放蕩息子。親に迷惑を掛けてばかりのろくでなしであったわ。」
【戦人】「源次さんが放蕩息子…? そりゃびっくりだぜ……。じゃあ、源次さんもかつて台湾に移住してて、そこで祖父さまに?」
【源次】「……………いえ。私は台湾の人間でした。」
【南條】「源次さんは台湾の出身なのです。………いえ、戦前は日本領でしたから、源次さんももちろん日本人でしたがな。」
【金蔵】「負けん気の強い男でな。出会ったばかりの頃は喧嘩ばかりよ。意気投合してからは、竹馬の友と呼ぶに相応しい最高の友人であった。」
【源次】「……戦後に色々と混乱がありました。その混乱の中、私を助けて下さったのがお館様なのです。……その時のご恩は、生涯かけても、返し切れないものです。」
【金蔵】「………それを言うな、我が友よ。……私がもう少し上手に説得できていれば、お前の家族たちも連れて来ることが出来た…。私が不甲斐ないばかりに、お前しか救えなかった…。」
 台湾の歴史には詳しくないが、戦争が終わって日本が引き上げた後にも、色々な混乱があったらしい。
 金蔵はその混乱をいち早く察し、源次とその一族が脱出できるよう手配した。
 しかし、源次の一族は台湾において大きな財産を保有していた。それを捨てることが出来ず、台湾に残ることを選んだのだ。
 その財産は、日本統治下での台湾総督府との蜜月によって築き上げられたものだった。そんな彼らが、戦後の新しい体制下で歓迎されたとは、思い難い。
 様々な混乱が起こった。そして、源次だけが難を逃れたのだ。
 ……放蕩息子のろくでなしと金蔵が称す彼が、今日のような性格に激変するような、どんな体験があったのかは、わからない。
 それは二人の間の、友情を巡る物語であり、……無関係の人間が歴史書を紐解いて、好き勝手に論じたところで、何の意味もない。
 二人は昔からの旧友であり、そして命の恩人でもあり。激動の時代に翻弄されながらも、友情を末永く維持し…。
 表向きは使用人の頭ということになっているが、……二人きりで書斎にいる時は、少しだけ若い頃に戻って、酒を酌み交わすこともある。……今でも、そんな二人なのだ。
 当時を懐かしむ金蔵と源次を残し、戦人はそっと離れる。それ以上を聞くのは無粋なことだし、聞く必要もない。
 金蔵と源次が昔からの親友であること。そんなことは、すでに知っているのだから。
合流地点
【絵羽】「どう? 次は夏妃伯母さんたちに挑戦してみない?」
【縁寿】「うん。やっつけるっ。」
【蔵臼】「はははは、胸を貸そうじゃないか。」
【夏妃】「私たちも手応えのある問題を用意しておきました。」
【蔵臼】「私から出すかね。それとも君から?」
【夏妃】「では私から。」
【蔵臼】「うむ。」
【夏妃】「今から言うのをよく聞いて下さい。白黒白黒白?黒白黒白黒白。」
【縁寿】「え? 白黒白黒…、……え??」
【夏妃】「もう一度言いますよ。白黒白黒白?黒白黒白黒白。……この?には何が入るでしょう。」
 これは、……とんでもない難問だ。
 白黒白黒白?黒白黒白黒白。白と黒が交互に並んでるように見えるが、?は白と黒に挟まれている。答えは、……灰色?? そんな単純な問題だろうか…?
【絵羽】「な、……夏妃姉さんにしてはずいぶん難しいじゃないの……。」
 絵羽伯母さんも唸ってる。どうやら、かなり難しいようだ。
【夏妃】「そ、そんなに難しいでしょうか…?」
【蔵臼】「……経験のない人にはわからん可能性もあるな。」
【夏妃】「絵羽さんはともかく、縁寿ちゃんなら、学校や幼稚園で結構見ていたかも……。」
【絵羽】「な、何よぅ、私には絶対わからないっていうの?!」
 絵羽伯母さんより、私の方がわかる問題だというのだろうか……。……難しい。
夏妃の出題
 白黒白黒白?黒白黒白黒白。
 この“?”に入るのは何だろう…?
選択肢5つ。「白」「黒」「赤」「灰色」「空白」
ヒント
【絵羽】「ヒントは夏妃姉さんの言ってた、学校や幼稚園で見たことがあるかも、というやつね。……縁寿ちゃんにはわかる?」
【縁寿】「うぅん、全然。」
【絵羽】「ほらっ、縁寿ちゃんも全然わからないって言ってるわよ?! 少しヒントを出しなさいよぅ。」
【夏妃】「そ、そうですか。では、ヒントを……。白黒白黒……、色々ありますけど、どれを押しても、とても綺麗な音がなりますよ。」
【絵羽】「綺麗な音……? その白黒は音をさせるものなの?」
【縁寿】「押すと音が出る白黒……?」
不正解の場合(「白」以外)
【縁寿】「…………わかんない。」
【絵羽】「私もだわ、降参よ。……夏妃姉さんのくせに、ずいぶん難しい問題を知ってるじゃない。」
【蔵臼】「ははははは。育ちが出る問題だからね。お前には難しかったかもしれん。」
【絵羽】「なッ、何ですってぇええぇえぇ…?!」
【縁寿】「……夏妃伯母さん。答えを教えて?」
【夏妃】「答えは、鍵盤ですよ。」
【縁寿】「鍵盤? ピアノとかの?」
【夏妃】「そうです。白黒白黒は鍵盤の色の並びですよ。なら、もう答えがわかったでしょう。」
 夏妃伯母さんはそう微笑むが、私は鍵盤の並びなんてよく覚えてない。……んー、残念。今度は蔵臼伯父さんの問題に挑戦して、名誉挽回しよう。
【絵羽】「ほら。今度は兄さんの番よ? 私と縁寿ちゃんであっさり解いて、けちょんけちょんにしてあげるわぁ?」
正解の場合(「白」)
【縁寿】「この白黒白黒ね、……鍵盤だ! ピアノと同じ!」
【絵羽】「あ、……そういうこと?! これ、鍵盤なのね?!」
 幼稚園や学校にあって、白黒白黒がいっぱい並んでるもの。それは楽器。これは、鍵盤ハーモニカやピアノの鍵盤のことなのだ。
【絵羽】「2つの黒い鍵盤は、ドレミの間。3つの黒い鍵盤はファソラシの間だから……。」
【縁寿】「白黒白黒白?黒、だから……、白が3つで、ド・レ・ミ……。」
【絵羽】「ミとファの間に黒い鍵盤はないわ。ミの次はすぐファになる!」
【縁寿】「つまり、ミの次が?だから、正解は“ファ”。……つまりつまり、」
【絵羽・縁寿】「「正解は、白!」」
【夏妃】「正解です。ちょっと難し過ぎたかと思いましたが、さすがですね。」
【蔵臼】「やるじゃないかね、二人とも。さ、夏妃。」
【夏妃】「おめでとう、縁寿ちゃん。これが私からのメダルです。」
【縁寿】「やった! 絵羽伯母さん、また1つ集まったよ!」
【絵羽】「順調ね。さ、次は兄さんが出す番よ。あっさり解いて、けちょんけちょんにしてあげるわぁ?」
メダル獲得
【蔵臼】「上等じゃないかね。返り討ちにして差し上げようじゃないか。」
【縁寿】「やめてー、絵羽伯母さんっ、挑発しないでっ。問題が難しくなっちゃうー!」
【蔵臼】「くっくくくくく。恨むなら絵羽を恨むんだな! さぁ食らいたまえッ、難問だ! これは私が投資に関わったビルのテナントを巡る問題だ。」
蔵臼の出題
 14階建てのビルがある。
 各階に入居している企業は以下の通りである。
 14階には岡村証券株式会社。
 13階には岩村不動産株式会社。
 12階には田村運輸株式会社。
 さて、村越出版株式会社は何がいにあるだろう?
ヒント
【縁寿】「どこのビルか知らないし、わかるわけない……。」
 12階より上は何が入っているかわかってるのだから、答えは1階から11階の間のどこかだ。それはきっと間違いない。
【蔵臼】「ふっふふふ。降参かね?」
【絵羽】「こ、降参なんかしないわよッ、きー!! 村越出版は何階にあるかですって?!」
【蔵臼】「何階かじゃない。何がいか、だ。」
【縁寿】「どっちも同じ“階”だよ…?」
【絵羽】「……あ。……………………………。」
 絵羽伯母さんは突然、何かを閃く。そして指を折りながら、1階から順に数えていく……。
【絵羽】「わかったわ、縁寿ちゃん…! 1階から順に、声に出して読んでみて…! 1つしかないから!」
【縁寿】「え? ど、どういうこと……?」
不正解の場合(「3階」以外)
【縁寿】「………わかんない。」
【絵羽】「これ、何階かじゃなくて、何“がい”か、ってのがポイントなのね?」
【蔵臼】「そうだ。ある意味、出題の時点ですでに答えを示しているがね。」
【縁寿】「どういうこと…?」
【絵羽】「例えばだけど、14階ってあるわよね? 14階は、14カイとも14ガイとも読むわよね? でも1階は1カイとは読んでも、1ガイとは読まない。」
【蔵臼】「そういうことだ。1階から11階までの間で、ガイと読むのは1つしかない。」
【縁寿】「あ、………あー…………。」
 私も今頃になって答えがわかる。出題された時の、蔵臼伯父さんのちょっとした発音の違和感に気付いていれば……。
【蔵臼】「はっはははははは。悪いね。伯父さんのメダルは、お預けだ。」
正解の場合(「3階」)
【縁寿】「3階!」
【蔵臼】「むっ。」
【絵羽】「お見事っ、正解よ…! 1階から11階の間に、ガイと読めるフロアは3階(3ガイ)だけだわ。」
【縁寿】「うん! 3階だけは3ガイとも読めるけど、それ以外で11階までは、どれもカイとしか読まない。」
【蔵臼】「や、……やるじゃないかね…。私には、答えを教えられるまでサッパリだったというのに……。」
 どうやら、蔵臼伯父さんもかつてこの問題を出され、答えがわからなかったらしい。それを私に解かれて、ちょっぴりだけ悔しいようだ。
 ……私じゃなくて、絵羽伯母さんに解かれたのが悔しいみたいだ。変なの。
【絵羽】「ほらっ。さっさとメダルを寄越しなさいよ。」
【蔵臼】「これは縁寿ちゃんの知恵に評するメダルだ。絵羽にやるわけではない。」
【絵羽】「ふん、負け惜しみを…!」
【縁寿】「ありがとう、蔵臼伯父さんっ。縁寿すごい? 縁寿すごい?!」
【蔵臼】「うむ。伯父さんより、よほど頭が柔軟だ。君が姪で、私は誇らしいよ。」
メダル獲得
【夏妃】「これで、私たちの問題はおしまいです。」
【蔵臼】「楽しんでもらえたならいいのだがね。」
【縁寿】「うんっ。ありがとう、夏妃伯母さん、蔵臼伯父さんっ。」
【蔵臼】「メダルの枚数など気にせず、みんなの奇問難問をたっぷり楽しんで欲しい。」
【夏妃】「今夜が、あなただけの素敵な夜になることを願っていますよ。」
【絵羽】「楽しんでるわよねぇ、私たちっ。」
【縁寿】「うん! 私たち、すっごい楽しい!」
 二人が駆け出すのを、蔵臼と夏妃は微笑みながら見送るのだった。
夏妃と蔵臼の問題に正解の場合
【ベアト】「おぉ、夏妃か。どうだった、お前たちの問題は。」
【夏妃】「私たちなりに選りすぐりを出題したつもりです。……楽しんでもらえたかどうか。」
 向こうでは、縁寿と絵羽が、これまでに集めたメダルの枚数を数えている。縁寿と絵羽。……不思議な組み合わせだが、とても楽しそうだった。
【ベアト】「……血の繋がらぬ、未来の親子か。こうして見ている分には、本当の親子そのものにしか見えぬ。」
【夏妃】「えぇ。………絆は、心で育むものです。血の繋がりなど、それに劣るものです。」
 夏妃はそれを言ってから、……自らの言葉を噛み締め、ひとり俯く。
【ベアト】「どうした。」
【夏妃】「………私に、よくもそのようなことが言えたものだと、……驚いただけです。」
【ベアト】「……………………。……気にするな、妾のことは。」
【夏妃】「私が、あなたを拒絶してしまったから、……あなたはいくつもの世界で、辛い目に…。……それは全て、私の責任です…。」
【ベアト】「そなたの気持ちもわかる。……身篭れず、何年も肩身の狭い思いをしてきたのだ。そこに突然、素性の知れぬ赤ん坊を渡され、養子にしろと言われたら、ショックを受けぬ女などおらぬ。」
【夏妃】「……だからといって、……あなたを崖より突き落としても良いという理由にはなりません…。」
【ベアト】「そうであるな。それは、そなたが生涯、背負うべき十字架であろう。」
【夏妃】「……はい。その覚悟です…。」
【ベアト】「ならば、そなたを苛む役は、その十字架だ。妾ではない。」
【夏妃】「私を、……恨まないというのですか…。」
【ベアト】「そう、しょげた顔をするなって。……いやいや、むしろ逆だなぁ。お前がそのしょげた顔を見せる限り、妾はそなたを咎めようとは思わぬ。そなたがその十字架を背負い続ける限り。妾はそなたを恨もうとは思わぬ。」
【夏妃】「この私を、……恨まないというのですか……。」
【ベアト】「本当は恨んでたぜェ? チョオ恨んでたっ。お前の抱き枕吊るしてサンドバッグにするくらい恨んださァ!」
【ベアト】「でも、お前を見ている内に、その気もなくなった。……お前は悔やみ、後悔している。そしてその気持ちをきっと、お前は生涯忘れない。」
【夏妃】「忘れるものですか……。……私は、人殺しなのですから………。」
【ベアト】「重い十字架、背負っちまったなァ。今じゃあんたに同情してる。ホントだぜ? だって、全部、金蔵が悪いんじゃねぇか。あいつが、隠し子なんか作るから悪いんだし! 何しろ、お前への預け方が特に悪い! 子供が生まれないから養子にしろっ、何てのじゃなく、可哀想な子だから育ててくれぬかとか、そなたを傷つけぬ言い方はあったはずだ。これだから男は、金蔵は…!」
【夏妃】「…………………………。」
【ベアト】「もはや、恨みはない。それでも、そなたの十字架は軽くはならぬか。」
【夏妃】「はい。……あなたにどうすれば償えるか、未だにわからないのですから。」
【ベアト】「んじゃ、こうしよう。両腕を広げよ。」
【夏妃】「え、……え? こ、……こうですか……?」
 おずおずと夏妃が両手を広げると、そこへベアトが飛び込み、夏妃をぎゅっと、抱き締める。
【夏妃】「……あ、あの、……こ、これは………。」
【ベアト】「二度と言わねぇから、一度くらい言わせろよ。……妾はよ、自分の母親に会ったことさえねぇんだからよ。」
 ベアトは夏妃を抱き締めながら、小さな声で言う。もう二度と、絶対に口にしないその言葉を、夏妃に言う…。
【ベアト】「妾のことで悔やんでくれてありがとよ。……でもよ、妾はもう恨んでねぇからな? それだけは信じてくれよ。…………カアサン。」
【夏妃】「……ベ、………ベアトリーチェ……………。」
合流地点

クイズ大会(後半)

【絵羽】「今度は誰に問題を出してもらおうかしらね。」
【縁寿】「あの二人はどう?」
【絵羽】「紗音ちゃんと嘉音くん? いいわね、相手にとって不足はなさそう。」
【紗音】「お呼びですか、絵羽さま、縁寿さま。」
【嘉音】「……姉さんは馬鹿だな。問題を出せって言ってるんだよ。」
【紗音】「あ、し、失礼しましたっ。」
 紗音は相変わらずそそっかしい。でも嘉音はすごく落ち着いていて、練りに練った問題を出してきそうだ。
【紗音】「えっと、うんっと、……………。」
【嘉音】「……はぁ。じゃあ、僕から先に出すよ。姉さんはその間に考えて。」
【紗音】「う、うん。ごめんね…。」
【嘉音】「じゃあ、姉さんが問題を思い付く時間が稼げる程度に、悩んでもらえる問題じゃないとな。」
【絵羽】「うっふふふ、言うじゃなぁい。おいでなさい? 嘉音くんの思い切り難しい問題!」
【縁寿】「挑発しないでー。簡単なのがいいー!」
【嘉音】「絵羽さまのご許可がいただけたので、理不尽に難しい問題を、失礼させていただきます。」
【絵羽】「ここは任せてっ。伯母さんが解いてあげるわ!」
嘉音の出題
 学問の好きな王様が、よく勉強した人に賞金を与えることにした。
 銅賞の人には金貨29枚。
 銀賞の人には金貨47枚。
 金賞の人には金貨79枚。
 では、プラチナ賞の人は、金貨何枚がもらえるのだろう?
選択肢は5つ。「30枚」「57枚」「78枚」「91枚」「112枚」
ヒント
【縁寿】「もらえる賞金の枚数が半端で、何か変。」
【絵羽】「ちょっと、嘉音くん、いい加減にしなさいよ! こんなのわかるわけないでしょう?!」
【嘉音】「姉さんが問題を思い付くまでの時間稼ぎですので、ご容赦を。」
【紗音】「あ、ありがとう…! 私、問題、思い付いたよ…!」
【嘉音】「……了解。では絵羽さま、縁寿さま。ヒントを差し上げます。………銅は29、銀は47、金は79。これがヒントです。」
【縁寿】「問題と何も変わらない…! ヒントになってないっ。」
【絵羽】「………銅は29? 銀は47?? ……………あぁ、そういうこと!」
【縁寿】「え? わかったの?! 縁寿もわかる! プラチナは金より高級だから、きっと金賞の賞金79枚より多いはず!」
【絵羽】「違うわ。その法則によるとプラチナ賞の賞金は、多分、金賞より安いわね。そうでしょう?」
【嘉音】「……お察しの通りです。すでに、答えはわかられているようで。」
【絵羽】「これは縁寿ちゃんには無理な問題だわ。最低でも中学生以上の問題よ。これ、私が答えるわ! 縁寿ちゃん、いい?」
【縁寿】「う、うん。絵羽伯母さんに任せる…!」
不正解の場合(「78枚」以外)
【嘉音】「不正解です。」
【絵羽】「あーーーーーッ、ごめんなさい、間違えたー!! もっと真面目に理科をやってればー!」
【縁寿】「どういうこと? わかんない。」
【絵羽】「この金貨の枚数はね、原子番号なのよ。銅は29番、銀は47番、金は79番。プラチナが何番だったか思い出せないわー…!!」
【縁寿】「縁寿、ちんぷんかんぷん。」
【絵羽】「あんたねぇ?! 縁寿ちゃん相手になんて問題を出してるのよ! もう少し問題を選びなさいよねぇ?!」
【嘉音】「絵羽さまより、思い切り難しい問題を出すようにとのご許可を、賜っておりましたので。」
【縁寿】「……そうだね。絵羽伯母さん、自分でそう言った。だから縁寿のわかんない問題になったー。」
【絵羽】「う、うぐぐぐぐぐぐぐ……!! ご、……ごめんね、縁寿ちゃん…。」
 絵羽伯母さんは苦笑いしながら両手を合わせる。難し過ぎてさっぱりだった……。
正解の場合(「78枚」)
【嘉音】「………正解です。」
【縁寿】「すごい、絵羽伯母さんッ。どうして?! どうして78枚なの?! 金賞より上なのに、どうして賞金は金賞より少ないの?!」
【絵羽】「この賞金の枚数はね、それぞれの賞の原子番号なのよ。銅は29番、銀は47番、金は79番。ちなみにプラチナは78番ね。だから、プラチナ賞の賞金は金貨78枚っ。」
【縁寿】「え、……絵羽伯母さん、すごぉい!!」
 絵羽伯母さんは勉強熱心で、学生時代もすごく頭が良かったとお父さんから聞いたことがある。息子の譲治お兄ちゃんも頭いいし、絵羽伯母さんは本当にすごい。
【絵羽】「それにしてもひどい問題ねぇ。せめて縁寿ちゃんにわかる問題にしなさいよ。」
【嘉音】「絵羽さまより、思い切り難しい問題を出すようにとのご許可を、賜っておりましたので。」
【縁寿】「……そうだね。絵羽伯母さん、自分でそう言った。だから縁寿のわかんない問題になったー。」
【絵羽】「う、うぐぐぐぐぐぐ……。わ、私のせいかしら。ごめんね、縁寿ちゃん…。でもほら、メダルをもらえたから許して。」
 またメダルがもらえた。これで何枚集まっただろう? でもまだまだ集める。今度は紗音からだ。
メダル獲得
【紗音】「私の問題は、そんなに難しくありませんのでご安心下さい。」
【嘉音】「姉さんのレベルで考えてるからね。」
【紗音】「も、もう馬鹿にして…! じゃあ、嘉音くんも挑戦してみる?」
【嘉音】「望むところさ。」
【絵羽】「今度は縁寿ちゃんにもわかる問題だそうよ。伯母さんはヒント役に回るわ。」
【縁寿】「うん、がんばる。解く。メダル集めるっ。」
【紗音】「それでは参りますね。よくお聞き下さい…。」
紗音の出題
 A=甘納豆
 S=塩せんべい
 K=カレーライス
 N=ブラックコーヒー
 ?=レモネード
 ?に入るアルファベットは何だろう…?
選択肢5つ。「A」「S」「K」「N」「R」
ヒント
【縁寿】「よくわかんない。ローマ字…?」
【嘉音】「……それぞれの名前をローマ字に直して、それの頭文字を抜いたとか。」
【絵羽】「私も最初はそう思ったのよ。甘納豆はA、塩せんべいはS、カレーライスはK。ローマ字ならみんなそれが頭文字なのよね。でもそれだと、ブラックコーヒーがNってのが意味わかんないのよ。」
【紗音】「うふふふふふ。わかりますでしょうか。」
【縁寿】「……縁寿、ローマ字は何となくわかるけど、英語はわかんない。」
【紗音】「ローマ字がわかれば充分ですよ。英語はわからなくて大丈夫です。絵羽さまと協力すれば、きっと解けますよ。」
【縁寿】「他にもヒントないの?」
【紗音】「ありますよ。他の食べ物のアルファベットもお教えします。まず、A=アーモンドチョコ。S=シャーベットのレモン味。K=キムチ。N=苦い緑茶。うふふふふふ……。」
【絵羽】「やっぱりローマ字の頭文字に思えるわ……。でもそれじゃ、ブラックコーヒーのNがわかんないのよねぇ……。」
【縁寿】「……縁寿はAの食べ物が好き。シュークリームやケーキはAに入る?」
【紗音】「えぇ、入りますよ。」
【嘉音】「ということはやはり、名前のローマ字の頭文字じゃないんだ…。」
【絵羽】「どういうこと? Aのグループは何? 甘納豆とアーモンドチョコよね。デザート? お菓子? Sは塩せんべいとレモンシャーベット? Kはカレーとキムチで、Nはコーヒーと緑茶? これ、何のグループ??」
【縁寿】「……わかるような、わかんないような、……何だかもどかしい。」
【紗音】「では最後のヒントを。皆様はレモネードをお飲みになったことはございますか?」
【縁寿】「ある。最初、甘いジュースだと思ったから、すごいびっくりした。二度と飲まないっ。」
【絵羽】「…………あ、……わかった! 縁寿ちゃん、ありがとう。あなたのお陰で多分、わかったわ!」
不正解の場合(「S」以外)
【紗音】「降参ですか? 嘉音くんは?」
【嘉音】「……わかんないよ。……わかりそうでわからない…。」
【縁寿】「うん。それぞれのグループに意味がありそうに感じるのに、あと一歩がわからない。」
【絵羽】「これ、……味のことね?」
【紗音】「はい、そうです。縁寿さまも嘉音くんも、まだお気付きになりませんか?」
【縁寿】「わからないっ。絵羽伯母さん、どういうこと? 教えてっ。」
【絵羽】「Aのグループは全部、甘い食べ物でしょう? じゃあ、Sは? Kは?」
【嘉音】「………そうか、そういうことだったのか……。姉さんにしては、やるね…。」
【紗音】「姉さんを馬鹿にしてごめんなさいって言ってごらん? 言わないと嘉音くんのごはん、SとかNのものばっかりにしちゃうからね。」
【絵羽】「Sはともかく、Nばっかりというのは辛いわねぇ。」
 結局、嘉音はN料理責めに屈し、紗音に謝罪しなければならなかった。縁寿だけが未だによく答えがわかっていない。
 これ以上は考えても仕方ない。気を取り直して、次の問題でがんばろう。
正解の場合(「S」)
【絵羽】「ほら、縁寿ちゃん。ここにある食べ物の味を考えてみて?! 甘納豆の味は?」
【縁寿】「甘い。」
【絵羽】「塩せんべいの味は?」
【縁寿】「しょっぱい。」
【絵羽】「カレーライスは? そしてブラックコーヒーは?!」
【嘉音】「……なるほど、そういうことか……。」
【縁寿】「カレーは辛い。コーヒーは苦いよ。……どういうこと? アルファベットは味なの?」
【絵羽】「そういうこと! 甘いをローマ字に直すと頭文字はA。Sはしょっぱいで、辛いはKで、苦いはN! では、レモネードの味は?」
【縁寿】「酸っぱい!」
【絵羽】「そういうこと! 酸っぱいをローマ字に直した頭文字は、S! レモネードの答えはSね!」
【紗音】「はい、正解でございます。おめでとうございます、絵羽さま、縁寿さま。」
【縁寿】「絵羽伯母さん、すごいすごい!!」
【絵羽】「二人でがんばったから解けたのよ。二人の成果よ。」
【紗音】「こちらが、私のメダルでございます。お受け取り下さい。」
【縁寿】「やった、またメダルが1枚っ。ありがとう!」
【紗音】「嘉音くんはわからなかった? 難しかったでしょう。」
【嘉音】「…………姉さんにしては、やるね…。」
【紗音】「姉さんを馬鹿にしてごめんなさいって言ってごらん? 言わないと嘉音くんのごはん、SとかNのものばっかりにしちゃうからね。」
【絵羽】「Sはともかく、Nばっかりというのは辛いわねぇ。」
【縁寿】「縁寿はAばっかりがいいっ。」
【絵羽】「もう、虫歯になっちゃうわよ? でも伯母さんの家に遊びに来たら、いっぱいご馳走してあげるわ。」
【縁寿】「わぁあい!! 伯母さん、だぁい好きッ!!」
 結局、嘉音はN料理責めに屈し、紗音に謝罪しなければならなかった…。
メダル獲得
【紗音】「以上で、私たちの問題はおしまいです。お楽しみいただけましたか…?」
【縁寿】「うんっ。ありがとう!」
【嘉音】「他の方も、相当難しい問題を用意されているようです。どうかお気をつけて。」
【絵羽】「そうねぇ。手強そうな人ばかり残ってるわ。」
【縁寿】「でもやっつける! 絵羽伯母さんとなら勝てる…!」
【絵羽】「そうね。二人で知恵を出し合って、がんばりましょ!」
【紗音】「いってらっしゃいませ。頑張って下さいね。」
嘉音と紗音の問題に正解の場合
 紗音と嘉音は、配膳台車を押しながら厨房へ戻っていた。食堂の中は、あれだけ賑やかで楽しい空気に包まれていたが、こうして廊下に出ると、やはり今夜は雨で、風がとても強かったことを思い出させられる。
 でも、それで良いのだと彼らは思った。お別れのパーティーは、寂しさの雨を一時忘れて、賑やかに過ごすのが正しいのだから。
【紗音】「………これで、長かったゲームも、おしまいなんだね…。」
【嘉音】「清々するよ。……ようやく僕たちは、誰の玩具にもならなくて済む。……静かに忘れ去られて、埃に埋もれて消え去りたいね。」
【紗音】「違うよ。私たちは、埃に埋もれて消えるんじゃない。」
【嘉音】「…………………。」
【紗音】「閉じられる猫箱の世界で、誰にも知られることのない、私たちの未来を続けていくんだよ。」
【嘉音】「………そうだね。……ごめん。それは僕たちにも知ることの出来ない世界だから、……忘れてたよ。」
【紗音】「私たちは、猫箱の世界で、どんな未来を紡がれるんだろうね。」
【嘉音】「それがわからないから、猫箱って言うんじゃないか。」
【紗音】「…………そうだね。」
【嘉音】「姉さんは、心残りはないのかい。………譲治さまのこととか。」
【紗音】「…………………………。」
【嘉音】「姉さんは譲治さまに、指輪をもらうまでしか出来ない。…結婚も、添い遂げることも、何も。」
【紗音】「それが叶うのが、猫箱の中の、私たちの未来じゃない。……それは私だけじゃないよ。嘉音くんだってそう。朱志香お嬢様と嘉音くんの未来とか、ね。」
【嘉音】「………僕は……。」
【紗音】「私が譲治さまとの婚約を破棄して、島を出て行っていなくなる未来だって、ありえるんだよ。その世界では、嘉音くんはもう、私のことなんか何も気兼ねしなくていい。………お嬢様と、青春を謳歌することが出来るんだよ。」
【嘉音】「……姉さんが譲治さまとの婚約を諦められるなら、そういう世界もあるかもね。」
【紗音】「だから。……私が譲治さまと結ばれる世界と。あなたがお嬢様と結ばれる世界が、同時に存在できるのが、猫箱の中じゃない。」
【嘉音】「………どんな矛盾した夢も、全てが同時に存在できる世界。」
【紗音】「それが、私たちという駒がしまわれる世界なの。……だから、寂しくなんかないし、悲しくもない。……今ここにいる私は、譲治さまに指輪をもらうところまでしか、観測できないけれど。」
 猫箱の中の、私には観測できない世界にいる私は、その後の、幸せな未来をきっと紡いでいるんだよ…。猫箱は、どんな駒も玩具も夢もしまえる、不思議な箱なの。
 それは、私たちを閉じ込める檻なんかじゃない。むしろ、猫箱の中こそが、全てから解放される、無限の世界なんだよ……。
【嘉音】「全てから解放され、全てが同時に叶う世界。……でも、その世界の僕は、今ここにいる僕じゃない。……それが何だか、悔しくて。」
【紗音】「………ね、嘉音くん。」
【嘉音】「何……?」
【紗音】「しよっか。」
【嘉音】「………何を。」
【紗音】「決闘。」
【嘉音】「…………………いいの?」
【紗音】「私たちは、もっと早くに決着をつけるべきだった。なのに、こうしてゲームが終わる最後の瞬間までこうして、それを先送りにしてる。」
【嘉音】「……いいよ。……どうせ終わるゲームさ。最後の最後くらい。………僕らは自分たちの決着を、しっかりとこの手でつけるべきなんだ。」
【紗音】「そうすれば、猫箱にしまう前に、私たちは未来を見ることが出来るもんね。」
【嘉音】「………いいとも。やろうじゃないか。……何で決める? コイン? それともまた鉄砲で…?」
【紗音】「えっとね、……じゃー、私たちもクイズ大会にしよっか。」
【嘉音】「……はぁ? ………姉さんも物好きだな。」
【紗音】「じゃあね、うーん……、第一問っ。」
合流地点
【真里亞】「きっひひひひひひひひ! 縁寿にはすごい難しい問題を出しちゃうよ! 取って置きの難しい問題でいじめて、メダルなんか絶対にあげなーい!」
【縁寿】「縁寿、解けるもん、絶対、解けるもん…!」
 真里亞と縁寿は目を合わせるなり、いきなり喧嘩を始める。歳が近いこの二人は、とても仲良しだが、同時にとてもよく喧嘩する。特に、お互いが競い合うタイプのゲームの際には、いつも大騒ぎなのだ。
【絵羽】「真里亞ちゃんは色々なクイズを知ってそうね。楽しみだわ。よろしくね。」
【真里亞】「きっひひひひ、出さないよ。真里亞は真打だから、ママの後に出すの!」
【楼座】「そう? じゃあ、ママが先でいい?」
【真里亞】「うー!」
【楼座】「じゃあ、私から出題するわね。行くわよ? うふふふふふ。」
楼座の出題
 もうすぐ爆発する六軒島!
 爆発まであと1時間しかない。
 楼座はインゴットの積まれている地下貴賓室まで3分で行ける。
 しかしインゴットは重いので、一度に1つしか持ち出せない。
 しかも、持って地上に戻るには5分がかかってしまう。
 地上よりスタートして地下貴賓室との往復をくり返し、
 楼座は地下貴賓室より、何個のインゴットを持ち出せるだろう…?
選択肢は5つ。「4個」「5個」」「6個」「7個」「8個」
ヒント
【絵羽】「んーー……、この問題はノーヒントでもいいかしら。」
【楼座】「くす、そうね。縁寿ちゃん用の問題だもの。姉さんにはちょっとやさしいわ。」
【縁寿】「1時間は60分だから、一往復に8分……。」
【絵羽】「がんばって。縁寿ちゃんなら解けるわよ。この問題は、伯母さんからはノーヒントね。」
不正解の場合(「8個」以外)
【縁寿】「え? どうして違うの…?!」
【楼座】「うふふ、ごめんね。ちょっといやらしい問題だったかしら。」
【絵羽】「ポイントは、何個持ち出せたかってところね。」
 ……あぁ。シンプルなミスみたいだ。ひねくれた問題ばかり挑戦してきたので、ちょっと身構えすぎたみたい。
【楼座】「じゃ、叔母さんの問題はこれでおしまいね。次が本命の真里亞の問題よ。がんばってね!」
正解の場合(「8個」)
【縁寿】「8個…!」
【楼座】「うふふ、それでいいの? 黄金を地上に運ぶには、一往復8分かかるのよ? 8×8じゃ、60分をはみ出しちゃうわよ。」
【縁寿】「うん。だって、何個持ち出したか、が問題だもん。インゴットの部屋から一歩でも出れば、“持ち出した”ことになる。」
【絵羽】「さすが、縁寿ちゃん…! たくさんの問題ですっかり鍛えられちゃったわ。」
【楼座】「そういうこと。7往復すると8×7で56分。あと4分しかない。でも3分あればまた地下貴賓室に戻って、最後の1分で8個目のインゴットを“持ち出せる”。」
【真里亞】「きひひひひひひ…。縁寿もやるね! すごいよ、うー。」
【縁寿】「真里亞お姉ちゃんには負けないもんっ。」
【楼座】「おめでとう。これが私のメダルよ。じゃあ、次は真里亞のとっておきの問題に挑戦してあげて。」
メダル獲得
【真里亞】「ようやく真里亞の番だね。きっひひひひ、ママの簡単な問題にずいぶん時間を掛けるから心配になっちゃったよ。縁寿には無理だね、絶対に無理!」
【縁寿】「絵羽伯母さんがいるもん、二人で解くもん!」
【真里亞】「きひひひひひ、無理だよ無理無理! 絵羽伯母さんにだって解けたりはしない! 狼と羊のパズルはものすごい難しいんだからね…!」
 真里亞は手提げカバンより、擦り切れて使い込まれ、まるで魔導書のような貫禄を持った「狼と羊のパズル」の本を取り出す。
【真里亞】「狼と羊のパズルはわかるよね?」
【縁寿】「わかるよ。何度も出されたもん。」
【楼座】「こちらの岸から向こうの岸へ、船を使ってみんなを移動させるパズルよ。」
【絵羽】「大抵、おかしなルールがあるのよね。狼と羊の場合だと、それぞれの岸で、狼が羊の数を上回ってはならない、だっけ?」
【真里亞】「そう、その通り! 狼が羊を上回らないように気を付けながら、船を往復させて全員を対岸へ移動させるパズルなの…!! でもね、狼と羊しかないのは、一番シンプルで単純で簡単な、入門編の基礎編の練習問題程度なんだよ…!!」
【楼座】「上級編になるとね、狼や羊以外にも色々出てくるのよ。面白いわよ。」
【絵羽】「………紙に書いた方がいい問題?」
【楼座】「そうね、その方がきっと、整理がしやすいわよ。」
【絵羽】「参ったわね、……この問題、かなりてこずりそうよ。」
【真里亞】「このメダルは、ぜーったい、縁寿にはあげないの! きひひひひひひひひひひ!!」
【縁寿】「負けないもん、絶対に負けないもんっ!!」
真里亞の出題
 2人乗りの船を使い、全員が対岸に渡らなければならない。
 こちらの岸には、農夫とその妻と羊飼いと羊と牛と肉と野菜がある。
(これらはそれぞれ、船では1人分として扱う)
 船は、農夫と妻と羊飼いの3人にしか漕げない。
 妻は、農夫と一緒でない時に羊飼いがいると、駆け落ちをしてしまう。
 羊飼いは、農夫か妻が一緒にいない時に肉があると、盗み食いしてしまう。
 羊は、羊飼いと一緒にいない時に野菜があると、それを食べてしまう。
 牛は、人間が誰か一緒にいない時に野菜があると、それを食べてしまう。
 肉は、積み下ろしが大変なので、一度船から降ろしたら、もう積めない。
 野菜は、傷みやすいので、一度しか船に乗せられない。
 最低何手で達成することができるだろうか…?
選択肢5つ。「10手未満」「10手以上15手未満」「15手以上20手未満」「20手以上25手未満」「それ以外」
ヒント
【絵羽】「ちょ、ちょっと待って…。こんな条件が複雑なパズルってあるの?!」
【真里亞】「狼と羊のしか知らなかった? 色々な応用の、複雑なパズルがいっぱいあるんだよ! ね? 縁寿にはわからないでしょ?! きっひひひひひひ!」
【縁寿】「ヒントちょうだい、ヒント!」
【真里亞】「よく整理することだね。船は人間の3人にしか漕げない。あと鬼門を覚えること。妻は農夫がいない時に羊飼いと一緒にいちゃいけない。羊飼いは農夫か妻がいない時に肉と一緒にいちゃいけない。羊は羊飼いが一緒でない時に野菜と一緒にいちゃいけない。牛も同じだけど、人間なら誰でもOK。でも、一番のポイントは肉かな?」
【絵羽】「……あぁ、なるほど。一度船から降ろしたらもう積めないってのは、一度しか船に乗せられないって意味じゃないわね。」
【真里亞】「そういうこと。野菜は本当に片道しか載せられないから、一度船に乗せて対岸に送ったら、もう戻すことは出来ない。でも肉は、船から降ろしさえしなければ、何度でも行き来は出来る。」
【縁寿】「………すごい複雑。考えても全然わからない…。」
【絵羽】「紙に書いて整理するしかないわ。縁寿ちゃんもいる? メモと筆記用具。」
【真里亞】「無理無理、絶対に解けやしないよ! 降参しちゃえば? 無能は思考するだけ時間の無駄だってば! きっひひひひひひひひひひ…!」
【絵羽】「これ、本当に解けるの? 実は解けない矛盾した問題ってことはないでしょうね?」
【真里亞】「うーーー? さぁ、どうかなぁ? きーっひっひっひっひ!」
不正解の場合(「10手未満」)
【真里亞】「きひひひひひひひひひ!! ハズレだよ! こんなのもわっかんないのかなぁ?! 縁寿は駄目だなぁ、きっひひひひひひひひひ、あ痛っ。」
【楼座】「こら、真里亞。ちょっと調子に乗りすぎっ。」
 私が悩みぬいて選んだ答えに、真里亞お姉ちゃんは堰を切ったように笑い出す。楼座叔母さんに叩かれてそれは一瞬収まるが、また再びニヤニヤと笑い出す。
【絵羽】「全然わかんないわよ、これ、難易度どのくらいなの…?」
【真里亞】「せいぜい20ピカラットってところかなぁ? 本当に難しい問題が、まだまだこの本には載ってるんだから!」
 20ピカ何とかが何を意味するかわからないが、どうやらこの問題をもってしても、真里亞お姉ちゃんには難しい部類には入らないらしい…。
 私はがっくりとうな垂れる。真里亞お姉ちゃんは、きっひひひひひひと、楼座叔母さんに叩かれるまで笑い続けるのだった。
正解の場合(「10手未満」)
【絵羽】「本当に酷い問題だわ、これ本当に解けるのよね? 荷物は川に放り込んで船を使わずに流すとか、牛に野菜を食べさせてお腹の中にいれて1人分にして運ぶとか、そういうトンチがあるんじゃないの…?」
【楼座】「さて、どうかしらね。これ以上考えてわからないなら、降参ってことにするけれど…?」
【真里亞】「これはすごい難しいよ! ママにだって解けなかったんだから! 真里亞は一発で解いちゃったけどね!」
【楼座】「さぁ、わかる? 何手で全員が対岸に渡れるか。」
【絵羽】「これ、トンチとかなぞなぞよね?! 絶対まともに考えて解けないわよね?!」
【楼座】「そんなことないわよ。賢い姉さんなら、きっとわかるわよ。何手で全員が対岸に渡れるか。」
【縁寿】「わかった。3手。」
【絵羽】「……え? 3手?! どうして…!」
【縁寿】「だって。農夫と妻が船に乗って、対岸に妻を下ろして1手。農夫が船で戻って2手。そして羊飼いと一緒に対岸に渡って3手。」
【絵羽】「牛とか羊とか! 肉とか野菜とかはどうするのよ!」
【縁寿】「だって、全員でしょ……? 人じゃないし。」
【絵羽】「え、あ、…………。」
 絵羽伯母さんがあんぐりと口を開けると、楼座叔母さんがパチパチと拍手してくれた。真里亞お姉ちゃんも、いやそ〜な顔で舌打ちしてから拍手してくれる。
【楼座】「正解よ。問題が聞いてるのは、全員が対岸へ渡るには何手かかるかということだもの。動物も荷物も、初めから関係ないのよね。」
【真里亞】「ママが全員全員って何度も繰り返すからバレちゃったんだよー。うー!」
 多分、楼座叔母さんはヒントのつもりで繰り返してくれたのだろう。そうじゃなかったら、私にも閃けなかった。
【絵羽】「もう。すっかりやられたわ。意地悪問題だったなんてね!」
【楼座】「ほら、真里亞。メダルを縁寿ちゃんに渡しなさい?」
【真里亞】「うーうーうー……。」
 不機嫌な犬のように唸りながら、渋々とメダルを差し出す。それを引ったくり、私も犬のように大はしゃぎで喜ぶ。
 そんな私の後ろで微笑む真里亞お姉ちゃんの顔は、……お姉ちゃんと呼ぶに相応しい、朗らかなものだった
メダル獲得
【楼座】「これで、私たちの問題はおしまいよ。またぜひ一緒に遊びましょうね。」
【真里亞】「その時は、もっともっと難しい、本当に酷い問題を用意しておくからね…! 真里亞にも解けないくらいの!」
【縁寿】「やだ! もう真里亞お姉ちゃんとは遊ばない…!!」
【絵羽】「くすくす。ほら、縁寿ちゃん。お父さんたちが手招きしてるわよ、行きましょ。じゃあね、あとでね、楼座。」
【楼座】「うん。じゃあね、縁寿ちゃん。問題を出してくれる人も、あとちょっとね。最後までがんばってね。姉さんも、いっぱい応援してあげてね。」
【絵羽】「もちろん。私たちで協力して、いっぱいメダルを集めてきたもんねー?」
【縁寿】「うんっ!」
 私たちは駆け出す。向こうでお父さんたちが手招きしている。きっと意地悪な問題が思いついたに違いない。でもきっと、真里亞お姉ちゃんの問題よりは簡単に決まってる…! 真里亞お姉ちゃんは意地悪だから大っ嫌ーい!
楼座と真里亞の問題に正解の場合
【さくたろ】「うりゅー。意地悪な問題で苛めすぎだよ……。」
【真里亞】「だって、縁寿といっぱい遊びたかったんだもん。簡単な問題だったら、すぐ解かれちゃうよ?」
【さくたろ】「真里亞は縁寿のこと、大好きだもんね。」
【真里亞】「嫌いだよ? さくたろのこと、ぬいぐるみだって馬鹿にしたもん。」
 真里亞はそう言って口を尖らせるが、その表情は決して言葉通りではなかった。
【さくたろ】「縁寿は、幸せになれるといいね…。」
【真里亞】「なれるよ、きっと。だって、これだけの大勢が、あの子の幸せを願ってる。そして戦人はゲームマスターにまでなり、縁寿のためだけに、この最後のゲームを開いてる。……そこまでしてもらって、幸せじゃないわけがないよ。」
【さくたろ】「……でも、幸せはみんなが用意することは出来ても、掴み取るのは自分だからね。」
【真里亞】「そうだね。あの子は、幸せのカケラを拾うのが、すごい下手なの。それを教えようにも、12年間の日々が、あの子の耳を塞いでしまった。……このゲーム、戦人が思ってるよりも、縁寿には難しいかもしれない。」
【さくたろ】「………ボクは、縁寿はきっと幸せになってくれると思うな。」
【真里亞】「そうだね。……このパーティーをあの子が楽しいと、素直に思ってくれたなら。それが今のあの子に伝えられる精一杯かもしれない。」
 どんな魔法を見せても、手品だと言って信じないあの縁寿が。12年後の未来には、最後のベアトリーチェの名を受け継ぐのだ。
【真里亞】「あの子は、一度は私の白い魔法を理解したんだよ。」
【さくたろ】「うん。ボクのことも、理解してくれたよ。」
【真里亞】「七姉妹のみんなさえ呼び出し、魔法を理解できたはず。……そんな彼女が、自分にだけは魔法を使えないなんてね。」
【ベアト】「信じよ。かつての戦人も、そうだったではないか。」
【真里亞】「……ベアト。」
【ベアト】「人に魔法を掛けるのは容易い。そして人の魔法を信じることも、そう難しくはない。もっとも難しいのは、自らに魔法を掛けることなのだ。」
【さくたろ】「それが縁寿に、出来るかな……。」
【ベアト】「出来るとも。あの戦人でさえ、魔法を理解した。その妹に、出来ぬ道理はない。」
【真里亞】「そうだね。………子供のうちにしか見えない魔法もあるし。……大人になって理解できる魔法もある。縁寿は今、その狭間にいる。」
【ベアト】「子供の魔法を失い、さりとて、大人の魔法も理解できぬ、もっとも辛き世代であるな。」
【さくたろ】「そんな時に、大切な人たちが身近にいないなんて、……本当に可哀想だね…。」
【真里亞】「そんなことないよ。私たちは、いつだってあの子の側にいるんだよ。あの子が、それを信じないだけで。」
 縁寿、それに早く、気が付いて。君の背中に微笑みかけて、温かく見守る大勢の人がいる。君が振り返ってさえくれれば、私たちはもっと微笑んで、もっと多くの言葉を掛けることが出来るんだよ。………マリアージュ・ソルシエールの最後の魔女、エンジェ・ベアトリーチェ。
【真里亞】「正しい結末に辿り着けないとしても。……せめて今夜を君が楽しんでくれることを、心より祈っているよ……。」
 楽しんでね、縁寿。さようなら。君との日々は、長かったような、短かったような。それでも私には、永遠の思い出だよ………。
合流地点
【留弗夫】「どうだ、縁寿。メダルはいっぱい集まったか?」
【縁寿】「何枚くらいあるだろうね!」
【絵羽】「さぁね。後で数えてみましょうね!」
【霧江】「もうだいぶ大勢から問題をもらったみたいね。」
【縁寿】「うん。お母さんたちに問題をもらったら、あとはいとこのみんなだけだと思う。」
【留弗夫】「そうかそうか。よしっ。お父さんたちの問題に挑んでみろ! む〜ずかしぃぞー?!」
【絵羽】「みんな同じこと言ってたけど、私たちが解いてきちゃったもんねー!」
【縁寿】「うんっ。だから私と絵羽伯母さんでメダルをいただいちゃう!」
【霧江】「くす。その意気よ。じゃあ、私から問題を出そうかしら。」
霧江の出題
 三人の女の子がいます。
美代子「私が一番年上よ。」
沙都子「梨花は一番年上じゃありませんわ。」
梨花「美代子は嘘吐きなのですよ。にぱー。」
 この中の、一番年上の子だけが本当のことを言っています。
 さて、一番年上の子は一体、誰…?
選択肢3つ。「美代子」「沙都子」「梨花」
ヒント
【絵羽】「あぁ、典型的な嘘吐き問題ってヤツね。伯母さん得意よ。」
【留弗夫】「得意なのは嘘を吐く方だけどな?」
 すごい。お父さんの耳って、あんなに伸びるんだ。
【霧江】「1人だけが本当のことを言ってる。そして、他は全員、嘘を吐いているということ。だから、2人の言い分が本当になるような解釈は間違いってことね。」
【縁寿】「………よく、わかんない。もっとヒントほしい。」
【霧江】「私のヒントはここまで。あとは絵羽伯母さんと相談してご覧なさい。」
【縁寿】「絵羽伯母さんっ。」
【絵羽】「ポイントは梨花ね。梨花は美代子が嘘吐きだと言ってるわ。ということは、美代子が本当のことを言ってるなら梨花は嘘吐きだし、美代子が嘘を吐いてるなら梨花は本当のことを言っている。……つまり、矛盾し合う2人は、確実にどちらかが嘘吐きで、同時に確実にどちらかが真実を語っているということになるわけ。」
【霧江】「さすが絵羽姉さん。そういうことね。嘘吐き問題では、矛盾する証言同士は、その中のどちらかが真実であることを確定させるの。その時点で、沙都子は漏れるから嘘吐きが確定。……くす、もう答えが出ちゃったわね。」
【縁寿】「えっと、…………???」
不正解の場合(「梨花」以外)
【霧江】「残念ね、ハズレよ。」
【留弗夫】「まだ縁寿には難しかったかなぁ?」
【縁寿】「そんなことないっ、ちょっと間違えちゃっただけ! 今度は大丈夫、今度は! だからもう1回…!」
【絵羽】「惜しいわね、もう一息だったのにね…。」
【留弗夫】「じゃあ、お父さんの問題で挽回したらいい。じゃあ、同じような嘘吐き問題をもう一度出すからな? 今度はうまく当てろよ?」
正解の場合(「梨花」)
【縁寿】「梨花!」
【絵羽】「正解! さすが縁寿ちゃんよぅ! 娘はこんなに賢いのに、マヌケな父親の顔が見てみたいわぁ!」
【留弗夫】「マヌケで悪ぅござんしたなぁ。お見事だぜ、縁寿! 全部の組み合わせを考えてみたのか?」
【縁寿】「うん。美代子が一番年上だとすると、沙都子の言うことは本当になっちゃう。本当のことは一番年上しか言わないはずだから、これじゃおかしい。」
【霧江】「その通り。じゃあ沙都子が一番年上の場合は?」
【縁寿】「そうすると、美代子を嘘吐きだと指摘する梨花が、やっぱり本当のことを言ってることになっちゃって、おかしくなる。だから、梨花が一番年上じゃないと駄目なのっ。」
【霧江】「よく出来ました。はい、これが私からのメダルよ。おめでとう。」
【縁寿】「ありがとう、お母さんっ。」
メダル獲得
【絵羽】「次は留弗夫ね。どんな問題を出すのかしら?」
【留弗夫】「じゃあ俺も、同じ嘘吐き問題を出そうかな。今度はもう一捻りいくぜ…?」
留弗夫の出題
 今度は、美代子、沙都子、梨花の3人に覆面を被ってもらいます。
 3人の誰が誰か、わかりません。
 声もわからないように、紙に書いてもらいます。
右側の子「真ん中の子は美代子です。」
真ん中の子「左側の子は美代子です。」
左側の子「右側の子は沙都子です。」
 この中で美代子は、本当のことを言っています。
 しかし、沙都子と梨花は、必ず嘘を吐くとは限りません。
 さて、この3人はそれぞれ、左から順に誰…?
選択肢6つ。「梨花・沙都子・美代子」「梨花・美代子・沙都子」「沙都子・梨花・美代子」「沙都子・美代子・梨花」「美代子・梨花・沙都子」「美代子・沙都子・梨花」
ヒント
【縁寿】「覆面被ってて、美代子以外は、嘘か本当かもわからない。……これ、難しい。」
【絵羽】「そんなことないわ。伯母さんはもうわかっちゃったけど。さっきのお母さんの問題より、これもっと簡単よ?」
【縁寿】「どうして?」
【絵羽】「美代子以外の二人は何を言ってるか信用できないから、まずは誰が美代子かを特定しないと。美代子は絶対に嘘を吐かないんでしょう?」
【縁寿】「うん。美代子は嘘を吐かない。」
【絵羽】「じゃあ、まずは誰が美代子なのかということに絞って、もう一度問題を読み直して見て? きっとすぐに閃くはずよ。」
【縁寿】「誰が美代子かだけを考えるんだね。うん、わかったっ。」
【霧江】「絵羽姉さんの言うことは素直に聞くのね。」
【縁寿】「うん。伯母さん、やさしくて頭良くて大好きっ。だから言うこと聞くのっ。」
【留弗夫】「今度からナスやピーマンを食わす時は、姉貴に手伝ってもらわねぇとな?」
【霧江】「くすくすくすくす……。」
不正解の場合(「美代子・梨花・沙都子」以外)
【留弗夫】「ザーンネン!! ハズレだ。」
【縁寿】「えー?! 縁寿間違えた? 間違えた?!」
【霧江】「後で、絵羽伯母さんと一緒に整理してごらんなさい。すぐにわかるはずよ。」
【絵羽】「考えてみて? 美代子は本当のことを言うんでしょ? だとしたら、隣の人は美代子です、なんて言う人が美代子のことなんて、ありえると思う?」
 美代子は本当のことを言う。なら、自分が美代子だと言うはず。他所の人が美代子だ、などと美代子が言うわけがない。……それに気付けば、美代子を簡単に特定できたかもしれない。今頃になってコツを掴めた。ちょっぴり残念…。
正解の場合(「美代子・梨花・沙都子」)
【縁寿】「美代子はわかった。左の子が美代子。だって、右側と真ん中の子は、他の人が美代子だって言ってる。自分が美代子だったら、他の人が美代子だなんて嘘は吐かない。」
【絵羽】「その通り。美代子は正直者のはず。だから、他人が美代子だ、なんて言う時点で、その子は美代子じゃないってわかるわけ。」
【縁寿】「そうなると、右側と真ん中の子は美代子じゃないから、左側の子が自動的に美代子になる。そして美代子は本当のことを言ってるんだから、右の子が沙都子というのも本当になる。」
【絵羽】「となれば、残る真ん中の子は、梨花ってことになるわね。素晴らしいわ、満点よ!」
【留弗夫】「ケロっと解かれちまったな! 縁寿、お前は母さんに似て本当に賢いぞ!」
 お父さんは頬擦りをしながら抱き締めてくれた。
メダル獲得
【留弗夫】「これで、俺たちの問題はおしまいだ。」
【霧江】「いい、縁寿。人生には、これからもたくさんの問題が訪れるわ。……今は絵羽伯母さんが助けてくれるから、頼ってもいい。でもね、人生の問題のほとんどは、あなた一人で解かなくちゃならないの。その時に、それまで助けてくれた人の助言や恩を、必ず思い出すようにしてね。」
【縁寿】「うん。わかった。」
【霧江】「……絵羽姉さん。縁寿をよろしくね。」
【絵羽】「えぇ、もちろんよ。」
 あと問題をくれるのは、いとこたちくらいだと言うのに、お母さんはまるで私が、長い長い修学旅行にでも出発しそうなことを言う。……変なの。
【絵羽】「行きましょ、縁寿ちゃん。あと少しで、このゲームもおしまいね。」
【縁寿】「いっぱいのメダルで、お祖父ちゃんは何をくれるのかな…!」
【絵羽】「何かしらね。でも、そんなものよりももっと素敵で楽しいものを、私たちはもういっぱい受け取っているわ。」
【縁寿】「何の話…?」
【絵羽】「みんな、縁寿ちゃんとこうしてお話が出来て、とても楽しかったということよ。」
【縁寿】「…………? 何のことかわかんない。変な伯母さん。」
【絵羽】「ごめんなさい。さ、行きましょう。あとはいとこのみんなとベアトリーチェでおしまいかしら。」
霧江と留弗夫の問題に正解の場合(玄関ホール)
【霧江】「何? こんなところに呼び出して。………縁寿の話?」
【留弗夫】「いや、違う。………………………。」
 留弗夫は煙草をくわえ、ライターをいじる。……手馴れているはずなのに、なぜかてこずり、留弗夫は何度も火をつける動作を繰り返していた。
【留弗夫】「俺ぁ、こいつを棺の中まで。……いや、猫箱の中にしまい込んじまうつもりだった。明日の晩まで、口にチャックをしてりゃそう出来る。……簡単なもんさ。」
【霧江】「………………………………。」
【留弗夫】「俺ぁ、……今夜殺されるだろうな、って。……そういう話さ。」
【霧江】「……知ってたわ。あなたが何か隠し事をしてるってことは。」
【留弗夫】「そうかい。じゃあ俺の修行もまだまだだな。」
【霧江】「………縁寿の話じゃないなら、誰の話? まさか明日夢さんの話じゃ、ないわよね…?」
【留弗夫】「戦人の話だ。」
【霧江】「……同じような話よ。私は戦人くんには大人の対応をしてきたつもりよ? 明日夢さんの子であっても、私は縁寿と分け隔てなく接してきたつもり。ちゃんと我が家の子供だと思ってるから安心して。」
【留弗夫】「我が家の子じゃない。俺とお前の子だ。」
【霧江】「悪いけれど、そこだけは区別させてちょうだい。」
【留弗夫】「違う。俺と、お前の子なんだ。」
【霧江】「…………………何ですって。」
【留弗夫】「死産したのはお前じゃない。明日夢だ。………あの時、お前と明日夢との二股を清算できず、俺はどうかしてたんだ…。」
【霧江】「まさか、………まさか…………。」
【留弗夫】「……明日夢と俺は籍を入れていた。お前とは浮気の関係だった。そして明日夢は死産して、お前は出産しちまった。……俺の頭はしっちゃかめっちゃかだったぜ。」
 混乱を極めた留弗夫が、形振り構わずに犯した罪が、………赤ん坊の、入れ替えだったのだ。
【留弗夫】「あの頃は今以上にカネ回りがよかったからな。若かったから、無理も無茶もしたぜ。……札束でしばきながら病院を脅して、……お前と明日夢の子を、入れ替えたんだよ。」
 霧江に子供が出来れば、2つの家庭が生まれてしまう。しかし、霧江が死産になり、生まれた子供が明日夢の子ということなら、全ては丸く収まる。
 ……死産をきっかけに、霧江との関係も清算できるかもしれない。……若気の至りの一言では到底許されない、大罪だった。
【留弗夫】「…………だから俺は、お前たち3人に謝らなきゃいけない。……明日夢には、血の繋がらない赤ん坊を押し付けた。………あいつはおっとりしてるように見えて、案外鋭かったからな。……ひょっとしたら、気付いてたかもしれない。…でも、自分を母と慕う戦人を、最後まで愛情たっぷりに育ててくれたよ。」
 そして、霧江と戦人には、……それ以上に罪を贖わなくてはならない。二人は、母親と息子の、普通の家庭ならば享受できたはずの温かな交流を、……全て奪われたのだ。
 霧江は戦人を、明日夢の子と、今の今まで信じていた。体面上は親しげにしながらも、明日夢の子と思い、心の中では敬遠していた。もう、そんな彼女を見ることに、……留弗夫の良心は耐え切れなかったのだ。
【霧江】「…………そんな、…………私は………………。」
 霧江は絶句しながらしゃがみ込む。
【留弗夫】「……俺を罵ってくれ。いや、この場で殺してくれてもいい。俺はそれだけのことをした。………これが、猫箱にしまい込む前に、俺が白状したかった秘密だ。」
【霧江】「戦人………くん…………………。」
【留弗夫】「すまん、霧江。………戦人………。」
合流地点
【絵羽】「気付けば、ずいぶんとたくさんの人に問題を出してもらったものね。」
【縁寿】「うん。あとは譲治お兄ちゃんと朱志香お姉ちゃんと、戦人お兄ちゃんとベアトリーチェだけだね。」
【朱志香】「お、やっと来たぜ?」
【譲治】「待ちくたびれたよ。僕たちのことを忘れてるんじゃないかと心配したよ。」
 いよいよ、譲治お兄ちゃんと朱志香お姉ちゃんに挑戦だ。
【絵羽】「お待たせしたわね。二人とも、飛び切り難しい問題を用意できたかしら?」
【朱志香】「私たちは、2人で1つの問題を出すことにしたんです。」
【絵羽】「あらあら、それは1問でもおっかないわね。」
【譲治】「縁寿ちゃんのために用意した特製の問題だから、がんばってね。」
【縁寿】「解けるもん、絶対解けるもんっ。」
【譲治】「じゃあ、さっそく始めようかな。朱志香ちゃん、あれを並べよう。」
【朱志香】「ほい来た。」
 2人はテーブルの上に、小さな立方体のカラフルな箱を3つ置いた。
【朱志香】「この内の2つはビックリ箱! 残りの1つにはメダルが入ってるんだ。」
【譲治】「縁寿ちゃんには、どれにメダルが入ってるか、当てられるかな…?」
【縁寿】「ヒントがなかったら無理。こんなの運!」
【譲治】「そうだね、このままじゃただの運試しの三択だ。確率はつまり、三分の一ってわけだね。」
【絵羽】「譲治。これじゃクイズじゃないわ? 本当にただの運試しじゃない。」
【譲治】「問題は後々。話を続けよう。」
【朱志香】「さぁ、縁寿。この3つの箱の、どれにメダルが入ってるかな? 直感で選んでご覧。」
 赤い箱と青い箱と緑の箱。どれに入ってるかなんて、わかりっこない。……本当にこんなの、運試し。
 これなら難しい問題の方がまだマシかもしれない。だって、解ければ絶対に正解できるのだから。
 ……でも私は一番最初に、15分の1の確率でアーモンドを当ててる。それに比べたら、3分の1なんて、5倍も当たりやすい確率じゃないか。迷っても仕方ない。今一度、自分の運を試そう。
【縁寿】「じゃあ、…………これ。」
【譲治】「赤い箱? じゃあ、この箱を縁寿ちゃんの前に置こう。………この中にメダルが入ってるといいね。じゃあまずは小手調べ。その赤い箱の中にメダルが入ってる確率は、何分の1かな?」
【縁寿】「3分の1。」
【絵羽】「正解よ。これが本当に純粋な運試しだとしたならね。」
【朱志香】「へっへへへ。いいのか縁寿? 本当〜にその赤い箱でいいのか? この後、縁寿にそれを開けてもらうわけだけど。……もしビックリ箱だったら、すっごいびっくりするぜ〜?」
 朱志香お姉ちゃんがにやにやと笑いながら凄む。
【譲治】「いいのかい、本当にその赤い箱で。……メダルは青い箱か緑の箱に入ってるかもしれないよ? チェンジするかい?」
 もう選んじゃった後なのに、そんなことを言って脅すなんてずるい。
 それに縁寿は知ってる。どの箱も、メダルが入ってる確率は同じなのだから、私がこの赤い箱を開けようと、やっぱり心変わりして青か緑の箱を開けようと、確率はどちらも同じなのだ。
 なら、初心貫徹が私のモットー。この赤い箱で行く。心変わりはない。
【縁寿】「この赤い箱でいいの。私はこれに賭けるっ。」
【朱志香】「いい度胸だぜ。でも、本当にビックリ箱は怖いんだぜ〜? どれくらい怖いか、1個、見せてやるからな?」
 朱志香お姉ちゃんは不気味に笑ってから、緑の箱を開ける。
 すると、パン! と激しいクラッカーの音が鳴って、カボチャのオバケやテープのリボンが飛び出してきた。
 ……ちょっとビックリした。……いいえ嘘です。かなりビックリした……。こんなのが、自分の開けた箱から自分に向けて飛び出してきたら、腰を抜かして泣いてしまうかもしれない…。
【朱志香】「縁寿〜、本当にその赤い箱でいいのかぃ…? すっごく怖いのが飛び出すかもしれねぇぜぇえぇぇ…? やっぱり、青い箱にチェンジした方がいいんじゃねぇの〜…?」
【縁寿】「怖くないっ。縁寿は赤い箱でいいの、いいのっ!」
【譲治】「ははははは、脅し過ぎだよ、朱志香ちゃん。さぁ、これで箱は1つ減って、2つになっちゃったね。さぁ、ここからが問題だよ、縁寿ちゃん。」
【縁寿】「どっちの箱にメダルが入っているか?」
【譲治】「縁寿ちゃんの前に、さっきから置きっ放しにしているその赤い箱と、僕の前にあるこの青い箱。どっちを開けた方が、メダルの入ってる可能性が高いかな? それが問題さ。」
譲治と朱志香の出題
 赤い箱と青い箱と緑の箱がある。
 このうち1つにはメダルが入っている。
 残りの2つは恐ろしいビックリ箱になっている。
 私は赤い箱を選んだ。
 そしたら朱志香は言った。
「本当にそれでいいのかい? ビックリ箱はすごく怖いんだぜ。1個開けて見せてやるからな。」
 そう言って緑の箱を開き、それがビックリ箱であることを示してくれた。
 残るのは、赤い箱と青い箱の2つだけ。
「その赤い箱を開くかい? それともチェンジするかい?」
 さて。赤い箱と青い箱。どちらにメダルが入っている確率が高いだろう…?
選択肢3つ。「赤い箱の方が高い」「どちらも同じ」「青い箱の方が高い」
ヒント
【縁寿】「中身がわからなくて、箱が2つなら、メダルが入ってる確率は5分と5分。……どっちも同じじゃないの?」
【絵羽】「……伯母さんもそう思うんだけどねぇ。でも、それじゃ答えが当り前過ぎるでしょう? 何か一捻りあるんじゃないかしら……。」
 と、思わせて実は率直な答えが正解、という引っ掛けもずいぶんあった。考え過ぎたり、疑い過ぎたりすると足元をすくわれるタイプの、典型的な問題かもしれない。
【絵羽】「…………………………。私から二人に、2つ質問があるけど、いい?」
【譲治】「どうぞ。」
【絵羽】「この三色の箱は誰のもの? 朱志香ちゃんの?」
【朱志香】「はい、そうですけど。」
【絵羽】「つまり、どの色がビックリ箱か、あなたは知っているのね?」
【朱志香】「えぇ、もちろん。」
【絵羽】「ありがとう。引き続き、2つ目の質問ね。朱志香ちゃんはさっき、ビックリ箱の怖さを教えるためにと、1つ開けてくれたわね? それは、縁寿ちゃんがどの箱を選んだとしてもやっていた?」
【朱志香】「そうです。せっかくなんで、怖がらせた方が心理戦っぽくて面白いかなーって思って。」
【絵羽】「ありがとう。ヒントはそれで充分よ。」
【縁寿】「ヒント? え……??」
 私にはさっぱりわからない。今の絵羽伯母さんの質問のどこにヒントがあったというのだろう…?
不正解の場合(「青い箱の方が高い」以外)
【譲治】「残念。それはハズレなんだ。」
【縁寿】「え?! ど、……どうして?!」
 最初、箱は3つあった。私の前に赤い箱を置いた時、その中にメダルがある確率は当然、3分の1だった。同時に、青い箱にも3分の1、緑の箱にも3分の1だった。
 朱志香お姉ちゃんが緑の箱を開けたので、箱は2つになり、2分の1と2分の1になった。なのにどうして、……違うの…???
【絵羽】「……………譲治ね? この問題を考えたのは。モンティ・ホール問題は1986年にはあったっけ?」
【譲治】「1990年だね。縁寿ちゃんの世界にはもうある問題なんだから、出題してもいいかなって思って。」
【朱志香】「譲治兄さんに教えてもらったけど。チンプンカンプンで。……とにかくよくわからないけど、今のケースだと、青い箱は、赤い箱の約2倍、メダルの確率が高いって言うんだ。」
 2倍も違う? ……仮に確率に違いがあっても、もっと小数点以下みたいな微細な違いだと思っていた。……確率って難しい。
 確率がちゃんとわからない人はギャンブルをしちゃいけないってお兄ちゃんが言ってたっけ。……私、賭け事は生涯、しないようにしよう…。そんな私に、絵羽伯母さんは偉いと頭を撫でてくれるのだった…。
正解の場合(「青い箱の方が高い」)
【縁寿】「あ。………青い箱の方がいい!」
【譲治】「へぇ。それはどうしてかな。」
【縁寿】「えっと、…………な、……何となく。」
【絵羽】「縁寿ちゃんがアーモンドを当てた、あの15切れのケーキを思い出してみて? アーモンドが1つだけなら、アタリの確率は15分の1なわけよね?」
【縁寿】「うん。15分の1。」
 その考察は、ケーキの時にした。ハズレの人の数を数えてから食べた方が、当たる確率が高くなりそうな気がしたのだ。でも結局、いつ食べたところで、15分の1の確率は変わらない。
【絵羽】「でもね、縁寿ちゃん。実はあのケーキ。使用人の人たちも食べてて、本当は最初、20切れあったケーキだったとしたら?」
【縁寿】「…………え? ……あれ…。」
【絵羽】「今日はお祭りだもの。使用人の人だけケーキなしなんて意地悪でしょう? だから本当は20切れのケーキがあったの。それを使用人分5切れ抜いて、15切れにして飾り直して、そこから縁寿ちゃんに選んでもらった、……としたら。縁寿ちゃんが選んだケーキの当たる確率は本当はいくつだったと思う?」
 本当は20切れだったなら、………20分の1ではないか。
【絵羽】「でも、使用人の人たちはアーモンドの入ってない場所を知ってたから、そこを避けてケーキを5切れもらったのよ。つまり、彼らはハズレを5個、間引いてくれていたというわけ。だから確率は20分の1じゃなく、15分の1になる。」
【縁寿】「……ハズレを間引いたんだから、その分、当たる確率が上がるのは当然だよ。」
【譲治】「同じことが、今、朱志香ちゃんによって行なわれたんだよ。朱志香ちゃんは、君が選ばなかった2箱の中から、ハズレを1つ間引いたんだ。ということは、君が選ばなかった方の当たる確率も、その分、上がったということになるんじゃないかな…?」
【朱志香】「あははははははは……、わかったよなわからないような……。」
 ハズレを間引けば、当たる確率がアップするのは当然だ。そしてさっき、朱志香お姉ちゃんによって、「私の選ばなかった方」からは、ハズレが1つ間引かれた。だからその分、「向こう側」の当たる確率がアップするのも、また道理なのでは……。
【縁寿】「……よくわかんなくなってきちゃった……。」
【譲治】「いや、縁寿ちゃんはすごいよ。6歳で確率論の、事後確率を理解しようとしたんだからね。確率は面白いよ。高校や大学に入ったら、きっと好きになると思うから。いっぱい勉強を楽しんでね。」
 もう、私の小さな頭はいっぱいいっぱい。目を白黒させながら、絵羽伯母さんに解説をねだるしかなかった。
 絵羽伯母さんも苦笑いしている。きっと、あまりわかっていないのだ。私たちはそんな下らないことに仲間意識を感じながら、二人からせしめたメダルを、嬉々として握り締めるのだった……。
メダル2枚獲得
【譲治】「縁寿ちゃん。ちょっとこっちへ来て。」
【縁寿】「………? なぁに。譲治お兄ちゃん。」
 窓際で、譲治お兄ちゃんと朱志香お姉ちゃんが呼んでいた。絵羽伯母さんは、お母さんたちと話していて、何だか長そうだったので、私は譲治お兄ちゃんたちのところへ向かった。
【縁寿】「なぁに。」
【朱志香】「もうすぐ、クイズ大会もおしまいだな。」
【縁寿】「うん。あとは戦人お兄ちゃんとベアトリーチェでおしまい。………何だかさっきから眠い。」
 きっと、盗み飲みしたお父さんの大人のジュースのせいだ。
 あれを飲んでから、ずっとふわふわしてる。……そのふわふわが膨らんできて、さっきから眠気も感じるのだ。私は、くわぁ…っと大きい欠伸をもらす。
【譲治】「眠い?」
【縁寿】「……うん。ソファーがあったら、寝ちゃうかも。」
【朱志香】「そっか。……じゃあもうじき、このパーティーもおしまいだな。」
【縁寿】「………?」
 ……私が寝ちゃうと、お開きになってしまうのだろうか。私は、みんなが楽しそうにしている中でまどろみたいだけなのに。
【譲治】「僕たちのさっきの問題、難しかったかい?」
【縁寿】「……うん。未だによくわかんない。……それに、眠い……。」
【譲治】「あれは事後確率って言ってね。ある特定の情報を知ることで、あるいは知らないことで、確率が変動することを言うんだよ。」
【縁寿】「……………………。」
 譲治お兄ちゃんは、わざわざ私を呼び出して、算数の講義がしたいのだろうか…。……何だか余計、眠くなってきちゃった。
【譲治】「もし。10個のケーキの中にアーモンドが1つだったら、当たる確率は10%だね。……でも、それが実は、100個のケーキの中から適当に選んだ内の10個だと“教えられたら”、どうなると思う?」
【朱志香】「10分の1どころか、当たる確率は100分の1だと思うよな…?」
【譲治】「縁寿ちゃんが選んだケーキは何も変わらないのに。……縁寿ちゃんが何かを知ることによって、あるいは知らないことによって。縁寿ちゃんのケーキの中に、アタリが生まれるかどうかの確率が、変化したんだよ。不思議な話だと思わないかい。」
【縁寿】「……その話、難しそうだからもうやだ…。」
【朱志香】「縁寿。いいから最後まで聞いて。」
 朱志香お姉ちゃんが、少し厳しい口調で言う。この話が、私にとってどんな意味があるのか、……幼い私にはわかりかねた。
【譲治】「僕が君に伝えたいのは、たった一つなんだ。だからこれだけは、忘れないで。」
【縁寿】「………なぁに。」
【譲治】「これから未来。様々な情報が、君の手の中のケーキに干渉する。………それらを知ることで、君のケーキの中身は様々なものに変化するかもしれない。それは時に望むもの。……でも恐らく、それらのほとんどは、君の望まないものに変化するだろう。」
【朱志香】「真実は、いつだって縁寿の手の中にある。……誰かの言葉や、誰かが期待する真実を耳にすることで、その中身が変化するなんて、馬鹿らしいと思わないか?」
【譲治】「君の中の真実は、最初から君の手の中にあるんだよ。……そしてその中身は、実は君自身が決めているんだ。……君が何を聞き、何に耳を覆うかで、君自身がその中身を変化させている。」
【朱志香】「意味がわからないと思うぜ。でも、理解して。6歳の縁寿にはわからなくても、12年を経ればきっと、わかるから。」
【縁寿】「………………………。」
 二人はものすごく真剣な表情で、私の肩を掴みながら言った。……私には、彼らが何を伝えようとしているのか、わからない。
【譲治】「君の手の中の真実は、不変じゃないんだ。それは君に対する様々な干渉で変化してしまう。……だからもし、君がその手の中の真実を大事にしたいと願うなら。」
【朱志香】「その真実を、縁寿が自分で守るんだ。それを、忘れるんじゃないぜ。」
【縁寿】「……………………………。」
【縁寿】「あとは、お兄ちゃんとベアトリーチェの問題で、おしまい。」
【戦人】「そうか。あれだけ大勢いたのに、もうおしまいなんだな。」
【ベアト】「どうであったか。今夜のパーティーを楽しめたか…?」
【縁寿】「うん。楽しかった。でもちょっと、もう眠いかも。」
【絵羽】「……そうね。あれだけはしゃいだもんね。」
 私はごしごしと目を擦る。
 すごく興奮してはしゃいだと思う。でも、興奮した後にはいつも眠くなるんだ。今の私には、メダルよりも横になれるソファーの方が欲しかった。
【ベアト】「妾もとっておきの問題を用意したが、……どうする? 眠いようならばやめてもよいのだぞ。」
【縁寿】「うぅん。ここまで来たからがんばる……。………ふぁ……。」
 お兄ちゃんとベアトは、私の欠伸を見て笑う。
【戦人】「もう、お開きの時間だな……。」
【ベアト】「うむ。縁寿よ。妾の問題は、また今度にしよう。そのような寝惚け眼で解けるほど、やさしくはないのでな。」
【縁寿】「…………やだ。……せっかく、いっぱいがんばったのに…。……お兄ちゃんたちのメダルも、……ほしい………。」
 もう、……眠くて、眠くて……。…………………………。
 縁寿はふらふらと、隅にある椅子に近付くと、そこにすとんと座る。そして、椅子に飾られたお人形のように目を閉じてしまう。
 可愛らしい寝息が聞こえ出すのに、そう時間は掛からなかった…。そして縁寿が眠ってしまうのを見届けると、ベアトは静かに言った。
【ベアト】「皆、静かに。……縁寿が眠ったぞ。」
 すると、一同の和やかな喧騒は、すぅっと静かになった。みんなが、じっと縁寿の寝顔を見ている。それは、ようやく寝付いた赤子を、慈しみの眼差しで見守るかのようだった。
【秀吉】「………縁寿ちゃん、楽しんでくれたやろか。」
【ベアト】「当然であろうが。……今は、そこまでは感じぬかもしれぬ。しかしやがて、今夜のパーティーのことを思い出し、それがどれほど楽しかったかを、噛み締めてくれるであろう。」
【戦人】「………そうだな。」
【絵羽】「……私たちも、縁寿ちゃんと遊べて、楽しかったわ。」
 いつの間にか一同は、すやすやと眠る縁寿を、遠巻きに囲んでいた。主賓である彼女が眠り、……このハロウィンパーティーは、ひとつの終わりを迎える…。
【金蔵】「さらばだ、我が孫よ。………お祖父ちゃんは、12年ぶりに遊べて、嬉しかったぞ。……私のことを何も覚えていなくてもよい。傲慢なる暴君と記憶してくれてもよい。……だがたまには、目に入れても痛くないほどに可愛がっていたことも、思い出しておくれ。」
【南條】「思い出しますとも。………縁寿さん。あんたの人生は長い。12年を経ても、まだまだ長い。その人生が有意義なものになることを、祈っております。」
【蔵臼】「……君が、右代宮家全員の、最後の孫で娘だ。私たち全員が、君の幸せを祈っているよ。」
【夏妃】「縁寿ちゃん。お元気で。……幸せは見つけるものでなく、作るものです。思い出も、実は同じなんですよ。」
【蔵臼】「そうだな。……歳を重ねて思い出し、初めて意味を知るということもあるものだ。」
【秀吉】「わしのこの愛嬌ある顔、たまには思い出してや。わしらにとって、あんたに思い出してもらうのが何よりの供養なんや。」
【絵羽】「嫌ぁね。死ぬわけじゃないでしょ。猫箱の向こうという、カーテンの向こうに行くだけじゃない。」
【秀吉】「せやな。カーテンなんてもんやない。今と同じや。縁寿ちゃんはすやすや眠っとる。わしらはこうしてすぐ近くにいて、それを見守っとる。……わしらは、いつだって側におるんやで。」
 一同の表情は微笑みのままだったが、鼻を啜るような音が何人からか聞こえた…。
 このパーティーは、今日、訪れることが出来なかった彼女のためだけのものではない。今日、彼女を迎えることが出来きず、……彼女に別れの言葉を告げることも出来なかった、彼らのためのものでもあるのだ…。
【留弗夫】「縁寿。力強く生きろよ。……俺たちの血が流れてるんだ。絶対にその力はあるさ。」
【霧江】「……絵羽姉さん。うちの娘のことを、よろしくね。……素直じゃない子だし、わがままで短気なところもある。きっと迷惑ばかり掛けるだろうけれど……。」
【絵羽】「私が、きっと幸せにするわ。縁寿ちゃんが望む限り、……必ずね。」
【郷田】「縁寿さまっ…、私の顔を覚えていなくても構いません。でもせめて、私の料理の味だけは忘れないで下さいませ…!」
【熊沢】「ほっほほほほほほほ。この熊沢のことも覚えていろとは申しません。でもせめて、サバの絞り汁ジュースの味だけは忘れないで下さいませ。」
 そんなのいつ飲ませたんだっ、誰かのツッコミに一同は苦笑する。
【楼座】「本当に可愛い寝顔ね。……まさに名前の通り、天使の寝顔だわ。」
【真里亞】「天使じゃないよ、魔女だよ。縁寿が最後の魔女、エンジェ・ベアトリーチェになる。」
【楼座】「その魔法は、彼女を幸せにしてくれるかしら。」
【真里亞】「白き魔女になるか、黒き魔女になるか。……それは縁寿が決めるよ。私は、その両方を伝えた。」
【楼座】「きっと、彼女を辛い人生が待ってる。縁寿ちゃんはきっと、世界一自分が孤独だと信じると思う。……でも、私たちはあなたのすぐ後ろにいて、いつも応援しているからね。それを、忘れないでね……。」
【朱志香】「縁寿……。忘れるんじゃないぜ。自分も、幸せも、運命も。作るのは自分なんだ。自分だけが決められる。それは誰かに与えられるものでも、そして誰かに隠されて探すものでもない。……それを、忘れるんじゃないぜ。」
【嘉音】「きっと、伝わったと信じます。」
【朱志香】「……だといいけど。」
【嘉音】「僕とお嬢様の物語は、絶対に縁寿さまにそれを伝えています。」
【朱志香】「……………うん。」
【紗音】「譲治さまも、何かお言葉を掛けられてはどうですか。」
【譲治】「……僕から伝えたいことはもう、あのビックリ箱の問題で全てだよ。」
【紗音】「あの難解な問題から、何かを汲み取ってくれるでしょうか。」
【譲治】「わからない。でも、彼女は聡明だからね。きっと、何かをわかってくれるよ。」
【紗音】「……縁寿さま。あなたが正しき未来へ導かれることを、お祈りいたしております。」
 ひとりひとりが歩み出ては、縁寿に別れの言葉をかける。そして最後に、戦人とベアトが、歩み出る……。
【戦人】「縁寿。………少しはみんなのこと、思い出してくれたか?」
 もちろん、すやすやと眠る縁寿が答えるはずもない。しかし戦人は、続ける。
【戦人】「確かに右代宮家は、ちょいと変わった一族だ。大金持ちだし、それを巡っておかしな噂話も飛び交っただろう。……しかしそんなのは全て、島の外の連中の勝手な憶測だ。」
【ベアト】「……幼さゆえに、やさしき思い出を記憶に留められなかったそなたを、誰も責めはせぬ。しかしそれでも、思い出してやれ。……忘れることが罪ではない。……思い出さぬことが、罪なのだ。」
【戦人】「俺たち全員。………縁寿をパーティーに呼べて、本当に楽しかったぜ。……なぁ、みんな。」
 戦人の言葉に、一同は皆、頷く。
 皆、彼女の未来にあまりに無慈悲な孤独が待ち構えていることを知っている。それを癒すことは、もう彼らには出来ない。ひとつだけ出来るとしたら。
 …………自分にはかつて、どれだけやさしくて楽しい親族たちがいて、………そして今も未来も、ずっと彼女の身を案じて、見守っていることを、思い出してもらうことだけだ。
【ベアト】「言うまでもなく。……これは幻想だ。そなたは1986年10月4日の六軒島には、辿り着けぬ。これは全て、ゲームマスターの戦人が描いた、そなたと妾たちが一夜のパーティーをともにするという、魔法幻想。」
【戦人】「でも、思い出せただろ…? みんながどれだけやさしくて、………楽しく親族会議で団欒していたか、……本当のことを、思い出してくれただろ…?」
 縁寿はすやすやと寝息をたてている。その言葉が彼女に届いたかどうかは、……わからない。
【戦人】「絵羽伯母さん。」
【絵羽】「……………………。」
【戦人】「……縁寿を、頼むぜ。」
【絵羽】「私なんかに、………彼女の母親になる資格は、……本当にあるのかしら……。」
【戦人】「あるぜ。………伯母さん自身が、あれほどの悲しみの中にあったのに。……縁寿の母になろうと、あんなに頑張ってくれた。」
【絵羽】「でも、私は結局…………。」
【戦人】「いいんだ、伯母さん。…………縁寿、よくお聞き。」
 戦人は縁寿の手を取り、そして絵羽の手も取り、二人の手を重ねながら言う…。
【戦人】「……悲しい運命により、二人が傷つけ合う未来があったことを、俺たちは知ってる。……それは縁寿にとっても悲しいことだし、……絵羽伯母さんにとっても悲しいことだった。………お前に心を開けと頼むのも酷な話だった。そして、絵羽伯母さんに、それでもなお縁寿のために自分の悲しみに堪えて欲しいと頼むのも酷な話だった。」
【ベアト】「………そなたも、絵羽も。どちらも悪くはない。」
【戦人】「だからといって、……お前に何かを許せと、俺たちには頼めた義理もない。……だからせめて、許せとは言わない。………ただ、わかってやってくれ。時間が掛かってもいい、どれだけ未来でもいい。……絵羽伯母さんのことを、わかってやってくれ。そしてたまには俺たちのことも、………思い出してくれ。」
【ベアト】「妾のこともであるぞ。陽気で気立てがよく、容姿端麗、まさに女の鑑である妾のことも、たまーにで良いから思い出し、朝昼晩、妾の名を唱えて崇め奉るのだぞ。」
 一部、同意できない部分があったらしく、親族たちが苦笑いしている。絵羽は、そっと縁寿の頬を撫でながら、最後に言った。
【絵羽】「………伯母さんを許してくれなくてもいい。……でもね。伯母さんは、あなたを憎んでなんかいないの。……せめてそれだけは、わかってね……。」
 絵羽は目元を擦り、ゆっくりと立ち上がる。秀吉がその肩を抱き、留弗夫と霧江が寄り添った。
【戦人】「………源次さん。縁寿を横になれるところに運んでやってくれるか。」
【源次】「畏まりました。……ゲストハウスでよろしいですか。」
【ベアト】「ゲストハウスにひとりぼっちでは、気の毒が過ぎよう。」
【戦人】「そうだな。……客間のソファーにお願いできるか。もしも目が覚めて、戻ってきたくなったら、いつでもそう出来るように。」
 源次は、そっと縁寿を抱き上げ、客間へ向かう。その後姿を、一同はじっと、いつまでも見守っているのだった……。
【金蔵】「紗音、嘉音よ。結局、縁寿は何枚のメダルを集めたのであるか。」
【紗音】「……%coins枚でございます。」
【金蔵】「ふむ、そうか。……では、これを枕元に置いてやると良い。」
【嘉音】「はい。畏まりました。」
客間
 源次は、縁寿を客間のソファーまで運び、そっと寝かせる。そこに紗音が、温かな毛布を静かに掛けた。そして嘉音は、金蔵より枕元に置くようにと言われたそれと、一緒に手渡されたメッセージカードを置く。
 メッセージカードには、こう書かれていた。“いつも、みんな一緒だよ。——右代宮家のみんなより”
 そして枕元に置かれたのは、金蔵からの贈り物の、(クイズ景品)。縁寿は、むにゃむにゃと言いながら、それを頬に抱き締める。
【源次】「行こう。起こしてしまわないように。」
【嘉音】「姉さん。」
【紗音】「……うん。………………?」
 紗音は、縁寿の目元が銀色に輝くのを、見た気がした……。
 使用人たちが去った後の客間を、静かな雨の音が閉ざす。すやすやと眠る縁寿を、静かに包み込む。きっと、楽しかった時間を、もう一度夢で思い返しているに違いなかった……。

人間と魔女の宴

玄関ホール
 縁寿を客間に寝かせ、源次たちが戻ってくる。
【戦人】「ありがとう。よく眠ってたか…?」
【源次】「はい。よくお休みになっております。」
【ベアト】「ここでの騒ぎは、客間へは届かぬか…?」
【紗音】「はい。扉も閉めておりますし、客間には届かないと思います。」
【戦人】「…………縁寿。いい夢、見ろよ。」
【ベアト】「さぁって!! しんみりしたお別れ会はこれまでであるぞ! さぁここからは盛大に行こうぞ、二次会だぁあああーッ!!」
 ベアトが頭の上で、パーンと威勢良く手を叩くと、ホールが真っ白に瞬き、あっという間に様変わりする。ホールは黄金の蝶たちが飛び交い金箔を撒き散らす、黄金のパーティー会場に変わった。
【金蔵】「さぁ、ここからは賑やかに行こうではないか!」
【戦人】「そういうことだな! さぁ、もう反魔法の毒素は一切なしだぜ!! みんな、入ってきてくれ! 俺たちのお疲れ様パーティーの始まりだぜィ!!」
 盛大な拍手と歓声とともに、ホール内に黄金の蝶の旋風が吹き抜ける。その後には、大勢の顔が増えていた。
【ワルギリア】「未来の魔女に幸あらんことを。そして過去の私たちには労いを、ですね。」
【ロノウェ】「でございますな。今宵は我等も楽しませていただきましょう。」
【ベアト】「今宵に限らず、いつも楽しんでおったではないか!」
【ロノウェ】「ぷっくっくっく。世の中、万事は楽しんだもの勝ちでございますよ。」
【ワルギリア】「さぁ、七姉妹もいらっしゃい。」
【ルシファー】「煉獄の七姉妹、ここにッ!!」
【レヴィア】「もうこれでゲームが終わりなんてぇ! うわあん!」
【サタン】「二次会で泣かないの、もうッ。この泣き虫!」
【ベルフェ】「バトラ卿、ベアトリーチェさま、お招きを感謝します!」
【マモン】「6歳の縁寿さまの寝顔、ひとり占めしたぁい!」
【ベルゼ】「私はお料理ぜぇんぶ、ひとり占めしたぁい!!」
【アスモ】「じゃあ私はいい男をぜぇんぶひとり占めぇ!!」
【ベアト】「そこでなぜ戦人にしがみつくッ! 離れんか、泥棒猫!」
【戦人】「よく来たな、煉獄の七姉妹! 盛大に楽しんでくれ!」
【ロノウェ】「やはり、彼女らがやってくると急に賑やかになりますな。」
【金蔵】「賑やか、大いに結構ではないか! それにまだまだ足りぬぞ、この程度で賑やかとはな!」
 再び黄金の旋風が吹き抜ける。その後には、うさぎの耳を持った三人組の姿が。
【00】「シエスタ姉妹近衛隊、ここに!!」
【45】「このようなお席にお呼びいただけましたことを、こッ、光栄に思いますッ。」
【410】「全然遊び足りないうちに、もうおしまいにぇ。にっひひひひひ!」
【ベアト】「それについては妾も同感であるぞ。しかし安心せよ、妾たちのゲームはまだまだ続くぞ。」
【戦人】「猫箱の中で、永遠にな。よく来てくれた、シエスタ姉妹。」
【00】「バトラ卿っ、ご招待を心より感謝するものでありますッ。我等一同、今後ますますに、」
【戦人】「よせやい、そういう堅苦しいのはよ。今夜は無礼講だぜ、無礼講!」
【410】「そういうことにぇ! 戦人はわかってるにぇ、にっひひひひひひひ!!」
【45】「だ、駄目です、410。羽目を外しすぎです、怒られますッ。」
【ガァプ】「ハァイ、リーチェ。ご無沙汰ね! すごいわ、これだけ揃うのはいつ以来かしら?」
【ベアト】「夏妃の法廷以来ではないか? あの時は到底、賑やかとは言い難かったがな!」
【ゼパル】「賑やかと聞いてはッ!」
【フルフル】「私たちの出番がないとは言わせないッ!」
【朱志香】「……すげーぜ、一体、何人いるんだよ。」
【譲治】「この調子で増えたら、僕たちニンゲンの方が少なくなってしまいそうだね…。」
【真里亞】「もう出てきて大丈夫だよ、さくたろー!」
【さくたろ】「うりゅー!!」
【ドラノール】「バトラ卿。お招き預かり光栄デス。」
【ガート・コーネリア】「「謹啓、光栄なるものと知り奉るもの也。」」
【戦人】「よぉ! よく来てくれたな。久しぶりだぜ、元気だったか。」
【ドラノール】「元気デス。あなたたちと戦っている時が一番デス。ハンコ押しはもうやりたくないデス。」
【コーネリア】「謹啓、上司ドラノール。決裁箱は山積みであると知り給え。」
【ガート】「謹啓、我が有休申請の決裁を急ぎ給え。切に望むもの也や。」
【ベアト】「ぷ、わっはっはっはっは! 相変わらず大法院暮らしは窮屈であるものよ!」
【ドラノール】「……バトラ卿。少しだけ残念なお知らせがありマス。」
【戦人】「ん、どうした。」
 ドラノールは、そっと封筒を取り出す。それは、戦人が今夜のパーティーのために配った招待状だった。宛先人の名は、……古戸ヱリカ。
【ドラノール】「………私たちも手は尽くしたのデス。」
 その招待状には、読めぬ異国の言葉が書かれたスタンプがいくつも押されている。読めずとも、宛先不明で返送されてきたことが想像できた。
【戦人】「そうか……。苦労をかけたな、ありがとう。」
【ドラノール】「忘却の深遠は、住所なき無限の砂漠、あるいは深海の底。……ベルンカステル卿以外の誰にも、彼女の居場所を知ることは出来ないのデス…。」
【戦人】「一応、あの魔女どもにも招待状は送った。……気を利かせて、連れてきてくれりゃいいんだがな。」
【ベアト】「……ベルンカステル卿は猫のような御仁よ。自分に興味があれば勝手に寄って来るが、興味がなければ、いくら呼ぼうとも姿を現わさぬ。」
【ラムダ】「あっはは、そうね、あの子はまさに猫。エサは食べに来るけど、決して頭は撫でさせない。」
【戦人】「ラムダデルタ。お前は来てくれたんだな。」
【ラムダ】「私、こー見えても全然ヒマじゃないのよねぇ? でもまーイチオー、ベアトの後見人だしー。あんたの後見人も私じゃなかったっけー? まーそんなわけで、義理よ義理。ちょっと近くまで来たから寄っただけ! あー、そこの郷田! これ、手土産に色々持ってきたの! 適当に盛り付けて出しちゃってもらえるー?」
 義理で、たまたま近くに来たから寄っただけと言うのに、立派に包装された一升瓶だの重箱だの、手土産をきっちり持参している。
【戦人】「ベルンカステルはまだ来ていない。」
【ラムダ】「来ないんじゃなーい? 負けたゲームにのこのこと顔を出す子じゃないわよ。」
【ベアト】「……で、あろうな。何しろ、プライドの高い御仁だ。」
【戦人】「あいつにゃ、散々な目に遭わされたような気もするが、それでもこのゲームにかかわったプレイヤーのひとりのはず。最後のゲームの最後の夜を、のんびり祝ってもいいのにと思ったんだが。」
【ラムダ】「そうね。あの子がいなかったら、このゲームはこの結末を迎えなかったかもね。敵も味方も、ゲームを成立させるための絶対要素よ。」
【ベアト】「そうであるな。敵がいなければ、ゲームにさえならぬ。」
【ラムダ】「私は敗北さえもゲームの一部として楽しんでるけれどね。あの子はそうじゃない。……仕方ないわ、色々あったから。だから、あの子を責めないであげて。」
【戦人】「本当は、感謝するつもりだった。……色々あったが、お前がいなかったら、今日を迎えられなかったと感謝しようと思ってた。」
【ラムダ】「……ありがと。今度あの子に会えるのがいつかはわからないけれど。運が良ければ数百年後にはまた会えるわ。その時、伝えてあげる。そうそう、それはそうと。招待状はないんだけれど、今日はお客を連れてきたわ。」
【戦人】「客? 誰だ? 心当たりには軒並み、招待状を送ったつもりだったんだが…。」
【ラムダ】「いらっしゃい、二人とも! 紹介するわ。」
 ラムダが指を弾くと、空間が爆ぜて、二人の人影が姿を現す。
【ドラノール】「………ウィラードではありまセンカ!」
【ウィル】「よぉ。相変わらず、ちっせェな。」
【ベアト】「……知らぬ客人だ。彼らは何者であるか?」
【ウィル】「痛でででッ、抓るな、尻ッ。」
【理御】「まず自己紹介が先ではありませんか? 多分、この世界の戦人くんたちは、私たちのことを知りませんので。」
【戦人】「服に片翼の鷲があるな。右代宮家の人間なのか…?」
【理御】「右代宮理御と申します。私の世界では、あなたとは仲の良いいとこ同士です。」
【ラムダ】「紹介するわー。奇跡的確率の世界でのみ生まれる、右代宮家の次期当主よ。そこでは朱志香はひとりっこじゃない。理御の妹なのよ。」
【戦人】「そりゃ驚いた…。そんな世界があるのか……。」
【ベアト】「……………………、もしや、そなたは……。」
【理御】「初めまして、ベアトリーチェ。私はあなたのことを、よく知っていますよ。」
【ベアト】「…………………………。」
【理御】「私にとって、あなたが幸せな笑顔を浮かべることは、何にも勝る喜びです。……今夜を迎えられたあなたを、私は誰よりも祝福します。」
【ベアト】「……そうか。……そなたなのか……。……よくぞ、来てくれた……。」
 ベアトは、理御がどういう存在なのかを察する。
 そして二人は、鏡に映る自分の顔をまじまじと見るかのように、互いの顔を見つめ合った。
【ウィル】「俺はウィラード。あんたの知らないゲームで巻き込まれた、ただの通りすがりだ。」
【ドラノール】「彼は、私と同じ大法院の異端審問官デス。優秀でしたが、もう引退ヲ。」
【戦人】「そうか、ドラノールの友人なら、悪いヤツじゃないな。ようこそ、歓迎するぜ。」
【ベアト】「この二人は、一体どこから?」
【ラムダ】「ベルンが連れてきて駒にしたのよ。……用済みにされて潰されかけたところを、私が預かったの。後味が悪いのは嫌だって、アウアウに言われてね。」
【ベアト】「大丈夫であるか? もし万一、ベルンカステル卿がここに来るようなことがあったら…。」
【ラムダ】「このゲーム盤の上では私の駒よ? こんなところでひょっこり再会したら、あの子がどんな表情を浮かべるか、見てみたくて。くっすくすくすくす!」
【戦人】「……よくわからんが、性悪なことを考えて連れてきたってことは理解したぜ。」
【ラムダ】「私の手土産はこれで終わり。あとはのんびりくつろがせてもらうわ。じゃ、あとはホストのあんたに譲るわね。」
【ゼパル】「さぁ、バトラ卿!」
【フルフル】「あなたが告げなきゃ始まらないッ。」
【ゼパル・フルフル】「「今宵の、長きに渡るゲームの、お疲れ様パーティーの始まりを!!」」
【ベアト】「諸君、静粛に!! 我等が領主、バトラ卿のお言葉であるぞ…!」
【戦人】「よせやい、それ。何か恥ずかしい。」
【ベアト】「妻の大事な仕事であろうが。奪わせはせんっ。」
 ベアトは拗ねる仕草をしながら、戦人にシャンパンのグラスを渡す。気付けば、全員の手にシャンパンのグラスが握られていた。
【楼座】「真里亞は子供なんだから、ジュースにしなさいっ。」
【真里亞】「うー!! 真里亞もシャンパンがいいー!」
【譲治】「ほら、真里亞ちゃんも僕とお揃いのジュースにしよう。」
【朱志香】「戦人ー、ぬるくなっちまうぞー!」
【金蔵】「同感であるな。始めよ、戦人。」
【ロノウェ】「異議はありませんな。さぁ、こちらへどうぞ、バトラ卿。」
 ロノウェが中央を勧める。戦人がそこへ歩み出ると、一同は沈黙してその言葉を待った。
【戦人】「よく集まってくれたな、みんなッ!! 長かった俺とベアトのゲームは、これで全ておしまいだ…! これまで、駒として、プレイヤーとして、あるいはゲームマスターとして関わってきたみんなを、今宵は招待させていただいた! どうか明けぬ夜を、存分に楽しんで欲しい!!」
 乾杯。
【ゼパル・フルフル】「「乾杯ぁあああぁぁいい!!」」
 全員の発声とともにグラスが天を突き、その後、あちこちでグラスのぶつけ合いによる軽やかな音が響き渡った……。
客間
 ………私ひとりだけが、……楽しい喧騒から、はぐれている。それが悲しくて零したものか、わからない。
 気付いた時、私の頬は涙で濡れていた。私はソファーの上に横になり、毛布を掛けられている。
 ……眠くなって、椅子に座って寝てしまったところまでは、辛うじて覚えてる。誰かがここへ運んで寝かせてくれたのだろう。聞こえるわけじゃないけど、……まだみんなはホールにいて、楽しそうにしている気がする。
 ……私も、そこへ行きたい。違う。行こう。私も、そこへ。
 ……私はいつだってそれを求めていたのに、……そこへ踏み出そうとは、決してしなかった。行こう、みんなのところへ。私はまだ頭がぼんやりとしてるから、……難しいことは頭にない。
 でも、それでいいんだ。頭は空っぽで、構わない。私はみんなと一緒にいる。一緒のところへ行く。……それだけでいいんだ。ソファーより身を起こし、揃えられた靴を履く。行こう。みんなのところへ。
 客間の扉は閉まっていた。……開けようとするのだが、要領が悪いのか、開けることが出来ない。それがまるで、ついさっきまで見ていた、悪い夢の続きのようで気持ちが悪い。
【縁寿】「………開かない。どうして? 鍵は掛かってないのにっ…。」
 だんだん不愉快になってくる。
 鍵を開け閉めするつまみはこちら側に付いている。それを捻れば、開け閉めが出来るはず。
 回す。カチャリ。扉が開かない。……今ので逆に鍵を閉めてしまった? 回す。カチャリ。扉が開かない。
 ……さっきので開かないなら、今度は開くはずなのに。もう、どっちに回せば鍵が開くのかよくわからない。私は何度もがちゃがちゃと回してはドノアブを激しく捻る。
 だんだん、どうしてこんな不便な扉を閉めて私を閉じ込めたのかと、苛立ちさえ覚えてきた。とうとう堪忍袋の緒が切れ、激しく扉を叩くが、その音が誰かを呼ぶということはなかった。
 どうして私だけ、こんなところに閉じ込められてるの?! みんなはすぐそこのホールで楽しいパーティーをしているのに…! 私をここから出して…!!
 その時、………冷たい風が、ひょおっ、と吹いた。その風は私の髪を揺らす。室内で、風……?
 振り返ると、……窓のカーテンが大きく揺らいでいた。キィと擦るような、泣くような音。……いつの間にか、観音開きの窓が、闇夜に向かって開いていたのだ。
 そこから入ってくる冷たい風が、……この窓だけが、この部屋からの唯一の出口であると教えてくれた。
 え? 開いた窓の外の闇夜が、私を睨んでいることにたった今、気付き、私の小さな心臓が跳ね上がる。
 コロン、と、……可愛い音が鳴った。ようやく理解する。その音は、猫の鈴。睨む暗闇のエメラルドの目は、……開いた窓ににたたずむ、猫の目だったのだ。その漆黒の上品な毛並みは、エメラルドの目だけを残し、闇夜に姿を溶かすには充分だった。
 ……右代宮家で猫なんて、飼っていたっけ。鈴がついているなら、野良じゃない。誰かの飼い猫だ。とにかく、その猫が窓辺に立ち、……私をじぃっと見つめていた。
【縁寿】「………あなたはだぁれ……?」
 私は問い掛けるが、……猫が返事をするわけもない。可愛い猫とは思わなかったけれど、……私に何か伝えることがあるのかもしれないと思い、……ゆっくりと近付く。
 すると猫は、くるりと背を向ける。そして私に振り返り、まるでついてこいとでも言うように、コロンという鈴の音を残して、闇夜へ飛び降りる。
 窓の外を覗くと、私が来るのを待つように、猫は雨に打たれるまま、そこにいた。……私はようやく気付く。この密室の客間から出る、唯一の出口がこの窓だった。猫は、私にそれを教えに来てくれたに違いない。
 いつまでも私がここでぼーっとしていると、猫はいつまでも雨に打たれてしまう。いけない。風邪を引いちゃう。
 私は窓枠によじ登り、そこから表へ出てる。風は強く雨も冷たいが、思ったほど体は濡れなかった。お屋敷の陰になっているせいかもしれない。
 猫は、私が出てきたことを見届けると、先導するように、お屋敷の壁に沿って歩き出す。闇の中にすぐに溶け込んでしまうが、時折、振り返り、鈴を鳴らすことで私に存在を教えてくれた。やがて、明かりが漏れている窓が見えてくる。
 それはホールの窓だった。中を覗くと、みんなが楽しそうにしていた。声は聞こえないけれど、すぐそこにみんながいた。
【縁寿】「開けて…! 開けてー!!」
 私は窓はばんばんと叩くのだが、それは誰の耳にも届かない。……よほど窓が厚いのか、中が賑やかなのか。……あるいは、こちらが闇夜だから、私の姿も闇に溶け込んでしまっていて見えないのか。
 とにかく、いくら叩いても、誰も気付いてくれる様子はなかった。ここまで来ると、寂しいという気持ちより、どうして私に気付いてくれないのか、どうして私だけをひとりぼっちにして、あんな部屋に閉じ込めていたのかと、怒りの感情の方が強くなってくる。
 もう、いいもんっ。どこかから中に入って、みんなに怒ってやる。私が窓を叩くことに諦めたと悟ると、猫は再び鈴を鳴らして先導をする。
 ……でも、猫はどこへ行こうと言うのだろう? お屋敷の壁に沿って進んでいるのはわかる。でも、玄関はそっちじゃないはずだ。
 玄関は閉まっているのかもしれない。きっと猫は、お屋敷の中に入れる場所を知っていて、そこへ私を案内してくれているに違いない。
 ホールから漏れていた明かりから遠ざかり、……庭園のわずかな外灯の明かりしかない真っ暗闇を、私と猫はしばらく歩く。
 すると、………それを見つけた。
 開いている、窓だ。猫はその下で、窓と私の顔を交互に見て、そこから入れと促しているように見えた。
【縁寿】「ありがとう、猫さんっ。お礼にあなたにミルクがあげたいの。一緒にいらっしゃい?」
 抱き上げようと近付くと、猫は私の手をするりと逃れ、花壇の茂みの中へ飛び込んでいく。そして、まるで茂みの中の闇に解けてしまったかのように、その気配はなくなった。
 いくら耳を澄ませてももう、あの鈴の音が聞こえることはなかった……。
 突然、風向きが変わり、私に激しい雨が当たるようになる。いつまでもこんなところにいるわけにはいかなかった。
【縁寿】「………入ろう。……どこの部屋だろ。」
 窓枠をよじ登り、部屋の中に入り込む。すると、音もなく窓は閉まり、ひとりでに鍵まで閉まった。……締める手間が省けてよかった。
 その部屋は真っ暗な部屋だった。でも、目が闇に慣れていたお陰で、何となく様子がわかる。
 広い部屋。そして長く大きな机とたくさんの椅子。……ここは、食堂だったのだ。それがわかり、安心したせいか、目がみるみる見えなくなっていく。
 私は明かりのスイッチを求めて、壁を探りながら壁伝いに進んだ。そしてようやく、慣れた形状の手触りを見つける。
 ……これを押しても、明かりがつかないという意地悪があったらどうしよう。カチリ。
 その意地悪はなく、……むしろ逆で、意地悪なくらいに眩しくて目に痛い明かりが、食堂を満たすのだった。
 私はぎゅうっと閉じた目を、ゆっくりと開いていく。……………そして。……部屋の惨状を、理解した。
 食堂の中は、血塗れで、………ごろり、……ごろりと、………何人もの人間が倒れていた。そして、その内の二人が、………自分の両親であることに気付いて、愕然とした。
玄関ホール
【ゼパル】「やぁ、盛り上がっているかい、参加者諸君!!」
【フルフル】「盛り上がらない子は、私たちが食べちゃうわ!」
【ゼパル・フルフル】「「騒げや歌えや!! 今宵の酒宴を! あっはははははははは!!」」
 ホールはニンゲンと魔法幻想の住人たちが入り混じり、大変な賑わいだった。最初のうちは、それぞれが輪になってしまい、打ち解け難い雰囲気だった。しかし、今はもうそれもなくなり、双方が入り混じって楽しく談笑していた。
【ルシファー】「とにかく、言うことを聞かないのよね、基本的に!」
【秀吉】「リーダーシップが大事だと思うんや。背中で語らにゃ部下はついてこんで!」
【00】「それでついてくる部下なら問題はないのだが、一筋縄では行かん…。」
【楼座】「とにかくね、部下には舐められたらおしまいなのよ! たまには小さなミスをわざとらしく、みんなの前で大声で叱責するのも大事だわ。」
【さくたろ】「そんなのだめっ、みんなに怖がられるだけ…! リーダーはみんなの模範にならなきゃ駄目だよっ。リーダーたる者はね? 云々かんぬん、云々かんぬん…。」
 草食ライオンの語るリーダーシップ論に、彼らは真剣に耳を傾ける。だいぶ酔いが回っているらしく、みんな妙にテンションが高い。
【レヴィア】「霧江ー!! どうして霧江は嫉妬すればするほど強くなるの?!」
【霧江】「人聞き悪いことを言わないで? 私は欲しいものを逃がさない。それを常に実践してるだけなんだから。」
【ロノウェ】「さぁさぁ、お待たせしました。まだまだお料理は続きますよ。」
【郷田】「……うぐぐぐぐ…! 勝手に当家のパーティーを仕切って…。……しかし悔しいですが、身のこなし全てに隙がありませんっ。一体、どこのホテルで修行を……。」
【ベルゼ】「仕方ないわよ、ロノウェさまは完璧魔人だもん。でも、私は郷田の方が好きよ。これ、焼き加減、最高だってば♪」
 七姉妹たちもすっかりパーティーに溶け込み、賑やかにしている。
【南條】「しかしですな、ヴァンダイン二十則で否定されつつも、名作と呼ばれるミステリーは数多くありますぞ。」
【ウィル】「別に否定してるわけじゃねェ。……ミステリーなんて所詮は娯楽。楽しんだモン勝ちだ。」
【ガート】「あのウィザードハンティング・ライトも、ずいぶんと丸くなったものと知るもの也や。」
【源次】「……文学も娯楽も、時代に応じて作法が変わることもあります。推理小説もまた、同じということでしょう。」
 ウィルの語るミステリー論に、喧々諤々。話は尽きない。
【蔵臼】「確かに、新人の心構えはそうあるべきだ。だがそれでは、いつまでも中堅にはなれんね。」
【コーネリア】「しかしながら、規則は遵守すべきものであると知り給え…。」
【ベルフェ】「そんなものは新しき新人が守ればいい。規則など、新人用のテンプレートであることを忘れてはならんぞ。」
【留弗夫】「そういうこった。ルールの外での働き方を覚えて、ようやく一人前なんだぜ? ルールに縛れてる内は、まだまだ半人前だな。」
【マモン】「私、仕事を人に譲るのも耐えられないの! 私は強欲のマモン! 仕事はみんな、私が独り占めにしちゃうわ!」
【絵羽】「あなた、いい根性じゃない。煉獄の七姉妹ってお給金どのくらい? うちの主人の会社に入りなさいよ、推薦してあげるからっ。」
 もうすっかり、ニンゲンも幻想の住人たちも溶け合っている。
【夏妃】「な、なるほど……、これが魔女の世界のお作法なのですか……。」
【410】「そうにぇ、そうにぇ! カップのお茶をお皿に垂らし、両手の手の平をテーブルに押し付けて、お皿のお茶を犬みたいにチュウチュウ吸うのが我々のお作法にぇ!」
【サタン】「あ、あんた、何ヘンなこと教えてんのよッ、そんなお作法、あるわけないでしょ?! 夏妃も騙されてんじゃないわよ、スカポンタンッ、いい歳してッ!!」
【ワルギリア】「こら、サタン…! 夏妃さんに向かって 何て失礼な…!! ………え? な、何で泣き出すんですか…。サタン、私…、そんなに厳しく叱りましたか…?!」
「シエスタ410さん。純粋な母に、二度と妙なことを吹き込まないように。大丈夫、痕にならない程度に加減してありますから。」
 410は動物虐待反対にぇと騒ぎながら、おしりを押さえて飛び跳ねている。
【アスモ】「私の王子様、どこかにいないかなぁ〜! アスモはねぇ、燃えるような恋がしたいの!」
【真里亞】「恋をしたら、真里亞も素敵なお姫様になれるかな。」
【ベアト】「なれるとも! 恋は奇跡だ、パワーだ、ミネラルだ!! 無敵の力を与えてくれるのだ!」
【ガァプ】「……くすくす。愛は肉欲なんだよーって言ってた人が、何か言ってるわ。」
【金蔵】「うむ。きっと、毎晩、肉欲三昧に違いないぞ、くっくっく!」
【ベアト】「え、えぇい黙れッ、痴女とスケベジジイ!!」
 ベアトを中心にした輪は、いつだってとても賑やかだった。
【嘉音】「わかるよ、その気持ち。僕たちは誰かに命令されて初めて、生きる価値が生まれる。」
【45】「私、命令がないと不安なんですっ。誰か私に何か命じて下さいっ、じゃないと死んじゃいますぅ!」
【朱志香】「そんな根性じゃ駄目だぜ! 自分の生きる価値は自分で生み出す、自分で切り拓く!」
【ラムダ】「そうよ。絶対の意思を持たないと駄目よ? 私がニンゲンやってた頃は、そりゃガムシャラに生きてたわよ…!」
 ラムダデルタが人生論をとつとつと語り出す。彼女も、いい具合でシャンパンが回っているようだった。
【ドラノール】「何とも、摩訶不思議な光景デス。」
【紗音】「くす。そうですね。ドラノールさま、お代わりは如何ですか?」
【ドラノール】「ジュースならもらいマス。子供ですノデ。」
【戦人】「お、紗音ちゃんでいいや。……ちょっといいかい。」
 ホールに戦人が戻ってくる。そして使用人を探し、最初に目が合った紗音を呼ぶ。
【紗音】「はい、戦人さま。お呼びでしょうか。」
【戦人】「悪ぃんだけどさ、客間の鍵を貸してくれるかい。」
【紗音】「客間、でございますか…? マスターキーでも開きますが、……何か?」
【戦人】「いや、縁寿は眠ってるかなと思って、客間に行ってきたんだが。鍵が掛かってたんだ。」
【紗音】「鍵ですか…? 私たちは縁寿さまをソファーにお運びした後、扉は閉めておりますが、鍵は閉めておりません。」
【戦人】「………あー、まさか縁寿のヤツ。自分だけ仲間外れにされたと思って、内側から鍵を閉めてイジケてやがんのかぁ。やれやれ。」
【紗音】「くす。お開けしましょうか?」
【戦人】「そうだな、すまん。頼めるか。」
 戦人は紗音を連れてホールを出る。
 ホールでは、ラムダデルタが、私たちもクイズ大会をやりましょうよと音頭を取っている。どうやら、絶対の魔女から褒美が出るらしい。ノリのいい一同は、やろうやろうと意気込んでいる。戦人はその盛り上がりの様子に満足の笑みを浮かべながら、客前へ向かうのだった。
客間前
【紗音】「………鍵が掛かっておりますね。開けてよろしいですか?」
【戦人】「んー……。寝ていたら悪いからとノックはしなかったんだが、鍵を掛けたってことは、起きたって証拠だしな。……一度、ノックするか。」
 戦人はドンドンと扉を叩き、縁寿の名を呼ぶ。しかし、扉の中から反応はなかった。扉に耳をつけ、中の様子をうかがうが、縁寿が機嫌を悪くしてクッションを投げつけているような様子は、まったくなかった。
【戦人】「一通りヘソを曲げてから、また寝ちまったのかもな。……開けてくれるか?」
【紗音】「畏まりました。」
 紗音はマスターキーを取り出し、鍵を開ける。そして、どうぞと扉を譲った。
【戦人】「……縁寿…。入るぞー……。」
 もし眠っていたなら起こさないように、戦人は小さな声でそう言いながら扉を開ける。すると、扉を開けると同時に、ひゅうっと冷たい風が吹き抜けた。
 外気を感じさせるその風に、すぐ二人は違和感を覚え、顔を見合わせる。……客間の中に縁寿がいないことは、一目でわかった。開け放たれた窓のカーテンが、ばさりと大きく舞う。
【戦人】「縁寿……、……縁寿……?」
 ソファーの上には、くしゃりとした毛布が置かれている。眠っていた縁寿が起き出し、抜け出した形そのままだった。
 毛布はほんのり温かい。先ほどまで確かにここで眠っていたのは間違いなかった。
【紗音】「縁寿さま……? ……いらっしゃいませんか……?」
 隠れん坊のわけもあるまい。……客間のどこにも、縁寿の姿はない。
 戦人は開け放たれた窓から、雨の降りしきる闇夜をうかがう。……こんな雨の中を、窓から表へ出て、どこへ……?
【紗音】「縁寿さまは、窓から出て行かれたというのでしょうか……。」
【戦人】「……寝惚けるにも、ちょいと程があるな。」
 玄関から出たわけではないのだから、傘も持たないだろう。こんな風雨の闇夜へ、縁寿が飛び出て行く理由を想像するのは、あまりに難しかった。
 …………嫌な予感がする。こんなはずはない。このゲーム盤のゲームマスターは自分だ。なのに、ゲームマスターに把握できない事態が起こるなんて、あるものか…。
 大きな落雷が一瞬、景色を真っ白に浮かび上がらせるが、その中に縁寿の人影を見つけ出すことは出来なかった……。
玄関ホール
【ラムダ】「じゃあじゃあ、次は私が問題を出す番ねー! えっとねえっとね、1ホールの3分の1のケーキと4分の1のケーキと5分の1のケーキがお皿に載ってるの! 1ホールを食べるのには30分かかるとして、食べ終わった時、お皿にケーキはいくつあるでしょう?!」
 その時、大きな落雷の音と共に、一瞬だけ照明が瞬いた。賑やかな声が一瞬にして、ロウソクの火を吹き消すかのように消える。
「……0個でしょ。あんたが引っ掛けられた問題じゃない。」
 その静寂の中、ラムダの問題に答える声が、静かに響き渡る。
 人垣が割れ、………少女の姿をした、千年の魔女がゆっくりと姿を現す。
 彼女は招かれている。このパーティーの招待状を持つ、正当な来客だ……。
【ベルン】「……遅刻してごめんなさい。パーティーを盛り上げる催しの準備をしていたら、すっかり遅くなってしまって。」
 ベルンカステルはそう言いながら、じろりと一同を見回す…。
【理御】「…………………………。」
【ベルン】「あら。カケラの海で朽ち果てたと思っていたら。」
【ラムダ】「今は私の駒よ。素敵でしょ?」
【ベルン】「……ふ。」
 じろりと理御とウィルを見て、薄気味悪い笑みを浮かべるが、すぐに興味をなくしたようだった。
【ベルン】「戦人はどこ? ベアトは? 招待客が来たのよ? 出迎えて欲しいものだわ。」
【戦人】「………俺はここだ。」
【ベアト】「そなたを招きはした。だが、来るとは思わなかったのでな。……なるほど、これは奇跡というわけだ。」
【ベルン】「うまいことを言うじゃない。くすくす……。…………何をみんな静まり返っているの? パーティーでしょう? わざとらしいくらいに賑やかにしてちょうだい。それとも、私を沈黙で迎えるという余興なの…?」
【戦人】「今度はお前の番だ。」
【ベルン】「……何が?」
【戦人】「戦人はどこだ、とお前は尋ねた。だから俺はここだと答えた。次はお前の番だ。」
【ベアト】「何の話だ? 何かあったのか…。」
【戦人】「縁寿が消えた。ゲームマスターの俺にさえ、どこに行ったかわからない。」
【ベアト】「そんな馬鹿な…! これはそなたのゲームであろう?! そんなことがあるわけがない…!」
【ラムダ】「………縁寿が消えたのが、ゲームマスター戦人のシナリオでないならば。………ゲームマスターが他にいることになるわね。」
【ベアト】「そのようなことがあるというのか…?!」
【ベルン】「えぇ。私も驚いてるわ。……胸が好くような楽しいゲームを始めようとゲーム盤を広げたら。まったく同時に、戦人もおかしなゲームを始めていたというわけ。……ゲームマスターが2人なんて、おかしなこともあるものね…?」
【戦人】「それはつまり、……お前が縁寿をどこかに隠したと認めたということだな。」
【ベアト】「…………………。……そうなるな。ゲームマスターの戦人の描いていないシナリオが生み出せるのは、もう1人のゲームマスター殿しかいないということになるのだから。」
【ラムダ】「パーティーを盛り上げる催しの準備、……ってヤツぅ?」
【ベルン】「……ラムダたちはクイズ大会で楽しく盛り上がってたわね。だから、私もそれに加わることにしたわ。」
【ベアト】「縁寿は、その人質のつもりというわけか。」
【ベルン】「そういうことよ。……戦人、ベアト。あなたたちにゲームを挑みたいの。拒否権はないわ。縁寿が大事な妹ならね。」
【戦人】「…………何が望みだ。」
【ベルン】「あんたとベアトを巡るゲームで、私はラムダと賭けをしていた。……それには、私は負けたことを認めなくてはならない。少なくともラムダには、ね。」
【ラムダ】「くすくすくすくす。……ベルンってドライそうに見えて、なかなか執念深いのね。つまりこういうことでしょ? 私には負けたけど、戦人やベアトに負けたわけじゃない。」
 ベルンカステルは、にやりと笑うかと思った。しかし、笑わなかった。ただ冷酷な目で、言葉なく語った。戦人はそれを、理解する。
 ベアトと何度もゲームを重ねた。それは、ベアトより言葉なきメッセージを受け取るためのゲームだった。だから、わかる。理解する。
【戦人】「俺たちと勝負したい。……そういうことか。」
【ベアト】「………恐ろしい敵であるぞ。」
【戦人】「だが引けない。」
【ベアト】「わかっておる。……縁寿をベルンカステル卿の玩具にさせるわけにはいかぬ。」
 ベアトも理解していた。最後に戦いを申し込みたいというベルンカステルの気持ちを、理解していた…。
【ラムダ】「………ベルンが正々堂々となんて、ね。」
【ベルン】「笑えば?」
【ラムダ】「どうして。」
【ベルン】「ありがと。」
【ラムダ】「………………。」
 ラムダデルタもまた、理解する。戦人とベアトの物語が終わり、全てが猫箱にしまわれる前に。ベルンカステルは初めて観客席から舞台へ上がった。
 舞台の上の明るさを嫌い、舞台袖に隠れていた魔女が、……舞台中央へ歩み出る勇気を見せたのだ。ラムダデルタはその勇気に至った、ベルンカステルの人間的感情に、友人としての理解を示す…。
【ラムダ】「私に出来ることは?」
【ベルン】「私のゲームの立会人をお願い。」
【ラムダ】「……いいわよ。そのゲームに参加したら、縁寿を解放することを約束できるならね。」
【ベアト】「当然であるぞ。その約束がないならば、そなたの茶番に付き合う義理などない…!」
【ベルン】「義理はないけど、縁寿は戻らないわよ…?」
【ベアト】「ならばそなたは、負け犬の烙印を数百年間のんびり楽しむこととなろうぞ。」
【戦人】「ベアト、挑発はよせ。……引けない勝負だ。」
【ベアト】「……う、……うむ。」
 人質を取られた時点で、戦人たちに交渉する余地は一切ないのだ。
 しかしラムダデルタは、立会人を引き受ける代わりに、ベルンカステルに縁寿を必ず解放することを約束させる。それを約束させなければ、ベルンカステルは何も失わない。
 ベルンカステルが挑もうとする最後の戦いを、正式なものにするために。……ラムダデルタは、それを約束させる。
【ベルン】「………無論よ、ラムダ。約束するわ。ゲームが終わったら縁寿は解放する。」
【ラムダ】「私の顔に泥を塗らないでよ…? 私、かかされた恥は、絶対に相手を後悔させるまで許さないんだから……。」
 ラムダデルタは静かに凄む。しかしベルンカステルは、そんな表情さえ可愛らしいとでも言うかのように、薄く笑って答える。
【ベルン】「誓うわ。……私たちの友情にかけて。」
【ラムダ】「……ヒュウ。」
 ラムダデルタは口笛を吹いてニヤリと笑う。どうやら、その言葉は、ベルンカステルのものの中で、一番信頼のおけるものだったらしい。
【ラムダ】「わかった。」
 ラムダデルタは頷き、戦人たちとベルンカステルの顔を見比べてから宣言する。
【ラムダ】「絶対の魔女、ラムダデルタの名において、あんたたちの勝負の立会人を引き受けるわ。……戦人、ベアト、異存はないわよね?」
 戦人とベアトは、頷き合ってから、ラムダデルタにも頷き、決意を示した。
【ベルン】「………嬉しいわ。やっと私たちは戦えるのね。」
【戦人】「いずれ、お前とは戦うことになると予感していた。」
【ベルン】「いつから?」
【戦人】「………………………。……わからない。ひょっとしたら、お前の名を知るよりも、もっと前からかもしれない。」
 戦人は、思い出せぬ無意識の世界のどこかで、彼女に語り掛けられたことがあったのを、おぼろげに覚えている。当時、それは、ベアトとの戦いを助言するもののように聞こえた。
 しかし、今にして思うと違う。……眩しい日向に出ることの出来ぬ、臆病な猫の、舞台袖よりの参戦だったのかもしれない。だから、いつかやがて、ゲーム盤の上で何かの形で対峙する日が来ることを、おぼろげに予感していた……。
【戦人】「……こいつも、プレイヤーの1人だったんだ。……ゲーム盤を片付ける最後の最後で、こいつはやっと、舞台に上がる勇気を持てた。……俺は、その勇気ある決闘の申し出を、受けて立ちたい。…………お前の駒だった、あの勇敢な女の名にかけてな。」
【ベルン】「私はヱリカに決闘を押し付けたわ。………勝ちたかった。それ以上に負けたくなかった。敗北の味を知るかもしれない恐怖が、私を苛んだ。………そして今にして思うと、あの時のあんたたちに、私は嫉妬していたんだわ。」
【ラムダ】「……………………………。」
【戦人】「………ヱリカは、お前の優秀な駒で、俺の好敵手だった。その最後を看取らず、忘却の深遠に葬ったお前を、俺は許さない。」
【ベルン】「どうしろと言うの…? ヱリカに謝れと?」
【戦人】「ヱリカを忘却の深遠から救え。そしてこのパーティーに招け。」
【ベルン】「………ヱリカを…? 救え………?」
【ベアト】「妾も戦人に同じだ。あやつは敵方の駒なれど、その役割に忠実であったに過ぎぬ。好敵手なくして、ゲームは成立せぬ。……敵であることは変わらぬが、我等の大切な友人だ。」
【ベルン】「…………あれだけ、あんたたちを苦しめたのに…?」
【戦人】「俺たちはフェアに戦った。勝敗が互いの運命を分けたが、……決闘をかわした俺たちは、ずっと友人だ。」
【ベルン】「…………………………………。」
【ラムダ】「ベルンも、友人になりたいのよね? だからベルンも、フェアに戦いたくなったんでしょ?」
【ベルン】「……笑えば?」
【ベアト】「笑わぬ。」
【戦人】「むしろ歓迎だ。」
【ベルン】「………人質を取ってるのに?」
【戦人】「取らなきゃ、お前は舞台に出られなかったんだろ。」
 人質など、必要なかったのだ。戦人たちはベルンカステルが望みさえすれば、最後の決闘を引き受けたのだ。……沈黙するベルンカステルの表情からは、何を思うのか読み取ることは、難しい。
【ベルン】「いいわ。」
【ラムダ】「………何が?」
【ベルン】「……ヱリカを深遠から、解放するわ。」
【戦人】「よく決意したな。」
 プライドの高いベルンカステルにとって、自分を負けさせた駒を許すことは、耐え難いことのはずだ。戦人にはそれがわかっているから、ベルンカステルの見せたその慈悲が、……彼女の精一杯であることを、理解できる…。
 ベルンカステルが指を鳴らすと、彼女の影から一匹の黒猫が、ぬるりと現れる。
【ベルン】「深遠の奥底に、ぞんざいに放り投げたから。……到着は遅れるかもしれない。」
【ベアト】「構わぬ。料理も酒も、決して尽きることはないのだから。」
【ベルン】「……お行き、子猫。……あの子をここに案内しなさい。」
 そう命じると、黒猫は鈴を鳴らしながら、虚空に溶けて消え去る。
【ラムダ】「まさか、あんたがヱリカを許すなんてね。」
【ベルン】「………許す気はないわ。だからもう、私の駒じゃない。……誰かが拾えば? あんただって、理御たちを拾ったわけだし。」
【戦人】「…………ベルンカステル。感謝する。」
【ベルン】「じゃ、甘ったるい時間はこれくらいでいい…? すでに私には、苦痛なの。」
【戦人】「いいぜ。……ゲームはどこでする? ここで賑やかにでも、……静かないつもの場所でも、どこでも構わない。」
【ベアト】「……ベルンカステル卿が、これほどの大勢の前に姿を現す勇気を見せたのだ。……これ以上、苛めることもあるまいぞ。」
【戦人】「そうだな。………ならば、いつものあの場所しかないだろうぜ。」
【ラムダ】「ベルン、問題ない?」
【ベルン】「……ないわ。」
【ラムダ】「ごめんね、パーティーのみんな…! 私たちはちょっと失敬するけれど、みんなは引き続き楽しんでいてちょうだい! ゼパル、フルフル! あんたたちが盛り上げてて! ヱリカが来たら、みんなで歓迎してあげて。」
【ゼパル・フルフル】「「えぇ、ラムダデルタ卿!! 仰せのままに!!」」
【ベアト】「では招こうぞ、我等が思考を巡らして戦うに相応しい、いつものあの部屋へ…!」
 戦人が指を鳴らすと、空間が砕け散って爆ぜる。
魔女の喫煙室
 そこは、かつて魔女たちが、時に議論を、時に陰謀を、時に推理を尽くしたあの、魔女たちの喫煙室。そこに再びベルンカステルを招き、最後のゲームを開催する……。
【戦人】「……ゲームの用意はあるのか?」
【ベルン】「もちろん。……じっくりと作り上げた、自信作のゲームよ。」
【ラムダ】「ゲームマスターがベルンで、戦人とベアトはプレイヤーということね? ベルンが殺人ゲームの物語を語り、プレイヤーの2人が、ニンゲンのトリックで再構築できるかを挑む、いつものゲームね?」
【ベアト】「ベルンカステル卿の描くシナリオがどのようなものか、興味があるぞ。」
【戦人】「……俺たちが青き真実で指摘し、お前が赤き真実でそれを弾く。そのルールで問題ないな?」
【ベルン】「………私のゲームは、もっとシンプルよ。ただの犯人当てクイズ。……あんたたちと、赤やら青やらの攻防をやるつもりはないの。」
【ラムダ】「へぇ…? それってどんなゲーム…? 先に見せてもらってもい〜い?」
 ベルンカステルが手の平を上へ向けると、そこに青白く光るカケラが現れる。そのカケラにラムダデルタは手をかざして、目を瞑る……。
【ベルン】「……ね? 簡単なゲームでしょう?」
【ラムダ】「確かに……。これは戦人たちがやっていた思考ゲームに比べたら、はるかに単純だわ。これはもはや、魔女とニンゲンのゲームじゃない。」
【ベルン】「そうよ。これはもはや、ニンゲンのゲーム。」
【ラムダ】「………驚いたわ。ベアトというファンタジーと戦うためにベルンが用意したゲームが、純粋なミステリーだったなんてね。」
【戦人】「説明してくれ。」
【ラムダ】「極めてシンプルよ。……ベルンの用意した物語を観劇する。その中には、いくつかのルールがあるけれど、それに従って読み解くことで、一なる真実、即ち回答が得られるように出来ているの。」
【戦人】「つまり、……普通に、推理小説だってことなのか。」
【ベアト】「なるほど…。となれば、赤と青の真実の鍔迫り合いなど、もはや不要ということか。」
 ベアトのゲームは、ミステリーかどうかを争うものだった。しかし、ベルンカステルのゲームは、ミステリーなのだ。それを争う必要は初めからない。
【ベルン】「動機もトリックも切り捨てた。……あんたたちに求める答えはたった一点よ。」
【戦人】「フーダニット。」
【ベアト】「……何と単純かつ、これ以上ないほどに我等の決着に相応しいゲームなのか。」
【戦人】「そうだな。……何の小細工もない。ストイックなまでに、シンプルだ。」
【ベアト】「これは、正真正銘の決闘であるな……。」
【ラムダ】「立会人として宣言するわ。……このゲームは“解けるように出来ている”。つまり、あんたたちの決闘の舞台として、公平であることを保証する。………ベルン、これは老婆心だけれど。………本当にいいの? ……戦人とベアトは、ミステリー好きで交際を始めたのよ。……私には、よく捻ったシナリオだとは思えるけれど、……この二人に通用するかは、……ちょっとわからないわよ……?」
【ベルン】「………私の精一杯のシナリオが通用しないなら、その時はその時よ。」
【ベアト】「大事なのは、ベルンカステル卿が渾身の力で描いたゲームであることだ。」
【戦人】「そうだな。それが俺たちに通じるかどうか。ただそれだけの、シンプルなゲームなんだ。………ラムダ、ありがとう。お前のお陰で、この決闘が正々堂々としたものであることが証明された。」
【ラムダ】「どういたしまして。私も嬉しいわ。……ベルンが挑むという、この貴重な戦いに立ち合わせてもらえるなんて、光栄よ。」
【ベアト】「そなたを対戦相手に迎えられ、妾も光栄だ。」
【ベルン】「……私もよ。……あんたを見下してた。勝負の場に出もせずにね。そんな、それまでの自分に虫唾が走る。………だから決闘させて。」
【ベアト】「うむ。受けて立とうぞっ。」
【ベルン】「私が勝ったら、今度こそあんたを思い切り見下してあげる。……そしてもし、私が負けるなら。……私がきっと忘れているに違いない、あの感情を思い出させて。」
【ベアト】「うむ。」
【戦人】「……ベルンカステル。お前が勝とうと負けようとも、これだけは約束する。」
【ベルン】「…………何?」
【戦人】「この決闘が終わったら。……俺たちは友人だ。」
【ベルン】「………ふっ。………………これ以上はやめて。くすぐったくて死んでしまいそう。」
 ラムダが手を叩く。パンと小気味良い音が響き渡った。
【ラムダ】「朗読はベルンが? それとも私が引き受けようかしら…?」
【ベルン】「………朗読者は不要よ。」
【ラムダ】「え?」
【ベルン】「……朗読の巫女は、自分の口を通して、物語を脚色することも歪めることも出来る。……たとえ私のゲームに小細工がなくとも、朗読の術で、いくらでもそれをすることが出来る。」
【ベアト】「そうであるな。……それもまた、ゲームマスターの権利の一つだ。」
【ベルン】「あんたたちとしたい決闘は、シンプルでありたいの。………だから、朗読者はいらない。あなたたちが自らの目と耳で、物語を読みなさい。」
【ラムダ】「いいの…?! それじゃベルンに有利なことがなくなっちゃうじゃない…!」
【戦人】「…………わかった。朗読者はいらない。俺たちが自分で、物語を読む。」
【ベアト】「朗読者がいないということは、………いわゆる、物語のト書きに、一切の虚偽が混じらぬということか。」
【戦人】「受けて立つぞ、ベルンカステル。」
【ベルン】「…………………………。」
【戦人】「何の小細工もない、正真正銘の、ミステリーの一騎打ち。………お前の正々堂々を、俺たちも正面から受け止めてやる。」
【ベルン】「………ありがとう。……負けないわよ、私も。」
【ベアト】「ちっちっち。それではダメであるな、ベルン卿よ。」
【ベルン】「……?」
【戦人】「あぁ、そうだな。ミステリーを突きつける魔女は、そんな態度じゃ駄目だぜ、あぁ、全然駄目だな…!」
 戦人たちが何を求めているのか、ベルンカステルは理解し、ふっと笑う。ラムダデルタも頷き、この最後の決闘を、存分に楽しむように告げる。
【ベルン】「ふっふふふ………、あっはっははははははは……。ニンゲンと魔女が仲良く肩を並べてミステリー談義なんて! 馬鹿馬鹿しいわ、笑えるわッ。あんたたちの仲良しミステリーが、私の用意したミステリーに通用するかどうか、試してあげるッ! 受けてみなさい、私のミステリー!!」
【ベアト】「そうでなくてはッ! 奇跡の魔女、ベルンカステル卿の挑戦状、確かに受け取ったぞ!」
【戦人】「さぁ、勝負開始だ!! ゲームマスター、右代宮戦人!! そして無限の魔女、ベアトリーチェがお相手してやる! ぶっ飛ばされても泣くんじゃねぇぞッ!!」
【ベルン】「食らうといいわ、これがベルンカステルのミステリーッ!!!」
 ベルンカステルが、ゲームを封じ込めたカケラをテーブルに叩き付けると、それは砕け散って眩い光とともに、ゲームのシナリオを構築する。ベルンカステルの手によるミステリーが、………幕を開ける……。
食堂
 降り止まぬ雨の音だけが、部屋を満たしている。鮮血に彩られた、無慈悲の食堂を、満たしている……。
【縁寿】「…………………………。」
 縁寿はいつの間にか、床に倒れて、意識を失っていたのだ。意識がゆっくりと戻り、……この部屋に何があったか、記憶を取り戻させる。だから、それが戻る前に反射的に目を背けた。
 血塗れの食堂には、6人の骸が転がっている。不思議なもので、意識がゆっくりと戻ってくると、目の前の恐ろしい光景も、少しだけ和らいで感じられるのだ。だから今度は、6人の死体が誰であるか、縁寿ははっきりと見ることが出来た。
 まず、……自分の両親。……血化粧で真っ赤に染まった、無残な姿だった。そして、向こうに倒れているのは、秀吉伯父さんと、……絵羽伯母さん。いつも面白いことを言って笑わせてくれる秀吉伯父さんも、……そして、私のことをすごく可愛がってくれる絵羽伯母さんも、……骸を晒している…。
 あそこに倒れているのは、使用人の源次さん。そして、そこに倒れているのは、……楼座叔母さんだった。
 6人。この部屋には6人もの人間が、……命を奪われ、横たわっているのだ……。
 意識を失う前に、涙を流し尽くしたからだろうか。……それらが辛い光景であることに変わりはなかったが、……どこか乾いた気持ちで見られるようになっていた。
 だから、両親が死んでしまったことへの悲しみは、もう出尽くしてる。次に湧き上がった感情は、……それ以外の人たちは無事だろうか、確かめたいという気持ちだった。
 その時、カリリと、……硬いものを引っ掻くような音が聞こえた。気のせいかと息を潜めると、もう一度同じ音が聞こえた。
 それは多分、扉からだ。扉を外側から、誰かが引っ掻いているのだ。誰が引っ掻いているのかは、もちろんわからない。
 でも縁寿にはどういうわけか、きっとあの黒猫が引っ掻いているに違いないと、そう思った。……黒猫が、この部屋を出ようと言っている。縁寿はそう理解し、扉のノブに手を掛けた。
 …………? すぐに違和感。それは施錠の手応えだった。
 客間に閉じ込められた、あの嫌な気持ちが、背中をぞわりと這い上がる。……しかし、客間の時と違い、施錠のつまみは、ひねると簡単に開けることが出来た。鍵を開け、ゆっくりと扉を開く……。
 扉が開くと、………薄暗い廊下が見え、その向こうに、黒猫が駆けて行くのが見えた。そして立ち止まり、エメラルドの瞳を暗闇に輝かせ、……私が来るのを待っているようだった。
【縁寿】「………………………………。」
 廊下は薄暗く、……不気味な静寂に支配されていた。黒猫は、私が来たことを見届けると、先導するように歩き出す。
 床を踏みしめると聞こえる軋むような音と、猫の鈴の音、……そして風雨の音以外に聞こえるものは、何もなかった。
 ……パーティーはホールでやっているのだ。廊下に出れば、その賑やかな気配が、少しは聞こえてもいいはず……。
【縁寿】「………私が食堂で意識を失ってる間に、……深夜になっちゃったのかな…。」
 それは妥当な推理だった。そして、とうとうホールに至る。
 ……ホールは寒々としていて、あの賑やかで楽しかったパーティーの気配は、微塵もない。あの楽しかった時間は、……まさか、全て幻……?
 黒猫は、コロンと鈴を鳴らす。見ると、2階への大階段に足を掛け、ついてくるように促していた。
【縁寿】「………2階に行くの…?」
 黒猫は頷く仕草を見せてから、音もなく階段を上っていく。
 ……1階はお客さんが出入りしてもいいところだけど、2階は蔵臼伯父さんたちのお家だから、勝手に階段を上ってはいけないと怒られたことがあるのを思い出す。しかし、今の縁寿には、猫の後を追うしか選択肢は思い付かなかった……。
廊下
 暗い廊下を、黒猫とともに歩く。やがて、1つの扉の前に辿り着く。黒猫は、カリリと扉を引っ掻き、縁寿に振り返る。……開けろ、と促しているに違いない。
【縁寿】「うん……。……開けるね……。」
 縁寿はノブに手を掛けるが、……またしても施錠の手応えを感じる。
 鍵が掛かっているよ。……黒猫にそう言おうとして振り返ると、……黒猫の前には、どこから現れたのか、一本の鍵が置かれていた。
 それを拾いあげ、鍵穴に差し込む。……その時、縁寿はようやく、指先の違和感に気付いた。
 血。縁寿の指先が、いつの間にか、真っ赤な血で赤く染められているのだ。短い悲鳴とともに、抜いた鍵を落としてしまう。
 ようやく気付く。薄暗闇なので気付かなかった。黒猫の鍵は、……血でべっとりと汚れていたのだ……。……縁寿の、麻痺していた感情が蘇る。
 恐怖を吐き出す悲鳴が、薄暗い廊下に響き渡った………。
 それでもやがて、縁寿はその扉を開けるだろう。その扉の中は、……夏妃の部屋だった。
 夏妃の部屋は、ひどく荒れていた。ぐしゃぐしゃのシーツと毛布。化粧品や書物が転がり、まるで台風が通り過ぎたあとのようだった。
 そして、………死体。蔵臼と夏妃の死体が、無残に転がっている……。縁寿はもうじき、この部屋に踏み入るだろう。そして再び、恐怖の悲鳴を叫ぶこととなるのだ……。
 そしてそれは、食堂と夏妃の部屋だけのことではない。
 風雨の薔薇庭園では、………紗音が無残な骸を晒している。
 ……薔薇の小道の途中には、朱志香の死体。それらを見つけた縁寿は、きっと泣き叫びながらゲストハウスへ駆け込むだろう。
 そしてゲストハウスにも、……死が待ち構えている。
 入っていきなりの玄関には、南條の死体が横たわっている。その脇の使用人室には、郷田と熊沢の死体まで。
 ……死体の数は、13体。13もの死が、縁寿を待っている。誰もいない六軒島で、屋敷でゲストハウスで、……風雨に晒され、雷鳴に苛まれながら、縁寿が哀れみに来てくれるのを待っている……。
 縁寿だけがベルンのゲーム盤に迷い込むという、EP8限定の趣向。

ベルンの出題

食堂
 第一の晩の惨劇は、翌朝の午前6時に発覚した。朝食の準備のため、起き出して来た郷田は、親族会議で前夜からずっと食堂に篭っている親族兄弟たちの様子を見に行ったのだ。
【戦人】「死体発見時のことを話してくれ。」
【郷田】食堂は施錠されていました。確かに食堂に鍵は付いていますが、普段、施錠することなどありません。ノックしたのですが返事はなく…。」
【熊沢】そこに私が来たのです。万一のこともあるから、鍵を開けてみたらと勧めたのです。」
【郷田】マスターキーで扉を開けると、中は恐ろしいことに……。」
【熊沢】絵羽さま、秀吉さま、留弗夫さま、霧江さま、楼座さま、そして源次さんの、計6人が血塗れになって倒れていたのでございます……。
【蔵臼】「それで後は大騒ぎだ。全員が食堂に集まった。
【夏妃】「思い出したくもありません…。それぞれの親の亡骸にすがり、泣き叫ぶ子供たち…。」
【朱志香】「ひょっとしたら生きているかもと。……みんな懸命に揺さぶってたぜ。」
【紗音】「しかし、駄目でした…。お子様方はそれぞれ、自分の親が間違いなく死んでいることを確認なさいました…。
【嘉音】僕と南條先生は、源次さまが死んでいることを確認しました。
【南條】「惨たらしい殺され方でした……。私でなくとも、誰も検死は誤りません。
【真里亞】犠牲者はみんな、即死だったろうね。……きひひひひひ。」
【蔵臼】食堂内を調べた結果、扉も窓も、全て施錠され、密室であったことがわかった。
【戦人】「そして、食堂内から、不審なものは何も見つからなかった。
【譲治】「もちろん、食堂内に何者かが隠れているということもなかったよ。
【蔵臼】「隠れるも何も。私たちは今ここに全員がいるではないかね。誰も隠れていないことは明白だ。
【朱志香】「でも父さん、となると、おかしいよ…。殺された6人、食堂は密室! どうやって殺して逃げたんだ?!」
【夏妃】「……考えたくはありませんが、マスターキーを持つ、使用人が怪しいでしょう。」
【蔵臼】「6人を殺し、マスターキーで施錠して食堂を出た。……妥当な推理だ。」
【郷田】「ひ、ひぃ! と、とんでもありませんっ。」
 食堂内に犯人が隠れている可能性がない以上、犯人は殺害後に食堂を出て、施錠したと考えるのが妥当だ。マスターキーを持つ使用人たちが疑われるのは当然のこと。
 そして気の毒なことに、使用人たちの誰にもアリバイは存在しなかった。もっとも、使用人に限らず、誰にもアリバイは存在しなかったのだが。
魔女の喫煙室
【戦人】「マスターキー以外の方法で、外から施錠する手段は?」
【ベルン】「存在しないわ。………うぅん、これじゃ駄目ね。赤き真実で語るわ。」
 全ての扉の施錠、開錠は、マスターキーでしか行なえない。 もちろん、部屋の内側からはマスターキーがなくとも、施錠、開錠が可能。
【ラムダ】「だそうよ。他に質問は?」
【ベアト】「マスターキーの他にも、各部屋固有の鍵があるはずでは?」
【ベルン】「……本来なら存在するわね。でも、ゲームが複雑になるので排除させてもらったわ。赤き真実。マスターキー以外の鍵は存在しないこととする。
【戦人】「つまり。このゲームに登場する全ての施錠は、マスターキーでしか開け閉めが出来ないってわけか。」
【ラムダ】「そうなるわね。実にシンプルなゲームだわ。」
【ベアト】「となれば、次はマスターキーの本数と所持者を確定せねばな。」
【ベルン】マスターキーは合計5本。5人の使用人が1本ずつを持ってる。特別な方法で管理されていて、マスターキーは常に身に付けられており、奪うことも譲渡することも、自分以外の人間が使用することも出来ない。
【戦人】「何だそりゃ。それはもはや、鍵ってより、指紋認証システムみたいなもんだな。」
【ベアト】「面白い例えよ。……つまり、このゲームの世界では、マスターキー云々ではなく、使用人5人にしか、開閉は出来ぬというわけだ。」
食堂
【蔵臼】「源次さんのマスターキーを回収しようとしたんだが、どうにもならなくてね。」
【夏妃】「後のトラブルを予防するため、源次のマスターキーを破壊しておきました。
 これが、第一の晩の事件。犯行現場は、施錠された密室の食堂。マスターキーを持つ使用人たちは全員、アリバイがない。しかし、使用人以外の誰にも、アリバイはない……。
客間
 一同は客間に戻り、今後をどうするか議論した。電話は不通で警察に連絡は出来ない。
 謎の犯人は、今もどこかに隠れて、次の犠牲者を狙っているのだろうか。あるいは、この中に犯人がいて、心の中で舌を出しながら、次の獲物を吟味しているのだろうか。全員にアリバイがなく、誰にも犯人の可能性がある…。
 しかし、そんな緊張感も、長くは続かない。お昼頃には皆、腹の探り合いに疲れ果て、小休止のような状態になった。
 蔵臼夫妻は、二人で相談をすると告げ、2階へ上がる。それを皮切りに、一同もトイレに行ったり、止まない雨を眺めに行ったりと、皆、それぞれに散っていった。
 しかし、いつまで経っても、蔵臼夫妻だけが戻ってこない。内線電話を蔵臼と夏妃の部屋にそれぞれ掛けるが、返事はない。何かあったのかもしれない。
 一同は全員で蔵臼と夏妃の部屋に向かい、……夏妃の部屋で、蔵臼と夏妃が倒れているのを発見する。
夏妃の部屋
【郷田】奥様の部屋は施錠されておりました! 食堂の時と同じです!」
【紗音】「皆さんの許可を得て、私が鍵を開けました…。
【嘉音】部屋の中には、蔵臼さまと夏妃さまが倒れていました。
【戦人】南條先生がすぐに脈を取ったぜ。そして、二人とも即死だったと宣言した。
【南條】「はい。私が二人の死亡を確認しました。あれは間違いなく即死でした。
【朱志香】「私は何かの手掛りがないか部屋中を探し回ったよ…! その結果、窓も扉も完全に施錠されていて、密室だったことがわかった。
【熊沢】「またしても密室! またしてもマスターキーを持つ私たちが疑われることに…!」
【郷田】「し、しかしご安心を…! 奥様に疑われていた私たちは、互いを見張り合っていたのです!」
【紗音】私たち使用人全員は、常に一緒におりました。
【嘉音】僕たち使用人全員は、それぞれが使用人全員のアリバイを証明できます。
魔女の喫煙室
【戦人】「こりゃ面白ぇ。今度はさらに完璧な密室だって言いたいのか。」
【ベルン】「………最初の密室には全員にアリバイがなかった。そして今度の密室には、全員にアリバイがあることになっている。」
【ベアト】「この世界では、使用人たちそのものが、生きたマスターキーとなっている。その使用人たちのアリバイが完璧である以上、夏妃の部屋の施錠は不可能だぞ…。」
2階廊下
【譲治】「僕たちは現場を保全することにした。」
【真里亞】外からガムテープでベタベタと、窓や扉を封印したよ!
【朱志香】「きっとこの部屋に、犯人の何かの手掛りが残ってるはず! 警察が来るまで絶対、誰の出入りも出来ないようにした!
【戦人】「となりゃ、食堂も同じだ。俺たちはさらに食堂も同様に封印した。
【南條】「そもそも、屋敷自体を保全するべきではということになりましてな。屋敷自体にも封印をし、私たちは全員、ゲストハウスへ避難しました。
魔女の喫煙室
【戦人】「屋敷全体に封印? 窓全部をベタベタとか? 梯子を掛けて3階の窓までか?」
【ベルン】「……ゲームが複雑になるので単純化するわ。全ての窓には鉄格子が入っており、窓からの出入りは不可能である。よって、玄関と裏口の2つの扉を封印するだけで屋敷は封印できることにする。
【戦人】「なるほどな、そりゃ簡単だ。」
【ベアト】「どう考える?」
【戦人】「夏妃伯母さんの部屋にいた二人を殺すこと自体は容易い。ノックをして開けてもらえばいいだけの話だ。しかし、その後に施錠が出来ない。」
【ベアト】「施錠は使用人にしか出来ないが、使用人全員にはアリバイがあるぞ。」
【戦人】「使用人全員がグルって可能性さえなけりゃぁな。俺はそれより、第一の晩をまだ疑ってるぜ。」
【ベアト】「食堂で死んでいた6人の誰かが生きていて犯行を、ということか?」
【戦人】「ヱリカの影響でな。どうにも検死ってヤツを疑わずにはいられねぇ。」
【ベアト】「つまり、最初の食堂の6人の犠牲者の誰かが生きていたと?」
【戦人】「あぁ。そしてその後、蔵臼夫妻を殺した。そして内側から施錠し、室内に隠れていて、機を見て逃げ出したんだ。」
【ベアト】「ふむ、筋の通った推理であるぞ。」
【ベルン】「……赤で語るわ。第一の晩の犯人は確実に6人を殺している。
【ベアト】「ならば、妾も青き真実で追求しようぞ。密室の正体はこうだ。犯人は内側から施錠し、夏妃の部屋内に隠れていたのだ。そして一同が退出した後、機を見て脱出した。
【ベルン】「………いいわ、赤で否定する。一同は退出と同時に部屋を封印した。その退出に犯人は加われない。そして、夏妃の部屋、食堂、屋敷の全ての封印は、決して破られることはない。
【ラムダ】「うっふふふふ。ってことはつまり、ベッドの下に隠れて、あとでこっそり抜け出すというトリックは使えないってことなのね。」
【戦人】「……面白ぇ。なかなかだぜ、ベルンカステル。」
【ベルン】「どうも。」
 これが、第二の晩の事件。犯行現場は、施錠された密室の夏妃の部屋。今度は、マスターキーを持つ使用人たちは全員、アリバイがある。屋敷内に危険を察した一同は、ゲストハウスへ避難する……。
ゲストハウス・外
 ゲストハウスへ避難した一同は、ここに篭城することで台風が過ぎ去るのを待とうとする。そこで全員が、互いが互いを監視しあっていれば、内部犯行も外部犯行も防げるだろう。
 しかし、台風が過ぎ去るまでを、ずっと間断なくそうしていることは出来ない。再び、彼らの行動には隙が生じ、新しい惨劇を迎えることになる。
薔薇庭園
【戦人】「用事で表へ出た紗音ちゃんと嘉音くんが、いつまでも戻らないんだ…!」
【朱志香】「譲治兄さんが騒ぎ出し、全員で外に出て紗音たちを探すことになったんだ。
【熊沢】「紗音さんは薔薇庭園に倒れておりました。おぉ、おいたわしや……。」
【譲治】「生きててくれと願ったさ。でも、僕は彼女が死んでいることを認めなければならなかった…。
【南條】「無論、私も検死し、彼女の死亡を確認しました。
【郷田】「二人が出掛けた時、私たちはゲストハウスの戸締りを確認するために色々とやっていました。だから、私たちにはみんな、アリバイがないのです…!
【譲治】「僕が殺すものか! 僕に殺せるものか!!」
【真里亞】「うん。譲治お兄ちゃんには殺せないね、うー。」
【朱志香】「その後、譲治兄さんにだけはアリバイがあることがわかったんだ。紗音殺しに限っては、譲治兄さんには不可能なんだ。
【戦人】「逆を返せば。……譲治の兄貴以外なら誰にでも殺せたわけだ。
【郷田】「犯人に悪用されるのを防ぐため、紗音さんの持ってたマスターキーは、その場で破壊しました。
魔女の喫煙室
【ベルン】「……紗音が殺されると同時に、嘉音は永遠に行方不明となるわ。………以後、嘉音は殺されたものとして扱う。嘉音のマスターキーも破壊されたものとして扱うわ。
【ラムダ】「まぁ、無粋だから割愛するけど、紗音が死んだんだから、そういうことになるわよねぇ。」
【ベアト】「つまり。死体はなくとも、紗音と嘉音は同時に殺された、という解釈で良いのか?」
【ベルン】「そうなるわ。」
【戦人】「……ふむ。順調に事件が進んでいくな。」
薔薇庭園
 これが、第四の晩の事件。犯行現場は、薔薇庭園。
 鍵も扉も存在しない。密室ではないのだ。よって、もはやマスターキーは何の関係もない。そして、事件は加速していく……。
ゲストハウス・使用人室
 ゲストハウスへ篭城する一同。窓も扉も全てを厳重に閉ざし、自らを密室に閉ざす。
 しかし、すでにいくつもの密室殺人が起きている。自らを密室へ閉ざす行為は、新しい惨劇を自ら招く行為に他ならないのか。
 いとこ部屋で犯人探しの議論を過熱させていた彼らは、南條や熊沢たちの証言を再確認するべく、使用人室に彼らを訪ねた。
 そして、……そこで再び惨劇が起こっていることを知る。
【南條】郷田さんも熊沢さんも、この傷では即死だったでしょう。惨たらしい死に方です…。」
【朱志香】「この傷で生きてるわけあるもんか…! 死んでるよ、郷田さんも熊沢さんも!
【戦人】「戸締り確認とか見回りとか、色々やってたからな。今回もまた、俺たちには全員、アリバイがない。
【譲治】「そんなことはないよ。見てごらん。……あんな殺し方をしたら、絶対に犯人は返り血を浴びるはずなんだ。」
【真里亞】「でも、いとこ全員も、そして南條先生も返り血は浴びてないね。」
【朱志香】「私たち全員は、……つまり、いとこ4人と南條先生には、郷田さんと熊沢さんは殺せない。
【戦人】「となれば、犯人は俺たち以外の誰かであることは明白だ。」
【譲治】「何者かの侵入を疑って調べたけれど、ゲストハウスの戸締りは完璧だったよ。
【南條】「犯人はやはり、マスターキーを持っているのかもしれません…。」
【戦人】「それはありえねぇぜ。マスターキーはもう、ここで死んでる2人の2本以外、存在しない。
【朱志香】「現存する2本のマスターキーが、こうしてゲストハウス内に残っている以上、……ゲストハウスは完璧な密室なんだ…!」
【真里亞】「完璧でないから、人が死んだんだけどね。きっひひひひひひひひ……。」
 これが、第五、第六の晩の事件。犯行現場は、ゲストハウスという名の密室。郷田と熊沢のマスターキーも破壊され、これで全てのマスターキーが失われた。
 もう誰にも、ゲストハウスの密室を破ることは出来ない。そのはずだった……。
ゲストハウス・廊下
 そして、今度は南條先生が殺された。殺されたのはゲストハウス内の玄関。戸締りの確認に、一人でここに訪れたのは、あまりに無用心が過ぎた。
【朱志香】し、死んでる…。殺されてる……!
【譲治】「僕でさえ、これは即死だったに違いないと一目でわかるよ…。」
【真里亞】戸締りは完璧だよ。密室なのにどうして?」
【戦人】「じゃあ、俺たちの中に犯人がいるってことになるぞ…!」
【朱志香】「それはありえない! 状況から判断して、私にも真里亞にも、戦人にも譲治兄さんにも、南條先生は殺せない!
【譲治】「そもそも、ゲストハウス内で南條先生を殺すことは不可能なんだ!」
【戦人】「しかも、これを見ろよ。つまりこいつは、南條先生がゲストハウスを出ていない証拠だ…!
【真里亞】「じゃあ南條先生は殺せないってことになるね?なのに、なんで殺されてるの?」
 誰にも、その無垢な問い掛けに答えることは出来ない。
 これが、第七の晩。犯行現場は、またしてもゲストハウスという密室。
 数々の状況から、またしても不可能犯罪の様相を深める。そして、惨劇は最後の第八の晩を迎える。
薔薇庭園
 もう、篭城が自分たちの身を守ってくれないことは明白だった。恐怖を忘れるための麻酔として、朱志香は怒りを選んだのかもしれない。
 彼女は、屋外に潜むに違いない殺人犯を求め、激高しながらゲストハウスを飛び出していく。慌てて朱志香を追う、譲治、戦人、真里亞の3人。
 そして3人は屋外にて、倒れている朱志香を見つける。それは誰が見ても一目でわかる、無残な死体だった……。
【譲治】「朱志香ちゃん、……可哀想に。即死だったろう。
【真里亞】これで生きているわけがないもんね。きひひひひ。」
【戦人】「俺たちは3人でずっと一緒だった! 俺も譲治の兄貴も真里亞も、朱志香は殺せねぇぞ!
【真里亞】「うん。私たち3人に朱志香は殺せない。
【譲治】「真里亞ちゃんが人なんか殺すもんか。真里亞ちゃんには誰も殺せないよ。
【真里亞】「きひひ、ありがとう。譲治お兄ちゃんだって、大人は殺せないよ。子供は殺せるけれど。きひひひひひひ。」
【戦人】「あぁ、何が何だかさっぱりわからねぇぜ…!! 一体、何がどうなってやがるんだ…!!」
 これが、第八の晩。犯行現場は、屋外。しかし、朱志香の後を追った3人にはアリバイがある。譲治、戦人、真里亞には、朱志香は殺せない。
 やはり、この島には、右代宮家以外の何者かが潜んでいるのだろうか……。物語の幕は、ここで一度下りる……。
魔女の喫煙室
【ベルン】「……これで、私の物語はおしまいよ。」
【ラムダ】「なかなかよく出来てるじゃない。ちゃんと朗読したなら、ベアトのゲームに混じってても不思議じゃない物語だったわ。」
【戦人】「それは認めるぜ。よく出来てた。」
【ベアト】「まぁ、ここから朗読して観劇に耐えるものにするのが骨なのであるが。」
【戦人】「しかし、何が何だかさっぱりだぜ。まともに考えたら、犯人は右代宮家以外の、謎の人物ってことになっちまう。」
【ベアト】「それは魔女を認めるも同じだ。……他にも、犯人に協力する共犯者の存在などが疑えるだろうな。」
【戦人】「そもそも、あの紫の文字は何なんだ。新しいルールか?」
【ベルン】「……“紫の発言”と呼ぶわ。話をわかりやすくするために作ったルールよ。……紫の発言は、重要な発言であると認識してくれれば結構よ。……逆を返せば、紫でない発言は無視することも可能かもしれない。」
【戦人】「ほう……。そりゃ親切な話だな。」
【ベアト】「では、紫の発言は、赤き真実に準ずるのか。」
【ベルン】「えぇ。紫の発言は、赤き真実と同じ力があると考えて良いわ。………ただし、一つだけ例外がある。それは、犯人は紫の発言でウソをつくことが出来るということよ。」
【戦人】「……なるほど。逆を返せば、犯人以外はウソをつけないってわけか。」
【ベアト】「紫の発言。……これがどうやら、ベルンカステル卿のゲームの鍵であるわけだな。」
【ベルン】「えぇ、そうよ。………私のゲームの、ルールの前提を説明するわ。」
●犯人の定義とは、殺人者のことである。●犯人はウソをつく可能性がある。●犯人は殺人以前にもウソをつく可能性がある。●犯人でない人物は、真実のみを語る。●犯人でない人物は、犯人に協力しない。●犯人は全ての殺人を、自らの手で直接行なう。●犯人が死ぬことはない。●犯人は登場人物の中にいる。●紫の発言は、赤き真実と同じ価値がある。ただし、犯人のみ、紫の発言でウソがつける。
【ベルン】「以上よ。」
【戦人】「“犯人の定義は殺人者である”、か。もっともな話だぜ。」
【ベアト】「“犯人はウソをつく可能性がある”。これももっともな話であるぞ。」
【戦人】「“犯人は殺人以前にもウソをつける”。そりゃそうだろうな。」
【ベアト】「“犯人でない人物は、真実のみを語る”。ありがたい話であるな!」
【ラムダ】「“犯人でない人物は、犯人に協力しない”、ですって。」
【ベアト】「これはつまり、口裏を合わせる共犯者がいないということか。」
【戦人】「やられたな。犯人を庇って、アリバイを捏造しているヤツがいると疑ってたんだが…。」
【ベルン】「……お生憎ね。」
【ベアト】「“犯人は全ての殺人を、自らの手で直接行なう”。……つまり、トラップなどの遠距離殺人、間接殺人はないというわけだ。」
【戦人】「“犯人が死ぬことはない”。つまり、殺害後、密室を構築して自殺ってことはないってわけか。」
【ラムダ】「それはつまり、死者は犯人ではないってことにもなるわね?」
【ベアト】「……ふむ。それは地味に重要な情報であるぞ。」
【戦人】「“犯人は登場人物の中にいる”。……未知の人物が島に紛れ込んで、ってのはなしってわけだ。」
【ベルン】「登場人物は、金蔵を除いた、いつものお約束の17人よ。それ以外は登場しないし、関係もない。」
【ベアト】「“紫の発言は、赤き真実と同じ価値がある。ただし、犯人のみ、紫の発言でウソがつける”。……これが厄介であるな。」
【戦人】「ゲームの肝ってところだろうぜ。それでゲームの前提とやらは終わりか?」
【ベルン】「………最後に付け加えるとしたら、“朗読者はウソをつかない”、というくらいかしら。つまり、セリフでないト書き部分に、ウソは存在しないということよ。……やっても良かったけれど、ゲームが複雑になって面倒臭いし。」
【ベアト】「魔女の特権を自ら手放すとは。大した余裕であるな。」
【戦人】「それでも勝てるつもりなんだろうぜ。」
【ベルン】「私からは以上で全てよ。……これ以上は、何の質問もヒントも出すつもりはないわ。」
【ラムダ】「立会い人として、最後に改めて宣言するわ。以上の情報で、犯人が特定できることを保証する。
【戦人】「よし。………了解した。」
【ベアト】「腕が鳴るぞ。そなたと共にまた、同じミステリーに挑めるとはな…!」
【戦人】「あぁ。楽しませてもらおうぜ…!」
 ……これは、私とあなたの、本当のゲーム。紙と筆記用具を用意することをお奨めするわ。私と、本当に戦う気があるのならね。
 もしどうしても行き詰まるなら、戦人とベアトの推理に耳を傾けるのもいいかもね。それが、あなたがどうしても困った時の、“ヒント”。
 でも、私はあなたと一騎打ちが楽しみたいの。あなたも、私との一騎打ちを楽しんでくれるなら。ヒントなんて頼らずに、あなたの力だけで私に打ち勝ってみて。
 さぁ、……楽しみましょう? あなたのためだけに、生み出した私のゲームを……。

ベルンの挑戦

信用できる紫発言を探せ
【ベアト】「紫の発言とやらが厄介であるな…。」
【戦人】「赤き真実並に重要な発言だってことはわかってるんだ。だが、犯人のウソが混じってる。」
【ラムダ】「針が混じってるかもしれないパンを、そのまま丸呑みにして食べる馬鹿はいないわ。」
【ベアト】「うむ。全ての紫を鵜呑みにしていると、まったく真相が見えてこない。」
【戦人】「針の混じったパンか、いい例えだな。せっかくの貴重な情報も、一粒のウソのせいで台無しってわけだ。」
【ベアト】「この大量の紫の中の、どれが一体ウソなのか。……考えるだけで頭が痛くなるというものよ。」
【戦人】「なら、ここでチェス盤を引っ繰り返してみようじゃねぇか。」
【ベアト】「ほう? というと?」
【戦人】「簡単な話さ。どれがウソか、じゃない。どれは確実に真実かってことに注目するんだ。」
【ベアト】「確実に真実とわかる紫など存在するのか。」
【戦人】「それを探すんだ。絶対に犯人じゃないと確定できるヤツを探す。それを見つけることが出来れば、そいつの紫の発言は、全て赤き真実と同じってことになるんだ。」
【ベアト】「なるほど。犯人を捜すのではなく、まずは絶対に犯人でない人物を探すというわけか! ふむ、基本であるな!」
【戦人】「そういうことさ。必ずいるはずだ。丹念に探してみよう。」
【ラムダ】「まずは第一歩というところね?」
【ベルン】「………お手並み拝見と行くわ。」
絶対に犯人でないのは誰?
【ベアト】「絶対に犯人でない人物とはどういうことだろう?」
【戦人】「ルールに、犯人は死なないってのがある。つまり、酷ぇ話だが、死んだヤツは信用できるってことになる。」
【ベアト】「ほう、それはわかりやすい! ほとんどの人物は殺された。それらの人物の紫は全て信用できるというわけか!」
【戦人】「ところが、そう簡単な話じゃない。俺とお前のゲームでも度々問題になった、死んだフリ問題ってのがあるんだ。」
【ベアト】「どの犠牲者も、皆、検死をしているではないか。南條も紫で、誰も検死を誤らないと断言している。」
【戦人】「南條先生が犯人だったら、それもアテにはならねぇぜ。一見、どの犠牲者も検死されているように見えるが、どの死亡確認も紫発言だ。100%じゃない。」
【ベアト】「……では、誰の死ならば信用できるというのか。」
【戦人】「とにかく、犠牲者全員の検死を、もう一度見直すんだ。紫発言なんてあやふやなものじゃなくて、絶対確実に死んだ人間を探すんだ。」
ト書きは真実を語る
【ベアト】「そうか、わかったぞ! 戦人、ト書きだ! セリフ以外のト書き部分にウソはないことになっていたぞ!」
【戦人】「おう、俺も今、気付いたとこだ。ベルンカステルは赤き真実で、ト書き部分にはウソがないことを宣言している。」
【ラムダ】「あら、気付かれちゃったみたいよ…?」
【ベルン】「……気付かなくちゃ始まらないわよ。」
【ベアト】「ト書きで、死亡を宣告されているヤツはおらぬか?! そいつは、本当に死んでいると断言できることになる!」
【戦人】「そしてそいつは、自動的に犯人でないということになる。」
【ベアト】「のみならず、そやつの紫は信頼できるということになる!」
【戦人】「ト書きで死亡を語られている人物を探してみよう。“横たわっていた”、みたいな、生きてるようにも死んでるようにも見える曖昧な表現でないヤツをだ。」
【ベアト】「うむッ、頭からもう一度探すぞ!」
南條と朱志香はシロ!
【ベアト】「戦人、見よ! 第七の晩の南條については、ト書きではっきりと、殺されたと記されているぞ…!」
【戦人】「俺も見つけたぜ! 第八の晩の朱志香について、ト書きではっきりと、無残な死体だったと記している。」
【ベアト】「ということは、つまり……。」
【戦人】「南條先生と朱志香。この二人は確実に死んでいるということ。そしてそれは、」
【ベアト】「南條と朱志香が、犯人ではないことを示しているというわけだ…! そしてそれは、」
【戦人】「この二人の紫発言は、赤き真実も同然、というわけだ!」
【ベアト】「うむ!! そういうことだ!」
 二人はパンと手を打ち合わせる。ようやく、最初の大きな手掛りが見つかった。針の混じったパンの、安全な一切れ。信頼できる紫の発言の一部を見つける。
【ベアト】「南條と朱志香の紫発言を書き出してみよう! これは赤き真実も同然だ。ようやく見えてきたぞ…!」
【戦人】「南條先生が犯人でないことが確定なら、第一の晩の彼の紫発言である、“私でなくとも、誰も検死を誤らない”が大きな意味を持ってくる。」
【ベアト】「つまり、誰であっても検死は誤らないということ…!」
【戦人】「犯人でないことが確定したこの二人、南條先生と朱志香によって行なわれた検死は、絶対に信用できるってことだ。」
【ベアト】「つまり、南條と朱志香が死亡を確認した人物もまた、犯人ではないことが確実になるというわけだ…!」
【ラムダ】「………あちゃー。順調ねぇ?」
【ベルン】「……不思議なものね。順調だと悔しいけれど、……行き詰られても、それはそれで退屈だわ。」
【戦人】「よし、この二人の検死をチェックして、犯人ではありえない人物を探してみよう!」
【ベアト】「うむ!!」
確実な死者をどんどん探せ
【ベアト】「戦人ッ、南條と朱志香の紫発言のチェックを終えたぞ…!」
【戦人】「この二人が死亡を確認した人物は、間違いなく死んでいる。そして、それは間違いなく犯人でないことを示す。」
【ベアト】「そうなれば、信頼できる紫発言がさらに増えるということだな!」
【戦人】「まず南條先生だ。第二の晩の犠牲者の、蔵臼伯父さん、夏妃伯母さんの死亡を確認している。」
【ベアト】「さらに第四の晩に、紗音の死亡も確認しているな。」
【戦人】「第五、第六の晩の、郷田さんと熊沢さんの死亡も確認している。」
【ベアト】「一気にシロが増えたぞ! 南條、朱志香に加え、蔵臼、夏妃、紗音、郷田、熊沢は犯人ではないということだ…!」
【戦人】「それだけじゃない。第四の晩にベルンカステルの赤き真実で、嘉音くんの死亡も宣言されてる。犯人は死なないんだから、嘉音くんも犯人じゃない!」
【ベアト】「南條、朱志香、蔵臼、夏妃、紗音、嘉音、郷田、熊沢。この8人は犯人ではない!」
【ラムダ】「あらら……。いきなり、容疑者が8人も減らされちゃったわよ?」
【ベルン】「……ここまでは順当でしょ。ここからよ。」
【ベアト】「これで信用できる紫発言がどっと増えたぞ。ここからが本番だ…!」
【戦人】「あぁ! 新しく犯人でないことがわかった人物の紫発言も確認するぞ…!」
9人の無実
【ベアト】「蔵臼、夏妃、紗音、嘉音、郷田、熊沢。この新しく無実が証明された人物の紫発言を吟味したぞ!」
【戦人】「あぁ。その結果、源次さんが犯人でないことも新たに証明された。」
【ベアト】「嘉音が第一の晩に、紫発言で源次の死を確認したと宣言している。これで源次もシロというわけだ…!」
【戦人】「これで、合計9人の無実が証明されたな。いい感じだぜ。」
【ベアト】「そうそう、紗音と熊沢の紫発言で、第一の晩の6人の死亡も確認しているようだぞ。」
【戦人】「………それは、鵜呑みに出来ねぇな。」
【ベアト】「なぜか? 紗音と熊沢の発言は信用できるのではないか?」
【ラムダ】「そうよねぇ? 紗音と熊沢が犯人でないことが確定したのに、どうしてその発言が信用できないの?」
【戦人】「例えば熊沢さんだが、第一の晩の犠牲者の6人が食堂で、“血塗れになって倒れていた”としか言ってない。つまり、生死は不明ってわけだ。食堂の6人の犠牲者の検死は、絶対とは言えないわけだ。」
【ベアト】「食堂の6人について、紗音は別の言い方もしているぞ。“お子様方はそれぞれ、自分の親がまちがいなく死んでいることを確認”したとな。」
【戦人】「食堂でそれぞれの親を検死したのは、俺と譲治の兄貴、そして真里亞の3人ってことだ。しかし、この3人がシロであることはまだ証明されていない。」
【ラムダ】「あぁ、なるほど、そういうことね。………紗音は、食堂の6人の死亡を、それぞれの親の子供が確認したことは証明したけれど、それぞれの子供が真実の検死をしたかまでは、証明していないわ。」
【戦人】「そういうことだ。子供が嘘をついている可能性が、否定できない以上、まだ食堂の連中全員を疑いから外すわけにはいかない。」
【ベアト】「これは厄介であるな……。その3人は最後まで生き残った生存者。生きているということは即ち、犯人でないと証明不能というわけだ…。」
【戦人】「戦人、譲治、真里亞。……生き残ったこの3人は犯人である可能性が高いと同時に、シロであることの証明がもっとも難しいと言えるだろう。」
【ベアト】「とりあえず。確実な死亡によってシロであると断言できるのは、この9人までのようであるな。」
【戦人】「ここからは、信頼できる9人の紫発言で、純粋に推理していくしかない。」
【ベアト】「南條、朱志香、蔵臼、夏妃、紗音、嘉音、郷田、熊沢、源次。この9人の紫発言を読み直すしかないな…。」
【戦人】「ここからは難度が上がるぞ。覚悟して掛かろうぜ…!」
【ベアト】「うむ。ようやくミステリーらしくなってきたというところよ…!」
マスターキーが使えない?
【戦人】「おい、ベアト。興味深いことがわかったぞ。この一連の事件、マスターキーは一切使えない。」
【ベアト】「そう言えば、シロである9人の中に、使用人5人が含まれるのであったな?」
【戦人】「マスターキーは使用人にしか使えない。渡せもしない。そして犯人でない人物は犯人に協力しないのだから、犯行にマスターキーを用いることは出来ないんだ。」
 使用人5人全員がシロであることが保証されている以上、マスターキーは、事件には絡まないということになる。
【ベアト】「確かに、そうなる…! となるとますますに厄介ではないか? 何度も起こった密室殺人! それらをマスターキー抜きで構築せねばならんことになる…!」
【戦人】「違うな。チェス盤を引っ繰り返すぜ。ってことはつまり、マスターキーがなくても、構築可能なトリックってワケさ。」
【ベアト】「なるほど…! 第一の晩、食堂の密室。第二の晩、夏妃の部屋の密室。第五の晩以降のゲストハウスの密室。じっくり考え直す必要がありそうだな…。」
【戦人】「もう一度、じっくりと読み直してみよう。……使用人は全員シロなんだ。マスターキーは使えない。そこを念頭に、もう一度考えるんだ。」
赤き真実に違和感?
【ベアト】「第一の晩の、食堂の密室についてだが、このような推理はどうだろうか。」
【戦人】「拝聴しよう。」
【ベアト】「第一の晩の犠牲者の検死は、未だ定かではない。つまり、その中の誰かが実は犯人で! 他の5人を殺した後に死んだフリをして、内側から食堂を施錠したのだ…!」
【戦人】「確かに、それならマスターキーを使わずに密室を生み出せるな。とすると1つ疑問が出てくる。」
【ベアト】「疑問とは何か。」
【戦人】「覚えてるか? 第二の晩のやり取りの時、ベルンカステルに赤き真実でこう宣言された。“第一の晩の犯人は確実に6人を殺している”とな。」
【ベアト】「そういえばそうであったな…。………むぅ……。」
【戦人】「この赤き真実がある以上、やはり食堂の6人は死んでいたってことになる。なら、外部の人間がどうやって食堂に施錠を。マスターキーを使わずに……。」
【ベアト】「なぁ、戦人。その赤き真実は食堂の6人の死亡を確実なものにしているのではないか?」
【戦人】「……うむ、……まぁ、……そういうことになるんだろうな…。」
【ベアト】「となれば、食堂の6人もシロということで、すでにシロとわかっている源次を除き、新しく5人がシロと判明したことになるのではないか? つまり、9+5で14人の無実が証明できたというわけだ…! 残るは3人! 戦人、譲治、真里亞の3人の中に犯人がいるに違いないのだ…!」
【戦人】「ちょっと待ってくれ! ……どうもそいつは引っ掛かるんだ。赤き真実で、犯人は6人を殺したと宣言はされてる。でも、それを第一の晩の時に言われたわけじゃない。」
【ベアト】「確か、第二の晩のやり取りの時に、言われたのであったな…?」
【戦人】「もう一度その部分を読み直したい。探してみよう。不自然なタイミングで言われたような、そんな違和感を覚えるんだ…。」
【ベルン】「…………やるじゃない。」
【ラムダ】「この二人、さすがね。勘も実に冴えてるわ。」
確実に6人を殺した?
【ベアト】「第二の晩の密室について考えているのだが、同じ推理しか浮かばぬ…。」
【戦人】「蔵臼伯父さんたちを殺した後、内側より施錠して隠れたって推理か?」
【ベアト】「うむ。……マスターキーが使えぬ以上、施錠は内側より行なう他ない。とれば、犯人は夏妃の部屋のどこかに隠れていたとしか考えられぬ。」
【戦人】「そう。そこがおかしいんだ。ト書きにこうある。“いつまで経っても、蔵臼夫妻だけが戻ってこない”。そして、こう続く。“一同は全員で蔵臼と夏妃の部屋に向かい、”。」
【ベアト】「“蔵臼夫妻だけが戻ってこない”ということはつまり、………それ以外の人間は全員、客間に戻ってきたということか。」
【戦人】「そういうことだ。犯行後、密室に閉じ篭って隠れていたなら、そいつも戻ってこないことになるはず。なのに、犠牲者を除く全員が戻ってきている。」
【ベアト】「生存者の誰にも、犯行は不可能ということになってしまうな……。……やはり、戦人の推理通り、食堂の誰かが生きていて犯行に及んだと考えるべきではないのか…。」
【戦人】「……そういえば。……その推理を口にしたら、俺は赤き真実を食らったんだ。」
 食堂の誰かが生きていて、蔵臼夫妻を殺した、という俺の推理。それに対し、赤き真実で、“第一の晩の犯人は確実に6人を殺してる”と反論されたんだ……。
【ベアト】「まぁ、当然であろうな。蔵臼、夏妃まで殺しているのだから、6人どころか、8人は殺していることになるのだから。」
【戦人】「……………………。……うん……? 何か引っ掛かるぞ……? …………蔵臼、夏妃まで殺しているのだから……。………犯人は確実に、……6人を………。」
犯人は閉じ込められた?
【戦人】「わかった!! やられたぜ。犯人が確実に6人を殺したの意味がわかった…!!」
【ベアト】「意味がわかったとはどういうことか。説明せよ…!」
【戦人】「“第一の晩の犯人は確実に6人を殺している”。もしこいつを、第一の晩の時点で言われていたなら、俺は素直に受け取っていたかもしれない。しかし、第二の晩の時点で言われたことを加味すると、別の意味も見えてくる…!」
【ベアト】「まさか、………第二の晩の殺人までを含めて、“確実に6人を殺している”という意味なのか…?!」
【戦人】「そういうことだ! やはり、食堂の6人の中に犯人が混じって死んだフリをしていたんだ! そしてそいつは食堂を抜け出し、夏妃伯母さんの部屋で2人を殺して、内側から施錠して室内に隠れたんだ…!」
 犯人は食堂では5人しか殺せなかったろう。しかし、第二の晩の犠牲者を足せば、確実に6人は殺していることになると言い切れる…!
【ベアト】「なるほど、それで辻褄は合うぞ…! 第一の晩も第二の晩も、どちらの密室もマスターキーなしで構築できる…!!」
【戦人】「と、……思ったところで、おかしなことも思い出しちまったぜ。……夏妃伯母さんの部屋は、すぐに封印しちまったんだったな…。」
【ベアト】「そういえばそうだったな…。ベルンカステル卿に赤き真実で、“一同は退出と同時に部屋を封印した。その退出に犯人は加われない”と言われている。」
【戦人】「さらにこうも言った。“全ての封印は、決して破られることはない”ともな。」
【ベアト】「つまり、……再び密室に閉じ込められた、ということなのか。」
【戦人】「今の推理で、確かに第一の晩と第二の晩は説明できる。……しかし、その犯人は夏妃伯母さんの部屋に閉じ込められ、二度と出られなくなっちまうんだ。」
【ベアト】「それでは、第四の晩以降の事件を起こせなくなってしまうではないか! ……うぅむ、良い推理だと思ったのだが……、やはり、違うのか……。」
【戦人】「この推理で間違っていないはずなんだが……。……もう一捻り………。」
共犯の存在
【戦人】「いや、いいんだ。犯人が閉じ込められても。……犯人がもう1人いればいい!」
【ベアト】「複数犯人説…! やはりそう来るしかないな。それならば、犯人の片方が閉じ込められても、続く殺人を継続できる…。」
【戦人】「考えてみりゃ、そもそも。俺たちの推理に共犯は必須だったんだ。第一の晩の6人のうち、シロが確定している源次さんを除く5人、絵羽伯母さん、秀吉伯父さん、クソ親父、霧江さん、そして楼座叔母さん。この5人は全員、それぞれシロが確定しない人物によって検死されている。その検死者が共犯でない限り、死んだフリなんか出来ないんだ。」
【ベアト】「確かに…! 犯人でない者は犯人に協力しないことになっているからな…!」
【戦人】「犯人は、殺人以前にもウソをつくことが出来る。……つまりこういうことだ。」
【ベアト】「第一の晩の殺人を行なった犯人は、第二の晩までを実行し、夏妃の部屋に閉じ込められる。」
【戦人】「そして、その犯人の検死を偽ったもう1人の犯人が、第四の晩以降の殺人を引き継ぐんだ…!」
【ベアト】「なるほど、それならば筋が通るぞ…!! そしてそれは誰だと言うのか?!」
【戦人】「残念ながら、現時点では誰が犯人でもありえる。しかし、単独犯はありえないと断言できる。そして、閉じ込められたのは、食堂犠牲者5人の誰か。そして、殺人を引き継いだのは、その5人を検死した人間ということになる…!」
【ベアト】「食堂の5人を検死した人間とな…? それはつまり……。」
【戦人】「戦人、譲治、真里亞。この3人の誰かが確実に、以後の殺人を引き継いでいる!」
【ベアト】「よし……。その3人に注目して、以後の事件を追ってみようではないか…!」
紗音は譲治以外の誰にでも殺せる
【戦人】「続く事件は第四の晩だ。殺されたのは紗音ちゃん。全員にアリバイがないが、1人だけ例外がいる。」
【ベアト】「譲治であるな。シロが確定している朱志香が紫発言にて、譲治には紗音殺しは不可能であると断言している。となれば、殺したのは戦人か真里亞のどちらかということか?」
【戦人】「そう思いたいところだが早計だ。戦人と真里亞、そして譲治以外の人物にだって、アリバイはない。俺は単独犯説を否定したが、犯人が二人であることを断言したつもりもない。現時点では、それを断言するにはまだ早過ぎるからな。」
【ベアト】「なるほどな。第一の晩と第二の晩の犯人と、その死んだフリを虚偽の検死で助けたもう1人の犯人と。……さらに、それとは無関係の犯人が存在する可能性があるというわけか。……なるほど、これは盲点であった…。」
【戦人】「紗音ちゃんの事件は、譲治の兄貴ただ一人の例外を除いて、誰にでも犯行可能だ。そして、その事実だけを以って、譲治の兄貴がシロであることを証明するわけでもない。」
【ベアト】「……密室殺人ではないから気楽だなどと思っていたが。むしろ、おかしな条件がない分、犯人の絞り込みに使える情報もない、というわけであるな…。」
【戦人】「ここからは事件のペースが早い。これだけに固執せず、次の第五の晩の事件も見てみようぜ。」
死んだフリをした犯人がいる。そしてもう1人犯人がいる。
【ベアト】「第五、第六の晩であるが、厄介であるぞ…! 信頼できる朱志香の紫発言がこう言っている! “いとこ4人と南條には、郷田と熊沢は殺せない”とな…!」
【戦人】「いとこ4人と南條先生。これはつまり、この時点での生存者全員を指す。普通に考えたら不可能犯罪だ。」
【ベアト】「しかし、そこでチェス盤を引っ繰り返すわけであるな?」
【戦人】「あぁ。ってことはあるシンプルな答えが現れる。いとこ4人と南條先生以外の何者かが犯人だってことを、この事件は証明しているってわけだ。」
【ベアト】「生存者以外は、全員が死亡していることになっている。にもかかわらず、生存者には犯行不能ということは……。」
【戦人】「死んだフリをした犯人が、100%存在することの証明ってわけだ。」
【ベアト】「そして、死んだフリをした犯人の存在は、犯人が複数であることも100%証明する。検死を偽りウソをつくこともまた、犯人にしか出来ないからな…!」
【戦人】「この一見、完全な不可能犯罪に見える第五、第六の晩は、ただそれだけで雄弁にこれだけのことを語っちまうわけだ。」
【ベアト】「不可能犯罪は、相手を屈服させる力も持つが、逆に一気に推理を切り込まれる危険性も持つ諸刃の刃よ。……昔のそなたなら、きっと屈服していただろうに。本当に逞しくなったものよ。」
【戦人】「へへ。お前にはだいぶ鍛えられたからな。」
 戦人たちはニヤリと笑い合う。数々の知的ゲームにて死線を潜った。これくらの謎で、へこたれるわけにはいかない。
【戦人】「さらに続けて、第七、第八の晩の事件も見てみよう。もう、かなり核心に踏み込んでるはずだ。」
【ベアト】「そうだな、気を引き締めて行こう!」
さらにもう1人犯人がいる?
【戦人】「第七の晩も、状況はまったく同じだ。信頼できる朱志香の紫発言が、いとこ4人、即ち、生存者の誰にも殺せないと断言している。」
【ベアト】「しかし、……少しわからぬのだ。第一の晩、第二の晩の犯人は、第一の晩の犠牲者5人の中の誰かだ。そやつは夏妃の部屋に閉じ込められたが、検死を偽った、そやつの子供もまた犯人であることがわかっている。……しかし、犯人である可能性のある子供は、戦人、譲治、真里亞の3人のみだ。」
【戦人】「そうだな。その3人は、第五、第六、第七の3つの事件において、殺人不能であると断言されている。」
【ベアト】「つまりこれは、………さらにもう1人犯人がいることを指し示すのではないか。」
【戦人】「面白い。しかも妥当な推理だな。そして、その3人目の犯人もまた、死んだフリをした何者かってことになるな。……これはひょっとすると、犯人が4人、5人ということもありえるかもしれねぇぜ。」
【ベアト】「くっくっく、それはどうだかわからぬが。とにかく、いずれにせよ、犯人が2人だけでは、郷田、熊沢、南條を殺すことは出来ぬのだ。それだけは間違いない…!」
【戦人】「こりゃ、ややこしいことになって来たぜ。3人組が犯人なのか。それとも2人組と単独犯なのか。……いやいや、3人以上犯人がいる可能性だって否定しちゃいけねぇな?」
【ベアト】「17人の登場人物の内、シロは9人。残る8人の内、戦人、譲治、真里亞の3人は生存しているから除く。シロが確定せず、死んだことになっているのは、5人。絵羽、秀吉、留弗夫、霧江、楼座。全て、第一の晩の犠牲者だ。」
【戦人】「この、食堂の犠牲者5人の中の、何人が死んだフリをしていたかって問題なわけか。……いよいよだな。面白くなってきたぜ…!」
譲治と真里亞はニワトリとタマゴ
【戦人】「最後の、第八の晩についても、状況はまったく変わらないな。」
【ベアト】「うむ。ト書きにて、譲治、戦人、真里亞には、朱志香は殺せないと断言されている。朱志香は、生存者の3人には殺せないのだ。」
【戦人】「ここの紫発言は、結構、ヒントになりそうなことを色々と喋ってるんだよな。」
【ベアト】「譲治と真里亞の紫発言が興味深いな。信頼できるなら、強力な手掛りになりそうなのだが……。」
【戦人】「譲治の兄貴がシロなら、“真里亞には誰も殺せない”って紫発言が有効になって、真里亞のシロも確定できる。同様に真里亞がシロなら、“譲治に大人は殺せない”が有効になって、結果的に譲治の兄貴のシロも確定できる。」
【ベアト】「ではあるが、どちらもシロであると確定できぬ…。」
【戦人】「譲治の兄貴と真里亞は、互いに相手が先にシロであることを証明できれば、自分もシロになるという、まるでニワトリとタマゴのようなジレンマに陥ってる。ヒントになりそうでならない。何とももどかしい話だ。」
【ベアト】「その二人の潔白は、容易には証明できないだろう。それにもはや、容疑者は少数に絞り込まれている。ここからは、もしも誰々が犯人だったならと、個別に検証していくしかないだろうな。」
【戦人】「そうだな。いよいよ最後の詰めに入ってきたようだぜ!」
【ラムダ】「いよいよ、推理も大詰めへ、って感じ……?」
【ベルン】「…………まな板の上の何とやらの心境よ。」
真里亞犯人説検証
【戦人】「まず、真里亞犯人説から検証してみよう。真里亞が犯人なら、楼座を死んだフリに出来る。楼座には第一、第二の晩の殺人が実行可能。そして、夏妃伯母さんの部屋に閉じ込められ、真里亞が第四の晩以降の殺人を引き継ぐことになる。」
【ベアト】「真里亞には、ゲストハウスでの全ての殺人が不可能だ。よって、真里亞は紗音を殺すのが精一杯ということになるな。」
【戦人】「となると、ゲストハウスでの殺人のために3人目の犯人が必要になる。」
【ベアト】「3人目は、絵羽、秀吉、留弗夫、霧江の中の誰かということになるな。そしてそれは、さらに4人目の犯人を必要としてしまうぞ?」
【戦人】「……そうだな。絵羽伯母さんたち4人の誰かが死んだフリをするためには、それを検死する子供も犯人でなくてはならない。つまり、真里亞が犯人である時点で、犯人は4人にまで膨れ上がるわけだ。」
【ベアト】「4人が犯人であるためには、4人全員がそれぞれ、最低1人は殺していなくてはならない。」
 犯人の定義とは、殺人犯であること。
【戦人】「……だとするとだ。……ちょいとおかしくなってくるんだよな。」
【ベアト】「犯人4人の内訳は、大人2人、子供2人となる。大人1人は第一、第二の晩の殺人を担当。もう1人の大人は、ゲストハウスの殺人を担当する。そう、ここで矛盾が生じるのだ。」
【戦人】「犯人は殺人者であるという定義。……これは即ち、犯人は絶対に、殺人をしなくてはならないという義務も意味する。」
【ベアト】「実は、子供の犯人は、殺人可能な相手がほとんど存在しないのだ。第一、第二の晩は、子供には犯行不能。そしてゲストハウス以降も犯行不能。唯一可能なのは、紗音殺しの第四の晩だけ。」
【戦人】「……子供の犯人は紗音1人しか殺せない。つまり、2人目の子供の犯人は、誰も殺せないから、犯人にはなれないんだ。……子供の犯人は、2人以上存在できないってことになる。」
【ベアト】「真里亞が犯人である時点で、楼座以外にもう1人大人が必要になる。だが、その検死を偽れるもう1人の子供の犯人は、存在できないのだ。……つまり、真里亞が犯人であることはありえない…!」
譲治犯人説検証
【戦人】「次に、譲治犯人説を検証してみよう。子供の犯人は1人しか存在できない。よって、譲治の兄貴が犯人である時点で、絵羽伯母さんと秀吉伯父さん以外に、死んだフリが出来る人物は存在しない。」
【ラムダ】「大人2人に子供1人で、犯人は3人組? なるほど、それならこれまでの全ての事件に、説明がつけられそうね?」
【戦人】「ところがどっこい! 実はこれもありえねぇんだ。」
【ベアト】「うむ。譲治が犯人であることは、明白に否定されている。」
【ラムダ】「くす。……そうなのよねぇ? 子供に殺人可能なのは第四の晩の紗音のみ。」
【ベアト】「紗音殺しについては、信頼できる紫発言で譲治には殺せないと、すでに断言されている…!」
【戦人】「そういうことだ。紗音ちゃんの殺しについてのみ持つ、たった一つのアリバイ。それが譲治の兄貴に、全ての事件において潔白であることを証明しているんだ…!」
【ベアト】「つまり、譲治はシロということだ…! となれば、譲治の紫発言は全て信頼できるものになるということだな…!」
譲治の紫発言
【ベアト】「譲治がシロであることが確定すると、自動的に真里亞もシロということになる。」
【戦人】「あぁ。譲治の兄貴の紫発言“真里亞には誰も殺せない”が有効になるからな。誰も殺せない以上、犯人にはなれない。よって、真里亞のシロも確定する。」
【ベアト】「譲治と真里亞がシロである事実は、自動的にその親の検死も間違いないことを示す。」
【戦人】「そういうことだ。検死は誰も誤らない。そして犯人でない人間はウソをつけない。よって、二人が検死した大人の死亡は確定し、彼らもまたシロとなる。」
【ベアト】「もう、ほとんど絞り込まれたな……。……答えは、もはや明白ではないか…?」
大人2人、子供1人。
【戦人】「まず、犯人は複数犯である。これは確定してる。単独犯では不可能な事件なんだ。」
【ベアト】「まず大人の犯人が1人。第一の晩を実行し、犠牲者のフリをしてやり過ごした。」
【戦人】「マスターキーを持つ使用人全員がシロであることが確定しているため、犯人に、食堂の扉を外から施錠する方法は存在しない。よって、施錠者は室内にいると断言できるからだ。」
【ベアト】「そして、死んだフリをするためには、検死を偽ってくれるもう1人の犯人が必要になる。」
【戦人】「源次さんがシロである以上、残る5人の大人の検死者は各々の子供。つまり、犯人の子供が、2人目の犯人となる。」
【ベアト】「そして、子供の犯人にはゲストハウス以降の事件を実行できない。しかし、大人の犯人は夏妃の部屋に閉じ込められている。その為、2人目の大人の犯人が必要になる。」
【戦人】「大人2人、子供1人。これが犯人グループの構成ってわけだ。」
犯人の3人は家族。
【ベアト】「もはや言うには及ぶまい。犯人グループの、子供の犯人が誰かは、すでに明白であろう。」
【戦人】「だな。子供は、たった1人の例外を除いて全員、シロが確定している。」
【ベアト】「そして、その子供の犯人が誤魔化せる検死は、自分の担当した親2人だけ。つまり、犯人グループは大人2人、子供1人で、全員が家族であるということだ。」
【戦人】「家族で殺人か。仲のいいことだぜ。」
【ベアト】「犯人は誰と誰と誰か。これ以上、もったいぶることもあるまい?」
子供の犯人は戦人
【戦人】「やれやれ。ふざけた答えだぜ。子供の犯人が、俺だとはな。」
【ベアト】「ふっ。妾のゲームでも、戦人犯人説はもっとも多かった推理の一つではないか。」
【戦人】「らしいな。ったく、世の中、俺を疑う推理が多過ぎるぜ…!」
【ベアト】「戦人が犯人ならば、自動的に大人の犯人も確定する。もはや、何も悩むことなどない。これで妾たちの勝ちであるな。」
【戦人】「もう、これ以上の議論もヒントも必要ないな。ズバリ、回答と行こう…!」
【ラムダ】「これは勝負アリかしら?」
【ベルン】「……見事だわ。……やっぱり、この程度のミステリーじゃ、この二人には通用しなかったわね。」

遅れてきた来訪者

ゲストハウス・外
【縁寿】「誰かぁああぁぁ!! 誰かいないの?! お兄ちゃぁぁあぁん!! うわぁああああん!!」
 縁寿は泣き喚きながら、ゲストハウスを飛び出す。
 この島には誰か生き残っていないのか。
 いとこ部屋には誰もいなかった。しかし同時に、まだ戦人と譲治と真里亞の死体を見ていないことも思い出す。それがまだ生きていることを指すのか、これから死体として再会することを指すのか、わからない。
【縁寿】「お兄ちゃんたち、どこ?! どこぉぉおおぉお!! 返事をしてぇええぇえぇえぇ!!」
 雨の中を走り回る。どこへ? がむしゃらに。
 兄の姿を求めて、迷子の妹が駆け回る。びしょ濡れになりながら、ひとり……。
 ………やがて、茂みの向こうに、兄の声を聞いた気がした。いや、兄の声だけじゃない。譲治お兄ちゃんの声も、真里亞お姉ちゃんの声も聞こえた。私は大声で呼び掛けるのだが、彼らは応えてはくれなかった。
 しかしもういい。すぐそこにいる。この垣根の向こうにいる。垣根越しに、彼らの姿がうっすらと見えてさえいるのだ。
 その垣根をぐるりと回りこむと、そこは倉庫か何かの前だった。きっと、薔薇庭園の手入れをするための道具をしまってある倉庫に違いない。
 その倉庫の前に、お兄ちゃんたち3人の姿があった。
【縁寿】「お兄ちゃん…!!」
 そう叫ぶのだが、声が届いていない。こんなにも大声で叫んでいるのに? 私はものすごい違和感を覚える。
 ……人の声は、たとえ聞こえないふりをしたって、何かの反応が体に出てしまう。しかし、お兄ちゃんたちには、一切、それがないのだ。
 これだけ大声で叫んでいるのに、………本当の本当に、お兄ちゃんたちの耳には届いていないのだ。
 それを理解した瞬間、……彼らに駆け寄る私の足は遅くなり、止まってしまう。同じ世界にいるように見えて、………私と彼らは異なる世界にいるのだ。
 例えるならテレビ。いや、亡霊…? 私にはありありと見えているが、……彼らにとって私は、いないのだ。
 ……だから、ほら。私がお兄ちゃんたちの目の前に立っても、……彼らの目に、私は映っていない。
 触ったら、触れられるだろうか。……もしも、透けたら。それが怖くて、……私はこんなにも目の前なのに、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった…。
【戦人】「クソッタレ…!! もう、俺には、何が何だかわからねぇ…! やっぱり、島の外から何者かが入り込んでるんだ!! そしてそいつが、右代宮家を皆殺しにしてるんだ!」
【真里亞】「……どんなに閉じ篭っても、必ず誰かが殺されてしまう。……うー! やっぱりこれは魔女の仕業ー!」
【譲治】「みんな落ち着いて…! 落ち着いて考えよう。……この島には、右代宮家の人間以外は存在しないんだ。」
【戦人】「そんなはずはねぇぜ…! だって、現にこうして、右代宮家の誰にも不可能な殺人が、何度も起こってるじゃねぇか!」
【譲治】「……それはそうだけど……。本当にそうだろうか? 僕たちには見落としがあるんじゃないだろうか?」
【真里亞】「見落としって?」
【譲治】「例えば……。………そうさ、死んだフリとか! この島に右代宮家の人間しかいない以上、犯人だって右代宮家の人間しかいないんだ。だとしたら僕たちが、死んだと思い込んでいる誰かが実は死んでなかったということになる…!」
【戦人】「しかし兄貴ッ、それはありえねぇぜ?! 全員の死体を必ず誰かが検死してる! 死んだフリなんか絶対に出来ねぇはずだ!」
【譲治】「考えたくはない…。でも、その検死さえも、……偽られているとしたら?」
【真里亞】「………うー…?」
【譲治】「つまりこういうことさ。犯人は初めから複数犯だったんだ。そして、1人は殺されたフリをして、1人は間違いなく死んでいると嘘を吐く。そして、死んだフリをした犯人は犯行を重ね、あたかも右代宮家以外の人間が島に紛れ込んでいるかのような、幻想を生み出す…!」
【戦人】「譲治の兄貴は、右代宮家の誰かが犯人だって、……まだ疑ってんのかよ?!」
【譲治】「………南條先生は殺された。……殺された以上、犯人ではないと考えるのが妥当だろう。そして、お医者である南條先生の検死が、一番信頼できたと考えられる。」
 となれば、南條が死亡を確認した人間は、ほぼ確実に死んでいると考えて問題ないだろう。
 南條は誰を検死した? 源次の死体を検死した。蔵臼と夏妃の死体を検死した。紗音の死体を検死した。郷田と熊沢の死体を検死した。
【譲治】「最初の、食堂の死体。あの6人の犠牲者のうち、南條先生は源次さんの死体しか、検死をしていないんだ。」
【真里亞】「……真里亞たちがそれぞれ、確認したはずだよ?」
【譲治】「しかし、南條先生が確認したわけじゃない。」
【戦人】「何を言ってんだよ?! あの惨ぇ殺され方で、どう親父たちが生きてるってんだよ?! それに譲治の兄貴は何を言ってるんだ?! ってことは、俺たちの親の誰かが犯人だって言ってんのかよ?! そりゃあねぇだろ?! 真っ先に殺されて、これだけ大勢が殺されて…! どうやったら、さらにその上、俺たちの親が犯人だなんて言えるんだよ?! 許せねぇ、あんな殺された方をした親父たちを、さらにこの上、疑って辱しめるなんて、たとえ譲治の兄貴でも許せねぇ…!!」
【譲治】「………ご、………ごめん……。」
【真里亞】「……真里亞のママはちゃんと死んでたよ。じゃあ、譲治お兄ちゃんの親か、戦人の親か、どっちかが犯人?」
【譲治】「もう、よそう、真里亞ちゃん……。僕もちょっと混乱してたみたいだ…。」
【真里亞】「譲治お兄ちゃんは、紗音を殺さないよ。」
【戦人】「もう止せよ…! 俺たちの誰も、親族を殺したりするわけなんかねぇだろう!!」
【真里亞】「だから、譲治お兄ちゃんが、お父さんとお母さんが本当は生きてるのに、死んでるなんて、嘘を吐かないと思う。………譲治お兄ちゃんは、紗音が殺されるような事件の片棒を、担ぐわけがない。」
 真里亞は淡々と、……クイズかなぞなぞに答えるかのように、譲治に告げる。そして、きょとんとした顔のまま、戦人の方を向き、告げた。
【真里亞】「………戦人は、お父さんとお母さんの死体を、見たよね?」
【戦人】「あぁ、見たさ!! みんなも見ただろ?! あんな血塗れで、酷ぇ死に様で…!!」
【真里亞】「戦人が、嘘を吐いてると思う。」
【戦人】「はぁ?! どうしてそうなるんだよ!!」
【真里亞】「そうすると、筋が通る。……最初の食堂で、戦人の両親は死んでなかったの。その片方が、夏妃伯母さんたちを殺し、内側から鍵を閉めて、部屋に留まる。……もう片方が、それ以降の殺人を引き継いだ。……ゲストハウスの密室を破るには、内側に協力者がいなくてはならない。それが、戦人。……全部全部、説明がつくよ。」
【戦人】「いッ、いい加減にしろぉおおぉおおぉおおおおぉ!!!」
【譲治】「よ、よさないか戦人くん…! 真里亞ちゃんも…!!」
【真里亞】「やっと頭の中の、狼と羊のパズルが、ぴったりと収まった。………犯人は、戦人一家。うー。……正解?」
【戦人】「な、何を言ってやがんだぁああぁああぁぁぁッ!!!」
「正解よ。」
 その声は縁寿の後ろから聞こえた。驚き、振り返ると。……そこには血塗れの姿の、……だけれども、元気そうに立つ留弗夫と霧江の姿があった。
【譲治】「留弗夫叔父さん、霧江叔母さんっ、………ぶ、無事で……。」
 譲治はそこまでを口にして、その意味を理解し、呆然と驚愕の入り混じった、歪んだ表情を浮かべた。
 真里亞は驚かなかった。しかしさりとて、自分の答えが正解していたことについても、喜ばなかった。
 戦人は。……縁寿は見てしまう。生涯忘れ得ない、醜い表情を。
 それは、鬼の、笑い。二目と見られない醜悪な鬼が、醜く顔を歪めて笑う、そのおぞましさと言ったら。それを、……兄の顔に、見てしまう……。
 留弗夫と霧江が後ろ手に隠していた銃を構える。その照準は、たじろいで後退る譲治の眉間と、達観したかのようににやりと笑う真里亞の眉間を、それぞれ捉えていた。
 稲妻が閃き、激しい雷鳴が轟く。聞こえたのはそれだけだった。そして、その轟音に弾かれて、……譲治と真里亞という操り人形の糸が、プツンと途切れる。二人という人形は、水溜りにバシャリバシャリと倒れ、動かなくなった……。
【縁寿】「……お、……お父さん、………お母さん………。」
 それらは全て、縁寿の目の前の出来事…。
【留弗夫】「へっ、…はっはははははははははは!!」
【霧江】「うっふふふふふ、あははははははははは!!」
【戦人】「いっひひひひ、ひっははっはっはっはっはッ!!」
 呆然と立ち尽くす縁寿は、彼らの目には入らない。
 彼らはげらげらと笑い転げる。そして縁寿の目の前で、これまでの殺しっぷりについて、面白おかしく、互いを褒め称えてさえいる。
 その醜悪な三人の、……家族の表情に、………縁寿は、涙と吐き気を同時に催し、窒息してしまいそうになる。
 縁寿は嘔吐を堪えながら駆け出す。愛する家族のおぞましい笑い声が届かないところへ、一秒でも早く逃げ出したかった。
 その時、足を滑らせ、縁寿は泥の水溜りに突っ伏す。縁寿は起き上がろうとはしなかった。それよりも、まだ聞こえる、おぞましい笑い声が耳に入らぬよう、耳を塞ぐことを選んだ。
 すると、………漆黒の薔薇庭園の、茂みの陰や塀の陰から、……真っ黒な何かが、ぬるりぬるりと現れ出す。
【縁寿】「……………?!?!」
 縁寿は驚いて回りを見ると、………不気味な黒い人影が、いつの間にかあちこちより現れ、縁寿をゆっくりと取り囲んでいた。
 それは、………大勢の、山羊の頭をした人々だった。服装はそれぞれ違う。スーツもいれば、私服のような者もいる。しかしいずれも薄黒く汚れ、そして誰もが黒山羊の頭をしていた。
 縁寿は呆然として、思わず、耳を押さえていた手を下ろしてしまう。もう、おぞましい笑い声は聞こえなかった。しかし代わりに、……山羊たちが口にする言葉を、耳にしてしまった。
『…………霧江と留弗夫が、犯人。』
『戦人が犯人……、戦人が犯人……。』
『……戦人犯人説。戦人一家犯人説……。』
 山羊たちは、不気味な声で次々にそう口篭りながら、……縁寿を取り囲み、近付いてくる。みんなみんな、縁寿の家族が犯人であると口にしながら、迫ってくる……。
 ………当初は、誰もが絵羽犯人説を唱えた。六軒島からの唯一の生還者が、ほとんど全ての富を独り占めにしたのだから、それは自然な説だった。
 右代宮絵羽だけが、なぜ九羽鳥庵で難を逃れたのか。そして、なぜ彼女は、あの日に何があったのかを頑なに話そうとしないのか。その全てが、絵羽犯人説で説明できるとされた。
 しかし、絵羽が病死し、彼女が悪辣な方法で築き上げた巨万の富が、縁寿に相続されるとわかると、世論は、……いや、偽書作家たちは新しい犯人説を生み出し、それを持ち上げた。
 それが、………留弗夫一家犯人説。
 全員参加が基本である親族会議に、なぜ縁寿だけが参加しなかったのか。幼い縁寿を連れて行かない都合が、留弗夫一家にあったのではないか。戦人も連れて行かれているが、霧江の息子ではない。
 そして週刊誌が、霧江の生家が広域暴力団と密接な関係にあることを暴くと、一気に霧江という個人に衆目が集まった。
 さらに、留弗夫が如何に詐欺紛いの商法で荒稼ぎをしていたかも赤裸々に暴かれ、留弗夫夫婦はあっという間に、最も疑わしい人物に祭り上げられた。秀吉と絵羽の会社は、乱暴ではあったが、少なくとも法律の範囲内で行なわれていた。
 しかし、留弗夫の会社は検証すればするほどに犯罪性が高いことが暴かれた。また、留弗夫と霧江の学生時代のいくつかのパーティー券騒動を巡るトラブルが証言され、その疑わしさの度合いでは、はるかに絵羽一家より高いことが明白だった。
 こうして、瞬く間に、……留弗夫一家犯人説は、絵羽犯人説を含むその他諸説を駆逐して、疑惑の頂点に君臨してしまったのである。……それは別に、絵羽犯人説よりもっともらしかったからではない。単に、絵羽犯人説が飽きられ、新たな刺激が求められていたに過ぎない……。
 山羊たちの姿が、ぐにゃりと歪む。空が見る見るうちに白み、……それは蛍光灯の天井に変わった。
 山羊たちの姿はすっかり変わり、………黒山羊の仮面を被った、……少女たちの姿になっていた。少女たちは皆、同じ服を着ている。それは制服。……聖ルチーア学園の制服だった。
聖ルチーア学園・教室
『……本当の犯人は、留弗夫と霧江なんだって?』
『聞いた聞いたー! そうだよね、娘だけ置いてくなんて、何かおかしいもんねー!』
『右代宮絵羽って確か、本人は毒殺されてるって訴えてんでしょ?! じゃあもー、黒幕は誰か明白じゃーん?!』
『いいよねー、一族の財産全て独り占めなんでしょ?』
『やっぱ、留弗夫一家犯人説だーって思ってたんだよねぇ!』
『右代宮さんって、どこかおかしいって思ってたんだよねー?』
『ひそひそひそひそ。』『クスクスクスクスクスクスクスクス。』
『留弗夫と霧江が犯人。』『戦人も犯人じゃないの?』
『留弗夫一家犯人説!』
『留弗夫と霧江が犯人!』
『財産を独り占めにしようとしたんだけど、絵羽に返り討ちにあってそれで失敗して、』
『でも結局は右代宮縁寿の独り占めなんでしょ?』
『留弗夫と霧江が犯人だって!』
『留弗夫一家犯人説!』
『留弗夫と霧江と戦人が犯人!』
『留弗夫と霧江と戦人が犯人!!』
『右代宮さんのご家族が犯人なんですって?!』
『それってどう思う? ねぇねぇ!』
『でも結局、財産は全てあなたが独り占めできるんでしょう?!』
『右代宮絵羽は、それであなたには何も語らなかったのよねー!』
『絶対にあの子が怪しいって思ってたのよ!』
『絵羽があんたに辛く当たったことも、全て説明がつくわー!』
『ねぇねぇ、何か言ってよ、感想とか!』
『ホント、気持ち悪い子だよね。』
『留弗夫一家犯人説ってどう思うか、ちょっとくらい何か言いなさいよ、感じワルーイ!!』
薔薇庭園
 鋭い風が、頭を抱えてうずくまる私の頭上を、吹きぬけた。私を取り囲んでいた、山羊頭の女生徒たちの幻想が、一閃されて、砕け散る。
 ……私は雨の薔薇庭園で水溜りにうずくまり、山羊たちに取り囲まれている。しかし、その山羊たちもまた、一閃され、切断された上半身を擦り落とす。まるで、剣の達人に切断された竹か何かのように見えた。
「こっちへ……!」
 そう呼び掛けたのは、……あの黒猫だった。私をこの世界へ導いた、あの鈴のついた黒い猫。まさか喋れたなんて……。でも、今はどうでもいい。私は猫の後を追う。
 山羊たちはたじろいでいた。包囲の輪が途切れている。黒猫はその隙間を駆け抜ける。
 私が慌てて後を追うと、山羊たちも逃がすまいと追い始める。重い地響きの足音が無数に、私たちを追い立てる。
【縁寿】「ど、……どこまで逃げるの、黒猫さんっ…!」
 馬鹿な質問には、黒猫は答えない。どこまで逃げるの? 決まってる。逃げ切れるところまでだ。
 しかし、山羊たちは信じられないほど大勢いた。追って来る群だけじゃない。それは恐らく、薔薇庭園中に大勢潜んでいて、私たちの行く先々で人垣を作り、逃がすまいと待ち構えている。それらに出くわす度に私たちは、薔薇庭園という名の迷路の、他の道へ曲がって逃げる。
 だから、もはやどちらの方向に逃げているのかも、よくわからなくなっていた。ひょっとしたら私たちは、……ぐるぐると、結局は山羊たちの巨大な群の内側を走り回っているだけなのでは…。
 その想像は、再び東屋の前に戻ってきてしまうことで、正解であったことがわかった。東屋から四方に続く道は全て山羊の群で覆われている。来た道は当然、追っ手によって覆われている。行く道もなし、戻る道もなし。……私たちはとうとう、追い詰められた……。
【縁寿】「く、黒猫さんっ……、ど、どうしよう、囲まれた……!!」
「……………………。」
 黒猫は、じりじりとその包囲を詰める山羊たちを睨みつけながら、身構えている。もはや、万事休すだ……。
 その時、私の体が宙に浮く。私の頭を片手で握り潰せるような巨大な腕が、私の後ろ襟を掴み上げたからだ。
 悲鳴をあげようと思うより前に、……私の眼前には、真っ赤に光る不気味な眼と、生臭い吐息を吐き出す、歯並びの悪い巨大な口があった。
 その口が、……がぱぁっと開き、……それ自体が生き物であるかのように、……不気味な舌がのたうつ。そして、……私に言葉を吐き掛けた。
『………留弗夫、霧江、戦人が犯人……。……留弗夫と霧江が死んだフリで戦人が嘘の検死……。そして、親の片方が第二の晩までの殺人を実行して夏妃の部屋のベッドの下に隠れる。……紗音は戦人が殺し、その後のゲストハウスでの殺人を幇助。……ゲストハウスでの殺人の実行犯は、親のもう片方……。これが、……真相…………。』
 そして、……その開かれた生臭い巨大な口に、……ゆっくりと縁寿の頭が、飲み込まれていく……。
「反論。……留弗夫一家犯人説以外でも、ロジックの構築は可能です。
 青き一閃が、……縁寿の頭を飲み込もうとした、その巨大な口の、上半分を切断して吹き飛ばす。
 私は、顎から上を失った山羊に後ろ襟を掴まれたまま、共に水溜りに倒れる。山羊たちはたじろがず、……獲物を横取りできるチャンスとばかりに、丸太のような腕を伸ばして、私に殺到してくる。そして口々に喚くのだ。
留弗夫一家犯人説以外では犯行不能ォ…。……絶対に犯行不能ォオォ…!!
留弗夫一家犯人説以外でも、ロジックの構築は可能です。例えば譲治一家犯人説でも可能です。
 私の頭越しに、赤き一閃と青き一線が次々に鋭い風となって通り抜け、私を掴み挙げようとした山羊の腕を二度、バターのように切断する。
 続く山羊たちはきっと、私でなく、私越しに、……後ろで守ってくれている黒猫に飛び掛ったんだと思う。尻餅をついて、雨の夜空を見上げる私の眼前の中空で、……巨体の山羊たちが、私の後ろの黒猫……、あるいは誰かと戦っているのだ。
譲治一家犯人説は不可能ォ! 譲治に紗音は殺せないィイイ!! だから犯人にはなれず、虚偽の検死が出来ないィイイィ!!!
いいえ、可能です。“犯人は殺人者”のことと定義されています。そして、殺人は登場人物に対して行なわれたものにしか限定しないとは言っていません。……即ち。譲治が島外ですでに、本件以外の殺人を犯していたならば、この島で誰も殺さなかったとしても“犯人”であり、嘘を吐くことが可能というわけです。
 真っ赤な軌跡を描く一閃が、何度も山羊の巨体を切り刻む。
 その巨体が宙に打ち上げられ、……多分、七本くらいの丸太の束のようになって、ざらざらどさどちゃっ、と薔薇の茂みに放り込まれた。その凄まじさに、山羊たちは今度こそ本当に驚愕する。たじろぎ、動揺し、後退った。
 ……私はようやく、理解する。赤き一閃。……それは、赤い軌跡を描く、…いや、さっきは青い軌跡も描いた。………赤と青、双方の真実を自在に語る、……巨大な鎌の一閃だったのだ。私は夜空を見上げ、……さらに頭を後ろに垂れる。
 そこにいたのは、黒猫ではなかった。大きな鎌を構えた、……少女の姿だった……。
【ヱリカ】「如何です? 古戸ヱリカには、この程度の推理が可能です。」
 ヱリカと名乗った少女の姿を認め、……山羊の群たちがどよめく。彼女という存在は、彼らを動揺せしめるだけのものであることが、それだけでわかる。
 ヱリカは私を抱き上げると、風のようにひらりと飛び上がり、東屋の上に降り立つ。そして私を離し、鎌を構えながらも、優雅な仕草でスカートの裾を摘んで、取り囲む山羊の群たちにお辞儀する。
【ヱリカ】「初対面の方々がほとんどでしょう。自己紹介ですッ。初めまして、こんにちは! 探偵ッ、古戸ヱリカと申します! ……留弗夫一家犯人説しか思いつかない、石ころ頭どもはどうぞお引取りをッ! あるいは、私を論破できるおつもりでいる皆さんは、どうか歓迎を! 無論、私も歓迎して差し上げます!!」
 山羊の群は一斉に咆哮する。それは、驚愕にも恐怖にも、あるいは感嘆のようにも聞こえた。山羊たちは東屋を取り囲み、どよめくが、それ以上を踏み出せずにいる。この、探偵にして真実の魔女、古戸ヱリカに対し、これ以上近寄るという恐怖に、誰も打ち勝てずにいる…。
【ヱリカ】「……やれやれ。幾万と集まって、このザマですか? どなたもこの古戸ヱリカと論戦を楽しもうという勇気がないのですか。……ならば残念。お開きにさせていただきましょう。さりとて、この古戸ヱリカ。………石頭のマヌケ諸君をひとりひとり論破していくほど、時間が余ってもおりません。後片付けは彼女にお願いすることとしましょう。………お願いしますッ!!」
 ヱリカが叫ぶと同時に、闇夜の空が真っ赤にひび割れる。それは窓ガラスに激しい衝撃を加えた時の、あの蜘蛛の巣模様そのもの。……いや、それはまさに、真っ赤な蜘蛛の巣。
「……くすくすくす、……きゃっははははっはっはっはっは……!」
 真っ赤な蜘蛛の巣に覆われた世界に響き渡る、……魔女の笑い声。その笑い声を、縁寿はどこかで聞いたことがある気がした…。
 そして、蜘蛛の巣の上に立ち、……そこから見たなら、蜘蛛の巣に捕らえられた囚人のように見えるに違いない山羊たちを見下ろす、魔女の姿を見る。
【エヴァ】「この私を差し置いて、………誰が六軒島の王者ですって……? 私を差し置いて、留弗夫が犯人んんんん…? きゃっはははははははははははははははッ!!!」
 それは、絵羽の中に潜む魔女にして、猫箱に閉じられた後の世界で、無限の魔女を名乗ることとなる、未来の魔女。
【エヴァ】「この、エヴァ・ベアトリーチェを差し置いて、この島の虐殺者を誰が語ると?! おこがましいと知りなさいッ?! この島の全ての生き死には私の手の平!! 全ての財産も黄金も、全て全て私のものッ!! そして猫箱に閉ざされたこの1986年10月4日も5日も全て私のものッ! このッ、エヴァ・ベアトリーチェのものッ!!」
 エヴァは下界の愚かなる山羊たちの群全てに、その片翼の杖を振るい、死を宣告する。
 天を覆う蜘蛛の巣の天井が落下し、そして山羊たちの足元の大地からも蜘蛛の巣が沸きあがる。そして天地の真っ赤な巣網で挟み込むように、幾万もの山羊たちを絡め取る。
 そしてそれはエヴァの杖に従い、ぐるぐると。まるでボールの中で掻き混ぜられる卵の黄身のように、ぐるぐるとぐるぐると。やがて全ては、真っ赤で巨大な、得体の知れない塊に凝縮される。
 その中から山羊たちのうめき声が聞こえる。あの、直径数mのぐちゃぐちゃの蜘蛛の巣玉の中に、あの大勢の山羊たちが全て凝縮された肉団子になっているのだ。
【エヴァ】「私が犯人であることを疑うおバカさんたちィ!!」
【ヱリカ】「あなたたちは、絵羽犯人説で思考停止がお似合いです。」
【エヴァ】「潰れて消えちゃえヴァあぁあああッ?!?!」
 ブチン。
 それ以外に、その音を形容できなかった。あれだけ大勢の山羊たちを丸ごと飲み込んだ、蜘蛛の巣玉は、ブチンという音と共に、空間に飲み込まれて消える。
 後には、綺麗さっぱり、何も残らない。静かな雨音だけの、夜の薔薇庭園が広がるだけだった……。
 空より、ふわりとエヴァが舞い降りる。
【エヴァ】「伯母さんはいつだって、縁寿ちゃんの味方よ。……あなたの家族の悪口を言う人なんか、許さないんだから。」
【縁寿】「え、……絵羽伯母さん…………。」
 感謝しなくてはならないことは、わかってる。でも、……あの、絵羽伯母さんが、………私の味方だなんて、……咄嗟には信じられなかった。エヴァも、それはわかっている。
【エヴァ】「いいの。感謝されたくてしてるんじゃない。でも、私はいつだってあなたの味方よ。……じゃあね。」
 くすりと笑い、くるりと背を向けてから、エヴァはその姿を消す…。
 消え去った今になって、せめてありがとうの一言くらいかければよかったと、後悔してしまう…。ならばせめて、……私を助けてくれた、もう1人に感謝しようと思った。
【縁寿】「……助けてくれて、……ありがとう…。あなたは、……どなたですか…。」
 名前はすでに知っている。どなたですかとは、……どうして私を助けてくれたのか、という意味だ。
【ヱリカ】「私は探偵、古戸ヱリカ。………そして、同時に魔女でもあります。」
【縁寿】「……魔女…?」
【ヱリカ】「真実の魔女。……一なる真実を追究する者です。そして、……それはあなたのことでもありますね。」
【縁寿】「………………………。」
 1986年の10月4日から5日にかけての2日間に。一体何があったのかを知りたくて、……ビルの屋上より一歩を踏み出し、……魔女のゲーム盤とカケラの世界をいくつも漂い、長き報われぬ旅路に身を任せてきた。
 私が望むのは、……あの日に何があったのか、ただそれだけ。私が望むのは、……あの日の、一なる真実。
【ヱリカ】「それを求めるのが、真実の魔女です。だから、あなたは私と同じなんです。……だから、助けに来ました。」
【縁寿】「……私は、知りたいの…。……一体、あの日に何があったの? 誰も教えてくれない、誰にもわからない…! でも確かにあの日に何かがあったの! 私はそれを知るためなら、何だって投げ出せる…! それだけが、私が命を捨てても知りたい唯一のことなの…! だから教えて! あなたは知っているの?! 一体、この島で何があったの?!」
【ヱリカ】「……真実の魔女にとって。真実は与えられるものですか? 私が、これが真実だとあなたに押し付けたなら、あなたはそれを鵜呑みにする気ですか…?」
【縁寿】「それは……違う………。」
【ヱリカ】「戦人さんはあなたに、今日、何を見せてくれましたか?」
 ………お兄ちゃんは今日、…………おかしな、ハロウィンパーティーを見せてくれた。それはとても温かで、……確かに楽しくはあったけれど…。断じて、……真実じゃない。
【ヱリカ】「戦人さんはそれを、真実だと言って、あなたに見せてくれたのではないのですか。」
【縁寿】「違う。……あんなの、……真実じゃないッ。」
【ヱリカ】「時に他人は、真実だと称して私たちを惑わします。……しかし、真実の魔女は、それに惑わされることなく、一なる真実を追究しなければならないのです。だからあなたは、戦人さんの押し付ける、偽りの真実などに納得できない。……本当の、一なる真実を求めて止まないのです。」
【縁寿】「………………うん…。」
 お兄ちゃんは、……私を煙に巻こうとしている。
 それはずっと感じてた。お兄ちゃんはあの日この島で、何があったのか全て知っているのに、……なのに私に、何も教えてくれない。
 それはあの、死ぬ間際の最期の瞬間まで、私に絶対にあの日のことは教えないと嘲笑った、意地悪な絵羽伯母さんと、何も変わらないのだ。……どうして、お兄ちゃんは教えてくれないの? …………………………。
【縁寿】「…………どうして…。」
【ヱリカ】「……………………。」
【縁寿】「どうして、……教えてくれないのッ。」
 私の心の中の堰が、溢れる。
【縁寿】「どうしてお兄ちゃんは、……私に本当のことを教えてくれないのッ!! どうしてッ、どうして…!! 私だけ知らない!! 私にだけ誰も教えてくれないッ!! 教えてよ!! あの日に何があったのか、教えてよお兄ちゃん!! お兄ちゃぁあああぁあああん!!!」
 私の叫び声が、雨の夜空に吐き出される。熱い涙がぼろぼろと零れ落ちるが、それは叩き付ける冷たい雨に紛れてしまって、私以外の誰にも、この涙などわからぬだろう。……誰にも、私の悲しみも辛さもわからない。私だけ、………私だけ、いつも除け者で、ひとりぼっちで……。
【縁寿】「教えてよ誰かッ!!! あの日に何があったのか、……私に教えてッ!!!」
【ヱリカ】「……誰にも、教えられません。………真実は、自分で手にしなければならないからです。」
【縁寿】「真実はどこにあるの?! どうやったら至れるの?! みんなが隠す! 教えてくれない! 私の手で、自ら至るから…! お願いだから、真実がどこに隠されているのかだけでも教えて…!」
「………いいわ。教えてあげてもいい。」
屋上からの夜景
 その声と共に、世界がぐにゃりと歪んで渦を巻く。瞬きを何度かした時、……世界は全て、星の海になった。
 いや、少し違う。空には星があるけれど、……足元に広がるのは、星じゃない光。それは、ビルの窓の灯り、電気の灯り、車の灯り。……私は、…………高層ビルの立ち並ぶ大都会の闇の、空に浮かんでいた。
【ベルン】「………あなたに真実を教えることは出来ない。……でも、どうやったら真実に至ることが出来るのか。……その道を指し示してあげることは出来るわ。」
【縁寿】「あんたは………………。」
 私の脳裏に、……嫌な記憶の断片が蘇って刺さる。……そうだ。おかしな劇場みたいなところに縛り付けられて、……私に、お父さんとお母さんが殺人を犯す酷いカケラを見せ付けて……。
【ベルン】「……あれを真実だとは、言ってないわ。」
【縁寿】「で、でもあんたは、あれが真実だと赤で……、」
【ベルン】「あんたが大声で遮ったから、続きが掻き消えただけよ。……これは全て真実、“とは限らない”と続けようとしたのよ。」
【縁寿】「………あんたは、……どこまで私を弄ぶ気なのよ……。」
【ベルン】「……それは謝るわ。でも、試したかったの。」
【縁寿】「何をよ。」
【ベルン】「あなたが、どのようなものであれ、真実を受け止める覚悟があるのかどうかを。」
【縁寿】「…………………………。」
【ベルン】「……真実は、時として期待を裏切るわ。あるいは、もっとも望まない形を取ることもある。……あなたに見せたあのカケラは、恐らくあなたにとっては、想像し得る限りの、一番最悪なカケラでしょうね。……でも、それに耐えてでも真実を求める力と勇気がなければ、あなたには真実に近付く資格はないの。」
【縁寿】「……………っ…。」
 それを言われたら、言い返せない。私は真実を求めてる。あの日あの島で何があったのか、それを知りたいだけ。……都合のいい事実だけが知りたいなんて、甘えるつもりはない。
 血生臭い、……正視に耐えない真実が待ち構えているだろうという覚悟は、………私に本当にあっただろうか…? ………私が真実を得れば、……それはつまり、家族の無残な最期を目を背けることなく、受け容れなければならないことを指す。
 それを受け容れるということは、…………ひょっとすると奇跡的に家族の誰かが生き延びていて、……12年を経て帰って来てくれるかもしれないという、僅かな希望、……都合の良い奇跡を、……手放すということだ。
 そんな奇跡あるはずがないと知っているのに、……その小さな希望は、この12年間、わずかながら胸を温めてくれたことを、私は認めなければならない。
 ……真実を知りたい。でも、誰かが帰って来て欲しい。この2つの願いは、矛盾していたのだ。真実を知ることで、……誰も帰って来ないことを、……私は受け容れなければならないのだ……。
【ベルン】「…………真実は、いつだって残酷よ。時にそれは、自分の希望を刈り取りさえする。………多くの場合、ニンゲンは真実を得ることに対する対価に気付いていない。……私はあなたに、その覚悟があるのかどうか、問い掛けただけ。」
 私は、矛盾した2つの願いのどちらかを、選ばなければならない。
 真実を得て、……家族が帰ってくるかもしれないという、都合の良い希望を捨て去るか。それとも真実を諦め、……実際には永遠に帰って来ない家族の帰りを待ち、…………兄に与えてもらった、子供騙しの幻想で、凍える自分を騙し続けるのか。
【ベルン】「……………聞かせて、縁寿。……あなたに真実を知ろうとする覚悟は、本当にあるの……?」
【縁寿】「…………………………。………あるわ。」
【ベルン】「その決意は揺るがない?」
【縁寿】「揺るがないわ。」
 私の即答に、ベルンカステルはじっと私を凝視する。
 彼女の感情なき瞳は、……私の決意を、読み取ってくれるだろうか。兄がゲームマスターとなってまで、真実を覆い隠す今。……私にとって真実を得る最後の頼みは、ベルンカステルが指し示す道標だけなのだ…。
【ベルン】「………あなたの瞳の奥に。……真実を追い求める者の輝きを見たわ。」
【縁寿】「教えてくれるの?! 私に、真実に至る道を…!」
【ベルン】「えぇ。………あなたを導いてあげる。忘れたの、縁寿? ………だって、私はあなたの後見人でしょう…?」
 後見人という言葉を、ベルンカステルの口より聞いたのは、いつ以来のことだろう。
 ……そう。一番最初に、この未来の世界で出会った時、私は彼女を後見人として、魔女になったのではなかったか。…………1986年のベアトリーチェに打ち勝てる、1998年のベアトリーチェに、なったのではなかったっけ…。
【ベルン】「あなたは、1998年のベアトリーチェ。……エンジェ・ベアトリーチェ。……私が後見人となって、あなたを魔女と認めた。でも、あなたはベアトと同じ、無限の魔女ではないわ。」
【縁寿】「………真実の魔女。」
【ベルン】「そう。………ヱリカと同じ。あなたは、一なる真実を求め、如何なるまやかしにも騙されることはない、真実の魔女なのよ。」
【縁寿】「真実の魔女、……エンジェ・ベアトリーチェには、………“一なる真実”に辿り着く力があるのね…。」
【ベルン】「あるわ。……でも、あなたにはその力を、これまで使うことは出来なかった。どうしてかわかる?」
【縁寿】「……今ならわかるわ。………私は真実を求めながら、……その一方で、真実を知ることを、無意識に拒んでいた。」
【ベルン】「そう。……あなたは真実を求めながらも、同時に。……真実を知ることで、家族が帰ってくるかもしれないという奇跡が失われることを、無意識に恐れた。……だから、一なる真実に手を伸ばす資格が、なかった。」
【縁寿】「……………………………。……言われるままだわ……。私には、……甘えがあったことを、認めなくちゃならない…。」
 私は認めなくてはならない。……家族はみんな、死んだのだ。それを認めた上で、……どうして死んだのか、誰の何の思惑で死んだのかを、暴かなくてはならないのだ。
【縁寿】「……ありがとう。………あの薄暗い劇場で見せられたカケラは、……そんな私の目を、醒ましてくれるものだったのね。」
【ベルン】「あなたが本当の意味で真実の魔女となってくれるのを待つために、ずいぶんと多くのゲームを重ねることになったわね。……でも、その全てに意味があったと思う。……この、最後の最後のゲームで、あなたは真実の魔女に至れたのだから。」
【縁寿】「………教えて。……あの日あの島で、何があったの。……それを直接教えろなんて言わないわ。だから指し示して。……私は何をすれば、真実に至ることが出来るの…!」
【ベルン】「ここは少し涼し過ぎるわ。………場所を移しましょう。」
【縁寿】「どこへ。」
【ベルン】「マシな紅茶が飲める場所へよ。」
玄関ホール
 ホールを大勢の拍手が満たす。拍手は健闘を讃えるもの。ベルンカステルを讃えるものだった。
【ベアト】「そして、ベルンカステル卿のゲームもまた、素晴らしいものであったぞ!」
【戦人】「みんなにも彼女のゲーム盤を公開するので、ぜひ挑戦してみてほしい。かなりの力作だぜ!」
【ベルン】「……結局は解かれてしまったけれどね。」
【ラムダ】「誰にも解けないゲームなんて、ゲームじゃないわ。肝心なのは、面白かったかどうかよ。」
【ベアト】「面白かったぞ! そこは妾も保証する。」
【戦人】「俺もだ。最初はこんなの解けるわけがないって思ったが、一つずつ有効になる紫発言を使い、容疑者を絞っていく辺りは、パズル的な面白さがあったぜ。」
【ゼパル】「さぁ、みんな! 集まれ集まれっ!」
【フルフル】「ベルンカステル卿の推理ゲームって、どんなのかしら!」
【ゼパル・フルフル】「「それはやってみてのお楽しみ!!」」
 いくつかのテーブルの上に、チェス盤のようなものが広げられる。その周りに大勢が集まり、興味深そうに眺めていた。
【蔵臼】「ほほぅ、これは論理パズルのようだね。」
【ワルギリア】「なかなかの正統派ではありませんか。」
【譲治】「これが魔女のゲームってものなんだね。」
【朱志香】「はー。こうやって見ると、ただのゲームなんだよな。……でもこれ、駒にとっては、とんでもない大事件なんだぜ。」
【ロノウェ】「ぷっくっく。それもそうですな。」
【ドラノール】「せっかくのベルンカステル卿の手土産デス。楽しませていただきまショウ。」
【理御】「しかし、これは難解ですね……。本当に解けるように出来ているのかどうかさえ、怪しくないですか…?」
【ウィル】「解けるように出来ていることを、まず信じろ。……問題は解けるように出されていると、出題者を信頼して初めて、思考の戦いは始まる。」
【戦人】「その点は俺たちも保証するぜ。さぁさぁ、ぜひ挑戦してみてくれ…!」
 戦人が促すとそれぞれのテーブルで、ベルンカステルの推理ゲームの議論が始まった。
 ニンゲンと幻想の住人との、双方入り乱れての議論は実に興味深いものだった。それらの議論から離れたところに椅子を置き、ベアトとベルンカステルは腰を下ろしていた。
【源次】「お茶にご希望はございますか。」
【ベアト】「妾には、何か落ち着く紅茶が良い。それをミルクティーにしてくれぬか。」
【源次】「畏まりました。……ベルンカステル卿は、何かご希望はございますか。」
【ベルン】「……紅茶に梅干を沈めてちょうだい。……まずい紅茶を飲みやすくするコツよ。」
【ベアト】「くっくっく! そうヘソを曲げるなというのだ。そなたのゲームは、実に面白かったと讃えているというのに。」
 ベルンカステル渾身のゲームに打ち勝ったベアトの表情は、これでもかという程に上機嫌だった。
【ベルン】「……別にヘソを曲げてなんかいないわよ。私はもともとこういう顔よ。」
【ラムダ】「そんな表情の中に、ベルンなりの温かみを見出せた時にね。私は、真っ暗闇の雪山の頂上で、美しい星を見つけたような気持ちになるのよ。」
【ベルン】「……悪かったわね、顔がいつも万年雪で。」
【ベアト】「やれやれ、ベルンカステル卿を讃えることは難しい。何と褒めても、嫌味と受け取られてしまうぞ。」
【ラムダ】「大丈夫よ。あとでしみじみと噛み締めるタイプだから。」
【ベアト】「ほぅほぅ、ベッドの中で枕を抱きながら噛み締めるタイプか。」
【ラムダ】「そうそう、そんな感じそんな感じ。」
 ベアトとラムダデルタは、くすくすと笑い合っている。ベルンカステルは肩を竦めながら、そっぽを向く…。
【戦人】「でもよ。よくひねった、面白いゲームだったぜ。」
【ベルン】「そう? ………ありがと。」
【戦人】「解けないようにも作れるのに。お前はちゃんと解けるように作ったもんな。……それはゲームを楽しもうというフェア精神がなけりゃ出来ないことだ。」
【ベルン】「……私は絶対に勝てるゲームが好きよ。勝てないかもしれないゲームなんて、面倒臭い。」
【戦人】「今度は、攻守を逆にしてゲームをしたいな。俺が出題して、それにあんたが挑戦する。あんたが俺に勝つゲームだ。」
【ベルン】「…………………………。」
【戦人】「もちろん、これまでのベアトとの戦いで培ったノウハウの全てをつぎ込んだ、超難解なゲームにするぜ。俺が2連勝しちまうくらいのつもりのな…!」
【ベルン】「…………あんたもベアトも。……あんたたちって、つくづく面白い考え方ね。」
【戦人】「何がだ?」
【ベルン】「……ゲームは、勝敗を決するための手段でしょう? そして、それを仕掛けるからには、至上目的は自分の勝利のはず。……なのに、自分が負けるかもしれないゲームを、どうしてわざわざ仕掛けるの…?」
【戦人】「絶対に勝てるゲームなんて、つまらないだろ。そんなのゲームじゃない。」
【ベルン】「…………………………。」
【戦人】「勝つか負けるか。そのフェアなやり取りが面白いんじゃないか。ゲームってのは、戦いじゃない。コミュニケーションなんだ。その過程を楽しむ。勝敗という結果は、まぁオマケみたいなもんさ。」
【ベルン】「………やっと。……ベアトたちと私の考えの、何が違うのかはっきりと理解できたわ。」
【戦人】「違いって?」
【ベルン】「あんたたちにはコミュニケーション。……私には、そうではないということよ。」
【戦人】「お前、ずいぶん殺伐とした世界に生きてるんだな。」
【ベルン】「……………あんただって。……ベアトのゲームを理解するまではそうだったはずよ。……永遠のゲームは永遠の拷問。……その苦しみを、あんたはもう、綺麗さっぱり忘れてしまったというの…?」
【戦人】「…………………。……確かにそう思った日もあった。……しかし、もう決着はついた。そうなれば、過去のことはグチグチ言わない。ノーサイドってヤツだ。」
【ベルン】「そこに、………私とあんたの、致命的な違いがある気がするわ。……あんたにとっての永遠の拷問は、笑って水に流せる程度のものだった。……私にとってのそれは、そんな生易しいものではなかった。……そういうことだわ。」
【戦人】「……あんたの生い立ちは知らねぇが。……苦労があったみたいだな。」
【ベルン】「ふん。……成駒如きのあんたに同情されるとは、私も焼きが回ったもんね。」
 ベルンカステルは、源次の持ってきた紅茶を啜ると、遠い目をして天井を見上げる。その生い立ちを知ることは出来ないが。……ベルンカステルの気持ちをわずかに察することは、戦人にも出来た。
【戦人】「………今のあんたは。誰かの拷問に苛まれているのか。」
【ベルン】「まさか。………私は自由人よ。誰の束縛も受けない。」
【戦人】「なら、良かったじゃねぇか。少なくとも、昔とは違う。」
【ベルン】「…………そうね。昔に比べたら、だいぶマシだわ。……退屈から逃げ果せるための、長い長い終わりのない旅だけれど。」
【戦人】「なら、この出会いは少なくとも、お前にとっては良いもののはずだ。」
【ベルン】「そうね。……敗北の味も、多少は退屈から私を遠ざけてくれるわ。」
 違う違う。戦人は首を横に振りながら笑う。
【戦人】「……俺たちは、フェアなゲームを戦って楽しんだ、友人同士だぜ。」
【ベルン】「だから………?」
【戦人】「もし、お前の日々が退屈から逃げ回るためだけのものだというなら。……たまには、俺たちのところに寄るといい。俺たちは友人を歓迎する。そして、友人を退屈から逃すために、色々な持て成しや労いをするだろう。」
【ベルン】「この大ベルンカステルを、一夜とて退屈から逃す持て成しを、あんたらが出来ると…?」
【戦人】「あぁ。それが、友人ってもんだ。」
【ベルン】「…………………………。」
【戦人】「今夜のゲームでは俺たちが勝った。だから、次に来る時は攻守を逆にしよう。今度は俺たちのゲームであんたを持て成す。……もちろん、あっさりと勝ちを譲るつもりはないぜ? とことんひねった、極悪な推理ゲームで挑戦してやるぜ! 一夜で解かせるつもりなんかねぇ。それこそ、数ヶ月は頭を捻って滞在するはめになるくらいのを用意してやるぜ。」
【ベルン】「………この大ベルンカステルを、友人として持て成すと……?」
【戦人】「あぁ、そうだ。」
【ベルン】「……ふっ……。………あんたたちに付き合ってると。せっかくの梅干紅茶も、何だかベタベタに甘くなってくるわ。やってらんない。」
【戦人】「ベアトに聞いたぜ。梅干紅茶とやらが好物なんだってな。金箔まぶした最高級梅干を紅茶に放り込んでやるから、それを楽しみにしてまた来いってんだ。」
【ベルン】「………もし、本気でそう思ってるなら、もう少しはマシな紅茶を用意することね。……こんなまずい紅茶じゃ、二度と来てやろうという気にはならないわ。」
【戦人】「やれやれ。普段はよっぽどお上品な紅茶を飲んでやがるらしいぜ。むしろ今度、その紅茶が飲めるところに招待しやがれ。」
【ベルン】「………………あんたを、……私が? …………くすくす、…………あっはっはっは。」
【戦人】「フェアだろ? 俺たちも持て成す。だからお前も、俺たちを持て成せ。」
【ベルン】「そうね、フェアだわ。」
【戦人】「だから、ゲームもフェアに行こう。攻守を交代して、またゲームをしようぜ。その機会を楽しみにしている。今回は俺たちの勝ちだったが、次はわからねぇさ…!」
【ベルン】「………そこまで驕れれば大したものだわ。でもね、あんたは一つ、勘違いをしているわ。」
【戦人】「何をだよ。」
【ベルン】「私のゲームは、まだ終わっちゃいないわ。……最後に勝つのは、どちらかしらね。」
 ベルンカステルは紅茶にもう一度口をつけると、薄く笑いながらカップをテーブルに置く。
【ベルン】「……ここの紅茶は甘過ぎて、飲めたもんじゃないわ。……源次、ありがとう。下げてちょうだい。」
【源次】「畏まりました……。」
 ベルンカステルは、ほんの2口しか飲まずに紅茶を下げさせる。戦人はそれを、ベルンカステルなりの照れ隠しだと理解し、微笑んでいた。
 ………………………………。戦人。……あんた、何てまぬけな、能天気な顔で微笑んでるの…?
 もしこの最後のゲームが本気で、お花畑なエピローグになると信じてるなら。私があんたたちを、最後に相応しいゲームに招待してあげる。
 戦人。あんたは忘れ過ぎよ。最後のゲームの鍵は、誰の手に委ねられているのか、ということをね……。
フェザリーヌの書斎
 鼻の奥が疼く。嗅覚で意識が戻るなんて、斬新な体験だった。
 私はゆっくりと目を醒ます。……いや、そもそもいつの間に意識を失っていたのだろう? 眠った記憶も、倒れた記憶もない。
 そうだ。……ベルンカステルに、マシな紅茶が飲めるところへ行こうと言われて誘われ……。……そこから記憶が曖昧になる。そして、私の目を醒まさせたのが、紅茶の匂いなら。
【縁寿】「……………ここは……?」
【ベルン】「アウアウローラの書斎よ。……紅茶の趣味がいいことだけは、たとえあいつであっても、認めざるを得ないところだわ。」
 私は薄暗い書斎のソファーのようなところに腰をかけていた。向かいには、ベルンカステルが。……そして目の前には、美しいカップになみなみと注がれ、熱い湯気をたてる紅茶が置かれていた。
【縁寿】「………ここは、…………確か…………。」
 私は覚えてる。ここには来たことがある。……確か………。
「久しぶりだな、人の子よ。」
 ……あぁ、その声。聞いただけで記憶が蘇る。
【縁寿】「久しぶりじゃない。………我が主。」
【フェザ】「そなたを再び我が書斎に招けるとは思わなかったぞ。……まさか、そなたたちのゲームに、まだ続きがあろうとはな。」
【ベルン】「……続きなんて甘いものじゃない。これが、本当の最後の、ピリオドのゲームよ。」
 ここは、フェザリーヌ・アウグストゥス・アウローラの書斎。尊厳なる観劇と戯曲と傍観の魔女。……かつて私は彼女に呼び出され、巫女という名の朗読役を命じられたこともある。
【縁寿】「まさか、私をまた朗読役に…?」
【フェザ】「そなたを呼んだのは私ではない。……我が巫女が、そなたと私を引き合わせたのだ。」
【縁寿】「何のために…?」
【ベルン】「決まってるじゃない。……あんたに、真実に至るための道標を示すためよ。」
【縁寿】「フェザリーヌが私に示してくれるの?」
【フェザ】「………私は観劇の魔女だ。……舞台の上の役者に干渉することは、あまり好まぬのだがな。」
【ベルン】「戦人の退屈な芝居を観劇するのと、私の手による、運命の分岐を司る刺激的な芝居を観劇するのと、どっちを好むのかしら? ……退屈に、一分一秒だって耐えられないくせに。」
【フェザ】「ふ、……くっくくくくく。」
 フェザリーヌは揺り椅子を揺らしながら、くぐもった笑いとともに天井を見上げている。彼女が、私が至りたいと願う真実の、何かの鍵を握っていることは明白だった。
【フェザ】「………鍵を握っているのは、文字通りそなたではないか。……私に出来るのは、その鍵で開けることの出来る、鍵穴を教えることだけだ。人の子よ。」
 口に出したつもりはないのに、フェザリーヌは当然のように問いに答える。
 ……そう言えばそうだった。フェザリーヌは私如き人の子の思考は、言葉を耳にするかのように読めてしまう。ま、話が早くていいかもしれない…。
【縁寿】「この鍵はお兄ちゃんがくれた。でも、使うべき時に使い方がわかる、みたいなことを言って、何に使えばいいのかは教えてくれなかったわ。……あんたたちは知ってるの? この鍵は何? お兄ちゃんは、とても大切なものだと言っていた。」
【フェザ】「我が巫女よ、説明せよ。」
【ベルン】「嫌よ。あんたが説明しなさい。」
【フェザ】「……主に説明をさせようというのか?」
【ベルン】「たまには、その程度の舞台参加もしなさいよ。ボケ防止にいいわよ。」
【フェザ】「やれやれ……。縁寿の朗読の時に、久々の舞台を堪能したので、もう数百年は充分だと思っていたのだがな。」
【縁寿】「教えて。……この鍵は何なの?」
【フェザ】「そなたの決断を、具現化したものだ。……この物語は、ゲームは、……そなたにある決断を求めることで終わりを迎える。その決断するという行為を、鍵の形に具現化したものが、そなたのそれだ。」
【縁寿】「私の決断を、……具現化したもの……。」
【ベルン】「そういうこと。最終的にあんたは恐らく戦人から、その鍵で開けられる2枚の扉の前に立たされ、どちらの扉を開くか選択を迫られるでしょうね。それくらいは聞かされてる?」
【縁寿】「………………何も教えてくれない。……然るべき時がくれば、……みたいなことしか言わないの。……お兄ちゃんも誰も、……何も教えてくれない。」
【フェザ】「戦人は、そなたの自由意志による選択を尊重したいのであろうな。」
【ベルン】「でも縁寿。……もう、薄々は気付き始めてるんじゃない?」
【縁寿】「……何を。」
【ベルン】「戦人は、あんたに選ばせたい答えがあるんじゃない……?」
 その言葉に、……私の心臓はどきりと鳴る。
 ……それは、思っていた。お兄ちゃんは明らかに、……私を真実から遠ざけて、何だか曖昧な、白昼夢みたいな物語にしたまま誤魔化そうとしている。
 1986年の親族会議で。みんなは楽しく過ごしながら消えていった。
 天国でみんな、微笑みながら見守っているから、縁寿は1998年でも孤独に感じることはないんだよ。だから頑張って、ひとりで生きていきなさい。……そんな風に終わらせようとする、兄の意思を、ひしひしと感じるのだ。
 それを兄に問い詰める度に、それを選ぶのは縁寿だ、みたいなことを言って、のらりくらりと逃げる。
【ベルン】「その通りよ。戦人は一見、あなたに公平な選択肢を与えるように見えて。……実際は、あなたにはっきりと、ある一方の選択肢を選ばせようと画策している。………そのための、茶番のような物語を、あなたはすでに延々と見せられているでしょう?」
 ……あのおかしなおかしなハロウィンパーティー。妙に仲良しで気持ち悪いくらいにベタベタで。右代宮金蔵が慈愛に溢れ、親族兄弟たちが結束を誓い合って、……誰もが幸せで希望に満ち溢れているなんて、………吐き気がするくらいに甘ったるい物語を、私はすでに、充分すぎるほど見せつけられている。
【縁寿】「……仲良しこよしで煙に巻いて、……私を真実から遠ざけようとしている。………お兄ちゃんは、卑怯だわ…。」
【フェザ】「確かに、そなたから見れば卑怯とも呼べよう。しかし、思い出すが良い。そなたはこのゲームのプレイヤーであり、戦人がゲームマスターだというなら、……それは何を意味するというのか。」
【ベルン】「かつて戦人はプレイヤーで、ベアトはゲームマスターだったわ。そして二人はそれぞれの真実のために戦ったわ。………そして今度は?」
【縁寿】「……私がプレイヤーで、……ゲームマスターはお兄ちゃんだわ。」
 私は、……ひょっとして、一番最初から勘違いをしていたのではないだろうか。お兄ちゃんが、あの日に何があったのか教えようと言うから、……私はお兄ちゃんの後についていけば、全てがわかるに違いないと錯覚していた。
 ………それじゃまるで、あの日の全ては魔法の仕業だったと主張するベアトに、お兄ちゃんがウンウンと頷きながらついていくようなものじゃないか。
 私は、……何て馬鹿な誤解を……。
【縁寿】「……このゲームは、………私と、………お兄ちゃんの戦いのゲームだったの……?」
【フェザ】「それを理解せずにゲームに臨んでいたとは、驚きだ。」
【縁寿】「…………………………………。」
【ベルン】「戦人は狡猾だわ。それをあんたに理解させずに、最後のゲームをさっさと始めてしまった。……まぁ、かつてのベアトのゲームもそうだったわ。戦人はわけもわからない内に、彼女のゲームに巻き込まれていた。戦い方さえわからずにね。………だから私が教えたわ。」
【ベルン】「今度も同じよ。……わけのわからない内にゲームを始められてしまったあんたに、私は教えに来たのよ。あんたは、誰と何を戦うゲームをしているのかをね。」
【縁寿】「…………………………………。」
 私は、……絶句する。
 そしてようやく、……このゲームにおいて、自分が何を為すべきなのかを理解する。私はずっと受身だった。お兄ちゃんが真実を教えてくれるに違いないから、それを信じればいいなんて、……甘えてた…。
【縁寿】「違ったのよ。……そうじゃない。」
 これは、……真実に至ろうとする私と、………煙に巻いて誤魔化して、1998年の孤独な未来に、私をひとりぼっちで追い返そうとするお兄ちゃんとの、………戦いのゲームだった。
 私はこれまでさんざん、……お兄ちゃんに、甘いだの甘えてるだの言ってきて、………自分自身が誰よりも一番甘えていたことを、思い知る…。ベルンカステルは、そんな私を嘲笑いはしなかった。むしろ、……そんな初歩のことにようやく気付いたのかと、冷め切った表情を見せる。
【ベルン】「………理解できた? 自分と、……その鍵の意味。」
 私は、お兄ちゃんが掛けてくれたこの鍵を握り締め、しばらくの間、自分でも理解の出来ぬ感情に、わなわなと震えた。
 お兄ちゃんに騙されたと思って、憎むのは容易い。だが、それを憎むのはお門違いなのだ。だって、……これは私とお兄ちゃんのゲーム。お兄ちゃんは、私に勝つために、その最善手を尽くしたに過ぎないのだ。
 ……もしゲームが、遊びのようなコミュニケーションでなく、……勝利することだけを目的とする過程を意味するものだったなら。
 フェアなゲームなんて存在しない。相手にルールすら教えず、右も左もわからない内に、騙まし討ちで倒すのが一番に決まってる……。
 ……お兄ちゃんは、………その意味において、悪くない。私を、……あの甘ったるい幻想で誤魔化して、………孤独な未来に追い返そうとしているのだ……。自分たちだけ、……楽しそうに猫箱の中で過ごして、私だけを追い出して。
【縁寿】「………………ありがとう。……感謝するわ。ようやく、本当の意味で目が醒めた気がするわ。」
【ベルン】「戦人を憎まないであげて。ゲームマスターとは本来、相手を一方的に騙すものなのだから。」
【縁寿】「……わかってるわよ。お兄ちゃんはお兄ちゃんの立場で最善を尽くした。ただそれだけということよ。…………なら、私も私の立場で最善を、尽くさなきゃ。」
 私の目的は、もはやはっきりしている。1986年10月4日、5日。この日に六軒島で、何があったのか。それを覆い隠すベールを引き裂いてやること。それだけだ。
【縁寿】「…………お兄ちゃんは私にこの鍵を、……お兄ちゃんが望む鍵穴に入れさせたいのでしょうね。……そのために私に延々と、……甘ったるい幻想を見せつけた。でも、もう誤魔化されないわ。……私は、私の望む扉を自ら選んで開くっ。」
【フェザ】「ぼんやりと戦人の言い成りになっている縁寿よりは、この方が確かに、私の好む物語であるな。」
【ベルン】「じゃあ、続きを今度こそあんたに任せるわ。……縁寿に教えてあげて。真実に至る、鍵穴を。」
【縁寿】「教えてっ。私にその鍵穴をッ!」
【フェザ】「………いいだろう。まずは腰を下ろすがよい。今、持って来ようぞ。」
 フェザリーヌが揺り椅子より立ち上がると、……ぐにゃりと視界が歪むのを感じた。……何? 何かの干渉? 今からフェザリーヌが、大事なものを見せてくれるというのに、………どうして、……急に、……意識が……。
 私は膝に爪を突き立て、意識が遠退かないように歯を食いしばる。しかし、……どんどん世界は歪んでぐにゃぐにゃになっていく……。座っているソファーの感覚以外は、何もかもわからなくなってしまった……。
八城邸
【天草】「お嬢?」
【縁寿】「………えっ。」
【天草】「先方がいらっしゃったようですぜ。」
 扉が開き、………八城十八が姿を現す。……どういうこと? ここは、……魔女の世界じゃなくて、……ニンゲンの世界…?
 私はソファーに座っていて、後ろには天草がいる。…………………………。……惑わされる必要はない。
 フェザリーヌと八城十八は同じ存在だ。彼女にとって、双方の世界の違いなど微細なもの。観劇を好む彼女風に言うなら、……舞台の上の背景がちょっと違う程度でしかない。だから私は、何も臆す必要はない。
【縁寿】「……今度は、八城先生と呼べば?」
【八城】「名前というものの、何とややこしきことかな。……ここに私とあなたがいることに何の変わりもないのに、あなたは私を何と呼べばいいのか、迷わねばならない。」
【縁寿】「……そうね。フェザリーヌと呼ぶのも、あなたにとっては無粋というわけだわ。……役者にとって、自分の演ずる役の名前など、仮のものでしかない。」
【八城】「そういうことだ、人の子よ。」
【天草】「フェザリーヌ??」
 天草は、私が唐突に何を言い出すのかと目を丸くしている。それを気に留めず、続けた。
【縁寿】「……それで、あなたは私に何を見せてくれるの。」
 それを言いながら、私の目は彼女が小脇に抱える、重そうなそれに釘付けになっていた。それは一見すると、豪華な装丁の百科事典のように見えた…。
【八城】「これを、ご存知ですか。」
 フェザリーヌはそう言うと、重みあるそれをテーブルの上に置いた。
 それの第一印象は、……魔導書。真里亞お姉ちゃんが持っていそうな、神秘的でミステリアスな感じの重そうな本だった。
 そして何より特徴的なことは、……開けないように厳重に蝶番で封印され、重そうな錠前で閉じられていることだった。ここまでして、中身を読まれることを拒む本とは一体……。
【八城】「手に取り、裏をご覧になるといいでしょう。」
【縁寿】「………裏…?」
 膝の上で、その重い本をごろりと引っ繰り返す。
 そして、それを見た途端に、私は小さく息を飲み込んだ。
【縁寿】「…………エヴァ…。……ウシロ、……右代宮……。……右代宮絵羽っ。」
 そこにはローマ字で、確かにそう記されていた。
【縁寿】「これは何…? 絵羽伯母さんの、……日記…?」
【天草】「ひょっとして、……こいつが噂の。」
【縁寿】「あんた、何か知ってるの…?!」
【天草】「噂程度ですがね。……絵羽会長は、秘密の日記を持っていて、それには厳重に錠前を掛けていて。……出先に行く時も必ず持って行ってた、ってぇ話は、護衛仲間から聞いたことがあります。」
【縁寿】「……秘密の、……日記……。それがどうしてここに……。」
【八城】「右代宮絵羽が息を引き取った病室にあったものです。」
 その日記は、ベッドの裏側に隠されていた。その為、絵羽の死後も長く発見されずに、病室内に留まった。それを偶然、病院の関係者か、もしくはその病室にかかわった患者か家族が発見したのだろう。
 ……当然、その頃には六軒島ミステリーは、大きなムーブメントになっていた。その右代宮絵羽が過ごした最後の病室に隠されていた、錠前付きの日記ともなれば、……その価値は計り知れない。
 発見者は恐らく、その価値を正当に評価できる“ウィッチハンター”たちに、それを秘密裏に譲り渡したのだろう。幸運だったのは、この日記を手にしたウィッチハンターたちが、高尚な人間たちばかりだった点に違いない。
 彼らは、錠前を破壊して真実を暴くという無粋を嫌い、……このミステリアスな錠前の向こうに、あの日の真実が眠っているという事実だけに、純粋に酔いしれた。そのお陰でこうして、……絵羽の日記は、傷一つ付けられることなく現存しているのである…。
【八城】「右代宮家長男、蔵臼の妻、夏妃は、日々の不満や鬱積を、日記に記すことでそれを封印するという、ある種のまじないをしていたことが、すでに知られています。」
【縁寿】「……同じことを、絵羽伯母さんもやっていたと?」
【天草】「可能性はありますなぁ。……その日記の蝶番を外すのは、たとえ鍵があったとしてもかなり面倒だ。まるで、ギチギチのコルセットみたいに封印してやがる。」
 天草の言う通りだ。この日記は、気軽に開いて、気軽に過去を振り返ることが出来るようには、なっていない。
 ……右代宮夏妃がそうしたように、記すことで忘れ、封印するための日記に、恐らく間違いないだろう。そして、病室にまで持ち込み、誰にもその所在を知らせずにベッドの裏に隠していた…。
【縁寿】「………まさか、この日記に。……絵羽伯母さんが、あの日、何があったのかを記している……、とでも言うの…。」
【八城】「中を読めば、全てがわかるでしょう。……しかし、その錠前を外す鍵の行方がわからないのです。」
 私は、はっとする。そして自らの胸を見る。そこには兄が掛けてくれた、あの鍵があるはず……。
【縁寿】「え? な、……ないッ。か、……鍵…!」
【天草】「……どうしたんです、お嬢。鍵って?」
【縁寿】「私がずっと首に掛けてたでしょ?!」
【天草】「……俺は知りませんぜ。鍵なんざ、ぶら下げてましたか…?」
 すぐに理解する。ニンゲンの世界で、私は鍵を手に入れてはいない。鍵を持っている私は、……魔女の世界の、ゲーム盤の上の私だ。
【縁寿】「鍵を持っている私に戻して。この日記を開けるわ。」
 フェザリーヌが指を立て、くるっと回すと、再び世界はぐにゃりと歪む。
フェザリーヌの書斎
 フェザリーヌの書斎に戻ると、私の胸にも、すうっと、首に掛けられた鍵が戻ってくる。しかし今度は、同じようにすうっと、……膝の上に置いていた日記が消えてしまう。
【縁寿】「日記はどこに?!」
【フェザ】「ゲーム盤のどこかに存在するだろう。そなたに与えられる鍵穴の一つである以上、必ずどこかに存在するはず。」
【縁寿】「お兄ちゃんが、どこかに隠している…?」
【ベルン】「……戦人があんたとのゲームを気取る以上、それは恐らく、完全な意味では隠されていないわ。」
【縁寿】「どういう意味…?」
【フェザ】「戦人にとって奪われたくないキングであっても。それはゲーム盤に置かれていなければ、ゲームとして成立せぬということ。」
【縁寿】「つまり、………あの、右代宮家のどこかにあったということ…?」
【フェザ】「あるいは、すでにそなたには一度、目にする機会が与えられているのかも知れぬ。……詐欺師が一番最初に見せる契約書に、極小の字にて、すでに悪辣なる罠が記してあるかのように。」
【ベルン】「……戦人がゲームマスターとして、ミステリーの作法とやらに則るなら。………“手掛りは必ず提示され”、“戦人が負ける選択肢も、必ず提示されている”。………縁寿。思い出しなさい。……あんたはすでに戦人の世界で、絵羽の日記を見ているはずよ。」
 その時、………私の脳裏に、………この最後のゲームが始まる、一番最初の光景が思い返される。
 あの礼拝堂で。……祭壇の上に置かれていた、“錠前の掛けられていた本”……。あの本に興味を示したら、……兄は駄目だと、きっぱり言い放った……。
【縁寿】「あれが、………絵羽伯母さんの日記………。」
【ベルン】「そうよ。右代宮絵羽の日記。あの日の真実を記した、“一なる真実の書”。」
【縁寿】「……一なる、真実の書……。それに、本当の真実が記されているの? だってそれは絵羽伯母さんの妄言の可能性も……、」
【フェザ】「赤き真実で、私が断じよう。……右代宮絵羽の日記、“一なる真実の書”には、1986年10月4日から5日にかけての、六軒島の真実が記されている。
 ベルンのゲームからの流れで、いつの間にか現実の話になっていることに注意。

黒猫の爪痕

玄関ホール
 ベルンカステルの推理ゲームに対する議論は、各テーブルごとに熱心に繰り広げられていた。いつの間にか、どのテーブルのグループが最初に解くかを競い合う雰囲気になり、ますますに盛り上がっていた。
【戦人】「ベルンカステル。縁寿とヱリカは、まだ到着しないのか。」
【ベルン】「……もう来てもいい頃よ。どっちが先に到着するか、賭けでもする?」
【ラムダ】「ヱリカが遅くなるのはともかく、縁寿もずいぶん遅くなったわね。……一体、どこの深遠に突き落としてたやら。」
【ベルン】「失礼ね。ちゃんとソファーに紅茶でくつろいでもらってたわよ。」
【ベアト】「ベルンカステル卿の好む紅茶が、縁寿の口に合うと良いのだがな。」
【戦人】「ははは、確かにな。」
【ベルン】「失礼ね。誰の口にだって合うわよ。……ヱリカなんか、私の紅茶はポットの最後の一滴から、お味噌の壷の底まで綺麗に舐め取るわよ。」
【戦人】「……なぜそこで味噌が出てくるのか、大いに疑問だぜ…。」
【ベアト】「それにしても、……ヱリカか…! あやつとは久しぶりの再会になるな。」
【戦人】「そう言えばそうだな。名探偵殿が、あのベルンカステルのゲームを解くのにどの程度の時間を掛けるのか、見物だぜ。」
【ベルン】「……あの子は得意よ、こういうゲームは。多分、上から下までを三度も読んだら、もう答えを出しちゃうんじゃない。」
【戦人】「だろうな。正解をご満悦で語る、あいつの顔を早く見てやりたいぜ。」
【ベアト】「いやいや、それどころかあやつのこと。色々と屁理屈をつけて、戦人一家以外にも犯行は可能だ、等と言いかねんぞ。」
【戦人】「だな。むしろ正解より、その自信たっぷりの屁理屈が聞きたい気分だ。」
 戦人とベアトは、ヱリカとの久しぶりの再会を楽しみにしているようだった。
 ……ヱリカとは、二度のゲームで死闘を交えた。
 しかしもう、敵も味方もない。このお疲れ様パーティーに招き、友人として迎え入れたいと、心の底から願っていた…。
【ラムダ】「それにしても、ちょっと意外なカンジー。」
【ベルン】「………何が?」
【ラムダ】「だって。あんたがこんなにもあっさり縁寿を解放するなんて。」
 ラムダデルタは、戦人たちに表情を見られないようにしながら、小意地悪そう笑う。
【ベルン】「そんなに意外…?」
【ラムダ】「えぇ、意外よぅ。ベルンのことだから、解放せずに次々と戦人に難問を付きつけて苛め抜いたり。………あるいは縁寿におかしなことを吹き込んで、ゲームを最後に掻き回してくれる程度のことはするんじゃないかと思ってた。」
【ベルン】「………………………。」
【ラムダ】「ベルンのことを、世界で誰よりも知っているつもりでいたのに。予想が外れてがっかりよ。」
【ベルン】「……言うわね。でも、安心して。……やはりあんたは、私のことを世界で一番理解しているのは、間違いないのだから。」
【ラムダ】「そ、……そりゃそうよぅ! このラムダデルタさまは、全宇宙でイッチバン、ベルンのことを愛してて大好きで理解しちゃってるんだから〜☆」
 ラムダデルタは、滅多にないベルンカステルの、友情を思わせる言葉にどぎまぎしている。
【源次】「……戦人さま。ご歓談中、失礼致します。縁寿さまがお帰りになりました。」
【戦人】「おぉ、帰ってきたか! 良かった。その、無事か…?」
【源次】「雨に少し濡れてしまったようで、今、熊沢がタオルを用意しております。」
 戦人はそれを聞き、安堵する。そしてベルンカステルの方を向き、その解放をわずかでも疑ってしまったことを詫びるように愛想笑いを浮かべる。ベルンカステルは反応せず、淡々とした表情に、わずかの微笑を浮かべているだけだった。
【熊沢】「縁寿さまのお帰りでございます。」
【縁寿】「………ただいま。」
【ベアト】「戦人っ。縁寿が帰ったぞ…!」
【戦人】「縁寿…! 良かった、心配したぜ。」
【縁寿】「……………………。」
 安堵の笑みを浮かべて駆け寄る戦人をじろりと見る。その縁寿の表情はどこか淡白だった。
【ベルン】「……戦人ったらね。あんたのことを、私が鎖か何かで岩牢に吊るしてたとでも思ったみたいよ。」
【戦人】「い、いやいや。そこまでは思ってなかったぜ。」
【縁寿】「………ベルンカステルの友人の家で、紅茶をご馳走になってただけよ。なかなか美味しかったわ。」
【戦人】「味噌とか梅干は入ってなかったか…?!」
【縁寿】「…………………………。……入ってるわけないでしょ。」
 縁寿は素っ気無く言うと、兄の前を通り過ぎ、ベルンカステルと小声で何か言葉を交わす。
【ベアト】「どうした、戦人。」
【戦人】「え、あ、いや……。何でもない。」
 妹が素っ気無かったので寂しかった、なんて言ったらベアトに笑われるか、引っ掻かれるに決まってる。
 縁寿だって、年頃の女の子だ。男の自分には理解できない理由で、虫の居所が悪くなることもあるだろう。……そう理解し、とりあえずは縁寿の無事に納得し、その場を離れようとする。
【ベアト】「戦人。……縁寿が呼んでいるぞ。」
【戦人】「え? あぁ、すまん。」
【縁寿】「さっきから呼んでるわよ。無視しないで。」
【戦人】「……別に無視してたわけじゃねぇぜ。……何だよ、お前。さっきから機嫌が悪いぞ。」
【ベアト】「大方、ベルンカステル卿に珍しい紅茶とでも偽られて、おかしな物を飲まされたせいだろう。ひゃっひゃっひゃ!」
【縁寿】「……あんたに用はないわ。ちょっと引っ込んでて。お兄ちゃんと二人で話がしたいの。」
【ベアト】「そうは行かぬぞ、妾はこう見えても領主夫人…! 戦人に関してはすでにそなたよりも妾の方が、」
【戦人】「……悪い、ベアト。少しだけ席を外してくれるか。」
 縁寿の機嫌が、ちょっと虫の居所が悪いという程度ではないことを、戦人はもう察していた。
 ベアトは何かを言い返したいように頬を膨らませる。しかし、それを溜め息と共に吐き出し、その場を立ち去ってくれた…。
【縁寿】「……………………………。」
【戦人】「……これでいいか?」
【縁寿】「えぇ。だってこれは、私とお兄ちゃんのゲームでしょ? プレイヤーは私。ゲームマスターはお兄ちゃん。……私たちの間にいくつ駒が入り込もうと、結局は私とお兄ちゃんとの、直接の戦いであることに、何の変わりもない。」
【戦人】「……まぁ、確かに俺がゲームマスターだが、別にお前と戦ってるわけじゃないぞ。この最後のゲームは、お前を1986年の六軒島に招待するために開いたものだ。」
【縁寿】「ゲームは、勝敗を決するために行なわれるものよ。敵と味方が揃って初めて、ゲームと呼ぶ。……そこを誤魔化さないでっ。」
【戦人】「お前、……何を言い出すんだ…。」
【縁寿】「すっかり騙されていたわ。私も最初は、お兄ちゃんが1986年のあの日に招待してくれるのだと思ってた。……でも違う!」
【縁寿】「これは全部、お兄ちゃんの茶番じゃない! 甘ったるい物語でお茶を濁して、私を煙に巻いて! 孤独な未来へ、安っぽい温かさを手土産に追い返そうとしているだけじゃないッ! 私は最初から求めてるわ! あの日、六軒島で何があったのか!」
【縁寿】「それに対するお兄ちゃんの答えがこのゲーム! この甘ったるい幻想パーティー!! 私の問いに対するお兄ちゃんの答えはもはや明白だわ! 私は真実が知りたい!! そしてお兄ちゃんに教える気はないッ!」
【戦人】「縁寿……、いいか、そうじゃない、」
【縁寿】「誤魔化さないでッ!! これは私とお兄ちゃんの、最後の戦いのゲームだったのよ! 私はあの日の真実を求める! そしてお兄ちゃんは、あの日の真実を幻想で覆い隠そうとしてる!! 何も変わらない! お兄ちゃんとベアトが戦ってた時と、何も構図は変わらないのよ! もうすぐで私は、お兄ちゃんに全てをうやむやにされたまま、ゲーム盤を追い出されるところだった! お生憎ね、私はもう、このゲームは私とお兄ちゃんの戦いであることを理解してるの。もうこれ以上は、簡単に騙せると思わないことねッ!」
 縁寿の大声に、和やかな雰囲気は霧散する。親族たちも、幻想の住人たちも、何事かと固唾を飲んで見守っている……。
 ベアトは戦人に駆け寄ろうとするが、来るなと戦人は制する。
【戦人】「……何が望みなんだ。」
【縁寿】「最初からただ一つ! 1986年の六軒島の真実! それだけを私は求めてる!!」
【戦人】「真実は猫箱の中に封じられてる。……猫箱の外のお前には、辿り着けない。」
【縁寿】「だから、この甘ったるい幻想で私を誤魔化そうと?!」
【戦人】「確かにこれは幻想だ。だが、お前にこの楽しい雰囲気を、……親族の、和気藹々とした気持ちを思い出して欲しかった。………あの日あの島で何があったかじゃない。お前が忘れてしまった、親族会議の温かな雰囲気を思い出して欲しかったんだ。」
【縁寿】「それはお兄ちゃんが押し付ける一方的な幻想よ! 私はそれを断固拒否する、拒絶するッ!!」
【戦人】「1986年の真実など存在しない。猫箱の中は虚無だ。……お前は、ありもしないものを求めてる。」
【縁寿】「……ふんっ。私はもう騙されないわよ。………存在するのよ、あの日の真実は。……それは唯一の生還者によって書き残され、現存しているッ。」
 戦人の表情が一瞬だけ戸惑うのを、縁寿は見逃さない。
 やっぱり隠してた。お兄ちゃんは、一なる真実の書を、私から隠していたのだ…!!
【縁寿】「絵羽伯母さん…! あんたが死んでから、私は初めて感謝するわ。……あんたが、しっかりとあの日の真実を書き残してくれていたお陰で、私は真実を知る最後の機会を得た…!」
【絵羽】「え、……縁寿ちゃん、聞いて…! あの日記は、伯母さんのデタラメが書いてあるだけで何の意味も……。」
【縁寿】「ごまかしは不要よ。あんたの日記にはあの日の真実が記されていると、すでに赤き真実で断じられているのよッ!」
【ベアト】「……ば、馬鹿な。ゲームマスターの戦人以外の誰が、赤き真実を使えるというのか…!」
【ラムダ】「…………………………。……アウアウローラね。」
【ベルン】「正解よ。……“一なる真実の書”は、1998年という未来世界の存在。その中身に赤き真実で保証を与えるという大役が、他の誰に出来るっていうの…?」
【縁寿】「ベルンカステルは全てを教えてくれたわ!! 私はもう、お兄ちゃんに騙されないッ!! 私が欲しいのは、甘ったるい幻想じゃない。本当の真実!!」
【縁寿】「そして、それをいくら1986年のお兄ちゃんが覆い隠そうとも、1998年の私には暴くことが出来る!! なぜならッ!! 1986年のベアトリーチェがお兄ちゃんで、………私は1998年のベアトリーチェだから!!」
 縁寿を中心に突風が渦を巻く。それは黄金の蝶の群を伴った、黄金の旋風。まるで、黄金の魔女、ベアトリーチェのように……。
【縁寿】「我こそは1998年の、最後の黄金の魔女、エンジェ・ベアトリーチェ!! 過去の魔女は、決して未来の魔女には勝てないッ!!」
 黄金の旋風が散り、金箔を辺り一面に散らす中、………ベアトリーチェの名を未来に継承する、最後の魔女が姿を現す。
【ベアト】「エンジェ……、ベアトリーチェ…………。」
【縁寿】「あんたは、黄金と無限の魔女。私は違う! 黄金と真実の魔女! 如何なる幻想も私を拒むことは出来ないわ!! さぁ、お兄ちゃんの退屈なパーティーはもうおしまい! ここからは私のパーティーになるわ!! パーティーを賑わせるゲームだって用意してきた! よろしくね、絵羽伯母さん。」
【絵羽】「え…?!」
 縁寿が指を弾くと、縁寿の姿は黄金蝶の旋風と共に掻き消える。そして代わりに、うやうやしく頭を垂れるドレスの少女の姿が旋風の中に現れる……。
【戦人】「お前は……!」
【エヴァ】「……失礼しちゃう話よねぇ? ……私にだけ、パーティーの招待状がないなんてぇ。」
【ベアト】「そなたは、………エヴァ………!!」
【エヴァ】「私は六軒島の唯一の生還者。そして、1986年から1998年まで黄金と無限の魔女を名乗る、未来の魔女!! 戦人くんの甘ったるゥい幻想なんて、未来の世界では湖面に落ちる一粒の雪より儚いわッ。さぁ、楽しんでちょうだい!! さぁさ、思い出して御覧なさい、“あなたたち”の無限の推理を!!」
 エヴァが右手を天にかざすと、そこに光が集まり、ボトルの形となる。
 そう、ボトル。それはラベルのないガラス瓶に見えた。中身は酒ではない。……怪しく青白く光るカケラが封じられていた。
【ベアト】「ば、戦人ッ!! それはまずい!! 割らせてはならぬッ!!」
【エヴァ】「さぁッ、ショーターイム!!!」
 ボトルは床に叩き付けられ、激しく砕け散る。中身のカケラは空気に触れた途端、真っ白に光り輝いて砕け散る。
 ……一見、何も起こらない。しかしエヴァはにやりと笑ってから、蝶の群となって姿を消す。気付けば、ベルンカステルの姿も消えていた。
【戦人】「あいつ、何をしやがったんだ…?!」
【ベアト】「……恐らく、未来の世界より持ち帰った、カケラだ。……未来の猫箱の中身とでも言おうか。」
【戦人】「つまりどういうことだ?! 何だ?!」
 その時、激しい音が、ざあっと聞こえた。まるで、大きな雹が一斉に降ってきたような音だった。
 その音は地響きさえ伴い、屋敷全体を軋ませた。天井の埃がぱらぱらと落ちる。そしてそれと同時に、カーテンで閉ざした窓が、青白く光った気がした。
【霧江】「い、一体、何事だと言うの…。」
【レヴィア】「霧江、外を! 何よ、あれ?!」
 その声に、一同は窓際に一斉に群がる。もちろん、戦人もベアトも。
 そしてカーテンを開け、……外の光景に、全員が絶句する。
【金蔵】「………これは、……美しい……。」
 窓の外のその光景を見て、誰もが思った一番最初の感想を、金蔵が代弁する。
【ウィル】「……美しいものが、無害とは限らねェ。」
【410】「美しい何とかにはトゲがあるのはお約束にぇ。」
 誰もが、その光景を美しいと思いつつも、……何かの不吉な予感を覚えていた。
 窓の外は、……青白く光る水晶のカケラのようなものが、雹が降った後のように、無数にごろごろと転がっていた。それらが青白く照らし出す薔薇庭園の光景は、まさに幻想的の一言に尽きた……。
【楼座】「……今、あそこ、何か動いたわ…!」
【朱志香】「お、おい、あそこに誰かいるぜ?! いや、あれ…?!」
【理御】「……あ、あの光るカケラから、人影が生え出してる…!」
【ルシファー】「煉獄の七姉妹ッ、戦闘態勢!!」
 ルシファーのその言葉で、ようやく全員が、自分たちが「危機」に包囲されていることを理解する…。
 無数に転がるカケラは、ひとつ、またひとつと、震えては砕け、……その中からぬぅっと、真っ黒な巨体が現れ出す。
 それは、山羊の頭をした、巨体。それらが次々に、砕けたカケラの中から姿を現す。
 そんなカケラが、……薔薇庭園中に無数に転がり、青白く一面を照らし出しているのだから、……誰もが戦慄を覚える。
【00】「45! 全周警戒!」
【45】「……レ、レーダーが真っ白です! ジャミングされてるか、も、もしくは、乱反射無数、敵数確認不能!!」
 その間にも。窓の外の青白く照らし出された薔薇庭園が、次々に巨体の山羊たちで埋め尽くされていく。
 山羊たちを生み出しているあのカケラが、薔薇庭園だけにでなく、……満遍なく島中に降り注いでいたなら。……薔薇庭園だけでなく、……今、この屋敷の周りは山羊たちで埋め尽くされつつあるはず…。
「………謹啓。」
【ガート・コーネリア】「包囲されたものと申し上げ奉る。」
【留弗夫】「見りゃあわかるぜ、見りゃあよ……。」
【真里亞】「きっひひひひひひひ。どうするの、戦人…?」
【戦人】「招待状がねぇ客なら、お引取りいただかねぇとな。……こいつらは何者なんだ。ベアトのとこの従者ってわけじゃなさそうだな。」
【ワルギリア】「……山羊の姿は、このゲーム盤の駒の形を模倣しただけのことでしょう。」
【ガァプ】「リーチェやリーアの眷属じゃないわ。……もっと厄介な何かよ。」
【ドラノール】「……なるホド。……ボトルメッセージの具現化というわけデスカ。」
【戦人】「ボトルメッセージ? ベアトの?」
【ウィル】「違うな。………こいつは、未来の住人たちの、妄想のカケラだ。」
【ベアト】「……猫箱はその内に無限を秘める。……その結果、箱の外の住人たちは、その中身を無限に想像することが許される。……その無限の妄想が、こやつらの正体だろう。」
【夏妃】「あ、あの山羊たちは、私たちをどうするつもりでしょう…。」
【秀吉】「仲良く握手が出来る雰囲気には見えへんでっ。」
【絵羽】「……あいつらは……。………私たちがこの島で、どんな惨劇が繰り広げられたかを、勝手にでっち上げては流布して回る、最悪の連中よ…。……私が真実を語らないことを面白がり、……勝手に次々と惨劇を生み出して……。」
【戦人】「なるほど。………1986年の猫箱を勝手に妄想する、……未来のカケラたちってわけか……。」
【ドラノール】「未来世界には、ありとあらゆる解釈が存在しマス。それらは、私たちが否定しない限り、全てが全て、真実だと言い張り、この島に居座り続けるのデス。」
【ゼパル】「あっはははははは! これは厄介なことになったね!」
【フルフル】「私たちは包囲され、絶体絶命のピンチというわけだわ!」
【蔵臼】「むっ、あいつら、何をしているんだ…?」
【さくたろ】「た、食べてるよ、何か食べてる…!」
【嘉音】「……薔薇を、……食べている…?!」
 山羊の群たちはもぞもぞと何かをしている。よく見れば、薔薇の茂みに頭を突っ込み、……むしゃむしゃと貪り食っているのがわかった。
 それは薔薇の茂みだけではない。外灯の柱や、花壇のレンガ、……それどころか石畳まで、むしゃむしゃと噛り付いているのだ。まるで、島中の全てを食い尽くすかのように。
【紗音】「違う。……あれは、ただ食べてるんじゃない…。」
【理御】「食べているんじゃなければ、一体何だと…?!」
【ベアト】「………あれは、食っているのではない。侵食し、削り取っているのだ。……このゲーム盤そのものをな。」
【戦人】「ゲーム盤を、……食うだと…?!」
【絵羽】「未来の世界では、誰もが今日の私たちは惨劇に飲み込まれたと信じてるっ。……だから“彼ら”は、和やかに過ごす私たちの真実を認めないの…!」
【ベアト】「……過去の真実は、未来の真実の前に劣る。……あの、山羊たちの、無慈悲なる未来の顎と牙は、……我らの真実を認めず、“彼らの期待する真実”で侵食するのだ。」
【戦人】「ふ、……ふざけやがって…。……これが、俺たちの真実なんだ…! 勝手に、未来の、それも余所のヤツらの期待する真実に塗り替えようとするんじゃねぇ…!」
 窓の外の薔薇庭園には、もう数える気さえ起きないほどの大勢の山羊たちが、ガツガツと全てをかじり続けている。そのおぞましい光景に、誰もが言葉を失う他なかった……。
 ……絶句ではない。大騒ぎをして、わざわざ山羊たちに教える必要はないのだ。この明るく温かい部屋の中に、……薔薇やレンガよりも柔らかくて食べ応えのある獲物が、大勢いることを……。
【熊沢】「あッ、あの山羊、こっちを見てますよ…?!」
【源次】「……静かにっ。騒いでは駄目だ。」
【南條】「……こ、こっちへ来ますぞ…。……まずくありませんか……。」
 新しく生まれた山羊の一匹が、こちらの窓へゆっくり近付いてくるのが見える。薔薇庭園にはすでに大勢の山羊たちが群がっているので、新たな獲物を求めて辺りを見回した時、この明るい窓が目に入ったのだろう。
 その巨大で不気味な姿がゆっくりと近付いてくる。近付いてきて、ようやくはっきりとその不気味な姿がわかるようになる。
 爬虫類を思わせる無慈悲で冷酷な、灼熱の瞳。そして、全てをガリガリと砕いて噛み千切ることが出来る、残酷なる牙と顎。レンガを砕く牙が、ニンゲンを同じように出来ないなんてことが、あるわけもない…。
 その巨体は恐らく、窓枠よりも背が高いに違いない……。それが、のっしのっしと、……この窓に近付いてくる……。
【戦人】「この窓、実は右代宮家特注の防弾ガラスだということは?」
【ベアト】「……防弾程度で、あの巨体の豪腕が防げるとは思えぬぞ。」
【郷田】「う、うわ…!! 来たッ来たッ、駆けて来るぅうううぅ!!!」
【コーネリア】「……謹啓。この窓を許すこと無き也と知り奉れ。」
 コーネリアの封印の力が窓ガラスにシールドを張る。その力に弾かれ、山羊はガラスにさえ触れられずに吹き飛ばされる。
 その巨体が大地を揺らす。それがここにいても、はっきりと感じられた。
 ……しかし、その振動が他の山羊たちの関心も引いてしまう。何匹かの山羊たちが、こちらにわらわらと駆け出し、……それは獲物を一番に得ようという競争に変わって、地響きを伴う突進になった。
 コーネリアが封じている窓は大丈夫だろう。しかしホールには窓がいくつもあるのだ。明るければ、素晴らしい採光と眺望を楽しませてくれるその窓の数々が、初めて恐怖に変わる。
【ドラノール】「ガートルード!」
【ガート】「……謹啓っ、この窓を許すこと無き也と知り奉れ。」
 ガートルードがもう1枚の窓を封印する。その窓を破ろうと飛び込んで来た山羊が弾き飛ばされる。
 しかし同時に、別の窓が凄まじい音と共に破られる。ガラスの破片を降り注がせながら、山羊の巨体が窓枠をぶち抜いて侵入する。
【郷田】「うッ、うわぁあああぁあああああ!!」
【蔵臼】「さ、下がれッ、みんな下がるんだ!」
『……第一の晩に……、鍵が選びし……6人を……………。』
 山羊は確かにそう口走った。生臭い吐息の蒸気を吐き出しながら。しかし、それ以上の言葉は許されなかった。
 額に、首に、肩に。胸に、脇腹に、腹部に、膝に、七姉妹の杭が次々に打ち込まれる。
【ルシファー】「何てゴツくて不味い貫き心地ッ。」
【レヴィア】「こんなマズイ連中、何匹も食ってらんないわ…!」
 他の窓も次々と破って、数匹の山羊が、窓枠をきつそうに潜りながら侵入してくる。その口には、ついさっきまで彼らが食っていたレンガが、まだ頬張られている。それらを彼らが噛み砕く度に、骨が砕かれるような不気味な音が漏れた…。
【ドラノール】「……撃退しマス。」
【00】「シエスタ隊、近接戦闘準備ッ。」
【ウィル】「待ちな。……ドンパチやっても、さらに騒ぎで他の山羊たちを呼び寄せちまうだけだ。」
【ベアト】「……2階へ逃れるのだ。階段を封印すれば、時間も稼げよう。」
【戦人】「みんな、大階段を上がれ。……急げ!」
 山羊たちは辺りの匂いを探るように、荒々しく鼻を鳴らした後、手近にある椅子や机、カーテンなどにかじりつき始める。
 彼らは手近にあるものならば何でもかじりつくのだ。下手に刺激しないようにすれば、この場から脱出できる……。
 ニンゲンたちを先に2階へ逃がし、戦闘慣れした幻想の住人たちがそのしんがりを守る。山羊たちは脇目も振らずにホールを食い尽くしている。
 ……あの、右代宮家の象徴とも言えたベアトリーチェの肖像画も、今や無残に食い荒らされていた…。
【ベアト】「戦人、ニンゲンは全員2階へ避難したぞ…!」
【戦人】「よし。ドラノール、全ての階段の封印を頼む。」
【ドラノール】「ガートルードたちが行ないマス。しかし時間稼ぎが必要デス。」
 屋敷のあちこちから、ノックと呼んでいいのかわからない、荒々しい打撲音と、ガラスを打ち破る音が聞こえてくる。
【ロノウェ】「……さぁて、皆さん。お仕事の時間でございますよ。」
【ルシファー】「煉獄の七姉妹、ここにッ。さぁ行くよ、お前たち! 今夜は食い放題だわ!!」
【00】「シエスタ隊、外部タスクオールスリープ。自動更新切断、データは取るな、捕虜は取るな!」
【ドラノール】「第七管区、アイゼルネ・ユングフラウ。領主命令により、任務を開始しマス。」
【ウィル】「……助太刀するぜ。理御、お前は足手まといだ。2階へ上がってろ。」
【理御】「でもウィル…!」
【ワルギリア】「ここは私たちに任せ、あなたは上へ。……あなたにも家族を守るという仕事がありますよ。」
【理御】「わ、……わかりました。……皆さん、ご無事でっ……。」
 屋敷内が、叩く音、ひしゃぐ音、割れる音、かじられる音、噛み砕かれる音で騒々しくなる。山羊の群の侵食が、確実に近付いてきている……。
【ドラノール】「……バトラ卿。ガートルードたちが、別階段の封鎖を完了しマシタ。残る階段はこの大階段だけデス。」
【ラムダ】「あっちの階段はちっちゃいから早いわね。でも、この階段は大きいから、時間を掛けそうねー。時間稼ぎが大変だわ〜。」
 ラムダデルタは他人事のように笑う。その顔を見ただけで、手を貸す気がないことがわかった。
 しかし、ベアトは詰らなかった。……これは、戦人と縁寿のゲームなのだ。そしてラムダデルタは、それに招かれた観劇者でしかない。
【ラムダ】「……悪く思わないでね。……虚無に喰われたら、私だって死んじゃうわ。悪いけど、私は傍観者に回らせてもらうわ。」
【ベアト】「元より、そなたは傍観者だ。………助力を頼めぬのは残念だがな。」
【戦人】「……気を遣ってんだろ。俺たちの見せ場を奪わないために。」
【ラムダ】「ぷぷっ。そういうことにしておきましょ。」
 航海者の魔女であるラムダデルタは、この戦人のゲーム盤を自分の意思で退場できる。つまり、彼女にとってだけは、この状況はピンチでも何でもないのだ。
【ラムダ】「じゃあね。……ベルンとあんたたちのゲーム、見届けさせてもらうわ。……応援してるからね。」
【ベアト】「ポップコーンを食べながら?」
【ラムダ】「もちろん。今日は醤油バター味にするわ。」
 ラムダデルタの姿が爆ぜて消える。
 それと入れ替わりで、宙に黒い穴が開き、ガァプが飛び降りてくる。
【ガァプ】「戦人、リーチェ。ちょっと来てくれる? 多分、見た方がいいものよ。」
【戦人】「……今すぐにか?」
【ガァプ】「えぇ。」
【ベアト】「行こうぞ。……皆、ここを頼むぞ…!」
 ガァプが指を弾くと、足元に大きな穴が開き、戦人とベアトを飲み込む。
上空
 二人が吐き出されたのは、………漆黒の大空。二人は夜空に浮かんでいた。眼下には六軒島が見える。そして、それを理解すると同時に、……二人をして戦慄させる。
【ベアト】「……こ、これは…………!!」
【戦人】「群じゃねぇ。……こりゃ、海だな。」
 それはもはや山羊の群ではなく、海だった。六軒島が海に浮かぶように。屋敷は今や、山羊たちの海に浮かんでいるも同然なのだ。
【ガァプ】「……未来人ってすごいわ。……一体、この島での惨劇を、どれだけ大勢が妄想したというのかしらね。」
【ベアト】「猫箱の外の寝言に過ぎぬわ…! 一掃してくれようぞ…!!」
【ガァプ】「それから、あれを見て。……判り難いと思うけど、海岸線を見て。」
【戦人】「……海岸線…?」
【ガァプ】「船着場がわかりやすいわ。よく見て。………わかる……?」
【ベアト】「ま、まさか…?!」
【戦人】「……あぁ、……多分、そのまさかだな。……あいつら、……喰ってやがるんだ。……島ごとな……。」
海岸
【エヴァ】「さぁさ、お出でなさい、未来のカケラたち!! 虚飾を幻想をまやかしを、全て喰らい尽くしちゃえばァ?!」
 荒れ狂う海の上に浮かぶエヴァが、天へ向かってそう叫ぶと、……ざらざらと音を立てて、青白く光る雹が降り注ぐ。
 それは全て、カケラを詰めたラベルのないボトル。それらが島に降り注ぎ、粉々に割れては、中身のカケラを撒き散らす。そのカケラは時に2つに割れ、さらに2つに割れ、それら一つ一つが全て割れて、山羊の巨体を生み出していく。
 雨後のタケノコのように、という表現すら、もはや適当ではない。煮立った鍋の水面がごぼごぼと泡で煮立つかのように、山羊たちが湧き出してくるのだ。そして目に付くあらゆるものを食い尽くしていく。
 船着場はおろか、木や石、海岸線そのものさえ。何百何千、いや何万という山羊たちがガツガツと食い尽くしていく…。六軒島の全てを、……戦人の用意したこの最後のゲームを、全て全て喰らい尽くしていく……。
【エヴァ】「あっははっはっはっは!! 悪いわね、戦人くゥん! 未来はこの島に惨劇を望んでいるの…! 縁寿だって、真実を望んでる! 虚飾も幻想もまやかしも、全て全て喰らい尽くしてあげるわッ!!」
上空
 戦人たちはもはや認めなければならなかった。未来は、惨劇を望んでいる。仮にこの島の真実が、和やかで平和だったとしても。未来は、それを望んでいない。彼らの望む真実で、過去を、塗り潰す。
【ベアト】「……過去など儚いものよ。猫箱さえも、食い破る。」
【戦人】「何てヤツらなんだ……。……俺たちを、そんなにも惨劇にブチ込みたいってのかよ…。」
【ガァプ】「私が見せたかったのはこれでおしまい。………戦況の判断に役立ったならいいんだけど?」
【戦人】「あぁ。ありがとう。お陰で、最悪の気分だ。」
【ガァプ】「じゃあ、次は書斎に行ってちょうだい。ゴールドスミスが呼んでるわ。」
 ガァプが指を鳴らすと、再び開いた黒い穴が二人を飲み込み、書斎に吐き出す。
金蔵の書斎
【ベアト】「あいたたた…。ガァプめ、落とすならベッドの上にしろというのだ。」
【戦人】「……祖父さまッ、まずいぜ、俺たちは完全に逃げ場なしだ…!」
【金蔵】「わかっておる。そして、このまま立て篭もってやり過ごすことも叶うまい。」
【ベアト】「ロノウェたちはある程度の時間を稼ぐだろうが、それも一時だろう。」
 屋敷に立て篭もって戦うだけでは、山羊の群に飲み込まれるのは時間の問題だ。屋敷内に侵入してくる山羊をほんの数匹撃退したところで、底に穴の開いた船の中で、お椀で水を掻き出すのと同じ話だ。
【ベアト】「しばらくは防戦できるだろうが、それも時間の問題よ。」
【戦人】「その防戦の間に、何かの手を打たなきゃな。……逃げるか?! どこへ! ゲーム盤の外へ逃げる方法はあるのか?!」
【ベアト】「ゲーム盤の外は我らの領地の外側よ。航海者の魔女でなければ出ることは叶わぬ。」
 それが出来るのは、ベルンカステルとラムダデルタだけだ。しかし、ベルンカステルは当然。そしてラムダデルタも、手は貸さず傍観者になると宣言済みだ。
【戦人】「逃げ場なしか。」
【金蔵】「いいや、一箇所だけある。」
【戦人】「どこに?!」
【金蔵】「黄金郷だ。」
【ベアト】「なるほど……。もはやそれしかあるまいか…!」
【金蔵】「うむ。黄金郷は、このゲーム盤の上で、もっとも不可侵な場所だ。逃れるならそこしかあるまい。」
【ガァプ】「猫箱すら食い破るヤツらよ。黄金郷とて、いつ食い破ってくるかわからないわね。」
【ベアト】「…………く、…どうする、戦人よ…!」
【戦人】「即決する。撤退だ。……決断が遅れればそれさえ不可能になる。全員を黄金郷へ避難させよう。黄金郷の扉を開くにはどうすればいい?!」
【ベアト】「妾が扉を開くだけのことよ。……しかし、あの山羊どもの群が、凄まじき反魔法の毒素を放っておる。扉が開くのには時間が掛かるぞ。」
【戦人】「扉が開くまで、この書斎を死守しろってんだろ? やることは何も変わらねぇ。」
【ベアト】「もう1つ問題がある。……黄金郷の扉は、外より2人で押さねば閉じられない。」
【戦人】「外より2人…? どういうことだ…?」
 そこまで言いかけて、戦人は察する。これは、一なる三人の魔女たちの取り決めに違いない…。
【ベアト】「普段ならば、わざわざ扉を閉めることもないのだがな……。今回ばかりはそうも行かぬだろう。」
【金蔵】「……扉を閉める役目は、お前とベアトしかおるまいぞ。」
【戦人】「領主の俺とベアト。一番無難な人選だな。」
【ベアト】「うむ。我ら2人だけならば、身を守ることも何とかなろうぞ。」
【戦人】「よし、扉を開けてくれ…!」
 ベアトが煙管のケーンを振り上げ、黄金の軌跡で宙を縦に切り裂く。すると、黄金郷の扉の裂け目が現れる。見た目には、天井より垂れる金色の細い糸にしか見えない。
 その糸は、よく見れば、わずかずつ、太くなっている。黄金郷の扉は確かに開いているのだが、注意深く見ていなければわからないほどにゆっくりとだ。人が通り抜けられる程度に開くには、この調子ではかなりの時間を掛けるだろう……。
「祖父さまとガァプはこの本丸の守りを頼む!」
「外壁をよじ登って来る山羊どもが現れるかもしれんしな…!」
「心得たっ。我がライフルは獲物を求めておるわ!」
「了解よ。そいつらを奈落の穴に落として遊んでるわ。」
玄関ホール
 巨体が斜めに切断されて、……真っ二つになり、床に転がって、薄汚い黒い血と内臓をぶちまけた。
【ドラノール】「お見事デス。」
【ウィル】「……次は譲ってやらぁ。」
 あちこちの部屋や窓より侵入した無数の巨体の山羊たちは、かじりつけるものを求めて屋敷内をよろよろと彷徨っている。
 その内の数匹が、階段前で陣取る彼らに気付き、のっそりと近付くが、容赦のない攻撃が粉砕するのだ。
 ロノウェのシールドは、山羊たちの巨体の突進をやすやすと押し返し、ワルギリアの魔法の槍は、その巨体を貫いて壁に磔にする。
 ドラノールとウィルの刃も、山羊たちをやすやすと両断する。
 煉獄の七姉妹による、正確な一撃は、どのようや巨体が相手であろうとも、確実に急所を貫いて葬り去っていた。一方、シエスタ姉妹近衛隊も負けていない。彼女らの大口径砲が一撃で粉々の肉塊に変える山羊の数は、両手では数えられないほどだ。
 限られた数の相手であるならば、決して不利ではない。しかし、相手は群どころか、海なのだ。嵐の海より押し寄せる波を相手に、石礫で挑むことの何と無力なことなのか……。
【00】「砲身交換急げッ、煉獄隊にカバーを要請!」
【ルシファー】「弾が切れたらただのウサギじゃない。なっさけなぁい!」
【410】「七人掛かりで一度に一匹しか殺せない文鎮どもに言われたくないにぇ。」
【サタン】「さぁ、どんどん掛かってらっしゃい!! 私たちを退屈させないで!!」
 ホールにはごろごろと山羊たちの巨体の骸が転がっている。それに恐れをなしたのか、次々にやってくる山羊たちは、一定距離を開けて近付きかねて垣根を作っている。
【ワルギリア】「……私たちに敵わないと思ってくれているのでしょうか。」
【ドラノール】「それを期待したいところデスガ。……それは甘いようデス。」
【マモン】「こいつら何なの…? 私たちを見て、……ぼそぼそと喋りあってるわ。」
【ベルフェ】「どうやら、会話をして連携できる程度の知能はあるようだな。」
 山羊たちは、遠巻きに取り囲みながら、ぼそぼそと会話を交わしているのだ。そして頷き合い、納得し合うと、群がざわめき始める。……何をしている? まるで列の並び替えでもするようなおかしな動き……。
【45】「敵、陣形を変更…! より突破力のある個体に最前列を譲ったものと推定!」
【ルシファー】「だから何だと言うのッ、行くわよ、お前たちッ!!」
「「「「「「はぁい、お姉様ッ!!」」」」」」
【ワルギリア】「お待ちなさい、相手の様子が変です…!」
 ルシファーが一体に狙いを定め、その眉間を狙う。六人の妹たちの杭もそれに追従し、全身の急所を鋭く狙い打ちにする。
 しかし、肉を貫く音は聞こえない。煉獄の七姉妹たちは弾き返されてしまい、傷一つ負わせることが出来なかった。
【アスモ】「な、何?! どういうことぉ?!」
【ベルゼ】「……こいつら、何か喋ってるわ。」
 山羊たちはぼそぼそと、同じことを呟きながら、ゆっくりと七姉妹に近付いてくる。山羊たちは口々に呟くのだ。
『……幻想勢は全て、……虚構の存在……。』
『………煉獄の七姉妹は、……生贄の杭の擬人化した、幻想の存在……。』
『……正体は文鎮……、……正体は文鎮……。』
 七姉妹の存在を否定する呪いの言葉を呟きながら、山羊たちはのっそりのっそりと近付いてくる。
【45】「煉獄隊は下がって!! 援護しますッ。」
【00】「山羊どもッ、教育してやるッ!!」
 シエスタ隊の黄金の弓が、眩い黄金の弾幕で山羊の壁を薙ぐ。
 砕け散る山羊たちもいるが、まったくけろりとしている山羊たちもいる。そして、けろりとした山羊たちは口々に呟くのだ。
『………シエスタ姉妹近衛隊は、真里亞のウサギ人形が依り代……。』
『………正体はウサギの人形…。真里亞の妄想、幻想、虚構の存在………。』
『……事件は全て、ミステリーで説明可能……。幻想は全て、関係なし……。』
【ゼパル】「どうやらっ、」
【フルフル】「魔法を認めない連中もいっぱいいるみたいだわ!」
【ゼパル】「認めないということは?!」
【フルフル】「魔法の攻撃が一切通用しないということだわ!」
【ルシファー】「そ、それじゃ、私たちの攻撃は通用しないってこと?!」
【410】「……エンドレスナインにぇ。……私たちを認めてくれなきゃ、攻撃も通じないにぇ。」
【ワルギリア】「そんなことが…?!」
【ロノウェ】「試してみるのが一番ですな。」
 ロノウェが歩み出て、床を二度踏み鳴らすと、彼の目の前に真っ赤な魔法障壁がそびえ立つ。それを凄まじい勢いで山羊の群たちに叩き込む。それに吹き飛ばされる山羊たちがいる一方で、魔法障壁をすり抜けてしまう山羊たちもいる。
『……ロノウェは、魔法の存在、虚構の存在……。』
『………ロノウェは源次が依り代…。源次を妄想化した存在……。』
【ロノウェ】「なるほど、……私の攻撃も、一切通じない連中がいるようですな。」
 もはや、ワルギリアは魔法の槍を投じるまでもない。彼女の存在も虚構だと決め付ける山羊たちには、もはや傷一つ付けることは出来ないのだ。
 ……大悪魔も、大魔女も、……上級家具も武具たちも、……自分の攻撃が一切通用しない大群に包囲されているという恐怖に、じわりじわりと気圧されていく…。
【ルシファー】「…ど、どうすんのよ、私たち………!」
【00】「……さ、最後の一発まで戦うのだ…。貴様らの戦死は許可しない…!」
『………幻想は全て虚構……、幻想は全て虚構……。……幻想は……、全て、虚構ぉおおおおおぉおおおォオオオッ!!!』
 一匹の山羊が甲高くそれを叫ぶのを合図に、山羊の垣根が決壊する。我先にと獲物を求めて、……虚構の存在を虚無に帰そうと、生臭い吐息を撒き散らしながら、大顎を開けて一斉に襲い掛かる。
【ワルギリア】「危ないッ、お前たち…!!」
 山羊たちの勢いに圧倒されて尻餅をついてしまった、何人かの七姉妹の前にワルギリアが躍り出て庇うように抱き締める。
 しかしワルギリアとて、山羊たちにとっては虚構の存在。彼女など、飴細工のように簡単に噛み砕いてしまう。
【ロノウェ】「マダム、今の内に…!!」
 ロノウェはその身を捨てて山羊たちに飛び掛る。彼であろうと、山羊たちは容易に噛み砕く。それを承知していて尚、ロノウェは飛び掛る。
【ロノウェ】「……魔法が通じずとも、このロノウェ。……忠義に厚き、熱血漢である事実は揺らぎません。……ましてや、婦女子を見捨てることがあるとお思いで?」
『………ロノウェは幻想……、ロノウェは幻想……。』
 ロノウェはその右拳を山羊の顔面に叩き込む。引くと同時に左足を山羊の脇腹に叩き込み、それを引いて後回し蹴りにしてさらに叩き込む。
【ロノウェ】「…………………ふっ。」
 ロノウェもわかってる。……彼の存在を認めぬ相手には、蚊に刺されたほどの打撃も与えることは出来ない。それが対魔法防御力、エンドレスナイン。
『………ロノウェは幻想、……虚構、……幻……!!』
 山羊の、丸太のような腕が、暴風のような音を立てながら振り回される。ロノウェはそれを紙一重でかわす。……それがわずかに遅れていれば、山羊の豪腕は彼の頭を、飴細工のようにあっさりと砕く。
【ワルギリア】「ロノウェ…!! よして、逃げて…!!」
【ロノウェ】「このロノウェ。ご婦人のピンチを前にはついつい奮い立ってしまいます。私の悪いクセ。」
 ロノウェはにやりと笑って強がる。
 彼は、もはや捨てている。この場で自分に出来る最後の仕事は、楯となって時間を稼ぐこと。そのための対価として、彼はもう、自分の命をもはや、捨てている。
『……ロノウェは幻想……、いるわけない、いるわけない……。』
『………幻想勢は存在しない、存在しない……。』
『……ファンタジーは全部、ゲロカスゲロカス……。』
 山羊たちはロノウェを喰らおうと、次々に襲いかかってくる。一対一で対決を気取る気配などまるでない。とにかく、幻想を噛み砕ければいい。一口でもいいから。そんな無慈悲な顎と牙がぎらぎらとしながら、ロノウェと取り囲んでいく……。
【ロノウェ】「……くっ、………!」
 ロノウェの足が、一瞬、何かに躓く。
 その瞬間に、何本もの豪腕がロノウェを掴み挙げた。
【マモン】「ロ、ロノウェさまぁあああぁあ!!」
【レヴィア】「シエスタ、何をしてるのよ、撃ちなさいよ!!」
【410】「………撃ってどうにかなるなら、もう撃ってるにぇ……。」
【ロノウェ】「皆さん、どうかお下がりを。……私を夢中でかじる間は、多少は時間が稼げるでしょう。しかしこのロノウェ、少し小骨が多いかもしれませんぞ。」
 ロノウェの頭をかじろうと、醜く開かれた大顎に、肘打ちを叩き込む。さすがに山羊は咽てよろめくが、それは彼を掴み挙げる内のほんの一匹に対して、彼の頭を最初に噛み砕く権利を剥奪しただけに過ぎない。
 いくつもの顎が、ぐぱぁと開き、……温かな幻想を一切許さない、無慈悲の胃袋に砕いて飲み込もうとする……。
『………ファンタジーは認めない、認めない……。』
『……全てはミステリーで説明が可能……、可能ぉお……。』
『ファンタジーはゲロカスぅううぅ、全部ミステリーぃいいいいぃいい…!!。』
 ロノウェを掴み挙げていた腕の数々が、ぶつ切りに両断される。その瞬間を逃さず、七姉妹たちが飛び掛るようにロノウェの体を引き掴んで、後ろへ引っ張る。
【ドラノール】「………ミステリーと、……仰った方はどなたデスカ。」
【フルフル】「ドラノールの刃は通じるの?!」
【ゼパル】「そうか、相手がミステリーを主張するのなら!」
 ドラノールが、真っ赤な大剣を手に、ゆっくりと歩み出る。
 続いて、黒い刀身で肩を叩きながら、ウィルも歩み出る。
【ウィル】「……ファンジターじゃねぇってなら。……聞こうじゃねぇか。お前らの推理。」
【ドラノール】「皆さんのご高説、とても楽しみデス。」
 山羊の群たちが、退く。幻想の住人たちにあれだけ圧倒的だったのに、ミステリーの刃を持つ二人を相手には退く。
【ドラノール】「……このゲーム盤で行なわれた密室殺人の数々。どれからでも受けて立ちまショウ。」
【ウィル】「違うぜ。……受けて立つのは俺らじゃねェ。」
【ドラノール】「……そうデシタ。………ミステリーとは“挑むモノ”。……なぜに私たちが、受けて立たねばというノカ。」
【ウィル】「わかってんだろうな、お前ら。」
 挑まれてるのは、お前らなんだぜ。
 青き真実が山羊たちを切り刻む。その青き真実は、これまでのベアトのゲームのありとあらゆる謎によって宿っている。
 第一のゲームの第二の晩のチェーン密室は? 第二のゲームの第一の晩の密室礼拝堂は? 第三のゲームの第九の晩の南條殺しのトリックは? 刃の数は尽きない。
 ベアトリーチェが残した、無数の謎は挑戦という名の刃となって、山羊たちを切り刻む。彼らがファンタジーを否定するなら、……彼らは反論しなくてはならない。ミステリーとして、そのトリックを反論しなければならない。
 しかし多くの山羊たちは、アンチファンタジーを口にしながらも、ミステリーの答えを用意できてはいない。いや、時にそれを用意した山羊もいた。
『……し、島には右代宮家以外の何者かが潜んでいて……、』
【ドラノール】「ノックス第1条ッ、犯人は物語当初の登場人物以外を禁ズッ!!」
『……共犯でない複数の犯人が存在して、偶然にも1人の犯人かのように……、』
【ウィル】「ヴァンダイン第12則。真犯人が複数であることを禁ず。」
『……そ、そんなのまで、……き、……禁止なんて…………。』
【ウィル】「つまんねぇだろ、そんなミステリー。だから俺は思うぜ。ミステリーはもっと自由であるべきだとな。」
『……ノックス十戒も……、ヴァンダイン二十則も、……じ、…時代遅れ……。』
『ミステリーの定義は、……時代によって、……異なるはず……。』
【ウィル】「ちっ。こいつら、開き直りやがった。」
【ドラノール】「やはり私たちは時代遅れということなのでショウ。」
【ウィル】「なら、俺たちを納得させる推理を聞かせてみやがれ。」
【ドラノール】「………いざ、来タレ!!」
 山羊の群が一斉に襲い掛かる。それぞれがベアトの密室を打ち破る推理を牙に宿して、襲い掛かる。
 山羊たちの肉体は、先ほどまでのあっさりと骸を晒した山羊たちのそれとは違う。いくつもの密室にミステリーとしての答えを持つ。だから、いくつもの刃を突き立てねば、致命傷が与えられない。
 しかし、ベアトの残した刃はいくつもある。何れも劣らぬ鋭さを持つ。だからそれを、二人は苦戦とは思わない。
 これが、ミステリー。それぞれの謎に、持てる知識と想像力の限りを尽くし、徹底的にぶつかり合う。その過程こそがミステリーの最大の楽しみなのだ。
 だから笑う。ウィルもドラノールも笑う。彼らの渾身の推理に感嘆の笑みを浮かべて、あらゆる密室の刃で反撃する。
 山羊の群たちはもはや包囲ではなく、津波のように二人を飲み込もうとする。それを、一歩も退かずに二人は撃退する。阿鼻叫喚の山羊たちの津波に、海を割るかのように徹底的に抗う。それはまるで、凍結した海を切り裂いて進む砕氷船のよう。
『……誰にも使えない秘密の通路で、密室に入った……。』
【ドラノール】「ノックス第3条ッ、秘密の通路の存在を禁ズッ!!」
『……秘密の通路を使用後、溶接して使用不可能にしたため、検証時には秘密の通路は存在してなくて…。』
【ドラノール】「ノックス第8条ッ、提示されない手掛りでの解決を禁ズッ!!」
『……これは全て狂言殺人で、誰も死亡していない……。だから密室は全て、自称犠牲者によって構築された……。』
【ドラノール】「ッ?!」
 ドラノールが一瞬だけ戸惑う。その陳腐で在り来たりな推理が、ベアトの密室もノックス十戒も、全てを潜り抜けたからだ。
 山羊の大顎の奥に、ドラノールは虚無を見た……。
『……っぐごッ、……ッッ……、』
【ウィル】「ヴァンダイン第7則。死体なき事件であることを禁ず。」
 山羊の大顎は、確かにドラノールの頭を飲み込んだはずだった。だが、上顎と下顎が繋がっていないのだから、……上顎から上は、ずるりと落ちていくしかない。
【ウィル】「大ノックスも、狂言殺人までは封じ損ねたな?」
【ドラノール】「殺人以外のミステリーも、立派なミステリーデス。」
 二人にミステリーの議論をさせたりするほど、山羊たちは退屈をさせない。すぐに次なる巨体の影が二人を飲み込む。
 ウィルの刃がその胸を斜めに斬りつけるが、服を切り裂くだけで、傷痕ひとつ付けられない。
【ウィル】「…………ッ?! こいつ、二十の楔が通用しねェ。」
 ドラノールもその大剣を叩き付けるが、やはり服を裂くだけで、傷を負わせられない。まさか、この山羊……。……ノックスにもヴァンダインにも抵触しない推理を……?!
『……ノックスもヴァンダインも意味なし……。全ての密室は、たった一つの解で解かれる……。………なぜなら……。』
 それ以上を語らせまいと、ウィルとドラノールは、あらゆる密室の刃と十戒と二十則の楔を打ちつけるのだが、何れもまったく通用しない。
 ゆっくりと山羊の巨大な両拳が組まれて、……振り上げられる。
『……なぜなら、………なぜなら……ッ!!』
【ドラノール】「ウィル…!!!」
 ウィルは咆哮とともに山羊の巨体に激しく体当たりする。それはわずかに巨体を仰け反らしたが、自ら死地に飛び込んだも同じだ。しかしそうしなければ、ドラノールを庇えなかった。
 ウィルは山羊に掴まる。鷲掴みにされ、高々と抱え上げられる。まるで、お気に入りの玩具を自慢する子供のように、高々と軽々と…。
【ウィル】「お前の推理、聞いてやらァ。………名推理が聞けて散れるなら、ライトの最期にゃ相応しいだろうよ。」
『……ヴァンダインもノックスも、推理には何の役にも立たない……。』
【ウィル】「ぐおッ、……ぐ、…ぐぐ……!」
 山羊はその巨大な両手でウィルを万力のように握り締める。ウィルの全身の骨が、ぎしりと悲鳴をあげる。
【ウィル】「……聞かせろよ、お前の推理。……ぐ、……お……、」
『推理など、必要ない……。』
【ウィル】「………何ぃ…?」
『なぜなら、ベアトリーチェのゲームなど全て、推理するのさえ馬鹿馬鹿しい……。』
【ウィル】「それはどういう意味だ……、ぐ、お……ッ、」
『……こんなのは本格推理じゃないから、考えるだけ時間の無駄…。ベアトリーチェのゲームなど、……ミステリーなどと、俺は認めない…。……全てのトリックに解答などない。……全部全部、幻想に過ぎぬぅううぅぅうぅ……。』
【ウィル】「…………………………………。」
『………ッ?!?!』
【ウィル】「……考えるだけ、………時間の無駄……?」
『…ぐ、………ご、』
 俯くウィルの表情は見えない。しかし、彼を締め付ける山羊の腕が震えている。あの丸太のような怪力の腕の抱擁を、……ウィルの両腕が、ゆっくりと震えながら、押し返している……。
【ウィル】「………考えるだけ時間の無駄……? お前、……ミステリーを語って、その言葉を口にするのか……。」
『うぐ、ぉ………………、』
【ウィル】「………ミステリーってのはな、騎士道なんだよ。自らの掲げた高潔なルールで挑む、その姿勢を誇るもんなんだよ…。……勝てば卑怯でいいのか、どんなに気高く戦っても負ければ意味はないのか。……勝ち負けじゃねぇだろ…、それでも戦う気高さを誇るもんだろ…。」
『……ぐ、ご、ご………ッ……!!!』
 山羊の両腕は完全に開かれ、むしろウィルが押し勝っているようにさえ見える。ウィルの表情は陰になって見えない。
【ウィル】「………お前のような、………ミステリーをする気もねぇのに、ミステリーを語るヤツがよ………、俺は一番気に入らねェんだよッ!!!」
 無防備となった山羊の頭に、ウィルは自らの頭を激しく打ち付ける。
【ウィル】「ミステリーを語るならッ、思考で戦う姿勢を誇れッ!! ミステリーを語るならッ、二度とッ、思考の停止をッ、誇らしげに語るんじゃねぇええええぇえええええッ!!!」
 ウィルは何度も自らの頭部を打ち付ける。額が山羊の牙で千切れて鮮血がほとばしっても、ウィルは頭を打ち付けるのを止めない。
 ヴァンダインもノックスも、時代遅れかもしれない。時代もミステリーも進化を続けるだろう。だがそれでも、不変でなければならないことがある。
 それが、誇りだ。騎士は何を誇るのか? 勝利を誇るんじゃない。何者にも怯まず立ち向かう、その高潔なる勇敢を誇るのだ。
 戦いを前に尻尾を巻き、なのにそれを自慢げに語る卑怯者を、ウィルは許せない。その誇りを持たない者がミステリーを語ることだけを、ウィルは許すことが出来ないのだ。
 山羊は堪らず、ウィルを床に激しく叩き付ける。そして今度こそ粉々に打ち砕こうと、両拳を組んで高々と振り上げる。
【ウィル】「来な! お前は俺を叩き潰すだろうよ。だがそれはお前の勝利じゃねェ。……お前は自らのプライドを自らの手で叩き潰すんだよッ!!」
『……下らない下らない……。……こんなのはミステリーじゃない、推理の必要もない、……考えるだけ時間の無駄無駄無駄、死ね死ね死ね……。』
 砲丸のような拳の塊が打ち下ろされる光景が、……ウィルが瞼を閉じる直前に見た、最後の光景となった。
【戦人】「“思考停止”は、」
【ウィル】「……!」
【戦人】「このゲームじゃ、敗北ってことになってるぜ?」
 山羊の顎が、戦人の拳で打ち上げられ、……弾け飛んだ前歯が天井を叩く。
【ロノウェ】「バトラさま…!」
【戦人】「思考停止ってことは、ミステリーであることを諦めたってことだぜ。ってことは、……お前にとってはこのゲームは、ファンタジーってことだな。」
 戦人が、すっと腕を上げる。それが合図であると気付き、ルシファーとシエスタ00は、はっとする。
【戦人】「思考を止めたなら、お前はもう舞台の上にいるべき役者じゃねぇ。……偉そうに語ってないで、観覧席でポップコーンでも食ってろよ。」
 山羊の拳が、再び振り上げられ、戦人目掛けて鉄槌のように振り下ろされる。
【ルシファー】「……ファンタジーに屈したなら!!」
【410】「ただの的でしかないにぇ…!」
【ワルギリア】「それは即ち、私たちの存在を認めるも同じということ……。」
【45】「敵識別を開始…!! 魔法攻撃可能な個体をHMDにマーキング!!」
【サタン】「ファンタジーに屈服してる子は、私たちが相手してあげる!!」
【ドラノール】「……推理があるならば、我らがうかがいまショウ。」
【ウィル】「そういう輩は大歓迎だぜ。……敬意を示して、全力で受け止めてやらァ!」
【ロノウェ】「おっと、しかしここはバトラさまの見せ場のようですな。」
【戦人】「………ミステリーもファンタジーも、お前ら自慢のご高説をゆっくりと拝聴してぇところだがな。……しかし今回はお前らのゲームじゃない。……お前ら未来のカケラがどんなに否定しようとも、俺は折れるわけには行かねぇんだよ……。」
 戦人の手に黄金の輝きが集まる。それはあまりに眩く、ホール全体を黄金色に染める。黄金の蝶が舞い飛び、さながらホール全体が黄金郷に飲み込まれたかのようだった。
 戦人はその、……黄金の太刀を振り上げる。
【戦人】「………ミステリーもファンタジーも、ベアトのゲームに挑む姿勢は大いに結構だ。歓迎もする。だがな、……俺のこの、最後のゲームの否定だけは、絶対ぇにさせねぇ。…………眠る者の尊厳を傷つける不謹慎を知れ。」
 黄金の太刀の一閃は、ホールを黄金の光の洪水で埋め尽くす。
 そしてホールにぎっしりとひしめいていた山羊たちの群を全て、黄金蝶の群に変えて、飛び散らせてしまう。……それでも、多分、百匹程度を間引いた程度だ。すぐに、表の大量の山羊が、船底に開いた穴より押し入る海水のように、押し寄せてくるだろう。
【戦人】「……ガートルードたちの封印はもう少しだ。すまないが、もうしばらく、ここを持ち堪えてくれ。」
【ゼパル】「もちろんだよ、バトラ卿!」
【フルフル】「それくらいしか、私たちに見せ場はないし!」
【ウィル】「お前らも少しは戦ってもいいんだぞ。」
【ゼパル】「だって、」
【フルフル】「私たちは、」
【ゼパル・フルフル】「「司会者だしー!!」」
 潔すぎる開き直りに、一部の者は堂々と苦笑する。しかし、張り詰めた空気がわずかに弛緩した。
【ルシファー】「バトラさま、ここは私たちにお任せをッ!」
【00】「これ以上の侵食を許しはしませんッ。」
【ワルギリア】「そして私たちの誰も、決して欠けることはありません。」
【ドラノール】「無論デス。なぜなら私たちも、バトラ卿のゲーム盤の、大切な駒なのですカラ。」
 煉獄の七姉妹も、シエスタ姉妹兵も、一同もみんなみんな、力強く頷く。
【戦人】「あぁ。頼むぜ、みんな…!! 縁寿のための最後のゲーム、絶対に守るぞッ!!」
【戦人】「下は何とか持ち堪えてる!」
【ベアト】「黄金郷の扉もゆっくりと開き続けているぞ。まだ時間が掛かるがな。」
【戦人】「そういうわけだ。俺たちも時間を稼がねぇとな…!」
 眼下を埋める山羊の海は、ますますにひしめいている。
 ……いつの間にか、島を取り囲んでいたはずの海さえなくなっている。
 水平線は消え去り、……不気味な宇宙空間のようなところに、かじられた六軒島が浮かんでいるのだ。その六軒島の縁から、わらわらと溢れた山羊たちが零れ落ちているのさえ見える。
【戦人】「このゲーム盤は、……もうおしまいだな。」
【ベアト】「ゲームマスターがいて、駒が揃ってさえいれば。いつかゲーム盤など、また広げられる。ゲームなど、人が二人揃いさえすれば、何だって出来るのだからな。」
【戦人】「……そうだな。……………………。縁寿は一体どこへ…。」
【ベアト】「例のあれは、どこへ隠した?」
【戦人】「そうだ、……礼拝堂…! 礼拝堂はどうなってる?!」
【ベアト】「まだ残っている…!」
 山羊の真っ黒な海の中に、礼拝堂の白い建物がぽつんと浮かんでいるのが見えた。
 ……そう。それはおかしいのだ。何もかもを食い尽くす山羊たちが、わざわざ礼拝堂だけを残すわけがない。
【戦人】「縁寿はあそこだ…!」
礼拝堂
 礼拝堂の外は、山羊の海。もうじき、礼拝堂の周りの大地も全て食い尽くされ、礼拝堂は虚無の空間に浮かぶことになるだろう。
 全てを喰い尽し、己が惨劇の妄想を口々に訴える山羊たちの喧騒が、実に賑やかだった。しかし、礼拝堂の中は、それも届かない。
 縁寿はようやく、入口の扉の魔法封印を破り、中に踏み入る……。それは本来、誰にも破れないはずのものだ。しかし、真実を求め、それを拒もうとするあらゆる力を払い除けることの出来る、真実の魔女、エンジェ・ベアトリーチェの前には、それは絶対のものではなかった…。
【縁寿】「………………………………。……あれね。」
 祭壇の上に置かれた、頑丈に施錠された一冊の本。右代宮絵羽が晩年まで書き記した、秘密の日記。
“一なる真実の書”。……フェザリーヌに1998年の世界で見せられたもの、そのものだった。
 今度こそ、鍵はある。私はポケットの中の、……お兄ちゃんがくれた、黄金の鍵を握り締める。
 祭壇に近付くと、一なる真実の書が、不思議な光の反射に包まれているのに気付く。
【縁寿】「………ベルンカステルの言っていた、ゲームマスターの封印とかいうヤツね。」
 一なる真実の書は、水晶のようなものに封じられていた。これは、ゲームマスターの権限で封印されている。
 礼拝堂の扉を閉ざしていた、破れる程度の魔法封印とはわけが違う。いくら縁寿が真実の魔女の力を行使しても、ゲームマスター以外に破ることは出来ない。……しかし今回、ゲームマスターは戦人だけではないのだ。
【縁寿】「ふん。……悪いわね、お兄ちゃん。ベルンカステルだってゲームマスター。……持っていって、封印を解いてもらえばいいだけの話だわ。」
 縁寿はゆっくりと、祭壇に近付いていく……。
上空
【ベアト】「……縁寿は、素直にそなたの言うことを聞くだろうか?」
【戦人】「俺の妹なら、……素直には聞かねぇだろうな。」
【ベアト】「ならばどうする。」
【戦人】「力尽くしかねぇだろうぜ…!」
 その時、激しい衝撃が二人を襲う。ベアトは弾き出され、戦人はそびえ立つような巨大な水晶の中に閉じ込められる。
【戦人】「くそッ、何だこりゃッ!!」
【ベアト】「戦人…!! くッ、何だこれは?!」
 それは巨大な水晶の檻にして、結界。戦人は見上げるほどの、巨大な塔のような水晶の檻に閉じ込められてしまう。
【戦人】「ベアト、お前は縁寿を頼む…!」
【ベアト】「そなたはどうする! これをひとりで内側より破れるというのか?! この結界は、………密室結界?! 誰がこんなものをッ、」
【戦人】「………俺に密室で挑もうとするヤツなんて、ひとりしかいねぇぜ。……どうやら、最後の客がようやく到着したようだな。」
【ベアト】「まさか………。」
【戦人】「行けっ、縁寿を頼む…!」
 ベアトはその場を戦人に任せ、礼拝堂へ向かう。戦人は、深い息をひとつ吐き出してから、不敵に笑う……。
【戦人】「……待ってたぜ。……退屈だったか、忘却の深遠とやらは。」
 それに答える、笑い声。……あぁ、そうだな。その笑いだけで充分だ。
【戦人】「元気そうじゃねぇか。」
「………退屈ではありませんでした。……だって、信じてましたから。」
【戦人】「だろうな。……俺も、信じてたぜ。」
 戦人は羽織っていた領主のマントを脱ぎ捨てる。マントなど、邪魔でしかない。そしてそれは、最後の客人を持て成すのに、失礼に当たるのだ。
「あの暗い深遠は。……次にあなたに再会できたなら、どんなミステリーで戦ってやろうかと思案するには、実に丁度いい場所でした。」
【戦人】「この水晶の檻は、俺たちの決闘のリングってわけか。逃げ場なしのチェーンデスマッチってわけだ。」
「……思えば私たち。いっつもチェーンの密室を巡って、戦ってましたね。」
【戦人】「なら、そうするか。まさにチェーンデスマッチってわけだ。」
「私に準備はありますが、あなたはどうです?」
【戦人】「……あるさ。……言ったろ。俺も信じてたって。」
 二人は同時にミステリーを振りかざし、互いに相手をチェーン密室で封印する。
【戦人】「来いッ、古戸ヱリカぁああぁああぁああぁあぁああああああ!!!」
【ヱリカ】「楽しませてもらいますよッ、ぶわッとらすァんんんんんんんんんッ!!!」
 二人は同時にチェーンで施錠された密室に閉じ込められる。無論、内側からチェーンを開け閉めすることは容易い。しかし、相手のチェーン密室に踏み入ることは、困難なことだ。
 二人は、互いに同時に、相手をチェーン密室で殺し合う。チェーン密室で推理を戦わせた二人にこれ以上なく相応しい、決闘の密室だ。
【戦人】古戸ヱリカは自殺である、事故死である、病死である、他殺以外のあらゆる理由による死亡である!!
【ヱリカ】自殺じゃないですッ、事故死じゃないですッ、病死じゃないですッ、ちゃあんと私はあなたに殺されますよ、戦人さんッ!!!
【戦人】扉の隙間よりの毒ガスによる殺害である、部屋に注水しての溺死である、部屋の空気を枯渇させての窒息死である!!
【ヱリカ】毒ガスではありませんッ、溺死ではありませんッ、窒息死でもありませんッ!!
【ヱリカ】「はははは、あっはっははははははははは!! 密室殺人に毒ガス? 溺死? 窒息死ィ?! クスクスくすくすあはははははははははは!!」
【戦人】「可笑しいだろ? 面白ぇだろ?」
【ヱリカ】「グッド!! 右代宮戦人は自殺であるッ、事故死であるッ、病死であるッ!! 今度はあんたの密室を試します!!」
【戦人】「赤き真実ッ!! 右代宮戦人は刺殺である!! 凶器はナイフ、背中にザックリなんてどうだ?!
【ヱリカ】「グッド!! 古典密室はそうでなくては!!」
【戦人】「ならお前もやってみるか?!」
【ヱリカ】「受けて立ちましょう、赤き真実ッ!! 古戸ヱリカは刺殺であるッ! 凶器はナイフ、背中にザックリ!!
【戦人】「面白ぇ!! お前の密室、ブチ破ってやらぁあああぁああああ!!」
礼拝堂
【縁寿】「………これは何の真似?」
【ベアト】「戦人は今、所用で忙しい。しばし、妾がそなたの相手をしようぞ。」
 礼拝堂は、ベアトによる密室結界で封印されていた。その謎を青き真実で打ち破らない限り、縁寿は礼拝堂から出られない。縁寿は面倒臭そうに肩を竦めてから、ようやくベアトに対して向き合う。
【縁寿】「あんたと直接戦うのって、これが初めてなのかしら……?」
【ベアト】「おや、そうなるか…? 良かろう、手合わせしようぞ。ただし、ここには戦人はおらぬ。………妾は戦人がおらぬと、ちょいと手加減を忘れるのでなぁ?」
【縁寿】「あら不思議ね。私もそういう性分よ。」
【ベアト】完全なる密室にてそなたを殺したッ、窓も扉も、他全ての如何なる方法を以っても外部との出入りは出来ぬ!!
【縁寿】「付き合ってあげるわ、あんたのゲーム。復唱要求ッ!!!」

八城十八

八城邸
「そこでですね、第1回丸々社ミステリー大賞応募作品中に、八城先生が再び偽名にて原稿をお寄せになったという形に致しまして…。」
「もちろん、映画化、テレビドラマ化、全てが同時にリンクして動く形になっておりまして…! ぜひ先生の玉稿を我が丸々社にお預けいただきたく…!!」
【八城】「賞金は出るのですか。」
「もちろんでございます…! 栄えある第1回丸々社ミステリー大賞賞金1000万円はもちろん、先生にお支払いさせていただきます! 他にもですね、他にも他にも!!」
【八城】「面白い。気に入りました。だから原稿は書かないことにします。」
「「ええぇええぇえ?!?! せ、先生ッ、そんなぁッ…!!!」」
 ここまで話がとんとん拍子で進んでいたのに、にこやかに原稿を断られ、出版社の人間達はソファーの上で仰け反って転げる。
【八城】「私が書いた原稿より、あなた方のシナリオの方が面白い。ですから、この原稿は御社にお預けするに相応しくありません。……元より、下らなき原稿。無知蒙昧なる読者が、如何にそれを棚に上げて、自身が推理の限りを尽くしたかのような気分になるよう誘導するだけの駄文。それを皮肉と気付き、人の子が自らの愚かさに苦笑する、そんな作品に書いたつもりが、まさか推理小説の扱いを受けるとは。我ながら文才のなさに呆れ果てるというものです。」
「ととと、とんでもない!! どうかお許しをー!! どうか我が社に玉稿をーー!!」
【八城】「………カネはいらぬが、エサが欲しいです。」
「エサ? あ、あぁッ、先生の飼い猫の…!!」
「う、梅干の好きな猫ちゃんとのお噂を! か、畏まりました…! 至急、最高級の梅干詰め合わせをー!!」
【八城】「一つずつ個別包装してあるヤツで、一粒200円以上するものしか食べません。……あれはやがて高血圧で死ぬな。キムチや辛味噌もよく舐めるし、……舌のイカれた猫であること。」
 みー! 本棚の上で寝そべっていた黒猫が、反論するように甲高く鳴く。
【八城】「この原稿は預けませんが、御社大賞用に新しい原稿を執筆しましょう。ただし、私の名前では描きません。御社大賞の推定投稿数は千件以上。その中から私の匿名原稿を見事見付け出し、その上で尚、大賞に相応しいと思えたなら、その時、改めて先々の話をうかがいましょう。………それで如何か?」
「「は、ははーー!! 玉稿を賜れるだけでも、至極幸福に存じまするー!!」」
「あなたたちはいつもペコペコしていて実に面白い。だが、今日はもう飽きました。お帰りなさい。人の子に会うのは実に疲れる。」
「「ははーー!! ご拝謁賜れましたことを、深く深く御礼申し上げまするー!!!」」
 出版社の人間たちが、使用人によって玄関へ送られる。ようやく静けさを取り戻した書斎で、八城十八は、ふーっと息を吐き出しながら、ソファーに全身を預けて天井を見上げる。
【八城】「疲れるが、たまには人の子の刺激も悪くない。」
「………定期的に人と会いなさいよ。……ボケるわよ、引き篭もってると。」
 本棚の上の黒猫が軽やかに絨毯の上に飛び降りる。
 するとその姿は、音もなく歪んで、ベルンカステルの姿となった。
【八城】「うむ。あやつらは実に面白い。たまに招くと退屈を忘れられる。………それに免じ、気が向いたら原稿を書いてやることとしよう。そなたに土産も持ってくるそうだしな。」
【ベルン】「何よ、エサって。失礼ね。」
【八城】「エサであろうが。……ほれ。」
 八城が棚よりジャム瓶のようなものを取り出し、その中身の梅干を一粒、宙に放る。
 ベルンカステルの姿は瞬時に黒猫に変わり、それを空中でキャッチしてから、カリカリとかじり出す。
「……先生、お客様がお帰りになりました。」
 小さなノックの後、使用人がそう告げる。
【八城】「ありがとう。……あれが目を覚ましたら、教えて下さい。」
「畏まりました。……何かお紅茶を淹れましょうか?」
【八城】「いえ。少し執筆をします。しばらく放っておくように。」
「はい。」
 使用人の足音が遠ざかって消えたのを聞き届けてから、八城は自分の机に向かう。そこは原稿用紙が散らばり、文豪らしい貫禄を見せていた。
【ベルン】「……この世紀末に、まだペンで書いてるの?」
 黒猫は梅干の種をガリガリと噛み砕きながら言う。
【八城】「物語はインクで記す。それが私の不変のルールである。」
【ベルン】「……インクで書いて、同じものをキーボードで打ち直すなんて。……馬鹿な二度手間だわ。」
【八城】「ならば、なぜ人の子は、心の中で物語を描き、それをわざわざキーボードで打ち直すというのか。……人の子の二度手間も馬鹿馬鹿しい。」
【ベルン】「なら、あんたは三度手間ってわけだわ。」
【八城】「……ふっ、……くっくっく。今のは面白かった。」
 八城は、そう笑いながらも、もう万年筆を滑らせている。美しい文字が、まるで熟練したタイプライターのような速度で描かれていく。
 ……彼女が描くものを原稿と呼ぶのは、ニンゲンだけだ。彼女は万年筆で原稿用紙の上に、世界を描く……。そんな時、時計の針は、ぐるぐると速度を上げるのだ。
 窓より差し込む光と影も、まるで時計の針を思わせるように、ぐんぐんとその角度を変えていく…。
 ……おもむろに、彼女はびっしりと書き連ねた原稿用紙に、大きくバツを描く。
【ベルン】「………気乗りしないの?」
【八城】「……うまく描けぬ。……人を楽しませる原稿とは、面倒臭いものだな。……何しろ普段、人に読ませるために文字など、書かぬのでな。」
【ベルン】「あんた、自分が何を言ってるのか、いっぺん、原稿用紙に書いてみるといいわ……。」
 ベルンカステルは小馬鹿にした笑いを浮かべながら、ソファーの上で丸まっている。
 普段、八城が執筆に没頭している時には、話し掛けることはおろか、気配を感じさせることさえない。しかし、彼女が原稿に飽きたらしいことを察すると、大きく伸びをしながら話し掛けるのだ。
【ベルン】「何を書いてるの、さっきから。」
【八城】「…………人の子に捧げる物語だ。」
【ベルン】「どこの人の子?」
【八城】「……我に朗読を捧げたる巫女に約束した物語だ。」
【ベルン】「あぁ……。まだ書いてたの。」
【八城】「何を書けば、あれは満足するのか。……私にはもうわからぬのだ。」
【ベルン】「……まぁたアウアウが投げ出したわ。……あんたはいつだって、勝手に物語を約束して、最後まで書ききれなくなって投げ出すのね。」
【八城】「投げ出さぬから、こうして悩んでいる。」
【ベルン】「………縁寿が望む物語は、最初っから1つしかないわ。」
【八城】「“一なる真実”の物語、か。」
【ベルン】「縁寿は、あの日に何があったのか知りたいと希望しているわ。それを煙に巻く物語をいくら書いたって、満足するわけもない。」
【八城】「“一なる真実”よりも、私の物語の方が、よほど面白いと思うのだがな。」
【ベルン】「縁寿は面白い物語が読みたいんじゃないのよ。」
【八城】「……私はあの人の子に、“そなたのために物語を書く”と約束した。だから私は、あやつのために、あやつが喜ぶ物語を書いている。」
【ベルン】「どんなに面白かろうと、面白くなかろうと。あんたが書くそれは全て幻想だわ。縁寿は、そんなものを一切望んでいない。……まだわかんないの?」
【八城】「………“一なる真実の書”は、右代宮絵羽が記した。」
 原稿用紙の山に隠れるように、……絵羽の日記があった。
【八城】「そして筆者は、これを誰にも明かさずに逝った。……私は物書きの端くれとして、それを尊重したいと思うのだ。」
【ベルン】「……笑わせないで。物語のハラワタ引き摺り出して月見で一杯のあんたが、それを語る?」
【八城】「真実など、つまらぬぞ。」
【ベルン】「いくつもの物語のハラワタを食い千切ってきた末の感想が、それ?」
【八城】「………………。……そういうことでも良い。」
 八城は自嘲気味に笑いながら、万年筆を置く。
【八城】「私は老いた。………老いて最初に理解したのは、“知る”ことより“知らぬ”ことの方が貴重であるということだ。」
【ベルン】「年寄り臭そうな話だけど、付き合ってあげる。……どういう意味?」
【八城】「“知る”ことと“知らぬ”こと。この二つは不可逆的な関係だと言うことだ。」
【ベルン】「そうね。……“知らぬ”から“知る”に移ることは出来ても、“知る”から“知らぬ”には、移れない。」
【八城】「それを理解した時。……私は、知らぬことに宿る処女性にも似た高潔なる純粋さを理解したのだ。」
【ベルン】「…………………………。」
【八城】「私は、退屈から逃れるために、星の数ほどのゲームを、物語を、ハラワタを引き摺り出しては喰らってきた。……しかしいつも、退屈が癒されるのはほんの一瞬で、その儚さゆえに、私は個々の物語を軽んじてきた。」
【ベルン】「……そうね。猫を食らえば、お楽しみは一晩でおしまいだわ。でも生かしておけば、やがては悪態をついたり、皮肉を言ったりするようになるかもしれない。」
【八城】「そうだな。……勝手に菓子棚を漁ったり、ベッドに忍び込んできて暑苦しいのも、なかなか愉快なものだ。」
 八城は、書斎を埋め尽くす書物の数々を見やり、その背をそっと撫でる。
【八城】「私は1つの物語を、もっともっと深く長く、楽しむことが出来たかもしれない。……退屈から逃れるために、星の数の物語を食い尽くしてきた私は、そもそも初めから、物語を喰らってなどいなかったのだ。……ただ、殺していただけ。……結局は、それが私をも殺すのだ。」
 八城は自嘲気味に笑う。
【ベルン】「………ベアトのゲームだって、ハラワタを引き摺り出そうとしたじゃない。」
【八城】「答え合わせを希望しただけだ。物語の紡ぎ手であるベアトリーチェには、敬意を表する形としたつもりだがな。」
【ベルン】「………そうね。……わかんないヤツにはわかんない、うまい朗読だったと思うわ。」
【八城】「縁寿が、真実を知ることと知らぬことと、どちらが良い物語となるのか、……正直なところ、もう私にはわからぬ。だから、そなたに再び軽蔑されることを覚悟の上で、……私はこの物語の続きを描くことを、止めようと思う。」
【ベルン】「……止めてどうすんの。」
【八城】「私は書かぬ。記すだけだ。……右代宮縁寿が自ら紡ぐ物語をな。」
【ベルン】「また、……そういうことをするのね。」
【八城】「私は、真実を知らぬことを敢えて選ぶ方が高潔であると、千年を生き飽きた末に思う。……しかし、百年も生きぬ縁寿に、その価値観を押し付けるのも酷であると、今、理解した。」
【ベルン】「だから、……縁寿に委ねようと?」
【八城】「そうだ。それを、私は淡々と記す。」
【ベルン】「……縁寿に委ねるということは、……もうこの物語の向かう先は、半ば決まったようなものだけど…?」
【八城】「そうなるだろうな。………それで良い。私が記すどのような物語よりも結局は、……人の子が自ら紡ぐ物語の方が、面白いのだから。」
【ベルン】「なら、縁寿の物語に付き合ってあげたら? 出番はもう、作ってあげたでしょ…?」
【八城】「………ふむ。……私は、この物語にピリオドを打つ役目か。」
【ベルン】「ベアトのゲーム風に、もっとカッコよく言って欲しいわ。……猫箱のハラワタを、引き摺り出す役目よ。」
 八城は、ふっと笑いながら、原稿用紙の山を払い除け、“一なる真実の書”を取り出す。そして、施錠された引き出しを開く。
【八城】「……縁寿が望むのだ。……この書の封印は解かれる運命にあるだろう。……縁寿は一なる真実に至り、一なる真実は猫箱の封印を開いて、全てを白日に晒す。それを以って、ネットの海に無数にばら蒔かれた愉快なる妄想のボトルメッセージとカケラは、全て海の泡となって消え果てる。………あやつももう、そのようなカケラには疲れ果てただろうからな。」
【ベルン】「もう、あの子も旅を終えてもいい頃だわ。」
【八城】「……引き受けようではないか。その旅に、終着駅を与える役目を。」
 その時、廊下に人の気配がする。
 ノックの音と同時に、ベルンカステルは黒猫の姿に戻る。
「……先生、執筆中失礼致します。」
 八城の使用人の声だった。
【八城】「何か? 電話なら断って下さい。」
「いえ。……十八さまがお目覚めになりました。」
【八城】「ありがとう。軽食の準備を。私の分も一緒に。」
「畏まりました。」
 八城は立ち上がる。そして、開いた引き出しを再び閉めて、施錠する。
 その引き出しの中には、………黄金色に輝くあの鍵が、横たわっていた……。
上空
【ヱリカ】「復唱要求ッ!! “密室の定義は、内外からのあらゆる出入りを否定するものである”!」
【戦人】「復唱拒否!! 可能なる密室殺人の定義は、完全なる密室の定義とは一致しない!」
【ヱリカ】チェーンが破壊後に修復された可能性ッ! 扉が破壊後に修復された可能性ッ! 壁が破壊後に修復された可能性ッ!!
【戦人】俺の密室には如何なる修復も存在しない!!
【ヱリカ】「グッド! 本当に楽しいですねぇ、戦人さん…!」
【戦人】「悪いが、今はお前と遊んでる暇がねぇんだよ!」
【ヱリカ】「こちらこそ悪いですが、真実の魔女の同志、縁寿さんの邪魔をさせるわけにはいきません。」
【戦人】「……そういや、お前も真実の魔女だったな。なるほど、縁寿の先輩魔女ってわけだ。」
【ヱリカ】「一なる真実!! それこそが至高にして究極!! それに至る全ての障害を打ち破ることの出来る魔女こそが真実の魔女です!」
【戦人】「そんなにも一なる真実とやらが大事か…?! 世の中には知る必要も価値もないものだってたくさんある。縁寿にとって1986年にどれほどの意味があるってんだ! 何もない!」
【ヱリカ】「くっすくすくす! ないでしょうね! 1986年に何があったってなくたって! 1998年に生きる縁寿さんには何の変化もない! それが知ることの無意味さです。ですが、1つだけ変えられることがあります。」
【戦人】「それは何だ。」
【ヱリカ】「どう生きるかです!!」
 ヱリカは推理を大鎌の刃に変え、戦人に何度も打ち付ける。戦人もまた、推理を刃に変えて、ヱリカに何度も打ち付ける。
 そんな中、縁寿とともに真実の魔女を名乗るヱリカに問い掛けるのだ。真実を暴くことに、どんな価値があるというのか?
【戦人】「そうだな。人は知ることで、どう生きるかを変えることもあるだろう。……ならば、俺は肉親として願う。縁寿が、俺のゲームの末に、より良い生き方に人生を変えてくれることをな。」
【ヱリカ】「知ることで、人の生き方は変わりますが、それが良いものになるかは分かりかねます。世の中には、知らない方が快適なこともたくさんありますので。」
【戦人】「電車の座席シートに生息するダニの数。水道水にまつわる不衛生な都市伝説。知らねぇ方がマシな話はキリがねぇぜ…!!」
【戦人】「一なる真実の書は、確かにこの島で何があったのかを縁寿に教えるだろう。しかし、それを知って何の意味がある?! 12年前の悲しみが増すばかりじゃねぇか! 一体、縁寿は、さらにあと何年を掛ければ1人の女の子としての幸せを享受できるってんだよ…! 一体、何年を掛ければその傷口は癒されるんだよ…!!」
 縁寿が真実を欲する行為は、真実の内容そのものと無関係に、有害なのだ。あまりに深かった傷は、ゆっくりとではあるが、12年を経て治り掛けてはいたのだ。しかし縁寿はかさぶたをそっとしない。自ら掻き毟り、真実とやらを求めて、自ら再び、傷口を開き出した…。
【戦人】「縁寿はもう、1986年の悲しみから解放されていいんだ…!! それが、俺たち右代宮家全員の願いなんだッ!!」
【ヱリカ】「そんなの、知ったこっちゃありません! 真実こそ全て、真実こそ正義!!」
【戦人】「中学の頃に、誰もが一度は掛かる病気だな…! 大人が隠すことをやたらと知りたくなる!」
【ヱリカ】「それを暴くのが、楽しいんじゃないですか。」
【戦人】「あぁ、そうだな。エロ本は、こそこそ隠れて読むから楽しいんだぜ。」
【ヱリカ】「……ぷっ、」
【戦人・ヱリカ】「「わっははははははっはっはっはっは!!」」
礼拝堂
【ベアト】そなたの青き楔の全てを赤き真実によって否定する。そなたの提示する全ての方法で、妾の密室を破ることは出来ぬ!!
【縁寿】「………………………………。」
 縁寿は、ぜぇぜぇと肩で息をする。 一なる真実の書は、すぐそこにあるのだ。ベアトさえ打ち負かせば、それをベルンカステルのもとへ届け、中身を読むことが出来る。
 ……1986年10月4日の、5日の、最後の親族会議の真実がすぐそこにあるのに、……黄金の魔女がそれを邪魔する。怒りと恨みが頭の中でぐるぐると渦巻き、推理に必要な冷静さを掻き乱す。
 縁寿は頭をぶんぶんと何度も振っては、冷静さに不要なものを脳から追い出す。しかし、何度考えても、彼女を閉じ込める礼拝堂の密室を完璧だ。縁寿自身はミステリーにそれほど明るいわけではない。
 しかし、これまでのベアトのゲームのカケラを全て知っている。付け焼き刃ではあっても、そこそこの力はあるはずなのだ。
 しかし、………ベアトにどのような青き真実を打ち付けても、びくともしない…。ベアトは優雅に煙管を振るい、赤き真実で打ち返すだけなのだ。
【ベアト】「いい加減に諦めよ。妾はそなたとゲームをしているつもりさえない。」
【縁寿】「………絶対に解けない問題、とでも言いたげね。」
【ベアト】「戦人がヱリカを持て成し終えるまでの時間稼ぎよ。そなたの頭を冷やせるのは戦人だけだ。」
【縁寿】「頭を冷やす? 私がッ? ………あんたたちが一なる真実を私から隠すからでしょうがッ!! だから私はあんたたちに抗う!! これは権利よ!! 私には、右代宮家の最後の一人として、真実を知る権利があるッ!」
【ベアト】「そうだ。だからこそ、この最後のゲームなのだ。」
【縁寿】「……そうね。この最後のゲームが与えられなかったら、私には真実に至るチャンスさえ与えられなかった。その点についてだけは、私も感謝しているわ。」
【ベアト】「1986年に何があったのか。何が親族を、そして家族を奪ったのか。それを知りたいと願うそなたの気持ちは、ニンゲンとしては真っ当なものだ。……しかし、それを理解してなお戦人は、そなたが1986年に回帰するべきではないと思った。」
【縁寿】「お兄ちゃんの言いたいことはわかるわよ…! 過去を振り返らず、未来を見て生きろとか言うつもりでしょ?!」
【ベアト】「そうだ。それを戦人は、この最後のゲームを以ってそなたに伝えるつもりだった。」
【縁寿】「なら、答えは早々に出てるわ。ノーサンキューよ、黄金の魔女…! 私は1986年にもう死んでいた。その後、12年間も亡霊としてひとりぼっちで彷徨ったわ…! そして絵羽伯母さんが死んで、私が亡霊としてさえ、地上に留まる理由がなくなった! だから、最後に一つだけ、自分が本当にしたいことをして死のうと決めたの!!」
【ベアト】「それが、1986年の真実を知ることだというのか。」
【縁寿】「そうよ、悪いッ?!?!」
【ベアト】「あぁ、悪いぞ愚か者!! ではそなたは真実に至ったなら、死んでしまうということ…! ならば至らせるわけには行かぬ…!! どこまでも煙に巻いて、そなたを生き延びさせねばな! 戦人はそなたに生きることを望んでいる…!!」
【縁寿】「真実のない生なんて、死んでいるのと同じよ!! 私は、生きるために知ろうとしている!!」
【ベアト】「そなたは今、死ぬために知ろうとしていると言ったぞ。」
【縁寿】「あぁ、そうね。じゃあ言い直す…! 私は死ぬために知ろうとしてるの!! そして自分の命と引き換えに、ベルンカステルと契約したのよ!! あの日に何があったのか知るためにね!! 一なる真実は、私が自ら手にする冥土の土産なのよッ!!!」
【ベアト】無駄だ。そなたにこの密室は破れぬ。この密室は完璧だ…! にもかかわらず、そなたをこの密室で妾が殺す!!
 ありったけの推理と想像、もはや妄言とまで呼べるような推理さえも、全て叩き付けた。しかし、まったくベアトに通じない。
 一なる真実の書を目前にして、……縁寿は無力さと悔しさで下唇を噛み締める。
【ベアト】「本来は、そなたに与えた鍵にて、そなたに未来を選ばせるゲームだった。」
【縁寿】「嘘だわ。こうして礼拝堂に隠して、私にはあんたたちの望む、前向きな未来の扉とやらでも選ばせるつもりだったんでしょう。……そんなのは選択じゃない! 押し付けだわ!!」
【ベアト】「親は子の選択肢から、不適当なものを間引く権利を有す。」
【縁寿】「私は子供じゃないわ!! 自分で考えて行動できる、18歳の女よ…!!」
【ベアト】「たわけがッ!! 過去のこと以外、何も考えることが出来ぬ6歳の小娘であろうが!!」
【縁寿】「誰のせいでよッ!! あんたのせいで、……私はいつまでも6歳のままなんじゃない!! 真実を覆い隠すあんたの幻想を、今こそ打ち破るッ!! そうね、思えばあんたは、今こうして礼拝堂に私を閉じ込めてるんじゃない! 1986年のあの日から、ずっとずっと……、私はあんたのせいで孤独で誰も真実を教えてくれない密室に閉じ込められているのよ!!」
【縁寿】「あんたの密室を、……今こそ、私は自らの手でッ、打ち破る!! ……あぁ、駄目ね、全然駄目だわ。わかったわ、あんたの完全密室のトリック!! 復唱要求ッ!! “私を密室に閉じ込めてから、直ちにあんたは私を殺害している!”」
【ベアト】「…………! 拒否する。」
【縁寿】「そうよ。……あんたは、私を18年掛けて殺すのよ。ありがとう、ベアトリーチェ。……それを思い出させてくれたお陰で、あんたが私を殺す密室殺人のトリックがわかったわ。」
【ベアト】「…………縁寿。そなたは未来ある若者だ。そして、未来に生きる黄金の魔女ではないか。ならば未来にて生きよ。過去の真実にどれほどの価値がある? そなたが自ら生み出すそなたの未来の真実の方が、よほど価値があるだろうに…!!」
【縁寿】「私の人生なんてクズよ。家族は私を残してみんな死んだわ。だから、一なる真実を手土産に、私はみんなのところに帰るの。」
【ベアト】「真実を知れば、家族の死を受け入れることになるだけだぞ…! ひょっとしたら、家族の誰かが生き延びていて、再会できるかもしれない奇跡に託して生き延びようとは思わぬのか…!」
【縁寿】「安心して。奇跡の魔女でさえ、そのカケラを見つけられなかったから。」
 六軒島の大爆発で、親族の遺体はほとんど発見されなかった。それはひょっとしたら、……爆発を逃れて生き残ったことを示すのかもしれないと、それを生きる糧にした日もあった。しかし、それだけを糧にするには、12年は長過ぎる。
【縁寿】「だから私は、真実を知りたいと思いながらも無意識の内に、真実から目を背けていた。……家族の死をはっきりと理解することで、誰かが生き残ったかもしれないという奇跡を、自ら否定してしまいそうで。………でもね、もうそういう、ありもしない奇跡にすがって生き延びるのには飽き飽きしたの。だから、私は家族の死を受け入れることにした。どのような真実であろうとも認めようと思った。だから、私は真実の魔女となった…!!」
【ベアト】「……過去の真実に目が眩み、自らの未来が見えなくなった者の、何と愚かなことか……! 許せ、戦人。……そなたの妹を、正しき未来に導くには、妾は力が足りなかった…。」
 縁寿の手に、青く眩しく光る楔が現れる。それは太く長く、まるで槍のように見えた。
【縁寿】「これで終わりよ、1986年の魔女。……この密室は完璧な密室!! ゆえに私は出られず、あんただって外部から私に指一本触れることは出来ない! でも、あんたは私をこの密室に“閉じ込めた”わ! それを以って、私を“殺した”と言える唯一のトリックがこれよ…!! あんたは私をこの完全な密室に閉じ込めて餓死させた…!! それを目論んで私を閉じ込めたなら、これは立派に“あんたが殺したことになる密室殺人”!! 死因を煙に巻きすぎたのが裏目に出たわね。………さようなら、幻想の魔女。シーユーヘル。」
 その青き真実の槍を、ステンドグラスを背負って浮かぶベアトは両腕を広げて受け入れる。青き槍はベアトをステンドグラスに、磔刑のように縫い付けた。
【ベアト】「………ぐ、………ぬ…………、」
【縁寿】「ゲームセット。…これが絵羽伯母さんの日記、……一なる真実の書ね。」
 縁寿は、祭壇の上に置かれた、水晶に封じられたそれを手に取る。
【ベアト】「……それを読めば、そなたはベルンカステルとの契約により、死ぬのであろうが…。………死ぬために真実を知るのか? 馬鹿げている…!!」
【縁寿】「そうよ。私は死ぬために真実を求めてるの。……死に方くらい、私に選ばせて。………私も馬鹿じゃない。……本当の私はきっと、………あの、地上の星空の宙に、浮かんでいるのよ。」
 ベルンカステルは、私を最後のベアトリーチェだと認め、1986年の真実を知る旅に私を招いた。ここには二度と戻って来られない。そう告げて、ビルの屋上から漆黒の中空へ歩み出すベルンカステルの背中を追って、……私も中空へ足を踏み出した。
 それが、契約。私はベルンカステルに2つを望んだ。1つは家族が誰か帰ってきて欲しい。
 もう1つは、……復讐。あの日に何があったのかを覆い隠す、魔女幻想を打ち破るということ。即ち、真実に至るということ。
 しかし、最初の願いは叶えられない。だって、奇跡の魔女でさえ、私の家族が帰ってくるというカケラを見つけられなかった。
 だから、彼女は無言で私に問い掛けたのだ。家族の誰かが帰ってくるかもしれないからと、いつまでも亡霊のように生き続ける、この無駄な生を終わらせる勇気を持たない限り、真実には至れないと。
 だから、彼女は中空に歩み出し、私にその後を追わせた。そう、今だからこそ理解できる。私は自らの命と引き換えに、……ベルンカステルにあの日、1つのことを願い、1つのことを諦めたのだ。
 願ったのは、真実を覆い隠す幻想への、復讐。そして今こそ私は幻想の主、黄金の魔女を打ち破って一なる真実の書を手に入れ、その復讐を成し遂げた。
 諦めたのは、家族が誰か帰ってくるかもしれないと信じ続ける、甘えた心。だからこそ私は、今こそこうして、家族が皆、死んでしまったことを受け入れることが出来る。
【縁寿】「……知らなきゃ生きてることに出来るの? あんたたちの言う猫箱というのは、死体を隠せば生きていることにしてもいいという、甘えた妄想だけがたった一つのトリック! でもね、隠したって、死んでいることは変わらないのよ…!!」
【縁寿】「遠いお空の国で、いつまでも見守っているなんて、そんなおとぎ話みたいなので私の傷が塞げると、本気で思っているの?! 私は真実の魔女、エンジェ・ベアトリーチェ!! 起こらぬ奇跡を待って亡霊のように生きる日々から、私は真実に至った高潔なる殉教者として生を終えるのよ…!!」
【ベアト】「……そなたは真里亞の魔導書より、魔法の力を理解したのではなかったのか……。」
【縁寿】「えぇ。理解したわ。そして何て無力なものだろうと絶望したわ。……そしてそれが、お兄ちゃんが私に押し付けようとしていることなのよね。……私が信じれば、魔法があれば、……いつだって、家族は私の側にいる。」
【縁寿】「………馬鹿にしないでッ!!! そんな魔法で、そんな幻想で白昼夢でッ、……私の12年が癒えるの?! そしてこれから未来の数十年をどう生きてけるの?! 誰か帰ってきてよ、誰かッ!! でも誰も帰ってこない!! じゃあせめて、あの日、何があったのかだけでも教えてよ!! それは教えてくれるそうよ、ベルンカステルが…!!」
【縁寿】「あぁ、我が主よッ、今こそ一なる真実の書を手に入れました…!! 今からこれを持ち帰りますから、私に真実をお与え下さい!! 家族が生きているかもしれないという甘えた奇跡を捨て去る覚悟は、もうとっくに出来ています!! 私に今こそ、あの日の真実を教えてぇえええぇえええええぇええぇえぇ!!!」
 礼拝堂の中から強い光が溢れた。それは窓や扉の隙間からも勢いよく噴き出し、戦人やヱリカの目にも届く。
【戦人】「………何だ…?!」
【ヱリカ】「どうやら、同志縁寿が仕事を終えたようですね。あなたが無様な封印を施したようですが、我が主に委ねれば、冷凍サンマを解凍するより簡単に解いてくれるでしょう。」
【戦人】「……く、くそ……!!」
【ヱリカ】「我が主より、縁寿が仕事を終えるまで遊べば良いと命じられています。充分に再会を楽しめましたし、これでお開きにしようと思います。」
 ヱリカは、スカートの裾を掴んで、優雅にお辞儀する。
【戦人】「なぜ縁寿に一なる真実を唆す?! お前の主なら知ってるはずだ…! 縁寿には、何の意味もない真実だと!」
【ヱリカ】「えぇ。世の中のあらゆる真実に、意味などありません。意味を生み出すのは、結局のところ、人間ひとりひとりの心の中。……一なる真実でさえ、人が異なれば、生まれる意味が異なる! ないんですよ、真実に意味なんて! それでも私が真実に拘る理由はただ一つ!」
【戦人】「探偵だから!」
【ヱリカ】「グッド!! しかし縁寿さんは探偵ではありません。あの子にとって真実はゴール。……幸薄き人生に終わりを告げる終止符です。これであの子はようやく、生を終える最後の禊を終えた…!! 死ぬために、たった一つの真実に拘る一夜限りのッ、地上に叩きつけられて死ぬまでのほんのわずかな時間だけの、仮初の真実の魔女!!」
【戦人】「縁寿を死なせはしないッ!! どんなに辛くても生きてくれ!! それだけが、俺たちの願いなのだから…!! 生きていれば、どんな魔法も、どんな奇跡だって起こりえるんだ…!!」
【ヱリカ】「それを、縁寿さんの肩を抱いて直接言わなかったことが、あなたの敗因です。……如何です? あなたの喚きを聞くだけで、古戸ヱリカにはこの程度の推理が可能です。」
【戦人】「生きろッ、縁寿ぇええええええええぇええええぇええええッ!!!」
 礼拝堂に叫ぶが、すでに縁寿はそこにはいないだろう。戦人の叫びは、虚しく漆黒の空と山羊の海の喧騒に飲み込まれて消える…。
【ヱリカ】「同志エヴァ。作戦終了です。退却しましょう。」
【エヴァ】「あら、もうおしまい? 今度は私自らが絵羽犯人説で、島中を滅茶苦茶にしてやろうと思ってたのにぃ…!」
 エヴァが宙に姿を現し、けたけたと笑う。
【エヴァ】「ごめんね、戦人くん。私の力不足で。……私は私のやり方で、12年間、あの子を守ったわ。」
【戦人】「………感謝する。」
【エヴァ】「でも、もうあの子が自分で決めることよ。もうあの子も18歳。自分の人生は、自分で決めてもいいとは思わない?」
【戦人】「……悪いな。妹煩悩な兄貴で。」
【エヴァ】「じゃあね。私は今はベルンカステル卿の駒。これで失礼するわ。」
【ヱリカ】「同志エヴァ、後ほど。」
 エヴァが手の平を広げると、そこに、青く光る尖った小さなカケラが現れる。それが爆ぜると、鋭く眩しい光に包まれて、エヴァの姿は消え去る。その光は、さっき礼拝堂から漏れ出したものと同じだった。
 ……ゲーム盤の外へは、駒は出られない。しかし、航海者の魔女だけは、それが出来る。恐らく、ベルンカステルが与えた、それを可能にする魔法に違いない。
 ヱリカも手の平を開くと、そこに同じカケラが現れる。
【ヱリカ】「それではこれにて。下手をしたら、これでお別れですね。」
【戦人】「……待ちな。俺たちの決着は、まだついてねぇぜ。」
 ヱリカの手にあるカケラを奪えば、……ベルンカステルの居所へ行ける。
 一なる真実の書の封印は、ベルンカステルによって易々と解かれるだろう。しかしそれでも、幾ばくかの時間は掛ける。あのカケラを奪えれば、……縁寿を連れ戻すチャンスはある…。
【ヱリカ】「決着も何も。タイムオーバーです。……ですが。……最後にもう一撃を食らいたいというのがお望みなら、叶えてあげてもいいですが。」
 ヱリカなら、絶対に挑発に乗ってくれると思った。……戦人はもう、ヱリカのトリックに気付いているからだ。
 ついさっき、気付いた。ヱリカと話しながらも、並列して推理をしていた。その一撃で仕留め、あのカケラを奪う……。
【戦人】「行くぜ、ヱリカ。……この一撃で決めてやる…!!」
【ヱリカ】「その一撃でお暇しますので。自慢のトンデモ推理の中でも、飛び切り面白いのをお願いします。」
【戦人】「お前の密室定義は、壁、窓、床、天井、チェーンのあらゆる絶対性を主張した!! しかし一点だけ、あまりの馬鹿馬鹿しさに、俺が求めなかった絶対性がある!」
【戦人】「それはチェーンを外部から開閉することの可否だッ!!」
【ヱリカ】「………!」
【戦人】「青き真実!! これがお前の密室の答えだッ!! チェーンの長さ!! お前の密室のチェーンは長く、外部からも開閉が可能であるッ!!!
 何て馬鹿馬鹿しい答え。しかし、チェーンの絶対なる施錠が、そのまま密室の絶対の保証となると石頭な思い込みがあったなら、これは密室になってしまうのだ。
 戦人の手より放たれる青き楔が、正確にヱリカの胸に突き刺さる。苦痛に表情を歪める彼女の手が揺らめき、……手の平のカケラが、宙を舞う。
【ヱリカ】「………戦人さんの密室定義は、壁、窓、床、扉、チェーンまであらゆる絶対性を主張しました。しかし一つ、実に馬鹿馬鹿しい定義が抜けていましたよ?! 青き真実ッ!! 戦人さんの密室には天井がなく、壁を乗り越えての入室が可能であるッ!!!
 カケラに手を伸ばす戦人のわき腹に、ヱリカの背後より回り込むように飛来した青き大鎌が、鋭くグサリと突き刺さる。戦人の手は、……カケラに、………届かない。それは再びヱリカの手に戻る。
【ヱリカ】「トリックの馬鹿馬鹿しさは、互角だったようですね。……ミステリーマニアなら、憤怒しているところでしょうか?」
【ヱリカ】「しかし私は違う! その馬鹿馬鹿しさを暴くに至った、その過程に恍惚を覚えますッ!! それが探偵ッ、古戸ヱリカ!!」
【戦人】「……貴様……、……とっくに、答えに至ってやがったな……。」
【ヱリカ】「いいえ。あなたが青き真実を繰り出してから、カケラを奪おうと手を伸ばすまでの一瞬で考えました。私は最初から時間稼ぎ。今の一瞬で初めて、私は推理を始めたのですから!」
 ヱリカは二人を閉ざしていた水晶の結界を解く。そして、遥かな上空まで飛び、戦人を見下ろしながら笑い、もう一度お辞儀をする。
【ヱリカ】「御機嫌よう、戦人さん…!! 私の出番がこれだけだとしても! これで私が用済みで、再び忘却の深遠に突き落とされようとも! 悔いのない時間でした!!」
【戦人】「ま、待てッ!!!」
 待てと言われて待つ馬鹿などいない。ヱリカは眩しい光に包まれて、その姿を消す。
 縁寿は一なる真実の書を手に入れ、ベルンカステルのもとへ去った。……ゲーム盤の外へは、戦人たちに至る術はない。万事は、休した……。
 黄金蝶がひらりと舞い、ベアトが姿を現す。
【ベアト】「……すまぬ、戦人…。……縁寿を逃がしてしまった……。」
【戦人】「俺もすまねぇ。……ヤツらを逃がしちまった。もう、お手上げだ……。」
 戦人が用意した、縁寿のためのゲーム。その縁寿が姿を消した以上、もはやこのゲーム盤には、何の意味もない。……そして意味どころか、ゲーム盤そのものさえ、もはや山羊たちに食い尽くされ、虚無の海に浮かぶ一枚の木の葉のようだ…。
金蔵の書斎
 ガートルードたちの封印により、屋敷の2階より上は守られていた。黄金郷の扉はようやく、子供なら通り抜けられる程度の幅まで開いていた。
 真里亞やさくたろうなどの、小柄な者が先に潜り抜ける。
【金蔵】「……我が友よ。扉の開きが、少し速くなった気がする。」
【源次】「はい。私の目にもそのように見えます。」
【絵羽】「……………………。」
【蔵臼】「お、お父さん…! 扉はまだ開きませんか…! ヤツら、もうじき、窓を破ってきそうです…!!」
【ロノウェ】「蔵臼さま、どうかご安心を。アイゼルネ・ユングフラウの結界、そう易々と破れるものではございません。」
【ワルギリア】「もうじき、大人も通れるようになります。大丈夫ですよ、間に合います。」
【熊沢】「し、しかし、ドンドンバンバンとすごい有様でしてそのッ、」
【金蔵】「慌てずに待て。どうせ、我らには待つ以外に出来ることは何もないのだからな。」
廊下
 屋敷の外壁にも、びっしりと山羊たちがしがみついてる。そして、壁や窓を破ろうと、牙や拳を打ち付けるのだ。
 だから、廊下中の窓にびっしりと山羊たちがしがみ付き、窓をその豪腕で叩き続ける様子は、たとえ結界で守られているとわかっていても、怯えずにはいられぬものだった。
 しかし、窓ではなく、大階段の上で結界越しに山羊の群れを見る者は、他の感情を抱くだろう。それは恐怖ではなく、……ある種の悲しさと、虚しさだった。
 ホールの大階段は、踊り場の境で結界を張られている。その結界の向こうは、……すでに、何もかもが食い尽くされてしまった。
 上の階の廊下にいる者には、自分たちが、六軒島の屋敷の中にいると信じることが出来るだろう。しかし、ここにいて、……この光景を見ている者には、もはやそう思い込むことは出来ない。
 ホールはおろか、1階も、……そもそも大地さえもなくなろうとしている。山羊の海は、とっくの昔に全てを食い尽くしていた。
 ホールを食い尽くし、屋敷の柱を食い尽くし、床も、大地も、海も、概念も、……戦人の生み出したゲーム盤の全てを食い尽くした。今や、この屋敷は、上半分の食い残しのみが、虚無の空間に漂っているのだ。
【ドラノール】「……哀れなことデス。」
【ガート】「何が也や。」
【ドラノール】「……この島を食い尽くすという快楽に身を任せた山羊たちが、自分たちの足場さえ食い尽くし、虚無に落ちて、消えてイク。」
 かつてそこは、広大なホールだった。ホールの外には広大な薔薇庭園。……足の踏み場はいくらでもあった。
 しかし今や、……そこかしこは穴だらけで、もはや屋敷の外だった部分は完全に虚空。わずかに残った足場や柱などにしがみ付き、山羊たちはそれでもなお、ばりばりと貪り食っているのだ。
【コーネリア】「……真実を暴くとは、殺すことと心得るもの也。」
【ドラノール】「人は、なぜ殺さずには、生きられないのデス。……遠大なる歴史の中で、あれだけの大勢が奇跡を願いながら、……結局は奇跡の余地を自ら食い尽くし、自らの足場さえ食い破って、奈落へ落ちてユク……。」
 柱にぶら下がりながら、自らの捕まる柱をかじっていた山羊が、……当然の結末として、千切れた柱にしがみついたまま、虚無の漆黒に落ちて飲み込まれるのが見えた…。
【理御】「人間は、………知るために生きるように定められた、悲しい生き物だからです。」
【ドラノール】「………………………。」
【理御】「……知ることが、自分の生きる夢や希望を自ら食い尽くすことを意味するなら。………人間は、死ぬために生まれてきたってことになる。……私たちは、生きろと教えられます。しかし、生きて成すことのほぼ全てが、結局は自分を殺している…。」
【ウィル】「………それ以上考えるな。頭痛にならァ。」
【理御】「私はひとりの人間として問いたいっ。……知ることは罪なのですか?! 無知に生きる方が、夢や希望があると…?!」
【ウィル】「……全知に生きることも、無知に生きることも、どちらにも利点はあるし、短所もある。そのどちらに生きるのも自由だ。………だから、ニンゲンってのは無力なんだ。」
【ガート】「人は、知ることは出来ても、“知らぬ”ことは出来ない生き物、也……。」
【コーネリア】「故に、全知の神は、それが出来ぬニンゲンに代わりて、知るべきことと、知らぬべきことを分け隔てているもの也。」
【理御】「…………過ぎた好奇心は、夢も希望も、………殺す。」
【ドラノール】「人は、知るべきでないことを、知らぬままに忌避できぬ哀れな存在デス。………バトラ卿がそれを縁寿に伝え切れなかったとしても、無理もないことデス。」
【ウィル】「……その縁寿ももういない。……このゲームも、もうおしまいだな。」
 ウィルのその言葉に、誰も二の句を接げず、一同は沈黙する。がりがりと、全てを食い尽くす山羊たちの喧騒だけが、虚しく響き渡っていた…。
 黄金郷に逃れたところで、虚無の山羊たちはやがて、その境さえも食い破るだろう。一時、逃れたところで、何の解決にもならない。全てはもう、決している。過去の猫箱を暴こうとする、未来の暴力に、……抗う術など、ないのだから。
【理御】「なら、………私たちは生きなければ。」
【ウィル】「…………………………。」
【理御】「人間の愚かさが、自ら夢や希望を捨て去ることならば。……私は、それを最後の一秒まで信じることを選びたい。」
【ウィル】「…………いい根性だ。」
【理御】「私は、幾百万の世界のベアトリーチェたちの、唯一の希望が具現化した存在。……だから私はこんな時でも、みんなの希望でなければいけないんです。だから私はまだこのゲームを、諦めません。」
【ドラノール】「……諦めないトハ?」
【理御】「最後の一秒まで、奇跡を信じて待つということです。」
【ウィル】「最後の一秒まで、足掻いて足掻き抜こうってわけか。」
【理御】「そうですっ。私たちの時だって、あの恐ろしい猫の群れの中で死を覚悟したではありませんか…! でもラムダデルタさんが助けてくれました…! もし、奇跡を信じずに諦めていたら、私たちは助けられる前に、虚無に消えていたに違いない。」
【ラムダ】「私が助けたってより、ベルンがあんたたちを殺し損ねたって感じね。あるいは、あの子の気紛れかもしれない。奇跡の魔女の、奇跡的な気紛れってわけね。くすくすくす……。」
 いつからそこにいたのだろう。ラムダデルタは階段の手すりに寄りかかり、ポップコーンを食べていた。いる? とポップコーンのカップを傾けるが、理御はいらないと首を振る。
【理御】「………戦人くんたちが言ってました。……縁寿ちゃんは、自分の命と引き換えに、真実を得る契約をしたと。」
【ラムダ】「さっきのあんたたちの話によるなら、それは契約じゃないわね。……だって、人は死ぬために真実を求めて生きてるんでしょ? つまり縁寿は、自分の生の全てを真実を得るために費やした。……それを一瞬の時間に、ベルンが凝縮しただけのことだわ。」
【理御】「……縁寿ちゃんは、夢も希望もなくしたから、自らの命を軽んじてしまった。………彼女に、どうやったら夢や希望を与えられるんですか。……どうやったら、生きることに意味を見出させることが出来るんですか。」
【ラムダ】「……それ、私に聞いてんのー? 私、パーよ? それも二回転捻りの入ったクルクル超パー。難しい話されてもわかんないわー。」
 ラムダデルタは、残りわずかのポップコーンを、ざらっと口に放り込むと、空っぽのカップを虚無の奈落に放る…。
【ラムダ】「……ベルンがあの子を唆したわけじゃないわ。ベルンは、縁寿にチャンスを与えた。いえ、選択肢を与えたと言うべき? そして縁寿はその選択肢の中から自ら選んでゲーム盤に現れ、……そして今、戦人とのゲームで再び、自ら選択肢を選んでる。……あの子のゲームは、最初から最後までずっと、あの子のものよ。私は今、それをのんびりと観劇しているわ。」
【ウィル】「………観劇に熱中している、というわけでもなさそうだな。」
【ラムダ】「まーね。先の見えちゃったお芝居だし。……だから、そろそろお暇しようかな〜って思ってたところよ。」
【理御】「……先が見えたと感じたら、あなたはそのお芝居を見るのをやめるのですか。ひょっとしたら、あなたが想像しないようなクライマックスを迎えるかもしれないのに?」
【ラムダ】「………………………………。」
 ラムダデルタは塩のついた指をぺろりと舐める。そして挑発的に理御を睨んで、にやりと笑う。
【理御】「縁寿ちゃんのゲームは、……絶対にこれで終わりません。……必ず、戦人くんの気持ちが通じます。……彼女に、より良い未来を生きて欲しいという気持ちが伝わり、……彼女が自らそれを選択する。………必ず、絶対、そういう物語になります。」
【ラムダ】「……へぇ…? この絶対の魔女ラムダデルタに、あんたが絶対を保証するの…?」
【理御】「そうです。私が、絶対に保証します。……縁寿ちゃんのゲームは、このままでは終わりません。だから、席を立たないで下さい。そして、私たちも立ちません。私たちに出来ることは、必ずあります。そしてそれが必ず、………彼女をより良き未来へ誘う。……この物語は必ずハッピーエンドになります。だから、最後まで見届けて下さい。お願いします。」
【ラムダ】「…………………………。……私、絶対の魔女として、この物語にハッピーエンドはなーいって宣言しちゃってるんだけど〜…?」
【理御】「ハッピーエンドの定義なんて、観る人それぞれが決めることでしょう?」
 しばらくの間、緊迫した沈黙が続く。それ、本気で言ってるの? とでも言うかのように、ラムダデルタは不敵に睨みつける。しかし、理御は目を背けない。二人はしばらくの間、瞬きさえせずに、じっと相手の目を睨み合っていた…。
【ラムダ】「………はー…!」
 ラムダデルタは、唐突に大きな溜め息を吐き出し、大きく伸びをする。
【ラムダ】「行く宛てもないし。……いいわー、もうちょっとだけ付き合ってあげる。ポップコーンのお代りをくれたらね。今度はキャラメルフレーバーがいいわー。」
【理御】「黄金郷へ来てくれれば、いくらでもご馳走します。」
 ラムダデルタは薄く笑いながら、手をひらひらと振る。どういう意味かわからないが、彼女なりの降参を意味するものらしい。
【ラムダ】「いいわ。あんたが、あんたなりの絶対のハッピーエンドを保証するなら。……この大ラムダデルタ、もう少しだけ付き合ってあげるわ。本当に私って、心が広いわよね! まるで琵琶湖のように!」
【ウィル】「微妙に狭いな。」
【ラムダ】「そして日本海のように穏やかね!」
【ドラノール】「すごい荒波デス。」
【ガート】「……謹啓。」
【コーネリア】「恐らく喩えが逆かと思われるもの也。」
 くぐもった笑いが起こる。
 ラムダデルタは、絶対の意思を持つ者に力を与える魔女。ハッピーエンドを信じる理御の絶対の熱意に、小さな魔法を授けてくれたのかもしれない。
【ラムダ】「みんな、私を退屈させるんじゃないわよ? じゃなきゃ、いつだって私は席を立っちゃうんだからねー。」
【理御】「もちろんです。戦人くんも歓迎するでしょう。」
 理御も理解している。ゲーム盤の外に縁寿を連れ去ったベルンカステルに対抗するには、同じくゲーム盤の外へ飛び出せるラムダデルタの力がいる。
 彼女に、このゲームを見限らせないことが、最後の希望となるのだ。
 しかしながら、暢気そうに鼻歌を歌うラムダデルタの表情から、助力を申し出そうな頼もしさを見つけることは、ちょっぴり難しかった……。
【フルフル】「見て、ゼパル! すごいわ、1階から下がぽっかりだわ!」
【ゼパル】「これは絶景だね! なかなかお目にかかれない景色だよ!」
【ドラノール】「………上の様子はどうデスカ。」
【フルフル】「そうそう、それを知らせに来たの!」
【ゼパル】「やぁ、みんなお待たせしたね!」
【ゼパル・フルフル】「「黄金郷の扉が、開いたそうだよ…!!」」
【ウィル】「……やれやれ、ようやくか。」
【ドラノール】「参りまショウ。ここはいつまでも安全ではありマセン。」
 階段に腰を下ろしていた者たちは、やれやれと腰を上げる。
【ウィル】「さらば、麗しの六軒島、だな。」
【理御】「……そうですね。……こんな光景でさえ、これが見納めなのですね。」
【ラムダ】「うっふふ、何を気弱なこと言ってんのよ。見せなさいよ、私に! はっぴーえんど!」

真実の書

 戦人によって、水晶に封印された一なる真実の書。その封印を解かねば、鍵を挿すことさえ出来ない。
【縁寿】「……あんたには解けるのよね? その封印。」
【ベルン】「もちろん。」
 そこは、薄暗く、そして広大な広大な空間だった。その空間は、たった一言で言い表すなら、……海の底の、海溝。
 しかしそれは正しくない。正しくは、……図書館。ただし、蔵書の数と本棚の高さが、人の世に存在するそれら全てを足したよりも、遥かに遥かに、……莫大で広大で絶大だった。
 もし、背の高さが偉大さで決まるなら。……神々は山の頂を越えるような巨人だったろう。ここは、そんな神々に相応しい大きさと偉大さを持つ、そんな図書館に見えた。
 本の一冊一冊の大きさは、人の世のそれと変わらない。しかし、それを収めた本棚は、まるで渓谷のように、いや、深海の海溝のようにそびえ立っているのだ。
 だから、……そんな広大な空間に浮かぶ縁寿たちの姿は、図書館に迷い込んだ、小さな蝶程度にも見えない。……深き深き海底の、海溝の底を寂しく泳ぐ、小さな深海魚のようにも見えた。
【ベルン】「これは封印じゃなくて、氷みたいなものよ。……戦人の手から奪えば、日向に置いとくだけで、時間を掛ければ勝手に解ける程度の脆いもの。」
【縁寿】「手っ取り早く、打ち砕けないの?」
【ベルン】「……あんたは冷凍サンマを、ハンマーで叩いて解凍するの?」
【縁寿】「ごめんね、家庭科は1なの。」
【ベルン】「……子猫たち。この封印の解凍を。」
 ベルンカステルがそう呟くと、遥か眼下の深海の暗がりや本棚の陰から、エメラルドグリーンの輝きがいくつも現れ、それが集まって、魚群を作るのが見える。
 その眼下の魚群に一なる真実の書を放ると、数秒遅れてから、魚群がそれに群がって、どこかへ運んでいく様子が見えた。その数秒は、どれほどこの本棚の海溝が深いかを示す。縁寿は改めてこの、神々の図書館の想像を絶する広大さに、呆然とする…。
【ベルン】「あとはあの子たちに任せておけばいいわ。」
【縁寿】「……本当に、私に中を読ませてくれるんでしょうね。」
【ベルン】「あなたが望むなら、それは叶うわ。そして私だって、あなたのその鍵がなければ、読むことが叶わない。」
 縁寿はポケットの中の黄金の鍵を、静かに握り締める…。
 とても長くて、そしてあまりに奇妙な旅だった。12年前の真実を求めて、家を飛び出し、……小此木社長に会って、天草に会って。……そんな冒険の旅は、いつしか魔女幻想に組み込まれて。
 しかし、今、私はここにいる。右代宮絵羽の日記。その中に記された真実の眼前に、今や私はいる。
【ベルン】「しばらく休みなさい。……私も、あんたの相手だけをしていられるほど、暇じゃないの。」
【縁寿】「………別に疲れてなんかいないけどね。」
【ベルン】「ヱリカ。……縁寿にお茶でもご馳走しなさい。」
【ヱリカ】「はい、我が主っ。」
 虚空より、ふわりとヱリカが姿を現して、主にお辞儀をする。
【縁寿】「………ベルンカステル。もしあんたが、私をうまいこと利用して、本と鍵を奪おうと考えているなら、……ただじゃ済まさないわよ。」
【ヱリカ】「き、貴様っ、我が主に向かって何て口をッ!」
【縁寿】「ごめんなさいね。魔女とずいぶん長くやり合ってたせいで、普通の言葉は信用しないことにしてるの。」
【ベルン】「……いいわ。赤き真実で約束してあげる。……一なる真実の書を、封印が解けて一番最初に読むのはあなた、縁寿よ。……これでいい?」
 縁寿はしばらくの間、魔女が何かのペテンに掛けていないか、言葉の裏を読み取ろうと思考を巡らす…。
 魔女による赤き真実での保証に勝るものはない。それを縁寿も理解している。なのに、その赤き真実までひょっとしたらと疑い出したら、………もうこの世には、何も信用できるものは存在しないことになる。そこまで疑うようになってしまったなら、……真実さえ、真実ではなくなってしまう。
【ベルン】「……まだ、不満なの?」
【縁寿】「ん、………。……何も。」
 一なる真実の書を読むには、ベルンカステルの協力が欠かせない。これ以上、駄々をこねて彼女の機嫌を悪くすることは、何の得にもならないことを、ようやく理解する…。
【縁寿】「……封印が解けたら、すぐに呼んでちょうだい。」
【ベルン】「もちろんよ。私だって早く読みたいもの。すぐに呼ぶわ。」
 ベルンはくるりと背を向けると、薄暗い本棚の海溝へ潜っていく。
 エメラルドグリーンの魚群が現れ、彼女に追従するのが見える。……使い魔たちなのだろう。深海魚の光にも見える、そのエメラルドの軌跡をぼんやりと見ていると、後ろから小突かれる。
【ヱリカ】「行きますよ。同志縁寿。」
【縁寿】「……気持ち悪いから、縁寿でお願い。」
【ヱリカ】「じゃあ、私のことはヱリカさまでお願いします。」
【縁寿】「……行きましょ、同志ヱリカ。」
 ヱリカの先導で、二人は泳ぎ出す。宙を飛ぶというよりは、ここではそう表現する方がぴったりに思えた。
【縁寿】「………ここは何なの。図書館って呼ぶには、あまりに広大過ぎるわ。」
【ヱリカ】「どうせ覚えられませんから、図書館とでも呼ばれたらどうです?」
【縁寿】「覚えるかどうかは私が決めるわ。言いなさいよ。」
【ヱリカ】「“尊厳なる観劇と戯曲と傍観の魔女により厳選されし名誉ある図書の都”です。」
【縁寿】「……やっぱ、図書館でいいわ。」
【ヱリカ】「言うと思いました。」
 図書の都。そう言われれば、そうにも見える。
 この峡谷のようにそびえ立つ本棚は、高層ビル。眼下に流れるエメラルドグリーンの光の軌跡を、高速道路に列なす車の灯りと考えたなら、確かにここは、図書の都だった。
【縁寿】「ただの本じゃないんでしょう。これらは。」
【ヱリカ】「えぇ。これら一冊一冊が、重厚な群集劇をまとめたもの。……ここでは本に見えますが、本を開けば、そこには本当に世界があるのです。」
【縁寿】「………私たちの長い物語も、この中の一冊でしかないのね。」
【ヱリカ】「遥か上層の、霞んで見えないくらいに上層の大魔女は、もはや神や造物主と同じ存在です。……そんな連中から見れば、私たちの物語なんて、果たして一冊にまとめる価値があるかどうか。」
 観劇者たちから見れば、自分たち個人の人生など、取るにも足らないものだろう。あれら一冊に世界が記されているとするなら、……自分のことなど、一行さえも割かれていないに違いない。
【縁寿】「でも、私たちは主人公だわ。……私も、あんたも。」
【ヱリカ】「そうです。神々の物語に記されることがなくとも。……私たちが記す自らの物語の主人公は、常に自分なんです。………それを自覚できるか出来ないかが、魔女とニンゲンをわける最初の分かれ道。」
 そこは、本棚が一部屋分刳り貫かれた、本棚の絶壁の手すり無きバルコニーだった。奥行きは浅く、まるで一部屋を半分に割ったかのよう。落ち着いた調度品で飾られ、さながら、ヱリカの隠れ家のようだった。
【ヱリカ】「我が主より、お茶を振舞えとの命令ですので。飲む気がなくても、漏斗を突っ込んで流し込みますから、そのつもりで。」
【縁寿】「………それやったら、お抹茶を振舞うわよ。」
【ヱリカ】「抹茶?」
【縁寿】「……何でもないわ、こっちの話。」
 ヱリカが紅茶の準備をするのを尻目に、……縁寿はこの世のものと思えぬ、異様なる絶景を見下ろす。その絶景は、紅茶の準備が終わるまで、縁寿の魂を吸い込むかのように、その目を釘付けにするのだった……。
【ヱリカ】「こう言っちゃ何ですけど。」
【縁寿】「……何?」
【ヱリカ】「真実を得るために、命を投げ出す契約なんて。よくもしたもんですね。」
【縁寿】「………生きて何かする当てもない。なら、私にとって残りの人生を投げ出すことなんて、対価としては安いものだわ。」
【ヱリカ】「我が主も物好きな方です。こんな、無気力女の無価値な命と引き換えに、契約なさるなんて。」
【縁寿】「……………………ふっ。」
 反論せず、縁寿は小さく笑う。まったくその通りだった。自ら進んで命を投げ出すような、そんな無価値な命で、よくもベルンカステルは力を貸してくれたものだ。
【ヱリカ】「ま、我が主は奇跡を司る魔女ですから。……だから、あんたみたいな無価値な女の前にも姿を現すのでしょう。」
【縁寿】「そうね。………ベルンカステルが現れなくても、私はあの日、あの虚空へ一歩を踏み出していたのだから。」
【ヱリカ】「…………やっすい女。」
【縁寿】「じゃあ、あんたにはそれだけの価値が?」
【ヱリカ】「私ですか?! ははは、あっはっはっはっはっはっははははははは……。」
 気持ちの悪い声で、ヱリカはけたけたと笑う。でもそれが、彼女なりの答えを意味していることに縁寿は気付いている。
 人は、望んで魔女になりはしない。生きることが出来るなら、人は誰だって、ニンゲンとしての生を全うしたいのだ。……それが、何かの事情で躓くから、……魔女として生きる道が、開かれる。
 真実の魔女を名乗る古戸ヱリカとて、それは同じはず。ここでこうして、目も合わせずに紅茶を飲む二人の真実の魔女は、……まったく同じ存在なのだ。
【ヱリカ】「私は、真実を暴くのが好きです。」
【縁寿】「知ってるわ。」
【ヱリカ】「隠し事を暴き、相手が、どうしてバレたんだと青ざめるのを見るのが大好きなんです。……その瞬間、私は真実に至ったのだと確信し、恍惚を覚えます。」
【縁寿】「趣味の悪いヤツ。」
【ヱリカ】「じゃあ、あなたにとって真実は何だと言うんです?」
【縁寿】「……………………………。」
 縁寿は即答しようとしたが、その言葉を飲み込む。そして、一度飲み込んでしまったら、何と言い返せば良いか、言葉を失ってしまった。
 縁寿にとって、真実とは、それ自体が目的だったからだ。
 最初は、憎しみから。島からたった1人生還した、右代宮絵羽が全ての犯人なのではないか。絵羽を憎んだが、彼女が犯人であるとする証拠は何もなく、もちろん、当の絵羽が島で何があったかを語ることもない。……だから、縁寿にとっての真実は最初、絵羽が犯人であることを示す証拠を意味した。
 でもその気持ちが、絵羽の死で、すぅっと萎んだ。絵羽が死んだ今、仮にその証拠を後に見つけようにも、……何の価値もない。
 だからやがて縁寿の欲する真実は、……純粋に、あの日、あの島で何があったのかを求める興味に変わった。しかし、言うまでもない。それを知ったからといって、………家族の誰かが帰ってくるわけでもないのだ。
【縁寿】「……意味なんて、ないのかもね。」
【ヱリカ】「意味もなく、大好きなお兄ちゃんが隠す真実を暴く? あんたこそ意味がわかりません。」
 ヱリカは小馬鹿にするように笑う。縁寿も、同感だとでも言うように笑う。
【縁寿】「だからね。私にとっての真実は、目的に変わったの。……生きるための、理由とでも言えばいいのかしら。」
【ヱリカ】「じゃあ、真実に辿り着いたらもう、生きる意味も目的も、なくなっちゃいますね?」
【縁寿】「そうよ。だから、死ぬの。……もういいじゃない。12年も余計に生きたのよ。そんな私に最期の瞬間くらい、願いを叶えてくれる魔女が現れてもいいとは思わない?」
【ヱリカ】「…………ぶっちゃけると。生きるのにもう疲れた、の一言で要約できちゃいますね?」
【縁寿】「そうよ。だから、私の存在も生きる目的も、何もかもが無意味。……一なる真実の書に辿り着くという目的は、そんな私に、人生最後のちょっとした煌きを与えてくれたわ。……その一点でだけ、ベルンカステルには感謝してるわ。」
【ヱリカ】「なるほど。……戦人はあんたに生きて欲しいから、あんたの死ぬためのゴールを、隠してるわけですね。……戦人さんに初めて同情します。妹は選べないですからね。」
【縁寿】「……………………………………。」
 ごめんね、お兄ちゃん。もう、生き飽きたわ。
 12年間。誰かが帰ってくるかもしれないという幻想だけを糧に、生きた。もう、楽にさせてちょうだい。
 そんな私が、自らの人生のピリオドとして決めたのが、……あの日の真実。
 12年間、奇跡を信じて生きてきたけれど、奇跡なんて起きなかった…。もう私は、……奇跡なんて信じないの………。
【ヱリカ】「……一なる真実の書。内心は私も興味津々でしたが。そんなあんたの人生のピリオド扱いじゃ、大した真実は記されてなさそうですね。」
【縁寿】「そうね。………最初は、驚天動地の何かが記されているかもと期待したわ。でも、……今は何というか、冷めてる。」
【ヱリカ】「無価値なあんたが求める真実なんて、どうせ無価値です。それが、あんたという無価値な人生のピリオドに相応しいでしょう。」
【縁寿】「………えぇ。きっと、そうなのよ。」
 縁寿はもう、何かがわかり始めていた。絵羽がどういう事情で、あの島のことを語らなかったにせよ。……あの島であの日、起こったことは、………何のひねりもないに違いないのだ。
 地下の秘密基地の爆弾が、何かの誤作動で大爆発。そう。……それはただの、事故。
 でも世間は、あの島であの日、何らかの陰謀が渦を巻いたに違いないと信じ、期待した。犯人を疑われる絵羽が、いくら、何もおかしなことは起こらなかったと主張しても、誰も信じないだろう。……もちろん、縁寿も。
 ならば、……貝のように口を閉ざす方が、まだしも楽。絵羽が何も語らぬことを選んだとしても、……それは当然の話だったのだ。
【縁寿】「……今は、達成感なんてまったくない。……よくわからない、気だるい疲労感があるだけよ。」
【ヱリカ】「真実の魔女は、真実に堪える力があるからこそ、真実の魔女なのです。………同志縁寿。あんたにはどうやら、その力がないようですね。あったなら、死のうなどと思わないのですから。」
【縁寿】「………………………。……そうね。……私は、誰かが帰ってくるかもしれないという幻想に12年もすがった。……私が、ベアトリーチェの猫箱に都合よく真実を隠して、12年も真実を拒否していただけに過ぎない。」
【ヱリカ】「……一なる真実の書を読んだら。あんたはどうなるんでしょうね。」
【縁寿】「さぁ。………契約に従い、ベルンカステルがチョンっと、私の首でも鎌で刈ってくれるんじゃない? あるいはまた挽き肉かしら。……今度こそ、塩と胡椒を練り込まれるわね。」
【ヱリカ】「…………………………。……なるほど、だから挽き肉なわけですね。」
【縁寿】「何か言った?」
【ヱリカ】「いいえ、何も。それよりお代わりは如何です?」
【縁寿】「ノーサンキュー。」
 縁寿はぼんやりと、手すり無きバルコニーより、本棚の渓谷の、………いや、本棚のビル街の谷間の、……奈落の暗闇を見下ろしていた。
 ……私は、旅の始まりから終わりまで、………一歩たりとも、ここからは動いていないのだ。私の、……一歩しか歩かない旅は、……もうじき終わる………。
【縁寿】「……あの、底を流れてる光の行列は何?」
【ヱリカ】「あぁ。大アウローラ卿のパーティーの、客人たちの行列でしょう。」
【縁寿】「客人…?」
【ヱリカ】「元老院の大魔女たちや、退屈から逃れる永遠の旅の途中の航海者たちや、数百年の眠りより目覚めた偉大なる大魔女たちから、未来世界を牛耳る魔女や魔女狩りの貴族たちまで。今夜は大きなパーティーが催されるようですよ。」
【縁寿】「……お誕生パーティーでもするの。」
【ヱリカ】「無限の魔女、大ベアトリーチェ卿は、辺境の魔女なれど、その優れた魔法大系により無限の物語を生み出す無限機関“ベアトリーチェの猫箱”を生み出した天才魔女だそうです。……私からすれば、詰めの甘いマヌケ魔女なのですが、どうやら、大魔女の世界では、ちょいと知られた有名人のようで。」
【縁寿】「ベアトリーチェの誕生会でもやるわけ?」
【ヱリカ】「我が主は、ベアトリーチェのハラワタでモツ鍋パーティーと言っています。……だってそうじゃないですか。一なる真実が存在しないから、猫箱は無限の物語を生み続けたのです。………しかし今宵。あんたの鍵によって、一なる真実が明かされます。そしてそれは猫箱が開かれることを意味する。まさに、ベアトリーチェを生きたまま腹を引き裂いて、その中身をぶちまけるのと同じことってわけです。」
【縁寿】「………そのモツ鍋パーティーに、あの高速道路の渋滞みたいな大行列が? ………ベアトリーチェの有名さを驚くべきか、あの連中のゲスさに反吐が出るのが先か、わかりかねるわ。」
【ヱリカ】「あんたにとって、一なる真実の書の中身は、単なるピリオドに過ぎない。………でも、六軒島ミステリーを観劇する者たちにとっては、これは見過ごせないイベントですから。」
【縁寿】「なるほど。………あれは、お兄ちゃんのゲーム盤を食い破ってた山羊どもの、行列というわけなのね。」
 その縁寿の喩えは、正確だった。遥か遥か眼下を行列するのは、……山羊の仮面を被り、美しく着飾った貴族たちだった。
 皆、ベアトリーチェの猫箱を、そのハラワタを引き摺り出して食い千切りたくて、滴る涎を隠すことも出来ないのだ。そんな、真実を暴く暴力性に快楽を覚える暴食の山羊の貴族たちが、黒山羊に引かせた車で、列を成して会場へ向かっているのだ。
【縁寿】「………猫箱も、ベアトリーチェも、いよいよおしまいなのね。」
【ヱリカ】「……ベアトたちは、ゲーム盤の最後の食い残し、黄金郷に立て篭もってます。戦人とベアトが門番を務め、第一陣を壊滅させたようですが、第二陣は防げません。……我が主は篭城概念破壊の艦隊を与えられました。黄金郷の城壁など、もはや風前の灯です。」
【縁寿】「………あの、島に湧き出した山羊たちは、島に惨劇を望む、未来の妄言が具現化したもの。」
【ヱリカ】「そうです。あの山羊たちはネットの海からいくらでも生まれてきます。第一陣など、所詮は有象無象。第二陣は違います。無数の山羊たちの中から、立て篭もる全ての駒たち個人個人の否定に特化した、最精鋭から編成しています。総兵力は十万。……島に立て篭もる、ほんの数十人を否定するために、十万の否定を用意したのです。」
【縁寿】「……お兄ちゃんも、もうおしまいね。」
【ヱリカ】「もう、覚悟はされているのでしょう? 右代宮戦人は、1986年に死んでいて、……あの彼は、猫箱が生み出した幻想であると。」
【縁寿】「…………えぇ。……わかってるわ。」
 本当の兄であろうと、幻想の兄であろうと、……そして私の望む形であろうと、望まぬ形であろうと、私のためにゲーム盤を用意してくれた兄が、死ぬ。
 いや、死んでいたことを受け容れるだけなのだから、死ぬとは違うだろうが、…………。
 縁寿は思う。その兄に引導を渡す役目は、自分が引き受けるべきではないだろうか。
 これは、自らに課す最後の試練なのだ。あのゲーム盤の上のみんなの姿こそが、……縁寿の甘えの具現化なのだ。それを全て、自らの手で否定してこそ、………自分は本当の意味で、真実を受け容れることになるのではないだろうか。
 ……………………………。いや、それは欺瞞。……自分の心にさえ正直ではない、惑いだ。たとえ幻であっても、………あの、おかしなハロウィンパーティーが温かなものでなかったことには、ならない。
 ……お兄ちゃんは言ってた。あのハロウィンパーティーは、確かに幻想かもしれない。でも、それでも。あのパーティーを通じて、何かを私に伝えたいって………。……………………。
【縁寿】「その第二陣は……、」
【ヱリカ】「我が主より、私が指揮官を務めるよう、仰せつかっています。……お任せを、縁寿さん。あなた自らに手を汚させるほど、我が主は陰湿ではありません。」
【縁寿】「…………………………。」
 それは確かに、気遣いかもしれない。
 ………これは、未練だ。私はベルンカステルに感謝した方がいい。彼女の意地が本当に悪かったなら、第二陣を自ら率いて、親族たちの首級を自ら挙げよとでも命じるはずだ。
【ヱリカ】「同志縁寿。あんたは、真実の魔女なんですよね?」
【縁寿】「…………………。……そうよ。……多分。」
【ヱリカ】「じゃあ、受け容れましょうよ。12年を経て、ようやく本当の、一なる真実を。」
【縁寿】「…………………。……私はここで、ベルンカステルが封印を解き終えるのを、気長に待つとするわ。」
【ヱリカ】「恐らくは、パーティーのゲストとしてあなたは呼び出されるでしょう。……姿見はありますので、目やにでも取ってたらどうです?」
【縁寿】「あんたこそ、出陣前に無駄毛でも抜いてきなさいよ。」
 虚無の空間に、………それは浮かんでいた。それは、黄金郷への扉。扉の足元に、畳み一枚分程度残っている床タイルの模様だけから、それが金蔵の書斎のものであったことを思い出すのは難しい。
 ……もはやゲーム盤は、……黄金郷だけを残して、全て全て、食い尽くされてしまい、こうして虚無の海に、その扉だけを浮かべている……。
 その扉の前には、二人の人影が。……戦人と、ベアトだった。
 満身創痍とは言わないまでにも、疲労困憊という様子だった。戦人は扉に寄り掛かって、ようやく呼吸が落ち着いてきたようだった。ベアトも同じく扉に寄り掛かりながら、足をだらしなく投げ出している。
 あれだけの軍勢との戦いを、果たして戦いと呼んで良かったのだろうか。それはもはや、食い破られて狭くなる土俵の上での、おしくら饅頭のようなものだった。
 ……せめて、金蔵の書斎くらいは死守したかった。そう願い、奮闘した二人が守りきった面積が、今、彼らの足元になる畳一枚分だけの床なのだ。
 山羊たちは、足場がなければ奈落に落ちる。だから、これだけ綺麗さっぱり床がなくなれば、もうヤツらも手が出せまい。そうは思ったが、それはすぐに甘い考えだと思い知ることになった。
【戦人】「………ぞろりと、取り囲んでやがるな。」
【ベアト】「増援を集め、今度こそ一度に押し潰そうという魂胆であろう…。」
海賊船
 彼らが背にする扉を、ぐるりと水平線が取り囲むかのように、………大きな帆船が、何隻も包囲している。それらの帆船の上には、ぎっしりと山羊たちが満載されていて、勇み足の間抜けな山羊が、船から零れて落ちるのまで、はっきりと見ることが出来る。
【戦人】「すげぇな…。俺もお前のゲームで、ずいぶんとおかしな経験を色々してきたが。……海賊船に包囲されるってのは初めての経験だぜ。」
【ベアト】「……恐らく、黄金郷の境を打ち破る力を持つのだろう。あの大砲もハッタリではあるまい。あれでこの扉をぶち抜いて、一挙に雪崩れ込もうというに違いあるまい。」
 帆船その側面からは、いくつもの砲門が開いて、こちらに大砲を向けている。ぐるりと取り囲んだあれらの船が、さらに数を増やして、一斉にあれをぶっ放してきたら。
 ……その先を想像するのも馬鹿らしい。戦人とベアトは、苦笑いをしながら俯く。
【戦人】「……あの大砲を前に、黄金郷の境は、どの程度持ち堪える?」
【ベアト】「わからぬ。……ただ、あれだけの数を揃えているのに、まだ援軍を待つということは、……恐らく、そう易々と破れはしないのだろう。」
【戦人】「確かに。降伏勧告もしないで攻撃の手を休める理由は、それしか考えられねぇな…。」
【ベアト】「ヤツらが与えるこの時間が、我らに有利に活かせれば良いのだがな。」
【戦人】「……劣勢な側にとって、時間はいつだって味方さ。何かの奇跡を期待できるからな。」
【ベアト】「あるいは、さらなる絶望を知ることにもなろうが。」
 その時、何か小さくて硬いものがコツンと、戦人の額にぶつかった。
【戦人】「……イテ! 何だこりゃ、金平糖…?!」
【ラムダ】「私よッ! わかったわよ、ベルンたちの居場所が!」
 その金平糖はラムダデルタが姿を変えたものだった。彼女は彼らの味方の中で、カケラの海を渡ることが出来る唯一の存在だ。
【ベアト】「おぉ! さすがは大ラムダデルタ卿!」
【ラムダ】「ここじゃヤツらに姿を見られるわ。中で話をしましょ。……一筋縄じゃ行かないことになってるわ。」
【戦人】「わかった。……誰かいるか?!」
 戦人が扉をノックすると、扉が開き、紗音と嘉音が姿を見せる。
【紗音】「はい、お呼びですか。」
【ベアト】「済まぬが見張りを頼む。」
【嘉音】「お任せを。」
【戦人】「……ヤツらが攻撃を開始したら、戦う必要はない。すぐに黄金郷に逃げ込め。扉は閉めなくていい。」
【紗音】「しかし、それでは……、」
【戦人】「ヤツらは、扉なんか無視して、直接、黄金郷をぶっ壊す気だ。ここで仁王立ちしてたって、もう何も防ぐことは出来やしない。」
【紗音】「……わかりました。」
【嘉音】「ここは僕たちに任せて、中で対策を。」
【ベアト】「うむ。しばらく頼むぞ。」
 戦人たちは、紗音たちと入れ替わり、黄金郷に戻る。
 黄金郷の薔薇庭園には、しとしとと雨が降っていた。……黄金郷の天気は、一同の心を表している。
 打つ手もなく、ここに隠れて、相手の最後の攻撃を待つしかない人々の、辛い感情を、静かに降り落ちる雨粒が示していた……。
 東屋に戻ってくると、戦人のポケットから金平糖が飛び出し、テーブルの上に跳ねて、元の姿に戻った。
【ラムダ】「久々よねっ、こんなスリル! まさか魔女にもなって、こんなハラハラした目に遭うなんて、夢にも思わなかったわ。」
【戦人】「それで…! 縁寿やベルンカステルたちは一体どこに…!」
【ラムダ】「図書の都よ。」
【ワルギリア】「……聞いたことがあります。……海を渡る偉大なる魔女たちが集めた、様々なカケラを書物に記し保管した地があると。」
【ロノウェ】「尊厳なる観劇と戯曲と傍観の魔女により厳選されし名誉ある図書の都、ですな。」
【ベアト】「大アウローラ卿は図書の都の主だ。なるほど、妥当な場所であるな。」
【ガァプ】「しかし、さすがはラムダデルタ卿ね。……無数に想定された隠れ家から、こんなにも早く居場所を突き止められるなんて。」
【ラムダ】「それがね。簡単にわかっちゃったわ。……わかるも何も、向こうで大々的に宣伝をしているわ。無限の魔女、大ベアトリーチェ卿の猫箱の秘密、大公開パーティーってね。」
【ベアト】「………ふっ。なるほどな、ヤツらがまだ攻めて来ぬ理由は、援軍待ちではなく、パーティーの式次第のせいらしいぞ。」
【戦人】「そのパーティーとやらで、縁寿の鍵を使って、一なる真実の書を公開する、ということなのか。」
【ラムダ】「そういうことね。アウローラは久しぶりのイベントなんで、各界から賓客を集めて大パーティーを催してるわ。……一なる真実の書は、そのパーティーの最後の目玉になるでしょうね。」
【戦人】「……縁寿と鍵を取り戻すチャンスは、まだあるってことか。」
【ラムダ】「時間的猶予という意味ではね? ただ、とてもシンプルかつ当然な問題が。」
【戦人】「何だっ。」
【ラムダ】「図書の都は元老院の管理下にある聖域よ? 神聖な結界が張られている。元老院の魔女以外は踏み入ることさえ出来ない。」
【ベアト】「……パーティーの招待客には、元老院に席を持たぬ者もいるのでは?」
【ラムダ】「えぇ、いるわ。そういう連中には、特別に聖域に踏み入ることを許可する“招待状”が与えられてるみたい。
【ガァプ】「……招待状。」
【ロノウェ】「これはこれは、……面白くなってきましたな。」
【ラムダ】「と、私も思ったわよ…! ところがこの招待状、遅刻厳禁で、パーティー開始時刻までに入場受付をしてないと自動的に効果を失う優れモノ! そしてお気の毒なことに、ついさっき、パーティーは始まっちゃったわ。」
【ベアト】「つまり、遅刻した来客の誰かから招待状を奪うという手は、もう手遅れということか。」
【ラムダ】「そーいうこと。……で、どーすんの? これから! 誰かポップコーンをもらえるー? 今度はキャンディーフレーバーがいいわー!」
【蔵臼】「門外漢で恐縮だが、……もはやお手上げに思えるね。」
【夏妃】「………私たちは、もうおしまいなのですね…。」
【楼座】「ここで座ったまま、ヤツらが襲ってくるまで待ってるしかないの?! 何か出来ることがあるはずだわ…!」
【絵羽】「そうね。……私たちに出来ることは一つだけあるわ。」
【譲治】「………それは?」
【秀吉】「一分一秒でも悪足掻きして、……奇跡を待つことや。」
【朱志香】「奇跡…?!」
【留弗夫】「つまり、こいつはアラモの砦ってわけさ。」
【霧江】「私たちに降伏はない。……出来るのは、一分一秒でも持ち堪えて、奇跡が起こるのを待つことだけね。」
【さくたろ】「……うりゅー。奇跡って、何?」
【真里亞】「縁寿が、何かの理由で気が変わって。……ここへ戻ってくる可能性が、何百万分の一の確率で、あるかもしれない。」
【金蔵】「……ふっ。そのような極小の確率の末ならば、それは確かに奇跡と呼べるであろうな。」
【南條】「私たちは、縁寿さんの帰りを待つために、ここにいるんです。」
【熊沢】「えぇ。……縁寿さんの帰る場所は、私たちのいるここだけなんです。だから私たちは、最後の一秒まで、ここを守って、彼女の帰りを待たなければならないんです。」
【郷田】「留守をお預かりすることこそ、使用人の役目…! こ、ここッ、こうとなればこの郷田、もう覚悟は決まっております…!」
【源次】「………戦人さま。我等一同、すでに覚悟は決まっております。」
【00】「シエスタ姉妹近衛隊一同ッ、盟約に基づき、最後まで大ベアトリーチェ卿とご一緒するであります!」
【45】「45、問題ありませんっ。最後まで戦います。」
【410】「……ようやく、似合いの死に場所を見つけたにぇ。……410、問題ないにぇ。」
【ルシファー】「煉獄の七姉妹、最後までベアトリーチェさまと戦人さまのお側に!!」
 6人の妹たちも、一切の恐れがないことを瞳で示す。
【ドラノール】「アイゼルネ・ユングフラウ。最後までお供しマス。」
【ウィル】「元SSVDもいいぜ、付き合ってやらァ。」
【理御】「………そしてあなたもどうか、私たちに力を。」
【ラムダ】「私っ?! やーよー。偵察してきてあげたじゃない? それで私は充分、協力をしてあげたつもりだけどー?」
【理御】「あなたは、縁寿ちゃんが図書の都の中にいるのを、どうやって確認したんですか?」
【ラムダ】「もちろん、この目でよ。私、自分の目で見たものしか信用しないタチなのー。」
【理御】「ということは、あなたは聖域である図書の都に、入る資格を持っているということですね?」
【ベアト】「…………そうとも。大ラムダデルタ卿は、元老院の大魔女であらせられるぞ。」
【戦人】「ラムダデルタっ……。」
【ラムダ】「……何よ、あんたたちっ。………まさか、私にもう一働きしろって言ってんじゃないわよねー…?」
【ゼパル】「これはこれは、思わぬ出番だね…!」
【フルフル】「図書の都に入ることが出来るのはラムダデルタ卿、ただ一人!」
【ゼパル】「ということはこれはまさに?!」
【ゼパル・フルフル】「「ラムダデルタ卿のための、見せ場ということじゃない!!」」
【ラムダ】「馬鹿言ってんじゃないわよッ、あんたたち正気ィ? ……私がたった1人で! あそこへもう一度侵入してッ。縁寿を連れ戻して来いっての?!」
 数十人からの一同は、ラムダデルタを囲んで、ウンウンと頷く。
【ラムダ】「馬鹿も休み休みお言いなさいよねッ?! 縁寿を助け出すってことは、大アウローラのパーティーをぶっ壊せってことよッ?! 私に世界を敵に回せってことッ?! 私に見返りは?! ないわ、あるわけなーい! あんたたちに用意できるどんな見返りだって、大アウローラとその愉快な友人のバケモノたちを敵に回すことと、割りが合うわけなんてなーい…!」
【理御】「大アウローラと大ベルンカステルの目論見を台無しにし、縁寿ちゃんを連れ戻し、みんなで和解するという、ハッピーエンドが見られます。」
【ベアト】「……どうであるか、ラムダデルタ卿。これほどのスリル、他にはないぞ。……それほどの大事を成し遂げれば、そなたも病を千年は忘れることが出来るのではないか。」
【戦人】「頼むッ、ラムダデルタ…!! 俺たちに力を貸してくれ!!」
 頼む頼むッ、お願いします! 縁寿ちゃんのために力を…! わいわいがやがや!! 大勢がラムダデルタを取り囲み、その助力を求める。
【ベアト】「どうか頼む、ラムダデルタ卿…!! そなたしかおらぬのだ…!!」
【戦人】「力を貸してくれ!! 俺がお前に最高の物語を見せてやるッ!! そいつを最前列で見せてやるから!! だから力を貸してくれッ!!」
【ラムダ】「うッるさぁあああああぁぁぁぁぁいい!! 黙れッつってんでしゃぁああああぁああああああああああああああああああッ!!!」
 ラムダデルタは立ち上がって、握り拳でポップコーンの入ったカップを叩き潰す。辺り一面にキャンディフレーバーの甘いポップコーンが飛び散り、一同の顔に貼り付いた。
 それは確かに滑稽な光景だった。……しかし、誰も笑わない。ラムダデルタの表情が、これまで誰にも一度も見せたことのない、激高したものだったからだ。
【ラムダ】「勘違いしないでくれるゥ?! 私は観客よ、観客!! ベアトに招かれて、そのゲームを見物に来ただけの客人よ?! その私が、何であんたたちのために、命まで賭けなきゃなんないわけぇ?! 縁寿が帰ってきたらハッピーエンド?! 馬鹿じゃない?! 怒り狂ったベルンとその軍勢が、一気に雪崩れ込んできて、ブチっと潰されて御仕舞いじゃない?!」
【ラムダ】「私がここにいる理由はたった一つよ! それは面白い物語が見られると、そこの理御に啖呵を切られたから!!」
【ラムダ】「えぇ、そして、私はもうじき、最高に面白い物語が見られることを信じて疑わないわ…! それは背水の陣でベルンの軍勢と戦って、ひとりまたひとりと散っていく悲しい悲しい物語! 全員に散り際の見せ場がありそうだもんね?!」
【ラムダ】「それを間近でもうじき観劇できるのよ?! あんたたちはもうじき、みんな死ぬのッ!! でも私は違う! 私は観客よ、客人よ!! あんたも一緒に死んでくれなんてッ、言われる筋合いはこれっぽっちもないンだからッ!!!」
 ………誰も、一言も言い返せない。雨音以外、何も聞こえない静寂の中で、……やがてラムダデルタ自身も苦々しそうに俯く。
【ラムダ】「………ごめんね。私ってば、最高にカッコ悪いわ。……そうよね、ここで私が、任せておきなさいって胸を叩いたら、私の人気は鰻登りで、次の人気投票はトップ3くらいに入っちゃうかもねー。…………でもね。……私はあんたたちと違って、……“物語の登場人物”じゃないのよ。……死ねないのよ。……あんたたちが深夜に、クライマックスはこれからだーとか意気込んでるけど。私は明日、月曜でガッコーで、日直で朝は起床が早いワケよ…! 住んでる世界が違うのッ…!! だからさッ、……私をさ、……………………はーーー……………。」
 ラムダデルタは、立ち眩みでも起こしたかのように、……すとんと椅子に座る。
 そして人形のように無表情になり、ただじっと、宙の一点を見て、沈黙していた……。
【戦人】「………すまん。」
 戦人が小さく謝る。しかし、ラムダデルタは無表情なままだった。
【戦人】「……俺たちに出来ることも尽くさないのに、あんたにだけ、何かを失うように強いるのは、フェアじゃない。」
【ラムダ】「………………………………。」
【戦人】「俺たちは、ここで戦い、最後の一秒まで、ここを守る。………縁寿が、一なる真実よりも、俺たちを選び、帰って来てくれるかもしれない奇跡を信じて。……それも尽くさないのに、あんたに、俺たちと一緒に命を捨ててくれなんて、頼めるわけもない。」
 戦人は席を立ち、踵を返す。
【ベアト】「……戦人…。」
【戦人】「見張りの二人と交代してくる。……俺が、ヤツらと戦う時の先陣でありたい。それが、今すぐ俺がラムダデルタに見せられる、俺の決意だ。」
【ラムダ】「……………………………。」
【ベアト】「妾も行くぞ。お師匠様は、ラムダデルタ卿に新しいポップコーンを頼む。」
【ワルギリア】「……ベアト…。」
【ベアト】「縁寿は必ず帰る。信じねば、実る奇跡も実らぬというもの。クジを買わねば、当たることもないのだからな。」
 戦人の後を追い、ベアトも席を立つ。
【譲治】「……みんな。戦いに備え、何かの準備をしよう。」
【朱志香】「賛成だぜ。ここで俯いてたって、馬鹿馬鹿しいぜ…!」
【留弗夫】「そうだな。最後くらい、景気良く行こうぜ。」
【絵羽】「………縁寿ちゃんの帰る場所を、守らなくちゃ。」
【ドラノール】「私たちも、作戦会議が必要デス。」
【ウィル】「そうだな。家具に武具に悪魔に異端審問官だ。このちぐはぐ連合軍で、うまく連携を取らなきゃな。」
【ルシファー】「さぁ、妹たち。休憩の時間は終わりよ。」
【00】「シエスタ隊、起立。」
 ニンゲンたちも、幻想の住人たちも、……皆、ぞろぞろと立ち上がり、東屋を後にする。
 後には、ぼんやりと宙の一点を見つめ続ける、放心したラムダデルタが残るだけだった……。
図書の都
【エヴァ】「いい香りの紅茶ね。インスタント? それともティーバッグかしら。」
【ヱリカ】「……おや、同志エヴァも如何です? カップはないので、漏斗になりますが。」
 黄金蝶がバルコニーにひらりと舞い込み、エヴァの姿となった。
【縁寿】「ベルンカステルの様子はどう? 一なる真実の書の封印を解くのに、まだだいぶ掛かるのかしら…?」
【エヴァ】「それを伝えに来たのよ。封印が解けたそうよ。」
【縁寿】「…………………………。」
【ヱリカ】「おめでとうございます。いよいよですね。……あなたの人生のピリオド。」
【エヴァ】「鍵を持って、ベルンカステル卿のところへお行きなさいな。……使い魔の猫が案内してくれるわ。」
 エメラルドグリーンの輝きが2つ、飛び込んでくる。それは黒猫の、緑に輝く目だったのだ。黒猫は上品な姿勢でピンと尻尾を立て、高級な従者の貫禄を感じさせた。
【縁寿】「……わかったわ。じゃあ、ちょっと行ってくるわ。」
 縁寿は席を立つ。すぐに戻ってくるわ、とでもいう風に、本当にさりげなく。しかし、彼女の飲み掛けのティーカップは、二度と口を付けられることはあるまい…。
【ヱリカ】「短い間でしたが、楽しかったです。同族嫌悪って感情を知ることが出来る貴重な時間でした。」
【縁寿】「私こそ。……次に会えたら、どうやったらこんなに不味く紅茶が淹れられるのか、ぜひ秘密を教えて欲しいわ。」
【エヴァ】「……嬉しい? 私が12年間、ずっとずっと隠して意地悪してきた秘密が、いよいよ知れて。」
【縁寿】「嬉しいわ。……あぁ、今ならヱリカの気持ちがわかるわ。……あんたが死ぬまで守った秘密を暴けて、あんたに一矢報いてやったって気持ちになるもの。」
【エヴァ】「それは気持ちのいいこと?」
【縁寿】「………多少はマシって程度だわ。」
 縁寿は黒猫に頷き、自分は準備が出来ていることを伝える。すると黒猫も優雅に頷き、付いて来るよう仕草で伝え、バルコニーの外へ飛び出す。縁寿は振り返りもせず、その後を追って、泳ぐように飛び出していった…。
 エヴァは、それを見送っている。表情に、嘲りや軽蔑のようなものは、浮かんでいなかった…。
【エヴァ】「行ってらっしゃい、縁寿。………それも、あんたの選んだ道よ。……あんたはもう6歳じゃない。18歳なのよ。……自分の人生は、自分で選択しなさい。」
【ヱリカ】「……………過保護な伯母様だことで。」
【エヴァ】「私は式典の様子を見に行くけれど。あなたは?」
【ヱリカ】「もうじき出陣の時間ですので、船に向かいます。……手土産にはベアトの屍を。ハラワタはパーティーに。私は皮をもらえることになってますので、剥製を作りましょう。」
【エヴァ】「これで、謎のベールに包まれた、六軒島物語もおしまいね。」
【ヱリカ】「………すると、その駒であるあんたも、おしまいになりますね?」
【エヴァ】「私はただの駒よ。駒の役目は、ゲームが終わるまで、自分の役目に忠実であることだわ。……ゲームが終わった後のことを考えるのは、駒の役目じゃない。」
【ヱリカ】「そうですね。……それは私も同じです。………お互い、今のこのひと時を楽しみましょう。では、私もこれで失礼します。」
【エヴァ】「じゃあね、お仕事がんばってね。」
 二人の魔女は、優雅に会釈を交わしてから、同時に姿を消す。後には、飲み掛けの紅茶の道具と、その香りが残るだけだった……。
高級ホテル
 都心の高級ホテルの前に、次々と高級車が到着しては、来賓が降り立つ。
「やぁ、大月教授…!」
【大月】「おお、これはこれは! 前回のコンベンション以来ですな!」
 集まる賓客たちは、皆、大金持ちや文化人。彼らは皆、たった一つの趣味で結ばれている。
 彼らはウィッチハンター。六軒島ミステリーに様々な解釈を楽しむ、同好の士たちである。
「しかし、本当でしょうか。右代宮絵羽の日記帳が実在したなんて…!」
【大月】「えぇえぇ、私も噂には聞いておりました。右代宮絵羽が死の直前に隠したと囁かれる、秘密の日記…! 彼女は六軒島の真実をそれに密かに記していたと噂されます。まるで、王様の耳はロバの耳ですな。人は、自分しか知り得ない秘密を、穴を掘ってでも口にせずにはいられない、悲しい生き物なのです。」
「わっはっはっはっはっはっは。何でも聞いた話では、ドバイのコレクターが1000万$で買収を持ちかけてるとか…!」
【大月】「それはすごい…! それだけ六軒島ミステリーが魅力的なことの証左ですな!」
 そんな会話が、あちらこちらで熱心に交わされている。そして、出入りするのは来賓だけではない。大勢の報道陣も一緒だった。
 六軒島ミステリーは、かつては社会現象とまでなった一大ムーブメントだ。近年では多少下火になったとはいえ、未だにネット上では激論が交わされている。
 その真相が記された、右代宮絵羽の日記が発見され、公開されるというのだから、騒ぎにならないわけもない。
 さらにそれに加え、謎の偽書作家、伊藤幾九郎が初めて姿を現す。しかも、その正体は新進気鋭の推理小説作家、八城十八なのだ。
 そして八城十八も、公式に姿を現すのはこれが初めてになる。男性作家だと思われていたのに、その正体はミステリアスな女性作家なのだから、それだけでも話題性は充分だった。
 日記の披露パーティーを前に、ホテル内の一室では記者会見が行われていた。
【八城】「……如何にも。私が八城十八です。」
「先生は過去のサイン会においても、影武者を立ててまで姿を現すことを拒まれてきたわけですが、それが今回、こうして姿を現されたのはどういうご心境の変化からでしょう…!」
【八城】「六軒島の魔女伝説は、無限の物語を生み出してきました。……それが終焉することの意味を考えれば、物書きの端くれとしては、姿を現す形で敬意を表するべきであると感じたからです。」
「偽書作家としての先生は、ネット上で真実に至ったと公言されておりました! それはつまり、もう先生は日記の中身をご覧になっているということなのですか!」
【八城】「………そして、それはもうじき、皆さんにも公開されることとなるでしょう。」
「こう言っては何ですが。日記の中に記された内容が真実であるとの保証はあるのでしょうか? 故人の私的記録に過ぎないという穿った見方もあるようですが。」
【八城】「いいえ。私が保証します。日記には真実が記されています。
 おおおぉ、と会場がどよめき、一斉にカメラのフラッシュを浴びせる。
「これにて、八城先生の会見を終了いたします…! 報道各社の皆さん、本日は誠にありがとうございます! 引き続きまして、右代宮絵羽氏の日記の撮影時間に移りたいと思います。」
 ホテルマンが、ベールで覆われた台車を押してくる。そして、八城が頷くのを確認してから、そのベールを剥ぎ取った。
 そこには、………右代宮絵羽の日記が。一なる真実の書が、その封印が解かれるのを待っていた。
 八城はそれを胸に抱えると、ミステリアスに笑う。一斉にフラッシュが瞬き、一なる真実の書を、眩く浮き上がらせた……。
「以上で会見を終了させていただきます! それでは皆様、会場の方へ移動をお願いいたします…!」
 八城は日記を抱えたまま、ホテルマンたちに護衛されながら会見場を後にする。彼女が、関係者以外立入禁止と書かれた扉をくぐるまで、取材陣たちはなおも何かのコメントを取ろうと、彼女を取り囲み質問を投げ掛けるのだった。
 扉をぱたんと閉めると、………世界がぐにゃりと歪む。ホテルマンたちはマントを羽織った黒猫の姿に変わる。八城も、フェザリーヌの姿となっていた…。
【ベルン】「すごい熱気じゃない。……楽しめた?」
【フェザ】「……疲れる。……だが、悪くない。それにしても、この日記は重いな。」
 フェザリーヌが日記を放ると、それをベルンカステルが受け取る。
【フェザ】「私は少し控え室で休ませてもらおう。」
【ベルン】「出番なんてすぐよ。休んでる暇なんてないでしょ。」
【フェザ】「……では休むと言わず、久しぶりの興奮を噛み締める時間が欲しいと言い直そう。」
【ベルン】「この本、借りるわよ。縁寿に、一番に見せる約束をしているわ。」
【フェザ】「そうか。ならば好きにするが良い。」
 フェザリーヌはお供の黒猫たちを従え、去っていく。その姿が見えなくなるまで見送ると、ベルンカステルも姿を消す。
図書の都・ベルンの部屋
 ベルンカステルの部屋も、ヱリカの部屋と同じ、本棚の絶壁に部屋を半分埋め込んだような、手すり無きバルコニーだった。縁寿は少し待たされていたが、眼下を見下ろし、悠然と待っていた…。
【ベルン】「……遅くなったわね。ごめんなさい。」
 ベルンカステルが姿を現すと、黒猫たちは一礼してから姿を消す。
【ベルン】「ほら。持ってきたわよ。一なる真実の書。」
【縁寿】「…………………。……触れてもいい…?」
【ベルン】「お好きになさい。」
 ベルンカステルは、それをテーブルの上に置き、いらっしゃいと手招きをする。ゆっくりと、……縁寿はそれに近付く。
【縁寿】「これが、……絵羽伯母さんの日記……。」
【ベルン】「そうよ。……その中に、あんたが知りたかった、一なる真実が記されているわ。……鍵は、持ってるわよね?」
【縁寿】「えぇ。ここに。」
 縁寿は鍵を取り出し、それを手の平の上で確認してから、ぎゅっと握り締める。日記を厳重に封印する錠前も、縁寿が心の準備を終えれば、あっさりと解かれる運命にある…。
【ベルン】「急かさないわ。あなたの心の準備が付いてから、開けるといい。」
【縁寿】「……この中には、1986年10月5日24時に、何が起こったか、記されているのよね。」
【ベルン】「……………そうよ。あなたが、命と引き換えにしてでも知りたいと願った、全てがね。」
 その時、縁寿の中には、二人の自分が現れて、同時に自分の体を支配した。一方は、……真実を知るために、自分がすでに代償を支払っていることを知る自分。その自分は、一なる真実の書を前に、わずかの躊躇が心変わりを生み、この土壇場で、自らの手で真実を知ることを拒否するという暴挙に出る前に、その中身を読んでしまおうと鍵を握らせた。
 もう一方の自分は、……兄や、家族、そして温かく自分を見守ってくれた親族たちへの裏切りの気持ちで、下唇を噛ませる。しかし、震えながらも、ゆっくりと鍵を錠前に近付けていく右手に対しては、見守ることしか出来なかった。
【ベルン】「……………………………。」
【縁寿】「…………………………………。」
 私は何を躊躇しているの…? この日記の中が、私の辛く悲しかった12年の旅の終着点。あの日々を、12年で飽き足らず、まだ続けたいというの…?
 あのお兄ちゃんたちは、私の心が生み出した幻。……奇跡を未だ期待する、甘え。その二つを天秤に掛ければ、私が選ぶべき道は、一つしかない。
 私はゆっくりと……、錠前に鍵を挿し、………捻る…。錠前はバチンと開き、……同時に、鍵に何かひびが入るような感触を感じた。
 鍵に施された複雑な意匠の一部が欠けたのだろうか。ぱっと見ただけでは、何が壊れたのか、わからない。しかし、なぜか黄金の輝きがわずかにくすんだように見えた。
【ベルン】「……あんたがその鍵で選択をしたから。魔法が一つ、消えたのよ。」
【縁寿】「何の魔法?」
【ベルン】「戦人が言わなかった? その鍵は、あなた以外の誰にも渡すことは出来ないって。……その、“あなたに選択を委ねる”という魔法が、今、その役目を終えて消えたのよ。もう、その鍵はただの鍵。この日記を開け閉めするだけの、ただの鍵よ。」
【縁寿】「………そう。じゃあ、このお兄ちゃんの鍵も、もう用済みね。」
【ベルン】「もらってもいい? あんたが読んだ後に、もう一度施錠するの。その錠前を開けるのも、パーティーの立派なセレモニーだそうだから。」
【縁寿】「……そう。好きにすればいいわ。」
 自分が真実を得た後のことなど、もうどうでもいい。ベルンカステルは、テーブルの上に置かれた鍵を、すうっとなぞるように手元に引き寄せると、それを懐にしまう。
【ベルン】「では、どうぞ。………真実を知ろうとする、あなたの勇気が消えてしまう前にね。」
【縁寿】「……………………………。」
 私は、錠前の開かれた絵羽伯母さんの日記を、抱えあげる。
 錠前は外された。蝶番もすでに外されている。もう、私がページを開くことを拒むものは、……何もない。
 私は大きく深呼吸をしようと思った。でもやめる。……もう、覚悟なんかとっくに出来てる。躊躇する心を、これ以上膨らますなんて、馬鹿げているのだから。
 私は開く。乱暴に、無慈悲に。それが、その中に待ち受ける真実に、相応しいページの開き方だと思ったから。
 表紙を開くと同時に、……中から眩しい光が噴き出し、私の意識に飛び込んできた。
 文字や言葉でなく、……意識に直接、真実が語られる……。教えて、……あの日、六軒島で、…………何があったの………。
聖ルチーア学園・教室
 私の意識が、……ゆっくりと戻ってくる。開かれたそこには、文字は何も書かれていない。当然だ。それは、……真っ白な、何も記していない、私のノートなのだから。
 私は学校で、ノートを広げたまま、ぼんやりと座っているだけなのだ。
 世界は、止まっていた。時計の針も、止まっていた。
 ならば、講堂もシンと静まり返っていればいいのに。でも、小さなざわめきだけは聞こえた。時間の止まった世界で、……時間の止まった生徒たちの陰で、黒い人影がこそこそと動くのが見える。
 それは、………山羊の頭を持つ生徒。時間の止まった生徒たちの陰から、こそこそと私を見ては、何かを囁きあっている。わかってる。聞こえてる。みんなみんな、わかってるんだから。
 あちこちの物陰から、次々に山羊の頭の生徒たちが、生え出してくる。
 それらは、時間の止まった生徒たちの間を、ぬるりぬるりと抜け、私の周りに集まってくる。そして、口々に何かを囃し立て、あるいは聞こえているのを承知で、くすくすと陰口と嘲笑を浴びせてくるのだ。
 でも、山羊たちの口から発せられる言葉は、言葉としては耳に届かない。ここは、文字も言葉もない世界だから、……言葉としては耳に届かない。
 しかし、感情と意味は、届く。だから彼らが何を言っているのか、縁寿にはわかるのだ。そして、それを視覚化したら、………こうなった。
 山羊たちは次々に、大きな顎を開き、涎を滴らせた牙を覗かせながら、……私にかじりついてくるのだ。
 私の時間は、止まっている。意識はあっても、身動きは出来ない。……本当は出来る。でも、聞こえてないふりをしているから、……動けない。
 山羊たちは、私の体中の思い思いの場所にかぶりつき、歯形を付けたり、嘗め回したりする。
 衣服の歯触りがイラつくのだろうか。彼らは私の身動きが出来ないのをいいことに、……次々に衣服を噛み千切っていく。剥き出しにされた私の体に、……山羊たちは次々に、舌を、顎を、牙を突き立てる。
 涎まみれにされ、噛み回され。真っ赤な歯型が残って、鋭い牙は皮を突き破って、血を滴らせた。その血を本当の山羊のように、べろべろと舐め取り、……私を傷つける。辱める。
 山羊の一人が、俯く私の髪を引っ張り上げ、無理やり上を向かせてから、私に言う。それは概念ではなく、耳に聞こえる、言葉だった。
 しかも、人の世の言葉でなかった。それは、魔女の言葉。絶対の真実を意味する、赤き真実。
『これが、六軒島事件の真相なんですって!!
【縁寿】「…………認めないわ。」
『あんたが認めなくたって!! これが真相なんでしょう?! だって、******、**********!! **************ッ!!!
【縁寿】「……認めないわ、認めないわッ、………そんな真実、私は認めない、……認めない……。」
あんたが認めても認めなくても、真実は変わらなァい!! だって、赤き真実で証明された、一なる真実が、これなんだからぁああああああああぁああああぁぁ!!
 くすくすくす、……うふふふふふふふ、はっははははははは…!! 何が真実よ、馬鹿馬鹿しいわね、下らない…! それを真実かどうか決めるのは私よ? 赤き真実だって、そんなの私は認めない、許さない、絶対に納得したりしない…!!
屋上からの夜景
【縁寿】「赤き真実は絶対?! 誰にとっての絶対?! あんたたちにとっての絶対でしょ? 私にとっての絶対じゃないッ!! 私の真実は、あんたたちの真実に、穢されたりなんかしないッ!!」
【ベルン】「………縁寿、落ち着いて? 知りたいと願ったのはあんたでしょう?」
【縁寿】「ははははは、あっはははははははははは!! 私の真実は、絵羽伯母さんが犯人!! 絵羽伯母さんがみんなを殺したのよ!! 悪いのは全部絵羽伯母さんッ!! お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、みんなみんなただの犠牲者…!! 誰も悪くない誰も悪くない…!! だってそうじゃない、だってそうじゃないッ!!」
——伯母さんはいつだって、縁寿ちゃんの味方よ。
【縁寿】「はははは、あっはっははははははははははッ!!! あぁ、わかったわ、あんたの言葉の意味ッ! うふふふふ、あっはははははははははははは!! そうよ、絵羽伯母さん、あんたが犯人よ、あんたが犯人!! それを認めない世界の方が、おかしいのよ壊れてるのよ…!! 正しいのは私ッ、私は赤き真実を、世界の全てをッ、否定する…!!!」
【ベルン】「………そう。……じゃあ、あんただけに記せる、赤き真実を記して御覧なさい。……でも、ニンゲンはどうやって赤き真実を記すの?」
【縁寿】「あるわよ!! ニンゲンにしか記せない、真っ赤なインクがあるじゃない!!」
 縁寿さん、落ち着いて下さい。
【縁寿】「正しいのは私ッ!! 間違ってるのが世界!! 私が記してあげる!! 本当の赤き真実で、私が真実を記してあげるッ!! はっははははははは、あっははははははははははははッ!!」
 20、屋上ッ、支援大至急!! 縁寿さん!! 待ちなさいッ!! 早まるなッ、危ないぃいいいいいぃいいい!!!
【ベルン】「グッバイ縁寿、ハバナイスディ。」
【縁寿】「記してあげるッ、これが私の記す、真っ赤な真実ッ!! お前たちの世界の真実など、私は受け入れるものかあぁあああああああああぁああぁあぁあッ!!!」
図書の都
 縁寿の体が、バルコニーを越える。泳ぐように飛べた宙は、なぜかこの時だけ無慈悲だった。縁寿の体はまっすぐに、……眼下の闇に落ちていく。
【ベルン】「……………………………。」
 ベルンカステルは、ただ静かにそれを、いつまでも見下ろしている……。その後ろに、黒スーツの男たちが慌しく駆け寄り、金網にしがみ付きながら、絶叫する…。
屋上からの夜景
「に、……20……ッ。……え、……縁寿さんが、と、……飛び降りたッ…。」
「駄目だ、……ここからは姿が見えない…。」
「だ、大至急、地上を調べろ…!! 無理だッ、どうしようもなかった…!!」
 山羊頭の少女たちが以前に言っていた内容と、この赤を合わせることにより、一なる真実の内容がほぼ確定する。
「ひょ、…ひょっとすると、あそこの防護ネットに引っ掛かったかもしれん…! し、調べてみよう…!」
 馬鹿な連中ね。この高さからまっすぐに飛び降りて、……あの程度の薄い防護ネットで、人間が救えると思う……?
【ベルン】「そんな奇跡、絶対に起こらないことを、この奇跡の魔女、ベルンカステルが保証してあげるわ。………くすくすくすくす、……はっははははははははははははははは!!」
図書の都
 縁寿の体は、……摩天楼のような本棚より飛び降りて、図書の都の床に叩きつけられていた。それを、あのビルの屋上のような高さにあるベルンカステルのバルコニーから見下ろしたなら、……それは美しい、真っ赤な押し花に見えただろうか。
 見えまい。何も。世界を拒否してたった一人死んだ、孤独な少女の死など、……世界の誰も、気に留めないように。
 彼女は、即死だったろう。当然だ。あの高さより、まっすぐに墜落したのだから。
 ……その彼女が、即死でなかったなんて、想像できるだろうか? 彼女の死体は、何かをなぞったかのように右手の人差し指を突き立てていた。
 まさか、億分の一の奇跡が起こって、彼女は本当に、即死だけは免れたのだろうか。そして死の際に、……自分の内より溢れ出る真っ赤な血をインクに、自分だけの赤き真実を記したのだろうか。
 しかし、何を記したのか、もう誰にもわからない。だって、……彼女の死体より溢れ出る真っ赤な血が、それを飲み込んでしまったから。
【エヴァ】「…………それさえも、あんたの選択よ。………縁寿。」
 美しく、放射状に血の花を開いた縁寿の死体を、エヴァは見下ろしている。
【エヴァ】「……私は、あんたを生かそうとした。……でもあんたは、6歳より先の未来を、生きようとしなかった。………だからあんたは12年を掛けて、やっと、元の場所に戻ってきた。」
 縁寿の死体の目は、閉じられている。……しかし、それが安らかなものに見えるかどうかは、わからなかった。
 やがて、死体は、ぐずぐずと解けていく。最後には、人間として認識できるいくつかの部分のみを残した、ぐちゃぐちゃの肉塊に変わり果てる。
 ……無理もない。あの高さからまっすぐに落ちて、アスファルトに叩きつけられたのだから、……それは当然の姿だった。
【エヴァ】「あんたは死ねたわ。……でもね。それで天国のみんなに迎えてもらえるかは別だわ。……だってあんたは、その天国のみんなを拒絶して、ここへ来たんじゃない。………シーユーヘル。いいえ、多分それはここだったわね。………さようなら、縁寿。」
図書の都・ベルンの部屋
【ベルン】「あら、エヴァ。ちょうど良いところへ。」
【エヴァ】「お呼びでしょうか、我が主。」
【ベルン】「その挽き肉のゴミを捨てておいてちょうだい。私はこれを戻してくるわ。」
 ベルンカステルの手には、縁寿が選択を終えて魔法を失った鍵と、再び施錠された一なる真実の書があった。
【エヴァ】「畏まりました、我が主。」
  ベルンカステルは、もう一度眼下を見やってから、その姿を消す。それを見送ってから、エヴァは使い魔の猫たちを呼び出し、片付けを命じるのだった。
 黒猫たちは、縁寿の肉塊とばらばらの手足を集め、ブリキのバケツに放り込む。
 ………そのような姿に変わり果てても。縁寿は、……その魂は、……まだ、生きていた。生きている、という言い方は語弊があるかもしれない。
 彼女は、死ねないのだ。これから永遠に。忘却の深遠の奥底に流れ着き、忘却の埃に埋もれて、その姿が消え去るまで、……ずっとずっと。
 彼女は自問自答を続ける。自分にとって真実とは何なのか。何が正しくて、何処が帰るべきところだったのか……。それを考える思考力も、肉塊が冷えるに従い、失われていく……。
 やがて、……日々の記憶も、自分が何に苦しんでいたのかさえも、忘れてしまう。でも、一つだけが、永遠に忘れられない。
 それは、苦悶。彼女はこれから永遠に、……何が何やらもわからぬまま永遠に、苦しみ続けるのだ。
 黒猫たちが、死骸を乱暴に詰め込んだバケツを、虚無の海に放り込む頃には、…………縁寿はもう、自分の名前さえも、忘れていた………。
暗闇
 ………ずっと聞こえる、その音は何だろう。多分、きっとそれは、…………雨の音…。
 では、あの近付いてくる眩しい二つの光は何だろう。……わからない。でもそれは近付いてきて、鋭い音を立てながら、私の直前で止まった。
 けたたましい音が何度か浴びせられる。その眩しい光を放つ存在が、私を威嚇しているのだ。多分、どけと言っているのだろう。しかし、私には自分の意思で指一本を動かすことも出来なかった……。
 バタンと音がして、……車の扉が開く。車。……扉。私は雨に打たれながら、アスファルトの上で横たわっているようだった。
 赤でこそ言っていないが、「飛び降りたら助からない」とベルンが保証している。それが意味するのは、天草と共に六軒島に向かう縁寿は幻想ということ。

八城幾子

田舎の森の道路
 傘を広げ、運転手らしき人影が、私に近付いてくるのが見える…。
「………ここはそなたの庭か?」
 人影は問い掛ける。無論、私には返事をすることも出来ない…。
「……そなたの庭ならば、私は謝らなければならないな。なるほど、このような良き天気の日には、昼寝と洒落込みたくなるような素晴らしき庭だ。……しかし、私の記憶が確かなら。」
 人影がしゃがみ込み、私の顔を覗く。………女だった。
【八城】「ここは天下の公道だ。そなたは挽き肉になりたいのか? ……あるいはすでに挽き肉なのか。どちらなのか教えて欲しい。」
 私は、……下腹に力を込める。何かの返事を返し、意思を疎通させなければならないと思った。だからようやく、……うぅ、という短い唸り声を発することが出来た。
【八城】「……なるほど。まだ挽き肉ではなかったようだな。」
 それが私と、………幾子との出会いだった。
八城邸・十八の部屋
「……非常に衰弱しております。あと、記憶障害の可能性が高いですな。CTを見ないことにはわかりませんが、脳にダメージがある可能性もあります。」
【八城】「ダメージ程度で済んで大いに結構でした。あそこであのまま寝ていれば、それどころでは済まなかったでしょうから。」
「……ですな。何れにせよ、大きな病院で一度見せた方がいいでしょう。」
【八城】「ありがとう、先生。………この件は内密に。これはわずかですが、往診のお車代に。」
「わざわざ他言はしませんが、……いやいやっ、こんなにたくさんいただくわけには…。」
 結局、医者は金を受け取り、他言はしないと誓わされた。
 やがて、八城が戻ってくる。
【八城】「おや、起きていたのですか。具合は如何です…?」
 私は小さく頷き、とりあえず悪くはないことを意思表示した。……しかし、ここはどこだろう。まったく知らない家、……まったく知らない部屋だった。そしてそれ以前に、まったく知らない女性だった……。
【八城】「まずは私の自己紹介から。私は八城幾子。親しげに幾子と呼んでくれても、他人行儀に八城さんと呼んでくれても構いません。」
 ……八城、………幾子。
【八城】「八城家はこの辺りではちょっと知られた大地主の名家。……出来のいい兄たちと違い、私はどこかズレた変わり者。色々と悪さが過ぎまして、とうとう親たちからも愛想を尽かされて追い出され。今はここで蟄居をさせられています。……趣味は推理小説を読むことと、そして書くこと。歳は秘密の独身女。心は女子でも、そろそろそれを語るにはおこがましいかなという年頃です。ふっふふふふ。」
 私のぼんやりとした頭では、彼女が何を言っているのか、あまり理解は出来なかった。でも、……彼女が私に対し、上機嫌に接していることだけは理解できた。
【八城】「……それで、そなたの名前は?」
 ………………私の、……名前……。…………………………。
 人間である以上、誰にも名前があることは、理屈ではわかっている。そして恐らく、自分にも名前があったに違いないとは思う。……しかし、自分のそれをいくら思い出そうとしても、頭が痛むだけだった…。
【八城】「何か、名前以外に覚えていることは…?」
「……………………………………。」
 私は、……誰だろう……。頭の中がぐちゃぐちゃで、……いいや、心の中までぐちゃぐちゃの挽き肉で、……私は自分が誰なのか、何なのか、……何も、思い出すことが出来なかった…。
 でも、私は思い出さなくてはならない。私には、何か目的、……あるいは使命があったのだ。それを思い出すためにも、………まず、自分が誰だったのかを、思い出さなくてはならない。
 私は誰……? 名前は……? 生まれはどこだっけ、……誕生日は……? 何でもいい、何か覚えてることは…………。…………………………………。
「……………歳……。」
【八城】「歳? くすくす。私の歳は秘密です。」
「………18歳…。」
【八城】「私が、18歳に見える……?!」
「……私、…………18歳…………。」
【八城】「あ、あぁ、そなたの年齢ですか…! やれやれ、世辞が過ぎると思いました。はっはっはっは。」
 自分の年齢はと自問した時、浮かんできた数字が、18だった。正直なところ、自分に18歳だという自覚は少し薄い。……心はそれよりずっと幼いように感じるし、……愚鈍な体は、それよりずっと老いて感じられた。
【八城】「なるほど。そなたは18歳というわけだ。そして、それ以上のことは何も覚えていないと。」
 私は力なく頷く。自分で自分のことがわからないというのが、こんなにも無力に感じるとは知らなかった。
【八城】「では、そなたが自分の名を思い出すまで、18という歳にちなみ、十八と書いてトオヤと読む名前を与えましょう。……八城十八。如何です? うん、なかなかカッコイイです。自画自賛、ウンウン。」
 八城……幾子は、ほくほくと笑う。
 私は、八城十八と名乗ることになった。体がうまく動かないのは、恐らく交通事故のせいだという。
 私はあの日、あそこで車にはねられ、倒れているところを、幾子に拾われたのだ。もし彼女がブレーキを踏んでくれなかったら。犬の死骸でも踏んだかな程度に思われ、彼女はそのまま走り去っていただろう。
 ……ひょっとして、私をはねたのが、他ならぬ彼女なのではないかという失礼な想像も後に浮かんだが、彼女の車の傷一つないバンパーを見て、その推理を引っ込めるた。
 八城幾子は、海の見える町の、小高い丘の上に、小さいがとても立派な邸宅に住んでいた。裏山も持ち、豊かな四季をプライベートに楽しむことも出来た。
 ゆっくりと時間を掛けて、リハビリを進め、私は体の自由を少しずつ取り戻していった。
 ただ、……やはり、脳に障害が残っているらしい。私が何者なのかを知るのは、………とても難しそうだった。
 初めの頃は、自分の正体がわからないもどかしさに、頭が割れそうな痛みを訴えることも多かった。……しかし、自分が八城十八という新しい名を与えられた、新しい人間なのだということを少しだけ受け容れられるようになると、……頭痛の頻度は少しずつ減っていった。
 相変わらず、……自分が18歳だったという記憶しか、蘇らない。しかし、それ以上のことを思い出せず、そして18歳という年齢さえも正しいのかわからず、……私はやがて、かつての自分を思い出そうとすることもやめた。
【八城】「おはよう、十八。昨日はひどい嵐でしたが、よく眠れましたか。」
【十八】「………なかなか寝付けませんでした。だから、幾子さんの書いた原稿を読んでいました。」
【八城】「おやおや。どこまで読んでくれたのですか。」
【十八】「全部読み終えました。」
【八城】「……これは驚いた。あの量の原稿用紙を、一晩で読み切ったというのですか。」
【十八】「私も驚いています。……夢中になっていたら、あっという間に読めてしまって。……文章を斜めに読むというか、原稿用紙全体を一度に見るというべきか……。」
【八城】「どうやらそなたは、速読の心得があるようですね。……して、どうでしたか。感想は。」
【十八】「とても面白かったです。ただ、海流についての説明がもう少しないと、推理小説としてはアンフェアかもしれませんね…。でも、指輪についての伏線が、冒頭から出ていたのは、とても面白かったです。………読み終えた後に、もう一度最初に戻り、やられたと思わず手を打ってしまいました。そういう気持ちこそ、推理小説の醍醐味だと思います。」
【八城】「………………………………。」
【十八】「……あの、……何か悪いことを言ったでしょうか。……だったら、ごめんなさい。」
【八城】「いや、なぜ謝るのです…! 驚いています。そなたの的確な感想は賞賛に値するでしょう…。そなたはどうやら、批評家か、あるいは推理小説作家の才能があるらしい。」
 ……………推理小説、作家。……批評。……………………。
 忘却の霞の向こうで。私はかつて、……ミステリーとか、……そういうものについて、議論を交わして戦っていたことがある気がする。
 その当時に身に付けた、ミステリーとの戦い方が、………疼く。……ミステリー。……戦い……。頭が、……痛む………。
 私は鎮痛剤をもらい、それを井戸から組み上げた新鮮な水で飲み込んだ。
 私は本当に、……誰なんだろう………。……しかし、それをいくら考えても、思い出せない。
 脳の手術をすれば、頭痛の頻度は減るそうだが、それでも記憶回復に繋がるかどうかは保証できないと言われた。幾子は、望むなら手術を受けても良いと言ってくれた。
 でも、私は断った。たとえ思い出せなくても、……私の頭の中には、本当の私が、眠っている。手術でそれに傷を付けられるのが怖くて、……私は断ったのだ。
 私も、今では頭痛との付き合い方に慣れている。……無理に、過去のことを思い出そうとさえしなければ、頭痛も、連日私を苛んだりはしないのだ。だから、……私は次第に、頭痛から解放され、八城十八としての新しい生活に馴染んでいった……。
 次第に私の興味は、自分のことでなく、幾子に向いていった。
 八城幾子。不思議な女性だった。
 まず、彼女は本当に、どこかの良家のお嬢様だったらしい。だが、相当のひねくれ者だったらしく、彼女が語るところの“愉快な事件の数々”により、勘当一歩前まで行ってしまったらしい。
 その結果、彼女はこの家を与えられ、ここでひとり隠居するように命じられたらしい。彼女は元々、社交的な性格ではなかったらしく、それを喜んで受け入れ、ここで使用人たちに身の回りの世話をさせながら、悠々自適に暮らしているらしい。
 友人はいない。尋ねてくる者もない。彼女が話し掛けるのは、私がいなかったらペットの老いた黒猫、ベルンだけだ。
 彼女の実際の年齢はわからない。婚期的には、まだ取り返しのつく年齢らしいが、こんなところで一人で隠居していては、出会いもあるわけがない。たまたま良い出会いがないだけだと言い張る彼女だが、多分、結婚はもう、諦めているのだろう。
 彼女の日々は、とても単調だ。取り寄せた推理小説の数々を読み漁るか、あるいは自ら推理小説を執筆するか、そのどちらかだった。
 最初は、庵に隠居して原稿に勤しむ小説家なのかと思った。しかし、彼女が書き上げた原稿は、目玉クリップで留められ山積みにされるだけ。自分という例外を除けば、誰にも読ませているようには見えなかった。
 小説家というのは、人に読ませるために小説を書く職業のことだ。だから人に読ませない小説ばかりを書く彼女は、多分、小説家とは呼ばないに違いないと思った。
【十八】「……幾子さんは、なぜこの原稿を誰かに見せようとしないのですか。」
【八城】「そなたには見せています。無論、出来のマシなものに限りますが。」
【十八】「例えば、どこかの出版社に応募してみるとか。……幾子さんの作品は、とても面白いのに、残念ですよ。」
【八城】「私の作品など、プロには通じぬ。一度送ったことがあるが、さっぱり駄目でした。私にはわかっています。こんなもの、素人の道楽です。」
【十八】「あれだけ古今東西の様々な推理小説に精通していて、素人ということはないと思います。」
【八城】「大飯喰らいが、良き料理人になれるわけでもない。推理小説を読み散らすことが、良き推理小説家であることを保証するわけでもない。そういうことです。だからこんなものは、道楽に過ぎません。」
【十八】「……誰にも見せない小説を書くことは、本当に楽しいですか?」
【八城】「かつては楽しかった。……かつては。」
【十八】「今は?」
【八城】「そなたに感想を得ることが楽しい。………とりあえず、一章を書き終えました。お茶を用意させるので、また読んで感想を聞かせてもらえませんか。」
 幾子は、そう言って微笑みながら、原稿用紙の束を私に突き出す。
 推理小説は、読むのも書くのもきっと同じ。自分ひとりだけじゃ、つまらない。誰かと一緒に、世界を共有して初めて、……何か大切なものが広がるのだ。
 ……………………頭痛。
【八城】「十八? ……しっかり? 今、頭痛薬を。」
【十八】「大丈夫です。それより原稿を。新章が楽しみです。」
 季節は移ろっていく。私は幾子と二人で、この名も知らぬ町で、日々を推理小説の議論と、新しい小説のプロットのアイデアについて話し合って過ごした。
 それは一見、代わり映えのしない日々だったかもしれない。でも、……八城十八としての、新しい人生としは、満ち足りたものだった。
八城邸・書斎
【八城】「……“斯様にして、我が黒首島奇譚は幕を閉じるのである。”………<了>。」
 幾子は万年筆を大仰に振り上げ、原稿を完全に書ききったことを示す。
【八城】「どうであるか…! そなたのプロットを活かしつつ、最後に辻子の悲恋をもう少し厚くしてみました。」
【十八】「とても良いと思います……。最後の別れが悲しく、推理物としてだけでなく、読み物としても厚みが出たと思います。」
【八城】「……十八のプロットがあればこそです。……この作品の前には、私がこれまで書き溜めた原稿など、ちり紙の価値さえない。……書きながらも、私が世界で一番最初の読者であることの興奮。……こんな経験は初めてです。」
【十八】「私はアイデアを出しただけです。それを、ここまで立派な読み物に昇華してくれたのは、全て幾子さんの筆のお陰です。」
 いつしか彼女に誘われるようにして、私も推理小説を執筆する世界に足を踏み入れていた。……かつての私は、推理小説というかミステリーというか、そういうものに多少の心得があったらしい。そしてそれらに、相当、斜な角度から切り込んでいたようだ。
 私は古今東西の有名ミステリーを逆手に取り、アイデアだけは斬新なものをと考え続けた。しかし、アイデアだけで作品が仕上がったら、これほど楽なことはない。野菜をぶつ切りにしただけでは、どんな料理だって完成しないのだ。
 その私のアイデアを、幾子は長年培ってきた筆力で作品に昇華してくれた。初めて二人で書き上げた、この「黒首島奇譚」は、二人の素晴らしい個性を活かしあった、……内輪褒めで恐縮だが、誰に見せても恥ずかしくない、傑作だった。
【八城】「もしもし? 書斎にシャンパンを持って来て下さい。……グラスはあなたの分も。これまでで一番の作品が仕上がりました。お祝いしましょう。」
 幾子が内線電話でシャンパンを持って来させる。
 私たちは、その日の当番だった使用人とベルンを交えての三人と一匹で、高々とグラスを掲げて乾杯をした。
【十八】「………幾子さん。提案があるんだけれど、いいですか。」
【八城】「聞こう。そなたの話すアイデアなら、シャワーとトイレ中でなければ、いつだって耳を貸そう…!」
【十八】「この私たちの作品を、投稿してみませんか。……私は、これほど面白い作品を読んだことがありません。きっと、読みたいと願う人が大勢現れるはずです。」
【八城】「……そうでしょうか。過去にもそう思い投稿しましたが、結果は……。」
【十八】「私は、幾子さんの才能を確信しています。……幾子さんはどうですか。」
【八城】「私とて、そなたの才能を確信しています。」
【十八】「なら、決まりです。……幾子さんの、メジャーデビューを祈って。」
【八城】「十八のメジャーデビューを祈って!」
 私たちは再びグラスをぶつけ合う。そうして、夜は更けていった………。
 すっかり飲み過ぎてしまったらしい。私はいつの間にか酔い潰れる、ソファーで横になっていた。毛布が掛かっている。……幾子さんが掛けてくれたのだろう。
 書斎は灯りが消されていたが、暗くはなかった。パソコンの、モニターが照らし出しているのだ。
 外はいつの間にか雨が降っていた。……私が幾子さんに拾われたあの日のことを思い出す。
 だから、雨が降ると、……私は何者なんだっけと考えてしまって、……頭痛を起こしやすい。だから頭が痛むのは、雨のせいなのか、飲み過ぎたせいなのか、よくわからなかった。
【十八】「……幾子さん。明かりをつけて下さい。……こんな暗い部屋でパソコンじゃ、目を悪くしますよ。」
【八城】「おや、起こしてしまいましたか。」
【十八】「いえ、ぐっすり眠っていました。お陰様で、頭もすっきりです。」
 部屋の明かりをつけ、私はカーテンの隙間から外を見る。……やはり、あの日を思い出させるような、大雨だった。
【十八】「ひどい雨ですね。風もひどい。また雨どいが葉っぱで詰まらないといいのですが。」
【八城】「……先日掃除をさせましたから、当分は大丈夫でしょう。」
 ちょっとだけ無関心な返事。彼女はかなりパソコンに夢中になっているようだった。
【十八】「幾子さんは、最近はかなりパソコンに熱心なようですね。何か面白い記事でもありますか?」
【八城】「………馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、なかなか面白いのです。……ほら、例の六軒島事件。」
【十八】「……六軒島………?」
【八城】「六軒島ミステリーの話は先日したでしょう。これが今、ネットでブームになっているのです。それを巡る議論や考察、中でも偽書が実に面白い。……偽書というのは、付近の島に流れ着いた、右代宮真里亞の署名のあるボトルメッセージが、他にもあったと仮定して書いたもので……。」
 幾子は得意気に語り続けている。……しかし、……私の頭の中の大きな鐘が、がらんがらんと鳴り続ける。そのあまりに大きな音に、私の頭は割れそうになる。
 もはや、天井と床の区別さえわからず、……私は頭を抱えながら倒れ込んだ…。
【八城】「十八っ、……大丈夫ですか…!」
【十八】「……頭が、………痛い…………………。」
 六軒島爆発事故。それを巡って囁かれる、不穏な噂の数々。右代宮金蔵の莫大な財産と隠し黄金を巡って、親族たちが暗躍を……。
 真相は? 唯一の生還者の右代宮絵羽は何も語らず。やがては、当日に欠席して難を逃れた孫娘、右代宮縁寿が全てを相続……。
 縁寿、……縁寿、…………右代宮、縁寿…………。……私は、右代宮………、ぐ、……。
 駄目、頭が、……割れる……。
 わけのわからない光景が、光の刃になって、瞼を内側からざくざくと刺してくる。
 何これ、……知らない光景……。誰、この人たち、……私を呼んでるけど、………それは十八という名じゃない。
 ……私、…………誰………。この人たちは誰……。この記憶は、…………何………。助けて、幾子………。………私じゃない誰かの記憶が、…………痛い………。頭が、割れ、……る…………………。
黄金郷
 ……物悲しい、風の音が聞こえる……。あと、……きっと、雨の音。
 ……私は……誰だっけ…。私は、……右代宮……。
「縁寿っ、……縁寿っ…!!」
「お願いよ、返事をして…!!」
 声…。私を呼ぶ声。お父さんと、……お母さんの声……。……そんなはずない…。だって、……お父さんとお母さんは、……1986年の、六軒島で……。
「……縁寿っ、しっかりしろ…! お父さんの声が聞こえるか…!」
「お願いだから返事をしてっ!! 縁寿っ!!」
 ……お父さん、お母さん……。私は、……それを、口にする……。
 ………お父さん、……お母さん………。
「縁寿…!! 縁寿ッ、良かった……!!」
 私の体が力強く抱き上げられ、……乱暴に抱き締められるのを感じる。……私は、お父さんとお母さんに、抱き締められている……。
 私の瞼は、ずいぶん前から開いていた。ゆっくりと、瞳に光が戻ってくるのを自覚する。闇に目が慣れてくるかのように、……私は光に目が慣れて、……少しずつ景色が見えてくる。
 でも、それはとても遠くのように見える、不思議な光景だった。私の体は、……お父さんとお母さんに抱き締められていた。
 お父さんは鼻水まで垂らして、顔は涙でぐしゃぐしゃ。お母さんも目に涙を溜めて、ぎゅっと、私を抱き締めてくれていた。
 それは、……少し痛いくらいに力強い。素直じゃなくて、いつも屁理屈ばかりで、……両親の言うことのまず逆を試す、悪い子の私が、………誤った方向へ迷い込まないように、……ぎゅっと、………力強く……。
 目が慣れてくると、お父さんとお母さん以外の姿も目に入った。みんないた。譲治お兄ちゃんや朱志香お姉ちゃん、真里亞お姉ちゃん。
 伯父さんたちや伯母さんたち。……さくたろうもいる。……それから魔女のワルギリアやロノウェや、……………。
【縁寿】「……………ここは…………。」
【ベアト】「そなたは幸運だった。……偶然にも、虚無の海の波間を漂うそなたを見つけたのだ。……酷い姿であったぞ。……そなた自身がその姿を思い出すまでに、ずいぶんと時間を掛けた。」
【縁寿】「………ベアトリーチェ…。………じゃあここは……。」
【留弗夫】「黄金郷だ。……ここで、お父さんたちはみんな、お前が帰ってくるのを待ってたんだぞ。」
【霧江】「……絶対にあなたは帰ってくると、信じてたわ。」
 私は、………帰ってくるべくして、帰ってきたのだろうか…。……私は、…………在るべき姿に戻って、……それで……………。
【留弗夫】「いや、お前は帰ってきたんだ。」
【霧江】「そうよ。あなたが私たちのところへ帰りたいと願ったから、ここへ帰ってこられたのよ。」
【縁寿】「………お父さん、……お母さん…。………私は……………。」
【霧江】「今は何も言わなくていいわ。………大変な冒険をしてきたわね。……あなたはひとりぼっちで、大変な冒険をしてきたわ…。」
【留弗夫】「これでわかっただろ。もう、忘れないだろ。」
 わかるよ、……お父さん…。
【留弗夫】「……ここが、お前の帰るべきところだってことだ…。」
【縁寿】「…………うん…。」
 私がそう答えると、お父さんとお母さんは、私を力強く抱き締めてくれた。
 熱い雫が、顔に落ちる。お父さんとお母さんの、涙だった……。
【絵羽】「…………無事で、とはとても言えない姿だったけれど。……良かったわ。帰って来て。」
【縁寿】「……絵羽、………伯母さん……。」
【絵羽】「私のことをいくらでも、憎んでくれていいから。………だから、お父さんとお母さんに、百万回キスをしてあげて。……あなたのことをいつも想っているみんなにも、キスをしてあげて。」
【縁寿】「絵羽……、…………伯母さん…………。」
【霧江】「………あなたのもう一人のお母さんに、どうかただいまと言ってあげて。」
 私はお母さんに背中を押され、…………たどたどしく歩み寄る。もう一人の、お母さんに。
【縁寿】「………絵羽……、……………お母さん…………。」
【絵羽】「……縁寿ちゃん……………。」
【縁寿】「あの日、…………私が、そう呼べていれば…、………私は、……何も誤ることがなかったかもしれない……。……私たちは、……新しい世界を、二人で生み出せたかもしれない……。」
【絵羽】「もういいのよ。……縁寿ちゃんは帰って来てくれたわ。………だから、もう何も言わなくていいのよ…。」
【縁寿】「お母さん……。…………お母さん………………。」
【絵羽】「お帰り、縁寿ちゃん…。…………あなたは私の可愛い娘よ……。」
【縁寿】「絵羽お母さん……。………あなたはいつまでも、……そして最後まで、………私の一番の味方だった…………。」
 二人は静かに抱き合い、……互いの肩に顔を埋めて、泣いた。
 真実なんて、何の価値もなかった。そもそも真実なんて、……いつだって過去のもの。過去がどうだったかを知ることが、未来の役目だったりはしない。
 本当に大事なのは、今という真実を、私が真に生きて、結実しているかということ。真に生きて、結実するから、真実。過去の真実しか見ようとしなかった私は、過去に捕らわれただけの、ただの亡霊。
 私はあの日から、一日たりとも、生きてはいなかったのだ。……私は今こそ、本当に理解する。本当の真実とは、………そういうことなんだ………。
【縁寿】「私は、……生きるわ……。……そして、どれほど、みんなに愛されていたかを思い出したわ……。」
 私が幼くて自分勝手だったから、覚えてさえいなかった。
 いつも私を甘やかしてくれる、やさしかったお祖父ちゃん。愉快な伯父さんや伯母さんたち。親切でやさしい、使用人のみんな。……いつだって、温かかった。
 なのに、私が幼くて残酷だったから、それを記憶に留めようともしなかった。そして勝手なイメージでみんなを歪曲して、……それをずっと忘れてきた……。
 今こそ、はっきりと思い出し、私は理解する。あのハロウィンのクイズパーティー自体は、確かに幻。
 あんなことは、確かになかったけれど。……親族のみんなで集まる度に、………あのパーティーに勝るとも劣らない、……楽しいことが、いつだってあったじゃない………。
 そして私は、……このゲームが始まってから、初めて。みんなに、ひとりひとりに、……挨拶と感謝と、謝罪をした。
 お祖父ちゃんに、いつもいつも可愛がってくれたことの感謝を。伯父さんや伯母さんたちにも、感謝を。いとこのみんなにも、わがままな私といつも遊んでくれたことを、感謝を。
 ……そして、幻想の住人のみんなにも、感謝と謝罪をした。さくたろうには、かつて酷いことを言った気がする。それは、真里亞お姉ちゃんにも。
【縁寿】「……真里亞お姉ちゃんは、本当の魔女だったんだわ。」
【真里亞】「真里亞は最初から魔女だよ。……縁寿だって、一度はその領域に近付けたのにね。」
【縁寿】「うぅん。本当の意味でわかってなんかいなかった。……可哀想な真里亞お姉ちゃんの可哀想な魔法。……そんな風にしか見ていなかった…。………だから、……私には幸せのカケラが拾えない、見つけられない。………かつてお姉ちゃんは私に、……そう言ったわ……。」
【真里亞】「……仕方ないよ。宇宙は、二人で作らないと生み出せない。……真里亞にはベアトがいたけれど、縁寿はひとりぼっちだった。」
【縁寿】「いいえ。……もし絵羽伯母さんをお母さんと呼べていたら、私は二人だったわ。……きっと、真里亞お姉ちゃんと同じ魔法で、私は新しい世界を生み出せたわ。」
【ベアト】「………全て妾のせいだ。妾が面白半分に投じたボトルメッセージが、そなたの未来に歪みを生み、そなたを蝕んだ。……妾にもその責任がある。」
【縁寿】「……まったくね。あんたのボトルメッセージのせいだわ。そのせいで、あんたの真似をした偽書を書く連中が現れて、……どんどん、おかしな話が膨らんでいった。」
 しかし、ベアトが投じたメッセージボトルには、特定の誰かが犯人であるかのように記したものはない。
 ……偽書作家の誰かが、右代宮絵羽が犯人であるとする、もっともらしい偽書を描き、……それが爆発的に広がって…。そんなことがあるわけもないと、一番知っているはずの私さえも、……最後には飲み込んでしまった。
【縁寿】「…………ベアトのせいじゃないわ。……周りの誰が、どんな邪推を重ねようとも。……私の中の真実はたった一つのはずだった。なのに、安易に私は、……みんなの温かな思い出を手放し、……心を彼らに明け渡すしてしまった。」
【ベアト】「いやいや。そもそも妾がボトルメッセージなど投じなければ、未来の六軒島は、おかしな妄想の種にされることもなかったのだ。全ては妾のせいだ。」
【縁寿】「……そうね。それもそうだわ、やっぱりあんたのせいだわ。」
【ベアト】「むっ。……素直にそう言われるとカチンと来るぞ。……妾のせいだけでなく、やはりそなたも悪いのだっ。」
【縁寿】「……………………。……えぇ、そうね。あんたも悪いし、私も悪いわ。……でも、お互い罵り合うのも馬鹿らしい。……だって、私は未来の魔女。あなたは過去の魔女。……未来に生きる私は、その魔法で未来を築くべきなのよ。……私たちはともに何らかの責任を負うけれど。それを責める資格はどちらにもないわ。」
【真里亞】「………縁寿なら。マリアージュ・ソルシエールの教えを、きっと理解してくれると思ってたよ。」
【縁寿】「そうね。……私はマリアージュ・ソルシエールの最後の一人として、……お姉ちゃんの魔法を伝える義務があるわ。」
【真里亞】「真里亞の魔法は、みんなを幸せにする魔法なの。」
【ベアト】「うむ…! 清らかなる魔法も、邪悪なる魔法も思いのままよ…!」
【縁寿】「………本当ね。魔法は、心の持ち方でまったく違う姿に変わる。……正しい導きがなければ、正しい魔法は使えないわ。……そして、正しい魔法は、人を幸福に導くわ。」
【ワルギリア】「素晴らしいことです…。………人を幸せにすることこそが、魔女が魔法を振るう唯一の理由なのです。……その教えをようやく、我等が無限の魔女の系譜の、最後の魔女に伝えることが出来て、私は嬉しいですよ…。」
【ベアト】「悪かったなー、全然、伝えてなくてよー。」
【真里亞】「未来の魔女、エンジェ・ベアトリーチェ。……マリアージュ・ソルシエールは今こそ、あなたの除名を解く。」
【さくたろ】「うりゅー! 縁寿はきっと帰って来てくれるって、信じてたよ…!」
【マモン】「おめでとうございます、縁寿さまっ。」
【縁寿】「……あなたたちと共に旅をした日に、私は一度は理解をしたつもりでいたのに。……ごめんね。本当にごめんね……。」
【ベアト】「魔女は、二人でなければ宇宙を生み出せぬ。……未来のそなたは一人だが、……本当に、大丈夫か…?」
【縁寿】「えぇ、大丈夫。……私はもう、一人じゃないもの。……私は、生きるわ。……みんなと一緒に。そして、未来に生きる。マリアージュ・ソルシエールの魔法を伝えるために、生き抜くことを誓うわ。」
【縁寿】「真里亞お姉ちゃんの魔法は、私でさえ救ってくれたもの。………魔法を必要としている人たちは、もっと大勢いる。それを正しく伝え、ひとりでも多くの人々を救うことが、……マリアージュ・ソルシエールの最後の魔女の、私の使命なんだわ。」
【ベアト】「それは実現できそうか…?」
【縁寿】「もちろんよ。そのための力だってあるわ。私の先代さま、エヴァ・ベアトリーチェが、たっぷりと築き上げてくれた、黄金の魔法があるもの。私はそれを全て継承しているわ。ね?」
【絵羽】「くすくす。……私がもう少し健康で長生き出来てたら、ぜーんぶ使い切っちゃうつもりだったんだけどねぇ。」
 くすくす、……あはははははははははははは。縁寿は笑いながら、再び涙を零す。みんなは温かく微笑みながら、縁寿をやさしく包み込むのだった……。
 戦人は一人、薔薇の迷路庭園で、静かに雨に打たれていた……。その姿を、縁寿はようやく見つける。
【縁寿】「…………お兄ちゃん………。」
【戦人】「…………………………。」
 罪の意識のある縁寿には、戦人の表情は、どこか怒っているものに感じられた。だから、……叩かれると思った。
 ぎゅっと、目を瞑る。
 しかし、兄は、そっと触れる。そしてやさしく頭を撫でてくれた。
【戦人】「………な。」
【縁寿】「………………。」
【戦人】「真実なんて、……大したもんじゃなかっただろ。」
【縁寿】「………うん。……お兄ちゃんは、……こんなにも、……温かな世界でずっと、……私の帰りを待っててくれたのに、………私だけがずっと、……背を向けていたから……。」
【戦人】「お前は、真実を知ってしまった。」
【縁寿】「……………うん…。」
【戦人】「だから、誰かが生きて帰ってくるかもしれないっていう奇跡や希望は、……もう、潰えちまった。……でも、お前にはもう、未来を生きるための新しい希望や使命があるな。」
【縁寿】「……お兄ちゃんが、その温かな希望を守ってくれてた。……それを、私が自ら開いて、逃がしてしまった。……パンドラの箱より始末が悪いわ。……私は知る必要のない真実も、……そして希望までも、全て全て逃がしてしまって、全てを空っぽにしてしまったのだから…。」
【戦人】「いいさ。……開けちまったなら仕方ねぇさ。それで空っぽなら、後腐れがなくていいじゃねぇか。下手な希望は、かえってトゲになることもあるしな。」
 戦人は、わははははと元気に笑う。そしてその笑みのまま、告げた。
【戦人】「俺たちは、もう死んでる。」
【縁寿】「……………うん。」
【戦人】「ひょっとしたら生きてるかもしれないって希望が、お前の12年間を生きる糧にしてくれた。それはもう、これでおしまいだ。綺麗さっぱり、全部なしだ。」
【縁寿】「うん。……わかってる。これからの私は、……新しい人生に踏み出すわ。」
【戦人】「ベアトは六軒島を猫箱に閉ざし。次の魔女の絵羽伯母さんはその猫箱の蓋を生涯守った。……その次の魔女のお前は、その蓋を開けちまったが、……だからって何だってんだ。過去の真実なんて、どうでもいいことじゃねぇか。」
【縁寿】「………えぇ。……私はこれから、真に生きる。そして自分だけの真実を、結実するわ。」
【戦人】「がんばれよ。マリアージュ・ソルシエールの最後の魔女。……真里亞の魔導書を読んだぜ。あれは、とても良いことを書いた、素晴らしい本だ。」
【戦人】「聖書だって翻訳がいる。なら、真里亞の魔導書にだって翻訳がいるだろう。……お前がそれを翻訳するんだ。……そして、かつてのお前と同じ境遇の子供たちに伝えてやれ。それが、お前の、新しき未来の魔女の使命だ。」
【縁寿】「……うんっ。」
【戦人】「俺は、いない。でも、お前の後ろに、いつだっていて見守ってるからな。」
【縁寿】「知ってるわ。……お兄ちゃんだけじゃないわ。みんなも一緒よ…。」
【戦人】「………俺もみんなも、……ずっとずっと永遠に、お前を愛してる。それを忘れるな……。」
【縁寿】「……忘れないわ……。………絶対、……永遠に……………。」
 縁寿は戦人の胸に飛び込み、……泣く。
 ニンゲンは、“知る”ことは出来ても、“知らぬ”には戻れぬ、悲しい存在。彼女はもう、知ってしまった。それは残酷で、恐ろしくて、……希望という名の奇跡さえ許さない無慈悲なものだけれど。
 ……それでも彼女の握り締める手には、一粒だけカケラが残った。
 家族の、愛。それだけを思い出し、握り締めていれば、………きっと、縁寿は生きていける…。あの日の、虚空へ踏み出す一歩を、踏み止まれる……。
【戦人】「それに、六軒島の猫箱は、まだ完全に開かれたわけじゃない。……お前が中身を覗いちまっただけの話だ。だからお前が、自ら蓋となれ。」
【戦人】「そして今度はお前が、猫箱の中のみんなを守るんだ。俺や親父や霧江さん、いとこのみんなや伯父さんたち伯母さんたち。祖父さまや使用人のみんな。……幻想の住人のみんなをな。」
【縁寿】「……………うん。……今度は私が、……みんなを……、守らなきゃ………。」
「なら、それは急いだ方がいいんじゃなーい?」
 ボリボリとポップコーンを食べる音が、薔薇の茂みの向こうから聞こえる。……ラムダデルタだった。
【ラムダ】「あんたも知ってると思うけど。……ベルンはもうじき、一なる真実の書をパーティーで大公開するわ。会場には、天国から地獄から、異界から別世界から、あらゆる世界の面々が集まってる。そこで中身を公表されたら、もう何もかも手遅れよ?」
【縁寿】「………私、行くわ。……ベルンカステルに、あの鍵を渡してしまった。私の責任だわ。私が行って、取り返してくる。」
【戦人】「図書の都にか。しかし、入る方法がない。あそこには結界があるんだ。」
【縁寿】「……あいつがこれをくれたの。これがあれば、自由に出入りできるって。………馬鹿なヤツね。私を捨てる時、回収を忘れたんだわ。」
 縁寿がポケットを探ると、そこから鈴の音が聞こえる。それは、青リボンの結ばれた鈴だった。
【ラムダ】「………それよ。招待状と引き換えに渡される、図書の都の臨時入館証。それがあれば、とりあえず1人は、図書の都に乗り込めるわね。…まぁ、カケラの海を誰かが送ってくれればの話だけど。」
【縁寿】「ラムダデルタ。私を図書の都に連れてって。」
【戦人】「……縁寿。」
【縁寿】「それが、私の責任の取り方だわ。………私が、一なる真実の書の公開を食い止める。」
【ラムダ】「………本気で言ってんの? あそこはバケモノ中のバケモノの伏魔殿よ。ベルンの庇護を失ったあんたなんて、ハエ以下の羽虫扱い。べちっと叩いて潰されておしまいよ。」
【縁寿】「あっ、」
 縁寿の手から、鈴が奪われる。
【戦人】「ラムダデルタ。そこには俺が行こう。……お前は俺を送ってくれるだけでいい。どうせ俺は、猫箱の中にしか存在できない、虚無の存在だ。だが縁寿は未来に生きなくちゃならない。そしてお前だって未来ある存在だ。……だから俺が行く。俺には何も、失うものなんてないんだからな。」
【縁寿】「いいえッ、これは私の責任、そして私のけじめ! 私が自らの手でやらなきゃ、未来は何も変わらない、そして未来の猫箱を何も救えない…!」
 縁寿は戦人の手から鈴を奪い返そうとするが、戦人も返す気はない。本人たちは真剣に奪い合いをしているのだが、傍目には仲の良い兄弟喧嘩にしか見えなかった。
 ラムダデルタは肩を竦めながら、そのやり取りを見ている。……どちらかひとりを図書の都に送り届けるだけなら、誰も敵に回さずに済むし、リスクもない。
 彼女が気にするのは、どちらを送り込んだら、物語が面白くなるか。その一点だけだ。しかし、やがて気付く。
【ラムダ】「ストップ。……あんたたち、ちょっとストップ、ストーップ!」
【縁寿】「何よ、後にしてよッ!!」
【戦人】「今、兄妹で大切な話をしてるんだ!」
【ラムダ】「まず、あんたたち。その組み合ってる手を解きなさい。……鈴は戦人が持ってるのね? 戦人、跳ねてみて。」
【戦人】「……跳ねる? こうか?」
 チリンチリン。
【ラムダ】「次、縁寿。跳ねてみて。」
【縁寿】「……何で、私まで…。」
 チリンチリン。
【縁寿】「え……。……どうして……?」
 鈴は戦人が持っているはずなのに、どうして鈴の音が……。
 縁寿は慌てて、ポケットを探る。すると、……さっき鈴を出したのとは別のポケットから、もう1つ、青いリボンの鈴が出てくる。
【戦人】「それ、……これと同じ鈴だよな…?」
【縁寿】「……そんな……。どうして2つ? 私は1つしかもらわなかったわよ?!」
【ラムダ】「どーしてかなんか知らないわ。でも、とにかくあんたは、図書の都に入れる鈴を、2つ持っている。よって、あんたたちの仲睦まじいやり取りを、これ以上見ている必要がなくなったわけ。」
 二人はそれぞれ鈴を握り締め、見詰め合う。
【ラムダ】「最初っから。今回のゲームは、あんたたち二人のものだわ。……ただ、対決するプレイヤーには若干の変更があったみたいね。……あんたたち二人が競い合うゲームじゃない。……猫箱を巡って、蓋を閉ざそうとする戦人と縁寿と、……それを開こうとするベルンとの戦いだわ。縁寿は、ベルン側から戦人側にチームを変更した。それだけの話。」
【戦人】「ラムダデルタ。俺たちを、図書の都へ連れて行ってくれ。」
【ラムダ】「………わかってるわよね、連れてくだけよ! 後は、今度こそ観劇者に徹するからね! あんたたちが、図書の都で何をどう戦って、どうベルンにコテンパンにされるかを、じっくりたっぷり、間近で観劇してるだけだからね…!」
【縁寿】「ラムダデルタ……、ありがとう!」

大船団の包囲

黄金郷の扉の前
 黄金郷の扉の前には、紗音と嘉音が門番として立っていた。水平線にて取り囲む不気味な大船団に臆すことなく、静かに睨み続けている。
 紗音がゆっくりと両手を掲げる。嘉音もゆっくりと右腕を掲げ、赤き軌跡の剣を現す。
【紗音】「そこで止まって下さい。それ以上の接近を拒否します。」
【嘉音】「……それ以上、近寄れば、……斬るっ。」
 大船団より、一艘の小船が近付いてくるのが見える。使者か、尖兵か、わからない。紗音と嘉音は、用心深く様子を見守る…。
 山羊がオールを漕ぐその小船の先頭には、……ヱリカが堂々と立っていた。どこから持ってきたやら。この大船団の長を気取っているのだろうか。……海賊帽のようなものを被り、こちらを睨みながら不敵に笑っている。
【ヱリカ】「最後通牒に参りました。交渉余地のあるものです。開門して下さい。」
 紗音と嘉音は顔を見合わせる。ヱリカの持ってくるものだ。どうせろくな条件じゃない。
 しかし、それを門前払いにすれば、ただちに攻撃を開始するだろう。絶対的劣勢であることを考えれば、今はどんな形であっても時間を稼ぎたい。紗音が頷くと、嘉音は剣を消す……。
黄金郷
 黄金郷は、時折雷鳴を伴う強い雨が降っていた。その天気が、彼らの感情を意味することをヱリカは察し、さらに不敵に笑う。
 黄金郷は、黄金の薔薇庭園に囲まれた東屋を中心とする。東屋には、ニンゲンも幻想の住人も大勢が集まり、何やら議論をしていた。
 その内容を聞かずとも、彼らの苦々しい表情から、議論の大体の想像が出来る。この絶体絶命の状況下で、彼らに選び得る選択肢など、決して多くはないのだから……。
 ヱリカの行く手には、シエスタ姉妹兵を連れたベアトが待ち構えていた。山羊の護衛を連れたヱリカもその姿を認め、見た目だけは美しくお辞儀をする。ベアトもそれに倣い、滅多にしない美しいお辞儀を見せる。
【ベアト】「……黄金郷の主、無限と黄金の魔女、ベアトリーチェである。……名乗られよ。」
 そなたの茶番に付き合おうとでも言うように、ベアトは不敵に自己紹介し、ヱリカにもそれを求める。
【ヱリカ】「尊厳なる観劇と戯曲と傍観の魔女により厳選されし名誉ある図書の都より派遣されて参りました。私は、図書に名誉と保護を与えし司書の艦隊司令官にして、真実の魔女、古戸ヱリカと申します。どうぞお見知りおきを。」
【ベアト】「用件を聞こうぞ。」
【ヱリカ】「お喜び下さい。我ら、図書に名誉と保護を与えし司書の艦隊はあなた方に名誉ある朗報を持って参上しました。一つ。図書の都は、無限の魔女ベアトリーチェによって生み出されたゲーム盤を、名誉ある厳選されたる図書に認定されましたことを報告いたします。」
【ベアト】「ほう。それは名誉なことである。」
【ヱリカ】「このゲーム盤は、非常に興味深く、かつ独創的で研究価値の高いものです。全ての臣民に公開される価値のあるものです。よって、図書の都は我らに、このゲーム盤に永遠の名誉と保護を与えることを命ぜられました。」
【ベアト】「くどいし長い。とっとと本題を言え。」
【ヱリカ】「本ゲーム盤の全てを、名誉ある図書の都に譲渡することを要求します。これは本ゲーム盤とその駒にとって、最高の名誉と保護です。」
【ベアト】「嫌だと言ったら?」
【ヱリカ】「全ての臣民に共有されるべき名誉文化を私的独占する罪で告発されます。我々はあなたに対し、全ての臣民の権利と利益を保護するため、攻撃を開始することを通告します。」
【ベアト】「その攻撃で、臣民の共有財産が破壊されるのは構わぬのか。」
【ヱリカ】「名誉図書保護法の規定により、名誉文化私的独占を犯す犯罪者がこれを楯に篭城を試みる場合、執行艦隊は大法院の許可を以って保護より逮捕を優先することが許されます。……もちろん、すでに大法院の許可状はこちらにございます。」
【ベアト】「ついでに、その逮捕は生死を問わぬと書いてありそうだな?」
【ヱリカ】「おや。よくこんな小さい文字が読めますね? では、茶番は以上です。……ぶっちゃけ、どうします?」
【ベアト】「そなたの要求を飲むと、どのような利点があるというのか。」
【ヱリカ】「お互い、無駄な仕事をしなくて済みます。そしてあなたの勇敢にして名誉ある行為は、図書の都にて誉れ高く終章に記されるでしょう。」
【ヱリカ】「……わかってますよね? あなたは絶対勝てません。これは戦いでさえない。井戸の底で上を見上げるあなたに、石をぶつけるだけの、一方的なものなのですから。」
【ベアト】「………妾に選べるのは、図書館の魔女たちが、妾の最期を如何に記すかだけと言うわけか。くっくっくっく……。」
【ヱリカ】「あとはあなた次第です。もしあなたが、このゲーム盤を愛しく思うなら、降伏すべきです。駒たちは末永く大勢の臣民に愛され、その役目を永遠に続けることが出来るでしょう。」
【ベアト】「ふっ。……つまりは、好き放題に生み出した惨劇を、永遠に繰り返すということか。」
【ヱリカ】「あんたがしてきたことと、何か違いが?」
【ベアト】「……………ないな。……以上か? ならば妾の答えを聞かせよう。」
【ヱリカ】「どうぞ。」
 ヱリカはわずかに身構える。何しろ相手は、あの大ベアトリーチェ卿なのだ。これが返事であるわっ、とでも叫んで、とてつもない何かを繰り出してくるかもしれない。
 窮鼠、猫を噛むとも言う。その上、元老院の魔女、大ラムダデルタ卿が観劇者の立場とはいえ、黄金郷に滞在しているという情報もある。
 ヱリカは、主に任されたこの名誉ある任務を、完全な形で遂行しなければならない。本音を言えば、………騙してでも、ベアトに白旗を掲げさせたかった。だからこそ、茶番ではあっても、無駄な挑発を慎んでいるのだ。ごくりと唾を飲み込み、ベアトの出方を見る。
 すると…………、……ベアトは、はあぁぁと、……何とも間抜けな表情で溜め息を漏らす。
【ベアト】「素直に言う。妾はもう、疲れた。」
【ヱリカ】「………それはどういう意味です?」
【ベアト】「妾のゲームは、戦人との戦いを終えた時点で、すでにその目的を終えている。なのに、その後の都合で、何度もゲームが繰り返されたのだ。……妾は正直もう、疲れている。」
【ヱリカ】「……正直、まったく想像していないお返事でした。……では、降伏なさると? 本気で……?」
【ベアト】「ぶっちゃけると、どっちでも良い。……降伏でも、そなたらに討ち取られるのでも、どっちでも良い。妾は、誰の手であっても構わぬから、このゲーム盤とその物語が、幕を下ろすことを望んでいる。」
 もちろん、………それは嘘だ。戦っても勝てないことはわかってる。今出来る最善の策はただ一つ、……時間稼ぎなのだ。
 ヱリカの目をここに釘付けにし、……その間に、すっかり油断しきっているベルンカステルより、戦人たちが鍵を取り戻す。……取り戻した後は、黄金郷へ戻り、その鍵にて縁寿に未来への扉を開かせ、彼女を見送る。
 それが、ベアトたちのゴール。その後のことは、もはや猫箱だ。縁寿は未来に希望を持って生きる。ベアトたちの生死は不明。……それでいい。その為にベアトたちに出来る唯一の抗戦が、時間稼ぎなのだ。
【ヱリカ】「……降伏してくれるなら、拍子抜けではありますが、私も手間が省けて助かります。」
【ベアト】「ところがそのだな、……そう綺麗には行かんのだ。そのだな、ここだけの話なのだが…。……そなたも存じておろうが、大ラムダデルタ卿がご滞在されている。卿は、我らにドラマチックなクライマックスを提供せよとだな、その、わがままを申されている。」
【ヱリカ】「……それは酷いわがままですね。十万の兵力を擁する我が艦隊に、すでに解き終えたパズルみたいな、絞りカスのあんたたちがほんの数十人で、どう抵抗をさせようというのです?」
【ベアト】「そうなのだ、そうなのだ…。戦力差は圧倒的。戦いにさえならぬと我らは言っておるのだがな……。その、……ラムダデルタ卿が、彼女の友人たちを集めて共闘するから、徹底抗戦せよと言って聞かぬのだ。」
【ヱリカ】「……ラムダデルタ卿の、………ご友人……?」
 孤高の魔女ベルンカステルと違い、ラムダデルタは友人が多い。
 その友人やパトロンたちは、いずれも各地に絶大な勢力を誇る領主たちや、生きたまま伝説に至ったようなバケモノばかり。冗談抜きで、彼女の自称ファンクラブは、カケラの海のど真ん中に唐突に独立国家を宣言しても何の不思議もないほどの勢力がある。
【ベアト】「……困ったことに、ラムダデルタ卿はやる気満々でな。さっきから勝手に各地に電話を繰り返し、友人知人を呼びつけておるのだ…。」
 ………もちろん、全部ウソだ。ラムダデルタは、戦人と縁寿を連れ、小さな金平糖の流れ星に姿を変え、今頃、図書の都に向かっている。
 だから、ラムダデルタや戦人の不在を気取られないように、ああして東屋に全員がぞろりと集まって、喧々諤々と議論をしているフリをしているのだ…。
【ルシファー】「戦人さまっ、ご決断を!! 我ら煉獄の七姉妹ッ、いつでも死ぬ覚悟は出来ております!!」
【蔵臼】「玉砕には反対だ! 死んで咲く果実などありはせんよ。」
【夏妃】「あなたは腰抜けです! 生きて虜囚の辱めを受けるなど、考えられませんッ!」
【ワルギリア】「生きてこそ、チャンスを待てることもあります。」
【熊沢】「……そうですとも。短気は損気とも申します…。」
【留弗夫】「戦人っ、男ならバシッと決めろぃ! 大ラムダデルタさまが力を貸してくれるってんだろ?!」
【秀吉】「同感や! 男には決断の時があるんやで…!」
【ロノウェ】「……決断は、選んだ内容よりも、選んだ時を賞賛されることもございます。」
【さくたろ】「こ、降伏すれば、乱暴はしないかも……。」
【マモン】「そんなことあるわけないわよッ!! あんた、それでもオスライオン?! 牙はどこに行ったのよ!!」
【ベルフェ】「どうせ死ぬなら、豚としてでなく、狼として死にたい。」
【サタン】「あんた馬鹿?! そういうのを犬死って言うのよ!」
【南條】「………ラムダデルタさんの呼び寄せる援軍の力次第、ですな…。」
【楼座】「ラムダデルタさん。本当に、あなたのお友達は、あいつらに勝てるだけの力があるの…?」
【絵羽】「………賭けね。降伏して死ぬか、賭けに出て、敗れて死ぬか。」
【霧江】「あら。なら賭けに出た方が、生き残れる可能性は高いってことになるわ。」
【ドラノール】「……大法院は名誉ある降伏には慈悲を与えるでショウ。」
【ウィル】「バックは元老院だろ。どうせ、何だかんだ言って、全員断頭台に決まってらァ。」
【理御】「と、とにかく皆さん、冷静に…! 頭を冷やしましょう…! 私は事を荒立てることには反対ですっ。」
【譲治】「君こそ冷静になるべきじゃないかい? ………相互確証破壊という戦略もある。仮に勝てないにせよ、こちらもただで済ます気はないという戦略は、相手への抑止になるよ。」
【朱志香】「つまりよ。そっちがやる気なら、こっちもただじゃ死なねぇぜってことだぜッ!!」
【真里亞】「きっひひひひひひひひひ!! ラムダデルタの友達はみんなすごいよ…!! みんなみんな、すごい伝説と武勇伝を持つすっごいすっごい魔女や怪物、悪魔や神様がいっぱいなんだから! あんなお船が星と同じ数を並べていたって、一息で吹き飛ばしてしまうよ! きっひっひっひっひっひ!!」
【郷田】「………だ、大丈夫でしょうか。……私たちの演技、気取られないでしょうか……。」
【源次】「問題ない。お前ももっと語気を強めて喋るのだ。無礼講に行け。」
【金蔵】「えぇい、腰抜けどもめ!! 最期に一花咲かせてやろうという気概はないのか!!」
【郷田】「ちょ、ちょちょちょっとお待ち下さい…! 戦いを望まぬ者がいることもお忘れなくっ! 私は降参が良いかと思いますっ!!」
【金蔵】「なにぃいいいいぃいいい?! 郷田ぁあああぁあああ、この敗北主義者むえええぇえぇえええぇえええ!!」
【郷田】「い、いででッ、痛い痛い、お館様ッ、え、演技ですのでッ、あいだだだだだだだだ!!」
【ゼパル】「さぁさぁ、議論も盛り上がってきたね!!」
【フルフル】「あぁ、私たちは降伏かしら?! 抗戦かしら?! どうなのかしら?!」
【ゼパル・フルフル】「「それは誰もわからないッ!!」」
【ベアト】「個人的には、妾は降伏を望んでいる。……どうせ役目を終えるのなら、せめて自分が生み出したこのゲーム盤は、そのままに保存されることを望む。……もうこれ以上、妾のゲーム盤を、ラムダデルタ卿に好き放題されるのは御免なのでな。」
【ヱリカ】「…………こちらこそ御免です。あんたとは戦いに来ましたが、ラムダデルタ卿のご友人は、私の相手の度を超えます。」
 ヱリカは内心、話がややこしくなってきたと焦っていた。そして、やはり高圧的に話を進めなくて良かったと安堵する。
 何とかベアトを煽てて、無血開城に持ち込みたい。いくら大ラムダデルタ卿といえど、本気で元老院を相手に喧嘩を起こすとは思えない。多分、このゲーム盤の最後の大花火を、間近で見物したいという程度の、下らない動機だろう。
 しかしそれでも、……彼女が本気で大花火を準備したら、……それはヱリカには対応できない大きな騒ぎになる可能性を否定できない。
 …………そのヱリカの心中は、完全にベアトに見透かされていた。だからベアトは、なおも情けなさそうな顔を演技しながら続ける。彼女の演技力は、名だたる魔女たちの中でも折り紙付きだ。
【ベアト】「………そなたも、どうか力を貸してはくれぬか。妾のゲーム盤が、美しい姿のまま保存されるように。……やはり、あの賑やかな御仁を客人として招いたのは失敗だった。……とほほほ。」
【ヱリカ】「………わかりました。私も、事を荒立てずに済むならそうしたいです。で、私はどのような協力をすれば?」
【ベアト】「妾たちはさっきから、降伏か抗戦か議論を続けている。妾もそれに戻り、降伏を主張し、ラムダデルタ卿に、このゲーム盤を壊してしまうような大騒ぎはやめてほしいと頼むつもりだ。」
【ヱリカ】「それは助かります。で、どうしろと?」
【ベアト】「妾たちに、議論の時間を保証してほしい。……何しろ、そなたらの船がぐるりと取り囲み威圧しているのだからな。いつ攻撃されるかもわからぬと、緊張感に堪えかねて、皆、破れかぶれになっておるのだ。だから、そなたが我らに議論の時間を保証してくれれば、一同も冷静になれる時間を取り戻せるだろう。……妾も、ラムダデルタ卿を説得できる充分な時間を得られる。」
【ヱリカ】「………………………………………。……いいでしょう。時間は、如何ほど必要です?」
【ベアト】「出来れば気前良く、無制限とは行かぬか。……期限があれば、結局は残り時間が少なくなるとまたみんな破れかぶれになり、過激な意見に統一されてしまう…。」
【ヱリカ】「……そりゃそうですね。導火線で大事なのは、火が付いているか、いないかです。その議論の前に導火線の長さなど、どうでもいいことでしょうから。」
【ベアト】「では、……しばし時間をもらえるか。」
【ヱリカ】「わかりました。議論の時間を保証します。ただし、無期限ではありません。私はここで、皆さんの議論を聞きながら、待たせてもらいます。」
【ベアト】「それがそのだな……、そなたの姿が見えていては、やはり皆、緊張してしまって……。」
【ヱリカ】「私はすでに譲歩をしました。今度はあなたが私に譲歩をする番ではありませんか?」
【ベアト】「………………………………。」
 ここは東屋から少し離れているが、その様子が辛うじてわかる、ぎりぎりの距離だ。戦人たちの姿がないことを偽り切れるかどうか、あるいは議論が白熱していて決着がつかないのを装えるかどうか、……それらが全てぎりぎりの、微妙な距離だった。
 本当は、もっと距離を開いたところで待たせたい。迷路庭園の一角に貴賓席を設け、そこに隔離して待たせる作戦だった…。
「………何か問題でも?」
【ベアト】「わかったわかった。そう怖い顔をするでない…。なら、ここでしばらく待つが良い。……ひ、秘密会議であるからな! そなたはだな、その! この線よりこちらに来てはならぬぞ…!」
 ベアトは足で、地面に線をなぞる。
【ベアト】「妾の顔も立てよ。そなたがこれだけ寛大な配慮をしてくれたことは、妾にとって、何よりの武器となるのだ。」
【ヱリカ】「………椅子、もらえます?」
【ベアト】「わ、わかったわかった! シエスタ隊よ、すぐにヱリカ殿にお椅子と傘を…! 手ぬぐいもな! 妾が自ら拭いてピカピカにしてから差し上げようぞ…!」
【ヱリカ】「…………………………………。」
黄金郷・東屋
【ロノウェ】「お嬢様、首尾は如何でございましたか…。」
【ベアト】「わはははははは…。今年の主演女優賞は妾で決まりだぞ…!」
【レヴィア】「さっすがベアトリーチェさまっ!」
【譲治】「僕たちに出来ることは、激論を交わし、紛糾し、事がこじれるれば面倒なことになると演出することだけだ。」
【金蔵】「うむ。これもまた、戦人たちを援護する戦いであるっ。皆、気を引き締めよ。本気で激論し、罵倒せよ。良いな…!」
【郷田】「ふぁ、ふぁい、お館様……。」
 郷田のつねられて赤く腫れたほっぺたに、一同は噴出しそうになり、慌てて口を噤んで、シーっと立てた指を唇に付ける……。そして全員で頷き合った後、茶番の激論を再開する。
 ヱリカはシエスタ姉妹兵の用意した椅子にどっかりと座り、山羊に顛末を説明している。山羊は戻り、それを船団に伝えるだろう。船団はそれをベルンカステルに伝え、ベルンカステルはこの件に関し何らかの対策、もしくは新しい命令を下すかもしれない。
 山羊は話を終え、踵を返す。……表の小船に戻り、船団に報告するのだ。
 そして薔薇の茂みを出て、迷路庭園を潜り抜け、外への扉に向かう……。………その山羊を、船に戻すわけには行かないのでは……。戻せば、ヱリカからの報告はベルンカステルの耳に届く……。
 シエスタ姉妹兵は、姉妹兵同士だけの極秘通信を交わす。
【410】「…………2秒にぇ。音も許さないにぇ…。」
【45】「……もうじき、ヱリカの認識半径を抜けます。……船頭の山羊の認識半径に到達するまでの推定10秒間、暗殺を実行可能です。」
【00】「ベアトリーチェ卿。暗殺許可を。………殺れます。ヱリカに気取らせません。」
【ベアト】「許可しない。……軍使が制限時間を切らずに船を出ると思うか。連絡がなくば、決められた時間の後に攻撃を開始せよと命じられているはず。その山羊を見逃せ。」
【00】「00、了解。」
 山羊は扉を出る。そして紗音と嘉音に黙礼を受けながら、小船に乗り、船団へ戻っていく。
 船団はヱリカの命令に従い、攻撃命令があるまで待機するだろう。……これで、ヱリカを暗殺できれば良いのだが、………さすがにそれは不可能だ。
 ベルンカステルの一番の部下で、自身も真実を司る魔女。騙すまでが精一杯。それ以上は高望みが過ぎる…。
【ヱリカ】「あんたたちも座ったらどうです?」
【00】「……我らのことは、お構いなくであります。」
 00は、暗殺のやり取りをしていたことなど億尾にも出さず、両手を後ろで組み、直立不動の姿勢を取るのだった……。
 降伏か、徹底抗戦か。一同は偽りの議論を再開する。
 ヱリカをどこまで、そしていつまで騙せるか。そう。……黄金郷を巡る最後の戦いは、もう始まっているのだ。
【ベアト】「…………戦人。ここは我らに任せよ。……そなたは縁寿と、最後のゲームを取り返すのだ…!」
図書の都
【戦人】「………何て、馬鹿でかい図書館だ……。」
【縁寿】「この一冊一冊に、私たちのような物語が記されてるんですって。」
【戦人】「ここは、……神様の世界だな。」
【ラムダ】「あんたたち風情が立ち入っていい場所じゃないってことが、一目でわかるでしょ?」
 結界を超え、戦人たち3人は図書の都の内部に辿り着いていた。戦人たちはしばしの間、そのこの世ならざる光景に心を奪われたが、すぐに本来の目的を思い出す。
【ラムダ】「いい? まず勘違いしないで欲しいの。……あんたたちはベルンと戦いに来たわ。でもそれは、ベルンと直接戦って倒すとか、そういう意味じゃないんだからね?」
【戦人】「…………わかってる。」
【ラムダ】「そもそも。大ベアトリーチェと互角にあんたが戦えたのは、ゲーム盤の上で、互角なルールに守られて戦っていたからよ? ゲーム盤を出れば。……あんたなんか、バチンって叩かれて手の平の染みになる程度の存在なんだからね? それを忘れるんじゃないわよ。」
【縁寿】「……そうよね。……ここはもう、私たちの知るゲーム盤じゃない。」
【戦人】「俺たちは戦いに来たんじゃない。……取り戻しに来ただけだ。」
【ラムダ】「そういうこと。……一なる真実の書の公開を妨げること。それだけが目的で、あんたたちの戦いなんだからね。そこを勘違いしちゃ駄目よ。」
 戦人たちはわかってると頷く。
【ラムダ】「一なる真実の書は、パーティーのど真ん中に堂々と飾られてるから、奪い返すのは不可能よ。……でも、式次第によると、鍵が入場してくることになってる。」
【戦人】「ということは、鍵は別の場所に保管されているわけか。」
【縁寿】「……そこが無防備という保証はないけどね。」
【ラムダ】「あとは、あんたたちの運次第よ。せいぜい幸運を祈るのね。………………ッ、隠れて!!」
 ラムダデルタが本棚の陰に頭を引っ込める。二人も慌ててそれに倣う。……はるか遠くに、エメラルドグリーンの光が、すぅっと軌跡を引いて流れていくのが見えた。
【ラムダ】「あれはベルンの使い魔の猫よ。……今日はあちこちを巡回して見張っているわ。」
【縁寿】「……私たちが来ることも読まれてる?」
【ラムダ】「違うわ。ここは広大だからね。迷子になるアンポンタンな来客を、迷子センターにお連れするためのスタッフ猫よ。」
【戦人】「俺たちが行きたいのは、迷子センターじゃねぇからな。」
【縁寿】「………見つかりそうになったら、………やる…?」
【ラムダ】「よした方がいいわ。……余所の領地やゲーム盤ならともかく。……ここはベルンのホームグラウンドよ? あの猫一匹で、猛獣の群に囲まれた位の危機感は持つことね。……しかも猫よ。勘も鋭いし仲間も呼ぶわ。……気取られたら、その時は覚悟しなさい。私は助けないからね。……あんたたちをここへ連れ込んだだけで、かなり厄介。」
【ラムダ】「……私は降参すれば、………裸にひん剥かれて、最悪のゲロカスカケラ巡り百年くらいで許してもらえるかも。……素敵だわ、私にもベルンの気持ちが、ちょっとは理解できるようになるかもね。」
 ラムダデルタは笑っていない。恐らく、彼女が口にするそれさえ、かなり見積もりの甘い処分なのだろう。
 彼女はこれ以上は協力をしないと言いつつ。すでに、賭けている。自身の全てを。何のために?
【ラムダ】「……決まってんでしょ。」
 ラムダデルタは髪を払う仕草をしながら、にやっと笑う。
【ラムダ】「あんたたちが、最高のハッピーエンドを見せてくれるからでしょーがっ。」
 ラムダデルタは、がばっと二人の頭を抱き締め、額をごちんとぶつける。
【ラムダ】「見せなさいよ、絶対…!!」
【戦人】「……おう。……見せてやるぜ。絶対の、ハッピーエンド!」
【縁寿】「絶対に、……取り返す…!」
【ラムダ】「行くわよ。……こっちよ、静かに泳いで。」
 3人は図書の都の、大海溝の暗闇を泳ぎ出す。その姿は、あまりに広大で巨大な本棚の海溝の闇に、すぐに溶け込んで消える。
 人の世の常識を超えた、広大な図書館。……図書の都。その広大さは、まさに都の名を偽らない。そして、無数のベルカステルの使い魔の黒猫たちが、そのエメラルドグリーンの瞳を光らせている。
 その数を数えることは、海に住まう魚の数を数えるのと、どちらが早いかわからない。そしてそれらは魚群をなし、其処彼処を回遊し、……彼らの主の催しを邪魔しようという愚か者が、奇跡的に紛れ込むことを想定し、警戒している。
 見つかれば、猫たちは瞬時にそれを知らせる。群が集い、大きな顎を開いて、一口に飲み込むだろう。……戦いなど存在しない。ここでの自分たちは、見つかれば飲み込まれる、小魚以下の存在なのだ。
黄金郷
 黄金郷を包囲する艦艇の数は、百を超えるのは間違いない。そしてそれらがそれぞれ数十もの砲門を突き出し、黄金郷の扉を睨みつけている。
 船上には、ぎっしりと満載された山羊の兵力が、十万。その個々が、ゲーム盤の駒ひとつひとつを完全に否定する、強力な反魔法の毒を牙に宿す。今度こそ、全てを噛み砕き、食い尽くす。……山羊たちの群から吐き出される、生臭い息と滴る涎。
 その頃、面倒を避けたいヱリカは、ベアトがラムダデルタを説得して、穏便に降参してくれることを期待し、のんびりとひとり、ロノウェの淹れた紅茶を楽しんでいた。無論、ヱリカとて無限の時間を与えるつもりはない。3つ欠伸を許したら、それで切り上げようと胸の中で決めていた。
【ヱリカ】「………意外に悪くないものですね。……あのベアトが、敗北主義者と罵られながら、みんなを説得してるのを眺めるのも。」
【ロノウェ】「あの短気だったお嬢様が、よくぞここまで大人になられたものです。……ぷっくっくっく。」
【ヱリカ】「……何が可笑しいの?」
【ロノウェ】「いいえ、失礼致しました。……次の紅茶は如何です? 古今東西、あらゆる銘茶を、どうかごゆっくりお楽しみ下さいませ。」
図書の都・ベルンの部屋
【ベルン】「ラムダがベアト側について徹底抗戦…? 仲間を集めてる? ………まさか、冗談でしょ?」
 報告の黒猫は首をブンブンと振って、にゃーにゃーと真剣な報告を続ける。
【ベルン】「……ラムダだって、そこまで馬鹿じゃない。アウアウを敵に回すような真似をすれば、どういうことになるか、わからない子じゃないはずよ…。」
 そうは言いながらも、ベルンカステルは親指の爪をカリリと噛む…。
【ベルン】「あの子、ああ見えて妙な友人が多いのよ…。それも飛びきりのバケモノで、物好きな連中がね……。………それでも、元老院に盾突く側に付くなんて…………。」
 ……………有り得る…。劣勢の戦に加勢して引っ繰り返すのを大好物にするようなバケモノが、いくらでもラムダデルタの友人に思いつく……。気付けば、ベルンカステルが爪を噛む指は、汗で濡れていた。
【ベルン】「……やりかねないわ。……あの子、たまに本当に馬鹿だから! 電話よッ、早く!!」
 黒猫はびくっと跳ねてから、電話と受話器を持って、すっ飛んで戻ってくる。
【ベルン】「あの子の友人たちに電話するわ…! ……馬鹿なゲームに関わらないようにって警告しなくちゃ…! えっと、……電話番号……。………何で、私って番号登録してないのよ…。えぇ、そうよね、私、友達ゼロだもんね…。えっと、……電話のお作法って、最初はモシモシでよかったんだったかしら?!」
「にゃー!」
図書の都・鍵の部屋
 図書の都の一室に、黄金の鍵は収められていた。もっとも、それを一室と呼んでいいのだろうか。
 その広大さは、ドーム球場を二つ、内向きにして重ねたくらいの大きさがあった。それでも、この都ではそれを、部屋と呼ぶ。
 その広大な部屋の中央の宙に、神聖なる魔法陣が幾重にも描かれている。
 魔法陣に包まれて浮いているのは、………縁寿の、黄金の鍵。それを中心に、エメラルドグリーンに輝く無数の星々が、プラネタリウムのようにぐるりと取り囲み、ゆっくりと回っていた。
 その星の数の瞳が、ぎょろりと一斉に同じ方向を睨みつける。
【エヴァ】「…………やぁね、怖い目をして。私は味方でしょ、忘れたァ?」
 黒猫の一匹がエヴァに犬掻きならぬ猫掻きで近付き、にゃーにゃー言って、この部屋には誰の出入りも許されていない旨を説明する。
【エヴァ】「ベルンカステル卿より、この鍵の警護を仰せつかったわ。だからここは私に任せて、あんたたちはどっかに行っちゃってちょうだいな。」
 猫たちは怪訝そうに顔を見合わてから、そのような命令を聞いていないと、鋭い目つきで睨みつける。
【エヴァ】「ところでェ。……猫って体、柔らかいのよねぇ?」
「「「………??」」」
【エヴァ】「じゃあ噛めるわよね。」
 エヴァが黄金の杖を振り上げると、天と地に真っ赤な放射状のひびが入って、広大な部屋の天地を全て覆う。
 猫たちの反応は電気的に早い。それが攻撃行為であることを瞬時に理解する。
 エメラルドグリーンの天体が、全てうねって一匹の巨大な深海魚の姿になり、エヴァを飲み込む巨大な口を開けて襲い掛かる。しかし同時に、天地の真っ赤な放射状の、……巨大な蜘蛛の巣が深海魚を上下から挟み込んで叩き潰し、ぐるぐるに捻り上げて、振り回し振り回し、………ボール程度の大きさにまで凝縮してしまう。
 その、ボール状に圧縮された何かが、ブチンと砕け散ると、後には何も残らない。全て、一瞬の出来事だった。
【エヴァ】「ヘソでも噛んで、死んじゃえヴァあぁあ?? あーっはっはっは!!!」
高級ホテル
 イベント会場では、ウィッチハンターたちのコンベンションが行なわれていた。
 何しろ、右代宮絵羽の日記が開かれれば、……無限なる猫箱は失われ、彼らが楽しんできた数々の妄想が、全て失われる。その為、彼らの妄想の限りを発表する、最後のコンベンションが開かれているのだ。
 彼らは、猫箱が開かれることに、一抹の寂しさを覚えながらも、六軒島ミステリーがいよいよ暴かれることの、知的強姦の興奮を我慢できずにいる。
図書の都
 ……その猫箱を開くことで、……傷付く少女がいる。しかし彼らの顎と牙は、そんなものに何の興味もない。
 魔女狩りの山羊の貴族たちは、……早くベアトリーチェの猫箱のハラワタを食い破りたいと、……さっきから舌なめずりをずっと繰り返している…。
 荘厳なる、まるで柱を思わせる高さを持つ玉座の上に腰掛けて、フェザリーヌは山羊の貴族たちの戯言に耳を傾けていた。そこへ、マントを羽織った黒猫が音もなく現れ、フェザリーヌの耳に何か囁く。
【フェザ】「……………………。いいや、良い。……全て、私の筋書き通りに進んでいる。……巫女の耳には入れずとも良い。」
 黒猫はうやうやしく頭を垂れてから姿を消す。
 フェザリーヌはワイングラスを天に掲げ、……月のように美しい荘厳なシャンデリアの明かりをそれに透かしながら笑う。
【フェザ】「これで、素晴らしき朗読への恩には充分であろう、人の子よ。……はて。……物語を紡いでいるのは誰なのか。……私がそなたに? それとも、そなたが私になのか。………ふっ、……ふっふっふっふっふ。」
図書の都・別の場所
【ラムダ】「………これを、どう思う?」
【戦人】「罠か。」
 ……猫たちの目を盗み、本棚の陰から陰へ隠れながら進んでいく戦人たちは、奇妙なものを見つける。
 それは、薄っすらと光る、真っ赤な何かで書かれた、矢印とアルファベット。K← そう書いてあるように読み取れた。
【戦人】「……Kは、鍵を意味してると思うか?」
【縁寿】「私たちが近付いたら、この文字が浮かび上がった。……これは私たちに向けてのメッセージよ。」
【ラムダ】「ここに私たち以外で、味方をしてくれる誰かがいるってこと…?」
【戦人】「……いるのか、俺たちに味方なんて。」
 縁寿は、その赤い矢印を指でなぞる。……それは、とても細く儚い糸を寄り合わせたようなもので描かれていた。綿飴のように、やさしく指に溶けるようにくっ付く、赤いそれは……。
【縁寿】「味方よ。……私の、……一番の味方よ。」
【ラムダ】「……どうして保証できんのよ?」
【戦人】「………………………。……いや、俺にもわかった。……ラムダ。これを書いたヤツは信用できる。多分、安全に鍵の在り処へ辿り着けるよう、誘導してくれているんだ。」
【ラムダ】「いいのね? じゃあ行きましょ…! あまりモタモタしていられないっ。」
【縁寿】「………ありがとう、………お母さん…!」
黄金郷
 東屋では、延々と、徹底抗戦と降伏を巡っての激論が交わされていた。
 時折、それは取っ組み合いにも発展し、ヱリカは幸いにも3つ目の欠伸をせずに済んでいた。
 しかし、そんな激論の真似事も、いつまで繰り返せばいいのかわからない。高いテンションを維持し続けるのは、体力的にも辛いものだ。もし、疲れ切って、議論が静まるようなことがあったなら、ヱリカは即座に、評決を提案するだろう。
 その余地もない程に興奮しているように、見せ続けなくてはならない。……疲労と、緊張感の戦い。これが、彼らの戦いなのだ。
 ヱリカは辛抱深く待っている。紅茶に飽きた彼女は、ロノウェに手品を見せてもらい、割と楽しんでいる。
 ……普段、飄々としているロノウェとて、これは戦いなのだ。ヱリカが退屈して短気を起こせば、すぐにでも一斉攻撃を開始するだろう。彼だって、全身全霊で、戦人たちのために時間を稼ぐという戦いに、身を投じている……。
 もっとも激しく議論をリードしていた分、ベアトの疲労が一番早い。ぜぇぜぇと息をつき、立ち眩みを起こしそうなくらい、顔を真っ青にしていた。
【霧江】「……ベアト、しっかり。そのテンションを続けてたら体力が続かないわ。」
【絵羽】「急に泣き出したフリをしてしばらく休んで。その間を私たちが繋ぐわ。」
【ベアト】「まだ、……大丈夫であるとも……。……やるぞ、もう一度、大きく騒ごうではないか。行くぞ…!! さぁ、誰から行く? 一番槍の欲しい者は!」
【郷田】「では郷田、参ります…!! こッ、ここは戦うべきです!! 戦わずして敗北を受け容れることなど、言語道断ですッ!! 私は最初っからここは戦い抜くべきだと申し上げておりますっ!!」
【ヱリカ】「………ちょっと待って下さい。」
 ヱリカが突然、席を立ち上がる。ロノウェが着席を求めるように取り繕うが、ヱリカの関心は完全に、東屋の一同の議論に向けられていた。
【ヱリカ】「…………私は、探偵です。聞いたことは、録音するかのように記憶できます。」
【ベアト】「それは無論、知っているとも……。そなたは優秀な探偵でもあるからな……。」
【ヱリカ】「あんたに興味ありません。……郷田さん。私の質問に答えて下さい。」
【郷田】「は、………はいッ、……私めが、何かご無礼を致しましたでしょうか……。」
【ヱリカ】「“ちょっとお待ち下さい。戦いを望まぬ者がいることもお忘れなく。私は降参が良いかと思います”。………私がここに訪れて、一番最初に聞いた、あなたの発言です。ですが、今、あなたはこう仰いました。“ここは戦うべきです。戦わずして敗北を受け容れることなど、言語道断です。私は最初から、ここは戦い抜くべきだと申し上げております”。……そう言いました。」
【郷田】「い、いやその、……そんなことも申し上げたでしょうか……。」
【源次】「…………議論の中で、意見が変わることも、時にあるかと思います。」
【郷田】「そそ、そうですとも…! 他の皆さんも、先ほどから、どちらがいいか迷っておりまして、時に意見を変えられることも……!」
【ヱリカ】「いいえ。……あなたたちの議論は、一貫して誰も意見を変えていません。たった今、唐突に郷田さんだけが、その主張を逆転させました。……しかも、郷田さんに対する他の人間からの発言を振り返っても、彼が主張を逆転させるに足るものがあったとは思えません。」
 嫌な、じっとりと湿気た風が吹く。皆、時間を止められてしまったかのように、沈黙し、動きを止めてしまう。そんな中、ヱリカは淡白な表情のまま、なおも続ける。
【ヱリカ】「………以上から導き出される推理は2つです。1つは、……郷田さんに元々意見はなく、その場の雰囲気で適当なことを言う、いい加減な人間であること。もう1つは、………郷田さんに限らず、そもそも誰にも意見などなく、議論そのものがあなたたちの目的であるというものです。」
【ベアト】「それは、………考え過ぎではないか…? 妾たちは必死に、今後の運命を議論している。時に、普段は考えられぬ心変わりがあってもおかしくはない…。」
【ヱリカ】「意味もなく議論を延長することに意味があるとすれば、時間を稼ぐこと。………あなたたちは、時間を稼ぐと何が有利になるのです? ……ラムダデルタ卿の援軍がやって来るからですか? ………それも違います。」
【ヱリカ】「なぜなら、あなたたちは先ほどから、時折、ラムダデルタ卿や戦人に話し掛けているのですが、それに対する返事が、一度たりとも私の耳に聞こえません。…………以上全てから考えて、導き出される推理は1つです。」
 それは、この場に、ラムダデルタ卿と戦人が、不在であること。そして、ラムダデルタ卿の手助けを得て、二人は恐らく、……図書の都に潜り込もうと企んでいる。
 狙いは恐らく、黄金の鍵と、縁寿の奪還。あなたたちが企んでいるのは、彼らがそれを終えるまでの時間稼ぎの囮です。
【ヱリカ】「………ただ郷田さんがセリフを言い間違えるだけで。……古戸ヱリカにはこの程度の推理が可能です。…………如何です? 皆様方……?」
 ヱリカは淡白な、……そして無慈悲な表情で淡々と、それを告げ、再び着席する。
 凍りついたように、誰も動かない。言葉を発しない。……しかし、時間は動いている。その証拠に、……誰かの頬を伝う汗の雫が流れて、落ちて、…………テーブルを叩く音さえ、聞こえた。
 その瞬間、止まった時間が粉々に砕け散り、同じ瞬間に、ヱリカの座っていた白い椅子も、粉々に砕け散る。煉獄の七姉妹の鋭い杭と、シエスタ姉妹兵の高速狙撃弾が、まったく同時に椅子を砕いたのだ。その瞬間から、数瞬遅れて、椅子に座ったままのヱリカの姿が薄っすらと消える。
【00】「……残像ッ!!」
【ルシファー】「早いッ!! 殺せッ!!!」
 ヱリカの姿は椅子の後ろに瞬時に移動していた。表情はまったく変わらない淡白なもの。しかしその手には、さっきまではなかったものが握られていた。
 素早く二の太刀で襲い掛かる七姉妹の電光石火の一撃ならぬ七撃を、全てその大鎌で打ち返す。
【ヱリカ】「とんだ茶番でした。でも紅茶は美味しかったですよ。ご馳走様です。……では、皆さんの意見は、最初から統一されているようですし。……改めまして、お返事をお伺いしましょう。」
 ヱリカは、鎌を持たぬ左の手を、すぅっと天に突き上げる。
【ベアト】「良かろうぞ、妾が答えよう…!! ここは妾のッ、我らの黄金郷!! 土足で踏み入るならば相応の歓迎をしようぞ!! つまりだ、上品に一言で言うとなァ。」
【ヱリカ】「…………全砲門、砲撃準備。目標、黄金郷。」
【ベアト】「“味噌汁で顔洗って、出直して来やがれぇえええぁああああああぁああああぁッ!!!”」
【ヱリカ】「ブ チ 殺、れぇえええええええええええぇえええええぇええッ!!!」
図書の都・ベルンの部屋
【ベルン】「……そう、ありがとう。………それじゃあ、またね。……にゃー。」
 ベルンカステルは受話器を置き、メモに書き出したラムダデルタの要注意友人たちの名前をまた一つ、傍線で消す。
 どうもおかしい。誰に掛けても、ラムダデルタから連絡があった者がいない。知らないフリをしているとか、そういうのじゃない。彼らは本当に、ラムダデルタがおかしな騒ぎを起こそうとしていることを知らないのだ。ベルンカステルもさすがにそろそろ、これはおかしいのではないかと訝しがり始める…。
 そこに黒猫が飛び込んできて、にゃーにゃーと騒ぎ声で報告した。
【ベルン】「黄金郷に、ラムダと戦人がいない…?! …………………………………。……はッ、………はっはっははははっはっはっはっは!!!」
 ガッシャンと叩き付けるように再び受話器を取る。ダイヤルの番号は短い。内線だろう。しかし、単調な呼び出し音を何度か聞くと、今度こそガッシャンと受話器を叩き付けて電話を壊す。
【ベルン】「……手の空いている猫を全て集めなさい。大至急ッ!!! 鍵の警護にやった猫たちが誰も応答しないッ!!! ………ラムダァあああぁあああぁああああッうっぐぉおおおおおおおおぉおおお!!」
 ベルンカステルは感情に任せて、テーブルをガンガンと蹴り転がす。
 するとやがて、……部屋が明るくなる。それはまるで、緑色の日光。
 緑の太陽の日の出を眺めているかのように錯覚するほどの、強い緑色の光がうねり、部屋を照らすのだ。それはベルンカステルの軍勢が非常召集されたことを示す……。
【ベルン】「さぁおいで、子猫たちッ!!! 魔女狩りの時間よッ!! あの子はキャンディの匂いがするからね、すぐに見つけられるわッ!! 最初に見つけた猫には、人の姿と魔女の称号をあげるわッ!!!」
 もはやエメラルドグリーンの大星雲と呼ぶに相応しいそれらは、歓喜の雄叫びで本棚の絶壁を揺るがした……。
図書の都
【縁寿】「……何かが追ってくるわ…。」
【戦人】「何だ、あれは……。……緑の、………太陽……?」
【ラムダ】「…………隠れて!! バレたのよ!!」
 三人は慌てて、本棚の陰に身を潜める。
 鍵が収められている部屋は、ここの突き当たりにある。その部屋の暗闇の中央に、薄っすらと輝く何かが見えていた。それは、これまでこの都で見てきたどんな輝きとも違うものだった。
 その輝きの色は、黄金。彼らは、黄金の鍵まであとわずかのところまで来ていたのだ。しかし、そこへ向かおうと、ベルンカステルもまた、膨大な数の使い魔を連れて、こちらに背後から迫ってくる。つまり、袋小路に追い込まれているのだ。
 エメラルドグリーンが、使い魔たちの瞳の輝きであることはすでに理解している。だがあの、……うねる巨大な緑の太陽がそれだとは、とても思えず、……ただ呆然と、目を見開くことしか出来なかった…。
 無数の猫たちは、この本棚の渓谷を、一番上から一番下まで、さらに一冊一冊の本の隙間さえ丹念に確認しながら迫ってくる。しかし、その丹念な作業も、あの莫大な数の使い魔でこなされているから、それはあっという間のことだ。
 まるで風が吹きぬけるかのようなスピードで、……あらゆる物陰が確実にチェックされている。あの緑の太陽から身を隠すことなど出来るわけがない。それは沈む船の中で、水から隠れる場所を探すくらいに愚かなことだ。
【縁寿】「……やり過ごせるの…?!」
【戦人】「無理だ…。あれじゃ、どこに隠れても見つかる…!」
 戦人は物陰から飛び出そうとするが、寸前でラムダデルタに袖を引っ張られる。
【ラムダ】「戦う気?!」
【戦人】「違う、ここに留まっても見つかるだけだ…! なら前へ進むしかない! 一刻も早く鍵に辿り着くんだ…!」
【ラムダ】「鍵を守る猫がいないわけないでしょ?! 私たちは挟み撃ちにされたのよ!!」
【縁寿】「私は絵羽伯母さんを信じる…! 伯母さんが私たちをここまで導いてくれた…! きっと伯母さんは、見張りの猫たちもやっつけてくれているはずよ!」
【戦人】「俺も同感だ。ここにいて見つかるくらいなら、一刻も早くあそこに辿り着いて、鍵を取り返そう。鍵さえ取り返せれば、もう誰もあの本を開くことは出来ない!!」
【ラムダ】「………あそこに辿り着いて、鍵を手に入れて。それで?! あそこ、袋小路よ?! 逃げ場ないのよ、わかってる?!」
【縁寿】「それは、わかってるけど……!!」
【戦人】「鍵は切り札になる。……ベルンカステルにだって、鍵は重要なんだ。……一か八か、鍵をカードに何かの交渉が出来るかもしれない…。」
【ラムダ】「あのベルンに交渉?! ……あんた、正気じゃないわッ!!」
【戦人】「だが、ここに隠れてても絶対に見つかる。……なら、百億の中の一つの確率だとしても、俺はそれに賭けるぜ。鍵を手に入れ、それを切り札に、ヤツと何とか立ち回るんだ。」
【ラムダ】「奇跡の魔女を相手に、あんたは奇跡を祈るわけ…?」
【戦人】「天文学的数字の中に、一を拾う。それが右代宮家の魔法ってヤツだぜ…!!」
【ラムダ】「…………私、目がいいから教えてあげる。あの黄金の鍵を取り囲んでる魔法陣、わかる? ……あれは簡単だけど、なかなか堅牢な結界よ。……触れば壊せる簡単な結界だけれど。でもね、どんな大魔女でもニンゲン風情でも、解くのにかっきり1時間を掛けるという、タチの悪ゥい封印なのよ。式典の進行上、まだ1時間前にはなってない。……つまり、私たちは1時間稼がなきゃ、鍵に触れることさえ出来ないのよ!!」
【縁寿】「絵羽伯母さんはきっと、見張りの猫たちをやっつけた時、魔法陣も壊してくれたに違いないわ! 1時間は掛からないはず…!」
【ラムダ】「見る限り、まだ魔法陣は健在ね。残念ながら、絵羽がそうしてくれたとしても、それは1時間以内の話みたいよ。」
【戦人】「1時間なんてちょろいもんだぜ。少なくとも、それだけ粘るれば手に入るという明白なゴールがあるッ!」
【縁寿】「そうね。……いいじゃない、1時間の鬼ごっこ。私、強面に追い掛け回されるのには慣れてるの。」
【ラムダ】「あんたたち、札付きのクルクルパー揃いね…!! ベルンとあの数の猫を相手に本気で鬼ごっこをさせてもらえると?!」
【縁寿】「確率が1%でもあるなら!」
【戦人】「俺たちが絶対に、それを掴み取ってやる…!!」
 すでに捨て身の戦人たちと、ラムダデルタの間には、あまりに大きな温度差がある。しかし彼女は、決して臆病なわけではない。彼女は元老院の大魔女。……降伏すれば、厳罰は免れないが、それでも数百年後には許されるのだ。
 荒海に放り出され、自分だけは助かれるという浮き輪に掴まる彼女が、どうしてそれを投げ出せるだろう? 捨て身の戦人たちと温度差が出てしまうのは、生きる者なら当然のこと。誰にも責められない。
【ラムダ】「……………あぁもう、本当に馬鹿だわ、あんたたちは。……仕方ないわね。1%より、もうちょっと確率が高くなる作戦を教えてあげるわ。ズバリ、何だと思う?」
 二人は顔を見合わせる。しかし、どんな作戦にせよ、鍵を取り戻すチャンスが、0.00001%でも増えるなら、それに託そうと思った。
【ラムダ】「生贄よ。……ベルンは猫だから、逃げる獲物は追うけれど、逃げない獲物は殺す。それも、ネチネチといたぶってね!」
【縁寿】「最悪ね。」
【戦人】「……しかし、それが本当なら、……賭ける価値はある。」
【ラムダ】「生贄を1人。ジャンケンで選びましょ。……負けた子はベルンをたっぷり挑発して、笑わせて、殺されて、一分一秒でも時間を稼ぐ。……それでいいわね?」
【戦人】「ジャンケンはいらない。俺がやる。縁寿とラムダは鍵の部屋へ行ってくれ。」
【縁寿】「駄目よ、お兄ちゃん…!! 私がやるわ。元はと言えば、これは私の責任。……ベルンカステルの言葉に耳を貸し、心を許した私の責任なのよ。……だから、あいつに一言くらい言ってやりたいのよ!」
 戦人と縁寿は、互いに生贄の役をやると言い合って聞かない。
【ラムダ】「ね? ジャンケンじゃないと決まらないでしょ? さっさと決めないと、この作戦も使えなくなるわよ。……もうじき連中がやってくるわ。」
【戦人】「………わかった。……俺か縁寿が生贄をやる。……ラムダデルタは、残った方を連れて、鍵を奪ったら黄金郷に連れ帰ってやってくれ。」
【縁寿】「譲らないわよ。お兄ちゃん。」
【戦人】「ふざけやがって。たまには兄らしいことをさせやがれっ。」
【ラムダ】「時間ないわよ。ジャンケン一発勝負! 私、超パーだからそれにちなんで、最初はパーからね? いい? 二人とも。」
【縁寿】「いいわ。」
【戦人】「縁寿、恨みっこなしだぜ。」
【ラムダ】「せーの! 最初はパー!!」
 それは、本当に馬鹿馬鹿しい、子供のジャンケンだった。最初はパーと約束しているのに、……違う手を出しての、不意打ち。しかし、戦人も縁寿も、グーを出していた。……なのに、それは相子じゃなかった。
 なぜなら、……二人のグーに対し、……一人、チョキを出していたからだ。戦人と縁寿は、互いの握り拳とそのチョキを呆然と見比べながら、……彼女を見る。
【ラムダ】「…………あちゃー…。……最初はパーだから、チョキ出してひとり勝ちしてやろーって思ったのに。……やっぱりパーはパー出してなきゃ駄目ね。」
 ラムダデルタが加わる必要のないジャンケンだった。こんな時に、過ぎる冗談だった。
 戦人も縁寿も、……わざと負けようとして出した、グー。ラムダデルタは、……ひとりだけチョキ。
【縁寿】「あんた、……わざとチョキを……。」
【戦人】「お前に死なれたら、俺たちは黄金郷に帰れないだろうが…! こんなの無効だ!」
【ラムダ】「ほら、これで大丈夫でしょ?」
 ラムダデルタは握り拳を作ると、その中に青白く光るカケラを生み出し、それを二人に預ける。戦人はそれに見覚えがあった。……ヱリカたちが消え去る時に使っていた、カケラの海を越えることが出来る力を込めた、魔法のカケラだ。
【ラムダ】「それがあれば、二人とも黄金郷に帰れるわ。それに、これが一番の人選なのよ。あんたたちじゃ、ベルン相手に数秒と持たないだろうし。私なら、1時間どころか、ひょっとしたら勝っちゃうかもねー? あの子には借りがあるし。今度は私の勝ちってことにして、イーブンにしないと。……アウェーは辛いわねー。」
 ラムダデルタはぼやくフリをしながら立ち上がる。
【ラムダ】「じゃ、行ってくるわ。……私、目立ちたがり屋だから、やっぱ観劇者は無理だったわ。ごめんね、出番を奪っちゃって。……あんたたちのゲーム、最後まで観劇できないのは残念だけど。……もう筋書きは教えてもらえたから見る必要もないわ。」
【戦人】「………ラムダ……。」
 そして、最高の笑顔でウィンクしながら、言った。
【ラムダ】「あんたたちのはっぴーえんど! もう先が読めちゃったから、見なくてもわかっちゃうわ。じゃあね、また会いましょうね。あんたたちのハッピーエンドの、クレジットロールでね!」
【縁寿】「ま、……待って…!!」
 ラムダデルタが指を弾くと、二人は二粒の金平糖に姿を変えてしまう。そしてそれを摘み上げ、………黄金の鍵の輝き目掛けて狙いを澄まし……、指で弾き飛ばす。
 これで、二人はベルンカステルに気取られずに、鍵に辿り着けるはず……。
 まったく、ツイてないわー。私のチョキに対し、二人が揃ってグーを出す確率って、一体、何分の一よ? …………えぇ、わかってるわ。試すような真似しちゃって、ごめんね、二人とも。
 そして、……ラムダデルタの体がエメラルドグリーンの光に照らし出される…。
 振り返ると、猫の目とラムダデルタの目が、合った。ラムダデルタはにっこり微笑み、小さく手を振る……。
 轟音と共に、激しい閃光がいくつも瞬く。
【ベルン】「何事…? ………ッ?!?!」
 次々に閃光の連鎖爆発が巻き起こり、ベルンカステルとその使い魔たちの群を瞬時に全て飲み込んでしまう。
 それは色とりどりの花火。……いや違う、色とりどりのお菓子が、閃光とともに弾け、飛び散っているのだ。可愛らしいスティックキャンディーや砂糖細工、クッキーやタルトが辺り一面に無数に散らばり、さらにそれら一つ一つが無数のキャンディーに分裂して炸裂し、さらにそれら一つ一つが無数の金平糖に分裂して炸裂する。
 しかし、それらの菓子は甘くない。金平糖は鉛より重くて鉄より硬く、如何なる刃より鋭い。飛び散る色とりどりの菓子は、爆速で飛び散り猫たちを群ごと粉々に吹き飛ばす。
 辺り一面に散らばるエメラルドグリーンの輝きが、夜空のように煌き、それに混じって、クリスマスツリーに似合いそうな可愛らしいお菓子が大量に舞う。それは大魔女、ラムダデルタ卿の登場に相応しい派手さと美しさと可愛らしさを兼ね備えたものだった。
【ベルン】「……あら、ラムダじゃない。………あなたとはパーティー会場で会いたかったわ。」
【ラムダ】「愛してるわ、ベルン。愛を囁くなら、二人きりの方が素敵でしょ?」
【ベルン】「……それは、あんたの両手両足をもいだ後に、ゆっくりと聞かせてちょうだい。」
 ベルンが顎をしゃくらせ、使い魔たちに攻撃を命じる。
【ベルン】「私の愛しい愛しい、たった一人の友人よ。両腕の肘から先。両足の膝より先。自由に食い千切って構わないわ。それ以外には傷一つ許さないわよ。」
 猫たちの群が、再びうねって一つにまとまり、図書の都に紛れ込む哀れな犠牲者を飲み込むエメラルドグリーンのリヴァイアサンの姿を作る。
 それは、巨大な巨大なクジラの姿。しかし、ラムダの目にはクジラの姿は見えただろうか。ただただ、全てを飲み込もうとする巨大な顎しか見えなかっただろう。
【ラムダ】「あぁ、素敵。私をベルンの愛で飲み込んでくれるのね?!」
【ベルン】「……愛してるわ、ラムダ。あんたの手足をもいだら、おしりから鉄串で貫いて、私のベッドに飾ってあげる。そして毎朝、目覚めのキスを、そして毎夜、お休みのキスをしてあげるわ。」
【ラムダ】「本当に素敵ッ! じゃあ、私もあなたを愛で包んであげるッ!!!」
 しかし、ラムダデルタのその叫びは、光ってうねるリヴァイアサンに、バクンッと飲み込まれる。
【ベルン】「………くすくす。あぁ、素敵よ、ラムダ。あんたのその、向こう見ずで命知らずで、ほんのりパーなところが大好きだわ。…………………? ……風…?」
 ラムダデルタを飲み込み、勝利を確信したのと同じ瞬間に、ベルンカステルは自分の髪を撫でる風を覚える。先ほど、ラムダデルタが無数の花火と共に飛び散らせて、空間をクリスマスパーティーのように彩って漂っていた無数の菓子が、……流れている。いや、……ある一点へ向けて、収縮されているのだ。
 それはまるで、巻き戻しで見る花火。リヴァイアサンの、閉ざされた巨大な口中目掛けて、無数の菓子が爆縮しているのだ。
 内なる一点へ集中する、巨大な逆爆発。あるいはそれは、無数の菓子が一斉にザアッと、リヴァイアサンに全方位からの弾丸を降り注いでいるようにも見えた。
 ……エメラルドグリーンの塊の奥に、……黒い渦を見る。その渦は、手の平の上にあった。ラムダデルタが不敵に笑う、手の平の上にあった
 それは、超重力の塊。全ての菓子も、猫もクジラも、全て全てを一点に凝縮して吸い込んで、点にまで潰す。
【ラムダ】「抱き締めてあげるから。……いらっしゃい、ベルン!!!」
【ベルン】「……私を、……吸い込む気ッ……?!」
 ラムダデルタが無数にばら蒔いた菓子の全てが、超高速で彼女の手の平の上のブラックホールに全て吸い戻されているのだ。
 押し寄せる菓子の逆爆発に、リヴァイアサンは内側へ内側へ、削り取られ、押し潰されていく。
【ベルン】「………ラ……ム…ダぁ……ぁああぁ……ぁぁぁあぁ…!!!」
【ラムダ】「ほら。……抱き締めてあげるから、おいでなさいよ。」
 超重力に逆らおうと、力の限りを尽くして空間に踏み止まるベルンカステル。その表情から初めて、見下す余裕が失われる。ラムダデルタの不敵そうな表情にも、額に汗が浮き出ている。
 ……二人の力は圧倒的だからこそ、勝つべき時には、瞬時に勝たねばならない。わずかの手加減をすれば、二人の力は拮抗し、また数百年にもわたる気の遠くなるような戦いになってしまう。それはもう二人ともごめんだ。………だから、二人とも最愛の親友を相手に、一切の手加減をしない。
 もうリヴァイアサンは完全に押し潰され、ブラックホールに凝縮されている。踏み止まっているのはベルンカステルただひとり。しかし、アステロイドベルトのような菓子の隕石群が、凄まじい暴風を叩き付け、ベルンカステルの少女の姿を、少しずつ削り取っていく。
【ベルン】「………逃げなきゃ……、………私、……本当に…………。………ッ?!?!」
 ベルンカステルの目に飛び込んでくるのは…、……巨大なプレゼントボックスを核とした、……菓子の群をまとう巨大な彗星が自分目掛けて……突っ込んでくるところだった。
【ベルン】「ラムダぁあああああああああああぁあああああああああああああぁッ!!! うぉおおおぁあああああああああああああぁあああああぁああぁああああああッ!!! ごああああぁああああああああ、か、体、が、ぁ、あああああああああああああぁああああああああああああぁあ!!」
 菓子の巨大彗星がベルンカステルを、その絶叫ごと飲み込む。
 彗星は粉々に砕け散り、瞬く間に爆縮して超重力の穴に吸い込まれていく。そして全てを集めて玉のようにすると、今度はそれをぐるぐると超高速で回転させる。
 それは遠心力で扁平し、まるで銀河系のような形になった。無数の猫たちも、その主のベルンカステルも、全て全て飲み込み、今やラムダデルタの手の平の上で、エメラルドグリーンの銀河系となって、うねって瞬く。
 それはさらに超重力の穴によって、どんどん圧縮され圧縮され、………最後には緑色に輝く一粒の、金平糖に姿を変えてしまう。そして、ぽとりと。彼女の手の平に落ちた。
【ラムダ】「ごめんね、ベルン。……あなたといつまでも遊んでいたいから、いつもは必死なフリして程々で遊んでるけど。」
 ラムダデルタは、手の平の金平糖を摘み上げて、天にかざすようにして見詰める。
【ラムダ】「私、本当はどうしようもなく強いのよ。………ごめんね。」
 そして、……その金平糖を、ピンク色の唇に近付け、……そっと口付けをしてから、……ガリリと噛む。
【ラムダ】「…………ベルンの味が、しない。」
 ラムダデルタは、ぺろりと指先を舐めると、……ゆっくりと後ろの虚空に振り返る。
【ベルン】「………知ってたわ。愛しいラムダ。」
【ラムダ】「あぁ、愛してるわ、ベルン……。」
【ベルン】「嘘よ。………あんたがいつだって、………私に本気じゃないって、知ってたわ。」
【ラムダ】「じゃあ。……本当に、愛し合いましょうよ。………お互い、本気で。」
【ベルン】「あぁ、愛してるわ、ラムダデルタ。……嬉しいわ、……本当に嬉しいわ……。」
【ラムダ】「あぁ、愛してるわ、ベルンカステル。………あんたを飴玉に変えて、永遠に私の舌の上で可愛がってあげる。」
【ベルン】「どちらが勝っても、私たちは愛し合えるのね。くすくすくす、あっはははははははははは!! それって本当に素敵だわ、それって本当に素敵…!!」
【ラムダ】「さあッ!! 愛し合いましょうよッ!!!」
 黄金郷の空に、衝撃と共に無数のひびが入る。
 そしてとうとう、黄金郷の境を、船団の衝角が打ち破る。
 それは異様な光景。誰も想像したことのない、奇天烈な光景。黄金郷の空をガラスのように打ち破って、帆船の船団が次々に飛び込んでくる。そこから溢れ出るように、山羊たちが大量に押し寄せてくる。
【ヱリカ】「さぁ、始めましょう!! 黄金郷の最後の宴を…!!!」
 宴。……それはキザな喩えでも何でもなく、率直に、事実だった。雪崩れ込む圧倒的な数の山羊の軍勢は、津波のよう。
 立ち尽くす黄金郷の住人たちは、砂浜に忘れられた砂の城だ。波と砂の城では、戦いにさえならない。立食パーティーのバイキングに殺到する、食欲旺盛で無慈悲な山羊たちの、……これは宴なのだ。
【ベアト】「是非もなしッ!! ブチ殺せぇえええぇぇえあああぁあああああッ!!!」
【ヱリカ】「グッド!! さぁ山羊たち!! 形ある物に破壊をッ、動く物に静寂をッ! 生ける者に絶望をぉおおおおおおあぁああああああぁあ!!!」
 魔法の力を持つ者たちが、一斉にその力を解き放つ。雷鳴のような雄叫びをあげて、山羊の津波が襲い掛かる。それら全てが一度に激突し、凄まじい閃光の爆発を引き起こす。
 火花と噴煙、飛び散る破片と絶叫。ベアトやワルギリア、そしてシエスタ姉妹兵の猛烈なる魔法の砲弾は、一瞬、山羊たちの津波を押し留めたかにさえ見えた。
 しかし、数の暴力はそれに怯まない。打ち砕かれ、あるいは力尽きて膝をついた屍を踏み越えて、なおもなおも山羊の津波が押し寄せる。屍の上に屍を積み重ね、なおもそれを踏み越えようとする山羊たちを打ち倒すから、……それは見る見る内に、本当に津波が襲い掛かるかのような高さを持つ。
【ヱリカ】「哀れな!! あなたが築き上げてきた黄金郷など、浜辺に子供が残した砂の城に過ぎないッ!! 飲み込まれて消えてしまえぇええええええええぇえッ!!」
【ベアト】「ならばそなたは、岸壁に打ち寄せる無力なさざなみを思うがいい。……波に飲まれる砂の城ォ? 飲んでみろよ、妾の城をよぉおおおおおおぉおおおおぉお!!!」
 ベアトが両手を振り上げて、土中深くに隠していた双子の戦塔に、再び栄光の日が訪れたことを告げる。山羊たちの津波は、驚愕してそれを見上げる。なぜなら、今や見下ろしている津波は、自分たちではなかったからだ。
【ベアト】「ぶッ放せぇええええええええええええええええぇええええ!!!」
 戦塔の銃眼が一斉に連装バリスタ弾の雷雨を浴びせ掛ける。山羊たちは天より降り注ぐ怒りの嵐に混乱の悲鳴をあげる。
 しかし、彼らは見た。……塔より高き空に、……月を割って、天の馬に跨り、……塔ほどの大きさもある巨大な槍を掲げる死神の姿を。死神と共に馬上にある偉大なる魔女が宣告する。
【ワルギリア】「お帰りなさい。ここはあなたたちの世界ではありません。」
【ベアト】「行っちまえッ、お師匠様ぁああぁああああああああああああぁッ!!」
 天なる槍が、大地に打ち立てられる。それは一瞬、神々しい塔が打ち立てられたようにさえ見えた。しかしそれは、断末魔の瞳に映る、最後の光景。
 天なる槍は天の怒りを体現し、不浄の都を一撃で葬る威力にて、山羊の群れを穿つ。火山の噴火さえ思わせる大爆発に、山羊たちは散り散りに吹き飛ばされた。
【絵羽】「………やるわね、さすが魔女だわっ。」
【ゼパル】「でもどうかな!」
【フルフル】「敵はまだまだ来るわ! やっぱり飲み込まれるのは私たちなのよ!」
【霧江】「にしちゃ、あんたたちは楽しそうだわ。」
【金蔵】「わっはははっはっはっはっは!! 祭りは楽しまねば損ということだッ!! どうやら我らの出番が無くなるということはなさそうだぞッ!!」
【留弗夫】「みてぇだな!! 燃えてきたぜッ!!!」
 そう。山羊の群れは、まさに海から押し寄せる波なのだ。浜辺でさざなみを蹴って割ることは出来ても、海を割ることなど出来やしない。
 それでも割るのが魔女。だが、ならば向こうにだって、海を割れる魔女がいる。突然、双子の戦塔の片方が、噴煙をあげながら、地響きと共に崩れ落ちる。
【朱志香】「……な、何なんだ、一体?!」
【ガァプ】「あそこよ! もう一方の塔の上!!」
【ベアト】「ヱリカぁああああああぁあああ……。そうだよなぁ、今度はそなたの番であるよなぁぁぁ……。」
 もう一方の戦塔のてっぺんの上に、……ヱリカが、大鎌を構えて、優雅に立ちはだかっていた。
【ヱリカ】「これで、黄金郷の魔女たちへの敬意には充分でしょう。………魔法など、全てまやかし。ミステリーに飲み込まれて必ず消える、ファンタジーの砂の城。……楽しかったですよ、魔法ごっこ。何だか幼かった頃、近所のお姉ちゃんたちと、こんな遊びをした気がします。だから、もうこれでおしまいにしましょう。…………ここからは、あんたたちが絶叫を聞かせてくれる番です。」
 ずっとキザったらしく被っていた海賊帽を、ヱリカは天へ投げ捨てる。それが月に浮かび上がった時、戦塔の天辺からヱリカの姿が、残像が消失する。
【00】「どこにッ!!」
【45】「レーダー、補足してます! 戦塔壁面ッ!」
 ヱリカが、狂喜に笑い転げながら、戦塔の壁面を真下へ駆け下りているのだ。
 バトンのように華麗に回す大鎌は、彼女が駆け下りた後の壁面を、銃眼を、壁も柱も何もかも切り刻み噴煙を上げていく。だからそれはここから見たら、戦塔が上から真下に、一斉に噴煙を吹き出しているかのように見えるのだ。その駆け下りるヱリカを、シエスタ姉妹兵の黄金の矢が、黄金の糸でミシンが縫うかのように追い掛ける。
【410】「このバケモノッ…!! 縫われて刺繍になるにぇ!!」
【ヱリカ】「ははははは、あっはっはっははははははははははは!! グッド!! グッドグッドグッドぉおおぉおああっはっはははっはァああああぁあああ!!」
 黄金の矢でも、ヱリカを捕らえれない。ついにヱリカは戦塔を駆け下り、黄金の弓は空のカートリッジを吐き出す。
【ヱリカ】「爆ぜろッ、役立たずの塔ッ、……でしたっけぇえええええぇ?」
 大地に駆け下りたヱリカは、ゆっくりと立ち上がり、大鎌の柄で、背後の戦塔を小突く。
 そのわずかな一撃によって、全身を切り刻まれ、それでも姿を保っていた戦塔の、最後の糸が途切れ、地響きとともに自壊していく……。
 その瓦礫と爆煙を超えて、再び地鳴りとどす黒い津波が押し寄せて来る。
【ヱリカ】「我こそは真実の魔女ッ、古戸ヱリカなり!! 今こそ真実にて黄金郷を解体する!! 土は土に。幻は幻に!! 終わらせてあげますよッ、あんたたちの白昼夢! さぁさ思い出して御覧なさい亡霊たちッ、本当はもうとっくに、死んでるんだってことぉおおおおおおおぉおおお!!」
 山羊の津波が、全てを飲み込む。山羊たちの黒い海に彼らが飲み込まれて没するしたのを見届け、……ヱリカは塔の瓦礫の上で高笑いする。
【ヱリカ】「さぁ、殺せ殺せ、皆殺しになさいッ!!! 全員の首を切り落として槍に突き刺して掲げなさい!! 怒号と真実の渦に飲み込まれて、消え去って下さい、1986年の亡霊たちッ!! さようなら!!!」

縁寿の選択

図書の都・鍵の部屋
 やはり、エヴァは鍵を封じる魔法陣を、予め壊してくれていたのだ。戦人たちが辿り着いた時には、魔法陣は砂時計のようにサラサラと崩れていた。もっと早く崩れるようにと、戦人たちは魔法陣を蹴ったり叩いたりするのだが、その速度を上げることは出来なかった。
【縁寿】「……だいぶ前に壊してくれたみたいだけど…。それでもまだ時間を掛けそうだわ…。」
【戦人】「多分、あと少しなんだ。……恐らく、あと5分も稼げれば……。」
 魔法陣の崩れる速度や全体の雰囲気などから、もうじきのようにも見える。しかし、今の状況では、仮にあと5分であったとしても、それを“もうじき”と呼んでいいのか、わからない。
 後ろを振り返る。
 ……本棚の渓谷の向こうには、………宇宙が広がっていた。ラムダデルタとベルンカステルの戦いは、……ベアトの戦いを幾度となく見てきた戦人でさえ、容易に例える言葉が思いつかない想像を絶するものだった。
 そして、ようやく彼が閃いた形容詞が、宇宙だったのだ。ラムダデルタとベルンカステルが激しい戦いを繰り広げる度に、二人の間に宇宙が生まれるのだ。
 ビッグバンが起こり、宇宙創生が起こり、……いくつもの銀河が生み出されては消え、生み出されては消え。そしてビッグクランチを起こし、宇宙が終焉したかと思うと、間髪を入れずにビッグバンが起こり、再び宇宙が生まれるのだ。それはまるで、神々の遊びだ。
 二人の魔女は、宇宙を生み出しては壊しを繰り返して、まるで創造主同士が、自分の宇宙の正しさを証明しようと戦っているように見える。わずかにでも気を許せば、……見ているだけで魂を奪われてしまう。そんな気さえした。
【縁寿】「……もうすぐで、鍵が取り返せる。……そしたら、ラムダデルタのくれたカケラで黄金郷へ帰れるのよね…?」
【戦人】「縁寿は鍵を取ったらすぐ帰れ。俺はラムダデルタを放っておけない。」
【縁寿】「あの戦いの中に飛び込むっての?!」
【戦人】「だが、放っておけねぇだろ。」
【縁寿】「………………………。」
【戦人】「二人の戦いは、確かに常軌を逸してる。……だが、完全に拮抗してて互角なんだ。……ってことはだ。……俺みたいなニンゲン風情一人の加勢でも、………何かを崩せるかもしれない。」
 相反する強力な力で保たれた均衡は、わずかな力を加えるだけで容易に崩せる。だがそれでも、そのわずかの力を加えるためにあそこへ飛び込むのは、確実に自殺行為だ。炉の中に蛾が飛び込むようなもの。近付いただけで燃え尽きてしまうかもしれない。
【戦人】「鍵を手に入れたら、縁寿はすぐに黄金郷へ飛んで帰れ。……向こうも、いつまで持ち堪えられるかわからない。」
【縁寿】「……みんな、……戦ってるのに、私ひとりだけ、帰れない。」
【戦人】「そうだな、これはお前の戦いなんだ。だからお前は戦え。……みんなと一緒に死ねなかったことを悔やみながら、その気持ちに打ち勝って、未来に生きるんだ。それをお前は決意したはずだ。」
【縁寿】「……………………………ッ。」
 縁寿は何も言い返せない。……多分、お兄ちゃんやみんなは死ぬ。だから、自分もみんなと一緒に、同じ時、同じ場所で死にたい。でも、それは許されないし、望んではならないのだ。
 もう、決意したのだから。みんなの死を振り返らずに未来に生きると、……誓ったのだから。
【戦人】「黄金郷に帰ったら、ベアトに鍵を見せろ。するとベアトはお前の前に2つの扉を示す。……そしてお前に簡単な謎掛けをし、そのどちらかを開くように言う。……それが、俺のゲーム盤の最後のゲームだ。」
【縁寿】「……2つの、扉……。」
【戦人】「2つの内、片方はお前を未来へ導く。……大丈夫。今のお前なら絶対に間違えない。そしてそれを潜ったら、扉が閉まるまで、後ろを振り返るな。」
【縁寿】「どうして振り返っちゃいけないの。」
【戦人】「扉が閉まれば、俺たちの運命はもう、お前にはわからない。……つまり俺たちは、猫箱の中に閉ざされる。」
【縁寿】「猫箱に閉ざされた運命は、……無限の真実を持つ。」
【戦人】「そういうことだ。俺たちはボロクソに負けたかもしれねぇし、奇跡の大逆転で生き残るかもしれねぇ。つまり、お前という未来の魔女に俺たちの決着を観測させずに未来に送り出せれば、俺たちには勝機があるってことだ。」
【戦人】「だが、お前がいつまでも俺たちを見ていたら、お前は俺たちが全滅するところを見ちまう。そうなりゃ、100%の敗北が確定だ。だからお前は、俺たちに勝利の奇跡を与えるためにも、扉を潜ったら、決して振り返っちゃいけない! いいなッ!!」
【縁寿】「う、……うん………。」
【戦人】「だから、俺はラムダデルタを助けに行くのさ。その俺の勇姿を見送って黄金郷に帰れば、それがお前の中での俺の最後の姿になる。」
【縁寿】「……お兄ちゃんたちの勝敗は猫箱に閉ざされる。……だから、絶対に“負けない”。」
【戦人】「そういうことだ。だから振り返るな。もうじき鍵が手に入る。一目散で黄金郷に帰るんだ。……だから今の内に手短に、未来のお前に俺からメッセージを送る。いいか、忘れるなよ、よく心に刻んどけよ!」
【縁寿】「うん、……うん……!!」
【戦人】「……いつ如何なる時もな、生きる希望を捨てるんじゃねぇぜ。俺たちはいつだってみんな、お前の後ろにいるんだ。……お前が信じてさえくれりゃ、声だって掛けられるんだ! いいな、信じろ! 奇跡はな、信じれば絶対に叶うから!」
 その時、ラムダデルタたちが凄まじい大爆発に包まれる。
 どちらかの、強力な一撃が決まったに違いない。それに続く爆音が起こらず、……その一撃が勝負を決めたに違いなかった…。
 爆煙の雲が薄れた時、……そこに立つのはどっちだろう…? 鍵を封じる魔法陣は、まだ解けるまでに数分を要する…。
【ベルン】「………………まだ、居る…? 私の愛しい、……ラムダデルタ……。」
 そこに浮かぶのは、………ベルンカステルただ一人だった。
 彼女の問い掛けに、答えるラムダデルタの声はない。それが勝利を意味するものだとしても、ベルンカステルの表情は晴れなかった。
【ベルン】「…………残念よ、ラムダ。……あなたとなら、二人で宇宙が築けると思ってたのに。…残念よ、本当に残念。」
 ……ベルンカステルは、まだ戦いに全神経を集中させている。だから、鍵の前にいる戦人たちには意識が及んでいない。
 ……しかし、もうじき気付くだろう。そうなれば、もう逃げ場はない。鍵を封印する魔法陣は、最後の円陣がサラサラと解け始めている。しかし、まるで意地悪をするかのように、最後の円陣だけは解けるのが遅い…。
 その遅さを見て、あとほんの1分、あるいは数十秒で解けるに違いないと信じていた目算が、……絶望的に崩れ落ちる。戦人は覚悟を決める。
【戦人】「……俺じゃ、あぁは行かねぇだろうがな。……今度は俺の出番のようだぜ。」
【縁寿】「お兄ちゃん……。」
【戦人】「偉いぞ、縁寿。よく止めなかった。」
 縁寿の頭を撫でるその手を、……彼女は愛しく頬に摩り、涙を零した。
【ベルン】「…………また子猫たちを集めなきゃ。……戦人も一緒にいると思ってたのに、その姿がないのはおかしいわ。……あんなヤツ1人でも残しておけば、靴に入り込んだ小石程度には厄介だものね。」
 完全に爆煙が晴れ、……ラムダデルタの残骸のように、……菓子の屑が大量に空間に漂っているのがわかった。
 星型のクッキーが、ベルンカステルの頭にぶつかる。それは角のひとつが欠けた、寂しさを感じさせる形をしていた。
【ベルン】「………ラムダデルタ。……私と共に生きなさい。……私の中で、あなたは私と一つの宇宙になるの。」
 ベルンカステルは、そのクッキーを噛み砕いて、ごくりと飲み込む。
【ベルン】「これで、私たちは永遠に一緒よ………。愛してるわ、ラムダ。」
【ラムダ】「私もよ、ベルン。」
 ベルンカステルのお腹が、唐突に風船のように膨らむ。それは胃から喉に上って、口から爆裂する花火を吐き出す。ベルンカステルは咳き込むように花火を、火の粉を、菓子のカケラを吐き出す。
【ラムダ】「直せないの? 猫の頃の習性は。………怪しいお菓子を拾い食いしちゃ駄目でしょう?」
【ベルン】「ラッ、ムぐ、がはげほがはッ、ダ、ぁああああああああああぁああああああ!!」
 ベルンカステルはなおも咳き込んで花火の爆裂を吐き出す。菓子による小宇宙の誕生を、胃袋の内側からまともに食らったのだ。ベルンカステルであっても、堪え切れるものではない。
 内臓を吐き出しかねないほどに花火の嘔吐を繰り返したベルンカステルは、その姿を瞬かせながらラムダデルタを凄まじい形相で睨み付ける。姿が瞬くのは、少女の姿を模すことさえ辛くなるほどのダメージを受けたからだ。
【ラムダ】「はしたないわ、ベルン。お姿が乱れていてよ?」
【ベルン】「げほッ、げほげほげほッ、ぅううぐぐぐッ、……ラムダぁあああああぁああがはッ、ごほごほ!!」
【ラムダ】「ちょっぴり、負けてあげちゃおっかなぁって気分になってたの。………でもやめたわ。あんたと一つの宇宙になっちゃったら。ベルンは二度と、私に愛を囁いてくれないもの。」
【ベルン】「………そうね。……私、釣った魚に餌はあげない性質だもの。」
【ラムダ】「知ってるわ。だからベルンは美しく輝くのよ。……思わせぶりな仕草を見せるのに、決して誰にも媚びることはない、気高い猫の女王のように。」
【ベルン】「あんたをダンボールに変えて、側面揃えて私の爪研ぎにしてあげるわぁあああああああ!!」
【ラムダ】「あんたこそ三味線にして、一回弾いたら飽きて押入れに入れて埃を積もらせてあげるわよッ!!!」
黄金郷
 山羊の津波は、全てを飲み込んだが、まだ波しぶきがあがっている。海に沈むことを拒む岩礁が、波をことごとく砕いているのだ。
 煉獄の七姉妹や異端審問官たちは接近戦を得意とし、次々に屍の山を築き上げていく。
 魔女たちも奮闘するが、贅沢を言えるなら間合いが欲しい。
 幻想の住人たちばかりに頼ってはいられない。この乱戦下では、ニンゲンの誰しも全員が戦いのるつぼの真っ只中にいるのだ。
 右代宮家の一同も、魔女たちに負けない闘志を見せ、その背中を守る。ニンゲンとて無力ではない。彼らには銃がある。
 山羊たちがファンタジーを支持するならば、最強の反魔法武器として。山羊たちがミステリーを支持するならば、至極当然の結果として。45口径ロングコルト弾は、如何なる山羊にも等しく致命傷を与えるのだ。
【ヱリカ】「死に損ないどもがぁああああ!! いつまで抵抗しやがるんですかッ、いい加減ッ、その辺でッ、沈みやがれですぅうううう右代宮ぁああああぁあああああ!!」
【金蔵】「沈めと言われれば、足掻きたくなるのが右代宮よ!! 小娘ッ、お前に語れるほど右代宮、甘くはないわッ!!」
【ヱリカ】「あんたなんざ、1986年以前に死んでるでしょうが!! はしゃぎ過ぎなんですよ、このクソジジイ!!」
 ヱリカの鋭い鎌が金蔵の胸に打ち込まれる。それは確実に心臓を抉り抜いていたが、金蔵の表情から不敵な笑みが消えることはない。
【金蔵】「ほう…、我が死を猫箱の外の誰が観測したというのかなぁ? 我は不滅なり…、不滅なりぃいいいいいぃい!!」
 金蔵の最後の命の煌き全てを託した渾身の拳が、ヱリカを殴り飛ばす。
【夏妃】「お父さんッ、お父さんッ、しっかり!!」
【金蔵】「踏み越えてゆけッ我が屍!! 右代宮家は振り返るな!!」
 金蔵にとどめを刺そうとすると、蔵臼が歩み出て立ち塞がる。
【蔵臼】「……親父殿に代わって、私がお相手しよう。」
【ヱリカ】「おや。無能投資家の大先生ではございませんか。よくもまぁ、儲からない話ばかりを見つけて散財なさるものです。」
【蔵臼】「失礼、靴紐が解けてはいないかね。」
【ヱリカ】「え?」
 つい下を見たヱリカの目に入るのは、……蔵臼の左拳。
【ヱリカ】「ッ?!?!」
 蔵臼の左アッパーカットが、ヱリカを浮かす。魔法でなく、物理法則に従って確かに浮かす。ヱリカは刹那、確かに月を見た……。
【蔵臼】「私は投資家としては無能だろう!! だがッ、ボクサーとしての才能はッ、大学時代の友人たちが証明するだろう!! お前如き小娘に、我が右代宮の全てを否定することなどッ、この右代宮蔵臼が許さんッ!!」
【ヱリカ】「こッ、のッ、……ド雑魚がぁああああああああああぁああああぁッ!!!」
『……嘉音は幻想……。孤独な朱志香が生み出した、幻想の存在……。』
【朱志香】「学園祭でッ!! 私は嘉音くんをみんなに紹介したぜ!! サクにッ、ヒナにッ、他にもみんなに!! 友達みんなが証明するッ!! お前らの勝手な想像で、……私たちの仲を勝手に決め付けるんじゃねぇぜッ!!」
 朱志香の渾身のボディーブローに、山羊の巨体が沈む。
【嘉音】「お見事です、お嬢様ッ! このような窮地で、よくそれだけの力を…!」
【朱志香】「そりゃそうだぜ。だって私、今、死んでもいいかなーって思っちゃってる。……嘉音くんに背中を預けて、初めての共同作業だもんな。それがケーキカットじゃないのが残念だけどさ…!」
 朱志香は照れ笑いを浮かべる。……その表情は、文化祭のステージ前よりリラックスしていた。
【嘉音】「なら、僕たちはケーキ以外のものを、切断しましょう。」
【朱志香】「いちいち嘉音くんが言うことはカッコつけ過ぎなんだよ…!」
【朱志香】「だがッ!! それがイイ!!」
 二人の交際や存在を否定しようと襲い掛かる巨体が選べる選択肢は、打撃と斬撃。それらが巨体を打ち倒す度に、二人が確かに存在したことの証となるのだ。
『……紗音は幻想ぉおおぉお! 譲治は根暗な引き篭もりぃ! 二人の恋仲自体も幻想で存在しないぃいいい!!』
【紗音】「譲治さまッ、危ない!!!」
 山羊の丸太のような拳が譲治の顔面に叩き込まれる。これだけ大勢の揉み合う乱戦だ。不意に繰り出されたそれを避ける術などなかった。
『…………ッ?!?!』
【譲治】「……根暗な引き篭もり。………いいとも。僕への評価は、どのようなものでも甘んじて受けよう。」
 譲治は顔面に真正面から拳を確かに食らっているはずなのだ。しかし、……仰け反るらない。微動だにしない。山羊は自分が何を殴ったのか、不安に思わずにはいられない。
 自分が打ったのは、肉でできたニンゲンのはずでは……? まるで、……鉄の壁に拳を打ちつけてしまったかのように、……痛むのは自分の拳の方なのだ…。
 しかし、……山羊は恐ろしくて、譲治の顔面に打ち付けた拳を、引き抜けない。だって、引き抜いたら、……そこには恐ろしい表情が浮かんでいそうで。
 譲治の手が、……ぽんと、その拳を叩く。
【譲治】「僕の学生時代の同期たちが証言するだろう。……確かに僕は根暗で社交的な人間じゃなかったよ。……でも、もう一つ、とても重要なことを証言するだろう。」
 山羊の巨大な拳を、譲治の小さな手が掴んでいるだけのはずだ。だが、それは万力のように締め上げる……。こんなにも小さな手で掴まれているのに、……山羊は拳を動かすことが出来ない。
【譲治】「……右代宮譲治は、自分に対する一切のことで、喧嘩をした試しはない。……どのような挑発にも逃げ回る臆病な少年だった。……誰もがそう証言するだろう。………でも、喧嘩を一度もしたことがないとは、誰も証言しないだろう。」
 僕は、こんなにもみすぼらしい自分がいじめられることは受け入れる。
【譲治】「だがッ!! そんな僕に味方してくれる人へのッ!! あらゆる挑発と挑戦をッ、断じてッ! 一度たりともッ!! 僕は許したことはないッッ!!!!」
 空を、山羊の折れた牙が舞う。怒れる譲治の足が天を割る。
『……しゃ、……紗音は、譲治の財産を目当てに近付いて……。』
 紗音の背中に、山羊が汚らわしい指を触れる。その指が、……爆ぜて、ぶくぶくと沸騰して蒸発する。
【紗音】「私の譲治さんへの愛は、純粋で高潔です。……譲治さんは、私が記した手紙の全てを保管なさっているでしょう。それらをご覧いただければ証明できるでしょう。」
『……て、……手紙などいくらでも書ける…。……手紙の内容で、純粋な恋愛だったかどうかの証明は……、』
 真っ赤な灼熱の光が、山羊の全身をちりちりと焼き焦がす。……紗音はゆっくりと振り返る。その表情に浮かぶのは、怒りと軽蔑。
【紗音】「愛を知らぬ哀れな観測者よ。お前には、ミステリーはおろか、人の心を読む資格さえもありません。……お消えなさい……!!」
 紗音を中心に絶対障壁が広がり、それに取り込んだ山羊たちを灼熱で焼き尽くす。
【真里亞】「きっひひひひ! そうだね。確かに真里亞たちは死んでいるかもしれない。でもね、だからって誰にも、真里亞たちのことを批判することは出来ない! 真里亞とママの愛は誰にも否定できないんだもの…!!」
 真里亞は歯を見せて笑いながら、手元も見ずに素早くそれをこなす。そして全弾の装填を終えたライフル銃を、ぞんざいに真上へ放る。
【楼座】「………来なさいよ。」
 真里亞と背中合わせに立つ楼座が、それを振り向きもせずに宙で受け取る。
 いや違う。宙に手を広げていたそこへ、互いが見向きもせずに正確に銃のやり取りをしているのだ。
 冷え切った引き金を人差し指でくすぐりながら、……楼座は俯きながら言う。
【楼座】「私と真里亞の、………愛を疑うヤツは、前へ出なさいよ。」
 山羊たちの群れは、凄まじき楼座の気迫に気圧され、……それ以上を近付けない。
【ヱリカ】「じゃあ、私が否定してあげます。……浮気性のあんたは、いつだって男のところを遊び歩いて、真里亞をひとりぼっちにしてました!!」
【真里亞】「真里亞の日記には、そんなこと、一言も書いてないもん。きっひひひひひひ。」
【ヱリカ】「あ、あんたが一番知っているでしょうが…!! 楼座はあんたを愛してなんかいない! 生んだことさえ後悔してる、クソッタレな母親じゃないですかッ!!!!」
 ヱリカは酷薄な空に月を見ながら、……鉄の味を覚えた。自分が、どういう状況になったのか、一瞬、理解できない。
 背中いっぱいの冷たい感触は、……地面? え? ……私、……いつの間に、横になってたっけ……?
 それに月は満月じゃなかったっけ。どうして、いつの間にか欠けてるの…? っていうか、……歯、痛い。……何か、冷たくて、硬い。
 そして気付く。自分が口中に銃口をねじ込まれて、地面に組み伏せられているのを。そして満月を割っているのが、………子連れの、怒れる狼の王であることを。
【ヱリカ】「…………がは……。」
 口中の銃口が炸裂して延髄を粉々に打ち砕く。……しかしそれは残像。
【ヱリカ】「恐ろしい女です、こいつ、本当にニンゲ、…………、」
 残像を残して、九死に一生のところで瞬間移動して逃れたヱリカの眼前には、金属の鋭い閃きが、……ヱリカが現れるより前から待ち構えていた。
 万年筆の一撃がヱリカの眼球を潰して貫く。無論、それは残像。しかし、さらに逃れた先でも、ヱリカが現れた瞬間にはすでにもう、踵が……。
 だからそれは、山羊たちから見たら、……一瞬の間にヱリカの残像がいくつも現れ、……それらが全て同時に、楼座に打ち抜かれたように見えた……。
【楼座】「………次に言ったら、本気で殴るからね。」
【真里亞】「ママは強いんだよ、きっひひひひひひひひひ!!」
【ヱリカ】「…………わ、……ッけわかんな……。」
 だから、もうヱリカは現れられない。少なくとも、楼座の攻撃半径の中には。ヱリカは楼座の間合いを大きく逃れ、空にその姿を現す。
【ヱリカ】「……こいつらッ、………何なんですかッ?! わけが、……わからないッ!! …………ッ?!?!」
 ヱリカの野生の勘が、ぎりぎりのところでわずかに首を横にかわさせる。
 彼女の頭があった場所に、奇怪な火花が散る。魔法じゃない。鉛と鉛がぶつかり合って火花を散らす、現実的な物理現象。
 異なる角度から飛んできた銃弾が、……正確に、ヱリカの頭部のあった場所目掛けて飛んで、……2発の弾が、まるでビリヤードのように正確にぶつかって弾けるなんて。
【霧江】「……あら、惜しい。」
【留弗夫】「悪ぃな。俺たちの趣味は親玉狙いなんだ。」
【霧江】「私たち、クレーは得意よ? あまりのんびりお空を飛ばない方がいいんじゃないかしら。」
 二人は、まったく同じ手順でまったく同時にライフル銃をぐるりと回すと、西部劇顔負けのリロードを見せて、再び照準を空のヱリカに戻す。
【ヱリカ】「こッ、………このバケモノどもがぁあああああぁああ!!」
 再び正確なる二人の弾丸が、ヱリカの残像の額を打ち抜き、ビリヤードのように弾けて火花を散らす。
 今度のヱリカの姿は、遥か後方にあった。認めなければならない。ニンゲンたちの射程から逃げたことを、彼女は認めなければならない。
 その時、月明かりが遮られる。素早く飛び退いたその場所が、打ち砕かれて瓦礫を飛び散らせる。打ち込まれたのは巨大な太刀。……ドラノールの太刀だ。
【ヱリカ】「……おや……。私のお友達じゃありませんか……!」
【ドラノール】「………………………………。」
 紙一重でかわしたが、……その重く凄まじい太刀は、斬るというよりもはや、刃の形をした砲弾のようだった。
 かわしてなお、重い空気圧で鼓膜がびりびりと痛む。ドラノールは本気だった。本気でヱリカを粉々にするつもりだった。
【ヱリカ】「どうしたんです、怖い顔しちゃって!! もう少し可愛い顔が出来ればいいのに!」
【ドラノール】「………楽しいデスカ。人の夢や幻想を打ち壊すノハ。」
【ヱリカ】「楽しいに決まってるじゃないですかッ。それこそが知的強姦の醍醐味でしょうが!」
【ドラノール】「あなたは邪悪な人デス。……しかしそれでも、同情できる邪悪だと信じていマシタ。」
【ヱリカ】「あんたに同情を頼んだ覚えはありませんが。」
【ドラノール】「……あなたを直ちに斬り伏せなかったコト。それが今日を招いた私の罪デス!!」
 ドラノールの髪が、憤怒で吹き上がる。一度は友と呼んだ彼女のその形相に、……ヱリカは足が竦むのを覚えた。
【ドラノール】「我が友ヨ。……痛みさえわからぬ内に、私があなたを解放しマショウ。あなたが、これ以上の罪を背負わぬようにデス!!!」
【ヱリカ】「うわッ、……ちょ、……………ッッ!!!」
 ドラノールの全身より噴き出す憤怒の迫力に、ヱリカは気圧される。いや、ドラノールの巨大な太刀による暴風のような旋風に、吹き飛ばされているとさえ言っていい。
 刃を持つ砲弾が、ヱリカが飛び退った直後の大地を次々に砕く。だからそれはまるで、ヱリカが大地を砕きながら後ろ向きに飛び跳ねているようにさえ見えた。
【ヱリカ】「ドラノール…………。」
【ドラノール】「……我が友ヨ、眠れ、安らかにデス!!!」
 巨大な太刀が再び空を切り、大地を粉砕する。
 しかし今度はヱリカの姿が見えない。……どこへ逃げた? 今度のヱリカの姿は、黄金郷の境を突き破って艦首をのぞかせる帆船の上にあった。
 ……それは、事実上、逃げたと言っていい。それがわかっているから、ヱリカは屈辱に顔を歪ませて吼え猛る。
 ぜいぜいと肩で息し、……乱れた髪を直すことさえ忘れている……。彼女の手から大鎌が零れて、カランと床に転がる。その音が、彼女を正気に戻す。
【ヱリカ】「クソッタレ山羊どもッ!! 何をぼさっと見てやがんですッ!! 砲門開け!! 弾種、概念否定炸裂弾!! 無照準無管制射撃ッ、ブチかませぇええあぁあああああああああぁあああ!!!」
 黄金郷に飛び込んだ艦船が次々に砲門を開き、一斉にでたらめに滅茶苦茶に撃ち放つ。
 撃ち放たれる数百発の炸裂弾が、触れる物、触れる者全ての概念を否定し、木っ端微塵に打ち砕き、灼熱させて炎を噴き上げる。山羊たちの蠢く戦場は、阿鼻叫喚の火炎地獄に変わる。
 砲弾が東屋を砕く。美しかった迷路庭園を次々に焼き払い、逃げ回る黄金蝶たちが炎に飲まれて、紙切れが燃え尽きるかのように儚く消えていった。
 もう、これは両者が戦って勝敗を決める戦場ではない。ただの、ごちゃまぜの地獄の釜の底だ。黄金郷が、滅茶苦茶に破壊されていく。美しかった薔薇庭園が爆発のクレーターで掘り返され、その花びらを無残に散らす。
 飛び散る肉片、血、牙、顎。悲鳴と狂乱の叫び。そしてそのような地獄の渦中にあっても、なおも戦いを止めぬ山羊と亡者たち。それを船上から見下ろしたなら、……それは紛れもなく、地獄だった。
【ヱリカ】「全艦、投錨!! 錨を下ろせぇええええええええええええ!!」
 ヱリカが叫ぶと、船上の山羊たちが慌しく駆け回り、重い鎖で吊るされた巨大で頑丈な錨を次々に艦首より大地に打ち込む。その錨は大地というよりも、黄金郷の底そのものを打ち砕き、その楔状の先端を抉り込ませた。
【ベアト】「ヱリカぁあああああああああああぁあああああああああ!!!」
【ヱリカ】「おや、ベアトリーチェさん!! 何しろこの大混戦! あなたを見つけられず途方にくれておりました!」
 ベアトリーチェは、舳先に飛び乗り、艦首のヱリカと対峙する。
【ベアト】「貴様は許さぬッ、この場で妾が討ち取ってくれるわ!!!」
 ベアトは煙管のケーンを鋭く振るう。するとそれは、美しい意匠の施された黄金の長剣に姿を変える。
【ヱリカ】「いいでしょう、望むところです。決着をつけましょう。」
 ヱリカが大鎌を宙に放り上げる。そして再び手元に戻ってきた時にそれは、ベアトのものとよく似た長剣に姿を変えていた。
 船上の山羊たちも加勢しようとヱリカの周りに群がってくる。
【ヱリカ】「手出し無用です。それよりお前たちは錨の巻上げを! 黄金郷を根元から、引き裂いて粉々にしてしまいなさいッ!!」
 アイアイサー! 山羊たちは敬礼し各部署にすっ飛んでいく。
 何十隻もの船が錨を垂らして、黄金郷の底を錨で打ち抜いている。今度はそれを引き上げ、……黄金郷をばらばらに砕いてしまおうとしているのだ。
【ベアト】「来いッ、ヱリカぁあああぁああああああ!! 貴様に、我が最後の決闘の名誉ッ、くれてやる!!」
 ベアトは舳先の上で剣を構え、古式に則って敬礼し、決闘相手を待つ。ヱリカは乱暴な仕草で靴を脱ぎ捨てて裸足になると、ゆっくりと舳先に上がる。そして、ベアトのルールに則り、敬礼を返した。
 空をぶち抜いた艦首の舳先での、決闘。その眼下は、山羊たちの群れ、無差別な砲撃で吹き飛ばされ、燃やされ砕け散る、この世の終わりの光景。もう、右代宮家の誰が無事なのか、考えることさえ、馬鹿らしい。
 そう、まさにこの世の終わり。黄金郷の終わり。砕け散り、燃え盛り。今や黄金の薔薇庭園は豪華に焼かれ、灼熱の火の粉と黄金の飛沫を飛び散らせる。
 みしみしと悲鳴をあげ、地割れのひびを広げていく大地。黄金郷の底。全艦が一斉に錨を引き上げ始める。大勢の屈強の山羊たちが怪力の限りを尽くして、鎖を巻き上げる。
 黄金郷の底に打ち込まれた錨が、…ミシミシ、メリメリと、黄金郷全体に地割れを広げていく。底だけでなく、空にもひびがはいり、黄金の破片がぱらぱらと落ちてくる。
 黄金郷の最後は、地獄の業火と、乱れ飛ぶ黄金の破片で、灼熱の赤と無常の黄金に彩られていた。舳先の上で対峙したベアトとヱリカは、それらを見下ろしながら、剣を交え火花を散らしている。
【ヱリカ】「すごい光景じゃないですかッ!! 相応しいと思いませんか?! あんたの物語の終章に…!!」
【ベアト】「黄金郷は終わるだろう。妾も果てるだろう。だがッ、我らが確かにここにあった事実は、誰にも消せぬ!! 縁寿は至った! 未来の魔女は、使命と希望を持ち、もうじき旅立つだろう!! すでに我らは成し遂げている…!! 生憎だな、古戸ヱリカぁああ!! この戦ッ、すでに妾たちが勝利しているわ!!!」
 黄金郷という名の幻想の主と、真実を司る魔女の決闘。その背後で、大地が割れていく。黄金郷が裂けていく。黄金郷という名の猫箱が裂けて、その向こうに虚無をのぞかせる。
 逃げ惑う山羊たちの群れが、裂け目からばらばらと落ち、虚無の海に飲み込まれていく。……その中には、ベアトの仲間たちもいる。彼らは助け合い、互いに手を伸ばし合い、最後の瞬間まで誰の犠牲も許さないつもりだった。
 しかし、……世界の終わりに、それは何とロマンチックで、そして儚い幻想なのだろう。
 大地が割れる、沈む。虚無の海にばらばらと落ちていく。誰も生きて、残れない。そして、救えない。それが、滅ぶということなのだ。
 虚無の海に落ち行く仲間たちは、最後に頭上を見上げ、願う。黄金郷が確かにここにあったことを、黄金郷の主が、刻んで残してくれることを願っている。だがベアトは、眼下を顧みない。そして、彼らもそれを望まない。
【ベアト】「此処こそは我らが黄金郷!! 無限と黄金の魔女ベアトリーチェ、此処にあり!! 我らは散れど、それは敗北にあらず!! そなたが生き証人となれッ。その胸に、妾の切っ先にて我らの証ッ、刻み付けてくれようぞ!!」
【ヱリカ】「さようなら、ベアトリーチェ!! このクソッタレな無限ゲームもこれでおしまいですッ!! 地獄へ堕ちろ、この幻がッ!!!!」
図書の都
 ラムダデルタとベルンカステルの死闘は、激しく火花を散らす動的拮抗を経て、今度は静寂の拮抗を迎えていた。
 ……この桁違いの力を持つ二人の魔女は、本当の意味で互角なのかもしれない。どちらかが、戦いに興味をなくしたり、負けに価値を見出したりした時、二人の合意によって決着がつくだけだ。だから二人がどこまでも譲るらず、死力を尽くしてぶつかりあった結果、一切の優劣はなく、互角だった……。
【縁寿】「……ラムダデルタ……。……あんたが味方で、良かったわ…。」
【戦人】「クソ、もう少しなんだ…! 早く砂になっちまえ、ふざけた魔法陣め…!」
 戦人はイラつきながら魔法陣を叩くが、とにかく見守るしかない。この魔法陣を解く唯一の方法は、待つことだけなのだから。しかし、ほんのわずかに二人は安堵していた。
 ラムダデルタは本当に強い。あれだけの激しい戦いでも、まったくの互角だった。いや、……心の余裕のようなものも比べれば、戦人の目にはわずかに優勢に見えた。
 彼女は見事に時間を、稼ぎ切るだろう。縁寿は鍵を手に入れ、黄金郷へ帰れる。あと、ほんのわずかの辛抱だ…。
 ………しかし、その後のラムダデルタの運命はわからない。元老院という魔女たちの最上層に逆らったのだ。……過酷な運命が待ち構えるだろう。
 しかし、それを知ってなお、振り返らずに未来に踏み出さなければならない。……それが、未来の魔女、縁寿に課せられた、唯一の義務なのだ。
【縁寿】「………お兄ちゃん。……あれは何…? 遥か向こうから、何か近付いてくるわ。」
【戦人】「……?! まずいぞ、……まさか、敵の増援か…?!」
 ラムダデルタたちは、互いに睨み合っているから気付いていない。彼女らに向かって彼方から、……エメラルドグリーンのいくつかの輝きが近付いてくるのだ。その光は、敵であることを示す。
【縁寿】「でも、ほんの数匹だけだわ。……あの程度なら、ラムダデルタの敵じゃない。」
【戦人】「…………………………。」
 これまでの猫たちは、魚群を作る小魚のような感じで、群れる分には恐ろしいが、個々には大したことはないというイメージを持っていた。しかし、あの近付いてくる光は、何か違う。
 ………星座のように、美しく決められた陣形を維持したまま、近付いてくるのだ。戦人は、その様子からただならぬ気配をいち早く察する……。
【フェザ】「………我が巫女よ。そろそろ鍵の準備が必要な時間ではなかったか…?」
 その口調だけで、戦人にも彼女がどれほどの魔女か理解することが出来た。
 星座の配置のように、美しくかつ規律正しく周囲に浮かぶ黒猫たちは、皆、それぞれが美しい意匠の大きなマントを羽織っている。……まるで、各界の魔王たちが、マントだけはそのままに、猫の姿に変えられてしまったかのように見えた。
 その戦人の想像は正しい。まさにその言葉通りだった。それは、フェザリーヌを警護する、各界の魔王たち。人の姿の主に敬意を示すため、猫の姿を模しているに過ぎない。ベルンカステルが従えていた野良猫たちの群れとは、まったく異なる存在だった。
【ベルン】「……アウアウローラ…。……あら、もうそんな時間だったの…?」
【フェザ】「客を多少待たすのもまた、パーティーの持て成し方の一つではある。……私は余り好まぬのだがな。」
 そう言いながら、ちらりとラムダデルタを見やる。
 彼女は慌ててお辞儀の仕草をする。ラムダデルタの表情は、にやりと笑う一方で、緊張に眉は歪み、汗の雫が浮き出していた。
【フェザ】「…………久しぶりであるな、ラムダデルタ卿。」
【ラムダ】「ご機嫌麗しゅう…。大アウローラ卿……。」
【フェザ】「……ここは卿を持て成すに相応しい場所ではない。……会場への道を間違えられたか…? ならば、私が自ら、パーティー会場にご案内しよう。」
【ラムダ】「そ、……それは光栄ですわ、大アウローラ卿……。」
 フェザリーヌ・アウグストゥス・アウローラ。……伝説の大魔女。魔女の域を極め過ぎて、造物主の域にまで達し、………至ってはならぬ境地に触れ、死の病に没したと伝えられていた。
 しかし、彼女は生前に飼い猫を魔女にしていた。その魔女は、主を退屈という死の底より束の間だけ蘇らせることの出来るカケラを求め、永遠にカケラの海を彷徨うという。
 ……そして、猫は主を蘇らせた。至ってはならぬ境地に触れた神域の魔女を、蘇らせた……。
 魔女たちがニンゲンをゲーム盤の駒と嘲笑って、上層世界から見下ろせるように。
 彼女もまた、魔女たちの領域さえも、ゲーム盤の駒と嘲笑って、さらに上層の世界から見下ろせる。……どれだけ上層の世界に至れるかが、魔女の強さだとしたら。彼女は、至ってはならぬ最上層に触れながら、生きて帰ってきた、……神の国より生還した魔女なのだ……。
 戦って勝てる見込みは? ない。ラムダデルタには勝つことはおろか、負けることさえも、自ら選ぶことは許されない。
【フェザ】「我が巫女よ。友人と戯れるのは後にして、今は仕事をしてくれぬか。………鍵の準備をせよ。」
【ベルン】「………わかったわ…。」
【フェザ】「くっくっく。途中でお使いを忘れてしまう天真爛漫さも、猫の魅力である。……そうは思わぬか、ラムダデルタ卿……。」
 ラムダデルタは何も答えず、頭を深く垂れる。
 ……ここから見る限り、もうじき鍵の封印は解けそうだ。しかし、それより早くベルンカステルが戦人たちを見つけるだろう。
 鍵さえ手に入れば、二人はすぐにでも脱出できる。……もちろん、ベルンカステルたちに見つかる前にという条件付きだが。………ベルンカステルを、……行かせるわけにはいかない。
【ベルン】「……ゲームセットね、ラムダ。」
【ラムダ】「…………………………。」
【ベルン】「私は大アウローラ卿の巫女よ…? 観劇の魔女は、朗読の巫女に保護を与えることを、忘れてはいないわよね……?」
 ラムダデルタは俯いたまま、答えない。
 観劇の魔女は、朗読の巫女に保護を与える。巫女であるベルンカステルを攻撃すれば、………大アウローラは契約に基づき、それを自身に向けられた攻撃として受け止め、“対応”する。
【ベルン】「……取引しましょ。」
【ラムダ】「……何をよ…。」
【ベルン】「戦人はどこに隠れてるの? 素直に白状したら、全て水に流してあげるわ。」
【ラムダ】「奇跡の魔女のあんたが、戦人如き小さな駒を恐れるの?」
【ベルン】「……奇跡の魔女だからこそよ。……あんな小石のようなヤツでも、起こす奇跡があることを、私は侮らないの。」
【ラムダ】「その小石が、今じゃ奇跡の魔女に大出世したものね。」
【ベルン】「もう一度聞くわ。戦人はどこ?」
【ラムダ】「…………………………………。」
【ベルン】「……残念よ、ラムダ。それが返事のようね。」
 ベルンカステルはラムダデルタに背を向ける。そして自分の主に、鍵の準備に行くことを伝え、……鍵の部屋へ向けて泳ぎだす。…………それ以上、行かせては、…………戦人と縁寿が見つかる……。
 戦人は覚悟を決める。今度は、自分が生贄になる番だ………。自分が一粒の小石に過ぎなくても、……目を潰すことだって出来るのだ。
 ベルンカステルの正面に、菓子の花火が破裂する。
【ベルン】「………ラムダ。……あんたは本当に馬鹿だわ。」
【戦人】「ラ、……ラムダデルタ………。」
【ラムダ】「………………やっちゃったわ……。……戦人、縁寿。……あとは頑張りなさいよ…!」
 猫の魔王たちが陣形を変え、フェザリーヌを包み、猛々しい星座の形を作る。そしてそれぞれが、それぞれの世界でもっとも恐ろしい魔法の魔法陣を描き、詠唱を始める。
【フェザ】「……………………………。……私は少し混乱している。……我が巫女よ、そしてラムダデルタ卿よ。……これは、どういう余興なのか…?」
【ベルン】「………ラムダは、私が鍵を取りに行くのを邪魔したいみたいよ。」
【フェザ】「ほう。……それはどういう意味なのか?」
【ラムダ】「その意味がわかんないなら。……フェザリーヌ、……あんた、ちょっと酔っ払ってるんじゃない? 酔い覚ましが必要なんじゃないかしら。」
 ラムダデルタは精一杯の強がりを見せる。その指先は小さく震えている。
【フェザ】「…………巫女への攻撃は、主への攻撃と見なす。……そなたも知らぬわけではあるまい…?」
【ラムダ】「知ってるわ。……そのルールによると、私はあんたたちと、やっぱり戦わなくちゃならないわけだわ。」
【フェザ】「ほぅ。………私か、私の巫女がそなたの巫女に失礼をしたか? ならば詫びよう。」
【フェザ】「しかし教えてはくれぬか。今はそなたは巫女を持たぬはず。……そなたにはいつの間に巫女がいたというのか。」
【ラムダ】「それがね……。いーっぱいいるのよッ…!! 30人か40人くらい? もっといるかしら?!」
【ラムダ】「このラムダデルタ、相手が誰だろうと、巫女に売られた喧嘩は全部買い取っちゃうんだからね…!! そいつらはみんな、絶対のハッピーエンドを信じてる!! この絶対の魔女が、そんな絶対を信じて頑張ってる連中をね、見捨てられるわけがないでしょッ!!!」
【フェザ】「………そなたの物語も嫌いではない。我が観劇に値する。……しかし、今の私は観劇者でなく、出演者である。……我が巫女の親友であることを知るから、一度だけ忠告する。………この舞台を降りるが良い。我が観覧席に、そなたの為の特別な席を設けさせよう。」
【ラムダ】「…………あんたの物語と、私が観劇してる物語の、どちらが面白いか考えているわ。」
【フェザ】「……答えを聞こうぞ。」
【ラムダ】「戦人たちの物語の方が、百倍面白いわ…!! 悪いけど、今年の助演女優賞は私がもらっとくわッ!! ……あんたたち! 最後の人気投票は私に入れなさいよ?! 最低でもトップ5よ?! いいわね?!」
【ベルン】「…………どこ見て言ってんのよ。」
 ラムダデルタは茶化すようなフリをしながら、……冷静に、唯一の弱点を睨む。たった一撃だけチャンスがあれば、………億分の一の勝算が。
 フェザリーヌが頭に浮かべる、あの馬蹄状の記憶装置。あいつはあれがないと、自分の存在が保てない。破壊は不可能だが、……もしわずかでも衝撃を与えることが出来れば、……記憶装置をバグらせることが出来るかもしれない。
 過去に、フェザリーヌが記憶装置にダメージを受けて、人格変容を来たした事例があるのだ。……もっとも、本人もそれを知っているから、……万一にもそれを許しはしないだろうが。
【フェザ】「……良かろう。ラムダデルタ卿。そなたの脚本が準備できたなら、いつでも参られるが良い。」
【ラムダ】「脚本なんて簡単よ。……たった一行。“華麗でキュートなラムダデルタさまが、悪の黒幕アウアウローラを一撃でブッ倒す”!」
【ベルン】「愚かなラムダ。……そこまであなたが愚かとは思わなかったわ。」
【フェザ】「……猫たちは手出し無用。……ラムダデルタ卿より献上されるこの勇敢なる物語に対し、私自らが褒美を取らせよう。……勇敢なるそなたに相応しい物語と結末を、褒美に取らせる。」
【ラムダ】「フェザリーヌ・アウグストゥスッ、……アウアウローラぁあああああぁああああ!!!」
 ラムダデルタが渾身の、魔力の塊を振り上げる。
【フェザ】「すまぬが、」
 そこで、世界の時間が停止した。
【フェザ】「そなたの脚本は採用しない。……なぜなら。」
 時間が止まったというよりは、……本を捲るのを停止した、という方が正しい。
 静止した世界に、……ぎっしりと文字が浮かぶ。
【フェザ】「この先の脚本を記すのは、私であるからだ。」
 それは、たった今まで紡がれていた、物語だ。
“『フェザリーヌ・アウグストゥスッ、アウアウローラぁあああああぁああああ!!!』” “ラムダデルタが渾身の、魔力の塊を振り上げる。”
 文章は、そこで終わっていた。その静止した世界で、フェザリーヌは腕組みをする。
【フェザ】「……参ったものだ。……戦いを描くのは久しぶりでな。……唐突にこのような展開で筆を預けられても困るというもの……。」
 私は執筆で行き詰った時は、逆行して書くことにしている。つまり、冒頭から順に書いていくのではなく、終わりから遡って執筆していくのだ。こうすれば、伏線も張りやすいし、ラストのビジョンを明確に物語を描ける。
 ……弱点は、話の組み立てもなく、いきなりクライマックスを描くのが案外大変ということだけだ。
【フェザ】「………とりあえず。戦いの顛末から遡って書いていこう。……ラムダデルタ卿。そなたは私に敗れ、息絶える。」
 フェザリーヌがそれを宣言すると、静止した世界に浮かぶ、巨大な文字が、そのように追記される。
 ただし、それは顛末からの執筆なので、先ほどの文末からは、大きく空白を開け、彼方に執筆している。
【フェザ】「...どんな姿でそなたは敗れるのであろうな。...そなたの勇敢さに相応しい、勇壮な最期が良いだろう。...こうはどうか? よくわからぬが、何かに吹き飛ばされて本棚に叩き付けられ、四肢がばらばらに砕け散り、息絶えて暗闇に墜落して消える。……うむ。なかなか派手な最期であるな。………よし。これでとりあえず、そなたの最期は決まった。」
 フェザリーヌが語る筋書きが、再び空間に追記される。それと同時に、ラムダデルタの姿が掻き消えた。
 フェザリーヌは再び腕組みをして思案した後、適当な方を指差す。するとその指の先の本棚に、“よくわからぬ何か”に吹き飛ばされ、大の字になって打ち付けられた姿のラムダデルタが現れる。
【フェザ】「………さて、ここから、このような最期に至るまでの激しい戦いを執筆せねばならぬのだが。……今の私は卿も見抜く通り、少々酔いが回っている。……その部分は、今度改めて時間を設けて、じっくりと執筆することにする。」
【フェザ】「……今はこれにて許せ。きっとそなたに気に入ってもらえる、勇敢な戦いぶりを執筆することを約束しようぞ……。」
 フェザリーヌがぱちりと指を鳴らす。
 ……ラムダデルタには、何が何だか、……まったく理解は出来なかった。瞬きさえ許されず、……唐突にここにいて、本棚に打ち付けられていた。
【ラムダ】「……何……よ、………こ……れ…………。」
 彼女は、自分がフェザリーヌの“何”に殺されたのか、それを理解することが出来ない。
 しかし、それは無理もないことだ。なぜなら、当のフェザリーヌ自身、“何”で殺したのか、決めていないのだから。
 しかしラムダデルタは、ひとつだけ理解できる。自分がもう、死んでいることだ。
 彼女の口の両端から、すぅっと、赤い血が零れる。そして両手両足の、手首や足首、肘や膝にも、すぅっと、血の筋が浮き上がる。それはまるで、彼女を模したマリオネットのように見えた。
【ラムダ】「………私……、……何…に、………殺……され……た…の……。」
【フェザ】「まったくだ、ラムダデルタ卿。良いアイデアがあったら、聞かせて欲しいぞ。」
【ラムダ】「……こ……の、………バケ……モ…………ノ…………、」
 本棚に打ち付けられたまま、……ラムダデルタはがくりと、頭をうな垂れる。手首足首、両腕両脚、そして首。それらのパーツをばらばらにして、……彼女を模したマリオネットは操り糸の全てを失い、ばらばらと落下していく。
 後には何も、残らない。眼下の暗闇に飲み込まれて消えていった……。
【フェザ】「バケモノとは。……私を讃える褒め言葉の一つであるな。……くっくっくっくくくく、あっはははははははははははは。」
【縁寿】「……ラ、……ラムダデルタ……。」
【戦人】「縁寿、……見るなっ、お前は見るな……!!」
図書の都・鍵の部屋
 縁寿は悔し涙を浮かべながら、両目を硬く瞑る。見てはならないのだ。未来の魔女は、……彼女の敗北を受け容れてはならないのだ…。
【戦人】「あいつはくたばってなんかいないッ。ただ、ただただ勇敢だった…!!」
【縁寿】「わかってるわ…!! あのラムダデルタが……、負けるはずないッ…!!」
 ぱきん。その時、軽やかな音を立てて、……宙に吊るすように浮かんでいた黄金の鍵が、震えた。
 ……ついに、鍵の封印は解けた。戦人はそれを素早く引っ手繰る。しかしそれとまったく同じ瞬間に、鍵の部屋の広大な空間に魔法的な衝撃が広がった。
【縁寿】「な、何ッ?!」
 今の衝撃で、ポケットの中が震えた気がした。手を突っ込んでみると、ラムダデルタにもらった、黄金郷へ帰るためのカケラが、……粉々に砕けていた。
【戦人】「……く、くそ…、ラムダにもらったカケラが…!」
【ベルン】「……惜しかったわね。もう、逃げ場はないわよ。」
【縁寿】「ベルンカステル……。」
【ベルン】「ラムダがもう少し賢く立ち回っていたら、もう5秒は稼げていたかもね。……そうしたらあんたたちは、その鍵を手に、黄金郷に逃げ帰れていた。……ラムダが、……主が馬鹿だと巫女も苦労するわね。あっははははははははは。」
【フェザ】「…………ほぅ。」
 フェザリーヌが、静かに驚く。……彼女を本当の意味で驚かせるのは、容易なことではない。
 自ら望まねば影さえ踏ませぬと豪語した、あの奇跡の魔女が、……墜落する。戦人の右拳を顔面に受けて、墜落する。
 ベルンカステルのその姿はすぐに粉々に散って、戦人の正面に再構成される。何事もなかったように。
 しかし、彼女は頬を押さえる。殴られた事実を、なかったことには出来なかった。彼女は数百年ぶりに、“望まずに影を許す”。
 その表情が、次第に驚愕に変わる。戦人の表情は? ………見えない。突き出した右腕に隠れ、その表情が見えない……。
「……………………………。」
【ベルン】「………ぇ……、……何?」
「……………取り消せ。」
【ベルン】「な、………何を………、」
 次の一撃は許さなかった。ベルンカステルの姿は霞と消え、少し離れたところに再構成される。
 しかし、それでも紙一重だった。彼女が望んだ紙一重でなく、……本当の意味で紙一重だった。
【ベルン】「………痛い…、………痛い、痛い………。」
 ようやく彼女に本当の意味で、殴られた頬の痛みが込み上げてくる。長過ぎる年月は、彼女に痛覚という概念さえも忘れさせていた。それがゆっくりと、……彼女に蘇るのだ。
【ベルン】「痛いッ、……痛い痛い痛いッ、……あううぅうううッ!!」
 ベルンカステルは頬を押さえて悶絶する。数百年ぶりに思い出す痛覚は、耐え難いもののようだった。
 戦人を見る。目が合う。……ベルンカステルは再び、数百年ぶりに忘れていた感情を思い出す。
【戦人】「………痛いか。」
【ベルン】「……………ッッ!!!」
【戦人】「俺の仲間を愚弄するお前の言葉の痛みは、………それを超える。」
 それは、戦慄。戦人の瞳の向こうに見えたものに、……ベルンカステルは数百年ぶりに、戦慄する。
 ベルンカステルの目には、戦人が殴り掛かってくるようには見えなかった。怒りの拳を振り上げる彼の元に、……自分が吸い込まれているようにさえ感じた。恐怖に見開く目に、……戦人の巨大な拳がいっぱいに広がる。
 無論、捉えられるわけもない。ベルンカステルはまるで影。残像を残して瞬間移動で逃れるのだが、瞬間移動如きで、戦人の激怒の猛追を振り切ることは出来ない。
 確かに、ベルンカステルの姿を捉えようとすることは、水面に映る月に嫉妬して、石をぶつけるように無意味だろう。いくら石をぶつけたって、水面の月を砕くことは出来ない。
 しかし、戦人は打つ。打つ。何度も何度も。二度と水面に月を許さぬつもりで。激しい石礫が水面を割る。水面の月を砕き、水面そのものを叩き割り、……底さえも剥き出しにして、……全てを穿つ。絶対の意思が、奇跡を穿つ。
 戦人が放った、振り返りもしない後ろへの蹴りが、虚空を打ち抜いていた。そこに、……腹を打ち抜かれたベルンカステルが、その姿で再構成される。
【ベルン】「げ…、……はッ…………………、」
【戦人】「……俺たちの勇敢な仲間を愚弄する言葉を、取り消せ。」
【ベルン】「ぅ、…………ご……ほ……ッ…………、」
 奇跡の魔女は墜落する。二度、墜落する。
 一度なら、奇跡。繰り返されるなら、それはもはや奇跡ではない。
 ベルンカステルは理解する。自分は、捉えられている……。そして墜落し、……床に叩き付けられて、………四つん這いで起き上がり、嘔吐した。
 激しく何度も嘔吐を繰り返す。激痛と嘔吐と涙と鼻水で、顔はぐちゃぐちゃだった。そして怒りの表情で戦人を見上げ、………吼えた。それは戦人の方にではなかった。
【ベルン】「ア、アウアウローラ…!! み、巫女がやられてるのよ?! 何を見てるのよ、やっつけなさいよッ!!!」
【フェザ】「すまぬが、私はラムダデルタ卿の最期を記すので忙しい。……私は手を貸せぬのでな。…………お前たちが少し助けてやると良い。」
 フェザリーヌの護衛の、猫の魔王たちが、また異なる星座を形作る。そして、それぞれが魔法陣を描き、詠唱を開始する。
【ベルン】「あは、あっははははははははははははは!! この猫たちね、それぞれがみんな、あんたのようなゲームの主人公の成れの果て!! どいつもこいつも、それぞれの勇壮な物語で主人公を務め、その勇敢なる物語に名誉を授けられ、アウローラの警護を許された!! それぞれがねッ、国やら星やら宇宙やらの存亡を賭けて戦ってきたのよ!!」
【ベルン】「あんたは?! あっはははは、せいぜい、妹やら妄想の魔女やらとのゲームごっこがせいぜいじゃない!! 主人公の格が違うのよッ!! 食らってくたばりなさいッ、ブチ込んでやれ、ゲロカスどもッ!!!」
【縁寿】「お、…………お兄ちゃん………!!!」
 凄まじい魔法の数々が、宇宙の誕生から惑星誕生、崩壊、そして宇宙の終焉までを瞬時に描く。その後には、塵一つ残るまい……。
 だが。爆煙が晴れた時、そこには人影があった。
 その姿は、……………両腕をポケットに突っ込み、……静かに俯くもの。その表情は陰って見えない。
【縁寿】「……お兄ちゃん……………。」
【ベルン】「何よ、……これ……。」
 戦人は、まったくの無傷に見えた。服に焦げをつけるどころか、……髪を散らすことさえ出来ていない。
【ベルン】「なッ、……何よこれッ?!?! 馬鹿猫たちッ、全然効いてないじゃない?!」
 猫の魔王たちは静かに顔を横に振り、主に短く報告する。
【フェザ】「エンドレスナイン。」
【ベルン】「何です、……って……………?」
【フェザ】「彼らの物語は、誰にも邪魔出来ぬらしい。すまぬな、我が巫女よ。どうやら猫たちにもお手上げのようだ。」
【ベルン】「……な、何が各界の魔王たちよ!! あんたたちだってかつてはどこかのゲーム盤の主人公だったんでしょう?! それがこのザマ?! 恥を知りなさいよ!!」
 猫たちは知っている。このゲーム盤の主人公が彼ならば。自分たちには邪魔できないことを最初から知っている。
【フェザ】「……我が巫女よ。ゲーム盤にて物語を紡ぐのはゲームマスターのみに許された特権である。……それを主張された以上、私も物書きの端くれとして、それを尊重せぬわけにはいかぬ。私は観劇の立場に戻ろうぞ。」
【ベルン】「やッ、役立たず主…!!!」
【フェザ】「……………戦人よ。我が巫女が、そなたの仲間を愚弄したことを謝ろう。そして、そなたのゲームを紡ぐ権利が、ゲームマスターであるそなたにあることも理解した。そなたの物語はそなたが紡ぐ。それも良かろう。」
【戦人】「…………………………………。」
【フェザ】「だが、我が巫女も今はそなたのゲームのゲームマスターでな。……二人が同時にゲーム盤を広げたらしい。1つのゲームに2人のマスターとは、滅多にない事だが、私はこの奇跡を喜んでいる。……なぜなら、そなたたちの最後のゲームに、相応しいものになると確信したからだ。」
【戦人】「………立てよ。ベルンカステル。」
【ベルン】「…………なるほどね…。……ゲームマスター同士が戦うなら、……そのゲームに則るべきだって言いたいのね…。……くす、……くすくす。……最初からそうだと言えばいいのに……。」
 ベルンカステルはゆっくりと立ち上がり、その姿を霞に溶かす。そして再び中空に現れて戦人と対峙する。
【ベルン】「いいわ。……あんたのゲーム盤のルールで戦ってあげるわ。ただ、私はあんたたちほど悠長じゃないから、短気に、そして圧倒的に出題して、瞬時に終わらせてしまうわよ。私のお相手は誰? 二人掛りでも一向に構わないわよ。」
【縁寿】「お兄ちゃん、私も戦うわ。」
【戦人】「…………来るな。」
【縁寿】「どうして…!」
【戦人】「お前はそこで、見ているんだ。そして今度こそ、……俺が伝えたかったことを理解しろ。」
【縁寿】「………お兄ちゃん……。」
【ベルン】「それでいい?! アウローラ!」
【フェザ】「……私が立会人となろうぞ。我が巫女を打ち破れたなら、そなたらを黄金郷へ送り返すことを約束しよう。」
【ベルン】「くすくすくす。黄金郷が、まだ残っていればの話だけれどね。」
【戦人】「俺は、………みんなを信じてる。」
【縁寿】「そうよ…。ベアトや、……みんなが、……負けるはずがない…!」
【ベルン】「くす、くすくすくすくすくす…!!! なら、凶報は早い方がいいわね。………ヱリカ、報告を許すわ。いらっしゃい!」
 ベルンカステルが指を鳴らすと、お辞儀をしたヱリカが姿を現す。
【ヱリカ】「お取り込み中、失礼致します、我が主。」
【ベルン】「……悪かったわね、ヱリカ。あなたがせっかく朗報を持ち帰ってきてくれたのに、待たせてしまって。」
【ヱリカ】「はいっ。お喜び下さい、我が主。黄金郷が消滅しましたことを、ご報告申し上げます!」
【縁寿】「……嘘だわ!!」
【ヱリカ】「黄金郷は完全に崩壊。瓦解し、その全てが虚無の海に沈んだことを、ご報告申し上げます。ニンゲンはおろか、幻想の住人に至るまで、その全ては消滅致しました。」
【縁寿】「嘘よ!! 私は、信じないッ!」
【ヱリカ】「……なら、信じさせてご覧に入れましょう。我が主、これを。」
 ヱリカはうやうやしく、布に包まれたそれを広げて献上する。それは、黄金に輝いていた。
【ベルン】「……何かしら。黄金のリンゴかしら?」
【ヱリカ】「黄金郷の主、ベアトリーチェの心臓にございます…!」
【縁寿】「ベ、……ベアト………!!」
【戦人】「…………………………。」
 ベルンカステルはそれを鷲掴みにすると、天にかざすようにして、しげしげと眺める。
【ベルン】「……こんな様になっても、まだ動いているのね。……可愛いわ、ベアトリーチェ。……あんたというゲーム盤を、再び誰かが広げてくれるかもしれない。……まだそう、信じているのよね……?」
【縁寿】「だ、大丈夫よお兄ちゃん…。私たちはベアトが討ち取られるところを見てない…! あれはヱリカたちの策略だわ。私たちの士気を挫こうという策略よ…! あるいはベアトの策略だわ! やられたフリをして姿を変えているのよ…!! ベアトリーチェが、みんなが……、黄金郷が、滅ぼされるわけなんてない……ッ!!」
【ベルン】「くす。………くすくすくすくす、あっはははははっはっはっはっは!! そうよね、未来の魔女がそう信じれば、そういうことにも出来るのかもしれないわね…。………だから、見せてあげるわ。よく見ていなさい、1998年の未来の魔女。」
 ベルンカステルは黄金の心臓を、……リンゴのように、宙に放り上げる。そして、手に現した真っ赤な刃の大鎌で、……砕く……。
【ベルン】ベアトリーチェは、1986年10月に、死亡した。よって、彼女が生み出した黄金郷は、完全に滅び去った。黄金郷に生かされていた、お前の親族たちも全員、滅び去った。お前の父も、母も、そしてもちろん戦人も、二度とお前のところに戻り、お前の名を呼ぶことはない。
【縁寿】「…………………あ……、」
【ベルン】「未来の魔女には、解釈を好きに変えて上書きをする力があるわ。……でも、一つだけ、どう足掻いても書き換えられない事実がある。」
【ベルン】「……それが、死よ。肉体的、あるいは精神的な、あらゆる概念の死を、あんたは覆せない。……過去の魔女が未来の魔女に食らわせることの出来る、唯一の、真実の刃よ……。」
【縁寿】「………あ、……………ぁ、……あ……………、」
【戦人】「堪えろ、縁寿。」
【縁寿】「…………でも、…………でも……………、」
【戦人】「お前は受け容れるって決めたろ。……誰も帰ってこなくても生きると、……お前は決めたろ……。」
【縁寿】「……わかってる……、……わかってるけど、…………わかってるけどッ!!!」
 それでも、……縁寿は心の中に一粒だけ、……希望を残していた。それでもひょっとしたら、……奇跡に愛されたら、………誰か、……帰ってきてくれるかもしれないって。
 それがいつだっていい。10年後でも、50年後でも。たとえ、私の顔を忘れてたっていい……。いつか、帰ってきてくれるかもしれないって信じて……。……その小さな希望を胸に、それで生きていこうと決めていた。
 ……一度はみんなの死を受け容れながらも、……一なる真実の書でそれを見たはずなのに、それでも、…………ほんのちょっぴりくらいは、…………奇跡を信じても………いいんじゃないかな、……って…………。
 起こらぬとわかっていて信じる奇跡は、………希望。だから奇跡が起こらぬことを司る魔女は、………それを、無慈悲に刈り取る。
【戦人】「泣くな。」
【縁寿】「わかってる…!! でも、……でもッ!!」
【ベルン】「あんたが今、泣き言を囁くその兄も、すでに死んでいるわ。」
【縁寿】「お兄ちゃんは、死んでないッ、ここにいる!! ここにいるもん!!!」
【戦人】「泣くな、縁寿。」
【縁寿】「でも、……でもッ!!!」
【戦人】「泣くなッ!!!」
 戦人の一括に、縁寿は涙を飲み込む。
【戦人】「だから、……何だ。………未来に生きるお前に、過去の俺たちが、何の意味がある。………縁寿。お前は何の魔女だ。」
【縁寿】「………え。」
【戦人】「俺たちの生死なんか、お前にはまったく関係がないだろ。」
【縁寿】「そ、そんなことない…。生きてて欲しい…!」
【戦人】「違う!! 生き死にを、お前は越えられるだろ!!」
 縁寿は何を言われているのか、わからない。だから絶句して、兄が何を伝えようとしているのか、必死に考える。
 戦人はゆっくりと顔を上げ、……ベルンカステルを凝視する。
【戦人】「…………そして、お前は魔女じゃない。………死神だ。」
【ベルン】「そうね。私はあらゆる奇跡と希望を刈り取る鎌を持つ。ならばきっとそうに違いないわ。」
【戦人】「……縁寿から生きる希望を奪い取り、………死へ誘う、死神だ。」
 過去の真実をちらつかせ、縁寿の瞳から未来を奪い、過去しか見えないようにした。 そして、絶望的な一なる真実を突きつけ、彼女に自ら、ビルの屋上より虚無の世界へ踏み出す一歩の、その背中を押した。
【戦人】「今こそ、お前という呪縛から縁寿を解き放つ!! 縁寿はもう、過去の呪いに囚われない!! 未来に踏み出す!! だがそこは、お前が誘おうとする奈落の虚空にじゃない。……縁寿が力強く生きる、1998年より先の未来なんだ!!」
【ベルン】「ニンゲンは、過去を見ながら後ろ向きに未来へ歩む哀れな生き物!! だから簡単な落とし穴に気付かず、真っ逆さまに、無残に滑稽に転落する!!」
【戦人】「来いよッ、ベルンカステル!!! 過去の魔女のお前に、未来の輝きは遮れないッ!!」
【ベルン】「あは、あっはははははははははははははッ!!! さぁ、行くわよ、あんたのゲーム盤のルール!! 密室の謎を出題してあげるわ。でもね、私は短気で圧倒的で面倒くさがり屋だから、全部一度に出題してあげるわよッ!!!」
 ベルンカステルが両手を広げると、彼女が後光、あるいは天使の羽を広げたように見えた。彼女を中心に広がる無数の放射線の一本一本が、……青き軌跡を引く密室ミステリーの刃。
 カケラの海を長年旅してきた彼女が、各地を巡り土産として持ち帰り蓄えてきた、無数の無数の、密室ミステリー。
 その放射線が、一斉にぐにゃりと曲がり、戦人を見据える。それはまるで、無数の大蛇たちが首をもたげて凝視するかのよう。
【ベルン】「………一つでも謎を撃ち漏らしたら。さようならよ。私はベアトみたいに、10月5日の24時までに回答すればいいなんてほど、悠長じゃないの。即答できなきゃ、死。」
 だとしたら、それはもはや、ミステリーでない。これは知的ゲームでなく、ただの、無慈悲の刃。
【ベルン】「死ね。」
【戦人】「…………ッ!!!」
 戦人に一斉に、数百本のミステリーという名の誘導レーザーが襲い掛かる。
 そのレーザーたちが描く幾何学模様の青の軌跡が、ただただ、神々しいまでに、美しかった。それら一つ一つが、ミステリー。この圧倒的な弾幕の中で、それら一つ一つに答えるなど、襲い掛かる針の嵐に対し、糸を通すようなものだ。
 戦人は広大な空間を自在に飛び回って、青く美しいミステリーの軌跡をかわしながら、その一つ一つを確実に打ち砕いていく。
 彼に蓄えられた、今日までのあらゆるミステリーの知識が、個々の謎への答えを教える。答えを宿した眼光が睨みつける度に、ミステリーが一つ、砕け散る。しかしそれは、数百本の内の一つ。対抗や抵抗と呼ぶには、あまりに儚いものだった。
【縁寿】「………お兄ちゃんッ、無理よ…!! 逃げて!!」
【戦人】「解けないミステリーはないように、……逃れえぬ運命だって、ない。」
【縁寿】「お兄ちゃん…!!」
【戦人】「見ていろ、縁寿。俺がお前に伝えたいことを、見過ごすんじゃねぇぞ…。」
 もはや、ミステリーの束は、青い軌跡を描く大蛇にさえ見える。戦人は巧みにそれを交わしては、その牙の一本一本を的確に折っていく。砂浜にて、砂粒を一粒ずつ拾うかのような、儚い抵抗と知りつつ。
【ベルン】「やるわね。………本格ミステリは得意なの? じゃあ、変格は? 他にも他にも、古今東西のあらゆるミステリーに挑んでもらおうかしら。」
 戦人はまだ、大蛇と戦っているというのに、ベルンは再び翼を広げる。そして、……さらに七匹もの大蛇を生み出す。それはもはや、七つの頭を持つ巨大な竜の姿だった。
【ベルン】「右代宮戦人。確かにあんたは、なかなかの読書家にしてミステリー通だわ。でも、まだまだ若い。……あんたが読んだ本の数やミステリーの数なんて、たかが知れている。……世の中には、あなたがまだ読んだこともない謎やトリックが、無数に存在することを知りなさい。」
【縁寿】「……お兄ちゃん!! もう無理よ!!! お願いだからもう逃げて!! ベルンカステルには勝てない!!」
 戦人の表情は冷静なままだ。しかし、全身は汗にまみれ、その息も荒い。戦人自身が認めないだけで、覆せる劣勢でないことは明らかだった。
 汗を拭い、……戦人は四方八方を、立体的に囲む、大蛇たちの八つの頭を見据える…。
【戦人】「……縁寿。………お前は、家族の誰かが生きているかもしれないという奇跡を信じ、12年を生き、……そしてその心を失った。お前は一度、起こらぬ奇跡の前に屈したんだ。」
【縁寿】「………………それは……。」
【戦人】「なら。……未来へ踏み出そうとするお前を見送る俺が、……再び奇跡の前に屈するわけには行かねぇんだよ。」
【ベルン】「そうね。それでも私は、あんたたちの奇跡と希望の全てを刈り取る。奇跡も希望も全て、無慈悲にね。」
 今や八つの頭を持つ竜と化したそれが、……八つの顎を開く。戦人を一息に飲み込もうと全ての角度から隙をうかがう。これ以上をかわすことなど出来ない。
【ヱリカ】「縁寿さん。……奇跡ってヤツを期待してるなら、お生憎ですよ。」
【縁寿】「………?!」
【ヱリカ】「ベアトは今や、完全に滅ぼされ、それを赤で宣言までされました。それが何を意味するかわかりますか?」
【縁寿】「………………………。」
【ヱリカ】「ベアトが滅んだということ、黄金郷が滅んだということ。……それは、誰も彼もが消え去ったことを意味するんですよ? つまり、都合よくこの場に現れてピンチを助けてくれるような味方は、もう一切存在しないということです。」
 ベアトは滅ぼされ、それを赤で宣言された。……よって、もはや誰も助けに来てくれることはない。
 ……あのエヴァでさえ、黄金郷の住人なのだ。鍵の封印を予め壊してくれるという活躍を見せた彼女は、恐らくどこかに隠れてはいただろう。しかし、ベアトが滅んだ今、……黄金郷の住人も全て、太陽を迎える霜柱と同じ運命を辿る…。
 エヴァが物陰に隠れ、最後のピンチで助けてくれるだろうという淡い期待は、さっきベルンカステルが黄金の心臓を砕いた時に、完全に潰えているのだ……。
 この場を助けてくれる誰かは、もはや誰も存在しない。今この場に存在しない要素で、兄を救う一切の希望は、存在しない。自分は? 自分はここで、見ているだけだ。
 私が力になれば、何かの奇跡が起こせるんじゃないのか…? でも私は、ミステリーにはそんなに詳しくない。ベアトのゲームのカケラを見て、付け焼き刃程度に戦い方を覚えただけ。
 足を引っ張らないのがやっとで、……兄の背中を守ることさえ出来やしない。でも、……見ているわけにはいかない…。
【縁寿】「お、…お兄ちゃん…!! 私にも戦わせて…!!」
【戦人】「来るなっ。………それでもお前は、……見ていろ。……そして、考えろ。」
【縁寿】「何を……!!」
【戦人】「一番最初の、……6歳の時の、………お前の一番最初の心に戻れ。」
【縁寿】「……6歳の、……私の心………。」
【戦人】「お前は真実を求めて、12年間を生きた。………だが、それは本当の、一番の願いじゃなかっただろ。」
【縁寿】「……私の、……一番の願い………。」
【戦人】「その願いと希望を、……俺たちは守りたかったから、最後のゲームを用意した。しかしお前は、残念ながらそれを台無しにしちまった。……だから、その希望を捨てて未来に歩み出さなきゃいけない。………でもな。それでもな、……お前に心の力があるなら、……持てるんだよ。」
【縁寿】「……何を………。」
【戦人】「思い出せ。一番最初の願いを。…………一なる真実を知ってなお、思い出せ。」
 一なる真実。みんな死んでしまって、誰も帰ってこないという非情なる真実を知って、……なお、思い出せ。一番最初の、願いを。
【縁寿】「お兄ちゃんッ!!!」
 その時、激しい閃光が起こり、太陽が誕生したかのような神々しさを覚えた。
 青白く光る大蛇たちが一斉に、……戦人を貫く。戦人は、霧のような血をまとい、真っ赤に染まった。
 そして、ゆらりとよろめくき、…………最後に、縁寿を見た。縁寿は、何も答えられない。
 戦人の瞳の光がゆっくりと失われ……、……彼の体が、ゆっくりと、……墜落していく……。そして、底に辿り着き、まるで水底に辿り着いたかのように、……ゆっくりと骸を横たえた。
 縁寿は駆け寄り、……絶命した兄の、……最期の顔を見る。目を見開き、……最後の一秒まで屈することなき、闘志を宿していた…。
【ヱリカ】「………縁寿さんはミステリー、得意でしたっけ?」
【ベルン】「戦人に比べたら、まったく劣るわね。」
 うねる大蛇たちは、その首をもたげて、……縁寿を取り囲む。縁寿に、戦う刃はない。ただ兄の死に顔にしがみ付き、兄の名を何度も呼び掛けるだけだった。
【ベルン】「意外に退屈な最後だったわ。…………これで、チェックメイトね。」
【フェザ】「……………………………。」
 八つの頭の大蛇たちが一斉に、………襲い掛かる。縁寿は兄の死に顔を抱き締めながら、……兄の最後の言葉を、噛み締めていた……。
 私の一番最初の願いは、………ただ一つだよ…。みんな、………帰ってきて……。
 私はそれだけを糧に12年を生き、そして疲れ果て、その希望を自ら手放した。そして手放した希望の代わりに、真実を求めた。そして真実の果てに、……私は、知る必要のない凄惨なる無慈悲を突きつけられ、……結果、誰も帰らぬという本当の絶望を突きつけられた。
 自ら手放しておきながら、……実は未練がましく持ち続けていた、最後の希望を、打ち砕かれた。一なる真実。それさえ知らずにいれば、……その小さな希望を、今も持ち続けられたかもしれない。しかし、…………もう…………。
 それでも、持てるんだよ。
 お前に心の力があれば、それでも、持てるんだよ。
 お前の、一番最初の願いを、思い出せ。
【戦人】「………………がはッ、……げほ!」
 戦人が咳き込む。
 ありえない。全身を貫かれて、完全に絶命した。それが咳き込むなんて奇跡、ありえない。
【ベルン】「馬鹿な!! どうして?! 戦人は死んだ!! なのにどうして、……どうして蘇れるの?!」
 戦人はゆっくりと起き上がる。その表情は、口元から血を零しながらも、不敵なものだった。
 しかし縁寿は立ち上がらない。俯いたまま、座り続けている。
【戦人】「………いいウォーミングアップになったぜ。……始めようぜ、ベルンカステル! 第2ラウンドをよ…!!」
【ヱリカ】「そ、そんな、ど、どうしてです、我が主?! 死者が、蘇れるはずなんてないッ!!」
【ベルン】「ありえない!! ……戦人は死んだのに!!! どうして蘇れるのよ?!」
【縁寿】「………生きてるわよ、………お兄ちゃんは………。」
【ベルン】赤き真実でッ!! 戦人は死んだって宣言してるのよ?! なのにどうしてッ、どうして生き返れるの?!?!」
【縁寿】「世界中全てが死んだって言ったって…。………私だけが世界でたった一人信じるのよ…。……お兄ちゃんは生きてる。そしていつか、……きっと私のところへ帰ってきてくれる。」
【戦人】「そうだ。……お前がその希望を失わない限り、……潰える奇跡なんてない!」
【ベルン】「こ、……この奇跡の魔女を前にして、……お前が奇跡を語るなぁああああぁあああああッ!! うぉおおおあおああああぁあああぁあああああッ飲み込め磨り潰せッ、兄妹揃って消し去ってしまええぇえええええええええええぇえ!!!」
 消せやしないのさ。
【戦人・縁寿】「「世界全てが認めなくても、俺たちが信じる限り、奇跡は起こるんだ!!」」
 うねる八つの頭の大蛇は、一つの巨大なクジラの顎に姿を変え、……全てを飲み込む。
【ベルン】「奇跡なんて起きない!! お前が心を許せる者は誰も存在しない!! だから死ねぇええええぇええ!!!」
【縁寿】「いるわ。……みんなが、私を守ってくれる。」
 全てを飲み込もうとする、無慈悲なミステリーのクジラに、深々と大きな楔が打ち込まれる。その深々とした楔は、熟練し、そしてミステリーを深く愛した者にしか、打ち込めない。
【ベアト】「陳腐だぜえぇえぇ、そのトリックぅうぅ…!! 妾がすでに読破し、飽き果てたトリックだぜぇえぇ。」
 戦人と背中を合わせ、反撃の楔を打ち出す彼女のその姿は、……紛れもなく、紛れもなく。
【ベルン】「ベアト?!?! どうして?! 赤き真実で死亡を宣言したのに!!
【縁寿】「………あんたの赤き真実が、何だってのよ……。」
【ベルン】赤き真実は絶対!! それは誰が抗おうとも、絶対に覆せない、完全なる真実!!
【縁寿】「世界中の全てが。……私の家族を否定しても。………それを一なる真実として突きつけても。……私は認めないわ。なぜなら。」
 縁寿はゆっくりと立ち上がる。その周り、……ゆっくりと人影が現れては、同じように立ち上がる。
 次々に、大勢。それは、……縁寿の家族たち、親族たち。六軒島のみんな。
 それだけじゃない。黄金郷のみんな、幻想の住人のみんなが姿を現わし、縁寿に続き、ゆっくりと立ち上がるのだ。そして全員が、鋭くベルンカステルを睨みつける。
【縁寿】「世界中が否定しても、私は捨てたりしない。絶対にみんな生きてるって希望を。……そして、私は至ったわ。………それが、私の魔女としての境地よ。」
【ヱリカ】「………こい…つ、……ただの未来の魔女じゃないの…? 過去には、後悔の涙を流すことしか出来ない、無力な魔女じゃないの…?!」
【縁寿】「私は、黄金の魔女、エンジェ・ベアトリーチェ。……称号は、黄金と、無限と、……反魂。」
【真里亞】「………至ったね、縁寿。」
【縁寿】「えぇ。ありがとう、お姉ちゃん。……長き日々の果てに、私はようやく至ったわ。」
【戦人】「お前なら、至れると信じてたぜ。」
【縁寿】「ありがとう、お兄ちゃん。……受け取ったわ。お兄ちゃんが、最後のゲームで伝えたかったこと。」
【ベルン】「消え去れ、ゲロカス妄想!!! そんなのッ、そんなの認めるわけねぇだらぁああああああぁあああぁああああああああッ!!!」
【縁寿】「みんなは永遠に私と共にあるわ。誰が赤き真実にて何度殺そうとも。……私はそれを拒否する。私の元に何度でもみんなは蘇る。………私は反魂の魔女エンジェ!! 私の世界は、お前の赤き真実では傷一つ付けられない!!!」
【ベルン】「うううぉおおおああああああああああああああぁあああぁあああああ!!!」
 縁寿の、………いや、縁寿と、その一族たち、仲間たちから一斉に、黄金の軌跡を描く放射線が広がる。それはベルンカステルの大蛇たちを描いていたものと同じもの。
 しかし宿す輝きは黄金。そしてそれはうねり、巨大な一つとなり、両翼を得た鷲の姿となる。
 もう、片翼じゃない。黄金の鷲が、縁寿の絶対的意思によって、未来へ羽ばたく翼を得る。その広げた翼に、…………ベルンカステルは、そのクジラは、圧倒される。
【戦人】「右代宮の鷲は、振り返らない。」
【縁寿】「そして、絶対に挫けない…!!」
 黄金の鷲はその翼で易々と青いクジラを飲み込み、粉々に砕く。そして、その主も逃さない。逃げる番になったのは、今度はベルンカステルだった。
 ベルンカステルは黄金の鷲には抗わない。抗えない。赤き真実を以ってしても傷一つ付けられない彼女らの世界に、一体、何の攻撃が通じるというのか。必死に逃げ惑いながら、赤き真実の楔を右代宮家の人々に次々投げ掛ける。
 右代宮金蔵は死亡している。右代宮蔵臼は死亡している。右代宮夏妃は死亡している。 それらを延々と繰り返すのだが、……誰も倒れない。縁寿はそれを受け容れないから、誰も貫くことが出来ない。
【ベルン】「こ、……こんな……。こんなエンドレスナインがあるの…?! あ、赤き真実さえ、……通じないなんてッ!! 何なのよ、黄金の真実って!! 赤き真実に打ち勝てる黄金の真実って、一体何なのよ……!!!」
【縁寿】「信じる心よ。……それは“私たち”の総意。……私たちが認めて共有した真実の前に、お前の赤き真実など、何も貫けたりしない。」
【戦人】「………あばよ、ベルンカステル! ……これが本当の、チェックメイトだ。」
【ベルン】「こッ、……この私がッ、…………認めないッ、認めないぃいいいいいいいいいいいいぃいいいいいいぃいいいああぁあぁあああああああああああああああぁッ!!!」
 巨大な黄金の鷲に、……ついにベルンカステルは飲み込まれる。それはそのまま巨大な天井に激しく打ちつけ、……巨大な爆発と地震を起こした。
 ひび割れた天井から、ぱらぱらと落ちる破片に混じり、………一匹の黒猫が落下し、……床に叩き付けられる。我が主と繰り返し叫びながらヱリカが駆け寄り、それを抱き締める。そして、まだ息があることを知り、安堵と驚きの表情を同時に浮かべる。
【縁寿】「……安心なさい。私の真実に傷一つ許さないように、あんたたちの真実にだって、私は傷一つつけないわ。」
【戦人】「ボロ雑巾になってるぜ?」
【ベアト】「お灸くらいはサービスということにしておけ。」
【縁寿】「ベアト。あんた、あんまりお兄ちゃんと馴れ馴れしくしないで。私はあんたたちの関係を認めたわけじゃないんだからねっ。」
【ベアト】「くっくっく! 愚か者め、妾をよくも生き返らせおって! もう駄目であるぞ、妾とその愉快な眷属は、生涯そなたを苛むであろうぞ!! そして妾と戦人のイチャイチャぶりを見せ付けてやるのだー!! わッ?!」
【縁寿】「あら、意外と便利ね。反魂の魔法って、オンオフ自由自在なのね。」
【ベアト】「ちょッ、……待ッ、………縁ッ、…………!!」
 ベアトは電球みたいに、現れたり消えたりを繰り返す。縁寿はちょっぴりそれが面白くなってしまったらしい。
【ベアト】「わぁあああん、戦人ぁああぁあ、縁寿がいじめるよぉおおぉ!」
【戦人】「縁寿、そのくらいで許してやれ。」
【縁寿】「いいわ。お兄ちゃんが言うなら許してあげる。」
【さくたろ】「縁寿、すごいよ〜!! うりゅー!!」
【マモン】「縁寿さま!! 反魂の魔女、おめでとうございます!! これで私たち、ずっといつまでも、……一緒なんですね!」
【縁寿】「えぇそうよ。みんなみんな。……反魔法の毒素なんて関係ない。いつまもで永遠に、私と一緒よ。」
【戦人】「偉いぞ、縁寿。よく言った!!」
 みんなが一斉に縁寿に押し寄せ、彼女を揉みくちゃにする。そして胴上げの真似をしようとして、彼女を落として尻餅をつかせてしまい、みんな大笑いするのだった。縁寿はちょっぴりふてくされたが、兄に手を借りて立ち上がり、その笑顔の輪に加わるのだった……。
 静かな拍手が、彼らを祝福する。立会人であるフェザリーヌが、その勝利を認め、手を叩いて祝福する。
【フェザ】「……見事であったぞ。エンジェ・ベアトリーチェ卿。……そなたにこの奇跡を祝して、我が名において、卿の称号を許す。そなたの紡ぎし物語はなかなかに愉快であった。」
【縁寿】「……………………………。」
【フェザ】「そう身構えずとも良い。私はそなたを祝福しているのだから。」
 フェザリーヌは悠然と微笑む。
 すると猫の魔王たちは星座の配置を解き、彼女の後ろに整列するように並んだ。それは攻撃の意思がないことと、式典のような厳かさを同時に感じさせた。
【フェザ】「我が巫女は打ち破られた。そして、その命を奪わなかったことに感謝する。………見ての通り、あれは私を退屈させぬための可愛い飼い猫。あれが死んでしまっては、私も退屈するのでな。」
 ベルンカステルを飼い猫呼ばわりする彼女の実力は、すでにラムダデルタとの戦いで見せ付けられている。それでも、縁寿は言う。
【縁寿】「……私は、……ラムダデルタを殺したあなたを、許さないわ。」
【フェザ】「おや、反魂の魔女殿の言葉とは思えぬ。そなたが望めば、いくらでも蘇らせられるではないか。」
【縁寿】「え? 蘇らせられるの…?!」
【ベアト】「大丈夫だぞ! ラムダデルタ卿は、そなたの力で何処かで生き返っている。安心せよ。」
【フェザ】「うむ。すでに私の用意した観劇席に移られている。安心せよ。手厚く持て成している。」
【縁寿】「本当に?! なら、……良かった……。」
 縁寿はようやく安堵して、全身を脱力させる。
【フェザ】「さて。……戦人よ。これでそなたの最後のゲームのゲームマスターは、そなた1人になった。」
【戦人】「………そうだな。あんたのとこの猫は、これでリタイアだろうな。」
【フェザ】「そなたのゲームの、最後の儀式を済ませるべきではないか…? ……我が巫女は猫のように忘れっぽいが、時に猫のように執念深い。今のうちに儀式を済ませた方が良いと思うのだが。」
【戦人】「………あぁ。……じゃあ、お言葉に甘えて、そうさせてもらうぜ。」
【フェザ】「私は立会人となり、その顛末を記すことにしよう。」
【縁寿】「最後の、儀式……。………このゲームも、いよいよ終わりなのね。」
 戦人は静かに頷く。
 そして、みんなの中から歩み出て、縁寿にも来るように促す。右代宮家のみんなが、縁寿が通り抜ける度に、がんばれよ、しっかりねと声を掛けてくれた。
 戦人は黄金の鍵を取り出し、縁寿に渡す。それは、初めて受け取った時に宿っていたのと同じ輝きがあった。
 すると、空中に、向かい合って私を挟むように、2枚の扉が現れる。重厚な意匠が施され、……それがとても重要な選択であることを示していた。
【縁寿】「……ノーヒントで、どちらかを選べと?」
【戦人】「とんでもない。ヒントは出すさ。今から、簡単な問題を出す。2択の簡単な問題だ。そして、その答えを、縁寿はどちらかの扉を開くことで選ぶんだ。」
【縁寿】「なるほどね……。OK。ハロウィンパーティーの続きってことだわ。あのパーティー、私、寝落ちしちゃったのよね。だからちゃんと締めくくることが出来て嬉しいわ。」
【戦人】「ベアト。前へ。」
【ベアト】「くっくっく。そなたは妾の問題を解く前に眠ってしまったからなぁ。出題できて嬉しいぞ。」
【縁寿】「参ったわね。相当難しそうだわ。」
【さくたろ】「うりゅー! 大丈夫っ、縁寿なら大丈夫!」
【真里亞】「きっひひひひひ、どうかなー。」
【ベアト】「くーっくっくっく! 覚悟せよ、難しいぞぉ!」
【戦人】「……落ち着け、縁寿。簡単な問題だ。…………一番いい選択肢を選ぶにはどうすればいいか、…一番最初にお兄ちゃんが言ったことを覚えてるか…?」
【縁寿】「……………………………。」
【フェザ】「戦人よ、ヒントが過ぎるぞ。未来の魔女エンジェ卿の凱旋である。そなたは見送るだけに留めよ。」
【戦人】「……だな。じゃあここからはベアトに譲る。……頼むぜ。」
【ベアト】「うむ。………では行くぞ。」
【縁寿】「え、……えぇ。」
 ごくりと唾を飲んでから、魔女の顔をじっと見上げる。魔女は、そっと左手を差し出し、縁寿の顔に近づけた。そしてゆっくりと手の平を開いてみせた。
【ベアト】「妾の手の平をよく見るが良い。タネの仕掛けもないな?」
【縁寿】「……えぇ。何もないわ。」
【ベアト】「よく見ておれ。こうして握る。……そして人差し指を立てる。」
 人差し指を立て、ゆっくりと縁寿の目の前に突き出してくる。
【ベアト】「人差し指の先を、よぉく見ておれ。いくぞ? 早いぞ。」
 魔女は、その人差し指を素早く振り上げ、天を指差す。縁寿が天を指す指を見上げた時には、逃げるように指は下へ振り下ろされる。
 そんな調子で、上、下、左、右、また左と、まるであっち向いてホイでもされてるような感じになる。指先を目で追えなかったら負けになるような気がして、縁寿は真剣に顔をぶんぶん振る。
 魔女の手の動きもどんどん早くなる。縁寿も負けない。そして、天を指した指が一気に振り下ろされた時。……人差し指は握られ、ただの拳になっていた。
【縁寿】「………………………。」
【ベアト】「よいか? 手を開くぞ…?」
 魔女はゆっくりと、その右手の拳を開く……。すると、………そこには、可愛らしく包装された飴玉があった。
【ベアト】「良いか。」
【縁寿】「えぇ。」
【ベアト】「これは、手品か、魔法か。それが、妾から与える問題である。」
【戦人】「さぁ、縁寿。……答えてくれ。これは、手品か、魔法か……。」
 私は、知ってるわ。これの、答えを。
ベアトの出題
 魔女が空っぽの左手を見せてくれた。
 それを握り、あっち向いて、ホイホイホイ。
 それから右手の拳を開くと、そこには飴玉があった。
 さて、これは魔法だろうか? 手品だろうか?
選択肢2つ。「魔法」「手品」
選択後
【戦人】「答えが『魔法』なら、そっち。『手品』ならそっちの扉を開けるんだ。」
 私の答えは、とっくに決まっている。
【縁寿】「これが、私の答えよ。」
 私は選んだ答えの扉の元へ行く。そして黄金の鍵を、鍵穴に挿し、……みんなに振り返る。
【戦人】「右代宮の鷲は、振り返るな。」
【縁寿】「……そうね。ごめん。」
 私は鍵を力強く捻る。
 すると鍵と扉が激しく光り、……ゆっくりと薄れて消えた。
 その向こうには、不思議な色の空間が広がっている。そこへ踏み出せば、………私が選んだ未来へ辿り着く。私は、そこへ一歩を踏み出す前に、……振り返らずに言う。
【縁寿】「右代宮の鷲はっ、振り返らない。……だから振り返らないけれど、言うね! みんな、ありがとう。でもさよならじゃない! 私は、いつまでもみんなと一緒!!」
【戦人】「あぁ。お前は振り返らない。だけど俺たちはいつだって、お前のすぐ後ろにいるからな。」
【縁寿】「……そんなのじゃない!! 私、それでも信じてるから。絶対にみんなが、……帰ってきて全員揃うって、信じてるから!!」
【戦人】「………縁寿……。」
【ベアト】「それで良い。……縁寿。再びそなたの元に、我ら一同が揃う日が来るのを、楽しみにしておるぞ。」
【金蔵】「縁寿よ、我が可愛い孫よ。しばしの別れだ。……ほれ、これを忘れるでないぞ。あのクイズパーティーの景品であるぞ。」
 私の肩越しに、黄金の蝶が飛んできて、それは私の手の上で(クイズ景品)に変わる。
【縁寿】「……ソファーの上で目覚めた時、これが転がってたっけ。……これって、景品だったのね。」
【戦人】「未来へ持ち帰って大切にしろぃ。」
メダル10枚以上だった場合
【縁寿】「ありがと、……みんな。」
メダル10枚未満だった場合
【縁寿】「……もうちょい真面目にやってれば良かったわ。」
合流地点
 私は、一歩を踏み出す。未来へ、踏み出す。
 さよならは言わないよ。じゃあ、またね。いつまでも、一緒よ。

「魔法」を選んだ場合


屋上からの夜景
 風が頬をくすぐる。私は、閉じていた目を、ゆっくりと開く。
 ……ずいぶん長い間、目を閉じていたのかもしれない。その眼下の煌きさえ、とても眩しく感じた。
 ………そこは、星の海が眼下に広がる、不思議な世界。風が冷たい。……でも、私が現実に帰ってきたことも教えてくれた。
 私は、眼下の星の海に、………一歩を踏み出した、片足の状態でいた。いつから、私はここにいたのだろう。
 ……多分、ベルンカステルに誘われて、一歩を踏み出そうというところで、……ずっと私の時間は止まっていたのだ。
【縁寿】「………………………………。」
 その足を、………ゆっくりと、戻す。そして、フェンスに寄り掛かって、座り込んだ。
 空は、遠い。でも、地上も遠い。どちらの世界にも遠い、悲しい場所に、私はずっといたのだ。
 空へは、行けない。なら、私の世界へ、帰らなくちゃ。
【縁寿】「そしてそれは、エレベーターがいいわね。……スカイダイブはもうたくさん。さすがにもうないわよね。ここから飛び降りて、無事なんて奇跡は。」
 そんな奇跡は絶対ないって、某奇跡の魔女の保証済みなんだからね。
 その時、私はようやく彼らの気配に気付く。小此木社長が付けてくれている、私の護衛たちだ。私を刺激しないように、脂汗をだらだら浮かせながら、フェンスの向こうで愛想笑いをしている。そうだった。私は彼らを振り切って、飛び降りたんだっけ。
【縁寿】「………飛び降りると、思った?」
「そ、それはもう、……その………。」
【縁寿】「……ごめんね。私が飛び降りたら、あんたたち、大目玉もらっちゃうものね、小此木さんに。」
「縁寿さん……、そこは危険です。とにかくこちらへお戻り下さい…。」
【縁寿】「もうちょっとだけ居させて。………大丈夫よ。変な気はもう起こさないから。あなたたち、携帯は持ってる?」
「あ、あります……。」
【縁寿】「小此木さんと話したいことがあるの。電話してもらってもいい?」
 護衛たちは顔を見合わせてから、慌てて携帯電話を取り出す。万一、私の機嫌を損ねて飛び降りられたら責任を取らされると、あわあわしている。
「しゃ、……社長が出ました…。………どうぞ……。」
【縁寿】「ありがと。……もしもし、小此木さん? …………えぇ。急にごめんなさい。いいえ、素敵な話よ。ちょっと早いクリスマスプレゼント。……右代宮グループを全部、あなたにあげるわ。………そう。その代わり、お願いがいくつかあるの。」
 縁寿は、眼下に広がる地上の星の海を眺めながら、話す。これからどう生きるかを、話す。
 ………右代宮縁寿の、不思議な不思議な冒険の物語は、……これで終わる。でも、私の人生は、これからも続いていく。
 だって、私にはもう、やることがあるのだもの。私はマリアージュ・ソルシエールの魔女、エンジェ・ベアトリーチェ。
【縁寿】「右代宮縁寿はさっき、ここから落ちて死んだわ。……ここにいる私は、魔女のエンジェ。……生きるわ。魔女として。」
図書の都・鍵の部屋
【フェザ】「これにて、そなたのゲームは終了だ。」
 縁寿が扉に入り、その姿を消すと、……黄金郷の住人たちも、すぅっと姿を消す。
 あとには、戦人の姿だけが残った。彼は縁寿にしてやれる全てを、今こそ終える……。
【フェザ】「……扉を閉めよ。……確か、その扉を閉めるには、作法があったな?」
【エヴァ】「えぇ、そうよ。……二人じゃなきゃ、閉められないというルールよ。」
【戦人】「いよぅ、エヴァ伯母さん。」
【エヴァ】「だから伯母さんって呼ばないでーッ。」
 二人は縁寿が姿を消した扉の左右に立つ。
【エヴァ】「縁寿。……あなたの未来に幸あれ。」
【戦人】「俺たちは、必ず一緒になれるからな。」
 そして、二人はそっと手の平をかざす。すると、扉がすぅっと現れて閉ざされた。そして、扉自体も、ゆっくりと消えて姿を消す……。
【エヴァ】「……これで、私たちの役目も終わりね。」
【戦人】「あぁ。……これで、駒の役目を終了だ。」
【フェザ】「ご苦労であった、二人とも。……それではこれにて、そなたらのゲーム盤を片付ける。」
 ゆっくりと、……世界が崩れ始める。それは一見、図書の都が崩れ始めているように見える。
 だが違う。戦人とエヴァの、二人の世界が、図書の都から切り離されているのだ。世界は次々と崩れ、もうじき天井が抜けるだろう。
【エヴァ】「お別れね。戦人くん。」
【戦人】「あぁ。……またな。そして、必ず。縁寿を頼むぜ、絵羽伯母さん。」
【エヴァ】「最後くらい、エヴァお姉さんって言ってみなさいよー。」
【ヱリカ】「……………………………。」
【戦人】「またな。ヱリカ。いつかどこかで。」
【ヱリカ】「…………私も縁寿も、同じ真実の魔女でした。……なのに、私と彼女の、何が違ったのでしょう。」
【戦人】「………………何だろうな。」
【ヱリカ】「私は、真実に堪える魔女でした。…でも、その真実に背を向けました。……しかし彼女は、真実を知った上で、なおも彼女の真実を信じる魔女でした。………もし、彼女の方が、真実の魔女に相応しいなら。………私は、何の魔女だったのか、わかりません。」
【戦人】「そうだな。………お前は、魔女じゃない。」
【ヱリカ】「………………………。」
【戦人】「だってお前は、探偵だろ。」
【ヱリカ】「……………………。………グッド。…忘れてました。」
【戦人】「またいつかどこかでな。……事件あるとこ探偵ありなんだろ。」
【ヱリカ】「えぇ。右代宮家に再び事件ある時。必ず現れることを約束しましょう。」
【戦人】「あばよ。名探偵。」
【ヱリカ】「さようなら。我が好敵手。あなたと再び刃を交えられる日を、楽しみにしています。」
 それが、二人の最後の言葉になった。
 凄まじい轟音と土煙が圧し掛かり、全てを飲み込んだ。……そして、全て消え去る。後には、何も残らない。戦人の姿も、エヴァの姿もない。図書の都は、静寂に包まれている。
【フェザ】「………全て、終わったな。」
【ヱリカ】「はい。大アウローラ卿。」
【フェザ】「……そなたは我が飼い猫を頼む。………では私も行こう。こちらの世界でも、片付けねばならぬのでな。」
高級ホテル
 八城がそれを告げた時、会場の全員が聞き間違いだと思い、沈黙した。そしてすぐに、その真意を問い質す為に大騒ぎを始める。
「そ、そんな、殺生な…!!」
「ここまで引っ張っておいてそれはないッ!!」
【大月】「八城先生ッ、私たちはそれを見たくて遥々集まってきたのですよ?! 今さらそれは、……あんまりではありませんかっ!!」
【八城】「………繰り返します。気が変わりました。右代宮絵羽の日記は、非公開とさせていただきます。」
「さ、詐欺だ、そんなの詐欺だ…!!」
「それは本当に右代宮絵羽の日記なんですか? あんたの捏造じゃないんですか?!」
「こんなふざけたことが許されるのか!! その本を公開しろー!!!」
【八城】「醜きかな人の子よ。……そなたらにも、そしてこの私にも、この中身を見る資格などありはしない。……しかし、思えばこれもなかなか愉快な催しであった。死者の眠りを暴き、好き勝手に噂を吹聴する人の子の面白き一面を見ることが出来た。………行くぞ、ベルン。今宵の肴にはこれで充分であろう…。」
 その肩に黒猫が飛び乗り、八城は一なる真実の書を抱えて舞台袖に消える。後には大勢の観衆の怒号が広がるのだった……。
 こうして、………右代宮絵羽の日記は、その存在自体も疑われ、……人々の関心から消えていく。週刊誌は、八城十八のこの詐欺紛いの行為を紛糾する一方で、六軒島ミステリーそのものが、死者の眠りを冒涜する不謹慎なものではないかとする意見も掲載した。
 この程度のことで、六軒島が安らかに眠れるとは思わない。しかし、六軒島ミステリーを面白がることを、人前で堂々と言うことがはばかられる雰囲気は、わずかながら生まれた。
 猫箱は、開かれぬから、永遠なのだ。永遠に、六軒島が眠りにつけることはないだろう。
 だが、………それでもこれまでよりは、………静かな日々を過ごせるに違いない。………忘却の深遠では、埃はゆっくりゆっくりと、……長い年月を経て、降り積もるのだから。
 魔女たちの猫箱は、忘却の深遠という名の深い海の底で、……これから長い年月を掛けて、ゆっくりと埋もれていくだろう。
 フェザリーヌは、その海に一輪、黄金の薔薇を放る。静かに眠る猫箱への手向けとして。その黄金の薔薇の物語をもって、……この長かった物語のピリオドとしよう。
 暗黒での凄まじい轟音と地鳴り。それが過ぎ去り、………やがて無限の夜は白んでいく……。
 EP4のエンドロールで、右代宮縁寿は1998年に死亡と表記されている。その辻褄合わせのため、何らかの意味で死んだことにする必要がある。
潜水艦基地
【戦人】「ここは…………?」
【ベアト】「かつての潜水艦基地の廃墟だ。覚えてはおらぬのか…?」
【戦人】「初めての場所だぜ。」
【ベアト】「くっくくく。妾とそなたが、2代前の前世で、初めて出会った場所であるぞ。」
【戦人】「ははは。そういう風に言われると、ロマンチックだな。」
 戦人とベアトの姿は、……六軒島の地下の、潜水艦基地の廃墟にあった。海へ洞窟が口を開き、穏やかな波の音と、うみねこの声が聞こえてくる。二日間も島を閉ざした台風は、さすがにもう、この島に留まることに飽きたらしい。
 ベアトは水際に下りると、大きなシートを取り払う。そこには一艘のモーターボートがあった。もちろん、戦時中のものじゃない。近代的なものだ。
【ベアト】「これを船に積め。重いぞ。」
【戦人】「わお。黄金のインゴットじゃねぇかよ。全部、埋もれちまったと思ってたぜ。」
【ベアト】「こんなこともあろうかと思ってな。ひとつくすねておいたのだ。」
 ずしりと思いインゴットを1つ、船に積み込む。価値はわからないが、これ1つで相当の金額になるだろう。
【ベアト】「そなたはモーターボートの経験は?」
【戦人】「あるわけないぜ。」
【ベアト】「簡単だ。教えてやる。」
 手馴れてはいなかったが、ベアトは何度かの思考錯誤の末、エンジンを掛ける。
【ベアト】「そこを出て、島伝いにぐるりと回れば、その内、新島が見える。後は砂浜にでも乗り上げれば良い。」
【戦人】「……お前は来ないのか。」
【ベアト】「妾は行けぬ。……妾は黄金郷の主よ。ここを出ては行けぬ。」
【戦人】「残って何になる。」
【ベアト】「行って何になる。」
【戦人】「生きよう。」
【ベアト】「………生きれぬ。妾はもう、数え切れぬほどの世界で、数え切れぬほどの罪を犯した。妾が殺した命の数が、罪の数が、多過ぎる。」
【戦人】「俺たちの世界では、何の罪も犯しちゃいないさ。」
【ベアト】「いいや、………そんなことはないぞ。」
【戦人】「……………………………。」
【ベアト】「行け。妾の機嫌が良い内にな。さもなくば、再び島を嵐に閉ざしてしまうぞ。」
 戦人は急に踵を返す。
 何事かと振り返ると、突然ふわりと、ベアトの体が浮き上がった。
【戦人】「なら。黄金郷からの手土産に、お前を持ち帰ることにするぜ。」
【ベアト】「は、離さぬか…! あ、危ないというのに…!!」
【戦人】「ぎゃあぎゃあ騒ぐな。よく聞け、ベアトリーチェ。」
【ベアト】「な、なんだ…。」
【戦人】「お前を、さらう。」
【ベアト】「……………………ば、……。」
 静かに、真剣に語るその戦人の瞳に、ベアトは言葉を失ってしまう。
【戦人】「お前に罪があるなら。それを犯させた俺にも罪がある。……だから、お前の十字架は、俺たち二人で背負おう。」
【ベアト】「………戦人…………。」
【戦人】「生涯。……お前の十字架を支えるから。………出よう。黄金郷を。俺と二人で。」
 ベアトは呆然としながら、完全に言葉を失ってしまう。そして、ぽろぽろと涙を零して、両手で顔を覆った。
 戦人はそんなベアトを、そっとボートに乗せる。舫い紐を解く。……これで、この船を、島に縛り付けるものは、何もなくなった。
【戦人】「行くぜ。」
 戦人がベアトに習った通りに操作すると、ボートはゆっくりと滑り出す……。
洋上
 薄暗い岩窟を抜けると、急に眩しく太陽が照りつけ、真っ白なうみねこの群れが迎えた。飛び交ううみねこたちが散らし落とす羽毛が、……船出を祝福するように見えた。
 眩しい日差しが、島の呪縛から解放したことを教える。……台風の封印が解かれた空は、眩し過ぎるくらい。
 暑ささえ覚え、戦人は上着を脱ぐ。……するとそれが風にさらわれ、空を舞った。しかし戦人は慌てず、まるで見送るように微笑むのだった。
 ベアトも、それを見送っている。……いや、島を見送っている。六軒島を、……そして千年を過ごした黄金郷を。
【ベアト】「妾は、………生きていけるだろうか……。」
【戦人】「生きてけるさ。……魔法の執事はいねぇが、便利なものが色々あるさ。……六軒島にはないものが、何でもある。お前に、世界を見せてやるぜ。」
【ベアト】「………妾は、……生きていけるだろうか……。」
 ベアトは同じことを、もう一度繰り返す。彼女が言う意味を、戦人は理解している。しかし、それには何を答えても、今は解決にならない。
 ……しかし解決の方法はある。時間と、心だ。それらを少しずつ、ゆっくりと。穿つ雫で鎖を断ち切るように、……少しずつ長い時間をかけて、……島の呪いを断ち切らなければならない。
 それには途方もない時間が掛かるかもしれない。でもいつかきっと、……彼女を解放する。俺はそう、信じる。
【ベアト】「妾は、あの島で、幾百の死を弄んだ、罪深き魔女だ。……その妾に、そなたの世界は眩し過ぎる。」
【戦人】「いいや、生きろ。」
 俺は力強く即答する。
【戦人】「もしお前が、幾百の罪を償おうと思うなら、生きて生き抜け。生の限りを尽くして、……精一杯を生きろ。それだけが、お前の罪を償う方法だ。」
【ベアト】「…………それだけが、妾の罪を償う方法なのか。」
【戦人】「そうだ。そして絶対に償い切れる。俺を信じろ。」
【ベアト】「……………………戦人………。」
【戦人】「潤んだ目で見るなよ。照れるだろ…。」
【ベアト】「くっくくく……。これはすまぬ。ならばその、せめて。……目を閉じてはくれぬか。」
【戦人】「め、……目を閉じろって、何だよ、お前、顔近いよ……。」
【ベアト】「馬鹿な男め……。黄金郷より魔女を連れ出した呪いを受けるがいい。………だから、目を閉じろというのに。……わ、……妾もその、………恥ずかしい。」
 戦人が目を閉じると……。すぐに、柔らかな唇が、……戦人のそれを塞いだ。それが、ゆっくりと離れる。目を開けようとすると、ぴしゃっと叩かれる。
【ベアト】「見るなっ、妾の顔を見るなというにー!!」
【戦人】「い、いいじゃねぇかよ、減るもんじゃねーだろ…!」
【ベアト】「デリカシーのないヤツめ! 開けるな、まだ開けるな!! 何でかって? も、もう一度キスがしたいからだ…!!」
 今度のキスは、……耳たぶに。
【戦人】「ば、馬鹿よせって…! それはさすがに恥ずかしい…!」
 目を開けたらまた叩かれるので、目を閉じたまま抵抗する。
 するとベアトは、ふぅっと吐息を吹きかけて耳をくすぐってから、あのいつもの、とびっきり意地悪くて上機嫌な声で言った。
【ベアト】「悪ぃな、戦人ァ。妾は極悪非道の最悪魔女だぜぇ?」
【戦人】「あぁ、知ってるぜ。お前は最悪の残酷魔女だな。」
【ベアト】「だから、罪など償わぬぞ。妾は幾百の死をげらげらと笑い転げる、そういう魔女である…!」
【戦人】「こ、こいつめ…。でもその方がお前らしいぜ。」
 うっかり目を開けてしまう。
 ……するとそこに、……魔女の姿はなかった。夢か幻のように、……黄金の魔女の姿は消えていた。……そして、一緒に積み込んだはずの、インゴットも。
海中
 戦人は、すぐに海へ飛び込みました。
 だから、戦人は間に合いました。
 まだ魔女の姿を見ることが、間に合いました。
 魔女は戦人を見上げ、薄っすらと笑っていました。
 言葉は、聞こえません。
 でも、はっきりと聞こえました。
 言ったろ、戦人。
 妾は極悪な魔女だから、罪など償わぬと。
 生きてなど、償わぬと。
 戦人は必死に、言葉を返しました。
 でも言葉は全て、泡となって吐き出されるだけでした。
 漆黒の闇へ沈み行く彼女を、戦人は懸命に追いました。
 そして、......その手が、......届きました......。
 愚かな戦人よ...。
 せっかく島を生きて出られたのに...、そなたはそれを投げ出すのか...。
 ......俺はお前を、離さない。
 気持ちは嬉しいぞ。
 だが、...妾は幻想の住人。そしてそなたはニンゲン。
 帰るべき世界が、違うのだ。
 妾は幻想へ帰る。
 そしてそなたも自分の世界へ帰るがいい。
 どんどん、周りは真っ暗になっていきます。
 息苦しくなり、頭や耳が痛くなります。
 戦人の指が、...少しずつ、解けていきます。
 そしてとうとう。
 二人の指は、...離れました。
 その途端、...戦人は上の、光の世界へ。
 そして魔女は下の、闇の世界へ、...より強い力で引き裂かれていきます。
 魔女は、戦人の体が眩しい海面へ向かって浮かんでいくのを見て、安堵しました。
 さよなら。戦人。
 ...そして、ありがとう。
 戦人の体が光の世界へ、点となって消えたのを見届け、...魔女はゆっくりと目を閉じます。
 そして奈落の世界へ落ち行くことに、永遠の孤独の世界に、全てを委ねました。
 その時、......彼女は、感じました。
 そんなはずはないのです。
 だって、戦人はもう、遥かかなたで点になっているのに。
 でも、それは戦人でした。
 魔女を追ってきた、戦人でした...。
 逃がすかよ。お前は俺だけの、黄金の魔女だ。
 ......馬鹿戦人...、...馬鹿戦人......。
 お前が望む奈落になら、俺も一緒に落ちよう。
 そこが虚無の世界ならば、お前と一緒に消えよう。
 だが、消える最後の瞬間まで。
 ......お前は俺のものだ......。
 二人は互いをきつく抱き締めました。
 ...もう、運命は二人を引き裂こうとはしませんでした。
 二人は一つとなって、...奈落へと沈んでいきました...。
 そして、何も見えない真っ暗な世界で、...ぽっと、輝きました。
 それは温かな、黄金の輝き。
 それは、黄金の薔薇でした。
 それがふわりと、......純白の無垢な砂の敷き詰められた世界に、辿り着きます。
 そこには、白い砂に半分埋まった、...小さな箱が。
 それは、静かな海の底での安らかに眠る、ベアトリーチェの猫箱。
 その上に、ふわりと、...黄金の薔薇は舞い降りるのでした......。
 それは、深い深い海の底のお話。
 真っ暗な真っ暗な暗闇の中に。
 ...ほのかに輝く、黄金の薔薇が眠っているという、とてもささやかな物語...。
右代宮グループのビル
 ビルの裏口に黒い高級車が止められていた。そのトランクに、スーツ姿の男たちが重そうなアタッシュケースを詰め込んでいる。
【小此木】「後は万事任せてくれ。面倒事は全部こっちで引き受ける。」
【縁寿】「よろしくね。絵羽伯母さんが一番信頼していたあなたに任せられて、伯母さんもきっと喜んでると思うわ。」
 ビルより出てきたのは、縁寿と、小此木社長だった。縁寿の表情は、……軽やかだ。かつて、いつも小此木に見せていた重々しい表情は、もう想像できない。
【小此木】「……晩年の会長は、少々病んでいた。縁寿ちゃんに相当キツい言葉も掛けたろうが。……あれは本意じゃなかったはずなんだ。」
【縁寿】「わかるわ。私だって、虫の居所の悪い日には、言わなくていいことまで言っちゃうもの。」
【小此木】「……………変わったな。」
【縁寿】「そう?」
【小此木】「……俺は、縁寿ちゃんは生涯、会長を許さないって思ってたぜ。」
【縁寿】「教えてくれたでしょ、小此木さんが。」
【小此木】「俺が? 何か言ったっけ?」
【縁寿】「愛がなければ、真実は見えない、って。」
 本編最後の幻想描写。EP7お茶会で明かされた内容の続きと解することが可能。
 ただし、この描写が真実であるか否かを確定できる手掛りは存在しない。
 当解説では、ベアトの出題の文脈を重視して幻想に分類しているが、これが真実だと信じたい読者はそう信じても良い。
【小此木】「そんなキザなこと言ったっけ? へっははははははは。」
【縁寿】「長い旅をしたわ。……小此木さんの、あの日の言葉を理解するためだけに、本当に長い旅をしたわ。」
 もちろん小此木は理解している。それが、彼女の心の内側での、長く深い旅であったことを理解している。
【小此木】「新居と口座を決めたら連絡してくれ。何も不自由はさせねぇからな。」
【縁寿】「須磨寺家は問題ない?」
【小此木】「全部任せてくれ。こっちには縁寿ちゃんの委任状って錦の御旗がある。お陰で右代宮グループは一枚岩だ。……縁寿ちゃんのお陰で、会長の作った会社が守られた。会長も、縁寿ちゃんの決断を喜んでるはずだぜ。」
【縁寿】「面倒臭いことを全部押し付けたかっただけよ。」
 豪腕の右代宮絵羽会長が亡くなった後、右代宮グループは揺れた。後継者が明白に指定されていなかったため、グループが割れる危険性もあった。そんな中、大量のグループ株を相続した縁寿が、どう発言するかが注目されていた。
 ……しかし、縁寿が何事にも関心を示さず、財産を全て売却して何処かへ寄付する、などと言い出したものだから、グループは揺れに揺れた。その隙を突く形で須磨寺家などの外部が介入し、右代宮グループには崩壊する可能性すらあったのだ。
 物騒な話だが、一番の火種である縁寿さえいなくなってくれれば…、と願う人間たちがいたのも事実だ。……しかし、縁寿が心変わりし、絵羽のまとめ上げた右代宮グループが存続できる一番の形で協力を申し出たため、最悪の事態は回避されたのだ。
 小此木は縁寿の後見人に指名された。縁寿の信任さえ与えられれば、彼ほど頼もしい味方はない。当の小此木も、縁寿に信用されていることさえわかれば、決められる腹もあるのだ。
 絵羽の腹心として右代宮グループの舵を任されていた彼が次期トップに就くことは、極めて妥当な人事であり、彼の敏腕もあって、全てはとんとん拍子にまとまった。
 これで、右代宮グループは安泰。今や、自分以外に唯一、右代宮の名を持つ右代宮グループは、縁寿にとって最後の、家族の絆だったのかもしれない。
【小此木】「いつでも帰ってきていいんだぜ? 縁寿ちゃんの椅子は用意してあるんだからな。」
【縁寿】「ありがと。帰る場所があるってだけで、安心して旅立てるわ。」
【小此木】「これからは、何をして過ごすんだ?」
【縁寿】「作家になるわ。」
【小此木】「作家? 小説の?」
【縁寿】「何でもいいの。小説でも絵本でも。私に絵心があるなら漫画でも。……とにかく何でもいいの。誰かに心を、伝えられるなら。」
【小此木】「……そりゃ、高尚な仕事だな。成功することを祈ってるぜ。」
【縁寿】「ありがと。もし本が出せたら送るわ。」
【小此木】「楽しみにしてるぜ。」
 車のトランクがばたんと閉められる。荷物の積み込みが終わったようだった。
【小此木】「そうだ、運転手を紹介しておこう。俺の子飼いの男だ。信用できるし、何でも頼れるぞ。会長のところで長年護衛をしていたから、縁寿ちゃんも面識があるかもな?」
【縁寿】「……天草だけは御免よ。」
 へっぷし! 運転席から出てきた男がくしゃみをする。
【天草】「そりゃねぇですぜ、お嬢。」
【小此木】「天草、お前ぇ、何やらかしたんだ?」
【縁寿】「……伯母さんの護衛の中で、一番軽薄そうだったからね。こいつだけは御免よって思ったの。」
【小此木】「でも、一番仲良くしてたろ。」
【縁寿】「……まぁ、おしゃべりだけは面白かったかも。」
【天草】「ボスから、縁寿さんとの連絡役を仰せつかりました。何か面倒事がありましたら、いつでもご連絡を。」
【縁寿】「トイレットペーパー買ってきてとか言ってもいいの?」
【天草】「ついでに生理用品も買ってきますぜ。」
【縁寿】「……ね? サイアクの男でしょ。」
 小此木はげらげらと笑う。私は後部座席に乗り込む。
【小此木】「じゃあ、元気でな。縁寿ちゃん。」
【縁寿】「その名で呼ばれるのも、これで最後ね。」
【小此木】「新しい名前が決まったら教えてくれ。」
 小此木が、ばんばんと車の屋根を叩く。それを合図に、天草は短くクラクションを鳴らしてから、サイドブレーキを下げる…。
天草の車
【天草】「新しい名前が決まるまでは、お嬢でいいですかい。」
【縁寿】「当面はそれでいいわ。」
【天草】「……さて。どこへ行きますかい。北へ? 南へ?」
【縁寿】「…………お勧めはある?」
【天草】「本州を出るのはどうですかい。北海道なんてお勧めですぜ。……広い草原、でっかい雲! ログハウスで執筆する小説家なんて、最高ですぜ。」
【縁寿】「じゃあ南にするわ。……あんたが言ったのと逆の方にするって決めてた。」
【天草】「へはッ、そりゃ酷ぇや。」
【縁寿】「温かい地方がいい。海が見える町がいいわ。」
 縁寿はゆっくりと目を閉じる。色々とどたばたして疲れた……。
【天草】「了解です。お嬢が次に目を覚ます時にゃ、もう見知らぬ異郷ですぜ。……ですがそこは、海の見える、温かい町です。」
【縁寿】「期待してるわ。あんたのチョイス。」
 車は高速道路に上がっていく。そして、東西に往来する車の大河に飲み込まれる。もう、どの点が彼女の乗る車か、わからなくなっていた。
 右代宮縁寿は、今日から名前を変えて、新しい天地で、生きていく。名前は変えるが、縁寿であることを捨てたつもりはない。
 縁寿としての。いいや、エンジェ・ベアトリーチェとしての、使命がある。
 私はエンジェ・ベアトリーチェ。黄金と無限と反魂の魔女。マリアージュ・ソルシエールの魔女。
 1998年の未来に生き残る、最後の魔女………。

「手品」を選んだ場合


六軒島への船
 強い風が、私の髪を激しく散らす。鼻をつくのは、潮の匂い。
 ……ずいぶん長い間、私はここに立ち尽くしていたのだろうか。ここは………、海を切り裂く、その先端。私は船の舳先に立っていた。それを、握り締めながら。
【天草】「……お嬢。いつまでもそんなところにいると、肩を冷やしますぜ。」
【縁寿】「天草………。……じゃあ、ここは……。」
 川畑船長が顔を覗かせる。
【川畑】「見えてきたぞ。あそこがかつての右代宮家の船着場だ。」
【天草】「ひゃー。跡形も残ってませんぜ。」
【縁寿】「………そういうこと。……ここに、戻ってきたのね。ずいぶんと長い白昼夢、……いえ、遠大な寄り道だったこと。」
 過去の物語なんて、どのようなものが紡がれたって、描かれたって、……未来の私の物語には、何の影響もない。
 私は振り返らず、未来だけを見て生きることを誓った。その誓ったことに意味があるなら、あれは断じて白昼夢じゃない。
 それに私は、あの寄り道の長い旅の中で、たくさんのものを持ち帰っている。その中には、今すぐに役立つものさえ、含まれているのだから。
【縁寿】「………………………。……さすがにこれは役に立たないわね。」
 私は(クイズ景品)を海に放る。
【天草】「……何です、それ?」
【縁寿】「未練よ。………古い殻を、私は脱ぎ捨てたの。」
【天草】「懐かしき六軒島を前に、心機一転ってわけですかい。」
【縁寿】「……違うわ。右代宮縁寿っていう、ニンゲンをやめたってことよ。」
【天草】「?」
 あの長い旅を無駄にはしない。私には、新しい生き方がある。それは、ニンゲンとしての右代宮縁寿ではない。私は今、……生まれ変わる。
【縁寿】「船長。悪いけど、ちょっと席を外してもらえるかしら。」
【川畑】「ん? あぁ、すまん、構わんよ。」
 川畑船長は運転席へ顔を引っ込める。
【天草】「……何です、お嬢? 気難しい顔して。」
【縁寿】「私、新しい人生を、これから踏み出そうと思うの。」
【天草】「すでに踏み出してますぜ。」
【縁寿】「そうね。……右代宮家の面倒臭いのを全て売り払って、どこかに寄付でもしたら、綺麗サッパリ清々するわ。それで私は、右代宮縁寿という殻を、全部脱ぎ去れる。」
【天草】「………………………。……莫大なカネが思いのままってのに、勿体ねぇことです。」
【縁寿】「いいじゃない。私がいらないって言ってるんだから。」
【天草】「………そりゃそうですがね。……ただ、お嬢が売っ払うのは、お嬢だけのものじゃないものもありますぜ。……例えば、」
【縁寿】「右代宮グループの株式とか?」
【天草】「………そうです。お嬢にとってはただの紙切れでしょうが。でっかい会社の命運を揺さぶりかねない暴挙ですぜ…? んなことされたら、ウチのボスも堪らんでしょうぜ。」
【縁寿】「えぇ、知ってるわ。須磨寺家もそう、小此木社長たちもそう。私に、自由気ままでいられちゃ困る連中が、大勢いるものね。」
【天草】「…………縁寿さんは紛うことなきVIPです。派手なことは慎んで、ここは大人しく隠れてる方がいいかと思うんですがね…?」
【縁寿】「そのVIP縁寿を、好き放題にさせない一番手っ取り早い方法って何かしら。」
【天草】「……さぁて、どんな方法がありますやら…! まぁ、酒でも飲んで腹を割って…、」
【縁寿】「私の旅の最終目的地が六軒島であることは、誰にでも予測可能だわ。そして六軒島は今や完全なる無人島。……誰も存在しない。誰にも見られず聞かれない。今日は最高の密室日和。」
【天草】「………そりゃまぁ、確かに。」
【縁寿】「須磨寺家が私を追っているわ。小此木社長のところにも、タイミング良く押し掛けてきた。……私があそこにいた情報は、売られているのよ。」
【天草】「ウチのボスが売ったと? ……なのにボディーガードを付けますかい?」
【縁寿】「私がどんな気紛れを起こすかわからない以上。小此木社長は私と須磨寺家の双方に貸しを作りたい。だったら、私の情報を売りつつ、紙一重で私を逃がし、その後も所在を押さえ続ければ、勝負カードを手中にしたまま、私にも須磨寺家にも恩が売れるわ。」
【天草】「そりゃあ、考え過ぎですぜ……。」
 天草は、取り繕うように苦笑いを浮かべる。
【縁寿】「須磨寺家は確実に私を追っているわ。私の行動は、意図的に彼らにリークされているもの。そして、六軒島で私たちは鉢合わせになる。そして私は連中に殺される。そして、あんたは須磨寺家のヒットマンを返り討ちにして、小此木社長は須磨寺家に対し、交渉のカードを得る。……私が死ねば、右代宮グループは当面安泰。その上、須磨寺家には釘も刺せる。さらに言えば須磨寺家も、持て余し気味の過激派の急先鋒、霞叔母さんを綺麗な形で処分できる。……両者は痛み分けで手打ちして、めでたしめでたし。」
【天草】「……………………ひゅぅ。……なかなか、面白いシナリオですぜ。」
【縁寿】「あんたの持ち込んだ、あのゴルフバッグ。中身を検めさせてもらったわ。すごいわね、戦争でも始めそうなすごい銃ばかり。……でも、あれは狙撃銃だわ。常に私に寄り添っているはずのボディガードに、必要な銃なのかしら?」
【天草】「何が起こるかわかりませんもので……。」
【縁寿】「常に軽装であることが望まれるボディガードが、その役割を一日放棄してまで、六軒島に渡る直前に調達する必要のある銃かしら。」
【天草】「………お嬢。……考え過ぎですぜ……?」
【縁寿】「私が六軒島に着いたら。ひとりでゆっくり墓参りをするといい、というような感じにして、私をひとりにする。それはエサ。すでに六軒島で待ち構えている須磨寺霞たちを釣り上げるエサ。あとは、あんたがあの馬鹿でかい銃で一網打尽にしておしまいよ。」
【天草】「……一網打尽、結構じゃねぇですかぃ。ちゃんと護衛になってますぜ。」
【縁寿】「ゴルフバッグには最新式の狙撃銃の他に、ドイツ製の新型短機関銃も入っていた。」
【天草】「便利ですぜ。須磨寺家が何人来ようが、一網打尽です…。」
【縁寿】「もう一丁あった。それは拳銃。……狙撃銃も短機関銃も最新式の素晴らしいものなのに、その拳銃だけは、いやに古ぼけていて旧式だった。これよ。」
 縁寿は懐より、……その拳銃を取り出し、天草に向ける。
【天草】「お、……お止めなさい。笑えませんぜ……。」
【縁寿】「拳銃は常に身に付けておくものでしょう? なのになぜ、さらにもう一丁があって、それも、こんな不釣合いな古い銃がわざわざ用意されているの? それを説明する推理があるわ。……それは、須磨寺霞たちが用意している銃と、同じだからということよ」
【縁寿】「この銃はトカレフ。ソ連製の軍用拳銃で、日本のアンダーグラウンドに大量に流通しているポピュラーなものだわ。須磨寺家が用意する武器として、極めて妥当。……それに、須磨寺霞が死んでくれることは、須磨寺家にとっても都合がいい。須磨寺家側も情報のリーク、……いえ、バーターに応じていると考えられる。よって、須磨寺家のヒットマンが調達した銃がトカレフであることは、事前にわかることが可能なのよ。」
 天草は絶句する。それが図星で絶句しているのか、それとも、本気で引き金を引きかねない縁寿の気迫に絶句しているのか、わからない。
【縁寿】「あんたの。……いえ、あんたたちの企みは。私をエサに須磨寺霞を無人島に誘き寄せ、双方が相打ちで倒れたように細工すること。それで小此木社長も須磨寺家も、全てが丸く収まる。」
【天草】「…………………………………。」
 天草の額に、冷たい汗が一筋、流れる…。縁寿は風をいっぱいに受けながら、髪を大きくなびかせて、冷酷に宣言する。
 それを言ったのはパラレルワールドの小此木のはず。この縁寿は別のカケラの記憶を持っていることが示唆されている。
【縁寿】「……ただ、この拳銃があるだけで。右代宮縁寿にはこの程度の推理が可能よ。如何かしら、皆様方…?」
【天草】「…………安全装置、外れてませんぜ。」
【縁寿】「知ってるわよ。……トカレフに安全装置がないことくらい。」
 天草は素早く物陰に飛び込もうとしたが、それが銃弾より速いということはありえない。腹部を打ち抜かれ、激痛に堪えながらうずくまっていた。
 彼が懐に銃を潜ませていることを知る縁寿は、反撃の芽を確実に摘み取る。
 額より血を噴き出す天草は、もう瞼を閉じることもなかった。
【縁寿】「………お医者でなくても出来る、世界で一番簡単で確実、絶対な、検死の方法ね。」
【川畑】「あ、………あんたッ、…………ッ、」
 甲板の惨劇に気付き、真っ青になった川畑が顔を出す。縁寿はその銃口を、次は彼の額に向ける。
【縁寿】「船の都合があるので、時間がほしい。あなたはそう言ったわ。でも、あなたが買収されているならば、それは須磨寺霞が六軒島で待ち伏せするための時間稼ぎだと断言できる。」
【川畑】「………し、知らんぞ、……何のことかわからんッ…!!」
【縁寿】「あなたという猫箱の中に、買収されて裏切ったあなたと、裏切ってないあなたの2人が共存しているわ。……その片方の、裏切ったあなたを殺す方法は?」
【川畑】「よ、よせ…!! 撃つな……!!」
【縁寿】「猫箱ごと、あなたを撃ち殺せばいいんだわ。」
 船の主は、ぐらりと反り返って、……倒れる。
 そしてもう一発の銃弾を使い、完全なる検死を実行した。
 彼女は、……生き残る。彼女を殺そうとする、巧妙に編み上げられた陰謀の渦から、……きっと生き残ったのだ。
 ……縁寿は舳先へ戻ると、その強い風に正面から向かい合い、さらにその先の未来を凝視する。主を失った船は、無限の水平線へ向けて、真っ直ぐに真っ直ぐに、どこまでも進む。その先に、彼女が本当に辿り着きたい願う真実があると、祈りながら。
 その時、……ぱちぱちぱちと、拍手の音が聞こえた。天草も船長もいないこの船上で、拍手の音が聞こえた。でも、縁寿に驚く様子はない。ゆっくりと、悠然と振り返るのだ。
【ヱリカ】「お見事な推理でした、同志縁寿。真実の魔女の同志、エンジェ・ベアトリーチェ。」
【縁寿】「……あら、いたの、ヱリカ。」
【ヱリカ】「真実を暴く者がいるならば、私はどこにでもいます。くすくすくす。」
【縁寿】「ねぇ、ヱリカ。」
【ヱリカ】「何です…?」
 すでに船は、六軒島の脇を通り抜けている。六軒島の島影も、今は遥か彼方。船は無限の水平線を目指し、……どこまでも、無限の旅を続ける。その無限の旅の始まりに、新しき真実の魔女は、同志の魔女に告げるのだ。
【縁寿】「………私は私なりの方法で、未来を切り拓くわ。」
【ヱリカ】「素晴らしいことです。」
【縁寿】「その果てに、……私が掴める真実は、あるのかしら?」
【ヱリカ】「あなたが求める真実って、今さら何だって言うんです?」
【縁寿】「…………………………………。」
【ヱリカ】「……………………………。」
【縁寿】「………ふっ。……その通りだわ。真実なんて、何の価値もないって、私は知ったわ。そして、もう一つわかったことがある。」
【ヱリカ】「何でしょう。」
【縁寿】「天草の、看破されて戸惑った時のあの表情。悪くなかったわ。」
【ヱリカ】「くす!」
【縁寿・ヱリカ】「「グッド!」」
 EP4の縁寿も同様に推理したが、このように天草を直接問い詰めるのではなく、拳銃に細工するという魔法を使った。
 手品エンドなので、EP4で魔法を使わなかった場合の結末が提示されている。

お茶会

フェザリーヌの書斎
 尊厳なる観劇と戯曲と傍観の魔女は、筆を置き、天井を見上げながら深く息を吐き出すのだった。
 机の上は、書き散らされた膨大な量の原稿用紙が乱雑に積まれている。細やかな、そして尊厳ある者にしか読めぬ情報密度の極めて高い言語が、ぎっしりと書き込まれている。
 その言語の一文字は、ニンゲンの世界での書籍数冊に匹敵する情報量を持つ。それによって、ぎっしりと書き上げられた原稿用紙が、これほどに積み上げられているのだから。……彼女はきっと、何か一つの世界を、書き切ったに違いなかった。
【フェザ】「…………書き切ったには、書き切った。いや、正確には書き切っておらぬのだが。」
 彼女は立ち上がり、お気に入りの揺り椅子に腰を下ろすと、しばらくの間、その緩やかな揺れを楽しんだ。
【フェザ】「どこまでを描けば、果たして物語を書き切ったと言えるのか。……私の、物書きとしての長年の悩みだ。……ニンゲンの冒険は物語としてとても面白い。しかし、どこまでが冒険で、どこからがそうではないのかが、私をしても、未だによくわからぬのだ。」
【フェザ】「……すでに没した私の旧友は、ニンゲンの人生は、初めから終わりまでが全て冒険であり、筆を置くところなど存在しないと言ったが。……私はそうは思わぬ。筆の置き所というものがあると思う。物語は、適当なところまでを記し、その後の余韻や感想は、観劇者に委ねるべきだと思う。」
【フェザ】「……つまり、物語は適当なところで猫箱にしまうべきなのだ。……猫箱を巡っての長き物語なのだから、その終焉も最後までを記さず、猫箱にしまってしまうのが良いのではあるまいか…?」
 フェザリーヌは、自分以外に誰もいない書斎で、……誰にともなく、そう語る。もちろん、誰かが相槌を打つわけもない。しかしフェザリーヌには、それが聞こえたらしい。ウンウンと頷くと、にんまり笑う。
【フェザ】「わかっている。もう少しだけを書き足し、そこで筆を置こう。……それで、そなたとはお別れだ。」
 フェザリーヌが、少し暗くせよと指を掲げてくるくる回す。すると、書斎の明かりが、ゆっくりと消えていく……。
【フェザ】「ほんの少しだけ休ませてはくれぬか。……その間は、我が猫、……もとい、我が巫女にお相手をさせよう……。」
 今まで登場したどの世界よりも上位の階層。観劇者ではなく執筆者としてのフェザリーヌが、最後の最後に初めて登場する。
 彼女は物語中に自分自身を登場させている。八城として縁寿と対話したり、ベルンに答え合わせのゲームをさせたりするフェザリーヌは、全て原稿用紙の中である。
魔女の寝室
【ラムダ】「あ痛たたたたたたたたたたッ、ヘタクソッ、もっと上手に縫ってー!」
【ベルン】「……うっさいわね。手縫いが嫌なら、ミシンでやるわよ。だだだだって。」
【ラムダ】「ミシンは嫌よー! 手縫いがいいー! だからせめてもうちょっとやさしく……、痛い痛い!」
【ベルン】「唾つけときゃ治るわよ。」
【ラムダ】「キャン!! 予告なく舐めないでー!」
【ベルン】「今から畳針でぶっすり縫うわよ。マジで痛いから覚悟して。5、4、3、2、」
【ラムダ】「そ、そういう予告は嫌ぁああぁーーー!! ぎゃーぎゃーー!!」
 と騒ぐ割には、仲睦まじい二人だった。
 最後の戦いで、ばらばらにされたラムダデルタは、ちゃんと生きていた。ただ困ったことに、ばらばらの状態でだ。だから、その腕や頭などを、ベルンカステルがちくちくと、針と糸で縫い合わせているのだ。
 まだ縫い合わせてもらえない左腕が自分はまだかまだかと、世話しなくベッドの上を、人差し指と中指でヨチヨチと歩き回っている。残すところはあと腕だけで、もうほとんど体は出来上がっているようだった。
 そこへバターンと威勢良くドアを開いて、ヱリカが帰ってくる。
【ヱリカ】「ただいま帰りました、我が主ー!! ごま塩、買って来ましたー!!」
【ラムダ】「……ごま塩って何? まさか紅茶に入れる気…?」
【ベルン】「ヱリカの玩具よ。……ヱリカ、お箸は持ってきた?」
【ヱリカ】「はい、我が主!! 名探偵に虫眼鏡! 古戸ヱリカにお箸ですっ。」
【ベルン】「じゃあいい? そのごま塩の中身をざらっと出して、お箸で、ごまと塩に分けなさい。」
【ヱリカ】「はい、我が主!! 私の華麗なるお箸さばきを、どうかご覧下さいっ!!」
【ベルン】「えぇ、がんばってね。……終わったら、ちゃんと袋に戻しておくのよ。」
【ラムダ】「………あんた、またそーゆーことしてイジメてんの?」
【ベルン】「遊んでるのよ。失礼ね。………そうそう、ヱリカ。さっき郵便屋が来て、あんた宛の手紙を置いていったわ。」
【ヱリカ】「手紙?! 事件の予感がしますッ。言わないでっ、私が差出人を当てます!」
【ベルン】「………消印は天界ね。ドラノール辺りじゃない? あんたたち、まだ親交があったのね、驚きだわ。……ただ消印があるだけで。ベルンカステルにはこの程度の推理が可能です。」
【ヱリカ】「ピピピー!! 駄目です、我が主ぃ! ヴァンダイン第9則! 探偵が複数あることを禁ズ!」
【ベルン】「……じゃあ、あんたが出てけばいいわけだわ。またね、名探偵ヱリカ。」
【ヱリカ】「そんなぁああぁ、我が主ぃいいぃ、真実の魔女ヱリカ、ここにぃ!」
【ラムダ】「…………あんたらって、仲いいのか悪いのか、未だによくわかんないわ。」
【ベルン】「悪いに決まってるでしょ。私が愛してるのはあんただけよ。」
【ヱリカ】「そ、そんなぁああぁあ、我が主ぃいいいぃい!! ラムダデルタ卿! やはり私とあなたは相容れないようですね!」
【ラムダ】「何よ、あんた。……この大ラムダデルタを相手に、勝負する気ぃ?」
 ヱリカは、にかっと笑い、ベッドの上を歩き回っていたラムダデルタの左腕を捕まえる。
【ヱリカ】「ここにラムダデルタ卿の腕があります。そしてここは、断面です。」
 ヱリカはにやにや笑いながら、指をわきわきさせる。
【ラムダ】「ちょ、……まさか、あんた………、」
【ヱリカ】「私のライバルには、こぉんなことが出来ます。」
【ラムダ】「ぎゃッ、ぎゃわっはははっはっははははは、あひゃーひゃっひゃっひゃ、やぁめてぇえええぇくすぐったいいぃいいいぃ!!」
 ……ラムダデルタの左腕の断面をこちょこちょとくすぐる。どうやらそれは、ものすごいくすぐったいことらしかった。
 ちなみに、ラムダデルタのその断面は、綿飴の白いふわふわがはみ出した可愛いものだ。何しろ彼女の体は、甘いお菓子とちょっぴりのスパイスで出来ているのだから。断面は、決して怖いものではないのでご安心を。
 我が主に続き、私もラムダデルタ卿に単機で勝ちました! そう叫びながら飛び回るヱリカに、がるるるるると吼えて威嚇するラムダデルタ。呆れながらも、ちくちくと親友を縫うベルンカステル。それはとても和やかな風景だった…。
【ベルン】「それで? 手紙には何て?」
【ラムダ】「ドラノールたちの近況でも書いてあんの?」
【ヱリカ】「ガートルードさんは異端審問官に昇進したとか。そりゃーオメデトウゴザイマス、ぱちぱち。……へー、最近、猫に続いて、わにゃんを飼い始めたとか。」
【ベルン】「…………わにゃんって何…?」
【ラムダ】「えー、ベルン知らないの?! 遅れてるぅ〜! 最近、ブームじゃないっ! 最近、私もメスのわにゃんを飼い出したのよ。金平糖も美味しく作れて最高よ?!」
【ベルン】「……よくわかんないけど、今度からあんたの手作り菓子を食べるのは遠慮するようにするわ…。」
【ヱリカ】「コーネリアさんは、………へー。審問官選考に格闘技段位が有利と知って、最近は格闘技を始めたとかっ。全然、想像がつきませんねー。」
【ラムダ】「格闘技ったって色々あるわよ。何、始めたの?」
【ヱリカ】「キックボクシングに中国拳法だとか。絵羽の影響ですかね?」
【ベルン】「………片足で立って戦いそうなイメージない?」
【ラムダ】「そうよねぇ。誰かさんが、片足立ちをずいぶん鍛えたもんねぇ。」
【ヱリカ】「ウィルさんの近況も書いてありますよ。えー、意外ー! ウィルさん、FXで一山当てたらしくて、それで不動産買って、今は不動産収入で悠々自適だとか…! 最近はバドミントンやってるんですってー。」
【ベルン】「……コーチが厳しそうね。」
【ラムダ】「きっとおしりが腫れ上がってるわよ。」
【ベルン】「で、ドラノールは?」
【ヱリカ】「相変わらず、ハンコとハンコと決済印と認印と、たまーにサインの日々だそうで。自分がじきじきに出動するから、自分の管区でぜひ事件を起こしてほしいデスって書いてあります。」
【ベルン】「起こしてやったら? 事件。」
【ラムダ】「探偵が行くとこ事件ありって言うもんね。」
【ヱリカ】「まぁ、その内。気が向いたらイジメに行ってあげてもいいかもです。あぁ、あとシエスタ姉妹兵たちのことも書いてあります。」
【ベルン】「………待って。一度に聞きたくないわ。少しはもったいぶらなきゃ。……さぁ、出来た。」
【ラムダ】「あぁ、やっと右腕が生えたわ! 次っ、左腕をお願いね!」
【ベルン】「その前にお茶にしましょ。……ヱリカ、紅茶の缶と、梅干の壷を用意してちょうだい。」
【ヱリカ】「はいっ、我が主!」
 航海者の魔女たちは、一つの旅を終えて、その翼を休める。また次なるカケラを探しに、新しい旅に出るために。今だけは紅茶の香りを楽しみながら、ひと時の休憩……。
【ラムダ】「今度はどこへ行く?」
【ベルン】「……あんたが北へ行くなら私は南へ。」
【ラムダ】「じゃあ、ベルンが東へ行くなら、私は西へ行くわ。」
【ベルン】「……また、こんな愉快な物語を見つけられるといいわね。」
【ラムダ】「今度は、ベルンが憎まれ役じゃないといいわねー。」
【ベルン】「あら。悪役も楽しかったわよ。」
【ラムダ】「……次は、どんな物語を見つけられるかしらね。」
【ベルン】「そして、どんな物語で再会できるのかしら。」
【ラムダ】「愛し合う二人に、カケラの海は狭いわ。」
【ベルン】「天井桟敷。」
【ラムダ】「カケラの海は広大だわ。」
【ベルン】「殻の中の幽霊。」
【ラムダ】「いつか会えるわよ。また何かのなく頃に。」
【ベルン】「………いいじゃない。それにしましょ。」
【ベルン・ラムダ】「「いつか会えるわ。また何かのなく頃に。」」
 あっははははははははははは……。魔女たちの楽しそうな声が遠退いていく。
 さよなら、みんな。また何かの、なく頃に。
***解説者あとがき***
 解説者の知る限り、内容をこれほど理解されなかった作品は「うみねこ」を置いて他にない。漫画版にてほぼ全ての真相が明かされた後でさえ、物語の理解があやふやなままになっている読者が少なくないように見受けられる。
 そこで、今更ではあるが、今までになかった当サイトのようなスタイルにて、改めて解説してみようと考えた。
 漫画版で明かされた謎は、原作の設定と異なると思われる部分を除いてはそのままに解説。明かされていない謎については、解説者個人が一番もっともらしいと考える解釈にて補完した。誤解の余地が最小となるよう、できる限り「この謎の答はこう」と直球で解説したつもりである。
 当サイトで解説した内容が唯一の正解と主張するつもりはないし、多少間違っている箇所もあるかもしれないが、「原作のここの描写は、そういう意味だったのか」と納得していただける箇所が少しでもあったならば幸いである。
 最後まで読んでいただいた皆様、そして素晴らしい作品を公開していただいた作者様に感謝を申し上げる。
 願わくば、また何かのなく頃に。

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数十年後の未来
 そこは大きなホテルの、一番大きなバンケットルーム。大勢の来賓がひしめき、壇上にて受賞盾を受け取る人物を拍手で祝福していた。表看板には、国内有数の大手出版社の受賞式典と書かれている。
「続きまして、小説部門に参りたいと思います。受賞作は、皆さんもご存知。世界的な一大ムーブメントを巻き起こし、破竹の快進撃を続ける、ファンタジー冒険小説『さくたろうの大冒険』です!」
 正面のプロジェクターに、作品の概要が映し出される。それは、すでに8巻を越える、長編ファンタジー冒険小説だ。臆病な草食らいおん、さくたろうが、仲間たちと出会い切磋琢磨しながら成長して、「一つのカケラの秘宝」を求めて大冒険する痛快ファンタジーだ。
 主人公さくたろうの名台詞「僕は百獣王になる」は、流行語大賞の候補にもなった。痛快に読める娯楽小説の体裁を取りながらも、子供たちに伝えたいテーマがいくつも織り込まれ、親子で読みたい冒険小説として高い評価を受けた。
 しかし、それは最初から得られた評価ではない。6巻頃まではそれほどの話題にならなかったが、昨年、海外翻訳が始まると大ブレイクし、一気に話題の作品となったのである。
 このシリーズ以前にも、ずいぶんとたくさんの作品を描いていたが、それらは当時、まったく評価されなかった。しかし、今回の大ブレイクにより、過去の作品も次々に再評価されている。その意味では、作者は非常に遅咲で評価されたと言えるだろう。
「寿先生…!! 受賞、おめでとうございます!」
「今回の『さくたろう、魔女の島へ』も実に素晴らしい作品でした!」
 出版社の幹部たちが次々に祝福の言葉を掛ける。
 「さくたろうの大冒険」。作者の名は、寿ゆかり。印税のほとんどを恵まれない子供たちを支援するための基金とし、自身もいくつかの擁護施設で理事長を務めている。一部の嫉妬深い人々は、それを偽善的であると批判しようとしたが、彼女を知れば知るほど、その声は小さく萎み、消えていった。
 寿ゆかり。今やその名は、日本中の津々浦々にまで響き渡っていた。彼女は椅子に座りながら、挨拶に訪れる人々に、にこやかに返事をしている。
 昨年、初期の癌が見つかり、手術を終えた後、めっきりと体力を落としてしまった。その為、立食形式であるこの受賞パーティーでも、彼女は椅子を用意してもらい、座ったまま挨拶をしていた。
 彼女がもう20歳、いや、せめて10歳若かったら、……21世紀に名を残す大作家になっただろうと惜しむ人間もいる。彼女は正当な評価を受けるのに、あまりに長い時間を掛けたのである……。
 もう、若いとはとても言えない。それでも彼女の、執筆に対する執念は一向に衰えない。彼女が入院をしていた時でさえ、常にキーボードを叩き続けていたことは、ある種の武勇伝だ。
 彼女は言う。自分は、伝えるべきことを、まだ伝えきっていないと。それは「さくたろうの大冒険」を書き切るということですか? その記者の問いに、彼女は答える。
 私がひとつでも多くの作品を描くことで、ひとりでも多くの子に、幸せを見つける方法を知ってもらうことが出来るなら。私は人生の限りを尽くして、一作でも一頁でも多く描こうとするでしょう。私が授かった大切な教えは、まだまだ伝えきれていないのですから……。
「寿先生、この度は受賞、誠におめでとうございます! 映画の方も大好評と聞いております! このまま行けば『ハリポタ』を超える記録的大ヒットになるとか!」
 「ハリからポタポタ」。世界的に大ヒットした大作ファンタジーだ。
【縁寿】「ありがとうございます。身に余る光栄です……。」
「あ、申し遅れました…! 私、丸々出版第一編集局長の丸々と申しますっ。」
【縁寿】「これはどうもご丁寧に…。いつかご一緒に仕事が出来るといいですね…。」
「……実は先生。……その、唐突なお話なのですが、……推理小説家の、八城十八先生をご存知でしょうか。」
【縁寿】「八城……、十八先生、………ですか。」
 彼女はその名を、数十年ぶりに思い出す。その名を再び聞くことになるとは、……思わなかった。
「ご存知ですか? ひょっとしてお会いになったことがおありとか…。」
【縁寿】「いいえ、ありません…。お尋ねしたこともありましたが、当時は私も無名。それも唐突に出版社さんへ押し掛けたもので、お断りされてしまいまして……。」
「おや、それは初耳でした…! ひょっとして、八城先生の作品がお好きだったりするようなことは…。」
【縁寿】「いいえ。ただ、どのような先生か、お会いしたいと思ったことがありましたもので……。」
「そうでしたかそうでしたか。……実はですね、その八城十八先生がですね、……先生に内々にお会いしたいと申しておりまして。」
【縁寿】「……………………。……私に、ですか。」
「はい。対談や何かというわけではなく、内々に、個人的にお会いしたいということでして……。もしお許しいただけるのでしたら、我々の方でセッティングをさせていただきたいのですが…。もちろんもちろん! これは仕事の話ではございませんのでっ。」
 ………八城十八が、寿ゆかりに、会いたい。伊藤幾九郎の正体を暴き八城十八に至ったように。……彼女もまた、私の名から、私の正体に至ったのだろうか。
 世紀末社会現象とまで呼ばれた、六軒島のミステリー騒ぎ。世界中の好事家までも巻き込んだ乱痴気騒ぎは、八城十八が主催した、「真実を記した右代宮絵羽の日記の公開」というイベントを境に、一気に収束した。
 彼女はそれを主催しておきながら、日記を公開せずに姿を消すという暴挙に及び、激しい批判を受けた。
 しかし同時に、大勢の犠牲者を出した痛ましい事故を、好奇の目で弄くり回すのは不謹慎なことではないかという、とてもとても当たり前の雰囲気が蘇った。そして、六軒島ミステリーの馬鹿騒ぎは、いつの間にか萎むように消えていった…。
 八城十八。いや、伊藤幾九郎。六軒島ミステリーの偽書作家として脚光を浴びた。真実に至っていると自称し、衝撃的なフィクションを次々に発表。六軒島ミステリーの牽引役として有名となった。
 その伊藤幾九郎の正体が八城十八だと突き止めた私は、出版社に面会を申し入れたが、それは叶わなかった。その当時の感情でいうと、彼女は憎々しい。
 最初の頃は、六軒島ミステリーを踏み台にした彼女の売名行為ではないかとも思ったが、………今ではわずかに感謝もしている。彼女のあの日記非公開の暴挙がなかったら、今も六軒島の猫箱は、今も大勢の山羊たちの慰み者にされていただろうからだ。
 猫箱を弄んだ偽書作家として、今も心穏やかならぬものは感じる。しかし同時に、実質的に六軒島を眠りにつかせてくれた人物でもある。
 そして、……彼女が本当に真実に至っているのかどうか。なぜ彼女が、“私から見てさえ”限りなく近い真実に至っているのか。それを、あれから長い年月を経た今となっても、………知れるものなら知りたいと、そう思った。
「如何でしょうか、寿先生……。もちろん、急なお話ではございません。八城先生も、お時間がいただけるならいつでもいいと仰っておりまして…。」
【縁寿】「わかりました。……先方は都心に近い方ですか?」
「いつでも参上できると申しております…!」
【縁寿】「わかりました。……では来週の日曜日に、静かな喫茶店でお会いできるよう、お取り計らいをお願いしてもよろしいですか…?」
「はいっ、わかりました…! ありがとうございます、本当にありがとうございます! 八城先生もお喜びになると思います…!」
【縁寿】「条件があります。」
「はいっ、何なりと…!」
【縁寿】「お仕事の話ではありませんので、編集の方はご遠慮下さい。」
「無論でございますっ、そのようにいたしますっ。」
【縁寿】「私と八城先生の、二人きりでお会いします。そのように、お願い出来ますか…。」
「あ、実は先生……。……その、ここだけの内密な話なのですが…。」
【縁寿】「何ですか…?」
「……実はですね。……八城十八先生は、お二人で書かれている先生でございまして。対外的には女性の先生がお一人で書かれていることになっておりますが……。実際はもう一人、男性の先生がおりまして…。……そのお二人で、お会いしたいと申しておりまして……。」
 それを聞いた時。……私には、何かの予感があった。……八城十八という、右代宮家と何の縁もない人間が、どうしてその内情をあれだけ詳細に書けたのか。もう私には、ある一つの奇跡の予感があった……。
喫茶店
 私は旅立ちの日、右代宮縁寿という名を捨て、新しい人生に歩み出した。今でこそ和解したが、当時は須磨寺家とのトラブルがあり、それを嫌ったためだ。……そのせいで、新しい私とは誰も、連絡が取れなくなってしまった。
 しかし、私が今年、「さくたろうの大冒険」で脚光を浴び、寿ゆかりという名を有名にしたことで、……彼の耳に届いたのかもしれない。
 あのライオンのぬいぐるみを、さくたろうと呼んで真里亞お姉ちゃんと一緒に遊んだこと。それを知る者が、さくたろうという名と、私の名を結び付けたなら、……私の正体に気付くのは、当然のこと。そして、私の正体に気付ける人間は、とてもとても、限られている。
 ………そして、推理小説に堪能な、男性。それが意味する人物を、私はひとりしか思い付けない。遺品整理の時、彼が自室に、本当にたくさんの推理小説を積み上げているのを、私は知ったから。
 約束の時間は、もう少し。私の胸は、……まるで、恋を初めて知った少女のように高鳴るのだった……。
 約束の時間ちょうどに、来客を知らせるチャイムの音ともに、………彼らは姿を現した。それは、車椅子に乗った男性と、それを押す女性。
 私はすぐに、車椅子の男性に目が釘付けになった。……そしてすぐに、……その面影に片鱗が残ることに気が付く…。
 紛れもなく、彼は、……………兄だった。私の兄の、……右代宮戦人だった……。
 兄は、私と目が合うと小さく会釈をする。私も慌てて席を立ち会釈をする。……兄妹が、数十年ぶりに再会するというのに、何だか仰々しくて滑稽。でも私の頭は、あの日よりずっと待ち続けていた奇跡が現実のものとなり、……もう真っ白だった。
【八城】「……寿ゆかり先生でいらっしゃいますか。」
【縁寿】「寿ゆかりでございます…。……先生方が、八城十八先生でいらっしゃいますか。」
【八城】「初めまして、先生。今日は貴重なお時間を誠にありがとうございます。……私は八城幾子と申します。主に執筆を担当しています。……こちらは十八。主に原案を担当しています。」
 幾子と名乗った女性は、私よりずっと年上のはずなのに、信じられないくらいに若々しいのが印象的だった。お化粧が上手とか、若作りが上手いとか、そういう感じじゃない。
 こう言っては変だけど…。不老不死だから老けない、とでもいうような、……そんな不思議な神秘性を感じた。そしてすぐに、彼女が兄を、十八と紹介したことを思い出す。
【縁寿】「……失礼ながら、……お二人はご結婚を?」
【八城】「結婚はしておりませんが、ずいぶん長く一緒におります。」
【十八】「そうですね、気付けば、ずいぶん長く一緒にいましたね……。」
 兄はそう言いながら微笑む。
 ……兄にとってのこの数十年間が、少なくとも孤独なものではなかったことを知り、私は安堵の、とても安らかな気持ちになるのだった。
 気付けば、兄もまた、私の顔をしげしげと見ていた。何しろ、当時の私は6歳。その面影を見つけるのは難しいだろう。でも、……それでもきっと、わかる何かがあるはず。
 私たちは、まるでお見合いでもするかのように、ちらちらと相手の顔を盗み見ては、恥ずかしそうに俯くのだった。
 お互い、世間体を気にする年齢だ。わかってはいても、他人行儀を崩せないのだろう。そんな滑稽なやり取りが、無性にくすぐったい。……運命の再会は、お互い感涙に咽びながら、がばっと抱擁。そんな風に思い込んでいたのだが、現実はそうではないみたいだ……。
 でも、いい。今は、この胸が幸せな気持ちではちきれそうだった……。
【八城】「注文を取りましょう。コーヒーでいいですか? 皆さん、何かお好みは?」
【十八】「私には酸味が強くないのを。……寿先生は?」
【縁寿】「あ、……私は何でも…。…ではカフェオレを……。」
 何て他人行儀。兄もさすがにそろそろ、そのやり取りをくすぐったく思っているようだった。
【八城】「………さて。」
 彼女がそう言うと、私も兄も沈黙して背筋を伸ばす。
【八城】「私から? それとも十八から話しますか?」
【十八】「………私から話しましょう。その為に、今日は無理をお願いしたのですから。」
 兄はそう言い、静かに私を見る。
【十八】「私は今日、……あなたが、ある人物ではないかと信じて、ここへやって参りました。彼女の名は、右代宮縁寿。……あなたの作品と先生のお名前を聞き、私はあなたが、右代宮縁寿さんに違いないと、確信したのです。」
【縁寿】「はい。……その名を名乗ることをやめ、もうずいぶんになりますが。本名を、右代宮縁寿と申します……。」
 私は、長い年月の間にすっかり染み付いてしまった、仰々しいお辞儀をする。
 ……お互い、歳を取ったね、お兄ちゃん。私はそう、心の中で呟く。
 今度は私の番。失礼して、ハンドバッグから、写真を取り出す。
 私が戦人お兄ちゃんと遊園地に行った時の一枚だ。他にも楽しそうな写真はたくさんあるが、この一枚が、一番面影をよく捉えていてわかりやすい。
 その写真と、彼を見比べる。もはや、疑いの余地は一切ない。
【縁寿】「……十八先生。あなたの本名は、………右代宮戦人…、……さんですね……?」
 私の中の時計の針が、止まる。その質問に、はいと答えて欲しい…。もう、ここまで間違いないと確信しているのに、……それでもなお、私の緊張感は高まる。
 そして、私にとっては長過ぎる一瞬を経て、兄は答えた。
【十八】「そうです。」
【縁寿】「…………………………。」
 思わず、しげしげと兄の顔を見てしまう。兄は、信じられないくらいにあっさりと、自分が右代宮戦人であることを認めた。
 ……私の目にはみるみる涙が溜まって、ぽろぽろと溢れ出す…。ハンカチを取り出して目頭に当てるが、溢れ出る涙の粒を堪えることは出来なかった…。
 お兄ちゃんはやっぱり生きていた…。ならどうして、すぐに私のところに帰って来てくれなかったの? あの一番辛かった日々にお兄ちゃんがいてくれたら、私はどれほど救われたことか……。それは本来、兄を呪う感情だが、それさえも今や和らぐ。
 こうしてお兄ちゃんと再会できた奇跡の前に、……これまでの想いなど、全て涙となって零れ落ちるだけなのだから。今は、……とにかく嬉しかった。
 私は、ひとりぼっちじゃなかった。それを信じて、何十年もがんばってきた。それがようやく、………報われたのだ……。
 私の涙はいよいよ止まらなくなる。しばらくの間、私は鼻水さえ零しながら、泣きじゃくるのだった…。
 それを見て、兄は申し訳なさそうに俯く。……私の元に、どうしてもっと早く帰らなかったのか。それを悔いているように見えた。
 だがきっと、兄にも何かの事情があったのだ。彼は恐らく今日、それを語り、私に詫びようと思ってくれたのだろう。もう、……今日、こうして、私の前に名乗り出てくれただけで、……私の中の全ては、涙で洗い流されている。
【縁寿】「……す、……すみません……。……こんな、……みっともないところを……。」
【十八】「いいえ。無理もないことです。……あなたは、何十年もの間、たったひとりで、家族の帰りを信じ、待たれたでしょうから。」
【縁寿】「信じてましたよ……。………帰ってくるって………。………お兄ちゃん…………。」
 私が弱々しく手を伸ばすと、……兄も、ゆっくりと手を伸ばしてくれた。そして、……私はその手を、握る。
 どれだけ長い年月を経ても、………それは間違いなく、兄の手。私はもう一度、涙が溢れ出そうになるのに堪えるのだった……。
【縁寿】「……絵羽伯母さんは、九羽鳥庵に逃れて爆発事故を免れました。……お兄ちゃ、……兄さんは、どうやってあの事故を免れたのです?」
【十八】「私はあの日、……地下道に逃れました。」
【縁寿】「それは九羽鳥庵に続く?」
【八城】「島の反対側の隠し屋敷に続く地下道だと教えられました。……しかし、私たちは九羽鳥庵ではなく、潜水艦基地の方へ逃れたのです。」
 兄があの日、どういう経緯で地下道に入り込んだのかはわからない。とにかく、地下道に入り、そこから絵羽伯母さんとは違い、潜水艦基地の方へ逃れた。そこで爆発を逃れ、生き延びたのだ……。
【十八】「そこから、私はモーターボートで脱出しました。……ですがその途中で、……恐らく、転覆してしまったのでしょう。」
【縁寿】「恐らく、とは…?」
【八城】「……申し訳ありません。十八は、記憶障害があるのです。海で溺れた前後の記憶が曖昧なのです。」
【縁寿】「ひょっとして、……しばらくの間、彼は自分が右代宮戦人であることを、忘れていた…?」
【八城】「その通りです。」
 ……あぁ、もうそれで、ほとんどの謎に説明がつけられた。兄は爆発を逃れたが、島から脱出した際に船が転覆したか、あるいは転落したかして、海に落ちた。そしてその後、どこかへ漂着し、朦朧としたまま彷徨い、恐らく交通事故にあった…。
【八城】「彼はあの日、路上に倒れていました。」
【十八】「彼女が私に気付くのがもう少し遅れていたら、私は二度と目を覚まさなかったでしょう。」
【八城】「はねたのは私ではないかと、ずいぶん疑われた気もしますが。」
【十八】「いや、それはもう謝りましたよ……。」
 これで大筋が納得できる。兄は、溺れた時のせいか、あるいは交通事故のせいで、記憶喪失に陥っていたのだ。
 やがて記憶は戻ったのだろう。しかし、その頃にはもう私は、寿ゆかりとして新しい人生を歩み出していた。
 私の居場所は小此木社長を含めた一握りの人しか知らない。兄が私に連絡を取ろうとしても、それが叶わなかった可能性はとても高い。
 ………未来に生きると決心して捨てた名前が、皮肉にも、兄との再会をこれだけ長い間、拒んでしまったのだ。その意味では、これは私の責任。自業自得だった。……しかし、私は兄からのメッセージを、ちゃんと受け取れていたはずだ。
 それは、伊藤幾九郎のこと。私は、真実に至ったと自称する偽書作家、伊藤幾九郎の正体が八城十八だと気付いた。そして、なぜ彼女が真実に至ったと自称できるのか問い質そうと、出版社を通じて面会を要求したのだ。
 しかし、叶わなかった。結局、何の連絡もなく、八城十八と面会するのに、こうして数十年の月日を要することになってしまった。……あの時、出版社が私を取り次いでくれたら、私たちはもっと早くに再会できていたのだ。
 しかし、当時の私は、札束をばら蒔くだけのブルジョワ娘。誰の紹介もなく、ずかずかと乗り込んできて、当時、人気絶頂だった八城十八に会わせろと言ったって、取り次がれるわけもない。
 私たちは恐らく、何度もすれ違ったのだろう。その内の一度でも結実して、出会えていたなら。……私の人生は、まったく違うものになっていただろう。
 でも、それが運命なのだ。神様は、私たち兄妹が再会するには、数十年の時間が必要だと判断されたのだ。そしてその間に、兄は二人三脚の推理小説作家に。私は児童向け冒険小説作家となった。
 それは社会的には成功を収めたと言っていい。兄も私も、立派になって再会することが出来たのだ。今はただ、奇跡を起こしてくれた神様に、ひたすらに感謝したかった…。
【縁寿】「お互いが作家として成功してから再会できたのも、神様の思し召しでしょうね…。………当時の私は無名だったから取り次いでもらえなかった。そして、私も兄も、作家として有名になったから、こうして巡り合えた…。……これも全て、神様の思し召しだと思います……。」
【八城】「当時、あなたが出版社を経由して、私たちに面会を求めているという話は、私たちのところへも届いておりました。………伊藤幾九郎の正体に気付いたファンが、面会を求めているが、お会いになりますかと。」
【縁寿】「……押し掛けてくるファンもたくさんいらっしゃったでしょうからね。いちいちお会いにはなれなかったでしょう…。」
【八城】「いいえ。あなたの名前が右代宮縁寿だと、担当者から連絡はありました。……当時、私はすでに、十八の本当の名は右代宮戦人であると気付いていましたので、あなたと彼を面会させるべきではないかと思ったのです。」
【十八】「私が、断ったんです。」
 兄は、そう言った。
【縁寿】「………今、………何と……?」
【十八】「私が、あなたに会いたくないと、断ったんです。」
 兄はもう一度、はっきりとそう言った。
 私には、何が何だかわからない。ただ、呆然と兄が続けるに違いない次の言葉を待って沈黙するだけだった…。
【八城】「……十八は記憶障害だった、とはすでに申し上げたと思います。……それがある日、」
【縁寿】「どうして、私だとわかってて、断ったんです…?」
 私は、幾子の言葉を遮って、きっぱりと問い詰める。
 兄が私を拒絶する、どんな理由があるというのか。まったく想像がつかない。その不快感は、私が長らく忘れていた、怒りという感情を呼び起こす…。
【縁寿】「ひとりぼっちの妹が、孤独に押し潰されそうになりながら生きているのを、あなたは知っていたはずです。なのに、どうしてっ、……その私があなたのもとへ訪れるのを、拒まれたのですかっ…。」
 兄は俯く。申し訳なさそうに、というよりは、言葉に詰まって、という感じ。悪びれる様子さえ感じられず、私はさらに声を大きくして兄を詰った。
 私が八城十八にアポイントを申し込んだ時には、もう伊藤幾九郎は偽書作家として有名だった。伊藤幾九郎の偽書が、なぜ真実に至っているのか。
 明白だ。兄、右代宮戦人が、島で何があったかを事細かに説明したからだ。
 つまり、伊藤幾九郎の登場は、兄の記憶が蘇ったことを示す。だから、私のことを忘れてたなどという言い訳は出来ない。いや、実際、言い訳はしてない。それどころか、私だと知っていて、面会を拒んだとはっきりと言っている。
【十八】「………今となっては、後悔しています。」
【縁寿】「後悔って…!! 私の気持ちを考えたことはあるんですか?! この数十年間、……人生のほとんどを! どんな気持ちで私が過ごしてきたか……。」
 私の中の様々な感情がぐるぐると渦巻く。感情がコントロールできなくなっていることを自覚する。私は失言や暴言を口にしないよう、代わりに嗚咽を漏らすしかなかった…。
【十八】「あなたに、酷いことをしたと、今は深く後悔しています。……ですから、あなたをあれから、ずっと探していました。あなたにとっても、私にとっても、……もっと早くに、出会うべきでした…。」
【縁寿】「………ならなぜ、………あの時、会ってくれなかったんですか………。」
【八城】「……寿先生。……先ほどもお話しました通り、……彼は記憶障害を持っています。いえ、脳障害と言った方が良いでしょう。事故の後遺症です。」
【縁寿】「それでもっ、記憶は戻ったじゃありませんかっ……!」
【八城】「……えぇ、記憶は戻りました。ただ、それでも障害の後遺症は治りませんでした。」
【十八】「私は、右代宮戦人の記憶を持っています。……ですが、それが自分のことと、思えないという、脳の病気なのです。」
【縁寿】「…………自分のことと、………思えない……?」
【十八】「……はい。……確かに私は、島を脱出した前後のことは、今でも記憶があやふやです。しかし、それ以外のことはほとんどを思い出しました。………たとえば、あなたが大事にしていたピンクの髪飾りは、私が遊園地のゲームコーナーで取ってあげたものだとか。」
【縁寿】「えぇ、そうです。私の子供の頃の宝物です。……今もこうしてハンドバッグの中に、大事にしまっています…。」
【十八】「他にも、いろいろ。……あなたがひじきが嫌いでお母さんを困らせていたことや。それを私のお皿に移して誤魔化そうとしたことや。……他にも、」
【縁寿】「そこまで覚えていて、………どうして、自分の記憶と思えないのですか…。」
【十八】「……………それが、……私の脳障害なのです。……いくつもの病院を巡りましたが、どうにもなりませんでした。……あなたにはわからないでしょう。ある日、突然、知らない男の記憶が頭一杯に溢れ出すのが、どれほど辛いことか…。」
 それは、自分が自分でなくなるという恐怖だった。頭の中に、見知らぬ男の記憶がいっぱいに広がり、自分を塗り潰しそうになるのだ。
 それは恐らく、自分の失われた記憶に違いないのだろう。しかし、………彼の脳は、それを自分の記憶とは、受け容れられなかった。
【十八】「辛く、恐ろしい日々でした。………自分が、知らぬ人間に頭の中を侵食されていくかのような…。………今日、明かりを消して眠ったら、自分という私は、もう二度と目覚めず、明日の朝からは、私の体を乗っ取った違う男が生活を始めるのではないか。……そんな恐怖が、数え切れぬほどの夜に、私を苛み続けました…。」
【八城】「………彼も何度かは、それが自分の正しい記憶であると受け容れようと努力したのです。……自分は右代宮戦人であると、何度も念じ続けました。」
【十八】「ですが、駄目だった。……私は私、…八城十八なんです。……頭の中に、どれほど右代宮戦人の記憶が溢れようとも。……それは私には、他人の記憶なんです。………私には、右代宮戦人を受け容れることは、出来なかったんです………。」
 ……「右代宮戦人」はそう言い、……目頭を真っ赤にしながら俯いた。
【八城】「…………彼はある日、自分と、受け容れられぬもうひとりの自分との板ばさみに、発作的に…………。」
【十八】「……………………………………。」
【八城】「運良く、一命を取り留めましたが、その後遺症で、車椅子で生活せざるを得ない体に…。」
【縁寿】「………そんな、……ことが……。」
 これで、兄が車椅子に乗って現れた理由が、わかった。そして、……どうして兄が、私との面会を拒んだのかも、わかった……。
 彼は私に「兄」と呼ばれることに、……怯えたのだ。自分でない自分がさらに大きく膨らみそうで、……私に会うことに恐怖さえ覚えたのだ。
【八城】「それでも、彼は戦ったのです。………自分の中に右代宮戦人がいる以上、あなたに会うのがその義務ではないか。そう思い、彼は何度も、…二人の自分の狭間で戦ったのです。」
 そして、………彼は発作的に、…………。……そのようなことがあれば、幾子が彼に、もう右代宮戦人のことは思い出さなくてもいいと言うのは、当然のことだ。
 彼は、「右代宮戦人」であった記憶を、ゆっくりとゆっくりと、忘れるように努めていった。医者の指導と投薬。そして幾子の甲斐甲斐しい世話もあって、……ゆっくりと、心の平穏を取り戻していったのだ……。
【十八】「それでも。………私は、いつか。あなたに会わなければならないと思っていました。……正直なところ、私は昨夜、一睡も出来ませんでした。………あなたに会うことが、恐ろしかった……。」
【縁寿】「………………………………………。」
【十八】「あなたと会うことで、私は死ぬのではないか。……そう、怯えたのです。……しかし、私は今、ここにいて、あなたとこうして普通に会話をしています。……だから、後悔しているのです。………もっと、早く、…………私はあなたに、……会っておけば……。……あなたも、……私の中の右代宮戦人も、………こんなにも長い年月、苦しまなくて済んだだろうと思うと、……それが、……申し訳なくて………………ッ……ッ……。」
 かつて「右代宮戦人」だった彼は、そう言いながら、嗚咽を漏らした。
 ……私はもう、……理解しかけている。やはり、……そうなのだ。右代宮戦人は、…………あの日に、死んだのだ。
 だって、………魔女があんなにも、赤き真実で、兄は死んだと、繰り返してたじゃないか…。………いつだってみんなは一緒にいると誓った、未来の魔女が、……反魂の魔女が、…………情けない……。……………………………………。
【縁寿】「……十八さん。どうか、お顔を上げて下さい。」
【十八】「…………っ、……寿先生………。」
 彼らは、私が十八さんと呼んだ意味を、察する。私も、「彼」のことを、十八さんと呼ぶことで、……心の興奮が、少しだけ落ち着くを感じた。
【縁寿】「ありがとう。………ずいぶん、苦しまれたのでしょうね。……本当にありがとう、十八先生……。」
【十八】「……ぅ、………ううっぅぅぅ……、………ぅぅ……。」
【縁寿】「………ありがとう。兄さん。………今日は無理をしてここまで来てくれて、……ありがとう…………。」
 私たちは、手を取り合い、……額を寄せ合って、しばらくの間、互いに涙を流し合った。そして私たちは、在りし日の思い出を語り合った。
 彼は、私が覚えていないようなことさえ、鮮明に記憶していた。それらに私が涙する度に、彼は申し訳なさそうに俯く。それが彼を傷付けていると知り、私は泣き笑いのような、おかしな顔をしながら、彼の話してくれる思い出に相槌を打つのだった。
 ………彼が右代宮戦人でなくても。私のところに、お兄ちゃんは帰って来てくれた…。お帰り……。………お兄ちゃん………。
 もう、表は真っ暗になっていた。遠方から来ているのに、こんな遅くまで時間を割いてくれた。私たちは店を出る。
 十八先生とは、……もう二度と会わない方がいいだろう。彼を苦しめるし、……何より、私をまた、過去に縛り付けてしまう。それでも、あと一度だけ。どうして彼を案内したい場所があった。
【縁寿】「……十八先生。……最後にもう一度だけ、お会いして下さいませんか。どうしても先生を、ご案内したい場所があるんです。」
【十八】「…………………。……えぇ、いいですとも。」
 私はハンドバッグの中から、四つに畳まれたA4の案内状を手渡す。二人はそれを広げる。
【八城】「おや。これは素敵な催しですね。」
【十八】「………そういえば先生は、小説の他にも、色々とご活躍でいらっしゃいましたね。」
【縁寿】「その日に、もう一度だけお時間を下さいませんか。……それで、私も兄も、納得すると思います。十八先生も兄の記憶の重石から、解放されて良いと思います。」
【八城】「……予定は、……問題ないです。文庫の後書きさえ終わらせておけば。」
【十八】「わかりました、寿先生。……ぜひ、お伺いさせてもらいます。」
【縁寿】「ありがとう、十八先生………。」
福音の家
 冬が近付いていることを知らせる、冷える10月の夜。……八城十八を名乗る二人は、再び縁寿に招かれ、都内を訪れた。
 その大きな建物の前に、車が止まる。幾子は手馴れた様子で車椅子を広げると、助手席の十八に肩を貸しながら、車椅子に座らせる。
【八城】「………立派ですね。」
【十八】「福音の家。……来るのは初めてですが、……よく知っています。右代宮家が援助していた、子供のための施設のはずです。」
【縁寿】「幾子先生、十八先生。本日は、福音の家までようこそいらっしゃいました。」
 縁寿と職員たちが迎える。
 そこは、福音の家。親を失った、恵まれない子供たちのための福祉施設だ。
 かつて、この施設は右代宮金蔵の援助によって成り立っていた。しかし、その援助が途切れ、福音の家は一度、畳むことになったのだ。
 それから数十年後。施設は、再び蘇ることになる。寿ゆかりの手によって。
【十八】「……寿先生、お久し振りですね。本日はお招きに預かりました。……これ、私たちからです。わずかですが、施設の子供たちに。」
【縁寿】「決してそのようなつもりでお招きしたわけではないのに……。本当に申し訳ございません……。」
【八城】「どうかお気になされず…。……未来の物語を紡ぐのは、いつだって子供たち。……彼らがいなければ、ニンゲンの物語は続かないのですから。」
【十八】「子供は宝です。ですから、どうか役立てて下さい。」
【縁寿】「……ありがとうございます。……寄付金の用紙がありますので、ご面倒でなければご記入を……。」
 福音の家は、近年、大きく改装した。子供たちが将来、ここを思い出す時、楽しかったと思えるように。縁寿は私財を投じて、美しい施設に大改築したのだ。
 ……彼女は今では小説家として莫大な財産を持っているが、そうでなくてもかつて、右代宮グループより生活費という名目で、毎年何千万と振り込ませ、それを全て積み立てていた。それを、子供たちのために、彼女は惜しみなく使っている。
 玄関に入ると、もう楽しそうな雰囲気がいっぱいに広がっていた。子供たちの書いた絵や、工作や。……色々なものがあちこちにところ狭しと飾られている。
 このような上品な建物に、学校を思わせるような雰囲気のギャップが、ちょっぴりだけ面白かった。駆け回る子供たちの騒ぎ声や笑い声が、遠くから聞こえてくる。
【十八】「………悲しみに俯いて、ここへやってくる子供も多いでしょう。それが、あんな笑い声を聞かせてくれるようになるのですから、………あなたは本当に立派だ。」
【縁寿】「人は、誰だって未来を生み出し、幸せのカケラを見つける魔法が使えるんです。……ここは、そういう魔法を教える、魔女の学校なんです。」
【十八】「『さくたろうの大冒険』に出てきた、魔女の寄宿舎のことですね?」
【縁寿】「……あら、恥ずかしい。……十八先生も、お読みになられていたのですか…。」
【八城】「先日のご縁以来、早々に読破しました。……寿先生の文才のみならず、その温かなお心には、本当に頭が下がります。」
【縁寿】「お恥ずかしい……。………どうぞ、そこの突き当たりです。」
 十八の車椅子を押しながら、私たちは廊下を進み、突き当たりの大扉に辿り着く。その向こうから、子供たちの楽しそうな声が溢れ出して来る。
 今夜のパーティー会場は、どうやらここらしかった。折り紙で切り抜かれた、ジャックオーランタンがいくつも張られている。今夜は、福音の家の、ハロウィンパーティーなのだ。
【縁寿】「十八先生、これを。」
【十八】「なるほど、トリックオアトリートというわけですね。」
 キャンディーの詰まった袋を手渡す。施設の先生が小声で忠告する。子供たちが、どどどっと押し寄せますから注意して下さいねっ、と。
【十八】「……子供か。もう何年も触れ合っていません。」
【縁寿】「どうか子供たちに、夢を語ってあげて下さい。みんな、お客様を歓迎しますよ……。」
【十八】「これは困った…。何を語ってあげればいいやら。」
【八城】「“原稿の持ち込みは、よく出版社を選びましょう”?」
【十八】「“読者アンケートなんて気にしない”。」
【縁寿】「くすくすくすくす。それでは開けますよ。子供たちが待ってますよ。」
 縁寿は、観音開きの大扉を開いた……。
玄関ホール
【十八】「ここ……は………………………。」
 そのホールの光景に、……十八は、絶句して目を大きく見開く。
 ここは、六軒島の屋敷の、ホールだった。違う、そんなはずはない……。
 ここは間違いなく、福音の家。そのホールは、……六軒島の屋敷のそれに、………瓜二つだった……。
【八城】「……素敵なホールですね。」
【十八】「これは、………六軒島の、……右代宮家のお屋敷のホールの、……再現ですね……。」
【縁寿】「えぇ。……私の記憶の中にあるものを再現しました。細部が間違っているかもしれませんが。」
【十八】「……いいえ。………これは本当に、………あの日の右代宮家のお屋敷の、……ホールです……。」
 そして、十八の目が、……さらに奥のそれに、釘付けとなる。
 それは、………肖像画。六軒島の、もうひとりの主の、肖像画。
【十八】「……記憶のものに、………まったく同じだ………。」
【縁寿】「右代宮金蔵が肖像画を描かせた職人が写真を持っていました。……それをもとに書き起こさせました。」
【十八】「……………………………………。」
 私は、ただただ、呆然としていた。
 長く大きいテーブルには、ハロウィンパーティーのご馳走が並び、子供たちがそれを頬張っている。
 施設の先生が、ほら、お客様がいらっしゃいましたよーっ、と声を掛ける。……子供たちが一斉にこちらを向いて、……立ち上がり、駆けてきた……。
 待ちくたびれた客人を、ようやく迎えられるという、彼らの満面の笑顔が、私を包み込む。子供たちの笑顔と瞳が、………私を、歓迎する。
 あぁ、………知ってる。……みんなの顔を、……私は知っている………。遅かったな、遅かったですね、……ようやく来たよ、やっと来た……。
 待ちくたびれたぞ、戦人ァ。
 ……すまねぇ。来るのが、遅れちまった。
 そなた、何故、車椅子なんぞ座っておるのか。
 ほら、手を貸してやるからシャンとせい。
 ベアトが歩み出て、……車椅子に座る戦人に、手を差し出す。
 戦人は、……その手をゆっくりと掴み、………ゆっくりと、……立ち上がる……。
 ………俺は、…………………。
 聞けっ。ここにようやく、我らは全員が集ったぞっ。
 今宵、黄金郷はここに復活するっ。
 割れんばかりの拍手が、戦人を祝福する。
 そこには、みんないた。
 みんな、みんな、みんな。
 そしてベアトは戦人を抱き締める。
 強く強く、……二度と離さないように抱き締める。
 本当に、………よく帰ってきたな……。
 帰ってきたぜ。遅くなったな。
 ……もう、離さぬぞ。
 あぁ。俺ももう、離さない。
 俺たちは、永遠に一緒だ。
 戦人が最後のゲームで伝えたかった「真実よりも大切なこと」とは、信じる心。
 読者が、この結末が真実ではないと気付いていたとしても——理屈では、本当は手品だとわかっていたとしても——なお信じることで、それは黄金の真実となる。