うみねこのなく頃に 全文解説

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EP2: Turn of the golden witch

オープニング

水族館
【紗音】「ほら譲治さま、見てください! かわいいですよ、ほらほら!」
 紗音が水槽の中に仲良く泳ぐシュモクザメのつがいを見つけ、まるで初めて水族館に来た小学生のようにはしゃぐ。
【譲治】「うん、本当にかわいいね。食べちゃいたいくらいだよ。」
【紗音】「そ、そんなの可哀想です…。知ってますか? 水族館に来て美味しそうなんて言い出すのは、世界中でも日本人だけなんだそうですよ?」
【譲治】「そうなんだ? …アメリカ人でもイタリア人でも、きっと食べちゃいたいって言うと思うよ。」
【紗音】「…え、っと……。その…。」
【譲治】「似合ってるよ、その服。本当に。」
 紗音は胸元を両手で抱え込むような仕草で恥ずかしがる。…慣れないおめかしを笑われてるに違いないと感じたようだった。譲治も、顔には出さないものの、実はあまりにとんでもないことを自分でも驚くくらいにさらりと口にしてしまい、内心は紗音に負けないくらい恥ずかしがっていた。
 でも、紗音が過剰に恥ずかしがってくれている様子を見ていると、何だか、好きな子にイタズラをしているような気持ちになって、恥ずかしさの代わりに、くすぐったい楽しさが込み上げてくる。……いや、それは適当な言い方ではないか。…だって、好きな子にイタズラをしている、そのものなのだから。
 こう言っては何だが、……かつてはこんな恥ずかしい言い回しは、今時、漫画の中にも出てこないと思ってた。それどころか、こんなことを口にするカップルがいたら、石を投げてやりたいとすら思ってた。
 しかし、今の僕たちには、たとえ石が投げつけられたとしても、祝福の紙ふぶきと同じになってしまうに違いない。
 カップルというやつが、TPOを弁えずにベタベタとしていることを僻んだ寂しい日々は、今では思い出すこともできない。古風な言い方で喩えるなら、これこそまさに薔薇色の日々…。
 文字通りデレデレする僕の眼中に、世界最大の水族館の大水槽はもはや映らない。紗音が魚たちと戯れて一喜一憂する姿を映し続けるのみだ。
【紗音】「…すごいですね……。クジラを泳がせることができる大水槽なんて、初めて見ました。」
【譲治】「この大水槽がここの最大のウリだそうだからね。何でも世界で最大なんだそうだよ。」
【紗音】「そうなんですか? それはすごいですね。……本当に素敵です。水槽じゃなくてまるで、海の一部をナイフですっと切り取ってここに運んできたみたい。」
【譲治】「そうだね。これはもう立派な、小さな海だね。」
 水槽をどんなに大きくしたって、水槽であることには変わりないと思っていた。だから、海の一部をナイフで切り取ったみたいな、という彼女の表現を面白いなと思った。
 人間というのは、どんなに見聞を広めようとも、所詮は自分ひとりの価値観しか持てない。だからこそ、異なる価値観を持つ人間と交流することはこんなにも面白いのかもしれない。
 僕は正直にそれを口にした。すると彼女は答える。
【紗音】「確かに、これは本当の海ではないかもしれません。…でも、ここに泳ぐ彼らが海だと信じたなら、これは確かに海なんです。」
【譲治】「たとえ、有限の水槽の中だったとしてもね。」
【紗音】「海だって、有限ですよ。うぅん、仮に無限だったとしても。私たちは生きている内にどれほどの広さを行き来できるんでしょうね。きっと、それは海よりずっと狭い。」
【譲治】「…確かに。皮肉な話だね。世界はこんなにも広いのに、僕たち人間のほとんどは、自分の国からも出ずに生涯を終える。」
【紗音】「そこが、完成された世界だと信じられるなら。たとえ狭い井戸の底だったって、立派な世界で、海なんです。…そこに住むカエルにとっては。」
 六軒島という、全長が10km程度の小島で使用人として日々を過ごす彼女は、微笑みながらそう言った。
レストラン
 僕たちは水族館を一通り回った後、見晴らしのいい展望レストランで少し遅い昼食を取った。
 バイキング形式に心が躍るのは、男の子だったら誰でもそうに違いない。自分だって昔はそうだった。
 でも、紗音と一緒のバイキングは違う。好きなものだけみっともなく山盛りにできない。
 何て言うのかその、…見栄えを気にしてしまい、トーストにサラダにコーヒーなんて、キザったらしいメニューにしてしまう。僕ひとりだったなら、焼きそばやマッシュポテトにグラタン等の油っぽいのを山盛りにしてるところだ。
【譲治】「紗音は、そんな程度でお腹が足りるのかい? だとしたら男ってのは本当に燃費の悪い生き物らしいね。」
【紗音】「…えっと、べ、別にそういうつもりじゃなくて……。」
 紗音のトレイには、紅茶とサラダがあるだけだ。せめてもう一皿あってもいいと思う時点で、男の胃袋の考え方なのかもしれない。
【紗音】「譲治さまこそ、それで足りるんですか? 男の方はもう少し召し上がった方が良いかと思います。…普段の譲治さまだったら、もう少しお昼を召し上がられていると思いますよ?」
【譲治】「しまった、そうか。紗音には僕が本家で昼食を取る時、どれくらい食べてるのかバレてるんだったね。」
【紗音】「はい。だから、今日はお腹の具合でも悪いのかと思いまして…。」
 紗音は体調の不良を疑ってくれる。僕の下らない見栄で心配させてしまったようだ。それに僕の胃袋は、これ以上見栄を張ることに同意してくれないようだった。
【譲治】「…いやぁ、あはは…。もう白状するよ。ついついカッコつけちゃってね…。女の子と一緒だからって、遠慮しちゃって…。」
【紗音】「だと思いました。親族会議でのお昼の食べっぷりから考えて、それではとても足りないと思いましたので。遠慮なさらずに、どうぞもう一皿を取りに行って来て下さいな。」
【譲治】「ずるいな、僕ばっかり恥ずかしいよ。じゃあ、紗音はどうなんだい? 普段からこんな小食で、右代宮家のお勤めがこなせるのかい?」
【紗音】「……え、っと、…………ぁぅ。」
 紗音は真っ赤に赤面しながら沈黙する。どうやら、見栄を張ってるのは僕だけじゃなかったらしい。それがわかり、僕の気恥ずかしさは一転する。
【譲治】「何だ、紗音もそれじゃ足りないんじゃないか。そうだよそうだよ、普段のランチなら、もう少し量が多いものをぺろりと平らげてたよ。」
【紗音】「お、女の子のお腹は魔法で出来てるから、これでも平気なんです…。ぁぅ。」
【譲治】「ということは、僕たちは互いに見栄っ張りだったってことになるね。もう遠慮はなしにしないかい。」
 僕はもう茶化さないという意味の笑顔を浮かべ、席を立ち上がる。
【譲治】「せっかく沖縄まで来たのに、ゴーヤを食べないのはもったいないからね。ゴーヤの炒め物でも持ってくるよ。紗音も一緒に行こうよ。ほらほら。」
【紗音】「あ、はい…!」
 傍から見ていたなら、僕たちは何と微笑ましく、そして何と恥ずかしい二人なのだろう。
 しかし二人になってみて初めてわかる。僕たちにとってはこのやり取りが全てで、世界なのだ。だから世界の外側の人がどんなに白い目で見たって、僕たちは気付かない。……なるほど、カップルがTPOを弁えずにイチャつきたがる心情を、この歳にしてようやく理解する。
 僕が炒め物を山盛りにした皿を持ってくると、紗音は可愛らしいケーキの載った皿を持ってきた。互いの痩せ我慢を笑いあいながら、僕たちは昼食を再開する。
【譲治】「せっかく海を一望できる展望レストランなのに、あいにくの曇天が悔やまれるね。」
 運よく座れた窓際の席は、視界に収まりきらないほどの雄大な海の景色を見せてくれた。しかし、生憎の曇り空のため、本来の美しさには程遠かった。
【紗音】「そうですね。晴れていたら、さぞや真っ青な海を見せてくれたでしょうに。」
【譲治】「そうだね。普段、六軒島で海を見慣れてると思うけど、ここの海はきっと格別な青さを見せてくれたはずだよ。…残念だなぁ。」
【紗音】「あ、でも…、お仕事の最中に見る海は、どんなに青くても灰色と同じです。でも、今日はお仕事中じゃないから、…その…。」
 紗音なりに精一杯、恥ずかしいセリフを言ってみたらしい。でも僕の点は辛い。
【譲治】「惜しいな。譲治さまと二人きりで見る海なら、たとえ灰色でも真っ青に見えます、って言えたら、百点満点でご褒美だったんだけどなぁ。」
【紗音】「え、あ、すす、すみません……。ぅぅぅぅ…。」
【譲治】「ご褒美は何だったか、聞きたい…?」
【紗音】「ぇっと、……、その、聞いてもいいものでしたら……。」
【譲治】「ダメ。教えない。あはははははは。」
【紗音】「ず、ずるいですよ、そんなの…。」
 僕は小学校の頃は、いわゆる「いじられキャラ」だった。みんなにからかわれては、オロオロ、オタオタして、そのリアクションでみんなは喜んでいた。
 あの時の自分は、どうしてみんなは僕をいじめるんだろうと思っていたが。今こうして紗音をおちょくっていてわかる。これはとても楽しいことだ。
 彼女の喜怒哀楽を、僕の思うままにできて、…しかもそれを独占できるということ。これに勝る幸福を今、他に思いつくことはできなかった。
 だからこそサジ加減。彼女を恥ずかしがらせて嫌な思いがさせたいわけじゃない。だからこの話題をこれで切り上げてあげることにする。しつこいのは良くないからね。
【譲治】「お昼が終わったら、海岸を歩いてみないかい? ひょっとすると雲が晴れて、素敵な海が見られるかもしれないよ。」
【紗音】「そうですね。行ってみたいです。」
【譲治】「うん、そうしよう。…でも、そのケーキも本当に美味しそうだね。僕も同じものを持ってこようかな。」
【紗音】「いけません…。お昼にそんなに食べた上にケーキまで食べたら、太っちゃいますよ。譲治さまは、秀吉さまの血が濃いみたいですから、気をつけないとおデブさんになっちゃいます。」
【譲治】「じゃあ紗音は、僕がおデブになったら、嫌いになっちゃう…? 僕は、たとえ紗音がおデブになっちゃっても、嫌いにならないよ。」
【紗音】「そ、そういう意味じゃなくて…。ちゃんと体を気遣わないと健康にって…、あぅ。」
【譲治】「母さんにもよく注意されるよ。やっぱり僕も、太極拳とかを始めて運動しないと駄目かなぁ。」
【紗音】「ダイエットは無茶な運動よりも、食生活の見直しから始めた方がいいんですよ。その上で運動を重ねないと、効果が出ないんだそうです。」
【譲治】「つまりそれは、デザートのケーキは控えろってことだね。じゃあ仕方ないから、紗音がそのケーキを頬張るところを眺めていてあげるよ。」
【紗音】「えっと、その、………。……ケーキまるまるひとつはさすがに食べ過ぎだと思いますけど、……半分くらいだったら大丈夫かもしれません。これ、本当に美味しいんですよ。」
 紗音が自分のケーキを切り分け、それを僕のサラダの皿に移そうとする。美味しいケーキの味を、僕と共有したいに違いない。
 なのに敢えて僕は、意地悪にその皿を引っ込めて遠ざける。
 彼女は目をぱちくりさせる。ケーキはいらないという意思表示なのか、量りかねているようだった。だから僕は、ウィンクしながら口を、あ〜んと開ける。
【紗音】「くすくす。それが一番したかったんですね。……もう、譲治さまは甘えん坊です。はい、あ〜ん。」
 恥らうような、呆れるような表情を浮かべながら、彼女はフォークでそれを差し出す。
 ぱく。それはどこにでもあるような安っぽいチョコレートケーキの味。でも、格別。
 だって、こんなにも馬鹿ップルの見本みたいな恥ずかしい真似でケーキをねだるのが、僕の長年の夢だったのだから。だから、このケーキの味はまさに極楽の味わい…。
 いつか地球が滅ぶのが運命だというなら、それが今この瞬間でも悔いはない。……そんな至福の時間だった。
海岸
 その後、僕らは海岸を歩きながら、貝殻を拾ったり、波から逃げたりしてはしゃぎあった。
 結局、空は曇天のままで晴れなかった。でも、僕たち二人の目には、共に真っ青な海が映っていたと信じてる。
【紗音】「………何だか、幸せ過ぎて、…怖くなります。」
【譲治】「たまに言うね。何を怖がることがあるんだい?」
【紗音】「…私、………右代宮家にお仕えする使用人です。そんな私が、右代宮家に連なる方と、…こうしてご一緒してるなんて…。その、………過ぎたことのように思えて。」
【譲治】「僕もびっくりしてるよ。紗音ちゃんと出会ったのは、昨日今日のことじゃない。何年も前から面識もある。でも、年に何度もない親族の会合の席で挨拶をするだけ。…そんな君とこうして一緒に過ごせる関係になるなんて、全然想像できなかったよ。それは紗音もでしょ?」
【紗音】「えっと、……私は、……その…。」
【譲治】「ん?」
【紗音】「……想像だけは、……してました。いえそのあの! 想像というよりは、その、……妄想みたいなもので……。いつも紳士的で思いやりのある、譲治さまとご縁があったらなって、……その、妄想してただけで……。」
【譲治】「じゃあ、僕たちの縁は、君のその信じた心のお陰だね。想う力には魔法が宿るんだよ。だから、その魔法がきっと、僕らを巡り合わせてくれた。」
【紗音】「………そうですね。…多分きっと、……それは本当に魔法だったんだと思います。」
【譲治】「でもね、そんなことはないんだよ。僕の中でも、毎年出会う度に美しく見違えていった君の存在は、とても大きくなっていた。そして、君にとっての僕も同じものだとしたなら、今日ここに僕らがあることは必然の結果であって、魔法や奇跡なんかじゃないのさ。」
【紗音】「……………うぅん。奇跡はあったんです、譲治さま。」
 彼女は海の向こうを見ながら、波打ち際に足を止める。
【譲治】「……奇跡?」
【紗音】「うぅん、魔法。…あったんです。」
 たまに見せる、彼女のちょっぴりミステリアスな表現が僕を戸惑わせる。
【譲治】「……魔法、が?」
【紗音】「はい、魔法です。………言っても信じてくれないでしょうから、言いません。でも、確かにその魔法には、私と譲治さまを巡り合わせてくれる奇跡を叶える力がありました。」
【譲治】「それは何かのおまじないのこと?」
【紗音】「そうですね。そういうものの類かもしれません。…ひとつ違うのは、おまじないなんかじゃなく、…本当に本当の、魔法だったという点です。」
【譲治】「…ふぅん?」
 出会いを、奇跡や偶然で修飾したがるのは紗音に限らず、女の子の普遍的な考え方なんだろうか。男の僕にとって、女の子との出会いは、気に入られようとする70%の努力と、20%の勇気。そして10%の偶然。彼女が全てだと信じるものは、僕の中では全体を占めるウェートが少ない。…そういう考え方自体が、男性的で打算的なのだろうか。
 でも、それを口に出して言えば、どんな魔法も解けてしまう。僕たちがこういう関係になるまでには、たくさんの偶然や歩み寄り、双方のたくさんの努力があったと思う。それら全ての積み重ねの上に、今の二人きりの幸せな時間があり、それを魔法と呼ぶならば、彼女の言い方は決しておかしなものではない。
 だから僕は言ってやる。
【譲治】「そうだね。……同じ運命を百回繰り返したら、僕と君がこういう関係になる結果は、一度しか起こらないものだったかもしれないね。互いを意識し合いながらも、僕たちは他人行儀な関係を今も続けていたかもしれない。そんな他所の世界の僕らから見れば、今の僕たちはまさに奇跡のような関係に違いないだろうから。」
【紗音】「そういうのじゃなくて…。……本当に魔法なんです。…男の方に、いくら言ってもこういうのは信じてもらえないんでしょうか。嘉音くんも全然信じてくれませんし。」
【譲治】「…信じるよ。……僕が信じなくて、魔法が解けたら嫌だからね。」
【紗音】「譲治さま…。」
 君の魔法を蔑ろにするようなことを言ってごめんねと、僕は小さな声で告げる。その言葉は、紗音にとってとても嬉しいもののようだった。愛の魔法を、二人が信じてくれたなら、それは永遠のものだから。
【譲治】「そうそう。僕からわがままがひとつあるんだけど、聞いてもらえないかな。」
【紗音】「…はい? 何でしょうか。」
【譲治】「その譲治さまって呼び方。嫌いじゃないけど、もうなしにしないかい?」
【譲治】「もちろん、右代宮家では体面もあるだろうから、六軒島での普段まで強制はしないよ。でも、二人きりの時はなしにしよう。うん、そういうルールにしよう。」
【紗音】「ル、ルールですか…。も、もし破ったらどうなるんでしょう…?」
【譲治】「そうだね。ルール違反には、何か罰ゲームがないといけないかもしれないね。…そうだな、何がいいかな。……聞きたい?」
【紗音】「い、いえ、聞きたくありません…。」
【譲治】「あはははははは。何がいいか、僕も考えておくことにするよ。」
【紗音】「はい。……譲治、…さん。」
【譲治】「…うん。素敵な響きだね。嬉しいよ、紗音。」
【紗音】「わ、……私も、……紗代という、………名前があります。」
【譲治】「そっか。ルールはフェアじゃないといけないね。僕もそれを守って、今から君のことを、紗代と呼ぶことにするよ。いいね? 紗代…?」
【紗音】「は、はい。」
 彼女の肩を抱き寄せる。華奢な体が、強引に抱き寄せられて、まるで人形のように僕の胸に飛び込んだ。その頭を抱え込みながら、二人して水平線を見る。
【譲治】「真っ青な海だね。この海を、二人で見られて、とても嬉しいよ。」
【紗音】「……私もです。この真っ青な海を、あなたと二人で見ることができて、とても嬉しいです。」
 僕たちは、小雨すらぱらつき始めている灰色の海を眺めながら、互いの鼓動をいつまでも確かめ合うのだった…。
 EP2は紗音のサイドストーリーから始まる。これについてはゲーム盤の外とみなし、別の色で表示しておく。
 なお、このデートの時期は1986年、事件が起きる年の夏。
鎮守の社
 私の耳を浸すのは波の音。…いいえこれは、荒れ狂う波の音。痛いくらいに冷たい飛沫を浴びたこの身が忘れさせない。
 あれは私の古き運命が割って砕かれた日の記憶。
 かつての私にとっての明日は、文字通り鏡のようなものだった。
 そこにはいつも、今日の私が映っている。……今日とまったく変わることのない明日。それが私の古き運命だった。
 …その時、鏡の向こうに、私は初めて別の運命を見た。
 魔女が囁きかける。知恵の実をかじりなさいと誘惑する。神の楽園に居続ける限り、私は家具のままだと苛む。
 そして私は愛を知り、人となることを選ぼうとする。……それは甘く蕩けるような蜜の日々だけれども、……新しい苦悩の日々の始まりだと、今は気付けない……。
 私は、教えてもらったばかりのモーターボートで、この小島にやって来た。いや、小島とは到底呼べない。岩礁と呼んだ方が正しいだろう。
 そこには鳥居があり、鎮守の祠があった。恐らく、六軒島の守り神を祀っているのだろう。……意味はわからずとも、神聖な意味が込められていることは理解していた。
 私はこのような場所にもかかわらず、私の姿を誰かが見咎めていないか、もう一度だけ見回す。……見えるのは荒れる海原と遠くに霞む新島、そしてそそり立つ崖に波を砕いている六軒島だけだった。
 私は意を決し、……恐る恐る祠に近付き、…そこに納められている鏡を手に取る。
 それは古ぼけて曇り、薄汚れた鏡。……普通の鏡だったら、それは価値を酷く貶めて感じさせるだろう。…しかし、この祠に納められている鏡に限っては、むしろそれが何かの神格を感じさせた。
 ……そして自覚する。
 これはただの鏡じゃない。…無信仰な自分には古ぼけた鏡に過ぎなくても、本来は大切な意味のある鏡だ。……それを、甘言に乗せられて割ってしまってもいいのだろうか。
 ……ううん、これは鏡じゃない。…これは逃れえぬ今日までの私の人生、そして運命。
 これを、割るんだ。
 割って、……鏡の向こうの人生を掴み取るんだ。割らなければ、私の人生は永久に合わせ鏡。何もわずかも変わることはない…。
 魔女が囁きかける。知恵の実をかじりなさいと誘惑する。あるいは、私はもうその実を口にしてしまっているのかもしれない。
 あの狂おしい感情を、知ってしまったから。アダムとイヴが、イチジクの葉をむしらずにはいられなかったように。私ももう、……この鏡を割らずにはいられないのだ。
 今日まで何日も葛藤と戦った。自分の中の、善なる自分と魔女に与する自分と何度も戦った。
 そして、ここにいる。ここにいる私は、勝ったのか、負けたのか。
 ひとつ、わかったことがある。何かを得るには、失う覚悟がなければならない。何も失おうとせず、変えようともしない臆病者に、新しい未来を切り開く鍵は決して与えられることはないのだ。
 鍵は、すでに私の手中にある。それは、これを、割ること。割ること。
 六軒島に閉じ込められた家具の私に、他にできる努力が? ない。これしか、ない。
 さぁ、勇気を。そして私を家具から解放しよう。そして新たな苦しみを受け入れることで、人間となろう。これは自分に課す、きっと小さくて大きな試練。さぁ、……割れ。私を閉じ込める永遠に変わりなき運命を、叩き割れ……!
 それを振り上げ、………私は、今日までの葛藤の日々を思い返し、……それに見合わぬほどわずかな時間で回想を終えて、……叩き付けた。
 雷鳴がうなり、…私が大それたことをしたと咎める。…それはまさに、永遠の楽園から私を追放しようとする天使の怒り。
 私は、真っ二つに割れて足元に転がる鏡を見下ろし…、自分が確かにそれを成し遂げたことを確認してから、……荒れ狂う空を見上げて叫んだ。
【紗音】「…や、……………約束は、……守りました…。……今度は、………あなたが約束を守ってくれる番ですよね……?」
 もう一度雷鳴が轟く。…もう私は楽園を追放されている。だから、生きるために、自分で足掻かなくちゃならない。
 魔女は言った。それは世界の一なる元素。それを失うとは即ち、世界を失うということ。…汲めど汲めど満たされぬ穴の空いた水筒に同じ…。
【紗音】「……約束は守りました。………今度はあなたが約束を守る番です。……私の願いをどうか叶えてください! ベアトリーチェさまぁあッッ!!」
 ゲーム盤であれば幻想描写に相当する場面。これはサイドストーリーの中なので、また別の色で表示する。
 実際には、紗音はここで爆薬の実験をしている。島を吹き飛ばす爆弾が健在かどうかを確かめるため、鎮守の社を爆破した。

「家具」

 私は回想している。
 今日という日の幸せを、想像するのもやっとだった日々を。当時の私は中学生。歳相応に色恋を想像することもある、普通の少女だった。
 でも、私はその夢を、本当は見てはいけなかった。
 …なぜなら、私は「家具」だからだ。家具は道具に過ぎず、人間ではない。人間未満の私は、義務教育に行かせてもらえただけでも十分すぎる幸せだったのだ。だから恋なんて、本当は知ろうと思うこと自体が身に過ぎたことのはずだった…。
客間
 右代宮家の親族会議は毎年10月に行なう恒例的なものだが、それ以外の時に親類たちが訪れることもあった。…もちろん、お茶を飲みに来るわけでもないのだが。
 この日は、絵羽の一家が、六軒島の本家を訪れていた。客間には、蔵臼の一家3人と絵羽の一家3人が揃い、近況を報告しながら談笑しているところだった。
 絵羽たちの到着を、源次が金蔵に伝えたはずなのだが、なかなか降りてこない。…おそらく、自分の「研究」に没頭していて、手を離す気がないのだろう。それはよくあることなので、彼らは気まぐれな父が降りてくるまでのんびり待つのだった。
【蔵臼】「ほぅ。それは頼もしいじゃないか。お父さんのところでたくさん勉強して、早く手助けができるよう、頑張りたまえ。」
【譲治】「ありがとうございます。今は父の紹介で、たくさんの人生の先輩方に本当に貴重な勉強をさせていただいています。そのいずれも、学校では学べないことばかりです。」
【秀吉】「学校で習うのは国語算数やない。モノを学ぶ姿勢と態度を学ぶんや。その基礎ができて、ようやく生涯をかけた勉強が始まるんやで。」
【秀吉】「ここをな、勘違いしとるヤツは、生涯学べん石頭や。国語算数で満点取れても、会社じゃ役に立たへん!」
【蔵臼】「ふむ、まったくその通りだよ。秀吉さんの教育方針はいつも本当にご立派ですな。」
【秀吉】「譲治もまだまだ半人前や! それを常に忘れんで、勉強に励むんやで。」
【絵羽】「よしなさいよあなた。譲治はいっつも一生懸命、頑張ってるわよぅ。ねぇ?」
【夏妃】「本当に立派ね。うちの朱志香にも爪の垢をわけてもらいたいわ…。」
【朱志香】「…ちぇー。まぁだ、テストの結果を根に持ってるのかよ。受験勉強は私なりにやってるって。こんな席でまで言うこたねぇだろうよ。うぜーぜ。」
 勤勉な譲治を讃える話の流れは、大抵、勉強嫌いの朱志香にお鉢が回ってくることになる。やっぱりこっちに振られたかと、朱志香は露骨に嫌そうな顔をする。
【蔵臼】「やれやれ…。朱志香は勉強と一緒に、少しはお淑やかな言葉遣いも学ぶ必要があるんじゃないかね? 右代宮家の家紋を背負う一人娘が、それではみっともないな。」
【絵羽】「あぁら、これはこれで魅力的よぅ、ねぇ? 時代は変わるのよ。男に食わしてもらうために貞淑を装わなくてはならなかった時代はとっくに終わってるんだから。」
【朱志香】「そうそう! やっぱ絵羽叔母さんはわかってますねー! えへへへ!」
【夏妃】「……はぁ…。今日は頭痛が特に堪えます。」
【譲治】「大丈夫ですか? 夏妃伯母さん、顔色が優れないみたいです。」
【夏妃】「ありがとう、大丈夫です。……でも、本当に月日が経つのは早いものね。半ズボン姿で浜辺を駆け巡って、ずぶ濡れになって帰ってきた日が、ついこの間のように思います。」
【絵羽】「それは朱志香ちゃんも同じよねぇ? 今じゃ、お化粧の仕方にだってこだわるレディなんだから。眉にこだわりがあるのね、今日のあなた、とってもキュートよ。」
【朱志香】「ありがとうございます。誰も気付いてくれなかったんで、自信なくしてたとこです。」
 朱志香は、自分の「勉強」の成果をようやく気付けてもらえて、満面の笑みを浮かべる。絵羽もそれに同じくらいの笑みを返した。…そして、その笑みを夏妃にも向ける。
【絵羽】「駄目よぅ、夏妃姉さん? 自分の子の小さな変化にも気付かなくちゃ。可哀想な朱志香ちゃん。一番最初にお母さんに気付いてもらいたかったでしょうに〜、ねぇ?」
【朱志香】「いいんですいいんです。あの人、そういうの全然気付かない人なんで。」
【蔵臼】「朱志香。母親をあの人呼ばわりとは感心できんね。謝りなさい。」
【夏妃】「……言葉遣いについては、あとでよく言って聞かせます。」
【朱志香】「ちぇ…。お子様は邪魔だってんならそう言ってくれよ。私ゃ席を外させてもらうぜ。ここは空気が澱んでるぜ。」
【夏妃】「朱志香…!」
 朱志香だって、受験を控えたナーバスな年頃だ。最近は教育熱心な母親と激突することが多かった。
【紗音】「失礼いたします…。きゃ?!」
 不機嫌に客間を出て行こうとする朱志香と、お茶を積んだ配膳台車を押してきた紗音が鉢合わせする。
【朱志香】「あ、紗音。私の分のお茶はいらないぜ。私は庭でもほっつき歩いてくる。」
【紗音】「…お、お嬢様…。」
【夏妃】「紗音、お茶が冷めます。配膳を急ぎなさい。」
【紗音】「しっ、失礼しました…。」
 紗音に非があったわけではないが、身内の恥を見られたような気持ちになり、つい夏妃は感情的な言葉をぶつけてしまう。…右代宮家ではよくあること。しかし、そう思って割り切れるほど紗音はたくましくはないようだった。
 すっかり萎縮してしまい、おどおどとしながら紅茶の準備をする。萎縮すると、ミスが多くなるのは彼女の気の毒な癖だった。
 その痛々しい様子に、つい先ほどまでの和やかな雰囲気は霧散してしまう。それは紗音のせいではないはずだが、紗音にはまるで自分が元凶のように感じられて、胸が締め付けられた。
 震える指は、カチャカチャと食器を鳴らしてしまい、お世辞にも優雅とは言えない。それを気の毒に思えば気の毒に思うほど、場は沈黙し、夏妃はそれにイラついているように見え、さらに紗音を萎縮させる…。紗音のか細い首は、緊張感という死神に締め付けられて窒息してしまいそうだった。
 その時、譲治が、硬くなった場の空気を吹き飛ばすように、愉快そうに言った。
【譲治】「これはいい香りだね。何の紅茶かな。」
【紗音】「えっと、………これは……。」
【譲治】「うぅん、言わないで。当てるから。これは特徴的な匂いだから多分わかるよ。……アールグレイ、かな?」
【紗音】「た、多分、そうだと思います…。」
【譲治】「あはははは。多分、アールグレイであってるよ。台所に戻ったら紅茶の缶を見てごらん。」
【蔵臼】「ほぅ。譲治くんは紅茶に詳しいのかね?」
【譲治】「お世話になっている社長さんに紅茶の詳しい人がいまして。講釈を聞いている内に少しだけわかるようになりました。」
【秀吉】「あぁあぁ、小此木食品の社長さんかい。あの人、そういうウンチクは得意やなぁ!」
【絵羽】「紅茶の名前って産地を示すことが多いんでしょう? じゃあこれは、アールグレイという土地で栽培されたのが由来なのかしらね?」
【譲治】「昔、イギリスにグレイ伯爵という人がいたそうで、その人にちなんで付けた名前だそうだよ。ちなみに、この特徴的な匂いは茶葉のものではなくて、ベルガモットというミカンの親戚に当たる果物で付けたものなんだって。」
【夏妃】「そうなの。初めて知りました。そういう知識を持っていると、紅茶もより美味しくいただけますね。」
【秀吉】「酒も煙草も同じや。嗜好品はロマンを嗜むもんやで。こういうウンチクが、味わいを深めるんや。」
【絵羽】「薬の能書きと同じよね。夏妃姉さんも、愛用してる頭痛薬の説明書、今度はじっくり読んでから飲んでみなさいよ。くすくすくすくす。」
【蔵臼】「はっはっはっは! それはいい。今夜試してみなさい。」
【夏妃】「…えぇ、試してみます。」
【譲治】「紗音ちゃん、そのポットを開けてごらん。茶葉の中に、ベルガモットを乾燥させた物が混じっているのを見つけられるはずだよ。」
【紗音】「あ、……はい。入っています。オレンジの皮を乾燥させたような物が混じっています。」
【譲治】「うん。多分これがベルガモットだね。アールグレイの香りの主成分だよ。匂いは鮮烈だから味がキツそうな印象があるけど、素直で飲みやすい味なんだよ。ミルクティーにすると香りもまろやかになって素敵かもしれないね。みんなに注いでポットに余った分があったら、ぜひミルクティーにして飲んでみるといいよ。」
【紗音】「ぁ、…はい…。ありがとうございます…。」
 譲治が小さなウィンクをよこす。紗音はようやく、場の空気を和ますために、譲治が気を遣ってくれたのだと気付く。それも、萎縮していた彼女のために。
 右代宮家は、使用人に対して甘やかさない。だから不手際があれば厳しく罰せられる。なので、こんな風に助け舟をもらえることは滅多になかった。
 紗音は譲治の気遣いのお陰で、何とか気を取り直し、無事に配膳を終えることができた。落ち着いてこなせば、何事も優雅にそつなくこなせるのだ。
 テーブルの上に紅茶が並び、優美な香りを漂わせる頃には、場はすっかり元通りになり、譲治の博識を讃えるような和やかなムードになっていた。
 紗音は、助けてくれたことにお礼を言いたかったが、それを伝える機会はなさそうだった。だからせめて、心の中で感謝し、それが伝わってくれるよう、神様に祈りつつ、配膳台車を押して退出した。
薔薇庭園
【朱志香】「譲治兄さんは、昔からそういう時には助け舟を出してくれるんだよ。話題をさらりと変えてくれるというかさ。」
 紗音と朱志香の姿は薔薇庭園にあった。母親と口喧嘩をしてしまった朱志香は、今更ノコノコと客間には戻れず、こうして時間を潰しているのである。
【紗音】「……思い返せば、こういう助けられ方をしたのは、今回が初めてじゃない気がします。」
 粗相をしてしまって、そこに譲治が居合わせた時。彼はいつも、自然に場を取り繕うようにして和ませてくれていたように思う。
 …それは例えば、落としたフォークを一緒に拾ってくれるような直接的なものではないかもしれない。でも、それこそが彼なりの気遣いだったのだ。使用人にも誇りがある。自分のミスは自分で片付けたい。…それを客人に手伝われては、立つ瀬がなくなってしまうのだから。
【朱志香】「そういう空気を読むのが得意なんだろうぜ。まぁ、譲治兄さんの美学なんだろうよ。あの人、妙にキザったらしいところあるからな。あははははは。」
【紗音】「そ、そんなことありません…。…とっても素敵な方だと思います。」
【朱志香】「んー…?! ……ひょっとして紗音、譲治兄さんに惚れたぁ?」
 紗音が珍しく、ちょっぴり強い口調で朱志香の言葉を遮ったので、朱志香はすぐにピンとくる。
【紗音】「いえっ、…そういうことはない、かと……。」
【朱志香】「そういや、譲治兄さんって、あまり浮いた話を聞いたことないし。あれ? 確か以前、家庭的な子がタイプだとか前に聞いたかな? そりゃいいぜ、紗音ぴったりじゃん!」
【紗音】「わわ、私がですか…?! そんな、…私にはその、…そんな資格、ありませんし…。」
【朱志香】「資格はあるぜー? 何年も昔から顔を合わせてて半ば幼馴染状態。互いに男女であることを意識しないナチュラルな関係ってのは、一度意識し始めるとトントン拍子らしいぜ? うんうん!」
 朱志香は、ティーン向けのその手の雑誌が大好きで、いつも電話で友人たちとそういう話で盛り上がっていた。だからこの手の色恋の話には敏感なのだ。だから、この手の話を振られるのも、紗音は初めてではない。
 でも、譲治のことを異性として意識したのは、確かにこれが初めてだった。
 自分は家具で、譲治は右代宮家に連なる大切な賓客。……それ以上の関係なんて、想像することすら許されないと思ってきた。だから考えなかった。
 朱志香は他人事だからと、さも愉快そうに茶化す。紗音は紅潮する頬を悟られないようにするのが精一杯だった。だから、そんなタイミングで譲治が現れたなら、冷静でいられるはずなどない。
 屋敷の玄関から、譲治が出てくるのが見えた。彼もこちらの姿に気付いたらしい。手を振りながらこちらへやってくる。紗音は、譲治がやってくるまでに普段通りの落ち着きを取り戻そうと、あたふたしなくてはならなかった…。
【譲治】「お祖父さまがやっと降りてきたよ。後は大人たちの話になるからって追い出されてね。」
【朱志香】「ははは、そりゃ抜け出して正解だよ。祖父さまの顔を拝むくらいなら、疫病神にキスした方がマシだぜ。」
【譲治】「そんな言い方は悪いよ。…ただ、お祖父さまは僕らのことを疫病神だと思っているかもしれないね。何しろ、事業用にお金を借りたいという話でやって来たんだから。」
 そう、これは毎年10月恒例の親族会議ではなかった。絵羽の一家が、本家に事業用の借金を申し込むために訪れたのである。
 金蔵は莫大な資産を持っていて、それを息子たちに貸し与えていた。もちろん、生活に困窮したからと貸す金ではない。…その借りた莫大な金を使い、どのように事業を拡大するか。どれほどの利子を付けて、いつまでに返済できるのか。持たざる者の借金とは違う。攻める者の借金なのである。
 金蔵は、資産を貸し与えるに値するかどうか、厳しく審査し、その後の運用についても厳しく監視した。だからこうして、六軒島に親族が訪れて、金蔵に事業説明を行なう光景はたまにあることだった。
 親たちにとっては、大きなお金の動く緊張の強いられる会合かもしれない。でも、六軒島という孤島に住む朱志香にとって、そんな機会は、いとこたちと会うことができる貴重なものでもあった。だから、さっき母親と喧嘩した不機嫌も、こうしてたまの客人である譲治を交えてお喋りをしていれば、すぐに直ってしまうのだ。
【朱志香】「うちもまったくケチ臭ぇぜ。カネなんて余ってるんだろうから、気前良く貸してやりゃいいのによ。うちの親父も祖父さまも、どうせネチっこく勿体ぶってんだろうぜ。」
【譲治】「お金を貸す時、慎重になるのは当然のことだよ。もちろんうちの父さんも、借り入れた分で事業を拡大し、しっかり返却できるプランを持って訪れてる。あとはプレゼンテーション次第ってところだろうね。……本当は脇で見させてもらって勉強したいんだけど。母さんに追い出されちゃったんだよ。ちょっと残念かな。」
【紗音】「……お館様は、蔵臼さまや絵羽さまのことを、今でも子どもの頃とまったく変わらないように叱られるようです。そんな姿を息子の譲治さまに、きっと見せたくないのでしょう。」
 紗音は俯きながら、普段、屋敷に仕えながら見慣れた光景を思い返す。
 兄弟たちに尊大な態度で振舞う蔵臼ですら、金蔵の前では、未だに子ども扱いなのである。…紗音も何度か、金蔵が蔵臼に、平手で打ったり、正座をさせているところを見たことがある。……いい歳にもなってそれを強いられるのは、相当の屈辱のはずだ。
 そのような現場に居合わせてしまわないよう、気を利かすのもこの右代宮家では、使用人の立派な務めだ。…もっとも、その意味では、居合わせてしまった紗音はつまり、ミスしているわけだが。
【譲治】「そうだろうね。…それを察して姿を消すのも、子どもの務め、かな。……うーん! それにしても、今年もこの庭園の花は本当に素敵だね。」
 そう言いながら譲治は大きく伸びをする。…そして、ちょっと重苦しくなった話題を、本当にさりげなく切り替える。
 紗音も今度は気付ける。……譲治という人は、こうして場の空気を敏感に読み取り、いつも和やかでいられるように話題を切り替え、気遣っていてくれたのだ。それは本当にさりげないもので、今日、意識するまでまったく気付けないものだった。
 譲治のそんな振る舞いに、今日の紗音は深く感服せざるを得なかった。紗音が知る年頃の男性は、ほとんどが義務教育時代のクラスメートだった。でも彼らはいずれも幼くて、……譲治が持つような大人の落ち着きは誰も持っていなかった。
 彼はついさっきまで客人のひとりでしかなかったはずなのに。…今の紗音には、それだけで済ましてしまうことができなくなっていた。
 でも、それは使用人としての務めには雑念。紗音は頭を小さく左右に振ってそれを追い出そうと努めた。
【朱志香】「ん? どうしたんだよ。」
【紗音】「あ、いえ、何でもありません…! あの、お茶のご用意をしましょうか? その、……先ほどのアールグレイを改めてご用意します。」
【譲治】「あはは、紅茶の名前、覚えてくれたんだね。嬉しいよ。」
【紗音】「そ、………その………、」
【譲治】「ん?」
【紗音】「…その、……さっきはお気遣いをありがとうございました…。」
 紗音は、ようやく言葉に出して先ほどのお礼を言うことができた。文字にして書き出せば、それはまるで大した言葉ではないのだけど。…紗音には、それを口にするのに、少しだけの勇気が必要だった。でも譲治は惚ける。
【譲治】「何のことだい? お礼を言われるような覚えはないけど? ふふ。」
 感謝が欲しくて助けたわけじゃないという、彼なりのジェントルマンシップらしい。譲治のその返事は、朱志香にとっては予想の範囲内だったらしい。思わず噴き出してしまう。
【朱志香】「なー? こういうところ、キザったらしいだろー?」
【紗音】「い、いえ…。そんなことは……。」
 赤面して黙り込む紗音を、朱志香は面白そうに茶化す。譲治にその経緯はわからないが、自分も同じように笑い、自然に輪に入るのだった。
 3人は、それぞれの近況を語り合いながら、庭園をのんびり歩き回った。
 譲治なら、いとこの最年長者としての人生経験など。朱志香なら最近の六軒島での生活。そして紗音なら最近の仕事ぶりなど。そういう他愛もない話がくるくるといつまでもされるのだった。
 紗音にとって譲治たちの話は、たとえ興味深いものではあっても、その内容に特別な関心を寄せたことはなかった。
 自分は使用人に過ぎず、主人たちの生活に深入りするつもりなどまったくない。ただ、自分と会話するという時間を快適に過ごしてもらいたくて、興味深く聞いて相槌を打っているふりをしているだけだ。
 でも、なぜか譲治の話が、今日はとても興味深く感じられた。普段だったら聞き流してしまうようなことにも、言葉の裏に隠れたやさしさのようなものが見付けられる気がして。なぜか、譲治のことを、どんなささやかなことでもいいから、もっと知りたいと思った。
 だから…、まじまじとその姿を見てしまう。
 右代宮譲治という人は、男性としてのルックスは、……多分、平均の部類で、特別目立つ方ではないと思う。でも、勤勉で、真面目で、…人の心がわかって、気遣ってあげられる思慮深さがある。
 でも、それを意識したことなんて、今まで一度もなかった。会った回数は決して多くないかもしれないけど、何年も前から顔を合わせている。それでも、今日まで一度も、それに気付けなかった。…だから、紗音はそれに気付けなかった自分を恥じて、頬を紅潮させた。
 譲治は、自分の話を紗音が熱心に聞いてくれると思ったのか、楽しそうに饒舌に身の上話を続ける。…でも、朱志香はそんな紗音のわずかな変化を見逃さなかった。だから、きっと紗音が一番聞きたいだろう話を自分から振ってやることにする。
【朱志香】「……そういやさぁ? 譲治兄さん、いい加減に彼女とかはできたわけ?」
【譲治】「な、何だい、藪から棒に…。」
 普通なら、譲治のその反応だけで、もう答えになっているようなものだが。なぜか、今の紗音には、それをはっきりと言葉で聞かないと理解できなかった。
【紗音】「そ、…その…。譲治さまはおやさしいですから、……さぞや、…その、……おモテになるだろうと……。」
【譲治】「いや、その、…はははははははははは。」
【朱志香】「よせよ紗音〜。そういう追い詰め方はかえって意地悪だぜー? くっくっく!」
【紗音】「わ、私は別に、意地悪のつもりは………。」
【譲治】「嬉しい勘違いをありがとう。残念だけど、特定のひとりの女性とはまだご縁がないよ。見ての通り、容姿も並以下だからね。女の子を楽しくさせてあげられるような、気の利いた話術もないし。」
【紗音】「そ、そんなことないと思います。……それに、男性の魅力は、容姿では量れないところで決まるんじゃないかと思います。だ、だからその、……譲治さまはとても、魅力的な男性じゃないかと、その、…思います…。」
 紗音が、珍しく冗長に喋る。普段の彼女を思えば、それはとても冗長だった。
 自身の魅力を力説されて譲治はまんざらでもないが、突然のベタ褒めにちょっぴりだけ驚いていた。朱志香は、自分の想像が的外れではなかったことを確信し、笑いを堪えるような仕草をする。
【譲治】「ありがとう、紗音ちゃん。僕に魅力を感じてくれるような、寛大な女性に早く巡り合いたいね。」
【紗音】「えぇ、きっと巡り合えると思います。……譲治さまの本当の魅力に気付いている女性は、きっと身、……いえ、お、大勢いらっしゃると思いますよ。」
 本当は、身近にいますよ、と言いたかったのだろう。…それを紗音は、使用人としての最後の一線を守り、はぐらかす。
【譲治】「そ、……そうかな。…さすがに、照れるね…。」
 女性にここまで褒められたことはなかったのだろう。紗音のそれに負けないくらい、譲治も真っ赤に赤面する。そんな二人を見て、朱志香は小意地悪そうにくすくすと笑うのだった。
【朱志香】「譲治兄さんも、やがては素敵なパートナーと出会うだろうけどさ。今のままじゃきっと、上手にパートナーをエスコートできないと思うぜー? 勤勉でいらっしゃるようだけど、そっちのお勉強はからっきしみたいだしよ。」
【譲治】「…わ、悪かったね。その勉強はこれから少しずつしていくよ。」
【朱志香】「相手もいないのにどうやって? 恋愛映画でも見る? それとも秀吉叔父さんに習う? くっくっくっく!」
【譲治】「ちぇ…。まるで鬼の首でも取ったみたいだなぁ。こういう話では、男は女の子に敵わないね。」
 普段、譲治と朱志香が顔を合わせると、親たちは大抵、「譲治は勤勉で偉い」「朱志香は不勉強でけしからん」という話になる。だから、珍しく立場が逆転したのが楽しくて仕方ないのだろう。譲治もそれを理解していたので、今回はいじられ役を甘んじることにしている。
【朱志香】「譲治兄さんさえいいならさ、紗音でちょっと練習してみたら? 紗音を一日、退屈させずにデートに連れてくんだよ! どうよ?!」
【紗音】「そそ、そんな…! お、お嬢様…!」
 朱志香の大胆な提案に、紗音はポン!と弾けるような音とドーナツ状の煙を上げながら赤面してしまう。
【譲治】「そ、それはとても魅力的な提案だけど、…紗音ちゃんに悪いよ。彼女の貴重な休日を奪うだけじゃない。彼女が本当に想いを寄せる人と二人きりで過ごす聖域に、僕が割り込んでしまうことになる。そんな無粋なことはできないね。」
【紗音】「わ、わ、…私も、その……、……想い人とかそういう人はいませんので、その、…そういうお気遣いは、はい、む、無用なのです…!」
 紗音はすっかり頭に血が上ってしまい、自分でも何を口走っているのかわからない様子だった。それは普段の紗音を知る朱志香にとってはとても滑稽なものらしい。もう隠すことなくけたけたと笑っていた。
【譲治】「…そ、そうなのかい…? 紗音ちゃんみたいな可愛い子が独り身なんて、信じられないね…。」
【紗音】「わたわた、私、…使用人ですからその、……男の方との縁なんて、ありませんしその…。」
【朱志香】「ってことは、紗音も将来、素敵な男性を射止めるために、交際の練習が必要だってことじゃないのかよ? つまり二人とも互いの思惑は一致するわけだ。なるほど、こりゃいいぜ、くっくっく!」
 朱志香が無責任に二人を囃し立てる。もう、紗音だけでなく譲治も赤面して俯いていた。
【絵羽】「譲治、さっきから呼んでるわよぅ? 聞こえないの?」
 そんな恥ずかしい状態で、突然、絵羽が現れたものだから、二人はさらに大慌て。見ている朱志香は大笑いだった。
【譲治】「あ、かか、母さん…! ごめんよ、話が込み入っちゃっててね。気付かなかった…!」
【紗音】「これは絵羽さま…、大変失礼しました…。」
【絵羽】「若い子たち同士で、大層盛り上がってたみたいねぇ。あなたたちもみんなお年頃だもの。そういう話題が尽きないのも、よくわかるわ。くすくすくす。」
【朱志香】「嫌ですね、絵羽叔母さんだってまだまだお若いじゃないですかー。秀吉叔父さんとの馴れ初めを聞かせてくださいよー。」
【絵羽】「あらあら、そんなの言えるわけないわよぅ。くすくすくす。本当にみんな若いんだから。くすくすくす。」
【譲治】「そ、それで何、母さん。用があって声を掛けたんじゃないの?」
【絵羽】「お父さんたちの話が終わったわ。お祖父さまにあなたの話をするからいらっしゃい。」
【譲治】「僕の話? 何の話かな。」
【絵羽】「今、みんなでしてたのと同じ話よ。ほら、例の話ぃ。」
【秀吉】「あ、…あぁ、あの話かい。別にお祖父さまに話すようなことじゃないんじゃないかな…。」
【朱志香】「何の話だよ? まさか、譲治兄さん、誰かと結婚するの?!」
【紗音】「そ、…それはおめでとうございます…!」
【譲治】「違うよ違うよ…! 特定の女性はいないってさっき言ったじゃないか。」
【絵羽】「威張ることじゃないでしょう? …まったく。」
 絵羽は苦笑いしながら少しだけ呆れる。
【朱志香】「…あ、…わかった! 譲治兄さん、アレでしょ、お見合いだ!」
【紗音】「お見合い…、ですか?」
【譲治】「……ん、……まぁね。……はははは…。」
 譲治の男性観では、パートナーは自分の力で見つけて連れ帰ってくるものに違いない。だから、親に設定された見合いの場で、パートナーと対面するというのは、ちょっぴり情けないものに感じるらしい。
【譲治】「お見合いというのは、もっと年齢が成熟してからするものじゃないのかなぁ…! 僕はまだ一人前になったって自覚すらないというのに…。」
【絵羽】「もちろん、即結納、即結婚なんて焦る気は全然ないのよ? 親睦を深めて、年齢的にもう少し落ち着いてから籍を入れる形でも問題ないの。」
 絵羽の強引な雰囲気と、譲治ののらりくらりとした雰囲気から、このお見合いの図式が少し垣間見えるようだった。
 お相手が誰かはわからないが、きっと絵羽一家にとってビジネス的に価値のある相手なのだろう。籍を入れないまでにも、婚約関係になってでも両家に縁を持たせたいという、やや政策的な雰囲気が見て取れる。
【絵羽】「結婚はね、好きになってからするものじゃないの。してから慣れることよ? 感情だけで結婚すると必ず後悔する。身元のしっかりした人を生涯の伴侶に選んで、それから愛情を築いていくのも、決して間違ったことではないの。」
【朱志香】「絵羽叔母さん、それじゃ秀吉叔父さんに悪いですよー。くっくっく!」
【絵羽】「私はあの人のこと大好きよ。いつまでも一緒にいて、人生を共にしていきたい。」
【紗音】「……絵羽さま、素晴らしいです。本当にご立派です…。」
【絵羽】「ありがとう。でも、その気持ちは二人で夫婦をしていく内に育んだものよ? そして、今の私たちより、未来の私たちの方がもっともっと仲良しだと信じてる。私は夫婦はそういうものがいいと思ってるの。」
【譲治】「だからって、好きでもない相手と結婚してもいいって論法にはならないと思うけどな。」
【絵羽】「だからって、好きな相手なら誰と結婚してもいいという論法にはならないわ。結婚は一瞬。でも、その後の夫婦生活はずっとずっと長いの。だから、一時の感情に任せず、慎重に相手を探すべきなの。そしてそれは人生経験の未熟なあなたより、お母さんたちの方が上手くやれるとは思わない?」
【譲治】「……そ、それはそうかもしれないけど…。」
【絵羽】「あなたは私の自慢の一人息子よ。どこへ出しても恥ずかしくないくらい、立派に成長してくれたわ。…戦人くんは籍を抜け、お父様の血を引く唯一の男孫。……あなたに相応しい相手は慎重に選ばなくてはならない。」
 絵羽が譲治のことを目に入れても痛くないほどに可愛がっていることは、右代宮家に縁のある者なら誰もが知っていた。しかしそれは、甘やかしてきたという意味ではない。常に厳しくしつけ、そして期待を裏切らない好男児に彼は成長した。…だから、目に入れても痛くないのだ。
【絵羽】「あなたの相手は、決して母さんたちの損得で決めてなんかいないわ。……あなたに相応しい本当に素晴らしい女性に、母さんが会わせてあげる。今は、あなたの中にある青臭い若さがそれを疎むかもしれない。……でも、これだけは母さんの言うことを聞きなさい。私があなたの為を思わなかったことが、一度でもある?」
【譲治】「…………………それは、……ないけど…。」
【絵羽】「今はそれで結構よ。さ、行きましょう。お父様を待たせてるわよ。急いで屋敷に行きなさい。」
【譲治】「じゃ、ごめんね二人とも。また後で。」
 譲治は二人に頭を下げ、…さらに一度、紗音に頭を下げてから、屋敷へ駆けて行った。
【絵羽】「じゃ、叔母さんも行くわね。楽しい話を打ち切っちゃってごめんね、朱志香ちゃん、紗音ちゃん。」
【朱志香】「い、いえいえ。気にしないでください。じゃ、紗音。私たちは行こうぜ。」
【紗音】「は、はい…!」
【絵羽】「大丈夫よ。朱志香ちゃんだって、きっとその内、素敵な出会いがあるわよ。朱志香ちゃんに相応しい、素敵な方がね。」
【朱志香】「私と同程度ってことは、ははは、成績の悪い男かな? 何だかうぜーぜ、ははは!」
【絵羽】「もちろん紗音ちゃんにもね。あなたに相応しい素敵な男性がきっと現れるわよ。」
【紗音】「は、はい! ありがとうございます…。」
 くすりと絵羽は微笑むと、内緒話を求めるように、手で覆った口元を紗音の耳に寄せた。
【紗音】「………え?」
【絵羽】「使用人風情のあなたにぴったりの相手が、きっと見付かるわよぅ。……義務教育に行かせてもらった恩も忘れて。身の程を知りなさい。」
【紗音】「………そ、…そんなつもりは…、…私…。」
【絵羽】「譲治はお父様の血を引く孫の中では嫡男に当たるのよ。ひょっとしたら未来の右代宮家を背負うことになるかもしれない人。その期待に応えるために、たくさんの勉強を重ねて素晴らしい大学に入り、素晴らしい成績を残しているわ。そんな譲治と、低学歴の無能無資格無教養な使用人風情が釣り合うと本気でお思いぃぃ?」
 悪意ある言葉が、一滴も漏らさぬように全て紗音の耳の穴に注ぎ込まれていく…。……今の紗音にとってそれは、冷水を注ぎ込まれたのに似ていた。
【紗音】「…………………わ、私は、……そんなつもりは…。」
 それらは全て小声の内緒話。しかも表情は先ほどまでの微笑みをたたえたままだ。…絵羽の表情しかうかがい知れない朱志香には、恋のくすぐったい話でもしたのだろうとしか思えなかった。
 そして内緒話を終え、まるで念を押すように紗音の肩を、ポンと叩く。
【絵羽】「大丈夫よぅ。あなたに“ぴったり”のお相手が、きっと見付かるから。ね? くすくすくすくす。…じゃあね朱志香ちゃん。また後でねぇ。」
【朱志香】「はい、また後でー。秀吉叔父さんとの話、その時、聞かせてくださいね〜〜!!」
【絵羽】「嫌ぁよぅ。あははははははははは…!」
 絵羽はからからと笑いながら屋敷の玄関に戻っていく。それに手を振る陽気な朱志香の後で、…紗音は絵羽に言われた、身の程を知れという言葉を、深く深く噛み締めているのだった…。
廊下
 …ちょっとだけいい気になっていたことを、私は猛省する。
 忘れていた。私は家具なのだ。
 家具は人じゃない。だから、人として扱ってもらえたことそのものに感謝するべきであって、それ以上を望むことは許されない存在なのだ。
 人が、使い慣れた家具に愛着を持つとしても、それは人側の感情であって、家具側にはそれを望む資格などない。……ただただ、日々を愚直に勤めるだけでいい。
 でも、譲治さまと朱志香さまと、あの3人で語り合っていた時に感じた気持ちは、…私にとって禁断の麻薬。つまりそれは知ってはならない感情だったのかもしれない。
【夏妃】「……紗音。先ほどからぼんやりが過ぎます。体調でも悪いのですか?」
【紗音】「い、いえ。失礼いたしました…。」
 ぼんやりが過ぎるという夏妃の言葉は的を射ていた。…呼び掛けられるまでその存在に気付かなかったなんて、自分でも信じられなかった。
 本来なら、彼女は清掃に集中していなくてはならない時間だった。しかし彼女はため息ばかりで手をまったく動かしていなかったのだ…。
【夏妃】「たとえお客様がおられなくても、常に気を張っていなくてはなりません。そんな様では、右代宮家に仕える使用人として情けありませんよ。」
【紗音】「…はい。以後、注意します…。」
【夏妃】「もうじき、当主様と主人がお帰りになられます。書斎の清掃は済んでいますか? 階段の清掃は済んでいますか?」
【紗音】「も、申し訳ございません…。まだです…。」
【夏妃】「えぇ、知っています。ですから、瑠音にやらせておきました。あなたがもたもたと廊下を清掃している時間で、彼女は書斎と階段の清掃を済ませてしまいましたよ。」
【紗音】「……それは、その、……丁寧にお掃除をしていたから、時間が掛かってしまって……。」
 紗音は愚直だから、どんな仕事も真面目に丁寧に、手抜きなくこなした。だからいつも仕事が遅かった。
 対して瑠音は、手を抜けるべきところで上手に抜く。だから傍目にはほとんど遜色のない仕事を、遥かに短時間でこなすように見える。つまり要領がいいということだった。それに比べれば、不機嫌な夏妃に対して口答えを返してしまった紗音は、本当に要領が悪いというべきだろう…。
 もちろん夏妃は、使用人の口答えを何よりも許さない。眉間に歪んだしわを作ると、厳しい口調で言った。にもかかわらず、諭すかのようなゆっくりとした言い方は、この上なく恐ろしく、今更のように紗音に失言を気付かせた…。
【夏妃】「ならば存分に丁寧な清掃を心掛けなさい。紗音、あなたにこのまま大広間の清掃も命じます。当主様の大切な絵画が多数飾られ、右代宮家への賓客をお招きすることもある大切な広間です。埃ひとつ残さないよう、あなたが納得するまで丁寧に清掃なさい。もちろん今日中にです。それを終えて私に報告するまで、食事も休憩も許しません。わかりましたね?」
【紗音】「は、………はい、奥様。」
【夏妃】「結構。使用人はその言葉だけを口にするように。次の口答えには、より厳しい罰を与えますからそのつもりで。よく胸に刻んでおきなさい。」
【紗音】「はい…、奥様。…ご指導をありがとうございます。」
【夏妃】「どういたしまして。」
 夏妃は頭痛に障るような仕草をしながら、廊下の向こうに去っていく…。
 その姿が見えなくなってから、紗音は俯き、ため息を吐き出した。……ぼんやりとしているから、こういうことになる。
 何をやっても不出来な私にとって清掃は、少しは人並みにこなせる仕事だったはずじゃないか。それすらこなせないのだから、…情けなくて涙が零れる。
 それ以上に情けないのは。こうして、清掃ひとつしっかりこなせないだけでなく。先ほど、夏妃に叱りを受けていた時にも。………あの人が現れて助けてくれないかと夢想してしまったことだ。
 もしここに譲治さまがいてくれたなら。さりげなく私を助けてくれただろうか。
 わざと空気が読めないかのように陽気に現れ、話題をひらりと逸らし、夏妃に叱責していたことすら忘れさせてしまうに違いない…。そんな彼が、あの扉の向こうから。あるいは、あの廊下の向こうから、ひょいと現れるところばかりを夢想した。
 そんな素晴らしい彼に相応しいお見合いの相手はどんな人だろうと夢想した。そして、そんな彼に自分はどれほど相応しくないのだろうと夢想した。それをはっきりと絵羽に告げられた。それが夢の中でも何度も何度も繰り返されるのだ…。
【嘉音】「………姉さんは相変わらず不器用だね。奥様は今朝から虫の居所が悪い。黙って俯いてればいいものを、余計なことを言うから。」
【紗音】「……嘉音くん…。」
 嘉音はいつの間にかそこにいた。……もともと猫のように足音を立てず、気配をさせない彼だ。いつからいたとしても、彼女には気付けなかっただろう…。
 嘉音の表情に浮かぶのは、憎悪。紗音が浮かべ方を知らないその表情を、きっと紗音に代わって浮かべている…。
【嘉音】「奥様も、そして瑠音も地獄へ堕ちろ。あいつは奥様がどこをチェックするか知ってて、そこしか掃除しない。さっきの掃除もそうだった。見ていたから知ってる。………本当の意味での掃除なんかしてないんだよ。…丁寧に掃除する姉さんに寄生してるだけの最低なヤツだ。」
【紗音】「そんな汚い言葉を使っては駄目よ…。汚い言葉は、嘉音くんの綺麗な魂まで汚してしまう。だからせめて、私の前ではそんな言葉遣いをしないで。……ね?」
【嘉音】「…………ふん。」
 嘉音は不貞腐れたようにそっぽを向く。
 素直ではない嘉音らしい態度だが、…私には少しだけ嬉しかった。私の代わりに、怒ってくれたから。
【嘉音】「……大広間の掃除は大変だよ。僕も手伝う。」
【紗音】「ありがとう。でも奥様に命じられたのは私だから大丈夫。……嘉音くんにも自分のお仕事があるんでしょ?」
【嘉音】「……………汚らわしい仕事だよ。僕の魂なんて、とっくに穢れてる。」
 嘉音はそこで俯き、下唇を噛むような仕草をする…。
【紗音】「手伝ってくれるという言葉だけで、私は充分。…嘉音くんも自分の仕事に戻らないと、あなたまで罰を受けることになっちゃう。…そしたら私は悲しい。」
 紗音は嘉音の性分をよく知っていた。…時折、彼は自分を顧みない。強く断らなくては、彼は自分の仕事を疎かにしてでも私を手伝ってしまうのだ…。嘉音は、自分の厚意を退けられたことを少しだけ悲しく思ったが、それが結果的に余計に彼女を苦しめることにもなると理解し、ひとつ小さなため息をつく。
【嘉音】「…………。…わかったよ。……姉さんもがんばって。」
【紗音】「うん。………それに、私にも責任はあるから。」
【嘉音】「姉さんには責任なんて何もないよ…!」
【紗音】「…うぅん。あるの。……だからもう行って。」
 嘉音くんはまだ少し納得できないような表情を浮かべるが、それ以上はしつこくせず、姿を消してくれた。
 ……落ち込んでいる私に、嘉音くんは温かい言葉を掛けてくれたのに。なのに私は、それが彼でなくて、また落胆している。それは、もう、罪。私如きが見ることを許される夢にはあまりに過ぎた、身の程知らず。
 …朝食を疎かにした紗音は、もう思考も希薄になり始めていた。……それでも、大広間の清掃を終わらせないことには、夏妃から食事の許可がもらえない。
 意地悪な夏妃はきっと、厨房にもその旨を伝えているだろう。…私は、奥様の罰を謹んで受けなければならない。そう。私は家具の分際で、…過ぎた夢に酔っていたのだ…。
 私は廊下の清掃を終え、今度は大広間にやってくる。
 空腹感が嗅覚を敏感にさせるのだろうか。離れているはずの厨房から、美味しい匂いが漂ってくるように感じ、一層、空腹の胃袋を刺激する。…ここの清掃を終えるまで、私はスープにありつけないのだ。覚悟を決めるしかない。
 大広間にはいくつかの肖像画が掛けられていた。その中のある肖像画は、…使用人たちの間で、ある特別な意味を持つと考えられている。
 ……それは、魔女の肖像画。正しい名称ではないが、屋敷の誰もがそう呼んでいた。
 優雅な金髪の婦人を描いたこの肖像画の主の名は、ベアトリーチェ。…当主、金蔵のかつての愛人ではないかと囁かれている。……そして、金蔵に伝説の黄金を与えた偉大なる魔女だとも。
 魔女ベアトリーチェは、六軒島の夜の主。敬う者には寛大だが、蔑ろにする者には必ず呪いを与える。
 紗音はそういうルールや信仰を決して疎かにしない性分だった。…だから、このもう一人の主の肖像画を、本人そのものだと思って、いつも丁寧に大切に取り扱っていた。…そして、この肖像画の中にしかいない魔女に、心の中で密かに語り掛けるのを日課にしていた。
 ……彼女は家具。家具は不平を言わない。言えない。だから、日々の辛さを吐露する資格はない。口を開いてそれを言葉にする資格がない。だから、……彼女はせめて、心の中で吐露した。口に出せない言葉を、心の中で吐露し、…姿なき魔女に訴えていたのだ。
 もちろん、魔女は応えたりしない。慰めることもないし、笑い飛ばすこともない。……せめて相槌を打ってくれているように、その無言を自分なりに解釈するしかない。
 …ベアトリーチェさま。……みすぼらしい私の話を聞いてください。紗音は魔女の肖像画の埃を払いながら、心の中でそう語り掛ける。
 ………私は確かに絵羽さまの言う通り、無能で無教養な家具です。……人じゃない。…だから恋をする資格などないかもしれません…。……でも、だったらどうして恋を知ることのできる心などお与えになったのでしょうか。
 …そこで一度、紗音は涙を啜る。いつの間にか降っていた雨の音が、大広間の寒々しさと、彼女のみすぼらしさを一層引き立てている気がした。
【紗音】「本当の家具なら、…心なんかない。だから人を愛したりしなくて済むじゃないですか。だから苦しまない。……私も同じ家具なのに、……どうして心なんかあるんですか。………こんな苦しくて辛い思いをするなら、…………こんな心なんて、与えないでほしかった…………!」
 ……なるほど。家具に心を与えたか。あれも時には愉快なことをする…。くっくっくっく…!
【紗音】「ぇ……………………。」
 応えず、笑わずの魔女が、…応え、笑った。
 気の迷い? 幻聴? いや違う。…だって、次の言葉はちゃんと「声」になって、私の心ではなく、耳に聞こえたからだ…。
【ベアト】「人間は世界を構成する元素について、紀元前の昔から探求を続けてきた。古代ギリシャ人たちは風火水土の4つで世界の説明を試みたという。その後も数千年かけて人間たちは、その4つに様々な元素を加え、五大、六大、七大、八大、十二大と、様々な解釈で世界を説明しようとしたが、唯一の真実である“一なる元素”を説明することはできなかった。………しかし、星の導きによって現れたひとりの男が、ついにこの、世界を構成する一なる元素を説明した。何かわかるか……?」
【紗音】「………………ぇ、………ぁ、………だ、…………だ、誰………。」
 紗音は恐る恐る振り返る…。
 そこには、……“い”た。
 幻覚などではなく、現実として。それが白昼の幻でないことを、落雷のコントラストがはっきりと示した。
【ベアト】「……それは『愛』よ。くっくくくくくくく!」
 肖像画の魔女は、優雅に黄金の煙管を咥え、くすりと笑った。…人類の思考が迷走し、もっとも単純な答えから遠のいていった無知を笑った。
【ベアト】「その男は世界の全てを愛で説明した。それこそが一なる元素。男は最小の数で世界の構成を説明しきったのだ。……何とも単純明快にして豪快爽快愉快痛快。…やがてその男の生まれた年は、西暦紀元と呼ばれるようになったがな。……くっくっくっく!」
 紗音は言葉を失っていた。この初対面の未知なる客人に、名前を聞くのが最初の言葉であるべきだと思った。しかし、紗音は言葉を掛ける前から、…彼女の名がわかってしまったので、それを慎んだ。
 いや、……この島の人間でありながら、彼女に名前を問うようなことがあれば、それは最大の不敬になってしまうに違いない。なぜなら、…彼女こそが、この島の、金蔵とは異なるもうひとりの主なのだから。
【紗音】「ベ、………ベアトリーチェさま……………。」
【ベアト】「いかにも。妾がベアトリーチェである。………千年を経ても、人が妾を見て最初に浮かべる表情は変わらんな。…くっくっく。」
 魔女は紗音の見せた反応が予想を裏切らなかったことを、くすくすと笑う。
 紗音は、出会ってはいけない存在に出会ってしまったことに気付き、よろりと後ずさる。……そこには壁と肖像画があるわけで、彼女は、魔女を見据えながら、魔女の肖像画を背負うのだった。
【ベアト】「お前の悩みは愛ゆえよ。……それは即ち、世界の一なる元素。つまり、この世の全てだ。……それが満たされぬということは、世界が満たされぬに同じこと。それは穴の空いた水筒に水を汲み続けるのに似ている。……汲めども汲めども満たされぬ、永遠の心の砂漠。人間の基礎にして全てにして原罪。」
【ベアト】「わかるか? 知識の実を口にしたアダムとイヴが知ったのは愛だったのだ。…それを知ったがゆえに、人は楽園を追われ「人」たりえたのだ。即ちそれは、愛を知り、苦しむからこそ人であること。……心優しき娘よ。そなたは誇っていい。それを知った今、そなたはもはや家具にあらず。そなたは今こそ『人間』なのだ。我が名にかけて、それを認めようぞ。」
【紗音】「…………………えっと、………ぅ……。」
【ベアト】「ふ。凡庸の身には理解も辛き話か。…まぁ良いわ。くっくっくっく…。許すがいい。久しぶりに人間と話すのでな。饒舌が過ぎたことを謝ろう。」
 紗音に何の返事も期待せず、ベアトリーチェはしばらくの間、小気味よく笑い続けた。
【ベアト】「詫びと言っては何だが。……妾の力で、そなたのその願望を叶えてやっても良いぞ?」
【紗音】「…え…、」
 紗音にとって、その言葉の意味するところは、唐突な魔女の出現より驚くことだった。
【ベアト】「そなたを想い人と添い遂げさせてやっても良いと言っている。……本来ならば、それに見合うだけの対価を要求するところだが。」
【ベアト】「…くっくっく、妾は機嫌が良い。それに、そなたは妾への礼を欠かさず、今日までよく尽くした。それへの褒美としてやっても良い。」
【紗音】「…………ほ、…………本当ですか……。」
 本当なら、紗音はこの現実感を欠く客人に呆然として言葉など発せられたわけもない。……しかし、まるですでに魔女の術中に囚われてしまったかのように。…紗音は魔女の問い掛けに答えてしまう。
【ベアト】「妾の魔法に掛かれば、想い人と結ばれるように取り計らうなど、造作もない。」
 それは本当なんですね。…思わずそう口にしてしまいそうな自分を、紗音は最後の理性で踏み止まる。
 魔女は、魔女だ。禍々しい存在なのだ。魔女ベアトリーチェが、自分の心の隙間をついて、私を虜にしようとしているに違いないのだ……。小さい頃から、何度も絵本のおとぎ話で警告されてきた誘惑が、今まさに私の前にあった。
【ベアト】「畏怖もまた敬いのひとつよ。心地よくはあるが、これでは埒が明かぬな。」
【ベアト】「……妾は確かにそなたらが忌み嫌う魔女像から離れはせぬ。だが、妾は敬う者には好意を返す。それは人間も同じであろう? そのように身構えられて好意を返せる人間も、またおらぬと思うがな?」
【紗音】「………し、……失礼しました…。そんなつもりは…。」
 紗音は、自分の態度が客人に失礼なものであったことにようやく気付く。そして、…彼女が先ほど口にしてくれた言葉をようやく噛み締める。“そなたはもはや家具にあらず。そなたは今こそ「人間」なのだ。” ……その言葉は、噛み締めれば噛み締めるほどに。……紗音には、自分の苦悩を全て理解してくれる気がした…。
【紗音】「……さっきの、その、…………褒美の話って、……何ですか。」
【ベアト】「お前が、その心を虜にする男と結ばれるように取り計らってもいいと言っている。妾の肖像画を、日々、丹念に磨いてくれたことへの礼とでも思うが良い。」
【紗音】「……………………………。」
【ベアト】「安心せよ、対価は求めぬ。妾は気前が良い。………だがな、対価は求めぬが頼みがある。」
 そら来たぞ…。心の中のもうひとりの紗音が警告する。小さい頃に読んで怯えた絵本の中で何度も警告された……!
【ベアト】「この島のすぐ近くの海に、岩が覗き、そこに小さな鳥居と祠が設けてあるのを知っているか…?」
 …紗音はすぐ連想する。それは船で六軒島へ至る時、小島とも呼べない岩礁に設けられた鳥居と鎮守の社のことだ。熊沢さんに昔、それの由来を聞いたような気がするがよく思い出せない。…旅の修験者だか何だかが、作ったとか祈ったとか何とか。
【紗音】「…えぇ、知っていますが…。…それが、何か………?」
【ベアト】「魔に通じぬ者に一から説明はせぬ。早い話がだな、……アレには参っておるのだ。…実はな、あの祠の中に、ある鏡が納められている。それをそなたに割って欲しいというのだ。」
 それはあまりに胡散臭い願いだった。謂れは知らないが、鳥居と祠があって、そこに納められた物があったなら、それは神聖なものに違いない。……それを割って欲しい? 魔女ともあろう者が、自らそれをできず、人間に頼むというのか…?
 その思考を言葉に出す必要はなかった。ベアトリーチェはそのもっともな疑問に、紗音が答える前に語りだす。
【ベアト】「あの鏡の魔力は、妾の魔力と相対する。……人の言葉でうまく説明できぬな。…例えれば、食器の違いとでも言おうか。あの鏡はフォークで、妾の力はスープなのだ。フォークでスープは飲めまい? あの鏡の押し付けさえなければ、妾はスープを飲むのにぴったりのスプーンが用意できるというわけだ。……それさえあれば、スープも飲めるし、岩牢だって掘り抜けるぞ。…目玉だって刳り貫ける、……だったか? くっくっくっく!」
【紗音】「……な、………何の話かわかりません。…私の無教養のせいだとしたら謝ります。」
【ベアト】「こういうことだ。あの忌々しい鏡を妾のために割る手間をかけてくれたなら。その褒美としてそなたの願いを叶えてやるということだ。」
【ベアト】「……今日の妾は本当に機嫌がいい。そなたが望むなら願い事を変えて、金蔵に授けた黄金を丸ごとくれてやることにしても良いぞ? くっくっくっく!」
【紗音】「お、……………お断りします………。」
【ベアト】「……何と?」
 紗音のその言葉を聞き、ベアトリーチェは初めて予想を裏切られたことを知る。
【ベアト】「理由があれば聞かせよ。誤解があるなら解こうぞ。」
【紗音】「……り、…理由なんて、よくわかりません。………でも、…今日までこの島は平和で、何も起こりませんでした。…なら、鏡を割らなくても、今日までと同じ平和がこれからも続いていくはずです。」
【ベアト】「ふむ…。なるほどなるほど、それはもっともだな。そなたの言う通りだ。あれを割らぬなら、割れぬ今日までと同じ日々が明日も明後日も続こうぞ。妾が絶対の保証をしようではないか。」
【ベアト】「ベアトリーチェの名にかけて言う。割れぬ今日までと同じ日々が明日も明後日も続こうぞ。それは永久に永遠に。」
 紗音は不気味な錯覚に囚われる。鏡は恐らく魔女を縛るためのもの。…なれば、鏡は魔女のために割られるべきもののはず。……なのにそれがまるで、紗音のために割らなければならないよう気がする。何かの前提が摩り替えられている気がする…。
【ベアト】「妾はあくまでも褒美としてそなたに想いを成就する機会を与えたに過ぎぬ。……割ろうが割るまいが、そなたの自由だ。割れば、妾はそなたの願いを叶える。」
【ベアト】「割らねば、今日までの明日が永遠に続く。そなたの願いは、永遠に叶うことはない。……わかるか? 何を言っているか。くっくっくっくっく。」
 魔女は言っているのだ。譲治と結ばれたかったら、鏡を割れと、迫っているのだ。そして割らないなら、絶対にその想いは叶わないと宣告している……。
【紗音】「…やめて…ください……。そんなの、……聞きたくない………ッ!」
【ベアト】「そなたを苦しめたかったわけではないのだがな。……まぁいい。愛に狂おしさを感じるも人間の醍醐味よ。その感情を存分に楽しむが良い。」
【ベアト】「だが、我が力を借りたいと願ったなら、いつでもあの鏡を割るが良い。そして我が名を叫び呼び覚ますが良い。妾は必ず約束を守るだろう。……これならば文句はあるまい? そなたに今すぐの決断を迫るわけではない。気楽であろう?」
 それは、果たして気楽なことなのだろうか。……断じて違う。恋に焦がれ愛に悩む彼女に、それから逃れる道を永遠に誘惑し続けようという、あまりに過酷な試練なのだ…。
【ベアト】「この約束に期限は設けぬが、……願いを叶える魔法には期限がある。…その期限は私が決めるのではない。そなたの想い人が自ら決める。………意味がわかるか?」
【紗音】「……わ、わかりません。」
【ベアト】「そなたの想い人が、愛の契りを結ぶべき相手を決めた時が、その期限となる。……妾は魔女だが鬼ではない。互いを愛し合う二人を引き裂く魔法は、持ち合わせていないのでな…? くっくくくくくくくくくく!!」
 そなたの想い人は近い内に見合いに臨むそうだな…? そなたは世界で一番その男のことを想っているかもしれん。だが、世界で一番相応しいとは限らんぞ…?
 妾は見合いの相手を知っている。その娘は、世界で一番、右代宮譲治に相応しい。良い学校を出て、良い成績を残し、落ち着きがあって思慮深い。お前より美しく、お前より聡明で、お前より相応しい
 お前のような無知無能無教養の娘が、どうして相応しかろうか? お前が一番知っている。お前が一番相応しくない! お前と右代宮譲治が結ばれるなど、想像するだけでも罪深い、愚かしいことよ、愚かしい愚かしい身の程を知れぃ!! 義務教育に行かせてもらった恩も忘れて。身の程を知りなさい。
 譲治はお父様の血を引く孫の中では嫡男に当たるのよ。ひょっとしたら未来の右代宮家を背負うことになるかもしれない人。その期待に応えるために、たくさんの勉強を重ねて素晴らしい大学に入り、素晴らしい成績を残しているわ。そんな譲治と、低学歴の無能無資格無教養な使用人風情が釣り合うと本気でお思いぃぃ? くすくす、くっくくくくくあっはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ!!!」
【嘉音】「や、…………やめろッ、紗音を苛めるなッ!! 貴様は誰だッ!!」
 その時、ベアトリーチェの言葉の刃から心を守ろうと頭を抱える紗音の前に、嘉音が走り出た。嘉音にとって、この女が誰かはどうでもいい。姉と慕い敬愛する紗音を苛めている敵であることがわかるなら、それ以上のことはどうでもよかった。
【紗音】「………嘉音くん…、下がって…! この方は……!」
【嘉音】「……………………………。」
 嘉音も、目の前にいる存在が、肖像画の魔女であることは理解できているようだった。…そして、それが恐ろしい存在であることも。
【ベアト】「……紗音に褒美を取らせたかっただけだが、妾の言葉が過ぎ、苛めてしまったようだな。それは謝ろう。」
【ベアト】「……だが先ほどの約束は、そなたへの褒美として残してゆく。妾の力が必要ならば、いつでも呼び出すといい。その方法はすでに教えた。」
【ベアト】「………では、これにて今宵は退散しよう。敵意の眼差しは心地よくあるが、美容にはちと悪いのでな? くっくくくくく…。」
【嘉音】「消えろ…!! お前が何者か知らないが、お前は紗音を脅かしている! 二度と現れるな!!」
 嘉音のその言葉は、魔女をひどく不快にさせたようだった。
【ベアト】「……言葉を選ばぬか下賎め。…妾は敬う者に寛大だが、敬わぬ者には残酷であるぞ…?」
 魔女が笑顔のまま、表情を歪ませ始める…。
 そして、人の五感では形容できぬ何かの圧迫感が、徐々に部屋を満たしていく…。それが何か理解できなくても、恐ろしいものであることはすぐに理解できた…。海で泳ぐ時、その下の海中に巨大な何かが横切ったなら、正体を知るより早く陸に逃れたくなるはず。…それと同じこと!
【紗音】「お、……おやめ下さいベアトリーチェさま!! 嘉音くんはまだ子どもなんです。言葉遣いについては謝ります!」
【ベアト】「………………………。」
【嘉音】「……………………ッ。」
 体を張って紗音の前に立ちはだかる嘉音。…その額に緊迫の汗が浮かぶ。
 その時、確かに魔女は嘉音の命運を握っていた。…指一本必要ない。自らの微笑みをひとつ歪めるだけで、その命運を握り潰してしまえるほど簡単に、その命運を握っていた…。
 嘉音にもそれがわかっているのだ。だから汗が浮かぶ。足が竦む…。しかし、ベアトリーチェはふっと笑うと緊張感を解き、笑った。
【ベアト】「………良かろう。そなたが求めるなら特別に許そう。…嘉音とやら。彼女に免じて今宵は許してつかわす。感謝するがよいぞ。さて、今宵はこれで退散する。」
【ベアト】「…………別れの挨拶に、ひとつ土産を残そう。二人とも左手の手の平をこちらへかざせ。」
 ベアトリーチェがにやりと笑いながら指を鳴らすと、二人の意思に反して、左手が正面にピンと伸びて、その手の平が開かれた。
 それはまるで、左手だけが他人のものになってしまったような不思議な感覚。左手だけが操り人形になってしまって、天井から垂れる糸でピンと引っ張られるようなそんな感覚。
【嘉音】「こ、これは……、何の真似だッ…?!」
 嘉音が抵抗するが、左手の自由を取り戻すことはできなかった。
【ベアト】「騒ぐな。すぐに済む。」
 ベアトリーチェが煙管をかざすと、その煙の中からきらきらと金色に輝く粉末が宙をたなびく。……そのきらきらは、やがて数匹の金色の蝶々になった。
 美しい蝶々たちは、大広間の中を自在に舞い、幻想的な美しい世界を作り上げた。…そして、その内の2匹の蝶々が、紗音と嘉音の手の平に飛び込む。
【嘉音】「ッ?!」
【紗音】「痛い…!」
 チリっとした、火傷に似た痛みを感じる。二人が手の平を検めようとした時、先ほどまでの体の不自由は嘘のようになくなっていた。
【紗音】「………あ、……痣…? これは……。」
 手の平には豆粒大の大きさの、小さな火傷の痣ができていた。…しかもそれは、蝶々の形をしていた…。
【嘉音】「こ、…これは何の真似だ…。」
 どうやら、同じ痣は嘉音の手にもあるようだった。嘉音は憎々しげに魔女を凝視する。
【ベアト】「単なる挨拶よ。他意はない。…ただの痣に過ぎぬから、ほんの数日で癒えよう。手当ても必要ない。それは、妾が確かに今日ここにあり、そなたと約束を交わしたことを明日に忘れさせぬための印だ。」
【ベアト】「…………妾との出会いは刺激が強い。…翌朝に、妾との出会いを夢か幻と思い込み忘れようとする人間も、時にはいるのでな。…………ゆっくり考えるがいいぞ、紗音。…そしてゆっくりと休み、明日の朝日に我が印を見て、改めて考えてみるがいいだろう。」
【ベアト】「妾は何も強要せぬ。そなたが自らの意思で、自由に未来を決めるがいい。………もっとも、欲する物の対価がその程度で済むとはな…。悲恋をテーマに戯曲を書き上げた偉人たちが悔しがるぞ。くっくっくっくっく!」
【ベアト】「それでは、縁があったらまた会おう。久しぶりの会話は実に楽しかったぞ? さらばだ、家具ども。あっはははははははははははははは!」
 ベアトリーチェの体が、ぶわっと煙のように崩れてあふれ出す。…それは黄金の煙、…いや、黄金の蝶の群だった。それらは大広間に四方八方に分散し、…黄金の飛沫を残して空間に掻き消えてしまった。
 ……後には、寒々しい静寂が残るだけだった。そのあまりの静けさは、直前まで、嘉音と二人共々、白昼夢でも見ていたのではないかと思わせてしまうほどだった…。
 …だから魔女は残した。これが白昼夢であると、断じて思わせないために印を残した。紗音と嘉音は、自分の手に残された蝶の痣と、それを記された時に感じた痛みを思い返しながら、いつまでも呆然と立ち尽くしていた…………。
 そしてその日から。……紗音は、苦悩と葛藤の日々に苛まれることになる………。
 1983年。金蔵が健在であり、また朱志香が受験を控えているという描写により時期を確定できる。

素晴らしき理想の世界

朱志香の部屋
【朱志香】「えええぇえぇえぇ?! べ、別部屋って何だよ?! じゃあ、わざわざ紗音と譲治兄さんは別の部屋に泊まったのかよ?!」
【紗音】「は、……はい…。ぁの、……そんなにもおかしかったでしょうか……?」
 朱志香は、紗音の持ってきた沖縄土産の、チョココーティングのちんすこうを頬張りながら絶叫したため、それらは盛大に紗音に吹きかかるのだった…。
【朱志香】「…しゃ、紗音さ、何のために沖縄まで旅行に行ったんだよ…。それも譲治兄さんと二人っきりで!」
【紗音】「それはその…、とても大きな水族館が沖縄にあるからぜひ行こうって誘われて…。私、…お魚とか好きですし…。」
【朱志香】「いや、だからさぁ?! 健全な男女がお泊りありで旅行に行ったわけだろ?! それでチューもなければギューもないのかよ?! ましてや部屋は男女で別部屋って何だよ?!」
【紗音】「チュ、チューについてはノーコメントです。ぁ、でも、ギューはありましたよ…? 譲治さんの胸、温かかったです…。」
【朱志香】「そーゆうことじゃねーぜ!! あーもぅ! 何だってこんなカップルがいるんだよ?! あーもー!! じれってーぜ!」
 紗音的には色々あって、とても幸せな旅行だったらしいのだが、朱志香的にはあまりにももどかしいもののようだ。
 朱志香はしばらくの間、もぐもぐとお土産を頬張りながら、ベッドの上で、人の恋路をあーだこーだとグチグチ言いながら悶絶しているのだった。
 紗音と譲治が旅行先を沖縄に選んだのは、巨大な水族館があったからだった。それは、彼らの出会いが水族館をきっかけにしたものだったからだ。水族館で始まった縁だから、初めてのお泊り旅行の行き先も水族館というちょっと記念的な意味もあったに違いない。
【朱志香】「そんな記念の節目の! 初のお泊り旅行なら!! 色々と進展するもんがあるはずだぜー?! それが! 男女別部屋?! カップルでシングルを2部屋?! あーもー、本当にどうかしてるぜ!」
【紗音】「…それはその、……お互い独身の男女ですし…。…譲治さんが、そこをしっかりするのが男女のマナーだと仰って……。」
【朱志香】「だーから、それを踏み越えるためのお泊り旅行じゃねぇのかよー?! もはやチューとかギューとかのレベルじゃねぇぜー?!」
【紗音】「お、お嬢様がどういう意味で仰ってるのかわかりませんが…。じょ、譲治さまは最後まで本当に紳士でいて下さいました。それはその、……私も、…そういうことがあるかなというか、…でも私たち、お付き合いはしてますけどその、べ、別に結婚してるわけじゃないし…。」
【紗音】「お嬢様が期待されているようなことはその、……ちゃんと神さまの前で誓いを立ててからするべきでその、……すす、するべきでその…、ぁぅ。」
 紗音の顔は真っ赤っか。両手で輪っかを作り、鎖を作ったり切ったりハートマークを作ったりと忙しない。
 この旅行で、朱志香の期待したような劇的進展はなかったようだが、紗音なりには意義深いものではあったようだ。…結局、朱志香がどう妬こうが囃し立てようが、紗音に大きくリードされてしまった事実は変わらない。
【朱志香】「あーッ、私も彼氏ほしー!! 紗音に先を越されたのが悔しー!! 彼氏作る時は一緒だぜって約束したのに抜け駆けされたー、むがーー!」
【紗音】「あ、あの…。お嬢様は素敵な方ですから、私なんかよりきっと素敵な方がすぐに現れます…。」
【朱志香】「そういう慰めはいらねぇぜー!! 紗音の裏切り者ォ、出ていけー、うぜぇええー! ケホケホ、げほんげほんげほんッ!!」
 朱志香はたくさんあるクッションをぽこぽこと投げつけた。しかし途中から喘息の発作を起こしてしまい、苦しそうに咽込む。
 紗音は慌てて駆け寄り、近くのサイドテーブルの上を見る。そこには可愛らしい篭が置かれ、その中に朱志香用の気管支拡張剤があった。それを取り、朱志香に渡す。
 朱志香の喘息発作はいつも突然起こる。だからこの薬をいつも肌身離さず持っていなくてはならなかった。
 薬を吸引し、しばらくの間、咽込むのを堪えていると、ようやく喘息は治まった。
 紗音はここが引き上げる潮時だと思い、丁寧にお辞儀をして退室しようとする…。すると、またしても小さなクッションがひとつ飛んできて、紗音の頭にぽこんとぶつかった。
 見れば朱志香は、最後の1個のお気に入りのクッションを抱いて顔を半分埋めながら、ちょっぴりだけ涙を浮かべていた。その顔は真っ赤で神妙だった…。
【紗音】「……お、お嬢様……?」
【朱志香】「しゃ、……紗音さ…。…正直に言って…。………私。…………髪型とか、…変かな…。」
【紗音】「まさか…。お嬢様の髪はとてもお美しいと思います。」
【朱志香】「じゃ、じゃあじゃあ、目とか変かな、鼻とか変じゃないかな。…やっぱり喋り方が駄目なのかな……。だから彼氏できないのかな……。」
【紗音】「そんなはずはありませんよ。お嬢様はそのままで充分に素敵です。そして、その魅力はこれからもっともっと増していくと思いますよ。」
【朱志香】「……でも、私だけ彼氏できない…。サクもヒナも彼氏できたのに、私にだけできないよ……。やっぱり私には魅力ないからかな……。みんなね、文化祭に彼氏連れてくるんだって……。私もその日までにはきっと彼氏いるって思って、大見得切って…。………彼氏なんてできやしない。私だけ、私だけ……。」
 いつの間にか、朱志香は大粒の涙を浮かべていた。朱志香は別に泣く気などなかったし、もちろん紗音の恋路が順調に進んでいることを友人として祝福する気持ちもあった。…でも、囃し立てている内に、いつの間にか本音が混じり始めて、つい涙が零れてしまったのだ…。
 …紗音は、朱志香のその無垢で傷つきやすい心を理解する。朱志香の普段の少しだけ乱暴な言葉遣いは、…全て傷つきやすい自らの心を庇おうとしただけの結果。
 ……右代宮家の跡継ぎ令嬢として、六軒島に隔離された少女が本音を打ち明けられる相手は、紗音ただひとりだけだったのだ。それを、紗音は理解する。だから、…少しだけいい気になったことを深く反省する。
【朱志香】「…ご、………ごめん…。涙出ちゃうなんて、私、変だぜ。ごめん、……ぐすん。」
【紗音】「お嬢様は素敵な方です。そんなお嬢様に素敵な男性が現れないわけがありません…。」
【朱志香】「………しゃ、紗音、もう時間だろ? 早く行かないとまた源次さんや母さんに怒られるぜ。私は全然平気だから早く行きなよ…! へへ、悪ぃな、泣いちゃったりなんかしてさ。……馬鹿みてぇだぜ、私。」
 朱志香は、構って欲しいわけじゃないというような仕草で背中を向けると、追い払うような感じで手をひらひらと振る。紗音は、それ以上しつこくされたくないという朱志香のサインを受け取ると、ぺこりと頭を下げ、退室していくのだった…。
 その足音が遠くへ消えていくと、朱志香はクッションを抱いたまま、そのままベッドに横たわる。
 …まだ涙が浮かんでいて少し神妙な表情だったけれど、…久しぶりに素直になった自分の心としばらくの間、静かに静かに対話をするのだった。
【朱志香】「私も、…………恋が、したい…。」
薔薇庭園
 紗音が上機嫌に庭園の花壇に水遣りをしていると、ふと気配を感じた。家人が訪れたなら挨拶をしなくてはならないと思い、振り返ると、……そこにいたのは何とあの魔女の姿だった。
【紗音】「ベ、……ベアトリーチェさま………。」
【ベアト】「久しぶりよの。どうだ? その後、そなたの想い人との仲は順調か?」
 ベアトリーチェは、薔薇のアーチの上に腰を掛けながら、上機嫌に煙管をふかしていた。そんなところに腰掛けたら、薔薇が潰れてしまうし、アーチが倒れて危ないかもしれないが、…何しろ相手は魔女なのだ。それは余計な心配に違いなかった。
【紗音】「…は、はい。お陰様でその、…順調です。」
【ベアト】「当然よ、妾の魔法はてきめんである。…そなたにはまるで、二人が出会うのは予め決められた運命であったかのように感じているかも知れぬ。だがそれは間違いよ、ゆめゆめ運命だなどと思うでないぞ。」
【紗音】「……そ、……それはわかってます。」
 魔女は念を押す。2つのことを、念を押す。譲治との縁は、本来なら絶対にありえなかった運命。……そして、それを捻じ曲げるほどに、魔女の力が強大であると。
 紗音は、ついつい甘い日々に浮かれ、全ての運命が自分を中心に回っていると錯覚してしまいそうになっていた。…でも、魔女の言葉で思い出す。譲治との縁は、本来ありえないもので、………いや、これからもありえないものかもしれない…。
【ベアト】「…くっくっくっく、すまぬすまぬ。医者と同じよ。病に悩めばすがるくせに、治れば感謝も忘れる。……魔女が感謝されたためしはないのでな、つい卑屈になってしまった。許すがいい。」
【紗音】「………感謝の気持ちを、忘れたことはありません。…ベアトリーチェさまのお力で幸せな思いができていること。……そして、そのお力がなければ、私と譲治さまが寄り添う運命がなかったこと、…決して忘れたことはありません。」
【ベアト】「すまぬすまぬ。いじめに来たわけではないのにな。口が悪いのは妾が性分。許されよ。…それより、聞いたぞ聞いたぞ? 二人きりで旅行に行ったとな。さぞや楽しかったであろう。」
【紗音】「は、はい! とてもその、…楽しかったです。」
 紗音の顔が、ぱーっと明るくなっていく。その変わり様を、魔女は現金だとでも言うように軽く笑う。
【ベアト】「もはやそなたの想い人は一方的に想うだけの存在ではない。互いに想い想われる恋人同士よ。……愛に満たされた二人にとって世界はただそれだけで成立する。素晴らしき理想の世界かな。ふっふふふふふ! 魔女も妬こうというもの。」
 ベアトリーチェは小気味よさそうに笑う。その笑顔に邪気はなく、恋人たちの甘い逢瀬を心から祝福しているように見えた。
 あの日以来、ベアトリーチェは時折、紗音の前に姿を現すようになっていた。依然として、紗音にとって彼女は薄気味悪い存在であることに変わりはない。…しかし、譲治との縁を取り持つ魔法を授けてくれた大恩人でもあった。だから紗音は極力、驚いたり怖がったりしないように努めようとしているのだった。
【紗音】「そ…、そうだった。……あの、ベアトリーチェさま。旅行のお土産にお菓子を買ってきたんです。…よかったらその、……ベアトリーチェさまもいかがでしょうか。」
【ベアト】「ほぅ??? 魔女に土産とな………?」
 千年を生きたと豪語する魔女も、甘い恋人たちの旅行土産をもらえるとは予見できなかったらしい。そのきょとんとした表情に、紗音は初めてこの魔女が友人であると感じたのだった。
海岸
【ベアト】「ほほぅ、ラードと小麦粉で作った東洋クッキーか。それを西洋風にチョコで包むとはまさに和洋折衷、菓子のシルクロードよの。」
【ベアト】「………何だ。何が可笑しい?」
【紗音】「い、…いえ。失礼いたしました。」
 恐ろしい力を持っているに違いない不思議な魔女が、まるでリスが胡桃を頬張るような音を立てながら、カリカリと次々お菓子を口にする仕草に、紗音はいつの間にか笑いを隠せなくなってしまっているのだった。
【ベアト】「ふむ、馳走になったぞ。……そなたには今度、ネロのドルチェ・ビータでも振舞おうぞ。薔薇は永遠の愛の象徴。今のそなたには薔薇のドルチェこそが相応しかろう。」
 魔女は近代のお菓子をたっぷり満喫し、すっかり上機嫌だった。
【紗音】「あの、………これ。本当にありがとうございました。もう、私には充分だと思いますので、お返しします。」
 紗音がそっとテーブルの上に置いたのは、金色の蝶のブローチだった。
【ベアト】「返さずとも良い。それに持ち続けていれば、二人の仲はこれからも永劫に磐石であろうが。」
【紗音】「……出会いの切っ掛けは、確かに魔法の力で与えてもらったかもしれません。でも、その出会いを永遠のものにする努力は、二人で協力しあって続けていくものだと思います。」
【ベアト】「ふむ。……愛も薔薇と同じか。過ぎた施肥は根を腐らせる。苦労せねば育めぬ花もあろう。ならば好きにするが良い。身に着けず、宝石箱の中にしまうも良かろう。それはそなたに贈った妾の好意だ。それを返されては妾も愉快ではない。」
【紗音】「あ、……も、申し訳ございません…! そういう意味で言ったわけじゃ…。」
【ベアト】「くっくくく。気を害してなどおらぬ。そのブローチはすでにそなたのもの。妾との友情の証にせいぜい大事にしてくれれば少しは気も慰む。」
【ベアト】「持ち続け、そのご利益を得るもよし。宝石箱にしまい込むもよし。望むなら、恋路に悩む別の者に譲ろうとそなたの勝手だ。……ただ大事にしてくれれば良い。さすがに粗末にされては心が痛むでな。」
 ベアトリーチェが言うには、大昔から、人に請われて何かの魔力を込めた道具を与えるということは何度かあったらしい。…しかし、多くの人は、その力で悩み事を解決すると、今度はその力を不気味がるようになって、感謝の気持ちなど忘れて、授けた道具を忌み嫌い捨ててしまうのだという。
【ベアト】「だから、妾の好意に素直に感謝されたためしは多くない。……いや、初めてか。くっくくくくくく。」
 魔女は強気に笑うが、紗音はそれを見て、悲しい笑いに感じた。
 かつての自分がそうであったように、…いや、今もまだそうかもしれない。ベアトリーチェは間違いなく魔女であり、不思議な、恐ろしい力を持っている。できることなら付き合いなどしたくないと誰もが思うだろう。
 時に、その不思議な力に頼りながらも、その結果は感謝より畏怖の気持ちの方が大きかったに違いない。………そんな繰り返しがきっと、魔女を深く傷つけていったに違いない。
 そう思った時から。…紗音はベアトリーチェのことを怖がるのをやめようと思った。それはきっと、彼女を千年以上も苛んできたに違いないのだ…。
 よほどお菓子を気に入ったのだろうか。普段、毒舌であることが多いはずのベアトリーチェは、紗音が淹れてくれた紅茶をべた褒めしながら、大変上機嫌に過ごすのだった。そうしながら、しばらくの間、魔女と使用人の二人は、譲治との旅行についての話に花を咲かせるのだった。
 紗音がベアトリーチェについて知っていることはそう多くない。まず、彼女は幽霊のような存在で神出鬼没。そして誰にでも知覚できるわけではないらしい。
 何でも、人毎に波長のようなものがあり、魔女を知覚できるか否かについては激しい個人差があるのだという。こうして言葉を交わせるほどに交流できるのは紗音と嘉音だけ。…その気配を感じられる人間も少しはいるようだが、多くの人間はそれすらも感じ取ることができなかった。
 ベアトリーチェに言わせると、蔵臼夫婦は特に魔法の才能がゼロらしく、どんなにべたべたと纏わりついても、決して気付いてくれないのだという。
 以前、紗音が失敗をして夏妃に激しく怒られていた時、ベアトリーチェは夏妃の頭を煙管でぽこぽこと叩いて悪戯をして見せた。…なるほど、確かに夏妃はまったく気付かない。しかしそれを目の当たりにしている紗音は思わず噴き出してしまい、ますますに夏妃に叱られるのだった。
【紗音】「なら、……お館様だったらどうでしょうか。魔法の研究とかをなさっているそうですし、きっとベアトリーチェさまのお姿にも気付いてくださると思います。」
【ベアト】「…………金蔵も同じよ。あれにも気の毒なくらいに魔法の才能がない。…血だな。同情に値するほど才能がない。」
【紗音】「………………?」
 金蔵の話になった途端に、ベアトリーチェの雰囲気が変わったのを感じた。蔵臼たちについては、魔法の才能がないことを見下すような言い方だったのに、金蔵のそれには違う言い方をした。
 右代宮家に関わるものなら誰もが知る金蔵の黄金伝説。…それによれば、金蔵は魔女ベアトリーチェを呼び出し、黄金を授けられたことになっている。…つまりそれは、彼女は金蔵と何らかの交流があったということだ。
【ベアト】「だからあれは、……才能のひとかけらもないくせに、至ったのだ。…狂ったように独学を重ね、魔術師の域にまで達した。」
【紗音】「それは、………とてもすごいことなんですね……?」
【ベアト】「……うむ。」
 人を見下したように言うことが多い彼女が、珍しく人を讃える。…才能がないと扱き下ろしておきながら、彼女は金蔵の努力を讃える。
【紗音】「そして、………お館様は魔法の力でベアトリーチェさまを呼び出した……。」
【ベアト】「うむ。……まぁ、召喚に応えたのは気まぐれだ。魔法を否定して久しいこのご時勢に、才能のカケラもない者が必死にやっているのでな。少しからかってやろうと思ったのが妾の運の尽きよ。くっくくくく。」
 運の尽き、という言い方は、彼女にとって災難だったことを示す。紗音は、それ以上の話を促してもいいものか躊躇したが、ベアトリーチェは気にせずその先を自ら続けた。
【ベアト】「一応、書式もルールも揃っていた。いくつかの作法が混在していたが、まぁ、その熱意に免じ寛大に契約に応じてやったのだ。……そして妾は山成す黄金を与えてやった。」
【紗音】「そしてお館様は…、その黄金を使って事業を成功させて、今日の財を成すのですね。」
【ベアト】「うむ。魔法の才能はからっきしだが、商才と博才はあったようだな。…いや、理不尽なる賭けに全てを賭す勇気と狂気ゆえにか。……狂気は時に魔力に通ずる。なるほど、その点から見れば、金蔵に魔法の才能がまったくなかったとは言い切れんか。くっくっくっく…。」
 紗音はまるで白昼夢を見ているような気持ちだった。金蔵が魔術に傾倒し、魔女を呼び出して黄金を授かったという話は、右代宮家の誰もが知りながらも、実際は信じてない世迷言だ。それを、当の魔女が自ら真実だと語っているのだから…。紗音は自分だけが知っているとんでもない秘密に、ちょっぴりと困惑を覚えるのだった。
【ベアト】「そして、莫大な財産を得た金蔵は、人の世で手に入れることのできる全ての夢を叶えきった。………そして、最後に世界の真理を求めたのだ。」
【紗音】「世界の、…真理?」
【ベアト】「…世界を構成する一なる元素。人の世で得られる全てを満たした金蔵は、人が求める最後の欲望としてそれを欲したのだ。」
 一なる元素。………以前に彼女の口から聞かされた言葉のような気がする。それが何だったか思い出そうとする紗音の表情を見て、ベアトリーチェは苦笑いしながら、思い出さなくて良い良いと手を振る。
【ベアト】「……妾も金蔵を少し見くびっていた。まさか、あれほどの力を見せるとは思わなかったのでな。」
【ベアト】「……お陰でこのザマだ。茶飲み友達もなく、この島にもう何十年も縫い止められている。…誰に話し掛けようとも声は届かず、どこへ行くこともできない。何とも退屈な数十年だったことよ。」
 そう自嘲するように笑いながらティーカップを指で弾く。陶器の透き通った音がした。
 …その表情を自嘲と例えたが、それが果たして的確な表現かわからない。紗音に全てはわからないが、何となく事情を察する。…そしてそれは多分、彼女が自ら語らない限り、安易に促してはいけない話に違いない。
 彼女のこれまでを掻い摘めば。金蔵の魔法によって呼び出されたベアトリーチェは、何らかの理由でこの島を離れられなくなったということだ。そして力も姿も失い、退屈な日々を過ごしてきた。
 そんな中、魔女に強い敬いを忘れない紗音に言葉が届いたのだ。そして、自分の力をわずかでも取り戻す手伝いをさせたのだ。…その結果、こうして紗音とお茶を飲めるようになった…。
【紗音】「……ベアトリーチェさまが私に割るようにいったあの鏡は、一体、何なのですか?」
【ベアト】「あぁ、その話か。………この辺りの島で、大昔、色々とあったらしくてな。そのせいで良くないものが溜まり、悪い歪みを引き寄せていたのだ。それを、旅の東洋魔術師か何かが、鎮魂の社を建立して封じ込めたらしい。」
【ベアト】「…それ自体は妾とはどーでもいいことなのだが、困ったことに魔力の基礎が違っててな。妾の魔力にも強い干渉を及ぼしておって、非常に迷惑していたのだ。」
【紗音】「そうだったんですか…。私はてっきり、ベアトリーチェさまを封じていたものだとばかり…。」
【ベアト】「妾を対象にしたものではない。だが神格のある鏡だったからな。結果として妾の力を封じ込めていたわけだ。……料理に例えるならこうか。妾の注文した西洋料理が厨房でまさに料理されているとする。ところが、いざ配膳しようとしたら、客席は日本風で懐石料理が並べられている場だった。だから厨房は場違いな皿を出せず、妾のところへはいつまで経っても西洋料理が届かない…、と言った感じよの。」
【ベアト】「だからそなたに日本風の客席を打ち壊し、場を一度白紙に戻させたのだ。そのお陰で、ようやく妾の注文した料理が届き力が戻った、というところか。もっとも、ようやく食前酒が届いたというところよ。メインディッシュにはまだまだ遠い。今の妾など、靴屋の妖精にも劣る希薄な存在でな。」
【紗音】「………ぷ、……あっははははははは。」
【ベアト】「む。何が可笑しい?」
【紗音】「いえ…。魔女さまの例えがあまりに面白かったもので。まさか魔法の話が、お料理の話に例えられるとは思いませんでした。」
【ベアト】「我ながらうまい表現だったつもりだが、よもや笑われるとは思わなかったぞ。少し心外だ。」
 魔女は少しだけ不貞腐れたような表情を浮かべる。…それはお茶を楽しむ友人同士が浮かべる表情としてまったくおかしなものではない。
【ベアト】「……こう見えても、昔は残酷極まりないことで知られた妾だったが。…丸くなったものよ。人間とこうして他愛ない話で茶を交わせるようになるのだから。」
 それは恐らく独り言。ベアトリーチェは、水平線をなぞるように飛ぶ海鳥たちを眺めながら、再び紅茶に口をつけるのだった。
【ベアト】「…雲が出てきたな。海も精彩を欠けば灰色の水溜りに過ぎぬ。」
【紗音】「そうでしょうか。……曇っても、海は美しくて真っ青だと思います。」
【ベアト】「…………ふ。」
 魔女には、紗音が口にしたその言葉の深い意味が感じ取れたのかもしれない。…軽く笑うと空のティーカップを置いた。
【ベアト】「……もはや、そなたの両目に埋められているのは黒い石ころではないらしい。どうだ? ……家具から、人間に生まれ変わった気持ちは理解できておるか?」
【紗音】「……………はい。…世界が、こんなにもやさしかったなんて、知りませんでした。」
 譲治との交際を始めてから、紗音は表情を明るくすることが多くなった。
 笑顔は全てを円滑にし、運気すらも変える。……紗音は以前に比べれば仕事でミスをすることも少なくなり、家人の評価も少し変わり始めていた。
 先日、滅多に言葉を交わすことがない蔵臼に突然話しかけられて驚いた。
【蔵臼】「最近、良い笑顔をすることが多くなったじゃないか。何か良いことでもあったのかね?」
【紗音】「い、いえ…。でも、……楽しい毎日です、はい。」
【蔵臼】「ふ。良いことじゃないか。同じ珈琲なら、笑顔で注がれた方がうまいに決まっている。……その笑顔でもう一杯頼めんかね?」
【紗音】「は、……はい!」
 それは、紗音にとって自らに自信を持てるきっかけになった。もちろんそれは自分の心の中のレベルで、誰が見ても変わったと思えるような大きな変化ではない。…でも、少しずつだけれど、彼女は変わり始めていた。
 紗音ははっきりと理解する。愛を知ることは、魂を得ること。…即ち、家具から人間に生まれ変わること。ベアトリーチェの言葉には何も間違いはなかった。…彼女は愛を知ることで、人間を知ったのだ。
【ベアト】「……珍しい茶菓を馳走になったな。有意義な時間であった。そろそろ仕事に戻らねばならぬ時間であろう。茶会はこれまでにしよう。……そなたと妾が茶を飲むことを好かん者もおるようでな?」
【紗音】「え?」
 魔女がティースプーンを摘み上げると、それを指で弾いて宙に上げる。…するとそれは虚空で見えない何者かの指に強く弾かれ、すぐ近くの茂みの中へ鋭く飛んでいく。
 茂みが激しく動き、その中から嘉音が出てきた。……いつの間にかそこにいて、彼女らの茶会の様子をうかがっていたらしい。
 手にはスプーンが握られている。…もし彼が咄嗟にそれを受け止められなかったら、額に激しくぶつかって血を滲ませていたかもしれない。
【嘉音】「………………………。」
【ベアト】「安心せよ。茶会はこれで終わるぞ、嘉音。」
【紗音】「いつからそこにいたの? 声を掛けてくれれば嘉音くんの紅茶も淹れたのに…。」
【ベアト】「女同士の語らいを邪魔したくなかったのであろう? くっくっくっく!」
【嘉音】「………………。」
 嘉音は無言を貫いたが、その瞳には、わずかの敵意が含まれているようだった。…表向きは敬っている仕草をしている。しかし、紗音と違い、嘉音は魔女に対して心を許していなかった。
 ベアトリーチェが煙管でテーブルを叩くと、お茶の道具たちが黄金の蝶に変わって一斉に舞い上がる。それらが四方に散れば、もう後片付けは終わりだった。
【ベアト】「楽しかったぞ、紗音。…また縁があれば会おうぞ。……まだまだ魔力が足りぬでな。姿を現すのも疲れる。」
【嘉音】「……そんなに疲れるなら、二度と現れるな。」
 嘉音はぼそりと小声で言うが、それはきっちりと魔女の耳に届いているようだった。くすりと笑うが、返事はしない。
【ベアト】「紗音。次の茶会では、譲治との話をまた聞かせておくれ。人の恋路より甘い茶菓は他にない。くっくっくっくっく。それではさらばだ。」
 ベアトリーチェの体も黄金の蝶となって四方へ散って消えていく。…それは金箔の吹雪のような、とても幻想的で美しい光景だった。
 紗音は魔女の退散をしばらくの間、そっと見送る…。嘉音はその背中に近付き、姉とは対照的な表情を浮かべて言った。
【嘉音】「………姉さん、あいつと付き合っちゃ駄目だって、言ったじゃないか。」
【紗音】「ベアトリーチェさまは、そんなに悪い人じゃない。…確かにちょっと怪しいところはあるけれど、」
【嘉音】「僕たちにしか姿が見えない時点で充分に胡散臭いよ…。あいつは人間じゃない。何を企んでるかわかるものか。」
【紗音】「嘉音くん、それは少し、失礼だと思うな。」
 紗音が珍しく、少し厳しい口調で言う。…それは、彼女をよく知る嘉音にとっては、非常に厳しく感じられるのだろう。紗音の口調に比べれば過剰なくらい嘉音は驚き、閉口する。
【紗音】「確かにベアトリーチェさまは、人間とは違う。恐ろしい力を持っているし、恐れ敬わなければならない存在だと思う。…でも、人間とは違うからといって、それだけを理由に忌み嫌うのはとても失礼なことだと思うの。」
【嘉音】「…………姉さんの言いたいことはわかるよ。…姉さんはあいつにあのブローチをもらってから変わった。まるで魔女の虜だよ。譲治さまとの仲を取り持ってもらって、頭が上がらないんだ。」
【紗音】「…そんなことを言わないで。」
【嘉音】「あいつは人間じゃない。何を考えてるかわからない。だから気を許しちゃ駄目なんだ。………そして、人間じゃないのは僕らも同じだよ。姉さん。」
 嘉音の言葉が厳しくなる。…その言葉は紗音の心を抉るものなのだろう。紗音は下唇を噛みながら俯く。
【嘉音】「僕らは家具だ。…たとえ名前をもらい、人として接してもらったとしても、僕たちの生まれが変わるわけじゃない。」
 そなたはもはや家具にあらず…。ベアトリーチェにもらった一番嬉しかった言葉が、紗音の脳裏に過ぎる…。
【紗音】「家具じゃ、………ないよ。」
【嘉音】「うぅん、家具だよ。僕たちは人間未満の存在だよ。……姉さんはそこを忘れたふりをして、…人間のふりをしているだけ。自分でもわかっているはずだよ。」
【紗音】「私、……家具じゃないもん。…人間だもん…!」
【嘉音】「いや、人間じゃない。僕らには愛する資格も、愛される資格も初めからない。」
 嘉音の批判は、いつの間にか紗音と魔女の交流から焦点をずらしているようだった。…紗音もすぐにそれを察する。
【嘉音】「お嬢様に聞いたよ。正直、呆れたね。譲治さまと一緒に、旅行に出られるなんて…! 家具の身の程を忘れてるよ。姉さんはあの魔女に唆されて、自分が人間になれたと勘違いしてるだけなんだよ!」
【紗音】「聞いて、嘉音くん。…………確かに私たちは家具だよ。人間に劣った、未満の存在。…でも、その満たない分をもし得られたなら。…それは人間になれたということじゃないのかな。」
【嘉音】「……そんなもの、ありはしないよ。」
【紗音】「うぅん、あるの。それを得たなら、私たちは家具なんかじゃない。人間になれるよ。」
【嘉音】「………………。………馬鹿馬鹿しい。…なれる、……ものか。」
 嘉音は吐き捨てるように、…だけれども弱々しくそう言い、そっぽを向く。それは多分、諦め。……自分が家具であることを苦悩した日々の洗礼が、彼の心を頑なに閉ざしてしまった…。
【紗音】「…なれるよ、嘉音くんも。……普通の人間に。」
【嘉音】「………………………。よしてよ、魔女の受け売りは。」
【紗音】「うん。ベアトリーチェさまに教えてもらったの。……私たちは、世界の一なる元素を得ることで、人間になることができる。うぅん、それを満たさないなら、それは人間じゃない。……だから人は、一なる元素を得るために生涯を尽くし、貫いていく。」
【嘉音】「姉さんが何を言っているのかわからないね。世迷言なら聞きたくないよ。」
【紗音】「なら、嘉音くんにもわかるように教えてあげるね。………ほら、姉さんの指の先を見て?」
【嘉音】「……?」
 紗音は海を、水平線の彼方をすっと指差す。嘉音には具体的に何を指差しているのかわからなくて、水平線と謎掛けをするような紗音の表情を交互に見比べるしかない。
【紗音】「海。……嘉音くんは、海が何色に見える?」
 その問い掛けはあまりにシンプルだった。嘉音は、その問い掛けにどれほどの意味があるのか、しばらく推し量ったが、何も思いつかなかったため、素直に自分の答えを述べた。
【嘉音】「…ぱっとしない、ねずみ色だよ。それが何?」
 曇天の空の下に広がる海は、客観的に見て嘉音の表現する色が一番相応しかっただろう。……でも紗音は目を閉じて微笑みながら、小さく首を横に振る。
【紗音】「私には、真っ青に見える。」
【嘉音】「……そういう意味? 緑色の信号を青って言うようなものでしょ。」
【紗音】「違うの。……海は真っ青。私にはわかって、嘉音くんにはわからないなら。…これがつまり、そういうことなの…。」
 嘉音は下唇を噛んで、しばらくの間、沈黙した。
【嘉音】「……………………。………わからないよ、………僕には。」
【紗音】「嘉音くん。……手を出して?」
 何を言われたかはわからず、きょとんとする嘉音の腕を取り、手の平を広げさせる。そこに紗音は小さなものをそっと載せた。
 それはベアトリーチェにもらった、あの魔法のブローチ。黄金の蝶を模った、恋を成就させる魔法のお守り。
【嘉音】「これは、…………あいつの……。」
【紗音】「ううん、これは私の。…だから私だと思って、粗末にしないで?」
【嘉音】「…………………。」
 そう言われてしまっては投げ捨てることもできない。嘉音は、どうしていいかわからず、手の平にブローチを載せたまま、しばらく困惑していた。その手の平に紗音は自分の手の平をそっと載せて、ブローチを二人の手で温めあう。
【紗音】「これは本当の魔法の力を持ったお守り。……きっと嘉音くんに、大切な気持ちを教えてくれると思うの。」
【嘉音】「…あいつの魔法で教えられることなんて、何もない。」
【紗音】「うぅん、あるの。……だから身に着けて。恥ずかしければ、懐に忍ばせておくだけでもいいそうなの。」
【嘉音】「…………馬鹿馬鹿しい…。あいつの魔法なんかに、惑わされて堪るか。」
 そうは言いつつも、紗音に押し付けられては嘉音も邪険にできない。結局、嘉音は、自分が魔女の力になど屈しないことを証明してやる、などという理由で渋々とそれを受け取ることに了承するのだった。紗音は微笑んで頷き返す。
【紗音】「きっと、嘉音くんは大切なことを学べるよ。……きっと、人間になれるから。そうすればきっと、嘉音くんにもこの海が美しい青に見えるに違いない。」
【嘉音】「…ねずみ色は何度見たってねずみ色さ。」
【紗音】「違うよ嘉音くん。……そう見えるのは*がないから。」
【嘉音】「え…?」
 風が唸ったせいで、何と言ったのか、肝心な部分が聞き取れなかった。
 だから紗音はもう一度言う。…世界の一なる元素。それが満たされた、海が真っ青な世界を、もう一度だけ言う。
【紗音】「きっと、嘉音くんにも真っ青な海が見えるよ。だって、」
 愛がなければ、視えない。
薔薇庭園
【金蔵】「………そこにいるのは誰か。」
【嘉音】「……嘉音です、お館様。」
 金蔵が書斎を出ることは珍しかった。……しかし、だからといって、彼の高尚な研究が中断されているわけではない。
 気分を変えるために書斎を出たのだろうが、その頭の中をいっぱいに占めているものは、書斎の中のそれと何も変わらない。だから、いつの瞬間であっても、金蔵が望まない限り勝手に言葉を掛けることは、常に研究の邪魔になることを嘉音は心得ていた。
【金蔵】「天気が重いな。崩れるのか。」
【嘉音】「はい。天気予報では、いつ雨があってもおかしくないと。……傘をお持ちいたしましょうか?」
【金蔵】「それには及ばん。……しばらく私を放っておくがいい。息子たちに聞かれても、所在は知らぬと言っておけ。私は自らの思考を巡る旅で忙しい。」
【嘉音】「……かしこまりました。それでは失礼いたします。」
 嘉音が会釈をする間に、もう金蔵は自分の世界に戻り、嘉音がいたことも忘れ去っていた。そして再び、ぶつぶつと独り言を口にし始める。その言葉の中には、…あの魔女の名前が何度も繰り返される。
【金蔵】「……おぉ、ベアトリーチェ…。お前の微笑みに手が届かぬ…。どうすれば蘇るのか、どうすれば再び微笑んでくれるのか…。……何が足りぬ。研究か資料か触媒か。それとも魔力か運気か神託か…! おおおぉベアトリーチェ、どうすればお前の面影をもう一度見ることができるのだ…。おおおぉおおぉぉぉ……。」
 嘉音は嗚咽する主の声を背中越しに聞きながら、一度だけ振り返る。すると、…………孤独な、老いた主のすぐ後に、……いないはずの人影がいた。
 それは、……魔女。
 嘉音は咄嗟に、魔女が何か良からぬ陰謀で金蔵に害を為そうとしているに違いないと考え、急ぎ金蔵の元へ駆け戻り、自らを楯にしようと思った。
 だが、魔女の表情が見えた時、…その気持ちは霧散した。なぜなら、ベアトリーチェの表情は、……悲しみ、……あるいは憐れみだったから。
【ベアト】「愚かな金蔵……。……私はここにいるというのに、視えぬのか。」
 魔女の名を何度も繰り返し、再会を何よりも欲する金蔵のすぐ後に当の魔女がいる。なのに、金蔵は何も気付けない。……ベアトリーチェが、その肩に手を載せようと、何も気付かない。
【金蔵】「…なぜだ、なぜベアトリーチェの微笑みに手が届かぬのか! 月齢か、彗星の周期か、惑星の配列か! 何が足りぬのだ、何が、何がッ!!」
【ベアト】「………無駄よ、金蔵。…愛がなければ、視えない。」
 嘉音はポケットの中の、…紗音にもらったあのブローチを取り出す。……自分も、何かを知ることで、今は視えない何かを見ることができるのだろうか。
【嘉音】「………………………………。愛がなければ、視えない。」
 もう一度、金蔵の背中を見る。……もうそこに魔女の姿はなかった。
 事件とあまり関係のない話が続いていると思いきや、意外に重要な伏線。
 紗音は自分の秘密が明らかになることを覚悟で譲治との旅行に行ったが、別部屋に泊まったため秘密は知られなかった。

文化祭

朱志香の学校・文化祭
 右代宮家にとって秋にある最大の行事は、10月にある親族会議ただひとつだったが、朱志香にとってはその前にもうひとつ、学校の文化祭があった。朱志香にとって学校生活は、堅苦しい生活を強いられる日々のストレスを発散できるお気に入りの場所だった。
 今日の文化祭でも、彼女は友人たちとグループを組み、仮設舞台で軽音楽の発表をすることになっていた。そのために今日まで準備と練習を重ね、今日の当日を楽しみにしていたのだが、………ある一点だけが悩みだった。
 時計を見る。…まだ時間までは少しあるが、…不安だった。ちゃんと来てくれるだろうか。
 ため息をつこうとしたら、友人たちが黄色い声を一斉に上げたので心臓が飛び上がった。
「うっそー、ヒナの彼氏ィ超ォイケてんじゃん〜ッ!!」
「マジすごくない?! マジすごくない?!」
「リンの彼氏すっごい頭良さそォ! あれで鬼畜眼鏡なの、マジ本当ォ?!」
「ダメダメ、うちのダンナ、ギャル男だしー!」
「「「きゃっきゃッ♪ きゃっきゃッ♪」」」
 ……全ての女性にとってそうだとは言わないが、…少なくとも朱志香の学校での文化祭は、彼氏の品評会と同じ意味だった。
 朱志香には彼氏がいない。異性の友人は多いのだが、特定のオンリーワンはいない。…しかし朱志香は学校ではちょっとした有名人で、それに見合うパートナーがいて当然だと思われていた。また、彼女の見栄っ張りなプライドもあたかもそうであるかのように振舞わせてきた。
 そうしてのらりくらりと何とか今年までは誤魔化し通してきた。……しかし、諸々の事情によりいよいよ逃げられなくなったのが今年の文化祭だった…。
「ジェシ〜。彼氏来たぁあ〜?」
【朱志香】「ふぇッ?! あ、あ、いや、まだ来てねーみてーだぜ? 仕事忙しいのかな? あはははははははははは…。」
「ジェシの彼氏、どんな人なのォ? せめてヒントだけでも出してよ。何系? 何系?!」
「すっごいよね、社会人なんでしょ?! スーツとかで来る?! もちろん眼鏡かけてるよね?! きゃーッ!!」
「ねぇええぇ、でも本当はいないんだよね? 今、素直に白状したら、私の仲間にいれたげるって! 一緒にこの文化祭を涙で濡らそうよぉおぉ!」
【朱志香】「いやいやいや、いるいるいる、ホントにいるって…、あはははははははははは…!!」
 朱志香の苦笑いは脂汗まみれ。…果たして勘の鋭い友人たちを本当に騙せているのか、大いに怪しい…。
朱志香の部屋
【紗音】「ハイ。なら、彼氏さんの偽者を立てて連れて行くというのはどうでしょうか。」
【朱志香】「にに、偽者ぉ?! だ、誰を……! そんなのの心当たり、ねーぜ…!」
 紗音のとんでもない提案に朱志香は素っ頓狂に驚く。
 とはいえ、今から文化祭までに大急ぎで彼氏を作るという非現実的な方法に頭を悩ませるよりは、多少は現実的だった。
【紗音】「例えばですが、……嘉音くんなんてどうでしょう。」
【朱志香】「かか、嘉音くぅううん?! ダダ、ダメダメ!! というかきっと嘉音くん、文化祭の日は仕事に決まってるぜ…、迷惑かけちゃ悪いしさ…。」
【紗音】「もちろん予定表も確認済みです。嘉音くんはその日、お休みになっています。」
【朱志香】「……こ、…こんな時ばっかり要領がいいのな…。じゃなくて! 休みならもっと悪いぜ…。せっかくの休みを私の見栄のために引っ張りだせないよ!」
【紗音】「嘉音くんは、引っ張り出されないといっつも閉じ篭ってばかりいますので、無理に引っ張りまわすくらいでちょうどいいかと思いますよ。」
【朱志香】「そそ、……そうなの? …いや、でも、…嘉音くんに悪い……。」
【紗音】「なら万策尽きますね…。大人しく彼氏はいませんと白状なされてはいかがでしょうか。」
【紗音】「…それはそれは肩身の狭い思いをなされるでしょうが、卒業までの短くも長ぁい間を耐え忍ばれるだけでございますし。愛し合う恋人同士にとって、独り者の僻み顔が何にも勝る甘ぁい蜜なのです☆」
【朱志香】「しゃ、紗音んんん〜!! 私のために本気で悩んでないでしょ、おちょくってるでしょぉお!!」
 涙目で紗音に取っ組みかかる朱志香。でも紗音はへっちゃらでいつもと同じ笑顔でにっこり笑っている。
【紗音】「ハイ。私と譲治さまのことを茶化してばかりのお嬢様への仕返しです。」
 年に一度もない紗音のしっぺ返しに、朱志香はクッションを抱きかかえながらベッドの上を悶絶して転がり回る。勝ち誇ったように見えるその笑顔が悔しくてたまらないが、今は唯一の相談相手なのだ。クッションで窒息死させるのはその後でもいい。
【紗音】「いいじゃないですか、お嬢様。文化祭ではありますが、嘉音くんと一緒に遊びに行くチャンスですよ。」
【朱志香】「いやそれはそうだけど、いやいやいやいや……!!」
 朱志香は真っ赤になった顔を見られまいとお気に入りのクッションに頭を埋める。そしてカリカリと親指の爪をかじる。…そのリアクションは実に鑑賞向きだった。
 紗音と朱志香は、歳が近い同性ということもあり友人の関係でもあった。しかも互いに思春期真っ只中。恋愛に関する話はいつも尽きなかった。なので、このような相談事を打ち明けあえる関係だった。
 だから紗音と譲治の恋の行方についても朱志香は詳しく聞いていたし、逆に、朱志香がどんなタイプが好きで、どんな男性に興味を持っているかも、紗音は詳しく聞いていた。
 この朱志香の反応を見る限り、それを詳しく語るのも野暮だろうが…。いつまでも朱志香が転げ回っているだけでは話が進まないので言ってしまおう。朱志香は、嘉音が現れてからずっと気になっていたのだ。
 六軒島に若い男はほとんどいない。だから、朱志香が嘉音に興味を持ったのは思春期の少女として当然のことだったかもしれない。でもそれを言ってしまったら乙女の純情や一目惚れというロマンを蔑ろにしてしまう。
 紗音は嘉音とずっと孤児院で一緒だったので、勤めを始める前から面識があった。だから朱志香は、嘉音がどんな人か、趣味は何か好物は何か好きな女の子のタイプは何かと、いつも根掘り葉掘り聞いていたのだ。………いくら紗音でも、朱志香が嘉音に執心なのは丸判りだった。
【紗音】「もう。…嘉音くんをデートに連れ出せる、良い機会じゃありませんか。」
【朱志香】「でで、でもでもでも、…嘉音くんにだって好きな人とかいるかもしれないし…。私なんかの見栄っ張りにつき合わせたら気を悪くするぜ…?」
【紗音】「お嬢様のような素直じゃない方を、…何でしたっけ、譲治さまに習いました。そうそう、ツンドラとか言うそうですよ? あと十数年かすると流行るんだそうですよ?」
【朱志香】「へー、さっすが譲治兄さんだなぁ、未来のトレンドがわかるのかよ。すげーぜ。……じゃなくて! ってことは私ってタイプは時代がズレてるってことじゃねぇかよ! うわーうわーうわー、もう駄目だー!!」
 ……結局、朱志香は、嘉音を彼氏の代役に立てようという計画に乗るのに、数日の無駄な時間をかけなければならなかった……。
廊下
【嘉音】「……はい、お嬢様。お呼びでしょうか。」
 朱志香は、あぁ悪いタイミングで声を掛けてしまったと後悔する。…嘉音はいつも仏頂面だが、その中でも機嫌の悪い日とマシな日がある。…残念なことにこの反応は前者だった。
【朱志香】「いい、いやそのさ、…………えっとぉ。」
【嘉音】「…………………。」
 鏡の前で一晩予行演習を繰り返したはずの努力と自信は、ほんの5秒程度で崩れ去ってしまった…。朱志香は真っ赤になりながら俯いてしまう。
 その様子を見て嘉音はため息をつく。…朱志香は呆れられてしまったと思い、頭が真っ白になってしまう。
【嘉音】「………紗音から聞いています。お嬢様の学校の文化祭へお供するように、というお話ですか?」
【朱志香】「え? ……あ、あぁああぁ!! 紗音ナーイスッ、じゃなくて! う、うんうん。そ、そうなんだけど、あのその! ……………当日の予定は、どど、どうかな…。」
【嘉音】「…紗音から、当日は特にお嬢様にお仕えするよう厳命されております。僕は高校には行ったことがないのでわかりませんが、何でも男性の付き人がいないと大変肩身が狭い場だとか。…右代宮本家令嬢が、庶民に劣ることがあってはならないと特に厳命されておりますので。」
【朱志香】「わは、わははははははははははッ、紗音あとでぶっ殺すーーーー!!!」
 朱志香は壊れた笑顔で、湯沸かし器のように湯気をあげながら、奇声で怒鳴り続けている。それを見ながら、嘉音はもう一度、ため息をつく。
 嘉音も馬鹿ではない。朱志香がどういう意図で自分を誘っているか充分理解していた。……しかし、お嬢の恋遊びに付き合わされるなんて、本当は面倒臭いだけだった。でも、紗音にしつこく言われている。普段、借りも多い。断れなかった。
 …そして、ポケットの中のブローチ。この妙な話も、このベアトリーチェのブローチに宿る魔力が引き寄せたものだというのか。…………馬鹿馬鹿しい。
 でも、紗音に言われたあの言葉が蘇る。
 …紗音は、自分に視えない何が見えたというのか。紗音の気持ちなんてわからない。僕らは家具だ。…それ以上になんて、なれるものか。
 相変わらず奇声をあげ続ける朱志香と、深いため息をつく嘉音の二人が実に珍妙な取り合わせだった…。
朱志香の学校・文化祭
「ジェシぃ、人が来てるよー?! 聞こえてないのォ?!」
【朱志香】「えッ、あ、あ、ごめん!! だ、誰…?」
 友人たちが身を寄せ合いながら、…何とも形容し難い目でこっちを見てヒソヒソ!と小声になっていない小声で囁き合っている。自分でも何だか白々しい。ごめん、誰…、だって?! だ、誰が尋ねてくるかなんてわかってるくせに…! あぁああぁああ、駄目だ駄目だ頭が真っ白だぜ…。
「ウソあれジェシの彼氏ィ?! かっわいいぃいいぃ!!」
「ホントに彼氏いたんだぁあ?! マジ嘘本当ぉおおぉ?!」
「朱志香の裏切り者ぉォオ!! すっごい素敵じゃああん!!」
「年下?! 年下なんて聞いてないよオッ?!」
「どこどこッ?! ジェシの彼氏ってどこどこどこッ?!」
「ショタって本当ォオオオォ!!」
【朱志香】「や、ややや、やあ! ぉ、遅かったじゃねえかよ、わははははは!」
【嘉音】「……昇降口がわからなかったもので。遅くなって申し訳ございません。」
【朱志香】「ぃ、いやその、…その格好も似合ってるぜ? わははははははは…!!」
【嘉音】「…紗音が、普段着ではよくないと言って、先日、一緒に買い物を。……似合いませんでしたでしょうか…。」
【朱志香】「わ、わはははははははははははそんなことないよ! 紗音、あとで二階級特進んんんんん!!」
【嘉音】「………何だかここは女の人ばかりで居心地が悪いです。」
【朱志香】「だだ、だよなだよな! ささ、ここじゃなくてステージの方に行こうぜ? もうすぐ私たちの出番だからさ! さっさっさ!!」
 居心地が悪いのは朱志香も同じらしい。黄色い目線を全身に浴びてやりにくそうにしている。…そんな様子を見て嘉音は、自分が来たから朱志香がやりにくくしているのだろうかと思ってしまう。
【嘉音】「……何だか迷惑をお掛けしているような気がします。お邪魔だったでしょうか?」
【朱志香】「そそ、そんなことないって!!」
【嘉音】「…僕がお邪魔でしたら、いつでも言ってくだされば…。」
((きゃーッ、うっそーー、僕ッコだぁあああーー!!!!))
【朱志香】「あひィイイイイィ、じゃじゃ、邪魔なんかじゃないよ嘉音くん!!」
(((きゃああぁッ、彼氏、クン付けだぁあああぁあぁ!!!)))
【嘉音】「……僕はどうしていればいいでしょうか、お嬢様。」
((((うそぉおッ、お嬢って呼ばせてんのォ、執事系ktkrェ!!))))
【朱志香】「らめええぇええェ、今日はお嬢様はらめえぇえぇえ!!」
【嘉音】「………そ、…そうですか。わかりました朱志香さま。」
(((((きゃああぁあ、調教済みのサマ付けだぁああああぁ!!)))))
【朱志香】「ごごご、ごめん嘉音くん、3秒でいいから、目ェ瞑っててくれるかな…。」
((((((ひぃやあああぁああ、キスよキス、キスするのよぉおお!!))))))
【嘉音】「で、…では瞑ります。」
 ズガッ、どぎゃッ! ブンブン、ドッガーン、ぐぴゃごべッ!!
 …嘉音が目を開くと、なぜか教室内はひどい惨劇。みんな大の字型になって壁に打ち込まれていた。朱志香は嘉音が目を開く前にメリケンサックをポケットにしまう。
【朱志香】「と、とにかくステージの方に行こう。私たちの出番はもうすぐだから、しばらく席で待っててよ。私たちは準備あるからさ! この先、突き当たりまでいけば仮設舞台があるからわかるぜ、そこで待ってて!」
 何だか勝手が違ってやりにくそうにしている嘉音の背中をぐいぐい押して、廊下に追い出す。嘉音も、初めて見る朱志香の態度や狼狽ぶりに困惑しながらも指示に従い、指差された方へ向かうのだった。
 その姿をぎこちない笑顔で見送った後、朱志香は教室の戸をぴしゃりと閉めて大声で叫ぶ。
【朱志香】「ささ、見たね? 見たでしょ、満足したッ?! わはははははははは、ざまーねーぜー!!!」
「……うぐぐぐぐぐぐ、賭けに負けたぁ。」「絶対、ジェシに彼氏なんかいないと思ってたのにィ。」「彼氏じゃないんでしょ、使用人へのパワハラでしょォオオ。」「うわあぁん、ジェシの彼氏ステキだオォォ…!」
【朱志香】「やや、やっかましいぜ!! ほらほら準備準備!!」
 朱志香がもう一度ポケットからメリケンサックを取り出すと、みんなはキビキビと作業に戻るのだった。
【嘉音】「……………はぁ。」
 嘉音は、朱志香に言われたように廊下を進むと、自動販売機のスペースを流用した仮設舞台があった。多分、グループやサークル単位で時間貸ししているのだろう。学生のグループが歌を歌っているが、それも大いに盛り上がっていた。
 その喧騒を嫌い、薄暗い壁にひとり寄りかかる。
 ……これが高校ってもんなのか。うるさいところだな。…嘉音はそう思った。
 そして、さっきの一度も見たことのないような振る舞いの朱志香を思い出す。……正直、アルコールでも入ってるのではないかというようなはしゃぎ様だった。彼にとって、人は常に冷静で理知的であるべきなのが最大の美徳だ。そんな嘉音にしてみれば、校内の文化祭という空気は非常に馴染みにくいものだった。
 …自分は、見聞きしたことを全てお館様に報告する義務を持つ。…だからさっきのハメを外した朱志香の様子も報告しなければならない。……少なくとも、右代宮本家の令嬢として相応しいものではなかった。
 お館様も蔵臼さまも、…特に夏妃さまもお怒りになられるだろう。お嬢様を庇うように報告するなら、相応しくないご学友のせいだとするか…。
【嘉音】「………何だよ、あれ。……ばかみたいだ。」
 さっきの朱志香のはしゃぎ様をもう一度思い出し、嘉音は大きくため息をつく。夏妃の頭痛も少しは理解できようというものだった。
 ……そういえば、夏妃さまはPTA会長として、体育館の式典にご出席の後、そのまま親睦会に行かれたはず。お嬢様の催し物はご覧になれないと仰っていたっけ。……多分、それで正解だろう。
【嘉音】「…………人ごみは気持ち悪いな。…何だってんだ、一体。」
 さっきから女子生徒にばかり、ちらちらとうかがわれている。お嬢様のご学友たちが口にしていたようなことと同じことを小声でコソコソ言い合っているようで、実に気持ち悪い。
 そう言えば、紗音にも注意されていたような。……文化祭なんかをひとりで歩いていると、おかしな人にたくさん声を掛けられるから気をつけるようにと注意されたっけ。
「あ、あの〜、おひとりですかァ?」
 案の定、初対面の女性陣に話し掛けられる。黄色い眼差しで背中が痒くなりそうだ。……こういう時は、追っ払うことができる魔法の言葉があると言ってたっけ。…えーと。
【嘉音】「……すみません。連れがいますので。」
「え、あ、そうですか…! ご、ごめんなさい!」
 ホントだ。効果覿面だな…。でも、退いてはくれたが、僕に向けられる黄色い眼差しの数は大して変わらないようだ。
「違うよぉ、あの子だよ、ジェシの彼氏ぃ!!」
「ウッソ?! あの子がぁ?!」
「信じらんないよね、絶対にエアだと思ってたよォ!」
「可愛いじゃーん、年下ァ?! いいなぁ!!」
【嘉音】「……………はぁ。」
 …二度とこんなところ来るもんか。嘉音は今日何度目になるかもわからないため息を漏らすのだった。
 すると、照明が変わり、立ち見の観客たちが大きな歓声を上げる。周りを見れば、いつの間にか大勢増えていた。さっきまでと変わって男だらけだ。
 すごい人垣で舞台すら見えない。運よく、近くにビールケースが転がっていたので、それを踏み台にしてみる。
 すると舞台の上にはいつの間にか新しいグループが上がっていた。
 先頭はお嬢様だ。舞台用の衣装に着替えられて、ギターなんて持ってる。……知らなかった、弾けたんだ。いや、弾けたのかもしれない。ギターの真似事を練習しているところを見たことはある。
 夏妃さまは勉強以外に朱志香さまの趣味をお認めにならない。いつも隠れて練習していたのかもしれない。…そう言えば、最近は学校からの帰りがだいぶ遅くなることもあったっけ。…夏妃さまの目を忍び、学校で練習に励んでいたのかもしれない。
 やっぱり夏妃さまが来られなくて正解だ。…せっかく練習したギターのことを咎められたら、さぞや落胆されるだろうから…。
「「「ジェシ様ぁあああぁああああ!!」」」
【朱志香】「今日は集まってくれて、ありがとォオオオォオォ!!」
 スピーカーを経由して、朱志香さまの威勢のいい声が聞こえてくる。
 …ジェシ様? 学校での通り名だろうか。観客の生徒たちはその名を連呼していた。…お嬢様に相応しくない下品な呼び名に少しカチンと来る。
 ジェシ様と連呼される朱志香さまは大層ご機嫌だった。…多分、みんなファンなんだろう。マイクパフォーマンスでそれに応えて盛り上げている。…まるでテレビの歌謡番組のようだった。…………最初は軽薄だなと思っていたが、これはこれですごいなと評価を改めた。
 嘉音は進んで音楽を聞くことはないが、右代宮家の人間が好んで聞く音楽はよく耳にした。…それらはほとんどがクラシックだったため、嘉音もクラシック音楽を自然と好むようになっていた。
 …そんな嘉音にとって、朱志香たちが歌う歌は何と言うかその、…………非常にハイカラなものだった。少なくとも、夏妃さまが聞かれたら卒倒しそうな雰囲気だった。
 でも、みんなすごく楽しそうだった。ペンライトまで持ち込んでいる熱心な観客たちは歌に合わせて、まるで事前に取り決めていたかのようにぴったりと同じ動作で踊り狂っている。
 舞台上の朱志香さまも汗だくになりながら熱唱していた。………右代宮家の令嬢に相応しい要素は何一つ見つけられなかったが、…でも、楽しそうだった。
「「「ジェシ様ぁああぁあ!! ジェシィイジェシィイイイイィ!!!」」」
【朱志香】「今日も背後に足音ひたひた! オヤシロ様がストーキーングッ! 祟りに失踪、生贄拷問、鬼隠しってつまみ食い?! 魔理沙って言うなァアアァぁああぁあぁ!!!」
 …ノリには付いていけないが。……とにかくお嬢様はすごく楽しそうで生き生きとしていた。
 楽しそうにしているお嬢様を見ていて思う。
 これが、本当の右代宮朱志香の姿なんじゃないだろうか。…六軒島での暮らしが、如何に自分というものを殺されるかは他でもない、僕が一番知っているじゃないか。
 なら、…右代宮家の跡継ぎとしてのお嬢様でない、朱志香というひとりの少女として生き生きできる時間がとても大切なものに違いない。…自分はお嬢様の近くに仕え、春夏秋冬の全ての姿を見て、その全てを知り尽くしているつもりでいた。…でもそれは、六軒島でのお嬢様という限定された一面でしかなかったのだ。
 ……僕らは家具。六軒島で仕え、六軒島で生を終える。…だから六軒島こそが世界の全てで、六軒島の外など天動説の世界のように、世界の淵から海が零れ落ちているんじゃないかと思ってきた。でも、こんなお嬢様を見ていると、それがひどく狭い視野であることを思い知らされる。
 …相変わらず大盛り上がりしているこのノリにはついていけないけれど。…僕は、六軒島では“視えない”何かを見た気がする。
 ………それが紗音のいう、視えないもののことなのかはわからないけれど。まだ僕に、海が青くは見えない…。
食堂
【蔵臼】「今日は朱志香の学校の文化祭だったな。…校長先生はお元気でおられたかね?」
【夏妃】「…えぇ、お元気なようでした。そうそう、高宮議員もお出でになっておりました。あなたによろしくと特に言っておりましたよ。」
【蔵臼】「ふむ、相変わらずご多忙そうかね?」
【夏妃】「そのようでした。あの方も精力的な方です。そうそう、あと榎本会長もお出ででしたっけ。」
 当然、夕食の席では、朱志香の文化祭の話題が出た。学校の行事は地元の有力者たちの社交場となることが多い。この辺りの名士である右代宮家にとってもそれは同じだった。夏妃は、親睦会であった要人たちの名を思い出しては、蔵臼に近況を伝えるのだった。
 …朱志香は特にそんな会話に関心も持たず、カボチャのスープを行儀悪くずるずると音を立ててすする。
【源次】「……お嬢様。あまりお行儀がよろしくないかと。」
【朱志香】「…………へいへい、そりゃあ悪かったぜ。」
【夏妃】「朱志香。そういう言葉遣いは改めるよう、いつも言っていますよ。」
【朱志香】「……はい。」
 朱志香は憮然と答える。それを見て、蔵臼は少し微笑むと夏妃との話を中断した。
【蔵臼】「朱志香の方はどうだったかね、文化祭は。」
【朱志香】「え? あ、……あぁ、まぁ!」
【夏妃】「見ていましたよ。よく頑張っていましたね。」
【朱志香】「え、……え?! あ、……あはははは、ま、まぁね!」
 朱志香の顔が真っ赤になる。…まさか夏妃が自分の舞台を見に来てくれるとは思わなかったのだろう。嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが入り混じる。
 実際は、右代宮家に相応しくない音楽とかそういうことを言われたくないので見られたくはない。……でも、親が自分の精一杯を見てくれて、よく頑張ったと声を掛けてくれるのは嬉しくないことではない…。
【夏妃】「朱志香もなかなか落ち着きと貫禄が出てきましたね。生徒代表に相応しい振る舞いでしたよ。」
【朱志香】「…ぁ、…………ぁあ、…うん。」
 直前までの浮かれた笑顔が砂のように崩れる。…朱志香はすぐに話が違うことに気付いた。
 朱志香は学校の生徒会長でもあるのだ。…そんな面倒臭いものに関心はないのだが、親がうるさいのでいやいやなった。不幸にも、学校内では人気者だったので当選してしまっていた。だから文化祭冒頭の、生徒会主催の式典について夏妃は評価しているのだ。
 実のところ、そんなものは適当にこなしただけ。すぐに仲間と合流して、ずっと舞台のリハーサルを行なっていた…。
【蔵臼】「人の上に立ち、責任を背負うという経験は、必ず将来役に立つ。右代宮家の人間として、きっと朱志香を成熟させてくれるだろう。」
【夏妃】「ただ、挨拶が少し早口でした。内容は及第点でしたが、早い口調はそれを薄れさせます。一呼吸置く癖をつけるといいでしょう。」
【朱志香】「………、…うん。」
薔薇庭園
 食事を終えた後、朱志香はまっすぐ自分の部屋に戻る気になれなかった。
 自分の部屋というのはつまり、親にそこにいるよう指定された場所。だから朱志香にとって、自分の部屋に戻らず、この広大な屋敷の中で所在不明になることは、ささやかな反抗と言えたかもしれない…。
 屋敷の中にいることにさえ息苦しさを感じ、朱志香は薔薇庭園に出る。
【朱志香】「……………。…まぁ、来たところでどうせ、右代宮家の跡継ぎとして相応しくないとか何とか言うんだろうぜ。…ならこれでいいんじゃねぇかよ。あはははははは。」
 朱志香は、自分が何を不貞腐れてるのだろうと笑う。…さっき、どんな言葉を掛けられれば自分は満足したのかを想像して、笑う。
 ……馬鹿馬鹿しかった。結局、自分がお子様なだけだった。何だか呆れて、笑いたくなる。
【嘉音】「……お嬢様。」
【朱志香】「わッ、…嘉音くんか。お、驚かすなよ、ははは…! ごほんごほん!」
 無理に笑おうとした矢先に、不意に嘉音が声をかけてきたので、咽込んでしまう。
【朱志香】「何? 何か用…?」
【嘉音】「…………………、その。」
【朱志香】「……うん?」
 朱志香の表情は、嘉音がいつも見るそれになっていた。ついさっきまでの物憂げな朱志香ではない。それは、右代宮本家跡継ぎの朱志香しか知らなかった昨日までの自分だったなら、…朱志香はもう吹っ切れて元気を取り戻したと勘違いをするところだろう。
 ……でも、それは違う。昨日までは視えなかった彼女を知ってしまったから、今の朱志香が見掛け通りの胸中であるわけがないと理解できた。
【朱志香】「あ…、今日は文化祭、…いや、私の見栄に付き合ってくれてありがとうな。助かったぜ。」
【嘉音】「……お歌。…お上手でした。」
【朱志香】「っえ?! ……あ、………あはははははは?! そ、そうかよ、照れるぜ…。」
 一番欲しかった言葉をもらえたくせに、…朱志香は照れてしまい、それを素直に受け取れない。
【嘉音】「……僕には歌は歌えません。楽器も、小学校で習ったハーモニカとリコーダー笛しか知りません。…だからお嬢様も同じだろうと決め付けていました。」
 …嘉音はそこまで朱志香を見下していたつもりはない。でも、特殊な楽器を演奏する人物はいつもテレビのブラウン管の向こう側。…少なくとも朱志香には無理だろうと勝手に思い込んできた。
【嘉音】「…僕は家具だから、…歌を歌う必要も、楽器を扱う必要もないと信じてきました。」
 でも、……それが、わからなくなる。
 1986年9月と推定。事件の一ヶ月ほど前の話ということになる。
【朱志香】「……嘉音くん。その家具だからって口癖、本当に止そうぜ…。使用人の心得ってやつだろ…? 使用人は生きた家具であれってヤツ。…源次さんがよく口にしてるもんな。」
【嘉音】「心得というわけでは……。…本当に、…家具ですし。」
【朱志香】「福音の家の子たちが、…色々祖父さまから援助をもらってるってのは知ってるし、それに恩義を感じてるのも知ってるよ。……でもだからって、…家具なんて言い方はあんまりだぜ。私たちは同じ人間じゃないかよ。」
【嘉音】「……………………。」
【朱志香】「嘉音くんは、私が歌ってるのを見て、…どう思った?」
【嘉音】「……とても楽しそうに見えました。」
【朱志香】「それは多分違うぜ。」
【嘉音】「……え?」
【朱志香】「楽しそうに見えたんじゃなくて、…羨ましかったんじゃない?」
【嘉音】「……………、そんなことは……。」
 それは多分、嘉音自身も気付いていない気持ち。……嘉音は多分、これまでに見たことのない何かを見て、知って…それを羨ましく思った。そして、その気持ちを自らに誤魔化すために、自分は家具だからと何度も何度も繰り返している…。
【朱志香】「私は右代宮家の跡継ぎだか何だかだそうで、……まぁその、色々な面倒がこれからもあると思う。それについては、運のない星の下に生まれちまったと諦めるしかないさ。」
【朱志香】「…多分、嘉音くんが福音の家で生活しなければならなかったのと同じに、私たち自身にはどうしようもない。生まれる星は選べなかった。」
【嘉音】「……………そうかもしれません。」
【朱志香】「ただ、私と嘉音くんでは大きく違うところが一点ある。…わかる?」
 僕は家具で、お嬢様はそうでないから。……そう言おうとしたが、止める。
【嘉音】「…わかりません。」
【朱志香】「嘉音くんは、自らの運命が自分の全てだと思って諦めた。私はこんな運命じゃ納得できないから、自分の思い切りを頑張ろうと思った。……だから、右代宮家のお嬢様をやらなければならない窮屈な自分と、自分の好きなことに精一杯な自分というもう一人を作った。」
【嘉音】「………もう一人の、自分。」
【朱志香】「うん。……嘉音くんは、自分のことを家具だからと言い聞かせてきた。……そう言い聞かせなきゃならない辛いことが、きっとたくさんあったんだと思う。…それについては、……本当に気の毒だと思う。………でも、それだけで嘉音くんの人生を全て決めちゃうなんて、私はそんなの悲しいと思うんだよ。」
【嘉音】「……………………………。」
【朱志香】「人はさ、自分の中に、自分が本当に好きになれるもう一人の自分をいつでも作り出すことができるんだよ。現実逃避とかとは違うぜ? ……そのもう一人の自分でいる時、私は最高に生きているって実感できる。だから、普段の日常がどんなに窮屈で退屈でも、私はきっと窒息せずに生きていけるってわけ。」
【嘉音】「……自分の中に、…自分が本当に好きになれる自分を、作る…。」
 家具以外の、自分を、作る…。
 紗音は、譲治さまと交際することで、家具ではない自分を生み出したのだろうか。……そして、もう一人の紗音は、家具には視えない何かを、見たのだろうか。
【朱志香】「うん。………私さ、嘉音くんのプライベートって全然知らないぜ。でも、…何だか想像できる。嘉音くんのプライベートには、多分、何もない。図星でしょ…?」
 嘉音は返事をできないが、それでも十分に返事になっていた。
 彼にとって、プライベートという概念はない。だから、嘉音はいつでも嘉音だった。だから、家具はいつでも家具だった。
【朱志香】「……嘉音くんの嘉音ってさ、本名じゃないんでしょ?」
 福音の家は、新しい院生に新しい家族と人生を与えるため、敢えて新しい名前を与える。……彼の場合はそれが「嘉音」だ。
【嘉音】「………確かに、……僕のこの名は、仮のものかもしれません。」
 自分は嘉音以外の何者でもないつもりだった。……でも、思い出す。…嘉音でない自分が確かにいたことを。でも、それはとてもとても遠い忘却の霧の彼方…。
【朱志香】「なら、嘉音くんにも、嘉音くんである時と、そうでない時で違う自分がいてもいいはず。……使用人である時の嘉音くんは、自らを家具と呼び厳しく自己を戒めてるかもしれない。」
【朱志香】「……でも、嘉音くんじゃない時の君は、もっともっと自由に生きていいと思うんだ。」
 その言葉は、決して口先だけのものではない。
 かつての朱志香もそうだった。学校のどの友達とも異なる境遇に、自らの生まれを呪った。
 自分だけが厳しく窮屈な境遇で、様々な習い事を押し付けられ、遊ぶ友人にまで口出しをされた。……それが悲しかったけれど、そういう星の下に生まれたんだと諦めてしまっていた。でも朱志香はある日、それに諦め屈することをやめた。
 右代宮家のしきたりとか重圧とか、そんなのと関係ない。自分が本当にやりたいことをやれる、本当の「朱志香」を、自分の中に生み出したのだ。
【朱志香】「私さ、学校ではジェシってあだ名で呼ばれてる。だからさ、ジェシである時は、自分に思い切り素直に生きてる。だからこそ、朱志香である時も頑張れるんだ。」
【朱志香】「…嘉音くんにも、嘉音である時と、嘉音じゃなくてその、……本名である時で、違う生き方をしてもいいんじゃないかな。……嘉音じゃない時、…自分を好きになれる自分に、なってみてもいいんじゃないかな。」
【嘉音】「……………………僕が、嘉音じゃない時。」
 本当の名前なんて、どうでもいいものだと思っていた。だから、自分の全てが嘉音だと思った。それを朱志香は、嘉音でないもう一人の自分という、新しい存在を作り出せという。
【朱志香】「……嘉音くん。嫌じゃなきゃ教えてよ。……本当の名前、何て言うの?」
【嘉音】「………………………………。」
 短くない時間を沈黙する。嘉音の喉元まで、自分の本当の名前が込み上げていたかも知れない。…彼はそれを口にしてもいいか、だいぶ長く躊躇した後、…結局は、…飲み込んだ。
【嘉音】「……忘れました。…僕の名前など、もうどうでもいいことです。」
 その言葉の意味するところは、小さな拒絶。
【嘉音】「僕が本当は何という名前であったとしても、……今、ここに嘉音としてあることだけが現実です。過去など何の関係もない。……作られた家具の材料が、元は何という木の幹であったかどうでもいいことと同じです。」
【朱志香】「……だからよせって! 家具じゃないんだぞ、君は人間だぜ?!」
【嘉音】「僕は人間じゃない!」
 嘉音がはっきりと拒絶を口にする。……それは普段の彼が見せることのない激昂。朱志香は何も言い返せず、沈黙させられてしまう…。
【嘉音】「…お嬢様は人間です。だからどんな生き方をしようとも自由で、どんな未来も、可能性もある。それはまるで翼を持ち自在に空を舞う鳥のよう。でも、僕にはそんなものはないんです。僕がたとえ鳥に見えたとしても、アヒルに過ぎない。……アヒルに翼はあっても飛ぶことはできない。」
【嘉音】「なのに空の夢を語るなんて、……そんなのは、…残酷過ぎる…!」
【朱志香】「…家具だのアヒルだの!! 何だってんだよ一体!! …………いや、…。」
 朱志香はつい、嘉音の強い語気に合わせて言い返してしまうが、買い言葉を返すべきではないと気付き、それを飲み込む。
【朱志香】「……………私は君のことを何も知らない。生い立ちも知らないし、その苦労も知らない。…だから、君がどうして自分を家具だなんて言い出すようになったのか想像もつかない。」
【朱志香】「……でも、知って。君は家具でもアヒルでもない。ちゃんとした人間だぜ。」
【嘉音】「………………………………。」
【朱志香】「使用人としての嘉音くんが家具だというなら、それでもいいよ。……でも、…なら。……嘉音くんは家具でない時の、人間の時の自分を作ってもいいとは思わない?」
【嘉音】「……そんな可能性を抱けるのはお嬢様が人間だからです。…僕はそうじゃない。僕には未来も可能性も、見るべき夢もない。…………だからお嬢様。それ以上、…残酷なことを、……言わないでください……。」
【朱志香】「何でだよ…。何で、……そんなことを言うんだよ…。」
【嘉音】「お嬢様が僕のことを、…ご自分と同じ、人間だと勘違いなされているようだからです。僕とお嬢様は違う存在。それをはっきり申し上げておきたかったのです。」
【嘉音】「……紗音に聞きました。お嬢様は、僕のことをお気に入りになられているとか。」
【朱志香】「え、……え?! あ、………いや、わはは…。」
【嘉音】「…僕は人間に限りなく近い姿をしています。だから、………紗音のように、自分を人間だと錯覚して、一時、恋愛の真似事をすることもできるかもしれない。」
【嘉音】「…でも、それは自分を騙しているに違いない。いえ、お嬢様を騙すことにもなるのです。紗音と譲治さまも必ず破綻する。…その日が訪れることを紗音だって理解しているだろうに、…馬鹿なことを。」
【朱志香】「ば、……馬鹿なってことはないだろ!! そりゃ、譲治兄さんは立派な人だし、両親の期待も背負ってる。…確かに、結婚とかになれば絵羽叔母さんが色々と口出しをしてくるだろうし、まぁその、前途は多難だと思うぜ?! …でもな、譲治兄さんはそんなのに屈する人じゃねぇ! 紗音をジュリエットになんかしねぇぜ、きっと幸せにしてくれる!!」
【嘉音】「人は家具と恋などできない。…お嬢様が家具を愛することができても、僕にお嬢様を愛することができないと、そう申し上げたいのです。」
【朱志香】「………………ん、」
 その嘉音の言葉は、……朱志香の今日一日の甘酸っぱい気持ち全てを打ち砕く。ここまではっきりとした拒絶など、彼女の気持ちの中に想定されていたはずもない…。
 嘉音の胸の中の、頑な何かを解きほぐそうという気力は見る見る失われ、…いつしか呆然と立ち尽くすだけになっていた…。
【嘉音】「……お嬢様が僕を好かれているという気持ちが、僕の思いあがりによるものならどうかお許し下さい。」
【朱志香】「…い、……いや。…まぁその、…そこは否定しねぇぜ。」
【嘉音】「……ありがとうございます。」
【朱志香】「え…?」
【嘉音】「僕を人間だと思ってくれて、…ありがとうございます。そのお気持ちだけで、僕は本当に嬉しいです。……そして、それ以上は、僕には残酷過ぎるから…。」
【朱志香】「いや、も、…もう充分だぜ。…その、………悪かったな。」
 朱志香は頭をガリガリと掻き毟ると、無理に爽やかそうな口調でそう言った。
【朱志香】「……私ひとりがその、……色々先走っちゃって、…迷惑掛けたよ。…正直ごめん。貴重な休みを丸一日振り回しちゃって、…本当にごめん。」
【嘉音】「いえ。……僕も、楽しそうなお嬢様が見られて嬉しかったです。」
【朱志香】「…じゃあ、今夜はこれで終わりにしようぜ。……私も部屋に戻って消灯しないと、また母さんに怒られちまうよ。…ははは。」
【嘉音】「そうされた方がよろしいでしょう。…おやすみなさいませ、お嬢様。」
【朱志香】「……うん。…………おやすみ………。」
 背を向けた朱志香は、元気なくとぼとぼと歩み去るかに見えた。だが突然、がむしゃらに駆け出し、屋敷の方へ消えていった…。その背中を見て、…嘉音は一瞬だけ、自分は大きな間違いを犯したのではないかという気持ちに苛まれる。
 …しかし、自分は何も間違っていない。……彼女のためを思えばこそ、もっとも痛みが小さいだろう今、彼女を拒絶しなくてはならないのだ。
【ベアト】「…………女を泣かせるとは、なかなかやるではないか。くっくっくっく。お前がそこまで拒絶するとは意外であった。……普通に受け答えしていれば、妾の魔法で二組目の恋人たちが生まれていたものを。」
【嘉音】「いつからそこに…。………最低なヤツだな。」
 振り返ればそこにいつの間にか魔女の姿があった。…まるでさっきからずっとそこにいて、彼ら二人を演劇のように鑑賞していたかに見えた。
【ベアト】「妾への暴言は、愉快なる見世物に免じて特別に許す。……男と女の拗れ合いに勝る見世物は千年を経ても存在せぬな。妾にとっては阿片より甘美な止められぬ快楽よ。……ん?」
 嘉音は懐からあの蝶のブローチを取り出す。それは魔女が与えた偉大なる魔法の結晶。
 それを躊躇せず嘉音は地面に叩きつけて踏みつける。
【ベアト】「……ほぅ? 妾の与えたものと知りつつ、それは何を意味するのか。」
【嘉音】「今、理解した。……お前がしているのは恋のキューピッドなんて洒落たものじゃない。お前は、結ばれぬ者たちに恋を見せて誑かして楽しんでいるだけの悪魔だ。」
【ベアト】「……………ふ。…そう思うも自由よ。妾が力を貸した人間の多くはお前と同じようなことを口にする。」
【嘉音】「惚けるな!! お前は、紗音を憐れんで力を貸したんじゃない。…恋に胸を焦がす紗音の心の隙をついて自分を封じていた鏡を割らせた。しかもそれだけじゃない、…その末路まで想像がついていて、弄んでいる! 違うか?!」
【ベアト】「ふっふふふふふふ、くっくっく! 家具とはつくづく哀れな存在よ。夢も未来も恋すらもないか。よいよい、身の程は弁えるに限るぞ。くっくっくっく!」
【嘉音】「………く…。」
【ベアト】「朱志香の心にはお前が察する通り、淡い恋心があった。そなたはそれに鋏を入れ刈り取ったつもりでいる。」
【ベアト】「……だが知っておるか? 木は勝手に茂らせたものより、枝を間引き剪定したものの方が太い枝をつけるというぞ。……家具に恋する娘か、面白いぞ、実に面白い! 紗音と譲治もやがては結ばれえぬ恋に行き詰まり、妾好みの大きな果実を実らせるだろう。」
【ベアト】「しかし、如何せんあの二人はうまく行き過ぎていて面白くなくてな? そこへ行くと、お前たちは大いに妾を楽しませてくれそうだぞ、くーっくっくっく!」
 魔女は笑う。結ばれえぬ二人と知りつつ結ばれるよう、魔法の力を貸した。しかし、結ばれえぬ運命からは逃れられないのだ。
 ……魔女は知っている。仮に結ばれたとて、紗音も譲治も、嘉音も朱志香も、必ず破綻し、恋の地獄にて永遠の砂漠を彷徨いながら、永遠の渇きに苦しむことになる…!
【ベアト】「妾がその力を対価なく貸すことがあるとでも? 恋に手は貸そう。その対価は、やがて必ず訪れる二人への過酷な運命の鑑賞料としていただくわけよ。これに勝る見世物は千年経っても存在せぬ…!」
【ベアト】「金蔵を見るがいい。恋の味を知り楽園を追放された哀れな老いぼれの末路を! 死んでも死に切れぬさながら亡者のような生き様を見るがいい。くっくっくっくっく!!」
【嘉音】「やはりお前は魔女だ。消えて失せろ、この悪魔め…ッ!!」
【ベアト】「……頼まれずとも消えよう。まだまだ妾には力が戻らぬでな。姿を現し続けるのは、まだまだ疲れることよ。……そなたら恋人たちに力を授けるのに無理をし過ぎたのでな。…触媒のブローチなしで力を維持し続けるのは、今の妾には容易ではない。」
 嘉音は踏みつけたままのブローチをさらに踏みにじる。…パキリと割れた感触が足の裏に伝わった。するとそれはさらりと水に溶けるように消え去り、黄金に輝く蝶たちに変わって嘉音の足の裏からひらひらと舞い散っていった…。
【ベアト】「妾もこの姿を保ち続けるのがちと苦しい。しばしそなたの願い通り、姿を消そう。満ちぬ潮も月もないように、我が魔力も必ず満ちる。…そして必ずや訪れよう、妾が蘇るに相応しい時が。」
【ベアト】「……それが明日のことか来年のことか、さもなくば百年千年未来のことかは想像もつかぬ。だが、妾を楽しませてくれる者たちがおる限り、妾は必ずや力を得て蘇るであろう。……その時までしばし姿を消す。」
【ベアト】「そなたの手の平にもはや痣はなく、そなたが望むならば明日の朝には妾の存在など夢か幻のように消し去ることもできよう。……忘れ去られることほど妾に悲しいことはない。」
【ベアト】「だが、妾は必ず蘇る。そしてその日がいつ訪れても後悔することのないよう、自らを戒めよ。私は必ずや再臨し、この島の真の主として全てを支配する。…その時こそ再び黄金郷の扉が開かれる。…欲深な亡者たちが必ずや私を呼び覚ます…!」
【嘉音】「…くどい!! 早く消え去れ、黄金の魔女…!!」
 魔女は嘲りの笑いを残し、自らも黄金の蝶の群となって散り去る。…辺りはまるで、スノーグローブに金の吹雪をまぶしたようにきらきらと輝く。それらは瞬きを二つもすれば儚く消え去ってしまう幻想風景…。
 魔女の姿はすでにない。…しかし嘉音には、まだあの不愉快な甲高い笑い声が聞こえている気がした…。
 ……あぁ、愉快愉快。なぜに久しぶりの人の世はこうも愉快なのか! 恋に狂え。黄金に狂え。そのどちらにも狂わぬ者など人間にあらず!
 なるほど、ゆえに家具とは言い得たり、くっくっくっく! 家具は人間に奉仕するために生み出される。そして妾は退屈なる千年の慰み者に人間を虐げる。その妾が家具を支配できぬとは、…何とも愉快な三竦み!
 金蔵め、実に面白いことをしてくれる! 家具め、妾を討てるか試みてみるがいい…! 今宵、蒔きたる恋のタネは2つ。…すでに蒔きたるタネと含めてこれで3つ!
金蔵の書斎
【金蔵】「ベアトリーチェ…。なぜに、…私をひとり、この苦界に置き去りにしたのか…。……私は憎い。これほどまでに恋焦がれているのに、応えようとせぬお前を永遠に憎む…!」
【源次】「お館様、それ以上のお酒は体に障ります。…南條先生からも注意されているのでは。」
【金蔵】「黙れ源次!! お前にはわからぬ、我が嘆きも苦しみもわからぬ! お前だけは我が苦しみを理解してくれていると、お前だけは我が最古の友人であると信じているのに!! なぜに理解できないというのか! おおおおぉベアトリーチェぇえぇ、なぜ私だけを置き去りにぃぃ……!!」
【源次】「………………………。」
朱志香の部屋前
【朱志香】「うううぅううぅ! ひっくひっく…! 何なんだよ家具って! わけわかんねぇよ…! うううううぅううぅ!!」
【熊沢】「……おぉ、おいたわしや朱志香さま。…寝室から聞こえてくるすすり泣く声に、私は事情を知りつつも、どうしようもないのでございます。…全ては若すぎた二人と近すぎた距離、そして生まれた家柄が遠すぎたゆえの悲劇。…私はただただ、お嬢様のお気持ちを汲み取り、足音を殺して静かに立ち去るのみなのでございます…。」
どこかの喫茶店
【紗音】「…えっと、…そ、…それって…。……どういう意味ですか、譲治さん…。」
【紗音】「言葉通りの意味だよ。……僕はまだ自分の城を築き上げてない。それが出来て初めて、僕は一人前になれたと思えるんだ。……その時、君と結婚したい。」
【紗音】「……そ、……それはその、……えっと…。」
【紗音】「でも、それじゃ。もう僕の心が許せないんだ。……だから、君に婚約指輪を贈りたい。」
【紗音】「こ、…婚約、……ですか…。でもその、……私、……か、……………家具ですし………。」
【紗音】「そうだったね。じゃあ家具は人の言うことを聞かないとね。…今、君に贈るのに相応しい指輪を作らせてる。多分、今度の親族会議の日には持っていけると思う。その時に贈るから、どうか君の返事を聞かせて欲しいんだ。」
【紗音】「……君が僕の婚約を受けてくれたら。僕はその席で、お祖父さまを含めた全ての親族の前で君との婚約を宣言する。」
【紗音】「じょ、……譲治さん…………。」
【紗音】「君と僕の仲を、相応しくないと咎める人たちはきっといる。…でも、そいつらの顔を見る必要はない。…君は、その瞳の中に僕だけを満たしていればいいから。」
【紗音】「君を必ず幸せにする。それだけは、絶対に約束するから。」
謎の空間
 どのように実るのか楽しみでならない! 熟れに過ぎて腐り落ちる果実の液に、黄金の蝶たちは舞い降りぬ。今より収穫の日が待ち遠しい! 宴の時はまだかまだか! くっくくくははははははははははははははははははははは…!!
 朱志香の言う通り、家具という言葉自体は、もともと源次が使用人の心得として教えたこと。しかし嘉音(紗音)は、体の悩みのため、自分が普通の人間ではないという意味で家具という言葉を使っている。

チェス盤の準備
1986年10月4日

電車
 彼女らは朝食を駅ビルの喫茶店で取った。…その店は、たまたま10月だったこともあり店内をハロウィンカラーでレイアウトしていた。
 それをひどく真里亞が気に入ってしまったらしい。さっきから電車内で、人目もはばからず、ハロウィンのお祭りがしたいしたいと騒ぎ続けていた。
 欧米では盛んなそのお祭りも、日本ではあまり馴染みがない。商店街のレイアウトは橙色のカボチャをカラフルに飾るが、トリックオアトリートと尋ねながらお菓子をねだる子どもの仮装行列が現れたりはしなかった。
【真里亞】「うー! ハロウィン祭りがしたいー! こんなお洋服やだ、魔女の格好がいいー! うーうー!」
【楼座】「親族会議は遊びじゃないのよ。お祖父さまにお会いするんだから、ちゃんとしたお洋服じゃないと駄目。」
 満員とは行かないまでも、車内は座席ほとんどが乗客で埋まる程度には大勢いた。そんな中、座席で足をばたばたさせながらわがままを騒ぐ真里亞に、楼座は顔をしかめている。さっきから楼座は声を潜めながら何度も注意しているのだが、真里亞は一向に聞き入れなかった。
 …真里亞は一度頑固になってしまうと、どう説明してもなだめても納得しない。かつての楼座は、時にそれに妥協し真里亞を甘やかしてしまった。でも、それがきっと悪かったのだろう。幼い真里亞は駄々をこね続ければ母親は折れて自分の言うことを聞いてくれるものだと勘違いしてしまったに違いない。
 その過ちを教育書で気付かされた楼座は以来、愛娘を甘やかさないよう心を鬼にしているのだが…。真里亞との意思の疎通はますますに図れなくなり、楼座は自分の無力さに落胆することが少なくなくなっていた…。
【真里亞】「ハロウィンーハロウィンー!! お菓子をくれなきゃイタズラしちゃうぞー、うーうーうー!!」
【楼座】「あなたにあげるお菓子はありません! さっき朝ごはんを食べたでしょ!」
【真里亞】「お菓子をくれなきゃイタズラしちゃう! お菓子をくれなきゃイタズラしちゃう! うーうーうー!!」
 足をばたばたとさせる真里亞の隣の座席に座っていた恰幅のいい老婦人が、ハンドバッグの中からのど飴を取り出し、差し出した。
【真里亞】「うー! お菓子もらえた、お菓子もらえた! 見て見てママ、ママ! ハッピーハロウィン〜!」
【楼座】「こら真里亞、勝手に人にお菓子をもらっちゃ駄目でしょ?! 返しなさい!!」
「いいんですよ、ホッホッホ。元気なお嬢さんですこと。おいくつです?」
 老婦人のその言葉に他意はなかったかもしれない。…でも、楼座には非常に屈辱的に聞こえたようだった。
【楼座】「真里亞ッ、知らない人からお菓子をもらっちゃいけないっていつも言ってるでしょッ!!」
【真里亞】「うー! うー!! これは真里亞がもらったのッ!! うーうー!! いやだッ、真里亞のッ!!」
【楼座】「離しなさいッ! ママの言うことを聞けっていっつも言ってるでしょ!!」
【真里亞】「真里亞のー!! 真里亞のぉおおー!! うー!! うーーうーー!!」
【楼座】「そのうーうー言うのを止めなさいって言ってるでしょッ!!」
【真里亞】「うーうーうーうーうーうーうーうー!!!」
 楼座は反射的に真里亞の頬を激しく叩く。…間髪入れずに真里亞は大声で泣き始めた。
 すぐにその手から、楼座は飴玉を奪い取り、隣に座り呆然としている老婦人に付き返す。
【楼座】「…うちの娘に勝手にお菓子を与えないで下さい!」
「……………ご、…ごめんなさい。」
 肩で息を切らせながら、楼座は飴玉をもう一度老婦人に突き出す。…老婦人は、何を口にすればいいか困惑した後、多分自分のしたことはこの親子にとって迷惑だったのだろうと理解し、謝罪を口にして飴玉を受け取った…。
 そしてようやく楼座は周りに気付く…。着衣を乱し、鼻水を零しながらわんわんと泣き叫ぶ娘と、呆然として見守る大勢の乗客たち。…列車の走行音を除けば完全に沈黙した車内に。
 その痛々しい沈黙は、幸いにもしばらくしか続かなかった。…だが代わりに、ヒソヒソというそれまで以上に居辛い空気を生み出すのだった。
 真里亞は、両隣に座っている人たちなどお構いなしに、わーわーと叫び、相変わらず足をじたばたさせている。…それを再び衝動的に平手で打とうとするが、車内の人々の白い目に気付いてしまった楼座には、もうそれをすることはできなかった。
 電車が停まると、楼座は真里亞の腕を強引に引っ張り、半ば引き摺るようにして降りる。
 真里亞は相変わらず泣き止まない。それをホームの端に連れて行き、楼座は再びその頬を打った。
 打たれたその瞬間は一瞬泣き止むが、真里亞はすぐにそれまでより大きく泣き叫ぶ。感情を弾けさせた楼座は、真里亞の襟首を掴み上げ、その髪の毛を毟るように引っ張った。
【真里亞】「うーッ!! うーうーうー!! うー!! ママ痛い、ママ痛い!! うーうーうーッ!!」
【楼座】「だからうるさいって言ってんのよッ!! そのうーうーをッ! やめなさいってッ、言ってるでしょおッ!! そんなだからクラスにお友達ができないんでしょ?! もっとしっかりしてよ!! 何であんたはいつまでも頭の中が幼稚園なのよッ!! どうしてママの言うことが聞けないの!! どうしてッ!! どうして!!!」
 厳しい言葉と共に、楼座は何度も何度も頭を打つ。真里亞が泣き叫べば泣き叫ぶほどに打つ。そして真里亞も打たれれば打たれるほどに激しく泣き叫ぶ…。
【真里亞】「ママ、痛い…! ママ、痛い…! ママ、助けて、ママ、助けて…! うーうーうーうー!!」
【楼座】「そのッ、うーうーをッ、どうしてやめられないの!! あんたがそんなだから友達ができないのよ!! あんたがそんなだからパパの出張が終わらないのよ!! あんたがそんなだから私が…!!」
「ぁ、…あの、…お客さんー、いかがされましたかー…。」
【楼座】「何かッ、ご用ですか…!」
 恐る恐る声を掛けてきたのは駅員だった。楼座は、親子の問題に他人が口を挟むなという形相で睨みつける。
 駅員とて話しかけたくなかったに違いない。しかし、楼座が思っているより遥かに長い時間をこのホームで怒鳴り続けていた。…そして、その感情的な叱り方に、ホームの乗客たちが駅員に声を掛けた方がいいのではないかと忠告したのである。
 楼座は、次の電車に乗るからもう構うなと駅員に怒鳴りつける。…そしてようやく、あるいは再びというべきか、…ホームの乗客たちが遠くからジロジロと見ているのに気付くのだった。
 ……楼座は自分がうっすらと汗をかき、風がそれを冷たくして苛むのを感じた。
 真里亞は自分の頭を庇いながら、まだ泣き続けている。……いや、…叩き続ける限り、ずっと泣き続けるだろう。
【楼座】「……………………、……私は、…………また……。」
 楼座は頭の中の、悪い熱気が醒めるに従い、…また自分が良からぬものに魂を明け渡していたことを知る。
【真里亞】「ママ、ママ! ママ、帰ってきて…! うー! うーうーうーうー!!」
 顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにする真里亞を、楼座は両膝をついて抱きしめた。
【楼座】「……真里亞…、ごめんなさい…、ごめんなさい…。」
【真里亞】「ママ、……ママ…。お帰り、お帰り……。」
 真里亞はようやく、…母が母に戻ってくれたことに気付く。そしてその胴にしがみ付き、胸に顔を埋めて泣いた。
【楼座】「…悪いママを許して…。悪いママを許して…。……本当に、…ごめんなさい…! ママをどうか嫌いにならないで……。」
【真里亞】「うー…。真里亞は全然平気…。ママを嫌いになんかならない。……ママはまた悪い魔女に乗り移られていただけ。…でもママが帰ってきたから平気。」
【楼座】「うん、……うん…。……悪い魔女に、…ママはまた乗り移られていたの…。…ごめんね、……本当にごめんね……。」
 抱き合う二人は、相手に許しを請い、あるいは相手を許す言葉を互いに掛け合いながら、長い時間をそうしているのだった。
 しばらくして、ようやく二人は落ち着き、どちらからともなく顔を離す。真里亞の顔も、楼座の顔も、…泣きはらして真っ赤だった。
【楼座】「…真里亞はハロウィンのお祭りがしたいの?」
【真里亞】「うん。…譲治お兄ちゃんや朱志香お姉ちゃんに、カボチャマシュマロを見せてあげたかった……。」
 それは、朝食を取った店のレジ脇で売っていたお菓子のこと。……スティックの先に、ジャックオーランタンを模った大きな橙色のマシュマロが付いているファンシーなお菓子だった。真里亞はそれを欲しいとしつこくねだったのだ。…楼座は食事をしたばかりなのにお菓子なんてとんでもないとそれを却下したのだった。
【楼座】「……じゃあ、真里亞。……この町に売っているかどうかわからないけど、降りて探してみようか。」
【真里亞】「ぅ、……うん! ママ大好き、愛している…。ありがとお……。」
【楼座】「私もよ真里亞、愛してるわ……。」
 本当は途中下車の駅で道草を食っているような時間はない。飛行機を逃してしまえば、半日は遅れてしまうことになる。もっと余裕を持って家を出ればよかったのだが、真里亞に着せる服をあれこれ選んでいる内に遅くなってしまった。…そのせいで、今朝から楼座は少し焦り気味だったのだ。
 時計を見る。…すぐにでも次の電車に乗るべきなのだ。
 でも、母と一緒にお菓子を買いに行こうと手を固く結ぶ、娘の手は温かかった。…今の楼座にとって、真里亞との絆を取り戻すことの方が大事だった。……真里亞は自分にとって、愛しい娘であるだけでなく、…今の自分の全てなのだ。
 幸い、駅前すぐに大きなスーパーがあるのが見えた。…あれとまったく同じお菓子を見つけることはできないかもしれないが、似たようなもので納得してくれるだろう。それに自分もこんな泣きはらした顔では出られない。化粧を直さなくては。
【楼座】「あれとまったく同じマシュマロは見付からないかもしれないけど、…似たようなお菓子があるといいね。……それで、いとこのみんなを一緒に驚かそうね。」
【真里亞】「うん。…ママと一緒に買うお菓子なら、何でもいい。」
 二人は見知らぬ町の駅で改札を出る。真里亞は、母と渡る横断歩道を、まるで遊園地で歩くようにほくほくしながら歩む。まだ互いの顔は真っ赤だったけど、……ぎこちなくも笑いあう二人の親子は温かに見えた…。
廊下
【夏妃】「………あなた。こんなところでどうされたのですか。」
【蔵臼】「君か。………何でもない。考え事をするのに、ここが少し心地よかっただけだ。」
【夏妃】「…今日の準備は全て手配が終わっています。あとはお茶でも飲みながら寛いで待とうではありませんか。」
【蔵臼】「………すまん。君に、いつも面倒なことを全て押し付けている。」
【夏妃】「…どうか。私をもっと頼ってはいただけませんか。…私はあなたの妻です。」
【蔵臼】「……無論、君にはいつも助けられているし感謝もしている。……だからこそ、私は私の仕事に専念できる。」
【夏妃】「わかっています。……お仕事のこと。……そしてお父様の遺産の話、ですね。」
【蔵臼】「…………君には関係のないことだ。欲深な兄弟たちの腐肉の漁りあいに過ぎん。」
【夏妃】「……大丈夫です、あなた。…全てうまく行きます。あなたのお仕事がうまく行かなかったことはありません。」
【蔵臼】「…………………。」
 夏妃はそっと蔵臼の肩に寄り添う。蔵臼の仕事の苦労を労う言葉を掛けるが、…順調でないことを一番知っているのが夏妃だった。
 …蔵臼の事業は大きなカネが動くシーソーのようなもの。大きな投資は大きな見返りに結びつくが、規模の大きなシーソーは揺れが大きくも緩慢で、すぐに結果が出るものではない。
 時に、そのシーソーが早く良い方へ傾くよう、さらに投資をすることもある。……もちろん、遠くない将来に、かさんだ投資が全て取り返せるという確信があったからだ。……しかし、蔵臼が選ぶシーソーは、いつも思い通りにならない。…先見性は間違っていないのだが、……時代が遅い。いつもついてこない。
 それは例えるなら、文字通り公園に置いてあるシーソー。いつも大人気で必ず誰かが遊んでおり、遊びたくても長い順番待ちをしなくてはならなかった。…そして、そんなシーソーが空いているのをある日見つけ、自分が一番乗りだとそれに跨り、シーソーを独占した。
 しかし、…シーソーは反対側にも誰かが跨ってくれなかったら遊べない。そして、いつまで経ってもシーソーの反対側に誰も来てくれない。シーソーは人気のある遊具なんだから、待っていれば必ず相手は現れる。
 ……蔵臼は気付く。天気が崩れようとしているのだ。だからみんなは表に遊びに出ていないのだ。
 でも、シーソーは人気のある遊具なんだから、必ず誰かが来る。…天気が崩れそうだからとここを明け渡せば、必ず誰かがここを奪い、自分はまたも楽しそうに遊ぶ誰かを遠くから指をくわえて眺めているだけになってしまう…。シーソーの片側で、たったひとりじっと待ち続ける…。それが今の蔵臼の事業、そして状況だった。
【夏妃】「…………私にもう少しの勇気と、…自分の先見性を信じる自信があれば…。いつだって、……失敗はしなかった。」
【蔵臼】「…えぇそうです。あなたの先見性はいつも間違っていません。……あなただけが、お父様の才覚を受け継いだのです。他の兄弟たちが誰も受け継がなかった天性のものを受け継がれた。」
【夏妃】「……なのに、私はそれを信じられず! いつも臆病に自らの事業を畳んできた。……なぜ自分を信じることができないのか! 自分を信じられない男を誰が信じる? 誰も信じない!!」
【蔵臼】「……私は、いつも敗者の座るべき椅子に自ら座り、……親父にも、お袋にも、…兄弟たちにも嘲笑われる…。私はいつになったら、このコンプレックスから解放されるのだ……。いつになったら………。」
 …夏妃だけは知っている。右代宮家の長男として、これから大きな責任を背負っていく蔵臼の、辛い胸中を誰にも打ち明けられず、常に父の偉業と比べられる苦悩を知っている…。
【夏妃】「………あなたが親族会議に専念できるよう、全ての手配を済ませています。…全て。」
【蔵臼】「…………すまん。……親父殿の件は、……問題ないかね。」
【夏妃】「はい。……源次と南條先生は私たちの味方です。…あの強欲な兄弟たちを、決してお父様には会わせません。」
厨房
【郷田】「もしもし、はい郷田です。……えぇ、お任せ下さい! 年に一度の大仕事に腕が鳴っております。」
 厨房には、色とりどりの食材が集められ、さっそく下ごしらえが始められていた。まだ午前中だというのに、夕食の食材が鍋に掛けられシュンシュンと湯気を出している。
 普段は料理以外にも雑事をこなさなければならないが、親族会議の日は料理人として専念することができる。元料理人の郷田にとって、一年間で最高の晴れ舞台に違いなかった。
【郷田】「えぇ、ディナーには仔牛のステーキを…! 素晴らしい肉がすでに保冷庫で今夜を待ちわびておりますよ。賄いも今夜はぜひ期待してください。」
 郷田が使用人仲間にこれだけ上機嫌なのは珍しい。右代宮家専属シェフを自負する郷田にとって、親族会議で自慢の料理を披露する資格を与えられているのは最高の栄誉なのだ。
【源次】「……わかりました。お任せいたしますのでよろしくお願いいたします。…あと、熊沢がそちらにはおりませんか?」
【郷田】「熊沢さんですか? 先ほど見掛けましたがこちらにはおりません。ゲストハウスの方へ準備に行かれたのではないでしょうか。」
使用人室
【源次】「……また油を売っているのか。……いえ、結構です。では引き続きよろしくお願いします。」
【郷田】「えぇ、万事、この郷田にお任せを…!」
 源次は軽くため息をつきながら受話器を置く。この忙しいのに行方をくらませて一服しているに違いない熊沢と、こういう見栄えのいい日にしかやる気を出さない見栄っ張りの郷田の二人に対し、もう一度ため息をつく。
【紗音】「失礼します。ゲストハウスの各お部屋の準備が整いました。」
【嘉音】「……お嬢様より、お子様方が泊まれるよう4人分の用意をするようにとのご指示を賜りましたが、いかがいたしましょう?」
【源次】「…今年は6年ぶりに戦人さまがお見えになるそうだ。お嬢様もいとこ4人で夜更かしをされたいのだろう。……準備するように。奥様にはお伝えしなくて良い。」
【紗音】「そうですね。かしこまりました。」
【嘉音】「……今夜は深夜勤で、そのまま明日は早朝勤か。しんどい二日間になりそうだな。」
【紗音】「そう言えば、台風が直撃するって天気予報で言っていますね…。大丈夫でしょうか。」
【源次】「…台風がよほど逸れない限り、場合によっては親族の皆様方のお帰りの船に響くだろう。親族会議の日程が月曜か火曜辺りまで長引くかもしれない。……長丁場になるだろうが、皆くれぐれも粗相のないように頼む。」
【源次】「…………紗音は焦らぬよう落ち着いて。嘉音は愛想よくご挨拶をするように。」
【紗音】「……は、はい。注意します。」
【嘉音】「…注意します。」
【源次】「大切なお客様がお越しになられる日だ。…くれぐれも粗相がないように。」
【嘉音】「……心得ています。…いつだって、ここには大切なお客様しか訪れませんから。」
【源次】「嘉音。……今日は、本当の意味で、大切なお客様を迎える。心構えを改めるように。」
【嘉音】「……はい。」
【源次】「………紗音、どうした? …さっきから何かをそわそわしているようだが、何か時間の約束でもあるのか。」
【紗音】「え? い、いえ、何でもありません。失礼いたしました…。」
【嘉音】「姉さん。今日は大切なお客様がお越しになる日なんだよ。…プライベートとは切り離すようにね。」
【紗音】「プ、…プライベートなんか知りません…。」
 紗音は頬をわずかにだけ赤らめると、時計から目を逸らす。……もう親族たちの飛行機は新島に着いたころだろうか。…譲治との久しぶりの再会に胸をときめかせているのを、少しは隠しているつもりなのだろうが、脇の嘉音には丸判りだった。
調布空港
【譲治】「………紗音、これを黙って受け取ってくれ…!」
 …トイレの個室の中で、譲治はまるで荒野の早撃ちガンマンのように、ポケットに忍ばせたベルベットの小箱を取り出す練習を繰り返していた。
【譲治】「違うな…。紗音は牽引力のある男性が好きなんだ。も、もっと馬力がある感じじゃないと駄目だ…!」
【譲治】「紗音、これを薬指につけるんだ。…め、命令だよ…?」
【譲治】「あぁ、左手とちゃんと言わないと右手にされちゃうかもしれない! い、いや、紗音もそこまでカマトトじゃないけど、あぁでも、少しは自由意志がないと何だかその、うううううううぅ、んーーーぅううううぅぅうぅ、むぅううううぅああああああぁ…!! 」
 腕を組み、うんうんうなっていると個室にノックがある。譲治はビク!として現実に引き戻された。
【留弗夫】「おぅ、譲治くん。大丈夫かぁ? 腹の調子でも悪いのかー?」
【譲治】「あ、あはははは、留弗夫叔父さん…! 大丈夫です、平気です! ご心配は無用です、あはははははは…!」
【留弗夫】「そっか…? ならいいんだけどな。無理して息み過ぎるなよ。尻が切れちまうぜ。」
 留弗夫はからからと笑いながら手を洗うと、出て行くのだった。…譲治は恥ずかしい部分を聞かれていなかったと知り、ほっと胸を撫で下ろす…。
【留弗夫】「霧江、楼座はまだ来ないのか?」
【霧江】「まだよ。遅いわね。」
【留弗夫】「天候調整中だからいいようなものを。これで普段通りのダイヤだったらあいつ、乗り遅れちまうぜ。そしたらどうする気なんだあいつ。」
【霧江】「…楼座さんだっていい年の大人よ。何とかするわ。兄って人は、いくつになっても妹を子ども扱いなのね。」
【戦人】「親父だって、いくつになっても子どもだけどなー。」
【留弗夫】「んだとぉ? 俺が子どもならお前ぇは赤ん坊じゃねぇか。ほれほれ、戦人ちゃん、高い高い〜!」
【戦人】「やめろ、くすぐってぇ、わははは、やめぇッ!」
【霧江】「親子ってより、悪ガキ仲間って感じね。…ほら、いらしたわよ。」
【秀吉】「おーおーおー!! 楼座さんやないか! 真里亞ちゃん、久しぶりやのー!!」
【真里亞】「久しぶりー! うー!」
【楼座】「真里亞! お久しぶりです、でしょ? 言ってごらん?」
【真里亞】「うー。お久しぶり、です…。」
【秀吉】「そうや! よく言えたなぁ! ご褒美に飴玉あげよなぁ! ……っとと、あれ? どこにしまったんや…。」
【霧江】「楼座さん、お久しぶりです。真里亞ちゃんもお久しぶり。」
【楼座】「ご無沙汰してます、霧江姉さん、秀吉兄さん。…と、……あら、戦人くん?! 大きくなったわね…!」
【戦人】「いやぁ〜、はっはっはぁ…。今日は会う度に言われてて恥ずかしいっすよ…!」
【留弗夫】「おう、楼座。遅かったな。飛行機がダイヤ通りだったらギリギリってとこだったぜ…?」
【楼座】「ごめんなさい。列車の接続がうまく行かなくて。何、また天候調査中なの?」
【絵羽】「ボヤかないボヤかない。船で6時間も揺られるくらいなら、飛行機でほんの30分の方がずっとマシよぅ。たとえ、1時間余計に待たされたって、全然早いんだからぁ。」
【戦人】「あれが真里亞なのか…? 大きくなったなぁ…。成長期かぁ…。」
【絵羽】「前に会ったのは6年前? それは変わるわよ。女は心変わりがあればたった一日でも生まれ変わる生き物よ。」
【真里亞】「……うー?」
 親類たちの中に見覚えのない大男が混じっているのに気付き、真里亞が戦人を睨みながら楼座の背中に隠れる。
【留弗夫】「おい戦人、挨拶しろい。前に会ったのが3歳の時じゃ、初対面も同じだぞ。」
【戦人】「3歳じゃ覚えてねぇよなぁ! よぅ真里亞、久しぶりぃ。大きくなったなぁ!」
【楼座】「真里亞。戦人お兄ちゃんよ。留弗夫兄さんの息子さん。…わかる?」
【真里亞】「…………兄さんの息子さんが。兄さんが息子さん。…………?? ……うーーー!!」
 明らかに警戒されているようだった。大柄な戦人に、やたらとフランクに話しかけられたら、やはり怖いものがあるのだろう。戦人もそれに気付き、何とかアプローチしようと色々考える。すると、彼女が手に握っているお菓子に気がついた。
 それは、楼座に買ってもらったジャックオーランタンのお菓子だった。
【戦人】「そっか、10月だからハロウィンか。いっひっひっひ、お菓子をくれなきゃイタズラしちゃうぞ〜?!」
 小さい子の持つお菓子を奪おうとすれば、普通は泣かれてひと騒ぎになるはずだ。
 このやり方はよくないだろうと大人たちは思ったが、意外にも真里亞は嬉しそうに破顔した。
【真里亞】「ハロウィン、ハロウィン!! ほらママ、戦人もハロウィン知ってる、ほらほら!!」
【楼座】「こら、戦人お兄ちゃんと呼びなさい! ごめんね戦人くん。」
【戦人】「いやいや、気にしないっすよ。俺は戦人と呼んでくれ。俺も真里亞って呼ぶからな。ほら、真里亞、ハロウィンだぞ! お菓子をくれなきゃイタズラしちゃうぞ〜!!」
【真里亞】「お菓子をくれなきゃイタズラしちゃうぞ〜!! きゃははは、きゃっきゃっ!!」
 真里亞は手提げの中から、手に持っていたのと同じジャックオーランタンのお菓子を取り出すと、戦人に差し出す。それを戦人が受け取ることで、彼らの友情の確認は充分なようだった。大人たちは、子どもには子どものコミュニケーションがあるのだなぁと感服する。
 ハロウィンのお祭りがしたいと駄々をこねていた真里亞にとって、トリックオアトリートを理解してくれた戦人はきっと仲間のように感じられたに違いない。先ほどまでの警戒ぶりが嘘のよう。今はまるで十年来の友人たちのようにはしゃぎあっているのだった。
【戦人】「そうだなぁ、日本じゃハロウィンってマイナーなイベントだよな。仮装行列で練り歩くなんて、向こうのニュースではよく見るけど、日本じゃ見たことないぜ。」
【真里亞】「真里亞も仮装したかった。仮装していとこみんなで、お菓子をくれなきゃイタズラしちゃうぞってやりたかった…。」
【戦人】「そっかそっか。今度俺と一緒にやろうな! 真里亞だったら何の仮装をして練り歩きたい?」
【真里亞】「魔女!! ベアトリーチェ!」
玄関ホール
【熊沢】「おや、お嬢様、こんなところに。奥様が探しておいででしたよ。」
【朱志香】「探されたくねぇからこんなところにいるんだぜ。…どうせ、身なりは大丈夫かとか、言葉遣いをちゃんとするようにとかお小言が言いたいだけに違いないぜ。」
【熊沢】「ほっほっほ…。違いありません。」
【朱志香】「……私はさ。なぜか親族会議の日になると、この魔女様が気になるんだよ。」
【熊沢】「ほぅ…。それはまたどうしてでございましょう…?」
【朱志香】「親族会議ってのは、祖父さまに連なる全ての一族郎党が集まる日だ。……今年は6年ぶりに戦人も来るそうじゃねぇか。…そんな感じでさ。何十年かぶりに、……今までずっと姿を現さなかった“親族”が、ひょっこりと現れるんじゃないかって、いつも思ってるんだよ。」
【熊沢】「…………ほほぅ。そんな親族がおりますでしょうか…?」
【朱志香】「ベアトリーチェさまだよ。……素性は誰も知らない。あるいは大昔の祖父さまの愛人なのか。……その子孫がひょっこりと現れて、授けた黄金を返せなんて言い出すかもしれないぜ?」
【熊沢】「ほっほっほっほ…。蔵臼さまたちは、お館様の遺産問題で今年も議論されるでしょうから。…こうも魔女の黄金の話で盛り上がっては、黄金を与えた魔女本人がそろそろおいでになってもおかしくありませんねぇ。」
【朱志香】「熊沢さんはさ、…辞めたり勤めたりと急がしいけど、源次さん並みに昔からここに出入りしてるわけでしょ? ……ベアトリーチェのこと、もっと知ってるんじゃないの?」
【熊沢】「……さぁて、どうでしょうねぇ。ほっほっほ…。思い出そうにもこの老いぼれ、今朝の朝食すらも思い出せませんので…。」
【朱志香】「熊沢さんはいっつもそういう言い方で逃げるけど、何か知ってそうなんだよなぁ? 知ってて物陰で笑ってるみたいな陰湿な雰囲気が時々するぜぇ?」
【熊沢】「ほっほっほ…、これは手厳しい。…隠し事など何もしておりません。……私から申し上げられることは、ベアトリーチェさまは黄金の魔女であられて、この島の夜を支配されているもうひとりの主人であられるということだけでございます。」
【朱志香】「祖父さまの受け売りかよ。給料もらってるとはいえ、祖父さまの妄言に付き合うのも大変だなー。」
【熊沢】「……ただ、これだけは申し上げられます。」
【朱志香】「…何?」
【熊沢】「……六軒島は太古の昔、小豆島と呼ばれて恐れられてきました。アズキはアクジキが訛ったものと言われ、本当は悪食島と呼ばれていたのだと、漁民たちの間では伝えられておりました。」
【朱志香】「前にも聞いたよ。この辺は暗礁が多くて、海難事故が多かったから、漁民たちが恐れてむやみに近付かなかったって話だろ?」
【熊沢】「……悪食島には悪霊が住み着いていて、太古の昔から人々の魂を食らい続けてきました。…この島に関わり、命を奪われた人間はあまりにも多いのです。」
【朱志香】「それを旅の修験者だか何だかが、例の社を作って鎮魂したんで収まった、ってんじゃなかったっけ? …胡散臭ぇ話だぜ。」
【熊沢】「その鎮魂の社はこの夏、暗き闇夜を引き裂く紫色の不気味な雷で打ち砕かれたとか…。」
【朱志香】「熊沢さん、その話、好きだなぁ。確かに鎮魂の社が落雷でなくなっちまうなんて不気味だが。まぁもともとオンボロだったしな。ちょっと高い波にでもさらわれたんじゃねぇのかな。ははははは。」
【熊沢】「眠りから目覚めた悪食島の悪霊が、ベアトリーチェさまを呼び寄せたのです。………もし、ベアトリーチェさまが親族会議に訪れられるようなことがあったなら…。」
【朱志香】「あったなら…?」
 そこで熊沢は一度沈黙を守る。…その先を促したい朱志香にとって、それは不気味な沈黙だった。
 熊沢は、その沈黙で充分に朱志香を怖がらせたことがわかると、にやりと笑っていった。
【熊沢】「はてさて、どんなことになるやら。ほっほっほっほっほ…。」
 紗音と源次の間で、ベアトリーチェを賓客として招き入れるシナリオを演じるための打ち合わせが行われる。大切なお客様とは、もちろんベアトのこと。
社長室
【留弗夫】「へぇ、そいつはステキじゃないかよ。」
【霧江】「でしょう? たまには優雅な時間を得てあなたの心を豊かにするのも、あなたの仕事に役に立つんじゃないかしら…?」
【留弗夫】「だな。心と財布は豊かじゃなきゃいけねぇ。わかったよ、その日は空けておくことにする。予約を頼むぜ。」
【霧江】「わかったわ。絶対よ。」
【留弗夫】「あぁ、よろしく頼む。愛してるぜ、霧江。」
 留弗夫は受話器にキスをしてから置く。…席の前には腕まくりをした幹部が数人いて、その電話が終わるのを今か今かと待ち構えていた。
【留弗夫】「すまん、待たせたぜ。米国から連絡は来たか?」
「はい。外線にデイル・ワタナベ弁護士からです。お繋ぎします。」
【留弗夫】「……結局のところ、感触はどうなんだ。」
「それがその、……ひとつ芳しくないようでして。先方は裁判をも辞さないつもりのようです。」
【留弗夫】「……やっぱり誤魔化しきれねぇかなぁ。たっはっは…。繋いでくれ。」
「わかりました。すぐに。」
 幹部は秘書室に外線をつなぐよう指示する。すぐに留弗夫の前の電話が鳴り響いた。
【留弗夫】「もしもし。ハローハロー! お待たせしました、右代宮です。どうもどうも。いかがですかそちらは。」
「ハロー、プレジデント右代宮。挨拶は抜きで本題に入りましょう。良いニュースと悪いニュースがありますが、どちらを先にしますか?」
【留弗夫】「…悪ぃニュースが先がいいなぁ。デザートがないと頑張れない性質なんだ。」
「わかりました。悪いニュースは、先方が当方を告発する準備に入ったということです。つい先日、類似した裁判で原告が圧勝する判決が出されました。被告側も、当方が主張するのとほぼ同じ内容で論戦していたのですが、全てにおいて却下されました。残念ながら、このまま法廷に臨めば、当方の主張はことごとく却下される可能性が極めて高いでしょう。」
【留弗夫】「…例の裁判、全滅だったか。……うちより有利な条件だったと思ってたんだが。そりゃあ辛いなぁ。んで、良いニュースは?」
「先方の幹部と接触できました。先方に当方の立ち位置を説明し、先方のブランドイメージを侵害する意図がないことを説明し、理解を得ることができました。先方は近日中に条件提示を行ない、それらの履行が行なわれるなら告発を見送ると約束しました。取締役会のナンバーツーによる発言です。」
【留弗夫】「感触は?」
「正直、非常に厳しいものになると予想されます。当方の想定では避けられないものとして、社名変更、ブランド名変更。交渉の余地のあるものとして、和解金額、大手新聞への謝罪広告掲載、それらの履行期間と見ています。」
【留弗夫】「ウチに潰れろと一言言やぁいいのに、回りくどいやつらだぜ。」
「先方は、近年、二代目社長に交代したばかりで、まだ足固めが終わっていません。当方が徹底抗戦した場合、現社長に失点を与えたい勢力が何らかの利敵工作をしかねないと懸念しています。その為、先方トップも本件を速やかに解決したいという思惑があるようです。その為、迅速な和解のために多少の条件緩和を引き出せる余地も残っているかもしれません。」
【留弗夫】「いずれにせよ、とんでもねぇカネが必要になるか。」
「その覚悟は必要です。そして、それでも懲罰的賠償金よりははるかに安いかと。」
【留弗夫】「ありがとう先生。また進展があったら連絡してください。先生は高給取りだから、与太話もできねぇや。はっはっはっは。サンキューサンキュー、グッバーイ。」
 留弗夫は受話器を置く。
 その話の内容は、応接席に座る幹部たちには想像の出来ているもののようだった。
【留弗夫】「……聞こえたか野郎ども。まぁ、総じるとだ。カネさえ積みゃあ堪忍してやるぜってわけだ。あとはカネの多寡だけを争点にすりゃあいい。」
「しかし社長。ワタナベ氏の示した和解金の想定額はあまりにも膨大です。それだけの余裕はありません…!」
【留弗夫】「こんなことになるってわかってたら、多角化なんて始めんじゃなかったぜ…。」
「3年凌げれば資金的危機は脱出できる計算でした。…まさか、ここで刺されるなんて…、本当についてない…!」
【留弗夫】「ホップステップジャンプの、ステップでコケちまったんだもんなぁ。泣けるぜ。」
「メインバンクからカネを引っ張るしかありません。」
【留弗夫】「銀行はまずいな。連中は勝ち馬にしかカネを出さん。…景気は上向いてるが、銀行に弱みは見せられねぇ。」
「……社長。簿外に資金はありますか。我々の把握していない資金です。」
【留弗夫】「よせやい。俺がそういう男に見えるかよ。俺の財布の中身は全てお前らに晒してるぜ? そこにある帳簿が我が社の全てだ。」
「なら、……金策が必要です。数百万$単位を引っ張れるスポンサーが、大至急必要です。」
「……社長! 社長の交友関係で何とかなりませんでしょうか…!」
「社長! 社長…!」
【留弗夫】「…あぁあぁ、落ち着けてめぇら。……金策は俺が何とかする。お前らはガタガタせずに業務を維持しろ。カネさえ積めば向こうは許すと言ってるんだ。すでに俺たちはアジアに太いパイプを持ってる。色々響くだろうが取引は維持できる。要はカネさえ積めりゃ全て解決できる問題なんだ。」
【留弗夫】「見てろ、俺が全て解決する。お前らを路頭に迷わせなんかしねぇぞ。大船に乗った気でいろぃ! 無事に解決したら、お前ら全員をシャンパンタワーでねぎらってやるぜ。約束する。だから黙って俺についてこい。いいなッ!!」
飛行機
 ガクンと飛行機が大きく揺れる。気流のせいだろう。その衝撃で留弗夫は目を覚ます。朝が早かったせいもあり、座席に座って一息ついたらあっさり眠ってしまったのだ。
【霧江】「…大丈夫? まだだいぶ眠いんじゃないの? このところだいぶ仕事が忙しかったようだし。」
【留弗夫】「仕事が忙しいなんて大いに結構じゃねぇか。俺が暇になっちまったら俺たちゃ明日から路頭に迷うぜ。」
【霧江】「そうね。戦人くんも帰ってきたんだから、二人で物乞いすればいいって問題じゃないわよ。」
【留弗夫】「……そうだな。6年ぶりに家族が揃ったんだからな。…家族水入らずで過ごせるよう、家長が頑張らねぇとな…。」
 窓の外を見ると、飛行機はもうだいぶ高度を下げ始めている。さっきまでは黒い粒にしか見えなかった漁船が、はっきり見えるようになっていた。
【留弗夫】「………親父に土下座して、ゲンコツ一発で一千万借りられるなら、1ダースくらいもらっときてぇところなんだがな…。さもなきゃ、とっととお隠れになってくれりゃあいいんだが。………さんざんスネをかじって、今度は遺産目当てか。…………俺は地獄行きだな。…そりゃあ、こんな俺に親父も会いたくはないだろうよ……。」
金蔵の書斎
【南條】「……まさか今年も、親族会議にお出にならないつもりですかな?」
 南條はため息をつきながら金蔵の顔を見る。…金蔵の目は怪しげな魔法書に釘付けのままだった。
【金蔵】「ハゲタカどもの議論に加わるつもりはない。好きに我が骨のしゃぶり方でも議論するがよかろう。……実に下らぬ。」
【南條】「…………………。…やれやれ。困ったものですな…。」
 南條は小さく首を横に振る。…彼にとって子や孫は可愛いものだ。そして、彼らの成長は老後の唯一の楽しみだと信じている。そんな彼にとって、金蔵の言葉はあまりに悲しいものだった。
【金蔵】「この部屋を出るべき時が来れば私は姿を現す。……あれが姿を今だ現さぬようにな。」
 金蔵が顔を上げると、その目線の先には、壁にうやうやしく飾られた魔女の肖像画があった…。
【南條】「………………。」
 金蔵の頭の中には、今日が親族会議の日で、懐かしい親族たちが一堂に集まることなどわずかほどもないのだ。……頭の中には、肖像画の中でしか微笑まない、油彩画の魔女の面影があるだけだ…。金蔵がベアトリーチェの話をする時、余計な口を挟むことは、彼の逆鱗に触れることも同じであることを、誰もが知っていた…。
【金蔵】「私は今日、…ある儀式を執り行う。」
【南條】「ほう。…それは何ですかな?」
 留弗夫の回想が挿入される。このような回想シーンについても別の色で表示する。ただし、EP2ではこの場面のみ。
【金蔵】「……儀式というよりは、博打に近い。…なぜなら、リスクを負わぬ魔法に奇跡は宿らぬからだ。」
 その話を南條はもう何度も聞いている。金蔵の口癖といってもいい。……ある種のリスクある確率に自分の運命を賭す時、金蔵はそれに勝利することで魔法や奇跡を信じているようだった…。
【南條】「かつて黄金のギャンブラーと言われた金蔵さんが、いつお迎えが来てもおかしくないそのご老体で、一体どんな博打に挑みますやら…。これは見物ですな…。」
【金蔵】「ふ…。……なるほど。研究を尽くした秘術の儀式も、魔法に長けぬお前に掛かれば博打呼ばわりか。まぁいい。」
【金蔵】「……………奇跡を信じる私が勝てば、お前の目には酔狂にしか見えなかったであろう我が研究の全てがこの日に結実したことを、はっきりと理解できるだろう。お前が勝てば、……見たままの通り、いつ迎えが来てもおかしくない年寄りの酔狂に終わるだけだ。」
【南條】「ほぅ…。一体、どんなギャンブルを始めるやら…。あなたの友人として、その賭けに、…いや、儀式でしたか。…その儀式にあなたが勝てるよう、心からお祈りするだけです。」
【金蔵】「うむ、…感謝する。」
【南條】「……そう言えば金蔵さん。今年の親族会議には懐かしい客がおられるそうですな?」
【金蔵】「何……?」
 南條の言葉に、珍しく金蔵が反応し振り返る。
【南條】「ほら、留弗夫さんのところの戦人くんです。6年ぶりにお出でになるそうじゃありませんか。きっと立派になっていますよ。」
【金蔵】「…………何だ、戦人か。…6年ぶり程度の客人など、懐かしいなどと呼びはせぬ。」
 戦人の名を聞き、まるで拍子抜けだとでも言うような不機嫌な表情を見せると、金蔵は再び背を向けた。
【南條】「金蔵さんにとっての6年など、この部屋で研究に没頭すればあっという間のことでしょうからな…。」
【金蔵】「ふ。……本当に懐かしい客は、………あるいは訪れるかもしれん。………全てはルーレットの出目次第だ。…すでにルーレットは回り始めている。ルージュか、ノワールか。」
【金蔵】「…………今宵、ルーレットがどんな奇跡を見せてくれるのか、楽しませてもらおうではないか。…配当は大きいぞ。そして負ける気はせぬ…。……ベアトリーチェよ、…我が賭けを受けるがいい………。」
 その時、卓上の電話が鳴り響いた。金蔵はそのけたたましい音が気に入らなかったらしく、少しでも静けさを守るために受話器を取る。
【金蔵】「……何事か。私は忙しい。」
【源次】「源次でございます。親族の皆様方が到着なされました。」
【金蔵】「だからどうしたというのだ。適当に茶でも出せば良い。」
【源次】「…かしこまりました。そのようにいたします。」
 金蔵は乱暴に受話器を置く。それを見ながら南條は何度目になるかもわからないため息をつき、窓の外へ目を向けるのだった。
 今の金蔵は、どんな来客が訪れようとも関心を持たないだろう。…そんな金蔵に、出るべき時に出ると言わしめる来客などいるのだろうか。金蔵にその心当たりがひとりいたが、それは絶対に現れるわけもない来客…。
 南條は、笑っているのか、悲しんでいるのかすらも量れない淡白な表情を浮かべる肖像画の魔女を見やり、鉛色の空を見上げるのだった……。
魔女の喫茶室
 さぁて、駒はこれで全て並んだか……? 全ての駒を並べ直し、新しいゲームを始めようではないか。
【ベアト】「何か問題は…?」
【戦人】「……ねぇよ。」
 魔女は優雅に煙管を吹かしながら挑発の眼差しを浮かべる。
 戦人は? まるで相手にする気もないようにぞんざいに肩を竦める。
 目は合わせない。でもそれは相手にもしないという意味ではない。…貴様の術策には決して乗らないという明白な決意。戦おうという力強い決意の表れ。
【ベアト】「まさか、無策ではあるまいな…?」
【戦人】「お前の出方がわからねぇ以上、策も何もねぇぜ。…好きに先手を取ればいいじゃねぇか。」
【ベアト】「ふ…。もちろんそうさせていただくぞ。お前の守りを如何に崩すか。何手で詰めるか。……妾の腕の見せ所よ。」
【戦人】「…………お前がどんな手で来ようが、俺はお前を信じない! …その一点を俺が貫き通す限り、俺に負けはない。ってことはだ。このゲームはお前に勝てないように出来てるぜ…?」
【ベアト】「そうかも知れぬ。しかしな? ゲームを何度繰り返すかは妾が決めるぞ。そして妾が勝ち、そなたが負けを認めるまで何度でも繰り返されるぞ…?」
【ベアト】「つまりこれは拷問よ。そなたが妾に屈服するまで続く永遠の拷問…! そなたが妾を、魔女の存在を認めるまで永遠に続く!」
【戦人】「……なら、俺もお前が根負けするまで、何度でも無限に付き合ってやるぜ。意地の張り合いってヤツでは負けた例がねぇんだ。」
【ベアト】「どこぞの魔女にでも入れ知恵されたか…? くっくっくっく、まぁ良い…!」
【戦人】「御託は聞き飽きたぜ。…さぁ、おっ始めやがれ!」
【ベアト】「さぁ、始めようではないか! そなたの指し手はすでに知り尽くしておる。手の内を知られた守りなどタカが知れておる! 同じ手で凌ぎきれると思うでないぞ!!」
【戦人】「……ベアトリーチェ。ひとつだけ最初に言っておくことがある。」
【ベアト】「なんだ…?」
【戦人】「お前が何をのたまおうと自由だ。だが、俺が信じるかどうかは、常に・俺が・自分で決める…! 貴様の魔法がどれほどのものだったとしても! 俺の魂は屈しない。これは俺への拷問だと? 違うね!!」
【ベアト】「ならば何だと言うのか…!」
【戦人】「これは、お前への拷問なのさ!! お前がいつ俺に屈し、諦めるか! それまで繰り返される拷問なのさ!」
【ベアト】「面白いかな、その喩えや良しッ!! 互いを苛み合う拷問とは実に面白い! さぁて始めようではないかその拷問ッ!! 右代宮戦人あああぁぁッ!!!」
 金蔵の魔法についての説明、その3。
 EP1に続き、金蔵が魔法の説明をする描写が繰り返される。説明する相手は、源次、嘉音ときて、今度は南條。

賓客
10月4日(土)10時45分

 六軒島を訪れる親族たちは、毎年、最初に出迎えられる薔薇庭園で感嘆のため息を漏らすことになる…。彼らは足を止め、今年の薔薇の美しさや咲き具合について語り合うのだった。
 その中に一輪、枯れ掛けた薔薇があり、真里亞が感傷に囚われ消沈してしまう。でも、譲治が機転を利かし、そんなに可哀想なら面倒を見てあげればいいと飴玉の包み紙で目印を付けてあげると、すぐに機嫌を直した。
 そして、今朝からずっと仲のいい戦人が、真里亞の大好きなハロウィンの話を振ると、もう元気を取り戻しはしゃぎ始めるのだった。
 真里亞にとっては、今朝、楼座に買ってもらったジャックオーランタンのマシュマロ菓子が何よりの宝物なのだろう。…何本も買ってもらったらしく、会う人会う人にトリックオアトリートを求めては、逆にお菓子を与えているのだった。
【戦人】「真里亞はどうしてこんなにハロウィンが好きなんだろうな。日本人には、ひとつ馴染みにくいイベントだと思ってたんだが。」
【朱志香】「仮装行列で練り歩く子どものお祭りだからじゃねぇのか? 普段と違う格好をしてはしゃぎあうってのは楽しいぜ。」
【譲治】「うーん、…多分、僕はもう少しディープな理由によるものだと思うなぁ。何しろ、“魔女”の真里亞ちゃんだからね。」
【戦人】「そういや、飛行場でも真里亞は、仮装するなら魔女になりたいって言っていたっけ。真里亞って魔女が好きなんだ?」
【楼座】「……えぇ、大好きよ。困ったくらいに。」
【朱志香】「まぁまぁ。あのくらいの年頃は、ファンタジックな存在に憧れるもんですから。」
【楼座】「せめて、テレビアニメのヒロインに憧れるくらいなら可愛いんだけど…。…はぁ。」
 楼座のその様子を見る限り、母親としては娘の魔女好きをあまり快く思っていないようだった。それは戦人以外のいとこたちにとっては理解できることであるらしく、苦笑いしながら肩を竦めあうのだった。
【戦人】「ふーん? 魔女好きだとハロウィンも好きになるって論法なのか? わかんなきゃ本人に聞けばいいか。おい真里亞。ハロウィンと魔女って何か関係あるのか?」
 戦人がそれを問い掛けると、譲治と朱志香が、あっと小さく声を上げる。…まるで後の祭りだとでも言わんばかりだった。
 その質問は、真里亞にとっては待ってましたとでも言うようなものらしい。一瞬だけ嬉しそうな表情を見せた後、わかってないなぁとでも言うような小意地の悪いものにかわる。門外漢が間違った思い込みで失言し、マニアの逆鱗に触れてしまった時に見せる表情そのものだった。
【真里亞】「うー。…ケルト人は、一年間を通じてその勢いを変える太陽は、一年を通して、生まれ、育ち、老いて死んで、そして再び蘇ると考えていたの。」
【戦人】「納得だな。春のか弱いぽかぽかした太陽が、どんどん成長して暑いくらいになり、次第に痩せ衰えていく様をなるほど、太陽の一生と考えるのも頷けるぜ。」
【真里亞】「うん。だから彼らは、10月の最後に太陽は死に、死の国で体を休めて、冬至の日に再び蘇ると考えたの。それで、太陽が一年の生涯を終えて死ぬその日を大晦日、サヴィンと呼んで、お祝いしたの。」
【譲治】「再び日照時間が長くなりだす冬至の日を、太陽の復活の日とする考え方はとても面白いよね。古代の人々がいかに太陽を神聖視していたかがわかるエピソードだよ。」
【戦人】「…なるほどなぁ。んで、それが魔女とどう関係があるんだ?」
 俺が適当に先を促したのが少し真里亞の逆鱗に触れたらしい。口を挟まず説明させろというような目で睨みつけられる。……真里亞が楽しそうに語っているのだから、とりあえず口を挟まないことにしておく…。
【真里亞】「10月と11月の狭間は、生と死がもっとも近くなる。…ケルト人たちはこの時期に、生者の世界と、死者やこの世ならざる者の世界がもっとも近付き、異界の住人たちがたくさん訪れると信じてたの。……日本でいうお盆みたいなものだよ。きひひひひ。」
 現世に戻ってくる霊魂たちが、人々の家に入ってきたり、あるいは憑り付いて悪さをすると当時の人々は信じていた。そこで彼らは、これらの害を受けないようなおまじないを生み出していった。そのひとつが、不気味な怪物の姿を模して、霊魂たちを逆に怖がらせ、憑り付かれないようにしようというものだったらしい。
【朱志香】「その部分がお祭りになっていって、仮装行列になってったんだなぁ。…真里亞は本当に物知りだぜ!」
【秀吉】「……ほんまやなぁ。わしも、ハロウィンにそないな謂れがあるなんて知らんかったわ。」
【留弗夫】「しかし、それのどこにお菓子をくれなきゃイタズラしちゃうぞってのが出てくるんだ?」
 意外にも博識なので、大人たちもいつの間にか話を聞いていた。普段、最年少扱いされてばかりの真里亞は得意げに胸を張っているのだった。楼座は、子どもの話だからと、早く輪を散らしてゲストハウスに荷物を下ろしに行きたいと言うのだが、誰も賛同してくれず、はぁっと重いため息を漏らすのだった。
【真里亞】「うー。トリックオアトリートは単なるお遊び。本来のケルト人たちの儀式とは何の関係もない。それは後にキリスト教の習慣が混合して出来たものなの。…でも、真里亞は本来のハロウィンの姿とはそうあるべきだと思うの。」
 真里亞の話によると、人ならざる者たちの世から訪れるのは死者の霊ばかりでなく、人々の生活と密接な関係にある精霊たちもたくさん訪れるのだという。その精霊たちの恩恵を人間が受けられるからこそ、素晴らしい恵みを得ることができ、一年の収穫を得ることができたのだ。
【朱志香】「つまり、ハロウィンってのは収穫祭の意味も少しはあったわけか。」
【戦人】「なるほどな。…言われてみりゃ10月ってのは、季節的にも色々節目って気がするぜ。日本の4月のちょうど反対側だもんな。……なるほど、キリはいいかもしれねぇなぁ。」
【真里亞】「うー! そしてね、魔女たちはね、その時期に魔女集会、サバトを開いたの。魔女たちは豊かな恵みをもたらしてくれた精霊たちに感謝し、労ったの。」
【譲治】「ハロウィンの仮装は、向こうから来る客人たちの模倣。……つまり、彼らにお菓子を施すのは、一年の収穫への感謝の気持ちがあってもいいわけだね。」
【真里亞】「うー! 譲治お兄ちゃんの言う通り!」
【戦人】「つまり、ハロウィンはこの世とあの世の交流のある時期ってわけなんだな? それでつまり、魔女たちにとってはそういう世界の客人たちと交流できる大切な機会だったと。そう言いたいわけか。」
【真里亞】「うー!! 戦人の言う通り!」
【真里亞】「だからね? だからね?! 魔女たちや悪魔たちの力がもっとも活発で盛んになるのが10月なの! きひひひひひひひ、きっとベアトリーチェも来てくれる!」
【真里亞】「そしてね、一緒にマシュマロお菓子食べて、真里亞も黄金郷に連れてってもらうの! 一緒に魔法のお唄を歌って、魔法の呪文を習って、魔法陣の書き方を習うの! そしてね、ルーンの秘密を習って、早く早く真里亞を立派な魔女にしてもらうの!」
【絵羽】「あらあら、それは素敵ねぇ。子どもは夢があるのが一番よ。ところで楼座、真里亞ちゃんは今年でいくつになったんだったかしら…?」
【楼座】「ま、…真里亞…。もうそのお話は終わりにしなさい!」
【霧江】「気にしないで、楼座さん。女の子なら誰だって一度は思い描く夢じゃない。」
【楼座】「あ、ありがとうございます。…でももう、真里亞はそういう歳を卒業していますので。…こら、やめさないと言ってるでしょ!」
 真里亞がこれ以上、黒魔術的なことを朗々と語りだし、親族たちの失笑を買わないうちに、楼座は黙らせようと凄む。
【戦人】「へー…。そいつぁ何だかスケールのでかい話だな。……ところでベアトリーチェって誰だっけ? ……何だっけ、えっとえっと、聞いた名前だな…。」
 戦人は6年ぶりなので、六軒島の魔女伝説のことをすっかり忘れていた。だが、ベアトリーチェの名を知らないと口にしてしまったことは、直前までとても上機嫌だった真里亞を一瞬で不機嫌にしてしまった。
 それを見て、戦人はすぐにこの島の魔女の名前だったと思い出すのだが、全て後の祭り。…真里亞が機嫌を直すまで、延々と黄金の魔女の素晴らしきミステリアスなエピソードの数々を語りこまれるのだった…。
【楼座】「もうよしなさい、真里亞。ありがとうね戦人くん、お話に付き合ってくれて。…嘉音くん、お仕事があるんでしょう? もう行って頂戴。郷田さん、みんな取り敢えず荷物を置きたがってると思うの。悪いんだけど、みんなをゲストハウスへ案内してくれるかしら?」
【郷田】「かしこまりました。…それでは皆様、ゲストハウスへご案内いたします。」
【嘉音】「……それでは失礼いたします。」
 郷田が親族たちを先導してゲストハウスの方に向かっていく。荷物を置いて、とりあえず一息つきたい彼らは、楼座と真里亞がその場に留まっていることには気付かなかった。
 彼らがゲストハウスの方へ行ってしまったのを見届けると、楼座の形相がたちまち変わった。
 ずっと真里亞の腕を握り締めていた手を離す。…そこには真っ赤な跡が残り、真里亞の華奢な腕が、いかに過ぎた力で握られていたかわかった。
 そしてその手は、真里亞の頭をぴしゃりと叩くと、左の耳を鋭くつねり上げる…。
【楼座】「魔女の話はするなといつも言っているでしょうが……。…それは私との約束だといつも言っているでしょう……。」
【真里亞】「ママ痛い、ママ痛い…、痛い痛い痛い……。」
【楼座】「ハロウィンハロウィンうるさいのよあんたは…。魔女のお祭り…? ケルト人が何よ、黒魔術が何よ、馬ッ鹿じゃないの……? あんた、9歳よ9歳…。電車であんなに騒ぐから、わざわざ電車降りてまでその蛍光塗料みたいな気持ち悪いオバケマシュマロを買ってやったのよ…。遅刻してまであんたに買ってやったのよ。あんたどこまで私の顔を潰せば気が済むのよ……!」
 楼座は呪いの言葉を吐きながら、真里亞の耳を千切れんばかりに捻り上げる…。真里亞は苦悶の表情を浮かべながら、懸命に爪先立ちになって、引っ張られる耳の痛みを和らげようとしている…。
 真里亞が手に持っているあのお菓子を楼座は突然奪う。
 するとそれを地面に叩き付け、何度も何度も踏みつけた。真里亞にとってそれは、束の間とはいえ、母と楽しく買い物をした記憶の証であったはず…。それが他でもない母に踏みにじられる光景。…それが真里亞の瞳に、消せない焼きごてを押し当てる…。
【楼座】「こんな気持ち悪いお菓子が何よ、気持ち悪い気持ち悪い…!! あんたがそんなだからッ、あんたがそんなだからッ!! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!!」
 そう言いながら何度も何度も平手で頭を打つ。…頬は打たない。赤く腫れて目立つからだ。真里亞は目を固く瞑り、母の暴力にじっと耐えている…。…いや、少し違った。
【真里亞】「……帰ってきてママ、帰ってきてママ…。助けてママ、助けてママ…。悪い魔女に打ち勝って……。」
 そう呟き続けながら、ずっと耐えているのだ…。
【楼座】「だからッ!! そのッ、魔女ってのをッ、やめろッ、つってんのよ!! このッこのこのッ!!!」
 叩き疲れた楼座は肩で息をする。…真里亞は両手を握り締め、早く“母”が帰ってくるのを耐えている…。
【真里亞】「……ママ、ママ…。早く帰ってきて…。真里亞を助けてよ、ママ……。悪い魔女をやっつけてよ……。」
【楼座】「い、…いつまでもそこでそうしていなさい!! そしてそこで、魔女でもハロウィンでもいつまでもブツブツひとりで言ってればいいのよ!!」
 楼座はそれだけを言い捨てると、その場に真里亞を残し、ゲストハウスの方へ去っていく。
 …真里亞は、泣いてもいいことすら思い出せず、踏みにじられ、見る影もなくなったジャックオーランタンのお菓子をいつまでもいつまでも、見下ろしていた…。
ゲストハウス・玄関
【絵羽】「あら、楼座。どこ行ってたのぅ?」
【楼座】「ごめんなさい。薔薇が素敵だったもので、ついつい。」
【留弗夫】「楼座、早く荷物を置いて来いよ。兄貴んとこへ挨拶に行こうぜ。」
【秀吉】「ん? 真里亞ちゃんはどうしたんや。まだ花壇におるんかいな。」
【楼座】「…えぇ。気に入った薔薇があるみたいで、世話をするって言って聞かなくて。しばらくは好きにさせることにしました。」
【霧江】「…………女の子には女の子の世界があったことを、私たちはたまに忘れるわ。時には尊重してあげないとね。」
【楼座】「……そうね。…お気遣いをありがとう、霧江姉さん。」
【楼座】「…郷田さん。私たちの部屋はどこ?」
【郷田】「ご案内いたします、こちらでございます。お荷物をお持ちいたしましょう。」
【楼座】「結構よ、自分で持てます、ありがとう。」
 楼座は郷田に案内された客室に入る。そしてやや乱暴に扉を閉めると、ベッドの上に荷物を放り投げる。
【楼座】「…………………………………………。…………。」
 そのベッドの前に、…跪くように両膝を付き、……ベッドに顔を埋める。しばらくの間、楼座はシーツを爪で引き裂くようにしながら、嗚咽を漏らし続けるのだった…。
薔薇庭園
【嘉音】「………真里亞さま。…大丈夫ですか。」
 茂みの裏に隠れていた嘉音が、楼座の姿がなくなったことを見届けてから姿を現す。
【真里亞】「…きひ、……きひひひひひひひひひ…。…平気だよ。…きひひひひ。」
 真里亞は気持ち悪く笑うが、一部始終を見ていた嘉音にとってそれは、彼女なりの精一杯のやせ我慢に見えるのだった…。
【嘉音】「最低のヤツだ。あれで母親なんて……。」
【真里亞】「……仕方ないよ。その程度の器にはその程度のが入り込む。…真里亞は全然平気だよ。きひひひひひひひひひ……。」
 嘉音は膝を付くと、踏みにじられたお菓子を拾う。
 ……それは見るも無惨。埃を払って返してあげようと思ったが、とてもそんな有様ではなかった。
 どうしようか途方に暮れていると、真里亞に目が合う。……いや、合わなかった。真里亞は、嘉音の拾い上げたお菓子を見ていた。
 …今の真里亞の胸中は多分、…この踏みにじられてぐしゃぐしゃに潰されてしまったお菓子と同じに違いない…。嘉音はそれを察したが、どうしてやればいいかわからない…。
【嘉音】「…そうだ…。……さっき僕がもらったのと交換してあげるよ。」
 嘉音は、さっき真里亞にもらった同じお菓子がポケットにあったことを思い出す。
 真里亞は手を突き出す。……受け取るという意味なのだと思って、お菓子を差し出すが、真里亞は握ろうとしない。
 ……そして嘉音は気付く。…返せと言っているのだ。
 ……どんなに無惨でも、踏みにじられた方のお菓子が、真里亞のもの。…真里亞にと母が買ってくれたもの。どんなに無惨でも、このお菓子でなければならないのだ…。それが、埃を払えば綺麗になる程度のものだったなら…。…嘉音は俯く。
【嘉音】「………僕には、埃を払う程度しかできない。………ごめん。」
 嘉音は彼女が求める、惨めなお菓子を差し出す。真里亞はそれを受け取り、言った。
【真里亞】「…ありがとう。ニンゲンには埃しか払えないけど、魔女には元通りに直すことが出来るよ。ベアトリーチェなら簡単にね。きひひひひひ。」
【嘉音】「…………真里亞さまは、…ベアトリーチェ…、…さまのことをご存知なのですか。」
 右代宮家に関わるものなら、戦人を例外にすればベアトリーチェの名を知らぬ者はおるまい。…しかし先ほど、真里亞は得意げに戦人に語った。それはまるで、普段からベアトリーチェに会っているかのような口調だった。
 嘉音は左の握り拳の内側が、ちりりと痛むのを感じる。……かつて、ベアトリーチェという魔女が現れ、自分と紗音を唆した。あれは悪い夢だったとずっと思い込むようにしていた。……だが、紗音はあれは現実で間違いなく本物の魔女だったと言い張っている。
 そしてこの夏。……鎮守の社が一夜の内に落雷で跡形もなくなってしまった。
 …紗音が鏡を割ったことは知っていた。……そして、魔女が去り際にやがて蘇ると捨て台詞を残したことも覚えていた。
 そして、…………ベアトリーチェを信奉して止まない少女が、ベアトリーチェに会っているかのように話す。…嘉音は、心に何か不吉なものが込み上げるのを抑えられずにいた。
 しばらくの間、真里亞は嘉音の胸中を見透かすように沈黙を守った。…まるで、ベアトリーチェの記憶が蘇るのを待っていたかのように。そして、さも事実であるかのように言う。
【真里亞】「きひひひひ…。真里亞はね、ベアトリーチェとお友達なの。今日だって会って一緒に遊ぶよ? きひひひひひひひひ…。」
【嘉音】「遊び、…ますか。」
【真里亞】「…うん。遊ぶよ? 一緒にね、魔法のお勉強をするの。きひひひひひひひ…。」
 ……嘉音が、悪い夢だったと思い込もうとしている魔女の面影が、……じわりじわりと脳裏に蘇ってくるのだった……。
客間
【夏妃】「お父様は研究で大変ご多忙と仰せです。残念ながらこちらへはお出でになれないとのことです。」
【留弗夫】「……やれやれ。こちとら、秋の大忙しの中、日程をつけてはるばる六軒島まで来てるんだぜ。親父も少しは愛想をよくしてもらいたいもんだぜ。」
【絵羽】「本当よねぇ。……南條先生。本当に研究や機嫌の問題なのぅ? ベッドから起き上がれないくらいに、もう寝たきりだって言うんじゃないのぅ?」
【南條】「……さて、……どうでしょうかな。私の口からは何とも…。」
 南條はちらりと夏妃を見る。夏妃を差し置いてそれを口にする資格がないという風だった。
【夏妃】「お父様はますますにご健康でいらっしゃいます。寝たきりなどと、失礼極まりない…!」
【絵羽】「でも余命3ヶ月なんでしょう? 普通に考えれば痩せ衰えてベッドからも起きられないはずよぅ。でしょう、南條先生?」
【南條】「………並の患者ならそうでしょうがな。金蔵さんは並外れた気力をお持ちです。…あの気迫に、お迎えも恐れて近寄れないのかもしれませんな…。」
【霧江】「それほどまでにお元気なら、少なくとも安心ね。」
【留弗夫】「…そこまで元気なら、せめて挨拶くらいはさせてほしいもんなんだがな。…親族会議ってのは親父の顔を見に来たって意味なんだぜ? これじゃあ、何のために来たのかわからねぇぜ。」
【蔵臼】「そう言うな。居れば居たで、心が休まらないといつもぼやくのだろうが。兄弟一同、水入らずで今年も全員、欠けることなく集まれたことを喜ぼうじゃないかね。」
【絵羽】「昨年の親族会議でも会えなかったのよ? 血を分けた子どもたちが、2年ぶりに挨拶したいというのが、どうして理解してもらえないのかしらぁ。」
【夏妃】「……挨拶の言葉があるのでしたら、私どもがお伝えします。それとも絵羽さん。……何かお父様にお会いして、挨拶以上のお話でもあられるのですか…?」
【絵羽】「………………ん。…いやぁね、何の話よぅ、もう。」
【秀吉】「よさんか絵羽。夏妃さん、堪忍な。絵羽も娘として、お父さんの病状が不安なだけなんや。ちょいと気持ちを汲み取ってぇな。」
【蔵臼】「その通りだな。絵羽は親父殿が余命を宣告されてから急に親孝行をするようになったじゃないか。…なるほど、その姿をぜひ見てもらいたいという気持ちも、わからなくない。……ふ。」
【絵羽】「………何が言いたいのよ。」
【留弗夫】「よせよ姉貴。晩飯までには機嫌を直してくれるよう、祈ろうじゃねぇか。…それに俺たちは到着したばかり。まずは軽く挨拶に訪れただけだぜ。親族会議は親父抜きだって出来る。…いや、兄弟で意見を統一してからじゃなきゃ話せねぇことだって色々あるはずだぜ? なぁ、秀吉兄さん。」
【秀吉】「うん! 留弗夫くんの言う通りや。……わしらが全員顔を揃えるのは年に一度しかない。貴重な時間を大事にし、忌憚ない話し合いをせんといかん。」
 まだお茶すら来ていないというのに、彼らは本当にたくましかった。
【霧江】「でも、その前に本家の素晴らしい調度品に囲まれた客間で、のんびりと紅茶を楽しむゆとりがあってもいいんじゃないかしら…。」
 霧江のその言葉は、居合わせた人間全員に対し、軽い戒めの意味合いがあったようだった。全員それを理解し、咳払いをしたり、ネクタイを締めなおしたりなどしながら、一度、場の空気を元に戻す。
【紗音】「……失礼します。お茶をお持ちいたしました。」
【秀吉】「いよぅ、紗音ちゃん。ますますべっぴんさんになったなぁ!」
 紗音が配膳台車を押しながら客間に入ってくる。
 一同は、取り敢えず紅茶くらいはのんびりと馳走になることにするのだった…。客間の中を、優雅な香りがいっぱいに広がっていく。
 その様子を見る限り、紗音が来る直前までのギスギスしていた空気が嘘のよう。…もちろん、お茶を配膳している紗音は気付きもしないだろう。
 ……そんな、みんなの大人な様子に、霧江は軽く笑い捨てるような仕草をするのだった。
 留弗夫は、霧江が親族会議で率先して発言するのを好まない。
 …下らない男のプライドだ。カミさんに助言されているような弱い男だと思われたくないのだろう。それを理解し、極力、余計な発言をしないよう慎んでいる。
 だから、兄たちと上辺だけは水入らずで過ごしているような輪から離れ、窓辺で紅茶をのんびり楽しんでいるのだった。
【霧江】「あら、楼座さん。兄弟で水入らずなのでは…?」
【楼座】「……ご冗談を。」
【霧江】「ごめんなさい、気を悪くしないで。ウチの夫に呆れてるだけだから。」
 楼座は、上辺だけ調子を合わせることができなかったらしい。…遺産の奪い合いという血生臭く、かつ泥臭い議論のためにここに訪れているのだ。今更馴れ合いのふりなどしたくないのだろう。……あるいは、その程度にまだまだ彼女は未熟なのか。
【霧江】「…だいぶ、風が出てきているようですね。…枝葉があんなに揺れて。」
【楼座】「もう台風が近くまで来ているのでしょうね。……今夜辺りからはだいぶ降るのかしら。」
【霧江】「……………真里亞ちゃん、この一年でずいぶん立派になりましたね。」
【楼座】「………そう見えます…? 未だに自分のお洋服を畳むことすらできないんですよ。」
【霧江】「えぇ。こんなにも愛情たっぷりなお母さんと一緒なんですもの。心の豊かな子に成長しますよ。」
 楼座は沈黙している。………霧江がどちらの意味で言っているのか、わかりかねているのかもしれない…。
【楼座】「…私なんて。………母親失格ですよ。……………子に、生まれる親は選べない。あの子が可哀想で…。」
【霧江】「お互い様じゃないですか。……親だって、生まれる子は選べない。」
【楼座】「…………………………。」
 楼座は下唇を噛む…。
【霧江】「どちらが悪いとかじゃなくて。一緒に生きていくんだという気持ちで、ゆっくり成長を見守ってあげればいいじゃないですか。」
【霧江】「楼座さんは毎日を真里亞ちゃんと過ごしてるから、小さな変化に気付かないかもしれないけれど。一年ぶりに再会した私たちには、その大きな成長ぶりがよくわかりますよ…。」
【楼座】「……もし、本気で言ってくれるなら、ありがとうございます。」
【紗音】「それでは、失礼いたします。御用がありましたら、いつでもお呼び付けください。」
 紗音が丁寧にお辞儀して退室する。
 鼻の下を伸ばした秀吉と留弗夫がそれを見送ると、…場の空気は紗音が訪れる直前のものに逆戻りし始める。
【絵羽】「………お父様がいらっしゃられないなら、それはそれで、できる話もあるというものよ。ねぇ、留弗夫。」
【留弗夫】「あぁ、そうだな。…俺たちははるばるここまで、埃の臭いがする紅茶を飲みに来たわけじゃねぇぜ?」
【蔵臼】「……良かろう。一秒を争ってお前たちがしたいという話を聞こうじゃないか。」
【霧江】「………やれやれ。たくましい人たちね。さっそく始めたわ。」
【楼座】「私も加わらないといけないわ。……あの人たち、私が主張しないと、4人兄弟であることをすぐ忘れるから。」
【霧江】「…あなたも大変ね。……ちょっと言葉を選ばなかったかしら。ごめんなさい。」
【楼座】「うぅん、気にしてません。…こちらこそごめんなさい。私たち、互いに娘を持つ母親同士なんだから、もっと交流しなきゃいけないのに。いっつも会えば変な話ばかりで…。」
【霧江】「……この屋敷の空気のせいよ。ここの空気を嗅ぐと、いっつも私たちはギスギスしあってるもの。……楼座さんとは、親族会議じゃない席で、一度ゆっくりお茶でも飲みたいわ。銀座に行き付けの素敵な喫茶店があるの。ぜひ今度招待させて。」
【楼座】「ありがとう、霧江さん。その時はぜひ…。」
【霧江】「いやぁね。急に空が暗くなってきたわ。まるでこの部屋の人たちが天気を悪くしてるみたい。……もうゴロゴロ鳴ってるわ。あら? ポツリと来たかしら…?」
【楼座】「…え?」
 確かに、客間の窓ガラスに小さな雨の飛沫が付いている。…予想より天気が崩れるのが早いようだった。` ……その時、楼座の頭の中に、音無き落雷が落ち、愛娘が薔薇庭園にいたことを思い出す。
 普通の子なら、天気が崩れれば家に入ろうと考える。……しかし真里亞は違う。時に頑固になると、雨が降ろうが槍が降ろうがそこを動かない。 ……そうだ、私…。……あの子に、 いつまでもそこでそうしてなさい、って言わなかったっけ…。
【楼座】「い、……いけない…! 真里亞…!!」
 楼座が小さく叫ぶとみんなが振り返る。
【蔵臼】「…何だ、どうしたんだね?」
【楼座】「ご、ごめんなさい、ちょっと表に行ってきます。すぐ戻ります!」
【留弗夫】「……何だ何だ、どうしたってんだ、あいつ…。」
【霧江】「いいじゃない。すぐ戻るわよ。……それより始めたら? 私たちの本題。」
【絵羽】「そうね。楼座抜きでも進められる話よ。話を戻しましょ。」
【霧江】「………………。」
薔薇庭園
 玄関から駆け出た楼座は薔薇庭園に走る。
 扉を開くと、そよ風と呼ぶには強すぎる風が出ていて、思ったより早く台風が近付いていることを教えてくれた。
 霧江が言っていた通り、風には細かい雨粒が混じっている。低い雷鳴も轟いていた。……いつ降り出してもおかしくないかもしれない。
 楼座は、薔薇庭園を目指す。さっき真里亞を叱り付けた場所を目指す。
 …時間的には、もうすぐお昼だった。子どもたちは、お昼に屋敷に来ればいいということになっていたから、多分、ゲストハウスにいて呼ばれるのを待っているのだろう。…真里亞が来なくても、私が屋敷に連れて行ったに違いないと考え、深く心配はしないはずだ。
 ……だって、母親が一緒なんだから、心配の必要なんてあるはずがないのだ。その私がここにいて、娘を天気の崩れかけた屋外にひとり放り出している…!
【楼座】「真里亞ぁあー!! いるのー!! いるなら返事をしてー!!」
【真里亞】「………うー。」
 やっぱりそうだった。私が叱り付けたあの場所で、…あの時とまったく同じように相変わらず立ち尽くしていた。
 手に持っているのは、……私が買い与え、そして私が踏み潰した、あのお菓子。それを握り締めたまま、強い風に髪の毛を散らされ苛まれ続けていた…。
【楼座】「ごめんなさい、ごめんなさい!! ごめんね真里亞…!! ママを許して…!」
【真里亞】「…うー。ママ、お帰り…。……真里亞、ママが帰ってくるの、ずっと待ってた。…怖い魔女につねられたけど、我慢してママが帰ってくるの、泣かずに待ってた…。」
【楼座】「……真里亞っ…。……ママを許して…、ママを許して……。」
【真里亞】「ママは悪くないの…。また悪い魔女に憑り付かれただけなの……。だから平気。ママ大好き。愛してる……。」
【楼座】「うううううぅううぅぅううぅぅ!! ごめんなさい、ごめんなさい…。……悪い魔女に負けた……ママを、………許して…………。」
 楼座は真里亞の小さな胸に顔を埋めながら、涙を流して許しを乞う。…そして、これが何度目になるかわからない涙を、再び零させた。
 せめて二人を、燦々とした太陽が照らしていたなら、二人のわだかまりが全て解け、これからのやり直しを感じさせたかもしれない。…しかし、今の二人を包むのは崩れ行く天気。雷鳴の混じる強い風であることが悲しかった。
 真里亞が鼻をすする音に気付く。…いつまでも風に晒されていたら風邪を引いてしまうだろう。
【楼座】「……さ、真里亞。もうすぐお昼よ。ママと一緒にお屋敷に行きましょう。」
【真里亞】「うー。行かない。」
【楼座】「ど、…どうして…?」
 楼座は、もう真里亞に許しを得られたと思ったから、まさか断られると思わなかった。でもその表情には、母親に反抗したいという様子は見られない。…だから楼座は、どうして真里亞が天気の崩れつつある薔薇庭園に、意味もなく立ち尽くしていたいのか理解できなかった。その問いに真里亞は答える…。
【真里亞】「ベアトリーチェがね、もうすぐ来るの。だから待ってるの。」
【楼座】「………真里亞…。」
 楼座は少しだけ言い澱んでから沈黙する。…せっかく仲直りしたばかり。魔女を頭ごなしに否定できず、どう言えば真里亞が自分と一緒に屋敷へ来てくれるか言葉を選んだ。
【楼座】「……ベアトリーチェが、…来るの?」
【真里亞】「うー!」
【楼座】「そう…。なら、ここじゃなくて、お屋敷の中で待ちましょう? いつまでもこんな風の中にいたら風邪を引いてしまうわ…。」
【真里亞】「来るー! ベアトリーチェは来るー!! そしたらね、ベアトリーチェにね、お菓子あげるの。トリックオアトリートするの! ジャックオーランタンのマシュマロお菓子あげてハッピーハロウィンって言うのー!! うー!!」
 真里亞は手提げからもうひとつ、お菓子を取り出し、うーうー唸った。再び駄々をこね始めた真里亞に、楼座はどうしていいものかわからず困惑する…。
 その時、一際大きな雷鳴が轟いた。それは多分、合図。……この島が、嵐に閉ざされ、現実の常識から切り離されたことを示す合図。だから多分、今この瞬間より、全ての常識が通用しなくなるに違いないのだ。
 一際強い風が吹き、薔薇の花びらをたくさん散らす薔薇の吹雪の中、……現れたその姿を、楼座はしばらくの間、現実の光景だと思えずにいた。…いや多分、でも絶対、…それは幻想的。だってその人影は……………。
 嘉音は「ベアトリーチェさまは、もうすぐここにいらっしゃいます」と教える。だから真里亞は、「ベアトリーチェがもうすぐ来る」と言って待つことになる。
【真里亞】「ベアトリーチェー!!」
 真里亞がその人影に飛びつく。
 ……普段の楼座なら、見ず知らずの人に娘が飛びつくようなことがあれば叱る。…しかし楼座は、それを忘れて、ただただ呆然とするしかできなかった。
【ベアト】「……久しぶりよ。元気であったか?」
【真里亞】「うー! 真里亞は元気! 魔女は風邪を引かない! うー!!」
【ベアト】「くっくっくっく! 魔女は呪いにて風邪を引かせはするが、自らが引いては何とも間抜けな話よ。せいぜい自らが風邪を引くことなどないよう、これからも精進するがいい。」
 そう言って悪戯っぽく微笑みながら真里亞の頭を撫でる…。
 嬉しそうに甘えるその女の名を、楼座は知るはずもなかった。…しかし、真里亞は彼女が姿を現したその最初に呼んでいる。だから楼座は、初対面にもかかわらず、彼女が名乗らずとも、その名を知ることができた。
 ……しかし、その名は、この六軒島では、右代宮家では特別な意味を持つ。……そんな馬鹿なことが、あるわけが……!
【真里亞】「ベアトリーチェ! ハッピーハロウィン! ほら、買ったの! ベアトにもあげる。うー!」
【ベアト】「うむ、ハッピーハロウィン。ほぅ、これを妾にとな? 天国にも地獄にも行けず、煉獄の闇にて彷徨う男の唯一の灯りも、こうして菓子となれば実に可愛らしいことよ。」
【真里亞】「……人の世とも、人ならざる者との世とも切り離された今のこの島で、これほど相応しい菓子はないかも知れぬな。くっくくくく…!」
【ベアト】「………ん? 真里亞、それはどうしたのか?」
 魔女は、真里亞が握り締めているお菓子に気付く。…それは楼座が踏みつけて惨めな姿になった、真里亞のお菓子。
【真里亞】「……うー。踏んづけて潰れちゃった。……ベアトは元に戻せる…?」
 真里亞はあえて母に踏まれたとは言わなかった。しかし魔女は、そのお菓子を見ると、なぜかにやりと笑って楼座の姿を見る。…楼座は、自分の全てを見透かすようなその眼差しに背筋がぞくりとするのを感じた。
【ベアト】「容易いことよ。貸すが良い。」
【真里亞】「うー!」
 真里亞は嬉々としてそのお菓子を差し出す。
 ……楼座は呆然とそれを見守るしかない。…あんなに惨めに踏み潰されたお菓子を、どう言い繕って誤魔化すというのか…? 真里亞はまるで、元通りの新品に直してもらえると信じている。…そんなこと、本当の「魔法」でもなきゃ、できるわけがない…!
【ベアト】「これはこれは、見事に潰れているな。……さぁさ、真里亞。目を閉じて思い出してごらんなさい。」
【ベアト】「本当はあんなにも素敵なお菓子だったから。思い出の中のお菓子はいっつもふっくら。だからあなたも思い出してごらんなさい。本当はどんなお菓子だったのか♪」
 …即興の民謡のような、歌うように語る不思議な言葉と共に、魔女はお菓子を宙に放る。真里亞は魔女に言われた通り、目を閉じて思い出していた。…潰れたお菓子が、本当はどんな姿をしていたか。
 嘉音の変装を解き、ベアトに変装した紗音が戻ってくる。真里亞はもちろん、楼座もその正体に気付いていない。
 だから、その光景は楼座だけが見ていた。
 宙に放り上げたお菓子が、……金色に弾けて…、いや違う。それは黄金の蝶。何匹もの黄金の蝶に散り、…それは宙に手をかざす魔女の手に集まっていく。
 するとそれは、………信じられないことに、………買った時そのままの綺麗な元の姿に戻っていた…。楼座と魔女だけがその光景を見ていた。楼座は、眼前で起きた出来事が理解できず、開いた口を閉じることも思い出せずにいた…。
【ベアト】「もう目を開けて良いぞ。…受け取るが良い。これでそなたの菓子も元通りだ。」
【真里亞】「うー!! ベアトリーチェはいつもすごいすごい、きゃっきゃ!!」
【楼座】「……………………………。」
 無邪気に喜ぶ真里亞の姿と、呆然とする楼座の姿の対比が、あまりにくっきりとわかれていた。
 ……それを魔女は笑うのか。ベアトリーチェは真里亞のそれに応えるのとは違う笑いを浮かべる。
【ベアト】「……妾の顔が、何かに似ているというのか? そうまじまじと見られては穴も開こうぞ。」
【楼座】「え、……あ、ご、ごめんなさい…!」
 楼座はその言葉で強く意識する。……彼女の面影を、楼座は知っていた。……魔女の肖像画で知っていた。しかし、いやでも、……本当にこの謎の女は……?!
【ベアト】「……真里亞。この菓子の代わりに、そなたにはこれを与えよう。」
【真里亞】「うー…? 手紙?」
 魔女は懐より洋形封筒を取り出すと真里亞に与えた。しかし、それを真里亞が開けようとするとそれを制する。
【ベアト】「ならぬ。それを開ける時はすぐに訪れるが、それまで決して開けてはならぬ。大事に持っているが良い。そなたを黄金郷へ誘う招待状となろう。」
【真里亞】「黄金郷!! やっと連れてってくれるんだね!! きゃっきゃッ! きゃっきゃッ!!」
【ベアト】「大事にしまっておくのだぞ。誰にも見せてはならぬ。」
【真里亞】「うー! 守る! 魔女との約束は絶対に守る!」
【ベアト】「……そして、これはそなたへだ。」
【楼座】「ぇ………? わ、……私……?!」
 まさか、魔女が自分に話しかけてくるとは思わなかったのだろう。楼座は突きつけられたもう一通の洋形封筒に困惑する。
 その洋形封筒は見覚えのあるものだった。
 ……間違いない。右代宮家の紋章をあしらった、金蔵が親書に使う特別な封筒だ。しかもそれには赤い封蝋までされていて、…しかも当主の指輪でされたと思われる封印までされていた。
 つまり、この中に何が書いてあるかを問わず、…真里亞がベアトリーチェと呼ぶこの女は、右代宮家現当主の親書を預かれるほどの信用を得ているということになる…!
 真里亞が楼座に、ベアトが魔法を使うところを見たよねと聞いたならば「そうね、魔法だったわね」と答えるだろう。
 それがつまり、幻想描写の条件が満たされるということである。
【ベアト】「四兄弟の誰でも良かった。だが、ここでそなたと出会ったということは、金蔵のルーレットがそなたを選んだということなのだろう。…ならば受け取るが良い。そしてその中身を、全兄弟の揃う晩餐の席上で読み上げよ。」
【楼座】「………何ですって……。」
 楼座は渡された封筒と魔女の顔を何度も見比べる。
 今日は親族会議で、その最大の議題は遺産問題。……そして、彼女は、絵羽、留弗夫の二人と組んで、蔵臼にある条件を突きつけ、何億円かの即金を支払うよう強要する計画だった。
 それらを、魔女はまるで全て見透かしている。……そして、兄弟全員が揃ったところで、私たちに何を宣言しようというのか。右代宮家当主にしか扱えぬ親書の封筒で…!
【ベアト】「……真里亞。天気が崩れるぞ。ゲストハウスへ戻り、昼を待つが良い。………それでは楼座、後ほど会おう。その席で改めて名乗らせてもらおうぞ。…くっくくくく。」
 魔女は笑いながら背を向ける。…そして屋敷の方へ悠然と向かっていく。
 真里亞は元気よく返事をして見送ると、楼座をその場に残してゲストハウスの方へ駆けていく。……魔女と出会った幸運を、いとこたちに一刻も早く報告したいかのように。
 楼座は、いよいよに風の強くなる薔薇庭園に取り残され、……たった今の出来事が、どうか白昼の夢でありますようにと祈るしかなかった…。
玄関
 魔女が玄関に入ると、……そこには源次の姿があった。源次は、玄関より訪れた「客人」に最敬礼の挨拶をして迎える…。
【源次】「お待ちいたしておりました。………ベアトリーチェさま。」
【ベアト】「…久しぶりだな、源次。………ふ。老いたではないか。」
【源次】「……どれほどに老いようとも、家具は家具らしく、最後までお勤めを果たすのみでございます。」
【ベアト】「………あれの妻が、お前に嫉妬したことも懐かしい。…金蔵は元気か?」
【源次】「大変お元気にございます。」
【ベアト】「……ふ。くっくくくくくくく!」
 魔女のその笑いは、金蔵が主治医に余命わずかと宣告されていることを知った上でなのだろう。…もっとも、実際の金蔵を見れば、余命わずかとは到底思えないその気力に、元気であると例えたとしても何の不思議もないかもしれない。…あるいは、魔女はそれを笑ったのか。
【ベアト】「挨拶に行こうではないか。30年ぶりに、互いに呪いの言葉を吐きあうも良かろう。」
 魔女はにやりと笑うと、源次を置いてさっさと歩き出す。……その足取りは、屋敷の中を充分に知った家人のようだった。
 源次はその後を仕えるように追う。
 楼座の封筒には、前回と同じ、ゲームの開始宣言が入っていると推定される。
 礼拝堂に誘い出す内容の手紙と推理する向きもあるようだが、それなら晩餐の席上で読み上げるほどの内容ではないし、何か理由をつけて直接案内すれば済む話。
 ちょうどその時、客間から霧江が出てきた。…化粧直しにでも出たのだろう。そして、源次を従えるようにして歩く魔女の姿を見て、表情を崩さぬ程度に驚いた。
 金蔵の余命が長くなく、その遺産をどうしようかという親族会議のこの日に来客があり、…しかもその人物は、源次を後に従えて歩くほど右代宮家に馴染みがあって。……霧江はすぐにこの初対面の人物が、重要な意味を持つ何者かであることを理解する。
 霧江は、魔女と目が合う。……知らぬふりをするのも失礼だと悟り、挨拶した。
【霧江】「…………初めまして。」
【ベアト】「留弗夫の後妻だったか。」
【源次】「左様でございます。留弗夫さまの今の奥方様であられます、霧江さまでございます。」
 そのやり取りで、霧江は初対面の彼女が、右代宮家においてかなり格の高い賓客であることを理解する。
 ………そして、それほどの賓客であるという事実と、……彼女が背負う玄関ホールの肖像画の面影が重なり、……霧江の目は見る見るうちに見開かれていった…。
【霧江】「……初めまして。霧江と申します。初対面でしょうか。もし以前に挨拶をしていたなら、名前を忘れてしまって申し訳ございません。」
【ベアト】「…うすうすは想像がついているくせに、妾に敢えて名乗らそうというのか。」
【霧江】「………………………。」
 霧江は社交的に腰を低く挨拶したつもりでいた。それに対する返事があからさまに高圧的だったので、少し表情を曇らす。……どうも、好きになれそうにない相手のようだった。
 …しかし、もし霧江の想像が当たっているならば、……この「魔女」は恐らく、自分の夫の最大の関心事について、そして今夜の親族会議を左右しかねない、大きな鍵を握っているのだ…。だから買い言葉を返さず、源次を従えて二階へ上がって行くその姿を、黙って見送るしかない。
 だからその肩が後から叩かれ、窒息しそうになるくらいに驚いた。それは、夏妃だった…。
【夏妃】「………霧江さん。このようなところに立ち尽くして。いかがなさいましたか…?」
【霧江】「ご、ごめんなさい。……ちょっと、魔女の肖像画に見とれていただけです。」
【夏妃】「……黄金の魔女、ベアトリーチェ、ですか。今日の右代宮家の復興は、彼女が授けた黄金がなければ成し遂げられなかったとか。……お父様らしい、幻想的なお話ですね。」
 夏妃のその言い方は、普段通り。…魔女なんて馬鹿らしい、所詮は金蔵の世迷言に過ぎないという立場での言い分だ。
 …しかし、今の霧江にはなぜか腑に落ちなかった。自分はたった今、黄金の魔女が玄関からやってきて階上へ上がって行くのを見たのだ。だからこそ夏妃の言い方がまるで、その存在を認めない、あるいは、いないかのように思い込ませる誘導のように感じてしまう…。
【霧江】「…ごめんなさい。少し頭痛がする気がして。…ちょっと休もうと思います。」
【夏妃】「あら、そうですか…? なら、良い頭痛薬がありますよ。用意させましょう…。」
 霧江に目撃されたのは偶然だが、このような場合の対応も打ち合わせ済み。慌てずに黄金の魔女の演技を続けている。
 この後、実際は書斎には行かず、二階の貴賓室に直行してベアトの変装を解く。
金蔵の書斎前
 金蔵の書斎前の廊下には、あの緑色の酒独特の、甘い毒の匂いが立ち込めている…。慣れきっている源次は顔をしかめない。…そして黄金の魔女も、顔をしかめなかった。
【ベアト】「……この中からどれほど出ぬのか。」
【源次】「すでに数年になるかと思います。」
【ベアト】「…………それほどまでに、妾を篭の鳥としたいか。…哀れな。……それを願うそなたが、今や篭の鳥。…書斎の亡霊ではないか。……それに気付けぬとは哀れな男よ。」
【源次】「……貴方様と再びお会いする日までは、恐らく、文字通り亡霊となっても研究を続けられるでしょう。」
【ベアト】「愛か狂気か妄執か。…それも高じれば魔力となるか。……悲しき魔術師よ。」
 魔女は書斎のドアノブを握る。
 ……すると、ジュウとまるで肉が焼かれて爆ぜるような音がした。…それは文字通り、ドアノブが魔女の手を焼いた音だった。
【源次】「……ベアトリーチェさま…。」
【ベアト】「何だこれは。………魔除けか! …あやつめ、こんなものに頼らなければ己が身も保てぬというのか…。」
【源次】「…その扉は、ベアトリーチェさまにはお辛いものと伺っております。私が開きましょうか…?」
【ベアト】「いや、…良い。あやつが勝てば、妾は永遠の篭の鳥。…あやつが負ければ、愛に狂い、全てを失った哀れな魔術師の生涯が笑い種となって残るだけ。」
【ベアト】「……もはや金蔵も、妾さえも、ゲーム盤に並べられた駒に過ぎぬ。…あとはルーレットの目が勝敗を分けるだけよ。………ルーレットが目を見せるまで、妾と金蔵が再会する必要はない。」
 魔女は、焼け爛れながらも、少しずつ癒えていく手の平を見る。
【ベアト】「……あるいは、そのための魔除けなのか。………ふ。…なるほど、それもまた潔し。……全ては今や金蔵のゲーム盤の上よ。」
【ベアト】「気に入ったぞ、金蔵。そなたとのゲーム、楽しませてもらうぞ。……妾に恋焦がれ全ての生涯を投げ出した老魔術師の最後のギャンブル、その散り様を楽しませてもらうぞ…!!」

魔女の一手
10月4日(土)13時00分

貴賓室
【ベアト】「………誰か。」
【嘉音】「失礼いたします…。昼食をお持ちいたしました。」
【ベアト】「入れ。」
【嘉音】「……失礼いたします。」
 了解を得て、嘉音が昼食の配膳台車を押しながら貴賓室に入る。…この部屋を使用人たちは、魔女の貴賓室と呼んでいた。
 なぜなら、普段からいつ使用があっても良いよう、常に清掃しておくよう金蔵から厳しく言いつけられていた。…にもかかわらず、如何なる来客であってもこの部屋に通されることはなかった。
 …だからいつの頃からか使用人たちはこの部屋を、金蔵の待ち人の…、あの肖像画の魔女を迎えるためだけの特別な、魔女の貴賓室であると呼び始めていたのだ。
 そして、嘉音はこの日、それがまさにその通りであったことを知る…。
 入室すると、………黄金の髪の魔女は、窓から外を眺めていた。
 外はすでに弱くない雨が降り始めている。…何日もかけてこの日のために仕上げられた美しい薔薇の庭園が、風雨で荒れ行くのを見て、何かの感傷にふけっているのだろうか。背中を向けるその姿からは、それ以上をうかがうことは出来ない。
【ベアト】「…お食事の用意をさせていただきます。…ベアトリーチェさま。」
 だから嘉音は、……魔女を振り返らせたくて、わざわざ名前を呼ぶ。彼は知りたかった。……かつて自分と紗音を唆したあの魔女が、……本当に再び現れたのか知りたかった。
 …すると、……名を呼ばれた魔女は、背を向けたまま、……笑う。声を押し殺して、笑う。嘉音はぎくりとする…。まるで、振り向かせたくて声を掛けた、その思惑が読まれているようで…。
【ベアト】「………良い匂いだな。どうやら蔵臼は、良い料理人を入れたと見える。」
【嘉音】「……………………。……はい。…近年入った、郷田という料理人です。」
【ベアト】「…料理の腕が良きことは何にも勝るものよ。…美食は人の世で生きる快楽の三柱を成す。千年を飽きぬにはこれを欠かぬが秘訣よ。…くっくくくくくくく。」
 魔女と目が合う。
 …そして、にやりと笑う…。
 間違いない。紛れもない…。それは間違いなく、あの日の魔女、ベアトリーチェ…。かつて自分と紗音にしか見えなかった魔女は、ついに姿を持ち、玄関から堂々と客人としてやって来たのだ…。
【嘉音】「………ベアト…リーチェ……。……さま。」
【ベアト】「久しぶりよの。………家具の、嘉音。…くっくくくくくくくくく!」
【嘉音】「……………お久、……しぶりでございます…。」
 嘉音は一応、客人への礼儀を忘れまいとする。…しかし胸中は、胡散臭き魔女の、それも親族会議の日の訪問に、暗雲が立ち込めていた…。
【ベアト】「何をしに現れたのかと、気が気でならぬと見える。……そうであろう…?」
【嘉音】「………………………………。」
 嘉音は無理に答えない。…恐らく、この魔女は心を読む。…ならば、わざわざそれを口に出すことに意味はないのだ。………無論、そんな反抗心すら、読まれる。だから魔女は、嘉音の稚拙な反抗をくすくすと笑うのだった。
【ベアト】「……金蔵との最後の約束を、果たしに来た。」
【嘉音】「お館様との、……最後の約束…?」
【ベアト】「……妾は金蔵に山を成す黄金を貸し付けた。…それを金蔵が放棄する時、妾は利子を付けて返却を受けることになっておる。………今宵、それを貰い受けに来た。」
【嘉音】「……………僕には、何の話かわかりません。」
 しかし、胸中の不安は募っていく。……この魔女の話に、ロクなものはないのだ。
【ベアト】「……くっくくくくくくくく! 違いない! 魔女の話にロクなものはないぞ。そなたは正しい。されど、魔女と鋏は使いようだ。…ソロモン王のように、偉業を成し遂げる者も時にはおる。」
【ベアト】「………もっとも、多くの場合は、童話が語るようにロクな目には遭わんがな? くっくっくっく…! ………しかし金蔵も食えぬ。妾の利子の取立てすらも、自らの儀式に取り込みおった。妾をも超える、とてつもない大魔術師か。……さもなければ狂気に憑り付かれたただの痴れ者か。…面白い。実に面白い…!」
 嘉音には、魔女が何を呟き、何を笑っているのか察することはできない。
 …ひとつわかるのは、……この魔女にとって笑うに値すること全てが、自分たちにとってはまったく逆を意味するに違いないということだけだ。
 ……そして脳裏に、かつて魔女が吐き捨てた恐ろしい言葉が蘇る。
 妾がその力を対価なく貸すことがあるとでも? 恋に手は貸そう。その対価は、やがて必ず訪れる二人への過酷な運命の鑑賞料としていただくわけよ。これに勝る見世物は千年経っても存在せぬ…!
【嘉音】「………………………………。…まさか、……お前は……。」
【ベアト】「くっくっくくくくくく! くふふふはっはははははははは…!!」
【ベアト】「………懐かしき、故郷を貫く鮎の川。黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ。」
 魔女が突然、奇妙な詩を詠い始める…。それは聞き覚えのあるものだった。
【嘉音】「それは……、……まさか、魔女の碑文…。」
 間違いない。…それは、金蔵が掲げた魔女の肖像画に添えられた碑文だ。
 親族たちは、恐らく黄金の隠し場所を示すに違いないと想像しているが、何を意味するのかは誰も知らない。魔女は唐突にその碑文を詠い始めたのだ。
【ベアト】「…嘉音。家具である貴様なら金蔵から聞いていよう。………全てを、黄金郷へ返す日が、やって来たのだ。喜ぶがいい。…お前の恥辱に塗れた家具の日々が、ようやく終わる時がやって来たのだ。」
【嘉音】「……………………っ。」
【ベアト】「お前はそれをずっと望んできたはず。…自らに存在価値を持たぬ家具にとって、ただ存在するだけの日々は苦痛に他ならない。」
【ベアト】「……魂ある者にとって現世は固執すべきものだが、なき者にとって現世は苦界でしかないからの。くっくっくっく…!」
 嘉音の表情に複雑な表情が浮かぶ。……それは嘉音が心待ちにしてきた解放の日。…しかしその訪れは無慈悲なくらいに唐突だった。
 そして、安息の日を告げる魔女の憎らしい口調が、なぜか受け入れがたく。…嘉音は自らの抱くべき感情すら決められずにいる…。
【ベアト】「……なぜに喜ばぬ? それとも、現世に何かの未練があるというのか。……家具の分際で。」
【嘉音】「…………未練など、……ない。…僕は、…………家具だから。」
【ベアト】「くっくくくくくくく。…貴様は実に模範的な家具だな。……良い良い。……しかし、何の未練もないとはつくづく面白味のない。」
【嘉音】「……未練こそが、お前の快楽だというのか。」
【ベアト】「その通り! 千年も生きると大抵の魔女は生き飽きる! 妾は退屈から逃れるために、人間たちの運命にブランデーや果物を練りこみ、ケーキのように焼き上げるのだ。オーブンの中で苛烈な運命に踊る人間たちの何と面白きこと…!」
【ベアト】「くっくくくくく! 妾は、この方面にかけては、ちと知られていてな? ……妾の料理の腕を見に、時には遠方から珍客が見物に来ることすらあるくらいよ。…ふっふふふふ、言っても家具如きには理解できぬか。」
 嘉音には、魔女が何を言っているのか理解できない。しかし、人間たちの運命をまるで見世物のように扱い、何かの危害を加えることで面白がっている恐ろしい存在であることは充分に理解できた。
 ……しかし、家具には魂も人生も、ましてや運命もない。現世から解放される日まで使役されるだけの哀れな「家具」。…そんな家具たちにとって、全てから解放するために現れた魔女は慈しみ溢れる存在でもある…。
 嘉音は、待ち焦がれたはずの日が訪れたにもかかわらず、それを容易に受け容れられない自分に困惑していた。
 …それはなぜ…? ………浮かんだのは、姉と慕う紗音の顔。……そして、なぜか朱志香の顔。
【嘉音】「…………………く。」
 嘉音は苦々しく下唇を噛む。……朱志香を想うことは家具の身には許されぬこと。それを自覚し、紗音の交際を咎めたはずなのに、…このような時に朱志香を思い出すなんて。……自分の甘さにわずかの苦々しさを覚えるのだった。そして、朱志香を忘れるために、思考を紗音に割く。
 紗音も家具だ。……全てが無に帰る日を、喜ばないわけがない。……しかし紗音は、………譲治と交際することで、家具が覚えてはならない感情を知ってしまった。結ばれる資格などないくせに、見ることの許されぬ夢に浸り続けている。
 そんな紗音にとって、……これは喜んで受け容れられるものになるだろうか。
 ……ならない。…紗音は未練を残す。……それは多分、大きな苦しみとなって紗音を苛むだろう。
 その未練は、………他でもない、この魔女が植えつけた。なぜ? その方が、“面白くなるから”というだけの理由で……!
【嘉音】「……紗音は、……待ちわびていたはずの日に、知ってはならない感情を持ち、……とても辛い思いを強いられるだろう。………僕は、…僕たち家具を解放する日を手土産に訪れてくれたあなたに感謝する。」
【嘉音】「……そして、紗音にその日を受け容れがたくしたお前を憎む…!」
【ベアト】「お前も紗音同様に、未練に苦しませてやりたかったぞ。……しかしお前は愚直に家具であり続け、妾に篭絡されることもなかった。」
【ベアト】「…………しかし、紗音を慕い過ぎたようだな? くっくくくくくく! 紗音の未練が、そなたの未練となる。……それは、妾への憎悪へと変わるのか…?」
【嘉音】「………………………………。」
【ベアト】「妾を殺したくば、殺してみるが良い。……くっくくくくくくく! 金蔵の家具ならば、その程度の力は持っていよう? しかし、妾を殺せば家具どもに安息の日は永遠に訪れぬぞ。……そなたにそれが耐えられるのか……? 妾による解放を、本当に拒むことができるのか……? くっくっくっくっくっく!! ………跪けッ!」
【嘉音】「な、……何を…!」
【ベアト】「跪き、妾の靴に口付けをするが良い。………さもなくば、妾はこの場を立ち去ろうぞ。…帰りて永遠に姿を現さぬ。…………のぅ、嘉音? そなたはそれに耐えられるのか…?」
【嘉音】「…………………く……、」
【ベアト】「黄金郷の扉が開かれれば、そなたの苦難に満ちた家具の生は終わろう。……望むならば、人間としての生を与えても良い。さすればもはや朱志香とは対等! 貴様も知りたいはずだ、恋の味が…!」
【ベアト】「………隠そうとも知っておるぞ…? 甘き恋の沼にて溺れる紗音を見て、そなたは羨ましがっている。…恋の味を知りたくてうずうずしておるのよ…。くっくっく!!」
【嘉音】「……やめろ……、やめろ…! 僕を再び篭絡するつもりか……! 僕はお前を楽しませるための玩具に成り果てたりしない…!」
【ベアト】「ほぅ。ならば紗音で満足するとしよう。蒔いたタネはそなただけではないのでな。時には実を結ばぬ果実もある。」
【ベアト】「………鍵を手にせし者は、以下に従いて黄金郷へ旅立つべし。第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ。第二の晩に、残されし者は寄り添う二人を引き裂け…。」
 魔女は再び碑文を詠う。実に唐突に、それまでの流れを断ち切るように。しかし、その挑発的な笑みは、まるでその碑文が、そのまま嘉音への脅迫になるとでも言わんばかりだった。
【ベアト】「………わからぬか。…この碑文の儀式を成し遂げるには、“第二の晩”に、寄り添う二人を生贄に捧げねばならぬ。…………寄り添う二人は誰でも良い。夫婦でも良いし、……恋人同士でも良い。……誰を選ぶかは、儀式のルールに則り、妾が気まぐれに決めてよいことになっている。……今の紗音なら、これほど相応しい第二の晩の生贄もないとは思わぬか…? くっくくくくくくくくくく!!」
【嘉音】「………ひ、……卑劣な………。」
 嘉音は知る。…自分は今日まで、家具として家具らしく全てを諦めて生きてきたつもりだった。
 …だが実際にはそうではなかったのだ。紗音を慕い過ぎた。…だから、紗音が苦しむ時、嘉音はそれを共有してしまうのだ。
 もし紗音が家具でい続け、嘉音と同様にこの世に何の未練もなく淡々と生きてくれたなら、ここまで苦しまずに済んだ…! 魔女は、恋の味を覚えた…、いや、恋の味を教えた紗音を、弄びなぶり殺しにするつもりなのだ。
 慈しみのある解放として黄金郷に誘うのではなく、その為の生贄として、責め苦の限りを与え苦しめ抜き、邪悪な儀式の人柱にしようとしている…! そして、この魔女は、面白いからというだけの理由で、紗音を現実に恐ろしい目に遭わせるだろう。
 ……しかも、そうするぞと脅し、今日まで一度も魔女に屈しなかった自分を、今度こそ屈服させようとしている……。何のことはない。…魔女を喜ばせまいと逆らってきた自分は、結局、魔女を面白がらせていただけなのだ。
 ……所詮は家具。いや、玩具。……自分たちという存在は、彼女の退屈を紛らわせるだけの玩具でしかない…!
【嘉音】「……………く……そ………………。」
【ベアト】「どうする、嘉音…? 跪けば、紗音を生贄に選ぶことを控えんこともないぞ? くっくくくくくくくくくく! お前のような玩具を、一度屈服させてみたかった。くっくくくくくくくくくく、くひひひひひひひひひ!!」
 魔女は優雅さなどカケラほどもなく、品のない笑いで嘉音を嘲笑った。…そう、嘉音が決心するよりも早く、その屈服を見抜いていたのだ…。
【嘉音】「…………………………………く…。」
 ……嘉音は、……………片膝を付き、魔女の前に跪くことを選ぶ…。
 自分はどうなってもいい。…でも、……家具の日々に、唯一自分に生きる理由を教えてくれた紗音が弄ばれることだけは、……それだけはどうしても見過ごすことができない…。
 だから。……魔女の靴に口付けをすることなど、…嘉音にとっては安い誓い。
 ……震える彼の唇が、魔女の靴に確かに触れた時。…ベアトリーチェは恍惚の眼差しを浮かべてから、はち切れんばかりの声で、…笑った。
 それは千年を生き飽きた魔女が、唯一の生き甲斐とする邪悪な感情を満たされた、まさにその瞬間であった……。
客間
 昼食を終えた親族たちは、客間に移っていた。楼座が銀座の名店で、高級な銘柄の紅茶を買ってきてくれた。それが振舞われ、客間の中はとても良い香りで満たされていた…。
 大人たちは、子どもたちが一緒ということもあって、上辺だけは親族の交流らしく、近況や子育てなどについて和やかな話をしていた。
 外は雨になってしまったので、子どもたちは外へ遊びに行けず、こうして客間でテレビを見ているしかなかった。
 真里亞はテレビっ子らしく、飽きることなくお昼時の退屈な番組を見続け、きゃっきゃとひとり騒ぎ続けていた。
 戦人も最初はそれに加わり、真里亞との交流を深めていたようだが、朝が早かったこともあり、次第に眠気に襲われていった…。
【戦人】「……ふぁぁあぁ…。」
【譲治】「おや、大きな欠伸だね。朝がずいぶん早かったんじゃないのかい。」
【戦人】「…まぁ、そんなとこだよ。緊張が解けて、雨の音を聞いてる内に眠くなってきちまった。」
【朱志香】「緊張ぉ? へへ、あんだけ態度デカそうにしてて緊張なんてしてたのかよ。」
【戦人】「一応、俺なりにはなー。……ふあああぁあぁあああぁ……。」
 戦人は大きな欠伸をもう一度すると、ソファーにゆっくり横になる。どうも、本当に眠いようだった。
 退屈のサインだと思い、話しかけた譲治たちだったが、本当に眠いらしいことがわかり、そっとすることにする。
【熊沢】「おやおや。食事の後にすぐ横になると鯖になると申しますよ。ほっほっほ…!」
【戦人】「……冗談よせやい。郷田さん、今夜は仔牛のステーキだって言ってたぜ。鯖のステーキになっちまう。」
【朱志香】「熊沢さん。こいつ、本当に眠いらしい。毛布を持ってきてあげてくれないかな。」
【熊沢】「ほっほっほ。さぁどうぞ。」
 熊沢が棚の中から毛布を持ってきてくれた。…広めの客間は、寒くはなかったが空気はほんの少しだけ冷えた。だから戦人は毛布をかけられると、すぐに包まり、亀の子のように縮こまる。
【譲治】「…本当に眠かったんだねぇ。何時かに起きる? 起こしてあげるよ。」
【戦人】「……いや、特に希望は。……何か用があったら起こしてくれりゃいいし、…なぁんにもねぇんなら、ずっと眠らせてくれりゃいいぜ。……お休み…。」
【真里亞】「うー? 戦人寝ちゃうの? お昼寝? お昼寝? うーうー、真里亞もするー!」
【朱志香】「こ、こら真里亞。戦人は眠いんだから放っておいてあげなきゃ。熊沢さん、もう一枚毛布をもらえるかな。」
 真里亞が本当に昼寝をしたいかは怪しい。戦人が毛布に包まっているのを見て、自分も欲しくなっただけかもしれない。熊沢から毛布をもらえると、嬉々としてそれに包まり、再びテレビの正面に陣取るのだった。
【朱志香】「ちぇ。…せっかく6年ぶりにいとこがみんな揃ったってのによ。こいつ、今回の親族会議の主賓だって自覚、全然ねぇなぁ?」
【戦人】「……聞こえてるぞー。…のんびり昼飯を食って、しかも外は台風で雨。……何もすることがねぇってことはつまり、俺の出番じゃねぇってことさ。」
【譲治】「それはどうかなぁ。何も起こらないから何もしない、なんて受身の姿勢じゃ、人生は退屈だよ?」
【戦人】「……違うぜ、そういう意味じゃない。…なんつーのかな。…こういう時、俺はこう思うことにしてる。……出番じゃねぇんだよ。こいつがお芝居だったならさ、俺の出番じゃねぇってことなんだよ。……だったら舞台袖で大人しくしてるに限るってわけさ。」
【朱志香】「自分の人生は、いつだって自分が主人公だろ? そんな脇役根性でどうすんだよ。…自分から進んで舞台に上がらなきゃ。」
【戦人】「………そういう意味じゃねぇ。今は俺の出番じゃねぇって言いたいのさ…。くぁあああぁああぁぁぁ……。悪ぃな、眠くて思考がめちゃくちゃだ。勘弁してくれ……。むにゃむにゃ……。」
【譲治】「確かに。眠くて何だか支離滅裂なことを言ってるね。…もうそっとしてあげようよ。」
【朱志香】「私は聞き捨てならねーぜ。…自分の人生はいつだって自分が主人公だよ。ちょっとその辺り、本格的に戦人と議論したいけどなぁ!」
【譲治】「寝惚けてるだけだよ。深く考えちゃダメさ。」
【朱志香】「………何かさ。自分は主役になれないから舞台に上がりたくない、みたいな根性。……なぜだか、すっげえうぜーって思って…。」
 朱志香は窓の外の、雨に霞む灰色の薔薇庭園に遠い目を向ける…。額をガラスにつけると、ひんやりとした感触が、思い出したくない記憶を追い出してくれる気がした…。
【朱志香】「…………まだ、君の出番じゃなかったってことなのかよ。…じゃあ、……いつ君は、舞台に上がるんだよ……。」
 なら、この舞台の主人公は誰だって言うんだ…。
魔女の喫茶室
【戦人】「………もうやりたい放題じゃねぇかよ。…何だこりゃあよ。……滅茶苦茶じゃねぇか…!!」
【ベアト】「くっくくくくくく…! そなたが妾を否定する根拠とする18人だの19人だのという理論が実に滑稽だったのでな。指し手を変えてみたまでよ。」
【ベアト】「…そなたが妾を否定する最大の根拠は、単に妾が駒としてゲーム盤に並ばなかったからというだけのこと。ならばこうして、クイーンを先に指せばいいだけの話ではないか。…初手にてクイーンに道を開けるはチェスの王道ではないか。」
【戦人】「………ふ、…ふざけやがって…。こんなの、…認められるわけねぇじゃねぇかよ! 魔女が歩いて玄関からやって来ただと?! ふざけるんじゃねぇッ!!」
【ベアト】「何だ何だ…。前回のゲームではそなたにさんざん自由に手を進めさせたぞ…? 此度は妾がそなたの手に合わせて駒を動かしたに過ぎん。………初手にてもう降参か…?」
【戦人】「……く、………くそったれ…。ふざけるなッ! 誰が降参なんかするかってんだ! 上等な指し手だぜ、好きに進めればいいじゃねぇか。」
【戦人】「なるほどな、まだまだお前の手番は終わってないってわけだ。…好きに手を進めりゃいい! 今の内に充分な陣形を築いとけ。」
【戦人】「俺が必ず凌ぐ。必ず詰める!! 言い訳なんてされたくねぇ、存分に来やがれってんだ。」
【戦人】「……まだまだこの程度じゃ、魔女なんて認められるわけがねぇぜ。…そうさ、さっき、真里亞のお菓子を魔法で直したように見えたが、実は同じお菓子をもうひとつ懐に忍ばせていて、芝居がかった方法で摩り替えて、あたかも魔法で直したみたいに見せただけかも知れない! あぁそうさ、そうに決まってる、駄目だぜ、全然駄目だぜ…!」
【ベアト】「……ほほぅ? 楼座は、菓子が蝶に散る瞬間を見たぞ?」
【戦人】「し、知らねぇよッ!! そんなのは幻覚か手品か、…さもなきゃ見間違いだろ!! 大した問題じゃねぇ!!」
【ベアト】「くっくくくくくくく! 説明の付かぬ部分は瑣末と切り捨てたか。……なるほど、それがそなたの受け手であるな…?」
【ベアト】「くっくくくくくくく…、墓穴を掘ったぞ。…右代宮戦人あ…。ふっははははははははははは…!! お前の手番はまだ先だぞ。もうしばらく妾の手番を進めさせてもらう。まだまだこれからだぞ、魔女の手番は!!」
客間
 戦人のいびきが聞こえ出すと、静かに寝かせておこうと、親族たちは次第に客間から散っていった。
 あれだけ大勢が客間に集い賑やかだったのに、……広大な屋敷は、一度全員を散り散りに飲み込んでしまうと、風雨の音しか聞こえない不気味な静寂を感じさせるのだった…。
どこかの客室
【留弗夫】「いいや。そんな人間には一度も会ったことはないぜ。…姉貴は。」
【絵羽】「…会ったことなんてないわ。……霧江さん、本当なの?」
【霧江】「……私も、ちょっと玄関ホールに出た時に挨拶をしただけです。二十歳ちょっとくらいに見えたわ。私は名乗ったんだけど、彼女は名乗らなかった。…源次さんに案内されて、二階へ上って行くのを見たの。」
【秀吉】「んなら、源次さんを見つけて直接話を聞いた方が早いやろ。……しかし、妙な雲行きになって来よったな…。」
 謎の女は霧江に言った。名乗らず、うすうす想像がついているくせにと嘲笑った。……そこから連想する人物。…そして、彼女と瓜二つの、肖像画の魔女…。
【留弗夫】「そいつは、自分が肖像画の魔女さまだと、……そう言いたいってのかよ。」
【霧江】「私はそういう意味で笑ったんだろうと理解したわ。……私とは初対面でも、私があなたの後妻だと知っているような口ぶりだった。」
【留弗夫】「……姉貴。本当にそんなヤツは知らないんだな?」
【絵羽】「くどいわよ。そんな金髪女、この屋敷に出入りしたところなんて見たこともない!」
【秀吉】「そないなことはどうでもええで。…問題は、その女が自分はベアトリーチェだと名乗り、お父さんの財産管理人を名乗った場合の方や。」
【絵羽】「あるいは、…愛人の娘を自称して、遺産の分配を要求するつもりかしら。……いずれにせよ、とんでもないジョーカーが紛れ込んだものね。………兄さんが呼んだの? …それともお父様が…?」
【留弗夫】「まずいな。…俺たちは兄貴をうまく言い包めりゃ何とかできるものと思ってきた。……しかしこれじゃ話が振り出しに戻っちまう。」
【霧江】「…………。…あなたが私の知らないところでどんな策謀を巡らしてたのか知らないけれど。……どうも、少しは対策を立てる時間を得られたみたいね。」
【留弗夫】「…あぁ。その金髪姉ちゃんが、晩飯の席で突然現れて俺らの度肝を抜くのに比べたら、今からわずかの時間でも対策を協議できる方がマシだ。」
【秀吉】「…何しに現れたかわからへん以上、打てる対策も限られとるで。……向こうの狙いは何なんや…。」
【絵羽】「決まってるでしょ! お父様の遺産の正当な後継者だと言い張るためよ! お父様は未だにベアトリーチェの虜なのよ。その娘がいたなら、全財産を譲りたいと言い出すはずだわ! 妙な遺言状でも突きつけてくるかもしれない!」
【絵羽】「…そりゃ、裁判沙汰にすれば半分の四分の一は主張できるかもしれないけど…、……多分、決着するまで遺産分割はできなくなるわよ。…それは困る。私も、留弗夫も! もちろん楼座もね?」
【留弗夫】「……俺たちは、それぞれの都合で早急にまとまったカネがいる。…俺たち最大のウィークポイントってわけだ。なら、……狙いは何だ。霧江、…読めるか?」
【霧江】「……………………………。……初耳なんだけれど、私たちには、急ぎ、まとまったお金が必要だという前提があるのね?」
【留弗夫】「…………………ん、……。」
【留弗夫】「……霧江さん。男の商売には、攻めの時にこそ軍資金が入用になることもあるんや。それをわかってぇな。」
【絵羽】「………なぁに、留弗夫。霧江さんには話してなかったの?」
【留弗夫】「…すまん。隠してたわけじゃないんだ。……実は、ちょいとした…、」
【霧江】「いいわ。あなたが私に話す必要がないと判断した話なんだから、それをこの場では追及しない。……それより急務は、黄金の魔女さまの狙いを探ることなんでしょう?」
【留弗夫】「あぁ…。………俺たちの話を整理した上で、敵の打ってくる手が見えるか。」
 留弗夫は、霧江の持つ独特の思考術「チェス盤思考」に、ある種の信頼を置いていた。もちろん、占い程度の気休めにしかならないのだが、留弗夫が何かの大きな戦略を練る時、霧江の助言はいつも大きな参考になっていた…。霧江はしばらくの間、額に指を押し当て思案する…。
【霧江】「………今日の今日まで、彼女が訪れることが伏せられていた以上、彼女は私たちに何らかのサプライズを与える目的があった。………それが財産なのか、親族としての認知なのかはわかりかねるわ。」
【霧江】「でも、今日の今日まで訪れることを伏せていたということは、事前に知らせることで、対応を打たれたくなかったと言えるかもしれない。ということは、彼女の目的は、対応を打たれると不利になるものらしい。…わかる?」
【留弗夫】「なるほどな…。例えば親父が以前に書かせた遺言状そのものだとか、血縁の認知とそれを証明できるものだとか、そういうものを持ってきたと仮定して。……それが揺るぎないもので、磐石な証拠だと言うなら、むしろそれは予告するはずだろうよ。」
【絵羽】「…そうね。むしろ、疑う立場にある私たちに、弁護士でも鑑定士でも連れてこさせて、ぐぅの音も出ないくらいに事実を突きつけるべきなのよ。それができるならね。」
【秀吉】「ふぅむ。…つまり、奇襲狙いという時点で、敵は真正面からの正攻法では勝てんっちゅうことを意味するわけやな。道理や。絶対勝てる切り札は堂々と切るに限るで。回りくどい切り方は、むしろ切り札を曇らせるもんや。」
【霧江】「……結論から言うと、…皆さんがご執心の、遺産問題に直接、もしくは間接的に絡む相当のサプライズが突きつけられると予想されるわね。…おそらく向こうは、そのインパクトだけでこちらを圧倒できるつもりでいる。……しかし、その何かは、相当のインパクトを伴いながらも絶対ではない。」
【絵羽】「つまり、……そこがこちらの付け込む余地というわけねぇ。」
【秀吉】「あんたはほんま、頭の切れるお人や! これだけでもわかればだいぶ心強いでぇ! つまり、相手のペースに飲み込まれるな、っちゅうことやな。」
【霧江】「…結局のところ、非常にシンプルな結論よ。相手が何を切り出そうとも、焦らず冷静に対応する。……交渉術の初歩の初歩じゃない。これじゃあ、相手の思考を読めたとはとても言えないわ。」
【留弗夫】「いいや。…相変わらずなかなかのもんだぜ。………こちらに攻める余地があるとわかれば、余裕も変わってくるってもんだ。」
【霧江】「わからないのは、彼女と蔵臼兄さんの関係ね。……蔵臼兄さんにとってもサプライズなのか、それとも彼女を呼んだのは他でもない蔵臼兄さん自身なのか。……もし後者だったなら、ずいぶんと厄介なことになるかもしれないわよ。」
【絵羽】「…………そうね。…謎の女を、親族会議の当日にこっそり呼びつける。…嫌らしいセンスが、どことなく兄さんっぽい感じもする。」
【留弗夫】「姉貴、こうしよう。…女の正体がはっきりと証明できない限り、俺らはその女の如何なる身分も認めない。」
【絵羽】「それが最善ね。……現に霧江さんに対して名乗ってすらいない。…正体不明の女の発言で私たちの会議がかき回されちゃ堪らないわ。」
【秀吉】「……血縁証明でも示してみせるかもしれんで。お父さんの血が流れてることが、例えば母子手帳でも示されたらどうにもならん。」
【留弗夫】「証明物なんかいくらでも偽装を疑える。仮にそれがホンモノだったとしても、当人が本人だと証明するには病院沙汰にしなきゃならん。…少なくとも、今の六軒島でそれを証明することは不可能だ。」
【絵羽】「………その通りねぇ。つまりこういうことよ。今の六軒島では、何が示されても真実だと受け容れることはできない。台風が去って、然るべき場所で証明してみせるまで何も信じられないってことよ。…くすくす。」
【留弗夫】「そういうので揚げ足を取り捲るのは姉貴の得意技だな。任せるぜ。」
【絵羽】「馬鹿言ってんじゃないわよ。あんたも協力するのよ。……私たちにはお金がいる。それも急ぎ、まとまった額が! 私たちは運命共同体よ。………こんなところでひょっこり現れた謎の女に、遺産のアテをブチ壊されて堪るもんですか…!」
 留弗夫と絵羽の夫婦は、自分たちの遺産を余所者に掻っ攫われて堪るかと、こんな時ばかり兄弟で結束するのだった。霧江はその逞しい様子を見て、軽く首を横に振り、小さなため息を漏らしながら外を見た。
 外は相変わらず強い雨が降っていて、全てが灰色になり精彩を欠いていた。かつて太陽が照らし、青々とした庭園を見せてくれていたことがまるで嘘だったかのように感じさせる。霧江は、なぜか先ほど絵羽が口にした言葉を頭の中で繰り返していた。
 ………つまりこういうことよ。今の六軒島では、何が示されても真実だと受け容れることはできない。
 不思議な語感の言葉だった。
 今のこの島は、台風に閉ざされ孤立している。公的機関も病院もない。だからこの島では、どんな機関が発行した証明書を見せようとも、全て虚偽だと言い張れる。真実を証明することが不可能なのだ。
 外界と途絶し、外界で証明された全ての真実が「虚偽」と呼ばれてしまう…。ならばつまり。……今のこの六軒島には、真実など何もないということなのか。……支配しているのは「虚偽」だけということなのか。
 それはまるで、……真実で作られた人間の世界から、…虚偽という異界に切り離されたような錯覚。
 ……霧江は、あの女の姿をもう一度思い出す。
 そして、彼女の姿と肖像画の魔女を思い出す。人の世から隔絶し、人ならざる世に切り離された島に、……人ならざる世の存在が訪れる。霧江には、どうしてもあの女の浮かべた笑みが、不吉なものに思えてならないのだった……。
 あの不吉な笑みを理解するのに、…私のチェス盤思考は大きな前提を間違えている気がする。
 …そう、あの笑みは、人ならざる者が見下すかのようだった。私は相手を、自分たちと同じ「人間」だと仮定して推理した。……しかし、今のこの島がそうであるように、彼女もまた人ならざる存在で、人間の価値観など通用しないのかもしれない。
 だったなら…。……全ての推理は何の役にも立たない。あの魔女は何のために今日、ここに招かれたのか。………ひとつだけ確かなのは、…今この瞬間、この広大な屋敷のどこかに滞在しているという事実だけだ…。
玄関ホール
 この言葉は、物語の構造がそうであることのヒントになっている。つまり、物語の描写に嘘が混じっているということ。
【楼座】「……真里亞。……今日のお昼に、お外で私たち、………会ったわよね? 女の人に。あれは……、誰?」
【真里亞】「…うー。何度も言ってる。…ベアトリーチェ。」
【楼座】「真里亞は、以前にベアトリーチェと会ったことがあるの…?」
【真里亞】「うー。毎年会ってる。」
【楼座】「毎年…? この、六軒島のお屋敷で?」
【真里亞】「うー。」
【楼座】「…うーじゃわからないでしょ! そうなの?!」
【真里亞】「……うん。」
【楼座】「いつから会ってるの? 何年前から!」
【真里亞】「…うー。……わかんない。」
【楼座】「わからない?! どうして! 去年? 一昨年?!」
【真里亞】「……もっと前から。……うー。」
 楼座は愕然とする。…この島には右代宮家の屋敷があるだけだ。だから、この島に自分の知る以外の人間がいるわけないのだ。なのに真里亞は、何と毎年、親族会議の度にあの怪しげな女と出会っていたという……。
 もしも真里亞が言うことが真実なら、……あのベアトリーチェという奇怪な女は、毎年、親族会議の場にいたことになる。
 ……そんな馬鹿な。あんな薄気味悪い女が、毎年、親族会議の場にいて、私たちは誰も気付かなかったというのか…?!
 楼座は、ほんの数時間前、実際に薔薇庭園で自らが出会ったにもかかわらず、その存在を認めたくないという奇妙な感情に囚われる…。私は今日の昼、台風の近付く風の強い薔薇庭園で、一体“何”に出会ったのだろう……。
【楼座】「……真里亞。あなたは毎年、彼女と会ってると言ったわね。…会って、何をしてるの?」
【真里亞】「うー。お唄を歌ったり、魔法を習ったり。魔法陣の書き方も習うの。」
【楼座】「そ、…そう。それはすごいわね。……真里亞がよく自由帳にラクガキ…、…じゃない、魔法陣を書いたりしてるわよね? それも彼女に教えてもらったの?」
【真里亞】「うー! ベアトリーチェにね、お手本書いてもらうの! ほらほら、見て! 見て!」
 真里亞は嬉々としながら手提げを漁る。……そして、一冊の自由帳を取り出し、そのページを開き始めた。
 それらのほとんどは、文字通りラクガキで埋められていた。どれもオカルト的なものばかりで、嬉々としてページを捲る真里亞には悪いが、いずれも気色悪いものばかりだった。
【真里亞】「ほら! これ! ベアトリーチェが書いてくれた!! うー!!」
 真里亞が開いたそれらのページには、これまた不気味な魔法陣が書かれていた。……しかもそれは一目見て、真里亞が書いたものではないとわかった。
 筆圧や線の太さ、図形の綺麗さ。……これだけから書いた人間の素性を推し量ることはできないが、確実に真里亞より年齢の高い人物が書いたことは理解できる。
 もう楼座は認めざるを得ない。…この六軒島には、自分が今まで存在すら知らなかった人物が確かに存在して、しかも毎年、親族会議の度に真里亞と遊んでいたのだ。
【楼座】「………真里亞。その、魔女のベアトリーチェはここに住んでるの…? それとも、私たちのように、島の外に住んでるの…?」
【真里亞】「うー。……ベアトリーチェは六軒島の魔女だから、この島に住んでる。」
【楼座】「………じゃあ、親族会議のない日にも、この島にいる、…というのね……?」
【真里亞】「うー。」
【楼座】「うーじゃわからないでしょ!! どうなの!」
【真里亞】「ッ…! …………うん。…うー。」
 な、……何てこと、何てこと………。信じられない信じられない…! この島には、いつからあんな得体の知れない魔女が住み着いていたというのか!
 私はかつてこの島に住んでいた。この島で生活し、この屋敷で、この薔薇庭園で過ごした。だけれど、あんな魔女に出会ったことは、……ない、……はず…………………。
【真里亞】「ママ……? ママ……? どうしたの……? ママ…?!」
【楼座】「……頭が、………痛い…。」
 …多分、私は少女時代の記憶が少し入り混じってしまっているのだ。
 少女時代の私は、真里亞と違い、魔女の存在を強く恐れた。だから、私にとってベアトリーチェの名は恐ろしいものの代名詞だった。……だから、それを名乗る女が現れたため、少女時代の恐怖感が蘇ってしまったに違いない…。
 ……魔女のわけない。……ベアトリーチェを名乗る“人間”に決まってるじゃないか。
 そうだ…。……私はあの魔女から、封筒を託されている…。あれは一体、何だったんだろう。楼座は懐のポケットから、あの洋形封筒を取り出す。
 …それは、金蔵が親書に使う右代宮家の紋章をあしらった洋形封筒。……そして赤い封蝋には、金蔵が持つ当主の指輪による封印までされている。
 ………ということは、…この封筒は右代宮家当主のもの。…つまり、お父様からのものだ。なぜ、それをベアトリーチェと名乗る女が持ち、私に差し出したのか。
 そうだ。これを確か、晩餐の席で読み上げろと言った。………一体、中に何が書かれているというのだろう…。この封筒を開けることによって、何かとんでもない不吉なものを解放してしまうのではないかという不安が楼座を襲う…。
 ……しかし同時に、この中に何が書かれているのか、他の兄弟たちよりも先に知りたい好奇心も芽生えた。常識的に考えれば、………おそらくこの中には、お父様の遺産相続を巡る何かの重大な決定が記されているだろう。
 いや、…それをベアトリーチェと名乗る女性に持たせたのなら、それに関係ないわけがない。……遺産を4人でなく、彼女を加えた5人で分配しろということなのか。
 ………………私には、まとまったお金が必要で、…しかもそれは長くは待てない。お父様の遺産の分配を、まだ存命の内から議論するなんて、自分は罪深い娘だと思う。……しかし、綺麗事を言っていられる段階にない。
 …そして、蔵臼兄さんからお金を引き出すため、絵羽姉さんや留弗夫兄さんと談合してすらいる。そんな私にとって、………魔女の出現は、不吉なものを予見させずにはいられないのだ…。………この中には何と書かれているのだろう。……きっと、恐ろしいことが書かれているに違いない。………まずはこっそり読んでみようか?
 魔女は全員が揃った晩餐の席でと注文を付けた。……しかし、そうならば自らの手で晩餐の席上で読み上げればいいだけではないか。なぜわざわざ私に託すのか。………つまりそれは、先にこっそり読まれても仕方ないということではないのか…。
 ……先に中身を読んでおいた方がいい。…約束違反なのはわかってる。……でも、そんな綺麗事はもう言っていられない…。
 内容次第では、絵羽姉さんや留弗夫兄さんに相談した方がいいだろう…。…姉さんたちは、いつもこういうことに関しては、頭がとてもよく回る……。
 唾をごくりと飲み込み、……赤い封蝋に手が掛かった時。…私の袖が急に引っ張られたので、小さな悲鳴をあげてしまった。
【楼座】「………なッ、何?! ま、………真里亞なの。驚かせないで。何?」
【真里亞】「…うー………。…………だめ。」
【楼座】「え……?」
 真里亞の表情に、あの魔女と同じ不吉なものが浮かんでいたことに、背筋がぞっとする…。
【真里亞】「……ベアトリーチェはママに、その手紙は晩餐で読みなさいって言った。……魔女の約束は破っちゃだめだよ。…………きひひひひひひひひひひひ…。」
【楼座】「ち、…違うわよ。ちょっと封筒を見ただけじゃない。……約束は守るわよ。……ママもいつも真里亞に、約束は守りなさいって言ってるもんね。…ママももちろん、約束は守るわよ…。」
【真里亞】「うん。ママはいい子。…きひひひひひひひひひ…。」
【楼座】「そ、……その笑い方。……可愛くないからやめなさい。」
【真里亞】「………うー。」
【楼座】「そう言えば真里亞も封筒をもらったわよね。………中には何て書いてあったの?」
【真里亞】「開けてない。…ベアトリーチェは、開ける時が来るまで開けちゃダメって言った。だから大事に持ってる。…うー。」
【楼座】「そ、……そう。…真里亞は、ベアトリーチェの言うことはちゃんと聞くのね。」
【真里亞】「うー。真里亞はベアトリーチェの弟子だから、お師匠の言うことはちゃんと聞くの。」
【楼座】「……そ、………そう。」
 楼座は気付く。……真里亞の眼差しの中に、…真里亞以外の人物の光が混じっていることを。…この場でルールを破り、封筒を開けば、それは必ずベアトリーチェの知るところとなるだろう。
 ……なぜなら、真里亞は魔女の弟子。………真里亞はあの魔女に通じているのだ……。
【楼座】「…ママは約束を守るわ。だから安心するよう、ベアトリーチェに言ってね。」
【真里亞】「うー! 伝える。」
【楼座】「…ねぇ真里亞。…ベアトリーチェとお話をしたいんだけど、どうすれば会えるのかしら…?」
【真里亞】「知らない。……ベアトリーチェはとても気まぐれだから、いつも突然姿を現すの。真里亞からは会う方法を知らない。……でもね、いつも真里亞のことを見てるの。だから、真里亞が困っていると、あとできっと助けてくれるの。…きっとね、姿を消して、真里亞の近くに隠れてるんだよ。……きひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。」
【楼座】「そ、……その笑いをやめなさいといつも言ってるでしょ!!」
 楼座は反射的に真里亞の頭を叩いてしまう。……それは真里亞の笑い声を遮りはしたが、…その瞳に浮かぶ不吉な色を消し去ることはできなかった。
 楼座は誓う。…少なくとも、この島を離れるまでの間、真里亞を一人きりにさせてはならないと。………娘を、これ以上、得体の知れない存在と接触させるわけにはいかなかった……。
 真里亞が楼座との会話内容を偽証する動機はないので、この場面は幻想描写の条件が成立しない。したがって、会話の内容から、この時点では楼座が買収されていないことがわかる。

「家具」と「人」
10月4日(土)18時00分

ゲストハウス・いとこ部屋
【朱志香】「…真里亞、戻ってこねぇな。……また楼座叔母さんに叱られてるのかな。」
 今日の真里亞は、飛行場で出会った時から、ずっとハロウィンハロウィンと大はしゃぎしていた。…ただ、少々ハメを外しすぎたようで、飛行機の中や船の中、昼食の席でも騒がしくし過ぎ、楼座から何度も注意を受けていた。
 そういう時、楼座叔母さんは人前ではあまり叱らない。…大抵、物陰に呼び、二人きりで叱ることが多い。だから、こうして真里亞が呼び出されたなら、どこかで叱られているに違いないと彼らは考えるのだった。
 時計を見ればもう6時だった。さすがにずっと叱られているとは思わない。多分、毎週見ているアニメでも始まる時間ではないだろうか。そのまま屋敷の客間に居付いてしまったのだろう。
【紗音】「ひょっとすると、戦人さまがお目覚めになって、一緒に遊ばれているのかもしれませんね。」
【譲治】「真里亞ちゃんにとって、戦人くんは新しい友達のような感じだったろうからね。…その戦人くんと飛行場で、ハロウィンごっこをするのがきっととても楽しかったんだよ。」
【朱志香】「戦人もずいぶんはしゃいでたな。あいつ、図体はデカくなったってのに、中身は昔っから全然変わらねぇぜ。」
【紗音】「そうですね。…戦人さまは6年前のままでいて下さった気がします。」
【譲治】「紗音は6年前の戦人くんのこと、覚えてるんだ?」
【紗音】「えぇ。何しろ、大層お元気な方でしたから。くすくす。」
【譲治】「僕も、6年前に4人で遊んだことを思い出すよ。紗音はだいぶお姉さん風だったね。」
【朱志香】「そうだなぁ。今よりしっかりしてた気がするぜ。あはははは!」
【紗音】「そ、…それはあの頃はその、……身の程を弁えておりませんでしたもので…。その、色々と失礼いたしました…。」
【譲治】「……いいよ、そんな弁え。仕事中はともかく、こうして休み時間に過ごす時の僕らは、あの頃から変わらない、仲良しで居続けたいね。」
【朱志香】「そうだぜ。…使用人の紗音と、オフの時の紗代は使い分けていいだろ。……奴隷じゃないんだぜ、使用人の仕事をしてるだけじゃないかよ。………私は紗音とは、…うぅん、紗代とは、一番古い友人だと思ってるぜ。」
【紗音】「…………ありがとうございます、お嬢様。」
 紗音は、朱志香の言葉の裏側を理解しているようだった。……彼女は、朱志香と嘉音の双方から、二人の多少の経緯を聞かされていたからだ。
【譲治】「………………。」
 どうも、その経緯の多少は、譲治にも知らされているらしい。
 譲治は窓辺に寄ると、次第に暗くなってくる雨の空を見上げていた…。
【紗音】「…嘉音くんはまだ幼いのに、考え方が少し背伸びしてるところがあると思うんです。」
【朱志香】「いや、はははは…。もうよしてくれよ。まぁその、私も雰囲気に流されてたところはあったと思うしさ…。まぁその、…紗音たちのことを見てその、ちょっと羨ましいとか思って、気が急いていたところもあったかも知れねぇな。」
【朱志香】「……わ、私のことなんかどうでもいいだろ。それより、譲治兄さんたちの方はどういう感じなんだよ。だいぶいい感じなんだろぉ? えっへっへ!」
【紗音】「えっと、……ど、…どうなんでしょう…。」
【譲治】「うん。とてもいい感じだよ。」
 赤面して口ごもる紗音と、朗らかに即答する譲治。そのあっけらかんとした様子からは、羨ましいくらいに満帆な関係であることがうかがえた。
【朱志香】「ちぇ、妬けるぜ。……ってことは紗音もその内、寿退社ってわけなんだ?」
【紗音】「ど、どうなんでしょう…。私にはその……。」
【譲治】「どうなんだろうね? 僕にもわからないね?」
 譲治が意地悪そうに笑いながら紗音に詰め寄る。…いつもの二人きりの時のじゃれ合いなのだろう。朱志香は、ハイハイご馳走様と苦笑いするほかない。
【譲治】「僕には夢がある。それは一国一城の主になりたいというビジネス的な野望だけじゃない。生涯を共にできる伴侶と幸せな家族を築きたいという夢もある。」
【譲治】「…子供は最低でも二人ほしいとか。家族で一緒にできるスポーツをしたいねとか。他にもいろいろ。そんな話をよく紗音とはするよ。………こんなこと話すと、いつも紗音には、気が早いですねと笑われるんだけど。」
【譲治】「…僕はこの歳の内からもう、なぜか落ち着いた老後のことを考えてしまうんだよ。……元気に成長した子どもたちと、駆け回る孫たちと。そういうものに囲まれて、いつまでも紗音と二人、ゆっくりと余生を送れたらなって。」
【朱志香】「そりゃ確かに気の早い話だぜ。……でも、何ていうのかその、譲治兄さんらしい話だなぁ。」
【紗音】「そんな家族に囲まれたら、さぞ素敵でしょうね。……私が思い描いていた理想の家族も、そんな感じだったと思います。」
 …孤児院で育った紗音にとって、和気藹々とした家族像には、強い憧れがあるのだろう。……そして、それを絶対に叶えると約束する譲治は、確かに彼女と共に生涯を過ごすのに相応しいかもしれない…。朱志香にとって紗音は大切な友達だ。……その友達の将来を預けるのに、譲治はきっと一番相応しいに違いない。
【朱志香】「まぁ、水を注すわけじゃねぇけど。……秀吉叔父さんはともかく、絵羽叔母さんとかどうなわけ? 説得は大変じゃないの?」
【紗音】「……………………。」
【譲治】「あっはっはっは。そんなことは、誰も気にする必要はないよ。……僕が誰を伴侶に選ぶかは、誰にもはばかられない。紗音は僕が幸せにする。それに誰の許可が?」
【朱志香】「……ひゅーー。譲治兄さん、カッコいいぜ…。よくそんな恥ずかしいセリフを堂々と。昔の兄さんはそういうキャラじゃなかったと思ったんだけどなぁ。」
【譲治】「男子、三日会わざれば刮目して待つべしさ。……僕だって成長する。…紗音を幸せにするために、僕はもっともっと勉強して、相応しい男に成長するつもりだよ。」
 一応、譲治にも恥ずかしいことを口にしている自覚はあるのだろうか。ほんの少しだけ赤面し、頭を掻く仕草をする。
【紗音】「…………譲治さん。」
【譲治】「大丈夫。母さんは確かにゴネるかもしれないけど、僕に任せておけばいい。親族全員に、君が僕の伴侶だと認めさせてみせる。」
【朱志香】「すっげぇな…。紗音が羨ましいぜ、まったく!」
【紗音】「……そ、そこまで言ってもらえてその、………きょ、恐縮です…。」
【朱志香】「ってゆーかよ、…私はお邪魔虫なんじゃないかって気がしてきたぜ。席を外した方がいいかー?」
 朱志香が苦笑いしながら腰掛けていたベッドから立ち上がると、ちょうどその時、電話が鳴り響いた。何の用だろうと、朱志香が受話器を取る前に、紗音は時計を見て、はっとする。……どうやら、休み時間を長く取り過ぎたらしい。
【紗音】「す、すみません…! 私、お勤めの時間を忘れておりました…! こ、これで失礼します…!」
 朱志香が受話器を取ると同時に、紗音は部屋から駆け出していく。
【譲治】「あ、紗音! ………また、いつもの時間に、いつもの場所で。」
【紗音】「は、………はい。…し、失礼します!」
【朱志香】「もしもし、朱志香です。………あ、源次さん。はい、紗音は今、そっちに戻ってますよ。私たちが引き止めちゃったんです。叱らないでやってください。えぇ、はい。」
【譲治】「そっか。もうじき夕飯の準備の時間なんだね。」
厨房
 厨房の配膳台には、たくさんの皿が並べられ、着々と晩餐の準備が進められていた。
 ……並べられている皿の数を見る。……19組ある。その数字は、毎年の親族会議で並べられる皿の数より1つ多かった。
【郷田】「納得できません…! どうして私が直接お届けに上がってはならないのですか!」
 郷田さんは、湯気を噴き出す鍋をよそに源次に食って掛かっておりました。お館様は書斎でひとりで食事を取られることを好みますので、書斎に配膳に行かなくてはなりません。もっとも、これはいつものことではありますが。
 本当なら郷田さんは、自分が精魂込めて作った料理を、自らの手でお館様に配膳したい。……しかしお館様は、黄金の鷲の紋章を持った使用人しか書斎に入れないという厳しいルールを課されておりました。………だから郷田さんは、書斎の外でお館様に挨拶することはできても、書斎の中に料理を運ぶという栄誉を与えられたことは一度もなかったのでございます。
 それに郷田さんは常々不満を持っていた。…確かに自分は年季の上では一番の新参者に違いない。しかし、前職で充分な経験と積み重ねを持っており、決して金蔵の前でも失礼のない振る舞いができる強い自信があった。なのに、黄金の鷲を許されていないというだけの理由で、自分は未だにその栄誉を賜れない。
 ……それが、彼のプライドをどれほど傷つけていたか想像できるでしょうか。では、今夜も再びそれを蒸し返しているのかというと、そうではありません。今夜は、お館様の他にも、お部屋まで食事を運んでもらいたいという方がおられるからです。
 その人物は、非常に稀な賓客らしく、当主であるお館様と同格の扱いをするようにきつく厳命されておりました。郷田さんは、この賓客に、ぜひ自らの手で配膳してポイントを稼ぎたかったに違いありません。
 虚栄心のお強い方でございますから。お館様に配膳する資格はなくても、せめてそれと同格の来客には…。
 昼食はどうしても手が空かず、嘉音さんに行ってもらった。…だから、一年で最高の晩餐である今夜の食事を、ぜひ自分の手で配膳したかったのです。
 ですが、それを源次さんに咎められたのでございます。……郷田さんに黄金の鷲がないから、ということのようです。………再び、資格がないと咎められ、郷田さんの堪忍袋の緒が切れてしまったのでございます。
 あぁ、おいたわしや郷田さん…。私は物陰からこうして見守るしかないのでございます…。
【郷田】「熊沢さん、油を売っている暇があったら、食堂の準備をしてきて下さい。テーブルクロスは大丈夫ですか?!」
【熊沢】「ほっほっほっほ…、これはこれは失礼を…。」
 こちらにお鉢が回ってきては大変と、熊沢はススーっと廊下に姿を消す。
【源次】「ベアトリーチェさまは、お館様とまったく同格のお方です。……ルールもお館様のそれと同じものを尊ばなくてはなりません。」
【源次】「……郷田さんはご自身の仕事に専念され、親族の皆さんのお相手を、どうかよろしくお願いします…。」
【郷田】「そのようなお客様相手に、源次さんならともかく、こんな子どもを行かせていいのですか?! もし何かの粗相があったら失礼に当たります。」
【郷田】「確かに彼らの年季は長いですが、然るべきところで修行をしたことがあるわけじゃない。正直に申し上げて、お客様に接する基礎ができていないのです!」
【紗音】「……………………。」
 紗音が厨房の中に控えているにもかかわらず、郷田はそれをずけずけと言う。
 源次が、ベアトリーチェの部屋へ食事を運ぶよう指名したのは紗音だった。……黄金の鷲を許された使用人の中での序列を見るならば、紗音は確かに第二位だ。…第一位の源次が金蔵の部屋に配膳に行くなら、ベアトリーチェの部屋へ配膳に行くのは紗音の仕事ということになる。
 郷田のプライドは、こういう序列を見せられる度に、いつもひどく傷ついていた。…そんな時、彼は、露骨に紗音や嘉音の悪口を言い放つのだ。郷田が、紗音のこれまでの失敗例をいちいち挙げては、あれがダメだこれがダメだと騒いでいる。
 それを聞き俯く紗音の後から嘉音の声が聞こえた。…嘉音は死角に当たる、入り口の廊下側壁に寄りかかって話を聞いていたのだ。…厨房に入れば、自分にも火の粉が飛んでくることがわかっているのだろう。
【嘉音】「…………言わせておきなよ。最低の男だ。」
【紗音】「……で、…でも、接待の基礎の勉強になるし。……郷田さんはたくさん勉強してるから、とても参考に…。」
【嘉音】「ふん。……姉さんはやさしいね。」
【紗音】「……それより。…………貴賓室のお客様が、…ベアトリーチェさまだというのは本当なの?」
【嘉音】「…うん。………昼食の配膳に行かされた時に会った。…間違いなくあいつだったよ。」
【紗音】「そ、そう。お元気そうだった?」
【嘉音】「……………………。」
 嘉音は、自分と紗音ではベアトリーチェに対して持っている印象が違ったことを思い出す。紗音にとって魔女は、自分と譲治の仲を取り持つ魔法を授けてくれた、恋のキューピッドなのだ。その浮かれた表情を見る限り、…譲治との進展した仲を報告したくてうずうずしているという風に見えた。
 ……しかし、もう嘉音は知っている。あの魔女は、恐ろしい目的を持ってここへ帰ってきたのだ。……かつて自分たちにしか姿の見えなかった、希薄な魔女は、今や玄関から堂々とやってきて、夕食を運ばせるほどの存在に復活したのだ。
 …かつて嘉音の前から姿を消した時。魔女はまだ自分の力が弱い、という風なことを言っていた。………なら、こうして堂々と姿を現せるようになった魔女は、今度こそ往年の力を取り戻したというのだろうか。
 そして言った。………破綻することを知っていて恋のタネを蒔いたと確かに言った。
 さらに言った。………黄金郷の扉が開かれる日が、いよいよ訪れたと確かに言った。
【嘉音】「………紗音。…あいつはお館様と何かの怪しげな儀式をし、…きっと想像もできない恐ろしいことをする。……それには誰も抗えない。」
【紗音】「何の話なの……?」
【嘉音】「あいつはやって来たんだ。…お館様が求めた、黄金郷の扉を開き、全てを黄金郷に戻すために。あいつは僕に確かにそう言った!」
【紗音】「…………………………………。」
 黄金郷の扉が開くという意味を、……家具として金蔵に仕えた二人は、かつて聞かされていた。
 だから、紗音は何の質問を返さずとも、全てを理解する。………だから、…深く絶望した。…その悲しみに歪む表情を見て、嘉音の胸は掻き毟られる…。
【紗音】「……………そんな。………どうして、…今になって…………。」
【嘉音】「……だから言ったんだ。僕らは家具だって! ……人間の真似事なんかして、恋なんかするから、………僕たちの役目の終わるこの日を、素直に受け容れられない…!」
【紗音】「………………いつか、…この日が訪れることを、かつては願ってた。……でも、いつまで経っても訪れなくて…。……私たちはいつまで家具として苦しめばいいのか、わからなくて…。………だから私、思ったの。…安息の日なんて、永遠に訪れないんだ、って。」
【嘉音】「………僕だって、そう思ってたさ! でも、必ずいつか訪れるって僕は信じてた! だから、僕は家具としての自覚を忘れなかったんだ! なのに姉さんは忘れた!」
【紗音】「……………………私が、……悪いのね……。………私が………。」
【嘉音】「あぁ、姉さんが悪い。……姉さんさえ恋を覚えなかったら…。……僕たちはようやく訪れた今日を喜び合うはずだった! 姉さんが下らない未練を作ってしまったんだ! 必ず去らなければならない世界なのに!!」
【紗音】「……………儀式は、今夜始まるの…?」
【嘉音】「…うん。……………あと、あいつは僕に言った。…今夜、譲治さまは姉さんに婚約指輪を贈るだろうって。」
【紗音】「……………………。」
 それは事実。……今日、譲治は懐に婚約指輪を忍ばせてきているはずだ。……きっと今夜、それを渡すだろう。
【嘉音】「……あいつは、姉さんと譲治さまを第二の晩の生贄に使うつもりで、二人の仲をくっ付けたんだ。…わかる? 姉さんはあいつに唆された上、利用されたんだよ!」
【紗音】「…………そうだったの。……考えたこともなかったわ。」
【嘉音】「でもあいつは言ったよ。…もし今夜、その婚約指輪を受け取らなかったなら、姉さんを生贄に選ばないと約束した。…………僕たちが揃って黄金郷へ行ける確率はとても低いと思う。
 13人が生贄になる。生き残るのは5人だけ。…その中に僕たち2人が入れる確率は本当に低い。……でも、姉さんだけでもその約束が得られるなら、確率はもっと上がる! 僕は賭けたいんだ!
 黄金郷には救いがある。僕たちはそこへ辿り着き、人間を手に入れるんだ。そして姉さんと二人で、人間としての人生を歩みたいんだよ…! そうすれば、本当の恋だって、……できるかもしれない!」
【紗音】「…………………………。…かつての私たちは、黄金郷へ行けることを夢見てたね。………そこへ行けば、どんな願いでも叶う。………私たちをこの苦しみから救ってくれる。…………そう信じてた。」
 しかし儀式は、運命と偶然に選ばれた者を数人しか黄金郷へ招かない。……他は全て、儀式の途中で生贄として命を落とす。
 だが、かつての紗音と嘉音は、黄金郷へ辿り着けようとも、生贄にされようとも、どちらにせよ家具の役目から解放されるものだと思っていた。……だからつまり、家具である自分たちにとって、儀式は必ず解放を与えてくれるものだった。
【嘉音】「僕は嫌だ。……これまでの辛かった分を、姉さんと取り戻したい。生贄なんてごめんだ。僕と姉さんは生き残る。そして二人で黄金郷へ辿り着く。」
【嘉音】「…………だから姉さんを、第二の晩の生贄になんかさせない! 頼むよ姉さん! あの男の指輪を受け取らないで! それを受け取らなければ、あいつは姉さんを生贄には選ばないと約束してくれた!!」
【紗音】「…………………それは、……できないよ。……今夜の指輪はとても特別なもの。……それを受け取らないことは、…私の心が許さない。」
【嘉音】「姉さん…! 儀式の生贄は、魔女が気まぐれに決めることになってる! その魔女が、姉さんだけは見逃すと約束してくれたんだよ!! 姉さんだけは絶対に黄金郷へ行けるんだ!」
【紗音】「……私だけ? 嘉音くんは?」
【嘉音】「僕は、……魔女のゲームで充分さ。…あいつの魔手なんか掻い潜ってやる。………僕は無力じゃない。わずかの確率を、無理やり掴み取ってやる…。」
【紗音】「………………………………………。」
【嘉音】「僕たちの生なんて、所詮は仮初じゃないか。…本当の人生を始めるために、……僕たちは黄金郷へ辿り着こう。そして、…人間を手に入れよう。」
【嘉音】「……………そうしたらさ。…僕も姉さんみたいに、……恋が知れるかな。もう、家具だからって、………人を、泣かせずに済むかな……。」
【紗音】「………嘉音くん…………。」
【嘉音】「僕は、……もう家具は嫌だ……! ……絶対に、…人間になってやる……。…こんな苦しみから、……絶対に………!」
【紗音】「………………………………………。」
 嘉音の目には涙…。
 嘉音は今になって気付く。……恋の味を覚え苦しむのは紗音だけではなかった。自分もだったのだ。
 あの日に見せた朱志香の涙と、……今日までの、取り繕いご機嫌を取るような朱志香の痛々しい笑顔が、知らず知らずの内に、嘉音の心に何かの変化を与えていた…。
【源次】「………紗音! さっきから呼んでいる。」
 突然の源次の声に紗音ははっとする。さっきからずっと呼ばれていたらしい。慌てて返事をする。
 ……振り返ると、嘉音は姿を消していた。……涙を誰にも見せる気はないらしい…。
【紗音】「は、はい。ぼんやりしていてすみません…。」
【源次】「昼食は嘉音に頼んだが、本来は私の次の序列のお前が運ぶべきものだ。………ベアトリーチェさまは当家の最高の賓客だ。それ以上の賓客はいない。……もう一人のお館様と思い、丁重に頼む。」
【郷田】「…よろしいですか、くれぐれも粗相のないようにお願いしますよ。経験の未熟なあなたに託すのは非常に心苦しいですが、当家のルールとあっては仕方ありません。……くれぐれも頼みますよ。」
 郷田は、建前上は納得するが、わずかのミスがあっても絶対許さないという風な面持ちで紗音を脅す。そんなに行きたいなら郷田が行けばいいのにと紗音も思ったが、……黄金の鷲を与えられた自分の責務と思い、諦めるしかない。
 ……それに。…ベアトリーチェに会いたかった。何を話す? 何を聞く? …わからない。感謝を? それとも嘆きを? それとも、…何を? …わからない。紗音は配膳台車に魔女の食事を積み込むと、ゆっくりとした足取りで厨房を出て行くのだった…。
金蔵の書斎
 ノックの主は蔵臼だった。
【蔵臼】「お父さん。今日は年に一度の親族会議です。お父さんを一目見ようと兄弟が揃ったのではありませんか。」
【金蔵】「えぇい黙れ!! 出ぬと言っている! 源次、そこにいるのであろう!! なぜ私の指示した通りに食事をここへ運ばせんのか!!」
 金蔵は扉越しに怒鳴る。…源次は蔵臼の後に控えていた。
【源次】「……お食事は書斎へ運べるよう準備しております。…ただ、蔵臼さまが、今夜はどうか下へ降りていただきたいと…。」
【蔵臼】「お父さん。毎日とは言いません。せめて今夜だけでも、家族で揃ってはくれませんか。」
【金蔵】「誰が家族かッ!! 貴様はいつから行き倒れを待つハゲタカたちを家族と呼ぶようになったのか! 腐りて湧き出す蛆虫を家族と呼ぶようになったのかッ!!」
【蔵臼】「………………………。…やれやれ。」
 半ば予想通りの返事に、蔵臼は肩をすくめる。
【金蔵】「源次、言われた通りに食事をここへ運べ!! なぜ言うことを聞かぬ!! なぜ! なぜッ!!」
【蔵臼】「……源次さん。後を頼みます。…もうあの人に私の声は届かんね。」
 蔵臼は小さく首を振ると、書斎の扉にとっとと背を向けるのだった。……兄弟たちの手前、どうせ無駄だと知りつつ声を掛けにきただけだ。
 源次は、蔵臼が階下へ降りていくのを見届けると、扉越しに再び声を掛けた。
【源次】「…お館様。お食事を運ぶ準備はできております。………南條先生の分はいかがしますか。」
 南條の姿は、書斎の中にあった。長く続けられてきた二人のチェスの決着を、金蔵が強くせがんだため、夕方前からずっと相手をさせられていたのだ。南條は医者として、金蔵に余命がないことを宣告している。…その立場上、命がある内にチェスを決着したいとせがまれれば、断れなかった。
 金蔵は普段以上の集中力で一手を熟考する。……先ほどからずっと金蔵の手番で、待ちくたびれた南條は、読んでもわからぬ魔術書を適当に抜き出しては斜め読みしているのだった。
【南條】「………金蔵さん。盤面を前に、腕を組むだけでは良い一手は出ませんぞ。ひとつ、休憩をして、頭をリフレッシュしてみるのも良いのではありませんかな…?」
【金蔵】「黙れ。……うーむ。……守りはこれで充分か。ビショップやナイトに隙間を突かれはしないか…。…………んんんんん…。」
 今日の金蔵は、とにかく堅い守りに固執した。……普段の金蔵なら、攻撃は最大の防御が座右の銘のはず。だが、今日はまるで逆だった。
【南條】「…………私も腹が減りました。ここいらで中断しませんか。それに、休みなく頭を回転させておりましたから、もう頭がくらくらです。……これ以上は、私も最善手を指せるとは限りませんぞ。」
【金蔵】「…それは困る。…………チェスは、互いに常に最善手を指さねばならぬ。…そうでない一手は理解に苦しみ、思考を読むゲームを狂わせてしまう。…それでは興を著しく削ぐというものだ。」
 金蔵は大きくため息をつくと、ようやく盤面から目を逸らしてくれた。チェスは対戦相手があってこそ。…その相手が、疲れたから中断しようというのだから、仕方がない…。
【南條】「確かに、チェスの目的は勝利を目指すことで、互いにそのために最善手を指す。…そしてそれを読みあう知的ゲームです。」
【南條】「……ですが、勝利以外にもうひとつ目的があることを、金蔵さんはお忘れではありませんかな?」
【金蔵】「…………何だと。勝利以外にどんな目的があるというのか。」
【南條】「はっはっはっは……。金蔵さんがそんなこともお忘れとは。…チェスを通し、親友と楽しい時間を過ごす、ですぞ。」
【金蔵】「む。……参ったな。それは確か、ずいぶん昔に私がお前に言った言葉だったはず。…………これは参った。」
 普段、しかめっ面をしていることが多い金蔵が、珍しく眉間を緩めて笑う。…南條は、ずいぶん久しぶりに親友と再会した気がした。
【南條】「そういうことです。一本取られたついでに、どうです。私と下に降りて食事と行きませんかな? 食後に珈琲と一緒に、カスパロフの中盤についての議論でもいかがです。」
【金蔵】「………………………………。…良い提案だが、遠慮する。……私はもうこの部屋から出られない。…儀式は始まっているのでな。」
【南條】「…………そうですか。では、私はお腹もぺこぺこですからな。…下へ降りることにします。気が向いたらいつでも、」
【金蔵】「南條。…………ありがとう。」
【南條】「……おや、何の礼ですかな。」
【金蔵】「…お前とのチェスの決着はつかなかった。……だが、私が忘れていたチェスの目的は、どうやら果たせたらしい。それはどうも、チェックメイトと同じくらい重要なものであったらしい。」
【南條】「らしくもない。何の感傷ですかな。」
【金蔵】「………お前が言ったのではないか。私には余命がないと。……もう行け。そしてもうこの部屋へ来るな。……続きは黄金郷でやろう。」
【南條】「…………………………。…良いですが、仕切り直しですぞ。ルークが落ちてしまったのは痛手ですのでな。……それでは、後ほど。」
【金蔵】「あぁ、後ほどな。…………黄金郷か、煉獄か。あるいは次の世で。」
【南條】「………………………。」
 南條はそれ以上は何も言わなかった。そして慣れた様子で卓上の、オートロックを解除するボタンを押す。そして最後にもう一度、金蔵の背中を見てから、書斎を出て行くのだった。
 入れ替わりに、廊下から源次の声が聞こえる。
【源次】「……それではお館様。これより夕食をお運びいたします。」
【金蔵】「最後の晩餐になるやもしれぬ。味わわねばな。……準備を頼む。」
【源次】「かしこまりました。…………お館様のご準備の方は、万端となりましたか。」
【金蔵】「…うむ。この部屋を、今日まで十重二十重の結界で厳重に包んだ。………あれのルーレットが私を選ぼうとも、必ずや弾き返す。…そして生き残り、黄金郷へ辿り着く内のひとりは絶対に私となるッ…! ……私を冥府へ連れ去ろうとする死神どもの来訪をも拒もうぞ…。」
貴賓室
【紗音】「………失礼します。…お食事の準備に参りました。」
 紗音は頭を下げ配膳台車を押しながら貴賓室に入る。
 窓辺で、暗闇以外見えないはずの外を眺める若い女は、間違いなくあの魔女だった。
【ベアト】「今度は紗音か。懐かしいな。………ほぉ。顔色がだいぶよくなったではないか。嘉音とは違うな。見違えたぞ。」
【紗音】「………ありがとうございます。」
 紗音は粛々と夕食の準備を進める。…本当は魔女に聞きたいことや話したいことがたくさんあった。…でもそれらがごちゃまぜになって、何から口に出せばいいかわからなかった。
 胸中も、色々な感情がごちゃ混ぜで、自分がどんな感情なのかも理解できなかった。…だから、曖昧なまま、淡々と仕事をするしかなかったのだ。しかし、魔女はその胸中を察する。魔女に隠し事などできないのだ…。
【ベアト】「……………謝らぬぞ。妾は魔女だからな。」
【紗音】「……何が、でしょう。」
【ベアト】「おや。…嘉音から聞かされたであろう。そなたの恋路を助けたのは、妾の単なる悪戯心。……如何にしてこじれ、捻れ、破綻するかを鑑賞するために蒔いたタネに過ぎぬと。」
【紗音】「………恋は、するより聞く方が楽しい方もおられるでしょう。」
【ベアト】「まさか、………妾に感謝しようというのではあるまいな。」
【紗音】「…はい。……あなたが私にどんな下心があって恋の魔法を授けたとしても。……あなたが私に与えてくれたものは変わらない。………だから、添い遂げられないと知りつつ蒔いたタネであったとしても。…私は恨んだりしません。」
【ベアト】「…………ふぅむ。……やはり家具というのは面白味のない。…くっくくくくくく。それを面白く調理するのが妾の腕の見せ所よの。」
【紗音】「……私に、ベアトリーチェさまのお考えはわかりません。……あなたは私たちなど足元にも及ばない大魔女で、…その遠大な思慮など、想像するにも至りません。でも、ひとつだけ言えることがある。」
【ベアト】「……何だ。」
【紗音】「私に、人間を教えてくれて、ありがとう。………あなたが言った。…私はもう、家具じゃない。」
【ベアト】「……………黙れ家具。…真の人間ならば、婚約指輪を受け取ろうという日に告げられた死の宣告に、嘆き狂いて踊り出すだろう。」
【ベアト】「なのにそなたは何だ。達観し、全てを受け容れたような顔つきではないか。……実に拍子抜けだぞ。家具ぅ…!」
【紗音】「いいえ。私は、家具じゃない。」
【ベアト】「黙れ、家具。」
【紗音】「黙りません。家具ではありませんから。」
【ベアト】「妾の命令が聞けぬと言うか。」
【紗音】「家具なら命令に従います。…でも人間は、命令に従うかどうかを自分で決めます。だから私はあなたの命令に従わない。」
【ベアト】「ふ。…くっくくくくはっはははははははははははは…! ……前言を撤回する。やはり面白いぞ。」
【ベアト】「……タネを蒔かねば、そなたは何の感情も抱かず儀式に身を任せただろう。……しかし今のそなたは実に面白く育ち、妾を心底楽しませてくれるぞ。それでいい。妾は退屈を愛さないのだから。……くっくくくくくくくくくくく!」
【紗音】「………お夕食の準備が整いました。…どうぞ。」
【ベアト】「うむ。…なかなか美味そうではないか。………郷田が黄金郷へ辿り着くことがあれば、妾の料理長に任命してやってもよかろう。」
【紗音】「……嘉音くんに聞きました。………私に、譲治さんの婚約を断らせれば、私を生贄にしないなんて約束をしたとか。」
【ベアト】「うむ。したぞ。……そなたは第二の晩に打ってつけの生贄候補だったのだがな。…嘉音がそれを許せと泣いて叫ぶので寛大に聞き入れてやったのよ。そなたが婚約を破棄すればとの条件付きでな。……くっくくく、妾の何と寛大なことよ。」
【紗音】「…………何て馬鹿な条件。そして何て馬鹿な脅迫。……そんなもので、嘉音くんを虐め抜いたというの。」
【ベアト】「ほう。わかるのか。……くっくっくっくっく!」
 紗音は見抜いているようだった。……魔女が、そんな酷い約束を餌に、嘉音をどのように虐め、どのように辱めたのか、想像がついているようだった。
【ベアト】「絨毯に這いつくばらせ、妾の靴にキスをさせてやったぞ。くっくくくく! それだけではない。……他に、どのような辱めを与えたか、聞きたいか…?」
 紗音は無言で首を横に振る。
【紗音】「あなたという人を、私はようやく理解しました。あなたは、人をいじめ、惑わせ、困らせて、それを楽しみ糧にしている。………だから、あなたに抵抗する唯一の方法が、これであると確信した。」
【ベアト】「何だ。」
【紗音】「あなたなんか知らない。…私は、私に与えられた運命を全うする。だからあなたを面白がらせたりしない。」
【ベアト】「……あなたなんか、知らないぃ…?」
 魔女の形相が、一瞬だけ憎悪に歪んだ。…それはすぐに消えるのだが、悪意ある笑みを一度も崩したことのない魔女の表情に、束の間だけ浮かんだ珍しい感情だった。
【ベアト】「くっくくくくくく!! …そういう抗い方もあるか。面白い。気に入った。殺してやる。お前の想い人と一緒にな…!」
【紗音】「…それがあなたの決められた運命ならばご随意に。……私はそれに怯えたり、逆らったりしません。これから起こる苛烈な運命が、あなたの意思によるものだなんて、信じないから。私たち人間は、未来に起こりうる運命など知らない。だからこそ、最後の瞬間まで、自分の信念と運命に従い精一杯生き抜く。運命はただのサイコロの目。そこに悪意なんて感じない。あなたが吹き込もうと、信じない。」
【ベアト】「……ほぉ。家具をやめたくせに、死を恐れぬとはな。……それが妾を退屈させると思っているようだが、それは大きな誤解だぞ。…そなたが本当に最後の瞬間までそれを貫けるか、ますます興味が湧いた。くっくくくくくくくくくく…!」
【紗音】「私は悔しい。……どうしてあなたは人の姿をして、私たちの前に現れ、人の言葉で語り、私たちを嘲笑うのか。…私たちの前に現れず、運命を予告しなかったなら、……私たちは最後の一瞬まで、精一杯生きられるのに。」
【ベアト】「それが魔女というものよ。貴様らの運命を食い物に、高次の存在として低次の存在の上に君臨する。そなたらの運命など所詮はカケラ。両手で椀を作ればいくらでも掬える。」
【ベアト】「……妾に飼われた肉牛どもが何をほざこうとも、妾の食卓を楽しませる結果に変わりはせぬのに同じこと。くっくっくっく…!」
【紗音】「……無力な私たちには、あなたの儀式にも運命にも抗うことなどできない。…しかしあなたに、今すぐ不愉快な思いをさせることはできる。」
【ベアト】「ほぅ。それは何か。」
【紗音】「………今すぐここを立ち去ることです。あなたの言葉に答えることは、全てあなたを楽しませている。あなたの問い掛けに答えないことが、あなたへ唯一できる抵抗です。」
【ベアト】「なるほどなるほど。一矢報いることは出来よう。…しかし妾を倒すことはできぬぞ? ……妾は誰しもを永遠に殺す力を持っている。」
【ベアト】「………永遠に繰り返し殺される輪廻の中で、そなたがいつまでその抵抗をできるか、実に楽しみだ。……忘れるなよ? 自らが口にした言葉。くっくっくっくっくっく。」
【紗音】「それでは、失礼いたします。御用がありましたらお呼び下さい。」
 紗音は他人行儀に頭を下げ、背を向ける。…その仕草は、魔女の言う通り、確かに一矢報いたのかもしれない。…それまでに比べると、魔女の呼びかけはほんの少しだけ性急だったからだ。
【ベアト】「嘉音は妾に感謝したぞ。…そなたは感謝せぬのか。安息の日を妾が与えることを。」
【紗音】「家具なら安息の日を喜びましょう。ですが私は人間ですので。だからあなたに感謝することはありません。……御用はそれだけですか?」
【ベアト】「………譲治から指輪をもらうつもりであろう? 受け取れば、妾が嘉音と交わした、そなたを生贄に選ばないという約束を破棄すること、忘れるな。」
【紗音】「まだ御用があるなら、他の者を来させますので。それでは失礼いたします。」
 ぴしゃりと遮る。もう紗音は返事をしなかった。そして扉が閉じられるその音が、返事の代わりとなるのだった。
 その紗音の抵抗は、多分、彼女が思っているよりはるかに深く魔女に刺さったようだった。
 …なぜなら、ベアトリーチェは再び憎悪に満ちた形相を浮かべていたから。最後まで篭絡されなかった嘉音を屈服させた。…そうしたら、それまで容易に篭絡されていた紗音が、今度は屈服を拒否した。
【ベアト】「……………何だ。…やはりこれは面白いことではないか。……くっくくくくくく。…妾もまだまだ若いか。これだから千年は生き飽きぬのよ…。」
食堂
 親族会議でもっとも華やかな時間。それが晩餐だった。かつて親族会議に真剣だった頃の金蔵は、年に一度、全員が揃うこの晩餐を非常に重視していた。
 この晩餐が見っとも無いようなことがあれば、それはホスト役である自分にとっての最大の恥であるとし、夏妃に対し、くれぐれも恥ずかしい晩餐とならないよう厳命していたという。その為、蔵臼夫妻はやがて、料理の腕に自信のある郷田を雇うことになる。
 ……その結果、自信の持てる素晴らしい晩餐を披露できるようになったにもかかわらず、その頃には金蔵は書斎に引き篭もるようになっていて晩餐に姿を現さなくなったのだから、皮肉と言えたかもしれない…。
 今夜のメインディッシュである仔牛のステーキが並べられると、郷田は自慢のトークで、さらに食欲を盛り上げてくれた。
【郷田】「こちら、ソースはボルドレーズとなっております。ベースの赤ワインはもちろんボルドー産の中でも素晴らしいものを使用しておりますが、その他にも、当家オリジナルブレンドとしまして、世界各地数種類の銘酒をブレンドしまして、より深い味わいとなりますよう、整えてございます。このソースは本年限りのものでございます。どうかお楽しみいただければ幸いです。」
【蔵臼】「…素晴らしいじゃないか。しかし、ボルドレーズソースはフランス料理の王道ではないのかね? それにフランス以外の酒を使うのは少し邪道ではないかという気もするね。」
【郷田】「旦那様。本日は年に一度の親族会議でございます。普段は遠方にお住まいの皆様が、遥々お越しになり一堂に集われた夜の晩餐には、世界各地より、普段は出会うことのない各地の銘酒を取り寄せブレンドしたソースが、何よりも相応しいかと存じ、特別にご用意させていただいたのでございます。」
【秀吉】「素晴らしい! 本当に素晴らしい料理人や、あんたは! 能書きが加わると、料理も薬も効果は二倍になるっちゅうわけやなぁ! 元の料理の美味さも二倍、さらに能書きで二倍。味の倍々ゲームや! わっはっはっはっはっは!」
【絵羽】「くすくす。嫌ぁねぇ兄さん。その質問、読まれてたんじゃないのぅ?」
【留弗夫】「違いねぇな。まんまと美味しいところを郷田さんに持ってかれちまったぜ。」
【蔵臼】「そうかね? 今日の料理をフランス風だと気付いていない者もいるんじゃないかと思ってね。」
【蔵臼】「……絵羽は先ほど、バターを使わないのが美徳といったが、それはスペイン風だ。…確かに国境を接してはいるがね?」
【絵羽】「…そういう意味で言ったんじゃないわよぅ。話の一部分だけ抜き出して、勝手に加工しないでくれるかしら。」
【楼座】「…とってもおいしいソースね。郷田さんは本当に素晴らしいわ。」
【郷田】「お褒めに与り、大変光栄です。これも全て、奥様の日ごろのご指導のお陰でございます。」
【夏妃】「……いえ、全て郷田のアイデアです。私はレシピを聞き、承認しただけです。」
 たかだかソースの話で、さっそく兄弟たちは鍔迫り合いをしているようだったが、…基本的に晩餐は和やかに進んだ。
 ……しかし、全員の胸中の中には、どうしても聞きたいことが燻り続けていた。……それは、19人目の来訪者のこと。…………黄金の魔女のことである。実際のところ、絵羽と留弗夫たちはこの晩餐を警戒していた。
 謎の来客を紹介するなら、この晩餐の席がもっとも適当だったからである。…しかし、食卓に魔女の分の皿は用意されなかった。
 親族会議は食後に本格的に行なわれ、深夜まで続くのが過去の例だ。……しかし、紹介すべき人物を、深夜まで隠しておく意味があるのかどうか、理解はできなかった。
 だから絵羽と留弗夫たちは、ある疑問を感じるようになっていた。……つまり、あの来客は、実は蔵臼にとっても未知の来客なのではないか、ということだ。
 蔵臼が遺産問題を有利に進めるために呼んだ刺客でないとするならば、…蔵臼にも腹を割り、4兄弟で何らかの不利益に対抗する共同戦線を予め話し合っておくべきだろう。
 ……もし彼女が金蔵の刺客で、4兄弟に遺産を渡さないことを目的としたならば、蔵臼と兄弟たちとの反目は敵に利用されるだけの弱点となりかねないからだ…。
【郷田】「それでは、ごゆっくりお楽しみください…。」
 配膳と料理の説明を終え、退室しようとする郷田を、霧江が小声で呼び止めた。
【郷田】「……はい、霧江さま。何か?」
【霧江】「えっと、ごめんなさい。……今日はお客様がいらっしゃってると思ったんだけど、…晩餐にはお見えにならないのかしら…。」
 さりげない口調で言ったつもりだったが、隣の席の夏妃の耳には入ってしまう。
 夏妃はそれを、「客が来ているのに、ホストは晩餐に来ないのか」と、……つまり、金蔵は晩餐には来ないのかと問い質したように聞こえたらしい。
【夏妃】「当主様は、体調が優れられませんので、お部屋で食事を取ると仰せです。……主人が初めにそう説明いたしましたが、何か…?」
【霧江】「………………ごめんなさい。そうじゃないの。」
 …霧江は夏妃のその反応で、未知の来客は蔵臼夫婦にとっても未知の存在であることを瞬時に理解する。………そしてそれが意味すること…。……霧江の頭の中に置かれたチェス盤の上で、駒の配置がガラガラと大きな音を立てながら並べ直されていくのを感じる…。
【戦人】「客ぅ?」
 さらに夏妃の隣に座る戦人は、霧江の言った意味を誤解なく受け取ったらしく、今日の親族会議に、さらに誰が招かれているのかと疑問に思い、頓狂な声をあげた。その為、この声を切っ掛けに、兄弟たちの腹の中にあった違和感が一気に溢れ出す…。
 みんなが一斉に郷田の方を見る。……彼らのその様子を見る限り、あの謎の女が、少なくともここにいる誰かによって招かれたわけではないことは明白だった。
 郷田は、全員の視線を集めたことに一瞬だけどきりとしたが、本来の見栄っ張りな性分が、かえってそれに優越感を感じさせる。その為、極めて落ち着きある優雅な態度での返事となった。
【郷田】「……はい。貴賓室でおひとりで食事を取られたいとのことで、そちらへお運びしております。」
 だから、郷田のその余りに優雅で、そして当り前な返事に、19人目の来訪者がいることは全員にとって明白なことになる…。
【夏妃】「貴賓室? 客? ……何の、誰の話ですか。」
 夏妃のその一言は、黄金の魔女の来訪を知らぬ者たち全員の疑問を代弁したものになった。
 郷田は、まさか夏妃に詰問されるとは思わず少しだけ狼狽する。……あれだけ厳重に言われている賓客なのだ。まさか蔵臼夫婦が知らないとは思わなかった。
【郷田】「その、……ベアトリーチェさまでございます。」
【真里亞】「ベアトリーチェ!! ほらっほらっ! ベアトリーチェ来てるでしょ、うーうーうー!!」
 真里亞はいとこたちにずっと、今日、ベアトリーチェに会った会ったとずっと言い続けていたのだ。……いとこたちも、良かったねと応じていたが、信じてはいなかった。だから、…目を丸くする。
【戦人】「す、すまねぇ。俺はてっきり真里亞の冗談だと思ってたぜ…。ほ、本当にいたんだな…。」
【朱志香】「………ベアトリーチェって、……あの、黄金のベアトリーチェなのかよ…?!」
【真里亞】「うー!! 真里亞は“い”るって、ずっと言ってる! 誰も信じてないー!!」
【譲治】「ごめんね、真里亞ちゃん…。そういうつもりじゃないんだよ…。」
 みんながベアトリーチェの存在を疑っていたことがわかり、今日一日上機嫌だった真里亞はすっかり癇癪を起こしてしまう。…隣の席の譲治は必死に真里亞をなだめていた。
【蔵臼】「…郷田。それもディナーの何かの余興なのかね? くっくっく、なかなかの味な演出だ。」
【留弗夫】「………兄貴。三文芝居はやめようぜ。…兄貴が呼んだんだろ。」
【蔵臼】「呼ぶ? 誰を。…どこから!」
【絵羽】「兄さん。はっきりさせましょ。……あれは誰。まさか、本当に肖像画のベアトリーチェだというんじゃないでしょうね。」
【蔵臼】「私にはお前たちが何を言っているのかさっぱりだ! 郷田、これは本当に冗談ではないのだな?!」
【郷田】「わ、私はその……。源次さんからそのように指示を受けただけでして、その…!」
【夏妃】「源次を呼びなさい。今すぐッ!!」
 夏妃が叫ぶと、郷田は弾かれたように廊下へ飛び出していった。その時の、扉を開け放つ音をきっかけに、晩餐のテーブルは一気に騒然となる。
【留弗夫】「じゃあ兄貴も知らないってんだな? 呼んだのは誰だ。親父ってことか?!」
【蔵臼】「……私には何のことかわからんね。お前たちは私が裏で糸を引いていると信じているようだが、それは大きな誤解だ。」
【蔵臼】「蔵臼兄さん、落ち着いてぇな。わしらはもう腹の探りあいをすべき段階にないで。もし、兄さんも知らない怪人物だっちゅうんなら、これはとんでもない話になるんやで…!」
【夏妃】「秀吉さん、言葉を少し慎みませんか? 主人は親族会議に不要な人間を招いたりはしません。」
【蔵臼】「まったくだ。お前たちは何を言っているのかね。肖像画の魔女が、額縁を抜け出して現れたとでも言うのかね! ……実際にその魔女さまに会ったという人間がいるわけでもなかろうが。」
【楼座】「私、会ったわ…!」
 楼座が発言すると、絵羽と留弗夫も頷き返す。
【真里亞】「うー! 真里亞も会った!! 蔵臼伯父さん、信じてー! ママを信じて! うーうー!」
 しばしの緊張を破り、真里亞も騒ぎ出す。…もう場はめちゃくちゃだった。
【朱志香】「何が何だかさっぱりだぜ…。つまり何だぁ? 祖父さまに黄金を授けた魔女さまが、今年の親族会議にはスペシャルゲストとして登場ってわけかよ…!」
【戦人】「しかし…、本当に…? 楼座叔母さんの見間違いってことじゃねぇの…?」
【真里亞】「真里亞も会ったーッ!! うーうーうーうーうーうーうー!!!」
【譲治】「楼座叔母さん、……間違いなく、なんですか?」
【楼座】「…………えぇ。………私と真里亞は会って、……話もしてる。」
【楼座】「……私は会ったの!! あれは間違いなく魔女だった…! 信じて!! 私の見間違いとか錯覚とか、そんなのじゃ断じてない! あれは、………何だったの?!」
 …楼座は、台風が訪れる直前の刹那。……薔薇庭園で確かに魔女に出会った。
 でもそれはあまりに現実とは受け容れがたい光景で……、こうして口に出せば出すほどに、自分が何に会ったのかわからなくなる。皮肉なことに、確かに魔女に会ったと口にする彼女が冷静を失っていたため、彼女が躍起になればなるほど、その存在は曖昧になるのだった。だから、冷静な一言が、その存在を間違いなく肯定した。
【霧江】「………私も会ったわ。挨拶、とはとても言えないけれど、一応言葉も交わしてる。………楼座さんの見間違いとかじゃ、断じてないわ。」
【戦人】「霧江さん、それマジかよ…。」
【霧江】「えぇ。………でも、彼女は私に名乗らなかった。だから彼女がベアトリーチェであると断定はできない。」
【霧江】「……でも、主観的で恐縮なんだけど。……私は玄関ホールで彼女に会ったから、肖像画と顔を見比べることができた。…私は第一印象で、彼女こそがこの肖像画の主に違いない、って思ったわ。………あくまでも主観よ。」
【夏妃】「そんなことはありえません! 第一、その女はどこからやって来たというのですか。今日の船は皆さんの送迎のための便が往復しただけです。その船に乗っていたのですか?!」
【留弗夫】「…………………。それを言われると弱いな。確かに、そんなご婦人と一緒に下船した記憶はない。」
【絵羽】「あぁら、そぉ? 私たちの乗ってきた船以外に船はないってどうして証明できるの? できないわ! “来なかった”は証明できない!」
【戦人】「道理だな。……“来た”は証明できる。来たのを見たヤツが見たと言えばいい。しかし“来ない”は証明できないぜ。全員が来ない、見てないと言ったところで、全員が見てないところで“こっそり来た”ことを否定はできない。つまり、悪魔の証明ってヤツだ。」
 悪魔が“いる”ことを証明するのは容易い。悪魔に会えばいいのだから。しかし“いない”ことを証明するのは不可能だ。誰も悪魔に会ってないからと言って、人間の立ち入れないいずこかに、彼らが隠れ潜んでいる可能性をも否定することにはならない。
 ……宇宙人の存在を否定できないのもまったく同じ。人類が全宇宙を探索し尽くして、存在しないことを完全に示さない限り、宇宙人がいないなどと断定することはできないのだ。
 そして、我々には全宇宙に宇宙人が存在しないことを確認するなど間違いなく不可能。…だから、宇宙人の存在を証明する余地は数あれど、その存在を否定する証明はありえないのだ。
【譲治】「……となれば、僕たちが乗ってきた船以外の船で来たかどうかなんて、議論しても無駄な問題ということになるね。……僕たちと一緒の船にはいなかった。それだけが事実で、それ以外の方法で、とにかくこの島に訪れたことになる。」
【霧江】「そうね。どうやって来たかなんて議論の必要はないかもしれない。肝心なのは、現にこの屋敷に今いて、私たちと晩餐を共にする気がないという事実よ。」
【留弗夫】「整理しよう。…今、この島には右代宮家18人以外にもうひとり客がいる。そしてそいつは、兄貴も夏妃姉さんも知らない客だってんだな?」
【夏妃】「知りません…! 何の話だかもわかりません…!」
【蔵臼】「お前は少し黙っていなさい。頭痛に障る。……妻の言う通りだ。私にはお前たちが何の話をしているのかさっきからさっぱりだ。」
【絵羽】「じゃあ答えはひとつしかないわ。……お父様が呼んだのよ。今日の親族会議の為に!」
【蔵臼】「親族会議に?! だから何の為に!」
【絵羽】「そんなの知らないわよ! 兄さんが知ってたらそれを問い詰めようって思ってたのよ!」
【秀吉】「絵羽、よさんか! 蔵臼兄さんは知らんと言うとる! ……つまり話はこうや。お父さんが肖像画の魔女にそっくりの客人をこっそり招いた。それに、楼座さんが出会い真里亞ちゃんが出会い、そして霧江さんも会った。」
【秀吉】「………今はそこまでや! わしらに言いたいことがあるんなら、とっとと姿を現せばええ! 挨拶もなしに引き篭もってるっちゅうんはどないわけなんや、ってことなんや。」
【留弗夫】「親族会議なんかハナから関心のない親父が、新しい愛人をこっそり呼びつけたってわけかぁ? 理想の魔女さまのおべべを着せてよぅ? …………そう決着するには、今日という日は意味を持ち過ぎてるぜ。」
【絵羽】「理由はひとつしかない。親族会議に加わるためよ。…お父様の遺産について、何かの権利を主張する気でいるのよ!」
【夏妃】「馬鹿馬鹿しい!! 当主様に愛人などと汚らわしいものなどおりません!」
【蔵臼】「お前は黙っていろと言っている! 私はこの屋敷でずっと親父殿と過ごしているが、そんな話は聞いたこともない。………最大限、理解を示したとして、……何十年も昔の愛人との間に隠し子がいたとして、……それを親父殿が探し出し、今日という日に呼びつけたと。…こう言いたいのかね?」
【夏妃】「あなた! お父様にそんなものがいるわけがありません! 尊い右代宮の血が愛人如きに…! 先ほどから数人が見た見たと自称しているに過ぎません! 幻想、妄想、白昼夢に決まっています! あるいは、これも夫を陥れるための皆さんの何らかの芝居なのですか?!」
【絵羽】「何の芝居だってのよ!! 芝居だって言うならそっちでしょうが!!」
【留弗夫】「よせよ姉貴。……ちょいと暴力的な言い方だが、夏妃さんの言う通りではある。霧江は姿を見たが、俺は見てない。姉貴もだ。だが楼座は見た。」
【留弗夫】「……しかし、ってことは“いる”ってことになる。“いる”を証明している連中が存在する以上、“いる”で直ちに決着だ。悪魔の証明の逆パターンってわけだな。」
【留弗夫】「………それに、俺も会いたいんだよ。そして、一体当家に何の御用かと直接問い質したい。」
【蔵臼】「それについては私も同感だ。六軒島へ何の御用かぜひお尋ねしたいものだ。」
【絵羽】「白々しいことを言わないで! 狙いはひとつよ。お父様の遺産を狙ってるのよ! 相続問題に明るい弁護士に今後の作戦を練らせるべきよ。お母様と同格の権利を愛人が主張した場合、私たちの取り分はかっきり半分さらわれることになる!」
【楼座】「………ちょ、ちょっとみんな待って! 源次さんがもうじき来るわ。彼は何でも知ってる。きっと私たちの疑問に答えてくれるわ! それまでそういう話はなしにしましょう!!」
【楼座】「さぁ子どもたち?! 悪いけれど大人はちょっと込み入った話をしないといけないの! ゲストハウスへ戻っていなさい!!」
 楼座が少しだけ感情的に子どもたちに怒鳴りつける。子どもたちは、どうしてここで突然自分たちにお鉢が回ってくるのか理解できなかったが、遅れて絵羽たちは理解した。
 自分たちは、子どもたちの前で遺産相続の泥臭い話を、これほど盛大にしているのだ。…この場に自分の子どもを居続けさせたいわけもない。だから、全員が楼座の提案にすぐ同意した。
【秀吉】「そ、そうやな、楼座さんの言う通りや! 譲治! いとこみんなでゲストハウスに戻ってるんや! いとこ同士、仲良く遊ぶんやで!」
【絵羽】「譲治、言われたとおりになさい。いとこみんなを連れて、今すぐ出て行くのよ!」
【譲治】「ちょ、…ちょっと待ってよ母さん…! 僕たちはまだ食事も終えていない…!」
【真里亞】「うー! デザートもまだ来てないー!! うーー!!」
【楼座】「デザートは郷田さんに、ゲストハウスに運ばせます! だから出て行きなさい!!」
【夏妃】「朱志香。ここから先は大人の話し合いです。行きなさい。」
【朱志香】「………わ、…わかったよ。………まだ食いかけだってのによ…。」
【戦人】「…ってことは、俺だけ例外ってことはないよな。」
【霧江】「理解してくれてありがとう、戦人くん。…でもあなたラッキーよ。」
【戦人】「へー。どうして。」
【霧江】「私も出て行けるなら出て行きたいもの。」
【戦人】「…いっひっひっひ! 違いねぇぜ。大人は大人で、遺産を巡って楽しい一家団欒をお楽しみ下せぇってんだ。」
【南條】「…………私も席を外しましょう。どうやら今夜は、私の出番はなさそうだ。」
 南條はすっと席を立つ。…一番隅の席で先ほどからのやり取りに対し、無駄口を挟まず、ずっと静観していた。……落ち着きある老紳士らしい、大人の対応だったに違いない。
 その南條の起立は、出て行くべき人々への促しとなった。子どもたちもガタガタと席を立つと、廊下が慌しくなり、使用人たちが戻ってきた。
【郷田】「遅くなって申し訳ございません…。源次をお呼びいたしました…。」
【源次】「……お屋敷の中の戸締りの確認に行っておりましたもので、遅くなりました。申し訳ございません。」
【楼座】「さ! 子どもたちはゲストハウスへ! 郷田さん、申し訳ないのだけれど、子どもたちの分のデザートを、ゲストハウスへ運んでくれるかしら。」
【郷田】「は…。…よろしいのですか…?」
 郷田は、せっかくの晩餐がこのような形で中断されることが面白くなかったらしい。…夏妃に、それで良いのかと確認を取るような目線を送る。
【夏妃】「楼座さんの言う通りにするように。それから、私たちにデザートの配膳は不要です。呼び出しがあるまで、食堂には近付かないように。これは他の使用人にも伝えること。いいですね?」
【郷田】「は、…はい。かしこまりました…。」
【南條】「さぁさぁ、皆さん。参りましょうかな。真里亞さんも、これ以上、お母さんを困らせてはいけません。」
【真里亞】「うーうーうー!! 真里亞もベアトの話するー!! やだやだやだうーうーうー!!!」
【譲治】「真里亞ちゃん。僕たちに、ゲストハウスでベアトリーチェの話を聞かせてくれないかい? …ぜひ魔女の話を聞きたいんだ。ね?」
【真里亞】「うー? うー!」
【朱志香】「……譲治兄さんは本当にうめぇぜ。感動するぜ。」
【戦人】「本当に子持ちじゃねぇのかよ。手馴れ過ぎだぜ、いっひっひ!」
 真里亞は、譲治の言葉ですっかり機嫌を直し、率先してゲストハウスに行こうとまで言い出すのだった。郷田は、自分まで追い出されるのが面白くなかったようだが、夏妃には逆らえず、戦人たちと共に退室して、その扉を閉めるのだった…。
 郷田はこの時点では協力者ではないので事情を把握していない。したがって、郷田の前に嘉音が現れることはできない。
【源次】「……御用は何でしょうか。皆様。」
【絵羽】「えぇ、あるわ。たっぷりと。それもみんな。誰から質問するか、くじ引きがほしいくらいよ。」
【蔵臼】「だが、誰が一番のくじを引こうとも、最初にする質問は同じだと思うがね。」
【留弗夫】「違いねぇな。………源次さん。正直に答えてくれ。…今、貴賓室にいる、ベアトリーチェってのは何者なんだ。」
 源次はこの後、「それでは、ベアトリーチェさまをお呼びしてまいります」等と言って席を外し、紗音と対応を相談。礼拝堂に一同を移動させる。

結婚指輪
10月4日(土)22時00分

ゲストハウス・いとこ部屋
 …秀吉の持論である、能書きは味を二倍高めるは、どうやら正しかったらしい。
 ゲストハウスに追い出された子どもたちと南條は、いとこ部屋に集まり、熊沢が運んできてくれたデザートのケーキを食べているところだった。それはクリームをふんだんに使い、果物で美しく飾った高級感溢れる素晴らしいものだったが、美味であるにもかかわらず、なぜか一味落ちているように感じるのだった…。
【朱志香】「はは、郷田さんの能書きがないと、味ってずいぶん落ちるんだな。」
【戦人】「能書きを求めようにも、熊沢の婆ちゃんに聞いた日にゃ、このケーキの原料も鯖ってことになっちまうぜ。」
【真里亞】「うー?! 本当?! 鯖からケーキってできる?!」
【熊沢】「ほっほっほっほ。えぇえぇ、このケーキも、鯖の搾り汁に小麦粉と卵を混ぜて焼き上げると、ふっくら焼きあがるのでございますよ。ほっほっほっほ。」
【譲治】「それが本当ならすごいね。お父さんの店の新メニューに、鯖ケーキとか登場するかもしれないよ。」
【戦人】「わっはっはっは! 鯖って栄養満点でヘルシーっぽいイメージがあるしよ。女性とかお年寄りに人気が出たりしてな! 俺は食わねぇけどよ!」
【朱志香】「女はそんなゲテモノは食わねぇぜ。」
【南條】「年寄りも遠慮したいところですな。」
【南條】「ほっほっほっほ! おいしいんですけどねぇ?」
 熊沢は十八番の鯖ネタでよく場の雰囲気を盛り上げてくれた。…しかし降りしきる雨の音は、どうしても彼らの関心を、謎の来客に向けてしまうのだった。結局、この中で唯一ベアトリーチェに会ったという真里亞は再び質問攻めになるのだった。
【譲治】「………まさか、…あの話が本当だったとはね。」
【戦人】「その口ぶりだと、真里亞が魔女に会ってたって話は、信じてなかったまでにも初耳じゃねぇってことらしいな。」
【朱志香】「…あぁ。夢見がちなお年頃の、よくあるおとぎ話くらいに思ってたぜ。」
【真里亞】「いるー!! ベアトリーチェは“い”るー! 毎年、親族会議に来る度に、真里亞は会って、一緒に遊んでた!」
【熊沢】「そうですねぇ。ベアトリーチェさまは、普段は姿をお見せになりませんけど、心が綺麗で素直な方の前には、ひょっこり姿を現してイタズラをすることもあるそうですからねぇ。ほっほっほ。」
 ベアトリーチェは、六軒島の魔女というおとぎ話の中の存在を指し示す名前だ。金蔵がずっと妄想してきた魔女像は、家人や使用人たちが金蔵のご機嫌取りをするために、肯定し吹聴していったため、六軒島のおとぎ話、あるいは怪談として確立していった…。
 そういう経緯を知る家人たちにとっては、黄金の魔女のおとぎ話は希薄なものでしかない。…しかし、金蔵の手前、彼らはそれを口にできなかった。
 だから、経緯を知らない人間にとっては、…例えば幼い真里亞にとっては、それは断じて希薄なものではなく、…本物の魔女伝説なのだ。
 だから、真里亞は魔女伝説を信じた。鵜呑みにした。…それは、魔女を信じる夢見がちな少女にとって当然のことだった。
 だから誰も彼女の夢を裏切るようなことを口にしなかった。…むしろ、彼女の夢を盛り上げるように口裏を合わせた。
【譲治】「…だから、真里亞ちゃんがベアトリーチェにもらったお菓子、といって僕らに見せびらかすことがあっても、…多分、誰かがそういうことにして真里亞ちゃんの手提げの中にこっそり飴玉でも忍ばせたのだろうって思ってた。」
【南條】「…………私も、昔に二度か三度、そういうフリをして、こっそりお菓子を置いてあげたことがあります。…おそらく、熊沢さんにも、いや、使用人の皆さんや、右代宮家の皆さんも一度や二度はあるんじゃないでしょうか。」
【戦人】「……無邪気な小さい子が喜ぶなら、口裏を合わせてお菓子を置いてくこともあるか。……ってことは、譲治の兄貴なんか、だいぶやってそうだな?」
【譲治】「…………まぁね。」
 それを認めることは多分、無粋なことなのだろう。譲治は決して真里亞に悟られぬよう気をつけながらそれを認める。
【戦人】「つまり、……サンタクロースみたいなもんか。子どもの夢を守るために、両親がグルで嘘をついて、寝静まった子の枕元にプレゼントを置いていたと。」
【朱志香】「……子どもの夢って、守ってあげたいし。…私は当然、サンタなんていないってとっくに知ってるわけだけど。……もし、醒めなくてもいい夢だったなら、一生信じていたかったぜ。」
【南條】「…世の中は世知辛いばかりだと知ってしまうからこそ、…大人はせめて子どもの、綺麗な夢を守ってやりたいと思うものです。」
【真里亞】「うー!! ベアトリーチェはいるの! “い”るぅうー!!!」
【熊沢】「えぇ、いますとも。ベアトリーチェさまはおりますよぅ? この前もですね、鯖を干して紅茶のダシに使おうとしておりましたら、そこへひょっこり、」
【譲治】「……まぁつまり、こういう調子。…だったはずなんだけどね。」
【戦人】「つまり。……真里亞を除けば、誰も信じてなかったはずの魔女ってわけだ。」
【譲治】「少し言葉が足りないね。……信じてなかったんじゃない。…信じさせてあげようとしたんだ。」
 子どもの純情は裏切れない、ってことか。でも、現実にサンタはいない。それを知りがっかりするのが嫌だというなら、最初からそんな夢を見せなければいい。
 …そう考えてしまうのは、まだまだ自分が大人になりきれていないからなのだろうか。戦人は、六軒島の魔女の正体について、ようやく一定の理解を得るのだった。………だが、現在の状況は、その理解のさらに上に立ち、しかもその前提を全てひっくり返すものだ…。
【戦人】「……という認識だったはずの、魔女のベアトリーチェさまが、実際に現れちまったと。そういうことか。」
【戦人】「しかもだ、伯父さんたちの騒ぎようを見る限り、どうも招かれた客でもないらしい。……こりゃあ面白そうな話だぜ。」
【譲治】「ベアトリーチェという女性が実在しない、という前提は実は存在しない。……留弗夫叔父さんも言っていた悪魔の証明そのものだよ。……ベアトリーチェと名乗る女性の存在を僕たちは誰も知らなかった。」
【譲治】「…でも、だからといってそれが、ベアトリーチェが実在する可能性を否定できるわけじゃない。」
【朱志香】「……南條先生は祖父さまとの付き合いが長いですよね?」
【南條】「…………………。…一時期、親族会議で蔵臼さんたちにずいぶんと聞かれた話ですな。……その昔、金蔵さんにベアトリーチェという愛人がいて、その隠し子がいるのではないかという話です。」
【戦人】「なるほどな。親父たちは遺産分配で頭がいっぱいだ。そこに愛人の娘なんてのが現れれば、面倒なことになるのは火を見るより明らか、ってわけだ。」
【南條】「蔵臼さんたちも、最初は源次さんに聞かれたのでしょう。しかし、源次さんは金蔵さんに忠誠を誓う側近で、…多分、私よりも金蔵さんが心を許す親友です。……源次さんは多分、何も語らなかったのでしょう。……それで次に古い友人である私の方に話を聞こうということになったのでしょうな…。」
【戦人】「んで。……結論として南條先生。……祖父さまに、ベアトリーチェという愛人はいたんすか。」
【南條】「……………おりました。…いえ、私は会ったことはありませんぞ。…ですが、そういう女性と交際があったと金蔵さんから聞かされたことはありました。………相当昔にお亡くなりになられたそうで。」
【戦人】「……死んだ。……その間に子どもがいたとか?」
【南條】「それはわかりません。……ただ金蔵さんは、ベアトリーチェを蘇らせるために研究をしていると常々言っておりました。…普通は、愛人を失い忘れ形見がいたならば、そちらにその分の愛情を注ぐものです。……ですから、金蔵さんとベアトリーチェの間に子どもはいなかったろうと私たちは自然に考えました…。」
【戦人】「…………うん? …ってことは、それも悪魔の証明になっちまうな。」
【朱志香】「……なるぜ。……愛人との間に子どもが“いなかった”ことは証明不能。……現にこうして現れた以上、“いた”ってことになっちまうわけか。」
【譲治】「少し暴力的な理論だね。……右代宮家の遺産問題でトラブルが生じていることを聞きつけ、何者かがお祖父さまの大昔の愛人関係を知り、それを装って遺産問題に食い込もうとしているとかの方が現実的だよ。」
【戦人】「……現実的ではある。…しかし、本当に彼女が隠し子で、しかもその上、祖父さまに顧みられなくて孤独に生き、復讐に帰ってきたって設定も、否定はできねぇよな…?」
【朱志香】「復讐ぅ?! 何だよそれぇ!」
【戦人】「あぁ、スマンスマン…。男なんでよ、ついつい面白そうな方に脚色しちまうぜ。妙なドラマの見過ぎだな。いっひっひっひ!」
 本来なら、それは軽薄な冗談のはず。……しかし、誰も招いていなかったという謎の来客はベアトリーチェを名乗り、親族同士でも血生臭い議題となろう遺産分配を話し合う親族会議の日に、乗り込んでくる。
 ………戦人の冗談が、笑いをもって迎えられようはずもなかった。だから、南條が場を和ますために快活に笑い出してくれたのはとても助かることだった。
【南條】「はっはっはっは…。なるほどなるほど、それはなかなか面白そうですな。そんな筋書きの小説をぜひ読んでみたいものです。」
【戦人】「まぁ、現実にはそんなことはできねぇと思う。……何しろよ、今、この島には、ひぃふぅみぃ…、18人もいるんだぜ? 妙なことをすればすぐにでも取り押さえられちまう。それに、台風のお陰で島から逃げ出すこともできない。つまり、とんでもない事件を起こそうにも、どうにもならねぇってことさ。」
【譲治】「……同感だね。退路の絶たれた袋小路で、しかも充分怪しまれているような状況下で、そんな恐ろしい復讐劇なんか、とてもできるとは思わないね。」
【南條】「でしょうなぁ。…ならば、姿など現さずに暗躍しての復讐の方が現実味があるというものです。堂々と姿を現して仇討ちなど、時代劇の中でしか考えられませんなぁ。」
【朱志香】「わからねぇぜ? 復讐ってのは感情でやるもんだ、理屈じゃねぇぜ。それこそ、刺し違えてでもなんて考えたら、別に警察も人数も退路がなくても、何も怖くはないかも知れねぇぜ。」
【譲治】「大丈夫だよ朱志香ちゃん。僕たちが想像するような物騒なことは何も起きないよ。」
【戦人】「いっひっひ! 遺産を巡って伯父さんたちがバトルロイヤルってのが、物騒なことじゃねぇってんならなー。」
【朱志香】「……そうだよな。…父さんも留弗夫叔父さんも体格いいし、絵羽叔母さんなんか格闘技習ってんでしょ。……大丈夫だよね。うん…。」
 朱志香は口に出さないが、自分の父親が遺産を巡り、他の兄弟たち全員と対立していることをうっすらと察していた。彼らは子どもの前では仲が良さそうに振舞うが、一度ボロを出せば、さっきの晩餐のように、喧々諤々の大騒動なのだ。
 それを察する朱志香としては、父や母が何かのトラブルに巻き込まれて、…恐ろしいことの犠牲になるのではないかと恐れるのも無理ないことだった…。
【戦人】「だよな。譲治の兄貴の言う通りだぜ。…何も起こらねぇよ。魔女さまの名前を騙ろうとも、魔法も使えない人間の女がひとりで何ができるってんだ。」
【真里亞】「きっひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ…。」
 唐突に聞こえてきた不気味な笑い声に、全員がぎょっとする。……その奇怪な笑い声は、真里亞が発していたものだとわかり、二度驚く。
【真里亞】「………そうなんだ。…それが戦人の認識なんだね。」
【戦人】「な、………何がだよ。気色悪い声で笑うんじゃねぇぜ。」
【真里亞】「戦人は、ベアトリーチェの存在をとりあえずは認めてる。19人目の客人程度には認めてる。…………でも、そこまでだね? …19人目のベアトリーチェが、魔女であることは認めてないね…?」
【戦人】「突然、何を言い出すかと思えば。……そりゃそうだろ。魔女なんているわけがねぇ。それを騙る人間の女しかありえねぇだろうが。」
【真里亞】「……きひひひひひひひひひひひひひひ。あれぇ…? おかしいよ、戦人。……それは、悪魔の証明だよ? ……魔女なんているわけがねぇ? でもそれは、戦人が魔女に会ったことがないというだけで、魔女の存在を否定することにはならないねぇ…?」
【戦人】「……………。………そうだな。…確かにそうだ。魔女がいねぇを証明することはできない。……しかし、証明はできなくても、主張はできる。魔女はいねぇという、俺の主張だ。」
【真里亞】「どうして…? どうして魔女はいないなんて、証明できないくせに主張できるの…?」
【戦人】「そんなものはいねぇからだよ。」
【真里亞】「きひひひひひひっひひひひひひっひひひ! それでQED? 何の証拠も根拠もなく証明終了? 無知が自分の浅学さを棚上げする時の典型例。暴力的思考停止だね。きひひひひひひひ…!」
【戦人】「となりゃ答えはひとつだぜ、真里亞。……魔女側の反証しかねぇってことだろ。これまた悪魔の証明だ。……連れてくりゃ話は早い。」
【戦人】「…この場合は、ベアトリーチェと名乗るご婦人が、お星様がキラキラ飛び散るような華麗な魔法をステッキででも披露して、ニンゲンには不可能なことをやって見せればいいってことだろ?」
【熊沢】「……ほらお二人とも。落ち着いて下さいな…。」
 二人の雰囲気が少し悪くなったことに気付き、熊沢がなだめに入ってくる。…戦人もすぐに、自分が大人げない対応をしていたことに気付いたようだった。だが、真里亞は表情を緩めない。……気色悪く笑いながら、戦人を相変わらず睨みつけている…。
【朱志香】「真里亞ももうよせよ。…機嫌直そうぜ、な?」
【真里亞】「きひひひひひひひひひひ、きひひひひひひひひひひひひひ。」
【戦人】「…………………。」
【真里亞】「……それが望みなら、ベアトリーチェはきっと見せてくれるよ。ニンゲンには不可能なこと。そしたら、戦人も信じるんだよね? ベアトリーチェのこと。」
【戦人】「…………おう。……そいつを拝ましてくれたら、信じてやろうじゃねぇか。」
【真里亞】「魔女と戦人の、議論のチェスだね。………チェックメイトされたら、戦人は魔女を信じる。」
【戦人】「ほぅ、洒落た喩えだぜ。……魔女が魔法を見せる。俺のキングにチェックをかける。俺は人間でも何らかの手段で再現可能だとイチャモンをつけて、キングを逃す。…それが出来なきゃチェックメイトってのは、確かにいい喩えだ。」
【真里亞】「戦人。……チェスというのは、相手も自分も同じ動きの駒を持ってる。だから相手の手も読める。…………でもね? 相手の駒が、戦人の駒よりさらに不思議な動きができることを、戦人は今、想定していない。魔女のはずないからと、ベアトリーチェの動かす駒の動きを、自分とどうせ同じだと決め付けている。」
【戦人】「………………………。」
【真里亞】「……でもね? ………悪いけど、戦人のチェスの相手はニンゲンじゃない。魔女なの。……ニンゲンには指せない駒の動きができる。………戦人は今、そこの認識を間違えているの。…戦人は霧江伯母さんのチェス盤思考って、好きでしょ?」
【戦人】「………あぁ。相手の立場に立っての思考術ってやつを、気に入ってるぜ。」
【真里亞】「だからダメなの。相手は魔女なのに、戦人はそれを認めない。………だから、魔女の指せる手を理解できず、チェス盤思考が通じない。相手の認識を間違えている。チェス盤思考の一番最初の前提が崩れてる。」
【戦人】「……………………ほぉ。…そう来るかよ。」
【真里亞】そなたは魔女とのチェスに勝てぬ…! きっひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!」
薔薇庭園・東屋
【紗音】「…その後のことはわかりません。私たち使用人は食堂に近付くなと厳命されましたもので…。」
【譲治】「………なるほどね。それで、紗音はその、ベアトリーチェという人物に以前、会ったことはある?」
【紗音】「………………………。……わかりません。」
 それは少しだけ不思議な言い方。記憶が曖昧だという意味と、少し違うように思った。
【紗音】「……私たち使用人にとって、ベアトリーチェさまはお屋敷のもうひとりの主です。……お館様に感化されてそうだと吹聴している、という風に仰る方もおられますが…。……私がここへ勤め始めた時から、ベアトリーチェさまの話はすでに囁かれておりました。」
【譲治】「前に聞いたよ。…敬わないと呪われたりして、実際に事故にあった使用人もいるんでしょ。」
【紗音】「えぇ…。……ただ、信じる信じないに個人差があったのは確かです。…私はその、…そういうものには敬いを忘れないのが信条ですので、存在を疑ったことはありません。……黄金の魔女という、…その、……不確かな存在がきっといると、おぼろげに信じていました。」
【譲治】「…それで、実際にその不確かな存在の魔女が、姿を現して堂々と玄関からやって来た…、ということなのかな。」
【紗音】「………わかりません。……………私には、…何も。」
【譲治】「………………。…紗音は夕食を運んだ時に何か、話はした?」
【紗音】「…………………………………。……いいえ、何も。」
【譲治】「そっか。…しかし、ご飯を食べる魔女というんじゃ、何だかリアリティがないね。やっぱり、この島の魔女伝説を知る何者かが、ベアトリーチェの名を騙っているだけなんだろうね。」
【譲治】「………紗音ちゃんは、ベアトリーチェを多分、お屋敷の守り神みたいに思って敬ってきた気持ちがあると思うんだよ。だから、それを名乗る人物が現れたので、少し動揺しちゃったんじゃないかな。」
【紗音】「………。………そうですね。きっとそうなんじゃないかと思います。」
 譲治は、紗音の元気のなさそうな様子に少し戸惑っていた。……ひょっとすると、ベアトリーチェという人物に心当たりがないかと、源次だけでなく紗音たち若い使用人も厳しい追及を受けたのかもしれない…。そう思い、何とか元気付けようとしていた。
 真里亞や朱志香のように、紗音もまた、黄金の魔女を名乗る人物の突然の来訪に、きっと動揺を隠し切れないのだろう。そうに違いないと思った。…しかし、譲治には紗音の胸中を知る術などないだろう。
 紗音は悔しく、そして悲しかった。……黄金郷の扉が、開かれる。……魔女は確かにそう告げた。
 それが意味するものは、全ての終焉。………譲治に婚約指輪をもらおうとも、…………もう、結ばれることはないということ。
 いや、………そもそも。…家具の自分に、……結ばれる資格はあったのか。魔女が終焉を告げに訪れなくても、……いつかは破綻する運命だったのではないか。譲治との楽しい日々だけに目を向け、…わざと目を瞑ってきた、悲しい現実ではないのか。
【譲治】「…………どうしたんだい。…さっきから本当に元気がない。」
【紗音】「譲治さん。……婚約って、…何でしょうか。」
【譲治】「え?! あ、……えっと! 結婚の約束をする、という意味だよ。…でも僕はその意味において結婚と同じものだと考えてる。……本当なら、僕は今すぐにでも君を娶って家へ連れ帰りたい。……でも、僕は今、修行中の身で、まだまだ自らの城を築き上げる力量がない。だからこそ、一人前になって初めて、胸を張って君を連れ帰りたいんだ。」
【譲治】「それは遠い未来の話じゃない。ほんの3年ほどを待って欲しいというだけの話なんだ。……でも僕は、だからといって3年間、自分の気持ちを偽っていたくない。」
【譲治】「だから、……婚約指輪を贈ろうと決めたんだ。……それは、男として情けない理由かもしれない。妻と仕事を両立できないから待って欲しいなんて理由での婚約なんて、情けないものかもしれない。……でも僕は決して君を、」
【紗音】「………ありがとうございます。…譲治さんにとって、婚約指輪が、恋人に贈るプレゼントのひとつではないということがわかりました。」
【譲治】「と、当然だよ。婚約指輪はただのアクセサリーじゃない。尊い約束を指輪の形で残す、恋人たちの宣誓なんだ。」
【紗音】「………くすくす。…だとすると、すぐにも結婚するなら、不要なものということになりますよね?」
【譲治】「そ、その時は婚約指輪じゃない。結婚指輪として渡すよ。……どちらにせよ、君に指輪を贈ることに変わりはないのさ。」
【紗音】「この女は俺のモノだから、誰も手を出すなよっていう売約札みたいなものですね。」
【譲治】「ん、……、いやその、……そんな意味じゃ……。……………こほん。」
 譲治は自分の情けない性分を知っていた。紗音に惹かれ、立派な男になろうと誓った時、情けない自分と決別すると誓ったのだ。……だから、わざとでもいい、少し乱暴な答えを選ぶ。…それが、紗音にとって力強いものになると信じて。
【譲治】「………いや、…その通りかもしれない。………紗代。君を、僕の妻にする。…他の誰にもやらない。僕だけのものにする。…だから誰も手を出すな。……そういう指輪だよ。…間違いない。」
【紗音】「ありがとうございます、譲治さん。…………本当に、嬉しいです。」
 なら譲治さん。……この婚約指輪が、……その約束を果たせないことが運命付けられていたとしても、……私に贈りますか…? …紗音はそう聞こうとしたが、…その言葉を飲み込んだ。
 なぜなら、譲治はその質問の答えをもう口にしている。
 ……譲治は言った。彼にとっての婚約指輪は、結婚指輪と限りなく同じものであると言った。だから、譲治の指輪を受け取ることは、結婚の約束よりもはるかに神聖な意味を持つ。
【譲治】「だから。……僕はあえてこれを婚約指輪と呼ぶのをやめにする。今からこれは、婚約じゃない。結婚指輪だ。」
【紗音】「い、…いいのでしょうか…? 神さまの祝福もなく、私たちが結ばれたことを、その、勝手に宣言してもいいのでしょうか……?」
【譲治】「うん。神さまも、父さんも母さんも全て事後報告で充分さ。僕たちが、二人は結ばれたと一方的に宣言する。………それは誰にも覆せない。」
【紗音】「………譲治さん……。」
【譲治】「僕は、一時の感情で言ってるんじゃない。今だけの君を見て言ってるんじゃない。………明日の君も、明後日の君も。…それこそ未来の、老後の君すらも見据えて言っている。」
【紗音】「……いつも譲治さんが話していることですよね。…元気な子どもや孫たちに囲まれて、ゆっくりとした老後を過ごしたいって。」
【譲治】「うん。その時、僕の隣には年老いた君がいる。それを僕は予告、いや、予言するよ。…うん。必ずその日は訪れるから。」
【紗音】「……………………必ず、…訪れますか。……………………。」
【譲治】「うん。必ず。絶対。……それを、言葉でない形で証明するのが、この指輪なんだよ。」
【紗音】「……………見せて、……ください。」
【譲治】「え? あ、あ、あ、………こ、こ、これさ…!」
 譲治は指輪を見せて欲しいと言われたのだと思い、慌てて指輪の箱を取り出す。…あれだけ練習したにもかかわらず、格好良くはできなかった。
 しかし、紗音はそれを見ていない。……すっと、まっすぐな眼差しに、うっすらの涙と笑みを浮かべて。………じっと譲治の瞳を、…いや、瞳の向こうに見えるものに目を凝らしていた…。
【紗音】「……私に、…………その未来を、…………見せてください。」
【譲治】「あ、……………、あぁ。……見せるよ。必ず。……約束する。………老後までじゃない。…死んだ後も。…僕らは魂になっても、ずっとずっと一緒にいる。」
 紗音は涙を擦り、指輪の箱を手に取る。中には、二人を祝福するに充分値するダイヤの指輪が納められていた。譲治は頭の中で何度も反復練習した台詞を口にする。
【譲治】「そ、……その指輪を、好きな指にはめて、それを返事にしてほしいんだ。えっと、つまり明日の朝までに……、」
【紗音】「……くす。」
 紗音は微笑むと、指輪を取り、……とても当り前な動作で、それを左手の薬指に通した。それは本当に、……とてもとても当り前の動作に見えて、譲治はしばらくの間、呆然としてしまっていた…。
【紗音】「これが、私のお返事です。…譲治さん。」
【譲治】「紗音……、いや、………紗代……………。」
【紗音】「……魂になっても、………ずっと、…………ずっと……、一緒です。………譲治さん。」
 神の祝福も、牧師の立会いも、何もない。でも、結ばれる二人が、宣言した。…二人の魂は今日ここに結ばれたのだ………。
廊下
【嘉音】「…………………姉さんは、…………馬鹿だ。」
【紗音】「……そうかな。」
【嘉音】「家具のくせに……。……家具の…くせに……!」
【紗音】「私、家具じゃないよ。もう。」
【嘉音】「……嘘だ!! どうして自分を騙すんだよ! 人間になんか絶対になれないって、知ってるくせに! 黄金郷へ行かなきゃ人間になれないって、知ってるくせに!! ……なのに、どうして黄金郷へ行ける約束を自分で反故に…!!」
【紗音】「そっか。指輪を受け取ったら、……ベアトリーチェさまとの約束が、なかったことになっちゃうんだったね。……くす、ごめんね。」
【嘉音】「…………後は、僕も姉さんも、譲治さまもお館様もみんなみんな、条件は同じだ。13人が生贄にされる。5人しか黄金郷に招かれない。……その1席を、自分で、……蹴るなんて……。」
【紗音】「おかしいね。……未練があるのは、嘉音くんの方みたいだね。」
【嘉音】「未練があるのは姉さんの方じゃないか! 婚約しちゃったんだろ?! 果たせない運命なのを知りながらッ!!」
【紗音】「うん。…ずっとずっと、永遠に一緒だよって、約束した。……だからね? その瞬間に、……私たちの永遠は、完成したの。例え、私たちが生贄になってしまうとしても、もう、完成してるの。だから、いいの。」
【紗音】「………未練があるのはむしろ嘉音くんの方。…私たちは家具なんでしょ? 私たちはどういう結果になろうとも解放される。…なら、黄金郷に行けるか行けないかなんて、どうでもいいことじゃない。……なのに嘉音くんは黄金郷へ行くことに固執してる。………どうしても人間になりたいんでしょ? …どうして?」
【嘉音】「人間になりたいからだよッ!! 家具はもう嫌だ!!」
【紗音】「どうして?」
【嘉音】「僕も、恋がしたかったんだッ…!!!」
 嘉音の両目から涙が零れる。…そして吼える。
【嘉音】「……お嬢様のことが、好きだった…!! そしてあの日のお嬢様の姿を見て、もっと好きになった…! そしてお嬢様も僕のことが好きだとわかって、すごく嬉しかった…!! でも僕は家具で、……お嬢様の気持ちを受け止めることはできなくてッ!!」
【紗音】「…それが勘違いだった。………私たちは家具かもしれない。人間以下かもしれない。…でも、恋をする資格がないわけじゃなかった。」
【嘉音】「添い遂げられぬ思いなら、ない方がましだって思った!! いつか自分も消え去る日が来て、それがきっとお嬢様を傷つけるなんて勝手に決め付けて、………違うんだッ!! 僕が怯えていただけなんだ!! 僕は、……永遠になれない恋なら、しない方がましだって、怯えてただけなんだッ!!」
【紗音】「……蝉は、生涯の内、数週間にも満たないわずかな期間で恋をして、消えていくんだって。………数週間で終わる恋だからと、恋をしない蝉はいないんじゃないかな。」
【嘉音】「ううぅうううぅううぅ!! うっうぅうううぅうぅうぅぅ!!」
 嘉音はまだ未練を口にしていたようだけれど、もう泣き声でごっちゃになってしまっていた…。
【嘉音】「……あの魔女が憎い…!! 僕に、…どうしてこんな気持ちを植えつけて…! あいつさえ、あいつさえ妙な悪戯をしなければ、僕はお嬢様のことなんか、気にならなかったのに…!!!」
【紗音】「…………ベアトリーチェさまは酷いね。…嘉音くんに、そうやって悔し泣きをさせるために、運命を悪戯した。………でも、魔女の思惑は多分、外れてる。…だって、」
 恋を知ることは生への未練ではなく。それこそが私たちの生きる旅の、辿り着くべきところなんだもの…。
薔薇庭園
 というわけだ、嘉音。せっかくの約束はこれで水泡だな。くっくくくくくくくくくく!
 さてさて。これにて全ての駒の条件は同じよ。駒は18! 13人が生贄に捧げられる! 生き残る5人は誰か?
 …………それとも。誰かがこの儀式を打ち壊してみせるか? 誰が!! どうやって?! ふっははははははっはははははははははははは!!
 これはチェスプロブレムではない。対等なゲームだ。妾だけが一方的に詰めるわけではない。そなたは妾の詰めから懸命に逃れ続け、引き分け無効試合に持ち込むことができる。まぁ、せいぜいそなたにできるのはそれを延々と繰り返すのが関の山よ。そしておそらく、それはそなたにとってそう難しいことではあるまい。
 しかし、そなたは永遠に続く無効試合に、やがて精神をすり減らし、やがては精神を殺す。その時にこそ、敗北を受け入れ妾に屈服することになるであろう!!
 対等なゲームと言った理由。……それは、妾にも敗北の条件を設けてあることだ。負けのないゲームほど退屈なものはないのでな?
 妾を負かす方法。それは、妾の肖像画に捧げられたあの碑文よ。
 あれこそは黄金郷の扉の開き方にして同時に儀式を打ち破る鍵でもある。妾は碑文に従い儀式を完遂する。そなたは碑文の謎を解き、儀式を打ち破り妾を滅ぼす…! 碑文に隠された謎を解き、妾が金蔵に与えし莫大なる黄金の在り処を暴いて見せよ!!
 此度のゲームはどういう結末を見せるのやら! 健闘を期待するぞ? 妾を楽しませてみせろよ、右代宮戦人あああああぁぁッ!!
礼拝堂
【夏妃】「……………………………。」
【蔵臼】「……………異論はない。…私と夏妃は認める。」
【夏妃】「………く……。…信じられないし、…信じたくないけれど…。……それが、……現実なのね…。」
【蔵臼】「…夏妃。言葉を少し選びなさい。………彼女は当家の最高の賓客なのだ。」
【秀吉】「…………わ、わしらも認める。…ぐぅの音も出ぇへん。」
【絵羽】「えぇ。…認めるわ。………一片の文句もない。まさか本当に……。………素直に、あなたに尊敬の念を覚えるわ。」
【楼座】「私もよ…。…………すごいわ。純粋に尊敬する。……だから認めざるを得ないわ。」
【留弗夫】「俺も認めるぜ…。………未だに信じられねぇ。…だが、………どうしようねぇ。悪魔を証明しちまった! あんたの勝ちだ…!」
【ベアト】「くっくっくっくっく…! 悪魔の証明は、そなたが好む証明不能への便利な言い訳だったが、……仇になったようだな?」
【留弗夫】「……苛めるなよ、魔女さま。………俺はもうあんたを認めてるぜ。降参だ。」
【霧江】「……………………………。」
【ベアト】「………霧江。まだ異論があるか…? 妾は全員一致しか好まぬ。お前ひとりが妾の存在を認めぬならば…、」
 魔女が不敵に笑うと、兄弟たちは焦りだす。…魔女を不快にさせることに怯えているのだ。霧江はうっすらと目を閉じ、…しばらくの間、沈黙を守ってから口を開いた。
【霧江】「…ごめんなさい。……降参よ。」
 霧江だけが、最後まで魔女に厳しい目を向けていた。……だが、それは真実を受け容れるのをほんのわずかな時間、拒否したに過ぎない。目の前にある現実は、存在は、何も否定できないのだ。もう悪魔は証明されてしまった…!
【霧江】「………私も、認めるわ。……あなたはベアトリーチェ。右代宮家の顧問錬金術師。…そして、偉大なる魔法の使い手。………………魔女であることを認めざるを得ない…!」
 礼拝堂での会話は幻想描写。人数が多いため惑わされやすいが、ここには犯人と共犯者と被害者しかいないので成立する。
 紗音は自分が碑文を解いたことを一同に明かし、テーブルの上に積んだインゴットをその証拠とした。その後、親族たちに正当な取り分を保証する等と言って乾杯する流れに持っていき、楼座以外を毒殺。
 7人のうち6人を殺すとなれば、他は夫婦なので必然的に楼座を残すことになる。

ハロウィン
10月5日(日)06時00分

金蔵の書斎
 ……いつも耳を満たすのは何の音か。雨の音か、滝の音か、それとも無線の砂嵐なのか。ならば血潮の音であってほしい。……まだこの体に血が巡り、私が生き永らえていることを教えてくれる音であってほしい…。
【金蔵】「…………………む…。……朝、なのか…。」
 カーテンの隙間から入る光は弱々しいが、夜が明けたことだけは教えてくれた。金蔵は、目覚めた時の姿勢のまま、…椅子に座り天上を見上げた姿勢のまま…、全身に血をゆっくりと巡らせて行く…。
 …時計を見ると早朝、6時ぴったり。……どれだけ疲れていようとも、どれだけ深く眠っていようとも、まるで砂時計で計ったかのようにぴたりとこの時間に目覚める。こんなことが自慢になるとは思っていないが、その程度のことができる内は、自分はまだまだ強健なのだと自分に言い聞かせていた。
【金蔵】「………朝を迎えた、ということは…。……………ふむ。……どうやら、最初の生贄は逃れたということらしい。……ルーレットの目が幸運だったのか、…我が努力の賜物なのか、区別の付かぬところが何とももどかしいが、それは言うまい。」
 金蔵は、書斎の扉の外側を見てみたい誘惑に少しだけ駆られた。ひょっとすると、最初の6人の生贄に自分を選ぼうとして、この扉を破ろうと悪足掻きした痕跡が見つけられるかもしれないと思ったからだ。
【金蔵】「…ふ。………人間とは安っぽい生き物だな。……人事を尽くして天命を待ちながら、幸運を得られた時には、それが単なる幸運ではなく、己の技量に拠るものだったと自惚れたくもなる。」
 だから、扉に惨めな痕跡があることを確かめたい。…それが人間というものだ。だから、金蔵は確かめない。人間だからしたくなることを、抑え付ける。それによって金蔵は、自分は人間を超えた存在に至ったのだという充足感に浸れるのだ…。
 人の欲を自覚し、戒める。人のしたいことに、抗う。……この偏屈かつ捻くれたセンスが、きっと彼に稀な博才を与え、右代宮家を一代にして復興させるという偉業を成し遂げさせたに違いない…。
【金蔵】「さて、ベアトリーチェ。お前が取った6つの駒は何なのか。……そして、次なる手はどうくるのか。…楽しませてもらうぞ。………私の守りは完璧だ。前回のような無様は晒さぬぞ。……ふ、……っふっふっふっふ。」
廊下
 使用人たちの朝は早い。カーテンを開け、朝食の準備をし、新しい一日で客人たちを迎えるための様々な準備をしなくてはならない。
 一番、大張り切りなのは郷田だった。親族会議の期間中は、特に料理人としての仕事に集中するように言われており、本来、使用人がこなさなければならないいくつかの仕事が特別に免除されていた。
 …見栄っ張りな郷田は、その辺りに優越感を特に感じるらしい。館内の準備を源次たちに任せ、厨房で朝食の準備に勤しむのだった。
 源次は、紗音と嘉音の三人で手分けして、様々な準備をこなしていく。
 紗音は、食堂へ向かい、ノックした。…昨年は、親族会議は未明にまで及んだ。今年の親族会議は、とうとう早朝にまで及んでも不思議はない。まだ中で会議が続いている可能性を考え、ノックしたのだった。だが反応はなかったので、おはようございますと口にしながら扉を開ける。
【紗音】「…おはようございます。……………いらっしゃいませんか。」
 部屋の空気は冷たく、だいぶ前に会議は終わっていたようだった。
 机の上には、彼らが飲んだのだろう、お茶の道具が集められ、片付けやすいようになっていた。
 お茶の片付けは使用人の仕事だ。だから、彼らが気を利かせ過ぎて片付けてしまうと、使用人の立つ瀬がなくなる。だから、こうしてもらえるだけでも本当に嬉しい気遣いだった。
 片付けようとテーブルに近付くと、メモ用紙のようなものが食器と一緒に残されているのに気が付いた。お茶の道具と一緒に置かれていたので、片付けに来た使用人に対し申し送ったメモだろうと自然に思い、紗音はそれを手に取る。
 そこには、要望でもなく、お茶の準備に対する感謝でもなく、ただ一言だけが書かれていた。紗音はきょとんと、それを読み上げる…。
【紗音】「…………礼拝堂。……………?」
ゲストハウス・楼座の客室
 何か小さな音がずっと聞こえ続けていた。それは本来ならば取るに足らないつまらない音。早く聞こえなくなればいい、そうすればまどろみに戻れるのにと、ぼんやり考えていた。
 …しかしいつまでも音は終わらない。ずっとずっと繰り返されている。あぁ、うるさい。誰なの? 扉をずっと叩き続けているのは。
 それに気付いた途端、目が覚めた。……誰かがノックしているのだ。気付けば、それはノックだけでなく声もだった。
【源次】「………楼座さま、…楼座さま。……おはようございます。」
【楼座】「ま、……待って。今、行きます。」
 それは源次の声だった。時計を見ると、まだ7時にもなっていない。
 ……客人を起こすには明らかに早すぎる時間だった。…それに値する何か良くないことでもあったのだろうか。その不吉な予感に、眠気がどんどん醒めてくるのを感じた。
 楼座にとって、源次は子どもの頃から馴染みのある使用人であったため、少し無防備に寝巻き姿のまま、扉を細く開けて応じた。
【源次】「おはようございます。早朝から申し訳ございません。」
【楼座】「……何かあったの?」
【源次】「はい…。………実は礼拝堂に…………、…………。」
 源次は楼座の耳元に口を寄せ、小声で何かを伝えた。楼座は、一度では何を言われているか理解できなかったらしく、何度か復唱してからようやく何かおかしなことが起きたらしいことを理解する。
 楼座は一度扉を閉め、すぐに着替えると源次を伴い、屋敷へ向かうのだった…。
礼拝堂
 礼拝堂について、説明がいる。これは屋敷の中にはなく、屋敷の裏からほんの少しだけ歩いた木立の中にあった。六軒島に屋敷が建てられたのと同時に建立されたもので、何度か外壁の補修を行ない、外見だけは新しそうに見えながらも、かなり古い建物であった。
 楼座と源次が共に雨の中を駆けていく。雨は昨夜から変わらず本格的な降りのままだった。
 やがて、薄い木立の向こうに礼拝堂が見えてくる…。
 外観を見るだけだったなら、若い恋人たちが挙式をしてみたくなるような、美しく清らかなものに感じられただろう。
 だが、この礼拝堂は金蔵にとってとても神聖なものだったらしく、楼座たち兄弟はみだりに近付くなと厳しく言われてきた。だから、この歳になり、どのような理由をつけたにしろ、礼拝堂に近付くことにある種の罪悪感と、父親に頬を打たれるほどに怒られるに違いないという恐怖感を感じるのだった…。
 礼拝堂の入り口の前には、使用人たちの人影があった。郷田に紗音に嘉音。……早番の使用人たちが全て集まっていることになる。
 楼座は源次に先ほど、どういう事態になっているのか口頭では聞かされていた。しかし、…実際に目にしなければ、とても理解できなかった…。おそらく、集まっている使用人たちもみんなそうなのだ。……自分の目で見なければ、何が起こっているのか、理解できないのだ。
 礼拝堂の入り口の扉に、……大きく大きく、……血を思わせるネバついた不気味な塗料のようなもので、…不気味な魔法陣のようなものが描かれていたからだ。
【楼座】「な、………何よ、……これ…………。いつ書かれたの?!」
 使用人たちは顔を見合わせる。最初に口を開いたのは郷田だった。
【郷田】「…も、…申し訳ございません。普段はここへは立ち入りませんもので、いつ書かれたのかはわかりません。」
【楼座】「じゃあ、最初に見つけたのは誰?!」
【紗音】「はッ、…はい、私です。……食堂へお茶の道具の片付けに行きましたら、……礼拝堂と書かれたメモがあったもので…。」
 紗音が震える手でメモを差し出す。
【楼座】「……誰の字? 兄さんや姉さんの字ではないわね。…それで、あなたはここへ来て、これを見つけたのね。」
【紗音】「はい……。」
【嘉音】「…楼座さま、………これを。」
【楼座】「何? ……………ハッピーハロウィン、フォー、……えッ?!」
 嘉音が、不気味な魔法陣の下に書かれた一行の英文を指し示す。指摘されるまで、魔法陣の図形の一部だと思い込んでしまっていて気付かなかった。
 そしてそこには英語で、“Happy_HALLOWEEN_for_MARIA.”と記されていた。
 ——楽しいハロウィンを。真里亞へ。不気味な魔法陣。真里亞へ。ハッピーハロウィン。
 昨日、真里亞にハッピーハロウィンという言葉を掛けた唯一の人物……。記号が合致する。……黄金の魔女、ベアトリーチェ…!
【楼座】「ま、真里亞は?! あの子、いとこたちと一緒に寝てるはずよね? 確認した?!」
【源次】「……申し訳ございません。真里亞さまのお名前が書かれていたことには、今気付きましたもので。…まだ確認しておりません。至急、」
【楼座】「何やってんのよッ!! 私は真里亞の様子を見てきます! それから、蔵臼兄さんたちにも知らせて。以後の対応の指示を受けて!」
 …楼座はそこまで言ってから、ようやく違和感に気付く。
 この親族会議における自分の序列は、4兄弟の末席だ。……このような異常事態が起こって、どうして自分だけが呼び出されて、他の兄弟たちは呼び出されないのか。…仮に真里亞の名があったとしても。
【楼座】「まさか、……え? ……え?!」
【郷田】「……は、はい。旦那様にご連絡申し上げようとしたのですが、…お姿が見当たらず…。」
【紗音】「奥様もお部屋におられません。…シーツの様子からすると、昨夜はベッドに戻られていないのかもしれません。」
 楼座は自分の背中を、ざらりざらりと、不気味なものが這い上がってくるのを感じる…。
【楼座】「………れ、…礼拝堂の中は確認した?」
【嘉音】「いえ、まだです。確認しようとはしたのですが…。」
【源次】「……実は、礼拝堂の鍵は特別で、マスターキーに対応しておりません。一本だけある鍵でしか開けられないのですが、……その鍵がキーボックスから紛失しているのです。」
 不気味な魔法陣の描かれた扉になど、できるものなら近付きたくない。楼座は意を決して近付き、そのノブを押したり引いたりしてみる。…頑丈な施錠の手応えを感じるだけだった。
【嘉音】「入れる窓などがないか、探しては見たのですが…。もし中を確認するのでしたら、窓を破らなければならないかと思います…。いかがいたしましょう。」
【楼座】「…そんな許可、私に出せるわけがないわ。お父様の大切な礼拝堂なのよ、そんなことできないわよ。…………………。」
 その時、楼座の脳裏に昨日の出来事が蘇る…。……そうだ、……あの魔女は薔薇庭園で出会った時、…真里亞に、封筒を渡していなかったっけ。
 そうだ、間違いない、渡していた。開けようとする真里亞に、まだ開けるなと言ってから、“それを開ける時はすぐ訪れる”と、確かに言っていた…。
 楼座は確信する。……間違いない。……真里亞に渡された、あの封筒…………。
 楼座はゲストハウスへ駆けて戻ると、足音を忍ばせながらいとこ部屋に近付き、そっと扉を開け、中をうかがう…。
 中からは、若者らしい元気のいいいびきが聞こえてきた。子どもたちは4人いる。真里亞もいる。…すやすやと眠っていた。
 ほっと胸を撫で下ろしてから、忍び足で室内に入る。……目指すのは、ソファーの上に置かれている真里亞の手提げだった。
 真里亞は、自分の宝物をいつも持ち歩きたがる。…母親が常に化粧道具を肌身離さず持ち歩いていることの模倣だろう。もちろん、単なる物真似だから、その中身はがらくたばかりだ。
 真里亞の場合は、オカルトを想起させる不気味な小物や、それが記された自由帳などだ。……こんな女の子らしくないものを、楼座は持ち歩いて欲しいなどと思ったことは一度もない。しかし、無理にやめさせようとして、ものすごい大喧嘩をして以来、それには触れないようにしていた。
【楼座】「………………………、…あった。………これね………。」
 黄金の鷲の紋章の入った洋形封筒…。取り出してみると、中に重たい棒状の物が入っているのがわかった。…重さと手触りでわかる。……間違いない。これは、……鍵だ。
 楼座は、一度振り返り、真里亞が熟睡しているのを確認した後、一息に封筒を破き、中身を手の平の上に零した。
 ……それは、古く凝った意匠の施された鍵だった…。楼座はその鍵を握り締め、駆け出していく。
 …その音に、戦人が気付いたようだが、むにゃむにゃ言いながら寝返りをうつと、再びいびきをかき始めるのだった…。
【楼座】「……源次さん。……この鍵、……ひょっとして礼拝堂の鍵ということは…?」
【源次】「これをどこで……。…はい、これが礼拝堂の鍵です。」
 楼座は再び、不気味な魔法陣に近付き、……鍵穴に鍵を入れる。……硬い手応え。しばらくの間、抵抗した後、…がちゃりという音と共にその抵抗をやめた。
 そして、耳障りな音で軋みながら、ゆっくりとゆっくりとその扉を開けていく………。
【楼座】「……………誰か、……いるの…………!」
 その声は広大な室内に反響する。…もちろん応えるものなどない。
 礼拝堂は天井が高く、空気が冷え切っている。…そして、こんなにも薄気味の悪い雨を降らせる日にあっても、どこか神々しさを感じさせるのだった…。楼座に続き、使用人たちもおっかなびっくりと後に続いた。
【嘉音】「……楼座さま、あれを。」
 嘉音がすぐにそれに気付き、指差す。
 ……そこは、祭壇。本来、牧師が神の愛を説くべき場所に、あってはならないテーブルが置かれていた。
 それの第一印象は、食卓だった。…現に、そのテーブルの上には、華やかな皿や器が置かれ、まるで子どものお誕生会か何かを連想させた。
 見れば、周りも、カボチャ飾りや、黒や橙のリボンで飾られている。多分、それは、……ハロウィンの飾りつけなのだ。
 そして、そのテーブルには着席者たちがいた。3人ずつがそれぞれ向かい合うように椅子に座っている。一目でわかる。蔵臼夫婦と絵羽夫婦、そして留弗夫夫婦だった。だが、それが間違いなくそうかと言われたら、もっと近付いて確認しなくてはならなかった。
 ……なぜなら、まるで人形のような気配だったからだ。扉を開き、どやどやと入り込み、誰かいないかと声を掛けた。…にもかかわらず、何の反応も示さない。…仮に無視を決め込んでいたとしても、普通なら少しは何かの反応を示す。
 ……それすらもないのだ。だから第一印象は、彼らによく似た人形が座らせられていると、そう感じたのだ…。
 ……今や、楼座だけではない。……紗音も嘉音も、そして郷田も。…湧き上がる不気味な感情に心臓が鷲掴みにされるような気持ちと必死に戦っていた。
【楼座】「……兄さん…? ………姉さん………?」
 祭壇に歩み寄りながら、なおも声を掛けるが、それでも彼らが反応を返すことはなかった。
 ……あぁ、…もう楼座は自分で認めている。……彼らが人形ではなく、彼らそのものであることを認めている……!
【紗音】「…………これは………。」
【嘉音】「………………。」
 テーブルの上の様子がよくわかるくらいにまで距離が近付く。それは、第一印象の通り、子どものお誕生会かパーティを思わせるような、可愛らしい宴に見えた。
 お皿に盛り付けられたお菓子や、可愛らしい飲み物の器。カボチャ型に切り抜いた飾り等々…。…それらはハロウィン風に飾られていて、…こんな時に的外れな想像だが…、きっと真里亞が見たら喜ぶに違いないと思った。
 そんな、テーブルを前に、彼らは着席し、眠っているように見えた……。楽しそうなハロウィンの小パーティの最中に、…時間を止めてしまったかのような、不思議な光景…。
【楼座】「……兄さんたち……。……寝てるの…? ……………?」
 彼らにさらに近付くと、……床にたくさんのお菓子が散らばっているのがわかった。それはとてもファンシーな包み紙に包んだ飴玉や、クッキー、ラムネにチョコレート…。
 そして、それらはブラックベリーとクランベリーのジャムいっぱいの絨毯の上にばら撒かれていた…。
【郷田】「……わ、うわあああああぁああああああああぁッ?!」
 楼座たちは、………ようやく状況を理解する……。それは、ハロウィンのパーティ。この世ならぬ者たちの宴…!
 蔵臼、夏妃、絵羽、秀吉、留弗夫、霧江の6人は、椅子に座り、……眠るように死んでいたのだ。どうして眠っているのではなく、死んでいると言い切れるのか? それは、………彼らが、……胸元から腹にかけて、………た、…縦に、………裂かれて………!
【紗音】「だ、……旦那様…………!!
 ひぃいいぃぃぃぃぃ……!」
【嘉音】「…………………何て、……惨い…ッ。」
 彼ら6人はハロウィンのパーティに着席し、全員が腹を縦に裂かれて、…殺されていた。床一杯のジャムは、きっと彼らが食べきれなくて…、お腹から溢れ出したもの…?
 ……違う!! 床一杯に彼らの腹中の中身がぶちまけられていた!! それだけじゃない。
 彼らのそのお腹から、……まるで、……まるで! 溢れ出すように!! お、…お菓子が!
 飴玉やクッキー、ラムネやチョコレートが、……溢れ出して、血まみれになって、床にばら撒かれているのだ!! どんなことをしたらこういうことに?! まるで、お腹の中にお菓子がいっぱいに膨れ上がって、……お腹を裂いたら溢れ出したみたいじゃないかッ!!
 楼座は子どもの頃、自分の誕生会に出てきた七面鳥のびっくり料理を思い出す。ナイフを入れて裂いたら、……中から大好物の、だけれどもそんなことは全然聞いてなかったから、…真っ赤な、真っ赤な、…ケチャップのオムライスが血まみれの蛆虫のように溢れ出して、ぶわあぼろぼろびたびたぐちゃぐちゃべしゃりべちゃり!!
【楼座】「うおぉええええぇええええぇえええええッ!! ぇええぇええああああああぁああああぁ!!」
 幼少期のトラウマが蘇る。楼座の胃の中で怪物が暴れ狂い、熱い酸を吹き上げるのを感じた。…そして堪らず、床にそれを吐き出す。
 空腹の胃袋は胃液しか吐き出さなかった。もう目の前の光景は楽しいハロウィンパーティなどでは断じてない…! 6人の夫婦が鎮座し、腹を縦に抉じ開けられ、ぎゅぃいいぃぐぱああと抉じ開けられて。そこにお菓子をたくさんたくさん詰め込まれて、ぐちゃぐちゃぷぎゅるぶぎゅ。
 血と内臓とお菓子を床に溢れ出した、……血まみれでべとべとぐちゃぐちゃ、甘いお菓子が指と指に張り付いてねとねとした、あぁでも臓物まみれでぐちゃぐちゃり! 今、踏みつけたものは何、飴でもクッキーでもラムネでもチョコレートでもない踏み応え!!
 あぁあああぁ私は恐ろしくて何を踏んづけたのか足の裏を見ることもできないッ!! あああぁあわあああきぃいやぁああああああああぁあああああッ!!! …何てッ、何て凄惨なハロウィンパーティ…!!!
 それは、遠目に見たならとても美しく幻想的で、楽しそう。そして、間近で見たならとても恐ろしくおぞましく、なのにどこか美しくて…!!
【楼座】「ぁああああああああああああああぁあああああぁあああああッ!!」
 楼座の混乱する思考は、悲鳴とも雄叫びともつかない滅茶苦茶な大声を、喉から懸命にひねり出そうとするのだった…。
【源次】「……………旦那様…………。」
【紗音】「……こんなのって、…ひどい……、ひどい………。」
【郷田】「……きゅ、救急車…、……警察………!」
【楼座】「そ、……そうよ、警察…。警察ッ、警察警察警察警察ッ!!」
 郷田の口から、警察という現実的な単語が出なかったら、楼座たちは未だにこの悪夢のようなパーティから抜け出せなかっただろう。…しかしそれは、警察なら何とかしてくれるだろうというまでに至る発想ではない。
 警察警察と、その言葉を口にしなければ、……この悪魔のパーティにもうひとつ席が設けられて自分に与えられそうで…!!
 自分のお腹が気持ち悪く内側から膨れていくような気がする!! ごろごろころころ…、きっとそれはお腹の中にお菓子が溢れ出そうとしていてッ!! 楼座は再び嘔吐感に苛まれ胃液を床に吐き出す。そして探した。そこに飴玉が混じってないかどうかを!!
【楼座】「……はぁ、………はぁ、……はぁ……!! ぜぇ、……はぁ…。……と、……とにかく!! げほッ、げほ!!」
 楼座はもう一度咳き込み、喉を焼き続ける胃酸を乱暴に床に吐き捨てた。全身がいつの間にか汚らわしい汗でびっしょりになっているのがわかる…。
【楼座】「げ、…源次さんと紗音ちゃんはお父様に連絡して指示を仰いでちょうだい。郷田さんは嘉音くんと一緒に行って警察に電話を。…あと、南條先生に来てもらって…。」
 南條に来てもらってなんだというのか。手当てなどとっくの昔に手遅れだというのに……!
 使用人たちは指示を受け、表へ駆け出していく。
 楼座はそれを見届けてから、……………苦楽を共にしてきた兄弟とその伴侶たちの、……悲惨この上ないのに、…なぜか美しいと形容してしまいたくなる、幻想的な死を、もう一度まじまじと目にするのだった………。
客間
【戦人】「…いねぇな。どこに行っちまったんだろうな。」
【朱志香】「使用人室も厨房も空っぽだぜ。…一体どうしちまったってんだ?」
【真里亞】「うーうーうー!! ママー!! ママーどこー!! 真里亞のお手紙! 真里亞がベアトからもらったお手紙! 返して! 返してぇえー!! わぅあうあうー!!」
【譲治】「弱ったね。…戦人くん、本当に楼座叔母さんだったのかい?」
【戦人】「……まぁ、俺も寝惚けてたから自信はねぇんだが。明け方に楼座叔母さんが入ってきて、真里亞の手提げカバンを漁ってるような気がしたんだよ。」
【戦人】「…俺はてっきり、真里亞の手提げに歯磨きのチューブでも入ってるんじゃないかなんて思って寝惚けてて。」
【朱志香】「何で歯磨きのチューブが真里亞の手提げに入ってるんだよ。寝惚けて夢でも見たに決まってんぜ。」
 戦人は楼座がいとこ部屋に入ってきたのをぼんやり覚えていた。そして、一番に起きた真里亞が、大事にしまっていた封筒が破かれていると言って、大騒ぎを始めた。…それで、楼座がやってきて開封したのではないかということになったのだ。
【朱志香】「……黄金の魔女さまの封筒か。中に何が入ってたんだろう。」
【譲治】「わからないね。…でも、あの封筒はお祖父さまが親書に使う、右代宮家の家紋の入ったものだった。………親族会議と無関係なものが入っていたとは考え難いね。」
 誰にも触らせなかったが、真里亞は昨日、戦人たちに封筒をさんざん自慢していた。…だから彼らはそれをよく記憶していた。
【真里亞】「うーうーうー!! ママ、返してっ! ママ、返してっ!! うーうーうー! わうううううううう!!」
【戦人】「……譲治の兄貴の言う通りなら、相当重要なものらしいが。…しかし、そんな大事なものを、どうして魔女さまは真里亞に渡したんだろうな? …さっぱりだぜ。」
 清々しい朝の雰囲気は、時折聞こえる雷鳴にすっかり打ち払われてしまった。…無理もない。彼らが目を覚ましてから、自分たち以外の誰とも出会っていない。まるで、自分たちを残して屋敷がもぬけの殻になってしまったような気持ちなのだから。
【朱志香】「……おーい! 誰かいないかー! 返事してくれよー!」
 朱志香が廊下で大声を出すと、ようやく返事が返ってきた。玄関からだ。
【南條】「聞こえますともー。…何かありましたかー。」
【譲治】「南條先生だ。…よかった。この島から、僕たち以外が消えてしまったわけではないようだよ。」
【朱志香】「南條先生、おはようございます。…あの、すみませんが、うちの親たちとかどこに行ったか知りませんか…?」
【南條】「はて。…私も今、起きてこちらに来たばかりですからな。わかりかねますが、さて。」
 無理もない。南條も自分たちと同じ、客なのだ。起床し、朝食までの時間を客間で過ごそうとやってきたばかりなのだ。
【真里亞】「うーうーうー!! 南條先生、ママが取った、ママが真里亞のお手紙取ったの!! 返して返して、うーうーうー!!!」
 真里亞が泣きじゃくりながら南條の恰幅の良いお腹に顔を埋めながら泣く。…南條は、早朝から一体何が起こっているのかと困惑する他なかった。
【戦人】「………ん。誰か駆けてくるぜ。朱志香! 誰か来るぞ!」
 廊下の向こうから、慌しく人が駆けてくる気配を感じた。見れば、それは郷田と嘉音だった。
 ……屋敷の中で走るなど、使用人としてははしたないはず。しかし、今の戦人たちはそれを疑問には思わなかった。泣きじゃくる真里亞を持て余していたため、誰にでもいいから楼座の行き先を早く聞きたかったのだ。
 しかし、二人の使用人は手を振る朱志香など眼中にないかのようだった。郷田は使用人室に飛び込み、嘉音は南條の姿を認めると、一礼してから早足に近付き、耳元で何かを小声で告げた。
【南條】「……………何ですって? 楼座さんが。」
【嘉音】「はい。ご案内いたしますので、どうかご同行をお願いいたします。」
【南條】「わかりました…。」
【嘉音】「こちらへ。」
 それだけのやり取りをしてから、嘉音はようやく朱志香に気付き、頭を下げるのだった。…しかし落ち着きはない。
 南條を伴い、やって来た廊下を駆け戻っていく。
 その慌しい様子に、戦人たちはやはり何か良くないことが起こっていることを察する。
 使用人室の開け放たれた扉からは、郷田の様子が見えた。
 …受話器を持ちながら、フックをがしゃがしゃと乱暴にいじっている。その様子から、病院にしろ警察にしろ、とにかく只ならぬ緊急事態が起きて電話をしようとしていることを理解する。
【戦人】「行ってみようぜ…!」
【譲治】「うん…!」
【真里亞】「ママー、返してー!! 真里亞の手紙返してー!! それは黄金郷への招待状なのー!!」
 何かはわからないが、…何かが起こっている。戦人たちは、嘉音と南條の後を追い掛けるのだった…。
 あぁ……、そして俺たちは理解する。嘉音くんは南條先生を呼びはしたが、俺たちは呼ばなかった。…だから付いていってはいけなかったんだ。時計を持ったウサギを追いかけたアリスは、余計な好奇心を後悔したことはなかったのだろうか……。
礼拝堂
【楼座】「駄目よ、入っちゃ駄目!! 見ちゃ駄目!! 朱志香ちゃん! 駄目!!」
【朱志香】「ひ、………ぃ、…いやあああああああああああぁあああああぁああぁッ!!!」
【譲治】「母さん、父さんッ!! 何が、……何があったのッ!! うううううううぅうううぅ!!」
【戦人】「……何だよこりゃあ…。……趣味が悪ぃにも程があるじゃねぇかよ…。命を奪うならそれで充分事足りただろうがよ…。……何だよこりゃあ!! わざわざ殺した後に椅子に座らせて腹ぁ裂いて臓物引っ張り出して!! 菓子をわざわざ腹ん中に詰め込んだってのかよッ!! 何だって、……何だってそんな悪趣味なことをしやがるんだよ!! 畜生ォ畜生ォ! やってくれやがるぜ最高だよ最高だよッ!! うおおおおおおおおぉおおおぉ!!」
【南條】「………皆さんは外へ出られた方がいい…! こんな姿を、皆さんに見せたいなどと彼らが思うわけがありません…。」
 南條は子どもたちに外へ出るように促すが、誰も耳を貸しはしなかった。
【南條】「楼座さん、皆さんに言って下さい。こんなもの見続けては…毒になる…!」
【楼座】「………………。」
 楼座は自分の軽率さを後悔する。……やがて子どもたちがここへやって来ることは想像できたはず。…呆けていないで、さっさと施錠するべきだったのだ。
 だから子どもたちは来てしまった。見てしまった…! 彼らはきっと今この瞬間、自分の幼少期に見たあのグロテスクなびっくり料理よりも、はるかに酷いモノを見て眼に焼き付けてしまっているに違いない…。
 惨状に呆然とし、感情を忘れてしまったかのような真里亞を抱きしめながら、楼座は彼らとその両親のためにぼろぼろと涙を零すのだった。4人の泣き声と呻きが、悲しみが、…神の愛を知るべき場所で、いつまでも木霊し続ける……。
【戦人】「クソ野郎がッ!! またかよ、またこんな殺人をッ!! しかも今度もやたらと凝った、最高にふざけた殺し方をしやがってッ!!」
【ベアト】「くっくくくくくくくく。妾はそんな嘆きより感謝の言葉が聞きたかったぞ?」
【戦人】「感謝ッ!! 感謝と言ったか、このクソババア?! てめぇ、耳がイカレてやがるってんなら、俺が両の耳を引き裂いてよォく聞こえるようにしてやるぜッ!! 何で俺がこの最高にイカレた殺し方に、ありがとうございますベアトリーチェさまぁなんて言わなければならねぇんだ、ブッ殺してやるッ!!!」
【ベアト】「前回のゲームで。お前は自分の親の死に顔が見れないと嘆いたな? だから残したぞ。しっかり残したッ!!よく拝んでおけ、間違いなく父親たちが殺されたことを!!」
【戦人】「そ……ぅかよ、そいつぁサービス満点だぜ、気に入った!! 俺はてめぇの息の根を止めたら顔面耕してやろうと誓ってたが、そいつは取り消してやるぜ、てめぇのハラワタを引きずり出してやるッ!!!」
【ベアト】「感情に任せて思考を止めるな。すでに妾のゲームは始まっておるのだぞ? くっくっくくくく。妾は今回は綺麗に死体を残すことに決めた。」
【ベアト】「なぜだかわかるか? 前回のゲームでそなたが妾の存在を否定する時、こう考えて否定したであろう。それは、
顔面が潰され、遺体の身元が確認できない” “だから身代わりの死体を用意してアリバイを作った可能性が否定できない” “その可能性が排除できない限り、人間犯人説は維持できる”!!」
【戦人】「何だとぉおおぉッ……!!」
【ベアト】「くっくくくくくくきききききききききききききききききき!! さぁ戦人、南條に検死を任せてよいのか? ミステリーの古典では検死の医者がグルというのが伝統なのだろう?」
【ベアト】「なら南條に検死を任せるな、そなたが自らするが良い。間違いなく、6人の死体が当人で、死んだふりなどでなく、本当の本当に死んでいることを充分に確認するがいいッ!!」
【ベアト】「お前の父親が、母親が、腹を裂かれて臓物を引きずり出されて殺されていることを、腹に手を入れてその手触りで確認するがいいッ!!! くっはははははははははははははははははははは、きーっはっはっははははははははははははははははッ!!」
【戦人】「泣かねぇッ!!! 畜生ォ畜生ォ、…泣かねぇぞ俺は…!!」
 突然、戦人が叫ぶ。
 彼はまだ涙を零し続けていたが、自らにそれを女々しいと叱り付けるかのように、両手で顔面を力強く何度か叩いた。それでもまだ涙は止まらない。……しかし、両の目に熱い炎が点るのがわかった。
【戦人】「これだけの上等を決めやがった野郎に、借りはがっちり返させていただくぜッ!! なら泣く時じゃねぇ、自分のすべきことを考えろ!! あぁ、駄目だぜ、全然駄目だ!! 涙を流す暇があったら考えろ! 涙腺なんか弛ませる時じゃねぇッ!!」
 それは、純粋な怒りというよりは、悲しみを塗り潰すための逃避的な怒りだったかもしれない。……しかし、悲しみに押し潰されていた譲治や朱志香に、わずかの勇気を与える。
【譲治】「……そうだね。…僕たちが泣いても、……起こってしまった現実は、…変わらない。」
【朱志香】「くそ…、くそくそくそ、……くそくそくそッ!! じゃあどうすりゃいいんだ?! 私は、…父さんと母さんのために、何をすればいいんだよッ!!」
【郷田】「……楼座さま…。戻りました…。」
【楼座】「郷田さん、警察はどうでしたか。対応の指示は? いつ頃来られそうだと言っていましたか?」
【郷田】「…それが、……電話が故障のようでして…。非常用の無線機も試しては見たのですが、…その、天候のせいでしょうか、こちらも通じず…。」
【楼座】「何ですって…! じゃあ、警察に連絡がつかないということなの?!」
【朱志香】「あいつだッ! あいつが電話線とかに細工して、警察に電話ができないようにしたんだ!!」
 電話の故障を聞き、朱志香はすぐにそれを謎の来客の仕業だと断定する。その目は泣き腫らして真っ赤で、そして怒りでさらに真っ赤に血走っていた。
【戦人】「…あぁ、もう議論の余地なんかねぇぜ?! 全てがわかってる、そうだとわかる! 父さんと母さんを殺したのは誰だ?!」
【朱志香】「決まっているぜ、あいつだッ!! 昨日来たとかいう魔女さまに決まってるッ!!! 襟首、捻り上げてやるぜッ!! 畜生畜生畜生ォオオオ!!」
【楼座】「朱志香ちゃん…! お待ちなさい! 郷田さん、嘉音くん、行ってッ!」
【嘉音】「は、はい…!」
【郷田】「お嬢様、お待ちを…ッ!!」
 やり場のない悲しみを怒りで塗り潰し、感情を破裂させた朱志香は表へ駆け出していく。…短絡的に考えるならば、昨日訪れた謎の来客、ベアトリーチェが怪しいのかもしれない。しかし彼女が犯人であるとする証拠は現時点では何もない。
 …この瞬間においては、彼女は単なる客人のひとりでしかないのだ。だから楼座は大人の判断から、朱志香の短絡的な暴走を止めさせなければならなかった。すぐにそれを郷田も嘉音も理解し、その背中を追った。
【譲治】「……誰にも招かれなかった客人、ベアトリーチェが犯人なんだろうか…?」
【戦人】「朱志香の気持ちもわかる。…そう思い込みたい気持ちは俺にもある。誰でもいいから、犯人ってことにして横っ面をぶっ飛ばしてやりたい気持ちがある!! ……だがその前に、はっきりと理解する必要がある。…ベアトリーチェってのは何者なんだ。俺は顔すら見てねぇぜ!!」
【真里亞】「……きひひひひひひひひひひひひひひひ。顔ならお屋敷に大きな肖像画で飾られてたよ。あれだけ見てまだ覚えられないのかな。きひひひひひ。」
【戦人】「…何だよ真里亞。…こんな状況で何がおかしいよッ?!」
【真里亞】「ベアトリーチェは魔女なんだよ。そして、黄金郷の扉を開くための儀式がいよいよ始まったの。この6人はその生贄なんだよ。……きひひひひひひひひひひひひひひひ! さぁさ始まるよ、魔女の宴が。今宵はハロウィン、魔女たちが今こそ祝い集う。きーっひっひっひっひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!!」
【楼座】「真里亞、その気持ち悪い声で笑うのをやめなさいっていつも言ってるでしょッ!」
 楼座が真里亞の頬を打ちのめす乾いた音が、天井の高い礼拝堂内に残響するのだった…。
 何だか、昨日の雨が降り出してから。いや、…この島が台風に包まれてから何かがおかしくなってしまった気がする。俺は晴れている内に六軒島を訪れ、朝が早かったので眠くなり昼寝をした。
 ……起きた時にはもう雨が降り出していた。そして起きた時からだ。いつの間にか、黄金の魔女ベアトリーチェを名乗る謎の客人が来ていて、何だかおかしな世界に少しずつ傾いていた気がする。俺が昼寝している間に何があったってんだ? その間に、この島はこの世の常識の通用しない異世界へ切り取られちまったってのか…?!
 ベアトリーチェというのは何者なんだ。昨日の晩餐で親父たちが騒いでいたように、遺産相続問題に絡もうとする未知の人物なのか。……それとも真里亞がのたまうように、黄金伝説の魔女さまが犯人だってのかよ?!
 朱志香が短気を起こすまでもなく、この状況下ではその来客が一番怪しいだろう。しかし、それで決め付けちゃ駄目だ。あぁ駄目だ駄目だ、全然駄目だぜ…!!
 俺はもう一度顔面を両手でぴしゃりと叩き付け、加熱した脳みそを冷やした。焼け石に水かもしれないとしても。
【譲治】「……これは、………お祖父さまの封筒。」
 譲治の兄貴が、テーブル上に飾るように盛り付けられた菓子皿の上に、右代宮家の紋章を箔押しした洋形封筒が置かれているのを見つける。そしてそれは未開封だった。
【戦人】「ってことは、……それは俺たち宛てってことじゃねぇのか。親父たちが読んだものだったなら開封されてるはずだぜ。」
 昨夜のうちに楼座は買収されており、加えて郷田も協力者となっている。死体発見までの経緯は丸ごと幻想描写。
 楼座が受け取った封筒。昨夜開封されなかったため、“残されし者たちへ”と書き加えてここに残した。
【譲治】「……その推理は正解のようだよ。……書いてある。“残されし者たちへ”って書いてあるよ。」
【楼座】「それは、犯人が残した手紙なの…?! な、中身は…?」
【戦人】「兄貴、開けようぜ…!」
 譲治の兄貴は無言で頷いた後、それを開封する。……中から折り畳まれた便箋が出てくる。
【譲治】「………読むよ。………六軒島へようこそ、右代宮家の皆様方。私は、金蔵さまにお仕えしております、当家顧問錬金術師のベアトリーチェと申します…。」
 それは実にふざけた手紙だった。自分のことを顧問錬金術師と名乗ったベアトリーチェは、祖父さまに貸した黄金を利子付きで回収すると宣言していた。その利子とは、祖父さまが生み出したモノ、全て。
 この惨劇を目の当たりにしてこの一文を読み上げたなら、それは祖父さまが築き上げた財産全てだけを指したりはしない。……文字通りのこと。祖父さまが生み出したモノ、……つまり、…祖父さまの子孫たちも全てベアトリーチェの利子に含まれることになる!
【戦人】「ふざけやがってッ!! 何てめちゃくちゃな契約だ! 黄金の利子は命だってのかよ?! そんなのまるで悪魔の契約じゃねぇかよ! それで魔女気取りってわけかッ?! はッ、笑わせやがるぜ!!」
【譲治】「……特別条項。………ただし、隠された契約の黄金を暴いた者が現れた時、ベアトリーチェはこの権利を全て永遠に放棄しなければならない。」
【譲治】「………ふむふむ……。……黄金の隠し場所については、すでに金蔵さまが私の肖像画の下に碑文にて公示されております…。
……つまりこういうことだね。もし、この殺人が利子の回収行為だというなら、それを止める条件として、お祖父さまに与えた隠し黄金を探し出してみろと、…こう言ってるんだよ。そして、その秘密は、例の肖像画の碑文に隠されているとも言ってる。」
【戦人】「つまり、……こいつぁ魔女さまの挑戦状ってわけか? 黄金の隠し場所を記した暗号文を解けるものなら解いてみろと! そしてそれができなきゃ、利子の回収をこの後も着々と進めていきますとそう言ってやがるわけか。」
【戦人】「ブッ殺してやるッ、上等だぁッ!!!」
【譲治】「…ば、戦人くん! これ……、これ!!」
 お菓子がいっぱいのテーブルだったから、…俺たちはそれが堂々とあったにもかかわらず、それをお菓子だと思い込んでいた。……だってほら、こういうのはよくあるじゃないか。
 ……ほら、黄金のインゴットを模した箱に入ったチョコレートとか…!
【戦人】「こ、……こりゃあ、お菓子の箱じゃねぇぞ…。ホンモノだ…! ……こりゃ、本物の金塊だ…ッ!!」
【譲治】「…片翼の鷲の紋章が刻印されてる…。…前に母さんが話してたのを聞いた。……これはお祖父さまの黄金伝説の金塊だよ…!!」
 ひとつ10kgも重さがある黄金のインゴットが、…何と三つも、テーブルの真ん中に積み上げられていた! そこはお誕生会だったならケーキが置かれているような場所だ。…つまり、紛れもなくこいつは、親族会議って名のお誕生会のバースデーケーキ!
【譲治】「これが本当に純度フォーナインのインゴットだったならっ…。……ん、ごくり。ろ、6000万円くらいの価値はある!」
【戦人】「馬鹿野郎ぉおおおぉッ!!! 安過ぎるッ!!! 俺たちの親が6人も殺されて、そこに積まれた黄金がたったの6000万円だと?! 馬鹿にするんじゃねぇえええぇええぇッ!!!」
【真里亞】「……きひひひひひひひひひひひひひひひ。…さぁ始まったね、ベアトリーチェ。……どうせこの謎は誰にも解けないよ。だから絶対にベアトの勝ち。」
【真里亞】「……早く黄金郷への扉を開いて。そして真里亞を連れてって。…きひひひひひひひひひひひひひ!」

朱志香と嘉音
10月5日(日)06時43分

廊下
【嘉音】「お嬢様、どうか気をお静め下さい…!」
【郷田】「誰が犯人かはまだわかりませんぞ! それにベアトリーチェさまは、お館様の大切な賓客です…!」
【朱志香】「だから何だってんだッ!! 本人の胸倉、捻り上げてやれば白状するに決まってるぜ!! 目を見ればわかるんだよッ!! 私が見破ってやる!! 何が魔女だベアトリーチェだッ!! バケの皮を剥いでやるッ!!」
 朱志香は決して足を止めなかった。郷田と嘉音は早足に追いながら懸命に説得を続けるが、朱志香は決して耳を貸そうとはしなかった。
 やがて、“魔女の貴賓室”が見えてくる。この貴賓室は、決して使われることのない開かずの間だった。…どのような来客であっても、金蔵はこの部屋に通さなかったのだ。……なのに、使用人たちには常にこの部屋を掃除させ、いつでも使用できるようにさせていた。
 だからこの部屋を使用人たちは、姿なきもうひとりの主の部屋、“魔女の貴賓室”と呼ぶようになっていたのだ。それは朱志香も知っていた。そして、その貴賓室に泊まることで、自らを魔女と名乗る傲慢が許せなかった。
 ……黄金の魔女などおとぎ話だ。何が魔女だ! 自分にとっては、両親を惨たらしく殺した殺人者以上でも以下でもない! 問い詰められ、苦しい言い訳を吐き、苦しい唾を吐いて苦しい息を吐いて。…どんなに魔女を装おうとも、汗臭いニオイのするニンゲンであることを教えてやるッ!!
 朱志香はあらん限りの力と大声をあげながら、貴賓室の扉を叩く。それは断じてノックではない。…開けぬなら打ち破ってやるという怒りの槌の打撲音だった。
【朱志香】「開けろよッ、ベアトリーチェ!! 出て来い!! 聞こえてるんだろう?! ここを開けろッ!!!」
 返事はない。…朱志香は構わずトアノブを捻るが、施錠の手応えがあった。朱志香は使用人の二人に振り返り言い放つ。
【朱志香】「ここマスターキーで開くんでしょ?! 開けてッ!!」
【郷田】「お嬢様…! それは大変な失礼に当たります…!!」
 郷田はおろおろしながらも、何とか朱志香の怒りを治めようとする。……嘉音はしばらく無言で俯いていた後、上着のポケットからマスターキーを取り出した。
【郷田】「嘉音さん…! いいんですか?!」
【嘉音】「……もしおられたなら、無礼になるのは承知です。………それに。…もし、ベアトリーチェさまが何の関係もないというなら、それを僕たちに釈明して納得させればいい。」
【朱志香】「そ、……そうだぜ、その通りだ!! 借りるぜッ!」
 朱志香は嘉音の手からマスターキーを引っ手繰ると、それを乱暴に鍵穴にねじ込む。…すぐに軽やかな音がして開錠の手応えがした。そして断ることなく、その扉を開け放つ。
貴賓室
【朱志香】「ベアトリーチェッ!!! どこだ?! 出て来い!!」
 朱志香は構わずずかずかと室内に踏み入る。…魔女の姿はなかった。
【朱志香】「…くそったれッ!! いねぇぜ!! どこに行きやがったッ?!」
【郷田】「………お、お姿がありませんね…。」
 朱志香は室内のどこかに隠れているかもしれないと、カーテンの陰やベッドの下を覗き込んだが、見つけることはできなかった。
 でも、確かにベッドには使用の痕跡があって、……曖昧な言い方なのだが、部屋の空気が少しだけ柔らかくなっていた。礼拝堂のような、普段は無人の場所の硬い空気ではない。確かにこの部屋に人が宿泊していたことをうかがわせる気配がある。しかし姿はなかった。
 実を言うと、朱志香も郷田も、まだベアトリーチェには会っていない。…肖像画に瓜二つの人物だと会った人間たちに聞かされただけだ。…だから、実際はどんな顔をしているのだろうと訝しがっていた。
 …しかし、嘉音だけは会っている。そしてあの魔女がどういう存在で、……どんな性分なのかを理解している。だから、自分たちが彼女の姿を求めてここへ押しかけたなら、絶対、思い通りになどさせるわけがないのだ。
 ……空振りさせ、悔しがる自分たちをどこかで見ていて、嘲笑っているに決まっている。……あいつはそういうヤツなのだ。そういう目で見ていたから、嘉音が一番最初に見つけられた。…他の二人は人影を探すことに集中していたから気付けなかったのだ。
 サイドテーブルの上の水差しの脇に、便箋が一枚置かれていた。短いメッセージと、それを書いたのだろう万年筆が添えられている…。
 嘉音は魔女を理解していた。6人の死体を見つけて、怒りに駆られてここへ押し掛け、姿を見つけられない自分たちを、必ず魔女は嘲る。……嘲りは、それを伝えなければ成立しない。だからつまり、…これはきっと、それ…!
【嘉音】「……お嬢様。………ここに何か書かれています。」
【朱志香】「書かれてるって、何だ?!」
 朱志香はズカズカと早足にやって来ると、便箋を乱暴に奪った。
 ……本人に乱暴なつもりはないのだろう。…今は力の加減ができないだけだ。
【朱志香】「………何だとぉ…?! な、舐めやがってッ!!!」
 メッセージを読んだ途端、朱志香は激しく怒り狂い、便箋をぐしゃぐしゃに丸めて叩きつける。
 そして、ベッドサイドにあったインテリアスタンドを掴むと、それを乱暴に振り回して、それを壁や家具にひたすら叩き付けた。…たちまち電球が破裂しその破片を辺りにばら撒いた。
【郷田】「お嬢様、気をお静め下さい…! お怪我をなさいます!!」
【朱志香】「離せよッ!! 畜生畜生ォ! 出て来やがれベアトリーチェッ!! よくも父さんと母さんをッ!! そんなに私が怖ぇかよッ!! 殺してやる殺してやる!! ブッ殺してやるから姿を現しやがれッ!!! だから離せって言ってんだろッ、くっそおおおおおぉおぉお!!」
 便箋にはこう書かれていた…。
“私がぬくぬくとここで、貴方が飛び込んでくるのを待ち呆けるとでも? 知的な夜に、粗暴なる貴方は似合わない。こんな間抜けに育てた親はどんな顔? うん、見たよ、本当にそっくりな間抜け面。今はお菓子の国でお腹いっぱい!”
 ……あの魔女なら書きそうなことだ…。……両親を失った子どもの誰かがここへ駆け込んでくるだろうことはお見通しだったというわけだ。
 …もし、この部屋のどこかに隠れているのならば、今頃、腹を抱えて転げ回っているに違いない…。あの魔女はそういうヤツ。…人の不幸を嘲笑い、千年の退屈しのぎをする…!
【郷田】「これはお渡し下さい…! お怪我をなさいますと申し上げております…! ………んんん、……んん!!」
【朱志香】「離せって言ってんだよ!! くそおぉおおくそおおおッ!! ……あぅッ!」
 郷田は、朱志香の振り回すインテリアスタンドを取り上げる。…これ以上、振り回せば、どこかにぶつけて怪我をするかもしれないからだ。…郷田の目には、朱志香が怒りに狂い、憤怒の炎で己を焦がしているに違いないと映ったのだろう。……しかし、嘉音の目には違って見えた。
 それは多分、怒りに隠した、悲しみの涙…。だから。インテリアスタンドを取り上げられた途端、朱志香が床に、まるで這いつくばるようにしながら、絨毯を掻き毟って泣き出した時。……郷田は驚くが、嘉音は驚かなかった。……怒りを振り回すという泣き方を奪われたのだから、…それは必然なのだ。
【朱志香】「うううううぅううぅ、わああああああぁああぁあああああ!! 父さん……、母さん……、うわああぁああああああぁあぁぁうううぅ!!」
 …それは、……右代宮本家の令嬢を思えば、…あまりにみすぼらしい姿。……絨毯を爪で掻き毟り、足でもがくように掻く。
 朱志香は強く強く、涙を流す。…でないと、再び怒りが込み上げてきて、自分を飲み込んでしまいそうだから。しかし、その度にあの便箋の屈辱のメッセージが蘇るのだ…。……こんな間抜けに育てた親はどんな顔?
【朱志香】「間抜けなんかじゃないッ!! 父さんも母さんも、頭が良かった!! 私なんかとは違う、本当に頭が良かったッ!! 間抜けなんかじゃないぃ! 取り消せ、取り消せッ!!」
 うん、見たよ、本当にそっくりな間抜け面。今はお菓子の国でお腹いっぱい!!
【朱志香】「うおおおぉおおおお、畜ッ生ォオオ!!! 殺してやる殺してやる、野郎の腹を裂いて同じ目に遭わせてやるッ!! ううわぁああああああぁああぁああ、わぁああああああぁああああああぁ……!!! ぅっく、ゲホゲホ、ゴホンゴホンゴホンッ!!!」
 泣き喚く朱志香は、喘息の発作を起こしてしまう…。見守っていた使用人たちは慌てて駆け寄り、その背中を撫でたが、それは朱志香の逆鱗に触れるだけだった…。
【朱志香】「ゲホンゴホン!! んだよッ!! そんなことする暇があったら、あいつを探せよッ!! 探し出して私のところへ連れて来いッ!! お前らが行かないなら私が探す!! そしてこの手で殺してやる、腹を引き裂いてやる!! ゲホゲホゴホゴホ!! がはッ、げはッ!! 触るんじゃねぇぜッ!!! ちくしょぉ…、ちくしょぉ、ゲホゲホン!! ゴホゲホンッ!!」
 朱志香はよろよろと立ち上がると、喘息を繰り返しながら廊下に出て行く…。
【郷田】「お嬢様、お薬を至急…! 南條先生をお呼びします!」
【嘉音】「……………郷田さん。………僕に、任せてくれませんか。」
 嘉音は察した。………歳が大きく離れた郷田には多分、…朱志香の心の涙が感じられない。……それを察した自分が、彼女を支えなければならないのだ。
【郷田】「か、嘉音さん。…………いいのですか…?」
【嘉音】「………今のお嬢さんには、…涙を流す時間も必要なのだと思います。…………ご両親の、あんな死に方を目の当たりにしては…。」
【郷田】「………………………………。…そうですね。」
 郷田も理解する。……そして、朱志香と嘉音の二人が、ささやかな交流を持っていることも知っていた。だから、全てを理解し、任せる。
【郷田】「………わかりました。……私は楼座さまのところへ戻ります。…お嬢様を、くれぐれもよろしくお願いしますよ。」
【嘉音】「はい。……お任せを。」
 嘉音は弱々しい声だったけれど、……力強く頷く。その目を見て、郷田も同じように力強く頷いた。
 …郷田も長い年季を持つベテランだ。大勢の人間を見てきた。…だから、克己した人間の目に浮かぶ力強い輝きを知っていた。それが嘉音の目に浮かんだのを確かに見た。……だから、嘉音にこの場を任せるのだ。…思えば、郷田が嘉音に信頼して仕事を任せた、初めての瞬間だったかもしれない…。
廊下
 朱志香は喘息に苦しみながら、…壁にもたれかかりつつも、自分の部屋に向かっているようだった。……嘉音は無言でその後を追う。
 手を貸せといわれれば、飛んでいって支える。…しかし朱志香がそれを求めない限り気配を殺し、いつでも助けられる距離にいて、彼女を見守った。……心が張り裂けそうなほど悲しい時、誰かがそこにいてくれたらと、百億の人々が振り返る時、居て欲しい場所に嘉音はいながら朱志香の背中を無言で見守った…。
 そしてとうとう、自分の部屋の扉の前でうずくまってしまう。……喘息の発作は、全身の体力を奪う。そして酸欠になった頭は朦朧とし、もはや立ち上がることもできないのだ。
 ……でも、今の朱志香は誰かに手を貸されたいとは思っていない。なぜなら、怒りの炎にまだ打ち勝てなかったから。…もし、差し伸べてくれる手が善意であっても、今の朱志香はその手を掴み引き裂いてしまいたくなるだろうから。
 …そしてそれがあまりに理不尽なことだと理解していたから。…怒りの炎に打ち勝てるまで、彼女は決して助けを求めなかった。
 朱志香はもはや助けを口にする気力もなかったろう。……でも、嘉音は聞いた。…確かに聞いた。……世界中で悲哀に嘆く人々が、なぜこれほどに叫んでいるのに誰も聞こえてくれないのかと嘆くその声なき助けを、確かに嘉音は聞いた。
 嘉音はそっと朱志香の脇に跪き、無言で肩を貸した。……朱志香は苦しい咳を繰り返しながらも、それを借り、………自分の部屋の鍵を開け、入る…。
朱志香の部屋
【嘉音】「…………こちらへ。……………今、お薬をご用意します。」
【朱志香】「………………ごほんごほんごほん…!………くッ、………ゲヘガハゴホッ…!!」
 朱志香はよく、喘息をし尽くすと胃袋丸ごとを吐き出しそうになるような苦しみになると口にしていた。顔色は蒼白で、目の焦点も定まっていなかった。なのに咳だけはまだ繰り返している…。……それでも多分、…それよりも悲しみの方が勝っているのだ…。
 ベッドに腰掛けさせると、嘉音はベッド脇のサイドテーブルの上にある可愛い篭の中から気管支拡張剤を取り、手渡した。
 ……朱志香は時折、薬を持ち歩くのを忘れる。そんな気配のある時には、気を利かせて、使用人室の救急箱にある予備をこっそり持ち歩くのだが、今日はその準備がなかった。……こんな日に持ち歩かなくて、どうして自分は家具などと言えるのかと自分を責めた。
 ………そして、それを口にし、朱志香の何かの気持ちを裏切った日を思い出して、…嘉音の心が軋んだが、……それは今の朱志香の悲しみに比べればはるかに不謹慎な感情だと思い、心の奥底に押し止める…。
【朱志香】「………はぁ、………はぁ…。……………………はぁ…。」
 薬を吸引すると、朱志香の荒い呼吸は少しずつ和らぎ、…ようやく落ち着きを取り戻す。………しかし、失った気力と体力は、彼女をベッドから起き上がらせるほどではなかった。
【嘉音】「…………………大丈夫ですか。……お嬢様。」
【朱志香】「…………私は、………大丈夫だぜ…。………父さんと母さんは駄目だけど、………私は、……もうちょっと泣きゃ、………大丈夫だぜ…………。」
【嘉音】「……………………。」
 嘉音は失言を悔いる。……今の彼女に、「大丈夫か」? …何て自分は心の痛みを読めないのか。…………だから、所詮は家具。だから人間になれない…。
【嘉音】「………………廊下におります。…御用がありましたら、すぐにお呼び下さい。」
 彼女には、ひとりで涙を流す時間がまだ必要であると嘉音は理解する。嘉音はいつでも呼べと告げ、一礼してから退室しようとする。
【朱志香】「……ぁ、……………。」
【嘉音】「……何か。」
 朱志香が呼び止めるような声を出したので、嘉音は足を止めた。
 ………彼女が求めるならば、どんな助けにもなろうと思った。…彼女の心の痛みが癒せるなら、今の僕は杖にも椅子にもなるだろう。………そうすることで、……あの日に与えた心の痛みの代償となるのなら…。
【朱志香】「……………………………………。」
 …朱志香はしばらくの間、嘉音の目をじっと見つめていた。……呼び止めたものの、何も口にすることがない、という風だった。
【嘉音】「……………………………。」
【朱志香】「………………………。」
 しばらくの間、無言。…………その沈黙は、朱志香が破った。…小声で。
【朱志香】「………ごめん。………何でもないぜ。……………しばらくひとりになりたいって、楼座叔母さんに伝えてくれるかな…。」
【嘉音】「ひとりには…、しません。」
【朱志香】「……………………え…。」
【嘉音】「あなたを、…僕はひとりにしない。………………だから、廊下にいます。…いつでも、……呼んで下さい。」
 朱志香は一瞬だけ、確かに瞳に何かの希望を浮かべた。…でもそれはとても儚く、初雪が川面に消えるように、すっ…と消える。
【朱志香】「……ありがとな。………………しばらくだけ、ひとりで泣かせてくれ…。」
【嘉音】「…………はい。……………失礼します。」
 嘉音は頭をもう一度下げ、扉を閉める…。
 ………彼女を勇気付けるため、言葉をかけたはずだった。…………でも、なぜかそれは、かえって傷つけた気がした。
 …なぜ? ………わからない。……それはきっと、………………自分が、家具だから。だから未だに、人の悲しみが、…汲み取れない。
 嘉音は自問を繰り返しながら、廊下を歩く。………突き当たりの窓が、涼しげに自分を誘っている気がした。
【嘉音】「…………………………。……僕は、………やっぱり家具でしかないのか……。」
 外は相変わらずの土砂降りで、薄暗い灰色の世界だった。
 …今日のような天気の日にも、紗音はきっと海を見て青さを知るのだろう。……だが僕の目にはきっと、たとえ晴れていても灰色に見えている…。海の青さがわからない限り、……僕は人の形を似せた、家具でしかない………。
【ベアト】「…………………本当に女心のわからぬヤツよ。…あぁいう時は、黙って側にいるのが正解だ。…くっくっくっく、だからゆえに貴様は家具なのよ。」
【嘉音】「き、…………貴様ッ……、」
 この廊下に人の気配などあったはずもない。冷たい空気に満たされた無人の廊下だった。………しかし嘉音の背中に、その嘲りの言葉は掛けられた。
 振り返れば、……そこにはあの魔女の姿があった。朱志香が狂おしいほどの怒りでその姿を求めたのに見せず、嘲笑する手紙を残して弄んだ、その魔女の姿が…!
【ベアト】「女の傷付け方は3つある。…特別に妾が教えてやろう。1つは刃物で傷つける。1つは心で傷つける。…そして最後が一番難しく、一番効果的に傷付けられる。なのに意識せずして傷付けられる。わかるか…?」
【嘉音】「わ、……わかるわけもないし、知りたくもないッ!!」
【ベアト】「期待を裏切る、だ。……女ほど夢見がちな生き物はいない! 勝手に夢を見、勝手に傷付く。……お前のような距離の男が一番女を傷付ける! わかるまいな、貴様には。どれほど朱志香を傷付けてきたか、まったく考えが及んでいまい。」
【ベアト】「……家具だからッ! くっくくくくくくくくくくく!」
【嘉音】「お、お前の戯言に付き合う気は毛頭ない! ……僕を嘲笑うためだけに姿を現したというのか!!」
【ベアト】「自惚れるな家具。貴様如き、嘲笑うにも足りぬわ! くっくっくっく! しかしそなたもひとりではそれに値しなくても、二人揃えば充分に足りる。……若々しき男女の悲運を笑う喜びは何度繰り返しても飽きぬのでな。」
【嘉音】「何だと…。………ま、…まさか貴様、……お嬢様を……。」
【ベアト】「第二の晩の生贄に、“寄り添う二人”が必要なのでな。…お前たち二人は実に都合が良い…!!」
【嘉音】「ま、……待て…! 勘違いするな……! 僕はお嬢様と、……そういう関係じゃない…! 第二の晩の生贄にはならないッ!」
【ベアト】「くっくっくくくくくはっははははははははははははははは!! だからお前は朱志香を傷付ける。だからお前は人間になれぬッ…!!」
【ベアト】「ならば良いだろう、貴様が朱志香を想い人と認めぬならば、それを受け容れても良い。……だが朱志香は殺す!!」
【嘉音】「なぜッ?!」
【ベアト】「この馬鹿がッ!! 決まっておろうがッ!! 殺したらそなたが歪めるだろうその表情が楽しいからの他に何の理由が必要なのかッ!!
 儀式に従い、妾は気まぐれに13人を生贄とする。だが、それ以上を殺してはならないとの決まりはない。」
【ベアト】「…妾が楽しければ幾人でも殺すッ!! だから殺す!! 妾を思いッ切り笑わせて見せろよ、家具ゥゥウッ嘉音ンンンンッ?!?!」
 その時、嘉音は確かに朱志香の悲鳴を聞いた。
 瞬きをして廊下の向こうを見た瞬間、直前まで当たり前のような顔をしてそこにいたはずの魔女の姿は掻き消えていた。
 …自分は今この瞬間、たったひとりで廊下に立ち尽くしているに過ぎない。……そして、守りたい人が助けを求めていて、その人は彼方にいる。
 自分のすべきことは明白だった。それは理屈じゃない。電気的で反射的。一切の躊躇も雑念もない。…守りたい人がいて、助けを求めていて。………だからその瞬間、そこにいるのが自分でありたいという純粋な気持ち。
 朱志香の部屋に飛び込んだ時、その目に飛び込んできたのは異様な光景だった。部屋は、金色の粉吹雪が舞い、まるでスノーグローブの中で金箔を舞い散らせているような幻想的な世界だった。
 ………いや違う。僕はこの光景を以前にも見ている。これは金箔じゃない。……無数の黄金の蝶たち、ベアトリーチェの眷属たちッ!!
 朱志香は無数の蝶に群がられ、必死にそれを払うように腕を振り回していた。
【嘉音】「お嬢様ッ!!!」
【朱志香】「か、嘉音くん……、た、助けて……………。…ゲホンゲホゲホゲホッ!!」
 嘉音は朱志香に飛びつくと、群がる蝶たちを乱暴に払いのける。…この美しくも汚らわしい蝶たちは、朱志香の顔に群がり、口や鼻から入り込もうとしていたのだ。
 朱志香が激しく咽込む。…まるで、この蝶たちが朱志香の喘息発作を引き起こし、嘲笑っているかのようだった。だって、嘉音が駆けつけ朱志香が咽込んだら、蝶たちは襲うのをやめ、今度は二人の周りを優雅に、ロンドのように舞い始めたから。
【朱志香】「………嘉音くん……、嘉音くん………。」
【嘉音】「…大丈夫。…………僕の目の黒い内は、……あなたに誰の指一本、触れさせたりするものか。………出て来い、ベアトリーチェ!! これで満足かッ!!」
 苦しそうにしながら薬を吸引する朱志香を庇いつつ、嘉音は虚空に叫ぶ。
 ……すると確かに虚空は満足げに笑い返した。…そして姿を現す。嘉音の要望に応えたわけじゃない。姿を現して嘲笑った方が、より屈辱を与えられて楽しいからという理由でに決まってる!
【ベアト】「くっくくくくくははははは!! これで全ては筋書き通りよ。今やそなたは俎上の鯉よの。いや、二人が揃ったのだから鴨と葱と呼ぶべきか? はっはははははははははははははは!!」
【朱志香】「お、……お前、……ベ、ベアトリーチェ…!!」
【嘉音】「お下がりください。……お嬢様は、僕が守る…!」
【ベアト】「姫に騎士が揃わば、魔女が現れるのは必然よ。……どれ、金蔵の家具がどの程度の力を持つか、見せてもらおうではないか。」
 魔女は指を弾いて鋭い音を立てる。
 すると部屋に黄金の蝶たちの吹雪が起こり、それらは渦を巻きながら小山を作っていく。…まるで、木枯らしが渦を巻いて枯葉の山を作るように。
 その黄金の小山から、腕が生え、…まるで、底の世界の住民が這い上がってくるかのように、……現れる。
【朱志香】「な、………何これ……。何だよこれ……ッ?!」
 朱志香は今見ているものが何なのか、理解できず、口をぱくぱくとさせる…。それはまさに、理解不能なものをわかろうとする知の咀嚼。
 這い上がりし者は、……多分、魔女に仕える従者に違いないだろう。その身なりは、仕える者たちが身にまとう様式に則る正装に見えた。
 ……しかし顔が違う。それは、異形…。……真っ黒な毛に覆われ、…腐った息を吐き、溶岩と同じ地の底の怪しい輝きを湛える目。…そして、………人ならざる者の象徴である、…二本の角…。魔女に仕える山羊面の従者の姿だった……。
【朱志香】「………………………ッッ!!!」
 朱志香はもう、自分が口に出すべき言葉すら決め切れない。…目の前で起こっている、この世の常識で説明できないそれに、ひたすら口をぱくぱくさせるだけだった。
 ……朱志香は気付けなかった。…この島がすでに、この世の法則から切り離されていることに。しかしそれでも理解はできる。……この山羊の従者が魔女の使いで、……自分の命を狙っていることは。
 そして魔女もそれをすでに命じてあるらしい。そして嘉音に期待の眼差しを向ける。……どのようにして姫君を守るつもりなのかと、期待という名の挑発の眼差しを向ける!
 従者は、這い上がる時こそ獣のように見えたが、それの背筋は美しく、黄金の魔女に仕えるに値する気品を充分に備えているように見えた。……そして、仕える主の期待に応えたいという家具の喜びに満ち溢れていることもわかる。
【ベアト】「………見せてもらおうではないか。金蔵の家具の力を! 今度は間違えるな? ……家具であることを忘れるな? この期に及んで人間のフリを続けるのなら、死ぬのはお前だけでは済まぬぞ。くっきっきききききききききききき!」
 山羊の従者は黙礼するような仕草をする。それは、主に応えるためのものだったのか、対峙する嘉音に捧げたものなのか、…わからない。そして、従者の手に、……邪まなる、悪意の刃が現れる……。
【朱志香】「………な、…………何だよ、………ソレ…………。」
 朱志香にはすでにとっくに、目の前で起こっていることなど理解できない。……理解に及ぶのは、……ソレが自分の命を脅かすために閃いているということだけだ。そして、今はそれで充分だった。
 嘉音の背中に隠れる朱志香に、嘉音は静かに言う。
【嘉音】「………お嬢様。…壁に下がっていて下さい。…背中は決して壁から離さないように。」
【朱志香】「え……?!」
【ベアト】「……くっくっくっくっくっく! 姫君は大人しく騎士殿の背中に隠れているがいい。自らの命を男に守らせる醍醐味でも存分に味わえば良い。……さぁ! 嘉音、お前の刃を見せてみよッ!!」
【嘉音】「…………………………………。」
【ベアト】「……美しい。…金蔵は家具を生み出すことに関してだけは、妾の足元に及ぶやも知れぬ。」
【嘉音】「…こんなもの、薔薇の手入れにも、……使えない。」
【朱志香】「……………か、………嘉音くん…。……………それは、………。」
【嘉音】「………見せたく…、なかった。」
【ベアト】「よくぞ抜いたぞ。………想いを寄せる女の前で、己が人間以下の存在であることを晒した気分はどんなものよ。」
【嘉音】「……………………黙れ。」
【ベアト】「……ふ。……憤怒で己を焦がしているくせに冷静を装うか。…なるほど、真に熱き炎は青く静かだという。今のそなたがそうだというのか。」
【嘉音】「僕の力で、お前を殺すことなどできるわけもない。……お前は月。石つぶてを投げたとて月を砕くことなどできるわけもない。……だが、お前は顕現するために水面にその姿を映す。」
 水面に石つぶてを投じれば、一時、月を乱すこともできるかもしれない。…しかし、月を砕くことなど至らない。
【嘉音】「だから僕は。……この命尽きるまで、……お前の映る水面を叩き続けてやる……!」
【ベアト】「気に入ったぞ、嘉音ッ!! 始めろ、家具どもッ!!」
【ベアト】「…………ほぉ。……………美しい軌跡だ。」
 魔女が漏らす感嘆の言葉が、沈黙を解き、朱志香の金縛りを一瞬だけ解く。
【朱志香】「…………………………、わ、……私は、……夢を見てるの………?」
【嘉音】「…………来い。魔女の家具め。………元来た地獄へ叩き落してやる。」
【山羊】「………………………………。」
 嘉音の頬に一条の赤い筋が残る。…それを見て魔女はにやりと笑う…。
【ベアト】「くっくくくくくくくくく。……勘が戻らぬことを、言い訳に呟いても良いぞ?」
【嘉音】「……………………。」
【朱志香】「か、……嘉音くん、…………しっかり…!」
【嘉音】「………大丈夫。………僕は、…まだ死なない。」
 山羊の従者の刃が描く軌跡は、……大きな弧を虚空に描く。…嘉音の姿は、そこにない。……その背中にいた。
【嘉音】「………先に帰りて、主の帰りを待つがいい。……逝け。」
 輝く軌跡が描くその戦いがチェスだったなら。…それは背後より掛けた嘉音のチェック。詰める、詰める、詰める、詰める。七手を掛けて、メイトする…!
 ……山羊の従者には断末魔を発する資格も与えられていなかったのか。……それは膝を落として倒れながら、ぶわっと黄金の蝶たちの群に崩れ散っていく…。
 だから、床に倒れる音はなかった。この戦いを理解できぬ者にも、…嘉音が華麗であったことだけはきっと理解できた。
【ベアト】「……ふ。ハンドメイドには勝てぬか。…そこまで見下げたものではないらしい。」
【嘉音】「次はお前だ、………ベアトリーチェぇええええええッ!!」
 嘉音の刃は、まるで溶けかかったバターを切るように、魔女の姿を斜めに切断した刹那、その姿は黄金色に弾け散る。
 ……何千という黄金の蝶たちが散らばって、室内を一瞬だけ黄昏色の光で満たす。…嘉音が自ら口にした通りなのだ。ベアトリーチェに斬りつけようとも、水面に映る月を斬るに同じこと。
 …魔女の姿は、さっきからずっとそこにいたかのような当り前の表情を浮かべつつ、嘉音の後にあった。
【ベアト】「はっはっはっはっはっはっは…!! 充分に面白い見世物であったぞ。それに免じ、見逃してやろうかと思ったが、今の無礼で気が変わった…。」
【嘉音】「嘘をつくな! お前にお嬢様を殺させはしないッ!! ……たとえそれが無理でも、……僕より先に殺させはしないッ!」
【ベアト】「お前にはそれすら出来ぬわ。喋るな、家具が。無口であれ、家具が。身の程を知れ、家具がッ!!」
【朱志香】「か、………嘉音くんは家具なんかじゃない…!」
【ベアト】「……ほぅ。…なぜそう言えるのか。」
【朱志香】「理由なんかいらない。……嘉音くんは嘉音くんだよ。うぅん、本当の名前は別にあるけれど、……それでも名前は家具じゃないッ! 嘉音くんには嘉音くんの生き方がある。それはとても高潔なもので、自らが決めるもの。」
【朱志香】「……家具だから意見しちゃいけないとか、家具だから自分の人生を持っちゃいけないとか、……そんなのないよ!!」
【嘉音】「お嬢様…、あいつを挑発してはいけません。」
【朱志香】「うぅん、はっきり言っておくぜ。………嘉音くんは家具じゃない。人間だよ。……どうして? 嘉音くんは自分の意思で、私を助けに駆け付けてくれた。そして恐ろしい魔女であるあんたの前に立ちはだかってくれた。私を見捨てることなんていくらでもできただろうに、そうしなかった。」
【朱志香】「………自己犠牲は人間だけが持つ高潔な精神だ!! だから、嘉音くんは人間なんだッ!! だから訂正しろ! 嘉音くんを家具だなんて呼ぶな、二度とッ!!」
【嘉音】「………お嬢…様………。」
【ベアト】「ふ。……くっくくくくくくくく。…くっははははははははははははは。わっはっはっはっはっはっはっはっは!!」
【ベアト】「語るな人間が!! とっとと終わらせよう、何しろまだまだ第二の晩。互いの尊厳を認め合う“寄り添いし二人”を今こそ生贄に捧げよ。」
【ベアト】「さぁさ、お出でなさい、罪を赦しなさい、煉獄の七杭が一つ、色欲!!!」
 笑いと怒り双方を浮かべたる顔にて、魔女は己が家具を呼び出す。
【アスモ】「……色欲のアスモデウス。ここに。」
【ベアト】「茶番は飽きた。第二の晩を速やかに遂行せよ。……妾に瞬きを三つも許すな?」
【アスモ】「……仰せのままに。」
【朱志香】「ま、……また、妙なのが出やがったぜ……。」
【嘉音】「………………………く…。」
 嘉音は瞬時以上の時間を掛けず理解する。……先ほどの山羊面など、魔女にとってはポーン程度の駒でしかない。しかし、新しく呼び出されたこの家具は、…駒の価値が格段に違う。
【アスモ】「……素敵な獲物に恵まれるなんて、なぁんて幸運なのかしら。………くすくすくす、怯えてる? かぁわいい。くすくすくすくす!」
【嘉音】「………………来い。魔女の家具…。お前には殺されない…!」
【アスモ】「くすくす! 私の姿を追うこともできないのろまのくせに、粋がって。」
【アスモ】「……行くわよ? ……ねぇねぇ、どこがいい? どこを貫いてほしい? お答えなさいよ、かわいい子。あなたの好きなところを、思い切り貫いてあげる…!! くすくすくすくす、さぁさお答えなさいよかわいい子…!」
【嘉音】「ぼ、…僕を可愛いと言うなッ!!!」
【アスモ】「きゃっはははははッ!! 行くわよのろま!! さぁ追ってごらん、その節穴で!! きゃーっはっはははははははははッ!!」
【嘉音】「…………お、……お嬢様………。」
【朱志香】「へ、………目では追えなかったけどよ…。読みは、当てたぜ………。ざまぁ…見やがれ…………。」
 狙われたのは嘉音の背中だった。…でも朱志香は読みきった。嘲笑する魔女が狙うのが、正々堂々ともっとも相反する、…背中であることを読みきった。
 でも、防ぎようがなかった。…自己犠牲を気取るつもりなんかなかった。 こうする以外に、嘉音の背中を守れないと思った。…………だから、自らの背中で受けるしかなかった。
 悪魔の杭に姿を変えた魔女の家具は、深々と朱志香の背中に突き刺さっている。…それが肺にまで至る致命傷であることは明白だった。
 それを見て魔女は邪悪な声で大いに笑う。なぜなら、“魔女の読み通りの場所に”、命中したから。…全て全て、読み通りだった!
【ベアト】「どうした嘉音ンン…? 朱志香お嬢様はお前より先には殺されなかったンじゃないのかァ??」
【ベアト】「くっききききき、そうそうそれそれその顔よ、お前のその顔が見たかったッ!! きっきききききっきききききききききッ!! 楽しんだッ実に充分ッ!! もう良い死ね死ね笑わせろッ!!」
【ベアト】「さぁさお出でなさい罪を赦しなさい、煉獄の七杭が一つ、憤怒!!」
【サタン】「……憤怒のサタン。ここに。」
【ベアト】「その獲物はお前のものだ。今すぐ食らって、こやつの舞台に幕を下ろしてやれ。」
【ベアト】「……人ならば降板とも言おうが、家具のお前の場合は、大道具係が舞台裏に運び出すといったところか!」
【嘉音】「………………僕はもう、……家具じゃない。そしてそれを、……二度と疑わない!」
【サタン】「……くすくす、なぁに? あんた、また私に殺されちゃうの?」
【サタン】「あんたの胸、……温かくて本当に貫くと気持ちがいいのよ…? さぁ、また味わわせて…? あなたの温かい胸の中で、熱い熱い血潮で私を思い切り気持ちよくして…?」
【サタン】「…きゃっはっははははははははははははははッ!!!」
 防げるはずもない。部屋中から啄木鳥がノックするような音が溢れ出して、…あっと思ったら、……それはもう胸のど真ん中だった…。
 チェスで駒を取る時に、相手の駒がそれを防ぐことなんて、ルール上ありえない。だから、それはルールにまで定められた、当然の結果。
 嘉音は両膝を付く…。そして、謝罪した。……魔女にじゃない。…そして“お嬢様”にでもない。………朱志香に、謝罪した。
【嘉音】「…ごめん…………。……守り……切れなかった…………。」
【朱志香】「………気にしないで……。……格好良かった…よ……。」
 嘉音はとうとう倒れる。……そして朱志香と並び、双子座を思わせるように、二人して横たわる。
【朱志香】「……嘉音くんはさ、………もう、家具じゃないよ…。」
【嘉音】「…はい……。………それに、……気付くのが、……遅過ぎた……。」
【朱志香】「君の本当の名前、……………聞きたかった…。」
【嘉音】「…僕の、……本当の名前は、…………、……ぁ、………あああぁぁ…ぁ…。」
 嘉音は最期に、自分の本当の名前を教えたかった。…だが、…朱志香は、永遠に目覚めぬ眠りに、すでに落ちていた……。だから、嘉音が今日まで守ってきた本当の名前は、………ついに、…朱志香に、……教えられなかった…。
【嘉音】「………僕は…、…………人間に、………な…れ…………、」
 それが、嘉音が残した、…最後の言葉となった。
【ベアト】「わっははははははははは、くっきかかかかかかかかかかかかッ!! 笑わせるな家具がッ!! 百年を経ようと家具は家具よ! 捨てる時に家具のために墓穴を掘る馬鹿がどこにいる? 家具は叩き割って薪にして、後には灰しか残らぬわ!!」
【ベアト】「くっくくくく、そういうことよ、家具に刻める墓碑などない! ……貴様は死ねばこれ以上の屈辱を受けることがないと信じているようだが、それは甘いぞ…? 死者を辱めるというのがどういうものか、……妾が教えてやろうぞ。くっくっくっくっく!!!」
 煙管をひと吸いすると、魔女はその煙を嘉音の死体に吐きかける…。
 ……すると嘉音の体は、すっと宙に浮かび上がり、…虚空の口に食われたかのように掻き消えてしまう。
 魔女は最後まで卑劣だった。……最後に通じ合った二人の遺体を、寄り添わせることすら許さなかったのだ…。
 見る者があったなら、死者を辱めるというのはこういうことなのかと嘆くだろう。…しかし、ベアトリーチェはもっともっと残酷だった…。……それは、すぐに理解できるものとなる…。
 ベアト人格の嘉音が朱志香を殺害。ベアトの理屈上では嘉音の人格も殺したことにして、マスターキーで施錠する。

新しいルール
10月5日(日)06時50分

金蔵の書斎
【金蔵】「…………そうか。始まったか。」
【源次】「…はい。」
【紗音】「……………………………。」
 金蔵は6人の死を聞いても、感情に何の揺らめきも起こさなかった。
 窓の外を眺めるその表情に浮かぶのは、……まるでチェスで、相手に絶妙な一手を指されてにやりと笑うかのようなもの。…それはとても、息子たちを一度に大勢失った父親の表情とは思えない。
【源次】「……楼座さまの指示で、郷田と嘉音が警察へ電話しております。それから、お館様に以後のご指示を仰ぐようにとも仰せつかっておりますが…。……いかがいたしますか。」
【金蔵】「……………すでにこの島は現世から切り離されているのだ。電話など何の役にも立たぬわ。」
【源次】「やめさせますか。」
【金蔵】「……ルーレットが終わるまで、何をして過ごすも自由だ。好きにさせてやれ。」
【源次】「…………はい。」
【紗音】「…その……。…楼座さまには何とお伝えいたしましょうか。」
【金蔵】「何をして過ごすも自由だと言っておるッ!! 歌おうが踊ろうが! 首を吊ろうが煮えたぎる大釜に飛び込むも自由ッ!! 13人が死ぬまで好きに過ごせば良いのだ。そんなに退屈ならばなぜに6×9が42になるかでも考えていればいいッ!! それが人と宇宙の神秘の答えだッ!!」
【紗音】「はッ、はい…! も、申し訳ございません……!」
 突然の激高に紗音は竦み上がる。…源次は、余計なことは言わなくていいというような仕草をする。紗音は余計な口出しを後悔せざるを得なかった…。
【金蔵】「だが。…自由にしてよいのはお前たちもだ。……源次。そして紗音も。今日までよく私に尽くしてくれた。」
【紗音】「も、…勿体無いお言葉です……。…ですがその………。」
【源次】「……………私どもはお館様にお仕えすることを誓った家具です。……いついかなる時でも、お側に控えております。……最後の、その時まで。」
【金蔵】「………………。…………お前たちには、全てを、………話しておきたい。……紗音。遺言を書く。筆耕を頼む。…源次はいつもの酒を頼む。」
【紗音】「ぇ…。……………は、…………はい……!」
 金蔵はよく健康上の理由から南條に遺言状の執筆を勧められることがあったが、その度に怒り狂っていた。……それ以来、遺言状という単語は、金蔵のもっとも忌避する言葉のはず。その単語を自ら口にしたため、紗音は一瞬、耳を疑わなければならなかった。
 紗音は慌ててサイドテーブルと便箋の用意をする。源次も指示された通り、いつものあの緑色の魔酒を作り始める…。
【紗音】「準備が整いました。」
【金蔵】「………うむ。………何から語るか。…我が生涯を語るも良いか。……思い出深い対局を棋譜に残すのは楽しいことだ。………百年以上も昔の棋譜を読み、…対局者たちの思いを探る思考の旅も、実に楽しい。………ならば、我が生涯の棋譜も、後世の者によって、我が思いを探る旅への誘いとなるのだろうか。……ふ。」
 金蔵はしばらくの間、何から話せばいいのかと思案するように、両手を後で組んで部屋中をぐるぐると闊歩した…。
【源次】「お館様。………どうぞ。」
【金蔵】「うむ。すまんな、我が友よ。…………さて。我が生涯を語るには、あの魔女との出会いから記さねばなるまい。…紗音、筆記せよ。……私がベアトリーチェに初めて出会ったのは、だいぶ以前に遡る。あれは昭和の何年だったか…。…確か、終戦の……、」
礼拝堂
 俺たちは、冷静を取り戻せるだけの時間を充分に取り、………必ず犯人を捕まえてやると各々の両親に誓った。
 もう悔しさはないと言えば嘘になる。…今だって、ほんのわずかでも気を許せば、朱志香がそうだったように、激怒に駆られ、何かの暴力に訴えたくなる。
 郷田さんが戻ってきて言うには、今は嘉音くんが様子を見てくれているという。…まだだいぶ感情が高ぶっているらしかった。
【楼座】「……そう。ありがとう。…若い子の気持ちは、若い子の方が汲み取れるかもしれない。……今はそっとしておく方がいいんでしょうね。」
【南條】「楼座さん…。……私らにこれ以上ここに留まってできることは何もありません。……電話は不通でしょうが、明日になれば船が来てくれて、それで警察へ連絡できるでしょう。警察の捜査のためにも、ここはこのまま残すべきです。」
【郷田】「…私も南條先生に同感です。……このようなところにいつまでもおられますと、お体に障ります。……戻り、紅茶をお淹れしましょう…。」
【楼座】「………そうね。…私もそれに賛成よ。……戦人くんも譲治くんも、もういい…? ここは閉めましょう。警察が来た時のためにも、ここはこのまま残しておいた方がいいわ。」
【譲治】「そうですね。………戦人くん、…大丈夫かい…?」
【戦人】「……あぁ。…流せる涙は流し尽くしたぜ。………もう大丈夫さ。」
 警察なら、徹底した捜査できっと何かの痕跡を見つけてくれるだろう。…しかし、それを待てるほど、俺たちは大人にはなれなかった。…俺は、警察が来るよりも早く犯人をふん捕まえてやろうと、俺なりに礼拝堂の中を調べたのだ。
 ……そしてわかったことは、…悔しいが収穫ゼロ。……何の手掛かりも発見できなかった。
【楼座】「さ、……出ましょう。…真里亞、行くわよ。……いつまでもじろじろ見ていないの…!」
【真里亞】「……うー。」
【郷田】「さぁさぁ、真里亞さま。参りましょう…。ここは肩を冷やします。」
【譲治】「…………父さん、母さん。……今日までありがとう。…僕は、きっと父さんたちの期待を裏切らない男になる…。」
 譲治は、最後の別れの言葉を両親に掛けた。……その様子を見て、戦人もそれに倣う。
【戦人】「…親父、霧江さん。」
 顔だけを見たら、…眠っているようにも見えるのが、……余計に悔しい……。
【戦人】「………こんな涼しすぎるところに残してくのを、許してくれよな。………絶対に、仇は取るぜ…。絶対にな…。」
【譲治】「……これは、……何? 気色の悪い落書きだね…。犯人が書いたのかな。」
【南條】「悪趣味に過ぎますな……。……これは酷い…。」
 礼拝堂の扉が閉められて初めて、俺たちはその不気味な落書きを知ったのだった。
【郷田】「私たちが見つけた最初からもう書かれておりました。…おそらく、犯人が書いたものに違いないでしょう…。」
【戦人】「…犯人は魔女だから、こりゃ悪魔を呼び出す魔法陣か何かだってのか……?」
【真里亞】「きひひひひひひひひひひ…。これは太陽の7の魔法陣だよ。そんなのも知らないんだね…。きひひひひひひひひひひひひひひひ。あ痛。」
【楼座】「こら!! その気持ちの悪い笑いをやめなさいといつも言ってるでしょッ!!」
【戦人】「真里亞、続けろ。……何の意味があるんだ。」
【真里亞】「肉体的、あるいは精神的な束縛から逃れるための魔法陣だよ。……そして円周部に書かれているヘブライ語は、“主は私の枷を解かれました。私はあなたに感謝の生贄を捧げ、主の御名を呼ぶでしょう”。」
【譲治】「……感謝の生贄…? 父さんたちが殺されたのは、この魔法陣のための生贄だっていうのか…?!」
【楼座】「心を落ち着けて、譲治くん…! こんなのは犯人の挑発よ。…どうせ意味なんてないわ。考えるだけ心に毒よ。」
【戦人】「……そして、英語も書いてあるな。…ハッピーハロウィンフォー、…マリア。……なるほどな。それで、ここを開ける鍵が真里亞に渡されてたと、…そういうわけか。」
【譲治】「…ここは礼拝堂だしね。…真里亞ちゃんのマリアじゃなく、聖母マリアの方の意味かもしれないよ。……だとすれば、ハロウィンの名を騙った神への冒涜とも受け取れる。悪魔と契約した魔女たちは、神の名を常に穢し続けることを誓うという。……そういうセンスから言えば、これは実に魔女的な犯行だね。」
【楼座】「…詳しいのね。……真里亞の受け売り?」
【譲治】「……えぇ、そんなとこです。」
【戦人】「礼拝堂か。……礼拝堂にわざわざ呼んで殺した…。…………楼座叔母さん。この礼拝堂には、何か特別な意味とかあったんすか…?」
【楼座】「特別な意味って、……どういう意味?」
【戦人】「いやその。…………人間6人の死体を遥々ここに運び込んで、こんな凝ったデコレーションをした。…ここに6人を呼んでから殺したのか、6人を殺してからここに運び込んだのかは断定できないが、…どちらにしても大きな手間が掛かる。………犯人には、ここで、6人に死んでほしいどんな理由があったってんだ……?」
【南條】「……そうですな。あんな凝ったことをすれば、警察が来た時、不利な証拠を見つけられる可能性が非常に高いでしょう。……それを犯人が見越さなかったはずもない。…なら、犯人はどうしてわざわざ、そんな手間を掛けてまでこんなことをしたのだろう、ということになりますな…。」
【戦人】「だとしたらここで出てくる疑問はひとつ。……6人の死体発見場所になるココに、どんな意味があるのかってことだ。」
【楼座】「……ここは、……お父様の大切な礼拝堂だったの。……私が子どもの頃から、ここに立ち入ってはいけないと厳しく言われていたわ。」
【真里亞】「うー。…真里亞も前にここに来て、ものすごい怒られた…。うー…。」
【譲治】「大切な礼拝堂…? ……右代宮本家にとって何か縁のある…?」
【楼座】「わからないの。……お父様はこの礼拝堂をとても神聖視していて、何度か化粧直しの工事をさせるくらい大事にしていたわ。…でも、みんなも知っての通り、お父様は黒魔術が大好きなくらいで、敬虔な信者だったわけじゃない。……ここで神に祈りを捧げてたなんて、聞いたこともない。」
【郷田】「……私の知る限りでも、ここにお館様がいらっしゃったことはありません。私たちも、ここを “開かずの礼拝堂”と呼んで、…その、オバケ屋敷のような感じで、薄気味悪く思っておりました。」
【楼座】「お父様自身、まったく近付かなかったのに、なぜか年に何度か使用人たちに大掃除をさせていたわ。……常に清潔にしていて、まるで、いつ使用する時が来てもいいように、という感じだった。」
【戦人】「にもかかわらず、“開かずの礼拝堂”ってか…。……いっひっひ! 不謹慎だが、面白ぇ響きじゃねぇか。南條先生は祖父さまの古い友人なんだって? その辺りの経緯を聞いたことは?」
【南條】「…………ずいぶん昔に聞いたことがありますが、何と言ってはぐらかされたか忘れました。……そうそう、こんなことを言っておりましたっけ。……いつか、自分もあそこで祝福を受けることもできるかもしれない。しかしそれは、奇跡でも起きない限り、訪れないと。」
【戦人】「どういう意味だろうな。………礼拝堂ですることって何だ? まさか自分の葬式ってんじゃねぇだろうな。」
【南條】「金蔵さんに限ってそんなはずは。…死後のことより、生きている今に一生懸命な方でした。………しかし、そのせいで遺産問題をこじれさせるタネとしてしまったようですがな。」
【戦人】「あと、礼拝堂ですることって何だろうな。………祈り? 懺悔も礼拝堂だっけ? ………………何にしろ、胡散臭いな。」
【譲治】「……どういう理由かわからないけれど、……お祖父さまにとってその、南條先生の言っていた通り、……奇跡でも起きない限り、祝福を受けられないというのは、この礼拝堂を建てた時から決められていた宿命のようだね。」
【楼座】「どうしてそんなことがわかるの…?」
【譲治】「ほら、…あそこにはっきり記されてます。……ほら、あそこに。」
 譲治の兄貴が、扉の上のアーチ部分にある錆びた金文字のレリーフを指差す。英文で何かのメッセージが書かれているようだった。…その錆び具合から、建立当時から記されているメッセージであることがわかる。
【戦人】「………英語は弱いぜ。……何々…? ……ディスドアイズ、オープンド、オンリーアット、プロバビリティオブ?? すまね、英語駄目だ。」
 俺は二行の内の一行目も読みきれずギブアップする。…他の連中はちゃんと読めてるようだ。
【譲治】「…えっと、確かこれは、m、b、t、qだから、…えっとえっと…いくつのことだっけ、確かえっとえっと、……………。……とにかく、これはすごいよ。両手の指じゃとても足りない。確かに、奇跡でも起こらないと駄目だね。」
【南條】「……ですな。何事も博打的に例えたがった、昔の金蔵さんらしい言い方です。」
【戦人】「何だ何だ、みんなは読めたのかよ。誰か俺にも意味を教えてくれ。」
【真里亞】「きひひひひひひ。…英語くらい勉強しなよ。この程度読めないでよく高校に入れたね? きひひひひひひひひひ、あ痛。あ痛あ痛あ痛。」
【戦人】「余計なお世話だぜ。それで何て書いてあるんだ。」
【真里亞】「…ざっとこんなところだよ。“この扉は、奇跡が起きない限り、開かれない。あなたは、奇跡が起きない限り、祝福されない”。」
【真里亞】「……お祖父さまの魔術は天文学的低確率を基礎とする。…つまり、この扉が開かれる奇跡は、……恐らくものすごい膨大な魔力を必要とするに違いないよ。……きひひひひひひひひひひひひひひひひひ。あ痛。」
【戦人】「よぅしご苦労、もう黙っていいぞ。楼座さん、真里亞を英会話教室に通わせてたんすか? やっぱ英語は幼い内からやんないと駄目なんだなぁ。」
【譲治】「………開かずの礼拝堂か。……魔女ベアトリーチェは、本当に魔女だったかはともかく、何十年も前に実在した女性で、……お祖父さまの愛人だったと囁かれる人だ。」
【郷田】「これはその、私の勝手な想像ですが…。……お館様はベアトリーチェさまを、きっと深く愛しておいでだったのでしょう。しかし、すでにご結婚されていて、結ばれることはできなかった。」
【戦人】「…なるほどな。………死んだベアトリーチェが、奇跡の魔法で蘇れたなら、祖母さまが死んでる今、大手を振って結婚できるわけだ。んで、この礼拝堂で結ばれようと、………そういうメルヘンチックな話だというわけなのか?」
【楼座】「……そう荒唐無稽な話とも思えないわね。…お父様が今なおベアトリーチェを深く愛しているのは周知の事実。……あと、気味が悪いとは言ったけれども。礼拝堂の内装はとても華やかだった気がするの。………お父様が、死んだ愛人との結婚式を夢見てこの礼拝堂を建てたという想像は、案外、外れていないかもしれない。」
【譲治】「…この礼拝堂を建てたその当時から、お祖父さまはこの教会を使うことは生涯ないことを知っていたのだろうね。……でも、何かの奇跡で魔女が蘇ることを祈った。そしてもしもその奇跡が起こったなら、ここで結ばれようと思った…。」
【郷田】「……なるほど。…そう考えると、確かにここは、ベアトリーチェさまにとっても、大変意味のある場所ということになりますね…。決して開かれぬ礼拝堂と知りつつ。……悲しい恋の話です。」
 郷田さんは、俺以上のでかい図体にもかかわらず、しんみりとしたことを言う。…みんなは無言だったが、その意見に同意したようだった。
【南條】「開かぬ礼拝堂と知りながら。……それでもなお、奇跡の日を夢見ていたのでしょうな。………金蔵さんは若い日にはとてもロマンチストな方だった。…わかる気がします。」
【戦人】「いっひっひ。どうだろうな。……でも、年に4回、みんなで入って掃除してたんだろ? 何が開かずだ。俺たちだって現にこうして出入りしてる。それは奇跡なんかじゃねぇ。鍵を持ってきて、カチャリとやって入った。ただそれだけの話だぜ、馬鹿馬鹿しい。」
【楼座】「………………え? …………え?! ……………って、………どういうこと?」
【戦人】「ど、どういうことって、何がっすか…。」
 何だかいい話のような雰囲気になったのが気に入らなくて、俺は茶化しただけのはずだった。……なのに楼座叔母さんが、急に大真面目な顔で食い掛かってくる。楼座叔母さんの顔色がどんどん青ざめていく。…そして魔法陣の扉を見て、自分の手元を見てを、何度も何度も繰り返している。
【郷田】「ど、……どうなさいましたか、楼座さま…。」
【楼座】「ねぇ郷田さん! この礼拝堂の鍵! これ、源次さん言ってなかった? 一本しかないって!」
【譲治】「…………………え? …………。」
【真里亞】「…きひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。…みんな気付くのが遅すぎるんだよ。きひひひひひひひひひひひひひひひひ…。」
 …子どもの悪戯は、時に大人に気付かれなくて、仕掛けた子どもをがっかりさせてしまうことがある。……そういう悪戯に、遅れて誰かが引っ掛かってくれると心底嬉しいものだ。……今の真里亞の喜び方はそれにとてもよく似ていた…。
【郷田】「…え、……えぇ、はい。その鍵は一本しかございません。お館様の大切な礼拝堂の鍵ですので、一本しかなく、複製もありません。…普段から、使用人室のキーボックスに大切に保管されていますが…。」
【楼座】「そうよ。そしてそれがなくなってたと源次さんは言ったわね。……何者かがそれを奪い、……封筒に入れて真里亞に手渡したのよッ?! それも昨日!」
【戦人】「…………何だって…? ってことはつまり、………おかしいじゃねぇかよ。」
【譲治】「…そんな馬鹿な。………これは妙な話になってくる。」
【郷田】「ど、どういうことでしょうか…? 私には何が何だかさっぱり…。」
【南條】「私にもです。……どなたか説明してはいただけませんかな…。」
 …郷田と南條にわからないのは、決して二人の頭が悪いからではない。
 ……彼らは知らないのだ。…たった一本しかない礼拝堂の鍵が、いつから真里亞の手にあったのかを知らないのだ。
【楼座】「間違いない! 閉まってた!! 私が開けたのよ!! 間違いなく!!」
 楼座叔母さんは、礼拝堂の扉を閉め、鍵を掛けては引っ張り施錠を確かめたり、それを再び開けたりを何度も繰り返した。その顔色は再び蒼白になっていく…。
【楼座】「私が真里亞の封筒から鍵を取り出してここを開けるまで! 確かにこの扉は施錠されていたッ!! でもこの鍵は封筒に入れられて真里亞に預けられていたのよ?! しかもそれは昨日のお昼前の話なのよッ?!?!」
【南條】「………何ですと………。」
【郷田】「それでは、……おかしいではありませんか……!」
【戦人】「そうなんだ。………唯一の鍵は、昨日の昼に真里亞が魔女を名乗る女から受け取った。つまり、昨日の昼から今朝方、楼座さんが開錠するまでこの礼拝堂は密室だったことになる。」
【戦人】「………どうやって、親父たち6人はこの中に入って、しかも殺されたんだよ?!」
 俺たちは6人の死で混乱していた。妙な魔法陣や礼拝堂の謂れを聞いて、何かをわかったようなつもりでいた。……そんなのは取るに足らない問題だった!
 昨日の昼から今朝まで、この礼拝堂は密室なんだ。でも、親たちは昨夜まで俺たちと一緒だった。犯人はどうやってここを開けたんだ?! そしてどうやってここを閉めたんだ?!
【戦人】「……うぜぇ真似だぜ。…またかよ。また密室かよ! 魔法の力で鍵を開けたんだと、そう言いてぇのかッ!! 馬鹿にするんじゃねぇ!!」
【ベアト】「妾の力で鍵を開けるところを見せろというなら見せても良い。……しかしそれではそなたを屈服させたことにはならぬ。」
【ベアト】「そなたが言う“人間での説明”! これを尽き果てさせた時こそが妾の勝利の時なのだ!! さぁさぁ、どう崩してみせる? 人間なら、どういうトリックでしてみせるというのかァ、んん〜?」
【戦人】「前回の密室と同じだ。…情報不足ッ!! こんなのじゃ推理不能だ! 何の言い訳でもできるぜ、どんな手品だって通じる!! 推理なんてしようがねぇ!」
【ベアト】「はッ! またそれか? 情報が足りないから様子見? 不確定情報があるから推理不能ォ…? はッ、そなたら人間の思考停止の言い訳はいつもそれよ。人間風情が何を気取るか!」
【ベアト】「ラプラスの悪魔の座に及ばねば、思考を巡らせることひとつできないというのか、この無能がッ!! ……それに貴様は情報不足がまるで自分の不利になるように言っているが、真実はまったく逆だぞ?」
【ベアト】「そなたに与えられる情報が増えれば増えるほどに、そなたは苦しむことになる! 己を締め付ける圧搾機の力を強めていく結果になるだけよ! くっくくくくくくくくく!!」
【戦人】「ほぅ、そうなら言わせてもらうぜ。これがそもそも“密室”かどうかは検証不能だ!! 悪魔の話が出てきたんで俺も言わせてもらうぜ。」
【戦人】「……密室でないことの説明はできる。こうやりゃ出入りできるというのを示しゃいいんだからな!」
【戦人】「だが密室であることの証明は不能だ!! 無限の方法の全てを否定はできない。つまり、悪魔の証明ってヤツだぜ!! 密室という定義は、実は証明不能なのさ!!」
【ベアト】「情報不足を言い訳にした思考停止の次は、そう来たか。……まぁ良い。それがそなたの指し手だというなら認めようぞ。続けるが良い。」
【戦人】「まず、お前は礼拝堂が密室だと言いたいらしい。…実際、俺もさっき中をぐるっと見させてもらったが、確かに扉以外から出入りする方法は見つけられなかった。」
【戦人】「……だがそれは、俺が見つけられなかったというだけで、密室の証明にはならないわけだ!!」
【戦人】「俺には見つけられなかった“隠し扉”なんかがあったら、全ての前提は吹っ飛ぶぜ!! つまり、俺が隠し扉を見つけられようと、見つけられまいと、密室を出入りできる方法Xは常に否定できないわけさ!」
【戦人】「そしてその方法Xは、魔法でなくても実行可能さ。何しろ“隠し扉”なんだからよう! この礼拝堂だってそうさ、発見不能な隠し扉がどうせあるんだ。だから推理なんてする必要もなく、魔法なんかありえないってわけさ!!」
【ベアト】「………ほほぉ、そういう論法か。くっくっくっく、甘いな。想定していた一手だぞ。ならば妾も受け手を指そう。……妾は人間風情の推理小説とやらに出てくる“密室”というものを常々馬鹿馬鹿しいと思っている。」
【ベアト】「なぜか? 使い方が間違っているからよ。……推理小説に登場する密室を、お前は本当に“密室”だと思っているのかぁ? 思ってなどいまい?!
 どういうトリックを使えば密室に見せ掛けられるか! そう思っている。
つまり、人間どもが積み重ねた百年の密室殺人など、ただの一度も完成されたことはないのだッ!!」
【戦人】「ひゅうッ!! 言うじゃねぇかよ、推理マニアは怖ぇぞ?! クリスティが墓の下で歯軋りしてるぜ!」
【ベアト】「ふッ!! だが妾は違う。妾は本当の密室を生み出している! そしてそれを立証できるのだ。なぜか? 妾は魔女だからよ!!」
【ベアト】「悪魔の証明は悪魔を連れてくれば証明できるのだったな? ならば好都合、魔女にとって悪魔は良き友よ、いくらでも連れてきてやる!!」
【戦人】「上等だぜ!! “親父たちは隠し扉を使って礼拝堂に入った・あるいは運び込まれた”! この一手を、お前はどうかわして見せるってんだよぉッ?!」
【ベアト】「こうだ。生死は捨て置く。“6人は確かに扉から入った”!!」
【戦人】「はぁッ?!?! 馬鹿野郎ォ!! 鍵が掛かってんだぞ、どうやって!!」
【ベアト】「妾が魔法で開けて、中へ誘った!!」
【戦人】「そんなわけねぇだろ!! 魔法なんて認められねぇ以上、そいつを受け容れるわけには行かねぇッ!! お前は嘘をついている!! あの扉は何かのインチキで開くんだ。あるいは隠し扉があるんだ、そのどちらかしか認めねぇッ!!」
【ベアト】「……パーペチュアルッ!! チェスでは千日手をこう呼ぶ。互いが相手の根拠を否定しあい議論が進まないのも妾たちのゲームでは千日手に同じ。……多くのゲームではこれを引き分けに定めるが、これでは興を削がれること甚だしいッ!! 妾たちに引き分けはない。曰く、そなたが妾を認め屈服するか否かッ!!」
【戦人】「それについてだけは同感だぜ!! お前のお望み通り、決着はきっちりつける!!」
【ベアト】「くっくっくっく! その心意気や良し! ………そこで妾は考えた。妾とそなたのゲームに新しいルールを追加しようと思う。」
【戦人】「新しいルールぅ?! …どうせお前が有利になるルールなんだろう?!」
【ベアト】「まさかまさか。そなたらが求めて止まなかったものを与えようというのだ。貴様ら無能どもがいつも嘆いてみせる思考停止の理由、“情報不足”! そして、それに対し情報を与えると今度はその情報の真偽を疑う“根拠否定”!」
【ベアト】「便利よのぅ? 無能を棚上げする実に小気味良い言葉よ。この便利な言い訳を妾は取り去ってやろうというのだ。感謝するが良い、くっくっく!」
【戦人】「扉から入ったというお前に対し、俺はそんなはずはないと否定した。……その否定が逃げ口上だと言いたいのか。」
【ベアト】「そうだ。だから妾はこれより、真実を語る時、赤を使うことにする。」
【戦人】「ど、どういうことだ……?! 説明を続けろ!」
【ベアト】「妾がどのような魔法の一手を仕掛けようとも、そなたには常に“情報不足”や“根拠否定”を繰り返すことで延々と逃げ続けることができる。」
【ベアト】「…これでは最終的に妾が勝つことが変わらぬとしても、あまりに退屈を極める。……その為、妾はそなたが望む“情報”と“根拠”を与えてやろうと思う。」
【ベアト】「しかし、そなたは妾の言葉ひとつひとつを疑って掛かるだろう。それ自体は悪いことではない。妾もそなたを屈服させるためにあらゆる手を指す。互いに最善手を探りあうその姿勢は嫌いではない。」
【ベアト】「……しかしそれではゲームにもならぬ。だからこのルールを設けた。」
【ベアト】妾が赤で語ることは全て真実! 疑う必要が何もない!」
【戦人】「それを信じろというのか…!」
【ベアト】「妾はそなたとゲームをしている。ゲームのルールは神聖!! それを軽んじる者に参加の資格はないッ!!」
【戦人】「ようし乗ったぜ、受けてやるぞそのルールッ!! 水掛け論や揚げ足取りなんて小学生でもできるぜ。ならさっそく再開しようじゃねぇか、さっきの続きだぜ。もう一度繰り返す。“親父たちは隠し扉を使って礼拝堂に入った・あるいは運び込まれた”!」
【ベアト】「ならば妾も繰り返そうぞ。“生死は捨て置く。6人は確かに扉から入った”!」
【戦人】「………そ、その証拠はあるのかよ?!」
【ベアト】「ストップ!! ルールを補足する。」
【ベアト】「……妾は真実を語る時に赤を使うが、それに対し証拠を示して立証する義務を負わない! ただ、事実であり真実であるのだ!!」
【ベアト】「理由は簡単だ。妾は全ての犯行を魔法で行なう。だからどんな不可能犯罪も、お前の目の前で魔法の杖を振るって見せれば済んでしまう。」
【ベアト】「しかしそれではゲームにならない! チェスを指しながら、勝敗を無視して相手に殴りかかる蛮行にも等しい!」
【戦人】「た、……確かにもっともだ。…お前が魔女である以上、証拠を示す必要がない。……何でも魔法で出来ちまうんだからな、ひでぇ話だぜ…。何て不利なゲームだ…!」
【ベアト】「それではもう一度再開するぞ? 6人は確かに扉から入った。妾が魔法で鍵を開けた。……この魔法を、密室をどうかわす?!」
【戦人】「……か、鍵だ! 源次さんたちは鍵が一つしかないと言っているが、そんなのは証明不能だ! 犯人はこっそり合鍵を作っていた…!」
【ベアト】「くっくくくくくく! 礼拝堂の鍵は一本しか存在しない!」
【戦人】「っぐ……。じゃ、じゃあこうだ。犯人は正規の鍵以外のものを使って開けたんだ! 何かはわからないが、例えば針金とか! キーピックの道具だ!!」
【ベアト】「何だ何だ、その甘い指し手はァ。礼拝堂の施錠は礼拝堂の鍵以外では開錠不可能!! もっとも魔法の力では開けられるがなぁ…?」
【戦人】「じゃあこうだ!! 扉自体がおかしかったんだ! 施錠された状態のままでも、通行できる仕掛けがあった…! それが何かはいろいろ考えられる! お城の大扉に小さい入り口が付いてるように、さらにもうひとつ扉があったとか! 蝶番を外して、扉を丸ごと外して入ったなんてのもありえる!!」
【ベアト】「わっはははははははははは! それが人間どもの百年の英知なのか戦人ァアアァ?! 礼拝堂の扉は、施錠時には如何なる方法での出入りも拒む!! 魔法が使えない限りな…? くっくっく! そろそろチェックメイトかぁ?!」
【戦人】「まだまだぁッ!! お前は6人は扉から入ったと言ったが、この正面扉とは言ってない! 他の隠し扉から入ったのかもしれない!!」
【ベアト】「くどいわ、無能が。ならば先ほどの一手をさらに進めよう。6人は確かに“この正面扉”から入った!!」
【戦人】「滅茶苦茶だ!! 鍵は閉まってる、そして一本しかない鍵以外では開錠不能で、にもかかわらずこの扉から6人が出入りしたぁッ?!?! どうやってだよ!! 魔法だってか?! くそ、くそくそくそくそくそ!!!」
【ベアト】「わっはっはっはっはっはっはあぁッ!! 早くも人間の限界が露呈したか?」
【ベアト】「ならば叫べ、リザインと!! 投了者はそう叫びキングを倒すのが慣わしよ。さぁ、降参か?! ならば屈服を宣言せよ、そしてキングを倒すように跪け!! そして妾の靴にキスをするがいいッ! お前のような男に靴を舐めさせるのに勝る悦びはないわぁッ、くっくくくくくくっかかかかかかかかかかかッ!!」
 ………くそぉおおぉぉ…。駄目だ駄目だ駄目だ…。俺は魔女には勝てないのか…?! これはチェスなんかじゃねぇ、詰め将棋の負け側を受け持たされているだけなんだ…! 俺にできるのはせいぜい屁理屈をこねて引き分けに持ち込むのが関の山なのか…?
【ベアト】「それだけは断じてないぞ…! 妾が屈するか、そなたが屈するか!! それ以外の決着はないッ!! 互いを苛む拷問と喩えたあの時の勇ましさはどこに?!」
【ベアト】「おいおいおいぉぃ、ガッカリガッカリ、期待外れだぞォオオォ? 右代宮戦人ァアアアァアアァァ…????」
 くっそおぉおおおぉおぉ、どうすりゃいいんだ、どうすりゃ!! 見えてる、俺が詰んじまうところが見えている…ッ!! あぁあぁあ、駄目だ駄目だ、俺がこんなにも苦しんで打ってる一手は、苦し紛れにキングを一手、チェックから逃しているだけに過ぎない。
 ……何手逃れてもチェックから逃げられない。そしてもう数手を待たずに、それがメイトになっちまう未来が見えるッ!!! ああああぁあああぁあぁぁぁぁくっそぉおおおおおぉおぉぉぉ………!!
 ………もう数手で、……チェックメイトされるところが、……見える……? ……………………………………。
 ……降参するな、右代宮戦人。俺が詰められるところが見えるってことはだ。……チェス盤を引っ繰り返せば……、次に指す一手が読めるってことじゃねぇか…。霧江さんは言ってたぜ…。思考ってのは、最後の最後の詰めに入れば入るほど、……それは読みやすくなると。
 引っ繰り返せ。……チェス盤を、引っ繰り返す…!!
【戦人】「………………………………………………。」
【ベアト】「……どうしたぁ? 急に黙り込んだな。安心しろ。屈服は一時の恥よ。後に待つは身を委ねる悦びだけよ…。……くっくくくくくくく!! さぁ、投了を叫ぶが良い。………聞こえんぞ? 大きい声ではっきりと言えぃ。」
【戦人】「…………寝惚けるな。お前が聞こうとしていないだけだぜ。…ならもう一度言う。……投了はない。……続行だ。ゲームを再開するぞ。」
【ベアト】「……………ほぅ。良かろう。そなたの手番からだぞ。…くっくっくっく。」
【戦人】「お前の作ったルールを、俺はお前の武器だと勘違いしてた。……しかし、それは俺にとっても武器になるってことに気付いたぜ。…………つまりこういうことさ。」
【ベアト】「試すが良い。」
【戦人】「俺はずっと、密室の礼拝堂にどうやったら入れるかで頭が凝り固まってきた…。………その考え方じゃ駄目だったんだ。……あぁ、駄目だぜ、全然駄目だ。……チェス盤を引っ繰り返す。」
【戦人】「………そうさ。思考の向きが逆だったんだ。……本当の考え方はこうさ。…………元々密室じゃない礼拝堂を、どうやって密室に見せたかだ。」
【ベアト】「来たな。……人間どもの生み出した百年の思考術か。試してみるが良いぞ、くっくっくっく!!」
【戦人】「…赤で語ってもらうぜ。無理ならば拒否しろ。…行くぜ。」
 ……この男、……守勢から転じたつもりか。小癪な…。
【戦人】「礼拝堂に入るにはこの扉しかなく、そして鍵はたったひとつってのもわかった。………だが待ちな。…その鍵が、本当に昨日の昼前から真里亞の手に渡っていたのかどうかだ。」
【ベアト】「………長いな。掻い摘むが良い。」
【戦人】「こういうことさ。…俺たちは、鍵が昨日の昼から使用不能だと思い込んでいる。だから、昨日の昼から今朝まで密室だと思い込んでる!」
【戦人】「それを、思い込みじゃあなく、あんたにはっきり事実だと宣言してもらいたいのさ。」
【ベアト】「面白い。……扉ではなく、鍵を論点にしたか。」
【戦人】「真里亞は昨日、お前から封筒をもらってる。真里亞は開封しなかったが、手触りで鍵が入っていたことを知ったかもしれない。……だが、間違いなく礼拝堂の鍵だと確認できたわけじゃない。」
【戦人】「………つまりこういうことさ。……真里亞に渡した封筒の中身はニセモノだったんだ。」
【ベアト】「…何を言い出すかと思えば馬鹿馬鹿しい。楼座は今朝、確かに真里亞の手提げの中から封筒を取り出し、そこから正真正銘の礼拝堂の鍵を手に入れたぞ。…ニセモノなどということはない。」
【戦人】「へへ…。そんなことはわかってるさ。続けるぜ。……なら、真里亞が封筒を受け取った時、その中身は間違いなく、同じ礼拝堂の鍵だったのか?」
【ベアト】「……………………………。………ほぉ。」
【戦人】「つまり、こういうことさ。……お前は昨日の昼、真里亞に鍵入りの封筒を渡した。決して開くなと言い含めて。………真里亞は中に鍵があることを悟ったろう。」
【戦人】「そして後に楼座叔母さんがその中身で礼拝堂の扉を開けたため、それは礼拝堂の鍵だったということになった。 疑わしいのはここさ!」
【ベアト】「……………………こう言いたいわけか。私が真里亞に鍵を預けた時点では、その鍵はニセモノだったと。そして、楼座が鍵を手にするまでの間に本物と摩り替えたと…。」
【戦人】「あぁ、そうだ。……どうした、ベアトリーチェさまよ。さっきから調子が悪そうだぜ…?」
【ベアト】「……親しい者はベアトと呼ぶこともある。ベアトで良い。」
【戦人】「ベアトの手番だぜ。Turn of the golden witch! ……かわして見せろ。」
【ベアト】「…………良かろう。…妾が真里亞に預けた封筒の中身は、確かに礼拝堂の鍵だった。」
【戦人】「追うぜ。……赤で復唱できるか? ……“その封筒は、楼座叔母さんが開封するまで完全に真里亞の監視下に置かれていた”。」
【ベアト】「……………………………………。」
【戦人】「…無理なら拒否を宣言してもらうぜ。チェックだ。」
【ベアト】「…………く、……………拒否する。」
【戦人】「これで一手差は引っ繰り返ったぜ。…今度はお前がキングを逃がす番だな、ベアト。」
【ベアト】「……ふ、拒否に理由はある。それは、そなたのいう監視下という単語の定義についてだ。…純粋な意味に従うならば、それは四六時中、真里亞によって見張られてなければならない。」
【ベアト】「…だが、真里亞はそこまではしていない。手提げから出していた時は完全に監視下にあっただろうが、手提げに入れた後は視界から消える。……その意味において、監視下という単語が適当でないため、赤が使えなかっただけだ。………………………く…。」
【戦人】「……苦しい手なんだろ。俺の次の手も読めてるって顔だぜ。……………悪ぃな。俺は女にやさしいんだ。女を傷付けない。女の期待を裏切らないッ。………赤で復唱してもらうぜ、言えるもんなら言ってみやがれ。“真里亞の手提げは、楼座叔母さんが封筒を取り出すまで、誰も触れることができなかった”。」
【ベアト】「……………………これも、……拒否する。…理由は説明しない。」
【戦人】「違うぜ。……説明しないんじゃない。出来ないんだ。………その手で、チェックメイトなんだろ…?」
【ベアト】「……………………………く…。」
【戦人】「お前にできないなら、俺が説明してやる。………お前が真里亞に渡した封筒には、確かに礼拝堂の鍵が入っていた。…そして真里亞はこれを手提げにしまい、翌朝に楼座叔母さんがここから取り出して鍵を開けた。」
【戦人】「…………しかしッ! 真里亞は手提げを完全な監視下に置けなかった! 魔法なんか必要ない。人間に可能な密室トリックだ!」
【戦人】「ニンゲンである犯人は、真里亞に鍵を渡し、翌朝、楼座叔母さんに使わせることで、その間が密室であったかのような幻想を作り上げたんだ。」
【戦人】「お前はその間、真里亞の手提げの中から、犯人が鍵を取り出し、使用して、朝までに手提げに戻した可能性を否定できないッ!!」
【戦人】「赤で言えるか?! 復唱要求、言えるもんなら言ってみやがれ!! もう一度チェックだッ!!!」
【ベアト】「ま、……まだだ。チェックを外す…。…鍵の入った封筒は封蝋で封印されていたはず…! 楼座は未開封の封筒から…、」
【戦人】「そうかい、なら言ってみやがれ!! 復唱要求!! “昨日の昼の時点で渡した封筒と、楼座叔母さんが開封した封筒は同一のものである”。」
【ベアト】「そ、それは復唱できる。妾が真里亞に渡した封筒と、楼座が開封した封筒は同一のものであるぞ!!」
【戦人】「……はぁ…! …あぁあぁ、駄目だぜ、全然駄目だ。そんなの、もうどうでもいいことだろうが。…俺は期待したぜ。……ここで降参したなら、少しは読めてるヤツだと思った。……だからガッカリだ。…………あんた、俺の期待を裏切ったぜ?」
【ベアト】「な、…………に、……おぅ………ッッ!!」
【戦人】「封筒が同じものなんて大したことじゃない。……封蝋なんて何度でも打てるんだしな! 中身の鍵だろ、大事なのは。」
【ベアト】「…く、…………………くぅううぅッ………。」
【戦人】「これで今度こそ仕舞いだぜ、黄金の魔女。本当のチェックメイトだ。……もう一度求めるぜ、復唱要求だッ!! 言えるもんなら言ってみやがれッ!」
【戦人】「“真里亞が受け取った封筒の中の礼拝堂の鍵は、楼座叔母さんが開封するまで、一度も使用されていない”ッ!!」
 レリーフの英文は以下。
 This door is opened only at a probability of a quadrillion to one.
 You will be blessed only at a probability of a quadrillion to one.
【ベアト】「………………ッ、…………く、……………こ、……ッ……! この………、わ、……私が………ッッ、人間風情にィ………!!」
【戦人】「何度でも繰り返すぜベアトリーチェッ!!! 復唱要求ッッ!! “真里亞が受け取った封筒の中の礼拝堂の鍵は、楼座叔母さんが開封するまで、一度も使用されていない”!!」
【ベアト】「……ぅ、く、……おおおおおおおおぉおおおおおおおおッ!!!」
【戦人】「吼えるならば口にしろ、リザインだったな! これで決まりだぜ!! これが真相だ。」
【戦人】「真里亞の鍵は、楼座叔母さんが今朝、手に入れるまでの間に一度、何者かの手に渡ったんだ。」
【戦人】「そして鍵を使用して封蝋をし、あたかも未使用であるかのように見せ掛けて真里亞の手提げに戻したんだ!」
【戦人】「封蝋が解かれていないから鍵が未使用であるという思い込みが盲点の安っぽいトリックだったんだ!!」
【戦人】「チェックメイト!! 魔法なんかじゃない、人間に可能なトリックに過ぎないッ!!」
【ベアト】「な、ならば…、その鍵を奪ったのは誰だというのか! 答えて見せろ! お前が今度は復唱して見せろ…!!」
【戦人】「そうだな、お前にばかり復唱させた。たまには俺が答えなきゃならないだろうぜ……。
【戦人】だが拒否するッ!! 俺の勝利条件は魔女の存在を否定することだぜ。貴様の魔法による不可能犯罪を、人間の手でも可能であることを証明するところまで!!」
【戦人】「俺はお前の密室を人間にも可能だと打ち破った。だが、だから誰が犯人だと具体的に追及はしない。」
【戦人】「なぜなら、俺は人間を信じてるからだッ!! 俺たちの中に、真里亞から鍵を奪い、それを使ってあんな酷ぇことをしてのける人間がいるなんて、断じて認めないからだッッ!!」
 ベアトはこれを復唱しようと思えば可能だが、EP4ラストまでお預け。
【ベアト】「ふ、ふっふふふふふはっはっはっはっはっはっはっはッ!!! 降参だ、リザイン! この盤面についてだけは一度、降参しよう。…だが、やはりお前は甘いな、戦人ぁ。」
【戦人】「捨て台詞は敗者の特権だぜ。好きに楽しめよ。」
【ベアト】「……く…! 妾の存在を否定し続ける以上、そなたはやがて追い詰められることになるぞ…。」
【ベアト】「何しろ、妾を否定する以上、そなたの愛して止まない親族たちを疑うことにならざるを得ないのだからな…! そなたは、愛しい者を疑わざるを得ない最後の瞬間、妾の存在を必ず認めるだろう…!!」
【ベアト】「くっくっくっく、確かにこの盤面だけはそなたに取られた。……しかし、その指し筋の甘さは必ず身を滅ぼすぞ…。……お前はやはり私には勝てぬのだ!! 右代宮戦人ぁあああああぁああああああああああッ!!」
 このトリックは、ゲームのルールを戦人と読者に説明するためのチュートリアル的な意味合いが強い。戦人の解答は、おそらくベアトが想定した正解の一つ。

容疑者
10月5日(日)07時30分

客間
 …楼座たちは礼拝堂から屋敷の客間に戻っていた。早朝からあれだけのことがあったのだ。神経が参らないわけもない…。
 両親たちの惨たらしい姿を見て、泣いたり激怒したりと感情を破裂させていた戦人と譲治は、客間に戻りソファーに腰掛けると、それまでが嘘だったように放心するのだった…。
 真里亞だけはまったく変わらず普段通りに見えた。……悪ふざけをしていない時は、基本的に無口でひとりで遊んでいる子だから、仮に放心していたとしても、そう見えてしまうのかもしれない。
 …でも、テレビをつけてチャンネルをいじるその様子は、普段と何も変わらないように見えた。
 そんな、明らかに普通の人と違うセンスに、楼座は何か思うところがあるのだろうか。……微笑ましいのとは少し違う眼差しで、彼女はじっとその背中を見ているのだった。
 やがて、熊沢がやって来て朝の挨拶をした。…その朗らかな様子は明らかに場違いで、彼女は客間の異様な雰囲気に面食らわずにはいられなかった。
 ……そして、郷田から経緯を聞き、実に騒がしく驚くのだった。
【熊沢】「ももも、もちろん警察には連絡したんですよね…?! こういう時はどうすればいいんでしょう、おぉ、どうすればいいんでしょう…!」
【郷田】「………落ち着いて聞いてください。…どうも昨夜の落雷で何かの機械がやられたようなのです。それで電話が使えなくなっておりまして…。」
【熊沢】「えぇえぇッ!! じゃ、じゃあ台風が過ぎるまで、警察にも連絡できないんですか?!」
 熊沢の大袈裟な驚き方が少しだけ滑稽だったのかもしれない。楼座はこんな状況にもかかわらず、くすりと笑ってしまう。……それによって、少しだけ頭を覆っていた混乱の霧が晴れるのだった。
【楼座】「………私がしっかりしなきゃ。……真里亞だけじゃない。……譲治くんも戦人くんも、今は私が親代わりなんだから、しっかりしなきゃいけない……。」
 楼座は、他の兄弟から大きく歳の差のある末っ子だった。だからいつも子ども扱いだった。
 自分が新しく覚えたことは、いつも兄や姉たちにとって当り前のことで、自分が無能に違いないとコンプレックスを抱いてきた。そのため、何かある度に兄や姉たちに指示を乞う受身な体質になってしまっていた…。
 ………しかし、もう兄も姉もいない。今や右代宮4兄弟は楼座ひとり。…しかも金蔵がこの非常事態に及んでも、まだ引き篭もりを続けるなら、……楼座が当主の代行としてこの危機を乗り越えなくてはならないのだ。
【楼座】「……………私はもう子どもじゃない、子どもじゃない。……………………………。」
 …楼座は膝を軽く叩くと立ち上がる。今は自分が指示待ちではいけない。…自分から動かなくてはならないのだ。
 そしてサイドテーブルの内線電話の受話器を取る。……そしてすぐに、電話が故障していることを思い出す。金蔵のところへ行かせた源次と紗音がまだ戻らないのだ。
 …大方想像はつく。また何か支離滅裂なことを怒鳴りだし、収拾が付かなくなっているのだろう。…大事な礼拝堂が血で汚されたのだ。それは想像に容易だった。
 内線電話で書斎に電話をしようと思ったのが、電話が故障では仕方がない。楼座は自分の足で書斎に直接、赴くことにする。
 かつての自分なら、金蔵のところへ行くなんて、恐ろしくてできない。…実際、会えば何か難癖を付けられて罵られるだろう。しかし今は恐れている場合じゃない。………実の娘の自分が、現状を伝え認識させなければならないのだ。
【楼座】「……熊沢さん。私はお父様のところへ行ってきます。…特に譲治くんと戦人くんの二人をお願いします。……きっとだいぶ神経が参ってると思うの。」
【熊沢】「えぇえぇ…。それはそうでございましょうとも…。…本当にお気の毒なことです…。何か温かい飲み物でも作ってあげることにいたします。」
【楼座】「ありがとう。」
 楼座は廊下へ出て、金蔵の書斎へ向かう。少女時代を過ごし、たくさんの思い出が詰まったはずの屋敷の空気が、どこか違っているような気がした…。
玄関ホール
 そして玄関ホールの階段を登っていく…。……その時。楼座が背中を向ける階下のホールの薄暗闇で、…何かが光った。
 それはひらひらと舞う、一匹の黄金の蝶。…ひらひらと舞い、ちかちかと輝く。その蝶は、音もなく静かに舞う。……当然だ。蝶が羽ばたく音など聞こえるわけもない。………そして階段をゆっくり登っていく楼座の背中に、……止まる。
 楼座は気付かない。そして知らぬ者が見たとしても、蝶の形をした金箔が一枚、張り付いてるくらいにしか見えないだろう。楼座は気付かず、そのまま金蔵の書斎へ向かっていく……。
【ベアト】「………さぁて次はどう遊ばせてもらおうか。…まだまだ駒はいくらでもある。…くっくっくっくっくっくっくっく…!」
客間
 シンと静まり返った客間の中は、真里亞がひとりで見ているテレビの音だけ聞こえていた。それ以外に聞こえるものがあったとしたら、それは昨日から延々と降り続けている雨の音だけだった。
 この世のものと思えぬ惨状を見てきた者たちは、この今朝の出来事が全て夢であって欲しいと祈るかのように皆、無言を貫いていた。
 熊沢だけはそれを見ていなかったため、少しだけ雰囲気が違った。…むしろこの沈黙が居辛く、何とかみんなを励ましてやりたいとそわそわしていた。…しかし、余計なことを話し掛けるわけにもいかず、自分が役に立てることは何かと思案しているようだった…。
 本来なら朝食の時間だ。……しかし、あんなことがあった為か、郷田はその準備をもう忘れてしまっているようだった。…いや、誰もが空腹感を忘れてしまうほどに打ちのめされているのだろう。
 熊沢は、朝食をどうしようかと切り出そうかと思ったが、そういう空気でもないようで、とても口に出来ない。しかしお腹は空いて辛かった。…その為、さりげなく、こう提案した。
【熊沢】「…皆さんもいろいろあってお疲れでしょう。……こういう時は温かい紅茶で体を温めるのが一番ですよ。」
【南條】「……うむ、それは良い提案ですな。私も賛成です。」
【熊沢】「ほっほっほ。おいしい紅茶に、ジャムを塗ったビスケットなどいかがですか。そうそう、ハロウィンの時期が近いみたいで、カボチャ型のおいしそうなクッキーが棚にありました…。」
【南條】「……あ、熊沢さん、それは………、」
 それはもちろん失言だった。…戦人たちの脳裏にあの礼拝堂の、凄惨なハロウィンパーティを思い起こさせたからだ…。南條が大急ぎで、熊沢の耳にこそこそと囁く。
【戦人】「……………………………………。」
【熊沢】「……戦人さん、本当にすみません! …悪気はなかったんですよ、えぇ…。」
【戦人】「いや、気にしてねぇぜ。………この煮えくり返るような怒りは、絶対ぇ犯人にお返ししてやるぜ。」
【譲治】「………その犯人は、まだこの島にいるのかな。」
【戦人】「いるだろうな。何しろ、台風が過ぎるまで船は来ないんだ。」
【熊沢】「え、…えぇ、そうですとも! 船はちょっとの風でも欠航しますからねぇ。ましてや台風では、絶対に船になんか乗れませんよ、えぇ!」
【譲治】「……気持ち悪いな。」
【戦人】「兄貴もそう思うのか。俺もだぜ。………犯人が、例の謎の来客かどうかは捨て置いてもだ。」
【南條】「そうですな。……私たちはついつい、ベアトリーチェを名乗る謎の来客を怪しがってしまいますが、まだ犯人と決まったわけではありません。…彼女が、まだ死体の出ていない犠牲者である可能性も残っている。」
【譲治】「……それを考えると、どうしても理解できないことがあるんだ。」
【郷田】「それは……、どういうことでしょうか……?」
【戦人】「簡単さ。さっき、熊沢の婆ちゃんの言った通りだよ。この島は今、台風の真っ只中で脱出不能だ。それは犯人だって同じさ。………なら、犯人にとって、犯行発覚は可能ならもっとも避けたいことのはずだ。」
【郷田】「……そうですね。…礼拝堂の入り口に、あんな不気味な魔法陣を描いて、ここに死体があります等とアピールする必要はありませんね。」
【戦人】「そうさ、そういうことなんだ。さらに言えば、あの6人にあんな惨たらしいことをするだけの手間を掛けられたなら、……6人の死体を発見不能な場所に隠すことだって可能だったはず。」
【譲治】「同感だね。あの残酷なハロウィンパーティは多分、死んだ人たちに向けられたものじゃない。……やがて発見する僕たちへ向けたものなんだよ。魔法陣は、その為のアピールだと言い切れるだろうね。」
【戦人】「…犯人はこの島からしばらく逃げられないことを知っている。……にもかかわらず、台風の真っ最中に死体を見つけさせたいような真似をした。……こりゃ、どういうことなんだ。…俺が犯人だったなら、死体を見つけさせるような真似は絶対にしないんだが。」
【郷田】「…………ベアトリーチェさまはお部屋におられませんでした。…特に部屋が荒らされていた様子もありませんし。……あ、いえ、お嬢様がだいぶ荒らしてしまいましたが…。」
【戦人】「…そういや、朱志香は?」
【郷田】「嘉音さんが様子を見てくれています。…多分、お嬢様のお部屋におられるでしょう。」
【譲治】「…………よくないね。…犯人は間違いなく、まだこの島にいる。……今の状況下で、少人数で孤立することはそれほどいいことだとは思わない。」
【熊沢】「そ、それはどういう意味ですか…。ま、ま、まさか、犯人は私たち全員を殺すつもりだと仰るんですか…! あわわわわわわわわ…。」
【南條】「落ち着きましょう…。まだそうと決まったわけではありません…。」
【戦人】「ところが悔しいことに、その可能性も否定できねぇんだよなぁ。いっひっひ。……この手紙が礼拝堂にあった。これによるならば、犯人は魔女さまで、祖父さまの碑文の謎を解いて黄金を見つけなきゃ、一族郎党皆殺しにする…、みてぇなことを言っている。」
【郷田】「それは本当ですか…! その、私にも読ませていただいてよろしいですか…。」
【熊沢】「ひ、ひ…、ひ、ひええええぇえええええぇぇえぇ…ぇえぇぇぇぇ…っ…。」
【南條】「……うむむむむむむむ……。」
 魔女の手紙を読む、郷田と熊沢、そして南條の顔がそれまで以上に青ざめていく…。もう熊沢は震えを隠さなかった。
【戦人】「………死にたくなかったら、祖父さまの隠し黄金を見つけてみろ、か。…ふざけやがって。てめぇじゃ解けない謎だから、俺たちに解かせようって腹に決まってるぜ…!」
【郷田】「しかし、…実際のところはどうなんでしょう。奥様は常々、黄金伝説はお館様が作られた幻想に過ぎないと言い切られておりました。……本当に実在するものなのかは怪しいところですよ…。」
【南條】「そうですな…。あったらいいなとは思いつつ半信半疑だったはずです。……親族の皆さんが黄金伝説を信じ始めたのは、金蔵さんが健康を崩して遺産問題が浮上してからです。それまでは信じている人はほとんどいなかったと思います。」
【譲治】「…そうか、それでかな。覚えてるかい? 礼拝堂のテーブルの上。…黄金のインゴットが3つあったね。あれだけでも相当の価値があるよ。あれはまさに、黄金伝説は実在することを証明してるんじゃないかな。」
【熊沢】「あ、…あの、…お待ち下さい。今、黄金が3つと仰いましたか……?」
【戦人】「……あぁ、確かに3つが積み上げてあったぜ。それが何だってんだ?」
【熊沢】「あのその私、………旦那様がお話しになっているのを聞いたことがあるんです。……えぇ、聞いただけでございますよ?! 別にこっそりお話に聞き耳を立てていたわけではございませんとも、えぇ!」
【戦人】「今は気にしないぜ。それで何だってんだ。あの金塊が3つじゃ何かまずいってのか?」
【熊沢】「…え、えぇ。旦那様が仰るには、…黄金伝説を裏付ける黄金は、1つしか見付かっていないのだそうです。」
【南條】「……そうでしたな。確か、金蔵さんがマルソーの会長さんに黄金の山を見せて、その一本を持ち帰らせた、というような話だったはずです。」
【熊沢】「その1つをですね、旦那様はお持ちになられていたのです。そして、こうも仰っておりました。お館様の黄金伝説を裏付ける黄金はこれ1つしかないとも…。」
【戦人】「旦那様って、蔵臼伯父さんの話だよな? ってことは何だ? ……じゃなくて、……3つ?! おいおい、どこから出てきたんだよ、多すぎるぜ?!」
【南條】「こうは考えられませんか。他の親族の方もそれぞれ見つけておられて、それを1つずつ持ち寄られたとか…。」
【郷田】「いや、私はそうは思えません。親族の皆さんがお屋敷に来られた時、私は皆さんのお荷物を預からせてもらっています。その時、不審な重さは感じませんでした。」
【譲治】「……あれは10kgくらいはあったと思う。そんな重さが荷物に入っていたら、僕だって気付くよ。でもそんな雰囲気はなかった。」
【戦人】「うちも同じだぜ。せいぜい着替えと常備薬、霧江さんの化粧道具。そんなもんだったと思う。楼座叔母さんの荷物も軽そうに見えたぜ。」
【譲治】「……となると、その3つ積まれた金塊は、彼ら、あるいは僕らに示されたものということになるね。……黄金伝説は間違いなく存在する。幻想なんかじゃない。それを暴いてみろと。」
【郷田】「それの隠し場所を示した、…あの碑文を私たちに解かせて、横取りしようという魂胆でしょうか。」
【戦人】「…………確かにそれが一番筋が通る。…しかし腑に落ちない点もいくつかあるぜ。まず、碑文を一番解けそうな人物である親たちが真っ先に殺されてる。これはいきなり矛盾があるように思う。」
【戦人】「………そしてここがもっと腑に落ちない。……黄金伝説は実在するって言って、どうして黄金が積めるんだ。……まるで犯人はもう、自分だけは黄金を見つけていて、お前らも見つけてみろって言ってるみたいに見えるじゃないか。」
【譲治】「犯人も蔵臼伯父さんのように、その3本を手に入れ黄金伝説を確信し、残りを僕らに探させようとしている…、と考えるのが一番しっくり来るね。」
【戦人】「…………………………。……チェス盤に、駒がちっとも並ばねぇ。…………犯人が何を企んでいて、何をしたいのか、何をさせたいのかがさっぱりだ。…………無駄なのか? 何を考えても、今の時点では。…………………………。」
【真里亞】「……きひひ。書いてあるよ。何をさせたいかは。みんなは文字、読めないのかなぁ、きひひひひひひひひひ。」
 真里亞が急に気味の悪い声で笑い出す。
 …テレビに集中しているのかと思ったが、こちらにも耳を向けていたらしい。彼女はテレビの方を向いたまま、…非常にシンプルに、俺たちが失念していたことを教えてくれた。
【真里亞】「ベアトリーチェは、黄金が欲しいなんて一言も言ってないよ。……ベアトリーチェは、碑文の謎をみんなが解けるか解けないか、それしか聞いてないんだよ。…どうせ無理だろうって思ってるに違いないけどね。……きひひひひひひひひひひひひひひひひひ。」
【戦人】「……真里亞には、それが解けるってのか?」
【真里亞】「…知ぃらない。だって、真里亞は黄金郷へ連れてってもらうんだもん。ベアトリーチェの邪魔なんかしないよ。きひひひひひひひひひひ、あ痛。」
【戦人】「どうやら、これ以上を知るには、真里亞に話を聞く他ないようだな。…真里亞、聞かせてもらうぜ。……………ベアトリーチェってのは何者だ。何を企んでるんだ。」
【真里亞】「きっひひひひひひひひひひひひひひひひ! ベアトリーチェはね、魔女なの! 不思議な力で何でもできる。魔法の力で何でもできる。黄金も生み出せるしパンも生み出せる。もちろんお菓子だって生み出せるよ? 見たでしょ? きっひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!」
 その時、力強く扉を閉める音がして皆ははっとした。
 振り返ると、いつの間にか楼座が、源次と紗音を連れて帰ってきていた。
 ……そして、踵を鳴らしながら早足に真里亞に近付くと、びしゃりとその頬を打った。
【楼座】「……そんな話はやめなさい。戦人くんたちが気を悪くするでしょう。」
【真里亞】「………………うー…。」
 問答無用でもう一度その頬を打つ。その様子に、一同は呆然とするしかない。
【楼座】「うーではわからないわよ。はいは?」
【真里亞】「……………うー。」
 容赦なくもう一度頬を打つ。……二度も頬を打たれては、反抗する気も起きなかったろう。真里亞は力なく、ハイと口にする。
【南條】「ろ、……楼座さん、そこまで酷くすることはない…。」
【楼座】「…娘に対する教育です。口は挟まないでいただきます。」
 源次と紗音を従える楼座の雰囲気は、どこか冷たく、だけれども威厳があり、…出て行った時とはまるで雰囲気が違った。見れば、楼座叔母さんは銃のようなものを持っている。……まさかこの状況で玩具を持ってくるとは考えられない。
【譲治】「楼座叔母さん、それは…?」
【楼座】「……お父様のものです。このような事態ですので、特別に借りてきました。………みんなだってわかってるはず。犯人はまだ、近くにいるのですから。何があるかわからない。」
【譲治】「……………同感です。……犯人が何を企んでいるかを探るよりも、僕たちは身の安全を先に考えた方がいいかもしれない。」
【真里亞】「………………………。」
【楼座】「お父様はご無事でしたが、突然の出来事に多少、取り乱していました。…幸いにも、部屋からは出ないと言っていますので、安全でしょう。あと、私たちは極力、同じ場所に集まるべきです。」
【戦人】「…同感だぜ。相手がどこに潜んでいるのかもわからねぇし、……何しろ、ひとりという保証もねぇんだ。……………っ。」
 自分で口にして、ぞっとする。
 そうだ。6人を殺し、あれだけの惨たらしい細工をたったひとりでこなせるだろうか。……複数犯が犯行を行なったと考えるのが自然じゃないか。
【南條】「……楼座さんに同感です。私たちは一所に集まるのが良いでしょうな。」
【熊沢】「えぇえぇ、私もそれが良いと思いますよ、えぇえぇ!」
【郷田】「………お嬢様たちも、もうそろそろこちらへお呼びした方がいいかもしれません。」
【譲治】「そうだね。……もう降りて来てもらおう。」
 譲治の兄貴が内線電話を取ろうとすると、郷田さんが首を振る。……そうだ、電話は今、使えなくなっているんだっけ。
【戦人】「……俺と何人かで行ってこよう。譲治の兄貴に郷田さんも来てくれれば十分だろ。」
【楼座】「…………いいえ。みんなで一緒に行きましょう。…“狼と羊のパズル”なのよ。私たちがここに揃い安定しているなら、この状態が一番安全。」
【戦人】「…“狼と羊のパズル”ぅ?」
【真里亞】「……うー。真里亞、持ってるよ。見せてあげる。」
【楼座】「真里亞、テレビを消しなさい。……源次さん。朱志香ちゃんの部屋を教えてください。みんなで行きましょう。」
【源次】「……はい。ご案内いたします。」
【楼座】「さぁ、みんな。一緒に行動するわよ。私の指示に従って。」
 俺たちは腰を上げる。真里亞だけはテレビに未練があるようだったが、みんなに合わせて一応、腰を上げた。
【譲治】「…紗音、よかった。戻りが遅いから少し心配してたよ。」
【紗音】「ご心配をお掛けしました。お館様より筆耕のご命令があったもので…。」
【譲治】「筆耕?」
【源次】「…………紗音。」
【紗音】「す、………すみません、失礼しました…。」
廊下
 俺たちは、銃を構えた楼座叔母さんと源次さんを先頭に、朱志香の部屋を目指した。
 朱志香と嘉音くんは歳の近い男女だ。お邪魔しちゃ悪いタイミングだったら気の毒だよなー、なんて軽口は普段ならきっと叩いていたと思う。しかし、楼座叔母さんはぴりぴりしていて、緊張感を常に剥き出しにしていた。…なので、とてもそんな軽口を叩ける雰囲気ではなかったのだ。
【楼座】「ほらっ、遅れないで!! みんな一緒に行動するの! 犯人はいつどこから飛び掛ってくるかわからないのよ?!」
 …いや、楼座叔母さんの態度の方が正しいのかもしれない。……祖父さまが降りてこない以上、楼座叔母さんがリーダーなのだ。いつものように、微笑んでいればいいような事態ではない。
 ……それに、楼座叔母さんだって母親なのだ。自分がしっかりしなければ、愛娘に危害が及ぶかもしれないという思いもあるのだろう。
 犯人は親父たちを6人も一度に殺してる。……どうやって殺したのかは不明だが、それだけの大量殺人を瞬時にやってのける恐ろしい相手である可能性は高い。武器か、人数か。……それとも、魔女なだけに魔法なのか。
 いずれにせよ、油断していい要素はまったく見当たらない…。楼座叔母さんのように、俺たちももっともっと警戒心を強めていかなくてはならないのだ…。
【楼座】「…………みんな、止まって!」
 楼座叔母さんが鋭い声をあげる。何事かと思い、前方に目を凝らした時。……俺たちはすぐにその理由に気が付いた…。
【熊沢】「………な、……何ですかこれは……。」
【紗音】「ひッ、……………!」
【郷田】「皆様、お下がりを…!」
 郷田さんと源次さんが、扉に近付いて行く…。多分、その扉の向こうが朱志香の部屋なのだろう。
【郷田】「これは、……礼拝堂の扉に落書きしていたのと、同じ塗料のようですね。」
【源次】「……そのようです。書かれて、まだ時間がそう経っていないように見えます。」
【戦人】「何だありゃ……。……また、…魔法陣かよ?!」
【真里亞】「……月の1の魔法陣だね。…開かぬ扉を開く力があるよ。」
 朱志香の部屋の扉には、……あの礼拝堂の扉に書かれていた不気味な落書きがされていた。……怪しげな図形にはきっとオカルト的な意味合いがあるに違いない。しかしその意味は今はどうでもいい。朱志香たちが無事かどうかが心配だった。
【譲治】「そ、そんなことはどうでもいいよ! 朱志香ちゃんと嘉音くんは無事なの?!」
【南條】「…嫌な予感がしますな…。早く朱志香さんたちを連れて下に降りましょう。」
【郷田】「お嬢様! お嬢様!! おられますか? お返事をお願いします!!」
 郷田さんが、荒々しくノックをしながら叫ぶが、…何の返事もなかった。がちゃがちゃとドアノブも捻るが、施錠の手応えが返ってくるだけだった。
【源次】「……楼座さま、鍵がかかっているようです。」
【楼座】「仕方ないわ。開けてください。」
 源次が頷くと、郷田はすぐにマスターキーで鍵を開ける。
 …俺の脳裏に、嫌な想像が次々に浮かんでは消える。……礼拝堂の扉に魔法陣が書かれていた。そしてその向こうには6人の死体があった。……なら、朱志香の部屋の扉に魔法陣が書かれたなら、……その向こうには…………。
【郷田】「じぇ、…………朱志香さまッ!!」
【楼座】「ど、どうしたの。いたの?!」
【戦人】「朱志香!! どうした!!」
 ……本当に無情だった。…扉を開き、郷田さんが口にした言葉と表情で、…俺たちは朱志香の姿を見ずして、どんな過酷な運命が待ち受けているのかを覚悟することができた…。
朱志香の部屋
 みんなが一度に朱志香の部屋に雪崩れ込む。…その光景は、皆がそれぞれにしていた最悪の想像が的中していたことを教えてくれた…。
【戦人】「…朱志香ぁあああぁああぁッ!!!」
【楼座】「………何て……こと……。…な、…南條先生!!」
 歳の割りに上品な感じのする室内に、朱志香の倒れた姿があった。床には大きな血溜まり。
 ……そしてその背中には、ナイフか何かのようなものが深々と突き刺さっていた……。…ナイフなんだろうか。柄にはまるで悪魔をモチーフにしたとしか思えない意匠が施されている。何かオカルト的な意味合いのある武器?に違いなかった。
【南條】「…これは、………酷い。…お亡くなりになっています。……これは、多分、肺まで届いてるでしょうな…。……死んでからそう時間は経っていません。」
【戦人】「朱志香ぁあああぁあぁ!! くそ、くそぉおおおおおぉおおおッ!!」
【紗音】「……ば、戦人さま……。」
【戦人】「甘かった!! わかってた!! 島からは逃げられない以上、犯人は必ず近くにいたんだ! ならどうしてすぐに警戒しなかったんだ!! ……甘えてたッ!! 犯人ってヤツは罪を犯したらこそこそと逃げて隠れてるもんだと思い込んでた!」
【譲治】「……あの時の僕たちは動転してた。朱志香ちゃんが怒りに身を任せて駆け出すのも仕方がないことだと思ってた。……でも、甘かったんだ。止めるべきだった…!」
【楼座】「…郷田さん、どうして朱志香ちゃんたちを放ってきちゃったの! あなたが一緒にいてくれたらこんなことには!!」
【郷田】「いッ、いえ、そ、…それはその!! 私は危険ですから戻りましょうと言いました! ただその、お嬢様はひとりになりたいと申しまして! 嘉音さんが、自分に任せて欲しいと言いましてそのッ! ……それを言ったら、嘉音さんはどこへ…?!」
【譲治】「そうだ! 嘉音くんは一体?!」
【紗音】「か、……嘉音くん…。どこに………。」
【郷田】「嘉音さんはお嬢様と一緒にいたはずです…。一体どこに…!」
【戦人】「まさか、やられたんじゃないだろうな…?!」
【楼座】「…………………………………。静かに。………この部屋に誰か隠れているかもしれない。ベッドの下やクローゼットなどを探して!」
 嘉音くんの死体がどこかに押し込まれている可能性もあった。楼座さんの指示に、皆は一斉に室内を探す。……だが、人間一人がどこかに隠されているということはなかった。
【戦人】「……どこにもないぜ!! まさか犯人に連れ出されたか?! なら早く探し出して助けないと! ……もたもたしてるとヤバいことになるかもしれねぇぞ!! 楼座叔母さん、屋敷内を捜索しよう! 犯人を捜そう! 嘉音くんを助け出そう!!」
【楼座】「……………………。…………静かにッ!!!」
 大きな声で楼座叔母さんが叫ぶと、俺たちは反射的に沈黙した。
 何かを黙考しているのだろう。…しかし、一体、何だというのか……。…楼座叔母さんは、何かを探すように、…あるいは思考をまとめるように室内をぐるぐると歩き出す。
 …………すると、ベッド脇のサイドテーブルに何かを見つけ、それを摘み上げた。
【楼座】「……………誰かわかる人、教えて。……これは何の鍵かしら?」
 楼座叔母さんは、可愛らしいマスコットのついた鍵をみんなに見せた。…その可愛らしい雰囲気から、朱志香の鍵であることは疑わないが、何の鍵なのかはわかりかねた。
【源次】「……恐らく、この部屋の、…お嬢様のお部屋の鍵でしょう。」
 その言葉を聞き、楼座叔母さんはわざわざ扉の外に出て、それを確認した。………間違いなく、この部屋の鍵だった。
【楼座】「…………どうしてこんなところに置いてあるのかしら。普通、大事な鍵はポケットとかにしまわないかしら。」
【紗音】「…あの、…………お嬢様はご自分の部屋に施錠される習慣はあまりありませんでした。ただ、学校に行かれる時だけは、旦那様などに勝手に部屋を見られたくないと言って施錠されていたようですが…。」
【楼座】「………なるほど。登校してるわけじゃないから、朱志香ちゃんがここに鍵を置くのは自然なことということね。この扉を開けられる鍵はいくつあるの?」
【熊沢】「お、…お嬢様がお持ちのひとつだけですが…。」
【楼座】「あなたたちのマスターキーでは開けられないの?」
【源次】「……開けられます。」
【楼座】「マスターキーは何本あるの? 使用人の人は全員持ってるの? 余剰分はある?」
【郷田】「はい。私たちは全員が持っています。………余剰分は、…どうでしょう。」
【紗音】「以前は何本かありましたが、…奥様に無用心だと強くお叱りを受けまして、対応が取られたはずです。」
【源次】「……そうです。私たち使用人が一本ずつ持つのみです。それ以外は存在しません。」
【戦人】「…ん? ちょいと待て。…確か前回のゲームじゃ、マスターキーには余剰分があるって話じゃなかったのか?」
【ベアト】「うむ。それについてだがな。所在不明のマスターキーが何本もあっては、妾にあまりに不利であることに気付いたのだ。」
【戦人】「……そりゃあそうだろうよ。密室で俺に魔法を信じさせたいお前にとっちゃ、想定外のマスターキーは非常に不利だろうよ。…何しろ俺は、施錠に関するトリックが登場する度に、過去に紛失したマスターキーやその複製を犯人が所持していてって論法で対抗していくつもりだったからよ。」
【ベアト】「そうよ、その通り。だから、そこを崩す一手を打たせてもらうことにした。……設定を変更する。」
【ベアト】マスターキーは使用人たちがそれぞれ持つ一本のみ。くっくっくっく。」
【戦人】「…ふざけやがって。……それより。こりゃあ、どういう手なんだ。……楼座叔母さんは何を言っているんだ。」
【ベアト】「くっくっくっく。さぁな? 話に耳を傾けてみるが良かろう。」
【楼座】「……………ありがとう。状況が整理できたわ。……そして朱志香ちゃんを襲った犯人、あるいはその一味のひとりを特定できたわ。」
【戦人】「な、何だって…! それは誰だよ?!」
【譲治】「…まさか、楼座叔母さんは嘉音くんのことを言ってるんじゃないでしょうね…。」
【紗音】「……え、……えぇッ?! か、嘉音くんがどうしてですか!」
【楼座】「この部屋は施錠されていたわ。そしてこの部屋に施錠できる鍵は使用人のみんなが持っているマスターキーと、朱志香ちゃんが持っているこの鍵しかない。……でも朱志香ちゃんの鍵はここに閉じ込められていた。…ということは、施錠できたのはマスターキーしかありえないの。」
【源次】「…………仰る通りです。」
【楼座】「となれば、誰かが朱志香ちゃんを殺し、そして施錠したことになる! その人物はマスターキーを持っていたわ。そしてマスターキーを持っていた人物は5人しかいない!」
【熊沢】「そ、そんな!! 私ではありませんよ、私では! えぇ、そんなことできません!」
【楼座】「……熊沢さんは、朝が遅かった。私たちが礼拝堂から客間に戻ってきて、そこで会ったわけだけど、それまでの間、あなたがどこで何をしていたかは証明不能。物陰から私たちをうかがっていて、孤立した朱志香ちゃんたちの後を追い、こっそり襲い掛かった。」
【熊沢】「わ、私がお嬢様のところを訪れて、こ、こんな惨いことをしたと仰るのですか?! あ、あ、あんまりにございます! えぇ、あんまりですとも!!」
【楼座】「郷田さんだってどうです? あなたは嘉音くんに朱志香ちゃんを任せて帰ってきたと言ったわ。…でも本当なのかしら。……本当は二人を殺して嘉音くんの死体を隠して。それで何食わぬ顔で戻ってきたんじゃないのかしら?!」
【郷田】「そんなことはありません! この郷田、誓ってそのようなことはいたしません!!」
【紗音】「……わ、私たちでもありません…!! 私たちはお館様のご命令で…、」
【楼座】「えぇ。あなたと源次さんについてだけは大丈夫よ。お父様から聞いた話でそれは裏付けられてる。二人はお父様の部屋でずっと筆耕と立会いをしていた。お父様と私が保証するわ。」
【源次】「………ありがとうございます。」
【楼座】「こうなれば、郷田さんと熊沢さんのどちらかが怪しいという論法になると思うの。……私もこの部屋に入った最初はそう思った。………でもね、おかしいと思ったの。朱志香ちゃんの遺体の様子を見て。みんなはおかしいと思わない?」
【南條】「……おかしいと、…言われますと…?」
【楼座】「朱志香ちゃんは背中を刺されてるの。………ほら、よく一般的に言うでしょう? 背中を刺された事件は顔見知りが犯人の可能性が高いって。部屋に気を許せないような人を招き入れて、背中を無防備に晒したりなんか、絶対にしない。」
【紗音】「ま、……まさか、楼座さまは、…………それを嘉音くんだと仰るんですか…。」
【楼座】「えぇ。私たちは殺される直前の朱志香ちゃんの様子をよく知ってる。……両親の無惨な遺体を見て、朱志香ちゃんはかなりパニックを起こしてたわ。そしてその後に冷静を取り戻し、酷く落ち込んだだろうことは容易に想像がつく。」
【楼座】「……そんな朱志香ちゃんが、ひとりで部屋に閉じ篭ったという心理は、とても理解できるの。そしてこの辺りの経緯は、郷田さんの話とも一致するわ。」
【楼座】「……ひとりにしてくれと言った朱志香ちゃん。…そして歳も近く、思春期の関係もあったかもしれない嘉音くんが、自分に任せてほしいと言った気持ち。本当によくわかるの。」
【楼座】「………そして、だからこそ嘉音くんを朱志香ちゃんは部屋に迎え入れたと思うの。」
【楼座】「でも、郷田さんや熊沢さんだったらどうかしら。部屋に入れてもらえたかしら?」
【郷田】「……わ、私はお嬢様に信頼を得ていたと信じています。ではありますがその…、」
【楼座】「なら、郷田さんもやはり容疑者のひとりね? 郷田さんは多分、朱志香ちゃんには好かれてないと思ってたから、ナーバスな朱志香ちゃんは部屋に入れなかったと思う。だから犯人ではありえないって思ったんだけど?」
【郷田】「いえ、その…! ………残念ながらお嬢様には、お認めいただけていなかったかもしれません。…く、熊沢さんはどうですか?」
【熊沢】「ほ、ほほほほほほ! 私ども年長組は、歳が離れ過ぎていて、お嬢様のような若い方の気持ちはなかなか汲み取れません…。お嬢様も、私たちに心は開かなかったでしょうとも。ねぇ郷田さん?!」
【郷田】「えぇ、そうです! 私たちではとても心を開かなかったでしょう! 傷心のお嬢様が私たちを部屋に入れてくれたわけなどありません!」
 郷田さんと熊沢の婆ちゃんは、互いに揉み手をしながら、愛想笑いを浮かべて互いを肯定しあっている。とても気持ちの悪いコントだった。
【楼座】「傷心の朱志香ちゃんが、部屋に入ることを許した人物。無防備な背中を許した人物。そしてその人物はマスターキーを持っていた。それらが示すのはひとり。……嘉音くんしかありえないのよ。」
【紗音】「ま、……待って下さい…! 嘉音くんは決してそんなことは…!」
【楼座】「あら、じゃあ他に誰が? やっぱり郷田さんか熊沢さんが怪しいの? 紗音ちゃんはどっちが疑わしいと思う…? ねぇ。」
【紗音】「わ…、……私は、…そんな…………。」
【熊沢】「私ではありませんよ、紗音さん! えぇ、私ではありませんとも!」
【郷田】「もちろん私でもありません! お嬢様と仲がよかったのは嘉音さんと、あと紗音さんじゃありませんか!」
【楼座】「………あぁ、そうだったわね。……紗音ちゃんなら、朱志香ちゃんも部屋に入れてくれるかもしれない。でも、あなたはお父様のところにいたはず。………でも実は、……あなたが犯人なの……………?」
【譲治】「しゃ、……紗音が犯人のわけはない! お祖父さまのところで大切な用事をしていたとさっき言ったはず!」
 楼座は、そういう名目で犯人側の打ち合わせに呼び出されている。金蔵がすでに死んでいることについては、昨夜のうちに知らされている可能性が高い。
【楼座】「えぇ、わかってる。紗音ちゃんと源次さんは犯人じゃない。ずっと一緒にいたとお父様も認めてる。………さて、みんなはどう考えるかしら…?」
 そう言われて、返事のできるものなどいない…。仮に反論したなら、代わりに別の疑わしい人物の名前をあげなければならなくなるからだ。……そして、その人物の名前が誰であれ、ここにいる。…そんなこと、できるものか。
 楼座叔母さんはじろりじろりとみんなの顔を見比べながら、銃を玩具のようにいじっている…。………普段のやさしい楼座叔母さんからは、その姿はあまりにかけ離れている。
 …いや、自分の危機感がまだ足りないのだろうか。…楼座叔母さんのそれが、当然であると考えるくらいでなければ、自分には危機感が足りないのだろうか…。
【楼座】「意見はないようね。じゃあ私の意見を言うわ。」
【楼座】「嘉音くんが死体なき犠牲者である可能性はもちろん否定できない。でも、死体が見付からない限り、嘉音くんが容疑者である可能性もまったく否定できないわ。……ひょっとすると嘉音くんは、犯人に襲われてどこかに監禁されていた…、というような口実で、ひょっこりと現れるかもしれない。」
【楼座】「でも、用心して。多分恐らく、いや確実ね。………嘉音くんが、朱志香ちゃんを殺した。」
【戦人】「…………ば、………………馬鹿な…………。」
【紗音】「わ、…私には信じられません…。嘉音くんが、………お嬢様をなんて、……あんまりです!!」
【譲治】「僕も紗音に同じだよ。嘉音くんが犯人だと決め付けることには反対だ。」
【楼座】「なら、郷田さんと熊沢さん、どっちが犯人なの? 怪しい方を教えて。」
【郷田・熊沢】「「わわわ、私たちではありません!!」」
【楼座】「嘉音くんじゃなくて、この扉を施錠できるのは、誰なの? 紗音ちゃん。譲治くん。……ねぇ? ねぇねぇねぇ…?」
 楼座叔母さんは、気持ち悪く笑いながら紗音ちゃんと譲治の兄貴に詰め寄る。…もちろん、二人は何も言い返せなかった。嘉音くんを信じたい。…しかし信じたならば、他の使用人を疑わなければならなくなる。
 一番簡単な犯人は、謎の来客ベアトリーチェだ。……しかし彼女は客に過ぎずマスターキーは持っていない。………なら、マスターキーもなく、ベアトリーチェが犯人だとするなら。…彼女が本当に魔女で、魔法の力で施錠したと、……こういう論法を認めなくちゃならないのか……?
【戦人】「…………汚ぇ論法だ…。……汚ぇ……、汚ぇ……。」
【ベアト】「何を悩む。妾のせいにしてしまえぃ。19人目の謎の来客のせいにすれば良いではないか。そうすれば、人間どもの醜い押し付け合いを見ずに済むぞ…? くっくくくくくく!」
【戦人】「つまりなんだよ。犯人は19人目の来客、ベアトリーチェ。…こいつは魔女だから、マスターキーがなくても魔法で施錠できたと。そいつを認めろってのかよ? ふざけるな…! …ふざけるなふざけるな…!!」
【ベアト】「……くっくくくくくく。前回のゲームで、お前の弱点は知り尽くしているぞ。さぁ、どうするどうする…? お前は妾を絶対に認めないのだったな? なら、………嘉音というちょうどいい生贄を使えば良い。」
【ベアト】「嘉音が朱志香を殺した! 楼座の説を支持すればこの場は丸く収まるぞ? 嘉音はもう死んでいるのだ。死者に気遣う必要などあるまい。そして、この場にいる誰も疑わずに済む! くっくくはっはははははははははは!」
【戦人】「畜生ッ!! お前を認めたりはしない!!! でも、……嘉音くんが犯人だなんて、……そんなことはありえない!!」
【南條】「………私は誰も疑いたくありません。…しかし、疑わしきはクロ、ということもあるにはあります。……とにかく、用心するに越したことはないでしょうな…。」
【紗音】「な、…南條先生…。それはどういう意味ですか…。」
【南條】「…その、勘違いしないで下さい。…私は嘉音さんを犯人だと決め付けたいわけじゃない。……しかし、事情がわかるまで、嘉音さんが犯人の可能性もあると、そう思っておいた方が安全だというのです。」
【熊沢】「ほ、……ほっほっほ…。そうですわねぇ…、用心はしてし過ぎることはありませんもの。」
 場の雰囲気は、決して南條を責めなかった。嘉音が犯人だなんて、本当のところ、誰も思っていない。…しかし、彼を疑わなければ、今この場にいる使用人の誰かを疑わなければならなくなる。……それが嫌だった。疑うのが、嫌だった。疑われるのが、嫌だった。
【楼座】「それで正解よ。……警戒して、し過ぎるということはない。それについて異論はないわね?」
【楼座】「いい? …この殺人事件にはお父様の黄金伝説が関わっている可能性がとても高い。だとすれば数百億円の莫大な黄金を独り占めしようと企む何者かの犯行に違いない。……それだけのお金が手に入れば、どこの国でも生涯遊んで暮らせるわ。…その為なら、私たちを皆殺しにすることだってあるかもしれない。」
【真里亞】「…………………………。」
【楼座】「マスターキーを持っていないという理由で、朱志香ちゃん殺しについてだけは19人目の来客、ベアトリーチェを容疑者から外した。でも、事件に関わってないとは言えないわ。……何しろ、莫大な黄金ですもの。犯人は複数人いる可能性だって否定できない。……今この瞬間、この中に犯人に買収されている人間が混じっているかもしれない!!」
 楼座叔母さんはそう叫びながら、銃を構えたままぐるりと見回す。……誰も信じるな、隣人を疑え、…そう言っているのだ。でも誰も疑いたくない。…ここにいる誰かを疑いたくない。その心の弱さが、ここにいない者へ仮の答えを求めてしまう…。
【楼座】「容疑者でないと信じることができるのは2つしかない。………自分自身と、そして死体になった者だけよ。………それは嘉音くんも同じ。」
【楼座】「死体が見付からない限り、彼は朱志香ちゃん殺しの最有力容疑者なのよ!! だから用心して。もし生きてたとしても、何かの理由を取り繕っても、絶対に信用しちゃ駄目よ! いいわね?!」
 積極的に返事をした者はいない。……しかし、楼座叔母さんと目が合った者は、頷かざるを得なかった…。
 人間ってのは社会を形成して生きる生き物だ。……つまりそれは、生まれながらに信じあうことが遺伝子に刷り込まれてるってことだ。…それに、逆らわされる不快感。
 誰かを疑いたくなんか、絶対にない。
 …しかし、それでも誰かを疑わなくてはならないなら、…今この場にいない人間を選ぶのが、一番無難だと思った。無難だと、いうだけの理由で、嘉音を生贄にすることを、消極的に、選んだ。
 そんな馬鹿な………。俺は嘉音くんが犯人だなんて、絶対に信じたくない! ついさっき、譲治の兄貴に聞いたが、あの二人は歳が近かったこともあり、楼座叔母さんの指摘していたような思春期的な関係があったという。
 ……今更ながら、なるほど、そんな気配は確かにあったように思う。両親の無惨な遺体を見て、心に深い心を負った朱志香が、嘉音くんにだけは心を許した。…それはとても考えられる話だ。
 だから、気に入らない…!! 唯一心を許せたのが嘉音くんだった。だから、嘉音くんしか部屋に入れなかった。だから、朱志香を殺せたのは嘉音くんしかいないという論法が、……どうしても納得できない……!!!
【楼座】「…わかったッ?! 嘉音くんがもし現れても油断しないで! 嘉音くんの無実を証明できない限り、私たちは朱志香ちゃん殺しの犯人を、嘉音くんだと仮定します!!」
 楼座叔母さんはそう断言した。仮定という、ほんの少しだけ曖昧な言い方が、…最終的に全員の背中を押した。一堂は弱々しく頷き、……………朱志香殺しの犯人は嘉音だと、とりあえず仮定という言い訳の名の下に、………“断定”した…。
 楼座は妥当な推理をしているように見えるが、肝心なところでは紗音と源次に疑いが向かないように振る舞っている。
 ………そのやり取りを、もし死んだ朱志香と嘉音が聞いていたらどう思っただろう。
 朱志香は、泣いていた。……自分のために命を懸けて戦ってくれた嘉音の胸で、泣いていた。
 悔しかった。胸が張り裂けるほどに悔しかった…。死者の尊厳が、これほどまでに踏みにじられることを、悲しみ、憤っていた…。
【朱志香】「…あいつら、…何で嘉音くんのことを犯人扱いするんだよ…ッ!!」
【嘉音】「……………………死体が、…ないからです。」
【朱志香】「死体がないと、何で犯人扱いなんだよ?! 嘉音くんは私のために、命懸けで戦ってくれたんだぜ…?! それで、……あの魔女に戯れに死体を消されて……! それで犯人は嘉音くんだなんて、ひどいぜ、ひどすぎる!!」
【嘉音】「………いいんです。……結局、守りきれなかったけれど…。………最期に、お嬢様のお役に立てたのですから…。」
【朱志香】「それを、……どうしてみんなわかってくれないんだよッ?! やめろ楼座叔母さん!! そんな滅茶苦茶な推理で嘉音くんを犯人だなんて決め付けるなッ!!」
【嘉音】「………犯人だとは言ってません。…疑わしいと、……いえ、……用心しようと、そういう話ですから。」
【朱志香】「言ってるよ!! こいつらは嘉音くんが犯人だということにして、きっと思考を停止する! もう、私を殺した犯人が誰かなんて考えないよ! 嘉音くんが犯人でない可能性なんて考えないよ!! そしてこの後も何かある度に、行方不明の嘉音くんの仕業にして言い訳を繰り返す!! ……私はッ、そんなの堪えられないよ!!」
【嘉音】「……………いいんです。…お嬢様だけは、真実を知っています。」
【朱志香】「私だけが知ってたって意味がないんだよ!! 死んでわかった。真実ってのは生きてる人間のものだ!! 真実が残らなかったら、死者は報われない!! 何のために嘉音くんが命を懸けたのか、わかんなくなっちゃうッ!!」
【ベアト】「くっくっくくくくくく、はっははははははははははは! 実に愉快な見物よ。死者の嘆きほど甘い蜜も珍しい。」
【ベアト】「嘆け嘆け。そなたがいくら嘆こうとも死者の声は決して生者には届かぬ。」
【朱志香】「畜生、畜生ォオオォ!! 誰でもいい!! 私の声を聞いてくれッ!! 嘉音くんは犯人なんかじゃない!! 嘉音くんは死体を消されただけなんだ! どうして、どうしてそれがわかんないんだよ!!」
【嘉音】「………お嬢様。」
【朱志香】「……こんなの嫌だ!! 悲しい! 悔しい!! これじゃ、……嘉音くんは殺され損じゃないかッ!! 死者の名誉は、生者が認めなきゃ得られないんだ! 誰でもいい! 気付いて!! 気付いてくれよ、お願いだよ!! 嘉音くんは犯人じゃないッ!! あぁああぁぁあぁ、行くなよ、行くなよみんなッ!! 頼むから、そのままで終わりにしないで……! 行かないで、……行かないでぇえぇぇぇぇ!!!」
 楼座は、この部屋を警察が来るまで封印しようと宣言する。
 …誰が犯人か疑い合いをしたくない彼らは、それを喜んで受け入れる。……嘉音が仮の犯人ということを受け容れる。…それがどれほど、死者に屈辱を与えているか、想いも馳せずに、受け容れる。
【嘉音】「……お嬢様…、もういいんです…。……ありがとう……。」
【朱志香】「行くなよッ!! 行くなよみんなッ!! 後生だよ、戻ってくれ!! このまま、私たちを残さないでッ!!」
【朱志香】「嘉音くんを、……犯人扱いのままに……しないでぇええぇえッ!! うわあああぁあぁああああぁぁぁぁあぁ…!!」
【ベアト】「届かぬわッ!! 死者の嘆きは決して届かぬッ!」
【ベアト】「笑わせる、あぁ笑わせるぞお前のその顔ッ!! 届くと思ってるだろォ? 届かないんだよ、朱志香ァアアァ??? くっくっくくくくく、わっはっはっははははははははははははははははははははッ!!」
【戦人】「全然駄目だな。」
【楼座】「え? ………戦人くん、何か言った?」
【戦人】「あぁ、駄目だ。…全然駄目だな。」
 全員が部屋を出て行こうとする時。…戦人だけがそれに背を向け、ずっと朱志香の遺体を見下ろしていた。
【楼座】「全然駄目って、…どういうこと? 何か異論でもあるの…?」
【戦人】「警戒しようって話にだけは賛成する。……だが、嘉音くんが犯人ってことにしようって話は、悪いが拒否させてもらう。」
【ベアト】「……ほぉ。ここで食いついて来るとは。嘉音が犯人ではなく、しかも妾の仕業でもないならば、この朱志香の部屋の密室をどう説明する…?」
【戦人】「………実を言うと、それについてはお手上げだ。…まったく、俺はどうして全然駄目だなんて言っちまったんだ?」
【戦人】「…自分の言動には責任を持たねぇとなぁ。いっひっひっひ…! ……………理論武装ゼロの徒手空拳。…だがな、俺はこれ以上、指をくわえてないぜ!! ベアトリーチェ!!」
【紗音】「ば、……戦人さま……。」
【譲治】「……か、嘉音くんが犯人ではないという証拠でもあるのかい……?」
 二人の顔に浮かぶ表情は間違いなく期待。……嘉音が犯人だなんて信じたくない。本当は嘉音を信じてる。だからそれを、もっと強く信じさせてほしいという期待!
【楼座】「なら、戦人くんは、他の使用人の誰を疑うの? 郷田さん? それとも熊沢さん?」
【戦人】「よせよ、楼座叔母さん。…俺は熊沢の婆ちゃんという人をよく知ってる。……たまに仕事をサボってたりするが、いつだって人を楽しくさせようとする人だ。……たとえカネに目が眩んだとしても、殺しだけはする人じゃねぇ。」
【熊沢】「ば、……戦人さま………。」
【戦人】「そして郷田さんとは、俺は昨日会ったばかりだ。……正直、この人のことはまだよく理解していない。……だがわかったことがある。」
【郷田】「……………………わ、私は………、」
【戦人】「……こんなに楽しそうにメシを作る人を、俺は見たことがない。…同じなんだよ。熊沢の婆ちゃんと同じだ。……郷田さんは人を喜ばせるのが好きな人なんだ。」
【戦人】「そんな人が、自分のメシをうまいと褒めてくれた人を、…たとえカネを積まれたって殺すもんか!!」
【楼座】「…なら、戦人くんは誰が朱志香ちゃんを殺したというの? マスターキーでしか施錠できないこの部屋に、誰が朱志香ちゃんを閉じ込めたというの?」
【戦人】「待ちな。……それを論じる前に俺ははっきりさせておく。誰々が犯人でないなら誰々が犯人、という話がしたいんじゃない。…俺は単に、嘉音くんが犯人だということは断じてありえない、という話がしてぇだけなんだ。」
【ベアト】「犯人が嘉音ではないということを立証できるというのだな? くっくっく、どうやって!」
【戦人】「実に簡単なことさ。…危うく見落とすところだったぜ。……ベアト!」
【戦人】「復唱要求ッ!! 言えるもんなら言ってみろ、“嘉音くんはマスターキーを持っていた”!!」
【ベアト】「………………………ほぉ…!」
【楼座】「……嘉音くんがマスターキーを持っていない?! どうしてそんなことがわかるの!」
【戦人】「さっき、俺は郷田さんに話を聞いた。嘉音くんと別れる直前。…朱志香が貴賓室に殴り込みに行ったって辺りの話だ。」
【戦人】「………郷田さん、あんたはちゃんと覚えてたよ。あんたは嘉音くんの名誉を守った。」
【郷田】「……わ、……私が、…ですか…?!」
【譲治】「同じ話は僕も聞いてたよ。でも、僕にはよくわからなかった! 説明してくれるかい、戦人くん!」
【戦人】「……そうさ。朱志香は貴賓室の鍵を開ける時、嘉音くんに鍵を借りたが、返さなかった! だから嘉音くんはマスターキーを持っていないんだッ!!」
【ベアト】「くっくっくっく! それはどうかな? 確かに郷田の記憶上ではマスターキーを嘉音に返してはいない。しかし、郷田が見ていないところで返したかもしれない! それが絶対になかったとどう証明する?! くっくくくくく、嘉音の死体のポケットを調べればそれは立証できるだろうが、それはできない!! 証明は不可能だッ!!」
【戦人】「全然駄目だな。実に簡単なことじゃねぇか。」
【楼座】「……そんな…! それじゃ、嘉音くんは鍵を持ってなかったというの?!」
【戦人】「あぁ。そしてその証拠は、朱志香を調べればわかるはずだ。……朱志香のポケットに、嘉音くんのマスターキーが入ってるはず。南條先生、調べてくれるか。」
【南條】「う、……うむ。」
 南條が駆け寄り、朱志香の上着のポケットを探る……。誰もが、…それを期待する………!
【南條】「……む…。」
 …頼む。あってくれ…………!!
【南條】「……ありましたぞ! これですかな?」
【源次】「……………はい。それがマスターキーです。間違いありません。」
 源次の断言に、おおぉ、と小さな歓声があがる。
【戦人】「それが、嘉音くんのマスターキーだ。………もう一度言うぜ。」
 実際は嘉音(の体を持つ人物)が犯人であるため、ベアトは逆に、戦人が嘉音の擁護をしたくなるように演出している。
【戦人】「“嘉音くんはマスターキーを持っていない”。だから、施錠できたわけがないんだッ!!」
【楼座】「……確かに、…そのようね。……でも、嘉音くんが朱志香ちゃんに会った最後の人物なのよ。疑わしいことに変わりはないわ。」
【戦人】「よそうぜ、……そういうの。」
【楼座】「……え?」
【戦人】「人間ってのは本来、信じ合う生き物のはずだ。…なのに世知辛い世の中を生きるために、疑り深さを覚えちまう。…だから何でも疑っちまう。俺たちは悲しい生き物だな。…そのサガを、俺は否定しねぇ。」
【戦人】「……………だが、証拠なき断定だけは許さないッ!! 疑わしきはクロじゃねぇ、シロだ!! もちろん世の中は狼だらけさ。人を無用心に全て信じろとは言わねぇ!」
【戦人】「だが、クロだと断定するならば完全な証拠を用意しろ! それができない限り、絶対に憶測で人をクロだなんて言うんじゃねぇッ!!!」
【楼座】「……………ぅ……。それは………。」
【南條】「……疑わしきはクロ、は…、私の発言ですな。………軽率でした。謝ります。」
【紗音】「…………戦人さま………。」
【譲治】「…み、見事な推理だよ、戦人くん! 郷田さんもありがとう。あなたが覚えていてくれたから、嘉音くんの疑いが晴らせました!」
【郷田】「い、いや…、はははは…。」
 ぱちぱちぱち…と。…乾いた拍手を魔女がする。
【ベアト】「お見事お見事。……なかなかやるではないか。」
【戦人】「………やべぇな。まんまとエサ駒に引っ掛かっちまったか…。」
【ベアト】「そなたは見事、嘉音にだけはこの部屋の扉を施錠できなかったことを証明した。使用人は全員マスターキーを持つはず。それが根拠となり、嘉音が犯人扱いとなっていたのだから、少なくともその疑いは見事に晴らせたな。くっくくくくくく。」
【戦人】「……となると。…朱志香を殺した犯人はどうやって扉を施錠したのか。そういう問題になっちまうわけだな。ちぇ。……まんまと思い通りの展開に引き込まれちまったぜ…。」
【ベアト】「掛かったなぁ…? しかもそなたは、他の使用人たちを誰も疑わないなどと大それたことを言ってしまった。さぁて、どう言い繕うのか見物よ…。」
【戦人】「うるせぇぜ。…さっそく始めるぞ。どうせがっつり否定されちまうんだろうが、…先にこの部屋が密室であることの定義を確認させてもらうぜ。」
【ベアト】「よかろう。まず、隠し扉の類は一切ない出入りはこの扉からだけだ扉の施錠は、朱志香の鍵が一本と使用人たちが一本ずつ持つマスターキーのみ。二階ではあるが、窓から出入りすることも可能だろう。しかし窓は内側から施錠されている。」
【戦人】「……いきなりチェス盤を引っ繰り返させてもらうぜ。…多分、扉がどうこう、施錠がどうこうって論法から入るのはお前の手の平から出ない。」
【ベアト】「好きにするが良い。さてさて、何を復唱すれば良いのやら。」
【戦人】「………復唱要求。“嘉音くんはこの部屋で殺された”。」
【ベアト】「うむ。“嘉音はこの部屋で殺された”。死体は妾が魔法で消したがな? くくくくく!」
【戦人】「続けて、復唱要求。“嘉音くんの死体は、この部屋にある”。」
【ベアト】「くっくくくくくく! 拒否する。復唱はできぬ。…なぜなら、死体は妾が魔法で消したからだ。くすくすくす!」
【戦人】「そりゃあ言わねぇよなぁ。……そこにどうせ秘密があるに決まってるんだ。……くそ、謎の論点はどこなんだ。………マスターキーもなく施錠したことなのか? それとも、施錠された室内にいる二人をどうやって殺したかなのか? それとも、二人を殺し、どうやって脱出したかなのか?」
【戦人】「……悔しいが、外堀から埋めてくしかないぜ。…復唱要求。……“最後の施錠は、マスターキーによるものである”。」
【ベアト】「これも拒否する。くっくっくっくっく。」
【戦人】「……その拒否ってヤツがどうも曖昧だな。…復唱不能だから拒否なのか、本当は復唱できるのにわざと拒否してるのかがわからねぇ…。」
【ベアト】「礼拝堂の鍵の時は、そなたにすっかり逆手に取られてしまった。妾が有利な内は、わざわざリスクのある赤を使って発言する必要がない。ただそれだけのことよ。」
【戦人】「………そうなんだよな。…本来、赤ってのは、俺の珍説をあんたが封じる時に使うもんだったんだよな。」
【ベアト】「妾が有利になるように使うのは当然のこと。揚げ足を取られるリスクがわかっている以上、無駄には使わぬ。」
【ベアト】「…くっくっくっく。さて、次はどういう手で来る? 郷田や熊沢を疑う手が、おそらく一番使いやすいぞ…?」
【戦人】「……くそ。誘導されているようでムカつくぜ…。しばらく黙ってろ、考える…!」
【ベアト】「もちろん、この扉は礼拝堂の時と同じだ。施錠時には如何なる方法をもってしても出入りは出来ぬ。さらに言うと、部屋の外から鍵を使わずに施錠するようなカラクリも通用せぬぞ。くっくっくっく…!」
【戦人】「ちぇ。頼まれてねぇ時にばかり赤を乱発しやがって…。」
 …………仕切り直しだ。…とにかく考えよう。わかってることを整理する。
 まず、犠牲者は2人。朱志香と嘉音くんだ。…嘉音くんの死体はないが、ベアトリーチェは赤で嘉音くんが殺されたことを認めている。だから死体はなくとも犠牲者に含まれる。
 疑問点はいくつかある。そしてどれを主体にするかで考える道筋はだいぶ変わってくる。
 まずは、この部屋で犯人が殺人を行ない、どうやって施錠したかだ。これは、犯人がマスターキーを持った人物だったと仮定すれば非常にシンプルだ。
 ……だが、出来ることならこれを避けたい。なぜなら、郷田さんか熊沢さん、…いや、下手をしたら紗音ちゃんや源次さんまで疑うことになるからだ。
 ここで俺は気付く。……俺は矛盾しているのだ。自分で自分の首を絞めている。
 俺は何が何でもベアトリーチェを否定したい。こんな残忍で気まぐれでふざけた魔女の存在をブッ消してやりたい! その為にあらゆることを魔法でなく、人間で説明しなくてはならない。……しかしそれは、人間の誰かを疑うということでもある。
 俺は誰かを疑いたくない。……もちろん、明白な証拠があるならば犯人であることを信じざるを得ないが、…それがない限り、疑いをかけたくない。俺が青臭いだけなのだろうか…? あの人に限って人殺しのわけがないという気持ちを、裏切られたくないだけのお子様だったのか…?
 魔女を否定したい、人間も否定したい。………これでは何が何だかわからない…。
【ベアト】「くっくっくっく! そもそもそなたと妾のゲームは、妾の存在を否定できるかどうかだけが勝利の条件だった。…それだけでもそなたに不利なゲームなのに、そなたは勝手に勝利条件を増やし、自ら勝利を困難なものとしてしまっている…!」
 ……言われる通りだ。…マスターキーを持つ誰かが犯人だという論法で展開すれば、この密室は簡単に破れる。……しかし、この扉を開けられる鍵の本数が限定されていて、しかもそれを持つ人間がはっきりしている以上、それを口にすることは即ち、俺のよく知る誰かを疑うということだ…。
 …いや、……単に俺が目を逸らしていただけなのだろうか。爽快に打ち破って見せたと思っている礼拝堂の密室トリックも、俺の提唱した“誰かが真里亞の手提げから鍵を奪い、戻した”という説が正しいとしたなら、じゃあ誰が手提げから鍵が奪えたのかという話になる。
 …真里亞の手提げがもっとも無防備だったのは、多分、真里亞が寝ている時。……となれば、………俺も含め、…譲治の兄貴や朱志香も容疑者ということになる。
 譲治の兄貴や朱志香が犯人? もしくはその一味?!
 ……俺たちはみんな自分の親を殺されてるんだぞ?! なのに、……なのに、その内のひとりは、それを承知で犯行に協力したというのか?!
 俺たちは礼拝堂で嘆き、悲しみ、涙を流した。…なのに、俺たちの内のひとりのそれは、……嘘だったというのかッ?!
【ベアト】「……くっくっくっく。そなたの例の、手提げから抜き出し戻したという説は、いとこたちを色濃く疑うものであったのだぞ…? にもかかわらず、それに気付かないフリをして、よくもあれだけの説をしゃあしゃあとのたまえたものよ…! くすくすくす。」
【戦人】「く、…………くそ…。だからって、親族や使用人の誰かが犯人だって保証はねぇ! お前が、例えばダンボール箱にでも隠れながらコソコソと近付いてきて、熟睡してる俺たちの部屋に忍び込んで鍵を奪った可能性だって充分あるじゃねぇか!」
【ベアト】「ふむふむ。それについてはそれでもよかろう。19人目の来客である妾を疑うことで、彼らに疑いをかけずに済む。」
【ベアト】「………ならば、朱志香の部屋の施錠はどうする? 妾は魔法で鍵を開けることは造作もないが、さすがにマスターキーは持たぬ。妾の魔法を否定するならば、妾を疑うことも否定せねばならんぞ…?」
【ベアト】「そしてそれはつまり、そなたら18人の中の誰かを疑うことよ…!!」
【戦人】「し、……親切にありがとうよ。…少し整理できたぜ。……俺にとっての目的は、ニンゲンである19人目の来客、ベアトリーチェがどうやって犯行に及んだかに迫ることだ。そうすれば、誰も疑わずに済む!!」
【ベアト】「くっくっくっく! それが出来ればなァ? 愚かな男よ。……こんな部屋、本来は密室でも何でもない。何しろ、開けることの出来る鍵は、合計で6本もあるのだからな。」
【ベアト】「そしてそれらの所有者は何人もいる! 誰でも疑える! 疑い放題よ!! なのに、お前はわざわざそれらを全て否定し、自分で密室を作ってしまった。」
【ベアト】「………わかるか? これは、お前の思考的矛盾が生み出した密室なのよ。くっくっくっく! 他の誰でもない、そなた自身が扉を閉ざしているのだ。」
【戦人】「……魔女が魔法で開けたことを認めるか、…俺の知る誰かが犯人であることを認めるかの二択だって言いたいんだな。くそ、王手飛車取りのつもりかよッ!」
【ベアト】「こういう指し手もあると披露したかったまで。」
【ベアト】「……くっくっく。さぁてどうする右代宮戦人ァァアァ? 実に簡単な話じゃアないか…? あの自意識過剰な料理男と、死に損ないのクソババアを、ちょいと生贄に仕立て上げるだけじゃアない。くーっくくくくくくくくくくくく!!」
【戦人】「……………くそ!! 郷田さんと熊沢さんを疑えばそれでいいのか?! 駄目だッ! ………俺は郷田さんが犯人だとは思えない! 熊沢さんが犯人だとは思えない!! だがお前は認めないッ!! 絶対だッ!!」
【ベアト】「ならば、魔法もマスターキーも使わずにこの部屋に入り、朱志香と嘉音を殺し、しかも嘉音の死体を魔法を使わずに消失させねばならない。」
【ベアト】「……どうやって行なう?! 妾を否定しつつ、誰も疑わずにどうやって行なうのかッ!! くっくくくくくくくくくく!」
【戦人】「…………リザインだ。」
【譲治】「え? 戦人くん、今何て?」
【戦人】「……降参だよ。俺は嘉音くんにこの扉が施錠できないことは証明できた。……だが、だからといって、朱志香を誰が殺したのかを特定できたわけじゃない。」
【紗音】「い、……いえ、…充分です…。その、……嘉音くんのために、…ありがとうございます…!」
【戦人】「……礼なんかいらねぇ。それはつまり、……紗音ちゃんも疑ってるってことなんだからよ。」
【紗音】「…………………。」
【戦人】「…楼座叔母さんもごめんよ。……別に反抗したかったわけじゃない。俺も死にたくないし、親父たちの本当の仇を見つけ出したい。……協調性のないことを言って悪かったぜ。」
【楼座】「……うぅん、いいの。私も、少し軽率だったわ。仲直りしましょう。叔母と甥同士、仲良くしないと。…………ね?」
 楼座叔母さんは銃を片手で持ち直すと、空いた手で握手を求めてくる。…俺はそれに手を差し出し、とりあえずの握手をする。
 叔母さんのその眼光は鋭い。……魔女を否定するためなら、誰だって生贄にする。…目がそう言っている。
 俺は…? 魔女は否定する。……でも、何も失う覚悟がない。多分俺は、一番戦っているようなつもりでいて、……一番真実から遠い場所にいる。
 紗音のマスターキーで施錠可能。

狼と羊のパズル
10月5日(日)13時00分

客間
 朱志香の死により、犯人は身近に潜んでいて、しかも隙あらば命を狙ってくることが確実となった。
 源次さんの話によれば、明日の朝になれば船が来てくれるはずだという。船には無線もある。それで直ちに警察へ連絡できるだろう。
 俺たち全員は客間に集まり、大人しく明日を待とうということになった。屋敷内を捜索して犯人の手掛かりを捜すべきだと俺は提案したが、それによって犯人を追い詰めたり、あるいは挑発することになれば、第三の殺人を誘発することになるかもしれないとして楼座叔母さんはそれを却下した。
 …恐らく、それは正しいだろう。自分たち素人が何を捜査したって、何も掴めるわけがない。余計なことをせず、身の安全を守ることに専念し、明日以降、警察に委ねるのがもっとも賢いことだった。
 最初の内はぴりぴりしていたが、楼座叔母さんを除き、ほとんどの者は午前中いっぱいをテレビを見て過ごしている内にだんだん退屈になり、危機感がだいぶ薄れてしまうのだった。
 考えてみれば、第一の殺人は確かに6人もの大人が一度に殺されているが、それゆえに毒殺などの搦め手による殺人を想像させた。
 そして、第二の殺人は、不幸にも皆から孤立してしまったことによって犠牲となったと思われる。
 ここから想像できるのは、犯人は決して大人数ではなく、客間に集まった大勢を一度に殺せてしまうような存在ではないこと、だった。
 この客間には今、俺に譲治の兄貴。真里亞。楼座叔母さん。そして源次さん、郷田さん、紗音ちゃん、熊沢さん、……あと南條先生で9人もの人間がいる。
 しかも楼座叔母さんは銃で武装までしている。確かにこの人数でこの部屋に留まっている以上、容易に手出しはできないに違いない。その安心感は、時間と共に今朝のショックから少しずつ俺たちを立ち直らせていくのだった…。
 ちなみに俺たちはランチタイムを終えたばかりだ。もっとも、郷田さんが腕を振るってくれた昨夜のディナーからは程遠い、缶詰のランチだった。
 …楼座叔母さんもまた、親父たち6人の殺人は毒殺ではないかと疑っていた。
 …ならば、朝の混乱中に犯人が厨房に侵入し、食材に毒物を混入している可能性も否めない、ということなのだろう。……楼座叔母さんは、警察が来るまで、缶詰などの安全な食品以外は口にしないよう全員に厳命したのだった。
 料理人の郷田さんにとって、それはよほど残念なことだったに違いない。それでもせめて腕を振るいたかったらしく、郷田さんはお皿を持ってきて、せめて缶詰の盛り付けをしたいと言い出すのだった。
 最初は楼座叔母さんも渋り、持ってこさせた皿をいちいち点検していたが、文句の付け所が特に見付からず、郷田さんによる、“シェフの気まぐれ風缶詰の盛り合わせランチ”はこうして実現したのだった。
 郷田さんに言わせると、味は舌だけでなく、目でも味わうものだとか。…なるほど、同じ缶詰を朝食でも食ったが、まったく別物に感じるのだった…。
【真里亞】「うー、戦人。見て見て。これが“狼と羊のパズル”。うー。」
 テレビを見る気にもなれず、ぼんやりとソファーに座っていた俺のところに、真里亞がやって来て、手提げから取り出した絵本を差し出しながら言った。
【戦人】「……何だよ、その本は。“狼と羊のパズル”? ………………どれどれ。」
 “狼と羊のパズル”。今朝、朱志香を呼びに行こうとした時、楼座叔母さんが口にした単語だ。…あの場ではどういう意味かわからず、しかもその後、朱志香の遺体が見付かり大騒ぎになったため、すっかり忘れてしまっていた。
 真里亞が差し出した本は、外国の絵本か何かを翻訳したような感じだった。中を開くと、なぞなぞの詰め合わせ本であることがわかる。
【真里亞】「うー。何匹かの狼と羊をね? 一台のボートを使って対岸まで連れてくパズルなの。」
【戦人】「……んー? そんなルールのゲームを聞いたことあるな。これはそれの狼と羊バージョンなのか。」
 昔から伝わるとてもシンプルなパズルだ。一問、出題してみよう。
 右の岸に、狼2匹と羊2匹がいる。そして、2匹までが乗れるボートがあり、これを使って、4匹全部を、対岸の左の岸に移動させる、というパズルだ。
 ルールは2つある。1つ目はボートについて。狼でも羊でも、そして1匹でも漕ぐことができる。ただし定員は2匹までだ。
 2つ目は狼について。彼らは、その場所において羊よりも数が優位になると、羊に襲い掛かってしまい、ゲームオーバーになる。
 例えば、ゲームスタート時。2匹の羊がボートに乗り、対岸に行く。そして羊1匹を降ろし、羊1匹が元の岸に戻ってくる。……すると、元の岸には、狼2匹。そこに羊が1匹で帰ってきてしまう。そうなると、狼の方が多いので、襲われてゲームオーバーになってしまうわけだ。
 左右のどちらの岸においても、そしてボートの上においても、常に狼の数が羊を上回ることがあってはいけない。その状況下で、どうやってボートで彼らをピストン運送するかというパズルなのだ。
 ちなみに正解は、第1ターンに狼2匹を対岸に。そして狼1匹が戻る。第2ターンに羊2匹が対岸に。そして狼1匹が戻る。そして第3ターンに右岸に残った狼1匹をボートに乗せ対岸に行き、見事、輸送成功となる。
 途中、船や左右の岸で、狼と羊が同数になることがあるが、同数なら問題ない。狼の数が上回ってしまった時だけがアウトなのだ。
 この本では狼と羊に例えてあるが、他の例えで同じゲームを知る者も多いだろう…。真里亞は、自分が解き方を知っているパズルを、俺も解けるか試したいらしくて、これを解け、これは難しい等々、様々なページを開いて見せるのだった。
 このパズルの名を、楼座叔母さんはどういう時に口にしたんだっけ…。
 そうだ。…朱志香を呼びにいこうってことになって、男が何人かで行けばいいだろう何て言ったら、楼座叔母さんが“狼と羊のパズル”と口にして、みんなで一緒に行こうと言い出したのだ……。
【戦人】「……………………………おいおい…。」
 意味するところはひとつしかない。…楼座叔母さんは、俺たちの中に「狼」が混じっているというのだ。そして、狼と羊の数が均衡している時は安全だが、それが崩れた環境が現れた時、狼は牙を剥くと、…そう考えている……?
 楼座叔母さんは、親父たちの死体が見付かった時点で、使用人たちが「狼」である可能性を疑ったのだ。全員か、それとも一部なのかはわからずとも「狼」が潜んでいる可能性を嗅ぎ取ったのだ。
 ……そりゃそうだ。あれだけ手の込んだ殺害現場だ。複数犯であることを想像するのは容易だった。
 そして、この考えに至った上で、朱志香の部屋に行き、朱志香と使用人の嘉音が二人きりになって朱志香が殺されたとなれば、………あれだけ使用人を執拗に疑った楼座叔母さんの胸中を察することは、想像に難しくない…。
【楼座】「使用人の皆さん。郷田さんが食器を洗いに厨房に戻ります。念の為です、皆さんも同行してください。」
【郷田】「皆さん、申し訳ありません。団体行動で参りましょう。」
【源次】「……紗音、熊沢。行くぞ。」
【熊沢】「はいはい、ただいま。ほっほっほ。」
【紗音】「それでは譲治さん、一度失礼いたします。」
【譲治】「うん。………気をつけて。あ、楼座叔母さん、僕も一緒に行っていいかな。」
【楼座】「ごめんなさい、譲治くんは残ってくれるかしら。ちょっとお話ししたいことがあるの。」
【譲治】「……そうですか? 紗音、ごめん。とにかく気をつけて。…ひとりにならないでね。」
【紗音】「…はい…。」
【楼座】「南條先生、すみません。……ちょっとご相談が。」
【南條】「はい、……何ですかな? ……………………。」
 使用人たちが食器や空き缶を配膳台車に載せて廊下へ出て行こうとする。その背中で、楼座叔母さんは何かを南條先生に小声で話していた。
【南條】「…わかりました。参りましょう。」
【楼座】「えぇ、よろしくお願いしますね。」
 南條先生は読んでいた本を閉じるとソファーを立ち、使用人たちの後について行くのだった…。
 楼座叔母さんは廊下に顔を出し、彼らが完全に去ったのを見届けると、扉を閉め、言った。
【楼座】「みんな聞いて。これで今ここにいるのは右代宮の人間だけね。」
【譲治】「……ん? 確かにそうなりますね…。」
【戦人】「“狼”を全部追い出した、ってことっすか。……楼座叔母さん。」
 俺の一言に、楼座叔母さんは目つきを鋭くする。…皮肉を理解できたらしい。……楼座叔母さんは薄く笑う。
【楼座】「…戦人くんは頭の回転が速いのね。賢い子は好きよ。話が早いわ。」
【真里亞】「うー。戦人、頭いい…? これ解ける? 64ページの難しいの。うー!」
【楼座】「真里亞は少しの間、テレビを見ていなさい。ママは戦人くんたちとお話があるの。」
【真里亞】「………………うー。」
【譲治】「楼座叔母さん。…パズルの話は戦人くんに聞いたよ。…用心深いのは悪いことじゃないと思うけど、さすがに疑り深すぎるのもどうかと思うよ。」
【楼座】「真の犯人がベアトリーチェかどうかは別にして。少なくとも使用人たちがその一味であることを疑うことはできると思うの。……兄さんたちが殺されていた最初の殺人。とても残酷な仕打ちがされていたわよね? あれがひとりで出来る真似に見える?」
【戦人】「…………謎の来客、ベアトリーチェさまが夜なべをして、チクチクやったのかもしれねぇぜ。」
【楼座】「朱志香ちゃんの部屋の扉を巡るマスターキーの件は? 使用人の誰かが関わっている証拠じゃない。」
【戦人】「……ん………………。」
 朱志香の部屋の扉を施錠できたのはマスターキーだけだ。…となれば、使用人の誰かが閉めたとしか考えられない……。………いや、……待てよ。
【戦人】「チェス盤を引っ繰り返すぜ。……おかしいよ、楼座叔母さん。」
 楼座は南條に、使用人たちがおかしなことをしないように見張っていてほしい、というようなことを言って追い出す。
【戦人】「何で犯人は朱志香を殺した後、わざわざ施錠したんだ? 施錠すればマスターキーの持ち主が疑われるのは必然。……わざわざ施錠する必要がないぜ。」
【譲治】「…そ、そうだよ。戦人くんの言う通りだ! わざわざ疑われるようなことをする理由がない。」
【楼座】「うん。それは面白い考えよね。もちろん私もそれは考えた。……だとしたら施錠した人物は使用人を疑わせたくて、マスターキーなしであの扉を閉めた。でもそれは不可能。でしょう?」
 ……そうなのだ。マスターキーを使わずに施錠するトリックがあれば、これは使用人を疑うように仕向ける良い偽装になる。…犯人が俺たちを孤立させて各個に襲おうと考えているなら、このトリックは疑心暗鬼も生み出せる高度なものだ。しかし、マスターキーを使わずにあの扉を閉める方法はない…。
【楼座】「マスターキーを使わずに閉める方法がない、なんて、どうして言い切れるの? 留弗夫兄さんの言っていた、悪魔の証明になるんじゃない? 私たちには想像もつかない方法で閉められたのかもしれない。」
【楼座】「私たちに思いつかないからと言って、未知のトリックがあることを否定することにはならない。」
【戦人】「…………そりゃそうだけどよ。…つまりあれか。疑わしきはクロってわけなのか…?」
【楼座】「具体的なトリックはわからないけれど、それでも外郭はわかるの。申し訳ないけど、嘉音くんを犯人だと仮定すると、非常に簡単に説明できる。死体がない理由までね。」
【譲治】「え……。だって嘉音くんはマスターキーを持ってなかったんですよ?! 他の使用人ならともかく、嘉音くんにだけは施錠はできなかったはず!」
【戦人】「……なるほど。…それで楼座叔母さんは、朱志香の部屋に入って早々に、俺たちにクローゼットなんかを探せと言い出したわけか。……楼座叔母さんこそ、…普段の様子から想像できるより頭の回転が速いな。」
【楼座】「妹の頭の回転速度は、常に姉マイナス1よ。…今は誰にも気を遣う必要がないから、せいせいするわ。」
 それが絵羽叔母さんを指しているものだとわかり、譲治の兄貴はその皮肉をどう受け取っていいか少し困惑しているようだった…。
【譲治】「……ご、ごめん。僕にもわかるように説明してほしいな。嘉音くんのマスターキーは朱志香ちゃんのポケットに入って、密室に閉じ込められていた。施錠した後に、部屋の外からポケットに入れるなんて芸当は不可能なはず…!」
【戦人】「違うんだよ、兄貴。……楼座叔母さんの想像しているやり方なら、……このトリックは嘉音くんにしか使えない。…そして、朱志香のポケットにマスターキーを入れたまま、鍵なしで施錠することができる。……そして、その結果として、死体もなくなることになる。」
【譲治】「ど、……どうやって! 鍵なしでどうやって施錠するんだい!」
【楼座】「簡単よ。譲治くんだって、帰宅したら施錠するでしょう? 摘みを捻って、カチリとね?」
【譲治】「え…?! ………ま、…まさかっ、……いや、でも、……嘉音くんの姿はどこにも……。」
【戦人】「…兄貴にもピンと来た見てぇだな。………楼座叔母さんが室内を探したのはそういうことだ。……内側から鍵を閉め、朱志香のポケットに鍵を突っ込んだ嘉音くんが、どこかに隠れて俺たちをやり過ごそうとしているのを探したんだ。」
 もっとも単純な密室トリック。…それはつまり、密室内で殺人を行なった後、隠れていることなのだ。…そして発見者たちが出て行った後に抜け出せば、密室殺人の一丁上がり……。
【楼座】「私たちはあの部屋を探したけれど、何も見つけられなかった。…でも、だからといって、あの部屋に使用人たちしか知らない秘密の隠し通路のようなものがないとは言えない。」
【楼座】「それがどこに隠されていたかはわからないけれど、その隠し通路を仮定し推理することで、彼しかありえないと断言できるのよ。」
【戦人】「………………その推理はよぅ。…俺も一番最初に考えた。……一番嫌な推理だから、一番最初にその可能性を潰したかった…。」
【ベアト】「くっくっくっく…。“嘉音はこの部屋で殺された”、であろう?」
【ベアト】「そなたは嘉音が犯人であると疑いそうになった為、真っ先にその可能性を潰すために、これを復唱させたのだ。わかっておるわかっておる。くっくっく……。」
【戦人】「…だから、その次に考えたのはこうだった。あの部屋にいたのは実は3人だったという説だ。朱志香と嘉音くんは被害者。そして犯人である来客ベアトリーチェも一緒にいた、という考えだ。」
【ベアト】「そなたは、“人間である妾”が魔法を使わずに犯行を行なったことにしたいのだったな。なるほど、そなたにぴったりの珍説であるぞ。くすくす。」
【戦人】「……お前は二人を殺し、内側から施錠した。そして、嘉音くんの死体を担いで、普通の人は気付かない秘密の方法、……つまり、隠し扉を使って部屋から脱出したんだと読んだ。」
【戦人】「しかしお前に赤で言われちまった。…あの部屋に隠し扉の類はないってな。」
【ベアト】「うむ。お前たちの知らない秘密の通路は存在せぬぞ。ノックスだったか、ヴァンダインだったか。何でもミステリーには秘密の通路があってはいけないらしい。そのお作法に妾も従ったということよ。」
【ベアト】「つまり名探偵は、部屋を調べ尽くさずして、隠し通路がないと断言できるわけだ。………くっくっくっく、人間の推理ごっことは何とお気楽なものよの。」
【戦人】「くそ、デケェこと言いやがるぜ…。ありがとよ。魔女さまのお取り計らいのお陰で、俺も部屋を探し尽くさずに、あの部屋に隠し扉がないと断言できるぜ。」
【ベアト】「うむ。この部屋に隠し扉はない扉と窓以外に出入りする方法はない。」
【戦人】「……ってことはよ。…今、楼座叔母さんがぶってる自信満々の仮説は、……間違ってるってわけだ。…しかも悔しいことにこの仮説は反証不能だ。……魔女のお前は、赤で“隠し扉はない”と断言すればそれで決着する。」
【戦人】「……しかし人間の俺は、楼座叔母さんにそれを反論しても受け容れられないだろう。隠し扉がないことを人間は証明できない。悪魔の証明になっちまう。……………くそ。魔女ってのは便利だな…。」
【譲治】「……そんな! あるかないかもわからない隠し扉を理由に、嘉音くんを犯人呼ばわりするなんて…。僕は、…納得できないな。」
【楼座】「納得できないなら、より納得できる推理を聞かせて? ………ないのよ。私はずっと考えてる。これしかないのよ!」
【譲治】「…………………………。」
【楼座】「譲治くんは紗音ちゃんと仲が良かったわね。だから使用人全員が犯人であることは受け容れがたいと思うの。私も、紗音ちゃんが犯人の一味であるなんて信じたくない。………でも、全員であるか否かはともかく、確実にあの中に犯人もしくは共犯がいるのよ。それだけは見誤っちゃ駄目!」
【戦人】「……嘉音くん以外にも狼がいると見てたんなら。…朱志香の部屋で犯人は嘉音くんだと大騒ぎしたのは、使用人たちの反応を見るため、だったっていうのか…?」
【楼座】「えぇ、そうよ。そしてその結果、私は一層の疑いを持つに至ったわ。……確実に使用人の中に狼がいる。確実にね。そして、“狼と羊のパズル”のように、普段は大人しくしているけれど、チャンスがあったら襲ってくるに違いないの。」
【楼座】「……朱志香ちゃんは一人で船に乗った羊よ。……あのパズルでは等数の時は襲ってこないけど、私たちのパズルは違う。チャンスと人数次第なら等数でも襲ってくる。朱志香ちゃんが殺されたように!」
【譲治】「………ぼ、僕は怒りたいことがある! じゃあ、厨房へ行かされてる紗音は危険な状態じゃないか!! 今すぐ僕たちも厨房へ行くべきだ! 誰が狼だろうと狼でなかろうと! 僕たち全員が揃っていれば均衡するなら、それを保ち続けるべきだと思う!!」
【楼座】「……紗音ちゃんは、お父様のところへ源次さんと一緒に行った。その時に孤立したはずなのに殺されなかった。源次さんも狼ではないから?」
【楼座】「……違うわ! 二人とも狼だったからよ!!」
【譲治】「紗音は悪事の片棒を担ぐような人じゃないッ!! いくら楼座叔母さんでもそれは聞き流せません。今の発言に対し、僕は取り消しを要求します…!」
【戦人】「…兄貴の前で悪いが、その論法。……絵羽伯母さんの雰囲気にそっくりだなぁ。こっちが反論できなきゃ自動的に自分が正しいみたいな。……やっぱり血は争えないな、叔母さん。」
【楼座】「………私だって、今の自分はあまり褒められたものじゃないとは思ってる。でもね、私は母なの! 真里亞の無事を守るためなら鬼にもなるわ。本当なら、真里亞と二人きりでどこかに閉じ篭っていたいくらいよ。」
【楼座】「……でも、私は同時にあなたたちの母でもあるつもりなの。今やあなたたちは私の子どもも同然。……私は自分の子じゃないからと言って、…あなたたちを見捨てたりしない。………絶対。」
【戦人】「……そりゃどうも。」
【楼座】「私は、あなたたちの母として、油断しないでと警告したかっただけなの。常に私の目に届くところにいて。私があなたたちを守ってあげる。」
【戦人】「ついでに、俺たちが“狼”でないことも、監視してくれるってわけだ。…そりゃあありがたいぜ。………そういう叔母さんは自分が“狼”ではないって証明はできるのかよ?」
【楼座】「えぇ、できるわ。」
【戦人】「即答っすね。どうやって。」
【楼座】「これよ。…これが証拠よ。」
 楼座叔母さんは銃を構え、その銃口をあろうことか俺に向ける。
 しかし、それは一瞬のことだ。すぐに悪戯っぽく笑いながら銃を下ろす。……しかし俺には、銃口の中が覗けるくらいに長い時間に感じられた。
【譲治】「…その銃が、どう楼座叔母さんが犯人でないことを証明するというんですか。」
 ベルン曰く「常に最善手を指しているわけではない」。わざわざ疑われるようなことをする理由があるとすれば何か、という逆転の発想が必要である。
【楼座】「考えてもみて。私が犯人だったらどう? 使用人たちが出て行ったこの千載一遇の機会を逃すと思う? あなたたちをズドンと撃って、後は適当な言い訳をするだけよ。窓の外にベアトリーチェが現れて銃を撃ってきた、とかね。私は二発を撃ち返したと称して、二発分の空薬莢を床に捨てればいい。」
【戦人】「そりゃ、すげぇ乱暴な理論だが、確かに一理あるぜー。いっひっひっひ!」
【楼座】「蔵臼兄さんが昔、よく言ってたわ。力こそ正義ってね。………これが正にそうなのかしら?」
【楼座】「………ごめんなさいね、二人とも。私も今朝からの事件続きでかなり冷静を失ってる。普段の私を知る二人から見れば、今の私は余裕がなくて少し短気そうに見えるかもしれない。…でもわかって。私は悪意ある犯人からあなたたちを守りたい。その為には鬼になる。それだけのことなの。……怒らせるようなことを言ってごめんなさいね。戦人くん。譲治くん。…仲直りしましょ。」
 譲治の兄貴は釈然としない表情を浮かべている。…紗音の名誉を傷付けたことが許せないのだろう。
 …俺はどうだ…? いくつかの状況証拠が、使用人の誰かの関与を濃厚に漂わせている。……俺は誰かが犯人、もしくは犯人に内通しているなんて信じたくないが、…現状では単なる希望的憶測の域を出ない。
 俺は誰を信じればいいんだ。そもそも誰が犯人なんだ。共犯はいるのか? いるなら何人?!
 ……何だか俺は、関係者を疑ってばかりだ。…そもそも、昨日やってきて黄金の魔女を大胆にも名乗った、19人目の来客、ベアトリーチェさまをすぐ忘れちまう。
 実のところ、俺は顔を見ていない。魔女の肖像画に瓜二つだったと話は聞いてるが、直接見た訳ではないため、どうしてもこの島に19人がいるという実感がわかない。…だからつい、18人の中に犯人がいるような錯覚になっちまう…。
 くそ……。出て来いよベアトリーチェ。悪役なら悪役らしく、甲高い声で大笑いして俺たちを見下して見せろってんだ。よくその手のドラマであるみたいに、もう犯人であることはバレてるくせに、「証拠はおありなの?」、なんて居直る悪役みたいによ。
【ベアト】「くっくくくくくくくくくくくくく。証拠はおありかの?」
【戦人】「うっせぇ、てめぇはしばらく黙ってろ…。」
 楼座は買収されているとはいえ、半ば脅されて従わされている状態。楼座視点では狼と羊のパズルそのものであり、しかも狼が誰だかわかっている。
 戦人と譲治にそれを明かさないのは、そうしてしまうと犯人を刺激し、強硬手段を取られる可能性があると考えているため。そういう視点で読み返せば、楼座はまともなことを言っていることがわかる。
厨房
 厨房には5人もの人間がいたが、雨の音が満たしているだけで、とても静かだった。紗音と熊沢の洗う食器の音だけがアクセントだ。
 郷田は、使われず余った朝食と昼食の材料を使って、賄いのスープを作っているところだった。
 ……楼座から毒が盛られたかもしれないと疑われて、缶詰を食べることになってしまったが、食べた気がするものではなかった。しかし郷田は、それを気にし過ぎだと思っていた。なので、飲みたい人にだけ振舞おうと、自発的にスープを作り出したのだった。
 紗音と熊沢は、お昼の盛り付けに使った食器を洗っている。二人とも内心は、郷田が皿に盛りたいと言い出したのだから、郷田が洗うべきじゃないんだろうかと思っていたが、とりあえず不平は言わずにおいた。
 源次と南條は、年季の入った粗末なチェスセットで向かい合っている。
 …まだまだ始まったばかり。そして年季の入ったプレイヤーの序盤は限りなく洗練されているため、互いが決まった順序で決められた駒を動かすだけの儀式のように見えた。
【熊沢】「よい匂いですねぇ…。やはり缶詰ではこうは行きませんねぇ。」
【郷田】「開封した食材だけで作りましたので、毒が混入しているなんてことはありませんよ。皆さんの分もお作りしていますので、ぜひ食べましょう。もちろん、私もお毒見しますよ。安心して召し上がってください。」
【紗音】「本当にいい匂いですね。郷田さんの料理は本当に美味しいです。」
【郷田】「美味しい材料を買ってきて美味しい料理が作れるのは当り前です。……私は師匠に、有り合わせの物で美味しく作る賄い料理を極めてこそ、真の料理人だと習いました。」
【南條】「それは良い師匠でしたな。お陰で私はとても美味しいスープをご馳走になれそうです。」
【源次】「……親族の皆さんにお召し上がりいただくための材料で作ることになってしまったのが残念ですが。」
【南條】「楼座さんも、朝からの色々でお疲れなのでしょう。無理もないことです。」
【熊沢】「でも、そのお陰で、おいしい食材のスープが飲めるのですからねぇ、ほっほっほ。」
 楼座は一同に、危機感が足りない、毒の混入も疑えと熱弁をふるった。その場の雰囲気でそれに納得してしまったが、空腹というものはそんな一時の感情で納得してくれるものではなかったということだ。
【郷田】「皮肉にも、普段の私たちではとても味わえないスープとなりました。できるなら、客間の皆さんにもぜひ振舞いたいところなのですが…?」
【源次】「……楼座さまのご指示に背いている以上、止した方がいいだろう。……飲みたい者だけ飲むといい。」
【熊沢】「ほっほっほっほ。見えないところで上手に息抜きをするのも、使用人の心得でございますものねぇ。」
 熊沢がからからと笑うと、紗音と郷田も一緒に笑う。使用人仲間たちだけが集まったこの空間は、彼らにとってとてもリラックスできるもののようだった。
 紗音は、郷田がたまに見せるズルさが苦手だったが、料理を作る時の子どもらしい笑顔と、自分の料理でみんなに喜んでもらいたいという気持ちに関してだけは偽りがないことを知っていた。だから、こうして皿を洗わせられるのはちょっぴり腹立たしかったけど、何となく憎めないと思うのだった。
 しかし、彼らがこうして和やかに過ごすのとまさか同じ頃、楼座が客間で、使用人たちを狼呼ばわりしているなど、夢にも思うまい……。
 その時、何人かの使用人が、ずるる、どしゃり、という音を聞いた。それは雨の日にゴミ袋の山を運んだり、あるいは雨合羽で作業をして帰ってきた使用人などが、勝手口の辺りにいる時に立てる音や気配そのものだった。
 だからその音を聞いて、特別に違和感を感じる者は最初、いなかった…。しかしすぐに気付く。…………客間と厨房に全ての人間がいるこの状況下で、一体、誰が勝手口に…?! 使用人たちは互いの顔を見合いながら、その音の意味するところを互いが理解しているかを確認し合う。
【熊沢】「だ、………誰でございましょう……?」
 使用人たちは屋敷の構造をよく理解している。だから、客間の誰かが、わざわざこの台風の中を表に出て、ぐるりと回って勝手口までやって来ることが考えられないことを理解していた。
 ならば金蔵が? …普段だって書斎から出てこない金蔵が、何を思ったか台風の中に飛び出して、下々の者しか出入りしないような裏手にやって来るなんて、なお考えられなかった。
【紗音】「……き、……気のせい、じゃないですよね……?」
【熊沢】「…………あわわわわわわわわ…。」
 紗音と熊沢は身を寄せ合いながら、恐ろしそうに勝手口を見る…。
【郷田】「…ど、…どちら様ですか……?」
 郷田は恐る恐る勝手口に近付きながら声を掛ける。……そして、近くの流しに置いてある肉切り包丁の位置を目で確認する。……まだ手には取らない。家人の誰かの可能性もあるから。しかし、その可能性はありえない…。
 郷田の最初の問い掛けに、扉の向こうから返事はなかった。…声が小さかったから、風雨の表には届かなかったのかもしれない。
【郷田】「………源次さん。」
【源次】「……うむ。………南條先生と女たちは下がって。」
【南條】「…い、……一体、どなたなんですかな……。」
 源次はチェスの脇に置かれていた文房具箱の中にあったクラシックなデザインのナイフを取る。…それは、納品書や請求書の封筒を開けるのに、ペーパーナイフ代わりにしていたものだった。しかし本来はナイフ。だからそれには人を傷付ける刃が付けられている…。
 源次はそれを、慣れた手つきで袖の内側に隠し持つ。そして自らも勝手口に近付き、郷田に無言で頷いて合図を送った。郷田は慎重に勝手口に近付き、………ゆっくりと開けて行く……。
【郷田】「わッ、わひゃああぁあああああぁっあぁぁぁ…ッ!!!」
 突然の人影がずるりと現れ、そして膝を付き、倒れた。郷田は腰を抜かすように後に転げ尻餅を付く。その人影は雨でぐっしょり濡れ、泥まみれの、血塗れだった…。
【紗音】「か、…………嘉音くんッ?! 嘉音くん!!」
【源次】「………嘉音。大丈夫か…。南條先生…!」
 それは嘉音だった。……息も絶え絶えで、……すぐに彼の作る泥の水溜りは真っ赤に染まっていく。
 南條が抱きかかえ仰向けにすると、胸の真ん中に、槍か何かで突き刺されたような、深く惨たらしい傷跡があった。そこからは今もどくどくと真っ赤な血が溢れ出している…!
【熊沢】「こ、ここ…これは酷いですよ…。ど、どうしましょう、救急箱ですか? 救急箱ですか?!」
【南條】「嘉音さん、傷口に手を当てて! しっかり押さえて下さい! 使用人室のベッドに運びましょう!! 皆さん、手を貸してください。」
【郷田】「さ、さぁ嘉音さん! しばらく我慢してください…!」
【紗音】「しっかりしてッ!! もう大丈夫よ!! だから傷口から手を離さないで…!!」
【源次】「とにかく、使用人室へ運ぼう。……熊沢は楼座さまに、嘉音が見付かったことの報告を。」
【嘉音】「ま、………待って………。……楼座さまには、………だめ………。」
【郷田】「…待って下さい! 嘉音さんが、楼座さまには…、だめ、だと言っています…。」
【紗音】「……ど、どういう意味なの、嘉音くん…!」
【嘉音】「…………今はいい。早く使用人室へ運ぼう。熊沢、楼座さまにはまだお伝えするな。…嘉音に事情を聞いてからにする。」
【熊沢】「は、……はい……。……ひぃいぃぃぃ…。」
 このような惨い姿で現れ、楼座には伝えるなと言う。……それが意味するところは、あまりに不穏。……彼らの表情に不気味な焦りが浮かんでいく…。
【南條】「さ、さぁ皆さん! 急いで運びましょう…! 早く早く…!」
使用人室
 嘉音の傷は信じられないほど深く、…南條の青ざめた様子を見る限り、意識があるのが奇跡的なくらいのようだった…。
【南條】「……これは……酷い…。何か槍のようなもので刺されたようです。は、肺まで届いてなければ何とか持つかも……。とにかく、止血を……!」
【嘉音】「ぅッ、ぐぉ……、ああぁがッ!!!」
 南條がいくら拭き取ろうとも、湧き出すように溢れる真っ赤な血を、拭えない拭えない拭いきれない…! そしてその度に患部を刺激され、嘉音は苦悶の声を漏らす…。
【紗音】「嘉音くんッ、嘉音くん嘉音くんッ! しっかりして…、しっかりして…!!」
【郷田】「南條先生! 替えのタオルです…! …何て、惨い…!!」
【源次】「容態はどうですか…。」
【南條】「………本音を言うと、…生きているのが信じられん深手だ…。刺され所が幸運だったのかも知れん…。だが出血が酷すぎる…! 輸血が必要だが、明日まで無理だ…!」
【嘉音】「……ぅ、……ごほッごほッ!! ろ、……楼座さまが、……僕たちを……、うがあぁあぁッ!!」
【紗音】「しゃ、喋らないで嘉音くん! 傷口が開いちゃう…!」
【嘉音】「……楼座さまが、やって来て、………お、……お嬢様と、……僕を………。」
【郷田】「な、……何ですって……。」
【熊沢】「楼座さまが、……ですか…。おぉおぉぉ…、そんなことって、そんなことって…。」
【源次】「……間違いないのか。」
【嘉音】「はい………。……間違いなく、……楼座さまでした………。」
【南條】「さぁ、もう喋らないで…! 熊沢さん、もうひとつの救急箱を取ってください!」
【郷田】「………源次さん。……楼座さまが、……何てことは、ありえるのでしょうか。」
【源次】「…………わからん。」
 止血しようと血塗れになりながら奮闘する南條と熊沢をよそに、源次と郷田は顔を見合わせる…。
 ……嘉音の言うことが真実なら、……楼座が朱志香を殺した犯人だからだ。
【嘉音】「おのれ、楼座め……。よくもお嬢様を……。…殺してやる…、殺してやる……、うぐぐぐぐ…ッ!」
 なおも恨めしそうに叫ぶ嘉音…。…まるで、自分の眼前で朱志香がその手にかけられるのを見たとでも言うような呪わしい声だった。
【郷田】「……た、確かに楼座さまがお嬢様を殺す理由はあるかもしれない。右代宮家が全滅すれば遺産は全て楼座さまのもの…。」
【郷田】「だとしたら、戦人さまや譲治さまも危険なのでは…! 楼座さまは銃を持っている上に、今、客間には彼らしかいない…! 源次さん、これはかなりまずいことでは……!」
【源次】「……………………………。」
【紗音】「…………………………。」
 紗音は突然、廊下へ駆け出す。…その表情は複雑かつ悲壮で、何を信じればいいかわからないというような感じだった…。
 紗音は駆けて行く。どこへ? ……屋敷内では掃除が行き届いているから、簡単には見つけられないだろう。薔薇庭園を探せば見付かるかもしれないが、この風雨の中では全て失われているだろう…。
 そうだ、……ボイラー室はあまり清掃されていない。…あそこでなら、……見付かるかもしれない…。紗音はソレを探しに、地下のボイラー室へ階段を駆け下りていくのだった…。
 何かの薬が土壇場で効いてくれたのだろうか、それともとうとう嘉音は痛みを感じることすら失われてしまったのか。…嘉音はとりあえず苦痛に喘ぐことだけはなくなった。
 南條はそれをあまりよい傾向だと思っていないらしく、一時も目を離さなかった。熊沢は嘉音の手を力強く握り、彼の生きる気力が眠ってしまわないよう、励まし続けていた。
 源次と郷田は、嘉音が命懸けで伝えた真実を、どう受け取ればいいか困惑しているようだった…。
【源次】「………楼座さまの銃は、確か4発か5発の弾が込められたはずだ。」
【郷田】「決して少ない数ではないですね。…でも、ウィンチェスター銃は弾の装填に結構な慣れが必要だったはず。一発目は撃たせてしまうかもしれませんが、みんなで襲い掛かれば、次を撃たせずに銃を奪い取れるかも…。」
【源次】「………この島には、医者はいても薬はなく、病院もない。……撃たれ所が悪ければ、…死ぬぞ。」
【郷田】「それは判っていますが…。それより、早く行動を起こさないと、また次の事件が起こる可能性も…! 私たちは楼座さまにうまく追い出された気がします。今頃、譲治さまや戦人さまが殺されている可能性も…!」
【源次】「………………………。」
【熊沢】「……ほ、…ほほほほほ。そんな危険な相手なら、無理に刺激しない方がいいんじゃありませんか…?」
【郷田】「しかし、明日までは長い…! どんな手を打ってくるか想像もつきませんよ! 源次さん、こちらから仕掛けるべきです。せめて銃さえ理由をこじつけて奪えば、何とかなるかも…!」
【熊沢】「弾は、4〜5発じゃありませんか。ということは、私たち全員を殺すには足りないということです…。うかつに刺激しなければ、きっと楼座さまも無闇には…、」
【嘉音】「…………うぅん、あいつは言ったよ。僕たちを皆殺しにすると言った。」
 それまで、静かに眠っていると思っていた嘉音が、急に朗々と喋る。まるでさっきからずっと起きていて、急に口を開いたかのようだった。その様子がしっかりしていたので、南條は少しだけほっとするが、傷の深さを考えると、どうしてもある不気味さが拭えなかった。
 ……彼は医者だからわかる。
 嘉音の出血量なら意識を失って当然だ。なのにこんなにもはっきりとした意識を保てるなんて。……若さ? それとも執念? …時に人の生命力は常識を超えることもあるし……。
 止血の時、患部に何か異物があってはいけないと、血の湧き出す穴をピンセットで少しだけまさぐったが、そのあまりの深さに驚いた。
 …傷は確実に肺にすら届いているはずなのだ。……なのに、…なのに…。……いや、でも、生きているのはとにかく幸いなことで…。
 ……しかし嘉音ははっきりと語っている。…憎々しく、その傷の主の名を楼座だと語り、怒りと呪いの言葉を繰り返している。
【嘉音】「…あいつはお館様の財産を独り占めするために、台風が過ぎ去るまでに、どんな手を使ってでも皆殺しにする気なんだ。あいつはそうするとはっきり僕に言ったよ。」
【郷田】「………くそ…! 何て人だ…。源次さん、どうしましょう! 私たちにも何か武器がいるのでは…。」
【源次】「……にわかには信じられん。……楼座さまがそのようなことを……。」
【嘉音】「源次さま、信じる信じないじゃない。あいつが僕に、そう言ったんですよ。この僕が聞いたんです。ドウシテ信じてくれないんですか?」
【南條】「お、起きないで…。傷に障ります…。」
 ベッドの嘉音は上体を起こし、話を信じようとしてくれない源次に言う。
【嘉音】「あいつは僕たちを必ず全員殺す。もうきっと客間の方々も殺されているに違いありません。僕らが先に殺さなければ、必ず僕らが先に殺される。僕が先に殺されたように、みんなも先に殺される。殺さなきゃ殺される。殺さなきゃ殺される殺さなきゃ殺される。」
【南條】「…か、………嘉音さん、……あんた、……本当に痛くないのか…。」
【嘉音】「……あぁ、これですか。大した傷じゃありません。」
【南條】「た…、大した傷じゃないどころか、…あんたは……、」
【嘉音】「本当に大したことありません。こんなのもう全然痛くないし、本当に大した傷じゃない。」
 嘉音はそう言いながら、せっかく巻いた包帯を自ら解き始める…。すぐに惨たらしい胸の穴があらわになった…。
【熊沢】「か、嘉音さん…! そんなことをしては駄目ですよ! 早く横になって…ッ!」
【嘉音】「大丈夫ですって。……ほら。ねぇ…? 大した傷じゃ、ないでしょう…?」
 嘉音が、ぼっこりと開き、今もぐずぐずと血のあぶくを吐き出し続ける傷を誇示するように見せる。…反射的に一同は目を背けてしまう。
【嘉音】「ほら、全然大した傷じゃないですって…。」
【南條】「や、……やめなさい…、傷を弄ってはいけません……。」
【嘉音】「…ほら、見て? ……全然、深い傷じゃないんですよ。………ほら。………………ほら。」
 嘉音が、立てて見せた二本の指を、ゆっくり、ずぶりと、胸のど真ん中の、惨たらしい傷の中に入れていく…。
 ……ずぶり、ぬめり、ごぷり、溢れて。指が、深々と、根元まで…。……ぐぽりゅ、ぶぷり、ぬぶる…。
【熊沢】「ひぃいいいぃいいぃぃぃぃ…!! かかか、嘉音さん、やめてッ、やめて…!!」
 その指は完全に、……根元まで胸の中に入り込んで、……それから、差し込まれた時と同じようにゆっくりと引き抜かれ…。引き抜かれた指は、粘り気のある真っ赤なもので一色に染められていて、糸すら引いていた…。…指の、根元まで、ねとりと、……真っ赤に…。
【南條】「……あ、………あんた、……い、いい、一体………………。」
【嘉音】「………ね? 全然、大した傷じゃ、ないでしょお? くっくくくくくくくくくくく!」
 その時、威勢よく扉が開き、紗音が現れる。…鮮血に染まった嘉音を見ても、その険しい表情は歪まなかった。
【嘉音】「……やぁ、姉さん。どこへ行っていたの? 僕が危篤だというのに、一体どこへ?」
【紗音】「うん。ボイラー室に行ってきたの。捜し物があって。………それより、確かめたいの。あなたは本当に、…嘉音くん?」
【郷田】「……え、……えぇ…?」
 無理もない。誰もが彼を嘉音だと信じている。だから紗音がそう問い掛ける意味が理解できなかった。
 見ると、紗音は手にハンカチを持っている。汚れていて、ゴミか埃を拭き取ってきたかのようだった。そしてそれを持ったまま嘉音に近付き、………足元に寄る。
【嘉音】「何だい、それは……?」
【紗音】「クモの巣を拭き取ったハンカチよ。」
【嘉音】「…………………。…何でそんなものを。」
【紗音】「嘉音くんなら平気だろうけど。……もしあなたにとって、クモが天敵だったなら、嫌うかなって思って。」
【嘉音】「………………………。ははは、やだなぁ。僕がどうしてクモを嫌うの?」
【紗音】「ごめん、試すね。」
【熊沢】「……しゃ、…紗音さん。」
 紗音がそのハンカチを嘉音の腿に近づけた時、……瞬時に何かが起こった。
 一度に起こった。人間の目では追いきれなかった。嘉音が、カモシカのように跳ねて、…紗音のそれから逃れ飛び上がった。そして、その腕が紫に閃く何かの残光で軌跡を描いた。
 それは弧を描く3つの美しい紫の軌跡で、彼を看護していた南條と熊沢の喉をなぞっていた。そして、南條と熊沢の喉が、……ぱっくりと口を開き、…血がこれからまさに噴出そうという刹那の時間。
 もう1つの紫の軌跡は、紗音の喉もなぞるはずだった。だがそこに紗音はいなかった。後にいた源次が、紗音の首を自らの腕で巻き込むように引き寄せたからだ。これら全部が一瞬。
【郷田】「………………………ッ!!!」
 郷田が、その光景を理解しようと脳を回転させようとした瞬間、凍った時間が砕けた。
 南條と熊沢の切り裂かれた首から、威勢よく血が噴出す。
 飛んだ嘉音は後ろの壁に掛けられていた額縁を蹴り、紗音の喉元を再び狙って、まるで猫のように飛び掛る。しかし再び獲物は嘉音の前から消えた。源次が再び紗音を引っ張り、二人で伏せるように床に転げたからだ。
【嘉音】「いい反射神経だッ、このおいぼれ家具がぁッ!!」
【源次】「……郷田ッ!」
【郷田】「う、うおおおおおおおおおぉおおおおおぉおぉッ!!」
 郷田も馬鹿ではない。何が起こっているか理解には及ばなくても、この“嘉音”を取り押さえなければ自分の命も危ういことだけは理解できた。その巨体で嘉音に飛び掛り、体重と腕力で壁に叩きつけて押し付ける。
【郷田】「うぉおおおおおぉおおおおお…! をおおおおおおおおおお!!」
【嘉音】「は、な…せッ、このデカブツがッ!!」
 嘉音の右手の指先が再び紫の軌跡を描き出す。そしてその手刀を郷田の背中目掛けて振り上げた時、ガズンとすごい音がした。嘉音の振り上げた手刀がそのままの形で壁に縫い止められたからだ。手の平が壁から引き剥がせない。そこに突き立てられているのは、源次が投げたナイフだった。
 老体の源次がそれだけのナイフの扱いを見せられることは、平時なら驚くべきことだったが、この異常な空間の中では取るに足らないことだとみんな思った。
【紗音】「源次さま、これを…!」
【源次】「……うむ。」
 源次は紗音からクモの巣のついたハンカチを受け取る。そして郷田の巨体とナイフによって壁に押し付けられている嘉音に近付いた。
【嘉音】「や…めッろ…!! それを、ちか、近付けるな…ッ!! やめろ、やッ、めッ!! ぎゃおおおおおおおああああぁぁあああああぁぁッ!!」
 源次がハンカチを、嘉音の顔面に押し付けた時、…焼けた鉄板に肉を置いた時に聞く音とそっくりな音が聞こえた。
 もちろん臭いもそっくりだった。焼けて爛れて、汚らしい赤と黒に爛れ落ち、断末魔の声と共に嘉音の体は爆ぜ散った。
 それはまるで金箔の詰まった風船を破裂させたかのよう。使用人室の中は金箔の嵐、……いや、黄金の蝶たちの群で埋め尽くされた…。
 その蝶たちは、まるで水に、いや空気中に溶けるかのようにすぅっと虚空に消えて行き、……後には、血塗れになって尻餅をつく彼らが残されるだけだった。しかし、血に塗れた者だけではない。自ら血を吐き出して倒れている者もいた。
【源次】「…熊沢…! ……南條先生…! …………………。」
 触れたら指が切れてしまいそうなくらいに鋭利なその切れ口はばっくりと開き、大量の血を未だに溢れ出させている…。
【郷田】「何だったんだ、………い、…今のは…………。」
【紗音】「………………………。」
【源次】「………郷田。怪我はないか。」
【郷田】「わ、私は大丈夫です…。しかし、………私たちは何を見たんだ! 何があったんです?! わ、わたわた、……私はアレを、確かにこの手でこの壁に押し付けていたのに! その私が、何があったのか理解できない…ッ!!」
 郷田は自分の手を見る。嘉音と揉み合った際にその血で真っ赤に汚したのが、確かに残っている。
 …なのに、その嘉音の姿はもうどこにもない。消えたからだ。黄金の蝶たちとなって飛び散って。郷田は何が何だかわからないとひとり叫び続ける。
 紗音は南條と熊沢の亡骸の前にしゃがみ込んで涙を流し、…源次はそれを見下ろしながら、変わらず無言でいるのだった…。
 買収した楼座が今ひとつ協力的でないため、犯人側は手詰まり気味になっている。
 事態を打開するため、南條と熊沢が殺されたということにして狂言を行うことに決定。ここからの幻想描写はその筋書き。

悪魔の証明
10月5日(日)13時17分

客間
【楼座】「南條先生と熊沢さんが?! 一体、どういうことなのッ?!」
【譲治】「あぁ、紗音! 無事でよかった…! 君に何かあったら僕は…!」
【紗音】「……譲治さま……。……ぅううぅ………。」
【楼座】「譲治くん、少し静かにして! あなたたちの目の前で殺人が行なわれたんでしょう?! 犯人を見たの! 見ないの!!」
【郷田】「そ、……それがその、……何と説明すればいいのか…! げ、源次さん。」
【源次】「………………私たちにも、見たものをうまく説明できません。」
【郷田】「確かにその、…それは私たちの目の前で起こりました! 私の目の前にいた! だけれど、……あれはその、………何だったんだ…。私にもわからないんですッ!」
【楼座】「何を言ってるの?! あなたが出会ったのは昨夜から所在不明の魔女、ベアトリーチェか、行方不明になっている嘉音くんかのどちらかしかありえない! 男か、女か! それだけでも答えられるでしょう?!」
【戦人】「楼座叔母さん、少し落ち着けって…! 目の前で二人やられりゃ誰だって混乱だってする! 郷田さん、源次さん。焦らなくていいぜ。何があったのか、順を追って話してくれ。」
【郷田】「……………それが、……何を私は言えばいいのか……。」
【譲治】「…………………………。」
 南條先生と熊沢さんが殺された。それだけはわかった。…そしてそれは彼らの眼前で行なわれたらしい。にもかかわらず、彼らの歯切れは悪い。
 目の前で犯行を確かに見たと認めている。なのに、何を見たのか説明を求めると急に口を閉ざしてしまうのだ。それがもどかしく、楼座叔母さんが短気になるのもわからなくはなかった…。
【譲治】「…紗音。君は見たのかい? 南條先生が襲われるところを。」
【紗音】「は、………はい。」
【譲治】「僕に教えて。…わかることだけでもいい。一体何があったの。」
【紗音】「………………勝手口に、…………。……来たんです。」
【郷田】「…そ、そうです。勝手口に誰かがやって来たんです。そして、誰だろうと、私は扉を開けました…。」
【楼座】「勝手口に誰か? それは誰ッ?!」
【戦人】「最後まで言わせてやれ! それから?!」
【郷田】「………そいつは、…血塗れで、大怪我をしていました。…私たちは使用人室に運び、すぐに南條先生が手当てをしました。……その、とても深い傷でした。」
【楼座】「だからそれは誰のことなのッ?!」
【郷田】「…わからないんですッ! 確かに、…最初はそうだと思っていました。いや、今でもそうだと思ってるんです! でも、………あれは一体ッ!! …わからない…、…わからない!!」
 郷田はその巨体に似合わず頭を抱え掻き毟る…。それは思い出せなくて混乱しているのか、何か恐ろしいものを見て、それが受け容れられなくて混乱しているのか、…見当もつかなかった。
 そして、それは紗音も同じに見えた。ほんの少し気を許せば、ついさっき見たばかりのことが、すぐに白昼夢と溶け込んでしまって、自分が何を見たのかも思い出せなくなってしまう。……そんな風に見えた。
 源次だけはいつも通りに冷静に見えた。…だから自然と質問の矛先は源次に向けられる。しかし、源次も口を開くのに短くない時間を掛け、その考えを整理しなくてはならなかった。
【楼座】「源次さん。あなたは見たんでしょう? 勝手口に来たのは誰?!」
【源次】「…………初め、…私たちはその人物が、嘉音であると信じました。」
【楼座】「ほらッ!! やっぱり生きていたでしょう! 私の推理は正しかった!!」
【譲治】「……初めは、ってことは、後にその認識は変わる、ってこと……?」
【源次】「はい。………その後に起こったことは、口では説明できません。……南條先生と熊沢を殺し、……そして姿を消しました。その時、彼は間違いなく嘉音ではありませんでした。」
【郷田】「そう! そうなんです! 源次さんの言う通りなんですよ!! 口ではとても説明できない!」
【譲治】「……君も同じ意見なのかい。」
【紗音】「…はい…………。私も、……同じことしか申し上げられません……。」
【戦人】「………………………。」
 …彼らの言っていることを、好意的に解釈すると、……それは楼座叔母さんが最初に断じているのと同じ意味になる。
 厨房の勝手口に大怪我をした嘉音くんが現れた。そして使用人室に運び手当てした。……そして、恐ろしい何かが起こった。
 嘉音くんがそんなことをしてのけるとは想像できなくて、あれが本当に嘉音くんだったのか疑わしくなった。というところなのか。つまりそれは、……嘉音くんが現れたということだ。彼らがどんなに混乱し、言葉を濁そうとも、つまりはそういうことになる。
 やはり嘉音くんがあの部屋を施錠したまま抜け出すトリックがあるということなのか?! いや、今そんなことはどうでもいい。南條先生と熊沢さんが殺されたことの方が重要な問題だ。
 楼座叔母さんは、最初っから嘉音くんの仕業だと断定している。彼らがどう混乱してそれを否定しようとしても、…彼らは半ばそうだと言っている。……しかしそれでも、なぜか彼らの歯切れの悪さは、混乱だけでは説明ができないような気もした…。
 ……彼らは何を見たんだ? 彼らが言うように、本当に、口で説明できない何かを見たのか…?
 これ以上は何を聞いても埒が明かないだろうと判断した楼座叔母さんは、それで切り上げ、二人の遺体を確認したいと言った。
 それは俺も関心のあることだった。混乱した彼らには何が何だかわからなくても、…その現場に居合わせなかった俺たちは冷静に遺体を見て、何かを気がつけるかもしれない。
 ………しかし、楼座叔母さんもまた、俺と同様に遺体が気になるのは少しだけ意外だった。俺はこの期に及んでも、何かの手掛かりがあれば、犯人や真相をこの手で暴いてやりたいと思っている。
 しかし楼座叔母さんは違ったはずだ。……楼座叔母さんは確か、犯人探しよりも身の安全が最優先の方針だったはず。その楼座叔母さんが、わざわざ篭城の客間を出てまで遺体を確認したい理由が少し見えなかった。
【楼座】「みんなで一緒に使用人室に行きます。全員一緒に行動すれば安全よ。真里亞、ラクガキ遊びはおしまいになさい!」
【真里亞】「うー。ラクガキじゃないぃ。ベアトリーチェの問題を解いてるのー。うー…。」
【戦人】「ベアトリーチェの問題? 何のことだよ、俺にも教えてくれよぅ。」
【譲治】「…楼座叔母さん。真里亞ちゃんも、…その、連れて行くんですか。」
 譲治の兄貴は、血生臭い現場に真里亞を連れて行くことに抵抗があるようだった。
 …だが、真里亞だけ残していくことを考えたら、一緒に連れて行く方がはるかに安全に違いない。……結局、兄貴の無責任なヒューマニズムってことになる。俺たちは真里亞も含め、全員で使用人室へ行くことになった。
使用人室
 使用人室のベッドは、真っ赤な血で染まっていた。
 …いや、ベッドだけじゃない。部屋中がおびただしい血痕で凄惨なペイントを施されていた。その凄まじい光景だけで、彼らが語ろうとした何かのおぞましき輪郭を知るのだった…。
【真里亞】「……うー。真里亞も見るー!」
【譲治】「真里亞ちゃんは僕と一緒にここで待ってようね。」
 譲治の兄貴は、真里亞の目を塞ぎ、入り口のところで部屋に背を向けていた。……この部屋のおぞましき赤で、無垢な少女の網膜を汚したくないのだろう。
 きっとそれは正しい判断だ。……今の俺は強がっているから気にならないが、……俺は今後の人生において、赤いペンキが散らばっているのを見る度に、この部屋を思い出して吐き気を催し続けるのだろう。
 ……もう俺の網膜にこの部屋は焼き付いてしまった。…つまり俺は手遅れだった…。
【紗音】「……………あら……。」
【郷田】「ど、…どこへ…ッ!」
 使用人室に入ってすぐ、郷田さんと紗音ちゃんが動揺する。…俺たちは、彼らが改めて動揺するどんな恐ろしい事態が新たに起こったのかと慄いた。
【楼座】「どうしたの? 何事?」
 楼座叔母さんも戦慄し、銃を高く構えて、彼らが動揺する何かを探した。
 ……しかし見付からない。…無理もない。…彼らは、見付からないから動揺したのだ。
【戦人】「何だ何だ、どうしたってんだ一体…。」
【源次】「………二人の遺体が、ありません。」
【楼座】「どういうことなの?」
【紗音】「……そ、そんなはずないんです…! 確かにお二人は、ここに……!」
【戦人】「…おいおいおい。何だよ、死体がどこかへ歩いてったってのか? そんなわけはないだろ? だって、この使用人室は施錠されてたんだろ? それを今、郷田さんが開けて入ったわけじゃないか!」
【戦人】「……ってことは何だ。…朱志香の部屋と同じってことかよ?! また密室の中から消えたってのかよ?! そんな馬鹿な!!」
【郷田】「私にも何のことやらさっぱりッ!! 私たちはこの部屋を出る時、確かに鍵を掛けて、……!! 私こそ、何が何やら、もうわからないのです…!!」
 郷田さんが、普段絶対見せないような、気弱そうな苦々しい笑いを浮かべる。それは紗音も同じだった。
【戦人】「二人の死体が消えた! しかも鍵を掛けたのに消えた! 仮に嘉音くんが犯人だとしても、嘉音くんはマスターキーをもう持ってないはず!!」
【紗音】「違います…! 嘉音くんは犯人じゃありません…!!」
【譲治】「……紗音…。僕は紗音を信じるよ。嘉音くんは犯人なんかじゃない。きっとこれは、彼によく似た何者かの仕業なんだ。」
【楼座】「いえ。嘉音くんはマスターキーを手に入れられたわよ。……だって、彼のマスターキーは朱志香ちゃんの遺体のポケットから見付かった。…そして、その鍵は誰が手に入れた?」
【譲治】「ッ!! そ、そうだ! 南條先生が……!!」
 そうだ。確かにあの時、南條先生が朱志香の服を探り、マスターキーを見つけた…! なら、南條先生の死体を物色する機会があったなら、マスターキーを取り返すことは容易…。
 楼座叔母さんはベッドの下や、ロッカーの中などを調べている。…もう、俺にもその意味が理解できた。犯人は二人いたと考えると、簡単に説明できる。
 一人目は、嘉音くん、もしくは彼に酷似した何者かの仕業。彼は南條先生を葬り、どこかへ逃げ去った。二人目は、……多分、所在不明の19人目、ベアトリーチェだ。
 ヤツは、予め使用人室のベッドの下に隠れ、ここに南條先生の遺体が安置されたまま、源次さんたちが立ち去るのを待っていた。そしてその後に這い出て、南條先生のポケットからマスターキーを取り返し、何かの理由で二人の遺体を運び去った。そしてマスターキーで施錠すれば、この密室の出来上がりってわけだ。
【ベアト】「くっくっくっく。朱志香の部屋の推理を前提に、なかなか素早く組み立ててきたものよ。その方法なら、魔法でなくても密室は作り出せよう。まずは及第点というところか? しかし、実に面白いが、……お前はひとつ忘れてはならぬことがあるぞ?」
【ベアト】「…お前の言う方法で犯人がマスターキーを取り返したなら、……その犯人はマスターキーを、朱志香の遺体から南條が回収したことを知っていたことになる。」
【戦人】「……言われなくてもわかってるぜ…。あの時、あの場にいた人物以外、知り得ない情報だ、って言いてぇんだろ…。」
【戦人】「……へ! この第三の密室があっさり破られちまったもんで、そういう手で俺に嫌味を言うしかねぇんだろ。同じネタの繰り返しは芸がないぜ…。」
 虚勢は張るものの、魔女のその指し手はずしりと痛む…。……俺がもっとも否定したいものに、ひびが入るのがわかる。こいつは、二つの方向から俺を締め上げている。
 一つは、魔女にしかできない密室トリックで、俺に魔女を無理やり信じさせようとする力技のような正攻法。……そしてもう一つは、身内の疑いを濃厚にすることで、俺に魔女を信じた方がマシだと誘導しようとする搦め手だ。
 第一の密室、礼拝堂の時には、正攻法で攻めたが俺に通じなかった。だから第二の密室、そしてこの第三の密室では、攻め手を変えてきたに違いない…。しかし、攻め手を変えているということは、俺の抵抗が少しは通用している証拠でもある。
 …そして正攻法を捨てたのは、正攻法で堂々と勝てない弱さがあるからに違いない…。………そう考え、俺は自分を納得させようとした。だが、魔女は俺のその考えをとっくに看破していたようだった。
【ベアト】「くっくっくっく。正攻法は欠かぬ。…搦め手は正攻法と同時に進めてこそ意味がある。搦め手のみに堕するは、手段が目的となった時に起こる愚策に過ぎぬぞ。」
【戦人】「…いっひっひ、そうですかい。じゃあ、お得意の赤で“何者かが使用人室に隠れていた”を復唱してもらおうじゃないか。」
【ベアト】「その必要はない。お前の推理の前提は今から崩れる。」
【戦人】「おっおっ?! 拒否かよ?! やっぱり誰かが隠れていたんだな?!」
【ベアト】「楼座が今からお前の前提を崩す。…くっくっくっく! まぁ耳を傾けてみよ。」
【郷田】「信じてください、楼座さま…!! 確かにここに二人の遺体を安置したんです! この床の真っ赤な血は彼らのものなのです…!!」
 楼座叔母さんは、懇願するように叫ぶ郷田さんに背を向けたまま、色々と室内を物色していた。……やがて、何かを見つけ、しばらくの間、動かなくなる。
【郷田】「楼座さま、私たちは断じて嘘などついていては…!! 間違いなく二人の遺体はここにあったんです!!」
【楼座】「静かに。………死体を隠した本人が、死体は他所に持ち去ったと告白しているわ。………これでね。」
 楼座が肩越しに一枚の便箋を見せる。
【戦人】「それは一体?! まさか、……礼拝堂にあったのと同じ、紋章入りの封筒の手紙?!」
【楼座】「……えぇ、そうよ。ここに堂々と置いてあったわ。読むわね。」
“右代宮家の皆様。黄金の碑文の謎解きはいよいよ佳境に入りましたでしょうか。皆さんに私を止めることができる唯一の方法が、碑文の謎を解くことなのです。それ以外の如何なる方法を以ってしても、私と儀式を止めることはできません。くれぐれも皆さんの目的をお間違いなきよう、よろしくお願い申し上げます。
 私を探そうとも、無駄。私から逃れようとも、無駄。私を否定しようとも、無駄なのです。——黄金のベアトリーチェ。”
【楼座】「……追伸。二人の遺体を儀式にお借りします。後ほどご返却いたしますので、ご容赦をお願い致します。…あと、この鍵は皆様の物ですのでご返却いたします。」
 楼座はそれを読み上げると、封筒の中身を手の平の上に晒した。それは二つのマスターキー。朱志香のポケットから南條が見つけた、本来は嘉音が持っていたマスターキーと、熊沢のマスターキーの二つだった。
【戦人】「何だとぉおおぉ……。ってことはどういうことだよ…。ふざけんなよ、またかよ! また、マスターキーを持ってる使用人しか疑えないってのかよ?!」
【ベアト】「妾は赤では言ってはおらぬぞ…? 彼らがこの部屋に施錠をして去った時、この部屋に何者かが隠れていた可能性を否定してはおらぬぞ…? くっくくくくくくくく!」
【戦人】「……ベッドの下にでも隠れれば、死体をどこかへ運び出すのはできないことじゃない。しかし、それじゃあ施錠ができない! わざわざ手に入れたマスターキーを、ここへ置いてっちまってる! ……そうだ、忘れてた。この部屋の本来の鍵である“使用人室の鍵”はどうなっている?!」
【ベアト】「うむ。それなら使用人室の奥のキーボックスに収められているぞ。使用人室の鍵は数本あるが、その全てがキーボックスに収められている。」
【戦人】「ってことは、朱志香の部屋の鍵の時と、状況は何も変わらないってことか…。使用人も、便利なマスターキーがあれば、不要な鍵はわざわざ持ち歩かないもんな。キーボックスにしまわれっ放しになってるのも納得だぜ…。」
【ベアト】「その他の条件も何も変わらぬ。出入りは唯一の扉と唯一の窓から以外は不可能。ゆえに隠し扉などの不正規な出入り手段は否定される。喜べ名探偵ども。くっくっく!」
【ベアト】そしてそれらはいずれも施錠されていた扉も窓も、施錠時には如何なる出入りも許さない。つまり、施錠を維持したまま、扉を外す、隙間を作ってすり抜ける等々は通用しないということだ。当然だが、扉の開錠は使用人室の鍵とマスターキー以外は不可能。」
【ベアト】「…毎回、これを読み上げるのも面倒だの。今度これをまとめて一言に略す言葉でも考えよう。」
【戦人】「だが、この部屋に誰かが隠れていたことは復唱できねぇだろう! ……しかし、それだけでは密室の扉が破れない…。あぁ、クソクソ!! 駄目だ駄目だ、全然駄目だ…!」
【ベアト】「くっくっくっく! お得意のチェス盤を引っ繰り返すとやらはどうした…? 自慢の珍説をぜひ披露してみよ。」
【戦人】「……………チェス盤を、引っ繰り返す。…………俺が犯人ならどうする。死体をどこかへ運び出す。……手紙を残す。………内側から鍵を閉める。……ここから何かの方法で部屋を脱出すればいいんだ。………くそッ、そんな方法はあるのか?! 扉と窓以外からは外に出られないと赤で言われちまってる…! ………………あ、」
 ……その時、……閃く。そうだ。……死体を運び、手紙を残し。……そして「隠し扉」に頼らず、つまり脱出もできない。…そうだ。これは疑問なんじゃなく、答えだったんだ……。
【戦人】「ベアト。……復唱要求の前に、お前の言う隠し扉の定義を確認したい。」
【ベアト】「何を思いついたやら。良かろう、説明する。隠し扉とは、知らぬ人間が認識できぬ出入り口のことであろうが。そんなこと子どもでも知っておろう。」
【戦人】「……つまり、部屋の外に出られなかったら、それは隠し扉じゃないってことだよな?」
【ベアト】「ほぉ。………そう来たか。」
【戦人】「俺は、犯人は密室から抜け出したものだとばかり思っていた。……違うんだ。犯人だって密室から、脱出できなかったんだ! だから隠れてやり過ごそうとした!」
 俺はこの説を、第二の密室の時、嘉音くんがそうしようとしたかもしれないと推理した。……しかし、“嘉音くんは殺された”と赤で言われたのでこの推理を引っ込めた。そして次に、部屋に3人目の人物がいたなら、隠し扉で脱出することも可能だと推理した。そしてここで初めて、“隠し扉は存在しない”と赤で断言されたのだ。
 そして今わかったこと。魔女の言っている「隠し扉」は、外部に出入りできるものを指す。……つまり、外部に出入りできず、しかも知らない人には気付けないものは「隠し扉」の定義に入らないことになっている。
 つまり、例えば「隠し棚」や「秘密のクローゼット」みたいなものは「隠し扉」に定義されてないわけだ! つまり、朱志香の部屋の3人目の人物はここに隠れて俺たちをやり過ごしたんだ!
 へっ、下らねぇぜ、ちょっとした言葉遊びだったんだ! この方法なら第三の密室であるこの使用人室も何とかなりそうだ。ベッドの下でも隠し棚でも何でもいい。どこかに潜み、俺たちが立ち去るのを待っているのだ。
 ………犯人もまた、密室に閉じ込められたままだったのだッ!! ってことは……、今この瞬間! この使用人室には未だ犯人が隠れて息を潜めていることになる…!!!
 ってことは、………何てこった…。俺たちは三度密室を与えられて苦しめられたってのに、……実は今この瞬間、俺たちは犯人を、チェックメイトしているッ!!
【戦人】「ようやく見えてきたぜ。……食らえベアト!! 復唱要求!“この部屋には俺たち以外の誰もいない”! 俺たちってのは、俺、譲治の兄貴、真里亞、楼座叔母さん、源次さん、郷田さん、紗音ちゃんのことだぜ?! どうだッ!! 言えねぇだろう?!」
【ベアト】「………ほぉ……。………ほぉ……!」
【戦人】「痛ぇとこを突かれただろう!! 拒否なら拒否と言いやがれ!! 次、行くぜ!! 復唱要求!!」
 この部屋のどこにどうやって隠れているかはわからない。でも、それが事実であるならば、第二の密室、朱志香の部屋のことだって一気に解決できるんだッ!!
 ようやく尻尾を掴んだ! これで全てを説明できる! 魔女なんかいないッ、誰も疑わなくていい!! よし、ここから引っ繰り返すぞ! 次に求める復唱は、
【ベアト】この部屋には、お前たち以外は存在しない。お前たちの定義とは、戦人、譲治、真里亞、楼座、源次、郷田、紗音のことを指す。」
【戦人】「……な、……………。」
【ベアト】「朱志香の部屋に話を戻す。朱志香の死体発見時、朱志香の部屋にいたのは、戦人、譲治、真里亞、楼座、源次、郷田、紗音、熊沢、南條のみだった。おっと、死体の朱志香ももちろん含むよって、朱志香の部屋の件、そしてこの使用人室の件の両方について、そなたが認識していた以外の人間は存在しない誰も隠れていない。」
【ベアト】「さらに言おう。扉は鍵を使用せずに外から施錠する方法は存在しない窓については外からは如何なる方法でも施錠する方法は存在しない。」
【ベアト】「ついでに言おう。そなたは無能だ! くっくくくっくくくくく、ひーっひひっひひひひひひひひひひひひ!!」
【戦人】「ば、………馬鹿野郎ぉおぉ……。それじゃあ、………本当に、……密室じゃねぇかよぉ…………。せ、…せっかく思いついたのに。お前が隠れていたんなら…、全て説明が付いたのに。トリックを打ち破れたと思ったってのに、………くそォ…。」
【戦人】「………ぅ、…………ぅおおぉおおおおおおおおおおおぉおおぉ!!」
 駄目だ駄目だ駄目だ全然駄目だッ!! 一瞬、閃いたと思った! 全然駄目だった!!
 ベアトリーチェのヤツめ、赤をうまく使った言葉遊びで煙に撒き、俺をうまく騙せたに違いないと看破したはずだった…!! ……やっと暗闇に光が見えたと思ったのに、…………消えた、………消えちまった………、真っ赤な海に、……飲み込まれちまった………ッ! 赤い、……赤い赤い赤い赤いッ!!
 誰も隠れていない! そして隠し扉もなく、施錠された扉も窓も騙す方法がない!! 全て不可能だと証明しきっちまったのか?! 悪魔の証明を、……正攻法で、……成し遂げちまったってのかッ?! ありえねぇ、……ありえねぇよ、こんなのッ!!
【ベアト】「どうしたのだ右代宮戦人ァ? 魔女を否定する気で満々だったんじゃアない。そんなところで這いつくばって悔し涙を搾り出してどうしたんだイ?」
【ベアト】「あぁそれはとってもステキな方法。妾を笑い転げさせて笑い涙の海で溺れ殺してやろうというのは確かにステキ。実はそうなんだろォ? 妾を笑って笑って笑い殺してやろうって手なんだろォ、右代宮戦人ァア???」
【戦人】「何が魔法だ、魔女なんて絶対に否定してやる!! お前なんて絶対に信じない!! 魔法の力で、……みんなを面白半分に虐め殺してるなんて、……絶対に認めねえぇええええぇえ!!」
【ベアト】「なぁ、戦人ァ? 虐めすぎて悪かった。妾側から“チェス盤を引っ繰り返してやる”ぞ。お前に代わって、お前側の最善手を教えてやるよ。聞きたいィイイ??」
【戦人】「ふざけんな、聞きたくねぇ聞きたくねぇッ!!」
【ベアト】「朱志香の部屋の件。そなたは実に良いところを突いていたのだぞォ…? 隠れてやり過ごそうとした。これは実にいい着眼だった。」
【ベアト】「…だが、なぜそれを嘉音と19人目の妾にしか考えなかった……? そうか、隠れてやり過ごすの、“隠れて”が邪魔だったから考えが至らなかったか。」
【ベアト】「…ほぅら、もうわかるだろォ? 朱志香だよ。朱ェエ志香アアァア!!」
 朱志香が犯人だったなら、……こんな茶番は簡単に構築できる!! 嘉音くんを殺し、どこかへ運び出す! そして、殺されたフリをしてやり過ごす! でも馬鹿な!! 南條先生が死亡をちゃんと確認してくれた! なら南條先生もグルだってのか?!
 違う!! 朱志香が本当に死んでいるのは俺も確認した! 確かに俺は検死なんかしたことないけど、確かに死んでた! 死んでたと思う!! いや多分きっと絶対とは思うけれども必ずいやいや……、…死んでた!! 死んでたんだッ!!!
【ベアト】「朱志香もグルなのよ。そして検死をした南條もグル。くっくくくくくくくっくくくくく!! ならば、第三の密室など茶番だろォがァア。」
 あぁ、なら簡単だ。南條先生はグルなんだからつまり、犯人側なんだからつまりつまり、元々殺されてなんかいない?! 殺された上に遺体が消えたということになっているだけで、元から使用人室にはいない?!
 二人の死体があったということ自体が嘘なので、本当は密室でも何でもない。
 じゃあ、一緒に消えた熊沢の婆ちゃんもグル?! ……それだけじゃないそれだけじゃないッ! それと口裏を合わせている源次さんも郷田さんも、そして紗音ちゃんもグル!
 なら、真里亞の手提げから鍵を盗んだのは朱志香で、…いやいや譲治の兄貴にだって可能! だって紗音ちゃんが犯人側なら、譲治の兄貴だって自動的に犯人側だ!!
 ちょっと待てちょっと待ってくれッ、狼だらけ…。狼だらけッ!! 真っ赤な血の海に溺れている上に、さらに岸には狼がぎっしりひしめいて、俺が這い上がってきたら食い殺してやろうと目を爛々と輝かせているッ!!
 俺はどっちで死ねばいい?! 全てを否定され真っ赤な海に溺れ死ぬのか?! 真実を知り、狼たちに全身を食い千切られるのか?! 地獄と地獄しかない!! 選べないッ! ひぃいいいいぃいいいいいいいいい!!!
【ベアト】「だからこそ妾がいる…!! さぁ右代宮戦人、跪け。そして永遠の忠誠を誓って妾の靴を舐めるがいい…ッ!! 妾を認めれば全ての謎に決着がつく妾の力をもってすればどのような密室も生み出せ、そして打ち破れる!!」
 途中まで正解。戦人に正解と不正解を同時に言わせることで、全部不正解のように思わせる仕掛け。
【ベアト】「戦人ァ、力ある者に屈服する悦びに身を委ねたくはないィィ??そなたは妾の一番のお気に入りの家具にしてやるよそなたを愛して愛して、灰になるまで妾の玩具にしてやるよ…。」
【ベアト】くっくくくくくひっひひひひひひひひひひひゃっひゃひゃっはっははははーっははっはっはっはっはっはっはッ!!!」
客間
【楼座】「………これで、はっきりしたわ。もう疑いようもない。」
【郷田】「は…? ……と、言いますと……?」
【楼座】「あなたたちが死んだ死んだという二人はここにいない。…そしてベアトリーチェからの手紙があり、親切にも死体は持ち去ったと告白してくれている。」
【楼座】「……そういうことよ。もう茶番は飽き飽きしたわ!!」
 楼座叔母さんはそう叫ぶと、一同を険しい表情でぐるりと見渡す。
【紗音】「ちゃ、……茶番って、……どういう意味ですか…!」
【楼座】「私は朱志香ちゃんの部屋で言ったわ。……信用できるのは自分自身と、死体となって見付かった者以外いないってね。そして死体が見付からない以上、あの二人が殺されたことを認めるわけにはいかない。」
【譲治】「……ま、待って下さい、楼座叔母さん。それはどういう意味ですか…!」
【楼座】「南條先生と熊沢さんは死んでないわ、生きているッ! 殺されたということにして、この屋敷のどこかに隠れているのよ。私たちを襲うためにね!!」
【譲治】「何でそんなことがわかるんですか! 郷田さんたちが嘘をついているというんですか?!」
【郷田】「……楼座さま!! この郷田、いえ、右代宮家使用人一同! 誓ってそのようなことは致しません!!」
【楼座】「あなたたちは、南條先生たちは殺されたという。でも死体がない以上、それを信じるわけにはいかないわ。あなたたちが口裏を合わせてそういう嘘をついている可能性があるもの!!」
【楼座】「あなたたちの無実を信じる方法はちゃんとあるわよぅ? 南條先生と熊沢さんの遺体が見付かることよ!!」
【楼座】「それが見付かったら、私はあなたたちの話を聞いてみようという話にもなるわ。でも、見付からない限り、あなたたちは狼であることを否定できないッ!!」
【楼座】「あんたも! あんたも!! 黄金に目が眩んであの魔女に買収されたんでしょう!! そんなにカネが欲しい?! そうなんでしょう?! 一生遊んで暮らしたいの?! そんな人生に何の価値があるのよッ!!」
【紗音】「楼座さま…!! 私たちは、……そんなッ!」
【楼座】「黙りなさい! そして紗音、それ以上近付かないでッ!! 10年も恩を受けながらそれを仇で返すなんて!! 容赦なく引き金を引くわよ!!」
【紗音】「そんな……ッ、………そんなのって、………ひどすぎ……ます……。」
【譲治】「……ろ、楼座叔母さん!! それは暴言だ!! この部屋で殺人が起こった! そして犯人が死体を持ち去った! 彼女たちはそれを正直に申告しているだけだッ!!」
【紗音】「………う、……ううううぅうぅうううぅぅッ!!!」
 紗音はとうとう大粒の涙を零し始める…。10年の月日を右代宮家に捧げた。人生でもっとも輝かしい月日の内の10年を捧げた。………そして楼座とも友好な関係を築けていると信じていた。…その仕打ちが、これッ!! 人は刃物なんか使わなくたって殺せる…。
 譲治の兄貴じゃなくたって、…俺にだって、紗音ちゃんが心を深々と突き刺されて、涙という血を流しているのがわかる…。
【郷田】「紗音さん、下がって…。……楼座さま、確かにこの郷田はお勤めして日も浅く、信用を勝ち得ていないのはわかります…。」
【郷田】「…しかしッ、……せめて紗音さんだけでも信じていただくわけには参りませんか…?! 彼女は、10年間も右代宮家に奉仕を捧げてまいりました…! この郷田を信じろとは申しません…! せめてッ、紗音さんだけでも信じてやっていただくわけには参りませんか…!!」
 …しかし、……もう、俺にもわからないッ!! わからないんだッ!! 彼らを疑わずして、答えを求めることができないんだ!!! あぁあぁ、だんだんわかって来たよ…。……答えなんか求めるから、…どんどんおかしくなっていっちまうんだ…。
 答えなんか、いらない。全ては、19人目の魔女ベアトリーチェが、不気味な儀式に則り、怪しげな魔法で犯した不思議な殺人。…………それで、……いいじゃねぇか………。もう俺は、…誰も、…疑いたくねぇ………。
 紗音ちゃんと郷田さんは、半ば涙目で身の潔白を訴えていた。それを源次さんが静かに止める。
【源次】「…………よしなさい。…楼座さまの言うことはもっともだ。…死体を見つけない限り、南條先生と熊沢の無実は証明できない。」
 無意味な赤に紛れ込ませた愛の告白。皮肉ではなく文字通りの意味で、ベアトは戦人のことを愛している。
 そうだ。……楼座さんの論法によるならば、死体が見付かればその人物の無実だけは証明できる。でも、死体の人物だけだ。彼らが屋敷内を探し回り、死体を見つけたとしても、結局、彼らの無実は証明されない。
 彼らが南條先生たちを拉致して他所で殺し、密室は彼らのマスターキーで施錠した。これ以外の方法で密室を打ち破らない限り、……彼らの無実は証明できないのだ…。……だが、………それができないッ!!
 彼らが無実を証明できる機会はひとつしかない。……彼らが犯人の手に掛けられ、死体となって楼座叔母さんと再会する時だけだ。そんなのおかしいだろ!! 死ねば無罪、生きてる限り有罪なんて、まるで魔女裁判だ! …あぁ、そっか、敵は魔女だもんな。それでもOKってわけかよ…。
【源次】「……楼座さま。私たちは右代宮家にお仕えする家具です。……私どもを信用されるもされないもまた、私どもの与り知ることではありません。たとえ、どのようなご評価をいただこうとも、最後の時までお勤めを続けるのみでございます。」
【楼座】「あなたは本当に使用人の鑑ね。…お父様が心を許すのもよくわかるわ。そんなあなたまで疑わなくてはならないなんて、本当に心苦しいわ。」
【源次】「……………………。」
 源次さんはポケットに手を突っ込むと、マスターキーを取り出す。…そしてそれを傍らの机の上に置いた。
【源次】「……私は、信頼の証としてこれを預かっていると信じています。それを失ったなら、これをお返しするのは当然かと思います。」
【楼座】「………………。……それは良い判断ね。今日、何度もあなたたちが疑われてきた最大の根拠はこのマスターキーのせい。それを手放せば疑いが晴らせるのではないかというのは、初歩的ではあるけれど、まぁ、悪いことじゃないと思うわ。」
【源次】「……………二人とも。」
 源次さんが郷田さんと紗音ちゃんを見る。
 ……二人は頷き、それぞれのマスターキーを机の上に置いた。そこへ、楼座叔母さんが封筒から出てきた二つのマスターキーを重ね置く。
 これで五つの、全てのマスターキーがこの場所に集まった。それはつまり、使用人全員の、今日までの労を全て否定し、彼らに許されたはずの最後の名誉までを毟り取った証…。
【楼座】「真里亞、その手提げを貸しなさい。」
【真里亞】「……うー!! 返してー!!」
 楼座叔母さんは真里亞の手提げを引っ手繰ると、その中にマスターキーをざらざらと放り込み、その内の一本を掲げて誇示した。マスターキーを全て自分が手にしたという、宣言だ。
【譲治】「こ、………これで満足かい、楼座叔母さん。……これでマスターキーは楼座叔母さんが持つものだけだ。……これで、満足なんだろッ!!」
【楼座】「えぇ、満足よぅ。たとえ全員が信用できなくても、私は私自身だけを信用することが出来る!」
【楼座】「その私が銃とマスターキーを独占できた! これで私はもう、誰も疑わずに済むの。あなたたちも嬉しいでしょう? これでもう疑われずに済む! あっははははははははは、はっはっはっはっはっはっは!」
【真里亞】「………きひひひひひ。」
 その時、ひとりだけ傍観しているように見えた真里亞が、母を嘲笑った。…その笑いに楼座叔母さんは過敏に反応して振り返る。
【真里亞】「……鍵なんか関係ないよ。……ベアトリーチェは魔法で扉を開けられる。鍵なんていらない。…そんなもの、誰が持っていたって持っていなくたって関係ないんだよ。きひひひひひひひひひひひひひ…!」
【楼座】「その笑い方を止めなさいっていつも言ってるでしょッ!! ……? なぁに、戦人くん。」
 …俺は、つい二人の間に割り込んでしまう。
 ……いや違う。…膝を付いて、真里亞の頭を抱いてしまう。……俺は、……泣いていた。
【戦人】「もう、…よしてくれよ楼座叔母さん……。…真里亞が、正しかったんだ……。」
【楼座】「……な、…何を言っているの……?」
【戦人】「………真里亞…。疑って、………悪かった。……信じなくて、………悪かった。」
【真里亞】「……………戦人。」
【戦人】「全部、……魔女の仕業だったんだ…。……魔女の、……仕業だったんだよ……。…トリックとか密室とかどうでも良かったんだ…。………ただ、ただ、…………ベアトリーチェっていう魔女が実在して、………本当に魔女だっただけなんだ…。……それを、俺は信じなかったから、…………こんなにも苦しくて、…………悲しくて…………。」
【真里亞】「………戦人は、……ベアトリーチェを信じてくれる……?」
【戦人】「あぁ…! 信じる。…ベアトリーチェは“い”るんだ。そして不思議な魔法を使う、魔女なんだ…!」
【真里亞】「戦人……。」
 真里亞は俺の手を解くと、…逆に俺の頭を抱えるように抱いた。
【真里亞】「……それでいいんだよ、戦人。…………ベアトリーチェは、“い”たの。……戦人が、なかなかそれを信じられなかったから、見えなかったの。…………魔女は“い”るの。“い”る。もうすぐ“来”る。
 ………戦人はベアトを信じてくれたから、きっと黄金郷へ招かれるよ。……もうすぐ。……もうすぐだから。もう、何も怖くない。…………怖くないよ? 真里亞と一緒に、おててを繋いで、…ずっと一緒にいよ…? 一緒に碑文の謎を考えよ。ベアトの問題を考えよ。………ベアトは最初から言ってるよ。この問題を解いて遊ぼうとしか言ってないよ。」
【戦人】「あぁ……、そうだったんだ……。犯人探しなんて、まったくの時間の無駄だったんだ…。……俺たちは、……ただ魔女を、……信じればよかったんだ………。」
 涙を零し続ける俺の頬をそっと撫でた後、……真里亞は羽のような軽さで、俺の額にキスをする。その瞬間だけ、……薄気味悪いとさえ思っていた真里亞の笑顔が、天使に見えた…。
【源次】「マスターキーはお返ししましたが、…私どもの右代宮家への忠誠は変わりません。………客間へは、以後、お許しがない限り立ち入りません。どうか楼座さまも、客間を内側より施錠されて下さい。」
【楼座】「……本当に殊勝な人ね。台風が過ぎ去って、……この島に再び、うみねこの鳴き声が戻ってきたなら、………私たちは再び互いを信頼し合えるのかしら。」
【源次】「……もし、再びの信頼を賜えるのでしたら、これに勝る喜びはありません。」
【楼座】「そうね。……私たちは、必ずわかりあえるわ。……うみねこのなく頃に。」
【源次】「………この部屋は、警察が来るまでこのままにした方が良いでしょう。楼座さま。施錠をお願いいたします。……私たちは厨房へ戻ります。何かございましたら、いつでもご用命下さい。」
【楼座】「ありがとう。…………あなたが狼だったなら。何てしゃあしゃあとのたまうのか。……そしてあなたが羊だったなら。………あなたを狼の檻に放り出してごめんなさい。」
【源次】「……家具は、家に運命を委ねます。……命を落とすことになろうとも、それによって楼座さまの信頼を再び勝ち取れるならば、それはとても光栄なことです。」
【楼座】「…………………………。できることならば、あなたたちが、台風が過ぎ去るまで元気でいることを願っています。これは全て台風が奏でる暴風と降雨の狂想曲。……演奏が終われば幕が下り、……私たちは再び手を取り合えるに違いない。」
【源次】「……うみねこの、なく頃に。」
 楼座叔母さんは頷いて応える…。源次さんは踵を返す。使用人室を出て行くのだ。
 郷田さんの顔はまだ涙でぐしゃぐしゃだったが、……源次さんの言葉を聞く内に、心の中の整理がついたのかもしれない。……本当にみっともない顔だったが、……俺たちが良く知る郷田さんの表情に戻っていた。
【郷田】「………私も、厨房に控えております。……何かございましたら、いつでもご用命下さい。………温かい食事をお望みでしたら、いつでもこの郷田、最高のお料理を用意させていただきます。」
【楼座】「…………ありがとう。あなたには明日の朝食を頼みたいわ。……明日の昼前には船も来るでしょう。…今までありがとう。六軒島で唯一の楽しみがあなたの食事だったわ。」
【郷田】「…かしこまりました。この郷田、最高の朝食を用意いたします。どうか明日の朝を楽しみにして下さい。」
【楼座】「ありがとう。…………紗音ちゃんも。明日の朝に、…おいしい珈琲を飲みながら、仲直りをしましょう。」
【楼座】「……? 譲治くん?」
【譲治】「……僕も、彼らと一緒に行く。」
【紗音】「…いいんです、譲治さま…。どうか客間にお戻りになって下さい。もうマスターキーは他にありません。だから楼座さまとご一緒に客間にいれば、誰にも脅かされません。」
【楼座】「そうね。…そういうことになってる。…客間に私と一緒にいるのが客観的に考えて一番安全だと思うわ。」
【楼座】「……でも、無理に一緒にいろとは言わない。譲治くんは譲治くんの安全だと思う場所にいればいい。……譲治くんももう大人だものね。明日の朝までどこで、誰と過ごそうと自由だもの。」
【譲治】「………そうさ。僕は、僕の判断で。誰と夜を過ごすか決める。」
【戦人】「あ、………兄貴……。」
【譲治】「戦人くんは楼座叔母さんと客間にいるんだ。きっとそれが一番安全なんだ。……客間の外は、それに比べたら安全ではないと思う。……なら、そんな場所にいる彼女を、僕はひとりにしておけない。」
【戦人】「……俺は、……決して紗音ちゃんや他の使用人を、…いや、誰かを疑ってるわけじゃないんだ……。誰も疑いたくないんだ…。遺産? 黄金? …そんなの下らねぇじゃねぇかよ…。…そんなので殺し合いなんて、…あるわけねぇじゃねぇかよ……。」
【譲治】「うん。戦人くんの心が美しいことは、僕が一番知っている。……誰も君を責めない。誰も。」
【戦人】「………………兄貴ィ…。」
【真里亞】「…大丈夫。戦人は真里亞が守る。……真里亞と一緒なら、ベアトリーチェでも手出しできない。だって真里亞は、ちっちゃくても、魔女だもの。」
【譲治】「うん。………真里亞ちゃん。戦人くんをよろしく。………さ、紗音。行こう。」
【紗音】「はい……。……楼座さま、それでは失礼させていただきます。ご用命がございましたら、いつでもお呼び付け下さい。」
【楼座】「………さっきは酷いことを言ってごめんなさいね。…………明日の朝まで、許さなくてもいい。でも、明日の朝になったらもう一度謝らせて。」
【紗音】「はい…。…………ありがとうございます。」
 譲治の兄貴と紗音ちゃんは、二人で使用人室を出て行く。………これでこの血塗れのおぞましい部屋には、俺と真里亞と、楼座叔母さんだけになった。
 源次さんが消え、郷田さんが消え、譲治の兄貴と紗音ちゃんが消えるまで、俺たちは呆然と立ち尽くしていた…。彼らの気配と足音が完全に消えた後、楼座叔母さんは、まるで愉快なことでも思い出したように、くすりと笑い捨てた。
 死体が見付かれば無実というロジックは成立しないが、そう思うように誘導している。これに引っかかってしまった読者は、紗音が確実に死んだ時点で容疑から外してしまうことになる。
【楼座】「………何も信用できないわよ。家具どもが。」
 その一言に、……俺は窒息する。
【戦人】「…な、………何で、………そんなことを、…言うんだよ……。」
【楼座】「マスターキーは5つで全部? そんなの誰が信じるの? どうせ複製の鍵があるに決まってるのよ。……彼らが懐から鍵を出したくらいで信用なんかできるものか…!!」
【戦人】「そ、……そりゃあねぇぜ……? そ、……その鍵を置いたってのはよ、……単に鍵を手放したってだけじゃねぇ…。……あんたは、…彼らの今日までの苦労を、……全て台無しにして穢して、踏みつけて、………その挙句としてその鍵を手放させたんだぜ……。その捨て台詞は何だよ…。ここまでして見せて、……なお、まだ信用できないってのかよッ?! あんまりだぜ…、あんまりだぜそんなのって……!」
【楼座】「悪魔の証明なのよ! マスターキーは全部で5つ?! そんなこと、証明不能なのよ!! マスターキーが5つあることはここに置けば示せる! でも、5つ以上存在しないことは証明できない!! そんなことは悪魔か魔女にしか証明できないのよ?!」
【戦人】「うわああああああぁああぁぁああぁッ!!! もうやめてくれもうやめて…ッ!! 頼むよベアトリーチェ、今すぐ現れてくれ、そして楼座叔母さんに赤で“マスターキーは5本しかない”って言ってやってくれ!! 頼むよ後生だよ、悪魔にしか証明できないんだよ、魔女のお前なら証明できるんだよ! 頼むからベアト、ここに現れて楼座叔母さんに、マスターキーはそれで全部だから、もうみんなを疑わなくていいんだって、教えてやってくれ…!!!」
【ベアト】マスターキーは5本しかないマスターキーは5本しかない。…くっくっく、これはどうしたことか。妾がいくら口にしても楼座に届かぬ。どうやら、妾の存在を否定しているヤツがまだイるから聞こえないみたいだなァア? 右代宮戦人ァアアァ???」
 戦人視点では酷い言い草に聞こえるが、楼座は使用人たちが犯人だと知っているため、このような言い方になる。
 楼座は意外に頭が回る人物であり、買収されたことになっている自分が殺されない保証もないことを、正しく理解している。
【戦人】「認めるッ!! 認めるよ、お前はいるいる確かにいるッ! だから後生だよ、もうこんなのは止めてくれ!! もう止めて!もう止めて!! ひぃいいいぃいぃいいいいい!!」
【ベアト】「言葉だけでは届かぬぞ、態度で示せ。妾の家具になると心から誓え。」
【ベアト】「出来るかァ? 服を脱げ、裸になるんだよ、そして両手を付いて地に這え。着衣は霊長にのみ認められた証だ。貴様は今から家具になるんだよ、だからその資格を失う、当然のこと!!」
【ベアト】「そして跪けよ、妾の靴に舌を這わせろ。出来るか? 出来るンだよなアァアア?? そうしたら現れてやるよ赤で言ってやる! マスターキーは5本しかないって、楼座に言ってやるよ!!」
【ベアト】「あぁでもわかってる、誇り高きお前がプライドを捨てられるわけがない。それでもいいんだよ充分なんだよ、ちょっとグラァって来ただろォ? 靴を舐めてもいいかって一瞬、思っただろォオ? すぐにそれを否定して自分を恥じただろォオオ?? その表情が見れるだけで、最ッ高ォオにステキな気分なんだよォ!!
【ベアト】「ザマァねぇ顔だよ、鏡で見てみろよ、裸になって靴を舐めてる最低なお前が映ってるぜェエエ? 見えるかよ右代宮戦人ァアアァアアァアァアアアァアッ???」
 屈服を口にする戦人。しかしこれで「そうか認めるか、ではゲームは妾の勝ちだ」とはならない。本当に屈服されてしまってはベアトが困るからである。

儚き抵抗
10月5日(日)18時00分

厨房
【譲治】「…………信じられない。……それが、…真相だと言うのかい。」
【紗音】「……はい。……私たちは、見たままのことをお話しています。」
 譲治は腕を組み、再び唸りだす。…そして厨房は再び長い沈黙に包まれた。
【郷田】「譲治さまがにわかには信じられない気持ちも、私はよくわかります。…何しろ、…この目で確かに見たはずの私ですら、あれが何だったのかわからなくなる…。私は確かに見た。そして取っ組み合いまでしたはずなんです! なのに、……あれが全部、幻だったような気すらする…。」
【譲治】「…なるほどね。……あの楼座叔母さんに詳しく話せないわけだ。……今の話を本当にしてたら、もっと面倒なトラブルになっていただろうね。…なるほど、源次さんがずいぶん冷静な対応をしていたのがわかりました。」
【源次】「……………私に、それを説明するだけの力があればよかったのですが。」
 実際に見たわけではない譲治には、信じて欲しいと念を押されても、どうしても想像が及ばない。……無理もないのだ。実際に見た人間たちですら、あれは何だったのかと自問している始末なのだから…。
【譲治】「…話を少し巻き戻すよ。……紗音は、嘉音くんが偽者かもしれないと思った時、クモの巣を取ってきたと言ったね? どうしてそんなことを?」
【郷田】「……そうだ、それは私も思っていました。どうしてクモの巣だったんです?」
【紗音】「前に、熊沢さんに聞いたことがあるんです。……大昔の六軒島には、悪霊が住んでいて、その、クモの巣を恐れたって。それでクモの巣を魔除けと尊んで大切にしたという昔話があるんだそうです。……それでその、……咄嗟に。わ、私も少し混乱していたんだと思います…。」
【源次】「…………そんな話が。…熊沢はそういう昔話に詳しかったな。」
【譲治】「クモは益虫ですからね。……確かに、そういう信仰があってもおかしくないかもしれない。」
【紗音】「…………きっと。…その悪霊の力を、あの鳥居の祠が封じ込めてたんだと思います。…そして、霊鏡が割られたのでその力が蘇って…。……ベアトリーチェさまを蘇らせる力となってしまったに違いないのです…。…………私が、……心の弱かった私が、………あんな大それたことをしなければ………。ううぅうッ…!!」
【譲治】「…紗音。その話はもうしなくても大丈夫だよ。……僕は君を責めたりなんかしない。」
 紗音が昔から、譲治との出会いについて、ある種のオカルトをほのめかすことは多かった。運命や偶然、あるいは奇跡を恋愛に関連付けたがる女の子らしい話だと、譲治は耳を傾けながら思ってきた。
 ……鳥居の祠に納められていた霊鏡を割ったというのはさすがにやり過ぎだと思ったが、彼女がそれだけ真剣に僕との交際を望んでいた過程での、ひとつのイタズラに過ぎないと譲治は笑い、それを許した。
 ……古ぼけた祠にある鏡を割ったくらいで、僕たちの出会いの運命は変わらない。そして、それによって何の祟りもあるものか。ただの埃に塗れた古ぼけた鏡だったさと元気付けたはずだった。
【郷田】「…ベアトリーチェさまという、霊のような存在がいる、という話は、この島に勤めるようになってからたくさんの同僚に聞かされました。」
【郷田】「最初は馬鹿馬鹿しいと思っていましたが、それを批判すると何だか不謹慎そうな空気があったもので、…私も表向きは信じているように振舞ってきました。……しかし、まさか本当に、」
【紗音】「いたんです。…ベアトリーチェさまはずっとこのお屋敷におられたんです。……でも、ベアトリーチェさまは力を失っておられて、…私たちの前に姿を現すことができなかったんです。ずっと“い”た。…私たちが視えなかっただけなんです。」
【譲治】「…………源次さんの意見を、聞きたいです。」
【源次】「………私には、何も意見はありません。………ひとつだけ申し上げたいのは、……私たちはあの時、ここに5人いた。……そして、嘉音が勝手口から帰ってきたと思った。そして、使用人室に運び、………何かが起こって、南條先生と熊沢が帰らぬ人となってしまった。」
【源次】「……それだけです。……私たちは見たものをすでに全て説明しました。…それを、見ていない譲治さまに信じろというのはとても無理な話だと理解しています。」
【郷田】「信じられるわけがない。………あれは間違いなく嘉音さんだと思った。でも、あいつがベッドから起き上がって、…そう、こんな風にしながら胸の傷を弄り始めた時。……こいつは嘉音さんじゃない、誰か別の存在なんだと直感しました。」
【郷田】「………譲治さまにはわからないでしょう。…よく知っていると思っていた人物が、実は別人であることを曝け出した瞬間の、恐ろしさというものは…。………説明できない。…とても、説明できるわけがない…。」
【譲治】「わかるよ。……郷田さんが、それほどまでにショックを受けるどんな恐ろしいことがあったのか、…僕は察するよ。」
【郷田】「……ありがとうございます。…譲治さま。」
 そして一同は再び沈黙する。魔女の甘い囁きに乗り、霊鏡を割ってしまったあの日が全ての間違いだったのだと、紗音は何度慰めても泣き続けた…。
【譲治】「………………君に囁いたという魔女は、…その鏡があると力を失うんだね?」
【紗音】「…少し説明してくれた気がしますが、よく覚えていません。……あの鏡があると、力が出せない、というようなことを言っていたと思います。」
【譲治】「……君が割ったというその鏡はどうしたの?」
【紗音】「覚えていません。…多分、割ったまま立ち去りましたから、…そのままそこに残ってたでしょう。」
【譲治】「……ということは、岩礁が雷で打たれて消えたとか言う時に、海の底か…。まぁ、拾ってボンドで貼り付けたところで、ご利益は戻らないだろうけどね。ははははは。」
【紗音】「………私は、………本当に、………何てことを………。」
【譲治】「……ごめん。失言したよ。」
 紗音が鏡を割ったことが、本当に全ての始まりなのかは、わからない。使用人たちは、紗音を責めこそしないが、それこそが発端だと信じているようだった。…しかし譲治は、まだそこまでを信じられるわけではなかった。
 ……魔女や悪霊の話を聞かされても、どうしても眉唾だと思ってしまう。それでも紗音の話を真剣に聞いたのは、彼女の心の痛みを少しでも和らげるヒントが欲しかったからだ。
【郷田】「そう言えば、………その鳥居にあったものとは違うでしょうが。…奥様が、お守りとして霊鏡をお持ちになっていると、聞いたことがあります。」
【譲治】「……へぇ? 夏妃伯母さんが?」
【郷田】「はい。お祖父さまの形見分けか何かでもらったものだそうで、とても強い魔除けの力を持つ、由緒正しい? 霊鏡だとか何とか…。」
【源次】「…………同じ話は私も聞いたことがある。……鏡は、良くないものを反射して弾き返す力があるのだとか。」
【譲治】「その霊鏡があれば、……魔女のベアトリーチェに、対抗できるかな。」
【紗音】「え……。」
 譲治の提案に、使用人たちは顔を上げる。
【譲治】「……祀っていた鳥居と祠はもうないかもしれないけれど、霊鏡がもう一枚あるのは重要なことだよ。………夏妃伯母さんの実家は神職にも通じていると聞いたことがある。それは本当に、単なる鏡ではないかもしれない。」
【郷田】「た、確か奥様は、宝物箱に入れて大事にしまっている…、と仰っていたような気がします。…そんなに大きいものではないのかもしれません。」
【紗音】「………大きさの問題ではなかったと思います。私が割った鏡も、一見、大したことのない小さな鏡に見えました。」
【譲治】「…………相手がオカルトなら、こちらもオカルトの手段で対抗するしかない。…ただこうして座っていても、何も解決しない。単なる気休めだとしても、やってみる価値はあるよ。」
 もちろん、譲治が魔女の存在を認めたわけではない。……しかし、紗音の心の傷を癒すためには、何かをしてそれを禊ぐという儀式が必要だと考えた。…だから夏妃の霊鏡の話はとても都合が良かった。
【譲治】「行こう。…魔女をやっつけようなんて大それたことは言わないよ。…でも、魔女から身を守る魔除けがあってもいいと思う。」
【譲治】「……前に真里亞ちゃんに聞いたんだけど、お祖父さまの部屋の扉は、強力な魔除けが施されているんでしょ? ……さすがお祖父さまだね。オカルトに対する防御も充分だったわけだ。………行こう。夏妃伯母さんの部屋へ!」
【紗音】「し、しかし、奥様の部屋には鍵が掛かっていると思います…! マスターキーは楼座さまにお返ししてしまいましたし、…キーボックスのある使用人室も施錠されてしまいましたし…。」
【譲治】「……ならばその鍵は夏妃伯母さんが持ち歩いているはず。…礼拝堂にはまだ夏妃伯母さんの遺体があるはずだ。警察が来る前に勝手にいじってしまうのは悪いことだけれど、それについてはちゃんと説明しよう。」
【郷田】「しかし…、礼拝堂の入り口も鍵が掛けられております…。」
【譲治】「ははは、郷田さんの腕力じゃ、ガラス1枚割れないのかい? その辺の石で叩き割ればいい。」
【紗音】「た、大切な礼拝堂の窓を破ってしまっても、…その、よろしいのでしょうか…。」
【譲治】「お祖父さまに怒られる時は僕が責任を持つよ。……僕は元々今日、右代宮家の全員と戦うつもりでいた。君との婚約を許してもらうためにね。…だから元よりその覚悟はある。」
【譲治】「ガラスを割ろう。そして夏妃伯母さんの遺体から鍵を借りよう。」
 譲治の、自分が責任を取るという言葉は、使用人たちに大きな勇気を与えたようだった。…紗音と郷田は互いに顔を見合わせ、それからもう一度譲治の顔を見る。
【譲治】「オカルトに詳しいお祖父さまだもの。夏妃伯母さんの霊鏡の力だってきっと理解してくれる。大丈夫、怒られたりなんかしない。」
【紗音】「………奥様の鏡で、……本当にベアトリーチェさまを、……もう一度封じることができるでしょうか。」
【譲治】「わからない。でも、試す価値はあると思う。…なら行こう。表はどんどん暗くなっちゃうよ。急ごう!」
【譲治】「紗音は懐中電灯を! 郷田さんはガラスを割れそうな道具を! 源次さんはすみません、傘の用意をお願いします。」
【紗音・郷田・源次】「「「はい!」」」
 楼座に拒絶された使用人たちは、再び主を得て、動き出す。普段のおっとりとした譲治からは想像のできない貫禄が滲み出ていた。
 紗音は非常用の懐中電灯を確認する。念の為、新しい電池に入れ替えた。
 郷田は、いくつかの重そうな調理道具を吟味している。…本来なら、誇りある料理人の彼は用途以外に使いたくなどない。しかし今は、彼が主だと認めた者の命令に応えようと必死だった。彼は少し悩んだ末、大きめの重厚感あるフライパンを手にする。
 源次が勝手口脇に置かれた傘立てから、数本の傘を抜いてくる。…それは3本だった。
【譲治】「源次さん…?」
【源次】「………私はご一緒できません。……ご用命の時に、全員がいないようなことがあっては、右代宮家使用人頭として恥ずかしいことです。」
【郷田】「そ、…そんな、源次さん! 今のこの屋敷で、ひとりでいることがどれだけ危険か、あなたもわかるでしょう…!」
【源次】「……私は行けぬ。……お館様からいつお呼び出しがあってもいいように、私はここにいなくてはならぬ。」
【紗音】「源次さま……。」
【源次】「……行って、譲治さまにお仕えするように。くれぐれも粗相のないように。郷田、手本となるよう、よろしく頼む。」
【郷田】「は、………はい。…お任せ下さい。」
【紗音】「必ずや、お役目を果たします…。」
【譲治】「本当にいいんですね、…源次さん。」
【源次】「はい。………私はもうこの歳です。今日までの人生は全て、お館様に受けたご恩をお返しするための日々でした。…このような老いぼれがどうなろうと、全てはルーレットの目次第。私は、どのような結果が出るのかを、ここに座って見届けたいと思います。」
 源次はそう言い、腰を下ろす。それ以上の問答はする気がないとでも言うように、…かつて南條と対局していたチェスの盤面に目を落とす。譲治はそれを見て、源次をここへ残すことを決心する。
【譲治】「行こう、みんな。今は少し風も大人しいみたいだ!」
 傘を受け取った譲治が廊下へ駆け出すと、紗音と郷田もそれぞれの道具を持ってその後を追う。
 ……彼らが飛び出していった後、源次は、チェス盤の脇へすっと手を伸ばす。………そこにあるものを、そっと引き寄せ、手の平で覆うように隠す。
 源次はなおも息を殺し続ける。………すると、………何か黄金色のものが閃いた。
 配膳台の上に置かれたアイスペールの中から、…小さな黄金の蝶が音もなく、ひらりと現れたのだ。それはまるで、譲治たちが飛び出していくのを見届け、自らもこっそり後を追うかのようだった……。
 一瞬の出来事だった。
 …優雅に羽ばたいていた黄金の蝶は、源次の投げたナイフで昆虫標本の蝶のように壁に縫い止められていた。黄金の蝶は、苦しそうに何度か羽ばたいた後、抜け出せないことに観念し、細かな黄金の粉と煙になって、水に溶けるように消えてしまう…。
 源次は何事もなかったかのように、チェス盤に目を落とし続けている。……もうすぐ妙手が思いつくかもしれない。しかしどんな手を指そうとも、対局相手はもう永遠に、それを受けてはくれない。
 それを知りつつも源次は妙手を探る。……自分に何かの運命が与えられるまでの長くない時間を潰すには、ちょうどよかったに違いない…。
 ……ルーレットがどんな目をもたらすのかはわからない。でも、その決着はもうじきつく。………転がしたルーレットの球には、誰も干渉できないのだ…。
客間
 客間の扉は、施錠されただけでなく、ソファーなどで作ったバリケードでまで塞がれていた。だから、楼座叔母さんは、不審者が現れるなら窓を破ってだろうと睨んでいるようだった。扉に背を向ける形で一人掛けのソファーを置き、銃を抱き続けている。
 もう、何が何だかわからなくて、身も心も疲れ果ててしまった俺は、真里亞に求められるままに、一緒に遊んでいた。真里亞は言う。…ベアトリーチェは、黄金の碑文が解けるかどうかを試しているのだから、この謎に挑まなければならない、というのだ。
 最初の内は、少し興味を持ち、挑んでみたが、元々、何を言っているのかさっぱりの怪文章だ。……何か謎が隠されていることは疑わないが、それがひょっこりと解けるなど、まるで思えなかった。
 碑文の中盤に、第一の晩から第十の晩までをかけて黄金郷へ旅立て、というような行がある。第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ。第二の晩に、残されし者は寄り添う二人を引き裂け。これが、すでに起こってしまった礼拝堂での6人の殺人と、朱志香と嘉音くんの殺人を暗示していることは明白だった。
 これに従うならば、まだあと5人は殺されることを覚悟しなければならない。第四の晩に、頭をえぐりて殺せ。第五の晩に、胸をえぐりて殺せ。第六の晩に、腹をえぐりて殺せ。第七の晩に、膝をえぐりて殺せ。第八の晩に、足をえぐりて殺せ。
 南條先生と熊沢の婆ちゃんの遺体は、見付かっていない。…しかし、順当に第四の晩と第五の晩の犠牲者だと考えるならば、……頭と胸をえぐった、気の毒な姿で発見されるに違いない。
 ということは、さらにあと3人が、腹・膝・足をえぐられて殺されることが予定されているわけか。……それは誰だろう。…部屋を見渡し、ここにいるのが3人であることに気付くが、何というのか、感情が麻痺してしまって。…不思議と恐ろしいという感情はわかなかった。
 俺がぼんやりとソファーに上体を預け、天井を見上げていると、真里亞が気付く。…どうやら謎解きをサボっているように感じるらしい。真面目にやらないと駄目だと怒られた。
【戦人】「……なぁ、真里亞。」
【真里亞】「うー…?」
【戦人】「ベアトリーチェは確か、これを解いたら、どうするって言ってたんだっけ。」
 確か、魔女の手紙には、利子の回収を諦める、みたいな抽象的なことが書かれていた。…俺はそれをつまり、一族皆殺しを諦めると好意的に読み取っているのだが、……本当にそういう意味で書かれているのだろうか。
 この謎を解くことで、本当に自分が助かるのか、実感できない。………仮に解けたとしても、それは犯人の思う壺で、結局は全て無駄な努力なのではないかと思ってしまう…。
【真里亞】「うぅん、そんなことはない。……この碑文が解けたら、ベアトの儀式はおしまいになる。だからもうそれ以上、誰も死ななくなる。」
【戦人】「……本当にか? そういうルールをヤツが提示してるだけだろ…? この謎を解けば、…多分、祖父さまの隠し黄金の在り処がわかるんだろう。…ヤツはきっとそれを狙って…、」
【真里亞】「うー。狙わないよ。」
【戦人】「…何で、そう断言できるんだよ。」
【真里亞】「黄金は最初からベアトのものだもん。自分のものを狙ったりなんかしない。」
【戦人】「……じゃ、…じゃあどうしてベアトは俺たちにこんな大ヒントを授けてくれたんだ? ……というか、どうしてこんなゲーム染みたことを仕掛けてきたんだ?」
 源次は、別の部屋に隠れている熊沢と南條を殺害。2〜3時間経って3人が戻らなかったら死体を出せと命令されている。
【真里亞】「魔法には、リスクが必要なの。」
【戦人】「……リスク。…よく意味がわかんねぇな。」
【真里亞】「例えばマラソン。……完走すれば誰でももらえるメダルと、一番になった人しかもらえないメダルって、同じ価値だと思う…?」
【戦人】「思わねぇぜ…。……つまり何だよ、結局、ヤツは遊んでるってことなのか? わざとこっちにチャンスを与えるようなことをして、」
【真里亞】「ちーがーうー。それがね、魔法というものなの。どんな大きな魔法にも、絶対にリスクや弱点があるの。うぅん、ないといけないの。」
【戦人】「…魔法って言われるとピンと来ねぇが、…ギャンブルだって考えれば少しは理解できるな。デカく失う覚悟がなきゃ、デカくは勝てない。そして勝ち目の薄いギャンブルであればあるほど、配当はデカくなる。」
【真里亞】「その通りだよ。だからベアトは、儀式のリスクをちゃんとみんなに説明したの。だから、この謎を解けばちゃんと儀式は中断される。だって、それを約束違反したらリスクにならない。」
【戦人】「これを解けば、…ヤツは本当に約束を、守るのか。」
【真里亞】「花は枯れるのにどうして美しいの? 造花は見分けがつかないほど精巧でもどうして美しくないの? 人間は死を賭すから奇跡が起こせる。不死の人間がいたとして、その人物に何の奇跡も起こせる道理はない。………私たちも、人生も、魔女も儀式も。私たちはリスクを負わなければ、何も成し遂げられないの。」
【戦人】「……謎が解けたらどうするんだ。ピンポーンって鳴らして挙手して、解答を魔女に伝えて答えあわせをするのか。」
【真里亞】「うー。それは知らない。でも、解けばきっと、自動的に儀式は終わる。」
【戦人】「……………………。…真里亞は詳しいな。…そいつはみんな、……ベアトリーチェに習ったのか。」
【真里亞】「うー。」
 リスクを負わなければ、何も得られない、…か。それは間違いなく世の中の真理だが、……俺が好むチェス盤理論の考えとは少し相容れなかった。チェスにおける指し手とは、常にリスクのもっとも少なく、有利な展開を期待する最善手の模索だ。
 ギャンブルのような運否天賦で手は指さない。……そう、知的ゲームに博打性の入り込む余地はありえないのだ。なのに、ベアトリーチェというヤツは、これほどの大それた犯罪、…あるいは儀式を執り行いながら、……自らにわざわざ敗北条件を課し、それを俺たちに公開している。
 チェスは常に最善手を指すものだ。だから相手の立場になって、次の手を読み切れる。…しかし、ベアトリーチェの指し手は、常に最善手だとは言い切れない。
 俺は多分、この碑文に注目させることで何かを誤解させて煙に撒かせようとしているんだろうと思っている。……しかし真里亞は、そんなことだけは絶対にありえないという。これは魔女が示した純粋なリスクであり、ゆえに正式な魔法の儀式である証拠だという。
 ………俺には、ベアトリーチェという魔女が、わからない。
 ヤツには目的があって、これほどの連続殺人を犯しているはずなのに、……なぜ、わざわざ自分の敗北条件を晒すのか。……どんなにチェス盤を引っ繰り返し、相手の立場になって考えても、……この謎を解いたら降参する理由がわからない。
 まるでベアトリーチェは、勝っても負けても、…どちらでもいいようではないか。こんな相手とのチェスでは、チェス盤理論など通用しないのは当然なのだ…。…わからない、わからない。……ベアトリーチェは、何が狙いでこんな事件を引き起こしているんだ。
 俺たちを皆殺しにしたいだけなら、大仕掛けなど打たずに、こっそり密かにやればいい。気の利いた予告状も、思わせぶりな密室演出も何も必要ない。
 …全てが過剰演出。まったく意味がわからない。
 俺がベアトリーチェのことを、欲深き人間の犯人であると思い続ける限り、何も理解することなどできないのだろうか。…俺は、やはりヤツのことを魔女だと認めなければ、チェス盤理論に駒を並べることすらできないのだろうか……。
 ……ヤツが本当に魔女で、真里亞の言うことが全て真実ならば。俺たちのすべきことはひとつだった。…推理も仲違いも犯人探しもどうでもよかった。みんなで食堂にでも集まって、謎解きに知恵を出し合ってればよかったんだ。あれだけの大勢で知恵を出し合えば、ひょっとしたら糸口くらい掴めたかもしれない…。
 欲深な人間たちが、相手より得をしようと欲をかき、……知恵を集めることなく、次々に生贄に捧げられていく。………結局は、人間の自業自得なのか。考えている気がして、…実は欲深な自分のことしか、考えていない。
 チェス盤理論は結局のところ、相手に自分を投影する思考術。……欲深な人間は、相手の中に欲深なる自らの姿を見ることになるのだ…。
 ぼんやりと楼座叔母さんを見る。ずっと緊張を強いられてきたから疲れが出たのだろう。眠ってはいないが、宙の何もない一点をぼんやりとずっと見続けていた。
 楼座叔母さんは、殺された人間以外は誰も信用できないと公言した。……楼座叔母さんのチェス盤思考は、……相手の中に自分を見た。
 …つまり楼座叔母さんは、……誰も信用できず、気を許すことのできない、孤独な女性だということかもしれない。…親父に昔、ちょっとだけ聞いたことがある気がする。
 楼座叔母さんは、本来はとても素直な子だった。……でも、他の兄弟たちと歳が離れ過ぎていて、しかも、対立しがちな兄弟の双方に同意を求められることが多かったため、幼い頃から、心理的に辛い思いをしてきたという。片方に与したために、もう片方に辛い目にあわせられることも少なくなかったという。
 確かに楼座叔母さんは今日、何度か暴言とも取れる発言をした。………だが、それはつまり、彼女が浴びせられた言葉だから、彼女のボキャブラリーに刻まれているわけだ。彼女が口にした数々の暴言は、……そのまま、かつての楼座叔母さんが浴びせられてきた暴言でもある…。
 …言われて見れば、今日の彼女の言葉遣いは、時折、蔵臼伯父さんや絵羽伯母さんが混じっていたような気がする。……兄弟だから似るのだろうと納得したが、…そういうことではないのかもしれない…。俺は初めて、温和なだけだと思い込んできた楼座叔母さんに心からの同情を寄せるのだった…。
 なら、真里亞は…? 真里亞はさっきから断言している。魔女が提示したこの謎を解けば、儀式は中断されて絶対に助かる。そして、ベアトリーチェはした約束を絶対に破らないようなことも言っていたように思う。
 ……つまりそれは、真里亞のことなのだ。真里亞は約束を絶対に破らない、一番無垢な心の持ち主…。だからベアトリーチェも約束を破らないと、信じてる。信じられる。でも、それは真里亞の想像するベアトリーチェ像ではないのか…? 本当のベアトリーチェが約束を絶対守るなんて保証、ないじゃないか…。
【ベアト】妾は約束は守る。碑文の謎を解けば、黄金郷へ至ることができるだろう。さすれば、儀式は終わる。それ以上、誰も死にはせぬ。」
【戦人】「……お前みたいな鬼畜の極みが、ルールを遵守するってのかよ。」
【ベアト】「妾が残忍で鬼畜で外道であることを否定はせぬ。……だが、妾は魔女だ。魔法を使う。魔法を使うには守らねばならぬルールがある。…妾は魔女だからこそ、それを蔑ろにできぬのだ。それだけは信じるが良い。」
【戦人】「…………………。……これだけ滅茶苦茶やってきて、それでもルールだけは信じろってのかよ。」
【ベアト】「……妾は誑かしはする。もちろん人も騙す。人間と変わらぬ。……だが約束として口にしたことを反故にしたことは一度もない。人間はどうか? 約束を、必ず守るのか?」
【戦人】「…………“約束を守ろう”なんてキャッチフレーズがある以上、…ちゃんと履行されてるかどうかは疑わしいな。」
【ベアト】「妾から見れば、人間の方がよっぽど利己的で鬼畜な存在よ。……人間の約束ほど、疑わしいものはない。妾も時に人間と契約するが、下らない願いひとつ叶えるのにどれほど厳重に取り決めをするか想像もつくまい。」
【ベアト】「…少しでも隙があると、連中はすぐに“叶える願いの数を百に増やせ”とか“小さな豆粒に変身してみろ”とか言い出す。」
【戦人】「……親父によく言われたぜ。契約書ほど怖ぇもんはねぇって。……よく読まずにハンコを押すヤツは、骨の髄までしゃぶられて当然だって言ってたぜ。…悪徳で荒稼ぎしてやがったんだな。」
【ベアト】「…………察しろ。人は生まれながらに詐欺を知りはせぬ。…どこかで被った。だから覚えた。」
【戦人】「………………………。」
【ベアト】「押し付けあわずにはいられぬ人の世の罪、か。……はて、どこの魔女に聞いたやら。まぁいい。……そなたが思っているほど、妾も無慈悲ではないぞ? くっくくくっくっく!」
【戦人】「嘘をつけ!! これだけの大勢を、しかもまたッ!! こんな残酷な方法で殺しておいて、何が無慈悲ではないだ!! 約束は守るだと?! いい加減なことを言うな!! 俺はお前を認めない。断じて。それを譲らないことだけが、お前への抵抗だと俺は信じてるッ!」
【ベアト】「…………なるほど。永遠の拷問であるのは、妾に対しても同じであるというわけか。………くっくくくくくくく。……かも知れぬな。千年は長い……。魔女の強さは魔力より、我慢強さで決まるのかもしれんな。…なるほど、ベルン卿の恐ろしさも頷ける。」
【戦人】「何をわけのわかんねぇ話をぶつぶつ言ってやがる。………さっさと永遠の拷問とやらを続けろよ。俺は千年でも一万年でも付き合う覚悟だぜ。」
【ベアト】「くっくっくっく! よいよい。少しは戦う気力も戻ってきたようだな。そうでなければつまらない。」
【ベアト】「ほら、対戦ゲームでもよくあるだろォ? 乱入したけど相手があまりに弱くて拍子抜けで、わざと負けて最終ラウンドまで延長させて、最後に本気でフルボッコにすることとかってあるだろォ?」
【戦人】「……例えの意味がわかんねーよ。」
【ベアト】「ワインと同じよ。よく熟成させねば輝かぬ。……お前はそれに耐えられるワインだ。妾がじっくり熟成させてやる。……そなたを、妾の優雅な時間を彩る最高の美酒に育て上げてやるぞ…。」
【ベアト】「だからこの程度で屈服などするな。妾を引き続き否定してくれよォ。何しろ妾はそなたが認めぬ限り、儚き幻想に過ぎぬのだから。……くっくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくく…!」
礼拝堂
【譲治】「……………何度見ても、……辛いな。」
【郷田】「……胸中、お察しします。……紗音さん、鍵を頼みます。……お亡くなりになられたとは言え、奥様はレディです。私には触れることができません。」
【紗音】「………はい。」
 紗音は使命感ある表情で硬く頷く。
 譲治たちは適当な窓を破り、礼拝堂の中にいた。…本当は割りたくなかったので、他の場所から入れないか念の為、探した。…しかし、それは結果として、どこからも侵入できないことを改めて証明し、礼拝堂の密室がより不可解であることを際立たせるしかなかった…。
 礼拝堂の中は、彼らが立ち去った時のまま時間が止まっていた。さすがの譲治も、あの惨いハロウィンパーティに再び近寄ることはできなかった。無理もない。両親を一度に失った悲しみを、再び思い出してしまったのだから。
 ……そして郷田も、すでに半日が経過している彼らの遺体がより惨く変化している可能性を考慮し、譲治を近づけさせたくなかった。紗音は郷田の指示を受け、パーティのテーブルに近付く…。
 …普段の紗音なら、また汚れ仕事を自分に押し付けてと憤慨するところだったかもしれない。 ……でも、今の郷田の心境はとても理解できた。優れた腕を持ちながらも、トラブルに巻き込まれて職を失い、路頭に迷っていた郷田に、夏妃は新しい人生を与えたのだ。
 ……夏妃にとって、それが何気ない求人であったとしても、郷田にとっては運命の転機に感じられたに違いない。…郷田は夏妃に特別の忠誠心を感じていたことは周りからも見てわかった。……だから、死してなお、その気持ちを失いたくないのだろう。
 ……夏妃たちの遺体は半日を経て、変わり果てていた。死臭を嗅ぎ付けた小さな羽虫たちが群がり始めている。…とても正視できるようなものではなかった…。
【紗音】「……奥様、…………失礼いたします……。」
 夏妃が部屋の鍵をどこのポケットにしまうかは、長い使用人経験から想像がついていた。
 ………多分、こっちのポケットに…。想像は裏切られなかった。ポケットに上から触れただけで、すぐにその手応えを感じることができた…。
【紗音】「ありました。……奥様の部屋の鍵です。」
 紗音はその鍵を高く掲げて、彼らに見つけられたことを示す。
 その様子を見た譲治と郷田の目が、丸く見開かれる…。それは紗音の期待した表情ではなかったので、ぎょっとした。
 なぜなら、紗音は気付かなかった。遠くから見ていた譲治と郷田が先に気がつけた。紗音が鍵を高々と掲げた時、……テーブルの周りから、ぶわっと金箔の吹雪が湧き上がったからだ。それは、無数の黄金の蝶たち。
 譲治にとっては初めて見るものだから、それは幻想的なものに見えたかもしれない。……しかし郷田はすでに知っていた。…あの黄金の蝶が、美しい存在などとは程遠い、何らかの不吉を司るものだと知っていた。そして、その黄金が紗音を飲み込もうと、ぶわッと………、
【郷田】「しゃ、紗音さんッ!! 走ってッ!!」
【紗音】「えッ?! きゃあッ!!!」
 紗音も自分が黄金の蝶たちに飲み込まれようとしていることを理解した。驚愕の表情のまま、よろよろと走る。その紗音に黄金の蝶たちは一斉に舞い降りる。群がる。飲み込もうとする!
【譲治】「紗音んんんッ!! くそッ、何だこれは?! これが、君たちの言っていた…、黄金の蝶なのかッ?!」
【郷田】「早く外へッ!! こいつらめッ! くそ、くそ!!」
 譲治たちは紗音に駆け寄り、群がる蝶たちを払いのける。そしてそのまま、破った窓へ走る! しかし、ガラスの破片で鋭い歯を持つ窓を抜けるには充分な足場が必要だった。入る時にはそれを用意する時間もあったが、今はない。
【譲治】「扉から出よう!! 足場を探してる時間なんかない!」
【紗音】「……あ、…開かない…! 固い…ッ!」
【譲治】「貸して!! くそ、このオンボロが…、んんんんんッ!!」
【郷田】「譲治さま、お早く!! くそッ、なめるな、うおおおおおおお!!」
 郷田は上着を脱ぎ、それを振り回して蝶の群を散らす。しかし多勢に無勢どころの騒ぎではない。わずかの時間稼ぎになっているかも怪しかった。
 譲治は壊れかかった摘みと奮闘する。ガタが来てうまく回らなくなっているのだ。力任せじゃ駄目だ、ちょっとした角度とかコツの問題なんだ……。
【郷田】「譲治さまッ!! くそぉおおおおおお!! このバケモノどもがぁッ!!」
 ……その時、郷田は見た。……見られた。つまり、目が合った。
 パーティーテーブルの上に、……いや、ステンドグラスを背負うように、浮いて、笑っている、魔女の姿を。黄金の蝶たちをはべらせ、黄金の旋風の中で笑う魔女の姿を見た。
【郷田】「……………、ベ、……ベアトリーチェ………。」
 郷田は初対面だったはずだった。…でも一目見てわかった。それは他の使用人たちが言うように、確かに確かに肖像画の魔女そのものだった…!
【ベアト】「くっくくくくくくく、はっははははははははははは!! そろそろ晩餐の時間ではないか。……すでに妾はこの屋敷のホストである。そなたらを素晴らしきディナーで歓待しなくてはならぬというもの。……おあつらえ向きに“三人”ではないか。……これはこれは実に実に好都合ッ!!」
【郷田】「ぅ、…うわああああああぁああぁッ!!」
【譲治】「あッ、開いた!!」
【紗音】「郷田さん、早く…!! …………っ! ベアトリーチェ……さま…。」
【譲治】「えッ?! ……………ッ?!?!」
【ベアト】「足を止めても良いのかァ…? ここがそなたらの墓場に相応しいというならそれも良かろうぞ。くっくっくっく!! かつての主の傍らにて死後も仕えたいというその心意気は称えようぞ!」
 魔女を包んでいた黄金の旋風が弾けた。それらはまるで、…文字通りいっぱいに指を広げて襲い掛かろうとする魔手そのもの! 黄金の蝶たちの群が、ザァッと音を立てながら襲い来るのだ。
【譲治】「急ぐんだ!! 足を止めちゃいけない!!」
 譲治の声に紗音と郷田は我に返る。今ここで足を止めることは蛇に睨まれた蛙も同じ。自分たちは抗わなくてはならない。……六軒島を包み込んだ、この新しき、そして残酷で恐ろしき秩序の権現と戦わなくてはならない…ッ!
 傘など差している暇はない。三人は大雨の中に飛び出していく。
 彼らは振り返らなかったから気付かなかったが、黄金の蝶たちは雨の中では思い通りにならないらしく、三人をうまく追うことができなかった。三人は黄金の追っ手を逃れ、屋敷に飛び込んでいく…。
【ベアト】「…………くっくくくくくくく。愉快愉快。こうでなくては、面白くない!」
 鍵を開け、部屋に飛び込む。
 真里亞による、ベアトの魔法についての説明。3回にわたる金蔵の魔法の説明を注意深く読んでいれば、真里亞が説明している内容も同じであることがわかる。この考え方が事件の動機に繋がっている。
夏妃の部屋
 夏妃の部屋は、彼女が愛用するやさしい香の匂いがわずかに残っていた。…しかし、今はそれに安らぎを感じている暇はない。
【譲治】「どこにあるんだ?! 宝物箱の中って言ったっけ…?!」
【郷田】「話に聞いただけです…! 実際にどこにあるかまでは…!」
【紗音】「………た、多分、お化粧台か、ベッドの脇にあるんじゃないかと思います!」
 紗音が女性のセンスでそう断言する。でも、ベッドの脇には香炉と読みかけの小説と眼鏡が置いてあるだけだった。
 しかし、化粧台は立派で引き出しも多く、彼女が宝物をここにしまっていたとしても納得できるというものだった。
【譲治】「夏妃伯母さん、ごめん…!!」
 次々に引き出しを乱暴に開けていく。急がなくてはならない。足音が聞こえるわけじゃないが、…あの魔女が近付いてくる気がする…。笑い声が、近付いてくる気がする…!!
 引き出しを次々に抜き出し中身を改める。……化粧道具の小箱はどれも宝物箱に見え、全てを改める手間の多さに軽い眩暈を覚えずにはいられなかった。
【紗音】「こ、……この箱かもしれません…。鍵が掛かってて開きません…!」
 それは一見、一回り大き目のオルゴールボックスに見えた。振るとガサガサと中に色々な小物が入っている気配がする。しかし鍵が掛かっていて開かない!
【紗音】「ふ、普通、鍵はすぐ近くに隠しておくものです。…あるいは常に身に着けている人もいるかも……。わからない、…わからない…!!」
【譲治】「止むを得ない…、壊そう! でも乱暴にはできないね、中の鏡を割ってしまうかもしれない。抉じ開ける道具はないかな…! くそ…!!」
 郷田はそれに使える道具がないかと室内をぐるりと見渡す。そして、入ってきた時、開け放ったままにしていた扉に気付いた。
 閉めようと扉に近付き、……廊下の向こうの暗闇からやってくる、忌まわしき人影たちに気付いた…。
 いや、それは人影という言葉は相応しくない。なぜなら、人影はニンゲンの影のことだ。……ニンゲンじゃない存在の影は、人影とは表現できない!!
【郷田】「……………じょ、……譲治さまッ!!! い、……急いで……。」
 郷田の語尾が弱々しくなっていく…。それはこの世ならぬ者たちの行列を見ての、驚愕。
 彼は使用人だった。だから右代宮家に勤める使用人たちを全て知っていた。…でも彼らの存在は知らなかった。しかし、彼らは間違いなく使用人なのだ…!! 右代宮金蔵や右代宮蔵臼に仕える使用人ではない。
 …新しき屋敷の主、黄金の魔女ベアトリーチェに仕える、山羊の頭を持ち、真っ赤に煮えたぎった溶岩の眼を持つ、新しき使用人たちッ!!
 新しき主が高笑いしながら、新しき使用人たちを6人も整然と率いながら、廊下の彼方から暗闇を切り裂きながらやって来るのが見えた。…もちろん、彼女の象徴である黄金の蝶たちをまといながら。
 郷田は慌てて扉を閉め、そして施錠する!
 ところが施錠した途端、まるでバネか何かで弾き返されるように元に戻ってしまう! まるで、扉の向こうにいるイタズラ者が、閉める度に開けてしまっているような、錯覚。……距離的に、彼らはまだ扉の向こうに至っていないはず!! じゃあ、誰が、どうやって…?!
 まるで壊れた玩具で遊んでいるような感覚。ガチャリ、ビヨン。ガチャリ、ビヨン!!
【郷田】「う、うわあああぁああああぁあ!! し、閉まらない!! 閉めても開いてしまう! どうなってんだこりゃ、くそくそくそくそ!!」
【ベアト】「くっはっはっはっはっはっはっはっは…!! 鍵が妾を拒むと思うか? その部屋の新しき主を、その部屋の扉が拒むと思うのかッ?!」
 魔女は、郷田の必死の努力が扉越しに見えているかのようだった。そうしている間にも彼らの足音は近付いてくる。
 そして、足音だけでなく、息吹までも耳にした時、郷田は施錠を諦め、肩からどっかりと扉にぶつかり、その巨体で自らを施錠とした。
【郷田】「……譲治さまッ、早く早く早く!!!」
【紗音】「譲治さま、これはどうでしょう!」
【譲治】「レターオープナーか! そっちの方がいいね、貸してッ! 万年筆じゃうまく行かない!」
 譲治はそれを受け取り、再び宝物箱の蓋の隙間にねじ込む。…これならうまく行きそうだ…!
【郷田】「早く早くッ!! ひぃいいぃ、うおおおおおおおおおおぁああぁあぁあああぁあ!!」
 扉の向こうからの圧力が一際強くなる。
 ……郷田は絶叫する。力比べでの雄叫びではない。……恐ろしかったのだ。木製の扉一枚を挟み、この世ならざる者たちと接していることがただただ恐ろしかったのだ。
 しかし、それでもまだ幸いだった。直接触れているわけではない。扉越しなのだから。だから、直接触れたなら、…郷田のその叫びは勇ましいものから、絹を裂くような情けない、…だけれどもそれこそ本当の、悲鳴に変わるのは当然のことだった。
 郷田は眼前のそれが信じられなかった。
 …扉を抜けて、…腕が、……腕が、……まるで水面を突き抜けるように、とても当り前なように突き抜けて、擦り抜けて、懸命に扉を押さえつけている郷田の手を、手の甲を撫でるのだ。………それは、ツツツと腕をなぞり、…胸へ、…そして、………顎へ。
 もう郷田の悲鳴は、声になってなかった。扉の向こうから、甘い囁き声が聞こえる。……魔女のものではなかったが、声だけを聞くならば若い女に聞こえた。…しかしこの世ならざる者の声であることに何の変わりもなかった。
【ベルゼ】「……くすくす。かぁわいい。……ねぇ。見てるの、走馬灯。……教えてね。終わったら。」
【郷田】「ひぃいいいいいいぃいぃいいィぃいイぃいいいぃいいいいいいぃイィイイィィイイッ!!」
【ベルゼ】「ありがと。もう終わってるのねぇ。……くすくす!」
 その淫らな腕が弾ける。そして、物凄い速度で何かが部屋の中を跳ね回る音を聞いた。
 それが何だったのか、わからない。凄く速くて小さくて鋼鉄のようであるいは甲虫のようで…! それの正体は、………郷田の胸のど真ん中に打ち込まれて止まり、…初めて、……奇妙な意匠の施された杭のようなものであったことがわかる……。
 郷田の巨体が、後へぐらりと……、仰け反って、……倒れる。すると扉は、誰が押しているわけでもないのに、すぅっと開き、……この部屋の新しき主たちを迎え入れた。まるで扉自身がそれを認めたかのように見えた。
 山羊の従者たちが次々に入ってくる、6人も入ってくる…!! そしてあの魔女も入ってくる、黄金の蝶たちも入ってくる!! 部屋は金箔の吹雪に包まれ、降り積もり、次第に黄金の世界に変えていく…!!
【ベアト】「………紗音。ルーレットはそなたと譲治を選んだ。解放の日に感謝せよ。未練はあるまい?」
【ベアト】「なイよなァ? 惚れた男から婚約指輪をもらって、初夜も共にしない内に殺されてしまっても、未練なんかないよなァアアアァ??? 抱かれたかっただろォオォ? 女の悦びを教えてもらいたかったんだろォオ? くっひひひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!! あぁ紗音ダメダメ、垂れてるぜ? お前の口元から、未練が。だらだら垂れてンのが見えるぜェエエェエ、紗音ンンンンンンゥウゥゥ??? ひーッひゃっひゃはっははははははははきゃーっきゃっきゃっきゃっきゃっきゃッ!!!」
 ばきり。それは宝物箱の蓋が壊れて開いた音だった。譲治が中身を引っ繰り返すと、アクセサリーやお守りや、……少女だった頃から大切にしていそうな様々な小物が出てきた。
 …それに混じり、一際目立つ巾着袋があった。それを拾い、すぐに確信する。………これだった。
【譲治】「見つけた…、これだ………。」
【ベアト】「一手及ばなかったのぅ。くっくくくくくくくくく!! 死ねッ!」
【譲治】「……く、くそッ!!」
 巾着袋から中身を出そうともどかしくする譲治に、黄金の蝶たちが一斉に襲い掛かる。
 その時、真っ赤な閃光が一瞬だけ室内を照らした気がした…。その赤い閃光は、室内に吹き荒ぶ黄金の蝶たちを、……紗音を中心に円を描くように切り抜いた…。……だからそれはとても神々しい光景。…まるで、黄金の世界に、天上の雲間から一条の明かりが照らしたかのようだった…。
 蝶の群から身を守ろうと縮こまっていた譲治は、一体何が起こったのか理解できない。
 ……気付けば、紗音がそんな譲治を庇うように立ちはだかり、これまで一度も見せたことのないような真剣な顔をして、魔女たちを睨みつけていた…。
【ベアト】「………忘れていた。そなたもまた、金蔵の優れた家具だったな。それも、嘉音よりだいぶ熟成した、……。」
【紗音】「………………嘉音くんを、…よくも。………殺したことじゃない。…よくも、亡骸を消し去り、…その名誉まで汚そうとしたな……。」
【ベアト】「おやおや紗音ンンンゥ、それを怒ってるのかァ? 嘉音に会えなくて寂しいなら、妾に頼めよォ、いつだって会わせてやるというのにィイィ!!」
 魔女が指を弾くと、……6人いた山羊の従者の1人の姿が、……金色の輝きと共に嘉音に変わる。
 それは間違いなく目を疑う光景。…間違いなくそれは嘉音の面影。
 ……しかし、その瞳には、嘉音が浮かべていた誠実な輝きはまるでない。…魔女の命令に従うだけの家具の、濁った目があるだけだ。
 …譲治は目の前の光景を理解できない。……そしてようやく、郷田たちが使用人室で何を見て、どうして語れなかったのかを理解する。
【紗音】「………楽しいですか。」
【ベアト】「あぁ楽しいぞ。死が引き裂いた二人を再会させるのはいつだって楽しい。死で引き裂いて一度、会わせて二度、もう一度引き裂いて三度楽しめるのだからなァ」
【ベアト】「さぁ、嘉音ォン、姉と遊んでやりなさい。もし痛めつけられたら、思い切り苦悶の表情を浮かべてやるといい。くっくっくくくくくくくくくくくくくく!!」
 ……偽者の嘉音の腕から、…不気味に光る軌跡が伸びる。………それで紗音を切り裂くつもりなのだ。……まだ心の整理がつかない紗音を、一刀で…。
【紗音】「……許さない。……一度ならず、…二度までも死者を穢すなんて、……許せない。」
【ベアト】「ほざくな、弟に殺されろよ、紗音ォンンンゥ、きっといい夢が見られるぜェエエエェエエエエエエエエェエエエェエッ!!!」
 偽者の嘉音が紫の軌跡を何条も描きながら、確かに紗音に襲い掛かったはずだった…。しかし、紗音に飛び掛った時、……紗音の前に、何か見えない壁が出来たように感じた。
 それは真っ赤な軌跡の波紋を残しながら、……偽者を弾く。……違う、弾いたんじゃない、砕いた。……黄金の粉にして、欠片にして、ばらばらにして弾き返した…!
 嘉音の姿を模し、嘉音の死後の名誉まで汚した愚かなる家具の姿は無数の黄金の蝶たちになって砕け、さらにその蝶たちをもバラバラに分解し、その欠片もさらにバラバラに分解され、それは蝶ではなく、黄金の飛沫となって消えた。
【譲治】「……しゃ、……………紗音……………。」
【紗音】「…………譲治さんはそこから動かないで下さい。中心軸をずらしたくない。」
【ベアト】「これは…、……驚いたッ!! 虫一匹殺せないツラをして、………これだけの力を見せたか!!」
【ベアト】「なるほど、霊鏡がそなたに力を貸しているというのか…。しかしその霊鏡の本当の力を引き出すには、準備も時間も足りないな。」
【ベアト】「そのどちらも妾は与えはせぬ。くっくくくっくくくくく!」
 譲治が握り締める霊鏡は神々しく輝きを放ち、邪悪の力に屈しない力強さを見せていた。しかしその輝きは、魔女の禍々しさには遠く及ばない…。
【ベアト】「これだから家具は怖い! 予期せずして箪笥の角にぶつける足の小指のような気持ちよ。…これだから家具は怖いッ!! 家具がッ、家具ッ家具ゥウウウウウゥ!!」
【紗音】「…………私は家具じゃない。…そして、あなたを今はとても哀れに思う。」
【ベアト】「何ぃ…? ほぉぅ。……千年の魔女に、百年も至らぬ家具が、今なんと言ったか……?」
【紗音】「……あなたはとても哀れな人。………愛し合う二人に未練がないわけがない。でも、あなたの期待するような未練は欠片ほどもない。」
【ベアト】「語るか、家具の分際で…!! 譲治と結ばれたくて妾の靴を舐めた日々を忘れて妾にそれを語るかッ!!」
【紗音】「愛に生き、泥濘を這うが人間。それを嘲笑い見下しているつもりで、あなたはそれに遥かに劣る。私は、今こそあなたを哀れに思う。……愛し合う二人にとって体を重ねることや、初めての夜を添い遂げることにどれほどの意味が?」
【紗音】「……意味はある、きっとある。…でも、それはあなたの言うこととは全然違う。もっと神聖にしてあなた如き邪悪が口にする資格もないほどの神聖な意味がある。」
【紗音】「だから私にはすでに何の未練もない。譲治さんと愛を誓い合った。その証として指輪を受け取った。……それで、永遠の誓いは完了した! あなたがどんな邪悪な魔法や悪意で私たちを苛んだとしても、永遠は穢せないッ!!」
 夏妃の部屋にて、紗音は郷田と譲治を殺害し、その後自殺。
【ベアト】「……は! 綺麗事を詩人のように語るなッ!! 愛は肉欲なんだョ体を重ねてしか計れねェんだよ。男どもはお前の雌の臭いに引かれて群がる蛆蝿どもなんだよォ。そんなことも、その歳でまだ理解できねェのかよォオオオォ?」
【ベアト】「お前は失望するぜ、その後ろの眼鏡男のどす黒い欲望を一度でも覗いちまったら、がっかり愕然唖然呆然全然駄目だぜェエ紗音ォオオオンンンンンゥウゥウウゥ?? ひぃいはあああっはははははアっはーーッ!!」
【ベアト】「あぁもういいや語るな家具が、この家具家具家具、何様のつもりだよ語りやがって、愛なんて結局はド汚ぇ汚物をどう綺麗に見せようかって欺瞞なんだよ、そいつに気付いてヒトは大人になるンだろォオオオォ死ねよ屑、家具家具スクラップッ、お前を汚らしい蛆虫に変えてやるよそれでもその眼鏡がお前を愛するか試してやるよッ、そいつはてめぇの肉だけが目当てだったことを教えてやるよォオオオォオオ、死ねよガラクタがあぁああてめぇが愛を語るんじゃねえええぇェエエエェェエェエエエエエ!!」
 紗音を中心とした見えない円柱の壁が、一斉に真っ赤な波紋を描き始める。…目に見えない悪意が全方向から侵食しようとしているのを、壁が懸命に堪えているのだ。
【ベアト】「何だよそれは抵抗してるつもりかよォオォオォ?! 安っぽいんだよ薄っぺらいんだよ、お前の綺麗事と同じなんだよ、見せ掛けだけの薄っぺら、見たくないものをベールで覆って隠してるだけなんだよまァだわかんないのかよだから家具なんだよ家具ゥウウゥ、ほらほらほらほらほら削られてるぜェエェカリカリコリコリガリガリゴリゴリ何て薄くて情けないんだよ、お前のその薄っぺらな抵抗に比べたらパルミジャーノレッジアーノの方がまァだ削るのに苦労がいるぜェエエエェエエエエエェヒィヤッハーァッハッハアッ!!」
 室内を覆う黄金の暴風が徐々に、紗音たちを守る円柱の壁を削っていく。必死に真っ赤な波紋たちが抵抗の模様を描くが、それはむしろ絶望の赤い壁となって二人を包み込もうとしていた…。
【紗音】「…………譲治さん、ごめんなさい……。………やはり、………私には、…無理でした………。」
【譲治】「……うん、ありがとう。…君は僕のために戦ってくれた。…それだけで嬉しいよ。」
 …かつて二人を守ってくれた円柱の壁は、悲鳴のような真っ赤な波紋の軌跡でいっぱいにしながら迫り、…むしろ逆に二人を飲み込もうとしている。
【紗音】「譲治さん、お願いが。」
 紗音は後ろの譲治の手を握り締める。だから譲治も同じくらい力強く、その肩を抱き締める。
【譲治】「何だい。」
【紗音】「最後に、……愛してるって、聞かせて下さい。」
【譲治】「あぁ。…紗代、僕は君を永遠に
 紗音はこの部屋で、譲治に秘密を打ち明けて拒絶された。それがベアトのセリフに反映されている。

屈服
10月5日(日)21時00分

廊下
 源次は遅めの食事を取り終えた後、屋敷内の夜の見回りに出ていた。食事は、郷田が作りかけていたスープを温めなおし、冷蔵庫の中にあった残り物を適当に食べた。それらはいずれも郷田の手によるものだったので、やはり美味しかった。
 楼座たちに、夕食をどうするか一応聞きには行ったが、缶詰を食べるからいいと怒鳴られ、扉も開けてもらえなかった。……なので皮肉にも、使用人である源次の方が美味しい食事を口に出来たのだった…。
 しかし、あれほどの事件が起こり、すでに何人もの人間が無惨な最期を迎えているというのに、……源次はなぜたったひとりで見回りに出ることが恐ろしくないのか。…何の怯えもなく、普段通りの仕事を当り前にこなす彼のその様子を見ていると、今日の凄惨な出来事全てが、まるで夢か幻だったのではないかと思わされてしまうに違いない。
 それは、ある種の達観なのか、それとも諦観なのか。源次にとって、自分を待ち受ける運命が不可避であるならば、その瞬間まで勤めを整然と果たすことがきっと美徳であったに違いない。彼の心の奥底をうかがい知ることは、彼が自ら語らぬ限り、永遠に不可能だろう……。
 楼座にマスターキーを返した為、彼が見回れる場所はかなり限定されていた。せいぜい廊下を回り、窓の戸締りを確認するくらいだ。だから、普段よりもだいぶ早く順路を回れるのだった。
【源次】「…………………………………。……む。」
客間
 コンコンと控えめなノックがあると、それまでウトウトしていた楼座叔母さんは、はっとして目を覚まし、銃口を扉に向けて叫んだ。
【楼座】「誰なのッ?!」
 その声に、ソファーでまどろんでいた俺も現実に引き戻された。
【源次】「……楼座さま。源次でございます。」
【楼座】「何か用なの? 扉は開けなくて結構よ。そのままで話して。」
【源次】「………はい。それではこのままで失礼させていただきます。…南條先生と熊沢の遺体を見つけました。」
【戦人】「な、…何だって…!!」
【楼座】「…………そう。わかったわ、確認に行きましょう。…死体を見ない限り、私は誰も信じない。」
【戦人】「…………………。」
【真里亞】「……うー。大丈夫だよ戦人。真里亞と居れば、絶対に大丈夫。」
 俺の顔が、不安で陰ったように見えたのだろうか。…真里亞は小さな手で俺の手を握ると、そっと勇気付けるように言ってくれた。
 楼座叔母さんは銃を構えて警戒する役だったので、ソファーのバリケードをどかすのは俺の役目だった。それを終え、俺の肩越しに銃口を向ける楼座叔母さんを尻目にして、扉を開ける。
【戦人】「源次さん、二人の死体はどこに…。」
【源次】「………中庭です。ご案内いたします。」
【楼座】「戦人くん、待って! 念の為、部屋の戸締りを確認していくわ。ちょっと待ってね。」
 楼座叔母さんは、俺だけが先に行かないように呼び止め、それぞれの窓の施錠を入念に確認し始めた。……でも、その施錠の確認はすでに一度行なっている。
 ……まるで、楼座叔母さんの目を盗んで、俺がこっそりと鍵を開けたのではないかと疑われているようで気分が悪い。…いや、ここまで警戒する楼座叔母さんの方が正しいのかもしれない…。
中庭
 中庭とは言っても、別に薔薇庭園などのような散策のできる美しい場所というわけではなかった。むしろ、四囲を屋敷にぐるりと囲まれているため、外へ逃れようとも屋敷からは逃れられないと言われているような不気味さもわずかに感じさせた。
 もっともそのお陰で、暴風の音はするが風だけは遮られていた。源次さんが安傘を差し出してくれるが楼座叔母さんは無視する。…銃は両手持ちだから、傘を持つと銃が撃てなくて危険だ、とでも言いたいのだろう。
 源次さんが指を指さずとも、すぐにわかる。中庭のど真ん中に、……南條先生と熊沢さんが横たわっているのが見えた…。楼座叔母さんは傘も差さずに中庭へ出る。…だから俺も源次さんも傘を差さずに中庭へ出た。真里亞だけがちゃんと傘を差していた。
【戦人】「………………、真里亞…。……これは、…あれだな?」
【真里亞】「……うー。……第七の晩と、第八の晩だね。」
【楼座】「な、……なるほど。確かに、源次さんたちが言っていたように、二人の首にはひどい傷があるわね。……すごく鋭利な。まるで日本刀か何かで斬ったかのようにすっぱりね…。」
 そのばっくりと開いた首の傷は確かに目を背けたくなるものだったが、礼拝堂のハロウィンパーティを見た俺には、惨いとは思っても、もはや吐き気を催すほどのものではなかった。
 それより、俺たちの目線は足元に向けられた。南條先生の膝に。熊沢さんの足首に。……それぞれ、悪魔的な装飾のされたナイフか杭のようなものが刺し込まれているのだ。…朱志香の背中を貫いていたものと同じものに違いなかった。
【楼座】「……これは何なの? …朱志香ちゃんの時と同じね。何かオカルトの儀式のつもり、なのかしら?」
【源次】「………わかりません。彼らの遺体を最後に見た時にはこのようなものはありませんでした。使用人室から運び出された後に、やられたのでしょう。」
 南條先生の膝に刺し込まれたものは、未だに直立しているが、熊沢さんの足首に差し込まれたものは、少し浅かったのかもしれない。抜けて倒れていた。だから、その倒れたものを見て初めて俺は、これがナイフではなく、杭のようなものであることを理解する。
 全長は多分、30cmあるかないか。青銅とか鉄とか、そういう類のもので出来ているのだろう。手に触れずとも重みのあるものであることがわかる。握りと、円錐部分で構成されていて、明らかに刺すための武器として作られたものだとわかる。
 例えるなら、西洋騎士が使う騎乗槍をミニチュアにしたような感じなのか。螺旋状に刻まれた溝は、あるいは小さなドリルのようにも見えた。……しかし、握りの部分には、オカルト染みた、悪魔か何かの意匠が施されていて、戦争に使う武器というよりは、生贄を捧げるのに使う儀式用という感じだった。
【戦人】「……間違いない。…生贄の、つもりなんだな。」
【真里亞】「………第七の晩に膝をえぐりて殺せ。第八の晩に足をえぐりて殺せ。」
【戦人】「待てよ。それじゃ、第四、五、六の晩が抜けちまう。……ま、……まさか…。」
 そうなんだ。なぜ源次さんだけなんだ?! こんなことがあれば、譲治の兄貴だって、郷田さんだって紗音ちゃんだって一緒に来るだろうに! 何で源次さんだけなんだ?!
【楼座】「どういうこと? 譲治くんたち3人はどこへ行ったの?!」
【源次】「………夏妃奥様のお部屋へ捜し物に行きたいと言われまして、お出掛けになりました。まだお戻りになりません。」
【戦人】「何だって…。その、出掛けたってのはいつ頃の話なんだよ?!」
【源次】「2〜3時間前のことだと思います。」
【戦人】「そ、そんな…!! 何でそんな大事なことを、いや、じゃなくて、…何で不審に思わなかったんだよ?!」
【源次】「……常に一人、使用人は待機していなくてはなりません。彼らが戻るまで待機しているのが、私のお勤めでしたもので。」
 源次さんってのはこんなにまでロボットみたいな人だったのか?! まずいまずい、本当にまずい…!! 南條先生たちがこの殺され方をしているということは、すでに3人が殺されているということだ…!!
 俺たちは夏妃伯母さんの部屋へ駆けて行く。………一抹の不安と、同じくらいの諦めを抱きながら。
夏妃の部屋
 夏妃伯母さんの部屋の中を見ない内に、…俺たちはある諦めに囚われた。
 その扉に、異様な、…落書き、…いや、汚れ…? とにかく普通じゃない状態にあり、開けずして室内を想像することができたからだ。
 扉の表面は、……何と言えばいいのか。……例の魔法陣を書いたのと同じ赤い塗料を手の平いっぱいに塗りたくって、…ばんばん叩いたり、引っ掻いたり、汚したり。……何だか、幼稚園児の泥遊びか何かの後のような汚れ方をしていた。
 それが何を意味するかなんて、わからない。…真っ赤に塗りたくられた塗料はところどころが垂れて、誰が言わずとも血を想起させた。
【楼座】「…げ、…源次さん、開けて下さい。」
 楼座叔母さんは銃を高く構えると、源次さんに開けるように促す。
 源次さんは特に扉のそれを嫌がることもなく近付き、ノブを回すが、すぐに首を横に振りながら振り返った。
 鍵が掛かっているのだ。今、この屋敷内で施錠と開錠を自由にできるのはただ一人、楼座叔母さんだけだ。今度は逆に、源次さんが楼座叔母さんに開錠を求めることになる。楼座叔母さんは少しだけ不愉快な顔をした後、俺にマスターキーを渡し、開けるように言った。
【楼座】「……戦人くん、これで開けてもらえる?」
【戦人】「そのくらいのこと、源次さんを信用しても…。」
 楼座叔母さんにきつい眼差しで睨みつけられる。……ここで喧嘩をしても空気がさらに悪くなるだけだ。
 俺はそれ以上を言い返さず、不気味な扉に近付き、一応、ノブを試す。……開かない。間違いなく施錠の手応えだった。
 鍵穴にマスターキーを差し込む。カチリ。軽い手応え。楼座叔母さんが、用心してねというのを聞きながら、俺は特に何の用心もなく扉を開く。
 そして、………そこには、俺たちの想像を、まったく裏切らない光景が広がっていた。
【楼座】「………………………ッ! ひ、ひどい……。」
【真里亞】「…………………。」
【戦人】「やっぱり、……第四、五、六の晩の再現だったな。」
【真里亞】「………うー。」
 部屋の中は、まるで泥棒が荒らした後のような感じだった。引き出しなどが開け放され、引き抜かれてその中身を床にぶちまけたりしていて、几帳面な夏妃伯母さんの部屋とは思えない荒らされようだった。
 しかし、それより最初に目に入るのは、………部屋を入ってすぐのところにうつ伏せに倒れている郷田さんの遺体だった…。
 胸のど真ん中に、まるで吸血鬼に止めでも刺すみたいに、例の悪魔の杭がぶち込まれていた。……あれだけ深々と胸に刺されたら、一体どこまで至ってしまうのか。…想像しただけで自分の胸が痛んだ。
【戦人】「…胸をえぐれは、第五の晩だったか。」
【真里亞】「…………うー。」
 真里亞が俺の手を握ってくる。……表情だけを見るならいつも通りだが、…やはり3人もの遺体が転がるこの部屋の霊気のようなものに怯えているのかもしれない。
 そして、部屋の一番奥の壁際に、譲治の兄貴が死んでいた。
 ……こっちは例の杭を腹のど真ん中にぶち込まれている。…腹をえぐりては、第六の晩だったか。
 紗音ちゃんの遺体は、化粧台の前にうつ伏せに、血の海に倒れていた。
 血の飛沫が飛び散り、醜く割れた鏡で、彼女はこの世で最後の自分の顔を見たのだろうか。
 …うつ伏せのため、彼女の顔は見えなかったが、見ずとも想像はついた。うつ伏せの血の海に、傍らに転がる悪魔の杭…。……残るのは第四の晩。頭をえぐりて殺せ…。
 俺の心は、すっかり疲れきって死んでいたのかもしれない…。こんなことしてはいけないとわかっているのに、…彼女の顔をあげ、それを確認する。……そして、自分の想像が完全に的中していることを、確認した。
 扉の落書きは昨夜のうちに準備されていた可能性が高い。譲治たちが夏妃の部屋に入る場面は幻想描写のため、すでに落書きがあったとは言及されなかった。
 紗音ちゃんの額にはぽっかりと穴が空き、そこから中身がどろりと溢れてくる。それどころか、…その中身まで、…見えてしまう。それを見て、俺はようやくしてはいけないことをしたことに気付いた。慌てて目を背けたところで、今さら何の意味もなかっただろうが。
【楼座】「こら、戦人くんッ!! 警察が来るまでそっとしておかないと駄目よ!! 勝手に触って、どういうつもり?! せっかくの現場証拠がおかしくなっちゃったらどうするのよッ!!」
 楼座叔母さんに激しく怒られ、後ろ襟まで引っ張られる。
 俺は力なくよろよろと尻から転び、……ぼんやりと天井を見上げる…。
【戦人】「……真里亞。」
【真里亞】「うー……?」
【戦人】「……これで第八の晩まで終わっちまったな。……第九の晩って、何だったっけ。」
【真里亞】「………………………。…第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。」
【戦人】「そっか。……これで、黄金の魔女ベアトリーチェは、復活するんだな。……そして何だ。…最後の第十の晩。」
【真里亞】「…第十の晩に、旅は終わり、黄金の郷に至るだろう。………黄金郷の扉は、もうすぐ開かれるんだよ。…もうすぐ。」
【戦人】「………魔女は蘇り、誰も生き残れはしない、か。………俺たちはこれから死ぬのか? それともこれで生贄の儀式は終了で、…俺たちの旅は終わり、黄金郷へ辿り着けるのか…?」
【真里亞】「………………………………。」
【戦人】「……何が、俺たちの旅だ。……俺たちは今日一日、犯人を見つけよう、事態を打開しようと散々頭を捻って、…何も至れなかった。馬鹿の考え、休むに似たりってヤツだ。」
【戦人】「そうさ、俺たちは今日一日、ずっと憎悪と疑心暗鬼で自分を焼き焦がした。……死んだ人間しか信用できないって言って、…わざわざ3人の死に顔をここまで確認に来たんだぜ…。…こんな俺たちが、……どうして、………黄金郷とやらに辿り着けるって言うんだよ……。」
 そうさ、……何も解決できないなら、何も考えず、ずっと閉じ篭っている方がマシだったんだ。
 祖父さまが一番賢かった。昨日からずっと部屋に閉じ篭り、誰とも接触しなかった。……それで良かったんだ。祖父さまが一番、正しかった…。
【真里亞】「……大丈夫だよ、戦人。……真里亞と居れば、大丈夫。………魔女はとても気まぐれで、時に面白半分に人間を殺すかもしれない恐ろしい存在だけれども。」
【真里亞】「…でも、真里亞と一緒に居れば絶対に大丈夫。だから、怯えないで。」
【戦人】「………ありがとな。……気休めでも、…嬉しいぜ。」
 楼座叔母さんは3人の検死が終わると、この部屋を再び封印すると宣言し、一方的に俺たちを追い出し、俺に預けたマスターキーを奪い返して、再び施錠した。譲治の兄貴が夏妃伯母さんの部屋の、本来の鍵を持っていたらしい。それも回収していた。
 …………おいおい。マスターキーは全て手元にある。そして本来の鍵が部屋に閉じ込められていたなら、……また密室じゃないか。第四の密室ってわけかよ……。
 俺たちは、あの3人に対する疑いから解放され、……再び客間へ戻る。
 もう、何が何だかわからない。……死んでいる者だけが正しくて、生きている者が全て狼だと言うなら、……あとに残るは、俺に楼座叔母さんに真里亞、それに源次さん。……そして、祖父さまと、気配すら見せない19人目の来客、ベアトリーチェだけ。
 13人死んで、6人が残った。……たった6人での、狼と羊のパズルは、どんな最後を迎えるというのか…。かつて19人もいたパズルが、たったの6人にまで減らされても、……俺には何の解答も見つけることができない…。
客間
 客間まで戻ってくる。……ひょっとすると、俺たちがいない間に、客間の扉にも何か不気味な魔法陣でも描かれるのではないかという不安を持っていたが、幸いにそれはなかった…。
【楼座】「ありがとう、源次さん。ここまでで結構よ。あなたも今日は休んでください。」
【源次】「……かしこまりました。…これで休ませていただきます。」
【戦人】「お、…おい、楼座叔母さん…。……この状況下で、源次さんをたったひとりで過ごさせるって言うのかよ…。」
【楼座】「……そうね。とても危険なことだと思うわ。……でも、ならなぜ彼は無事なの? 彼は3人が夏妃姉さんの部屋へ向かった後、ずっとひとりでいた。なのに無事だった。」
【楼座】「……狼と羊のパズルよ。もっとも弱い立場となる、孤立した羊が無事な理由は何?」
【戦人】「…お、……狼がたまたまいなかったんだろ…。」
【楼座】「違うわ。それが羊じゃなかったからよ。」
【戦人】「源次さんが、…狼だって言うのかよ…。」
【楼座】「彼はひとりで厨房にいたそうだけど、それは証明不能よ。南條先生たちの死体を運んだり、譲治くんたちを殺したりできたのは彼か、ベアトリーチェだけなのよ?」
【戦人】「ま、待てよ、その論法じゃ、誰だって、」
【源次】「……戦人さま。お気遣いをありがとうございます。」
【源次】「…私は、信頼を勝ち得るのは常に、百の言い訳ではなく、一つの誠実であると信じています。……たとえ信頼をいただけなくても、私は最後まで誠実でありたいと思います。」
【戦人】「…………………源次さん…。」
【楼座】「……なら、決まりね。……あなたが本当に無実なら、それは明日やってくる警察が証明してくれるわ。だから、それまでの間、あなたを疑いから外すわけにはいかない。」
【楼座】「………長年、右代宮家に仕えてくれたあなたにこんな仕打ちをするのは本当に心苦しいんだけれど。…今夜はわかってください。……そして、明日になったら、もう一度仲直りさせてください。」
 源次さんは小さく首を横に振る。
【源次】「……今日も明日も。私は右代宮家の使用人で在り続けます。……御用がありましたら、いつでもお申し付け下さい。……それでは失礼させていただきます。」
 そこまで言い切られては、何の言葉も返せない。源次さんは深々と頭を下げると、廊下を去っていった…。
 そして俺たちも部屋に入る。
 …楼座叔母さんは、自分が全てのマスターキーを持っているにもかかわらず、再び念入りに客間内の確認を始めた。カーテンを開け、窓の施錠を再び確認している。それを見る俺は、……何というのか、もうどうでもいい気分だった。
 余計なことを言えばまた喧嘩になる。俺はしばらくの間、その様子を廊下で眺め、もうそろそろいいかなと思い、それを尻目に勝手に客間に入る。
 ……死者以外は誰も信用できないというなら、その手に持っている銃で、みんなを殺して回ればいいんだ。そしたら最後には自分が狼であることに気付く。…そして最後の狼の頭を、自分でブチ抜いて、この狂った殺人劇に幕を下ろせばいい…。
 俺はそう毒気付きながら、自分が陣取っていたソファーに戻り、両足を行儀悪くテーブルの上にどっかり載せる…。
 ……それをしようとした時、そこに何かを見つけて足を止めた。
【戦人】「……………………。………何だ、これ…。」
 そこには、まるで俺宛かのように、…洋形封筒が置かれていた。片翼の鷲の紋章の入った、例の封筒だ。…しかもそれは未開封だった。
 お、………おいおいおいおい…。…何だよ、これ…………。誰が、いつの間に、こんなところへ置いたんだよ……。
 俺は死体を確認にみんなで行くまで、ずっとここに座ってた。そして何もなかった。…そして戻ってきたら、ここにこれが、ある。
【楼座】「……大丈夫。戸締りに問題はないわ。この部屋は安全よ。」
 楼座叔母さんがそう呟くのが聞こえる…。
 ……おいおいおいおい。…おいおいおいおいおいおいおいおいおい。
 出る前にこの部屋が安全であることを確認した。戸締りが完璧であることを確認した。…そして施錠して、戻ってきて、やっぱり戸締りが完璧で。……じゃあおい、この手紙は誰がどうやって置いたんだよ……。
 封筒を開ける。中からは便箋が2枚出てきた。
 1枚目には、……血のような赤いもので、魔法陣が書いてある。真里亞に聞けば意味はわかるだろう。そしてもう1枚には文字が。
“碑文の謎解きは進んでおりますか? もうじきあっさり時間切れ。第九の晩は、もうじき始まります。” ……間違いない。…ベアトリーチェからの、…手紙だ…。
【真里亞】「…うー? ……戦人、……それは?」
【戦人】「あ、……あぁ。今ここに来たら、…お、置いてあった。」
【楼座】「どうしたの真里亞。………え?! 戦人くん、その手紙は?!」
【戦人】「いッ、いやその! ここに置いてあったんだ。どうしてだよ?! この部屋はちゃんと戸締りをしていたのに!! どうしてだよ?! どうして!!」
【楼座】「……………………………………。……真里亞、いらっしゃい。」
 楼座叔母さんは少しだけ目を閉じ、何かを黙考した後、真里亞に来いと言った。真里亞は母親の言う通りに従う。
 すると、信じがたいことが起こった。楼座叔母さんがその銃口を、俺に向けたからだ…。
【楼座】「戦人くん、あなたを“狼”だと断定するわ。」
【戦人】「どッ、………どうして?!?!」
【楼座】「私はこの部屋にたった今帰ってきて、そのテーブルの上に何もないことを見ているわ。…そして真里亞がそのテーブルに近付いていないことも知っている。…わずかな時間よ。でもこのテーブルに近付き、そして手紙を見つけたと主張するのはあなただけ、なのよ。」
【戦人】「そんなのって、…………いや、め、滅茶苦茶だッ!! 何で俺がこんなものを置くんだよ?! おいおい、俺は不審なものを見つけて報告しただけだぜ?! 何で俺が疑われるんだよ?!」
【楼座】「あなたにしか、その手紙をそこへ置けないからよ!! そう、これは自作自演ッ!! あなたが懐から封筒を取り出し、たった今見つけたかのように振舞った。密室の中に魔女が入って手紙を置いて行った幻想を作り出すためにねッ!!」
【戦人】「……………馬鹿野郎ぉ…、ま、……またそういう考えなのかよ…? そんなことで、……俺まで疑うのかよッ?! いい加減にしろ!! 俺は親父たちを殺されてるんだぞ!! そんな俺が、どうして犯人の片棒を担がなけりゃならないんだよッ!!」
【楼座】「そうね。たとえ莫大なお金がもらえるとしたとしても、そんなことで肉親の命を切り売りできるような悪魔がいるなんて信じたくないわ。」
【楼座】「でもね、…いるかもしれない。うぅん、言い方が悪いわね。……例えば、戦人くんにとって、留弗夫兄さんたちが親でなかったとしたら?」
【戦人】「…は、……はぁッ?!?! 何を言い出すかと思えばッ!! 親父は親父だろうが!! 確かに霧江さんと血縁はねぇが、俺の姉貴も同然のお人だ!! そこだけは聞き捨てならねぇぞこの野郎ッ!!」
【真里亞】「うーうーうー!! やーめーて!! うーうーうー!!」
【楼座】「うーうー言うのをやめさないッ!! ……ごめんなさい、言い方がわるかったわね。確かに右代宮戦人くんは留弗夫兄さんの子どもかもしれない!」
【楼座】「……でも、あなた本当に留弗夫兄さんの息子の戦人くんなのぅ?!」
【戦人】「何をわけのわかんねぇことをッ!! 俺が戦人じゃねぇんなら誰に見えるってんだよッ?!」
【楼座】「留弗夫兄さんも含めて、私たちは6年ぶりにあなたに再会しているわ。あなたが本当に右代宮戦人かなんて誰も証明できないのよぅ?!」
【楼座】「あなたは本当は右代宮戦人じゃなくて、右代宮家の財産をうまく騙し取ろうと紛れ込んだ何者かかもしれないッ!! あなた、自分が右代宮戦人だとはっきり証明できる?! 今この場でッ!!!」
【戦人】「いい加減にしやがれッ!!! 俺は俺だッ! 右代宮戦人だ!! そこまで疑いだしたら、あんただって本当に右代宮楼座なのかよッ?! 自分は自分だ、他の誰でもねぇッ!! あぁそうだな、あんたの言う通りだぜ、死体以外で信用できるのは自分だけってわけだッ!!!
 そこまで言うなら反論させてもらうぜ! 譲治の兄貴たちが死んでいた、夏妃伯母さんの部屋には鍵が掛かってた! 部屋の鍵は譲治の兄貴が持っていたんだろ?! そしてマスターキーを持ってるのは今や楼座叔母さんだけだぜッ?! あの部屋に施錠できたのはあんただけじゃねぇかよッ?!?!」
【戦人】「俺の推理じゃこうだ。あんたは真犯人と通じ合っていて、俺たちの目を盗み、5つのマスターキーの内の1つをこっそり貸し出したんだ!!」
【楼座】「そんなことしないわよッ!! ほら、ここに5つあるわよッ?!」
【戦人】「そんなのアテになるもんか!! 予め取り決めた場所に置かせて、回収したかも知れねぇじゃねえかよッ!! それに、マスターキーが5個かどうかは疑わしいと言ってたのはあんただぜ?!」
【楼座】「じゃああなたはその封筒を、あなた以外の誰が、どうやってそこに置いたというのよッ!! それが証明できない限り、あなたが狼なのよッ!!」
【戦人】「うるせえぇえッ!! ならあんたこそ証明しろよ、犯人はどうやって譲治の兄貴たちをあの密室で殺せたというんだよ! どうやって施錠したというんだよッ!!」
【ベアト】「まったくに持ってその通りッ! 夏妃の部屋もまったく同じだぞ、いつもの通り! 扉も窓も内側から施錠されていた如何なるイカサマも細工もなく、そして隠された通行手段もなければ隠れる場所もないッ! 夏妃自身の鍵は譲治のポケットに入って、室内に閉じ込められていたあとは5本のマスターキーしかないが、それは全て“楼座”が持っているッついでに言おう、その客間も同じよ本来の客間の鍵は使用人室に封印されているだからマスターキー以外では開錠不能! 部屋の密室定義もいつもに同じよ!
【ベアト】「おいおイ、容疑者はもうひとりしかいねぇぜェエエ、それでもまだカマトトぶんのかよ、右代宮戦人ぁああああぁああア?!」
【戦人】「うるせええええ!! てめえも黙ってろおおおおおおおっぉおおおおおぉッ!!!」
【楼座】「黙るのはあなたの方でしょッ、あなた以外にどうやってその手紙を置けたというの?! それが証明できない限りあなたは狼なのよッ!!」
【戦人】「俺が疑えるってんなら、あんただって疑えるぜ、あんたこそ証明してみろ、最初に部屋に入って戸締りの確認だのを始めたのは楼座叔母さんじゃねぇかよッ?!」
【戦人】「そして俺の座っていた場所に再び俺が戻るだろうことを見越し、手紙をそっと置いたんだ。これはあんたの罠だって疑うこともできるんだぜッ?!」
【楼座】「どうして私がそんな罠を!! 私が狼ならこの銃で問答無用で撃ってるわよ!!」
 紗音は、銃にロープと重りをくくりつけて自分の頭を撃ち、化粧台の裏に銃が落ちるように細工していた。これで一見他殺のように見せることができる。
 ここで紗音が確実に死んでいる描写を見せることで、偽装死を疑う読者を牽制する仕掛けになっている。楼座も最初は死んだフリを疑い、慌てて戦人を引き離した。
【戦人】「そんなのじゃ理由にならねぇなッ!! 真里亞の目の前で殺人ができねぇから、うまく罠にかけようって回りくどいことしてるかも知れねぇじゃねえかッ!!」
【戦人】「マスターキーは全てあんたの手にある! ならここもさっきも、全部あんたの仕業じゃねぇかよッ!! 言い逃れできるってんなら言い訳を聞かせてみろよ!!」
【戦人】「そうさ、楼座叔母さんは最初っから怪しいんだよ! 何で親族会議の大人たちが6人殺されたのに、楼座叔母さんだけが例外なんだ? 何で楼座叔母さんだけがあの礼拝堂にいなかったんだッ?!」
【戦人】「ひとつしか理由がねぇよ、楼座叔母さんが親父たちをあそこに招いて殺したんだッ!! くそくそそれで全部説明が付くじゃねぇかよ、ふざけんじゃねぇふざけんじゃねぇ、わけのわかんねぇことを言うんじゃねぇッうおおおおおおおおおおぉおおおおおぉおおおおお!!」
【真里亞】「うーーーーッ!! やーめーーてぇええ!! 喧嘩しちゃらめええ!! ママも戦人もやめてぇええぇッ、やぁめぇてぇええぇえぇえ!!! 誰も悪くないの! 戦人もママも悪くないの!! これは全部、魔女がやったんだもん! 魔法でやったんだもん!! 誰も悪くないーー!! うーうーーー!!」
 完全に頭に血の上った俺と楼座叔母さんの間に真里亞が割って入る。真里亞の泣き声に、俺ははっと我に返る。…その途端、情けなくなった。涙が溢れ出した。
【戦人】「……そうなんだよ…。……全部、………魔女のせいだったんじゃないかよ……!! 鍵がどうこうとか、トリックだのアリバイだの……、全部全部馬鹿らしかったんだ!! 魔女の仕業なのに、俺たちは同じ人間同士を信じあうこともできなくて…!! なぁ楼座叔母さん、ニンゲンの犯人なんて最初からいなかったんだ、全部魔女の仕業だったんだ。」
【戦人】「だから、楼座叔母さんが犯人のわけがないし、俺や真里亞だって、そして源次さんだって他のみんなだって、犯人のわけがないんだああぁッ!! どうしてこんなことにッ!! 俺はどうして、……大好きだった楼座叔母さんとこんなことの怒鳴りあいをしてるんだよ?! やさしくって、大好きだった叔母さんと、……どうしてこんな罵りあいをしてるんだよ?」!
 真里亞の目の前であろうとなかろうと、楼座に殺人を犯す気はない。しかし、自分と真里亞の身を守るために最低限、犯人側の指示に従う必要はある。13人が死んだら手紙を置いて生き残りを分断しろ等と指示されていたと推測できる。
【戦人】「何で何でみんなで疑いあわなくちゃならねぇんだよッ?!?! 叔母さんを疑ってなんかいないんだ、誰も疑ってなんかないんだ、全部魔女の仕業だったんだ、ベアトリーチェの仕業だったんだ、全部全部ッベアトリーチェが魔法で行なった事件だったんだッ!!」
【戦人】「ベアトリーチェぇええぇえぇ、頼むからここに現れてくれよ、そして自分が全てやったと俺たちに告白してくれよッッ、もうごめんだ、こんな疑り合いはごめんなんだッ!!」
【戦人】「だから俺たちを許してくれ、解放してくれッ、互いの死を見届けあうまで疑りあわなきゃならない地獄から解放してくれ!! 俺にやさしい親戚たちをいとこたちを、返してくれよ!! もう嫌だ嫌だ全部嫌だッ!! お前は確かに実在する、お前の勝ちだ!!」
【戦人】「姿を見せてくれよ、おおおおおぉおおぉ、ベアトリーチェぇええええええええええええぇええええぇええぇッ! ベアトリぃいーチェぇええええぇえええええええええええええええええええぇえええええええぇぇえええッ!!!」
金蔵の書斎
【金蔵】「………私は、……………まだ、…生きているのか。」
 金蔵はいつの間にかまどろんでしまっていたようだった。老眼鏡を探し、時計を見る。……午後の10時になっていた。
【金蔵】「…あやつの儀式は、はて、どこまで進んだのか。………時間的には、もうだいぶ進んでいなくてはならぬ頃だ。」
 金蔵は重い体を椅子より起こし、……毎日眺めてきた、魔女の肖像画に近付く。
【金蔵】「………ベアトリーチェ。もうじき、……お前の微笑みに再会できる。…………死んでもいい! お前の微笑みがもう一度見られるならこの命は惜しくないッ! だから、…後生だぁあ、お前に、……もう一度会わせてくれぇええぇえぇ…。そして、愛を誓わせておくれ、私の罪を謝らせておくれ、うぅぉおぉぉぉぉぉぉ……。
 ……だが逃がさんッ!! お前は私のものだ!! 髪の毛の一本から爪先まで、爪の垢すらも私のものなのだッ!! お前の肉一片までも全て私のもので、その亡骸の煮汁まで私のものなのだッ!! 逃がさん、今度こそこの手から零さんッ!! お前を永遠に私のものにしてやるぞッ!!! 二度と逃がすものか、二度と逃がすものかッ!!」
 吼え猛る金蔵は、突然、震えだしながら、…壁を掻き毟りながら膝をつく…。…いつの間にか、嗚咽になっていた。
【金蔵】「…………ぅうぅ、うっく…、違う、私が言いたいのはこんなことじゃないんだぁぁぁ、ベアトリーチェぇえぇえぇ…。頼む、……もう一度会わせてくれ…。謝らせてくれるだけでいい……。ぅうううぅう、ベアトリーチェぇええぇぇえ、…ひっく、…うっく…! うわああああぁああああああぁああぅああぅあぅぁぅ…!!」
【金蔵】「お前が愛しい、恋しい…! 私が間違っていた…! お前が微笑んでさえくれれば、他には何もいらなかったんだ…。私が間違えた、私がそれを間違えて、……取り返しのつかないことをしてしまった…!」
【金蔵】「その償いに残りの全ての人生を捧げた…!! お前に詫びるために、私の罪を償うために、………全て、……捧げたんだ………。……頼む、私の死の際でもいい…。…………せめて、…………お前に、一言、………謝らせてぇ…ぇ……。ベアトリーチェぇええぇぇぇぇ……。ううう、ひっく、うううッ、うううううううう!」
 ……震えながら泣く金蔵の小さな背中に、一枚の金箔のような蝶が、どこからともなく現れ、ひらりと舞い降りる…。
 …馬鹿な、金蔵。男の涙で落とせる女がいるとでも………? まぁでも、……ニンゲンの女は落ちなくても、…ニンゲンじゃない女は落ちるかも知れぬ。
 金蔵。覚えている……? 私としていた、まだ途中だったチェスの譜面……。
 金蔵は、急に何かを思い出したようにチェスセットに近付く。そこには昨日まで南條と遊んでいたチェスがそのまま残っていた。…その駒を、ざぁっとなぎ払うようにチェス盤から退けると、駒を次々と並べ出す。…それはゲーム途中の盤面だった。
【金蔵】「………そうだ。こうだ。…………私はクイーンを進めた。…とても良い妙手だった。お前には少々きつすぎるかも知れん一手だった。………お前は、駒を見捨てるか、見捨てないかに悩み、……ずっと悩み……………。」
 金蔵は向かいの席を空けて待つ。……そこにきっともうすぐ、対局の相手が帰ってきてくれて、……再び、このゲームが再開できるのを…。
 …馬鹿な、金蔵。謝りたい? もう一度顔が見たい? 微笑を永遠のものにしたい? どうして、もっともっとシンプルな一言が口にできないのか。それこそが、世界の一なる、元素なのに………。
 その時、金蔵が呟いた。……祈り? 懇願? ………ただ、呟いたとだけ表現するのが正しかった。
【金蔵】「……お前を、………愛している…。……ベアトリーチェ……………。」
 それは何の邪心もない、まるで無垢な子どもが口にするような、清らかな言葉だった…。
 …本当に馬鹿な、金蔵。もしももう一度人生をやり直す機会があったなら。そんな言葉では、絶対に女は落とせないことを知りなさい。
 そう、…奇跡でもない限り。だからこれは、………。
 その時。………金蔵は確かに、使用人たちのそれとは違う拍子の、小さなノックを聞いた………。
【金蔵】「………誰だ。」
 扉の向こうの女は、……答えない。
【金蔵】「……誰かと聞いておる!! 返事をせぬか!!」
 扉の向こうの女は、……答えない。
【金蔵】「まさか、…………おおおぉ、……まさか……。ベ、……ベアトリーチェなのか? ………ベアトリーチェ、………ベアトリーチェぇええぇええええ!!」
 扉の向こうの女は、……答えた。第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。
 再び魔女への屈服を口にする戦人だが、ここはゲーム盤の中。当然あるべきメタ世界側の描写がされていない点に注意。

復活
10月5日(日)23時30分

食堂
 戦人の姿は食堂にあった。この雨の中、ゲストハウスに戻る気にもなれず、適当に座れるところを探し屋敷の中を適当に放浪し、…食堂を根城としていた。
 別に鍵は掛けていない。姿なき殺人犯、もしくは黄金の魔女が、一人ぼっちになった自分を殺しに来るかもしれないと思ったが、それに抗おうとはもう思わなかった。
むしろ、鍵で拒む気などない。堂々と正面から来て欲しかった。…それが殺人犯なら、この素晴らしき密室トリックの数々を、冥土の土産に聞かせてもらおうと思った。そして魔女なら、せめて素晴らしき魔法で自分の命を奪ってもらおうと思った。
……しかし皮肉なもので、そのどちらも、戦人を迎えに来てはくれなかった…。
戦人は酒棚を勝手に開け、存分に飲酒を満喫していた。今や、彼の飲酒を咎める人間などどこにもいないのだ。両足を、贅沢なテーブルクロスの上に大胆に下ろし、気が遠くなるほどの値打ちがあるだろう銘酒を、瓶ごと傾けて味わうのだった…。
その時、……ノックが鳴った。戦人はようやく自分のお迎えが来たことを悟る…。
【戦人】「お〜ぅ、鍵なんか掛かってねぇぜ。誰でも入ってきてくれ。そして自己紹介を頼むぜ。人間なら名前を名乗ってくれ。ベアトリーチェだってんならバストのサイズを教えてくれ。」
【戦人】「俺ァこう見えても、ちょいと知られたおっぱいソムリエなんだじぇえ?…ひっく。」
【源次】「………源次でございます、戦人さま。」
【戦人】「…源次さんか。……悪ぃがあんたのバストのサイズに興味はねぇなぁ。入ってくれよ。開いてるぜ。」
【源次】「………失礼いたします。」
源次さんが扉を開け、お辞儀をした。………やはり、源次さんが犯人、…あるいは協力者なのだろうか。……その仮定は、多分、ほとんどのトリックを説明してしまうに違いない…。
【戦人】「あんたが、俺に引導を渡しに来たのかい。」
【源次】「………そのようなことはございません。……お邪魔なようでしたら失礼いたします。」
【戦人】「…おいおい、用件も伝えず失礼しますじゃ、かえって気持ち悪いぜ。…何の用だよ。……未成年の飲酒は禁じられてるってかぁ?どうせ死ぬんだ。…最後くらい好きにさせてくれ。」
【源次】「………戦人さまは、死せる最後のわずかの時間を、飲酒に捧げるほど、お酒を愛しておいでですか。」
その一言は、沁みる…。……そんなわけもなかった。
【戦人】「…………………………。飲まなきゃやってられねぇだけさ。……酒の味なんて、全然わかんねぇよ…。」
【源次】「……お館様と同じですな。本当にあなたはお館様の血を色濃く受け継がれている…。」
【戦人】「あの酒豪の祖父さまが、実は全部ヤケ酒だったってのかよ…?それは初耳だぜ。」
【源次】「………お館様の人生は、……いくつかの悲しい出来事の末、……全て、贖罪のためのものと成り果てたのです。」
【戦人】「…あんたは何を知っているんだ。」
【源次】「…………ベアトリーチェさまの儀式も、第八の晩までを全て終えました。…もう、全てをお話してもよいかと思います。」
【戦人】「な、……何だって…?」
俺の酔いが全て吹っ飛ぶ。俺は脚をテーブルから下ろし、源次さんがどんな言葉を続けるのか、注意深く耳を傾けた…。
【源次】「戦人さま。……お館様の書斎へご案内申し上げます。……お館様たちに、直接お話を聞かれるのがよろしいでしょう。」
【戦人】「祖父さま、……たち…?お、おい、それは一体どういう…ッ!!」
【源次】「……さぁ、こちらへ。ご案内申し上げます。戦人さま。」
源次さんはついてくるように言うと、廊下を歩き始める。俺は酔いを完全に吹き飛ばし、その後を追い掛けた…。
大階段を登り、………3階へ。その途中で源次さんは足を止める。そして振り返り、言った。
【源次】「………戦人さま。……これより、戦人さまは、………理解できぬものを見るでしょう。」
【戦人】「脅すなよ。………理解できねぇもんなら、今日、嫌になるほど見てるぜ。」
【源次】「………見えるものを、見えるがままに。聞こえるものを、聞こえるがままに、受け容れて下さい。」
【源次】「なぜ?、も。なに?、も。…何も必要ありません。…戦人さまはただ、真実を知ることになるでしょう。それをお認めになるか、お信じになるか、あるいは否定されるかも、全て戦人さまにお任せいたします。」
【戦人】「………………………………。」
源次さんは俺に真実を知る覚悟があるのかと、最後の確認を取る。第八の晩はもう終わってる。そしたら第九の晩で、魔女は蘇り、……誰も生き残れはしない。
もうベアトリーチェは、蘇っているというわけだ。…そして多分、俺たちは全員生かして帰されはしないだろう。どうせ失う命なら、……その最期に、真実を知りたい。…それが、どんなに受け容れがたいものであってもだ。
【戦人】「………………あぁ。……鬼が出ようと魔女が出ようと、…覚悟はできてるぜ。」
【源次】「………本当にあなたはお館様の若き頃にそっくりだ。……戦人さま、どうかご勉学に励みを。あなたは将来、必ずや大きな志を持たれるでしょう。そしてその時、足りぬ学力に一生後悔されることがありませんよう。」
【戦人】「………勉学に勤しめる機会がもらえるなら、ぜひな。」
【源次】「…………………………。」
源次さんのその沈黙は、俺のある種の諦観を、さらに念押すものに感じられるのだった…。
金蔵の書斎
そして、………甘い臭いを漂わせる祖父さまの書斎の扉が見えてくる。
源次さんは懐から凝った意匠の、黄金の鍵を取り出す。マスターキーは楼座叔母さんに没収されたが、この書斎の鍵だけは持ち続けていたのだ。
鍵穴に入れ、………ガチャリと重い音がする。
【源次】「………お館様。源次です。戦人さまをお連れいたしました。」
それに対する返事はないが、どうやら入室の許可は出ているようだった…。
【源次】「さぁ戦人さま。……どうぞ、お入り下さい。」
【戦人】「………………あぁ。……入るぜ。」
俺は意を決し、……扉を開け放つ…。
その瞬間、…俺は眩しき黄金の輝きで目が眩みそうになった………。それは、………何と、……黄金に輝く、蝶の群だった。書斎の中をいっぱいに満たしていた黄金の蝶たちが、一斉に溢れ出して来たのだ……。
【戦人】「な…………、……何だ、…………こりゃあぁ…………………。」
それはまるで、金箔の紙吹雪。祖父さまの書斎の中は黄金の輝きで満たされていた…。
そして、……書斎机の前にソファーの応接席があり、………祖父さまの背中が見えた。祖父さまの向こう側に誰かいる。…影になってよく見えない…。
【源次】「……お館様。戦人さまをお連れしました。」
【金蔵】「…………戦人か。今、思考が忙しい…。しばし沈黙せよ……。」
金蔵は背中を向けたままそう不機嫌に言い放つ。
どうやら、来客とチェスを楽しんでいるようだった…。対戦相手が絶妙な一手で切り返してきたらしい。金蔵は時に笑い、時に呻きながら、熟考を楽しんでいるようだった…。
【ベアト】「30年考えた。……この一手をどう切り返すか、30年考えたぞ…。楽しめ、30年を寝かせた我が一手を楽しめ。」
【金蔵】「……ふっふふふふふふふ。誠にこの一手は味わい深き熟成された一手よ。……楽しい楽しい…、くっくくくくくくく、はっはっはっはっはっはっは…!!敵わぬ敵わぬ。」
【戦人】「……こ、…………これは、………何だってんだ………ッ、」
【ベアト】「来たか、戦人。しばらく待て。金蔵のために沈黙を。…まだリザインは早いぞ、金蔵?妾ならもう数手は切り返せる。くっくっくっくっく…!」
その魔女とは、……初対面のはずだった。しかし、…俺はこの魔女を知っている。初対面なのに、…肖像画の中で、……知っている……!
【ベアト】「源次。戦人のために酒を振舞え。この男により相応しき酒は何か…?」
【源次】「……若き日よりお館様が愛されている、いつものあのお酒を。」
【ベアト】「それが良いぞ、振舞ってやれ。……よくぞ来たな右代宮戦人。まずは座れ。………そなたは妾の名を何度も呼んだな?それに免じ、妾との面会を許した。…そしてお前は妾に何を聞く?何を尋ねるのか?……黄金郷の扉はもうじき開かれる。魔女たちを迎え入れての妾の復活を祝う宴はもうじきだぞ。…それまでの間、お前の問いにいくらでも答えてやろう。」
【戦人】「き、……聞きてぇことは山ほどあるッ!!この島で何が起こった!そしてどうしてこんな事件が起こった?!密室についても聞きたいッ!!礼拝堂は?!朱志香の部屋は?!使用人室は?!夏妃叔母さんの部屋は?!そして客間は?!」
【戦人】「聞きたいことはまだまだあるッ!!魔女の正体は!!本当にベアトリーチェは魔女なのかッ!!何が目的だ、俺たちに何をさせたい、俺をなぜここへ呼んだんだッ!!答えろ全てだッ!!!」
【金蔵】「えええぇいやかましいッ!!問えば答えは返るのかッ?!?!」
【ベアト】「そう言うな金蔵。脆く儚いクモの巣も、ヘロデの王から守ってくれることもある。……この世に無駄なものなどないように、無駄な質問もまたない。」
【ベアト】「良い良い、全ての質問に答えようぞ。……ただし、条件がひとつだけある。」
【戦人】「何だ。」
【ベアト】「全てを聞き、妾の存在に納得できたなら。…………跪き、妾の靴にキスをせよ。お前を屈服させたくて、妾はここへ呼びつけたのだから。」
【ベアト】「…妾と金蔵は賭けをした。金蔵が次の手を閃くのと、妾がそなたを屈服させるのとどちらが早いかだ。負ける気はせぬぞ。くっくっくっくっくっくっく…!」
【戦人】「…で、…………でけぇ口を叩きやがって!!あぁいいぜ。俺を納得させて見ろよ。…お前が間違いなく魔女さまで、不思議でステキな大魔法を使えるってことを納得させてみろよ!!」
【戦人】「屈服したなら、キスでも何でもくれてやるッ!!!」
魔女はくっくっくと小気味良さそうに笑う。そして、男に二言はないなという目で嫌らしく睨みつけてくる…。
【ベアト】「良くぞ言ったッ!!さぁて、どの問いから答えようか?!全て答えるぞッ!!さぁまずは何からだッ?!?!」
 そして魔女は全てを語り始めました。
 戦人の質問の、全てに答え始めました。
 全てに筋が通りました。
 全てに納得しました。
 そして、戦人は認めざるを得ませんでした。
 魔女は確かに、“い”たのです。
 あとは語る必要もなき物語。
 キングを倒して降参すれば、あとは指し手の反省会。
 そして駒をもう一度、並べ直すのみ…。
 戦人視点の幻想描写という、本来ありえないことが発生する。戦人視点だけは信用できると思っていた読者が面食らうポイントである。これが成立する理由は後述。
 源次が戦人に全てを話しにくるという展開自体は幻想ではなく、実際には書斎に案内したりはせず、食堂で文字通り全てを話したものと推測される。

魔女の宴
10月5日(日)23時59分

礼拝堂
【楼座】「どこなの、ベアトリーチェッ!! 姿を見せなさいッ!! ベアトリーチェぇえぇ!!」
 楼座はとうとう礼拝堂までやって来る。そして銃を辺りに向けながら魔女の名を叫ぶが、答えが返るはずもなかった。
 表情を少しだけ歪めた後、兄弟たちが未だに遺骸を晒すテーブルに踵を鳴らしながら近付き、黄金のインゴットに手を伸ばす。それはあまりに重かったが、楼座は気にしない。ブランケットにそのひとつを包み、担ぎ上げる。
【楼座】「せめて…、この一つだけでも……。これだけでも、一千万以上の価値があるはず…。」
 楼座は銃も手放さず、その上でさらに黄金も持つ。…彼女の肩が悲鳴を上げるが、楼座は構わなかった。
【真里亞】「……きひひひひひひひひひひひひひひ。もうすぐだね。……もうすぐ黄金郷の扉が、開く。」
【楼座】「その気持ち悪い声で笑うのを止めなさい!! ベアトリーチェはどこにいるの?! えぇ、わかっているわ、どこかにいるんでしょう?! あなたは知っているんでしょう?! どこッ?!」
【真里亞】「きひひひひひひひひひひひひひひひひ。知ぃらない。探さなくても、黄金郷で会えるよ。…きひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ、あ痛。」
【楼座】「その笑いを止めなさいッ!! ……あぁッ、私が笑いたいくらいよッ!! そうね、アレは間違いなく魔女だったわ、間違いなく魔女だったッ!! 私はわかってなかった、魔女を名乗る人間だと信じてたッ、違うッ!!!」
【楼座】「…あれは、本当に魔女だった!! 私はあんなのに誤魔化されないわよッ!! いるんでしょう?! 出てきなさい、姿を現しなさいッ!! ベアトリーチェえええぇえええええええぇえええッ!!!」
【真里亞】「だからもうすぐ現れるよ。黄金郷の扉が開かれるよ。……きひひひひひひひひひひひひ…。」
金蔵の書斎
【金蔵】「…………そうだ。それで良かったのだ! 構わぬ、ルークを捨てるぞ! 持てるモノ全てを失う覚悟がなければ、至ることもできぬキングがお前という女なのだ。追い詰めるぞ、ベアトリーチェぇえぇ。ひっはははははははははは!」
【ベアト】「せめてクィーンと言えぃ。ほぅ、なかなかに妙手。諦めの悪さがそなたの、…いや、右代宮の血か。」
【金蔵】「……心地よし! 実に優雅な夜だ。くっはっはっはっはっはっはっは…!!」
【源次】「………お館様、ベアトリーチェさま。そろそろ、宴の時間でございます。」
【金蔵】「もうか。……早い。お前と過ごす夜はいつも早く、月が林檎のように落ち、川面より跳ねる小魚のように日が昇るのだ。」
【ベアト】「行こうではないか、時間だ。……立て、戦人。妾の復活を祝う宴の始まりだ。」
【ベアト】「妾の新しい家具、…いや、玩具として紹介しようぞ。御歴々の魔女たちに。」
 魔女はソファーから投げ出した足を足置き椅子に載せ、優雅に寛いでいた。…しかし、その足置き椅子はソファーの一部ではなく、……ニンゲンだった。四つん這いになった…。
【源次】「……ベアトリーチェさま、御召替えのドレスでございます。」
【金蔵】「主賓はお前だが、ホストは私だ。私は先に出ていよう。着付けの手伝いに紗音でも居ればよかったが、生憎、残れなかったようだな。」
【金蔵】「……使いたい時にいつもおらぬ。つくづく使えんヤツよ。………しかし、お前はよく残ってくれた。…嬉しいぞ、我が友よ。」
【源次】「……ありがたいお言葉です。」
【ベアト】「良い。二人とも先に下で待て。源次、ご苦労、そのドレスはそこへ置いていけ。」
【源次】「……かしこまりました。………それではお館さま。」
【金蔵】「我らは先に行こう。…ベアトリーチェ、後ほどな。」
【ベアト】「うむ。」
 金蔵と源次は書斎を出て行く。後には魔女とドレスと家具が残った。
【ベアト】「………なぜ妾がそなたに肌を見せることを恥じぬかわかるか…?」
【戦人】「………………………。」
【ベアト】「そなたは家具だからだ。家具ゥ。わかるか? 家具だよ家具ゥ! 家具に体を晒して恥じる者がどこにいよう? だからお前に妾は恥じる必要がない。…くっくくくくくくくくくく!」
 魔女は立ち上がると、上着の肩だけを外す。……すると上着はそのまま、すとんと後ろに落ちる。その衣服を拾おうと家具がうやうやしく近付いた時、魔女は小さく蹴って転がした。…家具は自分に何の不調法があったのかと怯えた…。
【ベアト】「そなたは家具の分際で、妾に自らボタンを外させるつもりなのか。……立て。そしてこのボタンを外せ。…ひとつずつ、丁寧に。早く。美しく。粗相なく。客人たちを待たせてしまうぞ、早く妾を着替えさせろ。」
【戦人】「………………はい…。」
【ベアト】「くっくくくくくくくくくっかかかかっはっはっはっはっはっはっはッ!! 丁寧に外すのだぞ。そなたの目玉ひとつよりも高価なボタンであるぞ。…間違って千切るようなことがあったなら、代わりにそなたの目玉を縫い付けてやる…。くっくくくくくくくくくくくくくくくくくく!!」
玄関ホール
 玄関ホールは、大勢の人影で賑わっていた。そして、飛び交う黄金の蝶たちで金色に輝いていた。スーツやタキシードの紳士たち、そしてドレスの淑女たちが大勢談笑しているように見えた。 それは一見すればまるで華やかなりし中世の舞踏会に見えたかもしれない。
 しかし、彼らは皆、ある一点で共通していて、そしてその点がこの上なく異様だった。……なぜなら、彼らは全て、…山羊の頭だったからだ。
 それが山羊の仮面による仮面舞踏会なのか、………本当に山羊の頭なのかはわからない。…後者のわけがないのだが、この異様な世界では、どちらかわからないと本気で考えてしまう…。
 その山羊の貴族たちの中で、金蔵が挨拶を交わしていた。いずれも賓客ばかりらしく、普段の金蔵から想像もつかぬほど、うやうやしく挨拶をしていた。
 その時、ホールに源次の声が響き渡った。静粛に、という声だった。その声に、談笑の声は止み、一同が源次の方を向く。
【源次】「………今宵、復活を遂げましたる我らが黄金の魔女、ベアトリーチェ卿の御入場でございます。皆様、拍手をもってどうかお迎え下さい。」
 源次が拍手を始めると、それはすぐに来客に広がり、万雷の拍手となった。
 そして、………大階段の上に、黄金の魔女が姿を現す…。それは優雅に手を振りながら、…お気に入りの家具を従え、ゆっくりと階段を降りて来た…。
 山羊の貴族たちは、太古の失われた言語で口々に祝いの言葉を掛ける。そして親交の深かった者たちは、抱擁を交し合って再会を喜び合った。
 そうした魔女の再会の挨拶に、…魔女の家具はずっと付き従う。………首には鎖が。そして魔女の手に飼い犬のように握られている。
 拘束のためのものではない。…尊厳を傷つけるためだけの、拘束具…。それ以外には何も身に着けることが許されていなかった。
 山羊の貴族の中に混じった、山羊の令嬢のひとりが、家具が自分の前を通り過ぎる時にそっと山羊の仮面を外し、光を宿さぬ瞳で言った。そこにある顔は、髪の長き幼い少女に見えた…。
【ベルン】「……………哀れね。」
【ベアト】「おぉ、ベルンカステル卿。これはようこそおいでを。妾の家具を気に入られたか?」
【ベルン】「………いい趣味ね。」
 それだけを言い残すと、ベルンカステルと呼ばれた魔女は再び山羊の仮面を被り、他の背の高い山羊たちの影に飲み込まれてしまう…。
「あっははははははははは…。負け惜しみをぅ。悔しがってるのよぅ。」
【ベアト】「違いないな。くっくくくくくくくくくくくくくくく!」
 他の山羊の令嬢がくすくすと笑うと、魔女もまた甲高く笑い出すのだった。
【ベアト】「今宵は妾のためによく集まってくれたッ!! 久々に古今東西の旧友たちが集う“魔女の宴”を存分に楽しもうではないか…!」
【ベアト】「さぁ、今宵を食い明かし、飲み明かし、啜り明かし、食い千切り明かしてとことん楽しもうではないかッ!! 時計を見よ、終わりの時間と始まりの時間が溶け合う時を指すぞ、……さあッ!! 魔女の宴を始めようッ!!!」
 魔女が宴の始まりを宣言した時、大時計が24時を指し、大きな鐘の音を鳴らし始める…。
【ベアト】「さあ……、今こそ!! 黄金の扉を開こうぞ…………ッ!!!」
 室内を金箔に染めていた黄金の蝶たちが一斉に飛び交う。黄金の嵐と金色の眩い光の中、この世とこの世ならざる世界の断面が、……斬って開かれる……。
 山羊たちの歓喜の声の中、人の世の屋敷と、人ならざる者の屋敷が重なり、……黄金の魔女の復活を称える眷族たちが黄金の蝶の姿を借りて、……地獄の底より溢れ出す…。それは、黄金の、竜巻。…金色の悪魔たちのロンド。
 さぁさ今宵は無礼講。酒蔵を開け放て、蛇の頭を落として酒壷に放り込め、牛も鶏も生きたまま炉に放り込め、飲めや食えや歌えや踊れや、嗤えや殺せや冒せや堕とせや!!
【金蔵】「ああああぁ、ベアトリーチェ!! 今こそ私を黄金郷へッ! 黄金郷へええぇえええぇッ!!! ぉおぉおおおおおおおお、ぉああああああああぁああああッ!!!」
 山羊の貴族たちは、いつの間にか金蔵を揉みくちゃにしていた。…まるで、人気のムービースターからサインをねだる子どもたちのように。
 違う点は二つ。一つは、彼らが子どもでなく魔女であったこと。そしてもう一つは、魔女たちが強請ったのはサインではなかったこと。
 山羊の貴族たちの海に、金蔵が溺れていく。金蔵の笑い声だけが辺りに木霊する。
 それは笑いと断末魔の入り混じる壮絶なものだった。そして金蔵はワインとなり肉となりパンとなる。
 啜れば芳香、齧れば芳醇、千切りては愉快! 断末魔の声は甘く糸を引き、溶かしたチョコレートに銀のアラザンで飾り立てれば素敵なデザート! 骨は持ち帰ればスープの出汁にも使えるし、残りは子どもが遊ぶ玩具にもなるし、不吉しか与えぬ占いの良き道具にもなる!
 その光景を全て、……家具は見ていた。全ては幻想的。…全てが悪魔的。
 …麻痺したはずの心が震えるのは、…未だに恐怖できる感情が残っている証なのか。その時、膝がガクンと抜け、家具の体が絨毯の真ん中に転げた。魔女が後ろからその膝を蹴り付けたからだ。
【ベアト】「跪き敬意を示せ。額を絨毯に擦り付けて己が身の卑しさを示せ。両手を後ろで組み、血肉の全てを妾に捧げることを誓え。」
【戦人】「………………ぅ、…………あ………、」
 家具が苦しげな声を漏らす。…恐怖はニンゲンの持つもっとも原始的な感情。…その感情が、彼の殺されたはずの自我を蘇らせようとしているのか。
【ベアト】「………ふ。まだまだ妾の家具には相応しくないか。良い! じっくりそなたを、妾好みの、そして妾にのみ相応しい家具に仕上げてやる。…今のそなたにできるのはせいぜい、客人の方々を楽しませることくらいか!」
 うずくまる家具を、山羊の貴族たちが取り囲んでいる…。爛々と真っ赤に光る目は、新しく与えられた若々しき料理に狂喜を隠せないようだった。
 そして醜い歯をいくつも覗かせる口元は、だらしなく涎を、…あるいはさっき食らったばかりの肉やワインの残滓を零す…。
【戦人】「………ぃ、…………いいぃいいいいいいいいいいいいいッ!!」
 家具はだらしない悲鳴をあげながら、尻餅のまま後退りをする。…しかし山羊の貴族たちの輪は狭まっていく…。
 そして家具は魔女の顔を見た。…魔女に屈服したのだから、魔女の慈悲があるのだと信じ、最後に魔女の顔を見た。
 しかし魔女の顔にあるのは嘲りだけで、すでにこちらを向いてすらいなかった。魔女は目の合った賓客に挨拶するために去っていく…。
 家具を、山羊の貴族たちが見下ろしている。
 彼らは実は待っていた。シャンパンを飲むためにはまずコルクを抜かなければならないように、宴に供された贄を口にする前に、ある、たったひとつのソレを待っていた。
 もちろんソレを家具は知らない。…でも、勝手に口にするのだ。コルクを抜けば必ず、ポンと音がするように、彼も必ず口にするのだ。
【戦人】「…ぎ、……ゃ、…ぁひいいいいいいいいっぃいいいいぃぃいいいいいいいっぃいいいいぃいいいいいィイッ!!!」
 ——悲鳴を。それが、彼が供せるささやかな宴の開始の、合図。
【戦人】「ぎゃああぁあああああぁああああげぇぷききゃきゃかッくぉおおがあげォえぉおおぉおああああぁああああああぁあああぁああああぁああああああぁあああぁああああぁああああああぁあああぁああああぁああああああぁあああぁああああぁああああああぁあああぁあああ…ッ!!!」
 がぷぽぎゅぐきぐきぼりゅッ。
 楼座は、今夜24時に爆弾が爆発すると聞かされており、その前に自分と真里亞を逃がしてもらうようにベアトと約束していた。ところが時間になってもベアトが現れないため、礼拝堂まで探しに来た。
 もちろん楼座は、ベアトの正体が紗音であることを知っているが、その紗音が殺されてしまったため錯乱状態に陥り、「本当に魔女だった」等と口走っている。
薔薇庭園
 薔薇庭園は今や薔薇と黄金の庭園。黄金の蝶たちが、黄金の妖精たちが、黄金の蜥蜴たちが跋扈し乱れ飛ぶ金色の庭園。
【楼座】「真里亞ッ、早く!! 走ってッ!! 早く早く早く早くッ!!」
 楼座はインゴットを包んだブランケットと銃を抱え、真里亞に追いつけないような速さで走り、時折止まっては真里亞に速く走れと声を掛けた。
 だからその度に見てしまう。…屋敷より追い来る黄金の追っ手を、見てしまうッ!
 黄金の蝶たちの群がまるで這い寄る巨大な手のように追ってくる!! そして、山羊の頭を持つ恐ろしき異形の人影が追ってくる…!! それに目を凝らす必要は何もなかった。捕まればどうなるのか、彼らの爛々と輝く瞳が語っていたからだ。
【真里亞】「……ママ待って、ママ待って……、…うーうー、……あぅッ!!」
 真里亞が転ぶ。楼座は一瞬だけ、娘を見捨てて駆け去ることを考えたことを恥じ、大地を蹴り戻して瞬時に逆走する。
 起き上がろうとする我が娘の後ろ髪を、最初のひと齧りにありつこうと疾駆してきた山羊頭が鷲掴みにして引っ張り上げる…!!
【真里亞】「ママぁああああぁああああああッ、いやぁあああああああああああぁああぁあぁ!!」
 楼座が山羊頭に肩からぶつかるッ、回るッ、逆肘が山羊の顎を打ち上げ、突き出た腹に膝を打ち込むッ!! そして内臓の苦痛に身を屈めたその山羊頭の口の中に銃口がねじ込まれるッ!
【楼座】「……私の目の前で真里亞に指一本触れてみろ。元来た地獄が生温かったことを教えてやるよ。」
 ウィンチェスターの45口径ロングコルト弾による爆炎が喉の中でぶっ放され、山羊頭の延髄が瞬時に粉砕される。山羊頭は理解できなかった。女なんて開封済みのワインボトルだと思ってた! 逆さにすればすぐに真っ赤な中身が出てくるワインボトルだと思ってたッ!
【真里亞】「ママッ!! ママぁああぁ!!」
 解放された真里亞が楼座に抱きつく。
 だが追っ手はまだ来る! 薔薇の茂みの向こうから、ニンゲンのふりをするのにも飽きた巨漢の山羊頭が走り来るのが見えた。楼座は上着のポケットの中に入っていた予備の銃弾を何発かバラバラと零し、真里亞に拾うように命じる。
【真里亞】「う、うん…! 拾う、拾う…!!」
【楼座】「真里亞。ママがもしも倒れたら。あなたは走りなさい。海岸へ行くの。そして泳いで泳いで泳ぎなさい! この島のどこにも、生き延びることのできる場所はないッ!!」
【真里亞】「や、やだッ!! ママと一緒ッ!! うーーッ!!」
 楼座の銃が四度咆哮した。迫り来る巨漢の山羊の胸板に確かに四発を着弾させたが、相手はまったくそれに怯んでいない!! その巨体で押し潰すつもりかのように猛烈な勢いで駆けてくる!!
【楼座】「弾を入れてッ!! 早くッ!!」
【真里亞】「う、うー!!」
 楼座はインゴットのブランケットを両手で掴むと、それを引き摺りながら、自らも疾駆する!!異形の巨漢に怯えもせずにッ!! 娘を守るためなら、私は地獄すらも踏み越えてやるッ!!
【楼座】「見せてやるよ…。黄金の夢ってヤツをぉおおおおおおおおおぉおおおッ!!!」
 楼座の咆哮。山羊頭の咆哮。凄まじき重量のインゴットが、凄まじき遠心力と速度で、山羊頭の頭部に叩き込まれる
 楼座は懐より万年筆を抜く。でも持ち方が歪だった。手の平で押さえ込み、握り拳の中指と薬指の間から突き出す様はまるで拳から生えた毒針。
 その毒針が、頭部をつんのめらせた山羊頭の左目に突き刺さる。山羊頭の咆哮は悲鳴か。しかし楼座の咆哮は違う。続いて繰り出される掌が目に突き刺さったままの万年筆を打ち抜くのだ。その先端が頭部の深奥を確かにえぐり破壊する…!
【真里亞】「ママッ、弾が入った!!」
【楼座】「上出来!!」
 真里亞が投げる銃を受け取った時、ようやく巨漢が大地に伏せる轟音がする。
 だが同時に薔薇の茂みのさらに向こうから、山羊頭の追っ手が再び増えるのが見えた。距離は稼げた、もう充分!
 私はインゴットのブランケットと銃を抱え、再び真里亞と走る。…なぜ私は右手に銃を、左手に黄金を持って走っているのか。なぜ片方の手を空けて真里亞の手を握らないのか…!!
 身を守る銃を手放せない。未来を守る黄金を手放せない。なのに私は、自分の未来そのものの娘の手を手放すのか…!
 駆ける。駆ける。駆ける。薔薇庭園を抜け、木立の中の階段を駆け下りていく。しかし楼座は知っている。この木立の道は、わざわざ曲がりくねらせて距離感を出しているだけなのだ。まっすぐ突き抜ける!
 子どもの頃からずっと遊んでた。だから知っている!
 海岸へ。海岸へ。海へ海へ海へ。海へ出てそれから? 泳ぐしかない泳げ泳げ、真里亞が泳げないなら、担ぎ上げてでも泳いでみせるッ!! この島には死しかないッ!
【楼座】「きゃッ!!!」
【真里亞】「ママああぁッ?!」
 駆け下りる階段を踏み外す。左の足首に激痛が走り思考が真っ白く濁った。
 楼座は階段を数段転げ落ちて、不自然な角度に折れた足首に愕然とした。…インゴットのブランケットもない。転んだ拍子に手放し、暗がりのどこかに消えてしまったのだ。あるのは銃だけ。
 地響きが近付いてくる。山羊頭どもが殺到するのは時間の問題だ。それがどれだけの人数か、そしてどのような異形なのか、想像もしたくない。
 軽やかに舞う黄金の追っ手たちがやって来る。黄金の蝶たちが楼座たちを取り巻き、獲物はここにいるぞここにいるぞと閃いて騒ぎ立てる。楼座は立ち上がろうとすることもできない。折った足首の激痛はこのような土壇場であっても無視できない程のものだった。
 あああぁあぁぁ、私は何をやっているんだ…。黄金を手に入れた、カネにすれば何千万円かになった。それで人生をやり直せたかも!! なのに転げてなくし、それどころか自分の命も危なくて、真里亞の命まで危なくてッ?!
 ……私の人生って、何だったのッ!!! わけのわかんない家に生まれて! 生まれた時からムカつく兄と姉がいて!!
 私が何をしたの?! 何をしてもしなくてもいっつも怒られて虐められて馬鹿にされてッ!! 私の人生は何だったの?!?!
【真里亞】「ママ…、ママ、ママ…!!」
【楼座】「……………………。」
 楼座の心の中の咆哮は萎むように消えた。…泣きじゃくりながらしがみ付いてくる真里亞の泣き声を聞く内に消えた。
【楼座】「………真里亞。ママはちょっと用事を思い出したの。先に行っててちょうだい。」
【真里亞】「やだッ、やだやだやだやだッ!! ママと一緒がいいッ!! ママが死んじゃ嫌だッ!!」
【楼座】「真里亞は、…こんな悪いママでも、……ママと一緒がいいと言ってくれるの?」
【真里亞】「うん…! ……ママと一緒がいい…、ママと一緒がいい…!」
【楼座】「…あなたのことを一番にしているように見せて、…いっつもあなたのことを後回しにしてきた。運動会に行った、授業参観に行った、…でもいっつもママは世間体のことばかりであなたが瞳にいなかった。……こんなママとでも、…あなたは一緒にいたいというの……? こんな、……悪いママなのに…………ッ!!」
【真里亞】「ねぇ、ママ。…知ってる? 世界にママはひとりしかいないんだよ。いいママも悪いママもいない。…ただ、ママがひとりいるだけなの。だから真里亞は、世界でたったひとり、ママがいてくれればいい。そして、ママにとって、たったひとりの真里亞になりたいの。」
【真里亞】「………機嫌が良くて甘やかしたい真里亞と、邪魔だから居て欲しくない真里亞は別人じゃないの。真里亞も、たったひとりの真里亞なの。……だから、怖いママもやさしいママも一緒。……真里亞には、…たったひとりの……ママなの……。」
【楼座】「……………私は、……何て、…………馬鹿だったの…。………黄金なんかいらなかった。ただあなただけの手を引いていればよかった…。……私は何て、……馬鹿なママだったの…!!」
 山羊たちの影が森の木々よりも空を遮る。咆哮が世界を恐怖で塗り潰す。楼座は真里亞を抱き締めたまま、片手で銃を構える。
【楼座】「真里亞、一緒に行こう。ずっと一緒よ。…ママが迷わないように、ずっと一緒に…!」
【真里亞】「うん…!! すぐに会えるよ。ずっと一緒だよ…!! …黄金郷で、会えるよ…!! そうしたら一緒に遊ぶの! “狼と羊のパズル”で遊ぶの!! ママはまだ一問しか解いてないけど、真里亞は全部解いちゃったんだよ。だから真里亞が出題してあげる!!」
 バースデープレゼントに買ってあげて、……その夜にしか遊んであげなくて。
【楼座】「うんッ、遊ぼうね、一緒に!!! 約束するッ!!!」
【真里亞】「ママぁああぁああああああ!!」
 灼熱の溶岩と同じ輝きを持った眼がまるで蛍の群のよう。舞いて迫りて、襲い来る。
【楼座】「うおおおおおおお来いよォオオオォ!! 真里亞が込めてくれた銃弾を食らいたいヤツから前へ出ろよォオオオオ、うをおおおおおおおおおおオオオォオオオォオッ!!!」
 この描写は、爆弾が爆発するなら海へ逃げるしかないという現実の反映。二人とも爆弾で死ぬ直前であり、観測者がいないために幻想描写が成立している。
 なお、礼拝堂にいた時点で23時59分であるため、実際には走って逃げようとする時間などなかったと思われる。

お茶会

魔女の喫茶室
【楼座】「………………………………。」
 楼座はまどろみから目を覚ましました。……相当の深い眠りだったのでしょうか。ぼんやりとして思考もはっきりしません。
 ここはどこでしょう…。どこかの屋敷のように感じられたが、少なくとも右代宮家の屋敷ではないようでした。そこは、客間のような部屋に見えました。……そしてそこにはお茶の用意がありました。恐らく、自分の為に用意されているに違いありません。
 部屋の中に金箔のようなキラキラが舞っていて、とても幻想的でした。…それはやがて黄金の蝶であるとわかり、さらにそれを際立たせるのでした。
 自分の向かいには、誰かがいました。……女性。……婦人。…………肖像画の、…魔女。
 何かを一方的に語り続けているようでした。多分、楼座に対して話しているのでしょうが、深い霧に閉ざされたような思考では、何を言っているのかさっぱりでした…。
【ベアト】「……何でも良い。そなたが望む物があるならば、その全てを与えよう。その強運への褒美と思うも良かろうし、妾の求めに対する正当な対価と考えても良い。」
【ベアト】「そなたにとってはまったく大したことではないかもしれない。しかし、妾にとってはそれだけ意味がある取引だといういうことだ。」
 …………何の話を、しているのだろう。…わからない、…わからない。
【ベアト】「ただ、……せっかく妾は魔女なのだから。魔女にしか叶えられない願いを求めるのが利口ではないかと思うぞ。」
【ベアト】「せっかくの機会ではないか。この黄金のベアトリーチェから恩恵を得られるなど。くっくっく!」
【楼座】「……………………ぅ………。」
 楼座はようやく、体に血が巡り始めるのを感じました。…体の動きはまだ緩慢で、思い通りの言葉すら口にできません。
【ベアト】「妾の通り名は黄金の魔女。金蔵に与えたように、山成す黄金を与えることは造作もない。……何しろ、人の世の快楽は全てカネで換算できる。即ち、黄金こそが人の世の快楽そのものなのだ。」
【ベアト】「そなたは想像ができるか? 生涯をかけても使い切れぬ黄金の山が。」
 魔女が煙管を吹かすと、七色の煙が辺りを包みました。
 すると、客間の中は、…いつの間にか積み上げた黄金のインゴットでいっぱいになっていました。
 それは眩い黄金色の壁のようにも見えます。…インゴットひとつで数千万円の価値があるのだとしたら、ここにある全てで一体いくらくらいになるというのでしょう。その数字を知ることすら罪深く感じられるのでした。
【ベアト】「……しかし、人の世は難しい。どれほど空高く積み上げた黄金であろうとも、満たされぬものがあることを知っている。埋められぬ隙間があることを知っている。妾はそれを蔑ろにしないし、それこそが、魔女である妾にしか与えられぬ褒美であると考えている。」
【ベアト】「……そなたのそれを、妾が埋めてやるというのはどうか。なるほど、これはいい。妾にしか与えられぬ物だ。そなたもさぞや喜ぼう。」
【ベアト】「……口にせずとも良い。そなたの心の隙間など、顔に書いてあるからすぐにわかるぞ、くっくっく!」
 楼座は、自分は一言も発してないにもかかわらず、勝手に話を進める魔女に一抹の不安を覚えましたが、言葉もうまく話せず、指一本動かすのにも難儀する有様では、どうすることもできず、ただ耳を傾けることしかできませんでした。
【ベアト】「そなたの深き心の傷はどこまで遡れば癒せるのか。………これは、………深い、深い。……時に、破片を飲み込んだまま傷口が閉じてしまうこともある。…そういう傷は見た目には癒えていても、永遠に疼きを感じ続けるものだ。完全に治すために、今一度、傷口を開くこともあろう。」
 魔女はそう語りながら、楼座の瞳の奥深くを覗き込みます。……一体、何を覗き見られているのか。楼座は不安になりますが、目を逸らすことはできませんでした。
【ベアト】「…………そなたの痛みは、すでに生まれながらにして運命付けられたものか。…これは何とも辛いものよ。…言わずとも良い。わかる。……わかる……。」
 次第に、楼座もまた魔女の瞳の中に飲み込まれていきました。次第に、世界が暗く、ぐるぐると回って飲み込まれていきます…。
 楼座、楼座。どうしてお前はそんなに馬鹿なのか。あぁ、これは蔵臼兄さんの声です。蔵臼兄さんはとても大人だからとても頭がいいのです。だから馬鹿で子どもな楼座が大嫌いでした。
 そしてとても怖い人で、よく叩かれたり、玩具を取り上げられて壊したりされました。それは自分が何か悪いことをしたからの罰らしいのですが、何を犯したから何を罰せられるのかよくわかりませんでした。
 いつも突然に罰せられ、その後になって、取って付けたようにそれが何かの罰であると言われるのですが、それはいつも身に覚えのないことでした。……だから蔵臼兄さんのことがすごく嫌いでした。
 楼座、楼座。どうしてお前はそんなに馬鹿なのか。あぁ、これは絵羽姉さんの声です。絵羽姉さんはとても大人だからとても頭がいいのです。だから馬鹿で子どもな楼座が大嫌いでした。
 そしてとても狡賢い人で、よく嘘を吐かれたり、騙されたりしてたくさん虐められました。それは自分の頭が悪いかららしく、頭が悪い人は、より良い人に詐取されて当然なのだと言っていました。
 そして、絵羽姉さんのような賢い人になりたいと思い、言うことを聞くのですが、従うとなぜかいつも誰かに酷く怒られました。……だから絵羽姉さんのこともすごく嫌いでした。
 楼座、楼座。どうしてお前はそんなに馬鹿なのか。あぁ、これは留弗夫兄さんの声です。留弗夫兄さんはとても要領がいいのです。だから馬鹿で子どもな楼座が大嫌いでした。
 蔵臼兄さんがいる時は蔵臼兄さんと仲良し。絵羽姉さんがいる時は絵羽姉さんと仲良し。…そして、蔵臼兄さんがいない時には蔵臼兄さんのように乱暴し、絵羽姉さんがいない時には絵羽姉さんのようにズルでした。
 そして、普段は自分も虐められているくせに、蔵臼兄さんと絵羽姉さんが揃っていないと、二人分をまとめるかのように私を同じく虐めました。……だから留弗夫兄さんのこともすごく嫌いでした。
 ……あぁ、でもこれは子どもの頃の記憶のはず。子どもの頃には少なからずの理不尽なこともあるものです。そして、それをいつまでも引き摺っていてはいけない。時と共に記憶の彼方に葬り、それを少しずつ忘れていくのが成長であり、大人になることだったはず。
 だから大人になるということは、それら全ての記憶と決別することだったのです。だから。楼座はいつまで経っても大人になれなかったのです。
 ……真里亞という娘を授かり一児の母と呼ばれても、…まるで大人になれた自覚が持てなかったのです。
 魔女はそれを憐れみました。そして、その痛みを自分ならば癒せると微笑みました。
【ベアト】「……どうやって癒すのか。可能ではあるが簡単ではない。…時間を巻き戻し、そなたに兄と姉がいなかった世界を与えることもできよう。」
【ベアト】「しかしそれでは、そなたは“兄と姉に苦しめられた記憶”が残らず、ゆえにそれを以って褒美であると言われても納得はできまい。」
【ベアト】「飢えは癒してこそ満たされる。飢えそのものをなかったことにしても、誰も感謝しない。日々の飽食に感謝する若者がいないようにな。……わかるか?」
 ずいぶんと難しいことを言われたように思います。…早い話が、兄と姉をいなかったことにしても痛みは取り除かれない、という意味なのかもしれません。
 厳密には違う。癒しとは痛みを取り除くことではない。痛みに耐えた対価として支払われる快楽なのだ。ゆえに、痛みなくして癒しはない。癒しの悦びを知るには、痛みを知らなくてはならないのだ。
【ベアト】「となれば、……そなたの痛みに報いる悦びがいる。そなたは苦難の過去を誇っていい。苦難を知らぬ者には味わえぬ快楽を知る資格があるからだ。…この快楽を知る者は、同じ悦びを他者にも与えずにはいられなくなる…。くっくっくっく…。」
 魔女が指を弾くと、山成す黄金の囲まれた、ただでさえ現実感を喪失しそうな部屋のまま、テーブルの上に豪華なテーブルクロスが現れ、まるでおとぎ話の中のお城で繰り広げられている宴席のような素晴らしい料理が並びました。
 その豪華さに、楼座は確かに一瞬、嬉しい驚きを感じましたが、…同時に拍子抜けも感じました。自分にとって、兄弟に虐められてきたことは、どんなものであれ、一食程度の美食では拭い去れないものだと思っていたからです。
【ベアト】「食は人の快楽の多くを占める。生涯、生き続ける限り豚のように食い続けなくてはならぬ。」
【ベアト】「一食で足りなければいくらでも。その心の痛みが癒えるまで、美食の宴を続けようではないか。……始めろ、家具ども。」
 魔女が手をパンパンと叩くと、いつの間にか周りには山羊頭の使用人たちがいて、食事の準備を始めていました。
 彼らはテーブルを飾る美しき料理皿から、要領よく料理を取り、楼座の皿を盛り上げていきました。確かにおいしそうでしたが、楼座の体はまだ鉛のように重くて、とても食事どころではありませんでした。
 それは彼らにもわかっているのでしょう。山羊頭の使用人たちは、楼座の襟元にナプキンを纏わせ、甲斐甲斐しく、食前酒のグラスを口元まで持ってきて傾けてまでくれました。高熱で寝込んだ時に、おかゆを口元まで運んでくれた古い使用人の姿を思い出します。上手に飲めず、口元から零してしまいましたが、芳香のある甘さが口の中いっぱいに広がるのを感じました。
【ベアト】「ドイツ産の貴腐ワインにあやかった甘きアペリティフよ。白ワインを紅きゴールデンドロップで染めたワインカクテルだ。」
【ベアト】「名付けるならばブラッディ・クラウスか。そなたの兄を圧搾機に掛けて搾り出した血のゴールデンドロップだけで染めてある。」
 楼座は咽て咳き込みます。そして口の周りを真っ赤に汚すその様は、まるで血を吐いたかのようでした。
【ベアト】「そなたは紅茶に詳しかろうから意味がわかろう? ゴールデンドロップとは最後の一滴のことだ。紅茶でもっとも貴重な一滴と言われている。」
【ベアト】「………そして血のゴールデンドロップも同じ。人間から搾り出せる血液の貴重なる最後の一滴。あれにて絞る。」
 魔女が指を鳴らすと、いつの間にか用意されていた大きな何かに掛けられた真っ赤なベールが取り払われました。
 ……そこにあった大型の厳しい機械はまるで大きな人型棺桶にいくつかの大きなバルブのようなものを取り付け、拷問道具のように厳しくしたもの。
 人力で何かを締め付け、圧搾するのであろうことがわかる、不気味な形状をしていました。…そして、その中にはまだ搾りかすが残っているらしいことが、真っ赤に汚れた残滓でわかりました。
【ベアト】「しかしゴールデンドロップは一度に一滴しか取れぬ。どんな人間からも一滴以上は取れぬというわけだ。しかし妾は魔女。人を蘇らせることもまた容易い。」
 魔女が指を弾くと、突然、人間圧搾機が震え始めました。
 …いえ、唸り声も聞こえます。……それはまるで、その人型棺桶の中で誰かが眠っていて、それが目を覚まし、出ようともがいているように見えました。しかしそれは違うのです。 中にあったのは確かに搾りかすでした
 魔女が魔法で、搾りかすを再び、搾る前の姿に戻し、蘇らせたのです。その圧搾機に、屈強な体格の山羊頭の使用人3人が近付き、大型のバルブをぐいぐいと締め付けていきます。…すると棺桶の中からこの世のものとは思えぬ呻き声が。…楼座はその声の主を知っているような気がしました。
【ベアト】「料理は料理場でが相応しい。もう充分だ、下がれ。」
【ベアト】「……ゴールデンドロップがどれほど貴重なものかおわかりいただけたかな? それを集め、それほどに紅く染めるには何十人分も搾らなければならぬ。」
 ひとりの人間から搾り取れるゴールデンドロップは一滴と、魔女は確かに言いました。なのに、ひとりの人間のゴールデンドロップが何十人分。……これができるのは魔女だけなのです。
 黄金の魔女ベアトリーチェは、ひとりの人間を“無限”に殺すことができるのです。……つまり、ベアトリーチェの前に、死は解放を意味したりはしないのです。
【ベアト】「二口目はいらぬか? この男に殴られて、口中に滲んだ血を飲み込んだ日を忘れたか?」
【ベアト】「そうそう、あの味を思い出せ。零し尽くして涸れ果てた涙の味を思い出せ。その悔しき思い出を癒して足りるアペリティフであると信じている。くっくっくっくッ!!」
 再び山羊頭の使用人が真っ赤なグラスを口元に傾けてきます。…楼座は唇を閉じようと抵抗を試みますが、呆けるように開いた口に、その真っ赤な液体は容赦なく注ぎ込まれ、口の中を不気味な甘みで満たしていくのです…。
 それは間違いなく芳香のある甘み。あれほど憎く思い枕を何度も濡らした兄の生き血を、何十も繰り返した死で集めた紅みで染めたワインが、甘くないわけがありません。
 でも、楼座は吐き出そうとしました。そのせいで、楼座は口から溢れた真っ赤なワインでまるで血塗れのように見えました。
 ……このような不気味なるものが単なるアペリティフである以上、楼座はこの後に続くだろう宴に不安を覚えないわけもありませんでした。
【ベアト】「それは旬の野菜による二枚舌のサラダ風だ。…お前がいつか食い千切ってやりたいと9歳の誕生日の日に願った、絵羽の舌で作った念願のサラダよ。」
【楼座】「……………………ッ!!!」
 楼座は、サラダに盛り付けられている桃色の肉の正体を聞き、内臓を口から全て吐き出してしまいたい衝動に駆られます。…しかも、山羊の使用人はそれをフォークで刺し、楼座の口元へ運ぶのです。
【ベアト】「姉の二枚舌のお味はどうか? さぞや柔らかくとろけるであろう? くっくっくっく!」
 それはさぞや口の中で甘く柔らかくとろけるでしょう。だって、絵羽の嘘はいつも甘く、幼い楼座はいつもそれに耳を貸してしまったのですから。
 …だからピリリと胡椒で刺激的に味付けがしてあるのは、その嘘の顛末をよく味で表現していると言えました。
【楼座】「……ふんんんんんッ!! ふんんんんんんんんん!!」
 楼座は口に次々と押し込まれる舌サラダをぼろぼろと唾液塗れにしながら吐き出します。しかし山羊頭の使用人はそれを丁寧に皿に戻しては何度でも楼座の口に運ぶのです。
【ベアト】「言うに及ばず、そのサラダには絵羽の舌を5枚も惜しげなく使っている。舌はひとりから1枚しか奪えぬ。しかし妾なら、何度でも奪える。くっくっくっく!!」
【楼座】「………んんんんんんんッ!! んんんんんんんんんんんん!!」
 楼座は涙を零しながら、半狂乱になって抵抗します。しかし、できる抵抗は嚥下を拒否することだけなのです。たとえ飲み込まなくても、口の中に広がるフレンチドレッシングの味が、楼座の口中をますますに冒していきます…。
【ベアト】「お気に召さぬか…? まだまだ料理は続くぞ。留弗夫の顔の皮で包んだスズキのパイ。脳みそを茹でたスープに、肝臓のフォワグラ。デザートにも期待せよ、くっくっくっく!! 兄弟だけではないぞ? お前が信頼し、にもかかわらず裏切った人間たちをふんだんに調理した。この宴を、そなたの心が満足するまで、永遠に続けようではないか。永遠に。
 ……嬉しいィだろォ右代宮楼座ァアア? 嫌がるフリなんかするなよ本当は嬉しいってのはわかってるんだぜェ? 笑いたくば笑えばいい、ムカつく兄貴や姉貴の悲鳴の生演奏がないとご機嫌になれないってんならいくらでも聞かせてやる。いいんだよ、嫌々で。それがお前の性分なんだろ? 本当は全身が泡立つほどに嬉しいんだよ。なのに、表向きは苦しんでるフリをしてるだけなんだよなァ?
 いいんだぜ、ここにはお前が気にする世間体も体面も何もない、存分の大笑いして食い散らかせよ。最ッ高の宴だろォ右代宮楼座ァアアアアアアアアアアアアアァ???」
【楼座】「………ゃ、………もう、……ゃめて……ッ、…ごほッ、げほ!! ぉぇぇぇ…。」
【ベアト】「済まぬ済まぬ、デザートは驚かそうと思って内緒にしていたが、やはり明かしておこう。明かせばフルコースを食べ遂げようという励みにもなるだろう。」
【ベアト】「デザートはお前が愛しているフリをし続けなければならない愛娘、真里亞とリンゴのオーブン焼きだよ。美味そうだろォオォ?」
【ベアト】「こいつを食べればお前は全てから解放される。自由だよ自由ッ! やっと楼座というひとりの人間として自由を得るんだよ、嬉しいだろォオオオオォ? 嬉しいはずさ、涎が垂れてるぜ鏡を見てみろよォオオオォオオオっひゃっはああはあははははッ!!」
 いつの間にか、屈強な山羊頭のコックが、真里亞を小脇に抱えていました。そして、真里亞はほんの少しだけ悲しそうな顔をしながら楼座を見つめています。
【真里亞】「…………ママ…。……真里亞のこと、……邪魔だった……?」
【楼座】「…んんんんん!! 邪魔じゃない!! んんんんんんんんんッ!!」
 楼座は、次々と口に運ばれる料理を吐き出しながら、汚物と唾液と血に塗れながら汚らしく抵抗して叫びます。
【真里亞】「……ママが、…真里亞のこと邪魔なら。……真里亞、食べられても平気。」
【真里亞】「………だって、真里亞はいつもママにひどいことばかり。ママが男の人を連れてくる時も静かにできなかった。ママが男の人とお泊まりしてくる時、寂しくて暴れてお部屋を台無しにした。勝手に探しに行って迷子になって警察のお世話になってママに恥をかかせた。何日も帰ってこなくても、泣いちゃって、近所の人に慰めてもらってママに恥をかかせた。」
【真里亞】「こんな真里亞だからママの迷惑になってる。生まれてきてごめんなさい。だから真里亞はママのために、美味しいリンゴのオーブン焼きになるの。」
【真里亞】「そしたら、ママに初めて真里亞がいてよかったって思ってもらえるかな。真里亞を食べて、美味しかったって思ってもらえるかな。美味しいよなァアアァアア? 感涙に咽べよ娘がここまで言ってるぜェエエエエ? 愛娘とリンゴのオーブン焼きなんて、最高のデザート! これだけ美味しい食材に育てられるなんて、あんた、サイコウの母親だぜ右代宮楼ゥ座ァアアアアアアァアアアアア???」
【真里亞】「………ママ、今までありがと。ばいばい。」
【楼座】「待ってッ!! 待って真里亞、違うの!! もうやめてもうやめて、こんなの嫌ぁあああぁあああ!! 私はこんなこと望んでいないッ! もうやめて、もう許して!! 嫌、もうやめて、口に、入れないで…、ううぅぐッ、げぇえええぇッ!!」
【ベアト】「我が持て成しに満足してもらえたか…? ならば、そなたには認めてもらおう。妾が魔女であることを。宣言せよ。“右代宮楼座はベアトリーチェを魔女と認める”と宣言せよ!!」
【楼座】「……認めますッ!! う、右代宮楼座は、……ベ、ベアトリーチェを、……魔女だと認めます!! だから真里亞を返して!! 私を解放してぇえええええぇえ!!」
【ベアト】「くっくくくくはっははははははははははっはっはっはっはっは!! ついに認めさせたぞ!! 小賢しき戦人はすでに屈服し、黄金郷に招かれながら妾を否定する愚か者、楼座にも認めさせたッ!! 完璧だッ!! イッツパーフェクトッ!!」
【ベアト】「成し遂げたぞ、完璧な勝利をッ!! くっははははははははきゃーっはっはっはっはっはっはッ!! さぁ真里亞を連れて行け、楼座に美味なオーブン焼きを振舞ってやれ!!」
【楼座】「嫌ぁあああああああああああぁああ真里亞ああああああああああぁあッ!!」
【戦人】「美味そうだな。俺にはてめぇの牛チチをスライスしてサンドイッチを作ってくれ。」
【ベアト】「なッ、……そ、その声はッ!! ふごッ?!」
 魔女の後頭部を掴みあげた腕は、魔女の顔面をテーブルに叩き付ける。すると魔女の姿は粉々になり、黄金の蝶たちの群の姿となって、離れた位置に再び姿を作った。
【ベアト】「ば………、戦人ッ?!?! き、……貴様ッ、…か、…家具となって魂まで屈服していたはずッ!!」
【戦人】「そのつもりだったんだがな。…てめぇの趣味の悪いレシピに耳を貸してる内に、腹が減って来ちまってよ。」
【戦人】「魔女の丸焼きが食いたくなって来ちまったのさッ!!」
【戦人】「それから真里亞。自分を食べて、何てセリフは十年早ぇぜ。ただし十年経ったら必ず俺に言えよ、約束だぞ。」
【真里亞】「……うー。約束する。」
【楼座】「ば、…戦人くん…!」
【戦人】「待たせたな、楼座叔母さん。俺は忘れてたぜ。こいつは俺とこの女の一騎打ちだったんだ。俺が屈するわけには断じて行かなかったんだ。……楼座叔母さんが粘ってくれたお陰で、再び戦う気力を取り戻せたぜッ!!」
 ……こ、…こいつ、魂の深層まで屈服し、確かに妾の軍門に下ったはず…。……なるほど、この往生際の悪さ、さすがは右代宮金蔵の孫か…! 不死鳥の雛はやはり不死鳥だということか…!
【ベアト】「ふ、ふははははははははは、威勢が良い、気に入ったッ! そうでなくてはな!! 妾の期待する右代宮戦人とはそうでなくてはならん!! 妾を否定してみろ、そしてそれを妾は完膚なきまでに叩き潰す! 何度でも屈服させてやろうぞ、一度靴を舐めたそなたに、何度でも敗北の味を教え込んでやるッ!!」
【戦人】「上等だぜ、この右代宮戦人、泥を啜ってでも立ち上がる男だってことを教えてやる!! 俺は喧嘩で無敵だったためしはねぇ。何度かは負けてる。だがな、必ず泥を啜って立ち上がる。そして必ずケリをつける!! 男の喧嘩はな、負けを認めない限りどれだけ叩きのめされようと負けじゃねぇんだよ!!」
【戦人】「一本取られただけで俺が参ると思うなよ。楽しませてやるぜ、ベアトリーチェぇえええええええぇッ!!」
【ベアト】「受けて立とうぞ右代宮戦人ァ!! 家具ども、次なるゲームの準備を始めよ!! その間に貴様にはたっぷりと聞かせてもらおうではないか。此度のゲームでは密室も多いぞ。そなたの逃げ口上のほとんどを妾が赤で叩き潰した。その上でさらにどのような屁理屈で言い逃れてみせるのかッ!! 礼拝堂の鍵、朱志香の部屋の鍵、使用人室の鍵、夏妃の部屋の鍵、客間の鍵ッ!! お前らのお得意な奇想天外、妄想暴言空想ハッタリ、トンデモ超展開斜め上で妾をとことん否定して見せろよォおおおおおおおおおおおおおぉ!!」
【戦人】「ああ駄目だぜ、全然駄目だッうをおああああああああああああああぁああぁあああああぁあッ!!!」
 ベアトが虐める対象が楼座なのは、ゲーム盤に真里亞の意志が反映されていることを暗示している。

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魔女の喫煙室
【ベアト】「さて。…お楽しみいただけたか? 此度のゲームは。」
【ベルン】「……ここまで一方的なワンサイドゲームだと、見応えを通り越して退屈よ。」
【ベアト】「くっくっくっく、これはこれは、相変わらずお点が辛い。……退屈を愛さないベルンカステル卿に相応しい迫力ある展開だったと自負していただけにこれは手厳しい。」
【ベルン】「…迫力については、まぁ認めるわ。…ただ、フェアなゲームとしては酷いものね。もう少し対等な条件でないと、」
【ベアト】「……勝ち目がないと言われるか? ベルンカステル卿に? ……くっくっくっくっく。」
【ベルン】「………………どういう意味かしら。ベアト。」
【ベアト】「誤魔化さなくても良い。すでに知っておるぞ。…そなたが傍観者でないことは。」
【ベルン】「……………………………。」
【ベアト】「隠し通せているつもりか。そなたは人の領地まで遥々やって来て、妾の逆目に張る不届き者よ。妾のゲームを傍観するつもりでいて、妾の敗北に厚く張っておるのだろうが。図星であろう…?」
【ベルン】「………………………。だったら?」
【ベアト】「……くっくっくっくっく! 実に面白い! あのラムダデルタ卿を退けた最強の魔女、ベルンカステル卿と戦える機会を賜れるとは、本当に愉快よ!!」
【ベルン】「……えぇ。私も愉快よ。そこまで自信満々のあなたがボロボロに負けるところが見たくて、遥々やって来たんだもの。」
【ベアト】「何と素直なお人なのか。くっくっくっく!! それにしても妾と大ベルンカステル卿との対決を、ただのひとりの観戦者もなくというのは、いくらなんでも勿体無いというもの。」
【ベルン】「…………………………………。…呼んだのね。あの子を。」
【ラムダ】「ほっほっほっほっほ! 見つけたわよぅ、ようやく見つけたわぁ、ベルンカステルぅ!!」
【ベルン】「…………御機嫌よう、ラムダ。あなたも暇ね。…退屈を愛さない同士、再び巡り合うのは運命かしら…?」
【ラムダ】「馬鹿な子ねぇ。私に勝てたのは、ちょっとした運と相性の問題だとどうして気付かなかったのかしらぁ? それで天狗になって、よりにもよってベアトリーチェに喧嘩を売るとは、身の程知らずもいいとこね?」
【ラムダ】「くすくす、ベアトリーチェは強いわよぅ。私より残酷だしね。ほんのちょびっと!」
【ラムダ】「あとそれと、人のことを勝手にラムダって略さないでー!」
【ベルン】「………ベアトも馬鹿ね。この子はあんたのゲームであってもしっちゃかめっちゃかにするわよ。」
【ベアト】「ラムダデルタ卿には、決してギャラリーとしてだけお呼びしたのではない。そなたが妾と逆の目に張っているとお伝えしたら、卿はそなたの逆の目に張ると仰せになられた。」
【ベルン】「…………………………あんた、まだ根に持ってるのね。」
【ラムダ】「ほっほっほっほ!! 私は宇宙最強の魔女なんだから。でもあんたに負けちゃったから最強じゃないの! だからあんたと敵対する相手は誰であっても私は味方するんだからー!!」
【ベアト】「くっくっくっく! というわけだ。大ベルンカステル卿が相手ならば、この程度ではハンデにもならぬだろうが、余興には相応しかろう。」
【ベルン】「……………好きになさい。…バレてる以上、私も本格的にやらせてもらうわ。」
【ベアト】「それが良かろう。元より、妾の辞書に手加減の文字はないのでな。くっくっくくくくくくくく! ラムダデルタ卿、この度の貴重な縁を楽しもうではないか。」
【ラムダ】「えぇ、こちらこそよろしくよベアトリーチェ卿! こいつには私もさんざん煮え湯を飲まされてるの。私たち二人で叩き潰して、二倍でお返ししなきゃ腹の虫が収まんないのよぅ!!」
【ベルン】「…………こちらこそよろしくよ、ラムダ。そしてベアト。…どういう勝敗になろうとも、これは私たちにとってとても有意義な戦いになるわね。」
【ラムダ】「そうね。もちろん負ける気はないけど、私たちには勝敗以上に意義がある。」
【ベアト】「何しろ妾たちは、退屈を愛さない。」
 三人の魔女はくすくすと、あるいはけらけらと、あるいはげらげらと笑う。
【ベルン】「……その通りよ。感謝するわベアト。やっと退屈から逃れられそうだわ。せいぜい私を楽しませなさい。ラムダデルタと二人掛かりで。」
【ベアト】「そうさせてもらうぞ。くっくっくっくっく…!!」
【ラムダ】「そうと決まればベアト、さっそく作戦会議をするわよ! その子の弱点は知り尽くしてる、それを全て伝授してあげるわ!」
【ベアト】「にもかかわらず、ラムダデルタ卿はお敗れになられた、と、くっくっくっく…!」
【ラムダ】「もぉおおおぉ、教えたげない教えたげないッ! ツーン!」
【ベアト】「くっくくくはっははははははは! …退屈しない御仁であるな、ラムダデルタ卿は。」
【ベルン】「…………でしょ? 面倒をよろしくね。あれで寂しがり屋なのよ。」
【ベアト】「なるほど。今流行りのナントカというヤツか。くっくっく、さすがはラムダデルタ卿。最先端でおられる。くっくくくくくくく。」
【ベルン】「もう行きなさいよ。あの子、あなたが追っ掛けて来るの、待ってるわよ。」
【ベアト】「……それでは失礼しよう。また次のゲームにて。くっくくくくくくくくく!」
 ……ごめんなさいね。厄介なのが来たけど、気にしないで。
 それより、………ひどいことになったわね。私もラムダとのゲームで、だいぶ悲惨な末路というのを経験してきたつもりでいるけど、………今回のは、……群を抜いて酷いわ。…あなたが膝を抱いて心を閉ざしてしまう気持ちもわからなくない。
 こんな末路を、あと何度もやられたら、百年を待たずに心が殺されてしまうわ。
 ……ベアトに看破されてしまったから白状する。今のあなたは、かつてラムダの世界に囚われていた頃の私にそっくりなの。過酷な運命の迷路に閉じ込められ、魔女にいいようにいたぶられている。
 …私はそこから生まれた魔女。……だからあなたの姉に当たるのかもしれない。だからあなたに力を貸そうと決めたの。しかし、…………私の運命に比べても、……あなたのそれは、…あまりにも惨い。同情どころか、涙までもらってしまいそうな、あまりに悲惨な運命よ。
 でも、どうか挫けないで。ベアトになんか決して屈しないで。確かにあの子のゲームはあまりに卑劣。ゲーム盤を少しだけ見させてもらったけど、あまりに卑劣かつ狡猾な仕掛けで、その舞台仕掛けの嫌らしさは多分、ラムダデルタのゲーム盤のそれを遥かに上回るわ。
 しかも恐ろしいことに、あの子は駒を指す時、常に最善手を指しているわけではないの。ここがラムダとは大きく異なる点。ラムダは勝つ為に常に最善手で圧倒的な数の駒を指してくる。しかしベアトは、たまにわざと手を抜いて駒を指してくるの。
 困ったことに、相手の指し手から手の内を探ろうとしている私たちにとって、これは非常に手ごわい情報のノイズ。厄介な撹乱になりうるわ。
 ……しかし、チェスに例えるなら、無駄な一手は相手にノイズを与えるかもしれないけれど、貴重な一手を損していることに違いはない。つまり、付け入る余地はゼロじゃないってこと。
 あなたには信じられないだろうけども、今回のゲームもそう。……あれだけ圧倒的な展開に見えて、…実は隙がある。付け込ませたいかのように隙がある。……それが罠なのか、こちらを試しているのかわからないけども。
 とにかく屈服しないで。思考を止めないで。あらゆる可能性を否定しないで。あなたが戦う意思を持ち続ける限り、ベアトに勝ちはない。
 魔女の戦いは守りが肝心よ? 勝とうとするより、負けないようにしなさい。
 …認めたら負けなら、断じて認めては駄目。……あなたに魔女を認めさせること。これがベアトリーチェの勝利条件のひとつであることはもはや、疑いようもないのだから。
 私も、あなたの味方であると公言した以上、できる限りの力になれるよう努力するわ。あなたも努力なさい。もし、まだ膝を抱いているなら、早く立ち直って。
 ……えーと、こういう時、何て言ったかしら。………えーと、その、………ふぁ、…ふぁいと、お〜。みー、にぱ〜☆
 ………………恥ずかしいわね。これ。……私がここまでしてあげたんだから、早く立ち直りなさいよね。
【ラムダ】「…いたいた。ベルンはいじけてどっか行っちゃったかしら? くすくす、本当にざまぁないったらありゃしない。」
 それにしても。相変わらずベルンが選ぶ駒はショボイわねぇ。
 チェスだってそうでしょ? 駒が全部ポーンだったら勝ち目ゼロでしょう? 駒が全部ルークやビショップだったら絶対負けやしないわ。
 ……ま、まぁ、前回は私がついつい哀れになって好きな場所から駒を進めていいわよって言ったら、ベルンのヤツ、お情けの空気も読めずに手持ちのポーンをぜーんぶ入城させた状態から始めて!! 何よあれ、あんなの負けでも何でもないんだからぁ!! あぁ、思い出しただけでもむかむかするわ。
 そんなわけで、この私は、ベルンがぎゃふんとする顔を見ないと腹の虫が収まらないわけ。そんなわけなんで、ベルンの駒のあんたがそんなザマなんで、私は最高にいい気分なわけ!
 しかもあの子はあれでいて本当に負けず嫌いだから、きっと今頃悔しくって歯軋りをして涙をぽろぽろ流してるわよ、本当にざまぁないわよ、くすくす、ほーっほっほっほっほっほ!
 ほら、あんたも一緒に笑いなさいよ、をーっほっほっほっほ!
 …………ちょっと。あんた、まだ膝を抱いてるの? ベアトにちょっと本気出されたくらいで、もうそのザマなのぅ? 情けないったらありゃしない。
 あんまり情けないから、ちょっとだけ力を貸してあげるわ。この宇宙最強で絶対の魔女である大ラムダデルタ卿が、あんたの絶望的な勝率を、ほんのちょっぴりだけ絶対に近付けてやるわ。感謝なさい。
 ベアトリーチェはね、確かに残酷で強力な魔女かもしれないけれど、この私の敵じゃない。なぜか? 甘いからよ。
 あの子はあと数手でチェックメイトできる局面を作りつつ、わざと詰めない。下らない駒を取ったり、余計な駒を置いてより一方的な盤面にしてみたり。早い話が、勝ちが見えると遊び出す悪い癖があるってわけ。
 あんたやベルンにとって、辛い様々な攻め手のほぼ全てが、私から見ればやり過ぎの無駄もいいところ。…つまり、それこそ隙であり、チャンスでもあるってわけ。ね? 恐れるに値する相手じゃないでしょ?
 手段と目的を時に履き違える。そして悪い遊びが過ぎる。その結果、自ら弱点を作り晒してさえいる。私のような最強の魔女から見れば、何でこんな余裕ぶったことをするのか理解できない。自ら勝率を下げてるなんてね。
 ………でも、ま。そのせいで、ベルンみたいな、相手を読んでかわすタイプの魔女には非常に相性が悪いってわけよ。読みが効かないから。…ベルンにとっては、私みたいな素直で正直なタイプは、読みやすくてやりやすいんでしょうね。ムカつくことに!
 …まぁでも、私みたいな超火力タイプはベアトみたいな軽くて広い弾幕タイプなんか真正面から打ち破れちゃうわけだから、相性のジャンケンみたいなものかしら。
 私がパーなら、ベアトがグー。ベルンはチョキってとこね。まー、どうでもいいことかしら。
 確かに私のパーはベルンのチョキに負けるけど、パーよりはるかに凄い超パーだったら、チョキにだって勝てるでしょ?! つまりこのラムダデルタ卿は、超パーってわけ! ほっほっほっほ!
 少しは血色が戻ってきたみたいね。ベアトのヤツ、楼座とかいう駒を虐めて遊んでるわ。
 一見すると本当に趣味の悪いヤツだと思うでしょ? 違うのよ。……あんたが立ち直って戻ってくるのを期待して、時間を潰して待ってるだけなのよ。わざと憎まれるようなことをして、あんたの義憤を引き出そうという手ね。あー、やだやだそういう子って!
 じゃあ、私は戻るわね。
 あ! 私があんたにちょびっとだけ力を貸したのは内緒よ! 別にあんたを助けたくて力を貸したわけじゃないんだからね?!
 この宇宙最強の魔女の私は、ベルンに負けて最強の座を奪われちゃったの! それで私はベルンからその座を取り戻さなくちゃならないわけだけど、もしここでベルンがベアトに負けちゃったら、最強の座が今度はベアトに移っちゃうじゃない?!
 …まぁ別に、私はベアトから奪い返す方が楽だからいい訳だけど、それじゃ私の腹の虫が納まらないのよね?!
 ベルンは私が打ち負かす! そして最強の座も私が取り返すの!
 別にあんたに力を貸すわけじゃないんだからね?! ベルンを泣かせたら許さないんだからー!
 ベルンとラムダが語りかけていた相手は戦人だったことが判明。戦人は、ゲーム盤で屈服した時点でここに逃げ出していた。
 戦人視点の幻想描写が成立した理由は、人間側プレイヤー不在のため、ベアトが戦人の駒を動かしていたからである。