うみねこのなく頃に 全文解説

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EP7: Requiem of the golden witch

オープニング

メタ礼拝堂
 土は土に。灰は灰に、塵は塵に。幻は幻に。そして、夢は夢に。
 夢とは、寄せては返す波間の真砂に描くもの。それは波が寄せる度に、真っ白に戻ってしまう儚きもの。だから心無き人は、それを描くことを、無駄なことだと嘲笑うだろう。
 しかしもう、彼女の描いた夢を消す波は、二度と訪れない。彼女が最後に描いた、美しき夢は、もう永遠に消えることはない。
 さぁさ、思い浮かべてご覧なさい。それは温かき春の日の、やわらかき午後の日差しが、そのまま陰ることを忘れたかのよう。それはとてもとても、素敵なことなのだから……。——あなたの最後の夢の立会人プブリウス・ワルギリア・マロ
どこかの大広間
 室内には、容疑者たちが集められ、数人の異端審問官たちが、事件の捜査報告を行なっていた。その制服は、アイゼルネ・ユングフラウのものによく似ていたが、少し違っていた。所属を示すワッペンも違う。
 そして、パンと力強く手が叩かれる。叩いたのは、リーダーの女性審問官だった。それが、以上で推理を終えるという彼女の合図だった。
「謹啓、以上にて明々白々。以上の推理から、貴女のアリバイが存在しないことの証明を終えるもの也や。」
 彼女が指差す先には、怯えた眼で震えるメイドの姿があった。
 メイドの名は、……いや、どうでもいい。今、重要なのは、彼女が犠牲者の密室書斎に自在に出入りでき、さらにその上、殺害時に自称していたアリバイが矛盾していることが証明されたことなのだ。
 メイドは震えながら、論理的でない抗弁をなおも繰り返そうとするが、それらは全て看破されている。
「以上にて、フーダニット、ハウダニットの証明を完了するもの也や。貴女が犯人である事実は揺るがぬものと知り給え。」
【メイド】「そ、そんな…! ど、どど、どうして私が敬愛する旦那様を殺さねばならないのですか…?! ど、動機がありません、理由がありません…!」
「……誰が、如何にして犯したか。それのみが立証できれば充分であると知り給え。謹啓、謹んで申し上げる。ミステリーに、動機は不要であると知り給え。」
 審問官は冷酷に、そう言い放つ。
メタ礼拝堂
 ワルギリアは魔女の祈祷を終えると、たくさんの美しい薔薇に飾られた祭壇の、棺の前を退く。
 代わって、領主のマントを羽織った戦人が棺の前に立った……。マントは威厳と貫禄を示しているはずなのに、むしろ戦人を、一際、小さく見せた。
 戦人は手に、厳かな装丁の本を持っていた。
 EP7が、実質的な最終話と言える。
 ベルンがフェザリーヌのために紡ぐ「答え合わせのゲーム」。
 それは、……記されたばかりの、棋譜。あるいは物語。あるいはゲーム。あるいはカケラ。彼女にとって、……もっとも楽しい、“夢”が、描かれている……。
 戦人はその本を自らの額に当て、ほんのしばらくの間、静かに瞑想した。
【戦人】「……………………………。」
 そして、それに口付けをしてから、……そっと、棺の中に置く。
 それは彼女の胸の上に置かれる。それはまるで、幼い少女が寝入り端に抱いた、大切なぬいぐるみのように見えた……。
【戦人】「……これは、俺からお前に捧げる、……唯一の物語だ。」
 この物語は、お前と一緒に、永遠に棺に閉ざされる。だから棺の中のお前以外、誰にも読むことを、許されない。
【ワルギリア】「猫箱に閉ざされた、唯一、不変、不可侵の、……永遠の物語。」
【戦人】「だから、……誰にも物語を汚せない。……否定できない、反論できない。……俺とこいつだけの、……二人だけの、唯一絶対の、真実。」
どこかの町並み
 クソッタレが……。男は夕闇に閉ざされていく町並みを駆け抜けて行く。前世紀的な、伝統と様式美を兼ね備えた古風で美しい町並みは、昼の喧騒が嘘のように感じる。
 橙色の夕日はすでに時計塔の陰に隠れ、狭い路地を急速に暗くしていく。灯り始めたガス灯は、むしろ夕闇の暗さを一層、引き立てるだけだった。
 男は駆ける。もう時間がない。急がなければ。どうしても確かめなければならない、いくつかの確認と実験に、思わぬ時間を掛けてしまったのだ。
【ウィル】「あぁ、確かにそうだろうな。ミステリーは、フーダニットとハウダニットさえあれば充分だ。」
 ミステリーにおいて、ホワイダニット、動機は扱いが最も低い。殺人は、犯人が、犯行するから、成立する。そこに、動機は不要なのだ。だからもっとも軽んじられる。いや、今やミステリーには、不要だとさえ叫ばれる。
【ウィル】「ホワイダニットだけで犯人が決まっちまったら、そりゃミステリーじゃねぇ。プロパガンダだ。だがな。」
 だからって、動機ってヤツを。……心ってヤツを蔑ろにしちゃいけねェんだ。
メタ礼拝堂
【ワルギリア】「……私たちは彼女の最後の眠りが、どれほど楽しいものであるかを知っています。だから、何人たりとも、彼女の眠りを妨げることは出来ないでしょう。……楽しい夢に微笑む子の眠りを妨げられる者など、いるわけもないのですから。」
【戦人】「…………………………。」
【ワルギリア】「さぁ。……私たちはもう、立ち去りましょう。私たちが賑やかにしていたら、彼女の夢を、眠りを覚ましてしまいますよ。」
【戦人】「……そうだな。寝ている子には毛布を掛けて、……部屋を暗くして、静かに立ち去るのが決まりってもんだ…。」
 ワルギリアは、もう一度だけ棺を見てから、静かに踵を返す。戦人もそれに続くが、………足を止め、薔薇の祭壇に振り返る…。
【戦人】「…………………………。」
 戦人は、最後の言葉を心の中で捧げる。
 それがどんな言葉なのかは、口から出ない限り、誰にもわからない。……しかし、その心の言葉に応じて、戦人の表情は何度か変わった。
 最初は悲しく眉を歪め、……悔悟を滲ませたり、呆れたように苦笑いしたり。……色々な表情を見せた。
 そして、……その最後に見せた表情は、意外にも、……涼やかな笑顔だった。
【戦人】「…………、………。……………………。」
 戦人は何かを口にしかける。しかし、それを飲み込む。彼の胸の中にある万感の想いを、正しく伝えることが出来る言葉など、存在するわけもないのだから。
 だから、何を口にしたところで、……多分、無粋なのだ。それを理解し、戦人は苦笑いと共に、それをもう一度飲み込む。
【ワルギリア】「………………………。」
【戦人】「……ありがとう。」
【ワルギリア】「お礼を言われるようなことは、何も…。」
【戦人】「……後を頼む。」
 ワルギリアが頷き返すのを見届けると、戦人はもう一度だけ祭壇に振り返ってから、………礼拝堂を後にした。
 ワルギリアも姿を消し、………礼拝堂からは、彼女の幸福な夢を、その眠りから覚まして乱そうとする全ての音と気配が、消え去るのだった…。
どこかの大広間
 異端審問官たちは涼しげな、……いや、軽蔑の眼差しでそれを聞いていた。主人殺しの犯人だと指名されたメイドの、必死の抗弁を。
 しかしそれは、自分のアリバイの不備を埋めるものではない。自分が如何に被害者である主人を敬愛し、尊敬していたか。殺す動機が存在しない、という感情論だけだった。
 それをいくら語ろうとも、むしろ、みすぼらしく悪足掻きをする真犯人のようにしか見えなかった。
 フーダニット、ハウダニットは埋まっている。ホワイダニットなんて、動機なんて、心なんて。……数々の不運から路頭に迷っていた彼女が、主人の社会的献身によりパンと職を得られた恩をいくら語ろうとも、ミステリーには何の影響も与えない。
 だから、動機などどうでもいい。犯人を特定した後に、犯人から搾り出せばいい。
 異端審問官は、メイドの泣きじゃくるような抗弁を遮るように、一枚の羊皮紙の命令書を取り出して突きつける。
「貴女が如何にして犯行に及んだか。その告発は大法院にて受理され、貴女の逮捕を許可したことを知り給え。此れが貴女の逮捕状也や。動機など不要。犯人の特定には一切不要のものと知り給え。その上で謹んで申し上げる。我らがSSVDは、罪を認めぬ犯罪者に真実を告白させる強制的手段を持つと知り給え。」
「我らが異端審問官が、正義にて祝福された審問具にて、貴女の四肢を絞り上げて、焼いて潰して引き伸ばして吊し上げ。そこより赤き真実を絞り出してみせることを、申し上げ奉る。……自白すらも不要! 補佐官一同、そのメイドを逮捕し奉れっ!」
【メイド】「私じゃないですッ、私は旦那様を殺したりなんかしません…!! い、嫌ッ、嫌ぁあああぁああぁあ!!」
【ウィル】「やめな。そのメイドは犯人じゃねェ。」
 扉を荒々しく蹴り開け、現れたその男の姿に、異端審問官たちは驚く。
「な、……なぜ、貴方がここにいるもの也やっ。この事件はもう、貴方の担当ではないと知り給え…!」
【ウィル】「うるせェ。アリバイがないヤツを1人みつけたらそいつが犯人なのか。犯行には動機が、心がいらねェってのか。犯行はな、人が犯すんだよ。心がねェ事件なんて存在しねェ。心を無視した推理なんざ、俺は絶対に認めねェ。」
「あ、貴方のホワイダニット至上主義の主張には辟易するものと知り給え…! ホワイダニットなど無用! 審問すれば斯様なもの、容易に絞り出せるもの也や! 大法院も、その女が犯人であることを認めたもの也…!!」
【ウィル】「大法院は、そのメイド以外の全員にアリバイがあるならきっとそうなんだろうという、お前の独り善がりを鵜呑みにしただけだ。他の被疑者のアリバイが崩れれば白紙に戻る。……他の連中のアリバイも、無様なモンじゃねぇか。大広間の時計の音は正確に正午を刻んだか? 勝手口の犬は全員に吠えるのか?」
【ウィル】「確かにお前はメイドのアリバイの偽証を崩した。それは見事なもんさ。だが、それで終わりなのか? メイドに犯行が可能でも、それを行なう動機はあるのか? 他の人間のアリバイは完璧なのか。他にもアリバイを偽証している人間がいる。それを探すことを怠るな。犠牲者に怨恨は? 金銭関係でトラブルは? 動機を捨てるな。心を捨てるな。動機なんて後付でどうでもいいなんて、そんな乾ききったミステリーごっこは卒業しちまいな。」
「メ、メイドが犯人でないなら、なぜに彼女はアリバイを偽証するもの也や?! そしてそれを問うことも茶番! 審問し、赤き真実を絞り出しッ、犯行時刻の全てを赤き血で署名させるだけで良いものと知り給え!」
【ウィル】「あぁ、そうだろうな。お得意の拷問で全てを神の目線から客観的に赤裸々に搾り出せばいいさ。でもな、言っておく。……心のねぇミステリーと推理のやり方はな、俺が絶対に認めねェ。」
「す、既に本事件は本官に継承されたるもの也!! 此処に命令書もあるもの也! さぁ、補佐官一同、構うことはなしと知り給え! そのメイドの逮捕を命じるもの也や!!」
 彼女の指図に、部下の補佐官たちは、上司の顔と男の顔を見比べ、躊躇する…。
【ウィル】「させねェよ。本当の犯人は他にいる。動機から推理可能だ。アリバイトリックなんざ古典通り。心を、忘れるんじゃねェ。」
「こ、心など不要なり…!! 犯行可能な疑わしき人物を導き出し、審問して赤き真実を搾り出せばいい!! 万一、犯人でなかったなら、別の疑わしい容疑者を審問にかければいいだけ也や…!!」
【ウィル】「そんなのは、推理じゃねェ。」
「退き給え!! その女を逮捕するもの也や!! そのメイドが犯人であると知り給え!!」
 戦人がゲームマスターを務めた前回の物語が書かれている。親族の誰も悪くなく、最終的に3組のカップル全てが結ばれるという物語だから「もっとも楽しい夢」。
【ウィル】使用人が犯人であることを禁ずッ!!
「ん、な、……な、んと………?!?!」
 力ある言葉が、メイドを犯人として逮捕しようとする補佐官たちを、弾き飛ばす。
【ウィル】……ヴァンダイン二十則、第11則。……このメイドを拷問したかったら第二夫人とその愛人のアリバイをもう一度洗いな。」
「そ、その二人には犯行時刻の明白なアリバイが…!!」
【ウィル】「あの程度でアリバイかよ。ボンクラのお前にわかるように説明してたら、時間がいくらあっても足りねェや、面倒臭ェ。主席を名乗りたかったら、その程度の捜査と推理を見せてみな。それまで、このメイドへの逮捕状は俺が預かるぜ。」
「な、なら貴方に!! そのメイドが犯行を犯さなかったことが証明できる也や?! 犯行時刻に彼女が台所を離れていたことは明らかと知り給え! 彼女は犯行時刻にどこで何を! その女にも本官にも貴方にもッ、誰にも証明は不可能なりや! なればこそ審問の拷問具で、赤き真実を搾り出す他なき也ッ!!」
【ウィル】「真犯人からは、血ヘドでも真実でも、好きなだけ絞り出してやれ。だがな。真犯人じゃねぇ人間へは、如何なる審問も拷問も許さねェ。」
「だ、だからこそ貴方は甘いと批判されるもの也…! 疑わしきは全て審問! それが我ら異端審問官の魔女裁判であると知り給え!!」
【ウィル】「そうだな、俺たちは異端審問官だ。邪悪な魔女を討つ、それが商売さ。だが、万一にも市民を傷つけてはならない。疑ってはならない…! 人間は誰しも自分だけの真実を持つ。それは、罪を犯した時にのみ暴かれる。俺たちにはそれを暴く資格が与えられている。だがな、ねェんだよ。」
「……な、…何が……!」
【ウィル】「罪なき人間の罪なき真実をッ、暴く資格なんざ、たとえ神様にだって、与えられちゃいねェんだよッ!!」
 メイドはようやく、そのやり取りが自分を庇うものであることを理解する。
【メイド】「……ど、どちら様か存じませんが……。あ、……ありがとう……ございます……! 私、……本当に…、犯人じゃないんですっ!」
【ウィル】「んなこた、知ってらァ。……お前の彼氏は全てを投げ出して、お前のためにアリバイを証言するとよ。感謝しとけ。あの若造は名誉も肩書きも、お前に比べたら大したもんじゃねぇと言いやがったぜ。」
【メイド】「そ、……そんなことをしたら…、あの人は……、」
【ウィル】「それにゃ及ばねェ。恋人たちの秘め事を暴くのは三流雑誌の仕事だ。ミステリーじゃねェ。……俺は、心のない推理は、絶対に許さねェ。」
 男はそこで初めて、不機嫌そうな表情を緩ませ、メイドの頭を無遠慮に撫でる。
【ウィル】「……きっと彼氏と幸せになりやがれ。だが、勤務中に逢引きするのは、あまり褒められねェな。時々にしとくんだな。」
【メイド】「あ、……ありがとうございます……。ありがとうございます……。」
 それは、二人だけに聞こえる言葉。男は、若き男女の秘密を暴くことでしか晴らせぬ無実を知り、それを無理やり暴こうとする傲慢に憤慨し、奔走した。
【ウィル】「推理はな、犯人を作ることでも、その過程で、罪なき人々の心の真実を踏み躙ることでもねェ。心が、大事なんだ。……探偵気取るなら、心を忘れるんじゃねェ。そいつを忘れたら、俺たちはただの知的強姦者だッ。それを忘れるなッ!!」
「う、……ぐぐ、……ぐぐぐぐッ……!!」
 男が言い放つと、もう異端審問官たちは、何も言い返すことは出来なかった。男の名は、ウィル。いや、誰もがこう呼んだ。天界大法院、第八管区内赦執行機関、SSVD主席異端審問官。魔術師狩りのライト。
【ウィル】「これが、お前らへの最後の引継ぎだ。“魔術師狩りのライト”の名を継ぐなら、忘れるな。絶対だ!!」
 犯人の正体を本当の意味で理解しているか、読者に問うための赤。紗音はただの使用人ではなく、実は当主なので通る。

ベアトリーチェ殺人事件

礼拝堂
 静かに、静かに。……雨が降っている。
 悲しみの雨は、礼拝堂の外壁を濡らして流し、現世の塵を静かに払う。
 礼拝堂の扉は開かれていた。婚儀ならば、参列者は招待状を持つ者に限られる。しかし、葬儀ならば、故人を偲ぶ者すべてに、扉は開かれている。……だからこれは、葬儀に違いなかった。
 傘を持つ人影が、礼拝堂へ近付いていく。それは、……ウィルだった。
【ウィル】「………………………。」
 礼拝堂の入口には机が出され、受付が設けられていた。その人影に気付くと、受付に座っていた嘉音は立ち上がり、黙礼で迎えた。
【嘉音】「……こちらが受付でございます。弔問の皆様にはご芳名を賜っております。ご記帳をお願い致します。」
【ウィル】「悪いな。弔問じゃねェ。……待ち合わせだ。」
 葬儀の会場で、待ち合わせ…? 嘉音は怪訝そうな表情を浮かべる。ウィルは懐より、一通の封筒を取り出すと、その差出人名を示した。
【嘉音】「………失礼いたしました。どうぞ、お入りを。」
【ウィル】「すまねェな。……せめてそいつを、もらえるか。」
【嘉音】「……ありがとうございます。……きっと、お喜びになられると思います。」
 嘉音は、弔問者に渡している手向けの黄金の薔薇を一輪、手渡す。ウィルはそれを受け取り、……静かに頭を下げてから、礼拝堂に入った。
 礼拝堂の中には、故人の遺族と思われる人々が、何人かのグループに集まっていて、それぞれが故人の思い出に耽っているようだった。
【金蔵】「うぉぉおおぉぉぉ…。ベアトリーチェぇえぇ…、なぜにッ、なぜにぃいいぃいぃ…おおぉおぉぉぉ……。」
【夏妃】「お父様、どうかしっかり……。控え室の方で少し休みましょう…。」
【源次】「……………………。」
【楼座】「私が殺したのよ…、私が……!」
【熊沢】「とんでもない…! どうして楼座さまが殺したことになりましょう…。」
【霧江】「お父さん、すごい泣きようね。」
【留弗夫】「……ベアトリーチェぇぇぇ、か。」
【絵羽】「絶対、お母様が亡くなった時より泣いてるわ。」
【秀吉】「こら。今はそんなこと言う時、ちゃうで。」
 あるグループは涙を隠すことなく咽び、あるグループは遠い昔の思い出のように静かに語り合い。……それぞれの形で、故人を偲んでいる、……ように見えた。
 ウィルが祭壇へ近付くと、何人かが振り返る。もちろんウィルに面識のある人間など、いようはずもない。
 ウィルは気にせず、黄金の薔薇で埋めるように飾られた祭壇の、棺の前に立つ。……棺の中に、遺体はなかった。
 そこにはまるで、体の代わりとでも言うように、……一冊の、豪華な装丁の分厚い本が納められている。そしてその回りを、無数の黄金の薔薇が埋めていた。
 本の表紙に、文字が記されている。“愛するベアトリーチェへ。1986年10月5日”
【ウィル】「……ミス・ベアトリーチェ。ミセスだったら許しな。……会ったことはねェ。だが、お悔やみ申し上げるぜ。」
 棺の中に、入口で受け取った薔薇を置く。
 ……ベアトリーチェなる御婦人とはまったく縁はない。しかし、この葬儀の場に訪れた以上、死者への最低限の礼儀はあるべきだ。その最低限に従い、ウィルは故人の冥福を祈った……。
【蔵臼】「失礼だが、……どちら様かな? 私は右代宮蔵臼。喪主の代行です。こっちは子供の理御。」
【理御】「初めまして。右代宮理御です。」
【ウィル】「……理御? ………誰だ、お前。」
【理御】「理科の“理”に、御するの“御”で、リオンと読みます。……ちょっと日本人っぽくない名前ですよね。」
【ウィル】「………………………。」
 ウィルは怪訝そうな顔をして、まじまじと理御の顔を見る。
 蔵臼に対しては特に何も関心がないのに、理御にだけは、何か思うところがあるようだった。関心、というよりは違和感という感じだった。
【源次】「……旦那様。奥様がそろそろと……。」
【蔵臼】「む、そうか。……一同の諸君。ここで賑やかにしては、故人もうるさがるだろう。控え室の準備が整ったそうだ。場所を変えようではないか。」
 蔵臼が一同に呼びかけると、皆ぞろぞろと、礼拝堂内の控え室へ移動していく。
【蔵臼】「すまん。理御はしばし、お客様のお相手を頼む。私はみんなを控え室に案内する。」
【理御】「はい、父さん。」
 それは、父と子のまったく違和感のない、自然なやり取りに見えた。
【ウィル】「親子、なのか。」
【理御】「そうですが、何か…?」
【ウィル】「右代宮蔵臼の子供は朱志香のはずだ。」
【理御】「朱志香は妹です。お呼びする必要はありますか…?」
【ウィル】「………………。……いや、ない。」
 どうやら、……さっそく、何かの座興が始まっているらしい。ウィルは面倒臭そうに頭を掻きながら、辺りをじろりと見回す。
【理御】「……失礼ですが、貴方様は、故人とはどのようなご関係で?」
【ウィル】「まったく何もねェ。……迷惑な話さ。」
【理御】「…………ではあなたは、どうしてこの葬儀に?」
 温和な理御だから、きょとんとした表情で済む。……普通の人間ならとっくに、怪訝な表情を浮かべている頃だろう。
 ウィルは面倒臭そうに頭を掻きながら、理御以外の誰かに向かって不機嫌そうに怒鳴った。
【ウィル】「来たぜ。そろそろ顔を出しやがれ。」
 すでに右代宮家の親族たちは、蔵臼の号令で皆、控え室に移動している。この、黄金の薔薇に飾られた寒々しい広さを持つ礼拝堂には、すでにウィルと理御の二人の姿以外は存在しなかった。
【ベルン】「……よく来たわね。……異端審問官、魔術師狩りのライト。」
 その少女の声は、彼らの後ろから唐突に聞こえた。
メタ礼拝堂
 理御が驚いて振り返ると、祭壇の上に、何処からかフワリと舞い降りた少女の姿があった。
 神聖な、それも葬儀の祭壇の上に、さも当然のように土足で舞い降り、黄金の薔薇を踏み躙る…。
 無論、理御はその少女のことなど知りもしない。……次々と現れる、葬儀と無関係の人間たちの登場に、何が起こっているのかと目を白黒させるのがやっとだった。
【ウィル】「俺はもう引退だ。仕事なら新しいライトに頼みな。」
【ベルン】「いいえ。あなたに頼みたいのよ。この事件を。……送った“物語”は読んでくれたかしら…?」
【ウィル】「……斜め読み程度にはな。」
【理御】「あ、貴方がどなたか存じませんが、そこから降りて下さい。そこは神聖な祭壇ですよ。」
 理御は我に返り、少女に祭壇から降りるように言うが、当の少女はまったく意にも介さない。そしてウィルも、理御などまったくどうでもいいかのように、少女との話を続けていた。
【ウィル】「理御とか言ったな。こいつは何者だ。」
【ベルン】「その子が名乗った通りよ。」
 右代宮、理御。そのような名の人物が登場した例は、過去のゲームにない。
【ウィル】「お前の駒なのか。」
【ベルン】「いいえ。このゲーム盤の、正しく正当な駒。登場人物よ。」
【ウィル】「ゲームマスターはお前だ。なら、お前の駒だろう。」
【ベルン】「くすくす……。……ベアトの猫箱より、もっと大きな猫箱で閉ざしただけよ。理御は、その中で生まれ得る可能性を持つ、一つの駒。」
【ウィル】「………そういうことか。……結局、お前の駒というわけだ。」
【ベルン】「私が置いた駒、という意味では正しいわ。」
【ウィル】「ただし、ヱリカのような配下の駒ではない、ということか。」
【ベルン】「……ヱリカって誰? ……くすくすくす。」
【ウィル】「…………………。」
【理御】「……ヱリカ、さん? ????」
【ウィル】「理解しようとするな。頭痛にならァ。」
 理御には、彼らが何の話をしているのか、さっぱり理解できない。しかし、面識さえない彼らが、右代宮家の内情について詳しく知っていることは、間違いなさそうだった。
【理御】「わ、私には貴方たちが何の話をしているのかわかりません…。とにかく、そこのお嬢さん。その祭壇から降りて下さいっ。右代宮家、次期当主としてお願い申し上げますっ。」
 平然と祭壇に土足で立って会話を続ける少女に、とうとう理御も声を荒げる。だが、当の少女はまったく意にも介さない。しかし、ウィルはわずかに反応を見せた。
【ウィル】「………次期当主は蔵臼のはずだ。」
【理御】「父、蔵臼は、私が二十歳になるまでの間の当主代行です。二十歳になると同時に、次期当主である私が、当主を継承することになっています。」
【ウィル】「初耳だ。証拠はあるのか。」
 温和な理御も、さすがにそろそろカチンと来たようだった。その穏やかな表情の眉間が、少しだけ歪む。
【理御】「これは次期当主に許されている、片翼の鷲の、銀の指輪です。これで証拠になりますか?」
【ウィル】「………銀の指輪? 金の、当主の指輪は何度も登場したが、次期当主の、銀の指輪など初耳だ。……蔵臼も朱志香も、そんなものを指に通していた記憶がねェ。」
【ベルン】「くすくす……。嬉しいわ。斜め読みにしてはちゃんと読んでくれてるじゃない。」
【ウィル】「魔女の寄越す文章は、どこにろくでもねぇことが書いてあるか、わかったもんじゃねェ。ましてやそれが、元老院の大魔女と来りゃあな。」
【理御】「あ、……貴方がたは、……一体、何者なんですかっ?! 失礼だが、私には何の話をしているのか、さっぱりわかりませんっ。故人への献花がお済でしたら、どうぞお引取りを。どうやら貴方がたは、当家がお持て成しすべき方々ではないようです。」
 理御の堪忍袋の緒も、とうとう切れる。温和な理御なりの、最大限の厳しい言葉がぶつけられた。しかし、ウィルと少女には、まるで蛙の面に水という感じだ…。
【ウィル】「俺も、来たくて来たわけじゃねェ。」
【ベルン】「時間の無駄だから話を進めるわ。……ライト。このゲームに挑みなさい。ゲームマスター、ベルンカステルの名において、このゲームにあなたを招待してあげるわ。」
【ウィル】「お断りだ。」
【ベルン】「どうして?」
【ウィル】「俺ァ、もう引退する身だ。……推理もミステリーも知ったことか。」
【ベルン】「何をして余生を過ごすというの? 魔術師狩りのライトが魔女狩りを辞めて。」
【ウィル】「……狐狩りでも潮干狩りでもするさ。俺がここに来たのは、あんたと余生を語るためじゃねェ。」
【ベルン】「断るために来たと?」
【ウィル】「ご賢察いただき、光栄の極みと知り給え也や……。」
【ベルン】「なら、好きにしたらいいわ。どこへでも行けばいい。……ただし、ここから立ち去れればの話だけれど。」
【ウィル】「……………………ち。……それで。条件と報酬は。」
 ウィルは、実際は最初から、諦めている。あの大ベルンカステル卿の誘いを、断れる権利など、あるはずもないのだから。
【ベルン】「“ベアトリーチェを殺したのは誰か”。それが私のゲームよ。報酬は私に対するその無礼な口の利き方を許すことと、この礼拝堂を立ち去る権利。」
【ウィル】「退屈を愛さない魔女は、ぞんざいな言葉を愛すると聞いたぜ。」
【ベルン】「それは千年を生き飽きたババァ魔女の話よ。私はまだまだ若いから、あんたみたいな言葉遣いの男を、どんな過酷な運命に閉じ込めてやろうかと夢想することを愛するの……。」
【ウィル】「……ち。それで? 敵は誰だ。」
【ベルン】「いないわ。妨害などするわけもない。このゲームを、あなたが美しく詰めるところを、ただ私たちは観劇したいだけ……。仲間も用意する。それが、その理御よ。」
【理御】「……?」
 唐突に自分の名前が出され、理御は再び眉間を歪める。とにかく事情がわからず、勝手に話が進んでいるようで、実に不快なようだった。
【ベルン】「理御は右代宮家の人間。右代宮家の誰とも面識のないあなたには、心強い味方となってくれるでしょう。」
【理御】「……何の話かわかりかねますが、事情のわからない話には、何もご協力は出来かねますよ。」
【ウィル】「だそうだ。……頼もしい限りだな。」
【ベルン】「私と、……我が主を楽しませなさい、魔術師狩りのライト。……アウアウは行儀のいい観劇者だけれど、私は退屈すると、ポップコーンを投げつけたりしちゃうかもね…?」
【ウィル】「…………………………。」
 ウィルは不機嫌そうに頭をばりばりと掻く。まったく乗り気ではないが、……ベルンカステルの命令に逆らえないことも、もはや理解できているようだった。
 そして、再び棺に近付き、黄金の薔薇で埋まったその中身を見ろというような仕草をしながら言う。
【ウィル】「ベアトリーチェ殺人事件の依頼とのことだが。ヴァンダイン二十則、第7則。死体なき事件であることを禁ず。
【ベルン】悪魔の証明ね。棺にないだけじゃない? 死体が存在しないことをあなたが証明できない限り、これはミステリーよ。
【ウィル】第1則。手掛り全ての揃わぬ事件を禁ず。
【ベルン】安心なさい。全てはここに揃っている。
【ウィル】「…………………………。」
 ウィルの不満げな表情は相変わらずだが、……とりあえずの体裁が整っていることは確認できたらしい。
 ……奔放にて移り気で残忍な元老院の大魔女に呼びつけられたという時点で、異端審問官など、ただの下っ端役人扱いだ。元より、断りようなどなかった…。
【ウィル】「………この、空っぽの棺の主を殺したのは誰か。……引き受けてやらァ。ただし、俺の流儀でやらせてもらう。」
【ベルン】「ご自由に。」
【ウィル】「まず最初にすることは、………お前に現状を、理解させることだな。」
【理御】「……それをお願いできると、私もとても助かります。」
 理御は呆れるやら、腹立たしいやら、わけがわからないやらの、不満の感情のシチューみたいな表情を浮かべている。
【ウィル】「来な。……実際に見た方が早ェ。」
【理御】「……いいでしょう? お供しましょうとも。」
 ウィルは理御に、ついてくるように顎で合図して、勝手に踵を返す。理御は不満げな鼻息をひとつ漏らしてから、何をどう説明してくれるか見物だとばかりに、その後を追う。
 ……礼拝堂から出て行こうとする二人を見送りながら、……ベルンカステルは冷酷な笑みで声なく嘲笑う。
【ベルン】「………尊厳なる観劇と戯曲と傍観の魔女、フェザリーヌ・何とか・アウアウローラの巫女にして奇跡の魔女、ベルンカステルの名において、このゲームの開始を宣言するわ。」
【ベルン】「……物語のタイトルは、“黄金の魔女のレクイエム”。……ベアトの葬儀に相応しい物語を、紡ぎなさい。……くすくすくす。さて、どんなハラワタを引き摺り出してくれるやら。」
 二人が礼拝堂から出るのを見届けて。ベルンカステルの姿は現れた時と同様に、虚空にふわりと溶け散って消えた。くすくすけらけらと、不快な笑い声だけを残して……。
礼拝堂前
 外は、相変わらず雨が降り続けている。客人と次期当主が姿を現したことに気付くと、受付の嘉音は深々とお辞儀する。
 差出人はベルン。ゲームマスター権限により、嘉音もその名前を認識している。
【理御】「……ご苦労様です。休んで結構ですので、外してもらえますか? えっと、…………。」
【嘉音】「……………嘉音です。畏まりました。」
 嘉音は最敬礼してから、姿を消す。
【ウィル】「下々の名前までは、いちいち覚えていないってか。」
【理御】「……当家には若い使用人が大勢出入りしており、入れ替わりも頻繁ですので。さて。何をどう理解させてくれるのですか? 貴方様は何者で、当家にどのような御用がおありで? もちろん、納得させてくれなくて構いません。このままお帰りいただければいいだけですので。」
【ウィル】「もう帰れねェのさ。俺も、……誰もな。」
【理御】「もういい加減にしてくれませんか? そのよくわからない煙に巻くような喋り方はっ。私にだって我慢の限界というものがあります。私では見送りにならないというなら、源次と郷田にお送りさせてもいいのですよ?」
【ウィル】「騒ぐな。………こいつを見てろ。」
【理御】「見ればわかります。葬儀用の薔薇です。まさか手品でも見せてくれるおつもりで?」
 ウィルは受付の上に並べられた献花用の薔薇の1本を取り、タネも仕掛けもありません、とでも言うかのように理御に見せ付ける。
 そして、それをおもむろに振り上げた。
【ウィル】「……見てろ。」
【理御】「えぇ、見てますよ? 鳩でも飛び出すんですか? それともクラッカーと万国旗にでも? ………え?」
 ウィルは薔薇を放る。
 それは放物線を描いて飛び、……風雨の中、水溜りに落ちると、誰もが想像しただろう。それを裏切るから、理御は絶句する。
 ウィルの放った薔薇は、確かに投げられた時には、普通に放物線を描いた。ぴゅうっと、素早く飛んだはずだった。
 しかしそれが、ひさしを出て、風雨の中に飛び出そうとする辺りで、……まるで水飴の中にでも飛び込んだかのように、どろりと風雨の中空に突き刺さり、停止したのだ。
 それだけではない。宙に浮いたままの薔薇は、美しい黄金の花びらをどんどん、どんどんくすませていき、……やがて消し炭のような、真っ黒な屑になってしまった。
 そして、そうなってもなお、まだ宙に止まり続けていた……。
【理御】「……これは、何の手品ですか? ………ッ、」
【ウィル】「動くな。」
 理御は、宙になおも止まり続けている薔薇の屑に触れようと近付いた。それをウィルが乱暴に腕で遮って静止する。まるで、ここを出れば死ぬぞ、と言わんばかりだった。
【ウィル】「……この礼拝堂がカケラから切り離されたんだ。この礼拝堂は今、濃縮された時間の渦に閉じ込められている。」
【理御】「それは、……どういうことですか…!」
【ウィル】「………面倒臭ェから端折る。つまり、さっきの魔女のゲームに付き合わねぇ限り、誰もここから出られねェ。」
【理御】「な、……何ですって…?! もう葬儀は終わっています! お屋敷やゲストハウスに戻りたい方々もいらっしゃるでしょう。こんなことは困りますっ。」
【ウィル】「恨むならあの魔女を恨め。俺も帰れなくて、いい迷惑だ。」
【理御】「あの少女はあなたの友人でしょう?! この変なのを止めさせて下さいっ。」
【ウィル】「あいつは今頃、ポップコーンのバケツでも抱いて観客席だろうよ。呼んだって現われねェ。」
【理御】「わ、わけがわからないッ!!」
 その短い一言が、理御の全ての感情を語り尽くしていた。
 しかし、ウィルが放った薔薇が、風雨の闇の中で一瞬で朽ち果てるのを目撃した。……試しに、自分も薔薇を取り、放って試すが、結果は同じだった。薔薇を瞬時に朽ちさせる恐ろしい何かを、自分の身で試そうとは夢にも思わない……。
【ウィル】「ここから解放される方法はただ一つ。……ベルンカステルのゲームに付き合うことだけだ。」
【理御】「……ベアトリーチェを殺したのは誰か、……でしたか?」
【ウィル】「そいつを調べろと仰せだ。お前がそれを聞かせてくれりゃ、話は早い。……気まぐれ魔女は大満足。お前は厄介払いが出来て、俺は帰ってダイアナとデートだ。……あまり待たせ過ぎると、またソファーをズタボロにしちまわァ。」
礼拝堂
【理御】「ベアトリーチェを殺したのは誰か、なんて……。葬儀に押し掛けて、遺族に聞くこととは思えませんね。」
【ウィル】「遺族に聞き込みはミステリーの基本だ。諦めろ。……ベアトリーチェってのは、当主金蔵の愛人だってのはわかってる。」
【理御】「…………………。貴方は本当に不思議な人だ。……どうしてそこまで、当家のことをご存知なのですか。……やはり、当家に縁のある方なのでは…?」
 ウィルが右代宮家のことを詳しいのは、ベルンカステルがこれまでのカケラを全て見せてくれたからだ。もちろん、右代宮家と縁などあるわけもない。そもそも、彼らの存在する階層さえ、異なる。
【ウィル】「しかし、ベアトリーチェはだいぶ昔に死んでいる。源次の証言では、屋敷の竣工前に死んでるってことになってるが、死んだ理由は明らかじゃねェ。………正直なところ、“殺された”ってのは初耳だ。……聞かせてくれ。」
【理御】「………私の名は、右代宮理御と申します。」
【ウィル】「ウィラードだ。ウィルでいい。」
 初めて、ウィルは理御に名乗る。互いの自己紹介をようやく終え、理御にとっての、対等な対話のための禊ぎは済まされる。
 ……しかしながら、理御は深く溜息を漏らし、曖昧な笑みを浮かべながら、風雨の空を見上げた。
【理御】「ウィルさん。」
【ウィル】「ウィルでいい。俺も理御と呼ぶ。」
【理御】「……ウィル。正直なところ、……私にも、ベアトリーチェという人物のことが、よくわからないのです。」
【ウィル】「……………なるほど。一応、ゲームにはなるわけか。」
 理御が全てを教えてくれて、自分の出番はなく真相を究明……。やはりそう甘くはないようだった。
【理御】「ベアトリーチェの名と姿を、右代宮家に出入りする者で、知らぬ者はないでしょう。」
【ウィル】「大広間にでかい肖像画が飾ってあるからな。肖像画の掲示は、1984年の4月だ。」
【理御】「本当に貴方は、……どうしてそんなことまで。……やれやれ。それを疑問に思うのも、もう止めることにします。どうせ貴方にまた、煙に巻かれるんですからね。」
 理御は本家に住む、次期当主。普段から、金蔵の相手をすることが多かった。なので、気難しい相手や、会話が噛み合わない相手とのやり取りには慣れがあったに違いない。
 瑣末なことは気にするだけ無駄だと割り切り、正体不明の男、ウィルと、まるでずっと前からの友人であるかのように、自然と振舞えてしまうのだった……。
【ウィル】「誰もがベアトリーチェを知っている。なのに、誰も知らねェ。会ったことがあるのは、当主金蔵だけだ。」
【理御】「……当主様は、今日は特にお心が不安定でいらっしゃいます。タイミングを見て、私が紹介しますので、なるべく慎んだ態度でお願いしますよ、ウィルさん。」
【ウィル】「話が早ェな。……てっきりもっと、非協力的かと思ってたぜ。」
【理御】「長年、当主様のお相手をしていると。大抵の理不尽な事態とは、ある種の諦めを持って接することが出来るようになりますので。」
 ベルンカステルによる、礼拝堂を外界から隔離する“結界”。それを解くには、“ベアトリーチェを殺したのは誰か”を探らなければならない。金蔵に大抵の大騒ぎを付き合わされた理御にとっては、それだけが理解できれば、充分な話だった……。
 ウィル曰く、ここは「いくつかのカケラが継ぎ接ぎして作られた、まともじゃない世界」。理御のカケラに嘉音はいない。

楼座の告白

礼拝堂・控え室
 控え室には、右代宮家の親族たちがそれぞれに寛いでいた。バイキング形式の軽食が準備されているが、少し干からびていて、食欲はそそらない。
 それでも、食欲旺盛な子供たちには魅力的らしい。真里亞を中心に、いとこ勢がそこで車座になっている。親兄弟たちも、別の一角で車座になっている。
 金蔵の姿がないこともあってか、わずかにではあるが、弛緩した雰囲気だった。
【夏妃】「……理御。どこへ行っていたのですか? ……そちらの方は。」
【理御】「母さん。お客様のお相手をしていました。ウィル、こちらは母の夏妃です。」
【ウィル】「紹介はいらねェ。ただ、話を聞かせてくれりゃいい。」
【夏妃】「え? 何か仰いまして?」
【理御】「いいえ、何も。こちらはウィルさん。故人に縁ある方だそうです。」
 理御は笑顔でさらりと、ウィルの暴言を流させる。
【理御】「彼は、ベアトリーチェのことを、より詳しく知りたがっています。……母さんは、ベアトリーチェについては、何かご存知ですか?」
【夏妃】「……………………。……理御。故人は、当主様のかつての恩人です。そして、それ以上でもそれ以下の関係でもありません。この葬儀は、当主様が故人への生前の恩を報いるためのお式。そう聞いていますし、それ以外のことは何もありません。」
【理御】「……ありがとう、母さん。ウィル、母が知っていることはこれだけです。」
 夏妃は、尊敬する金蔵にベアトリーチェという妾がいたという醜聞に対し、とても否定的だ。しかし、その醜聞は恐らく事実だろうとも理解している。
 それ以上、この話をしたくないという母の不機嫌を敏感に感じ取り、ウィルが次なる暴言を口にしない内に、話を綺麗にまとめて切り上げた。
【理御】「ウィル。この礼拝堂は、当家の敷地内です。」
【ウィル】「当家のルールに従えってか。」
【理御】「当家の客人に相応しい口調に改めていただく。話は全て私を介していただく。その2つを守っていただけるよう、お願い致します。」
【ウィル】「努力すらァ。」
【理御】「……あの、ベルンカステルとかいう魔女に巻き込まれて、大いに迷惑です。ですから、私も協力はします。しかし、貴方と私の立場は対等ですので、それをお忘れになりませんよう。」
【ウィル】「育ちがいいだけのお坊ちゃんだと思ってたら。なかなか言うな。」
【理御】「これでも。右代宮家の未来を背負う覚悟はありますので。」
【ウィル】「………わかった。仲良く事件を解決しようぜ、ワトソン君。」
【理御】「ご協力いただけて嬉しいです。愛猫のダイアナを待たせないためにも。エサの時間は大丈夫ですか?」
【ウィル】「今日は山盛りにしてある。多少は大丈夫だ。………よく、ダイアナが猫のことだとわかったな。」
【理御】「ソファーを引っ掻いて待ち侘びる女性というのも、少々個性的が過ぎると思いましたので。」
【ウィル】「……ふむ。」
【理御】「それで? まずは誰に話を?」
【ウィル】「誰でもいい。全員だ。……あそこにいるのは、蔵臼の兄弟たちか。」
【理御】「向かって、右から絵羽叔母さん、秀吉叔父さん。あちらが、留弗夫叔父さん、霧江叔母さん。そしてあちらが、」
【ウィル】「右代宮楼座か。……少女時代に森を彷徨い、隠し館でベアトリーチェと名乗る女に遭遇した経験を持つ。」
【理御】「……驚くまい、とは思っていますが。本当に貴方は何でも知っている。」
【ウィル】「お前も、その話は知っているのか。」
【理御】「今日、彼女がそう話しているのを漏れ聞きました。……辛そうな話でしたので、聞こえないふりをしましたが。」
【ウィル】「優等生だな。……紹介してくれ。話を聞きたい。」
【理御】「辛そうな話でしたので、聞こえてないふりをした優等生の、私に?」
 その傍若無人ぶりも、金蔵に比べれば可愛いもの。理御は心の中で繰り返しそう呟き、肩を竦める仕草だけを見せて、ウィルに頷いた。
【絵羽】「あら、次期当主さまじゃない。そちらの方は……?」
【理御】「あぁ、絵羽叔母さん。こちらはウィルさん。故人のために献花に訪れてくれました。」
【ウィル】「んなことはどうでもいい。ベアトリーチェについて知って、……んぐっ、」
【理御】「故人と右代宮家のかかわりについて、お話を聞きたいと言っています。」
 ウィルのおしりを抓りながら、理御はにこやかな笑顔で告げる。お約束にしても痛ェだろとウィルは無言で抗議するが、理御は優等生のような笑顔で、知らないふりをして絵羽に微笑む。
【絵羽】「右代宮家とのかかわり、……って言ってもねぇ?」
【秀吉】「右代宮家とっちゅうより、お父さんとのかかわりっちゅうべきやろな。」
【留弗夫】「正直に言えばいいのさ。親父の愛人、ってな。」
【霧江】「愛人なんて言うと、また夏妃姉さんに怒られるわよ。恩人、でしょ? くす。」
【秀吉】「そやな。わははははは。」
【理御】「……こんな具合ですが?」
【ウィル】「楼座以外には興味ねェ、んぐッ、」
【理御】「楼座叔母さんは、……確か、ベアトリーチェに会ったことがある、と。」
【楼座】「……………………。」
 楼座は、ずっと俯いていた。そして、理御の言葉に、ぴくりと肩を揺らす。
【絵羽】「今日になって、急に言い出したのよぅ。ちょっと信じ難い話だわ。」
【楼座】「本当なのよ…! ベアトリーチェは、私が殺したのッ!」
【ウィル】「事件解決だな。」
【理御】「早計です。」
 楼座は、わっと泣き崩れてテーブルに伏せた。霧江と秀吉が慰める……。
【絵羽】「六軒島は鬱蒼とした森に包まれてる。私たちが知っているのは、そのうちのごくわずか。屋敷と薔薇庭園。そして船着場に向かうちょっとした林道だけ。」
【留弗夫】「誰も知らない広大な森のどこかに、親父が隠れ屋敷を作って、愛人を住まわせてるんじゃないかって話は相当の昔からあったんだ。」
【秀吉】「楼座さんは、多分、その隠れ屋敷に偶然、辿り着いてしまったっちゅうんやろな……。」
【理御】「しかし、どうして楼座叔母さんは、ベアトリーチェを殺した、などと…?」
【楼座】「私が連れ出さなければ、彼女は死なずに済んだわ…! 彼女は無垢な、ヒヨコのような人だったわ。私が連れ出したから、素直について来た! 何も疑わずに、私の後をぴったり付いてきて…! 私があんな足場の悪いところを歩かせてしまったから…!!」
【ウィル】「お前は、崖から足を踏み外すことを期待して、そこを歩かせたのか。」
【楼座】「そんなつもりはなかった! ただ、海が見たいと思って…! うぅん、歩き辛そうだったから、下に降りれば少しは楽になるかなと思って…!!」
【ウィル】「それは殺したとは言わねェ。事故だ。」
【楼座】「私が連れ出さなければ遭わなかった事故よ?! 私のせいなの!! それに私は、血塗れの彼女を見捨てて逃げ帰ってしまった!!」
【ウィル】「あんたのせいじゃねェ。ベアトリーチェは、海を一度も見たことがなかった。……それを、あんたが初めて見せたんだ。つい浮かれて、一歩、踏み外しちまったんだろ。」
【楼座】「……ど、どうしてあなたはそれを…?」
【ウィル】「ベアトリーチェはあんたに感謝こそすれ、恨んでるわけもねェ。」
【楼座】「……………………。そうかしら、……本当に、…そうなのかしら…。」
【ウィル】「柵の外の世界へ出たいと懇願したのは彼女だろ。お前はその夢を、束の間だけ叶えたんだ。俺がベアトリーチェなら、その束の間の時間をお前に感謝するだろうよ。なのにお前が、いつまでも苦しんでると知ったら、申し訳なく思うだろう。」
【ウィル】「……ベアトリーチェは、お前に感謝してる。海が青いってことを、教えてくれたあんたをな。」
【楼座】「………それは、……本当に………?」
【ウィル】「俺が保証する。」
 ウィルは堂々と、そう断言して見せる。
 その言葉が、楼座にどう受け取られたかはわからない。しかし、……楼座に、懐からハンカチを取り出して目元を拭うことを思い出させることは、出来たようだった。
【楼座】「……ありがとう。」
【ウィル】「その言葉は、ベアトリーチェが今も、あんたに囁いてる。」
【楼座】「……………ありがとう……。」
 楼座はもう一度ハンカチで目元を拭い、俯く。嗚咽ではなく、自分の心の中でもう一度、あの日のベアトリーチェに語り掛けているような、……そんな仕草だった。
【理御】「……よくも、そんな無責任な言葉を、堂々と掛けられるものです。」
【ウィル】「責任がなけりゃ。女を慰めることも出来ねぇのか。」
【理御】「……………………。多少は、見直しました。」
 どれほど長い年月を、楼座は苛まされてきたというのか。今、楼座は初めて。……海を初めて見た時の、あの無邪気な笑顔のベアトリーチェと、再会しているだろう。
 楼座を許せるのは、彼女だけだ。その彼女と、楼座はようやく対話を始めることが出来る……。
【楼座】「……どなたか存じないけれど、ありがとう。……彼女は私を、許してくれるかしら。」
【ウィル】「あんたは20年近くもそれを悩んだ。長過ぎだ。彼女はもう勘弁しろと言ってらァ。」
【理御】「……そうですよ、楼座叔母さん。あなたが悲しめば悲しむほど、きっと、ベアトリーチェも悲しむでしょう。」
【楼座】「…………あなたまで…。ありがとう。……私には、私が許されるかどうかわからないけれど。……彼女が許してくれるかどうか、胸の中で問い掛けてみることにするわ。……二人とも、ありがとう。恥ずかしいところを見せて、ごめんなさい。」
【ウィル】「綺麗事を言った舌の根も乾かねぇ内で恐縮だが。……聞かせて欲しい。当時のことを。」
【理御】「………ウィルさんっ。」
【楼座】「ありがとう、大丈夫よ。……話すわ。誰にも話さずにずっと隠してきたことが、私の一番の罪なのかもしれないから。」
【ウィル】「お前がベアトリーチェに出会ったのは、正確にはいつ頃なのか。」
 その問い掛けに、……楼座は薄く瞼を閉じ、思い出したくない過去を振り返る…。
【楼座】「……20年ほど昔の話よ。………20、………いえ、19年前か18年前かもしれない。………ごめんなさい。長いこと、無理に忘れようとしてきたものだから、そこは少し忘れかけてるわ。」
【ウィル】「1967年のことのはずだ。」
 かつて第3のゲームで、ロノウェが赤き真実でそれを確定させている。
【楼座】「そ、そうね……。多分、1967年頃だわ。あの時の出来事は、写真のように鮮明に覚えてる……。忘れられないの……。」
【理御】「辛かったら、無理に話す必要はありませんので。」
【ウィル】「写真のように鮮明に頼む。…………んぐッ。……痛ェぞ、理御。」
【理御】「何のことやら?」
【楼座】「家庭教師が、私の内緒話を母に告げ口していたのにショックを受けて。あの日、私は自暴自棄になって、森の奥へ奥へ、どこまでも駆けていったの。」
 それは過去のカケラでも語られた物語だ。かつて子供だった頃の楼座は、森の奥深くへ入り込み、……隠し屋敷を見つけ、そこでベアトリーチェと名乗る謎の女に出会った……。
【理御】「……ほんの少し、分け入ることすら難しいあの深い森を?」
【楼座】「自分でも驚くわ……。あんな鬱蒼とした森を、よくもあんなに深くまで。……たくさんの梢や鋭い葉っぱで苛まれたわ。」
【楼座】「でも、あの日の私は気にしなかった。……森の奥へ消えることで、永遠に消えてしまいたかったし。……もし、本当に森の奥に魔女の館があったなら、……自分を幸せの国へ連れて行ってくれるか、蛙にでも変えて、森の住人に変えてくれると思っていたから。」
【ウィル】「そしてあんたは、隠し屋敷、九羽鳥庵に辿り着き、そこでベアトリーチェと名乗る女と出会う。」
【楼座】「………えぇ。会ったわ。」
【ウィル】「そのベアトリーチェは、肖像画のベアトリーチェと同一人物だったか。」
【楼座】「……………………。………えぇ。同一人物だったわ。美しい青い瞳。黄金の髪。黒いドレス。まさにあの肖像画通りの人物だった。……私はあの肖像画をお父様が掲げた時、……私が忘れようと足掻いた20年の月日は、お父様にとっても同じ、あるいはそれ以上の日々であったと気付き、さらなる罪に怯えたわ…。」
【霧江】「それ。……本当に楼座さんの出会ったベアトリーチェのことなのかしら?」
 ウィルの疑問を、すぐに霧江が代弁する。
 金蔵が出会ったベアトリーチェと、楼座が出会ったベアトリーチェが同一人物であると考えるのは、早計なのだ。時間。時代が、異なる。
【留弗夫】「ベアトリーチェってのは、戦後すぐの頃、親父に黄金を貸し付けた有閑マダムのはずだぜ?」
【秀吉】「お父さんはベアトリーチェの黄金を元手に、右代宮家を復興して大金持ちになり。そして六軒島を買い取り移住するんや。楼座さんが出会ったのは、それから10年以上も先の話になるで。」
【絵羽】「10tの黄金を自在に出来るご夫人が、小娘程度のわけはない。ましてや、楼座が会った頃には、それからさらに10年以上が経過してる。…楼座。あんたの会ったベアトリーチェはいくつくらいに見えたのよ。」
【楼座】「……当時の私よりは年上に見えたけれど、……それでも、……多分、成人したかどうかという歳に見えたわ。そう、まさに肖像画のベアトリーチェくらいの年齢よ。」
【留弗夫】「中年、あるいは壮年に見えたか?」
【楼座】「大人か子供かって言われたら、明らかに子供に近い年齢だったわ。中年なんて、とんでもない。」
【絵羽】「だから、それじゃおかしいのよ。あんたの会ったベアトリーチェと、お父様に黄金を与えたベアトリーチェ。年齢が合わないのよぅ。」
【ウィル】「つまり、別人ということだ。」
【理御】「よく似た同じ名前の、別人……。」
【秀吉】「娘、かもしれんな。親子なら、よく似とったに違いない。」
【霧江】「愛人の娘……。ありえるわ。黄金を授けたベアトリーチェとの間に、お父さんは隠し子を儲けた。」
【留弗夫】「それが、楼座の出会ったベアトリーチェ二世、ってわけか。……年齢的辻褄は合うな。」
【ウィル】「……………………………。」
【理御】「なるほど……。つまり、ベアトリーチェと呼ばれる人物は、二人いるわけですね。」
 愛人との間に儲けた隠し子を、金蔵は隠し屋敷で密かに育てた。筋の通る話だ。一同は頷き合い、納得する。……しかしウィルは、わずかに釈然としない顔を浮かべ、頭をぼりぼりと掻く…。
【理御】「どうやら、この葬儀は、隠したがゆえに弔うことが出来なかった二人のベアトリーチェのためのようですね……。」
【ウィル】「楼座。思い出したくねぇだろうが、事故の時の話を頼む。ベアトリーチェが転落した時、まだ息はあったのか。」
【楼座】「いいえ。……目を大きく見開いていた。頭から真っ逆さまに落ちて、岩浜の岩の、鋭い角に頭をぶつけて。それも、あの高さから……。…………頭部は陥没して裂けてたわ。……美しい黄金の髪がみるみる内に赤黒く溢れる血に染められて……。」
【ウィル】「一目見て、死んだと確信できる外傷だったのか。」
【楼座】「えぇ。割れた頭の中身を見たわ! それも握り拳大に陥没して…! あれを見て、生きてて欲しいなんて、幾らなんでも虫が良すぎるわ!」
【理御】「……ウィル。それ以上を聞く必要はありますか?」
【ウィル】「事故時はもういい。それからあんたはどうした。」
【楼座】「一目散に駆け出したわ。……誰かを呼びに行くためなんて綺麗事でさえない。………その場から一刻も早く逃げ出したかったの。半狂乱になりながら、涙と荒い息でめちゃくちゃになりながら、でたらめにどこまでも。……そしたら、いつの間にか見知ったライオンの彫像に出くわしたわ。」
【絵羽】「あぁ、礼拝堂の前の?」
【楼座】「いえ、裏のよ。……とにかく、私は屋敷に帰りついた。誰にも話せない、話したくない。私は夜まで黙っていたわ。酷い話よ。急いで誰かに話し、救急箱を持って戻っていたら、彼女を助けられたかもしれないのに……。」
【ウィル】「頭蓋骨陥没を、救急箱の何で救えたってんだ。……お前が殺したわけじゃない。もう気にするな。」
【楼座】「………………………。」
【理御】「それで、……楼座叔母さんはどうしたんですか。」
【楼座】「……ベッドで何度も寝返りをうったわ。眠れなかった。……深夜にこっそり、………源次さんに電話して打ち明けたわ…。」
【ウィル】「……源次は何と言った?」
【楼座】「自分に全て任せ、誰にもこのことは言わないようにと。……後日、きっとお父様に呼び出されてひどく叱られるだろうと、数日の間、怯えたわ。でも、……それはなかった。源次さんはいつものように静々と仕事をする日々。……お父様は相変わらずの書斎篭りで、何もわからない……。」
【絵羽】「少なくとも、私たちの耳には入らなかったわ。」
【留弗夫】「……源次さんが、うまく処理してくれたんだろうな。」
【霧江】「表沙汰に出来ない子だったでしょうからね……。」
【秀吉】「ふぅぅむ……。隠し子っちゅうたって、血をわけた子供や。その葬式もまともに挙げられんかったんなら、そら、お父さんも心苦しかったやろな……。」
【理御】「………それが、この葬儀というわけですね。」
【ウィル】「それから?」
【楼座】「私が知っている話は、これで全てよ。」
【ウィル】「…………………。俺が知っている話も、それで全てだ。」
【楼座】「これ以上、私は何も隠していない。全て話した。……誓うわ。」
【ウィル】「…………………………。」
 ウィルは頭を掻きながら、目線をぼんやりと泳がせる。楼座にとっては決意を伴う告白であっても、ウィルにとっては、そうではない。すでに知っている情報の、再確認になっただけのようだった……。
【理御】「ありがとう、楼座叔母さん。………充分ですか、ウィル? これで話は。」
【ウィル】「充分だ。おさらいになった。」
 ウィルにとって、楼座の回想はすでに知っている話だ。ベアトリーチェの転落死後、屋敷へ逃げ帰った云々の行は初めて聞くものだが、別に驚くべきものではなかった。
 やはり、楼座はこれ以上のことは何も知らないようだ……。ベルンカステルに与えられたカケラ以上のことを知るには、新しい証言を得なければならない。
【ウィル】「理御。金蔵に俺が話を聞きたがってると伝えろ。やはり本人に聞かなきゃ、話は進まねェ。」
【理御】「あなたはどちらへ?」
【ウィル】「……頭を冷やして整理する。ついて来んな。」
【理御】「それは失礼。どうぞごゆっくり。」
 理御は優雅に会釈をしてから、アッカンベ〜と、舌を大きく出す。ウィルの目が背中にない限り、それは彼の目には映らなかった……。
メタ礼拝堂
 ウィルはひとり、礼拝堂に戻ってくる。冷え切った空気と単調な雨の音が、心地良かった。
「……どう、ゲームは?」
 静寂を好んでひとりになったはずなのに。ふぅっとウィルが一息をついた途端に、その声が響いた。
【ウィル】「それは俺が聞くことだ。」
 最初からそこに座っていたかのように。……ベルンカステルは再び、祭壇の上に現れる。ベアトリーチェを悼む祭壇が、よほど座り心地がいいのだろう。
【ベルン】「……戦人は無能で、私を何度もイラつかせたわ。それに比べ、あなたは有能だから、見ていて安心できるわ。」
【ウィル】「右代宮戦人の時と違い、誰の妨害もねェ。気楽なもんさ。」
【ベルン】「もう、そういうゲームは終わったの。物語は二度楽しめるわ。一度目は愛でて。二度目は腹を引き裂いてね。……くすくすくすくす。」
【ウィル】「ちっ。俺を肉屋だと思ってやがる。」
【ベルン】「どう? ベアトリーチェ殺しの犯人はわかりそう…?」
【ウィル】「楼座の告白は過去のカケラですでに知ってる。真新しい情報はない。……進展はゼロだ。」
【ベルン】「くすくすくすくす……。」
【ウィル】「右代宮金蔵が本当のことを喋らねぇ限り、これ以上の展開はねェ。まさか俺が、金蔵を口説き落として真相を告白させるってのも、ゲームに含まれてるとは言い出さねぇだろうな。」
【ベルン】「そんなの退屈で死んでしまうわ。……真実を語らぬ金蔵は、それ自体が城に守られたキングだけれど、あなたのゲームの障壁になってしまっては面白くない…。」
【ウィル】「……拷問はやらねェ。俺の流儀だ。」
【ベルン】「わかってる。ゲームマスターとして、あんたに力を与えるわ。金蔵から真実を得られるようにね。」
 ベルンカステルは土足のまま、棺の中に踏み込むと、献花されている薔薇の一本を拾い、……たんぽぽの綿毛を散らすように、強く息を吹きかける。
 すると一枚の花びらが千切れ飛び、それは黄金色ではなく、透き通った水晶の輝きを帯びながらウィルの方へ舞って来た…。
【ウィル】「“探偵権限”か。」
【ベルン】「ふっ、なぁに、その間抜けな能力。……違うわ。それは観覧席への招待状よ。」
【ウィル】「……“観劇者権限”か。………それを元老院の許可なく与えることは禁じられてるはず。」
【ベルン】「私を。私のゲーム盤で。誰が禁止すると……?」
【ウィル】「…………ふん。」
 その水晶の花びらは、風に舞いながらも、ウィルが受け取るまで、どこへも飛び去らない。ウィルは魔女と議論する無駄さを思い出し、それを引っ手繰るように握り締める。
 すると花びらは一瞬だけ眩く輝き、ウィルの手の平に染み込んで消えた…。
【ベルン】「せいぜい私を楽しませなさい。ついでにあなたも楽しむといい。……この、ベアトリーチェのゲーム盤のハラワタがどうなってるか、あんたも興味があるでしょう?」
【ウィル】「ねェよ。」
 ウィルがぞんざいに答えると、ベルンカステルは耳障りな笑い声を残しながら、虚空に姿を消す……。
【ウィル】「………ちっ。」
 露骨な舌打ちを残し、ウィルは不愉快そうに背中を向ける。……すると、真正面の、外への出口に立つ人影に、目が合った気がした。
【ウィル】「誰だ。」
【紗音】「あ、……し、失礼しました…。声が聞こえたので、ど、どちら様かと思いまして……。」
【ウィル】「紗音か。今度はお前が受付をしているのか…?」
【紗音】「はい。嘉音くんと交代で受付を担当させていただいております…。」
【ウィル】「嘉音は?」
【紗音】「先ほど、………えぇと、……り、理御さまに休みを取るようご命令を賜りましたので、今は休んでおります。」
【ウィル】「………お前も、理御に面識がないのか?」
【紗音】「えっ? ……いえ、そんな、……………。」
【ウィル】「右代宮理御は、銀の指輪を許された次期当主だ。……10年を勤めたお前が、名前を言いよどむのはおかしい。」
【紗音】「そ、……それは…………。」
【ウィル】「安心しな。理御に面識がねぇのは俺もだ。……次期当主は蔵臼のはず。子供も朱志香だけのはずだ。理御なんてヤツが右代宮家にいたカケラなんて、一つもなかったはず。」
 ウィルにも面識がないことを知り、紗音は、はっと顔を上げる。
 自分だけがおかしいわけではないことがわかり、ほんの少し安堵したようだった。……しかしその表情はすぐに、不安なものへと戻る。
【紗音】「こ、ここは、……どこなんでしょう…? 右代宮家の、礼拝堂と思います。……でも、どことなく雰囲気が違います。それに、り、……理御さまという方がおられたなんて、私、全然知りませんでした。……なのに、旦那様も奥様も、……お館様もお嬢様も、親類の皆様も、当り前のようにお話をされています……。何が何だか、……私、わからなくて……。」
【ウィル】「……理御はベルンカステルが置いた駒だ。ヤツを置くために、さらに大きな猫箱に変えたとも言っていた。……それだけでなく、どうもここは、いくつかのカケラが継ぎ接ぎして作られた、まともじゃない世界らしい。」
 さながら、……このゲームのためだけに設けられた特設舞台、ってとこか。……俺のこの独り言に、ポップコーンをボリボリさせながら、笑って頷いてるに違いない。
【ウィル】「この世界のお前は何年、ここに勤めている?」
【紗音】「じゅ、……10年です。」
 なるほど。やはり特設舞台らしいな。
 なぜなら俺は、礼拝堂に入ってすぐに、金蔵の姿を目撃している。
 紗音が勤続10年ということは、この世界はベアトのゲームの舞台である1986年だ。ならば、金蔵が存在していてはおかしい。しかし、さっき確かに金蔵はいた。
 ベルンカステルは、推理のための情報は全てここに揃っていると約束した。その全てを揃えるために、色々と詰め込んだらしいということだろう…。なるほど、確かにこれは特設舞台だ。
【ウィル】「お前はそれだけの長い間、右代宮家に仕えてた。なら、ベアトリーチェのことを、どれだけ知っている?」
【紗音】「……お館様が深く愛された方、くらいにしか…。」
【ウィル】「それだけか。」
【紗音】「あ、あとその、………六軒島の夜の主と言われていて……その…。」
【ウィル】「そうだ。夜な夜な屋敷を徘徊すると囁かれる亡霊の名もまた、ベアトリーチェだ。」
 これで、ベアトリーチェは3人になった。
 1つは、金蔵に黄金を授けたという、30年以上前のベアトリーチェ。1つは、楼座が出会ったという、20年前のベアトリーチェ。1つは、六軒島の夜を支配すると囁かれる、怪談としてのベアトリーチェ。
【ウィル】「……古戸ヱリカの推理は正しいだろう。元々、六軒島に存在した悪霊の伝説。そこに金蔵のオカルト趣味と謎の女、ベアトリーチェの名前や肖像画、碑文が次第に加味されていき、黄金の魔女伝説に統合された。」
【ウィル】「……そして夜の闇が、魔女という人格を得た。それが3人目のベアトリーチェだ。それが、連続殺人犯のベールとなる。」
【紗音】「……え、と、……………。」
 ウィルが唐突に言い出したことが、何一つ理解できないらしい。紗音は何とか相槌を打とうと試みるのだが、難しいようだった。
【ウィル】「無理に理解するな。頭痛にならァ。」
【紗音】「も、申し訳ございません……。」
【ウィル】「嘉音も、理御のことを知らないのか。」
【紗音】「…………はい。嘉音くんも、私と同じでした。」
 紗音と、嘉音、………か。
【ウィル】「…………………。……嘉音も呼んで、二人に話が聞きたい。」
 ウィルのその言葉に、紗音はきょとんとした顔で、目を見開く。
【紗音】「申し訳ございません。受付を空けることは許されておりませんので、私には呼びに行くことが出来ません。」
【ウィル】「なら、誰か代わりを呼んできて受付を代わらせる。あんたと嘉音と俺。……理御を知らない三人で、一緒に、話がしたい。」
【紗音】「…………………………………。」
【ウィル】「……………………………。」
【紗音】「……受付は1人でいいと、仰せつかっております。」
【ウィル】「2人いちゃいけねぇとは言われてねぇはずだ。」
【紗音】「本日は人手が足りませんので、受付に2人も不要と仰せです。」
【ウィル】「誰がそう命じた。金蔵か。蔵臼か。それとも理御か。確認する。」
【紗音】「私の、命令権者です。私は命令に、逆らえませン。」
【ウィル】「その命令権者は誰だ。そいつに交渉する。」
【紗音】「交渉など、デキマセン。私たチの、命令権者デス。」
【ウィル】「ここへ嘉音を呼べ。……俺は拷問も観劇も嫌ェだ。」
 ウィルはゆっくりと、……ポケットから右手を引き抜く。
 その右手の拳をゆっくり開くと、………そこには、小さく眩しい輝きが放たれている。ベルンカステルが与えた、あの花びらが光る痣となって、輝いている……。
その手を紗音にかざし、……ゆっくりと近付いていく。
【ウィル】「嘉音を呼べ。お前たちに確かめたいことがある。」
【紗音】「オ呼ビデ キマセン。ソレデモナ オ、ソレヲゴ希望デ スカ……?」
【ウィル】「呼ばねぇなら、お前を“観劇”する。」
【紗音】「ドウシ テモト仰 ルノデシタ ラ、……特 別ニオ 呼ビス ルコ トモ出 来マ ス  ガ   ?」
【ウィル】「…………………………。」
【紗音】「               。」
 二人の間に、理解不能な緊張が張り詰める。
 ウィルは、左手をポケットに突っ込んだまま、輝きを見せる右手の手の平をかざして立つ。
 紗音は、両手を行儀良く前で組んだまま、……美しい姿勢でただ、立っている。なのに、……風雨の雨粒が、宙で弾けるような錯覚さえ、覚えてしまう……。
 「全ゲームの開始時に金蔵はすでに死んでいる」。しかしここは最初から準メタ世界なので、この赤に関係なく金蔵を登場させることができる。EP8も同様。
【紗音】「嘉 音ク  ン  ヲ、 呼  ンデ マ イリマ   ス ガ。 ヨ  ロ シ イデ      ス    カ      ?」
【ウィル】「……………………………。」
 ウィルの顔は、最初から何も変わらない。紗音の顔も、やさしく、穏やかなままだ。なのに、緊張感が、凍結した湖面のように張り詰める…。
 ……チェスの初心者は時に、不注意にも、相手の射線に気付かずに、そこへキングを動かしてしまうことがある。
 それを容赦なく取っても良いが、……上級者はそれをさり気なく教えてやるべきだ。もう一歩、踏み込むと、……取られてしまいますよ、と。
 これは、……それに、……似る………。
【ウィル】「……………………………。」
 ……なるほどな。やはり、か………。
【ウィル】「もうわかった。充分だ。………二人で交代で、受付を頼む。」
 ウィルは、ゆっくりと、……かざしていた手を下げる。
【紗音】「ご理解いただけまして、助かります。」
 ウィルの手の平の輝きはゆっくり失われる。まったく理解の出来ない緊張も、角砂糖が溶けるかのように、……ゆっくりと溶けて形を崩した。
 でも、最初から何も変わらない。ウィルの表情も紗音の表情も、……最初から何も変わらない。
【理御】「おや、お帰りですか?」
 足音が近付いてくる。理御だった。
【ウィル】「立ち話をしていただけだ。こいつに、聞きたかったことがあったんでな。」
【紗音】「……それは何でしょう。そしてそれは、得られましたか?」
【ウィル】「…………………。あぁ。」
【紗音】「お役に立てて、光栄です。」
【ウィル】「……………………。」
【理御】「それは残念。傘をお探しのようでしたら、すぐにでもご用意させましたのに。」
【ウィル】「金蔵に話はついたのか。」
【理御】「……珍しい客人が、挨拶をしたがっていると伝えました。お会いするそうです。」
【ウィル】「ベアトリーチェのことを聞きたいとは、伝えたのか。」
【理御】「それはあなたの仕事でしょう?」
 ちょっぴりだけ意地悪そうな表情を見せて、理御はそっぽを向く。ウィルは面倒臭そうに、頭をばりばりと掻きながら肩を竦める。
【ウィル】「………まぁいいさ。こいつを試すだけの話だ。」
 ウィルは右手を開いて、理御に見せる。何の変哲もない、ただの右手。それを見せる仕草に何の意味があるのか、理御は小首を傾げなければならなかった。
【理御】「ご苦労様です。……えぇと、……君の名前は確か……。」
【紗音】「紗音です。」
【理御】「そうだった、紗音でしたね。引き続き、受付をよろしく頼みます。肩を冷やさないように。」
【紗音】「ありがとうございます、理御さま。」
 理御の気遣いに、深々と頭を下げる紗音。そこには、先ほどの緊張感など、微塵ほどもなかった…。
【理御】「参りましょう、ウィル。せっかく時間を頂けたのです。……当主様の機嫌は、秋の空より変わりやすいですよ?」
【紗音】「行ってらっしゃいませ。」
【ウィル】「………行くか。」
 ベルンの意図により、この世界でも紗音と嘉音の同時存在は許されていない。
 したがって、ここで紗音が嘉音を呼んできた場合、それでも辻褄を合わせるには、ウィルを殺すことで幻想描写の条件を成立させるしかなくなる。
 紗音(あるいは紗音に喋らせているベルン)は、どうしてもと言うならあなたが死ぬ筋書きになってしまいますよ、と警告しているわけである。

右代宮金蔵

礼拝堂・貴賓室
【理御】「ウィラードさんをお連れしました。」
【ウィル】「……………………。」
 貴賓室には、金蔵と源次の姿があった。金蔵は深々と椅子に腰掛け、不機嫌に眠っているかのように目を瞑っている。
【源次】「……お館様。お客様がお見えになりました。」
【金蔵】「…………………………ん。」
 金蔵はゆっくり目を開ける。……その目は、泣き腫らして赤くなっていた。その目に焦点が戻り、ゆっくりとウィルを捉える。
【金蔵】「……私が、右代宮金蔵である。」
【理御】「……ウィル。」
【ウィル】「ウィラードだ。お悔やみ申し上げる。」
【金蔵】「……ベアトリーチェの葬儀に尋ねてくるとは。……そなたは何者なのか。」
【ウィル】「誰でもない。誰とも関係ない。深く考えるな。頭痛にならァ。………痛ッ。」
【理御】「もう少し、言葉遣いにご注意をお願い致します。(ニコリ)」
【金蔵】「……ふっ、おかしな客人だ。それで? この私に何用か。」
【ウィル】「ベアトリーチェのことを聞きたい。」
【金蔵】「何………………?」
 金蔵の目つきがぎょろりと険しくなる。理御は、あぁどうしてこの人はつくづく単刀直入なのかと、眩暈を起こす。
【金蔵】「聞いてどうする。お前は誰でもないのであろうが。ベアトリーチェのことを知ってどうするという。何の意味があるというのか。」
【ウィル】「俺が、誰でもないからこそ。お前の物語を公正に聞き、残すことが出来る。お前は直にこの世を去るだろう。その時、ベアトリーチェのことを何も語らずに死んだなら、お前の子供たちは、彼らが好き勝手に考えた物語でベアトリーチェを修飾し、記録に残すだろう。」
【金蔵】「ふ、はっはははははははは! 面白い若造だ。お前は遺言屋を気取ろうというわけか!」
【金蔵】「だが、それは余計なお世話というものよ。ベアトリーチェは、私だけのベアトリーチェだ。誰が何を語ろうとも、私とあれの物語は、誰にも汚せぬ。何の意味も持たぬ! 蔵臼たちがどう曲解しようとも、痛くも痒くもないわッ。」
【源次】「……ウィラードさま。お館様は遺言を好まれません。生きているうちより、何事かを投げ出すお方ではございません。」
【ウィル】「……だろうな。らしからぬこととは思っていた。」
【金蔵】「生ある限り足掻いてこそ人間であろうが! それを早々に諦め遺言に残そうという浅ましさなど笑止千万!」
【ウィル】「確かに、その方がお前らしい。……死ぬかもしれないから、過去語りを記せと言い出すのは、確かにお前の柄じゃねェ。」
【理御】「……当主様が、ベアトリーチェさまのことを、深く深く愛しておられたことは存じ上げております。私たちにとって、当主様は最大の尊敬の対象であるとともに、生きる全ての模範です。どうか、迷える私たちのために、如何にしてお祖父さまが彼女を愛し抜いたか。愛ゆえに生き抜いたか。……その愛の強さを、私たちにお導き下さるようお願いすることは出来ないでしょうか…。」
【ウィル】「なかなか達者だ。」
【理御】「あなたが言葉を選ばないからですっ。」
【金蔵】「若造。お前はベアトリーチェの何を知っているというのか? 真に無知なる者は関心さえ持たぬ。ベアトリーチェの名を知っている時点で、無知なる者ではなく、縁なき者でもない。」
【ウィル】「道理だな。……俺が知っているベアトリーチェは、お前がかつて、六軒島に屋敷を設ける以前に出会った、最愛の女だ。しかし、恐らくは死別して、娘を残した。それが九羽鳥庵で育てられていた娘だ。」
【金蔵】「………ほう。」
【源次】「ウィラードさま。当六軒島には、九羽鳥庵なる建物は存在いたしません。」
【理御】「……その九羽鳥庵という名前、……さっき楼座叔母さんと話した時にも、口にしていました。……それは一体、何なんですか?」
【ウィル】「察しはついてるはずだ。愛人の娘を囲う、六軒島の森、奥深くにある隠し屋敷の名だ。」
【金蔵】「面白い。……九羽鳥庵の名を知ろうとはな。……続けよ、お前に興味が出たぞ。」
 金蔵は肩を竦めながら、にやりと笑う……。
【ウィル】「九羽鳥庵にいたのは、ベアトリーチェの娘だろう。だが、少なくともお前は、そうは思っていなかった。」
【金蔵】「ほう。……ならば、何だと思っていたというのか。」
【ウィル】「右代宮楼座は九羽鳥庵にて、多少の身の上話を交わしている。……その中で、ベアトリーチェはお前のことを指して、金蔵と呼んでいる。これはお前を前にしても同じだ。彼女はお前を父と思っていると言ったにもかかわらず、父とは呼んでいなかった。……呼ばなかったのか、呼ぶことは許されなかったのか。それが意味することは、一つしかない。」
【金蔵】「それは何だと言うのか……。」
【ウィル】「生まれ変わりだ。お前は娘を、忘れ形見だとは思わなかった。死んだベアトリーチェが、新しい体で蘇ったと信じたんだ。……源次。あんたはかつて夏妃たちの前で、金蔵とベアトリーチェに子供はいなかったと証言したことがあるな。」
【源次】「………記憶にございませんが。」
 “このゲームの”源次にその記憶はないだろう。
 しかし、第1のゲーム終盤で、生存者たちが金蔵の書斎に篭城した時。源次は金蔵とベアトリーチェの間に子供はいたのかと聞かれ、“そのような話は聞いたことがない”と、それを否定する返事をしている。
【ウィル】「それは嘘なわけだが、ある意味で金蔵の腹心らしい、模範的な返答でもある。……何しろ、金蔵にとってその娘は、生まれ変わりであって、娘ではないんだからな。」
【理御】「ウィル…! 何の話かわかりませんが、当主様への冒涜は許しませんっ!」
【ウィル】「冒涜じゃねぇ。推理だ。……だが、心は理解する。ベアトリーチェはお前にとって、最愛の女だった。死んでも、色褪せることなく永遠に。生まれた時から生まれ変わりだと思っていたわけじゃねぇだろう。」
【ウィル】「だが、美しい金髪に青い瞳を持ち、その面影を幼くして持ち合わせていたその娘に、お前は次第に生まれ変わりではないかと信じるようになったとしても、それはおかしいことじゃねェ。」
【源次】「……………お館様。よろしいのですか…?」
 この無礼者を摘み出しますか? 源次は問い掛ける。
 金蔵はしばらくの間、俯き、自らの過去を回想するかのように沈黙した。
【ウィル】「娘は美しく育ち、生き写しになった。お前は狂喜したろうな。だが、それでお前が全て満たされていたかは怪しい。……なぜなら、お前にとってベアトリーチェは生まれ変わりであっても。当の本人にとっては、そうではなかったからだ。」
【金蔵】「……なぜ、そのようなことがわかるのか。」
【ウィル】「本人は、自分がベアトリーチェと呼ばれることに違和感を拭えずにいた。……人は、生まれながらに与えられた自分の名前に違和感を覚えることはない。だが彼女は覚えた。それは、ベアトリーチェという名が自分のものではないことを、彼女が自覚していたに他ならない。」
 九羽鳥庵で彼女は、自分は何者なのかと金蔵にも楼座にも問い掛けた。
“妾は何者なのか。……皆は私のことをベアトリーチェと呼ぶ。…それは確かに、そなたの言うように、偉大な魔女の名前らしい。
 ……しかし、それは妾ではないのだ。妾には魔法など何も使えぬ。……妾はその魔女の魂をこの身に封じられているだけなのだ。”
【金蔵】「……………………記憶は、いずれ戻ったのだ。……あれは、紛れもなくベアトリーチェの生まれ変わり。……記憶は戻りつつあった。我が魔術の儀式によって、……僅かずつではあるが、記憶を取り戻しつつあった……。」
【理御】「と、……当主様……。」
【ウィル】「驚くことじゃねェ。これまでのゲームの情報を並べりゃ導かれる、そのままの答えだ。……上層のベアトリーチェはそれを指して、死んで逃れた魔女の魂を逃がさず、肉の体に捕らえて閉じ込めたと。そして記憶も力も封じられていると例えた。その解釈も、この推理なら筋が通る。」
【源次】「…………ウィラードさま。お館様は偉大なる魔法の儀式により、亡きベアトリーチェさまの生まれ変わりの赤子を得たのでございます。それを否定することは出来ません。」
【ウィル】「コウノトリを否定はしねェ。そして金蔵がどれだけ、ベアトリーチェという女を深く愛していたかも、疑う気はねェ。………忘れ形見にどういう愛情を注ぐかは人の勝手だ。育つほどに似ていくその姿に、金蔵が愛ゆえに特別な感情を持ったとしても、俺はそれを人間らしい感情だと思うぜ。」
【金蔵】「………お前に、……我が愛が理解できるというのか………。」
【ウィル】「理解する資格はねェ。だが、否定する資格もねェ。」
【金蔵】「………………おぉ、……ベアトリーチェ……。……私を、………許してくれ………。」
 金蔵は目頭を押さえながら、しばらくの間、静かに咽び泣いた…。
 愛ゆえに、生まれ変わりと信じ、育てた。しかし心のどこかで、……ベアトリーチェとは異なる別人に、自分だけの想いを強いて、妄執の慰み者にしてしまっているかもしれないという、良心の呵責もあったのかもしれない。
 そして九羽鳥庵のベアトリーチェは、偶然の来客、楼座を迎える。
 どうしても自分が、金蔵の求めるベアトリーチェだと思えない彼女は、自分の存在を理解できず苦しみ、外の世界へ逃れることを望む。
 そして、…………崖より転落して、死ぬ。
【ウィル】「源次は、表に出せぬその死を、内々で処理した。」
【源次】「………………………………。」
【ウィル】「葬式ってのは、死者のためにやるんじゃねェ。……生きてる人間が、死んだ人間への未練を断ち切るために行なうもんだ。……それが、出来なかった。だから、爛れたんだ。」
【金蔵】「……ベアトリーチェ……、……おぉおおおぉぉぉ……。」
【理御】「お、……お祖父さま………。」
【ウィル】「あんたは、愛人の娘を、……いや、ベアトリーチェを二度失った。その悲しみを表に出すことが出来ず胸の奥に押し込み、……それがやがて爛れて、狂気に変わった。それが晩年まで、異常なまでのオカルト趣味に駆り立てる。」
【金蔵】「おぉおおおおぉぉお!! ベアトリーチェぇええぇ、ベアトリーチェぇえええ!! なぜに!! なぜに二度までも私の前から去るのか?! お前の微笑みを、その美しい髪を、瞳を、……私は二度も抱き締めながら、……なぜに二度も死すのか?!」
【金蔵】「それほどまでに、……それほどまでに私を…、……おおぉおおぉお、おおおおおぉおおおぉぉぉぉ…ぉ…。」
 金蔵はもう、嗚咽を隠そうともしなかった。時に苦悶して頭を掻き毟り。時にオペラの俳優のように大仰に。金蔵はベアトリーチェの名を繰り返しながら、泣き喚いていた……。
 その時、小さく扉が閉まる音がした。
 ……振り返ると、いつの間にそこに居たのか。熊沢の姿があった。
【熊沢】「………そこまでをご存知でしたら。もう全てをお話してもよろしいのではありませんか…?」
【源次】「……そこまでを知るなら、これ以上、何も語ることなどないとも思うが…?」
【熊沢】「いいえ、語るべきでございます。私は女として。……九羽鳥庵のベアトリーチェさまのお心を、誰かに伝えねばと思ってまいりました。そして、その資格を持つ人間が現れました。今こそ、全てを包み隠さず、お話すべき時かと存じます。」
【源次】「…………………………。」
【理御】「熊沢さんは、知っているのですか? ベアトリーチェのことを……。」
【ウィル】「知ってるだろう。……第4のゲームの時、連絡船の船長は、熊沢が九羽鳥庵に出入りしていたことを証言している。恐らく、熊沢は屋敷と九羽鳥庵の双方で、異なる勤務シフトを持っていたに違いない。若い娘の世話だ。育児経験の豊富な熊沢は、さぞ重宝されただろう。」
【熊沢】「………左様でございます。乳母であったと、仰っていただいてもよろしいかと思います。」
【理御】「そんな……。……信じられない。……本当に、……ウィルさんの話は本当なんですか。」
【熊沢】「………はい。事実でございます。……ベアトリーチェさまのために、島の反対側に建てられた秘密の屋敷。九羽鳥庵の存在は、真実でございます。」
【ウィル】「金蔵が正妻といつ結婚したかは知らねぇが。当時、すでに莫大な財産を持ち、六軒島を丸ごと買い取った金蔵は、交わらぬ二つの屋敷を建てて、そこに二つの生活を両立させたんだ。」
 当時の金蔵の、人目を忍ぶような奇行は、蔵臼たちにも認識されている。二つの生活を両立させるのは容易ではなかったろう。ましてや、金蔵の妻はそれを疑い、身辺を厳しく嗅ぎ回っていたのだから…。
【熊沢】「お館様は、お時間の許す限り、九羽鳥庵へ通われました。時にはご出張と偽られ、何日も滞在され、ベアトリーチェさまとの生活を大切になさいました。……それは親子としての関係だけでなく。亡きベアトリーチェさまへの深い愛を垣間見れる、心温まるものでございましたとも。」
【ウィル】「それは、亡きベアトリーチェの代用品として扱ったこともあった、と言っているようにも聞こえるな。」
【熊沢】「おや。そう聞こえたなら、申し訳ございません。……ベアトリーチェさまは、父からの愛は一身に受けられていたでしょう。しかし時に。ご自身に理解できぬ愛を強いられていたことは、否定できません。」
 熊沢の口調は、少しだけ金蔵を詰るようだった。
 熊沢は子を何人も育てた一人の母として、金蔵の愛が時に間違っていることを指摘したのだろう。しかし、育てば育つほどに亡き母の面影を重ねていく娘に、金蔵の心と愛は、次第に歪みを深めていった……。愛深きゆえに、深く、深く、……歪んでいった……。
【金蔵】「………詰れ、我が友よ。…………わかっておる。我が愛は永遠に不滅。……なれど、それが間違った相手に注がれたことがあったのを、……私は……、認めねばならぬっ……。」
【理御】「……お祖父さま…。………そんな、……まさか……。」
【熊沢】「理御さま。世の中の全ての人間には、必ず何かの縁がございます。身に覚えがなくとも、必ず何かの縁がございます。その縁が、……人に絡み付き、引き寄せるのでございます。」
【理御】「そんな……………。…………お祖父さま……………。」
 金蔵がそうするように、理御もまた目頭を押さえ、……静かに俯く。若過ぎる次期当主にとって真実は、あまりに衝撃が過ぎたのだろう…。
【熊沢】「……お館様。もう、語る時ではございませんか?」
【金蔵】「…………………………。……そうか。その時が来たか、……我が友よ。」
【ウィル】「あんたが語らなきゃ。何も真実は明らかにならない。」
【源次】「………お館様。……もはや、知る権利と資格が、あるかと思います。」
【金蔵】「わかっている。今日という、私の気まぐれな葬儀に、天のベアトリーチェが贖罪の機会を与えたのだろう…。………今日まで話さなかったことを、許せ。」
 金蔵は深く息をついてから、ようやく目頭を覆っていた手を下ろし、……真っ赤になった目で一同を、……ウィルを、理御を、見回す。
【金蔵】「………………………。」
【理御】「………………お祖父さま……。」
【金蔵】「理御も聞け。……客人よ。ウィラードと言ったか。」
【ウィル】「あぁ。」
【金蔵】「………この私が、自らの口より真実を話せる内に、この機会を設けてくれたことを感謝する。……お前はきっと、ベアトリーチェより使わされた、天の使いに違いない…。……感謝する………。」
【ウィル】「その機会を設けたのはベアトリーチェじゃねェ。どこぞの魔女だ。……いや、どっちも魔女には違いねェ…。」
【金蔵】「ふ、……お前が誰でも良い。私に機会を与えた。それで充分だ。……感謝するぞ、ウィラードとやら。」
 金蔵はゆっくりと立ち上がり、右手を付き出す。それは、握手を求めるものだった。金蔵なりの、感謝の気持ちを伝えるものだったに違いない…。
 ウィルは、それに応える。そして二人の手が、静かに力強く握られた。
 すると、……二人の握手の隙間から、眩い光が漏れ出す。
【ウィル】「………………ん、」
 ウィルは手の平に、一粒の火傷のような刺激を感じる。
 ……それは、ベルンカステルの与えた、あの力。その光はどんどん眩しさを増してくる。しかしそれは金蔵たちには見えていないようだった。
【金蔵】「……今こそ、語ろう。私が、ベアトリーチェに、………ベアトリーチェ・カスティリオーニに出会ったのは、終戦間際。彼女は、海の向こうからやって来た……。」
謎の空間
【金蔵】「……………………………。」
【ウィル】「……お前は、金蔵なのか。」
【理御】「昔の、お祖父さまです。写真で見たことがあります。……これは、一体……。」
【ウィル】「ベルンカステルのくれた、観劇者の力だ。……無理に理解するな。」
【理御】「頭痛にならァ?」
【ウィル】「わかってきたな。」
 かつて戦人は源次に、若き日の金蔵に似ていると言われたことがある。確かに、若き日の金蔵は、瓜二つではないにしても、戦人とよく似ていた。
【金蔵】「………改めて名乗ろう。……私が、右代宮金蔵である。」
【理御】「お祖父さま………。」
 声も、どこか戦人に似ているように感じられた。もっとも金蔵の血を濃く受け継いだのが、きっと戦人に違いないのだ…。
【金蔵】「私は右代宮家など、継ぎたくはなかった。……私が当主に選ばれたのは、運命の悪戯に過ぎぬのだ。」
【ウィル】「……関東大震災で、主だった者が死に絶え、分家筋のお前が抜擢された。」
【理御】「そうです。お祖父さまは若くとも聡明な方で、当主に相応しい貫禄を若くしてお持ちの方でしたから。」
【金蔵】「ふ、はっははははははは……。とんでもない。……欲深な長老たちは、互いの利益ばかりを主張し合い、新しい当主を選び出すことさえ出来なかったのだ。まるで、沈み行く船で、新しき船長は誰かと議論するような愚かさよ。」
【ウィル】「だからこそ、本家の誰ともしがらみのない、お前が突然に、抜擢を受けた。」
【金蔵】「全ては、この足の指のせいだ。足の指が1本ずつ足りなかったなら、我が人生はまったく異なるものになっていたであろう……。」
 右代宮家では、多指症は吉兆の徴と尊ばれていた。歴代の名君に多指症が多かったためだ。
【金蔵】「下らぬ話よ。長老どもは、自分たちの誰も得をしない馬の骨であれば、誰でも良かったのだ。」
【ウィル】「たまたま分家筋に、両足の指が6本ある者がいると耳に入り、それでいいと決まったわけか。」
【金蔵】「そういうことだ。長老どもは、自分たちの操り人形になるなら、次期当主など、どこの青二才でも良かったのだ。むしろ、帝王学に無知な人間ほど好ましい。」
【理御】「……お祖父さま……。」
【金蔵】「理御。お前は違う。……お前は、我が全てを受け継ぐ者だ。お前が生を受けた日よりそれは運命付けられていた。だからこそお前に銀の指輪を与え、厳しく育ててきた。……そなたは私とは違う。誰にも恥じることのない、立派な当主跡継ぎであるぞ……。」
【理御】「…は、……はいっ……。」
【ウィル】「操り人形の当主か。……気楽なものじゃねぇだろうな。」
【金蔵】「………ふ、……ふっはっはははははは…。」
 金蔵は、何から語れば良いかと思案するように、苦々しく笑う。何から語っても、辛い思い出しか蘇らないのだろう…。
【金蔵】「あれは、……あまりに長い長い、灰色の日々であった。それは私には、岩に生す苔のような、気の遠くなるほど長い長い、死んだ時間……。」
 己の利益しか考えぬ長老たちの綱引きの綱にされ、……私はいつ引き千切れても、おかしくなかった。
 しかし、人は呆れるくらいに頑丈だった。あの殺されたような長き日々であっても、……私は殺されなかったのだ。だから私は、死に場所を、求めなければならなかった……。
 気付けばもう、自らを若者と呼べば、若者たちに笑われそうになる歳になっていた。気が遠くなるような、長くても何も中身のない灰色の日々。それは20年にも及んだ。
 20年あれば、人は生まれ、志を持ち、社会へ飛び出すことさえ出来る。つまり、……社会人となって初めて人間と呼べるのだとしたら。私は、人間が一人、生み出せるほどの膨大な時間を、……何もすることなく、欲深な老人たちの人形として過ごしてきたわけだ。
 そんな日々は、体を老いさせても、皮肉にも、心は老いさせない。
 心だけは、小田原に呼び出される直前の、……あの充実した日々を懐かしむ、若いまま。なのに体だけは老いを重ね、いつしか、その乖離は理解し難いほどにまで広がった。だから、鏡に映る、疲れ切った男が、とても自分と思えない。
 いや、本当に自分ではないのだ。右代宮家当主などとは、名ばかり。何の権限もない。自主性も必要ない。余計なことをする必要もない。ひな壇に飾られたまま、埃を積もらせ、……ただただじっとしているだけの、お人形。
 私はぼんやりと、好きな洋書を漁り、自分だけの世界に閉じ篭り、……悪い酒と薔薇いじりを覚えただけ。それが、20年も。
 気付けば。いつの間にか、知らぬ妻がいた。……自分が選んだ妻ではない。長老たちが、彼らの都合で選び、強いた、どこぞのやんごとなき一族の姫君らしかったが、……どうでもいい。
 妻を愛してなかったし、かといって毛嫌いもしなかった。……どうでも良かったからだ。
 子供を何人か儲けるが、それも妻を愛していたからではない。気付いたら、勝手に生まれていた。……それだけだ。
 全てが、どうでも良かった。いや、違う。……全てが、私でない誰かに決められ、私はただ従うだけ。それが、右代宮家の当主という、………仕事だったのだ……。
【金蔵】「あぁ、このまま自分は、静かに殺されるなと、うっすらと感じていた。」
【理御】「信じられません。豪胆なる名君と讃えられたお祖父さまが、そのような日々を送っていたなんて……。」
【金蔵】「……理御よ。自ら生きぬ人生ほど希薄で長いものはない。なのに、それはあっという間に過ぎ去るのだ。……心せよ。」
【理御】「自ら、生きる人生……。」
【ウィル】「生きるってことは、意思を持つということだ。……殺された日々だったろうよ。」
【金蔵】「そうだ。私は生きたかった。いや、死にたかった。……操り人形はどうすれば死ねる?」
【理御】「…………………。……糸を、断ち切ることです。」
【金蔵】「そうだ。それが死ぬことであり、生きることであり、……解放だ。」
 気付けば、世界は慌しくなっていた。
 第二次世界大戦。太平洋戦争。日本は東西に戦線を広げ過ぎ、その風向きは変わりつつあった。
 私は長老たちの働き掛けにより、徴兵が免除されていた。……もちろん慈悲ではない。彼らの大切なお人形だからだ。
 だから戦争を、それほど身近に感じていなかった。しかし、私が自らそれを返上したいと望めば、それはとても容易い。
 その頃には、右代宮家は完全に没落しかかっており、長老たちは、自分たちの寿命分程度には財産をくすねられたようで、もはや用済みの私が何をしようと、関心はないようだった。
 だから私は、ようやく、死ねる時を得たのだと悟った。私は自らを吊っていた糸を、一本一本、切り落とし、……死ねる場所を探し始めた。
【ウィル】「戦地で死を、求めようとしたのか。」
【金蔵】「……同じ死ぬなら、御国の役に立つべきと思った。……いや、違うな。私には自らの命を絶つ気力さえなかったのだろう。もっともらしく死ねる理由が、戦争だったのだ。」
【理御】「お祖父さまは土木・建築の知識がありましたので、海軍設営隊にて、施設造成などに従事されたと聞いています。」
【金蔵】「ふっ、とんだ誤算よ。何の取り得もないと言っておけば、すぐにも死ねる最前線へ送られたものを…。」
【ウィル】「最前線に行かずに済んだのか。」
【金蔵】「幸いと喜ぶ仲間もいたよ。私には逆だった。御国のために戦って死ぬという、出来すぎた美酒のヤケ酒が欲しかっただけなのだ。……忘れられた島の上空を、米軍の編隊は横切っていくだけ。……彼らは私のために、爆弾一つどころか、鉛弾の一つさえ恵んではくれなかったのだよ。」
【理御】「お祖父さまは、その日々の中で、ベアトリーチェにお会いになられたのですか……?」
【金蔵】「そうだ。あれは、海からやってきた……。」
【ウィル】「どこで会った。島と言ったが。」
【金蔵】「ここだよ。この島に、やって来たのだ。」
【ウィル】「……お前たちは、六軒島で出会っていたというのか。」
【理御】「どういうことですか…。……お祖父さまが六軒島を買い取るまでは、無人島だったと聞いています。この島に日本軍の基地があったなどとは、初耳です。」
【金蔵】「ふっ、はっはっはっはっははは……。そうだな、あんなものは基地とは呼ばぬ。ただの岩窟よ。私は、その岩窟の番人だったのだ。」
年。
 サイパン、グアムの玉砕により、日本の絶対国防圏は破られた。真珠湾の勇ましさはどこへやら。戦局はすでに、守勢へ完全に変わっていた。
 当時、日本海軍の最後の切り札と呼ばれたのは、回天と呼ばれる人間魚雷だった。この有人操縦魚雷は、1.55トンもの炸薬を搭載した強力無比なものであり、その一撃は如何なる艦船でも葬り去ると言われた。
 海軍は、本土防衛のため、八丈島と横須賀を結ぶ線上に、回天搭載潜水艦の秘密基地建造計画を立案する。
【理御】「八丈島に回天の基地が作られたことは知っていました。しかしそれが、六軒島にもあったなんて……。」
【金蔵】「どこの間抜けがこんな何もない島に作ろうと言い出したやら。……秘匿上の都合? ふ、馬鹿馬鹿しい。……お上の考えることなどわからぬし、私にとってもどうでもいいことだった。」
 大型艦船を一撃で葬れる回天はまさに、必殺の兵器。それを搭載する潜水艦は本土近海での最終決戦で、強力な海の伏兵となることが期待された。
 そのため、絶対秘匿の秘密基地とするため、無人島である六軒島が候補に上がった。調査の結果、岸壁に大きな洞窟が発見され、潜水艦基地に転用することが充分可能と判断されたらしい。
【ウィル】「お前は、その基地の建設にかかわったわけか。」
【金蔵】「建設? ふっ、岩窟を掘り広げただけを、建設と呼ぶならな。しかもその上、基地は未完成のまま放置されたのだから。」
【理御】「どうしてです?」
【金蔵】「わっははははっはっは! 当時の日本に、回天を積めるほどの大型潜水艦はもう、残っていなかったのよ。滑稽な話だ。潜水艦もないのに、潜水艦基地など今さら、必要なものか。役人の無意味な箱物作りは、今も昔も変わらぬわ。」
 八丈島の基地には、回天が配備され、直接出撃する基地となったが、六軒島には配備されなかった。それどころか、工事を中断し、最低限の人間を残したまま、上層部は六軒島には何の命令も出さない。
 まさか、秘密基地であったことが災いしたとでもいうのか? 何の役にも立たない無用の岩窟は、もはや上層部にも完全に忘れ去られていたのだ。私たちはただ、岩窟の番人をするだけで、何も命じられることはなかった。
 上空を横断する米軍の編隊を眺めながら、毎日、畑作と釣り、土いじりで過ごした。……ある者は、このまま自分たちは忘れ去られて、一度も実戦を経験することなく終戦を迎えられるだろうと安堵していた。
 無論、私は逆だった。早く米軍が押し寄せてきて、私を殺してほしいと願っていた。そんな、虚ろな日々のことだった。
 今こそ回想しよう。……あの、私の人生と運命の転機と、……右代宮金蔵が真の意味で生を受ける、あの日々を……。
 婉曲的だが、実質的に過ちの告白と解される発言。理御は、この時点ではまだ自分に直接関係があることとは思っていない。

サロ共和国

六軒島・地上
「貴様、弛んでいるぞッ!! 決戦は間近というのにそのへっぴり腰は何かッ!!」
 頭の中に細やかな星がいっぱいに広がる。もっさり寝転がっていれば、買わなくてよい怒りを、さらに買い込むことになる。
 従順なつもりなどない。……しかし殴られ損なのは馬鹿馬鹿しいので、さっさと起き上がり、直立不動の姿勢を取る…。
【金蔵】「……………………………。」
 決戦は間近? 米兵がこの忘れられた無人島に来て下さるってのか? なら早く来てくれ。俺はその日をずっと待ってるってのに。
「その腐った目つきは何か! 貴様、そんなに死にたくないか?! そんなに米兵が恐ろしいか?! そんな気合では、討ち取れんぞ!!」
【金蔵】「…………………………。」
 また、殴られる。……キャンキャン喚くなってんだ。臆病な犬が。
 彼らがわけのわからない怒りに身を任せているのは、そうしなければ彼らが、恐怖を忘れられないからだ。絶望的な戦局は、もはや気合や精神でどうにかなるものではない。
 不可避な絶望に立ちはだかられた時、人はその恐怖から逃れようと、様々な感情に逃れる。人間的に未熟である、若き軍人の彼らにとって、怒りという感情は非常に都合がよかったのだ。
 鬼畜米英と連呼させ、教練と称して竹槍を振り回させるのも、彼らが恐怖を麻痺させるために必要な、怒りという名の酒なのだ。酒は、飲めば飲むほどに、さらに酔うためにより多くを必要とする。彼らの無意味な堆積する怒りは、日々、収まることを知らなかった。
 私は、死を恐れない。だから、怒りなどというヤケ酒を必要としない。だからこそ一層、彼らの臆病さがくっきりと理解できたのだ。
「その目つきだ!! 右代宮ッ、貴様の魂は腐りきっておるわ!! 魚だ。貴様の目は死んだ魚の目だ!!」
 しかしそれはお互い様だ。私に彼らの臆病さが理解できるように、彼らもまた。私の無気力さが理解できただろうから。
「右代宮金蔵はいるかッ! 中尉殿がお呼びだ!」
「立てッ! もたもたするなッ! 駆けあぁぁぁしッ!!」
 山本中尉は、この六軒島守備隊の指揮官だった。部下たちを些細なことで弛んでいると叱責して、一時の暴力で恐怖を忘れる、臆病な犬の一人。
 上機嫌な時に語り出す武勇伝は、自分が如何に乱暴者で、社会のルールを無視してきたかという話ばかり。誰々が鼻持ちならないから教育してやった云々、自分は恐れられていたから特別扱いだった云々。……如何に自分が卑しい人間であるかを、さも立派なものであるかのように語るのだ。
 そんな、まったく尊敬できない中尉と自分に、普段は接点などない。子分である下士官たちといつもつるんでいるので、敬礼さえ機敏にこなして見せれば、私にとってはとりあえず、どうでもいい男だったのだが。
 工事が無期限に放棄されたこの島において、技術者である自分に特別な意味はない。なのになぜ中尉は、わざわざ自分を名指しで呼ぶのか。まったく心当たりはなかった……。
地下基地
【山本】「右代宮! 貴様、外国語が堪能であると聞いたが、事実であるか!」
【金蔵】「英語と中国語を話せるであります。中尉殿。」
 中尉は、下士官たちの前では学歴を威張ることもあったが、それを超える学歴を持つ私には、強いコンプレックスを持っていた。
 また、私より階級的に上であるにもかかわらず、年下であることにもコンプレックスを持っているようで、決して私とは打ち解けることの出来ない人間だった。今も、私が他国語に堪能しているという事実に、彼のプライドが傷つけられているに違いない。
【山本】「ならばイタリア語はどうか。」
【金蔵】「わかりません。」
【山本】「では貴様に、イタリア人との通訳は務まらんというわけか。」
【金蔵】「英語を喋れる者がいれば可能と思います。」
【山本】「……なるほど、確かに! 貴様、外人と英語で話した経験はあるのか!」
【金蔵】「あります。」
 この、上層部にさえ忘れ去られた無人島の岩窟で、どうして通訳が必要になるというのか。中尉のその質問は、この六軒島に、通訳の必要のある客人が訪れることを示していた。
【山本】「よし! 右代宮、貴様を俺の通訳に命ずる!」
 その日の夕方には、それが何の話か、全てを理解することが出来た。
潜水艦ドック
 一度も主を迎えたことがない、出来損ないの岩窟潜水艦ドックに、………イタリア海軍の潜水艦が、ゆっくりと入港する。イタリアが同盟国であることは、知識としては知っている。しかし、実際にイタリア軍をこの目で見たのは、初めてだった。
【理御】「どうしてイタリア軍が……。確か、1943年にイタリアは降伏しているはずです。これはどういうことでしょう…。」
【金蔵】「降伏したのはイタリア王国だ。……だが、それを受け入れない者たちはムッソリーニを擁立してRSIを樹立させ、戦争を続けたのだ。」
【理御】「RSI?」
【ウィル】「イタリア社会共和国。別名、サロ共和国だ。」
【金蔵】「詳しいな。……何も知らぬ者は、イタリアは枢軸国の中で1943年にいち早く降伏した腰抜けなどと呼んでいるが、それは間違いだ。イタリア社会共和国軍は開戦から1945年4月29日まで勇敢に戦ったのだ。」
【ウィル】「ベルリン降伏はその3日後だ。腰抜けどころか、大健闘だな。……しかし、RSI海軍が日本まで航行できるような潜水艦を持っていたとは、驚きだ。」
【理御】「……そうでなくとも、遥々日本までやって来たこと自体が驚きです。……彼らはなぜ日本に? 六軒島に?」
 それはぼろぼろの大型潜水艦だった。自国の潜水艦さえ迎えたことのないドックに、……遥か遠くの、異国の潜水艦を迎え入れることになろうとは、誰も想像しなかったに違いない。
 30人ほどしかいない六軒島の番人たちが、全員総出で潜水艦を迎える。
「……イタリア軍なんて初めて見たぜ……。」
「何でも、事故か触雷で航行不能になったんだと。」
「換気装置がやられて、塩素ガスが換気出来なくなったって聞いたぞ。」
「中尉殿の話によると、何か重要なものを運んでるって話だ……。」
「暗号変換機か、新型エンジンなんかの設計図じゃないのか?」
「俺ぁ積荷云々より、上層部がまだここを覚えててくれたことの方が驚きだぜ…。」
【山本】「右代宮ッ、早く来い!! 貴様は通訳だろうがッ!!」
【金蔵】「はい、中尉殿……。」
 ハッチの上では、若いイタリア人が敬礼をしている。……普通、それは将校であるべきだが、身形はまるで水夫のようで、到底、艦長のような貫禄があるようには見えなかった。それは、艦内の事故で、責任ある将校たちが皆、命を落としてしまったことを指すのだろう。
 潜水艦のハッチからぞろぞろと搭乗員が現れるが、皆、血色が悪く、疲労しきっていた。
 いつ事故を起こしたか知らないが、塩素ガスの充満した狭い艦内に長く押し込まれたら、相当の健康被害を起こすだろう。換気装置の故障に加え、今の日本近海では迂闊に水上航行も出来ない。
 ……毒ガスの缶詰の中で航行してきたようなものだった。彼らは肩を借りずには歩けない者がほとんどで、まるで病院船のような有様だった。
【山本】「右代宮! 艦長は誰か聞け! 私がこの島の指揮官であることを説明せよ!」
【金蔵】『……ようこそ、日本へ。英語がわかる者は?』
 搭乗員たちは、それが英語であることはわかるようだが、話せる者はいないようだった。やがて、士官らしい身形の者に敬礼を受ける。
【金蔵】『ようこそ、日本へ。艦長でありますか。』
「アイキャンノットスピーク、イングリッシュ……。プリーズ、ウェイト。」
 士官は片言の英語でそう答える。
 ……待てと告げ、早口のイタリア語で部下たちに何かを喚いている。彼らの中にいる、英語のわかる人間を呼ばせている、という風だった。
【山本】「右代宮、何と言っているッ?!」
【金蔵】「待てと言っています。英語のわかる人間を呼んでいるのかもしれません。」
 その時、ケホンケホンと、甲高い咳の音が聞こえた。男の咳ではない。……女の咳だった。
【ビーチェ】『私、英語わかるわ。』
 そう英語で言い、………美しい黄金の髪の女が、ハッチより降りてきた。
 この、むさ苦しき岩窟に、彼女という美しい存在は、まるで天使が舞い降りてきたかのようにさえ、感じられた……。
【金蔵】『ようこそ、日本へ。艦長はいますか。』
【ビーチェ】『艦長は死んだわ。士官はあそこの彼だけよ。』
【金蔵】『お悔やみ申し上げます。何かお手伝いは出来ますか?』
【ビーチェ】『新鮮な空気と水が欲しいわ。まだ息のある人間もいる。休ませる場所が欲しいわ。』
【金蔵】『協力しましょう。他に英語のわかる人間はいますか?』
【ビーチェ】『いたけどみんな死んだわ。私だけよ。』
【山本】「右代宮ッ、女は何を言っている?! 艦長は誰だ? さっきの男なのか?! その女は何者なのか! 早く通訳しろッ!!」
 中尉がさっきからうるさい。……まさか潜水艦から、美しいご婦人が現れるとは思わず、しかもそれを私に独占されて悔しいに違いないな。それくらいに、……彼女は神々しくて美しかった。
【金蔵】「中尉殿。彼女だけが英語をわかるようです。彼女が、彼らの通訳になります。艦長は死亡。代表者は先ほどの士官のようです。」
【ビーチェ】『あのうるさくあなたに叫んでいる男は何者? まさかあなたの上司なの?』
【金蔵】『不幸なことに。私が美しいお嬢さんを独り占めしているのが、気に入らないんでしょう。』
【ビーチェ】『あら。東洋人にお世辞をもらえるとは思わなかったわ。綺麗な英語ね。あなたは育ちが良さそうだわ。あの怒鳴ってるみっともない男とは大違い。あなたがここの将校だったら良かったのに。』
【金蔵】『おや。私も西洋人にお世辞をもらえるとは思いませんでした。』
【ビーチェ】『くす! あなた面白い人だわ。名前は?』
【金蔵】『右代宮、金蔵です。よろしければ、お嬢さんの名前も、ぜひ。』
【ビーチェ】『ベアトリーチェ・カスティリオーニ。』
【金蔵】『ようこそ、ベアトリーチェ。日本へ。』
 それが、私を生涯虜にする、ベアトリーチェとの最初の出会いだった……。
礼拝堂・貴賓室
【理御】「……ベアトリーチェとは、イタリア人だったのですか。」
【金蔵】「そうだ。彼女はRSI高官の娘だった。どうやら、彼女の父親こそが、一番の積荷だったらしい。……残念ながら、六軒島に辿り着いた時には、もう死んでいた。」
【ウィル】「その高官が、なぜ日本に? スエズ運河からインド洋を越えて、はるばる日本まで来たと言うのか?」
【理御】「確かに。同盟国としてはドイツの方がはるかに近いはず。……なぜわざわざ日本までやって来たのでしょう。」
【金蔵】「………途方もない規模の、遠大な作戦か何かだったのかもしれぬ。……その全容はわからぬが、その潜水艦が只ならぬ任務を帯びていたらしいことは、後に理解することとなる…。」
潜水艦
 出航時には60人近くの搭乗員がいたという。しかし、ベアトリーチェを含め、ほんの10人ほどしか、生き残れなかった。
 どうやら近海で機雷か何かに接触し、艦に重大なダメージを受けたらしい。かなり激しい浸水を受け、電池がやられて塩素ガスを発生させてしまったとのことだった。彼らの潜水艦は、もう完全に航行不能に陥ってしまい、ドックに浮かぶ巨大な鉄の塊に成り果てていた。
 上層部は、この艦が“何か重要なもの”を運んでいるらしいので、それを確認するようにと我々に命じていた。彼らを私とベアトリーチェによる二重通訳で尋問した結果、その重要な何かとは、彼女の父親自身ではないかという結論に至った。
 どうも、ベアトリーチェの父親は、RSIの相当の高官らしく、ムッソリーニの側近ではないかと思われた。
 何かの密命を帯びての大航海らしいが、本人も艦長以下将校たちも皆、死んでしまった今、その任務と日本を目指した理由は闇の中だった。そして、それを我々に調べさせようとする以上、上層部自身も、それを知り得ないということだ。
 艦も故障し、任務も不明で、要人である高官も死亡。そして日本側も、彼らの目的を何も知らない。……イタリアから遥々、命を賭けての大航海の果てにあったものは、……何の達成もない、無意味な到着だったのだ…。
六軒島・地上
【ビーチェ】『良かった。日本の潮風はてっきり、醤油の匂いがすると思ってたわ。』
【金蔵】『お互い様です。イタリア人の髪はパスタで出来てるって思ってました。』
【ビーチェ】『あら、そうよ? アルデンテに仕上げるには茹で加減が難しいの。なら日本人はみんな、スパゲティ・ネーロだわ。』
【金蔵】『よくご存知で。日本人はシャンプーの代わりにイカ墨を使います。』
【ビーチェ】『きゃっはは! 金蔵はすごいわ。何でも知っているのね! イタリアに来たことがあるの?』
【金蔵】『ありません。しかし、本は色々と読みました。』
【ビーチェ】『東洋人がイタリアの本を?! へぇ、例えばどんな?』
【金蔵】『ニッコロ・マキャヴェッリ。ダンテ・アリギエーリも。だからあなたが永遠の淑女であることも存じていますよ。』
【ビーチェ】『おぉ、何てこと…。金蔵はとんでもない勉強家だわ。あなたはひょっとして、日本では高貴な家の出身なのでは?』
【金蔵】『………さぁ、どうでしょう。』
【ビーチェ】『あなたは他の野蛮そうな日本人とはまるで違うわ。私にはわかるの! あなたはきっと、高貴な家の人間だわ。右代宮家は、日本の貴族の家柄なの?』
【金蔵】『……とんでもない。紡績で一山当てただけの、ただの成金の一族です。私が勉強していたのは、高貴なる者としての嗜みではなく、……何をすることも許されなかったら、本を読むか、薔薇をいじるか、酒に溺れるかしかやることがなかったからですよ。』
 ベアトリーチェは、決して悪気があって聞いたのではない。遠い異国の地の友人に、好奇心で問い掛けただけなのだ。しかし、……ベアトリーチェ自身も、やんごとなき家柄だからわかるのだろう。……金蔵の顔のわずかの憂いに。
【ビーチェ】『許して、金蔵。あなたのような高貴な人が、どうしてこんなおかしなところで、兵卒の身分に甘んじているのか、……深く考えなかったわ。』
【金蔵】『私の一族など、どうでもいいことです。死ねば、右代宮などという姓は、何の意味もない。そしてそれこそが、ようやく私を解き放ってくれるのです。』
【ビーチェ】『………金蔵は、死にたくて軍隊に? そんなの駄目。家族が悲しむわ。』
【金蔵】『家族など。……私には誰も。』
 上辺だけの妻と、子供はいる。しかし、それを望んだことなど一度もない。
 ……全て全て、……欲深な老人たちが勝手に作り上げた、まやかしの白昼夢。……だから、この島にいると、それらを全て忘れられて、……まだ気楽なのだ。
 気楽………? 最前線に行き損ねて、未だに死に損ねていることに、悪態をつくだけの日々だったのでは……?
【ビーチェ】『……私にあなたの苦しみはわからないけれど、私の心ない言葉が傷つけてしまったことはわかるわ。許して、金蔵。』
 許して、金蔵。あぁ、多分、この一言が、私を解放しているのだ。
 日本人たちは皆、私のことを右代宮と呼ぶ。……それは私が右代宮家の所有物であることを、聞かされる度に私に思い出させる。
 しかし彼女は違う。私を、金蔵と呼ぶ。右代宮とは呼ばない。
 だからこそ私は、………彼女とこうして話している時だけ、……あの呪わしい一族を忘れられるのかもしれない。
【ビーチェ】『…………金蔵。』
 彼女のことを責めているつもりはまったくないのだが、ベアトリーチェは私が心ない言葉で傷ついてしまったに違いないと、信じているようだった。
【金蔵】『ありがとう。』
【ビーチェ】『え?』
【金蔵】『あなたが私を金蔵と呼んでくれるから、私はやっと自分を取り戻すことが出来る。……私はようやく、本当の意味で私を見てくれる人に出会えた気がします。』
【ビーチェ】『金蔵。あなたはとても遠い異国で出会った外国人だけれど。……あなたの心はとても繊細で美しい。私たちはきっと、近所に住んでいたなら、とても当り前な友人になっていたわ。……私も嬉しいのよ。あなたは私のことをベアトリーチェと呼ぶ。カスティリオーニのご令嬢とは呼ばないわ。』
 二人の立場は、同じだったのだ。彼女のカスティリオーニ家も、さぞや堅苦しいところに違いない。……ようやく二人は、異国の人間同士なのに、互いを理解し合えるものを見つける。
【ビーチェ】『金蔵は親しい者には何て名前で?』
【金蔵】『いえ。普通に金蔵と呼ばれていました。』
【ビーチェ】『じゃあ、あなたは私をベアトリーチェと呼ぶのを改めるべきだわ。親しい人間は私のことを、ビーチェと呼んでいた。あなたもそうしてくれると嬉しいわ。』
【金蔵】『わかりました。これからは親しみを込めて、ビーチェとお呼びを。』
【ビーチェ】『ダメダメ。堅苦しい言葉はダ〜メ。だって私たちはもう、友人なのだから。』
 ベアトリーチェは、とびきりの笑顔で、そう微笑んでくれた……。
礼拝堂・貴賓室
【金蔵】「あの微笑が、……あれから何十年を経ようとも、……我が記憶より薄れることはない……。」
【理御】「……お祖父さまはベアトリーチェと出会うことで、自分を取り戻されたのですね。」
【ウィル】「平たく言やァ、浮気だな。………ぬぐおッ、ぐぎぐごごごご……、」
【理御】「ウィルさんは今後も失言を繰り返されるなら、おしりを庇われるくせをつけることをお勧めします。」
 またしても理御におしりをつねられ、ウィルは情けない格好で跳ねながら悶絶する…。
【理御】「お祖父さまにとって、六軒島は、ベアトリーチェと初めて出会われた、特別な場所だったのですね。」
【金蔵】「………うむ。…私がこの島に来ることがなければ、出会うこともなかった、奇跡の島なのだ…。」
【ウィル】「その潜水艦基地の名残とやらは、今も残っているのか。」
【金蔵】「九羽鳥庵の近くに、今も残っている。外界からは見えぬ入り江の影だ。不吉がって漁師たちも近寄らなかった島だ。私以外に知る者はもはやいるまい。」
【ウィル】「九羽鳥庵と屋敷を結ぶ、2kmにも及ぶ地下道は、その基地の名残なのか。」
【金蔵】「そうだ。鍾乳洞を改造した広大な地下壕で地下を網羅し、島内各地を要塞化する、……などという寝言の残骸だ。私はその地下道を生かし、島の両端に二つの屋敷を作らせたのだ。」
【理御】「二つの屋敷、二つの家族。……右代宮家の屋敷と、……右代宮家から解放された、金蔵の屋敷だったのですね。」
【金蔵】「…………そうだ。……私には、必要だったのだ。……右代宮という、呪われた姓から逃れる、もう一つの場所が。」
【ウィル】「………………………………。」
六軒島・地上
【金蔵】『しかし、同情するよ。遥々、日本までやって来て、任務を成し遂げられなかったとは、気の毒の限りだ。』
【ビーチェ】『パパの任務が何だったか、よくわからないわ。どこか遠くへ逃げ、大切な日まで“それ”を隠さなければならないと言っていた。』
【金蔵】『“それ”とは?』
【ビーチェ】『わからないわ。……“それ”はとても大切なもので、大切な日まで、何年も隠しているつもりだったみたい。いえ、それと一緒に隠れているつもりだったみたい。私に、異国の地で長い時間を過ごすことになるかもしれないと謝っていたから。』
【金蔵】『アンジェロ少尉は、積荷は特になく、君の父上が輸送すべき要人だったと言っていたが?』
【ビーチェ】『少尉はあなたたちを信用してないわ。私でさえ知っていることを、いくつも隠してる。……ひょっとすると少尉は、パパの目的と積荷を知っているのかも。』
【金蔵】『それが何だったにせよ、それはイタリア軍の任務さ。俺らには関係ないね。むしろ、同盟国なんだ。頼ってくれればいいのに。』
【ビーチェ】『金蔵が良い人であることは疑わないわ。少尉にも、あなたは信頼できる人間だと伝えてるんだけれど。……どうして男というのは、異郷ではむやみやたらと厳格になるの? 普段はみんな、もっと陽気な人たちばかりなのに。ここへ来てからみんな、妙に空気が張り詰めているわ。……少尉は部下たち全員に常時、銃を手放さないように命じてる。まるでここが敵地かのようだわ。』
 それは事実だった。イタリア人たちは皆、リラックスしているようには到底見えなかった。日本人たちはそれを見て、彼らが自分たちのことを信用していないのではと訝しがっていた。
【金蔵】『軍人ならおかしいことじゃないさ。むしろ、こういう時こそ規律を引締めて、友軍に恥ずかしいところを見せたくないんじゃないか。』
【ビーチェ】『就寝時には必ず不寝番を立てるし、もう航行できないスクラップ同然の潜水艦に、今もあなたたちを近付けないように見張りを立てているわ。私は何だか、日本人を露骨に毛嫌いしているように見えて、気持ちが悪い。』
 確かに、彼らは潜水艦に常に歩哨を立て、日本人の接近を一切、許さなかった。そのことは、日本人たちの間でも不快に思われていた。……しかし、潜水艦はどこの国でも機密扱いだ。濫りに外国人を近付けないのは、当然と言えば当然かもしれないが。
【金蔵】『慣れない生活を強いられて、みんな気が立ってるんだろう。……天候とお上の都合で、君たちを本土へ運ぶ船の派遣がまた遅れてる。君たちをいつ、本土へ送ってあげられるやら…。』
 本土の方から直接、迎えの船が来ることになっているのだが、天候とお上の都合、あと、先日の空襲の影響があるようで、こんな忘れられた島に船を送る余裕がないようだった。
 ひょっとすると、外交上のトラブルもあるのかもしれない。……何しろ、彼女らの母国はすでに、連合国に降伏しているのだから。
 ……細かい事情はわからない。確実にわかるのは、彼女らが六軒島にやって来てから2週間も足止めされ、未だに迎えが来ないことだけだ。
 もちろん、六軒島にも小船はある。近くの島に彼らを運べないわけじゃない。しかし、六軒島は秘密基地という建前があり、島外との接触は厳しく禁じられていた…。
【ビーチェ】『仕方がないし、それも悪くないわ。だって船が来てしまったら、金蔵とはもう会えなくなってしまうんでしょう?』
【金蔵】『………確かに。』
 私にとってこの2週間は、...初めて、生きた日々だった。これまでの希薄な20年間の全ては、この2週間の輝きの前に霞んだ。
 ……やがて彼女がここを去ることは知っている。しかし、今の一瞬が、永遠であればいいと思うほどに、……濃密で眩い時間だった……。
 その時、イタリア語でベアトリーチェを呼ぶ声が聞こえた。
【金蔵】『……アンジェロ少尉だよ。君に用事みたいだ。』
【ビーチェ】『またお小言かしら。日本人とあまり親しくするなと、最近うるさいのよ。』
 少尉はやって来ると、金蔵に敬礼し、通訳を求めるようにベアトリーチェの方をちらりと見てから、イタリア語を話し始める。口調からして、どうやらかなり真剣な話のようだった。
【ビーチェ】『……少尉は、とても重要な話があるから、あなたたちの指揮官に会わせてほしいと言ってるわ。……協力を求めたいと言っている。何のことかわからないわ。』
【金蔵】『重要な話…? わかった。山本中尉を探そう。』
 アンジェロ少尉は、2名の下士官を引き連れて、かなりの真剣な表情を浮かべていた。彼らが重要な話を口にせずとも、それをうかがうことが出来た……。
潜水艦ドック
「いいぞー!! 上げろー!!」
 ウィンチが唸り、太い鎖が重い金属音を鳴かせる。
 潜水艦の貨物倉から、……ゆっくり、ゆっくりと、それが引き上げられていく。
「……なるほどッ。……イタ公どもが、我々を潜水艦に近付けたがらないわけだ…!」
 中尉たちが、憎々しげな引きつった笑みを浮かべながら、……ゆっくりとウィンチに引き上げられて行く、それを見上げる……。
【ビーチェ】『………何てこと…。……これが、パパの運んでいた積荷だというの…?』
【金蔵】『す、……すごい……。……こんなの、生まれて初めて見た……。』
 それは、黄金のインゴットの山だった。
 緻密に積み上げられたそれが、ゆっくりと、次々と、貨物倉から引き上げられて行く……。この黄金こそが、彼らの本当の積荷だったのだ。
 彼らがそれを、どこへ運び込もうとしていたのかはわからない。同盟国の日本へ運び込もうとしたのかもしれないし、……あるいはどこかの辺境へ、それを隠しに行く途中だったのかもしれない。
 何かの作戦? 陰謀? 横領? 極秘輸送? あまりの桁違いの黄金に、あらゆる邪推が交錯するが、真実など何もわかりはしない。その莫大な黄金の総量は、10t。それだけが、今、理解できる唯一の真実だった……。
 彼らはそれを極力、我々には見せたくないようだった。しかし、潜水艦が航行不能に陥り、さらに浸水も続いていたらしい。
 六軒島の設備は極めて未熟な状態で放置されており、修理能力はまったくない。また、荷揚げは出来ても、沈没して着底した潜水艦を引き上げることなど到底出来ない。
 このままでは黄金が完全に輸送不能になってしまうことが明白となり、…………彼らは荷揚げする決断をしたらしい。もちろん彼らは、この黄金が何であるかは一切説明しない。ただ、荷揚げしてほしいと依頼してきただけだ……。
【金蔵】『なぜ、こんな大量の黄金を国外へ…? これだけあれば、イタリアの戦局を変えられたかもしれないのに…?』
【ビーチェ】『……戦局を変えるのは武器よ。でも戦後は何の役にも立たないわ。……確かにお金も戦局を変えはするでしょうよ。でも、戦後にもその価値は、変わらないわ。』
 もう戦局は覆らない。枢軸国は全て降伏し、連合国の勝利に終わるだろう。それは連日、空を往復する米軍機の群を見て誰もが知っている。
 しかし、戦争が終わっても、黄金の価値は、変わらない。誰もがウィンチに吊り上げられる、黄金の鈍い輝きを……、呆然と見上げていた……。
 1945年。金蔵の回想は本人にとって都合の良い内容になっており、必ずしも真実とは限らない。

海から来た魔女

地下基地
【金蔵】「中尉。イタリア人たちは、この黄金のことを、本土へ報告しないことを望んでいます。」
【山本】「………ふふん。我が国に横領されたくないからであろうな。」
【ビーチェ】『彼は何と?』
【金蔵】『日本が黄金を横領するのを恐れているから、報告されたくないのだろうと言っている。』
【ビーチェ】『少尉はむしろ、イタリア本国に知られることを恐れているわ。私たちにとって、今の祖国は連合国の傀儡政権。彼らに知られれば、黄金は返還することになる。しかしそれは、私たちの敵に黄金を渡すようなもの。』
 敵の手に黄金を渡さないために、彼らはここまでやって来たのだ。彼らの真の祖国が復興する日まで、この黄金を傀儡の祖国の手から、彼らは隠さなくてはならない…。
【山本】「右代宮。イタリア人たちに提案せよ。我々は協力を申し出たいとな。」
【金蔵】「協力とは…?」
【山本】「イタリア人たちの言い分はこうであろう? 彼らはその黄金を、祖国に知られることなく隠したいわけだ。しかし、この島から運び出そうとすれば、輸送船を手配せねばならなくなる。そうすれば、本土に知られ、さらにはイタリア本国にも知られることとなる。」
【金蔵】「そうなります。……つまり、あの黄金は、もう六軒島からは運び出せない。」
 彼らの任務は恐らく、祖国再興の日まで、あの黄金を極秘の場所に隠すことだったに違いない。ナチスドイツも、降伏直前にその隠し財産を、南米などの某所に極秘で運搬して隠した、などという噂がまことしやかに流れる。それは妥当な想像だった。
 唯一の極秘輸送手段であった潜水艦は完全に航行不能で、浸水は止められず、近い内に完全に沈没するだろう。黄金を極秘に輸送する手段は、もはや存在しないのだ。
 それはつまり、彼らの任務がこの極東の地で、失敗に終わったことを示していた。その上で、山本中尉は何の協力を申し出ようと言うのか……。
【山本】「この六軒島基地は、誰も知らぬ秘密基地だ。近隣の島民たちは、この島を不吉な無人島と信じて近寄りもしない。……言っている意味がわかるか、右代宮。」
【ビーチェ】『彼は何と?』
【金蔵】『前にも話した通り、この六軒島基地は誰にも知られていない。見ての通り、戦略価値は何もなく、上層部にもすでに忘れられてる。……中尉は、この島に黄金を隠してはどうかと提案したいみたいだ。』
 ベアトリーチェはすぐにそれを翻訳し、アンジェロ少尉に伝える。少尉は下士官たちと早口に議論を始める。
 表情は苦々しい。同盟国とはいえ、祖国再建の大切な黄金を、東洋人の手に委ねたくはないのだろう。しかし、選択の余地が残されているとは思えない。
【ビーチェ】『……激しく議論しているわ。他に手はないと言う者もいるし、それでも祖国に忠誠を尽くすべきだと言う者もいる。……少尉は板挟みになってるわ。』
 黄金隠匿は、滅んだ祖国の最後の命令だ。しかしその命令はもはや遂行不能だ。本土や祖国に知られれば、彼らの望まぬ人間たちに接収されることになる。
 彼らが祖国の命令を忠実に実行しようとするなら、………山本中尉の、この島に隠せばいいという提案は、極めて妥当なものだ…。たとえ言葉が理解できなくても、彼らが悩んでいることは、山本中尉にもわかっているようだった。
【山本】「くっくっく、我々が協力すれば、あの黄金を厳重に隠すことが出来るぞ。幸いなことに、廃棄された地下壕が長々と、この島の地下を横断している。」
【金蔵】『……この島の地下に黄金を隠して埋めれば、誰にも発見できないと言ってる。』
【ビーチェ】『現実的な申し出だと議論してるわ。……でも、日本人の手を借りるのに、抵抗を感じてるみたい。』
【金蔵】「……議論が難航しているようです。」
【山本】「くっくっく。議論の余地などあるのか、イタリア人。我々の協力なくば、あの黄金は隠せんぞ? まさか、いつまでも波打ち際に積み上げて置く訳にも行くまい?」
【ビーチェ】『アンジェロ少尉は、黄金のことを知る人間を最小で抑えたいみたい。……日本人は信用できないけど、山本中尉の申し出が、今は最善と見てるみたいよ。でも、訝しがってるわ。』
【金蔵】『何を?』
【ビーチェ】『10tの黄金を隠すという労力の提供と守秘義務を、彼らが本当に無償で提供してくれるのかと、ね……。』
【山本】「五分と五分だ。」
【金蔵】「……中尉、それはまさか、」
【山本】「あの黄金の半分を我々に寄越せ。それを手間賃に、残りの半分を厳重に隠してやろう。」
【金蔵】『……は、半分を寄越せと言ってる。』
 ベアトリーチェがそれを通訳した途端、アンジェロ少尉はバンと机を叩いて立ち上がる。
 山本中尉は、乱暴者と恐れられていたと自ら言うだけあり、気圧された様子もなく、……いやむしろ、さっきより余裕をもって言う。
【山本】「本来なら断りようのない話だ。8割を要求してもおかしくない。それを、敬意を表して五分と五分にしようと提案しているのだ。……これは我々だけに優位な話ではない。イタリア人たちが外部にこのことを漏らせば、全ての黄金は日本かイタリアに接収されるだろう。我々には1円たりとも転がり込んで来ない。我々は全員が共犯でなくてはならないのだ。」
【金蔵】『全員に着服の共犯になれと言ってる。……中尉はすでに軍人としてでなく、個人として話をしている…。』
【ビーチェ】『何てこと……。黄金に目が眩んだのね…。』
 山本中尉はにやにやと笑う。ベアトリーチェの言う通り、その目は黄金に眩んでいるようだった…。
【山本】「あのまま山積みにしていれば、やがて本土から来る迎えの連中の目に、否応なく入るだろう。そうなれば、ここにいる誰もが得をしないぞ。我々の申し出を受けて、早急に黄金を隠すべきだ。」
【ビーチェ】『……アンジェロ少尉は、日本政府やイタリア政府にはどうしても知られたくないみたい。彼は自分が与えられた任務に、最後まで責任を持ちたいみたいよ。』
【金蔵】『つまりどういうことだ?』
【ビーチェ】『何割かを口止め料として与えてでも、島内に地中深く埋めることを望んでるわ。……もちろん、下士官たちには異論もあるみたい。5割は問題外だと憤慨してるわ。』
【山本】「右代宮。イタリア人たちの感触はどうだ?」
【金蔵】「………彼らも黄金が、これ以上の人目につくことを望んでいないようです。……しかし、取り分に異論があるようです。」
【ビーチェ】『少尉は、1割ならば検討できると言ってるわ。……無論、山本中尉がそれで納得しないだろうとも言ってるけど。』
【山本】「右代宮。イタリア人の返事は如何に?」
【金蔵】「……1割なら検討すると。」
 今度は山本中尉が激しく机を叩く。しかし、イタリア人たちも気圧されはしない。……狭い室内を、火薬の臭いのする緊迫感が満たしていく…。
 しかし、その乱暴な仕草とは裏腹に、やはり山本中尉の表情は不敵で余裕あるものだった。交渉のイニシアチブは自分にあるのだという、自信があるのだろう。
【金蔵】「1割! 1割か、それは慎ましやかな提案だ。……いいだろう、なら1割を譲ってやろう。四分六だ。これ以上は譲らんと伝えろ!」
 日本側4割。イタリア側6割。中尉は強気に出ているが、実際は決して互角の交渉ではない。
 イタリア人たちが、自分たちもこの黄金を横領しようという考えでいるなら、大した問題ではない。
 しかしもし。彼らが高潔な愛国者であり、……たとえ滅んだ傀儡の祖国であっても、再建のために黄金を返還すべきだという結論に至った場合。彼らはむしろ逆に、黄金の存在をイタリア大使館員に告白するだろう。
 イタリア政府はやがて連合国を通じてそれの返還を求める。……全てがイタリアには戻らないだろうが、荒れ果てた街並みの再建に、その黄金は有効に利用されるかもしれない。そうなれば山本中尉たちは、せいぜい数本のインゴットを誤魔化せるかどうかだ。
 欲深な彼は、この島を自分たちだけの宝島にして、巨万の富を独り占めしようと企んでいるのだ。……その野望のためには、イタリア人たちが黄金のことを、秘匿しなくてはならない。
【金蔵】『しかし疑問だ。………アンジェロ少尉が誰にも黄金を渡したくないなら、沈み行く潜水艦に任せて沈めれば良かったはず。どうして荷揚げを?』
【ビーチェ】『……考えたくはないけれど。……命令が遂行不能になった時点で、少尉はこの黄金を横領することを考え始めたのかも。彼は今、下士官たちに、軍人としての意見と、祖国に家族が待つ一個人としての意見を聞きたいと言っているわ。……堅物の下士官たちが激高してる。』
 イタリア人たちは、感情的になりながら激しい議論を交わし出す。
 滅んだとはいえ、祖国の命令にひたすら従い、ここまでやって来たのだ。このような任務に当てられるのだから、彼らは特に忠誠心が高い兵士たちだろう。異国人に着服と山分けを唆され、素直に首を縦に振れるわけではなさそうだ……。
 アンジェロ少尉は下士官たちの想像以上の激高に、なだめるのが精一杯のように見える。……やはり、黄金は彼らをも惑わせているのだ。
 誰もが、本音と建前を交錯し、どうすればいいのか戸惑っている……。
【山本】「ヤツらの返答は如何に?! 右代宮ッ!!」
【金蔵】『……ビーチェ。中尉が返事を求めてる。』
【ビーチェ】『………考える時間がほしいと言ってるわ。私はあなたと話せたから、気が紛れて良かったけれど、他の人たちはそうじゃないの。……とても長い航海の果てに、大勢の仲間を失って、極限状態でここにいるわ。唯一の心の拠り所だった任務ももはや喪失してる。どうすればいいのか、彼らもわかってないの…。』
【金蔵】「中尉。……彼らは時間が欲しいと言っています。」
【山本】「くっくっく、いいとも、大いに議論したらいい。しかし時間はないぞ。隠すとなったら、時間と手間がかかる。……明日の正午までに結論しろ。以上だ、イタリア人ども!」
【金蔵】『……回答期限は明日の正午だそうだ。……中尉め、まるで脅迫だ。』
【ビーチェ】『少尉は、全員の意見を聞くと言ってるわ…。』
【金蔵】『感触は?』
【ビーチェ】『多分、難航するわ。……少尉自身は山分けもありえると考えてるみたいだけど、下士官や、他の仲間たちは多分反対するわ。……みんな、この極東までの航海で、大切な仲間を大勢失ってる。彼らは頑なに祖国への忠誠を貫きたがってる。』
【金蔵】『……中尉の申し出は断ると?』
【ビーチェ】『断っても、どうせ黄金は誰かの手に渡るわ。……何も残らないなら、せめてインゴットの1本ずつでも密かに持ち帰ろうという少尉の言い分に、同調者も出そうだけど……。こういう時の男って、勢いだけが迷走するわ。私も見当が付かない…。』
礼拝堂・貴賓室
【理御】「……イタリア人たちの胸中は、複雑でしょうね。」
【ウィル】「彼らにとって、降伏後のイタリアは敵国同然だろう。黄金をそのイタリアに返還するのは、彼らの長い旅路を全て否定するのと同じだ。」
【理御】「しかし、黄金を着服して山分けすることも、彼らの旅路の否定になります…。」
【ウィル】「彼らが義理立てすべき祖国はすでに滅んでる。その時点で、彼らの旅路の意味など、もう失われてる。気の毒な話だ。」
【理御】「……どうせ意味のないことなら、インゴットの1本でもありつけた方が、まだマシだと?」
【ウィル】「損得勘定で言えばそうなる。…………そうならねぇのが、男ってもんだがな。」
地下基地
 狭い部屋にイタリア人たちが集まり、激論を交わしていた。
“反対です! 死んだ戦友たちのためにも、断固、軍人魂を貫くべきです!” “貫くとはどういうことか。この島に黄金を隠せということか。東洋人たちの申し出を受けろということか!” “東洋人たちは信用できません! 特にあのヤマモトという男! 断じて油断できません!”
“黄金を荷揚げして日本人たちに見られたのはやはり失敗でした! 艦と共に沈めるべきでした!” “日本人の基地で沈めてどうする?! やがていつかは引き上げられる。隠したことにはならない!” “いずれにせよ、この島から黄金を誰にも知られずに運び出す方法はない。”
“洋上で名誉ある自沈を選んでいたらこんなことには…!!” “艦のダメージが致命的だったことが、あの時点でわかっていたら……。” “どうしてあの時、少佐は日本軍に救援要請を? 日本軍にこの黄金のことを知られたら、少佐はどう任務を遂行するつもりだったんだ?”
“少佐が救援要請を出した時点で、我々の任務はもう、失敗していたんだ!” “諸君にも、祖国で待つ家族がいるはずだ。そして極東の島国まで、よく航海に耐えた。それに対する、これは正当な報酬なのだという、考え方もあるっ。”
“ざわざわざわ! ざわざわざわざわ!!”
“少尉。……日本人が友好的でない場合、我々は最終的解決手段を辞さない覚悟が必要です。”
“……伍長、最終的解決手段とは何か。”
 ごくりと、誰かの喉が鳴る。重苦しい緊張感が部屋を支配する…。
“日本人たちは弛みきっています。実戦経験もない、腰抜けばかりです。” “我々は精兵です。すでに基地内の間取りのほぼ全てと、日本人の人数、配置状況は把握しています。少尉の命令があれば、短時間で制圧できるでしょう。”
“戦闘員と思わしきはヤマモトを含めて数人程度。残りは軍属の作業員風情です。上辺の人数は日本人が上ですが、実質兵力ではこちらが優位です。” “日本人を殺せば、迎えの船が来た時、それをどう説明する? 誤魔化しようがないぞ?!”
“死体さえ見つからなければ、どうとでも誤魔化せます。” “少尉。……この基地を制圧するのは容易です。ヤマモト以下、主要な兵士数人を殺して見せれば、あっさりと作業員たちは降伏するでしょう。”
“彼らに黄金を運ばせ、地中に埋めましょう。……もちろん、彼らの口は永遠に塞ぎますが。” “日本人たちを、皆殺しにするということか……。” “殺しましょう。全員殺せば、黄金のことは誰にも知られずに済むのです。”
 その時、施錠していたはずの鍵が開き、扉がわずかに開き、何かの金属物が放り込まれた。
“グラナーター(手榴弾)!!!”
 その絶叫に、机を跳ね飛ばして楯にし、全員が一斉に床に伏せる。しかしこの狭い室内では、それは恐らく無駄なことだ。イタリア人たちは全員が死を覚悟する。
“……………?” “不発! 不発!!” 粗悪な手榴弾は、幸運なことに不発だった。
 再び扉が荒々しく開き、拳銃を構えた日本人が3人飛び込んでくる。
「クソッタレ、不発だ!! イタ公どもを殺せ殺せ殺せ!!」
“応戦しろ!! 各自自由発砲ッ!!”
 この狭い室内では、どこをどう撃っても、どう跳ねても誰かに当たるだろう。鉛弾の応酬は、瞬く間に血飛沫を飛び散らせ、双方に犠牲者を出す。飛び込んできた3人は全身に何発も鉛弾を浴びて倒れ、呻きながら痙攣している…。
“ぐぐぐぐぐぐ、ぐ、………ッ、ごほッ、げほッ……、” “ジーノ!! ジーノ!! くそッ、肺をやられてる、助からない!!” “幸運な犠牲だ! あの手榴弾が不発でなかったら、全員死んでる!” 投げ込まれた手榴弾は、まだころころと、床の上を転がり続けていた…。
 奇襲だった。……恐らく山本中尉は、アンジェロ少尉たちとの交渉で、彼らが言いなりにならないとの感触を得て先手を打ってきたのだ。いや、ひょっとすると、全員で決を採らねばならないように仕向け、集まったところを一網打尽にしようと、初めから狙っていたのかもしれない。
 六軒島は彼らの島だ。イタリア人を皆殺しにすれば、黄金は五分五分どころか、その全てが日本人のものなのだ。手榴弾が遅れて爆発しないとも限らない。彼らは廊下へ飛び出る。
 彼方より銃声が聞こえる。潜水艦ドックの方だ。黄金の山を警備させている兵士たちが襲われているのは明白だ。
“少尉ッ!! ご命令を!!” “やむを得ん!! 日本人は殺せッ!!”
潜水艦ドック
「ちゅ、中尉! あいつら出来ます!! このイタ公連中、ただの船乗りじゃねぇ!」
「くっくっく、なるほど、黄金の番人を任されるだけの兵士ということか。人数はこちらが上だ。焦らず、囲んで殺せ!! イタ公狩りだ!!」
地下基地・別の場所
 連発する発砲音を聞いた時、私はすぐに直感した。あの黄金が荷揚げされた日から、燻っていた何かが、とうとう破裂したのだと直感した。
 中尉たちが黄金を見る目は、尋常ではなかった。そう、あれは悪魔に魅せられた目だった。
 イタリア人たちも、重責から心がはちきれそうになっていた。遠い異国の地で、言葉も文字もわからない世界に取り残されたら、おかしくならない方がおかしい。
 とにかく、何とかしなくてはならないと思い、発砲音の聞こえる方へ走った。……今にして思えば、それはとても愚かしいことだ。
 それは銃撃戦を意味する音。殺し合いを意味する音。なのに私は丸腰で、まるで喧嘩の仲裁にでも行くようなつもりで、駆けている。……それが如何に愚かしく、この戦時に浮世離れしたものか、すぐに思い知る。
【金蔵】「……ひ、平岡兵曹?!」
 彼は血で全身を濡らして、うつ伏せに倒れていた。血の跡がべっとりと続き、部屋から何とかここまで這いずってきて、絶命したことが見て取れた。
 いや、まだ痙攣している。絶命はしていないのかもしれない。……しかし、医者などいないこの島で、……いや、医者がいたとしても、こんな、何発も撃たれて、胸が抉れて、……助かるはずなどあるものか…。
 這い出てきたに違いない室内を見ると、荒れ果て、他にも2人の日本人の血塗れの死体があった。
【金蔵】「うッ、うわ、……わ、……ッ。し、……死ん……、」
 情けなく尻餅を付き、口を閉じることさえ忘れ、呆然とする……。……思えばそれが、生まれて初めて知る、人の死というものだった。
 世界中が戦争をしている。洋の東西で、大勢の人が死んでいるこの戦時下でありながらも、……それが初めて直面する人の死だったのだ。
 滑稽なものだ。……私は死にたくて軍隊を望んだのではないのか? 死にたくて、戦地に送られなかったことを嘆いたのではなかったか?
 あぁ、なら喜べ、金蔵。これが、私の望んだ死ではないか…! なぜ両手を広げてこう叫べない? 来たれ、偉大なる死よッ、と!!
 誰かが駆けて来る。同僚だ、日本人だ。田島くんだ。
「にッ、ににッ、にぃッ…!!」
 顔面を蒼白にしながら、ものすごい形相で駆けて来る。くしゃくしゃに歪んだ酷い顔だった。そしてそれが、きっと自分の顔でもあるのだ。
【金蔵】「田島くん…、な、何があったんだ……。」
「に、逃げろ…。こ、殺、殺されるぅうぅうッ!!」
 イタリア語の怒声と共に、田島くんが爆ぜた悲鳴をあげる…。そしてそのまま、腰を落として取っ組みかかってくるかのように、私に飛び込んできた。
 彼の背中から血が噴き出て、みるみる真っ赤に染まっていく…。
【金蔵】「田島く、ん……ッ、」
「に、……逃げ…………、ごぽッ、………。」
 血の泡を吐きながら、………それだけを伝え、絶命する。しかし私は、絶命の瞬間を目の当たりにするという衝撃的な出来事には、心を奪われなかった。
 ……生きとし生けるものは、本来、他人の死など関心はないのだ。その唯一の関心は、自分が死ぬかどうかにだけ、割かれるのだ。イタリア人が見せる、銃口の奥底だけが、私の心を奪っていた……。
 私にもたれかかる田島くんの背中が再び爆ぜる。肉が裂け、血飛沫が飛び散る。その熱い飛沫が私の顔を覆った。すでに身動きも叶わない彼にさらにとどめを?
 あぁ、私は何と愚かなのか……。この期に及んでまだ、私は直面したるこの惨事を理解できないのか! 喜べ、金蔵!! 私が望んだものが、今、初めて与えられたというのに…!!
 イタリア人はとどめを刺すために撃ったのではない。重なり合って倒れている、この、右代宮金蔵を狙って撃ったのだ。
【金蔵】「ぅ、……ぅ、……わぁ………!!!」
 彼の死体を跳ね除け、私は床を掻きながら、転げるように走り出す。
 床を掻いた時、それだけのことで左手の薬指の爪が剥げた。どれだけ、人は死に対し、全身全霊で抗うというのか。
 床を転げ、体を削り取りながら走る。痛かった、熱かった。でも、そんなことはどうでも良かった!
 後ろからイタリア語の怒鳴り声が何度も聞こえた。それが走り、自分を追ってくるように感じられた。
 振り返りたくもなかった。だからずっとイタリア人が追ってきているように思えて、どこまでも滅茶苦茶に、ぐちゃぐちゃに逃げた。
 これが、……死……!! 死にたかったんじゃないのか? 嫌だ、死にたくないッ!!
 どうして? あんなにも望んだのに? 私はもう、知ってしまった。生きることの、素晴らしさを。彼女が教えてくれた。ビーチェが教えてくれた。
 彼女と話している時だけ解放された。違う! 彼女と話して、私は初めて生きたのだ。生まれたのだ!!
 生きたいッ。生きたい生きたい生きたいッ!! 死にたくない!! 生きて彼女と会いたい、今すぐに!! 会わなきゃ死ぬ、殺される!!
 ………落ち着け金蔵、……彼女だって殺されるかもしれない…! 自分が生きても、彼女が殺されたら、それは同じことなんだ……!! 気付けば顔は、涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃに歪んでいた。
 何かに躓いて転ぶことで、ようやく私はわずかの正気を取り戻す。
【金蔵】「………………はぁ、……はぁ…。………………。」
 発砲音は、まだ断続的に聞こえる。銃撃戦は続いている。そしてそれは、基地中に広がっている。
 ……ビーチェ。……君は、無事なのか……。彼女を探し、安全な場所に匿おう。……中尉たちは黄金を奪うために、イタリア人たちを皆殺しにするだろう。ビーチェも例外にはなるまい。
【金蔵】「ビーチェ……。………ビーチェ…!!」
 君に会って私は初めて生きた。生まれた。ならば私は君が死ねば再び死ぬ。右代宮金蔵じゃない、……まったく別の金蔵に、全身の細胞が生まれ変わる感触。
 ……もちろん、再び戻れば、今度こそ撃たれるかもしれない恐怖はある。だが、私はもう、死にたくはないのだ。真の意味で。だから、その恐怖を捻じ曲げることが出来る。
【金蔵】「……ビーチェぇえええぇええ!!」
地下基地・別の場所
【ビーチェ】“ルーベンス! 一体、何が起こってるの?! この騒ぎは何?!”
“君は知らなくていい。そこにじっと隠れていろ。同胞が呼び掛けるまで出てくるんじゃない!”
「イタ公の声が聞こえたッ!! そこにいるぞ!!」
“くそったれ、黄色猿め!!”
 ルーベンスはベアトリーチェを背中で庇い、ベレッタM1934の9mm弾を正確に1発ずつ、飛び込んできた2人に撃ち込む。
 しかし彼らも九四式自動拳銃の8mm弾を正確に1発、ルーベンスの胸に撃ち込む。銃を撃ち合った3人は、3人がそれぞれに銃弾を胸に受けて、もがきながら倒れる。
【ビーチェ】“し、しっかりしてッ!! ルーベンス!!”
“……地上へ逃げろ…。森の中へ隠れ……、……ゴホゴホッ!! グッ……。” “ルーベーンス!!!”
【山本】「……くっくっく、おやおや。賑やかではないか。」
 さらに現れたのは、……日本人たちの指揮官、山本だった。3人が殺し合う銃声を轟かせたのだ。さらにその上、ベアトリーチェの叫びがあっては、気取られても不思議はない。
【山本】「こんなことなら、最初からこの女を人質に取ればよかった。クソ、忌々しい連中だ!」
 山本は唾を吐き捨てる。その隙をついてベアトリーチェは素早くルーベンスの銃を拾う。
【ビーチェ】“きゃッ……!!!”
【山本】「躊躇なく銃を拾おうとするとは! イタリア女は実に物騒だッ! クソ、二人掛りでしくじりやがって…!!」
 足元に転がり、苦しそうに呻いて最期の時を待つ二人に、憎々しげにそう言い放つ。しかし、無理もないことだった。そしてそれは、ここの撃ち合いだけではない。
 この、狭く入り組んだ壕内では、ほとんどが出会い頭となる。互いに銃弾を無闇やたらに撃ち込み合えば、転がる骸は二つになる。だから、人の気配さえ感じたら直ちに引き金を引いた方が早い。それが唯一、自分の胸に鉛弾を喰らわない生き残りの方法だ。
 そんなだから、日本人もイタリア人も、異邦人を容赦なく殺したし、時に出会い頭の同胞にさえ引き金を引いた。そんな中に、何事か何事かと、突然の騒ぎに駆けつけた大勢の日本人たちは次々に巻き込まれていった。
 相手が銃を持っていようと持っていまいと関係ない。自分が生きるために自分以外の人影に対し、反射的に引き金を引く。そんな殺戮が、基地内を飲み込んでいった……。
 潜水艦ドックでは激しい銃撃戦が。そして基地内では狩猟のような虐殺が繰り広げられた。
 軍属の非戦闘員のほとんどは、何事かもわからない内に撃ち殺された。イタリア人は確かに精兵揃いだったが、少しずつ犠牲者を増やしていった。基地内のそこかしこに、血塗れの死体がごろごろと横たわった……。
 最初は、少なくとも彼らなりに意味のある銃撃戦だったかもしれない。しかし次第に、彼らの感覚は麻痺し、理解できぬ異邦人は全て殺せという、人類が戦争を起こす理由の、最も根源的なものにすり替わっていった…。
 自分に理解できない言葉を聞けば、構わず引き金を引いた。異邦人の悲鳴はもはや、人型のケモノのそれと同じに聞こえた。異国の言葉の命乞いなど、理解も出来ないのだから。だからそれはもうとっくに、ただの殺戮と成り果てていたのだ……。
 そうして死者の数が生きた人間を上回り、……次第に基地内は静寂を取り戻していった。
 荒涼とした風の音が聞こえ、全ての人間が死に絶えたかと思った頃に、唐突に悲鳴が聞こえては、乾いた銃声が、まだ殺戮が終わっていないことを思い出させる。
 そんなことが、何度も繰り返し、………やがて、本当の静寂を迎えた。……黄金の惑わされた者たちの、哀れな最期だった。
 イタリア人たちの指揮官、アンジェロは、何とか生き残っていた。
 出くわすのは、……敵と、味方の、死体だけ。基地内はシンと静まりかえっている。
 迂闊に大声を出せば、物影から撃たれるかもしれない。……だからこうして息を殺しながら、残敵を探して、豹のように徘徊する…。
 生きた者の姿も、気配も、何もない。……この基地にいる全ての人間がもう、死に絶えたかもしれない。
“……日本人め、おのれ……。”
 日本人が先に仕掛けて来たが、あの時、我々もまた、日本人を殺すことを相談していた。彼らは軍人として、機先を制しただけのことだ。だから、とりあえず今日に、感謝することにした。
 迎えの船が来たところで、自分たちにはもう名誉など与えられはしない。死んだ戦友たちに顔向け出来ない、哀れな任務失敗を思い知るだけ。この極東の地で銃を抱いて死ねるのは、………軍人として本懐かもしれないのだ。
 曲がり角の向こうに、足を引き摺る音を聞き、耳をそばだてる。
 ………負傷して、足を引き摺っているのか? 先に気配を気取れたのは、勝機。
 もうこの殺戮の段階において、捕虜を取る意味はない。むしろ、全ての日本人を排除すべきだ。曲がり角より飛び出して、素早く相手を確認し、……日本人だったら撃つ。それだけのことだ。
 自分はずっと足音を殺していた。こちらは気取られていないはず。引き摺る足音が、充分な間合いまで近付いてきてから、アンジェロは身を乗り出し、銃を構える。
 そんな彼を迎えたのは、イタリア語だった。
【ビーチェ】“に、逃げて……。”
“……?! き、貴様……!!”
【山本】「くっくっく、貴様を探していたぞ、アンジェロ少尉…。これで全員だな。俺はしっかり、貴様らイタ公の死体を数えて回ってたんだからな…!!」
【ビーチェ】“しッ、しっかりして!! アンジェロ少尉!”
 アンジェロは胸から、こぽりと血が溢れ出し、……銃を落とす音、膝を落とす音に続き、どさりと床に崩れ落ちる音を聞かせ、……動かなくなった。
 山本の銃の腕は決していい方ではない。しかし、アンジェロが充分に間合いを詰めてから飛び出してくれたので、当てることが出来た。銃身の短い拳銃を片手で構え、……女を人質に取りながらでも、当てることが出来た。
【山本】「それにしても、我が六軒島守備隊の情けないことよ! まさか私以外は全員死んだのではあるまいな?! やれやれクズどもめ!」
【ビーチェ】“女を楯に取らなきゃ戦えない、人でなし!! 離してッ!”
【山本】「静かにしろ! イタリア女は実に騒がしい。大人しくしてれば、命までは取らんというのにッ。くっくっく!」
 それは、彼自身が苦笑いしてしまうほどの嘘だ。イタリア人たちは敵に内通したスパイで、銃撃戦になり、守備隊共々全滅した。そういう筋書きにしたい山本にとって、イタリア人生存者は不都合なのだ。
 もはや黄金の山を丸ごと手に入れることは出来ないが、自分で持ち運べる程度の、インゴット数本をくすねることは出来るはず。そしてそれだけでも、十分な大金になるはず。
 ベアトリーチェが、いきなり頭を大きく反らす。それは思いきり山本の鼻筋を打ちのめした。
【ビーチェ】“誰か助けてッ! 誰かぁあああぁあぁ!!! ……きゃッ!!”
【山本】「こ、……こンの、クソアマ……。うくくく……。」
 頭突きの隙にうまく逃れるはずだった。しかし山本は素早く彼女の足を引っ掛けて転ばせたのだ。転んで仰向けになった彼女の腹を、山本は容赦なく踏みつけて、銃を構える。
【山本】「くっくっく、じゃじゃ馬を飼い慣らす趣味はないのでな…! 貴様は死ねッ!!」
【金蔵】「中尉ッ、彼女は無関係だ! 離してやれッ!」
 物影から飛び出したのは金蔵だった。誰かの死体から奪った拳銃を構えていた。
【山本】「んんん? 右代宮か。ほぅ、生きておったか!」
【金蔵】「彼女を離せッ、苦しがってる…!!」
【山本】「……貴様であろう? イタリア人どもに、攻撃があることを密告したのは。」
【金蔵】「何の話だ…?!」
 山本は手榴弾が不発だったことを知らない。絶対にうまく行くと思っていた奇襲が失敗したため、金蔵が密告したからに違いないと決め付けていたのだ。
【山本】「貴様のせいで奇襲が失敗して、このザマだ! この裏切り者の売国奴め…。貴様がこのイタリア女を通じて内通していたことはお見通しよ!」
【金蔵】「あなたが黄金に目が眩んだから、この事態を招いたのではないのか?!」
【ビーチェ】『逃げて、金蔵! この男は命乞いしてる人も撃ったわ! あなたも撃たれる!』
【山本】「喋るな、イタリア女! もう一度、口を聞いたら、容赦なく撃つぞッ。」
【ビーチェ】『い、……痛い、…ぐぐ、……ぐッ、』
 山本の踵が、容赦なくベアトリーチェの仰向けの腹を踏み躙る。
【金蔵】「よせ、やめろ!! 彼女は何の関係もない!!」
【山本】「あぁん? 銃を上官に向けるとはどういうつもりか。……頭を冷やせ、愚か者め。私とお前で口裏を合わせれば、あの黄金の山は私たちだけのものではないか。……私一人では少々をくすねるくらいしか出来んが、お前と二人でなら、もっと多くの数をくすねることが出来る。……上官面をするつもりはないぞ。男同士、二人できっちり山分けしようじゃないか。」
【金蔵】「五分五分に分けようと言って、あなたは彼らの寝首を掻こうとしたのではないのか?!」
【山本】「ちっ。右代宮、どうやら貴様は、黄金より鉛の方がお好みらしいなぁ?!」
 まったく何の躊躇もなく、山本はその銃口を上げて、金蔵目掛けて引き金を引いた。
 それは金蔵の右耳をわずかにかすめる。もうわずかに、山本の銃の腕が確かだったら、その銃弾は確実に金蔵の顔面に叩き込まれていた。
【ビーチェ】『金蔵ッ?! よ、よくもッ!!』
【山本】「貴様ッ、……ぬごッ?!?!」
 山本の注意が逸れたのを見過ごさず、ベアトリーチェが暴れ、突き上げた右足で山本の股間を強打する。一瞬、呻いた山本は、鬼のような形相を浮かべて激しく彼女の胸を踏みつける。
【金蔵】『ビーチェ!!』
【山本】「このクソアマがぁああぁあ!! 死ねぇええええええええぇええ!!」
 ベアトリーチェはぎゅっと目を瞑り、それが耐えられる痛みであることを祈った。誰だって、自分が撃たれる瞬間に、目を開けていたいとは思わない……。
【山本】「ぎ、……貴…様……………。」
 ぼろ、……ぼろぼろっと、…山本の胸から、転がり出るように血の塊が溢れ出す。
【金蔵】「あんたがあんたの都合で、大勢の命を奪ったように。……私も、私の都合で、あんたの命を、……奪う。」
 金蔵の言葉を、山本は聞き届けられただろうか。山本は、多分、最期にニヤリと笑った。
 そして、ゆっくりと、一筋の血を迸らせながら、……大きく後ろへ倒れて行った。
【ビーチェ】『金蔵! 無事なの?! てっきりあなたが撃たれたと…! う、ぐ、ぐ……。』
 そう言いながら立ち上がろうとした時、ベアトリーチェが胸を抑えて呻く。
【金蔵】『ビーチェ! 怪我をしたのか…?!』
【ビーチェ】『……あばらが痛むわ。その人でなしが、激しく踏んだものだから。』
【金蔵】『大丈夫か…。折れていなければいいんだが……。』
【ビーチェ】『これくらいで折れるほど、イタリア女はヤワじゃないの。……でも、ありがとう。あなたは命の恩人だわ。あなたが来なければ、私はきっとそこに転がっていたわ。……、ぐ………。』
 山本は、相当に容赦なく踏みつけたのだろう。……彼女のあばらに、ひびが入ったかもしれない。……あと何日かかるかわからない迎えを待っている余裕は、もはやなかった。
 私は、彼女をこの島から運び出す決意をした。秘密基地だから外部との交流を禁ずる云々を叫ぶ当の本人は、もうそこで息絶えている。
潜水艦ドック
 ……隣の新島は近い。小船でも充分に辿り着けるはずだ。
【金蔵】『君を病院へ運ばなければならない。……君が思っているより、傷が深かったらいけない。』
【ビーチェ】『……知らなかった。この島には病院もあるのね。』
【金蔵】『ない。隣の島へ船で運ぶ。……君は病院へ。私は、この島での出来事をうまく片付けないと、……とばっちりで軍法会議ものだ。』
【ビーチェ】『頼みがあるの。……私を病院へ、連れて行かないで。』
【金蔵】『どうして…。』
【ビーチェ】『病院へ行って、大使館に連絡が行けば、私はやがて本国へ送還されるわ。……そしてきっと、あれこれと尋問を受けるんだわ。私は、ママを見殺しにしたヤツらを、自分の祖国とは認めないの。』
【金蔵】『……………………。』
【ビーチェ】『もう、私の帰るべき祖国はないの。ここが私の終点。だからもう、私はどこへも行きたくないの。……私にやさしくしてくれたアンジェロ少尉も、ルーベンスも、みんなみんな、……死んでしまった。』
【金蔵】『だから、君までここで死ぬと? イタリア女はヤワじゃないんだろう? 生きるんだ。』
【ビーチェ】『ねぇ、金蔵。生きるってどういう意味? あなたが教えてくれたはずよ。生きるってのは、ただ息をすることじゃないわ。………私は、イタリアへ帰りたくないの。』
【金蔵】『……ビーチェ。』
【ビーチェ】『あなたは私と出会うまで、死んでいたと言ってくれたわ。でも、それは私も同じなの。……潜水艦の中で、私は死んでいた。祖国も滅び、ママも死んだ。パパもね。……私は、こんな船、沈んでしまえと願ったわ。だから、ここに辿り着いた時、実は死に損ねたとがっかりした。………その矢先よ。少尉が、英語がわかる者はいるかと騒ぎ出したのは。』
 金蔵は、ベアトリーチェと出会うことで初めて、死ぬことを忘れた。そしてベアトリーチェもまた、……金蔵と出会うことで、死ぬことを忘れられたのだ。
【ビーチェ】『私は。……祖国も家族も友人たちも失った私を、…………あなたにさらって欲しいと願うの。』
【金蔵】『………ビーチェ……。』
【ビーチェ】『でも、……それは叶えられない望みだともわかってる。……ならばせめて。……迎えの船が来るまでの数日間を、あなたと一緒にいたいの。胸の痛みなんて、気にしない。だって、迎えの船に連れ去られたら、……私はもう、死んでしまうのだから。』
 ベアトリーチェはそう言い、やわらかに微笑んだ。……胸が痛むのを、懸命に隠しながら。
【ビーチェ】『お願い、金蔵。……迎えが来るまでの数日間でいいから。……私をさらって。』
【金蔵】『………その願いは、……叶えられない。』
 金蔵は残念そうにそう言いながら、ベアトを抱え上げ、やさしく船に寝せる。
【ビーチェ】『……意気地なし。……やっぱり日本の男は軟弱だわ。』
【金蔵】『そうだな。……私は意気地なしだ。だから君の願いは、片方しか叶えられない。』
 ゴトリと、重い音をさせて、上着に包んだそれを船に積む。
【ビーチェ】『片方とは……?』
【金蔵】『迎えが来るまでの数日間でいいから。……の方は、叶えられないということさ。』
【ビーチェ】『………え? どういう意味?』
【金蔵】『君をさらう。……そっちを叶えることにした。』
【ビーチェ】『……き、……金蔵………。』
 新島にだって、医者はあるだろう。海軍の服を着てるんだ。要人護送の船が、敵潜に沈められてボートで云々と、いくらでも誤魔化せる。
 その医者が欲深であったなら、さらに好都合だ。……ここには、相手を言い成りに出来る、黄金の魔法があるのだから。
洋上
 死人同然だった私に、魂を与えてくれた、遥か異国よりの、……魔女。黄金と共にやって来た彼女は、……その魔法で私を蘇らせてくれた。
【金蔵】『君は、魔女だな。……黄金の魔女だ。』
【ビーチェ】『くす。えぇ、黄金の魔女よ。みんなと同じレシピで作ってるのに、私だけがパスタから消し炭を生み出す錬金術が使えるの。』
【金蔵】『はは、はっははははははははははは。』
【ビーチェ】『……あなたと同じく私も、あなたが居てくれる限り、生きることを許される屍。……あなたがいなくなったら、私はすぐにでも死んでしまう。』
【金蔵】『死なせない。』
【ビーチェ】『本当に?』
【金蔵】『絶対に。』
【ビーチェ】『取ってね、責任。………だってあなたは、私をさらったんだから。』
礼拝堂・控え室
【南條】「……そうですか。金蔵さんが、そこまで話しましたか。」
【理御】「では、……まさか、あなたなのですか! お祖父さまがベアトリーチェを連れて行った、新島の医者というのは…。」
【ウィル】「驚くに値しねェ。新島の医者って時点でピンと来る。」
【南條】「突然、海軍の兵隊さんが、異人の女性を連れて現れたのです。驚きましたとも。……しかもその上、軍機なので、秘密で治療しろというのです。」
【理御】「それが、お祖父さまとの初対面だったのですか…?」
【南條】「……そうです。それが、金蔵さんとの初めての対面でした。」
【ウィル】「黄金で言い成りになった、欲深な医者ってのも、お前のことなのか。」
【南條】「これは、手厳しいですな……。突然、異人の女性患者を連れ込み、軍機だから秘密にせよと言い、治療代は必ず持って来るから担保にと言って、黄金のインゴットを差し出す相手ですぞ。厄介事はごめんでした。渋々とですとも。」
【理御】「確かに、それもそうですね。……でも、南條先生はベアトリーチェを匿ってくれたんですね。」
【南條】「金蔵さんほどではありませんが、私にも英語の心得がありました。二人の会話を漏れ聞き、二人が決して厄介な何者かでないと確信したからです。」
【南條】「コホン。……もちろん、インゴットに目が眩まなかったと言えば、嘘が過ぎますがな。私も、今よりは若かったものですから。」
【ウィル】「その後、彼女は?」
【南條】「しばらくの療養の後、右代宮家の使いの方が来て、小田原に移すと仰いましてな。引き取られていきました。」
【理御】「お祖父さまが自分で迎えに行ったわけではないのですか。」
【ウィル】「金蔵がどう六軒島の事件を言い訳したにせよ。しばらくの間は自由には動けなかっただろうよ。」
【南條】「ですな。軍を誤魔化すのが、金蔵さんの人生で、一番の大勝負だったと言っておりましたな。」
【理御】「ベアトリーチェは小田原に行って、それから…?」
【南條】「使われていない別荘の一つに匿ったと聞いています。……当時の金蔵さんにはもう、家族がおられましたからな。そこは、うまくやられたのでしょうなぁ。」
【ウィル】「九羽鳥庵以前から、二重生活はお手の物だったというわけだ。………サッ。」
【理御】「何してるんですか…? おしりにおできでも?」
【ウィル】「……ちっ。」
【理御】「それから? ベアトリーチェとお祖父さまは、別荘でいつまでも仲良く…?」
【南條】「平穏に、慎ましやかに暮らしたと聞きます。……それから数年の後に、子供を儲けられましてな。」
【ウィル】「……九羽鳥庵のベアトリーチェの誕生、か。」
【南條】「出産が、うまく行かなかったそうで……。お気の毒なことです。」
【理御】「まさか、……亡くなったんですか?!」
【ウィル】「驚くな。金蔵は娘を、生まれ変わりと信じたんだぞ。……心を、蔑ろにするんじゃねェ。推理は可能だ。」
【理御】「そ、……そうですね。……失礼。」
【南條】「私は、金蔵さんが彼女と過ごされた小田原の数年間を知りません。………しかし、その後の、今日までの金蔵さんを見れば、ほんの数年間であっても、彼が如何に彼女を深く愛したか、うかがい知ることが出来るでしょう。」
【理御】「………………………。……そうですね。」
【ウィル】「そして、娘のために九羽鳥庵を作ったというわけか……。」
【南條】「金蔵さんは、潜水艦の黄金を元手に巧みに立ち回り、たちまちのうちに財産を築き上げていきました。また、持ち前の英語力を生かし、GHQに強いコネクションを作って、見る見るうちに大富豪となられたのです。この辺は、理御さんに説明する必要はありますまい。」
【理御】「……えぇ。その莫大な財産で、……六軒島を買い取り、屋敷を建てます。小田原の親族たちは、無人島を丸ごと買い取ったお祖父さまを、酔狂だと笑ったそうです。」
【ウィル】「10tの黄金がポケットに収まる大きさだったなら、金蔵も島を買わなかったろうよ。」
 六軒島の何処かに黄金を隠し、持ち出したインゴットで財を築いて、……宝島を丸ごと買い取ったわけだ…。
【南條】「ですな。………そして、右代宮家の黄金伝説が始まるのです。」
【ウィル】「……インゴットには、片翼の鷲が刻印されていたと聞くが?」
【南條】「片翼の鷲、……というよりは、片翼に見えてしまう鷲、というべきでしょうな。」
【理御】「それはどういう意味ですか?」
【南條】「ヨーロッパに多いでしょう。翼を広げた鷲を紋章にしたものは。……サロ共和国の国旗にも、鷲が、……いやいや、鷹でしたかな?、が刻まれています。」
【ウィル】「刻印が薄かった、……あるいは粗雑だったということか。」
【南條】「そうです。………戦時下の粗雑な刻印でした。本来は翼を広げた鷲の紋章が刻印されるべきだったのでしょう。それが、ちょうど斜めに断ち切ったように半分、薄れて消えていたのです。」
【理御】「翼を広げた鷲が半分消えて、……それが、片翼の鷲に見えた?」
【ウィル】「金蔵は、自分の運命を大きく変えたベアトリーチェの黄金に片翼の鷲を見て。それを自分の紋章とすることを決めたに違いあるまい。」
【南條】「……果たして正しく刻印されていたなら、それは共和国旗の鷹だったのか、……それともまさか、双頭の……。」
【南條】「……いやいや、そんなまさか。あの莫大な黄金の山の前で、金蔵さんと杯を傾け合いながら、黄金ロマンで夜を明かすのは、なかなかに楽しいことでした。」
【南條】「もっとも、金蔵さんはその刻印から、黄金の出所を探られることを嫌いましてな。外部に持ち出す黄金には、わざわざ自分の片翼の鷲をデザインした、別の刻印を打ち直していたようですが。」
【ウィル】「お前には見せるだけだったのか? 金蔵もケチだな。」
【南條】「無論、大富豪になった後、金蔵さんは再び私の元へ訪れ、未払いだった治療費をしっかり払ってくれましたとも。治療費には、ちと多過ぎましたのでな。ちゃんとお釣りを払いましたが。」
【理御】「それ以来、お祖父さまと交流を……?」
【南條】「そうです。金蔵さんは、私が秘密を守ってベアトリーチェを匿ったことを、事のほか深く感謝してくれましてな。」
【理御】「……お祖父さまは、かつての小田原の親族たちは欲深の嘘吐きばかりだと仰っていました。……南條先生の義理堅さが、嬉しかったに違いありません。お祖父さまのような方が、どうしてあなたにだけは心を開いたのか、わかる気がします。」
【南條】「私にも多少の異国趣味と、チェスの趣味がありましてな。金蔵さんとは以来、意気を投合しまして。こうして細々と、しかし気付けばずいぶんと。長くお付き合いをさせてもらっています……。」
【ウィル】「大きなカネを扱うヤツほど、小さなカネにもきっちりしてる。……治療費以上をもらおうとしなかったあんたの律儀さに、惹かれるところもあったんだろうよ。」
【南條】「とんでもない。大きなお金に怯えてしまっただけです。後になってから後悔しましたとも、……わっはっはっは。どうにも昔から、肝が小さいものでしてな。」
【ウィル】「そんなことはねェ。肝は、充分に太ぇさ。」
【南條】「そうでしょうか。お世辞でも嬉しいですな。」
【ウィル】「世辞じゃねェ。」
【理御】「………?」
 ……金蔵の死後、少なくとも1年以上にもわたって、その死を隠す片棒を担ぐのだ。もちろん夏妃から少なくない口止め料をもらってはいただろう。だが、カネの亡者の息子兄弟たちに迫られても、最後までボロを出さない程度の肝っ玉が、確かにあるのは間違いない……。
【ウィル】「大した肝っ玉じゃねぇか。義理堅いのが、お前の性分なんだろうよ。」
【南條】「……はっはっは。それしか取り得がないものでして…。」
【理御】「お祖父さまは、良い友人に恵まれたと思います。」
 ベアトはEP3で、初代ベアトは金蔵の求愛を拒んで自殺したという意味に取れる話をしている。そちらが正しいとすれば、南條にも事実を伝えていないことになる。

ベアトリーチェの誕生

礼拝堂・控え室
【理御】「……お祖父さまにとって、……ベアトリーチェという女性が、どれほど人生の大部分を占めてきたか、わかった気がします。」
【ウィル】「何もわかってなんかいねェ。“ベアトリーチェを誰が殺したか”。それがわからなきゃ、俺たちはいつまでもここから出られねェ。」
【理御】「……そうでしたね。早く、終わらせなければ。葬儀はもう終わっているのですからね。」
【ウィル】「………………………。違ぇな。葬儀なんだ。……これがな。」
【理御】「私たちのさせられていることが、ですか…?」
【ウィル】「これまでに聞いたどのベアトリーチェも、殺されてなどいない。……それを、俺たちが“殺された”ことにしようとしている。ベルンカステルにとっては、これこそが本当の葬儀なんだ。」
【理御】「…………誰も“殺された”ことを知らない。それを、私たちが暴こうとしている?」
【ウィル】「お前、……つくづく察しがいいな。下層の駒と話してるとは思えん。俺のワトソン役として与えられた“駒”だから、か。…………痛ェ!」
【理御】「相棒を駒呼ばわりとは失礼な方です。……さ、次は何を? ウィラード・ホームズ?」
【ウィル】「捜査の基本は聞き込みだろ。まだ、聞くべきベアトリーチェは残っている。」
 ウィルが、次は彼らに話を聞こうと、顎で示す先には、譲治、朱志香、真里亞たちのいとこグループがいた。真里亞が元気に何かを講釈していて、それに譲治たちが耳を傾けているようだった。
【譲治】「へぇ。すごいんだねぇ、ベアトリーチェは。」
【真里亞】「うん! 伏せたカップの中にね?! 魔法で、キャンディーをいっぱい生み出してくれたの!」
【朱志香】「伏せたカップの中に? そりゃすげぇぜ。確かに魔法だ。」
【理御】「……真里亞ちゃんは、魔女とか魔法とか、そういうものが大好きですから。」
【ウィル】「魔女の権威に、話を聞かないわけには、いかねぇな。」
 ベアトリーチェを語れと言えば、真っ先に挙手するのが彼女だろう。彼女の語るベアトリーチェは、金蔵たちの語る、本当のベアトリーチェのことではない。しかし、1986年の六軒島にて、ベアトリーチェの名が指す存在は、むしろ真里亞が語るベアトリーチェの方だろう。
【ウィル】「………戦人の姿が見えないな。」
 右代宮戦人。……ベアトリーチェの対戦相手として、数多のゲームを戦わされた、このゲームの、物語の、最も重要な人物だ。この世界にいる戦人は、恐らく駒の方だろうが、それでも、何か重要な情報が聞き出せるはず。
 ……戦人にも話を聞こうと思っていたのだが、その姿はいとこグループになかった。
【理御】「戦人くんは、今回の葬儀には欠席しています。もっとも歳の近いいとことして、残念です。」
【ウィル】「仲はいいのか。」
【理御】「えぇ、もちろん。」
【ウィル】「………戦人が何かスケベな失言をする度に、しりをつねってるんだろう。」
【理御】「おや、よくご存知で。推理は可能でしたか?」
【ウィル】「戦人に同情すらァ。」
 ……ベルンカステルは、全てここに揃っていると言った。
 戦人がここにいないということは、戦人に話を聞かずとも、全てを知ることは出来る、という意味だろうか。あるいは、わざと核心だけを伏せて、遠回りをさせるだけの、魔女の気紛れ遊びか。
【ウィル】「いねぇってことは、……とりあえず今は、ヤツの話を聞く必要はねぇってことだろう。……真里亞たちに話を聞こう。……スケベな話はしねぇからな、しりをつねるんじゃねぇぞ。」
【理御】「なら、ほんの少し、言葉を選ぶだけでいいのに。」
 理御は小悪魔的に笑いながら、人差し指と中指で、宙をつねるような仕草をして見せる。
【朱志香】「おや、次期当主サマだぜ。クソジジイの介護はもういいのかよ? ………ふぎゃッ!」
 実に公平だ。朱志香の失言にも容赦ない。ウィルはちょっぴりだけ溜飲を下げる。
【ウィル】「……そうか。蔵臼の子で次期当主ということは、……朱志香は妹に当たるんだな。」
 朱志香は一人っ子ということに慣れていると、理御と朱志香の絡み合いは、とても自然なものに見えるはずなのに、わずかの違和感を拭えないものだ。
【理御】「朱志香。もう少し妹らしい言葉遣いは出来ないのかい? ついでに言うと、もう少し年頃の女性らしい言葉遣いにも気を付けてみるべきだね。あと、次期当主サマなんて呼び方は嫌いだって、いつも言ってるよ。」
【朱志香】「う、うぜーぜ! 私は私らしく生きてらぁ! 次期当主サマみてぇに、お上品には生きてたら、息が詰まっちまわぁ…! ひィ?! 痛い! 痛ててたたた!! やめてッ、つねんないでッ! 妹虐待ッ、変態ッ、反対ッ、痛い痛い!」
【理御】「朱志香ッ! お客様もいらしてるというのに、どうして君はそういう言葉遣いなんだ…! また、母さんに言いつけられたいかな?!」
【ウィル】「………あれはあれで、仲睦まじいな。」
【譲治】「理御は次期当主として、非の打ち所のない素晴らしい人だからね。……まぁ、素晴らし過ぎて、朱志香ちゃんの気持ちもちょっぴりわかるかな。」
【ウィル】「何をしても比較される。だからグレると?」
【譲治】「もし、朱志香ちゃんが一人っ子として生まれてたら、きっと落ち着きのある、深窓の令嬢になってたと思う。……あはは、それは面白い想像だね。」
【ウィル】「安心しろ。あの性格は一人っ子でも変わらねェ。」
【真里亞】「譲治お兄ちゃん、……この人、だぁれ?」
【譲治】「あなたとは初対面ですよね? でも、右代宮家にはお詳しそうだ。僕は譲治。彼女は真里亞。よろしく。」
【ウィル】「ウィルだ。ベアトリーチェについて、調べている。知っていることを聞かせて欲しい。」
【真里亞】「ベアトリーチェ?! うー!! ほらね?! ベアトリーチェはいるの! うーうーうー!!」
 初対面の男に怪訝な表情を浮かべていた真里亞も、その口から大好きな魔女の名が出て、すぐに瞳を輝かせ出す。
【譲治】「ほら、真里亞ちゃん。お客様にちゃんとご挨拶をしないと。」
【真里亞】「こんにちは! 右代宮真里亞と申しますっ、うー! ベアトリーチェを知ってる人がいて嬉しい。握手ー、うー!」
【ウィル】「ん。」
 真里亞の小さな手に、不意に握手を求められ、ウィルも咄嗟にそれに応じてしまう。
 すると、……二人の握り合う手の隙間から、眩い光が漏れ出すのを感じた。ベルンカステルの与えた、観劇者の力が真里亞に働いているのだ。
【真里亞】「ベアトリーチェはね、六軒島の魔女なの…! いつもね、真里亞が六軒島に来る度に、一緒に遊んでくれるの! 真里亞のね、一番のお友達で、マリアージュ・ソルシエールの仲間なの! うー!!」
 光がどんどん強くなっていく……。今度は、真里亞の世界に引き込まれていくのを感じていた…。
謎の空間
 私は右代宮真里亞。ママは楼座。パパは、………ない。ずいぶん昔に、これが真里亞のパパよ、とママに男性の写真を見せられた気はする。それは海辺の写真で、よく日焼けした水着姿の男性が写ってたような気がする。
 ……パパという意味がわかるようになって、その写真をもう一度見たいとママにいったら、そんな写真はないと言われた。
 いいや、あったはず。こんな写真だったと絵を描いてみせたら、ママはとても怒り出して、そんな写真はない、あっても捨ててしまったと酷く怒られた。それ以来、真里亞のパパは、知らない、いない、じゃなくて、……ない、になった。
【真里亞】「……知ってる? パパとママがいないと赤ちゃんが出来ないって言われてるけど、それは嘘なんだよ。」
【ウィル】「処女懐胎か。」
【真里亞】「“見よ、乙女が身篭って男の子を産むであろう。その名はインマヌエルなり”。……真里亞はもし男の子に生まれていたなら、それが名前だったかもしれない。」
【ウィル】「マタイ伝1章20節。」
【真里亞】「違うよ、23節。20節は“かくて、これらを思い巡らす時、御使いが夢に現れて言った。ダビデの子、ヨセフよ。妻マリアを迎えることを恐れるな。その胎に宿る者は聖霊によるものなり”。」
【ウィル】「……お前の父親は聖霊だというわけだ。」
【真里亞】「パパがいるのが当り前だとみんなに言われた。パパがいないなんて、おかしい、変な子だ、可哀想な子だと言われた。でも、ママに聞いても、パパなんかいない、知らない、存在しないと言われた。聞くだけで怒られて叩かれた。だから真里亞は、……自分が誰から生まれたか、よくわからなくなった。……真里亞はニンゲンとして正しくない、未熟で不正な存在。みんなとは違う、おかしな、可哀想な子だと気が付いた。」
【ウィル】「親も他人も関係ねェ。お前はお前だ。」
【真里亞】「それを、未熟な幼児に教えるのは、きっと難しかったろうね。ひょっとしたら、幼稚園の先生は、いじめられて泣く私にそう諭してくれたのかもしれない。……でも、そんな慰めでは、私の心の空白、……うぅん、疑問。どんな言葉も、私の疑問に答えてはくれなかった。」
【ウィル】「その疑問に答えたのが、ザ・ブックだというのか。」
【真里亞】「神父様がね、来たの。」
 子供にありがたいお話を聞かせて、心を豊かにする授業の一環だったと思う。
 多くの子供たちにとって、それは先生が聞かせてくれるおとぎ話と違いはない。……うぅん、小難しい分だけ、私たちは退屈していたと思う。
 最後に、神父様が言ったの。
【ウィル】「神は、何でも知っている、か。」
【真里亞】「うん。だから真里亞は聞いた。……真里亞にはママしかいない。パパは、ない。パパがなくても、真里亞はママから生まれてきた。それは、おかしくて悲しいことなの?、って。」
 神父様は教えてくれた。パパがいなくても、おかしくはないんだよと。だって、イエス・キリストは処女懐胎で産まれた。産んだのは、……聖母、マリア…?
 びっくりした! 私に与えられた真里亞という名は、始めから答えを示していたからだ。
【真里亞】「だから真里亞はびっくりして神父様に聞き直したの。……聖母マリアは、ひとりで赤ちゃんが産めたんだ!って。じゃあ真里亞もひとりで、赤ちゃんが産めるの?って。」
【ウィル】「神父は何と答えた。」
【真里亞】「聖母マリアが赤ちゃんを身篭れたのは、聖霊のおかげだからって。マタイ伝1節20章、後段。“その胎に宿る者は聖霊によるものなり”。……またまた、真里亞はびっくりした! これはどういうことだと思う?!」
【ウィル】「……お前はこう解釈した。右代宮真里亞にはニンゲンの父はいない。……本当の父は、聖霊だと。」
 本来の聖書の意味はともかく。……父親がいないことでアイデンティティを保てない、幼き悲しい少女は、そこに初めて、自己の理解を見出したのだ。
【真里亞】「それを知った時、私はなぜ、他の子たちと自分だけが違うのかを理解したの! 私を馬鹿にするみんなはヨセフの子。でも私だけは違った! 私はみんなより劣ってなんかいない…! 私は神の子、聖霊の子だった!! 帰ってママに話したよ。真里亞にはパパなんていない。ママはママで、真里亞は神様の力で生まれてきたんだよって。」
 楼座にとって、真里亞に父親を尋ねられることは、辛いことだったろう。みんなにはパパとママがいるのに、どうして真里亞にはいないの? それを聞かれる度に、楼座は感情的な怒りでそれを誤魔化してきた。
 ……それが、どういうわけか、真里亞が勝手に納得してくれたのだ。自分にはパパなどいない。ママと神様の子だと。幼い少女が、聖書より見出した自己の解釈を、楼座が抱擁して受け入れたことは、想像に難くない……。
【真里亞】「ベアトは宇宙を生み出す最小の人数を、2人だと言った。私はこれを、両親がいないと子は成せないという意味だと感じた。……その時、私は思ったの。ベアトは魔女だけれど、ニンゲンから生まれた魔女なんだ、って。ベアトは聖霊の子じゃない。」
【真里亞】「でも、私は違う。ママだけから生まれた。聖霊から生まれた! ………ベアトは、私と一緒じゃなきゃ宇宙を作れない。でも私は、“神は我らと共にある”。私1人でも、聖霊とともに宇宙が作れる!」
【真里亞】「ベアトは私を原始の魔女と呼んだ。そしてやがては、1人で全てを生み出せる造物主になれるよと言ってくれた。私が1人で、無から有を創造する! それをベアトが無限に膨らませる! 縁寿はそれを受け継ぎ、語り広げる魔女の使徒だった!」
【ウィル】「マリアージュ・ソルシエールか。」
【真里亞】「一と無限は大きく違う。だからベアトは偉い。でも、無と有の前には、一も無限も同じ有でしかない。私は世界で一番の魔女、うぅん! 世界で一番偉い、造物主になることを約束されていた子…!」
【真里亞】「マリアージュ・ソルシエールは、そんな私を温める卵の巣! 私は、右代宮真里亞!! 神と共にある真里亞!!」
 ……真里亞が止め処なく語り出すそれは、真里亞のアイデンティティを宇宙と捉えるなら、……まさにビッグバンなのかもしれない。
 父親が存在しないことで、自分の解釈に苦しんだ少女は。……偶然、聖書の中で、そんな自分に正当性を暗示するような行を見つけ、初めて自己を理解した。
 クラスで自分だけがおかしいと自らを蔑んだ悲しみの少女は、ようやく自分の意味を知ったのだ。その時、無だった真里亞の宇宙は、高温高圧のエネルギー体として生まれた。
 ………それがやがて六軒島で、ベアトリーチェを名乗る、無限の魔女と出会い、……そのエネルギー体をビッグバンさせて、彼女らの魔法大系が誕生した。……それが、マリアージュ・ソルシエールという、宇宙なのだ。
【ウィル】「………………………。……話が少し飛躍し過ぎだ。順を追おう。」
【真里亞】「うん、いいよ。どこから?」
【ウィル】「自分は聖霊の子だと解釈したお前が、そこから次第にオカルトに傾倒していくことは容易に理解できる。………そこからだ。そんなお前が、ベアトリーチェとどこで出会い、どのように交流していったか。」
【真里亞】「それは本当にある日、突然の、唐突なこと。………六軒島に住まう、ベアトリーチェという魔女に、私は会ってみたかったの。同じ魔女として。」
【ウィル】「その頃にはもう、自分が魔女という自覚があったのか。」
【真里亞】「あった。その頃には、聖書とオカルトでは、大人にも負けないくらいの知識があったから。だから私は、魔法は使えずとも、自分を魔女だと信じてた。……きひひひ、ちょっと滑稽だね。だから、私は魔女見習いなの。」
【ウィル】「いつ、ベアトリーチェと出会った。」
【真里亞】「よくは覚えてない。でも、その出会いはよく覚えてる。それは、とてもとても唐突だった。」
薔薇庭園・東屋
【真里亞】「…………え?」
【ベアト】「そなたが、………右代宮真里亞か。」
 それは、あまりにあまりに、とてもとても。……唐突な出会い。
 だって、私は、蔵臼伯父さんと大切な話があるから、お庭で遊んでいなさいとママに言われて。ひとりぽつんと屋敷を追い出されて。……こうして薔薇庭園の東屋でミルクティーを飲んでいただけなのだから。
 いつの間にか、……彼女はそこに座っていたのだ。私のことを、そなたなどと呼ぶ人を、私は知らない。すぐに、彼女は、私の知らない誰かだと直感する……。
【真里亞】「……あなたは、だぁれ?」
【ベアト】「会いたいと言ったのはそなただ。妾の島に、魔女が尋ねてくるから出迎えてやったというのに、そなたは妾の名を問うというのか。くっくっくっく。」
【真里亞】「………………ベアト……リーチェ……?」
【ベアト】「如何にも。妾が、ベアトリーチェである。」
【ウィル】「確かに、唐突だな。」
【真里亞】「うん。とっても。………魔女や精霊は、いつだって私たちの側にいる。彼らが姿を見せようとしないだけで。そして、彼らが姿を見せたなら、……それはあまりに唐突に、そして当り前に、そこにいる。……私はそれをまさに知ったの。」
【ウィル】「そして、ベアトリーチェと友達に?」
【真里亞】「うん。彼女は、ママの用事が終わるまで、ずっと私とお喋りをしてくれた。魔法の話や、魔女の話。真里亞が聖霊の子であることも。」
【ウィル】「……その時のベアトリーチェの印象は?」
【真里亞】「こういっては悪いけど。知識だけなら私が上だった。最初は彼女のことを、大した魔女じゃないと見下しかけた。……まぁ、それは私の自惚れ。魔法大系には色んなものがある。ましてや私のそれは独学。ベアトの魔法大系とは異なったから、私が一方的にそういう印象を持ってしまったんだろうね。すぐにそれを後悔して謝ることになるの。」
【ウィル】「謝る? ………ベアトリーチェが何か、お前の尊敬を勝ち取ることをしてみせたのか。…………なるほど。魔法を、見せたというわけか。」
海岸
 私たちは浜辺へ移り、パラソル付きテーブルでたくさんを語り合った。
【ベアト】「なるほど。……真里亞。そなたは実に勤勉だ。その歳で、千年の魔女の妾にそれだけの講釈を出来るとは、実に尊敬に値する。………して、そなたは何の魔法を使えるのか?」
【真里亞】「……魔法?」
【ベアト】「そなたが魔女を語るならば、魔法のひとつも見せられるであろうが。」
 私は、きょとんとしてしまった。それは、何て当り前の話だろう。
 私は聖霊の子で、オカルトを勉強したからニンゲンではない、魔女だと。その日まで当り前のように強く確信していた。だから、どんな魔法が使えるのかと聞かれ、私は呆然としてまった…。
【ベアト】「魔法を知り、語るに至ってようやく見習いよ。……そして、それを魔法という形で実践できてこそ、魔女というものではないか?」
【真里亞】「……真里亞は、………まだ、魔女じゃないの……?」
【ベアト】「よく学んでいる。そして、類稀な才能も感じる。そなたはやがて、妾など足元にも及ばぬ偉大な魔女、……あるいはそなたが言うように、造物主の座にさえ登りつめるだろう。しかし、まだ幼く、若い。………そなたは、そう。見習いだ。魔女の見習いというところよ。」
【真里亞】「じゃあ、ベアトは魔法を使うことが出来るの?」
【ベアト】「無論であるとも。魔法を使えずして、魔女を名乗ることなど出来ぬわ。」
【真里亞】「すごい……。……見せてっ! ベアトの魔法、見せて!!」
 真里亞は、自分が聖霊の子という、魔法的な概念を、今日まで疑ったことはない。……しかし、オカルト的事象が実在することを、他人によって示されたことはない。真里亞は宇宙を1人でも生み出せる。……しかし、より強く信じるために、もう1人を欲した。
【ベアト】「かつての妾ならば、空に虹をかけ、それを七色のキャンディーに変えて自由にかじらせることも出来た。しかし今の妾は姿を保つことさえ満足に出来ぬほどに衰えている。」
【真里亞】「さっき聞いた。あの鎮守の社のせいで、力が出せないって。」
【ベアト】「力を取り戻すにはかなりの時間をかける。虹をキャンディーにしてやることは今は出来ぬ。……しかし、ささやかな魔法にて、その一端を見せることは出来ようぞ。」
【真里亞】「見たい…! ベアトの魔法、見たい…!!」
【ベアト】「良かろう。しかし、そなたにも協力を求めねばならぬぞ。先ほども言った。如何にそなたが穢れなき魂を持とうとも、ニンゲンはもはや穢れ、魔法を拒む毒素に満ちていると。」
【真里亞】「うん、聞いた。反魔法の毒素があるって聞いた。真里亞の呼んだ本には載ってなかった。だからそれを知ってるベアトはすごい。」
 ベアトリーチェは空のティーカップを取ると、種を仕掛けもございませんとでも言うように、それを真里亞の前でくるくると回す。
【ウィル】「伏せたカップに、キャンディーが現れる魔法か。」
【真里亞】「どうしてわかるの?! ウィルはすごいね、魔女の使う魔法もわかるんだね!」
【ウィル】「…………魔女の魔法の、基本だからな。」
【真里亞】「カップは何の仕掛けもない、普通のカップだったよ。私は見たかった。本当の魔法を見たかった。」
 真里亞は欲した。自分がオカルト的存在であることを信じるために、自分以外のオカルトを欲したのだ。だから、ベアトリーチェの魔法に、協力した。自分の毒素で、魔法の奇跡を知ることの出来る機会を、失わないために。
【ベアト】「良いぞ。……さぁ、そのカップを開けてみるがいい。」
【真里亞】「…………あ。……キャンディーだっ。……キャンディーだ…!!」
【ベアト】「妾からそなたへの挨拶代わりと、新しき魔女との出会いと友情に、それを贈ろう。」
 これが、本当の魔法の奇跡。私は初めて、自分の自惚れを悔いて、恥じた。自分だけが聖霊の子で、世界でもっとも偉くて特別でといった、自分だけの万能感が一気に晴れていくのを感じた。
 ……何も出来ない聖霊の子なんかより。私は魔法が使える魔女の方がいい…! 右代宮真里亞は、魔女になりたい…!! まずは魔女の見習いから始めたい!! もう私はベアトに夢中だった。
【真里亞】「真里亞も本当の魔女になりたい! ベアトの弟子になりたい!!」
【ベアト】「謙遜を。そなたには充分な才能と日々の精進があるぞ。それに、かつての力のある妾ならともかく、この程度の魔法しか仕えぬ衰えた妾では、弟子を持つことなど出来ぬわ。」
【真里亞】「……真里亞は魔女の弟子にはなれない……?」
【ベアト】「うむ。妾の弟子には出来ぬ。……しかし、友人にはできる。」
【真里亞】「本当…?!」
【ベアト】「うむ。妾とそなたは、これより友人だ。これからも共に、深き魔女の世界を語り合おうではないか。」
【真里亞】「うー!!! ベアト、ありがとう!! このベアトのキャンディー、食べてもいい?!」
【ベアト】「いいや、それは土産にせよ。食べずに、そなたの可愛らしい鞄に納めよ。」
【真里亞】「うん。おうちで食べる…!! うー、うーうーうーうー!!」
【ベアト】「真里亞。そのキャンディーは、魔法で生み出されたものだ。ゆえに、脆い。そなたが妾の存在をその毒素で否定したなら、溶けて消えてしまうだろう。」
【真里亞】「うー……。嫌だ。ベアトからもらった大切な魔法、消えるの嫌だ。」
【ベアト】「ならば、妾という魔女に出会ったことを、決して忘れてはならぬぞ。……そなたが妾とのささやかな約束を守る限り、そなたがまたこの島へ来る時は、再び妾がそなたを迎えようぞ。」
【真里亞】「うー! 守るっ。約束って何?!」
【ベアト】「まずはそうだな。家へ帰ったら手を洗う。うがいをする。面倒臭がってはならぬぞ、魔女見習いの立派な修行のひとつであるぞ。」
【真里亞】「守る! 毎日、お家に帰ってきたら、手を洗う! うがいをする! そうしたら、また会ってくれる?!」
【ベアト】「約束しようぞ。そなたが妾との約束をきっちり守れたなら、そなたの体は清められ、妾もさらに魔力を取り戻す。……さすれば、次に来る時は、より素晴らしい魔法を見せようぞ。」
【真里亞】「うー! 約束守る! 絶対!! 真里亞はなる! ベアトの友達になって、魔女見習いになる!」
【ベアト】「良き心掛けであるぞ、右代宮真里亞よ。そなたが早く一人前の魔女になって、妾の良き友人に成長してくれることを、心より願っている。」
【真里亞】「これが、私の初めての、ベアトリーチェとの出会いだったと思う。」
【ウィル】「そのもらった飴は、家に帰っても、ちゃんとあったか…?」
【真里亞】「うん。……でも、その存在を少しだけ疑ったから、飴は溶け掛かっていた。私は彼女を疑いかけたことを後悔したよ。もし、もっと疑っていたら、飴は消えてなくなっていたに違いない。そしたら私は、目の当たりにした魔法の奇跡の証拠を、失うところだった。」
【ウィル】「飴が、溶けていたのか?」
【真里亞】「飴、というよりはキャラメルだったと思う。溶け掛かって、ぐにゃぐにゃだった。」
【ウィル】「それは何月頃の話だ。」
【真里亞】「詳しく覚えてない。でも、ミルクティーがアイスだったことは覚えてる。……それが何?」
【ウィル】「何でもない。……ベアトリーチェに出会ったことは、楼座には話したのか?」
【真里亞】「うん。その日のお夕飯の時にみんなに話した。蔵臼伯父さんに笑われた。そしたら隣の席のママに、その話は終わりにしなさいって怒られた。…うー。」
【ウィル】「隣の席…? 序列上、お前の席は楼座と隣り合わないはずだ。」
【真里亞】「親族会議じゃないもん。ママと真里亞だけが訪ねた時の話。だから、蔵臼伯父さん一家全員と、ママと真里亞しかいない。席は詰めるから、親族会議の時とはお席がちょっと違うの。」
【ウィル】「………………………。………お前の隣の席に、楼座だったんだな?」
【真里亞】「うん。……それが何?」
【ウィル】「………何でもない。……ベアトリーチェと、六軒島以外で会ったことは?」
【真里亞】「ないよ。だってベアトは体が希薄で、自由には動けないんだもの。真里亞の体に乗り移ってもいいよって言ったけど、島からは離れられないから出来ないって言ってた。」
【ウィル】「その後は、六軒島へ行く度に会っていたということか。」
【真里亞】「うん。私たちは大の仲良しになった。ベアトと話せば話すほどに、彼女は本当にすごい魔女だと思い知ったよ。彼女は会う度にいつも素敵な魔法を見せてくれた。そして、私とは異なる魔法大系を聞かせてくれて、二人で魔法の深遠を語り合ったよ。私は、早く彼女の高みに上りたいと思った。ベアトのような魔女の域に達したいと願った。」
【ウィル】「ベアトリーチェを、母親に紹介したことは?」
【真里亞】「ないよ。ママは毒素が強過ぎるからまだ会えないって言ってた。……大人はほとんどダメだって。みんな汚れてるから。きひひひひ。」
【ウィル】「お前以外に、ベアトリーチェの姿を見ることが出来た者はいるのか。」
【真里亞】「最初は無理だった。魔力が弱いからね、毒素に少しでも近づくと体が壊れてしまう、って。……でも、次第に魔力を蓄えて、真里亞以外の毒素の少ない人の前にも現れられるようになったよ。」
【ウィル】「それは誰だ。」
【真里亞】「うーーー……ん。……あんまり多くない。使用人の一部の人だけだった。」
【ウィル】「具体的には?」
【真里亞】「今日いる使用人全員。……うー? 郷田さんは違うと思う。」
【ウィル】「つまり、源次、紗音、嘉音、熊沢、の4人ということか。」
【真里亞】「あと、南條先生も。」
 真里亞とベアトリーチェの魔女のお茶会には、時折、彼らが訪れたことがあるという。
 もちろんそれは、お茶のお代わりを持ってきたという程度の、ささやかなものだ。しかし、彼らは確かにベアトリーチェを認識し、言葉を交わした。
【ウィル】「……使用人たちは、ベアトリーチェとはどう接していた。存在しないはずの客人だ。驚いたりはしないのか。」
【真里亞】「しないよ? だって、ベアトリーチェはお屋敷のもう1人の主だもの。」
 使用人たちはベアトリーチェに対し、賓客であるかのように持て成したという。そして時に、新しい魔法の奇跡に真里亞と共に立ち会うことを許されていたという。
【ウィル】「つまり、1986年の六軒島で、ベアトリーチェに実際に会えたのは、郷田を除く使用人4人とお前と南條の、合計6人だけだったということか。」
【真里亞】「うん。ベアトも、それ以外の人の前に現れるには、もっともっと魔力を蓄える必要があると言ってた。」
【ウィル】「つまり、それ以外の人間の前にも、やがては姿を現すつもりだったわけか。」
【真里亞】「うん。全てのニンゲンたちに自分を認めさせる日こそが、自分の復活の日だって言ってた。」
【ウィル】「………………………………。」
謎の空間
 真里亞と使用人たちと南條の6人は、認めた。反魔法の毒素の薄いニンゲンから順番に、姿を現したということだろう。自分を認識出来るニンゲンを少しずつ増やし、島の全員に自分を認めさせるのが、ベアトリーチェのゲーム、ということに違いない…。
 だとすると、ベアトリーチェに、もっとも魔法抵抗力が高いと言わしめた戦人の前には、一番最後に現れることになったわけだ。……戦人に自分を認めさせるのが一番難しいと、ベアトリーチェは思っていたということか……? やはり、ベアトリーチェにとって、戦人が一つのゴールだったことは事実のようだ。
 ……しかし、戦人の好むチェス盤理論によるならば。己が存在を認めさせたいベアトリーチェとは即ち、認めさせねば、存在を持たない人物だと言える。その推理は、第1のゲームの時点で、戦人も至っている。
 やはり、1986年のベアトリーチェは何かが違う。
 紛れもなく存在した、イタリア人のベアトリーチェや、九羽鳥庵のベアトリーチェとは違う。これほどまでにミステリアスな知名度を持ちながら、存在を持たない、1986年のベアトリーチェ。存在を持たないベアトリーチェを、“殺す”とは、どういう意味か。
 ………宇宙を生み出す最少人数は2人。しかし、産むだけなら1人でも出来ると、真里亞は言った。しかし、真里亞は2人目を欲した。1人で産んだ世界を育む2人目を欲したのだ。産んでも育まねば、死んで消えるから?
 ………宇宙を、ベアトリーチェに置き換えてみよう。ベアトリーチェを生み出す最少人数は2人。
 しかし、産むだけなら1人でも出来る。しかし、その1人は2人目を欲した。自分が産んだベアトリーチェを認める2人目を欲したのだ。その2人目との出会いが、今の真里亞の話なのだ。
 ベアトリーチェを生み出した1人は、2人目に認めさせようとして、真里亞をその2人目に選んだのだ。
 古戸ヱリカの心ない推理を待たずとも、ティーカップの魔法は手品だとわかる。反魔法の毒素の話を鵜呑みにした真里亞は、魔法に対し、目を閉じたのだ。相手が目を閉じてくれれば、どんな手品だって魔法に出来る。
 ……魔女との出会いの証といって与えられたキャラメルは、真里亞が少し疑ったため、少し溶けていた。ミルクティーをアイスで飲む季節に、鞄の中にキャラメルを入れっぱなしにすれば溶けるのは当り前だ。
 純粋過ぎて話を鵜呑みにしやすい少女、右代宮真里亞。魔女の言うところの、反魔法の毒素の極めて薄い彼女の前に、まずベアトリーチェは現れ、己が存在を認めさせた……。
 1人でベアトリーチェを産み出すことが、卵を産むことと考えるなら、1人で産んだだけでは、妄想と同じ。卵の中も同然だ。2人目に認められて初めて、殻を割り、現れる。2人目に卵を温めてもらって、初めて、現れる。真里亞に認めさせることで初めて、ベアトリーチェは孵化し、雛が誕生したのだ。
 なら、ベアトリーチェとその魔法大系とやらを育むマリアージュ・ソルシエールは、まるで巣だ。
 六軒島の魔女を自称し、千年を生きたと自称する貫禄を持つ、ベアトリーチェ。
 ………それは前回のゲームに登場した、雛のベアトよりは、姉のベアトに印象が近い。つまり真里亞の話すこの出会いは、姉ベアトの誕生の瞬間ということなのか…?
 卵自体は、すでに“最初の1人”に産み出されていた。そして、真里亞と出会うまでの間に、殻の中で千年の貫禄を持つ“キャラクター”を充分に熟成させた。
 そして真里亞に認めさせることで孵化し、………六軒島の魔女は、初めて姿を持った。恐らく、この瞬間こそが、……1986年のベアトリーチェの誕生した瞬間なのではないか。
 ……妹の雛ベアトとやらは、戦人への恋心から生まれる。それがまだ生まれていない以上、この姉ベアトの誕生にも、そしてこの時点でのベアトリーチェの存在にも、戦人は何の関係もないことになる。
 …………………………。こんな推理で、お楽しみいただけてるのか? ベルンカステル……。楽しめてんなら、拍手くらいしろィ、観劇者ども。
 …………こりゃ、どーも。
礼拝堂・控え室
【真里亞】「真里亞は、ベアトに魔法で叶えてほしい願いがたくさんあるの。だから、ベアトが復活するのに協力してるの。」
【ウィル】「……願いとは何だ。」
【真里亞】「いっぱいある。きひひひひひ、内緒。」
【ウィル】「黒き魔女からママを守ってほしい、か。」
【真里亞】「どうしてウィルは何でもわかるの? すごいよ。うー!」
【ウィル】「……魔女に願わねば、取り戻せない世界だと。お前はもう、思っているのか。」
【真里亞】「うん。ママは大好き。やさしい。いつまでも一緒にいたい。永遠に。」
【ウィル】「………………………。………今度はマリアージュ・ソルシエールについて聞きたい。」
【真里亞】「……………………………。」
【ウィル】「……………。……どうした。」
【真里亞】「やだ。」
【ウィル】「…………何?」
【真里亞】「私、喉が渇いちゃったからジュース飲んでくる。またね。」
 真里亞は急によそよそしくなり、ぺこりと頭を下げてから、一方的に立ち去る。……真里亞らしくない仕草だった。
【ウィル】「……………………………。」
 なるほど。ゲームマスターが、駒を動かしたということか。……今は別の話を聞け、ということらしい。
 理御は、いつの間にか親族たちに混じって談笑している。朱志香は、さんざんしりをつねられたらしく、悪態をつき、それを譲治になだめられている。
 ……朱志香と譲治。次はこの二人に話を聞くか。真里亞に比べれば、はるかに反魔法の毒素の強い二人だ。少なくとも、全てのゲームの開始時には、ベアトリーチェを認めてはいない。
 真里亞からは、認めた者の話を。では次は、認めてない者の話だ。
 EP2にて、楼座が真里亞に、ベアトにいつから会っているのかと尋ねる。楼座の「去年? 一昨年?」との問いに対し、真里亞は「もっと前から」と返答している。つまり3年以上前であることは確定。

貴賓室の怪談

礼拝堂・控え室
【朱志香】「あ、えへへ、さっきはその、次期当主サマのせいでお見苦しいとこを見せちゃって……。」
【ウィル】「痣になってねぇか。あいつマジで容赦ねェ。」
【理御】「………朱志香、何か言ったかい?」
【朱志香】「な、何も何も…! もう充分、懲りたって!」
 親族兄弟たちと談笑していたはずの理御が、笑顔でぎょろりと振り向き、朱志香をさらりと威圧する。……妹への威厳は、がっちり保ててるらしい。
【ウィル】「……あいつ、その上、地獄耳だな。ようやく、理御ってヤツが理解できてきた。」
【朱志香】「そうそうそうそう。昔っから妙に勘が良くって! その上ほら、大人受けが妙にいいし! 私は家でも学校でも比べられてる!」
【譲治】「そういえば、理御は中学も高校も生徒会長だったね。バドミントンの部長もやってたよね。」
【ウィル】「行く先々で、理御と比較されて酷ぇ目に遭ったというわけだ。」
【朱志香】「私は中学に入って言ったぜ? その時はもう副会長やってた。来年は生徒会長になる気だろう、私の肩身が狭くなるからやめてくれって! でも翌年にちゃっかり立候補して当選しちゃいやがった! 高校でもそう! 今度こそやめてくれって言ったのに、その時点でもまた副会長で! また3年になるのと同時に会長になりやがったー! 父さんはちやほやちやほや! 母さんは、あなたも妹として恥ずかしくないよう頑張りなさいって、ちくちくちくちく!! むがぁあああああぁあぁ!」
【譲治】「でも、そんな理御の、妹であることを誇りにも思ってるんでしょ。」
【朱志香】「べっ、べべ、別にそんなこと思ったことはねぇぜ! あぁねぇぜ、全然ねぇぜ…!」
【ウィル】「上が完璧だと息も詰まらァ。だが、他人は他人、お前はお前だ。何も萎縮することはない。お前のしたいように、精一杯好きにしたらいい。」
【朱志香】「もちろん! でも母さんたちは、右代宮理御の妹として恥ずかしくないよう、後を引き継げってうるさい。……生徒会に入れだの、バドミントンやれだの……。」
【ウィル】「軽音楽はやっていないのか。」
【朱志香】「え、……え?! し、しぃーー! それは秘密、内緒…!」
 どうやら、家族には内緒で活動してるらしい。
 面白いものだ。……人というのは、自分の生い立ちについて、家族のせいで自分がどうこうであると言い訳することを好むが、朱志香という少女がやりたいことについては、世界や家族が異なっても、何の揺るぎもない。それだけまっすぐに、自分の好きなことがあるというのは、尊敬できることだった。
【ウィル】「俺は好きだぞ。ペッタンペッタンとか。どっきゅんどっきゅんとか。」
【朱志香】「わーわーわー!! しーしーしー!!」
 理御のような、歳不相応に出来たヤツも悪くないが、やはり歳相応な子も良いものだ。
【ウィル】「そういう生き方が一番だ。謳歌しろ、青春を。」
【朱志香】「そ、そりゃどうも、……ありがとう。」
 自分の生き方を肯定された経験がないらしく、あまりの直球に、朱志香は少し赤面して俯いてしまう。
【ウィル】「今度はお前たちに話が聞きたい。」
【譲治】「さっき真里亞ちゃんとしていた?」
【ウィル】「そうだ。ベアトリーチェについて、知っていることを聞きたい。」
【譲治】「……真里亞ちゃんは、オカルトや魔女のことが大好きだからね。彼女にとってベアトリーチェは、アニメのヒロインと同じ、憧れの存在なんだよ。何か些細なことがある度に、それを魔女の魔法による悪戯だと信じてる。」
【ウィル】「お前は大人だな。そして、そうは思っても、真里亞には絶対に言わないところも大人だ。」
【譲治】「当然さ。子供の夢は、子供の時にしか見られない。その貴重な経験を尊重するのが、大人の仕事だと思ってるよ。」
【ウィル】「お前とは話が合いそうだ。」
 ベアトリーチェを、完全におとぎ話に過ぎないとするのが、譲治の立場だ。しかし、“子供の夢を尊重するのが大人だ”、という一言は、吟味する価値があるかもしれない。
 ベアトリーチェから魔法で飴をもらった真里亞は、それを譲治たちにも興奮して語っただろう。それを、彼を筆頭とした大人たちは、“大人として”肯定的に話を合わせた。しかしこれが、子供に対する大人としての対応以外にも、生じた可能性は考えられる。例えば、目上に対する目下としての対応、とか。
 ……右代宮家の暴君、金蔵が、ベアトリーチェは蘇る、存在する復活するとのたまわったら、一族の人間は“目下として”肯定的に話を合わせるのではないだろうか。ベアトリーチェが直接姿を現したのは、限られた人間の前でだけだが。……その存在は、姿を現さずとも、右代宮家にずっと深く浸透していたと見て間違いないだろう。
 しかし、どんなに浸透しても、それはおとぎ話の中の存在以上のものではない。おとぎ話の存在という虚構から、現実の存在に、格を上げさせなくてはならない。その為、魔法でやったとしか思えない何かが、必要になる。
 それこそが、……姉ベアトのしていた深夜の窓開けの悪戯から、……最後には密室殺人にまで至る、一連の魔女の事件。……そうして屋敷全体の反魔法力を少しずつ下げ、自分の存在をアピールしていると、姉ベアトは語っていたはず。
 ベアトリーチェ。お前はどうしてそんなにも、自分の存在を、自分以外の全員に認めさせたかったのか? 全員が認めた虚構は、真実となるから? その時にこそ、ベアトリーチェという存在は認められ、ニンゲンになれるから? なら、全員に認められる以前のベアトリーチェは、ニンゲンに満たない。家具だ。
 家具は、どうしてニンゲンになりたがるのか? 前回のゲームで、そのテーマが語られていた気がする。
 資格を、得たいからだ。家具には、*が出来ない。だから、*をする資格が欲しくて、ニンゲンになろうとする。
 ………………………。非常にシンプルな話だ。……そもそも、雛ベアトが誕生した理由がそのまま直結する。
【ウィル】「…………………。……なるほどな。……わかってはいるが、複雑だ。」
 人の心を、……蔑ろには出来ねぇな。
【譲治】「ベアトリーチェの葬儀に参加しておいて、こんなことを言うのも申し訳ないけれど。……僕も、説明できるほど、ベアトリーチェという人物のことに詳しくないんです。申し訳ない。」
【譲治】「その話は、ここに住んでる朱志香ちゃんの方が、僕よりももう少しは詳しいかもしれない。……そう言えば朱志香ちゃん、こちらの方を紹介したっけ?」
【朱志香】「いや、実はまだ。……お客様がいらしてるってのに、しりばっか抓るどっかの誰かのせいで、キチンと挨拶も出来なかったぜ…、えへへ…。」
 初対面の客人に、みっともない姿を見せてしまい、朱志香は今さらのように照れる。
 咳払いをしてから、普段の姿からは不釣合いなくらいの美しい会釈を見せる。スカートの端を摘んでまでの、本格派だ。
【朱志香】「は、初めまして。……朱志香と申します。本日は右代宮家へようこそ……、いやその、お日柄もよく、えっとその……。」
【ウィル】「……ウィラードだ。ウィルと呼べ。」
【朱志香】「え? ………え? ……………わ、」
 朱志香の挨拶が古風なものだったので、ウィルもまた、古風な貴婦人にそうするように、片膝を付いて会釈し、朱志香の右手を取り、その甲にキスをする。
【朱志香】「わ、わ…、……わぁ………。」
 まさかそんな古風な、本格派で返されるとは思わず、朱志香は真っ赤になって呆然としている。
 ……しかし、ウィルにとっては、至って真面目な返礼なので、どうして朱志香が真っ赤になっているのか理解できていない。
【ウィル】「何かおかしいことをしたか。」
【朱志香】「い、いやその、全然ッ、あ、あははは…、」
【ウィル】「お前の知っている、ベアトリーチェの話が聞きたい。……………ん。」
 朱志香の手を取る、ウィルの右手から輝きが漏れる。
 観劇者の力が、朱志香に働いてしまったようだ。……そんなつもりはなかったんだが。まぁ、いいか…。
【朱志香】「ベアトリーチェのこと、だっけ…? は、話してもいいけどその、………約束してくれる? 絶対に笑わないって。今にして思うとその、……きっと寝惚けてたんだと思うから。」
【ウィル】「お前は何を知っている? 笑わない。聞かせろ。」
【朱志香】「い、いいよ…。………えっと、どこから話そうかな……。」
玄関ホール
 私にとって、黄金の魔女ベアトリーチェは、……右代宮家における、学校の七不思議みたいな感じ。
 ほら、どこの学校にも七不思議なんて怪談はあるでしょ? 音楽室のピアノが勝手に鳴り出すとか、理科室の骨格標本が踊り出すとか。誰もが知ってる。だからといって、それが本当だと信じてるわけじゃない。
 ベアトリーチェの話も同じ。右代宮の、無駄にだだっ広い屋敷にある、ちょっとアレな怪談の一つ。
 使用人たちが、夜の見回りの時に見たとか見ないとか、たまに喋ってる。私的には、人の家に勝手に怪談作るなよって思うけど、まぁ、それ以上の話でもない。その程度の話。だから、日常の生活の中では、ベアトリーチェなんて名前は完全に忘れてる。
 そりゃ確かに、肖像画が掛けられたばかりの頃は、インパクト絶大で確かに不気味だった。暗くなってからは、肖像画に目を合わせないようにしてたし、使用人たちが不気味がるのも無理ない話さ。
 しかし、それは最初の頃の話。こちとら、毎日、肖像画の前を横断してる。次第に慣れて、飽きてきて。祖父さまがカネに飽かせて描かせた、妄想愛人の肖像画なんて、どうでもよくなっちまった。
謎の空間
【ウィル】「だろうな。年に何度も来ない親戚連中ならともかく。」
【朱志香】「そういうこと。だから、親族会議になると親戚たちが必ず肖像画の前で、決まってベアトリーチェの話をする。だから定期的に思い出させられるのさ。」
肖像画の前
【真里亞】「うー、ベアトリーチェ!! また遊びに来たよ…! また新しい魔法を書いたの。後で見てね! うー!」
【譲治】「真里亞ちゃんは本当にベアトリーチェが好きだなぁ。お祖父さまが肖像画を掲げて以来、大喜びみたいだ。」
【朱志香】「あれ? 縁寿は?」
【譲治】「霧江叔母さんと薬を飲みに戻ったよ。」
【朱志香】「縁寿は本当に体が弱ぇなぁ。……戦人とは大違いだぜ。」
【譲治】「緊張すると体調を崩すタイプなんだよ。僕も昔は、遠足の日や映画の日なんかに限って、体調を崩したりしたもんさ。」
【朱志香】「それに比べたら真里亞はタフだぜ。……新島からこっちに来るまでの間、ずっとベアトリーチェの話三昧さ。……ここしばらくずっとだけど、ちょっと行きすぎだよなぁ?」
【譲治】「いいんじゃないかな。子供の想像遊びだよ。朱志香ちゃんは子供が、サンタクロースに会ったことがあるって言い出したら、嘘だって言っちゃうのかい?」
【朱志香】「……まぁ、そこまでは言わねぇけどさ。」
 真里亞は親しげに、肖像画に話し掛け続けている。後で必ず遊ぼうねと、生きた人間を前に話すかのように、約束をしている。男である譲治は、異性で年下の真里亞のそういう行為を、微笑ましく思っているようだ。
 ……しかし、正直に白状すると。同性である朱志香は、いくら年下とはいえ、真里亞のそういう行為を、少しだけ気持ち悪くも思っていた。
 アニメのヒロインなどの、架空の存在に憧れる年頃は、自分にもあった。でも、……真里亞のそれは、憧れるとかそういう間接的なものじゃない。……もっともっと具体的な、……何というか、生々しいのだ。
 私だけが、その違和感に気付いていたのだろうか。……きっとみんなも気付いていて、だけれども譲治兄さんの言うように、大人の貫禄で無視しているだけなのだろうか。
食堂
【蔵臼】「……申し訳ないね、諸君。当主様は高尚な研究で大変お忙しい。昼は書斎で取られると仰せだ。」
 金蔵と一緒のランチなんて、消化不良を起こしそうで嫌だと、さっきまでさんざん愚痴っていた親族兄弟たち。しかし、いざ来ないとわかったら、今度は、たまの親族会議の時くらい、降りてくればいいのにと悪態をつく。
【郷田】「それでは皆様、ランチを始めさせていただきます。遠方よりお集まりの皆様をお持て成しできるよう、この郷田、腕によりをかけてご用意させていただきました…。」
 大シェフ郷田にそう言われては、お腹の虫が鳴らない者はいない。見事な皿が並ぶ頃には、金蔵の不在を話題にする者はいなくなっていた…。
 今、不在で話題になってるのは縁寿だ。腹痛が酷くなってしまったらしく、ランチには霧江ともども、現れなかった。
【夏妃】「可哀想に。……郷田。後で霧江さんに相談して、おかゆのようなものを用意するように。」
【留弗夫】「あぁ、気を利かせてくれてありがとう。……本当にすまねぇなぁ。どうも緊張に弱い子みたいでなぁ。」
【秀吉】「幼いうちはそんなもんや。吐いたりしないだけ可愛いもんやで。」
【絵羽】「譲治はよく吐いたわねぇ。昔は本当に病弱だったのよ。ねぇ?」
【譲治】「昔の話は許してよ…。食事時にする話じゃないよ。」
【真里亞】「うー。縁寿、可哀想。こんなおいしいごはんなのに、食べられない?」
【朱志香】「可哀想になぁ。元気になったら、その分、いっぱい遊んであげようぜ。」
【真里亞】「うー、だめー。真里亞とは遊べなーい。」
【朱志香】「な、何だよ。どうして。」
【真里亞】「だって、真里亞はベアトリーチェと遊ぶんだもん。だから、縁寿とは遊べなーい。」
【朱志香】「ベアトリーチェと遊ぶって、……またどっかに一人で行って、ぶつくさ独り言いいながら本を読んでるだけだろ?」
 ちょっと、言葉を選ばなかったと、朱志香はわずかに後悔する。でも、日頃から、真里亞がベアトリーチェを語る時に覚えていた違和感が拭えず、言葉の端にそれが溢れてしまう…。
【真里亞】「うーッ!! 一人じゃないよ! ベアトも一緒だもんッ!!」
 真里亞はまだ幼くとも、言葉尻の感情を読む力は、すでに充分長けている。すぐに真里亞の感情は破裂し、食堂中の関心を集めることとなった…。
 いつもならそこで、楼座が止めに入る。しかし、たまたま、彼女はお手洗いに中座していた。その為、真里亞の弾けた感情を抑える役の人間がいなかった…。
【真里亞】「きっひひひひひ!! 朱志香は可哀想だね、毒素の塊だもの! ベアトはまだまだ魔力が弱いから、朱志香の前になんか現れたら焼き散らされてしまう! でもね、いつかきっと朱志香の前にも現れてくれるよ? うぅん、誰の前にも!! きひひひッ、そして黄金郷の扉を開いてもらうの!! でも招かれるかわからないね? だけど真里亞だけは連れて行ってもらえるの、黄金郷にッ! でも朱志香はダメだよ、朱志香はダメ!! ベアトリーチェのことを馬鹿にする無知蒙昧愚昧曖昧、愚かも極まれりの汚らしい毒素塗れのニンゲン風情!! きっひひひひひひひひひひひっひっひっひっひ!!」
謎の空間
【朱志香】「………ベアトリーチェのことを馬鹿にされた時の真里亞と来たら、まるで別人さ。」
【ウィル】「真里亞二重人格説、なんてのもあったな。」
【朱志香】「二重人格! あぁ、そいつは多分、ぴったりな表現だろうな。あるいはそれが、真里亞にとっての理想の人格だったのかもしれない。」
【ウィル】「自分のなりたい、“もう一人の自分を生み出す”、の話か…?」
【朱志香】「え、…何で私のモットーを知ってんだよ。」
【ウィル】「難しく考えるな。頭痛にならァ。」
 それはかつて、朱志香が嘉音に語った話だ。人は誰でも、自分を本当に好きになれる、もう一人の自分を生み出すことが出来る、という話。
 ……確か、第2のゲームの冒頭で語られた言葉だったと思う。今にして思うと、ずいぶん面白いことが、ずいぶん早くから語られていたものだ…。
【朱志香】「誰だって、自分が本当になりたい自分があるんだ。でも、なれない。……生活やしがらみの中に今の自分がいるからこそ、今の自分を変えるなんてこと、出来やしないんだ。」
【ウィル】「そうだな。自分を変えるとは、環境も変えるということだ。……それは容易なことじゃねェ。」
【朱志香】「だから、私は今の自分はそのままに。……本当になりたい自分を、もう一人、生み出すことを思い付いたんだ。」
【ウィル】「良家のお嬢様であることを強いられ、窒息しそうな日々に。お前は、なりたい自分を見出した。」
【朱志香】「だからって、家で破天荒は出来ないさ。母さんに怒鳴られるのがオチだぜ。……だから、そうした。家にいる、大人しく親の言うことを聞く私に加え、……本当になりたい私をもう一人、生み出したんだ。」
【ウィル】「家では大人しく親の言うことを聞き、表ではやりたいようにやる。正しい生き様だ。胸を張れ。」
【朱志香】「へへ、ありがと…。まぁその、つまり、……なりたい自分ってのは、その気になりゃ、案外作り出せるもんなんだよな。真里亞も同じなんだろうと思った。」
【真里亞】「あの、興奮して捲くし立てる真里亞も、そうだと言うのか。」
【朱志香】「あれこそが、真里亞のなりたい真里亞なんじゃないかなって。そう思うことがあるよ。」
【ウィル】「……親族で一番の年少で、可愛がられてはいるが、尊敬されているわけではない。」
【朱志香】「何を知っても覚えても、そんなのは親族の誰かが知ってる。真里亞に威張れることは何もない。……私たちは真里亞が何かを覚える度に、微笑ましく褒めてたつもりだけど、……ひょっとしたらそれが、彼女を傷つけていたのかもしれない。」
【ウィル】「真里亞は、何かの権威になりたかったということか。」
 それは、幼少から脱皮したいと願う少年少女なら、誰もが思うことだ。何かを覚えて、親に褒められるのは悪い気はしない。……しかし、そのことについて、親がすでに知っていることがわかると、馬鹿にされたような気持ちにもなる。
 初めて九九が出来た時、親はきっと褒めてくれただろう。しかし、心無い親は、じゃあ11×11は知ってる? とか、16×16は知ってる? などと意地悪な問題を返してくる。そんな時、子供は九九を覚えた達成感は失われ、何をしても親を超えられないことに、深い落胆を覚えるのだ…。
【朱志香】「だから真里亞が、誰も知らないオカルトに関心を持ち、その知識を深めていったのは容易に想像できる。……多分、真里亞にとっての理想の自分というのは、みんなに尊敬されるオカルトの権威の自分なんだ。」
【ウィル】「普段の生活でオカルトの話ばかりしていたら、楼座にぶたれるからな。……お前がそうであるように、普段はもう一人の自分を隠している、というわけだ。」
【朱志香】「私は、こんな時の真里亞を、そうだと思ってる。……いや、本当の自分が、普段の自分を塗り潰してしまったと言うべきかな。私も、そういうのちょっと覚えが。……深窓の令嬢に憧れて、病弱な自分になれたらいいなと思って…、咳する真似ばっかしてたら、悪いクセになって。」
【ウィル】「咳き込めば、周りがやさしくしてくれるからか。」
【朱志香】「いや、はは、……嫌な話の流れになった時とか、空気悪い時とかに、流れを断ち切れるし。」
【ウィル】「なるほど。それもまた、お前の、なりたいもう一人の自分、なんだな。」
【朱志香】「はは、この話は内緒で頼むぜ…。」
 なら、真里亞にとってのもう一人の自分とは。……何なのだろう。
 年上をも論破できるオカルトの権威? それとも、……魔女と交流があること? ……何れにせよ、真里亞の前でベアトリーチェのことを否定するのは、大きなタブーであることは間違いない。
 ………真里亞は、日常では満たされない何かを得るために、ベアトリーチェと自分の中に何かを見出したのだ。ベアトリーチェと、黄金郷に行くのが、……真里亞の、願い?
 ………………………………。
【朱志香】「話が脱線したか。まぁ、そんな感じで楼座叔母さんが戻ってくるまで、真里亞は癇癪を起こしちゃって。……よせばいいのに、私も、売り言葉に買い言葉で返しちゃって。」
【ウィル】「ベアトリーチェなど居る訳ないと?」
【朱志香】「そんなとこ。居るもんなら会わせてみろよ、って。……真里亞が大泣きし出した頃には、さすがに失言が過ぎたかと後悔もしたぜ…。」
【ウィル】「それで?」
【朱志香】「親族会議自体は、私が一方的に真里亞に対し、ギスギスして終わり。……真里亞はケロリとしてたよ。ひとりでどこかに行って、またベアトリーチェと一緒に遊んでた云々と、楽しそうに語ってたから。」
【朱志香】「私を含め誰も、頭ごなしに否定したりなんかしない。もう、そういうものなんだと思って、聞き流して無視してるってのが正解さ。」
【ウィル】「親族会議の話は、それで終わりなのか。」
【朱志香】「この話自体はね。私がしたいのは、これが終わって親族がみんな帰ってからの話さ。」
薔薇庭園
 親族会議が終わった後も、私の心にはしこりが残ったままだった。
 せめて真里亞がヘソを曲げたままでいてくれたなら、仲直りをしようってことにもなって、私の心もすっきりしたと思う。でも、真里亞はけろりとしてたから、私だけが釈然としない気持ちだった…。
【熊沢】「おや、お嬢様。どうなさいましたか、お暗い顔をして。」
【朱志香】「……あぁ、熊沢さんか。いや別に、大したことは。……親族のみんなは無事に帰ったかな。」
【熊沢】「時間通りなら、もう新島の空港に着かれているでしょう。……お嬢様も、お疲れ様でございました。」
【朱志香】「私は何もしてねぇぜ。使用人のみんなも、本当にお疲れ様。」
【熊沢】「…………………。昨日の、真里亞さまとの喧嘩を、まだ気にしておられるのですか?」
【朱志香】「ん、………まぁね。」
【熊沢】「子供の言うことではありませんか。お嬢様ももう高校生なのですから、深く気にすることもないでしょうに。」
【朱志香】「熊沢さんは真里亞のあれ、子供の言う、ただの戯言だと思ってる?」
【熊沢】「……ベアトリーチェさまのお話、……でございますか?」
【朱志香】「熊沢さんも、ベアトリーチェさま、と来たもんだ。」
 ベアトリーチェは、祖父さまが今尚、溺愛してやまない愛人の名前。……使用人の熊沢さんが軽々しく呼べないのはわかってる。しかし、……その名は今や、屋敷に住まう架空の魔女の名にもなっていて、………その名にも、“さま”をつけて呼ぶのが当り前になっている。
【朱志香】「ベアトリーチェなんて、私たちが森へ行かないよう、大人がでっち上げた怪談だぜ。……それをいつの間にか真里亞が面白がって、本当にいるかのように振舞い出しやがった。」
【熊沢】「ほっほっほ…。そんなことを言ってはバチが当たりますよ。ベアトリーチェさまは、“い”るのですから。」
【朱志香】「だからさ、そういうの駄目なんだよ、生理的に。譲治兄さんの話じゃねぇけどさ、サンタなんかいるわけねぇとまで、騒ぎはしねぇぜ? だからって、サンタが本当にいるわけじゃねぇ。」
【熊沢】「……それは間違いですよ、お嬢様。」
【朱志香】「間違い…?」
【熊沢】「はい。万物、八百万には神様が宿っておられます。……同じように、この島、このお屋敷には、ベアトリーチェさまが宿っておられるのです。神様と同じく、ベアトリーチェさまも、敬っていれば、何も害は為しません。お嬢様の言うように、いないも同然でしょう…。しかし、敬いを忘れれば、必ずやバチがあたります。……これは何も、ベアトリーチェさまに限ったことではないのですよ。」
【朱志香】「へっ、バチが当たるなんて上等じゃねぇか。会えるもんなら会ってみてぇぜ…!」
【熊沢】「お、お嬢様…! そんなバチ当たりではいけませんよ…!」
屋敷・廊下
【紗音】「あ、お嬢様…。」
【郷田】「本日はお疲れ様でございました…。」
【朱志香】「紗音に郷田さんさ。ベアトリーチェの話は知ってるよな?」
【紗音】「……え?」
【郷田】「ま、まぁ、存じていると言えば存じておりますが。……それが何か。」
 二人は顔を見合わせる。空気の読めない人間が、忌避されている単語を唐突に出してきたかのような、そのまんまの顔をしている…。
【朱志香】「ぶっちゃけ聞くぜ。いるの? そんなオバケ!」
【郷田】「……いるかいないかと言われれば、……それはいないでしょうが、…多分。」
【紗音】「わ、……私はきっと、……いらっしゃると思います。」
【朱志香】「どうして“い”るって?! 会ったことあるの?」
【紗音】「ちょ、……直接会ったことがあるわけじゃありませんけど、……その…。」
 紗音は、深夜の見回りで、不思議な気配を感じたことがあるとか、人影を見たことがあるとか、細々と語る。そしてその端から朱志香は、何かの見間違い、勘違いだろと切り捨てていく。
【朱志香】「郷田さんだって、会ったことあるわけじゃないだろ?!」
【郷田】「も、……もちろんですとも…。……しかし、………まぁ……。」
 歯切れが悪い。でかい図体の郷田でさえ、会ったことはなくとも、その存在を否定しきれていないようだった。
 ………それが、朱志香は無性に気に入らない。自分は、仮にもこの屋敷の住人なのだ。その自分の与り知れぬところで、勝手に屋敷の住人が増やされている。……納得が行くわけもなかった。
【朱志香】「ん、ちょっと待った。今の話をもう一度。」
【郷田】「え? っと、言いますと…。」
【紗音】「き、貴賓室の話ですか…?」
 郷田と紗音は、ベアトリーチェに関する怪談を、いくつも思い出しては話してくれた。その中の一つに、朱志香は反応を示す…。
【朱志香】「そうそう、今の貴賓室の話。面白いぜ…!」
 郷田と紗音は再び顔を見合わせる。二人は、面白い話をしたつもりなど毛頭ないからだ。
【郷田】「貴賓室には、……午前2時に入ってはいけない、……ですか?」
【紗音】「午前2時には、ベアトリーチェさまが貴賓室にお戻りになるので、……近付いてはいけない、……ですか?」
【朱志香】「そうそう、それそれ。面白ぇぜ。どの話も、ベアトリーチェらしきものを、見たの聞いたのって体験談ばっかだけど、その話は違うぜ。午前2時に貴賓室に行けば、ベアトリーチェさまにお会いできるってわけだ…!」
【紗音】「そ、それは、……ど、どうでしょう……。」
【郷田】「お嬢様…。ベアトリーチェさまを悪く言った使用人には祟りがあると言われています。ましてや、貴賓室はベアトリーチェさまのお部屋…。」
【紗音】「……いくらお嬢様でも、それは、…お止しになられた方が……。」
【朱志香】「貴賓室って今は鍵が掛かってるんだっけ? 鍵は?」
【郷田】「鍵は、……キーボックスにあったでしょうか…。」
【紗音】「た、多分、源次さまがご自分の席にしまわれていると思います。」
【朱志香】「マスターキーでも開くんでしょ? 貸してよ。」
【紗音】「そ、そういうわけには、その、ま、参りません…!」
【郷田】「お嬢様、好んで不吉な場所に近付くことはありません…。」
【朱志香】「おいおい、人の家を勝手に不吉にするんじゃねぇぜ。とにかく私は決めた。マスターキーが貸せないなら、貴賓室の鍵はあるでしょ? 貸して。」
【紗音】「…………お、…お嬢様……。」
 二人の、何ともいえない表情が、朱志香には何よりも不吉に感じた。
 朱志香にとって不吉なのは、魔女でも貴賓室でもない。……真里亞や彼らなどの、魔女を妄信する“彼ら”そのものなのだ。結局、朱志香は二人を強引に説き伏せ、貴賓室の鍵を持って来させた…。
謎の空間
【ウィル】「ベアトリーチェが本当に貴賓室に現れるかどうか、肝試しをしたというわけか。」
【朱志香】「そんなとこだぜ。……しかし、私は何を意地になってたんだろうな。年端も行かない真里亞との喧嘩を、引き摺ってたに違いない。」
朱志香の部屋
 ……その晩は、実におあつらえ向きの悪天候だったぜ。正直なところ、下らないことに頭を突っ込んじまったなと後悔はしてた。
 しかしもう、あれだけの啖呵を切って、鍵も借りちゃってる。明日になって紗音に、どうでしたかと聞かれて、怖いから結局やめたわ、てへへ……、何てわけには、絶対いかない。
 午前2時なんて、普段ならとっくに寝てる時間だ。
 そんな時間に、ぼさっと廊下を歩いてるとこなんか見つかったら、母さんにどやされちまう。だから、時計の針が午前2時に近付くのを、じっと見つめながら、自分の部屋で待っていたよ。
 外は酷い雨、そして強い風だった。ばっさばさと樹木が揺れてて薄気味悪かった。自分の家に勝手に怪談を作るなと、紗音たちの前では息巻いたけど。……今は怪談を、ちょっとは認めてもいいかなという気持ちだった。
 ……右代宮の屋敷は広い。正直なところ、屋敷の中、全てが自分の家だとは思ってない。母さんが言うように、右代宮の屋敷では、廊下は公道と同じだ。
 つまり、自分の部屋は家だけれど、……廊下や、普段出入りしない部屋は、立派な、外なんだ。だから、貴賓室の怪談を、馬鹿馬鹿しいと思う気持ち半分と、……そう無理やり思い込もうとするくらいの、薄気味悪さ半分だった。
 午前2時まで、あと10分くらいになる。午前2時を貴賓室で迎えようと思ったら、その前の時間にはもう、貴賓室に入っていなくはならない。
【朱志香】「……行くか。……悪ぃが私も意地だぜ。」
 何も起こるわけがない。わかってる。馬鹿馬鹿しい数分間を過ごすだけだ。
 自分の部屋のドアノブに触れ、……気持ち悪いくらいに冷え切っていて、どきりとする。
 この部屋にいる限り、私は何でも馬鹿に出来る、笑ってられる。だって私は、この部屋の主なのだから。でも、廊下は違う。……私の、テリトリーの外だ。その境界を分けるドアのノブが、こんなにも冷え切ってるなんて。
 ……くそったれ…。ビビってんのかよ、私。まさか紗音や郷田さん、あるいは熊沢さんの与太話を真に受けてるってのか…? 私が証明してやろうぜ、貴賓室には何もいなかった、って…!
廊下
 廊下は、薄明かりだけだった。いわゆる、消灯時間以前なら、もっと明かりはついてる。
 でも深夜は、電気の無駄遣いとか何とかで、明かりは最小限ということになっているのだ。そのせいで、私は自分の家の中でありながらも、……こうして明白な深夜を、味わっている。
 ……こんな時間にうろうろしてて、……入ってはいけない貴賓室に肝試しに行こうとしてるなんて母さんにバレたら、こっ酷く叱られる。
 母さんに知られないために、息を殺し、足音も、殺す。……だから、信じられないくらいに、うるさい静寂。こんなにも静かなのに、……不気味な風の音がうるさい。
 小枝の絡まる音。おんぼろ屋敷のどこかの柱が泣く音。唐突に聞こえる、ガラスを嘴がコツリと打つような音は何なの? こんなにも静寂なのに、……ものすごくたくさんの怪しい音が、うるさい。
 あぁ、私は本当に馬鹿。懐中電灯くらい用意すれば良かった。自分の家の中で懐中電灯? ……はっ、ますますに馬鹿馬鹿しい…。そんな悪態を口にすることで、少しでも風の音が聞こえないようにする…。
 ………見えた。貴賓室の、……扉だ。
 ……貴賓室は、特別なお客様のための部屋、ということになっていた。しかし、この部屋が使用されたことは、私の知る限り、ただの一度もない。この屋敷を訪れるどんな客人も、……この部屋を使う資格を与えられはしなかった。
 握り締めていたはずの鍵は、ちっとも温もりを持たない。相変わらず冷酷に、……その冷たさで私を苛んでいる。あるいは、これは警告なのかもしれない。……ぬくぬくとした自室へ帰って布団を被れば、いつもと同じ、何事もない夜を過ごせるのに、という…。
【朱志香】「……馬鹿にすんじゃねぇぜ。ここまで来て、今さら引き下がれるかってんだ。」
 こんなにも鍵は冷え切って、私を拒んでくれたのに。……鍵穴はもはや、何も抵抗しなかった。
 あとは、……ノブを捻って、開けば、……そこが貴賓室。
 ……貴賓室に入ったことは、ないわけじゃない。ずいぶん昔、家の中で隠れん坊をしたり、探検したりして遊んでた頃は、普段立ち入らないこの部屋が、とても珍しかった。
 しかし、この部屋は大切な部屋だからみだりに入ってはならないと怒られ、その後、使わない部屋には鍵をするルールになったので、私は入ることも出来なくなった。
 ……だから、貴賓室に入るのは、………多分、数年ぶり。いや、……十年以上さえも経るかもしれない。部屋の中は、私の知る頃とはきっと異なっているだろう。……思えばあの頃も、この部屋のことを、どこか不気味だと思っていたものだ…。
貴賓室
 扉をゆっくりと、押し開く。扉は軽く、……手を離した後も、まるで私を誘うように、ひとりでに開いていった…。
 その先は……、墨のようにべったり、どろりとした、……暗闇。あんなにも薄暗いと思っていた廊下から漏れ入る明かりさえ、くっきりとコントラストを感じさせる。
 ……ごくりと。……硬い唾を飲み込んでから、私は首を突っ込み、入口脇の照明のスイッチを探る。
 それはひどく不自然で不器用な格好。……中に踏み入って、自然に壁を探ればいいのに。部屋にたった一歩、踏み入ることさえ嫌い、……こうして、恐る恐る、腕だけ闇に突っ込んで壁を探っているのだ…。
【朱志香】「…………あった…。」
 カチン。
 普段、あまり使用されることのない、そのスイッチは、とても無機質で固かった。しかし、明かりが灯れば、呆気ないくらいに、暗闇は払われる。
 そこには、……見当も付かないくらい古い記憶の中の光景と、……寸分、変わらない、貴賓室があった。
 ……カーテンやベッドカバーは、多少は違うかもしれないし、ひょっとしたら椅子なども違うかもしれない。でも、………一言でいえば、空気。……あの、硬い、無機質な空気は、何も変わらなかった。
 ここでぼやぼやしていたら、誰かに見つかるかもしれない。……こんなとこ見つかって、母さんに怒られるのはごめんだ。意を決し、……たかだか明かりのスイッチを探るだけでさえ、踏み入ることを拒んだその部屋に、………踏み入る。
 扉を閉める時、窒息するような息苦しさを覚えた。さぁ、……自分を貴賓室に閉じ込めた。出て来い、ベアトリーチェ。
【朱志香】「……今、何分だ…?」
 室内をぐるりと見回すが、時計は見当たらなかった。朱志香も、家の中でわざわざ腕時計などしない。……困った。時間がよくわからなかった。
 しかし、どうせ、もう数分なのだ。時計を取りに行くのを口実に、ここを逃げ出すという甘えを、ぐっと心の奥に押し込める…。
 ……ただ、ぼーっと突っ立ってるのもつまらない。何かに腰掛けようと、もう一度ぐるりと部屋を見回した時、……変なものを見つけた。
【朱志香】「…………何だよ、これ。」
 それは、ベッド脇のサイドテーブルの上に置かれていた。……もしこの部屋が、普段も使われている誰かの部屋だというなら、単なる私物だと思うだろう。
 しかし、この部屋に住んでいる人間はいない。だからそれは、……この部屋の主のものであるわけもない。
【朱志香】「……お供えかよ。……気持ち悪ィぜ…。」
 それはまさに、お供えに見えた。サイドテーブルの上には、一体の小さめのフランス人形が座っている。その人形の髪は、黄金。……服は、黒いドレス。
 どこから誰がこんな人形を見つけてきたやら。ベアトリーチェを暗示して、誰かがここに置いたのは疑いようもなかった。ということは、この人形こそが、この部屋の主だとでも言うのか…。
 そして、その主にお供えするように、……小皿が置かれ、クッキーと包み紙で捻ったチョコがいくつか置かれていた。小綺麗に置かれ、人形には埃も積もっていない。
 ……つまり、この人形もお供えも、日々、使用人たちによって手入れされ、部屋同様に維持されているということだ。手入れ? ……いや、これは手入れなんかじゃない。
 どうか、私たちを祟らないで下さいという、お供え、……いや、まるで崇拝にさえ見える。……だから、人形そのものも充分に不気味だったが、……こんなところに安置され、敬われているということそのものが、生理的に気持ち悪かった。
【朱志香】「馬鹿馬鹿しいぜ。……祟らないで下さいって、拍手でも打つのかよ。」
 薄気味悪いその人形から、朱志香は無理やり目を逸らす。
 ……自分のでないベッドに腰掛ける気にはなれない。かといってもはや、椅子に腰掛ける気にもなれない。この部屋の何かに、体を預けたいという気持ちには、もう、まったくなれなかった。
 私は所在なくうろつき、……カーテンの隙間から、風雨が濡らし続ける闇夜の窓ガラスをぼんやり眺めていた。
 ……私は何をやってんだ。真里亞との喧嘩を、まだ引き摺ってて、こんな時間に貴賓室でぼんやりしてるなんて、……馬鹿馬鹿しいを通り越して、自分に呆れる…。
 ベアトリーチェ、か。一体、いつの頃から、このおかしな魔女はこの屋敷に住み込むようになったんだ…?
 ………祖父さまが、いつもベアトリーチェ、ベアトリーチェと叫んでて。死んだ愛人の名前らしいから、きっとその亡霊が屋敷に出るんだろう、なんて話になって。
 森には魔女がいるから近寄ってはいけない、という子供のホラ話、もしくは子供が森に近付かないように大人が作った怪談があって。
 祖父さまが4月に掲げたあの肖像画はインパクト絶大だった。しかもあの、薄気味悪い碑文。……生贄の儀式を思わせる、その気持ち悪い内容が、ますますにベアトリーチェの名を不気味に装飾した。
 それらがいつの間にかミックスされて、魔女ベアトリーチェがいる、なんてことになってた。
 ……私がベアトリーチェという存在を信じられないのは、そういったホラ話が融合していって生まれた、架空の存在だとわかっているからだ。ベアトリーチェっていう、祖父さまの愛人は実在しただろう。しかし、それは魔女じゃない。
 森の魔女の話は、子供が森に近付いて迷子にならないようにと、大人が作った怪談だ。しかし、それは作り話であって、実在などしない。いや、そもそも昔は、森に出るのは狼だって脅されてたらしい。狼なんて、いるわけないって子供たちが気付いたので、魔女に話を切り替えたらしい。
 そんな程度のあやふやな存在が、……あの肖像画が掛けられてから、一気に具現化し、さも大昔からいましたって感じに振舞うようになった。……そう、全ては作られた怪談、虚構の存在。
 それを真里亞は、一番の友達と呼び、使用人たちは、神棚に拝むみたいな感じで敬ってる。わけがわからなくて、気持ち悪い……。
【朱志香】「………ッ、………………………。」
 突然の電話の音に、心臓が喉に詰まるかと思うほど飛び跳ねる。
 ベッドサイドの、人形が飾られてるのとは反対側のテーブルに置かれた電話が、けたたましく鳴っていた。
 しかし、驚いたのは最初のひと鳴りだけだ。3つも鳴る頃には、私を驚かせようとする誰かの悪戯だな、と悪態をつく余裕を取り戻せていた。
 ……慌てて取れば、びっくりしましたか?とでも言われて、笑われるのだろうか。いっそ、無視してやるかとも思ったが、………電話はしつこく鳴り続けている。
 こんな深夜に、ずっと鳴られてたら騒音だ。万一、母さんの部屋に聞こえでもしたら、どやされる。
【朱志香】「……へいへい、取るぜ、取ってやるぜ。あー驚いたとでも言やぁいいんだろ…。」
 受話器を取ることにする。びっくりしたぜ、わははは、とでも言うか。ベアトリーチェなんか、やっぱり現れなかったぜと言い返してやればいい。それで、ある意味、私の勝利なのだから。
【朱志香】「………もしもし?」
【真里亞】『うー! ベアトリーチェ、こんにちは…!』
【朱志香】「え? ま、……真里亞ッ…?!」
 意味が、わからない。聞き間違い、だよな…? どうして真里亞がここに、電話を…?!
【朱志香】「も、もしもし…?!」
【真里亞】『この間は、楽しいお歌を聞かせてくれて、ありがとう。だからお返しに、真里亞もベアトリーチェに歌うね。習った新しいお歌を歌うね! うー!』
 声、抑揚、喋り方、全部全部、紛れもなく真里亞だ。しかし一方的に、……何の話をしているんだ…? 真里亞が機嫌よく喋り続けているので、話に割り込めず、私はただただ絶句するしかない。やがて真里亞は、私でも知ってる懐かしい童謡を歌い始める。
 意味が、わからない。
【朱志香】「……真里亞? もしもし…? ちょっと待てよ、歌うのやめろよ…! 何なんだよ? わけがわかんねぇぜ…! もしもしッ?! あッ、」
 声も明かりも、全てが消えた。真っ暗で何も見えない、わからない。意味がわからない、わけがわからない!
【朱志香】「な、…………何、…………今の……。」
 真っ暗であるというのは、ただそれだけで、これほどまでに人間を鈍感にするの…? たとえ真っ暗とはいえ、……今、この部屋であったことを、理解できない。
 ……今、部屋の中で、ばさばさばさって、何? よ、よくわからない、うまく説明できない。
 まるで布団の中から、誰かが這い出すようなすごい音がした。それは、気がした、なんて曖昧なものじゃない。気配がしたなんて、いい加減なものじゃない。確かに聞いた、すぐそこでという、はっきり具体的なもの。
 しかし、ベッドは何事もない。元々、誰も寝ていないし、乱れようもない。
 誰かがベッドの布団から這い出して、………気持ち悪い声で笑いながら、部屋を出て行った……。…………ように、……感じた。
 感じた? 私はここで、ベッドはそこ。同じ部屋どころか、すぐここと、そこの話なのに、……何で私はこんなにも、ほんの数秒前のことがよくわかってないの…?!
 もう何も聞こえない受話器を握り締め、………何も始めから変わらないかのような、静かな室内に、……私はひとり、呆然としている…。
 …………え? …………あれ…………? 何も始めから変わらないなら、……私はたった数十秒前の出来事を、なかったことにも出来る。しかし、………もし変わったことがあったなら、……それは、紛れもなく、何かがあったことになる…。
【朱志香】「……何だよ、……何で、………ねぇんだよ……。」
 床にでも落ちた…? いや、ない。……満遍なく、どの角度から見ても、……ない。お供えのクッキーやチョコはあるのに、………それを供えられた、人形が、いない。
【朱志香】「……嘘だぁ………………。」
 じゃあ、何だよ……、…さっきのは……。ベアトリーチェさまの人形が、ケタケタと大笑いして、部屋から出て行ったとでも言うのかよ…。
 いや、あの賑やかな気配は、人形がよたよたと出て行くような静かなものじゃない。まるで、子供がよく、マントを羽織るように毛布を被ってふざけるような、そんな賑やかな音、気配、……風だった。
 じゃあ、何だよ……。ベアトリーチェさまの人形が、人間に化けて、……ケタケタと笑いながら部屋から出て行ったと、………そう言うのかよ…。
【朱志香】「嘘……だぁ…………………。」
 後には、何もない。人形だけが消えて、………他は何も変わらない。
 何も最初から変わらず、風雨の音だけが聞こえる貴賓室に、……呆然と立ち尽くす私がいるだけだった……。
謎の空間
【ウィル】「人形は、結局、見つかったのか。」
【朱志香】「……物陰からベッドの下まで探したさ。それこそ、中に入り込んでまで。……でも、見つからなかった。」
【ウィル】「一体、あの部屋で何があったと考えてる?」
【朱志香】「ベアトリーチェさまの祟り、なんて思いはしねぇぜ。……あるいは、使用人の誰かの悪戯だったかもしれねぇ。」
【ウィル】「悪戯?」
【朱志香】「真里亞の声は、予めカセットテープにでも録ってあって。それを午前2時ちょうどに電話して再生ボタンを押した。そしてほどほどのところで、配電盤か何かで停電させた。……それから、予め貴賓室のどこかに隠れてた誰かが、気持ち悪く笑いながら、人形を持って出て行った。………そう考えりゃ、辻褄は合うぜ。」
【ウィル】「釈然とはしてないようだな。」
【朱志香】「そりゃそうだろ。……だって、これが私を驚かすための悪戯だとしたら、大掛かりが過ぎるぜ。」
 真里亞に予め、歌を歌わせ、それを録音しておく。それを誰かが、貴賓室へ電話し、再生して聞かせた。そして頃合を見計らって、誰かが貴賓室のブレーカーを落とした。
 貴賓室の電気を消そうと思ったら、地下に行かなくてはならない。……地下ボイラー室内に設けられた、配電盤ブースだ。そこに内線電話はないから、真里亞のテープを電話する役と、ブレーカーを落とす役は別の人間が必要になる。
 そしてさらに、貴賓室に潜み、ケタケタと笑いながら出て行く役。一体、……この役の人間は、何時間前から貴賓室に潜んで待っていたというんだ…? 来るか来ないかもわからない朱志香を驚かすために、……一体、どれほど前から、真っ暗な貴賓室の、……例えばベッドの下などで、息を潜めていたというのだ…?
【朱志香】「……魔女の祟りなんてあるわけもねぇぜ。……でもよ。人間の悪戯だと考えて、……それだけの人間が緻密に示し合わせて、私を驚かせるためだけに、何時間も暗闇で待ち構えてたって考える方が、……私はよっぽど薄気味悪いぜ……。」
【ウィル】「同感だな。いっそ祟りの方がマシだ。……そのことを後日、使用人たちには聞いたのか?」
 肖像画の掲示は1984年の4月。定期的にとは言っても、それ以降の親族会議は事件の年を含めて3回。
【朱志香】「聞いたって、惚けるに決まってるぜ。……それに、最低3人だぜ…? あの日は、源次さんと郷田さんと、熊沢さんと紗音の4人が泊まってた。その内の3人が、あんな薄気味悪い悪戯に加担したってのか? わけわかんねぇ…! だから……、私は聞けなかった。」
【ウィル】「…………………………。」
 確かに、奇怪な体験だが、人間にまったく不可能なことではない。……しかし、朱志香を驚かすためだけに、少なくない人間が、緻密に連携したと想像する方が、よっぽど薄気味が悪い。……朱志香が、ベアトリーチェの祟りより怯えるのは、無理もないことだ。
【ウィル】「今でも、使用人たちがお前を嵌めたと信じてるか。」
【朱志香】「………いいや。多分、……ビビっちまった私の勘違いなんだよ。きっと、人形はどこかに転げ落ちて、私がたまたまそれを見つけられなかっただけなんだ。」
【ウィル】「全て、気のせいだったと言いたいのか…?」
【朱志香】「人形が消えた以外、何の変化も証拠もない。……真里亞にも後日聞いたけど、歌のことも電話のことも知らないと言われた。惚けたのか、本当に知らないのかはわからないけれど。……とにかく、あの晩のあの出来事は、………私が、確かにあったと言い張ってるだけで、……何も証明することが出来ない。」
【ウィル】「皮肉だな。例えお前が、本当にベアトリーチェに会ったと言っても、それを証明できないのと同じだ。」
【朱志香】「しばらくはショックだったけど、……時間が経って。あれは臆病な私が、落雷か何かで一瞬だけ停電したのにびっくりして。……庭木の枝が千切れて、ばさばさ落ちる音を誤解したんじゃないかなって思えるようになった。」
【ウィル】「笑い声は?」
【朱志香】「変な鳥の鳴き声とか。……とにかく、そう聞こえてしまう何かの聞き間違いだったかもしれねぇ…。………私は強がってるだけで、本当は信じられないくらい臆病だったんだ。…だから、あんなことがあったように誤解してしまったんだ。……そう考えるようにして、……あの晩のことを、忘れようと自分に強く言い聞かせた。」
【ウィル】「全ては、闇の中、か。」
【朱志香】「………人間、忘れようと思えば、結構、出来るもんだよな。……以来、ベアトリーチェという言葉を聞く度に、嫌な気持ちが込み上げる。でも、それを顔に出さないように努めてる。」
【ウィル】「………………………………。」
【朱志香】「…………おしまい。私に話せるのは、この程度の話だけだぜ。」
礼拝堂・控え室
【朱志香】「情けない話だから、誰にも内緒に。………私がビビリだったって、誰にも知られたくねぇからな。」
【ウィル】「わかった。……最後に、一つだけ質問したい。」
【朱志香】「貴賓室のことで?」
【ウィル】「違う。食堂でのことだ。」
【朱志香】「食堂?」
【ウィル】「お前の怪談の直前の親族会議の日、食堂には親族全員が揃ったな?」
【朱志香】「あぁ。当時はまだ戦人は戻ってなかったけど。それ以外は全員いたよ。……もちろん、祖父さまは除くぜ。」
【ウィル】「縁寿は腹痛で空席だったな。……それはお前の隣の席だな?」
【朱志香】「そうだぜ。」
【ウィル】「それはお前の、右の席だったか?」
 親族会議の直後ということなので、これが成立するのは1985年のみ。朱志香の言った通りの悪戯をするよう、紗音が源次と熊沢に当主として命じた。
【朱志香】「そうだぜ。右の席だよ。それが何か? ……………? ……ん? あれ…? ……おかしいな、どうして右……。」
【ウィル】「充分だ。……無理に考えるな、頭痛にならァ。」
【理御】「どうしたんだい、朱志香。何を悩んでるんだい…?」
【朱志香】「……いやその、………右、……左…。………???」
【理御】「はは、おかしな朱志香。どう、ウィル。譲治兄さんや朱志香に、何か聞けました?」
【ウィル】「まずまずだ。ベアトリーチェの怪談は、なかなか面白かった。」
【理御】「怪談? どんな話ですか?」
【ウィル】「午前2時の貴賓室に、ベアトリーチェの亡霊が現れるという話だ。なかなかおっかない話だったぞ。」
【理御】「初耳です。……誰が言い出した話が知りませんけど、仮にも当主様の恩人を怪談にしてしまうなんて、失礼な話ですね。」
【ウィル】「模範解答だな。……………………。」
【理御】「………? 何か?」
【ウィル】「理御は、碑文はわかるか?」
【理御】「碑文? 何の話です?」
【ウィル】「ベアトリーチェの肖像画のところにある、例の碑文だ。」
【理御】「………すみません。何のことかさっぱり。」
【ウィル】「“懐かしき、故郷を貫く鮎の川”。」
【理御】「………何ですか、それは。」
【ウィル】「お前の、……いや、この世界には、肖像画はあるのに、碑文はねぇのか。」
【理御】「玄関ホールに掲げられてる、ベアトリーチェの大きな肖像画は、私だってもちろん知っています。……しかし、碑文の話はわかりません。何の話です?」
【ウィル】「……………………。……面白ぇ違いだ。………理御はずっと六軒島で暮らしてきたな?」
【理御】「無論です。それが何か?」
【ウィル】「子供の頃、森には近付くなと脅されてたはずだ。」
【理御】「えぇ。迷子になって危ないから、決して近付くなと昔から。」
【ウィル】「森には魔女が出ると?」
【理御】「魔女? 何の話です?」
【ウィル】「黄金の魔女にして、六軒島の夜の支配者。ベアトリーチェ。」
【理御】「……ベアトリーチェは、お祖父さまの恩人です。それを魔女だか妖怪だかのように扱うのは、少々失礼かと思いますが?」
【ウィル】「……………魔女の、ベアトリーチェは知らない、と?」
【理御】「黄金と共に潜水艦でやって来たベアトリーチェと、隠し屋敷で育ったその娘の話は知っていますよ。あなたと一緒に、さっき知ったではありませんか。それが、いつ魔女になったんです?」
【ウィル】「………………………。なるほど、そう来たか。……では、森に入ると何が出ると脅された?」
【理御】「森には狼が住んでるから近寄るなと。」
【ウィル】「………魔女でなく、狼、か。……なるほどな。面白ェ。」
【理御】「私は面白くありません。何の話です? 魔女って何のことですか?」
【ウィル】「こっちの話だ。最後にもう一つ聞きてェ。」
【理御】「どうぞ?」
【ウィル】「親族会議の食堂で、お前の右には誰が座ってる?」
【理御】「私の向かいは妹の朱志香。その次の序列は、絵羽叔母さんの息子になります。だから譲治兄さんですけれど、……それが何か?」
【ウィル】「なるほどな。……紛らわしく入り混じってやがる。だが、面白ェ。」
【理御】「私には全然さっぱりですが。」
 継ぎ接ぎされた世界であるため、朱志香の中で、理御のいる世界と紗音のいる世界の記憶が入り混じっている。

こいつが、犯人だ

礼拝堂
【理御】「わかったんですか。ベアトリーチェを、誰が殺したのか。」
【ウィル】「あぁ。大体な。」
【理御】「まさか、当主様が殺した、……などと仰るつもりはないでしょうね?」
【ウィル】「ベルンカステルが求めてるのは、金蔵と係わった二人のベアトリーチェじゃない。1986年のベアトリーチェを誰が殺したかだ。」
【理御】「……その、今年のベアトリーチェという意味がわかりません。魔女のベアトリーチェとは何の話なんです? さっきの話といい、碑文とやらの話といい。そろそろ教えてくれませんか。」
【ウィル】「いいだろう。もったいぶる気もねェ。」
【理御】「まず始めに。……魔女のベアトリーチェとは何のことです?」
【ウィル】「厳密には人ではない。黄金の魔女ベアトリーチェという名の、概念だ。」
【理御】「怪談そのものだと?」
【ウィル】「さらに厳密には、怪談さえも概念を生み出す一要素に過ぎない。」
【理御】「話がさっぱりです。」
【ウィル】「怪談は本来、三人称や二人称で語るべきものだ。それを、一人称で語り出したヤツがいる。」
【理御】「自分がベアトリーチェだと、誰かが自称し始めた…?」
【ウィル】「六軒島の悪霊伝説や、子供を森に近付けないための作り話が、金蔵が繰り返す、ベアトリーチェベアトリーチェの嘆きで修飾されて、魔女伝説を醸成していった。その架空の魔女に憧れて、会いたいと懇願したのが右代宮真里亞だ。……それに、応えたヤツがいる。」
【理御】「………さっぱりな話ですが、腰を折らずに相槌を打ちましょう。……応えたとは、どういう意味です?」
【ウィル】「右代宮真里亞は気の毒な生い立ちにより、オカルトに執着するようになった。……その彼女に同情したヤツが、ベアトリーチェに扮して、真里亞と遊んでやったということだ。」
 真里亞は、人を視覚より、内面で判断する傾向が強い。同じ母親であっても、暴力的な時は黒い魔女と呼び、決して母親と同一視しなかった。
 即ち。視覚的には同一人物であっても、内面が異なれば、別の人間だと認識する傾向があるということだ。真里亞が初めてベアトリーチェに出会った時のエピソードは、以上から簡単に読み解ける。
 大人の話があるからと屋敷を追い出された真里亞は、薔薇庭園でお茶を飲むことにした。恐らくその時、誰かが真里亞の話し相手になってくれた。そして、……魔女ベアトリーチェに会いたいと嬉しそうに話すオカルト少女に、………あたかも自分がベアトリーチェに憑依されたかのように振舞ったのだ。
 外見的には、それはベアトリーチェではない。しかし真里亞は、喋り方や振る舞いが急に変わった時点で、その人物を別の人間だと認識する。だからそれは、唐突に現れたのだ。
【ウィル】「真里亞にとっての魔女やオカルトは、ある種の現実逃避と見ていい。……彼女は、満たされない現状が、魔女の力で打ち破られると信じていたんだ。だから、魔女の存在を信じたかった。それを信じれば、自分が幸せになれると信じられるから。」
【理御】「……確かに真里亞ちゃんは、楼座叔母さんひとりが育ててますし、楼座叔母さんも仕事で多忙。確かに少し気の毒な子とは思いますが…。」
【ウィル】「心を、蔑ろにするんじゃねェ。……だから真里亞は“信じる”ために、信じた。ベアトリーチェが見せた手品紛いも、心の底から信じたんだ。それは彼女の心を、大いに慰めただろう。……そしてここに、魔女ベアトリーチェが誕生したんだ。」
【理御】「魔女に会いたいと願う真里亞ちゃんのために、誰かが魔女ごっこに付き合ったと…?」
【ウィル】「そうだ。」
 これが、姉ベアトの誕生だ。千年を生き、六軒島に封じ込められて云々。それらは六軒島の悪霊伝説に、屋敷を深夜に徘徊する亡霊の話がミックスされてる。古戸ヱリカの推理通り、2つの怪談が融合したものだ。
 誰かが、2つを融合し、それを演じた。だからベアトリーチェは、屋敷の夜の主であると同時に、蜘蛛の糸を恐れるという、2つの怪談の特徴を兼ね備える。
【理御】「ではつまり、ベルンカステルの問う、ベアトリーチェを殺したのは誰か、というのは、そのベアトリーチェを演じた心優しい誰かを殺したのは誰か?、という話なのですか。」
【ウィル】「似てて少し異なる。演じたんじゃない。異なる2人なんだ。……真里亞にとって、黒い魔女と母は別人物であるように。真里亞にとって、ベアトリーチェとそれを演じた人間も、別人物になるんだ。」
 マリアージュ・ソルシエールのように。1人が生み出し、もう1人に認められることで、幻想を育む関係だったように。黄金の魔女ベアトリーチェも、1人に生み出され、真里亞に認められることで育まれた。
【理御】「つまり、演じた役を殺しても、それは演じた心優しい誰かを殺したことにはならないと?」
【ウィル】「依り代が失われただけでは、ベアトリーチェが殺されたことにはならないってことだ。……電話で例えるとわかりやすい。俺とお前が電話で話しているとする。その時、俺にとって電話は、話し掛ける対象でありお前そのものだ。」
【ウィル】「しかしもし、電話を壊したなら?」
【理御】「……なるほど。電話を殺せば、私と話すことは出来なくなりますが、しかしそれは、私を殺したことにはならない。」
【ウィル】「真里亞は初期のベアトリーチェに、自分に憑依してもいいと言った。それは明白に、初期のベアトリーチェが、肖像画の姿を模していなかったことを示す。」
【理御】「演じた魔女役と、演じた人物は別人という考え方で、……演じた魔女役のみを殺す。……そんなことが出来るんですか?」
【ウィル】「演じた本人にしか、殺せない。即ち、ベアトリーチェを殺したヤツとは、ベアトリーチェを演じたヤツと同義だ。」
【理御】「真里亞ちゃんと魔女ごっこをした相手が、ベルンカステルの求める犯人だということなんですか?」
【ウィル】「そうなる。………しかし、ややこしいことに、この礼拝堂は今、猫箱の内側の世界だ。その犯人という名の猫は、生きた猫と死んだ猫の2匹がここに、同時に存在している。」
【理御】「……本当にややこしい。さっぱりですが、先を促しましょう。つまり、犯人が2人いると仰りたいので?」
【ウィル】「そうだ。……ベアトリーチェを生み、殺すことが出来る人間と、……そもそもベアトリーチェなど生ませもしない、概念ごと殺すことが出来る人間。その2人が、ここにいるってことだ。」
【理御】「では、お尋ねしましょう。ベアトリーチェ殺人事件。その2人の犯人は誰です?」
【ウィル】「まず最初の1人。死んだ猫。」
【理御】「誰です?」
【ウィル】「お前だ。」
【理御】「は、……ぁ……?」
【ウィル】「非常に単純な推理だ。お前の存在する世界にだけ、魔女ベアトリーチェが存在しない。」
【理御】「意味がわかりません。」
【ウィル】「真里亞も朱志香も、魔女ベアトリーチェとの話を聞かせてくれた。しかし、彼女らの親族会議における食堂の席順には、お前が含まれていない。」
【理御】「私が含まれて、いない…?」
【ウィル】「真里亞は、楼座と共に六軒島を訪れた。そして、隣の席には楼座がいた。ありえない。………お前がいるならば、楼座の次の序列は、理御になり、そして朱志香になり、次が真里亞になるはず。」
 楼座と真里亞の序列の間には、理御と朱志香が二人入るはず。二人入ったら、席は右斜め前になる。……つまり、真里亞の隣に楼座が座ることは、理御の存在する世界では、ありえない。
【ウィル】「朱志香の話も同じだ。お前が序列に加わっているなら、金蔵の席を正面に、左列に理御、右列に朱志香。そして左列に譲治、右列に縁寿となる。……朱志香と縁寿は、理御がいてもいなくても隣り合う。しかし、理御がいるかいないかで、その席が、右になるか左になるかが異なる。」
 理御がいる世界ならば、朱志香の左が、縁寿の席となる。しかし、理御がいない序列だと、縁寿の席は、朱志香の右になる。
【ウィル】「1986年の魔女ベアトリーチェを語る人間は、皆、お前のいない世界を語っている。そして、お前の世界では、魔女の怪談が存在しない。お前にとってベアトリーチェは、金蔵の愛人、もしくは恩人であって、化けて出る亡霊ではない。」
【理御】「当主様は、ベアトリーチェと深い愛情を育まれたのでしょう? どうして化けて出て怪談になるのかさっぱりわかりません。」
【ウィル】「そういうことだ。お前が存在すると、魔女ベアトリーチェが存在しない。お前の存在は、ベアトリーチェを殺してる。」
【理御】「私が、ベアトリーチェ殺しの犯人だと……? これは、……おかしな話になったものです。会ったことはおろか、話もよくわからないのに、犯人だなんて。」
【ウィル】「逆を返せば。……お前が存在しなければ、ベアトリーチェが生まれるということだ。」
【理御】「逆を返せば? 私とベアトリーチェが、コインの表裏とでも仰るので?」
【ウィル】「いい例えだ。その通り。お前というコインの裏側が、ベアトリーチェなんだ。」
【理御】「何のことやら、さっぱりです。」
【ウィル】「俺も、お前の存在がさっぱりだった。……だが、色々と話を聞いていく内に、お前の存在について、一つの仮説が立った。それはお前が、19歳だという点だ。」
【理御】「……あなたに年齢を明かした覚えはなかったのですが、ご名答です。……どうして?」
【ウィル】「朱志香はお前のことを、入学した時にはもう副会長で、その翌年には生徒会長になったと言った。これは、お前の年齢が朱志香より1つ上であることを示す。」
 18歳の朱志香の1つ上ならば、………理御は19歳ということになる。
【理御】「なるほど…。それで、私が19歳だと、何の仮説が立つというんです?」
【ウィル】「お前が右代宮夏妃の子ではない、という仮説だ。」
【理御】「………………………。……失敬な。何の気紛れかは存じませんが、私だけでなく、母も侮辱する発言には撤回を求めねばなりません。」
【ウィル】「なぜ、次期当主は蔵臼ではなく、お前なのか。」
【理御】「私が成人するから受け継がれるのです。私にも子が生まれたら、成人した時にそれを譲るべきでしょう。」
【ウィル】「なら、なぜ金蔵は蔵臼が成人した際に当主を譲らなかった?」
【理御】「………当主様の話を聞かれたでしょう。当主様は右代宮家の老獪な親族たちに振り回され、辛い思いをされました。だから、これからの当主は若者が受け継ぐべきだと思い、」
【ウィル】「お前のいない世界では、次期当主を証明する銀の指輪さえ存在しない。……お前が指にしているその銀の指輪は、金蔵がお前に当主を継承したいという、他の世界にはない強い意思の証明だ。」
【理御】「……確かに、その点は否定できません。当主様は、私を特に可愛がられておいでで、私が幼い頃から、成人したらすぐに当主を継承させる。その日に備え学業を怠るなと厳しく言われてきました。」
【理御】「……しかし、お父様にその資質がないとは思いません。なぜ、お父様を早々に飛び越して私が次期当主なのか。………不思議に思ったことはありますが、ずっとそうだったので、その疑問を口に出したことはありませんでした。」
【ウィル】「なぜ金蔵は、蔵臼よりお前に、強く当主を引き継がせたかったか、わかるか。」
【理御】「わかるわけもありません。………また、心を蔑ろにするんじゃないと仰るので? 当主様のお心から、何が推理できると仰るんですか?」
【ウィル】「お前が、ベアトリーチェと金蔵の、子供だからだ。」
メタ礼拝堂
「……お見事。……くすくすくすくすくすくすくす。」
 乾いた拍手と、小馬鹿にした笑い声。
【ウィル】「ベルンカステルか。」
【ベルン】「……案外、早かったわ。もう少し、思考を遊ばせてくれると思ったら。」
 もはやそこが、彼女の座るべきところとでも言うように、……ベルンカステルは祭壇に腰掛けた姿で現れる。
【ベルン】「いつ、理御がベアトリーチェの血を引くと?」
【ウィル】「19歳という年齢に気付いた時だ。……第5のゲームの時に登場したヒント、19年前の赤ん坊と数字が合致する。」
【ベルン】「……その赤ん坊は、崖から落ちたのでは?」
【ウィル】「夏妃に受け入れられ、崖から落ちなかった19年前の赤ん坊が、理御だ。逆を返せば、夏妃に拒絶されれば、理御は存在しない。」
【理御】「私が、……母さんの子じゃない…?! 馬鹿な……。…………………。」
【ベルン】「そう言いつつも、心当たりはあるみたいね。……くすくす。そうよ。右代宮理御は、夏妃の子じゃないわ。19年前に金蔵が何処かより連れてきた赤ん坊の成長した姿よ。」
【ウィル】「何処か、じゃねェ。……明白に、ベアトリーチェの血を引いている。その証拠が、数多の世界で理御にしか与えられない、銀の指輪だ。」
【理御】「この指輪があると、どうして私がベアトリーチェの血を引くと?」
【ウィル】「数多の世界で、お前にしか与えられない。それは、全ての世界の中で、金蔵にとってお前は、ベアトリーチェの次に最も重要な人間であることを示している。そしてそれは、実の息子の蔵臼や、孫の朱志香を遥かに超えている。そしてさらに、お前の年齢である19。……即ち、19年前に何があったかを遡れば、導き出される一つの推理がある。」
【理御】「19年前? 私が生まれた時に、何があったというんですか。」
【ベルン】「………あなたも聞いたはずよ? それも今日。ウィルと一緒にね?」
【理御】「……………………。……まさか、楼座叔母さんの話だというのですか?!」
【ウィル】「そうだ。第3のゲームで楼座の話が出て、第5のゲームでの赤ん坊の年齢が時間軸で一致した時、一つの推理が生まれた。あの金蔵が、どこからともなく赤ん坊を連れてきて、自分の血族に加えろというのは、その赤ん坊が特別な存在であることの証拠だ。」
【理御】「私が、……九羽鳥庵のベアトリーチェの、……子供……。」
【ウィル】「九羽鳥庵のベアトリーチェは、潜水艦で来たベアトリーチェの娘だ。……しかし金蔵は娘と思わなかった。生き写しの、生まれ変わりと信じた。……その生まれ変わりが、かつての年齢にまで成長し、まさに生き写しとなった時。金蔵は過ちを犯したんだ。」
【理御】「………き、聞きたくありませんっ。」
【ベルン】「そういうこと。金蔵はベアトリーチェにベアトリーチェを生ませ、さらにそのベアトリーチェにあんたを生ませたの。……あんたは金蔵の子であると同時に、ベアトリーチェの孫、ということね。」
【理御】「………………………ッ…。」
【ウィル】「これが、金蔵の心から考える、金蔵がお前を誰よりも特別に扱う理由の、必然の推理だ。金蔵は過ちを悔い、お前を今度こそ子孫として、右代宮家に正しい形で迎え入れようとしたんだ。」
【ベルン】「……夏妃はほとんどの場合、プライドを酷く傷つけられ、理御の育児を拒否するわ。その結果、あんたは必然として崖から落ちて消える。」
【理御】「………け、結婚後、……ようやく授かった子供が私で、……年子で生まれたのが朱志香だと……、聞かされてきました…。」
【ウィル】「もしお前が今日まで、自分が夏妃の子であることに疑問を感じたことがないのなら。……お前はこの世界の母に感謝すべきだ。お前にそれを悟らせずに今日まで、朱志香と平等に愛情を注いだ。」
【ベルン】「………感謝の必要はないわ。……だって、あんたというカケラを見つけるのに、気が遠くなるほどの苦労をしたもの。夏妃は数学的確率で見て、257万8917分の257万8916の確率で、あんたの育児を拒否するわ。あんたが感謝すべきは、奇跡を紡いだ私であって、夏妃ではないわね、多分。……くすくすくすくす。」
【ウィル】「下らねェ確率遊びはやめろ。」
【ベルン】「あら、ごめんなさい。」
【理御】「………………………………。」
【ウィル】「お前が誰の血を引こうと、育ててくれた家族への恩が変わるわけじゃない。」
【理御】「それはわかってます。……ですが、少し心を落ち着ける時間が欲しいです。…私の心を、蔑ろにしないでくれるなら。」
【ウィル】「………そうだな。」
 理御は大きく溜息を漏らしながら、何かを見上げる仕草をする。
 ……蔵臼たちを実の両親だと信じていたのに、それが違ったのだから、少なからぬショックもあるだろう。しかし、理御は感謝していい。今日まで何不自由なく育ててくれた家族に感謝していい…。
【ウィル】「面白ぇもんだ。……黄金の魔女ベアトリーチェに、何百万分の一かの確率で、こんな平凡な人生を送れる可能性があったなんてな。」
【ベルン】「でしょう? こういう時、私はとても笑えると思うのよ……。」
 ウィルは、はっきりと断言する。右代宮理御は、……異なる世界での、黄金の魔女ベアトリーチェの姿なのだ。
 夏妃が育児を拒否する19年前の赤ん坊。それが、夏妃に受け入れられれば、このような未来があったのだ…。しかし、受け入れられなければ、……魔女が、生まれる。
 その生まれを祝福されなかった赤ん坊は、魔女となるのだ…。
【ウィル】「死んだ猫は、理御だ。……だが、理御の存在自体は、お前が関心を持っている、六軒島連続殺人事件とは何の関係もない。……つまり、猫箱を開ければ消える猫が、理御だ。」
【ベルン】「………くすくす、そういうことよ。理御など、所詮は消える猫。でも、余興にしては面白かったでしょう?」
【ウィル】「面白ぇのはお前だけだ。……ここに閉じ込められてなけりゃ、俺もこんな推理はわざわざしない。」
【理御】「…………………。……どうして私が、おかしな探偵ごっこの相棒に選ばれたのか、わかりました。……どうやら、ベルンカステルという魔女は、人の運命を弄んだり、あるいは嘲笑ったりするのがお好きな方らしい。」
【ベルン】「あら、すごい。……会ってその日に私を理解する人なんて、珍しいわ。……くすくす。」
【理御】「私は、……どうやら異なる世界では、魔女と呼ばれる存在になるらしい。そしてどうやら、何かの事件を引き起こすらしい。それは、私の罪なのですか?」
【ウィル】「罪のわけねェ。お前はお前だ。コインが裏を向いていた時のことなんて、知ったことじゃねェ。」
【理御】「ありがとう。しかし、異なる運命の世界では、お前は何らかの迷惑を掛けていたと言われて、心穏やかになる人間はいないと思います。……教えて下さい。私は、異なる世界で何を?」
【ウィル】「…………ベルンカステル。」
【ベルン】「カケラを、その子に見せたら?」
【ウィル】「……………。」
 ウィルが手の平を開くと、……そこに青白く光る、水晶片のようなものが現れる。これまでのゲームの、全ての記憶、……いや、棋譜だ。
【ウィル】「……こいつに触れろ。異なる世界での、お前の運命が見える。」
【理御】「……………触れない方が幸せだ、…とでも言いたそうな顔ですね?」
【ウィル】「当然だ。……予感しているだろうが、ロクな話じゃない。」
【理御】「それでも、それは……。……異なる世界とはいえ、……私のことなのですね。」
【ウィル】「……お前には知る権利も、知らぬ権利もどちらもある。お前があくまで、自分と連なりつつも異なる誰か、他人のことと割り切れるなら、……触れてみるといい。」
【ベルン】「知りたいわよねぇ…? 自分が、あるいはひょっとしたら、辿ったかもしれない運命なんて。」
【理御】「…………相棒として聞きます。あなたはそれを私に、見せたいですか?」
【ウィル】「相棒としてなら、見ろという。……しかし友人としてなら、見るなという。」
【理御】「残念。私は友人ではありませんので。」
【ウィル】「俺も、相棒として一つ聞きたい。」
【理御】「何です?」
【ウィル】「お前、…………。………男か。女か。」
【理御】「………………唐突なことを聞きますね。」
【ウィル】「男と思えば、線の細い男にも見える。しかし、女と思えば、気丈に振舞う女にも見える。……ベルンカステルも、わかってて誤魔化してる。朱志香にはお前を、兄とも姉とも呼ばせず、次期当主サマと抽象的な呼び方をさせ続けていた。」
【ベルン】「……くすくす。本当に勘のいい男。」
【理御】「よく性別を聞かれます。だから悔しくて、こう言い返してます。……どっちに見えますか?って。」
 理御の母親は、母親であると同時に実の姉。異なる世界の理御——紗音は、それを知って絶望した。想い人の誰とも結ばれることが許されない運命だったからである。
【ウィル】「………第5のゲームでは、お前は男ということになっている。しかし数多のゲームでは、女だと考えられてる。……右代宮戦人がマスターを務めた第6のゲームでは、性別を違えつつも確定しない二人組の悪魔が登場し、それを暗示した。……いや、厳密には、一番最初のゲームからだな。………お前の性別は、ゲームの外側の、隠れた謎の一つだ。」
【理御】「素直に答えるのも悔しいので、お答えはしないことにします。私はあなたの相棒でしょう? 気に入らない性別だったら、何か不都合なことでもあるのですか?」
【ウィル】「……………………。……その通りだ。俺には、相棒の性別などどうでもいい。」
【理御】「ありがとう。……容姿にコンプレックスがあったので、あなたの言葉が嬉しいです。」
【ウィル】「俺は男女平等主義だ。………使えねぇヤツは、平等に殴る。」
【理御】「私も、マナーのない方は男女平等に抓りますので。」
 理御はゆっくりと……、カケラに触れる。
 すると猛烈な眩暈を起こし、操り人形の糸が切れたかのように、その場に無言でしゃがみ込む。
 無理もない。平行世界について理解のない人間が、異なる運命を無理やり理解させられたら、脳が膨張して自我を失うような錯覚を味わうだろう。
 ……理御はしゃがみ込んだまま、意識を失っているようだった。
【ウィル】「こいつには、……全てを知る資格があったというわけだ。」
【ベルン】「あなたの相棒に、ぴったりの駒だったでしょう?」
【ウィル】「推理を続ける。……死んだ猫の話はした。」
【ベルン】「そうね。次は、生きた猫の話だわ。」
【ウィル】「1986年のベアトリーチェを殺せるのは、それを生み出したヤツだけだ。」
【ベルン】「ヒントは山ほどあったわ。思えば、ベアトリーチェのゲームだった頃からね。」
【ウィル】「そうだな。……ベアトリーチェと戦人の第4のゲームで、その因縁ははっきりとした。そしてその時点で、ベアトリーチェが誰であるか、そしてその心が、わかった。」
【ベルン】「心とは?」
【ウィル】「……動機だ。……ベアトリーチェが、1986年10月5日に、自らの運命さえ賭す、ゲームのような事件を起こさねばならなかった、動機だ。」
【ベルン】「さすがだわ。第4のゲームの時点で、フーダニットとホワイダニットが推理できてたなんて。……じゃあハウダニットは?」
【ウィル】「犯人が誰であるかわかれば、それを推理することは不可能じゃない。……第3のゲームの連鎖密室は、なかなか器用にやったもんだと拍手さえしたくならァ。」
【ベルン】「第4のゲームラストの、私はだぁれ?、はわかった……?」
【ウィル】「10月5日24時に必ず、場所を問わずに、殺せる“犯人”。その時点である種の仮定は可能だ。……それこそ、黄金郷のもう一つのお宝、ってわけだ。」
【ベルン】「……へぇ。第4のゲームまでに、……即ちあなたは、ベアトのゲームだけで、全ての答えに至れたと?」
【ウィル】「可能だ。……その後の、ラムダデルタのゲームと戦人のゲームは、それをさらに補足するヒントの塊だ。……この、お前のゲームさえもな。」
【ベルン】「くすくすくす……。……それでは、そろそろ、はぐらかすのは終わりにして、教えてちょうだい? ………犯人は、だぁれ……?」
 その時、………彼ら以外、誰もいないはずの礼拝堂に、小さな足音が響く。その人影は、ゆっくりとウィルたちの前に来て、小さく会釈をした。
【ウィル】「………来たか。」
【ベルン】「呼んだの?」
【ウィル】「あぁ。……フーダニット。ハウダニット。そして、ホワイダニット。……こいつの動機を、理解した。」
【ベルン】「……“あんた”、動機がわかられただけで、もう降参しちゃうの…? 具体的な証拠はないんでしょ? 赤とか青とかで、ガンガンと派手に応酬すればいいのに。」
【ウィル】「こいつは、もうそんなことは望んでない。」
 その人物は、小さく頷く。
 望みは、……気付いてもらうこと。それが達せられた時点で、もう、下らぬ言葉遊びで、言い逃れを図るつもりはない…。
【ウィル】「俺はお前の動機を、……心を理解したつもりでいる。……それをこれから、話す。お前を呼んだのは、それを聞き、……間違いがあったら、お前の言葉で正して欲しいからだ。」
「………………………………。」
 ウィルたちは、……互いにもう一度、小さく頷き合う。
【ウィル】「お前の4つのゲームで、お前のメッセージを受け取り。……そして、マスターの違う3つのゲームで、俺はお前をどんな不思議な運命が弄んだか想像し。……言葉を失った。……お前はそれを、誰にも明かさずに、全てのゲームで死ぬ。」
 それを、この誰もいない礼拝堂で告解させても、何の意味もないかもしれない。しかし、それでもそれが、………何かの救いになると、俺は信じる。
 人は、誰かに理解されて初めて、救われる。死後も、何年経っても、……そして、一番わかって欲しかった男に、理解されることなく生を終えた哀れな魔女を、…………もう誰かが赦してもいい。
 戦人は第5のゲームの最後で、ようやくそれを理解する。……しかしそれは、………遅く、間に合わなかった。だから、今ここで生きている彼女を、戦人は救えないのだ。だから、戦人は、ベアトリーチェの葬儀に、いない。来ない。……間に合わない。
【ウィル】「……これは、ベアトリーチェの葬儀だ。お前が告解し、……神なるマスターが聞き、………俺が赦す。………その役目は戦人が相応しいが、ヤツは間に合わなかった。だから、俺で諦めろ。」
【ベルン】「……あれだけベアトはヒントを出したのにね。ラムダも馬鹿戦人のために、あれだけのヒントを与えたわ。……それに対する、戦人自身の懺悔のようなゲームも笑えた。……でも、私は何も笑わせないわ。ただ淡々と、……あんたの葬儀を執り行うだけよ。」
【ウィル】「お前は喋るな。話しているのは俺だ。」
【ベルン】「…………くすくす。」
【ウィル】「いいなら、始めよう。……誰も急かさない。………お前の葬儀が終わるまで、ベルンカステルは永遠に時間を閉ざしてる。心の整理に必要な時間は、無限にある…。」
 人影はゆっくりと首を横に振る。その覚悟がもうあるからこそ、ここにやって来たのだ。わかったと、ウィルも頷いて答える。
 ……そして、二人でベルンカステルの目を見ながら。……ウィルは、きっぱりと告げる。
【ウィル】「こいつが、犯人だ。」
 EP5にも普通に紗音と嘉音がいたのだから、性別設定が異なると考える理由はない。銀の指輪も手掛りの一つ。

新しき生活

メタ劇場
【クレル】「………聞け。我こそは我にして我等なり。我が語るは我等の物語。されど此処は聞く者なき硝子とコルクに封ぜられし小さな世界。それは誰の目にも触れることなく、我が物語の全てを封じて、我が心の海を揺蕩いて海の藻屑と消えていく……。」
【フルフル】「あぁ、ここは何処なの?! そして私は誰なの?!」
【ゼパル】「ならば聞こう! どこがいい? 誰がいい?!」
【フルフル】「私をやさしく包んでくれる場所ならば何処だっていいわ! やさしくしてくれるなら、自分が誰だっていいわ!」
【ゼパル】「そうさ、僕たちには!」
【フルフル】「私たちには!」
【ゼパル・フルフル】「「何処で誰かなんて、些細なことなのだから!!」」
【クレル】「そう。我等にとってそれは、とてもとても些細なこと。少なくとも、その日を迎えるまでは。なぜに我等は新しき運命に投ぜられねばならぬのか? それは突然にして唐突なる運命の宣告。」
【ゼパル】「それは僕が望んだ運命じゃない。」
【フルフル】「でも躍らせたわ、自分の胸を…!」
【ゼパル】「新しい運命は僕を何処へ誘うのか?!」
【フルフル】「何処へだって構わないわ!」
【ゼパル・フルフル】「「其処が、僕たちに、私たちにとって、やさしい場所でさえあるならば…!!」」
【クレル】「親を持たぬ悲しき子供たちが集いし仮の住処にもたらされるは、神の救いの報せか、新しき運命にて弄ぶ悪魔のゲームへの誘いなのか。我等にはそれを知る由もなし。」
【クレル】「されど我等は信じたい。それが、神の救いが差し伸べられたという、福音の報せであると、信じたい。」
【フルフル】「でも、どうしてそれが私に? 私には信仰も何もない!」
【ゼパル】「ならこれは福音じゃない、悪魔の誘いさ!」
【クレル】「されど我等、運命に逆らえる由もなし。あぁ、我は我にして我等なり。願わくば、新しき運命が我等を祝福せんことを。時は西暦1976年4月。春を語るにはあまりに寒き頃のこと。新しき異郷は何ら変わることなく、朽ちた空気と隙間風で我等を苛むのである……。」
【クレル】「第一章。“新しき生活”。」
玄関ホール
【夏妃】「以上が、当家のルールです。厳しいですが、当家で躾けられたことが、皆さんの将来にきっと役立つものと信じています。」
「「「はい、奥様。」」」
 この4月より、新しく迎えられた使用人たちが、声を揃える。規則が窮屈なのは、福音の家も右代宮家も変わらない。
 しかしここでは、とても大きな給金がもらえる。そして、再就職に当たっては強力なバックアップをしてくれた。
 右代宮家で働き、お金を貯めて、良い会社に就職を斡旋してもらい、新しい幸せな人生を切り拓く。……それが福音の家のみんなが描く、もっとも現実的な夢だった。
 しかし、誰もが右代宮家の使用人になれるわけではない。品行方正で成績優秀な子しか、推薦はされない。なので、絶対に福音の家を出て行って幸せになってやると願う子たちは、皆、熱心に勉強を励んでいた……。
【夏妃】「では、これで今日はおしまいです。明日からは早いですよ。消灯時間を守るように。解散。」
「「「はい、奥様。ありがとうございます。」」」
 夏妃の姿が見えなくなるまで頭を下げ続けていた新しい使用人たちは、先輩使用人が頭を上げたのに倣い、頭を上げる。
 1976年。紗音6歳。
【ルシファー】「じゃあ、今日はこれでおしまいよ。明日からはシフト通り。奥様は時間に厳しい方よ。あんたらが寝坊したら私の責任にされるわ。寝坊したら蹴り起こしてやる。いいわね!」
 先輩使用人ももちろん、福音の家出身の先輩だ。彼女は2年前にここへ来たらしい。だから、私以外の年上の新入りたちは、彼女と面識があるようだった。奥様厳しそうっすねー、マジ疲れましたー、きゃっきゃと騒いでいる。
【ルシファー】「……ところでこの子、何者? どうして使用人に選ばれたわけ?」
 先輩が私を指差し、怪訝そうな目で周りに訪ねる。
 確かに怪訝にも思うだろう。普通、使用人たちは中卒か高卒を機に、使用人になる。でも私は、これから小学校だった。
 他の使用人たちはこれから毎日、通常のシフトに従い、使用人をすることになる。しかし私は、平日はお嬢様と一緒に新島の小学校に通い、空いた時間と、土日だけお勤めをするのだ。
 それは、これまでに例のない、異例中の異例だった。……厳しい選抜を潜り抜けて推薦を得た彼らにとって、私が納得行かない存在であるのは、一目瞭然だった。
【ルシファー】「……あんたについては、学業最優先でと奥様からも源次さまからも言われてるわ。でもお給金は出るんですってよ。意味わかんない。」
 陰口なら、陰で言ってくれればいいのに。……先輩ははばかることなく、堂々と言う。
【ルシファー】「こいつ、そんなに勉強できるの? 天才児?」
「全然知んないです。」
「なんか病弱とかって、隔離されてたらしくて、家でも全然知りませんでしたし。」
【ルシファー】「……ここに来た以上、連帯責任なんだからね。あんたがドジれば、福音の家の全員のドジだと思われるのよ。せいぜい気合入れなさいよね。」
 私は弱々しく頷く。……こんなにも年上の人に凄まれることなんて、経験がなかったので、とても怖かった。
【紗音】「大丈夫よ。私も一緒だから。二人でがんばろ。ね。」
 紗音はそう言って、そっと微笑んでくれた…。
メタ劇場
【ゼパル】「紗音は怖くないのかい? この家は何だか厳しそう…!」
【フルフル】「うぅん、全然怖くなんかないよ。あなたが怖いと思うから、怖くなってしまうだけ。」
【ゼパル】「じゃあ、楽しいと思ったら、楽しくなるのかな?!」
【フルフル】「うん、楽しくなるよ。だからここでも、笑顔でがんばろう。」
【クレル】「……紗音は、福音の家からの唯一の友人だった。彼女はしっかり者で人気者。我とは大違い。我は呆れるくらいにのろまで要領が悪くて、誰も友人になどなってはくれなかった。」
【クレル】「そんな我が、福音の家でがんばってこれたのは、彼女がいつも励ましてくれたからだ。……なら、ここでも彼女と一緒に頑張れるだろう。」
【ゼパル】「さぁ、早く寝支度をして休もう? 私は明日からすぐにお仕事だけれど、あなたは別のお仕事があるわ。」
【フルフル】「そう、私はみんなと違って、学校に通わなければならない。六軒島で泊まる時は、学校の支度をして、船着場でお嬢様をお迎えしなくちゃいけない。」
【ゼパル】「お嬢様、元気そうな人だったね。仲良くなれるといいね!」
【フルフル】「な、仲良くなれるかな…。私、学校は怖いよ、緊張するよ…!」
【クレル】「……福音の家での生活に慣れていた我にとっては、規則緩き学校など気楽なもの。しかし、慣れるまでは、全てが新しく、そして不安なのだった。」
六軒島・屋敷
 六軒島の新しい生活について、説明が要るだろう。ここでの日々は、福音の家での、温かいながらも澱んで滞った日々とはまったく違う。
 私には六軒島の右代宮家に仕える使用人としての日々と、新島の小学校に通う日々が同時に与えられた。慌しくて忙しくて、気の緩む間もない新しき日々の幕開けである。
 福音の家と違い、ここでは毎日を同じベッドでは寝られない。週の半分は六軒島のお屋敷の、使用人控え室のベッドで休む。放課後にお嬢様と一緒に下校してお屋敷へ行き、そこで使用人としてのお勤めをして、そのまま泊まって翌朝、またお嬢様と一緒に登校するのだ。
使用人寮
 お勤めのない日は新島の寮に帰り、自分に与えられた部屋で自由に過ごすことが出来る。一応、大人の寮母がいて食事や消灯の時間を厳しく管理していたが、福音の家でそういう生活には慣れているので、苦にはならなかった。
 部屋は、少し大きめのものでそれぞれが3人部屋になっていた。しかし、人数の関係か幸運なのか、我は3人部屋にはならなかった。
【紗音】「寮でのお部屋も一緒だね。」
 紗音との2人での生活なら、やっていけそうだった…。
メタ劇場
【夏妃】「えぇ。福音の家から毎年、何人かの使用人が入れ替わりでやって来ていました。」
【蔵臼】「あれに関しては、親父殿が先方と決めて勝手にやっていたことだからね。私たちには、何も口出し出来なかったよ。」
【夏妃】「身寄りのない子供たちを当家が厳しく躾け、そして社会へ羽ばたいて行くのを応援するのが、富める右代宮家の社会への義務と思っていましたから。」
【フルフル】「どんな子たちが右代宮家へ来ていたのかしら?」
【ゼパル】「きっと品行方正! 真面目で良い子で可愛い子たちさ!」
【夏妃】「ぎらぎらとした、ハイエナみたいな子が多かった印象です。」
【蔵臼】「上昇志向が強かった、と言いたまえ。身寄りのない気の毒な子たちだ。貴重な機会を踏み台に、自分の人生を必ず掴み取ってやろうという気概に溢れていたよ。」
【フルフル】「みんな、学校生活と使用人生活を両立してたの?」
【ゼパル】「それは大変だね! ほとんど働けやしない!」
【夏妃】「学校に通いながら働く子など、あの子以前には前例もありませんでした。」
【蔵臼】「正直、最初の挨拶の時に驚いたよ。明らかに幼かった。他の子たちは16歳から18歳くらいなのだが、その子だけはさらに10歳は幼く見えた。」
【夏妃】「福音の家から来る若過ぎる使用人は、あくまでも社会勉強として当家に訪れているのであって、そもそも、使用人としての腕前はあまり期待していません。」
【蔵臼】「そうだな。やはり大人の、年季の入った使用人たちに比べると、どうしても頼りないものだ。」
【夏妃】「それが、未就学の子を受け入れるなんて。家事はおろか、社会勉強どころか義務教育もまだではありませんか。お父様にどんなお考えがあったのか存じませんが、明らかにおかしいと思いました。」
【蔵臼】「親父殿には申し上げたさ。せめて中学を出るまでは福音の家で学ばせるべきではないかとね。」
【フルフル】「そうしたら、金蔵は何て?」
【ゼパル】「決まってるさ、こう答える。」
【ゼパル・フルフル】「「おお、ベアトリーチェ〜〜!!」」
【蔵臼】「はっはっは…。当時はもうすっかりオカルトかぶれの書斎篭りさ。余計なことを言えば、我が思考の旅の邪魔をするなと怒鳴られる。」
【夏妃】「お父様のお決めになることは絶対ですから。……しかし、あの子についてだけは、腑に落ちませんでした。」
【蔵臼】「福音の家にも問い合わせたさ。そしたら源次さんに聞いてくれという。源次さんに聞いたら、お館様に聞いてくれという。」
【ゼパル】「お館様に聞いたら、ベアトリーチェ〜と言う!」
【フルフル】「あはははは! 真実は誰にもわからないのね!」
【蔵臼】「島に子供は朱志香しかいない。使用人たちはよく娘と遊んでくれたようだが、やはり娘は歳の近い友人を望んでいたよ。学校だけでなく、家でも遊べる友人をね。」
【夏妃】「……朱志香を不憫に思い、お父様が気を利かせたに違いないと、私も思うには思いました。……しかし、それなら私たちにも相談していただきたいとは思いませんか? 娘の友人には誰が相応しいかは、私たちが決めるべきです。」
【フルフル】「おっかなぁい! あっははははは!」
【ゼパル】「夏妃は公園デビューが苦手そうだ!」
礼拝堂
【ウィル】「源次の配慮、と見るべきだろうな。」
【理御】「………でしょうね。……源次さんは、その世界の私がお祖父さまの血を引くと知っていて、特別な配慮をして、六軒島に呼び寄せたのでしょう。」
【ウィル】「体調は、もう大丈夫なのか。」
【理御】「……色々とショックが大き過ぎただけです。……もう、眩暈くらいしか。」
【ウィル】「この世界では次期当主。しかし、世界が違えば、使用人、……いや、魔女だったかもしれない。……お前も、難儀な運命だ。」
【理御】「まったくです……。知ったことを後悔はしませんが、今からでも忘れられるなら、それを選びたいです。」
【ベルン】「くすくす、面白いじゃない。使用人なのに、実は当主の血を引く隠し子なんて……。まるで、童話のようにロマンティックな話よ?」
【理御】「……ロマンティック? ……母さんの気持ちを考えると、複雑です。」
【ベルン】「うふふ、そうね。夏妃にとってこの世界の理御は、育てろと押し付けられた気に入らない赤ん坊に過ぎない。そしてそれを拒絶した世界でもある。……夏妃にとっては自分の腹を痛めた朱志香の方が何百倍も可愛いわ。自分の血の入らぬ赤ん坊なんて、汚らわしくて生暖かい汚物の皮袋と同じよ。」
【ウィル】「言葉を選べ。俺でもケツを抓るぞ。」
【理御】「……ありがとう、ウィル。……大体、話は見えます。だからこそ、私は母さんに一層感謝しなくてはならない。この歳になるまで、こんなにも公平に育ててくれたことを。」
【ベルン】「奇跡的な確率でだけれどね。……動物というのはね、自分の血が入らない子供にはいつも残酷なのよ。ライオンとかもそうでしょう? ……くすくすくす。」
【ウィル】「源次は恐らくこう考えた。……この世界の理御は、正しい血統を持つ右代宮家の人間だ。何とか六軒島で生活させてやりたかった。しかし、いきなり連れてきて、この子がそうですというわけにはいかなかったわけだ。」
【理御】「……でしょうね。島で生活させて馴染ませ、機を見て打ち明けるつもりだったのでしょうか。」
【ウィル】「しかし、この世界の理御は特別扱いを受けていたわけではないな。現に、銀の指輪は存在しない。」
【理御】「お祖父さまのお耳には入れなかった、ということでしょうか。」
【ウィル】「源次にとっての打ち明けるべきタイミングが、とうとう訪れなかったということかも知れねぇ…。」
メタ劇場
【クレル】「いつの日にか、愛しきベアトリーチェの血を引きし忘れ形見が生きていることを、源次は伝えたかったのであろう。しかしそれを伝えるのは、容易なことではなかった。」
【ゼパル】「どうして容易じゃないんだろう?!」
【フルフル】「馬鹿ね、夏妃が知ったら大変よ?!」
【ゼパル】「あぁ、そうか、理御が突然現れたら、朱志香が次期当主じゃなくなっちゃう!」
 厳密には違うけれど、朱志香が未来の次期当主を選ぶ権利を持つのだから、同じ意味だ。
【クレル】「それは知れば知るほどに容易ならざる物語。我の生まれを、祝福する者もいれば、祝福せざる者もいる。……源次はそれを明かす日を静かに待つしかないのである。」
【ゼパル】「それは源次の胸だけに秘められた物語?」
【フルフル】「理御も金蔵も夏妃も蔵臼も朱志香も誰も! みぃんな知らない物語!」
【クレル】「かくして、この奇妙な物語は1976年より、ゆっくりと幕を開けるのである。あぁ、我こそは我にして我等なり。なぜに運命はかくにも、我等を捨て置いて自由気まま身勝手に進むのか……。」
 幼き使用人を不思議に思ったのは、最初のひと月だけ。夏妃たちが抗議したところで、何も変わらない。何か実害があるわけでもない。
 ならば、金蔵の好きにさせておけばいい…。やがて誰もがそれに慣れ、歪な日常を受け入れ始めた。
【クレル】「しかし、いつも側にいて、同じ待遇であるべきと思っている福音の家の使用人たちは違う。彼らは、明らかに自分たちとは違う我の扱いに、日々の小さな不満を蓄積させていったのだった……。」
使用人寮
「サワチー、お疲れー。今日はどーだったぁ?」
「今日、奥様の機嫌サイアク。マジで窓枠なぞられたー。」
「タダッチ、掃除遅いって絞られてた。マジどーしろとー!」
 福音の家では、子供たちみんなを家族として扱います。その為、本来の名前はそこでは伏せ、新しく与えられた、“祝福された名前”で名乗ることになっているのです。
 福音の家だからそうなのか、大抵の場合、“音”の一字と、名前の一字を組み合わせて新しい名前を与えられるのがほとんど。……しかし、人間は新しい名前を与えられたから、はいそうですかとは、なかなかなりません。様々な事情で孤独に生きている少年少女たちにとって、自分の本当の名前や苗字とは、それでも手放したくない絆のようなもの。
 だから、“音”の名前を嫌い、自分たち本来の名前のあだ名で呼び合うことが多かったです。もちろん、陰での話。院長先生などの前では、きちんと祝福された名前でやりとりをしてました。
 仕事中は祝福された名前で。そしてオフになったら、馴染みのあだ名で。そんな、2つの名前での生活が当り前だったので、皆、使い分けは自然に出来ていました。
「うわー、汗臭ぇー。シャワー浴びてきなよー。」
「つか、部屋狭いよね。お屋敷広すぎんのに、寮はケチりすぎー。」
「ねぇ、ガラシさん〜。何でヤスだけは3人部屋じゃないわけですかー。」
 ヤスというのは、きっと私のこと。私は物心ついた時から親がいないので、まったく覚えがないが、……一応、安田という苗字が与えられていました。その安田で、私のあだ名はヤス、らしい。
【ルシファー】「知らないわよ、部屋の割り振りは源次さまが決めてんだもの。私だって納得行かないわよ。」
「ですよねー! 普通、2ぃ2ぃにしますよねぇ?!」
「つーかさ、ヤスって何者なの?」
【ルシファー】「お嬢様と学校通うのが仕事みたいなもんだし。……ご学友ってヤツ? さっぱりだわ。」
 ……もちろん、私も仕事が与えられてる日は、学校が終わるとそのままお屋敷へ行き、みんなに加わってお仕事をします。庭園の手入れを手伝ったり、お屋敷の掃除を手伝ったり。一人前な仕事は出来ませんので、お手伝いばかりです。
 ……幼いということもあってか、大人の使用人の人たちにはやさしくされます。どうも、福音の家の仲間たちは、それが気に入らないようでした。
【レヴィア】「熊沢さんって、明らかにヤスにだけ甘いよねぇ? というか孫か何かと勘違いしてるよ、あれ絶対!」
【サタン】「これで同じ給料もらってるとか、マジありえないわ。意味わかんない!」
【ルシファー】「………あんたに学校あるのはわかってるけど。一応は使用人なんだからね? いつまでもお手伝い感覚じゃなくて、早く一人前になって私たちと同じ仕事しなさいよね。私たち、いつまでもあんたにだけ甘くないからね?」
 …………………………。私は私の精一杯をしてるつもりです。
 でも、力がまだなくて、重いものは運べません。たくさんは運べません。洗濯物もぴっしり畳めませんし、上手にゴミをちりとりで取れません。みんなみたいに、上手には、どうしても出来ません……。
 ルシファーを始め、煉獄の七姉妹たちが紗音の同僚として登場する。悪魔の杭がモチーフという話だったはずだが、その性格設定には人間のモデルがいたようである。
 これは、シエスタ姉妹のモチーフが銃弾である一方で、ウサギ人形をモデルとしたキャラクター設定がされているのと同じ。
 私が俯いていると、……みんなには加わらずに、じっと見守ってくれている紗音の姿に気付きました。
 ……紗音だけは、私の味方です。紗音は私と違い、本当によく仕事が出来ます。
 でも、決して私を甘やかしはしません。お手本を見せてはくれますけれど、決して私の仕事を奪ったりはしないのです。紗音は、立派なのです。私は、早く紗音のようになりたいのです。
 ……誰の悪口も言わず、言われず。誰とも仲良くできて、やさしくて。そんな彼女のようになりたい。そして彼女も、私がそうなろうとする努力を、いつも温かく見守ってくれるのです。
使用人寮・屋根裏部屋
 紗音は自分のことだが、目指すべき使用人の姿として切り離して考えている。
【ヤス】「……どうして自分は、……ここへ来ることになったんだろう。」
【紗音】「わからない。」
 誰に呟くともなく、……天井に向かって言っただけなのに、それでも紗音は律儀に答えてくれました。
【紗音】「神様の思し召しだとしか、言えないよね。」
【ヤス】「これも神様の試練だと…?」
【紗音】「うん。あなたを立派な人間に育てるための、試練だと思うの。だってあなたは選ばれた、特別な人だもの。」
【ヤス】「……私は、……特別なのかな。」
【紗音】「特別だよ。だって、他はみんな大きい人ばかりなのに、幼い中からあなただけが特別に選ばれた。」
【ヤス】「どうして私だけ幼いのに? 私では一人前の仕事なんて、何も出来ないのに。」
 みんなは、私はお嬢様の遊び相手だけが仕事だと言って、ずるいと言ってる。でも、奥様からは、お嬢様のことを決して友人などと思って、気安く話し掛けないようにと念を押されてる。
【紗音】「あなたはみんなより10も幼いけれど。ということは、みんなと同じ歳になるまでここで頑張ったなら、新しく来る人たちより、ずっと仕事の出来る人になっているということだよ。源次さまにも認められて、あなたは新しく福音の家から来る人たちに仕事を教えてあげる、リーダーの役になるの。」
【紗音】「そしてきっと、みんなに尊敬されるわ。その頃にはきっと奥様にも認められて、お館様や旦那様にも認められるようになってるよ。それが、あなたの未来。」
【ヤス】「……醜いアヒルの子みたいな、白鳥になれる未来?」
【紗音】「そうかもしれないね。だって、あなたが右代宮家の使用人に選ばれたのは、本当に不思議だもの。……ひょっとすると、本当にあなたは誰かが噂していたように、右代宮家の血筋を引く、誰かの隠し子かもしれないね。くす。」
 だったらすごいね、大金持ちの仲間入りだねと、紗音は笑います。でも、私はほんの少しだけ、微妙な気持ち。だって、……ならどうして私は、福音の家でひとりぼっちで暮らしていたの?
 遊んでくれるのは、園長先生たちと、紗音だけでした。他のお友達とは遊ばせてもらえなくて、……ずっと自分だけ、隔離されたお部屋で過ごしてた。私が病弱で、いつも寝てばかりいたからだろうけど、………寂しかったな。
メタ劇場
【フルフル】「ねぇ、源次! あなたは何を、どこまで知っていたの?」
【ゼパル】「君は黙して何も語らないけれど、いつも全てを、最初から知っていたんじゃないのかい?」
【源次】「………………………………。」
【ゼパル】「19年前。赤ん坊を抱いた使用人が転落し、君は夏妃から報告を受けたね。」
【フルフル】「そして崖下へ行き、まだ赤ん坊が生きていることに気付いたんじゃないの?」
【源次】「………生きているか死んでいるか。そのような判断は私には出来かねました。」
【ゼパル】「それを判断したのは誰?」
【フルフル】「決まってるわ、お医者様よ!」
【ゼパル・フルフル】「「どうなの、南條先生!!」」
【南條】「………………。……よろしいのですかな。…私が語っても。」
【源次】「……先生の口からお願いできるのであれば、……お願いします。」
【南條】「………………。わかりました。」
 ……事故の時、すぐに源次さんから連絡が入り、秘密裏に診察するように念を押されました。
【ゼパル】「秘密裏に?」
【フルフル】「どうして?」
【南條】「……九羽鳥庵のベアトリーチェさんも、そしてその子供である赤ん坊も、戸籍のない、存在しないはずの人間でした。公になれば、色々とまずいこともあるでしょうな…。」
【源次】「赤ん坊に戸籍を与える準備は進めておりましたが、その時点ではまだ、至っておりませんでした。……死なれては、どうにも困る時期だったのです。」
【フルフル】「では、落ちた使用人は単独事故の扱いに?」
【ゼパル】「夏妃は黙して語らない。簡単な工作さ!」
【フルフル】「でも、その赤ん坊は生きてたのね?」
【南條】「左様です。……無論、大怪我でしたとも。あれだけの怪我をして、生き永らえたのは奇跡でした。もう少し何かの角度が違えば。あるいは、もう少し源次さんが運び込んでくるのが遅かったら。……あらゆる奇跡が集って、その赤ん坊は生き永らえていたのです。」
【源次】「………私は諦めていました。まさか、生きているはずがないと思ったのです。」
【フルフル】「でも、生きていた。」
【ゼパル】「生命の何と力強きこと!」
【フルフル】「うぅん、これは運命だわ。」
【ゼパル】「運命! 生き延びて、やがては何かを成せという運命?!」
【源次】「………………。……はい。私は、これを何かの運命だと思いました。六軒島で生涯を終えられた九羽鳥庵のベアトリーチェさまの血が、この子に何かを託し、生き延びさせたに違いないと、そう思ったのです。」
【クレル】「しかし源次は、赤ん坊が生き永らえたことを主人の金蔵には伝えなかった。不幸な事故で転落し死亡したと、短く伝えた。金蔵は嘆き悲しんだが、その嘆きは悲しみよりも狂気に彩られたものだった……。」
【ゼパル】「おぉ、ベアトリーチェよ、なぜに再び我が下より逃げ去るのかッ!」
【フルフル】「今度こそ過ちを繰り返すまいと誓ったのに、なぜに、なぜにッ!!」
【クレル】「源次は尊敬する主人のことを、ただ一つだけ信じていないことがあった。それは、ベアトリーチェの孫を、果たして本当に孫として迎え入れられるのか、である。」
【クレル】「源次は九羽鳥庵のベアトリーチェにもずっと仕えていた。その胸中についても詳しかった。彼女が金蔵の寵愛を一身に受け、父として敬愛していたことも。」
【クレル】「しかしそれは金蔵のそれとは異なった。金蔵は彼女を、ベアトリーチェの生まれ変わりと思い、亡きベアトリーチェへの万感の思いの慰み者にしようとした。その思いを、九羽鳥庵のベアトリーチェが受け入れきれるわけもない。彼女は父と思い、唯一の家族と思い尊敬してきた金蔵自らに、純潔を奪われることになるのである……。」
【ゼパル】「自分は父と思ってたのに、向こうは妻と思ってた!」
【フルフル】「あぁ、それは両立出来ぬ禁じられた恋!」
【源次】「………金蔵さまのお気持ちも、わからぬわけではありません。金蔵さまとて、彼女が生まれた時から、亡きベアトリーチェさまの面影を映して慰み者にしようなどと、思っていたわけではありません。」
【南條】「私も、……お酒を飲みながら聞かされたことはあります。私は、笑い話と思って聞いておりましたが。」
【ゼパル】「娘が育つほどに、母に生き写しになる驚きを?」
【フルフル】「娘が育つほどに、抑えられぬ禁じられた感情を?」
【源次】「……同じ過ちが、……繰り返されるのではないか。……私はそう、思いました。」
【南條】「……………………………。」
【源次】「ベアトリーチェさまは、苦しんでおられました。しかしついに、ご自身の気持ちと、金蔵さまの気持ちが違うことに、理解が及ばなかったのです。………私はベアトリーチェさまより何度も、胸の内を打ち明けられ、相談を受けました。しかし私には申し上げられませんでした。」
【ゼパル】「それは確かに言えないね!」
【フルフル】「父と敬愛する人が、あなたを死んだ母の代用品にしようと思ってるなんて!」
【南條】「……一応、金蔵さんの名誉のために申し上げる。金蔵さんも苦しんでおられた。生き写しになる娘が、娘と思えなくなると苦しんでおられた。……私は、父として愛しなさいと助言した。金蔵さんも、理性と良心に従い、抗われたと思う…。」
【クレル】「金蔵は愛した。亡きベアトリーチェの忘れ形見である娘に、愛情を注いだ。父として注いだ。しかし、ならばなぜに娘に、母と同じ名を与えたのか。」
【クレル】「あぁ、金蔵の罪は彼女が生を受けた時より始まっているのだ。彼女を出産し、その引き換えのように死んだベアトリーチェ。……その名を、そのまま娘に与えた。金蔵は、彼女が生まれたその瞬間から、彼女をベアトリーチェの生まれ変わりだと決めていたのである…。」
礼拝堂
【ウィル】「つまり理御とは。……過ちを犯した金蔵が、その罪を悔い、右代宮家に正しい形で迎え入れた存在、ということだ。」
【ベルン】「……そういうことよ。他のカケラの話をするとおしりを抓られそうだけれど。……理御が迎え入れられながら、……再び金蔵が過ちを犯すカケラ、なんてのもあったりして。……そのカケラも探してみる? くすくすくすくす………。」
【理御】「見たくありません、そんなものっ。………人の人生のあらゆる場所に、最悪の可能性や妄想を勝手に混ぜ込んで、その運命を嘲笑うのが、あなたの仕事なんですか?!」
【ウィル】「残念なことに、こいつはそういう悪魔だ。」
【ベルン】「魔女よ、失礼ね。くすくす……。」
【ウィル】「……源次は、そういう最悪の未来を予見し、より良い未来になるよう、わざと赤ん坊は死んだと、虚偽を伝えたというわけだ。」
【ベルン】「そうよ。実の娘を慰み者にして、ほとぼりも冷めない男よ。ベアトリーチェの気持ちを知り同情していた源次は、金蔵のことを容易く信じることが出来なかったの。」
【ウィル】「金蔵の忠実な僕である源次がか。」
【ベルン】「源次は公私をしっかりと使い分けられる男よ。金蔵に忠誠を尽くす一方で、娘に対して犯した過ちは、容易に許されるべきではないと思っていたわ。」
【ウィル】「……かもな。源次は、理御の存在が容易に知れることがないよう、3つも年齢を詐称させてる。」
【理御】「確かに。この世界の私は、1976年に小学校入学になってる。その年には、自分はもう4年生になってるはずです。」
【ウィル】「病弱だったことが理由にならないなら、………源次は恐らく入念に、生まれ年も誤魔化そうとしたんだろう。19年前の赤ん坊のことを、金蔵だけでなく、夏妃だって簡単には忘れないはず。そこに、その年に生まれた不審な幼い使用人が入ってきたら、夏妃の女の勘は、ピンと来たはずだ。」
 病弱だったから、3年も学校へ行けなかった? あるいは夏妃に気取られることを恐れ、3年、歳をずらした?
【ウィル】「何れにせよ、この世界のお前は、歳を3つ、少なく教えられているはずだ。」
【ベルン】「………ご名答。この世界の理御は生まれつき、歳を3つ、誤魔化されてる。……虚弱で小柄。発育不良だったしね。案外誤魔化せたみたいだわ。」
メタ劇場
【クレル】「源次は見届けねばと思った。金蔵が果たして、ベアトリーチェの子を、子として受け容れられるや、否や。適齢になるまでを福音の家で過ごさせ、幼き使用人として呼び寄せる。父も子も、互いに互いを知らない。源次は思った。もしも、真に親子の愛情があるならば。金蔵はこの子に亡き母と娘の面影を見るだろう。」
【クレル】「そして誰に明かされずとも、親子の絆を取り戻せるに違いない。そう思った。……あるいは、その時はやがて自然に訪れるだろう。その時に、父と子に、真実を話せば良い。その日がやがて訪れることを信じて、源次は何も知らせず、教えず。……運命の日を待ちながら、ベアトリーチェの子を見守るのである…。」
 そして月日は重ねていく。ベアトリーチェの子を静かに見守りながら、月日は静かに重ねていく……。
 「うみねこ」の考察では、紗音、嘉音、ベアトの肉体を持つ人物の総称として「ヤス」を用いている場合が多い。しかし、当解説ではヤスも人格の一つと解釈しているため、その表記方法を採用していない。

初めての友人

礼拝堂前
【サタン】「ヤス。あんた、チビ箒どうしたの。」
【紗音】「……窓枠掃除用に使ってなかったっけ?」
 あ、…………。
 チビ箒というのは、大きめの絵筆のような小さな細い箒のこと。これを使い、窓枠などの細かいところの塵を掃き取るのだ。私が担当していた掃除道具のひとつ…。
【サタン】「しっかりしなさいよ、あんたに任せたでしょ?! 何やってんのよ、鈍臭い!」
【紗音】「ほら、急いで探しておいで…。奥様に見つかる前に、急いで急いで…。」
【ベルフェ】「どしたー?」
【サタン】「ヤスがチビ箒、またどこかで無くして来たのよ。こいつ、物をなくす天才?!」
【ベルフェ】「だからヤスに物を持たすなといつも言っている。そいつはそそっかしいから、いつも物をなくす。」
【紗音】「一生懸命やってるんだから、そんなこと言っちゃいけません…。ほら、急いで探してらっしゃい。待ってるから。」
 う、うん……。私は使用人仲間の陰口をそれ以上聞きたくなくて、慌てて踵を返す。
 道具を無くせば怒られる。誰のせいかわからなければ、連帯責任で怒られるから、彼女らは私がなくしたと奥様に言いつけるだろう。
 でも、なくしたのは私のせいだから私が悪い。いつの間になくしてしまったんだろう。いつの間に、いつの間に……。
 今日は礼拝堂の大掃除だった。礼拝堂は、屋敷の裏手にある大きな建物だ。しかし、普段は誰も近付かない。
 そんな礼拝堂も、年に何度か大掃除を命じられる。金蔵にとって神聖な建物であるらしく、夏妃は厳しく清掃を命じていた…。
 細かいところを、上から下まで、奥から隅まで、全て清掃した。今日一日掛りだった。
 私は窓枠の清掃も担当だったが、他にも小さな担当をいくつもしていた。他の小さな仕事にかまけているうちに、すっかり忘れ、どこかに置きっ放しにしてしまったのだろうか。
 ……私は、自分で自分が悔しくなる。こういうことは、何もこれが初めてじゃない。
 いつも、いつもなのだ。私が何かを置くと、いつも物が消える。どこかに行ってしまう。なくなってしまう。
 私は、多分これは、魔女ベアトリーチェの悪戯だと思っていた。魔女ベアトリーチェは、その亡霊が、六軒島の悪霊の力を得て生まれ変わったもの。熊沢さんが教えてくれるまで、海岸の岩にある社の意味なんて知らなかった……。
メタ劇場
【クレル】「熊沢が語りしは漁師たちの間に語り継がれし、古き古き物語。かつて六軒島は悪食島と呼ばれ、人の魂を喰らう恐ろしい悪霊が住んでいたと伝える物語……。」
【ゼパル】「ねぇ、熊沢! 僕たちにも聞かせてよ!」
【フルフル】「恐ろしい恐ろしい、六軒島の悪霊の物語を!」
【熊沢】「ほっほっほ、いいですともいいですとも。六軒島はかつては、小豆島という名でした。でももっと大昔の呼び名は、悪食島でした。島に近寄る船乗りを海の底に引き摺り込んで魂を喰らうと噂されておりまして。……そんな恐ろしい悪霊が、この島にいるんでございますよぅ? ほっほっほっほ。」
【クレル】「それは熊沢の好む定番の怪談。新しい使用人がやって来る度に聞かせる、お約束の怪談。………普段ならば下らないと笑い捨てられるそれも、右代宮家の屋敷以外に何も存在せず、嵐の夜には不気味な唸りを聞かせる、この寂しい六軒島では、誰もが神妙に耳を傾けるのだった。」
【フルフル】「あの海岸の社は、悪霊を封じ込めるためだったのね!」
【ゼパル】「お館様も薄気味悪いオカルト趣味をお持ちだし!」
【フルフル】「お屋敷も薄気味悪くて、何かが潜んでそう!」
【熊沢】「ほっほほほ。そうですとも。旅の修験者がようやく押さえ込むのが精一杯。辛うじて封じ込められてはいますが、今も夜な夜な犠牲者を求めて、夜の屋敷を徘徊しているのですよぅ? ふっほっほっほっほ……。」
【ゼパル】「お館様の書斎、見た?!」
【フルフル】「見たわ! まるで悪魔の実験室だわ!」
【ゼパル】「お館様は悪魔の研究をしているって噂だよ!」
【フルフル】「死んだ愛人、ベアトリーチェを蘇らせる研究だって言ってたわ!」
【ゼパル】「その魔法の実験の生贄に、子供たちを呼び寄せてるんじゃないかって!」
【フルフル】「きゃあ怖ぁい! お館様に、1人で書斎に来いって言われたらどうしよう!」
【ゼパル】「何かね、昔、書斎に言ったまま帰って来ない子がいたらしいよ〜?」
【フルフル】「きっと、亡霊のベアトリーチェの、新しい肉体にする実験の犠牲になったんだわ!」
【熊沢】「ほっほっほ。そうですとも、ベアトリーチェさまが肉体を求め、亡霊となって彷徨っておられるのです。2階の貴賓室はベアトリーチェさまの住処…。お部屋を掃除する時は、くれぐれも礼を失することがあってはなりませんよ…? さもないと、………うっひひひっひっひ〜!」
【クレル】「思春期の想像力たくましき少年少女たちにとって、怪談は恐ろしいながらも魅力的なおとぎ話であった。一つの物語を共有し共感することで連帯感が生まれる。すると共感は義務となり、それを受け容れることが、共同体に加わる通過儀礼のようになる。ずっと昔から、それは繰り返され、受け継がれてきたのだ。」
【紗音】「えぇ。私も、六軒島でお勤めをするようになって、すぐにその話を、熊沢さんや、先輩方に聞かされました。」
【嘉音】「僕も聞かされたよ、主に姉さんにね。」
【郷田】「私も聞かされましたとも。主に熊沢さんでした。」
【フルフル】「臆病そうな紗音はともかく、男の子の嘉音や、大の大人の郷田まで、怪談を信じたの?」
【嘉音】「僕は別に信じてたわけでは…。」
【郷田】「怪談やジンクスなどは、どこの職場にもあるものです。私がかつて勤めておりましたホテルにも、いくつもそういう話がありましたとも。」
【ゼパル】「つまり、馬鹿馬鹿しい話だと思って、気にしなかった?」
【嘉音】「……空気を読むってとこは、あったかもしれない。」
【郷田】「ですね。怪談もジンクスも、その職場のローカルルールです。それに新参者が背けば、打ち解けることは出来ませんからね。」
【嘉音】「そういうこと。……魔女なんているものか、馬鹿馬鹿しい、なんて言うと、姉さんと喧嘩になるからね。上辺だけでも合わせた方が楽だったし。」
【紗音】「もう。そんな気持ちじゃバチが当たるよ…? 大怪我をした人もいたらしいんだから…。」
【郷田】「ははは、そんな感じでどこの職場でも、そういう話はあるものです。職場の怪談と、会社創業者のトンデモ武勇伝は、どんなに突拍子でも受け容れて信じる。それが新しい職場に溶け込む、ということですとも。」
【ゼパル・フルフル】「「ふーん! みんな大人だね!」」
礼拝堂
 掃除をした順に広大な礼拝堂の窓を回り、置き忘れそうな場所を丹念に探す。窓の掃除に使ったんだから、ひょいっと、どこかの窓辺に置き忘れてないだろうか。
 ……私、いつからチビ箒を忘れたんだろう。言われて見れば、最後の方の窓を掃除した時にはもう、持ってなくて、窓枠の掃除はすっかり忘れていた気がする。
【ヤス】「………………ぁ。」
 窓から、仲間たちがぞろぞろと引き上げていくのが見えた。紗音が心配そうに、振り返りながらこちらを見上げている。
 ……私のせいでみんなを待たすのは悪いから、先に帰ってくれるのは、むしろ、助かる…。でも、……待っててほしかったと言えば、それは甘え……。
 日が傾き、どんどん礼拝堂は薄暗くなる。こんなところに、ひとりぼっちでいつまでもいたくない。
 早くチビ箒を見つけなきゃ。うぅん、見つけるだけじゃ駄目だ。窓枠掃除を忘れた窓の掃除もしなくちゃ。
 奥様は厳しい。全ての窓を、あとできっちりと確認するはず。そしたら、明日怒られるのは自分だ。でも、本当にどこでなくしたんだろう。どうしてなくしたんだろう。
 どんどん薄暗くなってくる。……そろそろ明かりをつけてもいい薄暗さになってきて、焦って辛くなってくる。私はベソをかきながら、礼拝堂の中をぐるぐると回った…。
 そんな哀れでみっともない私を、扉の隙間から、天井の隙間から、くすくすと笑いながら見ている悪戯者の魔女の気配を、私は感じている。
 お館様の愛人、ベアトリーチェの亡霊は、今も体を求めて彷徨っている。しかも、六軒島の悪霊の力を得て、日に日にその力を増し、復活の日を待っているのだ。
 そして、……どういうわけか私に目をつけ、私がふと目を離した隙に、いつも物をどこかへ隠してしまうのだ。
 こういうことがあったのは、これが初めてじゃない。ふと目を離した隙に、………鍵や、ハンカチ。鉛筆や消しゴムなんかがすぐになくなる。後で使おうと思って、あるいは、そこに置いておくべくして置いているのに、少し余所見をしただけでなくなってる。
 誰かが悪戯で隠してるのではない。私しかいない場所で、何度も起こってる。……よくみんなにはそそっかしいとか、うっかりが多過ぎると言って、笑われたり、怒られたりする。
 私だって注意してるのに、何かの悪い冗談のように、ちょっとしばらく失念しただけで、簡単にものがなくなるのだ。
 なら、どうせこの消しゴムも消えるに違いない、と思って、じっと見ていても、そういう時に限って消えない。用心深くしてる時は何も消えないのだ。なのに、じゃあ大丈夫だと思って、ほんのわずか緊張を解くだけで、今度は別のものがなくなってる…! 何で、私ばっかり……ッ。
 くすくすくす、……うっふふふっはっはっは……。
 ……うん、聞こえる。私がこうして、いつまでも無様にぐるぐる同じ場所を探し回ってるのを、魔女が笑ってるのがわかる…。
 くすくすくす、……うっふふふっはっはっは……。あっはははっはっはっはっは……。その声無き笑いに、とうとう私は悔し涙を零しながら壁を叩く。
【ヤス】「もういい加減にして下さい…!! どうしていつも私の物を隠して困らせるんですか?!」
 それに、魔女は答える。
 愚かな。……決まっておろうが。そなたがそうして困ってうろたえている姿が面白いから以外に、どんな理由があろうか。くっくくっくっひゃっはっはははははっはっはっは…!!
 悔しかった。どうせそうだろうとわかっていても、それをしゃあしゃあと言われるのは、あまりに腹立たしかった。私にはわかる。確かにチビ箒はこの礼拝堂のどこかにあるだろう。
 うぅん、違う。私がこの窓に来る直前まで、この窓枠のところにきっとあったのだ。
 そう、ここの窓辺に、ちょこんと置いてあったはず。でも意地悪な魔女ベアトリーチェが、私がここへ来る直前の瞬間に魔法で、チビ箒を隣の窓辺に瞬間移動させてしまうのだ。
 私が次の窓に近付く瞬間、チビ箒の下に、ぽっかりと魔法の穴が開き、チビ箒はストンと落ちてしまう。
 落ちる先は、その隣の窓辺。あたかも、最初からそこにありましたとでも言うように、そこにチョコンと落ちて鎮座するのだ。
 そしてそれが延々、いつまでも繰り返し! 私がその窓辺に駆け寄ると、またチビ箒はストンと、魔法の穴でさらに隣の窓辺へ。その窓辺へ行けば、また隣の窓辺へ…!
 そうして私をからかっているのが、私にはわかる! だからいくら探しても無駄。でも探すのをやめれば、とある窓辺にチョコンと置かれたままなのだ。
 だから、これは探し物じゃない。根競べ。私がどこまでもチビ箒を追いかけ、ベアトリーチェは、まだ懲りぬかと、どんどん隣の窓辺へ逃がしていく。それをどちらかが呆れるまで繰り返す、永遠の追いかけっこ…!
 だから、すでに調べた窓とわかってても、何度もぐるぐる探す。この窓にないなら、次の窓、さらに次の窓。
 魔女もチビ箒をどんどん、次の窓、さらに次の次の窓…!
【ヤス】「もう、いい加減にしてよ…!! いつまで私をからかうの。今日だけじゃない、いつも、いっつも!!」
 くすくす、ふっふっはっはははははははははは…!!
 姿無き魔女の声無き高笑いが、私の嘆きを嘲笑う。魔女は、ずっと無様に探し回る私と一緒にいて笑ってる。私が礼拝堂をぐるぐる回るのを、一緒に付いて回って、嘲笑ってる。
 だから、いるのは、そこ。私のすぐ後、……肩越しの後にいて、今もくすくすケラケラと、笑っている。
 振り返ったって、姿がないのは知ってる。見ようとして、目で見てはいけない。何もないことを目で知れば、視えなくなってしまう。
 園長先生に習った。……目で見ようとしてはいけない。……心の眼で、視なくちゃ。
 世界の全ては神様の愛で満たされてる。日々の恵みのそこかしこに、神様や天使、聖霊の姿があるのだ。その姿を、目で見て捉えようとするから、見えなくて、視えない。だから感じられず、理解できなくなる。
 心の眼で、静かに理解するのだ。見て映すんじゃない。視て、心に、描く。
 そうすることで、この世ならざる存在を知覚できることを、私は福音の家で覚えたのだ。……神様の姿を視えるようになるだけじゃない。この力は、この世ならざる者全てを、視ることが出来る力なのだ。
【ヤス】「………もう、止めて下さい。こういう、悪戯は。」
「……………ほぅ。……妾に、話し掛けることが出来るというのか。」
【ヤス】「私はドジだし、仕事も下手だし、………確かによく物をどこに置いたか忘れてしまいます。……でも、自分のせいでなくしたものと、あなたがした悪戯の違いは、わかっているんです。」
「これはこれは…。姿無き妾を知覚するだけでなく、妾のささやかな遊びまでも理解するとは。………思ったより、お前は面白い存在ではないか。ヤスぅ。」
 ……私がヤスと呼ばれるのは、大抵、私のミスを先輩使用人たちが陰口で笑う時だ。だから、ヤスと聞くと、辛い気持ちになる。福音の家で与えられた、祝福された名前でなく、祝福されていない名前で、わざわざ私を呼ぶのだ。
 心を乱させようとするのは、邪な存在のいつもの手。そうすることで、自分たちを知覚させまいとする。魔女たちのような存在にとって、理解されることは、太陽の光を突きつけるのと同じことなのだ。
【ヤス】「……無駄です。私は福音の家で、この世ならざる存在を知覚することを覚えました。だから、もう、私にはあなたが理解できます。」
「面白いヤツだ。…………吹けば飛ぶような儚い存在であった妾を、捕らえて離さぬとはな。……気に入ったぞ、ヤスぅ!」
【ヤス】「無駄です。もう私は、あなたを理解し、捕らえています。不快な言動を繰り返そうとも、あなたの心の醜さをますますに晒すだけです。」
 振り向かずに、……私はゆっくりと、視野を礼拝堂内いっぱいに広げていく。それは、私の魂という視点を、ゆっくりと私の頭という殻から、浮かび上がらせる感じ。
 ……ほら、…………ゆっくりと、……私の視野が、私の頭から浮き出し、……浮かび上がっていく。直立し、俯いて目を瞑る私の体を、見下ろしながら。私の心の眼は、……ゆっくりゆっくり、………礼拝堂の天井まで上っていく。
 そこから見下ろす時。私は礼拝堂の中央に立ち尽くす自分の体と、………その後に立つ、魔女の姿を見下ろす。……魔女も、自分が視られていることがわかっているらしい。
 魔女が、ゆっくりと振り返り、………天井に浮いている私の心の眼を見上げる…。……私はとうとう、魔女ベアトリーチェの姿を、……心の眼で捉える……。
【ガァプ】「ニンゲンの分際で、……我が姿を、捕らえたか……。」
 悪魔の唇が、……ぐにゃりと醜く歪んで、弧を描く。それはあまりに挑発的でおぞましい、悪魔の笑み……。
 血で染めたような赤いドレスと帽子。ニンゲンが着るそれとはまるで意匠が異なる。髪はブロンド。それを絵本の中のお姫様のように、いくつにも美しくロールさせているが、……可愛らしさは微塵も感じられなかった。
【ガァプ】「……そなたは他のニンゲンたちとは少し違うように思っていたが、どうやらそれは妾の間違いだったようだ。」
【ヤス】「……………………。」
【ガァプ】「そなたは少しどころか、……他のニンゲンたちとはまるで違うらしい。くっくっくっく…!」
【ヤス】「誰にも姿を見られず、そして声も聞いてもらえない悲しき魔女。……ニンゲンの気を引きたくて、いつもこんな悪戯を…?」
【ガァプ】「妾の貧弱なる魔力を尽くし、ニンゲンどもの隙に介入するが、何をしてもヤツらは魔法とは思わぬ。……ほんのちょっとした勘違いと決めつけ、妾の存在を、ケーキの蝋燭でも吹き消すかのように簡単に、消し去ってしまう。」
【ヤス】「なら、あなたは私に救われました。私はあなたの存在を理解し、こうして、捕らえたのですから。」
【ガァプ】「……救うだァ? くっくくくくくく! 妾にとってそなたとの出会いなど、新しい暇潰し以上でも以下でもないわ。」
【ヤス】「もう、暗くなってきました。あなたとこれ以上、遊んでいる時間はありません。」
【ガァプ】「おやおや。これは済まぬ、夢中で遊んでいると、暗くなるのに気付かぬものだ。」
【ヤス】「………返して下さい。掃除道具。」
【ガァプ】「チビ箒とやらか? あるぞ、その隣の窓辺に。」
【ヤス】「でも、私が近付けば、さらに隣の窓辺に移す。」
【ガァプ】「くっくっくっく! 我が姿が神出鬼没であるように、我が魔法は神出鬼没。指をひとつ鳴らすだけで、このように自由自在よ…!」
 魔女が指を鳴らすと、礼拝堂内の様々な物が、その下に開いた小さな黒い落とし穴に飲み込まれて、消えていく。うぅん、消えない。黒い穴に飲み込まれて消えるのと同時に、礼拝堂のまったく別の場所に黒い穴が開き、そこに消えた物が落ちて現れる。
 椅子や楽譜、置時計や花台などが、部屋中のそこかしこから、ひょいひょいと現れてはひょいひょいと消える。まるで、礼拝堂の中を無数の道具が、飛び回っているかのように錯覚させた……。
【ガァプ】「やれはするが、やりはせぬ。さすがにこれでは、悪戯の域を超えるのでな…?」
 魔女にとって、悪戯と魔法の境がどこにあるというのか。もう一度彼女が指を鳴らすと、あんなにも賑やかに跳ね回っていた道具が、元の場所に当り前のように戻り、シンと静けさを取り戻す。
【ガァプ】「そなたを、妾は気に入ったぞ。……妾を捕らえた、とな? くっくっくっく! それは同じであるわ。妾がそなたを、捕らえたのと同じことであるぞ。」
【ヤス】「…………………………。」
 悪意ある存在を、無理に視ようとしてはならないと、園長先生に言われてた。視えてしまうと、憑かれてしまう。私がこの魔女を理解したのと同時に、この魔女は、私との縁を得るのだ。
【ガァプ】「その通り。そなたが妾を認めたお陰で、妾はそなたとの縁を得た。……日々に退屈していた妾にとって、そなた如き幼子であっても、話し相手が生まれるのは良いことだ。」
【ヤス】「時折、あなたの話し相手となりましょう。ですから、もうこういう悪戯は止めてもらえませんか。」
【ガァプ】「いいや、話し相手ではない、遊び相手であるわ! くっくくくくく、遊びならば、悪戯は付き物であろう?」
【ヤス】「……………………………。」
【ガァプ】「ふふ。……まぁ良い。今日はこれで充分楽しんだ。日が陰り、月が満ちてきた。妾もそなたの前にいつまでも姿を現すのは疲れる。今日はこれにて、お開きとしようではないか。箒1本で、そなたとたっぷり遊べた…!」
【ヤス】「返して下さい、チビ箒。」
【ガァプ】「嫌だ。これはそなたとの出会いの記念に、妾が頂戴するぞ。文句はないな?」
【ヤス】「……あると言っても、返してくれないんでしょう?」
【ガァプ】「妾はニンゲンの言うことなど聞きはせぬ! ………しかし、友人の言うことには、耳を傾けぬでもない。」
【ヤス】「……返してくれたら、……あなたを友人と認めますから。」
【ガァプ】「くっくくくくく…! 愚かなるニンゲンめ、それが魅力的な取引とでも思ったか…! ……妾に取引を持ちかけたくば、神秘の魔法陣のひとつも描いて見せよ! ………と言いたいところだが、そなたの申し出は、考える余地があるだろう。」
【ヤス】「考える余地とは…?」
【ガァプ】「そなたを我が友人として迎えて良いものか、預からせてもらおうぞ。……何しろ魔女は天邪鬼! 答えを求められたら、即答を拒むのが魔女というものよ。くっくっくっく!」
【ヤス】「………わかりました。では、チビ箒を、………預けます。友人になってくれるのでしたら、その時、返して下さい。」
【ガァプ】「うむ。この箒、そなたとの友情の架け橋となるや否か。……しばらく預からせてもらい、それを迷う悦を楽しませてもらおうぞ。」
 魔女が指を鳴らすと、私があんなにも探していたチビ箒が、宙に開いた穴から、するっと落ちてきて、彼女の鳴らした指の間に、するりと収まる…。
【ガァプ】「それではさらばだ。……そなたとの遊戯、退屈はしなかったぞ。ぜひまた遊ぼうぞ。」
【ヤス】「友人ならば。」
【ガァプ】「猫は鼠をいたぶる時、友情を育んでからいたぶるというのか? くっくくく、あっははっはっはっはっはっはっは!!」
 ゆっくりと、魔女の姿が消えていく……。それとともに、私の心の眼も、ゆっくりと閉じていく……。
 体に戻ると、どっと疲労感が押し寄せ、私は止めていた息を吐き出した。
 ……無論、振り返れども、そこには誰の姿もない。もう魔女の気配はどこにもなかった。日はますますに陰り、すっかり暗くなってしまっていた。
 私は礼拝堂を出ることにする。もうこれ以上は、チビ箒を探しても無駄だ。……魔女が、返そうと思わない限り。
 礼拝堂を出る。鍵穴には、礼拝堂の鍵が刺さりっぱなしになっていた。それで施錠する。
 …………チビ箒、どうしよう。どうしようもない。魔女のせいにも出来ない。魔女に付け入られる隙を作った、自分の責任だと認めるしかない…。
【ヤス】「…………………………ん、」
 ふと目を落とした時、………そこの、足元に、チビ箒が落ちていた。私が、ずっとずっと探していた、チビ箒。……まさか、私が拾おうとすると、するっと黒い穴に飲み込まれて消えてしまうという悪戯が、まだ続いてる…?
 違う。これは、魔女の、印。私を友人と認めるという、印。私はそれを拾い上げる。
 あぁ、我こそは我にして我らなり。
【クレル】「この島に来て、初めて出来た友人は、どうやらニンゲンではないようだった。しかし、思い返せばそれは当然。魔女の島で出来る友人が、どうして魔女でなかろうか。これが、我とベアトリーチェの初めての出会いである。」
【クレル】「……しかしながら、勘のいい諸賢はお気付きのように、これは本当のベアトリーチェとの出会いではない。我が、ベアトリーチェと呼ぶその魔女は、後に他の名で呼ばれることとなる。」
【クレル】「……しかし、人ならざる者であることに違いはない。そして、人ならざる者に縁を持つことは、人ならざる世界への縁を持つことともなる。我は未だ、これより六軒島で数奇なる運命を辿ることになるとは、知る由もなかったのである……。」
 第二章。“初めての友人”。終わり。

虜になる日々

メタ劇場
【ルシファー】「えぇ、ホント。ヤスは鈍臭いだけじゃなく、よく物をなくしたわね。」
【サタン】「なのに、さも私はなくしてませんっ、確かに置いたのに誰かが取ったんです! みたいな目つきをしてて、本当にいらいらしたわ!」
【ベルフェ】「集中力のない子だった。無意識でぼんやり行動してるから、自分の行動がいい加減になる。」
【紗音】「でも、最初の内だけですよ…? 途中からは注意するようになって、そういうこともなくなって立派になりましたし……。」
【レヴィア】「ん、そうだっけ? まぁ、その程度、出来て当り前なんだけどねー。」
【熊沢】「その当り前が出来るようになるのが、成長というものですとも。皆さんだって、何事も最初から要領が良かったわけではないでしょう?」
【サタン】「……というか。要領が悪かったら、右代宮家には推薦されないわ。」
【ルシファー】「私たちはエリートなのよ?! 幼いから出来ないとか、そんなの言い訳にならないわけ。」
【ベルフェ】「だな。……ヤスが成長とともに要領を覚えるなら、成長してから右代宮家へ来れば良かっただけの話。」
【紗音】「そんな…。一生懸命、学校とお仕事を両立させて頑張ってるのに…。みんな、ちょっと厳し過ぎると思います…。」
【レヴィア】「その厳しい中から選ばれたのが私たちでしょ? 私たちに甘やかす義理はないわー。」
【サタン】「つくづく。ヤスって何であんな鈍臭いのに選ばれたのか、さっぱりだわ!」
【クレル】「福音の家の誰もが憧れる、右代宮家使用人への推薦。厳しい選考を潜り抜けて栄光を勝ち取った先輩使用人たちから見れば、ヤスはどうして推薦を得られたのか不思議なくらい、色々と要領が悪かった。」
【クレル】「……もちろん、歳相応には努力している。しかし、それに納得できない先輩使用人たちは、いつしかヤスに事ある毎に小意地悪に接するようになるのである。右代宮家での生活に慣れはしても、未だ友人の一人も作れない。いや、いることにはいるが、それはニンゲンではないのだ……。」
【クレル】「第三章。“虜になる日々”。」
屋敷・厨房
【熊沢】「ほっほほほほ。そういう時もありますねぇ、忙しい時に限って。妖精さんが、悪戯でもしてるんじゃないかしら。」
【ヤス】「……魔女が悪戯をしてるんです。だって、そこに確かに置いたのに、ちょっと余所見をしただけでなくなってしまうし…。」
 また、魔女の悪戯だ。大切なマスターキーを置き去りにしてしまい、それを奥様に見つけられて、ものすごく怒られた。……マスターキーはいつもポケットの中にしまっていて、使う度にポケットに戻しているはずなのに…。……どうしてあんな場所に……。
 しかもそれは三度目だった。過去の二度は、ポケットにないことに気付き、すぐに探して見つけたから騒ぎにならなかった。しかし三度目は、奥様が見付けてしまったのだ。あの赤いドレスの魔女が、本当に憎くて悔しかった。
【熊沢】「ほっほっほ、ベアトリーチェさまの悪戯では困りましたねぇ。でも、魔女が相手なら、おまじないで何とか出来るかもしれませんよ?」
【ヤス】「おまじない…?」
 熊沢さんは、あれはどこにあったっけ、と言いながら、厨房の棚を漁り始める。
 ようやく見つけてもって来てくれたそれは、何と、凧糸だった。それをピンと張って見せ、50cmくらいの長さに包丁で切ってくれた。
【熊沢】「これの端に鍵を括りつけ、反対の端は、ポケットのボタンのところにでも、目立たないように括りつけておきましょう。……これは、蜘蛛の糸のおまじないなのですよ。」
【ヤス】「蜘蛛の糸? 六軒島の悪霊が恐れたという?」
【熊沢】「そう、よく覚えてますね。この島の蜘蛛の糸には霊力が宿っていて、強い魔除けの力を持っていると言われていました。ほら、こうしてピンと張ると、蜘蛛の糸のようでしょう? ほっほっほ、これで蜘蛛の糸が苦手なベアトリーチェさまは、もう悪戯が出来ないというわけですよ。」
 それは、……確かに道理。ピンと張る様はまさに蜘蛛の糸のよう。………熊沢さんが言うのだからきっと、強い魔除けの力が宿ってるに違いない。
 この凧糸を何本も作ってもらい、なくしたくない物みんなに括りつけておけばいい。……でもそれは、ちょっと考えるまでもなく、現実的なことではない。私が、凧糸だらけになってしまう。
【ヤス】「例えば、鉛筆とか消しゴムとか……。そういう、括り付けられないものはどうしたらいいですか?」
【熊沢】「ほっほっほ、そういう時は、別のおまじないがありますよ。それは、鉛筆さんや消しゴムさんに、お家を作ってあげるおまじないですよ。」
 お家を作る…? ……屋根を作ったり、寝床を作ったりしてあげる??
【ヤス】「お家を作るのではなく、お家を決めてあげるのですよ。……例えば、この凧糸を切った包丁さんも。“僕、モウ、オ家ニ帰ル〜!”って。うふふふ、寂しがり屋さんだから、すぐにお家に帰りたくなってしまうの。だから、お家じゃないところに置いてしまうと迷子になってしまって、クスンクスン泣いてしまうんですよ。」
【熊沢】「……ほら、こんなところに置きっ放しにしたから、包丁さんが寂しくて泣き出してしまいましたよ…?」
【ヤス】「……可哀想です。包丁さんを、お家に帰してあげなくちゃ…。」
【熊沢】「包丁さんのお家は、ここですよ? ほら、家族の包丁さんたちがみんな待ってるお家ですよ。“ママ〜、タダイマ〜”、“オカエリ〜”って。ね?」
 熊沢さんは流しの下の、包丁入れに包丁を戻す。ただそれだけのことなのに、大冒険をして迷子になった包丁が、やっと家に帰りついたような小さな感動を覚えた。
 彼の納まるべきスペースに、ストンとしまわれると、……包丁一家は無事に勢揃いして一家団欒が始まった…。あとは家族仲良く水入らず。熊沢さんは、そっと戸を閉める…。
【熊沢】「魔女に隠されてしまって困る物は、きっと寂しがり屋さんなんですよ。だから、魔女が、楽しいところに連れて行ってあげようねと言うと、喜んでついていってしまうんです。そうならないためには、どうしたらいいでしょうねぇ?」
【ヤス】「お家にすぐに、帰してあげる……。」
【熊沢】「そうですよ。寂しがり屋だから、すぐに魔女についていってしまう、いけない子たちなんですよ。だから、すぐにお家に帰してあげないと。」
【熊沢】「……ほら、さっき、凧糸で縛ったままそこに置きっ放しのマスターキーさんも、早くポケットのお家に帰りたい〜って、クスンクスン泣いてますよ?」
 クスンクスン……。寂シイヨウ。
 ようやく、寂しがるマスターキーの声が耳に届く。私は慌ててマスターキーを取り、括りつけた凧糸のもう片方の端をポケットのボタンのところに括りつけ、ポケットに鍵を収めた。
【熊沢】「ほぅら、タダイマ〜、って。マスターキーさんも寂しがり屋だから、お仕事で使った後は、すぐお家へ帰してあげましょうねぇ。こういうお友達を、少しずつ増やしていけば、ベアトリーチェさまも、だんだん悪戯は出来なくなりますよ…。」
使用人室
 ジャラリ、ドシャ。
 休憩時間を終えて、次は何の仕事を手伝おうかと立ち上がった時、何かにピンと引っ張られ、マスターキーの鍵束が床に落ちた。
 ……私はまたしてもうっかり、マスターキーをソファーの脇に置いて、そのまま忘れてしまっていたらしい。それが立ち上がった拍子に引っ張られて、床に落ちたのだ。
 もし、熊沢さんの蜘蛛の糸のおまじないがなかったら、私はきっと、またマスターキーをここに置き忘れただろう。ひとりぼっちで取り残されたマスターキーは、また魔女に連れられて、どこかへ隠されてしまう…。
 ふぅ、危ないところだった…。そして、置き去りにしてしまいそうになり、マスターキーが、お家へ帰りたいとクスンクスン泣き出すのを、再び聞く…。
【ヤス】「………ごめんね。ほら、ポケットのお家へ帰ろうね…。」
 ワーイ、オ家ダ〜。タダイマー! …………………………。……よかった。…また、魔女に悪戯をされるところだった……。
【ガァプ】「何と、まぁ…! 糸で結ぶとは、面白い真似を!」
 突然、頓狂に驚く呆れ声が肩越しに聞こえる。それは声無き声。聞こうとしなくては耳に出来ない、魔女の声。
【ヤス】「………ベアトリーチェ…?」
【ガァプ】「そうであるぞ、我が友よ。ぼんやりとまた、鍵を置き忘れるから、それでからかってやろうと思っていたら…!」
【ヤス】「熊沢さんに習った、蜘蛛の糸のおまじないです。どうやら、しっかり効き目はあったようですね。」
【ガァプ】「うむ。悔しいが効き目はあるぞ。とても触れたいとは思えぬ。そなたも、剃刀の刃に指を当て、横に滑らせたくはあるまい?」
【ヤス】「……うわ、……ひどい例えですね…。指が痛くなってきた…。」
【ガァプ】「しかし、良かったではないか。また鍵をなくしたと、夏妃に怒られずに済んだぞ。くっくくく、妾のお陰だな、感謝せよ!」
【ヤス】「どうして。」
【ガァプ】「妾が腹立たしかったからこそ、まじないを覚えたのであろう? そのまじないで、そなたは鍵をまたしても置き忘れるというウッカリを、こうして防げたではないか。つまり、妾のお陰も同然ということよ。わっはははは、感謝されるのも道理であろう?」
【ヤス】「ん、……んん……。」
 すごく腑に落ちないが、魔女の言い分は一理ある。ベアトリーチェに酷い目に遭わされたから、私は熊沢さんに打ち明け、おまじないを習ったのだ。
 仮に魔女の悪戯がなくとも、……おまじないがなかったら、私はマスターキーをここに忘れたまま仕事に行ってしまっただろう。そしたら、……また鍵が見つからなくって、きっと大騒ぎをするのだ。
【ガァプ】「こういうのを一罰百戒という。妾は友人として、そなたのミスを過剰に悪戯して思い知らせることで! こうしてそなたを立派に教育したというわけなのだ。」
【ヤス】「……ん、んん……。感謝すべきは熊沢さんにであって、あなたにではない気がします。」
【ガァプ】「やれやれ。魔女とはつくづく、感謝されぬ稼業よ。くっくっく。」
【ヤス】「とにかく。今回は私の勝ちですね。さ、もう仕事に行かなくちゃ。」
【ガァプ】「良かろうとも、我が友よ。今回は勝ちを許そうぞ。」
【ガァプ】「されど妾は諦めが悪い。この負けを取り返すべく、以後さらにますますにッ、そなたのミスを探そうと窺い続けるであろうぞ。心せよ。そそっかしいそなたが置き忘れる小道具など、いくらでもある。それら全てに凧糸を縛るわけにも行くまい。くっくくくく…!」
【ヤス】「蜘蛛の糸のおまじないだけではありません。……お家へ帰してあげるというおまじないも習いました。もう二度と、あなたの思い通りにはさせませんので。」
【ガァプ】「ふっ。どの程度、そなたがやれるものか、拝見させてもらおうぞ。それにしても。何とも晴れやかな笑顔を見せおって。魔女が来るのは笑う門でなく、泣きっ面が相応しい。もう休み時間は終わっているぞ。せいぜい今日も、先輩たちの足を引かぬように仕事に精を出すが良かろう。」
【ヤス】「えぇ、今日は素敵な天気の日曜日。お仕事、がんばらなくっちゃ。」
【ガァプ】「せいぜい励め。そうそう、玲音の機嫌が朝から悪い。目を合わせぬ方が良かろう。それから水難の相が出ておるぞ。水の入ったバケツの近くでは、常に注意するが良かろうぞ。……そなたのこと。きっと我が期待を裏切らず、バケツを引っ繰り返して叱られてくれることを、心待ちにしている。」
【ヤス】「くす。……ありがとう、ベアトリーチェ。」
 かつて、姿をまだ視られなかった頃。我はこの悪戯好きの魔女が憎くて憎くて仕方なかった。しかしこうして会話が出来るようになると、……ただの嫌なヤツではない気もする。
 無論、感謝する謂れなどない。ベアトリーチェという魔女は、退屈を愛さず、人の不幸を嘲笑うことで糧とする。ニンゲンと魔女は違う。相容れぬ存在。ではあっても、……友人になれそうな、そんな気がした。
 もちろん、相手は魔女。油断してはいけない。でも、油断しないことはとてもよいこと。
 彼女にもう何の悪戯も許さないように、おまじないや工夫で注意をすることは、まったく悪いことじゃない。そしてそれは、魔女の悪戯がなくても、我の仕事上、生活上、とても役立つものだ。
 なるほど、ベアトリーチェという魔女は確かに天邪鬼。憎まれ口を叩きながら育める友情というのも、どうやらあるらしかった…。
メタ劇場
【紗音】「あの日から、目に見えて変わりましたよね。」
【ゼパル】「色々なおまじないのせいかな?!」
【熊沢】「ほっほほほ。ですねぇ。あの子は本当に律儀な子だから。私の教えたおまじないを、しっかり守っているようでしたとも。」
【フルフル】「いちいち、凧糸で縛って? あるいは、いちいちお家へ帰る〜って?」
【紗音】「えぇ。時折、口に出してやってました。まるで、お道具とおままごとをしてるみたいで、とても可愛らしかったですよ。」
【ゼパル】「子供みたい!」
【フルフル】「子供でしょ?」
【ゼパル・フルフル】「「あっはははははははははは!!」」
【熊沢】「大人になら、同じ言い方をすれば伝わりますけれど。子供は本当に色んな子がいて、色々な言い方があるんです。それをちゃぁんと見つけてあげれば、ものは上手に教えられるんですよ。」
【紗音】「怒られる方が覚える子、褒められる方が覚える子、色々ですものね。」
【熊沢】「近所の子に、ちゃんと物をしまわないと、妖精さんが隠しちゃうぞ〜って脅したこともありましたっけねぇ。ほっほっほ、その妖精が、あの子の場合は、魔女になったというだけの話……。」
【ゼパル】「しかし、何だか運命的な話だね!」
【フルフル】「だって熊沢は、この子がベアトリーチェの子だって、知ってたんでしょ?」
【熊沢】「えぇ、知っていましたとも。」
【紗音】「ベアトリーチェの子に、魔女ベアトリーチェが悪戯するから、物をちゃんと片付けるようにって教えるなんて。……何だかおかしいですね。」
【熊沢】「ほっほっほっほ……。だから、あの子が、物を魔女に隠されて悪戯をされると言ってきた時、思ったのです。」
【熊沢】「これはきっと、亡くられたベアトリーチェさまが魔女になって、自分の子に、物を片付けなさいと教えに来ているに違いないと。……だから、あの子には、そう教えるのが一番だと思ったのです。」
【紗音】「物を置いた場所をすぐ忘れるとか、すぐなくすとか、そういう悪評があったのに。それを払拭してからは、どんどん明るくなっていきましたね。」
【熊沢】「弱点は、克服することで強みとなり、自信となって人をたくましくしてくれるのです。……あの子のそんな、日々の小さな成長が、それはもう、実の孫のように可愛らしかったですとも。」
廊下
【ルシファー・レヴィア・紗音】「「「源次さま、お疲れ様です。」」」
【源次】「……皆、大掃除ご苦労だった。普段、使うことも少ない客室だが、いつ何時、大切なお客様を泊めることになるやもわからぬ。清掃もまた、寸分の気の緩みもあってはならん。」
【ルシファー】「無論です。使用人一同、心得ておりますっ。」
【源次】「……そうあってほしい。見回ったところ、これを拾った。これは誰のであるか。」
 源次がポケットより取り出すのはマスターキーの束だった。……誰かがマスターキーを落としたらしい。使用人たちはぎょろりと、前科者である私の顔を一斉に見る。
【ルシファー】「なぁにぃ? またヤスぅ?」
【紗音】「そ、そんな決め付けはいけませんよ。」
【サタン】「私はもちろん持ってるわよ。こんな大事なもの、落とすわけがないっ。みんなは?!」
【紗音】「持ってます…。」
【レヴィア】「持ってるー!」
【ルシファー】「ほらヤス、あんたじゃない! この間、奥様にきつく絞られたのに、まぁだわかってないの?! これだからあんたはッ!」
【クレル】「……いつもの我ならば、冷たき目線を集めただけで、非のあるなしに関わらず萎縮して謝ってしまうだろう。しかし、もう我は違う。だから誇らしげに、蜘蛛の糸を引くそれを、高々と掲げるのだ……。」
【源次】「…………………ほぅ。……落とさないようにという工夫か。良い心掛けだ。」
 源次さまの表情は無表情なまま何も変わらない。でも、その言葉は紛れもなく褒め言葉だった。
【紗音】「くす。そうです。もう落とさないんです。だって、おまじないがありますからね。」
 ……うん。
【クレル】「我は誇らしく頷き、満面の笑みを浮かべるのだ。この日、この時、この瞬間の誇らしげな体験は、我の幼少の記憶に、忘れがたい1ページを刻むこととなる……。されば。源次が見付けたる鍵は誰のもの……。」
【ルシファー】「……………っ。」
 ひとりだけ、鍵を掲げていない使用人がいた。そして、ヤスの鍵に決まってんじゃないの? 私のわけないじゃない、ブツブツと言いながらポケットをまさぐり、顔が蒼ざめる…。
【源次】「日々の仕事に、寸分の気の緩みもあってはならん。だが時に失敗はある。それを咎めぬが、己を顧みず、仲間の失敗を決め付ける態度は到底、褒められたものではない。」
【ルシファー】「も、申し訳……ありません…。」
 真っ赤になって俯く先輩使用人。その後ろに、……私以外の誰にも姿は見えないのだろう、あの魔女の姿もある。
【ガァプ】「くっくっく! 我が友はもはや同じことは繰り返さぬぞ。何しろ、妾が虎視眈々と狙っているのに、一向に隙を見せぬのでな! しかし残念。こやつが鍵をなくしたのなら、さっそく悪戯をしてやれば良かった…!」
【ヤス】「そういう悪戯は私だけにして下さい。」
【紗音】「え? 何か言った?」
【ヤス】「う、うぅん、何も……。」
【クレル】「してやったりと思うつもりはないけれど、鈍臭いといつも馬鹿にされている我が、ようやく胸の晴れた一日であった。この日を境に、ようやく我は、右代宮家の使用人としての生活に、慣れたと自覚できるようになるのである……。」
メタ劇場
【ゼパル】「褒められると、自分は認められたって気持ちになるよね!」
【ガァプ】「大事なことだ。人の成長に欠かせぬ。」
【フルフル】「人は成長すると、どうなるのかしら?」
【ガァプ】「まず、余裕が生まれる。それまで、本当にこれで正しいのかと怯えながらしていた仕事が、自信を持って為せるようになるのだ。」
【ゼパル】「確かに! 気楽になれば、余裕も生まれるね!」
【フルフル】「余裕が生まれると、どうなるのかしら?」
【ガァプ】「日々を楽しめるようになる。源次風に言えば、気を弛ませることが出来るとでも言おうか。」
【ゼパル】「気を張りっぱなしじゃ疲れてしまう! それは良いことだね!」
【フルフル】「ってことはそれってつまり、サボれるようになるということ?」
【ガァプ】「サボると言えば聞こえは悪い。しかし、要領よく仕事をこなし、余った時間で日々を楽しむことは、決して悪いことではないぞ。そういう時間は、人間を豊かにしてくれるものだ。」
【ゼパル】「そういえば、郷田はよく、仕事の合間にクロスワードパズルをしているね!」
【フルフル】「余った材料で、勝手に創作料理を作ったりもしてるわ!」
【ガァプ】「適度に遊び、気分をリフレッシュさせるのは、効率上も悪いことではなかろう。創作料理も、遊び心と仕事の融合と言える。」
【ガァプ】「あの源次とて、誰も見ていぬところでは、程よくサボっているはずだぞ。テレビを見たり、主の酒をくすねたり。小難しい本を読んでいたりしているわ。」
【ゼパル・フルフル】「「あの源次がーーー?!」」
【ガァプ】「くっくくく! 要は、うまく仕事の合間を縫って、要領よく遊ぶということだ。過ぎれば気の弛みとも言われよう。しかし、仕事と遊びのメリハリがつけられるようになって初めて、人は一人前になるのだ。つまるところ、仕事だけで精一杯なうちは半人前ということよ。」
【フルフル】「じゃあ、あの子は、仕事の合間に遊ぶということを覚えた、ってこと?」
【ゼパル】「あの生真面目な子が、サボりを覚えるなんて、ちょっと考え辛いね!」
【ガァプ】「交流を覚えた。親切にしてくれる熊沢との仲を深め、本の貸し借りと、その感想を語り合う関係を得た。」
【クレル】「我にも学校にて友人はいたが、仕事の都合もあり、友情を深め合うには至ってなかった。気取らぬ朱志香も親しくしてはくれたが、夏妃の厳命もあり、一緒に遊ぶことも出来なかった。」
【クレル】「……そんな我にとって、いつも母のように優しくしてくれる熊沢は、もっとも親しい存在であった。」
【ガァプ】「孫ほども離れた二人のこと。駆け回って遊ぶわけではない。熊沢の趣味に、興味を持ったのだ。」
【フルフル】「熊沢の趣味って何かしら!」
【ガァプ】「本だ。意外かも知れぬが、あの熊沢、なかなかに推理小説を好んでおった。」
【ゼパル】「どんな本か、関心を持つ内に、自分も読んでみることに?」
【ガァプ】「その通りよ。推理小説は、読みながらに語らうのもなかなかに楽しい。すでに答えを知る熊沢にしても、若き知性がどのような推理を見せるのか、聞くのはさぞや楽しかったに違いあるまい。」
【クレル】「無論、いきなり熊沢の読む難解なものから入りはしなかった。まずはお奨めを聞き、学校の図書室から探してきて読んだ。使用人室にも持ち込み、休憩の合間などに、少しずつ読み進めた。」
【クレル】「そして新しい推理が浮かぶ度にそれを熊沢に話し、すでに答えを知っている熊沢はにやにやと笑いながら、我の推理に相槌を打つ。……それが、我にとっての楽しい時間だった。」
使用人寮・屋根裏部屋
【紗音】「お風呂行かないの? 浴場の時間、終わっちゃうよ?」
【ヤス】「……うん、…もうちょっとだけ……。今、またインディアン人形が減ったところ…。」
【紗音】「くす。すっかりミステリー好きになっちゃって。あんまり熱中して読んでると、また興奮して寝付けなくなっちゃうよ。」
【ヤス】「………熊沢さんが言うには、犯人はすでに登場してるって言うんだけれど…。でも、全然わからない…。」
【紗音】「それ、何て作品?」
【ヤス】「アガサ・クリスティ。『そして誰もいなくなった』。……面白い。まるで六軒島で事件が起こってるみたい。」
【紗音】「それ、すごく有名な推理小説だよね。最後、犯人がメッセージボトルで真相を告白するまで、完全犯罪だったんだっけ? すごいよね。」
【ヤス】「しーッ、しーッ! 楽しく読んでるんだから先を言わないで! お風呂行っちゃいなよ、私は後でひとりで行くから…!」
【紗音】「はいはい。……じゃあ、後でね。お風呂、忘れちゃ駄目よ?」
 紗音は着替え一式を持って、微笑ましそうに笑いながら部屋を出て行く。
 今晩中に全部を読み切ることは出来ないだろう。それがわかっていても、止めどころが見つからず、ついついページを進めてしまうのだ。
 ミステリーという新しい娯楽。思考や推理という、知的遊び。そしてそれを熊沢さんに話すことでの交流。……その全てが私を虜にしていた。
【ガァプ】「そなたもすっかり本の虫であるな。まぁ、熱中して寝不足にでもなってくれれば、妾も悪戯のし甲斐があるというもの。」
【ヤス】「あなたを喜ばせるわけにはいかない。じゃあ、適当なところで終わりにしなきゃ。」
【ガァプ】「くっくっく。………妾の生まれた太古の時代には推理小説なる娯楽はなかった。そなたの肩越しに読ませてもらっているが、なかなか面白い読み物であるな。」
【ヤス】「ベアトはこの事件、誰が犯人だと思う?」
【ガァプ】「『そして誰もいなくなった』の?」
【ヤス】「そう。U・N・オーエンって何者だろう。」
【ガァプ】「孤島に犠牲者を呼び寄せし犯人であろうが。」
【ヤス】「この島には10人しかいない。そしてU・N・オーエンは存在しない。」
【ガァプ】「島に10人を閉じ込め、どこか遠くで、暢気に餓死を待っているに違いあるまい。」
【ヤス】「いいえ、違う。島にいる。10人の中に紛れ込んでる。それが誰か、わからない…。」
【ガァプ】「なぜに、島には10人しかいないと決まっておるのか。」
【ヤス】「……そういうことになってるから。」
 疑ったらきりがないというか、ミステリーのお約束というか、……うぅむ…。
【ガァプ】「島の主であろう? 隠し部屋に潜んでおるのかもしれん。あるいは、妾と同類! 千年を経た魔女かも知れぬぞ! いやいや、たかだか10人を殺すのにこの手間では、千年は経ておらぬな。この魔女、せいぜい495年程度しか生きていまいぞ。くっくくくく!」
【ヤス】「推理小説にはよく、密室が登場する。そしてその表現としてよく、魔法でも使ったとしか到底思えぬ云々、という行が出てくる。……そして私の目の前に魔女がいるわけだけど、複雑な気分。」
【ガァプ】「ふ、くっくくくくく! 密室殺人とは面白いものであるな。……オチを読めば、それは人間小説、即ち推理小説となる。しかしもし、オチを破いて失わせれば。それは魔女小説、即ち幻想小説となる。」
【ヤス】「………ふぅん? 面白い解釈。推理小説は、人間小説と魔女小説の紙一重だと?」
【ガァプ】「トリックがあれば、人間小説になる。なければ魔女小説になる。そなたが読むその本の、最後のほんの数ページを破り取るだけで、U・N・オーエン卿を、妾に列する魔女とすることが出来るわけだ…!」
【ヤス】「……意外に至言かも。……答えなき推理小説の犯人は魔女、か。」
【ガァプ】「この世の闇は全て我ら魔女のものよ。さすれば妾は、全世界古今東西、全ての推理小説に犯人として君臨できようぞ。」
【ヤス】「ちゃんと推理して全貌を暴けば、魔女をやっつけられますけどね。」
【ガァプ】「くっくくくくく。推理小説とやらは、やはり面白い。これは実に愉快な思考のゲームであるぞ。」
【ヤス】「そうです。これは思考のゲーム。作品と戦い、推理を得て、同じ本を読んだ仲間たちと議論で戦う。」
【ガァプ】「いいや、魔女と人間の戦いでもあるぞ。妾の密室殺人という名の魔法を許すか、否定するかの、ミステリーという名のチェスである!」
【ヤス】「……………………。……これは私の読書ではなく、あなたとのゲームだと?」
【ガァプ】「如何にも! 先ほど紗音が言うには、この話。ラストではメッセージボトルによって、真相が明かされるというではないか。つまり、それまでに物語の真相を暴くことが出来ねば、そなたの負けということだ。」
【ガァプ】「何しろ、メッセージボトルが、たまたま目に付くところに漂着したから良いものを。もしも、割れて沈み、誰の目にも触れなかったなら、それは完全犯罪であり、即ち、人間には不可能、魔女の犯行ということではないか。」
【ヤス】「……面白い解釈。私と、魔女の戦い。…………うん。ちょっぴり面白い解釈。」
【ガァプ】「くっくっく! これより妾は、そなたがそれを読み終えるまで! 495年の魔女、オーエン卿であるぞ! そなたに我が孤島殺人のトリックが見破れるかなァ? くっひっひゃっはっはっは!」
【ヤス】「……ひとつ、推理が出来た。つまり、あんたは私と遊びたいってこと? 私がずっと本ばっか読んでて、あんたに構わないものだから。」
【ガァプ】「そうとも言う!」
【ヤス】「ぷ、」
【ガァプ】「「はっはっはっはははははははははは……。」」
 ……ちなみに。この『そして誰もいなくなった』を巡る、私とベアトのゲームは、私の敗北で終わった。
 結局、私は満足な推理を出せず、メッセージボトルにて真相を知ることになる。たまたま漂着したからいい。もしベアトの言うとおり、海の底に沈んでいたら、私は真相を知れない。即ち、私はU・N・オーエンを、魔女と認めなくてはならないのだ。
 小説の中の、単なるジャンルに過ぎないと思っていた、ミステリー。それが、紙一重で、魔女と人間が、幻想と真実を争うゲームに様変わりするなんて。私は、この新しい“ゲーム”に、瞬く間に虜になっていく。
 月日を重ねぬうちに、私は学校の図書室の推理小説を全て読み尽くし、大人向けの推理小説にも手を出し始める。
 熊沢と議論し、紗音と議論し。魔女と真相を巡って、推理のチェスをする。その日々の、何と愉しきこと……。
 あぁ、我こそは我にして我らなり。我を虜にする、楽しき知的ゲームに、乾杯……。

新しき日々

メタ劇場
 第四章。“新しき日々”。
 そして年月はゆっくりと降り積もる。彩を得た我が日々は、春の木漏れ日に笑い、夏に入道雲を見上げ、秋には落ちる木の葉を愛で、冬は稀なる雪化粧を楽しむ。そんな日々が繰り返されるうちに、決して小さくない環境の変化が重なっていった。
 それは、福音の家より来た使用人たちの入れ替わりである。学校のように学年があるわけではないので、誰が何年で辞めると、厳密に決まっているわけではない。
 何年で六軒島を“卒業”するかは、使用人たち個々人と環境が判断することなのである。よほど環境が合わない使用人なら、来て3日ともたない者もいる。
 何しろ、六軒島での生活は厳しい。福音の家ももちろん厳しいが、六軒島ならではの決まりごとも多く、使用人たちを統括する夏妃の指導も厳しい。窮屈に感じることも多いだろう。
 その窮屈さと給金を秤に掛け、彼らは自ら、卒業の時期を判断するのである。また、時には右代宮家の方から、就職先の斡旋があり、新しいステージへ羽ばたくよう勧められることもある。
 そのサイクルは、大抵は2〜3年程度。誰が決めたわけではないが、それが彼らの勤続の、一つの目標であり、暗黙のルールとなっていた。
 しかし、我はそのルールからも外れていた。未だ、新島の学校に通い続けながら、使用人生活を続けている……。
 その年、ごっそりと福音の家の使用人たちが辞めることとなった。仲の良い使用人たちが、連れ立って同時に辞めることは珍しくなかった。
 我だけを残し、福音の家から来た仲間たちは一斉に、この島から卒業していった…。
 我は、別に彼らと仲が良かったわけではない。むしろ、ヤスヤスと呼ばれ、いつまで経っても半人前扱いだったので、不愉快なくらいだった。
 せっかく後輩が入ってきても、先輩たちが私のことを、ヤスはよく物をなくして云々と吹き込んだため、新しい仲間が来ても不愉快なままだったのだ。その、不愉快な先輩も同輩も後輩も、一度に辞めることとなった。
 右代宮家は去る者を追わない。そもそも、使用人としては、大人の方が使いやすい。あくまでも福音の家の使用人は、研修として受け容れているだけだ。だから、誰も引き止めず、私以外の使用人たちは、一度に辞めた……。
使用人寮
【ルシファー】「じゃーね、ヤス。あんた、物を無くしたりするんじゃないわよ。」
【ヤス】「……もう、無くしたりなんかしてません。」
【ルシファー】「ふんっ。じゃーね。奥様の言うこと、よく聞くのよ。後から来る仲間に迷惑掛けるんじゃないわよ。」
【レヴィア】「……未だに謎よね。どうしてヤスはここに推薦されたの?」
【サタン】「それを言ったら、未だに奥様がヤスの勤務を認めてる方が意外だわ。」
【ベルフェ】「逃げ出さない分だけ、根性があるってもんだ。しっかりな、ヤ・ス。」
【ヤス】「わ、私、……ヤスって呼ばれるの、嫌いです…。」
 最後の最後に、……彼女らに言い返したかった一言を、ようやく口に出来る。しかし彼女らは、大して気にも留めず、荷物をまとめてぞろぞろと出て行くのだった…。
【ヤス】「……………………。」
【紗音】「……みんなとは、ついにお友達になれなかったね。」
【ヤス】「なりたくもなかったし。」
【紗音】「うん。向こうもそうだったろうし、お相子だね。あの人たちのことは、もう忘れちゃおう。もう、お互い、何の関わりもない。だから、心に留める必要もない。」
【ヤス】「…………うん。……そうだね。」
 ちょっとだけ、悔しかった。最後まで彼女らに、私がしっかり一人前になったことを、認めてもらえなかった。
【紗音】「人は、最初の印象をいつまでも引き摺る生き物だからね。……だから仕方がない。あなたがどんなに素晴らしい人間に成長しても、彼女らはきっと、いつまでもヤスと呼び続けて、あなたを馬鹿にしたと思うもの。そんな人たちに認めさせようと思うなんて、全然意味のないことなんだよ。」
【ヤス】「……そうだね。うん、紗音の言う通り。もう、あの人たちのことは綺麗さっぱり忘れるよ。」
【紗音】「それがいいよ。あなたには私や熊沢さんなどの、素敵な友達がいるじゃない。そして、新しい使用人の人たちの前では、今度は一人前の姿を見せてあげればいい。」
 まったく、紗音の言う通りだった。私は、あの蜘蛛の糸のまじないの鍵を高々と掲げたあの日以来の、誇らしげな気持ちを取り戻す。
 ……福音の家の使用人たちの中で、自分が一番の古参となったのだ。新しく来る使用人は、相変わらず私よりも年上だろうけれど。私が、先輩として色々教えなきゃ。源次さまも、これからは先輩として指導するようにと言ってくれてた…。
 うん。……がんばろう。
【紗音】「その意気だね。一緒にがんばろう。」
【ヤス】「うん!」
屋敷
【アスモ】「明日音(あすね)と申します。よろしくお願い致します。」
【ベルゼ】「鐘音(べるね)と申しまーす。よろしくお願いしまーす。」
 …………………。新しく来た人たちは、……何というか、ちょっと軽薄そうな感じ。
 私が初めて右代宮家に来た時は、ものすごく緊張していたものだけど。彼女らの様子には、そんなものは微塵も感じられなかった…。
メタ劇場
【紗音】「えぇ。基本的には成績が優秀で、品行方正な子が選ばれます。」
【ゼパル】「どうやって選ぶの? 誰が選ぶの?」
【紗音】「理事の先生方が来て、面接をされるんです。他にも、日頃の素行とか…。」
【フルフル】「じゃあ! 先生の前でだけいい子ぶってても、合格できちゃうってことも?」
【紗音】「……まぁ、その、……先生が見て、良いと判断されれば合格することも…。」
【クレル】「福音の家よりやって来る子たちは、いつだって個性的だった。それが使用人としての日々の中で研磨され、やがては右代宮家の使用人の名に恥じない立派な姿に成長していくのだ。」
【クレル】「とはいえ、それを促すのは先輩使用人たちの役目。……今や我だけが古参である以上、彼女らを立派に導く責務があるのだ。」
【ゼパル】「新しく来た子たちは、どんな感じだった?」
【フルフル】「もちろんエリートね! 品行方正な!」
【紗音】「……奥様や源次さまの前ではそうだったと思います。でも、……目上の方がいらっしゃらない時はその、……ちょっと不真面目だったみたいで…。」
客室
【紗音】「明日音さん…。お道具は使う度にちゃんと台車に戻して下さい。」
【アスモ】「きゃっははははは! ……え? はーい。ごめんなさーい。」
 私も先輩として注意する。
【ヤス】「鐘音さんも、そんなとこに鍵を置いちゃ駄目です。なくなっちゃいますよ。」
【ベルゼ】「なくしませーん。私、置いた場所は絶対忘れませんからー。」
 かつて私が、ここへ来たばかりの頃も、よく先輩使用人たちにそう怒られたものだ。先輩だったら、もっと嫌みったらしく、ネチネチと言っただろう。それが嫌だったから、私は諭すようにやさしく言うのだが、彼女らは真面目に聞いてくれない…。
【ヤス】「い、いいですか。このお屋敷には魔女が住んでるんですよ…?」
【ベルゼ】「おぉ、ベアトリーチェよ〜!」
【アスモ】「きゃっはははは! それ似てるぅ〜!」
【ベルゼ】「まさか、紗音ちゃんも。それ信じてるわけじゃないですよねー?」
【紗音】「い、いえ、本当にいるんですよ…。物を放ったらかしにしておくと、魔女が悪戯して隠したりするんですよ…。」
【ヤス】「本当です。私も何度もひどい目に遭わされたことがあるんですから…。」
【アスモ】「魔女が物を隠すなんてー。」
【ベルゼ】「そんなこと、あるわけないじゃないですかー。」
【アスモ】「魔女なんてそんなのー、」
【ベルゼ】「いるわけないすィ〜! きゃっははははははは!」
メタ劇場
【アスモ】「いるわけないです。……魔女なんて。」
【ベルゼ】「……悪戯だと思ってました。いや、……そう思っていられるうちが気楽だった気がします。」
【ゼパル】「魔女ベアトリーチェは、確かにいたと思う…?」
【アスモ】「私は信じない。」
【ベルゼ】「……ベアトリーチェであったかは、わかりません。でも、人間じゃない何かは、……確かにあのお屋敷にいたんじゃないかと思います。」
【フルフル】「人間じゃない何かというのは、ベアトリーチェの可能性もあると思う…?」
【アスモ】「馬鹿馬鹿しい。」
【ベルゼ】「……私も馬鹿馬鹿しいと思いたい。」
【アスモ】「あれはきっと、ヤスの悪戯、うぅん、仕返しでしょ。」
【ベルゼ】「私も、最初はそう思ったけれど……。」
【ゼパル】「悪戯では説明できないことがあった…?」
【ベルゼ】「……執拗。……というか、気持ち悪い。」
【フルフル】「具体的にはどんなことがあったの?」
【ベルゼ】「置いた物が、ふっと振り返った拍子には、もうないんです。」
【アスモ】「ヤスが隠したんでしょ?」
【ベルゼ】「最初はそう思った。そう考えるのが自然だった。でも違和感も覚えてた。あんな気弱な子が、そこまでエゲツないことするかなって、ずっと思ってた。」
【ゼパル】「どんなことがあったか、話して?」
【ベルゼ】「……鍵束がなくなった時には、私が見てない隙にヤスが、ひょいってどこかに隠したんだろうと思えた。……でも、鍵束から、ひとつの鍵だけが消えてて、それがありもしないところから出てくるなんて、考えられない。」
【アスモ】「その鍵だけ、あんたが見てない隙に、引っこ抜いたんじゃないの…?」
【ベルゼ】「そんなの出来る?! 実際に! 鍵束を丸ごとひょいっと隠すならともかく、鍵束から鍵をひとつ抜き取るって、考えれば考えるほどに簡単じゃないよ?! カチャカチャ、ガチャガチャ。すぐそこで私が背中を向けてるのよ? そんなこと悠長にやってたら、いくら私が馬鹿でも気が付く!」
【ベルゼ】「でも音もなくすぅっと、鍵がひとつだけ消えていた。……あの時に初めて気が付いたの。これ、逆ギレしたヤスの悪戯じゃなくて、……もっとその、……ヤバいモンなんじゃね、…って。」
【フルフル】「その、紛失した鍵はどこから見つかったの?」
【ベルゼ】「私の、………ロッカーから。」
【アスモ】「鐘音、ウッカリ屋だからさ…。ひょいって鍵を、それだけ外して、ロッカーにしまったのを忘れてたんじゃないの……?」
【ベルゼ】「鍵束から、何でわざわざその鍵だけを外すわけ?! 明日音、鍵束の鍵、外したり、あるいは戻したりしたことある?! 私も試してみた。あれ、すごく硬い! わざわざやらない! やる意味ないしッ! 私、夢遊病?! 自分でやったことの記憶さえないっての?!」
【ベルゼ】「私、馬鹿だけど、そこまで馬鹿じゃない! 私、そこまで自分のこと、忘れてたりしない!! それに私の鍵さ、確実に部屋に入った時はあったよ?! じゃなきゃ、あの部屋の鍵、私、どうやって開けたわけよ?!」
【アスモ】「……だからさ…。音をさせないようにさ。スルリとその、……ヤスがうまく鍵を抜いて、鐘音のロッカーに隠したんだよ、きっと…。」
【ベルゼ】「私も最初はそう思った! ヤスに、舐めたことすんじゃねって食って掛かった! でも、言いながら思ってた。これ、絶対ヘンじゃね?って!」
【ベルゼ】「だってさ、あの日、私たち、ずっとヤスと一緒に部屋回ってたわけでしょ?! 鍵をカチャカチャ外すほどの隙は絶対ないよ?! ヤスには無理! っていうか、誰にも不可能だよ、音をさせずに、それもわずかの隙に鍵を一本だけ抜き取るなんて!!」
【アスモ】「う、受け取った時から、もうマスターキーが1本足りなかったとか…。」
【ベルゼ】「だから言ってんじゃん!! ちゃんと鍵は最初あった! あの部屋の鍵を開けたのは私! だから絶対、鍵はあった! ……んで、部屋に入って! 私、馬鹿だから、鍵のジャラジャラが嫌いで、ひょいっとベッドの上に置いといた…!」
【ベルゼ】「それで掃除終わって、鍵束取って、施錠しようとしたらもうなかった! 背中を向けてはいたけれど、鍵のすぐ傍にいた! だから、誰かが鍵を1本だけ抜くなんて悪戯をして、悠長にガチャガチャ言わせたらすぐわかる! なのに、その部屋の鍵1本だけがすぅっと蒸発して、私のロッカーの中に!!」
【ベルゼ】「……いいよ、ヤスがこっそりやったって仮定してもいい。そう考えると気楽になれるもん。……でもね?! じゃあ、どうやってロッカーに入れたわけ?! ヤス、私たちとずっと一緒じゃん?! 私がないないって大騒ぎして、あちこち探し回ってロッカーの中で見つけるまで、ずっと一緒だったじゃん?!」
【ベルゼ】「ありえないってッ!! 私、ヤスに当り散らしながら感じ始めてた。というか、ヤスの瞳がさ、無言で言ってるわけ。……あの子の言うさ、いつの間にか物がなくなってるって、……みんなが言うようにあの子がぼんやりしてるんじゃなくて……、……本当に実は、……私と同じで、突然、ありえないことが起こって、……その、………そのッ…!」
【フルフル】「……ヤスはずっと一緒だったから、ロッカーに入れるのは不可能?」
【ゼパル】「そんなおかしなことが、他にも?」
【ベルゼ】「うん、そう。物がなくなるとか、単純にそれだけじゃないことが、その後も、他にも、何度も何度も。……さすがに薄気味悪くなって、物とかその辺に置かないように気を付けたけど、……それでも駄目だった。」
【ベルゼ】「……最初こそヤス舐めんなって思ってたけど、……途中からマジで、これは違うって理解し始めた。私がポケットに入れっ放しにしてたはずの鍵束から鍵が消えたことだってある! 私は気付いた。……ヤスが悪戯してんじゃない。ヤスも私も、同じ何かに、やられてるんじゃないかッ、って…!」
【アスモ】「お、落ち着きなよー……。私は、一部はヤスの悪戯。…それ以外のほとんどは、鐘音のウッカリか勘違いだと思ってるよ。……確かに屋敷はいつも薄暗くて、どこか薄気味悪かったし……、何か祟りとか呪いとか、そんなのがあってもおかしくなさそうな雰囲気はあった。そのせいできっと、鐘音はおかしな方向に怯えちゃったんじゃないかなって…。」
【ベルゼ】「あんただって見たでしょ?! ほらあの雨の日ッ、貴賓室に消えるおかしな白い影を見たでしょ?!」
【アスモ】「……み、見たけど。白い何かを着た、奥様かお嬢様じゃない…?」
【ベルゼ】「白い何かって何?! そんな服を着てるの、奥様もお嬢様も見たことないよ?! というか、あの貴賓室、いつも施錠されてるし! 奥様とかは鍵持ってないし! あれは絶対、幽霊とか亡霊とか、……うぅん、絶対に魔女の影だった!」
【アスモ】「……………………。……は、ははは…。と、まぁ、……途中から鐘音はこんな感じ。すっかり怯えてしまった。……私はその、スレてるから。鐘音がビビればビビるほど、魔女なんて馬鹿らしい、そんなのいるわけないって思いを強くしたけど。」
【アスモ】「……でも、さすがに空気を読まざるを得なかった。……というか、迂闊に口にしない方がいい話題だと気付き始めてた。……怪談とか祟りってさ、部外者が聞くと本当に馬鹿馬鹿しい。……でもね、そこにいる当事者からすると、全然笑えない。あれは本当に、……笑えない話だったよ。」
【ベルゼ】「……明日音はちっとも私の話を信じてくれなかった。だから私、途中から明日音に相談するのやめて、……ヤスに打ち明けて相談したの。私はあんたの悪戯だと思ってたけど、絶対にあんたじゃない。何か、その、……おかしなものに、やられてるッて…!」
【ゼパル】「……そうしたら、何て?」
【ベルゼ】「自分も同じようなことが何度もあったけど、誰に相談しても信じてくれなかったって…! 第一、先輩とかはヤスのこと馬鹿にしてたけど、ヤスは言われるほどドジでも馬鹿でもなかった。年下に仕切られるのはムカつくから、いつも反抗してたけど、仕事は割りとそつなくこなしてた。そんなヤスが、そこまで馬鹿にされるほど、物をなくすなんてことあるのかなぁって不思議に思ってた…!」
【ベルゼ】「だから確信したの。“い”る! このお屋敷には、人間とは異なる、何かおかしなものが“い”るって!」
【フルフル】「それが、魔女ベアトリーチェだと…?」
【ベルゼ】「もしそれが、そう呼ばれるものならば信じるッ。とにかく、人間じゃ説明が出来ないものが、確かにあの屋敷には“い”たの! それを理解できない人たちが、私やヤスのことを、ドジだのウッカリだの勝手に言ってた! わかってない、全然わかってないッ!!」
【アスモ】「……で、でも。……鐘音もさすがにヤバイと思って、しっかりするようになったじゃん…。そしたら、物がなくなるとかの騒ぎ、なくなったじゃん…? やっぱり鐘音の勘違いだったんだよ……。」
【ベルゼ】「違うよ!! 私、ヤスに、紗音に、熊沢さんとかにも相談したの! そしたら、やっぱり魔女はいるって…。」
【ベルゼ】「古い使用人たちはみんな、ちゃんと敬ってるって! 私はベアトリーチェなんているわけないって、堂々と馬鹿にしてたから祟られたんだって…! だから心を入れ替えた! ヤスに、貴賓室の人形のお参りの仕方を習った! 源次さまに頼んで、鎮守の社にもお参りさせてもらった! そしたら収まったのッ、ピタリと!! 明日音も、途中から魔女のこと馬鹿にしなくなったから良かったけど、もしも空気読まずにずっと馬鹿にし続けてたら、今度はあんたが祟りの標的にされてたに違いない! うん、私が保証するよ、絶対にあんたが祟られてた…!!」
【アスモ】「………さすがに、……私もドン引くかな…。……口に出して、言いやしないけど…。」
【ベルゼ】「あんた、わかってない! 本当にわかってないよ?! だから私は、新しい後輩にはきちっと教えたよ! このお屋敷にはベアトリーチェさまという魔女がいる…! 馬鹿にするとマジで祟るからって…!!」
【アスモ】「…………………鐘音…。」
【ベルゼ】「物がね、……消えたらそれは、魔女がすぐ近くにいて私たちを見てるって合図なんだよ…。悪戯だとか、魔女なんかいるわけないとか! そんなことを言ったら、もっともっと祟られてしまう…!! 私もヤスもそう! 鍵が消えたら、……それは魔女が現れた徴…!!」
夏妃の寝室
 鐘音さんは、また無造作に、ベッドの上に鍵束を投げ出して、鼻歌混じりにお掃除を始める…。
 いくら注意しても、改めてくれない。私のことを、ヤスヤスと馬鹿にしてるから、私が何を言っても耳を貸してくれない……。
 どうして私の言うことを聞いてくれないの…? 物を無造作に置いちゃいけない。隙を見せたら、魔女に悪戯されて酷い目に……。
【ガァプ】「……くっひゃっひゃっひゃ! うまそうな鍵束が放り出されておるわ……。」
【ヤス】「や、やめて下さい…! それは鐘音さんの鍵です! 悪戯は私にして下さい。他の人は許してあげて……!」
【ガァプ】「そなたは最近、すっかり用心深くなって面白くなかったところだ。……くっくくくく、冗談冗談。」
【ガァプ】「それにしても、我が友が親切に忠告しているというのに、耳を貸さぬとは不愉快なヤツらよ。我が友を蔑む言動の数々、妾に対するものと受け取らせてもらおうぞ…!」
【ヤス】「……鐘音さんの鍵を悪戯するつもりですか…? お願いだからやめて下さい…! また私が隠したって疑われます…!」
【ガァプ】「妾の魔法を、そなた如きの仕業と見下すか…! くっくくくくく、ならば良かろう。ニンゲンには無理なことを見せてやれば良い…!」
【ガァプ】我が魔法を見せてやるッ!! 愚かなる鐘音とやら! 我が友の忠告に耳を貸さなかったこと、後悔させてくれるッ! この希薄な体では物足りぬ! 借りるぞ、そなたの体ッ!! 久々に本当の魔法を見せてやりたくなったぞ! わずかのひと時、再び、我が身を現世にッ!」
【ヤス】「え? あ、………………ッ、」
 足元から霜柱が上るような悪寒が、感電するかのように全身に広がる。その瞬間から、……私の体の全てが、自分の意思で動かせなくなった。
 突然の停電に、何も出来ず呆然とするしかないように、私は、自分の体の支配を失うということを、呆然と受け容れるしかない……。
 私の体の全ての細胞が、泡立つようなぞくぞくした感じ。……それは、肉体が、私でない誰かのものに瞬時に作りかえられている感触。……私の肉体を依り代に、……魔女ベアトリーチェは、束の間の復活を果たすのがわかる…。
【ガァプ】「……ふむ、いいぞ。この外気の肌をくすぐる感覚、やはり肉体はいい!」
 な、……何をするつもりなの? 酷いことはやめて……。
 今や全ては正反対。私が口にしていた言葉は心の声。そして魔女の声こそが私の口から出る声…!
【ガァプ】「怯えるな。すぐに体は返す。ささやかな悪戯で懲らしめるだけであるわ。そなたが疑われるような、安っぽい真似はせぬ…! さぁさ、思い出してご覧なさい。そなたがどこにて眠っていたのやら!」
 瞬時に頭が真っ白になり、思考が停止した。
 全身に再び、足元から泡立つ感触が這い登る。それが全身を伝い、両手の指先に集まり、……その感触が指より放たれるのを感じた。それは、得体の知れない、形容の出来ない、……未知なる感触。
 頭が真っ白になり、何も考えられない。ただ呆然としながら、……足元から全身を伝い、指先より放たれる感触に、魂を委ねる他なかった。
 やがて、理解する。これが、………魔法を使う、ということなのだ……。
【ガァプ】「さぁさ、思い出してご覧なさい。そなたがどこにて眠っていたのやら……。」
 私の指が、操り人形のように動き、魔法を奏でるかのように踊る。自分の意思によらずに体が動くことは、こんなにもくすぐったいことなのか…。
 ベアトが操り糸を手繰るように指を立てると、ベッドの上に放り出されている鍵束が、ひょっこりと起き上がる。
 ……鐘音さんは、気付かない。……明日音さんも、気付かない。お部屋のお掃除をしながら、楽しそうなおしゃべりに夢中になっている…。
 その二人の後に魔女がいて、今まさに魔法の力を振るおうとしているなんて、夢にも思わないだろう。まさか、自分たちの背中で、……鍵束がダンスを踊っているなんて、想像も出来ないだろう。
 それはまるで、幼い頃にテレビで見た、アニメのおとぎ話のよう。楽しそうに跳ねて、くるくるとダンスを踊る様は、まるで鍵束が自らの意思でそうしているかのように見える。
 ぞわぞわと、……指先を通して、鍵束とダンスを踊るという楽しさが、私の全身に染み渡った…。そう、これは、快楽なのだ……。私は全身を魔女に委ねながら呆然と、……魔法という、未知の快楽に、身を委ねる他なかった……。
【ガァプ】「おっと、いけないいけない。鍵束ごと無くしては、また我が友が疑われてしまうな。……いなくなるのは、……そう、この部屋の鍵だけで良い。」
 ベアトが私の指を操り、魔力を操る。……そして鍵束を操る。鍵束はくたりと、潰れて倒れ、………その中の屋敷のマスターキーだけが、再びひょっこりと起き上がった。
【ガァプ】「さぁて、この鍵をどうしてやろうか。……ただ消し去るだけではつまらぬというもの。ならば………、……くっくくくく! そやつのロッカーにでも放り込んでおくか! これならば、ずっと一緒にここで掃除をしている我が友にはアリバイがあるというもの!」
【ガァプ】「さぁさ、思い出してご覧なさい。そなたがどこで眠っていたのやら! そう、そこは温かくて暗い場所…。」
【ガァプ】「鐘音のロッカーの中であるわ!! くっくくくくくく!!」
 ベアトが指を鳴らすと、鍵はポンと爆ぜて、黄金の蝶に姿を変える。
 ……黄金の蝶…? そうか、お館様に黄金を授けた黄金の魔女だから、黄金なのか。そして、蜘蛛の糸を嫌がるのは蝶。……だから、黄金の、蝶。黄金の蝶は、魔女ベアトリーチェの、眷属なのだ……。
 ふわりと、空中を舞った後、ポンと黄金の鱗粉を弾けさせて消える。そして、消えた鍵は、……鐘音さんのロッカーの中に……。
 それはここではない、更衣室のロッカーの話なのに、その様子がありありと理解できた。それは、視覚でも感触でもない。五感では説明の出来ない、心の中のもう一つの感触。今日までに一度も感じたことのない、まったく新しい感触。
 つまり、魔法という、まったくの未知の概念。恍惚とする他ない、まったくの未知の、快楽。
【ガァプ】「……もう良いぞ、我が友よ。この体、そなたに返すぞ…。」
 ん、………………ぁ……。
【ヤス】「………………………。」
 つい先ほどまで宙を舞っていた自分が、唐突に浮力を失い、床にストンと落とされたような気持ち。素敵な夢を見ていたのに、唐突に起こされてしまい、……しかも何の夢を見ていたのか、楽しかったことだけはわかるのに、思い出せないかのような、……そんな寂しさ。
 ベアトに体を奪われていたとはいえ、確かに私の体は魔法を使っていたのだ。まだ、両手にあの感触が残ってる。
 私の指の動きにつられて、鍵束がそこでダンスを踊ったのだ。いや違う。鍵束と、私の指が一緒に、ダンスを踊った。その、楽しさ。わくわくが、……まだ、指にほのかに、残ってる……。
【ベルゼ】「おっとー、いけないいけない。」
 鐘音さんが唐突にそう言いながら振り返り、ベッドの上に投げ出した鍵束を引っ手繰る。私がじっとそれを見ていたことに気付いたらしい。
【ベルゼ】「まーたヤスに、鍵をこんなところに放り出さないでーって怒られるところでしたー。私、置きっ放しにして忘れたりなんかー、しませんからー。」
 と、にやりと笑いながら、鍵束をポケットに戻す。
 しかし、まだ気付いていない。鍵が一本だけ、……ほんのちょっと油断した間に消えているなんて、想像もしないだろう…。それはニンゲンには、容易に出来ることではない。
 ……でも、魔法なら。鍵たちとダンスを踊り、ポンっと蝶が爆ぜるだけで、……姿を消せてしまう。
【アスモ】「はいっ、指先点検! ベッドOK、カーテンOK!」
【ベルゼ】「お道具OK、鍵もOK! ね? 大丈夫でしょー?」
【ヤス】「お、OKですね……。じゃあ、次のお部屋に行きましょう。……あ、……鐘音さん。この部屋の施錠、……お願いします。」
【ベルゼ】「ん? はーい。」
 ………本当に、……鐘音さんの鍵は、……魔法で消えたの? あの楽しげな魔法は、私だけの白昼夢では……? それを認めるのが怖くて、……私は、試す。
【ベルゼ】「………………………。……………あれ……。」
【アスモ】「どしたのー。何やってんの。」
【ベルゼ】「………あれ。………あれ、あれ。……何これ、マジ?」
【ヤス】「どうしたんですか…?」
【ベルゼ】「……これじゃないし。……これじゃないし。……え? あれ?」
【アスモ】「どしたの。鍵、私が閉める?」
【ベルゼ】「わ、わけわかんない。何これっ。……マスターキーがない。マスターキーだけないっ。ど、どうして…?! こんな頑丈なのに、抜けるわけないのに……!」
 私の指先に、ぞくりと。……あの、ダンスを踊った時のぞわぞわした感触が、わずかに蘇るのを感じた……。
使用人寮・屋根裏部屋
 夜。……寮の自室のベッドで天井を眺めながら、……自分の両手を見た。
 眠れない。まだ指先に、……あの、鍵束とダンスを踊った時のわくわくが、残っている…。あれは、……ベアトリーチェにとっては、……魔女にとっては、……当り前のことだったのだろうか。
 …………ベアトリーチェという、魔女の友人がいる。彼女は不思議な魔法で、いつも私に悪戯をしていた。それをいつも見せられてきたから、………私は魔法を、知っているつもりだった。
 しかし今日。……彼女は私の体に憑依し、……私の体で魔法を使った。そこで初めて知った魔法の感触は、……未だに私の心を虜にしている。まったく未知の、初めて知る快楽だった。
 だって……。指先を動かすと自在に、………鍵が踊ったのだ。ニンゲンには出来ない、不思議な不思議な、魔法の奇跡。まだ、……興奮が冷めない…。
 ……………………。
【ヤス】「………紗音。………起きてる…?」
【紗音】「…………………。……なぁに。」
 紗音はまだ起きていた。紗音はいつも早寝早起き。夜は早めに休んで、一日の疲れを翌日に残さない。……使用人として憧れるべき、模範的な生活だった。
 ……紗音のような、……みんなに愛され、尊敬される使用人になりたかったら、………そうでなくてはいけない。でも、私はそうなれる自信が、……もう、なかった。
【ヤス】「私、やっぱり……。………紗音みたいにはなれない。」
【紗音】「……どうしたの。突然。」
【ヤス】「あなたが、理想だった。いつも。」
【紗音】「………うん。」
【ヤス】「福音の家では、誰にでもやさしくて、愛されて。……私といつも遊んでくれるあなただけが、私の唯一のお友達だった。そして、右代宮のお屋敷では、どんな仕事もそつなく、優雅にこなすことが出来る立派で素敵な使用人で、私の憧れで目標だった。……それが、あなた。」
【紗音】「うん。……一緒にがんばろうよ。ほら、石の上にも三年って言うよ。みんな、どんどんあなたを認めてくれているよ。だから一緒に、素敵な使用人を目指そうよ。」
【ヤス】「………………。……私、使用人、やめる。」
【紗音】「……え?」
【ヤス】「使用人より、……魔女の方が、面白そう。」
【紗音】「ま、魔女って…。……何の話…?」
【ヤス】「みんなに愛されて頼りにされる使用人って、……うん、今ももちろん憧れるけど。……でも、今の私には……、………魔女の方が、憧れるの。」
【紗音】「それは、……えっと、………え……?」
 紗音は戸惑う。無理もない。……使用人を辞める云々という話ならばまだ理解も出来よう。しかし、魔女に憧れる、などと突然言い出されては、言葉も失おう…。
【ヤス】「魔女。ベアトリーチェ。……今日ね、ベアトリーチェが私に乗り移って、私の体を使って、魔法を使ったの。その時、その未知の世界に、……こう、ぞくぞくっとしたものを感じたの。それは、右代宮家の使用人に推薦されたことを知らされた時よりも、ずっとずっと上。知らなかった世界を初めて知ったような、……まるで、暗闇の世界だけに住んでて世界を全て知っているようなつもりになっていた私が、初めて光を知って、世界を目にするような。そんな、喜び。……興奮。」
 あの時、ベアトは私の指を介して、鍵束とダンスを踊り、鍵を一本、蝶に変えてロッカーの中に隠しただけだった。
 でも、私の体は理解していた。もし、別の指の動かし方をしていたら、ダンスでなく、宙を羽ばたかせることも、蝶でなく、トカゲに変えてベッドを駆け回ることも、……何でも出来た。
 確かにベアトリーチェの魔力は未だ弱い。反魔法の毒素を持つ鐘音さんたちが背中を向けてくれた束の間の世界の出来事。
 しかし、その束の間の世界では、何でも出来た。ベアトは、たまたま、躍らせて、蝶にしただけ。でも、もしも望んだなら、他のことも何でも出来た!
 あの自由な、何の制約もない力の無限の感触。まだこの指先に残ってる。感触だけでなく、魔力の欠片がわずかほどでも残っていたりはしないだろうか…?
 わかる。残ってる。………まだちょっとだけ、感触と共に残ってる。出来る。……私にもまだ、………出来る……。
【紗音】「…………あっ……。」
 暗い部屋に突然、黄金の光が一粒、灯る。それは、私の組んだ両手の隙間から。
 それを……、そうっと、蕾のように開くと。……そこには、黄金に光り輝く粒が、一粒。
【紗音】「それは、………な、……。」
 紗音には、その輝きの意味するものが、わからない。
 手の平より光が生まれるわけがない。なのに生まれたという奇跡を目の当たりにしてさえ、……それが何か、理解できずにいる。ただ呆然とし、……ぽかんと開いた口を、閉じることも忘れていた。
 でも、私にとってそれは、……確かに指先にまだ残る感触の、再現。
 黄金の粒は、……ふわっと広がり、……小さな、黄金の蝶に姿を変える。それは、ぱたぱたと羽ばたき、ティンカーベルのように、黄金の鱗粉を散らす。
 紗音には、ただ、黄金の蝶が羽ばたいているようにしか見えないだろう。……もちろんそれさえも、彼女には理解し難い奇跡なのだが。
 しかし私にはそれは、……蝶に姿を変えての、空中飛行。私は黄金の蝶を、自在に操っているのだ。操り糸でよたよたとではない。……私の意志で羽ばたき、舞い、空中を自在に、遊ぶ。
 蝶という分身を通しての、私の空中散歩。小さな部屋の闇を黄金の輝きで切り裂き、自在に宙を舞う、喜び。……恍惚とした、悦楽。
 ……しかし、指先の中のその感触が、少しずつ薄れていく。指の中にわずかに残っていた魔法の鱗粉が、無くなるのがわかった。
 やがて黄金の蝶は、線香花火が消えてしまうかのように、最後には小さく瞬き、ぽとりと黄金の粒になって落ちて、そして跡形もなく消え去った……。
【紗音】「い、今のは一体……。」
【ヤス】「これが、魔法。………すごく、楽しいよ。」
【紗音】「ま、………魔法…………。」
【ヤス】「うん。魔法。……私の指に、まだ少しだけ魔法が残ってたから使えた。……でも、本当の魔女になれば、もっともっと自由自在に、……何でも出来る。もう、私はこの楽しさを覚えてしまったの。もう、ニンゲンには戻りたくない。使用人なんて退屈なの、……耐えられない。だから、魔女に、……なるよ。」
【紗音】「ま、魔女になるって、…………ま、待って……!」
【ヤス】「もう決めたの、紗音。今日まで、楽しかった。この部屋はあげるね。あなたひとりで使って。じゃあね。さようなら。」
【紗音】「ま、待って…!!」
謎の空間
 待ってと何度も繰り返す紗音を取り残し、……私を巨大なプラネタリウムが飲み込む。漆黒の星空の海に、私だけ。ここには私と私たちだけ。
【ヤス】「使用人ごっこは、もうやめる。………世界を、変更。」
【ガァプ】「………うむ。了解したぞ。それでは、如何様にしたものか。」
【ヤス】「紗音のような素敵な使用人も、悪くはない。……でも、魔女の楽しさを知ってしまったら、もうそれは退屈な憧れ。もう、戻れない。」
【ガァプ】「紗音はどうするのか。」
【ヤス】「……紗音は紗音で、これからも尊敬される使用人でいてくれればいい。彼女は彼女のままで。ただ、これからは私と二人ではなく、彼女だけになるけれど。」
【ガァプ】「別れは唐突に、であるな。……まぁ良い。気紛れな方が、人生は退屈せぬというものよ。されば、どうする。」
 鍵束全体をすり替えれば済む話だが、案外見破られないものなのかもしれない。
【ヤス】「魔女がやりたい。ベアトがやりたい。」
【ガァプ】「しかし、妾がすでにベアトリーチェであるぞ?」
【ヤス】「あなたが魔女で、私の友人という設定はそのままで。ベアトは私ということに世界を変更する。」
【ガァプ】「つまり、妾はベアトリーチェの友人の魔女、ということになるのか。」
【ヤス】「そんな感じ。だからあなたは今から、ベアトリーチェじゃない魔女。」
【ガァプ】「わかった。では、妾の新しい名前は何とする?」
【ヤス】「…………………。相応しい名前が思いつくまで、保留にする。しばらくは名無しで。ごめんね。」
【ガァプ】「良い良い。せっかくの名前だ。熟考してもらわねば困るというもの。くっくっく。」
【ヤス】「あなたはベアトリーチェが幼く、まだ魔法が使えない頃からの友人。私の物を隠したりして、からかっていたことが、縁の始まり。」
【ガァプ】「なるほど。それがやがて、魔法に目覚めたベアトリーチェの対等な友人となるわけか。では妾は、少しお姉さん的な立場の友人であるな。」
【ヤス】「うん、そんな感じ。……喋り方、どうしようかな。」
【ガァプ】「ベアトリーチェの一人称は妾で、すっかり馴染んでしまったな。そなたに譲るか?」
【ヤス】「うん。妾という言葉遣いは、私が引き継ぐ。」
【ガァプ】「うむ、わかったぞ。では、妾も、……いやいや、これからは妾ではないな。……私も、ベアトリーチェの姉的立場である、魔女の友人に相応しい喋り方を探しておくことにする。」
【ヤス】「うん。……いや、………うむっ。」
【ガァプ】「くっくくくくく。なかなかの貫禄。」
【ヤス】「私の、……いや。…妾の容姿はどうしたものか。」
【ガァプ】「そうだな。私は真っ赤な魔女という感じであるからな。赤以外の雰囲気でまとめてみてはどうか。」
【ヤス】「……ベアトリーチェは夜の屋敷を徘徊する時、白い人影の姿をすることが多い。」
【ガァプ】「やはり亡霊といえば、白がイメージか。」
【ヤス】「白いドレスの、……魔女……。………イメージをまとめてみる。」
 悪魔の赤いドレスの魔女とは、また違うイメージで。白い、高貴な魔女のイメージで。……赤いベアトの時と違って、今度は私自身のイメージなのだから、……出来るだけ、素敵な、……可愛いイメージがいいな。
 白いドレス。高貴なイメージ。やんごとなき血筋の、だけれども慇懃無礼な感じ……。
 いやいや、やんちゃなお姫様だから、一人称は妾で、ちょっとぞんざいな口の聞き方。だからドレスのイメージはむしろ引き立てるために正反対で、清楚な感じに……。
メタ劇場
【クレル】「…………………………。……このような姿ではどうか。」
【フルフル】「これが新しいベアトリーチェの姿なの?!」
【ゼパル】「これは美しい! 高貴な姫君みたいだね!」
【クレル】「ふむ…。……気に入った。悪くないぞ、この姿。」
【ガァプ】「……いいじゃない。素敵よ、ベアト。」
【クレル】「ふむ。気に入った。実に気に入ったぞ、この姿…。」
【ガァプ】「その調子で、今度は私に素敵な名前を付けてくれると嬉しいわね? いつまでも名無しじゃ、不貞腐れちゃうわ。」
【クレル】「安心せよ、必ず立派な名前を考えてやろうぞ! それよりまず、考えたいことがある。それは妾の使う魔法のイメージである!」
【クレル】「物を隠したり、別の場所に瞬間移動させる魔法はそなたのイメージだ。だから、妾も妾に相応しい魔法のイメージを考えねばな。……魔法を使う時、黄金の蝶が飛び交う。そこは譲れぬぞ…!」
【ガァプ】「くす。素敵ね。それこそ、まさに黄金の魔女。……じゃあ、蜘蛛の糸が苦手で、社に納められてる霊鏡が苦手で、という弱点もあなたに?」
【クレル】「ふむ。万能の魔女にも、何かささやかな弱点があった方が面白いというもの。では、こうしよう。蜘蛛の糸に触れたら火傷をするということとする。」
 すぅっと、銀色の蜘蛛が静かに、上から下に横切っていく。その後に軌跡として残る銀色の糸に、新しき姿を得たベアトがすっと触れる。
 すると、……小さく肉の焼ける音がして、ベアトの指先には一文字の火傷が残った。ベアトリーチェは、蜘蛛の糸が苦手。熊沢さんが言ってた、六軒島の悪霊の弱点。
 その悪霊の力を得て、魔女ベアトリーチェは復活をしているから、弱点も引き継いでしまっているのだ。同様に、霊鏡も弱点。……しかし、社の霊鏡なんて、そうそう妾の前には現れないだろう。ちょっと面白くない。
【クレル】「………では、霊力のある鏡は無論のこと、鏡自体も苦手ということにしよう。」
【ガァプ】「鏡って魔力があるってよく言うものね。いいんじゃない? 如何にも魔女っぽい感じ。」
【クレル】「鏡を見ると、魔力が吸い取られる感じがするので、苦手、ということにしよう。うむ、面白そうだ。」
 ……よくよく考えれば。そんな設定などなくとも、私は鏡が苦手。
 私が誰になろうとも、憧れようとも、……鏡に映るのは、いつも無残なくらいに情けなく現実的な、ヤスの顔。みすぼらしい自分の現実を、無理やり突きつける鏡は、いつだって、私の苦手なもの。
 うん。……鏡は、嫌い。……みすぼらしい自分なんか、見たく、ない。
【ガァプ】「一度に何もかも決めなくていいわ。世界を、ゆっくりと作り上げていくのだって、とても楽しいのだから。」
【クレル】「うむ。わかっている。ゆっくりと、魔女の生活を楽しみながら、妾の世界を膨らませてゆこうぞ。」
【ガァプ】「あの狭くて暗い部屋はもう、あんたの寝床じゃないわね。」
【クレル】「ふむ。妾こそは黄金の魔女! 六軒島の夜の支配者なれば、夜の屋敷は妾のもの。妾の住まうべきは屋敷ではないか。」
【ゼパル】「ベアトリーチェの部屋? はは、決まってるじゃないか!」
【フルフル】「えぇ、そうね! お屋敷の2階の、あの素敵な部屋……。」
【ゼパル】「魔女の貴賓室こそ、ベアトリーチェの部屋じゃないか!」
【クレル】「おお、そうであったな。今宵より、妾が住まうは夜の屋敷のあの部屋ではないか…! これはうっかりしていた、ははは、くっはははははははは…!!」
【ガァプ】「じゃあ、行きましょ、ベアト。魔女が二人、お茶をするなら、あんな狭い部屋じゃなくて、相応しい素敵な部屋でするべきだわ。」
【クレル】「そうであるな。友人を招いて茶を振舞うには、あの部屋は粗末が過ぎる。部屋を変えよう。行こうではないか、我が友よ…!」
【ガァプ】「………紗音とは、お別れね。」
 足元を見下ろすと、……はるか眼下に、寮の自分の部屋が見える。
 私が横になっているベッドに駆け寄り、待って、と言ったまま時間が止まり、人形のように硬直している紗音が見える。この高みから見下ろすと、それはまるで、小さな人形とそのお家みたいだ…。
【クレル】「さらばだ、紗音。……ニンゲンとして、そなたを目標に、そなたと友情を育みながらの日々も、楽しいものであったぞ。…もし妾が、魔法の悦楽を知ることなく、魔女に開眼することがなかったなら、それはこれからも変わらなかったであろうな。」
 ………そなたにとっても、妾が唯一の親友であったな。その親友が、忽然と消え去ることをどうか許してほしい。そなたへの置き土産として、……そなたの世界より、妾そのものを消し去る。
 今より、その部屋は二人部屋ではない。そなただけの、一人部屋である。
 そなたは、優しく、誰にも愛され、頼りにされる使用人を目指し、これからもそなたの理想の姿を体現していくが良い。もう、ヤスという、物をなくしてばかりの、愚かでドジな使用人は、存在しない。
 さらばだ、紗音。妾が魔女ベアトリーチェとして成熟し、夜の屋敷を自在に闊歩するようになれば。……夜の屋敷を見回るそなたと、やがては出会うこともあるだろう。
 しかし、そなたと再び出会う時。それは再会ではない。それは、初めての出会いとなるのだ。何しろ、そなたは魔女ベアトリーチェの噂話は聞けど、会ったことなど、一度もないのだから……。
 さらばだ、紗音。いずれ出会い、何か面白い物語を紡ぎ合おうぞ………。
使用人寮・屋根裏部屋
【紗音】「待って……!! ま、…………って…………。………………………。」
 ………………………………。………私は、……何を…? 寝惚けて、……たのかしら……?
 私は、自分の抜け出た寝床に向かって手を伸ばしながら、……待って、と言っていたようだった。寝惚けておかしなことを口走って、その勢いで目が覚めてしまった経験は、ないことはないけれど。
 ……寝床を抜け出して、こうして立ったまま目が覚めた経験なんて、今までに一度もない。ひょっとしてこれが、……噂に聞く、夢遊病なのかしら…。
 私、疲れてる……? ……寝なきゃ。寝直さなきゃ。
 私は、自分のベッドに、踵を返す。…………? 振り返ったところで、自分のベッドなどそこにはない。今、背を向けたベッドしか、この部屋にはないのだから。
 この部屋にいるのは私一人で、ベッドも私の背中に一つしかないなら……、……それはつまり、私のベッドということではないか。
 ……なぜだか、釈然としない。ベッドの布団は、誰かが這い出たように、乱れている。
 ヤス人格がベースとなり、ベアト人格に変化。同時に、主人格が紗音となる。
 誰かが這い出た…? この部屋は、私の一人部屋じゃないか。なら、それは私のベッドであり、這い出た跡とはつまり、私がさっきまでこの布団に寝ていたということではないのか…?
 ……でも、どうしてか、………このベッドが、……自分のベッドだと思えない。
 しかし、私、紗音は、他の子たちは相部屋なのに、私一人だけ一人部屋を与えられている。だから、ベッドも一つ。無論、それは私のベッドのはず。………………………。
【紗音】「………私、疲れてる、……のかな。」
 きっと、寝惚けてるだけ。明日も学校が早い。そして、学校が終わったら、お屋敷に行って、少しお仕事の手伝いをしてから、熊沢さんとまた、読んだばかりの推理小説を語り合いたい。
【紗音】「寝よう。きっと、疲れてるからおかしなことを考えちゃうのね。………おやすみなさい、紗音。布団に包まれて、静かに目を閉じれば。……もう、何も難しいことは考えなくていいんだよ……。」
 私は布団に潜り直す。自分のじゃない布団に潜ることに対する、わずかの嫌悪がチリチリとする。でも、だんだん眠くなってきたせいか、やはりこれは自分の布団だという気がしてきた。
 ………私、寝惚けてるんだ……。
 私は、紗音。ひとりぼっちの使用人。時々、失敗もしちゃうけど、……誰からも愛されるやさしい使用人になりたい……。………おやすみ。………私………。
 あぁ、我こそは我にして我等なり。もう使用人ごっこは飽きた。ニンゲンごっこは飽きた!
 これより我は、今宵より我はベアトリーチェ! 千年を経た、黄金の魔女、ベアトリーチェであるぞ!
 讃えよ使用人ども。怯えよ、夜回りに選ばれたることを! 夜の島は屋敷は、全て妾のもの、妾の時間…!
 あぁ、我こそは我にして我等なり! さぁ、我等の世界にて全てを飲み込もう。それはまるで波濤のように! やれやれ、今夜もニンゲンの書物を肴に神秘の月を飲み干そう!
 これがミステリー? これが密室? これがニンゲンには不可能な犯罪とな? 笑わせる! その程度の隙だらけの穴だらけが、ニンゲンには不可能な犯罪とな!
 妾を感嘆させる素晴らしき密室魔法はないのか? あぁ、やれやれこれもこれも、それもあれも馬鹿らしい! くすりとは笑えるが、これでは月と書物の、どちらが肴かわからぬというもの!
 ミステリーに飽きれば、蝶に姿を変えて島を屋敷を! 広大な森を! 自由気ままに散歩しようではないか。臆病なる夜回りの使用人の後を、つけて回り、窓の戸締りを確かめる時、そのガラスに姿を映して肩越しに笑ってくれようぞ!
 何をするも自由自在、気ままで気紛れ! 夜の悪戯はなかなかに楽しそうだ。よし、決めたぞ、今宵からはそれで遊ぼうぞ! くっくくくく、それは愉快! 今宵も愉快だ!
 魔女の世界は、想像力の限りの全てを遊べる! 妾の想像力こそが、我が魔力の源なのだ! ならばよかろう、面白い! それを無限大に広げようぞ。そしてそれで、島を全て飲み込んでやろうぞ。島の夜は全て妾のものなり!! あぁ、魔女の日々の何と優雅で愉快なることか!
 あぁ、我こそは我にして我等なり! くっはははっはっはっは、ひゃっはっは!! 愉快なる魔女の世界に、乾杯ッ!!
 もちろん、最初から紗音の一人部屋である。この描写が本当だとすれば、きっと紗音はおかしな夢を見たのだろう。

新しき元素

 第五章“新しき元素”。
使用人室
【紗音】「お風呂場のアメニティは確認してくれましたか?」
【マモン】「はい、リストに沿ってしっかりとっ。」
【紗音】「置く時の向きもきちんとしてますか?」
【マモン】「はい、もちろんっ。ちゃんとリストに従いましたっ。」
【紗音】「くす、ありがとう。源次さま、客室の準備も完了です。」
【源次】「ご苦労。最後に、紗音の目でも直接全て確認するように。それから、奥様が食堂のテーブルクロスをもう一度変えるようにと仰せだ。」
【熊沢】「あらあら、昼間に皆さんで苦労して変えたばかりだというのに、どうしてまた…。」
【夏妃】「あのテーブルクロスでは、どうも色が違います。よくよく室内との調和を見てみたら、やはり合いませんでした。やはり別のテーブルクロスにします。」
【夏妃】「あぁ、それから客間のシャンデリアの清掃はちゃんと確認しているでしょうね? 絵羽さんが見上げて、あれは埃? それともまさか蜘蛛の巣ぅ? なんて言い出すことが二度とあってはなりませんよ…!」
【源次】「ご安心を。すでに入念に清掃と確認をしております。最後に、私も全てを確認いたします。」
【夏妃】「そうですか、結構。私も最後に全てを確認します。紗音、若い使用人たちを連れて、新しいテーブルクロスを準備するように。もう少し清潔感を感じる白いものを探すのですよ。」
【紗音】「は、はい、畏まりましたっ。」
 夏妃は普段以上に神経質で、あれやこれやと口うるさく指示を下している。夕方を過ぎて空も暗くなり始めたというのに、使用人たちの動きが慌しかった。
 明日は年に一度の親族会議だ。個々の親族たちがそれぞれに島を訪れることは少なくはないが、全員が一度に揃うのはこの日だけ。右代宮家にとって六軒島にとって、もっとも重要な日だった。
 神経質で、その上、短気な夏妃は、あれやこれやと指示を出しては、やはり気に入らない、あるいはやり直しと、夜の遅くまで使用人たちを振り回す。
 今や、短くない年季を持つ紗音は、夏妃に責任ある立場だと見なされており、何かあるごとに呼び出されては、あれこれ厳しく命令をされていた…。
 だから、疲労困憊の紗音は、シャワーを浴びて使用人控え室の床に就いてすぐに、深い眠りに落ちるのだった……。
暗闇
 ……どこか遠くで、風の音が聞こえる。…………外で風が吹き出したような音とは、少し違う。
 何だかまるで、……私が薔薇庭園にでもデッキチェアを出して、それで転寝をしていて、髪を風に撫でられているかのような、……そんな感じ。そう、感じ。……音じゃなくて、感じ。
 なら、これは、……夢………? そう決め込もうとした時、……誰かが私に語りかけているような気がした。
 ——やれやれ。相も変わらず、使用人の仕事とは退屈であるな。
 退屈だけならまだしも、楽でない上に厳しく、窮屈、何の喜びもない…。そなたへの見返りは、せいぜいその年季分程度の、後輩の幾ばくかの敬意だけ。それさえも、そなたのこれまでの使用人としての労苦には、まったく見合いはしない…。
「もういい加減、飽きはせぬか。その生活に。」
 え、……誰……。語りかけているような気がする、ではなく。……本当に誰かが語りかけてきて、驚く。そして目を開いた時、……紗音は思わず、息を飲み込んだ。
黄金郷
【紗音】「こ、……ここは……………。」
 それ以上の言葉は出ない。………文字通りの、絶句。ベッドで寝ているはずの紗音はいつの間にか本当に、……薔薇庭園にいた。しかしその薔薇庭園は、六軒島の薔薇庭園とどことなく似ていながらも、まったく違うものだった。
 なぜなら、……薔薇が、黄金なのだ。薔薇が黄金ならば、舞う蝶もまた、黄金。
 神秘的な美しさの、黄金の薔薇庭園。その東屋の椅子に、紗音はいつの間にか座っていたのだ。まるでそこで居眠りをしていて、夢から覚めたかのように。
 ……しかし、それは不思議な感覚。この黄金の薔薇庭園が、夢なのか。今までの使用人としての生活が夢で、今、ここでこうして目覚めたのか、……その程度のことにさえ混乱してしまう、不思議な感覚…。
「ようこそ紗音。我が、黄金の薔薇庭園へ……。」
 再び、その声。声の主はどこにと、紗音は辺りを見回す。すると、向かいの席に黄金の蝶がふわりと舞い、それが唐突に人の姿を作った…。
【クレル】「久しぶりであるな、紗音。元気であったか…? まぁ、元気であったろうなぁ。妾は毎日、そなたたちを観察しているのだから。」
 まるで、紗音の古い馴染みであるかのように、その女性は、笑う。しかし紗音には、この神秘的な黄金の薔薇庭園はもちろんのこと、彼女の面影にさえ、記憶はなかった…。
【クレル】「そうだったな。そなたは妾を、もはや覚えてはおらぬのだったな。」
【紗音】「………私は、あなたを忘れているのですか…? だったら、ごめんなさい…。」
【クレル】「謝るには及ばぬ。そのようにしたのだから、そなたの罪ではない。……名乗ろう。妾は、黄金の魔女、ベアトリーチェ。」
【紗音】「……ベ、ベアトリーチェ…さま……? お、お館様が口にされる、右代宮家の恩人の……?」
【クレル】「そのベアトリーチェではない。六軒島の夜を支配する黄金の魔女のベアトリーチェである。……そなたが日々、敬意を忘れぬ、館のもう一人の主であるぞ。」
【紗音】「あ、……あなたが、……ベアトリーチェ…さま………。」
【クレル】「はっはっは……。怯えずとも良い。妾とそなたは、元々は同じ仲間、……いやいや、ルームメイトだったではないか。妾はそなたに憧れ、日々、使用人の仕事に励んでいたこともあったのだ。」
【紗音】「………私はずっと一人部屋で、ルームメイトは……。」
【クレル】「別れの時、そなたの記憶を奪った。しかし、妾はそなたとルームメイトだったことを忘れぬ。……そして、そなたとの友情を、妾の方から一方的に破棄し、立ち去ったことも忘れはせぬ。」
【クレル】「だからこそ、一人残すそなたに悲しみを与えぬために、妾との日々の記憶も世界も、全てを消し去ったのだ。」
【紗音】「………………………………。」
【クレル】「わかろうとしないで良い…。ただ、これだけは信じよ。妾はそなたに危害を加えるために、ここに呼んだのではない。」
【紗音】「こ、ここは私の夢の中、ではないのですか…?」
【クレル】「夢の中と思って良い。厳密には、眠ったそなたの魂を、我が庭園に招いたのだ。そなたを、この世界の住人に招くために。」
 ベアトリーチェが指を鳴らすと、黄金の薔薇庭園に、まるでカーテンが包み込むように、黄金の蝶の群が舞い上がった。
 その蝶たちのつむじ風がテーブルの上で踊ると、そこには、豪華なティーパーティの道具が揃う。右代宮家でも扱っていないような上品なティーカップとティーポット。なみなみと注がれた紅茶は、一度も嗅いだことのない、甘い薔薇の香りが漂う。
 その香りに呆然とする間もなく、テーブルの上には、次々に黄金蝶たちが集い、そこにはにょっきりとティースタンドが生えだすのだ。それはまるで、おとぎの国で、魔法のキノコが生え出すかのように、にょっきりと。
 そしてティースタンドの各段には、食べる宝飾品と例えるのが相応しい、見目麗しいケーキが並ぶ。もちろん、美しいキツネ色に焼き上げられたスコーンもある。添えられたハチミツは、金箔が躍る、まさに黄金のハチミツだった……。
【クレル】「右代宮家も時にティーパーティを開くようだが、妾のそれとは比べ物にもなるまい。」
【紗音】「……す、………すごい……。…こんなの、見たことありません……。」
【クレル】「くっくっくっく。見たことがあろうとも、それは給仕をする立場からであろうが。そなたは妾の友人。給仕の必要はないぞ。何しろ、妾は魔女。給仕は間に合っているのでな。さぁ、遠慮することはない。好きなだけ頬張るが良い。」
【紗音】「あ、……ありがとう、ございます……。」
 紗音はそう言うのが精一杯だった。………このあまりに美しい魔女のお茶会に唐突に招かれたなら、誰だってそれを言うのが精一杯だろう。
【クレル】「まずは紅茶からどうか。ミルクは新鮮、砂糖もそのままかじりたくなるほどの上物よ。しかし、まずは最初はストレートを勧めたい。薔薇の花びらをほんの1枚浮かべるだけで、もう二度と人の世の紅茶など飲めなくなってしまうに違いないぞ…!」
 ベアトリーチェは上機嫌に笑いながら、シュガーポットならぬローズポットを開け、真紅の薔薇の花びらを1枚摘み、その香りを楽しんでから自分の紅茶に浮かべる。紗音もそれに習い、花びらを1枚摘み、その香りを嗅ぐ。
【紗音】「……………何て、素敵な香り……。……これは、……本当にこの世の薔薇の香りなの……?」
【クレル】「喜んでもらえて嬉しい。妾が紅茶に浮かべるためだけに品種改良を重ねた薔薇だ。すり潰してジャムにしても、これがまた絶品でな! スコーンにもこの上なくよく合う。試してみるか?」
【紗音】「え、ぁ、……じゃあ、少しだけ。」
 唐突に招かれた魔女の茶会。しかし、魔女は本当に無邪気で、つられてこちらも笑いたくなる笑顔でもてなしてくれた。紗音の心の緊張も次第に解け、魔女との談笑が楽しめるようになっていった……。
【クレル】「使用人の仕事も大変であろうな。妾もよく覚えているぞ。礼拝堂の窓枠の掃除が、とにかく面倒であった。」
【紗音】「驚きました。あなたも、使用人として働いていたことがあるのですか?」
【クレル】「短い間だ。覚えておらぬだろうが、そなたとともに働いていたのだぞ。妾はドジで物をよくなくす愚か者。そなたは妾の憧れる、理想の使用人であった。」
【紗音】「……なのに、私が覚えていなくて、本当にごめんなさい。」
【クレル】「それを詫びる必要はない。ここではそなたは使用人ではなく、妾の友人であり客人だ。ここでは何の不自由もない、何の苦労も退屈もない。そなたが望む全てのものを与えることが出来るのだ。今や妾にはそれだけの力がある。……それに至ったことを、そなたには知らせたかったのだ。」
【紗音】「………何の取り得もない私を、こんなに素敵なお持て成しで歓待して下さって…。本当にありがとうございます。」
【クレル】「くっくっく! 辛き日々を今日まで耐え忍んだそなたへの褒美であると、そう思えば良い。さぁ、黄金の蝶たちよ! 妾の友人を退屈させるでないぞ、軽やかな舞を見せるがいい! それに飽きたなら、楽団を呼び出しそなたの好きな曲を何でも演奏させよう。それにも飽きたなら、瀟洒なる使い魔たちにタネなし手品を披露させてやろうぞ。安心せよ、ここでの時間は無限。そしてそなたの願いもまた、妾が無限に叶える。妾の茶会に終わりはないのだ…!」
 魔女は本当に上機嫌に色々な不思議な話を、いくつも聞かせてくれた。それはどれもこれも、初めて聞く話。興味深い話。そして奇天烈で奇想天外な、おかしな話ばかり。
 まるで自分が、不思議の国のアリスにでもなってしまったかのような。そんな不思議な不思議な、愉快な愉快な、ゆっくりとしたお茶会の時間。
 いや。このお茶会には、時計の針などない。だから、そのお茶会の時間は、好きなだけ毛布の中でまどろめる、まるで日曜日の朝のようだった……。
【紗音】「……本当に、こんな素敵な時間を与えて下さり、感謝します。」
【クレル】「礼はいらぬ。なぜなら、人の世で礼は、別れの言葉を兼ねるのであろう? この茶会に終わりはない。だから礼も必要がない。」
【紗音】「くす。でも感謝します。ベアトリーチェさま、こんな素敵なお茶会を、本当にありがとうございます。………でも、終わらない夢はないように、この夢も、終わらないといけません。」
【クレル】「ほう。なぜに終わらねばならぬのか。」
【紗音】「その……、明日も早いので。いつまでもここでお喋りをしていたら、私はお寝坊をして、奥様に大目玉をもらってしまいます…。」
【クレル】「ふ、はっはっはっははははははははは! なぜにわざわざ、短気な夏妃のいる世界へ帰りたがるというのか。いやいや。労多くして何のねぎらいもないニンゲンの世界へ、なぜにわざわざ帰ろうというのか。」
【紗音】「私、ニンゲンですし。いつまでも、ここでお世話にはなれません。」
【クレル】「紗音。そなたは勘違いをしているようだ。妾はそなたを招いたが、追い返すような真似はしない。」
【クレル】「ここでの時間は永遠だ。そなたが別れを切り出さねばならぬ義理などない。妾はそなたとどれだけ茶会を共にしようとも飽きぬぞ。むしろ、そなたという話し相手が実に心地良い。」
【紗音】「お言葉は嬉しいですけど、私はニンゲン。自分の世界に、帰らなくちゃいけません。」
【クレル】「家人に扱き使われ、日々を学校と仕事だけに費やす何の彩りもない世界に、なぜわざわざ帰るというのか?」
【紗音】「それでも、……そこが私の世界ですし。」
【クレル】「紗音。そのような世界が、そなたの世界である必要が、あるというのか? 率直に言おう。……紗音。妾はそなたを招いたのではない。迎えに来たのだ。」
【紗音】「迎え、………?」
【クレル】「かつて、そなたのような良き使用人を目指し。……そして、魔女の世界に憧れ、使用人から魔女となった妾は、もはや魔法の悦楽を知り尽くす境地に至った。……だから、そなたを迎えに来たのだ。」
 ベアトリーチェは静かにそう言い、ゆっくりと席を立つ。
【クレル】「紗音。……やはり、使用人よりも、魔女の世界の方がずっと楽しいぞ。この茶会など、旧友とのほんの挨拶代わりでしかない。妾とそなたが望めば望んだ数だけ、いくらでも楽しき催しは繰り広げられる。それこそ、無限に永遠に。」
【クレル】「……この黄金の薔薇庭園を完成させた今、妾は至ったのだ。此処こそが、理想郷。そう、ここを黄金の理想郷と名付けよう。その完成に至ったからこそ、そなたを迎えに来たのだ。もう、何の不自由も、忍耐も努力も必要ない。ここでそなたと妾は永遠に、いつまでも楽しく過ごすのだ。まるで、終わりのないおとぎ話のようにな……。」
【紗音】「……素敵な申し出を、本当にありがとうございます。……でも、私は元の世界へ帰らなくてはなりません。」
【クレル】「なぜに。」
【紗音】「ここは、私の世界ではありませんので。」
【クレル】「それは認める。これまではそなたの世界ではなかった。だから妾が招くのだ! これより、ここは妾とそなたの世界となる。そなたはもう客人ではない。この世界の、もう一人の主となるのだ。妾にも何の遠慮も無用。この無限の世界で、かつてルームメイトだった時のように過ごすだけの話……。」
【紗音】「その記憶がないことが、私はとても残念です。………でも、そのお招きは、お断りしたいと思います。」
【クレル】「なぜに。……そなたに、ニンゲンの世界に戻らねばならぬ、どんな義務が、どんな義理があるというのかっ。」
 ニンゲンの世界、使用人の世界は、確かに日々、大変なことばかりだ。
 奥様は神経質で気が短いし厳しい。日々の仕事も面倒臭くないといえば嘘になるし、学業との両立だって、それはとても大変なこと。
 彼女がそんな辛い日々を送るのを、ベアトリーチェはずっと見ていた。日々、決して疲労が拭われることなきその肩に、ため息を漏らすのを、何度も見ている。
 だからこそ、招いたのだ。この黄金の理想郷に。そして、最高の歓待をして、心の底より楽しませたはずだった。……なのに、どうして紗音は、この世界よりも、元の世界を選ぶというのか。ベアトリーチェには、それがまったく理解できず、唖然とする他なかった。
【クレル】「この理想郷にて、妾はそなたに対し最高の持て成しをした。そして、それはこれからも、それ以上の楽しい日々が続く。」
【クレル】「……なのに、それでもニンゲンの世界を選ぶそなたには、ニンゲンの世界にて、魔女の悦楽以上の楽しさがあると言うのか。」
【紗音】「………はい。ニンゲンの世界にだって、魔法に負けないくらい楽しいことがあります。」
【クレル】「馬鹿な、……あるわけがない…!」
【紗音】「………いいえ。あります。」
 紗音の表情は柔らかい。しかし、きっぱりと断言する。ニンゲンの世界に、素晴らしい魅力の何かがあると。そして、その何かは、この何もかもが思いのままのはずの理想郷には、ないということなのだ……。
【クレル】「………………馬鹿な…。……わからぬ、……わからぬ……。」
 ベアトリーチェはそう呟きながら、落ち着きなく何度も姿勢を変える。しかし、何をどう繰り返そうとも、紗音の微笑が揺らぐことはなく、その答えを見つけることも出来はしなかった…。
【紗音】「では、………私はこれで、失礼します。お茶、本当に美味しかったです。」
【クレル】「…………わからぬ、わからぬっ。……妾は全てを無限に手に入れられる、偉大なる黄金の魔女っ。その妾に、そなたは手に入れられぬものがあると、そう申すのか。」
【紗音】「………はい。」
【クレル】「知りたいっ。全てを手に入れたと信じる妾が、未だ手に入れておらぬものとは何なのか、教えよ…!」
【紗音】「多分、……あなたはもう、それをご存知と思います。だから、私をここへ招いてくれたのではないですか…?」
【クレル】「…………魔女を、煙にまくというのか。……く、…くっくっくっく。」
【紗音】「では、これで……。ここに住むことは出来ませんが、お茶会にお誘い下さった時には、必ずおうかがいしようと思います。」
【クレル】「もう呼ばぬわ…。安心するが良い。」
 ベアトリーチェが指を鳴らすと、紗音の姿は、ぱっと消える。紗音の魂を、元の自分の夢の中に戻したのだ。
 人は一夜にいくつもの夢を見ても、その一つも覚えてはいられない。この理想郷でのお茶会も、そんなたくさんの夢に紛れて消え去るだろう。
 翌朝、紗音にこのお茶会の記憶は残らない。しかし、ここに、紗音の食器は残っている。客人を失い、ぽつんとたたずむ魔女の姿を、一層、寂しげに見せていた…。
【クレル】「………………………………。」
 魔女はテーブルクロスを掻き毟るように、爪を立てる。下唇を噛んで歪めるその表情には、紗音が残していった謎の答えは、未だ得られていない様子が見て取れた。
【ガァプ】「リーチェ。気にすることないわよ。」
 紗音の空席の頭上に黒い穴が開き、ガァプが落ちてきて、その席に座る。
【クレル】「……気にもする。あぁもガツンと言われてはな…。」
【ガァプ】「夜明けも近いから、早く睡眠に戻りたいだけだったんじゃない?」
【クレル】「…………妾が知らず、そして紗音が知る悦楽とは何か?! 妾の理想郷になくて、ニンゲンの世界にのみある何かとは何か?! わからぬ! ………知りたい!」
【ガァプ】「難しいこと考えたって、頭痛の種に水をやるだけだわ。紗音の代わりなら、私が務めてあげる。私たちで楽しくお茶会を過ごしましょうよ。」
【クレル】「もう、茶会の気分ではない。………そなたとの茶会は、もう飽きた。」
【ガァプ】「……あらあら、ツレないわ。」
 ガァプは肩を竦めて笑いながら、スコーンをがぶりとかじる。
 それに、ぷぅっと息を吹き込むと、まるで風船のように膨らみ、ポンっと弾ける。そこから黄金のリボンや蝶が飛び出るが、ベアトリーチェの目には映らないようだった……。
【クレル】「………一体、何を妾は持たぬというのか。……何を……。」
船着場
【川畑】「どうぞ、お足元にお気を付けになって。」
【絵羽】「ありがと、船長さん。お体、本当に大事になさってね。」
【秀吉】「わしの友人にな、肩こりに良く効くっちゅうのを商ってるのがおるんや。次ん時、試供品もらってくるで…!」
【川畑】「いえいえ…、お気遣いをありがとうございます。」
【留弗夫】「おぅら、ガキども! いつまではしゃぎ回ってやがる! とっとと降りろぃ。」
【楼座】「ほら、真里亞。ママと一緒にお船を降りましょうね…。」
 楼座が手を引く真里亞は、まだ幼稚園さえ早いほどに幼い。しかし、普段、会うことのない、いとこたちが集まって、はしゃいでいることはわかるらしく、ずっと興奮していた。
 戦人と譲治は、もうじき中学生か、あるいは中学生になったかという元気盛り。それに、新島で出迎えた朱志香が加わり、船の上は、大変賑やかだった。
【留弗夫】「明日夢、大丈夫か。……お前は本当に乗り物が駄目だな…。」
 留弗夫が、妻の明日夢に肩を貸す…。
【源次】「……ようこそ、六軒島へ。長旅を、大変お疲れ様でございました。」
 親族会議に、一族が揃う。この時代、留弗夫の妻はまだ明日夢で、縁寿も生まれてはいない。郷田と嘉音も右代宮家にはまだ勤めておらず、一族の運命を翻弄することになる、魔女の碑文も、まだ登場してはいない。
 何年も後に彼らを迎えることになる奇怪な事件など、この時点では彼らの誰も、想像できないだろう……。
屋敷
【熊沢】「旦那様、奥様。親族の方々がご到着なさいました。」
【蔵臼】「では……。私は親父殿に声を掛けてくるとしよう。」
【夏妃】「お願いします。私は、皆様方をお迎えします。……あぁ、紗音っ。この窓枠を掃除したのは誰ですか?! まだ埃があるではありませんか…! 大急ぎで拭きなさい!」
【紗音】「か、畏まりました、奥様っ。」
 ………やれやれ、今日も相変わらず夏妃に扱き使われているな。このような、せせこましい、胃に穴が空きそうな生活の中に、一体、何が見出せたというのやら。我は知りたかった。
メタ劇場
 ……紗音。そなたは何を見つけたというのか。そして、それを持たぬことを、妾がすでに知っているはずとは、どういう意味なのか。紗音。そなたを知ることで、我はそれを知ることが出来るというのか……。
【ゼパル】「親族会議の日の六軒島は、普段と何が違うのだろう!」
それは絶対、賑やかさ! これだけの子供が集まることはないものね!」
【譲治】「……大人たちにとっては緊張感を強いられる日だったろうけれど。僕たち子供にとっては、仲良しのいとこたちと一度に会える素敵な日だったね。」
【戦人】「夏はいとこたちで海ではしゃいだし、冬は冬で、色々ゲームをして遊んだっけ! 俺たちにとっては、親族会議ってのは楽しいもんだったぜ。」
【朱志香】「それは私もだぜ。母さんなんかは、粗相があってはダメとかうるさかったけど。私にとっても、いとこみんなで遊べる楽しい日だった。何しろ、普段の六軒島には、何もねぇんだから。」
【戦人】「すげぇお屋敷に住んでたり、プライベートビーチがあったり。ガキの頃は羨ましいと思ってたけど。朱志香の身になって考えると、さぞや窮屈だったと思うぜ。」
【譲治】「だろうね……。六軒島には、本当に何もない。友達の家も、お隣もご近所もない。朱志香ちゃんの気持ちを考えると、少し気の毒に思うよ。」
【朱志香】「だから私にとっては、親族会議の日は、本当に特別な日。はしゃいでふざけて! まるでお祭りの日みたいな気持ちだった。徹底的に悪ふざけの限りを尽くしたぜ。」
【フルフル】「大人たちは小難しい話ばかりで、あっちで遊んでなさいってことになったなら、」
【ゼパル】「歳の近いいとこたちが3人。はしゃぎ回らないわけがない!」
【譲治】「いいや、3人じゃない。4人だったよ。」
【フルフル】「縁寿は生まれてないし、真里亞はまだ一緒に遊べるような歳じゃないわ?」
【ゼパル】「違うよ、フルフル。歳が近いのは、いとこだけじゃないよ。」
【戦人】「紗音ちゃんだよ。彼女も俺らと同じくらいの歳だったからな。」
【朱志香】「母さんが使用人の子とは話すなとうるさかったけれど。私と紗音は少しずつ交流を深めていったよ。六軒島で、もっとも歳が近い、唯一の女の子だったんだから。」
【譲治】「僕たちと紗音の4人は仲良しだったんだ。親族会議の時は、いつも楽しく遊んでいたよ。ね、紗音。」
【紗音】「……はい。奥様に知られれば、お叱りを受けることとわかってはおりましたが……。」
【朱志香】「叱らせなんかしねぇぜ! 紗音はずっとずっと、私の気持ちを唯一理解してくれる親友だったぜ…!」
【紗音】「ありがとうございます……、お嬢様……。」
 我は驚かずにはいられなかった。まさか、使用人の身でありながら、親族の子供たちと交流を持つに至るとは。
 夏妃からは厳重に交流を禁じられているはずだった。しかし、この島でひとりぼっちの朱志香が、歳の近い紗音を友人にしたいと思ったとしても、それには何の不思議もなかった。
 そして紗音もまた、この島にひとりぼっちで、他に歳の近い友人はいなかった。いつしか二人は、使用人と家人の間柄を理解し合いながらも、友情を育んでいったのだ…。
 そして、親族会議で朱志香は紗音を、譲治や戦人に紹介した。大人たちは皆、屋敷で難しい話に没頭している。その間、紗音は使用人という肩書きからわずかに解放され、……朱志香や譲治、戦人たちと一緒に、歳相応の、瑞々しい時間を過ごしていたのだ。
 我は、いつの間にか紗音がそのような新しい世界を生み出していたとは、知りもしなかった。ただ静かに物陰から蝶の姿で。……我は新しき紗音の世界を観察した。
【譲治】「あの日も僕らは薔薇庭園を、そして浜辺を駆け回ったよ。」
【朱志香】「ただ駆け回ってふざけ合うだけが、最高に楽しかったな。」
【戦人】「だな。この時ばかりは、紗音ちゃんも歳相応の笑顔を見せてくれたぜ。」
【紗音】「ちょっと、……はしゃぎ過ぎてたかもです。お恥ずかしい…。」
【朱志香】「今でこそ戦人も立派な身長だけど、当時は私や紗音の方が背が高いし、力も強かったっけ。」
【戦人】「当時の俺は成長がちょいと遅かったからなぁ。」
【紗音】「くす。成長が遅い方の方が、背は伸びると聞いたことがあります。」
【戦人】「いっひっひ! そうだろうなぁ! 紗音ちゃんの胸も、あの頃は全然こんなじゃなかったもんなぁ?」
【譲治】「そんなことはないよ…。紗音だって、あの頃からもう、女性の魅力を持ち始めてたよ。ねぇ?」
【紗音】「ぇ、あ、ど、どうでしょう……。」
【朱志香】「女性の魅力って何だよ、やーらしー!」
【戦人】「いやぁ、あの頃はまだ俺も可愛かったなぁ。夏服の肩から見えるブラの紐に、青い春の稲妻を感じたもんだぜ…! 譲治の兄貴と一緒に、紗音ちゃんの胸はいくつくらいか、夜にコソコソと話し合ったのが懐かしいぜ! いっひっひ!」
【紗音】「そ、そうなんですか、譲治さま…?!」
【譲治】「ゴゴ、ゴホンゴホン!! 恐らくは大いに誤解のある話だと思うよ…! ぼ、僕は男女の成長の違いについて、人生の先輩として講義をした記憶はあっても、ゴホンゲホン!! いとこ同士での夜の猥談は、むしろ健全な発育の証であってそのッ。」
【朱志香】「……いや〜、みんなでいとこ部屋で、深夜になるまでそういう話をしてたっけなぁ…。……隣のクラスの誰々がキスをしたらしいとか、サマーキャンプで素敵だなと思ってた子と手を繋げちゃったッ、とか…。誰々は自分に気がありそうで、とか、何とか…!……ひゃぁ、何か恥ずかしくて全身が痒くなってきたぜ…!」
【ゼパル】「いいじゃないか! それもまた、青春の甘酸っぱい1ページ!」
【フルフル】「男女を意識し合うところから、一番最初の、ピュアな恋が生まれるの!」
【ゼパル】「ただ、男女で一緒にいたいだけという、とてもシンプルでピュアで、それでいて高潔な、最初の恋。」
【フルフル】「素敵だわ…。年頃の少年少女たちが、愛の世界を思い浮かべながら語り合う…!」
【紗音】「そ、……そんなことも、あ、ありましたでしょうか……。」
【戦人】「いっひっひ〜! 何を惚けてるんだかぁ! 耳まで真っ赤になりながらも、紗音ちゃんが一番興味津々って感じだったじゃねぇかよぉ、いっひっひ!」
【紗音】「きょッ、興味津々なんてことはありませんでした…! わ、私はその、…み、皆さん、よく色々なことをご存知だなぁ…と……、その……。」
【朱志香】「うん。紗音が一番カマトトぶってて、そのくせ興味津々だった。一番、むっつりスケベだった〜。いひひひ。」
【紗音】「そ、そんなことありません、そんなことありませんッ、お嬢様嫌いですッ。」
【譲治】「ははははははははは…。そう、いつもこんな感じ。昼は子供らしくはしゃぎ合い、夜は枕を寄せて、秘密の話に華を咲かせた。それら全部をひっくるめて、……どれも懐かしいねぇ。」
【戦人】「Hな話をヒソヒソして、親の足音が近付いてきたら、ガバッと布団に潜って寝たふりしたりとかあったなー!」
【朱志香】「あったあった! 修学旅行かーっつうの!」
【紗音】「あの、全員同時にガバッと隠れる感じ。暗黙のルールみたいな感じというか、妙な連帯感というか。あの感じが、すごい好きでした。」
【譲治】「まぁ、とにかく。そういう話だけじゃなかったよ。他にも色々あった。僕たちはまさに、青春を謳歌し合っていたよ。」
【クレル】「これは、………何だと言うのか。」
 紗音。……これが、ニンゲンの世界の、楽しいことだというのか。この訳のわからぬはしゃぎ合いが、そなたの見つけたものだというのか。
【クレル】「子供同士が群れて、馬鹿馬鹿しい遊びに熱中し、下らぬ話題で盛り上がる。……これが、そなたの見つけた、魔女の悦楽にも勝る、ニンゲンの悦楽だというのか。」
【紗音】「………はい。あなたには、これが楽しくは見せませんか?」
【クレル】「退屈とは言わぬ。だが、この低俗なはしゃぎ合いが、全ての望みを叶えられる妾の理想郷よりも勝るとは、……解せぬ。」
【紗音】「人と触れ合うことは、……とても楽しいことなんです。もちろん、あなたの世界も楽しいものだと思います。それでも、……私はこちらを選びます。」
【クレル】「…………わからぬ。………わからぬ……。」
 ベアトリーチェは、頭痛を堪えるかのように頭を抱える。しかし、いくら表情を歪めようとも、その答えは思い浮かばなかった。
【クレル】「……教えよ。………そなたは、このような低俗なはしゃぎ合いの中に、何を見つけたというのか。」
【紗音】「…………………………。知りたいですか…?」
【クレル】「知りたいっ。」
【紗音】「恋です。」
【クレル】「こ、…………い……………?」
 EP4で紗音は、黄金郷に行ったことがあると嘉音に語っている。「いつまでも眠ってることを許されてる、まるで休日の早朝のお布団の中みたいな感じ」。
薔薇庭園
【戦人】「これ。前に約束したクイーンの本。」
【紗音】「あ、ありがとうございます。お借りしますね。」
【戦人】「いいよ、紗音ちゃんにやるよ。俺はもう読み終わっちまったし。」
【紗音】「そ、そんな…。もらってしまっては悪いです……。高いものでしょうし。」
【戦人】「バザーでほんの何百円かでまとめ買いしたヤツだから。気にするなって。それより、早く全部読んで、また色々と議論をしようぜ。紗音ちゃんと色々議論するのは楽しいからさ。」
【紗音】「はい。私も楽しいです。ミステリーはひとりで読むよりも、ふたりで読む方が楽しいですよね。」
【戦人】「議論したり、妄想したりするのが楽しいよな。ミステリーは読んで半分を楽しみ、読んだ人間同士で語り合って初めて全てを楽しめるってのが、俺の持論だぜ。」
 二人の交流は、同じ推理小説を読んでいたことを知った時から始まった。互いにとって、相手が自分と同じくらい深く、そしてたくさんの推理小説を読んでいたことは大いに意外で、相互の関心を引いた。
 それ以来、こうして。いとこたち4人でのはしゃぎ合いはと別に、二人きりの特別な時間を持ち合っている……。
 始めの内こそ、互いの知識の探り合いのような、ちょっと鍔迫り合いみたいな議論だった。しかしそれはやがて、互いの読書量や考察の深さを尊敬し合うものへと変わった。
 尊敬。信頼。そんな気持ちが互いの友情をさらに育み。
 もちろんそれは、友情と呼ぶべき範疇の中に収まってはいたわけだけど……。……互いが男女であることをほんのりと意識し合う、そんな、微笑ましいというか、若々しいというか、………くすぐったい関係だった。
 しかし二人はまだ、若いという言葉さえ、まだ過分ではないかと思うほどに、若い。恋など無論、まだ知らない。
 だから二人きりでいる時間だけに感じる、この胸の中の、甘いような酸っぱいような、くすぐったい感触が何なのか、理解は出来ない。
 でも、その胸の感触の向こうに、未知の感情があることを気付き、……その扉に、心臓を高鳴らせながら手を掛ける。……そんな、くすぐったい年頃の、少年と少女たちだった。だから。いつしか、推理小説を巡る議論は、二人きりでの時間の口実となっていた…。
【戦人】「ホワイダニットを大切にした推理小説って、あまりねぇんだよな。」
【紗音】「ホワイダニット? 犯人の動機、ですか…?」
【戦人】「あぁ。推理小説で探るべき3つの論点は、フーダニット、ハウダニット、そして、ホワイダニット。この、前者2つを扱う小説は結構多いと思うが、最後のホワイダニットを扱う小説って、案外ないんだよな。」
【紗音】「犯人特定後に動機を自白する作品は、結構あると思いますけど…?」
【戦人】「それを、犯人が自白する前に推理できるようになってなけりゃ駄目なんだ。動機がないと思われていた人物が、推理不能な動機により事件に及ぶってのは、俺は個人的にはアンフェアだと思ってる。」
 フーダニット。誰が犯人か。ハウダニット。どうやって犯行を。ホワイダニット。どうして犯行を。
【戦人】「誰が犯人かとか、どんなトリックでとか。それを問う作品はすげぇ多いぜ。いや、ほとんどだろうな。しかし、動機を推理する作品ってのは、決して多くないと思う。」
【紗音】「そうですね。フー・ハウ・ホワイの3つの中で、一番蔑ろにされている要素かもしれませんね。」
【戦人】「ホワイダニットを大切にしない推理小説ってのは、何だか一味足りないように思う。……いや、つまらないって言ってんじゃない。……何て言うのか、……一番大切なものが足りないような気がするんだ。」
【紗音】「一番大切なものが、足りない……?」
【戦人】「心だよ。心が、足りない。」
【紗音】「………心………。」
【戦人】「人の心ってのは、すごく重要だと思うんだ。人間が、殺人を決意し、計画し準備し、実行に踏み切るには、ものすごい大きな心の力が必要なはずなんだ。人は、心で動いてるんだぜ。」
 ……即ち。人を殺せるのは心だけなんだ。殺したいほどの感情の高ぶりの挙句に、起こるのが殺人という悲劇なんだ。逆を返せば、殺人という悲劇に至らしめた心を探ることこそ、事件に迫るってことじゃねぇのかな。
 心だけが、人を殺せる。そして、人が殺されたなら、心を探らなければならないんだと。彼はそう言った。
【戦人】「だからさ。犯人がただの殺人狂で、面白半分に事件を起こしてるって作品は、何だか少し、好きになれない。」
【紗音】「………殺すに値する、充分な心の動きを描いた作品が、お好きだと?」
【戦人】「そうさ。そしてそれを推理させてくれる作品が、俺は本当は一番、好きなんだ。」
 彼はそう言って、振り返って微笑んだ。
 ……私は今日まで、トリックを暴くことを主体にした、ハウダニットを探る作品を好んできた。しかし、今日からは彼の勧める、そういう作品を探してみようと思った。
【戦人】「心ってやつを、俺は蔑ろにしたくない。………人は、心で動いてるんだからな。」
【紗音】「……そうですね。仰る通りだと思います……。」
 ミステリーだけに、限らない。人は誰だって、何にだって、心で動いている。それを察することが、人との交流、……いや、心の交流なのだ。
 私たち人間は、誰もひとりでは生きられない。なのに、相手の心を覗く術を持たない。だから、人との出会いの数だけ、…………心のミステリーがある。それに触れ、推理し、理解し合うことで、人は心は、交流できるのだ。
 私たちはここで二人きりで、ミステリーを議論し合ってる。そしてそれを通して。私たちは互いの心を探り合い、心のミステリーを議論し合っている……。
 私があなたを想っているように、……あなたも私を思っていて欲しい。それを探り合い、互いの心の深層を推理し合う、……これは私たちの、恋のミステリー。
玄関前
【戦人】「ん、……もう、こんな時間だな。兄貴たちを待たせちゃってるかな。」
【紗音】「そろそろ戻った方がいい時間ですね……。」
【戦人】「……紗音ちゃんと話してると、あっという間に時間が過ぎちまうな。」
 私の心に浮かぶ言葉を、そっくりそのまま、彼は代弁してくれる。同じことを想い合ってるから、同じ言葉が出る。
【紗音】「いつまでも二人きりでお話を出来たらいいのに……。時計の針が恨めしいです。」
【戦人】「俺もだぜ。六軒島で一番楽しいのは、こうして紗音ちゃんと話すことだからな。」
 彼の微笑む瞳に私が映っているのを見た途端、……私は後を向いてしまう。真っ赤になった顔を、見られないために。
【紗音】「私も、……外の世界へ出られたなら。……もっともっとたくさんの本を読めるのに。」
【戦人】「…………………………。」
 私が出入りする新島の書店と、彼が出入りする都会の書店では、規模がまったく違う。本の貸し借りは、すでに私が、一方的に彼に借りるままになっている。
【戦人】「紗音ちゃんは、いつまで使用人を続ける気なんだ。」
【紗音】「……わかりません。」
【戦人】「もし、いつか。辞める時が来たら。」
【紗音】「来たら……?」
【戦人】「俺のところへ来いよ。」
 彼は事も無げに、……そう言ってくれた。わずかに恥ずかしいのか、彼の照れ笑いも少し紅潮する。
【戦人】「そしたら。……今度はもう、時間も何も気にせずに済むもんな。」
【紗音】「……そうですね。……ずっと、……一緒にいられますね…。」
 この島での逢瀬は、一年の間に数えるほどしか許されず、……そしてその一度も、無常なほどわずかの時間でしかない。
 電話でも手紙でも駄目。二人きりでこうして、肩を並べてでしか、……私たちのミステリーは、語り合えないのだ。
【戦人】「必ず、その日は来るさ。」
【紗音】「……来るでしょうか…。」
【戦人】「あぁ。絶対にな。」
 絶対? どうして、絶対なんて…?
 1980年。戦人12歳、紗音10歳。
【戦人】「その日が来たら……、俺が白馬に跨って、迎えに来てやるぜ。」
【紗音】「………え……、」
 彼はそう言い、背を向ける。彼のプライドが、紅潮した頬を私に見せることを拒むのだろう。でも、表情は見えずとも、彼がどんな顔をしているかはわかった。
 白馬に跨って、迎えに来るのは、……な、何だっけ…。えぇと、それは、白馬の王子様……。それって、どういう意味だっけ、……えぇと、えぇと………。
 あなたが、……私の王子様になってくれるって、……こと……?
 ……頭が真っ白になってしまって、彼のこの、あまりに簡単なはずの、恋のミステリーが推理できない…。
【紗音】「そ、……その日は、いつ来るんでしょう…。」
【戦人】「紗音ちゃんさえ決心したなら、すぐにさ。」
【紗音】「え、……………っ…。」
 心臓が、きゅぅと絞り上げられる…。甘いのに、苦しい……。
【戦人】「俺はいつだっていいんだぜ。紗音ちゃんの人生さ。よく考えてから、決心するといい。……俺はその決心がいつであっても、それを尊重するぜ。」
【紗音】「は、……はい……。」
【戦人】「その日まで、ずっと待ってるぜ。」
【紗音】「ん、……ぁ………、」
 もし私が、もうわずかに愚かで、そして勇敢であったなら。その決心はもうあるから、今すぐ私を、この島からさらって下さい。……そう言えただろう。
 でも、私は言えない。お互いのためにも、後の人生をよく考えなくちゃ……。どうでもいい、わけのわからない考えで、頭がいっぱいになる……。
【紗音】「う、……嬉しいです……。………ありがとう……。」
【戦人】「へへ……。」
 彼は背を向けたまま、頭を掻いて笑う。それを照れ隠しの仕草だと知っているから、彼の表情がありありとわかった。同じように。きっと彼もまた、私の表情を察しているだろう。
 私たちは恋の推理者。互いの恋心を、推理し合い、謎を掛け合う…。
【紗音】「……時間をくれて、ありがとうございます。」
【戦人】「時間は無限にあるぜ。」
【紗音】「いいえ。……それでは申し訳ないです。待ちくたびれちゃったら、申し訳ないです。」
【戦人】「ははは。」
【紗音】「だから、決心しました。……うぅん、決心します、と言うのが正しいでしょうか。……今日、今すぐ、使用人を辞めるという意味じゃありません。……そう、…1年。……1年後に。」
 ……1年後にも、あなたが、私を白馬に跨って迎えに来てくれる気持ちが、まだ揺らいでいなかったら。
 そして私も。1年後に、あなたを好きでいる気持ちが、揺らいでいなかったら。私は、あなたに全ての人生を捧げようと思います……。
【戦人】「1年後に、この同じ場所で。……決心しようと、思います。」
【紗音】「……1年か。いい時間だな。春夏。秋冬。……それだけの時間を過ごして、自分の心と正直に向き合うといいぜ。」
【戦人】「で、……ですから…、来年……。」
 きっと、……迎えに来て下さいね……?
【戦人】「おう。」
 私の臆病な決意に、彼は力強い即答を返す……。
【戦人】「その日が来るのを、待っているぜ。」
【紗音】「はい。……私も、待っていますからね……。…絶対、……来て下さいね…。」
【戦人】「あぁ。」
【紗音】「……絶対ですよ。来年、来て下さいね。」
【戦人】「あぁ。絶対、来るぜ。ここで会おうな。」
 絶対。
薔薇庭園
 ………そうか。この、………例えるなら、甘く窒息するような感情が、……恋、なのか…。
 それは妾の知らぬ感情。持たぬ感情。如何なる望みをも叶えられる、我が魔法を以ってしても。如何なる望みをも叶えられる、我が理想郷を以ってしても。得ること叶わなき、……焼けるように熱く、………なのに狂おしいくらいに抱き締めていたい、理解できない感情。
 理解できるのは、妾がどんなに大魔女であっても、それを生み出せないこと。それは、誰かに与えられなくてはならないこと。
 妾は初めて、自分が万能でないことに気付く。そして、紗音がニンゲンの世界で、何を見つけたかを知る……。
【クレル】「………この感情は、……………駄目だなァ……。…覚えちまったら、……忘れられぬではないかよ……。」
 ……紗音。……そなたの勝ちだ。
 恋、……か。妾に欠けたる、もっとも重要な元素、……なのかも知れぬな…。
 ……紗音。そなたの恋路。……妾は見守ろうぞ。そして、もっともっと、……この新しき感情を教えておくれ………。
 問題のセリフ登場。ただし、これは紗音の回想であるため、実際の会話がこの通りだったかどうか、詳細は不明ではある。

試される日

メタ礼拝堂
【ウィル】「……………………。」
【クレル】「…………この姿は……、」
【ベルン】「貸してあげるわ。私、馬鹿は嫌いだから。……くすくすくすくす。仮の名として、クレルと名乗りなさい。それとも、ベアトがいい?」
【クレル】「……………………。……感謝します。みすぼらしい姿を晒さずに済みます。」
 ベルンカステルにより、偽りの姿が与えられる。これは、ベアトリーチェを演じる者の、仮の姿。ベアトリーチェの正体に未だ至れぬ者へのまやかし……。
【理御】「……それが、……異なる世界の、…私の物語、なのですか。」
【クレル】「理御。……これが、異なる世界のあなたにして我の物語。……私がニンゲンとしてでなく、魔女として生きる世界の物語…。」
【理御】「…………私も、自分の人生に、もしもを想像することはあります。……しかし、……あなたの話す物語は、……私の想像を、超え過ぎている…。」
【ウィル】「それでも。……もう一人のお前の辿った人生だ。」
【理御】「だからってッ! 容易に受け容れられるものではありませんっ。」
 理御は突然、叫んで俯く。なぜなら理御は、もう知っている。ベルンカステルによって与えられたカケラによって、知っている。
 黄金の魔女ベアトリーチェとして生きる別の世界。そしてその世界では、………やがて。…………1986年10月の親族会議で、………恐ろしい事件を起こす首謀者となるのだ。
【理御】「……いくら異なる世界とは言え、……私が、家族や親族を、使用人の人たちみんなを巻き込んで、恐ろしい事件の首謀者になるッ。それに、私はどう向き合えばいいと言うのです?!」
【ウィル】「……………黙って聞いて、静かに理解しろ。」
【理御】「別の人生では、私が使用人をしていて! かと思えば、いつの間にか魔女になっていて! そしてやがては恐ろしい殺人事件を何度も繰り返す…! それを、どう理解しろと言うんです?!」
【クレル】「…………………………。」
【ウィル】「あぁ、そうだろうな。……誰にも、理解は出来ねぇだろうよ。……こいつも、もはや誰にも理解してもらえるとは思ってねェ。だからお前なんだ。……だからベルンカステルは、お前とこいつ、出会うはずのない自分同士を、こうして出会わせたんだ。」
【ベルン】「…………別に深い意味はないわ。単なる気紛れよ。」
【ウィル】「誰にも理解できない動機だから、理御。せめてお前だけは理解しろ。この物語の主役は俺じゃない。お前だ。………俺は、お前の理解を助けるための、介助役に過ぎねェ。」
【理御】「ウィルは、犯人の動機を理解した、と言いましたね。」
【ウィル】「……あぁ。」
【理御】「それは、……私が家族を、親族を! みんなを殺すに足る、納得できる動機なんですか…!」
 今さら隠すこともなさそうだが、無粋を嫌うベルンの意図もわからなくはない。
【ウィル】「さぁな。それを考えるのは自分だ。俺が納得しても、お前が納得するわけじゃねぇ。……お前の納得は、お前がするんだ。」
【理御】「私には、何が何だか、本当にわからないんです…! ベアトリーチェが起こしたといういくつものゲーム盤という名の事件を見ましたっ。そして今、もう一人の私が語る、異なる人生についても聞いていますっ。でも、全然、それと事件が繋がらない! 理解が出来ない!!」
【クレル】「………………私も、……この時。やがて、そのような恐ろしい事件を引き起こすことになるなど、想像することも出来ませんでした。いえ、仮に想像し得たとしても。………私に、あのような事件を起こす力は、……ありませんでした。」
【ウィル】「だろうな。……お前の不幸は、多分。……碑文の謎を解いたことだろうな。」
【理御】「………え? あの、お祖父さまが出題したという、隠し黄金の碑文、ですか…?!」
【ウィル】「事件毎に異なる共犯者を得るシステム。………導き出される推理は、犯人が莫大なカネを持っていたという可能性。そして、………全てを黄金郷に招き、……全ての恋を成就をさせる、もう一つのシステム。」
【クレル】「……………動機だけでなく。そこまでを、お察しでしたか。」
【ウィル】「それこそが、第4のゲームの最後の謎の答えだ。……お前の最大の不幸は、碑文を解き、………本当の意味で、黄金の魔女として復活し、その魔力を得てしまったことだ。」
【クレル】「……今となっては、……あれはやはり、不幸なことだったのでしょうか。………わかりません。しかし、1986年に戦人さんが帰ってくるという事実が変わらぬ限り。………何かの悲劇は起こったでしょう。」
 犯行動機は複数の側面から説明が可能である。自分の運命に絶望しての無理心中。あるいは、死に値する自分を故意に作り出して、生にふんぎりをつけるため。
 だが、最も重要なのは、天文学的なリスクを支払うことにより奇跡を願ったから。この側面については、クレルの最後の告白の際に、もう少し踏み込んで説明する。
【ウィル】「そうだな。……戦人が帰ってくるのが、一年早いか遅いかだったら。………事件は起こらなかったかもしれねェ。」
 いや、何か小さな事件は起こったかもしれない。そしてそれもきっと、誰にも解くことの出来ぬ、謎の不可能事件となっただろう。しかしそれでも、六軒島連続殺人事件に比べたら、ささやかなもの……。
【理御】「……戦人くんが、……一年早いか遅いかだったら、……とは?」
【クレル】「……………………。……運命とは、本当に皮肉なものですね。………私に魔女の人生を歩ませ、……碑文を解くことで、本当の魔女となり。……そして、6年を経て、彼の帰りを知る。………それら全てが運命ならば。……これは私にとって、必然であり、逃れられなかった事件、なのです。」
【ウィル】「戦人は1980年。母、明日夢の死と、父、留弗夫の早過ぎる再婚に憤慨して、右代宮家を飛び出した。そして6年間、右代宮家を離れた。」
 母方の祖父母の理解を得て、姓も母方を名乗った。そして祖父母が亡くなり、留弗夫との和解もあって、1986年に右代宮家に再び戻る…。
【ウィル】「その不運が、……お前に事件の動機を生む。」
【クレル】「………思いました。……どうして、6年も経て。………今さら帰ってくるのかと。」
【ウィル】「そうだな。いっそ、……永遠に帰って来ない方が、お前には良かったのかもしれない。」
【クレル】「もちろん、苦しみは続いていたでしょう。……しかし、大量殺人という、許されざる犯罪に手を染めずには済んだかもしれません。」
【理御】「………戦人くんが右代宮家を去り、……それがどんな動機になるというんですか。」
【ウィル】「逆だな。」
【理御】「……逆?」
【ウィル】「戦人が去ったから、事件が起こるんじゃない。………戦人が帰ってきたから、事件が起こるんだ。」
【クレル】「………………………。……こうして考えれば考えるほどに。……右代宮戦人。……何と憎らしい男か。何より憎らしいのは、彼は自分のせいで事件が起こることに、最後まで何の自覚もなかったこと。」
【ウィル】「最後には思い出した。……ただし、お前が諦めて消えたより、ずっと後のことだがな。」
【クレル】「…………それが本当なら。………私の心も、…少しは救われるのですが。」
【理御】「私には、未だにあなたたちが何の話をしているのか、わかりません。……ですが、逃げずに聞こうと思います。知ろうと思います。……一体、あなたに何があって、事件を決意するというのですか。」
【ウィル】「そうだ。それが一番、大事なんだ。……右代宮戦人が推理小説に対し、ホワイダニットを尊んだように。………黄金の魔女の物語もゲームも、謎も全て、……そこに秘められている。」
【クレル】「では……。……引き続き、語りましょう。……1980年。……私が、事件を決意する、6年前から。」
 第六章“試される日”。
1980年(事件まであと6年)
【紗音】「……戦人さまが、……右代宮家の籍を、出られた……?」
【マモン】「旦那様と留弗夫さまがそう話してるのよー! もう、びっくり!」
客間
【蔵臼】「お前の人生にも、そして家庭にも。私は何も文句を言うつもりはない。しかし、親父殿はカンカンだよ。勘当ならまだしも、子の方から愛想を尽かして籍を出て行くなど、聞いたこともない。」
【留弗夫】「……誰に似たんだか。戦人のやつめ、妙に頑固でなぁ。」
【夏妃】「戦人くんの気持ちがわからないのであれば、父親としての資格を疑われるかと思いますよ。」
【蔵臼】「よしたまえ。霧江さんの子供を、しっかり育てたいという責任を、留弗夫なりに示したということだろう。」
【夏妃】「それが来年だったなら、何も言うことはありません。……しかし、どうして今年なのですか。喪も明けない内から。……懐妊の時期を考えると、留弗夫さんを見下さざるを得ません。」
【留弗夫】「…………まぁ、そう虐めないでくれ。……これが、俺なりのケジメの取り方なんだ…。」
【夏妃】「戦人くんが、亡くなられた明日夢さんに代わって、あなたに抗議されている気持ち。……本当によくわかります。もしここにいたなら、一緒に肩を抱いて泣いてあげたい気持ちですよ。」
 夏妃の言葉は鋭い。容赦なく留弗夫をえぐる。
 留弗夫には何も言い返せない。霧江との仲は、完全に不倫だった。……留弗夫の言い分によるなら、霧江との付き合いは明日夢より長い。そして、明日夢との結婚後も、その縁が切れていなかった……。
 何だよ、それッ!! このクソ親父!! じゃあつまり、あんたはずっと、母さんを裏切ってたわけじゃねぇかよ!!
 そりゃ、俺だって霧江さんは知ってるさ。あんたのビジネスパートナーで、いつも事業の相談に乗ってくれる頼れる友人だって、聞かされてたさ! それが男女の仲だったなんて、今さら言われたって知ったことかよ!!
 母さんが死んだ後なら勝手さ! 俺だってあんたの人生だ、好きにしろと言ってるさ! でもな、霧江さんの懐妊はいつだよ?! まだ母さんは生きてるじゃないか?!
 あぁ、やっとわかったぜッ! 何で俺はあんたにこんなにも吐き気を感じるのかってな! あんた、母さんがここで死んでくれて嬉しかったろ? そうなんだろ?!
 もし母さんが生きてたら、不倫のことや、子供のことで、どう隠すかで苦労が耐えなかったろうからな!! 都合よく母さんが死んでくれたから、霧江さんと結婚して、新しい子を俺の弟か妹になんて、よく言えたもんだぜッ!!
 母さんが天国で泣いてらぁッ!! 恥を知れッ、恥を知れよッ!! 俺は恥ずかしいぜ!! あんたと同じ、右代宮の姓を名乗ることが恥ずかしくて仕方ねぇ!!
 生まれてくる子に罪はねぇさ。両親が揃ってなきゃ可哀想だ。せいぜい、新しい家族を育んで、幸せに育ててやれよ!! だがな、俺は許さねぇからな!!
 だって母さんはもう、憎むことも出来ねぇ!! だから俺が母さんに代わって、あんたを憎む!! 全身全霊をかけてなッ!! あばよ、クソ親父ッ!!
【留弗夫】「……………………………。」
【蔵臼】「もう充分だろう、夏妃。……留弗夫は、決して戦人くんに愛情を失ったわけではない。……長い時間をかけるだろうが、親子の絆を取り戻したいと願っている。」
【夏妃】「父親として当然です。……赤の他人ならいざ知れず。自分の血を分けた子供ならば、それが当然の責務です。」
【留弗夫】「………いいさ。とことん俺を蔑んでくれ。反論はしねぇ。……それが俺のケジメの付け方だ。」
【蔵臼】「せめて、生まれてくる子だけは、幸せにしたまえ。」
【留弗夫】「…………生まれてくる子も、……戦人も。……俺の子だ。」
【蔵臼】「明日夢さんが亡くなり、霧江さんと籍を入れられるのは。……戦人くんには苦々しいだろうが、生まれてくる子にとって、最善だ。……私はお前を理解するよ。」
【夏妃】「戦人くんが、明日夢さんが亡くなって嬉しかっただろうと、あなたを詰った気持ちが、よくわかります。」
【蔵臼】「もうよせ、夏妃。……すでに留弗夫は、詰るべき人間から、充分にそれを受けている。」
【蔵臼】「……それより、紅茶をもらえんかね? 厨房の誰かに紅茶を頼んできてくれんかね?」
【夏妃】「……………わかりました。」
 夏妃は、席を外せという意味だと理解し、退室する。それを見届けると、蔵臼は、少しだけ姿勢を崩して言った。
【蔵臼】「…………明日夢さんは気の毒だったが、……生まれてくる子を考えれば、これは偶然のタイミングだったかもしれんね。」
【留弗夫】「まるで明日夢が、……それを知って、自分から舞台を降りたかのようだ。………俺が明日夢を殺したのか…? ………だとしたら俺は、……いつから殺してたんだろうな…。」
【蔵臼】「明日夢さんを大事に思う気持ちがまだあるなら。……何年かけてでも、戦人くんと復縁したまえ。」
【留弗夫】「………あぁ。……わかってる。」
【蔵臼】「そして、霧江さんと、生まれてくる子にも、等しい愛情を注ぎなさい。……明日夢さんの十字架を、背負いながらね。」
【留弗夫】「…………………………。………もし、地獄にもリザーブってヤツがあるんなら。」
【蔵臼】「……ん?」
【留弗夫】「特上の席を、俺にひとつ、……取っておいて欲しいもんだぜ……。」
【蔵臼】「………………………。」
厨房
 右代宮戦人が右代宮家の籍を抜けたとの一報は、右代宮家を駆け巡った。
【熊沢】「戦人さんもお気の毒に……。いつかきっと、仲直りをしてくれると信じていますけど……。」
【源次】「……親族の方々の都合だ。使用人の知るところではない。それよりも、新しく右代宮家に加わられる霧江さまのお顔を、早く覚えねばならんな。」
【熊沢】「それもそうですねぇ。今年の親族会議には、いらっしゃるんですからねぇ……。」
 新しく右代宮家に加わる人間が、今年の親族会議にやって来るというのなら。……右代宮家を出て行ってしまった人間は、今年の親族会議には、どうなるのだろう…。
黄金郷・東屋
【ガァプ】「なら、戦人は来ないってことじゃない?」
【クレル】「そう考えるのが、妥当であろうな。賑やかな男がひとり欠け、何とも寂しいものよ。」
 多くの者にとって、戦人が右代宮家を抜けることは、寂しくはあっても、それ以上ではない。しかし、………紗音にとっては、どうだろう。戦人は、白馬に跨って迎えに来るのではなかったか……。
使用人寮・屋根裏部屋
 私も、最初は驚きました。右代宮家を出られたということは、もうこの島に来てくれなくなることだと思ったからです。
 ……確かに、戦人さんの気持ちを考えれば、それは無理もないことだと思います。家を飛び出したい気持ちも、痛いくらいにわかります…。
 でも、それではもう、……六軒島には来て下さらないのでしょうか…? 一体、どういうことになっているのか。本当に右代宮家には、もう二度と戻ってこないのか。それを彼に直接問うことも出来ず、私は日々、焦燥感を募らせることしか出来なかった…。
 ……戦人さん。お気持ちはわかります……。でも、…………。………右代宮家を捨てられたから、もう二度とお出でにならないなんて、……嘘ですよね……?
 何が何だかわからなくて、世界がぐるぐると回っているように感じる…。胸が締め付けられて、何を考えることも出来ない。
 ふと、頬を触れた時、……熱く濡れていて驚く。……私は、こんなにも惨めな顔で、……涙を零しているのだ……。
 紗音……、……紗音………。
 誰かが、……ものすごく遠くで呼んでいるのが聞こえる。でも、それはとても不思議な遠さ。とてもとても遠いのに、……すぐ近くにいるような、……そんな不思議な感じの声だった。
黄金郷・東屋
【クレル】「……紗音。そなたの胸中、……察するぞ…。」
【ガァプ】「大丈夫よ。……あくまでも親子喧嘩。そして、噂話には尾ひれがつくものよ。きっと大袈裟に伝わってるだけだわ。」
【クレル】「そうとも。もう二度と戦人がこの島に来ないと、決まったわけではない。気を強く持つのだ。」
 ……ここは、……どこだろう……。覚えてる気がする。
 前に見た、不思議な夢の中の景色に、……似てる気がする。……じゃあ、これは、……また夢だ……。黄金の薔薇庭園の東屋に私はいて、……白と赤のドレスを着た、二人の魔女が私を励ましてくれていた…。
【クレル】「噂好きな若い使用人たちが、話を好き勝手に膨らませているに違いないぞ。籍を抜けたなどと大袈裟な! きっとただの親子喧嘩に違いないぞ。」
【紗音】「……………………。……ありがとう。……そうだといいのですが…。」
【ガァプ】「そうに決まってるわ。男の子だもの。父親と喧嘩のひとつくらいするわ。」
【クレル】「そうともそうとも。すぐに頭を冷やして仲直りするに決まっているではないか。」
【ガァプ】「男の喧嘩なんて火付きは良くても、すぐ燃え尽きちゃうものよ。」
【クレル】「それに比べ、女の喧嘩は炎こそ上がらぬが、いつまでも火種が残るものよ。男の喧嘩など激しくとも一時! 清々しいものよ。」
【紗音】「……そうですね。……戦人さんと留弗夫さま…、……早く仲直りするといいですね…。」
【クレル】「するとも! 戦人はいつも言っていたであろうが。よく父親と喧嘩をすると! 今回もそれらの内の一つと変わらぬ。母親の死と父親の再婚で動揺したに過ぎぬわ。」
【ガァプ】「祖父母の家へ行ってしまったそうだけど、どうせ2〜3日も頭を冷やせば、元の鞘に納まるわ。ほら、あれよ、プチ家出ってヤツね。」
 二人の魔女は、戦人親子の喧嘩など、大したものではないと何度も繰り返してくれた。……ただの親子喧嘩程度の話だったら、噂にはなるまい。とても楽観できる気分になれない…。
【クレル】「何れにせよだ。これは戦人親子の問題。放っておけば時間が解決してくれる! そなたが気に病んでも仕方がなきことよ。」
【ガァプ】「今日、戦人が来なかったからといって、これからも来ないと決め付けるのは早計だわ。今日は留弗夫がひとりでやって来ただけの話。」
【クレル】「そうとも。また次の親族会議では元気な姿を見せてくれるに決まっている! 恐らくはその内、霧江とやらを連れてやって来るであろう。その時には、不貞腐れながらも一緒に来てくれるに決まっている!」
【紗音】「……そうですね。……うん。………きっと、…そうですよね。」
 そうであれば、どんなにいいことか。むしろ、今すぐカレンダーの暦を秋まで進めて、次の親族会議で彼が来てくれることを、この場で確かめたかった。
 そうならば、全ては杞憂。噂好きの親族や使用人たちが、尾ひれを付けただけのこと……。
 もしこの場に戦人さんがいてくれたなら、もう六軒島に来ないなんてないことはないですよね…?、と、……今すぐ問い詰めたい。そして、そんなことはねぇよと一言聞ければ、……私は安心できるのだが…。
 留弗夫さまの家の電話番号は知らないが、調べればわかるだろう。しかし、使用人の身分である自分に、電話を掛ける言い訳など何もない。
 それに、家出先の祖父母宅の電話番号など、知りようもない……。私は次に留弗夫さまご一家が訪れる機会まで、……全てが杞憂であるように祈り続ける他、何も出来ないのだ……。
 でも、こんな気持ちで今日を終えられるだろうか…?
 無理だ。私はきっと今夜、一睡も出来ないだろう。こんな気持ちのまま、……いつ訪れるかもわからない、次の機会をじっと待つなんて、私には出来ない…。
 それは来月? 再来月? ……最悪の場合、次の親族会議まで待つことになる。こんな、……窒息するような気持ちのまま、私は待ち続けなければならないなんて……。……耐えられない………。
【ガァプ】「ねぇ、紗音。唐突に尋ねるけれど。……あなたがした一年後までの決意というのは、この島の使用人を辞めることを決めるだけの決意じゃないでしょう?」
【紗音】「……え、……それは………。……………………。」
 それは、……新しい人生を踏み出すための決意。ただ惰性で使用人を続けるのではなく。新しい人生を歩むために、自ら決意して、これまでの人生である使用人を辞めるのだ。
【ガァプ】「そして、その決意の日に迎えに来ると、戦人は約束してくれたんじゃなかった…?」
【紗音】「………それは、………はい……。」
【クレル】「妾は言葉を選ばぬから言おう。それはつまり、戦人と共に新しい人生を踏み出そうという決意ではないのか…?」
【紗音】「……戦人さんと、……新しい、………人生…。」
【クレル】「そなたは決意の日に、戦人が迎えに来てくれないかもしれないと恐れている。しかし、決意の日は、戦人が迎えに来てくれることだけを意味するのではないぞ。」
【ガァプ】「あなたが戦人と、これからの人生を共に歩む決意を示す日でもあるのよ。」
【クレル】「その決意は、そなたが自らするものだ。戦人がただ来てくれるだけで成し得るものではないぞ?」
【ガァプ】「……紗音。あなたにはもう、これからの人生を彼と歩む決意はあるの? それがまだないから、次の親族会議の日に決心するなんて言ったんでしょう?」
【クレル】「戦人と人生を共に歩むとは、どういうことなのか。そなたは真剣に考えたことはあるのか?」
【紗音】「それは、………その…………。」
 六軒島で使用人を続ける限り、彼と会える機会は限定される。未成年の自分たちは、その、……いきなり結婚とか、そういう話にはなれない。しかし、使用人を辞めれば、会える機会はもっと増えるだろう。
 ここを辞めたら、……私は福音の家に戻る。
 右代宮家のお給金があるから、戦人さんの家まで遊びに行くお金は充分にある。そして学校を卒業したら、戦人さんの家の近くにアパートを借りよう。あとはその、……働きながら学校に通おう。それは漠然と考えるよりも大変な人生。
 ……でも、戦人さんともっともっと会える。毎日は無理でも、毎週は会える。
 使用人を辞めるのだから、もう上下関係はない。……普通に電話をしてもいい。学業と仕事の両立なんて今もやってる。右代宮家での仕事のお陰で、自分の身の回りの家事くらいなら充分に出来る……。
【クレル】「……楽しそうな人生ではないか。ささやかな住まいを借りて、自分の城を築けたなら、ぜひ戦人を招待するがよい。」
【ガァプ】「そうして、新しい二人の時間、二人の世界が始まっていくのね。素敵じゃない。」
【紗音】「………は、……はい。……ちょっと、……素敵ですよね……。」
 そこまでの未来を、しっかりと想像したのは、これが初めてだった。彼に対する恋心と、これからも一緒に居たいという、素直な気持ち。……それを、ぎゅっと噛み締めることが出来た。
 しかし、こうしてしっかりと私の選ぼうとする未来を想像して、初めて私は理解する。私は、この未来に踏み出そうという決意を、自覚しなければならなかったのだ。
【ガァプ】「やがては。………結婚だって、夢見ちゃってるわけでしょ?」
【クレル】「ほうほう! 結婚前提とは、最近の小娘は進んでおるわ…!」
【紗音】「そ、そこまではその、あの……っ。」
【ガァプ】「夢を否定しないで? 未来を見据えぬ、目を閉じたままの第一歩に、何の意味もないんだから。」
【クレル】「惚れた男なら、結婚しちゃったりしてーッ、と夢見ても何の罪もないぞ。それが乙女の特権であるわ。」
 私はいつの間にか真っ赤になっていた。そこまでを考えるのは、さすがに気が早過ぎると思って、今日まで、意識して考えないようにしていたことだ。
 ………しかし、魔女たちに促されて、初めて至るその想像は、くすぐったくて、とても鮮烈。梅雨の束の間の晴れに表へ出た時の清々しい風を、体いっぱいに浴びた時のような、……形容し難い爽やかさと覚醒感があった。
 確かに私は、そこまでの決意に、至ってはいなかった。
 その、新しい人生に踏み出す決意を、……私は次の親族会議の日までにしなければならないのだ。その決意も出来てないなら、この島でぼんやり使用人を続けるのがお似合いなのだ。
【ガァプ】「そしてそれは同時に、試練でもあるのよ。」
【クレル】「確かに。これは試練であるな。」
【紗音】「……試練…? どうしてですか…?」
【クレル】「愚か者め。戦人は、次の親族会議に迎えに来ると、そなたに約束したではないか。」
【ガァプ】「白馬に跨って、迎えに来るってね?」
【紗音】「は、……はい……。」
【クレル】「そなたは、戦人がもう来ないと思っている。つまりそれは、戦人の約束を、信じないということではないのか。」
【ガァプ】「だから、これは試練なのよ。彼を信じて待つという、あなたへの試練。」
【紗音】「………試練……。」
 それは、考えなかった。
 彼が一年後に迎えに来ると約束してくれたなら。私もまた、一年後に迎えに来てくれるということを信じなくてはならない。……それを疑ってしまうようでは、待つ資格などないではないか。
 …………………………。
【クレル】「戦人が右代宮家を抜けたのだって、案外、そなたとの未来を見据えてのことなのかもしれぬぞ?」
【ガァプ】「あら、どうして?」
【クレル】「二人で暮らし、将来、婚姻の契りを交わすことまで見通したなら、右代宮家の使用人である紗音と結ばれるには、右代宮の姓が邪魔をすることもあるかもしれぬ。」
【ガァプ】「あぁ、なるほど! 使用人の娘と結ばれるなんてギャンギャンって言われることを見越して、先に右代宮の姓を捨てたってわけね…!」
【クレル】「どうだ、紗音! これならば全てに筋は通るというもの! 戦人が右代宮の名を捨てたのは、そなたを考えてのことよ! 留弗夫との唐突な親子喧嘩は、それをもっともらしくする口実に違いあるまい。」
【ガァプ】「素敵な推理だわ! さすが、リーチェ!」
【クレル】「わっはっはっはっはっはっは…! どうだ、紗音。落ち込むには値しないではないか! それどころか、そなたと結ばれるために、戦人が先に決意を見せたようなものではないか!」
【紗音】「……くす。……くすくすくすくすくす……。」
 私の顔に、ようやく笑顔が戻る。さすがに、魔女の話を真に受けて安堵したわけではない。むしろ、まったく逆。よくも、そんな都合のいい、滅茶苦茶な解釈が出来るものだと、滑稽になってしまったのだ。
 でも、それら滅茶苦茶な話は全部、私を元気付けるためのもの。……魔女たちの言う通り、私は戦人さんを信じなくちゃならないし、彼の噂話を聞いて、勝手にくよくよしても仕方ないのだ。
 私は、次の親族会議の日までに、彼と添い遂げたいという、しっかりとした決意を固める。そして、それを彼が受け止めに、……私を迎えに来てくれることを信じる。
 戦人さんが、将来、私と結ばれるために右代宮家の籍を抜けたなんて都合のいい想像は、………さすがに苦笑してしまう。でも今は、そんな想像を受け容れるくらいの、余裕があるべきなのだ。
【紗音】「…………ありがとうございます。……何だか、少し気分が楽になりました。」
【クレル】「ならば良かった。そなたがが悲しみで枕を濡らすのを見るのは、耐えられんのでな。」
【紗音】「私の夢の中にまでやってきて励ましてくれて、本当にありがとう。」
【クレル】「うむ。……もうじき、朝になる。全ては夢。そなたは目覚めれば何も覚えてはいまい。しかし、そなたの心に静寂は戻る。」
【紗音】「………はい。……私は彼を信じて、待つ。……だから、小さな噂話になんか、耳を貸さないんです。」
【クレル】「そうだ。次の親族会議まで、自分を磨きながら待つのだ。花嫁修業と思えば、日々のつまらぬ雑事も彩を帯びよう!」
【紗音】「くす。……本当にありがとう。」
【ガァプ】「……リーチェ。もう、朝になるわ。」
【クレル】「そうか。それではさらばだ、紗音。……そなたは妾を覚えてはいまい。しかし、妾はいつもそなたの側にいて、そなたを見守っているぞ……。」
【紗音】「ありがとう……。……ありがとう……。」
【クレル】「……次の親族会議など瞬く間よ。……のんびりと待つが良い……。必ず、戦人は約束を守るのだから………。」
1981年(事件まであと5年)
客間
【霧江】「初めまして。………霧江と申します。よろしくお願い致します。」
【絵羽】「名前だけなら明日夢さんより前から知ってるわぁ。留弗夫の昔っからのガールフレンドってね。」
【霧江】「くす。えぇ、ご縁はずいぶんになりますので…。」
【夏妃】「……右代宮家へようこそ。当家に早く馴染まれることを期待します。」
【霧江】「はい。私も早く慣れて、夫をサポートできるようになろうと思います。」
【秀吉】「それにしても、可愛いお嬢ちゃんや。名前は何て言うんや…!」
【楼座】「縁寿ちゃんですって。可愛らしい名前ね。」
【蔵臼】「…………やはり、仲直りは出来なかったのかね。」
【留弗夫】「寄りを戻すならこの機会と思ったんだがな…。……親父に似て、頑固なヤツでなぁ。」
【楼座】「もう戦人くんは帰って来ないの…? 寂しくなるわ。」
【秀吉】「男には家を飛び出す気概くらいあってもいいもんや。そういう男はな、きっとビッグになって帰ってくるで…!」
【絵羽】「そぅお? 戦人くんにとって、もう今のお家はお家じゃないもの。帰る場所は、もはやそこじゃないわ。」
【蔵臼】「……よしたまえ。留弗夫の家の都合だ。私たちが詮索することではない。」
【霧江】「ありがとう、蔵臼兄さん。……それは、私たち家族の問題です。でも、戦人くんが、留弗夫さんと一緒に暮らせる日が来るよう、私も努力をするつもりです。だって、縁寿のたった一人のお兄ちゃんなんですから。」
【留弗夫】「……あぁ。戦人め、意固地になっちまってて、今は何を言っても逆効果だ。……明日夢のお父さんがちょっと短気な人でな。焚き付けちまってるみたいでなぁ。」
【霧江】「大丈夫よ。きっと遠くない内に、留弗夫さんの気持ちを理解してくれるわよ。」
【秀吉】「わしらには応援しか出来ん。……仮に帰って来ないにしても、早ぅ仲直りできるのを祈っとるで。」
薔薇庭園
【朱志香】「……戦人が来ないと、何だかつまらねぇぜ。」
【譲治】「そうだね。……早く留弗夫叔父さんと仲直りしてくれればいいのに。」
【紗音】「…………戦人さまの気持ちを考えると、……辛いです。」
【朱志香】「急に家族が変わっちまったようなもんだしな…。……家が居心地悪いってのもあるだろうぜ。」
【譲治】「男にはいつか独り立ちしなければならない日もある。戦人くんにとっては、もうそれが訪れたという話なのかもしれないよ。」
【紗音】「そうなのですか……?」
【譲治】「そうさ。男がいつまでも両親の元でぬくぬくしていたらカッコ悪いよ。荒々しく巣を飛び出して、一旗上げなくちゃいけない。……僕もやがてはと思ってたけど、彼に先を越されてしまったよ。」
【紗音】「ひ、一旗上げて立派になったら、……帰って来てくれるのでしょうか?」
【譲治】「ひょっとしたら、もう帰って来ないことも、……あるかもしれないね。だって、これは彼にとって、巣立ちなのかもしれないのだから。」
【紗音】「……巣立ち…………………。」
黄金郷・東屋
【ガァプ】「戦人、来なかったわね……。」
【クレル】「あぁ、何ということだ。妾は紗音に、きっと来るからと何度も言ってしまったぞ。………きっと紗音は、戦人が来なくて深く落ち込んでいるに違いない。妾がいい加減なことを言って、希望を持たせてしまったから…!」
【ガァプ】「親族会議の今日を張り合いに生きてきたようなもんだしね…。彼女の気持ちを考えると、心が痛むわ。」
【紗音】「……………ありがとうございます。……私は、大丈夫です。」
 夢の世界で再び私は、魔女たちに再会する。………日中はまったく覚えていないのに、夢の世界では、これが再会だと不思議に理解できた。
 魔女たちは気の毒そうな顔をしていた。きっと今日、戦人が来てくれると励ましたのに、彼が来なくて、結果として嘘を吐くことになってしまったのを、悔やんでいるように見えた。
【クレル】「紗音、……その、……まぁ……。」
【紗音】「……お気遣いを、ありがとうございます。悲しくなんかないと言えば、もちろん嘘になりますけれど。………私は、大丈夫ですから。」
【クレル】「そ、そうか? そうなのか? ……ならば良いのだが……。」
【ガァプ】「戦人のヤツ、派手にケンカしたもんだからきっと、引っ込みが付かなくなっちゃっただけに決まってるわ。男は意地っ張りだもの。」
【クレル】「そ、そうであるとも…! 威勢のいいことを言って飛び出したものだから、今さら引っ込みが付かなくなって、意地になってしまっただけに違いあるまい! きっと、来ればよかったと後悔しているはずだ。そうとも、そうであるとも…!」
 何と言うか、……とにかく私を励まそうと、必死になってくれる。その必死さが、何だか少しだけおかしくて。……私は思わず、くすりと笑ってしまう。
【紗音】「本当にありがとうございます。だって、………言ったのは皆さんじゃないですか。これは、試練だ、って。」
 本当は、そこまで自分を騙せてるわけじゃない。彼はいつ帰ってきてくれるのか。いつ、私を迎えに来てくれるのか。いつ、じゃなくて。……本当に彼は迎えに来てくれるのか。
 今だって、自分ひとりで塞ぎ込めば、不安と悲しみで胸が張り裂けてしまいそうになる。
 でも、彼女らが教えてくれた。これは、………彼のことを本当に信じていることを試される、試練なのだ。不安に思うことそのものが、……私の決意に対して、迎えに来ると約束してくれた彼への、裏切りなのだ。
【紗音】「譲治さまが言ってました。……これは戦人さんの、巣立ちかもしれないって。」
【ガァプ】「そうよ。これは、右代宮の姓を抜け出てひとりの男として羽ばたくという、巣立ちなんだわ。」
【紗音】「よくよく考えれば、……私たちはまだ若いんですし。本当に結ばれようと思ったら、まだまだ社会的経験も信用も、何より年齢が足りません。戦人さんが本当に真剣に考えて下さったならばこそ、……まだ迎えに来られるわけがないんです。」
【クレル】「見事であるぞ…。そうだ、その意気であるぞ…! よくぞ、その境地に達した。」
【紗音】「……達せてなんか、いません…。………でも、今はそう思うことにします。それが試練で、……戦人さんを信じるということなんですから。」
 もし彼が今日、本当に来てくれたなら、……私は今日、使用人の仕事を辞めると、奥様に切り出さなければならなかったはずなのだ。
 しかし、私にその覚悟はあっただろうか?
 昨夜は、本当に戦人さんは来てくれるだろうかと心配ばかりしていた。その心配ばかりで、仕事を辞める覚悟はおろか、辞表の準備も何も出来てはいなかった。……つまり、私にはまだ、彼にあの日、約束した“決意”が、まだなかったのだ。
 神様は、それをちゃんとわかっていたのだ。彼は、私の決意の日に、迎えに来る。私に決意がないのだから、彼が今日、やって来なかったのは当然のことなのだ……。
 …………………………。……うん。…納得した。
【紗音】「だから。……きっと戦人さんがいらっしゃらなかったのは、……私の決意が、まだだったからです。彼が来てくれるかを、しっかりと信じることも出来なかった私では、それも当然ですね…。」
【クレル】「恐らく、戦人もそうであったに違いないぞ。そなたを迎えに行くだけの決意や覚悟が、まだまだ足りなかったに違いない。」
【ガァプ】「……神様は薄情じゃないわ。二人の気持ちが本当に近付いた時、必ず二人を引き合わせてくれるわ。」
【クレル】「織姫と彦星のようにな…!」
【紗音】「今年の七夕はたまたま天気が悪かった…。……今日のことは、その程度に思おうと思います。」
 その程度に、思おうと、思います。……私はそう、思わなくてはならない。
 …………………………。……戦人さん……。
メタ礼拝堂
【理御】「でも、戦人くんが帰ってくるのは……。」
【ウィル】「6年後の話だ。……だいぶ先の話になる。」
【理御】「……このまま、こんな辛い気持ちのまま、6年も待ち続けるというのですか…。」
【クレル】「来年こそは、来年こそはと、毎年待ちわびるのは、……それはもう、永遠に待ち続けるにも等しいものでした。」
【ベルン】「………痛々しい話ね。あなたがしたと思ってる約束を、当の戦人はまったく意識していなかったようだし?」
【理御】「戦人くんは留弗夫叔父さんに似て、キザな言い回しを好むこともありました。……そんな言い回しが、誤解を与えたのかも…。」
【ベルン】「戦人はきっといつか、後ろから女に刺されるわね。……まぁ、つまり、これはそういう物語なわけかしら。」
【ウィル】「………言葉は、意味が宿れば人の人生を左右することだってある。……軽率な言葉は、人を殺せるかもしれねェ。」
【クレル】「………………………………。」
 1986年の親族会議で、譲治は紗音に婚約指輪を贈る予定だった。朱志香と嘉音の関係が進展したのも同じ年。同時に、金蔵の死を隠し通せる可能性がある最後の年であり、親族全員が早急にまとまった金を必要としていた年でもあった。

恋の芽、恋の根

 第七章“恋の芽、恋の根”。
1982年(事件まであと4年)
【マモン】「ですよねー! 男って、どうして群れると馬鹿ばっかになるんでしょうねー!」
 朱志香の部屋に、彼女たちの笑い声が溢れた。
【朱志香】「なんつーかさ、幻滅するわけだぜ…! ちょっと大人びてて、カッコイイかなー…、って思った人がさ。クラスの男どもで群れてる時に、下卑た話で下品な声で笑ってるの見ちゃうとさぁ!」
【紗音】「確かに男同士で居る時の男の方って、すごい子供っぽいですものね。」
【マモン】「まー、それを言ったら女も同じようなもんですけどー!」
【朱志香・紗音】「「あっはっはっはっはっは!!」」
 女の子同士の楽しいおしゃべりは、いつ果てるともなく続いていた。
 今夜は、蔵臼夫妻が新島での会合で帰りがかなり遅くなる。
 普段は夏妃の目があるので、若い使用人たちとも素っ気無く付き合う素振りを見せている朱志香だが、夏妃の姿がなければ、そんなことはしない。歳の近い使用人を自室に招いて、賑やかにおしゃべりに花を咲かせていた…。
 皆、恋を知りたい年頃。普段、堅苦しい生活を強いられているだけあり、朱志香はここぞとばかりに恋の話を楽しんでいた…。
【マモン】「お嬢様だって、素敵だしー。お年頃だしー! 気になる男の子がいらっしゃるんじゃないですかー?」
【朱志香】「こ、恋はしてーけど、気になる男子ってーと、な、なかなかなぁ…!」
【マモン】「お嬢様は、もっと恋に積極的でもいいと思うんです。余裕ぶってられるのも今の内ですよー? 友人の誰かが付き合いだしたっ、何てことになったら、急に世界が引っ繰り返りますよー?」
【朱志香】「そ、そんなわけねーじゃん…。私の友達に裏切り者はいねーぜ…。た、多分。」
【マモン】「あー、だめだめ! 女の友情で一番信用が出来ないのが、恋の出し抜きです! お嬢様だって、素敵な人と知り合ったら、絶対、友人なんて裏切って付き合っちゃいますってー!」
【朱志香】「あ、あはははははははははは……。しゃ、紗音はどうなんだよー…! 私ばっかりでズルイぜ、紗音も話せよー!」
【紗音】「私はその、……そういう方が身近におりませんし…。」
 ……身近には、いない。
 遠く離れていて、……織姫と彦星くらい、滅多に会えないけれど。うぅん、……今となっては、次に会えるのがいつになるのかさえ、わからないけれど。……でも、いつかきっと迎えに来てくれると、………信じてる。……信じてます。
【朱志香】「紗音は裏切るなよー?! 彼氏作るなら一緒だぜ?! な?な? 約束したもんなー?!」
【マモン】「あー、紗音ちゃんみたいな子に限ってー!! 案外、早く一抜けしちゃうもんですよー! くすくすくすくす!」
【朱志香】「紗音ー、白状しろー!! 本当に付き合ってるヤツはいないよなー?! なーなー?!」
【紗音】「い、いませんよ、本当です……。」
【朱志香】「本当に?!」
【紗音】「ほ、本当です…。」
【朱志香】「私たち、恋人作るのは一緒だからね?! 絶対ッ、絶対だぜ?! 嘘吐いたら、針千本飲ーます!!」
【紗音】「は、はい……。約束します……。」
【マモン】「それは嘘を吐いてる顔ですよー! 絶対、この中で紗音ちゃんが一抜けするー! 私にはわかるんです。奥手そうな子が、いつもみんなを出し抜くんです…!」
【朱志香】「何だよー、コノヤロー! 白状しろー、白状しろー!!」
【紗音】「お、お許し下さい、お嬢様…! く、くすぐったい…! あ、あははははは…!!」
 ……そんな風に賑やかにしながら、日曜日のゆっくりとした午後の時間が、過ぎていった。
 私は喧騒の輪を外れ、窓より空を見上げる。
 ……戦人さんも、今頃どこかで、私たちと同じように、友人たちに囲まれ、同じ様な話題に花を咲かせているのでしょうか。私がこうしてあなたを想っているように、……あなたも私を、想ってくれているといいのですが…。
 それをねだったら、私があなたを信じていないと認めるのと、同じこと。………待ちます。そして、あなたが迎えに来た日に、その場でこの仕事を辞めると宣言します。
 その心の準備は、もう出来ているんです。……でも、まだあなたは来てくれません。それは、あなたが来てくれないからでなく、……私の決意が、まだ足りないからなのでしょうね。あなたと一緒にいたいと願う未来を、私がまだしっかり、描けていないからなのでしょうね。
 待ってます。……いつまでも。……あなたが白馬に跨って、迎えに来る日まで。私はいつまでも大事にしていますから。あなたと私の大切な、決意の約束……。
【マモン】「男と約束なんかしちゃ駄目です。アテになりませんって!」
 私の心の声に対して言ったのかと思い、思わずびくりとしてしまう。もちろん、そんなはずもないのだが…。
【朱志香】「やっぱ、その辺さ。男と女で価値観って、かなり違うと思うんだよ。」
【マモン】「違います違います、全然違いますって。基本的に女の子は夢見がちで、男は何も考えてなくてテキトーって感じです。」
【朱志香】「異性同士で心を通わせるって、やっぱ無理なのかなぁ。」
【マモン】「相当難しいと思いますねー。女は、すぐに相手のことがわかったような気になっちゃう悪癖がありますから。男の言う、特に深い意味のない言葉に、いちいち何かを感じてしまって、勝手に勘違いしちゃうって、結構ありますから。」
【朱志香】「あー、いるいる、そーゆう子。傍目に見て、どー見ても、大したこと言われてないのに、一方的に、カレは私に気があるとか言っちゃってる子。いるいる、いるいる。」
【マモン】「女の一方的な勘違いって、痛々しいですもんねー。」
 あっはははははははは。お嬢様たちは笑い合う。
 ……女の、一方的な、勘違い。それ、……私のことなの…?
 うぅん、そんなことない。だって、戦人さんははっきり約束してくれたもの。白馬に跨って迎えに来るぜ、って。
 ……それを疑っちゃ、だめ。お嬢様たちのこの会話はきっと、……私の決意を試そうとする、神様の試練に違いない。だから、気にしない。気にも、留めない。
【朱志香】「勝手に心が通じたとか思っちゃう、痛い女の子にだけはなりたくねーぜ。」
【マモン】「あっははははははははははは。」
 私を惑わそうとする悪魔の嘲笑が、私を苛む。……きっと、今度の親族会議では、迎えに来てくれるはず……。
船着場
 しかし、1982年の親族会議にも、戦人さんは姿を見せてくれませんでした……。彼が最後にいらした親族会議から、少しずつ、何かが変わっていきます。
 留弗夫さまの新しい奥様、霧江さまは、いつの間にかすっかり馴染まれて、……慣れた様子で船を降りられます。その子供、縁寿さまは元気に成長されており、親族の皆さんの注目と話題を一身に集めています。
 そして、当時はまだ小さかった真里亞さまも、もう5歳。すっかり元気盛りになられ、譲治さまと楽しそうに遊ばれています。朱志香さまと譲治さまは、もう戦人さんがおられないことについては、話題にされませんでした。
 それは親族の方々もでした。……戦人さんがおられないことについて、まるで忘れ去ってしまったかのように、誰も話題に触れないのです。真里亞さまに至っては、最後に戦人さんとあったの3つの時。記憶に留められているかも怪しいでしょう。
 ……たった2年で。右代宮家の親族会議から、……あなたの居た気配は、拭い去られてしまったのです。それが悲しくて。だから。
薔薇庭園
【紗音】「……今年も、戦人さんはお帰りになられませんでしたね。」
【譲治】「そうだね。……彼が来なくて、寂しいかい?」
【紗音】「それは、……その……。」
【譲治】「留弗夫叔父さんたちも、彼の話を切り出さないし。……どうやら、僕たちが思ってたよりもずっと、戦人くんは本気だったみたいだね。」
【朱志香】「あいつ、本気でもう、帰って来ねぇのかな。」
【譲治】「やっぱり、あれは巣立ちだったんだよ。彼は新しい人生のステージに向かって羽ばたいていった。そういうことじゃないのかな。」
【朱志香】「……無鉄砲のハチャメチャなヤツだったけど。まぁ、男ってのはそういうもんなのかもしれねぇぜ。」
【譲治】「彼のことだからね。新しい生活も、きっと順応して楽しく元気にやっていると思うよ。だから、心配しなくていいと思うよ。」
 譲治さまに笑顔でそう言われ、私は戸惑う。彼が元気にやっていると思うから、心配しなくていいと思うよ、って、………どういう意味なんですか……。
【朱志香】「戦人のことだから、私たちのことなんかケロっと忘れて、楽しくやってるんだろうぜ。」
【譲治】「うん、きっとそうだよ。そして、僕はそれが一番だと思うな。戦人くんは、自分と家族、そして亡くなったお母さんのことを考えて、新しい生き方を自ら選択した。なら、その新しい人生に、真っ直ぐに生きて欲しいね。右代宮家のことなんて、忘れてしまうくらいがちょうどいいよ。」
 譲治さまは、そんなことを言って、私に同意を求めるように微笑みかける。
 ……私はしばし呆然としてから、すぐに表情を取り繕い、期待された表情を浮かべた。
 戦人さんが、……右代宮家のことも、……私のことも、約束のことも全て忘れて、普通に暮らしている……?
 そんなわけない、あるわけがない。戦人さんと私は共に、決意の日に向かってがんばってるはず。私ひとりが勘違いをしているわけがない。
 彼は約束してくれた。白馬に跨って迎えに来るって。
 私がせがんだ言葉じゃない。私が彼のために生きる決意の日に、迎えに来るって。彼が自ら約束してくれたんだ。
 私はあの日から2年も。それを信じてる。それを疑わせようとする神様の試練や、悪魔の囁きに耐えて、今日までがんばってきたのだ。
 なのに、……譲治さまも朱志香さまも、何てひどいことを。戦人さんが、私たちのことを忘れて、新しい生活をしているなんて。どうしてそんな、見てきたような嘘を、吐くのだろう……。
 でも、その夜。私は久しぶりに戦人さんの夢を見ました。
 その夢の戦人さんは、………私が信じる戦人さんではなく。……譲治さまや朱志香さまが話していた、………何もかも忘れて、新しい生活をされている戦人さんの姿でした。
 朝。私は泣き腫らした顔で、目を覚ましました。鏡の中の私は、……もう待つことに耐えられないと、私に涙ながらに訴えました。
 今まで待てたのに、どうしてもう待てないの…? これは試練なの。……だから、彼を信じて、私たちは待たなきゃ。
 でも、鏡の中の私が言うのです。……鏡の破片よりも鋭く。
 ………彼との約束って、……本当に私たちは、約束したの…? 朱志香さまも言ってたじゃない。……夢見がちな女の子は、一方的に勘違いすることがある、って。譲治さまも言ってたじゃない。……戦人さんは新しい生活に順応して、……右代宮家のことなんか忘れているって。
 ………忘れてるのは、もはや彼だけじゃない。私が尋ねなければ、島の誰もが、彼の名前を忘れている。留弗夫さまさえ、もはや彼の名前を口にしない。
 私がこうして、彼の面影を思い出さなかったら、……誰の心にももはや、彼は存在しなくなってしまっているのではないだろうか。
 ……私は信じません。だから、疑いません。戦人さんは今も絶対、……約束を覚えていてくれます。私たちは、ずっと一緒になるために、……互いの決意の日を、待っているのです。
 …………戦人さん。私はもう、しっかりと決意しています。あなたがいらっしゃらないのは、それでもなお、その決意が足りないからだと言うのでしょうか。
 いえ。……それをあなたと神様が、試されているのでしょうね。だからこそ、私は耐えてみせます。必ずやって来る、約束の日に。
 ………だから、……お願いです。戦人さん。私のことを、忘れてなんかいないという、……証が欲しいです………。
 それは、陶器のような私の心に走る、一筋のひび。
 私はもう、認めなければなりませんでした。……私は、……何かとても恐ろしくて悲しいことに、気付かないふりをしているのかもしれないことを。
 戦人さんが、恋しい。戦人さんが、悲しい。戦人さんが、辛い………。戦人さん。……あなたは今、私のことを覚えていて、くれますか………。
1983年(事件まであと3年)
 そして、……戦人さんの姿を見ることがなくなってから、3年目の親族会議を迎えました。
 ベッドの数などが増えるのであれば、それは準備の際に知らされます。特に、普段と何も変わりがないということは、……今年もきっと、いらっしゃられないのでしょう。最後の望みを、私は近付いてくる船に祈りながら、船着場に立ち尽くしていました。
【留弗夫】「よぅ、紗音ちゃん。今年もベッピンだねぇ。」
【霧江】「ほら、縁寿。足元に気を付けて。」
【譲治】「やぁ、紗音。やっぱり六軒島はいいね…! 早く蔵臼伯父さんもリゾート化すればいいのに。」
【絵羽】「しなくていいわよ。勿体無いわ。」
【楼座】「うふふ、それもそうね。お久しぶりね、紗音ちゃん。背、ちょっと伸びたんじゃない?」
【紗音】「……ありがとうございます。」
【秀吉】「今年もいい天気や…! こうして親族、誰一人欠けることなく、元気に揃うのは実にめでたいことや。」
【紗音】「それでは皆様、お屋敷にご案内いたします……。」
 やはり、……戦人さんのことは、最初からいないみたいに、忘れ去られていました。
 私の表情にはきっと、悲しみが浮かんでいるでしょう。それを誰にも知られたくなくて、……私は親族の皆様方に背を向け、先頭をひとり歩いていました。
 その時、……唐突に、戦人さんの名前が誰かの話題に上り、はっとしました。
【譲治】「え、戦人くんに会ったんですか。」
【朱志香】「元気にしてました…?!」
【霧江】「えぇ。元気だったわ。先日、縁寿を連れて、ちょっとだけお茶をしてきたの。」
 驚きだった。……霧江さまは戦人さんと交流を持てていたのだ。
 霧江さまが話すには、戦人さんと留弗夫さまの親子喧嘩はとっくに落ち着いているが、どちらも意地になってしまって、仲直りするタイミングを失っているのだという。また、戦人さんも祖父母宅とそちらの学校での新しい生活に馴染んでおり、また、厄介になっている祖父母の都合もあり、簡単に寄りを戻せないらしい。
【霧江】「……仕方ないわよ。戦人くんより、明日夢さんのご両親の方がお怒りだったと思うもの。もうこの喧嘩は、戦人くんと留弗夫さん二人だけのものじゃなくなってる。」
【朱志香】「じゃあ、戦人はそのうち、帰ってくるんですか?」
【霧江】「留弗夫さんと仲直りはするけれど、右代宮家に帰ってくるつもりはないみたい。……仕方ないわ。気持ちもわかるもの。」
 この3年間で、わだかまりが少しずつ解けていることを知り、わずかに安堵する。
 明日夢さまのご両親のことを考えれば、確かに一筋縄では行かないだろう。しかし、戦人さん自身が、留弗夫さまをもう嫌っていないなら、……いつかは。
 ……きっと帰って来てくれる。立派な姿になって。私の、あなたへの決意は、もう揺るぎません。
 この3年間を、悲しみ、恨んだ夜もありました。しかし今となっては、……この3年間は、私にとって必要だった日々にも思えます。だって、……私の胸の中にあった、あなたへの淡い気持ちという恋の種は、……立派に芽吹き、あなたに再会できる日を、蕾にして待っているのですから。
 私は今、こんなにもあなたへの気持ちに素直でいられます。………私は、あなたのことが、大好きなんです。
 早く、元気なあなたと再会したいです。その日まで、……私はこの恋の芽を、あなたのために温め、育てます……。
 私はもう、その日が来ることを、疑わない。同じ空の下で、……私がこうしてあなたを想っているように。あなたも私を想ってくれていると、信じています。
 ……彼の近況が私の耳に届いたのはきっと、……そんな私への、神様のエールに違いない。だから神様に心の中で、もう一つだけおねだりをしました。
 私の戦人さんへの気持ちが、3年間、一日たりとも揺らがなかったように。彼の気持ちも、そうであったことが知りたいです。
 それを知ろうとすることが罪なのはわかります。でも、今日は3年目という節目だからこそ、……ささやかでいいから、じっと我慢して待っていた私に、神様からのご褒美が欲しいのです。そう、祈りました。
【霧江】「そうだ。戦人くんとみんなも、ずいぶん長く会ってないでしょう。みんなも寂しがってるだろうから、手紙を書きなさいって言って。書かせてきたのよ。」
 ………………え…。神様へのおねだりが、……本当に叶って。私の心臓は、飛び跳ねるくらいに高鳴りました。
【朱志香】「戦人からの手紙? へー! あいつ、何を書いたんだろ!」
【譲治】「彼の近況でも書かれてるのかな。楽しみだね。」
 霧江さまは、鞄から茶封筒を取りだすと譲治さまに渡す。1通だけ? 譲治さまがそれを開けると、数枚の折り畳んだ手紙が出てくる。
【譲治】「これは僕宛てみたいだね。……1枚1枚、宛先が違うみたいだ。はい、こっちは朱志香ちゃん。」
【朱志香】「サンキュー!」
【譲治】「これは、真里亞ちゃんにだって。読めるかな…?」
【楼座】「あとで読んで聞かせるわ。ありがとう。」
【譲治】「縁寿ちゃん宛てもあるよ。さすがにまだ読めないよね。」
【霧江】「くす。読めるようになったら、渡すことにするわ。」
【朱志香】「こっちは元気で楽しくやってるぜ、だってさ…! なら良かったぜ。」
【紗音】「……あの、……それで、全部ですか…?」
【譲治】「うん。これで全部みたいだね。ありがとう。」
 譲治さまは私に、空になった茶封筒を渡す。……空封筒のゴミを受け取ってくれたと思ったようで、ありがとうとお礼を言った。その中身は、……紛れもなく、空っぽだった。
 戦人さんの手紙に、私宛てのものはなかったのだ…。
【譲治】「おやおや。文面を見る限り、戦人くんはずいぶん元気に過ごしてるみたいだね。毎日が充実してるってさ。」
【朱志香】「私の方にもそう書いてある。楽しく過ごせてるなら、そりゃ結構なことだぜ。」
【楼座】「くす。戦人くんったらひどいわね。霧江さんに手紙を書けと促されるまで、私たちのことを忘れてたそうよ。」
【霧江】「戦人くんらしいでしょ。ずいぶん、生活が充実してたみたい。学校では女の子にモテモテみたいよ?」
【譲治】「へー…! それはすごいね!」
【朱志香】「戦人は変にキザったらしくて笑えるとこがあるから、そういうの好きな子もいるだろうなぁ。納得だぜ。」
【楼座】「右代宮家へ帰ってくるつもりは、ないのかしらね。」
【譲治】「ないみたいだね。僕の方に、六軒島に行くことはもうないだろうって書いてあるよ。」
 その手紙の数々の文言も全て、……神様の試練だと、わかっています。私宛てに手紙がないことも、彼が六軒島のことを忘れて、日々を充実して過ごしていることも、……全て全て、神様の試練だと、わかっています。
 彼は、神様は、……試しておられるのです。私にだけ、手紙がないのが、その証拠……。
 …………そう、……………思いたい…………。……でも、………もう………。だめでした……………。
メタ礼拝堂
【ウィル】「……あんたにとって、大切な約束だったかもしれないそれは。……戦人にとっては、そうではなかったらしいな。」
【クレル】「……………………………。」
【理御】「……そんな。……それじゃ、あの、迎えに来るという約束は…?」
【クレル】「夢見がちな私の、錯覚か……。」
【ウィル】「戦人にとっては、ちょっとした、カッコつけただけの、意味のない言葉だったのかもな。」
 ……それは、当人以外にとって、あまりに滑稽な物語。戦人との約束など、錯覚に過ぎなかったのかもしれない。そもそも、互いが互いを思い合う気持ちさえも、……本当に同じだったのか、わからない。
 恋は、錯覚。しかし、互いが同じ錯覚をすることで、その恋は真となる。しかし、互いの気持ちが異なれば、……それは、滑稽でしかない。
【ウィル】「これが、戦人の罪だ。」
【理御】「……約束と、……誤解させたこと。」
【ウィル】「違う。」
【理御】「………え?」
【ウィル】「……それを、覚えてさえ、いなかったことだ。」
【クレル】「破った約束なら、……詰ることも出来る。悔いることも、あるいは取り返すことも。………でも、覚えてさえいないことは、何も問い詰めることが出来ません。」
【理御】「…………………………。」
【クレル】「戦人さんを憎むことなど出来ません。……戦人さんは、約束を破ってさえ、いないのですから。」
【ウィル】「ただ始めから、……約束など、なかった。」
【クレル】「……ただただ悲しいだけの、………滑稽な、物語。」
使用人寮・屋根裏部屋
 ………私は、ずっとずっと、泣いていました。枕に爪を立てながら、涙で濡らし続けました。
 何かを憎めたら、さぞ気が楽だったでしょう…。でも、何も憎めないのです。
 ただただ、……彼の気持ちが、私の気持ちと同じに違いないと3年間にもわたって決め付けてきた、自分の傲慢が、情けなかったのです。
【クレル】「……妾のせいだ。……妾が無責任にも、戦人が約束してくれたかのように、そなたに吹聴してしまったのだ…。」
【紗音】「いいえ………。誰も、悪くないんです。……私が、彼の気持ちも私と同じだと、……決め付けてしまったから…。」
【クレル】「約束こそ、戦人はしなかった。しかし、戦人の気持ちは、決していい加減なものではなかったはず! そなたのそれに比べれば、確かに多少の温度差はあろう。しかし、そなたのことを好いていたのは間違いない! それだけは間違いないっ。」
【紗音】「……もう、……止めて下さい……。……私が好きなように、彼も私を好きだと、……何の疑いもなく信じてきました。………慰めないで下さい。……むしろ、……嘲笑って下さい………。」
 私の胸は、……気付けば、逃れられぬ鈍痛に貫かれていた。その痛みが何か、胸に手を当てて考える内に、思い当たる。
 それは、私が胸の内に種を蒔き、育てていた、……恋の、芽。その根がきりきりと、私の胸いっぱいに広がり、針金で引き絞るかのように、……私を苛んでいたのだ。
 それはまるで、根というより、……私の心に走る、亀裂のように見えた。
 痛みを抑えるには、この、恋の根を引き抜かねばならない。しかし、いくら爪を立てても、胸が掻き毟られるだけ。……恋の根は、びくともしなかった。
 もし、戦人さんのことが嫌いになって、もう何の興味も未練もないのなら、この根はあっさり引き抜ける。引き抜いた後に、ぽっかりと空洞は出来るだろうが、これ以上、胸を痛めることはない。
 しかし、根は引き抜けない。……こんなにも痛むのに、それでもなお恋の根は、私の胸に留まろうとする。
【クレル】「……紗音……………。」
【紗音】「私、………今も、……戦人さんのことが、……大好きです。……会いたいです。帰って来て欲しいです……。いつかきっと帰ってくると信じて、……これからも待ち続けたいのに…。……でも、……もう、……駄目なんです………。」
 私の嗚咽に応えるように、胸の締め付けは一層に強まる。戦人さんが好きでいる限り、この痛みは永遠に続く。彼を好きだからこそ、この痛みを抱いて、いつまでも待ち続けたい。
 でも、……譲治さまたちの手紙に書いてあった。
 彼はもう、右代宮家に戻るつもりはないのだ。私のことも、六軒島のことも忘れてしまっていて、……右代宮でない姓を名乗って、新しい生活をしているのだ。
 私は、こんなにも苦しくて、痛くて、辛いまま、………永遠に、帰って来ない彼を、待ち続けなくてはならないのだ…。
【紗音】「これも、試練なんですか……? 帰って来ない彼を永遠に待てと、……神様はそう仰るのですか……? 無理です……。私は、……戦人さんと一緒にいたいんです。それを願う試練が、これだなんて、……あまりに、………辛過ぎます……。」
【クレル】「………………………………。」
 ベアトリーチェは苦々しく俯く。紗音を無駄に励まさなければ、ここまで辛くなることはなかっただろう。
 胸に恋の種を蒔いたのは、確かに紗音かもしれない。でも、それに水をやれ、諦めるなと無責任に囃し立てたのは自分だ。……ベアトリーチェもまた、自らの胸を掻き毟り、紗音の痛みを共有しようとする…。
【クレル】「……………………これは、妾の咎だ。」
 ベアトリーチェは、ぽつりとそう言った。
【紗音】「……あなたに、何の咎がありましょうか。」
【クレル】「ありもしない約束の幻想を見せ、そなたの3年間を苦しめた。……妾がそなたの恋の芽を育まねば、……今のそなたは、これほどに苦しまなかっただろう。」
【紗音】「……………………………。」
【クレル】「紗音。冷酷に聞こえるだろうが、……聞け。」
【紗音】「……………何でしょう…。」
【クレル】「戦人を、忘れよ。……恋の芽など、元よりなかったのだ。」
【紗音】「……いいえ。これは私の育んだ恋の芽。……どんなに辛くとも、忘れることなどありません。」
【クレル】「しかし、その痛みに、もう耐えることは出来ないのであろう……。」
【紗音】「…………………………………。」
 紗音は何も言わず、胸を抑えて俯く。
 戦人が、……愛しい。その気持ちは未だに、胸が熱くなるほどで、……どれほど痛もうとも、手放せない。
 そして、この痛みに気付かないふりをして、3年を過ごした。もう、その痛みは、気付いてしまった。そして気付いてしまったらもう、……耐えられはしない…。
【クレル】「戦人への恋の芽を、捨てることは出来ぬか。」
【紗音】「………………はい。」
【クレル】「だが、そのままでは、……その芽は、根は、そなたを殺してしまう。」
【紗音】「…………………………。」
【クレル】「人は、宇宙を持たねば、生きられぬ。……そして宇宙は、一人では生み出せぬ。二人いるのだ。」
【紗音】「………宇宙……。」
【クレル】「そなたは、恋の芽という宇宙を、戦人と二人で生み出した。……その片方が欠けたから、そなたの宇宙が壊れたのだ。………人は、宇宙は、……一人では何も成し得ぬのだ。」
【紗音】「でも、……私の宇宙を生み出すもう一人の、……戦人さんは帰ってきません…。」
【クレル】「ならば、戦人以外の者と、新しい宇宙を生み出すしかない。」
【紗音】「………戦人さん以外の誰かと、……生み出すというのですか。」
【クレル】「その誰かを、妾が与えよう。」
【紗音】「……誰かって、………何ですか……。」
【クレル】「そなたの心を傷を埋め、癒してくれる存在だ。……そやつは、そなたを裏切らぬ。……そう、……そなたの新しい姉弟だ。…………そなたに、弟を与えよう。」
【紗音】「弟……………。」
【クレル】「福音の家で仲の良かった、実の弟のように可愛がってきた少年。……そういう存在を、そなたに与えよう。……そやつはそなたと二人で、新たな宇宙を築くだろう。」
【紗音】「……その弟が、……戦人さんへの恋の痛みを、忘れさせてくれるのですか……。」
【クレル】「そうだ。………そなたには、宇宙が必要だ。」
【紗音】「では、……この胸の、恋の芽は、……どうするのですか。………私の、戦人さんへの気持ちは、変わりません。……枯れさせることなど、出来ません。」
【クレル】「…………………………。……妾が、その芽を、根を、代わりに引き受けよう。」
【紗音】「……あなたが…………?」
【クレル】「そなたは、恋の痛みを忘れ、新しい宇宙を作り直すことが出来る。……恋の芽は、妾が代わって引き受ける。……妾は痛みをも引き継ぐことになるが、……妾の持たぬ唯一の元素、……恋を知ることが出来る。」
 ベアトリーチェは、……恋を知りたかった。紗音が人の世で知ったその感情を、自分も知りたかった。
【クレル】「………もし。戦人が帰ってくる日が訪れた時。まだ、この芽が枯れずにいて、そなたが望んだなら。この芽をそなたに返そう。……それならば、どうか。」
【紗音】「………………………………。」
 紗音は俯いたまま、……無言で小さく頷く。この耐え難い痛みからの解放。そして、恋の芽を、自分に代わり、魔女に、預けるのだ……。
 紗音は、胸を覆っていた両手を、開く。するとほのかな光が、すぅっと、胸より出て宙に浮き、……それがゆっくりと全てを光に飲み込んだ。
謎の空間
 眩い光が少しずつ収まると、紗音とベアトリーチェは向かい合ったまま、プラネタリウムのような、広大な星空の球体に飲み込まれていた。
 漆黒の星空の海に、二人だけ。………紗音は、この光景をどこかで一度、見たことがある気がするが、思い出せなかった。
 そして、我は再び宣言する。
「世界を、変更。……恋の芽を、紗音からベアトリーチェに。」
 EP4で言及された「戦人の罪」とは何かが、ここで確定する。
 これで、紗音は恋の根に、もう苛まれずに済む。そしてさらに、新しい宇宙を築くために、……弟を与える。
 弟の設定は、福音の家で仲の良かった、年下の男の子。名前は、……………福音の家のルールに従い、音の一字を与えよう。
 …………うん、決めた。……紗音と相性のいい、ぴったりの名前だ。
 彼は、……寡黙で無口な男の子。右代宮家には、新しい使用人としてやって来た。
 そして、紗音とすぐに打ち解ける。紗音を姉と慕う義理堅い彼は、いつも紗音の味方になってくれる……。源次と同じように、金蔵に直接仕えることが許されている、特別な使用人ということにしよう。……うん。何だか、かっこいい。
 そして、ベアトリーチェ。これからはあなたが、恋の芽を受け継ぐ。それはつまり、……戦人に恋焦がれ、彼を待つという役目が、あなたになったということ。
 あなたは、六軒島の夜に君臨する魔女であると同時に。右代宮戦人を、3年前のあの日から、ずっと待ち続けているのです。
 その姿も、設定の変更に伴い、新しいものに変えましょう…。彼は、どんな容姿の女性が好きか、話していたことがありましたね。……それは、外国のモデルのような、金髪で髪が長くて、スタイルの良い女性。
 金髪で。髪が長くて。スタイルが良くて。……そう。そんな感じ。それが、新しいベアトリーチェの姿です。
 さぁ、胸には、戦人を待ち続ける、恋の芽を。……これであなたはようやく、痛みと引き換えに、恋を知ります。さぁ、これが、新しい世界の設定。
 紗音には、弟のような新しい使用人がやって来る。彼は、寡黙で無口な男の子。紗音を姉と慕う義理堅い子。
 そして紗音を苛んだ恋の芽は、……魔女、ベアトリーチェに。恋の芽は預かっているだけ。でも、預かっている間は、あなたは戦人に恋焦がれる、一人の乙女になる。
 その間、あなたは恋を知ることが出来る……。
 さぁ、世界を、変更。あぁ、我は我にして我等なり。目覚めなさい、我等たち。そして新しい世界に羽ばたきなさい……。
使用人寮・屋根裏部屋
 ………やわらかな朝の日差しに、………私は、ゆっくりと目を覚ます。
 …………………………。
 こんなにも快適な朝は、どれくらいぶりに迎えるだろう。……鏡に映る自分の顔は、泣き腫らした、みっともないもの。でも、……心は、朝日のように透き通っていた。
 不思議な夢のことは、……まだ鮮明に覚えていた。もっとも、こうしている間にも、みるみる忘れていってしまうのだけれど…。
 夢の中で居た場所は、……何だかとても不思議な場所だった。とても安らぐ、心落ち着く場所。……昨日までの、……辛かった胸の痛みは、そこに置いて来た。だから今朝は、こんなにも心が安らかなのだ…。
【紗音】「おはよう、私………。」
 泣き腫らした、本当にみっともない顔。でも、明るい表情だった。
 戦人さんのことが、……今も、好き。でも、もう、……何というか、………落ち着いた。
 素敵で大切な預かり物を、……ちゃんとしっかりと仕舞えたような、そんな気持ち。…………戦人さん。いつか、帰って来てくれるかな。そしたら、また一緒に、ミステリー談義を盛り上がりたいな。
 ……そうそう、いけない。今日は新しい使用人の男の子が来るんだっけ。
 お館様直属の珍しい使用人。一体、どんな子だろう。仲良くなれるといいな……。名前は何て言ったっけ。確か、えぇと……。
 嘉音のキャラクターを設定した理由は、実際にはもっと切実。紗音は自分の性に違和感を覚え、男としての生活を試してみたくなった。源次と熊沢がそれに協力した。

黄金郷への旅立ち

1984年(事件まであと2年)
 作業着を着た業者たちが、ホールの一角にブルーシートを敷いていた。壁を採寸したり、工具を並べる様子から、何かの工事の準備であることが見て取れた。
【源次】「お館様が、とても大切にされております。くれぐれも、傷つけることがないように。」
 施工業者の社長が、わかってますわかってますと何度も頷く。そこへ、若い作業員たちが6人掛りで、白いシーツのようなものに包まれた、大きな長方形を運び込む…。
「よーし、気をつけろー! そっとだぞ、そっと置け。」
「じゃあ、この場所でいいすかー。」
「おーし、始めるぞー。」
 どうやら、その大きな何かを、ホールの壁に取り付ける工事のようだった…。
【夏妃】「………あれを、あそこに飾るというのですか。」
【蔵臼】「そうご希望だ。この屋敷とて、親父殿の玩具に過ぎんよ。」
 夏妃は深くため息をつく。敬愛する金蔵の気紛れとはいえ、……屋敷の顔である玄関ホールに、それが飾られることには、強い抵抗があるようだった。
 白いシーツが取り払われると、そこには、ドレス姿の美しい西洋女性の姿が現れる…。それは、女性の姿を描いた、巨大な肖像画だった……。
【金蔵】「順調であるか。」
【源次】「はい。夕方までには完了します。」
【金蔵】「早く、堂々と掲げられたところが見たい。監督を頼むぞ、我が友よ。」
【源次】「お任せを。」
【蔵臼】「……お父さん。立派な絵が出来たようですね。」
【金蔵】「うむ。素晴らしい出来栄えだ。満足しておる。」
【夏妃】「……お父様に黄金を授けられたという、恩人の女性ですね。」
【金蔵】「そうだ。……ベアトリーチェとの出会いがなければ、今の私はなく、右代宮家もなく、無論、この屋敷もなかったであろう。彼女の肖像画を、もっとも良い場所に飾るのは当然のことである。」
 そこまで言い切られてしまっては、もう今さら、何も言い返せない。蔵臼と夏妃は、肩を竦める他なかった。
【源次】「……お館様。碑文のプレートです。内容のご確認をお願い致します。」
【金蔵】「うむ。一言一句、間違っていてはならんからな…。」
 碑文…? 蔵臼たちは小首を傾げ、金蔵の後を追う。
 業者の社長が、毛布に包まれたプレートを広げていた。絵の名前や謂れなどを記したものだろうと思ったが、それにしては、ずいぶんと文字量があるようだった…。
【夏妃】「………お父様。これは……?」
【蔵臼】「懐かしき、……故郷を貫く、鮎の川……?」
【金蔵】「ふ。……ふっふっふっふっふ。好きに読み、好きに解釈するが良い。」
メタ礼拝堂
【ウィル】「……いよいよ、碑文と肖像画の登場か。」
【理御】「碑文、というものが私にはよくわかりません。私の世界にはないものですから。」
【ウィル】「だろうな。お前の世界には、お前という、明白な跡継ぎがいるからな。しかし、この世界にはいない。」
【理御】「それはつまり、……この碑文はやはり、お祖父さまが後継者を選ぶために設けたと…?」
【ウィル】「恐らくはな。あるいは、奇跡を信じたのかもしれない。」
 誰にも解けぬように作った、難解な謎。それを解ける人間がいるとしたら、……まさに奇跡の人間。その奇跡が、……金蔵のもっとも欲する人間を、導いてくれるのではないか…。
【理御】「つまりこの碑文は、やはり誰もが想像するように、魔女ベアトリーチェを復活させる、儀式を記したものなのですか…?」
【クレル】「………普通に考えれば、これはそう読み取れるでしょう。13人の生贄を捧げれば、魔女が蘇ると読み取れる、謎の儀式。……しかし、本当の儀式はそれではない。……奇跡的に解ける誰かを待つ。そちらこそが、本当の儀式。しかし、運命とは皮肉なもの。」
【ウィル】「源次は知っていた。……金蔵は始めから、源次が全てを知っていると思い、仕掛けたのかもしれねぇな。」
【クレル】「……その運命が偶然だったのか、仕組まれたものなのか。私にはわかりません。……しかし、その碑文により、魔女ベアトリーチェは、本当の意味での復活を遂げるのです。」
【クレル】「第八章、“黄金郷への旅立ち”。」
肖像画の前
【ベアト】「………これが、………ベアト…リーチェ…。」
 妾は、その巨大な肖像画に描かれた貴婦人に魂を奪われる。それは、まさにその通りだったかもしれない。魂を奪われるというより、……魂が、より相応しい、在るべき場所へ戻るというべきか。
 美しいブロンドの髪は妾と同じだったが、結い上げられていた。纏うドレスは漆黒で、その黄金の髪をより引き立てている。
 ………これが、魔女ベアトリーチェ。これが本当の、……妾の姿なのだ……。
【ベアト】「? …………これは何か。」
 肖像画のタイトルを記したにしては、文字量の多過ぎるプレート。懐かしき、故郷を貫く鮎の川……。黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ。
【ベアト】「……黄金郷…。……そうか、………妾の世界は、……黄金郷なのか…。」
 妾はずっと、自分だけの世界を、理想郷と呼んできた。しかし今宵、それは改められる。これより、妾の世界は、黄金郷。我こそは、黄金郷の主、ベアトリーチェ……。
 ……そして、第一の晩から続く、残酷な生贄の儀式。第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない……。
【ベアト】「妾はこの儀式を執り行えば、……真の復活を得るというのか……。」
 そして第十の晩に旅は終わり、黄金の郷に至る……。魔女は賢者を讃え、四つの宝を授けるだろう。一つは、黄金郷の全ての黄金。
 ……金蔵は、ベアトリーチェより莫大な黄金を授けられ、今尚、それをどこかに隠していると噂される。これはやはり、家人や使用人たちが噂しているように、金蔵が隠した黄金の在り処を示す暗号なのだろうか。
【ベアト】「………ニンゲンが至れば、莫大な黄金を手に入れるであろう。………しかし妾が至れば、自らの復活を得る…。」
 ……………………………。……金蔵め、老いぼれ魔術師め。老い先短いと馬鹿にしていたら、こんな戯れを始めるとは。
 面白いではないか。……きっと妾が解いてやろうぞ。そして、妾は本当のベアトリーチェとして復活するのだ。さすれば、妾は絶大な魔力によって、人も物も、昼も夜も、六軒島の全てを支配するであろうぞ……。
廊下
【郷田】「あの碑文、宝の隠し場所を示していると、もっぱらの評判です…!」
【熊沢】「噂では、お館様は10tもの黄金をお隠しになられたとか…!」
【嘉音】「……ベアトリーチェに授けられたとか何とか。僕も噂を聞いたことはあるよ。」
【紗音】「10tの黄金なんて、……すごいですね。想像もつかないです。」
【郷田】「そんなにあったら、何に使えばいいやら…! 一度、手に取ってみたいですねぇ…!」
【熊沢】「ほっほほほほほほ! 手に取るだけと言わずに、使い切ってみたいですねぇ。」
【紗音】「でも、碑文を、……黄金の隠し場所の暗号を、なぜ、わざわざ掲示されたのでしょうね…。」
【嘉音】「決まってるよ。解けるもんかっていう、嫌味に決まってる。」
【郷田】「お館様からの挑戦ではないでしょうか? これが解ける知恵者はおらんか、という…。」
【熊沢】「お館様は、どうやら蔵臼さまに素直に当主の座を明け渡されるつもりはないご様子。……これはひょっとすると、先に解いた者を次期当主にするという意味かもしれませんよ?」
玄関ホール
【絵羽】「源次さん、これは何?! これまさか、……お父様の例の、……ベアトリーチェの肖像画なの?」
【源次】「……はい。ベアトリーチェさまでございます。」
【秀吉】「何やこら。……けったいな、詩みたいなもんが書いてあるで。」
【絵羽】「…………………………。……何よこれ。……まるで、……海賊か何かの、宝の隠し場所の暗号文みたいじゃない。……源次さん。これはどういう意味なの?!」
【源次】「ご自由に読み、ご自由に解釈されるようにと、お館様は仰せです。……謎は、この碑文を目に出来る者全てに公平にと。」
【絵羽】「今、謎って言ったわよね?! 謎ってのは解けるものという意味だわ。………やっぱりそうよ、そうなのよ。お父様は兄さんに当主を継がせるつもりなんてないんだわ…!」
【秀吉】「つまり、この謎を解けたヤツが次期当主っちゅうことか…!」
【絵羽】「くっくっくっく、くすくすくすくす…!!! やっと巡って来た……。やっと巡って来たのよ、……私が、……当主になれる、本当のチャンスが……!!」
 ベアトは、碑文が解かれれば自分の負けだというようなことを言ってきた。しかし実際は逆である。確率の低い目に賭けることこそが、魔法の奇跡を呼ぶのだから。
喫茶店
【留弗夫】「霧江はどう考える。」
【霧江】「……その碑文が、黄金の隠し場所を示している可能性は、非常に高いわね。」
【留弗夫】「姉貴は、この碑文が解けたヤツが次期当主に選ばれるんじゃないかと見てるらしい。」
【霧江】「その線もありえるわね。……お父さんは蔵臼兄さんを、次期当主の器と認めていない。これは、余命幾ばくのお父さんが仕掛けた、最後の大仕掛けかもしれないわね。」
【留弗夫】「つまり、本当にこの謎を解けば、10tの黄金と次期当主の座が転がり込むってわけか。」
【霧江】「建前上はね。……でも、絶対に解けるものかという悪意も感じるわ。簡単には解かせてもらえないでしょうよ。」
【留弗夫】「だよなぁ。……へへ。当分の間は、酒の肴はこいつで充分そうだぜ。」
楼座の家
【楼座】「………馬鹿馬鹿しい。こんなの解けるわけないわ。」
 楼座は、碑文を書き写したメモを放り出して、ソファーに寝転ぶ。
 解ければ10tの黄金。それだけのお金があれば、もう生涯、金策に困ることはないだろう。……お金があれば、借金を返せれば、……あの人も帰って来てくれるかもしれない……。
【楼座】「…………お父様の懐かしい故郷はわかるのよ。鮎の川って何? 川なんていくつもあるわ。里って何よ? あぁ、さっぱりだわ……!」
【真里亞】「……うー。どうしたの、ママ……?」
 真里亞が不安そうな顔をしながら話し掛けてくる。子供はなぞなぞとか得意だし、ひょっとしたら……。
【楼座】「ねぇ、真里亞。このなぞなぞ、わかるかしら?」
【真里亞】「……………………………………。」
 真里亞は食い入るように碑文を写した紙を見つめる。その瞳がどんどん見開かれていく……。
【楼座】「どう、真里亞…? やっぱり、ちょっと難しいかしら?」
【真里亞】「きひ。きひひひひひひひひひひひ! これは魔女の儀式だよ、ベアトの復活の儀式だ…! どうしたの、これ?! ねぇママ、どうしたの、これ?! ベアトに聞いてみよう聞いてみよう!! きっとこの儀式でベアトは本当の力を取り戻すよ! もう反魔法の毒素なんかに悩まされずに、みんなの前に姿を現して魔法の奇跡を見せてくれるんだよ…!! きひははは、はっははははっはっはっは!!」
金蔵の書斎
【金蔵】「……碑文は、どうであるか。」
【源次】「親族の皆様は、競って謎解きに挑まれているようです。」
【金蔵】「ふ……。それで良い。誰もが挑め。そして誰にも解けぬ。奇跡に祝福された者を除いてな。……気を許せば、私とて解き方を忘失しそうになる。あれは、それほどに難解だ。」
【源次】「……難解であるがゆえに、解けた時、奇跡となる…。」
【金蔵】「そうだ。………これは私が人生の最後に望む、最後の奇跡。最後の魔法なのだ。……あの難解な碑文の謎が解ける奇跡が訪れた時、………きっとそれは、ベアトリーチェの復活を意味するのだ。……おぉ、ベアトリーチェよ…。見たい、もう一度その面影が見たい…。もはや富も名誉も何も要らぬ。そなたに最後に一目、会うことが出来たなら……!」
 これは、老い先短いことを悟った金蔵の、最後の魔法。ベアトリーチェに授けられた全てを賭けて、2代にわたり死に別れたベアトリーチェとの再会を、もう一度だけ望むのだ。
 彼の人生は、あの日のベアトリーチェとの出会いで、初めて幕を開けた。そして彼女らが去ってからも、金蔵は真っ暗になった舞台の上で、たったひとり、待ち続けているのだ。
 全てを手に入れ、全てを成し遂げた老王が、最後の最後まで手に入れようと足掻き、そして指の間をすり抜けるように逃してきた、たった一つの元素。
 その元素さえ得られれば、……もはや彼の人生には、何もいらなかった。結局、彼の人生は。……たった一つの元素こそが、人間を構成する唯一の元素であることを知るためのものだったのかもしれない。
【金蔵】「我が友よ。………我が人生最後の魔法は、私に奇跡を見せてくれるだろうか……?」
【源次】「…………………………。」
 源次はしばらくの間、沈黙した。それは言葉に詰まったわけでも、返事に悩んだわけでもない。……長年を共に過ごし、主従を超えた友情を育んだ者同士にしかわかりあえぬ、間のようなものだった。
【金蔵】「……いや、それで良いのだ。……誰にも解けぬ。だから、奇跡なのだ。」
【源次】「お館様。……ひとつ、お教え下さい。」
【金蔵】「ん、……何か。」
【源次】「もしも、でございます。…………奇跡が起こり。」
【金蔵】「ん………。」
 若かった日ならいざ知れず、老境の源次が、夢語りのような、もしもの話をすることは、滅多にない。その源次が、もしも…、と口にする。……金蔵は、友と呼ぶ源次の次の言葉を、静かに待った。
【源次】「もしも、奇跡が起こり。お館様の魔法が叶って。………ベアトリーチェさまがご復活を遂げられたら。……如何なさいますか…?」
 金蔵が、どれほどの狂おしい想いをもってベアトリーチェを求めてきたことか、最も身近にいた源次なら、知らぬわけもない。……なのに、その源次が、ベアトリーチェが蘇ったらどうするのかと、問う。
【金蔵】「……………………………。」
【源次】「……お館様は、すでに一度、ベアトリーチェさまが生まれ変わるという奇跡を、ご経験なされております。その奇跡が、再び起こったなら。……如何なさいますか。」
【金蔵】「…………我が友よ。そなたは、……やはり私を、咎めるのか。」
【源次】「……お館様とベアトリーチェさまのお心の全てを、私に知ることは出来ません。……しかし、ベアトリーチェさまが、どのようにお館様をお慕いしていたのか。……その一部は、存じ上げているつもりでおります。」
【金蔵】「……………………………。……悔やんでおる。お前は信じぬだろうが、……私は老いてから、全てを後悔したのだ。」
【源次】「……………………。」
【金蔵】「もし、奇跡が起こり。ベアトリーチェが蘇ってくれたなら。……無論、私との日々や過去のことなど、何も覚えてなくて構わん。…いいや、ベアトリーチェでさえあったなら、それが誰でも構わぬ! ……私はただッ、…………謝りたいのだ…!」
【源次】「………それは、本心でございますか。」
【金蔵】「そうだ、我が友よ。……悔いている。若き日の過ちを深く悔いているッ。……お前も老いたならわかるであろう。……若き日の過ちは、若き日には何の咎も感じはせぬ。しかしそれは深いトゲのように、次第に膿み、………私を苛むのだ。……この右代宮金蔵、今さら死に様などこだわりはせぬ!」
【金蔵】「しかし、……このトゲだけは、………この後悔だけは、………清算したいのだ……。ベアトリーチェに全てを返す。そして罪の許しを請う…! それだけが、………それだけが、私の最後の願いなのだ……。……ぅ、……ぅうぅぅぅ………。ぅああぁああぁああぁぁぁ……!!」
 金蔵は両目を覆いながら、咽び泣く。一代にして莫大な富を築き上げた老王は、……人生の最後に、……ただ、謝罪の相手を求めて、咽び泣くのだった…。
メタ礼拝堂
【理御】「……碑文は、お祖父さまが跡継ぎを選ぶために課した試験なのでは?」
【ウィル】「…………………………。俺も最初はそう考えていたが、……少し、事情が違うかもしれねェ。」
【クレル】「この時点では、私も試験だと思っていました。これは、右代宮金蔵の気紛れなる、跡継ぎ選びのゲームだと。」
【理御】「違う、のですか。」
【クレル】「……この碑文は、……………右代宮金蔵と呂ノ上源次の、二人にしかわからぬ、ある意味を持っていたのです。だから、これは運命なんかじゃない。必然だったのです。……私は、カボチャの馬車からガラスの靴まで、全てを準備されたシンデレラに過ぎない。」
【ウィル】「………なるほどな。……これは、金蔵と源次の、……茶番だったわけか。」
【クレル】「金蔵は、わかっていたのです。そして源次もまた、これがそのメッセージだと、理解したのです。」
【理御】「わ、私には意味がさっぱりわかりません…。……お祖父さまは、何をわかっていたのです? そして、源次さんはこの碑文と、何の関係があるというのです…?」
【ウィル】「碑文は、解かれたんじゃない。解かされたんだ。」
【クレル】「…………そして、ベアトリーチェは真の復活を果たす。……もし、ベアトリーチェが復活せずにいたならば。」
【ウィル】「……同じ1986年を迎えても、……事件はまったく違っていたかも知れねェ。」
【クレル】「結局、……私は生まれたその時から、運命の岐路においてはただの一度も。……私の意思では何の選択の権利も、与えられなかったのです。」
 あぁ、我こそは我にして我等なり。なれど我等、運命に抗えたるためしはただの一度もなし。
 我等など所詮は渦に舞う木の葉も同じ。どのように舞おうとも、渦に飲み込まれて消えるのみ……。
黄金郷・東屋
【真里亞】「瞬間移動が得意なのはガァプだね!! 序列第33位の大悪魔だよ…! そんなのがお友達なんて、やっぱりベアトはすごいね、うー!」
【ベアト】「なるほどな、大悪魔のガァプか。………よし、我が友よ、そなたはこれよりガァプだ。ガァプと名乗るが良い!」
【ガァプ】「やれやれ。やっと私に名前が付いたのね。ずっと名無しだったから嬉しいわ。」
【ロノウェ】「では、その調子で私にも名前を賜れますと光栄ですな。いつまでも家具頭だけでは、味気がないというものです。」
【ベアト】「真里亞。こやつにも名付けを頼む。こやつも大悪魔で、妾に仕える執事のようなものだ。妾の信頼できる部下であるぞ。」
【真里亞】「うー……。ロノウェ、かな? 序列第27位の大悪魔だよ…! 頼れる従者を与えてくれると言われてる!」
【ロノウェ】「おや、これは奇遇ですな。……私の分身である源次の苗字も、呂ノ上。」
【ベアト】「ほぅ、これは確かに奇遇! なるほど、そなたにこれほど相応しい名前はないようだな。よし、そなたの名はこれよりロノウェだ…!」
【ロノウェ】「おぉ、名前で呼ばれることの何と甘美なことか。素敵な名前を感謝します、マリア卿。」
【真里亞】「形が依り代となるように、名前もまた、強力な依り代なの。異界の未知の存在は、名前を与えるだけでも、その魔力を大きく増すんだよ…!! だから名前は大事なの。うー!」
【ガァプ】「そうね、本当に名前は大事で素敵。ねー! リーア。これからは私のことはガァプって呼んでね…!」
【ワルギリア】「ガァプ。良い名ですね、心得ました。……それから、私の大切な名前を勝手に略さないように…!」
【ロノウェ】「ぷっくっくっく…! ベアトリーチェの元へ導く者、ワルギリアですか。それも実に良い名前。お嬢様の師匠に相応しいですな。」
【ワルギリア】「えぇ、とても気に入っていますよ。名前は命、ですね。」
【ベアト】「真里亞、そなたのお陰で、妾の友人たちは名前を得た。心より感謝するぞ…!」
【真里亞】「うーうー! じゃあ今度はベアトの番! 真里亞のお友達の、ウサギさんたちにも、また絵を描いてあげて! さくたろみたいに!」
【ベアト】「ふむふむ、良かろうぞ。その魔導書を貸すが良い。」
【さくたろ】「うりゅー! ベアトは絵がとっても上手だから、とっても楽しみ!」
【真里亞】「どんな絵になるの? どんな絵になるの? ウサギさんたち、楽しみ! うーうーうー!!」
【ベアト】「森の音楽隊であったな。……音楽隊、音楽隊……。……ふぅむ。よしよし、こんな感じではどうか…。」
 気付けば、真里亞もただ母親の後を付いて回り、笑うか泣くかしかしない幼子ではなくなっていた。
 今では、幼いながらにも強い自我を持ち、……魔法世界について、我も一目置かざるを得ないほどの見識を持つ。我等は、マリアージュ・ソルシエールを名乗り、互いの魔法世界を、より深め合っていた…。
【ベアト】「名前も立派な依り代である、か。……味わい深い話であるな。」
【真里亞】「依り代として、姿はとても大事だけど、名前も負けないくらい大事なの。」
【ベアト】「道理であるな。名も知らぬ者よりも、名を知る者の方が強く印象に残るものだ。」
【真里亞】「姿や名前だけじゃないよ。もっともっと深く知ることによって、それはとても強く存在することが出来るの。だから、色々なことを考えてあげるの。」
【ベアト】「例えばそれは、さくたろうもであるか?」
【真里亞】「うん。さくたろは、名前と姿だけじゃないよ。他にも色々あるの。」
【ベアト】「ライオンの子であったな。」
【真里亞】「さくたろは、草食らいおんだから、お肉は食べないの。でも、他のみんなからは肉食だと思われて怖がられてるの。でも、さくたろも怖がりだから、お互いに怖がってるの。あははは、さくたろはビビリなのー。」
【さくたろ】「うりゅー。僕はお肉は食べないよー。怖くないらいおんだよー。」
【真里亞】「あ、肉食スズメだ…!! ばさばさばさっ。」
【さくたろ】「うりゅー!! スズメ怖いー! サッ。」
【ベアト】「わっはっは、スズメは肉食ではないであろうが。」
【真里亞】「さくたろがビビリだから、スズメが肉食だと信じてるのー。きっひひひひ。」
【さくたろ】「ス、スズメはどっかに行っちゃった…? うりゅー…。」
【真里亞】「さくたろはビビリだなぁ。そんな怖がりじゃ、またさくすけやさくきちに、お兄ちゃんは怖がりーって馬鹿にされちゃうよ?」
【さくたろ】「うりゅ…! 僕は怖がりじゃないよ!」
【真里亞】「あ、スズメが戻ってきた! ばさばさばさっ!」
【さくたろ】「ひー、食べられるー!! サッ。」
【ベアト】「はっはっはっは。さくたろは実に面白い。今、出てきた、さくすけやさくきちというのは兄弟なのか?」
【真里亞】「うん。お家で待ってる、さくたろの弟たちなの! さくすけはさくたろよりしっかりしてて、さくきちはとっても器用で何でも出来るの。でも、みんなとっても仲良しなんだよ…! みんな、真里亞のベッドの上で仲良くしてるの。」
【ベアト】「そなたのベッドの上はライオンだらけであるな。」
【真里亞】「うん。だから真里亞はベッドを、らいおんランドって呼んでるよ! らいおん以外にもいっぱい動物がいるけどね! うー!」
【ロノウェ】「らいおんランドですか。それは楽しそうですな。」
【ガァプ】「……マリアの仲間たちは、互いが互いと交流し合うことで、さらにその存在を強め合っている。見事な世界だわ。」
【ワルギリア】「私たちも、もっと交流を深めた方が良いということですね。絆を深め合うことで、私たちの存在も魔力も、もっともっと強くなる…。」
【ベアト】「妾たちも、もっともっと世界を広げようぞ! 聞く限り、真里亞の世界は、さくたろうやウサギたちだけでなく、他にもまだまだいると見える! 妾たちも負けてはおれぬぞ!」
【ロノウェ】「おやおや。負けてはおれぬぞとなると、我等も眷属を増やしますか?」
【ベアト】「黄金の蝶だけでは、どうにも面白味がない。あやつらは、喋らぬからな…! 喋り、騒ぎ、内輪で喧嘩をするくらいに賑やかな眷属が欲しいぞ。」
【ガァプ】「そうね、私たちも賑やかな方がいいに決まってる。」
【ワルギリア】「私たちは、マリアージュ・ソルシエールで、世界の広げ方と、眷属の増やし方を学びました。今や、どのような眷属を増やすもあなたの想像力次第……。」
【ロノウェ】「お嬢様、あれなど如何です? 先日、ゴールドスミスの倉庫整理の折に見つけた、あの物騒な道具の数々を依り代にされては。」
【ベアト】「おぉ、良いではないか! あのような物騒な依り代より顕現した眷属こそ、妾には相応しいぞ…! 我等はどんどん増えるな、賑やかになるな…!」
【真里亞】「うー! 新しいお友達がどんどん増えるの…! これが真里亞の魔法なの! そしてベアトは、真里亞のお友達に、姿を与えることが出来る。育てることが出来る…!」
【ベアト】「真里亞が生み、妾が育てる、か。……ふむ。これぞ、マリアージュ・ソルシエールであるな! ……うーむ、それにしても、ウサギの耳はなかなかに難しい…! ウサギたちの顕現は、なかなかに手間取るぞ。」
【ワルギリア】「せっかくですから、可愛くしてあげたいですものね。」
【ベアト】「無論であるわ。それこそ、妾の腕の見せ所であるぞ…!」
 存在を生み出し、名前を与え、姿を与える。それは、新しい生命を生み出すことと、何も変わらない。
 ニンゲンは子を生むことで姿を与え、名を与えることで認識し、世界を育むことで、その存在を深めていく。まったく同じことを、マリアージュ・ソルシエールはしている。我等の世界では、思い描いた存在が自由に生み出せ、それは姿を得て、名前を得て、我等の共通の友人となるのだ。
 我等はこの、マリアージュ・ソルシエールという世界の遊びに、夢中だった。少なくとも、真里亞は夢中だったと思う。この遊びを、会う度にせがんだから。
 もちろん、妾だって夢中だった。しかし、真里亞が楽しそうに何かを書き始めて集中し、妾をぽつんとひとりにする時。……彼女に気取られぬように、小さなため息を漏らして空を見上げたことが、なかったとは言わない……。
 ……眷属が、増えることは楽しい。賑やかだし、飽きぬ。妾の眷属だけでは飽きることもあろうが、真里亞の眷属と交流していれば、それもない。
 宇宙を生み出すには、二人いる。今の妾には、その二人目がいるからこそ、満たされているのだ。
 …………………………。……満ちては、いると思う。しかし、ほんのわずかに、……満たない。
 それは本当にほんのわずか。だって、こうして真里亞と一緒に遊んでいる時は、時が立つのも忘れるほどに楽しい。
 しかし、なのに、……ふと空を仰ぐ時、……その、わずかな隙間に、何とも言えない空虚な気持ちを感じるのだ…。
 わかってる…。妾の宇宙は、満たされてはいないのだ。
 それは、…………真里亞には本当に申し訳ないが。……妾が求める、宇宙を生み出す二人目が、真里亞ではないからだ。……真里亞とどれほど宇宙を育もうとも、……胸の中の、恋の根が、その隙間を開ける。
 …………もう、あの日から4年が経つ。白馬に跨って迎えに来るぜと言い残し、……妾にだけ、手紙の一つもなく。もはや、六軒島には戻るまいとさえ、言い捨てて……。
【ベアト】「………………………………。」
 これが、………恋か。……妾は、恋とはもっと甘く、酔わせてくれるものだと信じていた。
 しかし、今となってはわからない。狂おしいほどに待ち焦がれるのに、……時折、それが裏返って、憎ささえ感じることがある。しかし、その憎ささえも、愛おしさの中に包まれているのだ。
 恋の根は、ずっと妾の心の片隅に残ってる。戦人が二度と帰って来ないかもしれないと、……どこかで諦めているのに。
 でも、恋の根はじっと、妾の心に深く居座っている。……それはつまり、……4年を経てなお、妾は信じているということだ。
 いつかきっと、帰って来る。今は恋の花も、冬の寒さに耐えるように縮こまり、枯れているようにも見える。
 しかし、その根は生きている。……そしていつの日にか、きっと帰ってくる彼のために、もう一度、美しい花を咲かせようと、ずっとずっと、耐えているのだ。
 真里亞には、感謝している。マリアージュ・ソルシエールのお陰で、どれほど妾の心は慰められたことか。この出会いがなかったら、……妾は恋の根とともに、朽ち果てていたかも知れぬ。
 ……この不完全な宇宙さえも、今の妾には、永らえるために重要なもの。妾は、完全な宇宙を得るその日まで、永らえねばならぬ。
 その日まで、……妾は完全には、満たないのだ。姿を持ち、名前を持ち、……どれほどに世界を深めても、……妾は満たないのだ。
薔薇庭園・東屋
【ベアト】「………妾は、……満たないのだ。」
【真里亞】「………………ベアト…?」
 胸中を思わず呟いてしまう。その呟きに、真里亞はさくたろとのおしゃべりとやめる。
 小さな失言で楽しい時間に水を差してしまったことを悔やむが、取り繕うには、少し長く沈黙してしまった…。
 妾は笑ったが、多分、寂しげなものだったと思う。真里亞は、どうして妾が唐突にそんな表情を浮かべるのかわからなくて、きょとんとしていた。
【ベアト】「……妾の眷属たちは、次々に世界を深め、その存在を深め、満たしていくのに。……妾だけが、いつまでも満たぬ。」
【真里亞】「………………………………。」
【ベアト】「……なぜ満たぬかは、わかっているのだ。」
【真里亞】「それは、魔力が足りないからだよ。」
 真里亞が即答する。ベアトリーチェは、魔力を失っていて、往年の力が取り戻せずにいる。そういうことになっていた。だから、真里亞の返答は、まさにその通りなのだ。
 …………そうだな。妾は、魔力を失っているから、満たないのかも知れぬな。
 ならば、魔力が満ち、……真の意味で復活を遂げたならその時。……妾の世界は満ちるのか。それはつまり、………妾の望む、宇宙を育むもう一人の相手が、帰って来てくれるということなのか。
 ……もし、妾が本当に、自らがそう名乗るように、かつて、奇跡を自在に操る魔法を思いのままにしたならば。復活を遂げたなら、必ずや、その奇跡を起こすだろう。それが出来るなら、………妾は復活のため、本当の魔力を、手に入れたい。
【ベアト】「……そうだな。魔力が、足りないからであるな。」
【真里亞】「可哀想に。……ベアトはまだ魔力が弱いから、色々と不自由なんだね。」
【ベアト】「早く、……取り戻したいものだな。……かつての魔力を。」
【真里亞】「やっぱり、………あれをやらなくちゃいけないんだよ。」
【ベアト】「……あれとは、何か…?」
【真里亞】「復活の儀式。………肖像画の碑文の儀式だよ。」
【ベアト】「………………………………………。」
 あの碑文を、素直に読めば、魔女の復活の儀式と読み取れるだろう。魔女の存在を妄信する真里亞にとって、あの碑文はまさに儀式そのもの。
 他の親族たちと異なり、黄金の隠し場所を示している、などというのには、あまり興味はないようだった。
【ベアト】「……あの碑文の謎を解けば、かつて妾が金蔵に与えた、莫大な黄金の隠し場所が知れよう。」
【真里亞】「ベアトが魔法で生み出した黄金だよね?」
【ベアト】「そうだ。魔力に満ち溢れし日の、魔力の結晶である。」
【真里亞】「じゃあ、……その黄金を取り戻せば、ベアトの魔力は、元に戻るんだね。」
【ベアト】「………そう、なるかも知れぬな。」
【真里亞】「なるよ。うー! やっぱりあれは、ベアトの復活の儀式なんだよ…! 真里亞も手伝うから一緒に解こう。そしたらベアトは復活するよ! そして早く真里亞を、ベアトの黄金郷に連れて行って…!」
【ベアト】「そうだったな。きっとそなたを黄金郷に連れて行くと、約束していたな。」
【真里亞】「そこではどんな願い事も叶うってベアトは言った…! そこには黒い魔女のいない、やさしいママに会える…! 会ったことのないパパにも会えるかもしれないね…! もちろん学校も宿題も、いじわるな友達も誰もいなくて、真里亞とベアトはいつまでも楽しく暮らせるの…! ね、さくたろ、楽しみだねー! うりゅー!」
 …………肖像画の碑文、か。やはり、あの碑文の謎に、妾は向かい合わなくてはならないのだろうか。
 金蔵の実の子供たちが頭を抱える謎を、……どうして、赤の他人である妾が解けようか…?
 ……そんな妾に、もしも解けてしまったなら、……それはきっと、奇跡。その奇跡は、妾に奇跡の力を再び与える奇跡を、起こしてくれるだろうか……。
肖像画の前
 懐かしき、故郷を貫く鮎の川。黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ……。
【ベアト】「…………金蔵の故郷の川を下れば、鍵が見つかるとでも言うのか。」
 川を下れば、やがて里あり。その里にて二人が口にし岸を探れ。そこに黄金郷への鍵が眠る……。
【ベアト】「……川を下れば里もあろうが。二人が口にする岸とは何か。」
 鍵を手にせし者は、以下に従いて黄金郷へ旅立つべし……。………鍵が手に入らぬ者には、以下は読む価値もなし、ということか。
 わかるわけもなかろうが、このような謎。……解けるわけもないから、解けたら奇跡か。道理であるな……。
【ベアト】「…………ん。」
 体がちりりと痛む。反魔法の毒素が肌を焼く。誰かニンゲンが近付いてきているのだろう。妾は姿を消す。
 複数の足音が近付いてくる。源次と紗音、……嘉音も一緒だった。
【源次】「………皆、碑文の謎解きに夢中なようだな。」
【嘉音】「はい。使用人たちの中にも、碑文を書き写して持ち帰り、謎解きに挑む者が多いようです。」
【紗音】「……本当に、あの謎を解くと、10tの黄金が見つかるのでしょうか。」
【源次】「うむ。それは間違いない。」
【嘉音】「わかりません。……どうしてお館様は、大切な黄金の隠し場所を、謎めいた碑文とはいえ、こうして誰もが目に出来る場所に晒すのでしょう。」
【源次】「……それが、お館様の魔法であり、賭けだ。お館様は、この難解な謎を解いた者は、ベアトリーチェさまの魂を宿すと信じている。」
【紗音】「…………不思議な賭け、いえ、魔法ですね…。」
【嘉音】「ふん、オカルト狂いも行き着くところまで行ったってわけだ。」
【紗音】「シ。そんなこと言っちゃだめ……。」
【源次】「……碑文の謎に挑む資格は、全ての者に許されている。無論、それは使用人も例外ではない。……お前は、挑んでいるのか?」
【紗音】「い、いえ……。……こんな難しい謎、私にはさっぱりですし…。それに……。」
【源次】「……それに?」
【紗音】「10tも黄金があっても、特に使い道も思い付きませんし……。私は、今の穏やかな日が、いつまでも続いてくれれば、それで充分だと思ってます。」
【嘉音】「姉さんは最近、譲治さまといい雰囲気みたいだからね。浮かれて、変なドジしなきゃいいけど。」
【紗音】「そ、そんなことありませんっ。」
 そのやり取りを尻目に、源次は肖像画に近付き、……肖像画の魔女を見上げた。
【源次】「…………………………………。」
 源次のその様子に気付き、紗音も嘉音もすぐに口を噤んだ。
 ……使用人たちの頭にして、……金蔵ともっとも歳が近く、我が友とさえ呼ばれる彼は恐らく、誰よりも金蔵の心の奥深くを理解しているだろう。
 その彼は、この肖像画と碑文を見て、何を思うのか………。紗音にも嘉音にも、それを察することは出来ない。
【源次】「…………懐かしき、故郷を貫く鮎の川。」
 唐突に源次が、碑文の冒頭を読み上げる。紗音は慌てて、はい、と相槌を打つが、彼女に対して言ったものか、独り言なのかはわからない。源次はそのまま、背中を向けたまま、続けた。
【源次】「お館様が懐かしむ故郷は、小田原ではない。」
【嘉音】「……遠方にお住まいだったと聞いたことがあります。」
【紗音】「ど、どこかは存じませんが……。」
【源次】「台湾だ。」
 振り返り、源次は一言、そう告げた。
【紗音】「……あ、……あぁ、そうだったのですか…。」
【嘉音】「なるほど、やっと蔵臼さまの話が繋がったよ。ほら、お館様が好まれる、ビンロウ。」
【紗音】「……そう言えば蔵臼さま。あれは台湾では煙草のようにポピュラーな嗜好品だと仰ってましたっけ…。それでお館様はビンロウを……。」
 戦争が終わるまでの半世紀の間、台湾は日本に統治されていた。新しいフロンティアを求めて、日本人も大勢が移民した。
 金蔵の一家は右代宮家の分家筋だった。かなりの遠縁だったらしいので、本家のある小田原には縛られず、この新天地に新しい未来を思い描いて移民したのだろう…。紗音たちは、なるほどと相槌を打つが、なぜに源次が唐突にそんな話を始めるのかわからなかった。
【紗音】「……では、……お館様の故郷の、台湾に鮎の泳ぐ川があって、そこに鍵があるということでしょうか。」
【嘉音】「姉さんは馬鹿だな。鮎の泳ぐ川なんていくらでもあるに決まってる。」
【紗音】「わ、わからないよ…? お館様が台湾のどちらにお住まいだったかは知らないけれど、……そこには川が一つしかないのかもしれない。だったら、そこってことになるじゃない。」
【嘉音】「姉さんは楽観的だな。そんな簡単なことで、謎が解けるものか。」
【源次】「……お館様の魔法の儀式は、挑む者が多いほどにその力を増すと仰せだ。お前も挑戦してみなさい。誰にも等しく、機会は与えられているのだ。」
【紗音】「………は、…はい。」
【嘉音】「どうせ解けないさ。下らない……。」
 源次は踵を返す。紗音たちも慌てて後を追う。彼らの足音が遠退き、静寂を取り戻した頃、ひらりと黄金の蝶が、何処かより舞い戻る。
【ベアト】「………台湾、とな。……ほぅ、ずいぶんと遠くに住んでいたものよ。」
 懐かしき、故郷を貫く鮎の川。即ち、懐かしき、台湾を貫く鮎の川……?
【ベアト】「……台湾に川などいくらでもあるわ。嘉音の言う通りではないか。馬鹿馬鹿しい。」
 ……………………………。しかし、台湾という単語が、気に掛かる。あの無口な源次が、誰にも問われずに唐突に呟いたそれが、何の意味も持たないなどということがあるだろうか。
 紛れもなく、源次は碑文の謎に絡めてそれを口にした。まるで、碑文の謎を解くヒントでもあるかのように……。
【ベアト】「…………馬鹿らしいとは思いつつも。……良かろうぞ、源次。そなたの茶番に、しばし付き合おうではないか。」
 台湾、か……。千年の日々に世界を旅したこともあるが、台湾には疎い。
【ベアト】「……無知を補うには知識の結晶に頼るが一番。それは薄く伸ばされて何枚にも重ねて綴じられて、書物と呼ばれているのだ。」
 台湾について記した書物は、果たしてどこにあるだろう。本のたくさん納められている場所といえば、金蔵の書斎か。あそこは無理だ。妾の立ち入れぬ魔除けが施されている。ならば、書庫、か……。
書庫
 金蔵の部屋の膨大な蔵書は、年月と共に増え続けている。書斎に収まりきらなくなった蔵書の一部は、書庫と呼ばれる倉庫に保管されているのだ。……もちろん、それでも膨大な量なのだが。
 書庫には、価値ある本から、価値の見出せない本まで、様々な書物が、古書店のようにぎっしりと収められていた。………書庫の扉の鍵穴が金色に光り、黄金の蝶がひらりと抜け出てくる。
【ベアト】「相も変わらず、酷い臭いのする部屋よ。…埃、カビ。なるほど、知識とはこういう臭いなのか。」
 ……さて、台湾について記した本を、この膨大な中から探すというのか。気の遠くなる話だ。
 しかし、すぐに気付く。もっとも手っ取り早く、台湾にある川を知ろうと思ったら、必要な本は台湾の本ではない。
【ベアト】「………地図帳ではないか。………そのくらい、どこかにありそうであるな。……探せ、我が眷属の蝶たちよ…!! この埃臭く誇り高き知識の墓所より、妾の探す本を探し出せ!」
 足元より無数の黄金蝶の群が湧き上がる。
 それはうねり、風のようになって、書庫の中をぐるぐるととぐろを巻くかのように巡った。やがて、蝶の群が一冊の本を選び出す。それのようだった。
【ベアト】「ご苦労であるぞ。………ふむ、世界の地図帳、アジア編であるか。ぴったりであるな。」
 数巻にも及ぶ、豪勢で分厚い地図図鑑だった。台湾についても厚いページを割いている。資料価値は充分なようだった。
【ベアト】「………台湾、とな。……南北394km、東西144km。面積、約3万6000平方km。……ほほう、なかなかに広大であるな。」
 その面積は、日本に例えれば九州ほどもある。……そこで、ベアトはとても当然な疑問に行き当たる。
【ベアト】「金蔵はこれほどの広大な島の、どこに住んでいたというのか。……源次は台湾とは言ったが、台湾のどことは言わなかったぞ。これは迂闊であった……。」
 ベアトは漠然と、台湾の地図さえ見ればすぐに謎は氷解すると思い込んでいた。
 しかし台湾は決して狭くは無い。この大きな島のどこを、金蔵は懐かしき故郷と呼ぶのか。……埃塗れの書庫で、時に咳き込みながらまでして本を調べ、その程度のことで手詰まりでは、あまりに面白くなかった。
【ベアト】「一番大きな都市は台北か。……かつては、大正町なるところに日本人たちが住んでいたとの記述もあるぞ。……金蔵もやはり、ここに住んでいたのであろうか? いやいや、そう決め付けるのは早計であるぞ、その保証は無い。」
 台湾以上のことは決め付けずに、次を調べようぞ。故郷を貫く鮎の川だ。何々……? 台湾には129本の河川がある?
【ベアト】「はッ……。129本…! この中のどれだけに鮎が泳いでいたやら…! 考えただけでも眩暈がするわ!」
 急激に馬鹿らしくなってきた。やはり、あれは源次の気紛れな呟きだったのだ。それをさも、碑文のヒントに違いないと勘違いしてしまったのだろう…。
【ベアト】「黄金に目の眩んだ愚か者への褒美は、埃塗れというわけか。くっくくく、源次め、やってくれるわ。」
 本をどさりと投げ出し、魔法にて本棚を一つ、ソファーに変えると、妾はそこにどっかりと身を投げ出す。
 しばらくの間、やられたやられたと愚痴り、天井を見上げた。悔しいから、この部屋の埃でも集めて玉にして、源次の湯のみの中にでも浮かべてやろうかと思い、床に目を落とす。
 投げ出した本が、ページを開いたまま転がっていた。
 そのページに、黄金蝶が止まる。
 ………気紛れに本を投げ出し、偶然開いたページより神託を読み取るのは、まじないの一つだ。なるほど、……偶然開いたそのページに、何かヒントがあるかもしれないというのか。半ば期待せず、それを拾う……。
 開いていたのは、妾が読んでいたページのすぐ近くだろう。台湾の地理について紹介するページのようだった。そのページは奇しくも、河川と湖沼について紹介するページだった……。
【ベアト】「………川が129本あることはすでに承知しておるわ。まだ他にも妾に伝えたいことがあるというのか。」
 主要な河川としては、以下の6つが数えられる。濁水渓。高屏渓。淡水河。大甲渓。曽文渓。大肚渓。
【ベアト】「ほう。さて、これらの川には鮎は住めたのか、否か。」
 そこでふと思い当たり、呆れる。
 鮎は淡水魚だ。そして川に海水が流れるはずもない。……よほど汚かったり、ダムで塞き止めでもしない限り、川と名さえ付けば、どこの川だって鮎は住めるではないか。
【ベアト】「馬鹿らしい。川ならどこだって淡水だ。鮎の住めぬ道理はないわ。…………そう考えれば、この淡水河なる川の馬鹿らしいことよ。川に淡水が流れるのは当然であろうが。淡水以外が流れて初めて、それを川の名にすれば良かろうに。」
 淡水河は、台北から、港湾都市“淡水”へ向けて流れている。なるほど、淡水が流れてるからではなく、河口の町の名が川となったのか。
 …………川を下れば、やがて里あり。その里にて二人が口にし岸を探れ。
【ベアト】「………………………………。」
 馬鹿馬鹿しいとは思う。しかし、なぜかこの町が気になった。
 懐かしき、故郷を貫く鮎の川。この文言で、129本ある河川の内の1本が特定できるはずなのだ。
 ……鮎は、淡水魚。そして、淡水へ向けて流れる、淡水河の存在。滅茶苦茶なこじつけだとは思う。……それとも、これは何かの暗示なのか…?
 ……ここまでわざわざやって来て、埃塗れになってまで本を探した。ここで引き下がっては、ただの汚れ損というもの。
 …………良かろうぞ。妾が適当に放りて開いたページに神託があったかどうか。……妾の運試しと行こうではないか。
 妾は、さらに詳しく調べようと次なるページを開く……。
メタ礼拝堂
【クレル】「この謎解きは、遊びのつもりでした。そして使用人たちはみんな、この謎解きゲームに夢中でした。」
【クレル】「私も、その内のひとりに加わるだけのつもりでした。……熱中できる読み物を久しく失い、退屈していた私は、その本を自室に持ち帰り、毎晩、眺めました。」
【理御】「……地図帳に、碑文の謎のヒントが?」
【ウィル】「第3のゲームで、絵羽は書庫で何かの本を調べて謎を解いた。そして第5のゲームで古戸ヱリカは、謎を解くために書庫で求めた本は地図帳だった。」
【理御】「では、やはり台湾の地図に、何か秘密が……。」
【クレル】「……鮎の川とは、淡水河を暗示していると信じました。地図で淡水河を毎日辿り、地形を細かく調べました。……もちろん、鮎の泳ぎそうな小さな渓流もいくつも調べました。でも、……何もわかりませんでした。」
【ウィル】「過去のゲームでの情報によるなら、……それは、川じゃない。だが、流れるものだ。絵羽はそう読み解いた。」
【理御】「川ではない…?」
【クレル】「はい。結論から言えば、淡水河とは無関係でした。……しかし、やはり今にして思えば、あれは神託だったのです。淡水河自体は無関係でしたが、……それはやはり、大きなヒントになったのです。」
【理御】「川は無関係なのに、……ヒントにはなると?」
【ウィル】「落ち着いて考えろ。川でなく、流れるものを考えるんだ。」
【理御】「………つまり、水以外が流れる何か…?」
【ウィル】「何が思い付く。……発想を柔軟にしろ。」
【理御】「…………………………。」
【ベルン】「……ウィル。謎掛けごっこはもうウンザリしてるわ。……焦らさないで、教えちゃいなさいよ。……あなたは解けたんでしょ? 碑文。」
【ウィル】「…………………。……恐らくな。」
【理御】「……水以外で流れるもの……。……もの……。……物…? ……物流……? 例えば街道とか、道路とか。」
【クレル】「正解です。鮎の川が、川そのものを指さないことに気付くのに、私は膨大な時間を掛けました……。」
【ウィル】「そうだ。淡水の名が付く、川以外のものがある。それは物や人が流れ、上りも下りもある。」
【理御】「……上り、下り……? まさか、……。」
【ウィル】「そうだ。鉄道だ。」
 淡水線。それは、台北から淡水港までを結んだ鉄道だ。
 日本統治下の1901年に開通。その後、駅を増やし続け、台北の大きな動脈となった。この鉄道は戦後も運用され、台北捷運淡水線として今日も使用されている。
 その路線は、台北駅より伸び、終点の淡水へ向けて下っていく……。台北駅。長安駅(旧名、大正街駅)。双連駅。大同公司駅。円山駅。剣潭駅(旧名、宮ノ下駅)。士林駅。石碑駅(旧名、…………、
【ウィル】「………碑文には、川を下れば、やがて何があると?」
【理御】「さ、里があると。」
【ウィル】「淡水線の駅の中で、里の名を持つ駅は、この石碑駅しかない。」
【理御】「こ、これは何と読むんでしょう……。」
【ウィル】「キリガン駅、と読む。戦後、石碑駅に名を変えたが、金蔵が住んでいた当時は、キリガン駅だった。」
【理御】「川を下れば、やがて里あり……。その里にて、二人が口にし岸を探れ……。」
【ベルン】「……くす。里だけじゃなく、岸まであるわね。その駅の名前……。」
【クレル】「果たして、その駅を示しているのか、短くない時間を悩みました。……里という文字と、岸という文字。何となく、なぞなぞの文字遊びのように感じていました…。」
【理御】「この、キリガンの一文字目の、口偏の漢字。口の脇にあるこれ(其)は、“その”と読みますよね…?! “口にし”で、口の文字もあるし…! ……ん、…でも、“二人が”口にし、の意味がわからない…。」
 キリガンを意味する3文字の漢字は、里、口、其、岸、などで構成されている。それらは何れも、碑文の中に登場する文言だ。
“其の里にて二人が口にし岸を探れ”。この駅の名を、暗示しているようにも読み取れる。しかし、二人が口にし、というのがわからない……。
【クレル】「……私も、そこに引っ掛かりました。しかし、きっとこれを指し示すに違いないという、強い信念がありました。」
【理御】「この駅名が旧名であるように、……この地名も、何か旧名があるのでは?」
【ウィル】「そうだ。元々、キリガン駅は、地名から名付けられたものだ。そして、地名のキリガンは、駅名と違い、こう書く。」
【理御】「あっ、……口が、二つ……!」
【クレル】「調べればすぐにわかることでした。……やはり、碑文はこの、キリガンのことを指し示していたのです。」
【理御】「では、ここに、黄金郷の鍵が眠っていると…?」
【クレル】「普通に考えればそうなります。しかし、台湾まではるばる行けるわけもなく。当然、キリガンと呼ばれる土地も広大です。そのどこに、小さな鍵が隠されているのか、わかるはずもない。途方に暮れました……。」
【ウィル】「しかし、お前は諦めなかったな。」
【クレル】「碑文の、少なくとも最初の5行については、確実に答えを手に入れたと確信していましたから。………私にとって、これはもう、何よりも面白いゲーム、……いえ、ミステリーでした。」
 一度はそこで諦めかけました。しかし、私は鍵を手にしたに違いないのです。そこで、碑文に従い、黄金郷へ旅立つことにしました。
【理御】「……第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ…。」
【ウィル】「この一文を見てわかることは、鍵とは即ち、6つの何かを示せるということだ。……その時点で、錠前に挿す、言葉通りの鍵ではないことが推理可能だ。」
【理御】「6つの何か……?」
【クレル】「はい。6つの何か。……私も頭が硬い人間でしたから。……とにかく、6に関わる何かがないかと、本を読み漁りました。6。6、6、6。キリガンという鍵の在り処は、言葉遊びによって隠されていました。ならばきっと、この6もまた、言葉遊びに関わるに違いない。6。6、6、6。……探しました。6を。」
【理御】「…………この、キリガンという文字が、6つに分解できるとか……。」
【ウィル】「いい推理だ。しかし、この3つの漢字といくら睨めっこしても、答えは出ない。そもそもキリガンなんて読み方自体、日本語読みだ。」
【理御】「では、現地では何と?」
【クレル】「……Qilianと発音します。それは英語だと、6文字。」
【理御】「6文字…! じゃあ、やはりこれは、言葉遊び…!」
【ウィル】「第一の晩に、鍵の選びし6文字を生贄に捧げよ、ってわけだ。」
【理御】「……な、………なるほど…………。」
 こうして話せば、ここに至るまではあっという間の推理に聞こえるかもしれない。……しかし、たった一人でここまで至るには、長い時間を掛けたのだ。源次がたった一言呟いた言葉だけから、ここまでに至るには、気が遠くなるような夜の数を重ねたのだ。
【理御】「では、この6文字を生贄に捧げよとは、一体、どういう意味でしょう。」
【ウィル】「続く第二の晩以降は、“残されし者”で話が進んでいく。……何かの文字列から、鍵の6文字を間引き、残った文字でどうこうしろと言っていることが推理できる。」
【クレル】「しかし、何から6文字を間引くのか。それにも長く悩みました。ここからは、もはや新しい謎。誰の助けもなく、今度こそ自分の力だけで解かねばなりませんでした。」
【理御】「……過去のゲームの中で、…確か楼座叔母さんが、第一の晩について何か仮説を立てていたような気がします。」
【ウィル】「第十の晩の、黄金の“郷”に注目した推理だな。碑文の中には、他に四度も黄金郷という単語が登場するのに、なぜかこれ一つだけが、黄金の郷と記されている。」
【クレル】「なぜ、第十の晩だけ、黄金の郷なのか。これに気付くのにも、そしてどうしてなのかに気付くのにも、これまた長い時間を掛けました。」
【ウィル】「楼座の推理はこうだった。黄金の“郷”をキョウと読み、京都の“京”と読み解いた。そして、懐かしき故郷から京都までの十日かかる旅路を十分の一した地点に、何か秘密があると疑った。………いい推理だったが惜しかった。“京”は京都以外にも読み解けたんだ。」
【理御】「……“京”を、京都以外で読み解く……? ん……。」
【ウィル】「難しく考えるな。そのままだ。」
【クレル】「……京です。いえ、キョウでなく、ケイと読みましょうか。数字の単位です。一十百千万億兆、京。」
【理御】「数字の、単位……!」
【クレル】「……私の場合は、この六軒島にいるという地の利がありましたから。“京”を思い当たるヒントはあったのです。私の場合は、先に答えがわかってから、逆に問題の意味がわかったという感じでした。」
【ウィル】「ややこしいことを言うと理御が混乱する。話を戻そう。……第十の晩に1京に至るならば、第一の晩はいくつになる?」
【理御】「い、1京の十分の一ですから、……えっと、………千兆…?」
【ウィル】「正解だ。千兆から、鍵の選びし6文字を間引くんだ。」
【クレル】「Qilianが英語である以上、千兆も英語であろうとはすぐに察しました。」
【ウィル】「千兆は英語では、Quadrillion。……第5のゲームでの戦人の推理通り、11文字だ。いや、これはあんたの推理だったか。」
【ベルン】「…………くす。」
【クレル】「奇しくも、このスペルも冒頭はQ。6文字の鍵の冒頭もQ。きっとこれに違いないと直感しました。」
 理御は懐より手帳を取り出し、QuadrillionとQilianのスペルを書き出す。ぱっと見ただけでも、かなり似ている印象を受けた。
【理御】「………………。……確かに。……Quadrillionの中には、鍵が示す6文字が、確かに含まれています…! じゃあ、この6文字を消すと……?!」
 意味不明な5文字が残る。しかし、5文字というのには意味がある。
 なぜなら、続く碑文で、殺せという表記は、あと5回登場し、その上で第九の晩には“誰も生き残れはしない”と続く。つまり、5文字が残るのは正解なのだ。
【理御】「しかも、この5文字は、第5のゲームでの戦人さんの推理通り、寄り添っている文字があります。dとrです! これが“寄り添いし二人”に違いない!」
【クレル】「……ここまでくれば、もはや謎は、ほとんど解けたも同然。」
【ウィル】「逆を返せば、碑文だけで解ける謎は、ここまでだ。この後、言葉遊びを続けても、答えはわかるかもしれねぇが、仕掛けは開かない。」
【クレル】「そうです。……ここまでがわかれば、あとはそれに従い、抉りて殺すのみです。」
【ウィル】「お前は、その場所の心当たりの方が先だったわけだな。」
【クレル】「はい。………元々、碑文が現れるより以前から、そこに黄金が隠されているのではないかと疑われていました。そしてそこに、謎めいた一文があれば、きっと何か秘密が隠されているに違いないと思うのは当然のこと……。」
【理御】「……その場所、とは……?」
【ウィル】「黄金郷の入口を開ける、仕掛けの場所だ。……勘のいいヤツなら、鍵の選びし6人を生贄に捧げる“第一の晩”が、どこのことか、もう察してるはずだ。」
【理御】「え? それは千兆のことであって、場所のことではないのでは……?」
【ウィル】「千兆と記された場所だ。……お前は知ってるはずだが。それとも、クソ真面目に金蔵の言い付けを守り、近寄らなかったから知らないというのか…?」
 紗音が知り得ない部分の描写が若干含まれているが、便宜上、場面の分類は回想のままとしている。

魔女の蘇る日

 第九章“魔女の蘇る日”。
礼拝堂前
 Quadrillion。それが刻まれた場所が、六軒島に一ヶ所だけある。
 黄金蝶が梢の陰から陰へ、小雨を避けながら、ひらりと飛ぶ。
【ベアト】「……妾の記憶が間違っていなければ、確かここで見た覚えがある。」
 そこは、……礼拝堂だった。六軒島に屋敷と同時に最も古く建てられた、謎多き建物だ。
 礼拝堂と名は付いているが、金蔵が礼拝に使った試しは一度もなく、親族たちに立ち入らせたことも一度も無い。濫りに近付くべからずと厳命され、何のために建てられたのか、ずっと謎に思われてきた。
 しかし、どんな謎も、数十年という長い時間の間には色褪せる。いつしか、礼拝堂という存在も忘れられ、これほどに立派な建物なのに、六軒島の住人たちからは忘れ去られていた……。
 無論、それはベアトもだった。退屈を嫌うベアトは、人の立ち入らない場所には好んで近寄らない。以前、礼拝堂の掃除をする紗音をからかった時に出入りをしたのが、最後の記憶だった。
【ベアト】「……間違いない。あれであるな。……Quadrillion。」
 ベアトが見上げるのは、……礼拝堂の扉の上。アーチ上に掲げられている、レリーフだった。そこには英文が記されている。
【ベアト】「“お前は千兆分の一の確率でしか、祝福されない”、か。………ふふん。あの謎を解ける者が現れる確率を、そなたは、千兆という名の奇跡に見立てたのか…。」
 この礼拝堂が建てられたのは、ずいぶん昔のことだ。もし、妾の想像する通りの仕掛けがあるとしたら、……金蔵は、数十年の昔から、あの碑文の謎を用意していたことになる。
 いつの日にか、自分の後を継ぐに相応しい者を選ぶ儀式に使おうと、ずっと寝かし続けていた仕掛けに違いあるまい。……もっとも、その儀式は今や、黄金郷への扉を開く、復活の儀式であるが。
 パチリと指を鳴らすと、目の前の地面が膨れ上がり、そこから朽木が大蛇のように何本も生えてくる。それは絡まり合い、はしごの形となって、扉に立てかかった。
【ベアト】「妾の想像通りならば、……あのレリーフが仕掛けだ。」
 ゆっくりとはしごを上る。扉が大きいこともあり、レリーフの位置は高かった。こうして間近でレリーフを見ると、下で見るより遥かに大きく見えた。
【ベアト】「…………そう言えば、礼拝堂を大掃除する時。……あの源次が、わざわざこのレリーフだけは、自らの手で磨いていたな。……その程度のこと、なぜ若い使用人に任せぬのかと不思議に思っていたものだが。」
 不思議には思っても、それ以上のことは何も考えなかった。お館様の大事なレリーフだから、使用人頭の源次が自ら。……それで納得してしまっていた。
 しかし、今になれば納得できる。やはり、このレリーフには仕掛けがあったのだ。それに不用意に近付かせないために、源次が自ら磨いていたのだ……。
【ベアト】「この、Quadrillionから、鍵の選びし6文字を生贄に捧げると言うことか……。」
 指先で、Qの文字をいじる。土埃が指先をくすぐった。でも、すぐに違和感のある感触を覚えた。
【ベアト】「……この文字、まさか。……いや、……そうでなくてはならん。でなくては、生贄に捧げられぬからな……。」
 ベアトがQの文字を掴み、力加減を色々と試すと、……それはゴリリと音をさせて、引き抜けた。
【ベアト】「やはり、……な………。」
 引き抜かれたQの文字。そしてそこからは楔が、……違う。これは、鍵だ。Qの文字には鍵が生えていて、それが文字盤の鍵穴に挿されていたのだ。
【ベアト】「……そういうことか……。ならば、あとはわかるぞ。……よしよし、このQの鍵は違う。お前はハズレだ。」
 引き抜いたQの鍵を、ベアトはぞんざいに放る。これが、最初の生贄。この調子で、鍵の示す6人を、文字盤の鍵を、引き抜いていく。
【ベアト】「……aも生贄であるな。……そしてiも2つ生贄だ。……最後のnも生贄か。」
【ベアト】「lは1文字を生贄であるが、……困ったぞ、lは2つあるではないか。」
 lは2文字ある。どちらのlを生贄に捧げればいいか、わからない。試しに両方を引き抜いてみるが、どちらの鍵も違う形状だった。片方は正解、片方はハズレだ。
【ベアト】「どうせ2通りしかない。……誤りだったら、もう片方を試せばいいだけのこと。」
 仕掛けを失敗すると、大爆発を起こすなどという物騒な罠でもない限り、な。
 悩むだけ無駄だと思い、2つ並んだlの、右側に決め、それを引き抜く。文字盤には、5文字が残された。
【ベアト】「これにて、第一の晩は終了だ。……続いて、第二の晩。」
 第二の晩に、残されし者は寄り添う二人を引き裂け。
【ベアト】「dとrが寄り添っているな。これを引き裂くとは如何に…? 抜けば良いのか?」
 しかし、抜けば残る文字は3文字になる。この頃には、第四の晩以降の、頭を抉りて殺せ、の行の意味が察することが出来るようになっていた。
【ベアト】「抉りて殺せは恐らく、鍵を捻って回してから引き抜けという意味であるに違いない。となれば、頭から足は、恐らく、左の文字鍵から右へ順にそれを行なえという意味に違いあるまい。」
 となるなら、文字盤には5文字が残らなければならない。つまり、引き裂けは、殺せという意味ではないのだ。
【ベアト】「それで引き裂けと考えた場合、このdとr、2字の間隔を開けよと読み取れるな。……しかし、どうやる? またしてもやり方は2通りであるぞ…。」
 dを抜いて、左へずらすのか。rを抜いて、右へずらすのか。……しばらく悩んだ末、そのどちらも間違いであることに気付く。
【ベアト】「違う。そうではないのだ。さっきのlから間違っていた。」
 2字並んだのlの、さっきは右を抜いた。しかし、あのlをもし、左を抜いていたなら。
 ……こうなる。この並び方なら、自ずと正しい手順は見えてくる。rを右にずらすのだ。
 こうすれば、全ての文字が均等に並ぶ。こうだ、こうに違いない。
【ベアト】「そして次が、……また難題であるぞ。……我が名を讃えよとな…?」
 文字遊びであることはすでに判明している。残されし者は、誉れ高き我が名を讃えよ。残された5文字で、何かをしろと言うのだ。恐らく、この5文字を並べ替えろというのだろう。
【ベアト】「……u、d、r、l、o…。……この5文字をどうにかすると、何かの意味になるということか。」
 我が名を、讃えよ。
【ベアト】「く。……ここまで来て、わけのわからぬ謎を……。この5文字で、どう我が名とやらを讃えろというのか…!」
 あやつの名は右代宮金蔵。uは、右代宮のuか……? いいや、合うのはその1文字だけだし、右代宮などという長い字数にはとても足りない…。
【ベアト】「我が名とは金蔵を指すことだけは間違いない。……ならばやはりuは右代宮を指すのか? イニシャルであるとか。……ならば、d、r、l、oは何を意味する? 金蔵も意味せぬ。r、oで、……まさか六軒島を…? 六軒島の主、金蔵……。……うぅむ、字数がまるで足らぬ……。」
 この謎は、完全に妾の頭を混乱させた。しかし、残された文字はたったの5文字しかない。5文字が作れる組み合わせなど、決して多くはないのだ。総当りで試すことだって出来る。
 とりあえず試そうと思い、まず1文字目のuを引き抜く。……残るは4文字。d、r、l、o。
【ベアト】「………………………………。」
 uのことを、ずっと、右代宮のuに違いないと決め付けていたことが、むしろ私に天啓を与える。だから、uを除いた4文字で、何かを作るべきだという考えに至る。
 d、r、l、o。その4文字が、ぐるぐると頭の中で回り、入れ替わり、……金蔵を“讃える”、ある一つの英単語を導き出す…。
【ベアト】「lordだ。……ロード(卿)…!」
 何の根拠もない思い付き。……しかし、天啓そのものの閃き。妾はその閃きが脳裏から薄れ去る前に、文字を手早く入れ替える。
【ベアト】「l、o、r、d! ロード! u! 右代宮! ……右代宮卿ッ、どうか?!」
【ベアト】「第四の晩に、………頭を抉りて、…………む?!」
 鍵だから、間違っていたら回すことは出来ない。しかし、回る。抉れる…! 1文字目のlはゴリリと音を立てながら抉り、……そして引き抜ける。
【ベアト】「次ッ、第五の晩…! 胸を抉りて……殺せ……!」
 当然であるかのように、oの文字鍵もまた抉られ、引き抜かれる。
 そして、r。続いて、d。最後に、u。
 最後のuの鍵を回した時、明らかに何かの仕掛けを作動させたかのような手応えがあった。
 何かの変化を待つが、……それ以上、何も起こらない。しかし、確実に何かの手応えはあったのだ。きっと、秘密の入口か何かが、どこかに開いたに違いない。
 ……待てども、それ以上の変化はない。恐らく妾は、ここで出来る全てのことをやり遂げたのだろう……。
 こうして、文字盤のQuadrillionが、全て引き抜かれる。
【ベアト】「第九の晩に、……魔女は蘇り、誰も生き残れはしない……。」
 これで、魔女は、……妾は蘇ったというのか……? 第十の晩。旅は終わり、黄金の郷に至るだろう……
 何かを求め、はしごを降りて周りを見回した時。……すぐにその小さな変化に気が付いた。
【ベアト】「……ライオンの像が…………。」
 礼拝堂前に鎮座しているライオンの像が、いつの間にか横を向いている。……何という大仕掛けか。金蔵はこの島に屋敷を建てた当初から、このような大仰な仕掛けを用意していたというのか……。
 ライオンの像に近付き、まじまじと見る。向きが変わった以上の、それ以上の変化はない。ならば、ライオンの目線の先に何かがあるのか……?
 その目線の先には、………向こうにも、ライオンの像が。そしてそのライオンの像もまた、いつの間にか向きが変わっている。
【ベアト】「なるほど……。ライオンの道案内に従え、ということか。……金蔵め、凝った仕掛けを作りおる。」
 もう、これは悪態ではない。……これほど長い間、誰にも、これほどの仕掛けを知られずに隠していた金蔵に対する、ある種の感服、敬意のようなものだった。
 ライオンの像は礼拝堂の入口と四隅を守護神のように守っている。それらの向きが変わり、礼拝堂の裏手へ回り込むように誘導していた。そこに、何かがある。
【ベアト】「………………………………。…………ほう………。」
 もはや、驚かなかった。文字盤の仕掛け。ライオンたちの道案内。だから、ぽっかりと秘密の通路が開き、………薄暗い地下へ招く階段が現れていたとしても、……もはや、驚かなかった。
【ベアト】「これが、………黄金郷への入口だというのか、金蔵……!!」
メタ礼拝堂
【理御】「………見つけたんですか…。お祖父さまの、……黄金を……。」
【クレル】「はい。………長い長い時間を掛けて辿り着いた、……黄金郷でした。」
【ウィル】「過去のゲームによるならば、そこには地下の貴賓室があり、そして、10tの黄金が?」
【クレル】「はい。地下への無骨な階段を降りていくと、……突き当りには扉が。中は、まさに貴賓室と呼ぶべき、美しき内装でした。」
【ウィル】「……見つけたのは、黄金だけだったのか?」
【クレル】「はい、その時は……。積み上げられた黄金に、目が眩まぬわけもありませんでした…。」
地下貴賓室
【ベアト】「…………これは、……本物なのか……。」
 積み上げられた黄金の山に、そっと指を触れる。硬く、冷たかった。触れたら、砂の城が崩れるみたいに、……ざぁっと溶けて、消えてしまうかと思っていた。
 もはや、何の疑いの余地もない。紛れもなく、……10tの黄金の、インゴットの山だった。
【ベアト】「……はは、……………は……。」
 これほどの黄金を見つけたのだから、歓喜の声を上げるべきだと思った。
 ……別に笑いたくはなかったが、このような場面では、そうするのが作法のように思い、無理やりにでも、笑ってみた。そんなだから、擦れた笑いが一つ二つ、口から零れただけだった。
 今となっては、歓喜の気持ちより、立ち入ってはならぬ場所に勝手に入ってしまったかのような、居心地の悪さの方が強い…。この、碑文の謎の終点で、妾はこれからどうすればいいのか、しばし呆然とする他なかった。
 その時、足音が近付いてくるのを聞いた。自分が下ってきた階段の方からだった。
 誰が来たのだろう。まさか、金蔵? このような場所にいることが知られたら、酷く叱られるのでは……。
 隠れて、知らん振りを決め込もうと心では思っても、足が動かない。妾は黄金の山の前で、……呆然と足音の人物がやって来るのを待ち受けていた…。
【ベアト】「……………………………っ。」
 扉が開き、……その人物が姿を見せる。……それは、…………金蔵ではなかった。
【源次】「……………………………。」
【ベアト】「………そなたは……。」
【源次】「……自分の力だけで、辿り着いたのか。」
【ベアト】「う、……うむ…。」
【源次】「……………………………。」
 源次はしばらくの間、じっとベアトを見つめ、何かを量るように沈黙した。
 そして、ゆっくりと手を叩いた。……繰り返し、何度も。それが祝福を意味しているものだと気付くのに、しばらくの時間を要した…。
【源次】「お館様は、碑文を最初に解いた者に、黄金と家督の全てを譲り渡すと仰られた。……そして、その人物が、ベアトリーチェであると信じた…。」
【ベアト】「……ベアトリーチェ……。………私が……?」
【源次】「これは、運命だ。………お前は、今日を迎えるのが、運命だったのだ。」
【ベアト】「…………………………。」
 源次が何を言っているのか、よくはわからない。きっと私は、黄金のことでまだ呆然としていて、頭がよく回っていないからに違いない…。
【源次】「……こっちへ来なさい。」
【ベアト】「は、はい……。」
 源次がクローゼットを開く。そこには、黒地に金刺繍の施された美しいドレスを着た、トルソーが収められていた。それを見て、すぐに理解する。
 ……魔女のドレスだ。肖像画のベアトリーチェが着ていた、あの黒いドレスなのだ……。
【源次】「これに着替えなさい。」
【ベアト】「……これは………。」
【源次】「かつて、………お前が着ていたものだ。」
 こんなドレスなど、着たこともない。でも、源次の言う意味はわかった。このドレスはかつて、ベアトリーチェが着ていたものなのだ。そして、碑文を解く奇跡を見せた者は、ベアトリーチェなのだ。
 私はこの部屋に辿り着くことで、………あの肖像画の、本当のベアトリーチェを、継承したのだ。
 私はどうしてベアトリーチェを名乗ったのか? 六軒島の夜の支配者にして、黄金の魔女の名が、ベアトリーチェだったから。
 ……そう。私は、本当のベアトリーチェではなかった。金蔵の幻想に登場する、魔女の名を騙った、別の魔女だったのだ。
 それが今、……私は、本当のベアトリーチェを継承している……。
 碑文の謎を解けば、自分は復活を遂げる。……そういうことにしたのは、自分のはず。なのに、……これは本当に、………ベアトリーチェが復活する、儀式だったのだ…。
 自分は魔法で、運命を作り出せると信じていた。その魔法を自在に操れる私が、……運命に導かれて、ここへやって来たなんて…。私は今こそ、本当の意味での、運命という言葉を信じざるを得なかった…。
【ベアト】「これを、着たら………?」
【源次】「……お館様のところへ行く。支度をしなさい。」
金蔵の書斎前
【源次】「………ここで待て。」
【ベアト】「……は、…はい。」
【源次】「お館様。源次でございます。」
 源次がノックをすると、書斎の扉の鍵が開く音がする。
 しばらく待てと、もう一度目配せをしてから、源次だけが中へ入った。
【熊沢】「このような日が来るとは……。運命とは、本当に不思議なものです……。」
 熊沢も一緒だった。
 私の似合わないドレス姿を、色々と笑われるだろうと思っていたが、……彼女はまったく茶化さなかった。それどころか、私の姿を見て、……まるで、来るべき日がようやく来たとでも言うような、厳かな表情をしているのだった。
 ……心臓が高鳴る。
 碑文は、誰が解いても良かったはず。私が解いても、おかしくはないはず……。源次たちは、ずっと神妙な顔をしていて、……これも含めて全てが、厳かな式典のようだった。
 息苦しい沈黙が、ずっと続く。やがて、扉が開き、源次が顔を覗かせた。
【源次】「………お入り下さい。………ベアトリーチェさま。」
 その言葉は、私に対してではあったけれども、……さっきまでの私に対するものではなかった。
【ベアト】「…………………。」
【熊沢】「さぁ。……どうぞ、ベアトリーチェさま…。」
 熊沢も最敬礼で促す。金蔵が、中で待ち受けているのだろう。
 どんな顔をして入ればいい…? 何と挨拶すればいい…? 何も、わからない…。私は二人に促されながら、ドレスの裾を踏まないように歩くだけで精一杯だった。
【南條】「………金蔵さん。いらっしゃいましたぞ。」
 金蔵は、ベアトリーチェを描いた肖像画の前で跪くようにうずくまっていた。南條に促されて、ゆっくりと、しゃがんだまま振り返る…。
【金蔵】「……………ぉ…。………ぉぉおぉ………。」
 金蔵の顔は、すでに泣き腫らしていて目は真っ赤だった。私の姿を見て、感嘆するように呻く。
【金蔵】「……ベアトリーチェ……。………ベアトリーチェ………。」
 立ち上がり方さえ忘れてしまったのだろうか。よたよたと、私に這い寄る。私の姿に、遠き昔に愛した女性の名を呼び掛けながら。
 私は呆然と立ち尽くすことしか出来ない。そして金蔵は、私のドレスの裾を掴み、握り締めると、……うずくまって、再び泣いた。
【金蔵】「ベアトリーチェ……。……済まなかった、済まなかった……。お前の心はわかっていたのに、……私は何と言う……。済まなかった……、許しておくれ……、許しておくれ……。」
【ベアト】「………………………………。」
 私に掛けられる言葉はない。しかし、今はただ、こうしているだけでいい。金蔵は半生をかけて求めた贖罪の時を、今、ようやく得たのだ。
 ……人の生は、罪に塗れている。だから人は、生ある内に、許しを得たいと思っている。しかし多くの場合、許しを与えられる人は、この世にいない。
 彼の場合も、そうだった。すでにこの世に、いなかった。……それが、奇跡によって紡がれて、今、それを得たのだ…。
【金蔵】「おぉおおぉぉ、ベアトリーチェ…。……ベアトリーチェ……。…たとえ許してくれなくてもいい、何も言わなくてもいい…! 私はッ、……お前にただ一言ッ、謝れればそれでよかった……! ぉぉぉおぉぉおぉ………。」
 金蔵はいつまでも、ドレスの裾を握り締めて、泣き続けた。
 人の罪は、許しで許されるのではない。悔いることで、許されるのだ。……彼の何かの罪が、咎が、……私の姿を通して許されたと、信じたい…。
 次第に嗚咽は収まり、……金蔵はようやく私を見上げ、ゆっくりと立ち上がる。ふらふらだった。南條が駆け寄り、肩を支える。
【ベアト】「……………………………。」
【金蔵】「………よくぞ、………生きていてくれた……。……嬉しいぞ……。」
 それは、私を通してではなく、私に掛けた言葉だった。私は何と応えればいいかわからず、わずかにうろたえる。
【源次】「……今日までお館様に内密にしておりましたことを、どうかお許し下さい。」
【金蔵】「よい。……良いのだ、源次…。……私の犯した罪を思えば、……今日までの日々は全て、贖罪のために必要な日々であったのだ……。」
【源次】「しかし、今日の奇跡は、紛れもなく、本物の奇跡でございます。……彼女は誰の助けもなく、自分だけの力で、……誰よりも最初に碑文を解いたのです。」
【金蔵】「よくぞ、……あの難解な碑文を解けたな……。」
【ベアト】「は、………はい……。」
【金蔵】「……うむ。……母の声に、よく似ておる。……面影も、母や娘を思い出す……。…紛れもなく、お前にはベアトリーチェの血が流れておる……。」
【熊沢】「はい。……若き日の、九羽鳥庵のお嬢様の面影が、よく残っております。」
 私が、誰に面影が、似ているって……?
【源次】「……ベアトリーチェさま。これまで、あなたにも秘密にしてきたことを、どうかお許し下さい。あなたは、ベアトリーチェさまとお館様よりお生まれになったのです。」
【ベアト】「……………………ぇ…、」
【熊沢】「真実でございます。……あなた様は今日まで、両親のいない子として育てられてまいりました。しかし、本当のお父上はお館様。そして本当のお母上は、……ベアトリーチェさまなのでございます。」
【ベアト】「……それは、……ぁの、……本当に…………。」
【源次】「はい。あなたは、本当にベアトリーチェさまの、ご子孫でございます。」
 そんな、………不思議な運命ってあるだろうか……?
 私は夢想していた。自分が黄金の魔女ベアトリーチェだったらと。でも、それは私だけの夢想だった。
 だから私は、碑文の謎を解けば。……碑文の儀式を行なえば、本当のベアトリーチェとして蘇れると、夢想した。……そしたら、本当に、……ベアトリーチェが蘇ったなんて、……信じられるだろうか……?
【ベアト】「私が、……本当に、………ベアトリーチェの、………血を……。」
【源次】「はい。一切の紛れはございません。」
【熊沢】「……今日まで、親子の愛情も知らず、さぞやお辛い思いをされてきたでしょう…。……にもかかわらず、本当にご立派に育たれました……。」
【ベアト】「……皆さんは、……知ってたんですか………。私のことを………。」
 源次も熊沢も、南條までもが、無言で頷く。
 ……こうして思えば、心当たりなどいくつもあったかもしれない。自分だけが、いつも何か、特別だった気がする。源次も、特に熊沢も、親切に接してくれていたように思う。
 では、……今日という日は、いつかやがて必ず訪れる、約束の日だったというのだろうか……? 私にはもう、何もわからない。
 全ては、神様の奇跡。約束された運命が、私をあるべき日へ誘ったのだ。
【金蔵】「………ベアトリーチェ。…………いや、………理御。」
【ベアト】「……………?」
【金蔵】「そなたに与えようと思っていた、名前だ……。」
【源次】「……あなたの、本当の名前でございます。」
【金蔵】「理御……。今こそ、そなたに、ベアトリーチェより与えられた、全てを返そう。……あの黄金も、それによって生み出された、右代宮家の全ても、そなたに返そう。」
 金蔵は、枯れ木のような手を差し出す。その指には、右代宮家当主であることを示す、片翼の鷲の紋章が刻まれた指輪が輝いていた。それを引き抜くと、強く握り締めながら、私に向かって突き出す。
 ……私はどうしていいかわからない。引き寄せられるように、おずおずと、……私は両手を、手の平を上にして差し出す。金蔵は、その手の上に、……拳をぐっと押し付けてから、ゆっくりと手を開き、指輪を預ける。
【金蔵】「………我が子、理御よ………。……今日までお前の運命を弄んだのは全て私の罪のせいだ。……許しておくれ…。……そなたは今や、我が指輪を受け継ぎ、正しく新しい、右代宮家の当主である。」
【金蔵】「あの黄金は全てそなたのもの。好きに使い、今日までの日々の辛き思い出を、わずかでも癒すがいい…。あの程度の黄金、私の犯した罪には到底及びはせぬが。………それでも、そなたを慰めるくらいは出来るはずだ。」
【ベアト】「ぁ、………ありがとう…ございます………。」
【金蔵】「………理御。………最後にひとつだけ、………頼みがある。」
【ベアト】「な、……何でしょうか………。」
【金蔵】「私を、………………。………呼んでくれぬか………。」
【ベアト】「……ぇ、……すみません、今、何と……。」
【金蔵】「私を、…………お父様と、………呼んでくれぬか。」
【ベアト】「…………………………、」
【金蔵】「……呼べぬ気持ちはわかる…。……私はそなたに何も父らしいことをしなかった。そしてそなたもまた、父など知らずに育った。……とても口に出来る言葉ではないとわかっている。そして、それを求める資格が、私にないこともわかっている。………だが、それを承知で、……頼む……。……それさえ聞けたなら、……もう私に、何の未練もない……。」
 ………そのように言われて、……私は断れるだろうか? いくら、……本当に私が、彼の子供だとしても、……彼を父親だと認めることは、出来ない…。だから、それを口にするのは、強い違和感を覚える。
 でも、……今はそれを口にすべきだと思った。
 罪を許せるのは神様だけだ。でも、……仮であっても。人の許しで、人は救われるのだ。
【ベアト】「………ぉ…………………。」
【金蔵】「…………………うむ…。」
【ベアト】「………………。………お父……様…………。」
【金蔵】「ふ、…………ふっふふふ…………。」
 私のたどたどしい言葉に、金蔵は笑った。その両目からすうっと、銀の雫が伝い落ちる。その時、……確かに彼の表情を覆っていた影は、払われた……。
【金蔵】「ありがとう、……理御。我が子よ……。………そしてベアトリーチェ。最後に、許しを請う機会を与えてくれて、……ありがとう………。」
【金蔵】「……もちろん、これしきで許されたとは思いはせぬ。……続きは地獄の業火で焼かれながらとしようではないか。………右代宮金蔵ッ、我が生に一切の未練なしッ!! もはや何もなし! 心残りも遣り残しも何もなし!! わはは、……わっははははっはっはっはッ!! わあっはっはっはっはっはっはっはっはッ!!!」
 金蔵は天を見上げながら、喝采する客席に向かって両手を上げて応えるかのような仕草をしながら、……大きな声で笑い続ける。それは、この世の一切の未練から解放された者だけが知る、最期の、愉悦。
 ………金蔵の笑い声がかすれ、……消えた時。彼は、操り人形の糸が切れたかのように、……カクンと膝をつき、…………ゆっくりと、………倒れた………。
【熊沢】「……お、………お館様……。」
【源次】「南條先生……。」
【南條】「う、……うむ………。」
 主が倒れたというのに、……彼らの歩み寄りは、ゆっくりだった。彼らはもう、知っていたのだ。金蔵が、……魂の全てを燃やし尽くしたことを。
 脈を取ったりしていた南條は、小さく首を横に振るとゆっくりと立ち上がる。
【南條】「…………大往生だ。……何の心残りもないだろう。」
【熊沢】「お館様は、……あるいはもう、ずっと以前にお亡くなりになっていたのです。……それを、お館様の魔法と執念で、……今日までを永らえていたに過ぎないのです。……そして、………ベアトリーチェさまに謝罪する機会をようやく得て、………全てを、終えられたのでしょう…。」
【源次】「………安らかに、……お眠り下さい。…………あなたは罪を、償われたと信じます。」
【ベアト】「……………………………お父様…………。」
 それが、……私と父との、……一夜限りの再会と、……別れだった……。
地下貴賓室
【源次】「………この黄金は、全てあなたのものです。……現金化をご希望でしたら、そのように手配することも出来ます。」
【南條】「200億円の価値があるそうです。………もうあんたには、この世で、カネで叶えられぬ夢はありませんな。」
【熊沢】「ほっほっほっほ……。急にこんな大金が手に入っても、使い道に困ってしまいますねぇ。」
【ベアト】「…………お金で手に入れられるものの中に、私の欲しいものはありません。……ですから、これは当分は、そのままにしておこうと思います。」
 ……もちろん、お金がたくさんあるのは嬉しいことだけれど。私の胸の痛みは、お金では癒せない。ただ、………彼が帰って来て欲しいだけ。
【源次】「畏まりました。では、そのように致します。……それから、この鍵を。」
【ベアト】「………これは?」
【源次】「この地下貴賓室へ至る鍵です。これを使えば、もう仕掛けを使う必要はありません。」
 碑文の謎は、彼女以外、誰も答えを知らず、そして唯一の鍵も、彼女の手に委ねられる。……今や、彼女は本当に、この黄金の貴賓室の主だった。
【源次】「あなたはもはや、この六軒島の主です。この島の全ての秘密を、お知りになられる資格があります。」
【南條】「………九羽鳥庵のことも、話すべきでしょうな。」
【熊沢】「あなたのお母上が、お過ごしになられた隠し館です。……お噂くらいはお聞きになったことがあるでしょう。」
【ベアト】「九羽鳥庵………。」
【源次】「この島の両端には二つの屋敷があります。……一方は、私たちのよく知るお屋敷。もう一方は、九羽鳥庵と呼ばれる、隠し屋敷でございます。」
【熊沢】「この島の地下には、戦争中に造られた基地の跡があるのです。お館様はそれを利用されて、島の両端を行き来されておりました…。」
【源次】「この部屋の奥に地下道があり、それを進めば、島の反対側の九羽鳥庵の地下に繋がります。……お館様しかご存知でない、秘密の屋敷です。もちろん、その屋敷ももはや、新しき当主のものです。」
【南條】「……あんたの、お母さんが暮らしていた屋敷だ。一度行ってみるのもいいだろう。」
【ベアト】「私の、……お母さん…………。」
 ずっと一人で、生きてきた。母と呼びたいと思ったのは、いつも助けてくれた熊沢さんだけだった。会ったことも見たこともない、お母さんの、暮らした屋敷。………私は一体、………何者なの……?
【源次】「何でも、お尋ね下さい。……今のあなたには、全てを知る資格がございます。」
【ベアト】「……今は、……何が何だかわからなくて。……何から聞けばいいかも、わかりません。……でもきっと、……たくさん聞きたいことが、これから見つかると思います。……その時、教えて下さい…。」
【源次】「畏まりました。」
【ベアト】「あ、……あと、……そんなに畏まられると、……居心地が悪いです。これまでと同じ口調で話し掛けてくれた方が、嬉しいです。」
【源次】「それをお望みでしたら、そのようにも致します。」
【熊沢】「ほっほっほっほ。私も、その方が気楽です。」
【南條】「………さて。これから、どうするんだ、源次さん。……金蔵さんは、亡くなった。」
【源次】「旦那様と奥様に、お亡くなりになられたことをお伝えします。……そして、理御さまが正式な、当主後継者であることをお伝えしなくてはなりません。今日より、あなたが右代宮家当主なのですから。」
【ベアト】「わ、私が当主なんてそんな……。それに、次期当主は蔵臼さまでは……。」
【源次】「碑文の謎を解いた者が次期当主である。………これはお預かりしている遺言状にも明記してございます。………お館様の最後の命令が、あなたに全てを引き継ぐことなのです。」
【ベアト】「ま、待って下さい…! お気持ちは嬉しいですが、……私には次期当主なんて、務まりませんし、……そんな大任、とてもお引き受け出来ません。その役目は、やはり蔵臼さまが引き継がれる方が、いいと思います……。」
【源次】「………よろしいのですか。」
【ベアト】「私は今日ここで、……自分が誰かを知ることが出来ました。……人なら誰でも知っている両親のこと。私には、生まれながらにしてそれがなかった。……それを今日ここで、得ることが出来ました。……それだけで、私は充分なんです。」
 突然、右代宮家の当主は私なんてことになれば、蔵臼さまがどんな顔をなさるやら。奥様がどんな形相でお怒りになられるやら。私は、そんな思いをしてまで当主になんかなりたくない。
 私が何者か、今日、私は得ることが出来た。誰から、いつ、どのようにして生まれてきたのか。……それを、時間をかけてゆっくりと、彼らから聞いていこう。それだけで、もう、充分なのだ。
【ベアト】「………私は理御。……そして、黄金の魔女、ベアトリーチェです。それがわかっただけで、私は充分です。……私は当主を主張するつもりはありません。……その役目は、蔵臼さまに。」
【源次】「それは、右代宮家当主としてのご命令ですか。」
【ベアト】「………はい。」
【源次】「…………………。……畏まりました、お館様。では、そのように致します。」
【ベアト】「今夜のことも、全て内密にして下さい。………私は、これからも私のままでいます。……私が右代宮家の当主になって、……あるいは黄金を手に入れて、やりたいことなど何もないのですから。」
 ……私は、ただ。
【ベアト】「この島で、………これまでと同じように、……待っていたいだけなのです。これまでと同じに、……何も変わらずに。………それだけが、私の望みです。」
【源次】「………………………。畏まりました、お館様。……今夜のことは全て、この場限りの秘密と致します。……熊沢。南條先生。新しき当主様はそうご希望でいらっしゃいます。」
【南條】「……あんたがそうしたいというなら、私は何の異論もない。金蔵さんの遺言は、あんたに全てを委ねる、だ。そのあんたがそれを望むなら、私たちには何の文句もない。」
【熊沢】「これまでと同じように、と言いますけれど…。……本当にこれまでと同じように、この島で生活を続けられるのですか…? これまでと、何も変わらず…?」
【ベアト】「はい。………今夜のことは秘密にします。……ここも黄金も封印します。もしも、お金が必要になったら、その時、改めて相談することにします。………私には、それで充分です。」
【源次】「畏まりました。ここに至る仕掛けも鍵も、全てあなただけのものでございます。……そして今夜のことは私共一同、秘密にすることを誓います。………次期当主は蔵臼さまとなられますが、……私の中では、真の当主様は、あなただけでございます。」
【源次】「……ご命令に従い、これからもこれまでと同じように振る舞いますが、いつでも御用命下さい。私の主は、あなただけなのでございます。」
【ベアト】「………………あ、………ありがとうございます…。」
 莫大な黄金の山と、右代宮家の当主の指輪。肖像画のベアトリーチェのドレス。そして、………私は本当に、黄金の魔女、ベアトリーチェとなる。この、私だけの黄金郷で。
 金蔵の死に方がEP5と異なる。紗音の脚色が入っているか、もしくは夜中に人知れず亡くなったことにして、夜が明けてから蔵臼たちに知らせたと考えられる。
 思えば、これまでとこれからも、何も変わらない。だって私は最初から黄金の魔女で、……それが今、ほんの数人に、認められただけなのだから。
 11月29日。私は本当の魔女に、なりました。
メタ劇場
 あぁ、我こそは我にして我等なり。我は、黄金の魔女ベアトリーチェ。
 この六軒島の真の支配者にして、………無限の黄金の所有者。でも何も満たされず。……たった一人の想い人が帰って来てくれる日を、待っています……。
 魔女ベアトリーチェの誕生日。戦人の誕生日と合わせて暗証番号に設定した。

魔女幻想、散る

メタ礼拝堂
【クレル】「…………これで。……私の話は、おしまいです。」
【ベルン】「あら。……それでおしまい? そこからの2年間が楽しいんじゃないの…?」
【ウィル】「必要ねェ。……どれだけ苦しみ、葛藤したか。過去のゲームであれだけ語らせて、これ以上、語らせる必要はねェ。」
【理御】「…………魂が満たない家具たちの葛藤、………ですか。」
【クレル】「決闘はしたのです。決着も、つきかけていました。………しかし、1986年という年は、……余りに無慈悲が過ぎました。」
【ウィル】「……運命を、呪ったろうな。」
【クレル】「はい。………あと1年、早ければ。……あるいは、遅ければ。」
【ウィル】「決闘の勝敗は、違う形ではあっても、ついただろうな。」
 クレルは沈黙し、俯く。……時間さえ、与えられれば。あるいはむしろ逆で、悩む時間さえ与えられなかったなら。
 全てが、恨めしい。なぜ、どうして、……1986年なのか。
【クレル】「私は、……委ねる、決断をしました。」
【理御】「………委ねる……。」
【クレル】「先代当主より全てを受け継いだ儀式の時のように。……私もまた、奇跡という名の運命に身を委ねることを選びました。」
 ルーレットに、身を委ねたといった方が、正しいかもしれない。私は、私たちは、……自分たちの運命さえ決められなくて。全てを運命に託したのです。
 誰かが、報われるかもしれない。あるいは全員が結ばれて、解放されるかもしれない。さもなくば誰かがこの愚行を、止めてくれるかもしれない。
【クレル】「……どの運命をルーレットが指し示そうとも。私はそれに従うことにしました。私は、運命に、抗わない。……抗ったって、……いつだって運命は私に、非情だったんですから………。」
 クレルは俯き、涙の雫を一滴、零す…。
 空白の2年間については、詳細な動機の説明とともに漫画版で明かされた。
 ただし、漫画版の説明はわかりやすさを重視して、原作の設定からやや変更が入っている部分があるようにも思われる。
 人の可能性は無限だと、ニンゲンたちは軽々しく口にする。しかし、無限の魔女は、……本当は有限であることを、知ってしまった。
 だから彼女は、その有限の運命の中に、無限を見出そうとした。自分の運命を、神に委ねることで、無限を見出そうとした。しかしそれは、自分の運命の放棄ではない。なぜなら、運命のルーレットに、絶対の意思で臨んだから。
 誰も碑文の謎を解けないなら、誰も絶対に逃れられない、絶対の、運命。それで島を閉ざした。自分ごと。1986年10月4日から5日は、絶対の意志で封じられ、………その狭い時間と島の中で選ばれるいずれかの運命に、……彼女は身を任す。
【クレル】「………これで。今度こそ、私の告白はおしまいです。……私の、事件への動機は、もう充分でしょう。………これでわからぬなら、もはや語りません。どうせ、私の心など誰も、わからぬでしょうから。」
【ウィル】「そうだな。……もう、それ以上を語る必要はねェ。」
【クレル】「……運命の袋小路に迷い込んだ私にとって。……理御。あなたが、どれほどの希望であるか、わかるでしょうか。」
【理御】「……………………。…………私は、あなたの、別の可能性。」
【クレル】「あなたが幸せであることは、妬ましく、そしてそれ以上に眩しくて、………嬉しいのです。……あなたという未来がありえた。………今の私にはそれだけで、………救いなのです。」
【理御】「………私は、………………。」
【クレル】「……私の分まで、幸せになって下さい。あなたに最後に会えて、良かった。………感謝します。ベルンカステル卿。」
【ベルン】「………私はあんたの葬儀を執り行ってるだけ。感謝なんていらないわ。……では、そろそろおしまいにしましょうか。亡者は亡者の国へ、そろそろ送り出されるべきだわ。」
【クレル】「………………はい。私のお葬式なのですから。私はあるべきところへ、もう帰りましょう。」
【理御】「……………………………。」
【クレル】「そんな顔をしないで。そして、あなたが私でなかったことを、どうか喜んで。私もまた、あなたが私でないことを、喜んでいるのですから。」
【理御】「………生きます。……あなたの、分まで…。」
【クレル】「ありがとう。………幸せになって。そして素敵な人と出会って。……願わくば、あなたが魔女として目覚めず、ニンゲンとして生き。……一なる魂を以って、愛するたった一人の人を愛しぬける…。……そんな人生を送ることを、願っています。」
【理御】「…………はい……。」
【クレル】「ウィルさん。あなたという傍観者に、感謝します。……あなたは、私が本当に理解して欲しかったあの人ではないけれど、……私の心を救ってくれました。」
【ウィル】「俺はお前を、理解する。心を、蔑ろにしねェ。」
【クレル】「………ありがとう。…………私は理解してくれた、素晴らしき傍観者のあなたに、……私の最後を、委ねたいと思います。」
【ウィル】「…………………俺で、いいのか。」
【クレル】「はい。……私にとって大事なのは、縁ある人ではなく、理解してくれた人です。」
 ……わかってほしいと願う人に、理解されず。……縁なき人に、理解される。悲しいことではありません。むしろ、縁もないのに理解してくれたその奇跡に、感謝します。
【クレル】「あなたは良き傍観者であり、私を理解して下さった、たった一人の人。……それで、縁には充分です。」
【ウィル】「…………わかった。」
【クレル】「私の心臓を、……名も無き素晴らしき傍観者のあなたに、捧げます。」
【ウィル】「………………………。」
【ベルン】「……理御。下がりなさい。」
【理御】「え? ……何が、始まるんですか…。」
【ベルン】「ミステリーは、探偵が引導を渡さなきゃ、死ねないのよ。」
【ウィル】「…………お前の心臓だけ、止めればいいのか…。」
【クレル】「死者を弔う時、心臓だけを棺に納めますか。」
【ウィル】「………わかった。……土より生まれた者は、土に帰る。……お前の全てを、土に帰そう。」
【クレル】「土は土に。灰は灰に、塵は塵に。幻は幻に。そして、夢は夢に。」
【ウィル】「………………あぁ。」
【クレル】「………それでは、始めましょう。………私の、埋葬を。」
【ウィル】「いつでもいい。」
【クレル】「始めましょう。……まるで、私の最後のゲームの、最後のように。」
 ウィルの背中に光が集まり、一振りの刀を顕現させる。
 ゆっくりと、……それを引き抜く。真実と虚構を鋭利に斬り分ける漆黒の切っ先は、一振り、鋭く薙ぐと黒い軌跡を描き、さらに一振りを薙ぐと、白い軌跡を描いた。
 現世では、想い人の誰とも結ばれない運命であることを、魔女は知った。しがらみだらけの肉の器から解放され、せめて黄金郷で幸せになりたいと願った。
 しかしもしも、天文学的な確率を潜り抜け、想い人の誰かが碑文を解くという奇跡が起きたならば、魔法の力が本物の奇跡を見せてくれると信じたかった。
 戦人が不思議がっていた「自分で自分の目的の難易度を上げている」理由は、魔法にはリスクが必要だからであり、それほどに強大な魔力を求めたためである。
【ウィル】「………真実と虚構を、斬って分ける。…………来な。」
 刀という作法に応え、クレルの手にも、それを模倣したものが現れる。その切っ先は、ウィルのそれとは逆に白銀に閃く。
【クレル】「第1のゲーム、第一の晩。園芸倉庫に、6人の死体。」
【ウィル】「幻は幻に。……土には帰れぬ骸が、幻に帰る。」
 ウィルの漆黒の一閃がクレルの体を斜めに突き抜ける。刃は水面を切るかのようにすり抜けるが、……その切っ先は黄金の花びらを散らしていた。
【クレル】「第1のゲーム、第二の晩。寄り添いし二人の骸は鎖で守られし密室に。」
【ウィル】「幻は幻に。……幻の鎖は、幻しか閉じ込めない。」
 鋭き漆黒の一閃が、再び黄金の花びらを散らす…。
【クレル】「第1のゲーム、第四の晩。密室書斎の老当主は灼熱の窯の中に。」
【ウィル】「幻は幻に。……幻の男は、あるべきところへ。」
【クレル】「第1のゲーム、第五の晩。杭に胸を捧げし少年の最後。」
【ウィル】「幻は幻に。……幻想の魔女と杭は、幻想しか貫けない。」
【クレル】「第1のゲーム、第六、第七、第八の晩。歌う少女の密室に横たわる3人の骸。」
【ウィル】「幻は幻に。……盲目なる少女が歌うは幻。密室幻想。」
【クレル】「……………お見事です。……やはり、あなたは素晴らしい。」
【ウィル】「……始めから、危ういゲームだったな。………もしもあいつが、それでも死に顔を見たいと言って踏み入っていたなら、どうしていた。」
【クレル】「それが、運命に身を委ねる、ということなのです。」
【ウィル】「………お前のルーレットというヤツだな。」
【クレル】「続けましょう。第2のゲーム、第一の晩。腹を割かれし6人は密室礼拝堂に。」
【ウィル】「幻は幻に。……黄金の真実が、幻の錠を閉ざす。」
【クレル】「第2のゲーム、第二の晩。寄り添いし二人は、死体さえも寄り添えない。」
【ウィル】「幻は幻に。……役目を終えたる幻は、骸さえも残せない。」
【クレル】「第2のゲーム、第四、第五、第六の晩。夏妃の密室にて生き残りし者はなし。」
【ウィル】「土は土に。……棺桶が密室であることに、疑問を挟む者はいない。」
【クレル】「第2のゲーム、第七、第八の晩。赤き目の幻想に斬り殺されし二人。」
【ウィル】「土は土に。幻は幻に。……幻に生み出せる骸はなし。」
 クレルの体を刃が通り抜ける度に、黄金の花びらが舞い散る。……彼女の心臓を覆う花びらが、少しずつ払われていく。魔女幻想は、花びらとなって、……散っていく。
【クレル】「第3のゲーム、第一の晩。連鎖密室が繋ぎし、6人の骸。」
【ウィル】「幻は幻に。……輪になる密室、終わりと始まりが、重なる。」
【クレル】「第3のゲーム、第二の晩。薔薇庭園にて親子は骸を重ねる。」
【ウィル】「土は土に。……語られし最期に、何の偽りもなし。」
【クレル】「第3のゲーム、第四、第五、第六の晩。屋敷にて倒れし3人の骸。」
【ウィル】「土は土に。……語られし最期に、何の偽りもなし。」
【クレル】「第3のゲーム、第七、第八の晩。夫婦二人は東屋にて骸を晒す。」
【ウィル】「土は土に。……明白なる犯人は、無常の刃を振るいたり。」
【クレル】「第4のゲーム、第一の晩。食堂にて吹き荒れる虐殺の嵐。」
【ウィル】「幻は幻に。……黄金の真実が紡ぎ出す物語は、幻に帰る。」
【クレル】「第4のゲーム、第二の晩。二人の若者は試練に挑み、共に果てる。」
【ウィル】「幻は幻に。……黄金の真実が紡ぎ出す物語は、幻に帰る。」
【クレル】「第4のゲーム、第四、第五、第六、第七、第八の晩。逃亡者は誰も生き残れはしない。」
【ウィル】「土は土に。幻は幻に。……虚構に彩られし、物言わぬ骸。」
【クレル】「第4のゲーム、第九の晩。そして、誰も生き残れはしない。」
【ウィル】「土は土に。幻は幻に。……虚構は猫箱に閉ざされることで、真実となる。」
 ………何度も何度も、クレルの体は、漆黒の刃で切り裂かれた。その証の、黄金の花びらが礼拝堂を満たし、……金の雪が降るように、舞い散る。
【理御】「………綺麗だ…………。」
【ベルン】「散り際くらい、そうありたいと誰だって願うわ。」
 金の雪はまるで、舞台のフィナーレを飾る、紙吹雪のよう。彼女という舞台は今、……幕を閉じようとしていた。
【クレル】「……では、最後の問いを。」
【ウィル】「…………あぁ。」
 クレルは、……ゆっくりと両手を広げる。彼女の持つ刀は、黄金の花びらとなって溶ける。最期の一太刀を、両手を広げて望む……。
【クレル】「私は、だぁれ……?」
【ウィル】「幻は、幻に。……約束された死神は、魔女の意思を問わずに、物語に幕を下ろす。」
 ウィルの大きく振りかぶった、……漆黒の刃が、………クレルの姿を、薙ぎ払う。
 それは、どぅっという強い風とともに吹き飛ばされ、……人の形はたちまちの内に崩れ、黄金の花びらの嵐となって、掻き消えた。彼女の姿が吹き飛んだ後に、黄金の心臓が宙に残されたが、つむじ風にすぐに飲み込まれ、花びらと散った。
 その黄金のつむじ風は、礼拝堂の中に渦を巻く……。そして、花びらの渦は、……どこへともなく散っていき、……消えていく……。
 わずかに残った花びらが、粉雪のように舞い散り、その最後の残滓で、礼拝堂を美しく飾った。
メタ劇場
 ………舞台中央が、細く照らされる。
 そこには、物語を終えたクレルが立っていた。そして、ゆっくりと、……やわらかに、………観客席へ向けて、会釈をした。
 拍手が、広がる。彼女の、語り終えた長い長い物語に、労いの盛大な拍手が送られた。いつまでも。………いつまでも。
 ゆっくりと舞台は、忘却の闇で暗転していく。深々と会釈を続けるクレルは、……終わらない拍手を浴びながら、闇と幕の向こうに、……消えていった。
 ……人は、罪と生まれ、誰かに許してもらうために、生きていく。あるいは、謎と生まれ、誰かに解いてもらうために、生きていく。彼女の謎は、未練なく、………全てがここに、解き明かされる。
 人は、謎なのだ。誰かに、自分の謎を、解いてもらいたいのだ。自分という、世界でもっとも難解な謎を、誰かに解いてもらいたいと思いながら、生きている。
 自分という謎に、誰か向かい合って欲しい。そして、それを解いて欲しい。彼女のそれは今、叶えられた……。
 ………もう、彼女の魂は、迷わない。猫箱の棺で、永遠に安らかに眠れ………。
メタ礼拝堂
 あれだけ、吹雪のように舞い散っていたのに、……もう、黄金の花びらは一枚もない。何もかもが塵と消え、……始めから何もなかったかのように消え去り、静まりかえっていた。
 気付けば、雨の音さえない。雨はいつの間にか、止んでいた。
【理御】「…………………………。」
【ウィル】「………あいつは、お前に会えたことだけが救いだ。」
【理御】「そうだと、……いいのですが。」
【ウィル】「逃れられぬ袋小路の運命と、自らを呪い、諦めきっていた。……そんなあいつにとって、お前と言う幸せな奇跡に出会えたことは、何よりもの救いになった。……だからそんな顔をするな。」
【ベルン】「………………………ふ。」
【ウィル】「お前にしちゃ、……粋な計らいだったな。」
【ベルン】「……私はアウアウから葬儀の執り行いを任されただけ。……あんたという進行役を呼んで、全てを任せただけだけれど。」
【理御】「ありがとう、ウィル。」
【ウィル】「………ん。」
【理御】「私がクレルに代わって、あなたに感謝します。……異なる運命の私の未練を、全て断ち切ってくれて、ありがとう。」
【ウィル】「………お前はもっと、頭を抱えて混乱すると思っていた。」
【理御】「もう私は、理解しています。……私が如何に、幸せに生きてきたかということを。……何かの運命に翻弄され、異なる世界を生きていたなら、私は同じ運命の袋小路にいたかもしれない。……しかし私は、とてつもなく低い確率の幸運の中から、今の世界に生きている。……その価値と意味を、教えられましたから。」
【ウィル】「……………………………。」
【ベルン】「………なぁに? 意外そうな顔して。」
【ウィル】「魔女にろくなヤツはいないってのが俺の持論だったが。……改める必要があるかもな。」
【ベルン】「いいわよ、改めないで。………私は退屈しのぎのために、あの子のゲームに乗った。……そして、負けはしたけれど、楽しく遊ばせてもらった。……あの子はそのゲーム盤を、畳まずに逝ってしまった。………私は遊ばせてもらった礼と、敗者の務めとして、最後の片付けを引き受けただけよ。」
【ウィル】「………てっきり、もっと、酷ぇことをすると思ってたが。」
【ベルン】「酷いこと?」
【ベルン】「心を蔑ろにした、……もっと酷ぇゲームを見せると思っていた。」
【ベルン】「えぇ、酷いゲームにしたわ。………あの子がファンタジーだと称するゲームを、あんたという探偵を連れてきて、ミステリーで終わらせたわ。……魔女幻想は見事に砕け散って、私のささやかな仕返しはおしまい。」
【ウィル】「…………………………。」
【ベルン】「この、絡まった恋の物語を、絶対の意思で、終わらせる。……その絶対の意思に、絶対の魔女が微笑んで、あの子を二日間だけの魔女にした。」
【ベルン】「……私はその二日間という限られた時間の中だけで、無限に広がる万華鏡を楽しませてもらった。……私は祝福しないから、奇跡は起きない。………でも、その結末さえも、あの子が望んだものよ。」
【理御】「……無限の物語は、一体、どの真実で、本当は終わったんでしょう。」
【ウィル】「さぁな。……それを決め付けないのが、猫箱ってもんだ。」
【ベルン】「開けば、屋敷は跡形も残らず、絵羽を除いて誰も生き残らない物語。……絵羽は何も語らず死んだ以上、全ては猫箱の中。………有限の箱の中に仕舞われる、無限の可能性。」
【理御】「……こうして思うと。彼女が生きて、そして死んだ島そのものが、黄金郷だったのかもしれませんね。」
【ベルン】「猫箱を黄金郷と呼ぶならね。……そして、その猫箱の中で考え得る、もっとも楽しい物語を、戦人は書いたわ。」
【ウィル】「……ベアトリーチェの棺に収められた、その本か。」
【ベルン】「そうよ。………彼が思い描いた、彼女がもっとも幸せな物語。」
【理御】「とても楽しくて、愛に満ちた、……幸せな物語でした。……私も、あの物語が、……棺には一番、相応しいと思います。」
【ウィル】「いいや、違う。」
【理御】「……え?」
【ウィル】「…………クレルは言ったぜ。……お前という存在が、彼女の希望であり、救いなんだ。お前がこれからも幸せであることが、何よりもの、救いなんだ。」
【理御】「……………………。…………はい。」
【ベルン】「……幸せに生きなさい。あんたはただそれだけで、あの子の奇跡なのだから。」
【理御】「はい。………彼女の分も、………幸せに生きます。」
【ウィル】「……よく、こいつを見つけ出したな。あの膨大な海の中から。……二百何万だかの中から探し出したのか。」
【ベルン】「私如きに出来ることなんて、せいぜいその程度のことよ。」
【ウィル】「……………ふ。」
【ベルン】「これで、葬儀はおしまいよ。………約束通り、結界は解いたわ。あんたが立ち去れば、時間も元通りに動き出す。」
【ウィル】「これでお役御免か。早く帰らねぇと、ダイアナがまたカーテンを引っ掻き出す。」
【理御】「……短い間でしたが、お世話になりました。」
【ウィル】「あばよ。異なる幾百万の自分たちの代わりに、幸せになりな。」
 礼拝堂を出ると、雨上がりの美しい空が広がっていた。雨空と木漏れ日と、黄昏時の入り混じった空は、一言では言い表せない美しさを持っていた。
 ウィルは水溜りを踏みながら、ゆっくりと石段を降りる。そして振り返らずに手を振って、そのまま礼拝堂を後にした。
 その姿と足跡は次第に薄れ、……やがて完全に消え去った。
【ベルン】「じゃ、私も消えるわ。……さよなら、理御。」
【理御】「あなたにも、お世話になりました。……あなたに、心無いことを言った気がします。申し訳ありませんでした。……あなたは、私にとても大切なことを教えてくれました。」
【ベルン】「…………………………………。」
【理御】「……何か?」
【ベルン】「うぅん、何も。………感謝されるなんて、百年ぶりだから、何て返事をすればいいか、戸惑っただけよ。」
 ベルンカステルは肩を竦める仕草を見せた後、ふわりと宙に浮かび上がる。
 そして、美しい七色の光を注ぎ込むステンドグラスを見上げて、そこより覗き込む誰かがいるかのように語り出す。
 何が真実で何が虚構だったか特定できれば、自ずと一つの解答が導き出される。
 ウィルの解答は非常に抽象的だが、各事件の詳細についてはすでに各EPで解説済みのため、ここでは流す。
【ベルン】「アウアウローラ。これで答え合わせには充分でしょう? これでわからないなら、傍観者の魔女どもを集めてお茶会でも開いて、他の魔女の推理でも拝聴したら?」
【ベルン】「私は意地悪だから、これ以上を詳しくはやらないわよ。考えぬ魔女はいない。なぜなら、考えぬ魔女は死ぬか海の藻屑なんだもの。」
【ベルン】「……さぁ、これから戻って、あんたの推理がどの程度当たってたかを肴に、一杯やりましょう。もう悪役も巫女も疲れたわ。私もこれでお役御免よ。……じゃあね、理御。そして傍観者の魔女たち。」
 ベルンカステルの姿が、ぽんと爆ぜて消える。ひらりと、黄金の花びらが一枚、閃く。
 ……理御はそれを拾う。この礼拝堂に残った、唯一の奇跡の痕跡……。
 その時、賑やかな話し声が聞こえてくる。親族たちだ。ぞろぞろと控え室から出てくる。
【夏妃】「理御、ここに居たのですか。探しましたよ。」
【理御】「母さん。申し訳ありません。少し考え事をしていました。」
【秀吉】「やっと雨が上がったみたいやな! いい天気みたいや!」
【蔵臼】「皆さん方。屋敷へ戻ろうじゃないかね。これでベアトリーチェの葬儀は終了だそうだ。」
【理御】「お父さん、当主様は?」
【留弗夫】「今、来るぜ。今日はさんざんだったな。親父の葬式ごっこに付き合うのも疲れるぜ。」
【霧江】「そんなこと言っちゃ駄目よ。大事なセレモニーだったわ。」
【楼座】「そうね。お父様にとって、大切な儀式だったと思うわ。」
【絵羽】「私、お腹空いちゃったわ。郷田さん、何か作れない?」
【郷田】「はい! すぐにお茶のご用意を致します。」
【金蔵】「………理御はどこか…! 肩を貸せ。」
【理御】「当主様…! ただいまっ。」
 遅れてやって来た金蔵に、理御が駆け寄る。
【金蔵】「……今日は一日、ご苦労だった。……ベアトリーチェの葬儀は、これで終了である。」
【理御】「はい。……ベアトリーチェの魂も、きっと救われただろうと思います。」
【金蔵】「………………。……なぜ、そうわかる?」
【理御】「さっきまで、私はベアトリーチェと一緒にいました。……そして彼女が、未練なく旅立ったのを見届けました。だから、わかります。」
【金蔵】「…………………………………。」
【理御】「……私が、それを保証します。」
【金蔵】「そうか。…………お前が言うなら、間違いはあるまい。」
 親族たちはぞろぞろと礼拝堂を出る。金蔵に肩を貸しながら、理御も礼拝堂を出る。
 雨雲の隙間からの木漏れ日が神秘的で、……まるで天国への階段のように見えた。
 傍観者の魔女とは我々読者のこと。
 しかしながら、有象無象の山羊さんたちを集めたところでどうにもならなかったのは皆様ご承知の通り。

お茶会

メタ劇場
 ……………気付けば、静寂だった。薄暗い。でも、……広大だった。
 ……ここは、…………一体…………?
 気付けば自分は、狭いソファーのようなものに座っていた。とても窮屈で、同じものが横にずらりと並び、……その列がいくつもいくつも。
 それに気付いた時、そこが劇場であることに気が付いた。
【理御】「…………ここは、………一体………。」
 いつから自分がここにいるのか、わからない。そしてそれ以上に、ここがどこなのか、わからない。
 ……ベアトリーチェの葬儀を終えて、みんなで屋敷に戻り……。………そこから、記憶が霞んで、何も思い出せない。
 その時、人の気配がして驚く。この広大な劇場の客席には、どうやら自分ひとりではなかったらしい。
 ……音がしたのは、自分の席の真横。見れば、左に数席を空けた席に、女の子が座っていた。
 その顔に、見覚えはない。……誰だろう。歳は、自分と同じくらい。高校生か大学生くらいに見えた。
「……………ん………。」
 彼女が呻く。どうやら、今、目を覚ましたらしい…。
 彼女を驚かせたくないので、先にこちらから挨拶をしておくことにする…。
【理御】「………こんにちは。」
【縁寿】「…………………ッ!!」
 彼女もまた、誰かいるとは思わなかったらしい。私の挨拶に飛び跳ねた。
【縁寿】「……誰、あんた。」
【理御】「私も同じ気持ちです。……どうやら、私たちは、望まずしてここにいるらしい。」
【縁寿】「……………それ、片翼の紋章…?」
【理御】「え? ……この紋章をご存知なんですか。」
 彼女は私の襟元に刺繍されている片翼の紋章に、怪訝な目を向ける。敵意とは言わないまでにも、露骨なその目つきは、あまり心地良くはない。
【理御】「先に私が名乗りましょう。……私は右代宮理御と申します。」
【縁寿】「右代宮、……え? 何?」
【理御】「理御です。理科の理に、御するの御でリオンと読みます。……珍しい名前でしょう。」
【縁寿】「……名前の珍しさなら、私も負けないわ。でも、ごめんなさい。私はあんたを知らないわ。」
【理御】「道理でしょうね。私もあなたを知りませんから。」
【縁寿】「そうじゃなくて。あんた誰? 右代宮家にあんたなんかいないわ。」
【理御】「どうして、そう決め付けられるんです? あなたは当家と何か関わりが?」
【縁寿】「私が右代宮家の人間だからよ。」
【理御】「………それは、」
 彼女が左の袖を見せると、……そこには片翼の鷲の紋章が刺繍されていた。
【理御】「……お言葉を返すようですが、あなたこそ誰です? 右代宮家で、あなたを見たことがない。」
【縁寿】「……………………………。……細切れにされたり、朗読させられたり。………次は何? 今度はどこの魔女の余興なの、これは。」
 何かに悪態をつくような素振りで、彼女はそう吐き捨てる。
【縁寿】「縁寿。……私は右代宮縁寿。留弗夫と霧江の娘よ。」
【理御】「え?! え、……縁寿ちゃん……?! だって、縁寿ちゃんはまだ6つのはず……。」
【縁寿】「…………私が6つだったのは、六軒島で最後の親族会議があったあの年の話よ。……なるほど。あんたが、1986年の人間であることはわかったわ。私は18よ。そして1998年の人間。」
【理御】「つ、つまり、……12年後の未来の、……縁寿ちゃん……?」
【縁寿】「納得してもらえて嬉しいわ。でも申し訳ないことに、私にあなたの心当たりがないの。……あなたは誰? 親は?」
【理御】「父は蔵臼。母は夏妃です。」
【縁寿】「それは朱志香お姉ちゃんだわ。」
【理御】「朱志香は妹です。」
【縁寿】「…………………………。……どういうこと? 朱志香お姉ちゃんは一人っ子じゃなかったの…?」
 この頃には、縁寿のおかれた状況が、少しずつわかるようになっていた。……多分、彼女は、私が魔女として目覚めた、理御の存在しない世界の縁寿なのだろう。
【理御】「説明するのは難しいですが、……こう思って下さい。あなたの知る世界とは別の世界では、私も右代宮家の人間なんです。あなたの世界での私は、別の運命により別の人生を歩み、右代宮家の人間として生きてはいないのです。」
【縁寿】「……………あんた、魔女なの……?」
【理御】「残念ながら、普通の人間です。……今の話は、魔女のベルンカステルさんに教えられたことです。」
【縁寿】「………ベルンカステル? あの、青い長髪の、根暗そうな顔した…?」
【理御】「え、……えぇ。多分、そんな容姿だったと思います……。」
【縁寿】「………つまり。私はまた、魔女の茶番に付き合わされてるわけね。……ここは一体?」
【理御】「私もさっき目を覚ましたばかりです。……ここはどこでしょう。」
【縁寿】「劇場に見えるわ。……何かを観劇しろ、ってのかしら。」
【理御】「……今はそういう気分ではありませんね。出口を探しましょう。」
【縁寿】「…………気付いてないの? これ。」
【理御】「え? ………………あ、これは……。」
 ジャラリ。今さら気付く。両手首と両足首が、鎖のようなもので繋がれているのだ。席に座っている限り、ある程度の自由はあるが、ここを立ち去る自由は、まったく与えていないようだった。
【理御】「……いつの間に…。………誰がこんなことを……。」
【縁寿】「…………魔女の駒に堕ちたら。永遠にあいつらの玩具よ。……逃げられない。」
 縁寿は、ジャラリと鎖を鳴らしながら、足を組みかえる。どう足掻いたところで、鎖は外せないのだ。……慌てても、何も始まらない。大した肝の据わりようだった。
【理御】「魔女の駒とは?」
【縁寿】「……あいつらの奴隷みたいなもんよ。……私は取引したの。……家族に会いたい、あの日から連れ戻したいって。魔女は、その可能性を与える代わりに、私を魔女の駒としたわ。………少なくとも、魔女は約束を守ったわね。お兄ちゃんに会うことだけは、出来たんだし。」
【理御】「………戦人くんのこと……?」
【縁寿】「縁寿だと名乗ることも出来なかったけどね。……そして、そのささやかな時間と引き換えに、私は今もこうして、魔女の玩具箱の中から永遠に抜け出せない。……どうやら、あんたもそのお仲間のようね。……何を契約したの?」
【理御】「私は、何も……。」
【縁寿】「何かを魔女に望んだんじゃないの?」
【理御】「何も。………私という存在が、どれだけ奇跡であるかを、教えてもらいました。それだけです。」
【縁寿】「………何れにせよ、私たちはここから逃れられない。……さぁ、魔女たち! 今度はどんな余興を見せてくれるの?! 朗読の次は観劇? 今度は私が誰かの朗読を見るって言うの?! ならば始めてちょうだい。私はとっくに退屈しているの!」
 縁寿は真っ暗な舞台に向かってそう叫ぶ。声は残響し、誰も答えてはくれない……。
 ……いや、誰かが答えた。それも、劇場中に響き渡るような声で。でもその声はとても芝居がかっていて、まるで、演目の始まりを告げるかのようだった。
「あの日に何があったかって? 教えてなんてあげないわ。ヘソでも噛んで死んじゃえばぁ?!」
【理御】「………この声は…?」
【縁寿】「あのババアよ。絵羽伯母さんの声だわ。」
【理御】「あの日に何があったか、とは?」
【縁寿】「……1986年10月4日から5日の2日間。……六軒島で、最後の親族会議が行なわれた日のことよ。」
【理御】「今日、……ですね。」
 1986年10月4日は、今日のことだ。親族会議に先立ち、まずベアトリーチェの葬儀が行なわれていた…。
【縁寿】「驚いたわ。あんたは、1986年の10月4日から来たって言うの? 教えて。一体、この2日間に何があったの…!」
 彼女の求める答えは、猫箱の中だ。自分にも、悲しい想いのすれ違いがあっただけだとしか、話せないだろう。しかし、その説明で彼女が納得するわけもない。
 するとその時、……眩しい光が一筋、舞台を切り裂いた。
 そこには、白い人影が立っていた。………その白いドレス姿は、紛れもなく、クレルだった。
 縁寿は当然、面識はない。一体、誰かと訝しがっている。
 しかし、私も違和感を覚えた。……彼女はつい先ほどの葬儀で、未練を全て絶って、その魂を現世から送り出されたのではなかったか…?
 舞台の中央にぽつんと立ち、鋭い明かりに照らし出される彼女の表情に、生気はなかった。
 明かりが次々に増えていく。彼女をますますに激しく照らし出し、見ているこっちも目が眩むほどになる。
 世界は目を開けていられないほどの光で埋め尽くされ、風の音のようにも、テレビのノイズのようにも聞こえる大きな音までもが埋め尽くし、……私たちの意識は遠退いた…。
 メタ劇場は本編中に何度も出てきたが、理御がこの階層に上がってくるのは初。
 また、縁寿の認識はEP6で止まっており、先ほどの答え合わせは観ていない。
薔薇庭園
【秀吉】「はー……! 今年も見事に咲いたもんや!」
【留弗夫】「これを手入れするのは大変だろうぜ。愛でるだけの俺たちゃ、楽なもんだ。」
【霧江】「くす。同感ね。手入れしてくれる人たちに感謝しなくちゃ。」
【絵羽】「でも、ちょっと品がないのよねぇ。兄さんが変に手を加える前の方が素敵だったわ。」
【楼座】「昔のも昔ので、味わいがあって良かったわよね。」
【真里亞】「うー! 真里亞、薔薇好きー! トゲがなければもっと好きー! うー!」
【戦人】「ひゃー! 懐かしいな、この薔薇庭園! この6年ですっかり忘れてたぜ…!」
【譲治】「もうそんなになるんだね。この薔薇庭園も、そして戦人くんも、本当に見違えたよ。」
【朱志香】「あ、紹介するよ! 使用人の嘉音くん! 戦人とは初対面だよな?」
【嘉音】「……初めまして。」
【戦人】「俺のことは戦人って呼んでくれよな! よろしく頼むぜ!」
【朱志香】「今日は紗音もいるぜ。一緒に遊んだの、覚えてる?」
【戦人】「あー…、紗音ちゃん! すっかり忘れてたぜ、懐かしいなぁ! 元気にしてるかい!」
【譲治】「この6年で、ますます綺麗になったよ。後で挨拶するといいよ。」
【真里亞】「紗音は譲治お兄ちゃんと仲良しなの! うー!」
【朱志香】「真里亞、シー! それは内緒なー!」
【郷田】「それでは皆様、そろそろゲストハウスの方へご案内致します。」
 親族たちは、薔薇たちの歓迎をたっぷり楽しんだ後、郷田の先導でゲストハウスへ向かって行った……。
 1986年10月4日。六軒島。理御のいない世界。……右代宮家、親族会議の日。
食堂
 食事を終えたら読むように言われた、と真里亞が言い出して読み上げた、謎の手紙。黄金の魔女ベアトリーチェを自称する、その手紙の主は、親族たちを挑発する。碑文の謎を解いてみせよ。さもなくば、全てを頂戴すると。
 それは、いつものゲームと同じ、……ベアトリーチェのゲームの開会宣言文。
 遺産相続問題に、未知なる人物が登場? 200億円の黄金の隠し場所は何処に? この手紙の意図は? 一体何の目的で? ベアトリーチェとは一体、何者なのか?
 いくつもの疑問と疑心暗鬼が交錯する、………いつのゲームでも変わらぬ、10月4日の晩餐。
【楼座】「譲治くん。申し訳ないけど、みんなと一緒にゲストハウスに戻っててくれるかしら。ごめんね。」
【夏妃】「……紗音。子供たちをゲストハウスへ。私たちはこのまま親族会議に入ります。」
【紗音】「は、はい。畏まりました…。」
【蔵臼】「黄金の魔女、ベアトリーチェか……。味な手紙を寄越してくれるじゃないか…。」
【絵羽】「碑文を解いてみろですって…? ふざけたことを。あの黄金は私たちのものよ。部外者なんかに譲って、堪るものですか…!」
【留弗夫】「……あの黄金さえ見つかりゃ、俺たちは全員ハッピー。誰も損がねぇんだがな。」
【譲治】「行こう、みんな。ここからは大人の話だよ…。」
【戦人】「……やれやれ。ややこしそうな話だぜ。」
【朱志香】「ほら、真里亞…。行くぜ……。」
【真里亞】「ベアトの儀式が始まったね……。きひひひひひひひ……。」
【紗音】「それでは皆様…、ゲストハウスへご案内します……。」
メタ劇場
【理御】「………これは……、何でしょう……。」
【縁寿】「過去のゲームの何れかの再演か、……さもなくば、新しいゲームでしょうね。どのゲームであっても、10月4日はほとんど同じ展開だから。」
【理御】「……新しいゲーム? これまでのカケラにない物語ということですか?」
【縁寿】「私たちを、鎖で縛り付けてまで見せたものが、すでに知っているゲームのわけがない。……新しいゲームだと考えるべきでしょうね。ならば、ゲームマスターがいるはず。……それは誰? ………あいつ? ベルンカステル……?」
【理御】「私には、……そうとは思えません。……クレルはもう消え去ったはずなんです。新しい物語を紡ぐ必要性がないはず…。」
【縁寿】「ベアトのゲーム盤なんて、…とっくの昔に性悪魔女どもに乗っ取られてるわ。ベアトでさえ、あいつらのゲームの駒でしかない。」
【理御】「……一体、これは何のつもりで、……誰の仕業なんです。私たちに、何を見せたいんだ……。」
 この物語が始まる前。確かに舞台の上には、クレルが姿を現した。
 彼女こそは異なる運命の世界の、自分の分身であり、ベアトリーチェのゲームという物語の語り部だ。
 しかし、彼女はその全てをウィルに託し、謎の全てを解かれたはず。その彼女にはもはや、新しい謎掛けをする必要などないはずなんだ……。
 ………では、この物語は、ベルンカステルが私を試している…?
 私は、少なくともウィルと一緒に物語の深部に触れ、犯人の心まで理解した。その自分からすれば、たとえ未知なる物語であったとしても、謎は見破れるだろう。
 ………それが、私の役目なのか……? 縁寿に、物語の真相を教えるのが、自分の役目……?
【理御】「……あなたは、知っているんですか。……この物語の、真相を。」
【縁寿】「いくつかの仮説は考えてるわ。でも、どの説にも最終的な答えは出せない。真相はいつも猫箱の中。断定は出来ない。」
 この世界では、縁寿はこの日、欠席している。だから、この日、何があったのかを知らないのは当然だ。でも、自分は少なくとも、犯人が誰で、この日に何を行なおうとしているか知っている……。
【理御】「………やっと。自分の役目がわかった気がします。」
【縁寿】「どういう意味?」
【理御】「どうやら、あなたは観劇者で、私は解説者のようです。」
【縁寿】「何を解説してくれるというの。」
【理御】「私は、………これから起こる事件の犯人を、知っているからです。」
【縁寿】「何ですって………。」
食堂
【蔵臼】「普通に考えれば。……何者かが私たちに碑文を解かせ、横取りを狙っているようにしか思えんがね。」
【留弗夫】「同感だ。先に解いたならネコババしちまえばいいだけの話。わざわざ俺らに、解いてみろなんて挑発するかってんだ。」
【絵羽】「使用人の誰かの悪戯だわ。あわよく黄金が見つかったら、ご祝儀にお零れがもらえるかもしれないっていう、さもしい考えに違いないわよ。」
【夏妃】「当家の使用人の中に、そんな人間がいるとは思えません…。」
【楼座】「……あるいは、使用人のふりをして、私たちの中の誰かが差し出した手紙だったりして。」
【絵羽】「それを言ったら、一番怪しいのはあんたでしょうが。真里亞ちゃんに一芝居打たせて、あの手紙を読ませたんじゃないの?」
【楼座】「わ、私はそんなことしないわよ…!」
【秀吉】「よさんか、絵羽。決め付けたらあかんで。今はみんなで結託して相談し合う時やないか。」
【霧江】「そうね。あの怪しげな手紙は、私たちの結束を乱すのが狙いでしょうね。踊らされれば踊らされるほど、ベアトリーチェなる差出人の思う壺だわ。」
【蔵臼】「霧江さんの言う通りだね。あのような手紙など、初めから意に介さないくらいが丁度いいのではないかね?」
【夏妃】「私は最初からそうだと言っています。こんなの、取るに足らない悪戯です!」
【秀吉】「そやな、まったくその通りや。おかしなクレームの一件や二件でビクついてたら、商いはやってられんで!」
【絵羽】「主人の言う通りだわ。こんな子供騙し、真面目に考えるだけ損だわ。本当に遺産騒動に絡みたい何者かなら、手紙なんて遠回しなことをせず、堂々と姿を現せばいいんだし。」
【留弗夫】「だな。俺たち以外に遺産を要求している人間がいると思わせて、お零れを預かりたいってヤツがいるんだろうぜ。」
【楼座】「……遺産問題に口を挟まない代わりに、口止め料を寄越せとか言い出すのかしら。」
【霧江】「それを言い出すなら、もう手紙に書いてるはずだわ。」
【蔵臼】「手紙の内容は、碑文を解いてみろ、さもなくば全てを頂く、なる挑戦状だけだ。」
【秀吉】「犯人は、わしらに碑文の謎を解かせたい! それ以上でも以下でもないっちゅうことやな。」
【留弗夫】「つまりよ。こんな手紙、気にしたら負けってことだぜ。」
【蔵臼】「うむ、同感だ。……まるで、推理小説のようなミステリアスな演出だったので、ついつい私たちも面白がってしまった。……はっはははは。我々も余裕がないね。」
【夏妃】「しかし、誰がこんな手紙を。……腹立たしいことです。」
【絵羽】「使用人じゃないなら、私たちの中の誰かが書いたんでしょうよ。誰とは言わないけれどね?」
【楼座】「よ、よしてよ。本当に私は知らないの…!」
【秀吉】「まぁまぁ。しかし、手紙の言うことも一理あるっちゅうもんや。……わしらは誰も彼もカネが欲しいんや。それも出来たら今すぐや。それに異論がある者はおらんやろ…?」
【留弗夫】「……そりゃそうだ。カネと愛は、いくらあっても困らねぇぜ。」
【蔵臼】「親父殿の遺産は、いつ転がり込んでくるかわからない。……しかし、碑文の黄金は違う。見つかれば直ちに山分けだ。」
【絵羽】「ある意味。お父様の遺産以上に、目の前にあるカネだわ。」
【楼座】「碑文の謎が解ければの話だけれどね……。」
【霧江】「……ここにいる皆さんも、碑文の謎には、それぞれ挑戦されたんでしょう?」
 霧江が一堂にそう問い掛けると、全員が無言で頷く。
【霧江】「ここには、出題者であるお父さんの血を引く人間が4人もいながら、それぞれがバラバラに謎に挑戦してる。効率的ではないと思わない?」
【留弗夫】「……だな。俺たちは、それぞれが欲の皮を突っ張らせて、単独に謎解きをしてた。……しかしだ。黄金発見時の分配等については、もう俺たちの中で決着がついている。そして、兄貴が次期当主であることを認める、ってのもな。」
【蔵臼】「それを引き換えに、ずいぶんと吹っ掛けてくれたがね。」
【楼座】「………私たちで協力して謎解きをしたら、あの碑文も解けるかしら…。」
【霧江】「三人寄れば文殊の知恵。それどころか、私たちは七人もいるわ。」
【絵羽】「お父様の遺産問題については、私たちは今日、概ねで合意を得ているわ。……余興のつもりで、碑文に挑んでみるのもいいんじゃないかしら。」
【秀吉】「せやな。一服のつもりで、ちょいとやってみるのもええんとちゃうか。」
【夏妃】「……馬鹿馬鹿しい。隠し黄金などと……。」
【留弗夫】「まぁまぁ。余興だと思ってよ。郷田さんに、冷たいモンでも持ってきてもらおうぜ。一服しながら、たまには兄弟水入らずで、謎解きごっこをしてみようじゃねぇか。」
【蔵臼】「ふむ。どうせ夜は長い。親父殿の寿命について、下らない詮索をするより、よっぽど建設的だと思えるね。」
【楼座】「郷田さんに電話するわ。何か持ってきてもらいましょうよ。」
【絵羽】「お茶とお菓子と。……あと、台湾の地図でも持って来させる?」
薔薇庭園
 薔薇庭園の東屋には、二人の人影があった。……譲治と紗音の逢瀬だった。
【譲治】「この指輪を、受け取って欲しい。」
【紗音】「じょ、……譲治さま……。」
【譲治】「君を生涯、愛することを誓う。……若い今だけじゃない。老いて、お墓に入るまでの全てを愛し、君を幸せにすることを誓うよ。」
【紗音】「……その言葉に、嘘偽りはありませんか。」
【譲治】「あぁ、ないね。僕には、君を愛し、幸せな家庭を作る絶対の覚悟と自信がある。」
【紗音】「その、幸せな家庭とは、どんなものですか。」
【譲治】「うん。それは、とても幸せな家庭だよ。車と庭付きの家。そして飼い犬が一匹。庭には家庭菜園。子供たちが駆け回り、僕たちはバルコニーから微笑ましそうに見下ろすんだ。それが、僕たちの未来の日曜日の、当り前の光景だよ。」
【紗音】「それは、素敵な光景ですね……。」
ゲストハウス・いとこ部屋
【戦人】「ええーー!! あの二人、付き合ってるのかよ?!」
【朱志香】「シー! 声が大きいって! 真里亞が起きちゃうだろ…?!」
【戦人】「そ、そうか。そうだったかー…。言われてみれば、何となく、今日もあの二人、いい雰囲気だったしなぁ。……そうだよなぁ、俺たちももう、恋をする年頃だもんなぁ。」
【朱志香】「この6年で、私たちはずいぶん変わったぜ。譲治兄さんも、昔は頼りない感じだったけど、今は違う。」
【戦人】「それは思ったぜ。譲治の兄貴、ずいぶんと貫禄が出てたもんなぁ。」
 ……しかし、紗音ちゃんと譲治の兄貴ねぇ。ちょっぴり意外だった。6年前は仲良く遊んでいたが、それほど二人に接点があるようには思えなかった。
【戦人】「……なるほどなぁ、6年だもんなぁ。」
【朱志香】「この6年は、誰にとっても大きいぜ。」
【戦人】「だな。……俺もこの6年、色々あって、正直、六軒島のことはほとんど忘れてた。」
【朱志香】「まぁ、私も戦人のこと、ほとんど忘れかけてたけどなー。」
【戦人】「そりゃ酷ぇぜ、いっひっひ〜!」
 こうしてお喋りしていると、みるみるお互いは、6年前に戻っていく気がする。すっかり忘れてしまうほど長い、6年間。だけれども、こうしていると少しずつ蘇ってくる、6年間。
 ………紗音ちゃん、か。6年前には、仲良しグループに混じってて、一緒に色々と遊んだっけ。俺、あの頃、ひょっとしたら紗音ちゃんのこと、……好きだったかもなー。自意識過剰で、恋に恋してたお年頃だ。
 キザったらしい、浮ついた言葉で悪ふざけをしていた、甘酸っぱい記憶が蘇る。
【戦人】「……懐かしーぜ。今だったらとても言えねぇような恥ずかしいことを、いっぱい言っちまったような。……かーっ、思い出しただけで赤面しちまうぜ!」
【朱志香】「ひっひっひ。紗音はそそっかしいけど、記憶力はいいからなー。後でこっそり、昔の戦人の恥ずかしい黒歴史を聞いちゃおっと。」
【戦人】「よ、よせやい。6年経ってるぜ、さすがに時効だろ…!」
 ……そっかー。紗音ちゃん、譲治の兄貴と付き合ってるのかー。…………………………。何だよ、俺。ひょっとして、妬いてる?
 今さら気付くけど、……当時の俺と紗音ちゃんのあれってやっぱ、俺の初恋だったんだろうなー。ま、再会するまで、ケロリと忘れてた俺には、妬く資格なんてありゃしねぇな。
食堂
【留弗夫】「親父の故郷が、台湾、大正町であることは、誰もが知る事実だ。」
【蔵臼】「親父殿は今も時折、台湾を懐かしんでビンロウを噛んでいるよ。若い日に、煙草の代わりに覚えたらしい。」
【楼座】「……でも、鮎が泳ぐ川なんて、いくらでもあったと思うわ。」
【絵羽】「鮎釣りの有名な渓流などいくらでもある。……鮎なんて、水さえ綺麗ならどこにだって住んでたでしょうよ。お手上げだわ。」
【秀吉】「お父さんが子供の頃に遊んだ、近所の小川かなんかとちゃうか。鮎っちゅうとるが、案外、フナ程度のことかもしれんで。」
【霧江】「……あるいは、何かの比喩かもしれないわ。川が、水の流れる川とは限らないかも。」
【夏妃】「水の流れない川とは…?」
【霧江】「さぁね……。…何のことやら。」
【留弗夫】「霧江が言うのも一理ある。故郷を台湾と決め付けるのも、鮎の川が、水の流れる川と決め付けるのも、何もかも早計ってわけか?」
【秀吉】「そう言われちゃ、お手上げやで。こら、考えれば考えるほどに、難解ななぞなぞや。」
【絵羽】「………そうよ。これはきっと、なぞなぞなのよ。……霧江さんの言う通りだわ。頭を柔らかくして考えるべきなのよ…。」
【楼座】「大正町に近い川って言うと、………淡水河かしら…。」
【絵羽】「あんた、話、聞いてるのぅ?! 水の流れる川とは限らないって話をしてんでしょうが! その川が鮎の川だって保証はあるの?!」
【楼座】「そ、そうよね、……ご、ごめんなさい…。」
【留弗夫】「……まぁ、多分、鮎も泳いでたろうぜ。何しろ、淡水の川だってんだ。淡水魚の鮎が泳いでても不思議はねぇだろうぜ。」
【蔵臼】「鮎は淡水魚。鮎の川で、淡水の川。……それで淡水河かね? はははは。言葉遊びだな。」
【霧江】「面白い説じゃない。……もう少し推理を進めてみましょ。川を下れば里あり。……淡水河の河口には何て町があるの?」
【夏妃】「………淡水と書いてあります。」
【絵羽】「淡水は観光で行ったわ。落ち着いた港町よ。夕焼けが綺麗だったわぁ。」
【留弗夫】「その里にて、二人が口にした岸ってのはあったか?」
【絵羽】「……さぁね。心当たりなんてないわ。」
【楼座】「やっぱり、懐かしき故郷というのは、台湾のことじゃないのよ。やっぱり小田原なのかもしれないわ。」
【蔵臼】「全ての可能性を否定するべきではないとすると、……やはりこれはお手上げだね。私たちには、碑文の一行目からすら、話がまともに進みやしない。」
【絵羽】「静かにしてッ、気が散る! ……絶対に台湾よ。お父様が、台湾以外を懐かしいと形容するわけがない!」
【夏妃】「………それについてだけは、私も同感です。お父様にとって今でも、台湾は心の故郷なのですから。」
【楼座】「一行目ばかりに固執するのも良くないわよね。私は、他の行について検討してみるわ。……第一の晩からを、ちょっと見てみることにする。」
【留弗夫】「……俺もそうするぜ。鮎の川は姉貴に任せて、その先を検討してみよう。」
【霧江】「第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ……。ミステリアスね。」
【絵羽】「わ、……わかったッ。」
 絵羽が突然、そう呟く。その呟きに、全員がぎょっとして振り返った。
 絵羽は台湾について記されたページを、ものすごい勢いで次々に捲ると、目当てのページを見つけ、裂けるほどに強く開いた。
 彼らはずっと、地名の記されたページを開いていた。総合的な情報量から考えて、そのページで検討するのが、もっとも適当と思われたからだ。
 しかし、絵羽が開いたページは、情報量的には、とても限定されたページだった。
 それは、………鉄道の路線図のページだった。
【絵羽】「……川を下れば、……里、……里。………ッ!! 里だわ、あった!」
【蔵臼】「な、……何の話だね、絵羽。説明したまえ。」
【絵羽】「静かにしてッ!! 岸もある、口もある…! ふ、二人が口にするというのはわからないけど、……でも、里も岸も口もある…!! ここよ、絶対にこれが黄金の鍵の眠る里よ…!!」
【絵羽】「お、落ち着くんや…! どういうことか、わしらにもわかるように説明してや!」
【霧江】「……淡水線? ……なるほど。鮎の川というのは、淡水線という名の、鉄道のことだと?」
【夏妃】「あ、鮎は泳いでいないと思いますが……?」
【絵羽】「見てッ!! 淡水線を下り方向に進んでいくと、旧名がキリガンって駅がある! ほら、漢字をよく見て!!里がある、口がある、岸がある!!」
【秀吉】「ほ、ほんまや…! 里がある、口もある、岸もあるで…!!」
【留弗夫】「………川を下れば、やがて里あり。……確かに、淡水線の駅名の中で、里がつくのはその駅だけだな。」
【蔵臼】「なるほど、その駅名を暗示しているようにも見えるね……。」
【絵羽】「絶対にこれよ、間違いないわ…!! 調べればいいのよ、二人が口にしの意味もきっとわかる…!! ……みッ、見て!! これッ、これッ!」
【霧江】「地名のキリガンの“リ”は、口偏に里だわ。……ということは、キリガンは、口偏が二つ。即ち、二人が口にし……?」
【楼座】「す、……すごいわ、姉さん。これよ、間違いなくこれだわ……。」
【夏妃】「このキリガンという町のどこかに、鍵が隠されているということでしょうか…?」
【霧江】「どうかしら。……ここまでの謎は言葉遊び。だとしたら、眠る鍵もまた、言葉遊びの可能性が高いんじゃないかしら。」
【絵羽】「同感だわ。第一の晩に、鍵は六人の生贄を選ぶのよ? つまり、本当に鍵状の形をした何かとは考え難いということだわ…!」
【留弗夫】「……ひゅう。……面白く、……なってきやがったぜ……。」
【絵羽】「鍵の選びし六人を生贄に捧げよ。……これから連想できる鍵を考えるの! そしてそれで、キリガンという地名を噛み砕くのよ! 私にはわかるわ、これはきっと言葉遊び! 絶対に言葉遊びよ…!! 考えて、みんなッ!!」
薔薇庭園・東屋
【譲治】「面白いものだね。……ひとりなら気の滅入るような雨でも、君と一緒なら、涼しくて気持ちがよく感じるよ。」
【紗音】「……そろそろ戻りましょう。嘉音くんを待たせてますので。」
【譲治】「そうだね。僕も朱志香ちゃんや戦人くんたちをだいぶ待たせちゃってるかな。」
【紗音】「懐かしいですね。お嬢様に譲治さま。戦人さまに私で、4人で遊んでいた頃もあったんですよね。……あの頃も楽しかったですね。」
【譲治】「僕は今の方が楽しいよ。君を独り占めできるからね。」
【紗音】「くす。……譲治さまったら。」
 譲治のキザな台詞を笑う。しかし、ほんの少しだけ、譲治の笑いは乾いていた。
【紗音】「……譲治さま?」
【譲治】「ん? ……あぁ、ごめん。………僕はね。未だに、戦人くんにコンプレックスがあるんだよ。」
【紗音】「コンプレックス、……ですか?」
【譲治】「彼は留弗夫叔父さんに似て、快活だし面白いし、何よりも元気だし。僕なんかより、よっぽど魅力的だ。……彼と僕が並ぶと、自分が霞むのがよくわかるんだ。」
【紗音】「そんなことはありません。譲治さまは立派ですし魅力的です。戦人さまに、何も劣るところなどありません。」
【譲治】「………本当に?」
【紗音】「えぇ。本当にです。」
【譲治】「実はね。……今年、戦人くんが戻ってくると聞いて、……僕は最初、嫌な気持ちだったんだよ。」
【紗音】「どうしてですか…?」
【譲治】「………6年前。……君と本当に仲が良かったのは、戦人くんだった。僕は君ともっと仲良くなりたいと思っていたけれど、まったく間に割り込むことなんて出来なかった。……指を咥えて見ている他ないくらい、お似合いの二人に見えたよ。」
【紗音】「そうだったでしょうか…? お似合いの二人どころか……、私が一方的に戦人さまにからかわれてただけで……。」
【譲治】「……最高にお似合いの二人だったよ。間違いなくね。……君たちは付き合ってるに違いないと信じてた。」
【紗音】「そんなことはありませんでしたよ。譲治さまの考え過ぎです…。」
【譲治】「………僕は本当にみっともないね。今日、君に指輪を渡す時、断られるかもしれないと怯えた。」
【紗音】「どうしてですか。……私が譲治さんの指輪を、どうして拒むと?」
【譲治】「戦人くんが、帰ってきたからさ。君は本当は、今でも戦人くんのことが好きで……。……彼が帰ってきた今、僕は用済みなんじゃないかなって、………怯えたんだ。」
【紗音】「…………譲治さん? これをご覧下さい。私の薬指に輝く、この銀色の輝きです。これは何ですか?」
【譲治】「……そうだよね。ごめん。僕は、何を動揺しているんだろうね。……6年ぶりの再会で、さらにカッコよくなった彼に、また嫉妬していたんだろうね。……情けないよ。」
【紗音】「うぅん、いいんです。その気持ちは即ち、……私を誰にも渡したくないという、譲治さんの強い気持ちの表れなんですから。……もし、私の気持ちが戦人さまに移るのではないかと怯えるなら。そんなことを絶対に思わせないくらいに、強く愛して下さい。……私が、あなた以外の男性のことを考える暇なんかないくらいに、愛して下さい。」
【紗音】「私だって、怖いんです。私より魅力的な女性なんて、これからもいくらでも現れるでしょう。あるいは、至らぬ私に愛想を尽かすこともあるかもしれない。生涯、あなたの気持ちを私だけに繋ぎ止めていられるか、怖いんです。」
【譲治】「それを君が怯える必要はないよ。僕は君を生涯、愛し抜くことを誓う。」
【紗音】「私もそれを誓ったのに、戦人さまが帰ってきたら、信じてくれなくなりましたね。」
 紗音がくすりと笑うと、譲治もようやく、自分の気弱な言葉が彼女を傷つけていたことに気付く…。
【紗音】「……私は、右代宮譲治さんという素敵な方を射止めました。そして、生涯、私を愛すると誓わせ、それを誓う指輪をこうして贈らせました。その指輪を、こうして薬指に通した上で、正直に告白します。」
【譲治】「うん。」
【紗音】「私は、確かに仰る通り。……6年前、戦人さまのことが、好きでした。多分、譲治さんより、好きだったと思います。」
【紗音】「でも。それは6年前の話です。今の話では、ありません。戦人さまへのその気持ちは、この6年間で整理され、思い出と一緒に過去へ、決別したのです。今の私は、あなたを愛するためだけに存在します。」
 紗音はきっぱりと、そう言い切る…。
 譲治は一度だけ頼りなく笑う。多分、それは6年前の譲治の浮かべた笑いだ。そして背筋を毅然と伸ばし、無言で紗音を抱く。それは彼にとって、6年前の自分と決別した瞬間だった……。
礼拝堂前
【秀吉】「はしご、持ってきたで…! ほいさ、ほいさ!」
【楼座】「Quadrillion。……この島で、千兆と刻まれてるのはあれだけよ。」
【絵羽】「京の十分の一で千兆とはね…。眉唾だわ。」
【霧江】「私たちの想像が正しければ、きっと、あのレリーフの文字が仕掛けなんだわ。」
【蔵臼】「確かめればわかる話だ。誰が上がる?」
【留弗夫】「俺が上がろう。押さえててくれ。」
【夏妃】「気を付けて。結構、高いですよ…。」
 立てかけたはしごに、留弗夫が上がる。 雨粒を浴びながら、一段一段、上っていく…。
【霧江】「Qの文字を見てみて。どう? 何か仕掛けがありそう?」
【留弗夫】「んっ………。ちょいとガタつくな。……お? ヤベ……。」
【絵羽】「どうしたの?! 何があったの?!」
【留弗夫】「…………へへ…。ビンゴみてぇだぜ。見ろよ、こいつを。」
 留弗夫がはしご下に、Qの文字を放る。それは蔵臼の肩にぶつかってから、水溜りに落ちた。
【楼座】「これ、……鍵だわ!」
【秀吉】「どういうこっちゃ?! 留弗夫くん! これまさか、他の文字も抜けるんか?!」
【留弗夫】「……あぁ、そうみてぇだ。どうやら、俺たちのトンデモ推理は外れていなかったらしいな! 次に抜く文字はなんだ?!」
【夏妃】「え、えっと、iです! それからl!」
 指示を受けながら、留弗夫は、第一の晩の6文字を間引いていく…。もうそこまで行けば、……謎が解けるまで、もはや何も立ち塞がるものはない。
 彼らはその後も試行錯誤を繰り返しながら、……とうとう、最後の仕掛けに至る。
【蔵臼】「頭から抉れというのは、左から順にという意味に違いない。」
【霧江】「留弗夫さん! 左から順に、鍵を回してから抜くの!」
【留弗夫】「おうよ…! これで全文字皆殺しだな。第九の晩に、誰も生き残れないってわけだ。」
【楼座】「どう?! 何か起こった?」
【留弗夫】「何かの手応えはあったが、変化なしだ。どっかで隠し扉でも開いたのかもな。」
【秀吉】「お、おい! あれを見てみい! 動いたで、確かに動いた!!」
【絵羽】「……………?! みんな見て! ライオンの像の向きが変わってるわ…!」
【夏妃】「ど、どういうことでしょう? ライオンの像に何か秘密が…?!」
【蔵臼】「……違うな。これは恐らく、ライオンの向いた方向を見よという意味だろう。見たまえ。あのライオンの見る先を。」
【楼座】「あそこのライオンの向きも変わってるわ…! どういうこと?!」
【絵羽】「馬鹿ね、あれは誘導してるのよ! ライオンの向く方へ行けという意味だわ…!」
 絵羽は先を争って駆け出す。それを追い、他の一同もばらばらと駆け出す。
 ……黄金はもう、すぐそこだった。
地下階段
【蔵臼】「………驚いたね。こんな、秘密の階段があったとは。」
【絵羽】「納得だわ。お父様が誰も礼拝堂に近付けたがらないはずよ…。」
【楼座】「……この仕掛けは一体、いつからあったのかしら。地下道の感じからして、相当の昔からだわ…。」
【霧江】「恐らく、お屋敷を作った時とほぼ同時でしょうね。……多分、碑文の謎も、何十年も前から用意されていたのよ。」
【留弗夫】「まぁ、あの親父だから。……大抵のことにゃ驚かねぇつもりだったが。」
【夏妃】「一体、この階段、どこまで続くのでしょう……。」
【秀吉】「こら、あの噂は本当かもしれんで。……ほら、森の中のどこかに、愛人を囲ってる隠し屋敷があるっちゅう話や。」
【蔵臼】「なるほど。この地下通路が、そこまで続いている可能性は高いな。」
【楼座】「………あの日の、あのお屋敷にまで繋がってるのかしら……。」
【絵羽】「どうやら、ゴールみたいよ。……無骨な扉があるわ。何か書いてある。」
【留弗夫】「……ひゅう。こりゃあ、ビンゴだな。」
 扉には、赤い塗料でこう記されている。第十の晩に、旅は終わり、黄金の郷に至るだろう……。
【霧江】「開く……?」
【絵羽】「開くわ。……いい? 開けるわよ?」
【蔵臼】「いよいよ、黄金とご対面かね……?」
【秀吉】「そんなウマイ話、……ぜひあってくれと祈るばかりや。」
【楼座】「姉さん、開けましょう。」
【絵羽】「えぇ。開けるわよ。」
 重い扉が、……ゆっくりと開く……。そして、黄金の積まれた地下貴賓室が、彼らの前に姿を現した……。
地下貴賓室
 彼らが地下貴賓室の素晴らしき内装に驚嘆したのは一瞬のこと。天蓋ベッドの脇に、山と積まれた黄金が目に入ると同時に、絶句する。そしてその絶句の沈黙は次第に解け、驚愕と狂喜の喧騒となった……。
【蔵臼】「…………素晴らしいッ!! はは、はっははははははは!!」
【楼座】「す、すごいわ、200億円の黄金…!! 本当に、本当にあったんだわッ!!」
【霧江】「何て眩い山なの。目が潰れそうだわ……。」
【秀吉】「うっははははははは!! やったで、やったでッ!! このゲームはわしらの勝ちや!!」
【夏妃】「………み、濫りに触ってはなりませんっ! お父様の黄金ですよ?!」
【絵羽】「あら、そう?! じゃあ、お父様を今すぐ呼んで来てちょうだい! 今すぐここへ!! 茶番はとっくに終わってんのよッ!!」
【留弗夫】「夏妃姉さんよ。もうここからは白々しい話は抜きにしようぜ? ここにあるのは、本物の黄金の山! 俺たちも本音で語り合うべきだぜ?」
【絵羽】「幸いにも私たちは今、とても上機嫌で寛大だわ。大人しく引っ込んでなさい!」
【夏妃】「く、……ッ。」
 これほどの莫大な黄金の山は、魔力を持つ。その魔力は、人間のもっとも素直な感情を剥き出しにするのだ。
 シャンデリアの明かりが黄金の山に閃き、黄金色の輝きで彼らを照らし出す。その輝きが彼らを操るかのように。彼らはしばらくの間、自分の歳も忘れ、まるで興奮して庭を駆け回る園児のように、吠えたり笑ったり、踊り回ったり転げ回ったりしていた……。
メタ劇場
【縁寿】「………何これ。どういうこと?」
【理御】「事件が起こる前に、碑文が、………それも親族兄弟全員によって解かれてしまうなんて…。」
【縁寿】「今までになかった展開ね。」
【理御】「……ベアトリーチェは、碑文の謎を解いたら、事件を起こさないと決めていたはず…。」
【縁寿】「そういうことにはなってるけどね。……ふん。どうだか。」
 縁寿は鼻で笑うが、……私は信じる。……クレルはそう決めたのだ。運命のルーレットに全てを預けたからこそ、その出目に従う。
 彼女は自らの運命を、自分達で決められなかったからこそ、ルーレットにそれを預けたのだ。だから、従うのだ。彼女のルールに則り。
 彼女は約束を、絶対に守る。
【理御】「起こらないはずです。事件は。」
【縁寿】「……断言できるの?」
【理御】「はい。……もう、彼女のルーレットは決まったのです。これで、彼女のゲームは終了です。」
【縁寿】「終了なら、どうなるっての? めでたくみんなで大金持ちになって、無事に親族会議はおしまい? 私の家族は、中身がチョコレートじゃないインゴットをお土産に、私のところへ帰って来てくれるというの? これで全てがハッピーエンドだと? あの魔女どもが、そんな甘い夢を、鎖に繋ぎながら見せてくれるわけ?!」
【理御】「…………………ん…。」
 ジャラリと手首の鎖を誇示されると、自信をもって言い返せなくなる。
 でも、私は信じたい。もっとも呆気ない形ではあっても、これでもう、クレルのゲームは一つの終わりを迎えたのだ。
 ……ひょっとして彼女は、事件の起こらない世界を、最後に私たちに見せたいのではないだろうか。
 未練なく消え去った彼女は置き土産として、何の事件も起こらない、ある意味、もっとも平和なゲームを、私たちに残していってくれるつもりなのでは。
 そう信じたい。……この劇場に自分たちを繋ぎ止める、この重くて冷たい鎖がなかったなら。
地下貴賓室
【楼座】「だ、誰かいるのッ?!?!」
 楼座の鋭い叫びに、馬鹿騒ぎはぴたりと止んだ。
 楼座は確かに見たのだ。壁に掛かるカーテンの向こうがゆらりと動き、誰かの人影があることを。
【留弗夫】「……よせやい。気のせいだろ……。」
【絵羽】「誰かいるの?! いるなら出てらっしゃい…!」
 絵羽がそう叫んだ時。……カーテンがゆらりと動く。
 そしてその向こうから、……黒いドレスを着た魔女が、姿を現わす……。
 そのドレスが、肖像画の魔女が着ているものと同じであると、瞬時に全員が理解し、……そしてさらに理解した。彼女こそが、……この部屋の主であるということを。
 後に判明することだが、このゲームにはゲームマスターがいない。したがって幻想描写も一切ない。こうして色分けしてみれば一目瞭然。
【ベアト】「………ようこそ、黄金の部屋へ。」
 彼女は無表情に淡々と、それを告げた。誰がそれに答えるべきか、一同は顔を見合わせる。最初に口を開いたのは留弗夫だった。
【留弗夫】「……つまり、あんたがベアトリーチェってわけか。」
【ベアト】「如何にも。」
【楼座】「ま、真里亞に手紙を渡したのはあなたなの…?!」
【ベアト】「如何にも。」
【蔵臼】「……これは、親父殿の差し金なのかね?」
【ベアト】「いいえ。これは私の、ゲームです。」
【絵羽】「なら、そのゲームは私たちの勝ちだわ。こうして碑文の謎を解いて黄金を見つけたもの…!」
【秀吉】「あんたの挑戦に、うちらは勝ったんやで…! この黄金、わしらのモンっちゅうことで間違いないんやろな?!」
【ベアト】「如何にも、その通りです。……皆さんは碑文の謎を解き、見事にこうして、隠された黄金を発見しました。このゲームは皆さんの勝ちです。……この黄金はもはや、私のものではなく、皆さんのもの……。」
【蔵臼】「………潔いことだね。」
【絵羽】「ねぇ、あんた。……もし、碑文の謎を私たちが解けなかったら、どうするつもりだったのぅ?」
【留弗夫】「右代宮家の全てを頂戴すると、手紙にはあったぜ。」
【ベアト】「はい。右代宮家の全ての財産と、全ての命。……この島に存在する全てを、私の好きにさせてもらうつもりでした。」
 ……魔女はベッド脇のテーブルへ歩み寄る。そこで初めて一同は、テーブルの上に何が置かれていたかに気付いた。
 それは、4丁ものライフル銃だった。弾が詰められたケースも置かれている……。
 魔女はテーブルの上に転がる鉛弾の一つを指で弄りながら、表情ひとつ変えずに告げた。
【ベアト】「もし。皆さんが碑文の謎を解けずに今夜を終えたなら。……私は碑文に従い、13人を殺す殺人事件を起こすつもりでした。」
【楼座】「な、……何ですって……。」
【霧江】「……あの碑文を初めて見た時は思ったわ。……まるで、連続殺人を描いた推理小説に出て来そうだなって。……そうね。あの碑文の通りに13人が次々に殺されたら、……それはとてもミステリアスな事件になったでしょうね…。」
【夏妃】「お、お前一人にそれが出来るわけもありません…! い、いくら銃があっても、13人も殺すなど、いくら何でも…!!」
【ベアト】「……計画は入念に、そして何通りにも用意していました。皆さんが今夜から明日までに取り得る、全ての可能性を想定し、その全てに対応できるミステリーをご用意する予定でした。………今となっては披露は出来ませんが、それはそれは綿密に練られた、愉快な密室殺人の数々を用意していたのです。」
【留弗夫】「ほんの数人なら、銃で寝首を掻くことも出来たろうよ。だが、さすがに13人も殺せるわけがねぇ…! 俺たちはそこまで間抜けじゃねぇぜ?」
 肖像画のドレスを着た紗音。もちろん一同は、それをわかっていて話している。
 ベアトも、いつものゲーム盤のような芝居がかった喋り方はしていない。
【ベアト】「………そのようですね。少なくとも、第一の晩以前に碑文の謎を解かれるという想定は、もっとも可能性の低いものだと思っていましたから。」
【蔵臼】「君にとっては、私たちがここへ辿り着くのは、どうやら誤算だったようだね。」
【ベアト】「いいえ。………これすらも、私の望んだルーレットの結果の一つ。そして恐らく、皆さんにとって最高の結果を意味するでしょう。誰も死ぬことなく、黄金を手に島を出ることが出来る。……おめでとうございます。ゲームは、皆さんの完全な勝利です。」
 誰も謎を解けなければ、銃を手に、連続殺人を犯すつもりだったと。表情一つ変えずに告白する魔女に、一同は固唾を呑む…。
【霧江】「……あなたの告白が真実なら。あなたは私たちを殺そうとしてたことになるわ。」
【ベアト】「はい。そうです。」
【留弗夫】「こいつ……。よくもしゃあしゃあと言えるもんだぜ。」
【蔵臼】「そこまで打ち明けた以上、我々が君を好意的に扱うとは思えないはずだが…?」
【ベアト】「覚悟の上です。………私のことは、煮るなり焼くなり、お好きなように。……皆さんが碑文を解けなければ、そうなっていたのは皆さんなのですから、これは対等なことなのです。」
【秀吉】「……この姉ちゃん、大した肝っ玉やで。」
【ベアト】「命を賭す覚悟があったからこそ、用意したゲームでした。その結果を得られて、私は満足しています。……もはや殺されようとも、それも覚悟の上です。」
 もはや命さえも惜しくない。そう言いながらこちらへ歩む魔女に、一同は自然と気圧される…。
【ベアト】「黄金は、皆さんのものです。最初に発見した方に全てを差し上げるつもりでしたが、7人でいらっしゃるとは想定しませんでした。……7人でどうわけるかは、皆さんで決められるといいでしょう。私はそれに関知しません。……それから。」
 魔女はなおも歩み寄る。そして一同の人垣を割り、その向こうに置かれている、アンティーク時計のところへ行った。
 その時計は、なかなか立派な貫禄を持つ、大きなものだった。それを撫でながら、魔女は言った。
【ベアト】「……この時計の仕掛けも、皆さんにご説明しましょう。皆さんは黄金だけでなく。この島の全てを手に入れられたのですから。」
【蔵臼】「それは、………どういう意味かね。」
【霧江】「…………………。第8の晩までを殺人事件風に読み解いたら、確かに殺されるのは13人だわ。……でも、第9の晩には、はっきりと。……誰も生き残れはしないと記されているわ。」
【留弗夫】「どういうことだ。……こいつはつまり、俺たちを皆殺しにしようって企んでたってことか?」
【絵羽】「………まさか、その時計は……。」
【ベアト】「お察しの通りです。……爆薬と連動しています。」
【霧江】「その仕掛けを用意したのはあなた? ……それとも、右代宮金蔵なの?」
【ベアト】「仕掛けを作ったのは、右代宮金蔵です。この仕掛けこそが、彼の狂気の魔力の源泉……。」
【秀吉】「……な、何を言ってるのか、さっぱりや。」
【留弗夫】「つまり……。……親父は爆弾を用意してて。無一文になったら、いつでも綺麗サッパリ、自分ごと全てを吹き飛ばして死んじまう覚悟があった、ってわけか……?」
【ベアト】「右代宮金蔵はこの島で、黄金の魔女と契約し、黄金を得ました。しかし、得たのは黄金だけではなかったのです。」
【夏妃】「………ど、どういうことですか…?」
【絵羽】「まさかとは、……思うけど……。……………………。」
【蔵臼】「六軒島には、旧日本軍の基地跡がある、という噂話を聞いたことがあるが……。まさか……。」
【ベアト】「ご賢察の通りです。……この島の地下には、戦時中の旧日本軍の地下基地跡が眠っています。そしてそこには、900tの爆薬も眠っているのです。」
【秀吉】「きゅ、……900tやて?! と、とんでもない量や! そない爆発したら、想像もつかん! 屋敷どころかクレーターが開くっちゅうもんやで!!」
【ベアト】「専門家の推定では、直径1km、深さ数十mの大穴が開くとか。」
【蔵臼】「……………跡形も、………残らんな……。」
【ベアト】「この爆弾は、特別な仕掛けで爆発します。……私が今、操作した、これが起動のスイッチです。」
 魔女はアンティーク時計の上部のスイッチをいじる。
【ベアト】「……この状態で24時を迎えると、爆発します。」
【夏妃】「も、もうすぐ24時ですが……?」
【霧江】「つまり、残り何時間で爆発する、というのではなく。……24時ぴったりにしか爆発しない時限爆弾というわけね。」
【ベアト】「如何にも。………もうじき、24時を迎えますね。もし、爆発をお望みでしたら、このままにしておきますが。」
【絵羽】「馬鹿言ってんじゃないわよ…!! 解除しなさいッ!」
 恐らく、今となっては金蔵以外の、誰にもわからないことだろう。
 六軒島の秘密基地は、当初こそ潜水艦基地として作られた。しかし、その計画が頓挫した後は、本土防衛のための極秘計画の基地として再定義されていた。
 九十九里浜に殺到する米軍上陸部隊を、陸軍と海軍が挟撃する机上の大作戦。海軍はその一大反抗作戦の切り札として、莫大な量の弾薬、燃料を極秘裏に備蓄していた。六軒島基地は、その極秘の備蓄基地だったのだ。
 地下に埋められている爆薬の総量は900t。しかも、米軍に島が見破られ、接収されるかもしれないことを恐れた彼らは、万一の時、その爆薬で島ごと自決できる仕掛けを施した……。
 それを熟知する金蔵は、この仕掛けを解除するどころか、毎日24時に起爆するという奇妙な時計に繋いだのだ。
 ……金蔵が、莫大な黄金をもとに軍資金を作り、それを元手に、乗るか反るかの大博打を何度も繰り返したことは有名だ。その彼にとって、軍資金の黄金と、……島の地下に眠る900tの爆薬は、どのような意味があったのだろう。
 現実的に考えれば、むしろ第一の晩以前の方が、碑文が解かれる可能性は高い。
 EP1やEP2がそうだったように、殺人事件の渦中にある人間は、碑文の謎解きなどしている余裕はないからである。
 今となっては、全ては憶測の域を出ない。恐らく金蔵の狂気の力の、真の源は、……黄金ではなかったのだろう。
 大博打に負けて全てを失ったら、いつでもこの世から島ごと消え去れる、仕掛け。彼は全ての人生に、黄金と自らの全てを賭けていたに違いない……。
 金蔵は時にこの時計を見て、……あるいは時に、起爆スイッチを入れ、時の刻みに身を任せただろう。
 何かの苦難にぶち当たる度にここに篭り、起爆スイッチを入れ……。24時を迎えるまでに妙案が思いつかなければ、全てを吹き飛ばしてやると決めていたのではないか。
 黄金の山を眺めながら、死を刻む時計の針の音を聞き、思案を巡らす……。右代宮金蔵の本当の書斎は、屋敷の中にあるあの書斎ではなく、ここなのかもしれない……。
【留弗夫】「……親父らしい仕掛けだぜ。……俺たち子供は、親父が悩み事をする度に、道連れにされてたかもしれないってわけだ…。」
【楼座】「あのお父様なら、……ありえる話ね……。」
【ベアト】「この仕掛けも、もはや皆さんのものです。……大爆発をお望みでしたら、いつでもどうぞ。」
【秀吉】「ア、アホ抜かせ…! 誰が大爆発なんか望むんや…!!」
【霧江】「……半世紀も前の爆弾でしょう? 本当に爆発するの?」
【ベアト】「はい、もちろん。爆薬も信管も健在です。……試しましたから。」
【夏妃】「試した……?」
【留弗夫】「………まさか、……あれか?」
【蔵臼】「そうか、やっとわかったよ。鎮守の社が跡形もなく消え去ったのは、そういうわけか…。」
 この夏、鎮守の社が、岩礁ごと、跡形もなく消え去った。波でさらわれたくらいで、ああも跡形なく消えるだろうかと違和感を覚えたことはあったが、それ以上は何も思わなかった。
 その違和感に、今、ぴったりとピースがはまる……。
【ベアト】「如何にも。………半世紀を経て、今なお爆薬が健在であるか、あの社で実験させていただきました。結果は、皆さんもご承知の通りです。」
【夏妃】「…………………………………。」
【ベアト】「あの程度の量で、あの岩礁がまるまる消え去るのですから。900tもの爆薬があれば、地図が書き換わるほどの爆発を起こすことは、容易に想像できるでしょう…。」
【蔵臼】「……そんな爆弾を爆発させたら、確かに我々はみんな死ぬだろうね。しかし、君はどうしたね? まさか、私たちと一緒に心中するつもりだったとは思えんが…?」
【ベアト】「この地下貴賓室は、基地跡の地下通路に通じています。それをまっすぐ進めば、島の反対側にある隠し屋敷、九羽鳥庵に出ることが出来ます。距離は約2km。そこまで逃れれば、爆発からも逃れられるでしょう。」
【霧江】「……なるほどね。爆発の直前に、そこから逃れるつもりだったのね。」
【ベアト】「そうすることも可能というだけの話です。……皆さんは信じないでしょうが、私は皆さんの誰も謎を解くことが出来ず、第九の晩を迎えてしまったなら、……全てと共に心中するつもりでおりましたから。」
【留弗夫】「…………こいつ、頭がどうかしてやがる…。」
【絵羽】「イカレてるのよ…。考えるだけ無駄だわ! この女は私たちがもし碑文を解けなければ、あそこの銃で! あるいはそこの爆弾のスイッチで! 私たちを皆殺しにしたのよ?! それだけは疑いようがないわ!!」
【ベアト】「その通りです。……皆さんは、誰一人犠牲者を出さないという、最善の形でこのゲームを終えられたのです。……敬意を表すると同時に、心より感服いたします。私があれだけ長い時間をかけて解いた謎を、7人掛りとはいえ、一晩で。………それは讃えられるべきです。」
【蔵臼】「私も、君の潔さに敬意を表するよ。………君の処遇はこれから考えるが、極力、紳士的なものになるよう配慮するつもりだ。」
【ベアト】「………私のことは、もうお気になされず。私は、皆さんを殺し、自らも死ぬ覚悟をすでにしている亡者なのですから。」
 黄金の魔女ベアトリーチェは、碑文の謎を解いて、この部屋に辿り着くことで、蘇った。そして今。……新たな者たちが碑文の謎を解き、この部屋に辿り着くことで、……その役割を終える。
 碑文の謎が解かれた時、……ベアトリーチェの魔女幻想は、終わったのだ。彼女の悲壮なその決意は、恐らく、その場にいる誰にも理解は出来ないだろう。
 ……恐らく、理解できるのは、自分だけ。自分の中にいる自分たちにだけでも、せめてわかってもらえれば、それでいい。
 ………我は我にして我等なり。無限の結果を紡ぎ出す魔法のルーレットに身を任せた。その結果の答えが、これなのだ。碑文の儀式という名のタロットカードが示したもの。
 ……もはや、ベアトリーチェは死んでいる。
 彼らが殺したのではない。運命に従い、……私が私で、殺したのだ。彼らには、わかるまい………、永遠に。
 ………………………。
 しばらくの間、天井を見上げて沈黙していた魔女は、何かを思い出したような仕草をする。そして、ドレスの袖をまさぐると、そこから何かカードのようなものを取り出した。
【ベアト】「そうそう。忘れていました。………私に死に銭など必要ありませんので。これも皆さんにお渡しします。」
【楼座】「……キャッシュカード?」
【ベアト】「黄金の一部を現金化していました。それが入っている口座です。」
【秀吉】「なるほどな。黄金の魔女の、まさに魔法エネルギーっちゅうわけやな。」
【蔵臼】「いくら入っているんだね?」
【ベアト】「詳しくは忘れました。でも、10億以上は入っています。」
【留弗夫】「10億…! ……そりゃあ確かに魔法だぜ!」
【霧江】「そうね。それだけのお金で、出来ないことはないでしょうからね。」
【ベアト】「そうですね。ニンゲンの反魔法の毒素にもっとも強い唯一の魔法が、この黄金の魔法。……ある意味、このカードはインゴットよりも、強い力を持つかもしれませんね。」
【蔵臼】「まったくだね。インゴットより、現金の方が喜ばれるものだ。」
【ベアト】「どうぞ。………私にはもはや、不要なものですので。」
 魔女が差し出すカードを、……誰も受け取れずにいる。
 10億も入ったカードを、ひょいと渡すなんてことが、……ありえるわけがない。黄金の山も、島を吹き飛ばす爆弾の仕掛けも、10億のカードも、……全てが彼らの理解の域を超えていた。
 だから、……誰も受け取れなかった。
【絵羽】「……気に入らないわ。」
【ベアト】「………何がですか。」
【絵羽】「黄金の山をはい、どうぞ。爆弾も解除します、10億のカードもどうぞ。………話が上手すぎて気持ち悪いのよ。……あんた、何か私たちを騙そうって企んでるんじゃないでしょうね?」
【ベアト】「騙す気もありませんが、信じろとも言いません。……私は全てを差し出し、全てを明かしています。何を信じ、どうしようと、それはもう、新しい黄金の主である皆さんが決めることです。私の言うことを何も信じず、この場を立ち去ることさえ、皆さんの自由です。」
【蔵臼】「絵羽。彼女が嘘を言っているとは思えんね。」
【絵羽】「何でそうだってわかるのよ?! こいつの余裕が気に入らないのよ! まるで、もう全てに勝利したかのようだわ?! ……私、今ふと思ったの!! 爆弾のスイッチとかいうの、オンとオフが逆じゃないの?!」
【楼座】「そ、それ、どういうこと、姉さん…?」
【絵羽】「さっき、その女は、爆弾を解除するといって、そのスイッチをいじったわ! 実はその時、スイッチを入れたんじゃないの?! あんたは私たちに謎を解かれたんで、私たちごと全てを吹き飛ばすために、爆弾のスイッチをオンにしたんじゃないの?!」
【ベアト】「……………………。……そうお思いでしたら、どうぞその時計のスイッチを入れて下さい。あと1分で、24時。……真実は時計が、教えてくれます。」
【絵羽】「な、……何ですって…………。」
【留弗夫】「お、おい、どうすんだよ…。今、爆弾はオンなのか? オフなのか?!」
【蔵臼】「彼女が嘘を言ってるとは思えん…! 今が解除だ。押すべきではない…!」
【絵羽】「でも気に入らないのよ!! 何でこんなに素直なの、こいつ?! 何でこうも、はいどうぞ、はいどうぞってなるの?! こいつは私たちを騙して時間を稼いでるのよ!! 24時になるまで時間を稼いで、私たちを道連れにするつもりだわッ!!」
【ベアト】「………………………………。」
【楼座】「そ、そのスイッチは、どうなってるの? オンかオフか、わかる形状なの…?」
 アンティーク時計の上部には、左右にスライドできる金具のスイッチがついていた。スイッチは今、左に入っている。しかし、右にも左にも、特に何の印もなく、どちらがオンかオフか、わからない。
【留弗夫】「おい、白状しろ!! どっちがオフなんだ?!」
【ベアト】「………左が。今がオフです。」
【絵羽】「馬鹿留弗夫!! その女が正直に言うはずがないでしょう?! 逆よ、逆に決まってるわ!! 右がオフなのよ、そうに違いない!!」
【楼座】「も、もう時間がないわ、姉さん…!!」
【蔵臼】「よせ、絵羽!! スイッチをいじるな! 今がオフだ!!」
【夏妃】「絵羽さん、その手を離しなさい!!」
【霧江】「私も同感よ。今がオフだわ。もし私たちを爆弾で殺すつもりなら、彼女は爆弾の話を告白しなかったはずよ。」
【絵羽】「……………ッ!!! ベ、……ベアトリーチェぇえぇえぇぇ…!! 私を騙そうったって……そうは行かないわよ……!!!」
【ベアト】「………………………………。……5。……4、……3。」
【絵羽】「く、ぉ、うぉおおぉおおおおぉおおおぉぉおおぉおぉおおッ!!!」
 時計の針は、……24時を超えて刻む。10月4日は終わり、……1986年10月5日が幕を開ける……。
 スイッチは左のままだった。……魔女の言葉が、正しいことが証明されたのだ。
【ベアト】「…………これで、信用していただけましたか…?」
【絵羽】「こ、……………このアマッ。」
 絵羽は脂汗を浮かべた酷い形相で、魔女の手からキャッシュカードを引っ手繰る。
【絵羽】「……通帳と印鑑は? カードだけじゃ引き出せないわよ!」
【ベアト】「暗証番号で引き出せます。8桁です。」
【絵羽】「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!! 今、書くから…!!」
 絵羽と霧江は、それぞれ筆記用具を取り出し、魔女の告げる8桁の数字を書き留める。
【ベアト】「………これで、私から皆さんへ伝えること、そして受け渡すものは全て終わりです。……もう私は、自ら何も喋りません。役目を全て、終えましたので。」
 魔女はそう告げると、踵を返し、……ベッドに腰掛ける。もうこっちを見てさえいない。彼女の言うように、もはや自身の全ての役目を終えた、まるで抜け殻のように座っていた……。
 しばらくの間、一同はそんな魔女が、また何かを思い出して、何かの話を始めてくれるのではないかと待った。
 しかし、彼女はもう、何も話しはしない。自らを亡者と称した魔女は、今やもう、黒いドレスを着た、大きなフランス人形と変わらなくなっていた……。
 黄金こそは、現世に顕現する唯一の、魔力の結晶。太古の昔から、それのわずかなカケラ程度で、人は魔力に操られてきた。
 それが、見上げるほどに積み上げられていたなら。……この部屋には、どれほどの魔力が充満していたというのだろう。
【絵羽】「馬鹿言わないでよ、山分けよ! 山分けに決まってんでしょ?!」
【蔵臼】「この山の半分がまず私のもので、さらに半分を四等分するという話だったのではないかね?!」
 黄金に踊る人間たちの叫び声が、地下室に響き渡る…。彼らは黄金の山の前で、その分け方について紛糾していた。
【絵羽】「兄さんひとりで謎が解けた? 解けなかったでしょう?! 私たち兄弟4人で解いたのよ?! 四等分で当然でしょうが!!」
【夏妃】「卑劣な! 黄金の分配についてはあなたたちが提案したのではないですか!! それを勝手に反故にするなんて…!!」
【留弗夫】「取引できる立場だと思ってんのか? 親父が死んでることを隠してるくせに…!!」
【楼座】「そ、そうよそうよ…!! 私たちをずっと欺いて、お父様の財産を私物化してきたくせに…!」
【霧江】「それをうやむやにする分も、全て含めてチャラにして、仲良く四等分。フェアな話だと思うわ。」
【蔵臼】「ほう、そこまで言うなら四等分にしようじゃないか。今すぐこの山を切り分けて、自由に持って帰るがいい。2.5t分のインゴットが入るポケットでもお持ちならばの話だがね…! それに諸君はどうやら、黄金の山に惑わされて、すっかり冷静な判断を失ってしまっているようだ。」
【秀吉】「そら、どういう意味でっか、蔵臼兄さん。」
【蔵臼】「このインゴットを見たまえ。見ての通り、刻まれているのは親父殿の紋章だけで、正式な刻印ではない。……刻印の打たれていないインゴットを、諸君はどう換金するというのかね?」
【留弗夫】「んッ、………それは……、」
【蔵臼】「ようやく気付いたかね? 確かにこの黄金の山には200億円の価値があるだろう。しかしそれは、換金を経ればの話だ。これだけの大量の、刻印のない正体不明のインゴットを、誰にも知られずに然るべきレートで換金することが、君たちに出来るのかね?!」
 換金も、ネックレスや指輪程度なら、どうとでもなるかもしれない。しかし、刻印もなく、表沙汰に出来ない何tものインゴットを、水面下で換金することは、普通の人間には不可能だ。
 ……しかし、蔵臼には出来る。金蔵の代から付き合いのある政財界の友人たちの中には、充分な資金力を持ち、アンダーグラウンドに精通した人間たちも存在する。黄金の魔女が先ほど差し出したキャッシュカードの10億円も、金蔵と縁のある人物を通じて、秘密裏に現金化されたものなのだ……。
 しかし、蔵臼以外の兄弟たちには、そのようなコネクションはない。現金化は、蔵臼に頼らざるを得ないのだ。
【蔵臼】「ようやくわかってきたかね? 親父殿のことを隠していたことは謝ろう。しかし、それを弱味に出来るほど、君たちは優位な立場にはないのだよ。」
【絵羽】「……そ、その程度のことで優位に立ったつもりぃ?!?!」
【蔵臼】「何だね、その銃は。物騒な真似は慎みたまえ。」
 絵羽は、手に持つ銃を、へし折らん限りの力でギリギリと捻る。
 ……魔女が部屋に用意していた4丁の銃は、今は親族たちの手にあった。黄金が彼らの心を惑わすように。銃は彼らの心を凶暴にする魔力があるようだった……。
 絵羽と蔵臼はとうとう取っ組み合いを始める。その脇では、さらに夏妃も留弗夫たちと言い争いを始め、荘厳なる地下貴賓室は、轟々たる罵声の合唱で満たされた……。
メタ劇場
【縁寿】「………………………………。」
 その光景を延々と見せ付けられ、縁寿は顔を辛そうに歪める。自分の両親や親族たちが、口汚く罵り合う光景を見せられては、無理もないことだった。
【理御】「……何てことだ………。」
 理御もまた、辛かった。自分がその場にいたなら、彼らを仲裁してなだめたかった。
 黄金は逃げない。冷静に時間をゆっくりと掛ければ、解決できる話なのだ。絵羽たちの言い分を聞く限り、年内に大きなお金を必要としていることはわかる。しかし、そのお金は10億円のキャッシュカードで充分に支払える。
 火急な支出をそれで満たした上で、ゆっくりと黄金を現金に溶かし、分配すればいいではないか。
 確かに、換金は蔵臼にしか出来ないかもしれない。その分、兄弟での立場は有利かもしれない。しかし、この黄金は表沙汰に出来ないものだ。世間の好奇の目を引くだけでなく、いろいろ法律上の問題も出てくる。
 裏金は裏金のままにした方がいい。最も彼らが多くの取り分を得ようと思ったら、彼ら全員が、この黄金の存在を口外すべきではないのだ。
 即ち、彼らが最大利益を享受するためには、全員で秘密を守るという紳士協定が必要なのだ。確かに換金できる蔵臼の立場はやや有利だ。しかし、他の親族たちには、黄金の存在を公にするという非協力が可能なのだ。
 それに、……金蔵の死を隠しているという負い目もある。蔵臼は投資家。資金力だけでなく、ある程度の社会信用も重要な立場だ。彼が居丈高になれるほど、立場はそう有利ではないはずなのだ。
【理御】「……みんな、……あの黄金の山に、冷静さを失ってしまってる。……これは、大人の口論じゃない。……ただの子供の喧嘩だ。」
【縁寿】「こんな光景を私たちに見せて、何が楽しいってのよ……。それとも、これが新しい魔女の遊びってわけ…? 私たちが嫌そうな顔をするのをどこかで眺めてて、にやにやしてるってわけ?!」
【理御】「…………………………………。」
 もう自分にも、……一体、何者が何の目的でこんなものを見せるのか、わからない。この新しい物語が、少なくとも慈愛に溢れているようには見えない。
 ……最初は、クレルの未練が消え去った、美しい、事件の起こらない世界だと思った。しかし、何かが違う。この物語には、明らかに私たちへの悪意が満ちているのだ。それを確信するのだが、……誰が何を見せたいのか、まったくわからない。
地下貴賓室
 唐突に、大きな破裂音が響き渡った。……銃声とは、思わなかった。だって、……普通に人生を過ごしていたなら、そんな音、誰だって聞いたことがないのだから。
 ぼたっ、ぼたぼたぼたっ。大粒の雨雫が床を叩く音。
 ……この地下室に、雨粒は降らない。……それは、夏妃の顔から、……右目から、ぼろぼろと零れ落ちる、血雫の音だった。
 銃弾は彼女の右目から、後頭部へ向けて貫いていた……。
【蔵臼】「な、………夏妃………?」
【絵羽】「…あ、…あんたが、……突っ掛かってくるから……。」
 絵羽の手から、……するりと落ちた銃は、乱暴な金属音を立てて床に転がる。その音を合図にしたかのように、夏妃はゆっくりと天井を見上げる…。
【蔵臼】「……なッ、………夏妃……。……夏妃ぃいいぃいいッ!!!」
 ばたりと夏妃は仰向けに倒れる。後頭部を床に打ち付けた時、赤い飛沫がびしゃりと放射状に広がって、……彼女の死に顔を飾る一輪の花になった…。
【楼座】「夏妃……、……姉さん…………、」
【蔵臼】「な、なぜ撃った?! なぜ撃った、絵羽ッ、絵羽ぁああぁあああああああぁあッ?!?!」
 吼え猛る蔵臼が、銃を振り上げながら絵羽に飛び掛かる。
 同じ瞬間、蔵臼の前に割って入るように秀吉も飛び込む。二人は取っ組み合いになった。
【蔵臼】「よくも夏妃をッ、夏妃をぉおおおぉおおぉおお、ぐぐぉおおおおぉおおお!!」
【秀吉】「くッ、蔵臼兄さん、違うんや…、違うんや…、これは…事故や……ッ!!」
【蔵臼】「絵羽ぁあああぁ、よくも夏妃を!! 殺してやるッ、殺してやるぅううう!!」
【絵羽】「わ、………私は撃ってないわよ…、撃ってない…。や、……やめろと言うのに彼女が、しつこく突っ掛かってくるから…!!」
 妻を目の前で失った蔵臼の表情からは、もはや理性が消えていた。秀吉を振り払い、絵羽に組みかかったなら、喉笛を食い千切らんばかりの鬼気だった。
【蔵臼】「なぜ殺した?! なぜ殺したッ?! 絵羽ぁああぁああぁ!!」
【秀吉】「これは事故やッ、事故なんや…!! 落ち着いてや、蔵臼兄さん…!! ……痛たたたたた、………うぐぐ、ぐぐぐぐぐ……。」
 破裂音が再び鳴り響いた。秀吉の顔に、返り血が浴びせられる。
 二人は、蔵臼の持つ銃を押し合うような形で取っ組み合っていたのだ。その銃口が、蔵臼の顎の下に入る形になった時、………黄金の部屋で嘲笑う、姿無き死神は、再び同じ鎌を振るった。
 蔵臼の口から、……血が、とろりと筋を引く。
【秀吉】「ぅ、……ぅわあぁああ、ひゃあぁああぁああぁ…!!」
 秀吉に覆い被さる形で二人は倒れる。情けない悲鳴をあげながら、秀吉は圧し掛かる蔵臼の体より逃れる…。
【絵羽】「あ、……あなた…!!」
【秀吉】「わしは何もしてないッ!! 蔵臼兄さんの指が引き金に掛かっとったんや…! 事故や、事故や…!!」
【絵羽】「そ、そうよ、事故よ……、これは事故よ……!!」
 事故事故と繰り返しながら泣き喚き合う二人に、楼座たちは何も声を掛けられない……。
 その光景を、魔女も見ていたが、何も口にせず、また何の関心もないようだった。
【秀吉】「わ、……わしらは悪ぅないで…! 事故やで、事故…! 見てたやろ?! な? な?!」
【絵羽】「楼座も見てたでしょ?! 蔵臼兄さんも夏妃姉さんも、感情的になって突っ掛かってくるから…!」
【楼座】「…………さぁね。私にはわからないわ。」
【絵羽】「馬鹿楼座ッ!! あんた見てたでしょ?! そこで見てたんならわかるでしょ?!」
【楼座】「ごめんなさい。偶然、暴発したのか、それを装って殺したのか、私にはわからないの。」
【絵羽】「ろ、楼座、あんた………!!!」
【秀吉】「留弗夫くん…! あんたは見てたやろ?! わかるやろ?! な?!」
【留弗夫】「……………………。……すまねぇが、楼座に同じだ。事故か故意か何て、俺たちにはわからねぇ。」
 楼座の眼差しも留弗夫の眼差しも、絵羽たちにはあまりに淡白で冷たく見えた。
【絵羽】「どうするのよ、銃で死んでるのよ…! 事故とか誤魔化せないわよ…!!」
【秀吉】「も、森や! 森に行って、行方不明になったとか言って時間を稼ぐんや…!」
【絵羽】「そんなので誤魔化し切れるわけないでしょ?! 警察が森中を捜索するわよ?! そもそも、あの未開の森にどうして二人が出掛けるのよ?! すぐに不審に思われるわよ! 騙し通せるわけないわッ!!」
【秀吉】「大丈夫や…! ここに死体を隠せば誰にも見つからん! みんなで知らん振りをすれば誤魔化せる!」
【楼座】「無理よ……。警察を誤魔化せるわけないわ。遺産問題で揉める親族会議で、兄さん夫婦が深夜に揃って失踪なんて。……警察が簡単に、行方不明で済ましてくれるわけがないわ。」
【絵羽】「…………………。………い、いい案を思いついたわ…。」
 感情が高ぶらせて、頭を掻き毟っていたはずの絵羽が、……唐突に、ぷつんと糸が途切れたかのように、両腕をだらりとさせて言った。
【秀吉】「な、……何か思いついたんか。」
【絵羽】「……事故よ。……事故に見せ掛ければいいのよ。」
【秀吉】「アホ抜かせ…! 事故って何や…?! 二人の死体には、はっきり銃創が残っとるんやで?! 火事に見せ掛けて焼いたって、銃で死んだとバレバレや!!」
【絵羽】「……火事? そんなのじゃ駄目よ。……もっと。もっともっと、大きな事故じゃなきゃ。」
【秀吉】「お、……大きな事故……?」
 絵羽はゆっくりと歩き出し、………それを叩きながら、言った。
【絵羽】「爆発事故よ。……死体が跡形も残らない事故が起こればいいのよ。」
 24時に自動的に起爆する、あの仕掛け時計のスイッチを弄りながら、……絵羽は、その狂気に満ちた表情で振り返る…。
 それはまさに、狂気の閃き。その上部のスイッチを右に入れ、次の24時を待てば、900tの爆薬で屋敷は跡形もなく吹き飛ぶ。
 死体など、跡形も残らない。爆発以前に、銃ですでに死んでいたなんて、絶対にわかるわけがない。
【絵羽】「この島に戦争中の爆薬が未だに残ってるというのは紛れもない事実! それが明日の夜、偶然! 何かの拍子に間違って爆発してしまうのよ!! そう、これは事故! 爆発事故ッ!! どう?! 絶対に警察にはわからない!! これなら誤魔化せる!! 二人の死体を誤魔化せる!!」
【秀吉】「は、……ははは、……んな、……馬鹿な……。」
 秀吉はわなわなと震えながら、絵羽の狂気の閃きを否定しようと、反論の箇所を必死に思考して探す。
 ………しかし、見つからない。全てを吹き飛ばし、何もかもを有耶無耶にできる……。蔵臼と夏妃の死を、爆発事故で死んだものと、誤魔化せる……!
【絵羽】「完璧だわ、完璧よッ…!!! 兄さんたちが死んだのだって事故だもの! もう一つ、事故が起こるだけの話だわ!! ね、そうでしょう、あんたたち?! 筋書きは適当に考えるわ!! とにかく私たちはたまたま明日の夜、隠し屋敷にいた! そこで偶然、爆発事故が起こって難を逃れた!! そういう筋書きにすればいいのよ!!」
【楼座】「………な、何をどういう筋書きにするつもりよ。……蔵臼兄さんと夏妃姉さんだけを残して、残り全員が隠し屋敷に行っていて、私たちだけが都合よく難を逃れるって、一体、どういう筋書きよ…!」
【絵羽】「それはこれから考えるって言ってるでしょッ、馬鹿楼座ッ!!! 何でもいいのよ、口裏さえ合わせればどうにでもなるのよ!! 考えるわよ、考えてるわよッ、あんたたちも考えなさいよッ!! 誰か考えてぇええぇえええッ!!!」
【秀吉】「お、落ち着くんや絵羽…。わしも考える、みんなも考えとる! 必ずうまく行くんや、思いつくんや! お前だけに背負わせとるわけやないで、みんなで背負うんやで…!! 大丈夫ッ、大丈夫やッ!! 必ずうまい言い訳が思いつくんや!」
【楼座】「……それはどんな言い訳なの? 蔵臼兄さんと夏妃姉さんの二人だけを屋敷に残して、……私たちと子供たちと、あと使用人のみんなも一緒に仲良く地下道を探検して、みんなで隠し屋敷で夜を過ごすという、どういう言い訳なの? うまい言い訳があるわけもない。……滅茶苦茶だわ!」
【絵羽】「その滅茶苦茶を考えるのが私たちの仕事でしょッ?!?! 何を他人面してんのよ?! あんたたちも考えてよッ、考えなさいよッ!!!」
【楼座】「………姉さん。質問するわ。……島を吹き飛ばしたら、この黄金はどうなるの?」
【絵羽】「んッ、……そ、………それは…………………。」
【楼座】「私たちはやっと200億の黄金を手に入れたのよ。それをみすみす吹き飛ばすつもり…?」
【絵羽】「そんなの運べばいいじゃないッ、運べばッ!! 爆発は明日の24時! まるまる1日あるのよ?! みんなで運べば何とかッ、」
【楼座】「10tあるのよ? ……お米の袋を担ぐのもやっとの私たちが、一体どの程度の量を、たったの一日で、島の反対側まで通じる長い地下道を徒歩で往復して運ぶって言うのよ。それこそ無茶苦茶だわ。」
【絵羽】「こ、これ!! カードがあるじゃない! さっき、あの女から受け取った10億円の入ったカードが!! 黄金は運べるだけ運べばいい! それを別にしても、私たちには10億円が入ったカードがあるわ! 三等分しても分け前は最低3億! 私たちの誰もが、それで充分に金策を凌げるじゃない!!」
【楼座】「嫌よ。」
【絵羽】「な、……何がよ………。」
【楼座】「ここにこうして、200億円の山があるのに。どうして3億ぽっちで納得しなきゃいけないのよ。」
【絵羽】「ろ……、楼座ぁぁ……ッ、」
 苦悶に表情を歪める絵羽に対し、……楼座は冷た過ぎるほど淡々とした表情で告げる。
【楼座】「……蔵臼兄さんたちの取り分を除いたとしても。私たちの取り分は1人50億よ。カードの3億を抜いて、残りは47億。……それを姉さんが私に払えるって言うなら、この黄金の山は好きにしてくれていいわ。」
【絵羽】「あんた、何をしゃあしゃあとッ!! 協力する気はないの?!」
【楼座】「姉さん。頭を冷静にして聞いて頂戴。私も姉さんも、最も多くのお金を手に入れられる方法を提案するわ。」
【絵羽】「な、何よ……?!?!」
【楼座】「素直に警察に、取っ組み合いの末、銃が暴発したと言って、自首してほしいの。」
【絵羽】「ば、馬鹿言ってんじゃないわよッ、私は嫌よ、警察なんてッ!!!」
【楼座】「さすがに、事件がここで起こったとは言いたくないわね。警察に黄金が見つかっちゃう。……そうね、薔薇庭園なんてどう? 雨が降ってるから、現場検証の時、矛盾が発見されなくていいかもしれない。」
【楼座】「どういう経緯で、雨の薔薇庭園で銃を持った兄さんたちと取っ組み合いになったかについては、それこそ姉さんに言い訳を考えてもらうわ。……自分たちの罪を隠したいからって、私たちとその取り分まで巻き込まないで。」
【絵羽】「ろ、楼座ぁああぁああああぁあああああぁあああぁッ!!!」
【楼座】「いいじゃない。別に何十年も食らい込むわけじゃない。だって事故なんでしょ? ほんの数年で出て来られるわよ。……罪を償って綺麗になって戻ってきたら、姉さんの分の黄金、50億を好きにすればいい。」
【絵羽】「嫌よ、絶対に嫌よ!! 私たちが捕まったらどうなるのよ?! うちの人の会社はどうなるのよッ?!」
【楼座】「別にいいじゃない、会社なんて。50億もあるんだから、もう働くのも馬鹿馬鹿しいんじゃない?」
 楼座は始めから、絵羽の提案する爆発事故に乗るつもりはない。各自の分け前の最大配分を考えれば、爆発事故は何の得にもならないのだ。蔵臼たちの死を隠蔽できる。それ以上の意味は何もないのだ。
 楼座から見れば、余計な工作などせず、素直に警察に自首してもらえるのが最善なのだ。ただ現場だけを、ここでなく、別の場所にして欲しいだけ。
 ベルンお得意のカケラ紡ぎ的視点で考えた場合、大博打に負けて全てを失った金蔵のカケラは、爆弾によって全て消え去ったと考えることもできる。
 六軒島が無事に1986年を迎えるという条件設定のもとでは、金蔵は必ず勝負に勝っているという、確率の魔法である。
 しかし、絵羽は警察に捕まりたくなどない。50億の分け前が、3億程度に減るのは悔しいが、彼女が蔵臼からせしめようとしていた当初の金額からすれば、それは充分過ぎるものだ。47億を吹き飛ばすことになっても、この場を誤魔化したいのだ。
 自分たちが捕まればどうなる? 絵羽にとって、今日まで積み上げてきた生活と会社、そして信用は、一度失えばお金では買い戻せないものだ。
 だから、47億ごと全てを吹き飛ばしてでも、蔵臼たちの死をなかったことにしたい…! しかしそれは、楼座から見れば、まるっきり冷静を欠いた世迷言なのだ。
【絵羽】「ろ、楼座ぁあああぁあぁああああああぁッ!!」
【楼座】「なぁに、姉さん。その銃は。……私も暴発ということで殺すの? 言い訳がますます難しくなるわよ。それどころか、蔵臼兄さんたちのことも、事故とは言い難くなるんじゃないかしら…?」
【楼座】「3人もの死に関わったら、かなりの大事件だわ。………恐らく、求刑は死刑。妥当なところで無期懲役。軽くても10年以上は食らい込みそうね?」
【楼座】「大人しく自首しなさいよ。そうすれば、不幸な事故がたまたま重なったことで済ませられるわ。無論、刑期だって大したことはない。……譲治くんのことは安心して。私たちでちゃんと面倒を見ておくわ。姉さんの取り分の50億はきっちり、手付かずで残しておいてあげるから安心して。」
 絵羽はギリギリと歯噛みしながら睨みつける。彼女のよく知る楼座なら、それで震え上がって従順になるはずだった。しかし、……楼座は怯えない。絵羽が一度も見たことがないような表情で、淡々と、……いや、薄い笑みさえ浮かべているのだ。
【楼座】「銃を下ろしなさい、姉さん。頭を冷やせば、私の提案が最善だとわかるはず。……いいじゃない、刑務所。経済行為で考えてみて?」
【楼座】「仮に10年食らうとしても、釈放されれば50億が待ってる。それって、年収5億のお仕事ってことでしょう? そう思えば、お勤めも楽しくなるんじゃない?」
【絵羽】「嘘だわッ!!! あんたはその間に私たちの取り分も取って逃げる気よッ!! あんたの男がそうしたようにねッ!!!」
【楼座】「うッ、うちの人のことは関係ないでしょッ?!?! 私は逃げないわよッ、お金を持ち逃げなんてッ、絶対に、……ぅぉお、……絶対にしないわよぉおおおおぉおおお!!!」
 冷酷だった楼座の形相が、憤怒で染まる。猛り狂う二人は銃を向け合い、互いを口汚く罵り合う……。
 黄金の部屋の死神が、ゆっくりと這い寄る気配が、嗅覚でわかる。ちりちりとした火薬の臭いが、爆ぜるような死の臭いが充満していくのがわかる……。
 ぐぽり。楼座の口から、血の泡がどろりと零れ落ちる。
 そして、……まるでマネキンが押されて倒れるかのように、……無機質に倒れた。
【秀吉】「……え、……絵羽……?!」
【絵羽】「わ、……わ、私じゃないわよッ! 私、本当に引き金を引いてないのにッ?!」
【霧江】「…………絵羽姉さんの銃は、さっき夏妃さんを撃った時、弾が空になったでしょう…? 再装填してないんだから、どう引き金を引いても、その銃では人は殺せないわ。安心して。」
 霧江はそう言うと、慣れた仕草でレバーハンドルを操作し、硝煙の香る薬莢を排出する…。それは、軽い金属音を立てて床を転がる。その小さな音が、いやに響いて聞こえた…。
【霧江】「楼座さんの見込みは、少し甘いわ。……無刻印の、これだけ大量のインゴットを換金するのなんて、どれだけ大変か、まるでわかってないわ。」
【留弗夫】「………見せ金に使っただけで、右代宮家黄金伝説なんてのが出来ちまうほど、親父の時にだって大きな噂になったんだ。……無理さ、換金なんて。換金できねぇ黄金の山なんて、クソの山と同じだぜ。」
【霧江】「10tもの黄金が水面下で換金されていて、次期当主夫婦が怪死。これで目立つなという方が無理な話だわ。……警察沙汰にしない方がいい。この島を吹き飛ばして証拠隠滅。インゴットに未練があるなら、持てる分だけどうぞご勝手に。10億のキャッシュカードだけで、見返りは充分。……つまり、絵羽姉さんが正しいのよ。」
【絵羽】「う、………嬉しいわ……。……あなたと、意見が一致して……。…け、警察沙汰になれば、何が起こるかわからない。黄金の換金だってそうだわ。きっとボロを出すきっかけになるわよ、私たちにはどうにもならなかった…!!」
【絵羽】「あの女が現金化してくれた10億が、私たちに手に入れられる唯一のお金なのよ! そして10億の山分けだけでも、私たちには充分過ぎるわ…! そして今、楼座が死んで、その分け前はさらに増えたわ…! 私たちは5億ずつを持って、島から出られる…!」
【霧江】「そういうことよ。黄金を換金したいなんて欲さえ捨てれば。……この島で起こった全てを、なかったことに出来る。そういう仕掛けが、ここにはあるわ。」
 もはや、銃の暴発による事故死も、射殺も、この島では何の意味もないのだ。全てが等しく、爆発事故で上塗りすることが出来る。明日の24時までの間に、この島で何があっても全て、等しく爆発事故に書き換えられるのだ。
【絵羽】「……それを、……自首しろですって?! 馬鹿楼座…! 3億ぽっちじゃ嫌? 欲の皮を突っ張らせるからよ……。じ、…自業自得だわ……。」
【秀吉】「しかし、霧江さん……、何も撃つことはなかったやろ……。楼座さんかて、話せばわかってくれた話や……。」
【霧江】「撃つ必要はあったのよ。だって、楼座さんだけが、銃を撃ってないんだもの。」
【秀吉】「………そら、どういう意味でっか…。」
【霧江】「あなたたちの足元に落ちている、蔵臼兄さんの銃と、絵羽姉さんの銃。どちらも発砲済みだわ。でも、楼座さんの銃は引き金を引くだけで弾が撃ててしまう。……レバーアクションは慣れないとリロード、難しいのよ。素人じゃなかなか出来ないわ。」
【絵羽】「霧江さん、何の話……?」
【秀吉】「あ、……あんた……ッ!!」
 二人はようやく、霧江が何の話をしているのか理解する。“楼座は、まだ撃てる銃を持っていたから、真っ先に撃った”。
 あぁ、何と愚かしいことか、なぜ、直感できなかったのか。この島で起こった全てを、なかったことに出来る仕掛けがあると、理解しているはずなのに…。
 絵羽と秀吉は慌てて足元の銃を拾い上げる。
 それと同時に、霧江の銃が再び火を噴いた。
 秀吉が短い悲鳴を上げて、胸を抑えながらうつ伏せに倒れる。
【絵羽】「あなたッ?! あなた…!! ……う、……何これッ、」
 絵羽は拾った銃の再装填をしようと、うろ覚えの西部劇の真似事をしてレバーハンドルをいじってみるが、ガチっと何かに引っ掛かってしまって、開いたハンドルがびくともしなくなってしまう。
【霧江】「ね? 結構、難しいでしょ。」
【絵羽】「あ、……あ…んた………ッッ!!!」
 霧江の銃は、慣れた手つきで再装填を終えている。その構えはまるで、子供が水鉄砲を構えるように無邪気で、そして遊び慣れたものだった。
 無情の銃声と同時に、絵羽という人形を吊っていた糸が全て千切れたかのように。絵羽は床に崩れ落ちる……。
【霧江】「……留弗夫さん。10億のカード。」
【留弗夫】「おう……。」
 絵羽がさっき、魔女から受け取った、10億円の入ったキャッシュカード。それだけで、もう充分過ぎる金額なのだ。
 200億の黄金の山などがあるから、お金の価値がおかしくなる。人はほんの百万円程度で充分殺し合いが出来るのだ。それが、10億。
【霧江】「楼座さん。あんたのさっきのあれ、名言よ? 3億ぽっち? ……あんた、欲をかき過ぎだわ。」
【留弗夫】「へへ……。違いねぇな。………お、ラッキーだぜ。死体をまさぐらずに済む。」
 絵羽の死体に近付いた留弗夫は、その傍らに落ちているカードを見つけ、拾い上げる。
【留弗夫】「この薄っぺらいの1枚で10億か…。……もう会社も馬鹿らしいぜ。畳んじまって、余生はのんびり、南国で過ごすか?」
【霧江】「どうせすぐ飽きるわよ。それに私、トラブルで苦悩したり、それを乗り越えて無邪気に喜んだりしてるあなたが、好きなんだもの。」
【留弗夫】「へへへ…! 言うねぇ…。」
【霧江】「ありがと、黄金の魔女さん。……この10億は、私と留弗夫さんで有効に使わせてもらうわ。」
【ベアト】「……………………………。」
【霧江】「蔵臼兄さんは、あんたを紳士的に扱うと約束したわ。でも、私はそんな約束をしていない。」
 ……情け容赦なく、引き金を引く。発砲音の残響が収まると、……魔女は口からどろりと血を零し、そのままベッドに倒れた。
 再び、手馴れた仕草で排莢する霧江。四度、薬莢が床を叩く軽い金属音が、もはや分け前の全てが留弗夫夫妻によって独占されたことを告げる……。
【霧江】「……本当に頭の回転の鈍いヤツらだわ……。………爆弾の仕掛けを聞いた時、この島から、全ての仲良しごっこが消え去ったことに、気付けなかったなんて。」
【留弗夫】「悪ぃな、兄貴、姉貴、楼座。……まぁ、こいつはたまたまの成り行きだ。勘弁してくれよな。兄貴と姉貴が喧嘩をして、楼座がそれに巻き込まれ。俺がひょいっと漁夫の利をさらう。……昔っからのお約束じゃねぇか、なぁ?」
 留弗夫たちは、最初から皆殺しにして独り占めにするつもりがあったわけではない。霧江は、自分が手にした銃が、銃身の長さから装弾数が5発だろうということはすぐに見抜いていた。
 ………そう。霧江も留弗夫も、この銃には深く精通していた。父親の影響で、西部劇の銃に興味を持っていた留弗夫は、同型の散弾銃を所持していたのだ。そして霧江も同じ銃を扱う資格を持ち、二人で射撃を楽しむほどに、……この銃には精通していた…。
 この場にいる人数は、魔女を加えて8人。自分たち以外に6人いる。装弾数は5発。……1発、足りない。皆殺しには銃弾が足りなかったのだ。
【留弗夫】「……兄貴たちが取っ組み合いをして、暴発が起こった時には、正直、驚いたぜ。」
 偶然の事故が、……足りない銃弾を、満たした。二度目の銃声ではない。最初の、夏妃の暴発事故の時点で、この虐殺劇は約束されていたのだ…。
 累々と屍の転がる、硝煙の香る黄金の部屋で、二人はあまりにいつもと変わらぬ飄々とした笑顔を浮かべ合う…。
【留弗夫】「……どうする。これから。」
 留弗夫は楼座の銃を拾い上げる。そして、壁に向けて試し撃ちをし、霧江同様の手馴れた仕草で排莢をして見せた。
 霧江はテーブルの上に置かれた銃弾の箱から、弾を無造作に掴み、次々に自分の銃に装填している。
【霧江】「爆弾のスイッチをオンに。そしたらあとは24時間を待つだけよ。」
【留弗夫】「朝になれば、姿が見えないと騒ぎになるぜ。」
【霧江】「騒がせなければいい。」
【留弗夫】「そうなるな。……戦人はどうする?」
【霧江】「あなたの子供よ。私の子供じゃないわ。」
【留弗夫】「そういうこと言うなよ。あんなに懐いてたじゃねぇか。あいつ、お前のこと、尊敬してるんだぜ。」
【霧江】「じゃあ、うまいこと言い包める言い訳を考えてね。私は縁寿のことを考える。あなたは戦人くんのことを考える。公平でしょ?」
【留弗夫】「ん、………あぁ。」
【霧江】「私、自分の子供にはやさしいけれど。……明日夢さんの子供にまでやさしくするの、結構、大変なの。わかってるでしょ?」
【留弗夫】「…………………………。」
 霧江の声が、一際、冷たく刺さる。
 霧江が戦人に温かく接するのは、無論、大人としての対応だ。留弗夫にとっての子供でもあるから、邪険にしないだけのこと。一皮を向けば、死してなお憎い明日夢の子供なのだ。
 縁寿を生み、新しい家族をようやく築けた彼女にとって、………戦人が帰ってきたのは、本当に喜ばしいことだったのだろうか……。
【霧江】「腹を括って。ここまで来たら。……10億を掴むか、死ぬかだけよ。戦人くんが、納得しなかったら、悪いけれど、それまでよ。」
【留弗夫】「………脅すなよ。任せろって。うまいこと丸め込んでやるから。」
【霧江】「せいぜい、しっかりね。……戦人くんが事故で亡くなったと聞いたら、きっと縁寿も悲しむわ。」
【留弗夫】「おう……。…………………。……手始めにどうする。」
【霧江】「朝を待って得になることはないわ。今が最適よ。」
【留弗夫】「……やれやれ。一服する暇もなしかよ。」
ゲストハウス・いとこ部屋
【戦人】「……テストぉ? 何をする気だよ。この時間に? 今から?」
 戦人が受話器に、素っ頓狂な声を上げる。この時間に? という言葉に、譲治と朱志香も振り返る。
 時計は24時を過ぎている。歯を磨いて寝ろと言われるならともかく、テストなどと、何の話やらまるでわからなかった。
【戦人】「わかったよ、代わるぜ。………譲治の兄貴に。うちの親父から。」
【譲治】「……もしもし、代わりました。譲治です。」
【留弗夫】「おう、譲治くんか。こんな時間に済まねぇな。寝てたわけじゃねぇだろ? みんなで色々盛り上がってたんだろ?」
【譲治】「そんなところです。真里亞ちゃんは寝てて、……あ、いや、目が覚めたみたいです。それで何の話ですか? 戦人くんはテストとか言ってましたけど…。」
【留弗夫】「ん、あぁ。親父にも困ったもんさ。さっき唐突に上から降りてきてな。色々あった挙句、どの孫が次の当主に相応しいか、なんて話に急になっちまってよ。」
【譲治】「……次期当主は蔵臼伯父さんなのでは?」
【留弗夫】「俺たち4人はみんな次期当主失格だとよ。……それで、俺たち親をすっ飛ばして、孫から次期当主を選ぶ、なんて話になっちまったわけさ。急な話で、俺たちも大いに荒れてる。向こうで、兄貴たちは喧々諤々やってるぜ。姉貴の金切り声が受話器越しにも聞こえねぇか?」
【譲治】「そ、……そうですか。お祖父さまが仰ることなら仕方がないですね…。それで、僕たちはどうすれば?」
【留弗夫】「朱志香ちゃんから順に、一人ずつ、呼び出しがあるそうだ。……ん、ちょっと待ってくれ。………………………。……あぁ、もしもし。トップバッターは譲治くんと朱志香ちゃんだそうだ。朱志香ちゃんは屋敷の客間へ。譲治くんは礼拝堂の前まで行って欲しいそうだ。」
【譲治】「いきなりのことで、心の準備がまったくありませんが……。テストって何ですか?」
【留弗夫】「親父のヤツめ、おかしなクイズみたいなものを作ったみたいだ。……当主の心構えとは何ぞや、みたいな珍問らしいぜ。」
 譲治は、無論、違和感を覚えていた。しかし、気紛れで突拍子もないことを始めることで有名な金蔵のこと。……このおかしなテストも、金蔵の突然の思い付きでと言われれば、そうかもしれないという気にはなった。
 ……しかしそれでも、一人ずつテストをするなら、順番に一人ずつ呼ばないだろうか? 面接室で待ち、順に呼び出せば済む話。
 どうして二人を同時に、別々の場所に呼び出すのか。……段取りが悪く、わずかの違和感を覚えた。
【留弗夫】「しかし、何だって譲治くんは礼拝堂前なんだろうな。……祖父さまが、特に要望してる。よくはわからねぇが、二人きりで話したいことがあるそうだ。」
【譲治】「……お祖父さまが、僕に?」
【留弗夫】「何の話だろうな。譲治くんは孫の中で一番優秀だからな。何か特に話したいことでもあるんじゃねぇか? ……ま、とにかくそういうわけだ。すぐに移動してくれ。礼拝堂の方には俺も行くことになってる。さっさと済ませようぜ。お互い、風邪を引いちまわぁ。」
【譲治】「…………そうですか。わかりました。では、僕は礼拝堂の前へ。朱志香ちゃんは客間へ。………はい。それでは後ほど。」
 このような夜更けに金蔵は、テストだの、二人きりで話したいだの、一体、何だと言うのだろう。
 しかし、金蔵の余命がそう長くないことも周知の事実だ。彼が一人一人に何かの遺言を伝えたがっているとしても、それは不思議なことではない…。
 譲治の中に芽生えたわずかの違和感は、詳しい話は会って直接聞いてみようという思いで掻き消えた。譲治は受話器を置き、今の話を手短に一同に伝えた。
【譲治】「聞いての通りだよ。………お祖父さまが僕たち全員に、何かのテストをしたいと言ってる。」
【真里亞】「うー? テスト…?」
【朱志香】「何年かぶりに書斎から出てきたと思ったら、こんな時間にテストごっこかよ。……ったく、祖父さまめ。何を考えてやがんだ。」
【譲治】「それに関しては、僕たちの親も同感のようだよ。かなり揉めてるみたいだ。」
【戦人】「ま、揉めたところで、祖父さまにゃ勝てないんだろうけどな。」
【譲治】「そういうことだね。……仕方がない。当主様の命令だからね。従おう。……まず最初は、僕と朱志香ちゃんが呼ばれてる。僕は礼拝堂へ。朱志香ちゃんはお屋敷の客間へだそうだ。」
【戦人】「俺と真里亞は?」
【譲治】「追って連絡があると思うよ。ここで待ってて。」
【真里亞】「うー! 真夜中のテスト! 何だろう?! どんなテストだろう?! クイズ? パズル? 真里亞、狼と山羊のパズルなら得意! うー!」
 すっかり目が覚めてしまった真里亞は、この真夜中のテストという、思わぬハプニングに、すっかり興奮してしまっているようだ。
【戦人】「じゃあ、俺たちは留守番してるぜ。」
【譲治】「うん。じゃ、行ってくるよ。もう待ってるみたいだし。」
【朱志香】「……次期当主を孫の誰かにねぇ。ま、私にゃ好都合だぜ。誰かに押し付けるチャンス!」
【真里亞】「真里亞、次期当主になるー! なりたいなりたい! うーうーうー!」
【戦人】「あっはっは。真里亞が次期当主ってのも悪くねぇぜ。」
【譲治】「じゃあね。また後で。」
使用人室
 受話器を置き、留弗夫は立ち上がる。
【留弗夫】「さて。……俺は礼拝堂前か。冷えそうだな。……郷田さん。戻ってきたら、熱いコーヒーの用意を頼むぜ。」
 留弗夫の傍らには、………郷田が仰向けになって倒れていた。その顔は、クロスワードパズルの本で覆われている。しかし、ページは血で滲み、本を退けずとも、その哀れな最期が容易に想像できた…。
玄関ホール
【霧江】「どう? いい脚本だったでしょう?」
【留弗夫】「あぁ。親父に感謝だぜ。親父の気紛れってことにしときゃ、誰も疑いやしねぇ。」
【霧江】「くすくす。じゃあ、手分けして行きましょう。……私は朱志香ちゃんを。あなたは譲治くんを。」
【留弗夫】「おう。……手際良く済ませて、のんびりコーヒーでも啜ろうぜ。」
【霧江】「大丈夫よね? ……今頃になって良心の呵責とか、ないわよね?」
 霧江が、一際冷酷に、笑う……。
 本来なら、一人ずつ呼び出し、二人掛かりで始末した方が安全だろう。……しかし霧江は敢えて、二人は別々に仕事をすることを選んだ。
 留弗夫の覚悟を、量る為だった。手を汚すのが全て自分で、留弗夫はただ見ているだけでは、彼の心に覚悟が宿らない。彼自身に自らの手を汚させることで、彼に本当の覚悟をさせることが出来るのだ。
 ……霧江は、そういう心の駆け引きを、誰よりも深く理解していた。霧江の冷酷な眼光に、留弗夫は反射的に目を背けてしまうが、すぐに肩を竦める仕草をしながら答える。
【留弗夫】「当り前だろ。………10億のカネが手に入るかどうかの瀬戸際にいるんだ。俺も男だぜ。人生に二度とないチャンスを、棒に振るつもりはねぇさ。」
【霧江】「……それでこそ留弗夫さんよ。……私は、ここ一番のチャンスを逃さない人が好き。そんなあなただから、私は好きになったのよ。」
【留弗夫】「お、おう……。嬉しいぜ。」
【霧江】「留弗夫さん。」
【留弗夫】「何だよ……。」
【霧江】「ずっと、………いてね?」
【留弗夫】「え? 何だって?」
【霧江】「ずっと。……私の好きな留弗夫さんのままで、……いてね?」
【留弗夫】「………当然だろ。俺がいつお前を失望させたよ。……お前はそんな心配より、祝杯を上げる時のシャンパンの銘柄でも迷ってろってんだ。」
【霧江】「そうするわ。…………いい? 戦人くんが大事なら、礼拝堂前で譲治くんをやっちゃ駄目よ? 死体を見つけられたら面倒でしょ。」
【留弗夫】「……あぁ、わかってる。……その辺にうまく誘い出すさ。雨の屋外だ。どうとでもなるさ。」
【霧江】「西部劇の悪役じゃないんだからね? 冥土の土産とか、最期に言い残すことはとか、そんなことやっちゃ駄目よ?」
 霧江は銃を構え直し、レバーハンドルに手を掛ける。……郷田を射殺した弾丸の薬莢を、排莢するために。
地下貴賓室
【絵羽】「………あなた……。………あなたぁあぁあぁ…。ううぅぅうぅぅぅ…ぅ…。」
 絵羽は秀吉の亡骸を抱いて泣く。彼女は、撃たれてはいなかった。弾は頭部をぎりぎりかすめ、……外れていたのだ。
 死んだふりをしていたのではない。彼女自身、本当に撃たれたと思ったのだ。霧江の銃口が火を噴き、激しい衝撃が頭をかすめた時、貧血のように気が遠退き、彼女は気絶してしまっていたのだ。
 そして彼女は、静寂に包まれた黄金の部屋で、目を覚ます。
 この辺りはEP3の推理の補強になる。楼座と真里亞を殺してしまった絵羽が、その後どのように考えるかという話。
 傍らには愛する夫の屍。蔵臼夫婦の屍に、楼座の屍。死屍が累々と横たわる死の部屋だった……。
 秀吉の亡骸に涙を零していた彼女は、…………その涙を絞り尽くし、自分にはまだやるべきことがあることに気付く。
【絵羽】「……譲治が危ないわ………。……譲治、………譲治………!」
 彼らは爆弾で全てを吹き飛ばし、この島の全てを爆発事故で葬り去ろうとしている。
 ……やはり。案の定、仕掛け時計のスイッチは、起爆を意味する右側に入れられていた。
 そのスイッチを左に戻そうとして、……絵羽は手を止める。
 そう。このスイッチが右にある限り、…………この島の全ては、一夜の幻に消える。そう、これは幻。これから何が起ころうとも、全ては有耶無耶となる、幻の一夜。
【絵羽】「あいつらはきっと、残りのみんなを殺すわ。そうに違いない、絶対に…!」
 銃弾の入った箱の置いてあるテーブルを見ると、箱の中の銃弾は、彼らが乱暴に掴み取りをしていった痕跡が残されていた。明々白々と、……それだけの量の銃弾をこれから使用するという意思が、そこに残されている。
 ……戦わなくてはならない。……せめて、愛息子だけは守るために、戦わなくては……。
 撃たれた時、落とした自分の銃は、レバーハンドルが開いたままの状態で固まってしまっている。
 どう力を入れても、それ以上、開かないし、また、戻りもしない。……弾詰まりを起こして壊れてしまっているようだった。……霧江が言っていた。慣れていないと、弾を装填するのは難しいと。
【絵羽】「お願い、あなた……。力を貸して……。………譲治を守るために、……力を貸して……。」
 秀吉の手には、あの時、拾おうとした蔵臼の銃が。絵羽はそれを取り、……もう一度、夫に祈ってから、力強くレバーハンドルを開いた。
 ………軽い金属音と共に、……金色の薬莢が、くるくると回りながら飛び、……床にはねる。
 恐る恐る、レバーハンドルを戻すと、……今度は何の抵抗もなく、元の位置まで戻すことが出来る。……ジャキリと、金属音。それは、新しい弾丸が装填された音だった……。
メタ劇場
【縁寿】「……ふん。そんなことだろうと思ったわ。……私にとって、一番胸糞の悪いゲームを見せて嘲笑ってやろうって魂胆ね…。」
 これまで、様々なゲームで、様々な人物たちが、犯人や共犯を疑われてきた。そして今度はそれが、留弗夫夫妻になったというだけの話……。しかし、縁寿にとっては、腹立たしいことこの上ない展開だった。
【理御】「………………………。」
 理御とて、辛い気持ちでいっぱいだった。
 碑文を解くという、このゲームから犠牲者を一切出さずに済む唯一の奇跡を得たはずなのに、……惨劇が回避できないなんて、何という皮肉だろう。私たちには、事件が起こる前に碑文を解くという奇跡に至ってすら、……この島から仲良くみんなで生還するという未来が許されていないのだろうか…?
 奇跡は、絶対に、起きない。……ベルンカステルに見せられたカケラのどこかで聞いたその言葉が、脳裏に蘇る……。
【理御】「ベルンカステルさん……。あなたは私に、この世界の素晴らしさを教えてくれた…。……そんなあなたが、縁寿を傷つけるためだけに、こんな物語を紡ぐとは信じたくない……。」
【理御】「……ゲームマスターがあなたであることはもう、私にもわかっているんです。……教えて下さい。…どうしてあなたは、こんなゲームを私たちに見せるんです…。」
 理御の呟くような問いに、誰かが答えるわけもない。
 縁寿を嘲笑うためだけに容易されたゲームは、なおも淡々と、……もはや予想を一切裏切らず、最悪の展開を重ねていく……。
【縁寿】「はッ! 好きに最悪のゲームを繰り広げればいい! 猫箱の中の無限の可能性の中の一つだと言いたいんでしょう?! 好きになさいよ、好きに…!! 私はこんなことでは挫けない!! 1986年10月5日の真実を、いつか必ず暴いてやるんだからッ!!」
食堂
 客間で霧江に迎えられた朱志香は、食堂でテストが行なわれると言われ、その後に付いていく…。
【朱志香】「………誰もいねぇぜ、霧江叔母さん。」
【霧江】「すぐに来るわよ。そこに座ってて。」
【朱志香】「………………………。」
 朱志香は勧められた席に、そわそわと落ち着かない様子で座る。霧江の方が、よっぽどに落ち着いていた。
 霧江が後ろ手に扉を閉めると、その陰に置いていた銃が姿を現す。それは朱志香には背になっていて気付かない……。
【霧江】「……霧江叔母さんは聞いているんですか? どんなテストか。」
【霧江】「えぇ。すぐに終わるわよ。」
【朱志香】「そうだといいんですけどねー。」
 悪態をつきながら振り返る朱志香の顔の鼻先が、冷え切った金属にぶつかる。
【朱志香】「…………え、」
礼拝堂前の森
【譲治】「る、留弗夫叔父さん……?! 何を……するんですか……。」
【留弗夫】「へへ。後ろから撃つのは、どうにも性に合わねぇや。」
【譲治】「……あ、……危ないじゃないですかっ。一体、何の真似です…?!」
【留弗夫】「銃口を向けて引き金を引くってのは、他に何の真似があるってんだ?」
 留弗夫は素早くリロードすると、悪びれた様子もなく再び引き金を引く。
 雨の中に轟く銃声と同時に、譲治は脇腹を押さえて膝を付く…。
【譲治】「う、ぐぐ……、ぐ……ッ…!!」
【留弗夫】「おかしいな。やっぱり、狙いより下にずれるぜ。……この銃、クセが酷ぇな。」
【譲治】「だ、誰か……!! 助けて…ッ、留弗夫叔父さんが……!!」
 脇腹を押さえながら、譲治はよたよたと走り出す。助けを求めるその声は、力が入らずか細い。その背後で留弗夫は悠然とした様子で、銃をいじりながら、照準の具合を見ている。
【譲治】「……痛い……、痛い……。……く、………ぐ…ッ、」
 脇腹を抉るような激痛が譲治を苛む。立って歩くだけで辛い……。
 体を預けるように、木の幹に寄りかかる。傷口を庇うようにうずくまると、……もう立ち上がることは出来なかった。
 譲治には何が何だかわからない。でも、おかしいとはずっと思ってた。こんな時間に、こんな場所に一人で呼び出されるなんて、絶対におかしい。
 ………おかしいなんて、……思えるもんか…。
 だって、……親戚の叔父さんが、……親族会議でお祖父さまが呼んでるからって言われたら、……疑えるわけないじゃないか……。
【留弗夫】「……悪ぃな、譲治くん。痛ぇか? これなら、背後から脳天をズドンとやった方が慈悲があったよな。何もわからねぇ内にズドンじゃあまりに無慈悲かと思ったんだが、どうやら逆だったらしい。」
【譲治】「………ど、……どうして……、留弗夫叔父さん……。……あんなに、……やさしかった叔父さんが、……どう……して……………。」
【留弗夫】「このことは忘れろ。明日の夜には、全てなかったことになってるから。」
 素早いレバーハンドルの操作が、再び銃弾を装填する。譲治の脇腹を貫いた銃弾の薬莢が、無情にも彼の前に飛んで転がった…。
【留弗夫】「突然の不幸な事故で、みぃんな死んじまうのさ。その瞬間まで、俺たち親族は仲良くやってたのさ。……そうなるんだ。だからこいつは、気にするな。忘れろ。」
 留弗夫が何を言っているのか、彼に意味がわかるわけもない。ただ一つわかるのは、自分を殺そうという意思に、一切の躊躇がないことだけだ…。
 ……譲治の中の、ジョークが大好きで、格好いい大人の理想だった留弗夫の姿が、……目の前の銃を構えている留弗夫の姿と、重ならない。
 いや、それはあまりにぴったり過ぎるから、重ならないのだ。まるでこれから、飛びっきり面白いジョークを聞かせてくれるかのように、微笑みながら、……銃を構えているのだ。
 ……やさしくて、面白い、……留弗夫叔父さんが、………どうして………。それが無性に悲しくて、……涙が溢れる。
【譲治】「ぅ、……ううぅ、……留弗夫叔父さん……。……あなたのこと、……憧れてたのに………。」
【留弗夫】「いつも言ってたろ、譲治くん。……俺みたいな大人になっちゃ駄目だぞって。つまりはそういうことさ。来世では、悪党を見抜く目を、最初に養うんだな。………譲治くんなら出来るさ。何しろ勤勉なんだからな。」
【譲治】「ぅ、……ッく、……ぅおぉおおおおおおおおおおおおおおぉおおぉッ!!」
 脇腹の苦痛を捻じ伏せて。……死力の限りを尽くし、譲治は渾身の回し蹴りを繰り出す。
 それと同時に、留弗夫の銃が火を噴く。……その銃弾は譲治の胸板を貫く。血を迸らせながら、譲治は捻れるように転ぶ。
 真っ赤に血で染まった歯を食いしばりながら、声なく呻く。そのこめかみに、冷え切った銃が乱暴に押し付けられた。
【留弗夫】「あばよ。……来世でも立派な男になれよ。俺みたいな、カネに目が眩む外道にはなるな。」
【譲治】「……留弗夫叔父さんが、……お金で人を殺すなんて、………信じられない………。うぅううぅぅ………。」
【留弗夫】「純真だな。……殺せるんだぜ。カネで人は。」
 それ以上の問答を、冷酷なる引き金は打ち切る。
 譲治の傷口を庇っていた両腕は、だらりと力なく転がる……。
 完全なる死を見届け、留弗夫は大きく脱力しながら、腹の底でずっと溜めていた息を深く吐き出す。
【留弗夫】「へ、……はっはははははははは。………案外、こんなもんなんだな。」
 留弗夫は闇夜の雨天を見上げ、顔一杯に雨雫を受けながら、……舌をだらりと垂らした、形容できない形相で笑う。
【留弗夫】「もっと、良心が痛むと思ってたぜ。……終わってみりゃ、案外、こんなもんだ。」
 くすくすくす、げらげらげらげら。留弗夫は笑い出す。それはきっと、霧江の目論見通りだったろう。
 譲治を殺すのに、少なからずの手間を掛けた。……無慈悲だったとはいえ、留弗夫の中にわずかにあった良心の呵責が、引き金を鈍らせたのだろう。
 しかし、こうして自分の手で命を奪うという、生涯において、あるかないかという転機を経て、……留弗夫はようやく覚醒する。…いや、理解する。
【留弗夫】「………馬鹿からカネを搾り取るのと、まったく同じことさ。………いつもの椅子取りゲームじゃねぇか。目の前にカネの山があったら、早い者勝ち。遅いヤツは蹴落とされて地獄行きってわけさ。」
 俺のペテンで、がっつり負債漬けにされた気の毒なマヌケが何人もいたじゃねぇか。そいつらの何人かは破産しただろうし、その中の何人かは、首を括ったかもしれねぇ。そして俺は、そんなこと知ったことじゃねぇと嘲笑ってた。
 つまりはそういうことだ。俺は今ようやく、きっちり自分の手で最後まで初めて、………息の根を止めたってだけの話じゃねぇか。
【留弗夫】「………ありがとよ、霧江。……いつもお前は、俺の心の甘えを断ち切ってくれるよ。……へっへっへ、…へっはははっはっはっはっは! ひゃっはははははっはっはっはっはっはっはっはっはッ!!!」
 留弗夫の邪悪な笑いが響き渡る。
 それは、胸がすくくらいに、邪悪な笑い。良心の呵責を残した、偽善な悪が一番、胸糞が悪い。同じ悪事を極めるならば、それに素直な方がどれほど潔く、気持ちが良いものか。
 留弗夫の邪悪な笑みと笑いは、その意味において、………あまりに潔く、気持ちが良いものだった……。
 ……だから。食堂における凄惨な血飛沫劇も、……胸がすくものだったに違いない。
食堂
 金属音。打撲音。破砕音、粉砕音。……そんなものを混ぜこぜにした音が、何度も何度も、同じテンポで繰り返される。
 ……その度に、すぐ近くに垂れるテーブルクロスに、真っ赤な飛沫が飛び散った。
【霧江】「朱志香ちゃん、………聞こえてる……?」
 霧江は、姪に話し掛ける叔母の微笑みで、そう問い掛ける。しかし、朱志香は応えない。無理もない、当然だ。……だって朱志香の顔面はもう、……鼻は折れ、眼は潰れ、……歯も飛び、……可愛らしかった鼻筋は愚か、顔面であったと認めることさえ難しいくらいの、……血塗れの肉塊に、変わり果てていた……。
 霧江はようやく、銃床で朱志香の顔面を殴り続ける仕事を止める。そして朱志香に馬乗りになったまま、銃を傍らに投げ出し、……懐よりコンパクトを取り出して、自分の顔を見る。そしてようやく、……自分の顔をまだら模様に染める鮮血の飛沫に気付く。
【霧江】「酷い有様だわ。服も台無しじゃない。……くくくくくく、くっくっくくくくくくくく!!」
 くぐもった笑いを堪えながら、霧江はゆらりと立ち上がる。もう朱志香は動かない。……さっきまでは、多少は痙攣もしていたが、もう、ぴくりとも動かない。
【霧江】「……女の顔を殴ることに関しちゃ。叔母さん、慣れてるのよ。ごめんね。………抵抗しないでくれたら、綺麗な死に顔にしてあげられたのにね。」
 霧江は、テーブルクロスを引っ張ってたわませると、それをタオル代わりに、全身の血を拭う。もっとも、血を拭き取るというよりは、塗り伸ばしているようなもので、……彼女を覆う、血生臭さと死の臭いは、まったく拭えずにいた。
 テーブルクロスに血を擦り付けることに飽きると、霧江は部屋の隅にある内線電話に歩み寄る。そしてゲストハウスのいとこ部屋への内線をダイヤルする……。
【霧江】「………もしもし。私よ。………今度は戦人くんの番よ。……今度は戦人くんが礼拝堂前に行ってちょうだい。…………えぇ、そう。真里亞ちゃんの指示は受けてないわ。そこで待っててもらって。………くす。えぇ、しっかりね。……戦人くんが次期当主に選ばれるよう、応援してるわ。」
 霧江は、拭き残した血飛沫が残ったままの顔を、いつものように微笑ませ、……戦人にそう電話する。受話器を置くと、小さなノックと共に、留弗夫が戻ってきた。
【留弗夫】「………おう、酷ぇ有様だな。」
【霧江】「朱志香ちゃん、思ったより反応のいい子でね。まさかあそこで、払い除けられるとは思わなかったわ。」
【留弗夫】「この死に様じゃ、むしろお気の毒としか言えんねぇ。……夏妃姉さん似のいい女が台無しだぜ。」
【霧江】「そっちは? てこずらなかった?」
【留弗夫】「問題なしだ。ちょろいもんさ。」
 留弗夫が澱みなくそう答えるのを聞き、霧江は邪悪な笑みを返す。やはり、彼女の愛した男は、安っぽい感情に流されない、やれば出来る男だった…。
【霧江】「愛してるわ、留弗夫さん。そうでなくっちゃ。」
【留弗夫】「これで日当が10億出るなら、ちょろい仕事じゃねぇか。……親父がよく言ってたぜ。男は人生で一度、人を殺す覚悟を以って望む日が訪れるってな。」
【霧江】「常に、相手を殺してでも生き残る覚悟を持て、よね。……お父様の言葉の中で、一番好きな言葉よ。」
【留弗夫】「お次はどうする? 俺のライフルは血を求めてるぜ。」
【霧江】「次は大仕事よ。戦人くんの説得。」
【留弗夫】「おっと、そうだったな。こいつぁ、面倒だ。引き金引かずに終わりたいもんだ。」
【霧江】「私は気に入ってるのよ。……縁寿との三人家族の生活。……でも、どうしてもそれに戦人くんを加えたいというなら、……頑張ってね。」
【留弗夫】「おう。………ぐうの音も言わせねぇつもりだ。大丈夫、うまく騙すシナリオも用意してるさ。」
【霧江】「頑張ってね。私も、出来ることなら、縁寿の大好きなお兄ちゃんが、爆発事故に巻き込まれないことを願ってるわ。」
【留弗夫】「わかってるさ。じゃあ、俺は礼拝堂に戻るぜ。」
【霧江】「留弗夫さん。」
【留弗夫】「何だ…?」
【霧江】「………戦人くんが納得しなかったら。」
【留弗夫】「………………………。……わかってらぁ。その時はズドンだ。」
【霧江】「戦人くんは、私との再婚に抗議して家を飛び出すくらいに行動力のある子よ? ……中途半端な丸め込み方で、後日に色々と騒がれたら、……彼は私たちの命取りになるのよ。」
【留弗夫】「わかってらぁ。俺を信じろ。」
【霧江】「………もし。戦人くんが不信感を持ってると私が判断したなら。……その時は、私の手で殺すわよ。私の子供じゃないんだから。」
【留弗夫】「……あぁ。わかってる。………だから、霧江。一つだけ、約束してくれ。」
【霧江】「なぁに…?」
【留弗夫】「もし、………戦人をうまく丸め込めて、島から三人で出られたら。」
【霧江】「………出られたら?」
【留弗夫】「…………………………。……戦人のことを二度と、私の子供じゃないみたいなことを言うな。……お前は、……母なんだから。……頼む。」
【霧江】「…………………。……いいわ、約束してあげる。」
 銃弾を込めながら、霧江は肩を竦めて答える。
【霧江】「あなたは礼拝堂へ。私は戦人くんが出て行った頃を見計らって、ゲストハウスの連中を全て片付けるわ。」
【留弗夫】「大丈夫か、一人で。」
【霧江】「そっちこそ。」
ゲストハウス・外
 戦人は傘を広げ、ゲストハウスを出る。自分の呼び出しも、譲治と同じで礼拝堂前だった。
 譲治たちが呼び出されてから、30分と経っていない。……テストとやらは、短い時間で終わるようだった。
【戦人】「……クソジジイめ。昼飯にさえ姿を出さなかったくせに、こんな時間にのこのこ現れてテストだとは畏れ入るぜ。……引き篭もり生活で、昼夜が逆転してやがるに違いねぇ。」
 戦人は悪態をつきながら、風雨の中をのんびりと歩いていく。すぐにその姿は、薔薇庭園の闇に飲み込まれて見えなくなった……。
 ………そして。薔薇庭園の闇から、……今度は霧江が姿を現す。
 右手には銃。左手には傘。内ポケットには郷田より奪ったマスターキーの束。右のポケットには一握りの銃弾。左のポケットには、厨房で調達したナイフ。殺人者の準備は、周到かつ完璧だった。
 荒れ狂う空に再び落雷。雷光が霧江の顔を半分だけ照らし出す。その頬にはまだ、……朱志香の返り血が残っていた……。霧江はひさしの下で傘を畳ながら、誰にともなく、微笑みながら言った。
【霧江】「ただいま、みんな。」
礼拝堂前
 留弗夫の姿は礼拝堂前のひさしの下にあった。銃をひさしの下の物陰に隠し、煙草の煙をくゆらせている…。
【留弗夫】「………あの単細胞を騙すなんて、簡単なもんさ。……うまく行かなきゃ、それだけの話だぜ。」
 ちらりと、隠した銃を見る。煙草の煙が、心地良く脳を曇らせていく。
 ……戦人はもう、子供じゃない。自分の意思で人生を決められる、立派な大人だ。動物なら、大人になったら群を出て、旅に出るのが当り前。図体がデカくなっても、いつまでも養ってやるのは人間くらいのもんだ……。
【留弗夫】「………こんなことなら。お前に土下座なんかするんじゃなかったな。………お前を連れ戻して、……後悔してるぜ……。」
 その言葉を、煙と一緒に、……ふぅっと吐き出す。
 戦人が来たら、もうそのような未練は口にしない。留弗夫は、大金のために人を殺す悪党を貫く覚悟を、はっきりと決めていた……。
【留弗夫】「……遅ぇな。………まだ来ねぇのか。」
 その時、じゃりりと、小石を踏む音を聞く。来たかと顔を上げるが、……音のした方向は、屋敷とはまるで違う方向からだった。
【留弗夫】「………………………!」
【絵羽】「……留弗夫………。…よくも、………よくも、うちの人を……!!」
【留弗夫】「姉貴……、生きてたのか……。」
【絵羽】「残念ね、生きてたわよ、お生憎ねッ! でも、うちの人は駄目だったわ、よくも、…よくも…!!」
 怒りと涙でぐしゃぐしゃになった顔で、絵羽は銃を構えながら、ゆっくりと近付いてくる。
 目の前で夫を殺されたのだ。躊躇などしないだろう。怒りに震える銃口が、真っ直ぐ自分の胸のど真ん中を狙っていることを、ひしひしと感じながら、留弗夫は後退る。後退るふりをしながら、……物陰に隠した銃に近付く。
【留弗夫】「お、落ち着けよ、姉貴……。その銃を下ろせって…。……俺だって、あんなことを望んだわけじゃない。突然のことで、俺にもどうしようもなかったんだ…!」
【絵羽】「いい加減なことを言わないでッ!!」
 絵羽が一喝する通り、それは本当にいい加減な、どうでもいいこと。今にも引き金を引きかねない絵羽の高ぶった感情と銃口を、ほんの少し反らせるなら、留弗夫はとにかく何でもよかった…。……そして、後退る留弗夫の足に、彼の銃がこつりとぶつかる。
【留弗夫】「と、とにかく話をしよう。……もうじき、譲治くんも来るはずだ。……お。…やあ、譲治くん、ここだここだ。」
 さも、向こうから譲治がやって来たかのように、留弗夫は手を振る。
 絵羽の関心が、そちらの方へ向く……。………馬鹿が…。単純な姉貴なんざ、昔っからちょろいもんだぜ。死ねッ!!!
 銃声。……やや遅れて、ぼたぼたぼたっと、……雨粒より重く、ねっとりとしたものが、石畳を打つ。
【留弗夫】「……………ぉ、………………ぐ………、」
【絵羽】「………留弗夫…。あんたの小細工なんて、昔っからお見通しよ…!!」
 絵羽の撃った銃弾は、留弗夫の胸のど真ん中を貫く。留弗夫の撃った銃弾は、絵羽の足元に外れていた。
【留弗夫】「……やっぱ、この銃、………狙いが下に、……ズレてるぜ……。」
 ばしゃりと水溜りに銃を落とすと、ふらふらと後退って、礼拝堂の壁に寄り掛かる。
【留弗夫】「違ぇな……。………悪党の弾は外れるってのが、………西部劇の、お約束じゃねぇか………。」
 絵羽は駆け寄り、水溜りに落ちた銃を蹴り飛ばしてから、留弗夫の胸倉を掴み上げる。
【絵羽】「譲治は?! 譲治はどこ?! 譲治は殺させないわよ…!!」
【留弗夫】「………悪ぃな、姉貴。……もう、やっちまった。」
【絵羽】「嘘よッ!!」
【留弗夫】「……向こうの茂みでやった。……行けよ。すぐわかる……。」
【絵羽】「……………る、……留弗夫……、……あんた…………。」
 弟の小細工は昔からお見通しだと言い切った絵羽は、………撃たれ、意識が遠退きかけている弟の最期の言葉に、嘘がないこともまた、わかってしまう。
【絵羽】「よくも……、………よくも譲治をッ、譲治をぉおおおおっぉおおおおおお!!!」
 空の薬莢が石畳に跳ねた。怒りの銃口が留弗夫の眉間に押し付けられる。
【留弗夫】「………撃てよ。……それくらいで気は晴れねぇだろうが。」
 落雷の光が辺りを真っ白に染め上げる。しかし、礼拝堂の壁は、……真っ赤に染め上げられた。留弗夫の後頭部で、トマトを潰したような真っ赤な飛沫が、壁いっぱいに広がっていた……。
 そして、その赤い跡を引き摺りながら、……ずるずると留弗夫はしゃがみ込み、どさりと地面に座ってから、横に倒れた。
【絵羽】「譲治ッ、譲治ぃいいぃ!! 譲治ぃいいいぃい、うわぁああぁあああああああぁあ!!」
 絵羽は茂みに向かって駆け出す。……そしてすぐに譲治の亡骸を見つけ、絶叫し、そして号泣した。
 ……留弗夫の無残な亡骸が、ひさしからぼたぼたと垂れる水滴に晒される。
 目は見開いたまま。後頭部には握り拳ほどの大きさに、ぐずぐずの挽き肉状の穴が開き、……その中身を外気に晒していた。
 その中身は、ぐずぐずの挽き肉と、脳みそと脳漿の、真っ赤なぐちゃぐちゃゼリー。それをスプーンでぐるぐるに混ぜて振ったような汁が、目と鼻と耳と口と頭の穴から、どろりどろりと零れ出していた……。
メタ劇場
【縁寿】「………お父さん……、お父さん………。……ううぅうううぅッ…!!!」
 縁寿は頭を抱えて、泣きながら呻く。
 自分の父親がカネ目当てに殺人に手を染め、さらにその上、無残な最期を遂げて、その亡骸まで見せ付けるなんて。娘である彼女にとって、これほど耐え難い物語はあるまい。……もう、うんざりだった。何の意味もない。
【理御】「ベルンカステルさん…! いるんでしょう、どこかに! もう、このゲームをやめて下さい…!! 何の意味もない!」
 その叫びに答えるように、……数個前の席に、すぅっと黒い人影が現れる。
 いや、ずっとそこに座っていたのかもしれない。自分たちには、意識しない限り、その姿が見えなかっただけなのかもしれない。それは紛れもなく、ベルンカステルの後姿だった。
【理御】「ベルンカステルさん……!!」
【ベルン】「……うるさいわよ。静かに観賞できないの?」
 退屈そうな瞳で振り返る魔女。……騒ぐ自分たちの方がおかしいと言わんばかりだった。
【理御】「もう止めて下さい…! この世界が、10月4日から5日の間の、閉ざされた猫箱の世界だということは、私たちも理解しています…!」
 ゲームは、メッセージと同じなのだ。それはある意味、遠回しな恋文にも似る。伝えたいたった一つのことを、いくつものゲームを重ねて語る。
 しかしもう、私たちは理解している。閉ざされた二日間の猫箱からは、無限の物語が湧き出すことを、知っている。そしてさらに、私は犯人も動機も知っている。その上、それはすでに解明され、このゲームには関わってさえいない。
【理御】「猫箱の物語という解を、私たちは二人とも得ているんです…! だから、これ以上、このようなゲームを繰り返す理由はないはずです…!! もしこれがあなたと私たちのゲームだというなら、私たちはすでに答えを得ている…!! ゲームは終了していいはずです!!」
【ラムダ】「うっさいわよ、あんた。静かにしろって、ベルンが言ってんでしょー?」
 その隣の席にも人影が現れ、振り返って叱る言葉を口にする。
【ベルン】「………意味ならあるわよ。見てればわかるわ。……くすくすくす。」
【理御】「ゲームマスターは、あなたですか…!」
【ベルン】「……違うわよ。」
【理御】「では、誰が! まさか、………クレルが…?」
【ベルン】「見ていればわかるわ。すぐにね。……くすくすくすくす。」
【ラムダ】「もう惨劇もクライマックスだわ。生き残るのはどっちかしら。うっふふふふふふ……。」
 ゲームマスターはベルンカステルじゃない…? じゃあ、誰が。まさか、クレルが、この悪趣味な物語を……?
 それとも、猫箱を弄ぶ魔女が、まだ他にもいるというのか……。
ゲストハウス・廊下
 ゲストハウスは、……静寂に包まれている。
 何の音もしない。誰かの気配も。生きる者の息吹も。もう、何も聞こえない……。
 聞こえるものがあるとすれば。それは、床を踵で叩く、殺人者の足音だけ……。
 霧江が、ゆっくりとラウンジを通り抜ける。
 その右手には、銃。その左手には、ナイフ。ナイフは鮮血で染まり、今なお、その雫を滴らせ続け、……点々と、悪魔の足跡代わりに赤い破線を描いている……。
 彼女の両手は、殺人の道具だけを握り締めていた。だから彼女は、殺人以外の何も出来ない。その意味で、彼女は今、紛れもなく純粋な殺人者だった。
 ……殺人者が、玄関に至り、その扉の前で初めて、返り血に染まった自分の両手を見る。虐殺を奏でた、死の道具を握り締める、その両手を。
 そしてようやく、殺人者には、扉を開けることさえ出来ないことに気付き、その左手のナイフを放り捨てる…。そして扉に手を掛けながら、悠然と振り返り、……言った。
【霧江】「ごめんね、みんな。……でも安心してね。数日後、新聞は不幸な事故を掲載するわ。……そしてあなたたちは、事故の瞬間まで、何も知らずに楽しく過ごしていたに違いないと、新聞もニュースも、噂する人々も言うでしょうね。……それはつまり、あなたたちは、10月5日の24時まで、楽しく過ごしていたということ。」
 この惨劇の、血に染まったゲストハウスにした張本人が、そう口にする。
【霧江】「この時間には、いとこ同士で楽しくはしゃいで夜更かしをしている。……そして朝が早い使用人の人は高いびき。遅番の人は日誌でも書いて、あるいはほっと一息を入れてる頃でしょうね。」
【霧江】「………そういうことなの。ここでこうしていると、いとこ部屋での大はしゃぎが聞こえてくるようだわ。……………くす。」
 霧江が何を言っているのか、猫箱の外の人間たちには、永遠にわかるまい。爆発事故という猫箱で閉ざす彼女だけが、その真の意味を理解している……。
ゲストハウス・外
 外は土砂降りの雨だった。霧江は傘を取ろうとしたが、ふと、何かを思い付いたように手を止める。そして、濡れるのも気にせず、そのまま雨の中へ歩き出す…。
 殺人鬼は、銃を構えるために、片手を傘で塞ぎたくなかったのか。……あるいは、返り血を雨のシャワーで落とそうと考えたのか、……どちらかはわからない。
【霧江】「…………………………………。」
 霧江は足を止める。ふと、何かを思い付いたように。しかし、今度のそれは、気紛れではなかった……。
【絵羽】「………うちの人を、……よくも殺したわね……ッ!!!」
【霧江】「あら。……絵羽姉さん。………ショックだわ。あの距離で外してたなんて。」
【絵羽】「私も驚いてるわ。まさか自分が、生きてたなんてね。」
【霧江】「……礼拝堂裏の、地下階段から戻ってきたの? ……なら、」
【絵羽】「えぇ。礼拝堂の前で、留弗夫にも会ったわ!」
【霧江】「元気そうだった?」
【絵羽】「えぇ。姉弟で久しぶりに、仲良く語り合ったわ。」
【霧江】「…………………。……そう。……目立ちたがり屋なのに、ここ一番で頼りない人ね。……やっぱり、あの人は私がいないと駄目なのね。」
 それだけのやり取りで、留弗夫はもう殺されていることを、霧江は理解する。しかし、焦りも狼狽も、彼女の表情には浮かばなかった。ただ、彼女らしい淡々とした表情で静かに目を閉じ、……それから再び開いた時には、悠然とした笑みを取り戻していた。
【霧江】「………ありがとう。感謝するわ。これで、本当に私が全てを独り占めね。」
【絵羽】「その服の血は何…? あんた、ゲストハウスから出てきたわね……。……まさか……。」
【霧江】「えぇ、そうよ。……今、私、殺人事件の真っ最中なの。」
【絵羽】「殺したの?! みんな!! 真里亞ちゃんまで…?!」
【霧江】「生かして朝を迎える理由がないわ。朝になれば、騒ぎになって面倒になる。無線で島の外に連絡したり、助けを求めたりするかもしれない。……だからこれが、極めてベストなのよ。チェス盤を引っ繰り返して考えればね……?」
【絵羽】「人でなしッ!! カネに目が眩んで人の命を奪うなんて…!!」
【霧江】「あなただって、うまいことやったわ。」
【絵羽】「あれは事故よ!! 殺すつもりなんてなかった! あんたとは違うのッ!!」
【霧江】「違わないよ。……もし銃の暴発が起こらなければ、あなたたちはいつまでも口論と取っ組み合いを続けていたわ。そうすればあなたたちも、数手遅れで私と同じ答えに行きついたはず。」
【絵羽】「私は殺人鬼じゃないわ!!」
【霧江】「いいえ。成り損ねただけの、立派な殺人鬼よ。絵羽姉さんは、暴発に救われただけ。………あの幸運がなければ、そして私があなたより先に実行に移さなければ。……あなたが私の役をやっていた。それだけは、あなたがいくら否定しようとも変わらない、異なる未来の、真実なのよ。」
【絵羽】「わッ、訳のわからないことを言わないでッ!」
 しかし、……絵羽も内心はそれをわかっている。あの時、自分は暴発という偶然に、救われていたかもしれない。
 あのまま、口論を続けていれば、確実に自分は蔵臼たちに殺意を覚え、あるいはそれを実行していたかもしれない。……そんな、心の奥底の悪魔を、彼女は決して否定は出来ないのだ。
 観劇者たちだけが知っている。彼女が殺人鬼で有り得た世界を、知っている。それを、観劇できぬはずの霧江が断言するのだから、……やはり彼女は、非凡な何かを持つのかもしれない。
 だから絵羽はしばらくの間、銃を構えたまま、歯軋りをしながら沈黙するしかなかった……。
【絵羽】「……私にはわからないわ。あなたも、自分のお腹を痛めて子を生んだ経験を持つ、母のはず。命の尊さを、知らないわけがない…! そのあなたがどうして、これだけのことが出来るの…!」
【霧江】「子供なんて。寝れば勝手に出来るわ。」
【絵羽】「そういう話じゃないでしょ…!!」
【霧江】「子はかすがい、って言うわよね。」
【絵羽】「それが何?!」
【霧江】「子は、夫を繋ぎ止めておくための、かすがいなのよ。……留弗夫さんに、私のことを認めさせ、あの女から彼を取り戻すための、かすがいだった。」
【霧江】「でも、留弗夫さんはあなたが殺したわ。だったら、………わかるでしょう?」
【絵羽】「わかるって、……どういう意味!」
【霧江】「私はもう。誰かの妻でもないし、母のつもりもない、ということよ。……私は私。霧江。留弗夫さんが死んだ今、右代宮でさえないわ。私は私の、得になるように生きる。」
【絵羽】「そうね、留弗夫は死んで、あんたは妻ではなくなったかもしれない。でも、縁寿ちゃんがいるでしょう…?! あんたはまだ、母であり続けるはずよ…!」
【霧江】「言ったでしょ、かすがい、って。留弗夫さんがいなくなった今、縁寿は私にとって、必要なものじゃないわ。」
【絵羽】「……あ、……あんた……、それが、母親が子に対して言うことなのッ?!」
【霧江】「絵羽姉さん。やめましょうよ。綺麗事は。」
【絵羽】「綺麗事…?!」
【霧江】「私たちって、子供が欲しくて結婚したの? 違うでしょ? 好きな男と一緒に暮らしたいから、結婚したんでしょ? そして、結婚したんなら、その男を一生、手放したくないと思うでしょ? 子供は、そのための武器じゃない。」
【絵羽】「そんなこと考えて、子供作ったりなんかしないわよ…!!」
【霧江】「そんなこと考えて、子供を作ることも出来るのよ。」
 霧江は雨に打たれるのも気にせず、淡々と続ける……。その表情は、……変わることなく、悠然とした笑みが浮かび続けていた。
【霧江】「縁寿なんて、留弗夫さんを縛り付けるための、ただの鎖。……あるいは、家族ごっこをするための、子供の役という名の駒。……私にとって縁寿は、留弗夫さんの前で良き母を演じる時に必要な駒なだけよ。」
【絵羽】「……あんたッ、……それを縁寿ちゃんの前で言える?!」
【霧江】「さすがに気の毒だから、本人には言わないわ。悪いお母さんを許してね、とでも書いて、姿を眩ますつもり。楼座さんと真里亞ちゃんを見ればわかるでしょ? 留弗夫さんがいない今、縁寿なんて私を縛る鎖なだけ。」
【霧江】「……私は元の、たった一人の霧江に戻り、のんびりと余生を楽しむつもりよ。新しい挑戦、新しい人生。ひょっとしたら、新しい恋もあるかもね? くすくす…………。」
【絵羽】「……それでも人間なの……。……それでも縁寿ちゃんの母なの?!」
【霧江】「くすくすくす。縁寿なんか知ったことじゃないわよ。あんな、クソガキ。可愛いと思ったことなんて、一度だってないわよ。」
【絵羽】「……あ、……あんたって人は……。」
【霧江】「あなただって、もう、家族ごっこから解放されたでしょう? 謳歌しましょうよ、女の自由を。感謝してほしいわ、譲治くんも、殺してあげたんだから。」
【絵羽】「こッ、……この、………人でなしがぁああぁああぁあぁ!!」
【霧江】「あっはっはははハっはヒャっはハぁあぁあああああああぁああぁあッ!!!」
 二人の咆哮と、銃声が、……闇夜の薔薇庭園に轟く。
 ……絵羽が後ろへゆっくりと、倒れて行く。そして水溜りに打ち付けられ、……無数の水滴を散らした。
 一方、霧江はぐるりと舞うように回る。
 美しい、黒い薔薇の花びらを散らしながら。それは、赤黒い、薔薇の花びら。
 ……喉より、赤黒い花びらを巻き散らしながら、ぐるりぐるりと舞いながら、……ゆっくりと崩れ落ちていく。
 そして水溜りの泥を散らしながら倒れこんだ。
 二人の女が、銃を放ち合い、……倒れる…………。しかし、雷鳴に呻き、体を起こしたのは、絵羽だけだった…。
【絵羽】「………はぁ、………はぁ、…………はぁ……。」
 絵羽は撃たれていない。霧江の気迫に押し倒されこそしたが、……その凶弾は再び、彼女をかすめただけで、逸れていた……。
 絵羽は自分の強運を呪う。その強運が、なぜ夫と息子を救わなかったのか、呪う。
【絵羽】「…………縁寿ちゃんのためにも、……そこで死になさい。………あんたは、爆発事故で死ぬ。死ぬ直前の瞬間まで、置いてきた娘のことを心配していた。……そう、刻むわ。猫箱の蓋の上にね………。」
 ベアトの死体もあるはずだが、それについて言及されていないことに注意。EP8魔法エンドとの整合性が考慮されている。
【霧江】「…………………………………。」
 霧江はそれを聞き、……口から血を零しながら、ニヤリと笑って、何かを言い返したらしい。しかしその声は、喉に空いた穴から、ごぽごぽと血を零すだけで、言葉にはならなかった……。
メタ劇場
【縁寿】「お……、……お母さん……。……お母さん……、……うううぅううぅぅ……! こんなの、嘘よ、………嘘よッ…!! ぁああぁぁぁぁあぁぁぁ…ッ!!」
【理御】「縁寿…、どうか落ち着いて…! これはゲームです…! あれが、あなたのお母さんの本心のわけがない…! こんなのゲームマスターが霧江叔母さんの駒に言わせてるだけに過ぎません…!!」
 しかしそれでも、縁寿の号泣は押さえられない。無理もない。いくらゲームだとわかっていても、……母親の死ぬところだけでなく、……母親が大量殺人の犯人で、さらにその上、娘を愛していないとまで言い切られるところを見せられれば、誰だって泣き叫ぶだろう…。
【理御】「ベルンカステルさん!! もういい加減にして下さい!! 誰がゲームマスターだろうと、知ったことじゃない!! 今すぐ、この無意味なゲームを終わりにして下さいッ!!」
 それを叫んだ時、突然、劇場は真っ暗になり、闇に飲み込まれる。
 しかし、それくらいのことで、理御は驚かない。暗闇の中でベルンカステルの名を呼び続け、ゲームの中断を叫び続けた。
 すると、一本の明かりが、舞台の上を照らし出した。
 そこには、……この悪趣味なゲームが始まる直前に、一度だけ姿を見せたクレルの姿が。
【理御】「クレル…!! やはりこれは、……あなたがゲームマスターだったのですか?! ……わからないッ、どうしてッ?!」
 クレルは答えない。……いや、答えるどころか、……耳に届いているのだろうか。
 その眼は虚ろで、何を見ているのかもわからない。いや、それどころか、瞬きさえ、彼女は忘れている…。……その姿は、……まるで人形のようにさえ見えた……。
 その時、もう一本の明かりが舞台袖を照らす。
 その明かりの中には、……ベルンカステルの姿があった。それと同時に、誰の姿も見えない観覧席から、大きな拍手が湧きあがった…。
【ベルン】「……………………くすくす。」
 ベルンカステルはそれに応えるように右手を上げる。拍手が鳴り止むまで、彼女はそうしていた……。
【理御】「ベルンカステルさん!! やはり、……あなたがこのゲームのマスターなんですか…!!」
【ベルン】「……理御。私はゲームマスターじゃないと、何度言えばわかるの?」
【理御】「ではクレルだと言うのですか?! そんなはずはない…!!」
【ベルン】「えぇ。そんなはずはもちろんないわ。だって。クレルは死んだもの。………私たちはその葬儀に立ち会ったはずよ。忘れた……?」
【理御】「では、そこに立っている彼女は一体……。」
【ベルン】「死体よ。剥製じゃないわ。だからもちろん、中身がある。……綺麗な姿で隠しているけれど内側には、どろどろのハラワタが詰まってる。」
 ベルンカステルが右手を上げると、……そこにライトが照らされ、どこからともなく、黒光りする大鎌が現れる。誰もが死神の持つそれと想像するような、無骨で無慈悲で、そして冷酷なそれだった。
【理御】「な、……何をする気ですか………。」
【ベルン】「………生きては、その足掻きを愛でる。死んでは、ワタを掻き出して愛でる。物語は、二度楽しめるのよ。……それが、観劇の魔女というもの。」
 ベルンカステルは、その死神の鎌の切っ先を、クレルの下腹に押し当て、すぅっと縦になぞって見せる。
 そして、なぞられた線に沿って、クレルのドレスがすぅっと、切り開かれる。
 彼女の持つ鎌が、演劇用の紛い物でないことは、もはや明白。……そして彼女が、その浮かべた残忍な笑みに相応しい、どのような行為に及ぼうとしているかも、もはや明白だった。
【ベルン】「縁寿。私の声が聞こえる?」
【縁寿】「………聞こえてるわ…。私を屑肉にしたり、本を読ませてみたり! 今度は何?! この最悪の物語を見せ付けて、私を苦しめるわけね?! 楽しいッ?! えぇ、楽しいでしょうね。私も楽しませてもらったわよ…! これくらいで、……私が根を上げると思った?! あんたの悪趣味なゲームに、……これ以上、泣き叫んでなんかやるもんですかッ!!」
【ベルン】「……あんたも、そして理御も。二人とも勘違いをしているわ。私は、ゲームマスターなんかじゃない。この物語も、私が紡いだものなんかじゃない。」
【縁寿】「じゃあ、そこのドレスの女がゲームマスター?!」
【理御】「いいえ、違います…! そんなはずはないんです! ならゲームマスターは誰です?! 誰がこの悪趣味な物語を紡いでいるんですか!!」
【ベルン】「まだ、わからないの?」
【縁寿】「何がわからないと言うのよッ!!」
【ベルン】「縁寿。あなたは、わずかな奇跡に全てを賭けて、身を投げ出して見せたわ。……私はその勇気に敬意を表して、1986年10月4日からの2日間の世界に招いてあげた。」
【ベルン】「……あなたの目的は何だった? 家族を連れ戻すこと。……それはとても難しいことで、奇跡に愛されなければ到底ありえないことだった。それは覚悟していたわね?」
【縁寿】「覚悟の上よ…!! そして私はまだ、お兄ちゃんもお母さんもお父さんも諦めていないッ!」
【ベルン】「諦めないのは勝手。それはあなたのゲームだもの。私は応援しないし、観賞もしない。あなたという駒を使ったゲームを、私はすでに充分楽しんだし、あなたはもう、私にとって用のない存在。」
【縁寿】「清々するわね。ならどうして私はここにいるの? 招待したのはあんたじゃないの?!」
【ベルン】「えぇ、そうよ。招待したのは私。……私の駒としてひと時を楽しませてくれた、そのお礼にね。」
【縁寿】「お礼?! はッ、魔女式のってわけね!! 楽しませてもらったわよ、この外道がッ! よくもお父さんやお母さんを、……こんな、………こんなゲームにッ!!」
【ベルン】「縁寿。あなたは家族を連れ戻すことを願った。でも、もう一つ願っていたわ。覚えてる?」
【縁寿】「覚えてないわよッ!!」
【ベルン】「あの日、何があったかを、知ることよ。」
 1986年10月4日から5日の二日間に、六軒島で何があったのか。縁寿はそれを渇望し、天草と旅をしたのではなかったか。
【縁寿】「そうだったわね……。それが何ッ?!」
【理御】「……そんな、…………馬鹿な……。」
 理御は、ベルンカステルが何を言っているのか、察してしまう。察してしまったからこそ、……その先の言葉を、絶句してしまう……。
 ゲームマスターは、ベルンカステルでなければ、クレルでもない。ならば、誰……?
 霧江の狙いは、自分が死んだ場合、生き残った絵羽の恨みが縁寿に向かわないようにすることだったと考えられる。
 違う。ゲームマスターは、………いないのだ。それが意味することは、ただ一つ……。
【ベルン】「縁寿。まだわからないの?」
【縁寿】「……何がよ……。」
【ベルン】「これが、真実なのよ。1986年10月4日からの二日間の、猫箱の中身よ。この後、絵羽は九羽鳥庵で爆発を逃れて生き残るわ。……そして、猫箱の中身を欲するあなたに、最後の瞬間まで沈黙を貫くことで、この真実を、永遠に猫箱に閉ざした。」
【縁寿】「何を、……言ってるの……。」
【ベルン】「絵羽一人が生還する。いくら警察が事故だと断定しても、世間は納得しようとしなかったわ。そして、亡き夫に代わり会社を切り盛りしようと張り切れば張り切るほどに敵を作り、彼女が壮大な陰謀の女王であるかのようなイメージを作り上げていった。」
【ベルン】「……彼女は真実を語りたかったでしょうね。語ったとて証拠もなく、誰も信じない真実を。………絵羽の心は次第に壊れていった。あなたも絵羽を拒絶し、絵羽もあなたを拒絶するようになった。歪みきった最後の肉親同士の関係。愛息子の面影をあなたに重ねては苦悩し、ますますに歪んで壊れて。」
 そんな中、おかしなメッセージボトルが漂着し、話題になっていた。六軒島で黄金を巡る、奇怪な連続殺人事件があったことを疑わせる怪文書。
 誰もが爆発事故を否定し、陰謀説に傾いた。そんな中、絵羽を犯人だと名指しする説までが生み出され、ますますに彼女を苛んだ。
 しかし、絵羽はそれでも、それらすらも、猫箱に利用した。そして、死ぬ最後の瞬間まで、彼女は守りきったのだ。その猫箱を開く、錠前を。
 だから、猫箱の中の真実は、ニンゲンの誰にも至れない。カケラの海を渡る魔女が、錠前を開かない限り……。
【ベルン】「これが、真実よ。」
【縁寿】「……………嘘よ……。……嘘よ……、嘘よ…ッ!! これが本当に真実だって言うなら、言えるはずだわッ、赤き真実でッ!! 言えるわけないッ、言えるわけがないのよッ!! ぅあああぁああああああああぁあああぁああッ!!!」
【理御】「縁寿…!! 縁寿、落ち着いて…!! う、……ぁ…?!」
 両手両足の鎖を引き千切らんばかりの力で、縁寿は激しく身悶えする。その縁寿の全身から、……みるみる、真っ赤などろりとした液体が湧き出していく。
 まるで、全身にひびが入って、そこから血が溢れ出しているかのようだった。
 ベルンはEP5から悪役になってしまっているが、真実を追求する立場であることに変わりはない。縁寿は受け入れないが、読者としては、ここでベルンが語っている内容を文字通りに受け取って構わない。
【ベルン】「何? 赤き真実ではっきり宣言してあげた方がいいの? なら言ってあげるわ、赤き真実で。“これは全て真実
【縁寿】「嫌ぁあああああああああぁああああああぁああああああああああああああああぁああぁあああぁぁッ!!!」
 縁寿の絶叫が、ベルンの赤き真実を塗り潰す。
【ベルン】「くすくすくすくす、あっはははははははははは…!! 馬鹿な子。私にそれを言わせなければ、猫箱の中に封じ込めておけたのに。でも、あなたはそう言うわよねぇ? わかってたわ、もちろん。そして、その絶叫に歪む顔が見たかった。………百年は思い出すだけで笑えるような、素敵な形相だったわよ。……くすくすくすくす、くっすくすくすくすくすくすくすくすくすくすッ!!! 戻りなさい、屑肉に。あっははははははははははははははははははッ!!!」
【縁寿】「うああぁああああああああああああああぁ、ぎやぁあああああああああああぁああ!! 母さん、父さんッ、……こんなの嘘よね?! 嘘ッ、……嘘ッ……、……ぎああぁああぁあああああああああああぁぁぁぁ………、」
【理御】「え、縁寿……! 縁寿……?!」
 頭を抱え絶叫していた縁寿の体から、だらだらと垂れていた血は、とうとう、辺りに撒き散らすほどになる。
 そして、体がぐずぐずに、……溶けて、いや、崩れていく。そして彼女は座席の上にぐちゃぐちゃと積もる、……内臓と屑肉の山に成り果ててしまう……。
【ベルン】「あっははははははははは、あーっはっはっはははははははははははは!! 真実ってそんなにも尊いものなの? 馬鹿らしい、愚かしい!! どうしてニンゲンは真実を自在に出来ないのかしら。馬鹿みたいにそれだけを追い求め、そして目の当たりにして堪えられず、自ら屑肉と成り果てる!!」
【ベルン】「ねぇ、見えてる? クレル? ………あなたもまた、この真実を隠したかったのよね? あなたは戯れに、憧れる推理小説のラストのように、メッセージボトルに封じるつもりで、猫箱の物語をいくつも書いていた。それをあなたは、海に投じたわ。この真実を知ったら苦しむだろう者を救うためにね…!!」
【ベルン】「あなたが猫箱で閉ざし、絵羽がそれを錠前で閉じた。くすくすくす!! その箱を、私が切り裂いてあげたわ…!! あっははははははははははッ、あんたが隠した全てが無駄ッ!! あんたが死んで隠した真実を、全て暴き出してやったわッ!! あっはははははははっはっはっはっはっはッ!!」
【理御】「それが、……あなたの目的だったと言うのですか?! あなたは、……クレルの死を、辱めるためだけに、このようなことをしたというのですか!! そしてそれを、……縁寿に見せて苦しめて…! やはりあなたは、……邪悪な魔女だった!!」
【ベルン】「私は最初から魔女よ。退屈から逃れることだけが目的の旅人。……生きては愛でて、死しては喰らって二度愛でる。それが魔女の生き様よッ!」
【理御】「私には、あなたが許せない…!! 縁寿を苦しめ、クレルの、……異なる世界の私を辱めた…!! 私はあなたが許せない…!!」
【ベルン】「理御。それでも、クレルにとってあなたは希望なのよ。死してなおね。」
【理御】「………………!」
【ベルン】「クレルは崖より投じられた時、すでに運命の袋小路に閉じ込められていた。そんな彼女にとって、あなたというもう一人の自分が、異なる世界では幸せに生きていたことを知れたのは、さぞや救いになったでしょうね。」
【理御】「……そうです。私は、彼女の救いなんです…! だから、彼女の分まで一生懸命に、幸せに生きなければならないんです…!」
【ベルン】「理御。……もう少しだけ、この真実の物語を見せてあげるわ。」
【理御】「興味はありませんッ!」
【ベルン】「いいえ、きっと面白いはずよ。……絵羽と霧江の決闘が終わり、静寂に包まれるゲストハウス。その頃の客間へ、あなたを招待するわ。」
【理御】「客間……? 屋敷の?」
客間
 ベルンカステルが指を鳴らすと、屋敷の客間の風景が広がる。
 先ほどまで見せられた悪趣味な物語で、客間は特別な意味を持たなかったはず。朱志香は客間に呼び出されはしたが、すぐに食堂に連れて行かれ、そこで殺された。
 だから、客間には何もない。そして実際に、理御の前に広がる客間にも、何もなかった。
【理御】「ここに、一体何があるというのですか。」
【ベルン】「くすくす。……見ての通り、何もないわ。でも見ていて。面白いものを、今から見せてあげるから。」
【理御】「あなたが言う面白いものが、言葉通りの意味のわけがない。」
【ベルン】「くすくすくす。………ほら、御覧なさい。……そっちよ。そっちの部屋の隅。」
 ベルンカステルが指を指すのは、………本当にただの部屋の隅だった。
 そこには、何もない。魔女がそこを見ろというのだから、さぞやおぞましいものがあるに違いないと覚悟するのだが、……そこには本当に、何もなかった。
【理御】「…………………………??」
【ベルン】「……そうね、何もないわ。この世界ではね。でも、隣り合うカケラを覗くと、どうかしらね……?」
【理御】「…………………?!」
 何もないはずの白い壁に、……じわり、じわりと、……血の飛沫が浮き出していく。
 そして、そこには、………死体が現れる。でも、……そんなはずは………、
【理御】「こ、……これは、………。……わ、…………私……?!」
 そこには、壁に寄り掛かって死んでいる、……自分の姿が……。右代宮理御が、そこに死体を晒していた……。
【理御】「ど、どういうことですか、これは……。どうして私がここに…。……この世界は、私でなく、クレルの世界のはず…! 私とクレルは、同時に存在できないはずです…!」
【ベルン】「えぇ、そうよ。だから今、世界を、カケラを移ったの。あなたの世界にね。」
【理御】「……意味がわかりませんっ。」
【ベルン】「つまりはこういうことよ。同じ末路を辿るということよ。………くすくすくすくす!!」
【理御】「意味がわかりませんっ!! どうして私が、ここで死んでいなければならないんですか!!」
【ベルン】「あなたの世界で。1986年10月4日。親族会議に先立ち、ベアトリーチェの葬儀が催されたわ。」
【理御】「えぇ、知っています。それが私にとっての今日であり、ついさっきです!」
【ベルン】「それから、その晩までの間に、何があるかしら…?」
【理御】「何もありません!! いとこたちと楽しく過ごし、親族一同で晩餐を過ごし!」
【ベルン】「そして、夜には親族会議だわ。………あなたは二十歳になったら、当主を継承するのだったわね? それは親族たちの間でも、円満に決まってることなのかしら…?」
【理御】「………円満かどうかは知りませんが、そういうことになっているはずです。……当主様が決めたことですから。」
【ベルン】「さすがに円満だとは信じてないようね。そういうことよ。……金蔵があなたを目に入れても痛くないほどに可愛がり、特例的に当主の座をあなたに直接、継承しようとしている。そのことを、親族兄弟たちが面白く思っているわけもない。」
 理御に当主を継承することに、親族兄弟たちは異を唱えていた。まだ若過ぎると、蔵臼さえもそれに同調していた。そこで金蔵は今夜の親族会議で、ある難題を吹っ掛けるつもりだった……。
【理御】「まさか、………それは……………。」
【ベルン】「そうよ。碑文の謎よ。………礼拝堂の仕掛けを見ればわかる通り、金蔵は碑文の仕掛けを、六軒島に屋敷を築いたその当初から考えていたわ。……いつか、次期当主を選ぶ試練に使えるかもしれないなんて、ロマンチックなことを考えながらね。」
 金蔵はその謎を、親族会議で出題することにした。それが解けた者に、次期当主の座を譲るのか。あるいは、理御の次期当主を考え直すことを約束するのか。
 いずれにせよ、金蔵には自信があった。自分が練り上げたこの難解な謎が、絶対に解かれるわけはないという自信があった。
【ベルン】「あとは、すでに見た真実とまったく同じ展開よ。あっさりと兄弟たちに解かれ、黄金の山を巡ってひと悶着。くすくす……。そして、霧江と留弗夫は、翌朝の事件発覚と、それに伴う騒ぎを未然に防ぐため、深夜に殺人を決行する。………いとこ部屋に集まっている子供たちを一人ずつ、電話で呼び出して殺したわ。」
【ベルン】「……いとこの筆頭のあなたは、一番最初に呼び出された。そして客間で、霧江に撃たれて殺されたの。」
【ベルン】「………うぅん、違うわね。あなたは1986年10月4日の夕方の右代宮理御だものね。だからこう言うわ。……あなたは今日の深夜に、客間で霧江に撃たれて殺されるのよ。」
【理御】「そんな、…………馬鹿な…………。それは、……そうだ、確率だ! クレルから理御という奇跡が低い確率で生まれるように、霧江叔母さんがそのような凶行に及ぶのだって、限りなくゼロに近い、わずかの確率に違いないッ! あなたは、そのわずかの確率の世界を見つけることが出来る魔女ではありませんか!!」
【ベルン】「如何にもその通りよ。あなたという奇跡の存在を見つけ出すために、257万8917の中のたった1つのカケラを見つけ出してきた。……でもね。あなたのこの末路はね、とてもとても簡単に見つけられたのよ。だって、確率など、ないのだもの。………私は、わずかの奇跡があれば、それを見つけ出せる魔女。」
【ベルン】「でもね、ないものは見つけられないの。……私とて、絶対の魔女に、本当に絶対を保証されたら、勝てないんだから。」
【理御】「そんな、………では、……私は………………、」
【ベルン】「257万8917分の257万8916の確率で。あなたはクレルとしての世界に生き、逃れ得ぬ運命に翻弄され、気の毒な最期を遂げる。そして、257万8917分の1の確率で右代宮理御として生き。今夜、霧江に殺されるの。」
【ベルン】「………つまりあなたの、いいえ、あなたたちの運命は、257万8917分の257万8917の確率で、………つまり如何なる奇跡も許されない絶対の運命で、逃れ得ぬ袋小路に、運命の牢獄に囚われているということなのよ! くすくす、うっふふふふふふふふふふ!! 残念だったわね、クレル。いいえ、ベアトリーチェ。」
メタ劇場
 眩しい光に世界が真っ白に染まったかと思うと、次の瞬間には再び、あの劇場に戻っていた。
 舞台の上で、ベルンカステルは死神の鎌の切っ先で、立ち尽くすクレルの亡骸の下腹をなぞる。
 ドレスが裂けて露になった白い肌に、赤い線がなぞられ、そこから黒い血が滲み出す……。
【ベルン】「ベアトリーチェ。閉ざされた、逃げ得ぬ絶対の二日間に閉じ込められたあなたは、その二日間の猫箱の中で無限を生み出せる魔女となったわ。……絶対に救われない、報われないことと引き換えにね。しかしあなたは夢を見たわ。……それが右代宮理御という夢。………自分がクレルとならずに済み、幸せに暮らせていたかもしれない奇跡の世界を夢見て自らを慰めていた!」
【ベルン】「………理御を見つけるのは本当に苦労したわよ。その存在は、ベアトが夢見た通り、本当に奇跡だったんだから。そして、葬儀の最後に見せ付けてやりたかったのよ。………その奇跡をもってしても、あんたは惨劇を逃れられやしないってね!!」
 決して出られぬ牢獄の鉄格子の先に見えるわずかな空に、ベアトリーチェという魔女は、幸せになれたかもしれない世界を夢想した…。しかし、その鉄格子の先の空は、…………またしても、牢獄の中だったのだ……。
【理御】「私には、………あなたという人が、ますますにわからない……! あなたは、……なぜこんなことをするのですか…!」
【ベルン】「ベアトにゲームで負けたから、腹いせで。……くすくすくすくす!! あぁ、これで少しは負けたムカツキも晴れてきたわ…! ねぇ、ベアト、見てる? 見えてる?! そして覚えてる?! あなたには、絶対に奇跡は起きないって、私、約束したわよね?!」
【ベルン】「あっはははははは、あはははっはっははははははははははッ!! さぁ、理御! ベアトの目の前で、あなたを元の世界へ戻してあげる!! 観劇の魔女たちは、だるい一家団欒のシーンはもう食傷気味だそうよ? だからあなたが、霧江に撃たれる直前の瞬間へ送ってあげる! そして、その瞬間をベアトに見せ付けてあげる!!」
【ベルン】「あっははははっはっはっはっははッ!! 死ねや、ゲロカス理御ッ、ゲロカスベアトの最後の希望ッ、うひゃっはっはァびゃっはぁああアぁああああァ!!!」
 ベルンカステルは死神の鎌を振り上げ、………それを思い切り振るい、……クレルの下腹部に深々と突き立てる……。
【ベルン】「綺麗に死ねたつもりだった? くっひひひひひひ!! 死骸をハラワタ引き摺り出して辱めるのが、私の一番得意なことだってのに…!!」
 突き立てた大鎌を、無慈悲に無残に残酷に、……天へ振り上げる。………クレルの体に、下腹部から胸部にかけて縦一文字に、……深々と刃が走り、………開腹する。そしてその赤黒い中身が、……どろりとはみ出し、それから堰を切ったかのようにどっと溢れ出して、世界を赤黒い臓物で埋めた……。
 EP8にて「これは全て真実、“とは限らない”と続けようとした」として、一旦ひっくり返されることになる。しかし結局は、やはりこれが真実である。
六軒島基地
【山本】「イ、イタリア人の黄金を奪うだと? 卑怯者め、右代宮、貴様、それでも帝国軍人かぁあああぁ?!」
九羽鳥庵
【ベアト】「………お、お父様……? わ、私はお父様のことを敬愛いたしております……。で、でも、……そのお父様の気持ちには、その……。」
金蔵の書斎(源次と南條)
「どうして…!! どうしてあなたたちは私を助けたんですか?! どうして死なせてくれなかったんですか?! 私はあの時の大怪我で、……こんな体で生きさせられている!! こんな体で、生きていたくなんかなかった!! こんな、恋をすることも出来ない体で……!! そんなの、そんなの、生きる価値がないんじゃないですか?! そんなのニンゲンじゃない…!! 家具じゃないですか!!」
「そう、私は、家具……!! 家具なんだ…!! どうして、………私をあの時に死なせてくれなかったんですかッ!! ぅわぁああああぁあああああぁああぁああ……!!!」
客間
【理御】「………………え、」
 我に帰った時。……そこは屋敷の、客間だった。
 いつのまに自分はここに。
 ……後ろで物音がして、私はゆっくりと振り返る……。そこには……………。
【霧江】「ごめんね、悪く思わないでね。」
【理御】「………………え、」
 霧江叔母さんの向ける、冷え切った銃口が、その奥底を覗かせる。
 そして、………彼女はゆっくりと、………引き金を引いた……。
 剃刀のように鋭利な風が、自分の体を切断するかのように通り抜けるのを、理御は感じた。……死を覚悟し、自らの運命を見届けるために、ゆっくりと目を開く…。
 すると、………世界は切断されていた。霧江は冷酷な笑みを浮かべて銃を構えた、石像のように硬直し、……腰の部分から斜めに切断され、ゆっくりとずれ落ちていく。
 いや、少し違う。大きく違う。霧江だけじゃない。世界が丸ごと、斜めに切断され、ゆっくりずれ落ちていくのだ。そして亀裂が入ったと思った瞬間、世界は砕け散った。
メタ劇場
【理御】「………………?! ……あ、……あなたは……!」
【ウィル】「……猫を飼ってると、飼い主も似るもんさ。」
 世界を切断した漆黒の刀の切っ先を、ベルンカステルに向け直し、睨む。
【ベルン】「くすくすくす……。……なぁに? 戻ってきたのは気紛れだって言いたいの…?」
【ウィル】「……お前が、いい話で終わらせるわけがねェ。そこまでベアトリーチェが憎いか。」
【ベルン】「私が勝ち逃げなんて許すと思う…? 私に敗北の屈辱を味わわせてくれた分、たっぷりとお返しをしないとね。私、根に持つと百年は忘れないわよ。」
【ウィル】「根の暗ぇヤツだ。」
【ベルン】「私の心を蔑ろにしないで欲しいわね。……くっすくすくすくすくす!!」
【ウィル】「大丈夫か、理御。………どうした、おいっ。」
 いつの間にか、理御は胸を押さえて俯き、呻いていた。
【理御】「………胸が、…………痛いんです………。……これは……。」
 胸を押さえる手を、ウィルは乱暴に掴んで剥がす。
 そこには、じわりと血が浮き出していた。……そこは、霧江に撃たれたなら、弾丸が貫いたはずの場所。
【ベルン】「くすくす。……理御の体が、受け容れ掛かっているのよ。自分の運命をね。」
【ウィル】「理御、しっかりしろッ。……くそ、鎖か…!」
 理御の体を抱きかかえようとして初めて、両手両足が拘束されていることに気付く。
【ベルン】「なぁに? 連れて逃げる気? 逃がさないわよ。理御が血を吐いて、数多の世界全てに希望がないことを絶望して、悶えながら死ぬところを今からみんなで観賞して楽しむんだから。」
【ウィル】「理御は見世物じゃねェ。」
 ウィルは漆黒の刃を突き立て、理御を縛り付ける鎖を破壊する。
 鎖と枷は、まるでガラスのように、粉々に砕け散って消えた。
【ベルン】「私の遊びを邪魔するの……?」
【ウィル】「てめぇは神じゃねぇ。出来るのは運命を嘲笑うことだけだ。………理御の運命は理御が決める。人間の運命を、玩具にするんじゃねェ。」
【ベルン】「………くすくすくす、はっはははははははははは…!! 元老院の魔女、この大ベルンカステルによくそれだけのことを言えたわ! 理御だけじゃなく、あんたも用済みなのよ…?」
【ベルン】「ベアトのファンタジーをミステリーだと断言してぶった切ってくれた。あんたの役目はそれでおしまい。大人しく帰っていれば、それで見逃してやったのに。のこのこと戻ってきたからには、私の玩具にされても文句は言えないわね?」
【ベルン】「おいでなさい、私の可愛い子猫たち。……みんなでガリガリと引っ掻いて、綺麗に生皮を剥いてあげてちょうだい。葡萄の皮をつるんとひん剥くみたいにね…!」
 ベルンカステルが手を二度叩くと、劇場全体から、ぎろりと睨む宝石が2つずつ、あちこちから無数に増えてウィルたちを取り囲んでいく。それは紛れもなく猫の目だが、その口から漏れているらしい吐息は、猫のそれとは到底思えない、おぞましいものだった…。
【理御】「……ウィル………。………ううぅ……ッ。」
【ウィル】「任せろ。猫の爪切りなら慣れてる。」
 ウィルたちを取り囲む宝石の数は、すでに千にも至ろうとしている。漆黒の刃を四方に向け、ウィルは取り囲む猫たちを牽制する……。
【ウィル】「理御、しっかりしろッ。お前は撃たれてなんかいねェ。撃たれたことを、……いや、撃たれることを、認めるんじゃねェ…!」
【理御】「………………………うぐぐ……。」
 理御は胸の激痛と戦っている。いや、……ベルンカステルに見せられた、約束された未来と戦っている。
 しかし、奇跡の魔女が、絶対に奇跡はないと保証したその未来の楔は、あまりに強固にして無慈悲……。理御の胸を、わずかずつ、そして確実に貫いていく……。
【ウィル】「……いいか。……俺が一瞬だけ包囲を破る。そしたら全力で走れ。どこまでも真っ直ぐな。方向は大事じゃない。ここから遠ざかることだけを意識して、ただひたすらにどこまでも走れ。」
【理御】「……………可能な限り……、努力します……。……無理な時は、……許して下さい………。」
【ウィル】「……無理な時? 弱音を吐くな。俺が許さねェ。クレルも許さねェ。……お前はクレルの、257万8917分の1の希望だろうが。お前が諦めたら、お前は無数の世界のお前たちを裏切るんだ……!! だから挫けるんじゃねぇ、足掻いて足掻くんだよ…!! 奇跡を探すんじゃねぇ、お前が奇跡になるんだッ!!」
【理御】「……私が、………奇跡に………。」
【ウィル】「お前は幸せな未来へ辿り着くんだよ。挫けるんじゃねェ、弱音を吐くんじゃねェ。もう一度弱音を言ってみろ。今度は俺がお前の尻を抓ってやる…!」
【理御】「…………は、………はい……。」
【ベルン】「くすくすくす。あっははははっはっはっはっはっは!! この奇跡の魔女の前で、奇跡になれとよくも言えたものだわ…! 奇跡など所詮はファンタジー! ミステリーで断罪されたこの世界で這いつくばって、無慈悲に虫けらのように死になさいッ! 観劇の魔女たちは、それを見届けたくて心待ちにしているのよッ!!」
【ウィル】「……へっ。何がミステリーだ。心のねぇミステリーなんざ、俺が認めると思うか。……三味線になりてぇ猫から掛かってきな。」
【ウィル】「あぁ、面倒臭ェ。まとめて掛かって来いよ! SSVD主席異端審問官、ウィラード・H・ライト。これが最後の刃だ…!」
【ベルン】「ブチ殺れ、子猫たち。」
 猫たちの瞳が一斉に見開き、それらがうねって渦となり、一斉にウィルを飲み込む。
 しかし、ウィルたちは飲み込まれない。彼らを中心に、風船が膨らんで爆ぜるかのように、飛び掛ったはずの猫の群は、四方に弾け飛ぶ。
【ベルン】「……あら、やるじゃない。」
【ウィル】「子猫に用はねェ。親猫しか眼中にねぇんでな。………奇跡の魔女、ベルンカステル!! 伸び過ぎた爪を研いでやらぁッ!!」
 再び黒き刃を一閃すると、黒い竜巻が起こり、猫の群たちをさらに散らす。理御はそれがウィルの作った隙だと理解し、胸を押さえながら、全力で走り出す。
【理御】「……ウィル、……走りますッ。」
【ウィル】「ダイアナはすぐ腹を壊す。ミルクは温めてから頼む。」
【理御】「え?」
 問い直そうとした時、すでにウィルの姿は跳躍し、舞台の上でベルンカステルと対峙していた。
 それがまるで、この舞台のクライマックスだとでも言うように。……漆黒の観客席から大きな歓声が沸き起こる。
 内臓をぶちまけて倒れているクレルを挟んで。……漆黒の刃のウィルと、運命より奇跡を刈り取る鎌を構えたベルンカステルが対峙する。
【ウィル】「霧江と留弗夫が犯人で、島の人間を皆殺しにした? 理御を客間に呼び出して射殺した? 悪ぃな、そんな“真実”とやらを、ミステリーが認めるわけには行かねェ。こいつは全て、ファンタジーだ。」
【ベルン】「ファンタジー? そういうことにして、理御の運命を逃れさせるつもり? やってご覧なさいな。くっくくくくく、くっすくすくすくすくす!! あっはははっははっははははははは、ひぃヤっはぁああぁっはァあああアぁああぁッ!!!」
 金蔵はEP4にて、「悪魔の問い」に対して「それ以外の全員の命」と答えたことを仄めかしている。それと合わせて考えると、本当は金蔵が日本人もイタリア人も皆殺しにしたのではないかと推測できる。
 3番目は、紗音が黄金を発見した日の会話。「恋をすることも出来ない体」とは、女性としても男性としても機能が果たせないという意味。
【ウィル】第1則、手掛り全ての揃わぬ事件を禁ず。」
 ……ウィルの黒い刃は確かにベルンカステルの体を、斜めに切断したはず。しかしまるで、水面に映る月を斬るかのように、……それは意味を為さない。
【ベルン】「なぁに? 手掛りって?」
【ウィル】「霧江と留弗夫が犯人だとする、お前の“ミステリー”を、認めない。……霧江たちが犯人であることを示す手掛りは、何れのゲーム中にも存在しない。」
【ベルン】「あるわけないじゃない。あったとしても、島は丸ごと吹っ飛んだんだし。」
【ウィル】「つまり手掛りなしってわけだな。ならばそれはミステリーじゃねぇ。ファンタジーだ。」
【ベルン】「……はぁ…?」
 立証できない真実は、ニンゲンの世界では真実と成り得ない。即ち、真実さえも、猫箱の外には出られないのだ。
【ベルン】「あっははははははははははッ!! 真実を猫箱に閉じ込めようというの? くすくすくす、それがミステリーの戦い方なの? あっはっはっはっはははははははッ! ひぃやっはっははははっはっはァあああぁアあああッ!!」
 ベルンカステルは、まるで猛獣の咆哮のように笑うと、ぞんざいに鎌を投げ捨てる。
【ベルン】「戦うのさえも馬鹿らしい。おいで、ゲロカス。好きなだけ、私を斬ってご覧なさい。あんたの言い分、全部、聞いてあげるわ。」
【ウィル】「………貴様の、心を蔑ろにしたミステリーを全て貫く、二十の楔。くれてやらぁ。」
【ベルン】「二十の楔で私を倒せなかった時は、………覚悟することね? くすくす、さぁ、おいで。遊んであげるわ、……二十の楔とやら!」
【ウィル】「はぁああああああああああぁああああぁああッ!!!」
謎の空間
 理御は胸の激痛を堪えながら、……足を止めることなく、いつまでも走り続けていた。
 観劇の魔女たちの劇場を抜け出し、真っ暗なわけのわからない世界を走り抜け。気付けば、まるで星の海を思わせるような、……あるいは、星を散らした深海のようなところを駆け抜けていた。
 気を許せば、転びそうになる。いや、気を許せば、走っているのか、それとも、自分は走っているつもりになっているだけで、実は自由落下しているのか、……星の海をどこまでも沈んでいるだけなのではないか、わからなくなる。
 どこを目指すわけでもなく、ただただ、理御は走った。足を止めるわけには行かない。ここで倒れるわけには行かない。自分が倒れれば、……無数の世界の自分たちの希望を、潰えさせることになる…。
 ベアトリーチェたちが望んだ、幸せな世界。自分だけが、……その世界へ辿り着くことが出来る、最後の希望なのだ…。……それが、わかっていても、…………奇跡を司る魔女に、奇跡はないと宣告されて突きつけられた“真実”は、あまりに冷酷に、……理御の胸を抉る……。
【理御】「……………………………。……ごめん、………ウィル………。……もう、……体が…………。」
 理御はとうとう、……激痛に、……自分の運命に屈して倒れる……。
 その体が、乱暴に後ろから抱えられ、担ぎ上げられる。
【理御】「…………ッ!! ……ウィ、……ウィル……!! 無事で………!」
【ウィル】「割とそうでもねェ。……挫けるんじゃねェ、尻を抓るぞと言ったはずだ。」
【理御】「……ごめんなさい、……本当にごめんなさい……。……でも、……私はあの日、あそこで、殺される運命だった……。」
【ウィル】「そうだな。人は誰だって、最後には死ぬ運命だ。なら、その人生は全て無意味なのか? 違うだろ。人生の意味も、価値も、人生そのものすらも、人が自分で描くんだ。……押し付けられた運命が何だってんだ。受け容れるな。世界はお前が紡げ、自らで…!」
【理御】「………ウィル、……あなたの、左腕……!」
【ウィル】「あぁ、……忘れてきちまった。取りに帰るのも億劫だ。」
 ウィルの全身はズタズタに引き裂かれていた。そして、左肘から先は無残に引き千切られ、服もぼろぼろで、……まるで血塗れのかかしのようだった…。
 そして気付く。空も足元も、満点の星の海だと思っていたのに、……その星々がいつの間にか群れて集まり、自分たちを取り囲んでいる…。それらの星は、皆、偶数個ずつ並んで二人を睨みつけていた…。
 片腕で理御を抱え上げている。刀は抜けない。しかしウィルは理御を下ろさない。……絶対に理御を、ここから逃げ延びさせ、ベアトリーチェたちが夢見た、幸せな物語に辿り着かせる。
 虚無の闇に瞳を輝かせる猫たちの群の向こうに、奇跡を許さぬ猫の女王が姿を現す……。
【ベルン】「………ウィラード。理御を下ろしなさい。そしたら、あなただけは見逃してあげるわ。」
【ウィル】「書面で大法院に出せ。審議してやるぜ。」
【理御】「………ウィル、……私を、…………。」
【ウィル】「置いては行かねぇぜ。……お前に教えてやる。どうして俺が、SSVDを辞めるのかをな。」
【ベルン】「……そう言えば、私も知らないわ、それ。……どうして?」
【ウィル】「クソッタレな、お涙頂戴のミステリーばっかりに飽きたからだよ。………ハッピーエンド上等、逃げ延びてやるぜ。」
【ウィル】「俺が教えてやるんだよ。バッドエンドしかないと絶望して死んだベアトリーチェに、ハッピーエンドもありえるんだって教えてやるんだ。だから絶対にお前を、下ろさねェ。」
【理御】「………………ウィル……。」
【ウィル】「猫ども、左の二の腕もくれてやるぜ。欲しけりゃ両足もくれてやる。……だがな、絶対ェに理御だけは放さねェ。……俺が、這ってでもこいつを、お前というバッドエンドから逃してやる……!」
【ベルン】「いいの、理御? ウィルは、あんたを庇って死ぬ気よ? 嫌でしょう? 私なんか放って逃げて下さいって、お言いなさいよ。」
【理御】「……………ウィル……。」
【ウィル】「おう。」
【理御】「……私を、…………放さないで下さい……ッ。……逃げ延びます、絶対に! そして、あなたも…!!」
【ウィル】「それでいい。」
 その言葉に、ウィルは理御は力強く抱きかかえる。
【ウィル】「というわけだ。足掻くぜ、ベルンカステル。」
【理御】「私たちは、奇跡を諦めない…!!」
【ベルン】「絶対に奇跡は訪れないと奇跡の魔女が約束したのに、それをよくも口に出来たこと。………くすくすくす、うっふふふっはっはっはっははははははッ!! さよなら、二人とも。忘却の深遠で死すら迎えられずに、埃に降り積もられて消え去りなさい!!」
【ベルン】「さぁ、子猫たち。殺せとは命じないわ。その出番の終わった駒2つを、お片付けなさい。」
 億、兆、京にも届く無数の猫たちが、一斉に牙を剥く。猫の目の星空が一斉に、肉色の口腔を開いて牙を並べる。
 ……世界は、肉と血と牙で、包まれた。
 ゲーム外の真実なのだから手掛りなどない。ウィル自身、無理のある理屈だと自覚しているはずだが、駒の立場で理御を救いたいなら、そうとでも言うしかない。

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フェザリーヌの書斎
 チェス盤の上に置かれた白い駒が2つ。……それを取り囲む無数の黒い駒は、もはやマスの上にさえ収まらずに、ぎっしりと取り囲んでいる。
 そしてその白い駒2つを、ベルンカステルは指で突いてパタリと倒し、……盤の外へ取り除く。
【ベルン】「こんなところで、おしまいでいいかしら。」
【フェザ】「………うむ。やはりそなたの朗読は耳に馴染むぞ、我が巫女よ。」
【ベルン】「あんたのお望み通り、ハラワタの内側まで掻き出してやった。答え合わせには、これで充分でしょう?」
【フェザ】「うむ。……実に満足しているぞ。そなたが明かした答えを鍵に、これまでの物語を遡り、まるで宝石箱のような密室の数々を、一つずつ開いていこう。」
【フェザ】「………鍵を得ることは楽しい。そして、その鍵で個々を開いていくことは、もっと楽しい。ご苦労であった、我が巫女よ。これより先は、私ひとりでゆっくりと思考を楽しみたい。もう充分であるぞ……。」
 観劇の魔女は、余韻を楽しむかのような満足な笑みを浮かべ、揺り椅子に深々と身を預ける。
 もはや、ゲーム盤は必要ない。これまでの物語を、自分の頭の中で遡り、自分の推理が正しかったかどうか、検証するだけだ。それは上等な酒にも負けぬ、心地良き酩酊を与えてくれているようだった……。
【ベルン】「………私はこれで用済みかしら?」
【フェザ】「ご苦労であった、我が巫女よ。その任を解く。……私は再び眠りに就く。この心地良きまどろみを、数百年にわたって楽しみたい。」
【フェザ】「そして私が再び飽きる時。……そなたは私を楽しませるために、また新しい物語を見つけてくるのだ。……それまでの数百年のひと時。そなたの自由を許す。」
【フェザ】「ふっふふふふ………。天晴れであったぞ、ベルンカステル、可愛い可愛い、我が巫女よ……。」
【ベルン】「………知ったことじゃないわ。勝手に干からびて死になさいよ。じゃあね、未来永劫さようなら。」
【フェザ】「数百年如きを、そなたは未来永劫と呼ぶというのか? くっくくくくく……………。…………………………………。」
 フェザリーヌの意識は、ゆっくりと薄れていく。
 主がゆっくりと眠りを深めていくのに応えるように、……彼女の書斎の灯りたちも、ゆっくりと暗くなっていく。
【ベルン】「永遠にお休み、アウアウローラ。…………このゲーム盤はあんたにはもう不要よね。私がもらっていくわ。」
 ベルンカステルは、フェザリーヌの揺り椅子の前の、テーブルに置かれたベアトのゲーム盤を、こつこつと二度叩く。すると、ゲーム盤と駒は宙に浮き上がり、ぱたぱたと、一人で仕舞われて畳み、突き出したベルンカステルの右手に、そっと乗った。
【ベルン】「……私、まだ全然ゲームマスターをやっていないのよ? ……私はベアトの葬儀をやっただけ。そしてハラワタを引き摺り出しただけ。…………まだ、何にもやっちゃいない。」
 ベルンカステルの笑みが、一際邪悪に歪む。
 そしてゲーム盤は再びふわりと浮き上がり、………ベルンカステルの手の平の上に、世界を広げ出す……。
【ベルン】「さぁ、ベアトのゲーム盤の駒たち……? 私を最高に楽しませる、最高に残虐な物語を紡がせてあげるわ。慄きなさい、約束された絶対の運命を。……奇跡の魔女、ベルンカステルの名において。……そして、ベアトのゲームの、最後のゲームマスターとして宣言するわ。」
【ベルン】「……ただ宣言するだけじゃつまらないわね。……ベアトのゲームに則って、赤き真実で宣言してやった方がいいかしら?」
【ラムダ】「それがいいんじゃない? まだ甘い夢を見てる魔女どもも、いるみたいだし。」
【ベルン】「あら、ラムダ。いたの? いるわよね、私のいるところなら、どこへでも。」
【ラムダ】「言ってやりなさいよ。甘い夢みてる魔女どもに。」
【ベルン】「えぇ、そうするわ。……奇跡の魔女として、そして、最後のゲームマスターとして、最後のゲームを宣言するわ。そして約束する。」
 このゲームに、ハッピーエンドは与えない。
礼拝堂
 シクシク。……シクシク、シクシク……。少女が一人、……無人の、静寂の礼拝堂で、泣いていた。
 それは小さな少女。……6歳の少女。1986年の10月4日に、5日に、……島にいられなかったことを、これから12年にもわたって嘆く、悲しみの少女……。
 そこへ、………一人の男がやって来る……。
 男は少女の姿を見つけ、……怖がらせないように、静かに歩み寄り、……そっと、その肩を抱いた……。
【縁寿】「………お兄ちゃん……………。」
【戦人】「探したぞ、縁寿……。」
 少女は、兄の胸に飛び込み、再び泣いた…。
【戦人】「どうした。……何をそんなに悲しんでいるんだ。」
【縁寿】「今日、クラスの子にいじめられたの……。テレビで、お母さんは悪い人たちと繋がりがあったって。………だから、うちのお父さんとお母さんが犯人で、みんなを殺したんだろうって……。……絵羽伯母さんに、そんなことないよねって聞いたのに、答えてくれないの……。……お父さんとお母さんは悪くなんかないよね? ね…?」
【戦人】「可哀想に……。……みんなが、あの島で、あの日なにがあったのかを、好き勝手なことを言ってるんだな…。……そこにお座り。」
【縁寿】「……………うん…。」
 男が床を指差すと、そこの黄金の蝶たちが集まり、椅子を作る。少女は素直に、それに腰掛けた……。
【縁寿】「……お兄ちゃんは知っているよね? お父さんとお母さんは悪い人じゃないって、知ってるよね?」
【戦人】「あぁ。もちろんだとも。……誰も悪い人なんかいないって、知ってるさ。」
【縁寿】「じゃあ、教えて。あの日、何があったの? 六軒島で何があったの?」
【戦人】「いいとも。………話してあげるよ。あの日、あの島で何があったのか。」
【縁寿】「それは、……怖い話……?」
【戦人】「まさか。」
【縁寿】「それは、悲しい話……?」
【戦人】「とんでもない。」
【縁寿】「それは、……どんな話……?」
【戦人】「聞いた縁寿が、自分で決めるといい。決して辛い話じゃないんだよ。だからお聞き。」
【縁寿】「うん。戦人お兄ちゃん……。」
【戦人】「あの日、お兄ちゃんたちは六軒島へ行ったんだよ。とても大勢でね。大事な親族会議があることになってたんだ。………まずは、どこから話したものかな。」
 これが。縁寿に捧げる、最後のゲーム。
 お聞き、縁寿。あの日、六軒島で、何があったのか。これは、辛い話でも、悲しい話でもないんだよ………。
 ベルンは「悪役も巫女も疲れたわ」と言って消えた後、改めて先ほどのお茶会で悪役を演じている。その理由はフェザリーヌのアンコールに応えたためだった。
 そのアンコールで、かえってフェザリーヌを混乱させるような内容をやるはずがない。そういう意味でも、先ほどの描写の信頼性が高いと判断できる。