水族館
【紗音】「ほら譲治さま、見てください! かわいいですよ、ほらほら!」
紗音が水槽の中に仲良く泳ぐシュモクザメのつがいを見つけ、まるで初めて水族館に来た小学生のようにはしゃぐ。
【譲治】「うん、本当にかわいいね。食べちゃいたいくらいだよ。」
【紗音】「そ、そんなの可哀想です…。知ってますか? 水族館に来て美味しそうなんて言い出すのは、世界中でも日本人だけなんだそうですよ?」
【譲治】「そうなんだ? …アメリカ人でもイタリア人でも、きっと食べちゃいたいって言うと思うよ。」
【紗音】「…え、っと……。その…。」
【譲治】「似合ってるよ、その服。本当に。」
紗音は胸元を両手で抱え込むような仕草で恥ずかしがる。…慣れないおめかしを笑われてるに違いないと感じたようだった。譲治も、顔には出さないものの、実はあまりにとんでもないことを自分でも驚くくらいにさらりと口にしてしまい、内心は紗音に負けないくらい恥ずかしがっていた。
でも、紗音が過剰に恥ずかしがってくれている様子を見ていると、何だか、好きな子にイタズラをしているような気持ちになって、恥ずかしさの代わりに、くすぐったい楽しさが込み上げてくる。……いや、それは適当な言い方ではないか。…だって、好きな子にイタズラをしている、そのものなのだから。
こう言っては何だが、……かつてはこんな恥ずかしい言い回しは、今時、漫画の中にも出てこないと思ってた。それどころか、こんなことを口にするカップルがいたら、石を投げてやりたいとすら思ってた。
しかし、今の僕たちには、たとえ石が投げつけられたとしても、祝福の紙ふぶきと同じになってしまうに違いない。
カップルというやつが、TPOを弁えずにベタベタとしていることを僻んだ寂しい日々は、今では思い出すこともできない。古風な言い方で喩えるなら、これこそまさに薔薇色の日々…。
文字通りデレデレする僕の眼中に、世界最大の水族館の大水槽はもはや映らない。紗音が魚たちと戯れて一喜一憂する姿を映し続けるのみだ。
【紗音】「…すごいですね……。クジラを泳がせることができる大水槽なんて、初めて見ました。」
【譲治】「この大水槽がここの最大のウリだそうだからね。何でも世界で最大なんだそうだよ。」
【紗音】「そうなんですか? それはすごいですね。……本当に素敵です。水槽じゃなくてまるで、海の一部をナイフですっと切り取ってここに運んできたみたい。」
【譲治】「そうだね。これはもう立派な、小さな海だね。」
水槽をどんなに大きくしたって、水槽であることには変わりないと思っていた。だから、海の一部をナイフで切り取ったみたいな、という彼女の表現を面白いなと思った。
人間というのは、どんなに見聞を広めようとも、所詮は自分ひとりの価値観しか持てない。だからこそ、異なる価値観を持つ人間と交流することはこんなにも面白いのかもしれない。
僕は正直にそれを口にした。すると彼女は答える。
【紗音】「確かに、これは本当の海ではないかもしれません。…でも、ここに泳ぐ彼らが海だと信じたなら、これは確かに海なんです。」
【譲治】「たとえ、有限の水槽の中だったとしてもね。」
【紗音】「海だって、有限ですよ。うぅん、仮に無限だったとしても。私たちは生きている内にどれほどの広さを行き来できるんでしょうね。きっと、それは海よりずっと狭い。」
【譲治】「…確かに。皮肉な話だね。世界はこんなにも広いのに、僕たち人間のほとんどは、自分の国からも出ずに生涯を終える。」
【紗音】「そこが、完成された世界だと信じられるなら。たとえ狭い井戸の底だったって、立派な世界で、海なんです。…そこに住むカエルにとっては。」
六軒島という、全長が10km程度の小島で使用人として日々を過ごす彼女は、微笑みながらそう言った。
レストラン
僕たちは水族館を一通り回った後、見晴らしのいい展望レストランで少し遅い昼食を取った。
バイキング形式に心が躍るのは、男の子だったら誰でもそうに違いない。自分だって昔はそうだった。
でも、紗音と一緒のバイキングは違う。好きなものだけみっともなく山盛りにできない。
何て言うのかその、…見栄えを気にしてしまい、トーストにサラダにコーヒーなんて、キザったらしいメニューにしてしまう。僕ひとりだったなら、焼きそばやマッシュポテトにグラタン等の油っぽいのを山盛りにしてるところだ。
【譲治】「紗音は、そんな程度でお腹が足りるのかい? だとしたら男ってのは本当に燃費の悪い生き物らしいね。」
【紗音】「…えっと、べ、別にそういうつもりじゃなくて……。」
紗音のトレイには、紅茶とサラダがあるだけだ。せめてもう一皿あってもいいと思う時点で、男の胃袋の考え方なのかもしれない。
【紗音】「譲治さまこそ、それで足りるんですか? 男の方はもう少し召し上がった方が良いかと思います。…普段の譲治さまだったら、もう少しお昼を召し上がられていると思いますよ?」
【譲治】「しまった、そうか。紗音には僕が本家で昼食を取る時、どれくらい食べてるのかバレてるんだったね。」
【紗音】「はい。だから、今日はお腹の具合でも悪いのかと思いまして…。」
紗音は体調の不良を疑ってくれる。僕の下らない見栄で心配させてしまったようだ。それに僕の胃袋は、これ以上見栄を張ることに同意してくれないようだった。
【譲治】「…いやぁ、あはは…。もう白状するよ。ついついカッコつけちゃってね…。女の子と一緒だからって、遠慮しちゃって…。」
【紗音】「だと思いました。親族会議でのお昼の食べっぷりから考えて、それではとても足りないと思いましたので。遠慮なさらずに、どうぞもう一皿を取りに行って来て下さいな。」
【譲治】「ずるいな、僕ばっかり恥ずかしいよ。じゃあ、紗音はどうなんだい? 普段からこんな小食で、右代宮家のお勤めがこなせるのかい?」
【紗音】「……え、っと、…………ぁぅ。」
紗音は真っ赤に赤面しながら沈黙する。どうやら、見栄を張ってるのは僕だけじゃなかったらしい。それがわかり、僕の気恥ずかしさは一転する。
【譲治】「何だ、紗音もそれじゃ足りないんじゃないか。そうだよそうだよ、普段のランチなら、もう少し量が多いものをぺろりと平らげてたよ。」
【紗音】「お、女の子のお腹は魔法で出来てるから、これでも平気なんです…。ぁぅ。」
【譲治】「ということは、僕たちは互いに見栄っ張りだったってことになるね。もう遠慮はなしにしないかい。」
僕はもう茶化さないという意味の笑顔を浮かべ、席を立ち上がる。
【譲治】「せっかく沖縄まで来たのに、ゴーヤを食べないのはもったいないからね。ゴーヤの炒め物でも持ってくるよ。紗音も一緒に行こうよ。ほらほら。」
【紗音】「あ、はい…!」
傍から見ていたなら、僕たちは何と微笑ましく、そして何と恥ずかしい二人なのだろう。
しかし二人になってみて初めてわかる。僕たちにとってはこのやり取りが全てで、世界なのだ。だから世界の外側の人がどんなに白い目で見たって、僕たちは気付かない。……なるほど、カップルがTPOを弁えずにイチャつきたがる心情を、この歳にしてようやく理解する。
僕が炒め物を山盛りにした皿を持ってくると、紗音は可愛らしいケーキの載った皿を持ってきた。互いの痩せ我慢を笑いあいながら、僕たちは昼食を再開する。
【譲治】「せっかく海を一望できる展望レストランなのに、あいにくの曇天が悔やまれるね。」
運よく座れた窓際の席は、視界に収まりきらないほどの雄大な海の景色を見せてくれた。しかし、生憎の曇り空のため、本来の美しさには程遠かった。
【紗音】「そうですね。晴れていたら、さぞや真っ青な海を見せてくれたでしょうに。」
【譲治】「そうだね。普段、六軒島で海を見慣れてると思うけど、ここの海はきっと格別な青さを見せてくれたはずだよ。…残念だなぁ。」
【紗音】「あ、でも…、お仕事の最中に見る海は、どんなに青くても灰色と同じです。でも、今日はお仕事中じゃないから、…その…。」
紗音なりに精一杯、恥ずかしいセリフを言ってみたらしい。でも僕の点は辛い。
【譲治】「惜しいな。譲治さまと二人きりで見る海なら、たとえ灰色でも真っ青に見えます、って言えたら、百点満点でご褒美だったんだけどなぁ。」
【紗音】「え、あ、すす、すみません……。ぅぅぅぅ…。」
【譲治】「ご褒美は何だったか、聞きたい…?」
【紗音】「ぇっと、……、その、聞いてもいいものでしたら……。」
【譲治】「ダメ。教えない。あはははははは。」
【紗音】「ず、ずるいですよ、そんなの…。」
僕は小学校の頃は、いわゆる「いじられキャラ」だった。みんなにからかわれては、オロオロ、オタオタして、そのリアクションでみんなは喜んでいた。
あの時の自分は、どうしてみんなは僕をいじめるんだろうと思っていたが。今こうして紗音をおちょくっていてわかる。これはとても楽しいことだ。
彼女の喜怒哀楽を、僕の思うままにできて、…しかもそれを独占できるということ。これに勝る幸福を今、他に思いつくことはできなかった。
だからこそサジ加減。彼女を恥ずかしがらせて嫌な思いがさせたいわけじゃない。だからこの話題をこれで切り上げてあげることにする。しつこいのは良くないからね。
【譲治】「お昼が終わったら、海岸を歩いてみないかい? ひょっとすると雲が晴れて、素敵な海が見られるかもしれないよ。」
【紗音】「そうですね。行ってみたいです。」
【譲治】「うん、そうしよう。…でも、そのケーキも本当に美味しそうだね。僕も同じものを持ってこようかな。」
【紗音】「いけません…。お昼にそんなに食べた上にケーキまで食べたら、太っちゃいますよ。譲治さまは、秀吉さまの血が濃いみたいですから、気をつけないとおデブさんになっちゃいます。」
【譲治】「じゃあ紗音は、僕がおデブになったら、嫌いになっちゃう…? 僕は、たとえ紗音がおデブになっちゃっても、嫌いにならないよ。」
【紗音】「そ、そういう意味じゃなくて…。ちゃんと体を気遣わないと健康にって…、あぅ。」
【譲治】「母さんにもよく注意されるよ。やっぱり僕も、太極拳とかを始めて運動しないと駄目かなぁ。」
【紗音】「ダイエットは無茶な運動よりも、食生活の見直しから始めた方がいいんですよ。その上で運動を重ねないと、効果が出ないんだそうです。」
【譲治】「つまりそれは、デザートのケーキは控えろってことだね。じゃあ仕方ないから、紗音がそのケーキを頬張るところを眺めていてあげるよ。」
【紗音】「えっと、その、………。……ケーキまるまるひとつはさすがに食べ過ぎだと思いますけど、……半分くらいだったら大丈夫かもしれません。これ、本当に美味しいんですよ。」
紗音が自分のケーキを切り分け、それを僕のサラダの皿に移そうとする。美味しいケーキの味を、僕と共有したいに違いない。
なのに敢えて僕は、意地悪にその皿を引っ込めて遠ざける。
彼女は目をぱちくりさせる。ケーキはいらないという意思表示なのか、量りかねているようだった。だから僕は、ウィンクしながら口を、あ〜んと開ける。
【紗音】「くすくす。それが一番したかったんですね。……もう、譲治さまは甘えん坊です。はい、あ〜ん。」
恥らうような、呆れるような表情を浮かべながら、彼女はフォークでそれを差し出す。
ぱく。それはどこにでもあるような安っぽいチョコレートケーキの味。でも、格別。
だって、こんなにも馬鹿ップルの見本みたいな恥ずかしい真似でケーキをねだるのが、僕の長年の夢だったのだから。だから、このケーキの味はまさに極楽の味わい…。
いつか地球が滅ぶのが運命だというなら、それが今この瞬間でも悔いはない。……そんな至福の時間だった。
海岸
その後、僕らは海岸を歩きながら、貝殻を拾ったり、波から逃げたりしてはしゃぎあった。
結局、空は曇天のままで晴れなかった。でも、僕たち二人の目には、共に真っ青な海が映っていたと信じてる。
【紗音】「………何だか、幸せ過ぎて、…怖くなります。」
【譲治】「たまに言うね。何を怖がることがあるんだい?」
【紗音】「…私、………右代宮家にお仕えする使用人です。そんな私が、右代宮家に連なる方と、…こうしてご一緒してるなんて…。その、………過ぎたことのように思えて。」
【譲治】「僕もびっくりしてるよ。紗音ちゃんと出会ったのは、昨日今日のことじゃない。何年も前から面識もある。でも、年に何度もない親族の会合の席で挨拶をするだけ。…そんな君とこうして一緒に過ごせる関係になるなんて、全然想像できなかったよ。それは紗音もでしょ?」
【紗音】「えっと、……私は、……その…。」
【譲治】「ん?」
【紗音】「……想像だけは、……してました。いえそのあの! 想像というよりは、その、……妄想みたいなもので……。いつも紳士的で思いやりのある、譲治さまとご縁があったらなって、……その、妄想してただけで……。」
【譲治】「じゃあ、僕たちの縁は、君のその信じた心のお陰だね。想う力には魔法が宿るんだよ。だから、その魔法がきっと、僕らを巡り合わせてくれた。」
【紗音】「………そうですね。…多分きっと、……それは本当に魔法だったんだと思います。」
【譲治】「でもね、そんなことはないんだよ。僕の中でも、毎年出会う度に美しく見違えていった君の存在は、とても大きくなっていた。そして、君にとっての僕も同じものだとしたなら、今日ここに僕らがあることは必然の結果であって、魔法や奇跡なんかじゃないのさ。」
【紗音】「……………うぅん。奇跡はあったんです、譲治さま。」
彼女は海の向こうを見ながら、波打ち際に足を止める。
【譲治】「……奇跡?」
【紗音】「うぅん、魔法。…あったんです。」
たまに見せる、彼女のちょっぴりミステリアスな表現が僕を戸惑わせる。
【譲治】「……魔法、が?」
【紗音】「はい、魔法です。………言っても信じてくれないでしょうから、言いません。でも、確かにその魔法には、私と譲治さまを巡り合わせてくれる奇跡を叶える力がありました。」
【譲治】「それは何かのおまじないのこと?」
【紗音】「そうですね。そういうものの類かもしれません。…ひとつ違うのは、おまじないなんかじゃなく、…本当に本当の、魔法だったという点です。」
【譲治】「…ふぅん?」
出会いを、奇跡や偶然で修飾したがるのは紗音に限らず、女の子の普遍的な考え方なんだろうか。男の僕にとって、女の子との出会いは、気に入られようとする70%の努力と、20%の勇気。そして10%の偶然。彼女が全てだと信じるものは、僕の中では全体を占めるウェートが少ない。…そういう考え方自体が、男性的で打算的なのだろうか。
でも、それを口に出して言えば、どんな魔法も解けてしまう。僕たちがこういう関係になるまでには、たくさんの偶然や歩み寄り、双方のたくさんの努力があったと思う。それら全ての積み重ねの上に、今の二人きりの幸せな時間があり、それを魔法と呼ぶならば、彼女の言い方は決しておかしなものではない。
だから僕は言ってやる。
【譲治】「そうだね。……同じ運命を百回繰り返したら、僕と君がこういう関係になる結果は、一度しか起こらないものだったかもしれないね。互いを意識し合いながらも、僕たちは他人行儀な関係を今も続けていたかもしれない。そんな他所の世界の僕らから見れば、今の僕たちはまさに奇跡のような関係に違いないだろうから。」
【紗音】「そういうのじゃなくて…。……本当に魔法なんです。…男の方に、いくら言ってもこういうのは信じてもらえないんでしょうか。嘉音くんも全然信じてくれませんし。」
【譲治】「…信じるよ。……僕が信じなくて、魔法が解けたら嫌だからね。」
【紗音】「譲治さま…。」
君の魔法を蔑ろにするようなことを言ってごめんねと、僕は小さな声で告げる。その言葉は、紗音にとってとても嬉しいもののようだった。愛の魔法を、二人が信じてくれたなら、それは永遠のものだから。
【譲治】「そうそう。僕からわがままがひとつあるんだけど、聞いてもらえないかな。」
【紗音】「…はい? 何でしょうか。」
【譲治】「その譲治さまって呼び方。嫌いじゃないけど、もうなしにしないかい?」
【譲治】「もちろん、右代宮家では体面もあるだろうから、六軒島での普段まで強制はしないよ。でも、二人きりの時はなしにしよう。うん、そういうルールにしよう。」
【紗音】「ル、ルールですか…。も、もし破ったらどうなるんでしょう…?」
【譲治】「そうだね。ルール違反には、何か罰ゲームがないといけないかもしれないね。…そうだな、何がいいかな。……聞きたい?」
【紗音】「い、いえ、聞きたくありません…。」
【譲治】「あはははははは。何がいいか、僕も考えておくことにするよ。」
【紗音】「はい。……譲治、…さん。」
【譲治】「…うん。素敵な響きだね。嬉しいよ、紗音。」
【紗音】「わ、……私も、……紗代という、………名前があります。」
【譲治】「そっか。ルールはフェアじゃないといけないね。僕もそれを守って、今から君のことを、紗代と呼ぶことにするよ。いいね? 紗代…?」
【紗音】「は、はい。」
彼女の肩を抱き寄せる。華奢な体が、強引に抱き寄せられて、まるで人形のように僕の胸に飛び込んだ。その頭を抱え込みながら、二人して水平線を見る。
【譲治】「真っ青な海だね。この海を、二人で見られて、とても嬉しいよ。」
【紗音】「……私もです。この真っ青な海を、あなたと二人で見ることができて、とても嬉しいです。」
僕たちは、小雨すらぱらつき始めている灰色の海を眺めながら、互いの鼓動をいつまでも確かめ合うのだった…。
【紗音】「ほら譲治さま、見てください! かわいいですよ、ほらほら!」
紗音が水槽の中に仲良く泳ぐシュモクザメのつがいを見つけ、まるで初めて水族館に来た小学生のようにはしゃぐ。
【譲治】「うん、本当にかわいいね。食べちゃいたいくらいだよ。」
【紗音】「そ、そんなの可哀想です…。知ってますか? 水族館に来て美味しそうなんて言い出すのは、世界中でも日本人だけなんだそうですよ?」
【譲治】「そうなんだ? …アメリカ人でもイタリア人でも、きっと食べちゃいたいって言うと思うよ。」
【紗音】「…え、っと……。その…。」
【譲治】「似合ってるよ、その服。本当に。」
紗音は胸元を両手で抱え込むような仕草で恥ずかしがる。…慣れないおめかしを笑われてるに違いないと感じたようだった。譲治も、顔には出さないものの、実はあまりにとんでもないことを自分でも驚くくらいにさらりと口にしてしまい、内心は紗音に負けないくらい恥ずかしがっていた。
でも、紗音が過剰に恥ずかしがってくれている様子を見ていると、何だか、好きな子にイタズラをしているような気持ちになって、恥ずかしさの代わりに、くすぐったい楽しさが込み上げてくる。……いや、それは適当な言い方ではないか。…だって、好きな子にイタズラをしている、そのものなのだから。
こう言っては何だが、……かつてはこんな恥ずかしい言い回しは、今時、漫画の中にも出てこないと思ってた。それどころか、こんなことを口にするカップルがいたら、石を投げてやりたいとすら思ってた。
しかし、今の僕たちには、たとえ石が投げつけられたとしても、祝福の紙ふぶきと同じになってしまうに違いない。
カップルというやつが、TPOを弁えずにベタベタとしていることを僻んだ寂しい日々は、今では思い出すこともできない。古風な言い方で喩えるなら、これこそまさに薔薇色の日々…。
文字通りデレデレする僕の眼中に、世界最大の水族館の大水槽はもはや映らない。紗音が魚たちと戯れて一喜一憂する姿を映し続けるのみだ。
【紗音】「…すごいですね……。クジラを泳がせることができる大水槽なんて、初めて見ました。」
【譲治】「この大水槽がここの最大のウリだそうだからね。何でも世界で最大なんだそうだよ。」
【紗音】「そうなんですか? それはすごいですね。……本当に素敵です。水槽じゃなくてまるで、海の一部をナイフですっと切り取ってここに運んできたみたい。」
【譲治】「そうだね。これはもう立派な、小さな海だね。」
水槽をどんなに大きくしたって、水槽であることには変わりないと思っていた。だから、海の一部をナイフで切り取ったみたいな、という彼女の表現を面白いなと思った。
人間というのは、どんなに見聞を広めようとも、所詮は自分ひとりの価値観しか持てない。だからこそ、異なる価値観を持つ人間と交流することはこんなにも面白いのかもしれない。
僕は正直にそれを口にした。すると彼女は答える。
【紗音】「確かに、これは本当の海ではないかもしれません。…でも、ここに泳ぐ彼らが海だと信じたなら、これは確かに海なんです。」
【譲治】「たとえ、有限の水槽の中だったとしてもね。」
【紗音】「海だって、有限ですよ。うぅん、仮に無限だったとしても。私たちは生きている内にどれほどの広さを行き来できるんでしょうね。きっと、それは海よりずっと狭い。」
【譲治】「…確かに。皮肉な話だね。世界はこんなにも広いのに、僕たち人間のほとんどは、自分の国からも出ずに生涯を終える。」
【紗音】「そこが、完成された世界だと信じられるなら。たとえ狭い井戸の底だったって、立派な世界で、海なんです。…そこに住むカエルにとっては。」
六軒島という、全長が10km程度の小島で使用人として日々を過ごす彼女は、微笑みながらそう言った。
レストラン
僕たちは水族館を一通り回った後、見晴らしのいい展望レストランで少し遅い昼食を取った。
バイキング形式に心が躍るのは、男の子だったら誰でもそうに違いない。自分だって昔はそうだった。
でも、紗音と一緒のバイキングは違う。好きなものだけみっともなく山盛りにできない。
何て言うのかその、…見栄えを気にしてしまい、トーストにサラダにコーヒーなんて、キザったらしいメニューにしてしまう。僕ひとりだったなら、焼きそばやマッシュポテトにグラタン等の油っぽいのを山盛りにしてるところだ。
【譲治】「紗音は、そんな程度でお腹が足りるのかい? だとしたら男ってのは本当に燃費の悪い生き物らしいね。」
【紗音】「…えっと、べ、別にそういうつもりじゃなくて……。」
紗音のトレイには、紅茶とサラダがあるだけだ。せめてもう一皿あってもいいと思う時点で、男の胃袋の考え方なのかもしれない。
【紗音】「譲治さまこそ、それで足りるんですか? 男の方はもう少し召し上がった方が良いかと思います。…普段の譲治さまだったら、もう少しお昼を召し上がられていると思いますよ?」
【譲治】「しまった、そうか。紗音には僕が本家で昼食を取る時、どれくらい食べてるのかバレてるんだったね。」
【紗音】「はい。だから、今日はお腹の具合でも悪いのかと思いまして…。」
紗音は体調の不良を疑ってくれる。僕の下らない見栄で心配させてしまったようだ。それに僕の胃袋は、これ以上見栄を張ることに同意してくれないようだった。
【譲治】「…いやぁ、あはは…。もう白状するよ。ついついカッコつけちゃってね…。女の子と一緒だからって、遠慮しちゃって…。」
【紗音】「だと思いました。親族会議でのお昼の食べっぷりから考えて、それではとても足りないと思いましたので。遠慮なさらずに、どうぞもう一皿を取りに行って来て下さいな。」
【譲治】「ずるいな、僕ばっかり恥ずかしいよ。じゃあ、紗音はどうなんだい? 普段からこんな小食で、右代宮家のお勤めがこなせるのかい?」
【紗音】「……え、っと、…………ぁぅ。」
紗音は真っ赤に赤面しながら沈黙する。どうやら、見栄を張ってるのは僕だけじゃなかったらしい。それがわかり、僕の気恥ずかしさは一転する。
【譲治】「何だ、紗音もそれじゃ足りないんじゃないか。そうだよそうだよ、普段のランチなら、もう少し量が多いものをぺろりと平らげてたよ。」
【紗音】「お、女の子のお腹は魔法で出来てるから、これでも平気なんです…。ぁぅ。」
【譲治】「ということは、僕たちは互いに見栄っ張りだったってことになるね。もう遠慮はなしにしないかい。」
僕はもう茶化さないという意味の笑顔を浮かべ、席を立ち上がる。
【譲治】「せっかく沖縄まで来たのに、ゴーヤを食べないのはもったいないからね。ゴーヤの炒め物でも持ってくるよ。紗音も一緒に行こうよ。ほらほら。」
【紗音】「あ、はい…!」
傍から見ていたなら、僕たちは何と微笑ましく、そして何と恥ずかしい二人なのだろう。
しかし二人になってみて初めてわかる。僕たちにとってはこのやり取りが全てで、世界なのだ。だから世界の外側の人がどんなに白い目で見たって、僕たちは気付かない。……なるほど、カップルがTPOを弁えずにイチャつきたがる心情を、この歳にしてようやく理解する。
僕が炒め物を山盛りにした皿を持ってくると、紗音は可愛らしいケーキの載った皿を持ってきた。互いの痩せ我慢を笑いあいながら、僕たちは昼食を再開する。
【譲治】「せっかく海を一望できる展望レストランなのに、あいにくの曇天が悔やまれるね。」
運よく座れた窓際の席は、視界に収まりきらないほどの雄大な海の景色を見せてくれた。しかし、生憎の曇り空のため、本来の美しさには程遠かった。
【紗音】「そうですね。晴れていたら、さぞや真っ青な海を見せてくれたでしょうに。」
【譲治】「そうだね。普段、六軒島で海を見慣れてると思うけど、ここの海はきっと格別な青さを見せてくれたはずだよ。…残念だなぁ。」
【紗音】「あ、でも…、お仕事の最中に見る海は、どんなに青くても灰色と同じです。でも、今日はお仕事中じゃないから、…その…。」
紗音なりに精一杯、恥ずかしいセリフを言ってみたらしい。でも僕の点は辛い。
【譲治】「惜しいな。譲治さまと二人きりで見る海なら、たとえ灰色でも真っ青に見えます、って言えたら、百点満点でご褒美だったんだけどなぁ。」
【紗音】「え、あ、すす、すみません……。ぅぅぅぅ…。」
【譲治】「ご褒美は何だったか、聞きたい…?」
【紗音】「ぇっと、……、その、聞いてもいいものでしたら……。」
【譲治】「ダメ。教えない。あはははははは。」
【紗音】「ず、ずるいですよ、そんなの…。」
僕は小学校の頃は、いわゆる「いじられキャラ」だった。みんなにからかわれては、オロオロ、オタオタして、そのリアクションでみんなは喜んでいた。
あの時の自分は、どうしてみんなは僕をいじめるんだろうと思っていたが。今こうして紗音をおちょくっていてわかる。これはとても楽しいことだ。
彼女の喜怒哀楽を、僕の思うままにできて、…しかもそれを独占できるということ。これに勝る幸福を今、他に思いつくことはできなかった。
だからこそサジ加減。彼女を恥ずかしがらせて嫌な思いがさせたいわけじゃない。だからこの話題をこれで切り上げてあげることにする。しつこいのは良くないからね。
【譲治】「お昼が終わったら、海岸を歩いてみないかい? ひょっとすると雲が晴れて、素敵な海が見られるかもしれないよ。」
【紗音】「そうですね。行ってみたいです。」
【譲治】「うん、そうしよう。…でも、そのケーキも本当に美味しそうだね。僕も同じものを持ってこようかな。」
【紗音】「いけません…。お昼にそんなに食べた上にケーキまで食べたら、太っちゃいますよ。譲治さまは、秀吉さまの血が濃いみたいですから、気をつけないとおデブさんになっちゃいます。」
【譲治】「じゃあ紗音は、僕がおデブになったら、嫌いになっちゃう…? 僕は、たとえ紗音がおデブになっちゃっても、嫌いにならないよ。」
【紗音】「そ、そういう意味じゃなくて…。ちゃんと体を気遣わないと健康にって…、あぅ。」
【譲治】「母さんにもよく注意されるよ。やっぱり僕も、太極拳とかを始めて運動しないと駄目かなぁ。」
【紗音】「ダイエットは無茶な運動よりも、食生活の見直しから始めた方がいいんですよ。その上で運動を重ねないと、効果が出ないんだそうです。」
【譲治】「つまりそれは、デザートのケーキは控えろってことだね。じゃあ仕方ないから、紗音がそのケーキを頬張るところを眺めていてあげるよ。」
【紗音】「えっと、その、………。……ケーキまるまるひとつはさすがに食べ過ぎだと思いますけど、……半分くらいだったら大丈夫かもしれません。これ、本当に美味しいんですよ。」
紗音が自分のケーキを切り分け、それを僕のサラダの皿に移そうとする。美味しいケーキの味を、僕と共有したいに違いない。
なのに敢えて僕は、意地悪にその皿を引っ込めて遠ざける。
彼女は目をぱちくりさせる。ケーキはいらないという意思表示なのか、量りかねているようだった。だから僕は、ウィンクしながら口を、あ〜んと開ける。
【紗音】「くすくす。それが一番したかったんですね。……もう、譲治さまは甘えん坊です。はい、あ〜ん。」
恥らうような、呆れるような表情を浮かべながら、彼女はフォークでそれを差し出す。
ぱく。それはどこにでもあるような安っぽいチョコレートケーキの味。でも、格別。
だって、こんなにも馬鹿ップルの見本みたいな恥ずかしい真似でケーキをねだるのが、僕の長年の夢だったのだから。だから、このケーキの味はまさに極楽の味わい…。
いつか地球が滅ぶのが運命だというなら、それが今この瞬間でも悔いはない。……そんな至福の時間だった。
海岸
その後、僕らは海岸を歩きながら、貝殻を拾ったり、波から逃げたりしてはしゃぎあった。
結局、空は曇天のままで晴れなかった。でも、僕たち二人の目には、共に真っ青な海が映っていたと信じてる。
【紗音】「………何だか、幸せ過ぎて、…怖くなります。」
【譲治】「たまに言うね。何を怖がることがあるんだい?」
【紗音】「…私、………右代宮家にお仕えする使用人です。そんな私が、右代宮家に連なる方と、…こうしてご一緒してるなんて…。その、………過ぎたことのように思えて。」
【譲治】「僕もびっくりしてるよ。紗音ちゃんと出会ったのは、昨日今日のことじゃない。何年も前から面識もある。でも、年に何度もない親族の会合の席で挨拶をするだけ。…そんな君とこうして一緒に過ごせる関係になるなんて、全然想像できなかったよ。それは紗音もでしょ?」
【紗音】「えっと、……私は、……その…。」
【譲治】「ん?」
【紗音】「……想像だけは、……してました。いえそのあの! 想像というよりは、その、……妄想みたいなもので……。いつも紳士的で思いやりのある、譲治さまとご縁があったらなって、……その、妄想してただけで……。」
【譲治】「じゃあ、僕たちの縁は、君のその信じた心のお陰だね。想う力には魔法が宿るんだよ。だから、その魔法がきっと、僕らを巡り合わせてくれた。」
【紗音】「………そうですね。…多分きっと、……それは本当に魔法だったんだと思います。」
【譲治】「でもね、そんなことはないんだよ。僕の中でも、毎年出会う度に美しく見違えていった君の存在は、とても大きくなっていた。そして、君にとっての僕も同じものだとしたなら、今日ここに僕らがあることは必然の結果であって、魔法や奇跡なんかじゃないのさ。」
【紗音】「……………うぅん。奇跡はあったんです、譲治さま。」
彼女は海の向こうを見ながら、波打ち際に足を止める。
【譲治】「……奇跡?」
【紗音】「うぅん、魔法。…あったんです。」
たまに見せる、彼女のちょっぴりミステリアスな表現が僕を戸惑わせる。
【譲治】「……魔法、が?」
【紗音】「はい、魔法です。………言っても信じてくれないでしょうから、言いません。でも、確かにその魔法には、私と譲治さまを巡り合わせてくれる奇跡を叶える力がありました。」
【譲治】「それは何かのおまじないのこと?」
【紗音】「そうですね。そういうものの類かもしれません。…ひとつ違うのは、おまじないなんかじゃなく、…本当に本当の、魔法だったという点です。」
【譲治】「…ふぅん?」
出会いを、奇跡や偶然で修飾したがるのは紗音に限らず、女の子の普遍的な考え方なんだろうか。男の僕にとって、女の子との出会いは、気に入られようとする70%の努力と、20%の勇気。そして10%の偶然。彼女が全てだと信じるものは、僕の中では全体を占めるウェートが少ない。…そういう考え方自体が、男性的で打算的なのだろうか。
でも、それを口に出して言えば、どんな魔法も解けてしまう。僕たちがこういう関係になるまでには、たくさんの偶然や歩み寄り、双方のたくさんの努力があったと思う。それら全ての積み重ねの上に、今の二人きりの幸せな時間があり、それを魔法と呼ぶならば、彼女の言い方は決しておかしなものではない。
だから僕は言ってやる。
【譲治】「そうだね。……同じ運命を百回繰り返したら、僕と君がこういう関係になる結果は、一度しか起こらないものだったかもしれないね。互いを意識し合いながらも、僕たちは他人行儀な関係を今も続けていたかもしれない。そんな他所の世界の僕らから見れば、今の僕たちはまさに奇跡のような関係に違いないだろうから。」
【紗音】「そういうのじゃなくて…。……本当に魔法なんです。…男の方に、いくら言ってもこういうのは信じてもらえないんでしょうか。嘉音くんも全然信じてくれませんし。」
【譲治】「…信じるよ。……僕が信じなくて、魔法が解けたら嫌だからね。」
【紗音】「譲治さま…。」
君の魔法を蔑ろにするようなことを言ってごめんねと、僕は小さな声で告げる。その言葉は、紗音にとってとても嬉しいもののようだった。愛の魔法を、二人が信じてくれたなら、それは永遠のものだから。
【譲治】「そうそう。僕からわがままがひとつあるんだけど、聞いてもらえないかな。」
【紗音】「…はい? 何でしょうか。」
【譲治】「その譲治さまって呼び方。嫌いじゃないけど、もうなしにしないかい?」
【譲治】「もちろん、右代宮家では体面もあるだろうから、六軒島での普段まで強制はしないよ。でも、二人きりの時はなしにしよう。うん、そういうルールにしよう。」
【紗音】「ル、ルールですか…。も、もし破ったらどうなるんでしょう…?」
【譲治】「そうだね。ルール違反には、何か罰ゲームがないといけないかもしれないね。…そうだな、何がいいかな。……聞きたい?」
【紗音】「い、いえ、聞きたくありません…。」
【譲治】「あはははははは。何がいいか、僕も考えておくことにするよ。」
【紗音】「はい。……譲治、…さん。」
【譲治】「…うん。素敵な響きだね。嬉しいよ、紗音。」
【紗音】「わ、……私も、……紗代という、………名前があります。」
【譲治】「そっか。ルールはフェアじゃないといけないね。僕もそれを守って、今から君のことを、紗代と呼ぶことにするよ。いいね? 紗代…?」
【紗音】「は、はい。」
彼女の肩を抱き寄せる。華奢な体が、強引に抱き寄せられて、まるで人形のように僕の胸に飛び込んだ。その頭を抱え込みながら、二人して水平線を見る。
【譲治】「真っ青な海だね。この海を、二人で見られて、とても嬉しいよ。」
【紗音】「……私もです。この真っ青な海を、あなたと二人で見ることができて、とても嬉しいです。」
僕たちは、小雨すらぱらつき始めている灰色の海を眺めながら、互いの鼓動をいつまでも確かめ合うのだった…。
EP2は紗音のサイドストーリーから始まる。これについてはゲーム盤の外とみなし、別の色で表示しておく。
なお、このデートの時期は1986年、事件が起きる年の夏。
なお、このデートの時期は1986年、事件が起きる年の夏。
鎮守の社
私の耳を浸すのは波の音。…いいえこれは、荒れ狂う波の音。痛いくらいに冷たい飛沫を浴びたこの身が忘れさせない。
あれは私の古き運命が割って砕かれた日の記憶。
かつての私にとっての明日は、文字通り鏡のようなものだった。
そこにはいつも、今日の私が映っている。……今日とまったく変わることのない明日。それが私の古き運命だった。
…その時、鏡の向こうに、私は初めて別の運命を見た。
魔女が囁きかける。知恵の実をかじりなさいと誘惑する。神の楽園に居続ける限り、私は家具のままだと苛む。
そして私は愛を知り、人となることを選ぼうとする。……それは甘く蕩けるような蜜の日々だけれども、……新しい苦悩の日々の始まりだと、今は気付けない……。
私は、教えてもらったばかりのモーターボートで、この小島にやって来た。いや、小島とは到底呼べない。岩礁と呼んだ方が正しいだろう。
そこには鳥居があり、鎮守の祠があった。恐らく、六軒島の守り神を祀っているのだろう。……意味はわからずとも、神聖な意味が込められていることは理解していた。
私はこのような場所にもかかわらず、私の姿を誰かが見咎めていないか、もう一度だけ見回す。……見えるのは荒れる海原と遠くに霞む新島、そしてそそり立つ崖に波を砕いている六軒島だけだった。
私は意を決し、……恐る恐る祠に近付き、…そこに納められている鏡を手に取る。
それは古ぼけて曇り、薄汚れた鏡。……普通の鏡だったら、それは価値を酷く貶めて感じさせるだろう。…しかし、この祠に納められている鏡に限っては、むしろそれが何かの神格を感じさせた。
……そして自覚する。
これはただの鏡じゃない。…無信仰な自分には古ぼけた鏡に過ぎなくても、本来は大切な意味のある鏡だ。……それを、甘言に乗せられて割ってしまってもいいのだろうか。
……ううん、これは鏡じゃない。…これは逃れえぬ今日までの私の人生、そして運命。
これを、割るんだ。
割って、……鏡の向こうの人生を掴み取るんだ。割らなければ、私の人生は永久に合わせ鏡。何もわずかも変わることはない…。
魔女が囁きかける。知恵の実をかじりなさいと誘惑する。あるいは、私はもうその実を口にしてしまっているのかもしれない。
あの狂おしい感情を、知ってしまったから。アダムとイヴが、イチジクの葉をむしらずにはいられなかったように。私ももう、……この鏡を割らずにはいられないのだ。
今日まで何日も葛藤と戦った。自分の中の、善なる自分と魔女に与する自分と何度も戦った。
そして、ここにいる。ここにいる私は、勝ったのか、負けたのか。
ひとつ、わかったことがある。何かを得るには、失う覚悟がなければならない。何も失おうとせず、変えようともしない臆病者に、新しい未来を切り開く鍵は決して与えられることはないのだ。
鍵は、すでに私の手中にある。それは、これを、割ること。割ること。
六軒島に閉じ込められた家具の私に、他にできる努力が? ない。これしか、ない。
さぁ、勇気を。そして私を家具から解放しよう。そして新たな苦しみを受け入れることで、人間となろう。これは自分に課す、きっと小さくて大きな試練。さぁ、……割れ。私を閉じ込める永遠に変わりなき運命を、叩き割れ……!
それを振り上げ、………私は、今日までの葛藤の日々を思い返し、……それに見合わぬほどわずかな時間で回想を終えて、……叩き付けた。
雷鳴がうなり、…私が大それたことをしたと咎める。…それはまさに、永遠の楽園から私を追放しようとする天使の怒り。
私は、真っ二つに割れて足元に転がる鏡を見下ろし…、自分が確かにそれを成し遂げたことを確認してから、……荒れ狂う空を見上げて叫んだ。
【紗音】「…や、……………約束は、……守りました…。……今度は、………あなたが約束を守ってくれる番ですよね……?」
もう一度雷鳴が轟く。…もう私は楽園を追放されている。だから、生きるために、自分で足掻かなくちゃならない。
魔女は言った。それは世界の一なる元素。それを失うとは即ち、世界を失うということ。…汲めど汲めど満たされぬ穴の空いた水筒に同じ…。
【紗音】「……約束は守りました。………今度はあなたが約束を守る番です。……私の願いをどうか叶えてください! ベアトリーチェさまぁあッッ!!」
私の耳を浸すのは波の音。…いいえこれは、荒れ狂う波の音。痛いくらいに冷たい飛沫を浴びたこの身が忘れさせない。
あれは私の古き運命が割って砕かれた日の記憶。
かつての私にとっての明日は、文字通り鏡のようなものだった。
そこにはいつも、今日の私が映っている。……今日とまったく変わることのない明日。それが私の古き運命だった。
…その時、鏡の向こうに、私は初めて別の運命を見た。
魔女が囁きかける。知恵の実をかじりなさいと誘惑する。神の楽園に居続ける限り、私は家具のままだと苛む。
そして私は愛を知り、人となることを選ぼうとする。……それは甘く蕩けるような蜜の日々だけれども、……新しい苦悩の日々の始まりだと、今は気付けない……。
私は、教えてもらったばかりのモーターボートで、この小島にやって来た。いや、小島とは到底呼べない。岩礁と呼んだ方が正しいだろう。
そこには鳥居があり、鎮守の祠があった。恐らく、六軒島の守り神を祀っているのだろう。……意味はわからずとも、神聖な意味が込められていることは理解していた。
私はこのような場所にもかかわらず、私の姿を誰かが見咎めていないか、もう一度だけ見回す。……見えるのは荒れる海原と遠くに霞む新島、そしてそそり立つ崖に波を砕いている六軒島だけだった。
私は意を決し、……恐る恐る祠に近付き、…そこに納められている鏡を手に取る。
それは古ぼけて曇り、薄汚れた鏡。……普通の鏡だったら、それは価値を酷く貶めて感じさせるだろう。…しかし、この祠に納められている鏡に限っては、むしろそれが何かの神格を感じさせた。
……そして自覚する。
これはただの鏡じゃない。…無信仰な自分には古ぼけた鏡に過ぎなくても、本来は大切な意味のある鏡だ。……それを、甘言に乗せられて割ってしまってもいいのだろうか。
……ううん、これは鏡じゃない。…これは逃れえぬ今日までの私の人生、そして運命。
これを、割るんだ。
割って、……鏡の向こうの人生を掴み取るんだ。割らなければ、私の人生は永久に合わせ鏡。何もわずかも変わることはない…。
魔女が囁きかける。知恵の実をかじりなさいと誘惑する。あるいは、私はもうその実を口にしてしまっているのかもしれない。
あの狂おしい感情を、知ってしまったから。アダムとイヴが、イチジクの葉をむしらずにはいられなかったように。私ももう、……この鏡を割らずにはいられないのだ。
今日まで何日も葛藤と戦った。自分の中の、善なる自分と魔女に与する自分と何度も戦った。
そして、ここにいる。ここにいる私は、勝ったのか、負けたのか。
ひとつ、わかったことがある。何かを得るには、失う覚悟がなければならない。何も失おうとせず、変えようともしない臆病者に、新しい未来を切り開く鍵は決して与えられることはないのだ。
鍵は、すでに私の手中にある。それは、これを、割ること。割ること。
六軒島に閉じ込められた家具の私に、他にできる努力が? ない。これしか、ない。
さぁ、勇気を。そして私を家具から解放しよう。そして新たな苦しみを受け入れることで、人間となろう。これは自分に課す、きっと小さくて大きな試練。さぁ、……割れ。私を閉じ込める永遠に変わりなき運命を、叩き割れ……!
それを振り上げ、………私は、今日までの葛藤の日々を思い返し、……それに見合わぬほどわずかな時間で回想を終えて、……叩き付けた。
雷鳴がうなり、…私が大それたことをしたと咎める。…それはまさに、永遠の楽園から私を追放しようとする天使の怒り。
私は、真っ二つに割れて足元に転がる鏡を見下ろし…、自分が確かにそれを成し遂げたことを確認してから、……荒れ狂う空を見上げて叫んだ。
【紗音】「…や、……………約束は、……守りました…。……今度は、………あなたが約束を守ってくれる番ですよね……?」
もう一度雷鳴が轟く。…もう私は楽園を追放されている。だから、生きるために、自分で足掻かなくちゃならない。
魔女は言った。それは世界の一なる元素。それを失うとは即ち、世界を失うということ。…汲めど汲めど満たされぬ穴の空いた水筒に同じ…。
【紗音】「……約束は守りました。………今度はあなたが約束を守る番です。……私の願いをどうか叶えてください! ベアトリーチェさまぁあッッ!!」
ゲーム盤であれば幻想描写に相当する場面。これはサイドストーリーの中なので、また別の色で表示する。
実際には、紗音はここで爆薬の実験をしている。島を吹き飛ばす爆弾が健在かどうかを確かめるため、鎮守の社を爆破した。
実際には、紗音はここで爆薬の実験をしている。島を吹き飛ばす爆弾が健在かどうかを確かめるため、鎮守の社を爆破した。